秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

スターリン

1956/L・コワコフスキ著第三巻第四章第13節②。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。第三巻分冊版p.170-。
 第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
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 第13節・スターリニズムの最終段階でのヨーロッパ・マルクス主義②。
 (7)武装侵攻以外の全ての形態での圧力が激烈に加えられたにもかかわらず、ユーゴスラヴィア共産党はその自立性を維持し、スターリン主義共産主義体制に戦争以降で最初の実質的な亀裂をもたらした。
 分裂後すぐに、ユーゴの党イデオロギーは、共産主義諸党は自立していなければならないと強調し、ソヴィエト帝国主義を非難する点でのみ、ソヴィエトと異なった。
 マルクス=レーニン主義の一般的原理はユーゴスラヴィアに力を持って残ったままであり、その点ではソヴィエト同盟で観察されたものと異なってはいなかった。
 しかしながら、やがて政治的教理の基礎は修正主義へと進み、ユーゴスラヴィアは社会主義社会についての自分自身のモデルを生み出し始めた。それは、重要な態様でロシアのそれとは異なっていた。
 (8)この頃までのコミンフォルムは、反ユーゴスラヴィア情報宣伝活動の道具とほとんど同じだった。その<存在理由>は、1955年春にフルシチョフ(Khrushchev)がベオグラードと和解しようと決定したときに消滅した。
 だが現実には、コミンフォルムは1956年4月までは解体されなかった。
 知られているかぎりで、そのとき以降、ソヴィエトの党は国際共産主義の組織的形態を設立しようとはせず、可能なかぎり、個別の諸党に対して直接的な統制を加えることによって闘い、ときおりは、世界的問題に関する決議を採択するための会議を呼びかけた。
 しかしながら、これらは従前に比べると成功しなかった。努力したにもかかわらず、ソヴィエトの指導者たちは、かつてユーゴスラヴィアについて行ったのと同様に中国共産党からの国際的非難を受けないようにすることが、うまくはできなかった。
 (9)スターリン支配の最後の年は、共産主義世界全体での、教理のソヴィエト化(Sovietization)を特徴とした。
 このことの影響はブロック内の国々によって異なった。しかし、圧力と趨勢は、一般的に言って同一だった。
 (10)以前の章で述べたように、ポーランドのマルクス主義はそれ自体の伝統をもち、ロシアのそれから全く自立していた。
 この伝統には単一の正統な形態はなく、厳密な党イデオロギーもなかった。
 ポーランドの知的情景の中では、マルクス主義はたんに一つの傾向にすぎず、きわめて重要なものでもなかった。
しかしながら、型にはまった教理を主張するのではなかったが、マルクス主義の諸範疇をその研究に利用した歴史学者、社会学者、および経済学者たちがいた。
 とりわけLudwik Krzywicki とStefan Czarnowski (1879-1937)だ。後の人物は傑出した社会学者、宗教歴史学者で、その晩年には、ある範囲で、マルクス主義へと接近した。
 (彼は、プロレタリア文化に関するある小論文で、新しい精神性と新しい類型の芸術の起源を労働者階級の状況と関連させて分析した。)
1945年の後の数年のうちに、この伝統が復活した。新しいマルクス主義の思考は、古いそれと同じく、特定の厳格な方向に何ら限定されておらず、むしろ、合理主義や文化的諸現象を社会紛争と関連させて分析する習慣の背景であるように見えた。
 こうした緩やかで、聖典化されないマルクス主義は、月刊誌<Mysl Wspolczesna(現代思想)>や週刊誌<Kuźnica(前進)>などの雑誌で表現されていた。
 1945-50年に、諸大学が戦前の方針のもとで再設立された。たいていは同じ教育スタッフが担当した。
 教育の分野でのイデオロギー的な粛清(purge)は、まだ存在しなかった。
 この時期に出版された多数の科学書や科学雑誌は、マルクス主義とは何の関係もなかった。
 体制側は「プロレタリアート独裁」とはまだ自称しなかった。そして、党のイデオロギーは共産主義の主題を強調せず、むしろ、愛国主義、民族主義または反ドイツの主題を重視した。
 ソヴィエト類型のマルクス主義は、この時期の背景には多く見られた。
 その主要な語り手は、Adam Schaff だった。この人物は、レーニン=スターリン主義の範型の弁証法的唯物論や歴史的唯物論について解説する書物や手引き書を執筆した。但し、ソヴィエトにいる同種の者たちのものほどに幼稚ではなかった。
 最悪の時代であってすら、ポーランドのマルクス主義はソヴィエトの水準にまで低落することがなかった、と一般的に言ってよい。
 ロシアの範型によって浸食されたにもかかわらず、ポーランド・マルクス主義は、ある程度の独創性と、理性的な思考に対する内気な敬意を保った。//
 (11)1945-49年に、政治と警察による抑圧がより強くなった。
 戦争後のおよそ二年の間、ドイツの侵略者と闘った、そしてロシアによって押しつけられた新しい体制に屈服するのを拒む、地下軍隊との武装衝突があった。
 処刑と頻繁な流血は、武装地下軍団や戦時中の政治組織に対する闘いの特質だった。農民政党やその他の合法的な非共産主義集団に対する闘いについても同様だったが。
 にもかかわらず、この時期の文化的圧力は、純粋に政治的な問題についてに限られていた。
 マルクス主義はまだ、哲学または社会科学での拘束的な標準たる地位を占めていなかった。かつまた、芸術や文学での「社会主義リアリズム」は、知られていなかった。//
 (12)1948-49年、ポーランドの党は「右翼民族主義者」を粛清した。
 党指導部は交替し、政治生活はロシアの指針に適合するようになり、農村の集団化が決定された(但し、いかなる程度にでも実施されなかった)。そして、体制はプロレタリアート独裁であることが、公式に宣言された。
 1949-50年、政治的な浄化のあとに続いたのは、文化のソヴィエト化だった。
 多数の学術および文化に関する雑誌が閉刊され、それらには新しい編集者が着任した。
 1950年代の初めに、ある範囲の「ブルジョア」教授たちが解任された。しかし、その数は大して多くはなかった。そして、教育や出版はすることができなかったけれども、給与を貰って、状況が苛酷でなくなった数年のちには出版することとなった書物を執筆していた。
 哲学学部の一定範囲の教授たちには職が残されたが、論理の教育に限定するように命じられた。
 その他の者たちには、科学アカデミーの中に再び職が与えられた。そこで彼らは、学生たちとの接触をしなかった。
 社会科学部門のカリキュラムは変更され、社会学の講座は歴史的唯物論の講座に替えられた。
 党の特別の研究所が、イデオロギー的に微妙な哲学、経済学および歴史学の部門について、「ブルジョア」教授たちに代わって幹部たちを研修するために、設置された。
 哲学については、マルクス主義的「攻撃」の手段は雑誌<Mysl Filozoficzna(哲学的思考)>だった。
 マルクス主義哲学者たちは一定期間、非マルクス主義の伝統と、とくに分析哲学のLwow-Warsaw 学派と闘うことに傾注した。Kotarbinski、Ajdukiewicz、Stanislaw Ossowski、Maria Ossowska、等々だ。
 多数の書物と論文が、上の学派の考え方の多様な論点を批判した。
 もう一つの攻撃対象は、トーマス主義(Thomism) だった。これは、Lublin カトリック大学を中心として強い伝統を持っていた。
 (この大学は-社会主義国家の歴史上例のないことだが-抑圧されたことがなく、様々な圧力と干渉の手段が講じられたにもかかわらず、今日まで機能している。)
 老若両世代の多数のマルクス主義者たち-Adam Schaff、Bronislaw Baczko、Tadeusz Kroński、Helena Eilstein、Wladyslaw Krajewski-が、この闘いに参加した。この著の執筆者〔L・コワコフスキ〕もそうだったが、この事実が誇りの大元だとは考えていない。
研究のもう一つの主題は、過去数十年間のポーランド文化に対するマルクス主義の寄与だった。//
 (13)この時代の文化的進展について完全に論評するのは、まだ時機が早すぎる。しかし、強要された「マルクス化(Marxification)」には、ある程度の埋め合わせ的な特徴があった。
知的生活は確かに、貧困でかつ不毛なものになった。しかし、マルクス主義の普及は、それが伴った強制にもかかわらず、良いことももたらした。
 破壊的で反啓蒙主義的な部分もあったが、本質的に価値があり、多かれ少なかれ知的な世界的相続財産たる性格をもつ特質を、それは持ち込んだ。
 例えば、文化的諸現象を社会的対立の側面だと把握したり、歴史的進展の経済的および技術的背景を強調したりする習慣だ。概して言うと、諸現象を、幅広い歴史的な趨勢との脈絡で研究する、ということだ。
 人文諸学問の新しい方向のある程度は、イデオロギー的な契機をもつものではあったが、例えばポーランドの哲学や社会思想の歴史に関して、価値ある結果を生み出した。
 哲学上の古典の翻訳書の出版やポーランドの社会思想、哲学思想、宗教思想に関する標準的著作物の再出版というかたちで、有意味な仕事がなされた。//
 (14)スターリン主義の時代には、国家は文化に対して全く寛容に助成金を支給した。その結果として、大量のがらくた作品が生産されたが、しかし、永続的価値をもつものも多く生まれた。
 一般的な教育水準と大学への入学者数は、戦前と比べて顕著に上昇した。
 破壊的だったのはマルクス主義での一般的教育ではなく、強制と政治的欺瞞の道具としてそれが用いられたことだった。
 初歩的で型に嵌まった形態だったとしてすら、マルクス主義は、その伝統の一部である有益で理性的な思考を植え付けることに、ある程度はなおも貢献した。
 しかし、そうした思考方法の種子は、マルクス主義の諸教理の抑圧的な利用が緩和されていてのみ、成長することができた。//
 (15)概していえば、厳密な意味でのスターリニズムは、ポーランドの文化にとって、ブロックの他諸国のそれに対するほどには有害ではなかった。そして、元に戻せない程度は、より低かった。
 このことには、いくつかの理由があった。
 まず、たいていは受動的だったが自発的な文化的抵抗と、ロシアに由来するもの全てに対する深く根ざした不信または敵意があった。
 スターリニズム文化の押し付けについては、一定の気乗り薄さ、あるいは首尾一貫性の欠如もあった。すなわち、マルクス主義が人文諸科学を絶対的に独占することは決してなかった。また、ソヴィエト的様式で生物学に圧力を加えようとする試みは貧弱だったし、効果もなかった。
 「社会主義リアリズム」の運動はある程度の釈明的な無価値のものを生んだが、文学や芸術を破壊することはなかった。
 高等教育の諸施設での迫害(purge)は、比較的に小規模だった。
 図書館で禁書とされた書物の割合は、他のどの諸国よりも小さかった。
 さらに加えて、ポーランドでの文化的スターリニズムは、比較的に短命だった。
 それは本気で1949-50年に始まったが、1954-55年にはすでに衰亡しつつあった。
 実証するのは困難ではあるが、もう一つの緩和要因が働いていた、と言うことができる。すなわち、戦前のポーランド共産党を破壊してその指導者たちを殺戮したスターリンに対する、多数の老練共産主義者たちの反感だ。//
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 ③へとつづく。

1955/L・コワコフスキ著第三巻第四章第13節①。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。第三巻分冊版、第三巻分冊版p.166-。
 第三巻は注記・索引等を含めて、総548頁。この巻の試訳は、本文のp.1から始めて、ここまで済ませている。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。第13節は、計17頁分と長い。
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 第13節・スターリニズムの最終段階でのヨーロッパ・マルクス主義①。
 (1)ソヴィエトの支配下にあった諸国でのマルクス主義の歴史は、大まかにはつぎの四つの段階に分けられる。
 第一は1945年から1949年までの時期で、「人民民主主義」諸国が政治的および文化的な多元主義の要素をまだ残し、徐々にソヴィエトの圧力の影響を受けていった。
 第二は1949年から1954年までの時期で、政治とイデオロギーに関しては「社会主義陣営」としての完全なまたはほとんど完全な<均一化(Gleichschaltung)>があり、また全ての文化の分野できわめて大きなスターリン主義化(Stalinization)が見られた。
 第三は1955年に始まった。マルクス主義の歴史に関係する最大の際立つ特質は、 多様な「修正主義」、反スターリニズムの動向が出現したことで、これは主にポーランドとハンガリーで、だが遅れてはチェコスロヴァキアで、またある程度は東ドイツでも、生じた。
 この時期は、おおよそ1968年に終わりを告げた。このとき、社会主義ブロックの諸国の少なくともほとんどで、硬直した無味乾燥な形態をまとったが、マルクス主義は支配党の公式イデオロギーのままだった。//
 (2)東ヨーロッパでの「スターリン主義化」と「脱スターリニズム」は、各国の多様な事情に応じて異なる態様で進行した。
 第一に、いくつかの国-ポーランド、チェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィア-は戦争で連合国側につき、その他の国は公式に枢軸側と同盟していた。
 ポーランド、チェコスロヴァキアおよびハンガリーは歴史的には西側のキリスト教世界に属していて、ルーマニア、ブルガリアおよびセルビアとは異なる文化的伝統をもっていた。
 東ドイツ、ポーランドおよびチェコスロヴァキアには、中世に遡る真摯な哲学的研究の伝統があった。こうした伝統はその他の同じブロックの国々には欠けていた。
 最後に、一定の諸国には、戦時中に積極的な地下運動やゲリラ運動があった。他方でその他の諸国では、ドイツの占領のもとでと同様に、抵抗は弱く、武装した闘争の形態をとらなかった。
 前者の範疇に入るのは、ポーランドとユーゴスラヴィアだった。但し、重要な違いはユーゴスラヴィアでは共産党は最も積極的な闘争者だったが、これに対してポーランドでは、小さな分派が全体の抵抗運動を行った。その支柱となっていたのは、ロンドン政府に忠誠をを尽くす軍部だった。
 これらの違いの存在は全て、東ヨーロッパと当該諸国のマルクス主義の進展にかかる戦後の重要な様相だった。
 それらはイデオロギー侵略の速さと深さ、およびスターリンがのちに拒絶される様相に影響を与えた。
 ドイツ侵略者からの解放が大部分は自分たち自身の共産党支配勢力によった唯一の国は、ユーゴスラヴィアだった。そしてこの国のみで共産党は、1945年以降は分かち難い権力を行使した。
 他の諸国では-ポーランド、東ドイツ、チェコスロヴァキア、ルーマニアおよびハンガリーでは-社会民主主義政党および農民政党が、戦後の初期の間に活動することが許容された。//
 (3)東欧の共産党指導者たちの多くは、最初は、自分たちの国は独立国家で、ロシアと同盟して、つまりロシアの直接的統制のもとにあってではなく、社会主義の諸装置を建築するだろうと考えた。こう想定するのは、全く可能だ。
 しかしながら、このような幻想は、長くは存続し得なかった。
 最初の二年間は、国際関係には戦時中の同盟関係の痕跡がまだ顕著にあった。つまり、共産主義諸党は、民主主義的諸制度、複数政党政権および東欧での自由選挙を定めていた、ヤルタ協定とポツダム協定に従順である姿勢を維持した。
 しかしながら、冷戦の始まりは、この地域にソヴィエト同盟からの自立を発展させるという望みの全てに、終止符を打った。
1946-1948年に、非共産主義諸政党は破壊されるか、または共産党と強制的に「統合」された。最初にこの運命に遭ったのは東ドイツの社会民主党だった。
 純然たる連立政権の要素がまだ残っていた最初の頃からすでに、共産党は権力の枢要な部分に隠然たる力を有した。とくに、警察と軍事の部門に。
 いたるところに存在するソヴィエトの「助言者」たちは統治の重要な諸問題に関する決定的発言力をもち、最も残忍で悪辣な抑圧の形態を直接に組織した。
 1949年、非共産主義諸政党に対する計略した抑圧のあとで、瞞着と暴力を特徴とする選挙のあとで、あるいはチェコスロヴァキアでの<クー>のあとで、スターリンの精密な統制のもとにある東ヨーロッパの諸共産党は、事実上の独占的権力を享有した。
 だが、スターリニズムがこうして衛星諸国で確立されていったそのときでもまだ、ユーゴスラヴィア分派というかたちをとった最初の重要な挫折に、それは遭遇した。//
 (4)スターリンが東ヨーロッパの、あるいは他地域の有力諸共産党を従属させるために用いた道具の一つは、共産主義者情報局(Communist Information Bureau)または「コミンフォルム」として知られる、コミンテルンの弱められた範型のものだった。
 この組織は、1947年9月に設立され(コミンテルンは1943年に解散した)、アルバニアと東ドイツを除く東ヨーロッパの全ての支配的諸共産党の代表者で構成された。-すなわち、ソヴィエト、ポーランド、チェコスロヴァキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアおよびユーゴスラヴィアの諸党代表者。これらに、フランスとイタリアの共産党代表者が加わる。
 スターリンのもとでこの組織を指揮したのは、ズダノフ(Zhdanov)だった。
 そして、ユーゴスラヴィアの党が1944-45年の有利な情勢のもとで権力を奪取できなかったとしてフランスとイタリアの各共産党を攻撃したのは、このズダノフの指令によってだった。
 (こうした行動は実際にはスターリンが命令していたが、にもかかわらず、彼らは適切な自己批判をしなかった。)
 コミンフォルムの役割は、世界じゅうの共産主義者たちに、主要な諸党の合致した決定だと偽装したソヴィエト政策の要請を伝達することだった。
 いくつかの東欧の諸党は主権をもつ政府として行動する権限があると本当に考えていた気配が、実際にはあった。チェコスロヴァキアとポーランドはマーシャル・プランに素早く関心を示し、ブルガリアとユーゴスラヴィアはバルカン連邦構想を提案した。
 このような自立性の提示は全てすみやかに粉砕され、気分を害せた諸党はソヴィエトの命令に従った。
 第三次大戦が少なくとも全く考え難いものではなくなっていたとき、ソヴィエト同盟の外部にいる共産主義者たちは、「正しい(correct)」政策を決定する唯一の権威があり、その命令に微小なりとも逸脱するものは不愉快な結果を体験するだろう、ということを再び教え込まれなければならなかった。//
 (5)コミンフォルムの第一回会合で、ジダノフは、国際情勢の最重要の要素として世界の政治上の二つのブロックへの分裂を語った。
 コミンフォルムはまた、むろんソヴィエト共産党に支配されていたので、ソヴィエトの情報宣伝を指令する、国際的な雑誌を刊行した。
 この雑誌刊行は実際のところ、コミンフォルムの第一の任務だった。
 コミンフォルムは、あと二回だけ会合をもった。1948年6月と1949年11月。いずれも、ユーゴスラヴィア共産党を非難することを目的としていた。
 ソヴィエトとユーゴスラヴィアの共産党の間の軋轢は、1948年春に始まった。
 その直接の原因は、ティトー(Tito)とその同僚たちが、ソヴィエトの「助言者」たちのユーゴの国内問題、とくに軍隊と警察、に対する粗野で傲慢な干渉に苛立ったことにあった。
 スターリンはユーゴスラヴィアの国際主義の欠如を激しく怒って、ユーゴを跪かせようとした。そして、それは簡単な仕事だと疑いなく考えていた。
 情報宣伝活動について、そのときまでユーゴスラヴィア共産党はロシアに対して極端に卑屈だった。
 しかし、彼らは自分の家の主人だった。そして、ソヴィエト同盟は彼らをきわめて不十分にしか代表していない、ということが分かった。
 (論争の主要な原因の一つは、ソヴィエトの警察や諜報網へとユーゴ人が新規に採用されていたことだった。)
 ソヴィエトからの直接の給料で生活していたある程度のユーゴ人は別として、ユーゴスラヴィアの党は屈服する気が全くなかった。そして彼らを国際主義へと再転換させる唯一の方法は武装侵攻である、と思われた。それは、その是非はともかく、スターリンが危険すぎる行路だと考えたものだった。//
 (6)コミンフォルム第二回会合は、ユーゴスラヴィア共産党を公式に非難した。この会合に、ユーゴスラヴィアの代議員は欠席していた。
 ベオグラード(Belgrade)〔=ユーゴスラヴィア〕は、反ソヴィエト・民族主義者だと宣告された(その根拠は説明されなかった)。そして、ユーゴスラヴィアの共産主義者たちは、かりに正しい方針にただちに従わないならばティトー一派を打倒すべきだ、と呼びかけられた。
 ユーゴスラヴィアとの論争はコミンフォルムの雑誌の主要な主題となった。そして、この組織の第三回および最終の会合で、ルーマニア共産党書記長のGheorghiu Dej は、「殺人者とスパイたちに握られているユーゴスラヴィアの党」に関する演説を行った。
 この演説からは、つぎのように思えた。すなわち、全てのユーゴの党指導者たちは太古から多様な西側諜報機関の工作員だった、ファシズム体制を樹立している、主要な政策はソヴィエト同盟に混乱の種を撒き散らためにあったし現にあってアメリカの戦争挑発者の利益に奉仕している、と。
 これを契機として、世界の各共産党は、ヒステリックな反ユーゴ宣伝運動をするよう解き放たれた。
 このような対立のおぞましい帰結はこうだった。すなわち、「人民民主主義」諸国は、「ティトー主義者」のまたはその一員だとの嫌疑のある者を地方の共産党組織から追放(purge)するために、明らかにモスクワ見せ物裁判に倣った、一連の司法による殺戮を繰り広げた。
 多数の指導的共産主義者が、こうした裁判の犠牲者となった。これは、チェコスロヴァキア、ハンガリー、ブルガリアおよびアルバニアで発生した。
 チェコスロヴァキアでの主要な裁判はSlánskýその他の者に関する裁判で、1952年11月に行われた。これはスターリンの死の直前のことで、明瞭な反ユダヤ感情の含意で際立っていた。
 この主題は、スターリンの晩年にソヴィエト同盟で前面に出てきたものだった。そして、党指導者たち等々を殺害する陰謀を図ったとして訴追されることとなった、ほとんどがユダヤ人の医師のグループの1953年1月の逮捕によって、絶頂点を迎えた。
スターリンが個人的に命令をした拷問を生き延びた者たちは、彼の死後にただちに釈放された。
ポーランドでは、党書記長のゴムウカ(Gomulka)およびその他の著名人物が監禁されたが裁判にかけられることはなく、処刑もされなかった。
 但し、若干のより下級の活動家たちは射殺されるか、最後には監獄で死に至った。
 東ドイツでは、逮捕と裁判には一定のパターンがあったが、犠牲者に関しては十分に知られていない。
 ブロックのその他の諸国では、「ティトー主義者」、「シオニスト」、その他の帝国主義の代理人、および党の書記局や政治局の中に「ひそかに入り込んで」いるファシストたちが、外国の諜報機関に雇われていることを告白し、その大部分が見せ物裁判のあとで処刑された。
 これらの者たち全てが、ロシアに対してより自立した共産主義体制を求めているという意味での、本当の「ティトー主義者」だった、と想定してはならない。
 これはある範囲の者たちについては正しかったが、別の者たちについては、恣意的な理由づけに用いる裏切り者だとして持ち込まれた。
 その一般的な目的は、東ヨーロッパの各支配党を弱体化(terrorize)させ、マルクス主義、レーニン主義および国際主義が何を意味するのかを教え込むことにあった。
 すなわち、ソヴィエト同盟は名義上はブロック諸国から独立した絶対的な主人であることを、そして他のブロック諸国は主人の命令を忠実に履行しなければならないということを。//
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 ②へとつづく。

1949/R・パイプス著・ロシア革命第11章第8節。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。p.482-p.486.
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 第8節・党中央委員会10月10日の重大決定。
 (1)10月16日までに、ボルシェヴィキには自由になる二つの組織があったが、いずれも名目上はソヴェトに帰属していた。第一は軍事革命委員会で、クーを実施する、第二は来たる第二回ソヴェト大会で、クーの実施を正当化する。
 これらはこのときまでに、事実上は、第一に臨時政府の軍事幕僚に、第二にソヴェトのイスパルコムに取って代わった。
 ミルレヴコム〔軍事革命委員会〕とソヴェト大会は、10月10日にきわめて秘密裡に行われたボルシェヴィキの権力掌握の決定を実施すべきものとされた。//
 (2)10月3日と10日の間のいつかに、レーニンはペトログラードにこっそりと戻ってきた。レーニンはこれを隠れて行ったので、共産主義者の歴史研究者は今日まで彼の帰還のときを確定できていない。
 レーニンは10月24日までVyborg 地区に潜伏した。姿を現したのは、ボルシェヴィキ・クーがすでに開始されたあとのことだった。
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 (3)10月10日-イスパルコムとソヴェト総会が防衛委員会の設置を票決した後の一日で、この事態との関係が十分にありそうだが-、ボルシェヴィキ中央委員会のうちの12名の委員が集まって、武装蜂起の問題に関して決定した。
 この会合は深夜に、極端な予防措置に囲まれた中で、スハノフのアパートで行われた。
 レーニンは、きれいに髭を剃り、鬘と眼鏡を着けて変装してやって来た。
 このときに何が行われたかについて明らかになってことに関する我々の知識は完全ではない。二つの議事録が作成されたが、そのうち一つだけが出版され、その一つですら手を加えて修正されたものだからだ。(152)
 最も詳細な資料は、トロツキーの回想録に由来する。(153)//
 (4)レーニンは、10月25日の前に絶対にクーが実施されるのを確実にしようと決断するに至っていた。
 トロツキーが「我々が招集しているソヴェト大会では、我々が多数派を握ることがあらかじめ保障されている」として反対したとき、レーニンは、つぎのように答えた。
 「第二回ソヴェト大会の問題には、<中略>彼はいかなる関心もなかった。
 それがどれだけの重要性をもつのか? 開催されすらするのか? そして、権力を切り取る(tear out, vyrazi')ことは必要か?
 ソヴェト大会に束縛されてはならない。敵に対して蜂起の日程を教えてあらかじめ警告するのは愚かで馬鹿げている。
 10月25日はせいぜいのところ、粉飾(camouflage)として役立つかもしれない。しかし、蜂起は、ソヴェト大会よりも早く、それとは独立して、実行されなければならない。
 党は、武器を手にして、権力を掌握しなければならない。そのときには、我々はソヴェト大会について語るだろう。」(154)
 トロツキーは、こう考えた。レーニンは「敵」に大きすぎる意味を認めているのみならず、カバー(cover)としてのソヴェトの価値を過少評価してもいる。
 党は、レーニンが欲するようには、ソヴェトと無関係に権力を掌握することはできない。なぜならば、労働者と兵士たちはボルシェヴィキ党に関することも含めた全てのことをソヴェトのメディアを通じて学んでいるからだ。
 ソヴェト構造の枠外で権力を奪取することは、ただ混乱の種だけを撒くだろう。//
 (5)レーニンとトロツキーの違いは、クーの時機と正当化の問題に集中していた。
 しかし、中央委員会の何人かの委員は、権力奪取を実行するかどうか自体をすら、疑問視していた。
 ウリツキ(Uritskii)は、ボルシェヴィキは技術的に蜂起を準備していない、使用可能な4万丁の銃砲では不十分だ、と主張した。
 最も厳しい反対意見は、カーメネフおよびジノヴィエフから出て来た。彼らはその立場を、内密の手紙を通じて、ボルシェヴィキの諸組織に対して説明した。(155)
 クーの時機は、まだだ。
 「我々が深く確信するところでは、いま蜂起することは我々の党の運命を賭ける冒険であることのみならず、世界革命はもとよりロシア革命を賭けることをも意味する」。
 党は憲法制定会議の選挙で成功(do well)するのを期待することができる。最小でも議席の三分の一を獲得すれば、そのことでソヴェトの権威を補強し、ソヴェト内での影響力をさらに優ったものにすることができる。
 「憲法制定会議にソヴェトを加えたもの-これこそが、我々が追求すべき、連結した統治制度の類型だ」。
 この二人は、ロシアと世界の労働者の多数派はボルシェヴィキを支持している、とのレーニンの主張を拒絶した。
 彼らの悲観的な評価によれば、武装行動ではなくて防衛的な戦略をとることを〔いわば〕医師は患者に勧める、ということになる。//
 (6)レーニンはこの主張に対して、こう反応した。「憲法制定会議を待つのは非常識(senseless)だ。これは我々の側には立たないだろう。なぜなら、これは我々の任務を複雑なものにするだろうから」。
 この点で、レーニンは、多数派の支持を獲得した。//
 (7)討議が終わりに近づくにつけて、中央委員会は三つの派へと分かれた。
 1. レーニンだけの一人党派で、ソヴェト大会や憲法制定会議に関する考慮することなく、即時の権力掌握に賛成する。
 2. ジノヴィエフとカーメネフで、Nogin、Vladimir Miliutin およびアレクセイ・ルィコフによって支持され、当面はクー・デタに反対する。
 3. その他の数では6名の委員で、クーを支持するが、ソヴェト大会との連携がなされるべき、-この二週間は-ソヴェトの正規の支援のもとにあるべき、とのトロツキーにも賛同しない。
 過半数の10名は、「避けることができず、かつ十分に成熟した」ときに武装蜂起に賛成する票を投じた。(156)
 時機は未決定のままに、残された。
 あとに続いた事態から判断すると、一日または数日だけ第二回ソヴェト大会に先行する、というものだった。
 レーニンは、このような妥協をしなければならなかった。そして、ソヴェト大会はたんにクーを裁可することだけが求められる、という彼の主眼点を獲得した。//
 (8)軍事革命委員会の設立と、そのつぎの第二回ソヴェト大会の元となった北部ソヴェト大会の招集は、以前に記述したことだが、10月10日の中央委員会決定を実施するものだった。
 (9)カーメネフには、この決定は受容することができないものだつた。
 彼は、中央委員会の委員を離任し、その一週間後、<Novaia zhizn'>のインタビューで自分の立場を説明した。
 カーメネフは、こう語った。彼とジノヴィエフは党の諸組織に回覧の手紙を送った。それに二人は、「近い将来に武装蜂起を始めることを党が承認することに断固として反対する」と書いた。
 党がそのような決定をしていなかったとしても、とここで彼は虚偽を語ったのだが、彼とジノヴィエフおよび何人かのその他の者は、ソヴェト大会の前夜での、ソヴェトから独立した「武装の実力による権力掌握」は革命にとって致命的な結果をもたらすだろう、と考えた。そして、蜂起を避けることはできないが、時機がよくない、と。(157)
 (10)中央委員会は、クーの前にさらに三回の会合を開いた。10月の20日、21日、そして24日。(158)
 第一回めの議題は、武装蜂起に反対する見解を公にした点で冒したと主張された、カーメネフとジノヴィエフの党規約違反だった。(*)
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 (*) レーニンは間違って、ジノヴィエフはカーメネフとともに<Novaia zhizn'>のインタビュー>に加わっていたと考えていた。<Protokoly TsK>, p.108.
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 レーニンは中央委員会に対して怒りの手紙を書き送り、「スト破り」の除名を要求した。
 「我々は資本主義者たちに真実を語ることはできない。すなわち、我々はストライキへと進む(蜂起をする、と読むべし)こと、そして<時機の選択>を彼らに<隠す>こと、を<決定した>。(159)
 中央委員会は、この要求に従うことをしなかった。
 (11)これらの会合の議事録は、実質的に無意味なものにするために相当に省略されているように思われる。かりに表面どおりに理解するならば、そのときまでにすでに議論が進行中だったクーは議題ですらなかった、と推察してしまうだろう。
 (12)中央委員会の戦術は、臨時政府を挑発して、革命を防衛することを偽装したクーを開始するのを可能にさせる、報復的な手段をとるよう追い込むことだった。
 この戦術は、秘密ではなかった。
 事件の数週間前のエスエル機関誌<Delo naroda>が簡略化して書いているように、臨時政府はコルニロフと一緒に革命を抑圧し、〔ドイツ〕皇帝と一緒にペトログラードを敵に明け渡す陰謀を企てたとして責任が追及されるだろう。ソヴェト大会と憲法制定会議のいずれも解散させる用意をしていた、という責任追及はもちろん。(160)
 トロツキーとスターリンは、そのようなことが党の計画だったと、事件の後で確認した。
 トロツキーは、こう書いた。
 「本質的なことを言えば、戦略は攻撃的なものだった。
 我々は、政府を攻撃する準備をしていたが、我々の煽動活動は、敵がソヴェト大会を解散させようとしている、敵を容赦なく撃退することが必要だ、と主張することにあった。」(161)
  スターリンによると、こうだ。
 「革命(ボルシェヴィキ党と読むべし)は、不確かで躊躇させる要素を軌道の中に引き込むことを容易にするために、その攻撃行動を防衛という煙幕の背後で偽装することだった。」(162)
 (13)Curzio Malaparte は、たまたまファシストが権力奪取をしていたイタリアを訪れていたイギリスの小説家、Izrael Zangwill の困惑を、こう叙述している。
 「バリケード、路上の戦闘、舗道上の軍団」がないことに驚いて、Zangwill は、自分が革命を目撃していると信じるのを拒んだ。(163)
 しかし、Malaparte によれば、現代の革命の特徴的な性質は、まさに無血(bloodless)であることだ。訓練された突撃兵団の小部隊が、戦略的地点をほとんど静穏に掌握するのだ。
 このような厳密な正確さでもって襲撃は実行されるので、民衆一般は何が起きているかを少しも知ることがない。
 (14)この叙述は、ロシアの十月のクーにふさわしい(これをMalaparte は研究して、彼のモデルの一つとして用いた)。
 十月に、ボルシェヴィキは集団的な武装示威行動や路上での衝突をしなかった。これらは、レーニンの主張に従って4月や7月には行ったことだった。なぜ10月にはしなかったかというと、群衆は統制し難く、また反発を却って生むということが分かったからだった。
 ボルシェヴィキは、今度は、小規模の訓練された兵士と労働者の部隊に頼った。その部隊は、軍事革命委員会を装った軍事組織司令部のもとにあり、ペトログラードの主な通信と交通の中心地、利便施設や印刷工場-現代的大都市の中枢(nerve)箇所-を占拠することを任務としていた。
 政府とその軍事幕僚たちとの間の電話線を切断するだけで、ボルシェヴィキは反攻の組織化を不可能にすることができた。
 作戦行動全体が、順調かつ効果的に履行された。そのために、まさにそれが進行中だったときですら、オペラ劇場のほかにカフェやレストラン、あるいは劇場や映画館、は営業のために開いていて、娯楽を求める群衆で混雑していた。//
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 (152) <Protokoly TsK>, p.83-p.86.
 (153) L・トロツキー,<レーニン>(Moscow, 1924), p.70-p.73.
 (154) 同上, p.70-p.71.
 (155) <Protokoly TsK>, p.87-p.92.
 (156) 同上, p.86.; トロツキー,<レーニン>, p.72.
 (157) Iu・カーメネフ. <NZh>No.156/150(1917年10月18日)所収, p.3.
 (158) <Protokoly TsK>, p.106-p.121.の縮められた議事録。
 (159) 同上, p.113.
 (160) <DN>No.154(1917年9月11日), p.3., 同No.169(1917年10月1日), p.1.
 (161) トロツキー,<レーニン>, p.69.
 (162) Mints, <Dokumentry>I, P.3.
 (163) C・Malaparte, <クー・デタ: 革命の技術>(New York, 1932), p.180.
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 第8節は終わり。つぎの第9節の目次上の見出しは、<軍事革命委員会がクー・デタを開始>。

1946/L・コワコフスキ著第三巻第四章第12節②。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。第三巻分冊、p.161-p.166.
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
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 第12節・スターリニズムの根源と意義・「新しい階級」の問題②。
 (8-2)異端の考え方のゆえに訴追され投獄されたソヴィエトの歴史研究者のAndrey Amalrik は、<ソヴィエト同盟は1984年まで残存するだろうか?>の中で、ロシアでのマルクス主義の機能をローマ帝国でのキリスト教のそれと比較した。
 キリスト教の受容は帝国のシステムを強化し、その生命を長引かせたが、最終的な破滅から救い出すことはできなかった。これとちょうど同じく、マルクス主義イデオロギーの吸収(assimilation)によってロシア帝国は当分の間は存在し続けているが、それは帝国の不可避の解体を防ぐことはできない。
 帝国の形成は最初からマルクス主義の立脚点だった、またはロシアの革命家たちの意識的な目的だった、ということを意味させていないとすれば、Amalrik の考え方は受容されるかもしれない。
 諸事情が異様な結びつき方をして、ロシアの権力はマルクス主義の教理を信仰表明(profess)する党によって掌握された。
 権力にとどまるために、初期の指導者たちの口から真摯に語られたことが明瞭なそのイデオロギーのうちに含まれる全ての約束を、党は首尾よく取り消さざるをえなかった。
 その結果は、国家権力を独占し、その性質上ロシアの帝国主義の伝統に貢献する、新しい官僚機構階層の形成だった。
 マルクス主義はこの階層の特権となり、帝国主義的政策の継続のための有効な道具となった。//
 (9)これに関係して、多くの著述者たちは、「新しい階級」に関する疑問、つまり「階級」はソヴィエト連邦共和国やその他の社会主義諸国家の統治階層を適切に呼称したものかどうか、を議論してきた。
 要点は、とくにMilovan Djilas の<新しい階級>の1957年での出版以降、適切に叙述されてきた。
 しかし、議論にはより長い歴史があるが、ある程度はこれまでの章で言及してきた。
 例えば、アナキスト、とくにバクーニンのマルクスに対する批判は、その考えを基礎とする社会を組織する試みは必ず新しい特権階級を生む、と主張した。
 現存している支配者に置き換わるべきプロレタリアは自分の階級に対する裏切り者に転化し、彼らの先輩たちがしたように、嫉妬をもって守ろうとする特権のシステムを生み出すだろう。
バクーニンは、マルクス主義は国家の存在が継続することを想定するがゆえに、このことは不可避だ、と主張した。
 主にロシア語で執筆したポーランドのアナキストであるWaclaw Machajski は、この考え方を修正してさらに、はるかに隔たる結論を導き出した。
 彼は、こう主張した。マルクスの社会主義思想は、知識人たちがすでに所有する知識という社会的な相続特権を手段として政治的特権をもつ地位を得ようと望む知識人たちの利益を、とくに表現したものだ。
 知識人界の者たちが彼らの子どもたちに知識を得る有利な機会を与えることができるかぎりで、社会主義の本質である平等に関する問題は存在し得ないだろう。
 知識人たちに頼っている現在の労働者階級は、知識人たちの主要な資産、すなわち教育を剥奪することでのみ目的を達成することができる。
 いくぶんはSorel のサンディカリズムを想起させるこうした主張は、つぎのような相当に明確な事実にもとづいていた。すなわち、所得の不平等と、教育・社会的地位の間の強い連関関係のいずれもがある社会ではどこでも、教育を受けた階級の子どもたちは他の者たちよりも、社会階層を上昇する多くの機会をもつ。
 相続の形態が不平等であることは、文化の継続を破壊し、完全に均一の教育を行うべく子どもたちを両親から切り離してのみ、除去することができる。その結果として、Machajski のユートピアは、平等という聖壇に捧げるために文化と家族の両方を犠牲にすることになるだろう。
 教育は特権の根源だとしてやはり嫌悪するアナキストたちは、ロシアにもいた。
 Machajski はロシアに支持者をもったので、十月革命後の数年間は、彼の考え方に反対することは、党のプロパガンダの周期的な主題だった。彼らは、全く理由がないわけではなく、サンディカリズム的逸脱や「労働者反対派」の活動家たちと関連性(link)があった。//
 (10)しかしながら、社会主義のもとでの新しい階級の発展という問題は、別の観点からも提示された。
 プレハノフのようなある範囲の者たちは、経済的条件が成熟する前に社会主義を建設しようとする試みは新しい形態の僭政(despotism)を生むに違いない、と主張した。
 Edward Abramowski のような別の者たちは、社会の道徳的な変化が先行する必要性を語った。
 この者たちは、かりに共産主義が道徳的に改良されず、古い秩序が植え付けてきた要求と野心とまだ染みこんだままの社会を継承するならば、国有財産制のシステムのもとでは、多様な性質の特権を目指す闘いが繰り返されざるを得ないと、主張した。
 Abramowski が1897年に書いたように、共産主義は、このような条件下では、つぎのような新しい階級構造の社会のみを生み出すことができるだろう。すなわち、古い分立が社会と特権的官僚機構の間の対立に置き換えられ、僭政と警察による支配という極端な形態によってのみ維持される社会。//
 (11)十月革命の危機は、最初から、特権、不平等、僭政の新しいシステムがロシアで芽生えていることを明瞭に指摘していた。「新しい階級」とは、カウツキーが1919年にすでに用いた概念だった。
 トロツキーが国外追放中にスターリニスト体制批判を展開していたとき、彼は、彼に倣った正統派トロツキストたちの全てがしたのと同様に、「新しい」階級に関する問題ではなく、寄生的官僚制度の問題だと強く主張した。
 トロツキーは、革命なくしては体制は打倒できないという結論に到達したあとでも、この区別をきわめて重要視した。
 彼は、社会主義の経済的基盤、つまり生産手段の公的所有は、官僚機構の退廃には影響を受けない、従って、すでに起こった社会主義革命を行う余地はない、そうではなく、現存する政府機構を排除する政治装置こそが必要なのだ、と論じた。//
 (12)トロツキー、その正統派支持者およびスターリニズムに対する批判的共産主義者は、ソヴィエト官僚制の特権は自動的に別の世代へと継承されるものではない、官僚機構は生産手段を自分たち自身では持たが生産手段に対して集団的な統制を及ぼすにすぎない、という理由で、「新しい階級」の存在を否定した。
 しかしながら、このことは、議論を言葉の問題に変えた。
 その各員が、相続によって継承できる、一定の生産的な社会的資源に対する法的権能を有しているときにのみ、支配し、搾取する階級の存在を語ることができる、というようにかりに「階級」を定義するとすれば、ソヴィエト官僚機構はもちろん、階級ではない。
 しかし、なぜこの用語がこのような制限的な意味で用いられなければならないのか、は明瞭でない。
 階級は、マルクスによってそのようには限定されていない。
 ソヴィエト官僚制は、国家の全ての生産的資源を集団的に自由に処理する権能をもった。このことはいかなる法的文書にも明確には書かれていないが、単直に、システムの基本的な帰結だった。
 生産手段の支配は、かりに集団的所有者たちを現存システムのもとでは排除することができず、いかなる対抗者たちもそれに挑戦することが法的に不可能であれば、本質的には所有制と異なるものではない。
 所有者は集団的であるために個人的な相続はなく、政治的な階層内での個々の地位を子どもたちに遺すことは誰もできない。
 実際には、しかし、しばしば叙述されてきたように、特権はソヴィエト国家では、系統的に継承されてきた。
 支配層の者たちの子どもたちは明らかに、人生での、また限定された物品や多様な利益への近さでの有利な機会の多さという観点からすると、特権をもっていた。そして、支配層の者たち自身が、このような優越的地位にあることを知っていた。
 政治的な独占的地位と生産手段の排他的な統制力はお互いに支え合い、分離しては存在することができかった。 
支配階層者の高い収入は搾取的な役割の当然の結果だったが、搾取それ自体と同一のものではなかった。搾取(exploitation)は、民衆によって何ら制御されることなく、民衆が生み出す余剰価値の全量を自由に処分することのできる権能で成り立つ。
 民衆は、いかにして又はいかなる割合で投資と消費が分割されるべきかに関して、または生産された物品がいかに処理されるのかに関して、何も言う権利がない。
 こうした観点からすると、ソヴィエトの階級分化は、所有にかかる資本主義システムにおけるよりもはるかに厳格なもので、かつ社会的圧力に対して敏感ではないものだ。なぜなら、ロシアには、社会の異なる部門が行政組織や立法機構を通じて自分たちの利益に関して意見を表明したり圧力を加える、そういう方法は何もないからだ。
 確かに、階層内での個人の地位は、上位者の意思あるいは気まぐれに、あるいは、スターリニズムが意気盛んな時代には単一の僭政者の愉楽に、依存している。
 この点を考えると、彼らの地位は完全に安全なものではない。その状態は、高位にいる者たちはみな僭政主の情けにすがり、ある日または翌日に解任されたり処刑されたりした、東洋の僭政体制にもっと似ている。
 しかし、このような事情のある国家について観察者が何ゆえに「階級」という語を使ってはならないのかどうかは明瞭でない。トロツキーの支持者が主張するように、それを「社会主義」と「ブルジョア民主主義」に対する社会主義のはるかな優越性を典型的に証明するものだと何故考えてはならないのかどうか、については一層そうだ。
 Djilas はその著書で、社会主義国家の支配階級が享有する、権力の独占を基礎にしていてその結果ではない、特権の多様性に注目した。//
 (13)上に詳しく述べたように、社会主義官僚機構を何故「搾取階級」という用語で表現してはならないのかの理由は存在しない。
 実際に、この表現は次第に多く使われていたように見える。そして、トロツキーによる〔試訳者-「新しい」階級と寄生的官僚機構の間の〕区別は、ますます不自然なものになっていた、と理解することができる。//
 (14)James Burnham はトロツキーと決裂したあと、1940年に<管理(managerial)社会主義>という有名な著書を刊行した。そこで彼は、ロシアでの新しい階級の成立は、全ての産業社会で発生しかつ発展し続ける普遍的な過程の特有の一例だ、と論じた。
 彼は、こう考えた。資本主義も、同じ過程を進んでいる。正式の所有権はますます小さくなり、権力は生産を現実に統制している者たち、すなわち「管理する階級」の手へと徐々に移っている。
 このことは、現代社会の性格による不可避の結果だ。新しいエリートたち(élite)は、社会の諸階級への分化の今日的な形態に他ならない。階級分化、特権および不平等は、社会生活の自然な現象だ。
 過去の歴史を通じてずっと、大衆は異なる多様なイデオロギーの旗の下で、その時代の特権階級を打倒するために使われてきた。しかし、その結果は、ただちに社会の残余者を、先行者たちが行ったのと同様に効率的に、抑圧し始める新しい主人たちと置き代えるだけのことだった。
 ロシアでの新しい階級による僭政は、例外ではなく、こうした普遍的な法則を例証する一つだ。//
 (15)社会生活は何がしかの形態での僭政を含むというBurnham の言い分が正しいか否かは別として、彼の論述は、ソヴィエトの現実に関する適切な叙述だとはとうてい言えなかった。
 革命後のロシアの支配者たちは産業管理者ではなかったし、政治的な官僚機構だった。かつ現に、産業管理者ではなく政治的官僚機構だ。
 もちろん前者の産業管理者は社会の重要な部門ではある。そして、それに帰属する者たちは、とくにそれぞれの分野に関する上層の権威者による決定に、十分に影響を与えるほどに強いかもしれない。
 しかし、産業上の投資、輸入そして輸出に関するものも含めて、重要な決定は政治的なものであり、政治的寡頭制がそれを行っている。
 十月革命は技術と労働の組織化の過程の結果としての、管理者への権力の移行の特有な事例だ、というのはきわめて信じ難い。//
 (16)ソヴィエトの搾取階級は、何らかの形態で東方の僭政制度に似ている新しい社会的形成物だ。別の形態としては封建的な豪族階級、あるいはさらに別の形態としては後進諸国の資本主義植民者に似ているかもしれない。
 搾取階級の地位は、政治的、経済的かつ軍事的な権力が、ヨーロッパでは以前に決して見られなかったほどの程度にまで絶対的に集中したものによって、そしてその権力を正統化するイデオロギーのへの需要によって、決定される。
 構成員たちが消費の分野で享受する特権は、社会生活で彼らが果たす役割の当然の結果だった。
 マルクス主義は、彼らの支配を正当化するために授けられる、カリスマ的な霊気(オーラ)だった。//
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 第12節終わり。次節の表題は、<スターリニズムの最終段階でのヨーロッパ・マルクス主義>。

1944/L・コワコフスキ著第三巻第四章第12節①。

 なかなかに興味深く、従って試訳者には「愉快」だ。スターリンなら日本共産党も批判しているという理由で、スターリン時代に関するL・コワコフスキの叙述を省略する、ということをしないでよかった。
 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。第三巻分冊、p.157-.
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
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 第12節・スターリニズムの根源と意義・「新しい階級」の問題①。
 (1)共産主義者および共産主義に反対の者のいすれもが、スターリニズムの社会的根源と歴史的必然性に関して参加している論議は、スターリンの死後にすぐに始まり、今もなお続いている。
 我々はここで全てのその詳細に立ち入ることなく、主要な点のみを指摘しておこう。
 (2)スターリニズムという基本教条の問題は、その不可避性の問題と同一ではない。ともかくもその意味するところを解明するのが必要な問題だ。
 歴史の全ての詳細は先行する事象によって決定されると考える人々には、スターリニズムの特有な背景を分析するという面倒なとことをする必要がない。しかし、そういう人々は、その「不可避性」をあの一般的な原理の一例だと見なさなければならない。
 その「不可避性」原理は、しかしながら、受容すべき十分な根拠のない形而上学的前提命題だ。
 ロシア革命の行路のいかなる分析からしても、結果に関する宿命的必然性はなかった、と理解することができる。
 内戦の間には、レーニンが自身が証人であるように、ボルシェヴィキ権力の運命が風前の灯火だった、そして「歴史の法則」なるものはどういう結果となるかを決定しない、多数の場合があった。
 レーニンを1918年に狙った銃弾が一または二インチずれていてレーニンを殺害していれば、ボルシェヴィキ体制は崩壊していただろう、と言えるかもしれない。
 レーニンが党指導者たちをブレスト=リトフスク条約に同意するよう説得するのに失敗していたならば、やはりそうだっただろう。
 このような例は他にも、容易に列挙することができる。
 こうした仮定によって生起しただろうことに関してあれこれと思考することは、今日では重要ではなく、結論は出ないはずだ。
 ソヴェト・ロシアの進展の転換点-戦時共産主義、ネップ(N.E.P, 新経済政策)、集団化、粛清-は、「歴史的法則」によるのではなく、全てが支配者によって意識的に意図された。そして、それらは発生し「なければならなかった」、あるいは支配者はそれら以外のことを決定できなかった、と考えるべき理由はない。//
 (3)歴史的必然性の問題がこうした場合に提起され得る唯一の有意味な形態は、つぎのようなものだ。すなわち、その際立つ特質は生産手段の国有化とボルシェヴィキ党による権力の独占であるソヴェト・システムは、統治のスターリニスト体制により用いられて確立されたのとは本質的に異なる何らかの手段によって、維持することができていなかったのか?
 この疑問に対する回答は肯定的だ、ということを理性的に論じることができる。//
 (4)ボルシェヴィキは、講和と農民のための土地という政綱にもとづいてロシアで権力を獲得した。
 これら二つのスローガンは、決して社会主義に特有ではなく、ましてマルクス主義に特有なものでもない。
 ボルシェヴィキが受けた支持は、主としてはこの政綱のゆえだった。
 しかしながら、ボルシェヴィキの目標は世界革命だった。そして、これが達成不可能だと分かったときは、単一政党の権威を基礎とするロシアでの社会主義の建設。
 内戦の惨状のあとでは、何らかの主導的行為をする能力のある党以外には、活動力のある社会勢力は存在しなかった。このときまでに存在したのは、社会の全生活やとくに生産と配分に責任をもち得る、政治的、軍事的かつ警察的装置という確立していた伝統だつた。
 ネップは、イデオロギーと現実の妥協だった。第一に、国家はロシアでの経済的な再生に取り組むことができなかった、第二に、実力行使によって経済全体を規整する試みは厄災的な大失敗だった、第三に、市場の「自然発生的な」働きからのみ助けが得られることができた、ということを認識したことから生じたものだった。
 経済的妥協は、いかなる政治的譲歩も含むものとは意図されておらず、国家権力を無傷なままで維持させた。
 農民はまだ社会化されておらず、唯一つ主導的行為をする能力をもつのは、国家官僚機構だった。
 この階級は、「社会主義」を防護する堡塁だった。そして、そのシステムのさらなる発展は、膨張への利益と衝動を反映していた。
 ネップの結末と集団化の実施は、たしかに歴史の意図の一部ではない。そうではなく、システムとその唯一の活動的要素の利益によって必要とされた。
 すなわち、ネップの継続は、つぎのことを意味しただろう。第一に、国家と官僚機構が農民層の情けにすがっていること、第二に、輸出入を含む経済政策の大部分が、彼ら農民層の要求に従属しなければならないこと。
 もちろん我々は、かりに国家が集団化ではなく取引の完全な自由と市場経済へ元戻りするという選択をしていればどうなったか、を知らない。
 トロツキーと「左翼」が抱いた、ボルシェヴィキ権力を打倒しようとの意図をもつ政治勢力を発生させるだろう、との恐怖は、決して根拠がなかったわけではなかった。
 少なくとも、官僚機構の地位は強くなるどころか弱くなっていただろう。そして、強い軍事と工業の国家を建設するのは無期限に先延ばしされただろう。
 経済の社会化は、民衆の莫大な犠牲を強いてすら、官僚機構の利益であり、システムの「論理」のうちにあった。
 事実上は社会から自立していた支配階級と国家の具現者であるスターリンは、ロシアの歴史上は以前に二度起こっていたことを行った。
 彼は、社会の有機的な分節から自立した新しい官僚制階層が生じるように呼び寄せ、それを全体としての民衆、労働者階級、に奉仕することから、あるいは党が相続したイデオロギーから、最終的には全て解放した。
 この階層はすぐにボルシェヴィキ運動内の「西欧化」要素を破壊し、マルクス主義の用語法をロシア帝国の強化と拡張のための手段として利用した。
 ソヴィエト・システムは、それ自身の民衆たちに対する戦争を絶えず行った。それは民衆が多くの抵抗を示したからではなく、主としては支配階級が戦争状態とその地位を維持するための攻撃とを必要としたからだ。
 微小な弱さであっても探ろうとしている外国の工作員、陰謀者、罷業者その他の者にもとづく敵からの国家に対する永続的な脅威は、権力を官僚機構が独占していることを正当化するためのイデオロギー的手段だ。
 戦争状態は、支配集団自体に損傷を与える。しかし、これは統治することの必要な対価の一部だ。//
 (5)マルクス主義がこのシステムに適合したイデオロギーだった理由に関してはすでに論述した。
 それは疑いなく、歴史上の新しい現象だった。しばしば歴史研究者や共産主義批判者が論及するロシアとビザンティンの全ての伝統-市民的民衆に<向かい合う>国家がもつ高い程度の自律性や<chinovnik>の道徳的かつ精神的な特質等-があったにもかかわらず。
 スターリニズムは、ロシア的伝統とマルクス主義の適合した形態にもとづいて、レーニズムを継承するものとして発現した。
 ロシアとビザンティンの遺産の重要性については、Berdyayev、Kucharzewski、Aronld Toynbee、Richard Pipes(リチャード・パイプス)、Tibor Szamuely やGustav Wetter のような著述者たちが議論している。//
 (6)このことから、生産手段を社会化する全ての試みは結果として必ず全体主義的社会をもたらす、ということが導かれるわけではない。全体主義的社会とは、全ての組織形態が国家によって押しつけられ、個人は国家の所有物のごとく扱われる、そういう社会だ。
 しかしながら、全ての生産手段の国有化と経済生活の国家計画(その計画が有効か否かを問わず)への完全な従属は、実際には全体主義的社会へと至ってしまう、というのは正しい。
 システムの基礎が、中央の権威が経済の全ての目標と形態を決定する、そして労働分野を含む経済はその権威による全ての分野での計画に従属する、ということにあるのだとすれば、官僚機構は、活動する唯一の社会勢力になり、生活のその他の分野をも不可分に支配する力を獲得するに違いない。
 多数の試みが、国有化することなく、経済的主導性を生産者の手に委ねつつ財産を社会化する手段を考案するために、なされてきた。
 このような考え方は、部分的にはユーゴスラヴィアに当てはまる。しかし、その結果は微小で曖昧すぎるものであるため、成功する明確な像を描くことができていない。
 しかしながら、根本的なのは、相互に制限し合う二つの原理がつねに作動している、ということだ。
 経済的主導性が生産のための個々の社会化された単位の手に委ねられる範囲が大きければそれだけ、またこの単位がもつ自立性の程度が大きければそれだけ、「自然発生的」な市場の法則、競争および利潤という動機、これらがもつ役割は大きくなるだろう。
 生産単位に完全な自律性を認める社会的な所有制という形態は、全員に開かれた、完全に自由な資本主義に元戻りすることになるだろう。唯一の違いは、個人的な工場所有者が集団的なそれに、すなわち生産者協同組合に、置き換えられることだけだ。
 計画の要素が大きくなればそれだけ、生産者協同組合の機能と権能は大きく制限される。
 しかしながら、程度の違いはあるけれども、経済計画という考え方は、発展した産業社会で受け入れられてきた。そして、計画と国家介入の増大は、官僚機構の肥大化を意味している。
 問題は、現代の産業文明の破壊を意味するだろう官僚機構をどのようにして除去するかではなく、代表制的な機関という手段によってその活動をどのようにして制御するかにある。//
 (7)マルクスの意図に関して言うと、彼の諸著作から抽出することのできる全ての留保にかかわらず、マルクスは疑いなく、社会主義社会は完全な統合体(unity)、私的所有制という経済的基盤が排除されるにともなって利益の衝突が消失する社会、の一つだろうと考えていた。
 マルクスは、この社会は議会制的政治機構(これは不可避的に民衆から疎外した官僚制を生じさせる)や市民の自由を防護する法の支配(rule of law)のようなブルジョア的諸装置を必要としないだろう、と考えた。
 ソヴィエト専制体制は、制度的な方法によって社会的統合体を生み出すことができるという考えと連結して、この教理を適用する試みだった。//
 (8-1)マルクス主義は自己賛美的ロシア官僚制のイデオロギーとなるべく運命づけられていた、と語るのは、馬鹿げているだろう。
 にもかかわらず、偶然にとか副次的にとかいうのではなく、マルクス主義は、この目的のために適応させることのできる、本質的な特質をもっていた。
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 段落の途中だがここで区切る。②につづく。

1943/R・パイプス著・ロシア革命第11章第5節②。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。p.470-p.473.
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 第5節・隠亡中のレーニン②(Lenin in hiding)。
 (13)多くのボルシェヴィキ党員には、新しい戦術と親ソヴェト・スローガンの放棄は幸せなことでなかった。
 その月の別の機会にスターリンは、党は疑いなく我々が多数派を占めるソヴェトを支持していると保障して、彼らを安心させようと努めた。
 しかし、ソヴェトへの関心の一般的な冷却に気づいて、ボルシェヴィキたちがもう一度気持ちを切り替えるのに、たいした時間はかからなかった。というのは、無関心が増大したために、ソヴェトを自分たちの目的でもって貫いて操作する機会ができた、と考えたからだ。
 党の公式誌<イズヴェスチア>は、9月の最初に、つぎのように書いた。
 「最近はソヴェトで仕事することへの無関心が見られる。<中略>
 実際に、(ペトログラード・ソヴェトの)1000人以上の代議員のうち、400から500人程度しか会議に出席していない。そして、出てくることをしない者たちは正確には、今まではソヴェトの多数派を形成していた諸党の代議員たちだ。」(106)-すなわち、メンシェヴィキとエスエル。
 <イズヴェスチア>の「ソヴェト組織の危機」と題された一ヶ月後の論説でも、同じような不満を読むことができた。
 「ソヴェトの人気が最高だったとき、イスパルコムの都市間協議(interurban, inogorodnyi)の部署は、国じゅうに800のソヴェトを表にして列挙していた、と執筆者は思い出す。」
 10月までに、これらのソヴェトの多くはもはや存在しないか、紙の上だけの存在になった。
 地方からの報告書は、ソヴェトはその威厳と影響力を失いつつある、というものだった。
 編集部はまた、労働者・兵士代表者ソヴェトが農民組織とともに進むことのできないことに不服を告げた。そのことは、農民層がソヴェト構造の「全く外側」にとどまることに帰結するからだ。
 しかし、ペトログラードやモスクワのようにソヴェトが機能している区域ですら、ソヴェトは、多数の知識人や労働者が離反したために、もはや全ての「民主主義派」を代表していなかった。
 「ソヴェトは、旧体制と闘う素晴らしい組織だった。しかし、それは新しい体制の形成を引き受ける能力が全くなかった。<中略>
 専制体制が官僚制秩序と一緒に崩壊したとき、我々は全ての民主主義派を守るための一時的な兵営として代表者ソヴェトを設立したのだった。」
 <イズヴェスツィア>は今はこう結論づけた。ソヴェトは、より代表制的な選挙制度で選ばれた市会(Municipal Councils)のような永続的な「石の構造」のために放棄されてきている。(107)
 ソヴェトへの幻想からの覚醒が拡大し、社会主義派の対抗者が長く不在であることによって、ボルシェヴィキは、国民的支持からは全く不釣り合いの影響力を獲得することができた。 
 ボルシェヴィキのソヴェト内での役割が大きくなるにつれて、ボルシェヴィキは古いスローガンに戻った。-「全ての権力をソヴェトへ」。
 (14)ボルシェヴィキは、ペトログラード・ソヴェトの多数派となった9月25日に、権力に向かって進む重要な一歩を通過した。
 (9月19日に、モスクワで同様に多数派になっていた。)
 ペトログラード・ソヴェトの議長たる地位に就いたトロツキーはただちに、そのソヴェトを国のその他の都市ソヴェトを制御するための組織へと変え始めた。
 <イズヴェスツィア>の言葉によれば、ペトログラード・ソヴェトの労働者部門でボルシェヴィキが多数を獲得するやいなや、ボルシェヴィキは「それを彼らの党組織へと変えた。そして、それに依拠して、国全体の全てのソヴェトを把握するパルチザン的闘いを行うようになった。(108)
 ボルシェヴィキは、全ロシア大会で選出された、エスエルとメンシェヴィキが支配するままのイスパルコムを大幅に無視し、自分たちが多数を握るソヴェトのみを代表する、彼ら自身の全国的似而非ソヴェト組織を生み出そうと取りかかった。
 (15)コルニロフによって生じた有利な政治環境とソヴェトでの勝利によって、ボルシェヴィキは、クー・デタの問題を生き返らせた。
 意見は、分かれた。
 七月の大失敗はまだ記憶に鮮明で、カーメネフとジノヴィエフは、さらなる「冒険主義」に反対した。
 二人は論じた。ソヴェト内での力が増加したにもかかわらず、ボルシェヴィキは少数派政党のままであり、かりに何とかして権力を奪取しても、「ブルジョア反革命」と農民層の結合した勢力に面してすぐにそれを失うだろう。
 もう片方の極端な立場のレーニンは、即時のかつ断固たる行動を求める主要な発議者だった。
 彼はコルニロフ事件によって、クーの成功の可能性がかつてよりも大きく、かつ二度とやって来ない、と確信していた。
9月12日と14日、レーニンは、フィンランドから二通の手紙を、中央委員会に書き送った。それぞれ、「ボルシェヴィキは権力を奪取しなければならない」、「マルクス主義と反乱」と呼ばれる。(109)
 彼は前者で書いた。「二つの重要な都市で労働者・兵士代表者ソヴェトでの多数派となり、ボルシェヴィキは権力を奪取することができるし、そう<しなければならない>。」
 カーメネフやジノヴィエフの主張とは反対に、ボルシェヴィキは権力を奪取することができるのみならず、保持し続けることもできる。すなわち、即時の講和を提案し、農民に土地を与えることによって、「ボルシェヴィキは、<誰も>打倒しようと<しない>政府を設立することができる。
 しかし、臨時政府がペトログラードをドイツ軍に明け渡すか戦争を終わらせる何か別のことをするかもしれないので、迅速に行動することこそがきわめて重要だ。
 その日の命令は、「ペトログラードとモスクワ(プラスここれら地域)での武装暴動、権力の制圧、政府の打倒だ。
 我々は、活字にして明確に表明することなく、<いかにして>このために煽動すべきかを考えなければならない。」
 ペトログラードとモスクワではすでに権力を奪取しているので、問題は解決されているだろう。
 レーニンは、多数派を獲得するを望んで第二回ソヴェト大会の招集を待つべきだとのカーメネフとジノヴィエフの見解を「ナイーヴな」ものとして却下した。「革命は<それ>を待っていない。」
 (16)第二の手紙でレーニンは、武力による権力奪取は「マルクス主義」ではなくて「ブランキ主義」だという非難について議論し、また、七月との類似性の問題に片をつけた。すなわち、「9月の『客観的』情勢は、全く異なっている。」
 彼は(考えられるのはドイツとの接触で得られた情報から)、ベルリンがボルシェヴィキ政府に休戦を提案するだろうことは確実だと思っていた。
 「そして、休戦を確保することは、世界<全体>を制圧することを意味する。」(110)
 (17)中央委員会は9月15日に、レーニンの手紙を議題として取り上げた。
 短い、ほとんど確実に厳密に検閲されたこの会議の議事要領書(*) が示しているのは、レーニンの同僚たちは(カーメネフが迫ったように)公式に彼の助言を拒否するのを躊躇しているが、従う心づもりもない、ということだ。
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 (*) <Protokoly Tsentral'nogo Komiteta RSDPR(b)>(Moscow, 1958), p.55-62.
 これは、現在で唯一利用可能な、1917年8月4日から1918年2月24日までのボルシェヴィキ中央委員会の会議の記録書で、1929年に最初に出た。
 この記録書は、トロツキー、カーメネフおよびジノヴィエフという、スターリンが党の支配のために打倒した者たちの評価を落とすことが意図されていた。そして、この理由のゆえに、きわめて慎重に用いられなければならなかった。
 第二版の編集者によれば、こうだ。「議事録の文章は、省略なくして完全に公刊される。但し」、何を意味するものであれ、「第一版では議事録の文章上のこれらの疑問に関する適切ではない説明を理由としてそうなされたように、対立する事項(konfliktnye dela)を除く」(p. vii)。
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 トロツキーによれば、 即時の暴乱は望ましくないとして、9月には誰もレーニンに同意しなかった。(111)
 スターリンの動議により、レーニンの手紙は党の主要な地方組織に回覧されることになった。これは、即時の行動を回避する方法でもあった。
 ここで、問題が残っている。その後の6回の会議については何も、レーニンの提案が言及されていないのだ。(+)
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 (+) もちろん、レーニンの考えは却下され、その事実は議事録が出版されるときの版では削除された、ということは排除され得ない。
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  (18)レーニンはこのような消極性に烈しく怒った。暴乱を起こすのに都合のよいときが過ぎ去ってしまうのを、彼は懼れていた。
 9月24日か25日、彼はヘルシンキから、行動舞台により近いヴィボルク(Vyborg)(まだフィンランドの領土)へと移動した。
 彼はそこから、9月29日、第三の手紙を中央委員会に発送した。その表題は「危機は成熟した」。
 レーニンの主要な活動方針は、この手紙の第六部に含まれていた。1925年に最初に公にされた。
 レーニンはこう書いた。ある範囲の党員たちが次のソヴェト大会まで権力掌握を延期したいと考えていることは率直に認めなければならない。
 彼は全体として、このような考え方を拒否した。
 「この瞬間を逃してソヴェト大会を『待つ』のは、完璧に愚かで、完璧な裏切り行為だ」。
 「ボルシェヴィキは今や、蜂起の成功を保障されている。
 1.我々は(ソヴェト大会を『待つ』ことをしなくても)突然に三箇所から急襲することができる。すなわち、ペトロブルク、モスクワおよびバルティック艦隊。 <中略>。
 5.我々はモスクワで権力を奪取する技術的能力を持っている(これは、突然さによって敵を弱体化させるために始めることすらできる)。
 6.我々は<数千人>の武装した労働者と兵士を持っており、彼らは<ただちに>冬宮、将軍幕僚、電話局、および全ての大きな印刷工場を掌握することができる。<中略>
 我々がただちに、かつ突然に三箇所から-ペトロブルク、モスクワおよびバルティック艦隊から-急襲するならば、成功の見込みは99パーセントであり、七月の3-5日に被ったよりも少ない損失で勝利するだろう。<兵団は、講和する政府に反対して動くことはしないだろう。>(**)
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 (**) レーニン,<PSS>XXXIV, p.281-2. レーニンはここで不用意に、七月3-5日にボルシェヴィキは実際に権力掌握を試みたことを認めている。
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 中央委員会が要請に回答せず、自分の論文を削除すらしたことを見て、レーニンは、辞職願いを提出した。
 もちろんこれは、はったり(ブラフ)だった。
 中央委員会は、意見の違いに関して議論するため、レーニンにペトログラードに戻るよう要請した。(112)
  (19)レーニンの同僚たちは一致して、よりゆるやかで安全な方針を好んで、即時の武装蜂起への彼の要求を拒絶した。
 彼らの戦術は、レーニンの提案は「性急だ」と考えたトロツキーによって、定式化された。
 トロツキーは、全ロシア・ソヴェト大会による権力の掌握を装った、武装蜂起をしたかった。-しかし、確実に拒否するだろう、適式に開催された大会による権力掌握をではない。そうではなく、ボルシェヴィキが定められた手続に従わないで自分たちが主導して開催し、支持者たちを詰め込める会議による権力掌握を装ってだ。つまりは、全国的大会だと偽装(カモフラージュ)しての、親ボルシェヴィキのソヴェト大会。
 振り返って見ると、これが進むべき疑いなく適切な行路だった。なぜなら、レーニンが主張したような単一の政党による権力の公然たる掌握には、国は寛容であることができなかっただろうから。
 最初の日々を越えて成功していくためには、クーには、かりに表面的なものだったとしても、何らかの性質の「ソヴェト」の正統性が与えられなければならなかった。//
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 (105) Leningradskii Istpart, <<略>>(Moscow-Leningrad, 1927), p.77.
 (106) <イズヴェスツィア>No.164(1917年9 月5日).
 (107) <イズヴェスツィア>No.195(1917年10月12日), p.1.
 (108) 同上, No.200(1917年10月18日), p.1.
 (109) レーニン,<PSS>XXXIV, p.239-p.241.
 (110) 同上, p.245.
 (111) L・トロツキー,<ロシア革命史>III(New York, 1937), p.355.
 (112) <Protokoly Tsentral'nogo Komiteta RSDPR(b)>(Moscow, 1958), p.74.
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 第5節は終わり。第6節の目次上の表題は、<ボルシェヴィキ自身のソヴェト大会の計画>。

1931/L・コワコフスキ著第三巻第四章第10節②。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。 
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 第10節・スターリン晩年時代のソヴィエト文化の一般的特質②。
 (7)イデオロギー全体の礎石は、指導者に対する個人崇拝(cult)だった。これは、この時代にグロテスクで悪魔的な様相を見出したもので、のちの毛沢東に対する個人崇拝を例外として、おそらくは歴史上にこれを上回るものはない。
 スターリンを賛美する詩歌、小説および映画が、途切れない潮流の中に溢れ出た。彼の写真や肖像が全ての公共広場を飾った。
 作家、詩人、および哲学者はお互いに競って、新しい酒神礼賛的(dithyrambic)崇拝の形態を考案した。
託児所や幼稚園の子どもたちは、彼らの幸福な幼年生活について、スターリンに心溢れる感謝を捧げた。
 民衆の宗教心の形態は全て、歪められた形で復活した。すなわち、聖像(icon)、行列、声を揃えて朗読される祈り、(自己批判という名のもとでの)罪の告白、遺物崇拝。
 このようにしてマルクス主義は、宗教のパロディー(parody)となった。 但し、内容を欠いたパロディーだ。
 適当に選んで、以下は、この当時のある哲学上の著作にある、典型的な導入部だ。
 「同志スターリン、諸科学に関する偉大な指導者は、深さ、明瞭さ、および活力について無比の研究をして、弁証法的かつ歴史的唯物論の基礎の体系的論述を、共産主義の理論上の土台として、与えた。
同志スターリンの理論的諸著作は、全同盟共産党(ボルシェヴィキ)中央委員会およびソ連邦閣僚会議により、彼の70歳の誕生日での同志スターリンへの挨拶で、尊敬の念をもって語られた。
 『科学の偉大な指導者!。帝国主義、わが国におけるプロレタリア革命と社会主義の勝利という新しい時代に関連させてマルクス=レーニン主義を発展させた貴方の古典的な諸著作は、人類の巨大な達成物であり、革命的マルクス主義の百科辞典である。
 ソヴィエトの男女および全国の労働人民の指導的代表者たちは、労働者階級の運動の勝利へと向かう闘いにおいて、知識、確信および新たな強さを、共産主義への今日の闘争に関する最も焦眉の諸問題についての解答を見出しつつ、これら諸著作から獲得している。』
 <弁証法的および歴史的唯物論>に関する同志スターリンの輝かしい哲学的全集は、知識と世界の革命的変革の力強い手段であり、不可避的に打倒される宿命にある、唯物論の敵および資本主義社会の衰亡していくイデオロギーと文化、に対抗する圧倒的な武器である。
 それは、マルクス=レーニン主義世界観の発展…<中略>における新しい、至高の段階である。
 同志スターリンはその全集において、無比の明瞭さと簡潔さをもって、マルクス主義の弁証法的方法の基本的特質を解説し、自然と社会の法則的な発展に関する理解の重要性を指摘した。
 同じ深さ、力強さ、簡潔さおよび党政治上の決意をもって、同志スターリンは、その諸著作で、マルクス主義の哲学的唯物論の基本的特質…<以下略>を定式化した。」
 (V. M. Pozner, <マルクス主義の哲学的唯物論の基本的特質に関するJ. V. スターリン>、1950年)
 (8)スターリンは、ロシア史上の偉大な英雄たちを通じて、間接的にも称賛された。
 ピョートル大帝、イワン雷帝およびアレクサンダー・ネフスキーに関する映画や小説が、スターリンの栄誉のために捧げられた。
 (しかしながら、イワン雷帝のほかにスターリンの明確な命令にもとづきその<oprichnina〔親衛隊〕>または秘密警察を賛美するアイゼンシュタイン(Eisenstein)の映画は、スターリンが生きている間は上映されなかった。そうした映画は、いかに雷帝が、たとえ気が重くても、最も執念深い陰謀家たちの手を切り落とさざるをえなかったかを描写していたからだ。-なるほど、観客たちには疑いなく、まさしく札付きの悪漢だが、イワンは思慮深い政治家には期待され得たことを何もしなかった、という気分が残っただろうけれども。
 身長の低いスターリンは、映画や劇では、レーニンよりもかなり身長のある、背の高い男前の人間のように描かれた。//
 (9)ソヴィエト官僚機構の階層的構造は、スターリン崇拝が下位の者たちにまで影を落としていたということに見られた。
 全てではないにせよ多数の分野で、スターリンの線上で公式に「最も偉大な者」として知られる者たちがいた。
 スターリン自身が最高位を占める多数の場合-哲学者、理論家、政治家、戦略家、経済学者-は別として、例えば、誰が最も偉大な画家、生物学者、あるいはサーカスの道化師なのか、が知られていた。
(ちなみに、サーカスは1949年に、この分野でのブルジョア形式主義を非難した<プラウダ>上の論文でイデオロギー的に改革された。
 ユーモアの世界主義的形態へと堕落して、イデオロギー的内容がなく、階級敵に対処するために教育するのではなく、たんに人々を笑わせようとしていた上演者が、どうやらいたようだ。)//
 (10)この時代に、歴史の偽造と歴史研究者に対する圧力が、クライマクスに達した。
 帝制ロシアの外交政策は基本的に進歩的だった、とくにロシアによる征服は他民族にロシア文明の恵みをもたらした、ということを示すのは、歴史家の任務になった。
 レーニン全集の第四版は新しい文書をいくつか含んでいたが、別のいくつかは削除されていた。その中には、一国での社会主義の建設の不可能性に関する、きわめて断定的(categorical)な論述があった。また、ジョン・リード(John Reed)の<世界を震撼させた十日間>への熱心な序言も、そうだった。
 十月革命の間はペトログラードにいたリードは、レーニンとトロツキーについては多くのことを語っていたが、スターリンには全く言及していなかった。したがって、レーニンが彼の書物を世界に推奨するのは、〔スターリンには〕許しがたい<失態(gaffe)>だった。
 新しい版はまた、ほとんど完全に、執筆者が粛清によって殺戮された者たちである、いくつかのきわめて貴重な歴史的な論評や記述を、削除した。
 (こうした過去の再編集の方法は、スターリンの死でもって終わった。
 ベリヤ(Beriya)が新指導者によって死刑に処せられたその数カ月のち、<大ソヴィエト百科辞典>の申込み者たちはその次の巻の注意書きが、こう求めていることに気づいた。以前の一定の頁分をカミソリ刃を使って切除し、注意書きに添えられた新しい頁の用紙をそこに挿入するよう求めていることに。
 読者たちは、指示された場所を開いてみて、ベリヤに関する記載部分だと分かった。
 しかしながら、補充する新しい頁の用紙は、ベリヤに関するものでは全くなく、ベーリング海(Bering -)の追加の写真が掲載されたものだった。)
 歴史的な資料は、警察が例外なく握っており、それらを利用するのは、今日でもそうであるように、厳格に制限されていた。
 これはしばしば、賢い手段で判明することだった。すなわち、例えば、女性ジャーナリストがかつて古い教会区の書庫でレーニンの母親はユダヤ人の血を引いていると発見したとき、彼女にはこの情報をソヴィエトのプレスに掲載しようと試みる馬鹿正直さ(naïvety)すらがあった。//
 (11)この雰囲気は、当然にあらゆる種類の、適切に愛国的言語を用いて彼らの偉業を宣言する科学的ぺてん師を培養した。
 ルィセンコが最も有名だったが、他にも多数いた。
 Olga Lepeshinskaya という名前の生物学者は1950年に、無生の有機物から生細胞を作り出すのに成功したと発表した。そして、プレスはこれをブルジョア科学に対するソヴィエトのそれの優越性を証明するものだとして拍手喝采した。
 しかしながら、すみやかに、彼女の実験は全て無価値であることが判明した。
 スターリンの死後、なお一層衝撃的な記事が<プラウダ>に出た。それは、消費するよりも大きなエネルギーを生み出す機械がSaratov の工場で製造されたというものだった。
 -かくしてこれは、ついに熱力学の第二法則を定めて、同時に宇宙に放散されたエネルギーはどこかに(Saratov の工場に特定される)集中するはずだというエンゲルスの言明を確認することになる。
 しかしながら、のちにすみやかに、<プラウダ>は恥じ入った撤回記事を掲載しなければならなかった。-知的雰囲気がすでに変化してしまっていた徴しだった。//
 (12)書き言葉の世界も話し言葉の世界も、スターリン時代の雰囲気を忠実に反映していた。
 公共に対して何かを発表する目的は知らせることではなく、教示し、啓発することだった。
 プレスの内容は、ソヴィエト体制を賛美する、または帝国主義者を非難する報告だけだった。
 ソヴィエト同盟は、罪からのみならず自然災害からも免れていた。これらはともに、帝国主義諸国家の不幸な特権なのだった。
 事実上は、いかなる統計も公表されなかった。
 新聞の読者たちは、公然とは語られないが全ての者が知っている特殊な符号(code)で情報を得るのに慣れていた。
 例えば、党の幹部たちがあれこれの場合に名前を呼ばれる順序は、彼らがその時点でスターリンの好みの中のいかほどの位置にいるかを知る指標(index)だった。
 表面的には、「コスモポリタニズムおよび民族主義と闘おう」は「民族主義およびコスモポリタニズムと闘おう」と同じだと思えるかもしれなかった。しかし、ソヴィエトの読者は、スターリンの死後に後者の表現を見つけるやいなや、「方針が変わった」、民族主義が現在の主要な敵だと気づいた。
 ソヴィエト・イデオロギーの言語は暗示で成り立っており、直接的な言明によってではなかった。すなわち、<プラウダ>の指導的論文の読者は、決まり文句の洪水の真ん中にさりげなく書かれた単一の文章が掴みどころだと知っていた。
 意味を伝えるのは特定の言明の内容なのではなくて、言葉の順序であり、文章全体の構造なのだった。
 官僚制的な言語の独占、死んでいるがごとき非人間的な文章、そして不毛な言葉遣いは、社会主義文化のこり固まった聖典(canon)となった。
 多数の語句が、自動的に繰り返された。したがって、一つの言葉から次の言葉を予測することができた。例えば、「帝国主義者の凶暴な顔」、「ソヴィエト人民の栄光ある偉業」、「社会主義諸国家の揺るぎない友情」、「マルクス=レーニン主義の古典執筆者たちの不滅の業績」。-このような類の無数のステレオタイプの語句は、数百万のソヴィエト民衆の、知的な規定食(diet)だった。//
 (13)スターリンの哲学は、成り上がり者的な官僚制的心性に、形式と内容のいずれについても見事に適合していた。
 彼の論述のおかげで、誰もが30分で哲学者になることができた。真実を完全に所有するに至るだけではなくて、ブルジョア哲学者たちの馬鹿げて無意味な思想を知ることができた。
 例えば、カントは何かを知るのは不可能だと言ったが、我々ソヴィエト人民は多数の事物を知っている。カントには多すぎたのだ。
 ヘーゲルは世界は変わると言い、世界は観念(idea)で構成されていると考えた。にもかかわらず、誰でも、我々の周りにあるものは観念ではなくて物(things)であることを理解している。
 マッハ主義者は私が座っている椅子は私の頭の中にあると言ったが、明らかに、私の頭と椅子とは別の場所にある。
 このような考え方をして、哲学は、全ての小役人の遊戯場になった。彼らは、若干の常識的で自明なことを繰り返すことによって哲学上の問題を全て片付けたと思って、満足していたのだ。//
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 つづく第11節の表題は、「弁証法的唯物論の認知状態」。

1930/L・コワコフスキ著第三巻第四章第10節①。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
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 第10節・スターリン晩年時代のソヴィエト文化の一般的特質①。
(1)この時代のソヴィエトの文化生活の独自性は、たんにスターリンに特有の独特な個性によるのではなかった。
 その独自性は一口で言うと、国家・国民の文化は成り上がり者(parvenu、成金者)のそれだった、と要約できるかもしれない。-全ての独自性はほとんど完璧に、初めて権力を享有した者の心性、信条、および好みを表現している。
 スターリン自身が、この独自性を高い程度に例証していた。しかし、統治機構の全体にも特徴的なもので、その成り上がり者性は、スターリンがそれを一方では隷属状態へと変えながらも、スターリンを助け続け、彼の至高の権威を維持し続けた。//
 (2)ボルシェヴィキの古い守り手たちや従前の知識人たちが連続して粛清され、絶滅したあと、ソヴィエトの支配階級は主として、労働者と農民の出自をもつ個人で構成された。彼らは乏しい教育しか受けておらず、文化的背景をもたず、特権を渇望し、純粋な「世襲の」知識人たちに対する憎悪と嫉妬を溢れるほどもっていた。
 成金者の本質的特性は「見せびらかす」ことへの絶え間なき切望感だ。したがって、彼らの文化は見せかけ(make-believe)であり、粉飾(window-dressing)だ。
 彼らは、従前の特権階層の知的な文化の代表的なものを自分の周囲に見ているかぎりは、心の平穏を持たない。それから遮断されていたがゆえに、彼らはそれを憎悪し、ブルジョア的または貴族的だとして貶す。
 成金者は狂信的な民族主義者で、その母国や環境は他の全てより優れているという考え方に飛びつく。
 自分たちの言語は、彼らによれば、(他の言語を通常は知らないが)<とくに優れた>言葉で、自分の微少な文化的資源でも世界で最も洗練されたものだと自分や他者の誰をも納得させようとする。
 彼らは、<アヴァン・ギャルド的(avant-garde)>な文化的実験の雰囲気があるものや、創造的な新奇さをひどく嫌悪する。
 限定された傾向の「一般常識」的格言でもって生活し、その格言類について誰かが説明を求めてきたときには、怒り狂う。//
 (3)成金者の心性のこうした特質は、スターリニスト文化の基本的なところにも感知することができる。すなわち、民族主義、「社会主義リアリズム」という美学、そして権力システムそれ自体にすら。
 彼らは、権威に対する農民に似た卑屈さを、権威を分有しようという大きな欲求と結びつける。ある程度まで階層が上がってしまうと、上位者にはひれ伏しつつ下位の者たちは踏みつけるだろう。
 スターリンは成金者たるロシアの偶像であり、栄光の夢の具現者だった。
 成金国家には権力の階層と、従属者をむち打ってもなお崇拝される指導者が存在しなければならない。//
 (4)既述のように、戦前に徐々に増大していたスターリニズムの文化的民族主義は、戦勝後には巨大な形をとった。
 1949年、プレスは「コスモポリタニズム」、明確には定義されていないが反愛国主義を明らかに含んで西側を称賛する悪徳、に対抗する宣伝運動を開始した。
 この運動が展開するにつれて、コスモポリタン〔世界主義者〕はユダヤ人と全く同一だということがますます理解されてきた。
 個々人が嘲笑されたり、ユダヤ的に響く従前の名前を持っていたときには、こうしたことが一般には言及されていた。
 「ソヴィエト愛国主義」はロシア排外主義と区別がつかないもので、公的な熱狂症(mania)になった。
 宣伝活動によって、全ての重要な技術的考案や発明がロシア人によってなされた、ということが絶え間なく語られ、この文脈で外国人に言及することはコスモポリタニズムおよび西側に屈服する罪悪だとされた。
 <大ソヴェト百科辞典>は、1949年末からそれ以降に出版された。これは、半分は滑稽で、半分は気味の悪い巨大熱狂症患者の、比類なき例だ。
 例えば、歴史部門の「自動車」の項は、こう書き始める。「1751-52年に、Nizhny Novgorod 地方の農民であるLeonty Shamshugenov(q.v.)が二人で動かす自己推進の車を作った」。
 「ブルジョア」文化、つまり西側文化は、腐敗と頽廃の温床だとして継続的に攻撃される。
 例えば以下は、ベルクソン(Bergson)に関する記述内容から抽出したものだ。〔以下のBは原文どおりで「ベルクソン」の意味〕//
 「フランスのブルジョア哲学者。-観念論者、政治と哲学について反動的。
 Bの直観主義(intuitionism)は理性と科学の役割を軽視し、社会に関する神秘主義理論は帝国主義者の哲学の土台として寄与している。
 彼の見方は帝国主義時代でのブルジョア・イデオロギーの退廃、階級矛盾の増大に直面したブルジョアジーの攻撃性の成長、プロレタリアートの階級闘争の深化に対する恐怖、…<中略>を鮮やかに示している。
 資本主義の初期の全般的危機とその全ての矛盾の激化の時期に、唯物論、無神論、科学的知識の狂気じみた敵、民主主義の敵および階級的抑圧からの被搾取大衆の解放の敵として、その哲学をえせ科学的切り屑で偽装して…<中略>、Bは出現した。
 Bは、観念論を『新しく』正当化するものとして、『内的映像』による認識について生活、実践と科学によって以前にとっくに反証されている…<中略>、古代の神秘主義者、中世の神学者の見方を、提示しようとした。
 弁証法的唯物論は、直観という観念論的理論を、世界と現実に関する知識は何らかのきわめて感覚的な方法によってではなく人間性に関する社会歴史的な実践を通じて生まれる、という論駁し難い事実でもって拒否する。
 Bの直観主義は、不可避的に迫り来る資本主義の崩壊を前にした帝国主義的ブルジョアジーの恐怖と、現実に関する科学的な知識、とくにマルクス=レーニン主義の科学が発見した社会発展の法則が抗し難く意味するもの…<中略>から逃亡しようとする切実さを、表現している。
 Bは、民族の至高性の敵として、ブルジョア的コスモポリタニズム、世界資本主義の支配、ブルジョア的宗教と道徳を擁護した。
 Bは、残虐なブルジョアの独裁や、労働者を抑圧するテロリストの手段に賛同した。
 第一と第二の大戦の間に、この戦闘的な反啓蒙主義者は、帝国主義的戦争は『必要』でありかつ『有益』だと主張した…<以下略>。」//
 (5)もう一つ、以下は、「印象主義(Impressionism)」に関する記述内容だ。〔以下のIは原文どおりで「印象主義」のこと〕
 「19世紀の後半のブルジョア芸術における退廃的傾向。
 Iは、ブルジョア芸術の初期段階の退廃の結果で(<デカダンス>を見よ)、進歩的な民族的諸伝統と断絶したものである。
 Iの支持者は、『芸術のための芸術』という空虚で反民衆的な基本綱領を擁護し、客観的現実の真実に合った現実的な描写を拒否し、芸術家は自分の主観的な印象によってのみ記録しなければならないと主張した…<略>。
 Iの主観的観念論的見方は、哲学における現在の反動的趨勢の基本原理と関係がある。-新カント主義、マッハ主義(q.v.)等。これらは現実と感覚を、印象と理性を分離させた…<略>。
 人類、社会現象および芸術の社会的機能には無関心のままで、客観的な真実の諸規準を拒否することによって、Iの支持者は、現実の実像を崩壊させ、芸術の形態を喪失している…<中略>、そのような作品を不可避的に生み出した。」
 (6)ソヴィエト同盟の世界の文化からの孤立は、ほとんど完璧だ。
 西側の共産主義者の若干のプロパガンダ的作業は別として、ソヴィエトの読者たちは、小説、詩作、戯曲、映画、そして言うまでもなく哲学や社会科学の形態で西側が生み出しているものに関して、全く無知の状態に置かれたままだった。
 レニングラードのエルミタージュ(Hermitage)にある20世紀絵画の豊かな貯蔵作品は、正直な市民を腐敗させないように、地下室に置かれたままだった。
 ソヴィエトの映画や戯曲は、戦争と帝国主義に奉仕するブルジョア学者たちの仮面を剥ぎ取り、ソヴィエトの生活の無類の愉楽さを称賛した。
 「社会主義リアリズム」が至高のものとして支配した。もちろん、ソヴィエトの現実をその現実のままに提示する-これは生硬な自然主義かつ一種の形式主義になっただろう-という意味でではなく、自分たちの国とスターリンを愛するようにソヴィエト人民を教育するという意味でだが。
 この時期の「社会主義リアリズム」の建築物は、スターリン主義イデオロギーの最も権威ある記念碑だ。
 ここでもまた、支配的原理は「形式に対する内容の優越性」だった。但し、この二つが建築物についてどう区別されるのか、誰も説明することができなかったけれども。
 その影響は、いかなる場合でも、誇張されたビザンティン様式の尊大な正面〔ファサード〕を造ることだった。
 住宅がほとんど建設されておらず、大中の市や町の数百万の民衆が汚い中で群がって生活しているときに、モスクワや他の都市を装飾したのは、虚偽の円柱と上辺だけの飾りに満ちた、かつその大きさは「スターリン時代」の荘厳さに釣り合う、巨大な新しい宮殿だった。
 こうしたことはまた、建築分野での、典型的な成り上がり者様式だった。要約するならば、つぎのモットーになるだろう。すなわち、「大きいものは美しい」。//
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 ②へとつづく。

1927/ロシア革命史に関する英米語文献①。

 Anne Applebaum, Gulag- A History (2003).
 =アン・アプルボーム=川上洸訳・グラーグ―ソ連集中収容所の歴史(白水社、2006年)
 2004年度ピューリツァー賞を受けたらしい、この強制収容所(Gulag)に関する書物は、第一部<グラクの起源-1917-1939>の第一章<ボルシェヴィキの始まり>の冒頭で1917年10月のボルシェヴィキの権力掌握あたりまでを。2頁で素描している。
 その際に参照文献として注記しているのは、つぎの二著だけだった。本文p28.、注p.524.
 右端の頁数は、参照要求される当該文献の頁の範囲。
 ①Richard Pipes, The Russian Revolution 1889-1919 (1990). pp.439-505.
 ②Orland Figes, A People's Tragedy: A History of the Russian Revolution (1996). pp.474-551.
 いずれも、邦訳書はない。後者の<人民の悲劇>は、M・メイリア<ソヴィエトの悲劇>(邦訳書あり。草思社・白須英子訳、1997年)と少し紛らわしい。
 以上については、すでにこの欄に、より簡単には書いたことがある。
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 2017年のロシア・十月革命「100周年」の年に、英米語文献としては少なくともつぎの三つの著がロシア革命に関する「通史」的なものとして新しく刊行された。
 右端の頁数は、索引等を含めての総頁数。
 A/S. A. Smith, Russia in Revolution: An Empire in Crisis, 1890 to 1928 (2017). 計455頁。
 B/Sean McMeekin, The Russian Revolution: A New History (2017). 計445頁。
 C/China Miéville, October: The Story of the Russian Revolution (2017). 計369頁。
 いずれもまだ、邦訳書はないと見られる。
 上の二つは専門の研究者によるものだ。
 最後のものはそうではなさそうだが、しかし、多数の文献を読んで参照していることは分かる。なお、このChina Miéville の本は本文(序などを除き)計10章で、第1章は1917年前史、第10章は「赤い十月」、そして残りの2 章以降はそれぞれ2月、3月、…を扱っていて、表向きはきわめて読みやすそうだ(内容はほとんど見ていない)。
 China Miéville は「さらなる読書」のために、以下の「通史」文献以外に50ほどにのぼる文献(論文・記事類ではない)を挙げる。
 「通史(General Histoties)」として挙げられる9の文献を刊行年の古い順に変えて紹介すると、つぎのとおり。同一の著者の書物が二件以上挙げられている場合もある。
 ①Leon Trotsky, History of the Russian Revolution (1930).
 ②Victor Serge, Year One of the Russian Revolution (1930).
 ③Willam Henry Chamberlin, The Russian Revolution 1917-1921 (1935).
 ④E. H. Carr, The Russian Revolution, 1917-1923, 1-3.vols (1950-53).
 ⑤Tsuyoshi Hasegawa, The February Revolution, Petrograd: 1917 (1981).
 ⑥Richard Pipes, The Russian Revolution (1990).
 ⑦Alexander Rabinovich, Prelude to Revolution: The Petrograd Bolsheviks and the July 1917 Uprising (1991),+ The Bolsheviks Come to Power (2004).
 ⑧Orland Figes, A People's Tragedy (1996).
 ⑨Sheila Fitzpatrick, The Russian Revolution (2ed edition), (2008).
 以上
 ⑨の第4版(2017)が、この欄で最近まで「試訳」していたもの。2017年だったからこそ、新版にしたのだろう。
 上で興味深いのは、冒頭でも言及した、二つの著、つまりRichard Pipes とOrland Figes の著が⑥と⑧でやはり挙げられていることだ。
 その対象や範囲を考慮すると、邦訳書が早くからある初期のトロツキーやE. H. カーよりは新しいこれらの邦訳書が存在しないことは、いかにも日本らしい気もする。⑨も、邦訳書がない。
 山内昌之がたぶん歴史(世界史?)関係の重要な何冊かを挙げて紹介する新書版の本で、ロシア革命についてはE. H. カーのものを挙げてきたが、トロツキーのものに変更したとか、書いていた(山内昌之・歴史学の名著30(ちくま新書、2007))。
 日本共産党の不破哲三・志位和夫がロシア革命に関連して肯定的に名を挙げるE. H. カーの本は、山内によるとどうも不満があるらしい。今日の英米語圏でもベストとはされていないようで、明確に批判する論者もある。執筆当時に存在した表向きの(これも程度があるが)資料・史料だけ使って「実証的に」叙述しただけでは、結局は「現実を変えた」または「現実になった」者たちや事象を<追認>し、<正当化>するだけに終わる可能性のあることは-日本の「明治維新」についてもそうだが-留意されてよいだろう。
 元に戻ると、上のCは背表紙の下に「VERSO」と横書きで打たれていて「VERSO」なる叢書の一つのようでもあるが、「VERSO」は出版元の「New Left Books(新左翼出版社)」のImprint だとされている(原書の冒頭近く)。
 よくは知らないが、その「新左翼」に引っかかって上の各著に対するChina Miéville のコメントを読むと、明らかに、⑥R・パイプスと⑨S・フィツパトリクのものには批判的な部分がある。例えば-。
 ⑥について-「左翼に対する敵意」、「ボルシェヴィキ恐怖症(-フォビア)」、…。
 ⑨について-<レーニン→スターリン>「不可避主義者」、…。
 これら自体興味深く、この二人の著が少なくとも一部に与える印象も理解できるところがある。
 しかし、それよりもさらに興味深いのは、この二人の著をChina Miéville も、きちんと列挙している、ということだろう。
 R・パイプス、O・ファイジズ、S・フィツパトリクの<ロシア革命本>は、今日の英米語圏では、どのような政治的立場を現在にとるのであれ、ロシア革命に関する、ほとんど<must read>のあるいは「鉄板」の書物になっているのではないか。
 ひるがえって、やはり日本のことを考える。日本の学界や「知的」活動分野について、考える。
 日本でいう「左翼」とは何か、「リベラル」とは何か。<ロシア革命>はとっくに過去の事象で、これらと何の関係もない、今日では関心の対象にならないものなのか?
 日本の国会議員を堂々と有する政党の中に、ほとんど直接に「ロシア革命」と関係がありそうな党はなかっただろうか。はて。

1926/L・コワコフスキ著第三巻第四章第9節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
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 第9節・ソヴィエト経済に関するスターリン。
 (1)スターリンの最後の理論的著作は、1952年9月に党機関誌<ボルシェヴィキ>に掲載した論文だった。これは「ソ連邦の社会主義の経済的諸問題」と題して、来る第19回党大会の基礎的文書となることを意図していた。
 その理論上の主張は、社会主義も「客観的な経済法則」に服する、計画立案に際してはその長所を生かさなければならず、それを恣意的に無視することはできない、ということだった。
 とくに価値の法則は、社会主義のもとで当てはまる。-この言明が意味したのはおそらく、金銭はソヴィエト同盟で有用だ、そして経済を作動させていくには利益や歳入と歳出の均衡について説明する責任が果たされなければならない、ということだつた。
 「社会主義の経済法則の客観性」という原理は、Nikolai Voznensky に対する非難を暗に含んでいた。この人物は、戦前は国家計画委員会の長で、のちに副首相となり、政治局員だった。
 彼は1950年に、裏切り者として射殺された。そして、対ドイツ戦争中のソヴィエト経済に関するその書物は、流通から排除された。
 その書物は含みとしては、社会主義が客観的経済法則に服することを否定し、その代わりに全経済過程が国家の計画権能に従属すると主張していた。
 しかしながら、スターリンは、価値法則を擁護し、読者に対して、資本主義は最大限の利潤を求める原理に支配されているが、社会主義経済の指針的規範は人間の必要性〔需要〕を最大限に充足させることだ、と保証した。
 (いかにして社会主義の利潤的効果がスターリンが主張するように国家計画立案当局の意思から独立した「客観的法則」であり得るのか、とくに、いかにしてこの「法則」が「価値の法則」と同時に作動するのかは、明瞭ではない。)
 スターリンの論文はまた、ソヴィエト同盟の共産主義段階への移行に関する基本綱領を概述した。すなわち、この移行のために必要なことは、都市と地方の対立や肉体的作業と精神的作業の対立を除去し、集団農場の財産を国有財産の地位へと高めること(言い換えると事実上は、集団農場を国有農場に変えること)、そして生産を増大させ、文化の一般的水準を高めることだ。
 (2)将来の完全な共産主義社会に関するスターリンの考え方は、伝統的なマルクス主義の主題の繰り返しだった。
 「経済の客観的法則」について言うと、その論文から導かれ得る唯一の実践的メッセージは明らかに、経済を職責とする者たちは民衆の必要性を最大限に充足しようと努力しているが、経済上の説明を明確にする責任(economic accountability)もまた見失ってはならない、ということだった。//
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 第10節の表題は、「スターリン晩年時代のソヴィエト文化の一般的特質」。

1925/L・コワコフスキ著第三巻第四章第8節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
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 第8節・スターリンと言語学(philology)。
 (1)国際的緊張が最高に達した朝鮮戦争の最初の数日間に、スターリンは、進歩的人類の指導者、至高の哲学者、科学者および戦略家等々という既存の名称に、さらに特記して世界で最大の言語学者なるものを追加した。
 (知られているかぎりで、彼が取得している言語能力はロシア語と母国のジョージア語に限られていた。)
 1950年5月、<プラウダ>は言語学、とくにNikolai Y. Marr(マル、1864-1934)の理論の理論上の諸問題に関するシンポジウム内容を掲載した。
 コーコサス諸言語の専門家のマルは、その晩年にかけてマルクス主義言語学の体系を構築しようと努め、ソヴィエト同盟ではこの分野の最高権威者だと見なされていた。すなわち、幻想者だとして彼を拒絶した言語学者たちは、嫌がらせを受け、迫害された。
 マルの理論は、言語は「イデオロギー」の一形態で、そのようなものとして上部構造の一つであり、階級システムの一部だ、というものだった。
 言語の進化は、社会的編成の質的な変化に対応した「質的跳躍」によって生じる。
 人類が話し言葉を開発する前は身振り言語を用いており、それは、原始的な階級なき社会に対応していた。
 話し言葉は、階級ある社会の特質だ。そして、将来の階級なき共同社会では、普遍的な思考(thought)の言語(確かに、マルはこれについて多くを説明することができなかったが)に取って代わられるだろう。
 こうした理論全体が偏執症的(paranoid)な妄想の兆候を示していた。そして、これが長年にわたって<とくに秀れた(par excellence)>言語学で、唯一の「進歩的」言語理論だ、と位置づけられたという事実自体が、ソヴェト文化の実態を雄弁に物語っている。//
 (2)スターリンは<プラウダ>6月29日号に掲載した論文で論議に介入し、さらに読者の手紙に四つの回答をして説明した。
 彼はマル理論を非難し、言語は上部構造の一つではなく、その性格においてイデオロギー的なものでもない、と宣告した。
 言語は土台の一部でもなく、創造的な諸力と直接に「連環」している。
 言語は全体としての社会の一部であり、特定の階級のものではない。階級により決定される諸表現は語彙全体のほんの断片にすぎない。
 言語が「質的跳躍」あるいは「暴発」によって発展するというのも、正しくない。ある特質が消失していき、新しい特質が発生してくるように、徐々に変化するのだ。
 二つの言語が競い合うとき、その結果は新しい合成言語なのではなく、他方に対する一方の勝利だ。
 将来での言語の「死滅」と思考による代替に関して、マルは根本的に間違っている。すなわち、思考は言葉と連結しており、言葉なくしては存在することができない。
 人々は、言葉によって思考する。
 スターリンは、この機会を利用して、土台と上部構造に関するマルクス主義理論を明確にすべく繰り返した。第一に、土台は生産力で成るのではなく、生産関係による。第二に、上部構造は土台に対して道具として「奉仕する」。
 彼は、マルクス主義が自由な議論や批判を抑圧することで獲得した独占的地位を、(アレクサンダー一世の時代の専制的大臣を暗に示唆しつつ)強い調子で非難した。それでは知識を適切に発展させることが明らかに不可能だ、として。
 (3)言語は階級に関係する問題ではなく上部構造の一つでもないということは、フランスの資本家も労働者もフランス語を喋り、ロシア人は革命後もロシア語を話している、ということをたんに意味するにすぎない。
 だがこの発見は、言語学やその他の学問の史上での歴史的に画期的なものとして歓呼して迎えられた。
 学術上の会合や論議の大波が、天才の新しい仕事を褒め称えるために、国土じゅうを覆った。
 実際には、スターリンが述べたことは、感取できる自明のこと(truisms)に他ならない。しかし、マル理論の馬鹿々々しさを一掃してしまうためには有益だった。また、形式論理学と意味論(semantics)の研究に、ある程度の利益をもたらした。これら二つの分野の論者たちは、それらも上部構造の一部ではなく、研究することは必ずしも階級敵に転化するわけではない、と主張することができたのだ。
 土台との関係での上部構造の「補助的(auxiliary)機能」に関するスターリンの言明について言うと、これは誰にもすでによく知られている基礎的な原理、社会主義国家の文化は「政治的な客観物」の下僕であって自立性を要求してはならないという原理、を反復しているものだ。
 スターリンが自由な議論や批判を求めたことは、他のどの文化分野にも何の影響をももたらさなかった、ということは言うまでもない。
マル主義者は言語学の支配的地位から外された(彼らが政治的弾圧を受けたとは知られていないけれども)。他の点では、事態は従前のままだつた。
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 第9節の表題は「スターリンとソヴィエト経済」。

1922/L・コワコフスキ著第三巻第四章第7節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)のマルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
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 第7節・ソヴィエト科学に対する影響一般。
  (1)ルィセンコの事件は、体制による文化との闘争の歴史を、幸いにもかなりの程度、例証している。
 獲得された特性の遺伝の問題よりも宇宙論の問題にイデオロギーが多くかかわり合った、と容易に理解することができる。
宇宙には時間の始まりがあるという理論を弁証法的唯物論と調和させるのは困難だ。
 しかし、遺伝に関する染色体理論の場合は、明らかにそうではない。誰でも容易に、この理論はマルクス=レーニン=スターリン主義という不朽の思想を完璧に確認するものだと、勝利感をもって宣言する、と想像することができる。
 実際には、イデオロギー的闘いは、遺伝学の場合の方がとくに激しかった。党による介入が最も残虐な形態をとったのはまさにこの遺伝学の分野だった。一方で、宇宙論に対する扇動的攻撃は、かなり穏健なものだった。
 このような違いに関する論理的な説明を行うのは困難だ。すなわち、多くは偶然による。反対運動を担当したのは誰だったのか、スターリン個人は論争になっている問題に関心があったのか否か、等々。//
 (2)にもかかわらず、この時代の歴史を概観するならば、イデオロギー的圧力の強さに、コントやエンゲルスが確立した諸科学の階層に大まかには対応した、一定の段階的差異があることを感知し得るかもしれない。
 数学については圧力はほとんどゼロで、宇宙論と物理学についてはかなり強かった。生物学については、さらに強かった。そして、社会科学や人文科学については、圧力は最大限に強力だった。
 年代史的順序も、大まかにはこうした重要性の程度の差異を反映していた。
 社会科学は、最初から統制管理の対象だった。一方で、生物学や物理学はスターリニズムの最後の段階までは統制されなかった。
 スターリン後の時代に最初に自立性を取り戻したのは、物理学だった。しばらくして、生物学が続いた。だが、人文社会系(humanistic)学問はかなり厳格な支配のもとに置かれたままだった。//
 (3)イデオロギー的監督の中でも幸運な要素は、高次の神経機能に関する心理学と生理学の場合にも、見出すことができる。
 この分野の特質は、ロシアが世界的に有名なパブロフ(Ivan P. Pavlov )の誕生地だったことだ。1936年に死んだこの人物には若干の弟子たちがおり、彼らはパブロフの実験を継続し、またイデオロギー的圧力とは関係なくその理論を発展させることが許されていた。
 典型的にも、体制側は反対方向の極端へと進み、パブロフの理論を、生理学者や心理学者が逸脱することを禁止される、公式のドグマにまで屹立させた。
 かりにパブロフがイギリス人あるいはアメリカ人であったならば、彼の考えは、ソヴェトの哲学者によって厳しく非難されていただろう。パブロフ理論は条件反射によって精神作用を説明するがゆえに機械主義者だ、という根拠でもって。
 パブロフはまた、人間と動物の「質的な違い」を無視する等々によって人間の精神を神経活動という最も下位の形態へと「矮小化(reduce)」した、と責め立てられただろう。
 実際には、パブロフ理論は公式に神経生理学の分野でのマルクス=レーニン主義を代表するものとされ、この分野でのイデオロギー攻撃は他のどの分野よりも酷くなかった。
 にもかかわらず、たとえ真摯で科学的な実験にもとづいてはいても、一つの理論が国家と党のドグマにまで持ち上げられたという、まさにその事実こそが、研究の進展に対して激痛を与えるごとき効果をもった。//
 (4)ソヴィエト国家の利益に反して動いたイデオロギーのとくに驚くべき事例は、サイバネティクス〔人工頭脳学〕、動態的過程統制システムに関する科学、に対する攻撃だった。
 サイバネティクス研究は、全ての技術分野、とくに軍事技術、経済計画等々での自動化の発展に大きな貢献をした。しかし、マルクス=レーニン主義の純粋性という権威は、しばらくの間は、ソヴィエト同盟での自動化の進展を完全に抑えることができた。
 1952-53年、サイバネティクスという帝国主義的「えせ科学」に対する反対運動が起こされた。
 ここにはじつに、本当の哲学上の問題または哲学に準じた問題が介在していた。
 すなわち、社会生活がサイバネティクスの範疇でもって記述され得るのか否か、および記述され得る程度、精神的活動はいかなる意味でサイバネティクスの図式へと「推論され得る」のか、あるいは逆に、いかなる意味で、人工的なメカニズムの一定の作用が思考と同等であり得るのか、等々。
 しかし、本当のイデオロギー上の危険性は、サイバネティクスは西側で発展してきた広い視野をもつ学問分野で、その当否はともあれ、<普遍的数学(mathesis universalis)>、動態的現象を全て包含する一般的理論だと自己主張しているものだ、ということにあった。そのような自己主張は、正確にマルクス=レーニン主義こそが行っていたものだったからだ。
 非公式の(むろん公的な情報で確認されていない)報告によると、最終的にサイバネティクスに対する反対運動を中止させたのは軍隊だった。軍はその主題の実践的重要性に気づいており、ソヴェトの根本的な国家利益を損傷する反啓蒙主義的攻撃と闘うに十分な強さを持っていた。//
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 つぎの第8節の表題は「スターリンと言語学」。

1921/L・コワコフスキ著第三巻第四章第6節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)のマルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
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 第6節・マルクス=レーニン主義の遺伝学。
 (1)マルクス=レーニン主義と現代科学との間の全ての闘いの中で、遺伝学に関する論争ほど外部世界の注目を集めたものはなかった。
 公式の国家教理が遺伝の問題に関して用いて、かつ「論議」一般に破壊的な影響をもったやり方というのは、実際にとくに悪辣だった。
 相対性や量子理論の場合は、イデオロギー正統派が研究を妨害し確実に非難することに成功して勝者となった。しかし、正統派は反対派を完全に破壊してしまったわけではなかった。また、遺伝学の場合に起きたようには、反対派の理論の公式かつ絶対的な禁止をもたらしたわけでもなかった。//
 (2)戦前の段階でのルィセンコ(Lysenko)の活動については、すでに言及した。
 事態は、1948年8月のモスクワでの農業科学レーニン・アカデミーでの論議で、絶頂点に達した。
このとき、「メンデル=モルガン=ヴァイスマン主義者」が最終的に非難され、ルィセンコ自身が会合に対して発表したように、彼の考え方が党によって是認された。
 党がマルクス=レーニン主義と合致する唯一のものだと宣告したルィセンコの理論は、遺伝は「究極的には」環境の影響によって決定される、したがって一定の条件のもとでは、個々の生物(organism)がその人生を通じて獲得する特性(traits)はその子孫たちに継承〔遺伝〕される、というものだった。
 遺伝子(gene)なるものはなく、「遺伝という不変の実体」はなく、「固定した、変更不可能な種(species)」もない。そして、原理的に言えば、科学、とりわけソヴィエト科学が、現存する種を変形させて新しい種を生み出すことを妨げるものは、何もない。
 ルィセンコによれば、遺伝とは一生物の一つの属性にすぎず、その属性は、その生物が生きていく特有の条件を必要とし、またその生物が特有の方法でその環境に反応するということから生じる。
 一個体はその生の過程で環境条件と相互に影響し合い、その環境条件を自分自身の特性へと変える。そしてそれを、子孫たちへと伝達していくことができる。-このことは、代わりに、自分たちの特性を失うか、または遺伝によって伝達できる新しい特性を獲得することでありうる。それはまた、外部条件が決定しうるものだ。
 永遠(immortal)の遺伝という実体の存在を信じる進歩的科学の擁護者は、マルクス主義に反して、突然変異(mutation)は制御不可能な偶然によって生じると主張する。
 しかし、ルィセンコがアカデミーの会合で論じたように、「科学は、偶然なるものの敵だ」。そして科学は、生命の全過程が法則に従っており、それを人間の干渉によって支配することができる、と想定するよう義務づけられている。
 生物は「環境との統合体(unity)」を形成する。ゆえに原理的には無制限に、その環境を通じて生物に影響を与えることが可能だ。//
 (3)ルィセンコが提示した理論は第一に、農学者のミチュリン(Michurin、1855-1935)の発想と実験を発展させたものだった。第二に、「創造的ダーウィニズム」の例だとして提示された。
 ダーウィン(Darwin)が道を誤っていたのは、自然にある「質的跳躍」を認識しなかったこと、および種内部の闘争(最適者生存)を進化の主要な要因だと考えたことだった。 彼は、目的論的解釈に頼ることをしないで、進化を純粋に因果関係の意味で説明し、進化の過程の「進歩的」性格を明らかにしなかった。//
 (4)ルィセンコ理論の経験上の根拠に関して、今日の生物学者たちは疑いなく、ルィセンコの実験は科学的には無価値であり、間違って行われているか全く恣意的な解釈が施されているかのいずれかだ、と判断している。
 ルィセンコは1948年の会合から、ソヴィエトの生物科学の疑いなき指導者となって登場した。そして、観念論的、神秘主義的、スコラ主義的、形而上学的、およびブルジョア的で形式主義的な遺伝学の学者たちは完璧に粉砕された。
 全ての組織、雑誌および生物学に関連する出版団体は、ルィセンコと彼の助手たちの権威のもとに置かれた。そして多年にわたり、遺伝に関する染色体(chromosome)の理論の擁護者(<仮説だが(ex hypothesi)>、ファシスト、人種主義者、形而上学者、等々)が公衆に語りかけまたは活字となって登場することが許される、などということは全くの論外だった。
 「創造的ミュチュリン主義生物学」が至高ののものとして支配し、プレスにはルィセンコを称賛し、メンデル=モルガン主義者たちの邪悪な策略を非難する記事が洪水のごとく溢れた。
 ソヴィエト科学の栄光ある勝利は、無数の会合や集会で祝福された。  
 哲学者たちはもちろん、ただちにそうした運動に加わり、会合を組織し、反動に対する進歩の勝利を歓呼して喜ぶ多数の論文を執筆した。
 娯楽雑誌は、観念論的遺伝学の支持者を嘲弄した。そして、ルィセンコを賛美する歌までが作られた。「ミチュリンの足跡にそってしっかりと前進しよう。メンデル=モルガン主義者の陰謀を挫折させよう」。//
 (5)ルィセンコの経歴は、1948年以後の数年間にわたり継続した。
 その間に、彼の指揮のもとで、ある範囲の大草原地帯には浸食から畑地を守るべく森林帯が植え付けられた。しかし、その実験は完全な失敗だったことが分かった。
 1956年、スターリン死後のイデオロギー的な部分的雪解けの間、科学者が圧力を加えた結果として、ルィセンコは農業科学アカデミーの院長から外された。
 数年のち、フルシチョフの好意によって彼はいくつかの地位を回復した。しかし、のちに長く続いた全体的な救いにはならず、ルィセンコは最終的には舞台から消えた。
 ソヴィエトの生物学がルィセンコの支配によって被った損失は、計り知れないものだ。//
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つぎの第7章の表題は、「ヴィエト科学に対する一般的影響」。

1920/L・コワコフスキ著第三巻第四章第5節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)のマルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 分冊版、p.131-136。
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 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
 第5節・マルクス=レーニン主義と物理学・宇宙論。
(1)スターリニズムによる攻撃のとくに露骨な例は、自然科学へのイデオロギー的侵攻だった。
 無傷のままだった数学は別として、マルクス主義による統制運動は、全ての科学分野にある程度は影響を与えた。理論物理学、宇宙論、化学、遺伝学、医学、心理学、およびサイバネティクス〔人工頭脳学〕は全て、介入によって荒らされ、その頂点は1948-1953年だった。//
 (2)ソヴィエト物理学は、たいていの部分では、哲学上の議論にかかわってくる懸念はなかった。しかし、ある領域では、関係することが避けられなかった。
 量子理論も相対性理論も、一定の認識論上の前提を明らかにすることなくしては、十分に深化させることができなかった。
 決定主義の問題、観察される客体に対する観察行為の効果の問題、は明らかに哲学的な様相を帯びており、そのことは、世界じゅうの論議で承認されていた。//
 (3)ソヴィエト・ロシアとナツィ・ドイツは、相対性理論が攻撃され、公式イデオロギーと矛盾するとして禁止された、二つの国だった。
 既に述べたように、ソヴィエト同盟では、その攻撃運動は第二次大戦以前から始まっていたが、戦後の数年間に強化された。
 ドイツでは、相対性理論に反対する明白な論拠は、アインシュタイン(Einstein)はユダヤ人だ、ということだった。
 ロシアではこの点は挙げられず、批判が根拠にしていたのは、時間、空間および運動は客観的なもので、宇宙は無限だ、とするマルクス=レーニン主義の教義に反するものだ、ということだった。
 ジダノフは1947年に哲学者たちに対する挨拶の中で、宇宙は有限だと明言したアインシュタインの弟子たちを痛烈に非難した。
 哲学的批判は、つぎのようにも論じた。時間は客観的であるがゆえに同時発生性(simultaneity)との関連は絶対的なもので、特殊相対性理論が主張するような相関の枠組みに依存しているのではない。
 同じように、運動は物質の客観的な属性であり、そのゆえに動体の経路は同格者(co-ordinate)の制度によって部分的に決定されるということはあり得ない(これはむろんアインシュタインと同じくガリレオに対しても当てはまる論拠だ)。
 一般論として、アインシュタインは時間的関係と運動を「観察者」に依存させるので、換言すれば人間という主体に依存させるので、彼は主観主義者であり、そして観念論者だ。
 この論議に参加した哲学者たち(A. A. Maksimov、G. I. Naan、M. E. Omelyanovskyその他)は、批判対象をアインシュタインに限定しないで「ブルジョア科学」の全体を攻撃した。すなわち、彼らの好みの攻撃対象は、Eddington、Jeans、Heisenberg、Schrödinger および名のある全ての物理学方法論者たちだった。
 さらに、アインシュタインがかりに相対性理論の最初のアイディアをマッハ(Mach)から得たことを認めていれば、どうだっただろう? レーニンは、マッハの反啓蒙主義(obscurantist)哲学を罵倒したのだったが。
 (4)しかしながら、(古くさいやり方で一般相対性理論や空間の同質性の問題にも触れていた)論議の本質的な論点は、アインシュタインの理論の内容とマルクス=レーニン主義の間の矛盾にあるのでは全くなかった。
 時間、空間および運動に関するマルクス主義の教理は、何らかの特別の論理的な困難さがなければアインシュタイン物理学と調和することができない、というほどに厳密なものではなかった。
 相対性理論は弁証法的唯物論を確認するものだと主張することすら、可能だった。このような擁護の主張は著名な理論物理学者のV. A. Fock がとくに行った。この人物は同時に、アインシュタインの理論は限定された有効性をもつ、という見方を支持する科学的な論拠を提示した。
 アインシュタインに-そしてじつに現代科学のほとんどの成果に-反対する運動には、しかしながら、二つの基本的な動機があった。
 第一に、「ブルジョア対社会主義」とは実際には「西側対ソヴィエト」と同じことを意味した。
 スターリニズムという国家教理はソヴィエト排外主義を含むもので、「ブルジョア文化」の重要な成果の全てを、系統的に拒否することを要求した。ブルジョア文化の中でもとりわけ、世界で唯一の国だけが進歩の根源となり一方では資本主義が衰退と崩壊の状態にある1917年以降に生じたものを。
 ソヴィエト排外主義に加えて、第二の動機があった。
 マルクス=レーニン主義の単純な教理は、多くの点で、教育を受けていない人々の一般常識的な日常的観念と符号している。例えば、レーニンが経験批判論に対する攻撃で訴えかけたのは、そのような諸観念だった。
 他方で相対性理論は、疑いなく、ある範囲において一般常識を攻撃するものだ。
 同時発生性、範囲と運動の絶対性および空間の画一性は、我々が当然のこととして受容している日常生活の前提だ。そしてアインシュタインの理論は、地球が太陽の周りを回転しているとのガリレオの逆説的主張と全く同じように、この前提を侵害する。
 かくして、アインシュタインを批判するのは、ソヴィエト排外主義のためだけではなくて、我々の感覚にある平易な証拠とは合致しない理論を拒否するという、ふつうの保守主義のゆえでもあった。//
 (5)「物理学における観念論」に対する闘いは、同様の動機で、量子(quantum)理論にも向けられた。
 コペンハーゲン学派が受容した量子力学の認識論的解釈は、ある範囲のソヴィエト物理学者の支持を得た。
 論議の引き金となったのは、すでに言及した1947年のマルコフ(M. A. Markov)の論文だつた。
 マルコフは二つの基本的な点でBohr とHeisenberrg に従っており、それらはマルクス=レーニン主義哲学者の反発を引き起こした。
 第一に、位置と微粒子(microparticle)の運動量とを同時に測定するのは不可能であるがゆえに、粒子が明確な位置と明確な運動量を<持つ>とか、観察技術に欠陥があるためにのみ両者を同時に測定することができないとか主張するのは、無意味だ。
 こういう考え方は、多数の物理学者の一般的な経験的見方と合致していた。すなわち、客体の唯一の現実的属性は、経験的に感知できるということだ。客体が一定の属性をもつがそれを確認する可能性はないと言うのは、自己矛盾しているか、無意味であるかのいずれかだ。
 したがって、粒子は明確な位置と運動量とを同時には有しておらず、測定する過程ではこれらのいずれかが粒子に帰属する、ということを承認しなければならない。
 同意されなかった第二の点は、微小物体(micro-object)の行動を文字で記述する可能性に関係していた。これは、大物体とは異なる属性をもち、ゆえに大物体を叙述するために進化してきた言語で性格づけることができない、とされた。
 マルコフによると、ミクロ物理現象を叙述する理論は不可避的にマクロ物理学の用語へと翻訳したものだ。したがって、我々が知って意味をもつものとして語ることのできる微小物理的実体は、部分的には測定の過程とそれを叙述するために用いる言語で構成されている。
 したがってまた、物理学理論は観察される宇宙の模写物を用意したものとして語ることはできず、マルコフは明確には述べなかったけれども、現実に関する全概念は、少なくとも微視物理学に関するかぎりは、認識するという活動の観点から逃れようもなく相対化される。-これは、明らかに、レーニンの反射(reflection)理論に反する。
 そのために、マルコフは、観念論者、不可知論者、そしてレーニンが批判したプレハノフの「象形文字」理論の支持者だとして、<哲学雑誌>の新しい編集者によって非難された。//
 (6)相対性理論とは違って、量子力学をマルクス=レーニン主義の意味での唯物論および決定論と調和させるのは困難だ、ということは強調しておかなければならない。
 粒子が一定の感知できない、その地位を明確にする物理的媒介変数をもつと言うことが無意味だとすれば、決定論という教理は根拠薄弱であるように見える。
 一定の物理的属性のまさにその存在が、それを感知するために用いる測定装置の存在を前提にしているのだとすると、物理学が観察する「客観的」世界という概念を意味あるものとして適用することは不可能になる。
 こうした諸問題は、決して想像上のものではない。その諸問題は、マルクス=レーニン主義とは全く無関係に、物理学で議論されてきたし、現に議論されている。
 ソヴィエト同盟では、とりわけD. I. Blokhintsev やV. A. Fock が理性的な議論をした。そして議論は、スターリン以後の時代へと継続してきている。
 1960年代、党のイデオロギストたちが科学理論の「適正さ」を決定すると言わなくなったときに、ほとんどのソヴィエト物理学者たちは決定論的見方を採用していことが明白になった。従前には潜在的な媒介変数の存在を執拗に要求したBlokhintsevも、そうだった。//
 (7)一般的に言って、物理学や他科学の哲学的側面に関するスターリン時代のいわゆる論争は、破壊的で、反科学的だった。それは非現実的な問題を扱ったからではない。学者たちと党イデオロギストたちの間の-よくあったことだが-対立では、国家とその警察機構の支持のある後者が勝利を得ることが保障されていたからだ。
 提示されている理論がマルクス=レーニン主義と合致していない、または合致していない疑いがある、という責任追及は、ときどきは刑法典のもとでの制裁へと転化し得たし、実際にそうなった。
 イデオロギストたちの大多数は、問題になっている争点について無知で、レーニンまたはスターリンの言葉に変化をつけた言明を見つけ出す技巧に長けていた。
 レーニンは物理学やその他の科学全てについての偉大な権威だと信じていない科学者たちは、党、国家およびロシア人民の敵だとして民衆むけプレスで「仮面を剥がされる」ことになった。
 「論議」はしばしば、政治的な魔女狩りへと退化した。
 警察が舞台に登場し、結論的な論難は理性的な議論と何の関係もなかった。
 現代的知的生活のほとんど全ての分野で、このような対応が進行し、党当局は決まって、学者や科学者たちに対する騒々しい無学者たちを後援した。
 「反動的」という語が何がしかの意味をもつとすれば、スターリン時代のマルクス=レーニン主義ほどに反動的な現象を考えつくのは困難だ。この時代は、科学やその他の文明の諸態様にある全ての新しくて創造的なものを、力ずくで抑圧した。//
 (8)化学も、別扱いではなかった。
 1949-1952年には、哲学雑誌や<プラウダ>で、構造化学と共鳴(resonance)理論が攻撃された。
 これは1930年代にPauling とWheland が提起してある範囲のソヴィエト化学者に受容されていたが、今や観念論、マッハ主義、機械主義、反動的等々と非難された。//
 (9)さらに微妙なイデオロギー上の主題は、宇宙論や宇宙発生学の現代的諸理論の哲学的側面に関する論議に関係していた。そこから明らかになるのは、基本的諸問題に対する現存する回答の全ては、マルクス=レーニン主義にとっては好ましくない、ということだった。
 膨張する宇宙に関する多様な理論を受容するのは困難だった。それは不可避的に、「宇宙はいかにして始まったのか?」という問題を惹起し、我々が知る宇宙は有限であって時間上の始まりがあると、いうことを示唆するからだった。
 このことは次いで創造主義(creationism、多数の西側の執筆者が受容した推論)を支持し、マルクス=レーニン主義の観点からはより悪いことは何も想像され得なかった。
 宇宙は膨張し続けるが新しい粒子が発生し続けるので物質の運命は同じであるままだ、という補足的な理論は、かくして、「自然の弁証法」と矛盾した。
 このゆえにそののちは、これら二つの仮説のいずれかを支持して主張する西側の物理学者や天文学者は、自動的にすぐに宗教の擁護者だと記述された。
 宇宙は膨張か収縮かの二者択一的段階を経由するという、脈動する宇宙に関する選択肢理論は、時間の始まりに関する面倒な議論から自由だった。しかしこれは、物質の単一方向的進化というマルクス=レーニン主義の教理と矛盾していた。
 「弁証法の第二法則」が要求するように、脈動する宇宙は「循環的」なもので、「発展」とか「進歩」とかと言うことはできないものだった。
 ディレンマを抜け出すのは困難だった。単一方向の原理は創造という観念を含んでいるように見える。一方では、反対の理論は「無限の発展」という原理と対立していた。
 宇宙論に関する討議に参加した者たちの一方には、天文学者や天文物理学者(V. A. Ambartsumian、O. Y. Schmidt)がおり、彼らは科学的な方法で結論に到達しており、そして弁証法的唯物論と調和していることを示そうと努力した。
 他方には、イデオロギー上の正統派の観点から問題を判断する、哲学者たちがいた。
 宇宙は時間も空間も無限だということ、そしてそれは永遠に「発展する」に違いないということは、マルクス=レーニン主義がそこから離れることのできない、哲学上のドグマだった。
 こうして、党という盾に守られたソヴィエトの哲学者たちは、教養ある人々をあらゆる分野で圧迫し、ソヴィエト科学の基本教条に対して莫大な害悪を与えた。//
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 第6節の表題は「マルクス=レーニン主義の遺伝学」、第7章のそれは「ソヴィエト科学に対する一般的影響」。
 下は、Leszek Kolakowskiが1960年代に離国前までワルシャワで住んだアパートメント。ネット上より。
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1919/L・コワコフスキ著第三巻第四章第4節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)のマルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 分冊版p.130-1. 短い節で、段落の区切りはない。
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 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
 第4節・経済論議。
 ジダノフが哲学者たちに対処していたのと同じ時期に、経済学もまた、イデオロギー的迫害(purge)を受けた。
 この分野では、第二次大戦が資本主義経済に与えた影響に関して1946年に出版されたVarga の書物が事例となった。
 イェネ・ヴァルガ(Jenő Varga, 1879-1964)はハンガリー出自の著名な経済学者で、短命のベラ・クーン(Béla Kun)共産主義共和国の崩壊以降はソヴィエト同盟で生活し、経済動向を観察して資本主義体制の危機を予測することを目的とする、世界経済研究所の所長だった。
 この書物で彼は、戦争が資本主義経済にもたらした永続的変化を検証しようとした。
 戦争がブルジョア国家に強いたのは、ある程度の経済計画を導入し、国家の機能を格段に肥大化させることだった。とくに、イギリスとアメリカ合衆国で。
 生産に対する販路の問題は決定的ではなくなり、市場を求めての闘いは国際問題の基本的な要因ではもうなくなった。
 しかしながら、資本の輸出が、いっそう重要性をもつようになった。
 予想され得るのは、アメリカ合衆国での過剰生産と西側ヨーロッパの戦時中の破壊が結びついて、資本主義がアメリカ資本をヨーロッパへと大規模に輸出することで救いを見出そうとする、そのような危機を生じさせるだろう、ということだった。
 ヴァルガの理論は1947年に、また再び1948年10月に、論議の対象となった。
 批判者、とくにスターリン時代の主要経済学者のK. V. Ostrovityznovは、ヴァルガを責め立てた。計画は資本主義のもとでも可能だと考えており、経済を政治と分離させており、そして階級闘争を無視している、と。
 ヴァルガは資本主義の一般的危機を看取することができていない。そして、ブルジョア国家に対する資本の力を強調するのではなく、国家は資本による制御のもとにあると想定するという過ちを冒した、とされた。
 加えて、ヴァルガは世界主義者で、西側の科学、改良主義、客観主義に屈服しており、かつレーニンを過少評価している、と追及された。
 こうした批判の拠り所は在来的なものだった。しかし、ヴァルガの書物の要点は、じつに、スターリニスト・イデオロギーと合致していない、ということにあった。
 資本主義は危機的状況を乗り越える方法をますます開発してきているとのヴァルガの結論的主張は、資本主義の矛盾は毎日のごとくますます激しくなってきており、資本主義の全般的危機はいっそう深刻になっている、というレーニンの教えおよび過去30年間の党の基本的考え方とは明らかに真反対のものだった。
 ヴァルガは最初の論議の後では自己批判を行わなかったが、1949年についに屈した。
 彼はその主要な役職を解任され、彼が編集していた雑誌は閉刊となった。
 しかしながら、ヴァルガは、スターリンの死後に名誉回復した。そして、その考え方を1964年に出版した書物で反復しかつ発展させた。その本で彼は、以前に考えられていた図式と矛盾する事実を認識しようとしないスターリンおよびスターリン・イデオロギストたちの教条的な無能力さを批判した。
 ロシアで刊行されなかったが彼の死後に西側に伝わった草稿では、ヴァルガはさらに進んで、こう主張していた。ロシアで社会主義を建設するというレーニンの企図は誤りだと分かった、ソヴィエト体制の官僚化の原因は部分的にはレーニンの誤った前提にある、と。//
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 つぎの第5節の表題は、「物理学と宇宙論でのマルクス=レーニン主義」。

1918/L・コワコフスキ著第三巻第四章第3節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)のマルクス主義の主要潮流(英訳書、1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
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 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
 第3節・1947年の哲学論争。
 (1)文学のつぎは、哲学が戒めを受ける番だった。
 党による運動の対象は、1946年に出版された、G. F. Aleksandrov の<西洋哲学史>だった。
 この書物の内容は完全に正統派で、マルクス=レーニン主義からの引用で充ちており、党に真に献身する気持ちで書かれていた。
 これはほとんど歴史的な価値のない、民衆むけの陳列書だったが、叙述する諸教理の「階級的内容」に十分な注意を払っていた。
 しかしながら、党が嗅ぎつけたのは、この書は西洋哲学のみを対象にしており、その叙述が1848年で終わっており、ロシア哲学の比類なき優越性を十分に描写していない、ということだった。
 1947年6月、中央委員会は大がかりな議論を組織し、そこでジダノフは、哲学に関する著者に対する訓令を定式化した。
 彼は演説の一部でAleksandrov の書物に触れ、これは党の精神を叙述していない、と宣告した。この著者は、マルクス主義は哲学の歴史上の「質的な跳躍」をしたもので、哲学が資本主義に対する闘争でのプロレタリアートの武器となる、そういう新しい時代の始まりを画したものであることを指摘していない、と。
 Aleksandrov は腐敗した「客観主義」に堕している。すなわち、多様なブルジョア思想家の思索をたんに中立的な精神で記録したにすぎず、唯一の正しい(true)、進歩的なマルクス=レーニン主義哲学の勝利のために果敢に闘うことを行っていない。
 ロシア哲学を割愛していること自体が、ブルジョア的傾向に屈服している標識だ。
 Aleksandrovの仲間たちがこの明瞭な欠陥を批判してこなかったことは、同志スターリンの個人的な介在のおかげで明らかになった。そしてそのことは、彼ら全員が「哲学戦線」にいるのではなく、彼ら哲学者たちがボルシェヴィキの戦闘的精神を喪失していることの明白な証拠だ。//
 (2)ジダノフがソヴィエト同盟の哲学上の仕事について定めた規範は、三点に要約できるだろう。
 第一に、哲学の歴史は科学的唯物論の誕生と発展の歴史であり、かつ観念論がその発展を阻害している間は観念論との闘争の歴史だ、ということを絶対に忘れてはならない。
 第二に、マルクス主義は、哲学上の革命だ。すなわち、マルクス主義はエリートたちの手から哲学を奪い取り、哲学を一般大衆の財産にした。
 ブルジョア哲学はマルクス主義の成立以降は衰亡と解体の過程にあり、価値のある何物をも生み出すことができないでいる。
 過去百年の哲学の歴史は、マルクス主義の歴史だ。
 ブルジョア哲学と闘うために舵をとる羅針盤となったのは、レーニンの<唯物論と経験批判論>だった。
 Aleksandrov の書物は「歯抜けの菜食主義者」の精神を示している。重要問題は階級闘争ではなく、ある種の普遍的な文化のごとくだ。
 第三に、「ヘーゲルの問題」はマルクス主義によってすでに解決されており、それに立ち戻る必要はない。
 一般論として、哲学者は過去を掘り返すのではなく社会主義社会の諸問題に参加し、現今の諸論点に関係しなければならない。
 新しい社会では、もう階級闘争は存在しない。しかし、新しき者に対する古き者の闘いはまだ残っている。
 この闘いの形態は、ゆえに進歩の主導的力および党が選ぶ道具は、批判と自己批判だ。
 これこそは、進歩的社会の新しい「発展に関する弁証法的法則」だ。//
 (3)「哲学戦線」の主要な構成員は全てこの議論に参加し、党の訓令に不和雷同し、マルクス主義に対する創造的な貢献をしかつソヴィエト哲学にあった誤りを是正したことについて同志スターリンに感謝を捧げた。
 Aleksandrovは儀礼的な自己批判を実施し、自分の著作が重大な過ちを含むことを承認した。それでもしかし、まだ慰めになったのは、彼の仲間たちが同志のジダノフによる批判を支持したことだった。
 Aleksandrov は党に対する揺るぎなき忠誠を誓約し、彼の方向を改めることを約束した。//
 (4)討議の間、ジダノフは、哲学に関する特別の雑誌の発行という考え方に反対し(三年前に<マルクス主義の旗の下に>が出版をやめていた)、党が月刊で出版する<ボルシェヴィキ>がこの分野の基礎を完全に十分に包含する、と論じた。
 しかしながら、最終的には、彼は譲歩して、<哲学の諸問題>の創刊に同意した。その第一号はその後すぐに刊行され、速記記録による討議の内容の報告を掲載した。
 最初の編集者は、V. M. Kedrov だった。この人物は、自然科学の歴史を専門にしており、たいていのソヴィエトの哲学者よりは文化を深く知っていた。
  しかしながら、彼は、この雑誌の第二号に著名な理論物理学者M. A. Markovの 「物理学的認識の自然」と題する論文を掲載するという、重大な過ちを冒した。その論文は、量子物理学の認識論的側面に関するコペンハーゲン学派の考え方を擁護するものだった。
 この論文は公式の週刊誌<Literary Gazettea〔文芸週報〕>でMaksimov によって攻撃され、Kedrov は見当違いだとして職を失った。//
 (5)1947年の議論は、ソヴィエトの哲学者が何をどのように書くべきかに関して疑問とする余地を、何ら残さなかった。
 かくして、ソヴィエト哲学の様式は、多年にわたり固定された。
 ジダノフは、スターリン・ロシアの時代に長く最高の権威を維持しつづけたエンゲルスの定式を反復するだけに抑えたのではなかった。その定式とは、哲学史の「内容」は唯物論と観念論の間の闘争だ、というものだ。
 新しい定式によれば、その真の内容は、マルクス主義の歴史だ。すなわち、マルクス、エンゲルス、レーニン、そしてスターリンの諸著作だ。
 換言すると、過去の理論家を分析したりそれらの階級的起源を解明したりすることは、哲学の歴史家が行うべき仕事ではない。彼らが行わなければならないのは、目的意識をもちかつ完全に、とっくに過去のものになったもの全てに対するマルクス=レーニン主義の優越性を証明し、一方で観念論の反動的な機能の「仮面を剥ぐこと」に、寄与することだ。
 例えば、アリストテレスについて叙述する際には、アリストテレスはあれこれのこと(例えば、個別的弁証法と普遍的弁証法)を「理解することができず」、あるいは恥ずかしくも観念論と唯物論との間で「揺れ動いた」、ということを示さなければならない。
 ジダノフの定式がもった効果は、事実上は哲学者たちの間の違いを排除することだった。
 唯物論者でありかつ観念論者である者が、つまり「揺れ動いた」者または「一貫しない」者がいたのだ。そして、そうしたことがこの定式の目的だった。
 この時代の哲学の出版物を読む者は誰でも、つぎのような印象を確実にもつだろう。すなわち、哲学の全体が「物質が始原的」と「精神が始原的」という二つの対立する主張から成っており、前者の見方が進歩的で、後者は反動的で迷信的だ、とされていること。
 聖アウグスティヌスは観念論者で、B・バウアー(Bruno Bauer)も同様だった。そして、読者の印象に残るのは、これらの哲学者たちは多かれ少なかれみな同じだ、ということだった。
 長く引用しないままでは、この時代のソヴィエト哲学の成果が信じ難いほどに未熟だったと理解するのは、検証していない者にとっては困難だろう。
 全体的に、歴史的研究は壁に打ち当たった。哲学の歴史に関する書物はほとんど出版されず、哲学上の古典の翻訳書についてもそうだった。アリストテレスとLucretius の<De Natura>を除いては。
 受容された唯一の歴史は、マルクス主義の歴史、またはロシア哲学の歴史だった。
 前者は、四人の古典を薄めて叙述したもので成り立っており、後者は、ロシア哲学の「進歩的な貢献」と西側の著作に対する優越性にかかわっていた。
 かくして、Chernyshesky はいかにフォイエルバハよりもはるかに優れているかを示したり、ヘルツェン(Hertsen)の弁証法、Radishchev の進歩的美学、Debrolyubov の唯物論等々を称賛する論文や小冊子があつた。//
 (6)もちろん、イデオロギー的迫害は、論理の研究を省略したわけではなかった。マルクス=レーニン主義でのその位置は、最初から疑わしいものだったが。
 一方で、エンゲルスとプレハノフは、全ての運動と発展に内在する「矛盾」について語った。そして、彼らの定式からすると、矛盾の原理、ゆえに形式論理一般は、普遍的な有効性を主張できないもののように見えた。
 他方で、古典著作者の誰も、論理を明白には非難しなかった。レーニンも、論理は基礎的な次元で教示されるべきものということに好意的だった。
 ほとんどの哲学者が当然のこととしていたのは、「弁証法的論理」は思索のより高い形態であり、形式論理は運動という現象には「適用できない」、ということだった。
 しかしながら、いかにして、またいかなる程度にこの「限定された」論理を受容できるのかは、明白でなかった。
 哲学の著作者たちは、一致して「論理形式主義」を非難した。しかし、誰も、これと、狭い限定の範囲内では許される「形式論理」との間の違いを正確に説明することができなかった。
 1940年代遅く、基礎的論理は中高等学校の高学年や哲学学部で教育された。
 若干の教科書も出版された。一つは法学者のStrogovich のもので、もう一つは哲学者のAsmus のものだった。
 イデオロギー的な整理の仕方は別として、これらは旧態依然の手引書だった。アリストテレスの三段論法以上に進むことはほとんどなく、現代的な記号論理学(symbolic logic)を無視していた。つまり、いずれも19世紀の高等学校で用いられた教科書によく似ていた。
 しかしながら、Asmus のものは、党精神に欠け、かつ政治的意識が希薄で形式主義的でイデオロギーに問題があるとして、激しく攻撃された。こうした批判がなされたのは、高等教育省が1948年のモスクワで組織した討議でだった。
 政治を無視しているという追及がなされた主要な理由は、Asmusが三段論法的推論の例として、戦闘的イデオロギーの内容を欠く「中立的」前提を選択したことにあった。//
 (7)哲学者たちにとって現代論理学は、封印された分野だった。
 しかしながら、完全に無視されたのではなかった。それは、技術的諸問題に集中し、彼らに災厄を招いただけだろう哲学上の議論に巻き込まれないように気を配っていた、数学者たちの小集団のおかげだった。
彼らの尽力によって、記号論理学に関する二つの優れた書物の翻訳書が、1948年に出版された。すなわち、Alfred Tarski の<数学的論理学>と、Hilbert とAckermannの<理論論理学の基礎>だ。
 さもなければ無名だった者が執筆した論文<哲学の諸問題>は、これらの書物を「イデオロギー上の転換>だとして非難した。
 この分野でのある程度の改善は、1950年に哲学に関するスターリンの小論によってなされた。論理の擁護者たちが、言語のごとく論理には階級がない、つまり論理のブルジョア的形態とか社会主義的形態とかはなくて全人類に有効なただ一つの形態がある、とする見解を支持するために呼びかけたときに。
 形式論理の地位とそれの弁証法的論理との関係は、スターリン時代におよびその時代のあとで、しばしば議論された。
 ある者は、論理には形式的と弁証法的の二種があり、それぞれが異なる事情へと適用される、前者は「認識の低い次元」を示すものだ、と主張した。
 別の者は、形式論理だけが言葉の正しい意味での論理だ、論理は弁証法と矛盾はしないものだが、弁証法は科学的方法に関する別の、非形式的な規範を提供する、と考えた。
 全体としては、「形式主義」批判は、ソ連邦での論理研究の一般的水準を落とすのに役立った。それはすでに極めて低いものだったが。//
 (8)ソヴィエトの哲学は、スターリン支配の最後の数年に、どん底に落ちた。
 哲学に関する団体や定期刊行物を継続させたのは、奴隷根性、告げ口、その他類似の党に対する奉仕だけが資格であるような人々だった。
 この時期に出版された弁証法的唯物論や歴史的唯物論に関する教科書は、その知的貧困さにおいて悲惨なものだ。
 その典型的な例は、F. V. Konstantinov が編集した<歴史的唯物論>(1950年)と、M. A. Leonov の<弁証法的唯物論概要>(1948年)だった。
 Leonov の本は、別の哲学者で戦争で死んだF. I. Khaskhachikh の未出版の原稿から大部分を盗作(crib)したものだと暴露されて、流通しなくなった。
「哲学戦線」のすでに言及した以外の構成員たちは、D. Chesnokov、P. Fedoseyev、M. T. Yovchuk、M. D. Kammari、M. E. Omelyanovsky (Msakinovと同じく物理学での観念論に対する見張り役だった)、S. A. Stepanyan、P. Yudin、およびM. M. Rosental だった。
 最後の二人は、権威をもった<コンサイス哲学辞典>を編纂し、この本は数版を重ね、改訂版も出た。//
 (9)スターリン時代を通じてずっと、ソヴィエト同盟には言及すること自体に値する哲学に関する一冊の書物も出現しなかった、当時の知的文化の状態を指し示す者やその名前を記録する価値のある哲学著作者は一人も存在しなかった、と安全に言うことができる。//
 (10)つぎのことを追記しておこう。この時期には、哲学上の諸著作から独自性のある思想や個性的な様式を排除する、制度的な装置が存在した。
 ほとんどの書物は、出版の前に、一つのまたは別の哲学小集団によって討議された。そして、きわめておずおずと教理問答書(catechism)の拘束を超えようとすらして、それらの書物を責め立てて党の警戒心を示すのは、関係者の義務だった。
 このような活動はしばしば、同じ文章でもって履行された。その結果は、全ての書物が事実上は同一になる、ということだった。
 上で言及したLeonov の事例は、注目すべきだ。想像され得るかもしれないが、剽窃した叙述(plagiarism)は感知されることがなく、執筆者の書き方はお互いによく似ていたのだから。//
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 つぎの第4節の表題は「経済論議」。

1917/L・コワコフスキ著第三巻第四章第2節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)のマルクス主義の主要潮流(英訳書、1978年)の第三巻・崩壊(瓦解、The Break Down)の、つぎの三つの章全体と四つめの章の第一節まではこれまでに、「試訳」をこの欄に掲載している。
 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の第一段階-スターリニズムの開始。
 第2章・ソヴィエト・マルクス主義の1920年代の理論闘争。
 第3章・ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。
 および、
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
  第1節・戦時中という幕間。<№1893、2018/12/16>
 このあとに続く、第2節から再続行する。段落の冒頭に原書にはない数字番号を付す。なお、第5章の標題は「トロツキー」(分冊版でp.183-p.219)。
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 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
 第2節・新しいイデオロギー攻勢。
 (1)戦争が終わったとき、ソヴェト・ロシアには莫大な人的損失があり、経済は破滅の状態にあった。
 だが、世界でのその地位は、したがってスターリンの個人的威厳は、きわめて高くなった。
 スターリンは、戦争の混乱の中から、偉大な政治家、優れた戦略家、そしてファシズムの破壊者として登場してきた。
 戦争が過ぎ去りヨーロッパでのソヴィエト征服地が確保されたため、独裁者は、戦時中の「リベラリズム」による有害な影響から転換させて、その権力を和らげる意図を政府は持たないとロシア民衆に教え込み、戦争によって世界のプロレタリアートの祖国以外の諸国を知った者たちにできる限り早くその光景を忘れることを強いるために、新しいイデオロギー攻勢を開始した。
 (この政策のとくに劇的な例は、解放されて西側連合により引き渡されたソヴィエトの戦争捕虜たちの全員を、強制収容所(concentration camp)へと追放したことだった。)
 テロルと戦争の「真正さ」は、これらで一緒になってマルクス主義のイデオロギー規準の緩和をもたらした。また、詩、映画その他の作品もそうだが、例えばV. P. Nekrasov やA. A. Bek の傑出した小説の登場でも示される、一定の文化的再生を生じさせた。//
 (2)1946年以降に始まった仮借なきイデオロギー運動は、かつてアレクサンダー二世が法王となるときに用いた「恍惚点!(- de rêveries)」との格言で要約されるかもしれなかった。
 目的はイデオロギーの純粋さを回復することだけではなく、新しい高さへとそれを挙げることだった。同時に、ソヴィエト文化を世界の外部との接触から離れさせることだった。
 全ての形態の知的生活は、これによって影響をうけた。文学、哲学、音楽、歴史学、経済学、自然科学、絵画および建築。
 それぞれの場合に、主題は同一だった。すなわち、西側に頭を下げるのをやめること、思想および芸術にある自立性の痕跡を全て破壊すること、スターリン、党そしてソヴィエト国家の称賛へと全ての形態の文化を集中すること。//
 (3)この政策の1946-48年の主任担当者は、ジダノフ(A. A. Zhdanov)だった。中央委員会書記の一人で、文化的自立性に対する闘争に熟達していた。
 1934年8月の全国作家同盟大会で党を代表して、ソヴィエト文学は世界で最も偉大であるのみならず唯一の創造的で発展する文学だ、一方で全てのブルジョア文化は衰亡と腐敗の状態にある、と述べたのは、この人物だった。
 ブルジョアの小説は、悲観主義に充ちていて、著者たちは資本主義に身を売っており、彼らの主人公はたいていは泥棒、売春婦、スパイ、不良少年だ。
 「ソヴィエト作家の大きな一団は今やソヴィエトの権力と党と一体となり、党の指導を受け、中央委員会の配慮と日常的な協力、および同志スターリンの絶えざる支援を得ている。」
 ソヴィエト文学は楽観的でなければならず、「前を向いて」いなければならず、労働者と集団的農民の根本教条に奉仕しなければならない。//
 (4)ジダノフ(Zhdanov)の戦後最初の重要な行動は、二つのレニングラードの雑誌、<Zvezda(星)>と<レニングラード>を攻撃することだった。
 これらの雑誌を非難する決議が、1946年8月の中央委員会によって採択された。
 主要な犠牲者は、著名な女性詩人のAnna Akhmatova(アフマトワ) とユーモア作家のMikhail Zoshchenko だった。
 ジダノフはレニングラードで演説を行い、この二人を激しく攻撃した。
 Zoshchenko は、ソヴィエト人民を悪意をもって中傷している。彼はレニングラードで自由に生活するよりも動物園の檻の中でいた方がよいと決める猿に関する物語を書いた。これは明らかに、Zoshchenko が人間を猿の水準に落とすのを欲していることを意味している。
 1920年代にすら、党の精神の欠如した非政治的な作品を作り出していた。そして、社会主義建設に関係しようとは何も欲しなかった。彼は「文字通りの不潔なネズミで、原則がなく、自覚もない」。
 Akhmatova について言うと、「カトリーヌの良き古き時代」を色狂って神秘的に懐かしんでいる。<中略>「修道女と堕落した女のいずれかと言うのは困難だ。おそらく、そのどちらでもあるという方がよい。欲望と祈りとが捻れ合っている」。
 レニングラードの雑誌がこうした者たちの作品を掲載したことは、文学が悪い方向にあることを示している。
 多数の作家たちは腐敗したブルジョア文学を真似ており、別の作家は今日的主題から逃れるために歴史を利用している。そして、ある者は、プーシキンを風刺すらした。
 文学の仕事は、青年たちに愛国心と革命的熱情とを喚起させることだ。
 レーニンが断定したように、文学は政治的で、かつ党の精神で染められたものでなければならない。ブルジョア文化の腐敗を暴き、ソヴィエト人民の偉大さを示さなければならない。今日にそうだとしてのみならず、将来にもそのようなものとして。//
 (5)ジダノフの明瞭な指令は、ソヴィエト文学のその後数年間の進路を設定した。
 イデオロギー的に無色の作家たちは、より悪くはならなかったとしても、沈黙を強いられた。
 Fadeyev のような正統派のほとんどは、新しい仕様書に合うように彼らの作品を修正した。
 「前向きの」文学でなければならないということは、実際には、ソヴィエト体制をそのままににではなく、イデオロギーがそうだと要求しているように表現する、ということだった。
 この結果として生じたのは、党を賛美しソヴィエトの生活の美しさを称揚する、奇妙に甘酸っぱい(saccharine)文学作品の洪水だった。
 印刷される言葉は、ほとんど完全に、ご都合主義者と阿諛追従者へと身を落とした。//
 (6)音楽が別のものとされたのではなかった。
 1948年7月、ジダノフは作曲家、指揮者、批評家の会議で演説を行い、ブルジョア音楽の腐敗を攻撃し、より多くの愛国的ソヴィエトがもつ多様性を呼びかけた。
 すぐに反応したのは、ジョージアの作曲家のMuradeli のオペラ<偉大な友情>だった。
 この作品は、最大限の意図としては、革命の直後にはロシアと闘ったがすみやかにソヴィエト体制に順応したコーカサスの民衆-ジョージア人、Lezgian 人およびOssetes 人-を表現していた。 
 ジダノフは、そのようなものでは全くない、と言った。すなわち、民衆たちは最初からソヴィエト権力のために闘ったのであり、ロシア人と協力してきたのだ、と。
 チェチェン人やIngush ではなかった唯一の者たちは-ジダノフはこのことに言及しなかったけれども誰もと同じくよく知っていた-、ナツィ=ソヴィエト戦争の間に<一塊で>追放された。そして、彼らの自治共和国は、地図から抹消された。
この例に満足しないでジダノフは、グリンカ、チャイコフスキーおよびムソルグスキーのごときロシアの偉大な伝統を継承することをしないで西側の新奇なものに霊感を求めている作曲家に対する一般的な攻撃を開始した。
 ソヴィエト音楽は、イデオロギーの他の様式よりも「立ち後れている」。作曲家たちは、「音楽の真実」や「社会主義リアリズム」から離れて「形式主義」に屈服している。
 ブルジョア音楽は反人民的であり、形式主義か自然主義かのいずれかで、どちらにせよ「観念論的」だ。
 ソヴィエト音楽は人民に奉仕しなければならない。すなわち、オペラ、歌、合唱曲には必要なものがあるにもかかわらず、形式主義に汚染された作曲家たちは些細なものだとしてそれを見下している。
 そのような作曲家は標題音楽(programme music)を横目で見ているが、ロシアの古典音楽のたいていは、その種から生まれている。
 党は絵画について、反動的で形式主義的な傾向をすでに克服し、VereshchaginやRepin の健康な伝統を再確立した。だが、音楽はまだ、後進的だ。
 ロシアの古典遺産は卓絶したものだ。そして、作曲家は、音楽劇の作者はもちろん、繊細な「政治的な耳」を持たなければならない。//
 (7)こうした説諭の結果は、遅滞なく表れた。
 ジダノフの演説の前に作曲されていたハチャトリアン(Khachaturian)のピアノ協奏曲をそのバイオリン協奏曲と比較すれば、そのことが分かる。
諸作品の中でも第九交響曲が批判されていたショスタコヴィチ(Shostakovich)は、スターリンの林業計画を称賛する一頌(ode)を作って修正を加えた。そして、多数のその他の音楽家が、彼らのイデオロギー上の障壁を修繕した。この当時に最も好まれた作曲様式は、党、国家そしてスターリンを賛美するオラトリオ(聖譚曲)だつた。//
 (8)文学や音楽に対しての運動は、この時期のスターリンの諸政策の全体的基本方針を反映していた。それは、戦争がかりに生起する場合に備えてのイデオロギー上の威嚇であり、物理的および精神的な再武装だった。
 この基本方針の基礎にあったのは、人間界を二つの陣営に分かつことだった。一つは、腐敗して、衰微している帝国主義の世界で、自己矛盾の重みでもってまもなく崩壊する運命にある。もう一つは「社会主義という平和の陣営」、進歩の城砦だ。
 ブルジョア文化はその定義上反動的で退廃的だ。そして、それに肯定的な価値を見る者は全て、大逆罪を犯しており、階級敵の利益に奉仕している。//
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 つぎの第3節の標題は、「1947年の哲学論争」。

1916/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑳完。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017). 試訳のつづき。
 第6章・革命の終わり/第3節・テロル。(P)は大文字のPurge=「大粛清」。(p)=purgeは「粛清」または「浄化」とした。
 気づいていなかったが、最後に、一行の空白後に、この第3節ではなく書物全体を想定しているとみられる「むすび書き」がある。「おわりに」と勝手に名づけて、第3節の本文・注よりも後に紹介した。
 今回で、丸数字記号のある⑳回までを予定していた「試訳」が、予定どうり、いちおう終了する。翻訳が生業ではないこと、一つの言葉や文章の意味に一時間以上拘泥して呻吟したところでこの作業は一円・一銭の個人的利益にもならないのだから、不備・不正確さ等々があるのはむしろ当然のことだろう。
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 第3節・テロル(The Terror)。
 (1)「おお読者よ、我々は言おう。黄金時代はとば口まで押し迫っているが、-裏切り者がいるおかげで-収穫と言えるようなものは何もまだ獲得できていない、と想像してほしい、と。
 どんな勢いと力を使えば裏切り者たちを打倒することができるのか、あのような場合に! <中略>
 人間男女にある気質について言うと、つぎの一つの事実を挙げるだけで十分だろう。すなわち、<<猜疑心(SUSPICION)>>がいかほどまで大きくなったか、という事実だ。
 我々はしばしば、どうやら誇張した言葉遣いだったようだが、それを超自然的(preternatural)だと称した。しかし、目撃者の冷静な証言類に、耳を傾けてほしい。
 一人の音楽憂国者も、屋根の上にやさしく哀しげに座って、自分でフランス・ホルンを使って旋律を吹くことはできない。しかし、感謝心があれば、策略委員会が別の新しいものを作る合図だとそれに気づくだろう。<中略>
 奥深くまで見通すことのできるLouvet は、議員たちの請願によって我々が古い乗馬会館へ復帰するに違いない、そして、無政府主義者たちが歩いている途中の我々のうち22人を殺戮するだろうと、察知している。
 これは、Pitt 〔小ピット・イギリスの当時の首相〕とCobourg の策略だ。Pitt の金銀による策略なのだ。<中略>
 後ろで、周りで、前で、巨大で超自然的な操り人形の舞台劇が演じられている。Pitt が黒幕となって操っているのだ。」(27)
 (2)これは、フランス革命についてのカーライル(Carlyle)の文だ。だが、ソヴィエト同盟の1936-37年の気分を想起させるものとして、これよりも優れているのはほとんどない。
 1936年7月29日、党中央委員会は、全ての地方党組織に対して、「トロツキー=ジノヴィエフ派反革命ブロックに対するテロル活動に関して」という秘密文書を送った。これは、以前の反対派諸グループは、「スパイ」、挑発者、妨害者、白衛軍およびソヴェト権力を憎悪するクラクたちを惹き付ける磁場になっており、レニングラード党指導者であるセルゲイ・キーロフの殺害について責任がある、と言明するものだった。
 警戒心-いかほどに偽装がうまくとも、党の敵を見分ける能力-は、全ての共産党員の不可欠の態度だ。(28)
 この文書は、大粛清のうちの最初の見せ物裁判(show trial)への序曲だった。
 その最初の裁判は8月に行われ、二人の反対派指導者であるL・カーメネフ(Lev Kamenev)とG・ジノヴィエフ(Grigorii Zinoviev)はキーロフ(Kirov)殺害の共犯者だとされ、死刑を宣告された。//
 (3)1937年初めに行われた第二回めの見せ物裁判では、工業分野での破壊や罷業に力点が置かれた。
 主要な被告人はYurii Pyatakov で、この人物はかつてトロツキー派、1930年代の当初以降は重工業人民委員部でOrdzhonikidze の右腕だった。
 同じ年の6月、元帥のトゥハチェフスキー(Tukhachevsky)とその他の軍事指導者たちが、ドイツのスパイだとして訴追され、秘密の軍事法廷のあとで直ちに処刑された。
 1938年3月に行われた最後の見せ物裁判では、ブハーリンと、以前の右派指導者のルィコフおよび以前は秘密警察の長だったGenrikh Yagoda が、被告人の中にいた。
 古いボルシェヴィキである被告人たちは、多彩で異様な犯罪を公的に自白し、法廷では状況の詳細を長く陳述した。
 彼らのほとんど全員が、死刑を宣告された。(29)//
 (4)キーロフや作家Maxim Gorky の殺害のような派手な犯罪とは別に、体制に対する民衆の不満を煽り体制打倒を促進するための経済的妨害となる多数の行為を、陰謀者たちは自白した。
 それらの中には、多数の労働者が死んだ鉱山や工場での事故の企画実行も含まれていた。そうした事故は賃金支払い遅延の原因となり、品物の配分を停止させた結果として、農村地帯の店には砂糖やタバコがなくなり、都市のパン屋は品切れになった。
 陰謀者たちはまた、習癖として欺瞞を行い、反対派とは縁を切ったふりをし、党の基本方針への貢献を宣言してはいたが、私的にはその間ずっと、同意せず、疑念をもち、批判してきた、と告白した。//
 (5)外国の諜報員たち-ドイツ、日本、イギリス、フランス、ポーランド各国の者たち-が、こうした陰謀の背後にいるとされた。彼らの究極的な目的は、ソヴィエト同盟への軍事攻撃を仕掛け、共産主義体制を打倒し、資本主義を復活させることだった、と。
 しかし、多数の陰謀の核心にいたのは、トロツキーだった。トロツキーは、ゲシュタポ(Gestapo)のみならず、(1926年以降!)外国諸勢力とソヴィエト同盟内部の彼の陰謀網との間を媒介した、イギリス諜報機関の一員だったと主張された。
 (6)大粛清は、ロシア革命でのテロルの、初めての出来事ではなかった。
 「階級敵」に対するテロルは、内戦の一部だった。テロルは、集団化や文化革命の一部でもあった。
 実際にMolotov は1937年に、、Shakhty 裁判や文化革命時の「工業党」裁判から現在の裁判まで、一つの線が繋がって続いている、と述べた。
 -但し、ソヴェト権力破壊の陰謀者たちは、今回は「ブルジョア専門家たち」ではなくて、共産党員たちだという重要な違いはあるのだが。すなわち、共産主義者(共産党員)たち、または少なくとも、「仮面を被って」、党や政府での上層の職へと何とかして這い上がってきた者たちだ、という違いが。
 (7)上級階層者の大量の逮捕は、1936年の後半に始まった。とくに工業の分野で。
 しかし、スターリン、モロトフおよびニコライ・エゾフ(Nikolai Ezhov)(秘密警察が1934年に改称したNKVDの新長官)が魔女狩りを本当に開始する合図を発したのは、1937年、中央委員会の2-3月会合でだった。(31)
 1937年と1938年のまる2年の間、共産党官僚の最上層の者たちが官僚機構の全ての分野で-政府、党、工業、軍事、財政およびさらに警察まで-非難され、「人民の敵」だとして逮捕された。
 ある者たちは、射殺された。別の者たちは、強制収容所へと消えた。
 フルシチョフは第20回党大会への秘密報告で、1934年の「勝利の大会」で選出された中央委員会委員および委員候補の139名のうちほとんど41パーセントが大粛清の犠牲者となつた、と明らかにした。
 指導部の継続性は、ほとんど完全に破壊された。粛清(P)が破壊したのは、古いボルシェヴィキ仲間のうちの残存者のほとんどだけではなく、内戦期および集団化の時期に形成された党の仲間たちの大部分だった。
 1939年の第18回党大会で選出された中央委員会委員のうち24名だけが、5年前に選出された元委員だった。(32)//  
(8)高い地位にいる共産党員たちは、大粛清(P)の唯一の犠牲者ではなかった。
 知識人層(古い「ブルジョア」知識人層と1920年代の共産党員知識人層、とくに文化革命の活動家たち、の両者を含む)は、酷い打撃を受けた。
 以前の「階級敵」-全ての革命的テロルのーに通例の、1937年のように特別には何も企図していなかったときですら、容疑者だ-、およびかつて何らかの理由でブラック・リストに掲載されたことのある他の誰もが、同様だった。
 国外に縁戚関係者をもつ者や外国との関係がある者は、とくに危険だった。
 スターリンは、再犯者、馬泥棒、および拘禁記録のある宗教聖職者たちも含めて、数万人の「旧クラクおよび犯罪者たち」を逮捕させる特別の命令すら発したことがあった。
 そして、射殺するか、または強制収容所へと送り込んだ。
 加えて、現時点で強制収容所で刑に服している1万人の常習犯者は、射殺されるものとされた。(33)
 大粛清(P)の全様相は長年にわたって西側での研究の対象だったが、研究者たちが従前は利用できなかったソヴィエト文書庫を探求するにつれて、より明確になり始めた。
 NKVD文書によれば、強制労働収容所での犠牲者数は、1937年1月初めからの二年間で、50万人に昇り、1939年1月1日に130万人に達した。
 あとの年、1939年に、強制収容所の40パーセントは、「反革命」罪の有罪者で、22パーセントは「社会的に有害又は危険な要素」だと分類されており、残りのほとんどは、通常の犯罪者だった。
 しかし、多数の大粛清(P)犠牲者は監獄(刑務所)で処刑されており、強制収容所まで行きついていない。
 NKVDが記録するところでは、そのような処刑は1937-38年に68万件を超えていた。(34)//
(9)何が大粛清の要点だったのか?
 <国益(raison d'état)>(潜在的な戦争中の第五列(Fifth Column)を根とする語)という意味からの説明は、納得し難い。
 全体主義的な必要性という趣旨からする説明は、何が全体主義的必要性なのかという問題に戻るだけだ。
 革命という文脈の中で大粛清という現象を考察するとすれば、問題は少しは当惑しないものになる。
 敵に関する猜疑心は、Thomas Carlyle がこの節の最初に引用した1794年のジャコバン・テロルに関する文章で生々しく描写する、革命の心性の標準的な特質だ。
 -敵とは、外国勢力の金銭を受け、しばしば仮面を被り、革命を破壊して人民に苦痛を負わせる継続的な陰謀に従事している者たちだ。
 正常な環境にいれば、人々は、一人の有罪の人間を解き放つよりも十人の無実の人間が殺される方が良い、という考え方を拒否する。
 革命という異常な情況のもとでは、人々はしばしば上の考えを受け容れる。
 卓越した性格をもつことは、革命の時期での安全を保障しない。むしろ、逆だ。
 大粛清が革命的指導者を偽装した多数の「敵」を曝け出したということは、フランス革命を学んだ者にとっては驚くべきことではないはずだ。//
 (10)大粛清の革命上の起源を跡づけるのは、困難なことではない。
 すでに記したように、レーニンは革命的テロルに対する良心の呵責を何らもっておらず、党の内部であれ外であれ、反対者たちに寛容ではなかった。
 にもかかわらず、レーニンの時代には、党の外部にいる反対者に対処するために許され得る手段と、党内部の異端者に対して用いることのできる手段との間には、明瞭な区別がなされていた。
 古いボルシェヴィキたちは、党内の意見不一致は秘密警察の射程の外部にある、という基本的考え方を支持していた。なぜなら、ボルシェヴィキは、自分たちの同志に対してテロルを行使するというジャコバンの例に、決して従ってはならなかったからだ。
 この基本的な考えは立派なものだが、しかしながら、ボルシェヴィキ指導者たちがこのことを確認する必要があったという事実は、党内部の政治に関して、何がしかのことを語っている。
 (11)1920年代早く、ボルシェヴィキ党の外部からの組織的な反対が消滅して党内分派が公式に禁止されたとき、党内の反対派集団は事実上は、党外にいた旧来の反対派の位置を継承した。
 そうだとすると、党内反対派たちが同様の措置を被り始めたとしても、何ら驚くべきことではなかった。
 ともかくも、1920年代遅くにスターリンがトロツキー派に対して秘密警察を用い、そして(1922-23年のカデットとメンシェヴィキの指導者に対するレーニンの措置を模範として)トロツキーを国外に追放したとき、共産党内部には大きな抗議の声は何ら起こらなかった。
 文化革命の間、堕落した「ブルジョア専門家たち」と近接して仕事をした共産党員たちには、愚かさ以上の何がしかの悪に対する責任追及がされる危険があるように見えた。
 スターリンは右翼主義者たちを引き戻し、彼らが権威ある地位にとどまるのを許しすらした。
 しかし、これは不本意なものだった。つまり、スターリンが-そして共産党の多数の党員たちが-いったん反対派の者になった党員たちに対して寛容であるのは、明らかに困難なことだった。//
 (12)大粛清の起源を理解するために重要な革命的実務は、1920年代初頭から党が行った党員の定期的な「浄化(cleansing)」(<chistki>、または小文字の "p" の粛清(purges))だった。
 この党員浄化の頻度は1920年代末から増加した。すなわち、1929年、1933-34年、1935年および1936年に行われた。
 党員浄化では、党員の全員が粛清(p)委員会の前に立って、公然と委員たちの批判または告発を経由して秘密裏になされる批判に反駁して、自分の正当化をしなければならなかった。
 粛清〔p=浄化〕が繰り返されたことの結果として、後になって古い攻撃が蒸し返された。そして、これから逃れることは事実上不可能になった。
 望ましくない縁戚関係、革命前の別の政治諸党派との関係、党内反対派への帰属の経歴、過去の醜聞や譴責、そしてかつての官僚機構上の過失や帰属意識の混乱すら。-これら全てが党員たちの首の周りに掛かっていて、年を経るごとに重たくなっていった。
 党は不相応で信頼できない党員たちばかりだとの党指導者たちの猜疑心は、それぞれの連続した浄化〔粛清(p)〕によって沈静化するどころか、激化したように見えた。//
 (13)さらに加えて、各粛清(p)は、体制にとっての潜在的な敵をさらに多くした。
党から放逐することとなる粛清(p)は、社会での地位や上昇の見込みに対する逆風を受ける、という災難を被る蓋然性があったからだ。
 1937年、一人の中央委員会委員が隠れて、現在の党員数よりも多い<かつての>党員たちがたぶんこの国にはいる、と示唆した。これは明らかに、その人物およびその他の者たちはひどく不安に感じている、という考えだった。(35)
 党にはすでに、多数の敵がいたのだ!-その多数の者が隠れているのだ!
 革命の間に特権を失った者、聖職者等々の、かつての敵はいた。
 今では、階級としてのクラクやネップマンの絶滅という近年の政策の犠牲となった<新しい>敵がいた。
 個々のクラクが脱クラク化される前に確信的なソヴィエト権力の敵だったか否かは別として、そのクラクは確かに、その瞬間にはそれになっていた。 
 このことに関して最も悪悪だったのは、多数の収奪されたクラクたちが都市へと逃亡し、新しい生活を始め、彼らの過去を隠し(職を得るためにはこうしなければならなかった)、誠実な労働者のごとく見せかけたことだった。-要するに、革命に対する隠れた敵になったのだ。
 どれだけ多くの明らかに献身的な若いコムソモール団員(Komsomols)が、彼らの父親たちはかつてクラクまたは僧職者だったという事実を隠しているだろうか!
 スターリンが警告したように、個々の階級敵は、敵階級がいったん破壊されてしまったとすれば、<より危険にすら>なるのは、何ら不思議ではない。
 もちろん、破壊の行為は個人的に傷つけるものだったために、彼らはそうなった。
 彼らは、ソヴィエト体制に対する不服をもつ現実的でかつ具体的な基本的教条を与えられていた。//
 (14) 共産党管理機構員がもつ党員を告発する資料書の冊数は、年ごとに増大した。
 地方官僚による「職権濫用」を抑える運動が原因となったのだすれば、これは、通常の市民たちが告発文を書くよう奨励した、スターリン革命の大衆迎合的(populist)的側面の一つだった。
 そして、告発を契機とする調査は、しばしば地方官僚の解任を生じさせた。
 しかし、多数の苦情は、正義のためという誘因と同様程度には、悪意をもって対処する動機を与えることになった。
 一般化していた、特別の攻撃心が惹起したのではない不平不満の感情は、集団農場の経営者や農村地域の官僚の告発の多くを引き起こしたものだった。怒りにみちた集団農場員たちは、1930年代に莫大な数の告発書を書いた。(36)//
 (15)大粛清は、民衆の関与がなくしては実際のようには膨れ上がることはできなかっただろう。
 現実的な不満にもとづく上司たちに対する苦情と同等の役割を、自分本位の告発は果たした。
 スパイ狂が、突如として燃え上がった。過去20年間に頻繁にあったのと同様に。
 例えば、Lena Petrenko という若きピオネールの一人は、ドイツ語が話されるのを聴いて、夏キャンプからの帰路の列車上でスパイを捕まえた。別の注意深い市民は、宗教的托鉢者の顎髭を引っ張って手にそれが落ちたとき、前線から来ていたスパイを発見した。(37)
 役所や党細胞での「自己批判」集会では、恐怖と猜疑心が混じり合って、生け贄が作り出された。病的な(hysterical)追及の仕方であり、弱い者いじめだった。//
 (16)しかしながら、これは民衆によるテロルとは何かが異なっていた。
 フランス革命時のジャコバン・テロルのように、国家によるテロルであり、最もよく目に見える犠牲者は、かつての革命指導者たちだった。
 革命的テロルの先例とは対照的に、自然発生的な民衆によるテロルは、ごく一部だけだつた。
 さらに、テロルの対象は、元来の「階級敵」(貴族、聖職者およびその他の革命へり現実的対抗者)から、革命それ自体の隊列の中での「人民の敵」へと移行した。//
 (17)だが、二つの革命事例でのこのような違いは、類似点と同様に、些細なものだ。
 フランス革命では、革命煽動者ロベスピエール(Robespierre)は、その犠牲者として終末を迎えた。
 これとは対照的に、ロシア革命の大粛清では、主要なテロリストのスターリンは、無傷で生き延びた。
 スターリンは最終的には、忠実な道具だった者たちを殺した(1936年9月から1938年12月までNKVD長官だったエゾフ(Ezohov)は、1938年春に逮捕され、のちに射殺された)。
 しかし、スターリンが事態が制御外へとひどく離れていると感じ、彼自身がかつて危険にさらされていたというMachiavelliの慎重さ以外の何らかの理由によってスターリンはエゾフを排除した、といったことを示すものは存在していない。(38)
 1939年3月の第18回党大会での「大量粛清」との批判や警戒心の「行き過ぎ」の暴露は、静かに行われた。
 スターリンは、自分自身の演説の中で、そうした問題については注意をほとんど払わなかった、と述べた。大粛清(P)はソヴィエト同盟を弱めたという外国の報道についてはそれを論駁するために、わずかな時間を費やしたのだったが。(39)//
 (18)モスクワ見せ物裁判の文書や2-3月中央委員会会合でのスターリンやモロトフの演説原稿を読むと、事態の進行の劇的さのみに衝撃を受けるのではない。衝撃的なのは、それらにある芝居気分、謀りと計略の感覚、同僚者たちが裏切り者だったという報せに対しての、生々しい感情的反応の一切の欠落、だ。
 これは、明確な違いのある、革命的テロルだ。
 映画の原作家でかりにないとしても、その映画の監督の手の存在を、感じる。//
 (19)マルクスは<The 18 Brumaire of Louis Bonaparte(ルィ・ボナパルトのブリュメール十八日)>で、有名な論評を加えた。-偉大な全ての事件は、二度演じられる。一度めは悲劇として、二度めは笑劇(farce)として。
 ロシア革命での大粛清は笑劇ではないけれども、再演されるものの特徴を何がしかもっていた。記憶にある、最初の模範劇で演じられた何かを。
 ロシアのスターリン伝記の作者が示唆するように、ジャコバンのテロルはスターリンにとって一つの模範として役立った、と言うこは可能だ。確かに、スターリンが大粛清に関係するソヴィエトの論議に持ち込んだ「人民の敵」という言葉は、フランス革命での用語に、先立つ例がある。
 その光を当てれば、増大した告発書や民衆の疑心の蔓延というバロック仕立ての設定がなぜ、政治的な敵を殺すという比較的に単純な目的を達成するために必要だったか、を理解することが容易になる。
 実際のところ、さらに進んで、つぎのように記述したくなる。すなわち、古典的な革命の推移によればテルミドールに後続してはならずそれら先立たなければならないテロルを実施するにあたって、スターリンは、自分の支配は「ソヴィエトのテルミドール」になったとするトロツキーによる非難に自分は明確に反駁しているのだ、と感じていたかもしれない、と。(40)
 フランス革命のテロルを小さいものとすら思わせる革命的テロルが現実に行われたあとで、いったい誰が、スターリンはテルミドール的反動家だ、彼は革命に対する裏切り者だ、と言うことができるだろう?//
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 (27)Thomas Carlyle, <フランス革命>(London, 1906), ⅱ, p.362. SUSPITION の全て大文字はFitzpatrickによる。〔=カーライル=高橋五郎訳・佛國革命史/下巻279頁(第三巻第三編第八章)(春秋社松柏館、1942年ーkindle版)を参照した。該当部分に間違いはないと見られるものの、ここで引用される英文とはやや異なることもあり、そのままの書き写しではない。〕
 (28)J. Arch Getty & Oleg V. Naumov<テロルへの途: スターリンとボルシェヴィキの自己破壊, 1932-1939年>(New Heaven, 1999), p.250-p.255.〔=川上洸一・萩原直訳・ソ連極秘資料集/大粛清への道-スターリンとボルシェヴィキの自壊 1932-1939年(大月書店、2001)
 (29)Rovert Conquest<大テロル: 1930年代のスターリンによる粛清>(London, 1968)はこの裁判を生き生きと描写している。新しい版は、同<大テロル: 再評価>(New York, 1990)。
 (30)Molotov, <ボルシェヴィキ>1937, no.8(4月15日)所収、p.21-22.
 (31)会合の資料につき、Getty & Naumov <テロルへの途>p.369-p.411.を見よ。
 (32)<フルシチョフ回想録>, Strobe Talbott訳・編(Boston, 1970), p.572. Grame Gill<スターリン政治体制の起源>(Cambridge, 1990), p.278.
 (33)1937年7月2日の政治局決定「反ソヴィエト要素について」はスターリンによって署名され、7月30日の活動指令は(NKVD長官の)Ezhov により署名されている。Getty & Naumov <テロルへの途>p.470-1.
 (34)これらの数字は、Oleg V. Khlevnyuk<グラクの歴史: 集団化から大テロルへ>(New Heaven, 2004), p.305, p.308, p.310-p.312による。これらの数字は労働強制収容所だけのものであることに注意。この数字は、労働植民区、監獄および行政的追放を含んでいない。
 (35)中央委員会の2-3月会合の議論で、Eikhe。Rossiiskii gosudarstvennyi arkiv sotsial'nopoliticheskoi informatsii(RGASPI), f. p.17, op. 2, d. p.612, l. p.16.
 (36)告発書につき、Fitzpatrick<スターリンの農民>Ch. 9., 同<仮面を剝げ!>Chs. 11-12を見よ。
 (37)<Zvezda>(Dnepropetrovsk)1937年8月1日号, p.3. <Krest'yanskaia pravda>(Leningrad)1937年8月9日号, p.4.
 (38)Ezhov の衰退と没落につき、Marc Jansen & Nikita Petrov<スターリンの忠実な処刑者: 人民委員のNikolai Ezhov, 1895-1940年>(Stanford, 2002), p.139-p.193, p.207-8.を見よ。
 (39)J・スターリン<ソ連共産党(ボ)第18回党大会への中央委員会活動報告書>(Moscow, 1939),p.47-48.
 (40)ヴォルコゴノフ<スターリン>p.260, p.279.
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 (おわりに)
 (1)ロシア革命が遺したものは何だったのか? 
 1991年の末までは、ソヴィエト体制の存続自体がそれを表現するものだっただろう。
 赤旗や「レーニンは生きている!、レーニンは我々とともにいる!」と書いた横断幕は、まさにその終焉時まで、存在していた。
 支配党たる共産党は、革命の遺産だった。同じように、集団化、五カ年・七カ年計画も、消費用品の定例的な不足も、文化的孤立も、グラク〔強制収容所〕も、世界を「社会主義」陣営と「資本主義」陣営に二分することもそうだった。また、ソヴィエト同盟は「人類の進歩的勢力の指導者だ」との主張も。
 体制と社会はもはや革命的ではなかったけれども、革命は、ソヴィエトの民族的(national)伝統の礎石であり続けた。愛国主義への重点設定、学校で生徒たちが学ぶべき、そしてソヴィエトの民衆芸術によって祝福されるべき主題。//
 (2)ロシア革命はまた、複雑な国際的遺産を残した。
 20世紀の偉大な革命だった。そして、社会主義、反帝国主義およびヨーロッパの古き秩序の拒否のシンボルだった。
 良かれ悪しかれ、20世紀の国際的な社会主義および共産主義の運動はロシア革命の影のもとで活動した。戦後の第三世界解放運動がそうだったように。
 冷戦は、ロシア革命の遺産の一部だった。冷戦が持つ象徴的な力の継続に間接的に寄与したことはもちろんとして。
 ある人々には抑圧からの自由という希望を代表したのは、ロシア革命だった。別の人々には無神論的共産主義の世界的勝利という悪夢を呼び起こしたのは、ロシア革命だった。
 国家権力の奪取によって社会主義の定義を明確にし、経済的かつ社会的変革の道具としてのその用い方を確定したのは、ロシア革命だった。//
 (3)革命には二つの生命がある。
 第一に、現在の一部であると考えられ、現今の政治と不可分だ。
 第二に、現在の一部であることを止め、歴史と民族的伝説の中へと移っていく。
 歴史の一部だということは、フランス革命の例が示すように、政治から全面的に排除されることを意味しはしない。フランス革命は、二世紀後のフランスでの政治的論議でなお、一つの試金石のままだ。
 しかし、懸隔はある。そして歴史研究者に関するかぎりは、解釈するに際しての自由と離反が許されるものに、いっそうなってきている。
 1990年代まではすでに、ロシア革命が現在から抜け出して歴史の中に入っていくのが遅いほどだった。しかし、そう望まれた変化は、遅れたままだった。
 西側では、冷戦という遺物に固執する向きがあったにもかかわらず、政治家ではなくても歴史研究者たちは、ロシア革命はすでに歴史だと多かれ少なかれ判断していた。
 しかしながらソヴィエト同盟では、ロシア革命の解釈は政治的に重要なままであり、ゴルバチョフ時代にまで続く現代政治と連結していた。//
 (4)ソヴィエト同盟の崩壊によって、ロシア革命は徐々に歴史の中へと沈殿していった。
 熱烈な国民的拒絶の意識のうちに-トロツキーの言葉を借りると「歴史のごみ箱へ」の-放擲があった。
 1990年代初めの数年間、ロシア人は革命のみならず、ソヴィエト時代全体を忘れたいと願っているように見えた。
 しかし、過去を忘れるのは困難だ。とりわけ、良かれ悪しかれ外部世界からの注意を惹き付けた過去の一部分については。
 プーティン(Putin)のもとで、レーニン以上に「国家建設者スターリン」を必要とする、ソヴェトの遺産の選択的な再生が、ロシアで始まった。疑いなく、より多くのことがやって来るだろう。//
 (5)かりにフランスが-1989年の200周年記念のときにまだフランス革命の遺産について議論をしていた-何がしかの指針となるのであれば、ロシア革命の意味は、最初の100周年記念日やその後に依然としてロシアで熱く議論されるだろう
 こうしたことは拒絶されている。ロシア革命のみならずソヴィエト時代全体を忘れたいという望みが高くまで達しており、ロシア人の歴史意識の中には不思議な空虚さが残っている。
すぐに、一世紀半前の、ロシアの無名さに関するPeter Chaadayev の嘆きと同様に、ロシアの宿命的な劣等性、後進性および文明からの除外への悲嘆が湧き上がった。
 ロシア人、以前のソヴィエト人にとって、革命の神話の価値が貶められることで喪失したものは、社会主義への信条ではなく、世界でのロシアの重要性についての自信だったように思える。
 革命はロシアに一つの意味を、歴史的運命を与えた。
 革命を通じてずっと、ロシアは先駆者であり、国際的指導者であり、「全世界の進歩的勢力」の模範であり鼓舞者だった。
 今や、夜が明けたかのごとく、全ては過ぎ去っていた。
 党は、もう存在しない。
 74年後に、ロシアは「歴史の前衛」から滑落して、怠惰な後進性をもつ古い姿態のごとく感じられる何物かへと変化した。
 ロシアとロシア革命にとって痛恨のときに、「進歩的な人類の未来」は本当に過去のものだということが判明した。//
 (6)ソヴィエト後のロシアは、2017年が近づいているとき、そのトラウマにまだ藻掻き苦しんでいる。
 プーティン大統領は2014年に、評価は「深く客観的で<職業的>(斜字強調は著者〔Fitzpatrick〕)根拠でもって」なされなければならない、と述べた。明らかに、ロシア革命を現代政治の場に持ち込むことを欲していなかった。
 彼はまた、1917年の事件を「革命」からたんなる「転覆(overthrow)」(<perevorot>)にすぎないものへと分類することを示唆した。
 2017年3月、報道官は、外国の通信記者たちに対して、ロシア革命はロシアでは分裂した見解のある問題なので、100周年を祝賀する公的行事は何も計画されておらず、ロシア革命の解釈に関する公的な指針は何も発せられないだろう、と語った。(41)//
 (7)フランス革命の100周年記念に、フランス人はエッフェル塔を建設し、カルノー大統領〔Marie François Sadi Carnot〕は革命が専政体制を打倒して(彼は注意深く、選出された代議員たちを通じての、と付け加えた)人民主権の原理を確立したことを称賛した
 ロシアでは、2017年の記念物としてのエッフェル塔の類は何も計画されなかった。
 そして、国じゅうが、資本主義と自由市場を習得しようと苦しんでおり、革命がもった、社会主義の中心的な諸原理-とりわけ国家計画と工業化に重点をおくソヴィエト型の社会主義-は、完全に無意味だと考えられてきている。
 しかし、時代は変化する。そしてしばしば、その変化には周期的な要素が加わる。
 22世紀に200周年が近づいているときに、ロシア革命とその社会主義という目標はロシアと世界にどのように見えるのだろうかは、誰にも分からない。
 「全てを忘れるようにしよう」はフランス革命が1989年の基準年を通過するときになされた提案の一つだった。これは、フランスの政治がすでに十分に長く旧来の議論を繰り返してきたという考え(または希望)を反映するものだった。
 しかし、忘れることは容易でもなければ、国民的(national)展望からすると、そう思われるほどには望ましいものでもない。
 好むと好まざると、ロシア革命は20世紀の大きな経験だった。それはロシアにとってだけではなかった。
 そのようなものとして、ロシア革命は歴史書の中にとどまり続けるだろう。//
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 (41)Neil McFarquhar の報告記事「革命?、いかなる革命?、ロシア人は100年後に尋ねる」は、<ニューヨーク・タイムズ>2017年3月10号に出た。
 100周年に関するロシアの当惑についてさらに、Sheila Fitzpatrick 「ロシア革命を祝賀する(または祝賀しない)こと」<現代史雑誌>2017年に近刊、を見よ。
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 以上、シェイラ・フィツパトリク・ロシア革命(2017)、本文p.1-p.174 および注p.175-p.186 の試訳終了。
 **下は、Sheila Fitzpatrick(フィツパトリク、又はフィッツパトリック)。
 sheila04 (2) shela02 (2)

1914/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑲。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017). 試訳のつづき。
 第6章・革命の終わり。
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 第2節・裏切られた革命(' Revolution betrayed ')。
 (1)<自由・平等・友愛>を掲げるのは、ほとんど全ての革命がすることだ。しかし、勝利した革命家たちがほとんど不可避的に汚すこととなる主張だ。
 ボルシェヴィキたちは、マルクスを読んでいたので、予めこのことを知っていた。
 彼らは、十月の高揚時ですら、ユートピア夢想家ではなく、実際的で科学的な革命家たろうと最善を尽くした。
 彼らは、階級戦争やプロレタリアート独裁に関連して<自由・平等・友愛>の約束を限定しようとした。
 しかし、古典的な革命のスローガンを拒絶するのは、熱狂なくして革命の成功はあり得ないだろうと同様に、困難だった。
 感情的には、古いボルシェヴィキ指導者たちはいくぶんは平等主義的で自由主義的であらざるを得なかった。
 そして、彼らのマルクス主義理論にもかかわらず、いくぶんは夢想家的だった。
 1917年と内戦の新しいボルシェヴィキ生成時には、知的な抑制のない、同様の感情的反応があった。
 ボルシェヴィキたちは、厳密に平等、自由主義および夢想家的な革命を始めたのではなかった。しかし、革命はボルシェヴィキを少なくとも間欠的には、平等主義的、自由主義的かつ夢想家的にした。//
 (2)十月後のボルシェヴィズムにあった極端に革命的な緊張は、第一次五カ年計画や文化革命の間にも支配的だった。それは行き過ぎたほどで、多少とも実験的な社会的および文化的政策への変化が後に続いた。
 これは、「偉大な退却」と呼称された。この言葉は1930年代のいくつかの重要な「革命的」特質を曖昧にしてしまう。つまり、農業はすでに集団化され、都市での私的取引は非合法となり、新しいテロルの波が文化革命からわずか5年後に発生しようとしていた。
 しかしながら、この言葉は、1930年代半ばに生じた移行期の何がしかを表現している。
 もちろん、多くは見方次第だ。
 外に出てMagnitogorsk やKomsomolsk-na-Amure で社会主義を建設する意気のあった若い熱狂者たちは、変化に大きな意味を認めず、また革命的「退却」の時代を生きているとも考えていなかったように見える。(14)
 他方では、古いボルシェヴィキたちは、とくにかつてのボルシェヴィキ知識人たちは、変化のうちの多くは神経に障るものだと感じていた。とくに、階層制の強調の増大、エリートの特権の承認、体制が初期にしたプロレタリアートとの一体視からの離反、について。
 このような人々は革命に対する裏切りが生じているとのトロツキーの批判に同意しなかったかもしれない。しかし、トロツキーが意味させたことを知っていただろう。//
 (3)「偉大な退却」が最も驚くほどに可視的だったのは、行儀作法(manners)の分野だった。トロツキーのような批判者はブルジョア化と称し、一方で支持者たちは「文化的」になったと叙述するような変化だ。
 1920年代、プロレタリアートの行儀作法はボルシェヴィキ知識人によってすら、洗練されたものになった。スターリンが自分のことを「粗暴な」人間だと党の聴衆に語ったとき、自虐というよりは自己宣伝の響きがあった。
 しかし、1930年代、スターリンは、ソヴィエトの共産党員や外国の質問者に対して、レーニンのような文化的な人間だと自分のことを提示し始めた。
 党の指導部の彼の同僚たちの中では、新しく昇進してきたフルシチョフ(Khrushchev )派は、数の上ではブハーリン派を上回り始めた。彼らは、プロレタリアートの出自に自信をもちつつ、農民のような挙措振る舞いをするのを怖れていた。
 一方でブハーリン派は、文化性について自信をもちつつ、ブルジョア知識人のように挙措振る舞いするのを怖れていた。
 官僚制の下位の層では、共産党員たちは上品な振る舞いの仕方を学び、軍靴や布帽子を捨てようとしていた。上昇志向のないプロレタリアートの一員だと間違われることを望んで、ではなかった。//
 (4)経済の分野では、第二次五カ年計画は冷静な計画への移行を画するもので、労働のための合い言葉は、生産性の向上と技術の獲得だった。
 物質的に誘導をする基本的考え方はしっかりと確立されていた。すなわち、技術に応じた労働者の賃金区別の増大、ノルマ以上の生産に対する報償。
 専門家たちの給料は上がり、1932年に設計者や技術者の平均給料は、ソヴィエト時代の前後を通じていつの時期でも、労働者の平均よりも高かった。
 Stakhanovite 運動(ドンバスの記録破りの炭鉱採掘者〔スタハノフ〕に由来する名前)は、集団的に出費するものだったが、個々の労働者に栄誉を与えた。
 Stakhanovite はノルマ破りで、その成果について惜しげなく報償され、メディアによって賛美された。しかし、現実の世界では、ほとんど不可避的に、仲間の労働者たちの怒りを招き、避けられた。
 彼らは、新しく考案する者および生産の合理化を図る者でもあった。また、専門家の保守的な知識に挑戦する意気があり、ノルマを上げろとの上からの恒常的な圧力に抵抗するために、工場管理者、技術者および労働組合の間の不文の取り決めを暴露した。(15)
(5)教育では、1920年代の穏健で進歩的な傾向とともに、文化革命の広く実験的な展開も、1930年代に突然に転換した。
 宿題、教科書および正式の教室での教育と躾けが、復活した。
 1930年代の遅く、学校の制服が再び出現し、ソヴィエトの高校生は帝制時代の高校(gymnasia)にいた先輩たちにとてもよく似て見えた。
 大学や技術学校では、入学資格は再び政治的かつ社会的な規準ではなくて学業成績にもとづくようになった。
 教授たちは、権威を回復した。そして、試験、単位、学位が復活した。(16)
 (6)現在の生活には意味がない、かつて愛国主義の喚起と支配階級のイデオロギーのために利用されていたという理由で革命後になくなっていた科目の歴史は、学校や大学の教育課程表の中に再び現れた。
 古いマルクス主義歴史研究者のMikhail Pokrovsky が関係していたマルクス主義の歴史は、1920年代には支配的だった。しかし、名前、日付、英雄または感情を掻き立てるものがない、階級闘争の抽象的な記録文書に歴史を貶めているとの理由で、その名声が失われた。
 スターリンは、新しい歴史教科書の作成を命じた。その多くは、Pokrovsky のかつての敵、つまりマルクス主義に口先だけの奉仕をする伝統的な「ブルジョア」歴史研究者が執筆したものだった。
 英雄たち-イワン雷帝やペーター大帝のような過去の帝政時代のロシアの指導者たち-が、歴史に戻ってきた。(17) //
 (7)性の解放については留保があったけれども、ボルシェヴィキは革命後すぐに堕胎と離婚を合法化し、女性の労働する権利を強く支持した。
 これらは一般に、家族や伝統的な道徳価値の敵だと見なされていた。
 母性と家族生活の美徳は、1930年代に復活した。これは反動的な動き、または世論への譲歩あるい同時にいずれも、だと理解されるかもしれない。
 金の結婚指輪が店頭に再び並び、自由な結婚は法的地位を失い、離婚をするのは困難になった。そして、家族に関する責任を少ししか取らない人間は、厳しく批判された(「ひどい夫や父親は、善良な市民になることはできない」)。
 堕胎は、公共的な討論の後で非合法化された。この討論は、親堕胎と反堕胎の両観点からのいずれの支持もあることを示した。(18)
 男性の同性愛は、一般的な注目を受けることなく、犯罪化された。
 初期の頃の開放的な雰囲気に慣れていた共産党員たちにとって、これらは全て小ブルジョアジーの恐るべき俗物根性にきわめて近いものだった。とくに、母性や家族がいま議論された雰囲気にはお涙頂戴的で偽善的なものがあったために。//
 (8)1929年と1935年の間に、ほとんど400万人の女性が、初めて賃金獲得者になった。(19)これが意味するのは、女性解放という元来の基本的な政綱が、無理矢理に実現された、ということだった。
 同時に、家族の価値をあらためて強調することは、かつての解放のメッセージとは矛盾しているように見えた。
 1920年代には想像すらできなかった運動により、ソヴィエトのエリート構成員たちの妻は、自発的にコミュニティ活動をするように示唆された。それは、ロシアの社会主義者たちおよびリベラルなフェミニストですらつねに軽蔑してきた、上流階級の慈善事業ときわめてよく似ていた。
 1936年、上級の産業管理者および技術者の妻たちは、クレムリンで自分たちの全国大会を開いた。そこにはスターリンおよび他の政治局員が出席して、夫たちの工場群で自発的な文化的かつ社会的な組織者として行ってきた彼女たちの栄誉を称えた。(20)//
 これらの妻たちおよびそれぞれの夫たちは、事実上のエリートたちだった。民衆の残余者に対する彼らの特権的な地位は、ソヴィエトの労働者たちの中に不満を、ある程度は党内部に当惑を、増加させるものだった。
 1930年代に、特権と高い生活水準はエリートたる地位には通常の、ほとんど義務的な付随物になった。このような状態は、1920年代とは対照的だった。その頃には、理論上は少なくとも熟練労働者の平均賃金よりも党員の給料は高くならないようにしていた「党の最大限度」によって、共産党員の収入は制限されていた。
 エリート-共産党員官僚たちとともに(党員または非党員の)専門家を含む-は、高い給料だけではなく役務や商品を利用できる特権をもったり多様な物質的かつ名誉上の報償を得ることで、一般民衆とは離れた別のところにいた。
 エリート構成員は、一般民衆には開かれていない店を使い、他の消費者は利用できない商品を買い、休日には特別の保養地や設備のよい別荘で休日を過ごす、そういうことができた。
 彼らは、しばしば特別のマンション地区に住み、お抱え運転手の車で仕事に出かけた。 このような状況の多くは、第一次五カ年計画の間に物不足が切迫したことの反応として発展した閉鎖的な配分制度から生じてきたものだったのだが、風土の永続的な特徴になったままだった。(22)
 (9)党指導者たちは、エリートの諸特権の問題にまだいくぶんは神経質だった。
 明瞭な見栄や貪欲さに対しては、叱責があり得た。あるいは、大粛清の間には生命を賭すものですらあった。
 ともかくも、一定の地点までは、エリートたちの諸特権は秘匿された。
 多数の古いボルシェヴィキたちは、禁欲的生活を好み、奢侈に屈服した者を批判した。 <裏切られた革命>でのこの問題についてのトロツキーの厳しい批判は、正統派スターリニストであるMolotov が私的に行ったものと大きくは異なるものではなかった。(23)
 そして、明瞭な消費や取得願望は権限濫用であり、不名誉な共産党員エリートたちは大粛清の時期にいつもの様に批判された。
 言う必要はないことだが、特権的な官僚階級、「新しい階級」(ユーゴスラヴィアのマルクス主義者のMilovan Djilas が一般化した言葉を使うと)または「新しいサービス上層者」(Robert Tucker の言葉)の出現に関しては、マルクス主義にとっては概念上の問題があった。
 この問題に関するスターリンの対処方法は、新しい特権階級を「知識人界」と称することで、こうして、社会経済的優先性から文化的優先性へと焦点を転換させることだったた。
 スターリンによる説明では、この知識人界(新しいエリート)は、政治に関する共産党のそれに対応する、前衛たる役割を与えられる。
 知識人界(新しいエリート)は文化的前衛として、当面は民衆のその他の者たちが利用できる以上に、広い範囲の文化的価値を不可避的に利用できる。(25)//
 (10)文化生活は、体制側の新しい方向づけに大きく影響される。
 第一に、文化的関心と文化的振る舞い方(<kul'turnost>)は、共産主義者が示すことが期待されているエリートたる地位の見える印の一つだった。
 第二に、非共産党員専門家-つまり、かつての「ブルジョア知識人」-は新しいエリートの一部であり、社会的には共産党員官僚たちと混合され、同じ諸特権を分け合っていた。
 このことは、党にある、文化革命を可能にした古い反専門家的偏見にもとづく拒絶を生じさせた。
 (スターリンは1931年の「六条件」演説で、ブルジョア知識人層よにる「破壊」の問題について方針を転換し、大胆にも、古い技術的知識人層はソヴィエト経済を妨害する試みを放棄したと語り、制裁は重すぎる、工業化の成功はすでに確保された、と分かっていると述べた。)(26)
 古い知識人層への好意が戻るとともに、文化革命時の活動家だった共産党員知識人の多くは、党指導部からは好まれなくなった。
 文化革命の基本的な想定の一つは、革命的時代はプーシキン(Pushkin)や<白鳥の湖>とは異なる文化を必要とする、ということだった。
 しかし、スターリン時代には、古いブルジョア知識人層は文化的遺産を忠実に守ろうとし、新しい中間階層の聴衆は理解できる接近可能な文化を探し求めていたが、プーシキンと<白鳥の湖>は勝利者だと分かった。//
 (11)しかしながら、正常さが本当に戻ってきたと語るのは、まだ早かった。
 外部的な緊張があり、それは1930年代にずっと着実に増えていた。
 1934年の「勝利の大会」では、討論の話題の一つは、ヒトラーが近年にドイツの権力へと到達しようとしていることだった。-従前に生じはじめたばかりの、西側資本主義諸国による軍事干渉の怖れに、具体的な意味を与える事態。
 多くの種類の国内的緊張があった。
 家族の価値について語ることは全てがうまくいった。しかし、都市と駅舎はもう一度、内戦期のように、遺棄されたまたは孤児の子どもたちで溢れた。
 ブルジョア化は、都市居住者のごく一部の少数者のみが利用することができた。
 残りの者たちは、「共同アパート」へと詰め込まれた。かつては一家族の住まいだった邸宅で、数家族がそれぞれ一つの部屋を占用し、台所と浴室を共用した。また、全ての基礎的商品の配給制度は、今なお機能していた。
 スターリンは、集団農場の者たちに、「同志たちよ、生活は良くなってきている」と語ったかもしれなかった。しかし、当時に-1935年に-、わずか二回の収穫期だけが、1932-33年の飢饉とは別に存在した。//
 (12)革命後の「正常さ」の中身が未決定なままであることは、1934-35年の冬に例証された。
 パンの配給は1935年1月1日から行われることになっていた。そして、体制側は、「生活は良くなっている」をテーマとする電撃的な情報宣伝活動をすることを計画した。
 新聞紙は、近いうちに(疑いなく、数店の高価な商業店舗でのみ)利用できる商品の豊富さについて祝賀し、モスクワっ子が新年を迎える仮装舞踏会の陽気さと優雅さを叙述した
 2月、集団農場の大会が、新しい集団農場憲章を祝福するために開かれた。この憲章は、私的区画地を保障し、農民たちに対するその他の譲歩を行っていた。
 これら全ては、滞りなく1935年の最初の数カ月には行われた。-しかし、緊張と予感の雰囲気があり、また12月の、レニングラード党組織の長、Sergei Kirov の暗殺によって暗鬱な空気が広がった。
 党と党指導部は、この事件によって痙攣状態に投げ込まれた。
 大量の逮捕が、レニングラードで続いた。
 革命後の「正常さへの回帰」の予兆や象徴はあったにもかかわらず、正常さは、まだはるか遠くにあった。//
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 (14) 1930年代に若者だった人々の日記や回想録は、「偉大な退却」という認識をほとんど示していない。例えば、Jochen Hellbeck, <記憶の中の革命>(Cambridge, MA, 2006)を見よ。
 (15) Lewis H. Siegelbaum, <Stakhanovismとソ連邦での生産性に関する政策, 1935-1941>(Cambridge, 1988).
 (16) Fitzpatrick,<教育と社会的流動性>p.212-p.233.; Timasheff, <偉大な退却>p.211-225.
 (17) David Brandenberger, <民族的ボルシェヴィズム: スターリニズム大衆文化と現代ロシアの国民的Identity の形成, 1931-1936>(Cambridge, MA, 2002), p.43-62.を見よ。
 (18) 堕胎論争につき、Sheila Fitzpatrick, <スターリニズム下の毎日>(New York, 1999), p.152-6.を見よ。
 (19) Wendy Z. Goldman, <門にいる女性たち: スターリン下のロシアの性と工業>(Cambridge, MA, 2002), Ⅰ。
 (20) 妻たちの運動につき、Fizpatrick,<スターリニズム下の毎日>P.156-163.を見よ。
 夫による抑圧に対する抵抗を含む、かつての解放メッセージは、「遅れた」女性たち(農民、少数民族)との関係で依然として称揚されていること、女性の仕事は重要な価値をもったままで、一定のエリート女性たちですら代わりに自発的(volunteerの)役割の方を選択しうることに注意。
 (21) Sarah Davies, <スターリン下のロシアでの世論>(Cambridge, 1997), p.138-144.を見よ。
 (22) エリートの諸特権につき、Fitzpatrick, <スターリニズム下の毎日>p.99-109.を見よ。
 (23) トロツキー<裏切られた革命>p.102-5.; <モロトフは記憶する>p.272-3.
 (24) Milovan Djilas, <新しい階級: 共産主義体制の一分析>(London, 1966); Robert C. Tucker, <権力にあるスターリン>(New York, 1990).
 (25) この点に関する一つの考察として、Sheila Fitzpatrick「文化的になること-社会主義的リアリズムと特権や趣味の表現」同<文化戦線>所収p.216-237.を見よ。
 (26) 「新しい諸条件-経済建設の新しい任務」(1931年6月23日)スターリン全集第13巻p.53-82.所収、を見よ。〔=日本語版スターリン全集第13巻「新しい情勢-経済建設の新しい任務」72-99頁。〕
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 第3節(最終節)の表題は、「テロル」。

1913/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑱。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017). 試訳のつづき。
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 第6章・革命の終わり(Ending the Revolution)。
 (はじめに)

 (1)Crane Brinton によれば、革命とは高熱(fever)のようなものだ。患者に取りつき、頂点にまで達し、最終的には平癒し、患者は正常な生活を取り戻す。
 -「おそらくは、経験によって強くなり、少なくともしばらくの間は似たような病気から免れる、といった側面で言えば。しかし確実に、完全に新しい人間に作り替えられるのではない」。(1)
 Brinton の比喩を用いれば、ロシア革命は、いくつかの高熱の発作期を経過した。
 1917年革命と内戦が、最初の発作だった。
 第一次五カ年計画による「スターリンの革命」は、二度めだった。
 そして、大粛清(the Great Purge)が、第三番めだ。
 このような図式では、ネップという幕間は再発の前の快方期だ。あるいは、ある人々は、ネップ期は不幸な患者に新しい病原菌(virus)を注射した、と主張するかもしれない。
 快方期の第二の時代は〔ネップ期を第一のそれとすると〕、1930年代半ばに始まった。トロツキーが「ソヴィエトのテルミドール」とレッテル貼りし、Timasheff が「偉大な退却」と称した、安定化政策による時代だ。
 1937-38年の新たな再発期の後で、高熱は治癒されたように見え、患者は正常な生活を取り戻そうとよろよろと寝台から起き上がった。//
 (2)しかし、その患者は、革命という高熱の発作の前と、本当に同じ人間だったのか?
 確かに、ネップという「快方」は、多くの点で1914年の大戦勃発、1917年の革命という転覆、そして内戦によって遮断された生活様式の回復を意味した。
 しかし、1930年代の「快方」の性格は異なっていた。この時期のために、旧来の生活との間の連環の多くは、破壊されてしまったからだ。
 事態は、旧来の生活の回復というよりも、新しい生活の始まりだった。
 (3)ロシアの日常生活の構造は、初期の1917-20年のの革命的経験は本当のものではなかったふうに、第一次五カ年計画という大動乱によって変わった。
 1924年のネップの幕間、モスクワっ子たちは10年間の不在から戻ってきて、自分の市電話帳(古い意匠と型式は戦前とほとんど変わっていなかったので、すぐに理解できた)とをひっぱり出すことができ、一覧表で自分のかつての医師、弁護士、そして株式仲買人や好みの甘菓子店ですら(電話帳には最も旨い輸入チョコレートの宣伝がまだあった)や、食堂、区の聖職者、むかし時計を修繕してくれ、建設素材や現金登録機を売ってくれた会社を発見する機会がまだあった。
 10年後の1930年代半ばには、これらのほとんど全てが消失することになった。そして、帰還した旅行者は、多数のモスクワの通りや広場が改名され、教会やその他のよく知る目印の建物が破壊されていたので、さらに当惑した。
 その後数年のうちに、電話帳自体がなくなり、半世紀の間、再発行されなかった。
 (4)革命とは人間のエネルギー、理想論および憤激が異常に集中するものなので、その集中力がいずれかの時点で鎮静化するのは、事物の本性的なことだ。
 しかし、革命は、それを否認することなくして、どのようにして終わらせるのか?
 長く権力のうちにいて革命的衝動が衰亡していくのを見る革命家たちにとって、これは厄介な(tricky)問題だ。
 かつての革命家たちはBrinton の比喩にほとんど従うことはできず、いまや革命の高熱から回復したのだ、と発表することもしないだろう。
 しかし、スターリンは、敢えてそうすることができた。
 スターリンによる革命の終わらせ方は、勝利を宣言することだった。//
 (5)勝利という飾り言葉が、1930年代前半の空気を覆った。
 作家のMaxim Gorky が創刊した<我々の偉業>と題する新しい雑誌は、この精神を顕著に例証していた。
 工業化と集団化の闘争に勝利した。ソヴィエトの宣伝者は呼号を上げた。
 階級敵は、絶滅した。
 失業は、なくなった。
 基礎的教育は一般的かつ義務的になり、(主張されたところでは)ソヴィエト同盟の成人の識字能力者は90パーセントまで向上した。(3)
 計画によって、ソヴィエト同盟は世界に対する人間の制御に関して巨大な前進を行った。人間はもはや、統制できない経済的諸力の、よるべなき犠牲者ではなかった。
 「新しいソヴィエト人間」が、社会主義建設の過程で出現していた。
 工場が広い草原に建ち上がりソヴィエトの科学者や技術者が「自然の征服」に精励するにつれて、身体的環境ですら、変化してきていた。//
 (6)革命に勝利したと言うのは、明らかに、革命はすぎ去ったと言うことだった。
 何かがまたは何らかの程度で、緊張に満ちた革命の遂行からの休息が見出され得るとすれば、勝利の果実を享受するときだった。
 1930年代半ば、スターリンは、生活が気楽になったと語り、「我々の街頭での休日」を約束した。
 秩序、中庸、予見可能性および安定といった美徳が、公的な好みへと再び変わってきた。
 経済領域では、第二次五カ年計画(1933-37)は、ひどく野心的だった第一次よりは、率直でかつ現実的だった。重工業基地を建設することを強調するのは変わらなかったけれども。
 田園地帯では、体制側は集団化の枠組みの範囲内で農民層に対して宥和的な提案をもちかけ、集団農場を作動させようとした。
 非マルクス主義論評者のNicholas Timasheff は、生起している事態を革命的な価値と方法からの「偉大な退却」だと肯定的に叙述した。
 トロツキーはこれに同意せず、「ソヴィエトのテルミドール」、革命に対する裏切りだと性格づけた。//
 (7)この最終章では、革命から革命後への移行について、三つの点を私は検証するつもりだ。
 第一節では、1930年代に体制側が主張した革命の勝利の性格を扱う(<達成された革命>)。
 第二節では、同じ時期のテルミドール的政策と傾向を検証する(<裏切られた革命>)。
 第三節の主題の<テロル(the Terror)>とは、1937-38年の大粛清(the Great Purges)のことだ。
 これは、第二節の「正常さへの回帰」に新しい光を当てるもので、正常性は革命と同様にほとんど理解し難いものであり得る、ということを想起させるだろう。
 体制側が行った革命の勝利宣言には空虚さがあるのと全く同様に、民衆が受け入れようと望んだ、生活は正常に戻ったという主張にも、大量の虚偽と作り事があった。
 革命を終わらせるのは、容易なことではない。
 革命という病原菌は体制の中にとどまり、緊張のもとでは再び発症させがちだ。
 これが生じたのが、大粛清だった。すなわち、革命に残されていた多くのもの-理想主義、変革への熱情、革命的用語集、そして最後に革命家たち自身-を燃え上がらせた革命的高熱の最終発作。//
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 (1) Cane Brinton, <革命の解剖学>(rev. edn, New York, 1965), p.17.
 (2) L. Trotsky, <裏切られた革命>(London, 1937)、Nicholas S. Timasheff, <偉大なる退却-ロシアでの共産主義の成長と衰退>(New York, 1946)。
 (3) 識字能力の必要につき、Fitzpatrick <教育と社会的流動性>p.168-176.を見よ。
 被抑圧民族の民衆の1937年調査では、9歳から49歳までの住民の75パーセントは識字能力がある(<略>, 1990)。50歳を超える者を含めると、この数字は明らかに低くなるだろう。
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 第1節・「達成された革命」(' Revolution accomplished ')。
 (1)1934年初めに開かれた第17回党大会は、「勝利の大会」と呼ばれた。
 彼らの勝利は、第一次五カ年計画の間に起きた経済の移行だった。
 都市経済は、小さな協同組合部門を除いて、完全に国有化された。
 農業は、集団化された。
 こうして、革命は、生産様式を変えるのに成功した。
 そして、マルクス主義者ならば誰でも知るように、生産様式はその上に社会、政治および文化という上部構造の全体が依拠する経済的土台(base)だ。
 ソヴィエト同盟には今や社会主義の土台があるとすれば、それに従って上部構造が適合しないことなどあり得るだろうか?
 共産主義者は、土台を変えることで、社会主義社会を生み出すためになすべき必要なことを全て行った。-そしておそらくは、マルクス主義の趣旨でなされ得る全てのことを。
 残りは、時間の問題だ。
 社会主義経済は、自動的に社会主義体制を生むだろう。資本主義がブルジョア的民主主義政体を生んだのと全く同じように。//
 (2)これは、理論上の定式化だった。
 実際には、ほとんどの共産党員は、革命の任務と勝利とを単純な意味で理解した。
 任務は、第一次五カ年計画が示した、工業化と経済の近代化だった。
 新しい煙突や新しいトラクターは全て、勝利の証拠だった。
 革命がソヴィエト同盟で、外部の敵から身を守ることのできる、力強い近代的な工業社会の基礎を設定するのに成功したとするならば、革命はその使命を達成した。
 このように言うとき、いったい何が達成されたのか?
 (3)誰も、ソヴィエトの工業化追求の可視的な兆候を、見逃すことはできなかった。
 建設中の場所は、いたるところにあつた。
 第一次五カ年計画の間には、急速な都市の成長があった。旧来の産業中心地は巨大に膨れ上がり、静かな地方の町は大きな工場の出現によって変わり、新しい工業や鉱業の開発地がソヴィエト同盟のいたるところで飛躍していた。
 巨大な新しい冶金や機械建設工場群が建設中であるか、またはすでに作動していた。
 トルコ・シベリア鉄道と巨大なDnieper 水力発電ダムが、建設されていた。(4)
 (4)第一次五カ年計画は、4年半後の1932年に、成功裡に達成されたと宣言された。
 公式の諸結果は、国内および国外でソヴィエトによって集中的に連発されたプロパガンダの対象になっていた。これらの信憑性は、きわめて注意深く取り扱われなければならない。
 にもかかわらず、西側の経済学者たちは、本当に経済成長があった、と一般的には受け容れた。そして、Walt Rostow がのちに工業上の「離陸」と呼んだほどになった。
 第一次五カ年計画の結果を要約して、あるイギリスの経済史学者は、つぎのように記す。
 「全体としてのその主張の真偽は明瞭ではないけれども、力強い技術工業が生まれつつあり、工作機械、タービン、トラクター、冶金機器等々の生産高は本当に印象的な割合で上がっていることは、全く疑いがない」。 
 鋼鉄生産はその目標高に比べてはるかに少なかったけれども、(ソヴィエトの数字によれば)ほとんど50パーセントずつ依然として上がっていた。
 計画上の増加はもっと上だったけれども、鉄鉱石の産出は二倍以上になった。そして、無煙炭や銑鉄の生産は、1927/28年から1932年までの間に二倍に近くなった。(5)//
 (5)工業化追求は、容赦なく単直にその速度と生産高を強調するものだった。しかし、上のような結果は、工業化に諸問題があったということを否定するものではない。
 産業上の事故はありふれたことで、資材の膨大な無駄使いがあった。
 品質は低く、欠陥のある産物の割合は高かった。
 ソヴィエトの戦略は財源および人的資源の観点からは高くつくものだった。そして、成長率という点ですら、必ずしも最適なものではなかった。ある西側の経済学者は、基本的にネップの枠組みから出発することがなくしても、1930年代半ばまでには同様の水準の成長をソヴィエト同盟は達成することができていただろう、と計算した。(6)
 「計画を実現する、上回って達成する」と頻繁に語られたことの意味は、理性的な計画を棚上げし、いかなる犠牲を払ってもいくつかの優先順位の高い生産目標に焦点を合わせる、ということだった。
 新しい工場はトラクターやタービンのような魅力的な製品を作っているかもしれなかった。しかし、第一次五カ年計画の間ずっと釘や包装資材が切実に不足していた。また、農民による牽引や荷車運搬の崩壊が集団化の予期せぬ結果として生じ、これが工業のあらゆる部門に影響を与えた。
 Donbass の石炭工業は1932年に危機に瀕し、その他の多数の重要工業部門が建設や生産に関する切迫した問題を抱えていた。//
 (6)こうした諸問題があったにもかかわらず、目立つものを達成する過程にあるとソヴィエトの指導者たちが純粋に信じた分野は、工業だった。
 事実上は全ての共産党員たちが、そのように感じていた。かつて左翼または右翼の反対派に共感を覚えていた者たちですら。
 そして同じような誇りと興奮が、党籍があるか否かに関係なく、若い世代の者たちには、そしてある程度は都市民衆全体にも、明らかにあった。
 以前の多数のトロツキー派の者たちは、第一次五カ年計画への熱狂を理由として反対派から離れた。トロツキー自身ですら、これを基本的には是認していた。
 1928-29年に右派へと傾いた共産党員たちは、公的に撤回し、工業化に完全に携わった。
 以前の懐疑者たちの心の内部では、Magnitogorsk やStalingrad のトラクター工場群およびその他の大きな工業上の計画の価値は、重い抑圧や過度の集団化のようなスターリンの政策方針にある否定的な側面を上回るものだった。//
 (7)集団化は第一次五カ年計画のアキレス腱であり、危機、対立や即席の解決方法のいつもの根源だった。
 肯定的な面では、集団化は、安くて交渉によらない価格で、農民が売りたい量よりも多く国家が穀物を調達する、望ましい仕組みになった。
 消極的な面では、集団化は、農民を憤激させ、働きたい気持ちを喪失させ、家畜の大量殺戮の原因となり、1932-33年の飢饉を引き起こした(経済と行政制度の全体的危機を刺激した)。そして、国家は、「農民層を搾り上げる」元来の戦略とは比べものにならないほどの多額の投資を農業部門に注ぎ込むことを余儀なくさせた。(7)
 理論上は、集団化はもっと多くのことを意味し得たはずだった。
 1930年代のソヴィエト同盟で実施されたように、集団化は国家による経済的収奪の極端な形態であり、理解できることだが、農民層はそれを「第二の農奴制」だと見なしていた。
 このことは農民層にとってのみならず最初に手がけた共産党の幹部たちにとっても、意気を挫くものだった。//
 (8)集団化に関しては、誰もが本当に幸福ではなかった。共産党員たちは集団化の闘争に勝利したと考えたが、多大な対価を払ってのことだった。
 さらに加えて、現実に存在した集団農場は、共産主義者が夢見たものとも、ソヴィエトの宣伝活動が叙述したものとも、異なっていた。
 現実の集団農場は、小さくて、村落を基盤とし、原始的だった。一方、夢見た集団農場は、大規模で、近代的な、機械化された農業の展示場だった。
 現実の集団農場には、地域の機械・トラクター基地へと移されたのでトラクターが不足していたばかりか、集団化の間に馬を殺戮したために、伝統的な牽引動力も切実に不足していた。
 村落での生活水準は集団化によって急速に落ち込み、多くの場所でぎりぎりの生存状態へと沈んでいた。
 電気は、1920年代にそうだったよりも、村落では一般的ですらなかった。「クラク」の粉引き屋が消失してしまったからだ。かつては、彼らのもつ水力発電のタービンが電気を発生させていたのだ。
 村落にいた多数の共産党官僚たちには無念なことに、農民たちには私的な小区画地の耕作が認められていたため、このことが集団化田畑で働くことに嫌気を起こさせたとかりにしても、集団化された農業は十分に社会化されてすらいなかった。
 スターリンが1935年に認めたように、私的区画地は農民家族の生存には不可欠だった。それこそが、農民たちの(そして国家の)ミルク、卵および野菜を提供していたからだ。
 1930年代のうちの長く、集団農場での労働について農民が受け取る唯一の支払いは、穀物収穫分の小さな分け前だった。(8)//
 (9)革命の政治的目標に関しては、1931年、1932年および1933年の不安な時期を体制が何とか生存し続けたこと自体が多くの共産党員にとっては勝利-おそらくは奇跡-だったように見える、と言って誇張ではないだろう。
 さらに、これは公衆が祝うような勝利ではなかった。
 もう少し何かが、必要だった。なるべくならば、社会主義に関する何かが。
 1930年代の初めには、「社会主義の建設」や「社会主義的構築」について語るのが流行していた。
 しかし、これらの語句は、決して厳密には定義されていなかったが、完成させることではなくて、過程を示唆していた。
 スターリンは、1936年に新ソヴィエト憲法を制定するに際して、「建設」段階は基本的には終了した、と述べた。
 これが意味するのは、社会主義は、ソヴィエト同盟で達成された事実だ、ということだった。//
 (10)理論的には、これは全くの飛躍だった。
 「社会主義」が正確に何を意味するかはつねに曖昧で、かりにレーニンの(1917年9月に書かれた)<国家と革命>を指針にするとしても、地方的(「ソヴィエト」)民主主義、階級対立や階級による搾取の消滅および国家の死滅という意味を含んでいた。
 この最後の要件は、躓きの石だった。最も楽観的なソヴィエト・マルクス主義者ですら、ソヴィエト国家が死滅した、あるいは近い将来にそうなるとは、ほとんど主張できなかっただろう。
 解決策として見出されたのは、新しい、または少なくともこれまでは無視されてきた、社会主義と共産主義の間の理論上の区別を導入することだつた。
 <共産主義>のもとでのみ国家は死滅する、ということが知られるに至った。
 社会主義は、革命の最終目的ではないけれども、ソヴィエト同盟が資本主義国に包囲された真ん中に存在する、相互に敵対し合っている国民国家で成る世界では、達成することができる最善のものだ。
 世界革命が起きて初めて、国家は消滅する。
 それまでは、世界で唯一の社会主義社会を敵から防衛するために、力強くあり続けなければならない。//
 (11)ソヴィエト同盟にいま存在している社会主義の特質は、いったい何なのか?
 この疑問に対する回答は、1918年のロシア共和国の革命的憲法以降の最初の、新しいソヴィエト憲法で与えられた。
 これを理解するためには、マルクス=レーニン主義によれば革命と社会主義の間にはプロレタリアート独裁という移行期があるねということを想起しなければならない。
 1917年十月にロシアで始まった段階の特徴は、古い所有者階級がプロレタリア国家による収奪と破壊に抵抗した、激しい階級戦争だった。 
 階級戦争の中止だと、スターリンは新憲法の制定に際して説明した。新憲法は、プロレタリアート独裁から社会主義への移行を画するものだ。//
 (12)新憲法によると、全てのソヴィエト公民は平等の諸権利をもち、社会主義に相応した公民的自由を保障される。
 資本主義ブルジョアジーとクラクは今や排除されたので、階級闘争は消失した。
 ソヴィエト社会にはまだ、階級がある-労働者階級、農民層および知識人層(厳密には階級ではなく層と定義される)。しかし、それらの関係は対立や収奪から自由だ。
 それらは地位について対等で、社会主義とソヴィエト国家に対する貢献についても対等だ。(9)//
 (13)このような主張は、数年にわたって、非ソヴィエトの論評者たちを憤激させた。
 社会主義者たちは、スターリン体制が本当の社会主義だというのを拒否した。
 別の者たちは、自由や平等に関する憲法上の約束は当てにならないと指摘した。
 欺瞞の程度または瞞着する意図の程度に関して議論の余地はあるが(10)、憲法はソヴィエトの現実との関係を曖昧にしか定めていないのだから、こうした反応は理解することができる。
 しかしながら、我々のここでの議論の文脈では、憲法をあまりに真面目に取り扱う必要はない。革命の勝利という主張に関するかぎりは、この憲法は、共産党や社会全体にある感情的な責務とはほとんど関係がない「後知恵」だった。
 たいていの人々は無関心で、ある人々は混乱していた。
 社会主義がすでにソヴィエト同盟に存在しているという報道に痛烈に反応したのは、若い報道記者たち、故郷の村落の原始的で悲惨な生活を知っている、社会主義の未来を本当に信じている者たち、だった。
 <これ>はそもそも、社会主義だったのか?
 「いや違う。このような失望と、このような悲しみを、以前も今後も、私は経験したことがなかった」(11) 。//
 (14)新憲法上の平等諸権利の保障は、ロシア共和国の1918年憲法からの実際的な変化を代表するものだ。
 1918年憲法は明らかに、平等諸権利を保障して<いなかった>。旧来の搾取階級の者たちはソヴィエトの選挙での投票権を剥奪され、都市労働者の投票権は農民のそれに比べて有利に扱われていた。
 これと関連して、階級差別の法令による手の込んだ構造が、労働者に特権的な地位を与え、革命以降にいたブルジョアジーを冷遇するために作られていた。
 1936年憲法の今では、階級に関係なく、全員に投票権がある。
 「公民権のない者たち」(<lishentsy>)という汚名的範疇は、消失した。
 階級差別的な政策と実務は、新憲法の導入以前にすでになくなっていた。
 例えば、大学入学については、労働者に有利な差別的措置は、数年前になくなった。//
 (15)こうして、階級差別からの離反は本当のことだった。決して、憲法が意味させるほどには完全ではなく、旧来のやり方で物事をするのに慣れていた共産党員たちから、相当の抵抗に遭遇したけれども。(12)
 こうした変化の意義は、二つの観点から解釈することができるだろう。
 一方で、階級差別の削除は、社会主義的平等のための必須要件だと見ることができる(「達成された革命」)。
 他方で、それは体制側によるプロレタリアートの放棄だと受け取ることができる(「裏切られた革命」)。
 労働者階級の地位やそれのソヴィエト権力との関係は、新しい秩序のもとで、不明瞭なままだった。
 プロレタリアート独裁の時代は終わったのか、に関して、率直な公式の言明は何らなかった(これは、ソヴィエト同盟がすでに社会主義の時代に入っているとすれば、論理的な推論だけれども)。しかし、言葉遣いは、「プロレタリアの主導性」から「労働者階級の指導的役割」という穏やかな定式へと、変化した。//
 (16)トロツキーのようなマルクス主義者の批判者は、党は、社会的支持の主要な根源である労働者階級に代わって官僚機構を置き換えることを認めることによって、精神的拠り所(mooring)を失った、と主張するかもしれなかった。
 しかし、スターリンは、異なる見方をしていた。
 スターリンの立場からすると、革命が達成した偉大なものの一つは、労働者階級および農民層から募って集めて「新しいソヴィエト知識人層」(本質的には新しい管理および職業上のエリート)を生んだことだった。(13)
 ソヴィエト体制は、もはや、忠誠心はつねに疑わしい、かつてのエリートたちの残滓に依存する必要がなかった。そうではなく、今や育て上げた「指導的幹部や専門家」という自分たちのエリート、彼らの昇進や経歴は革命のおかげであり、完全に体制(とスターリン)に忠誠心をもつと信頼することができる者たち、に依拠することができた。 
 体制側がいったんこの「新しい階級」-命令的地位へと昇進した「昨日」の労働者や農民たち-を社会的基盤としてもつならば、プロレタリアートの全ての問題とそれと体制との特別の関係などは、スターリンの目には重要ではないものにになる。
 結局は、1939年の第18回党大会で行ったスターリンの論評で示唆されていたように、旧来の革命的労働者階級の花は、実際には、新しいソヴィエト知識人層の中へと植え換えられていた。そして、昇進することができないで嫉妬する労働者には、そうしたことの多くはより悪いことだった。
 こうした観点が新しいエリートたちの中の「労働者階級の息子たち」の完全な意味となることはほとんど疑いがない。新しいエリートたち、つまりは、いたるところで上方に向かって移動し、不利な出身背景に誇りをもつとともにそれから離れたことが幸福な者たちのことだ。//
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 (4) トルコ・シベリア鉄道につき、Matthew J. Payne, <スターリンの鉄道-Turksib と社会主義建設>(Pittsburgh, 2001)を見よ。
 Dneprostroi につき、Anne Rassweiler, <電力の世代-Dneprostroi の歴史>(Oxford, 1988)を見よ。
 (5) Alec Nove <ソ連邦の経済史>(new edn; London, 1992),p.195-6.
 (6) Holland Hunter 「野心的すぎる第一次五カ年計画」<Slavic Review>32: 2(1973), p.237-p.257。
 より肯定的な読み方につき、Robert C. Allen, <農場と工場-ソヴィエト工業革命の再解釈>(Princeton, NJ, 2003)を見よ。
 (7) James Miller & Alec Nove 「集団化に関する討議」<共産主義の諸問題>(1976年7-8月号)p.53-55より、James R. Miller 「『標準的物語』のどこが間違いか?」を見よ。
 (8) 1930年代の現実の集団農場に関するより詳細な議論として、Fitzpatrick, <スターリンの農民>Ch. 4-5.を見よ。
 (9) J. Stalin <新ソヴィエト憲法上関するスターリン>(New York, 1936).
 1936年12月5日にソ連邦のソヴィエト第8回臨時大会で採択された憲法の条文につき、<憲法-ソヴィエト社会主義共和国同盟の基礎法典>(Moscow, 1938)を見よ。
 (10) ソヴィエトの選挙を民主化しようとの体制側の純粋な意図は、大粛清に関連する社会的緊張によって挫折した。このことにつき、J. Arch Getty 「スターリンのもとでの国家と社会-1930年代の憲法と選挙」<Slavic Review>50: p.1 (1991年春号).を見よ。
 (11) N. L. Rogalina <集団化: urki proidennogo puti >(Moscow, 1989)p.198.で引用されている。
 (12) Fitzpatrick<仮面を剝げ!>p.40-43, p.46-49.を見よ。
 差別の古いやり方は消失したけれども、新しい形態があったことに注意。
 集団農場員は他の公民との平等な諸権利を享受したのではない。追放されたクラクたちや、その他の行政上の追放者については言うまでもない
 (13) Fitzpatrick「スターリンと新エリートの形成」同<文化戦線>所収p.177-8.を見よ。
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 つぎの第二節の表題は、「<裏切られた革命>」。

1912/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑰。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017). 試訳のつづき。
 これまでどおり、原文の斜め体(イタリック)部分は<>で括っている。
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 第5章・スターリンの革命。
 第3節・集団化(collectivization)。
 (1)ボルシェヴィキたちはつねに、集団化された農業は個人農民の小農業よりも優れていると信じていた。しかし、ネップ期には、農民たちをこの見方へと転換させるには長くて面倒な過程が必要だろうと想定されていた。
 1928年、集団農場(<kolkhozy:コルホージ>)は播種面積全体の1.2パーセントしか占めておらず、国有農場では1.5パーセントだった。そして、残りの97.3パーセントは農民個人が耕作をしていた。(17)
 第一次五カ年計画は、その期間での大規模な集団化された農業への移行を、予定していなかった。
 そして実際に、急速な工業化は膨大な諸問題を抱えていたために、体制側が農業の根本的な再組織を行うことなくつぎの数年間は過ごしてゆくので全く十分だと思われた。//
 (2)しかしながら、スターリンは認識していたように-また、Preobrazhensky もブハーリンも数年前の議論でそうだったように-、工業化をめぐる問題は、農業と密接に結ついていた。
 工業化を達成するためには、国家には信頼できる穀物供給と穀物価格の安さが必要だつた。1927-28年の調達危機が明確にしたのは、農民たち-あるいは市場に出る穀物のほとんどを提供している比較的に裕福な農民たちのうちの少数者たち-は、自由市場が存在し、かつネップ期にそうだったように国定価格は事実上は交渉によって決まるかぎり、「国家を人質にする」ことができる、ということだった。//
 (3)スターリンは1928年1月に早くも、つぎのことを示唆した。すなわち、クラク〔富農〕は調達危機の際の悪人である隠匿者であり、農業の集団化は国家による統制の梃子になる、その梃子によって国家が求める時期と価格で穀物の適切な供給が行われるだろう、と考えている、ということ。
 しかし、1928年と1929年前半の自発的な集団化の奨励は、わずかばかりの成果しか生まなかった。そして、穀物調達の問題は、都市部での食糧不足のゆえだけではなく、外国から工業用品を購入する資金を獲得する手段として穀物輸出があるという関係があるゆえにも、依然として現実的なままだった。
 広く有力になってきたスターリンが支持したのは実力行使によって調達する方法だったので、体制側と農民層の間には対立が大きくなった。
 クラクを貶めて農民層内部での階級的対立の発生を刺激しようとの努力を集中的に行ったにもかかわらず、外部からの圧力はむしろ、村落共同体を内部から破壊するというよりは、その統一を促進したように見えた。//
 (4)1929年夏、穀物の自由市場を大きく削減して、体制側は、供給しないことに対する制裁を伴う調達割合を農民たちに課した。
 その秋には、クラクたちに対する攻撃はさらに烈しくなり、党指導者たちは抵抗できない農民の集団化に向かう運動について語り始めた。
 疑いなくこれは、体制と農民層の対立は後戻りできないほどに進んでいるという意識を反映していた。ほとんど誰も、苦しい闘いを経ずしてその過程は達成され得るという虚偽を信じることができなかったのだから。
 以前のトロツキー派の一人で第一次五カ年計画の熱心な支持者になっていたYurii Pyatakov はつぎのように述べた。//
 『個人的農作という枠の内部では、農業問題の解決はあり得ない。したがって、<我々は農業の集団化について、極端な速さを採用せざるをえない。<中略>
 その仕事では、我々は内戦期の速さを採用しなければならない。
 もちろん私は、内戦期の方法を採用しなければならないと言っているのではない。しかし、我々の誰もが<中略>、階級敵との軍事闘争の時期に行ったのと同じ緊張感をもって仕事することを義務づけられる。
 <我々の社会主義建設にかかる英雄的(heroic)時代>が到来したのだ。』(18)//
 (5)1929-30年の冬は狂乱の時期で、党の終末期的〔黙示録的〕雰囲気とひどく革命的な修辞はじつに、以前の「英雄的時代」-内戦と戦時共産主義の、1920年の絶望的な最悪状態のとき-を想起させた。
 しかし、1930年は、共産党員たちが農村地帯へと送り込んでいた修辞上の革命だけではなかった。内戦期に行ったように、たんに食糧を求めて村落を襲撃して立ち去っていくだけではなかった。
 集団化は、農民生活を再組織化する、そして同時に、村落のレベルまで及ぶ行政的統制を確立する企てだった。
 必要な再組織化の精確な性質は、地方の共産党員たちには不明瞭だった。中央からの指示は激しいものだったが、正確なものではなかった。
 しかし、統制が目標の一つであり、再組織化の方法は戦闘的に対決することであるのは明確だった。//
 (6)実際的な意味では、新しい政策は、クラクとの最終対決をすみやかに行う地方官僚たちを必要とした。
 これが意味したのは、地方の共産党員たちが村落に入り込み、貧しい又は貪欲な農民たちを集め、一握りの「クラク」(通常は最も富裕な農民たちだが、ときには村落ではたんに有名でない農民や何らかの別の理由で地方当局から嫌われていた農民)の家族を威圧し、彼らをその家から追い出して、その財産を収奪する、ということだった。//
 (7)地方官僚たちは同時に、残りの農民たちが自発的に集団を組織するのを奨励すると想定されていた。-1929-30年の中央からの指令の調子から、「自発的な」運動がすばやいかつ目立つ結果を生み出さなければならないことがはっきりしていた。
 これが通常は実際に意味したのは、官僚たちは村落会合を開催し、kolkhozy〔集団農場〕を組織し、十分な数の農民たちが自発的にkolkhozy の一員だとして彼らの名前を署名するのに同意するまで説教し、かつ威嚇する、ということだった。
 これがいったん達成されれば、新しい集団農場(kolkhozy)の設立者たちは村落の動物たち-農民の財産の中での主な移動道具-を奪い取り、それらは集団の財産だと宣言しただろう。
 共産党員(およびとくにコムソモル団員)たる集団化担当者は、適度の範囲内で、教会を世俗化し、聖職者や学校教師のような地方の「階級敵」の侮辱をしたがった。//
 (8)このような行動は、村落地帯にすみやかに憤激と混乱を生み出した。
 多くの農民は、動物たちを渡すのではなく、その場所で殺戮した。または、それらを売却するために最も近い町へと急いで走った。
 ある範囲の収奪されたクラクたちは、町へと逃亡した。だが別の者たちは、日中は森の中に隠れ、夜には村落を威嚇するために帰ってきた。
 悲嘆にくれる農民女性たちは、しばしば聖職者の仲間だったが、集団化追求者たちを侮蔑する罵詈雑言を投げつけた。
 官僚たちはしばしば打ち倒され、石を投げつけられ、あるいは村落に近づいたときやそこから離れるときに、見えない殺人者によって射殺された。
 多数の新しい集団農場の一員たちは、都市にまたは新しい建設計画に仕事を見つけるべく、急いで村落を去った。//
 (9)体制は、こうした明瞭な失態に直面して、二つの方法で反応した。
 第一に、OPGUは、収奪されたクラクやその他の迷惑者を逮捕し始め、ついにはシベリア、ウラルおよび北方への大量流刑を行った。
 第二に、党指導部は、春の種蒔き季節が近づいていたために、農民層との極端な対立からは数歩は引き下がった。
 スターリンは3月に、「成功に目が眩んで」と題する有名な論文を発表し、指示を過大に実行したとして地方当局を非難し、集団化に伴うほとんどの動物たちを(クラクのものを除いて)元の所有者に戻すよう命じた。(19)
 農民たちはそのときを掴まえて急いで、集団農場(kolkhozy)の一覧表から自分たちの名前を取り消した。その結果として、ソ連邦全体で、1930年の3月1日から6月1日の間に、公式に集団化された農地の割合は半分以上から四分の一以下に落ちた。//
 (10)「成功に目が眩んで」に裏切られ、辱められたある程度の共産党集団化担当者は、スターリンの肖像写真を壁に向かわせ〔=ひっくり返し〕、憂鬱な気分に陥った、と報告された。
 にもかかわらず、集団化追求が止まったのは、たんに一時的だった。
 数万の共産党員と都市労働者たち(モスクワ、レニングラードおよびウクライナの大工場群から主として募られた、よく知られる「二万五千人たち」を含めて)が、集団農場の組織者および管理者として田園地帯で働くために急いで動員された。
 村落民たちは徐々に、集団農場へともう一度署名するように説得されるか、強制させられた。このときは、雌牛や鶏を有しつづけた。
 1932年までに、ソヴィエトの公式の数字によると、農民所有地のうち62パーセントは集団化された。
 1937年までには、その数字は93パーセントに達した。//(20)
 (11)集団化は、疑いなく、農村地帯での本当の「上からの革命」だった。
 しかし、当時のソヴィエトの新聞が叙述したような、起きた変化の展望を大きく誇張した類のものでは全くなく、 ある点では現実には、かつての帝制期にStolypin が試みたもの(既述、p.37を見よ)ほどの劇的な農民生活の再組織化ではなかった。
 典型的な集団農場は、かつての村落だった。農民たちは、同じ木製小屋で生活し、以前にそうだったのと同一の村落畑を耕作した。-厳密に言うと、移住や追放の結果としてある程度は以前よりも少なかったし、牽引動物はかなり少なくなったけれども。
 村落で変わった主要なことは、村落の管理と村落による市場での取引過程だった。//
 (12)村落共同体<ミール(mir)>は1930年に廃止され、取って代わった集団農場管理者の長は、任命された議長だった(初期には通常は都市出身の労働者または共産党員)。
 村落/集団農場の内部では農民たちの伝統的な指導者は威嚇され、その一部はクラクの追放によって排除された。
 ロシアの歴史研究者のV. P. Danilov によると、38万1000の農民所有地-少なくとも150万人-が1930-31年に脱クラク化され、追放された。1932年と1933年の初めに同様の運命に陥った者たちを含めて算出してはいない。(21)
 (追放されたクラクの半数以上は工業や建設の仕事に就いた。そして、彼らの多くは数年以内に犯罪者(convict)労働よりは自由に働いたけれども、追放された地域から外へ移住することを禁じられ、故郷の村落に戻ることはできなかった。)//
 (13)集団農場は、設定された量の穀物と穀物製品を国家に供給しなければならなかった。支払い金は、集団農場員に労働の寄与分に応じて配分された。
 区画地での農民の小農業の生産物だけは、まだ個人で市場に出すことができた。そしてこの譲歩は、元来の集団化追求後の数年間後まで、公式には承認されなかった。
 一般的な集団農場生産については、供給率はきわめて高かった-穀物の40パーセントにまで、または農民たちが従前に市場に出していたものの二倍から三倍にまで上った-。そして、価格は低かった。
 農民たちは、あらゆる種類の消極的な抵抗を行い回避策を講じたけれども、体制側は拳銃に頼り、食糧や原種も含めて、発見した全てを取り上げた。
 その結果生じたのは、国家の大穀物生産地帯-ウクライナ、中央ヴォルガ、カザフスタンおよび北部コーカサス-が陥った、1932-33年の冬の飢饉(famine)だった。
 この飢饉によって、莫大な怒りの感情が残った。中央ヴォルガで収集された噂によれば、農民たちは、集団化に抵抗したために体制側が意図的に惹起した制裁だと飢饉を考えた。
 ソヴィエト公文書庫の資料にもとづく最近の計算では、1933年の飢饉による死者数は、300-400万人になる。(22) //
 飢饉の直接的な影響の一つは、1932年12月に体制側が国内旅券制度を再導入し、それは都市住民には自動的に発行されたが、田園地帯の者には発行されなかった、ということだった。危機が続いたために、飢えてゆく農民たちが田園地域から去って都市部に逃亡先と配給食を求めることのないようにする全ての努力がなされた。
 集団化とは二番めの農奴制だという農民たちの考えは、疑いなく強固なものになった。 そして、集団化の目的の一つは農民たちを農場に縛り続けることだとの印象を、西側の観察者たちにも与えた。
 体制側にはそのような意図はなかった(飢饉が生んだ特殊な事情がある場合を除いて)。1930年代の主要目的は急速な工業化であり、それは都市の労働力の急速な増大を意味していたのだから。
 長く真実だと受容されてきたのは、つぎのようなものだった。すなわち、ロシアの田園地帯は人口が多すぎ、ソヴィエトの指導者たちは集団化と機械化によって農業生産を合理化し、そうして農業に必要な労働者の数をさらに減らそうと望んでいた、のだと。
 機能的な観点からは、集団化とソヴィエトの工業化の関係は、一世紀以上前の囲い込み運動とイギリスの産業革命の関係にかなり共通していた。//
 (14)もちろん、これは、ソヴィエト指導者たちが導きたい対比ではなかった。すなわち、マルクスは結局は、囲い込みを原因とする被害とイギリスでの農民の根絶を強調したのだから。同じ過程が「田園生活の怠惰」から農民たちを救い出し、都市プロレタリアートへの転換によって長期間の社会的生存水準の向上をもたらしたのだけれども。
 ソヴィエト共産党は、集団化とこれに付随する農民の移住に関して、ある程度は似たような両義性を感じていたかもしれない。それは、新しく生まれた工業の仕事を求めての自発的な離反、つまり集団農場からの逃亡と、追放による非自発的な離反との両方の、混乱させるごとき混合物だった。
 しかし、集団化と関連性がある災害に関しては、彼らは明らかに防衛的であり、当惑を感じていた。そして、言い抜け、信じ難い主張および偽りの楽観主義でもって、状況の全体を煙幕で隠そうと試みた。
 こうして1931年、200-300万人の農民が都市部に永久に移住した年、スターリンは、つぎのような驚くべき声明を発した。すなわち、集団農場が魅力的なものだと分かったので、農民たちはもはや、伝統的にはあった悲惨な田園生活から逃げようとする切実な気持ちをもはや感じないようになった、と。(23)
 しかし、これは、スターリンがつぎの主眼点を言うのための前口上にすぎなかった。-自発的で予想できない農民の離反から、集団農場から労働力を集める組織的活動へと、転換しなければならない。//
 (15)1928-32年の時期、ソヴィエト同盟の都市人口はほとんど1200万人増加し、少なくとも1000万の人々が農業から離れて賃金労働者になった。(24)
 これは莫大な数字であり、ロシア史上に先行例のない、そしてこれだけ短い期間では他の諸国も経験したことのないと言われている、人口動態の大変化だった。
 移住者の中には、若くて頑健な農民たちが不釣り合いなほどに多かった。そしてこのことは、集団化農業の弱体化や農民層の意気減退の原因になった。
 しかし、その上さらに、移住はロシアの活力ある工業化の一部だった。
 第一次五カ年計画の間に集団農場に加入した農民の3人のうち1人は、村落を離れていずれかの都市で、ブルーまたはホワイト・カラーの賃労働者になった。
 村落からの離反は、集団化それ自体の一部であるのと同じ程度に、田園地帯でのスターリンの革命の一部だった。
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 (17) Alec Nove, <ソ連邦の経済史>(London, 1969), p.150.
 (18) R. W. Davis, <社会主義の攻勢>(Cambridge, MA, 1980), p.148.から引用。
 (19) スターリン全集第12巻、p.195-p.205.
 (20) これらの数字は、Nove, <ソ連邦経済史>, p.197, p.238.から引用。
 二万五千人たちにつき、Lynne Viola, <祖国の最良の息子たち>(New York, 1987)を見よ。
 (21) <Slavic Review> 50: i(1991), p.152.
 (22) 統計上の証拠に関する論述につき、R. W. Davis & Stephen Wheatcroft, <飢餓の年月-ソヴィエト農業、1931-33年>(Basingstoke & New York, 2004), p.412-5.
 (23) スターリン全集第13巻、p.54-55.
 (24) Sheila Fitzparick 「大いなる出立-ソヴィエト同盟での村落・都市間移住、1929-1933年」William R. Rosenberg & Lewis H. Siegelbaum 編<ソヴィエト工業化の社会的諸相>(Bloomington, IN, 1993)所収, p.21-22.
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 第4節・文化革命(Cultural Revolution)。
 (1)
内戦期もそうだったように、階級敵に対する闘争は、第一次五カ年計画の間に共産党が関心をもつ最大の問題だった。
 集団化運動のとき、「階級としてのクラク〔富農〕の廃絶」は、共産党員の活動の焦点だった。
 都市経済の再組織では、私的起業家(ネップマン)は、排除させるべき階級敵だった。
 同じ時期に、国際的共産主義者運動は、「階級に対する階級」という新しい戦闘的政策方針を採択した。
 この方針-ネップ期を支配したより宥和的な接近方法を全て否認すること-の対象となるのは、階級敵とはブルジョア知識人層である、文化および精神の分野だった。
 かつての知識人、ブルジョア的文化価値、エリート主義、特権、および機械的仕事の官僚機構に対する闘争は、この当時は「文化革命」と称された現象だった。(25)
 文化革命の目的は、共産党とプロレタリアートの「主導性」を確立することだった。これは実際には、文化生活に対する党の統制を主張し、新しい若き党員および労働者たちを行政上および職業上のエリートにする時代を始めることを意味した。//
 (2)文化革命は党指導部-またはより正確には指導部内のスターリン派-によって、1928年春に始められた。その頃に、Shakhty 裁判(既述p.123を見よ)が迫っているとの発表とともに行われたのは、村落にいる党員たちを文化領域へと召喚することだった。つまり、ブルジョア専門家たちの役割を再検討し、文化的な優越性や指導性があるとの知識人たちの主張を拒絶するために。
 この宣伝運動は、右派に対するスターリンの闘争と緊密に連結していた。
 右翼主義者はブルジョア知識人の保護者で、非党員専門家の助言に重きをおきすぎている、政府官僚機構内での専門家や以前の帝制官僚の影響について無頓着で、「赤いリベラリズム」やブルジョア的価値によって汚染される傾向がある、と叙述された。
 彼らには、革命的方法よりも官僚主義的方法を愛好し、党よりも政府機構を支持する傾向があった。
 さらに、彼らはたぶん、党のプロレタリアート的隊列の気分を喪失した、ヨーロッパ化された知識人たちだった。//
 (3)しかし、文化革命には、指導層内部での分派的闘争以上のものがあった。
 若い共産党員たちには、ブルジョア的文化支配との闘いは大きな意味があるように見えた。同様に、ネップ期の党指導部によって意気込みが殺がれた多数の戦闘的共産党員組織者にとっても。また、職業人たちの中の確立された指導層と一致していなかった、多様な分野の非共産党員諸集団にとってすら。
 ロシア・プロレタリア作家協会(RAPP)や戦闘的無神論者同盟のような集団は、1920年代にずっと、文化的闘争についてのより攻撃的な政策を求めて煽ってきていた。
 共産主義アカデミーや赤い教授研究所の中の若い研究者たちは、多くは非党員で多数の学術分野をいまだに支配している、保身的な年配研究者たちと闘うことを望んでいた。
 コムソモルの中央委員会とその書記局は、つねに革命的な「アヴァンギャルド主義」を志向し、政策形成に関する役割の拡大を望んでいたのだが、コムソモルとは政策方針が一致しない多数の研究施設は官僚主義的頽廃に陥っているのではないかと疑っていた。
 このような若い急進者たちには、文化革命は自分たちを擁護するものであり、ある観察者が述べたように、解放するものだった。//
 (4)この観点からすると、文化革命は因習打破的で戦闘的な青年たちの運動だった。そしてその活動家たちは、1960年代の中国文化革命の紅衛兵たちのように、党指導部の従順な道具では決してなかった。
 彼らは、強烈に党意識を抱いており、共産党員として他者を指導し、かつ指令する自分たちの権利を主張していた。一方で同時に、ほとんどの既存の権威や制度に本能的な敵愾心をもっていた。官僚主義的で「客観的には反革命的な」傾向がこれらにはあるのではないかと疑っていた。
 彼らは自覚的なプロレタリアートであり(活動家のほとんどは職業と同様に社会的出自もホワイト・カラーだったけれども)、ブルジョアジーに対して侮蔑的で、とりわけ、中年の、立派な「ブルジョアジー的俗物たち(Philistine)」に対してそうだった。
 彼らの意識の基礎にあったのは内戦であり、彼らの修辞文上の想像の多くの源泉も、内戦だった。
 資本主義という敵を罵ったが、にもかかわらず彼らはアメリカに敬意を表する傾向にあった。アメリカ資本主義は近代的で、大規模だとの理由で。
 全ての分野での急激な改革は、彼らにはきわめて魅力的だった。//
 (5)文化革命の名のもとで行われた諸提案の多くは自然発生的なものだったために、それらは予期されなかった結果をいくつか生んだ。
 戦闘的な者たちは彼らの反宗教的宣伝運動を集団化の頂点にある村落に持ち込み、集団農場(kolkhoz)は反キリスト教者が作るものだという農民たちの疑念をますます強いものにさせた。
 コムソモルの「軽騎兵(Light Cavalry)」による不意の攻撃は、政府職員たちの仕事を妨害した。
 コムソモルの「文化軍(Cultural Army)」(最初は無学(illiteracy)との闘いのために設立された)は、地方の教育部局を廃止することにほとんど成功した。その理由はそれが官僚主義的だというものだった。-だがこれは、確実に、党指導部の目的ではなかった。//
 (6)熱狂的な青年党員たちは、口笛を吹きブーイングをして、国立劇場での「ブルジョア」演劇の上演を停止させた。
 文学については、RAPP〔ロシア・プロレタリア作家協会〕は、(厳密にはプロレタリアートではなかったけれども)尊敬されていた作家のMaxim Gorky を攻撃する運動を開始した。それは、スターリンと他の党指導者たちが、イタリアへの逃亡中に帰国するように彼を説得しようとしているのとまさに同じ時期だった。
 政治理論の分野ですら、急進者たちは自分たちの主張を追求した。
 彼らは、内戦期に多数の熱狂共産党員がそうだったように、破滅的な〔黙示録的な〕変化が切迫している、と信じていた。法や学校のような馴染みある制度とともに、国家は消滅するだろう、と。
 1930年の半ば、スターリンは、こうした考えは誤りだ、ときわめて明確に言明した。
 しかし、スターリンのこの公式表明は、一年以上、党指導部が文化革命活動家たちを統制して彼らの「軽率な謀りごと」を終わらせようと深刻に試み始めるまでは、ほとんど無視された。//
 (7)社会科学や哲学のような分野では、若き文化革命家たちは、トロツキーまたはブハーリンが関係している理論の価値を貶め、かつてのメンシェヴィキを攻撃し、あるいは尊敬された「ブルジョア」的文化研究施設を党の統制に服させるのを容易にする、そういうことのために、スターリンや党指導部によって、利用された。
 しかし、このような文化革命の側面と共存していたのは、現実政治や党派的策略の世界からは遠く隔たった、幻影的なユートピア観を一時期に花咲かせることだった。
 夢想家たちは-しばしば自分の本来の仕事の外部者で、その考えは常軌を離れて非現実的だと以前には思われていたのだが-、新しい「社会主義都市」の計画を描くのに忙しかった。その計画とは、共同体的(communal)に生活し、自然の変化を瞑想する案であり、「新しいソヴィエト人間」の想像画だった。
 彼らは、「我々は新しい世界を建設している」との第一次五カ年計画の標語を、真剣にそのままに受けとめていた。そして、1920年代の末と1930年代初めの数年間、彼らの考え方も真剣に受け止められ、広くよく知られるに至り、そして多くの場合、多数の政府機関やその他の公的団体から資金も貰った。//
 (8)文化革命はプロレタリア的だと叙述されるけれども、これは高度の文化や学術の分野では文字通りには理解されるべきではない。
 文学では、例えば、RAPPの若い活動家は「プロレタリア」を「共産主義者」と同義のものとして使った。すなわち、彼らが「プロレタリアの主導権」の確立を語るとき、彼らは、文学の世界を支配し、共産党が唯一信任した文学諸組織の代表だと承認されたいという自分たちの願望を表現していた。
 RAPP活動家たちは、確かに、プロレタリアートという名前に頼ることに完全に冷笑的ではなかった。工場での文化活動を激励したり職業的作家と労働者階級との間の交流の場を設けたりするのに最大限の努力をしたのだから。
 しかし、こうしたことは、1870年代の人民主義者たち(Populists)の「民衆の中へ」という標語の精神にほとんど同じものが多くあった(既述、p.25-26を見よ)。
 プロレタリアートにとって、RAPP知識人たちはむしろ、そのようなものだった。//
 (9)文化革命のプロレタリア的側面が実質的にあったのは、この時期に体制側が熱心に追求した、プロレタリアの「昇進」政策-労働者や農民に有利なソヴィエト的「積極的な優遇政策(affirmative action)」-だった。
 スターリンはShafhy 裁判について折りよく、ブルジョア知識人の裏切りによって、可能なかぎり急いでプロレタリアの後継者を養成することが絶対的に必要になった、と語った。
 共産党員(Reds)と専門家へのかつての二分は、廃止しなければならない。
  ソヴィエト体制は自分たちの知識人層(スターリンの言葉遣いでは行政エリートと専門家エリートのいずれをも含む)を必要とする時代になった。そして、この新しい知識人層は、下位の階級から、とくに都市労働者階級から新しく集められなければならない。(26)//
 (10)労働者を行政上の仕事へと「昇進」させ、若い労働者を高等教育機関へと派遣する政策は、新しいものではなかった。しかし、文化革命の間のほどの緊急性をもって、かつこれほど大規模に実施されたことはなかった。
 莫大な数の労働者たちが、直接に工業管理者へと昇進し、ソヴィエトまたは党の職員になり、または中央政府や労働組合の官僚機構から追放された「階級敵」に代わる後継者として任命された。
 ソヴィエト同盟では1933年の末に、「指導的幹部および専門家」に分類される86万1000人のうち、14万人-6分の1以上-が、わずか5年前にはブルー・カラー労働者だった。
 しかし、これは氷山の先端部にすぎなかった。
 第一次五カ年計画の間にホワイト・カラーの仕事へと移動した労働者の総数は、おそらくは少なくとも150万人だった。//
 (11)スターリンは同時に、若い労働者や共産党員を高等教育の場へと送り込む集中的な運動を開始した。それは、大学や専門技術学校を大きく変革するもので、「ブルジョア」教授たちを大いに憤激させた。また、第一次五カ年計画の継続中には、ホワイト・カラー家庭出身の高校卒業生が高等教育の機会を得ることがきわめて困難になった。
 約15万人の労働者や共産党員が、第一次五カ年計画の間に高等教育機関へと進学した。彼らのほとんどは、今やマルクス主義社会科学よりも専門技術の方が工業化社会では最良の資格となると見られていたために、技術工学を学んだ。
 この者たちの中にはNikita Khurshchev (N・フルシチョフ)、Leonid Brezhnev (L・ブレジネフ)、Aleksei Kosygin (A・コスィギン)および将来の党や政府の指導者たちがおり、1937-38年の大粛清(the Great Purge)の後にスターリン主義政治エリートたちの中核になることになる。//
 (12)優遇された集団-後年になって自称するのを好んだ言葉では「労働者階級の息子たち」-の一員にとって、革命はじつに、プロレタリアートに権力を与え、労働者を国家の主人とするという約束を実現したものだった。
 しかしながら、労働者階級の別の者たちにとっては、スターリンの革命のバランス・シートは有利なものではなかった。
 たいていの労働者の生活水準と現実の賃金は、第一次五カ年計画の間に、急激に落ちた。
 労働組合はTomsky が排除された後では手綱が付けられて、経営者との交渉で労働者の利益をのために圧力を加えるいかなる現実的なの能力を失った。
 新しい農民の募集が(以前のクラクを含む)が工業上の仕事に溢れ込んだので、党指導部の労働者階級に対する特殊な関係意識と特殊な義務感は弱くなった。(27)
 (13)第一次五カ年計画の時期の人口動態上および社会的な大変動は巨大だった。
 数百万の農民たちが村落を去り、集団化と脱クラク化により、または飢饉によって追い出され、あるいは新しい仕事を取得できる可能性によっつて都市に惹き付けられた。
 しかし、これは、個人や家族にとって、定着した生活様式を損なう、多くの種類があった追い立ての一つにすぎなかった。
 都市の妻たちは、一枚の小切手ではもう十分でないために働きに出かけた。
 村落の妻たちは、都市部へと消えた夫から捨てられた。
 両親を見失うか放棄された子どもたちは、家のない若者たちのごろつき団(<besprizornye>)へと漂い込んだ。
 大学進学を予期していた「ブルジョア」高校生たちは、その途を遮断された。一方では、わずか7年の一般教育を受けた若い労働者が、技術工学を勉強すべく招集された。
 収奪されたネップマンとクラクたちは、知らない都市へと逃げ込んで、そこで新しい生活を始めた。
 聖職者の子どもたちは、両親と一緒に非難されるのを避けるために、故郷を離れた。
 列車は、追放者や犯罪者の荷物を、知らない、そして望まれてもいない目的地へと運んだ。
 熟練技術をもつ労働者は管理者へと「昇進」し、またはMagnitogorsk のような遠くの建設地へと「動員」された。
 共産党員たちは、集団農場を稼働させるために田園地帯へと派遣された。
 役所の労働者たちは、政府職員の「浄化(cleansing)」によって解雇された。
 10年ほど前の戦争、革命および内戦による大変動のあとで、定住する時期がほとんどなかった社会は、スターリンの革命によってもう一度、容赦なく振り混ぜられた。//
 (14)生活の水準と対等さの低下によって、ほとんど全ての階級の民衆が、都市であれ地方であれ、影響を受けた。
 集団化の結果として、最も被害を受けたのは、農民たちだった。
 しかし、都市での生活は悲惨だった。食糧の配給、行列、靴や衣服を含む消費用品の恒常的な不足、居宅でのひどい人口密集、私的取引の制限に関連している際限のない不便さ、およびあらゆる種類の都市公共サービスの悪化、によって。
 ソヴィエト同盟の都市人口は急速に増加し、1929年の初めの2900万人から、1933年の初めのほとんど4000万人にまで上がった-4年間で38パーセントの増加。
 モスクワの人口は、1926年末のちょうど200万人余から1933年初めには370万人に飛躍した。
 同じ期間に、ウラルの工業都市であるSverdlovsk (エカテリンブルク)の人口は、346パーセント増大した。(28)//
 (15)政治領域でも、小さくて遅々としたものだったけれども、変化があった。
 スターリンの個人崇拝は、彼の50歳誕生日の祝賀とともに、1929年末に本格的に始まった。 
 党の大会やその他の大きな集会では、大きな拍手喝采でもってスターリンの入場を歓迎するのが、共産党員の習慣になった。
 しかし、スターリンはレーニンの例を心得ていて、そのような熱狂を批判しているように見えた。
 そして、党の総書記という彼の地位は公式には変更されないままだった。//
 (16)左翼反対派に対する容赦のない攻撃は意識にまだ鮮明に残っていたので、「右翼主義」指導者たちは、慎重に歩んだ。
 彼らの敗北のあとの制裁は、比較的穏健だった。
 しかし、これは最後の公然たる(または公然に準じた)党内での党反対派だった。
 1921年以降に理論上は存在していた分派規制は、今や実際に存在した。その結果は、潜在的な分派も自動的に組織的な陰謀になる、ということだった。
 政策方針に関する明瞭な不同意は、今や党の会議では珍しくなっていた。
 党指導部は考えていることについてますます秘密的になり、中央委員会の会合に関する些細な情報は、もはや日常的に伝搬することはなく、党員たちが容易に知り得なかった。 指導者たち-とくに最高指導者-は、神秘さと探索不可能性をもつ神のごとき態度をとり始めた。(29)
 (17)ソヴィエトの新聞も、変化した。活発ではなくなり、192年代にそうだったようには、国内問題についての情報が少なくなった。
 経済的な成果はきわめて大きく報じられた。しばしば現実とは明確に離れて、また統計上の操作によって。
 後退や失敗は、無視された。そして1932-33年の飢饉に関する報道は、新聞からは完全に閉め出されていた。
 生産向上や「妨害者」に対する警戒心を高めることを推奨するのは、毎日の日常的な命令だった。新聞の不誠実さが、疑われた。
 新聞はもはや、最新のMary Pickford の映画についても西側タイプの宣伝広告をせず、交通事故、強姦や強盗などの些細な事件も伝えなんった。//
 (18)西側との接触はますます制限され、第一次五カ年計画の間には危険なものになった。
 外部世界からのソヴィエトの孤立は1917年革命とともに始まってはいた。しかし、かなりの量の交通や通信が1920年代にはあった。
 知識人たちはまだ外国で出版することができたし、外国の雑誌を注文することもできた。
 しかし、外国人に対する懐疑は、文化革命の見せ物裁判での主要な動機であり、これは指導部に増大している外国嫌悪症の反映だった。かつまた、疑いなく、民衆一般についてもそうだった。
 「経済絶対主義」という第一次五カ年計画の目標は、外部世界からの離脱をも意味していた。
 これは、国境が閉鎖され、包囲されているとの心理がある時代のことだった。そして、ソヴィエト同盟の特徴になることになる文化的孤立は、スターリン(およびスターリン後の)時代に確立された。(30)//
 (19)ペーター大帝の時代にように、国家が強く成長するにつれて、民衆は弱くなった。
 スターリンの革命は、都市経済全体に対する国家の直接的統制を拡張し、農民の農業を収奪する国家の権能を増大させた。
 それはまた、国家の警察組織を大きく強化し、グラク(Gulag、強制収容所)、工業化追求と密接に関連することになった労働者収容帝国、を創った(元来は自由な労働ではわずかに供給しかでききない地域での犯罪者労働による供給機関だった)。これは来たる数十年の間に、急速に拡大することになる。
 集団化および文化革命での「階級敵」に対する追及は、苦痛、恐怖および懐疑の、複合意識を遺産として残した。公的非難、迫害および「自己批判」のような実務を促進したことも含めて。
 全ての資源と全ての精神力が、スターリンの革命の行程で動員された。
 ロシアを後進状態から引き出すという目標からいかに隔たりがあるものが達成されたかを叙述することが、まだ残されている。//
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 (25) 以下の論述は、Sheila Fitzpatrick 編<ロシアの文化革命-1928-1931年>(Bloomington, IN, 1978)から引いた。
 (26) 以下の論述は、Sheila Fitzpatrick「スターリンと新エリート層の形成」同・<文化戦線>所収、および同・<教育と社会的移動>p.184-p.205. から引いた。
 同様の政策はウズベクやバシュキールのような「後進」民族のために用いられたことに注意。これについては、Martin,<積極的優遇措置帝国>, とくにCh. 4 を見よ。
 (27) 第一次五カ年計画の間の労働者の状況の変化につき、Hiroaki Kuromiya, <スターリンの産業革命>(Cambridge, 1988)を見よ。
 その後の展開につき、Donald Filtzer, <ソヴィエト労働者とスターリンによる工業化>(New York, 1986)を見よ。
 (28) 〔試訳者-二つのロシア語文献なので、略〕
 (29) この経緯につき、Sheila Fitzpatrick, <スターリンのTeam について>p.91-95. を見よ。
 1930年代には「vozhd」(指導者)という語はスターリンのためのものではなかった、ということに注意。彼の政治局の同僚たちもまた、新聞では「vozhdi」と称されていた。
 (30) ソヴィエトの孤立につき、Jerry F. Hough, <ロシアと西側-ゴルバチョフと改革の政治>(2ed ed. New York, 1990),p.44-p.66.を見よ。
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 以上、第5章終わり。つづく第6章の表題は<革命の終わり>

1907/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑯。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017). の試訳のつづき。
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 第5章・スターリンの革命。
 第1節・スターリン対右翼(the Right)。

 (1)1927-28年の冬、党指導者たちは、農民層に関する政策で、一方でスターリン、片方でのちに右翼反対派として知られる集団、の二つに分裂していた。
 直接の問題は、穀物の獲得だった。
 1927年秋の豊作にもかかわらず、農民による市場取引と国家の穀物取得は、想定よりもはるかに落ち込んだ。
 戦争の恐怖が一要因だったが、国家が穀物に提示する価格の低さもその要因だった。
 工業化追求がすでに見込まれていたので、体制側が農民たちからさらに搾り上げる政策を執るか、それとも金銭で全て買い取ってしまう経済的帰結を生じさせるかが、問題だった。//
 (2)ネップの間は、農民の農業生産物に相対的に安い価格を支払い、一方で同時に、国有産業が生産した工業製品には相対的に高い価格を支払って国家による資本蓄積を増大させるのは、体制側の経済哲学だった。
 しかし、実際には、穀物についての自由市場の存在によってこれはつねに緩和されていて、国家が定める価格は市場の水準に近いままだった。
 国家は、農民層との対立を欲しておらず、ゆえに、1923-24年の「鋏状危機」が発生して農業生産物価格と工業製品価格の差が大きすぎるに至ったとき、譲歩をした。//
 (3)しかしながら、1927年、工業化追求は、多くの点での均衡を変えた。
 穀物収穫高は信頼できなかったので、外国からの機械類輸入と均衡させるための大規模な穀物輸出の計画は危うくなった。
 穀物価格が高ければ、工業拡大のために用いることのできる資金は減少し、第一次五カ年計画の達成をおそらく不可能にするだろう。
 さらに、市場に出る全穀物のほとんど大部分はロシア農民の農業のごく一部にすぎないと推定されたので、穀物価格を高めることによる利潤は農民層全体ではなくて-体制の階級敵の-「クラク」に入るように思われた。//
 (4)1927年12月に開催された第15回党大会では、公的論点のうちの主要な話題は、第一次五カ年計画および(トロツキーとジノヴィエフの)左翼反対派の追放だった。
 しかし、これらの背後では、穀物取得問題が指導者たちの心理の中できわめて大きく、国の主要な穀物生産地帯の代議員から、懸念する議論が述べられた。
 大会の直後に、多数の政治局および中央委員会メンバーが、これら地帯に向けて、早急の調査の任務を帯びて出発した。
 内戦以来の数少ない地方旅行の一つだったが、スターリン自身が、シベリアの状況を調査するために出立した。
 党の有望な人物で、高い教育を受けた有能なSergei Syrtov が指導する党シベリア委員会は、収穫に関する農民層との対立を避けようとしていた。そして、最近ではRykov (ソヴィエト内閣の長および政治局員の一人)から、執るべき正当な政策だと承認されていた。
 しかしながら、スターリンの考えは、異なっていた。
 1928年早くにシベリアから帰って、スターリンは、自分の考えを政治局と中央委員会に知らせた。(7)//
 (5)スターリンが結論づけた根本問題は、クラクは穀物を収穫して隠匿し、ソヴィエト国家を人質にしようとしている、ということだった。
 クラクたちの要求は高まるだけだろうから、穀物価格を上げたり工業製品の田園地帯への供給を増やしたりする懐柔的手段は無意味だ。
 いずれにせよ、国家は彼らの要求に合わせることはできない。工業の改善こそが優先されるべきだからだ。
 短期的な解決(ときどきは農民層との間の「ウラル・シベリア方法」と称された)は、実力行使だ。すなわち、「収穫して隠匿する」農民は、元来は都市の投機者に対処するものとして立案された刑法典107条にもとづいて、起訴されなければならない、というものだ。//
 (6)スターリンが示唆した長期的解決は、農業の集団化を押し進めることだった。これは、都市部、赤軍および輸出の需要に対する穀物の信頼できる供給源を確保し、穀物市場でのクラクの支配もまた破壊するだろう。
 スターリンはこの政策はクラクに対する過激な手段だ(「脱クラク化」)または穀物の強制的徴発という内戦期の実務への回帰だ、ということを拒否した。
 しかし、この拒絶自体が、不吉な響きをもった。指針を求める共産党員たちにとって、ネップを想起させる標語が用いられないで内戦時の政策への言及があることは、攻撃の合図に等しいものだった。//
 (7)スターリンの政策-宥和ではなく対立、訴追、農民小屋の探索、農民が公定価格よりも高い価格で提供する取引人を見つけるのを阻止するための道路検問-は、1928年春に実行に移された。そして、穀物取得の水準を一時的に改善させた。同時に、農村地帯では、緊張が急速に増大した。
 しかし、新しい政策に関して、党内部にも、大きな緊張があった。
 1月、地方の諸党組織は、多数の、しばしば矛盾する指令文書を政治局と中央委員会からの訪問者から受け取っていた。 
 スターリンはシベリアの共産党員たちに頑強であれと語ったが、一方では、Mosche Frumkin (財政人民委員代理〔=財務副大臣〕)は南部ウラルの隣接地域を訪問旅行し、宥和および穀物に対する直接交換物として工業製品を提供することを助言していた。
 また、Nikolai Ulganov (モスクワ党組織の長で政治局員候補)は低地ヴォルガ地帯で同様の助言を与え、さらには、つぎのことに注目させていた。すなわち、中央からの過大な圧力は、いくつかの地方党官僚組織に、望ましくない「戦時共産主義の方法」を穀物取得のために用いるよう指導している、と。(8)
 偶然にか意図してか、スターリンは、Ulganov たちやFrumkin たちを愚かだと思わせるようにした。
 政治局の内部では、スターリンは合意を獲得するためのその初期の実務を捨てており、きわめて恣意的でかつ刺激的なやり方で、単直に自分の政策方針を押し通した。//
 (8)スターリンに対する右翼反対派は1928年初めに、党内での指導性を集め始めた。それは、左翼反対派が最終的に敗北してわずか数カ月後のことだった。
 右派の立場の根本は、ネップの政治的枠組と基本的な社会政策は変えずに維持しなければならない、それらは社会主義建設へと向かう真の(true)レーニン主義的接近方法を意味している、というものだった。
 右派は、農民に対する実力行使、クラクの危険性の行き過ぎた強調、そして貧農がより裕福な農民に対抗して行う階級戦争を刺激するのを意図する政策に反対した。
 農民層に対する実力行使は穀物配達のために(したがって穀物輸出と工業化追求ら要する財政のために)必要だという論拠に対しては、右派は、工業生産高と発展に関する第一次五カ年の目標は「現実的な」ままで、すなわち相対的に低いままであるべきだ、と反応した。
 右派はまた、The Shakhy裁判が例証するような、かつての知識人に対する攻撃的な階級戦争という新しい政策にも反対した。そして、戦争の切迫やスパイと罷業による危険を絶えず議論していることで発生している危機的雰囲気を除去しようとした。//
 (9)政治局にいる主要な二人の右派は、ソヴィエト政府の長であるRykov と、<プラウダ>の主席編集長、コミンテルン議長、傑出したマルクス主義理論家であるBukharin だった。
 彼らのスターリンとの間の政策不一致の背後にあったのは、スターリンはレーニン死後に演じられてきた政治ゲームのルールを一方的に変更したという意識だった。スターリンは、ネップという基本的政策の多数の前提を放棄すると見えたのと同時に、集団指導制のための会合をそっけなく無視していたのだ。
 トロツキー主義やジノヴィエフ主義の反対派との闘いではスターリンを支持した激しい論争家だったブハーリンは、個人的に裏切られたという特有の意識をもった。
 スターリンは彼を政治的に対等に扱い、自分たちは党の二つの「ヒマラヤ」だと保障はしたけれども、スターリンの行動は今や、ブハーリンに対する本当に政治的なまたは個人的な敬意をほとんど持っていないことを示していた。
 失望に血気早く反応したブハーリンは、敗北した左翼反対派の指導者たちと1928年夏に秘密の会合を開くという、政治的には破滅的な一歩を進んだ。
 ブハーリンがスターリンを革命を破壊する「チンギス・ハン」と私的に性格づけたことは、すみやかにスターリンの知るところとなった。しかし、スターリンのために彼が近年に攻撃した者たちに対する信頼が増大したわけでもなかった。
 スターリンの仲間たちは、その多数はブハーリンの個人的友人だったが、憤激し、彼らは躊躇していてブハーリンの側につくかもしれないとの彼の主張によって、不和になった。(9)//
 (10)ブハーリンは私的に主導性を発揮したけれども、政治局の右派は、反対派を組織する努力を何ら行わず(左翼が引き起こした「分派主義」に対する制裁を遵守していた)、その議論をスターリンとともに遂行し、政治局のスターリンの支持者たちはドアを閉鎖した。
 しかしながら、この戦術は厳しい不利益をもたらしたことが分かった。政治局の狭い部屋にいる右翼主義者たちは、党内にいる曖昧で匿名の「右翼の危険」--この意味は、気弱で優柔不断な指導性の傾向と革命的確信の欠如だった--に対する公共的な攻撃に参加することを余儀なくされた。
 党指導部の閉鎖的な集団の外にいる者たちには、何らかの種類の権力闘争が行われていることが明瞭だった。しかし、係争点が何かも、右翼として攻撃されている者が誰かも、長い月日の間、明確にはならなかった。
 政治局の右派は、党内に支持を広げるようとすることができなかった。そして、彼らの基本的主張は、歪められたかたちでその対抗者によって公にされ、右派自身によっては、ときどきの示唆かイソップ的な言及しか行われなかった。//
 (11)右派勢力の二つの主要な根拠は、Ugalnov を長とするモスクワの党組織と、政治局の右翼メンバーのMikhail Tomsky を長とする中央労働組合会議だった。
 前者は1928年秋にスターリン派に屈し、ついには、スターリンの古い同僚のVyacheslav Molotov が指揮する徹底的な粛清を受けた。
 後者は数カ月後にスターリン派に屈したが、こちらの場合に指導したのは、目立ってきているスターリン支持者のLazar Kaganovich だった。この人物は、まだ政治局員候補者にすぎなかったが、悪名高く面倒なウクライナ党組織に関して以前に割り当てられた仕事での頑強さと政治的狡猾さで、すでによく知られていた。
 政治局内の右派は孤立し、政治的策略に負け、最終的には氏名が識別され、1929年の初頭に裁判にかけられた。
 Tomsky は労働組合での指導力を失い、ブハーリンはコミンテルンおよび<プラウダ>編集部での地位を奪われた。
 Rykov は政治局内右派の最長老であり、ブハーリンよりも慎重で実際的な政治家だった。また、おそらくは党指導層内にもっと力があったと推定される。そして、右派の敗北後もほとんど二年間、ソヴィエト政府の長にとどまった。しかし、1930年の末には、Molotov と交替させられた。//
 (12)右派が党と行政エリートたちの間で現実にいかほど強かったのかは、査定するのが困難だ。公然たる論争や組織された分派が存在していなかったのだから。
 党と政府官僚機構からの集中的な粛清が右派の敗北後に続いために、右派はかなりの支持を得ていた(またはそう考えられていた)ように見えるかもしれなかった。(10)
 しかしながら、右派だとして降格された官僚たちは必ずしもイデオロギー的には右派ではなかった。
 右翼とのレッテルは、イデオロギー上の偏向者にも、官僚組織上の無用者にも、いずれにも貼られた。後者はすなわち、あまりに無能で無感情で、あるいはスターリンの上からの革命という攻撃的な政策をともに実行することに挑戦しようとの意欲がない、と判断された者たちだった。
 この二つの範疇は、明確には識別できなかった。同じ一つのレッテル貼りは、イデオロギー的右派の信用を貶めるための、スターリニストたちの方法の一つにすぎなかったのだ。//
 (13)スターリンに対するこれまでの反対派と同様に、右派は、スターリンが統制する党機構に敗北した。
 しかし、初期の指導者をめぐる闘争とは対照的に、今回のものは基本的考え方や政策に関する明瞭な論争点が関係していた。
 これらの論点は票決に付されはしなかったので、我々は全体としての党の態度を想像することができるにすぎない。
 右派の基本的考え方は、社会的および政治的な転覆の危険性をより少なく意識するものだった。そして、党幹部たちがネップ時代の習慣と志向を変更することを要求しなかった。
 一方で弱点は、右派はスターリンに比べて、はるかに少なくしか成果を見込んでいないことだった。
 そして、1920代後半の党は、何らかの成果に飢えていた。我々が後になって知っているそれに要した対価について、党には知識がなかった。
 右派は、結局のところは、穏健だが成果に乏しい、対立の少ない基本方針を党に提案していた。党は、憎悪に溢れるほどに革命的であり、外国や国内にいる敵の隊列から脅威を受けていると感じており、社会をなおも変形することができるし、そうしなければならないと信じ続けていた。
 レーニンは1921年に、〔右派のような〕基本方針を受諾させた。
 しかし、1928-29年の右派には、それを指導するレーニンがいなかった。
 そして、全体的な経済崩壊と民衆反乱の切迫は、退却というネップ政策を(1921年のようには)もう正当化することができなかった。//
 (14)かりに右派指導者たちがその基本方針を公に発表しなければ、または論点に関する党の広範な議論を要求しなければ、党の統一に関して彼らが明確に逡巡した以上に事は進んだかもしれない。
 右派の基本方針は合理的なもので、おそらくは(彼らが主張したように)レーニン主義的でもあった。しかし、共産党員たちの内部で運動をするには、適切な基本方針ではなかった。
 政治的な観点からすると、右翼主義者は、例えば、労働組合に対して大きな譲歩をすることに決したイギリスの保守党政治家たちや連邦の統制力を拡大し事業に対する政府の規制を増大させようとしたアメリカの共和党政治家たちが直面しただろう問題を抱えていた。
 そのような諸政策は、実際的(pragmatic)な理由で、政府の閉じられた会議の中では勝利したかもしれない(これは1928年の右派の望みであり基本戦略だった)。
 しかし、党員たちを奮い起こして結集させる、よいスローガンを、彼らは提示しなかった。//
 (15)初期の反対派たちと同様に、右派もまた、党内部での民主主義の拡大という信条を採用した。これはしかし、共産党員たちの心を掴む方法としては曖昧な価値しかもたなかった。
 党の地方官僚たちが不満に感じたのは、自分たちの権限をそれは弱めるのではないかとということだった。
 Rykov は、ウラルでのとくに明瞭な変化の際に、右派は「(地域の党の)書記局員たちから逃げだそう」としているように見える(11)、と言われた。つまり、何かが間違って行われていると責め、その組織の上部には、適切に選出されていないために仕事をする権利がないと主張していると見える、と。
 中級層の地方官僚の立場からは、右翼主義者は民主主義者というよりもエリートたちであり、おそらくはモスクワであまりに長く務めたために党の草の根の部分の気分を理解していない者たちだった。
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 (7) スターリンの調達危機(1928年1-2月)に関する言明は、スターリン全集第11巻p.3-22.
 Moshe Lewin, <ロシアの農民とソヴィエト権力>(London, 1968),p.214-p.240.も見よ。
 (8) Frukin の助言は<Za chetkuyu klassovuyu>(Novosibirsk, 1929),p.73-74.で報告されている。
 Uglanov の推薦は1月末のモスクワでの演説で述べられ、<Vtoroi plenum MK PKP(b),1.31-2.2.1928. Doklady i rezoliutsii>(Moscow, 1928),p.9-11, p.38-40.で公刊された。
 (9) Fitspatrick,<スターリンTeamについて>,p.55-57.を見よ。
 (10) Cohen,<ブハーリンとボルシェヴィキ革命>,p.322-3.を見よ。
 (11) このコメントはウラルの党書記のIvan Kabakov によってなされた。ルィコフが1930年夏にSverdlovsk で行った時機遅れの「右翼主義」演説に反応して。
 <X Ural'skaya konferentsiya Vsesoyuznoi Kommunisticheskoi Partii(b)>,(Sverdlovsk, 1930), Bull.6,14.
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 第2節・工業化(The industrialization drive)。
 (1)かつて帝制時代の最高位にあった近代化者のWitte 公にとってと同じく、スターリンにとって、ロシアの重工業の急速な発展は国力と軍事力の必須条件だった。
 スターリンは1931年2月に、こう語った。//
 『過去には、我々には祖国がなく、それをもち得なかった。
 しかし、資本主義を打倒して権力を我々の手中に、人民の手中にした今では、我々には祖国がある。そして、その祖国の独立を防衛しなければならない。
 きみたちは、我々の祖国が打ち負かされて、独立を失うのを望むか?
 そう望まないならば、きみたちは、できるかぎり短い期間内に後進国状態を終わらせて、本当のボルシェヴィキ的速さで、社会主義経済を建設しなければならない。』
 これは、絶対的に切実に必要なことだった。ソヴィエトの工業化の速さは、社会主義祖国が生き延びるか、それとも敵の前で崩壊するかを、決するだろうからだ。//
 『遅らせることは、後退することを意味する。
 そして、後退した者は打ち負かされる。
 いや。我々は敗北するのを拒む。
 これまでのロシア史の特徴の一つは、後進国であるがゆえの継続的な敗北だった。
 モンゴル・ハンに負けた。
 トルコの豪族様に負けた。
 ポーランドとリトアニアの地主紳士諸君に負けた。
 イギリスとフランスの資本主義者たちに負けた。
 日本の貴族たち(barons)に負けた。
 みんなロシアに、後進国だから勝ったのだ。軍事的後進性、文化的後進性、政治的後進性、産業の後進性、農業の後進性のゆえに。<中略>
 我々は、先進諸国から50年、あるいは100年、後れている。
 我々は、10年以内にこの隔たりを埋めなければならない。
 それをするか、敗北しなければならないのか、のいずれかだ。』(12)//
 (2)1929年の第一次五カ年計画の採択によって、工業化はソヴィエト体制の最優先の課題になった。
 工業化追求を担当する国家機構、重工業人民委員部(最高経済会議の後身)の長は、1930年から1937年まで、スターリン主義指導層のうちの最も強力で活力のある者の一人であるSergo Ordzhonikidze だった。
 第一次五カ年計画は、鉄と製鉄に焦点を当て、すでに存在したウクライナの冶金工場群の生産高を最大限にまで押し上げ、南部ウラルのManitogorsk のような大きくて新しい複合施設を最初から建設した。
 トラクター製造工場にも高い優先順位があったのは、集団的農業に直接に必要だった(集団化の過程で農民が牽引動物を殺戮したためにより切実になっていた)ばかりではなく、将来の戦車(tank)製造へと容易に転換することができたからだった。
 工作機械製造工業は、外国からの機械輸入への依存から脱するために、急速に拡大した。
 織物産業は、その発展のためにネップの時期に多額が投資されていたにもかかわらず、また多数の熟練ある労働力があったにもかかわらず、衰退した。
 スターリンが語ったと言われているように、赤軍は皮や織物とではなく、金属と闘うこととなった。(13)//
 (3)金属が優先されることは、国家の安全や防衛の考慮と緊密に結びついていた。しかし、スターリンに関するかぎりでは、それを超える重要性をもったように見える。
 つまるところ、スターリンはボルシェヴィキ革命家なのであり、その党での名前はロシア語の鋼鉄(<stal'>)から取ったもので、1930年代初めの製鉄と銑鉄の生産への狂信さ(cult)は、スターリン個人崇拝(cult)の出現よりも超えるものだった。
 全てが第一次五カ年計画での金属のために犠牲になった。
 実際、石炭、電力および鉄道への投資は十分でなかったので、燃料と力の不足と輸送手段の故障は、しばしば金属冶金工場群が停止する脅威となった。
 1930年まで国家計画委員会の長だった古いボルシェヴィキGleb Krzhinzhanovski の見解では、スターリンとモロトフは金属生産にあまりに夢中で、工場群は原料の鉄道輸送や燃料、水および電気の安定的供給に依存していることを忘れがちだった。//
 (4)だがなおも、供給と配分を組織することは、第一次五カ年計画の間に国家が想定していた、おそらくは最も手強い任務だった。
 これが10年前に戦時共産主義のもとで(失敗しつつかつ一時的に)行われたとき、国家は、都市での経済、配分および取引をほとんど全面的に統制することができた。
 そして、今度は、統制は永続的なものとされた。
 私的な製造工業と取引の削減は、ネップ時期の後半に始まった。そして、1928-29年には、ネップマンたちに対抗する圧力とともにその過程は速くなっていった。-プレスでの中傷、法的および財政上の嫌がらせおよび多数の私的起業者たちの「投機」を嫌疑とする逮捕。
 1930代の初めには、職人や小規模小売店は仕事からはじき出され、または国家が監督する協同組合へと強制的に編入された。
 同時期に行われた農業の実体的部分の集団化とともに、かつてのネップ時期の混合経済は早々と消滅していた。//
 (5)ボルシェヴィキにとって、中央指向の計画と国家による経済統制という原理的考え方は大きな重要性をもつもので、1929年の第一次五カ年計画の導入は社会主義へと至る重要な一歩だった。
 たしかに、ソヴィエトの計画経済が制度として確立されたのはこの10年のうちにだった。経済成長のうちの「計画」的要素をさほど文字通りには理解することはできない、そういう移行と実験の時代だったのだけれども。
 第一次五カ年計画と経済の現実的作動との関係は、のちの五カ年計画よりもはるかに少ないものだった。つまり、実際には、純粋な経済計画と政治的な奨励との混合物(hybrid)だった。
 この時期の逆説の一つは、こうだった。すなわち、計画の真っ最中の1929-31年に、国家の計画機関の人員たちは右翼主義者、元メンシェヴィキあるいはブルジョア経済学者という理由で容赦なく粛清され、彼らはほとんど機能することができなかった。//
 (6)1929年の導入の以前と以後のいずれにも、第一次五カ年計画には多くの版があり、多くの修正があった。政治家たちからの圧力の程度が異なるのに対応して、計画者たちが競い合ったのだ。(14)
 1929年に採択された基本版は大量の農業集団化を想定しておらず、工業が労働力を必要とすることを大幅に低く見積もっており、職人的生産と取引のような諸問題をきわめて曖昧にしか処理していなかった。これらについて、体制側の政策は、曖昧で不明瞭なままだった。
 計画は、生産目標を設定した-金属のような重要分野では計画が実施された後も頻繁に上げられたけれども-。しかし、生産増大のための資源をどこから入手するかに関しては、きわめて曖昧な指示しか与えなかった。
 後続したいずれの版も計画達成に関する最終的な叙述も、現実との関係には多くは言及していなかった。
 計画の表題すらが不正確であることが判明することとなった。第一次五カ年計画は第四年度で完成する(または完結する)と最終的には決定されたのだから。//
 (7)工業は計画をたんに履行するのではなく、「上回って達成する」ことが奨励された。
 換言すると、この計画が意図したのは、資源を配分したり需要を較量することではなくて、ともかくも向こうみずに経済を前進させることだった。
 例えば、Stalingrad のトラクター製造工場群は計画されていた以上に<多くの>トラクターを生産して、計画を最善に実現することができた。しかし、そのことが工場群がもつStalingradに金属、電気部品やタイヤを供給する工程表を全面的に狂わせるものだったとしても。
 供給が優先することは、計画の文章によってではなく、一連のそのつど(ad hoc)の重工業人民委員部、政府の労働・防衛会議、あるいはときには党の政治局、の指令によって決定された。
 最優先(<udarnye>)の公的リストにある事業体や建設企画者を覆っていたのは、激しい競争意識だった。それに含められているということは、供給するには従前の全ての約定や責務を最優先の指令を実現するまでは無視することが必要だ、ということを意味した。//
 (8)しかし、最優先リストは、危機、生起する災害あるいは重要な工業部門の一つの中での目標の新規引き上げに対応して、頻繁に変化していた。
 「工業戦線での停止」は予備の新しい人間や資材の投入を要求するものなので、ソヴィエトの諸新聞の第一面に、かつ実際にソヴィエトの工業家の日常生活に、劇の一幕を提供するようなものだった。
 第一次五カ年計画の間に成功したソヴィエトの工業管理者は、忠実な官僚ではなく、むしろ敏腕で有能な起業家だった。手を抜きつつ、競争相手に勝つあらゆる機会を掴もうとする意欲があった。
 目的-計画の実現または上回っての達成-は、その手段よりも重要だった。
 供給を強く望んだ工場群が貨物運送車両を突然に襲ってその中身を徴発する、という場合もあった。このようなことは、輸送に責任がある当局から不服と遺憾の旨の文書が送られたとしても、それよりは悪くない結果をもたらすものだった。//
 (9)しかしながら、工業生産高の迅速な増大が強調されたにもかかわらず、第一次五カ年計画の本当の目的は、建設することだった。
 新しく巨大な建設計画-Nizhny Novgograd (Gorky)の自動車、Stalingrad とKharkov のトラクター、Kuznetsk とMagnitogorsk の冶金、Dnieper (Zaporozhe)の製鉄、およびその他多数-は、第一次五カ年計画の間に膨大な資源を呑み込んだ。しかし、完全に生産を開始したのはようやく1932年より後の、第二次五カ年計画(1933-37年)のもとでだった。
 これらの建設計画は、将来のための投資だった。
 投資額の巨大さのゆえに、第一次五カ年計画の間になされた新しい巨大工業基地の位置に関する決定は、事実上はソヴィエト同盟の経済地図の中で描き直されていた。//
 スターリンがジノヴィエフ反対派と対立していた1925年の初めには、投資の問題は党内政治のある範囲の部分だった。スターリンの運動家たちは、工業化計画がそれぞれの特定地域にもたらす利益を各地域の党指導者が理解するように、取り計らったのだから。
 しかし、ボルシェヴィキたちが政治の新しい次元全体-発展の配置に関する地域間競争-に本当に目を開いたのは、1920年代の最後の年に、第一次五カ年計画の最終決定が迫ったことによってだった。
 1929年の第16回党大会では、演説者は多大なる関心をより実際的な問題に寄せたがゆえに、イデオロギー上の闘争に気持ちを向け続けることが困難だった。ある古きボルシェヴィキが、皮肉っぽくこう記したように。
 「演説は全て、こう終わる。
 『ウラル地域に工場を一つ寄こせ。そして、右翼よくたばれ!
 我々に発電所を寄こせ。そして、右翼よくたばれ!』」(15)//
 (10)ウクライナとウラルの党組織は、鉱業や冶金複合体および機械製造工場群に対する投資の配分に関して反目し合っていた。
 そして、それらの対立関係は、1930年代を通じてずっと継続した。-この対立を引っ張ったのは、ウクライナの前党書記のLazar Kaganovich と労働組合の全国的指導者の地位を得る前にウラル党組織の長だったNikolai Shvernik のような、国家的大政治家たちだった。
 緊張にみちた対立は、第一次五カ年計画の間の建設が予定された特殊な工場群の位置の問題にも発展した。
 ロシアとウクライナの六都市はトラクター工場群について入札したが、結局はKharkov に建設された。
 同様の争いは、おそらくこの種の最初のものだが、ウラルの機械製造工場群(Uralmash)の位置に関して1926年から激しく行われていた。最終的に勝利したSverdlovsk は、場所の決定にかかるモスクワの手を縛るために、中央による認可書なくして、地方の資金を使って建設を開始した。(16)
 地域間の強い競争(例えばウクライナとウラルの間のそれ)は、しばしば二つの勝利という結論をもたらした。-計画者の元来の意図は一つだけ建設することだったにもかかわらず、各地域それぞれに別々の二つの工場群を認める。
 こうしたことは、第一次五カ年計画の特徴である、目標の高揚や永続的な費用の増大の一要因だった。
 しかし、唯一の要因ではなかった。モスクワにいる中央の政治家や計画者たちは、明らかに「巨大症(gigantomania)」、つまり巨大さに対する妄想〔強迫観念〕、に陥っていた。
 ソヴィエト同盟は他国よりも、より多く建設し、より多く生産しなければならなかった。
 その工場群は世界で最も新しく、最も大きなものでなければならなかった。
 経済発展で西側に追いつくことだけではなくて、凌駕しなければならなかった。//
 (11)スターリンが飽くことなく強調したように、近代工業は、追いつき、追い越す過程にとって不可欠の条件だった。
 多くの専門家たちは反対する助言をしたけれども、新しい自動車とトラクターの工場は流れ組み立て作業(assembly-line)による生産用に建設された。伝説的な資本家であるフォードが、試合で敗北しなければならなかったからだ。
 実際には、第一次五カ年計画の間に新しいコンベア・ベルトがしばしば止まり、一方では、労働者たちは仕事場での伝統的な方法で、丹念に一台のトラクターを組み立てた。
 しかし、故障したコンベアにすら、その役割があった。
 実質的に見れば、それは第一次五カ年計画による将来の生産への投資の一部だった。
 象徴的な意味では、ソヴィエトの新聞に写真が掲載され、公式のかつ外国の訪問者に敬意を表されれば、スターリンがソヴィエト国民や世界が受け取るだろうと期待するメッセージを伝えたのだ。つまり、後進国のロシアはすみやかに「ソヴィエト式のアメリカ」になるだろう、というメッセージ。
 経済発展という大飛躍は、こうして進められていた。//
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 (12) スターリン全集・第13巻p.40-41.〔=日本語版全集13巻「経済活動家の任務について」p.59-p.61.(大月書店)〕
 (13) スターリンの言葉は<Puti industrializatsii>(1928), no.4, p.64-65. に引用されている。
 (14) E. H. Carr & R. Davis, <計画経済の形成, 1926-1929>(London, 1969), i, p.843-p.897.を見よ。
 (15) David Ryazanov, in: <XVI Konferentsiya VKP(b), aprel' 1929 g. Stenograficheskii otchet> (Moscow, 1962), p.214.
 (16) 第一次五カ年計画をめぐる政治につき、Sheila Fitzpatrick,「Ordzhonikidze によるVesenkha の継承-ソヴィエトの官僚的政治の事例研究」<ソヴィエト研究>37: 2(1984.4).
 地域的事例研究として、James R. Harris, <大ウラル-地域主義とソヴィエト体制の進展>(Ithaca, 1999), p.38-p.104. を見よ。
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 第3節、第4節へとつづく。

1905/ソヴィエト体制下の「洗脳」とドクトル・ジバゴ。

  ノーベル文学賞が与えられたことになっている(本人は辞退)『ドクトル・ジバゴ』(1957年。映画化1965年)の作者であるB・パステルナーク(Boris Pasternak)について、無責任にも?<なぜこの人は亡命しなかったのだろうと思うときがある。よく分からない>とこの欄にかつて書いたことがある。1910年頃に留学していたドイツ・マールブルク(Marburg)について記したときだった。
 今でもよく分からないが、L・コワコフスキの『マルクス主義の主要潮流』第三巻第二章第一節の<文化等の一般的状況>(この欄№1863/1918.11.02)の中で久しぶりにBoris Pasternak の名を見つけた。1920年代~1930年代の<作家・文筆家>の様子がある程度は分かる。
 L・コワコフスキによると、1930年代、作家(文筆家・詩人)たちは、こう分かれる。
 ①殺戮される-Babel、Pylnyak、Vesyoly。
 ②自殺する-Mayakovski、Yesenin。
 ③強制収容所で死ぬ-Mandelshtam。
 ④国外に逃亡(亡命)する-Zamyatin。
 ⑤スターリンを称賛する「物書き」になる-Fadeyev、Sholokhov、Olesha, Gorky。
 B・パステルナークはどこに入るのか。まだ、つぎがある。
 ⑥何とか「迫害と悲嘆の時代」を生き残る-Akhmatova、Pasternak。
 B・パステルナークは殺されもせず、亡命(国外移住)もせず、ロシア国内で「生き延びた」のだ。
 どのようにして? その詳細は分からない。何らかの「食って、生きる」ための仕事をし、詩作や文章書きを<隠れて>行っていた、という程度にしか分からない(もちろん、日本語本にあるこの人の評伝には正確なことが書かれているだろう)。
 それにしても、Pasternak と並んでいるAkhmatova (女性)は、第三者、とくに体制関係者に分からないように、<自分の脳内に詩作を記憶させ、蘇生させ反芻しながら、脳内で詩作を続けていた>と何かで読んだのだから、凄まじい<表現の自由>の否認状況だろう。脳内にしか、発表し、保存する媒体はないのだ。
 Boris Pasternak もまた、似たような状況にいたと思われる。
 "Doktor Zhivago" がふつうの小説ではなく、私が一読しても登場人物にかかるストーリーの現実性や連続性には疑問があり、長いものもある「詩」が何度か挿入されているのも、その作成や構成に要した時間と、取り囲んでいた「(とくに政治)環境」によるものと思われる。
  レーニン時代にせよ、スターリン時代にせよ、種々の政治的事件や制度等の歴史も重要だし(指導者、党、国政あるいは中央と地方、ロシアと他民族、外国との関係等々)、また、いかほどの数の人間が粛清やら大粛清あるいはテロルによって死んだのかも、もちろん重要な関心事だ。
 しかし、どうしても今日的には理解し把握し難い、あるいは実感し難い重要なものがあるということを意識しておかなければならないように思われる。
 それは、<イデオロギー>というものの役割、あるいはいささかどぎつい言葉を選べば「洗脳」というものはいかなるものか、だ。
 これは現在の日本人には、またほとんどの欧米人には、ほぼ理解不能なのではないか。
 そんなことを感じたのは、やはりL・コワコフスキの叙述による。
 うまく訳しきれていないが、L・コワコフスキによると(№1886/2018.12.08)、こんな状態があった。長くなるが、叙述の順序に従って、ほとんど再引用する。要約している部分もかなりある。
 ①人物や事件の評価が「修正」されたとき、人々はその「修正」の簡単な方法・経緯を知っていたが、それを公言すれば制裁を受けるので<何も語らなかった>。
 ②知っていても決して言及しない「公然の秘密」がある。
 ③人々は強制収容所についてしっかりと知っていたが、それはしかし(引用すると)、「そのような事実は存在していないというふりをお互いにしつつ、その事実に気づいていることを政府が望んでいた」からだ
 ④人々には「二重(dual)の意識」が作り出された。それは体制側の意図だった。
 ⑤人々はあちこちで「醜悪な虚偽を繰り返して語るように強いられ」、かつ同時に、「十分によく知っていることについて沈黙を守るように強いられた」。
 ⑥人々は、「党と国家が吹き込んだウソを絶え間なく反復することによって、ウソだと知りつつ発言することで、ウソについて党と国家の共犯者になった」。
 ⑦体制側の意図は、馬鹿馬鹿しい虚偽を「そのまま信じる」ことではなかった。
 ⑧「完全な服従とは、人々が現在のイデオロギーはそれ自体は何も意味していないと認識することを要求するものだった。すなわち、イデオロギーのいかなる側面も、最高指導者が意図するいかなるときでも勝手に変更したり取消したりすることができないものなのだ。そして、何も変更されておらず、イデオロギーは永遠に同一なのだ、というふりをする(pretend)ことが、全ての者の義務になる」。
 ⑨「党のイデオロギーはいつでも指導者が語った以上のものでも以下のものでもない、ということを理解するために、市民は、二重の意識を持たなければならなかった。
 すなわち、公的には、変化しない教理問答書としてのイデオロギーに忠実であると告白する
 一方、私的には、または半ばの意識では、イデオロギーは完全な融通性をもつ、党の手にある、つまりはスターリンの手にある、道具だと知っている
 市民はかくして、『信じることなくして信じる』(believe without believing)ことをしなければならなかった」。
 ⑩上の「心理(mind)状態」こそが、、党が人々の中に「作り出して維持しようとしている」ものだった。
 ⑪人々は「政府のウソを繰り返して言った」。そして考え難いことだが、その人々は「自分たちが言っていることを半分は信じていた」。
 ⑫人々は何と言うのが「正しい」のか、つまり「何と言うことが彼らに要求されているか(=正しいか)」を知っていた。そして奇妙なことだが、彼らは「真実と正しさ」とを混同していた
 この辺りのL・コワコフスキの最後の文章はつぎのとおり。
 ○「このようにして同時に二つの分離した世界で生きるという状態は、スターリニズム体制が達成した最も顕著なものの一つだった」。
 ソヴィエト体制下で生じたのは、たんなるテロル・大粛清や貧困・飢餓等だけではない。
 注目しておくべきなのは、人間の<自由で、誠実な精神>というものの破壊だっただろう。
 上の⑤⑥、⑧⑨あたりは、きわめて理解し難い「心理・精神」の状態だ。
 L・コワコフスキは二重(dual)意識と呼ぶが、G・オーウェル『1984年』には二重(double)意識という語が出てくるらしい。
 ともあれ、ソヴィエト体制下でのイデオロギー操作というのは、<ウソが真理だと信じ込ませる>ことでは全くない、と今日のわれわれも知っておくべきだろう。単純な?「洗脳」ではない。
 私にもまだ判然としないが、こういう心理・精神状態をどう理解すればよいのだろう。
 **ウソをつきつつそれが本当のことだと信じている<ふりをする>、かつまた、ウソであることを本当は知っていることも<匂わせる>。**
 何と複雑な、欺瞞に満ちた心理・精神状態だろうか。
 多くの人々が、こういう心理・精神状態の中で生きていたのではないか。
 「しろうと」ながら、ヒトラー・ナツィズム体制は、もっと大らかで率直で正直だったような気がする。唖然とする、悪辣なことを平然とかつ公然と語っていたような気がする。
 コミュニズム(共産主義)とナツィズムの違いだ。
  B・パステルナーク『ドクトル・ジバゴ』はレーニン時代を歴史的背景とする作品だ。
 1917年秋・冬から三回の冬のことを、この作品はこう叙述している(私の訳-№1548/2017/05/18)。
 「冬がやってきた。この冬はそれに続いた二つの冬ほどにはまだ悲惨ではなかったけれども、だがすでに似たようなもので、陰鬱さ、飢え、寒さ、そして全ての日常的なものの激変を、特徴としていた。存在の全ての基礎の新たな形成や、滑り去る生活に取りすがろうとする完全に非人間的な努力をだ。//
 三回の恐ろしい冬が、つぎつぎに連続した。今17年から18年の冬に起きたと記憶していることの全ても、本当はこの当時ではなく、ことによると、もっと後に起きたのだったかもしれない。この三つの冬は、一つに重なっていて、一つ一つを区別するのはむつかしい。//」
 さらに、すでに新体制=ソヴィエト・ボルシェヴィキ体制の「人間」観を疑問視するこんな発言も、主人公の友人(ラーラの正式・形式上の夫でボルシェヴィキに入党したが、最後は自殺)にこう語らせている(私の訳-№1539/2017/05/13)。
 「だが、第一に、十月〔1917年〕以来に説かれている全般的な完成化(allgemeine Vervollkommnung)の理念は、ぼくを燃え立たせない。/
 第二に、全てが実現からほど遠いのに、その理念を語るだけでも、これほどたくさんの血の海(Stroemen von Blut)が代償として必要だった。目的は手段を正当化するって、ぼくには分からない。/
 第三に、これが肝心なことだが、人間の改造(Umgestaltung des Lebens)という言葉を聞かされると、ぼくは自分をどうも抑制できなくなって、絶望へと陥ってしまう。//
 人間の改造だって! こんなことは、なるほど多くのことを体験しているが、人間とは何かを実際にはまるで知ってはいない者たちだけが、考えることができる。人間の呼吸=精神(Geist)や人間の搏動=魂(Seele)を感じたことのない者たちだけが。/
 そういう者たちにとって、人間の存在というものは、彼らがまだ触って磨き上げていない、もっと加工が必要な、原材料の塊なのだ。/
 しかしね、人間は決して、かつて一度たりとも、材料や素材ではない。/
 きみが知りたいのなら、人間は永遠に自らを作り直している原理体だ。人間は、絶えず自らを更新しており、永遠に自らを形成し、変化させているのだ。それは、きみやぼくの愚かな考えなどを際限なく超越したところにある。//」
 あくまで小説上のものだが、これはスターリン下の言葉ではない。明らかにレーニン時代のものとして語らせている。
 ***
 最後に、この時代に、ロシア(・ソ連)の将来を悲観して、あるいはブルジョアジーとか「知識人」とかの<逆差別>を受けて(レーニン政権が追求したのは決して「平等」なのではない。「階級敵」の平等視があるはずもない)、国外に脱する直前のユリイの正式の妻・トーニャの手紙の一部を再度引用しておきたい。
 あくまで、作品上のものだ。しかし、他国へ行く当時の人々によってこういう文章は実際に書かれたのではないか(私の訳。同上)。
 「さようなら。もう終わらなければいけない。
 ああ、ユーラ、ユーラ、私の愛する人、大切な夫、私の子どもの父親、どうしてこんなことになったの ?
 私たち、もう二度と、もう二度と、決して会うことがないのよ。
 あなた、こう書いたことの意味が分かる ? 理解できる ? 理解できる ?」
 ユリイの妻・トーニャの手紙から。Boris Pasternak, Doktor Shiwago〔独語版〕, p.521.

1903/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑮。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017). 試訳のつづき。
 第4章までは済ませている。
 各節の前の見出しのない部分はこれまでどおり「(はじめに)」とここでは題しておく。しかし、正確な言葉ではなく、これまでの章もそうだが、章全体の内容をあらかじめ概述するような意味合いのものであるようにも見える。
 これまでと同様に、一文ごとに改行し、本来の改行部分には//を付す。但し、新規にだが、原文にはない段落番号を( )の中に記すことにした(但し、太字化はしない)。
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 第5章・スターリンの革命。
 (はじめに)
 (1)第一次五カ年計画(1929-1932)による工業化追求とそれに伴う強制的農業集団化は、しばしば「上からの革命」だと叙述されてきた。
 しかし、戦争の比喩的描写と同じようにするのが適切だった。そしてこの当時は、-ソヴィエトの注釈者たちが好んで行ったように「戦闘の真只中」のときには-戦争に関係する暗喩の方が、革命的な語法よりすら一般的だった。
 共産党員(共産主義者)は「戦闘員」だった。ソヴィエトの力は工業化と集団化という「戦線」へと「動員」されなければならなかった。
 ブルジョアジーやクラク〔富農〕という階級敵から「反撃」や「伏兵攻撃」がなされることが、想定され得た。
 ロシアの後進性に対する戦争だった。そして同時に、国の内部と外部にいるプロレタリア-トに対する階級敵との戦争だった。
 実際にこの時期は、ある範囲の歴史研究者ののちの見方によれば、「国民(the nation)」に対するスターリンの戦争の時代だった。(1)//
 (2)戦争で喩えるのは、明らかに、内戦と戦時共産主義の精神に立ち戻ることおよび非英雄的なネップという妥協を非難することを意味していた。
 しかし、スターリンはたんに表象を弄んでいたのではなかった。第一次五カ年計画の時代のソヴィエトは、多くの点で、戦争中の国家に似ていたからだ。
 体制の政策に対する政治的な反対と抵抗は裏切りだと非難され、ほとんど戦争中の厳しさでもって頻繁に罰せられた。
 スパイと破壊工作に対する警戒の必要性は、ソヴィエトの新聞の決まった主題になっていた。
 民衆一般は愛国的連帯意識を強く搔き立てられ、工業化という「戦争遂行」のために多大の犠牲を払わなければならなかった。すなわち、戦争時の条件や配給制をさらに進めたものが(意図せざるものであっても)都市部に再導入された。//
 (3)戦時中のごとき危機的雰囲気は、ときに純粋に工業化や集団化の失墜に対する緊張への反応として認められた。しかし、それはじつに、現実に起きたことに先行していた。
 戦争非常事態という心理状態は、1927年の大戦の恐怖でもって始まった。その頃、党や国家では全体として、資本主義諸国による新しい軍事干渉が近づいていると信じられていた。
 ソヴィエト同盟はその当時、その外交政策およびコミンテルンの政策が連続して拒絶されるという憂き目に遭っていた。-英国は突然にロンドンのソヴィエト通商使節団(ARCOS〔=All Russian Co-operative Society〕)を攻撃し、中国の国民党の蒋介石は、同盟者である中国共産党への攻撃を開始し、ポーランドではソヴィエトの外交幹部団の暗殺があった。
 トロツキーとその他の反対派たちは、このような外交政策の失敗に、とくに中国でのそれについてスターリンを非難した。
 多数のソヴィエトおよびコミンテルンの指導者たちは、こうした拒絶はイギリスが指導している積極的な反ソヴィエト陰謀の証拠だと大っぴらに解釈した。ソヴィエト同盟に対する計画的な軍事攻撃で終わるものと想定される陰謀なのだった。
 国内の緊張が増したのは、GPU(チェカの後継機関)が体制の敵である嫌疑者を探し回り始め、新聞が反ソヴィエトのテロルの事件や反体制の国内陰謀を発見したことを報道したときだった。
 戦争が始まるのを予期して、農民たちは穀物を市場に出すのを拒み始めた。そして、村落と都市の両方の住民はパニックを起こして、基礎的な消費用品を買い漁った。//
 (4)たいていの西側の歴史研究者は、干渉という現実的かつ即時の危険はなかった、と結論づける。これはまた、ソヴィエト外務人民委員部〔=外務省〕の見解であり、そしてほとんど確実に、陰謀の気持ちのないアレクセイ・ルィコフ(Rykov)のような政治局員たちの見解でもあった。
 しかし、党指導部のその他の者たちは、本当にもっと怖れていた。
 その中には、このときはコミンテルン議長だった興奮しやすいブハーリンがいた。コミンテルンには、不安を撒き散らす噂が溢れ、外国の政府の意図に関する真実(hard)の情報はほとんどなかった。//
 (5)スターリンの態度を推測するのは、むつかしい。
 戦争の危険に関する数ヶ月の間の憂慮的議論の間、彼は沈黙を保ったままだった。
 そして、1927年の半ば、スターリンはきわめて巧妙に、反対派たちへと論点を向き変えた。
 戦争が切迫していることを否定したが、にもかかわらず彼は、トロツキーを公然と批判した。第一次大戦の間のクレマンソー(Clemenceau)のようにトロツキーは、敵が資本の傍らにいるときでも国の指導部には積極的に反対すると言明した、として。
 忠実な共産党員やソヴィエト愛国者にとって、これは国家への大逆行為に近いものに受け止められた。そして、この批判は、スターリンが数ヶ月のちに反対派に対する最後の一撃を下すためにおそらくは決定的だった。そのとき、トロツキーと反対派指導者たちは、党から除名(expell)されたのだった。//
 (6)スターリンのトロツキーとの間の1927年の闘いは、政治的雰囲気を悪い方向に高める不吉な背景になった。
 ボルシェヴィキ党でのそれまでの禁忌(タブー)を犯して、指導部は政治的反対者の逮捕、行政的な追放、および反対派に対するGPUによる嫌がらせという制裁を課した。
 (トロツキー自身は、党から除名されたのちアルマ-アタ(Alma-Ata)へと追放された。
 1929年1月には、政治局の命令によってソヴィエト同盟から強制的に国外追放された。)
 1927年末に、反対派によるクーの危険があるとのGPUの報告に反応して、スターリンは政治局に、フランス革命期の悪名高き嫌疑令(Law of Suspects)とのみ対比することが可能な一体の提案を行った。(2)
 承認されたが公表はされなかったその提案は、つぎのようなものだった。//
 (7)『反対する見解を宣伝する者は、ソヴィエト同盟に対する外部および内部の敵の危険な共犯者(accomplices)だと見なされる。
 かかる者は、GPUの行政布令によって「スパイ」として処刑される。
 広くかつ枝分かれした工作員のネットワークが、その最高部まで含めて政府機構内部にいる、および党の最高指導層を含めて党内部にいる、敵対分子を探索する職責をもつものとして、GPUによって組織される。』//
 スターリンの結論は、こうだった。「微小なりとも疑いを掻き立てる者は全て、排除されなければならない」。(3)//
 (8)反対派との最後の対決と戦争への慄えによって一般化した雰囲気は、1928年当初の数カ月の間に、さらに悪化した。この頃に、農民層との大規模な対立が始まり(後述、p.125-7.参照)、忠誠さの欠如の追及が直接に古い「ブルジョア」知識人に対して行われたのだ。
 1928年3月、国家検察庁長官は、鉱業での意図的な罷業と外国勢力との共謀を訴因として、Donbass のShakhty 地方の技術者集団を裁判に処する、と発表した。
 これはブルジョア専門家に対するひと続きの見せ物裁判の最初だった。これらの訴追によって、階級敵による内部的脅威は外国資本主義勢力による干渉の脅威と連結された。(4)
 そして、被告人たちは罪状を自白し、陰謀劇ふうの活動に関する状況的説明を行った。//
 (9)毎日の新聞が決まり文句でその大部分を報道した諸裁判がもたらしたのは、つぎの明白なメッセージだった。すなわち、ブルジョア知識人たちは、ソヴィエト権力に対して忠誠心をもつと主張していても、階級敵のままなのであり、その定義上、信頼するに値しない。
 ブルジョア専門家たちと一緒に仕事をしている党管理者や行政職員にそれほどに明白ではなくとも明瞭に伝わったのは、党の幹部たちもまた、かりにより酷くはなくとも、間違って、専門家たちに欺されるという愚かさ又は軽々しさの罪を冒す、ということだった。(5)//
 (10)新しい政策方針は、ロシアの労働者階級と党員たちに独特の、かつての特権階層出身の知識人に対する懐疑と敵愾の感情を利用していた。
 ある程度はそれはまた、疑いなく、第一次五カ年計画らによって到達すべきものと設定された高い目標に対する、多数の専門家や技術者たちの懐疑心に対する反応だった。
 にもかかわらず、工業化という突貫的な計画に着手しようとする体制にとって、莫大な犠牲を伴う政策方針だったのだ。農業分野での「クラク〔富農〕」という敵に対する1928-29年の運動がそうだったのと全く同様に。
 国にはあらゆる種類の専門家が不足していた。とくに、工業化への途にとって決定的に重要な知識をもつ技術者たちが。(1928年でのロシアの有資格技術者の大多数は、「ブルジョアジー」で、非党員だった)。//
 (11)反専門家運動を始めたスターリンの動機が何だったかは、歴史研究者たちを困らせている。
 共謀や罷業という訴因は容易には信じ難く、被告人たちの自白は強制されたか欺されたものだったために、スターリンとその仲間たちは彼らを信じることができなかっただろうと、しばしば考えられている。
 しかしながら、公文書庫から新しい資料が出てきたために、ますます、(必ずしも政治局の同僚たち全員ではなく)スターリンは共謀の存在を信じていた、そう信じることが同時に政治的利益になると知りつつ、少なくとも半分は信じていた、ように見える。//
 (12)OGPU(GPUの後身)の長官、Vyachevlav Menzhinskii が「工業党」党員だと追及している専門家の尋問調書からする資料をスターリンに送った。この党の指導者はたちはエミグレ資本主義者たちにより支援されるクーを計画し、外国による軍事干渉を企図する計画を抱いて活動しているとされていた。これを送られてスターリンは、面前での自白をいずれも価値があるものとして受領した、切迫する戦争の危険はきわめて深刻だと思う、との趣旨の返答をした。
 スターリンはMenzhinskii に対して、最も興味深い証拠は、予定される軍事干渉の時期にかかわっていると、つぎのように語った。//
 (13)『干渉を1930年に意図していたが、1931年または1932年に延期した、ということが判る。
 これは全くありそうだし、重要なことだ。
 これが第一次な情報源から、つまりRiabinsky、Gukasov、DenisovおよびNobela (革命前のロシアの大きな利益をもつ資本主義者たち)という、ソ連および他国移住者たちの中に現存する全ての集団の中で最も有力な社会経済グループ、資本およびフランスやイギリス両政府との関係という観点からして最も有力なグループを代表しているグループから得られたがゆえに、より重要なものだ。』//
 証拠が手に入ったと考えて、スターリンは、こう結論づけた。
 ソヴィエト体制はこれを国内かつ国外で集中的に公にすることができるだろう、「そうすれば、つぎの一年または二年の間、干渉の企てを全て抑え、阻止することができる。これは、我々には最大限に重要なことだ」。(6)//
 (14)スターリンおよび他の指導者たちが反ソヴィエト陰謀の存在と直接的な軍事的脅威を信じたか否かとは関係なく、あるいはいかほどに信じたかとは関係なく、こうした考え方はソヴィエト同盟に広く行き渡るようになった。
 これは体制側のプロパガンダ活動によるだけではなく、すでにある先入観と恐怖を強めるこのような見方が、ソヴィエトの国民の大部分にとって信じ得るものだったことにもよる。
 1920年代の遅くに始まったことだが、食糧不足、工業、輸送および電力の故障のような経済的諸問題の発生を説明するために、このような内部的および外部的な陰謀は決まって言及された。
 戦争の危険もまた、この時期にソヴィエトの<心性(mentalité)>に深く埋め込まれた。
 政治局および新聞読者たちの注意は絶えず戦争の脅威へと向かい、それは1941年に実際に起きた戦争勃発まで続いた。//
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 (1) Adam B. Ulam, <スターリン>(New York, 1973), Ch. 8.を見よ。
 (2) ジャコバンの大会は、嫌疑令(Law of Suspects、1793年9月17日)によってつぎのことを命じた。その行動、人間関係、著述物または一般的な挙措に照らして革命に対する脅威となる可能性のある全ての人物を即時に逮捕すること。
 スターリンはフランス革命のテロルを称賛していたことにつき、Dimitri Volkogonov, <スターリン-栄光と悲劇>, Harold Shukman 訳(London, 1991), p.279. を見よ。
 (3) Reimann,<スターリニズムの誕生>, p.35-p.36. によるドイツ外務省政治文書庫の中の文書から引用した。
 (4) Shakhty 裁判およびその後の「工業党」裁判につき、Kendall E. Bailes, <レーニンとスターリンのもとでの技術と社会>(Princeton, NJ, 1978), Chs. 3-5.を見よ。
 (5) S・フィツパトリク「スターリンと新エリート層の形成」同・<文化戦線(The Cultural Front)>, p.153-4, p.162-5.を見よ。
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 第一節・スターリン対右派、へとつづく。

1894/不破哲三「現代トロツキズム批判」(1959年)。

 こういう類を探し出せば、キリがないだろう。
 不破哲三は1959年、「ソ連」についてどう書いていたか、どういうイメージを持っていたか。
 不破哲三「現代トロツキズム批判」上田耕一郎=不破哲三・マルクス主義と現代イデオロギー/上(大月書店、1963年)のp.214。
 最初の掲載は1959年6月号の『前衛』。不破、29歳の年。
 **
 「トロツキーの『世界革命』理論の土台石を形づく」るのは、経済後進国ロシアで「完全な社会主義社会を建設することは不可能」だとする「理論」だ。
 「この一国社会主義批判は、もしそれが誤りだとなったなら、…トロツキズムの全体が一挙に崩壊してしまうほどの比重をしめていた。/
 だが、…十月革命以来四〇年の世界の発展は、トロツキズムのこの最大の支柱を、打ち破りがたい歴史的事実の力でうちくだいた。/
 すなわち、世界革命の不均衡な発展が主要な先進資本主義国をまだ資本主義体制にとどめているあいだに、ソ連は社会主義社会の建設を完了し、社会主義は資本主義的包囲を打ち破って世界体制となり、…共産主義社会への移行をめざして巨大な前進を開始しているのである」。
 フルシチョフが述べたように、「一国における社会主義の建設と、その完全かつ最終的な勝利にかんする問題は、社会発展の世界史的行程によって解決された」。
 **
 スターリン死亡が1953年、スターリン批判秘密報告は1956年で、このときソ連はフルシチョフの時代だった。日本共産党は1961年党大会の前。
 上で不破哲三は、「ソ連は社会主義社会の建設を完了し」、「共産主義社会への移行をめざして巨大な前進を開始している」と書いた。
 この歴史的事実によって、「一国社会主義」論の正しさとトロツキーの「世界革命」論の誤りが実証された、と言っているわけだ。
 第一に、このような「一国」か「世界」という対立・対比はスターリンがトロツキーらに政治的に勝利するために意図的に捏造した論争点で、この論点を極大化するのは政治的だ。理論・政策について、スターリンはトロツキーのそれらを多分に「利用」・「継承」している。
 このようなスターリンとトロツキーの見事な「相対化」は、L・コワコフスキにもS・フィツパトリクにも見られて、興味深い。
 不破哲三は、スターリンと同じ立場に立って、ソヴィエト・マルクス主義の経緯を理解したつもりでいたわけだ。この人は戦後の若い頃に、<スターリン・ソ連共産党史/小教程>を一生懸命読んで「憶えた」にちがいない。
 第二に、ソ連は社会主義国ではなかった、レーニンによって正しく歩み始めたのをスターリンがなし崩しにした、と言うどころか、1959年にはソ連での「社会主義建設は完了」したと(スターリンと同じく)明言していた。
 何とでも言えるものだ。1994年党大会で綱領改正の報告をしたとき、不破哲三は、かつて自分が書いたことなど(他にも多数あって?)忘れていたに違いない。いや、かすかに記憶に残っていたとしても、過去は過去、今は今で、どうでもよいことなのだ。
 とりあえず今を前進し、とりあえず今を切り抜け、自分が日本共産党の頂点にい続けることが可能であるならば。
 ソ連の「社会主義国」性につき、1994年の時点で不破哲三が反省らしき言辞を吐いたのは、秋月瑛二の知るかぎりでは、我々にも<ソ連の見方につき不十分さがあった>、というひとことだけだ。
 <何とでも言う>ことができる。
 かつてレーニンを擁護しつつスターリニズムを批判していた「トロツキスト」を批判していた日本共産党だが、今や(1994年党大会以降)「スターリニスト」も罵倒するに至った。かと言って、トロツキー批判は間違っていたと自己批判するわけでは、勿論ない。
 基本的・根本的なところで、日本共産党は「自己欺瞞」を今後も、し続ける。

1893/L・コワコフスキ著・第三巻第四章第1節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻第四章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化(crystallization。独語訳版はAusformung=形成)。
 1978年英語版第三巻 p.117-p.121、2004年合冊版p.881-p.884。
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 第1節・戦時中という幕間。
 (1)1930年代の終わりまでに、マルクス主義は、ソヴィエトの党と国家の教理という、明瞭に定められた形態をとるに至っていた。
 その公式名称は、マルクス=レーニン主義(Marxism-Leninism)だった。これは、すでに説明してきたように、スターリンの個人的イデオロギー以外の何ものをも意味しなかった。マルクス、エンゲルスおよびレーニンからの理論の細片をわずかに含んではいた。しかし、四人の「古典的」教師たちが「発展」させ、「豊かに」した単一のイデオロギーだと称した。
 マルクスはこうして「古典的マルクス=レーニン主義」の中核へともち上げられ、スターリンの先駆者だとされた。
 マルクス=レーニン主義の本当(true)の内容はスターリンの諸著作が、もっと個別に言えば<小教程>が、解説した。//
 (2)すでに述べたように、全体主義国家を支配する階層の利益を抜きん出て映し出すこのイデオロギーの際立つ特質は、極端な厳格性と極端な融通性を結合していることだ。
 相反するように見えるこれら二つの性質は、お互いを補強し合っている。
 微小の逸脱すらなく反復するよう全ての者が義務づけられた、変わらない、型に嵌まった諸定式を集めたものだ、という意味で、それは厳格だった。
 しかし、その諸定式の内容はきわめて曖昧であり、どの段階でもどんな変化があっても、全ての国家政策をそれが何であっても正当化するために、用いることができた。//
 (3)ソヴィエト・マルクス主義がもつこの機能の最も逆説的な効果は、第二次大戦中の、それ自体の部分的な自己崩壊だった。
 (4)1930年代の後半、ヨーロッパはナツィによる攻撃という脅威で弱体化していた。
 戦争勃発に先行していた危機の間、スターリンを冠に戴くソヴィエト同盟は、全ての方向からの脅威に対抗して安全を確保すべく、巧妙で目敏い政策を追求した。
 宥和という西側諸勢力の臆病な政策によって、かりにドイツがその東方または西方の隣国を攻撃したとすればどうなるか、を予見することが困難になった。
 ドイツがチェコスロバキアを併合して従属させた後では、戦争が避けられないことがほとんどの人々に明白だった。
 1939年8月のドイツ・ソヴィエト不可侵協定〔独ソ不可侵条約〕は、秘密条項を含んでいた。その条項は、ポーランドを両国で分割することを定め、フィンランド、エストニアおよびラトヴィアをソヴィエトの利益圏に組み込んでいた。
 (リトアニアは、同年9月28日の協定の修正で、これらに付け加えられた。)
 同年9月1日、ソヴィエト同盟がこの協定を裁可した翌日に、ドイツはポーランドへと侵攻した。そして同月17日、ソヴィエト赤軍がポーランド東部地域を「解放する」ためとして侵入してきた。両国政府は一方で、ポーランドはこれを最後に消滅した、と宣言した。
 侵略者たちは、それぞれの占領地域での地下活動を弾圧して相互に助け合う秘密合意書を締結していた。
 (ナツィとソヴィエトの協力の期間、後者は、ソ連邦に収監されていた何人かのドイツ共産党員を引き渡した。その中には、物理学者のAlexander Weissberg も含まれていた。しかし彼は生き延びて、スターリンの粛清に関する事実を記録する(documentary)最初の諸文書を書くことができた。)
 ヒトラーとの協定は、ソヴィエトの国家イデオロギーの変形を生じさせた。
 ファシズムに対する批判が、かつ「ファシズム」という言葉自体が、ソヴィエトの宣伝活動から消滅した。
 西側の諸共産党、とくにイギリス共産党とフランス共産党は、宣伝活動の全体を戦争への反対に向け、ナツィ・ドイツと闘う西側帝国主義諸国を非難するよう指令された。
 フィンランド侵攻が失敗したことで、ロシアの軍事力の弱さが世界中に、とりわけ、その目標は最初からソヴィエトという「同盟者」(ally)だったヒトラーに、明らかになった。
 さらに大災難だったのは、1941年6月21日のドイツ侵攻のあとに生じた、ソヴィエト同盟のだらしない混乱ぶりだった。
 歴史研究者たちは、その驚くべき不用意さの原因について、今もなお議論している。
 軍隊の最良の幹部たちの粛清、スターリンの軍隊の無能力、ドイツによる早期の攻撃への警戒心を抱かなかったこと、およびソヴィエト国民が完全に心理的武装解除に陥っていたこと-ドイツ侵攻の一週間前に政府は戦争に関する風聞は「馬鹿げている」と公式に非難していた-、これらが、ソヴィエト国家を破滅の縁に追い込んだ一連の失敗の理由として挙げられている。//
 (5)ドイツ・ソヴィエト戦争は、ソヴィエト同盟と世界の全共産主義者たちにさらに、イデオロギーの変化をもたらした。
 西側の共産主義者たちはもはやその攻撃を反ナツィ勢力に向ける必要がなかった。自発的にファシズムを「当然の」敵だと見なすべきことになった。
 1941年6月まではポーランド国家の廃絶を従順に受容してたポーランドの共産主義者たちはその党を再建し、一部はソ連邦内で、主としてはドイツ占領下のポーランドの地下運動として、ナツィの侵略者と闘った。
 「正常な」残虐さと破壊とは別に、ロシアでの戦争はそれ自体のイデオロギー上の暴虐を生んだ。すなわち、東部領域からのポーランド人、とくに知識人の大量の追放と殺戮、ロシア軍の捕虜になっていたポーランド将校たちの大殺戮、ドイツとの戦闘がなお続いている間の八つの少数民族集団の<ひとかたまり>での再移住、および四つの自治民族共和国の解体-ヴォルガ・ドイツ人、クリミア・タタール人、the Kalmyksおよびチェコ人とthe Ingushes の人々の自治共和国のそれ。
 無数の生命がこうした追放の間に失われ、逃亡した人々は、生まれた故郷に再び戻ることは決してできなかった。//
 (6)他方で、戦争によって、ロシアのイデオロギー統制を緩和することが可能になった。
 貴重な生命のために闘う国民については、マルクス主義は心理的な兵器としては価値がないことが分かった。
 マルクス主義は、公的な宣伝から事実上は消失した。そして、スターリンはその代わりに、ロシア愛国主義とAlexander Nevsky、Suvrov およびKutukov のような英雄たちの記憶に訴えかけた。
 インターナショナル歌はソヴィエトの聖歌であることをやめ、ロシアの栄光を賛美する曲に替えられた。
 反宗教の煽動は止まり、戦闘的無神論者同盟は事実上解散し、一方で聖職者たちが、愛国主義の精神を維持するのを助けるために召喚された。//
 (7)1945年以降のソヴィエトの宣伝は、社会主義イデオロギーの栄光としてのヒトラーに対する勝利を象徴的に意味した。これは、戦闘をした男たちとソヴィエト民衆全体の心のうちに生きていた。
 そうではなく、反対のことが真実(truth)に近かっただろう。すなわち、国民はマルクス主義イデオロギーに関して忘れなければならず、代わりに民族的かつ愛国的な心情を吹き込まれなければならないということが、勝利のための必要条件だったのだ。むろん、十分条件ではなかったけれとも。
 ソヴィエト国家と民衆の戦争努力を別にすれば、莫大な量のアメリカ合衆国による軍事的援助やヒトラーの「イデオロギー的」まぬけさなどの、別の要因がそれぞれの役割を果たした。
 ヒトラーは、戦争の最初の数カ月の圧倒的な成功に幻惑されて、征服した地域を完全に厳格なナツィの教理に従属させた。ベラルーシとウクライナで「解放者」として振る舞うのではなく、人種主義の笞をふるい、住民たちを永遠に絶滅され、奴隷とされるべき劣等人間として扱った。
 (ドイツ人は、征服地域にある集団農場の解体すらしなかった。そのシステムによって生産物を徴発するのが容易になったからだ。)
 ナツィスの凶暴な残虐さによって、すべての民衆が、ヒトラー主義(Hitlerism)よりも酷いものはあり得ない、と確信した。
 最初の後退のあとで傑出した勇気と献身性を示した赤軍の兵士たちは、彼らの国家の存在のために闘った。マルクス=レーニン主義のためにではなかった。
 ロシアでは多数の者が、戦争はナツィズムに対する最終的な勝利で終わるだけではなく、国内での自由をも、少なくとも圧政の緩和をも、望んでいた。
 戦争に勝利すべく全力が捧げられるためにイデオロギー的統制が緩やかになったのだとすれば、そのように考えるのも当然だった。しかし、勝利のあときわめてすみやかに、そのような希望は幻想であることが明白になった。//
 (8)種々のことがあったにもかかわらず、多様なマルクス主義諸装置は、戦争中ずっと機能し続けた。
 ソヴィエト哲学の分野での最も重要な出来事は、G. F. Aleksandrov が編集した<哲学の歴史>全集の第三巻にある誤りを非難する、党中央委員会の布告だった。
 時代と並行して進み続けることをしない執筆者は、哲学者およびマルクス=レーニン主義の先駆者としてのヘーゲルを過大評価しており、ヘーゲルのドイツ排外主義を考慮していない、とされた。
 この非難は、反ドイツ宣伝のためになされた戦時中の多数の行為の一つにすぎなかった。しかし、マルクス=レーニン主義正統派の歴史文書に占めるヘーゲルの地位を破壊した。
 ソヴィエト哲学者のあるインタビューに答えて、スターリンは、ヘーゲルはフランス革命とフランス唯物論に対して貴族政的に反応したイデオロギストだ、と述べた。これ以降、この評価が哲学の分野で義務的なものになった。//
 (9)勝利の見込みによって事実上の安定を獲得したとき、征服と膨張への欲求を動機とするスターリンの政策は、ヨーロッパと世界の戦後秩序に関わり合った。
 西側連合国は、テヘラン協定とヤルタ協定によって事実上、東ヨーロッパに関するフリー・ハンドをソヴィエト同盟に与えた。
 バルト三国の公然たる併合とほとんど全ての隣国からの領土獲得に加えて、チャーチルとルーズヴェルトの不本意な同意を得て、ソヴィエト同盟は、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、およびより少ない程度でユーゴスラヴィアで支配的な地位を得た。
 これらの諸国で、また東ドイツでも、共産党体制が確立するのに、数年とかからなかった。しかし、この結果は、すでに先立って決められていたことだった。//
 (10)ある範囲の歴史研究者たちは、併合や赤軍が占領した諸国への共産主義の押し付けは帝国主義諸国の企図によるのではなく、ソヴィエト同盟が必要とした可能なかぎりでの「友好」なまたはむしろ卑屈な諸国家に包囲されていることによる安全確保への関心による、と論じた。
 しかし、これは不必要な区別だ。なぜなら、全ての国家がソヴィエト同盟に従属していないかぎりは、ソヴィエト同盟の安全についての絶対的な保障などあり得ないのだから。完全に有効であるためには、世界全体がソヴィエトの支配下に置かれるまでは、「防衛」の過程は継続されなければならないのだ。//
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 第1節、終わり。第四章の途中だが、第三巻の試訳は、ここでいったん区切る。

1890/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第三節②。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻第三章/ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。
 1978年英語版 p.109-p.113、2004年合冊版p.874-p.877。
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 第3節・ コミンテルンと国際共産主義運動のイデオロギー的変容②。
(10)1924年半ば、スターリン、ジノヴィエフおよびカーメネフの三人組の支配者たちは、トロツキーと深刻な闘争を繰り広げていた。その頃、第五回大会が開かれ、全ての構成諸党の「ボルシェヴィキ化」を求める決議を採択した。
 これが意味するのは理論上は、ロシアの党の方法と様式を採用すべきだ、ということだ。だが実際には、全ての問題に関してロシアの党の権威を承認すべきだ、というととだった。
 この大会自体が、「ボルシェヴィキ化」がすでに十分に進んでいることを示した。スターリンとその仲間たちの求めによって、全ての諸国の共産党が満場一致で、トロツキーを非難した。
 翌年のドイツ共産党の大会で、何をボルシェヴィキ化が意味するかに関する実際的な説明が示された。スターリンの主要な取り巻きの一人であるコミンテルン・ソヴェト代表者Manuisky が中央委員会の構成に関する規約を定めようと試みたときに。
 ドイツ共産党の代議員たちがこれに従うのを拒否したとき、執行委員会議長のジノヴィエフは彼らをモスクワへと召喚し、Ruth Fischer とArkady Maslow という「左翼」指導者たちを排除するよう命じた。これらの人物は、ボルシェヴィキ<に対して向かいあった>ある程度の自立性をもつ外観は維持しようとしていたのだった。//
 (11)第五回大会の別の決議は、ドイツの彼らの役割はブルジョアジーと共謀して労働者階級の中に民主主義と平和主義の幻想を染みこませることにあると述べて、社会民主主義者だと性質づけた。
 資本主義が衰亡するにつれて、社会民主主義は限りなくファシズムに接近する。この二つは、実際には、資本主義者の手のうちの単一の武器の両面だ。
 これらは、数年後に、コミンテルンの政策の原理的な指針となった。//
 (12)第五回と第六回のコミンテルン大会の間に四年が過ぎた。スターリンはおそらく、トロツキーに対する、またジノヴィエフとカーメネフ、およびこれらの仲間たち、に対する最終的な勝利を達成するまでは大会を招集するつもりがなかった。
 コミンテルンはその間に、「社会ファシズム」に関する教理にもかかわらず、アングロ=ロシア委員会をもつ1925年に形成されるに至ったイギリス労働組合に、世界労働組合運動の統合を促進するよう勧めていた。
 しかし、これは短期間で終わり、成功しなかった。
 1926-27年、コミンテルンは中国で重大な後退をこうむった。中国では、モスクワの指令にもとづいて小さな共産党が、中国を統一して近代化し、西側諸国による支配から自由になろうとする革命的な蒋介石を支援していた。
 スターリンの意見では、これはブルジョア的民族運動であり、その行方はプロレタリアート独裁へと一気に進むものではなかった。 
 ソヴェト同盟は武器を与え、軍事、政治の顧問団を送って助け、1926年春に蒋介石は、コミンテルンを「同調する」(sympathizing)党だとすら認めた。
 しかしながら、蒋介石は政府を形成したときに共産党員を排除し共産党には一部の権力も与えなかった。また、1927年4月の上海での中国共産党の蜂起を、多数の逮捕と処刑でもって鎮圧した。
 蒋介石はまずは打撃を加えて「同盟者」の機先を制した、と遅まきながら悟ったスターリンは、広東での暴動を命じて状況から脱しようと試みた。
 この広東暴動は同年12月に起きたが、新しい大虐殺でもって鎮静された。
 これらの失態について、トロツキーはスターリンを非難した。蒋介石の指導性を認めるのではなく、中国共産党は最初からソヴェト共和国樹立を狙うべきだったのだ、と。-トロツキーは、中国共産党はいかにすれば当時のその勢力の状態で蒋介石に勝つことができたのかを説明しなかったけれども。
 しかしながら、コミンテルンは中国共産党を「誤った政策方針」を追求したと非難した。そして、陳独秀〔中国共産党の初代総書記〕は批判され、のちに追放された。//
 (13)1928年8月の第六回大会は、社会主義者たちとの協働の試みを最終的にやめさせた。いずれにせよ、下らなくて、かつ成功しない、として。
 この大会は、世界の社会民主主義とその支配下にある労働組合は資本主義の主柱であり、全ての共産党は「社会ファシストたち」との闘いに全力を集中することを命じられる、と宣言した。
 また、資本主義の一時的な安定は今や終わった、新しい革命の時代が始まっている、と宣告した。
 多様な諸国の各共産党は、これらに倣って「右派」と「宥和派」を党から追放した。そして、新しい粛清によって、ドイツ、スペイン、アメリカ合衆国その他の諸国の指導者たちの中に、多数の犠牲者が生まれた。//
 (14)力強い政治的勢力の代表だったドイツ共産党が社会主義者を攻撃したことは、ヒトラーが権力を奪取した大きな原因だった。
 ドイツ共産党は、ナチズムは一過的な事象であり得るにすぎない、大衆が過激になることは共産主義への途を掃き清めてくれるだろう、と主張した。
 ヒトラーが政権に就いた後ですら、ドイツ共産党は、一年全部ほどの間、社会主義者を主要な敵だと見なした。
 ドイツ共産党が見方を変えたときまでには、この党はすでに破壊され、無力になっていた。//
 (15)1929年の末までに、ブハーリン(1926年にジノヴィエフを継いで執行委員会議長)の脱落の後には、スターリンは疑いなくボルシェヴィキ党の所有者であり、かつそれを通じて、国際共産主義の所有者だった。
 コミンテルンは独自の意義を全て失い、クレムリンから他諸党に対する指令の連絡管にすぎなくなった。
 コミンテルンの部員はスターリンに忠実な者たちだけで占められ、ソヴィエトの警察に統制された。
 彼らの仕事の中には、ソヴィエト同盟のための諜報員(intelligence agents)を新規に見つけることも含まれていた。
 粛清が繰り返されたあとの全ての諸党は、抗弁することなくモスクワからの変転する指令を受け入れた。その大部分は、ソヴィエトの外交部局が命じたものだった。
 スターリンは諸党に気前よく財政的援助をし、そうして諸党の彼への依存関係はますます増大した。
 コミンテルンは1930年代の半ばまでにたんなる外形だけになっており、外国諸党の服従を維持するという目的のためにすら、もう必要がなかったほどだ。//
 (16)第七回、そして最後のコミンテルン大会はモスクワで1935年7月-8月に開かれ、その後の一年またはそれ以上の期間の予兆となった、ファシズムに対する「人民戦線」という新しい政策方針を宣言した。
 それまで「右翼日和見主義」だと非難されてきたものが、今や公式の方針になった。
 全ての民主主義諸勢力、リベラル派はもちろん必要であれば保守派もだが、とくに社会主義者たちは、ファシストに対抗するために共産党の指導のもとに結集すべきものとされた。
 この政策に転じたスターリンの根拠は、かりにヒトラーがロシアを攻撃した場合にフランスその他の諸国が中立の立場をとる、ということへの恐怖だったかに見える。
 ともかくも、フランスは「人民戦線」方針の主要な対象だった。ドイツでは力のない<エミグレ>集団にだけ適用できるもので、他諸国の各共産党は、事態に影響を与えるには弱体すぎた。
 フランスの人民戦線は、1936年5月の選挙で勝利した。しかし、フランス共産党は、Léon Blum〔レオン・ブルム〕政権に閣僚を出すことを拒否した。
 一般的には、この政策方針は長くは続かず、ほとんど成果を生まなかった。
 その方針は、公式には取り消されなかったけれども、スターリンがナツィ・ドイツとの<友好関係(rapprochement)>を追求すると決定したときに、死文書(dead letter)となった。
 その間に、破壊されて地下に潜っていたドイツ共産党は遅まきながら、全ドイツの統一とポーランド回廊の廃絶というヒトラーのスローガンを採用した。//
 (17)「人民戦線」戦術の真の性格は、スペイン内戦によって明確になった。
 フランコ(Franco)の反乱の数カ月のち、スターリンは、共和国防衛のために干渉することに決めた。
 国際的旅団が編成され、ソヴィエト同盟は、軍事顧問団の他に政治工作員から成る組織を派遣した。そして、この組織は、共和国勢力の中のトロツキー主義者、アナキストおよびあらゆる種類の偏向主義者たちを追放した。
 (18)国際共産主義は、今や完全に「ボルシェヴィキ化」された。そして、いかなる場合でも、非ボルシェヴィキの共産主義の形態は、意味あるものとして継続することをやめた。
 1920年代には、党から追放されたりコミンテルンの方針に抗議して脱退したりした個人や集団は、ときおりは非ソヴィエト的共産主義の運動を組織しようとした。しかし、そうした試みは何も生み出すに至らなかった。
 トロツキー主義者たちは小集団となって無為に暮らし、力もなく世界のプロレタリアートの「国際的良心」に訴えかけた。
 ボルシェヴィキ党の権威と全共産党によって受諾された組織上の諸原理の強さは、1950年代までどの反対派集団も支持または影響力をもち得ないほどのものだった。
 世界の共産主義者たちは、スターリンが定めた道筋に沿って従順に行進した。
 1943年5月のコミンテルンの解散は、ソヴィエトが善意と民主主義的意思をもつことを西側の世論に対して説得するための素振り(gesture)にすぎなかった。
 諸共産党は十分にうまく躾けられ、組織や財政についてソヴィエト同盟に依存していたので、それら諸党を基本方針内に抑え込み続けるための特別の制度はもう必要がなかった。したがって、コミンテルンの解散には、何の意味もなかった。//
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 ③へとつづく。

1889/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第3節①。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻第三章/ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義
 1978年英語版 p.105-p.109、2004年合冊版p.871-p.874。
 なお、コミンテルン日本支部=日本共産党設立は、1922年。
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 第3節・ コミンテルンと国際共産主義運動のイデオロギー的変容①。
 (1)事物の自然な行程として、スターリン化は世界共産主義運動の全体に広がった。
 それが存在した最初の10年の間、第三インターナショナルは、異なる共産主義イデオロギーの諸形態の間の、議論と対立のフォーラムだった。しかし、その後、コミンテルンは自立性をすっかり失い、ソヴィエトの外交政策の道具になって、完全にスターリンの権威に従属した。
 (2)第一次世界大戦の間に社会民主主義諸党の内部に出現した多様な左翼集団や分派は、全てが純粋なレーニン主義者たちではなかった。しかし、運動に対する第二インターナショナルの指導者たちの裏切りを全てが非難することでは合意した。
 彼らはみな、改良主義を拒み、伝統的な国際主義精神を再生させようとした。
 十月革命は新しい革命的根拠地を生み出した。そして、これら左翼の者たちの多くは、世界共産主義革命が切迫していると考えた。
 1918年に、ポーランド、ドイツ、フィンランド、ラトヴィア、オーストリア、ハンガリー、ギリシャおよびオランダで共産党が結成された。
 つづく三年間に、多様な少数集団を代表する大小の革命的諸政党が、全ヨーロッパ諸国に存在するにいたった。
 多くの複雑な論議と分立にもかかわらず、こうしてレーニン主義諸原理をもつ国際的な共産主義運動が形成された。//
 (3)1919年1月、ボルシェヴィキ党は、トロツキーが草案を書いて、新しいインターナショナルの創立を呼びかける宣言書を発した。
 会合(大会)が同年3月にモスクワで開かれ、一定の共産主義諸政党および左翼の社会民主主義諸集団の代議員たちは、その計画に賛成した。
 第三インターナショナルは、正確には1920年7月-8月の第二回大会までは設立されていない。
 最初から、多様な諸政党には内部的な分立やレーニン主義の規範からの乖離があった。
 一方では、最近に分裂したばかりの社会民主主義者たちとの和解を切望する「右派」諸集団があり、他方には、妥協戦術や議会政治での連携を原則として拒否する「左派」または「党派的(セクト的、sectarian)」離脱主義者たちがいた。
 これは、レーニンが<「左翼」共産主義-小児病(Infantile Disorder)>で書いた考え方に反対するものだった。
 一年以内に、世界で、少なくともヨーロッパで、ソヴィエト共和国になるだろうとの共産主義者に一般的だった信念からすると、「左翼」の傾向は「改良主義」のそれよりもはるかに強く、明らかに多かった。//
 (4)コミンテルンの規約は、第二インターナショナルの原理的考えからの完全な離反を明確に示した。第一のそれの伝統に立ち戻るものだったけれども。
 規約は、インターナショナルは単一の党であり、各国の諸政党は分肢だ、目的は国際ソヴィエト共和国を樹立するために武力を含む全ての手段を用いることだ、ソヴィエト共和国樹立はプロレタリアート独裁の政治形態として、国家の廃棄へと向かう歴史的に約定された前奏部だ、と定めた。
 インターナショナルは、毎年(1924年以降は二年ごとに)大会を開催し、各大会の間は執行委員会が指揮するものとされた。執行委員会はその指令を無視する「支部(sections)」を除名し、規律違反を理由として集団または個人を排除することを要求することができた。
 1920年大会で採択されたテーゼは、将来の社会の適切な形態としての議会制主義を断固として拒絶する条項を含んでいた。
 議会や全ての他のブルジョア的国家制度は、それらを破壊するためにだけ利用しなければならない。そして、共産党議員団は、党に対してのみ責任をもつのであって、投票者という名前なき集団に対してではない。
 レーニンが草案を書いた植民地問題に関するテーゼは、植民地および後進諸国の共産党に対して民族的な革命運動との暫時的な同盟を形成すること、かつ同時に、共産党は独立性を保ったままでいるべきで、民族ブルジョアジーが革命運動を掌握するのを許さず、最初からソヴィエト共和国形成に向けて闘うこと、を命じた。
 共産党の指導のもとで、後進諸国は資本主義段階を通過することなくして共産主義を達成するだろう。//
 (5)大会はまた、全インターナショナルの根本教条であるソヴィエト同盟のそれを無条件に支持することを要求する宣言も発した。
 (6)もう一つの重要な文書はコミンテルンに加入した諸党が履行しなければならない、「21の条件」のリストで、これは、共産主義運動全体へとレーニン主義的組織形態を拡大するものだった。
 「条件」は、各共産党はその宣伝活動についてコミンテルンの決定に完全に服従しなければならない、と定めていた。
 共産主義的プレスは、完全に党の統制下においていなければならない。
 「支部」は改良主義的傾向と断固として闘わなければならない。そして、可能ならばいつでも、労働者諸組織から改良主義者や中央主義者を排除しなければならない。
 「支部」はまた-これがとくに強調された-、当該諸国の軍隊内部での系統的な宣伝活動を履行しなければならない。
 「支部」は、平和主義と闘い、植民地解放運動を支持し、労働者諸組織、とくに労働組合で活動し、農民の支持を得るよう奮闘しなければならない。
 議会では、共産党議員団は全てを革命的宣伝活動に従属させなければならない。
 党は、最大限に中央志向(cenralized)でなければならず、かつ鉄の紀律を遵守し、定期的に小ブルジョア的要素をもつ党員を排除(粛清、purge)しなければならない。
 党は疑うことなく、全ての現存する諸ソヴィエト共和国(existing Soviet republics)を支援しなければならない。
 各党の綱領は、インターナショナルの大会またはその執行委員会によって是認されなければならない。そして、大会または執行委員会の諸決定は全ての支部を拘束する。
 全ての党は「共産党」(Communist)と称しなければならず、加えて、当該諸国の法令が公然と活動することを許容する党は、「決定的瞬間に」行動するための秘密(clandestine)組織を設立しておかなければならない。//
 (7)こうして、軍事的分野に作用する中央志向の党は、世界共産主義運動の予め定められた様式になった。
 しかしながら、インターナショナルの創立者であるレーニンとトロツキーは、それをソヴィエト国家の政策の道具だとは想定していなかった。
 ボルシェヴィキ党自体は世界革命運動の「支部」または分肢にすぎないという考えは、最初は、全く真摯に抱かれていた。
 しかし、コミンテルンが組織されていく過程と創立の歴史的事情は、すみやかにそのような幻想を追い払った。
 ボルシェヴィキ党は最初に革命に成功した党として自然に大きな威厳をもち、レーニンの権威は揺るがないものだった。
 最初から、ロシアは執行委員会での決定的な発言権をもち、モスクワに居住する他諸党の常勤代表者たちは、徐々にソヴィエトのための活動家になった。
 ソヴィエト内部での指導権をめぐる闘争はインターナショナルに反映したのみならず、ときにはその主要な関心事になった。
 レーニン死後の権力を目指して競い合うボルシェヴィキの寡頭支配者たちのいずれも、兄弟政党の指導者たちの支持を得ようとした。そして、国際的共産主義の勝利または敗北が、今度はモスクワでの兄弟政党間の闘いに利用された。//
 (8)初期のインターナショナル諸大会は、規約に従って適時に開催された。
 第三回大会は1921年6月-7月に、第四回は1922年11月に、そして第五回は1924年6月-7月に、開かれた。
 このときまでにロシアは内戦を経過し、ネップ〔新経済政策〕の第一段階に入っていた。そして、レーニンが死んだ。
 レーニンの訓示と合致して、インターナショナルは最初から、植民地および発展途上諸国での革命的煽動活動のために忙しく活動した。
 インド共産党のNath Roy は、アジアでの革命が世界共産主義の主要な目標であるべきだ、と論じた。資本主義の安定は植民地化された地域からの利潤に依存している、人類の将来を決定するのはヨーロッパではなくアジアだ、と。
 しかしながら、インターナショナルの多数派は、ヨーロッパこそがなおも主要な焦点であるべきだと考えた。
 1920年のワルシャワ〔ポーランド〕を前にしてのソヴィエト軍の敗北によって、すみやかな革命の期待は減ったが、希望が完全に消え失せたわけではなかった。
 しかしながら、ドイツでの革命の企ては、1921年3月に大失敗で終わった。そして、その年6月の第三回インターナショナル大会の諸決議は、世界ソヴェト共和国の見通しに関して、以前よりも悲観的だった。
 レーニンとトロツキーはドイツでの蜂起を非難し、例のごとく大会も、同様に批判した。
 ドイツ共産党指導者のPaul Levi は蜂起に反対しており、それが原因で大会が始まる直前に党から除名されていた。しかし、名誉回復することはなかった。彼はあらためて非難され、その除名は正当なものと見なされた。
 新しい「レーニン主義」スタイルが、明らかに全面的に作動していた。//
 (9)世界革命が遅滞している間、コミンテルン指導者たちは、「左翼」少数派の強い反対に対抗して、社会主義者たちと協力する「統一戦線」方式を決定した。
 1922年の第四回大会を前にして論議が始まった。しかし、何にもならなかった。社会主義者たちは十分な理由でもって、「統一戦線」は自分たちを破壊することを狙った策略だと疑ったのだ。
 1923年10月、ドイツで再び蜂起が発生し、失敗した。
 このとき、ドイツの新しい党指導者のHeinrich Brandler は、コミンテルンとボルシェヴィキ党が完全に作成して主導した計画の生け贄(scapegoat)になった。
 1924年、トロツキーは、ドイツでの権力掌握による革命的状況を利用することに失敗したとして、そのときジノヴィエフが指揮していたコミンテルンの責任を追及した。//
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 ②へとつづく。

1888/江崎道朗2017年8月著の悲惨と無惨⑲。

 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(英訳1978年)を見ていて、コミンテルンに関する叙述にさしかかり、江崎道朗の上の本のひどさ、「悲惨さと無惨さ」を思い出した。
 重なるがいま一度記しておく。
 江崎道朗は上の本でコミンテルンに論及したつもりで、こう豪語した。
 p.95-「本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩なのである」。
 ああ恥ずかしい。
 江崎道朗はコミンテルン関係文書を英語訳等の原語では見ておらず、ほとんどを網羅しているとみられる、かつ古くから日本に存在する邦語訳の資料集類をいっさい参照していない。
 江崎が使っているのは、ケヴィン・マクダーマット=ジェレミ・アグニュー/萩原直訳・コミンテルン史-レーニンからスターリンへ(大月書店、1998)に<付録>として付いている資料で、以下の4点だけ。
 ①1919.01.24-<レーニンによるコミンテルン第1回大会への「招待状」>。
 ②1920.07.28-<レーニンの「民族・植民地問題についてのテーゼ」>。
 ③1920.08.04-<コミンテルン「規約」>。
 ④1920.08.06-<レーニンの「コミンテルンへの加入条件についてのテーゼ」>。
 かつ第一に、これらは付録にある全19件のうちの4件にすぎず、第二に、個々に見ても付録自体にあるこれら一次資料(邦訳)は全文ですらなく全て「一部抜粋」にすぎない。
 そして、重要なことだが、第一にコミンテルンについてこれらにもとづいてのみ叙述しようとし、かつ第二に、もっぱら邦訳文に依拠していることと本来の「無知」によって、つぎのほぼ致命的なミスを活字にしてしまっている。
 わずか5頁の範囲内に、つぎの三つの間違いがある。ああ恥ずかしい。
 ①「民主集中制」と「プロレタリア独裁」を区別せず、同じものだと理解している(p.78)。
 ②「社会愛国主義」は「愛国心」を持つことだと理解している(p.75)。
 ③ソ連未設立時の「各ソヴェト共和国」を「ソヴィエト連邦」と理解している(p.79)。
 また、上は決定的、致命的なもので、誤り、勘違いは他にも多々ある。
 例えば、④コミンテルン設立時にすでに「共産党」が各国にあり、ボルシェヴィキ党の呼びかけのもとにそれらが集まってコミンテルン(国際共産党?、第三インターナショナル)が結成されたとでも勘違いしているとみられる叙述もある。
 ⑤レーニン時代も含めて、「粛清」という語をほとんど「殺戮」と同じ意味だと理解している、またはそう理解したがっている叙述もある。
 何度でも指摘しておこう。
 ①「民主集中制」と「プロレタリア独裁」の違いを理解していなくて、なぜ共産主義、マルクス主義またはマルクス=レーニン主義あるいはコミンテルンに関する本を書けるのか?
 ②「社会愛国主義」=「社会排外主義」というレーニン・ボルシェヴィキらの侮蔑語(とくに第一次大戦、対ロシア戦争に反対しなかったドイツ社会民主党に対する)を知らずして、なぜレーニンら、あるいはコミンテルンに関する本を書けるのか?
 ③ソ連邦=ソヴィエト社会主義共和国連邦がまだ結成されていない時期の文書中の「各ソヴェト共和国」をソ連のことだと理解する<妄想力>を、いったいどうやって身につけたのか。
 なお、のちに(原稿最終提出時に?)複数のごとき「各」が付いていることに気づいたのか、ソ連以外に共産党支配の中国のことも意味する旨も記している。
 この部分は、しっかりした?邦訳資料集の邦訳によるとつぎのとおり。
 共産主義インターナショナルへの加入条件(1920年8月6日)。
 L・コワコフスキは、「21の条件」(Twenty-One Conditions)と略記している(第三分冊、p.107.)。
 村田陽一編訳・コミンテルン資料集第1巻(大月書店、1978年)に所収。
 これの、第14条(の第一文)。
 「共産主義インターナショナルに所属することを希望するすべての党は、反革命勢力に対する各ソヴェト共和国の闘争を全幅的に支持する義務がある。
 江崎道朗によると、1920年の文書にいうここでの「各ソヴェト共和国」とは、1922年結成のソ連邦(および1949年の中華人民共和国)なのだ。しっかりと、「あほ」だろう。
 L・コワコフスキの書物(第三巻p.107)では上の「各ソヴェト共和国」の部分は、直接の引用でなくして、all existing Soviet republics になっている。原文の「条件」では少なくとも(all) Soviet republics が使われているのだろう。
 これを2017年にソ連邦(および1949年の中華人民共和国)と理解する日本人がおり、かつ一冊の本にまで明記するとは、1920年のボルシェヴィキやコミンテルン関係者は誰も想像できなかったに違いない。
 ついでに、上の⑤に触れる。
 L・コワコフスキは粛清と大粛清とを意識的には区別していないようでもあるが、great と「大」を付加している場合は、スターリン時代のそれをもっぱら意味させているようだ。
 なお、「粛清」と秋月瑛二も邦訳していることがほとんどである原英語は、purge (パージ)。いつか触れたが、日本での「レッド・パージ」は「赤」に対する「殺害・殺戮」を意味したわけではない。
 この点、シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitspatrick)・ロシア革命(2017年)は言葉遣いにより厳しく、一般的な「粛清」はpurge、スターリン時代のそれはPurge と、小文字と大文字で使い分けている。
 なぜなら、レーニン時代の共産党・ボルシェヴィキ内の「粛清」(purge)は殺害・殺戮の意味を実質的にも持たず、革命後に急速に数が増大した共産党員のうち適性・資格を欠く者の<定期的検査による除名>をほぼ意味したからだ。
 時代の変化を敏感に読み取った出世主義?の者たちの大量入党者の中には、「社会主義革命」とか「プロレタリアート独裁」等の意味を全く知らなかった者もいたに違いなく、又出身階層も(農村から都市への移住者はまだマシだが)原・元の「プロレタリアート」であるのか疑わしい者もいたに違いなく、レーニンらは資格・適性の<再検討・再審査>が必要だと判断したと見える。
 よって、この初期の「粛清」は殺害・殺戮の意味を帯びてはいない。
 なお、L・コワコフスキ著のドイツ語訳書の「粛清」は、Säuberung
 これは「浄化」にも近く、「粛清」という訳語でも誤りではない。
 もともとのロシア語は、cleansing の意味だとどこかに誰かが書いていた(S・Fitspatrick だったかもしれない)。
 これは要するに「清潔にすること」、「清浄化」、「浄化」で、独語のSäuberung とたぶんほとんど同じ。
 但し、英語の purge には、「追放」とか「迫害」の意味もある可能性がある。
 これくらいにするが、いずれにせよ、江崎道朗には、「粛清」という言葉・概念の意味についてしっかりと吟味する姿勢自体が存在しないと推定される。
 この点は、しかし、まだマシだ。
 上の①~③はひどい。決定的に、悲惨で無惨。
 これでよく、「コミンテルン」を表題の重要な要素にする書物を刊行できたものだ。
 なお立ち入っていないが、日本の明治以降の江崎道朗の叙述もひどいものがある。
 最終的には、聖徳太子の一七条の憲法-五箇条のご誓文-大日本帝国憲法を、何の論拠も示さず、いかなる詳しいまたは厳密な概念定義を示すことなく、「保守自由主義」なるもので結合させる(7世紀~19世紀!)という単純さと乱暴さ。
 江崎道朗。月刊正論(産経)の毎号執筆者であり続けている。
 月刊正論編集部も、天下の?産経新聞社も、<恥ずかしい>とは感じないのだろうか。
 この程度の人が、何と新書一冊を出版できる、という現在の日本の<惨憺たる>知的世界、<あまりのユルさ>にも唖然とした、江崎道朗・上掲書だった。

1887/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第2節③。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第三章/ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。1978年英語版 p.101-p.105、2004年合冊版p.868-p.871。
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 第2節・スターリンによるマルクス主義の成文化(codification)③。
 (20)スターリンが解説する弁証法的および歴史的唯物論は、プレハノフ、レーニンおよびブハーリンに従ったマルクス主義の、陳腐で図式的な版型だ。すなわち、弁証法は現実の全側面を支配する普遍的「諸法則」を示すもので、人間の歴史はこの諸法則を適用した特殊な場合だと、広大無辺にかつ野心的に主張する哲学。
 この哲学は、天文学と同じ態様で自らを「科学的」だと主張し、社会過程は他のものと同様に「客観的」で、予見可能だと宣言する。
 この点で、ルカチ(Lukács)やコルシュ(Korsch)が再構築したマルクス主義の見地とは根本的に異なる。これによれば、プロレタリアの意識の特定の場合に、社会過程とその過程の知覚は同一のものになり、社会に関する知識は社会を変える革命的実践と合致する。 
スターリンは、一般的な自然主義(naturalism)を採用した。それは第二インターナショナルのマルクス主義者たちに支配的だったもので、そこには「理論と実践の統一」という特有のマルクス主義的見方が入り込む余地はなかった。
 確かにこの定式は承認されていて、スターリンや随行哲学者たちががあらゆる機会に強調したものだった。
 しかし、その持つ意味は実際には、実践が理論に優越する、理論は実践の補助的なものだ、という主張へと変質していた。
 この考え方に沿って、学者たちに対して-とくに1930年代初めの科学アカデミーのイデオロギー的再建の後で-、工業にとって直接の利益になり得る分野に研究を限定すべきだという圧力が加えられた。
 この圧力は、全ての自然科学に、緩和されてだが数学に対してすら、適用された。
 (数学は、マルクス主義に関する博識の高僧たちでも理解するふりをしなかったので、ソヴィエト同盟で、イデオロギー的な監視がほとんどなかった。その結果として標準は維持され、ソヴィエト数学は時代による破壊から救われた。)
 「理論と実践の統一」は、もちろん人文科学にも適用された。だが、少しばかりは異なる意味でだった。
 大まかに言って、自然科学は工業へと、人文科学は党の宣伝活動へと繋がれていた。
 歴史、哲学および文学史や芸術史は、「党と国家に奉仕する」ものだと、換言すれば党の主張を守り、そのときどきの決定に理論的な支援を提供するものだと、想定された。//
 (21)自然科学は直接の技術的有用性がある研究分野に限定すべきとの要求は重要な分野についてはきわめて強く、その結果としてすみやかに、自然科学は技術へと落ち込んだ。
 しかしながら、より致命的ですらあったのは、科学研究の現実的成果をマルクス主義的「適正さ(correctness)」の名前のもとにイデオロギー的に統制しようとする試みだった。
 「観念主義」の相対性理論は、1930年代には、哲学者たちやA. A. Maksimovが率いる未熟な物理学者たちからの砲火を浴びた。
 同じ時期にはTrofim D. Lysenko(ルィセンコ)が登場した。この人物の役割は、マルクス=レーニン主義に従ってソヴィエトの生物学を革命化し、Mendel やT. H. Morgan の「ブルジョア」理論を破壊することだった。
 農学者のLysenko は、様々の植物栽培技術を探求し、経歴の初期に、それらから普遍的なマルクス主義の遺伝学理論を発展させようと決意した。
 彼は、助手のI. I. Prezent とともに1935年の後に、現代遺伝学理論を攻撃し、遺伝による影響は環境を適切に変化させることによってほとんど完全に排除することができる、と主張した。遺伝子なるものは、遺伝子型と表現型(phenotype)の区別と同様に、ブルジョア的考案物だ。
 「遺伝は永続的な実体をもつ」ことを否定し、生きている有機体を環境の変化によって望むとおりにまで変化させることができる、という主張がマルクス=レーニン主義(「全てのものは変化する」)と合致する、と党指導者たちやスターリン自身が納得するのは困難なことではなかった。また、人間は、とりわけ「ソヴィエト人間」は、その心に思い浮かべたように自然を変化させることができる、とするイデオロギーにそれが見事に適合している、ということについても。
 Lysenko は急速に党の支持を獲得し、研究所、研究者そして諸雑誌等々に対する影響を大きくした。そして、我々が知るだろうように、彼の革命的理論は1948年に完全な勝利をかち得た。
 党の宣伝はおよそ1935年以降から絶えず彼の発見を褒め称え、その実験には科学的な価値がないと反対していた者たちは、まもなく沈黙へと追い込まれた。
 新しい理論を支持するのを拒んでいた優れた遺伝学者のNicholay I. Vavilov は、1940年に逮捕され、Kolyma の強制収容所で死んだ。
 予期され得たことだが、たいていのソヴィエト哲学者たちは、Lysenko の見解に喝采を送る一群に加わった。//
 (22)今日では、Lysenko は無学で、山師だったということを誰も疑っていない。また、彼の経歴は、科学や文化の点だけではなくて経済や行政の分野でもソヴィエトのシステムがいかに機能していたかを教示してくれるよい例だ、ということも。
 後年にはより明確になった自己破壊的な特質が、すでに見えていた。
 党が全ての生活領域で無制限の権限を行使し、システム全体が指令の一方方向の連鎖をもって階層的に組織されていたことからして、どの個人の経歴も、権力に対する従順さや追従や弾劾をする技巧の熟達ぶりに依存することになる。
  他方では、主導性、自分自身の心性、あるいは真実に対する最小限度の敬意すらを示すことは、致命的だ。
 当局者たちの主要な目標がその権力を維持し、増大させることにあるとき、科学(とくにイデオロギー的に統制されている場合)についても経済管理についても、間違った人々が頂上へと進むだろうことは不可避だ。
 非効率性と無駄は、ソヴィエト体制の中に組み込まれている特徴だ。
 政治および「保安」を理由とする不適切で全体的な情報流通の制限の増大によって、経済発展は妨害される。
 経済を合理化しようとする後年の試みはある程度は成功したが、それは全体主義原理から、あるいはスターリニズムの体制が完成にまで至らしめていた「統一」という理想から、離れたかぎりでのみのことだった。//
 (23)1930年代のソヴィエト文化のもう一つの特質は、ロシア民族主義の成長だった。
 これはのちに頂点に到達した現象でもあるが、スターリンの演説が社会主義が生むことができかつ生まなけれならない「強いロシア」に関する言葉を述べ始めた、1930年代の初めにはすでに感知することができた。
 愛国的主題は次第に宣伝活動で強調されはじめ、ソヴィエトの愛国主義とロシアのそれとが同時に大きくなった。
 ロシアの歴史の栄光が、民族的誇りや自助努力への訴えの中に再生された。
 ウズベク人(the Uzbeks)のような、以前はアラビア文字で彼らの言語を記していて、ソヴィエト当局によってラテン・アルファベツトを与えられた諸民族は、今や、キリル(Cyrillic)の形式を採用するように強いられた。その結果として、同じ世代の者たちが三種類のアルファベットを使うようになった。
 ソヴィエト同盟の中の非ロシア共和国で権力を行使する「民族の幹部たち(cadres)」という考え方は、すぐに作り話(fiction)であることが分かった。すなわち、理論的にではないが実際には、党や国家行政の最高部の職(posts)は、通常はモスクワが任命したロシア人によって占められた。
 国家権力のイデオロギーは、徐々にロシア帝国主義のそれと区別できないものになった。//
 (24)ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義は、きわめて早く、政策を決定する自立した要素ではなくなった。
 必然的に、その内容は内政または外交問題に関する特定の動向を正当化するために、曖昧で一般的なものにならなければならなかった。NEP(ネップ)または集団化、ヒトラーとの友好または彼との戦争、内部体制のあれこれの厳格化または緩和、等々。
 そして実際に、理論は「一方で」上部構造は土台の産物かつ道具だとし、「他方で」上部構造は土台に影響を与えるとするがゆえに、経済を規制する、あるいは文化を多かれ少なかれ統制する、全ての考えられ得る政府の政策は、マルクス主義と合致した。
 「一方で」個人は歴史を作らず、「他方で」歴史的必然性を理解する例外的な個人は歴史に重要な役割を果たすとのだとすれば(そしていずれの見方もマルクスやエンゲルスの引用によって支持され得るのだとすれば)、社会主義の専制者に聖なる栄誉を与えることも、その実践を「逸脱」だと非難することも、いずれも同等にマルクス主義に合致している。
 「一方で」全ての民族は自己決定の権利をもち、「他方で」世界社会主義革命の根本教条が至高の理念だとすれば、柔和であれ厳格であれ、帝国に住む非ロシア人民衆の民族的願望を挫折させる目的の政策は、疑いなくマルクス主義的だ。
 このようなことは実際、スターリンのマルクス主義の両義的な基礎であり、その曖昧で矛盾する様相は、「弁証法」原理に似たようなものだった。
 かかる観点からすると、公式のソヴィエト・マルクス主義の機能と内容はいずれも、スターリンの死後も同じままだった。
 マルクス主義は、たんにロシア帝国の現実政策(Realpolitik)を理論的に粉飾するにすぎないものになった。//
 (25)こうした変化の理由は、きわめて単純だった。つまり、ソヴィエト同盟はその定義上人間の進歩の基地であるがゆえに、ソヴィエトの利益に奉仕するものは何であれ進歩的であり、そうでないものは反動的なのだ。
 歴史上のその他の大国と同様に帝制ロシアは、その対抗国を弱体化させるために少数民族の民衆の願望を支援した。ソヴィエト同盟もまた、最初からそうした政策を追求した。しかし、異なる口実(guise)によってだった。
 「封建的な」民族長老(sheikh)やアジアの皇子ですら、スターリンによれば、帝国主義の前線を掘り崩すかぎりでは、「客観的に」進歩的な役割を果たした。
 これは完全に、世界革命に関するレーニンの理論と合致していた。レーニンの理論は、非社会主義者、非プロレタリアートおよびマルクス主義の用語では「反動的」勢力のですら、それらの参加を是認し、また要求しすらするものだった。
 弁証法の見地からは、世界の別の大国の利益に敵対的であるならば、反動的な者たちの活動はただちに進歩的なものになる。
 同じく、ソヴィエト同盟はその定義上世界的解放運動の中心者なので、1917年以降は、つぎのことは自明のことになった。すなわち、外国の領域の一部への武装侵入(incursion)やその占領は全て、侵略(invasion)ではなく、解放する行為だ。
 こうしてマルクス主義は、帝国主義者がもつ道具として、帝制ロシアが異民族を支配するのを正当化しようとした不器用でかつ滑稽ですらある基本的考え方よりもはるかに有用な論拠の目録を、ソヴィエト国家に提供した。//
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 ③終わり。かつ、第2節も終わり。第3節の表題は「コミンテルンと国際共産主義のイデオロギー的変容」。 
 

1886/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第2節②。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第三章/ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。1978年英語版 p.94-p.101、2004年合冊版p.863-p.868。
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 第2節・スターリンによるマルクス主義の成文化(codification)②。
 (7)<小教程>は、レーニン・スターリン崇拝と結びついたボルシェヴィキの神話の全てのパターンを確立したのみならず、儀式や式典の詳細をも定めた。
 これが発行されたときから、この書物が扱う主題のどの部分にではあれ接触する作家、歴史家および宣伝家たちは、経典化した全ての定式に従い、全ての重要な語句を反復するように強いられた。
 <小教程>は、歴史を捏造した書物であるのみならず、一つの強力な社会的装置だった。-マインド・コントロールをするための党の最も重要な手段、批判的思考および自分たちの過去に関する社会的記憶のいずれをも破壊する道具、の一つだった。//
 (8)この書物は、こうした観点からは、スターリンが生んだ全体主義国家のまさに一部だ。
 システムを完成させて市民社会を無きものにするためには、国家が統制しないで何らかの脅威を形成する可能性のある、生活の全形態を根絶する必要があった。
 また、自立した思考と記憶を破壊するための道具を考案する必要もあった。-きわめて困難だが、重要な課題だった。
 全体主義的システムは、恒常的に歴史を書き換えることなくして、そして過去の事件、人々や思想を排除してそれらの代わりに偽りのもので補填することなくしては、生き延びていくことができない。
 ソヴィエト・イデオロギーの趣旨からすると、粛清の犠牲となった特定の指導者がかつては党に対する本当の奉仕者だったがのちに栄誉を失った、と述べることはおよそ考えられない。最終的に裏切り者だと宣告された者は全て、最初から裏切り者でなければならなかった。
 裏切り者との烙印を捺されることなくたんに殺戮された者たちは名無し人(unpersons)となり、二度と彼らについて語られることはなかった。
 ソヴィエトの読者たちは、まだ販売されているが編集者や翻訳者の氏名が注意深く抹消された多数の版この書物を見るのに慣れてしまった。
 しかしながら、かりに執筆者自身が裏切り者であれば、この書物は完全に流通しなくなって消失し、数部だけが図書館の「禁書」部分に残されただろう。
 この書物の内容が申し分なくスターリニストのそれだったとかりにしてすら、同じだった。すなわち、全ての呪術思考でのように、いかなる態様であっても邪悪な精神と結びついている対象は永遠に堕落したままなのであり、記憶から除去され、抹殺されなければならなかった。
 ソヴィエト国民は、式典による呪詛に包含するために、<小教程>が言及している数少ない裏切り者の存在を思い出すことが許された。しかし、悪魔の仲間の残り者たちは忘れ去られることが想定されており、かつどの国民も、あえて彼らの名前を語ろうとはしなかった。
 古い新聞や雑誌は、裏切り者の写真や彼らが書いた論文が掲載されていると分かると、一夜にして不浄なものになった。
 過去だけが継続的に修正されたのではなく、-スターリニズムの重要な特質だが-一方ではそのことおよび修正がなされる全く単純な方法に気づいており、他方ではそれに関しては悲惨な処罰を受けるので何も語らない、のいずれもが、国民の全てについて想定されていた。
 ソヴィエト同盟には、この種の偽りの秘密(pseudo-secret)が他にも多数存在した。すなわち、国民大衆はそれに関して知っても決して言及しようとはしない諸事項が。
 労働強制収容所については、新聞では決して言及されなかった。しかし、市民が収容所に関して知っておかなければならないのは、不文の法だった。そのような事物を何とかしてでも秘密にし続けることはできない、という理由のみによるのではない。すなわち、そのような事実は存在していないというふりをお互いにしつつも、ソヴィエトの生活にある一定の事実に気づいていることを、政府は人々に望んでいる、という理由によってだ。
 システムの目的は、人々に二重(dual)の意識を作り出すことだった。
公衆の会合で、あるいは私的な会話ですら、市民たちは、儀礼的な様式で自分たち自身、世界およびソヴィエト同盟に関する醜悪な虚偽を繰り返して語るように強いられ、同時に、十分によく知っていることについて沈黙を守るように強いられた。テロルに遭っているからのみではなく、市民たちが党と国家が吹き込んだウソを絶え間なく反復することによって-ウソだと知りながら-そのウソについて党と国家の共犯者運動の共犯者になったからだ。
 体制側の意図は、提示される馬鹿々々しさを文字どおりに信じるべきだ、というのではなかった。そうしたり現実を完全に忘れるにはきわめて繊細(naïve)な問題であれば、彼らの良心と<向かい合う>愚かな状態になり、共産主義イデオロギーをを本来的に妥当なものと受け入れる傾向になるだろう。
  しかしながら、完全な服従とは、人々が現在のイデオロギーはそれ自体は何も意味していないと認識することを要求するものだった。すなわち、イデオロギーのいかなる側面も、最高指導者が意図するいかなるときでも勝手に変更したり取消したりすることができないものなのだ。そして、何も変更されておらず、イデオロギーは永遠に同一なのだ、というふりをする(pretend)ことが、全ての者の義務になるだろう。
 (スターリンは、レーニンのように、彼自身はマルクス主義に何も「付け加えて」おらず、ただ発展させただけだ、と注意深く強調した。)
 党のイデオロギーはいつでも指導者が語った以上のものでも以下のものでもない、ということを理解するために、市民は、二重の意識を持たなければならなかった。すなわち、公的には、変化しない教理問答書としてのイデオロギーに忠実であると告白する。一方、私的には、または半ばの意識では、イデオロギーは完全な融通性をもつ、党の手にある、つまりはスターリンの手にある、道具だと知っている。
 市民はかくして、「信じることなくして信じる」ことをしなければならなかった。そして、党が党員たちの中に、また可能なかぎりで全民衆の中に、作り出して維持しようとしているのは、まさにこのような心理(mind)の状態だった。
 生活必需品を欠く半ば飢えている人々は、集会に参加し、いかに富裕であるかについて政府のウソを繰り返して言った。そして考え難いことに、その人々は自分たちが言っていることを半分は信じていた。
 彼らはみな、何と言うのが「正しい」のか、つまり何と言うことが彼らに要求されているかを知っていた。そして、奇妙なことだが、彼らは真実と「正しさ」とを混同していた。
 真実は党が問題にすることだ、と彼らは知ってた。そのゆえに、ウソが経験上の単純な事実と矛盾しているとしても、ウソが真実になった。
 このようにして同時に二つの分離した世界で生きるという状態は、スターリニズム体制が達成した最も顕著なものの一つだった。//
 (9)<小教程>は、虚偽の歴史と二重思考の完全な手引き書だった。
 それがもつ虚偽と隠蔽はあまりに明白すぎて、問題のある事象を目撃していた読者たちが看過したほどのものだった。最も若い党員たち以外の全てが、トロツキーとは誰か、ロシアの集団化はいかにして生じたかを知っていた。しかし、彼らは、公式の見解をオウムのごとく繰り返すことを余儀なくされて、新しい過去の共作者になり、党が作った真実の信奉者になった。
 かりに誰かが明白な経験的事実にもとづいてこの真実を攻撃したとすれば、忠誠者たちの憤激は完璧に嘘偽りのないものだった。
 スターリニズムはこうして、実際に「新しいソヴィエト人間」を生み出した。
 すなわち、イデオロギー上の統合失調症患者、自分が言ったことを信じるウソつき、知的な自傷行為を絶えずかつ自発的に行うことのできる人間。//
 (10)すでに述べたように、<小教程>は弁証法的および歴史的唯物論の新しい提示を含んでいた。-全世代の者にとっての、完全なマルクス主義教理書。
 スターリンのこの作業は、例えばブハーリンの手引き書にも見られ得る簡潔なマルクス主義の説明に、何かを付け加えるものでは実際にはなかった。しかし、全てに番号を振り、体系的に説明する、という長所があった。その書物の他部分と同じく、マルクス主義の提示(exposé)は説教をする目的をもち、理解し記憶するのが容易だった。//
 (11)弁証法的唯物論、マルクス主義哲学は二つの要素、すなわち世界の唯物論的見方および弁証法的方法、から成る、から文節は始まる。
 後者は四つの原理的特質をもつ法則に区別される。
 第一に、全ての現象は相互に連関し合っており、全世界は全体として考究されなければならない。
 第二に、自然にある全ての事物は変化、運動および発展の状態にある。
 第三に、現実の全ての分野で、変化は量的蓄積から生じる。
 第四に、「統合と反対物の闘い」の法則は、全ての自然現象は内部矛盾を具現化したもので、発展の「内容」はその諸矛盾の対立だ、というものだ。
 全ての現象に積極的および消極的側面が、過去と未来があり、闘いは新しいものと古いものとの対立の形態をとる。//
 (12)気づかれるだろうが、この説明は、レーニンが<哲学草稿>で述べたような、エンゲルスの「否定の否定」を含んでいない。
 これを省略している理由は、説明されていない。しかし、いずれにせよ、弁証法はこののちは四つの法則から構成されるのであり、それ以上からではない。
 弁証法の反対物は「形而上学」だ。
 形而上学者はブルジョア哲学者や学者で、当該の諸法則のうちの一つかそれ以上を否定する。そうして彼らは、現象を分離して、つまり相互関係においてではなく、判断することを要求し、何ものも発展しないと主張する。彼らは、質的な変化が量的変化から生じることを理解せず、内部矛盾という考え方を拒否する。//
 (13)自然の唯物論的解釈は、三つの原理を含む。
 第一に、世界はその性質上物質的で、全ての現象は動いている事物の形態だ。
 第二に、事物または存在は我々の精神(mind)の外側に自立して存在する「客観的な現実」だ。
 第三に、世界の全てのものは、知り得る(=可知、knowable)。//
 (14)歴史的唯物論は、弁証法的唯物論の論理的帰結だとして提示される。これを支える見解は、エンゲルス、プレハノフおよびブハーリンのいくつかの叙述に見出すことができる。
 「物質的世界が一次的で、精神は二次的なものである」ため、「社会の物質的生活」、つまり生産と生産諸関係も一次的で、「客観的な現実」だ。一方、社会の精神的(spritual)生活はそれの二次的「反射」だ。
 こうした推論の論理的根拠は、説明されていない。
 スターリンはその際にマルクスの諸定式を引用する。土台と上部構造、階級と階級闘争、イデオロギー(および上部構造の他の全諸形態)の生産諸関係への依存性、社会的変化の理由を地勢や人口動態に求めることの誤り、歴史は一次的には技術発展に依存すること、に関するマルクスの諸定式だ。
 そして、五つの主要な社会経済体制に関する説明がつづく。すなわち、原始共産制、奴隷所有制、封建制、資本主義、社会主義。
 これらが次々と発生する順序は歴史的に不可避のものだ、と叙述される。
 マルクスの言う「アジア的生産様式」に関しては、何も語られていない。
 考えられるその理由は、別の箇所で論述した(第一巻第一四章、pp.350-1)。//
 (15)社会の五つの類型の列挙とその世界各国への適用は、ソヴィエトの歴史研究者に大きな問題を与えた。
 そのような現象をかつて聞いたことがない人々にとって、奴隷社会や封建社会の存在を識別するのは容易なことではなかった。
 さらに、資本主義がブルジョア革命によって生まれ、社会主義は社会主義革命によって生まれたので、従前の移行も同様の方法で発生した、と想定するのは当然だった。
 スターリンは実際、封建制は奴隷所有制から奴隷革命(slave revolution)の結果として出現した、と書いた(または「証明した」。ソヴィエト哲学では、マルクス=レーニン主義の古典に関係する場合にはこれらの二つの言葉は同じことを意味した)。
 スターリンは、実際に1933年2月19日の演説で、同じ点を指摘した。すなわち、奴隷所有制は奴隷革命によって打倒された。その結果として、封建領主たちがかつての搾取者の地位を奪った。
 これは歴史研究者たちに、奴隷所有制から封建制への移行の全ての場合について「奴隷革命」の存在を識別しなければならないという問題を追加した。//
 (16)スターリンの作業はイデオロギストたちの、マルクス主義理論の至高の達成物で哲学史を画するものだ、との大合唱によって歓迎された。
 つづく15年間、ソヴィエト哲学は、この至高の功績の主題に関してはほとんど全く変わりがなかった。
 全ての哲学の論考や参考書は、義務のごとく弁証法の四つの「標識」と唯物論の三つの原理を列挙した。
 哲学者たちには、異なる現象は相互に関連していること(スターリンの第一法則)、あるいは事物は変化すること(第二法則)等々を示す例を見つける(各法則を証明する)こと以外にすることがなくなった。
 こうして、哲学は、最高指導者に対して絶えざる阿諛追従をする媒体の地位へと身を落とした。
誰もが、精確に同じ文体で執筆した。彼らの仕事の形式や内容でもって誰がしているかを区別することはできなかった。
 自立して思考しようとする試みはなく、眠気が生じる決まり文句が際限なく繰り返された。自立した思考は、いかに臆病で媚びたものであっても、その著者を直接的な攻撃の対象にさせただろう。
 哲学に関して自分自身の何かを語ることは、スターリンは重要な何かを省略したと追及していることをすでに意味しただろう。
 自分の様式で執筆することは、スターリンよりもうまく何かを表現することができると示唆することであって、危険な図々しさを示すことだった。
 こうして、ソヴィエトの哲学上の文献は、<小教程>第四章第二節の内容を薄めて再生産する無駄紙の山で成り立つようになった。
これと比較すれば、「弁証法論者」と「機械主義者」のかつての論争は、大胆かつ生産的な、そして自立した思考の一つの例だった。
 哲学史は、ほとんど忘れられた科目になった。
 1930年代には、哲学の古典の翻訳書がなおいくつか出版されていた。しかし、それらの著者は良くも悪くも「唯物論者」だと区分けされるものか、宗教に反対する者だった。ソヴィエトの読者はときにはHolbach やVoltaire の反聖職者本を、あるいは幸運であれば、Bacon やSpinozaの何かを、見たかもしれなかった。
 ヘーゲルの書物も、彼は「弁証法」的執筆者の聖人の一人だったので、まだ出版されていた。
 しかし、およそ40年の間、他の危険な観念論者は言わずもがな、プラトン(Plato)が読まれる機会は存在しなかった。
 職業的哲学者たちは、「マルクス=レーニン主義の古典」、すなわちマルクス、エンゲルス、レーニンそしてスターリンのみを引用した。もちろん、全員が揃って言及されるときにはこの年代的な順序が守られたが、引用の頻度の点でいうと、順序はまさに正反対だった。//
 (17)<小教程>の刊行が生んだイデオロギー状況は、最終的な完璧さの一つだった、と見えるかもしれなかった。
 しかし、戦後には、いっそうの改良がさらになされることになった。//
 (18)スターリンによって成文化されたマルクス主義は何らかの基本的な点でレーニン主義とは異なる、と考えてはならない。
 そのマルクス主義は単調な、初歩的な範型であって、新しい何かをほとんど含んでいなかった。
 1950年以前のスターリンの著作のいくつかに見出し得る独自的なものは、じつに、二つの例外を除いて、ほとんど何もない。。
 第一に、我々が輸入元をすでに考察した、社会主義は一国で建設することができる、ということ。
 第二に、階級闘争は社会主義の建設が前進するにつれて激しくならなければならない、ということ。
 この原理的考え方は、スターリンがソヴィエト同盟にはもはや敵対階級は存在しないと宣言した後でも、公式には有効なままだった。-もはや階級はない、だが階級闘争はかつて以上に深刻になっている。
 1933年1月12日の中央委員会幹部会でスターリンが始めて発表したもののように思われる第三の原理的考え方は、共産主義のもとで国家が「消滅する」前に、弁証法的理由によって国家はようやく最大限の力強さの頂点へと発展するにちがいない、というものだった。
 しかし、この考え方は、トロツキーが内戦の間にすでに定式化していた。
 いずれにせよ、第二および第三は、警察テロルのシステムを正当化すること以外には、意味をもたなかった。//
 (19)しかしながら、つぎのことを再び強調しておかなければならない。すなわち、スターリンのイデオロギーに関して重要なのはその内容ではなく-聖典的な形態で表明されたとしてすら-、イデオロギー上の問題について異論を挟むことのできないと誰もが判断する、至高の権威をもった、という事実だ。
 イデオロギーは、かくして、完全に制度となり、事実上は全ての知的生活がそれに従属した。
 「理論と実践の統一」は、教理、政治および警察の権威のスターリン個人への集中によって表現された。//
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 ③へとつづく。

1884/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第2節①。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第三章/ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。1978年英語版 p.91-p.94、2004年合冊版p.860-p.863。
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 第2節・スターリンによるマルクス主義の成文化(codification)①。
 (1)ソヴィエト同盟の文化諸分野は1930年代に厳しく統制され、自立した知的生活は、実際上は存在しなくなった。
 純文学(Belles-lettres)は徐々にだが効果的に、体制と指導者を称賛して「階級敵」の仮面を剥ぐことを唯一の目的とする、政治と虚偽宣伝の付属物になっていった。
 スターリンは1932年にGorky の家で作家グループと話しているとき、著作者たちは一般に「人間の精神(souls)に関する技術者」だと述べた。そして当然に、この追従的な言葉遣いは、公式の決まり文句になった。
 映画や演劇も、同じように見なされた。後者の方が被害は少なかったけれども。
 伝統的な戯曲の演目は、たいていは古典的ロシア劇作家である作者が「進歩的」であるか「部分的に進歩的」であると表現できる場合にのみ、上演することが許された。この中には、Gogol、Ostrovsky、Saltykov-Shchedrin、TolstoyおよびChekhov が含まれていた。そして、最悪の年代にすら、優れた上演作品はロシアの舞台で観ることができた。
 小説家、詩人および映画監督たちは、Byzantine で、スターリンの称賛を互いに競い合った。これが頂点に達したのは戦後だったが、いま我々が考察している時代にすでに高い程度に至っていた。//
 (2)しかしながら、抑圧と統制は、異なる程度で異なる知的分野に影響を与えた。
 1930年代には、科学の一定の分野で、とくに理論物理学と遺伝学で、マルクス主義を志向する大きな趨勢があった。しかし、1940年代遅くまでには頂点に達しなかった。
 しかしながら、とくにイデオロギーの観点からは微妙(sensitive)な他の分野、すなわち哲学、社会理論および歴史-とりわけ党の歴史と近現代一般の歴史-のような分野は、1930年代にたんに拘束着を身につけさせられた(straight-jacketed)ばかりではなく、スターリンの用語法で完全に成文化(codify)された。//
 (3)ソヴィエトの歴史編纂が屈服した重要な段階は、スターリンが1931年に雑誌<プロレタリア革命>に寄せた書簡によって画された。その手紙は、編集部による適切な自己批判とともに掲載されていた。
 スターリンの書簡は、1914年以前のボルシェヴィキとドイツ社会民主党の関係に関するSlutsky の論考を掲載したとして編集部を叱責した。その論考は、第二インターナショナルでの「中央主義」と日和見主義の危険性を正しく評価することができなかったとして、レーニンを批判していた。
 スターリンはまず、レーニンは何かを「正しく評価することのできなかった」、つまりレーニンはかつて謬りを冒したと示唆する「赤いリベラリズム」だと雑誌を厳しく咎めた。そのあとで彼は、のちに経典的文章となった第二インターナショナルの完全な歴史を概述した。
 スターリンの主要な関心は、非ボルシェヴィキの左翼とトロツキーにあった。
 スターリンによれば、社会主義的左翼は日和見主義との闘いである程度の貢献はしたが、重大な過ちも冒した。
 Rosa Luxenburg とParvus は、例えば党規約に関する党の論争でしばしばメンシェヴィキの側に立った。そして1905年には、「永続革命という準メンシェヴィキ的図式」を案出した。その図式はのちにトロツキーが採用し、その致命的な誤りはプロレタリアートと農民間の同盟という考えを拒否したことだった。
 トロツキー主義について言えば、それは共産主義運動の一部ではとっくになくなっており、「反革命的ブルジョアジーの先鋭的特殊部隊」になっていた。
 戦争前のレーニンはブルジョア民主主義革命が社会主義革命へと不可避的に発展することを理解していなかった、レーニンはのちにトロツキーからその考え方を拾い上げた、というのは、奇怪なウソだ。
 スターリンの書簡(英語版全集第13巻、1955年、pp.86ff.)は、ソヴィエトの歴史編纂の仕方を最終的に決定した。すなわち、レーニンはつねに正しかった(right)。ボルシェヴィキ党は、敵が組織内にしのび込んで組織を正しい道から逸らそうとして失敗したときでも、つねに無謬だった。
 社会主義運動での全ての非ボルシェヴィキの集団は、つねに裏切りの温床であり、せいぜいのところ有害な過ちの培養地だった。//
 (4)こうした判断はRosa Luxenburg の歴史的評価を封印し、決定的にトロツキーに関する処理をつけた。
 しかしながらさらに、歴史、哲学および社会科学の全ての諸問題が、最終的に解決済みのものとされた。
 これを行ったのは、匿名の委員会が編集した1938年の<ソヴィエト同盟共産党の歴史・小教程(Short Cource)>だった。スターリンは当時、党の世界観に関して是認される範型を叙述する、「弁証法的かつ歴史的唯物論」という名高い部分(第4章)だけの執筆者だと考えられた。
 しかしながら、戦後には、この書物全部がスターリンによるものだったとされ、彼の全集の一部として再発行された。そして、その死後も途切れることがなかった。
 スターリンの特徴的な文体はいくつかの場所で明確だった。とくに、多様な反抗者や偏向主義者を「白衛軍のまぬけ」、「ファシストの完璧な子分」等々と称するところで。//
 (5)<小教程>の特質は、出版史の世界での際立つ記録だ。
 ソヴィエト同盟で数百万冊が発行され、15年のあいだ、全市民を完全に拘束するイデオロギーの手引き書として用いられた。
 版の多さは、疑いなく、西側諸国では聖書のそれだけが比べものになっただろう。
 止むことなく、あらゆる場所で発行され、教えられた。
 中学校の上級クラス、高等教育の全ての課程、党での研修等々、<小教程>は何かが教育される全てのところで、ソヴィエト市民の主要な知的滋養源(pabulum)だつた。
 識字能力のある全ての者にとって、これを知らないままでいることは異様な曲芸であっただろう。
 ほとんどの者が何度も読み返すことを義務づけられ、党の宣伝者や講師たちはほとんどこれを暗記していた。//
 (6)<小教程>は、もう一つの点でも世界記録を打ち立てた。
 歴史の体裁をとる書物の中で、これだけ多くの虚偽と隠蔽(lies and suppressions)を含むものは、おそらく存在しない。
 書名が示すように、この本は最初からボルシェヴィキ党の歴史だと謳う。だが第4章も、読者を世界史の一般的諸問題へと誘引し、読者にマルクス主義哲学と社会理論の「正しい」見方を解説する。
 諸教訓(morals)が歴史的事象からあっさりと抽出され、それらがボルシェヴィキ党と世界共産主義運動の諸行動の基礎を形成したものだと提示される。
 歴史の結論は、単純だ。すなわち、レーニンおよびスターリンの素晴らしい指導のもとで、ボルシェヴィキ党は、十月革命の成功という栄冠に輝く、誤りのない政策を最初から確固として追求してきた。
 レーニンはつねに歴史の先頭にいると描かれる。そして、すぐ後に、スターリンがつづく。
 幸福にも大粛清の前に死亡した第二または第三ランクの少数の者たちは、物語の適当な箇所で簡単に言及される。
 レーニンが党を創立するのを実際には助けた指導者たちは、全く言及されないか、または札付きの裏切り者もしくは党に入り込んで妨害と陰謀とをその経歴とする破壊者だと叙述される。
 一方で、スターリンは、最初から過ちなき指導者であり、レーニンの最良の生徒であり、レーニンが最も信頼した協力者であり、最も親密な友人だった。
 レーニン自身については、彼はまだ若い間に人間性を発展させる計画を抱いており、彼の人生の一連の全ての行為はその計画を実現するための考え抜いた歩みだった、と読者が理解するように記述される。//
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 ②へとつづく。

1883/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第1節④。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第三章/ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。1978年英語版 p.88-p.91、2004年合冊版p.857-p.860。
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 第1節・大粛清のイデオロギー上の意味④。
 (24)組織的に作りごとをする同様の仕組みは、例えば一般的「選挙」のような、他の多くの分野に見られた。
 選挙を実施するような面倒事を行い費用を割くのを政権はやめたはずだ、と思われるかもしれない。誰が見ても、その馬鹿々々しさは明白だ。
 しかし、それを実施するのは重要だった。全ての市民を、共同の虚構の、まさにそのことによって完全な紛い物ではなくなる公式の「現実」の、参加者かつ共作者に変えることができたのだから。
 (25)第四の問題は、不可解な現象を我々に再び提示する。
 ソヴィエト同盟から西側に入った情報は、むろん、断片的で不確かなものだった。
 体制は接触を厳格にし、いずれの側からの情報の流出入も制限しようと最大限の努力をし尽くした。
 ソヴィエト国民による外国旅行は国家利益のために厳しく統制され、外国人による無資格の通信や報道は、諜報活動か反逆行為だと見なされた。
 にもかかわらず、ソヴィエト国家は、完全に世界から自らを遮断することはできなかった。
 警察テロルに関するある程度の情報は西側へと浸み出た。その情景を実感した者はいなかったけれども。
 さらに、モスクワ裁判は急いでかつ不器用に準備されたので、いくつかの西側の新聞は、明らかな矛盾や不条理を指摘した。
 だが、そうしたときに、西側の知識人たちがスターリニズムに対してとった寛容な態度を、いったいどう説明すればよいだろうか。彼らは、積極的に支援しなかったか?
 実直で腐敗とは無縁のイギリスの社会主義者、Sysney Webb とBeatrice の夫妻は、テロルが高揚していた間に一度ならずソヴィエト同盟を訪問し、「新しい文明」に関する喫驚するばかりの書物を発行した。
 彼らが明確に記述するところによると、ソヴィエトの制度は正義と幸福を求める人間の最も貴重な希望を具現化したものだった。そして彼らは、イギリスの汚辱と対照させて観察し、イギリスのエセ民主主義を罵倒した。
 モスクワ裁判の真正さやロシア最初の「民主主義」政権の完璧さを疑う理由が、彼らにはなかった。
 ソヴィエトの制度を擁護し、裁判の虚偽性を看取しなかった者たちの中には、Leon Feuchtwanger、Romain Rolland、およびHenri Barbusseらがいた。
 そうした合唱に加わらなかった数少ない一人は、André Gide(アンドレ・ジッド)だった。彼は1936年にソ連邦(USSR)を訪れ、印象記を書いた。
 彼は当然に、暴虐行為については何も見なかった。へつらいに囲まれ、体制による偉業の幻惑だけを示された。しかし、彼は、表面的なものが普遍的な虚偽(mendacity)のシステムを隠蔽していると悟った。
 何人かのポーランドの文筆家たちもまた、見せかけ(make-believe)のものを見抜いた。イギリスの報道記者のMalcom Muggeridge がそうだったように(<モスクワの冬>、1934年)。//
 (26)西側知識人たちの反応は、良識や批判的精神に対する、教理的イデオロギーの特筆すべき勝利だった。
 粛清の時期は確かに、ナツィの脅威の時期でもあった。このことによって、左翼またはリベラルな伝統の中で育て上げられた多数の思索者や芸術家たちが、文明に掛かる脅威からその文明を救い出すという唯一の希望をロシアに見た、ということが説明され得るかもしれない。
 ファシストの野蛮さに対する防波堤を与えてくれると頼ることができるならば、彼らは、「プロレタリア国家」を最大限に許す心の用意があった。
 彼らは、スターリニズムとは違ってナツィズムはその悪の顔を世界から隠そうとはほとんど努力しなかったために、それだけ一層、たやすく巧みに欺された。ナツィズムは公然と、その意図は他の民族を粉々にして塵とし、「劣った諸人種」を奴隷状態に貶める、そのような強大で全能のドイツを作ることだ、と宣言していたのだ。
 一方でスターリンは、平和と平等、被抑圧民衆の解放、国際協調主義、そして諸民衆の間の友好、という社会主義の福音を説きつづけた。
 批判的に思考することが職業であるはずの西側の者たちは、事実よりも無用の言葉を信頼した。すなわち、イデオロギーと願望を伴う思考が、最も明白な現実よりも強力だったのだ。//
 (27)粛清に関して考察する際には、スターリンのロシアはどの時期であれ、警察には、ましてや<党の上にある>警察には、統治されなかった、ということを知ることが重要だ。
 <党の上にある>警察うんぬんは、党の優越性を回復するのが課題だと主張した、スターリン死後の自称改革者が用いた口実(alibi)だった。
 スターリンのもとでの警察は随意に党員たちを逮捕し殺害した、というのは本当のことだ。しかし、党組織の最高部が、とくにスターリン自身が指示しまたは是認しなければならない履行者たちがいる、党の最高のレベルに対してではなかった。
 スターリンは党を支配するために警察を使った。しかし、彼自身が、秘密警察の長ではなく党指導者としての権能をもって、党と国家のいずれをも支配した。
 この点は、ソヴィエト体制における党の機能に関する研究で、Jan Jaroslawski が十分に明らかにしている。
 スターリンに具現化される党は、一瞬なりとも至高の権力を放棄しなかった。
 スターリン後の改革者たちが党は警察よりも上位だと主張したとき、彼らは、党員は党当局の承認なくしては逮捕されてはならないということのみを意味させたかった。
 しかし、かつてもつねにそのような状態だった。警察が同等の階層にいる党指導者たちをある程度は逮捕したとしてすら、さらに上位の党指導者たちの監視のもとにあった。
 警察は、党の手中にある道具だった。
 厳格な意味での警察システム、つまり警察が完全に自由に権限を行使するシステムがロシア国家を覆ってはいなかったし、またそうすることはできなかった。それは、党が権力を失うことを意味していただろう。そしてそれは、システムの全体が崩壊することを原因とすることなくしては生じ得なかっただろう。//
 (28)このことによってまた、スターリンのもとでの、かつ現在でのいずれについても、イデオロギーが果たす特殊な役割が、説明される。
 イデオロギーは、たんにシステムに対する助けや飾りにすぎないのではない。それを民衆が本当に信じようと信じまいと、そのいずれにも関係なく、システムが存在するための絶対的条件だ。
 スターリニズム的社会主義は、その正統性の根拠は完全にイデオロギーに由来する、モスクワが支配する帝国を生み出した。とくに、ソヴィエト同盟は全ての労働大衆の利益を、とりわけ労働者階級の利益を具現化する、ソヴィエト同盟は彼らの要求と希望を代表する、ソヴィエト同盟はいずこにいる被搾取大衆の解放をも実現する世界革命に向かう最初の一歩だ、という諸教理に由来する、そういう帝国を。
 ソヴィエト体制は、このイデオロギーなくしては作動することができなかった。そのイデオロギーこそが、今ある権力装置の<存在理由(raison d'etre)>だった。
 その権力装置は、性質上本質的にイデオロギー的でかつ国際主義的なもので、警察、軍隊その他の諸制度によって代替されることはできないものだった。//
 (29)ソヴィエト国家の警察はいつでもイデオロギーによって決定された、と述べているのではない。
 そうではなく、必要としたときに警察を正当化するために、イデオロギーが存在しなければならない。
 イデオロギーはシステムの中に組み込まれており、その結果としてイデオロギーは、正統化の基本原理が国民による選挙かまたは世襲君主制のカリスマ性かに由来する国々と比べて、全く異なる役割を果たす。
 (30)ソヴィエトのような体制には、その行動の正当化を公衆(the public)に求める必要がない、という利点がある。その定義上、公衆の利益と要求を代表する、そして、このイデオロギー上の事実を変更できるものは何もないのだ。
 しかしながら、ソヴィエト的制度は、民主主義的諸体制には存在し得ない危険(risk)にもさらされている。すなわち、イデオロギー上の批判に対して極度に敏感(sensitive)なのだ。
 このことはとりわけ、知識人が他の体制下とは比べものにならない地位を占める、ということを意味する。
 システムの知的な正当性(validity)に対する脅威、あるいは異なるイデオロギーの擁護は、道徳的な危険を示す。
 全体主義国家は決して全くの不死身のものになることはできないし、批判的思考をすっかり抑え切ることもできない。
 全体主義国家は、生活の全様相を支配するので全能であるように見えるかもしれないが、イデオロギー上の一枚岩に生じるいかなる裂け目もその存在に対する脅威になるというかぎりでは、弱いものでもある。//
 (31)さらに、イデオロギーがそれ自体の慣性的運動を失い、国家当局による現実的命令以外の何ものでもほとんどないものへと位置を下げる、そのようなシステムを維持することは困難だ。
 スターリニズムの論理は、真実はそれぞれの時点で党が、すなわちスターリンが語ることだ、というものだった。そして、このことの効果は、イデオロギーの実質をすっかり空虚なものにすることだった。
 他方で、イデオロギーは、それ自体の首尾一貫性をもつ一般的理論として提示されなければならない。そしてそれがなされるかぎりは、イデオロギーがそれ自体の推進力を得られない、そして-実際にスターリン後の時期に生じたように-その主要な代表者や単独の権威ある解釈者に対抗して用いられる、といったことは保障されるはずはない。
 (32)しかしながら、1930年代の遅くには、このような危険からはきわめて遠くにいるように思われた。
 市民社会がもはやほとんど存在せず、一般民衆はスターリンに個人化された国家の命令に服従すること以外のいかなる志向も持たないように見える、そうしたほとんど理想的な、完璧な国家へと、システムが持ち込まれた。
 (33)社会的紐帯を破壊するきわめて重要な手段は、隣人たちを相互にこっそりと監視(spy)する普遍的な制度だった。
 全ての市民が法的にまたは道徳的にそうするように義務づけられ、密告(tale-bearing)は立身出世するための主要な方法になった。
 こうしてまた、莫大な数の人々が、個人的な上昇のために犯罪加担者になった。
 スターリニズム的社会主義の理想は、国の誰もが(スターリンを除いて)強制収容所の収監者であり、同時にまた秘密警察の工作員でもある、そのような状態であるように見えた。
 これを究極的な完成形にまで至らせるのは困難だったが、それへと向かう趨勢は、1930年代にはきわめて強かった。//
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 ④終わり。第1節も終わり。第2節の表題は「スターリンによるマルクス主義の編纂」(仮)。

1882/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第1節③。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第三章/ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。1978年英語版 p.84-p.88、2004年合冊版p.854-p.857。
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 第1節・大粛清のイデオロギー上の意味③。
(17)第一の問題について、多くの歴史研究者たちは、大粛清の主要な目的は政治生活の潜在的な焦点である党を、何らかの事情のもとではそれ自体の、たんに支配者の手にある道具ではない生命を獲得するかもしれない力を、排除することだ、と考えた。
 Isaac Deutscher は、モスクワ裁判に関する彼の最初の(ポーランドで出版された)書物で、メンシェヴィキによるボルシェヴィキに対する復讐行為だ!との注目に値する議論を述べた。-その理由は、犠牲者はほとんどオールド・ボルシェヴィキであり、主任検察官のVyshinsky は元メンシェヴィキで、当時の主要な党宣伝者のDavid Zaslavsky はユダヤ同盟の一人だった、ということにある。
 これは、Deutscher がのちにトロツキーの人生に関する三巻本(<追放された予言者>1963年、p.306-7)で進めた説明のように空想的なものだった。すなわち、ソヴィエトの上層官僚たちは富を蓄積できなかった、または子どもたちに遺すことができなかったために、大きかったけれども彼らの特権に満足していなかった、また、トロツキーが危惧したように、彼らが社会的な所有制度を破壊しようとする危険があった、とする。
 Deutscher によれば、スターリンは、この危険を察知し、新しい特権階層が固定してシステムを破滅させることを妨げるためにテロルを用いた。
 これは、実際は、犠牲者たちはロシアに資本主義を復活させようとしていたというスターリニストたちの見方を言い換えたものだ。
 しかしながら、Deutscher はスターリンの人生に関する書物(1949年)では、多少とも歴史研究者たちに一般的な見方を採用していた。
 スターリンは、政府または党指導者のうちの全ての考えられる代替選択肢を破壊したかった。もはや積極的な反対者はいなかったが、突然に危機が発生するかもしれず、彼は党内に対抗的な権力が集まる全ての可能性を粉砕しなければならなかった。//
 (18)この説明はモスクワ裁判には合っているかもしれない。しかし、粛清の大量性の説明としては明瞭性がない。それは、代替的な党指導者になるいかなる機会もなかった、知られざる数百万の人々に影響を与えたのだ。
 スターリンは経済の失敗についての生け贄を必要としたとか、スターリンの個人的な執念深さやサディズムとかの、他の考え方に対しても、同じ異論がしばしば当てはまる。-それらはたしかに大多数の場合についての説明になるが、数百万の大殺戮についてはほとんど困難だ。//
 (19)その目的を他の手段では全く不十分にしか達成できなかったという意味で、大粛清はおぞましい的はずれだった、と言えるかもしれない。
 だがしかし、大粛清は言わば、システムの自然的論理の一部だった
 全ての顕在的または潜在的な対抗者を破壊することのみではなく、かりに僅かで些細であってもなお国家とその指導者以外の何らかの根本教条への忠誠の残滓が-とくに、指導者や党の現在の指令から自立した参照枠組みと崇拝対象としての共産主義イデオロギーへの信念の残滓が-まだ依然としてある単一の有機的組織体(organism)を全て除去してしまうこと、こそが疑問だったのだ。
 全体主義的(totalitarian)システムの目的は、国家が課さず、国家が厳密に統制することのない共同生活の全ての形態を破壊することだった。そのようにして、個々人が他者から引き離され、国家の手中にあるたんなる道具になる、ということだった。
 市民は国家に帰属し、国家のイデオロギーに対してすら、忠誠心を抱いてはならなかった。
 このことは逆説的であるように見える。しかし、この類型のシステムを内部から見知っている全ての者にとって、驚くべきことではなかった。  
 支配党に対する全ての形態の反抗、全ての「偏向主義」と「修正主義」、分派、批判、抵抗-こうした類の全ては、党が防御者であるイデオロギーに訴えかけてきた。
 その結果として、イデオロギーは、それに自立的に訴えかける資格を以上のような者たちは持たないということをを明確にするために、修正された(revised)。-ちょうど、中世には無資格の人々は聖典に関して論評することが許されず、聖書自体がつねに<論述の神(liber haereticorum)>だったのと全く同様に。
 党は本質的にはイデオロギー的組織体だった。言わば、党員たる者は共通する忠誠心でもって連結され、諸価値を分かち持った。
 しかし、諸イデオロギーが諸装置に変わるときにはつねに生じるように、その忠誠心は、教義の「本当の」変更はないと主張されつつも、全ての政治的動きを正当化するためには曖昧で不明瞭なものでなければならかった。
 不可避的に、真摯に忠誠心を理解する者たちは自分でそれを解釈することを欲し、あれこれの政治的な歩みがマルクス=レーニン主義(Marxism-Lenumismatic)に関するスターリンの見方と合致しているか否かを考えようとした。
 しかし、そのことは、たとえスターリンに対する忠誠を誓ったとしても、彼らを政治的危機と政府に対する反抗へと追い込んだ。なぜなら、彼らはつねに今日のスターリンに反抗して昨日のスターリンに依拠しているのかもしれず、指導者自身に反対して指導者の言葉を引用しているかもしれなかったからだ。
 ゆえに、粛清が企図したのは、党内部になお存在しているイデオロギー上の連結を破壊し、上位者からの最新の命令に対する以外にはいかなるイデオロギーや忠誠心も持たないことを党員たちに確約させること、そして、社会の残余者たちのように無力で統合されていない大衆へとを党員たちを貶めること、だつた。
 これは、リベラル諸政党や社会主義諸政党、独立したプレスおよび文化的諸組織、宗教、哲学、芸術、そして最後に党内部の分派の廃絶(liquidation)を始めたのと同じ論理を継続させたものだった。
 支配者に対する忠誠心以外に何らかのイデオロギー上の連環がある場合にはつねに、現実には存在していないとしても、分派主義(fractionalism)が生まれる可能性があった。
 粛清の目的はこの可能性を除去することであり、その目的に関して、粛清は成功した。
 しかし、1930年代の大虐殺(hecatomb)を必要とした原理的考え方はなおも力を持っており、まだ決して放棄されていない。
 そのようなものとしてのマルクス主義イデオロギーに対する忠誠は、今なお犯罪であり、あらゆる種類の逸脱の源泉だ。//
 (20)そうであっても、ソヴィエトの民衆は、そして党ですらも、ホロコーストに抵抗しなかったという事実は、いずれにせよあの規模のごとくには粛清は必要でなかったということを示唆しているように見える。
 党はすでに(マルクスがフランスの農民について言った)「ジャガ芋袋」の理想的状態になるほど閉鎖的で、独立した思考の中心が生まれることは望まれず、かつそれをする能力もなかった、と思われていただろう。
 一方で、粛清がなかりせば、例えばドイツとの戦争の最も危険なときのような危機の場合にそうならなかったかどうかは、分からない。//
 (21)このことは、我々につぎの第二の疑問を生じさせる。いかにして、ソヴィエト社会は抵抗することが全くできなかったのか?
 答えは、党は、つまり指導者の外側は、装置から独立したいかなる態様でも自分たち自身を組織することがすでにできなかった、ということのように見える。
 残りの国民大衆と同じく、党は個人の離ればなれの集合体へと変形されていた。
 抑圧の文脈では、生活の全ての他の分野のように、一方での全能の国家が他方での孤立した市民に対して向かいあっていた。 
 個人の麻痺状態は、完全だった。
 そして同時に、党が最初から獲得していた原理的考え方に適合して行動することが否定された。
 党員は全員が民衆に対する大量の残虐行為に加担し、彼ら自身が無法状態の犠牲者になったとき、彼らには訴えて頼るものが何もなかった。
 彼らのうち誰も、被害者が党員でなかった間は、虚偽の裁判と処刑に反対しなかった。
 彼らは全員が積極的であれ消極であれ、「原理として」司法による殺人に間違ったところは何もない、と受け入れた。
 また、彼らは全員が、いかなるときでも、誰が階級敵なのか、富農の仲間なのか、あるいは帝国主義者の手先なのか、を党指導者が決定することができる、ということに同意していた。
 彼らが容認していたゲームの規則は彼らに向かって集中的に課されており、抵抗精神を促進したかもしれない道徳的な原理を彼らは身につけていなかった。//
 (22)戦争中に、ポランドの詩人、Aleksander Wat は、スターリンの監獄の一つでオールド・ボルシェヴィキである歴史研究者のI. M. Stelov と遭遇し、モスクワ裁判の全ての主役はたちはなぜ、最も滑稽な責任を告白したのか、と質問した。
 Stelov は単純に、こう答えた。「我々はみな、血に夢中になっていた」。//
 (23)第三の問題について言うと、我々は最初は、集団的な幻覚(hallucination)を論じているように見える。
 共産党員の大量殺戮にはそれなりの理由がスターリンにあったと想定してすら、なぜ無数の重要ではない人々を拷問によって、ウズベキスタンをイギリスに売り渡すことを謀った、Pilsudski の工作員だった、あるいはスターリンを謀殺しようと試みた、と自白させることが必要だったのか?
 しかし、この狂気においてすら、少しばかりの方法はあった。
 犠牲者たちは、肉体的に破壊されたり無害なものに変えられたりしたのみならず、道徳的にも廃人になった。
 NKVDの機関員たちは虚偽の自白書に自分たちで署名して、拷問を受けた犠牲者たちに止めを刺すか、有罪を「認めた」ことを理由に収容所へと送り込んだ、ということが考えられ得ただろう。-もちろん、全世界に対して自分たちの罪責を宣言しなければならない見せ物裁判の被告たちを除いて。
 しかし、これらは全体のごく僅かの割合にすぎなかった。
 しかしながら、実際には、警察が人々に自分たちの自白に署名することを強いた、そして、知られている限りでは、署名を偽造することはなかった。
 結果は、犠牲者たちが自分たちに冒した犯罪に対する付属物になり、偽造という一般的な運動への関与者になった、ということだった。
 ほとんど誰も、拷問によって何かを自白することを強いられ得なかった。しかし、通常は、少なくとも20世紀には、拷問は真実の情報を得るために用いられている。
 スターリン・システムでは、拷問を加える者とその犠牲者たちは両方とも完全に、情報は虚偽だということを知っていた。
 しかし、彼らは作り話に固執し、そのようにして、誰もが、普遍的な作り話が真実だという見かけを呈する、そういう非現実的な「イデオロギー上の」世界を構築するのを助けた。//
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 ④へとつづく。

1878/笹倉秀夫・法思想史講義(下)(2007)③。

 笹倉秀夫・法思想史講義(下)(東京大学出版会、2007)。
 この笹倉という人物は、一期だけのようだが、民科法律部会(「学会」の一つ)の理事だった。当然に、ずっと会員だったのだろう。
 さて、上掲書のp.305に、こうある。
 ①「<ロシア革命のあと理想的な社会をめざして進んでいたソ連邦は、スターリンの時代に誤った道をさらに進み、それが多くの問題を引き起こした。他の国での社会主義化でも同様の問題が生じた>という面が、確かにある。
 ロシア革命後はよかったがスターリン時代に誤った、「という面が、確かにある」と記述し、「確かにある」というその内容を、< >で包んでいる。
 問題は、またはきわめて奇妙なのは、< >の出典、参照文献等がいっさい記載されていないことだ。
 前の頁下欄に不破哲三・マルクスの未来社会論(2004)を参照文献として記しているが、注記の箇所が異なるので、この不破哲三著を読め、と言っているわけでもない。
 そうすると、< >内の内容は、笹倉秀夫自身による理解だ、ということになるだろう。
 そしてこれは、現在の、正確には1994年党大会以降の、日本共産党の基本的理解・認識とまったく同一だ。
 また、p.309に、こうある。
 ②「レーニンは、晩年にその『遺書』で、スターリンを『粗暴』であるとし、かれが権力を握ることの危険性を警告した。スターリンは、このレーニンの遺言を消し去り、レーニンの後継者としてふるまうことによって、まさにその遺言どおりの危険を生じさせた。
 あれあれ、これも日本共産党関係文献が「主張」し、理解しているようなこととまったく同じ。少なくとも、反スターリニズムの「共産主義者」と同じ。私ですら、こうした主張・認識は誤りだ、一部を過大視、誇張する「政治的」目的をもつものだ、と反論することができる。
 さらに、p.313に、こうある。
 ③「一党独裁や個人指導については、レーニンは1902年に前衛党論を書いたときに考えてはいなかった。だがかれは前述のように、1920年頃の内戦と外国の干渉・侵略という内外の危機に直面して諸自由を制限しだした。
 渓内謙・現代社会主義を考える(1988)一つだけを参照文献として注記しているが、この渓内自体がレーニンだけはなお擁護しようとする日本共産党員とみられるソ連(・ロシア)史学者なのだから、公平性・客観性はまるでない。
 そもそも、笹倉秀夫は<1902年の前衛党論>なるもの(つまりレーニン「何をなすべきか?」)をきちんと読んだのだろうか。
 また、「1920年頃の内戦と外国の干渉・侵略」とはいったい何のことだろうか。
 「内戦」は1918年には始まっている。農民に対する食料(穀物)徴発制度自体が農民の「自由」を認めるものではない。秘密警察(チェカ、チェーカー)設立は1917年12月。「内戦」の敵はもちろん反対政党(エスエル・メンシェヴィキ)の幹部たちを「見せ物裁判」で形式的な手続で「殺戮」したのはレーニンの時代。その前に1918年2月に『社会主義祖国が危機!』との布令を発して反抗者の略式処刑を合法化したのもレーニン。のちにスターリンが大テロルまたは「大粛清」のために最大限に活用した刑法典の発布もレーニンの時代。「1920年頃」には田園地帯での飢饉も始まっていた。1921年のクロンシュタット蜂起は、もともとはほとんどが戦闘的なボルシェヴィキ(共産党員)だった海兵たちの反乱。
 少なくとも親日本共産党の、幼稚で無知な笹倉に、上のような断片的な一部を説いてもきっと無意味なのだろう。
 ところでそもそも、上の笹倉著は『法思想史講義』という名を謳っているのだが、ロシア・ソ連での「法思想」には(レーニン刑法もスターリン憲法もパシュカーニスも)まったく論及していないのは、いったい何故なのだろうか。
 この人は「法思想」を「思想」と混同しているのではなかろうか。しかも、「政治思想」に相当に偏った「思想」だ。区別がつき難いところはむろんあるだろうが、一定の自立性・自律性をもつ「法思想史」をたどり、まとめるという作業は全く不可能とは言えないだろう。
 上掲書が、それを行っているとは、また試みようとしているとすらも、全く感じられない。

1876/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第1節②。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第三章/ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。1978年英語版 p.80-p.84、2004年合冊版p.852-p.854。
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 第1節・大粛清のイデオロギー上の意味②。
 (7)大粛清の地獄の様相は、しばしば歴史研究者、小説家、記録作家によって描写されている。
 見せ物裁判は、党をそれの主要な犠牲者とするジェノサイドの大量執行のうちの見える断片にすぎなかった。。
 数百万人が逮捕され、数十万人が処刑された。
 従前は散発的に用いられ、通常は真実にたどり着くことを目的としていた拷問は、今や、最もありそうにない犯罪について数千の虚偽の告白を引き出すための日常的な方法になった。
 (拷問は、18世紀にロシアの司法手続の一部であることをやめていた。のちには、ポーランド暴動や1905年革命のような例外的状況に際してのみ用いられた。)
 捜査官たちは、検察官が全くの想像上のものであることを知っている犯罪を行ったことを認めるように人々を誘導するための、肉体的および精神的な苦痛の全ての方法を自由に考案し、課した。
 このような手段には負けなかったわずかの人々も、自白するのを拒めば妻や子どもは殺されると聞いて、ふつうは屈服した。-この妻子の殺害は、ときどきは実際に実施された。
 誰もが安全だとは感じなかった。専制者に対するいかなる程度の阿諛追従の言動も、責任が追及されない保障にはならなかったからだ。
 いくつかの場合には、地域の全党委員会の委員たちが殺戮され、その後には、処刑の悪臭をまだ漂わせる彼らの委員会の後継者たちが墓場へと続いた。
 犠牲者たちの中にいたのは、ほとんど全てのオールド・ボルシェヴィキたち、レーニンの親密な同僚たち、政府、政治局そして党書記局の以前の構成員たち、全ての階位の活動家たちであり、また、研究者、芸術家、文筆家、経済学者、軍人、法律家、技術者、医師、そして-割り当てられた仕事をしなかったときには当然に-秘密警察の上層官僚であれとくに熱心だった党員であれ、粛清それ自体の機関員たち、だった。
 陸軍および海軍の将校団は、まとまって殺害された。これは、対ドイツ戦争で最初の二年間はロシアが敗北したことの原因だった。
 逮捕と処刑の指定数は、党当局によって特定の分野や地域ごとに割り当てられた。
 警察官たちがこの数字を履行しなければ、彼ら自身が処刑される可能性が高かった。かりにその数字を履行すれば、党幹部たちを皆殺しにしていることの説明に使われるのに間に合うかもしれなかった。
 (スターリンに関する典型的なおぞましい冗句によると、大量殺戮運動の功労者だったPostyshev のような者に対しても、責任追及は行われた。) 
 その任務を履行するのが不十分だった者は、怠慢を理由として射殺されるかもしれなかった。
 その任務を履行するのが十分すぎた者は、自分の不満を隠蔽するために熱意を示していると疑われるかもしれなかった。
 (1937年の演説でスターリンは、多くの破壊者たちは精確にこれを行っていると言った。)
 裁判と取り調べの意味は、レーニンの最も緊密な協力者たちも含めて、党の元来の中核のほとんど全体が一団のスパイ、帝国主義者の工作員、人民の敵であって、それらの考えはソヴィエト国家を破壊することであり、またかつてつねにそのことだった者たちだ。
 驚く外国の前で、全ての空想上の犯罪について、大きな見せ物裁判の場で被告たちの自白が行われた。
 全てのGrand Guignol(グラン・ギニョール=恐怖劇)の犠牲者のうち、ブハーリンは、架空の反革命の組織化という申し立てられた犯罪に対しては一般的責任を認めたけれども、スパイ行為やレーニン暗殺の企画のような罪を免れない責任追及に対しては、自白することを拒んだ。
 誤った指導に対する懺悔の念を明白に表明しつつ、ブハーリンは、裁判の雰囲気を典型化する言葉として、「新しい生活の愉快さに対抗する犯罪的な方法で我々は反抗した」と付け加えた。
 (明らかにブハーリンは、肉体的な拷問を受けていなかった。しかし、彼の妻と幼い息子を殺害すると脅かされていた。)//
 (8)粛清がもった第一の効果は、荒廃を生み出したことだった。党にのみならず、ソヴィエト同盟の全社会生活の全側面に。
 血の海(blood-bath)が、指導者に対して阿諛追従を表明する票決をしたにすぎない第17回党大会に出席した代議員たちの大多数、忠実なスターリニストたちのほとんどの者の気分の原因だった。
 きわめて多くの傑出した芸術家たちが、ソヴィエトの全文筆家の三分の一以上が、殺された。
 国家全体が、明らかに単一の専制者の意思が生じさせた-但し、表面的には欺瞞が講じられたが-悪魔的狂気によって握られた。//
 (9)ロシアにいる外国人共産主義者たちも、粛清の犠牲になった。
 ポーランド人の被害が最大だった。コミンテルンの1938年の決定によって、トロツキー主義者その他の敵の温床だとの理由でポーランド共産党は解散させられ、ソヴィエト同盟にいるその幹部たちは、逮捕され、処刑としてまとめて殺戮された。
 ほとんど全ての指導者たちは投獄され、ごく数人だけが、数年後に自由を再獲得した。
 幸運だったのは、ポーランドで収監されていたので招集されたときにロシアへ行くことができなかった者たちだった。
 招集に実際に従わなかったごく数人は、ポーランド警察の工作員だと公式に宣告され、そのポーランド警察の手に渡された。-これは、1930年代にロシア以外の国の地下共産党組織の「偏向主義者」に対して、しばしば用いられた手段だった。
 ポーランド人以外の粛清の犠牲者は、多数のハンガリー共産党員(Kun Béla を含む)およびユーゴスラヴィア、ブルガリアおよびドイツのそれらだった。1939年まで生き残ったドイツ共産党員のうちの何人かは、当然のごとくして、スターリンからGestapo(ゲシュタポ=ナツィス・ドイツの秘密警察)へと引き渡された。//
 (10)強制収容所は張り裂けそうなほどに、満杯だった。
 全てのソヴィエト市民は、つぎのことに慣れてしまっていた。すなわち、仕事を懸命にしようとしまいと、いかなる種類の反対派に属していたとしてもまた属していなかったとしても、あるいはさらに、スターリンが好きであろうとなかろうと、逮捕されて死刑を宣告されることあるいは恣意的に不特定の期間のあいだ収監されることには、全く何の関係もない、ということに。
 暴虐(atrocituy)の雰囲気は、一種の一般的なパラノイア(偏執狂)を、従前の全ての規準が、「通常の」専制体制の規準ですら、適用することができなくなる怪物的で非現実的な世界を、生じさせた。//
 (11)後年に流血と偽善のこの異常な秘宴(orgy)を理解しようとつとめた歴史研究者その他の者たちは、答えることが全く容易ではない問題を設定した。//
 (12)第一。どう考えても、スターリンまたはその体制には現実的な脅威は存在せず、党内部での反乱の源は全て、大量の殺戮なくして容易に一掃することができた、そのようなときに、かかる破壊的狂乱(frenzy)が生じた理由はいったい何だったのか?
 とりわけ、上層幹部たちの無差別の破壊は軍事的にも経済的にも国家を致命的に弱体化させるだろうことが明瞭だと思われることを、どのように説明するのか?//
 (13)第二。暴虐行為をきわめて献身的に実行した者たちですら含めて、民衆の全てに脅威が迫っていたにもかかわらず、抵抗が完全に欠けていたのはいったい何故だったか?
 多くのソヴィエト国民は軍事的な勇敢さを示し、戦闘では生命を危険に曝した。なぜ、誰も専制者に反抗する拳を振り上げなかったのか? なぜ進んで、全ての者が殺戮へと向かったのか?//
 (14)第三。見せ物裁判の犠牲者たちが虚偽宣伝を理由として存在しない犯罪を告白させられたということを認めるとしても、数十万人のまたは数百万人ほどの人々に、なぜ、誰もかつて聞いたことがないような告白が無理強いされたのか?
 警察の記録簿に載せられるが、どんな公的な目的にも使われない虚偽の認諾書に署名するように未知の犠牲者たちを追い込むために、なぜ途方もない労力がつぎ込まれたのか?//
 (15)第四。まさにこの時代に、スターリンはいかにして、自分個人に対する崇拝(cult)をかつて例のないほどの程度まで高めたのか?
 とくに、いったい何故、個人的な圧力を受けていないはずの、あれほど多くの西側知識人たちがこの時期にスターリニズムへとはまり込み、モスクワの恐怖の館を従順に受け入れ、あるいは積極的に称賛したのか? 現実に行われていることの虚偽と残虐さは誰にも明瞭だったはずではなかったのか?//
 (16)これらの疑問は全て、マルクス主義・社会主義(Marxist-socialist)が新しいシステムで稼働させ始めた特有の機能を、どう理解するかにとって重要だ。//
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 ③へとつづく。

1875/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第1節①。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第三章ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。
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 第1節・大粛清のイデオロギー上の意味①。1978年英語版 p.77-p.80、2004年合冊版p.849-p.852。
 (1)1930年代のソヴィエトには、全体主義的社会主義国家の公式の経典的イデオロギーとしての新しい範型のマルクス主義の形成(crystallization)が見られた。
 (2)集団化のあとの数年間、スターリン国家は一連の失敗と災難をくぐり抜けた。一方で民衆は、連続する抑圧の波にさらされた。
 集団化の実施は第一次五カ年計画の開始と一致していた。後者は、公式には1928年からの施行だったが、実際に是認されたのは翌年だった。
 トロツキーやPreobrazhensky が定式化し、スターリンが継受した考えによれば、奴隷化農業の役割は、工業の急速な発展のために余剰の価値を供給することだった。
 そのときから、重工業の優先というドグマは、国家イデオロギーの永続的な要素になった。
 当初の目標は、真摯な計算をすることなく、力によって全てのことはなされ得る、ボルシェヴィキが突破できない要塞はない、という想定のもとで、恣意的に決定された。
 にもかかわらず、スターリンはつねに、生産目標に満足しておらず、目標をさらに高く押し上げ続けた。
 もちろんその意図のほとんどは、達成できないことが判明した。最大限の人的および財政的な努力が投じられた重工業についてすら、結果は、想定されていたはずのときどきは半分、四分の一、あるいは八分の一だった。
 これを是正する方法は、統計学者を逮捕し、射殺すること、そして統計数字を捏造することだった。
 スターリンは1928-1930年に ほとんどの経済雑誌および統計雑誌を閉刊させた。N. D. Kondratyev を含む重要な統計学者のほとんどは、処刑されるか、投獄された。
 このとき以降、異なる工業の段階ごとに、生産額の二倍または三倍に上るように国民総収入を計算することも、習わしになった。こうして無意味な総額が生み出され、社会主義の優越性を証明するものとして定期的に誇らしげに発表された。
 集団化がますます農村地帯を破壊していたので、農業に関する数字は体系的に偽造(fake)された。
 スターリンや他の指導者たちがどの程度経済の本当の状態を知っていたかは、明瞭ではない。
 その間に、工業労働者たちの数が、農村部門からの補充によつて急速に膨らんだ。
 社会的な災難を償うために、怠業、つまり履行不能なノルマを達成できなかったこと、を理由とする技術者や農業専門家の逮捕や裁判が継続した。
 引き続いて1932-33年に飢饉が発生し、数百万人が死んだ。
 全ての世代の知識人を急進派に変え、マルクス主義の成長を促した1891-2年の飢饉と比較すると、取るに足らない割合の後退だった。
 スターリニストたちは、国じゅうが略奪者や怠業者、隠れ富農、戦前型の忠誠心なき知識人、トロツキー主義者、そして帝国主義諸国の工作員で溢れていると、休むことなく繰り返して宣伝した。
 飢えていく農民たちは、集団農場から一握りの穀物を盗んだとして強制労働収容所行きを宣告され得たし、実際にそうされた。
 奴隷労働収容所(slave-labour camps)が増加し、国家経済の重要な構成要素になった。とくに、シベリアの鉱山や森林のような条件が最も苛酷な地域では。//
 (3)にもかかわらず、虚構の計画による混沌と公的なウソのまっただ中で、叙述し難いほどの犠牲を対価として、ソヴィエトの工業は実際に進歩し、第二次五カ年計画(1933-37年)は、第一次よりもはるかに現実的だった。
 この時期にソヴィエト同盟が今日の工業力の基礎を設定したことは、共産主義者によってスターリニズムを歴史的に正当化するものとしていまだに呼び求められている。そして、多数の非共産主義者も、同様の見方をしている。後進国ロシアが早くその産業を近代化するためにはスターリニストの社会主義が必要だったと考えるのだ。
 先取りして我々の議論をある程度述べると、これについては、つぎのように回答することができる。
 ソヴィエト同盟は実際にかなりの程度の工業基盤を確立した。とくに、1930年代に重工業と軍需兵器について。
 それを可能にしたのは大量の強制と完全なまたは部分的な奴隷化という方法であり、それの副作用は、国民文化の破滅と警察体制の永続化だった。
 このような点で、ソヴィエトの工業化は、歴史上のその種のうちでおそらく最も無駄な過程だった。そして、このような規模の人的かつ物的コストなくしてはその全ての進歩は達成されなかったという証拠は全く存在しない。
 歴史は多様な方法での工業化の成功を記録しているが、それら全てが社会的な面での犠牲を払っている。しかし、社会主義ロシアにおけるほど、そのコストが重かったものはない。
 しばしば例示される、西側欧州が進んだ行程は産業諸国家の周縁部では繰り返されなかった、資本主義の大きな中心部がすでにその地位を確立していたので、というもう一つの議論は、たとえ相当の犠牲があったとしてもロシアとは異なる方法で工業化に成功した、日本、ブラジルおよびごく近年にはイランといった「周縁部の」諸国の例によって拒否される。
 1917年以前のロシアは急速かつ集中的に工業化している国だった。革命はその前進を多年にわたり遅らせた。
 工業発展のグラフは、帝政時代の最後の二十年間に顕著に上昇していた。それが厄災のごとく落ち込んだのは、革命の後だった。そして、様々な指標が、ある物は別の物よりも早かったが、それらの戦前のレベルにもう一度到達し、上昇し続けるのには、長い年月を要した。
 間に介在していた時代は、社会の解体と数百万の人命の破壊の時代だった。そして、革命前の発展を国が取り戻すためにはこうした全ての犠牲が必要だったと主張するのは、たんなるお伽噺(fantasy)にすぎない。//
 (4)歴史過程には人間の意図とは独立した内在的な目的がある、後知恵でのみ認識可能な隠れた意味がある、と考えるとすれば、ロシア革命の意味は工業化にあったのではなく、むしろロシア帝国の首尾一貫性および膨張した活力ににあった、と言わなければならない。この点では、新体制は実際、旧体制よりも効率的ではあったのだから。//
 (5)全ての社会階層-プロレタリアート、農民層および知識人-の抵抗が成功裡に収拾された後で、国家が組織していない全ての社会生活の形態が粉砕されて存在しなくなった後で、そして党内部の反対派が破壊された後で、-実行されなかったが-単一の専制者のもとでの全体主義的支配を完全にするのを脅かす、その可能性のある最後の要素は抑圧された。すなわち、党自体。共同社会にある全ての別の敵対勢力の息を止め、破壊するために用いられた組織それ自体。
 党の破壊は、1935-39年の間に達成された。そして、ソヴィエト体制とそれ自体の客体の間の矛盾について新しい記録が確立された。
 (6)1934年、スターリンはその権力の絶頂にあった。
 その年の最初の第17回党大会は、おべっかと崇拝の宴祭だった。
 敬慕される独裁者に対する積極的な反対者は存在しなかった。しかし、党の多くの中には、とくに古いボルシェヴィキの中には、礼は尽くすが心の奥底ではスターリンに縛られていない者がいた。
 彼らは、自分の努力でのし上がったのであり、スターリンの贔屓によるのみではなかった。したがって、危機のときには不安または反抗の危険な要因になり得た。
 そのゆえに、潜在的な反対者として、彼らは破壊されなければならなかった。
 彼らを絶滅するための最初の口実は、1934年12月1日のSergey Kirov(S・キーロフ)の殺害だった。キーロフは中央委員会書記の一人で、レニングラードの党組織の長だった。
 全てではないがたいていの歴史研究者は、この犯罪の本当の企図者はスターリンだった、ということで合意する。彼は一撃でもって可能な対敵を排除し、かつ大量抑圧の口実を生み出したのだ。
 これに続く魔女狩りは、最初は、党内部の以前の反対者たちに向けられた。しかしすぐに、独裁者の忠実な下僕たちも狙われた
 ジノヴィエフ(Zinovyev)とカーメネフ(Kamenev)は逮捕され、監獄での拘禁の刑を受けた。
 大量の処刑が、国じゅうの大都市で、とくにレニングラードとモスクワで起きた。
 テロルは1937年に激発にまで達した。この年が、「大粛清(great purge)」の最初の年だった。
 1936年秋に最初の大規模の見せ物裁判があり、それでジノヴィエフ、カーメネフ、スミルノフ(Smirnov)その他は死刑を宣告された。
 1937年1月の第2回裁判では、ラデク(Radek)、Pyatakov、Sokolnikov その他の「裏切り」に焦点が当てられた。
 1938年3月、ブハーリン(Bukharin)、ルィコフ(Rykov)、Krestinsky、Rakovsky およびYagoda が、被告に加わった。最後のYagoda は、1934-36年にNKVD(秘密警察)の長で、初期の粛清の組織者だった。
 少し前の1937年に、元帥トゥハチェフスキー(Tukhachevsky)とその他の軍最高指導者たちが秘密に裁判にかけられ、射殺された。
 全ての公開の審問で被告たちは、空想上の犯罪を自白した。そして、いかにして外国の諜報機関と策謀を図り、党指導者の暗殺をたくらみ、ソヴィエト領土の一部を帝国主義諸国に提供し、仲間の市民たちを殺し、毒を盛り、産業を妨害し、意識的に飢饉を引き起こしたか、等々を、次から次へと描写した。
 ほとんど全ての者は死刑の判決を受け、ただちに処刑された。ラデクのような数人だけは投獄の刑を受けたが、裁判のあとですみやかに殺された。//

1874/L・コワコフスキ著・第三巻第二章第3節④。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第二章/1920年代のソヴィエト・マルクス主義の論争。
 1978年英語版 p.74-p.76、2004年合冊版p.847-p.848。
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 第3節・哲学上の論争-デボリン対機械主義④完。
 (24)1931年以降、スターリンのもとでのソヴィエト哲学の歴史は大部分が、党の布令の歴史だ。
 つぎの20年間、出世主義者、情報提供者および無学者から成る若い世代が国家の哲学生活を独占した。あるいはむしろ、哲学研究の廃絶を完成させた。
 この分野で経歴を積んだ者は、一般的に、同僚を裏切るかまたはときどきの党のスローガンを鸚鵡返しに繰り返すことで、そうした。
 彼らは通常は外国語の一つも知らず、西側の哲学に関するいかなる知識もなかった。しかし彼らは、多少ともレーニンやスターリンの著作を暗記しており、彼らの外部世界に関する知識は、主としてはそれらに由来した。//
 (25)「メンシェヴィキ化する」観念論や機械主義に対する非難は、洪水のごとき論考と博士号論文を発生させた。それらの執筆者たちは、党の布令を反復し、哲学の怠業者たちの狡猾な道筋について、憤慨を表現するのをお互いに競い合った。
 (26)議論全体で、いったい何が本当の論争点だったのか?(それがあれば適切な名前は?)
 明らかに、議論は特定の哲学上の考え方とは何ら関係がなく、むろん政治的考え方とも関係がなかった。
 「機械主義」のブハーリンの政策との連関づけあるいは「メンシェヴィキ化する」観念論のトロツキーの政策との連関づけは、最も恣意的な種類の捏造だった。すなわち、非難された哲学者たちはいかなる政治的反対派にも帰属しておらず、彼らの考え方と政治的反対派のそれとの間には論理的関係が存在しなかった。
 (追及者の論拠は、機械主義者は「質的な跳躍」を否定することで「発展の継続性を絶対化し」た、というものだ。それゆえに、ブハーリンの側ではDeborin主義者は「跳躍」を強調しすぎ、そうしてトロツキー主義者の革命的冒険主義を代表する。しかし、これは議論するに値しない薄弱な類似性を根拠にしている。)
 機械主義者はたしかに科学の哲学に<向かい合った>自立性を強調することで非難を受けたが、それは実際には、無謬の党が科学理論の正確さについて発表し、科学者に対して何が探求すべき課題であるかを指示し、その結果はいかなるものであるべきかを語る、そういう権利をもつのを拒否することを意味した。
 しかしながら、このような責任追及をDeborin主義者に向けることはできなかった。彼らは、最も純粋なタイプのレーニン主義者だったように見える。すなわち、初期のDeborinは、「象形文字」に関する自分のプレハノフ的誤りを認めて撤回しており、反射の理論と矛盾するこの教理を支持しているという理由で、機械主義者たちを攻撃していた。
 Deborin主義者たちは、正当な敬意をレーニンに払っていた。したがって、党の報道官たちは、彼らを攻撃するのに役立つ引用文を発見するのに大いに困惑した。ゆえに、攻撃はほとんど全体的に曖昧で、支離滅裂の一般論から成っていた。すなわち、Deborin主義者はレーニンを「低く評価しすぎた」、プレハノフを「過大に評価しすぎた」、弁証法を「理解していない」、「カウツキー主義」、「メンシェヴィズム」へと転落している、等。
 論争点は単純に、この段階での党があれこれの哲学上の考え方か正当だ(right)とか、Deborin主義者はその考え方とは異なる見解を表明した、ということではなかった。
 係争点は、何らかの教理の実体ではなかった。すなわち、後年に採用された弁証法的唯物論の公式で経典的な範型は、事実上はDeborin のそれと区別することのできないものだった。
 責任追及が分かり易くしているように、重要なのは、「党志向性」(party-mindedness)の原理、またはむしろその適用だった。-むろん、Deborinもそれ自体は受容していたのだから。
 知的な観点からはDeborin 主義者たちの書いたものは内容の乏しいものだったが、彼らは純粋に哲学に関心があり、マルクス主義とレーニン主義の特有の原理の有効性を証明しようと最大限の努力をした。
 彼らは、哲学は社会主義建設を助けるだろう、と信じた。そしてその理由で、彼らは哲学者としての能力のかぎりで哲学を発展させた。
 しかし、スターリンのもとでの「党志向性」は、全く異なるものを意味していた。
 継続的な保障にもかかわらず、哲学にそれ自体の原理を作動させたり、政治に用いられるか適用されるかすることのできる真実を発見させたりするという思考は、まったく存在しなかった。
 党に対する哲学の奉仕は、純粋にかつ単純に、次から次に出てくる諸決定を賞賛することにあった。
 哲学は知的な過程ではなく、考えられ得るどのような形態をとっていても、国家イデオロギーを正当化し、宣伝する手段だった。
 じつにこのことは、全ての人文科学について本当のことだったが、哲学の崩落が最も悲惨だった。
 全ての哲学文化が依って立つ柱-論理と哲学の歴史-は、一掃された。すなわち、哲学は微少な技術的支援ですら得られなかった。それは、歴史科学の頽廃の程度は激しかったにもかかわらず、歴史科学にまったく適用されないやり方だった。
 哲学にとってのスターリニズムの意味は、哲学に強いられた何らかの特定の結論にあったのではなく、奴隷状態(servility)が実際にはその存在理由の全体になった、ということにある。
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 ④終わり。第3節、そして第二章が終わり。

1873/L・コワコフスキ著・第三巻第二章第3節③。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第二章/1920年代のソヴィエト・マルクス主義の論争。
 1978年英語版 p.66-p.70、2004年合冊版p.843-p.847。
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 第3節・哲学上の論争-デボリン対機械主義③。
 (16)「弁証法論者」は、執筆者たちはのちに非難されたとしても、国家イデオロギーの経典へと入り込み、数十年の間は拘束的なままだった基本的用語、言明、および教義をソヴィエト・マルクス主義に授けた。
 彼らの遺産の一部は、形式論理に対する攻撃だった。それは、ロシアでの論理的研究の崩壊をもたらした以上のものだった。
 弁証法論者は、論理が何と結びついているのか、あるいはその言明は何を意味するのかを分かっていなかった。
 しかしながら、彼らは、論理は「概念の内容から抽出」するので弁証法とは対立するに違いないと想像していた。なぜなら、弁証法は我々に、「具体的状態で」かつ(論理は切り離す)「相互関係において」、また(形式論理は理解できない)「動きの中で」現象を研究するように要求するのだから。
 この馬鹿々々しさの理由は、部分的には無知だった。しかし、部分的には、エンゲルスのいくつかの言明にもとづいていた。
 Deborin は1925年のレーニンに関する論考で、形式論理は世界が単相でもあり多層的でもあるということを考慮することができない、と書いた。また、同年の<弁証法的唯物論と自然科学>で、形式論理は「形而上学のシステム」の構築に奉仕するだけで、マルクス主義からは排除されている、弁証法は形式と内容は相互に浸透し合うことを教えているのだから、と宣言した。
 科学は形式論理を基礎にしては前進することができない、各科学は「事実の収集体」であるにすぎず、マルクス主義的弁証法のみがそうした諸事実を系統的な全体へと連環づけすることができる。
 物理学者たちが「這いずり回る経験論」に執着しないでヘーゲルを読めばすぐに、彼らが進歩し様々の「危機」を克服するのを弁証法が助けることを理解するだろう。
 「理論的自然科学」の創始者であるエンゲルスは、最初からずっと、ヘーゲルから弁証法を吸収した。//
 (17)Deborin は哲学が諸科学を支配すると考えために当然に、Lukács の<歴史と階級意識>によって激しく論難された。この書物は弁証法は統合へと進む過程での主体と客体の相互作用だとの理由で自然の弁証法の可能性を疑問視した。
 この主張を受けてDeborin は、Lukács は認識は「現実の実体」だと考える観念論者である正体を暴露した、と論じた。
 1924年に発行されたオーストリアの雑誌<労働者文学>の論考でDeborin は、Lukácsの誤り、およびエンゲルスに対する、ゆえにマルクスに対する、非礼な態度を非難した。
 さらには何と、Lukács はマルクス主義正統派はマルクス主義の方法に関する知識でのみ成り立っていると述べたが、しかるにその方法はマルクス主義者にとっては「内容と不可分に結びついている」、と。
 Lukács の「主体と客体の一体性」は観念論の同類で、エンゲルス、レーニンおよびプレハノフの明確な言述と矛盾している。
 主体が行う全ては客体を「反映する」ことであり、そう考えないのは「客観的な現実」を放棄することだ。//
 (18)機械主義、「這い回る経験論」および科学の自律性を攻撃し、そしてヘーゲル、「質的跳躍」および「現実の矛盾」を擁護することで、Deborin は、同好の学者たちと狂信者たちの多数から支持された。
 そのうち最も積極的だったのはG. S. Tymyansky だった。この人物はSpinoza の著作を翻訳し、論評していた(その論評はきわめて図式的だったが、啓蒙的で、事実の観点からは有用だった)。
 さらに、純粋な哲学者で哲学史研究者のI. K. Luppol。そして、V. F. Asmus, I. I. Agol、およびY. E. Sten。
 Medvedyev がスターリンに関する書物で述べるように、Sten は、1925-1928年にスターリンに哲学について授業(lesson)をし、スターリンにヘーゲル弁証法を理解させようとした。
 このグループのうちたいていは、全員ではないが、1930年代の大粛清の中で死んだ。//
 (19)しかしながら、弁証法論者は1920年代の後半には有利な位置を占め、ソヴィエトの哲学上の諸装置に対する完全な支配権を獲得した。
 1929年4月のマルクス=レーニン主義教育者会議で、Deborin は彼の哲学上の大綱を提示し、異端者に対する非難を繰り返した。
共産主義アカデミーは彼を完全に支持し、機械主義を非難する声明(decree)を発した。
 このDeborinの例に見られるように、以前に会議自体が、プロレタリアートの独裁の理論的武器としてのマルクス=レーニン主義の役割を確認し、自然科学へのマルクス主義の方法を適用することを求め、機械主義者たちを「修正主義」、「実証主義」そして「卑俗的進化主義」と非難する決議を採択していた。
 哲学上の諸問題を党の会議または党の支配に服する集会での票決によって決定するという習慣は、このときまでに十分に確立されており、驚く者は一人もいなかった。
 機械主義者たちは議論で自己防衛し、反対攻撃すらした。「観念論的弁証法」を主張し、自然に対して空想上の図式を課し、機械主義に対してのみ矛先を向け、観念論が提起する諸問題を無視し、注目を党が設定した実践的な責務から逸らすものだ、と彼らの反対者を追及することによって。
 しかしながら、こうした防衛は無益だった。機械主義者たちは分離主義者(schismatics)だというのみならず、ちょうどその頃にスターリンが攻撃していた「右翼偏向主義」を哲学の分野で代表するものだという烙印を捺された。//
 (20)Deborin主義者たちは勝利のあと、哲学教育または哲学関係著作物の出版に関係する全ての諸組織を支配した。
 しかし、彼らの栄光は長くは続かなかった。
 「弁証法論者」は、懸命に努力したにもかかわらず、哲学問題に関する党の期待を推し量らなかったようだ。
 1930年4月のモスクワでの第二回哲学会議で、Deborinとそのグループは、赤色教授研究所からの一団の若き党活動家によって攻撃された。党の精神を不十分にしか示していない、と糾弾されたのだ。
 この批判は6月に、M. B. Mitin、P. F. Yudin およびV. N. Raltsevich の論考で繰り返された。この論考は<プラウダ>に掲載され、編集部によって、つまりは党当局によって、推奨されていた。
 この新しい批判は党生活でと同様の哲学での「二つの前線での闘い」を呼びかけ、当時の哲学指導者たちは「形式主義者」で、レーニンを犠牲にしてプレハノフを高く評価し、哲学を党の目標から切り離そうとしている、と追及した。
 弁証法論者たちはこの責任について反論したが、無駄だった。
 12月に、赤色教授研究所内の党執行部は、スターリンにインタビューをした。スターリンは、Deborin主義者の考え方を表現するために「メンシェヴィキ化する観念論」という語を作り出した。
 それ以降、この言葉によるレッテル貼りは公式に採用された。そして、その執行部は、一方では機械主義者およびTimiryazev、Akselrod、Sarabianov、そしてVaryashという「しばしばメンシェヴィキ化する」修正主義者、他方ではDeborin、Karev、Sten、Luppol、Frankurtその他の観念論的修正主義者を非難する、長い決議を採択した。
 その決議は、「Deborin主義グループの理論的かつ政治的考え方全体は本質的に、非マルクス主義、非レーニン主義の方法論にもとづくメンシェヴィキ化する観念論に達しており、プロレタリアートを取り囲む敵対階級勢力の圧力を反映しているとともに、小ブルジョアのイデオロギーを表現している」、と述べた。
 このグループは、レーニンの論文「戦闘的マルクス主義の意義」の教えを「歪曲し」、「理論を実践から分離し」、そして「党哲学のレーニン主義原理」を変質させて拒絶した。
 彼らは、弁証法的唯物論の新しい段階としてのレーニン主義を理解することができず、多くの点で、機械主義を批判するふりを装いながら機械主義者と共通する根本教条に立っている。
 彼らの出版物は、プロレタリアート独裁に関する「カウツキー主義者」の誤りを含み、文化問題では右翼日和見主義者の誤りを、集団主義と個人主義に関してはBogdanov 主義者の誤りを、生産力と生産関係という概念に関してはメンシェヴィキの誤りを、階級闘争については準トロツキー主義者の誤りを、そして弁証法に関しては観念論者の誤りを含んでいる。
 Deborin主義者たちは、ヘーゲルを不当に賞賛した。世界観から方法論を、歴史的なものから論理的なものを、切り離した。そして、自然科学の問題に関するレーニンの重要性を過小評価した。
 党内部で富農の利益を擁護しようとする右翼偏向の理論的根拠であるので、この時点での主要な危険はたしかに、機械主義的修正主義だ。しかし、闘いは二つの戦線で果敢に行われなければならない。修正主義の二つの形態は、実際には一つのブロックを形成しているのだから。
 (21)共産主義アカデミーでのMitin の講義は、こうした批判の全てをさらに発展させた。彼自身はこのとき、「哲学戦線」での指導者になることを望んでいた。
 その講義は繰り返して「メンシェヴィキ化する観念論」とトロツキー主義の間の連環に言及した。すなわち、たしかに機械主義者たちはブハーリンや親富農偏向の哲学上の前面にいるので、Deborin主義者たちが正統派を装いつつトロツキー主義の左翼偏向を支持していると推論するのは当然だ、と。
 Mitin によると、二つのグループは、哲学および理論の問題ではレーニンはマルクスとエンゲルスが語ったのと同じことをたんに反復しているにすぎないという悪辣な中傷を広げていた。-まるでスターリンは、レーニンが「発展させ、深化させ、より具体的にすることで」マルクス主義理論史上の質的に新しい段階を代表していることを証明していないかのごとくに!
 偏向者たちはまた、哲学および自然科学を含む全ての科学は党の精神の中に注入されなければならないというレーニンの原理を無視している。
 Mitin は、プレハノフは多数の政治的かつ哲学的な間違いを冒している一方で、レーニンが言明したように彼の著作はマルクス主義文献の中での最良のものだという趣旨のKarev の論文を引用した。
 Mitin は述べた。このことは、Deborin主義者は「プレハノフ全体、メンシェヴィキとしてのプレハノフ」のために武器を取り上げていることを示す、と。
 Deborin主義者は、レーニンは哲学についてはプレハノフの生徒だと、あえて主張することすらする。だが実際には、レーニンはマルクスとエンゲルスの後の最も一貫した、正統なマルクス主義者だ。
 その一方でプレハノフは、弁証法を正しく理解しておらず、形式主義に落ち込み、不可知論へと傾き、Feuerbach、Chernyshevsky および形式論理の影響を受けている。
 Deborin主義者の過ちの根源は、しかしながら、「理論の実践からの分離」にある。
 彼らの機械主義者たちに対する闘いは、長年継続したけれども一人の機械主義者すら自分の誤りを認めなかった!、ということが示すように、模擬演習のようなものだ。
 実際のところ、二つのグループの間にはほとんど違いがない。メンシェヴィキ化する観念論者とメンシェヴィキ化する機械主義者はいずれも、レーニンの哲学を見下している。//
 (22)ソヴィエト哲学の粛清は、1931年1月25日の<プラウダ>で発せられた党中央委員会の布告(decree)によって完結した。この布告は<Pod znamenem Marksizma>の誤りを非難し、すでに記した批判を簡単に要約した。
 (23)Deborin、Luppolおよびその他の構成員は急いで自己批判を行い、正しい光を見るのを助けてくれたことについて党に感謝した。
 Sten、Luppol、Karev、Tymyanskyおよび他の多数の者は、1930年代の粛清の中で死んだ。
 Deborin は、<Pod znamenem Marksizma>の編集長を解任されたが(編集部は実際上完全に変わった)、生き残った。
 彼は党から除名もされず、その後の時代に申し分のないスターリン主義正統派の多くの論文を発表した。
 彼は、フルシチョフの時代まで生き延びた。そして晩年には、粛清の犠牲となった多数の生徒や同僚たちの社会復帰(・名誉回復)のために働いた。
 Asmus も戦後にまで生き残ったが(1975年死亡)、1940年代にはさらなる攻撃を受けた。
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 ④へとつづく。

1870/L・コワコフスキ著・第三巻第二章第3節①。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第二章/1920年代のソヴィエト・マルクス主義の論争。
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 第3節・哲学上の論争-デボリン対機械主義①。
 (1)ブハーリンの意図とは別に、彼の書物は1920年代に、対立する二つの派、「弁証法論者」と「機械主義者」の間の活発な論争に貢献した。
 この論争は、定期雑誌<Pod znamenem Marksizma >(マルクス主義の旗の下で)の頁上で繰り広げられた。
 1920年創刊のこの雑誌は、ソヴィエト哲学の歴史上重要な役割を果たした。また、党の理論的機関の一つだった。
 (創刊号はトロツキーからの手紙も載せていた。しかしながら、それはたんに一般論から成るにすぎなかった。)
 発表された諸論考は全て公称マルクス主義者のものだったが、最初の数年間は、例えば、Husserl のような、ロシア外部の当時の哲学に関する情報を読者は得ることができた。そして、論述の一般的なレベルは、後年の標準的な哲学著作よりもはるかに高かった。
 (2)かりに論争の要点を一つの文章で表現してよいとすれば、機械主義者は自然科学の哲学の介入への対抗を代表し、一方で弁証法論者は科学に対する哲学の優越性を支持した、そしてソヴィエトのイデオロギー的発展の特徴的傾向を映し出した、と記し得るだろう。
 機械主義者の考え方は否定的だと称し得る一方で、弁証法論者は哲学に大きな重要性を与え、自分たちはその専門家だと考えた。
 しかしながら、科学とはどのようなものであるかに関して、機械主義者はより十分に考えていた。
 弁証法論者はこの分野については無学であり、科学を「一般化」して統合する哲学上の必要性に関して一般論的定式化をすることに限定していた。
 他方で彼らは、哲学の歴史については機械主義者よりもよく知っていた。
 (党は結局は両派をともに非難し、無知の両形態の弁証法的な統合を生み出した。)
 (3)機械主義者はマルクス主義を受容したが、哲学はたんに自然科学と社会科学の全ての総計を示すものなので、科学的世界観には哲学の必要はない、と主張した。
 雑誌の最初の諸号の一つに、O. Minin による論考が掲載されている。この人物については他に何も知られていないが、機械主義者の反哲学的偏見を示す極端な例として、しばしば引用された。
 Minin がきわめて単純な形で述べた考えは、封建領主はその階級利益を増大させるために宗教を用い、ブルジョアジーは同様に哲学を用いる、というものだった。他方で、プロレタリアートはいずれも拒否し、その力の全てを科学から引き出す。
 (4)多かれ少なかれ、このような哲学に対する嫌悪は、機械主義派の者たち全体によく見られるものだった。
 最もよく知られた支持者は Ivan I. Skvortsvov-Stepanov (1870-1928)と、著名な物理学者の子息の Arkady K. Timiryazev (1880-1955)だった。
 すでに別の箇所でその考え方に論及したA. Akselrod も自称「機械主義的世界観」を公言していた。しかし、彼女はプレハノフの弟子として、この派の別の者たちよりも穏健な立場を採った。
 (5)機械主義者たちは、エンゲルスの著作にある程度は支えられて、マルクス主義の観点からは、特定の科学を指示し、発見物の正否を判断する権利を要求する「科学の中の科学」のようなものは存在しない、と考えた。
 対立派が理解する弁証法なるものは、余計なものであるばかりか科学的考究とは矛盾している。それは科学の知らない世界観の全体や範疇を持ち込むもので、マルクス主義の科学的な革命精神と社会主義社会の利益といずれとも疎遠なヘーゲル的な継承物だ。
 科学の当然の意図は、全現象を物理的または化学的過程へと整理することで全ての現象をできるだけ正確に説明することだ、他方で質的な飛躍、内部的矛盾等があるという弁証法論者は、反対のことをしている。弁証法論者たちは、実際には現実の多様な分野の間のその言う質的な相違を、観念論者から虚偽の全体性を借用することによって確認しているのだ。
 全ての変化は最終的には質的な条件へと切り縮めることができる。そして、例えばこのことが生きている現象に適用されないという考え方は、もはや観念論的な生気論(vitalism)にすぎない。
 確かに、正反対の物の間の闘いを語ることはできるが、概念の内部的分裂というヘーゲル的意味においてではない。すなわち、その闘いは物理学や生物学で、あるいはいかなる特定の弁証法的論理に頼る必要のない社会科学で、観察され得るような矛盾する力の間のものだ。
 科学的考究は完全に経験にもとづいていなければならない。そして、全てのヘーゲル的な弁証法の「範疇」は、経験上のデータへと単純化することはできない。
 弁証法論者の立場は明らかに自然科学の進展によって掘り崩されているのであり、そのことは、宇宙での全ての現象は物理的および化学的な用語で表現することができるということを徐々にだが着実に明らかしてきている。
 切り縮めることのできない質的な相違と自然過程の非継続性を信じるのは全く反動的だ。弁証法論者が、「偶然」は主観的なもので個別の原因に関する我々の無知を示す語にすぎない、と論じているように。//
 (6)「弁証法論者」の立場は、1925年にエンゲルスの<自然の弁証法>が公刊されたことでかなり強くなった。この著作は、機械主義と哲学的ニヒリズムに対抗し、かつ科学の哲学的および弁証法的な解釈を擁護するための十分な武器を提供した。
 1929年にレーニンの<哲学ノート>が出版されて、さらに強い支援になった。この著作は、ヘーゲル弁証法の唯物論的範型の必要性を強調し、弁証法の「範疇」の長いリストを列挙し、対立物の闘争と統合の原理はマルクス主義の中心にある、と宣告した。//
 (7)二つの対立する派のうちでは弁証法論派が多数になり、科学的な諸装置をより十分に備えることになった。
 彼らの指導者で最も活動的な執筆者は、Abraham Moiseyevich Deborin (1881-1963) だった。
 彼はKovno で生まれ、若いときに社会民主主義運動に参加し、1903年以降はスイスにいた<エミグレ>だった。
 彼は最初はボルシェヴィキで、のちにメンシェヴィキ派に加わった。
 革命後には数年の間は非党員マルクス主義者だったが、1928年に再入党した。
 1907年に彼は<弁証法的唯物論哲学序論>を執筆し、1915年になって出版された。、
 この書物は何度も重版されて、1920年代でのロシアの哲学教育の主要な文献だった。
 彼は党員ではなかったけれども共産主義アカデミーや赤色教授研究所で講義をし、若干の著作を発表した。
 1926年以降は<Pod znamenem Marksizma >の編集長で、この雑誌はこのときから、機械主義者の論考を掲載するのを中止し、純粋な弁証法論者のための雑誌機関になった。
 (8)自分で執筆しはしなかったが、Deborin は哲学に精通していた。
 例えばプレハノフには見出せない考えを、彼はほとんど発していない。しかし、のちのソヴィエトの哲学者たちと比べると、彼とその支持者たちは哲学の歴史に関する公正な知識をもち、それらを論争上の目的のために巧く用いることができた。//
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 ②へとつづく。

1868/L・コワコフスキ著・第三巻第二章第2節②。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第二章/1920年代のソヴィエト・マルクス主義の論争。
 第2節・哲学者としてのブハーリン②完。合冊版、p.836~p.838。
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 (14)一般的には、弁証法全体は平衡状態(equilibrium)に対する妨害と復活の無限の過程へと簡略化されてよい。
 諸現象の「機械主義的」見方に対して「弁証法的」見方を対峙させることには、もはや何の目的もない。現代では、機械それ自体が弁証法的になっているごとく。すなわち、我々は物理学から、全てが他の全てに影響を与える、そして自然界に孤立しているものはいっさい存在しない、ということを学習しなかったのか?
 全ての社会現象は、人間の自然との闘いを原因とする、対立する力の闘争だとして説明することができる。 
 (にもかかわらす、ブハーリンは、共産主義が最終的に建設されればそれを最後に平衡状態は確立されてしまう、と考えたように見える。
 しかしながら、今のところは、技術的問題についての後退をも不可避的に含む革命的な時代に我々はいるのだ。)
 生産関係は単直に言って、「生きている機械」だと見なされた人間たちの、労働過程にかかる共同作用だ。
 この過程に従事している間に人々が考えたり感じたりしているということは、生産関係はその性質上精神的(spiritual)なものだということを意味しはしない。すなわち、精神的なものは全て、それらが存在するのは物質的な必要性があるからであり、生産と階級闘争に奉仕している。
 例えば、Cunow とTugan-Baranovski が主張するように、ブルジョア国家が全階級の利益となる働きをする、ということはあり得ない。
 ブルジョアジーはたしかに、自分たちのために、公共的業務の分野で活動することを強いられる。例えば、道路の建設、学校の維持、科学知識の普及。
 しかし、これらは全てが純粋に資本主義者の階級利益の観点から行われるのであり、そうして、国家は階級支配のための道具に他ならなくなる。//
 (15)ブハーリンは<史的唯物論>の中で、「平衡状態の法則」以外に、社会生活に関する他のいくつかの法則を定式化した。
 そのうちの一つ、「社会現象の物質化の法則」は、イデオロギーと精神生活の多様な形態は、それ自体の実存性があって一層の進化の出発地点となる、そういう物体に-書籍、図書館、美術画廊等に-具現化される、というものだ。
 (16)ブハーリンのこの書物は極端に単純なもので、ある範囲ではそれはレーニンの<経験批判論>を上回りすらする。
 レーニンの論拠は論理的に無価値のものだったが、それでも彼は少なくとも論じようとした。しかし、ブハーリンは論じようとすらしていない。
 ブハーリンの著作は、教義的にかつ無批判に、使われる概念を分析する試みをいっさいすることなく明言される「諸原理」、「根本的諸点」の連続だ。また、それらは、諸教理を定式化するとすぐに生じる、そして繰り返して批判的に進められた、史的唯物論に対する反対論を論駁しようともいっさいしないで語られている。
 彼がピアノが存在していなければ誰もピアノを弾けないということで芸術が社会条件に依存していることが証明される、と我々に述べていることは、その推論のレベルを明らかに例証している。
 思考の未熟さの例は、つぎのように幼稚に信じていることだ。すなわち、未来の科学は技術的発展の光を当てて社会革命の日付を「客観的に」予言することができるだろう。
 さらには、人々が書物を執筆する「科学的法則」、あるいは宗教の起源に関する根拠なき幻想、等々。
 この「手引き書」の特質は、のちのマルクス主義文献の多くのそれのように、「科学的」という語を絶え間なく使用していることでありり、それ自体の言明がこの性格を特別の程度に有すると執拗に主張していることだ。//
 (17)ブハーリンの書物の凡庸さを、グラムシ(Gramsci)やルカチ(Lukács)のような知的なマルクス主義批判者は見逃さなかった。彼らはとくに、ブハーリンの「機械主義」の傾向に注意を向けた。
 ブハーリンは社会を、生起する全てはそのときどきの技術の状態によって説明することのできる、結び合った全体だと考えた。、
 人々の思考や感情、人々が表現する文化、人々が作り出す社会制度、これらは全て、自然法則がもつ不変の規則性を伴う生産力によって生み出される。
 ブハーリンは、「平衡状態の法則」でもって何を明瞭には意味させたいのかを、説明しない。
 社会での平衡状態は継続的に攪乱されかつ復活されている、そして平衡状態は技術のレベルと生産関係の「合致」に依存する、と我々は語られる。
 しかし、ある所与のときにこの合致が存在するか否かを決定する際に用いる規準(criteria)に関する示唆は、いっさい存在しない。
 実際にブハーリンは、平衡状態の攪乱を革命または全ての社会転覆と同一視しているように見える。
 かくして「平衡状態の法則」が意味するのは、危機と革命は歴史上に発生した、そして疑いなくもう一度発生するだろう、ということのように見える。
 社会現象の研究はそれ自体が社会現象で、そのようなものとして歴史的な変化を発生させるのを助ける、ということをブハーリンの頭は思いつかなかった。
 ブハーリンは、天文学が惑星の運動を我々に教えるのと同じ方法で、未来に関する「プロレタリアの科学」は歴史的事象を分析して予言するだろうと信じていた。//
 (18)ブハーリンの政治的地位のおかげで、彼のマルクス主義に関する標準版は長らく、党の「世界観」を最も権威をもって言明したものと見なされた。スターリンの著作がそうなったほどには、忠誠者に対する拘束力あるものにはならなかつたけれども。
 彼の<史的唯物論>は実際、スターリンが自分自身の手引きとしたほとんど全てのものを含んでいた。
 スターリンは、「平衡状態の法則」に言及しはしなかった。
 しかし彼は、ブハーリンの「弁証法の法則」を継受して、歴史的唯物論について哲学上の唯物論の一般原理の「適用」または特殊な場合であると説明した。
 その基礎をエンゲルスに、とくにプレハノフに見出すことができるこのような接近方法は、ブハーリンによって経典的マルクス主義の本質部分だとして提示された。//
 (19)のちにブハーリンがその栄誉ある地位から転落して「機械主義」が非難されたとき、つぎのことを示すのが、党哲学者たちの仕事になった。すなわち、彼の「機械主義」的誤りとその政治上の右翼偏向は分かち難く結びついている、そしてレーニンが正当に譴責した弁証法の無知こそが彼が富農(kulak)を防衛し集団化に反対した根本原因だ。
 しかしながら、この種の哲学と政治の連関づけは全く根拠がなく、わざとらしい。
 ブハーリンの著作にある曖昧な一般論は、特定の政治的結論の根拠を何ら提供していない。
 但し、当時にまたはのちに誰も論難しなかったつぎのような前提命題は除く。例えば、プロレタリアートの社会主義革命は、最終的に世界を制覇するはずだ。宗教とは闘わなければならない。プロレタリア国家は、産業の成長を促進するはずだ。
 より厳密な結論について言えば、最も矛盾する趣旨が、同じ論理を使って同じ理論上の定式から演繹されている。教理(doctrin)は事実上、政治に従属している。
 「一方で」土台は上部構造を決定するが、「他方で」上部構造は土台へと反作用するのだとすれば、いかなる程度であっても、またいかなる手段をとるのであっても、「プロレタリア国家」は経済過程を規整するだろうし、つねに教理と合致して行動することになるだろう。
 ブハーリンは、都市と田園地帯の間の経済の均衡を混乱させるとスターリンを責め立てた。しかし、彼の「平衡状態の法則」は、いつそしてどのような条件のもとであれば現在の平衡状態が維持されるのかそれとも破壊されるのかに関する手がかりを、何ら提供しなかった。
 最終的な安定が共産主義のもとで達成されるまでは、平衡状態は攪乱されつづけるだろう、そしてスターリンの「上からの革命」(revolution from above)、換言すると農民層の強制的収奪、のごとき政策は、平衡状態へと向かう社会の一般的趨勢と完全に合致しているかもしれない。なぜならば、国有産業と私的農業の間の矛盾を除去すること、そのことで不均衡の要因を取り除くことは、政策の目標だからだ。
 Cohen はつぎのことを正しく(rightly)観察している。すなわち、ブハーリンが手引書を執筆したのは、党の言葉遣いでは極端に「主意主義的な」(voluntaristic)ものと称される経済現象に対する態度の実例を彼自身が示したときだった。ブハーリンは、経済生活の全ては行政的かつ強制的な手段によって完全に十分に規整され得る、プロレタリアートの勝利ののちには全ての経済法則が弁証法的に取り替えられるだろう、と信じた。
 ブハーリンはのちに戦時共産主義の考えを放棄し、ネップのイデオロギストになった。
 しかし彼は、<史的唯物論>の諸テーゼを変えることはなかった。
 そのゆえに、彼の著作の中に1929年の彼の政策のための着想を探し出そうというのは馬鹿げたことだ。
 ついでに言えば、戦時共産主義という観念もまた、それから演繹することはできない。
 我々は、もう一度、かかる曖昧な哲学的言明はいかなる政策を正当化するためにも用いることができる、とだけ言おう。あるいは、同じことに帰一するのだが、かかる曖昧な哲学的言明は、いかなる政策もいっさい正当化しはしない。
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 第2節終わり。

1490再掲/レーニンとスターリン-R・パイプス1994年著終章6節。

 ネップやレーニン・スターリンの関係についての、R・パイプスの1994年の著の叙述を、順番を変えて、先に試訳する。 Richard Pipes, Russia under Bolshevik Regime (1994)=リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア(1994)の、p.506-8。
 
章名・章番号のない実質的には最終章又は結語「ロシア革命についての省察」の第6節だ。また、R・パイプス〔西山克典訳〕・ロシア革命史(成文社、2000)p.401-3 と内容がほぼ等しい。
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 結語〔最終章〕
 第6節・レーニン主義とスターリン主義

 ロシア革命に関して生じる最も論争のある問題点は、レーニン主義とスターリン主義の関係-言い換えると-スターリンに対するレーニンの責任だ。
 西側の共産主義者、その同伴者(fellow-travelers)および共感者たちは、スターリンはレーニンの仕事を継承しなかったのみならず、それを転覆したと主張する。そう主張して、二人の共産主義指導者の間にいかなる接合関係があることも拒絶する。
 1956年に第20回党大会でニキータ・フルシチョフが秘密報告をしたあと、このような見方をすることは、ソヴェトの公式的歴史叙述の義務になった。これはまた、軽蔑される先行者からスターリン主義後の体制を分離するという目的に役立った。
 面白いことに、レーニンの権力掌握を不可避だったと叙述する全く同じ人々が、スターリンに至ると、その歴史哲学を捨て去る。スターリンは、歴史の逸脱だと表現するのだ。
 彼ら〔西側共産主義者・その同伴者・共感者〕は、批判された先行者の路線のあとで歴史がいかにして(how)そしてなぜ(why)34年間の迂回をたどったのかを説明できなかった。//
 スターリンの経歴を一つ例に出しても、レーニンの死後に権力を掌握したのではなく、彼は最初からレーニンの支援を受けて、一歩ずつ権力への階段を昇っていったことが明らかだ。
 レーニンは、党の諸装置を管理するスターリンの資質を信頼するに至っていた。とくに、民主主義反対派により党が引き裂かれた1920年の後では。
 歴史の証拠は、トロツキーが回顧して主張するのとは違って、レーニンはトロツキーに依存したのではなくその好敵〔スターリン〕に依存して、統治にかかわる日々の事務を遂行したことや、国内政策および外交政治の諸問題に関して彼〔スターリン〕にきわめて大量の助言を与えたことを示している。
 レーニンは、1922年には、病気によって国政の仕事からますます身を引くことを強いられた。その年に、レーニンの後援があったからこそ、スターリンは〔共産党の〕中央委員会を支配する三つの機関、政治局、組織局および書記局、の全てに属することになった。
 この資格にもとづいてスターリンは、ほぼ全ての党支部や国家行政部門に執行的人員を任命するのを監督した。
 レーニンが組織的な反抗者(『分派主義』)の発生を阻止するために設定していた諸規程のおかげで、スターリンは彼が執事的位置にあることへの批判を抑圧することができた。その批判は自分ではなく、党に向けられている、したがって定義上は、反革命の教条に奉仕するものだ、と論難することによって。
 レーニンが活動できた最後の数ヶ月に、レーニンがスターリンを疑って彼との個人的な関係が破れるに至ったという事実はある。しかし、これによって、そのときまでレーニンが、スターリンが支配者へと昇格するためにその力を絞ってあらゆることを行ったという明白なことを、曖昧にすべきではない。
 かつまた、レーニンが保護している子分に失望したとしてすら、感知したという欠点-主として粗暴さと性急さ-は深刻なものではなかったし、彼の人間性よりも大きく彼の管理上の資質にかかわっていた。
 レーニンがスターリンを共産主義というそのブランドに対する反逆者だと見なした、ということを示すものは何もない。//
 しかし、一つの違いが二人を分ける、との議論がある。つまり、レーニンは同志共産主義者〔党員〕を殺さなかったが、スターリンは大量に殺した、と。但しこれは、一見して感じるかもしれないほどには重要でない。
 外部者、つまり自分のエリート秩序に属さない者たち-レーニンの同胞の99.7%を占めていた-に対してレーニンは、いかなる人間的感情も示さず、数万の(the tens of thousands)単位で彼らを死へと送り込み、しばしば他者への見せしめとした。
 チェカ〔政治秘密警察〕の高官だったI・S・ウンシュリフト(Unshlikht)は、1934年にレーニンを懐かしく思い出して、チェカの容赦なさに不満を述べたペリシテ人的党員をレーニンがいかに『容赦なく』処理したかを、またレーニンが資本主義世界の<人道性>をいかに嘲笑し馬鹿にしていたかを、誇りを隠さないで語った。(18)
 二人にある上記の違いは、『外部者』という概念の差違にもとづいている。
 レーニンにとっての内部者は、スターリンにとっては、自分にではなく党の創設者〔レーニン〕に忠誠心をもち、自分と権力を目指して競争する、外部者だった。
 そして彼らに対してスターリンは、レーニンが敵に対して採用したのと同じ非人間的な残虐さを示した。(*)//
 二人を結びつける強い人間的関係を超えて、スターリンは、その後援者の政治哲学と実践に忠実に従うという意味で、真のレーニニスト(レーニン主義者)だった。
 スターリニズムとして知られるようになるものの全ての構成要素を、一点を除いて-同志共産主義者〔党員〕の殺戮を除き-、スターリンは、レーニンから学んだ。
 レーニンから学習した中には、スターリンがきわめて厳しく非難される二つの行為、集団化と大量の虐殺〔テロル〕も含まれる。
 スターリンの誇大妄想、復讐心、病的偏執性およびその他の不愉快な個人的性質によって、スターリンのイデオロギーと活動方式(modus operandi)はレーニンのそれらだったという事実を曖昧にしてはならない。
 わずかしか教育を受けていない人物〔スターリン〕には、レーニン以外に、諸思考の源泉になるものはなかった。//
 論理的にはあるいは、死に瀕しているレーニンからトロツキー、ブハーリンまたはジノヴィエフがたいまつを受け継いで、スターリンとは異なる方向へとソヴェト同盟を指導する、ということを思いつくことができる。
 しかし、レーニンが病床にあったときの権力構造の現実のもとで、<いかにして>彼らはそれができる地位におれたか、ということを想念することはできない。
 自分の独裁に抵抗する党内の民主主義的衝動を抑圧し、頂点こそ重要な指揮命令構造を党に与えることによって、レーニンは、党の中央諸装置を統御する人物が党を支配し、そしてそれを通じて、国家を支配する、ということを後継者に保障したのだ。
 その人物こそが、スターリンだった。
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  (18) RTsKhIDNI, Fond 2, op. 1, delo 25609, list 9。
  (*) 実際に、他の誰よりも長くかつ緊密に二人と仕事をしたヴィャチェスラフ・モロトフは、スターリンと比べてレーニンの方が『より苛酷(harsher)』だった(< bolee surovyi >)と語った。F. Chuev, Sto sorek besed s Molotovym (1991), p.184。
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 結章6節終わり。

1867/L・コワコフスキ著・第三巻第二章第2節/ブハーリン①。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第二章/1920年代のソヴィエト・マルクス主義の論争。
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 第2節・哲学者としてのブハーリン①。合冊版、p.833~p.836。
 (1)共産主義の際立つ特質の一つは、政治生活における哲学の重要性についての確信だ。
 まさに最初から、換言すればプレハノフの初期の著作から、ロシア・マルクス主義は、哲学、社会学および政治学に関する諸問題の全てを包摂しそれらに回答を与える統合的「システム」へと発展する傾向を示した。
 「真の」哲学はいったい何を構成要素とするのかについて個々人で異なってはいたけれども、彼らはみな、党には明瞭に定義された哲学上の考え方(outlook)が存在しなければならないし、存在した、この考え方は反論を許すことができない、ということに合意していた。
 ロシアには事実上、ドイツ・マルクス主義には多くあった、論理的に別個の二つの提示命題の中で意見表明をする哲学的「中立主義」に対応するものがなかった。
 第一は、社会現象に関する科学的理論としてのマルクス主義は、その他の科学からの哲学上の前提はもはや必要がない、とする。
 第二は、党は政治綱領と歴史的社会的教理に拘束されるが、構成員たる党員は自由にいかなる宗教も哲学も支持することができる、とする。
 レーニンはこれらいずれの考え方も激烈に攻撃した。そうすることで彼は、完全にロシア・マルクス主義の代表者だった。
 (2)その結果として、革命後の党執行部には、哲学教育にかかわり合う時間がなかった。
 しかしながら、まだ成典化された哲学は存在していなかった。
 マルクスとエンゲルスを別にすれば、プレハノフは主要な権威だと見なされた。
 レーニンの経験批判論に関する著作は、全ての者が参照すべく義務づけられるような標準的なテクストの地位を決して得ていなかった。
 (3)ブハーリンは、レーニンの後で、党の一般的哲学および社会的教理を体系的に提示することを試みた最初の党指導者だった。
 彼には、他のたいていの者たちよりも、この仕事をする適格性があった。国外逃亡中の年月の間に彼は、Weber、Pareto、Stammler その他の者の非マルクス主義的社会学の著作を研究していたので。  
1921年に彼は、<史的唯物論 : マルクス主義社会学の一般向け手引き>(英訳書、1926年)を出版した。
 レーニンの<経験批判論>は特定の一つの異説に対する攻撃だったが、それとは違って、ブハーリンのこの著作は、マルクス主義教理に関する一般的な説明を行うことを趣旨としていた。
 長年にわたって、この著作は党幹部たちを理論的に鍛えるための基本的な教科書として用いられた。これの重要性は、これが持つ長所にあるというよりも、その用いられたという事実にある。//
 (4)ブハーリンは、マルクス主義は社会現象に関する厳格に科学的な、かつ唯一科学的で包括的な理論だ、マルクス主義はその現象を他の科学がそれぞれに固有の対象を扱うように「客観的に」取り扱う、と考える。 
 それゆえに、マルクス主義は歴史的進化を的確に予見することができる。他の何もそうすることはできない。
 マルクス主義は全ての社会理論のように階級理論でもあるのはそのとおりだが、ブルジョアジーよりも広い精神的視野をもつプロレタリアートに託された理論だ。プロレタリアートの意図は社会を変革することであり、だから彼らは将来を見通すことができる。
 かくしてプロレタリアートのみが社会現象に関する「真の(true)科学」を生み出すことができるし、実際に生み出した。
 この科学は歴史的唯物論、またはマルクス主義社会学だ。
 (「社会学」(sociology)という語はマルクス主義者によって是認されておらず、レーニンは「社会学」それ自体は-たんにあれこれの理論にすぎないのではなく-ブルジョアが考案した語だとして拒絶した。
 しかし、ブハーリンは明らかに、科学的考究の特定の分野を表示するために既に用い得る語として、これを適応させようとした。)//
 (5)ブハーリンによれば、歴史的唯物論〔=史的唯物論〕は、社会科学と自然科学との間には探求方法についても対象に対する因果関係的接近についても何ら差違はない、という前提に立つ。
 全ての歴史的進歩は、不可変の因果法則に依っている。
 Stammler のような理論家による反対論はあるにもかかわらず、人間の目的というものはこれに違いをもたらさない。意思と目的はそれら自体が、他の全ての場合と同様に条件づけられている。
 自然および社会のいずれの分野の目的的(purposive)行動の理論も全て、非決定主義理論であり、Deity の仮定へとまっすぐに至ることになる。
 人間は、自由な意思をもたない。その行動の全ては因果的に決定されている。
 いかなる「客観的」意味においても、偶然(chance)というようなものは存在しない。
 我々が偶然と称しているものは、因果関係の二つの連鎖が交差したものだ。そのうちの一つだけが我々に知られている。
 「偶然」という範疇は、我々が無知であることをたんに表現しているにすぎない。//
 (6)必然性の法則は全ての社会現象に適用されるので、歴史の方向を予言することは可能だ。
 この予言は「まだ今のところ」正確ではないので、個々の事件の日時まで予告することはできない。しかし、それは、我々の知識がまだ不完全なものであることによる。//
 (7)社会学での唯物論と観念論の対立は、根本的な哲学上の論争の特殊な例だ。
 唯物論は、人は自然の一部だ、精神(mind)は物質の作用だ、思考(thought)は物理的な脳の活動だ、と主張する。
 これら全ては、観念論によって反論されている。観念論は宗教の一形態にすぎず、科学によって効果的に論駁されている。
 この狂気の唯我論(solipsism)または人または梨のような事物は存在しないとするプラトンの考えを真剣に受け取る者にとっては、それらの「観念(ideas)」にすぎないのか?
 (8)そして社会分野では、精神(spirit)と物質のうちの優先性に関する問題が生じている。
 科学の、すなわち歴史的唯物論の観点からは、物質的な現象つまりは生産活動が、観念、宗教、芸術、法その他の精神的現象を決定する。
 しかしながら、我々は、一般的法則が社会的論脈の中で働く態様を観察するよう留意しなければならず、また、単直に自然科学の法則を社会的用語へと入れ替えてはならない。//
 (9)弁証法的唯物論が教えるのは、宇宙には永遠のものは存在しないが、全ての事物は相互に関係し合っている、ということだ。
 私有財産、資本主義および国家は永続的なものだと何とかして主張しようとしているブルジョア歴史家は、このことを否定する。
 変化は、内部的な矛盾と闘争から現実に発生している。なぜなら、他の全ての分野でのように社会では、全ての平衡状態は不安定で、いずれは克服される。そして、新しい平衡状態は新しい原理にもとづかなければならない。
 この変化は、量的な変化が蓄積したことから帰結する質的な飛躍によって生じる。
 例えば、水は熱せられると一定の瞬間に沸点に到達し、蒸気となる。-これが、質的な変化だ。
 (ちなみに、我々は、エンゲルスからこの例を繰り返したスターリンまで「古典的マルクス主義著作者」のうち誰も、水が蒸気となるには摂氏100度に到達する必要はないということを観察しなかった、ということに気づいてよい。)
 社会革命は同種の変化であり、そしてこれが、質的な飛躍による変化という弁証法の法則をブルジョアジーが拒否する理由だ。//
 (10)変化と発展のとくに社会的な形態は、人間と自然の間のエネルギー交換、すなわち労働に依存している。
 社会生活は生産によって条件づけられ、社会の進化は労働生産性の増大を条件とする。
 生産関係が思考(thought)を決定する。しかし、人間は相互に依存し合いながら品物を生産するように、社会は諸個人のたんなる集まり(collection)ではなく、その全ての単位が相互に影響し合う、真の集合体(aggregate)だ。
 技術が、社会発展を決定する。
 他の全ての要因は、二次的なものだ。
 例えば、地勢(geography)はせいぜいのところ人々が進化する程度に作用することができ、進化それ自体を説明することはできない。
 人口統計上の変化は技術に依存しており、それ以外にではない。
 進化の種族諸理論について言うと、プレハノフはそれらを明確に論難していた。//
 (11)「究極的には」、人間の文化の全側面は技術の変化によって説明することができる。
 社会の組織は、生産力という条件に従って進化する。
 国家は支配階級の道具であり、その特権の維持に奉仕する。
 例えば、宗教はいかにして発生したのか?
 きわめて簡単だ。原始社会には部族の支配者がおり、人々はその発想を自分たち自身へと転化し、肉体を支配する精神(soul)という観念へと到達した。
 そして彼らは、その精神を自然全体へと転化し、宇宙に精神的な性質を与えた。
 こうした幻想は結局は、階級の分化を正当化するために用いられた。
 再び言うと、知られざる力としての神(God)という観念は、資本主義者が自分たちで支配できない運命に依存していることを「反映」(reflect)している。
 芸術は同様に、技術発展と社会条件の産物だ。
 ブハーリンは、こう説明する。未開人はピアノを弾くことができない。なぜなら、ピアノが存在していなければそれを演奏することも、そのために楽曲を作ることもできない。
 頽廃的な現代芸術-印象主義、未来主義、表現主義-は、ブルジョアジーの衰亡を表現している。//
 (12)これら全てにかかわらず、上部構造に全く重要性がないというのではない。
 ブルジョア国家は、結局のところ、資本主義的生産の一つの条件だ。
 上部構造は土台に影響を与える。しかし、いつの時点であっても、上部構造は「究極的には」、生産力によって条件づけられている。
 (13)倫理について言えば、これは階級社会の物神崇拝主義(fetishism)の産物で、階級社会とともに消失するだろう。
 プロレタリアートには、倫理は必要がない。倫理がそのために生み出す行動の規範は、性格において技術的なものだ。
 椅子を制作する大工が一定の技術上の規則に適合させるのと全く同じく、プロレタリアートは、社会構成員の相互依存に関する知識にもとづいて、共産主義を建設する。
 しかし、このことは、倫理と何の関係もない。//
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 ②へとつづく。

1866/L・コワコフスキ著・第三巻第二章第1節④。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第二章/1920年代のソヴィエト・マルクス主義の論争。
 第1節・知的および政治的な雰囲気④完。
合冊版、p.831~p.833。
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 (16)国家もまた最初から、教会と宗教の影響を破壊し始めた。
 これは明らかにマルクス主義の教理と一致しており、全ての独立した教育を破壊するという国家の目標とも一致していた。
 我々はすでに見たことだが、ソヴィエト体制は教会と国家の分離を宣言したけれども、この原理を現実化するのに成功していなかったし、成功することのできないものだった。
 なぜなら、教会と国家の分離は、国家が市民の宗教的見方に関心を抱かず、どの宗派に属しているかまたはいないかを問わず市民に同等の権利の全てを保障し、一方で教会は私法の主体として承認される、ということを意味するだろうからだ。
 国家がひとたび反宗教哲学をもつ党によって購われるものになってしまえば、この分離は不可能だった。
 党のイデオロギーは国家のそれになった。そして、全ての形態の宗教生活は、否応なく反国家活動になった。
教会と国家の分離は、信者とそうでない者とが同等の権利をもち、前者は無神論者である党員と同様の権力行使の機会をもつ、ということを意味する。
この原理を実現しようとするのはソヴィエトの条件のもとではいかに馬鹿々々しいかと述べるので十分だ。
 最初から根本的な哲学またはイデオロギーへの執着を表明した国家があり、その哲学またはイデオロギーにその国家の正統性が由来するのであるから、宗教<に対して(vis-à-vis)>中立などということはあり得なかった。
 したがって、1920年代の間ずっと、教会は迫害され、キリスト教を伝道することを妨害された。異なる時期ごとに、その過程の強度は違っていたけれども。
 体制の側は、階層の一部に対して譲歩するように説得するのに成功した-これはその一部の者たち自身にとって譲歩でなかったので、妥協だと言うことはほとんどできない。そして、1920年代の後半に多数の頑強な神職者たちが殺戮されてしまったあとで、ほどよい割合の者たちがとどまって忠誠を表明し、ソヴィエト国家と政府のために祈祷を捧げた。
 そのときまでに、無数の処刑、男女の各修道院の解体、公民権の収用や剥奪のあとで、教会は、かつてあったものの陰影にすぎなくなった。
 にもかかわらず、反宗教宣伝は今日まで、党の教育での重要な要素を占めている。
 1925年にYaroslavsky の指導のもとで設立された戦闘的無神論者同盟(the League of Militant Atheists)は、キリスト教者やその他の信者を全てのありうるやり方で執拗に攻撃して迫害し、そうすることで国家の支援を受けた。//
 (17) 新社会で最も力強い教育への影響力をもったのは、しかしながら、警察による抑圧のシステムだった。
 この強度は変化したけれども、いかなる市民でもいかなる時にでも当局の意ののままに抑圧手段に服することがあり得るというのは日常のことだった。
 レーニンは、新しい社会の法は伝統的な意味での法とは全く関係がない、と明言していた。換言すれば、政府権力をいかなる態様をとってであれ制限することが法に許容されてはならない、と。
 逆に一方では、いかなる体制のもとでも法は階級抑圧の道具に「他ならない」がゆえに、新しい秩序は対応する「革命的合法性」の原理を採用した。これが意味したのは、政府当局は証拠法則、被告人の権利等々の法的形式に煩わされる必要はなく、「プロレタリアート独裁」に対する潜在的な危険を示していると見え得る誰であっても単直に逮捕し、収監し、死に至らしめることができる、ということだった。
 KGBの先駆者であるチェカは、最初から司法部の是認なくして誰でも収監する権限をもっていた。そして、革命の直後に、多様で曖昧に定義された範疇の人々-投機家、反革命煽動者、外国勢力の工作員等々-は「無慈悲に射殺される(shot witout mercy)」ものとする、と定める布令が発せられていた。 
 (いかなる範疇の者は「慈悲深く(mercifully)射殺される」のかは、述べられていなかった。)
 これが実際上意味したのは、地方の警察機関が全市民の生と死に関する絶対的な権力をもった、ということだ。
 集中収容所(Conceneration camps)(この言葉は現実に使われた)はレーニンとトロツキーの権威のもとで、様々のタイプの「階級敵」のために用いるべく、1918年に設置された。
 もともとは、この収容所は政治的反対者を制裁する場所として使われた。-カデット〔立憲民主党〕、メンシェヴィキおよびエスエル〔社会革命党〕、のちにはトロツキストその他の偏向主義者、神職者、従前の帝政官僚や将校たち、および資産所有階級の構成員、通常の犯罪者、労働紀律を侵害した労働者、およびあらゆる種類の頑強な反抗者たち。
 数年しか経たないうちに、この収容所は、大量の規模の奴隷労働を供給するという利点によって、ソヴィエト経済の重要な要素になった。
 異なる時期に、とくにそのときどきの「主要な危険」に関する党の選択に応じたあれこれの社会集団に対して、テロルが指令された。
 しかし、最初から、抑圧システムは絶対的に法を超越していた。そして、全ての布令と罰則集は、すでに権力を保持する者による恣意的な権力行使を正当化することに寄与するものにすぎなかった。
 見せ物裁判(show trial)は初期に、例えばエスエルや神職者たちの裁判で始まった。
 来たるべき事態を冷酷に告げたのは、Donets の石炭盆地で働く数十人の技術者たちに関する1928年5月のShakhty での裁判だった。そこでは証拠は最初から最後まで捏造されており、強要された自白を基礎にしていた。
 怠業と「経済的反革命」の咎で訴追された犠牲者たちは、体制の経済後退、組織上の失敗および一般国民の哀れな状態の責任を負う、好都合の贖罪者だった。
 11名が死刑を宣告され、多数は長期の禁固刑だった。
 この裁判は、国家による寛大な処置を期待することはできないという、全ての知識人たちに対する警告として役立った、ということになった。
 Solzhenitsyn は訴訟手続の記録を見事に分析し、ソヴィエト体制のもとでの法的諸観念の絶対的な頽廃を描いてみせた。//
 (18)犠牲者の誰もがボルシェヴィキ党員ではなかった間は、党指導者の誰かが、いずれかのときに、抑圧や明らかに偽りの裁判に対して異議を申立てたり、または妨害を試みたりした、とするいかなる証拠もない。
 反対派集団は、献身的な党活動家だった自分たちの仲間にまでテロルが及んできたとき初めて、苦情を訴え始めた。
 しかし、そのときまでには、苦情は無意味になっていた。
 警察機構は完全に、スターリンとその補助者たちの掌中にあった。そして、下部については、それが党の官僚機構に先行していた。
 しかしながら、警察が党全体を統制していた、と言うことはできない。なぜなら、スターリンは、警察のではなく党の最頂部にいた間ずっと、至高の存在として支配した。彼が党を統治したのは、まさに警察を通じて、なのだ。//
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 第1節終わり。第2節へとつづく。

1864/L・コワコフスキ著・第三巻第二章第1節②。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(英訳1978年、合冊版2004年)の試訳のつづき。
 前回に作者・文筆家として名が挙げられていたBoris Pasternak (B・パステルナーク)はのちにその小説・ドクトル・ジバゴがノーベル文学賞を授与され(本人は辞退)、その小説は二度にわたつて映像化もされた。1965年(ラーラ役/ジュリー・クリスティ)、2002年(同/キーラ・ナイトリィ)。
 この欄で記したように(2017/05/18=No.1548)、この小説の「10月革命」以降の背景は最後の一瞬を除けばレーニン時代であり、映像化されている伝染病蔓延も戦闘も、ジバゴの友人(ラーラの公式の夫)のボルシェヴィキ(共産党)入党と悲惨な末路も、スターリンではなくて、レーニンの時代のことだ。
 レーニンが<市場経済から社会主義へ>の途を確立したと日本共産党・不破哲三が「美しく」いう1921年にあった飢餓も詳しくないが描写されている。まさにその1921年夏の<人肉喰いも見られた饑饉>の様相は、リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ボルシェヴィキ体制下のロシア(1994年)の<ネップ>に関する章の中で、生々しく歴史叙述されている(すでにこの欄で試訳を紹介したー2017/04/24-25、№1515-1516)。
 今回に下に出てくるPashukanis (パシュカーニス・法の一般理論とマルクス主義には邦訳書が古くからあった(第一版/日本評論新社、1958年、第二版/日本評論社、1986年、訳・稲子恒夫)。
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 第三巻・第二章/1920年代のソヴィエト・マルクス主義の論争。
 第1節・知的および政治的な雰囲気②。
合冊版、p.826~p.828。
 (5)新体制は識字能力を高め、教育を促進すべく多大の努力をした。
 学校はすみやかにイデオロギー的教化のために用いられ、教育制度全体がきわめて膨大なものになった。
 大学があちこちに設立されたが、多くは長く続かなかった。そのことは、つぎの数字が示している。
 戦争の前、ロシアには97の高等教育の場があった。1922年には、278になった。しかし、1926年に再びそのほとんど半分(138)に減った。
 同時に、「労働者学校(Workers' Faculties、rabfaki)」が創立され、労働者の高等教育を準備する速成課程を提供した。
 もともとは、ルナチャルスキのもとでのソヴィエトの文化政策は、限定された目的で満足するものだった。
 「ブルジョア」的な全ての研究者や教師を学問的諸団体から一斉に排除するのは、事実上は学習と教育を終焉させることになっただろうので、不可能だった。
 大学は最初から、アカデミーや研究所よりも強い政治的圧力に服しており、その当時でもまだ変わりはなかった。
 当然に、青年の教育に従事する団体に対しては、より緩やかな統制が行われた。
 1920年代に自然科学アカデミーは相当の範囲の自治力を維持していた。一方、大学は、早い時期にそれを失い、大学を管理する団体は教育人民委員部の代表者と労働者学校出身の党活動家で充たされていた。
 教授職は学術上の資格なしで政治的に信頼できる人物に配分され、学生の入学は「ブルジョア」の申請者、すなわち従前のインテリ層または中産階級の子女たちを排除するために、階級という規準(criteria)に従属した。
 公正で可変的なカリキュラムをもつ「リベラルな」大学という古い考え方とは反対の立場にある、「職業教育」に重点が置かれた。
 その目的は、古い意味でのインテリ層を生み出すのを阻止することだった。古い意味でのインテリ層とは、職業について熟練することだけではなくて、視野を広げ、全分野の文化を獲得し、一般的な諸論点に関する自分たち自身の意見を形成することを望む者たちのことだった。
 今日でも有効に維持されているこの原理的考え方は、初期に導入された。しかしながら、政治的圧力の強さは、多様な諸分野ごとに違っていた。
 自然科学の内容に関するかぎりは、最初は実際には強制(coercion)はなかった。
 人文社会科学の分野では、その中のイデオロギー上で敏感な分野で、すなわち、哲学、社会学、法および近現代史について、強制が最も厳しかった。
古代の世界、Byzantium、あるいは旧ロシアの歴史に関する非マルクス主義者の著作は、1920年代にはまだ出版が許されていた。//
 (6)ソヴィエト国家の中の非ロシア人に関しては、彼らの「自己決定権」はすぐに、レーニンが予告したようにたんなる一片の紙切れであることが判明していたが、彼らの母国語を媒介として、大学教育の利益を享受した。そして、ロシア化は、最初は重要な要素ではなかった。
 要するに、教育の一般的レベルは相当に劣悪なものだったけれども、新体制は、一般的に接近することの可能な学校制度を設立することに、ロシアの歴史上で初めて成功した。//
 (7)ソヴィエト権力の最初の10年間、諸大学は古いタイプのアカデミーにきわめて大きな影響を受けることとなった。いくつかの学部ですら-とくに、歴史、哲学および法の学部は、完全に「改良」されるか、閉鎖された。
 新しい教師階層を形成し、正統的な学習の伝搬を促進するため、当局は、党を基礎にした二つの研究施設を設立した。すなわち、大学での古いインテリ層の後継者を養成するための「赤色教授(Red Professors)」研究所(1921年)、そして初期の頃には、モスクワの共産主義アカデミー(Commuist Academy)。
 これら両機関はともに権力にあった時代のブハーリンによって支援され、「左翼」または「右翼」偏向主義という理由でしばしば浄化(purge)された。
これら両機関はやがて、党が学術上の全ての団体を十分に統制し、信頼できるスタッフで充足させる特別の訓練機関はもはや必要がなくなったときに、解体させられた。
 この時期にもう一つ生み出されたのはマルクス・エンゲルス研究所で、これは共産主義の歴史を研究し、マルクスとエンゲルスの諸著作の第一級の厳密な校訂版(M.E.G.A.版)を出版し始めた。
 その所長だった D. B. Ryazanov は、実際上は全ての純粋なマルクス主義知識人と同じく、1930年代にその職を解任された。そして、おそらくは粛清(purge)の犠牲者となった。彼は1938年にSaratov で自然の死を迎えたと、ある範囲の人々は言うけれども。
 (8)1920年代の主要なマルクス主義歴史家は、すぐれた学者でブハーリンの友人のMikhail N. Pokrovsky だった。
 彼は数年間、ルナチャルスキーのもとで教育人民委員代行で、赤色教授研究所の初代所長だった。
マルクス主義を用いて歴史を教え、詳細に分析すればマルクス主義の一般的議論が不可避的に確認されることを示そうとした。技術の決定的な役割と階級闘争、歴史過程での個人の副次的な重要性、全ての国家は根本的には同じ進化の過程を通り抜けるという教理。
 Pokrovsky は、ロシアの歴史を執筆し、レーニンに高く評価された。そして、大粛清の前の1932年に死ぬという好運に恵まれた。
 彼の見解はのちに不正確だとの烙印を押され、例えば歴史は過去に投影された政治にすぎないというしばしば引用された言術に見られるように、歴史科学の「客観性」を否認するものだとして非難された。
 しかしながら、彼は、「科学的な客観性」を主唱する党学者と違って、純粋な歴史家であり、良心的に証拠を分別する人物だった。
 彼とその学派に対する非難は主として、国家イデオロギーでのナショナリズムの影響の増大や、歴史に関する至高の権威としてのスターリン崇拝(cult)に関係していた。
 Pokrovskyには「愛国主義の欠如」があり、その研究はレーニンやスターリンの役割を低く評価した、とされた。
 こうした責任追及は、Pokrovsky がのちの年代には礼式(de rigueur)になったようには帝政ロシアの打倒を称賛せず、ロシア人民の美徳と一般的な優越性を称揚しなかったかぎりでは正しい(true)。//
 (9)党の歴史は当然に、全くの最初から厳格な統制に従属した。
 にもかかわらず、多年にわたって、単一の真正な見方というのはなかった。じつに1938年の<ソ連共産党史〔Short Course〕>までは、なかった。それまでは、分派闘争が継続し、各派は自分たちに最も都合のよい光に照らして党の歴史を語った。
 トロツキーは革命の見方の一つの範型を提示し、ジノヴィエフは別のそれを示した。
 多様な手引書が、出版された。もちろん全てを党の活動家や歴史家が命令のもとで書いていたけれども(例えば、A. S. Bubnov、V. I. Nevsky、N. N. Popov)、それらの内容は厳密には同一ではなかった。
 しばらくの間、最も権威ある見方だとされたのはE. Yaroslavsky のもので、1923年に最初に出版され、指導者間での権力の転移に合致するようにしばしば修正された。
 最後にはそれは、Yaroslavsky が編集者として行った集団的著作に置き換えられた。しかし、彼のそうした努力の全てにもかかわらず、「致命的な誤り」がある、すなわちスターリンを科学的に賛美していない、と非難されることとなった。
 実際、党の歴史は、他のいかなる学習分野にもないほどに、初期にすでに政治的な道具の位置をもつものへと貶められた。すなわち、最初から、党史に関する手引書〔manuals〕は、自己賞賛のそれに他ならなかった。
 それにもかかわらず、1920年代には、主としては回想録や専門雑誌への寄稿文のかたちで、この分野についての価値ある資料も公刊されていた。//
 (10)1920年代の法および国制理論に関する最もよく知られた専門家は、Yevgeny B. Pashukanis (1890-1938)だった。この人物は、多数の者たちと同様に大粛清のときに突然に死んだ。
 彼は、共産主義アカデミーでの法学研究部門の長だった。そして、その<法の一般理論とマルクス主義>(ドイツ語訳書で1929年刊)は、この時期のソヴィエト・イデオロギーの典型的なものだと見なされた。
 彼の議論は、法的規範の個別の変化にのみあるのではなかった。法それ自体の態様は、すなわち全体としての法現象は、物神主義的(fetishistic)な社会関係の産物であり、ゆえに、それの発展形態において、商業生産の時代を歴史的に表現したものだ、とした。
 法は、取引を規律する道具として生み出され、そのあとで他の類型の個人的関係へと拡張された。
 したがって、法は共産主義社会において国家や他の商品物神崇拝の産物と同じように消滅するはずだと考えるのは、マルクス主義と合致している。
 今日に力のあるソヴィエトの法は、まさにその存在自体で、階級がまだ廃棄されておらず資本主義の残存物が当然にまだ現にある、そういう過渡的な時代に我々がいることを示している。
共産主義社会に特有の法の形態のごときものは存在しない。その社会での個人的関係は、法的な範疇によって考察されることはないだろうからだ。//
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 ③へとつづく。

1863/L・コワコフスキ著・第三巻第二章第1節①。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(英訳1978年、合冊版2004年)の試訳を行ってきいるが、1300頁に及ぶ大著で、けっこうな数の回数を費やしても、試訳をこの欄で掲載したのは(最近に紹介した全巻・第一巻の冒頭や新旧のプロローグ・エピローグを除けば)、つぎに限られる。合冊版で示す。しかも、下の①の第17章については、レーニン・唯物論と経験批判論の前の「哲学」論争の一部は割愛している。
 ①第二部(巻)第16章・第17章・第18章、p.661~p.778。…主としてレーニン。
 ②第三部(巻)第1章、p.789~p.823。…主としてスターリン。
 全体からするとまだ10%強にすぎない。
 シェイラ・フィツパトリク・ロシア革命(2017)のスターリン時代の本格的な叙述部分の試訳をまだ紹介していないのだが(14回までで中断している)、スターリン時代の様相を知っておくためにも、L・コワコフスキの著の上の②以降を訳しておくこととした。
 もともとは、レーニン期とされる<ネップ>と「10月革命」前後の政治史にしか関心がなかったのだから、この数年の間に関心は広がり、知識・簡単な素養も増えてきたものだ、と自分のことながら感心する。そして今や、「物質」と「観念」、「認識」あるいはそれにかかわる「言葉」・「言語」・「概念」や「思想なるもの」一般にも関心は広がっている。
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 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(英訳1978年、合冊版2004年)。
 第三巻p.45-47(ドイツ語版p.57-59)、合冊本p.824-826、の試訳。
 改行箇所はこれまで//で示してきたが、改行のつぎの冒頭に原著・訳書にはない番号を勝手に付すことにした(どうやら、その方が読みやすいと独断で判断したことによる。従って、(1)、(2)、…は、ここでの試訳のかぎりのものである)。
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 第三巻/第二章・1920年代のソヴィエト・マルクス主義の理論的対立。
 第一節・知的および政治的な雰囲気(秋月注記・独語版=一般的な知的状況)①。
  (1)述べてきたように、1921年から1929年までのネップの時期は、知的分野での自由の時代では決してなかった。
 逆に、自立した芸術、文学、哲学および人文社会科学に対する圧力は増大していた。
 にもかかわらず、こうした諸分野でものちの集団化の時代に転換点を迎えた。それは、つぎのように叙述すことができる。
 ネップ期の文筆家や芸術家は体制に対して忠誠を示すことを要求され、反ソヴィエト作品を生み出すのは許されなかった。しかし、その制限の範囲内では、多様な動向が許され、実際にそれらが存在した。
 芸術や文学に排他的な派閥はなく、実験が許され、体制やその指導者を直接に称賛することは公刊物の<必須要件(sine qua non)>ではなかった。
 哲学の分野ではマルクス主義が至高なものとして君臨したが、まだ聖典化はされていなかった。そして、何が「真正の(true)」マルクス主義であるかは決して一般的になっていなかった。
 したがって、論争は継続し、マルクス主義と適合的であるのか否かを純粋に探求しようとする信念あるマルクス主義者がいた。
 さらに加えて、とくに重要な著作を残さなかったけれども、1920年代の哲学者たちは、「正常な」知的背景をもつ者たちであり、体制には忠実だったが、自分たちの思索に対して体制がどう反応するかに関して惑わされることがなかった。//
 (2)同様にまた、数年間は、私的な出版団体が活動していた。
 非マルクス主義の文献は1918-1920年にはまだ出版されていた-例えば、Berdyayev、Frank、Lossky、Novgorodtsev およびAskoldov のそれら。そして、<Mysl i slovo>や<Mysl>のような、一つまたは二つの非マルクス主義の定期刊行物もあった。
 こうしたことは、ソヴィエト権力に対する切迫した脅威があるがゆえに抑圧を増大させることが必要だというのちの論拠には根拠がない、ということを示している。
 相対的な文化的自由の数年間は内戦の時期であり、体制に対する脅威はのちの時代よりも大きかった(そして同様に、ある程度の範囲での文化問題の緩和は1941年とその後にに生じたが、それは国家の運命が分岐点に立っていたからだ)。
 しかしながら、1920年には大学での哲学講座は弾圧され、1922年には、上で言及した者たちを含めて、非マルクス主義の哲学者たちは国外に追放された。//
 (3)芸術や文学についての1920年代の特徴は、多数の価値ある成果を生んだことだ。
 革命に共鳴した傑れた作者たちは、著作よって革命に対してある種の真正らしさを与えた。その中には、Babel, 若き日のFadeyev、Pilnyak、Mayakovski、Yesenin、Atem Vesyoly およびLeonov がいた。
 彼らが示した創造性は、革命がたんなる<クー・デタ>ではなくて本当にロシア社会にあった諸力の爆発だったという事実の証拠だ。
 しかし、決してソヴィエト体制を支持しなかったその他の作者たちもまた、当時に活動していた。例えば、Pasternak、AkhmatovaやZamyatin。
  1930代には、こうしたことは全て終わった。
 実際、この時期に革命と合致していたのか否かや「ブルジョアの生き残り」だったのか否か、そしてどちらがいったい安全だったのかを語るのは困難だ。
 文筆家のうち従前の階級の者たちは殺戮(murder)され(Babel, Pylnyak, Vesyoly)、または自殺した(Mayakovski, Yesenin)。第二の範疇に入る者のうちMandelshtam のような何人かは、労働収容所で死んだ。
 しかし、他の者たちは迫害と悲嘆の時代を生き残り(Akhmatova, Pasternak)、あるいは何とかして国外へ逃亡した(Zamyatin)。
 スターリン専制を称賛する物書きになることを選んだ者たち(Fadeyev, Sholokhov, Olesha, Gorky)は、総じて次第に彼らの才能を失っていった。//
 (4)内戦後最初の数年間は、全ての文化分野での高揚があった。
 偉大な演出家や監督の名前-Meyerhold, Pudovkin, Eisenstein-は、演劇や映画の世界史の一つになっている。
 当時の西側の流行、とくに多かれ少なかれ<アヴァン・ギャルド(avant-garde)>型の様式は熱心に、かつその結果に関する恐怖なくして、取り入れられた。
  I. D. Yelmakov のような Freud に対するソヴィエトの支持者は、心理分析の唯物論的で決定主義的な側面を強調した。
 トロツキー自身が、フロイト主義に対する好意的な関心を示した。
 行動主義に関するJ. B. Watson の著作が、ロシア語に翻訳されて出版された。
 その当時はまだ、自然科学での新しい発展に対するイデオロギー的な攻撃はなかった。
 相対性理論は、時間と空間は物質の実存形態だと主張して弁証法的唯物論の正しさを証明すると論じる論評者たちが賛同して、受容された。
 教育分野での「進歩的」傾向もまた、歓迎された。とくに、紀律と権威に対抗するものとしての「自由学校」を Dewey が強調していたことは。
 同時に、例えば、Viktor M. Shulgin は、共産主義のもとでは学校は「消滅する」だろうとの展望を述べた。
 これは実際、旧世界の制度は全て、国家も軍隊も学校も、そして民族も家族も、消滅する運命にあるとするマルクスの教理と矛盾していなかった。
 このような見方は、それ自体がいずれは永遠に消滅する運命にあった、共産主義の無邪気な<アヴァン・ギャルド> 精神を表現していた。
 支持者たちは、理性が栄光ある勝利を獲得する前に、衰えている制度と伝統、神聖と禁忌、礼拝と偶像は灰燼となって崩壊する、そのような新しい世界が実際に実現することになるだろう、と信じた。もう一つのプロメテウスのごときプロレタリアートがヒューマニズム(人間主義)の新しい時代を創出する、そういう世界だ。
 こうした因習を打破する熱情は、文学や芸術上の<アヴァン・ギャルド>派の多数の西側知識人を魅了した。伝統、学界主義(アカデミズム)、権威および過去のもの一般に対する自分たちの闘いを政治的に具現化するものを共産主義のうちに見た、フランスのシュール・レアリスト(surrrealists)のような、西側知識人たちを。
 この時代のロシアの文化的雰囲気には、全ての革命の時期には共通する若々しくて未熟な性質があった。人生は始まったばかりだ、将来は無限にある、人類はもはや歴史の制約に縛られていない、と信じていた。//

1860/笹倉秀夫・法思想史講義(下)(2007)②。

 笹倉秀夫・法思想史講義(下)(東京大学出版会、2007)
 この本の、14のマルクスの部分、15のマルクス・レーニン・スターリンの部分をしっかりと読んで、この人物の基本的な情念・前提命題と「論理」らしきものを分析してみたい。
 前提として、上に関する部分の注記に文献名が挙げられているので、以下にそのままその文献名だけを列挙する。
 執筆時に参照したのだろうから、この人物にはすでにこれら以外の諸文献を通じた「知識」や「感情」があるに違いないが、それでも「頭の中」をある程度は覗くことができるだろう。
 注記は元来は連番なので、ここでは14の(222)を(01)とし、15の(239)をあらためて(01)として紹介する。頁数や叙述内容は記載しない。前掲書と同じ趣旨の記載の場合も、あらためて同一文献名を記した。
 ***
 14注
 (01) 藤田勇「社会の発展法則と法」渡辺洋三ほか・現代法の学び方(岩波新書、1969)。林直道・史的唯物論と経済学/下(大月書店、1971)。
 (02)マルクス・経済学批判-マルクス・エンゲルス全集37巻(大月書店)。
 15注
 (01) 渓内謙・現代社会主義を考える(岩波新書、1988)。
 (02) レーニン・国家と革命(大月書店、国民文庫)。
 (03) マルクス・ゴータ綱領批判-マルクス・エンゲルス全集19巻(大月書店)。
 (04) 不破哲三・マルクスの未来社会論(新日本出版社、2004)。
 (05) 渓内謙・現代社会主義を考える(岩波新書、1988)。
 (06) 渓内謙・現代社会主義を考える(岩波新書、1988)。
 (07) 渓内謙・現代社会主義を考える(岩波新書、1988)。
 (08) 渓内謙・現代社会主義の省察(岩波書店、1978)。
 (09) 大江泰一郎・ロシア・社会主義・法文化(日本評論社、1992)。鳥山成人・ロシア・東欧の国家と社会(恒文堂、1985)。浅野明「君主と貴族と社会統合」小倉欣一編・近世ヨーロッパの東と西(山川出版社、2004)。
 (10) 渓内謙・現代社会主義を考える(岩波新書、1988)。
 (11) 丸山真男・現代政治の思想と行動(未来社、1964)。
 (12) 山口定・ファシズム(岩波現代文庫、2006)。
 以上。
 不破哲三はご存知、日本共産党の幹部(元最高指導者)、藤田勇・渡辺洋三は、前回に言及した二つの講座もの全集(日本評論社刊行)の編者、林直道はマルクス主義経済学者で日本共産党員と推察される人物(元大阪市立大学)、渓内謙は今日でも基本的な<レーニン幻想>を崩していない人物(元東京大学)。
 これらの諸文献も秋月も参照しながら、「読解」してみる。結論はすでに出ているし、この人物の主観的な「願望」が空想的社会主義のレベルまで戻るようなものであることも分かる。歴史的(史的)唯物論なるものを「観念的」・「主意的」に理解した、結局は政治・世俗優先の<日本の戦後教育の優等生>の一人が行った「作業」であることが判るだろう。
 ***
 なお、藤田勇(1925-)に、上と同年刊行の、つぎの著がある。第3段階とは1960年代~1990年前後を言うとされる。
 藤田勇・自由・民主主義と社会主義1917-1991-社会主義史の第2段階とその第3段階への移行(桜井書店、2007年10月)。
 ネップ期に関する叙述もあるが、日本の「共産主義政党」の基調の範囲内で行ってきた「自由」な研究の末路を見る想いもする。

1858/笹倉秀夫・法思想史講義(下)(2007)①。

 マルクス主義法学講座(日本評論社、全8巻、1976-1980)の編者5名のうちの一人、講座・革命と法(日本評論社、全3巻、1989-1994)の編者3名のうちの一人で、それぞれに文章を複数回掲載していた者に、渡辺洋三(1921-2006)という人物がいた。元東京大学社会科学研究所教授。
 その渡辺洋三は1996年に、つぎの岩波新書を刊行していた。
 渡辺洋三・日本をどう変えていくのか(岩波書店/岩波新書、1996)。
 自社さ連立政権の頃で、この年に首相は村山富市から橋本龍太郎に替わった。
すでにこの欄で多少は触れたことだが(№0041)、この書物の最後で当時の「政局」との関連で憲法問題を論じ、小沢一郎批判から始めて、自民党・新進党・(新)社会民主党に対して批判的に言及し、その中で公明党や「さきがけ」にも触れている。
 ところが何と、日本共産党には何ら言及せず、「日本共産党」または「共産党」という言葉をいっさい出していない(p.234~p.240)。
 その直後に渡辺は「日本社会の改革目標」を平和大国・生活大国・人権大国・民主主義大国とまとめるのだが(p.241-2)、上のことからして、こうした主張は日本共産党員である自らの主張であり、かつまた同党の主張・路線と一致していることを「問わず語り」に暴露している、と言えよう。
 真偽は定かではないが、渡辺洋三のことを日本共産党の「大学関係」責任者だと述べていた人もいた。
 さて、笹倉秀夫・法思想史講義(下)(東京大学出版会、2007)。
 この書物にも、たぶん一度触れた(№1408)。
 あらためてこの本を捲ってみると、目次(構成内容)からしてじつに興味深い。
 最終の「部」である「近代の変容・現代」のうち、14(章)以降の構成・叙述内容を「目次」から紹介してみよう。以下、省略部分はあるが、それ以外は忠実な再現だ。
 「14」の表題は<「近代の疎外」との対峙>、「15」のそれは<社会主義>、「16」のそれは<近時の主な法思想>(17はここでは略す)。
 14-1/マルクス 14-1-1 マルクスの思想形成、14-1-2 史的唯物論の素描
 14-2/自由主義と民主主義の再結合へ (1) ミル、(2) ラスキ
 14-3/ヴェーバー
 14-4/フロム 14-4-1 学説史的位置、14-4-2 現代社会論
 14-5/フーコと「紀律化」 14-5-1 フーコの議論、14-5-2 私見
 15-1/社会主義思想の形成
 15-2/スターリニズム 15-2-1 スターリニズムの問題点、15-2-2 スターリニズムの要因、15-2-3 スターリニズム批判とその後
 15-3/まとめ
 16-1/価値相対主義、16-2/「実践哲学の復興」、16-3/ポストモダニズム  
 以上
 ここですでに明らかなのは、マルクスに論及があり、かつスターリニズムについての詳細らしき叙述はあるが、「レーニン」という語が全く出てこないことだ。
 これはこの人物の<政治的立場>をすでに「問わず語りに」示唆しているのではないだろうか。
 もっとも、さらに下の項を見ると、「15-2-2 スターリニズムの要因」の中の(3) として「マルクス・レーニンらの問題点」が叙述されている。
 そこではマルクス(・エンゲルス)とレーニンに関しては構成上は「一括して」叙述されており、「レーニン」という小見出し(黒ゴチ)がある部分は、15-2-2-3-2-2のところに位置する(正確な又は的確な言葉を知らないが、「ディレクトリ」の階層的に示すと「レーニン」はここに位置する)。
 内容には別途立ち入るとして、このように「マルクス・レーニン」と「スターリン(スターリニズム)」を明瞭に区分していること、レーニンをマルクス(・エンゲルス)と「一括して」、正確にはおそらく「引きつけて」理解して同様にレーニンとスターリンとを切り離していること、これらは、この人のこの書物の時点での、少なくとも過去の一定の時点での<政治的立場(・心情)>を示唆しているように感じられる。
 全集・世界の大思想(河出書房)の一つの巻を「レーニン」が占めていた(1965年)。「法思想」と「思想」は同じではないのだが、この笹倉秀夫は、レーニンを大々的には、あるいは正面からは論述の対象にはしたくないのではなかろうか。

1850/秋月瑛二の想念⑤-2018年9月。

 ヒト、人間とは何であるのか、というのは自分とはいったい何者か、という問いでもある。
 日本、日本人とは何なのかという問いは、日本人として生まれ育った私自身を問うことでもある。
 L・コワコフスキは、歴史を知る(学ぶ)ことは我々自身が何であるかを知る(探求する)ことだ、と書いた。
 また彼は、思想・イデオロギーの歴史、とりわけマルクス主義の教理の歴史を研究するのは、一定の程度で、我々自身の文化を自己批判する試みだ、とも書いた。
 さらにつぎの趣旨も書いた(マルクス主義の主要潮流・2004年版「新しい緒言」)-「宗教史、文化史の一部の研究によって我々は、人類の霊的(spiritual)活動を洞察し、我々の精神(soul)とそれの人間生活の他の形態との関係を考究することができる。宗教・哲学・政治の何であれ、諸思想の歴史に関する研究は、我々が自分自身を認識するための探求であり、我々の精神的かつ肉体的な活動の意味するところを探求することだ。マルクス主義あるいは共産主義もまた、十分に関心を惹く歴史研究の対象になりうる」。
 20歳でポーランド統一労働者党の党員となり、党幹部候補であったと推測されるがスターリン支配下のモスクワでの短期滞在(留学)を経てポーランドの<レーニン・スターリニズム体制>に疑問をもち、ついに祖国を離れて西欧や北米に滞在し、最後にはロンドンにいたL・コワコフスキにとって、かつて学んでいったんは自分のものにした「マルクス主義」またはスターリン解釈による「マルクス・レーニン主義」は、まさに若き自分自身の一部だったに違いなく、マルクス主義の歴史研究は「自分史」の自己批判を含む研究だったに違いない。
 また、出国後ではなくポーランド時代からすでに彼は、キリスト教(・カトリシズム)の文化の中にいたように推察される。
 マルクス主義に関する大著刊行のあと、きっぱりと?マルクス主義研究から離れ、むしろ「神学」・カトリック研究にたずさわったらしいのも、自分自身の一部を形成している「神学大系」を探求して、自分とは何かをさらに知ろうとする試みだったかに見える。
 ***
 原語はフランス語らしいが、画家・ゴーギャンはある大きな絵の左上隅に、つぎのように記したらしい。
 「D'où Venons Nous /Que Sommes Nous /Où Allons Nous.」
 「われわれは何処から来たのか。われわれは何者か。われわれは何処へ行くのか。
 この部分から邦訳書の表題をつけたと見られる書物に、以下がある。
 エドワード・O・ウィルソン/斉藤隆央訳・人類はどこから来て、どこへ行くのか(化学同人、2013年)。
 但し、原書はつぎのようで、そのタイトルは「地球(地上)の社会的征服(制覇)」くらいにしか直訳はできない。
 Edward O. Wilson, Social Conquest of Earth (Liveright Publ. CO, 2012).
 まだ邦訳書の「解説」しか読んでいないのだから、興味がわく、という程度のことしか書けない。
 ***
 だが、捲っていて気づいたp.323-325の三つの画像とそれらへのコメントは、「ヒト・人間の本性」または「ヒト・人間の脳内感覚」にすでに関係しているだろう。
 つまり「複雑さが中程度」のデザインが「無意識に最も刺激し」、日本の書道での漢字の「隷書体」や「和様体」には「自然にもたらす刺激」があり、「パンジャブ語」の文面の「本質的な美しさ」は「無意識の刺激のレベルを最大まで高める」、とか言うのだ。
 理屈ではない<視的感覚>、<視的な刺激・心地よさ>。
 こういうものは、むろん個人差(個体差)はあるだろうが、脳感覚の中にあると思われる。
 数ヶ月間、日本語の新聞も雑誌も見なかったあとで、外国で久しぶりに見た某日本文学全集の(縦書きの)、漢字とひらがなの混じった日本語文章は、アルファベットばかりの中で生活していたので、じつに(内容では全くなくて)紙面自体が美しく感じた。
 これは日本人であるがゆえの感覚だったかもしれない。
 だが、同じ日本語文章でも、言語学者でもある安本美典によると、根拠文献を探す手間を省くので正確な紹介はできないが、一頁(ひいては全体)の中の漢字とひらがなとの割合が一定のある割合だと、最も<快適に>読まれる傾向がある、という。
 漢字がたくさん詰まった難解で複雑そうな文章よりも、適度にひらがな(カタカナ)が入っていた方が読みやすい。-こういう感覚は、よく分かる。
 また、誰かが書いていたが、一頁(ひいては全体)の中の、改行の数も関係がある。
 改行なしの、一文がどこで終わるのかがすぐには判らない文章が長々と続くと、読みにくい。適度に改行をして、その下に「空白」を入れた方がよい。
 これは、たんなる美しさや快適さの問題なのではない。
 すなわち、書き手が伝えたいことが、きちんと「読者」に伝わるか否かにとって重要なことだ。また、そもそも、「読む」気を起こさせないような、例えば一頁以上も改行がなく、見た印象で7-8割が漢字のような文章は、全く読まれないことになりかねない。
 そうした意味でも、「理屈」・「内容的適正さ」よりも、「見た目」、あるいは「視的美意識」にも訴えるというのは、じつに人間の「感性」、そして「本性」に適合的だろう。
 他にも多数の「感覚」の問題、さらに脳内でのもっと複雑な「感情」の問題はある。
 これらを抜きにして、ヒト・人間を語ることはできないし、その「歴史」を-かりに「政治史」であれ-把握することもできないだろう。当たり前のことを書いたかもしれない。

1840/M・メイリア・ソヴィエトの悲劇(1994)とL・コワコフスキ。

 マーティン・メイリア(白須英子訳)・ソヴィエトの悲劇-ロシアにおける社会主義の歴史 1917-1991/上・下(草思社、1997年)。
 =Martin Malia, The Soviet Tragedy – A History of Socialism in Russia, 1917-1991(New York, 1994).
 この本には、数度言及したことがある。但し、書名にも見られるようにロシア革命期またはレーニン時代に対象範囲が限られていないこともあって、つねに座右に置いてきたわけではない。
 だがそもそも、こういう本が草思社によって日本語となって、つまり邦訳書として出版されていること自体が、素晴らしく、価値のあることだ。日本の邦訳書出版業界の全体的状況を考えるならば。
 最近にこの著に関連して、というよりも正確にはレシェク・コワコフスキに対する関心から出発して、この著について二点触れたくなった。
 第一は、私はどういう経緯でL・コワコフスキの、とくに『マルクス主義の主要潮流』の存在を知り、原著を注文するに至ったのだったか、だ。
 この点ははっきりしない。あるいは、福井義高・日本人が知らない最先端の世界史(祥伝社、2016)による参考文献または注記一覧がきっかけだったかもしれない。この本に挙げられている洋書のうちロシア革命、レーニン・「ネップ」に関連していて入手できそうなものを手当たり次第に?注文していた時期があったように記憶する(日記はないので確言し難いが)。現時点のようにはロシア革命、レーニン・「ネップ」に関する知識自体をもっていなかった頃の話だ。
 マーティン・メイリア=白須英子訳・ソヴィエトの悲劇/上巻(草思社、1997年)によると、「はじめに」の後の第一章、したがって本文では冒頭の章全体の注記(原著者=メイリアによる)のさらに最初に、こうある。
 「数あるマルクス主義的思考の評価のなかで群を抜いて重要なのは、Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism, 3. Vols., trans. O. S. Falla (Oxford: Clarendon Press, 1978) である。本書も広範囲にわたってこの本から引用している」(訳書446頁。なお、上の原著p.525)。
 この部分にかつて気づかなかったはずはなく、これによってLeszek Kolakowskiの名を知った可能性はある。しかし、もっと多数の後注の、数行にわたってKolakowskiの著と頁数が記載されていた洋書を見たような記憶もある。
 なお、M・メイリアの本は頻繁にL・コワコフスキを「引用」してはいない。しかし、M・メイリアがL・コワコフスキの影響を受けていると感じたことはある。
 それは、―日本共産党とは違って―「ネップ」期の叙述をレーニン時代末期に位置付けるのではなく、むしろスターリン期の冒頭に位置付けていることだ。詳細は他の点も含めて省くが、このあたりの<時期区分>、つまり歴史叙述の体系的区割りが、M・メイリアのそれはL・コワコフスキのそれに似ているか同じだ、と感じたことがある。
 第二に、上記邦訳書/下巻にある長谷川毅「解説」の中に、つぎの文がある。
「この著を理解するうえで最も重要なキーワードは、翻訳不可能な『ソヴィエティズム』という言葉である。『ソヴィエティズム』とは、ポーランドの哲学者クワコフスキーによって用いられた造語であり、…」(訳書・下巻348-9頁)。
 憶えがないのでM・メイリアの本の邦訳書を捲ると、「本書の刊行に寄せて」(原書では、Preface。その後にある「はじめに」(原書ではIntroduction)とは区別される)の第三段落冒頭にこうある。
 「まず最初に、七十四年間にわたってひとつの制度として機能してきたソヴィエティズムの誕生から終焉のまでの経緯を述べる」(訳書9-10頁、原書ix)。
 訳書にはすでに「ソ連共産党方式。詳しくは下巻巻末の解説を参照」という挿入注記が入っているのだが、小なくともこの辺りではまだ、M・メイリアはL・コワコフスキの名前を出してはいない。
 L・コワコフスキの『マルクス主義の主要潮流』の原書の索引(Index)を見てみたが、Sovietism という項・言葉は出ていないようだ。
 むろん、長谷川毅のM・メイリア著やL・コワコフスキの理解を疑っているのではない。それぞれ、そのとおりなのだろう。
 むしろ、今のところ確認はできなかったが、L・コワコフスキの造語である「ソヴィエティズム」をキーワードとしてM・メイリア著は書かれている、またはそれを「最も重要なキーワード」とすればM・メイリア著はよく理解できる、と長谷川が書いていることが興味深い。
 長谷川毅はアメリカ在住のアメリカの学界の中にいる学者・研究者なので、<容共性が異様に高い>日本国内にいる、日本の学界・論壇・出版業界からの「自由」性は(相対的にかなり)高いだろう。そう推測できそうに思える長谷川の言葉なので(なお、長谷川自身の書物や訳書を一瞥したことはある)、信頼性は高い。
 なお、第一に、長谷川かそれとも訳者・白須英子のいずれの発案?か分からないが、「レシェク・コワコフスキ」は、「レシュチェク・クワコフスキ」と表記されている。
 ひょっとすれば、こちらの方が実際の発音には近いのかもしれない。これまでどおり、「レシェク・コワコフスキ」とこの欄では記していくけれども。
 第二に、これまで試訳してきた人物・学者との関連でいうと(少しは言及したことがあるが)、長谷川「解説」にもあるようにM・メイリア(1924~2004)はリチャード・パイプス(1923~2018)とHarvard 大学(大学院)の同窓で、メイリアはカリフォルニア大学バークレー校の、パイプスはハーヴァード大学の、ともにロシア(・ソ連)史専門の教授だった。
 M・メイリアの文章の中に、R・パイプスの主張・議論を意識してあえて違いを述べているような部分もある。
 しかし、日本では<反共・右翼>とすぐにレッテル貼りされてしまいそうなほどに、二人とも<共産主義>・<ソヴィエト体制>に対してはきわめて冷静なまたは厳しい立場を採る。
よくは知らないが、この二人がHarvard と Berkeley の教授だったということ自体で、この二人のような説・考え方がアメリカ合衆国で異端またはごく少数派でなかったことを示すだろう。
 そして、J. E. Haynes と Harvey Klehr の本を原書で一瞥して初めて知ったことだったが、上の長谷川「解説」も言及しているように、大雑把にいって、レーニン、スターリンにある「全体主義」性または一貫した「ロシア・ソ連的共産主義」性を認めるのこそが<正統>で、これに反対するまたは疑問視したのがアメリカ社会科学または歴史学の「修正主義」派だとされるらしい(少なくも有力な理解の仕方では)。
 日本の、または日本に関する「歴史認識」でいう「修正主義」とは方向が反対だ。
 こう見ても、「ソヴィエティズム」、Sovietism の意味はほぼ明らかだろう。
 これはマルクス主義と同じではないことは勿論のこととして、マルクス・レーニン主義でもない(当たり前だがトロツキズムではない)。そして、あえて秋月が造語すれば、<レーニン=スターリン主義(体制)>とでも表現できるものだ、と考えられる。
 長谷川「解説」にはその中身に関する10行以上の説明があるのだが(下巻349頁)、引用は省略する。
 このような言い方が、日本の「政治」組織・運動団体・政党である日本共産党にとって<きわめて危険>なものであることは言うまでもない。
ギャラリー
  • 1920/L・コワコフスキ著第三巻第四章第5節。
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  • 1916/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑳完。
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  • 1906/NYタイムズ2009.07.20の訃報-L・コワコフスキ。
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  • 1901/Leszek Kolakowski-初代クルーゲ賞受賞者。
  • 1901/Leszek Kolakowski-初代クルーゲ賞受賞者。
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  • 1900/Leszek Kolakowski の写真。
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  • 1900/Leszek Kolakowski の写真。
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  • 1811/リチャード・パイプス逝去。
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  • 1809/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑧。
  • 1777/スターリン・初期から権力へ-L・コワコフスキ著3巻1章3節。
  • 1767/三全体主義の共通性⑥-R・パイプス別著5章5節。
  • 1734/独裁とトロツキー②-L・コワコフスキ著18章7節。
  • 1723/2017年秋-兵庫県西脇市/大島みち子の故郷。
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  • 1721/L・コワコフスキの「『左翼』の君へ」等。
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  • 1181/ベルリン・シュタージ博物館。
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  • 1180/プラハ市民は日本共産党のようにレーニンとスターリンを区別しているか。
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  • 0840/有権者と朝日新聞が中川昭一を「殺し」、石川知裕を…。
  • 0800/朝日新聞社説の「東京裁判」観と日本会議国際広報委員会編・再審「南京大虐殺」(明成社、2000)。
  • 0790/小林よしのり・世論という悪夢(小学館101新書、2009.08)を一部読んで。
  • 0785/屋山太郎と勝谷誠彦は信用できるか。櫻井よしこも奇妙。
  • 0775/総選挙と「左翼全体主義」、小林よしのり編・日本を貶めた10人の売国政治家(幻冬舎新書)。
  • 0773/ルソー・人間不平等起原論(1755)を邦訳(中公クラシックス)で読了。
  • 0772/中学歴史教科書の分析・評価。
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