秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

ソヴェト

1951/R・パイプス著・ロシア革命第11章第9節。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。
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 第9節・軍事革命委員会がクー・デタを開始。
 (1)ミルレヴコム〔以下、軍事革命委員会〕の書記だったボルシェヴィキのアントノフ=オフセエンコはのちに、それは「党の軍事活動のための形式的なカバー(cover)」だったと叙述した。(164)
 軍事革命委員会は、二回だけ会合をもった。ボルシェヴィキ軍事組織が「ソヴェト」の標札(label)を自分に貼るには、その二回で十分だった。(165)
 アントノフ=オフセエンコは、同委員会が直接にボルシェヴィキ中央委員会の指揮のもとで活動したこと、「事実上の党機関」だったことを認める。
 そのようなものであったため、しばらくの間、軍事革命委員会のボルシェヴィキ組織の一部への変質に関する考究がなされた。(166)
 彼が叙述するように、スモルニュイ(Smolnyi)の10号室と17号室にあった委員会の司令部は行き来する若い男たちで一日じゅう混雑していて、かりにその気があったとしても、深刻な仕事をすることができない環境にあった。
 (2)共産党の資料によると、軍事革命委員会には、武装反乱のためにペトログラード守備連隊の全てまたはほとんど全てを動員する信任が与えられている。
 かくしてトロツキーは、十月には「連隊の圧倒的多数が公然と労働者の側に立っていた」と主張する。(167)
 しかしながら、現在の証拠資料が示すのは、守備連隊に対するボルシェヴィキの影響はもっとはるかに控えめだった、いうことだ。
 ペトログラード守備連隊の雰囲気は、革命的と言えるものではなかった。
 圧倒的にも、首都の兵舎にいる16万人と近郊に配置された8万5000人の兵士たちは、近づく衝突に対して「中立」を宣言した。
 十月の前夜にボルシェヴィキを支持する傾向にあった連隊部隊の数字は、ごく少数派だつたことを示している。
 スハノフは、多くて連隊の10分の1が十月のクーに参加した、「もっとはるかに少なかったようだ(likely many fewer)」、と見積もる。(169)
 著者自身の計算では、積極的に親ボルシェヴィキだった連隊兵士は(クロンシュタット海軍基地を除外して)おそらく1万人、または4パーセントくらいだ。
 中央委員会の悲観論者は、兵団を獲得するためにレーニンが想定した即時休戦がかりに支持されたとしても、ボルシェヴィキは連隊の支持を得られない、という理由で、武装反乱に反対した。//
 (3)しかし、楽観論者の方が正しかった(right)。なぜなら、臨時政府を拒否させるためには、さほど多くの連隊の支持を得る必要はなかったからだ。   
 ボルシェヴィキが連隊のわずか4パーセントでも味方につけていたとすると、政府に味方したのは、それよりも少なかっただろう。
 ボルシェヴィキの主要な関心は、、政府が7月にはそうできたように、ボルシェヴィキに反対させるべく連隊兵士たちを駆り出すことを阻止することだった。
 この目的のためには、政府の軍事幕僚からその正統性を奪う必要はなかった。
  ソヴェトとその兵士部門の名前で行動した10月21-22日にこれを達成して、ボルシェヴィキは軍事革命委員会に、守備連隊に対する排他的な権限をもつことを主張させた。//
 (4)軍事革命委員会はまず最初に、ペトログラード市内および近郊の部隊に対して200人の「コミサール」を派遣した。彼らコミサールの大半はボルシェヴィキ軍事組織の若い将校で、七月蜂起に参加し、最近に仮釈放で監獄から出てきていた。(170)
 つぎに委員会は、10月21日、スモルニュイで連隊委員会の会合を開いた。
 トロツキーは兵士たちに向かって、「反革命」の危険を強調し、連隊がソヴェトとその機関である軍事革命委員会に結集するよう訴えた。
 彼はまた、曖昧な言葉遣いであるために容易に受諾されやすい、つぎのような宣言文書を提案した。//
 「ペトログラード兵士労働者代表者ソヴェトの軍事革命委員会の設立を歓迎し、ペトログラード守備連隊は、同委員会に対して、革命の利益のために前線と後方の連絡をもっと親密することに最大限の尽力をし、全面的に支援することを誓約する」。//(171)
 いったい誰が、「革命の利益のために前線と後方の連絡をもっと親密する」ことに反対することができたのか?
 しかし、ボルシェヴィキは、この決定はペトログラード軍事地区の政府軍事幕僚の機能を軍事革命委員会が担うようにすると解釈させることを意図していた。
 ポドヴォイスキー(Posvoiskii)によれば、これは、武装暴乱の開始を記すものだった。(172)
 (5)つづく夜(10月21-22日)、軍事革命委員会からの一人の代理人が〔臨時政府〕軍事幕僚司令部に姿を見せた。
 その代理人、ボルシェヴィキの小佐のダシュケヴィチ(Dashkevich)は、〔臨時政府〕ペトログラード軍事地区司令官のG. P. Polkolnikov 大佐に、守備連隊委員会会合の権限でもって、いま以降、連隊に対する幕僚たちの命令は軍事革命委員会による副署があって初めて有効なものになる、と伝えた。
 もちろん兵士たちは、そのような決定を行っておらず、かりにそうしていたとしても、無効なものだった。その代理人は、実際にはボルシェヴィキ中央委員会に代わって行動していた。
 Polkolnikov は、その代理人を認知していない、と答えた。
彼が逮捕させるぞと脅かしたあとで、実質的にはボルシェヴィキからの派遣者は去って、スモルニュイへと向かった。(173)
 (6)その代理人からの報告を聞いて、軍事革命委員会は連隊の第二回会合を開いた。
 誰が来て出席したのか、誰を代表してだったのかは、確定することができない。
 しかし、それは問題ではない。その頃までには、偶然に集まったどの集団も、「革命」を代表していると主張することができた。
 軍事革命委員会が提案して、連隊委員会会合は詐欺的な声明〔宣言書〕を承認した。それは、10月21日に連隊は軍事革命委員会をその「機関」だと指定したけれども、連隊は承認することもそれ〔軍事革命委員会〕と協力することも拒否する、と主張するものだった。
 代理人が「承認」または「協力」を求めなかったということには何の言及もされなかった。しかし、幕僚命令を取消す権限には言及があった。
 その決定文書は、こう続いた。
 「このようにして、〔臨時政府〕軍事幕僚たちは革命的連隊とペトログラード兵士労働者代表ソヴェトと決裂した。
 首都の組織された連隊と決裂して、〔臨時政府軍事〕幕僚は反革命勢力の直接的武器に変質した。<中略>
 ペトログラードの兵士諸君! 1. 反革命の試みに対する革命的指令が、軍事革命委員会の指揮のもとで、きみたちに与えられる。。
 2. 連隊に関する、軍事革命委員会の副署を欠く〔政府幕僚の〕全ての命令は、無効だ。<略>」(174)//
 (7)この決議は、つぎの三点の目標を達成していた。
 1. ソヴェトの名をもつとされる臨時政府は「反革命的」だ。
 2. 臨時政府から守備連隊に対する権限を奪った。
 3. 軍事革命委員会に、権力を追求する意図を隠す革命の防衛という言い訳を与えた。//
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 (164) V. A. Antonov-Ovseenko, <<略>>(Moscow, 1933), p.276.
 (165) Robert V. Daniels, <赤い十月>(New York, 1967), p.118.
 (166) <Kritika>IV, No.3(1968年春号), p.21-p.32.; N. I. Podvoiskii, <神・1917年>(Moscow, 1958), p.104. を見よ。
 (167) トロツキー, <歴史>III, p.290-1.
 (168) G. L. Sobolev, <IZ>No.88(1971)所収, p.77.
 (169) スハノフ, <Zapiski>VII, p.161.
 (170) O. Dznis, <Living Age>No.4,019(1922年2月11日)所収, p.328.
 (171) <イズヴェスチア>No.204(1917年10月22日), p.3.; <Revoliutsiia>V, p.144-5.
 (172) Podvoiskii, <神・1917年>, p.106-p.108.
 (173) Melgunov, <Kak bol'sheviki>, p.68-p.69.; Antonov-Ovseenko, <<略>>, p.283.; <NZh>No.161/155(1917年10月24日), p.3.
 (174) D. A. Chuganov, ed.,<<略>>I(Moscow, 1966),p.63. この宣言書は、ボルシェヴィキの日刊紙<Rabochii put'> 10月24日に初めて掲載された。
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 以上、第9節。第10節の目次上の見出しは<ケレンスキーが反応する>。

1947/R・パイプス著・ロシア革命第11章第6節。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。p.473-p.477.
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 第6節・ボルシェヴィキのためのソヴェト大会の企て。
 (1)レーニンの切迫した意識は、かなりの程度は、憲法制定会議によって先手を打たれるのではないか、という怖れで大きくなっていた。
 8月9日、臨時政府はようやく最終的に、憲法制定会議の日程を発表した。
 選挙は、11月12日。最初の会合は、11月28日。
 ボルシェヴィキは数日間はこの会議で議席の多数派を獲得できるだろうと幻想していたが、心の裡では、かりに農民たちが確実にエスエルに投票するならばその機会はない、と分かっていた。
 ボルシェヴィキは都市と軍隊で強く、単独でソヴェト組織を握っていた。そしてボルシェヴィキの望みはただ、ソヴェトを通じて全国的な信任を勝ち得ることだった。
 さもなければ、全ては終わってしまう。
 民主主義的な選挙を通じて国家がいったんその意思を明らかにすれば、ボルシェヴィキが「民衆(people)」を代表しており、新しい政府は「資本主義者」だ、とはもはや主張できないだろう。
 したがって、ボルシェヴィキが権力を奪取するとすれば、それは憲法制定会議の前に行わなければならなかった。
 ボルシェヴィキが制御している場合にのみ、選挙での反対の結果を帳消しにすることができる。ボルシェヴィキのある出版物が、憲法制定会議の構成は「誰がそれを招集するかに大きくかかっている」と述べたように。(113)
 レーニンも同意見だった。憲法制定会議の「成功」は、クーの<あと>でのみ最もよく確保されるだろう。(114)
 事態が示すことになるように、このことは、ボルシェヴィキが選挙結果に不正に手を加えるか、そうでなければ会議を解散させるだろう、ということを意味した。
 レーニンが辞任宣告で脅かしてまで同僚たちを急がせた主要な理由は、このことにあった。//
 (2)ボルシェヴィキには、憲法制定会議を操作して自分たちに権力を譲らせるという望みはなかった。しかし、考えられ得ることとしては、彼らはこの目的をもってソヴェトを、定期的にではなく選挙され、農民たちの代表者のいない、ゆるやかな構造をもつこの装置を、利用することができた。
 このことを意識しつつ、ボルシェヴィキは、第二回ソヴェト大会の迅速な招集のための煽動活動を行い始めた。
 彼らには、事情があった。
 6月の第一回会議以降、ロシアの情勢は変化し、都市ソヴェトの構成員も変化していた。
 エスエルとメンシェヴィキは次の大会には全く熱心ではなかった。その理由の一つは、ボルシェヴィキの割合が大きくなるのを怖れたことだ。別の理由は、憲法制定会議の邪魔をすることになるだろうことだった。
 地方ソヴェトと軍隊もまた、否定的だった。
 9月の末、イスパルコムは169のソヴェトと軍委員会に対してアンケートを実施し、第二回ソヴェト大会を開催することの賛否を問うた。
 そのうち63のソヴェトが回答したが、賛成したのは8ソヴェトだけだった。(115)
 兵士たちの間の感情は、さらに消極的なものだった。
 10月1日、ペトログラード・ソヴェトの兵士部門は、ソヴェトの全国大会に反対する票決を行い、10月半ばにイスパルコムに報告書を提出した。それは、軍委員会の代議員たちは満場一致でそのような大会は「時期尚早(premature)」で、憲法制定会議の基礎を破滅させるだろう、と述べていた。(116)//
 (3)しかし、ペトログラード・ソヴェトで優勢であるボルシェヴィキは、圧力をかけ続けた。そして9月26日、イスパルコム事務局は、10月20日に第二回ソヴェト大会を招集することに同意した。(117)
 この会議の議事対象は、憲法制定会議に提出する立法草案を起草することに限定されるものとされた。
 ソヴェトの都市協議部署に対して、地方ソヴェトに代議員を派遣して招聘するよう、指令が発せられた。//
 (4)ボルシェヴィキはかくして勝利したが、ほんの第一歩にすぎなかった。
 国全体のソヴェトでのボルシェヴィキの立場は、6月よりははるかに強くなっていた。しかし、第二回ソヴェト大会で彼らが絶対多数を獲得しそうにはなかった。(118)
 第二回ソヴェト大会を自分たちの手で招集し、たいていは中央や北部ロシアにあるソヴェトかまたは多数派を占めている軍委員会のソヴェトのみをその大会に招くことによってのみ、彼らは絶対多数の獲得を確保することができる。
 今やボルシェヴィキは、このように進むこととなった。//
 (5)9月10日、ヘルシンキで、第三回フィンランド労働者・兵士ソヴェトの地方大会が開かれた。
 ここではボルシェヴィキは、堅い多数派を形成していた。
 この大会は地方委員会を設立し、この委員会は、フィンランドの民間人および軍人に対して、同委員会が同意した臨時政府の法令にのみ従うよう指令した。(120)
 このような動きが意図したのは、ボルシェヴィキが動かす似而非政府的中心機関を媒介として臨時政府の正統性を奪う(delegitimate)ことだった。
 (6)フィンランドでの成功によって、ボルシェヴィキは、全ロシア・ソヴェト大会を従順なものにして開催する同じような装置を使うことができる、と納得した。
 9月29日にボルシェヴィキ中央委員会は議論し、10月5日、ペトログラードで北部地方ソヴェト大会を開催することを決定した。(121)
 招聘状は、フィンランド陸海軍および労働者の地方委員会と自称する、ボルシェヴィキのその日限りのフロント組織の名前で発送された。
 イスパルコム事務局は、この会合は正式ではない方法で招集されている、と抗議した。(122)
 地方委員会はこれを無視し、代議員を派遣する多数派をボルシェヴィキが握っているおよそ30のソヴェトを招聘する手続を進めた。
 それらの中にはとくに、モスクワ地方の各ソヴェトがあった。北部地方の中に入ってはいなかったのだけれども。(123)
 何人かのボルシェヴィキ指導者たち、とくにレーニンは、この地方ソヴェト大会に権力のソヴェトへの移行を宣言させることを考えた、と有力に示唆するものが存在する。(124) しかし、この計画は断念された。//
 (7)北部地方ソヴェト大会は、10月11日にペトログラードで開かれた。
 この大会は、ボルシェヴィキとその同盟者である、社会革命党を跳び出た集団の左翼エスエルが、完全に支配した。
 この奇抜な「大会」では、あらゆる種類の扇動的な演説が行われた。その中には、「言葉のための時間」は過ぎたと明瞭に語った、トロツキーのものもあった。(125)
 (8)もちろんボルシェヴィキには、他の党派と同じく、全国的であれ地方的であれ、ソヴェト大会を開催する権限はない。そしてイスパルコムは、この会合は公式の立場を有しない、個々のソヴェトの「私的な集会」だと宣言した。(126)
 ボルシェヴィキは、この宣言を無視した。
 彼らは、この大会を、10月20日に集まることが決定されている第二回ソヴェト大会を直接に先駆けするものだと見なしていた。-トロツキーによると、可能ならば合法的な手段で、それが可能でないならば「革命的」方法で。(127)
 この地方ソヴェト大会の最も重要な結果は、「北部地方委員会」の設立だった。これは、11名のボルシェヴィキと6名の左翼エスエルで構成され、その任務は第二回全ロシア・ソヴェト大会の開催を「確実なものにする」こととされた。(128)
 10月16日、北部地方委員会は、連隊、分団および軍団レベルの軍委員会へとともに、各ソヴェトに対して電報を発した。それは、第二回大会がペトログラードで10月20日に開催されることを告げ、代議員を派遣するよう要請するものだった。
 大会では、休戦と農民たちへの土地の配分が達成され、かつ憲法制定会議が予定どおりに開かれることが確実にされるべきだ。
 電報は、第二回大会の招集に反対している全ソヴェトと軍委員会-これらはイスパルコムの調査から知られるように大多数だったが-に対して、ただちに「再選挙」を行うよう指示していた。「再選挙」とは、ボルシェヴィキの暗号符では、「解散」のことだった。(129)//
 (9)このボルシェヴィキの動きは、紛れもなく、ソヴェトの全国組織に対するクー・デタだった。そして、権力掌握の開幕を告げるものだった。
 このような方法でもって、ボルシェヴィキ中央委員会は、第一回ソヴェト大会がイスパルコムに付与した権限を不法に自分たちのものにした。
 これはまた、臨時政府の権能を奪うものだった。なぜなら、ボルシェヴィキがいわゆる第二回大会に設定した議事予定は、憲法制定会議が開催されるまでの政府の活動の中枢に関係していたからだ。(130)
 (10)ボルシェヴィキがしようとしていることを十分に知って、メンシェヴィキとエスエルは、第二回大会の正統性を承認するのを拒否した。
 10月19日、<イズヴェスチア>は、イスパルコム事務局のみがソヴェトの全国大会を招集する権限をもつとのイスパルコムの声明文を掲載した。
 「このような大会を開催する主導権を奪う権限や権利は、別のどの委員会にも存在しない。北部地方委員会は地方ソヴェトに関して定められた全ての規約を侵犯する、恣意的にかつでたらめに(at random)選出されたソヴェトを代表する、ということを一緒にまとめて行っているのであるから、この権利がこの北部地方大会に帰属することは、なおさらあり得ない。」
 イスパルコム事務局はさらに進んで、ボルシェヴィキによる連隊、分団および軍団の各委員会に対する招集は、代議員は軍集会で、これを開催できない場合には2万5000人ごとに1名を基礎にした軍委員会で選出された者を代議員とすると定める軍代表制に関する所定の手続を侵犯する、と述べた。(131)
 ボルシェヴィキの組織者たちは明らかに、第二回大会に反対していることを知って、軍委員会を無視していた。(132)
 三日のちに<イズヴェスチア>は、つぎのように明確に指摘した。ボルシェヴィキは不法な大会を招集しているのみならず、受容された代表制に関する規約を明らかに侵犯している。2万5000人以下の者を代表するソヴェトは全ロシア大会に代議員を送ることができず、2万5000人から5万人までの場合は2名を派遣すると定める選挙規程があるにもかかわらず、ボルシェヴィキは、500人のいるソヴェトに2名の代議員を招聘し、別の1500人のいるソヴェトには5名の派遣を求めている。これは、キエフ(Kiev)に割り当てられている数よりも多い。(133)
 (11)これらの指摘は全て、正しいことだった。
 しかし、エスエルとメンシェヴィキは、来たる第二回大会は正規に代表されていないことはむろんのこと、不法だ、と宣言したにもかかわらずなお、手続が進行するのを許した。
 10月17日、イスパルコム事務局は、二つの条件を付けて第二回大会の開催を承認した。
 第一に、第二回大会は、地方の代議員にペトログラードに到着できる時間を与えるべく、5日間、10月25日まで、延期されるべきこと。
 第二に、その議題は、憲法制定会議を準備すべく国内状況と、イスパルコムの再選出に限定されるべきこと。(134) 
 これは、驚くべき、そしてじつに不可解な屈服だった。
 ボルシェヴィキが心の裡にもつことを知っていたにもかかわらず、イスパルコムは彼らが欲するものを与えた。
 支持者とその同盟者たちで充たされた、お手盛りの(handpicked)組織〔大会〕。これが確実に、ボルシェヴィキによる権力掌握を正当化することになるだろう。
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 (112) <Protokoly Tsentral'nogo Komiteta RSDRP(b)>(Moscow, 1958), p.74.
 (113) <SD>No.169(1917年9月28日), p.1.
 (114) レーニン, <PSS>XXXIV, p.403, p.405.
 (115) <Izvestiia>No.186(1917年10月1日), p.8.
 (116) <Revoliutsiia>V, p.53.; <Izvestiia>No.197(1917年10月14日), p.5.
 (117) <NZh>No.138(1917年9月27日), p.3.
 (118) Leonard Schapiro, <ソヴィエト同盟共産党>(London, 1960), p.164.
 (119) <Revoliutsiia>IV, p.197, P.214.
 (120) 同上, p.256.
 (121) <Protokoly TsK>, p.73, p.76.
 (122) <Revoliutsiia>V, p.65.
 (123) <Protokoly TsK>, p.264.; <Revoliutsiia>V, p.63.
 (124) Alexander Rabinowitch, <ボルシェヴィキの権力奪取>(New York, 1976), p.209-p.211.
 (125) <Revoliutsiia>V, p.71-p.72.
 (126) 同上, p.70-p.71.
 (127) <NZh>No.138/132(1917年9月27日), p.3.
 (128) <Revoliutsiia>V, p.78.
 (129) 同上, p.246, p.254.
 (130) 9月25-27日の政府声明を見よ。<Revoliutsiia>IV所収, p.403-6.
 (131) <Izvestiia>No.201(1917年10月19日), p.7.
 (132) 同上, No.200(1917年10月18日), p.1.
 (133) 同上, No.203(1917年10月21日), p.5.
 (134) <Revoliutsiia>V, p.109.; <NZh>No.156/150(1917年10月18日), p.3.
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 第6節は終わり。次節・第7節の目次上の表題は、<ボルシェヴィキによるソヴェト軍事革命委員会の奪取>。

1943/R・パイプス著・ロシア革命第11章第5節②。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。p.470-p.473.
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 第5節・隠亡中のレーニン②(Lenin in hiding)。
 (13)多くのボルシェヴィキ党員には、新しい戦術と親ソヴェト・スローガンの放棄は幸せなことでなかった。
 その月の別の機会にスターリンは、党は疑いなく我々が多数派を占めるソヴェトを支持していると保障して、彼らを安心させようと努めた。
 しかし、ソヴェトへの関心の一般的な冷却に気づいて、ボルシェヴィキたちがもう一度気持ちを切り替えるのに、たいした時間はかからなかった。というのは、無関心が増大したために、ソヴェトを自分たちの目的でもって貫いて操作する機会ができた、と考えたからだ。
 党の公式誌<イズヴェスチア>は、9月の最初に、つぎのように書いた。
 「最近はソヴェトで仕事することへの無関心が見られる。<中略>
 実際に、(ペトログラード・ソヴェトの)1000人以上の代議員のうち、400から500人程度しか会議に出席していない。そして、出てくることをしない者たちは正確には、今まではソヴェトの多数派を形成していた諸党の代議員たちだ。」(106)-すなわち、メンシェヴィキとエスエル。
 <イズヴェスチア>の「ソヴェト組織の危機」と題された一ヶ月後の論説でも、同じような不満を読むことができた。
 「ソヴェトの人気が最高だったとき、イスパルコムの都市間協議(interurban, inogorodnyi)の部署は、国じゅうに800のソヴェトを表にして列挙していた、と執筆者は思い出す。」
 10月までに、これらのソヴェトの多くはもはや存在しないか、紙の上だけの存在になった。
 地方からの報告書は、ソヴェトはその威厳と影響力を失いつつある、というものだった。
 編集部はまた、労働者・兵士代表者ソヴェトが農民組織とともに進むことのできないことに不服を告げた。そのことは、農民層がソヴェト構造の「全く外側」にとどまることに帰結するからだ。
 しかし、ペトログラードやモスクワのようにソヴェトが機能している区域ですら、ソヴェトは、多数の知識人や労働者が離反したために、もはや全ての「民主主義派」を代表していなかった。
 「ソヴェトは、旧体制と闘う素晴らしい組織だった。しかし、それは新しい体制の形成を引き受ける能力が全くなかった。<中略>
 専制体制が官僚制秩序と一緒に崩壊したとき、我々は全ての民主主義派を守るための一時的な兵営として代表者ソヴェトを設立したのだった。」
 <イズヴェスツィア>は今はこう結論づけた。ソヴェトは、より代表制的な選挙制度で選ばれた市会(Municipal Councils)のような永続的な「石の構造」のために放棄されてきている。(107)
 ソヴェトへの幻想からの覚醒が拡大し、社会主義派の対抗者が長く不在であることによって、ボルシェヴィキは、国民的支持からは全く不釣り合いの影響力を獲得することができた。 
 ボルシェヴィキのソヴェト内での役割が大きくなるにつれて、ボルシェヴィキは古いスローガンに戻った。-「全ての権力をソヴェトへ」。
 (14)ボルシェヴィキは、ペトログラード・ソヴェトの多数派となった9月25日に、権力に向かって進む重要な一歩を通過した。
 (9月19日に、モスクワで同様に多数派になっていた。)
 ペトログラード・ソヴェトの議長たる地位に就いたトロツキーはただちに、そのソヴェトを国のその他の都市ソヴェトを制御するための組織へと変え始めた。
 <イズヴェスツィア>の言葉によれば、ペトログラード・ソヴェトの労働者部門でボルシェヴィキが多数を獲得するやいなや、ボルシェヴィキは「それを彼らの党組織へと変えた。そして、それに依拠して、国全体の全てのソヴェトを把握するパルチザン的闘いを行うようになった。(108)
 ボルシェヴィキは、全ロシア大会で選出された、エスエルとメンシェヴィキが支配するままのイスパルコムを大幅に無視し、自分たちが多数を握るソヴェトのみを代表する、彼ら自身の全国的似而非ソヴェト組織を生み出そうと取りかかった。
 (15)コルニロフによって生じた有利な政治環境とソヴェトでの勝利によって、ボルシェヴィキは、クー・デタの問題を生き返らせた。
 意見は、分かれた。
 七月の大失敗はまだ記憶に鮮明で、カーメネフとジノヴィエフは、さらなる「冒険主義」に反対した。
 二人は論じた。ソヴェト内での力が増加したにもかかわらず、ボルシェヴィキは少数派政党のままであり、かりに何とかして権力を奪取しても、「ブルジョア反革命」と農民層の結合した勢力に面してすぐにそれを失うだろう。
 もう片方の極端な立場のレーニンは、即時のかつ断固たる行動を求める主要な発議者だった。
 彼はコルニロフ事件によって、クーの成功の可能性がかつてよりも大きく、かつ二度とやって来ない、と確信していた。
9月12日と14日、レーニンは、フィンランドから二通の手紙を、中央委員会に書き送った。それぞれ、「ボルシェヴィキは権力を奪取しなければならない」、「マルクス主義と反乱」と呼ばれる。(109)
 彼は前者で書いた。「二つの重要な都市で労働者・兵士代表者ソヴェトでの多数派となり、ボルシェヴィキは権力を奪取することができるし、そう<しなければならない>。」
 カーメネフやジノヴィエフの主張とは反対に、ボルシェヴィキは権力を奪取することができるのみならず、保持し続けることもできる。すなわち、即時の講和を提案し、農民に土地を与えることによって、「ボルシェヴィキは、<誰も>打倒しようと<しない>政府を設立することができる。
 しかし、臨時政府がペトログラードをドイツ軍に明け渡すか戦争を終わらせる何か別のことをするかもしれないので、迅速に行動することこそがきわめて重要だ。
 その日の命令は、「ペトログラードとモスクワ(プラスここれら地域)での武装暴動、権力の制圧、政府の打倒だ。
 我々は、活字にして明確に表明することなく、<いかにして>このために煽動すべきかを考えなければならない。」
 ペトログラードとモスクワではすでに権力を奪取しているので、問題は解決されているだろう。
 レーニンは、多数派を獲得するを望んで第二回ソヴェト大会の招集を待つべきだとのカーメネフとジノヴィエフの見解を「ナイーヴな」ものとして却下した。「革命は<それ>を待っていない。」
 (16)第二の手紙でレーニンは、武力による権力奪取は「マルクス主義」ではなくて「ブランキ主義」だという非難について議論し、また、七月との類似性の問題に片をつけた。すなわち、「9月の『客観的』情勢は、全く異なっている。」
 彼は(考えられるのはドイツとの接触で得られた情報から)、ベルリンがボルシェヴィキ政府に休戦を提案するだろうことは確実だと思っていた。
 「そして、休戦を確保することは、世界<全体>を制圧することを意味する。」(110)
 (17)中央委員会は9月15日に、レーニンの手紙を議題として取り上げた。
 短い、ほとんど確実に厳密に検閲されたこの会議の議事要領書(*) が示しているのは、レーニンの同僚たちは(カーメネフが迫ったように)公式に彼の助言を拒否するのを躊躇しているが、従う心づもりもない、ということだ。
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 (*) <Protokoly Tsentral'nogo Komiteta RSDPR(b)>(Moscow, 1958), p.55-62.
 これは、現在で唯一利用可能な、1917年8月4日から1918年2月24日までのボルシェヴィキ中央委員会の会議の記録書で、1929年に最初に出た。
 この記録書は、トロツキー、カーメネフおよびジノヴィエフという、スターリンが党の支配のために打倒した者たちの評価を落とすことが意図されていた。そして、この理由のゆえに、きわめて慎重に用いられなければならなかった。
 第二版の編集者によれば、こうだ。「議事録の文章は、省略なくして完全に公刊される。但し」、何を意味するものであれ、「第一版では議事録の文章上のこれらの疑問に関する適切ではない説明を理由としてそうなされたように、対立する事項(konfliktnye dela)を除く」(p. vii)。
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 トロツキーによれば、 即時の暴乱は望ましくないとして、9月には誰もレーニンに同意しなかった。(111)
 スターリンの動議により、レーニンの手紙は党の主要な地方組織に回覧されることになった。これは、即時の行動を回避する方法でもあった。
 ここで、問題が残っている。その後の6回の会議については何も、レーニンの提案が言及されていないのだ。(+)
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 (+) もちろん、レーニンの考えは却下され、その事実は議事録が出版されるときの版では削除された、ということは排除され得ない。
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  (18)レーニンはこのような消極性に烈しく怒った。暴乱を起こすのに都合のよいときが過ぎ去ってしまうのを、彼は懼れていた。
 9月24日か25日、彼はヘルシンキから、行動舞台により近いヴィボルク(Vyborg)(まだフィンランドの領土)へと移動した。
 彼はそこから、9月29日、第三の手紙を中央委員会に発送した。その表題は「危機は成熟した」。
 レーニンの主要な活動方針は、この手紙の第六部に含まれていた。1925年に最初に公にされた。
 レーニンはこう書いた。ある範囲の党員たちが次のソヴェト大会まで権力掌握を延期したいと考えていることは率直に認めなければならない。
 彼は全体として、このような考え方を拒否した。
 「この瞬間を逃してソヴェト大会を『待つ』のは、完璧に愚かで、完璧な裏切り行為だ」。
 「ボルシェヴィキは今や、蜂起の成功を保障されている。
 1.我々は(ソヴェト大会を『待つ』ことをしなくても)突然に三箇所から急襲することができる。すなわち、ペトロブルク、モスクワおよびバルティック艦隊。 <中略>。
 5.我々はモスクワで権力を奪取する技術的能力を持っている(これは、突然さによって敵を弱体化させるために始めることすらできる)。
 6.我々は<数千人>の武装した労働者と兵士を持っており、彼らは<ただちに>冬宮、将軍幕僚、電話局、および全ての大きな印刷工場を掌握することができる。<中略>
 我々がただちに、かつ突然に三箇所から-ペトロブルク、モスクワおよびバルティック艦隊から-急襲するならば、成功の見込みは99パーセントであり、七月の3-5日に被ったよりも少ない損失で勝利するだろう。<兵団は、講和する政府に反対して動くことはしないだろう。>(**)
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 (**) レーニン,<PSS>XXXIV, p.281-2. レーニンはここで不用意に、七月3-5日にボルシェヴィキは実際に権力掌握を試みたことを認めている。
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 中央委員会が要請に回答せず、自分の論文を削除すらしたことを見て、レーニンは、辞職願いを提出した。
 もちろんこれは、はったり(ブラフ)だった。
 中央委員会は、意見の違いに関して議論するため、レーニンにペトログラードに戻るよう要請した。(112)
  (19)レーニンの同僚たちは一致して、よりゆるやかで安全な方針を好んで、即時の武装蜂起への彼の要求を拒絶した。
 彼らの戦術は、レーニンの提案は「性急だ」と考えたトロツキーによって、定式化された。
 トロツキーは、全ロシア・ソヴェト大会による権力の掌握を装った、武装蜂起をしたかった。-しかし、確実に拒否するだろう、適式に開催された大会による権力掌握をではない。そうではなく、ボルシェヴィキが定められた手続に従わないで自分たちが主導して開催し、支持者たちを詰め込める会議による権力掌握を装ってだ。つまりは、全国的大会だと偽装(カモフラージュ)しての、親ボルシェヴィキのソヴェト大会。
 振り返って見ると、これが進むべき疑いなく適切な行路だった。なぜなら、レーニンが主張したような単一の政党による権力の公然たる掌握には、国は寛容であることができなかっただろうから。
 最初の日々を越えて成功していくためには、クーには、かりに表面的なものだったとしても、何らかの性質の「ソヴェト」の正統性が与えられなければならなかった。//
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 (105) Leningradskii Istpart, <<略>>(Moscow-Leningrad, 1927), p.77.
 (106) <イズヴェスツィア>No.164(1917年9 月5日).
 (107) <イズヴェスツィア>No.195(1917年10月12日), p.1.
 (108) 同上, No.200(1917年10月18日), p.1.
 (109) レーニン,<PSS>XXXIV, p.239-p.241.
 (110) 同上, p.245.
 (111) L・トロツキー,<ロシア革命史>III(New York, 1937), p.355.
 (112) <Protokoly Tsentral'nogo Komiteta RSDPR(b)>(Moscow, 1958), p.74.
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 第5節は終わり。第6節の目次上の表題は、<ボルシェヴィキ自身のソヴェト大会の計画>。

1942/R・パイプス著・ロシア革命第11章第5節①。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。p.467-p.470.
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 第5節・隠亡中のレーニン①(Lenin in hiding)。
 (1)その間、レーニンは田舎に隠れていて、世界の再設計に没頭していた。//
 (2)ジノヴィエフとN. A. Emelianov という名前の労働者に付き添われて、レーニンは、別荘地域の鉄道接続駅Razliv に、7月9日に着いた。
 レーニンは髭を剃り落として、農業従事者のごとく変装していた。二人のボルシェヴィキは導かれて近くの、翌月の彼らの住まいとなる畑小屋に入った。//
 (3)備忘録を書くのが嫌いなレーニンは、その人生のうちのこの時期に関する回想録を残していない。しかし、ジノヴィエフの簡単な文書資料がある。(97)
 (4)彼らは潜伏したままで生活したが、伝達人を通じて首都との接触を維持していた。
 レーニンは彼と党への攻撃に立腹して、しばらくは新聞を読むのを拒んだ。
 7月4日の事態は、彼の心を苦しめていた。しばしば、ボルシェヴィキは権力を奪取できていたかどうかを思いめぐらしたが、いつも消極的な結論に達した。
 夏遅くに雨による洪水が彼らの小屋を浸したので、移動するときだった。
 ジノヴィエフはペトログラードに戻り、レーニンは、ヘルシンキへと進んだ。
 フィンランドを縦断するために、レーニンは労働者だとする偽造の書類を用いた。その旅券の、きれいに髭を剃って鬘をつけた写真で判断すると、颯爽とした外見を偽装していた。//
 (5)党を日常的に指揮することから離れ、おそらくは権力奪取の新しい機会はもうないだろうと諦念して、レーニンは、共産主義運動の長期目標に関心を向けた。
 彼は、マルクスと国家に関する論文を再び執筆し始めた。その論考を翌年に、<国家と革命>との表題で出版することになる。
 これは、将来世代への彼の遺産、資本主義秩序が打倒された後の革命戦略の青写真となるべきものだった。//
 (6)<国家と革命>は急進的虚無主義の著作であり、革命は全ての「ブルジョア」的制度を完膚なきまで破壊しなければならない、と論じる。
 レーニンは、国家は、どこでも、いつでも、搾取階級の利益を代表し、階級対立を反映する、という趣旨のエンゲルスの文章の引用で始める。
 彼はこれを証明済みのこととして受容し、もっぱらマルクスとエンゲルスのみを参照して、政治制度や政治実務の歴史にはいずれもいっさい参照することなく、さらに詳論する。//
 (7)この論考の中心的メッセージは、マルクスがパリ・コミューンから抽出し、<ルイ・ナポレオンのブリュメール十八日>で定式化した教訓から来ている。
 「議会制的共和国は、革命に対する闘いで、抑圧の手段や国家権力の集中化の手段を全て併せて、自らを強くすることを強いられた。
 全ての革命は、国家機構を粉砕するのではなくて完全なものにしてきた。」(*)//
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 (*) レーニン,<PSS>XXXIII, p.28.から引用。レーニンは最後の文章に下線を引いて強調した。
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 マルクスは、この議論をある友人への手紙で表現し直した。
 「私の<ブリュメール十八日>の最終章を見入れば、私がフランス革命のつぎの試みを宣言しているのが分かるでしょう。すなわち、今まで行われてきたように、手にあるひと組の全体を別の官僚制的軍事機構に移行させるのではなく、粉砕(smash)すること。」(98)
 マルクスが革命の戦略や戦術について書いたことのうちこれ以上に、レーニンの心に深く刻み込まれたものはなかった。
 レーニンはしばしば、この文章部分を引用した。彼の、権力奪取後の行動指針だった。
 彼がロシアの国家と社会およびこれらの全装置に向けた破壊的な怒りは、このマルクスの言明によって理論的に正当化された。
 マルクスはレーニンに、現在の革命家たちが直面している最も困難な問題の解決策を与えた。成功している革命を、いかにして、反革命の反動が生じないようにして守るか。
 解決策は、旧体制の「官僚制的軍事機構」を廃絶させることだった。反革命からそれを育んだ土壌を剥奪するために。//
 何が、古い秩序に置き代わるのか?
 パリ・コミューンに関してマルクスが書いたことを再び参照して、レーニンは、反動的な公務員や将校の安息所にならないコミューンや人民軍のような大衆参加組織を指し示した。
 これとの関係で、彼は職業的官僚機構が最終的には消滅することを予言した。
 「社会主義のもとでは、我々の<全て>が順番に統治して、すぐに誰も統治していない状態に慣れるだろう。」(99)
 のちに共産党の官僚機構が前例のない割合で大きくまっていたとき、この文章部分は レーニンの顔に投げ込まれることになるだろう。
 彼は、ソヴィエト・ロシアに巨大な官僚機構が出現したことに驚いて不愉快になり、かつ大いに困惑することになる。おそらくは彼の主要な関心は、人生の最終の日々にあった。
 しかし彼は、官僚機構は「資本主義」の崩壊とともに消失するだろうとの幻想は決して抱かなかった。
 レーニンは、革命の後の長期間にわたって、「プロレタリア独裁」が国家の形をとる必要がある、と認識していた。しかも、このように示唆した。
 「資本主義から共産主義への移行に際して、抑圧は<まだ>必要だ。
 しかし、その抑圧はすでに、多数者たる被搾取者による少数者たる搾取者に対するものだ。
 特別の装置、特別の抑圧機構、「国家」は<まだ>必要だ。」(100)
(8)レーニンは<国家と革命>を執筆している間に、将来の共産主義体制の経済政策にも取り組んだ。
 コルニロフ事件のあとの9月に、これを二つの論考でまとめた。そのときは、ボルシェヴィキの見通しは予期しなかったほどに良くなっていた。(101)
これらの論考のテーゼは、レーニンの政治的著述物とは大きく異なっていた。
 古い国家とその軍隊を「粉砕」すると決意する一方で、「資本主義」経済を維持し、革命国家に奉仕するように利用することに賛同した。
 この主題は、「戦時共産主義」の章で扱われるはずだ。
 ここではこう叙述しておくので十分だ。すなわち、レーニンの経済に関する考え方は、当時の一定のドイツの著作を読んだことから来ている。ドイツの著作者とはとくにルドルフ・ヒルファーディング(Rudolf Hilferding)で、この学者は、先進的または「金融」資本主義は、銀行や企業連合の国有化という単純な方法で相対的には社会主義へと続きやすい集中のレベルを達成している、と考えていた。
 (9)かくして、古い「資本主義」体制の政治的および軍事的装置を根絶することを意図する一方で、レーニンはその経済的装置を維持すねることを望んだ。
 最終的には、彼は三つの全てを破壊することになるだろう。
 (10)しかし、これは先のことだ。
 直近の問題は革命の戦術で、この点でレーニンは彼の仲間たちと一致していなかった。
 (11)ソヴェトの社会主義派は七月蜂起を許しかつ忘れようとしていたにもかかわらず、また政府による嫌がらせからボルシェヴィキを防衛しようと彼らはしていたにもかかわらず、レーニンは、ソヴェトのもとでの権力追求という仮面を剥ぎ取るときがやって来ている、と決意した。
 すなわち、ボルシェヴィキはこれからは、武装暴動という手段によって、権力を直接にかつ公然と獲得すべく奮闘しなければならない。
7月10日、田舎へと隠れるようになった一日後に書いた<政治情勢>で、レーニンはこう論じた。
 「ロシア革命の平和的な進展への望みは全て、跡形もなく消え失せた。
 客観的な状況は、軍事独裁の究極的な勝利か、それとも<労働者の決定的な闘争><中略>のいずれかだ。
 全ての権力のソヴェトへの移行というスローガンは、ロシア革命の平和的進展のスローガンだった。それは、4月、5月、6月、そして7月5-9日まではあり得た。-すなわち、現実の権力が軍事独裁制の手へと渡るまでは。
 このスローガンは今では、正しくない。(権力の)完全な移行を考慮に入れておらず、じつにエスエルとメンシェヴィキによる革命に対する完全な裏切りを考慮していないからだ。」(102)
 レーニンは原稿の最初の版では「武装蜂起」という語を使って書いていたが、のちに「労働者の決定的な闘い」に変更した。(103)
 こうした論述の新しさは、権力は実力でもって奪取されなければならない、ということにあるのではない。-ボルシェヴィキ化していた労働者、兵士および海兵たちは4月や7月に街頭でほとんど歌や踊りの祭り騒ぎをしなかった。そうではなく、ボルシェヴィキは今や、ソヴェトのために行動するふりをしないで、自分たちのために闘わなければならない、ということにある。
 (12)7月末に開催されたボルシェヴィキ第6回党大会は、この基本方針を承認した。
 その決議はこう述べた。ロシアは今や「反革命帝国主義ブルジョアジー」によって支配されている。そこでは「全ての権力をソヴェトへ」というスローガンは有効性を失ってしまった。
 新しいスローガンは、ケレンスキーの「独裁制」の「廃絶」を呼びかけた。これはボルシェヴィキの任務であって、その背後には、プロレタリアートに率いられ、貧しい農民たちに支持された全ての反革命グループが集結している。(104)
 冷静に分析すると、この決議の前提は馬鹿げており、その結論は欺瞞的だ。しかし、実際上の意味は、間違えようがない。すなわち、ボルシェヴィキはこれから、臨時政府とはもちろん、ソヴェトとも闘うだろう、ということだ。//
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 (97) <PR>No.8-9/67-68(1927), p.67-p.72.
 (98) レーニン,<PSS>XXXIII, P.37. から引用。
 (99) 同上, p.116
 (100) 同上, p.90.
 (101) レーニン「迫る危機。それといかに闘うか」同上, XXXIV, p.151-p.199, 「ボルシェヴィキは国家権力を掴みつづけるか?」同上, p.287-p.339.
 (102) 同上、p.2-p.5. 強調を施した。
 (103) レーニン,<Sochineniia>XXI, p.512, n18.
 (104) <Revoliutsiia>Ⅲ, p.383-4.
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 ②へとつづく。

1941/R・パイプス著・ロシア革命第11章第4節。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。
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 第4節・ボルシェヴィキの好運(運命の上昇)(rise in Bolshevik fortunes)。
 (1)ケレンスキーが挑発してコルニロフと決裂し、自分の権威を高めようとした、というのがかりに正しいとすると、彼はこれに失敗したのみならず、全く反対のことを成し遂げてしまった。
 コルニロフとの衝突によって、保守派およびリベラル派世界との関係は、彼の社会主義派の基盤が強固になることなく、致命的に危うくなった。
 コルニロフ事件の第一の受益者は、ボルシェヴィキだった。
 8月27日の後、それらの支持にケレンスキーが依拠していたエスエルとメンシェヴィキは、徐々に消失していった。
 臨時政府は今や、そのときまでは有していたとされたかもしれない限定的な意味ですら、その機能を失った。
 9月と10月、ロシアは操縦者がいないままに漂流した。
 舞台は、左翼からの反革命のために用意された。
 かくして、ケレンスキーはのちにこう書いた。「(ボルシェヴィキのクーの)10月27日を可能にしたのは、8月27日だけだった」。
 こう書いたのは正しかったが、しかし、彼が言おうとした意味でではなかった。(84)
 (2)叙述したように、ケレンスキーは、ボルシェヴィキに対して七月蜂起についての厳しい制裁措置を何ら執らなかった。
 ケレンスキーの対抗諜報機関の主任であるニキーチン大佐によれば、ケレンスキーは、7月10-11日に、軍事スタッフからボルシェヴィキを逮捕する権限を剥奪し、ボルシェヴィキの所有物のうちから見つかった武器を没収することを禁じた。(85)
 7月末にはケレンスキーは、ボルシェヴィキがペトログラードで第6回党大会を開いたとき、見て見ぬふりをしていた。
 (3)この消極性は、ボルシェヴィキも参加しているイスパルコムと宥和しておきたいとのケレンスキーの願望に多くは由来していた。
 すでに述べたように、イスパルコムは8月4日、ツェレテリ(Tsereteli)の動議によって、微妙にも「7月3-5日の事件」と呼ばれたものに参加した者のさらなる迫害を止めるよう要求する決議を採択した。
 ソヴェトは8月18日の会合で、「社会主義諸党派の中での極端な潮流」の代表者たちに対してなされた「不法な逮捕と濫用に断固として抗議する」と票決した。(86)
 政府はこれに反応して、次々と著名なボルシェヴィキを釈放し始めた。ときには保釈金を課して、ときには友人の保証にもとづいて。
 最初に自由にになった(そして全ての責任追及を免れた)のは、カーメネフだった。彼は、8月4日に釈放された。
 ルナチャルスキー(Lunacharskii)、アントニオ-オフセーンコ(Antonio-Ovseenko)およびA・コロンタイ(Alexandra Kollontai)はすぐあとで、自由になった。そして、その他の者が続いた。
 (4)その間に、ボルシェヴィキは、政治的勢力として再登場していた。
 ボルシェヴィキは、政治的両極化によって利益をうけた。この政治的両極化は、リベラル派と保守派がコルニロフへと引かれ、急進派は極左へと振れた夏の間に生じていた。
 労働者、兵士、海兵たちは、メンシェヴィキとエスエルの優柔不断さを嫌悪し、これらを諦めて、大挙して唯一の選択肢もボルシェヴィキを支持するに至った。
 しかし、政治的な疲れもあった。
 春には揃って投票所へと行っていたロシア人は、彼らの状態の改善に何らつながらない選挙に徐々に飽きてきた。
 このことはとくに、過激派に対抗する機会がないと感じた保守的な人々について本当のことだった。しかし、リベラル派や穏健な社会主義立憲派についても当てはまった。
 この趨勢は、ペトログラードとモスクワの市議会選挙の結果でもって例証され得る。
 コルニロフ事件の一週間前、8月20日のペトログラード市会(Municipal Council)の投票で、ボルシェヴィキは得票率を1917年5月の20.4パーセントから33.3パーセントへと、さらには過半数へと伸ばした。
 しかしながら、絶対得票数では、投票数の低下によって17パーセントしか伸ばさなかった。 
 春の選挙では有権者の70パーセントが投票所へ行ったのだったが、8月にはそれは50パーセントに落ちた。首都のいくつかの地区では、前には投票した者の半分が棄権していた。(*)(87)
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 (*) Crane Brinton はその<革命の解剖学>(New York, 1938, p.185-6)で、革命的状況下では庶民的市民は政治参加するのに退屈し、極端主義者に広場を譲る、というのはふつうだと観察する。
 後者の影響力は、民衆の幻滅と政治に対する利害の喪失に比例して増大する。
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 モスクワでは、9月の市会選挙での投票参加者の減少は、さらに劇的だった。
 こちらでは、以前の6月の64万票に対して、38万票しか投じられなかった。
 投票票の半分以上はボルシェヴィキで、12万票を掘り起こしていた。一方、社会主義派(エスエル、メンシェヴィキおよびこれらの友好派)は37万5000票を失った。後者のほとんどはおそらくは、自宅にいるのを選んだ。
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 モスクワ市会選挙(議席数の割合)(88)
 党       1917年3月 1917年9月 変化
 エスエル    58.9     14.7    -44.2
 メンシェヴィキ 12.2      4.2    - 8.0
 ボルシェヴィキ 11.7     49.5    +37.8
 カデット    17.2     31.5    +14.3   
 ********
両極化の一つの効果は、ケレンスキーが変わらない権力を求めて計算していた政治基盤の風化だった。
 8月半ばのペトログラードの市会選挙で社会主義諸党が示した貧弱さは、同じその月の遅くでのケレンスキーの行動の、重要な要因だったかもしれない。
 というのは、彼の政治基盤が消失していたとき、「反革命」の勝利者としてよりも左翼の側への自分の人気と影響力を高めるよい方法は、何だったたのか? かりに想像上のものだったとしても。
 (5)コルニロフ事件は、ボルシェヴィキの運命を、予期されなかった高さにまで押し上げた。
 コルニロフの幻想上の蜂起を抑止し、クリモフの兵団がペトログラードを占拠するのを阻止するために、ケレンスキーはイスパルコムの助けを求めた。
 8月27-28日の深夜会議で、あるメンシェヴィキの動議にもとづき、イスパルコムは、「反革命と闘う委員会」の設立を承認した。
 しかし、ボルシェヴィキの軍事組織だけがイスパルコムが用いることのできる実力部隊だったので、この行動は、ボルシェヴィキにソヴェトの部隊という責任を負わせるという効果をもった。(89) こうして、昨日の犯罪者は、今日は戦闘員になった。
 ケレンスキーはまた、ボルシェヴィキに対して直接に、コルニロフに対抗する自分を、その当時に明らかに大きくなっていたボルシェヴィキの兵士たちに対する影響力を使って助けるよう訴えた。(90)
 ケレンスキーの代理人は、アナキストとボルシェヴィキ共感者としてよく知られた巡洋艦<オーロラ>の海兵たちに、ケレンスキーの住居であり臨時政府の所在地である冬宮の防衛の責任を引き受けるように要請した。(91)
 M・S・ウリツキ(Ulitskii)はのちに、ケレンスキーのこの行動がボルシェヴィキを「名誉回復させた」と述べることになる。
 ケレンスキーはまた、ボルシェヴィキが労働者たちに4000丁の鉄砲を配って武装することを可能にした。相当の数の武器がボルシェヴィキの手に入ることになつた。
 ボルシェヴィキはこれらの武器を、危機が過ぎ去ったあとも保持し続けた。(92)
 ボルシェヴィキの再生とともにどの程度に事態が進行していたかは、8月30日の政府の決定、すなわち訴訟手続が始まっているごく数名を除いて拘禁されているボルシェヴィキ全員を釈放するとの決定、でもって判断できるかもしれない。(93)
 トロツキーは、この恩赦の受益者の一人だった。トロツキーは3000ルーブルの保釈金でKresty 監獄から9月3日に釈放され、ソヴェト内のボルシェヴィキ党派の責任者となった。
 10月10日までに、27人のボルシェヴィキ以外は全員が釈放され(94)、つぎのクーを準備した。一方で、コルニロフと他の将軍たちは、Bykhov 要塞に惨めに捨てられていた。
 9月12日、イスパルコムは政府に対して、レーニンとジノヴィエフについて、身体の安全の保証と公正な裁判を要請した。(95)
 (6)コルニロフ事件の劣らず重要な帰結は、ケレンスキーと軍部の間の分断だった。
 というのは、将校団は事件に混乱して政府を公然とは拒否するつもりはなく、コルニロフの反乱に参加するのを拒絶したけれども、彼らの司令官に対する措置や多数の優れた将軍たちの逮捕、そして左翼への追従についてケレンスキーを軽蔑したからだ。
 のちの10月遅くにケレンスキーがボルシェヴィキから自分の政府を救うのを助けるよう軍部に呼びかけたとき、ケレンスキーの嘆願は全く聞き入れられないことになる。
 (7)9月1日、ケレンスキーは、ロシアは「共和国」だと宣言した。
 一週間後(9月8日)、彼は政治的対抗諜報機関を廃止した。これは、彼自身からボルシェヴィキの企図に関する主要な情報源を奪うことを意味した。(96)
 (8)堅固な指導力をもつことができる誰かによってケレンスキーが打倒されることになるのは、ただ時間の問題だった。
 そのような人物は、左翼から出現するに違いなかった。
 種々の違いが彼らを分けていたとはいえ、左翼の諸政党は、「反革命」という妖怪と闘うときには隊列を固めた。「反革命」とはその定義上、ロシアに実効的な政府としっかりした軍隊を回復しようとする全ての先導的行為を含む用語だった。
 しかし、国家は〔政府と軍隊の〕いずれをも有しなければならないので、秩序を回復しようとする先導力は、彼らの内部から出現しなければならなかった。
  「反革命」は、「真の」革命を偽装して、やって来ることになる。//
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 (84) ケレンスキー,<Delo>, p.65.
 (85) ミリュコフ,<Istoriia>Ⅰ, Pt. 2, p.15n. <Echo de Paris>, 1920, <Oiechestvo>No.1, と<Poslednie Izvestiia>(Ravel), 1921年4月、を引用している。
 (86) <Revoliutsiia>Ⅳ, p.299-p.300, p.70.
 (87) <NZh>No.108(1917年8月23日), p.1-2とNo.109(1917年8月24日), p.4.; W. G. Rosenberg, <SS>No.2(1969年)所収, p.160-1.
 (88) <Revoliutsiia>Ⅲ, p.122.; Rosenberg, 同上.
 (89) Golvin,<反革命>Ⅰ, Pt. 2, p.53-p.54.
 (90) Sokolnikov,<Revoliutsiia>Ⅳ所収, p.104.
 (91) 同上Ⅴ, p.269.
 (92) S. P. Melgunov,<<略>>(Paris, 1953), p.13.
 (93) <NZh>No.116(1917年8月31日), p.2.
 (94) <NZh>No.149/143(1917年10月10日), p.3.
 (95) <NZh>No.125/119(1917年9月12日), p.3.
 (96) <NZh>No.123/117(1917年9月9日), p.4.
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次節の目次上の表題は、「隠れている間のレーニン」。

1937/R・パイプス著・ロシア革命第11章第3節③。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー/第3節。試訳のつづき。 
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 第3節・ケレンスキーとコルニロフの決裂③。
 (25)ケレンスキーがコルニロフを訴追したことは、彼に制御できない激しい怒りをもたらした。彼の最も敏感な神経、つまり彼の愛国心に直接に触るものだったからだ。
 声明文を読んで、彼はもはやケレンスキーをたんなるボルシェヴィキの捕囚だとは考えず、自分とその軍隊を陥れるために仕組んだ、卑しむべき挑発の原作者だと見なした。
 コルニロフの反応は、Zavoiko が起草した抗議声明を全ての前線司令官に送ることだった。(+)//
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 (+) 政治的野心をもつ事業家だったZavoiko はネクラソフの対応相手者で、コルニロフを右翼側へと押した。彼について、Martynov,<コルニロフ>, p.20-p.22.
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 「首相による声明は、<中略>その最初の部分で、完璧なウソだ。
 私は、ドゥーマ代議員Vladimir・ルヴォフを臨時政府へと遣わさなかった。
 -彼は、首相からのメッセージの伝達者としてやって来た。<中略>
 かくして、この祖国の運命を賭けるごとき大きな挑発行為が行われた。
 ロシア人民よ。我々の偉大な母国が死にそうだ。
 死の瞬間は、もうすぐだ。
 公然と明確に語らざるを得ない。私、将軍コルニロフは、ソヴェト多数派ボルシェヴィキの圧力によって、臨時政府は、ドイツの将軍幕僚たちの企図と完全に一致して行動し、切迫しているリガの海岸への敵軍の上陸と同時に軍隊を破壊して、この国を内部から震撼させる<中略>、と宣告する。
 私、将軍コルニロフは、コサック農民の息子は、全ての者に対して、私は偉大なロシアを救うこと以外の何ものをも個人的に望んでいない、と宣告する。
 私は誓う、敵国に対する勝利によって人民を立憲会議(憲法制定会議)まで導く、と。その会議は、我々の運命を決定し、我々の新しい政治体制を選択するだろう。」(70)//
 (26)これは、結局は、反逆だった。コルニロフはのちに、公然たる反乱-すなわち大逆罪-だとして訴追されたがゆえに政府と明確に決裂することに決した、ということを認めた。
 Golvin は、ケレンスキーはその行為によってコルニロフを挑発して反乱を起こさせた、と考える。(71)
 この評価は、コルニロフは反乱したとして訴追されたあとで初めて反乱し始めたという意味で、正しい。//
 (27)ケレンスキーが亀裂を修復するのではなくて傷口を広げることを欲していることは、彼が8月28日に行ったいくつかの記者発表から明瞭になった。
 その一つで彼は、「祖国を裏切った」として訴追したコルニロフによる指令を無視するよう、全軍の司令官に命令した。(72)
 もう一つの中で彼は、コルニロフの軍団がペトログラードへと進んでいる理由に関して、公衆にウソをついた。以下のとおり。//
 「前最高司令官、将軍コルニロフは、臨時政府の権威に反抗して反乱を起こした。その電信通話では愛国心と人民への忠誠を表明しているものの、その行為はその欺瞞性(treachery)を明確に例証した。
 彼は前線から連隊を撤退させ、容赦なき敵であるドイツ軍に対する抵抗を弱め、それら全ての連隊をペトログラードに対して向けさせた。
 彼は祖国を救うと語り、意識的に兄弟殺しの(fratricidal)戦争を煽動した。
 彼は、自由の側に立つと言い、ペトログラード出身分団に対抗して軍団を送った。」(73)//
 ケレンスキーがのちに主張したのだが、彼は、ほんの一週間前には彼自身が第三騎兵軍団が自分の指揮下にあるペトログラードに来るように命令したことを、忘れていたのか?
 このような説明を説得力があると考えるのは、極度にひどい強引な軽はずみの信じ込み(credulity)だろう。//
 (28)その後三日間、コルニロフは、「ペトログラードを支配している欲得ずくのボルシェヴィキの手から祖国を救い出す」ために国民を結集させようとしたが、成功しなかった。(75)
 彼はコサックにとともに常備軍に訴えかけ、クリムロフに対してペトログラードを占拠するよう命じた。
 多数の将軍たちがコルニロフに精神的な支持を与え、最高司令官に対する措置に抗議する電信をケレンスキーに送った。(76)
 しかし、彼らも保守派政治家たちも、コルニロフに加わらなかった。ケレンスキーが広めた虚偽情報で混乱していたのだ。ケレンスキーによって、臆面もなく事態の背景を歪曲し、コルニロフは反逆者で反革命者とする情報が流れていた。
 高位の将軍たちの全員がコルニロフに従うことを拒否したことはむしろ、彼らがコルニロフとの陰謀に加わっていなかったことを示す証拠を追加する。
 (29)8月29日、ケレンスキーはクリモフに対して、つぎのように電信で伝えた。//
 「ペトログラードは完全に平穏だ。
 騒乱(vystupleniia)はありそうにない。
 貴下の軍は必要がない。
 臨時政府は貴下に対して、貴下自身の責任でもって、解任された最高司令官が命じた、ペトログラードへの進軍を停止し、軍をペトログラードではなくNarva の作戦目標値へと向かわせるよう、命令する。」(77)//
 このメッセージは、ケレンスキーはクリモフがボルシェヴィキの騒乱を鎮静化すべくペトログラードに進んでいると考えていたとしてのみ、意味をもつことになる。
 混乱していたけれども、クリモフは従った。
 Ussuri コサック分団は、ペトログラードに近いKrasnoe Selo で止まった。そして、8月30日に、臨時政府に対する忠誠を誓約した。
 明らかにクリモフの命令により、ペトログラード出身分団もまた、前進を停止した。
 ドン・コサック分団の行動は決まっていなかった。
 いずれにせよ、ペトログラードへと進軍しないように説得する、通常はソヴェトにより派遣された活動家が行う役割が格段に誇張された、ということを、利用可能な歴史資料は示している。
 クリモフの軍団がペトログラードを占拠しなかった主要な理由は、言われていたようにはペトログラードはボルシェヴィキの手に落ちておらず、自分たちの仕事は不必要だという、司令将校たちの認識だった。(*)//
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 (*) Zinaida Gippius は、かくして、コルニロフの騎兵軍団とそれを遮断するべくペトログラードから派遣された軍団の遭遇について、こう叙述する。
 「『流血』は、なかった。
 Lugaや別の場所で、コルニロフが派遣した分団と『ペトログラード人』はお互いに偶然にぶつかった。
 彼らは、理解できないままに、互いに向かい合った。
 『コルニロフ者たち』はとくに驚いた。
 彼らは、『臨時政府を守る』ために進み、やはり『臨時政府を守る』ために進んだ『敵』と遭遇した。<中略>
 彼らは立ったままで、思案した。
 事態を理解することができなかった。
 しかし、『敵と親しくすべきだ』との前線の煽動活動家の教示を思い出して、彼らは、熱烈に仲良くなった。」
 <Siniaia kniga>(Belgrade, 1929), p.181.; 1917年8月31日の日記への書き込み。
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 (30)クリモフはケレンスキーに招かれて、かつ身の安全を約束されて、8月31日にペトログラードに着いた。
 彼はその日の遅く、首相と会った。
クリモフは、ケレンスキーとその政府を助けるために軍団をペトログラードへと動かした、と説明した。
 政府と軍司令部との間にあった誤解について知るとすぐに、彼は、部下たちに停止を命じていた。
 クリモフには、反乱の意図はなかった。
 説明の詳細に進む前に、ケレンスキーは握手することすら拒んで、クリモフを解任し、軍事裁判所本部に報告するよう彼に指示した。
 クリモフはそうしないで友人のアパートへ行き、自分の心臓を銃弾で打ち抜いた。(**)
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 (**) ケレンスキー,<Delo Kornilova>, p.75-p.76.; <Revoliutsiia>Ⅳ, p.143.; Martynov,<コルニロフ>, p.149-p.151.
 クリモフは、コルニロフに遺書を残した。それはコルニロフに衝撃と苦しみを与えた。
 Martynov,<コルニロフ>, p.151.
 クリモフは反動的君主制論者ではなく、1916年の反ニコライ二世陰謀に関与していた。
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 (31)コルニロフの職責を引き受けるよう頼んだ二人の将軍-ルコムスキーのあとはV. N. Klembovskii-が拒んだために、ケレンスキーは、公然と大逆罪で訴追した人物の手にあった軍事司令権限を自分に残さなければならないという厄介な状態にあるのに気づいた。
 コルニロフの命令を無視せよと軍司令部に従前に指示していたのだったが、今では逆に、当分の間はコルニロフの命令に従うことを許容した。
 コルニロフは、状況きわめて異常だと考えた。彼はこう書いた-「世界の歴史上に珍しい事件が起きた。大逆罪で訴追された最高司令官が、…他に誰も任命される者がいないために、司令し続けるように命じられている」。(78)//
 (32)ケレンスキーとの亀裂のあと、コルニロフは落胆し切っていた。首相とサヴィンコフが意識的に自分を罠に嵌めた、と確信していた。
 自殺するのを怖れて、彼の妻は、夫に回転式拳銃を引き渡すよう求めた。(79)
 アレクセイエフ(Alekseev)が司令権を引き継ぐため、9月1日にモギレフに到着した。ケレンスキーが彼をこの任務に就かせるまで、3日を要した。
 コルニロフは、この決定に抵抗することなく従った。ただ、政府は堅固な権威を確立し、彼を悪用しないようにだけ求めた。(80)
 コルニロフは、最初はモギレフのホテルに軟禁され、のちにBykhov 大要塞へと移された。そこには、「共謀」に関与したと疑われた30人の将校たちが、ケレンスキーによって幽閉されていた。
 どちらの場所でもコルニロフは、忠実なTekke Turkomans に護衛された。
 彼はBykhov から、ボルシェヴィキ・クーの直後に脱出し、ドンへと向かった。そこで彼は、アレクセイエフとともに、自主〔義勇〕軍を設立することになる。//
 (33)「コルニロフの陰謀」はあったのか?
 ほとんど確実に、なかった。
 利用可能な証拠資料はむしろ、「ケレンスキーの陰謀」を指し示している。それは、空想上のだが広く予期されていた反革命の首謀者だとしてコルニロフを貶めるために仕組まれたものだった。反革命を抑止することは首相を対抗者のいない人気と権力がある地位へと引き上げ、彼が増大しているボルシェヴィキの脅威に対処することを可能にするだろう、として。
 本当のクー・デタの要素は何も露見しなかった、というのは偶然ではあり得ない。共謀者の名簿、組織上の図表、暗号信号、計画といった要素だ。
 ペトログラードの将校たちとの通信や軍事単位への命令のような疑わしい事実は、予期されるボルシェヴィキ蜂起との関係では、全ての場合について完全に解明することができる。
 将校の陰謀が企てられていれば、確実に何人かの将軍は、その反乱に加われとのコルニロフの訴えに従っただろう。
 誰も、そうしなかった。
 ケレンスキーとボルシェヴィキのいずれも、コルニロフと結託していたことを認める、またはそれについて例証することのできる一人の人間も、特定することができなかった。一人による陰謀というのは、明らかに馬鹿げているのだ。
 1917年10月に指名された委員会は、1918年6月に(すなわち、すでにボルシェヴィキによる支配にあったときに)コルニロフ事件に関する調査を完了した。
 それは、コルニロフに向けられた訴追は根拠がない、と結論づけた。すなわち、コルニロフの軍事的動きは臨時政府を打倒するためではなくて、ボルシェヴィキから臨時政府を防衛することを意図していた、と。
 その委員会は、コルニロフの嫌疑を完全に晴らした。そして、「コルニロフ問題にかかる真実を意識的に歪曲したとして、また自分が冒した壮大な誤りについて罪があることを認める勇気が欠如しているとして」、ケレンスキーの責任を追及した。(***)(81)//
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 (***) コルニロフ事件の全体が挑発だったのではないかとの疑念が、ネクラソフが不用意にプレスに対して行った言明で強くなった。
 ネクラソフは、事件後2週間のときに新聞に答えて、ルヴォフをコルニロフの陰謀を暴露したとして褒め讃えた。
 ルヴォフによる通告書をまるで確認したかのごとく感じさせるようにケレンスキーに対するコルニロフの回答を歪曲して、彼はこう付け加えた。
 「V. N. ルヴォフは革命を助けた。彼は二日前に用意された爆発するはずの地雷を破裂させた。
 疑いなく、陰謀はあった。ルヴォフは、ただ早めに発見しただけだ。」<NZh>No.55(1917
年9月13日), p.3.
 このような言葉は、あり得ることとしてはケレンスキーの黙認のもとで、ネクラソフがコルニロフを破滅させるためにルヴォフを利用した、ということを示唆する。
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 (34)コルニロフは特別に複雑な人間ではなく、1917年7月-8月の彼の行動は、陰謀理論に頼ることなくして説明することができる。
 彼の第一で最大の関心は、ロシアと戦争にあった。
 彼は、臨時政府の優柔不断な政策とそのソヴェトへの依存に、警戒心を抱いた。ソヴェトは軍事問題に干渉して、軍事作戦を展開することがほとんど不可能になっていたのだ。
 臨時政府には敵国の工作員が浸透している、と彼が考えた理由はあった。
 しかし、ケレンスキーはその職にふさわしくないと感じていてもなお、コルニロフには彼に対する個人的な敵意はなく、政府にとって不可欠の人物だと彼を見なしていた。
 8月のケレンスキーの行動によってコルニロフは、首相は自分の側の人間なのかという疑問をもつに至った。
 ケレンスキーが望んでいたはずだとコルニロフは知っている軍隊改革を実現することができなかったことは、コルニロフに、ケレンスキーはソヴェトの捕囚であり、ソヴェトの中にいるドイツ工作員の捕囚だという確信を抱かせた。
 サヴィンコフがボルシェヴィキの蜂起が切迫していると彼に伝え、それを鎮圧するための軍事的助力を求めたとき、コルニロフは、政府をソヴェト自体から解放するのを助ける機会がやって来たと考えた。
 ボルシェヴィキ蜂起を鎮静化しあとで「二重権力」状態は解消されるだろう、そして、ロシアは新しくて効率的な体制をもつだろう、と期待するあらゆる理由が、彼にはあった。
 その過程で、彼は役割を果たす一部になりたかった。
 こうした危機的な日々を通してずっと傍らにいた将軍ルコムスキーは、サヴィンコフのモギレフ訪問とケレンスキーとの決裂の間の短い期間の間のコルニロフの思考について、合理的な説明だと思えるものを提示している。つぎのとおりだ。//
 「私は、ペトログラードでボルシェヴィキの行動があり、それを最も仮借なく鎮圧する必要があると確信した将軍コルニロフは、このことが当然に政府の危機、新しい政府、新しい権威の設立へと導くだろうと考えた、と思う。
 彼は、現在の臨時政府の若干の構成員や全面的な支持を信頼できると考える理由のある公的に知られた政治家たちと一緒に、その権威を形成することに関与しようと決意した。
 彼の言葉から私が知るのは、将軍コルニロフは新しい政府の形成に関して議論したが、、A. F. ケレンスキー、サヴィンコフおよびフィロネンコとともに、最高司令官の資格でそれに加わろうとしていた、ということだ。」(82)
 (35)最高司令官が軍隊を再活性化して有効な政府を再興するのを助けようと努力したことを「反逆」だ理解するのは、ほとんど正当化できるものではない。
 述べてきたように、コルニロフは正当な根拠なく裏切り者として訴追された後で初めて反乱を起こした。
 彼はケレンスキーの際限のない野望の犠牲者であり、首相が行った政治的基盤が侵食されていくのを阻止しようとする虚しい追求のために、生け贄として供された。
 事態をすぐそばで観察していた、あるイギリスのジャーナリストは、コルニロフが欲し、そして達成できなかったことを、つぎのように公正に要約している。//
 「彼は、政府を弱めるのではなくて強化したかった。
 彼は、その権威を侵犯したかったのではなく、他者がそうするのを阻止したかった。
 彼は、つねに表明されるが決して現実にならなかったものを実現させたかった-統治権力の唯一で不可変の受託者(depository)。
 彼は、ソヴェトの不当で停滞させる影響からそれを解放したかった。
 結局のところ、その影響がロシアを破壊した。そして、コルニロフの政府に対する果敢な抵抗は、その破壊過程を押し止めようとする最後の絶望的な努力だった。」(83)
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 (70) Chugaev,<<略>>, p.445-6.
 (71) Golovin,<反革命>Ⅰ, Pt. 2, p.37.
 (72) <Revoliutsiia>Ⅳ, p.109.
 (73) 同上、p.115.
 (74) Miliukov,<Istoriia>Ⅰ, Pt. 2, p.162n; ケレンスキー,<Delo>, p.80.
 (75) <Revoliutsiia>Ⅳ, p.109.
 (76) ルコムスキー,<Vospominaniia>Ⅰ, p.245.
 (77) <Revoliutsiia>Ⅳ, p.125.
 (78) Golovin,<反革命>Ⅰ, Pt. 2, p.71, p.101.
 (79) Khan Khadzhiev,<Velikii boiar>(Belgrade, 1929), p.123-p.130.
 (80) Golovin,<反革命>Ⅰ, Pt. 2, p.71. 1917年8月30日-9月1日のアレクセイエフ、コルニロフ、ケレンスキーの間の会話のテープは、Denikin Archive, Box24, Bakhmeteff Archive(コロンビア大学)所収。
 (81) <NZh>No.107/322(1918年6月4日), p.3.; <NV>No.96/120(1918年6月19日), p.3.
 (82) Chugaev,<<略>>, p.431.
 (83) E. H. Wilcox,<ロシアの破滅(Ruin)>(New York, 1919), p.276.
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 第3節、終わり。次節は《ボルシェヴィキの好運》。

1924/R・パイプス・ロシア革命(1990)第11章第1節②。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990)
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。
 なお、著者(R・パイプス)はアメリカで存命だったA・ケレンスキー(1881-1970)に直接に会って、インタビューしている。
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 第1節・コルニロフが最高司令官に任命される②。
 (10)Boris Savinkov (B・サヴィンコフ)は、軍事省の部長代行で、ケレンスキーとコルニロフの二人の信頼を得ていたため、仲介者としての役割を果たすには理想的にふさわしい人物だった。彼は、8月初めにつぎを求める四項目の案を起草した。すなわち、後方兵団への死刑の拡大、鉄道輸送の軍事化、軍需産業への戒厳令の適用、〔ソヴェトの〕軍事委員会の権限の縮小に対応する将校の紀律権限の回復。(8)
 彼によると、ケレンスキーは文書に署名すると約束したが、それを引き延ばし続け、8月8日に、「いかなる状況にあっても、後方部隊への死刑については署名しない」と彼に言った。(9)
 コルニロフは欺されたと感じて、ケレンスキーに「最後通牒」を突きつけた。これがケレンスキーを憤激させ、コルニロフをほとんど解任しそうになった。(10)
 ケレンスキーが軍隊の再活性化に強い関心を持っているのを知って以降、コルニロフはケレンスキーの不作為によって、首相は自由な人間ではなく社会主義者たちの道具にすぎないという疑念を持たざるをえなかった。社会主義者たちのうちの何人かは、七月蜂起以降、敵と通じていると言われていた。
 (11)コルニロフの執拗な要求は、ケレンスキーを困難な状態に追い込んだ。
 ケレンスキーは5月以降、何とか政府とイスパルコムの間に股がってきた。立法に関するイスパルコム〔ソヴェト執行委員会〕の拒否権に譲歩してそれが離反しないようにし、他方では同時に、力強く戦争を遂行して、リベラル派や穏健な保守派すらの支持を得ることによって。
 コルニロフは、ケレンスキーが是非とも避けたいと願っていること-つまり左翼と右翼のいずれかを、国際的社会主義の利益とロシア国家の利益のいずれかを、選択すること-をするように首相に迫った。
 ケレンスキーは幻想のもとにいることはできなかった。すなわち、多くは合理的だと考えていたコルニロフの要求に応じるのは、ソヴェトとの決裂を意味するだろう。
 ソヴェトの会議は8月18日、ボルシェヴィキの動議にもとづき、軍隊へ死刑を復活させる案について議論した。
 この案は事実上の満場一致で、すなわち4人(ツェレテリ、ダン、M. I. Liber、チェハイゼ)の反対に対するおよそ850人の賛成で、前線部隊への死刑の適用を拒否する決議を採択した。それの適用は、「司令幕僚たちに対する奴隷にする目的でもって兵士大衆に恐怖を与えようとする手段だ」として。(11)
 明白なことだが、戦闘地域にいない後方の兵団に対して死刑を拡大することにソヴェトが同意することはあり得なかった。防衛産業や輸送の労働者たちに軍事紀律を課すことについては、言うまでもない。//
 (12)理論的には、ケレンスキーはソヴェトに対抗して、リベラル派と保守派に運命を委ねることも考えられ得ただろう。
 しかし、とくに六月攻勢の失敗と七月蜂起に対する優柔不断な対応の後でこれらの社会勢力が彼に抱いている低い評価を考えると、ケレンスキーがこれを選択する可能性はあらかじめすでに排除されていた。
 8月14日のモスクワの国家会議にケレンスキーが姿を現したとき、彼は左翼側によってのみ強く称賛された。右翼側は石のごとき沈黙でもって迎えた。彼らが拍手喝采を浴びせたのは、コルニロフに対してだった。(12) 
 リベラル派と保守派のプレスは、包み隠さすことのない侮蔑をもってケレンスキーに触れていた。
 したがって彼には、左翼側を選択する以外の余地はなかった。イスパルコムの社会主義知識人たちに従順でありつつ、一方では確信と成功の見込みは減っていても、ロシアの国家利益を推進しようとしながら。//
 (13)ケレンスキーが左翼側と宥和したかったのは、約束した軍隊改革をしなかったことのみならず、ボルシェヴィキに対して断固たる措置をとらなかったことでも明らかだった。
 彼は大量の証拠を手にしてはいたけれども、イスパルコムとソヴェトに遠慮して七月蜂起の指導者たちを訴追しなかった。彼らは、ボルシェヴィキの責任を追及するのは「反革命的」だと考えていた。
 ケレンスキーは、右翼と左翼の両方の戦争遂行「妨害者」に保護されるべきとの軍事省からの提案に反応して、これと類似した先入観をもっていることを示した。
 彼は、右翼側の逮捕されるべき者の名簿を承認した。しかし、別の名簿が届けられたときには躊躇を示した。そして、結局は半分以上の名前を除外したのだった。
 それらの文書が、連署が必要な内務大臣でエスエルのN. D. Avksentiv に届いたとき、彼は最初の名簿を再確認したが、第二の名簿からは2名(トロツキーとコロンタイ)以外の全ての者の名前を削除した。(13) //
 (14)ケレンスキーは、民主主義的ロシアを指導すると運命づけられていると自認する、きわめて野心的な人物だった。
 この野心を実現する唯一の方法は、民主主義的左翼-すなわちメンシェヴィキとエスエル-の主張を管掌することだった。そして、そうするためには、その左翼がもつ「反革命」という強迫観念を分かち持たなければならなかった。
 彼は、コルニロフのうちに全ての反民主主義勢力が集中したものを見たのみならず、そう見る必要があった。
 ボルシェヴィキが4月、6月そして7月の武装「示威行動」で何を意図していたのかをよく知っており、またレーニンやトロツキーが将来に企てていることを容易に理解したけれども、ケレンスキーは、ロシアの民主主義は左翼からの危険ではなく右翼からの危険に直面していると、自らを納得させた。
 知識がなかったわけでも知的精神をもっていなかったわけでもなかったので、彼のこのような馬鹿げた評価は、それが彼には政治的にふさわしかったという前提でのみ、意味があることになる。
 コルニロフにロシアのボナパルトの役を割り当てて、ケレンスキーは無批判に-じつは進んで-、コルニロフの友人や支持者たちが巨大な反革命の陰謀を企てているという風聞に反応した。(14)
 (15)軍隊改革が実行されないままで、貴重な日々が過ぎ去った。
 コルニロフは、ドイツがまもなく軍事攻勢を再開しようとしていると知り、また事態を動かすことを意図して、内閣と会うことの許可を求めた。
 彼は8月3日に、首都に着いた。
 大臣たちに挨拶をして、彼は軍隊の状態の概略を述べ始めた。
 コルニロフは、軍隊の改革に関して議論したかった。しかし、サヴィンコフが軍事省がその問題に取り組んでいると言って、遮った。
 コルニロフはそのあと、前線の状況に話題を変えて、ドイツとオーストリアに対して準備している軍事行動について報告した。
 この時点で、ケレンスキーはコルニロフに寄りかかって囁いて、注意するように求めた。(15) 一瞬のちに、同様の警告がサヴィンコフからもあった。
 この出来事によって、コルニロフと彼の臨時政府に対する態度が、動揺した。
 彼はこのことに何度も言及して、その後の彼の行動を正当化するものだとした。
 彼はケレンスキーとサヴィンコフの警告を正しく解釈していたので、一人のまたは別の大臣は軍事機密を漏洩する疑いがあった。
 モギレフに戻ったときコルニロフは、衝撃を受けた状態のままで、Lukomskii に起きたことを語り、いかなる性格の政府がロシアを動かしていると考えるかと尋ねた。(16)
 彼は、自分が警告された大臣はチェルノフだと結論づけた。チェルノフは、ボルシェヴィキを含むソヴェトの仲間たちに秘密情報を伝えていると信じられていた。(17)
この日以降、コルニロフは臨時政府を国家と国民を率いるに値しない、と見なした。(*)
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 (*) 政府は忠誠心のない者やおそらくは敵の工作員に惑わされているとの彼の確信は、彼がこの時期に政府に提出した秘密のメモ文書がプレスに漏れたことで強められた。
 左翼のプレスは抜粋版を発行し、コルニロフに反対する運動を開始した。悪口のキャンペーンだった。Martynov <コルニロフ>, p.48.
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(16)この出来事からほどなくして(8月6日又は7日に)、コルニロフは、第三騎兵軍団の司令官である将軍クリモフ(A. M. Krymov)に、その兵団をルーマニア地域から北方へ動かすよう命令した。そして、別の軍団を投入し、西部ロシアの大雑把にはモスクワとペトログラードと等距離にある都市のVelikie Luki で位置を整えるよう命じた。
 第三軍団は、二つのコサック分団とコーカサスからのいわゆる土着(または粗雑)分団で構成されていた。いずれも人員不足だったが(土着分団には1350人しかいなかった)、頼りになると見なされた。
 こうした命令に当惑して、Lukomskii は、これらの勢力をドイツ戦に用いるのだとするとVelikie Luki は前線から遠すぎる、と指摘した。
 コルニロフは答えて、モスクワかペトログラードのいずれかで発生する可能性が潜在的にあるボルシェヴィキの蜂起を鎮圧するための場所に軍団はいて欲しいと語った。
 彼はLukomskii に対し、臨時政府に対抗するつもりはない、だが必要だと分かれば、クリモフの兵団がソヴェトを解散し、その指導者たちを吊し、ボルシェヴィキを-政府の同意があってもなくても-簡単に片付ける、と付け加えた。(18)
 彼はまたLukomskii に、ロシアは国家とその軍隊を救うことのできる「確固たる権威」を絶望的にだが必要としている、と語った。
 つぎは、コルニロフの文章だ。
 「私は反革命家ではない。<中略>私は旧来の統治体制の形態が嫌いだ。それは私の家族を手酷く扱った。過去に戻ることはない。決して、あり得ない。
 しかし、我々は、本当にロシアを救うことのできる権威を必要としている。その権威は、戦争を栄誉をもって終わらせることを可能にし、立憲会議〔憲法制定会議〕へとロシアを指導するだろう。<中略>
 我々の現在の政府には、しっかりした個人はいるが、事態を、ロシアを、破滅させる者もいる。
 重要なことは、ロシアには権威がなく、そのような政府が設立されなければならないということだ。
 おそらくは私は、そのような圧力を政府に対してかけることになるはずだ。
 かりにペトログラードで騒擾が勃発すれば、それが鎮圧された後で私は政府に入り、新しい、強い権威の形成に参加しなければならないだろう。」(19)//
 (17)ケレンスキーがコルニロフに対して一度ならず自分も「強い権威」に賛成だと言っていたのを聞いていたので、Lukomskii は、コルニロフと首相は困難なく協力するはずだ、と結論した。(20)
 コルニロフはサヴィンコフの要請に応じて8月10日にペトログラードに戻った。しかしこれは、首相の望みには反していた。
 ケレンスキーの生命を狙う試みに関する風聞を聞いて、彼はTekke の護衛団とともに到着し、護衛団はケレンスキーの事務所の外側に機関銃を積み上げた。
 ケレンスキーは内閣全員と会いたいとのコルニロフの要請を拒否した。そしてその代わりに、顧問団であるNekresov とTereshenko が同席して、彼を迎えた。
 将軍の非常時意識は、ドイツが軍事攻勢をリガの近くで開始し、首都の脅威になりそうだ、という知識にもとづいていた。
 彼は改革の問題に話題を転じた。外国勢力のために働くロシア人に対する死刑も含めての、前線および後方での紀律の回復、および防衛産業や輸送の軍事化だった。
 ケレンスキーは、コルニロフが望んだことの多く、とくに防衛産業と輸送に関しては「馬鹿げている」と考えた。しかし、軍隊の紀律を強化することを拒否することはなかった。
 コルニロフは首相に、自分はまさに解任されそうで、軍での騒擾を刺激しそうな行動をしないように「助言されている」ということを分かっている、と言った。(22)
 (18)4日後、コルニロフは国家会議にあっと言わせる登場の仕方をした。その会議はケレンスキーがモスクワに国民の支持を集めるべく招集したものだった。
 まず最初に、ケレンスキーは会議で挨拶するのを許可せよとのコルニロフの要請を拒否した。しかし、軍事問題に限定するという条件つきで、容赦した。
 コルニロフがボリショイ劇場に着いたとき、彼は喝采を受け、群衆によって持ち上げられた。
 右翼の議員たちは、騒がしい歓迎の仕方で迎えた。
 むしろ素っ気ない演説でコルニロフは、政府の政治的な打撃になると解釈され得るものは何も語らなかった。ケレンスキーにとっては、この事態が、分岐点だった。すなわち彼は、将軍に対する共感を示すことはケレンスキーへの個人的な侮蔑だと解釈したのだ。
 ケレンスキーののちの証言によると、「モスクワ会議の後で、つぎの攻撃の試みは右翼から来るだろう、左翼からではない、ということは自分には明瞭だった」。(23)
 このような確信が彼の心の裡にいったん定着してしまうと、それは<固定観念(idée fixe)>になった。
 のちに起こることは全て、それを強化するのに役立つだけになる。
 右翼のクーが進行中だとの彼の確信は、将校たちや一般市民からの電信で強まった。それらは、コルニロフをその職のままにとどめておくことを求めるもので、また幕僚将校たちによる陰謀の軍事的中心部からの内密の警告だった。(24)
 保守派のプレスは、ケレンスキーとその内閣に対する連続的な批判を開始した。
 典型的だったのは右翼<Novoe vremia>の編集部で、ロシアを救う鍵は最高司令官の権威を疑いなく受容することだ、と主張した。(25)
 コルニロフがこの政治的キャンペーンを使嗾したという、いかなる証拠も存在しなかった。しかし、それを受け取る側には、彼は疑念の対象になった。//
 (19)冷静に観察すれば、司令官たる将軍への共感が高まるのは、ケレンスキーへの不満の表現であって、「反革命」の兆候ではなかった。
 国家は、しっかりとした権威の存在を切に必要としていた。
 しかし、社会主義者たちは、この雰囲気を敏感に気づくことはなかった。
 実際の政治ではなく歴史を詩文的に見て、社会主義者たちは保守派(「ボナパルティスト」)の反動は不可避だと堅く信じていた。(*)
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 (*) 著者〔R・パイプス〕との私的な会話でケレンスキーは、彼の1917年の行動はフランス革命の教訓に強く影響されていたことを認めた。
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 8月24-25日、何かがたまたまにでもそれを正当化する前に、社会主義派のプレスが反革命の存在を告げた。8月25日、メンシェヴィキの<Novaia zhizn>は、「陰謀」との見出しのもとに、真っ最中だ、政府が少なくともボルシェヴィキに対して示したのと同じだけの情熱をもってこれと闘うよう希望を表明する、と発表した。(26)
 かくして、筋書き(plot)は書かれた。
 残るのは、主人公を見つけることだった。//
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 (8) Boris Savinkov <K delu Kornilova>(Paris, 1919), p.13-14.
 (9) 同上、p.15. P. N. Miliukov <Istoriia <以下略>>(Sofoia, 1921), p.105.
 (10)ケレンスキー<Delo>p.23. Savinkov <K delu>p.15-16. Miliukov <Istoriia>Ⅰ, Pt.2, p.99.
 (11) <Revoliutsiia>Ⅳ, p.69-70.
 (12) 同上、p.54.
 (13) Savinkov <K delu>p.15.
 (14) ケレンスキー<Delo>p.56-57. 同<Catastrophe>p.318.
 (15) Savinkov <K delu>p.12-13. Geprge Katkov <コルニロフ事件>(London-New York, 1980), p.54.
 (16) A. S. Lukomskii, <<略>>(Berlin, 1922), p.227.
 (17) Katkov <コルニロフ事件>, p.170.
 (18) Lukomskii, <<略>>, p.228, p.232.
 (19) Chuganov, <<略>>, p.429.
 (20) 同上、p.429-430.
 (21) <Revoliutsiia>Ⅳ, p.37-38. Lukomskii, <<略>>Ⅰ, p.224-5.
 (22) Miliukov <Istoriia>Ⅰ, Pt.2, p.107-8. Trubetakoi<<略>>No.8(1917年10月4日)所収。Martynov <コルニロフ>p.53が引用。
 (23) ケレンスキー<Delo>p.81. Gippius, <Siniaia kniga>p.164-5.
 (24) ケレンスキー<Delo>p.56-57.
 (25) <DN>No.135(1917年8月24日), p.1 に引用。
 (26) <NZh>No.110(1917年8月25日), p.1.
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 第2節へとつづく。

1923/R・パイプス・ロシア革命第11章<十月クー>第1節①。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes, 1923-2018)には、ロシア革命(さしあたり十月「革命」)前後に関する全般的かつ詳細な、つぎの二つの大著がある。
 A/The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 B/Russia under the Bolshevik Regime (1994).
 いずれについても、邦訳書はない。
 但し、前者の2/3と後者を一つに併せたような簡潔版があり、これには、邦訳書がある。
 C/A Concise History of the Russian Revolution (1996).
 =西山克典訳・ロシア革命史(成文社、2000年)。
 上のうちAの一部を二年近く前から「試訳」してこの欄に紹介し始めたのだったが(その後Bの一部へも移動)、このAについて試訳の掲載を済ませているのは、第9章(レーニンとボルシェヴィズムの起源)と第10章(権力を目指すボルシェヴィキ)の二つの章にすぎず、本文だけで計842頁になる全体のうち98頁にすぎない。
 ある程度は黙読しかつCの邦訳書も参考にしているので、すでに多少の知識はある。しかし、きちんと日本語に置き換える作業をしておく必要があるだろう。
 トロツキーを長とするペトログラード・ソヴェトの軍事革命委員会の設立辺りから再開したいところだが(なお、確認しないが、ここでの「革命」はレーニンが考え抱く「社会主義革命」では決してなかっただろう)、R・パイプスのAの書物は急いでくれない。
 <コルニロフ事件>という<右への揺れ>があったからこそつぎに<左への揺れ>でレーニン・ボルシェヴィキに有利になった(偶然なのか必然なのか)ともされるので、じっくりとつぎの第11章(十月のクー)の冒頭から「試訳」作業を続けてみよう。
 各節の見出しは本文中にはなく、目次(内容構成)上のものを用いている。
 注記のうち(*)は本文の下欄(文字どおりの脚注)で数字番号付きの注は全体の後にまとめて掲載されている。ここでは前者は本文中に挿入し、後者は試訳掲載部分ごとに最後に記載する。
 一文ごとに改行し、段落の冒頭に、原著にはない数字番号を付した。注記のうちロシア文字が長くつづくものは記載を省略する。
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 Richard Pipes(R・パイプス)・ロシア革命1899-1919 (1990)。
 第11章・十月のクー。
 「捕食動物がその食する動物よりも賢くなければならないのは、自然の法則だ。」
 -自然史入門(Manual of Natyral History)。
 「我々がその当時に本当の危険に直面したのは、まさにその瞬間からだった。」
 -Alexander Kerensky. (1)
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 (1) A・ケレンスキー <The Catastrophe>(New York-London, 1927), p.318.
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 (はしがき)
 1917年9月、レーニンは隠れており、ボルシェヴィキ勢力の指揮権はトロツキーに渡った。トロツキーは、二ヶ月前に入党していた。
 即時の権力奪取というレーニンからの圧力に抗して、トロツキーはより慎重な戦略を採用した。ボルシェヴィキの企図は権力のソヴェトへの移行への努力だと偽装したのだ。
 ほぼ間違いなくその考案者だと言ってよいが、近代クーデタの技術にきわめて熟達しているトロツキーは、革命を勝利へと導いた。//
 トロツキーは、レーニンを補完する理想的な人物だった。
 より目立ち、より派手な、はるかに上手い演説者かつ著述者として、彼は群衆を魅了することができた。レーニンのカリスマ性は、その支持者たちの間に限られていた。
 しかし、トロツキーは、ボルシェヴィキ党員からは人気がなかった。一つには、ボルシェヴィキを辛辣に攻撃して数年のちに遅く党に加入したからだ。また一つには、耐えられないほどに傲慢だったからだ。
 いずれにせよ、ユダヤ人であるトロツキーは、革命であれ何であれ、ユダヤは外部者だと見なされた国での全国的な指導者になることを、ほとんど見込めなかった。
 革命と内戦の間、彼はレーニンの分身(alter ego)で、腕を組み合う不可欠の同僚だった。しかし、勝利を得たのちには、当惑の種になる。//
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 第1節・コルニロフが最高司令官に任命される①。
 (1)ボルシェヴィキが七月の敗走から回復することを可能にしたのは、ロシア革命のうちでのもっと奇怪な出来事の一つによる。それは、コルニロフ(Kornilov)事件として知られる。(*)
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 (*) ロシア革命に関する歴史家にこれほどの関心を惹起した主題はほとんどない。したがって、これに関する文献はきわめて多い。
 主要な第一次資料は、D. A. Chugaev, ed., <以下、〔略〕>で公刊されている。
 ケレンスキーに関する資料は、Delo Kornilova所収(英語訳<ボルシェヴィズムへの前奏>、ニューヨーク、1919)、Boris Savinkovに関する資料は、K delu Kornilova所収(Paris, 1919)。二次的文献のうち、とくに教示的なものは以下。E. I. Martynov の党派的だが豊かな資料をもつ<コルニロフ>(Leningrad, 1927)、P. N. Miliukovの<〔略〕>(Sofia, 1922)、およびGeorge Katkov の<コルニロフ事件>(London-New York, 1980)。
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 (2)将軍Larv Kornilov (コルニロフ)は、1870年にシベリア・コサックの家庭に生まれた。
 父親は農民かつ兵士で、母親は家事従事者だった。
 コルニロフの庶民的出自は、ケレンスキーやレーニンの出自とは対照的だった。彼らの父親は公職貴族の上位階層に属していた。
 コルニロフは、カザフ・キルギスの中で幼年時代を過ごし、アジアとアジア人に対する終生の情愛を保持し続けた。
 軍事学校を卒業して、参謀学校に入り、栄誉を得てそこを修了した。
 彼はトルキスタンで活動任務を開始し、アフガニスタンやペルシアへの遠征隊を率いた。
 中央アジア語のトルコ方言を習得していてロシアのアジア地域の専門家になっていたコルニロフは、赤い外衣を身にまとってTekkeトルコ人の護衛兵に囲まれているのを好んだ。彼らとはその母国語で会話し、彼は「Ulu Boiara」あるいは「大ボヤール(Great Boyar)」として知られていた。
 彼は日本との戦争に参加し、その後に軍事随行員として中国に配置された。
 1915年4月、ある分隊を指揮していたときに重傷を負い、オーストリア軍の捕虜となった。だが、脱走して、ロシアに帰還した。
 1917年3月、ドゥーマの臨時委員会はニコライ二世に、コルニロフをペトログラード軍事地区の司令官に任命するよう求めた。
 4月のボルシェヴィキ反乱までこの地位に就いていたが、そのときに離任し、前線へと向かった。//
 (3)まず第一にかつ主としては政治家であるほとんどのロシアの将軍とは違って、コルニロフは戦闘する人間で、伝説的な勇気をもつ野戦の将校だった。
 彼には愚鈍との評判があった。アレクセイエフは、コルニロフは「獅子の心と羊の脳をもっていた」と語ったと伝えられている。しかしこれは、公正な評価ではない。
 コルニロフには、多量の実践的知識と一般常識があった。このタイプの他の兵士たちに似て、政治や政治家を軽蔑していたけれども。
 彼は、「進歩的」見解をもっていた、と言われた。そして、彼かツァーリ体制を嫌っていたことについて、疑う理由はない。(2)//
 (4)軍人としての履歴の最初の頃、コルニロフは不服従の傾向を示し、それは1917年二月以降にさらに強くなった。そのとき彼は、ロシア軍の解体と臨時政府の無能力さを観たのだった。
 彼に対する反対者はのちに、独裁的野心をもっていたと彼を責めるだろう。
 このような追及は、一定の条件をつけてのみ行うことができる。
 コルニロフは愛国者で、とくに戦時中に国内秩序を維持し勝利のために必要な全てのことを行ってロシアの国家利益を前進させる、そういういかなる政府に対しても、奉仕する心づもりがあった。
 1917年の夏遅く、彼は、臨時政府はもはや自由な活動者ではなくて社会主義インターナショナル派の捕囚になっており、敵の工作員がソヴェトの中に収まっている、と結論づけた。
 独裁的権力を掌握するという示唆を彼に受容させたのは、まさにこのような信念だ。//
 (5)ケレンスキーは七月蜂起の後でコルニロフに向き直って、コルニロフが軍隊の紀律を回復し、ドイツの反攻を抑えることを望んだ。
 7月7-8日の夜、ケレンスキーはコルニロフを戦闘の先端にある西南方前線の責任者に任命した。そして三日後に、補佐官のBoris Savinkov の助言にもとづいて、コルニロフに最高司令官の地位を提示した。
 コルニロフは、急いでは受諾しなかった。
 彼は政府がロシアの戦争努力全体を妨げている諸問題と真剣に取り組むまでは、かつそうでなければ、軍事活動の指揮を執る責任を負うのは無意味だと考えていた。
 その諸問題には、二つの性格のものがあった。狭くは軍事的なもの、より広くは、政治的および経済的なものだ。
 他の将軍たちと相談して、コルニロフは軍隊の戦闘能力を回復するには何がなされる必要があるかについて、幅広い合意を見出した。すなわち、指令第一号が権限を与えた軍事委員会は廃止されなければならず、または少なくともその権能が縮小されなければならない、軍事司令官たちは紀律に関する権能を再び取得しなければならない、後方の連隊への秩序を回復するために諸手段が用いられなければならない。
 コルニロフは、後方はもちろんのこと前線での脱走や反抗について有罪である軍隊人員に対して、再び死刑を導入することを要求した。
 しかし、そこに彼はとどまらなかった。
 他の交戦諸国の戦時動員計画について知っており、ロシアについても同様のものを望んだ。
 防衛産業および輸送-戦争努力にとって最も重要な経済部門-を担当する従事者たちが軍事紀律に服すべきことは、コルニロフには不可欠のことだと思えた。
 前任者たちよりも大きな権限を要求した範囲は、1916年12月にドイツの経済に対する事実上の独裁的権力を握った将軍ルーデンドルフと対抗するためだった。すなわち、国家が全面戦争を遂行することができるようにするためだ。
 コルニロフが主任幕僚の将軍A. S. Lukomski と共同で作り上げたこの計画は、彼自身とケレンスキーとの間の対立の主要な源泉になった。この計画は将校団および非社会主義者の意見を反映しており、ケレンスキーはソヴェトの監視のもとで行動しなければならなかったからだ。
 調整できないものがあるために、対立を解消するのは不可能だった。国際社会主義の利益に対して、一方にはロシア国家の利益があった。
 両人をよく知っていたサヴィンコフ(Savinkov)が、つぎのように述べるように。
 コルニロフは「自由を愛した。<中略> しかし、彼にとってロシアが第一で、自由はその次だった。一方、ケレンスキーにとって<中略>、自由と革命が第一で、ロシアはその次だった」。(3)//
 (6)7月19日、コルニロフは司令官を受諾するために用意している条件を、ケレンスキーに対して伝えた。
 1: 良心と国家に対してのみ責任を負う、2: 自分の活動命令と司令官任命のいずれについても何者も干渉しない、3: 政府と議論している紀律確保の手段は、死刑による制裁も含めて、後方の兵団にも適用される。4: 政府は自分の従前の提案を受け入れる。(4)
 ケレンスキーはこれらの要求に対して激しく怒り、コルニロフに対する提示を撤回することを考えたほどだった。しかし、翻って考え直したうえで、これを将軍の政治的な「無邪気さ(naïveté)」を表現したものだとして取り扱うことに決めた。(5)
 実際のところ、軍隊がなければ彼は無力であるため、ケレンスキーはコルニロフの助力に大きく依存していた。
 確かに、コルニロフの四条件のうち第一のものは、ほとんど無作法だった。しかしながら、将軍の望みはソヴェトによる介入を除去することにある、と説明することはできる。ソヴェトは、指令第一号で、軍事命令を取り消す権限を要求していたのだ。
 最高司令部にいるケレンスキーの副官でエスエル〔社会革命党〕のM. Filonenko がコルニロフに、「責任」とは臨時政府に対するものを意味させていないとすれば、この要求は「きわめて深刻な懸念」を呼び起こすだろう、と語った。これに対してコルニロフは、そのことはまさしく考えていることだ、と答えた。(6)
 そして、のちに見られるようにコルニロフがケレンスキーと最終的に決裂するまでは、彼の「不服従」はソヴェトに対して向けられていたのであり、臨時政府に対してではなかった。//
 (7)コルニロフが軍隊の司令権を掌握したいと考える条件は、おそらくはコルニロフの公的関連将校のV. S. Zavoiko によって、プレスへと漏らされた。
 各条件が<Russkoe slovo>7月21号で公にされた結果、大騒動が発生した。コルニロフは非社会主義の集団ではすぐに人気を獲得し、一方でそれに対応するだけの敵愾心を左翼に生じさせた。(7)
 (8)首相と将軍の間の交渉は、ゆっくりと二週間つづいた。
 コルニロフは、自分が提示した条件は充たされるだろうとの保障を得て、ようやく7月24日に新しい任務を引き受けた。
 (9)しかしながら、実際には、ケレンスキーは約束を守ることができなかつたし、その意思もなかった。
 彼は自由な人物ではなくイスパルコム(Ispolkom〔ソヴェト執行委員会〕)の意思の執行者だというのが、できない理由だった。イスパルコムはとくに後方での軍事紀律を回復しようとする全ての手段を「反革命的」だと考えており、それらを拒否していた。
 したがって、ケレンスキーが改革を実行するためには、彼の主要な政治的支持者である社会主義者たちと分裂することを強いられただろう。
 そして彼は、コルニロフは将来の危険な対抗者であることをすぐに理解するに至っただろうから、約束を断固として守ろうとはしなかっただろう。
 歴史研究者が歴史上の個人の心の裡を見通そうとするのは、つねに危険なことだ。しかし、7月と8月のケレンスキーの行動を観察すれば、彼は慎重に、自分の軍事官僚たちの不同意を惹起させ、妥協する機会をもつことを断固として拒否した、という結論以外のものを見出すのは困難だ。
 なぜなら、ケレンスキーは、ロシアの指導者かつ革命の擁護者としての自分の地位を脅かすいかなる者をも、打倒しようと考えていたからだ。(*)//
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 (*)これは、将軍Martynov の見解でもある。彼は、こうした事態をすぐ傍らで観察していて、文書上の証拠を研究した。すなわち、同<コルニロフ>, p.100。N. N. Golovin<<略>>(Tallin, 1937), p.37.参照。
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 (2) A・ケレンスキー <ボルシェヴィズムへの序曲>(New York, 1919),xiii. D. A. Chugaev, ed, <<略>>(Moscow, 1959),p.429.
 (3) Zinaida Gippius, Sinoaia kniga (Belgrade, 1929), p.152.
 (4) E. I. Martynov <コルニロフ>(Leningrad, 1927), p.33-34.
 (5) A・ケレンスキー・Delo Kolnilova (Ekaterinoslav, 1918), p.20-21.
 (6) Martynov <コルニロフ>p.36.
 (7) 同上、p.34.
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 ②へとつづく。 

1818/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑪。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017).  試訳/第11回。
 第3章・内戦。
 例外的にコメントを付す。すでにS・フィツパトリクは「十月革命」の勝利者は①ソヴェトか②ボルシェヴィキかという問題設定をしていたが、以下の第4節の中で革命後の権力の所在につき、①政府(人民委員会議)、②ソヴェト中央執行委員会、③ボルシェヴィキ党〔1818年3月以降は公式には共産党〕中央委員会(・政治局)の三つを挙げたうえで論述している。この辺りは、とくに①と②の関係は微妙なようで、すでに読んでいる(試訳を掲載していないかも知れない)R・パイプスの理解または「解釈」と、S・フィツパトリクのそれは完全に同一ではないようだ。
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 第3章・内戦/第3節・新世界の見通し(Visions of the new world)。
 内戦期のボルシェヴィキの多くの思考の中には、きわめて非現実的で夢想家的な傾向があった。(19)
 疑いなく、勝利した革命家にはこの特質がある。すなわち、革命家はつねに狂熱的で非理性的な希望によって駆動しなければならない。そうでなければ、革命のための危険と損失がありうる利益を上回るなどという常識的な判断をするはずはないだろう。
 ボルシェヴィキは、自分たちの社会主義は科学的であるがゆえに空想主義(夢想、utopianism)から免れていると考えていた。
 しかし、マルクス主義の本来的に科学的な性格に関して彼らが正しかった(right)かはともかくとしても、科学ですら、主観的な判断をして自分の感性とする人間の解釈を必要とする。
 ボルシェヴィキは革命的狂熱者であって、図書館の司書ではなかった。//
 ボルシェヴィキがマルクス主義の社会科学理論を支えとして引用したとしても、1917年のロシアにプロレタリア革命の準備があったというのは、主観的な判断だ。
 世界革命が切迫しているというのは、科学的な予言ではなく、一種の信仰だ(マルクス主義の観点からは結局、ボルシェヴィキは誤謬を冒し、権力を奪取するのが早すぎた、のかもしれなかった)。
 戦時共産主義というのちの経済政策の基礎にある、ロシアは共産主義への明確な移行の寸前にあるという信念には、マルクス主義理論上はいかなる正当化根拠もほとんどない。
 現実の世界についてのボルシェヴィキの感覚は、1920年までに多くの点で、ほとんど滑稽なほどに倒錯したものになった。
 ボルシェヴィキは、赤軍をワルシャワへと前進させた。多くのボルシェヴィキには、ポーランド人がその兵団をロシアの侵略者ではなくてプロレタリアの兄弟だと是認することが明らかであるように思えたからだ。
 母国ロシアは、共産主義のもとでの貨幣の衰退による激しいインフレと通貨下落で混乱していた。
 内戦中に戦争と飢饉によって家なき子どもたちの群れが生じたとき、ある範囲のボルシェヴィキたちは、これをすら、姿を変えた天恵だと見なした。国家が子どもたちに真の(true)集団主義的なしつけをし(孤児院で)、子どもたちは古い家族からのブルジョア的影響にさらされることがないだろう、と考えたからだ。//
 同じ精神は、国家と行政の任務に関するボルシェヴィキの初期の考え方の中にも認めることができた。
 ここでの夢想家的文章は、共産主義のもとでは国家は衰亡するだろうというマルクスとエンゲルスの言明だった。また、レーニンの<国家と革命>にある文章だった。後者でレーニンは、国家行政は最終的には全日を働く職業人の仕事ではなくなり、公民層全体の持ち回りの義務になるだろう、と述べていた。
 しかしながら、実際には、レーニンはつねに、統治に関する堅固な現実主義者であり続けた。すなわち、1917-1920年の行政機構の崩壊を見て、ロシアが共産主義に接近するほどに国家が衰亡していると結論づけるような、ふつうのボルシェヴィキではなかった。//
 しかし、<共産主義のイロハ>の執筆者であるボルシェヴィキのBukharin と Preobrazensky は、はるかに興奮していた。
 この二人は、没個性的で科学的に整序された世界を展望(vision)していた。その世界とは、当時のロシア人作家の Evgenii Zamyatin が<我々(We)>(1920年の著)で風刺し、のちに、George Orwell が<一九八四年>で描写したようなものだった。
 その世界は、過去、現在あるいは未来の全ての現実にあるロシアの正反対物(antithesis)だった。そして、内戦という混沌の中で、とくに魅力的なものになるはずのものだった。
 国家が衰亡した後で中央志向での計画経済をいかに作動させることが可能であるかを説明して、Bukharin と Preobrazensky はつぎのように書いた。
 『主要な指揮は、多様な簿記係または統計部に任されるだろう。
 日常的に、それらのもとで、生産とそれへの全需要に関する資料が保管されるだろう。
 また、それらによって、労働者を派遣しなければならない場所や派遣元、そしていかなる程度の労働が必要であるかが決定されなければならない。
 そして、幼年時代以降に全員が社会的労働に習熟しているかぎり、また、つぎのように理解するがゆえに、全員が統計部の指示に完全に従って働くだろう。その労働が必要であることや予め編成された計画に従って全てがなされる場合に生活は容易に過ごせるということ、そして社会秩序はよく整えられた機械のようなものだということ、を理解するだろうがゆえに。
 警察または監獄、法令について-何についても-、特別の国家の大臣は必要ないだろう。
 管弦楽団で演奏者全員が指揮者の棒を見て、それに従って演奏するのと全く同じように、全ての者が統計報告書に情報を求め、それに従って彼らの仕事をするだろう。』(20)
 これは、Orwell の<一九八四年>のおかげで、我々には不吉な響きをもつかもしれない。しかし、当時の観点からすると、大胆で革命的な思考であって、未来主義芸術のようにきわめて現代的だつた(そして世俗的現実からは離れていた)。
 内戦期は知的および文化的な実験が盛んな時代だった。そして、若い急進的知識人たちの中では、過去に対する因襲破壊的態度がお決まりのこと(de rigueur)だった。
 未来社会の「よく整えられた機械」を含む機械は、芸術家と知識人たちを魅惑した。
 感性、精神性、人間劇および個人の心理への過大な関心は流行ではなくなり、しばしば「小ブルジョア的」だと非難された。
 詩人 Vladimir Mayakovsky や劇場支配人 Vsevolod Meyerhold のような前衛芸術家は、革命的芸術と革命的政治とは、古いブルジョア社会に対する同じ抗議の一面だと考えた。
 彼らは十月革命を受容し、新しいソヴェト政府のための尽力を提供した知識人層の最初の者たちの中にいた。彼らは、キュービストや未来主義様式の宣伝ポスターを作り、以前の宮殿の壁に革命的スローガンを描き、街頭で革命的勝利を大衆的に再現する上演を行い、政治的に重要なメッセージに加えて曲芸を在来の劇場に持ち込み、そして過去の英雄たちの非具象的な像をデザインした。
 かりに前衛芸術家たちが自由に振る舞えば、伝統的なブルジョア芸術は、ブルジョア諸政党よりもはるかに急速に、消失していただろう。
 しかしながら、ボルシェヴィキ指導者たちは、芸術上の未来主義とボルシェヴィズムが分かち難い同盟関係にあるとは、全く考えていなかった。そして、古典的芸術文化について、より慎重な立場をとった。//
 革命による自由化という精神は、女性と家族に関するかぎりは、ボルシェヴィキによって(または少なくともボルシェヴィキの知識人によって)全面的に受け入れられた。
 ボルシェヴィキは、ロシアの1860年代以降の急進的知識人層のたいていの者がそうだったように、女性の解放を支援した。
 F・エンゲルスは、近代家族では夫は「ブルジョアジー」で妻は「プロレタリア」だと書いていた。ボルシェヴィキは彼のように、女性を被搾取集団だと見なした。
 内戦の終わりまでに、離婚を容易にする法令が制定された。それはまた、非合法という汚名を取り除いて妊娠中絶を許し、女性の対等な権利と対等な支払いを要求した。//
 最も急進的なボルシェヴィキ思考家だけが家族の解体について語った一方で、女性と子どもたちが家族内での抑圧の潜在的な被害者で、家族はブルジョア的価値を教え込みがちだと、一般的に想定されていた。
 ボルシェヴィキ党は特別に女性部を設置した(zhenotdely)。女性を組織して教育し、利益を保護し、そして自立した役割を果たすのを助けるためだった。
 若い共産党員たちは、自分たちの独立した組織をもった-青年および若年成人のためのコムソモル(Komsomol)と(数年後に設置された)10歳から14歳までの集団のための少年ピオネール(Young Pioneers)。これらは、その構成員に家庭や学校でのブルジョア的傾向に注意を払うよう指導した。また、古き日々を郷愁をもって振り返ったり、ボルシェヴィキと革命とを嫌ったり、あるいは「宗教的迷信」にすがりつく両親や教師たちを再教育するように努めるよう指導した。
 内戦中に報告されたスローガン、「親の資本主義的専制よ、くたばれ!」は古いボルシェヴィキには少しばかりは元気すぎるものだったとしても、若者の反骨精神は、初期の党では一般的に称賛され、配慮された。//
 しかしながら、性の自由化は、ボルシェヴィキ指導部を悩ませた若い共産党員の主張だった。
 妊娠中絶や離婚に関する党の立場からして、ボルシェヴィキは無分別のセックスを意味する「自由恋愛」を擁護していると広く受け止められた。
 レーニンは確実に、そうではなかった。すなわち、彼の世代はブルジョアジーのペリシテ人的道徳に反対したが、両性間の同志的関係を強調し、乱交は軽薄な性質を示すものだと考えた。 
 性の問題に関して最も多くを執筆し、いくぶんかはフェミニストである Aleksandra Kollontai (コロンタイ)ですら、しばしば彼女に原因があるとされたセックスの「一杯の水」理論ではなくて、愛を信じる者だった。//
 しかし、一杯の水という考え方は、若い共産党員の間では人気があった。とくに、赤軍で共産主義イデオロギーを学び、気まぐれなセックスをほとんど路上での共産主義者の儀式のように見なした、男たちにとっては。
 このような態度は、他のヨーロッパ諸国よりもロシアでより顕著ですらあった、戦時中および戦後における道徳の、一般的な弛緩を反映していた。
 年配の共産党員は、これを我慢しなければならなかった-彼らは性は私的事項だと考えたが、結局は革命家であってブルジョア的ペリシテ人ではなかった-。キユービスト、エスペラントの主張者、裸体主義者(nudist)を、彼らが我慢しなければならなかったように。裸体主義者は、イデオロギー上の確信的行為として、ときにはモスクワの混み合う路面電車の中へと裸で飛び込んだ。
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 (19) Richard Stites, <革命の夢-ロシア革命における夢想家的見通しと実験的生活>(Urbana, IL, 1971), p.32-35 を見よ。
 (20) Bukharin & Preobrazensky, <共産主義のイロハ>, p.118.
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 第4節・権力にあるボルシェヴィキ(The Bolsheviks in power)。
 権力を奪取して、ボルシェヴィキは統治することを学ばなければならなかった。
 ほとんど誰にも、行政の経験がなかった。すなわち、従前の職業でいうと、ほとんどが職業的革命家、労働者またはフリーランスの報道者だった(レーニンは自分の職業について「文筆家」(literator)と載せた)。
 ボルシェヴィキは官僚層を軽侮しており、官僚たちがどう仕事をしているかについてほとんど知らなかった。
 予算についても、何も知らなかった。啓蒙人民委員部の長だったAnatolii Lunacharsky が、彼には最初の財務官についてこう書いたように。
『彼が銀行から我々に金を運んできたとき、彼の顔は大きな驚きの色をつねに見せていた。
 彼にはまだ、革命と新しい権力組織は一種の魔術のように、また、魔術では現金を受け取るのは不可能であるように、思えていた。』(21)
 内戦の間、たいていのボルシェヴィキの組織上の能力は、赤軍、食糧人民部およびチェカへと注ぎ込まれた。
 地方の党委員会やソヴェトからの能力ある組織者は、絶えず、赤軍へと送り込まれるか、または面倒な問題の解決のためにどこかへと派遣された。
 かつての中央政府の各省(このときは人民委員部)は、主として知識人で成るボルシェヴィキ小集団によって動いた。そして、相当に広い範囲で、かつては帝制政府や臨時政府のために働いた役人たちが補佐していた。
 中央の権威は、混乱するほどに、政府(人民委員会議)、ソヴェト中央執行委員会およびボルシェヴィキ党中央委員会に分けられていた。この党中央委員会には事務局(Secretariat)と、組織と政治に関する部局である、組織局(Orgburo)と政治局(Politburo)があった。//
 ボルシェヴィキはその支配を「プロレタリア-ト独裁」と称した。これは、活動上の観点からは、かなり多く、ボルシェヴィキ党の独裁と一致していた。
 他の諸政党の存在余地がほとんど残されないことは、最初から明瞭だった。すなわち、諸政党は白軍を支持したりまたは(左翼エスエルの場合のように)反乱を起こしても非合法化されることはなかったけれども、内戦中は嫌がらせを受け、逮捕によって脅迫され、1920年代には自己消滅を強いられた。
 しかし、統治の形態の観点からして独裁が何を意味するかは、相当に明瞭でなかった。
 ボルシェヴィキは元々は、自分たちの党組織が政府の装置となる潜在性があるとは考えていなかった。
 党組織は政府とは別にあり、行政活動から離れたままだろう、と想定していたように見える。複数政党制のもとでボルシェヴィキが政権党になった場合にそうだっただろうと全く同じように。//
 ボルシェヴィキはまた、その支配を「ソヴェト権力」と称した。
 しかし、これは決して正確な叙述ではなかった。第一に、十月革命は本質的に党のクーであって、ソヴェトのクーではない。第二に、(ボルシェヴィキ中央委員会が選出した)新しい政府はソヴェトとは関係がない。
 新政府は、さまざまの省庁官僚機構を臨時政府から引き継いだ。その官僚機構はまた、ツァーリの閣僚会議から継承されたものだった。
 しかし、旧行政機構が完全に崩壊していた地方レベルでは、ソヴェトが一定の役割を獲得した。
 ソヴェト(あるいは正確にはその執行委員会)は、中央政府の地方機関となった。そして、財務、教育、農業等々に関する自分たちの官僚部局を設立した。
 この行政機能は、ソヴェトの選挙が形式にすぎなくなってしまった後ですら、ソヴェトの利点となった。//
 中央政府(人民委員会議)は、最初は、新しい権力システムの結節部(hub)であるように見えた。
 しかし、内戦の終わり頃までに、ボルシェヴィキ党中央委員会と政治局がその政府の権力を奪い取りつつある兆しがあった。一方で地方レベルでは、党委員会がソヴェトを支配しつつある兆しも。
 国家機関に対する党の優越は、ソヴェト体制の永続的な特質になることとなった。
 しかしながら、レーニン(1921年に重病になり、1924年に死亡)は病気で舞台から退場しなかったならばいかなるこのような傾向にも反対しただろう、そして党ではなく政府が主要な役割を果たすべきだと考えていたのだ、と議論されてきた。(22)
 確かに革命家であり革命的な党の創設者にしては、レーニンには組織に関して奇妙に保守的な傾向があった。
 彼は、即席の幹部会のようなものではなく、真の(real)政府が欲しかった。真の軍隊、真の法制、さらにおそらく、最終的に分析すれば、真のロシア帝国を欲したのと全く同じように。
 しかしながら、この政府の構成員はつねに事実上はボルシェヴィキの中央委員会と政治局によって選ばれた、ということを想起しなければならない。
 レーニンは政府の長だったが、また同時に事実上は中央委員会と政治局の長だった。
 そして、内戦期の重要な軍事政策および外交政策に対処したのは、政府ではなくこれらの党機関だった。
 レーニンの観点からは、このシステムの政府側の大きな利点はおそらく、官僚機構が多数数の技術的専門家(財務、工学、法制、公共の健康等々)をがもっていたということだった。彼らの技術を利用するのがきわめて重要だと考えていたのだ。
 ボルシェヴィキ党はそれ自体の官僚機構を発展させたが、党員ではない外部者を採用することはなかった。
 党には、とくに労働者階級の党員の間には、「ブルジョア専門家」に対する大きな疑念があった。
 このことはすでに、職業的軍人(以前の帝制期の将校たち)を軍が使うことにボルシェヴィキが1918-19年に強く反対したことによって明確に示されていた。//
 ボルシェヴィキによる権力奪取後に出現した政治システムの性格は、組織編成という観点でのみならず、ボルシェヴィキ党の性質という観点からも説明されなければならない。
 ボルシェヴィキは権威主義的性格の党であり、つねに一人の強い指導者をもつ党だつた。-レーニンに対する反対者によれば、独裁的な党ですらあった。
 党の紀律と一体性が、つねに強調されてきた。
 1917年以前は、何らかの重要な論点についてレーニンに同意できないボルシェヴィキたちは、通常は党を去った。
 1917-20年、レーニンは党内部での異論やさらに組織的反対派にすら対処しなければならなかった。しかし、レーニンはこれを不正常で苛立たせる状況だと考えたと見られる。そして、最終的には、これを変える決定的な一歩を進んだ(後述、p.101-3)。
 党外部からの反対または批判については、革命の前も後も、いずれであれ容赦することがなかった。
 レーニンとスターリンの若いときからの仲間であるVyacheslav Molotov(モロトフ)は、のちに敬意をもって、つぎのように論評した。レーニンは1920年代初期に、スターリンすらより強固な心性をもっていた。彼はかりにそれが一つの選択肢だったとしてすら、いかなる反対をも容赦しなかっただろう、と。(23)//
 ボルシェヴィキ党のもう一つの重要な特性は、党は労働者階級だ、ということだった。労働者階級-その自己像において、社会での支持の性質からして、そして党員の大多数という意味で。
 党に関する俗っぽい知識では、労働者階級のボルシェヴィキ党員は「強固」で、知識人層出身の党員は「軟弱」だつた。
 このことにはたぶん、ある程度の真実がある。ともに知識人であるレーニンとトロツキーは、顕著な例外だったけれども。
 党の権威主義的で非リベラルで粗雑な、そして抑圧的な特徴は、1917年と内戦時代に労働者階級と農民の党員が大量に流入したことでさらに強くなったのかもしれない。//
 ボルシェヴィキの政治的思考は、労働者階級を中心に動いた。
 彼らは、社会は対立する階級に分けられ、政治的闘争は社会的闘争の反映であり、都市的労働者階級とその他の以前の被搾取階級の構成員たちは自然な革命的同盟者だ、と考えていた。
 その上さらに、かつての特権的で搾取する階級の構成員たちは当然の敵だと、見なした。(24)
 ボルシェヴィキのプロレタリア-トとの結びつきは彼らの感情形成の重要部分だった一方、彼らの「階級敵」-従前の貴族、資本家の一員、ブルジョアジー、クラク(富農)等-に対する憎悪と疑念は同様に強く、長期的視野で見るとおそらく、より重要だった。
 ボルシェヴィキからすれば、かつての特権階級は、その定義上たんに反革命の者たちというのではない。
 その者たちが存在しているという事実だけで、反革命の陰謀が行われていることになった。
 この国内の陰謀は、理論も内戦時の外国の干渉という現実も示したように国際資本主義勢力が支援しているがゆえに、それだけ一層、脅威だった。//
 ボルシェヴィキの考えによると、ロシアでのプロレタリアの勝利を確実にするためには、階級的搾取の従前の態様を排除するだけではなくて、逆転させることが必要だった。
 この逆転の方法は、「階級的正義」の原理を用いることだった。//
 『かつての法廷では、搾取者という少数者階級が多数者の労働者に対して判決を下した。
 プロレタリア独裁の法廷は、多数者の労働者が搾取少数者階級に対して判決を下す場所だ。
 それは、特別にその目的のために設立される。
 裁判官は、労働者のみによって選抜される。
 裁判官は、労働者の中からのみ選抜される。
 搾取者たちにただ一つ残っている権利は、判決を受けるという権利だ。』(25)//
 こうした原理的考えは、明らかに平等主義的(egalitarian)ではない。
 しかし、ボルシェヴィキは、革命および社会主義への移行の時期に平等主義であるとは一度も主張しなかった。
 ボルシェヴィキの立場からは、ある範囲の者は体制の階級敵であるときに全ての公民が平等(equal)だと考えるのは不可能だった。
 かくして、ロシア共和国の1918年憲法は全ての「勤労者(toilers)」(性や民族と関係なく)に選挙権を認めたが、搾取階級とその他のソヴェト権力に対する識別可能な敵たちを除外した。-識別可能な敵とは、雇用労働者の雇用主、不労所得または賃料で生活している者たち、クラク、聖職者、かつての警察官および一定範囲の帝制期の憲兵や白軍の将校たちだ。//
 「誰が支配しているのか?」という問題は、抽象的には設定されうる。しかし、これは「どの民衆が仕事を得ているのか?」という具体的意味も持っている。
 政治権力は担い手を変えた。そして、(ボルシェヴィキは一時的な応急措置だと考えたが)古い主任者(bosses)に代わる新しい主任者が見出されなければならなかった。
 ボルシェヴィキの気風からして、不可避的に階級こそが選抜の規準だった。
 ある範囲のボルシェヴィキたちは、レーニンを含めて、教育が階級と同じように重要なだと論じたかもしれなかった。他方で、より少ない範囲の者たちは、工場から長いあいだ離れている労働者たちはそのプロレタリアという自己認識を喪失しているのではないか、と気に懸けた。
 しかし、党全体として堅固な合意があったのは、新しい体制が権力を本当に委ねることのできる唯一の民衆は、古い体制のもとでの搾取の犠牲者であるプロレタリアだ、ということだった。(26)
 内戦が終わるまでに、数千人の労働者、兵士および海兵たちが-ボルシェヴィキ党員と最初には1917年にボルシェヴィキとともに戦った者たちで、のちには赤軍や工場委員会で傑出した者たち、若くて比較的に学歴の高い者たち、および世の中で出世しようという野心を示す者たちが-、「幹部」(cadres)、すなわち、責任ある仕事、通常は行政上のそれ、に就く者たちになっていた。
 (そして、多数の非プロレタリア-トの支持者たちもいた。その中には、革命が帝制による制約からの解放と新しい機会を意味したユダヤ人たちも。(27))
 「幹部」たちは、赤軍司令部、チェカ、食糧行政部および党とソヴェトの官僚機構にいた。
 多くの者は、通常は地方の工場委員会または労働組合で働いたあとで、工場の管理者に任命された。
 1920-21年には、この「労働者の昇進」過程が大規模に続くのか否か、あるいはどの程度に続くのかは、党指導者たちに完全に明瞭ではなかった。党の元々の貯蔵層である労働者党員が相当に消耗し、内戦中の工業の崩壊と都市での食糧不足によって、1917年の工業労働者の階級が解体し、麻痺していたからだ。 
 にもかかわらず、ボルシェヴィキは、「プロレタリア-トの独裁」でもって何を意味させたのかを、経験によって見出した。
 それは、工場での仕事にとどまり続けた労働者たちによる、集団的な階級独裁ではなかった。
 「プロレタリア-トの独裁」は、全日勤務する「幹部」または主任たちが作動させる独裁だった。そこでは、新しい主任たちのうち可能な限り多数は、従前のプロレタリアだった。//
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 (21) S・フィツパトリク・<啓蒙人民委員部>(London, 1970), p. 20.から引用した。
 (22) T. H. Rigby, <レーニンの政府-ソヴナルコム・1917-1922年>(Cambridge, 1979)。
 最近の、権力にあるレーニンに関する資料を基礎にした説明として、Robert Sercive, <レーニン-伝記>(London, 2000), Chs. 15-25. を見よ。
 (23) <Sto sorok besed s Molotovym . Iz dnevnikov F. I. Chueva>(Moscow, 1991), p. 184. これは、私の訳だ。
 <モロトフは回想する>の英語版、Albert Resis 訳(Chicago, 1993), p. 107 は不正確だ。
 (24) 個人の階級帰属意識は自明のことだというボルシェヴィキの想定は、すぐに誤っていると分かった。しかし、ボルシェヴィキは10-15年にわたって、実際上かつ観念上の困難さを無視して、社会階層によって民衆を区分する努力をし続けた。
 困難さにつき、S・フィツパトリク・<仮面を剥ぎ取れ!>(Princeton, 2005), Chs. 2-4. および(ドン地方での「階級敵」としてのコサックにつき)Holquist, <戦争を起こす>, とくにp.150-p.197. を見よ。
 (25) Bukharin & Preobrazhensky, <共産主義のイロハ>, p.272.
 (26) S・フィツパトリク・<ソヴィエト同盟における教育と流動性・1921-1934年>(Cambridge, 1979), Ch. 1.を見よ。
 (27) ユダヤと革命につき、Yuri Slezkine, <ユダヤ人の世紀>(Princeton, NJ, 2004), とくにp.173-p.180 とp.220-226 を見よ。
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 第3章の第3節・第4節まで終わり。

1809/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑧。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017). 試訳第8回。
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 第4節・夏の政治危機
 6月半ば、今は臨時政府の戦時大臣であるケレンスキーはロシア軍に、ガリシアの前線での大規模な攻撃を命じた。
 それは二月革命以降の最初の、重大な軍事行動だった。ドイツ軍は自分たちがさらに東部へと侵入することなくしてロシア軍隊が解体していくのを見守っているので満足しており、ロシア軍の最高司令部は敗北を怖れ、主導性を発揮せよとの連盟諸国からの圧力に早くに抵抗していたときだったから。
 ロシアのガルシア攻撃は6月と7月初頭に行われ、積算で20万人の死傷者を出して失敗した。
 これは、あらゆる意味での厄災だった。
 軍隊の志気はいっそう低下し、ドイツ軍は反抗に成功し始めて、夏から秋の間じゅう続いた。
 土地略奪の報せに反応して農民兵士になっているロシア軍側の脱走兵は、異常な割合にまで達した。
 臨時政府の信用は地に落ち、政府と軍指導者の間の緊張が高まった。
 7月初め、政府の危機が、カデット(リベラル派)の全閣僚が去り、臨時政府の長のルヴォフ公が辞任したことで急に発生した。//
 この危機のさ中、ペテログラードで再び大衆の集団示威行動、街頭での暴力、そして七月事件(the July Days)として知られる民衆騒擾が突如として起こった。(15) //
 同時代の目撃者は50万人にまで達するとする群衆は、クロンシュタットの海兵の派遣団、兵士、ペテログラード工業施設からの労働者を含んでいた。
 臨時政府には、ボルシェヴィキによる蜂起の試みのようだった。
 ペテログラードに到着して騒擾を開始したクロンシュタットの海兵たちは、その指導者の中にボルシェヴィキがおり、「全ての権力をソヴェトへ」というボルシェヴィキのスローガンを記した旗を持った。そして、最初の目的地は、ボルシェヴィキ党の司令部があるクシェシンスカヤ宮(Kseshinskaya -)だつた。
 だが、示威行進者がクシェシンスカヤ宮に着いたとき、レーニンの挨拶は抑制的なもので、ほとんど無愛想だつた。
 レーニンは、臨時政府または現在のソヴェト指導部に対して暴力的活動をするように勇気づけはしなかった。
 そして、群衆はソヴェト〔の所在地〕へと動いて威嚇しつつ、暴力的活動を行わないで周りをうろつき回った。
 混乱し、指導部と特定の計画を持たず、示威行進者たちは市内を歩き回り、酔っ払って略奪し、そして最後に解散した。//
 七月事件は、ある意味では、4月以降のレーニンの揺るぎない立場を証明するものだった。臨時政府と二重権力に反対する民衆の強い感情、連立する社会主義者に耐えられないこと、そしてクロンシュタット海兵その他の一部にある暴力的対立意識およびおそらくは蜂起への熱意を示したものだったからだ。
 しかし、別の意味では、七月事件はボルシェヴィキにとっての災難だった。
 レーニンとボルシェヴィキ中央委員会は明らかに、動揺していた。
 彼らは蜂起について一般的には語り合ったが、それを企画することはなかった。
 海兵たちの革命的雰囲気に反応したクロンシュタットのボルシェヴィキは、実際にはボルシェヴィキ中央委員会が承認していない主導性を発揮した。
 事件全体は、ボルシェヴィキの志気と革命指導者としてのレーニンの信頼性を損なった。//
 指導者たちの躊躇と不確実な対応があったにもかかわらず、ボルシェヴィキは七月事件について臨時政府とソヴェトの穏健な社会主義者たちから非難されたため、損失はそれだけ大きかった。
 臨時政府は、二月革命以来全政党の政治家たちが享有してきた「議員免責特権」を撤回して、厳罰に処することを決定した。
 いく人かの著名なボルシェヴィキが逮捕された。その中には、5月にロシアに帰って以降はレーニンに近い極左の立場を採り、8月に正式にボルシェヴィキ党員になる予定のトロツキーもいた。
 レーニンとボルシェヴィキ指導部の中の彼の緊密な仲間であるジノヴィエフの逮捕状が発せられた。
 さらに、七月事件の間に臨時政府は、ある噂の信憑性を支持する証拠があるという示唆を握った。その噂とは、レーニンはドイツの工作員だというものだった。そして、ボルシェヴィキは、新聞の愛国主義的論調による非難にさらされ、一時的に軍隊や工場での人気を落とした。
 ボルシェヴィキ党中央委員会は(そして疑いなくレーニン自身も)、レーニンの身柄の安全を気遣った。
 レーニンは潜伏し、8月早くに作業員に変装して境界を越え、フィンランドに逃亡した。//
 しかしながら、ボルシェヴィキが困難な状況にあったとすれば、それは七月初めから首相になったケレンスキーが率いる臨時政府についてもそうだった。
 リベラル派と社会主義派の連立は恒常的な混乱に陥り、社会主義者はソヴィエトの支援者たちによって左へと動き、リベラルたちは実業家、土地所有者および軍事司令官たちの圧力をうけて右へと動いた。後者の者たちは、権威の崩壊と民衆騒擾でもってますます警戒心を強めていた。
 ロシアを救うという使命を気高く意識していたにもかかわらず、ケレンスキーは本質的には中庸を行く、政治的妥協への交渉者だった。大しては信頼もされず尊敬もされず、諸大政党のいずれにも政治的基盤がなかった。
 彼が悲しくも、こう愚痴をこぼしたように。
 「私は左翼のボルシェヴィキと右翼のボルシェヴィキの両方と闘っている。
 しかし、民衆はそのどちらかに凭り掛かれと要求する。<中略>
 私は真ん中の途を進みたい。しかし、誰も私を助けてくれようとしない」。(16)//
 臨時政府はますます、いずれかの方向に崩壊しそうに見えた。しかし、問題はどの方向にか?、だった。
 左翼からの脅威は、ペテログラードでの民衆蜂起および/またはボルシェヴィキのクーだった。
 このような挑戦は7月に失敗したが、北西前線でのドイツ軍の活動は、最も不吉な徴候としてペテログラードの周りの軍隊に対してきわめて強い緊張を強いていた。そして、憤慨し、武装した、働き場のない脱走兵たちの大量流入が、間違いなく市自体の中での街頭暴力を生じさせる危険を増大させた。
 臨時政府に対するもう一つの脅威は、法と秩序の独裁制を樹立しようとする右翼からのクーの可能性だった。
 夏までに、この方策は軍隊上層部で論議されており、ある範囲の実業家たちから支持を得ていた。
 徴候としては、このような動きに事前にかつ公共的言明によって明らかに反対しなければならなかっただろうカデットですら、少なからず安堵して既成事実を受け入れるかもしれなかった。//
 8月、ついに将軍コルニロフ(Lavr Kornilov)が右翼からのクーを試みた。ケレンスキーは最近に彼を、ロシア軍の秩序と紀律を回復させるという指示のもとで軍最高司令官に任命していた。
 コルニロフの動機は明らかに、個人的野心にではなく、国家の利益に関する意識にあった。
 実際、強力な政府を確立して騒ぎを起こす左翼に対処するために軍が干渉するのをケレンスキーは歓迎するだろうと、コルニロフは考えていたかもしれなかった。ケレンスキーはある程度はコルニロフの意図を知っていて、奇妙に迂回したやり方で彼を処遇したのだから。
 二人の主要な役者の間にあった誤解は事態を混乱させ、コルニロフが動く直前にドイツ軍がリガ(Riga)を掌握したという予期しなかったことも、狼狽に輪をかけた。そして、疑念と絶望の気分がロシアの民間および軍隊の指導者たちに広がっていた。
 8月の最終週、将軍コルニロフは、当惑しつつも決断して、表向きは首都の不安を鎮静化して共和国を救うために、兵団を前線からペテログラードへと派遣した。//
 クーの企図が挫折した理由の大部分は、兵団に信頼がなかったこととペテログラードの労働者の旺盛な行動だった。
 鉄道労働者たちは兵団列車の方向を変えて、妨害した。
 印刷工たちは、コルニロフの動きを支持する新聞の発行を止めた。
 金属労働者たちは近づく兵団を迎えるために外に飛び出し、ペテログラードは平穏で、兵団は将校たちに欺されているのだと説明した。
 このような圧力をうけて兵団の志気は減退し、大きな軍事的成功は何もないまま、ペテログラードの郊外でクーは終わった。そして、コルニロフの指令で行動していた指揮官の将軍クリモフ(Krymov)は臨時政府に降伏し、自殺した。
 コルニロフ自身は軍司令部に逮捕され、抵抗することなく、全責任を甘受した。//
 ペテログラードでは中央と右翼の政治家たちが、ケレンスキーが引き続き率いる臨時政府への忠誠を再確認した。
 しかし、ケレンスキーの立場はそのコルニロフ事件への対応の仕方のためにさらに傷つき、政府は弱体化した。
 ペテログラード・ソヴェトの執行委員会もまた、信頼を低下させた。コルニロフに対する抵抗は、多くは地方の組合や工場レベルのものにすぎなかったからだ。
 そして、これらによって、ボルシェヴィキへの支持は急上昇し、ボルシェヴィキがソヴェト内のメンシェヴィキ・エスエル指導部をすみやかに解任することが可能になった。
 軍司令部は最大の打撃を受けた。最高司令官の逮捕とクーの失敗によって、志気は喪失し、混乱に陥ったのだ。
 将校たちと兵士たちの間の関係は、明瞭に悪化した。そして、これだけでは不十分であるかのごとく、ペテログラードを明らかに目指して、ドイツ軍が前進し続けていた。
 9月半ば、コルニロフの後継者の将軍アレクセイエフが、コルニロフの高潔な動機を称える気持ちを言明して、突然に辞任した。
 アレクセイエフは、紀律が崩壊してしまい「我々の将校たちは殉教者である」軍隊についての責任をもう負うことはできない、と感じていた。//
 『現実に、この戦慄すべき危険があるときに、私は恐怖に脅えて、我々には軍は存在しない(この言葉の際に将軍の声は震え、彼は数滴の涙を零した)、一方でドイツ軍は、いつでも我々に最後のかつ最大の強力な一撃を放つように準備をしている、と言明する。』(17)//
 左翼が、コルニロフ事件によって最も多くを得た。この事件は右翼による反革命の脅威という以前は抽象的だった観念に実体を与え、労働者階級の強さを証明し、同時に多くの労働者たちに、自分たちの武装した警戒だけが革命をその敵から守ることがでるきと確信させた。
 まだ投獄されているか潜伏中の指導者が多くいるボルシェヴィキは、コルニロフに対する実際の抵抗には特別の役割を何ら果たさなかった。
 しかし、民衆の意見の新しい揺れの方向はボルシェヴィキであり、そのことはすでに8月初めには感知されていたが、コルニロフがクーに失敗した後で急速に明らかになった。
 そして、実際的な意味で言うと、コルニロフの脅威に対する反応として始まった労働者の軍団、あるいは「赤衛隊」(the Red Guards)、の設立により、将来の収穫を刈り取るのはボルシェヴィキであることになった。
 ボルシェヴィキの強さは、ブルジョアジーや二月体制との連携へと妥協しなかった唯一の政党だということだった。そしてこの党は、労働者の権力と武装蜂起という考え方と最も緊密に結びついていた。//
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 (15) 七月事件につき、A. Rabinowitch, <革命への序曲-ペテログラード・ボルシェヴィキと1917年7月蜂起>(Bloomington, IN, 1968)を見よ。
 (16) A. Rabinowitch, <ボルシェヴィキが権力に至る>(New York, 1976).p.115. から引用した。
 (17) 将軍アレクセイエフへの新聞インタビュー(Rech', 1917年9月13日付、p.3)、Robert Paul Browder & Alexander Kerensky 編, <1917年のロシア臨時政府: 資料文書>Stanford, 1961), ⅲ, p.1622に収載。
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 第5節・十月革命。
 4月から8月まで、ボルシェヴィキのスローガン「全ての権力をソヴェトへ」は本質的には挑発的なものだった。-ソヴェトを支配した穏健派に向けられた皮肉であって、全ての権力を奪うつもりはなかった。
 しかし、穏健派に支配権がなくなったコルニロフ事件の後では、状況は変わった。
 8月31日、ボルシェヴィキはペテログラード・ソヴェトの多数派を握った。9月5日、モスクワ・ソヴェトでもそうなった。
 かりに10月に予定されていた全国ソヴェト第二回大会で首都でと同じ政治的趨勢が続いていたとすれば、いったい何が意味されただろうか?
 ボルシェヴィキは、臨時政府はもはや支配する権能を持たないとするその大会の決定にもとづいて、法に準じた(quasi-legal)ソヴェトへの権力の移行を望んだだろうか?
 それとも、そのかつてのスローガンは、実際に暴力的蜂起への呼びかけだったのか、あるいはボルシェヴィキは(他とは違って)権力を奪取する勇気があることの宣言だったのか?//
 9月、レーニンはフィンランドの潜伏場所からボルシェヴィキ党に対して、武装蜂起の準備をするように迫る手紙を書き送った。
 革命のときは来た、遅くなる前に、奪取しなければならない、と彼は述べた。
 遅れるのは、致命的だろう。
 ボルシェヴィキは、ソヴェトの第二回〔全国〕大会の会合の<前に>行動を起こして、大会がするかもしれないいかなる決定をも阻止しなければならない、と。//
 レーニンによる即時の武装蜂起の主張は情熱的なものだったが、指導部にいる仲間たちの確信を完全には抱かせはしなかった。
 潮目が明らかに我々に向かっているときに、なぜボルシェヴィキは絶望的な賭けを冒す必要があるのか?
 さらに言えば、レーニン自身が帰ってきておらず、責任を取れなかった。レーニンが本当に真剣であるならば、確実に彼はこれをしたのか?
 夏にレーニン向けられた責任追及によって、疑いなくレーニンは過分に疲れていた。
 可能性としては、彼は七月事件の間の彼と中央委員会の躊躇について思い悩み、権力を奪取する希有の機会を失ったと考えていた。
 いずれにせよ、全ての大指導者たちと同じく、レーニンは気まぐれだった。
 この雰囲気は、過ぎ去るかもしれなかった。//
 この時点でのレーニンの行動は、確かに矛盾していた。
 一方では、ボルシェヴィキによる蜂起を強く主張した。
 他方では、臨時政府が7月に収監されていた左翼政治家を釈放し、今やボルシェヴィキはソヴェトを支配していて、レーニンに対する切迫した危険があった時期は確実に過ぎていたにもかかわらず、彼は数週間もフィンランドにとどまった。
 彼がペテログラードに戻ったとき、おそらくは10月の第一週の末、ボルシェヴィキすらから離れて潜伏し、怒りと激励の一連の手紙によってのみ党中央委員会に連絡通信をした。//
 10月10日、ボルシェヴィキ中央委員会は、蜂起は好ましいということに同意した。
 しかし、ボルシェヴィキたちの明らかに多くは、ソヴェトの自分たちの立場を使って法に準じた、非暴力的に権力を移行させることに傾斜していた。
 あるペテログラード・ボルシェヴィキ委員会の一員の、のちの回想録はつぎのように語る。//
 『ほとんど誰も、ある特定の時期での、統治の全装置を武装奪取することの始まりだとは考えていなかった。<中略>
 我々は、蜂起とはペテログラード・ソヴェトによる権力の掌握のことだと単直に考えていた。
 ソヴェトは、臨時政府の命令に従うことをやめ、ソヴェト自体に権力があると宣言し、これを妨害しようとする者は誰でも排除するだろう、と。』(18)
 監獄から最近に解放されてボルシェヴィキ党に加入していたトロツキーは、今やペテログラード・ソヴェト多数派の指導者の一人だった。
 トロツキーはまた、1905年のソヴェト指導者の一人でもあった。
 公然とはレーニンに反対しなかったけれども(のちには二人の見解は一致していたと主張した)、彼も蜂起を疑問視し、ソヴェトが臨時政府を除去する課題に対処することができるし、そうすべきだ、と考えたというのは、ありうるように思われる。(19)
 ボルシェヴィキが行う蜂起に対する強い反対が、レーニンの古くからのボルシェヴィキの同僚だった二人、ジノヴィエフ(Grigorii Zinoviev)とカーメネフ(Lev Kamenev)から挙がった。
 彼らはボルシェヴィキがクーによって権力を奪取するのは無責任であり、その権力を単独で保持できるとするのは非現実的だ、と考えた。
 ジノヴィエフとカーメネフがこうした主張を自分たちの名前を出して非ボルシェヴィキの日刊新聞紙(マクシム・ゴールキの<Novaya zhizn>)に公表したとき、レーニンの怒りと憤激は新しい次元へと高まった。
 これは理解できるものだった。二人の行為は果敢な抵抗だったのみならず、ボルシェヴィキは秘密裡に蜂起を計画しているということを公的に発表するものだったからだ。//
 このような状勢からすると、ボルシェヴィキの十月クーが巧くいったのは驚くべきことのように見える可能性がある。
 しかし、実際には、積極的な公表があったことは、レーニンの基本的考えを妨げたのではなく、むしろ助長した。
 そのことは、ボルシェヴィキたちが事前に逮捕されたり、ペテログラード地域の労働者、兵士・海兵がいかなる革命的行動をも非難するという強い徴候を知らされないかぎり、ボルシェヴィキが行動<しない>のは困難な立場へと、ボルシェヴィキを追い込んだ。
 しかし、ケレンスキーは、ボルシェヴィキに対する果敢な反抗措置を取らなかった。そして、ペテログラード・ソヴェトの革命軍事委員会(Military-Revolutionary Committee)をボルシェヴィキが支配していることは、クーを組織するのを比較的に容易にした。
 革命軍事委員会の基本的な目的は、コルニロフのような反革命に対する労働者の抵抗を組織することだった。そして、ケレンスキーは明らかに、そのことに干渉する立場にはいなかった。
 戦争の情勢もまた、重要な要因だった。すなわち、ドイツ軍は前進しており、ペテログラードは脅かされていた。
 労働者たちはすでに、大工業施設を引き渡して市から避難するようにとの臨時政府の命令を拒否していた。彼らは革命に対する政府の意向を信用しておらず、そのゆえにまた、政府のドイツ軍と戦う意思をも信用していなかった。
 (逆説的にだが、ボルシェヴィキの「平和」スローガンに労働者が賛同していたので、労働者たちもボルシェヴィキも、ドイツの脅威が切迫しかつ現実的になったときに戦闘的に反応した。かつての平和スローガンは、リガの陥落後の1917年の秋と冬にはほとんど聞かれなくなっいた)。
 ドイツ軍が接近してきたときにケレンスキーが労働者を武装解除していたならば、彼はおそらく、裏切り者で降伏主義者だとしてリンチを受けて殺されていただろう。//
 10月24日、第二回ソヴェト大会の会合の直前に、ソヴェトの軍事革命委員会の実力部隊が枢要な政府組織を占拠し始めて、蜂起が始まった。彼らは、電信施設と鉄道駅舎を奪い取り、市の橋梁で路上封鎖を開始し、臨時政府が会合をしている冬宮を取り囲んだ。//
 彼らは、ほとんど実力による抵抗に遭遇しなかった。
 街頭は平穏なままであり、市民は日常の仕事をし続けた。
 10月24-25日の夜、レーニンは潜伏場所から現れて、スモルニュイ(Smolny)研究所で同志たちに合流した。スモルニュイは、かつては若い女性たちの学校で、今はソヴェトの最高司令部があった。
 彼もまた静穏で、神経質な不安の状態から回復しているように見えた。そして、当然のこととして、かつての指導者としての地位を取り戻した。//
 10月25日の午後までに、クーはほとんど成功した。-刺激的なことに、中にいる臨時政府の構成員たちをまだ取り囲んでいる冬宮の制圧を除いては。
 その日の夕方遅く、冬宮は陥落した。徐々に減っていく防衛者の一団に対する、いくぶんは混乱した攻撃によって。
 これは、のちのソヴィエトの資料が示唆するよりも英雄的でない事態だった。ネヴァ川の冬宮の反対側に停泊していた戦艦<オーロラ>は、一発の実弾も撃たなかった。そして占拠した部隊はケレンスキーを脇の出入口から抜け出させ、車でうまく市から逃亡させた。
 政治ドラマの観点からすると、これもいくぶん不満足なものだった。ソヴェト大会-ボルシェヴィキの強い主張にもとづいて数時間も最初の会議を延期していた-は、冬宮の陥落の前についに手続を開始した。こうして、劇的な開会の宣言をしようとのボルシェヴィキの意向は打ち砕かれることとなった。
 だがなお、基本的な事実は残ったままだ。すなわち、二月体制は打倒され、権力は十月の勝利者の手に移った。//
 もちろん、このことも、一つの問題を未解明のまま残した。
 いったい誰が、十月の勝利者<だった>のか?
 ソヴェト大会よりも前の蜂起をボルシェヴィキに迫ることで、レーニンは明らかに、この資格がボルシェヴィキに与えられることを望んでいた。
 しかし、ボルシェヴィキは実際には、ペテログラード・ソヴェトの軍事革命委員会を通じて蜂起を組織した。
 そして、偶々なのか企図してか、軍事革命委員会はソヴェト全国大会の会合の直前まで、遅らせた。
 (トロツキーはのちに、これはボルシェヴィキの権力奪取を合法化するためにソヴェトを用いるという輝かしい-明らかにレーニンのそれではないので推測するに彼自身の-戦術だったと描写した。(20))
 報せが地域の外に伝わったとき、最も共通した見方は、ソヴェトが権力を奪取した、というものだった。//
 この問題は、10月25日にペテログラードで開かれたソヴェト大会で十分には明らかにされなかった。
 分かったとき、大会代議員の明確な多数派は、全ての権力のソヴェトへの移行を支持するよう委任(mandat)を受けて出席していた。 
 しかし、これはもっぱらボルシェヴィキ派だったのではなかった(670人の代議員のうち300人がボルシェヴィキで、最大の位置を占めていたが、多数派ではなかった)。そして、そのような委任は、必ずしもボルシェヴィキによる先立つ行動を是認することを意味しはしなかった。
 そのボルシェビキの行動は最初の会合で、メンシェヴィキとエスエルの大集団によって厳しく批判された。この両派は、そのあと、抗議するために大会に出席しなくなった。
 レーニンの古い友人であるマルトフが率いるメンシェヴィキの宥和的姿勢については疑問が出されている。しかし、トロツキーはこのような批判を、思い出しての文章の中で、「歴史のごみ函」に送ってしまった。//
 ソヴェト大会では、ボルシェヴィキは全国すべてについての権力の労働者、兵士、農民のソヴェトへの移行を呼びかけた。
 中央権力に関するかぎりで、論理的に意味するところは、確かに古い臨時政府の場所がソヴェトの常勤の中央執行委員会に奪われるだろう、ということだった。このソヴェト中央執行委員会はソヴェト大会によって選出され、多数の政党の代表者を含むものだった。
 しかし実際は、こうではなかった。
 多くの代議員が驚いたのだが、中央政府の機能は新しい人民委員会議(Council of People's Commissars)が獲得する、と発表された。ソヴェト大会のボルシェヴィキ派全員は、10月26日の大会でボルシェヴィキ党の報道員が読み上げたことによって知った。
 新政府の長はレーニンで、トロツキーは外務人民委員(大臣)だった。//
 ある歴史研究者たちは、ボルシェヴィキの一党支配は意図してではなく歴史的偶然の結果として出現した、と主張してきた。(21)-すなわち、ボルシェヴィキは自分たちだけで権力を奪うつもりはなかった、と。
 しかし、問題にしている意図がレーニンのものだとすれば、この論拠は怪しいように見える。
 そしてまた、レーニンは、党の他の指導者の反対を無視したのだ。
 9月と10月、レーニンは明らかに、複数政党のソヴェトではなくてボルシェヴィキが権力を奪うことを望んでいたと思われる。
 彼は、ソヴェトをカモフラージュとして用いることすら望まず、明確なボルシェヴィキのクーを演じることを選好していただろう。
 確かに、地方では十月革命の直接の結果はソヴェトが権力を掌握した、ということだった。そして、地方のソヴェトはつねにボルシェヴィキが支配していたわけではなかった。
 ボルシェヴィキの十月後のソヴェトに対する態度については異なる諸解釈に開かれているけれども、原理的には、ソヴェトがボルシェヴィキを信頼しているかぎりで地方レベルでソヴェトが権力を行使するのに反対しなかった、と言うのがおそらく公平だろう。
 しかし、この要件を他の政党と競い合う民主主義的選挙と一致させるのは困難だつた。//
 確かにレーニンは新しい中央政府、人民委員会議での連立問題については、全く頑固だった。
 1917年11月、全員がボルシェヴィキの政府からより広い社会主義者の連立へと移行する可能性についてボルシェヴィキ党中央委員会が討議したとき、レーニンは断固としてそれに反対した。異論を受けて若干のボルシェヴィキですら、政府から離れたのだったけれども。
 のちに数人の「左翼エスエル」〔左翼社会革命党、社会革命党左派〕(十月クーを受容したエスエル党の分裂集団の一員たち)が、人民委員会議に加わった。しかし、彼らは、強い党基盤をもたない政治家だった。
 彼らは1918年半ばに政府から除外された。そのとき左翼エスエルは、その最近にドイツと調印された講和条約に反対する暴動を起こしていた。
 ボルシェヴィキは、他政党と連立政府を形成する努力をもはやしなかった。//
 ボルシェヴィキが単独で支配すべきという民衆からの委任(mandate)を得ていたのか、それとも、ボルシェヴィキはそう信じていたのか?
 立憲会議の選挙で(十月のクー以前の予定だったが、1917年11月に実施された)、ボルシェヴィキは民衆による投票数の25パーセントを獲得した。
 これは投票総数の40パーセントを獲得したエスエル党に次ぐ多さだった(クーの問題ではボルシェヴィキを支持した左翼エスエルは、投票リストでは〔エスエル全体と〕区別されなかった)。
 ボルシェヴィキは、より良い結果を期待していた。そしてこれは、投票結果をもっと詳細に検証するならば、おそらく解明できる。(22)
 ボルシェヴィキはペテログラードとモスクワで、そしておそらく都市的ロシア全体では勝利した。
 500万の票をもつ軍隊では別々に計算され、ボシェヴィキは北部および西部の前線とバルト艦隊で絶対多数を獲得した。-ボルシェヴィキが最もよく知る支持者たちであり、ボルシェヴィキが最もよく知られている場所だった。
 南部戦線と黒海艦隊では、ボルシェヴィキはエスエルとウクライナ諸党に敗北した。
 エスエルの全体的な勝利は、農民層の票を村落で獲得したことの結果だった。
 しかし、これに関して一定の不明瞭さはあった。
 農民たちはおそらく単一争点の投票者であり、エスエルとボルシェヴィキの土地に関する基本政策は、ほとんど同じだった。
 しかしながら、エスエルは農民層にははるかによく知られていて、農民はエスエルの伝統的な支持層だった。
 農民がボルシェヴィキの基本政策を知っていたところでは(ふつうは、ボルシェヴィキがより多くの宣伝活動を行った、町、軍駐屯地または鉄道の近くである結果として)、彼らの票は、ボルシェヴィキとエスエルに割れた。//
 にもかかわらず、民主主義的選挙による政治では、敗北は敗北だ。
 ボルシェヴィキは、立憲会議についての選挙が示す見方を採用しなかった。つまり、選挙で勝利できなかったことを理由として権力を手放しはしなかった(そして、会議が招集されて敵だと分かったとき、ボルシェヴィキはそれを素っ気なく解散させた)。
 しかしながら、支配すべきとの委任(mandate)の観点からは、ボルシェヴィキは、自分たちが代表すると主張しているのは民衆全体ではない、と議論することができたし、そう議論した。
 ボルシェヴィキは、労働者階級の名前で権力を奪取した。
 第二回〔全国〕ソヴェト大会と立憲会議の二つの選挙から導き出すことのできる結論は、ボルシェヴィキは、1917年10月から11月にかけて、労働者階級については他のどの党よりも多くの票を獲得した、ということだった。//
 しかし、のちのある時期に、労働者がその支持を撤回することがあれば、いったいどうなるのか?
 プロレタリア-トの意思を代表するというボルシェヴィキの主張は、事実の観察はもとより信念にもとづいている。すなわち、レーニンの見方からすれば、つぎのことは全くあり得ることだ。将来のある時期に労働者プロレタリア-トの意識はボルシェヴィキ党のそれよりも劣っていると分かってしまうが、支配すべきとの党への委任を変更する必要は必ずしもない、ということ。
 おそらくはボルシェヴィキは、このようなことが起きるとは想定していなかった。
 しかし、1917年のボルシェヴィキに対する反対者の多くは想定し、そしてレーニンの党はかりに労働者階級の支持を失っても、権力を放棄することはないだろう、と考えた。
 エンゲルスは、未成熟のままで権力を奪う社会主義政党は、孤立して、抑圧的な独裁制へ向かうこと強いられる可能性があるという警告を発していた。
 明らかにボルシェヴィキの指導者たちは、とくにレーニンは、そうした危険を冒すのを厭わなかった。//
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 (18) Robert V. Daniel, <赤い十月>(New York, 1967), p.82. から引用した。
 (19) 十月革命に関与した大物ボルシェヴィキの行動と意図は、のちに大量に自己に役立つ修正と政治神話の形成を行う主題になった。-公式のスターリニズム的歴史書でのみならず、トロツキーの古典的な<回顧録つき>歴史書である、<ロシア革命の歴史>でも。
 Daniels, <赤い十月>, Ch. 10. を見よ。
 (20) Leon Trotsky, <ロシア革命の歴史>, Max Eastmanによる訳書(Ann Arbor, MI, 1960), ⅲ, Chs. 4~6. 1976
 (21) 例えば、Roy Medvedev, <歴史に判断させよ: スターリニズムの起源と帰結>(1st ed.; New York, 1976), p.381-4. を見よ。
 (22) 以下の分析は、O. Radkey, <ロシアが投票箱に進む-全ロシア立憲会議・1917年>(Ithaca, NY, 1989)にもとづく。
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 第二章の第4節(夏の政治危機)と第5節(十月革命)の試訳が終わり。
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 この著の表紙/左-第4版、右-第3版。
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1807/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑦。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017). 試訳第7回。
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 第二章/第2節・ボルシェヴィキ。
 二月革命のとき、事実上全てのボルシェヴィキ指導者は、外国に亡命しているかロシア帝国の遠い地方に追放されていた。ボルシェヴィキがロシアの参戦に反対しただけではなくてロシアの敗北が革命のために利益になると主張したたために、一まとめになって拘束されたのだ。
 スターリンやモロトフを含むシベリアに追放されたボルシェヴィキ指導者は、中では最初に首都に戻った。
 しかし、ヨーロッパに亡命していた指導者たちが帰るのははるかに困難な状況にあった。何しろ、ヨーロッパは戦争中だったからだ。
 バルト地域を経て帰還するのは危険で、連盟諸国の協力を必要とした。一方で、陸上のルートは敵国の領土内を走っていた。
 にもかかわらず、レーニンとエミグレ社会の他の者たちは、切実に戻りたかった。
 そして、仲介者によって行われた交渉の後で、ドイツ政府は彼らに封印列車でドイツを縦断する機会を与えた。
 戦争に反対しているロシアの革命家たちをロシアに帰還させるのは、明らかにドイツの利益だった。しかし、政治的に妥協する危険を冒して帰ってよいのかと革命家たちは慎重に衡量しなければならなかった。
 レーニンは、主としてボルシェヴィキのエミグレの一団とともに、危険を冒すことを決断し、3月末頃に出発した。
 (スイスにいたロシア革命家たちのより多数のグループは、ほとんど全てのメンシェヴィキを含んでいたが、慎重に考えて待つことに決めた。-これは、レーニンの旅が引き起こした論争と責任追及を全て回避できたので、賢明な行動だった。
 このグループは、一ヶ月のちに、ドイツとの同様の取り決めによって、第二の封印列車でつづいた。)//
 4月初めにレーニンがペテログラードに戻る前に、シベリアに追放されていた者たちはすでにボルシェヴィキ組織を再建し、新聞を発行し始めていた。
 この時点で、他の社会主義者グループのようにボルシェヴィキは、ペテログラード・ソヴェトの周囲にある緩やかな連携の中で漂っている徴候を示していた。
 しかし、ソヴェトのメンシェヴィキとエスエルの指導者たちはレーニンが悶着の種だったことを忘れておらず、憂慮しつつレーニンの到着を待った。
 それは正当なことだったと分かることなる。
 4月3日、レーニンがペテログラードのフィンランド駅で列車から降りたとき、彼はソヴェトの歓迎委員会に素っ気なく反応し、群衆に向かって反対者を不快にする耳障りな声で若干の言葉を発した。そして突然に離れて、ボルシェヴィキ党の仲間たちとの私的な祝宴と会合に向かった。
 レーニンは明らかに、かつての党派的な習癖を失っていなかった。
 かつての政治的対立者を革命の勝利という栄光の仲間だと受け容れる、この数ヶ月にはしばしばあった愉快な感情の一つの徴候も、彼は示さなかった。//
 歴史上四月テーゼとして知られる、政治情勢に関するレーニンの評価は、戦闘的で、非妥協的で、明らかにペテログラードのボルシェヴィキたちを不安にさせるものだった。彼らは、躊躇しつつも社会主義の一体性というソヴェトの基本方針を受容し、新政府を批判的に支持する立場にいた。
 二月に達成したことを承認すべく立ち止まることをほとんどしないで、レーニンはすでに、革命の第二の段階、プロレタリア-トによるブルジョアジーの打倒、を目指していた。
 レーニンは、臨時政府を支持してはならない、と述べた。
 団結という社会主義者の幻想や新体制への大衆の「無邪気な信頼」を、破壊しなければならない。
 ブルジョアの影響力に屈服している現在のソヴェト指導部は、使い物にならない(ある演説でレーニンは、ローザ・ルクセンブルクによるドイツ社会民主党の戯画化を借用して、ソヴェト指導部を「腐臭を放つ死体」だと呼んだ)。//
 にもかかわらずレーニンは、ソヴェトは-再活性化した革命的指導部のもとで-ブルジョアジーからプロレタリア-トへの権力の移行にとってきわめて重要な組織になるだろうと予見した。
 レーニンの四月テーゼのスローガンの一つである「全ての権力をソヴェトへ!」は、実際には、階級戦争の呼びかけだった。
 「平和、土地、パン」は四月の別のスローガンだったが、同様に革命的な意味合いがあった。
 レーニンの言う「平和」は、帝国主義戦争から撤退することだけではなくて、その撤退は「資本主義の打倒なくしては…<不可能>だ」と認識することをも意味した。
 「土地」は、土地所有者の資産を没収し、農民が自分たちにそれを再配分することを意味した。-農民の随意による土地取得にきわめて近いものだった。
 「革命的民主主義のど真ん中で内戦の旗を掲げている」というレーニンに対する批判が生じたのは、不思議ではなかった。(10)//
 レーニンの見方と指導性を尊重してきたボルシェヴィキは、彼の四月テーゼに衝撃を受けた。ある者は、レーニンは国外にいる間にロシアの生活の現実に関する感覚を失ったのではないかと考えた。
 しかし、レーニンの訓戒と叱責を受けて数ヶ月のうちに、ボルシェヴィキは社会主義者の連立から離脱するという、より非妥協的な立場へと移行した。
 しかしながら、ボルシェヴィキなくしてもペテログラード・ソヴェトの多数派は形成されていたので、「全ての権力をソヴェトへ!」というレーニンのスローガンはボルシェヴィキに実践的な行動指針を与えはしなかった。
 レーニンの戦略は秀れた政治家のそれだったのか、それとも偏頗な過激主義者-古い社会主義者のプレハノフの左翼側の対応者-のそれだったかは、未解明の問題であるままだ。プレハノフは、戦争問題に関する留保なき愛国主義のために、ロシアの社会主義者政治家の主流から外された。//
 かつての偏狭な不一致を抑えることを誇りとする、ソヴェトに関係するたいていの政治家には、社会主義者の一体性の必要は自明のことだと思われた。 
 6月、ソヴェトの第一回全国大会の際、ある発言者が否定の返答を想定して修辞的に、いずれかの政党に単独で権力の責任を負う用意があるだろうかと問うたとき、レーニンは「その政党はある!」と言って遮った。
 しかし、ほとんどの大会代議員にとって、それは真面目な挑戦ではなく虚勢のように聞こえた。
 しかしながら、、ボルシェヴィキは民衆の支持を得つつあり、連立する社会主義者は失いつつあったので、真面目な挑戦の言葉だった。//
 6月のソヴィエト大会の際にはボルシェヴィキはまだ少数派で、大都市での選挙でさらに勝利しなければならなかった。
 しかし、ボルシェヴィキの強さが大きくなっていることはすでに草の根レベルで-労働者の工場委員会、軍隊内の兵士・海兵委員会および大きな町の地方的地区ソヴェトで-明白だった。
 ボルシェヴィキの党員数も、劇的に増加していた。党は大衆的に入党させる運動をする正式の決定をしておらず、多数の流入にほとんど驚いたように見えたけれども。
 党員の数は、確実なものではなくておそらく実際よりも誇張されてはいるが、その拡大をある程度は示している。すなわち、二月革命のときのボルシェヴィキ党員は2万4000人(この数字は、ペテログラードの党組織は2月には実際には約2000人だと識別しており、モスクワの組織は同じく600人なので、とくに疑わしい)、4月の終わり頃に10万人以上、そして1917年十月には総計で35万人だった。これには、ペテログラードおよびその近郊地方の6万人、モスクワおよびそこに近い中央工業地域での7万人が含まれる。(11)
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 (10) V. I. レーニン, 全集(Moscow, 1964)24巻p.21-26。レーニンが引用する批判者は、Goldenberg。
 (11) 党員の数字に関する注意を払った分析として、T. H. Rigby, <ソヴェト同盟の共産党員-1917-1967年>(Princeton, NJ, 1968), Ch. 1.を見よ。
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 第3節・民衆の革命。
 1917年の初頭に、軍には700万の男たちがおり、200万人の予備兵もいた。
 軍隊は多大な損失を被り、脱走率の増大や前線でのドイツ人との交流への反応から見て戦争疲れのあることは明確だった。
 兵士たちから見て二月革命とは戦争がまもなく終わるという暗黙の約束で、彼らは臨時政府が-主導しなくともペテログラード・ソヴェトの圧力によって-それを実現するのを辛抱強く待った。
 1917年の早春に、選出された委員会という新しい民主主義的構造をもち、不十分な供給という昔からの問題を抱え、そして不安で不確実な雰囲気のあった軍は、せいぜいのところ、有効性の疑わしい戦闘部隊だった。
 前線では、志気が完全に喪失していたというわけではなかった。
 しかし、予備兵団が駐留している、国の周囲の守備軍団の状況は、かなり険悪なものだった。//
 1917年のロシアの兵士と海兵たちは、伝統的に、制服を脱いだ場合の職業を無視して、「プロレタリア-ト」に分類されてきた。
 実際には入隊している者たちのたいていは、農民だった。バルト艦隊や北部および西部の前線の部隊では、彼らが入隊した地域が比較的に工業化されていたために、不均衡に労働者が多かったけれども。
 マルクス主義の概念上は、軍隊の兵士たちは現在の仕事を理由としてプロレタリア-トだということは、議論の余地がある。しかし、より重要なのは、この問題は明らかに、彼らはどのように自分たち自身のことを意識していたのか、だ。
 Wilderman の研究が示すように (12) 、1917年春に前線にいた兵士たちは-革命と新しい行動規範を受け入れる将校たちと協力する心づもりがあったときですら-、将校と臨時政府は一つの階級、「ご主人」の階層に属していると考え、自分たちの利益は労働者やペテログラード・ソヴェトのそれと一体のものだとみなしていた。
 5月までに、最高司令官が警戒して報告したように、将校と兵士たちの間の「階級対立」が軍の愛国的連帯精神の中に深く浸入していた。//
 ペテログラードの労働者は2月に、革命的精神をすでに力強く示した。「ブルジョア」的臨時政府の設立に抵抗するほどに十分に戦闘的で、その心理的な用意があったわけではなかったけれども。
 二月革命後の最初の数ヶ月、ペテログラードその他で表明された不満は経済的なもので、一日八時間労働(戦時という非常時を根拠にして臨時政府はこれを拒否した)、賃金、超過勤務、および失業に対する保護のような日常的問題に焦点を合わせていた。(13)
 しかし、ロシア労働者階級にある政治的戦闘性の伝統からして、この状態がつづいていく保証はなかった。
 戦争が労働者の構成を変えたというのは本当のことだ。労働者の全体数がいくぶんは増大したのはもちろんだが、女性の割合も大きく増えた。
 女性労働者は男性よりも革命的ではないと、通常は考えられてきた。
 だが、国際女性日でのストライキが二月革命のきっかけになったのは、女性労働者だつた。また、前線に夫をもつ女性労働者たちは、戦争の継続に反対する傾向がとくに強かった。
 ペテログラードは、熟練技術をもつ男性労働者が徴兵義務を免除された軍需産業の中心地として、戦前からの男性労働者階級のうちの比較的に大きな割合を、工場に雇用していた。 
 戦争初期のボルシェヴィキの摘発にもかかわらず、また、その後の、工場にいる多数の政治的問題者の逮捕や軍事召集にかかわらず、ペテログラードの大きな冶金や防衛の工業施設は、ボルシェヴィキや他の革命的諸政党に所属する、驚くべきほどに多くの労働者を雇用し続けていた。戦争勃発の後でウクライナやその他の帝国部分から首都にやって来た、ボルシェヴィキの職業的な革命家をもすら。
 他の革命的労働者たちは、二月革命後に工場に戻った。そのことは、さらなる政治不安の潜在的可能性を増大させていた。//
 二月革命は、ロシアの工業中心部全てに、とくにペテログラードとモスクワに、労働者の力強い陣容を生み出した。
 労働者ソヴェトはペテログラード・ソヴェトのような都市レベルだけではなく、より下位の都市的地域でも設立された。後者では、指導部が社会主義的知識人ではなくて、通常は労働者自身で成っており、その雰囲気はしばしばより急進的だった。
 新しい労働組合も、結成された。そして、労働者たちは、工業施設レベルで、経営にかかわるべく工場委員会を設立し始めた(これは労働組合組織の一部ではなく、ときには地方の労働組合支部と共存した)。
 最も草の根に近い工場委員会は、全ての労働者組織の中で最も急進的になる傾向にあった。
 ペテログラードの工場委員会では、ボルシェヴィキが1917年5月までに、支配的地位を獲得した。//
 工場委員会の元来の機能は、資本家による工業施設の経営に対する労働者のための監視者(watchdogs)であることだった。
 この機能を表現するために使われた言葉は「労働者による統制(control)」(rabochii kontrol)で、経営上の意味での統制(支配)ではなくて監視(supervision)を含意させていた。
 しかし、工場委員会は実際には、しばしばさらに進んで、経営上の機能も奪い取り始めた。
 ときには、これは雇用や解雇の統御をめぐる紛争にかかわった。あるいは、いくつかの工業施設で労働者が人気のない作業長や幹部を手押し車に押し込んだり、川に投げ込んだりするに至る一種の階級対立の産物になった。
 別の例で言うと、工場委員会は、所有者または経営者が金がかかるとの理由で工業施設を放棄したり、閉鎖すると脅かしたときに、労働者を失業から守るために事業を引き継いだ。
 このような事例がより一般的になってくるにつれて、「労働者による統制」の意味は、労働者による自己経営のようなものに接近してきた。//
 労働者の政治的雰囲気がより戦闘的になり、ボルシェヴィキが工場委員会での影響力を獲得するにつれて、このような変化が生じた。
 戦闘性とは、ブルジョアジーに対する敵意と労働者の革命における優越性を意味した。変化した「労働者による統制」の意味が、労働者は彼らの工業施設の主人であるべきだというのと全く同じように。こうして、「ソヴェトの権力」とは労働者は地区、都市およびおそらくは国家全体の単一の主人であるへきだということを意味するという考えが、労働者階級に出現してきた。
 これは政治理論としては、ボルシェヴィズムよりもアナキズムやアナクロ・サンディカリズムに近いものだった。そして、ボルシェヴィキの指導者たちが、工場委員会やソヴェトを通じての労働者による直接民主主義は党が指導する「プロレタリア-トの独裁」という彼ら自身の考え方に至るあり得るまたは望ましい選択肢の一つだという見方に、実際に賛同したのではなかった。
 にもかかわらず、ボルシェヴィキは現実主義者だった。そして、1917年夏の政治的現実はその党が工場委員会の強い支持を得ているということであり、彼らはその支持を失うのを欲しはしなかった。
 その結果として、ボルシェヴィキは、何を意味させるのかを厳密には定義しないままで、「労働者による統制」を擁護した。//
 使用者たちは、大きくなる労働者階級の戦闘性に対して警告を発した。多くの工業施設が閉鎖され、ある著名な実業家は用心深く、「飢えて痩せた手」は最後には都市労働者が秩序を回復する手段になるかもしれない、という意見を表明した。
 しかし、田園地域では、土地所有者の農民層に対する警戒と恐怖の方がはるかに強かった。
 二月のときに村落は平穏で、若い農民の多くは、兵役へと徴用されていたためにいなかった。
 しかし、5月までに、明らかに田園地域は、都市革命に反応して1905年にそうだったように、騒乱に陥った。
 1905-6年でのように、地主の邸宅は略奪されて燃やされた。
 加えて、農民たちは私有地や国有地を自分たちが使うために奪取していた。
 夏の間、騒擾が多くなったときに、多数の土地所有者が資産を放棄して田園地域から離散した。//
 ニコライ二世は、1905-6年反乱の後でも、地方の役人や土地所有貴族の意見がどうであれロシアの農民はツァーリを敬愛しているという考えに縋りついていた。しかし、多数の農民は君主制の崩壊と二月革命の報せに、それと全く異なる反応をした。
 農民ロシア全体で、新しい革命は貴族たちのかつての不当な土地に関する権限を破棄したことを意味する-または意味させるべきだ-と想定されていたように見える。
 土地は耕作する者に帰属すべきだと、農民たちは春に、臨時政府に対する夥しい請願書で書いた。(14)
その具体的言葉で農民たちが意図したのは、農奴のごとく貴族のために耕作してきた、そして農奴解放の取り決めによって土地所有貴族が保有している土地を自分たちが取得すべきだ、ということだった。
 (この土地の多くは当時には土地所有者から農民に賃貸されていた。別の事例では、雇用労働者として地方の農民を使って、土地所有者が耕作していた。)//
 農民たちが半世紀以上前の農奴制時代に溯る土地に関する考え方を抱いていたとすれば、ストリュイピンが第一次大戦前に実施した農業改革が農民の意識にほとんど影響を与えなかったというのは、何ら驚くべきことではない。
 まだなお、1917年に、農民の<ミール>が明らかに活力を有していることは、多くの人々には衝撃だった。
 マルクス主義者たちは1880年代以降、<ミール>は基本的には内部的に解体しており、国家がそれを有用な装置だと考えただけの理由で存続している、と主張してきた。
 紙の上では、ストリュイピンの改革の効果によって欧州ロシアの村落の相当程度に高い割合で<ミール>は解体することになっていた。
 だが、それにもかかわらず、<ミール>は明らかに、1917年の農民の土地に関する思考における基本的な要素だった。
 請願書で彼らは、貴族たち、国家および教会が保有している土地の平等な再配分を求めた。-つまり、<ミール>が村落の田畑に関して伝統的に行ってきた村落世帯間での平等な再配置と同じ種類のものを。
 1917年夏に非合法の土地略奪が大規模で始まったとき、その略奪は個々の農民世帯のためではなくて村落共同体のために行われた。そして、一般的な態様は、かつての土地を伝統的に分割してきたように<ミール>がすみやかに村民へと新しい土地を分割する、というものだった。
 さらに加えて、しばしば<ミール>は、かつての構成員に対するその権能を、1917-18年にあらためて主張した。すなわち、戦前に<ミール>に自立小農民として身を立てる力を残したストリュイピンの「分割者」は、多くの場合は彼らの保有物をもう一度、村落の共有地に戻して、それと一体となるように強いられた。//
 土地問題の深刻さや1917年春以降の土地奪取に関する報告にもかかわらず、臨時政府は、土地改革の問題を先送りにした。
 リベラルたちは、原理的には私有地の収奪に反対ではなかった。そして、一般的には農民の要求は正当なものだと考えていたように見える。
 しかし、いかなる急進的な土地改革も、明らかに重大な問題を惹起させただろう。
 第一に、政府は、土地の収奪と譲渡のための複雑な公職機構を設定しなければならなかっただろう。それはほとんど確実に、当時の行政上の能力を超えるものだった。
 第二に、政府は、たいていのリベラルたちが必要だと考えていた土地所有者に対する多額の補償金を何とかしでも支払うことはできなかっただろう。
 臨時政府の結論は、立憲会議が適正に解決するまで、問題を棚上げするのが最善だ、というものだった。
 その間に、政府は農民に対して(ほとんど役に立たなかったけれども)、かりにでも一方的に制裁することはない、と通告した。//
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 (12) Wilderman, <ロシア帝国軍隊の終焉>。1917年2月-4月の軍というその中心主題に加えて、この書物は、二月の権力移行に関する利用可能な最良の分析の一つを提供している。
 (13) Marc Ferro, <1917年2月のロシア革命>, J. L. Richards 訳(London, 1972), p.112-121.
 (14) 多様な民衆の反応について、Mark D. Steinberg, <革命の声-1917年>(New Haven & London, 2001)にある資料文書を見よ。
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 第二章(二月と十月の革命)のうち第2節(ボルシェヴィキ)と第3節(民衆の革命)の試訳が終わり。

1805/江崎道朗2017年著指弾⑬。

 つぎのものは、ひどい本だ。
 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)。
 既述だが、わずか5頁の範囲内に、つぎの三つの「致命的」な間違いがある。
 ①「民主集中制」と「プロレタリア独裁」を区別せず、同じものだと理解している(p.78)。
 ②「社会愛国主義」は「愛国心」を持つことだと理解している(p.75)。
 ③ソ連未設立時の「各ソヴェト共和国」を「ソヴィエト連邦」と理解している(p.79)。
 他にもあるが、ああ恥ずかしい。
 これらの一つだけでもすでに致命的で、出版停止し全面的書き直しか絶版にすべき程度のものだと考えられる。
 いずれにせよ、江崎道朗に、対共産主義「インテリジェンス入門」を執筆する資格はない。
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 これまた既述だが、江崎道朗は、共産主義(者)・共産党と「コミンテルン」を明確に区別する必要を感じていない。ロシア共産党、ソ連共産党、ソ連国家(赤軍であれチェカであれ)、これら全てを「コミンテルン」と表現しているのではないかとすら疑われる。
 「コミンテルン」を使う理由はおそらく、日本の一般的読者には共産主義等ほどの馴染みがない言葉で、かつ何やら「陰謀組織」めいた印象を与えることができるからだろう(政治文書、プロパガンダ文書には、どのような「言葉」を使うかも重要なのだ)。
 したがって江崎道朗には、コミンテルン初期の「加入条件」等文書は国際的共産主義組織一般と「共産主義者」との関係を規律するものであると理解されることになるようで、換言すると、「共産主義者」であるための要件を示すものと理解されていそうで、<コミンテルン(国際共産党)-「共産党」と名乗って加入して一員・一支部になってもよいと考える各国の社会主義的政党>の関係を規律するものと正確には理解されていないようだ。
 「コミンテルン」を本の表題の一部に使いながら、ひどいものだろう。
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 では江崎道朗には、「共産主義」自体はどう理解されているのか。
 上掲書p.38-39で、こう説明する。「マルクス主義」・「マルクス・レーニン主義」・「社会主義」との異同に全く言及はない。のちに離れたところで「社会主義」という語を登場させているが、そこでも「社会主義」と「共産主義」の異同に関するコメントは何もない。
 全文を引用する。//は改行。
 「共産主義とは、突きつめて単純化するならば、『生産手段を国有化して一党独裁のもとで徹底した経済的平等をめざす考え方』だ。//
 資本主義社会では、土地や資金、工場などの『生産手段』の私有化を認めているから、金持ちと貧乏人といった格差が生まれる。地主と小作人、会社経営者と労働者といった具合である。//
 そこで労働者による政党、つまり共産党が政権をとり、共産党主導で『武力によって強制的に』土地を取り上げ、会社経営者から資金と工場を取り上げ、国有化、つまり労働者全員で共有するようにすれば格差は解消され、労働者天国の社会が実現できる--このような労働者、小作人主体の社会を実現しようというのが共産主義だ。
 よって共産主義者は、基本的に武力革命を支持し、議会制民主主義に対して否定的なスタンスをとる」。
 以上が、この箇所での全文。この部分には「下敷き」にしているかもしれない参照文献の摘示がない。しかし、何らかの文献を読んで参照していることは間違いないだろう。
 第一の問題は、これは、「共産主義者たち」が主張している考え方の紹介なのか、それとも江崎道朗の理解はある程度は含めているのかが不明瞭だということだ。おそらく、前者を踏まえつつ、後者も混じっている、ことになるのだろう。
 かりにそうだとしても、あるいは前者なのだとしても、相当に違和感がある。以下、重要な点をコメントする。
 ①「徹底した経済的平等をめざす考え方」。
 これは誰がどこで主張したのか。なぜ「経済的」という限定がつくのか。かつ根本的には、共産主義では「平等」ではなく「自由」という理念はどうなっているのか。
 ついでに記そう。現在の2004年日本共産党綱領は、「真に自由で平等な共同社会」を目指す、そうなる筈だ、と明記している。「共同社会」とは、元来のドイツ語では、Gemeinwesen だと見られる。 
 ②「資本主義社会では、…『生産手段』の私有化を認めているから、金持ちと貧乏人といった格差が生まれる」。
 つぎの③とも密接不可分だが、「私有化」→「格差」という論理関係があるのかどうか。
 そのような旨を共産主義者は主張しているかもしれない。
 しかし、この点は重要なこととして強調しておきたいが、「格差」などという言葉・概念は、ロシア革命や共産主義等関係の書物を種々読んできたかぎりで、一度も見たことがない
 江崎においては単純に「不平等」という意味かもしれないが、「格差」という語を江崎が使うのは、昨今の日本の状況に大きく影響されている可能性がすこぶる高い。
 ③「国有化、つまり労働者全員で共有するようにすれば格差は解消され…」。
 江崎は読者に迎合して、あるいは現在の日本に合わせて、「格差」(是正?)という言葉を採用しているのだろう。
 一言挿入しておくが、共産主義とは<格差解消>を目ざす主義・考え方などでは全くない
 それよりも、なぜ<国有化→労働者全員の共有>なのか。さっぱり分からない。
 そのように共産主義者は主張している、という趣旨かもしれない。しかし、論理的・概念的にも歴史の現実でもそうではない(なかった)、ということは明確だ。紹介のつもりならば江崎著のどこかで厳しく批判しておいても不思議ではないが、そのような箇所はないようだ。
 ④「労働者による政党、つまり共産党」という説明または紹介も奇妙だ。少なくとも正確ではない。ロシア共産党・ソヴィエト共産党は本当に「労働者による政党」だったのか?
 紹介だとしても、それきりでは、①から④の全てが、共産主義者の「宣伝」を鵜呑みで紹介し<拡散>することになってしまう。
 以上の諸点よりももっと重大なのは、なぜ共産主義が<悪魔の思想>とまで称されるかが、まるで分かっていないように見える、ということだ。
 この点を、ハーバート・フーヴァー(元アメリカ大統領)の回顧録の第一章にある文章と比べてみよう。
 ハーバート・フーバー/渡辺惣樹訳・裏切られた自由-上巻(草思社、2017)。
 第一編・第一章のタイトルは「共産主義思想の教祖、指導者、主義・主張およびその実践」で、そのうちのp.165以下。
 一文ごとに改行する。
 「共産主義思想は第一に、人々の心を燃え立たせる病の思想である。
 信じる者の熱情は、キリスト教徒やイスラム教徒のそれと同じである。
 共産主義思想は、救済思想であるが、それに反抗する者を許さない。
 時とともにその思想体系、(拡散の)手段、組織体系を進化させてきた。
 その本質は強烈な拡張意識と、人間の感情(たとえば信仰心)の徹底的な抑圧である。
 その思想は、残酷でサディスティックでさえある。」
 このあと、(マルクスはないが)レーニン又はスターリンの文章を引用しつつの、「独裁について」、「宗教とモラルについて」、「国際関係について」、「共産主義革命は暴力による」、「労働組合とストライキによる破壊工作」、「議会に対する破壊工作について」、「国家間あるいはグループ間抗争の煽動について」、「講和不可能について」という諸項目がある。
 2017年の江崎道朗と遅くとも1960年代前半のH・フーヴァーと、どちらが「共産主義」の<本質>に迫っているだろうか。

1804/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑤。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017). 試訳第5回。
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 第一章・初期設定/第3節・1905年革命とその後/第一次大戦。
 かつてのツァーリ・ロシアは膨大な帝国で、ヨーロッパ諸大国の中で最大の常備軍を持っていた。
 その外部世界に対する強さは誇りの源であり、国内の政治的、社会的諸問題を静めることのできる達成物だった。
 20世紀初めのある内務大臣の言葉によれば、「勝利した小戦争」は国内の不安を抑える最良の治療薬だった。
 しかしながら、歴史的に見ると、これはかなり疑わしい命題だ。
 過去の半世紀の間、ロシアの戦争は成功したものでなければ、政府への社会の信頼を強くする傾向にあるものでもなかった。
 クリミア戦争での軍事的屈辱によって、1860年代の急進的な内政改革が行われた。
 1870年代遅くのバルカン地域への軍事介入の後でロシアは外交上の敗北を喫したが、それは国内の政治危機を生み、アレクサンダー二世暗殺でようやく終わった。
 1900年代の初め、ロシアは極東にまで膨張し、その地域のもう一つの膨張国家である日本と衝突した。
 ニコライ二世の閣僚たちの何人かは警告を発したけれども、宮廷や上層官僚層は、極東で簡単に略奪できる、日本-結局は劣った非ヨーロッパ勢力だ-は恐れるほどの敵ではないだろう、という雰囲気で覆われた。
 日本が始めたが、ほとんど同等にロシアの極東政策が挑発して、1904年1月にロシア-日本戦争が勃発した。//
 ロシアには、この戦争は陸と海での一連の敗北と屈辱だった。
 社会に初期にあった愛国主義的熱狂は急速に静まり、そして、ゼムストヴォのような公的組織が非常時の政府を助けようとしても-1891年飢饉の間にそうだったように-、官僚層との対立や不満だけが生じた。
 このことはリベラルな運動に油を注いだ。無能で不完全だときわめて明白に感じられているときに、官僚層は最も弱いように思えたからだ。
 そして、ゼムストヴォ上層と専門家たちは非合法の自由主義運動の背後に集まり、ペーター・ストルーヴェその他のリベラルな活動家によってヨーロッパから指導された。
 1904年の最後の数ヶ月、戦争はまだ進行中だったが、ロシアのリベラルたちは(1847年にフランス国王ルイ・フィリップに対して用いられたのを摸倣して)祝宴運動を行い、これによって社会的エリートたちは、立憲的改革という考えを支持することを強く表現した。
 同時期に政府は、官僚へのテロリストの攻撃、学生の示威行進および労働者のストライキを含む、その他の種々の圧力を受けていた。
 1905年1月、ペテルブルクの労働者は、彼らの経済的不満にツァーリの注意を向けようと、平和的な示威行動を行った(戦闘的な者や革命的な者にではなく、警察との関係をもつ背教的聖職者の父ガポン(Father Gapon)によって組織された)。
 血の日曜日(1月9日)、軍隊は冬宮の外から示威行進者に対して発砲し、1905年革命が始まった。(18)//
 専制体制に対する国民的連帯意識は、1905年の最初の9ヶ月はきわめて強かった。
 革命運動の指導をリベラル派が行うことについては、真剣な反対がなかった。
 そして、体制側と交渉する彼らの地位は、ゼムストヴォや中層専門家の新しい同盟からの支持のみならず、学生の示威行動、労働者のストライキ、農民の騒擾、軍隊での反逆および帝国の非ロシア領域での動揺に由来する多様な圧力にももとづいていた。
 体制の側は一貫して防御的で、恐慌と混乱に陥り、明らかに秩序を回復することができなかった。
 ウィッテがやっと、1905年8月遅くにきわめて有利な条件で日本との講和条約(ポーツマス条約)の交渉をはじめたときを画期として、体制は生き残る展望をもち得た。
 しかし、体制には数百万人の兵団が満州に残っており、ストライキをしている鉄道従業員たちが再び統制のもとにおかれるまで、彼らはシベリア横断鉄道で故郷に戻ることはできなかった。//
 リベラルな革命の頂点だったのは、ニコライ二世の十月宣言(1905年)だった。ニコライ二世はそれによって、立憲制原理へと譲歩し、全国的に選出される議会であるドゥーマの設置を約束した。
 この宣言書はリベラルたちを分断した。十月主義者たち(Octobrists)はこれを受容したが、立憲民主党(カデッツ)は受容を拒絶して、いっそうの譲歩を望んだ。
 しかしながら、実際には、このときにリベラルたちは革命運動から撤退し、その活動力を新しい十月主義者やカデットを組織いること、および近づいているドゥーマ選挙の準備へと集中させた。//
 一方で、その年の末まで労働者は積極的で革命的なままでいて、以前よりもいっそう知名度を獲得し、ますます戦闘的にになった。
 10月に、ペテルブルクの労働者たちは「ソヴェト」、あるいは工場で選出された労働者代表の評議会、を組織した。
 ペテルブルク・ソヴェトの実践的な役割は、他の諸装置が麻痺してゼネラル・スイライキが行われているときに、市に一種の非常時都市政府を提供することだった。
 しかし、そのソヴェトは革命諸党からの社会主義者の政治的なフォ-ラムになった(そのときメンシェヴィキだったトロツキーは、ソヴェトの指導者の一人になった)。
 数ヶ月の間、帝制当局はソヴェトを慎重に扱い、そして同様の機関がモスクワや他の都市で出現した。
 しかし、12月の初めに警察の作戦が巧くいって、それは解散させられた。
 ペテルブルク・ソヴェトが攻撃されたとの報せを受けて、モスクワ・ソヴェトは武装蜂起を起こした。ボルシェヴィキはこれに対して相当の影響力をもっていた。
 この蜂起は兵団によって弾圧されたが、労働者は闘い直したため、多数の犠牲者が出た。//
 1905年の都市革命は、18世紀遅くのプガチェフ一揆以来の最も深刻な農民蜂起をまき起こした。
 しかし、都市の革命と農村のそれは同時に発生したのではなかった。
 農民の反乱は-大家屋の破壊と燃焼、地主や役人に対する攻撃で成っていた-1905年の夏に始まり、秋遅くに頂点に達し、沈静化し、また1906年に大規模に再開した。
 しかし、1905年遅くですら体制は強大で村毎の静穏化運動に兵団を使い始めることができた。
 1906年の半ばまでに全兵団が極東から戻り、軍隊の紀律は回復した。
 1906-7年の冬、農村ロシアの多くは戒厳令下にあり、略式の司法手続(千を超える処刑を含む)が現地での軍事裁判所によって実施された。//
 ロシアの土地所有上層者は1905-6年の事態から教訓を得た。すなわち、その利害は専制体制とともにあり(それは復讐心に満ちた農民層からおそらく守ってくれる)、リベラルたちとではない。(19)
 しかし、都市では、1905年革命によってこのような階級分極化の意識は生まれなかった。すなわち、多くの社会主義者にとってすら、これは1848年のロシアではなく、リベラル派の裏切り体質とブルジョアジーとプロレタリア-トの間の本質的な敵対意識をあからさまにした。
 リベラル派-資本主義中産階級ではなくて職業人をむしろ代表する-は、十月には傍らに離れて立っていたが、労働者の革命に対する激しい攻撃をする体制側にも加わらなかった。
 彼らの労働者と社会主義運動に対する態度は、多くのヨーロッパ諸国でのリベラル派たちのそれよりもはるかに温和で優しいものだった。
 労働者の側では、リベラル派について、裏切る同盟者ではなくて臆病な同盟者だと気づいたように見える。//
 1905年革命の政治的結果は両義的で、全ての関係者にとっていくぶんは不満足だった。
 1906年の基本的諸法律-閉ざされたロシアが立憲体制へと至る-によってニコライは、ロシアはまだ専制体制だという彼の信念を知らしめた。
 確かに、僭政者は今や選出された議会に諮問するようになり、諸政党が合法になった。
 しかし、ドゥーマの権能は限定されていた。大臣たちは依然として君主に対してのみ責任を負った。そして、最初の二回のドゥーマは命令に従わないことが判明して恣意的に解散された後で、社会主義派を事実上は選出されにくくし、土地所有上層者を過大に反映させる新しい選挙制度が導入された。
 ドゥーマの主要な意味は、おそらく、政治的討論のための公共のフォーラムを提供して、政治家の基礎を訓練することにあった。
 1905-7年の政治改革は、1860年代の司法改革が法曹を生んだのと全く同様に議会政治家を生み育てた。
 そして二つのグループには、専制体制が不変のままでは残ることができない価値と希望を発展させるという内在的な傾向があった。//
 1905年革命が変え<なかった>一つは、1880年代に完成に至っていた警察体制だった。
 法の適正な手続は(野戦軍事裁判所の場合のように)まだ当時のほとんどの民衆にとっては宙に浮いたままだった。
 もちろん、このことについては理解できる根拠があった。
 比較的に平穏だった1908年に1800人の官僚たちが殺戮され、2083人が政治的動機をもつ攻撃によって負傷した (20) ということは、社会がいかほどに騒然としていたのかを、そして体制がいかほどに防御の側に回ったままであったかを、示している。
 しかし、このことは、政治改革が多くの点で表面的なものにすぎなかったことを意味した。
 例えば、労働組合は、原理的に合法化されたが、警察によってしぱしば閉鎖させられた。
 政党は合法になったが、そして革命的社会主義諸政党ですらドゥーマ選挙で争って若干のの議席を得たが、しかし、革命的社会主義政党の党員は以前よりも拘束されやすくなり、党の指導者たち(多くは1905年革命の間に帰還していた)は、収監や流刑を避けるために国外逃亡を再び強いられた。//
 後になって見れば、1905年を体験して1917年にすでに地平上で活躍していたマルクス主義革命家たちは労働者たちの劇的な革命家としてのデビューを祝福し、自信をもって将来へと向かっていたように思えるかもしれない。
 しかし、実際には、彼らの雰囲気は全く違った。
 ボルシェヴィキもメンシェヴィキも、1905年労働者革命では足がかりすらなかった。すなわち、労働者たちは彼らと同じように進むことを拒絶した。これは、深刻に考えるべきことだった。とくに、レーニンには。
 革命はやって来た。しかし、体制は闘いから立ち直って、生き延びた。
 知識人層の間では、革命的夢想と社会の完全性という旧い幻想を放棄しようかとの会話が多くなされた。
 革命家の立場からすれば、法的な政治制度という表向きや尊大でお喋りのリベラルな政治家たち(これに関するレーニンの見方を要約すると、ニコライ二世のそれと大きくは異ならなかった)を新しく育てただけでは、何の収穫もなかった。
 革命的指導者たちにとって慣れてはいるが殺伐としたエミグレ生活に戻ることもまた、深い、かつほとんど耐えがたい失望だった。
 エミグレたちは、1905年と1917年の間ほど、簡単に怒り、かつ論争好きだったことはない。
 実際に、ロシア人が小さな口論をし続けていることは、ヨーロッパの社会民主主義のスキャンダルの一つになった。そして、レーニンは、最悪の反則者の一人だった。//
 戦争前の悪い報せの中にあったのは、体制側が農業改革の大きな綱領の設定に着手した、というものだった。
 1905-7年の農民一揆によって、政府は、<ミール>は農村的安定の最良の保障だとの初期の前提を放棄すべきことを理解した。
 政府の望みは今では、小さい自立した農民階層-ニコライの首相であるペトロ・ストリュイピン(Petr Stolypin)が述べた、「穏健で強い」ものへの保障-を生み出すことにあった。
 農民たちは今や土地保有を確固たるものにして<ミール>から離れることができると勇気をもち、土地委員会がその手続を容易にするために各地方に設置された。
 この前提にあるのは、貧しい者は売り払って都市へ行くだろう、豊かな者は保有地を改良し拡大して保守的な、言ってみればフランスの農民のようなプチ・ブルジョアジーの心性をもつだろう、という考えだった。
 1915年までには、ロシアの農民が何らかの形での個人的な保有権(tenure)を持っていたのは全農民の四分の一と半分の間くらいだった。法的および実際的な手続が複雑で、およそ十分の一だけが手続を完了させ、土地を囲い込んだけれども。(21)
 ストリュイピンの改革はマルクス主義用語では「進歩的」だった。農業の資本主義的発展の基礎を設定するものだったのだから。
 しかし、都市的資本主義の発達とは対照的に、ロシア革命の短期および中期的見通しから見て意味するところは、きわめて憂うつなものだった。
 ロシアの伝統的農民層は、反抗しがちだった。
 ストリュイピンがもしも改革を実行していれば(誰よりもレーニンがそうなりはしないかと恐れたように)、ロシアのプロレタリア-トは革命のための重要な同盟者を失っていただろう。//
 1906年、ロシアの経済は多額の借款(22億5000万フラン)で支えられていた。これについてウィッテは、国際銀行団と交渉したのだった。
 そして自国および外国所有の産業が、戦争前の年月には急速に膨張していた。
 このことはもちろん、工場労働者階級もまた膨張したことを意味した。
  しかし、1905-6年の労働者革命的運動が激しく弾圧された後の数年間は労働者騒擾は大きく落ちこみ、ようやく1910年頃に再び発生し始めた。
 戦争直前の年には大規模なストライキがますます頻発し、1914年夏のペテログラードでの一斉ストライキがその絶頂だった。このゼネ・ストは、何人かの観察者がロシアはその軍を戦争むのために総動員する危険を冒すのではないかと疑うほどに十分に深刻だった。
 労働者の要求は、経済的であるとともに政治的だった。
 彼らの体制に対する不満は、労働者自身に対して強制力を用いることについてはもちろんだが、ロシアの多くの産業部門で外国が支配していることについての責任をも含んでいた。
 ロシアでは、労働者が暴力的で戦闘的になるにつれて、メンシェヴィキはその支持を失っていくのを意識した。一方でボルシェヴィキは、支持を獲得しているのに気づいた。
 しかし、このことは、国外にいるボルシェヴィキ指導者の気持ちを顕著に亢進させはしなかった。なぜなら、ロシアとの連絡通信は不足し、おそらくはそのことを十分には知らなかった。また、彼ら自身の地位が、ヨーロッパでのエミグレ・ロシア人と社会主義者の社会でますます弱くなり、より孤立していたからだ。(22)//
 1914年8月、ヨーロッパで大戦が勃発し、ロシアはフランスとイギリスと同盟してドイツとオーストリアに対抗したとき、政治的エミグレはほとんど完全にロシアから遮断された。一方で、戦時中の異邦人たる生活についての通常の諸問題にも直面した。
 全体としてのヨーロッパ社会主義運動では、以前の大多数の国際主義者が、戦争が布告されるや、一夜にして愛国者になった。
 ロシア人は他国人と比べて完璧な愛国主義者になることは少なかったが、たいていは「防衛主義」(defensists)の立場を採った。それは、戦争がロシアの領土を守っているかぎりで、ロシアの戦争努力を支持する、というものだ。
 しかしながら、レーニンは、自国の大義を全体として非難する「敗北主義」(defeatists)の小集団に属した。すなわち、レーニンから見ると帝国主義戦争であり、最良の展望はロシアが敗北することであって、それは内戦と革命とを刺激して生み出すかもしれない。
 これは社会主義運動内部ですらきわめて論争を巻き起こす立場で、ボルシェヴィキは、きわめて冷たくあしらわれていることを感じた。
 ロシアでは、名のあるボルシェヴィキは全員が-ドゥーマ代議員を含む-、戦争を継続するために拘禁された。//
 1914年に、ロシアの宣戦布告は急速で広い愛国主義の熱狂、勝利を願う旗振り、国内の論争の一時停止を生み出した。また、ふつうの社会分野や非政府組織が政府の戦争努力を助けようとする真面目な取り組みも。
 しかし、また再び、雰囲気はすぐに悪くなった。
 ロシア軍の遂行能力と志気は、今や学者たちが感じていた以上に悪くなっているように見えた。また、軍は破滅的な敗北を喫し、損失を被った(1914-1917年の総計で500万の死傷者)。一方でドイツ軍は、帝国の西方深部に侵攻し、避難民がロシア中央へと混乱して流入するに至った。(23)
 敗北は上層部に裏切り者がいるのではないかとの懐疑心を生んだ。主要な対象の一つは皇妃アレクサンドラで、彼女は生まれはドイツの王女だった。
 醜聞はアレクサンドラのラスプーチン(Rasputin)との関係にも及んだ。この人物はいかがわしいがカリスマ性があり、皇妃はその子息の血友病を統御できる神のごとき者として信頼していた。
 ニコライがロシア軍の最高司令官の任を引き受け、長いあいだ首都から離れているとき、アレクサンドラとラスプーチンは各大臣の任命について大きな影響力を行使し始めた。
 政府と第四ドゥーマの関係が、劇的に悪化した。ドゥーマや全体としての知識人界の雰囲気は、政府の欠陥を批判する演説でカデット〔立憲民主党〕のパヴェル・ミリュコフが何度も口にした語句、「これは愚劣なのか、それとも裏切りか」でうまく表現されていた。
 1916年の遅く、帝室に近い若い貴族たちとドゥーマの右派代議員によって、ラスプーチンは殺害された。彼らの動機は、ロシアとその皇帝体制の名誉を救うことだった。//
 第一次大戦の圧力は-そして疑いなくニコライとその妻の個性や子息の血友病という家族の悲劇は (24)-、ロシア専制体制の無政府的特質には大きな休息になった。そして、ニコライは専制的伝統を期せずして執筆する風刺作家ではなくてその専制的伝統の保持者であるとは見えにくくなった。
 内閣での無能な人気者による「大臣への飛び級」、帝室での無教養な農民の信仰療法者、ラスプーチン殺害を指導した上層貴族の策略、そして毒薬、銃弾や溺水による殺害に強硬に抵抗するラスプーチンの英雄的物語ですら-これら全ては昔にあったことのように思われ、兵団の列車、塹壕での戦闘、大量動員という20世紀の現実に対する奇妙でとるに足らない随伴物であるように見えた。
 ロシアにはこのことに気づく教養ある公民がいたばかりではなく、ドゥーマ、諸政党、ゼムストヴォおよび産業家たちの戦時産業委員会のような組織もあった。これらは、古い体制から新世界への移行を行う潜在的な主導者だった。//
 専制体制の状況は、第一次大戦の前には危なかしいものだった。
 社会は大きく分裂し、政治と官僚機構の構造は脆弱で、無理をしすぎていた。
 体制は急な揺らぎや後退で容易に傷つきやすかったので、かりに戦争がなくともそれが長く生き延びただろうと想像するのは困難だ。情況が違っていれば明らかに、1917年に実際に起こったのよりも暴力的ではなく、かつ過激な帰結を伴わないで変化が起こったかもしれないけれども。//
 第一次大戦は、ロシア旧体制の脆さを暴露し、かつ増大させた。
 民衆は勝利を賞賛したが、敗北を耐え忍ぶつもりはなかった。
 敗北をしたとき、社会は政府を支持して集結することがなかった(これは、とくに敵が故郷に対する侵略者になるならば正常な反応で、1812年およびのちに再び1941-2年にあったロシア社会の反応だ)。しかし、政府に厳しく対抗するのではなくて、侮蔑心と道徳的優越さをもつ調子で、無能さと後進性を批判した。
 これが意味するのは、体制の正統性はきわめて脆弱であり、その存続は目に見える成果か、そうでなければ完璧な幸運に密接に関係している、ということだった。
 相対的には素早くかつ名誉を保って戦争から脱出したがゆえに、敗戦が革命へと突入したかつての1904-6年の場合には、旧体制は好運だった。また、ヨーロッパから多額の戦後借款を得ることができ、そして講和に至った。
 1914-17年には、そのように好運ではなかった。
 戦争は長く続き、ロシアだけではなくてヨーロッパ全体を消耗させた。
 ヨーロッパでの休戦協定より一年以上も前に、ロシアの旧体制は亡んでいた。//
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 (18) 1905年革命につき、Abraham Ascher, <1905年の革命/二巻本>(Stanford, CA, 1988 & 1992)を見よ。
 (19) Roberta Thompson Manning, 'Zemstvo and Revolution: The Onset of the Gentry Reaction, 905-1907' in : Leopold Haimson, ed., <農村ロシアの政治-1905-1914>(Bloomington, IN, 1979)を見よ。
(20) Mary Schaeffer Conroy, <ペトロ・アルカデヴィチ・ストリュイピン-帝制ロシア晩年の政治の実際>(Boulder, CO, 1976), p.98.
 (21) Judith Pallot, <ロシアの土地改革 1906-1917年-ストリュイピンの農村改革への農民層の対応>(Oxford, 1999),p. 8.
 (22) この孤立が心理状態に対してもった意味を小説で生々しく描写したものとして、Alexander Solzhenitsyn, <チューリッヒのレーニン>(New York, 1976)を見よ。
 (23) Peter Gatrell, <全帝国の歩み-第一次大戦の間のロシア難民>(Bloomington, IND, 1999)を見よ。犠牲者の数については、Peter Gatrell, <ロシアの第一次大戦-社会経済史>(Harlow, 2005), p.246 を見よ。軍の戦争中の実績の再評価について、David R. Stone, <大戦でのロシア軍-東部戦線・1914-1917>(Lawrence, KS, 2015)を見よ。
 (24) 家族の悲劇は、同情と理解をもって Robert K. Masse, <ニコライとアレクサンドラ>(New York, 1967)で描かれている。
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 第一章・初期設定の全体が終わり。
 

1801/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)③。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. ed. 2017). 試訳第3回。
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 第一章・初期設定/第1節・社会。
 ロシア帝国の領土は巨大で、西はポーランドから東は太平洋にまで及び、北は北極海に、南は黒海やトルコとアフガニスタンの境界に届いていた。
 帝国の中心部である欧州ロシア(今はウクライナである領域を含む)は1897年に9200万の人口をもち、帝国の総人口はその年の公式調査で1億2600万を記録した。(1)
 しかし、欧州ロシアや比較的に進んでいた帝国の西部ですら、全体としては田園的で、都市化されていなかった。
 一握りの大都市の産業センターがあり、そのうちの多くでは近年に生産が急速に増大していた。
 第一次大戦中にペトログラードと、1924年にレニングラードと改称された帝国の首都のサンクト・ペテルブルク、かつての、そして(1918年以降の)将来の首都のモスクワ。いずれも今はウクライナの、新しいドンバスの採鉱および冶金の中心であるキエフ、ハルコフおよびオデッサ。西部では、ワルシャワ、ロズおよびリガ。南部では、ロストフと石油都市のバク。
 しかし、20世紀初めには、ほとんどの地方の町はまだ眠るがごとく沈滞していた。-小規模の住民用小売店、若干の学校、農民市場およびおそらくは鉄道駅のある、地方行政の中心地。//
 村落には、伝統的な生活様式の多くが残っていた。
 農民はまだ共同体所有(tenure)の土地をもち、村落の土地は細長く区切られ、それは多様な農民家族によって別々に耕作されていた。
 <ミール>(mir、村落会議)はまだ、細長い土地(strips)を各世帯が同等の分け前をもつように定期的に再区分していただろう。
 木鋤は共同使用で、近代的な農耕技術は村落では知られていなかった。そして農業生産は、食べて生きる水準をさして超えていなかった。
 農民の小屋は村落の通りに沿って揃って並んでおり、農民は暖炉で寝て、家屋の中で家畜を飼った。そして、農民家族のかつての家父長制的構造が残存していた。
 農民たちは、農奴状態から離れて一世代以上も経っていなかった。すなわち、世紀の変わり目に60歳だった農民は、1861年の農奴解放のときにはすでに若き成人だった。//
 解放はもちろん、農民の生活を変えた。しかし、解放は、変化を最小限にし、少しずつ広がるように注意深く立案されていた。
 解放の前、農民は村落の細長い土地で働いた。彼らはまた、主人の土地で働くか、自分たちの労働との同等額を金銭で主人に払った。
 解放の後、農民は自分の土地で働き続け、ときどきは以前の主人の土地に雇われて働いた。一方で、即時の代償金として地主に与えられていた一時金を相殺するために、国家に「償還金」(redemption)を支払った。
 償還金の支払いは49年間つづくものと予定され(国家は実際には数年は早く放棄したけれども)、村落共同体には、各構成員の債務に対する集団的な責任があった。
 このことは、個々の農民はまだ村落に縛られていることを意味した。農奴制にではなく、債務とミールの集団責任に拘束されていたのだとしても。
 解放は、農民が都市に大量に流入してくることや公的秩序に対する危険の予兆である土地なきプロレタリア-トが生まれることを抑止するという意図をもっていた。
 また、ミールや古い共同体の土地所有を補強する効果ももっていて、農民がその細地(strips)への力を強固にすることやその保有を拡張したり改良すること、あるいは自立した小農へと移行することはほとんど不可能だった。//
 村落から永遠に離れることは解放後の数十年は困難だったが、一方で、農業、建設または採鉱、あるいは都市で雇われて働くために一時的に離れるのは容易だった。
 このような仕事は実際に、多くの農民家族にとって不可欠だった。納税や償還金支払いのために、現金が必要だったのだ。
 季節労働者(otkhodniki)として働く農民は、村落で土地を耕す家族を残して、しばしば年の多くの月々を離れていた。
 旅をする期間が長ければ-中央ロシアの村落から来てドンバス炭鉱で働く農民にはよくあったが-、<季節労働者>は収穫時とたぶん春の播種の間だけ戻ることもできただろう。
 季節労働をすべく離れるという現実は長く確立されたものだった。とくに、地主が農奴の労働よりも金銭による支払いを求めた、欧州ロシアの肥沃ではない地域では。
 しかし、これは19世紀の遅くや20世紀初めにはますます一般的になっていた。その理由の一つは、都市での仕事を求められやすくなったからだ。
 第一次大戦の直前の数年に、およそ900万の農民が出身である村落の外に出る季節労働のための旅券を毎年もっていて、そのほとんど半分は、農業以外の仕事のためだった。(2)//
 欧州ロシアで家族のどの一人であれ農民二世帯のうち一世帯が出稼ぎで村落を離れていた-そしてこの割合はペテルブルク、中央の工業地域や西部地方ではより高かった-ことからすると、村落には古いロシアがほとんど変わらずに残っていたという印象は、十分に当てにはならなかったかもしれない。
 多くの農民は実際に伝統的な村落内でほとんど生活していて、それ以外の者は、近代的な産業都市という全く異なる世界で生きていた。
 農民が伝統的世界にとどまっている程度は、地理的な位置だけではなく、年齢や性によって異なった。
 若者は仕事をするために離れやすく、加えて、兵役に召集されたときに近代世界と接触した。
 女性と年配者は、村落と農民の生活様式だけを知っている傾向にあった。
 農民の経験についてのこの違いは、1897年の公的調査での識字率の数字が鮮やかに示している。
 若者は老人よりも識字率が高く、男性は女性よりも高い。そして、あまり肥沃ではない欧州ロシア-つまり、季節的な移動がごく普通の領域-の方が、肥沃な黒土(Black Earth)地域よりも高くかった。(3)//
 都市の労働者階級は、まだ農民層ときわめて近かった。
 永続的な工業労働者の数(1914年で300万人をいくぶん超える)は、非農業の季節労働を求めて毎年に村落を離れる農民の数よりも少なかった。そして実際に、永続的な都市居住労働者と一年のほとんどを都市で働く農民とを厳密に区別するのはほとんど不可能だった。
 永続的な労働者ですら、多くの者が村落に土地を保有し、そこで生活する妻や子どもたちを残していた。
 あるいは別の労働者たちは、村落自体に住んで、日毎または週毎の基準で工場へと通勤した。
 サンクト・ペテルブルクだけは、大部分の工場労働者たちが、農村地帯との全ての縁を断ち切っていた。//
 都市的労働者階級と農民層の間にこのような緊密な関係がある主な理由は、急速なロシアの工業化はごく近年の現象だった、ということだ。
 1890年代になってようやく-イギリスよりも半世紀以上遅く-、ロシアは大規模な工業の成長と都市の膨張を体験した。
 そのときですら、1860年代の農奴解放制度は永続的な都市的労働者階級を生み出すのを妨げた。それは、労働者を村落に縛りつづけた。
 第一世代の労働者は農民層出自が圧倒的で、ロシアの労働者階級の大部分を占めた。そして、第二世代労働者や都市住民はほとんどいなかった。
 ソヴェトに関する歴史研究者は、第一次大戦の直前に、工場労働者の50パーセント以上が少なくとも第二世代だった、と主張する。しかし、この計算結果は明らかに、労働者の他に父親が<季節労働者(otkhodniki)>だった<季節労働者>の農民を含めている。//
 発展途上というこの特性にもかかわらず、第一次大戦の頃までにいくつかの点では、ロシアの工業はきわめて発展した。
 近代的な工業部門は小さかったが、地理的にも(とくにペテルブルク、モスクワおよびウクライナのドンバスを中心とする地域に)工業施設の規模の点でも、きわめて高度に集中化していた。
 Gerschenkron が指摘するように、相対的な後進性には利点もある。すなわち、工業化が遅く、外国からの大規模な投資と国家による活発な関与の助けがあって、ロシアは初期段階のいくつかを省略して進むことができた。また、相対的に低い技術のおかげで、すみやかに大規模な近代的生産へと向かった。(4)
 ペテルブルクの有名なプチロフ金属加工および機械建設工場のような企業やドンバスの多くは外国資本の冶金工場は、多数の数千人の労働者を雇用した。//
 マルクス主義の理論によれば、前進した資本主義的生産のもとで高度に集中した産業プロレタリア-トは革命的になりがちちであり、一方、農民層との強い紐帯を保持する前近代的労働者階級は、そうでない。
 そうすると、マルクス主義者がその革命的な潜在力を診断するには、ロシアの労働者階級は矛盾する性格をもっていた。
 しかしなお、1890年代から1914年までの経験からして、農民層と緊密な関係をもつにもかかわらず、ロシアの労働者階級は例外的に攻撃的で革命的だった、ということが明らかだ。
 大規模のストライキがしばしばあり、労働者は経営者や国家当局に対抗して相当に連帯した。そして、労働者の要求は経済的なものであるとともにつねに政治的なものだった。
 1905年の革命のとき、ペテルブルクとモスクワの労働者は自分たちの革命的装置であるソヴェトを組織し、10月のツァーリによる立憲上の譲歩と専制体制に対する中層リベラル派の運動の挫折を目ざして闘い続けた。
 1914年の夏、ペテルブルクその他での労働者のストライキ活動は脅威的な広がりを見せ、何人かの観察者は、政府は戦争に向けての総動員を宣言する危険を冒すまでのことはできないと考えたほどのものだった。//
 ロシアの労働者の革命的感性が強いことは、いくつかの異なる方法で説明できるかもしれない。
 第一に、限定的にせよ雇用者に対して経済的な異議申し立てをすること-レーニンが労働組合主義と称したもの-が、ロシアの条件のもとではきわめて困難だった。
 政府はロシアの自国工業に多額の資本金をもち、外国からの投資を保護していた。そして、私企業に対するストライキが手に負えなくなる徴候を示すと、国家当局はすぐに兵団を派遣したものだった。  
 これが意味したのは、経済的なストライキ(賃金や条件についての抗議)でも政治的なものに変化しがちだ、ということだ。
 また、ロシア労働者が外国の経営者や技術要員に対して広くもった憤懣も、似たような効果をもった。
 労働者階級は自分たちの力では革命意識ではなく「労働組合意識」だけを成長させることができると言ったのは、ロシアのマルクス主義者、レーニンだった。しかし、ロシア自身の経験は(西側ヨーロッパでとは対照的に)、彼を支持しなかった。//
 第二に、ロシアの労働者階級にある農民的要素は、そのもつ革命的性格を弱くではなく、むしろ強くした。
 ロシアの農民は、例えばフランスの農民のような、本来的に保守的な小土地所有者ではなかった。
 1770年代の大プガチェフ(Pugachev)一揆が鮮やかに例証する、地主や役人に対する暴力的で無政府的な反乱というロシア農民の伝統は、1905年とその翌年の農民蜂起でも再び明らかになった。
 1861年の農奴解放令は、農民の反乱精神を永遠に鎮静化させたものではなかった。農民たちはそれを公正なまたは適切な解放だとは思わなかった。そしてますます土地に飢えて、抑えられた土地に対する権利を主張した。
 さらに、都市に移住して労働者になった農民たちはしばしば若く、家族の制約から自由で、かつ工場の紀律にまだ慣れていなかった。そして、憤懣と欲求不満の感情は、転位意識と見知らぬ環境に完全には同化できない意識を伴っていた。(5)
 ある程度は、ロシアの労働者階級はまさにつぎの理由で、革命的だった。
 レーニンが言った「労働組合意識」を取得する時間が、なかった。そして、非革命的方法でその利益を守ったり、近代的都市社会が教育や技術で与える上昇移動をする機会があるのだということを理解したりする力のある、落ち着いた産業プロレタリア-トになる時間が、なかったのだ。//
 しかしながら、都市部や上層の教養ある人々ですら、ロシア社会の「近代」性はまだきわめて不十分だった。
 事業や商業の階層は相対的に弱かった。専門家、諸協会その他の、市民社会が出現してくる兆しを感知することはできたけれども。(6)
 国家官僚制の専門化の増大にもかかわらず、その上層部は伝統的に公職に就く階層である上層者(the nobility)で占められたままだった。
 公職者の特権は、農奴制の廃止の後に地主集団の経済的な衰退があったので、上層者にとってはますます重要になった。上層の地主たちのうち少数者だけが、資本家、市場志向の農業への移行を成功裡に行うことができた。//
 20世紀初めのロシア社会の分裂症気味の性質は、ロシアで最も大きくかつ近代的だったサンクト・ペテルブルクの市電話帳への登録者が提供している自己認識(self-identifications)がきわめて多様であることによって十分に実証される。
 ある範囲の登録者は伝統的な形式を維持して、社会的身分と階層によって自分を分類した(「世襲貴族」、「第一ギルドの商人」、「名誉市民」、「国務委員(State Counsellor)」)。
 別の者たちは明らかに新しい世界に属していて、職業や雇用形態で自分たちを表現した(「株式仲買人」、「機械技師」、「会社経営者」あるいはロシアの女性解放が達成した代表である「女性医師」(woman doctor))。
 第三の集団はどこに帰属しているのかが不確実な人々で、ある年の電話帳には身分で、その翌年には職業で、自分を表現した。あるいは、「貴族、歯科医師」と風変わりに自分のことを載せた登録者のように、二つの自己認識表現を同時に用いて。(7)//
 いくぶん形式的でない文脈でいうと、学歴あるロシア人はしばしば自分を知識人の一員だと考えていただろう。
 社会学的には捉え難い概念だが、「インテリゲンチア」(intelligentsia)という言葉は広い意味では、ロシア社会のそれ以外の者たちとは受けた教育によって、ロシアの専制体制とはそのラディカルなイデオロギーによって区別される、教育ある西欧化したエリートのことだった。
 しかしながら、ロシアの知識人は自分をエリートだとは思っておらず、社会をより良くすることへの道徳的関心によって結ばれた階級のない集団の一員だと考えていた。また、「批判的思考」をすることのできる能力、とくに批判的で体制に対する少し反抗的な態度、によって。
 この言葉は19世紀の半ば頃に一般的に用いられたが、観念の発生史ではこれを18世紀の後半に見い出すことができる。その当時に貴族は義務的な国家への奉仕から解放されたが、教養はあってもそれを十分に活用できない貴族たちの一定範囲の者は、「民衆への奉仕」という代替的な義務の気風を発展させた。(8)
 理念的には(全部が実際ではなかったが)、知識人界と官僚制上の公職は、両立できなかった。
 19世紀後半のロシア革命運動は専制体制と闘って民衆を解放する小規模の共謀組織であることを特徴とし、大部分は知識人界の急進的で政治的な不満の産物だった。//
 高い地位の専門職業の発展がかつて存在したよりも広い範囲の職業選択を可能性を生み出したこの世紀の終わりまでには、<知性的(intelligent)>という個々人の自己定義はしばしば、政治的変革への積極的で革命的な関与というよりも、相対的に受動的でリベラルな態度を意味した。
 ロシアの新しい知識人層はまだ、意識的な革命家たちへの共感と敬意という古い知識人の伝統を十分に継承しており、そして、官僚たちが政治改革を追求したり、革命的テロリストによって暗殺されたときですら、体制側に共感することがなかった。//
 さらに、ある類型の範囲の専門的職業は専制体制への全面的な支援と結び合うことが困難な特有さがあった。
 例えば、法律家という仕事(legal profession)は1860年代の司法改革の結果として流行した。しかし、その改革は長い期間に法の支配をロシア社会と国家行政に広げることにさほど成功さなかった。とくに、1881年に革命的テロリスト集団によって皇帝アレキサンドル二世が暗殺された後の反動の時代には。
 教育を受けて法の支配を信頼するようになった法律家は、恣意的な行政実務や無制限の警察権力に、そして司法改革の作動に影響を与えようとする政府の試みに、反対する傾向にあった。(9)
 同様に継承された体制との対立関係は、ゼムストヴォ(zemstvo)、すなわち制度上は国家官僚制度とは全く別でしばしば後者と対立した、選出される地方統治機構とも関連し合っていた。
 20世紀の初めには、ゼムストヴォはおよそ7万の職業人(医師、教師、農学者等々)を雇用していたが、彼らの急進さへの共感は悪名が高かった。//
 国家または私企業で働く技師その他の技術専門たちは、とくに経済近代化と工業化のために1890年代のセルゲイ・ウィッテ(Sergei Witte)が指揮した財務省やその後の通商産業省による財政支援を受けていて、体制から疎遠になる明白な理由は乏しかった。
 実際にウィッテは、体制やロシアの技術専門家や実業家によるその近代化傾向への支援をかき集めることに尽力した。
 しかし、問題は、ウィッテの経済および技術の発展への熱意が大部分のロシア官僚エリートたちに共有されていないことだった。むろん、それは皇帝ニコライ二世の個人的な好みにも合っていなかった。
 近代化志向の専門家や起業者たちは、原理的には、専制政府の考えに反対しなかったかもしれない(実際には、〔ペテルブルク〕工科大学の学生たちの批判に晒された結果としてそうしたけれども)。
 しかし、彼らがツァーリ専制体制は近代化のための効果的な仲介者だと判断するのはきわめて困難だった。それに関する記録は一貫しておらず、そのイデオロギーはきわめて明瞭に、将来に関する論理的な展望ではなく、過去への郷愁を反映していた。//
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 (1) Frank Lorimer, <ソヴィエト同盟の人口>(Geneva, 1946), p.10, p12.
 (2) A. G. Rashin, Formirovanie rabochego klassa Rossi (Moscow, 1958), p.328.
 (3) Barbara A. Anderson, <19世紀末ロシアの近代化の間の内部移住>(Prinston, NJ, 1980), p.32-38.
 (4) A. Gerschenkron, <歴史の観点からする経済的後進性>(Cambridge, MA, 1962), p.5-p.30.
 (5) 農民の反乱意識と労働者階級の革命につき、Leopold Haimson, 'The Problem of Social Stability in Urban Russia, 1905-17' , 23, no.4 (1964), p.633-7. を見よ。
 (6) Edith W. Clows, Samuel D. Kassow and James L. West, ed., <ツァーリと民衆-ロシア帝国後期の教養社会と公的自己認識の問題>(Princeton, NJ, 1991)を見よ。
 (7) Alfred Rieber は、ロシアの社会的自己認識の新旧両類型の共存を叙述するために、「堆積的(redimentary)」という用語を使った。その論文「堆積的な社会」<ツァーリと民衆の間>所収p.343-366. を見よ。
 (8) Marc Raeff, <ロシア知識人の起源-18世紀の貴族>(New York, 1966)を見よ。
 (9) これは Richard S. Wortman, <ロシアの法意識の発展>(Chicago, 1967) p.286-9とその他随所で論じられている。
 大改革に関するより幅広い問題につき、Ben Eklof, John Bushnell and Larissa Zakharova,ed.,<ロシアの大改革>(Bloomington, IN, 1994)を見よ。
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 第一章の第1節、終わり。

1779/江崎道朗・2017年8月著の悲惨と無惨⑫。

 <マクダーマット・アグニュー本>の「付属資料」を使っての江崎道朗・1917年8月著の説明・コメントには、第四に、明確な<間違い>もある。
 その原因になっているのは、要するに、この人の「無知」だろう。
 この著とは、つぎで、<マクダーマット・アグニュー本>とはその下。
  江崎・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)。
 ケヴィン・マクダーマット=ジェレミ・アグニュー/萩原直訳・コミンテルン史-レーニンからスターリンへ(大月書店、1998)。
 =Kevin McDermott & Jeremy Agnew, The Comintern - A History of International Communism from Lenin to Stalin - (McMillan Press, 1996)。
 (1)「民主集中制」と「プロレタリア独裁」の同一視!
 江崎道朗はp.78で加入条件テーゼ12条がコミンテルン構成の各共産党は「民主的中央集権制」という組織原理にもとづくべきことを定めているのを引用しつつ、「第12条は党中央が全権を握る、プロレタリア独裁の宣言である」と書く。
 ああ恥ずかしい。プロレタリア-ト(プロレタリア)独裁とは共産党の内部で「プロレタリア」が「独裁」することなのか?
 江崎には、共産主義・共産党に関する基礎的知識もない。この部分では、レーニンの共産党・組織原理とマルクスにもあった「プロレタリアートの独裁」の区別がついていない。
 なお、江崎はp.71で「第1条」の中に「プロレタリア-トの執権」という語をそのまま引用して紹介しているが、間違いなくこの人は「プロレタリア独裁」と「~執権」が元来は同じ言葉であることに気づいていないだろう。
 (2)「社会愛国主義」は「愛国心」持つことだとする!
 江崎道朗はp.75で同6条が「露骨な社会愛国主義」を厳しく批判しているのを引用紹介しつつ、この意味は「自分の国を守ろうという愛国心」を「絶対に認めない」ということだ、とする。
 ああ恥ずかしい。この人は、「社会愛国主義」(または社会排外主義)とはレーニンらボルシェヴィキ・ロシア共産党側が自国の第一次大戦への参戦を支持したとくにドイツの「社会民主主義」者を批判するために作った言葉であることを知らない(「社会主義的愛国主義」と訳されてもよく、「社会主義」者なるものが称する(ニセの)愛国主義」と理解されてもよいものだ)。
 「社会」が付いているにもかかわらず、「愛国主義」の一種だと文学的に?解釈して、堂々と?コメントしているのだ。
 (3)軍隊内への浸透は「武力による暴力革命」を大前提?
 江崎道朗はp.75で同6条が「軍隊内」での「ねばりづよい、系統的な宣伝」を要求しているのを引用紹介しつつ、共産党が?「何より『武力による暴力革命』を大前提とする政党であることが、この条文からも明らかである」と書く。
 これも恥ずかしいだろう。<共産党=暴力革命>という図式をこの人は宣伝したいようで、そのためには何でも利用する(?)。
 「軍隊」に着目しているのは「暴力」装置だからだろうか。しかしそのことと、『武力による暴力革命』を大前提とするということとは論理的関係はない。「軍隊」を使っての「暴力革命」を想定しているのだ、という趣旨か?
 いずれにせよ、この条文から「明らかである」とするのは間違い。
 なお、江崎道朗も含めて、日本の「保守」派が(否定的・消極的に)しばしば用いる「暴力革命」なるタームの正確・厳密な意味について、検討が必要だ。ここでは立ち入らない。
 (4)「各ソヴェト共和国」を「ソヴィエト連邦」と同一視!
 江崎道朗はp.79で同14条がコミンテルン加入希望党は「反革命勢力に対する各ソヴェト共和国の闘争」を支持する必要を定めているのを引用紹介しつつ、「ソ連への忠誠を求める規定である」と明記する。
 また、「ソヴィエト連邦に対する絶対の忠誠心を持たなければならない」とも重ねて説明し、かつまた、日本の共産主義者が「ソ連や中国共産党」を支持したのは「この方針から」だとする。
 ああ恥ずかしい。悲惨だ。
 ロシア革命によって「ソ連」が誕生したとこの著の冒頭で書いていた江崎道朗は、ひょっとすれば「ソヴェト」と「ソヴェト(ソヴィエト)連邦」=「ソ連」の区別がついていないのではないか、と危惧していたが、どうやら当たっていたようだ。
 このテーゼが発表・採択されたのは1920年夏で、まだ「ソヴィエト連邦」は結成されていない。また、「中国共産党」も生まれていない(日本共産党も)。
 まだ存在していないものに対する「忠誠心」や「支持」を江崎は語ることができると考えているらしい。相当の空想力だ。
 正確には確認しないが、ここでの「各ソヴェト共和国」とは、1917年「十月革命」てできた(またはそれを翌年に改称した)ロシア・ソヴェト社会主義連邦共和国を構成する、「各ソヴェト共和国」だと見られる。
 このロシア・ソヴェト社会主義連邦共和国がさらにいくつかのソヴェト社会主義連邦共和国(ベラルーシ、ウクライナ等)とさらに「連邦」して、1922年に、「ロシア」等の地域名を持たない、ソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)が設立された。
 こういう経緯があるからこそ、もともとのロシア(本域)からすれば、<シベリア行き>は「国外追放」処分であり「流刑」なのだ。ロシアからすれば、シベリア、ウラル、今の中央アジア地域は完全に「外国」だったのだ。
 江崎は「各ソヴェト共和国」という言葉を見て、「各」を無視して、「ソヴェト連邦」と類推したようだ。そのあとでたぶん「各」に気づいて、「中国共産党」も加えたのだろう。
 上で言及しなかったが、江崎は上の説明につづけてこう書く。p.79。
 「コミンテルンに所属するということは、ソ連や中国など外国に忠誠を誓うことなのだ」。
 ああ恥ずかしい。コミンテルンは1919年に設立され、上のテーゼが論じられた第二回大会は1920年。繰り返すが「ソ連」はまだない。それに、この時点で忠誠の対象だという「中国」とはいったい何のことなのだ? 新生・中華民国のことか?
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 第五に、<マクダーマット・アグニュー本>の「付属資料」を使っての江崎道朗・1917年8月著の説明・コメントには、あるいはその近辺には、矛盾した説明・論述等がいくつもある(明確な間違いに含めてもよいものもある)。以下は、その例。
 (1)p.72で「加入条件」テーゼは「コミンテルンに加入した場合、何をしなければならないのか、具体的に示した」ものだとする。一方、p.80は、「加入するための条件」だとする。両者は意味が異なり、後者が正しい。
 (2)p.67で「民族問題」テーゼ第四項を引用紹介しているが、p.91以下では別の本を直接引用して、この項の「解説」をさせている。
 離れていると読者は忘れると思っているのか、相互の参照を要求していない。
 別の本とはクルトワら・共産主義黒書/アジア篇だ。江崎道朗は、p.67の辺りでは<マクダーマット・アグニュー本>を「下敷き」にし、p.91辺りではこの<クルトワら本>を「下敷き」にしているのだと思われる。
 「下敷き」にしている本の違いによって、共産主義・共産党・コミンテルンに対する論調がやや変わるのも、江崎らしいところだ。
 (3)p.53で、「プロレタリア独裁によらないかぎり平和にならない」、「平和とは」「共産党による独裁政権を樹立」することを「意味する」、と一気に書く。
 この両者は、方法と結果がほとんど反対だ。なぜこんな日本語文章を平気で書けるのか、本当に信じ難い。
 (4)他にも類似表現はあるが、p.80で「これらがコミンテルンに各国の共産党が加入するための条件である」と書く。
 「加入するための条件」だとするのは上に記したように誤っていない。しかし、「各国の共産党」の存在を前提にしているようであって、この点は<間違い>。
 この点は、そもそもコミンテルンとは何か、どのような経緯でこれは設立されたのか、レーニンらが「加入条件」を定める必要がある具体的環境・状勢はどうだったか、が理解できていないと、したがって、江崎道朗には、理解が困難なのだろう。
 あらためて前回に第三として論及した「加入条件」について触れたいとは思っている。
 江崎道朗が完全にスルーしているのは、コミンテルン加入の条件のきわめて重要な一つは各国の「コミンテルンに所属することを希望する全ての党」は「共産党」と名乗ることが義務づけられる、ということだ(加入条件第17項)。1922年の設立という「日本共産党」の名称も、これによる(同時に「コミンテルン~支部」となることも定められている)。
 「社会民主党」・「社会主義党」・「労働党」という名称(のまま)ではコミンテルンの一員にはなれない。
 この点は、評価は分かれるのかもしれないが、ロシア以外の<社会主義党派>または<社会主義運動>に分裂を持ち込んだ(ロシアでのボルシェヴィキとメンシェヴィキの古い対立のように)とも言われる。あるいは、<純粋で正しい>党を抽出することになった、のかもしれない。
 いずれにせよ、江崎は分かっていない。
 すでにこの欄に書いたように、江崎道朗にとって、共産主義、共産党、コミンテルン等々は全部同じであって、区別する必要を感じていないのだ。
 これで江崎道朗には、現在にまで流れているという「共産主義」に対する「インテリジェンス」を語る資格があるのだろうか。
 今回の諸指摘を、きちんと理解してもらえるとよいのだが。/つづく。

1707/社会主義と独裁④-L・コワコフスキ著18章6節。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳の前回のつづき。
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 第6節・社会主義とプロレタリア-ト独裁④。 
 理論上の観点からは、レーニンの有名な小冊子『<左翼共産主義-小児病>』(1920)で事態は明らかにされた。それによると、少しも問題はないように見える。//
 『問題のたんなる設定-「党の独裁か、それとも階級の独裁か。指導者の独裁(党)か、それとも大衆の独裁(党)か?」-だけでも、ほとんど信頼できない、救いようもなく錯乱した思考をしていることが分かる。<中略>
 誰もが知るように、大衆は諸階級に、<中略>通常は多くの階級に分化している-少なくとも今日の文明諸国では-、そして、諸階級は政党によって指導されている。
 また、まったく通常のこととして、政党は、最も責任ある地位を占めて指導者と称される、最も権威と影響力と経験のある構成員から成る、多少とも安定した集団によって動いている。
 このことこそが、基本だ。
 このことこそが、明白で単純なことだ。
 これをなぜ、煩わしいことを言って、何かの新しいヴォラピュク語(Volapuek)でもって、言い換えようとするのか?』(+)//
 『ロシアのボルシェヴィキは、<中略>このことに関する「上からか」<それとも>「下からか」とか、指導者の独裁か<それとも>大衆の独裁かとか等々の議論を、こっけいな、子どもじみたたわ言だと見なさざるを得ない。その左脚と右腕のいずれが人間にとってより重要なのかを議論しているようなものだ。』(+)
(全集31巻、p.41, p.49〔=日本語版全集31巻26-27頁、35頁〕。)//
 レーニンはこのように問題を度外視し、階級と党の間に関して、あるいは党とその指導者の間に関して何の問題もないことを示唆し、また、一握りの寡頭的指導者による統治は、階級が彼らを代表者としたいのか否かを判別する制度上の方法は何らなかったけれども、彼らが代表すると主張する階級による統治だと適切に称し得ることを意味させた。
 レーニンの論拠は粗雑なので、真面目にそう考えていたと信じるのは困難なほどだ(上掲の文章では、ローザ・ルクセンブルクに似た基本的考えにもとづいてレーニンを批判したドイツのスパルタクス団に対して回答している)。
 しかし、彼のここでの論拠はその思考の一般的スタイルと十分によく合致している。
 階級の利益以外には『真に(really)』存在するものは何もないがゆえに、統治集団または統治組織の独立した利益に関して設定される問題はすべて、いつわりの(false)問題だった。
 組織(apparatus)は階級を『代表する』。このことが『基本的』であって、他の全ては『子どもじみたたわ言』なのだ。//
 レーニンは、この点については全く一貫していた。
 <国家と革命>〔1917年〕によると、無学者または狡猾なブルジョアだけが、労働者は産業を、そして国家と行政を直接にかつ集団的に管理することができないと思うことができた。
二年後には、無学者または狡猾なブルジョアだけが、労働者は産業を、そして国家と行政を直接にかつ集団的に管理することができると思うことができるのだと判明した。
 産業は明白に単一の経営者を必要とした。そして、『共同参加』を語るのは馬鹿げていた。
 『協同経営〔合議制〕に関する論議は、全くの無知と専門家に反対するという心性にあまりに強く埋め込まれすぎている。<中略>
 我々は(労働組合が)悪名たかい民主主義の残存物に反対して闘争する精神に立ってこの任務を体得するようにしなければならない。
任命制度に反対する大騒ぎの全て、多様な決定と会話に向かっているこの全ての古くて危険なほどに下らないものは、一掃されなければならない。』(+)
 (ロシア共産党(ボ)第9回大会での演説、1920年3月29日。全集30巻、p.458-9〔=日本語版全集30巻474-6頁〕。)
 『どの労働者も国家を運営する仕方を知っているだろうか?
 実務領域で働いている者たちは、そうではない、と知っている。<中略>
 我々は、農民たちと結びついた労働者が非プロレタリアのスローガンに欺されがちであることを知っている。
 どれだけの数の労働者が、政府の仕事に従事してきたか?
 ロシア全土で数千人で、それ以上ではない。
 候補者を立てて〔=当選させて〕統治するのは党ではなく労働組合だと我々が言うならば、それはきわめて民主主義的に聞こえるかもしれない。そして若干の票を掴み取るのに役立つかもしれないだろう。しかし、長くは続かない。
 それは、プロレタリア-トの独裁にとって致命的(fatal)だろう。』(+)
 (鉱山労働者大会での演説、1921年1月23日。全集32巻、p.61-62〔=日本語版全集32巻52-53頁〕。)
 『しかし、その階級の全体を包み込む組織を通じてでは、プロレタリア-トの独裁は、行使され得ない。<中略>
 行使することができるのは、この階級の革命的活力を吸収してきた前衛だけだ。』(+)
 (『労働組合、現況とトロツキーの過ち』、1921年12月30日。同上、p.21〔=日本語版全集32巻「労働組合について、現在の情勢について、トロツキーの誤りについて」5頁〕。)//
 独特の論法のおかげで、かくして、プロレタリア政府はプロレタリア-トの独裁の廃墟になるだろうということが分かる。-これは、完璧に妥当だと思われる結論だ、レーニンによる後者の言葉の解釈に従えば。
 また、『本当(true)の』民主主義とはそれまで民主主義的だと見なされてきた全ての制度の廃棄を意味することも分かる。 
 この最後の点に関して、レーニンの言葉遣いは全く一貫しているわけではない。
 すなわち、彼はときには、ソヴェト権力は民主主義の最高の形態だと褒め讃える。人民による支配を意味するからだ。
 だが別のときには、民主主義をブルジョアの道具だと非難する。
このことは、興味をそそる矛盾を生じさせた。1918年1月25日の第3回ソヴェト大会での、つぎの演説に示されるように。
 『民主主義は、純粋な社会主義に対する全ての裏切り者によって制覇されたブルジョア国家の一形態だ。彼らは公認された社会主義の先頭に位置して、民主主義はプロレタリア-ト独裁の反対物だと主張している。
 革命がブルジョア体制の枠を超越するに至るまでは、我々は民主主義に賛成してきた。
 しかし、革命の進展のうちに社会主義の最初の兆候を見るや否や、我々はプロレタリア-トの独裁を支持する強硬なかつ断固たる立場をとった。』(+)
 (全集26巻、p.473〔=日本語版全集26巻「労働者・兵士・農民代表ソヴェト第三回全ロシア大会483頁〕。)
 換言すれば、社会主義に対する裏切り者は民主主義は独裁の反対物だと主張するが、我々は、その反対物である独裁のために民主主義を放棄した。
このような間抜けさ(awkwardness)は、レーニンが民主主義的制度がほとんど何も残っていない浸食状態に気づいているが、ときどきは民主主義という美徳の印象のある名前を引き合いに出したかった、ということを示す。//
 革命のすぐ後に、ボルシェヴィキが権力に到達するまでは執拗に要求した伝統的な民主主義的自由は、ブルジョアジーの武器だったと判ることになった。
 レーニンの著作は、報道(出版)の自由に関して、このことを繰り返して確認している。
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 (+) 日本語版全集を参考にしつつ、ある程度は訳を変更した。
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 段落の途中だが、ここで区切る。⑤へとつづく。

1663/ロシア革命②-L・コワコフスキ著18章2節。

 この本には、邦訳書がない。Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 第2節の前回のつづき。
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 第2節・1917年の革命②。
 1917年9月にレーニンは、こう書いた。
 『世界的な社会主義革命が成熟しており不可避であることは、疑う余地がない。<中略>
 プロレタリアートが権力を獲得すれば、その権力を維持し、西側での革命の勝利までロシアを導いていく,全ての可能性があるだろう。』(+)
 (『ロシア革命と内戦』、全集26巻p.40-p.41〔=日本語版全集26巻27頁,28頁〕。)
 十月革命のほとんど直前に、こう書いた。
 『疑うのは、問題外だ。我々は、プロレタリア世界革命の発端地(threshold)にいる。』(+)
 (『危機は熟している』。同上、p. 77〔=日本語版全集26巻66頁〕。)
 革命の後でレーニンは、1918年1月24日に第三回ソヴェト大会に対して、こう宣言した。
 『我々はすでに、世界の全ての国で、時々刻々に(by the hour)社会主義革命が成熟しつつあるのを見ている。』(+)
 (同上、p.471〔=日本語版全集26巻「労働者・兵士・農民代表ソヴェト第三回全ロシア大会」480頁〕。)(+)
 1918年8月には、以下。
 『我々はすでに、西ヨーロッパで革命の火の手がいかに頻繁に火花を散らしたり爆発とたりしているかを見ている。
 それらは、世界の労働者革命の勝利は遠くはない、という確信を我々に与えている。』(+)
 (全集28巻p.54〔=日本語版全集26巻「労働者の諸君!/最後の決戦にすすもう!」45頁〕。)
 1918年10月3日には、以下。
 『ドイツの危機は、始まったばかりだ。
 これは不可避的に、政治権力のドイツ・プロレタリアートへの移行で終わるだろう。』(+)
 (同上、p.101〔=日本語版全集28巻「全ロシア中央執行委員会、モスクワ・ソヴェト、工場委員会代表、労働者組合代表の合同会議にあてた手紙」100頁〕。)
 1918年11月3日には、以下。
 『至るところで世界革命の最初の日が祝福されるときは、すでに間近いのだ。』(+)
 (同上、p.131〔=日本語版全集28巻「オーストリア=ハンガリー革命を祝うデモンストレーションでの演説」133頁〕。)
 1919年3月6日、第三インターナショナル〔共産主義インター=コミンテルン〕第一回大会で。
 『世界的範囲でのプロレタリア革命の勝利は、保障されている。
 国際ソヴェト共和国の創立は、近づいている。』(+)
 (同上、p.477〔=日本語版全集28巻「共産主義インターナショナル第一回大会/閉会の際の結語」510頁〕。)
 レーニンは、1919年7月12日に党モスクワ県会議で、こう予言した。
 『来年の七月、我々は世界ソヴェト共和国の勝利を歓迎するはずだ。そして、この勝利は、完全で不可逆的(irreversible)なものになるだろう。』(+)
 (全集29巻p.493〔=日本語版全集29巻「ロシア共産党(ボ)モスクワ会議での共和国の内外情勢についての報告」501頁〕。)//
 これらの予言は、諸事態、『革命の上げ潮』やバヴァリア(Bavaria〔独・バイエルン〕)、ハンガリーおよびエストニアでの暴乱、の観察にのみではなく、欧州の戦争は資本主義の打倒によってのみ終止させることができるとのレーニンの確信にももとづいていた。
 レーニンは1918年7月3日に演説したが、<プラウダ>でこう報道された。
 『戦争は、絶望的なものに(hopeless)なっている。
 この見込みなさ(hopelessness)は、我々の社会主義革命が世界革命が勃発するまで持ちこたえる十分な機会がある、ということの保障だ。
 このことを保障するのは戦争だが、それを労働者大衆だけが終わらせることができるだろう。』(+)(*)
 (全集27巻p.502〔=日本語版全集27巻「第五回ソヴェト大会の共産党代議員団での演説」517頁〕。)
 レーニンが一国での社会主義の勝利の永続(permanence)を信じていなかった、ということもまた、疑いの余地がない。
 1918年1月の第三回ソヴェト大会で、こう語った。
 『唯一つの国での社会主義の最終的な勝利は、もちろん、不可能だ。』(+)
 (全集26巻p.470〔=日本語版全集26巻「(既出)」480頁〕。)(+)(**)
 1918年3月12日の論文では、以下。
 『救いは、我々が着手した、世界社会主義革命の途にのみある。』
 (全集27巻p.161〔=日本語版全集27巻「今日の主要な任務」161頁〕。)(+)(***)
 1918年5月26日の演説では、以下。
 『我々は、かりにつぎのことがあっても、唯一つの国では社会主義革命を自分たちの力のみで完全に遂行することはできない、ということに、目を閉ざしはしない。すなわち、その国がかりにロシアに比べてはるかに後進性が少ないとしても、また、我々が前例なき、苦しい、苛酷な、そして惨禍の戦争が4年間続いたあとで、よりよい条件のもとで生活しているとしても。』(+)
 (全集27巻p.412〔=日本語版全集27巻「国民経済会議第一回における演説」427頁〕。)(+)
 1918年7月23日の演説では、こうだ。
 『その革命が孤立していることを意識しているので、ロシアのプロレタリアートは、自分たちの勝利の不可欠の条件であり基本的な必須条件が全世界の、またはいくつかの資本主義が発達した諸国の労働者の統一した行動であることを、認識している。』(+)
 (同27巻p.542〔=日本語版全集27巻「工場委員会モスクワ県会議での報告」562頁〕。)(+)//
 こうした望みが絶えて、つぎのことが明白になったとき、党は、奪い取った権力で何をすればよいのかという問題に直面した。すなわち、ヨーロッパのプロレタリアートはボルシェヴィキの例に従うつもりがない、そうでなくとも彼らの革命の企ては失敗するだろうこと、また、戦争を革命以外の別の方法で終わらせることができること、が明白になったとき。
 権力を放棄するなどということは、あるいは実際に、権力を別の社会主義勢力と分かち合うということも、問題にならなかった。
 (左翼エスエル〔社会革命党左派〕に関する短いエピソードは重要ではなく、『権力への参加』という叙述に値するものではなかった。)//
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 (+ 秋月注記) 日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変更した。
 (*/秋月注記) この1918年1月の演説の結びの部分は、つぎのとおり(日本語版全集27巻518頁の訳による)。-「…われわれは、わが同胞ばかりではなく全世界の労働者にたいしても、責任を負っている。/彼らは社会主義が不可能なものではなく、労働者の堅固な制度であって、全世界のプロレタリアートは社会主義を目ざさなければならない、ということがわかるにちがいない」。
 (**/注記) この1918年1月の文章(演説)の結びの部分は、つぎのとおり(日本語版全集26巻482頁の訳による)。-「われわれは、革命の発展がどこまで大きくすすむかをはっきりと見きわめている。ロシア人が火蓋をきった。-ドイツ人、フランス人、イギリス人は完成させるだろう。そして社会主義は勝利するだろう。(拍手)」.
 (***/注記) 日本語版では「3月12日」ではなく、「3月11日」の論文とされている。
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 段落の途中だが、ここで区切る。
 レーニン死後の、「世界」・「一国」にかかるスターリンとトロツキーの間の論争?等についての、③へと、つづく。

1617/二党派と1905年革命②-L・コワコフスキ著17章1節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976, 英訳1978, 三巻合冊2008).
 第17章・ボルシェヴィキ運動の哲学と政治。
 前回のつづき。
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 第1節・1905年革命のときの分派闘争②。
 革命の結果、社会民主党は正式に再統合した。
 1906年4月のストックホルム大会で-メンシェヴィキ〔原義は少数派〕はかなりの多数派だったが旧名を維持した-、組織上の一体性が回復され、1912年にレーニンが最終的な分裂をもたらすまで、6年間続いた。
 イデオロギー上および戦術上の一体性は、しかしながら、なお不足していた。
 根本的な違いと相互非難はつづいた。レーニンは従来よりは、メンシェヴィキに関して粗野でなく侮蔑的でない言葉を用いたけれども。
 いずれの党派も、革命の結果は自分たちの理論を確認するものだと解釈した。
 レーニンは、ブルジョアジー(この場合はカデット)は瑣末な譲歩と引き換えにツァーリ体制と取引を始める用意がある、彼らは官僚制よりも民衆革命が怖ろしい、と主張した。
 彼は強く主張した。革命はまた、プロレタリアート以外に見込むことのできる唯一の勢力は、この段階では社会民主党の自然の同盟者である農民層だということを示した、と。
 他方で、メンシェヴィキの何人かは、ブルジョアジーを同盟者だと見なすようにしないで疎外するのを要求する過度の急進主義によって、第二の局面ではプロレタリアートが切り離されたがゆえに、革命は失敗した、と考えた。
 トロツキーは、1905年の諸事件に学んで、その永続革命の理論をより精確なものに定式化して、ロシアの革命はただちに社会主義の局面へと進化するに違いない、それは西側に社会主義的大激変を誘発するはずだ、と主張した。//
 かくして1905年革命後の時期には、旧い対立は残ったままで、新しい問題がそれぞれの考えにしたがって反応する二つの分派に立ちはだかった。
 メンシェヴィキは、新しい議会制度上の機会を利用する方向へと多く傾斜した。
 レーニンの支持者たちは、最初はボイコットに賛成し、ドゥーマに代表者を送ることに最終的に同意したとき、ドゥーマは社会改革の仕組みではなくて革命的な宣伝活動のための反響板だと見なした。
 メンシェヴィキは、革命の間の武装衝突に参加はしたけれども、武装蜂起を最後に訴えるべき方法だと考え、他の形態での闘いにより大きな関心をもった。
 一方で、レーニンには、暴力を用いる蜂起や権力の征圧は革命的目標を達成する唯一の可能な方法だった。
 レーニンは、プレハノフの『我々は武器を握るべきでない』との言葉に呆れて、メンシェヴィキのイデオロギー上の指導者がいかに日和見主義者であるかを示すものとして、これを繰り返して引用した。
 メンシェヴィキは、将来の共和主義的国家での最も非中央集権的な政府に賛成し、とりわけこの理由で、没収した土地を地方政府機関に譲り渡すことを提案した。国有化はブルジョアジーの手中に収まるだろう中央の権力の強化を意味することになる、と論拠づけることによって。
 (ロシア国家の『アジア的』性格は、プレハノフが非中央集権化に賛成したもう一つの理由だった。)
 レーニンは、国有化案を-つまり農民の土地の没収でも農村集団共有化でもない『絶対的地代』の国家への移転を-持っていた。彼の見方では、革命後の政府はプロレタリアートと農民の政府の一つになり、メンシェヴィキの主張には根拠がなかった。
 他のボルシェヴィキたちは再び、若いスターリンを含めて、没収した全ての土地を分配することを支持した。これは農民たちが現実に願っていることに最も近く、最終的には綱領に書き込まれた。
 メンシェヴィキは、ドゥーマの内外のいずれの者も、カデット〔立憲民主党〕との戦術的な連合の方に傾いていた。
 レーニンはツァーリ体制の従僕だとしてカデットを拒否し、1905年の後で主として労働者団(the Labour Gruop)(トルドヴィキ、Trudoviki)によって代表される農民たちと一緒に活動することを選んだ。
 メンシェヴィキは、全国的な労働者大会でプロレタリアートの幅広い非政党的組織、つまりは全国的なソヴェトの制度を作ることを計画した。  
 しかし、レーニンにとって、これが意味するのは党の排除であり、党を<何と怖ろしくも>( horribile dictu )プロレタリアートに置き換えることだった。
 レーニンはまた、ソヴェトは蜂起(insurrection)の目的にのみ用いられるものだと主張して、アクセルロート、ラリン、その他の労働者大会の提唱者を激しく攻撃した。
 『「労働者ソヴェト」代表たちとその統合は、蜂起の勝利にとって不可欠だ。勝利する蜂起は、不可避的に別の種類の機関を創出するだろう。』(+)
 (<戦術の諸問題>シンポジウムより、1907年4月。全集12巻p.332。〔=日本語版全集12巻「腹立ちまぎれの戸惑い」331頁。〕)
  (+秋月注記) 日本語版全集12巻(大月書店、1955/32刷・1991)を参考にして、ある程度は変更した。
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 ③へとつづく。

1589/七月三日-五日の事件①-R・パイプス著10章11節。

 前回のつづき。
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 第11節・七月3日-5日の出来事①。 
 臨時政府は、ボルシェヴィキがしようとしていることを7月2日に知った。
 7月3日に、ドヴィンスク(Dvinsk)の第五軍の司令部と連絡をとって、兵団出動を求めた。
 誰もが、進んで何かしようとは思わなかった。少なくともその理由の一つは、その承認が必要なソヴェトの社会主義者たちが、実力行使に訴える権限を与えるのを躊躇したからだ。
 7月4日の早い時間に、ペテログラード軍事地区の新しい司令官、P・A・ポロフツェフは、武装示威活動を禁止し、守備兵団に対して秩序維持を助けるよう『示唆する』声明を発表した。
 軍事参謀部は、街頭騒擾を抑圧するために使える軍力を調べて、ほとんどが存在していないことに気づいた。いたのは、プレオブランジェスキー守備連隊の100人、ウラジミール兵学校からの一隊、2000人のコサック兵、50人の傷病兵だった。
 守備軍団の残りは、反乱兵士たちとの対立に巻き込まれるようになるのを望まなかった。//
 7月4日は、平穏のうちに始まった。誰もいない街頭の不思議な静けさが、何かが始まるのを暗示しているようだった。
 午前11時、車に乗った赤衛軍と一緒に、機関銃連隊の兵士たちが、市の要所を占拠した。
 同時に、クロンシュタットからきた5000人から6000人の海兵が、ペテログラードに上陸した。
 彼らの指揮官のラスコルニコフはのちに、政府が地上の砲台から彼らの一つふたつの小型船を射撃して阻止しなかったことに驚いた、と語った。
 海兵たちは、ニコラエフスキー橋近くの上陸埠頭から直接にタウリダへと進むよう、命令を受けていた。
 しかし、彼らが隊列を整えたとき、ボルシェヴィキの使者が、命令は変更された、クシェシンスキー邸〔ボルシェヴィキ本部〕へと行くように、と伝えた。
 そこにいたエスエルは抗議したが、無視された。エスエルのマリア・スピリドノワは海兵たちに演説すべく来ていたが、聴衆はいないままで放っておかれた。
 軍楽隊を先頭にし、『全権力をソヴェトへ』と書く旗を掲げながら、長い一団の縦列になって、海兵たちは、ヴァシリエフ島と株式交換所橋を縦断し、アレクサンダー広場に着いた。そこから、ボルシェヴィキの司令部へと、進軍し続けた。
 そこで彼らは、バルコニーから、ヤコフ・スヴェルドロフ(Iakov Sverdlov)、ポドヴォイスキー(Podvoiskii)およびM・ラシェヴィッチ(Lashevich)の挨拶を受けた。
 クシェシンスキー邸にわずか前に到着していたレーニンは、言葉を発することについてはっきりせずにためらいを示した。
 レーニンは最初は、体調が悪いという理由で海兵たちに語るのを拒んでいたが、最後には屈して、若干の短い言葉を述べた。
 海兵たちを歓迎して、レーニンはつぎのように語った。//
 『起きていることを見て、嬉しい。二ヶ月前に打ち上げた全権力の労働者、兵士を代表するソヴェトへという主張が今や、理論的スローガンから現実へと転化しているのが分かって、嬉しい』。(163)//
 このような注意深い言葉ですら、誰の心にも、ボルシェヴィキがクー・デタを実行していることを疑う余地を残さなかっただろう。
 これは、レーニンが10月26日までに公衆の前に姿を見せた、最後のことになった。//
 海兵たちは、タウリダへと向かった。
 彼らが出立したあとでボルシェヴィキ司令部内部で起きたことについては、ルナシャルスキーに教えられたスハノフの文章によって分かる。//
 『7月3日-4日の夜、「平和的な集団示威行進」を呼びかける宣言書を<プラウダ>に送る一方で、レーニンは、心のうちにクー・デタの計画を具体化していた。
 政治的権力-実際にはこれはボルシェヴィキ中央委員会によって掌握される-は、傑出しかつ著名なボルシェヴィキ党員で構成される「ソヴェト」省によって公式に具象化される。
 この点で、三人の大臣が指名されていた。レーニン、トロツキー、そしてルナシャルスキー。
 この政府は、ただちに講和と土地に関する布令を発して、この方法で首都と地方の数百万人の共感を獲得し、それでもって政府の権威を強化する、ということとされていてた。
 レーニン、トロツキー、そしてルナシャルスキーは、クロンシュタットの海兵たちがクシェシンスキー邸を後にしてタウリダ宮へ向かったあとで、このような合意に達した。<中略>
 革命は、つぎのようにして、達成されるものとされた。
 クラスノエ・セロ(Krasnoe Selo)からの第一七六連隊-ダン(Dan)がタウリダを守護するために任されたのとまさに同じ連隊-が、〔ソヴェトの〕中央執行委員会メンバーを拘束する。
 まさにそのときに、レーニンが行動の現場に到着して、新政府の設立を宣言する。』(*)//
 海兵たちは、ラスコルニコフに率いられて、ネフスキー通りを行進した。
 彼らの隊列には、小さな分団と赤衛兵が配置されていた。
 先頭と最後尾には、武装した車が進んだ。
 男たちは、ボルシェヴィキ中央委員会が用意したスローガンを書いた旗を掲げた。
 ペテログラードの『ブルジョア』の中心部、リテイニュイに曲がって入ったとき、銃撃音が響いた。
 群衆は恐怖に囚われて、咄嗟に離れた。銃火は広く渡り、あらゆる方向に撒き打ちされた。
 一人の目撃者が窓から写真を撮り、ロシア革命の暴力に関する数少ない写真記録の一つを生んだ(図版第53〔秋月注記/本文中の写真-この書物の表紙に使われているもの〕)。
 銃撃が終わったとき、示威行進者たちは再び集まって、タウリダへの行進を再開した。
 彼らはもう秩序だった編成を維持しておらず、すぐに使えるように銃砲を持っていた。
 午後4時頃に、ソヴェト〔所在地〕に着いた。そこで、機関銃連隊の兵士たちから、大きな歓声で迎えられた。//
 ボルシェヴィキはまた、プティロフ〔企業名〕の労働者の大群団をタウリダ宮へと送り込んだ-その推算数には変わりがあり、1万1000人から2万5000人になる。(+)
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  (163) Chuganov, Revoliutionnoe dvizhenie v iiue, p.96。参照、Lenin, PSS, XXXIV, p.23-24、Flerovskii, in : PR = Proletarskaia revoliutiia, No. 7-54 (1926), p.77。
  (*) Sukhalov, Zapiski, IV, p.511-2。スハノフがこうした記憶を1920年に公刊したあとで、トロツキーは強く否定し、トロツキーに突つかれてルナシャルスキーもそうした。ルナシャルスキーはスハノフ宛ての手紙で、スハノフの記述には全く根拠がないと非難し、公刊すれば『歴史家としての不愉快な結果』になるだろうとスハノフを警告した(同上、p.514n.-p.515n.)。しかし、スハノフは撤回するのを拒否し、自分は正確にルナシャルスキーが語ったことを回想した、と主張した。
 だが、その同じ年にトロツキー自身が、あるフランスの共産主義者の出版物の中で、七月事件は権力奪取を-つまりボルシェヴィキ政府の確立を-意図していた、ということを認めた。
 『我々は、一瞬たりとも、七月の日々は勝利に至る前奏だということを疑わなかった』。Bulletin Communiste (Paris), No. 10 (1920年5月20日)。これは、以下で引用されている。Milorad M. Drachkovitch & Branko Lazitch, レーニンとコミンテルン, Ⅰ (Stanford, 1972), p.95。
  (+) Nikitin, Rokovye gody, p.133 は少ない数を、Istoriia Putilovskovo Zavoda 1801-1917 (モスクワ, 1961) は多い数を示す。トロツキーの8万という推算(ロシア革命の歴史 Ⅱ, p.29)は、全くの空想だ(fantasy)。
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 本来の改行箇所でないが、ここで区切る。②へとつづく。

1582/七月蜂起へ(2)①-R・パイプス著10章10節。

 前回のつづき。
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 第10節・蜂起の準備①。
 V・D・ボンシュ-ブリュヴィッチ(Bonch-Bruevich)によると、6月29日の夕方に、フィンランドのヴュイボルク市(Vyborg)近くのネイヴォラ(Neivola)の彼の別宅に、予期せぬ訪問者が現れた。ペテログラードから、小列車に少しばかり乗ってやって来ていた。
 それは、レーニンだった。
 迂回した経路を-『秘めたクセで』-旅したあとだったが、レーニンは、とても疲れた、休みが欲しい、と説明した。
 これはきわめて異様な行動で、レーニンの性格から全く外れていた。
 彼には、休暇をとるという習慣がなかった。1917年から1918年にかけての冬のような、疲労を感じた方がよかった重要な政治的事件の真っ只中ですら、そうだった。 
 レーニンの説明は、この場合について、きわめて疑わしい。レーニンが欠席したいと思っていたとは想定し難い、ペテログラード組織の大会を、ボルシェヴィキは二日のちには開くことになっていたからだ。
 レーニンの『陰謀めいた』行動はまた、当惑させるものだ。なぜなら、彼には自分の動きを隠すもっともらしい必要がなかったからだ。
 ゆえに、レーニンがペテログラードから突然に姿を消した理由は、別のところに求めなければならない。
 政府がレーニンがドイツと金銭上の取引をしている十分な証拠資料を得て、彼をまさに逮捕しようとしている、という風聞を彼が知った、というのがほとんど確実だ。//
 フランス諜報機関のピエール・ローラン(Pierre Laurent)大佐は、6月21日に、敵国〔ドイツ〕との取引を示す、ペテログラードのボルシェヴィキとストックホルムのその仲間たちとの間の14回の傍受した通信内容を、ロシアの防諜機関に渡した。すぐに、さらに15回分が増えた。
 政府はのちに、レーニンの第一のストックホルム工作員、ガネツキーを捕まえたかったのでボルシェヴィキの逮捕を遅らせた、と述べた。ガネツキーはロシアに次に来るときに有罪証拠となる文書を携帯しているはずだった、と。
 しかし、蜂起後のケレンスキーの行動を見てみると、政府が遅らせた背後には、ソヴェトを怒らせることへの恐怖があったと疑うに足る、十分な根拠がある。//
 しかし、6月末日には、訴追するための証拠は当局に十分にあり、7月1日に当局は、一週間以内に28名のボルシェヴィキ指導者党員を逮捕するように命じた。//
 政府内部の誰かが、この危険についてレーニンに察知させた。
 最も疑わしいのは、ペテログラード司法部(Sudebnaia Palata、高等裁判所)の他ならぬ長官の、N・S・カリンスキー(Karinskii)だ。ボンシュ-ブリュヴィッチによると、このカリンスキーは、レーニンはドイツ工作員だとして有罪視することを司法省が公的に発表する予定だと、7月4日にボルシェヴィキに漏らすつもりだった。
 レーニンもまた、6月29日に諜報機関員がスメンソンの尾行を始めたことを知らされて、警戒しただろう。
 何も他には、レーニンがペテログラードから突然に姿を消したことを説明していない。ロシア警察の手の届かないフィンランドに彼が逃亡したことについても、だ。(*)//
 レーニンは、6月29日からボルシェヴィキ蜂起が進行していた7月4日の早朝の時間まで、フィンランドに隠れた。
 七月の冒険(escapade)の準備へのレーニンの役割を、確定することはできない。
 しかし、現場に存在していなかったことは、彼が無関係だったと不可避的に意味させるわけではない。
 1917年の秋、レーニンはまたフィンランドに隠れていたが、なおも十月のクーへと導く諸決定に積極的な役割を果たした。//
 七月作戦は、政府が機関銃連隊を解散してその兵員を前線へと分散させようとしていることを、この連隊が知って、始まった。(**)
 ソヴェトは6月30日、軍事専門家と問題を議論するために連隊の代表者たちを招いた。
 その翌日、連隊の『活動家たち』は、自分たちの会合をもった。
 隊員たちの雰囲気は緊張していて、強熱的な焦燥の中にあった。//
 ボルシェヴィキは7月2日、人民会館(Narodnyi Dom)で、連隊との協同集会を組織した。
 外部の発言者は全てボルシェヴィキで、その中に、トロツキーとルナシャルスキー(Lunacharskii)がいた。
 ジノヴィエフとカーメネフは出席する予定だったが、おそらくはレーニンのように逮捕を怖れて、姿を見せなかった。
 トロツキーは5000人以上の聴衆を前に演説して、六月軍事攻勢について政府をなじり、権力のソヴェトへの移行を主張した。
 彼は連隊員に対して、多くの言葉を使って政府への服従を拒否するようにとは言わなかった。
 しかし、〔ボルシェヴィキ〕軍事機構は会合を開いて、つぎの趣旨の決議を採択した。その決議は『ニコライ、血の皇帝』の歩みに従うケレンスキーを非難し、全ての権力をソヴェトへと要求した。//
 連隊員たちは兵舎へ戻ったが、興奮して眠れなかった。
 彼らは徹夜で事態について議論し、その結果として、暴力行動を要求する声が挙がってきた。スローガンの一つは、『<ブルジョア>をやっつけろ(beat the burzhui)』だった。//
 集団暴行(pogrom)が行われていた。
 クシェシンスカヤ邸に集合したボルシェヴィキたちは、どう反応すればよいか分からなかった。加わるか、やめさせようとするか。
 ある者は、兵団は後退できないから、我々もあえて行動すべきだと主張し、別の者は、動くのは早すぎると考えた。
 そしてこのあと、民衆的な激しい怒りの波に乗って権力に昇るという願望と、自然発生的な暴力はナショナリストの反応を刺激してその最大の犠牲者は自分たちになるだろうという恐怖の間で、ボルシェヴィキたちは引き裂かれた。//
 ボルシェヴィキと機関銃連隊の連隊委員会は、さらに7月3日に、会議を開いた。その雰囲気は、農民反乱の前の村落集会と同じだった。
 主な発言者はアナキストで、中で最も著名なのは、『シャツを開けて胸を見せ、巻き毛を両側に飛ばしていた』I・S・ブレイクマン(Bleikhman)だった。彼は兵士たちに、武器を持って街頭に出て、武装蜂起へと進むことを、呼びかけた。
 アナキストたちは、こうした行動の客観的な目的については語らなかった。『街頭が自ら明らかにするだろう』。
 アナキストたちのあとのボルシェヴィキたちは、その問題を論じなかった。彼らはただ、行動する前にボルシェヴィキ軍事機構の指令が必要だと主張した。//
 しかし、連隊員たちは、前線での務めをやめると決意して、またアナキストに激高へと駆り立てられて、待とうとしなかった。
 彼らは満場一致で、完全武装をして路上に出動することを表決した。
 臨時革命委員会が選出されて示威活動を組織することになった。この委員会の長になったのは、ボルシェヴィキのA・Ia・セマシュコ(Semashko)中尉だった。
 以上は、午後2時と3時の間に起きた。//
 セマシュコと、何人かは軍事機構に属する仲間たちは、政府が抑圧行動をとっているかどうかを知るために、かつ自動車を取り上げるために、偵察兵を送り出した。
 彼らはまた、工場と兵舎およびクロンシュタットへ、使者を派遣した。//
 使者たちは、異なる対応を受けた。守備軍団の若干の兵団は、参加することに合意した。主としては、第一、第三、第一七六および第一八〇歩兵連隊だった。
 その他の兵団は、拒否した。
 プレオブラジェンスキー(Preobrazhenskii)、セメノフスキー(Semenovskii)およびイズマイロフスキー(Izmailovskii)の守備兵団は、『中立』を宣言した。
 機関銃連隊自体の中では、多くの隊員が、身体に暴力被害を受ける危険はあったが、線上で待ち構えることに投票した。
 結局、連隊の半分だけが、およそ5000人の連隊員が、蜂起に参加した。
 工場労働者の多くもまた、参加するのを拒んだ。//
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  (*) レーニンは5月半ばにはすでに、スットックホルムとの連絡が政府によって傍受されていることに気づいていた。レーニンは5月の16日付の<プラウダ>紙上で、『ロシア・スウェーデン国境を越えた』けれども、全ての手紙や電信類は掴みそこねた『カデットの下僕』を侮蔑した。Lenin, PSS, XXXII, p.103-4。参照、Zinoviev, in : PR = Proletarskaia revoliutiia, No. 8-9 (1927), p.57。
  (**) 7月のこの連隊の役割に関する最良の叙述は、資料庫文書にもとづく、P. M. Stulov in : KL = Krasnaia letopis', No. 3-36 (1930), p.64~p.125 だ。参照、レオン・トロツキー, ロシア革命の歴史 II (ニューヨーク, 1937) p. 17。
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 ②へとつづく。 

1580/七月蜂起へ(1)-R・パイプス著10章9節。

 前回につづく。
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 第9節・ボルシェヴィキによる新しい襲撃の用意。
 ロシア革命の事件のうち、1917年の七月暴動ほど、意図的に虚偽が語られているものはない。レーニンの最悪の大失敗だった、党をほとんど破滅させる原因となる誤った判断だった、ヒトラーによる1923年のビア・ホール蜂起と同等だ、という理由でだ。
 ボルシェヴィキは、責任を免れるために、七月蜂起は自然発生的示威行動でボルシェヴィキは平和的な方向に導こうとした、と異様に長々と偽りの説明をした。
 7月3-5日の行動は、予期される敵の反攻に備えてペテログラード守備軍団を前線に派遣するという政府の決定によって、突如として発生した。
 もともとは軍事上の配慮をして、この決定には、ボルシェヴィキの虚偽情報宣伝にきわめて汚染された首都の軍団を取り除くという意味もあった。
 この移動は、権力への次の企てのために使うつもりの実力部隊を奪われるおそれがあったので、ボルシェヴィキにとって、災厄を意味した。
 ボルシェヴィキは応えて、『ブルジョア』政府を攻撃し、『帝国主義的』戦争に抗議し、そして前線に行くのを拒否しようと強く訴える、猛烈な情報宣伝活動を守備軍兵団の間で行った。
 民主主義の伝統をもつならばどの国でも、戦時中にこのような反乱の呼びかけがあるのは耐え難いものだっただろう。//
 ボルシェヴィキへの支援の主要な基盤は、第一機関銃連隊にあり、ここに1万1340名の兵士とほぼ300名の将校がいた。後者の中には、多くの左翼知識人が含まれていた。
 この隊の多くの者は、能力欠如または不服従を理由として、元々の軍団から追い出されてきたよそ者だった。
 急進的な工場群近くのヴュイボルク地区の宿舎に住んでいる、内心では怒り狂っている大衆だった。
 ボルシェヴィキの軍事機構はここに、およそ30名から成る細胞を作った。それには若い将校も含まれていて、ボルシェヴィキは彼らに定期的に煽動技術の訓練をした。
 彼らは、アナーキストはもちろんだが、連隊の前で頻繁に演説をした。//
 連隊は6月20日、500人の機関銃兵団を前線に派遣せよとの指令を受けた。
 その兵団は翌日に会合をもち、『革命戦争』を闘うためだけに、つまり、『資本家たち』が除去された、ソヴェトが全権力をもつ政府を防衛するためだけに、前線へ行くという、-内容で判断するとボルシェヴィキに由来する-決議を採択した。
 決議が言うには、政府がその兵団を解散させようとすれば、連隊は抵抗することになる。
 連隊の別の諸兵団に対して、支援を要請する密使が派遣された。//
 この反乱で最大の役割を果たすボルシェヴィキは、慌てて行動をして愛国主義的反発を刺激してしまうのを懼れた。
 彼らには、ほんの僅かの刺激を与えても襲いかかってくる用意をしている、多くの敵がいた。
 シュリャプニコフ(Shliapnikov)によると、『生命の危険を冒させるにまで至らないと、ネフスキーに我々の支持者が出現することはなかっただろう』。
 そのゆえに、ボルシェヴィキの戦術は、大胆さに慎重さを結合するものでなければならなかった。彼らは、高いレベルの緊張を維持するために兵士や労働者のあいだで激しく煽動した。しかし、把握し切れずに反ボルシェヴィキの集団殺戮(pogrom)に終わるような衝動的な行動には反対した。
 <兵士プラウダ>は6月22日、党からの明確な指令がないままで集団示威活動をしないように兵士と労働者たちに訴えた。//
 『軍事機構は、公然と市街に出現することを呼びかけてはいない。
 かりに必要が生じれば、軍事機構は、党の指導組織-中央委員会およびペテログラード委員会-との合意の上で、公然と街頭へ出現することを呼びかけるだろう。』//
 ソヴェトへの言及は、なかった。
 この抑制した立場の呼びかけは、のちに共産党歴史家がボルシェヴィキ党には七月反乱についての責任がないとする証拠として引用するものだ。しかし、このことはいかなる種類の何をも、証明していない。たんに、党は事態をしっかりと掌握し続けたいと考えていた、ということを示すだけだ。//
 連隊での最初の不穏の波は、ボルシェヴィキが示威活動を思いとどまらせて落ち着いた。ソヴェトはボルシェヴィキの決議を是認するのを拒否した。
 連隊は、諦めて、500人の機関銃兵団を前線に派遣した。//
 このとき、ソヴェトも一緒になって政府は、クロンシュタットでも、暴乱の萌芽を抑圧した。
 ペテログラード近くのこの海軍基地の守備軍団は、アナキストの強い影響のもとにあった。しかし、その政治組織は、F・F・ラスコルニコフ(Raskolnikov)とS・G・ロシャル(Roshal)が率いるボルシェヴィキの手にあった。
 海兵たちには、不満があった。政府が、二月革命のあとで彼らが奪い取って司令本部にしていた元大臣のペーター・ドゥルノヴォ(Peter Durnovo)の邸宅から、アナキストたちを実力で追い出したからだ。
 その邸宅にいたアナキストたちはきわめて乱雑に振る舞ったので、6月19日に19の兵団が、邸宅を取り戻して占有者を拘束するために派遣された。
 そのアナキストたちに扇動されて、海兵たちは6月23日に、収監者を解放するためにペテログラードで行進しようとした。
 彼らもまた、ソヴェトとボルシェヴィキの協同の努力があって、抑制された。//
 しかし、温和しくしていたときでも、機関銃兵士たちは、絶え間なく続く扇動的情報宣伝の影響下にあった。
 ボルシェヴィキは全権力のソヴェトへの移行を主張しており、それにはソヴェトの再選挙、そしてソヴェトが排他的にボルシェヴィキの手に落ちることが続くことになっていた。
 ボルシェヴィキは、このことが直接に平和をもたらすことになると約束していた。
 彼らはまた、『ブルジョアジー』の『抹殺(annihilation)』を主張した。
 アナキストたちは兵士に対して、『ミリュコフ通り-ネフスキーとリテイニュイ-での集団殺害(pogrom)』を扇動した。//
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 第10節へとつづく。

1568/レーニンらの利点とドイツの援助①-R・パイプス著10章6節。

 第5節終了の前回からのつづき。第6節は、p.407~p.412。
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 第6節・ボルシェヴィキの権力闘争での利点とドイツによる財政援助。
 1917年の5月と6月、社会主義諸党の中で、ボルシェヴィキ党はまだ寂しい第三党だった。
 6月初めの第一回全ロシア・ソヴェト大会のとき、ボルシェヴィキには105人の代議員がいたが、これに対してエスエルは285人、メンシェヴィキは248人だった。(*)
 しかし、潮目はボルシェヴィキに向かって流れていた。//
 ボルシェヴィキには多くの有利な点があった。
 新しい臨時政府に対する唯一の対抗選択肢であり、決意があり権力を渇望する指導部をもつ、という独自の地位。そしてこれら以外にも、少なくとも二つの利点があった。
 メンシェヴィキとエスエルは社会主義的スローガンをまくし立てはしたが、それらを論理的な結論へと具体化することをしなかった。
 このことは支持する有権者たちを当惑させ、ボルシェヴィキを助けた。
 社会主義者たちは、二月革命以降のロシアは『ブルジョア』体制になり、ソヴェトを通じて自分たちが統制すると言ってきた。
 だが、そうであれば、なぜソヴェトは『ブルジョアジー』を除去して完全な権力を握らないのか?
 社会主義者たちは、戦争は『帝国主義的』だと称した。
 そうであれば、なぜ武器を捨てさせ、故郷に戻さないのか?
 『全ての権力をソヴェトへ』や『戦争をやめよ』のスローガンは、1917年の春や夏にはまだ一般に受容されていなかったが、確実に避けられない論理をもった-つまり、社会主義者たちが一般民衆の間に植え付けた考えの脈絡で、『意味』をもった。
 ボルシェヴィキは勇気をもって、社会主義者に共通の諸基本命題から、彼らがそれに実際に堪えることは決してないという明白な結論を抽出した。
 したがって、社会主義者がそうしてしまうことは、自分たち自身を裏切るのと同じになる。
 社会主義者たちは、レーニンの支持者たちが厚かましく民主主義的手続に挑戦して権力への衝動を見せたときいつも、そして何度も、やめよと語りかけ、だが同時に、政府が対応措置をとることを妨げることになった。
 社会主義者たちのたった一つの罪が危険ではない手法で同じ目標を達成しようとしたことにあるとすれば、彼らがボルシェヴィキに立ち向かうのは困難だっただろう。
 レーニンとその支持者たちは、多くの意味で、本当の『革命の良心』だった。
 多数派社会主義者には精神的臆病さと結びついて知的な責任感が欠如していたので、少数派ボルシェヴィキが根付いて成長する、心理的および理論的な環境が醸成された。//
 しかしおそらく、ボルシェヴィキがその好敵たちを凌駕する唯一かつ最大の有利な点は、ロシアに対する関心が全くないことにあった。
 保守主義者、リベラルたち、そして社会主義者たちはそれぞれに、革命が解き放ち国を分解させている個別の社会的地域的な利害を敢えて無視して、一体性あるロシアを守ろうとした。
 彼らは、兵士たちに紀律の維持を、農民たちに土地改革を待つことを、労働者には生産力の保持を、少数民族には自治の要求の一時停止を、訴えた。
 このような訴えは、人気がなかった。ロシアには国家や民族に関する強い意識がなかったので、中心から離れる傾向は増大し、全体を犠牲にした個別利益の優先が助長されていたからだ。
 ボルシェヴィキにとってはロシアは世界革命のための跳躍台にすぎず、彼らはこれらに関心がなかった。
 かりに自然発生的な力が現存の諸制度を『粉砕』してロシアを破壊すれば、それはきわめて結構なことだっただろう。
 こうした理由から、ボルシェヴィキは、全ての破壊的な傾向を完璧に助長し続けた。
 この傾向は二月にいったん解き放たれるや留まることを知らず、ボルシェヴィキは膨れあがる波の頂点に立った。
 自分たちは不可避的なものだと主張しつつ、統制されているという見かけをかち得た。
 のちに権力を掌握した際、すぐに全ての約束を破棄し、かつてロシアが知らなかった中央集中的な独裁形態の国家を作り上げることになる。
 そのときまではしかし、ロシアの運命に無関心であることは、ボルシェヴィキにとって、きわめて大きな、かつおそらくは決定的な利点となった。//
 (*) W. H. Chamberlin, The Russian Revolution, I (ニューヨーク, 1935) p.159。
 第一回農民大会には1000名以上の代議員が出席したが、そのうちボルシェヴィキ党は20人だった。同上、VI, No.4 (1957) p.26。
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 ②につづく。

1455/メンシェヴィキと決裂②-R・パイプス著9章6節。

 前回のつづき。
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 ソヴェトの出現を、レーニンは懐疑的に見ていた。というのは、ソヴェトは非パルチザンの労働者組織で、政党による統制の外にいるものだと、考えられていたからだ。労働者階級の融和主義者的な傾向を考えると、レーニンやその支持者たちには、ソヴェトは信頼できるものではなかった。
 ソヴェトが形成されたとき、いくらかのペテログラードのボルシェヴィキは、労働者に社会民主党に対する労働者組織の優位を認めれば、『任意性という意識に従属すること』-いい換えると、労働者を知識人の上に持ち上げること-を意味するだろうという理由で (70)-、ソヴェトをボイコットするように呼びかけた。  
 レーニン自身は、ソヴェトの機能や有用性を全く決定できなかったが、より柔軟だった。
 1906年のあとで結局、彼は、ソヴェトは有用だが、『革命軍』の協力者としてのみだ、と決定した。
 ソヴェトは革命(『暴乱』)に不可欠だが、それ自体だけでは何も役立たない。(71)
 レーニンはまた、自主規律をもつ組織だとソヴェトを見なすことも拒否した-ソヴェトの働きは、厳格な規律の武装分遣隊が実行する暴乱の『道具』として役立つことだ。//
 1905年革命の勃発とともに、彼は党の主要な部分から離れて、公然と自分自身の組織を形成するときがきた、と決心した。
 1905年4月に、レーニンはロンドンに、社会民主党の正当ではない『第三回大会』を招集した。代議員のすべて(38名)が彼の党派の構成員だった。
 クルプスカヤは、つぎのように言う。//
 『第三回大会には労働者はいなかった-とにかく、少しでも目立つ労働者は一人もいなかった。 
 しかし、大会には、多数の「委員会の者たち」がいた。
 第三回大会のこの構造を無視すれば、多くのことはほとんど理解できないだろう。』(72) 
 レーニンには、このような友好的会合で自分の全ての決定が裁可されるのに何の困難もなかった-その諸決定は、正当な社会民主主義労働者党-翌年のストックホルムでの決定でこう明確にされた-を拒絶した。
 第三回大会は社会民主党の正式な分裂の始まりという画期をなすものだった。それは、1912年に完了する。//
 レーニンは、1905年11月早くにロシアに戻って、翌月のモスクワ蜂起の準備を進めた。だが、射撃が始まるや否や、彼は姿を消すということになった。 
 モスクワでバリケードが築き上げられた翌日に(1905年12月10日)、彼とクルプスカヤはフィンランドに避難した。
 彼らは12月17日に帰ってきたが、それは蜂起が敗北したあとだった。//
 1906年4月に、ロシア社会民主党の二つの分派は、ストックホルムの大会で気乗りのしない再統一の試みをした。
 レーニンはここで中央委員会での多数派を獲得しようとし、失敗した。
 彼はまた、多くの実際的な案件についても敗北した。大会は、武装分遣隊の創設と武装暴乱の考えを非難し、レーニンの農業問題綱領を拒否した。
 レーニンは怯むことなく、メンシェヴィキからは秘密に、非合法で内密の『中央委員会』(『事務局(ビュロー)』の後継機関)を、彼の個人的指揮のもとに形成した。
 最初は明らかに3人で構成されていたようだが、1907年には15人へと増加した。(73)//
 1905年の革命の間とそのあとに、数万人の新たな支持者が入党に署名し、社会民主党の党員は多方面で増加した。そのうち最も多いのは、知識人だった。 
 二つの分派は、このときまでに、異なる様相を呈していた。(74)
 1905年のボルシェヴィキには8400人の党員がいた、と見積もられている。それは大まかには、メンシェヴィキや同盟主義者(Bundists)と同じ数だった。 
 1906年4月にあった社会民主党のストックホルム大会は、3万1000人党員を代表し、そのうち、1万8000人はメンシェヴィキで、1万3000人はボルシェヴィキだったと言われる。
 1907年には、党は8万4300人の党員を擁するように成長し-この数字は、立憲民主党(カデット)とほぼ同じだった-そのうち4万6100人はボルシェヴィキ、3万8200人はメンシェヴィキだった。また、2万5700人のポーランド社会民主党、2万5500人の同盟主義者および1万3000人のラトヴィア社会民主党が連携していた。
 この数字は、増大する波の最頂点の記録だった。 
 1908年に脱退が始まり、1910年のトロツキーの見積もりでは、ロシア社会民主党は、1万人かそれ以下の党員数へと衰退した。(75) //
 メンシェヴィキ、ボルシェヴィキの各分派の社会的および民族的な構成は、異なっていた。  
 両派が惹き付けた上級階層者(gentry, dvoriane)の割合は不均衡だった-全国民中の dvoriane の割合は1.7%であるのに対して、20%だ(ボルシェヴィキについてはさらに多く、22%。メンシェヴィキはやや少なくて、19%)。
 ボルシェヴィキの党員の中には、かなり高い割合で、農民がいた。38%は、この農民グループの出身で、これと比べると、メンシェヴィキの場合は26%だった。(76)
 彼らは社会主義革命党(エスエル)を支持する耕作農民ではなく、仕事を求めて都市に移ってきた、基盤なき、階級を失った農民たちだった。 
 この社会的過渡期の構成要素は、ボルシェヴィキ党派に多数の中枢党員を提供することとなり、ボルシェヴィキの精神性(mentality)に多大の影響を与えた。
 メンシェヴィキは、より多く、低層階級の都市居住者(meshchane)、熟練労働者(例えば、印刷工、鉄道従業員)および知識人や専門職業人を惹き付けた。//
  (73) Schapiro, 共産党, p.86, p.105。 
  (74) 以下の情報は、多くは、D. Lane, The Roots of Russian Communism 〔ロシア共産主義の根源〕(1969) から抜粋している。
  (76) D. Lane, 根源, p.21。
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 ③につづく。

1434/ロシア革命史年表③-R・パイプス著(1990)による。

Richard Pipes, The Russian Revolution (1990)の「年表」より。p.850-p.852。 〔〕は、秋月が補足・挿入。

 1917年〔8月末まで〕
「  1月27日 プロトポポフ、労働者集団を逮捕。
   2月14日 ドゥーマ、再開会。
   2月22日 ニコライ、モギレフへと出立。
   2月23日 国際婦人日と連携したペトログラードでの集団示威行進(デモ、Demonstrations)。
   2月24日 ペトログラードでさらに大きなデモ。
   2月25日 デモが暴力に変わる。ニコライ、力による鎮圧を命令。
   2月26日 ペトログラード、軍隊により占拠される。ヴォリンスキー連隊の一団が民衆に発砲し、40人死亡。パヴロフスキー連隊の一団、抗議して反乱。
   2月26日-27日の夜 パヴロフスキー連隊兵団、徹夜で会合し、対民間人発砲命令に対する不服従を票決。
   2月27日 ペトログラードの大部分、反抗する守備部隊の手中に。政府の建築物が燃焼。ニコライ、混乱を収拾する特殊兵団を率いてペトログラードへと進むよう、イワノフ将軍に命令。メンシェヴィキ、ソヴェト代議員選挙を要求し、夕方に、ペトログラード・ソヴェトの会合を組織。
   2月28日 ニコライ、早朝にツァールスコエ・セロに向かう。ドゥーマの年長者議員会議が行われ、臨時委員会を設立。ペトログラードの全域で、工場や軍駐屯地がソヴェトへの代議員を選出。ソヴェトの最初の幹部会合。混乱がモスクワへと広がる。
   2月28日-3月1日の夜 皇帝列車、停止。プスコフへと方向転換。
   3月 1日 イスパルコム(Ispolkom 〔ペトログラード・ソヴェト執行委員会〕)、ドゥーマの臨時委員会との合意の基盤とする9項目綱領を起草し、第一命令を発布。ニコライ、夕方にプスコフに到着、ドゥーマによる内閣形成を求めるアレクセイエフ将軍の懇願に同意し、イワノフ将軍に任務終了を命令。モスクワ・ソヴェトの設立。
   3月1日-2日の夜 ドゥーマとソヴェト代議員、9項目綱領を基礎に合意を達成。ランスキー将軍がモギレフで、ドゥーマ議長・ロジアンコと電信による会話。
   3月 2日 G・E・ルヴォフを議長として臨時政府設立。アレクセイエフは前線の兵団長たちと連絡をとる。ニコライ、子息への譲位に同意。シュルギンとグシュコフがプスコフへと出発。ニコライ、帝室医師と子息について会話し、弟・ミハイルに譲位すると決めたとシュルギンとグシュコフに伝える。退位声明に署名。ウクライナのラダ(ソヴェト)、キエフで設立。
   3月 3日 臨時政府がミハイルと会見し、帝位を放棄するように説得。 
   3月 4日 ニコライの退位宣言とミハイルの帝位放棄が公表される。臨時政府、警察部局を廃止。
   3月 5日 臨時政府、官僚と幹部職員の全員を解任。
   3月 7日 イスパルコム、臨時政府を監視する『連絡委員会』を設置。
   3月 8日 ニコライ、軍兵士たちに別れを告げることを懇願、逮捕されたままでツァールスコエ・セロに向かう。
   3月 9日 合衆国〔アメリカ〕、臨時政府を承認。
   3月18日 イスパルコム、全ての社会主義政党が3名の代議員を出す権利があると決める。
   3月22日 ミリュコフ、ロシアの戦争目的を明確にする。
   3月25日 臨時政府、穀物取引の国家独占を導入。
   3月 末  イギリス、皇帝一族を保護すべく撤退を提案。
   4月 3日 レーニン、ペトログラードに到着。
   4月 4日 レーニン『四月テーゼ』。
   4月21日 最初のボルシェヴィキのデモ、ペトログラードとモスクワで。
   4月26日 臨時政府、秩序維持能力の欠如を認める。
   4月28日 ボルシェヴィキ、赤衛軍(Red Guard)を組織。
   4月 初期 ソヴェト・全ロシア協議会、ペトログラードで開会。ソヴェト・全ロシア中央執行委員会(CEC)を形成。
   5月 1日 CEC、メンバーの臨時政府参加を容認。   
   5月4日-5日の夜 ルヴォフのもとで連立政権の形成、ケレンスキーは戦争大臣、6人の社会主義者が閣内に。 
   5月    トロツキー、ニューヨークからロシアに帰還。
   6月 3日 第1回全ロシア・ソヴェト大会、開会。
   6月10日 CECの圧力により、ボルシェヴィキが政府転覆の考えを放棄。
   6月16日 ロシア軍、オーストリアへの攻撃を開始。
   6月29日 レーニン、フィンランドへ逃亡、7月4日朝までとどまる。
   7月 1日 臨時政府、ボルシェヴィキ指導者の逮捕を命令。
   7月2-3日 ペトログラード第一機銃連隊の反乱。
   7月 4日 ボルシェヴィキの蜂起、レーニンがドイツと交渉するとの情報により鎮圧される。
   7月 5日 レーニンとジノヴィエフ、最初はペトログラードに、のち(7月9日)首都近くの田園地域に隠れる。最後に(9月)、レーニンはフィンランドへ。
   7月11日 ケレンスキー、首相に。
   7月18日 コルニロフ、最高司令官に指名される。
   7月 末  第6回ボルシェヴィキ党大会、ペトログラードで。
   7月31日 ニコライとその家族、トボルスクへ出立。
   8月 9日 臨時政府、憲法制定会議(Constituent Assembly)の選挙を11月12日に行い、11月28日に同会議を招集する予定を発表。
   8月14日 モスクワ国家会議、開かれる。コルニロフ、騒然として迎えられる。
   8月20-21日 ロシア軍、ドイツに対してリガを放棄。 
   8月22日 V・N・ルヴォフ、ケレンスキーと会合。
   8月22-24日 モギレフのザヴィンスキー、コルニロフにケレンスキーの命令を渡す。
   8月24-25日 ルヴォフ、コルニロフと逢う。
   8月26日 ルヴォフ、ケレンスキーにコルニロフの「最後通告」文を伝える。ケレンスキー、コルニロフと電話会談。ルヴォフ、逮捕される。 
   8月26日-27日の夜 ケレンスキー、内閣から独裁的権力を確保。コルニロフを解任。 
   8月27日 コルニロフ、反逆者とされる。コルニロフ暴乱、武装団にコルニロフに従うよう求める。
   8月30日 臨時政府、7月蜂起によりまだ収監中のボルシェヴィキの解放を命令。」
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 *1917年9月以降につづく。

1432/ロシア革命史年表①-R・パイプス著(1990)による。

 ロシア革命の歴史年表については、昨年10/22の<日本共産党の大ウソ30>の中にその一部を記しているが、研究者による本格的で詳しい年表があるので、以下に、そのまま翻訳して記載しておく。
 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990)。これは本文842頁、その後の注・索引等を含めて946頁、最初の目次等を含めると計960頁を超えそうな大著で、邦訳書はない。
 以下は、この著のうち、p.847-p.856の「年表」の一部で、今回①は、p.847からp.849の一部まで。
 なお、上の著はおよそ1919年くらいまでを対象としており、別著の、Richard Pipes, Russia under Bolshevik Regime (1995、<ボルシェヴィキ体制下のロシア>)と併せて、おおよそスターリン期開始まで(あるいはレーニン死去まで)の、Richard Pipes の広義の<ロシア革命史>叙述が完成している。
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 「年表(Chronology)
 この年表は、この本で対象とする主要な諸事象を列挙する。別のことを記載しないかぎり、1918年2月以前の月日は、ユリウス暦(『旧暦』)により記す。この日付は、19世紀の西洋暦よりも12日遅く、21世紀のそれよりも13日遅い。1918年2月からの月日は、西洋暦に一致する『新暦』で記される。
 1889年
  2月-3月 ロシアの大学生たちのストライキ。
  7月29日 不穏学生を軍隊に徴用する権限を付与する「暫定命令」。
 1900年 
 政府、Zemstva の課税権を制限。
 11月 キエフ、その他の大学で騒乱。
 1901年
  1月11日 183名のキエフの学生を軍隊に徴用。
  2月    教育大臣・ボゴレポフの暗殺。警察支援の(Zubatov)商業組合が初めて設立。
 1902年 
 1901-2年の冬 ロシア社会民主党(PSR)の結成。
  6月    リベラル派、ストルーヴェの編集により隔週刊雑誌 Osvobozhdenie(解放)をドイツで発行。
  3月    レーニン『何をなすべきか ?』
  4月 2日 内務大臣・シピアギンの暗殺。プレーヴェが後継者。
 1903年
  4月 4日 キシネフの大量殺害。
  7月-8月 ロシア社会民主党第二回(創設)大会。メンシェヴィキ派とボルシェヴィキ派に分裂。
   7月20-22日 解放同盟、スイスで設立される。
1904年
  1月 3-5日 解放同盟、ペテルスブルクで組織される。
  2月 4日  プレーヴェ、ガポンの集会開催を承認。
  2月 8日 日本軍、旅順を攻撃。露日戦争の開始。
 7月15日 プレーヴェの暗殺。
  8月    ロシア軍、遼陽で敗戦。
 8月25日 スヴィアトポルク-ミルスキー、内務大臣に。
 10月20日 解放同盟第二回大会。
 11月 6-9日 Zemstvo 大会、ペテルスブルクで。  
 11-12月 解放同盟が全国的な夕食会宣伝活動を組織。
 12月 7日 ニコライと高官が改革綱領を討議。国家評議会に被選挙代議員を加える考えを拒否。
 12月12日 改革を約束する勅令公布。
 12月20日 旅順、日本軍に降伏。
 1905年
  1月 7-8日 父ガポンによりペテルスブルクで大産業ストライキが組織される。
  1月 9日 血の日曜日。
  1月18日 スヴィアトポルク-ミルスキー解任、ブリュイギンに交代。
  1月10日以降 ロシア全域で産業ストライキの波。
  1月18日 政府がドゥーマの招集を約束し、苦情陳述請願書を提出するよう国民に求める。
  2月    ペテルスブルクの工場で政府後援の選挙。   
  2月    ロシア軍、瀋陽(ムクデン)を放棄。
 3月18日 全高等教育機関が在籍年限を超えた者に対して閉鎖。 
 4月     第二回Zemstvo 大会、憲法制定会議を要求。
  春     6万の農民請願書が提出される。
  5月 8日 組合同盟がミリュコフを議長として設立される。
  5月14日 ロシア艦隊、対馬海峡の戦闘で破滅。D・F・トレポフ、内務大臣代行に。
 6月    オデッサでの反乱と虐殺。戦艦ポチョムキンでの暴動。
 8月 6日 ブリュイギン、(諮問機関的な)ドゥーマ開設を発表。
  8月27日 政府が寛大な大学規制を発表。
  9月 5日(新暦) 露日講和条約に署名、ニューハンプシャー・ポーツマスで。
  9月    学生が労働者に大学施設を開放。大衆煽動。
  9月19日 ストライキ活動の再開。
 10月 9-10日 ウィッテ、ニコライに大きな政治的譲歩を強く求める。
 10月12-18日 立憲民主党(カデット、Kadet)結成。
 10月13日 ペテルスブルクで中央ストライキ委員会設立、まもなくペテルスブルク・ソヴェトと改称。
 10月14日 ストライキにより首都が麻痺。
 10月15日 ウィッテ、十月マニフェストの草案を受諾。
 10月17日 ニコライ、十月マニフェストに署名。
 10月18日以降 反ヤダヤ人・反学生の虐殺。地方での暴乱が始まる。
 10月-11月 閣僚会議議長・ウィッテ、内閣に加入すべき民間人との討議を開始。
 11月21日 モスクワ・ソヴェト設立。
 11月24日 定期刊行物の事前検閲を廃止。
 12月 6日 ペテルスブルク・ソヴェト、ゼネ・ストを指令。
 12月 8日 モスクワ武装蜂起が鎮圧される。
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*1906年以降につづく。
 

1417/国家・共産党・コミンテルン04。

 一 関心は多岐にわたるので、一回少し寄り道する。
 日本人の多くは、「法」と「法律」を混用している。
 渡部昇一が現憲法は「占領基本法」にすぎないというとき、やはり、「法」と「法律」の区別をおそらく知らないままで、「基本法」という言葉を用いている。
 このような混用は、国会制定法という意味での「法律」でありながら、名称としては「法」を用いる、つぎのような、日本国憲法と同時に施行された、又は同年の1947年に公布又は施行された「法律」であるが名称には「法」が用いられるものがある、という日本の(厳密には適切とは思えない)「立法」実務も大きな原因になっている。
 ついでながら、現憲法は「無効」でいったんは大日本帝国憲法を復活させなければならないとすれば、以下のような<占領下>の法律も、少なくともそれがGHQの意向によって<実質的に、又は骨格部分を押しつけられた>とすれば(独占禁止法は全体としてそれに近いだろう)、現憲法と同じく「無効」で旧帝国憲法下のそれら(又は対応する法律等)にいったんは戻る必要があるはずだ。
 しかし、そんな主張を渡部昇一らはしておらず、下記の諸法律は<改正>されてきている(すなわち、<有効>であることを前提として内容が改められてきている)。
 また、内閣法・国会法・裁判法・地方自治法・民法改正・国家賠償法等は、実質的に日本国憲法の新条項を実施するための、新憲法を「補完」するものだった(「憲法付属法律」という概念もあるらしい)。
 そして改正されているが(法律によって頻度はかなり違う)、渡部昇一らは本来又は原理的に「無効」のはずだ、という主張をしてきていない。
 こんなところにも、渡部昇一による議論の<幼稚さ>が明らかに示されている。
 参考/同日施行-内閣法、国会法、裁判法、地方自治法、7月-独占禁止法、9月-労働基準法、10月-国家賠償法、刑法改正、12月-児童福祉法、食品衛生法、民法改正(家族法部分)。
 二 「法」と「法律」の区別の分かりにくさは英米にもあるようで、前者はlaw だが、後者は a law とか laws と称するらしい。Act も「法律」を意味することがあるようだ。Rule of Law というときの「法」は前者だ。
 これと違って、フランス、ドイツ、ロシアでは、「法」と「法律」が別の言葉である、とされる。
 フランス語では、法は droite、法律は loi(ドロアとロア)。ドイツ語では、法は Recht、法律は Gesetz(レヒトとゲゼッツ)。ロシア語では前者はpravo、後者は zakon(但し、ロシア文字を使わないで普通のアルファベットで標記した場合)。
 ロシア語については、渋谷謙次郎・法を通してみたロシア国家(ウェッジ、2015)の最初の方を参照した。所在が現時点で不明になったので、頁を特定できない。 
 三 こんなことを書くのも、R・パイプス(西山克典訳)・ロシア革命史(成文社、2000)を原書も参照しつつ読んでいると、「布告」(又は「布令」 ?)と訳されているのは、原書の英語ではDecreeというものだからだ。
 このDecree に該当する、かつよく似たドイツ語はないと見られる。最も対応するのは、Verordnung だろう。
 これに対して、米語(英米語)のDecree(ディクリー) とどちらが語源的に先なのかは知らないが、フランス語にはまさに Decret (デクレ)という語があり、かつ意味も同じだと見られる。
 正確に確認はしないが、大統領令または首相府令のいずれか又は両者に、その「令」の部分についてDecret という語が現在でも用いられているはずだ(正確には、語頭は小文字)。
 つまり、ロシア「革命」直後のソヴナルコムの「布告」とは、現在的視点でいうと、又はこの当時でも<権力分立>が採用されていた国家についていうと、行政権・行政部又は行政機構・機関による「立法」(行為)を指す。
 ロシアのソヴナルコムの立法的行為をまたはその所産を「法律」と訳すと、誤りだろう。ロシア語で当時に何と呼ばれたかは知らないが、現在は「法律」の意味らしい Zaconではなく、英米語の Decreeに当たるものなのだろう。従って、西山克典の「布告」(又は「布令」)という訳は適切だ。
 四 ロシアにおいて、国民・住民全体(いわゆる有権者に限るが)が代議員・代表者を決めるために選挙を行ったのは、20世紀前半では1917年11月の「憲法制定会議」議員選挙が最後で、以降、ソ連の解体までは、国民・住民全体を代表する代議員から成る「議会」が置かれなかった。
 つまり、実質的にいう立法権も行政権も、当初は実質的に(ソヴェト中央執行委員会=CECではなく)ソヴナルコムに属し、半年ほど後には、さらに実質的には一括してロシア共産党(・レーニン)に移ったのだった。
 ソ連史の分かりにくさは、このあたりにもある。じつはR・パイプスはソヴナルコムの権能について Legislation という言葉を使い、西山訳書は「立法」と訳しているのだが、これらを通常の又は今日的意味での「立法」、つまり議会(・国会)が制定する法規範と理解してはならない。
 なお、<ソヴェト>は農民・企業経営者等を代表しておらず、<議会>ではない。
 そもそも<工場労働者>(プロレタリアート)の存在すら稀少だったとされるので、<労働者・小農>層を代表していた、というのも誤りだとする見解が多いが、別に書くだろう。
 スターリン期以降のソ連については読書不足だが、かりに<全人民代表者大会>(現在の共産中国の<全人代>参照)なるものが開催されていたとかりにしても、全く形骸化しており、<拍手で、又は挙手で>裁可・承認するだけの(いわゆる西側の「議会」を意識した)飾り物的機関だっただろう。
 元に戻ってさらにいうと、この欄でこれまで言及していないが、旧帝制下の「司法・裁判所」制度も「10月革命」後に早々に解体され、<人民法廷>とか<革命裁判所>というものが取って代わる。
 これらの上部機構は司法人民委員部(司法省・法務省)で、当然に司法人民委員(司法大臣)が長。そしてこれは、人民委員会議(ソヴナルコム)の一員。
 要するに、ロシア・ソヴェト国家には<権力分立>などはなかったのだ。R・パイプスが言うように、11年間ほどの辛うじての立憲主義・Constitutionalism は、それすらもレーニン政権誕生とともに消え失せた。
 五 ロシアが先ず資本主義から社会主義への道を切り拓いたとする見解によれば、立憲主義も権力分立も<ブルジョア>的なもので、「革命」とともに廃棄(止揚)された、と言うのだろう。
 いやまさしく、上の時代に、レーニンはそのように言明していた。
最終的には、選挙結果にもとづいていったん招集された憲法制定会議の続行を<実力(=暴力)>でもって中止させ、「解散」させたのは、レーニンの「議会」観によるとされる。
 さらにそれは「立法」と「行政」とを同時に一度は掌握したパリ・コミューンを讃えたマルクスに行きつく、とされる。E・H・カー・ロシア革命第1巻(みすず書房、1967)の該当箇所参照。
 レーニン・ボルシェヴィキにとって<全ての権力をソヴェトへ>こそがその意思であり、決して当時の(むしろ数的には優位の)議会設置擁護の社会主義者たちが主張したような<全ての権力を憲法制定会議へ>ではなかった。後者は、汚れた<資本家たち>のスローガンだとされた。
 「立憲主義」を良きものとする雰囲気が日本の「左翼」には強い。本気で、純粋無垢にそう思っている学者さまたちもいるのだろうが、<共産主義>者にとっては、(本質的に資本主義に対応した)「議会」も「立憲主義」も、それほど「良き」ものではないと扱われたことを、<レーニン主義>およびソ連の歴史は明らかにしている。
 ロシア「革命」は社会・歴史の<進歩>だったのかと、心の奥底では親社会主義の、または「共産主義」幻想をもつ日本の「左翼」の人々は真剣に自問しなければならない。<進歩>か否かという発想自体、本来は秋月の関心事項ではなくなっているのだが。
 上の発問をしても、日本共産党の党員(学者・研究者を含む)は、もう遅いかもしれない。

1416/国家・共産党・コミンテルン03。

 一 前回の最後の方で自らの文章として書いたのは、やや先走りすぎている。
 国家と共産党の分離は、有利なことがあった、と言われる。
 つまり、とくに欧州諸国内でのロシア(・ソ連)共産党の活動を、ロシア・ソ連国家(・政府)の活動ではない、<私的な>活動だと言い張れた、又は言い張ろうとした、ということだ。
 その延長が1919年のコミンテルンの結成で、当時の<社会主義国>はソ連一国だつたはずなので社会主義諸国家の連合体又は協議機関だったはずはなく、諸国家の共産党の連合体、実質的にはロシア(・ソ連)共産党を指導者とする、ロシア防衛と<社会主義革命>の輸出のための機関だった。この最後の部分は世界(欧州)同時革命か一国革命か、という論点にかかわるが、立ち入らない。
 二 さて、「10月革命」以前は「臨時政府」系統外の<私的>機構・組織だったソヴィエトは、ボルシェヴィキ派が形成した(と思われる)「軍事革命委員会」の実力行使の結果として国家系統の、国家「権力」の淵源である機構・組織に変わった。
 (ソヴィエト総会)-(代議員による)ソヴェト大会-CEC(元イスパルコム)、そしてさらに、CEC(元イスパルコム)-ソヴナルコム(人民委員会議=政府)、という一つの=国家・政府系統の「ライン」がある。
 だが、一方には、共産党中央委員会(「首領」はレーニン)-ソヴナルコム(人民委員会議=政府)という党系統の「ライン」もある。ソヴナルコムの議長(首相)はレーニン。
 もう一つの可能性として、憲法制定会議-議会設立-政府成立、というラインもありえたはずだったが、この点は先送りする。
 三 「10月革命」成功・ソヴナルコム成立の翌日1917年10月27日、教育人民委員(文部大臣)・ルナチャルスキーは、<ボルシェヴィキと左派エスエルの機関誌>以外の出版物発行を禁止する布告を発表する(レーニンの署名あり)。
 ボルシェヴィキはソヴナルコムの「立法」権を認める。
 これに対して、「社会主義者たち」は、CEC(元イスパルコム)こそが「社会主義者の一種の国会」だと考えていた。
 11月4日、「最初にして最後に」、レーニンとトロツキーが姿を現したCEC(ソヴィエト・中央執行委員会)で、左派エスエルはソヴナルコム(政府)の布告による統治をやめるように求め、レーニン(ソヴナルコム議長)の説明には納得できない旨の動議を提出し、ボルシェヴィキは「全ロシア・ソヴェト大会の全体的な政綱の枠内」でのソヴナルコムによる布告発令を「ソヴェト」側は「拒絶」できない旨の反対動議を提出した。
 ボルシェヴィキ選出委員のうち9名が「変節」してレーニン側を支持したため、左派エスエルの動議は25対20で敗れた。9名のうち4名はもともとはレーニンによる<連立政府の形成の拒絶>に反対していた(つまり左派エスエルと協力し、その支持をえて「統治」しようとする見解だった)。
 一方、ボルシェヴィキ側の反対動議を明確に支持するか否かの票決の予想は23対23だったので、レーニンとトロツキーが採決に加わることを宣言して、25対23でボルシェヴィキが勝った。ソヴナルコムは同日夜、その布告(Decree)が「臨時労農政府通報」に掲載されれば「法としての効力」(Force of Law)をもつと表明(announce)した。「10月革命」後、わずか1週間ほど後。
 その後1918年6-7月までにCEC(ソヴィエト・中央執行委員会)からボルシェヴィキ以外の党派は放逐され、CECは、ボルシェヴィキの委員がソヴナルコムの決定を、したがってボルシェヴィキ中央(共産党中央委員会)の意向を「機械的に裁可」する機関に完全変質する。
 パイプスによれば、1921年には、CECは「わずかに三回」だけ招集された。
 CEC内部での「党争」にもっと言及する必要はあるが、それに勝利しCECを完全に掌握することによって、共産党の意思はソヴナルコム(政府)の意思と同じになった。<一党独裁>制度の完成だ。「10月革命」後、わずか7カ月程度。
 パイプスによれば、ロシアは1905年以前の帝制時代と同じ「布令(布告)」による統治の時代に戻り、ボルシェヴィキ・共産党は「11年間の立憲主義(constitutionalism)を、全く拭い去った(wiped)」。
 11年間とは、日ロ戦争敗北後の「1905年革命」の所産として、「国会(下院・ドゥーマ)(The State Duma)」が開設されていた1906年以降のことをいう。この国会とは、皇帝(ツァーリ)の権能をある程度制限する力をもっており、ロシアはある程度は<立憲君主制>だったとも言える。但し、日本の明治憲法下の国制・法制と同じはない(これについて長い論文が書けるだけの論点があるだろう)。
 以上、紹介者自身の表現を除いて、R・パイプス〔西山克典訳〕・ロシア革命史(成文社、2000)p.163-5、p.59-61。原書では、p.153-6、p.45。
 このような経緯の背後には、重要な事象も発生し、又は継続していた。
 「10月革命」勃発は第一次大戦の途上で、ドイツ帝国軍等と戦闘しており、臨時政府およびソヴェトの大勢は<継戦>を支持していた。ボルシェヴィキのさらに一部が休戦・和平を主張した。翌1918年3月に、ドイツとの講和条約(英仏ら連合国から見ると「戦線離脱」)。
 全ロシア全域に<新しい秩序>が形成されていた、つまりボルシェヴィキ・共産党が全域を<平穏に支配・統治>していた、というわけでは全くなかった。
 憲法制定評議会がどうなったかも触れておかないと、国家と共産党の問題に言及したことにならないだろう。
 戦時中だったロシア帝国軍(兵士)をどうやってボルシェヴィキ・共産党は制御し、「10月革命」時の<反革命軍>にしなったか、という問題もあり、パイプスも論及しているが、この点は省略する。

1415/国家と共産党-ロシア-02。

 一 つづき。 
 ペトログラード・ソヴェトは当初は同市(首都)でのみ活動したが、他都市のソヴィエト・前線部隊(後者は説明が要るが省略)の代表も加えて「全ロシア労兵ソヴェト」となり、その「イスパルコム」(執行委員会)は「全ロシア(All-Russian)中央執行委員会」(CEC=Central Executive Committe)と自らの名前を変更した。
 その構成員72名のうち、メンシェビキ23、エスエル(社会革命党)22、ボルシェヴィキは12名。ソヴェト総会も開かれたが(3月-4回、4月-6回)、CECの提案を「拍手喝采」で承認するだけの力になる。
 イスパルコム=CECの構成員には農民代表者はいない。それと「ブルジョアジー」が除外されているので、「全ロシア・ソヴェト」およびCECは、「全ロシア」住民の「せいぜい10-15%を代表」したにすぎない。
 以上、R・パイプス〔西山克典訳〕・ロシア革命史(成文社、2000)p.108。
 原書である、R.Pipes, A Concice History of the Russian Revolution (1995)では、p.94-95。
 二 その後(レーニン「4月テーゼ」・ケレンスキー政府首班の約束等々)および「10月革命」事件でのソヴェト等と「政府」の関係・役割については、以下の一部を除き、別途、<権力奪取>の具体的な様相を語る中で言及することにしよう。相当に興味深い<ドラマ>ふうだ。
 三 ボルシェヴィキは、各および全ロシア・ソヴェトのイスパルコム又はCECの多数を獲得するかこれを強引に屈服させることによって、結果としてソヴェト全体を支配するようになり、ソヴェトのもとに首都防衛名目の「防衛に関する革命委員会」=「軍事革命委員会」を設置することを、メンシェビキの反対を押して、ソヴェト総会で是認させた(1917年10月9日、p.150)。
 1917年10月26日、ソヴェト第2回大会開催中に、「軍事革命委員会」部隊による市内要所占拠、臨時政府閣僚逮捕・拘束、「冬宮」占拠という<ほとんど無血の><実力行使>が完了した(10月「革命」又は政変・クー・デタ)。
 その前の24日に、レーニンはつぎの宣言を起草していた。
 「臨時政府は廃された。政府の権力はペトログラード労兵ソヴェトの機関であり、ペトログラードのプロレタリアートと守備隊の先頭に立つ軍事革命委員会に移った。…。」
 <宣言>なので、実際に「プロレタリアート」なるものの「先頭に立つ」のかどうかは疑問視できる。
 また、パイプスによれば-秋月の言葉を挿むと<法的>または<国制>の観点からは-、「ボルシェヴィキの中央委員会を除き、誰もそうすることを正当と認めていなかった一機関が、ロシアの最高権力を掌握した、と宣言した」。
 以上、p.153-6、原書p.143-6。
 第2回ソヴェト大会が再開され、諸「布告」(Decree)発布が承認され、憲法制定会議招集までの暫定政府になる「はず」の、新しい「臨時政府」閣僚候補者名簿が発表され、承認された。
 この<暫定・臨時>の「はず」の「政府」または「内閣」は「ソヴナルコム」(Sovnarkom)と呼ばれた。パイプス(および訳者・西山)も同様だが「人民委員会議」(Council of People's Comissars)とも訳される。
 議長(首相)はレーニン、内務人民委員(内務大臣)はルイコフ、外務人民委員(外務大臣)はトロツキー。スターリンは、いわば民族問題担当長官。
 新しいソヴェト・イスパルコム(CEC)も形成された。ボルシェヴィキのみによらず、101名のうち、ボルシェヴィキ62名、左派エスエル(左翼社会革命党)29名など。イスパルコム議長は、カーメネフ。
 以上、p.156-7。
 四 1918年3月にボルシェヴィキは「共産党」と名乗る。同月に-民族諸問題の一定の解決を経て-ロシア・ソヴェト連邦社会主義共和国成立・同憲法発布。
 この憲法は実質的には左派エスエルの支持も受けていた。だが、同党はもちろん共産党や政党には触れていない。
 また、「ソヴェト」については明確に語り、「全ての権力をソヴェトに」旨を規定したが、各(村・郡・県・中央)ソヴェトの関係、ソヴェトと「(中央)政府」の関係も曖昧なままで、パイプスによれば、「その憲法が真剣に受けとめられることを意図していなかった」、という(p.161-2)。 
 五 関心を惹くのは、1917.10政変以降、少なくとも「内戦」終了頃までの、国家またはソヴェトと「政府=ソヴナルコム・人民委員会議」の関係およびこれらと共産党(ボルシェヴィキ)の関係だ。このあたりは、ロシア革命等に関する諸文献でも分かりにくい。
 R・パイプスは訳書p.163-165(原書p.154-)で、つぎのように説明している。
 ソヴェトの中央執行委員会であるCEC(イスパルコム)は、ソヴェト大会が創設したソヴナルコム」(人民委員会議=政府・内閣)の「行動と構成に関する監督権」を持った。
 しかし、上はレーニンが自ら提案したものだったが、レーニンもトロツキーも、できるかぎり早く、「人民委員会議」をソヴェト(・中央執行委員会)から解放させたかった。あるいは後者に対する責任をなくし、後者による監督をなくしたがっていた。
 レーニンらが「真に意図」したのは、「人民委員会議」が、共産党の中央委員会に「排他的に責任を負う」ことだった。
 これにより、ソヴィエト・ロシアの歴史で「最初にして唯一の国制上の衝突(constitutional clash)」が生じた。
 なお、人民委員会議(内閣)の議長(首相)はレーニンであり、共産党中央委員会のトップにいたのはレーニンだ。
 共産党の「トップ」と書いたが、「最高指導者」という呼称も見られるものの、正式に何と呼ばれていたかは、諸文献で、じつははっきりしない。
 現在またはレーニン以降の諸共産党ならば、「総書記」、「第一書記」、「書記長」あるいは「(幹部会 ?)委員長」なのだろう。
 存在していると誰もが明確に意識しているもの(・人物)については、言葉を用意する必要がなく、従って言葉・概念が作られることがないことがある、ということを示しているようでもある。あるいはそもそも、国家と政党(共産党)を厳密に分けて考えるという発想自体が、この時期のレーニンらボルシェヴィキ党員にはなかったのかもしれない。それこそ、党(共産党)=国家、なのだ。
 さらに、上記の問題についてのR・パイプスの説明・叙述を追跡する。

1414/国家・共産党・コミンテルン01。

 一 ロシア革命またはレーニン(を首領とするボルシェヴィキ)が生み出した国家のことを<一党制国家>とか<党所有国家> ということがある。
 下斗米伸夫・ソ連=党が所有した国家(講談社メチエ、2002)も参照。
 国家・政府と(一国家の)共産党(政党)の関係、さらにはこれらと1919年設立のコミンテルンの関係・違いに焦点を当てて、以下、紹介したりコメントしたりする。
 渡部昇一が何と言おうと、過去の問題ではない。コミンテルン、コミンフォルムはもうないが、国家・政府と(一国家の)共産党の関係は見事に、現在の共産中国や北朝鮮、そしてベトナムやキューバにまで継承されていると考えられる。
 なお、現在開催されているらしい、中国共産党の<中央委員会第~回総会>という表現の仕方は、現在の日本共産党と同じ。共産党の<党大会>の間は、<中央委員会総会>でつないでいくのだ。
 二 R・パイプス〔西山克典訳〕・ロシア革命史(成文社、2000)によると、ソヴィエト(ソビエト)・ソヴェート・ソヴェト(Soviet)という言葉が、日常的意味でなく制度的な又は機関を指すものとしてロシアで用いられたのは、1905年の10月、ペテルブルク工科大学で「ストライキ委員会」が招集されたとき、それがすぐのちに「労働者代表ソヴェト」と名乗ったことが最初のようだ(p.58。以下、同じ)。
 英語ではCouncil、独語ではRat と訳されているはずだ。日本語では、「評議会」または「会議」だろう。
 なぜ大学にという疑問には、政治的集会・デモに対する当時の規制が大学構内については緩かったと、パイプスに従って指摘するにとどめる。
 このソヴェトの指導部には、学生も農民も入っておらず、また労働者でも兵士でもなく、それは「社会主義諸政党」が指名した「急進的」「知識人」で構成されていた(p.58)。
 1905年12月に「モスクワ・ソヴェト」は①帝制打倒、②憲法制定会議招集、③「民主共和国」の宣言を要求し、④「武装蜂起」を呼びかけた、という(p.59)。
 この「ソヴェト」はのちに、ボルシェヴィキ・共産党ではなく、国家・政府の系列の機関へと発展 ?していく。
 三 1917年二月革命により「臨時政府」(国会議員臨時委員会)が組織され、ケレンスキーが委員の一人になった。これは、パイプスによれば「私的な性格」のものとされるが、(帝制終焉時の)の国会の議員全体ではないにせよ、国会議員内の「私的な会合」または「指導者たち」が設立を決定したとされるので(p.94)、二月革命による<非連続>的なものではあるが、のちの「10月革命」に比べればまだ、国家機関又は政府としての連続性・「民主性」を少しは保っているかもしれない。
 上の臨時政府の設立と同日(2月28日)、「ペトログラード・ソヴェト」が設立された。主導権はメンシェヴィキにあった。2週間後の代議員3000名のうち、2000名以上が兵士で、二月革命の「初期の局面」は「兵士の反乱」だった(p.95)。
 代議員数千人では会議・実質的な決定ができない。ソヴェトの決定機関が「イスパルコム」という「執行委員会」に移った。この機関は「社会主義諸政党の調整機関」で、兵士に支持者がおらず、労働者の中でも「わずか」の支持者しかいないボルシェヴィキに属する委員の比重が不均衡に高かった。またこれは、ソヴェト総会から自立して活動し、あらかじめ実質的に決定する「社会主義知識人の幹部会」のようなものになった(p.96)。
 このソヴェトは「臨時政府」系列ではなく、社会主義諸政党による「私的」な組織で、臨時「政府」には参加しないと決定する(同上)。同年10月末まで続く、いわゆる<二重権力>の時代だ。
 パイプスによると、表向きは臨時政府が「全ての統治上の責務」を引き受け、「現実には」、ソヴェト「イスパルコム」が「立法と執行」の両機能を果たした(同上)。
 皇帝逮捕(のち一族がボルシェヴィキ=共産党により全員殺害される)ののちソヴェト・「イスパルコム」は5名から成る「連絡委員会」を設置し、政府に、イスパルコムの事前承認を得ることなく重要な決定をすべきでないと主張し、政府はこれに応じた、という(p.108)。
 中途だが、いわゆる「10月革命」事件以前のペトログラード・ソヴェトの状況から、次回につづける。

1344/資料・史料-近衛上奏文/1945.02.14(1)。

 いわゆる<近衛上奏文>は秦郁彦も重きを置いておらず、「陰謀史観」を示す一つとして取り扱われている。
 しかし、数十年後には、異なる評価がなされることもありうるのではないか。
 もちろん、近衛文麿自身に変化がありえただろうことを意識しなければならないと思われる。
 以下、読みやすくするために、一文ごとに改行した。
 また、本来の改行場所との間の一段落を、山口富永・近衛上奏文と皇道派-告発・コミンテルンの戦争責任-(2010、国民新聞社)所収の資料を参考にして、〔01〕、〔02〕のような頭書を付した。
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 近衛上奏文 昭和20年2月14日 (1)
 〔01〕
 敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存侯。
 以下此の前提の下に申述べ侯、
 敗戦は我国体の瑕瑾たるべきも、英米の輿論は今日までのところ、国体の変更とまでは進み居らず、(勿論一部には過激論あり、又将来いかに変化するやは測知し難し)随て、敗戦だけならば、国体上はさまで憂うる要なしと存ず。
 国体護持の建前より最も憂うべきは、敗戦よりも、敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命に御座侯。
 〔02〕
 つらつら思うに、我国内外の情勢は、今や共産革命に向って急速に進行しつつありと存侯。
 即ち国外に於ては、「ソ」連の異常なる進出に御座侯。
 我国民は「ソ」連の意図は的確に把握し居らず、 かの一九三五年人民戦線戦術、即ち二段革命戦術採用以来、殊に最近「コミンテルン」解散以来、赤化の危険を軽視する傾向顕著なるが、これは皮相且つ安易なる見方と存侯。
 「ソ」連は究極に於て世界赤化政策を捨てざるは、最近欧州諸国に対する露骨なる策動により明瞭となりつつある次第に御座侯。
 〔03〕
 ソ連は欧州に於て其の局辺諸国には「ソヴィエート」的政権を、爾余の諸国には少くとも親「ソ」容共政権を樹立せんとし、着々其の工作を進め、現に大部分成功を見つつある現状に有之侯。
 〔04〕
 「ユーゴー」の「チトー」政権は、その最も典型的な具体表現に御座侯。
 波蘭〔ポーランド〕に対しては、 予め「ソ」連内に準備せる波蘭愛国者連盟を中心に新政権を樹立し、在英亡命政権を問題とせず押切申し侯が、羅馬尼〔ルーマニア〕、勃牙利〔ブルガリア〕、芬蘭〔フィンランド〕に対する休戦条件を見るに、内政不干渉の原則に立ちつつ「ヒットラー」支持団体の解散を要求し、実際上「ソヴィエート」政権に非ざれば、存在し得ざる如く強要致し侯。
 〔05〕
  「イラン」に対しては、石油利権の要求に応ぜざるの故を以て、内閣総辞職を強要致し侯。
 端西〔スウェーデン〕が「ソ」連との国交開始を提議せるに対し、ソ連は端西政権を以て、親枢軸的なりとて一蹴し、之がため外相の辞職を余儀なくせしめ侯。
 〔06〕
 占頷下の仏蘭西〔フランス〕、白耳義〔ベルギー〕、和蘭〔オランダ〕に於ては、対独戦に利用せる武装蜂起団と政府との間に深刻なる斗争が続けられ、且つ是ら諸国は、何れも政治的危機に見舞われつつあり。
 而して是ら武装団を指導しつつあるものは、主として共産系に御座侯。
 独逸〔ドイツ〕に対しては波蘭に於けると同じく已に準備せる自由ドイツ委員会を中心に、新政権を樹立せんとする意図なるべく、これは英米に取り今日頭痛の種なりと存ぜられ侯。
 〔07〕
 「ソ」連はかくの如く、欧州諸国に対し、表面は内政不干渉の足場を取るも、事実に於ては、極度の内政干渉をなし、国内政治を親「ソ」的方向に引きずらんと致し居り候。
 〔08〕
 「ソ」連の此の意図は東亜に対しても亦同様にして、現に延安には「モスコー」より来れる岡野〔野坂参三〕を中心に、日本解放連盟組織せられ、朝鮮独立同盟、朝鮮義勇軍、台湾先鋒隊等と連絡、日本に呼びかけ居り候。
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 <つづく>
ギャラリー
  • 2013/L・コワコフスキ著第三巻第10章第3節①。
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  • 1980/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05④。
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  • 1978/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05②。
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  • 1920/L・コワコフスキ著第三巻第四章第5節。
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  • 1916/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑳完。
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  • 1906/NYタイムズ2009.07.20の訃報-L・コワコフスキ。
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  • 1901/Leszek Kolakowski-初代クルーゲ賞受賞者。
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  • 1900/Leszek Kolakowski の写真。
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  • 1811/リチャード・パイプス逝去。
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  • 1809/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑧。
  • 1777/スターリン・初期から権力へ-L・コワコフスキ著3巻1章3節。
  • 1767/三全体主義の共通性⑥-R・パイプス別著5章5節。
  • 1734/独裁とトロツキー②-L・コワコフスキ著18章7節。
  • 1723/2017年秋-兵庫県西脇市/大島みち子の故郷。
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