秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

スハノフ

1951/R・パイプス著・ロシア革命第11章第9節。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。
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 第9節・軍事革命委員会がクー・デタを開始。
 (1)ミルレヴコム〔以下、軍事革命委員会〕の書記だったボルシェヴィキのアントノフ=オフセエンコはのちに、それは「党の軍事活動のための形式的なカバー(cover)」だったと叙述した。(164)
 軍事革命委員会は、二回だけ会合をもった。ボルシェヴィキ軍事組織が「ソヴェト」の標札(label)を自分に貼るには、その二回で十分だった。(165)
 アントノフ=オフセエンコは、同委員会が直接にボルシェヴィキ中央委員会の指揮のもとで活動したこと、「事実上の党機関」だったことを認める。
 そのようなものであったため、しばらくの間、軍事革命委員会のボルシェヴィキ組織の一部への変質に関する考究がなされた。(166)
 彼が叙述するように、スモルニュイ(Smolnyi)の10号室と17号室にあった委員会の司令部は行き来する若い男たちで一日じゅう混雑していて、かりにその気があったとしても、深刻な仕事をすることができない環境にあった。
 (2)共産党の資料によると、軍事革命委員会には、武装反乱のためにペトログラード守備連隊の全てまたはほとんど全てを動員する信任が与えられている。
 かくしてトロツキーは、十月には「連隊の圧倒的多数が公然と労働者の側に立っていた」と主張する。(167)
 しかしながら、現在の証拠資料が示すのは、守備連隊に対するボルシェヴィキの影響はもっとはるかに控えめだった、いうことだ。
 ペトログラード守備連隊の雰囲気は、革命的と言えるものではなかった。
 圧倒的にも、首都の兵舎にいる16万人と近郊に配置された8万5000人の兵士たちは、近づく衝突に対して「中立」を宣言した。
 十月の前夜にボルシェヴィキを支持する傾向にあった連隊部隊の数字は、ごく少数派だつたことを示している。
 スハノフは、多くて連隊の10分の1が十月のクーに参加した、「もっとはるかに少なかったようだ(likely many fewer)」、と見積もる。(169)
 著者自身の計算では、積極的に親ボルシェヴィキだった連隊兵士は(クロンシュタット海軍基地を除外して)おそらく1万人、または4パーセントくらいだ。
 中央委員会の悲観論者は、兵団を獲得するためにレーニンが想定した即時休戦がかりに支持されたとしても、ボルシェヴィキは連隊の支持を得られない、という理由で、武装反乱に反対した。//
 (3)しかし、楽観論者の方が正しかった(right)。なぜなら、臨時政府を拒否させるためには、さほど多くの連隊の支持を得る必要はなかったからだ。   
 ボルシェヴィキが連隊のわずか4パーセントでも味方につけていたとすると、政府に味方したのは、それよりも少なかっただろう。
 ボルシェヴィキの主要な関心は、、政府が7月にはそうできたように、ボルシェヴィキに反対させるべく連隊兵士たちを駆り出すことを阻止することだった。
 この目的のためには、政府の軍事幕僚からその正統性を奪う必要はなかった。
  ソヴェトとその兵士部門の名前で行動した10月21-22日にこれを達成して、ボルシェヴィキは軍事革命委員会に、守備連隊に対する排他的な権限をもつことを主張させた。//
 (4)軍事革命委員会はまず最初に、ペトログラード市内および近郊の部隊に対して200人の「コミサール」を派遣した。彼らコミサールの大半はボルシェヴィキ軍事組織の若い将校で、七月蜂起に参加し、最近に仮釈放で監獄から出てきていた。(170)
 つぎに委員会は、10月21日、スモルニュイで連隊委員会の会合を開いた。
 トロツキーは兵士たちに向かって、「反革命」の危険を強調し、連隊がソヴェトとその機関である軍事革命委員会に結集するよう訴えた。
 彼はまた、曖昧な言葉遣いであるために容易に受諾されやすい、つぎのような宣言文書を提案した。//
 「ペトログラード兵士労働者代表者ソヴェトの軍事革命委員会の設立を歓迎し、ペトログラード守備連隊は、同委員会に対して、革命の利益のために前線と後方の連絡をもっと親密することに最大限の尽力をし、全面的に支援することを誓約する」。//(171)
 いったい誰が、「革命の利益のために前線と後方の連絡をもっと親密する」ことに反対することができたのか?
 しかし、ボルシェヴィキは、この決定はペトログラード軍事地区の政府軍事幕僚の機能を軍事革命委員会が担うようにすると解釈させることを意図していた。
 ポドヴォイスキー(Posvoiskii)によれば、これは、武装暴乱の開始を記すものだった。(172)
 (5)つづく夜(10月21-22日)、軍事革命委員会からの一人の代理人が〔臨時政府〕軍事幕僚司令部に姿を見せた。
 その代理人、ボルシェヴィキの小佐のダシュケヴィチ(Dashkevich)は、〔臨時政府〕ペトログラード軍事地区司令官のG. P. Polkolnikov 大佐に、守備連隊委員会会合の権限でもって、いま以降、連隊に対する幕僚たちの命令は軍事革命委員会による副署があって初めて有効なものになる、と伝えた。
 もちろん兵士たちは、そのような決定を行っておらず、かりにそうしていたとしても、無効なものだった。その代理人は、実際にはボルシェヴィキ中央委員会に代わって行動していた。
 Polkolnikov は、その代理人を認知していない、と答えた。
彼が逮捕させるぞと脅かしたあとで、実質的にはボルシェヴィキからの派遣者は去って、スモルニュイへと向かった。(173)
 (6)その代理人からの報告を聞いて、軍事革命委員会は連隊の第二回会合を開いた。
 誰が来て出席したのか、誰を代表してだったのかは、確定することができない。
 しかし、それは問題ではない。その頃までには、偶然に集まったどの集団も、「革命」を代表していると主張することができた。
 軍事革命委員会が提案して、連隊委員会会合は詐欺的な声明〔宣言書〕を承認した。それは、10月21日に連隊は軍事革命委員会をその「機関」だと指定したけれども、連隊は承認することもそれ〔軍事革命委員会〕と協力することも拒否する、と主張するものだった。
 代理人が「承認」または「協力」を求めなかったということには何の言及もされなかった。しかし、幕僚命令を取消す権限には言及があった。
 その決定文書は、こう続いた。
 「このようにして、〔臨時政府〕軍事幕僚たちは革命的連隊とペトログラード兵士労働者代表ソヴェトと決裂した。
 首都の組織された連隊と決裂して、〔臨時政府軍事〕幕僚は反革命勢力の直接的武器に変質した。<中略>
 ペトログラードの兵士諸君! 1. 反革命の試みに対する革命的指令が、軍事革命委員会の指揮のもとで、きみたちに与えられる。。
 2. 連隊に関する、軍事革命委員会の副署を欠く〔政府幕僚の〕全ての命令は、無効だ。<略>」(174)//
 (7)この決議は、つぎの三点の目標を達成していた。
 1. ソヴェトの名をもつとされる臨時政府は「反革命的」だ。
 2. 臨時政府から守備連隊に対する権限を奪った。
 3. 軍事革命委員会に、権力を追求する意図を隠す革命の防衛という言い訳を与えた。//
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 (164) V. A. Antonov-Ovseenko, <<略>>(Moscow, 1933), p.276.
 (165) Robert V. Daniels, <赤い十月>(New York, 1967), p.118.
 (166) <Kritika>IV, No.3(1968年春号), p.21-p.32.; N. I. Podvoiskii, <神・1917年>(Moscow, 1958), p.104. を見よ。
 (167) トロツキー, <歴史>III, p.290-1.
 (168) G. L. Sobolev, <IZ>No.88(1971)所収, p.77.
 (169) スハノフ, <Zapiski>VII, p.161.
 (170) O. Dznis, <Living Age>No.4,019(1922年2月11日)所収, p.328.
 (171) <イズヴェスチア>No.204(1917年10月22日), p.3.; <Revoliutsiia>V, p.144-5.
 (172) Podvoiskii, <神・1917年>, p.106-p.108.
 (173) Melgunov, <Kak bol'sheviki>, p.68-p.69.; Antonov-Ovseenko, <<略>>, p.283.; <NZh>No.161/155(1917年10月24日), p.3.
 (174) D. A. Chuganov, ed.,<<略>>I(Moscow, 1966),p.63. この宣言書は、ボルシェヴィキの日刊紙<Rabochii put'> 10月24日に初めて掲載された。
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 以上、第9節。第10節の目次上の見出しは<ケレンスキーが反応する>。

1595/犯罪逃亡者レーニン②-R・パイプス著10章12節。

 前回のつづき。
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 第12節・蜂起の鎮圧、レーニン逃亡・ケレンスキー独裁②。
 兵士たちは、7月6日から7日の夜の間に、ステクロフの住居にやって来た。彼らがステクロフの居室を壊して彼を打ちのめそうと脅かしたとき、彼は電話して救いを求めた。
 イスパルコムは、二台の装甲車で駆けつけて、彼を守った。ケレンスキーも、ステクロフの側に立って仲裁した。
 同じ夜に、兵士たちは、レーニンの妹のアンナ・エリザロワ(Anna Elizarova)のアパートに現われた。
 部屋を捜し回ったとき、クルプスカヤは彼らに向かって叫んだ。『憲兵たち! 旧体制のときとそっくりだ!』
 ボルシェヴィキ指導者たちの探索は、数日の間つづいた。
 7月9日、私有の自動車を調べていた兵団がカーメネフを逮捕した。この際には、ペテログラード軍事地区司令官のポロヴツェフの力でリンチ行為は阻止され、ポロヴツェフはカーメネフを自由にしたばかりではなく、彼を自宅に送り届ける車を用意した。
 結局は、暴乱に参加したおよそ800人が収監された。(*)
 確定的に言えるかぎりで、ボルシェヴィキは一人も、身体的には傷つけられなかった。
 しかしながら、ボルシェヴィキの所有物に対しては、相当の損傷が加えられた。
 <プラウダ>の編集部と印刷所は、7月5日に破壊された。
 クシェシンスキー邸を護衛していた海兵たちが無抵抗で武装解除されたあと、ボルシェヴィキ司令部〔クシェシンスキー邸〕もまた、占拠された。
 ペトロ・パヴロ要塞は、降伏した。//
 7月6日、ペテログラードは、前線から新たに到着した守備軍団によって取り戻された。//
 ボルシェヴィキ中央委員会は7月6に、レーニンのレベルでの叛逆嫌疑の訴追を単調に否定し、詳細な調査を要求した。
 イスパルコムは、強いられて、5人で成る陪審員団を任命した。
 偶然に、5人全員がユダヤ人だった。このことはその委員会について、レーニンに有利だという疑いを、『反革命主義者』に生じさせたかもしれない。そこで、委員会は解散され、新しくは誰も任命されなかった。//
 ソヴェトは実際、レーニンに対する訴追原因について調査しなかったが、被疑者の有利になるように断固として決定することもしなかった。
 レーニンの蜂起は、5月以来のそれと緊密に連関して、政府に対してと同程度にソヴェトに対して向けられていた。それにもかかわらず、イスパルコム〔ソヴェト執行委員会〕は、現実と向き合うことをしようとしなかった。
 カデット〔立憲民主党〕の新聞の表現によると、社会主義知識人たちはボルシェヴィキを『叛逆者』と呼んだが、『同時に、何も起こらなかったかのごとく、ボルシェヴィキの同志たちのままでいた。社会主義知識人たちは、ボルシェヴィキとともに活動し続けた。彼らは、ボルシェヴィキとともに喜んだり考えたりした。』(186)
 メンシェヴィキとエスエルは今、以前と今後もそうであるように、ボルシェヴィキをはぐれた友人のごとく見なし、彼らの敵は反革命主義者だと考えた。
 彼らは、ボルシェヴィキに向けられた追及がソヴェトや社会主義運動全体に対する攻撃をたんに偽ったものなのではないかと、怖れた。
 メンシェヴィキの< Novaia zhizn >は、つぎのように、Den' 〔新聞 ND = Novyi den' 〕から引用する。//
 『今日では、有罪だとされているのはボルシェヴィキだ。明日は、労働者代表ソヴェトに嫌疑がかかるだろう、そして、革命に対する聖なる戦争が布告されるだろう。』//
 この新聞はレーニンに対する政府の追及を冷たくあしらい、『ブルジョア新聞』は『嘆かわしい中傷』や『粗雑なわめき声』だとして非難した。
 これは、『意識的に労働者階級の重要な指導者の名誉をひどく毀損』している者たち-おそらくは臨時政府-を強く非難しようとしていた。
 レーニンに対する追及は『誹謗中傷』だとしてレーニンの弁護に飛びついた社会主義者の中には、マルトフ(Martov)がいた。(**)
 こうした主張は、事案の事実とは何も関係がなかった。イスパルコムは政府に証拠の開示を求めなかったし、自分たち自身で詳しい調査をしようともしなかった。//
 そうであっても、ボルシェヴィキを政府による制裁から守るのは多大な痛みにはなった。
 7月5日の早くに、イスパルコムの代表団がクシェシンスカヤ邸へ行き、この事件の平和的な解決に関するボルシェヴィキ側の条件を議論した。
 彼らは全員が、党に対する抑圧はもうないだろう、事件に関係して逮捕されている者はみな解放されるだろう、ということで合意した。
 イスパルコムはそして、ポロヴツェフに対して、いつ何時でもしそうに思えたので、ボルシェヴィキ司令部を攻撃しないように求めた。
 レーニンに関係がある政府文書の公表を禁止する決定も、裁可した。//
 レーニンは自分でいくつかの論考を書いて、自己弁護した。
 < Novaia zhizn >に寄せたジノヴィエフとカーメネフとの共同論文では、レーニンは、自分のためにでも党のためにでも、ガネツキーやコズロフスキーから『一コペック〔硬貨の単位〕』たりとも決して受け取っていない、と主張した。
 事態の全体は新しいドレフュス(Dreyfus)事件または新しいベイリス(Beilis)事件で、反革命の指揮をしているアレクジンスキー(Aleksinsky)によって組み立てられたものだ。
 7月7日、レーニンは、この状況では審判に出席しない、彼もジノヴィエフも、正義が行われると期待することができない、と宣言した。//
 レーニンはつねに、その対抗者の決意を大きく評価しすぎるきらいがあった。
 彼は、彼とその党は終わった、パリ・コミューンのように、たんに将来の世代を刺激するのに役立つだけの運命だ、と確信していた。
 レーニンは、党中央をもう一度外国へ、フィンランドかスウェーデンに移すことを考えた。
 彼は、その理論上の最後の意思、遺言書、『国家に関するマルクス主義』の原稿(のちに<国家と革命>の基礎として使われた)を、最後のものには殺される事態が生じれば公刊してほしいという指示をつけて、カーメネフに託した。
 カーメネフが逮捕されてほとんどリンチされかけたあとで、レーニンはもはや成算はないと決めた。
 7月9日から10日にかけての夜、レーニンは、ジノヴィエフとともに、小さな郊外鉄道駅で列車に乗り込み、田園地方へと逃れて、隠れた。//
 党が破壊される見通しに直面していた際のレーニンの逃亡は、ほとんどの社会主義者には責任放棄に見えた。
 スハノフの言葉によると、つぎのとおりだ。//
 『逮捕と審問に脅かされてレーニンが姿を消したことは、それ自体、記録しておく価値のあることだ。
 イスパルコムでは誰も、レーニンがこのようにして『状況から逃げ出す』とは想定していなかった。
 彼の逃亡は我々仲間にな巨大な衝撃を生み、あらゆる考えられる方法での熱心な議論を生じさせた。
  ボルシェヴィキの間では、ある程度はレーニンの行動を是認した。
 しかし、ソヴェトの構成員のうちの多数派の反応は、鋭い非難だった。
 軍やソヴェトの指導者たちは、正当な怒りの声を発した。
 反対派は、その意見を明らかにしないままでいた。しかし、その見解は、政治的および道徳的観点からレーニンを無条件に非難する、というものだった。<中略>
 羊飼いが逃げれば、羊たちに大きな一撃を与えざるをえないだろう。
 結局、レーニンに動員された大衆が、七月の日々に対する責任の重みの全体を負った。<中略>
 「本当の被告人(culprit)」が、軍、同志たちを捨てて、個人的な安全を求めて逃げた!』//
 スハノフは、レーニンの逃亡は、彼の人生でも個人的な自由行動でもあえて危険を冒さなかったほどの、最も非難されてしかるべきことだと見られた、と付け加える。//
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  (*) Zarudnyi, in : NZh, No. 101 (1917年8月15日), p.2。Nikitin, Rokovye gody, p.158 は、2000人以上だった、とする。
  (186) NV = Nash vek, No. 118-142 (1918年7月16日), p.1。
  (**) 8月4日に、ツェレテリが提案して、イスパルコムは、7月事件に関与した者を迫害から守るという動議を、このような迫害は『反革命』の始まりを画するという理由で、採択した。
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 ③へとつづく。

1589/七月三日-五日の事件①-R・パイプス著10章11節。

 前回のつづき。
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 第11節・七月3日-5日の出来事①。 
 臨時政府は、ボルシェヴィキがしようとしていることを7月2日に知った。
 7月3日に、ドヴィンスク(Dvinsk)の第五軍の司令部と連絡をとって、兵団出動を求めた。
 誰もが、進んで何かしようとは思わなかった。少なくともその理由の一つは、その承認が必要なソヴェトの社会主義者たちが、実力行使に訴える権限を与えるのを躊躇したからだ。
 7月4日の早い時間に、ペテログラード軍事地区の新しい司令官、P・A・ポロフツェフは、武装示威活動を禁止し、守備兵団に対して秩序維持を助けるよう『示唆する』声明を発表した。
 軍事参謀部は、街頭騒擾を抑圧するために使える軍力を調べて、ほとんどが存在していないことに気づいた。いたのは、プレオブランジェスキー守備連隊の100人、ウラジミール兵学校からの一隊、2000人のコサック兵、50人の傷病兵だった。
 守備軍団の残りは、反乱兵士たちとの対立に巻き込まれるようになるのを望まなかった。//
 7月4日は、平穏のうちに始まった。誰もいない街頭の不思議な静けさが、何かが始まるのを暗示しているようだった。
 午前11時、車に乗った赤衛軍と一緒に、機関銃連隊の兵士たちが、市の要所を占拠した。
 同時に、クロンシュタットからきた5000人から6000人の海兵が、ペテログラードに上陸した。
 彼らの指揮官のラスコルニコフはのちに、政府が地上の砲台から彼らの一つふたつの小型船を射撃して阻止しなかったことに驚いた、と語った。
 海兵たちは、ニコラエフスキー橋近くの上陸埠頭から直接にタウリダへと進むよう、命令を受けていた。
 しかし、彼らが隊列を整えたとき、ボルシェヴィキの使者が、命令は変更された、クシェシンスキー邸〔ボルシェヴィキ本部〕へと行くように、と伝えた。
 そこにいたエスエルは抗議したが、無視された。エスエルのマリア・スピリドノワは海兵たちに演説すべく来ていたが、聴衆はいないままで放っておかれた。
 軍楽隊を先頭にし、『全権力をソヴェトへ』と書く旗を掲げながら、長い一団の縦列になって、海兵たちは、ヴァシリエフ島と株式交換所橋を縦断し、アレクサンダー広場に着いた。そこから、ボルシェヴィキの司令部へと、進軍し続けた。
 そこで彼らは、バルコニーから、ヤコフ・スヴェルドロフ(Iakov Sverdlov)、ポドヴォイスキー(Podvoiskii)およびM・ラシェヴィッチ(Lashevich)の挨拶を受けた。
 クシェシンスキー邸にわずか前に到着していたレーニンは、言葉を発することについてはっきりせずにためらいを示した。
 レーニンは最初は、体調が悪いという理由で海兵たちに語るのを拒んでいたが、最後には屈して、若干の短い言葉を述べた。
 海兵たちを歓迎して、レーニンはつぎのように語った。//
 『起きていることを見て、嬉しい。二ヶ月前に打ち上げた全権力の労働者、兵士を代表するソヴェトへという主張が今や、理論的スローガンから現実へと転化しているのが分かって、嬉しい』。(163)//
 このような注意深い言葉ですら、誰の心にも、ボルシェヴィキがクー・デタを実行していることを疑う余地を残さなかっただろう。
 これは、レーニンが10月26日までに公衆の前に姿を見せた、最後のことになった。//
 海兵たちは、タウリダへと向かった。
 彼らが出立したあとでボルシェヴィキ司令部内部で起きたことについては、ルナシャルスキーに教えられたスハノフの文章によって分かる。//
 『7月3日-4日の夜、「平和的な集団示威行進」を呼びかける宣言書を<プラウダ>に送る一方で、レーニンは、心のうちにクー・デタの計画を具体化していた。
 政治的権力-実際にはこれはボルシェヴィキ中央委員会によって掌握される-は、傑出しかつ著名なボルシェヴィキ党員で構成される「ソヴェト」省によって公式に具象化される。
 この点で、三人の大臣が指名されていた。レーニン、トロツキー、そしてルナシャルスキー。
 この政府は、ただちに講和と土地に関する布令を発して、この方法で首都と地方の数百万人の共感を獲得し、それでもって政府の権威を強化する、ということとされていてた。
 レーニン、トロツキー、そしてルナシャルスキーは、クロンシュタットの海兵たちがクシェシンスキー邸を後にしてタウリダ宮へ向かったあとで、このような合意に達した。<中略>
 革命は、つぎのようにして、達成されるものとされた。
 クラスノエ・セロ(Krasnoe Selo)からの第一七六連隊-ダン(Dan)がタウリダを守護するために任されたのとまさに同じ連隊-が、〔ソヴェトの〕中央執行委員会メンバーを拘束する。
 まさにそのときに、レーニンが行動の現場に到着して、新政府の設立を宣言する。』(*)//
 海兵たちは、ラスコルニコフに率いられて、ネフスキー通りを行進した。
 彼らの隊列には、小さな分団と赤衛兵が配置されていた。
 先頭と最後尾には、武装した車が進んだ。
 男たちは、ボルシェヴィキ中央委員会が用意したスローガンを書いた旗を掲げた。
 ペテログラードの『ブルジョア』の中心部、リテイニュイに曲がって入ったとき、銃撃音が響いた。
 群衆は恐怖に囚われて、咄嗟に離れた。銃火は広く渡り、あらゆる方向に撒き打ちされた。
 一人の目撃者が窓から写真を撮り、ロシア革命の暴力に関する数少ない写真記録の一つを生んだ(図版第53〔秋月注記/本文中の写真-この書物の表紙に使われているもの〕)。
 銃撃が終わったとき、示威行進者たちは再び集まって、タウリダへの行進を再開した。
 彼らはもう秩序だった編成を維持しておらず、すぐに使えるように銃砲を持っていた。
 午後4時頃に、ソヴェト〔所在地〕に着いた。そこで、機関銃連隊の兵士たちから、大きな歓声で迎えられた。//
 ボルシェヴィキはまた、プティロフ〔企業名〕の労働者の大群団をタウリダ宮へと送り込んだ-その推算数には変わりがあり、1万1000人から2万5000人になる。(+)
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  (163) Chuganov, Revoliutionnoe dvizhenie v iiue, p.96。参照、Lenin, PSS, XXXIV, p.23-24、Flerovskii, in : PR = Proletarskaia revoliutiia, No. 7-54 (1926), p.77。
  (*) Sukhalov, Zapiski, IV, p.511-2。スハノフがこうした記憶を1920年に公刊したあとで、トロツキーは強く否定し、トロツキーに突つかれてルナシャルスキーもそうした。ルナシャルスキーはスハノフ宛ての手紙で、スハノフの記述には全く根拠がないと非難し、公刊すれば『歴史家としての不愉快な結果』になるだろうとスハノフを警告した(同上、p.514n.-p.515n.)。しかし、スハノフは撤回するのを拒否し、自分は正確にルナシャルスキーが語ったことを回想した、と主張した。
 だが、その同じ年にトロツキー自身が、あるフランスの共産主義者の出版物の中で、七月事件は権力奪取を-つまりボルシェヴィキ政府の確立を-意図していた、ということを認めた。
 『我々は、一瞬たりとも、七月の日々は勝利に至る前奏だということを疑わなかった』。Bulletin Communiste (Paris), No. 10 (1920年5月20日)。これは、以下で引用されている。Milorad M. Drachkovitch & Branko Lazitch, レーニンとコミンテルン, Ⅰ (Stanford, 1972), p.95。
  (+) Nikitin, Rokovye gody, p.133 は少ない数を、Istoriia Putilovskovo Zavoda 1801-1917 (モスクワ, 1961) は多い数を示す。トロツキーの8万という推算(ロシア革命の歴史 Ⅱ, p.29)は、全くの空想だ(fantasy)。
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 本来の改行箇所でないが、ここで区切る。②へとつづく。

1574/ケレンスキー着任・六月騒乱①-R・パイプス著10章7節。

 前回のつづき。第7節は、p.412~p.417。
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 第7節・ボルシェヴィキの挫折した6月街頭行動①。
 ケレンスキーは、戦時大臣としての職責に、称賛すべき積極さで取り組んだ。
 ロシアの民主主義の生き残りは、強くて紀律ある軍隊にかかっていると、そして沈滞気味の軍の雰囲気は軍事攻勢に成功することで最も高揚するだろうと、確信していたからだ。
 将軍たちは、軍がこのまま長く動かないままであれば、軍は解体すると考えていた。
 ケレンスキーは、フランス軍の1792年の奇跡を再現したかった。フランス軍はその年、プロイセンの侵攻を止めて退却させ、全国民を革命政府へと再結集させた。
 二月革命前に取り決められていた連合諸国への義務を履行するために、大攻勢は6月12日に予定されていた。
 それはもともとは純粋に軍事的な作戦として構想されていたが、今や加えて、政治的な重要性を持ってきていた。
 軍事攻勢の成功に期待されたのは、政府の権威を高め、全民衆に愛国主義を再び呼び起こすことだった。これらは、政府に対する右翼や左翼からの挑戦にうまく対処するのを容易にするだろう、と。
 テレシェンコはフランスに対して、攻勢がうまくいけばペテログラード守備兵団にある反抗的な要素を抑圧する措置をとる、と語った。//
 軍事攻勢を行う準備として、ケレンスキーは軍の改革を実施した。
 彼は、おそらくロシアの最良の戦略家だったアレクセイエフについて、敗北主義的行動者だという印象を持った。そしてアレクセイエフに替えて、1916年の運動の英雄、ブルジロフ(Brusilov)を任命した。(*)
 ブルジロフは軍隊の紀律を強化し、服従しない兵団に対する措置について、広い裁量を将校たちに与えた。
 フランス軍が1792年に導入した commissaires aux armees を真似て、前線の兵士たちの士気高揚のために委員(commissars)を派遣し、兵士と将校の間の調整にあたらせた。これは、のちに赤軍でボルシェヴィキが拡大して使うことになる、新しい考案物だった。
 ケレンスキーは、5月と6月初めの間のほとんどを、愛国心を掻き立てる演説をしながら、前線で過ごした。
 彼が現れることは、電流を流すような刺激的効果をもった。//
 『前線へのケレンスキーの旅を表現するには、「勝利への進軍」では弱すぎるように思える。
 扇動的な力強い演説のあとは、嵐が過ぎ去るのに似ていた。
 群衆たちは彼を一目見ようと、何時間も待った。
 彼の通り道はどこにも、花が撒かれた。
 兵士たちは、握手しようとまたは衣服に触ろうと、何マイルも彼の自動車を追いかけた。
 モスクワの大きな会館での集会では、聴衆たちは熱狂と崇敬の激発に襲われた。
 彼が語りかけた演台は、同じ信条の崇拝者たちが捧げた、時計、指輪、首輪、軍章、紙幣で埋め尽くされた。』(103)//
 ある目撃者は、ケレンスキーを『全てを焼き尽くす火を噴き上げている活火山』になぞらえた。、そして、彼には自分と聴衆の間に障害物があるのは堪えられないことだった、とつぎのように書いた。
 『彼は、あなた方の前に、頭から脚まで全身をさらしたい。そうすれば、あなた方と彼の間には、見えなくとも力強い流れのあるお互いの放射線が完璧に埋め尽くす、空気だけがある。
 彼の言葉はかくして、演壇、教壇、講壇からは聞こえてこない。
 彼は演壇を降りて台に飛び移り、あなた方に手を差し出す。
 苛立ち、従順に、激しく、信仰者たちの熱狂が打ち震えて、彼を掴む。
 自分に触るのを、手を握るのを、そして我慢できずに彼の身体へと引き寄せるのを、あなた方は感じる。』(104)//
 しかしながら、このような演説の効果は、ケレンスキーが見えなくなると突如に消失した。現役将校たちは、彼を『最高説得官』と名づけた。
 ケレンスキーはのちに、6月大攻勢直前の前線軍団の雰囲気は、両義的だった、と想い出す。
 ドイツとボルシェヴィキの情報宣伝活動の影響力は、まだほとんどなかった。
 その効果は、守備兵団と、新規兵から成る予備団である、いわゆる第三分隊に限られていた。
 しかし、ケレンスキーは、革命は戦闘を無意味にしたとの意識が広がっていることに直面した。
 彼は、書く。『苦痛の三年間の後で、数百万の戦闘に疲れた兵士たちが、「新しい自由な生活が故郷で始まったばかりだというのに、自分はなぜ死ななければならないのか?」と自問していた。』(105)
 兵士たちは、彼らが最も信頼する組織であるソヴェトからの返答をもらえなかった。ソヴェトの社会主義者多数派は、きわめて特徴的な、両義的な方針を採用していたからだ。
 メンシェヴィキと社会主義革命党(エスエル)の(ソヴェトでの)多数派が裁可した典型的な決議を一読すれば、戦争に対する完全に消極的な性格づけに気づく。すなわち、この戦争は帝国主義的なものだ。また、戦争は可能なかぎり速やかに終わらせるべきだとの主張にも。
 また一方で、ケレンスキーの強い要求に従って挿入された、遠慮がちの数行にも気づくだろう。それは、全面平和を遅らせて、ロシアの兵士たちが戦い続けるのは良いことだ、と、曖昧な論理で、かつ感情に訴える何ものをもなくして、示唆する数行だった。//
 ボルシェヴィキは政府に対する不満や守備兵団の士気低下を察知して、6月初めに、この雰囲気を利用することを決めた。
 ボルシェヴィキの軍事機構は6月1日に、武装示威活動を行うことを表決した。
 この軍事機構は中央委員会から命令を受けていたので、当然のこととして、その決定は後者の承認を受けているか、おそらくは後者の提唱にもとづいていた。
 中央委員会は6月6日に、4万人の武装兵士と赤衛軍を街頭に送り込んでケレンスキーと連立政権を非難する旗のもとで行進し、そして適当な瞬間に『攻撃に移る』ことを議論した。
 これが何を意味するのかは、軍事機構の長のネフスキー(Nevskii)からボルシェヴィキの計画を知ったスハノフの文章によって分かる。//
 『6月10日に予定された「宣言行動」の対象は、臨時政府の所在地のマリンスキー宮(Mariinskii Palace)とされた。
 これは、労働者分遣団とボルシェヴィキに忠実な連隊の最終目的地だった。
 特に指名された者が宮の前で、内閣のメンバーに出て来て質問に答えよと要求することになっていた。
 特別指名の集団は、大臣が語ったとき、『民衆は不満だ!』と声を挙げて、群衆の雰囲気を興奮させる。
 雰囲気が適当な熱度以上に達するや、臨時政府の人員はその場で拘束される。
 もちろん、首都はすぐに反応することが予想される。
 この反応の状態いかんによって、ボルシェヴィキ中央委員会は、何らかの名前を用いて、自分たちが政府だと宣言する。
 「宣言行動」の過程でこれら全てのための雰囲気が十分に好ましいと分かれば、そしてルヴォフ(Lvov)やツェレテリが示す抵抗は弱いと分かれば、その抵抗はボルシェヴィキ連隊と兵器の実力行使によって抑止する。(**)
 示威行進者の一つのスローガンは、『全ての権力をソヴェトへ』だとされていた。
 しかし、ソヴェトが自らを政府と宣言するのを拒んで武装の示威活動を禁止すれば、スハノフが合理的に結論するように、権力がボルシェヴィキ中央委員会の手に渡されるということのみを意味したことになっただろう。
 示威活動は第一回全ロシア・ソヴェト大会(6月3日に開会予定)と同時期に予定されたので、ボルシェヴィキは既成事実を作って大会と対立するか、または大会の意思に反して、大会の名前で権力を奪うか権力を要求することを無理強いするかを計画していたかもしれない。
 レーニンは実際に、その意図を秘密にはしなかった。
 ソヴェト大会でツェレテリがロシアには権力を担う意思がある政党はないと述べたとき、レーニンは座席から、『ある!』と叫んだ。
 この逸話は、共産主義者の聖人伝記類では伝説になった。//
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   (*) ブルジロフ(Brusilov)はその回想録で、最高司令官になったときにすでに、ロシア軍団には戦闘精神が残っておらず、攻勢は失敗すると分かったと主張している。A. B. Brusilov, Moi vospominaniia (モスクワ・レニングラード, 1929), p.216。 
  (103) E. H. Wilcox, Russian Ruin <ロシアの破滅> (ニューヨーク, 1919), p.196。
  (104) 同上, p.197。V. I. Nemirovich-Danchenko を引用。  
  (105) Alexander Kerensky, Russia and History's Turning Point <ロシアと歴史の転換点>(ニューヨーク, 1965), p.277。
  (**) N. Sukhanov, Zapinski o revoliutsii, IV (ベルリン, 1922), p.319。スハノフはこの情報の源を示していない。だが、メンシェヴィキ派の歴史家のボリス・ニコラエフスキー(Boris Nikolaevskii)は、ネフスキーから来ているのだろうと推測している。SV, No. 9-10 (1960), p.135n。ツェレテリは、スハノフが回想録を公刊した1922年に主要な人物はまだ生きていて、スハノフの説明を否定できたはずだったにもかかわらず、誰もそうしなかった、と指摘する。I. G. Tsereteli, Vospominaniia o Fevral'skoi Revoliutsii, II (パリ, 1963), p.185。
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 ②につづく。
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