秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

スターリン

国家と共産党-ロシア-02。

 一 つづき。 
 ペトログラード・ソヴェトは当初は同市(首都)でのみ活動したが、他都市のソヴィエト・前線部隊(後者は説明が要るが省略)の代表も加えて「全ロシア労兵ソヴェト」となり、その「イスパルコム」(執行委員会)は「全ロシア(All-Russian)中央執行委員会」(CEC=Central Executive Committe)と自らの名前を変更した。
 その構成員72名のうち、メンシェビキ23、エスエル(社会革命党)22、ボルシェヴィキは12名。ソヴェト総会も開かれたが(3月-4回、4月-6回)、CECの提案を「拍手喝采」で承認するだけの力になる。
 イスパルコム=CECの構成員には農民代表者はいない。それと「ブルジョアジー」が除外されているので、「全ロシア・ソヴェト」およびCECは、「全ロシア」住民の「せいぜい10-15%を代表」したにすぎない。
 以上、R・パイプス〔西山克典訳〕・ロシア革命史(成文社、2000)p.108。
 原書である、R.Pipes, A Concice History of the Russian Revolution (1995)では、p.94-95。
 二 その後(レーニン「4月テーゼ」・ケレンスキー政府首班の約束等々)および「10月革命」事件でのソヴェト等と「政府」の関係・役割については、以下の一部を除き、別途、<権力奪取>の具体的な様相を語る中で言及することにしよう。相当に興味深い<ドラマ>ふうだ。
 三 ボルシェヴィキは、各および全ロシア・ソヴェトのイスパルコム又はCECの多数を獲得するかこれを強引に屈服させることによって、結果としてソヴェト全体を支配するようになり、ソヴェトのもとに首都防衛名目の「防衛に関する革命委員会」=「軍事革命委員会」を設置することを、メンシェビキの反対を押して、ソヴェト総会で是認させた(1917年10月9日、p.150)。
 1917年10月26日、ソヴェト第2回大会開催中に、「軍事革命委員会」部隊による市内要所占拠、臨時政府閣僚逮捕・拘束、「冬宮」占拠という<ほとんど無血の><実力行使>が完了した(10月「革命」又は政変・クー・デタ)。
 その前の24日に、レーニンはつぎの宣言を起草していた。
 「臨時政府は廃された。政府の権力はペトログラード労兵ソヴェトの機関であり、ペトログラードのプロレタリアートと守備隊の先頭に立つ軍事革命委員会に移った。…。」
 <宣言>なので、実際に「プロレタリアート」なるものの「先頭に立つ」のかどうかは疑問視できる。
 また、パイプスによれば-秋月の言葉を挿むと<法的>または<国制>の観点からは-、「ボルシェヴィキの中央委員会を除き、誰もそうすることを正当と認めていなかった一機関が、ロシアの最高権力を掌握した、と宣言した」。
 以上、p.153-6、原書p.143-6。
 第2回ソヴェト大会が再開され、諸「布告」(Decree)発布が承認され、憲法制定会議招集までの暫定政府になる「はず」の、新しい「臨時政府」閣僚候補者名簿が発表され、承認された。
 この<暫定・臨時>の「はず」の「政府」または「内閣」は「ソヴナルコム」(Sovnarkom)と呼ばれた。パイプス(および訳者・西山)も同様だが「人民委員会議」(Council of People's Comissars)とも訳される。
 議長(首相)はレーニン、内務人民委員(内務大臣)はルイコフ、外務人民委員(外務大臣)はトロツキー。スターリンは、いわば民族問題担当長官。
 新しいソヴェト・イスパルコム(CEC)も形成された。ボルシェヴィキのみによらず、101名のうち、ボルシェヴィキ62名、左派エスエル(左翼社会革命党)29名など。イスパルコム議長は、カーメネフ。
 以上、p.156-7。
 四 1918年3月にボルシェヴィキは「共産党」と名乗る。同月に-民族諸問題の一定の解決を経て-ロシア・ソヴェト連邦社会主義共和国成立・同憲法発布。
 この憲法は実質的には左派エスエルの支持も受けていた。だが、同党はもちろん共産党や政党には触れていない。
 また、「ソヴェト」については明確に語り、「全ての権力をソヴェトに」旨を規定したが、各(村・郡・県・中央)ソヴェトの関係、ソヴェトと「(中央)政府」の関係も曖昧なままで、パイプスによれば、「その憲法が真剣に受けとめられることを意図していなかった」、という(p.161-2)。 
 五 関心を惹くのは、1917.10政変以降、少なくとも「内戦」終了頃までの、国家またはソヴェトと「政府=ソヴナルコム・人民委員会議」の関係およびこれらと共産党(ボルシェヴィキ)の関係だ。このあたりは、ロシア革命等に関する諸文献でも分かりにくい。
 R・パイプスは訳書p.163-165(原書p.154-)で、つぎのように説明している。
 ソヴェトの中央執行委員会であるCEC(イスパルコム)は、ソヴェト大会が創設したソヴナルコム」(人民委員会議=政府・内閣)の「行動と構成に関する監督権」を持った。
 しかし、上はレーニンが自ら提案したものだったが、レーニンもトロツキーも、できるかぎり早く、「人民委員会議」をソヴェト(・中央執行委員会)から解放させたかった。あるいは後者に対する責任をなくし、後者による監督をなくしたがっていた。
 レーニンらが「真に意図」したのは、「人民委員会議」が、共産党の中央委員会に「排他的に責任を負う」ことだった。
 これにより、ソヴィエト・ロシアの歴史で「最初にして唯一の国制上の衝突(constitutional clash)」が生じた。
 なお、人民委員会議(内閣)の議長(首相)はレーニンであり、共産党中央委員会のトップにいたのはレーニンだ。
 共産党の「トップ」と書いたが、「最高指導者」という呼称も見られるものの、正式に何と呼ばれていたかは、諸文献で、じつははっきりしない。
 現在またはレーニン以降の諸共産党ならば、「総書記」、「第一書記」、「書記長」あるいは「(幹部会 ?)委員長」なのだろう。
 存在していると誰もが明確に意識しているもの(・人物)については、言葉を用意する必要がなく、従って言葉・概念が作られることがないことがある、ということを示しているようでもある。あるいはそもそも、国家と政党(共産党)を厳密に分けて考えるという発想自体が、この時期のレーニンらボルシェヴィキ党員にはなかったのかもしれない。それこそ、党(共産党)=国家、なのだ。
 さらに、上記の問題についてのR・パイプスの説明・叙述を追跡する。

ロバート・W・デイヴィス・現代ロシアの歴史論争(岩波、1998)を一部読む。

 一 ロバート・W・デイヴィス(イギリス人学者)は、同〔内田健二=中嶋毅訳〕・現代ロシアの歴史論争(岩波書店、1998/原書1997)で、主として1988年半ば~1996年半ば-すなわちソ連崩壊後の時期を含む-のソ連又は主としてロシアでのソ連史・ロシア史の「見直し」の状況を紹介し、また論じている。
 その「第11章/レーニン、スターリンと新経済政策」は「第10章/レーニンと内戦」に続くものだが、その第11章の最後の段落でまず、こう述べている。邦訳書からの引用。p.266。
 「総じて内戦とネップの初期についての新たな史料は、世界が『人間の顔をした社会主義』に向かう動きを再び始めると考えている私自身のような時代遅れの人間にはほとんど慰めを与えてくれない」。
 彼自身は「人間の顔をした社会主義」への再出発を期待しながらも、そのような希望に、新しい、レーニンやスターリン等に関する、従来は「秘密」だった史料は「ほとんど慰めを与えてくれない」、というわけだ。
 そのあと、「慰め」になるかもしれない「傾向」がいくつか(これら自体興味深いがここでは省略)見出される、としつつ、こう続けて、この章を終える。p.266-7。
 「しかし、ここで見た証拠によれば、こうした傾向は弱いものであり、容易に打倒された。そしてレーニン自身が-〔略〕-他のすべての政治集団を容赦なく抑圧する一党制に傾倒しつづけていたとりわけオ・ゲ・ペ・ウ〔ゲペウの前身、チェカーの後身/国家保安秘密警察〕によって与えられた『証拠』は党指導者たちの政策に影響を与えた。そして秘密警察の政治的役割は絶えず膨張していったのである」。
 日本共産党、または党員学者の文献にはレーニンは多党制を容認・支持していたかのごとく書いているものがあるかもしれないが、事実に反するデマだ。たしかに1917年10月の「革命」時点で共産党(ボルシェヴィキ)だけが実質的な国家最高権力の指導部を構成していたわけでは(辛うじて)ないが、すみやかに共産党=国家になったことは広く(少なくともロシア・ソ連史の日本を含む研究者には一致して)認められている、と思われる。
 この点や、チェカーなどには、別の機会にまた触れるだろう。なお、「革命」時点でロシア<全国>あるいは<農民>を掌握したわけでも全くない。のちに「戦時共産主義」時代ともいわれる「内戦」が長く続き、レーニン指導のボルシェヴィキ対する<農民>の激しい抵抗等もあった。
 二 リチャード・パイプスらの<反共産主義>が明確な学者や論者の叙述を紹介しても、日本共産党員や同党支持者または日本の「左翼」は、<反共>主義者ということでもってその叙述を疑う、または容易には信頼しないかもしれない。
 注意を惹いておきたいのは、上の書物は、ほとんど「左翼」的または「容共」的な、すくなくとも<反共産主義的ではない>本・雑誌ばかりを日本で出版している、岩波書店が出版している、ということだ。
 この欄では-すでにある程度は意識してきたのだが-、<岩波書店(または朝日新聞社等)発行の文献ですら、~と述べている>、という紹介や言及の仕方をすることがある。

歴史と感情と科学と-R・パイプス、そして笹倉秀夫。

 一 前回10/12の末尾に、「歴史に関する学者・研究者でも、<怒るべきときは怒る>、<涙すべときは涙する>という人間的『感性』を率直に示して、何ら問題がないはずだ」。 これは歴史叙述そのものに「感情」を明示してもよい、という趣旨ではない。
 このように書いたのは、何かを読んでその印象が残っていたからだ。
 R・パイプス・ロシア革命史の「訳者あとがき-解説にかえて」の西山克典の文章だったかもしれないと探してみたが、そうではなかった。別の本を捲ったりしているうちに、上記のR・パイプスの書物(邦訳書)の本文自体のほとんど末尾にある、「16章/ロシア革命への省察」の中の文章であることが分かった。
 ブレジンスキーと同様にR・パイプスは、日本共産党とは違って、レーニンとスターリンとがほとんど真反対のベクトル方向にあるとは見ていない。R・パイプスは、1917秋(10月革命時)と1922年の初めまで(レーニン時代だ)のソ同盟の人口減を1270万人(戦死、餓死=500万人以上、疫病死、海外逃亡等を含む)とし、自然状態では増大していたはずの人口を想定すると、実際の人的損失は「2300万に達する」などを指摘したのち、つぎのように記述する。
 R・パイプス(西山克典訳)・ロシア革命史(成文社、2000)p.404-5による。〔〕の英語は、原著(A Concise History of the Russian Revolution、p.403-4 )を直接に参照した。
 ・かかる「前例のない惨禍を、感情に動かされずに見ることができるであろうか、また、見るべきであろうか」。
 ・現代において「科学」の威光は強く、「道義的にも感情的にも超然とした科学者」の、全現象を「自然」で「中立的」と見なす気質を身につけてきた。彼らは「歴史」における「人間の自由意志」を考慮することを嫌い、「歴史」の「必然性」を語る。
 ・しかし、「科学の対象と歴史の対象」は「著しく異なる」。医師・会計士・調査技師・諜報局員の調査は「正しい決定に達するのを可能にする」ためで、「感情に絡みとられてはいけない」。
 ・「歴史家にとっては、決定はすでに他人によって為されており、超然と構えることで、認識に付け加えるものは何もない。実際には、それ〔超然と構えること〕は、認識を低下させることになる。というのは、激情のさなかに〔in the heat of passion〕生み出された出来事をどうやって、感情に動かされずに〔dispassionately〕、理解することができるというのであろうか」。
 ・19世紀ドイツの某歴史家は、「歴史は怒りと熱狂をもって書かれなければならない、と私は主張する」、と書いた。
 ・アリストテレスは「あらゆる問題について節度を説いた」が、「『憤りを欠くこと』が受け入れがたい状況がある、『怒るべきことに怒っていない人々は馬鹿と思われるからである』」と述べた。
 ・「関連する事実〔facts〕の収集整理は、確かに感情に動かされることなく、怒りも熱狂もなく行われなければならない。歴史家の技能のこの面は、科学者と何ら異なるものではない。しかし、これは、歴史家の任務の始まりにすぎない」。
 ・「どれが『関連している〔relevant〕』かの決定は、判断〔judgment〕を求めており、そして、判断は価値〔values〕に基づいているからである。事実は、それ自体としては無意味である。何故なら、それをどう選別し、序列化し、そしてどれを強調するかに関し、事実自体は何ら指針〔guide〕を提供しないからである。過去が『意味をなす〔make sense〕』ためには、歴史家は何らかの原則〔principle〕に従わなければならない」。
 ・「通常、歴史家はまさにそれをもって」おり、「最も『科学的な』歴史家でさえ、意識しようがしまいが、予見〔preconceptions〕から行動しているのである」。
 ・一般的にその予見は「経済的な決定論に根ざしている」。経済・社会のデータは「不遍性という幻想〔illusion of impartiality〕」を生んでいるからである。
 ・「歴史的な出来事への判断を拒むことはまた、道義的な価値観にも基づいている。すなわち、生起したことは、何であれ、自然〔natural〕なことであり、従って正しい〔right〕という暗黙の前提〔silent premice〕であり、それは、勝利を得ることになった人々の弁明〔apology〕に帰すことになる」。
 以上。
 二 歴史は怒り等の感情をもって書かれてよい、というふうの部分が印象に残っていたのだったが、きちんと読むと、それ以上の内容を含んでいる。
 ここでの「歴史」学には、<政治思想史>や<法思想史>、<政治史>や<法制史>などの学問分野も含まれうるものと考えられる。
 こうした分野の文献を、かついわゆる<アカデミズム>内の文献・論文も最近は読むことが多い。そうして、上にパイプスが書いていることも、相当によく分かる。
 基本的なから些細なまで、種々の「事実」があるに違いない。書き手はどうやってそれを<序列化>し<関連づけ>ているのだろう、と感じることもある。また、この人は何らかの<価値判断>に基づいている、あるいはさらには何らかの<政治的立場>に立っている、これで<学問的作業>なのか、と思うこともある。
 また、思い出すに、ソ連崩壊により「東・中欧での社会主義化は挫折」したことは事実として認めつつ、その原因としてマルクス主義自体やレーニン(またはレーニズム)には大きな注意は払わず、「スターリニズム」の「問題点」などをかなり詳しく叙述しつつ、「それらの運動」〔社会主義・共産主義運動 ?〕を「スターリニズムに解消させて、マイナス面だけを」論じて、「社会主義化の実践」の肯定面に「目を閉ざすのは、研究者の公正な姿勢ではない」と強弁(!)する日本の「研究者」の書物があった。
 笹倉秀夫・法思想史講義/下(東京大学出版会、2007)p.315-6。
笹倉は、「社会主義化の実践」が示した「ヒューマニズムや自由・民主主義・世界平和運動の面での貢献」に「目を閉ざすのは、研究者の公正な姿勢ではない」とし、「例えば」として三点を挙げる。
 その三点にはここでは立ち入らない。しかし、社会主義・共産主義運動(「社会主義化の実践」)が「ヒューマニズムや自由・民主主義・世界平和運動の面」で「貢献」した、という前提自体が、何ら実証されていない「暗黙の前提」であり、この<科学的と自認しているのかもしれない学者>の「原則、principle」なのだろうと推察される。マイナスだけではなく積極面も見るのが「研究者の公正な姿勢」だという表向きの言い方自体にすでに、(隠された)何らかの(おそらくは政治的な)<価値判断>が含まれているだろう。
 立ち入らないが、ファシズムと共産主義ではなくファシズムとスターリニズムを併せて<全体主義>と称するのは誤りだとの叙述(p.316注)も含めて(全体主義論はファシズムとレーニンを含む共産主義全体を包含するものだが、おそらく意識的にスターリンに限っている)、上のような叙述・説明は今日では日本共産党以外には珍しく、おそらくは、この人は、日本共産党員なのだろうと思われる。
 それは別として、これまでこの欄で「歴史学」なるものについて、坂本多加雄、山内昌之らのその性格や役割に関する議論を紹介したことがある。ひょっとすれば、人文・社会系学問のすべてに当てはまるかもしれないのだが、上のパイプスが述べるところも、充分に読むべきところがある。
 なお、パイプスのロシア革命に関する書物自体は、個別「事実」について相当に密度の濃いもので、<感情>的な文章で成り立っているわけでは全くない。諸事実の<解釈>あるいは<取り上げ方・並べ方>におそらくは、パイプスのロシア革命に対する何らかの(<価値>にもとづく)<判断>が働いているのだろう。
 三 忘れていた。上のパイプスの文章の最後の部分は、とくに意識・自覚される必要がある、と考えられる。
 パイプスによれば、歴史事象への<判断>を峻拒する歴史叙述は、公正で客観的な印象を与えるかもしれないが、じつはその歴史または歴史の結果としての現在の<勝利者>に味方している。生起した歴史事象、その結果としての現実が「自然」で「正しい」と思ってしまえば、それは<現実>(を支持する大勢 ?)を擁護していることになる
 この観点は忘れてはいけない、と思う。
 徳川家康は「正しかった」から長い江戸時代を拓いたわけではないし、明治維新が(薩長両藩等が)「正しかった」から、明治時代があったわけでもない、と思われる。
 「日本に生まれてまぁよかった」という題の本を出している人がいるが(平川祐弘)、この人が安倍戦後70年談話を擁護しているように、彼が生きた戦後日本は彼にとって「まぁよかった」のだろう。そして、この人の今年1月号の論考に明かなように、戦前・戦中の日本は<誤って>いた、と判断されることになる。それでもなお、この人(平川祐弘)は「保守」派論壇人らしいのではあるが。

ブレジンスキー: Out of Control(1993)の一部を読む02。

 一 スターリン時代の戦争捕虜の処遇についての「恐るべき記録」にも、言及がある。
 スターリン時代のソ連のドイツ人戦争捕虜は35万7000人が死亡した、日本、ルーマニア、フィンランド、イタリアの戦争捕虜「数万人」の生命も奪われた。ボーランド人戦争捕虜のうち14万人が生きて帰れなかった。全部で「100万人近くの捕虜が死亡した」(p.22)。
 ミンスクの近くにある埋葬場所から1980年代後半に「20万体」の骨が掘り起こされた。よく知られるようになつたのは、1939年にソ連がポ-ランドを占領したあとのポーランド人捕虜についてだ。
ポーランド人将校14,736名が三つの収容所におり、同政治犯10,685名が刑務所にいたが、処理案の文書を示されたスターリンは「書記長」のサインをして了解した。文書(1940.03.05)には、「出頭は求めず、起訴状を見せることなく終わらせる。/「特別な措置によって解決することとし、最高刑を適用する。銃殺。」等と記されていた。ポーランド人は元将校・官吏・工場所有者・憲兵等々で、帰国後にはポーランドの再建にとって重要な人物たちも含まれていた(p.23-24)。
 約2万5000人の被殺戮者の遺体は埋められて、のちに発掘された場所が<カティンの森>だったことから、<カティンの森虐殺事件>と呼ばれるようになった、上に出てくるのは、それにかかわる指令文書のことかもしれない。しかし、ブレジンスキーは「カティン」と明記していないので、はっきりしない。
<カティン事件>についていうと、当初はスターリン・ソ連政府はドイツ・ヒトラー軍によるものとして否定し続け、第二次大戦後になって初めてソ連政府・軍が関与したことを認めた。
 将来の国家(ポーランド)の幹部になる可能性があるものを2万人以上殺害してその芽を<あらかじめ>摘み取っておくとは、想像し難い発想だ。
二 岩波講座・世界歴史23-アジアとヨーロッパ(岩波、1999)はロシア・ソ連に関する独立の論考を含んでいないが、概論である山内昌之「アジアとヨーロッパ-日本からの視覚-」(p.3~)は、冒頭で上に見たブレジンスキー: OUT OF CONTROLを注記しつつ、つぎのように言う。
 「…、革命の残忍さとテロルの普及、ファシズムと共産主義が生み出した人間無視などは、…20世紀につきまとった。ソビエト社会主義のもとにおける厳しい飢饉や大量テロル、ナチズムのユダヤ人ホロコーストなどに象徴されるように、人間の生命が鴻毛のように軽く扱われたのは驚くほかない。…『大量死(メガデス)』というコンセプトで計算するなら、今世紀の大量死者数は1億8700万人ということになる」。
 この数字は、ブレジンスキーが挙げていた数度と同じ。山内はこれにもとづき、つぎのように書く。
 「それは1900年の世界人口の10人あたり1人以上に相当する」。
 1914年-1945年までの戦争、共産主義国内・ファシズム国内およびその後の東欧(東独を含む)・中国・北朝鮮等々によって、20世紀は人口の10分の1を失った。これはまた、彼らが将来に生む可能性のあった人間が生まれなかったことも意味する。
 これらに愕然とする「感性」をもたなければならない。
 歴史に関する学者・研究者でも、<怒るべきときは怒る>、<涙すべときは涙する>という人間的「感性」を率直に示して、何ら問題がないはずだ。

ブレジンスキー: Out of Control(1993)の一部を読む。

  ズビグニュー・ブレジンスキー(鈴木主悦訳)・アウト・オブ・コントロール(草思社、1994)の「はじめに」と「第一部・組織化された狂気の政治」p.5-p.57。
 第一部は「第一章・大量死(メガデス)の世紀」、「第二章・全体主義のメタ神話」、「第三章・強制的なユートピア」から成り立つ。
 原書は、Zbigniew Brzezinski, Out of Control - Global Turmoil on the Eve of the 21st Century(Charles Scribner's Sons, 1993)
 一 ブレジンスキーにはすでに次の著もあり、「20世紀における共産主義の誕生と終焉」を語っていた。
 Zbigniew Brzezinski, The Grand Failure - The Birth and Death of Communism in the Twentieth Century (Macmillan Publishing, 1989)=ブレジンスキー(伊藤憲一訳)・大いなる失敗-20世紀における共産主義の誕生と終焉(飛鳥新社、1989)
 二 とりあえず上記の部分のみについてだが、すでに考えさせる、または刺激的な叙述に溢れている。
 この人は冒頭(表紙裏)に「ジミー・カーターに捧げる」と書いているようにアメリカの民主党系の学者だ。リチャード・パイプス(1923生)よりも5歳だけ若く(1928年生)、パイプスが共和党系であるのと異なる。但し、この二人ともポーランド生まれの、民族的にはポーランド人だ、と見られる(アメリカに帰化)。
 フーバーとF・ルーズヴェルトの違いを知ると、共産主義についての見方に共和党と民主党には大きな差違があるようにも思える。しかし、ポーランド生まれであることが関係しているのかどうか、ブレジンスキーは(も)<反共産主義>を鮮明にしている。これが、やや驚きでもある第一点だ。
 「はじめに」の最後の段落の文章を、やや長いが引用してみよう。邦訳書p.15-16。
 「20世紀は妄想の政治とおぞましい殺人の世紀でもあった。過去に例をない規模で狂気が制度化され、まるで大量生産を思わせる組織的なやり方で人間が殺された。人類を幸福にするはずの科学の可能性と、実際に歯止めがかけられなくなった政治の邪悪さは、おそろしいほどに対照的である。人類の歴史を振り返っても、殺人がこれほどあちこちで起こり、多くの人命が失われたことはなかった。不合理な目的のために、特定の人間を絶滅させるべく、これほど集中的にかつ持続的な努力が傾けられたこともなかった。/
 たしかに、…。中世には、…。…。しかし、このほかの暴力が激化した例を見ても、それらは基本的には突発事件だった--激しい暴力のために多くの血が流されたが、それは持続しなかったのである。大量虐殺、とりわけ非戦闘員のそれは、…、念入りな計画にもとづく一貫した方針にそって行なわれたわけではなかった。20世紀という時代が政治史に悲惨な足跡を残したとすれば、まさに念入りな計画にもとづく一貫した方針によって大量虐殺が行なわれたことなのである。」
 「20世紀の大量殺人」、「組織化された狂気の時代」の「大量殺戮」によってブレジンスキーは何を意味させているか。彼はその原因を①戦争・局地戦争・内戦、②全体主義>共産主義、③宗教・民族問題に分けて論じているようだが、ほとんどは<共産主義>によるものについてだ。
 ブレジンスキーによれば、①による(「実際の戦闘」による、民間人も含む)死者数は8700万人(広島を含む)。③によるものは、「300-400万人」。そして、②+③の「イデオロギーや宗教上の理由」により「意図的に殺された」人間は「8000万人を超える」(p.28)。
 合計の約1億7000万人は、仏・伊・英の三国の人口数の合計にほぼ等しく、アメリカの人口の3分の2以上(p.28)。
 ブレジンスキーは、20世紀を「大量死(Megadeath)」の時代、と称する(p.17)。Mega とは、10の6乗の数。
 ②の「『強制的なユートピア』をつくろうという全体主義的な試み」によるものについての叙述はかなり詳しい。以下は、抜粋引用的な紹介。
 「道徳的観点からすると、戦争の犠牲者の数さえ見劣りするかもしれないその数字こそ、20世紀を大量死の世紀と正当に位置づける根拠となる」。その数こそが「主義に名を借りた憎悪や感情のせいで、計画的に死に追いやられた無防備な人びとの数」だ(p.20)。
 この「政治的な動機による大量殺人」の原因は、つぎの4人の人間だった。
 すなわち、ヒトラー、レーニン、スターリン、毛沢東。
 「推定」数字だが、「重要なのは規模であって、正確な数字ではない」(p.18))
 ヒトラーによって、約1700万人。レーニンによって、「およそ600万人から800万人」。
 スターリンによって、「控えめに見積もっても、2000万人以上が、おそらくは2500万人が殺された」(p.21)。中国の指導部は「秘密」にしているが、推計では、毛沢東の「文化大革命」により、「100万人から200万人が殺された」(p.26)。
 その他、「東欧、北朝鮮、ヴェトナム、キューバ」で、「少なくとも300万人」。カンボジアでその3分の1、つまり約100万人。
 「共産主義は人類が歴史上最も大きな犠牲を払って失敗した試みだった」(p.27)。
 スターリン時代の戦争捕虜の処遇についての「恐るべき記録」にも、言及がある(p.22以下)。
 <以下、続ける。>

日本共産党の大ウソ28-志位和夫綱領解説。

 一 日本共産党2004年綱領について現在の幹部会委員長・志位和夫が三巻本の<綱領教室>を出している。ソ連、とくにレーニンに関する部分は綱領第3章第8節の中にあり(但し節番号は最初からの通し)、その部分についての志位和夫・綱領教室第2巻(新日本出版社、2013)のp.167-188を、以下適宜引用しつつ読む。
 前回にも言及した<戦時共産主義からネップへの移行>について志位は「不破さんの研究に依拠しつつ、…」と明記しているので、当該箇所は不破哲三の<レーニンと資本論>の該当部分も同時に読むことになる。
 二 p.170まではたいした内容がない。「教室」=幹部 ?研修講義のための概述と年表だけ。
 つづく、つぎの文章は、さっそく驚かせる。いずれも、p.171。
 「十月社会主義革命が巨大な世界史的意義をもつ出来事であったことは、政治的・思想的立場の違う人であっても、今日でも揺るがない評価だと思います」。
 「人類最初に社会主義への道に踏み出したロシア革命は、一時のものではなく、それ自体が、世界史に今日も続く持続的な影響を、与え続けている」。//ソ連という国は崩壊したが、「にもかかわらず、十月社会主義革命が、世界史に与えた影響が、過去のものになってしまったわけでは」ない。
 まず気づくのは、「たとえば」として論拠として出す文献が、E・H・カーの本一冊(岩波現代選書)だけだ、ということだ。
 この本は1989-91年以前の本にしてはロシア革命史(ネップ期を含む、1917-1929)を要領よくまとめているとは思うが、日本語版・原書ともに何と1979年、ソ連崩壊前のものだ。とりわけソ連崩壊後の諸資料、諸研究文献を見ているはずがない。
 第二は、「十月社会主義革命」(かつて日本共産党は<社会主義大革命>と「大」を付けていたかもしれない)とか「人類最初に社会主義への道に踏み出したロシア革命」とかいう捉え方自体に問題があるし、疑問視されなければならず、かつ実際にも、疑問視されている。
 「政治的・思想的立場の違う人であっても」認めている、という言い方は不当であり、デマだ。
 例証をいちいち挙げない。「社会主義」革命性自体を、かつまたマルクスの言説またはマルクス主義の正当な(ロシアにおける)帰結だったか、もまた、疑問としなければならないと思われる。少なくとも問題になりうるということは、認めなければならない。
 しかし、日本共産党幹部・志位和夫はこれを認めることができない。なぜなら、日本共産党自体がロシア革命の成功を前提とする(レーニンが最高指導者時代の)第三インター(コミンテルン)の結成によってこそ誕生しているからだ。
 したがって、日本共産党は、1922年創立をその歴史の出発点とするかぎりは、そして、そうした政党として存在するかぎり、絶対にレーニンだけは(ロシア「社会主義」革命とともに)「救う」必要があるのだ。したがってまた、ロシア革命についての歴史観・歴史認識は、大きな<政治的>粉飾にまみれたものになってしまう。
 第三に、なるほど1917年10月にペテルブルクで起きたことは、「世界史に今日も続く持続的な影響を、与え続けている」と言える。また、その「世界史に与えた影響が、過去のものになってしまったわけでは」ない。しかし、これはもちろん、否定的・消極的意味においてであって、志位和夫の言い分とは真反対だ。
 フランスのF・フュレも、ロシア革命がなければドイツ・ファシズムはなく、第二次大戦はなかった、と言った。これらに比べれば低い蓋然性ではあるが(戦後の)<冷戦>もなかった、と言った。
 それだけの影響を与えた、と私も断言したい。
 マルクスが「社会主義」への必然性を言葉の上で唱えていただけならばよかった。レーニンら、ロシア共産党は、「社会主義革命」を現実に行ったと宣言し、<理論(・言葉)の現実化>に成功した、とされた。多くの世界中の人々がそれを「信じて」しまい、逆にマルクス主義の「正しさ」を立証した、ということになってしまった。
 これは、20世紀の初頭の、実に悲痛な現実だった、と思う。
 日本でも<マルクス主義(またはマルクス・レーニン主義)に染まらないとインテリではない>とか言われ、戦前の帝国大学学生を含む知的階層に巨大な影響を与えた。その影響は戦後および今日まで(日本には)残っている。
 北一輝は「純正社会主義」をタイトルにした本を書き、「私有財産」を厳しく制限する<日本改造法案>を著した。これらは、マルクスやレーニンの本を一部は読んでいたこと、後者はロシア革命の報に着目したことを示しているだろう。最近に北一輝の上の本も見たが、マルクスとかレーニンの名が出てくる。
 この北一輝の本が二・二六事件の農民出身兵士たちに「理論的」影響を与えた、というのだから、あくまで一例だが、レーニンとロシア革命は日本史の現実をも変えてしまった、と言える。むろん、不破哲三や志位和夫の人生も大きく変えてしまった(気の毒に)。
 三 上の部分のあとの志位の叙述は、「レーニンが指導した最初の段階」での「真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力」の話になる。

日本共産党の大ウソ27-02-不破哲三・平凡社新書02。

 不破哲三・マルクスは生きている(平凡社新書、2009)は、「ソ連とはいかなる存在だったか」という節見出しのもとで、レーニンについて、つぎのように書く。日本共産党2004年綱領のレーニン関係部分を説明していることになろう。
 この欄は<反共デマ宣伝>を意図してはいないので、これまでと同様に、客観的に、日本共産党・不破哲三らの文章も引用または紹介する。
 ・日本共産党は「ソ連の歴史を見るとき」、「レーニンが指導した初期の時代と、スターリンの指導に移って以降の時代」とを、「はっきり区別」している。
 ・「レーニンは、…革命のあと、経済的には遅れていたロシアを社会主義への道に導くために、真剣な努力を行いました」。
 ・「初期、とくにイギリス、日本など14の資本主義諸国が軍隊を送り込んだ内戦の時期には、『戦時共産主義』などの誤った模索もあ」った。
 ・だが、「戦争終結のあと、内外の諸政策の抜本的な転換をおこない、内政面では、市場経済を通じて漸進的に社会主義に進む『新経済政策=ネップ』路線を、対外面では資本主義諸国との平和共存および周辺の諸民族の独立の尊重を基本とする外交路線をうちだし、それを基本路線として社会主義の道にふみだし」た。
 ・「しかし、不幸なことに」、「確立した路線にそっての前進を開始したばかり」の1923年にレーニンは「重い病に倒れ、翌24年1月、生涯を閉じ」た。
 以上、p.198。
 ここでは、「戦時共産主義」を「誤った模索」と明記していることのほか、レーニンの積極面として、①内政における「新経済政策=ネップ」、対外面での②「資本主義諸国との平和共存」と③「周辺の諸民族の独立の尊重」を基本路線としたこと、を挙げていることを、確認しておく必要がある。また、1923年には「確立した路線にそっての前進を開始した」とされていることも、関心を惹く。
 以上のあとはスターリンの時期の叙述だが、そのはじめに、「レーニンの最後の時期に」、つぎの点について、スターリンはレーニンと「激しい論争を交わしてた」と書かれていることも確認しておく必要があろう。
 すなわち、「国内の少数民族政策と党の民主的運営の問題について」。同じく、p.198。
 この欄では大きな第二の論点として「ネップ」導入は<市場経済を通じて社会主義へ>の路線の発見・確立だったのかを取り上げるが、その他の不破が上で言及しているような問題・事項についても、余裕があれば断片的にではあれ、論及する。例えば、資本主義諸国との「平和共存」 ?、「周辺諸民族の独立尊重」 ?(「国内の少数民族政策」 ?)。
 なお、このような日本共産党・不破哲三によるソ連またはレーニン・スターリンにかかる歴史の認識について、近年または最近の-いや1994年以降の-産経新聞社発行等のいくつかの<日本共産党研究>本は、きちんと批判的にとりあげているだろうか。反共産主義または「反共・保守」派の論壇は、日本共産党の主張・議論を詳しくかつ個別に反駁しておくことをしてきたのだろうか。相当に怪しく、心もとない。

日本共産党の大ウソ26追-宮地健一による項目別推計数。

 粛清とかテロルという語の正確な意味も問題だが、ソ連におけるとくに第二次大戦のこれらの犠牲者の正確な数も、細かく特定することは永遠にほとんど不可能なのかもしれない。
 第26回で引用した稲子恒夫が示す数字自体は正確だと思われる。しかし、それらは「国家保安委員会の(秘)保存文書によるが、実際は赤色テロではるかに多数の者が裁判なしで銃殺」とされているように、裁判手続を経ない殺戮もあるし、明らかに政策的な(明かな政策に原因があると見なしうる)飢餓による死者もある。
 いろいろな書物が-とくにソ連崩壊後に明らかになった資料による文献は-「共産主義」による犠牲者の数を推測している。稲子恒夫が示す数字も基礎になりうる。
 白井聡のように犠牲者数が<ナチズムのそれよりも多い>と言いたいだけだと<統計数>を馬鹿にするのは、自らの、多数の犠牲者に対する無感覚、人間的な「感情」のなさを暴露していると思われる。
 多数の知り得た文献による推計数を、一回だけで逐一紹介する余裕はない。
 今回は、宮地健一「『赤色テロル』型社会主義とレーニンが『殺した』自国民の推計」幻想と批評第1号(はる書房、2004)にもとづいて紹介する。
 日本共産党・不破哲三はレーニン期とスターリン以降の時代を明確に区別しなければならないと強調するが(なぜか、ブレジネフ以降とかゴルバチョフ期とかいった区分をしない)、宮地は上の論考で、この区別を意識して ?、レーニン期に<レーニンが殺した>犠牲者数を「推計」することを追究している。
 宮地健一はソ連崩壊後に発掘・公表された「レーニン秘密文書」の大量データを不十分かもしれないが見ているようだ。
 詳細は「宮地健一のHP」を見ていただく方が早い。
 88-89頁の表の引用・紹介も省略して、そのあとの各見出しを少し修正したものだけを、紹介しておく。説明・根拠等は本文内にある。推計数字は「肉体的殺人と政治的殺人」の両者を含んでおり、かついわゆる<白軍>との「内戦」による死者数を含んでいない、とされる。
 時期は、1917年12月の「チェカ」(政治秘密警察-KGB等の前身)創設~1922年12月のレーニンの政治活動の実質的停止、の間。
 ①反乱農民-「数十万人」殺害。
 ②兵役忌避の脱走兵・徴兵逃れ-「十数万人から数十万人」銃殺・殺害・人質。
 ③コサック身分農民-「三〇~五〇万人」殺戮・政策的餓死。
 ④ペトログラードのストライキ労働者-「五〇〇〇人」逮捕・「五〇〇人」即時殺害。
 ⑤クロンシュタットの水兵・住民-「五万五〇〇〇人」殺戮・銃殺・強制収容所送りによる殲滅。
 ⑥聖職者(ロシア正教等)-「数万人」銃殺/信徒-「数万人」殺害。
 ⑦反ソヴェト知識人-「数万人」肉体的排除。
 ⑧カデット・エスエル・左派エスエル・メンシェビキ・アナキスト-カッコ付き「数十万人」。
  *最終的に「スターリンは、粛清により、これら百数十万人の全員を、亡命した者以外、一人残らず殺害した」(p.101)。
 ⑨飢饉死亡者-「五〇〇万人」。
  *「飢饉死亡者500万人とウクライナの死者100万人」は定説で、「ランメルは…、意図的政策による餓死者数を250万人としている」(p.101)。
 以上によって、宮地は、レーニンが、「最低値として、数十万人を肉体的・政治的な国家テロルの手口で殺したことは間違いない」とする。
 これらの<最高値>は、秋月によると、数百万人になるだろう。
 かりに「最低値」によるとしてすら、レーニン期は5年余なので、単純に5で除して、総計20万人だと毎年平均4万人、総計30万人だと毎年平均6万人、総計50万人だとすると毎年平均10万人を<レーニンは殺した>ことになる(レーニンによる直接指示のほか、、レーニンをトップとする共産党政治局決定による指示を含むはずだ。上記のとおり「内戦」-そして「対外(干渉)戦争」-の戦死者を除く)。
 これは愕然とする数字に違いない。そして、スターリン期にはこれの何倍・何十倍かの規模で<粛清・テロル>が行われた(宮地p.75は論考冒頭で「スターリンは4000万人の大量粛清をした犯罪者だ。しかし、レーニンは偉大な革命家、愛情あふれる、人間味豊かなマルクス主義者で、大量殺人などしていない、と信ずる日本人はまだ大勢いる。ほんとうにそうだったのか」、と書き始めている)。

日本共産党の大ペテン・大ウソ27-不破哲三・マルクス…(平凡社新書)01。

 前回に引用した日本共産党綱領の部分と同じ旨を不破哲三・マルクスは生きている(平凡社新書、2009)が述べている(p.196末尾~)ので、それも紹介しておこうと思った。
 だが、この欄で既述の第一の論点に関係するが、不破哲三の上の本は自分たちの過去についてつぎのように不正確なことを述べていることに気がついたので、批判的にコメントしておく。
 不破・上掲p.197は、こう書く。
 「…、日本共産党としても、私個人としても、ソ連への認識は大きく発展し、そのことが1991年のソ連解体のときには、『覇権主義という歴史的巨悪』の崩壊としてこれを歓迎するという声明となり、さらに3年後の94年の党大会での、ソ連社会は、覇権主義と専制主義を特質とする、社会主義とは無縁な人民抑圧型の社会であった、とする結論的な評価となって表明されたのでした。」
 日本共産党や不破哲三は、このように自分たちの1989/91~94年の言動をまとめておきたいのかもしれない。
 しかし、つぎの点で正確ではない。つまり、完全な誤りを含んでいる。
 第一。ソ連共産党の解体とソ連邦の解体とを、意図的にか混同させている。あるいは、この違いを、意図的にか、ごまかしている。
 不破は1991年に「『覇権主義という歴史的巨悪』の崩壊としてこれを歓迎するという声明」を出したとするが、日本共産党中央委員会常任幹部会が1991年9月1日付で出した声明は正確には「大国主義・覇権主義の歴史的巨悪の党の終焉を歓迎する-ソ連共産党の解体にさいして」と題するもので、この表題でも明らかなようにソ連共産党の解体(解散)の際のものだ。したがって、上掲のように「1991年のソ連解体のとき」とするのは、大ウソ・大ゴマカシ。
 資料的に再度一部引用すれば、つぎのとおり。-「ソ連共産党の解体」、「長期にわたって…に巨大な害悪を流しつづけてきた大国主義、覇権主義の党が終焉をむかえたこと」は、「これと30年にわたって党の生死をかけてたたかってきた日本共産党として、もろ手をあげて歓迎すべき歴史的出来事である」。
 もちろんこの時点では、ソ連は社会主義国ではなかったとは一言も述べていない。
 第二。1991年12月末のソ連邦の解体(崩壊)の際の、同年12月23日付日本共産党中央委員会常任幹部会声明「ソ連邦の解体にあたって」は、「これを歓迎する」(上掲不破)という言葉をまったく用いていない
 不破哲三の上掲書は、上の二つのことを、おそらくは意図的にゴマカすものだ。つまり、こっそりと「大ウソ」をついて(そして「大ペテン」を仕掛けて)いる。
 なお、この時点でもソ連は社会主義国ではなかったとは一言も述べていない。「ソ連邦とともに解体したのは、科学的社会主義からの逸脱を特質としたゆがんだ体制であって、…いかなる意味でも、科学的社会主義の破綻をしめすものではない」と述べるにとどまる。ソ連は社会主義国ではなかったと明言したのは、上に不破も書くように、2年半ほどあとの1994年7月の党大会での綱領改正によってだ。
 第三。つぎの宮本賢治発言の趣旨を不破は無視している。
 すなわち、1991年12月21日のソ連崩壊をほとんど予想できたとみられる、つまり「党の崩壊につづいてソ連邦が崩壊しつつある」、崩壊直前の12月17日にインタビューを受けた同党中央委員会議長・宮本賢治はつぎのように語っていた。
 「レーニンのいった自由な同盟の、自由な結合がソ連邦になかったんだから、たちとしてはもろ手をあげて歓迎とはいいませんが、これはこれとして悲しむべきことでもないし、また喜ぶべきでもない、きたるものがきたという、冷静な受け止めなのです」(日本共産党国際問題重要論文集24(1993)p.182)。
 以上につき、この欄の本年6/11~7/11「日本共産党の大ムペテン・大ウソ」18-21回を参照。
 当時、日本共産党指導部が<混乱>していたと見られることは、すでに書いた。党員たちは動揺していたに違いない。そして、不破哲三自身も含めて、幹部たちが手分けして、ほとんど同党党員が聴衆だったと推察される全国の<講演会>に出ていたのだ。
 ソ連共産党は解体してもソ連邦が崩壊しても、ソ連(・同共産党)の「覇権主義」等に原因があり、それ(当時は「大国主義」ともよく言っていた)と闘ってきた日本共産党は決して誤っていないと、-ソ連自体の「社会主義国家」性には触れることなく-同党の党員たちが党から離反しないように、必死の ?説得と強弁を続けていたのだ。
 不破哲三・上掲書の叙述は、このような過去をまつたく感じさせない。そして、なぜ1994年7月まで<ソ連のスターリン期の途中以降の「社会主義国」性否定>が遅れたのか、という理由にも触れていない。
 日本共産党・不破哲三は平然とウソをつき、語りたくない事実は平然と無視する。

日本共産党の大ウソ26-レーニン時代とは。

 一 「日本共産党の大ペテン・大ウソ」の第02回めに引用したが、あらためて日本共産党2004年綱領から、レーニン・スターリンに関する部分(「三〔章〕、世界情勢―二〇世紀から二一世紀へ」の中の「(八)」〔節〕)を掲載する。「・」は原文にはない。//は原文では非改行。
 「・資本主義が世界を支配する唯一の体制とされた時代は、一九一七年にロシアで起こった十月社会主義革命を画期として、過去のものとなった。第二次世界大戦後には、アジア、東ヨーロッパ、ラテンアメリカの一連の国ぐにが、資本主義からの離脱の道に踏み出した。
 ・最初に社会主義への道に踏み出したソ連では、レーニンが指導した最初の段階においては、おくれた社会経済状態からの出発という制約にもかかわらず、また、少なくない試行錯誤をともないながら、真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力が記録された。//
 しかし、レーニン死後、スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨てて、対外的には、他民族への侵略と抑圧という覇権主義の道、国内的には、国民から自由と民主主義を奪い、勤労人民を抑圧する官僚主義・専制主義の道を進んだ。「社会主義」の看板を掲げておこなわれただけに、これらりが世界の平和と社会進歩の運動に与えた否定的影響は、とりわけ重大であった。
・ソ連とそれに従属してきた東ヨーロッパ諸国で一九八九~九一年に起こった支配体制の崩壊は、社会主義の失敗ではなく、社会主義の道から離れ去った覇権主義と官僚主義・専制主義の破産であった。これらの国ぐにでは、革命の出発点においては、社会主義をめざすという目標が掲げられたが、指導部が誤った道を進んだ結果、社会の実態としては、社会主義とは無縁な人間抑圧型の社会として、その解体を迎えた。
 ・ソ連覇権主義という歴史的な巨悪の崩壊は、大局的な視野で見れば、世界の革命運動の健全な発展への新しい可能性を開く意義をもった。
 ・今日、重要なことは、資本主義から離脱したいくつかの国ぐにで、政治上・経済上の未解決の問題を残しながらも、「市場経済を通じて社会主義へ」という取り組みなど、社会主義をめざす新しい探究が開始され、人口が一三億を超える大きな地域での発展として、二一世紀の世界史の重要な流れの一つとなろうとしていることである。」
 二 日本共産党は「レーニンが指導した最初の段階においては、…、真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力が記録された」と歴史認識する。これが、レーニンに関する事実に反する美文にすぎないことは、すでに多少とも触れてきた。
 「市場経済を通じて社会主義へ」以外の論点につき、以下の事実の指摘もある。もっとも、「真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力」が以下のような事実を指すのだとすれば、それはそれで一貫しているのかもしれない。数字の最後に「人」を追記した。
 「1918年の反革命罪/ 刑事責任を問われた者5万8762人、勾留5万8762人。判決: 自由剥奪(収容所などへの拘禁)1万4504人、死刑(銃殺)6185人。これらの数字は国家保安委員会の(秘)保存文書によるが、実際は赤色テロではるかに多数の者が裁判なしで銃殺。」p.135。
 「1919年の反革命罪/ 刑事責任を問われた者6万9238人、勾留6万9238人。判決: 自由剥奪(収容所などへの拘禁)2万2202人、死刑(銃殺)3456人。」p.155。
 「1920年の反革命罪/ 刑事責任を問われた者6万5751人、勾留6万5751人。判決: 自由剥奪(収容所などへの拘禁)不明、死刑(銃殺)1万6068人。」p.178。
 「1921年の反革命罪/ 刑事責任を問われた者9万6584人、勾留9万6584人。判決: 自由剥奪(収容所などへの拘禁)2万1724人、死刑(銃殺)9701人。」p.196。
 「1922年の反革命罪/ 刑事責任を問われた者6万2887人、勾留6万2887人。判決: 自由剥奪(収容所などへの拘禁)2656人、死刑(銃殺)1962人。」p.214。
 「1923年の反革命罪/ 刑事責任を問われた者10万4520人、勾留10万4520人。判決: 自由剥奪(収容所などへの拘禁)2336人、死刑(銃殺)414人。」p.230。 
 以上、p.数とともに、稲子恒夫編著・ロシアの20世紀-年表・資料・分析(東洋書店、2007)。 
 三 すでに上の稲子恒夫編著には触れている。記してはいないが、信頼してよい書物だと判断したうえでのことだ。とくに日本人の書物・文献は、日本共産党への「立場」によって信頼性が微妙でありうるので、何らかの評価をある程度は先行させざるをえないことがある。
 稲子恒夫(1927-)はかつて日本共産党員だったとみられる。名古屋大学法学部/ソ連法・社会主義法担当教授。したがって、ロシア語を読め、かつ1992年以降に「秘密資料」を読んだと思われる。
 しかし、既に引用したが「誤りの全責任はスターリン一人とする説があるが、…スターリンの個人崇拝と個人独裁は、レーニン時代の党組織と党文化を基礎に生まれた」(p.1009)等と書いているように、また別に紹介するが、1989-91年やその直後に田口富久治、加藤哲郎らと共著や対談書を出しているように、ソ連崩壊前後の時期に、日本共産党を離れた(党員ではなくなった)と推察される。
 したがって、上記の数字や文章など、日本共産党には都合が悪いはずの、または日本共産党の歴史理解とは異なる記述をすることもできているわけだ。上の編著はこの人の最後の著書になったのだろうか。

「二項対立」思考や「言葉・観念」思考。

 読書メモと関連つぶやき。
 1.仲正昌樹・知識だけのあるバカになるな!(大和書房、2008)のp.77-142、第2章「今の日本で大勢を占めている『二項対立』思考の愚について」。
 現在の月刊正論編集部と渡部昇一はいちど読んでみた方がよいと思う。この「二項対立」思考は、2.で言及している「言葉・観念依存」思考とも関係があるだろう。
 日本共産党や日本の「左翼」は当面敵視する対象を安倍晋三内閣に置いているようであり、何があっても安倍晋三の言動を褒め称えることはない。閣議決定された安倍70年談話が村山談話を継承するものであっても、その点を褒めることはなく、付随する別の部分の文章にケチをつける。
 最近はさらに、安倍内閣の背後にある悪の巣窟を「日本会議」に見ているようだ。青木理の本も読んだが、ワッハッハ、という感じ。彼らが畏怖し恐れるような「保守」団体が本当に現存するとすれば、何と頼もしく、愉快なことだろう。
 日本会議、青木理等の本や、日本会議の代表、社会民主主義者に対する好感をも述べていた田久保忠衛について、いずれ書かなければならない。のんびりと神社参拝について書いたりしているように見えるかもしれないが、秋月瑛二は神社組織や神社本庁、あるいは「神道」・神社の現状について、知らないわけではない。
 元に戻る。敵を「保守」または「右翼」勢力、あるいは「ファシズム」・「軍国主義」に見て「たたかう」つもりの二項対立的な「左翼」に対して、彼らとは逆に「保守」政権だとする安倍政権を「味方」だとして擁護するだけでは、同じ土俵に立って<二項対立>思考の愚を冒しているだけだろう(安倍政権、現在の自民党は「保守」かという問題も厳密にはあるが立ち入らない)。
 彼ら「左翼」よりは、冷静で多面的な思考をしなければならない。
 いや、ある意味では、彼らは表向きは「冷静で多面的な」、そして「客観的な」論述をしていると見える場合がある。とりわけ、現在の人文社会系<アカデミズム>を基本的には牛耳っているかもしれない「左翼」学者・論者たちは、少なくとも渡部昇一やその他の一部の<観念的・原理主義的な保守派>学者・論者よりは、表向きは概念・論理がしっかりしていて<知的刺激>には溢れていることがある。もちろん、一読してすぐに、あるいは容易に、観念的・教条的な「左翼」学者・論者だと分かる場合もあるが。
 このブログサイトは「反日本共産党・反共産主義」を掲げており(8/08頃に「反朝日新聞・反日本共産党」から改めた)、日本の「保守」派を論難するのが主目的のものでは全くない。にもかかわらず「(自称・表向き)保守」を批判したい気になることがあるのは、そんな文章・論理、こんな雑誌であれば、ほとんど<左翼>に勝てないだろう、<左翼>にバカにされるだろうと、と警告し、嘆きたいからだ。
 2.三宅正樹・スターリンの対日情報工作(平凡社新書、2010)のp.7-55、はじめにと第1章「クリヴィツキーの諜報活動」。
 レーニン関係文献は(可能な範囲で)ほぼ入手し、一読はした(しかし記憶にすべて残しているわけではない)と思っているので、ようやく、気になっていたこの本を読み始めることができた。よくよく考えれば、レーニンやソ連・共産主義と相当に関係がある本なのだった。共産主義とファシズム(とくにヒトラー・ナツィズム)の「近接」の現実にも関係がある。すなわち、1939年8月の独ソ不可侵条約。
 キーロフも、クリヴィツキーも、スターリンの指示によって「暗殺」された、との説がある。
 独ソ関係や「暗殺」から離れて、すさまじいと感じるのは共産主義者による諜報活動、そしてデマゴギー、プロパガンダだ。
 1945年にソ連が日本に参戦するまで、対米交渉の「あっせん(・協力)」を日本政府はソ連に求めていたというのだから、そのソ連「無知」、諜報戦の敗北ぶりは、何とも嘆かわしい。嘆かわしいというより、日本の悲痛な過去だ。そうしたこともまた、ゾルゲや尾崎秀実らの跳梁を許した共産主義またはソ連「幻想」の強さと強い関係があるのだろう。
 さらに離れて、<プロパガンダ>に関連して、「言葉」というものについて考える。あたりまえのことを、改めて確認したくなる。
 言葉・概念またはそれらを使った論理(・命題)には大きくは二種あるだろう。すなわち、事実・現実を意味・叙述するものと、こうだろう又はこうあるべきだということを意味させ、叙述するもの。
 要するにsein とsollen の区別なのかもしれないが、最低限度、この区別・違いくらいは知って文章を読み、言葉を理解・解釈しなければならない。
 日本共産党綱領が現在の状況を変えようとして書いてある諸基本政策や将来展望は、言うまでもなく上の後者の世界のもので、実際にそうなるかは(将来展望については実際にそうなる「はず」だ、と日本共産党は「主張」するのかもしれないが)分からない。この党の当面の諸政策も、「自由と民主主義」の宣言も、実際にそれらの内容が実現されるかは、さらにはこの政党が実際に実現するように努力するかは、彼らが実際に「権力」を掌握してみなければ、分からない。
 かつての歴史的宣言文書類にも、そのようなものが多くある。<十七条の憲法>や<五箇条の御誓文>を見て、それらの内容が当時の現実を表現するの、その内容が現実に存在したと理解する日本人はおそらくいないだろう。
 フランス革命時の<人権宣言>も同じ。また、制定して施行されれば少しは法規範としての意味をもち現実に対して作用した(つまり現実化した)といえるかもしれないが、制定されても施行されなかった<フランス1793年憲法>も同じ。
 これらがまるで現実化されたかのごとく理解するのはもちろん誤りだが、また、表面の言葉・文章だけで<理念・理想が素晴らしい>と感激してしまうのは、井沢元彦のいう「言霊主義」あるいは言葉・概念・(言葉による)命題によって歴史を評価してしまう、致命的な、認識の誤りに陥ってしまう可能性がある。
 ロシア10月革命後、1918年の「勤労被搾取人民の権利宣言」も同じ。また、その直後の憲法上の文言をもってロシア・ソ連は<男女平等>や<生存権(保障)> の方向に向かう世界史上の大きな役割を果たした、とか日本共産党・不破哲三や党員又は「左翼」の学者がほざいていることがあるが、これまたロシア・旧ソ連の「事実」を無視し、「言葉」にだけほとんど着目した空論にすぎない。
 憲法と現実の乖離は日本についても言われることがある。しかし、社会主義・共産主義国の「憲法」がほとんど<建前>または表向き・外国向けのフロパガンダ文書にすぎないことは、典型的には現在の北朝鮮に、相当程度に中国(共産チャイナ)についてあてはまることを見ても明らかだ。
 日本人のかなりは<言葉>というものに弱い。<ふつうの人はウソをつかない、又はウソつきは悪いことだ> という感覚を相当にもった<お人好し>の傾向がある。
 たしかに個別の国民間等の契約文書は、将来の行為の約束にすぎないが、国家・裁判所によって履行が(暴力=実力的にでも)強制されている、とふつうは言える。
 しかし、現在でも、国家間の約束事(条約等)には暴力・実力による担保は、建前はともあれ、実質的にはほとんど存在していない。現在についてすらそうなのだから、過去の、歴史上の「宣言」・「条約」類が実態をおよび「真意」を示しているわけでは全くないわけだ。第一次大戦後の多数の条約・協定・宣言類についても、注意深く、拘束力の程度や各国の「真意」を見定める必要がある。表向きの<美辞麗句>に騙されてはいけない(<民主主義対ファシズム>という図式も、この時期の「言葉」に由来した、幻惑させるものである可能性が高い)。
 少し戻ると、言葉・観念を弄ぶ、一見深遠で優れていそうにみえるが、じつは訳の分からない空虚な議論は、やはり「左翼」に多いようだ。
 「民主主義」とか「人権」とか「平和」とか(あるいは「戦後民主主義」とか)、そのような言葉それ自体が何か価値があり実態を伴っているかのごとき<感覚>・<幻想>に嵌まって、観念の上だけでの議論・主張をしている文章をたくさん見てきた。
 本当の「保守」派は、その「保守」という言葉自体は別の語でもよいが、観念の上だけでの、または相当にそれに傾斜した、議論・主張をしてはならない、と思っている。 言葉・概念の必要性・有用性を、むろん一般に否定しているわけではない。それらの作成・使用はある程度不可避なのではあるが。

R・パイプス・共産主義の歴史-池田信夫著による。

 池田信夫・使える経済書100冊-『資本論』から『ブラック・スワン』まで(NHK出版、2010)は、一冊として、R・パイプスの Communism - A History(2001)を取り上げている。但し、原著ではなく、飯嶋貴子訳の<共産主義が見た夢>というタイトルに化けさせられている ?邦訳書だ(ランダムハウス講談社、2007)。
 わずか2頁余りでの言及で、しかも、紹介と池田自身の論評の部分との境界がはっきりしない。
 冒頭にある以下の二文は、明らかに紹介の部分。
 「本書の共産主義の評価は全面否定だ」。
 「特にロシア革命について、『レーニンは正しかったが、スターリンは悪い』とか『トロツキーが後継者になっていたら……』という類の議論を一蹴する」。
 この上の文について池田はとくにコメントしていない。だが、日本共産党流の『レーニンは正しかったが、スターリンは悪い』とか、かつての「新左翼」流の『トロツキーが後継者になっていたら……』とかの議論が日本にあることを知ったうえでの紹介ではないか。
 つぎの文は、明確ではないが、(パイプスの主張の)紹介のようだ。
 「一部の陰謀家によって革命を組織し、その支配を守るために暴力の行使をためらわなかったレーニンの残虐さは、スターリンよりもはるかに上であり、ソ連の運命はレーニンの前衛党路線によって決まったのだ」。
 R・パイプスの上掲著の内容の詳細な記憶はないが、ここにも、日本共産党のレーニンをめぐる歴史理解とは全く異なる理解が示されている。しかも(池田の読み方が混じっているかもしれないが)、レーニンによる前衛党論・共産党組織原理(分派の禁止等)に(も)根源がある、という理解が示されている。
 つい最近、いかなる事情を背景にして「分派禁止」の方針が出された(決してレーニンの頭の中からのみ生じたのではない-したがってソヴィエト・ロシアに特有の事情があったのであり一般化できない)のかをある本で(いま書名を忘れた)読んだばかりだ。立ち入らない。
 つぎの文あたりから、パイプスの主張・理解に刺激をうけての、池田信夫自身の見解・コメントが述べられてくる。
 なぜ共産主義は広い支持を受けたか。「筆者も認めるように、財産や所有欲を恥ずべきとする考え方は、仏教にもキリスト教にもプラトンにも広くみられる」。
 以下は、池田信夫の<世界>に入っている。
 「ハイエク流によると、…〔遺伝子に組み込まれた〕部族感情のせいだろう。つまり人間は個体保有のために利己的に行動する本能をもつ一方、それが集団を破壊しないように過度な利己心を抑制する感情が埋め込まれているのだ」。/マルクスは「人間が利己的に行動するのは、近代市民社会において人類の本質が疎外され、人々が原子的個人として分断されているためであって、その矛盾を止揚して『社会的生産』を実現すれば、個人と社会の分裂は克服され、エゴイズムは消滅すると考えていた。人間は社会的諸関係のアンサンブルなので、下部構造が変われば人間も変わるはずだった。/しかし現実には、利他的な理想よりも利己的な欲望のほうがはるかに強く、下部構造が変わっても欲望は変わらないことを、社会主義の歴史は実証した」。
 そのあと、人間の利己心中心で利他心が全くないと想定する「新古典派」も実証科学としては検証に耐えない、「市場の効率を支えているのは、実は利他的な部族感情によるソーシャル・キャピタルなのである」、という池田<節(ぶし)>が続く。
 R・パイプスには、Property and Freedom(財産(所有権)と自由)(1999)という本もある。
 関心を持たざるをえないのは、ホッブズやルソーについてもそうなのだが、マルクスやレーニンにおける「人間像」だろう。彼らは「人間」をどのような本性・本質を持つものと見ていたのか。
 財産欲・所有欲を持つのは資本主義社会特有の「人間」で「社会主義」化によって変わる、と考えていた(との観念を抱いていた)のだとすれば、つぎのような連想も出てくる。
 スターリンに顕著な党員の「粛清」も党員・抵抗者に対する「テロル」(大量殺人=肉体的抹殺)も、利他的な「真の」社会主義的「人間」に改造されていない(社会主義・共産主義にとっては邪魔な)人間は殺戮しても構わない、なぜなら、いずれ消失すべきブルジョア資本主義に汚染された「利己的」人間は「真の」人間ではないのだから、という<人間観>によるものではないか。
 数百万人、数千万人の単位で「強制労働収容所」に送り込み、また「処刑」(肉体的抹殺)をできた人間とそれを中心とする共産党組織のもつ<人間観>とは、おそらくは現在の日本人のほとんどの、想像を絶するものに違いないだろう、と思われる。
 日本共産党の真面目な党員ならば、反日本共産党で知られた人物がその党員の者しか知らない状況で死に瀕していることに気づいたとき、誰にも気づかれないと確信すれば、放置してそのまま死なせてしまうのではないか、とかつてこの欄で書いたことがある(だいぶ前だ)。
 「敵」から生命を奪ってもよいと究極的には考えているはずの日本共産党員だから、明確な反共産主義者に対する<不利益扱い>や<いやがらせ>・<いじめ>など、いかほどの疚(やま)しさも伴わないに違いない。ひょっとすれば、不当な(不平等な)不利益扱い、いやがらせ・いじめとすら意識しない可能性もある。

日本の「左翼」-白井聡/アラン・ブロックの著。

 一 日本共産党綱領(2004)は、つぎの数字を明示的に掲げる。
 日本の「侵略戦争」は「2000万人をこえるアジア諸国民」と「300万人をこえる日本国民」の「生命を奪った」(+「…原爆が投下され、その犠牲者は20数万にのぼり…」)。
 「ファシズムと軍国主義」を糾弾し、同党の「たたかい」を称揚するために、かかる数字を挙げて、いかに多くの人命が犠牲になったか、と言いたいのだろう。
 この数字自体に疑問はないとしても、では共産主義(者・体制)によっていかほどの人命が犠牲になったのかも示さないと、歴史を公正に見ることにはならないだろう、と思われる。
 これに関連して、クルトワ等・共産主義黒書の推測では共産主義の犠牲者数は一億人(10,000万人)を下らない、という数字をこの欄でも書いたことがある(数字を確認しない)。
 二 白井聡は、このような統計的数字を挙げることに、感情的に反発している。
 白井聡・未完のレーニン(講談社、2007)は、そのあとがき(p.229-)で、まさにクルトワ=ヴェルトの共産主義黒書への反発を最初に記したあとで、次のように書く。引用に値する文章だ。
 ・「マルクス主義・共産主義思想を単純に断罪し、…世界で最も憎むべきものとして認知させよう」という「今日声高に主張されている断罪の言説の多くが拠って立つ根拠は、それに関して何人の人が死んだか、その犠牲者はナチズムのそれよりも統計的に多かった、ということ以上のものではない」。
 ・「…反共主義者と全体主義的政治機構の首領は、暴力による人間の死という問題を統計的にしか考えることができない、という点で奇妙にも一致している」。以上、p.230。
 このあと続けて白井は、このような状況は現在の「精神的な頽廃」だろう、とも言っている。
 この白井聡という人物は、いかに<反・共産主義>を嫌悪しているのだとしても、正常な感覚の持ち主だとは、したがって、まともな学者だとは到底思えない。
 反マルクス主義・反共主義の言説の「多くが拠って立つ根拠」は共産主義の「犠牲者はナチズムのそれよりも統計的に多かった、ということ以上のものではない」 ? ?。
 こんな馬鹿なことを秋月瑛二を含む「多く」の者が述べているわけではない。
 そのあとの文章もひどい決めつけ方だ(「全体主義的政治機構の首領」とは何を指すのか不明だ)。人の「死」を「統計的にしか考えない」、というような罵倒でもって、反共産主義者を批判してはならない。
 ついでにいうと、クルトワ=ヴェルト・共産主義黒書について白井はこうも言う(p.229)。
 マルクス主義・社会主義革命を断罪し、「新自由主義化した資本主義や多くの国々でおよそ健全に機能しているようには見えない議会制民主主義を全面肯定する」ことが「正義であると結論すれば」、歴史の教訓が得られるとは思えない。
 白井聡に「諭して」おくが、マルクス主義・共産主義を厳しく批判することと、現在の、あるいは今日の日本の資本主義や「議会制民主主義」を「全面肯定」することとはまるで異なる次元の問題だ。クルトワとヴェルトの本は、上のような「結論」を示してはいないはずだ。
 2006年にこんな幼稚なことを書いていたことを、恥ずかしくは思わないだろうか。
 かくも明確な<反・反共主義>ぶりをおそらくは最初の刊行物で明らかにした白井聡が、「左傾」した日本の出版界・論壇等で受容されているらしい経緯・理由も、よく分かる。
 なお、白井聡の学生時代の指導教授は、加藤哲郎らしい。この、1990年前後に日本共産党から離れた(党員ではなくなった)加藤の文献は、日本共産党に関連して少なからず所持して(かつ一読はして)いるので、いずれ言及することがある。
 三 つぎの「統計」を述べている書物がある。レーニンを上掲書で扱った白井聡がまるで関心をもっていない、レーニンの時期の数字だ。
 アラン・ブロック・対比列伝/ヒトラーとスターリン(鈴木主悦訳)(草思社、2003)第一巻p.180は「ほとんど信じられないけれども充分な確証のある数字」の、この書が挙げる「最初の例」として、こう書いている。原著は、Alan Bullock, Hitler and Stalin - Parallel Lives (Vintage, 1993)。ロシア・ソ連に関する叙述で、以下の「内戦」とは、ロシアでの主として白軍・赤軍間の「戦い」だ。
 「子供を含む推定1000万人の男女が、1917年から21年にかけての内戦で生命を落とした。第一次大戦で死んだ軍人と民間人を加えれば、1200万人の人命が失われたのである。人口統計学者によれば、1923年のソ連の人口は、それ以前の数値にもとづいて予測される数字を3000万単位で下回っているという」。
 1200-1000で、第一次大戦でのソ連の軍民死者は200万人、ということになるのだろう。
 これら数字の原因があげてレーニンにある、と主張してはいない。だが、少なくとも「内戦」については(むろんこれはロシア革命が起こったがゆえに生じている)、個人名に限るとかりにすれば、レーニンに最も原因がある。

日本の保守-田村重信(自民党)。

 筆坂秀世=田村重信(対談)・日本共産党/本当に変わるのか-国民が知らない真実を暴く(世界日報社、2016)は、筆坂秀世と自民党政務調査会審議役という田村重信の対談本で、田村重信が安保法制等に関する著書も出している、国会議員ではない有力な論者なので、日本共産党について語られていることが関心を惹く。
 しかし、自民党という政権与党の論客であるわりには、日本共産党の理解に、きわめて大きい、致命的とも思われる誤りがある。田村は、p.55-56でこう言う。
 ・ソ連批判が生じると「ソ連を美化していた」のを「今度は独立路線」だと言う。
 ・「最近は」、結局、「マルクス、エンゲルス」だという。「ソ連も北朝鮮も参考にするものがなくなつたから、原点に戻ってマルクスだと言っている」。
 田村重信は自民党きっての理論家らしく思えてもいたが、日本共産党についての理解は相当にひどい。自民党自体については別に扱いたいが、自民党議員や閣僚等の日本共産党に関する認識もまた相当に怪しいのだろうことをうかがわせる。
 第一に、「ソ連を批判されると…」というのがいつの時期を指しているのか厳密には不明だが、日本共産党は、ソ連は現存の又は生成途上の「社会主義」国家だとは見なしつつ、1960年代後半には、ソ連や同共産党との関係では(中国ついても同様)<自主独立>路線をとっていた。ソ連をかつては全体として「美化」していたかのごとく理解しているようで、正確さを欠いている。
 重要な第二は、日本共産党はソ連崩壊後決して、レーニン・スターリンを飛び越して単純に「マルクス、エンゲルス」に戻れ、と主張しているのではない。「原点に戻ってマルクスだ」と主張していると理解するのは正確でない。
 たしかに不破哲三には<マルクスは生きている>という題の新書もあり、日本共産党はかつてのようにはレーニンの議論全体を採用していないところがある(例えば、「社会主義」と「共産主義」の区別)。しかし、今なおレーニンを基本的には肯定的に評価しており、何度もこの欄で紹介しているように、<スターリンとそれ以降>の歴代指導者が「誤った」と理解・主張しているのだ。
 なぜ日本共産党はレーニンを否定できないのか。それはすでに簡単には記述したし、もっと詳しく明確にこの欄でも書いておく必要があるが、レーニンを否定すれば、レーニン期に作られた(第三)コミンテルンの支部として誕生した「日本共産党」自体の出生も否定することになるからだ。この党が、戦前の「日本共産党」とは無関係の新しい共産主義政党だと主張していないかぎりは。
 自民党の有力な論者がこの辺りを理解していないとは、まったく嘆かわしい。
 現在の日本の「保守」の、日本共産党や共産主義についての理解・認識のレベルの決定的な低さを、田村重信の発言は示しているようだ。ため息が出る。

日本の「左翼」-田中充子。

 田中充子・プラハを歩く(岩波新書、2001)という本がある。著者の専攻は「建築史」だとされ、この本は私も多くは知っているプラハの建築物(や広場)に触れているので、懐かしい気分にもさせられる。そもそもが、プラハ旅行の前か後に、本のタイトルを見て購入した可能性が高い。
 ところが、いつか原田敬一著について<この機会に党派信仰も示しておいた>のではないか旨を書いたことがあるが、建築史の専門家にしては、<この機会に党派信仰も示しておいたわよ、安心を>とでも言っているような、あるいはそれ以上に明確な、政治的・党派的な歴史理解を、著者・田中充子は記述している。田中はp.210-212で、以下のように言う。
 ・ムッソリーニ、ヒトラーにつぐ「第三の独裁者であるスターリン」は、二人に倣って、また対抗意識をもって、<スターリン・ゴシック>建築を「新生国家のイデオロギー」として示そうとしたのでないか。
 ・アメリカの摩天楼建築を「キャピタリズム・ゴシック」というなら、それはスターリンの「社会主義ゴシック」とどう違うのか。この両者は「同じ土俵、あるいは同じ体質から生まれたともいえそうだ」。敷地の広狭だけが「違っている」。
 ・ソ連には「1917年の革命以降、…1920代末まで、ロシア構成主義をはじめとするいろいろな近代建築が生まれた。というのもそのころまではまだレーニンが生きていたからだ」。
 ・「しかし、西欧的な教養を身につけたレーニンが死に、その後スターリンが独裁体制を敷いて自由主義的な風潮にストップをかけてから」欧州の知識人はソ連を離れた。「その後に登場したのがスターリン・ゴシックである」。
 さて、事実の認識自体に誤りもある。第一に、レーニンの死は1924年で1923年には政治活動ができなくなっているので、「1920代末まで」のレーニンの影響を見るのは厳密には正しくない。
 第二に、「西欧的な教養を身につけた」レーニンとは、いったいどこで仕入れた知識だろう。こんなに簡単に形容するのは誤りで、レーニンがスイス等に滞在していたことをもって、「西欧的な教養を身につけた」とする根拠にしているとすれば、噴飯ものだ。
 <ヨーロッパとロシア>というのはロシア「革命」やその「社会主義」を理解するうえでの重要な論点だが、むろん立ち入らない。
 政治的または党派的理解を感じるのは、第一に、<スターリン社会主義>と<資本主義>の同質性を語っていることだ(上に引用の第二点)。ここでは単純な<反資本主義>・<反アメリカ>感情が示されている。
 第二に、たんにスターリンを蔑視しているだけならまだましだが、明らかにスターリンと区別して、レーニンが好意的に表現されている。
 上の部分ではムッソリーニ、ヒトラー、アメリカ摩天楼、そしてスターリンへの嫌悪感が示され、積極的または好意的に語られるのはレーニンだけだ。
 これはいったいどこで仕入れた、どこで、何から「学んだ」知識なのだろう。
 田中はほとんど無意識である可能性が全くないとは言わないが、レーニンは基本的に正しく、スターリンから間違った、というのは日本共産党の公式的な歴史理解だ。
 建築史の研究者がいったいなぜ、上のように述べてレーニンを肯定的に描き、一方でスターリンへの嫌悪感を隠していないのか。
 もともと、ロシア革命もレーニン、スターリンも、田中充子の本来の研究分野ではないはずだ。
 にもかかわらず、種々の建築スタイルの存在は「レーニンが生きていたからだ」と断言しつつ、別の部分では「のではないか」とか「ともいえそうだ」の語尾にしながら、よくも上のようなことを公刊著書に書けるものだ、と感心する(内心では、少し感覚が狂っているのではないかと感じる)。岩波の読者を想定して「気を許して」、レーニンだけ誉めておいて構わないと思っていたのだろうか。
 上記のたんなる事実認識の誤りには含めなかったが、レーニンの時代は「自由主義的な風潮」があり、スターリンはそれに「ストップをかけた」とも断定している。
 この人は日本共産党の党員か意識的なシンパ(同調者)で、ソ連解体以降の日本共産党によるレーニン・スターリンの理解・主張を知っているのではないか。この程度の歴史知識の、とくに理工系の党員・シンパ学者はいくらでもいる。
 そうでないと、なかなか上のように自信をもって( ?)叙述することはできないように見える。
 もちろん、レーニンあるいはレーニン時代のロシアが「自由主義的」だったなどとは、到底いえない。
 非専門家が、いかに党派信仰を吐露しておきたくなっても、余計なことは書かない方がよい。ましてや、プラハのホテルのロビーでの「奇妙な感覚」(p.212)などを活字にして残しておくな、と言いたい。
 追記。この人は簡単に「1917年の革命」と書いているが、「革命」性自体を否定する=クー・デタまたは政権の奪取にすぎないとする和洋文献を少なからず所持している。興味があれば、<勉強>してみたらいかがだろうか ?

試訳/共産主義とファシズム-「敵対的近接」02。

 Francoir Furet=Ernst Nolte, "Feindliche Naehe " Kommunismus und Faschismud im 20. Jahrhundert - Ein Briefwechsel(Herbig, Muenchen, 1998)、F・フュレ=E・ノルテ・<敵対的近接>-20世紀の共産主義(=コミュニズム)とファシズム/交換書簡の「試訳」の2回目。p.11~16.
 大きな段落の区切り後の表題は「(一つの)長い注釈」で、これは、書簡の交換の契機となったフュレの大著・Le passe d'une illusion. Essai sur l'idee communiste au XXe siecle (1995)の第6章に付せられた、もっぱらノルテに言及している長い注釈のことだ。
 この著には邦訳書・楠瀬正浩訳/幻想の過去-20世紀の全体主義(バジリコ、2007)があり、上の注釈部分も訳出されている(p.253-4)。したがって、この邦訳書の一部を読めば、この注釈の内容も分かるので、これを参照すれば足りる。フランス語原文にもとづく翻訳書は、いわば「正訳」書のようなものだろう。
 但し、フランス語文からドイツ語に訳された冒頭掲記の本に少し立ち入り、上記邦訳書と少しばかり対照させてみて、私なりの(ドイツ語文からの)訳も掲載しておこうと考えた。楠瀬正浩訳は一部にせよ間違っている、という理由では全くない。ドイツ人訳者の判断又は思い入れらしきものもあるのだろうか、同じ趣旨だとしても(それは当然だろう)、選択された言葉のニュアンスや意味の理解に、微妙な違いがあるように感じられたからだ。また、文章の構造自体が違っている場合があることも歴然としている。
 なお、英語訳書である、The Passing of an Illsion, The Idea of Communism in the Twentieth Century(Univ. Chicago、1999)ものちに入手したが、これまたかりに直訳すれば同じような感想を抱きそうだったので、これの参照は、ほとんどしていない。
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 <(一つの)長い注釈>
 この20年、とくに1987年にドイツの歴史家が議論した国家社会主義(ナツィス)の解釈に関する論争(歴史家論争〔注12/秋月注、フュレの原本の数字〕)以来、エルンスト・ノルテの見解はドイツおよび全西欧で異口同音に批判されたので、特別の注釈を施しておく価値があると思われる。
 エルンスト・ノルテの功績は、とりわけ、きわめて早い時期にコミュニズムとファシズムを比較してはいけないという禁止を打ち破ったことにある。この禁止は西欧では多かれ少なかれ一般的であり、理解しうるまだきわめて生々しい理由でとくにイタリアとフランスで、またドイツでは特別に厳しく遵守された。
 エルンスト・ノルテはすでに1963年にその著「ファシズムとその時代(Der Faschismus in einer Epoche 〔秋月注-in seiner が正しいと見られる〕)で、新ヘーゲル派とともにハイデガー(Heidegger)の影響を受けた、彼の歴史哲学的な20世紀の解釈を、概述した。
 自由主義の制度(liberales System)はそれがもつ矛盾性と将来に対する開放性によって、コミュニズムとファシズムという二つの大イデオロギーを生んだ。マルクスが道を拓いたコミュニズムは、近代社会の「超越性」を極端にまで狩り立てた。著者はそれを、人間の思考と行動から本性と伝統の領域を奪い去る、民主政的な普遍性の抽象化と理解する。
 ファシズムは、これに対して、予め決定されていない自由な存在に対する不安を除去して安心を与えようと意図した。それは遠くは、ニーチェおよび「生」と「文化」を「超越性」から守ろうとする彼の「意思」に着想を得ていた。
 こうして導き出される帰結は、二つのイデオロギーを別々に切り離して考察することはできない、ということだ。これらは、一緒になって、ラディカルな方法で自由主義の矛盾を明らかにする。そして、我々の世紀全体が、これらの相互補完性・対立性の影響のもとにあった。
 年代史的な時系列でもって、それらを整序することもできる。レーニンの勝利はムッソリーニのそれに先行し、言うまでもなくヒトラーのそれに先行した。
 ノルテの見解によれば、最初のものが後続の二つの誘発原因になった。そしてノルテは後続の諸著作で、このような関係を強調している(1966年「ファシズム運動」、1974年「ドイツと冷戦」、中でも1987年「欧州の内戦 1917-1945」)。
 イデオロギーの面から見れば、ボルシェヴィズムという普遍主義的な過激主義は、ナツィズムにおける特殊性の増大を誘発した。実際の面から見ると、レーニンによって行われた階級なき社会という抽象化を掲げてのブルジョア階層の抹殺は、ヨーロッパはコミュニズムの脅威に対して最も弱いので、忽ちのうちにパニックをもたらした。これは、ヒトラーの、およびナショナリストによる逆テロルの勝利を導いた。
 ヒトラーですら彼の敵に対して、最初から敗北するはずの闘争を遂行した。彼も「技術」の普遍的な魅力に惹かれ、同じ方法を彼の敵対者に対しても適用した。スターリンと全く同様に彼は工業化を好み、社会的「超越性」をもつ、ユダヤ・ボルシェヴィキという双頭体の怪物と闘う、と彼は称した。だが実は、ゲルマン種族の支配のもとに人類を一つにするつもりだった。このようにして準備された戦争には、勝利できる根拠は何もなかった。
 ナツィズムは、その発展とともにその元来の論理に忠実ではなくなる。この観点からノルテは、彼の最近の著書(1992年「ハイデガー-人生と思索における政治と歴史」)で、ナツィズムに味方したハイデガーの短い活動家時代を擁護しかつ釈明している。
 ノルテによれば、のちに彼の師となった哲学者には、国家社会主義に対して初めに熱狂しのちに速やかに幻滅するだけの理由があった。
 以上のように見ると、贖罪意識に囚われている者であれ、ファシズムを理解しようとすることでそれへの嫌悪感を弱めるのではないかと怖れる者であれ、あるいはたんに時代の空気に順応しているにすぎない者であれ、戦後世代の人々にとって、ノルテの著作がきわめて衝撃的だったことが十分に理解できる。
 上の前の二つのような振る舞い方は少なくとも高貴な動機によるもので、歴史家はそれを尊重できるし、しなければならない。だが、そのような態度を歴史家がとるならば、ソヴィエトのテロルは1920年代と1930年代にファシズムとナツィズムが大衆性を獲得した重要な要因であることを考察することができなくなってしまうだろう。また、ヒトラーの権力奪取が、先行するボルシェヴィズムの勝利に、およびレーニンが統治のシステムにまで高めた裸の暴力という悪い実例に、いかに条件づけられていたかを、さらには、コミンテルンが共産主義革命をドイツへと拡張しようとしているとの強い印象づけよっていかに条件づけられていたかも、無視してしまうに違いない。
 実際のところ、このような出発点から考察することの禁止は、ファシズムの歴史の徹底的な研究を妨げている。歴史の世界でのこの禁止は、政治の世界でソヴィエトの影響を受けた反ファシズムが発揮しているのと同じ効果を持った。
 反ファシズムに対する批判を禁止することによって、この種の歴史資料編纂的な反ファシズムは、ファシズムを理解することも妨げる。
 ノルテの功績は、何よりも、このタブーを打ち破ったことにある。
 残念なことにノルテは、 ナツィズムに関するドイツの歴史家論争の過程で、彼のテーゼを強調しすぎて、彼の立場の解釈を弱めている。すなわち、彼はユダヤ人について、ヒトラーの組織化された対抗者で、敵と結びついた、と説明しようとした。
 ノルテを「アウシュヴィッツ否認者」[秋月ー邦訳書および英訳書では「ネガ・シオニスト」]と称することはできない。彼は、繰り返しナツィスによるユダヤ人虐殺への嫌悪感を強く表明しているし、一つの人種のかつてない工業的な抹殺だとして、ユダヤ人ジェノサイドの異常性も承認する。
 彼が維持する考え方は、だが、ボルシェヴィキによるブルジョア階級の廃絶がそうしたものへの道を開いた、強制収容所(Gulag)はアウシュヴィッツよりも前にすでに存在した、というものだ。
 しかし、ノルテの眼からすればユダヤ人ジェノサイドは時代風潮を構成する要素だったとしても、勝利のためのたんなる手段だと見なされてはいない。彼は恐るべき特異性を認める。その特異性とは、目標それ自体が目標で、さらに優位する目標が「最終的解決」という勝利の産物だ、というものだ。
 さらにノルテは、彼の最近の文書が示すように、ヒトラーの反ユダヤ主義というパラノイアを考察しようとするに際して、ハイム・ヴァイツマン(Chaim Weizmann)が世界ユダヤ人会議の名前で1939年9月に世界中のユダヤ人に対してイギリス人の側に立って闘うことを呼びかけた宣言に、一種の「理性的な」根拠を見い出したようだ。
 このような議論は、衝撃的であると同時に、誤りだ。
 疑いなく、ノルテは、潜在意識下にある辱められたドイツ・ナショナリズムと関係している。それについて、ノルテの論敵はこの二十年の間、彼を非難してきた。また、それは、彼の諸著作の主要なモティーフだ。
 しかし、ある観点からはこのような批判が適切だとしてすら、彼の全業績と解釈の価値を失わせることはできない。それは、最近の50年間において最も洞察力に富むものの一つだ。
 参照、〔以下、ノルテに関するフランス人の二つの論考が挙げられており、邦訳書にもあるが、省略〕。 
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共産主義に関する討論のテーマ-R・パイプスによる。

 Richard Pipes, Communism - A History (Random House, 2003) の巻末に、共産主義に関する討論テーマ (Discussion Guide) が掲載されている。読者が大学生や高校生であることを想定してのことだろうか。
 興味深いので、16個の質問事項(討論テーマ)をそのまま訳しておきたい。
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 01 共産主義の基礎にある古代の理想は何か ?
 02 マルクスは社会主義思想にいかなる寄与をしたか ? その理論は本当に、彼が主張するように「科学的」か ? 彼の予言は実現されたか ?
 03 社会主義「修正主義」とは何か ?
 04 レーニンはマルクスの正しい後継者だったか、それとも、レーニンはマルクス理論を修正したのか、かりにそうならば、どのようにして ?
 05 1917年10月にペトログラードで起きたのは、革命か、それともクー・デタか ? なぜ、権力掌握後に共産主義体制はあれほど早く独裁的に(autocratic)になったのか ? スターリンは、レーニンの門弟だと正しく主張していたのか ?
 06 なぜ、レーニンは革命を世界に広げることを主張したのか ? 彼とその後継者たちはどの程度成功したか ? コミンテルンのプログラムはいかなるものだったか ? なぜ、そしてどのように、ドイツの共産主義者は1932年にヒトラーの政権奪取に寄与したのか ?
 07 「ノーメンクラトゥーラ」とは何か、そしてそれはどのようにして共産主義体制の安定性と最後の失敗の両方に寄与したのか ?
 08 スターリンの大テロルの原因と過程を討論しなさい。トロツキーが共産主義国家では「服従しない者は食うべからず」と書いたとき、彼は何を言いたかったのか ?
 09 とくに1930年代に西側諸国で支持者を獲得した共産主義の成功を、あなたはどう説明するか ?
 10 冷戦の原因は何だったか ? それは不可避だったか ?
 11 なぜ、ソ連は解体したか ? 少数派のナショナリズムはその解体にいかなる役割を果たしたか ? 
 12 第三世界での共産主義運動に共通しているのは何か ? なぜ、モスクワは、西側の旧植民地だった国で勝利することが重要だと考えたのか ?
 13 中国・ソヴィエトの分裂の原因は何だったか ? どのようにして、マルクス主義者は毛沢東共産主義者だったか ? 
 14 なぜ、チリのアジェンデ共産主義体制は転覆させられたのか ?
 15 カンボジアやメンギストゥ〔秋月注-エチオピア〕のような体制がマルクスやエンゲルスの理論と同一視されうるとすれば、それは、もしあるならば、いかなる意味でか ?
 16 「社会主義者は勝利するかもしれないが、社会主義は決してしない」との言明は、何を意味するのか ? なぜ、本の著者の見解によれば、共産主義はつねにかつどこでも失敗する運命にあるのか ?     
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 上のRichard Pipes の書物(ハードカバー版は2001年刊)は、 リチャード・パイプス(飯嶋貴子訳)・共産主義が見た夢(ランダムハウス講談社、2007)として邦訳されている。
 但し、訳者(1967~)の責任ではないだろうが、巻末の上記の Discussion Guide は訳されておらず、役に立つと思われる<さらなる読書のための助言>という、著者による関連諸文献の紹介と簡単な説明(p.166-9)も訳されていない。注も索引も邦訳書では割愛されている。
 また、この種の邦訳書にはよく見られる、訳者または別の専門家による<著者(リチャード・パイプス)の紹介>や<解題・解説>もまったく存在しない。
 200頁に充たないコンサイスな書物だが、あるいはそうだからこそ、<共産主義の歴史>を概観するうえで(「共産主義が見た夢」という邦題は直接的でない)、日本人にとっても-日本共産党を理解するためにも-十分に参考になると思われるのに(上の討論テーマはすべて本文で言及されているようだ)、残念なことだ。

兵本達吉・メドヴェージェフ・レーニン01-日本共産党の大ウソ24予。

 一 2016年6/08の「日本共産党の大ペテン・大ウソ17」で、「気になること」をつぎのように記した。
 「兵本達吉・日本共産党の戦後秘史(産経新聞出版、2005)も関係文献で「28項」の「ロシア革命は何であったか?」はネップにも分かりやすく言及している。
 しかし、p.443には、レーニンは「1922年秋頃」になるとトーンに「明らかな変化」を見せ、「我々は、社会主義に対する我々の根本的見地全体が根本的に変化したことを、認めなければならない」と書いた、としている。この発言または文章は、不破哲三の上掲書にも(進んで紹介しそうなものだが)引用・紹介されていない。レーニンのいつの、(全集掲載ならば)レーニン全集各巻のどこに載っているのだろうか」。
 兵本はメドヴェージェフの名を挙げているが、この当時はメドヴェージェフのどの文献であるかが分からなかったし、兵本の引用するレーニンの文章がメドヴェージェフからの再引用であることも知らなかった。
 日本共産党の「大ペテン・大ウソ」と直接の関係はまだないので、その予備編として、上の「気になること」を解消しておく。
 二 ロイ・A・メドヴェージェフ(1925~)には、所持しているものに限ると、次の三冊の邦訳著がある。最初の二つはタイトルも似ている。
 ①1917年のロシア革命〔石井規衛=沼野充美監訳、北川和美=横山陽子訳〕(現代思潮社、1998〔原著1997〕)。
 ②10月革命〔石井規衛訳〕(未来社、1989〔原英訳著1979〕)。
 ③スターリンと日本〔海野幸男訳、対談・訳注佐々木洋〕(現代思想新社、2007)。
 兵本達吉・上掲書が言及している書物は上の①で、かつ兵本が引用しているのと同じレーニンの文章が上の①のp.136-7にある。
 すなわち、「正統派マルクス主義の枠内でのネップの立案と、その根拠付け」はレーニンの「最も重要な理論的業績」だった。これについては「レーニン自身が『…われわれは、社会主義にたいするわれわれの見地全体が根本的に変化したことを、みとめないわけにはいかない』と記している」。
 また、このレーニンの言葉がレーニン全集第33巻のp.494に載っていることも、メドヴェージェフは(邦訳書のp.185の)注で記している。
 三 さっそく(といってもこの投稿文執筆からはだいぶ以前に)、レーニン全集の該当頁も読んでみた。兵本は引用の直前に「1922年秋頃」という時期を記しているのでこの頃のレーニンの文章かと誤解していたが、1923年1月に書かれた「協同組合について」と題するものの一部で、1923年5月に新聞「プラウダ」に掲載されている。1921年3月に「ネップ」導入が決定されており、翌年1924年1月にレーニンは死ぬ。
 このような時期の記述等も全く無駄ではないと思うが、困ってしまうのは、兵本達吉、メドヴェージェフにおいて、レーニンの文章の「解釈」あるいは理解の仕方が同じではないと見られることだ。また、私はロシア語版ではなく日本語版のレーニン全集33巻で読むしかないが、、ロシア語原文を見たのであろうメドヴェージェフの「解釈」が果たして全くの誤りがないのかも、そもそもは問題になりうる。
 これら三者の、日本語(または日本語に訳された)のテクストを見ても、日本語文の「解釈」あるいは「読み方」という問題が伏在することを感じざるえない。「言葉」を媒介とする意味理解とは、なかなか厄介なことだ。
 まずは、同じ日本語の書き手であるはずの兵本達吉が上のレーニンの文を引用しつつ述べていることの「趣旨」に私なりに論及してみよう。
 最後にはレーニンにたどりつく予定で、レーニンの「市場経済」の捉え方という、元来のテーマの検討に役立つかもしれない。
 四 兵本達吉(・日本共産党の戦後秘史のp.443-4)の文章を順次抜粋すれば、つぎのようなものになる。
 ①「1921年」には、レーニンはネップを「農民への一時的譲歩、一時的後退」だと考えていた。
 ②「1922年秋頃」になるとレーニンのトーンは「明らかな変化」を見せた。今度は「問題は、戦術ではなく戦略」で、「一時的譲歩」ではなく「本腰を入れた、長期にわたる」政策の問題であり、「革命的方法から『改革的方法』への移行」だった。
 ③「そしてレーニンは、『我々は、社会主義に対する我々の根本的見地全体が根本的に変化したことを、認めなければならない』と書いている」〔これがここでのいわゆるレーニンの引用文〕。
 ④今日、「レーニンのこの一言に社会主義最後の救いを求めようとする人たちが殺到している。日本にも大勢いる」。/「レーニンは、『戦後共産主義』に見られる統制(計画)経済を断念して、市場社会主義とも言うべきものに社会主義の構想を改めた、というわけである」。
 ⑤メドヴェージェフは以下のように書いた。「ネップへの移行はいうまでもなく、逸脱であった。しかし、ロシア共産党とソヴィエト・ロシアを破滅へとへと導きかねない誤った道からの逸脱であった」、「ネップへの移行は1917年から1922年のロシア革命の終焉である」
。〔秋月注記-メドヴェージェフの上記①のp.137。兵本の引用と微細な差異があるが、無視してよい程度だろう。〕
 ⑥こう書いてメドヴェージェフは、「レーニンがネップにロシア革命の救いを求めようとしたなどという馬鹿げた議論にクギをさしている」。
 ⑦レーニンは、「資本主義復活に対する警戒心」と「ネップがあくまでも一時的で。戦術的な後退であること」を隠さなかった。
 ⑧1921年党大会でレーニンは、「経済的ネップは、決して政治的ネップを意味するものではない」と語り、一方で党内分派禁止等の「民主集中制」を組織原則とする「一枚岩的党」の建設の基礎を築いた。/ネップは「市場経済への一歩後退」を意味したが、「政治的には」レーニン・スターリン移行期に、党は「軍隊的規律を持った強固な組織」に変わった。
 以上。ここですでに、日本共産党によるレーニンの経済政策や社会主義建設論の理解の仕方に触れたくはなる。兵本達吉は明らかに、日本共産党の考え方(<レーニンは正しく、スターリンが覆した>)を意識して、上のことを述べていると間違いなく推測できるからだ。
 だが、既述のように、日本共産党、正確にはおそらく不破哲三やその追随者・志位和夫らがレーニンが<市場経済を通じて社会主義へ>の道を明らかにしたとして論及する文献は、レーニン全集の上記部分ではない。
 ともあれ、兵本がレーニンにとってネップは<市場経済を通じて社会主義へ>の道を採用したものでは全くなく、「一時的な後退」にすぎない、というレーニン解釈を採っていることは明らかだ。
 この当否にはここでは触れない(むしろ結論は同じだとも言える)。
 但し、このレーニンの引用文を、およびこれへの論及を含むメドヴェージェフの文章を、兵本達吉の理解の仕方を基礎づけるものとして援用する、あるいはそのように「解釈」するのは、多少は無理があるようにも感じられる。
 <この部分、さらに続ける。>

日本共産党の大ペテン・大ウソ23。

 一 ようやく二つのうちの第一の論点を終える。
 1991年のソ連崩壊前後の日本共産党の文献を通じて(もちろん全てではないが)、①1994年第20回党大会による綱領改定に際して、(とっくに、1930年代に)ソ連は社会主義国ではなくなっていた、という同党の歴史理解を明らかにした、ということが分かり、②日本共産党は、ソ連崩壊後の一時期はソ連(・ソ連共産党)の「覇権主義」等を厳しく批判しながらも、ソ連が社会主義国だったのか、つまりは社会主義国をめざす国家や共産党に対していわば<(国際共産主義運動の)仲間うち>の問題として「覇権主義」等の誤りをしてきたのか、社会主義国ではもはやないソ連に対して「覇権主義」等を批判してきたのかを曖昧にしてきたことも分かった。そして、③上の②の答えは1991年以前は明らかに前者、つまり<(国際共産主義運動の)仲間うち>の問題としての指摘だったにもかかわらず、ソ連崩壊以後は何と、<30年にわたってソ連を批判し続けてきた>ということを、日本共産党は「正しい」(1994年7月以降は、崩壊したのは社会主義ではない)と言い張る根拠にする、という大ペテンを仕掛けたのだった。
 1994年に至って、このようなソ連の性格に関する見地の根本的な変更、従来とは全く反対の理解をすることについて、不破哲三は、1994年の党大会で日本共産党中央委員会幹部会委員長として、「旧ソ連社会にたいする私たちの認識は、多くの逸脱と否定的現象をともないつつも大局的にはなお歴史的な過渡期に属するという見方の上にたったもので、今日から見れば明確さを欠いていた」とだけ、反省(?)の言葉を述べたのだった(2016.05.23秋月「…の大ペテン・大ウソ09」参照)。
 二 第二の論点は、すでに少し立ちいっているのだが、ソ連の歴史について日本共産党がいう、スターリン以降に「誤った」(レーニンは「正し」かった)という旨の1994年以降の日本共産党による<歴史の評価>は適切なのか、だ。
 「…大ペテン・大ウソ」の第01回めでは、「日本共産党は、レーニンまでは正しく、つまりレーニン時代は「社会主義」の方向に向かっていたが、<大国主義・覇権主義>のスターリンによって誤った、と言っているようだ。/このような、レーニン時期とスターリン時期の大きな(質的に異なると言っているような)区分論は歴史把握として適切なのか。あるいはまた、この対比は、レーニン=「社会主義」、スターリン=<それ>からの逸脱、と単純化してよいのかどうか」、と書いた。
 この問題は第一の論点と異なり、関係文献をきちんと読んで分析すれば(客観的に把握すればよい)というものでは必ずしもない。なぜなら、レーニンとスターリンの異同そのものの問題として言えば、共通性もあれば異質性もあったということになるはずなのであり、問題は<社会主義>の方向に向かっているか(「正し」かったか)、逆(又はそうでない)方向に向かっている(「誤って」いたか)という、<評価・論評>の世界に入ってしまうからだ。
 しかし、<社会主義>にとっていずれが「正しい」(正しかった)かどうかは秋月の関心ではないし、そもそもが<社会主義(・共産主義)の方向>とは何かを論じるつもりも資格もない。
 厳密に論理的にいえば、かりにマルクスが理解し主張したのが<正しい>社会主義だったとすれば、第一に、レーニンもすでに「誤って」いた(=突き詰めれば、ロシアの1917年10月にあったのは「社会主義革命」ではなかった)、したがって「誤って」いた点ではレーニンもスターリンも同じだ、という理解・論評も成り立つだろう。
 一方、第二に、かりにマルクスが理解し主張したのが<正しい>社会主義だっとして、レーニンもスターリンもともに「正しく」社会主義の道を歩んだ、ソ連の崩壊(とソ連存続中に生じた事象)は、マルクス主義自体が含む歴史的な必然の表れだった、という理解・論評も成り立つはずだ。
 上の二つ捉え方は、マルクス・レーニン・スターリンの三者の基本的な異同に着目すれば、次のように図示できる。
 A 〇-×-×。 B 〇-〇-〇。
 これらと対比すれば、日本共産党の理解・評価の仕方は、次のようになる。
 C 〇-〇-×。
 また、実際に主張者があるどうかは知らないが、ロシアに「社会主義革命」が起こったにもかかわらず、レーニンはとくに「ネップ(新経済政策)」の導入によって市場経済・「資本主義」への方向へと道を切り換えて社会主義への道を踏み外した、これをスターリンが本来の社会主義への道へと戻した、という理解・論評もありうる、と考えられる。かりにマルクスの理解・主張は「正しい」ものだという前提に立てば、この理解・論評は次のように図式化できるはずだ。
 D 〇-×-〇。
 すでに論及し始めているここでの論点は、上のC(日本共産党の評価)の適否だ
 マルクスとの間の対応関係を捨象してしまえば、より正確には、あるいは厳密には、レーニンは「市場経済を通じて社会主義へ」という道を、ロシアに特有のかつ一時的戦略としてではなく、社会主義到達方法論の一つとして<理論的に>選び、少しは<現実に>も実施したのか(そして、スターリンはそれを覆したのか)、ということになる。
 はたして「市場経済を通じて社会主義へ」という道が(とりわけマルクスから見て)一部にせよ、あるいは一般論としても、ありうるのかどうか、という問題は関心対象ではない(<社会主義>社会を夢みている人々は真摯に議論していただきたい)。
 要するに、日本共産党の理解・主張の適否は、レーニンはロシアに特有のかつ一時的戦略としてではなく、社会主義建設方法論の一つとして「市場経済を通じて社会主義へ」という道を主張しかつ実践した、と評してよいのかを、とりわけレーニン関係文献を通じて検討することによって明らかになるはずだ、と言えるだろう。
 以下、あらためてこの作業を続けていく。
 <つづく>

日本共産党の大ペテン・大ウソ21。

 不破哲三・スターリンと大国主義(新日本新書、1982.03)は、1982年1-2月に「赤旗」に連載されたものを注を付してまとめたものだとされる。ソ連共産党およびソ連の解体前の書だ。
 新装版/不破哲三・スターリンと大国主義(新日本出版社、2007.05)というものもあり、これには不破の18頁にわたる「新装版の刊行にあたって」が目次前の冒頭に付いている。そして、この新装版はソ連共産党・ソ連解体後のものだが、上記の1982年の新書版と内容は変わっていない、らしい。逐一の確認はしていないが、どうやらそのとおりのようだ。
 興味深く、かつ厚かましいと感じ、かつまた不破哲三の面の皮はよほど厚いに違いないと思うのは、2007年の本のまえがきで、①「ソ連大国主義をめぐる歴史的追跡において、根本的な訂正が必要だと思われる点が見あたらない」、②「この二十五年の間に」新しい事実も明らかになったが、「ソ連覇権主義への告発に訂正をせまるものではない」等と不破は述べているが、元となった1982年の新書では、ソ連を「社会主義」国の一つと見なしたうえで、その大国主義等を批判していることだ。重大な変化を無視して、表面的な不変性(訂正・修正の不要性)を語っていることだ。  
 そしてその重大と思われる点については、2007年の本のまえがきで、1994年の第20回党大会でソ連は社会主義ではなくなっていたと明確にした、「ソ連で崩壊したのは、社会主義ではありません」、と釈明しかつ強弁している(p.17)。
 以下で紹介しておくように1982年にはソ連を「社会主義」国の一つと見なし、「国際共産主義運動内部」での「大国主義、覇権主義」と明記しながら、2007年には「根本的訂正」は必要なかったとしつつ、1994年に日本共産党はソ連は社会主義国でなかったという見地に立った、とまえがき部分でこっそりと?、いや公然と「訂正・修正」 しているのだ。
 どういう神経をもっているのだろう。どれほどに面の皮は厚いのだろうか。これを「知的傲慢」と言わずして何と言うのだろうか。
 ともあれ、1982年には不破哲三はこう書いていた。2007年の上の①や②と対比していただきたい。1982年新書版、p.240-242。
 ・「今日の社会主義」はまだ「生成期」にあるという「歴史的制約以上に重大なことは、ソ連などの大国主義、覇権主義をはじめ、社会主義の原則に反する誤りとその蓄積が、社会主義の事業が本来もっている…威信と優越性をはてしなく傷つけていることです」。
 ・「この大国主義」は、「社会主義の道にふみだした国ぐにの経済的政治的困難の最大の要因ともなってき」ており、「大国主義克服のための闘争は、世界と日本の社会主義の事業にとって、決定的といってよい重みをもっています」。
 ・「いっさいの大国主義、覇権主義、ヘゲモニー主義を国際共産主義運動と世界政治から根絶することをめざす」闘いはレーニンの継承発展という歴史的意義をもつ。
 ・日本共産党は1981年にソ連共産党中央委員会あて書簡で、「ソ連の現在の…大国主義、覇権主義のあらわれの一つひとつを事実に即して具体的に指摘し、きびしく批判するとともに、これを国際共産主義運動内部から一掃するために最後までたたかう」意思を表明した。
 ・ すなわち、「アメリカ帝国主義」や「日本の反動支配層」とたたかうと同時に「国際共産主義運動の内部における大国主義、覇権主義のいかなるあらわれにも反対して、その是正を求め、…奮闘するでしょう」、と書き送った。
 以上は、2007年の単行本のp.266-8頁にも、同文でそのまま掲載されている。
 このように「ソ連などの大国主義、覇権主義をはじめ、社会主義の原則に反する誤り」だとか、「国際共産主義運動の内部における大国主義、覇権主義」と闘うとか書いておきながら、2007のはしがき・序文では、何と、<訂正・修正>する必要はなかった、と不破哲三は<開き直って>いるわけだ。
 ここまで傲慢になられると、そしてソ連共産党・ソ連自体の解体の意味を全くかほとんど無視されると、巨大なカラクリに眩惑されてしまいそうだ。
 日本共産党は、ソ連と三〇年以上にわたって闘ってきたと、さも自慢そうに言い、そのついでに?、崩壊したのはソ連であって社会主義ではない、とも1994年以降は明確に言い始めたのだった。しかし、日本共産党は、「社会主義」国ソ連の「社会主義の原則」に反する「大国主義、覇権主義」を、「国際共産主義運動内部」の誤りとして三〇年以上闘ってきたのだった。もはや社会主義国ではないとしてソ連(の大国主義・覇権主義)と闘ってきたわけでは全くない。
 ソ連(・ソ連共産党)は誤ったが、日本共産党は「正しい」。落胆することなく、確信をもって前進しよう。-こう党員やシンパ(・同調者たち)を説得し、煽動するために、日本共産党幹部たちは<(わが党は)ソ連の(誤った)大国主義・覇権主義と三〇年にわたって闘ってきた>ということを持ち出す。これは<大ペテン>だ。
 追記-いったんレーニンとスターリンの異同の問題に立ちいって、稲子恒夫著にも言及した。それは、産経新聞政治部・日本共産党研究( 産経新聞出版、2016.05)が発売される予定であることがその当時分かっていたので、その前に稲子恒夫著を資料として用いていることを明らかにしておく意味が個人的にはあった。この産経新聞の本には結果としては稲子恒夫著への言及がなかったので、急ぐ必要はまったくなかったことになる(産経本には、「研究」と称しつつ、参考文献の参照頁の詳しい摘示が全くない)。

Hoover: Freedom Betrayed, p.875-883〔フーバー回顧録001〕

 Hoover: Freedom Betrayed, p.875-883の本文の「試訳」が済んだので、冒頭の編者の文章を新たにとりあえず訳出したうえで、何回かに分けたものの全体を本来の順序どおりに掲載しておく。ごく一部について、今次に訂正・修正した(すでに掲載した「過去」の「試訳」を変更してはいない)。
 なお、以下は、H. C.フーバー著の一部の「試訳」にすぎない。いずれ翻訳権者による正規の訳書が公刊され、結果としては誤りや不適切な訳が明らかになるだろうが、このまま残しておく。すべての文章とすべての語句に意を払ったが、その結果として堅い、こなれていない日本語文章になっているだろう。秋月はアメリカ政治史の専門家ではないし、英文学・英語学の専門家でもない。大学卒業程度の英語力を使っての「試訳」にすぎない(英語文の「構造」自体が分からなかった文章もいくつかあった)。
 また、以下はH. C.フーバーの大著のうち10頁に充たない部分を対象にしているにすぎず、(編者も冒頭に記すように)注でも参照要求されている等のフーバーの長い叙述の「要約」である。H. C.フーバーの理解、評価、考え方を正確に知るには当然に他の部分を読まなければならず、フーバーはアメリカの対日戦争を批判していても、日本の「戦争」全体を擁護しているわけではない(あくまで、アメリカの<愛国者>の一人だと思われる)。
 日本に関連して興味を惹く別の部分の文章は、別に「試(私)訳」することがあるかもしれない。
 全体について、藤井厳喜=稲村公望=茂木弘道・日米戦争を起こしたのは誰か-ルーズベルトの罪状・フーバー大統領回顧録を論ず(勉誠出版、2016)も参照。
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 Hoover: Freedom Betrayed, 2011〔フーバー大統領回顧録〕の一部の試訳 001
 文書18  "正当な政治の喪失/政治家資格失墜〔Lost Statesmanship〕-7年に19度の-に関する省察"  1953
 第89章

 p.875-883
 〔編者(George H. Nash)はしがき〕
 以下は、フーバーの大作の1953年版の最後の章(89章)にある、最終的で思潮的なページ(p.994-p.1001)である。これのタイトルを、フーバーは一時期、「政治家資格失墜」〔正当な政治の喪失〕(Lost Statesmanship)とした。この諸ページはおそらく、1953年の早くに、1952年の大統領選挙の後にほどなくして書かれた。この章でフーバーは、ルーズベルト=トルーマン外交記録に対する彼の修正主義者(revisionist)的告発を、刮目すべき熱心さと強さでもって要約した。「私は、戦争および戦争にかかるすべての段階の政策に反対した」と彼は書いた。そして、「私は、釈明をしないし、後悔もしない」、と。
 この文書は、フーバー研究所文書の中の、Herbert C. Hoober 書類、Box11、"Box11, M.O.21" にある。

  〔序節〕 政治家資格失墜/正当な政治の喪失-7年に19度の-に関する省察
 世界に生起したすべての惨害についてヒトラーとスターリンを非難することによって、なおもルーズベルトとトルーマンを擁護する人々がいる。彼ら〔ヒトラーとスターリン〕が人間の歴史における悪魔的で不吉な人物だったことには、何らの論証も必要としない。
 しかしながら、彼ら〔ヒトラーとスターリン〕との交渉におけるアメリカやイギリスでの正当な政治の喪失〔Lost Statesmanship〕についていかなる省察をしても、歴史の弁明の余地はない。この(正当な政治の喪失という)巨大な過ちがなければ、この惨害は西側世界に生じ得なかったであろう。
 私は、この錯綜した諸行為の中で読者が、何がありいつあったか〔what and when〕 に対する責任がいったい誰にあるのかを忘れてしまうことのないように、以下に、主要な出来事を列挙〔list〕することとする。私は読者に、この回想録中の諸章を注記する。そこ(その諸章)には、彼らが有罪であるとする事実と理由が述べられている。

 〔第一節〕 一九三三年の世界経済会議
 第一。ルーズベルトが国際的な政治家資格を失墜するに至った第一回め(でかつ重要なもの)は、一九三三年の世界経済会議を破壊したことであった。この会議は英国の首相・マクドナルドと私自身〔フーバー〕が準備したもので、一九三三年一月に開催することになっていた。ルーズベルトが(大統領に)選出されたため、六月に延期された。あの頃、世界は全世界的不況からまさに回復し始めていた。しかし、世界はひどい通貨戦争に引き込まれており、貿易障壁を拡大していた。初期の仕事は、専門家たちによってなされていた。ルーズベルトは十名の首相たちをワシントンに呼び集め、国家間の決済における金標準(本位)制を復活することに合意した。〔にもかかわらず、〕この会議の途中で突然に、ルーズベルトはこうした企図を覆し(「爆弾投下))、会議を挫折させ、達成したものが何もないままで死に至らしめた。ルーズベルト自身の国務長官であったハルは、この行為こそが第二次世界大戦の根源であったと、明白に非難した。(注1.)
 注1…第1章参照(編者〔George H. Nash〕注記-この文書の脚注はすべてフーバーによるものである。)

 〔第二節〕 一九三三年に共産主義ロシアを承認したこと
 第二。ルーズベルトにおける第二の正当な政治の喪失は、一九三三年に共産主義ロシアを(国家として)承認したことにあった。四代の大統領たちと五代の国務長官たちが-民主党であれ共和党であれ-(国際共産主義の目的全体と手法に関する知見をもって)このような行為〔国家としての承認〕を拒否していた。共産主義者たちは宗教的誠実さ、人間の自由および諸民族の独立を破壊する胚種を運び込むことによってアメリカ合衆国に侵透することができるだろうと、彼らは知っていたし、そう言った。ソヴィエト・ロシアを(国家として)承認することは他諸国の間での威信と力をそれ〔ロシア〕に与えるであろうと、彼らは考えていた。共産主義者たちは我々〔アメリカ合衆国〕の国境の内部では悪辣なことをしないという、ルーズベルトの共産主義たちとの間の幼稚な合意のすべては、四八時間も経たないうちに、履行不能の登録簿に載ってしまった。共産主義者とその同調者たちの長い車列は、政権の高いレベルにまで入り込んだ。第五列の活動が、国全体に広がった。こうして、ルーズベルトが大統領職にあった一二年の間に、長く続く裏切りの諸行為がなされたのである。(注2.)
 注2…第2章参照。

 〔第三節〕 ミュンヘン
 第三。私は、つぎの理由では、ズデーテンのドイツ人たちを帝国〔ドイツ帝国=ヒトラー・ナチス〕に譲り渡す1938年9月のミュンヘン協定を非難する気にはなれない。それ〔譲渡〕はベルサイユ条約により生じたおぞましい財産で、同条約からしてそれは不可避だったのだ、という理由では。しかしながら、ミュンヘン協定によって、ヒトラーは、ロシアを侵攻するというその再三の決意を達成する諸ゲートを開いたのだ。〔ルーズベルトによる〕正当な政治の喪失は、独裁者たち〔ヒトラーとスターリン〕の間の不可避の戦争に備えることから離れてしまい、そして、怪物たち〔monsters=ヒトラーとスターリン〕がお互いを殺し合うのを止めようとしていた。 

 〔第四節〕 一九三九年にイギリス・フランスがボーランドとルーマニアを保証したこと
 第四。正当な政治の第四の深刻な喪失は、イギリスとフランスが一九三九年の三月にポーランドとルーマニアの独立を保証(garantee)したときになされた。まさにそのとき、欧州の民主主義諸国は、ヒトラーとスターリンの間の不可避の戦争から手を引くという従来の政策を変更したのであった。
 このことは、欧州の勢力外交の全歴史のうちで、おそらくは最大の過ちであった。イギリスとフランスは、ポーランドを侵略から救い出す力を持っていなかった。しかし、この行為〔独立の保証〕によって、彼らは民主主義の政体〔ボーランド・ルーマニア〕をヒトラーとスターリンの間に投げ込んだ。彼らのこの行為によって、彼らはスターリンをヒトラーから守っただけではなく、スターリンに自らの影響力を最も高価な買い手に売ることができるようにした。(イギリスとフランスという)同盟国は入札したが、スターリンが示したのは、よるべない人々が住むバルト諸国および東部ポーランドの併合という、同盟国がとても応じることのできない人道的な対価であった。スターリンは、ヒトラーからその対価を獲得したのである〔=ヒトラーが入札に勝ったのである〕。だがヒトラーは、南東ヨーロッパにまで膨張し、モスクワの共産主義者の聖地(Vatican)を破壊するという決心を放棄するつもりはまったくなかった。しかし今は、ヒトラーはその必要上まずは西側民主主義諸国を中立化しなければならない、そしてそのように進め始めた。
 おぞましい第二次世界大戦の長い連鎖〔列車〕は、ポーランドの保証というこの過ちから出発した。ルーズベルトはこうした勢力外交にいくばくか参加していた。しかし、それがどの程度であったかを測定するには、諸記録文書があまりに不完全すぎる。チャーチルは、まだ政権に入っていなかったが、ミュンヘンでの宥和(-政策)のあとの絶望的な行為へとチェンバレンを駆り立てることによって、何がしかの寄与をなした。(注3.)
 注3…第18章、第19章、第27章参照。

 〔第五節〕 合衆国の宣告なき戦争
 第五。政治家としての第五の大失敗は、1941年の冬にルーズベルトが合衆国をドイツと日本との宣告なき戦争に放り込んだときだった。それは、数週間前に彼が選出された大統領選挙の際の公約に全く違反していた。(注4.)
 注4…第30章参照。

 〔第六節〕 慎重な待機策をとらなかった過ち
 第六。レンド・リース法〔武器貸与法〕の(施行)前、そして軍事費がアメリカの人々の肩に課される前の数週の間に、ルーズベルトは、ヒトラーがロシアを攻撃しようと決意していることを明確に知った。そして彼は、その情報をロシアに伝えた。彼はドイツとの宣告なき戦争を回避すべきであった。また、レンド・リース法(の適用)を、軍需品、糧食や船舶を購入するための金融支援という、イギリスに対する単純な援助に限定するべきだった。そうすれば、国際法の範囲内にとどまったままでいた。正当な政治〔 Statesmanship〕は、あの瞬間において、粛然として、注意深く待機する政策をとることを要求していたのである。(注5.)
 注5…第32章参照。

 〔第七節〕 スターリンとの同盟
 第七。まさにアメリカの全歴史上の最大の正当な政治の喪失は、ヒトラーが1941年6月に侵撃したときに、共産主義ロシアと隠然たる同盟関係をもったこと、かつそれ〔共産主義ロシア〕を支援したことであった。アメリカの軍事力はイギリスを救うために必要とされていたという誤った考え方ですら、今や明らかに消失してしまっていた。ナツィ(Nazi)の狂熱がロシアの沼地へと方向転換したことによって、何人もイギリスとすべての西側世界の安全をもはや疑うことはできなくなっていた。この怪物的な独裁者たち〔ヒトラーとスターリン〕は、どちらが勝とうと、互いに消耗させ合うことになるはずであった。ヒトラーが軍事的勝利を得たとしてすら、ヒトラーは数年間は、隷属状態の人々を保持しようとする窮地に陥っていたであろう。また、ロシアは、ヒトラーが望んでいたかもしれない、いかなる種類の軍需品をも破壊したに違いなかった。彼〔ルーズベルト?〕自身の将軍たちも、彼の行動に反対した。
 ロシアに対するアメリカの援助は、スターリンの勝利を、かつ共産主義の世界中への蔓延を意味した。正当な政治は再び、傍観するように、歯をくいしばって油断なく備えておくように、そして彼らの相互破壊を待つように求めて、切羽詰まって泣き叫んでいたのである。そのような日がやって来たとすれば、アメリカ合衆国とイギリスには、自由主義の世界に真実の平和と安全保障とをもたらすために彼らの力を用いる機会が、存在したであろう。平和を永続させるためのこれほどの大きな機会は、ある大統領にはかつて来ていなかった。その人物〔ルーズベルト〕は、しくじった。(注6.)
 注6…第33章参照。

 〔第八節〕 日本に対する一九四一年七月の経済制裁
 第八。ルーズベルトの政治における第八の巨大な過ちは、一ヶ月のち、一九四一年七月末の、日本に対する全面的経済制裁であった。この制裁は、砲弾発射を除くすべての意味(本質)における戦争であった。ルーズベルトは再三にわたって自分の部下から、このような挑発は遅かれ早かれ戦争への報復を生み出すだろうとの警告を受けていた。(注7.)
 注7…第37章参照。

 〔第九節〕 近衛の和平提案の受諾を拒絶したこと
  第九。一九四一年九月の、太平洋平和のための近衛首相の和平提案をルーズベルトが侮蔑的に拒絶したことによって、第九の正当な政治の喪失が完全になされた。近衛の諸提案を受諾するように、アメリカやイギリスの日本駐在大使たちは祈るような気持ちで強く働きかけていた。近衛が提案した諸条件に従えば、おそらくは満州(注8.)の返還を除いて、アメリカはすべての目的を達成したことになっていたであろう。その満州返還ですら、まだ議論する余地を残していた。 皮肉家(犬儒学者)は、ルーズベルトはこの些末な問題をきっかけにして大きな戦争を起こそうと意図していた、そして共産主義ロシアに満州を与えた、と想起するであろう。(注9.)
 注8…満州はすでに、1933年5月31日の塘沽(Tang-Ku)合意においてシナによって日本に譲与されていた。
 注9…第38章参照。

 〔第十節〕 三ヶ月の冷却期間をおく日本との合意の受諾を拒絶したこと
 第十。第十の正当な政治の喪失は、一九四一年十一月に、三ヶ月の冷却期間をおくことを合意しようという、彼の大使が知らせた日本の天皇からの提案の受諾を拒絶したことであった。我々の軍官僚たちは、ルーズベルトに対して受諾するように強く働きかけた。そのとき日本は、ロシアが同盟国・ヒトラーに対して勝利するかもしれないと警戒していた。九十日間の引き延ばし(delay)があれば、日本は戦意をすべて喪失していたであろう、そして太平洋には戦争が生じないままだったであろう。スティムソン日記が明らかにしたように、ルーズベルトとその官僚たちは、日本人たちが明白な犯行をするように挑発する方法を探していたのである。こうして、ハルは馬鹿げた最後通牒(ultimatum)を発し、我々はパール・ハーバーで敗北した。
 全南アジアの占領地域における継続した損失と日本の勝利は、計算できなかったものであった。さらに、制海権を失ったので、ヒトラーとTogo〔Tojo=東條が正確だと見られる/秋月〕は、我々の海岸線から見えるところで我々の船舶を破壊することが可能であった。(注10.)
 注10…第38章、第39章参照。

 〔第一一節〕 無条件降伏を要求したこと
 ルーズベルトの政治における第十一の巨大な過ちは、一九四三年一月にカサブランカで「無条件降伏」を要求したことであった。そこではルーズベルトは、我々の軍隊の助言なく、チャーチルの助言すらなくして、新聞一面の見出し(headline)〔「無条件降伏」が新聞に大きく取り上げられること〕を狙っていた。この要求は、全敵国の軍国主義者や広報担当者に入り込んだ、そしてドイツ、日本およびイタリアとの戦争を長引かせた。最後には、降伏の際の大きな譲歩が日本とイタリアの両国には与えられた。〔一方、〕この要求は、ドイツ人がナチスを除去したとするならば、彼らには和平へのいかなる希望も与えなかった。苦難の結末となる戦争は、ドイツが再建するための基礎らしきものの一切を、残さなかったのである〔から〕。 (注11.)
 注11…第42章参照。

 〔第一二節〕 一九四三年一〇月にモスクワでバルト諸国と東部ポーランドを犠牲にしたこと
 第十二。正当な政治を喪失する十二番めの過ちは、一九四三年十月、モスクワでの外務大臣会合において、自由な諸国民を犠牲にしたことであった。この会合では、自由とか民主政とかの言葉が使われる真っ只中で、バルト諸国、東部ポーランド、東部フィンランドおよびブコヴィナ(Bukovina)を併合しようとする周知のロシアの意図に対して、一言の異議の言葉も発せられなかった(このことを彼〔ルーズベルト?〕はヒトラーと合意していた)。この黙認は、四つの自由のうちの最後の言葉〔=<恐怖からの自由>〕および太平洋憲章を放棄することを示すものであった。(注12.)
 注12…第46章参照。

 〔第一三節〕 テヘランおよびさらなる七つの国家の犠牲
 第十三。第十三の、そしておそらくルーズベルトとチャーチルの政治家資格失墜を示す錯乱した迷走の最大の一つは、テヘランにおいて、一九四三年十二月になされた。ここでは、諸併合に関するモスクワ会合での黙認が〔正式に〕追認された。また、"友好的な境界線国家"の周縁部-七つの国家を覆う傀儡共産主義政権-についてのスターリンの原則〔doctrin〕が、受容された。国際的な道義や諸民族と自由な人々の独立性に関する彼ら自身の約束に忠実であるならば、ルーズベルトとチャーチルは、テヘランで、一度だけでもスターリンに確固として反対する必要があった。このときまで、これらの合意、黙認そして宥和を正当化できるだろうような、スターリンが分離した平和を作り出す、軍事的な危険は全く存在しなかった〔にもかかわらず〕。(注13.)
 注13…第47章参照。

 〔第一四節〕 ヤルタ-諸国家崩壊についての秘密協定
 第十四。正当な政治の十四度めの致命的な喪失は、ルーズベルトとチャーチルによって一九四五年の二月にヤルタでなされた。十二カ国の独立に対するスターリンの侵食のすべてが承認されたばかりではなく、一連の秘密協定でもって、何世代にもわたって世界を国際的な危険を感染させつづけるだろう不吉な力が作動してしまった。スターリンがすでに七つの国家を覆う共産主義政権を作り出していたことを知って、ルーズベルトとチャーチルは、彼らの政治家資格の失墜を隠蔽(カモフラージュ)しようとした。それには、"自由で独立した"選挙とか、"あらゆるリベラルな分野をもつ代表制"とかの言葉で表現された仕掛け(gadget)が伴っていた。テヘランでの宥和を軍事的な根拠でもって最も強く擁護する者たちですら、ヤルタでのそれをもはや擁護することができなかった。ここでは少なくとも、風格や自由な人類を追求する姿勢が、示され得たであろう。そうであれば、アメリカには、よりクリーンな手と自由な人々からの道徳的な尊敬が与えられ、残されることができていたであろう。(注14.)
 注14…第54章、第55章参照。
 
 〔第一五節〕 一九四五年五月~七月の日本の和平提案を拒絶したこと
 第十五。十五度目の正当な政治の喪失は、日本に関して、一九四五年の五月、六月そして七月に見られた。トルーマンは、日本人たちの白旗〔=降伏のサイン〕に注意することを拒絶した。ルーズベルトの「無条件降伏」に愚かにも従う義務は、トルーマンにはなかった。それ〔無条件降伏の要求〕は、欧州のアメリカ自体の軍事指導者によっても非難されていた。日本とは、ただ一つの譲歩さえすれば和平は達成できていたであろう。その一つとは、ミカド(Mikado)の地位を保全することであった。ミカドは、精神的にも世俗的にも国家の頂点にあった。その地位は、一千年にわたる日本人の宗教的信念と伝統に根ざしていた。そして、我々が最後にようやくこれに譲歩したのは、数十万人の人命が犠牲になってしまった後のことであった。(注15.)
 注15…第61章参照。

 〔第一六節〕 ポツダム
 第十六。第十六の盲目の政治を示したのは、ポツダムでのトルーマンであった。(アメリカ政治の)権力はいまや、民主主義諸国での未経験な人物たちに渡っており、〔一方、〕共産主義者たちはすべての重要な地点に進出していた。ポツダムでの合意のすべては、一連の、スターリンに対するそれまでの降伏の正当化と敷衍であった。共産主義者による併合や傀儡化のすべてが、スターリンとの関係をさらに堅くした。のみならず、ドイツやオーストリアの統治に関する諸条項は、これら両国の一部がスターリンの懐に入ってしまうようにするものであった。賠償政策の結果として、アメリカの納税者たちには怠惰なドイツ人の救済費用として数十億(ドル)の負担が課せられ、ドイツの再興、そうしてヨーロッパのそれが、数年にわたって厳しく抑えつけられることとなった。戦争捕虜に対する悪意ある奴隷化や多数の諸民族の母国地からの放逐は、ヤルタ(密約)によって裁可され敷衍された。
 これに加えて、指導者〔高官〕たちの助言に逆らって、日本に対して無条件降伏を要求する最後通牒が発せられた。その最後通牒には、アメリカの経験ある多くの専門家の意見によれば推奨されていた、ミカドの地位を維持することを許す例外条項は存在しなかった。日本人は回答としてこの点での譲歩のみを求めたのであったが、原子爆弾に遭遇した--そうして、最後に譲歩がなされた。(注16.)
 注16…第61章、第62章参照。

 〔第一七節〕 原子爆弾の投下
 第十七。アメリカの正当な政治の第十七の揺らぎは、日本人たちの上に原子爆弾を投下せよとの、トルーマンの非道徳的な命令であった。日本は繰り返し和平を求めていたのだということだけではなく、この命令は、アメリカのすべての歴史において比較のしようのない残忍な行為であった。これは、アメリカ人の良心に対して、永遠に重くのしかかるであろう。(注17.)
 注17…第62章参照。

 〔第一八節〕 毛沢東にシナを与えたこと
 第十八。正当な政治の喪失の十八度めの歩みは、シナに関してトルーマン、マーシャルおよびアチソンによってなされた。まずはルーズベルトが共産主義者〔中国共産党〕との連合政権(設立)を蒋介石に対して執拗に要求し、それにシナに関するヤルタでのおぞましい秘密協定が続いた。その密約は、モンゴルを、そして実質的には満州を、ロシアに与えるものであった。トルーマンは、彼の左翼的(left-wing)な助言者たちの主張によって、また彼らの意向を実現しようとするマーシャル将軍を任用することによって、全中国を共産主義者たちに犠牲として捧げたのである。トルーマンは、最終的には四億五千万のアジアの人々をモスクワが支配する共産主義傀儡国家〔毛沢東の中華人民共和国〕に組み入れてしまったこうした政策について、巨大な政治の過ちをしたと、査定(評価=asses)されなければならない。(注18.)
 注18…第51章、第82章参照。

 〔第一九節〕 第三次世界大戦の龍の歯(Dragon's Teeth)
 第十九。モスクワ、テヘラン、ヤルタ、ポツダムの諸会議およびシナに関する政策から、第三次世界大戦の龍の歯(Dragon's Teeth、厄災の種)が世界のいたるところにばら撒かれた。そして我々は、何年もの「冷戦」を、ついにはおぞましい朝鮮戦争を、体験することとなった。そして、アメリカが再び勝利することを危うくする、北大西洋同盟の弱々しさをも。(注19.)
 注19…第82章、第83章、第84章参照。

 〔最終節〕 結語
 この文書(諸巻)を終えるには、数行以上の文章は必要でない。私は、戦争および戦争にかかるすべての段階の政策に反対した。私は、釈明をしないし、後悔もしない。
 私はアメリカの人々に何度も、巻き込まれることに対する警告を発した。私は繰り返し、その唯一の結末は世界中に共産主義を蔓延させてしまうことだろうと述べた。我々は合衆国と全世界とを弱体化させてしまうだろう、と。今日の世界の状況は、私の正しさを証明している。
 物質的な損失や道徳的かつ政治的な大失態にもかかわらず、また国際的な愚挙にもかかわらず、アメリカ人は、我々は再び強くなるであろうという確信を持つことができる。進歩の行進はいずれまた再出発するであろう、との確信を。集団主義への漂流にもかかわらず、政府の堕落にもかかわらず、デマゴギーに溢れた知識人たちにもかかわらず、政府の腐敗と我々国民の道徳的な頽廃にもかかわらず、我々は、キリスト教精神をなおも保持している。そして、我々の科学や産業の進歩についての古くからの知恵をなおも持っている。我々は、諸学校を通じて前進している三千五百万人の、より高度の学習のために諸研究施設にいる二百五十万人の子どもたちを持っている。いつぞや、彼らの力はアメリカ人の生活にある苦難に対して勝利するであろう。より偉大なアメリカという約束は、国土中にある数百万の小家屋(cottages)に生き続けている。そこでは、青少年男女たちは、自由のために生きようとなおも決心している。彼らの心には、アメリカの精神がまだ生きている。そうした郷土(homes)から育つ青少年男女たちは、いつの日か、厄災と挫折を追い払うであろう、そして、彼らのアメリカを再び創出するであろう。
 一九五二年の共和党政権にかかる選挙は、このような方向転換の兆しである。
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共産主義の罪悪とナチス-2。

 クルトワ=ヴェルト・共産主義黒書<ソ連篇>〔外川継男訳〕(恵雅堂出版、2001)の「序・共産主義の犯罪」の中のp.25-26に、以下の文章がある。
 「ナチスの犯罪の研究」は多いのに(また『夜と霧』・『ソフィーの選択』・『シンドラーのリスト』等の映画も成功したのに)、「共産主義の犯罪については、このような〔秋月-「ユダヤ人の殺害方法の詳細」についてのラウル・ヒルバークの著のような〕タイプの研究は存在しない。//
 ヒムラーやアイヒマンの名前は現代の蛮行の象徴として世界中に知られているのに、ジェルジンスキーやヤゴーダやエジョフ〔三人はいずれもソ連秘密警察の長官〕の名は大部分の人にとって未知である。レーニン、毛沢東、ホー・チ・ミン、そしてスターリンさえ、驚くべきことに依然として尊敬の念をもって語られている。〔/改行〕
 ヒトラーの犯罪に対して向けられた並はずれた注目は、完全に正当な裏付けのあるものだった。〔中略〕それなのに、共産主義の犯罪についての世論や証言の反響が、こんなに弱々しいのは、いったいなぜなのだろうか? とりわけ、八〇年にわたって人類の約三分の一を四大陸において襲った共産主義の大惨事に関して、なぜ『学会』はこのように沈黙しているのだろうか?
 このあと、一文を省略して、つぎのように続く。「我々がこれらの問題を理解することが、どうしてもできないというのだろうか? それよりも、むしろ絶対に知りたくない、理解するのが恐ろしいからではないだろうか?」
 上の「学会」は「学界」の方が適訳かもしれない。
 さて、アウシュビッツ/ホロコーストはよく知られているだろうが、一方で、カティン(の森)事件やポル・ポト派(カンボジア/クメール・ルージュ)の大量殺戮の実態等は、いかほどに日本人の教養的?知識になっているのだろう。日本<軍国主義>の悪行を頻りにいい募る者たちがいるが、その者たちはいったい何故、旧ソ連による強制連行と労働強制を日本国民に対する犯罪として指弾しないのだろうか?(「シベリア抑留」!)
 カティンの森事件について、①ザスラフスキー〔根岸隆夫訳〕・カチンの森-ポーランド指導階級の抹殺(みすず書房、2010)、②ザヴォドニー〔中野五郎=朝倉和子訳〕・消えた将校たち-カチンの森虐殺事件(みすず書房、2012)などがある。
 この事件は、どこかの高校教科書に名前だけでも記載されているのだろうか。上のいずれも読了していないが、互い違いに(頭の方向を逆に)積み重ねられた何段・何列もの発掘された死体群の写真が付いたりしているので、愉しく読み続けられるものではなく、ナチスの場合と同様に、人間はこんなことまでできるのかと戦慄させられる。
 なお、前回紹介したヘインズとクレアの本の一部の文章を訳出した部分以外も含めて多少読むと、コミュニズム・コミュニストはほとんどか全く消滅して<反共>一本槍だろうという単純な印象を持っていたアメリカにおいて、コミュニズムの影響はまだ(とくに知識人層に)あり、アメリカ共産党の評価に対立があることも分かる。ヘインズ=クレアは反共「伝統主義者」だが、ローゼンバーグ夫妻やH.D.ホワイトらの旧ソ連協力者(コミュニスト)を理想主義者として擁護する反・反共「修正主義者」も学界では有力であるらしい。仔細はむろん知らないが、このような雰囲気がアメリカのとくに民主党員たちに影響を与えていないはずはないとも思われる(バーニー・サンダースは「民主社会主義者」とか自称しているらしい)。
 とくにアメリカ共産党やコミンテルン諜報者に関するアメリカの歴史学界の動向については、月刊正論(産経)昨年・2015年9-10月号に、福井義高の連載論稿がある(それぞれ、p.228-「リベラルの欺瞞・上」、p.258-「同・下/元KGB工作員が持ち出した…の衝撃」)。 

日本共産党の大ペテン・大ウソ20

 1991年12月(ソ連邦解体)直後から1994年7月(第20回党大会)直前まで、日本共産党は曖昧ながらなおソ連を「社会主義」国と見ていたか、または明確な立場を示せず<混乱していた>、と思われることは既に何度か書いた。
 一 1991年12月21日のソ連邦解体の直前の12月17日にインタビュー・質問に対する回答であり、のちに前衛1992年3月号に掲載された宮本顕治の発言内容も、興味深いところがある。以下、日本共産党国際問題重要論文集24(1993)p.172-による。
 「党の崩壊につづいてソ連邦が崩壊しつつある」(p.182)時期のもので、宮本もソ連邦の崩壊(解体)を覚悟?しているようだ。そして、次のように言う。
 「レーニンのいった自由な同盟の、自由な結合がソ連邦になかったんだから、私たちとしてはもろ手をあげて歓迎とはいいませんが、これはこれとして悲しむべきことでもないし、また喜ぶべきでもない、きたるものがきたという、冷静な受け止めなのです」(p.182)。
 <悲しむべきことでも、喜ぶべきことでもない>、と言う。しかし、宮本顕治自身が、この発言のちょうど1年前には、「われわれはソ連の失敗は希望しないし、なんとかソ連も立ち直ってほしいと思う」と明言していたことからすれば、見地を修正した、と確言してよいだろう。
 1990年末には、ソ連の存続・回復について一縷の望みがあり、可能性もあると思っていたところ、党が解体し、ソ連邦解体も必至になった、という現実=<情勢の変化>が、この<修正>をもたらした、に違いない。
 興味深く、かつ同感できるのは、こうした回答の前提にある、個人名は明らかではないが、「朝日新聞外報部」によるつぎのような質問だ。朝日新聞を基本的には信頼しないが、当時でも適確な、今日でもなお意味のある問いかけだ、と考えられる。
 日本共産党は「赤旗」等でソ連共産党とは「同根」ではないと繰り返し主張しているが、「もし、よってたつ基盤がもともとまったく違う相手ならば、ソ連共産党にたいして『逸脱』だとか『誤り』だと批判するのはおかしい。社会主義の仲間と考えるからこそ、正常化のために理論闘争をつづけたのではないか」(p.185)。
 このあと「日本共産党の対応はいまのソ連の事態から噴き出てくる火の粉を振り払うというご都合主義ではないのか」、「この点についていかがでしょうか」と続いている。
 朝日新聞の記者が<ご都合主義>との批判を宮本顕治・日本共産党に対して向けていることも面白いが、上に引用の部分自体は、すこぶるまっとうなものだ。
 <30年にわたってソ連(の覇権主義等)とたたかってきた>というのは<大ペテン>だと何度も書いてきたが、まさにこのペテンぶりを暴露する問いかけに他ならない。
 再言すれば、かりにソ連邦がアメリカ等と同様の自由主義・資本主義国であるならば、その政権党が日本共産党に対してどのような「干渉」等を行なおうと、大仰に<大国主義、覇権主義>だとかといって闘うことを日本共産党はしなかっただろう。「社会主義の仲間と考え」てきたからこそ、日本共産党は1960年代からソ連共産党やそれを政権党とするソ連邦と闘ってきたのではないか? それを、ソ連邦解体が明白になってから、ソ連邦・同共産党の「誤り」に早くから気づき、指摘して「たたかって」きた、とヌケヌケと主張するのは、欺瞞であり、卑劣な<ペテン>に他ならない、と思われる。
 つぎに、上の問いに対する宮本顕治の回答も、興味深い。
 「同根などというのはまったくの見当違いの攻撃だ」(p.186)と反応して、宮本顕治は「同根」論を全面否定している。
  その理由としてまず「たとえば民族自決の問題です」と語られ始めていることも、宮本がレーニン期とスターリン以降期の違いとしてこの時点で何を考ええていたかを示すものとして、面白い。そして、宮本の趣旨は、スターリン以降のソ連と<同質>ではない、ということなのかもしれない。
 しかし、そもそもスターリン→ブレジネフ等々のソ連邦と日本共産党は、マルクスやレーニンの「血」をひいたもので、その意味で「同根」ではないのだろうか。
 なるほど、日本共産党が1994年7月の党大会で採択したソ連観からすれば、同じソ連邦といってもレーニン期とスターリン以降期とではまったく(質的に)異なる国家または体制であって、スターリン以降はレーニンと「同じ根」を持っていない(これに対して、日本共産党はレーニンの正嫡子?であり、レーニンの「根」から育っている)、と日本共産党は言うのだろう。
 問題は、そのような詭弁?が通用するかどうかだ。さらにまた、上のような主張(詭弁?)を日本共産党はいつから公式に語るようになったのか、だ。
 したがって、上に一部引用の1991年末の時点での宮本顕治発言は、分かりやすいものではないし、歯切れがよいとも感じられない。 
 二 再度引用になるが、1991年12.23の日本共産党常任幹部会「ソ連邦の解体にあたって」はつぎのように述べていた(上掲書p.204)。
 「大局的にいって、ソ連邦とともに解体したのは、科学的社会主義からの逸脱を特質としたゆがんだ体制であって、事態はいかなる意味でも、科学的社会主義の破綻をしめすものではない」(p.204)。
 ここでは、「科学的社会主義」という言葉が使われている。そして、1994年7月までの間、日本共産党は曖昧ながらソ連は「(現存)社会主義国」だったとの理解も示しているとともに、<「科学的社会主義」から逸脱していた>との理解も(上のように)示していることになる。
 あくまで推測になるが、この時期、日本共産党の幹部たちは、①スターリン以降すでにソ連邦は「社会主義」国ではなくなっていた、②スターリン以降のソ連邦もなおいちおうは「社会主義」国だったが、「科学的社会主義」からはすでに逸脱していた、の二つのいずれと理解するか、あるいは党員や国民向けにいずれと説明するかに、迷っていたのではなかろうか。あるいは、同じことだが、いずれと理解するかを明確にできなかった、のではないだろうか。
 上の②は、偽りのまたはふつうの「革新」ではない「真の革新」政党が日本共産党だというのと同じ言い方であり、ソ連は誤った「社会主義」国で、「真の社会主義」国ではなかった=「科学的社会主義」の国ではなかった、という言い方だ。
 だが、1994年7月に、日本共産党は上の②の論法を採用しないことに決めた。
 1930年代半ばにすでにソ連は「社会主義」への道から踏み外れていた=「社会主義」国ではなくなっていた、という歴史理解を採用することにしたのだ。これはこれで明確ではあるが、1991年以前に日本共産党が語ってきたこと、前提としてきたことと全く異なる歴史理解・ソ連理解ではある。その<変説>に対して批判が生じるのは、当たり前だろう。
 日本共産党は、状況に応じて、きわめて重要な、基本的な歴史「認識」すら、修正・変更する。むろん、今後もありうるだろう。
 <つづく>

日本共産党の大ペテン・大ウソ19

 一 前回(18)での叙述には、ソ連共産党の解体を1991年8月ではなく1990年8月と、日本共産党常任幹部会の<ソ連共産党解体歓迎>声明を1991年9月ではなく1990年9月と理解していた誤りがあった。したがって、これらと宮本顕治の1991年元旦の発言との関係を問題にする叙述は、すべて取り消す。<すでに6/15に必要な修正・削除をおこなった。>
 但し、宮本顕治(中央委員会議長)が1991年元旦に「赤旗」上で「われわれはソ連の失敗は希望しないし、なんとかソ連も立ち直ってほしいと思う」と公言していたことは、事実だ。
 したがってまた、その時点で宮本顕治はソ連共産党の解体もソ連邦の解体も見通せていなかったのであり、前回の元来の指摘と同じ程度ではないが、「日本共産党の指導者の、科学的な?予見・予測能力の完璧な欠如」も示すものだった、旨の指摘は基本的には当たっているだろう。
 つぎに、前回(18)、「しかし、『ソ連解体にさいして』日本共産党常任幹部会等が、上の宮本発言の論理的帰結であるような〔=残念だ旨の〕声明は出していないはずだし、また、逆に<(歴史的巨悪の?)ソ連邦の解体を歓迎する>という声明を出した痕跡もない」と書いた。
ソ連共産党解体とは別にソ連邦解体について、残念と感じるか歓迎するかのいずれの明確な反応もなかったようだ、との趣旨であり、誤っているわけではない。
 但し、日本共産党による反応が全くなかったわけではない。
 日本共産党の七十年/下(新日本出版社、1994)p.422-3にも言及されているように、1991年12月23日付(翌日「赤旗」掲載)で、日本共産党中央委員会常任幹部会「ソ連邦の解体にあたって」が発せられている。以下、日本共産党国際関係重要論文集24(同党中央委員会出版局、1993)による(p.203-5)。趣旨の理解について上記党史/七十年をも参考にすれば、次のように言う。
 ・ソ連共産党と国家としてのソ連邦の解体とは「次元を異にする問題」だが、「『歴史的巨悪』としての覇権主義」が「決定的要因となったことでは、共通の歴史的な状況がある」。(p.203)
 ・ソ連邦の解体の「最大の根源は、スターリンいらいの覇権主義および、その害悪に対するゴルバチョフ指導部の無自覚と無反省にあった」。(p.204)
 ・「大局的にいって、ソ連邦とともに解体したのは、科学的社会主義からの逸脱を特質としたゆがんだ体制であって、…いかなる意味でも、科学的社会主義の破綻をしめすものではない」。(p.204)
 ・「世界平和にとって重要な問題は、ソ連がもっていた核兵器がどうなるか」だ。「ソ連邦の解体とともに生まれた新しい情勢を、核兵器廃絶にすすむ積極的な転機とするために、あらゆる努力をかたむけることを、よびかける」。(p.205)
 以上、引用終わり。
 以上について特徴的なのは、<残念と感じるか歓迎するか>は明瞭ではないが、党の解体と同様に<スターリン以降の覇権主義>に原因があった、と淡々と分析?していることだろう。その意味では、前回紹介の宮本顕治発言よりも、<ソ連共産党解体歓迎>声明に近いかもしれない。
 ともあれ、ソ連共産党解体のときのような、<歓迎>声明そのままではない。したがって、ソ連共産党の場合と同様にソ連邦解体の場合も対応したとその後のまたは現在の日本共産党(・の幹部たち)が説明・主張しているとすれば、それは必ずしも正確な日本共産党の歴史ではない、と見られる。
 また、この時期には、ソ連共産党やソ連邦の解体の最大の原因を、日本共産党は<(大国主義・)覇権主義>に求めていた、ということを確認しておくべきだろう。レーニンの<市場経済から社会主義へ>の道をスターリン以降が覆したことに原因がある、あるいはこの道に対する態度がレーニンとスターリンの大きな違いだ、などという分析・説明は全くなされていない、ということだ。
 二 宮本顕治が、概念や論理の一貫性をもって思考している人物ではまったくないことは、上に言及の1991年元旦発言と、ソ連邦解体等のあとの翌年の1992年元旦付の「赤旗」上の発言を比べても分かる。前回と同様に宮本顕治・日本共産党の立場5(新日本文庫、1997)p.53-によるが、日本共産党国際問題重要論文集24(1993)にも収載されている。宮本は語る。
 ・「ソ連の崩壊は社会主義の崩壊ではなくて、社会帝国主義、覇権主義の破たんです。ソ連がスターリン・ブレジネフ型の、官僚主義・命令主義の体制となった結果、第二次大戦後の米ソ関係、東西関係は、資本主義体制対社会主義体制という対立から、一定の時期を経て、事実上は帝国主義と社会帝国主義の対立に転化した面があります」。(p.54)
 ・「ソ連、東欧の体制は崩壊したが、自分の誤りによって自壊したのであって、体制としての資本主義が社会主義にたいして最終的な勝利をおさめたわけではありません」。(p.55)
 以上は一部だが、誤っているとはいえなお<社会主義>国の一つと見ていたかのごとき1年前とは違って、解体したソ連等を突き放した、評論家ふう?の叙述になっている。自らと日本共産党に火の粉が降りかかるのを懸命に避けているようだ。
 また、上の発言の基本は1994年の日本共産党綱領改定にも継承されているようで、この時期の日本共産党の指導者たちの考え方が示されているだろう。
 しかし、宮本顕治が好んだかもしれない「社会帝国主義」というソ連に対する論難の仕方は、1994年およびその後の日本共産党の見解または語法としては採用されなかった、と見られる。
 また、資本主義が「最終的な勝利をおさめた」わけではない、という言い方をしているのは、<中間的には>資本主義が勝利していることを認めているようでもあり、興味深い。
 ところで、宮本顕治の発言等を追っていくと、この時期の日本共産党の最長老の現存の「教祖」らしい、<未来への確信をもって頑張れ>との宗教家的煽動の言葉が目につくが、ソ連について、つぎのようにも述べたようだ。1994年5月、すなわち同年7月の第20回党大会直前の中央委員会総会での一文だ。第19回党大会/日本共産党中央委員会総会決定集/下(同党中央委員会出版局、1994.08)による。
 「総会では、最後に宮本議長が閉会のあいさつ」を述べ、「…われわれの闘争いかんにかかっているのであり、甘い期待をもつのではなく、心をひきしめてたたかうべきことを指摘。//
 ソ連崩壊によって覇権主義の害悪とたたかう苦労から解放されたことはすばらしいことで、最後には真理は勝利することをしめしている、…、…とのべた」(p.463)。
 //は原文では改行でない。
 宮本顕治は1961年に正式に日本共産党の最高幹部になったとき、(すでにスターリンは死亡し、スターリン批判もあったが)ソ連邦をどのように理解していたのだろうか。解体してみれば、「ソ連崩壊によって覇権主義の害悪とたたかう苦労から解放されたことはすばらしい」と言ってのける神経の太さは並大抵ではない。
 なお、ここでは立ちいらないが、この時期の宮本顕治は<スターリン(指導下のソ連)にも良い面があった>、すべてを<精算主義>的に理解してはならない旨も強調している。そしてそれは、1994年改定綱領にも採用されたと見られる。第二次大戦時でのソ連邦のはたした役割等についてだ。
 しかし、2004年の綱領全面改定によって、スターリン(指導下のソ連)の<よい面>に関する記述は削除された。不破哲三体制の誕生を示していたのかどうか、この点にはいずれまた触れるだろう。
 <つづく>

Hoover: Freedom Betrayed, p.880-1〔フーバー回顧録11〕

 Hoover: Freedom Betrayed, 2011〔フーバー大統領回顧録〕の一部の試訳 11
 文書18  "政治家資格失墜〔Lost Statesmanship〕-7年に19度の-に関する省察"  1953
 第89章

 p.880
 〔第一二節〕 1943年10月にモスクワでバルト諸国と東部ポーランドを犠牲にしたこと。
 第十二。正当な政治を喪失する十二番めの過ちは、1943年10月、モスクワでの外務大臣会合において、自由な諸国民を犠牲にしたことであった。この会合では、自由とか民主政とかの言葉が使われる真っ只中で、バルト諸国、東部ポーランド、東部フィンランドおよびブコヴィナ(Bukovina)を併合しようとする周知のロシアの意図に対して、一言の異議の言葉も発せられなかった(このことを彼〔ルーズベルト?〕はヒトラーと合意していた)。この黙認は、四つの自由の最後の言葉〔=<恐怖からの自由>〕および太平洋憲章を放棄することを示すものであった。(注12.)

 注12…第46章参照。

 p.880
 〔第一三節〕 テヘランおよびさらなる七つの国家の犠牲
 第十三。第十三の、そしておそらくルーズベルトとチャーチルの政治家資格失墜を示す錯乱した迷走の最大の一つは、テヘランにおいて、1943年12月になされた。ここでは、諸併合に関するモスクワ会合での黙認が〔正式に〕追認された。また、"友好的な境界線国家"の周縁部-七つの国家を覆う傀儡共産主義政権-についてのスターリンの原則〔doctrin〕が、受容された。国際的な道義や諸民族と自由な人々の独立性に関する彼ら自身の約束に忠実であるならば、ルーズベルトとチャーチルは、テヘランで、一度だけでもスターリンに確固として反対する必要があった。このときまで、これらの合意、黙認そして宥和を正当化できるだろうような、スターリンが分離した平和を作り出す、軍事的な危険は全く存在しなかった〔にもかかわらず〕。 (注13.)

 注13…第47章参照。

 p.880-1
 〔第一四節〕 ヤルタ-諸国家崩壊についての秘密協定
 第十四。正当な政治の十四度めの致命的な喪失は、ルーズベルトとチャーチルによって1945年の2月にヤルタでなされた。十二カ国の独立に対するスターリンの侵食のすべてが承認されたばかりではなく、一連の秘密協定でもって、何世代にもわたって世界を国際的な危険に感染させつづけるだろう不吉な力が作動してしまった。スターリンがすでに七つの国家を覆う共産主義政権を作り出していたことを知って、ルーズベルトとチャーチルは、彼らの政治家資格の失墜を隠蔽(カモフラージュ)しようとした。それには、"自由で独立した"選挙とか、"あらゆるリベラルな分野をもつ代表制"とかの言葉で表現された仕掛け(gadget)が伴っていた。テヘランでの宥和を軍事的な根拠でもって最も強く擁護する者たちですら、ヤルタでのそれをもはや擁護することができなかった。ここでは少なくとも、風格や自由な人類を追求する姿勢が、示され得たであろう。そうであれば、アメリカには、よりクリーンな手と自由な人々からの道徳的な尊敬が与えられ、残されることができていたであろう。 (注14.)

 注14…第54章、第55章参照。
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 投稿者注記/藤井厳喜=稲村公望=茂木弘道・日米戦争を起こしたのは誰か-ルーズベルトの罪状・フーバー大統領回顧録を論ず(勉誠出版、2016)p.115-120, p.260-1も参照。

Hoover: Freedom Betrayed, p.878〔フーバー回顧録10〕

 Hoover: Freedom Betrayed, 2011〔フーバー大統領回顧録〕の一部の試訳 10
 文書18  "政治家資格失墜〔Lost Statesmanship〕-7年に19度の-に関する省察"  1953
 第89章
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 p.878
 〔第七節〕 スターリンとの同盟
 第七。まさにアメリカの全歴史上の最大の正当な政治の喪失は、ヒトラーが1941年6月に侵撃したときに、共産主義ロシアと隠然たる同盟関係をもったこと、そしてそれ〔共産主義ロシア〕を支援したことであった。アメリカの軍事力はイギリスを救うために必要とされていたという誤った考え方ですら、今や明らかに消失してしまった。ナツィ(Nazi)の狂熱がロシアの沼地へと方向転換したことによって、何人もイギリスとすべての西側世界の安全をもはや疑うことはできなくなっていた。この怪物的な独裁者たち〔ヒトラーとスターリン〕は、どちらが勝とうと、互いに消耗させ合うことになるはずであった。ヒトラーが軍事的勝利を得たとしてすら、ヒトラーは数年間は、隷属状態の人々を保持しようと試みる窮地に陥っていたであろう。また、ロシアは、ヒトラーが望んでいたかもしれない、いかなる種類の軍需物をも破壊した違いなかった。彼〔ヒトラー?〕自身の将軍たちも、彼の行動に反対した。
 ロシアに対するアメリカの援助は、スターリンの勝利を、かつ共産主義の世界中への蔓延を意味した。正当な政治は再び、傍観するように、歯をくいしばって油断なく備えておくように、そして彼らの相互破壊を待つように求めて、切羽つまって泣き叫んでいたのである。そのような日がやって来たとすれば、アメリカ合衆国とイギリスには、自由主義の世界に真実の平和と安全保障とをもたらすために彼らの力を用いる機会が、存在したであろう。平和を永続させるためのこれほどに大きな機会は、ある大統領にはかつて来ていなかった。その人物〔ルーズベルト〕は、しくじった。(注.6)

 注6.…第33章参照。
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 投稿者注記/藤井厳喜=稲村公望=茂木弘道・日米戦争を起こしたのは誰か-ルーズベルトの罪状・フーバー大統領回顧録を論ず(勉誠出版、2016)p.97-98, p.255も参照。

日本共産党の大ペテン・大ウソ16

 二(つづき)
 E・H・カーのロシア革命-レーニンからスターリンへ1917~1929年〔塩川伸明訳〕(岩波現代新書、1979)には、ネップ(新経済政策)とその時期について、次のような叙述もある。抜粋的に紹介・引用する。
 ・ネップが目指した「農民との結合」の必要性を疑う者は数年間は稀で、1921-22年の「悲惨な飢餓」ののちの農業の回復等によりネップの正当性は立証された。しかし、危機が去って「戦時共産主義」の窮乏が忘れられてくると、「社会主義」からの徹底的な離脱への不安感が生じた。結局「誰かが」農民への譲歩の「犠牲を払った」のであり、「ネップの直接、間接の帰結のあるものは、予期も歓迎もされない」ものだった。2年以内に、新たな危機が生じ、農業以外の全経済部門に影響を与えた。(p.70)
 ・工業への影響は「主として消極的」だった。重要な修正はあったが、レーニンのいう「管制高地」である大規模工業は「国家の手に残った」。
 ・ネップ導入後、想定された現物的商品交換は売買に変化したため、商業過程への「公的統制」が図られた。それはむしろ「ネップマン」=新商人階級の活動を容易にし、小売商業が活発になり、「繁栄の空気が資本の裕福な方面」に戻ってきた、ネップの受益者には、「未来はバラ色」に見えた。(以上、p.71-73)
 ・しかし、「ネップのより深い含意が、相互に関連する危機」を伴って現れた。最初は、狂気じみた価格変動による「価格危機」だった。農産物価格の高騰・工業製品価格の下落は「労働の危機を招来」し「失業」を生んだ。雇用者は労働者に現金支払いではなく「現物支給」をした。
 ・労働組合と雇用者又は経済管理者の間の交渉で紛争解決が図られたが、労働者の不満は「赤い経営者」=かつてのツァーリの将校あるいはかつての工場経営者・工場所有者に向けられた。彼らは高い給料をもらい、工業経営・政策への発言権も持ち始めた。彼らへの非難は、<革命>とは逆転した状況への「嫉妬と憤慨の徴候」だった。(以上、p.74-77)
 ・「失業の到来」は労働者に、「ネップ経済におけるその低下した地位を最も強く意識させた」。ネップは農民を厄災から救ったが、「工業と労働市場」は「混沌寸前の状況」だった。「革命の英雄的旗手たるプロレタリアートは、内戦と産業混乱の衝撃の下で、離散、解体、極端な数的減少」を被っていた。「工業労働者はネップの継子になっていた」。
 ・「金融上」の危機が別の側面だった。ルーブリの価値が急落したため、1921年末の党協議会決定により「金ルーブリ」を貨幣単位とする紙幣等が発行されたものの、実際上の効果は少なかった。こうした状況の結果として、1923年に「大きな経済危機」が起き、労働者の不満は同年の「夏から冬に、不穏な状態とストライキの波をひきおこした」。(以上、p.77-79)
 まだ叙述は続いていくが、このくらいにしよう。
 1923.03.03-レーニン、3度目の脳梗塞により言語能力を失う。
 1924.01.21-レーニン死去。
 省略しつつも、かつ上の部分以降には全く言及しないものの、かなり長く引用・紹介したのは、日本共産党は、レーニンが「ネップ(新経済政策)」導入を通じて、「市場経済を通じて社会主義へ」という<新しく正しい>路線を明確にした、この「正しい」路線をスターリンが覆した、と理解しているからだ。
 また、既に紹介のとおり、志位和夫は、1921年10月のレーニン報告は「市場経済を正面から認めよう」、「市場経済を活用しながら社会主義への前進に向かう方向性を確保しよう」という路線を打ち立てていくもので、「『市場経済=敵』論と本格的に手を切る」ものだった、「そこで本格的な『ネップ』の路線が確立」した、「レーニンがこの時期に確立した『市場経済を通じて社会主義へ』という考え方」は、「画期的な新しい領域への理論的発展」で、レーニンが「情勢と格闘し、模索しながらつくった」ものだ、などと書いているからだ。
 志位和夫がエピゴーネンとして依拠している不破哲三の本も一瞥しているが、いわゆる戦時共産主義とレーニンの死の間の時期、ネップ期とも言われることもある時期・時代の歴史は、上のコンパクトなカーの書物においてもすでに明らかなように、日本共産党や志位和夫・不破哲三が描くような単純なものではない。
 また、個人、例えばレーニンが「頭の中」で考えて手紙等で記したことと、党の会議での発言内容(・提出文書)と、そして党(ボルシェヴィキ)の公式・正式決定として承認されたもの(レーニンの原案であれ)は、党にとってもロシアにとっても意味は同じではないと思われ、それぞれ区別しておく必要があると思われる。
 上の点での厳密な史料処理はなされていないと思われるし、また、「観念」・「意識」と「現実」は違うはずだ、という基本的な点が日本共産党、不破哲三らにおいてどう理解され、方法論的に処理されているのかについても疑問がある。
 つまり、いくら<考え>あるいは<党決定>がかりに適切な(正しい)ものであったとしても、<現実>とは異なるのであり、前者に応じて後者も変わったということを、別途叙述または論証する必要があるだろう。
 不破哲三らはレーニンが何と言ったか、書いたかの細かな(文献学的な)詮索をしているが、かつての、1920年くらいから1924年くらいまでの現実の具体的な歴史の変遷を細かく確認する作業は怠っているように見える。
 そして、レーニンの生前と死後とで政策方針と現実が質的に大きく変わったかのごとき単純化は、誤っている、とほとんど断じてよいものと思われる。なお、レーニン生前の、「革命」後の党決定等には、スターリンも党幹部として関与している。
 三 ネップ期に限っても別の文献を紹介することはできるが、当然のことだが、ネップ期の前や10月「社会主義革命」まで(さらには2月「ブルジョワ革命」まで?)遡らないと、レーニンとロシア(・ソ連)についての理解は困難だ。
 今のところ所持している関係文献に、以下がある。すでに言及しているものも含む。
 ①稲子恒夫編著・ロシアの20世紀/年表・資料・分析(2007、東洋書店)。
 ②D・ヴォルコゴーノフ(白須英子訳)・レーニンの秘密/上・下(1995、日本放送出版協会)。
 ③M・メイリア(白須英子訳)・ソヴィエトの悲劇-ロシアにおける社会主義の歴史1917~1991/上・下(1997、草思社)
 ④R・パイプス(西山克典訳)・ロシア革命史(2000、成文社)。
 ⑤クルトワ=ヴェルト・共産主義黒書/ソ連篇(2001、恵雅堂出版/文庫版もある)。
 ⑥E・H・カー・ボリシェヴィキ革命1~3(1967・1967・1971、みすず書房)。
 ⑦E・H・カー(塩川伸明訳)・ロシア革命-レーニンからスターリンへ1917~1929年(1979、岩波現代新書)。
 カーの書物はソ連解体前のもので、それ以降に明らかになった史料は使われていない。
 カーは、「ソ連型社会主義」が<失敗>したと理解したとすれば、その原因をスターリンに求めるのだろうか、「革命」後のレーニンに求めるのだろうか、それとも「ロシア革命」自体に求めるだろうか、あるいはマルクス自体に?
 上の諸文献を利用しつつ、さらに、レーニンとスターリンの異同をめぐる日本共産党の<大ペテン>・<大ウソ>に論及していくこととする。

日本共産党の大ペテン・大ウソ15

 一 ネップ(新経済政策)の問題は、現在の日本共産党綱領の正当性にもかかわるじつに微妙な?問題だ。
 現2004年(23回党大会)綱領はつぎのように書く。
 ・「今日、重要なことは、資本主義から離脱したいくつかの国ぐにで、…、『市場経済を通じて社会主義へ』という取り組みなど、社会主義をめざす新しい探究が開始され、…、二一世紀の世界史の重要な流れの一つとなろうとしていることである。」 
 ・「市場経済を通じて社会主義に進むことは、日本の条件にかなった社会主義の法則的な発展方向である。」
 上の第一の観点から、現在の中国(シナ)とベトナムの両「社会主義」国の歩みは日本共産党によって正当化され、また第二点のように、日本共産党自身も「市場経済を通じて社会主義に進む」と明言している。
 しかして、この「市場経済を通じて社会主義へ」論は1994年(20回党大会)綱領では語られていないし、その際の不破哲三報告にも、-「ネップ(新経済政策)」への言及はあるが-このような定式化は見られない。
 そして重要なのは、レーニンによる「ネップ(新経済政策)」導入の肯定的評価と「市場経済を通じて社会主義へ」論が結合していること、いや端的には、レーニンこそが(「ネップ(新経済政策)」導入を通じて)「市場経済を通じて社会主義へ」という<新>路線を明確にした(この「正しい」路線をスターリンが覆した)、と日本共産党は理解していることだ。
 志位和夫・綱領教室第2巻(2013、新日本出版社)によれば、こうだ。
 1921年10月のレーニン報告は、「市場経済を正面から認めよう」、「市場経済を活用しながら社会主義への前進に向かう方向性を確保しよう」という路線を打ち立てていくもので、「『市場経済=敵』論と本格的に手を切る」ものだった。「そこで本格的な『ネップ』の路線が確立」した。レーニンの主張には反対もあったが、「市場経済を認めることが絶対に必要不可欠であることを明らかに」した。
 「レーニンがこの時期に確立した『市場経済を通じて社会主義へ』という考え方は、…、画期的な新しい領域への理論的発展」で、「レーニンが、…、情勢と格闘し、模索しながらつくった」ものだ。(以上、p.178-9)
 志位はこの考え方を「マルクス、エンゲルスの理論にもなかった新しい考え方」だとしている(p.179)。不破哲三の文献で確認しないが、志位和夫は「不破さんの研究に依拠しつつ」説明すると明記しているので(p.176)、不破哲三においても同じ理解がされているのだろう。
 そうだとすると、「マルクス、エンゲルスの理論」の「画期的な新しい領域への理論的発展」であるよりむしろ、マルクス主義からの<逸脱>ではないか、という気がしないでもない。<マルクス・レーニン主義>とは言うが、レーニンはマルクス主義から逸脱していたのではないのか。とすれば(マルクスを基準にすれば)、レーニンがすでに「誤って」いたのではないいか(とすれば、日本共産党1922年創立自体も、正しい科学的社会主義理論?からの逸脱の所産ではないか)。
 だが、そこまで問題にするのは避けて、レーニンは<正しく、ネップ路線を導入した>のかに焦点をあてよう。これが日本共産党の主張するようなものでなければ、それは現日本共産党の綱領の正当性、および同党の現在の存在意義そのものにかかわることは、変わりはない。
 二 ネップについてはすでに言及してきており、稲子恒夫の認識も、その一部は紹介している。
 上記の志位和夫の著はE・H・カーのロシア革命-レーニンからスターリンへ、1917~1929年〔塩川伸明訳〕(岩波現代新書、1979)に肯定的に言及しているが、同じカーの書物のレーニンとネップとの関係についての部分は、次のようなものだ。
 ・「戦時共産主義」の評価の差異は「ネップ」の評価にも反映し始めた。1921年3月の危機的状況の中で「戦時共産主義のより極端な政策からネップへの転換」が満場一致で受け入れられたときでも「分岐は棚上げされた」のであり、全面的「和解」はなかった。//
 ・「戦時共産主義が社会主義に向かう前進としてではなく、軍事的必要に迫られた逸脱、内戦の非常事態に対するやむをえざる対応として考えられる限り、ネップは強要されたものではあるが遺憾な脱線からの撤退であり、…より安全でより慎重な道への回帰であった」。//
 ・「戦時共産主義が社会主義のより高度な点への過度に熱狂的な突進-確かに時期尚早ではあったが、それ以外の点では正しかった-として扱われる限り、ネップは、当面保持するのが不可能だとわかった地歩からの一時的撤退であり、その地歩は早晩奪還されるべきものであった。レーニンが-彼の立場は必ずしも一貫してはいなかったが-、ネップを『敗北』、『新たな攻撃のための撤退』と呼んだのは、この意味においてであった。」//
 ・「第10回党協議会においてレーニンが、ネップは『真剣かつ長期にわたって』意図されていると言ったとき(だが、質問に答えて、25年という見積りは『あまりに悲観的』であると付けたした)、ネップは戦時共産主義という過誤の望ましくかつ必要な修正であるとの見解と、ネップ自身が将来修正され、とって代わられるべきものであるとの見解の両方に言質を与えたのである。」//
 ・「第一の見解の言外の前提は、後進的農民経済と農民心理を勘案することが実際に必要であるという点であった。第二の見解のそれは、工業を建設し、革命の主要な拠点をなしている工業労働者の地位をこれ以上悪化させないことが必要だということであった。」//
 ・1920-21年の難局の解消への感謝で当面は覆われていた「分岐は、2年後の更なる経済危機と党内危機の中で再び現れるのである。」/
 以上、p.52-53。//は原文では改行ではない。
 E・H・カーの1979年の本ではまだ見逃されたままの資料・史料があったかもしれない。だが、それにもかかわらず、上の叙述を読んだだけでも(他にもネップ言及部分はある)、主として農業・対農民政策をとってみるだけでも、レーニン時代とスターリン時代とに大別する発想をすることは、複雑な歴史を(都合のよいように?)単純化するものではないだろうか、という疑問が生じる。
 <つづく>
 

Hoover: Freedom Betrayed, p.877〔フーバー回顧録09〕

 Hoover: Freedom Betrayed, 2011〔フーバー大統領回顧録〕の一部の試訳 09
 文書18  "政治家資格失墜〔Lost Statesmanship〕-7年に19度の-に関する省察"  1953
 第89章

 p.877
 〔第四節〕 一九三九年にイギリス・フランスがポーランドとルーマニアを保証したこと
 第四。正当な政治の第四の深刻な喪失は、イギリスとフランスが一九三九年の三月にポーランドとルーマニアの独立を保証(garantee)したときになされた。まさにそのとき、欧州の民主主義諸国は、ヒトラーとスターリンの間の不可避の戦争から手を引くという従来の政策を変更したのであった。
 このことは、欧州の勢力外交の全歴史のうちで、おそらくは最大の過ちであった。イギリスとフランスは、ポーランドを侵略から救い出す力を持っていなかった。しかし、この行為〔独立の保証〕によって、彼らは民主主義の政体〔ポーランド・ルーマニア〕をヒトラーとスターリンの間に投げ込んだ。彼らのこの行為によって、彼らはスターリンをヒトラーから守っただけではなく、スターリンに自らの影響力を最も高価な買い手に売ることができるようにした。(イギリスとフランスという)同盟国は入札したが、スターリンが示したのは、よるべない人々が住むバルト諸国および東部ポーランドの併合という、同盟国がとても応じることのできない人道的な対価であった。スターリンは、ヒトラーからその対価を獲得したのである〔=ヒトラーが入札に勝ったのである〕。
だがヒトラーは、南東ヨーロッパにまで膨張し、モスクワの共産主義者の聖地(Vatican)を破壊するという決心を放棄するつもりはまったくなかった。しかし今は、ヒトラーはやむなくも、まずは西側民主主義諸国を無力化しなければならない、そしてそのように進め始めた。
 おぞましい第二次世界大戦の長い連鎖〔列車〕は、ポーランドの保証というこの過ちから出発した。ルーズベルトはこうした勢力外交にいくばくか参加していた。しかし、それがどの程度であったかを測定するには、諸記録文書があまりに不完全すぎる。チャーチルは、まだ政権に入っていなかったが、ミュンヘンでの宥和(-政策)のあとの絶望的な行為へとチェンバレンを駆り立てることによって、何がしかの寄与をなした。(注3.)

 注3…第18章、第19章、第27章参照。

 投稿者注記/藤井厳喜=稲村公望=茂木弘道・日米戦争を起こしたのは誰か-ルーズベルトの罪状・フーバー大統領回顧録を論ず(勉誠出版、2016)p.88-91, p.253-4.も参照。

日本共産党の大ペテン・大ウソ14

 二(さらにつづき)
 レーニン時代の「真実」が明らかになってきていることについて、稲子恒夫編著・ロシアの20世紀/年表・資料・分析(2007、東洋書店)はつぎのように書いている。
 不破哲三や日本共産党は、新情報を知っているのかどうか。あるいは知っていても無視しているのかどうか。
 「レーニンはソビエト政権初期の問題のほとんど全部に関係していたが、日本ではソ連の否定的なことは全部スターリンの『犯罪的誤り』であるとして、彼〔スターリン〕一人のせいにし、レーニンはこれと関係がなく、彼にも誤りがあったが、彼〔レーニン〕は基本的に正しかったとするレーニン無関係説が有力である。この説はレーニン時代の多くのことを不問にしている
./〔改行〕
 今は極秘文書が公開され、検閲がないロシアでは、レーニンについても…多くのことが語れるようになった。//
 たとえばスパイ・マリノーフスキーを弁護したレーニンの文書、臨時政府時代のドイツ資金関係の一件書類、レーニン時代の十月革命直後と戦時共産主義時代のプロレタリアート独裁と法、一連の人権侵害-報道、出版の自由の否定、宗教の迫害、数々の政治弾圧、赤色テロ、とくに…1921年8月の「ペトログラード戦闘組織団」事件の真実が明るみに出ている。/〔改行〕
 ボリシェヴィキーは中選挙区比例代表という民主的選挙法による憲法制定会議の選挙で大敗すると、1918年1月に憲法制定会議の初日にこれを武力で解散するクーデターをしたことが、今日非難されており、ニコラーイ二世一家の殺害も問題になっている。//
 ソ連時代は食糧などの徴発と食糧独裁、農民弾圧がまねいた飢饉と数多くの緑軍(農民反乱,…)など戦時共産主義時代の多くのことが秘密だった。この秘密が解除され,数多くの事実が判明した。その上戦時共産主義時代のペトログラードの労働者と一般市民の生活と動向が判明した。//
 ネップへの政策転換をうながしたのは、クロンシュタートの反乱だけでなく、…労働者農民の支持を失ったソビエト政権が存亡の危機にあったことである。党指導部はひそかに亡命の準備をしていたことまで明らかになった。//
 したがってレーニンの秘密が解けた今日、ロシア史研究は資料が豊富になった彼の時代の真実にあらためてせまる必要があるだろう。」
 以上、p.1006-7。//は原文では改行ではない。
 三 山内昌之は、ヴォルコゴーノフ(白須英子訳)・レーニンの秘密/下(1995、日本放送出版協会)の末尾に、この書物の「解説」ではなく「革命家と政治家との間-レーニンの死によせて」と題する文章を寄せている(p.377-)。 
その中に、つぎの一文がある。
 ・「もっと悲劇的なのは、レーニンの名において共産主義のユートピアが語られると同時に、二十世紀後半の世代にとっては、まるで信じがたい犯罪が正当化されたことであろう。//
 この点において、レーニンとスターリンは確実に太い線で結ばれている。//
 スターリンは、レーニンの意思を現実的な<イデオロギーの宗教>に変えたが、その起源はレーニンその人が国民に独裁への服従を説いた点に求められるからだ。」
以上。p.378、//は原文では改行ではない。
 他にも、山内は以下のことを書いている。
 ・「 …赤軍は、タンボフ地方の農民たちが飢餓や迫害からの救いを求めて決起した時、脆弱な自国民には毒ガスの使用さえためらわなかった。1921年4月にこの作戦を命じた指揮官は、後にスターリンに粛清されるトゥハチェフスキーであった。もちろんレーニンは、この措置を承知しており、認めてもいた」。
 ・「歴史が自分の使った手段の正しさを証明するだろうというレーニンの信仰は、狂信的な境地にまで達していた」。
 以上、p.378。
 山内は上掲書を当然に読んだうえで書いているのだろう。
 上掲書/上・下には、レーニンの「真実」が満載なので、のちにも一部は紹介する。
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 さて、日本共産党現綱領が「レーニンが指導した最初の段階においては、…、真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力が記録された。しかし、レーニン死後、スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨てて、…、勤労人民を抑圧する官僚主義・専制主義の道を進んだ」と明記してしまっている歴史理解は、すでに<大ウソ>または自己の出生と存在を正当化するための<大ペテン>であるように見える。
 もう少し論点を整理して、レーニンとスターリンとの違い・同一性に関する諸文献を見ていこう。その際の諸論点とは、さしあたり、以下になる。
 ①ネップ(新経済政策)への態度。レーニンは<正しく>これを採用したが、スターリンは<誤って>これを放棄したのか。
 ②<テロル>。スターリンは1930代半ばに「大テロル」とか称される、粛清・殺戮等々を行なったとされる。では、レーニンはどうだったのか。この点でレーニンはスターリンとは<質的に>異なっていたのか。
 なお、日本共産党は、レーニンとスターリンの対立点は社会主義と民族(民族自決権)との関係についての見方にあった、ということを、少なくともかつては(覇権主義反対としきりに言っていた時期は)強調していたかに見える。但し、近年から今日では、この点を重視していないように見える。
 もっとも、レーニンはスターリンの危険性を見抜いていてそれと「病床でたたかった」という<物語>を、今日でも述べているようだ。以下では、この点にも言及することがあるだろう。
 <つづく>
ギャラリー
  • 1181/ベルリン・シュタージ博物館。
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  • 1180/プラハ市民は日本共産党のようにレーニンとスターリンを区別しているか。
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  • 0840/有権者と朝日新聞が中川昭一を「殺し」、石川知裕を…。
  • 0801/鳩山由紀夫は祖父やクーデカホフ・カレルギーの如く「左の」全体主義とも闘うのか。
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  • 0800/朝日新聞社説の「東京裁判」観と日本会議国際広報委員会編・再審「南京大虐殺」(明成社、2000)。
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