秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

スターリニズム

2605/R・パイプス1994年著結章<省察>第六節(レーニンとスターリン)。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 結章・ロシア革命に関する省察。試訳のつづき。
 つぎの第六節は、2017年・2018年に試訳を掲載・再掲している。
 2017/04/09(1490/日本共産党の大ウソ33)、2018/11/08(1490再掲/レーニンとスターリン—R·パイプス1994年著)。
 これに依りつつ、あらためて原書を見て少し修正した試訳を掲載する。
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 第六節・レーニン主義とスターリン主義。 
 (01) ロシア革命に関して生じる最も論争のある問題の一つは、レーニン主義とスターリン主義の関係、-言い換えると-スターリンに対するレーニンの責任、だ。
 西側の共産主義者、その同伴者(fellow-travelers)および共感者たちは、この二人の共産党指導者の間のいかなる連関も否定する。そして、スターリンはレーニンの仕事を継承しなかったのみならず、それを転覆したと主張する。
 1956年に第20回党大会でニキータ・フルシチョフが秘密報告をしたあと、このような見方をすることは、ソヴェトの公式の歴史叙述の義務になった。これはまた、軽蔑されるスターリン主義の先行者から、その後の体制を切り離すという目的に役立った。
 興味深いことに、レーニンの権力掌握は不可避だったと叙述する全く同じ者たちが、スターリンの叙述に至ると、その歴史哲学を捨て去る。彼らは、スターリンは歴史からの逸脱だ、と叙述するのだ。
 彼ら〔西側共産主義者・その同伴者・共感者〕は、その言う先立つ行路のあとで、歴史がいかにして(how)そしてなぜ(why)、30年の迂回をたどったのかを説明できなかった。//
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 (02) スターリンの経歴を検証すれば、彼はレーニンの死後に権力を掌握したのではなく、最初からレーニンの支援を受けて、一歩ずつ権力への階段を昇っていったことが明らかになる。
 レーニンは、党の諸機構を管理するスターリンの資質を信頼するに至っていた。とくに、民主主義反対派により党が引き裂かれた1920年の後では。
 歴史の証拠資料が示すのは、トロツキーが回顧して主張するのとは違って、レーニンはトロツキーに依存したのではなくその好敵〔スターリン〕に依存して、統治にかかわる日常の事務を遂行したこと、国内政策および外交政治の諸問題に関して彼〔スターリン〕にきわめて多くて多様な助言を与えた、ということだ。
 レーニンは、1922年には、病気によって国政の仕事からますます身を引くことを強いられた。その年に、レーニンの後援があったからこそ、スターリンは党中央委員会を支配する三つの機関、政治局、組織局および書記局、の全てに属することになった。
 スターリンはこれらの権能にもとづいて、実質的には全ての党支部や国家行政部門への執行的人員の任命を監督した。
 レーニンが組織的反抗者(「分派主義」)の発生を阻止するために導入していた諸規則のおかげで、スターリンは自分が執事的地位にあることへの批判を抑圧することができた。その批判は自分ではなく、党に向けられている、したがって定義上、反革命の教条に奉仕するものだ、と論難することによって。
 レーニンが活動できた最後の数ヶ月に、レーニンがスターリンを疑って彼との個人的な関係が破れるに至ったという事実はある。しかし、これによって、そのときまでレーニンが、スターリンが支配者へと昇格するためにその力を絞ってあらゆることを行ったという明白なことを、曖昧にすべきではない。
 かつまた、レーニンが保護している子分に失望したとしてすら、感知したという欠点-主として粗暴さと性急さ-は深刻なものではなかったし、スターリンの人間性よりも大きく彼の管理上の資質にかかわっていた。
 レーニンがスターリンを共産主義というそのブランドに対する反逆者だと見なした、ということを示すものは何もない。//
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 (03) しかし、一つの違いが二人を分ける、との議論がある。つまり、レーニンは同志共産主義者〔党員〕を殺さなかったが、スターリンは大量に殺した、と。但しこれは、一見して感じるかもしれないほどには重要でない。
 外部者、つまり自分のエリート秩序に属さない者たち-レーニンの同胞たちの99.7%を占めていた-に対してレーニンは、いかなる人間的感情も示さず、数万の(the tens of thousands)単位で彼らを死へと送り込み、しばしば他者への見せしめとした。
 チェカ〔政治秘密警察〕の高官だったI. S. Unshlikht は、1934年にレーニンを懐かしく思い出して、チェカの容赦なさに不満を述べたペリシテ人的党員をレーニンがいかに「呵責なく」処理したかを、またレーニンが資本主義世界の <人道性> をいかに嘲笑し馬鹿にしていたかを、誇りを隠さないで語った。(注18)
 二人にある上記の違いは、「外部者」という概念の違いによる。
 レーニンにとっての内部者は、スターリンにとっては、自分にではなく党の創設者〔レーニン〕に忠誠心をもち、自分と権力を目指して競争する、外部者だった。
 そして彼らに対してスターリンは、レーニンが敵に対して用いたのと同じ非人間的な残虐さを示した。(*)//
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 (脚注*)  実際に、他の誰よりも長くかつ緊密に二人と仕事をしたViacheslav Molotov は、レーニンの方がスターリンと比べて「より苛酷(harsher)」だった(< bolee surovyi >)と語った。F. Chuev, Sto sorek besed s Molotovym (1991), p.184.
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 (04) 二人を結びつける強い人間的関係を超えて、スターリンは、その後援者の政治哲学と実践に忠実に従うという意味で、真のレーニニスト(レーニン主義者)だった。
 スターリニズムとして知られるようになるものの全ての構成要素を、一点を除いて-同志共産党員の殺戮を除いて-、スターリンは、レーニンから学んだ。
 レーニンから学習した中には、スターリンがきわめて厳しく非難される二つの行為、集団化と大量テロルも含まれる。
 スターリンの誇大妄想、復讐心、病的偏執性およびその他の不愉快な個人的性質によって、スターリンのイデオロギーと活動様式(modus operandi)はレーニンのそれらと同じだったという事実を曖昧にしてはならない。
 わずかしか教育を受けていない人物〔スターリン〕には、レーニン以外に、諸思考の源泉になるものはなかった。//
 論理的には、死に瀕しているレーニンからトロツキー、ブハーリンまたはジノヴィエフがたいまつを受け継いで、スターリンとは異なる方向へとソヴェト同盟を指導する、ということを思い浮かべることはできる。
 しかし、レーニンが病床にあったときの権力構造の現実のもとで、<いかにして> 彼らはそれができる地位におれたか、ということを想念することはできない。
 自分の独裁に抵抗する党内の民主主義的衝動を抑圧し、頂点こそが重要な指揮命令構造を党に課すことによって、レーニンは、党の中央諸装置を統御する人物が党を支配し、そしてそれを通じて、国家を支配する、ということを後継者に保障したのだ。
 その人物こそが、スターリンだった。
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 (後注18)  RTsKhIDNI, Fond 2, op. 1, delo 25609, list 9。
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 結章第六節、終わり。つづく。

2105/L・コワコフスキ著第三巻第13章第2節⑤。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終章の試訳のつづき。分冊版・第三巻、本文p.530までのうち、p.469-p.474。
 第13章・スターリン死後のマルクス主義の展開。
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 第2節・東ヨーロッパでの修正主義⑤。
 (33)1968年8月のソヴィエトによる占領とそれに続いた大量抑圧は、チェコスロヴァキアの知識人たちや文化生活にほとんど完璧に息苦しい影響を与えた。他の同ブロック諸国と比べてすら、さらに気の滅入るがごとき様相だった。
 他方で、厳密にいえばチェコスロヴァキアでの改革運動が解体しておらず軍隊の実力行使によって抑圧されたことが理由なのだが、この国には修正主義の基本的考え方のための、なおも肥沃な土壌があった。
 つぎのように想像され得るかもしれない。すなわち、ソヴィエトの侵攻が起こらなければ、改革運動がドゥプチェク(Alexander Dubček)のもとで始まり、大多数の民衆に支持されて、システムの基盤を揺るがすことなく「人間の顔をした社会主義」に最終的には到達しただろう、と。
 この考えはもちろん考察に値するし、その考察は何を基礎的なものと見なすかにかかっているだろう。
 しかしながら、明確だと思われるのは、かりに改革運動が継続してポーランドのように侵攻によって弾圧されることもなく、侵攻を怖れて解体することもなかったとすれば、必ずやすみやかに多元的政党制度をもたらし、そうして、共産党独裁を破壊し、その教理自体が自己欺瞞的である共産主義を解体させただろう、ということだ。//
 (34)抑圧制度が一般的には他諸国よりも完全だった東ドイツでは、修正主義の広がりは全くなかった。それでもしかし、1956年の事件は東ドイツを揺るがせた。
 哲学者であり文学批評家であるWolfgang Harich は、ドイツ社会主義の民主主義的な綱領を提示した。それによって彼は、数年間、収監された。
 何人かの著名なマルクス主義知識人たちは、国を去った(Ernst Bloch、Hans Mayer、Alfred Kantrowicz)。
 現在もそうであるように、思想の厳格な統制によって、修正主義を主張するのはきわめて困難だった。しかし、ときたま、改革主義者の見解が聞こえてきた。
 哲学の分野では、この文脈で最も重要な人物は、Robert Havemann だった。哲学の問題に関心をもつ物理化学の教授で、他の多くの修正主義者とは異なり、ずっと確信的マルクス主義者のままだった。
 むろん西ドイツで出版された小論集で、彼は、科学と哲学での党の独裁を、そして理論上の諸問題を官僚的な布令でもって決定するという習慣を、鋭く批判した。
 加えて、弁証法的唯物論という教理、および共産主義者の道徳性に関する公式的規範を攻撃した。
 しかしながら、彼は、実証主義の観点からマルクス主義を批判したのではなく、逆に、弁証法がもっと「ヘーゲル主義化した」範型に回帰することを望んだ。
 彼は、レーニン主義的な決定論の範型は道徳的に危険で現代物理学と合致していない、と考えた。
ヘーゲルとエンゲルスに従って、たんなる描写にすぎないのではない、論理関係を含む現実性の見方である弁証法を想定(postulate)した。
 彼はこうしてBloch のように、弁証法的唯物論の術語の範囲内で、目的主義(finalistic)の態度を正当化しようとした。
 スターリン主義者による文化の隷従化を非難し、機械主義論の教理での自由の哲学上の否定を宣言した。機械主義的教理は、マルクス主義からは、共産主義のもとでの文化的自由の破壊と軌を一にすると見られていた。
 彼は、哲学上の範疇であり政治的な価値であるものとして「自発性」の再生を呼び求めた。しかし同時に、弁証法的唯物論と共産主義への忠誠心も強調した。
 Havemann の哲学上の著作は、化学者から期待するほどには厳密ではない。//
 (35)ソヴィエト連邦の哲学には、語り得るほどの修正主義は存在しなかった。しかし、若干の経済学者たちは、経営と分配の合理化を意図する改革を提案した。
 公式のソヴィエト哲学は、脱スターリン主義化の影響をほとんど受けなかった。一方で、非公式の変種的考えはすみやかにマルクス主義との関係を失った。
 公式の哲学で起きた原理的な変化は、弁証法的唯物論の諸公式はもはやスターリンの小冊子に正確に倣って教育することはできない、ということだった。
 1958年に刊行された教科書は、四つではなく三つの弁証法的法則を区別して、エンゲルスに従っていた(否定の否定を含む)。
 唯物論がまず解説され、その次が弁証法だった。これは、スターリンによる順序の逆だ。
 レーニンの<哲学ノート>で挙げられた弁証法の数十ほどの「範疇」は、新たに編成された定式の基礎となった。
 ソヴィエトの哲学者たちは、「形式論理に対する弁証法の関係」という昔ながらの主題について若干の討議を行なった。その多数見解は、主体・物質関係が異なるようには両者は対立しない、というものだった。
 ある者はまた、「矛盾」は現実性そのものの中で発生し得るという理論に挑戦した。
 ヘーゲルは、「フランス革命に対する貴族的反動」の化身だとされなくなった。
 それ以来、ヘーゲルの「限界」と「長所」について語るのが、正しい(correct)ことになった。//
 (36)こうした非本質的で表面的な変化の全ては、レーニン=スターリン主義的「弁証法的唯物論(diamat)」の構造をいささかも侵害しなかった。
 それにもかかわらず、ソヴィエト哲学は、他分野よりも少ない程度にだが、脱スターリニズム化から若干の利益を享けた。
 若い世代が舞台に登場してきて、自然なかたちで、西側の哲学と論理の考察、外国語の学修、そして非マルクス主義的なロシアの伝統の探究すら、を始め出した。-スターリンによる粛清を免れた数少ない残存者を除いて、能力のある教育者がほとんどいなかったのが理由だ。
 スターリンの死後5年間、若い哲学者たちはアングロ=サクソンの実証主義と分析学派にもっとも惹かれた。
 論理への対処法は、より合理的になり、政治的な統制により従属しなくなった。
 1960年代に出版された計5巻の<哲学百科>は、全体としては、スターリン時代の産物よりもましだった。つまり、主要なイデオロギー的論考、とくにマルクス主義に論及する論考は従前と同じ水準にあったが、論理や哲学史に関係する多数の論考が見られた。それらは理知的に執筆されており、国家プロパガンダに添って叙述されたにすぎないのではなかった。
 ヨーロッパやアメリカの思想と新たに接触しようとする若い哲学者たちの努力のおかげで、若干の現代的著作が、西側の言語から翻訳された。
 マルクス主義をおずおずと警戒しながら「現代化」する試みは、しばらくの間、1958年に出版され始めた<哲学(Philosophical Science(Filosofskie Nauki))>に感知することができた。
 しかしながら、公表されたものは、全体としては、発生していた精神的(mental)な変化を反映していなかった。
 スターリン時代に訓練を受けた辺境者たちは、若者たちのいずれが出版や大学での教育を許容されるのかに関する決定を行い続けた。そして、当然ながら、自分たちに合うものを好んだ。
 しかしながら、若い学歴の高い哲学者たちの何人かは、統制がさほど厳格ではない他の分野で自分の見解を表現する方法を見出した。//
 (37)しかし、全体としては、共産主義によって最初に破壊された学問分野である哲学は、再生するのが最も遅い分野でもあり、その成果は極端に乏しかった。
 他の研究分野は、元々は「スターリンによる」ものだった順序とは反対の順序で多かれ少なかれ回復した。
 独裁者の死から数年内に、自然科学は、事実上はイデオロギーによって規整されなくなった。但し、研究主題の選択は、従来どおりに厳格に統制され続けた。
 物理学、化学、および医学や生物学の分野では、国家は物質的な資源を提供し、用いられる目的を決定している。しかし、それらの成果はマルクス主義の観点から正統派(orthodox)のものでなければならないとは、もはや主張していない。
 歴史学は依然として厳格に統制されているが、政治的な微妙さがより少ない領域であるほど、規制に服することが少ない。
 しばらくの年月の間は、理論言語学は比較的に自由で、ロシアの形式主義学派の伝統を復活させた。しかし、この分野にも国家は研究機関を閉鎖することによってときおり介入し、多彩な非正統派の思想のはけ口として利用され続けていることを知らしめてきている。 しかしながら、1955年から1965年までの期間は、全体としては、荒廃した年月の後でのロシア文化を再生させようとする、かなりの程度の、かつしばしば成果のあった努力の時代の一つだった。
このことは、歴史編纂や哲学のほか、文学、絵画、劇作および映像について言える。
 1960年代の後半には、個人や研究機関を疑っての圧力が再び増大した。
 東ヨーロッパの状況とは違って、ソヴィエト同盟でのマルクス主義は、蘇生の兆候をほとんど示さなかった。
 とくにおよそ1965年以降に勢いづいている秘密のまたは内々のイデオロギー的展開の中には、マルクス主義的な動向をほとんど感知することができない。その代わりに見出すこができるのは(多くは「マルクス主義のないボルシェヴィズム」と称し得る形態での)大ロシア民族排外主義(chauvism)、抑圧された非ロシア民衆の民族的要求、宗教(とくに正教、広義のキリスト教、仏教)、および伝統的な民主主義的思想だ。
 マルクス主義またはレーニン主義は一般的反対派の小さな分派を占めるにすぎない。しかし、それは、現存する。その著名なソヴィエトの代弁者は、Roy とZhores のMedvedyev 兄弟だ。
 歴史家であるRoy Medvedyev は、スターリニズムの一般的分析を大々的に行ったことを含めて、いくつかの価値ある著書の執筆者だ。
 この分析書は他の出所からは知ることのできない多くの情報を含んでおり、確かに、スターリニズム体制の恐怖を言い繕う試みだと見なすことはできない。
 にもかかわらず、この著者の他書のように、レーニニズムとスターリニズムの間には大きな亀裂があり、社会主義社会のためのレーニンの企図はスターリン僭政によって完全に歪曲され、変形された、という見方にもとづいている。
 (この書のこれまでの章の叙述から明確だろうように、この書の執筆者は正反対の見方をしている。)//
 (38)最近の20年間、ソヴィエト同盟のイデオロギー状況は、多くの点で他の社会主義諸国で生じたのと同じ変化を経験してきている。
 マルクス主義は、一つの教理としては、実際には死に絶えている。しかし、マルクス主義は、ソヴィエト帝国主義、および抑圧、搾取と特権の国内政策全体を正当化するという、有益な機能を提供している。
 東ヨーロッパでと同様に、支配者たちは、かりに人民と共通する基盤を見出すのを欲するとすれば、共産主義以外のイデオロギー上の価値に頼らなければならない。
 ソヴィエトの民衆たち自身に関するかぎりでは、問題となる価値は、民族排外主義や帝国主義の栄誉だ。一方で、ソヴィエト同盟の全ての民衆は、外国人恐怖症に、とくに反中国民族主義や反ユダヤ主義に、陥りやすい。
 これこそが、言われるところのマルクス主義諸原理にもとづいて構成された世界で最初の国家に残された、マルクス主義の遺産の全てだ。
 この、民族主義的で、ある程度は人種主義的な見地は、ソヴィエト国家の本当の、公言されないイデオロギーだ。それは、暗示や印刷されない文章によって保護されているのではなく、それらによって吹き込まれている。
 そして、これはマルクス主義とは異なり、民衆の感情の中に、現実的な反響を呼び覚ましている。//
 (39)マルクス主義が完全に衰退し、社会主義思想が信頼を失い、そして勝利した社会主義諸国でと同じく嘲弄物(ridicule)に変わった、そのような文化的な世界のかけらは、たぶん存在しない。
 矛盾する怖れをもつことなく、次のように言うことができる。思想の自由がソヴィエト・ブロックで許容されていたとすれば、マルクス主義は、全地域での知的生活のうちの最も魅力がないものだということが判明しただろう、と。
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 第2節、終わり。第3節の表題は、<ユーゴスラヴィア修正主義>。

2067/L・コワコフスキ著第三巻第13章第2節②。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終章の試訳のつづき。
 第13章・・スターリン死後のマルクス主義の進展。
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 第2節・東ヨーロッパでの修正主義②。
 (9)修正主義者たちは、これら全ての問題について、民衆一般のそれと合致するように要求した。
 しかしながら、彼らは、民族主義的または宗教的議論ではなく社会主義やマルクス主義の論拠を用いた。そして、党生活やマルクス主義研究に関連する要求も提示した。
 この点では、歴史上の異端者たちと同様に、「根源への回帰」を訴えた。すなわち、システムに対する批判論の基礎にしたのは、マルクス主義の伝統だった。
 とくに初期の段階では、一度ならず、レーニンの権威が持ち出された。彼らはレーニンの著作の中に、党内民主主義、統治への「広範な大衆」の参加、等々に関する文章を探し求めた。
 要するに、修正主義者たちは、しばらくの間は、この運動の残存者たちが今でもときどき行っているように、レーニンをスターリニズムに対抗させた。
 しかし、知的な面での多くの成果はなかった。スターリニズムとは、レーニンの基本的考え方を自然かつ正当に継承するものであることが、議論を通じてますます明確になったからだ。
 もっとも、政治的に見れば、彼らの論拠は、自分たちのステレオタイプに訴えかけることで、すでに述べたように共産主義イデオロギーが壊れていくのを助けた、という重要な意味があった。
 状況が特有だったのは、マルクス主義とレーニン主義はいずれも、人間的で民主主義的なスローガンに充ちたものとして語られた、ということだ。それらは、権力システムに関するかぎりでは空虚な修辞用語だったが、当時のシステムに反対するために呼び起こされた。
 修正主義者たちは、マルクス=レーニン主義が語ったことと現実の生活との間のグロテスクな対照を指摘することで、教理自体に内在する矛盾を暴露した。
 イデオロギーは、いわば政治的運動から切り離されるようになった。イデオロギーは運動のたんなる表面にすぎなかったのだが、しかし、独自の歩みをとり始めた。//
 (10)しかしながら、レーニン主義にしがみ付く試みはほとんどの修正主義者たちによってすみやかに放棄されたが、他方で、「真の(authentic)」マルクス主義に回帰するという望みは、より長く継続した。//
 (11)修正主義者たちを党の仲間たちから分かつ主要な論点は、彼らはスターリニズムを批判したということではなかった。
 当時、とくに20回党大会の後では、党員たちのほとんど誰も、異様な力をもってスターリニズムを防衛する、ということがなかった。
 主に批判論の範囲についてすら、違いはなかった。そうではなく、違いは、スターリニズムは「誤り」または「歪曲」だった、あるいは一続きの「誤りと歪曲」だった、という公式の見解を拒否した、ということにあった。
 彼らのほとんどは、スターリン主義システムはその社会的機能の観点からはほとんど誤っておらず、ゆえに悪の根源はスターリンの個人的な性格または共産主義権力の性質以外の「誤り」に求められなければならない、と考えていた。
 しかしながら、彼らがある範囲の時期の間に信じていたのは、共産主義をその基盤を疑問視することなく再建する、または「脱民主主義化」することができる、という意味で、スターリニズムは治癒可能だ、ということだった(その特質のうち基本的なのはは何で偶然的なのは何かはほとんど分かっていなかったけれども)。
 しかし、ときが経つにつれ、このような立場は成り立たないことがますます明瞭になった。すなわち、かりに一党システムが共産主義の不可欠の前提条件であるならば、共産主義システムを改良することはできない。//
 (12)しかしながら、しばらくの間は、マルクス主義の社会主義はレーニン主義改革がなくとも可能であるように、そして共産主義は「マルクス主義の枠組みの内部で」攻撃することが可能であるように見えた。
 このゆえに、反レーニン主義の意味でのマルクス主義の伝統を再解釈する試みが行われた。//
 (13)修正主義者たちは、マルクス主義は検閲、警察や特権といった一元的権力に依拠するのではなく、科学的な合理性という規範的規準に従うべきだ、と要求することから始めた。
 そのような特権的地位は不可避的にマルクス主義の頽廃をもたらし、マルクス主義から生命力を奪う、と論じた。
 マルクス主義は、科学が普遍的に受容する経験的かつ論理的な方法でもって、その存在を防衛することが可能でなければならない。かつまた、マルクス主義研究は、批判から免れる国家イデオロギーへと制度化されてきたがゆえに廃絶されなければならない。
 こうしたことは、理性的論拠でもってこそ各人の地位を守らなければならない、そのような自由な議論があってのみ、一般化することができただろう。
 批判論は、マルクス主義諸著作の未熟さと不毛さを、今ある時代の主要諸問題について適切さを欠くことを、図式性と硬直性を、そしてその教理の主要な構成員だと見なされている者たちの無知を、攻撃した。
 レーニン=スターリン主義的マルクス主義の観念的範疇の貧困さを、全ての文化を階級闘争の用語法で説明し、全ての哲学を「唯物論と観念論の間の闘い」へと還元し、全ての道徳性を「社会主義の建設」の手段に変える、等々の単純な企てを、攻撃した。//
 (14)哲学に関するかぎりは、修正主義者たちの主要な目標は、レーニン主義教理とは対立する、人間の主体性(human subjectivity)の擁護だった、と定式化することができるかもしれない。
 彼らによる攻撃の主要点は、つぎのとおりだった。//
 (15)第一に、レーニンの「反射の理論」を批判した。マルクスの認識論(epistemology)の意味とは全体として異なっている、と論じることによって。
 認識(cognition)とは客体が心(mind)に反射されることではなく、主体と客体の相互作用であり、社会的および生物的要因に規定されているこの相互作用を、世界を複写したものと見なすことはできない。
 人間の精神(mind)は、存在と関係し合う態様を超越することができない。
 我々の知る世界は、部分的には人間によって造られた。//
 (16)第二に、決定論(determinism)を批判した。
 マルクス理論も事実に関するいかなる考察も、とくに歴史に関する決定論的形而上学を正当化しない。
 不変の「歴史の法則」があり、社会主義は歴史的に不可避だという考えは、共産主義に対する熱望を掻き立てるのに一定の役割を果たしたかもしれない、しかしなおそれ以上のものをもった神話的迷信だった。
 偶然と不確実さを過去の歴史から排除することはできない。未来の予言については、なおさらのことだ。//
 (17)第三に、不確定な歴史編纂の定式から道徳的価値を帰結させようとする企てを、批判した。
 かりに間違って、社会主義の将来はあれこれの歴史的必然性によって保障されている、ということが支持されたとしても、そのような必然性を支持するのが我々の義務だ、ということにはならない。
 必要なことは、その貴重な理由のためにあるのではない。社会主義は、「歴史的法則」の結果だと主張されるものの基盤の上に、それを超えたところに、なおも道徳的基礎づけを必要としている。
 社会主義という観念を回復するためには、価値のシステムが先ずは歴史編纂上の教理からは別個に再建されなければならない。//
 (18)こうした批判論は全て、歴史過程および認識過程での主体の役割を回復するという共通の目的を持っていた。
 それらは、官僚制的体制への批判と結びついた。また、党装置は「歴史的法則」に関する優れた見解と知識をもっており、この力の強さにもとづいて無制限の権力と特権をもつのだ、という馬鹿げた偽装に対する批判とも。
 哲学の観点からは、修正主義はすみやかに、レーニン主義と完全に決裂した。//
 (19)修正主義者たちは、批判論を展開する過程で、当然のこととして、さまざまの根拠に訴えた。そのうちある範囲はマルクス主義で、別のある範囲はマルクス主義ではなかった。
 東ヨーロッパでは、一定の役割を実存主義(existentialism)が、とくにSartre の著作が、果たした。多くの修正主義者たちは、Sartre の理論、主体は事物たる地位に還元できないこと、に惹き付けられたのだ。
 別の多数の者たちは、ヘーゲルに着想を求めた。一方では、エンゲルスの科学理論に関心をもった者たちは、分析的(analytical)哲学をエンゲルスとレーニンの「自然弁証法」へと適用しようとした。
 修正主義者たちは、マルクス主義と共産主義に関する西側の批判論や哲学上の文献を読んだ。すなわち、Camu、Merleu-Ponty、Koesler、Orwell。
 過去のマルクス主義の権威は、彼らの議論と批判では二次的な役割しか果たさなかった。
 トロツキーへの言及は、ごく稀れだった。
 ある程度の関心はRosa Luxemburg に向けられたが、それは彼女のレーニンおよびロシア革命に対する攻撃のゆえだった(しかし、この点に関する彼女の書物をポーランドで出版する試みは、成功しなかった)。
 哲学者たちの中では、一時的にはLukács に人気があった。それは主として、主体と客体は統一へと向かうという歴史過程に関する彼の理論に理由があった。
 いくぶんか後に、Gramsci が関心の対象になった。彼の著作は完全にレーニンのそれとは反対する認識(knowledge)に関する理論の概略を含んでおり、それはまた、共産主義官僚制、先進的前衛という党に関する理論、歴史的決定論および社会主義革命への「操作的」接近方法、に関する批判的考察を伴っていた。//
 (20)このときにさらに補強する力を与えたのは、イタリア共産党だった。
 そのときまで生え抜きのスターリン主義者という、それに値する評価を受けていたPalmiro Togliatti は、第20回党大会の後では、ソヴィエトの指導者たちを批判した者として記録に残された。彼の言葉遣いは穏やかだったが、重要なのはその結論だった。
 彼はソヴィエト指導者たちを、スターリニズムの責任の全てをスターリンに負わせ、官僚機構の退廃の原因を分析できなかったとして非難した。そして、世界共産主義運動の「多極化(polycentrism)、すなわち他諸国共産党に対するモスクワの覇権を終焉させること、を訴えるに至った。//
 (21)1950年代の批判運動が東ヨーロッパの他国よりもはるかに進んだポーランドの修正主義は、党知識人から成る多数のグループの作業だった。-哲学者、社会学者、ジャーナリスト、文筆家、歴史家および経済学者。
 彼らは特別のプレスや文学、政治の週刊誌(とくに<Po prostu>と<Nowa Kultura>)に表現の場を見出し、それらは当局に抑圧されるまでは重要な役割を果たした。
 修正主義者だとして頻繁に攻撃された哲学者および社会学者の中には、B. Baczko、K. Pomian、R. Zimand、Z. Bauman、M. Bielińska および、主犯者として抜き出されたこの書物の執筆者がいた。
 修正主義理論を前進させた経済学者は、M. Kalecki、O. Lange、W. Brus、E. Lipinski およびT. Kowalik だった。//
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 ③へとつづく。

2063/L・コワコフスキ著第三巻第13章第1節②。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終章の試訳。分冊版、p.453~p.456。
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 第13章・スターリン死後のマルクス主義の進展。
 第1節・「脱スターリニズム化」②。
 (8)ポーランドでは、第20回党大会の時点ですでに社会的批判と「修正主義」(revisionist)の運動は大きく前進してはいたが、その大会とフルシチョフ演説は、党の解体を大きく加速させた。 
 また、体制を公然と攻撃する大胆な批判が可能になった。そして、統治機構を弱めて、長年にわたって蓄積していたが威嚇でもって抑えられていた社会不安が、ますます明白な形をとって表面に出てくるまでに至った。
 1956年6月、Poznań で労働者の蜂起が発生した。
 直接的には経済的困難が誘発したものだったが、ソヴィエト同盟とポーランド政府に対する、労働者階級の鬱積した憎悪が反映されていた。 
反乱は鎮圧されたが、党は士気と方向を失い、分派に攪乱され、「修正主義」が浸食した。
 ハンガリーでは、党が完全に崩壊して、民衆が公然たる反抗を行うまでに達した。そして政府は、ソヴィエト軍事駐留地(ワルシャワ協定)から撤退していると発表した。
 赤軍が反乱を鎮圧すべく介入し、指導者たちは容赦なく処理され、1956年十月の政府一員たちのほとんど全てが殺戮された。
 ポーランドは最後の瞬間で侵攻を免れたが、それの理由の一つは、従前の党指導者のWladyslaw Gomulka (W・ゴムウカ)が暴乱を回避する好運な人物として前面に出てきたことによる。この人物は、スターリンによる粛清の時代に生命を救われていた。政治的に収監されていたという、こうした彼の背景は、民衆からの信頼を獲得するのに役立った。
 当初はきわめて疑い深かったロシアの指導者たちは、最終的には-判明したように全く正当に-、ゴムウカはクレムリンの承認なくして権力を継承したけれども著しく従順でないことはないだろうと、そして〔ポーランドへの〕侵攻は多大な危険を冒すことになるだろうと、判断した。
 「ポーランドの十月」と言われるものは、社会的文化的な革新または「自由化」の時期を誘引するものでは全くなく、そのような試みが徐々に消滅していくのを表象していた。
 1956年のポーランドは、相対的に言って自由な言論と自由な批判の可能な国だった。それは、政府がそのように意図したのが理由ではなく、政府が事態掌握能力を失っていたことによる。
 まだ残っていた自由の余地は、年ごとに少なくなった。
強制的に設立されていた農民の協同組合は、その大部分がすみやかに解体された。
 しかし、1956年十月以降は、党機構が、失っていた地位を少しずつ回復した。
 党機構は統治の混乱を修復し、文化的自由を制限し、経済改革を停止させた。そして、1956年に自発的に形成されていた労働者評議会(councils)には全くの粉飾的な役割しか与えなかった。
 そうしているうちに、ハンガリー侵攻とそれに続く処刑の大波は、 他の「人民民主主義」諸国へもテロルをもち込んだ。
 東ドイツでは、積極的な「修正主義者」のうちの数人が拘禁された。
 脱スターリニズム化は、最後には激しい抑圧をもたらした。しかし、ブロック全体に生じた荒廃状況は、ソヴィエト・システムは以前と全く同じものではあり得ない、ということを示した。//
 (9)「脱スターリニズム化」という言葉は(「スターリニズム」と同様に)諸共産党自身が公式に用いたものではなかった。共産主義諸党は、その代わりに「誤りと歪曲の是正」、「人格崇拝の克服」、「党生活のレーニン主義規範への回帰」といった語を用いた。
 これらの婉曲語は、スターリニズムは無責任な大元帥(Generalissimo)が冒した遺憾な一連の過ちであってシステム自体とは関係がない、かつまた、体制がもつ抜群の民主主義的性格を回復するためにはスターリンを非難するので十分だ、という印象を与えることを意図していた。
 しかし、「脱スターリニズム化」や「スターリニズム」という用語は、共産主義諸国の公式の語彙の中では用いるのが排除されているというのとは異なる別の理由で、誤りに導くものだ。共産党員たちは、つぎの理由でこれらを用いるのを慎重に避けたのだから。すなわち、「スターリニズム」という語は支配の人格の欠陥から生じた偶然の逸脱ではなく、システムに関するものだ、との印象を与えたから。
 他方ではしかし、「スターリニズム」という語はまた、「システム」はスターリンの個性と結びついており、彼を非難することは「民主化」または「自由化」の方向への急激な変化の合図だ、ということも示唆する。
 (10)第20回党大会の背景が何だったかの詳細は知られていないけれども、振り返ってみると、25年間を覆ったシステムの一定の特徴がスターリンと彼が享有した侵し得ない権威なくしては維持することができない体制だった、ということは明らかだ。
 大粛清(great purges)以降にロシアにあった体制のもとでは、党や政府の最も特権をもつ者は全て、党の政治局員ですら、ある日とその翌日の間に、生きているのかそれとも破壊されているのかが僭政者のむら気による誤謬なき指立てによって決定される、という状況にあった。
 スターリンの死後に彼の継承者は誰もその地位につくはずがない、と彼らが懸念したのは、何ら驚くべきことではない。
 「誤りと歪曲」を非難することは、党の指導者たちの間での相互安全確保のための、不文の手段だった。
 そして、それ以降、他の社会主義諸国でと同様にソヴィエト同盟では、党内対立は廃された寡頭制の指導者たちによって生命を失うことなく解決された。
 周期的に行われた大虐殺には、政治的安定の確保という観点からは、たしかに一定の長所があった。分派を形成するのを不可能にし、権力装置の統一を確保してきたわけだ。
 しかし、この統一のために払った対価は、ワン・マン僭政制だった。また、全ての組織員が隷属状態に貶められることだった。彼らには、生命の持続自体が不確実だったのだ。彼らは、もっと悲惨な条件のもとにある他の奴隷たちの管理人たる地位をまだ享受していたけれども。
 脱スターリニズム化の第一の影響は、大量テロルが選択的テロルに代わったことだった。テロルはまだかなりの範囲で行われていたが、スターリンのもとでと比べれば、全く恣意的なものではなくなつた。
 ソヴィエト市民たちは、これ以来、多かれ少なかれ、監獄または強制収容所に入れられるのを回避する方法を知った。従前は、これに関する規準が完全になかったのだ。
 フルシチョフ時代の最も重要な出来事の一つは、強制収容所から数百万の人々が解放されたことだった。//
 (11)変化のもう一つの影響は、非中央化に向けた多様な動向が見られたことだった。そして、対立する政治グループを秘密に形成することが、より容易になった。
 経済改革の試みも行われ、一定の程度で、経済の効率性が改善された。
 しかしながら、重工業の優先というドグマは保持されたままで(Malenkov のもとでの短い中間期間を除く)、市場機構を解放することによって大衆の需要にもっと対応するように生産を変える歩みは、何らなされなかった。
 また、農業分野での実質的な改良も、何らなされなかった。頻繁に「再組織化」がなされたけれども、農業は集団化によって貶められた従来の惨めな状態のままだった。//
 (12)しかしながら、あらゆる変化も、「民主化」には到達せず、共産主義僭政体制を無傷なままに残した。
 大量テロルの放棄は人間の安全確保にとって重要なことだったが、個人に対する国家の絶対的権力を変えるものではなかった。
 個人には制度上の権利を何ら付与するものではなかった。また、全ての生活領域での主導性と統制力についての国家と党の独占を何ら侵害しなかった。
 全体主義的統治の原理は保持されたままだった。他方で、人間は国家の所有物のままで、人間の全ての目標と行動は国家の目的と必要に適合しなければならなかった。
 多くの生活分野で〔全体主義への〕吸収に対する抵抗があったけれども、現在もそうであるように、体制の全体が、可能な最大の限度で国家の統制を保障すべく作動した。
 大規模の無差別テロルは、必要で永続的な全体主義の条件ではない。
 抑圧手段の性格と強度は、多様な状況に応じて可変的だったかもしれない。
 しかし、共産主義のもとでは、法の支配のような原理は存在しなかった。その原理のもとでは、法は市民と国家の間の媒介者として機能し、個人<と向かい合う>国家の絶対的権力を剥奪する。
 ソヴィエト同盟および他の共産主義諸国の現在の抑圧体制は、たんなる「スターリニズムの残存」、またはシステムの根本的な変化なくしていずれは修復され得る遺憾な欠陥にすぎないのではない。
 (13)世界にある共産主義体制だけが、レーニン=スターリン主義の様式(pattern)だ。
 スターリンの死とともに、ソヴィエト同盟のシステムは、個人的僭政から寡頭制的僭政へと変化した。
 国家の万能性という観点からすれば、少しは効率の悪いシステムだ。
 しかしながら、それは、脱スターリニズムに至っているのではなく、スターリニズムの病原を継承しているシステムにすぎない。//
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 つぎの第2節の表題は、<東ヨーロッパでの修正主義>。

2056/L・コワコフスキ著第三巻第13章第1節①。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻の試訳。最終章へと移る。分冊版、p.450~。
 第13章・スターリン死後のマルクス主義の進展。
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 第1節・「脱スターリニズム化」①。
 (1)Joseph Vissarionovich Stalin は、1953年3月5日に脳卒中で死んだ。
 彼の後継者たちが権力をめぐって立ち回り、誤導的にも「脱スターリニズム化」と称された過程を開始したとき、世界はその報道をほとんど理解することができなかった。
 ほとんど3年後に、それは頂点に達した。そのとき、Nikita Khrushchevが、ソヴィエト共産党に、そしてすみやかに全世界に、進歩的人類の指導者、世界の鼓舞者、ソヴィエト人民の父、科学と知識の主宰者、最高の軍事的天才、要するに歴史上最大の天才だったスターリンは、実際には、妄想症的(paranoiac)拷問者、大量殺戮者、ソヴィエト国家を大敗北の縁に追い込んだ軍事的無学者だった、と発表した。//
 (2)スターリン死後の3年間は劇的瞬間に満ちた時期だった。ここでは簡潔にのみ言及する。
 1953年6月、東ドイツの労働者の反乱が、ソヴィエト兵団によって粉砕された。
 そのすぐあと、クレムリンの幹部の一人で国家保安局の長官だったLavrenty Beriya が多様な犯罪を冒したとして逮捕された(彼の裁判と処刑は12月まで報道されなかった)。
 同じ頃(西側はもっと後で非公式に知ったのだが)、いくつかのシベリアの強制収容所の収監者たちが、反乱を起こした。
 これらの反乱は残虐に鎮圧されたが、おそらくは抑圧制度の変化をもたらした。
 スターリン崇拝者たちは、スターリン死後の数カ月以内に多くは排除された。
 党が1953年7月に50周年を記念して宣言した「テーゼ」では、スターリンの名はわずか数回しか言及されず、いつもは随伴していた称賛の言葉がなかった。
 1954年、文化政策に若干の緩和があり、その秋には、ソヴィエト同盟がユーゴスラヴィアとの和解する用意があることが明らかになった。これが意味したのは、東ヨーロッパ全体の共産党指導者たちを処刑する口実となってきた「Tito主義者の陰謀」という責任追及を撤回する、ということだった。//
 (3)スターリン崇拝とスターリンの疑いなき権威は長年にわたり世界の共産主義イデオロギーの楔だったので、こうした転回が全ての共産党に混乱と不確実さもたらし、その全ての側面について-経済的愚鈍さ、警察による抑圧、文化の隷従化-、社会主義システムに対するますます厳しいかつ頻繁な批判を呼び起こしたことは、何ら疑うべきことではなかった。
 批判は、1954年末以降に「社会主義陣営」の中に広がった。
 最も激烈だったのはポーランドとハンガリーで、これらの国では、修正主義運動-と呼ばれたのだが-は、共産主義のドグマの例外なく全ての側面に対する全面的な攻撃へと発展した。//
 (4)1956年2月のソヴィエト同盟共産党第20回大会で、フルシチョフは、「個人崇拝」に関する有名な演説を行った。
 これは非公開の会議で行われたが、外国の代議員も出席していた。
 この演説はソヴィエト同盟では印刷されなかった。しかし、そのテキストはいく人かの党活動家に知られており、のちにすみやかにアメリカ合衆国国務省によって公表された。
 (共産主義諸国の間では、ポーランドは、信頼されていた党員によってテキストが「内部用に」印刷して配布された唯一の国だったように見える。
 西側の共産主義諸党は、このテキスト文の真正さを承認するのを長い間拒否した。)
 フルシチョフは演説文の中で、スターリンの犯罪と妄想症的幻想、拷問、処刑および党官僚の殺戮に関する詳細な説明をした。しかし彼は、反対派運動をした党員たちのいずれについても名誉回復を行わなかった。彼が言及した犠牲者たちは、Postyshev、Gamarnik、およびRudzutak のような疑いなきスターリニストたちで、Bukharin やKamenev のような独裁者のかつての反対者たちではなかった。
 この演説は、どのようにして、またいかなる社会的条件のもとで血に飢えた妄想狂が25年にわたって無制限の専制的権力を2億の住民をもつ国家に対して行使することができたかに関して-その国家はその間ずっと人間の歴史上最も進歩的で民主主義的な統治のシステムだと祝福されてきたのだったが-、何の手がかりも提示しなかった。
 確実だったのはただ、ソヴィエトのシステムと党自体は完璧に無垢であり、僭政者の暴虐について何の責任もない、ということだった。//
 (5)世界のコミュニストたちに対するフルシチョフ演説の爆弾的効果は、それが含む新しい情報の量によるのではなかった。
 西側諸国では、学問的性質のものであれ第一次資料であれ、すでに多数の文献を利用することができた。それらは、相当に確信的にスターリン体制の恐怖を叙述するもので、フルシチョフが言及した詳細は、一般的な像を変更したり多くを追加したりするものではなかった。
 ソヴィエト同盟や従属諸国では、共産主義者も非共産主義者も、個人的な経験から真実を知っていた。
 共産主義運動に対する第20回大会の破壊的な効果は、その運動の二つの重要な特質によっている。すなわち、第一に共産党員の心性(mentality)、第二に統治システムにおける党の機能。
 (6)国家当局が情報が外部世界に浸み出ることを阻止すべくあらゆる手段を用いた「社会主義ブロック」のみならず、民主主義諸国でも、共産党は、「外部から」の、すなわち「ブルジョア」的源泉から来る全ての事実と議論からの影響を完璧に受けない、という心性を生み出した。
 ほとんどの場合、共産党員たちは魔術的思考の犠牲者だった。その魔術的思考によれば、免疫的源泉が外部からの情報に汚染しないように清めてくれるのだ。
 基本的な係争点に関する政治的敵対者は全て、個々のまたは事実の問題で自動的に間違っているに違いなかった。
 共産党員の心性は、事実と理性的な論拠による攻撃に対して、十分に武装されていた。
 神話的システムでのように、真実は(むろんイデオロギー上の手引きでではないけれども)実践において、実践から生じる源泉でもって明確になる。 
 「ブルジョア的」書物や新聞に書かれているかぎりで何も怖れを生じさせない諸報告は、クレムリンの託宣が確認したときには雷鳴のごとき効果をもつ。
 昨日には「帝国主義者のプロパガンダによる卑劣なウソ」だったものは、突如として、呆れるほどの真実に変わった。
 さらに、落ちた偶像は誰か別の者に脚台を占められただけではなかった。 
 スターリンが冠を剥がれたことは一つの権威が崩壊したことを意味したのみならず、制度全体の崩壊を意味した。
 党員たちは、最初の者の誤りを糾すための第二のスターリンに希望を託すことができなかった。
 スターリンは悪だったが党とシステムは無欠だという公的な保証を、彼らはもはや真面目に受け止めることができなかった。//
 (7)つぎに、共産主義の道徳的破滅は、瞬間的に、権力のシステム全体を揺るがした。
 スターリン主義体制は、党の支配を正当化するイデオロギーという接合剤なくしては、存在することができなかった。そして、このときの党装置は、イデオロギー上の衝撃に対して敏感だった。
 レーニン=スターリン主義社会主義では権力システム全体の安定性は統治する機構のそれに依存していたので、官僚機構の混乱、不確実さおよび士気喪失は、体制の構造全体を脅かした。
 脱スターリニズム化とは共産主義が二度と治癒することのできない病原菌であることが判明することとなった。何とか一時的な態様をとってであれ、その病に適応すべく努力はしたのだけれども。//
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 第一節②へとつづく。第二節以降の表題は、つぎのとおり。
 第二節・東ヨーロッパの修正主義。
 第三節・ユーゴ修正主義。
 第四節・フランスでの修正主義と正統派。
 第五節・マルクス主義と「新左翼」。
 第六節・毛沢東の農民マルクス主義。

1995/マルクスとスターリニズム⑥-L・コワコフスキ1975年。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski), The Marxist Roots of Stalinism(1975), in: Is God Happy ? -Selected Essays (2012)の試訳の最終回。最終の第5節。
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 スターリニズムのマルクス主義という根源。
 第5節・マルクス主義としてのスターリニズム③。
(16)マルクスとエンゲルスから、つぎの趣旨の多数の文章を引用することができる。第一に、人間の歴史で一貫して、「上部構造」は所与の社会の対応する財産関係に奉仕してきた。第二に、国家は現存する生産関係のをそのままに維持するための道具にすぎない。第三に、法は階級権力の武器以外のものではあり得ない。
 同じ状況は、少なくとも共産主義が絶対的な形態で地球上を全体的には支配していないかぎり、新しい社会で継続する、と正当に結論づけることができる。
 言い換えると、法はプロレタリアートの政治権力の道具だ。そして、法は権力行使の技術にすぎないために(法の主要な任務は通常は暴力を隠蔽して人民を欺くことだ)、勝利した階級が支配する際に法の助けを用いるか用いないかは、何の違いもない。
 重要なのは階級内容であって、その「形式」ではない。
 さらに加えて、新しい「上部構造」は新しい「土台」に奉仕しなければならない、と結論づけるのも正当だと思える。
 このことがとりわけ意味するのは、文化生活は全体として、最も意識的な要員の口を通じて語られ、支配階級により明確にされる政治的任務に完全に従属しなければならない、ということだ。
 ゆえに、スターリニズム体制での文化生活を指導する原理として普遍的に役立ったのは、「土台-上部構造」理論からの適切な推論だった、と述べることができる。
 同じことは、科学についても当てはまる。
 もう一度言うが、エンゲルスは科学を理論的哲学による指導のないままにしてはならない、さもなくば科学は完全な経験論者的痴呆へと陥ってしまう、と語らなかったか?
 そして、これこそがじつに、関心の範囲はむろんのこと内容についても全ての科学をソヴィエトの哲学者と党指導者たちが哲学によって-つまりは党イデオロギーによって-統制することを、最初から正当化した方策だった。
 1920年代にKarl Korsch はすでに、最上位性を哲学が要求することと科学に対してソヴィエト体制がイデオロギー的僭政を行うことの間には明確な関係がある、と指摘した。//
 (17)多数の批判的マルクス主義者は、これはマルクス主義の戯画(calicature)だと考えた。
 私はそれを否定しようとはしない。
 しかしながら、こう付け加えたい。戯画が原物と似ている場合にのみ-実際にそうだったのだが-、「戯画」という語を意味あるものとして用いることができる。
 つぎの明白なことも、否定しようとはしない。マルクスの思想は、ソヴィエトの権力体制を正当化するためにレーニン=スターリン主義イデオロギーによって際限なく繰り返されたいくつかの引用文から感じられる以上にはるかに、豊かで、繊細で、詳細だ、ということ。
 だがなお、私は、そうした引用文は必ずしも歪曲ではない、と論じたい。
 ソヴィエト・イデオロギーによって採用されたマルクス主義の外殻(skelton)は、きわめて単純化されているが、新しい社会を拘束する虚偽の(falsified)指針だったのではない。//
 (18)共産主義の全理論は「私有財産の廃棄」の一句で要約することができるという考えは、スターリンが考えついたものではなかった。
 スターリンはまた、賃労働は資本なくしては存在できないとか、国家は生産手段に対する中央志向権力を持たなければならないとか、あるいは民族対立は階級対立とともに消滅するだろうとかの考えを提示したのでもなかった。
 我々が知っているように、これらの考えは全て、明らかに、<共産主義者宣言>で述べられている。
 これらの考えは、まとめて言うと、ロシアで起こったように、いったん工場と土地が国家所有になれば社会は根本的に自由になるということを、たんに示唆しているのみならず、論理的に意味している。
 このことはまさしく、レーニン、トロツキーおよびスターリンが主張したことだった。//
 (19)要点は、マルクスは人間社会は統合の達成なくしては「解放」されない、と実際に一貫して信じた、ということだ。
 そして、社会の統合を達成するものとしては、僭政体制とは別の技術は知られていない。
 市民社会を抑圧すること以外には、市民社会と政治社会の間の緊張関係を抑える方法は存在しない。
 個人を破壊すること以外には、個人と「全体」の間の対立を排除する方策は存在しない。
 「より高い」「積極的な」自由-「消極的な」「ブルジョア的」自由とは反対物-へと向かう方途は、後者を抑圧すること以外には存在しない。
 かりに人間の歴史の全体が階級の観点から把握されなければならないとすれば-かりに全ての価値、全ての政治的および法的制度、全ての思想、道徳規範、宗教的および哲学的信条、全ての形態の芸術的創造活動等々が「現実の」階級利益の道具にすぎないとすれば(マルクスの著作にはこの趣旨の文章が多数ある)-、新しい社会は古い社会からの文化的継続性を暴力的に破壊することでもって始まるに違いない、ということになる。
 実際には、この継続性は完全には破壊され得ず、ソヴィエト社会では最初から部分的(selective)な継続性が選択された。
 「プロレタリア文化」の過激な追求は、指導層が支援した一時期のみの贅沢にすぎなかった。
 ソヴィエト国家の進展につれて、ますます部分的な継続性が強調されていった。それはほとんどは、民族主義的(nationalistic)性格の増大の結果だった。
 (20)私は思うのだが、ユートピア(夢想郷)-完璧に統合された社会という展望-は、たんに実現不可能であるばかりではなく、制度的手段でこれを生み出そうとすればただちに、反生産的(counter-productive)になるのではないか。
 なぜそうなるかと言うと、制度化された統合と自由は反対の観念だからだ。
 自由を剥奪された社会は、対立を表現する活動の息が止まるという意味でのみ、統合されることができる。
 対立それ自体は、消失していかない。
 したがって結局は、全くもって、統合されないのだ。//
 (21)スターリン死後の社会主義諸国で起きた変化の重要性を、私は否定しない。これら諸国の政治的基本構成は無傷のままで残っている、と主張するけれども。
 しかし、最も大切なことは、いかに緩慢に行われるとしても、市場が生産に対して何らかの制限的影響を与えるのを許容すること、生活の一定領域での厳格なイデオロギー統制を放棄すること、あるいは少しでも緩和することは、マルクスによる統合の展望を断念することにつながる、ということだ。
 社会主義諸国で起きた変化が明らかにしているのは、この展望を実現することはできない、ということだ。すなわち、この変化を「真の(genuine)」マルクス主義への回帰だと解釈することはできない。-マルクスならば何と言っただろうかはともかく。//
 (22)上述のような解釈のために追加する-断定的では確かにないけれども-論拠は、この問題の歴史のうちにある。
 マルクス主義の人間主義的社会主義のこのような結末を「誰も予見できなかった」と語るのは完全にまやかし(false)だろう。
 社会主義革命のだいぶ前に、アナキストの著作者たちは実際にそれを予言していた。彼らは、マルクスのイデオロギー上の諸原理にもとづく社会は隷属と僭政を生み出す、と考えたのだ。
 ここで言うなら少なくとも、人類は、歴史に騙された、予見できない事態の連結関係に驚いた、と泣き事を言うことができない。//
 (23)ここで論じている問題は、社会発展での「生来(genetic)要因と環境要因」という問題の一つだ。
 発生論的考察ですら、考究される属性が正確に定義されていなければ、あるいはそれが身体的ではなくて精神的な(例えば「知性」のような)属性であるならば、これら二要因のそれぞれの役割を区別するのはきわめて困難だ。
 そして、我々の社会的な継承物(inheritance)における「生来」要因と「環境」要因を区別することはどれほど困難なことだろうか。-継承したイデオロギーと人々がそれを実現しようとする偶発的諸条件とを区別することは。
 これら二要因が全ての個別の事案で作動しており、それらの相関的な重要性を計算してそれを数量的に表現する方法を我々は持たない、ということは常識だ。
 分かっているのは、その子がどうなるかについて「遺伝子」(生来のイデオロギー)に全ての責任があると語ることは、「環境」(歴史の偶発的事件)がその全てを説明することができると語るのと同様に全く愚かなことだ、ということだ。
 (スターリニズムの場合は、これら二つの相容れない極端な立場が表明されている。それぞれ、一方でスターリニズムとは実際にマルクス主義を現実化したものにすぎない、他方でスターリニズムとはツァーリ体制の継承物にすぎない、という見方だ。)
 しかし、我々はスターリニズムについての責任の「適正な割合」についてそれぞれの要因群を計算したり配分したりすることはできないけれども、その成熟した姿が「生来の」諸条件によって予期されたか否かを、なおも理性的に問題にすることはできる。
 (24)私はスターリニズムからマルクス主義へと遡って軌跡を描こうとしたが、その間にある継続性は、レーニン主義からスターリニズムへの移行を一瞥するならば、なおも鮮明な形をとっていると思われる。
 非ボルシェヴィキ党派は(リベラル派は論外としてメンシェヴィキは)、ボルシェヴィキが採っていた一般的方向に気づいており、1917年の直後には、その結末を正確に予見していた。
 さらに加えて、スターリニズムが確立されるよりもずっと前に、新しい体制の僭政的性格は党自体の内部ですみやかに攻撃されていた(「労働者反対派」、ついで「左翼反対派」によって-例えばRakovskyによって)。
 メンシェヴィキは、自分たちの予言の全てが1930年代に確証されたことを知った。また、トロツキーが、メンシェヴィキによる「我々はそう言った」は悲しいほどに説得力がない、という時機遅れの反論を行ったことも。
 トロツキーは、メンシェヴィキは将来に起きることを予言したかもしれないが、それは全く間違っている、彼らはボルシェヴィキによる支配の結果としてそうなると考えたのだから、と主張した。
 トロツキーは言った。実際にそうなった、しかしそれは官僚制によるクーの結果としてだ、と。
 <欺されていたいと思う者は全て、欺されたままにさせよ(Qui vult decipi, decipiatur)。>//
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 終わり。

1993/マルクスとスターリニズム⑤-L・コワコフスキ1975年。

 Leszek Kolakowski, The Marxist Roots of Stalinism(1975), in: Is God Happy ? -Selected Essays (2012)の試訳のつづき。
 最終の第5節。
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 スターリニズムのマルクス主義という根源。
 第5節・マルクス主義としてのスターリニズム②。
 (8)これは、マルクスの階級意識という観念の単純化した範型だ。
 たしかに、真実について独占する資格があるという党の主張がここから自動的に導き出されはしなかった。
 また、等号で結ぶためには、党に関する特殊レーニン主義の考えが必要だ。
 しかし、このレーニン主義考えには反マルクス主義のものは何もなかった。
 マルクスがかりに党に関する理論を持っていなかったとしても、彼には労働者階級の潜在的な意識を明確にすると想定される前衛集団という観念があった。
 マルクスはまた、自分の理論はそのような意識を表現するものだと見なした。
 「正しい」労働者階級の革命的意識は自然発生的労働者運動の中に外部から注入されなければならないということは、レーニンがカウツキーから受け継いだものだった。
 そして、レーニンは、これに重要な補足を行った。
 すなわち、ブルジョアジーとプロレタリアートの階級闘争によって引き裂かれた社会には二つの基本的なイデオロギーしか存在することができないので、プロレタリア的でない-換言すると前衛たる政党のイデオロギーと一致しない-イデオロギーは、必ずやブルジョア的なそれだ。
 かくして、労働者たちは助けがなければ自分たち自身の階級イデオロギーを産み出すことができないので、自分たちの力で産み出そうとするイデオロギーはブルジョア的なものになるに違いない。
 言い換えれば、労働者たちの経験上の「自然発生的な」意識は、本質的にはブルジョアの<世界観>であるものを生み出すことができるにすぎない。
 その結果として、マルクス主義の党は、真実の唯一の運び手であるがゆえに、経験上の(そして定義上ブルジョア的な)労働者の意識から完全に独立している(但し、プロレタリアートよりも前に進みすぎることのないように、その支持を得るために求められている場合には戦術的な譲歩をときどきはしなければならない)。//
 (9)これは、権力掌握後も、真実のままだった。
 党は真実の唯一の所持者として、大衆の(不可避的に未成熟な)経験上の意識を(戦術的意味がある場合を除いて)完全に無視することができる。
 じつに、そうしなければならない。それができないとすれば、必ずや、党はその歴史的使命を裏切ることになる。
 党は「歴史的発展法則」および「土台」と「上部構造」の正しい関係の二つを知っている。党はそのゆえに、過去の歴史的段階からの残滓として存続しているものとして破壊するに値する、そのような人民の現実的で経験的な意識を、完璧に見定めることができる。
 宗教的想念は、明らかにこの範疇に入る。しかし、人民の精神(minds)を内容において指導者たちのそれとは異なるものにしているもの全てが、そうだというのではない。//
 (10)プロレタリアの意識をこのように把握することで、精神に対する独裁は完全に正当化される。党は社会よりも、社会の本当の(経験的ではない)願望、利益および思索が何であるかを実際に知っている。
 我々の最終的な等式は、こうだ。真実=プロレタリアの意識=マルクス主義=党のイデオロギー=党指導者の考え=党のトップの決定。
 プロレタリアートに一種の認識上の特権を与えるこの理論は、同志スターリンは決して間違いをしない、との言明に行き着く。
 この等式には、非マルクス主義のものは何もない。//
 (11)党についての真実の真実の唯一の所持者だという観念はもちろん、「プロレタリアートの独裁」という表現によって補強された。この後者の語をマルクスは、説明しないで、二度か三度何気なく使った。
 カウツキー、モロトフその他の社会民主主義者たちは、マルクスが「独裁」で意味させたのは統治の形態ではなく統治の階級的内容だ、この語は民主主義国家と反対するものとして理解されるべきではない、と論じることができた。
 しかし、マルクスは、この論脈では何らかの類のことをとくには語らなかった。
 そして、この「独裁」という語を額面どおりにレーニンが正確に意味させて明瞭に語ったものを意味するものだと受け取ることには、明らかに間違ったところは何もない。すなわち、法によって制限されない、完全に暴力(violence)にもとづく支配。//
 (12)党がもつ、全ての生活領域に対してその僭政を押しつける「歴史的権利」の問題とは別に、その僭政(despotism)という観念に関する問題もあった。
 この問題は、根本的にはマルクスの予見を維持する態様で解決された。
 解放された人類はつぎのことを行うと想定された。すなわち、国家と市民社会の区別を廃棄し、個々人が「全体」との一体化を達成するのを妨げてきた全ての媒介的装置を排除し、私的利害の矛盾を内包するブルジョア的自由を破壊し、労働者たちが商品のように自分たちを売ることを強いる賃労働制度を廃止する。
 マルクスは、この統合がいかにして達成され得るのかに関して、厳密には論述しなかった。つぎの、疑い得ない一点を除いては。搾取者の搾取-つまり、生産手段の私的所有制の廃棄。
 搾取というこの歴史的行為がひとたび履行されるならば、残っている社会的対立の全ては古い社会から残された遅れた(ブルジョア的)精神を表現するものにすぎない、と論じることができたし、そうすべきだった。
 しかし、党は、新しい生産関係に対応する正しい精神(mentality)の内容はどのようなものであるべきかを知っている。そして当然に、それとは適合しない全ての現象を抑圧することのできる権能をもつ。//
 (13)この望ましい統合を達成する適切な技術とは、実際のところ、どのようなものになるのだろうか?
 経済的基盤は、設定された。
 マルクスは市民社会が国家によって抑圧されるまたは取って代わられると言いたかったのではなく、政治的統治機構は余分なものになり、「物事の管理〔行政〕」だけを残して、国家が消滅することを期待したのだ、と論じることができた。
 しかし、国家が定義上、共産主義への途上にある労働者階級の道具であるならば、国家はその定義上、「被搾取大衆」に対してではなく、資本主義社会の遺物に対してのみ、権力を行使することができる。
 「事物の管理」または経済の運営はどのようにすれば、労働の、つまりは全ての勤労人民の利用や配分を伴わないことができるのか?
 賃労働-労働力の自由市場-は、廃棄されたはずだった。
 これは想定どおりに生じた。
 しかし、共産主義者の熱意だけが人々が労働をする不十分な誘因だと分かると、いったいどうなるのだろうか?
 このことが意味するのは明らかに、それを破壊することが国家の任務である、ブルジョア的意識に囚われてしまう、ということだ。
 従って、賃労働を廃止する方法は、それを強制(coercion)に置き代えることだ。
 そうすると、かりに政治社会のみが人民の「正しい」意思を表現するのだとすると、市民社会と政治社会の統合はどのようにして達成されることができるのか?
 ここで再び言えば、その人民の意思に反対しまたは抵抗する者たちはみな、定義上は資本主義秩序の残存者となる。
 さらにもう一度言えば、統合へと進む唯一の途は、国家によって市民社会を破壊することだ。//
 (14)人々は自由に、強制されることなく協力するように教育されなければならないと主張する者は、誰であっても、つぎの問いに答えなければならない。
 このような教育を、どの段階で、どのような手段によれば、達成することができるのか?
 資本主義社会でそれが可能だと期待するのは、マルクスの理論とは確実に矛盾しているのではないか? 資本主義社会での労働人民は、ブルジョア的イデオロギーの圧倒的な影響のもとに置かれているのだ。
 (支配階級の思想は支配している思想だと、マルクスは言わなかったか?
 社会に関する道徳的変化を資本主義秩序で希望するのは、全くの夢想(pure utopia)ではないのか?)
 そして権力掌握の後では、教育は社会の最も啓蒙的な前衛の任務だ。
 強制は、「資本主義の残存者たち」に対してのみ向けられる。
 そうして、社会主義の「新しい人間」の産出と苛酷な強制との間を区別する必要はない。
 その結果として、自由と隷属の区別は、不可避的に曖昧になる。//
 (15)(「ブルジョア」的意味での)自由の問題は、新しい社会では意味のないものになる。
 エンゲルスは、本当の自由は人々が自然環境を征服することと社会過程を意識的に規制することの両方を行うことのできる範囲と定義されなければならない、と言わなかったか?
 この定義にもとづけば、社会の技術が発展すればするほど、社会は自由になる。
 また、社会生活が統合された指令権力に服従すればするほど、社会は自由になる。
 エンゲルスは、社会の規制は必ず自由選挙または他の何らかのブルジョア的装置を伴うだろう、とは述べなかった、
 そうすると、僭政的権力の一中心によって完全に規制された社会はその意味で完璧に自由ではない、と主張することのできる理由は存在しない。//
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 ⑥へつづく。

1988/マルクスとスターリニズム④-L・コワコフスキ1975年。


 Leszek Kolakowski, The Marxist Roots of Stalinism(1975), in: Is God Happy ? -Selected Essays (2012)の試訳のつづき。
 最終の第5節。
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 スターリニズムのマルクス主義という根源。
 第5節・マルクス主義としてのスターリニズム①。

 (1)この問題を論じるにあたって、私はつぎのことを想定(assume)している。マルクスの思索は1843年からそれ以降、価値に重きをおく同じ考えでもって進められた。そのためにマルクスは継続して、よりよい表現形態を探し求めた。
 かくして私は、マルクスの知的発展には強い継続性があることを強調する人々に同意する。
 彼の主要な考え方の成長過程には何らかの重要な、烈しいというほどではない中断があった、とは私は考えない。
しかし、私はここではこの論争の的となっている-しかし決して独創的ではない-見方に関して論述するつもりはない。
 (2)マルクスの見方によれば、人間の偉大な成果と人間の悲惨さの両方について責任のある人間の原罪、その<felix cupla〔幸いなる罪〕>は、労働の分割(division)、そしてその不可避の結末である労働の疎外(alienation)だった。
 疎外された労働の極端な形態は交換価値で、それは産業社会での生産過程全体を支配する。
 全ての人間の生産活動の背後にある主要な駆動力であるのは、人間の欲求(needs)ではなく、貨幣の形態での交換価値の、際限なき蓄積だ。
 このことが個人的な特性と能力をもつ人間諸個人を商品(commodities)に変形し、商品となった諸個人は、市場という匿名の法則に従って、賃労働のシステムの範囲内で、売買されてきた。
このことは現代の政治社会の、疎外された制度的枠組みを生み出した。
 また、一方では市民社会構成員としての個人的で利己的な自分中心の人間生活と、他方では政治社会構成員として形成する人工的で不明瞭な共同体との間の、避けがたい分裂を生み出した。 その結果として、人間の意識は、イデオロギー上の歪曲を受けざるをえなくなった。人間生活とその「表現」として人間自身がもつ役割を肯定するのではなく、自分自身に関する分離した、幻想的な王国を定立した。その王国は、この分裂を永遠化するために造られている。
 労働の疎外化は、私有財産にかかわって、剰余生産物の配分をめぐって闘う、敵対する諸階級へと社会を分化させた。
最終的には、社会での全ての非人間化が集中し、その結果として、人間存在に関する意識を啓蒙して目覚めさせ、喪失した人間存在の統合性を回復するよう宿命づけられている、そのような階級が生み出された。
 この革命的な過程は、現在の労働条件を守る制度的機構を粉砕することでもって始まり、社会対立の全ての根源が除去され、社会の過程はそれに関与する諸個人の集団的意思に従属する、そのような社会を生み出すことでもって終わる。
 そして、この後者の社会は、社会に抗してではなく社会を豊かにすることに役立つ、全ての諸個人の潜在能力を花咲かせることができるだろう。
 諸個人の労働は、必要な最小限へと次第に減少していくだろう。そして文化的創造性や上質の娯楽を追求することに、自由な時間は費やされるだろう。
 歴史上と現在のいずれのもの闘争の完全な意味は、将来での完璧に統合された人類というロマンティックな範型でのみ明らかにされる。
 この統合はもはや、全体としての種から諸個人を分離する調停的機構の必要性などを意味していない。
 人類の「前史」を閉じる革命的行動は、不可避であるとともに、自由な意思によって命じられてもいる。
 自由と必然の区別は、プロレタリアートの意識において消失してしまっているだろう。古い秩序の破壊を通じて、プロレタリアート自身の歴史的運命を気づくにいたっているのだから。
 (3)マルクスの理論を全体主義的運動のイデオロギーへと転化させたのは、人間の完璧な統合という彼の予想(anticipation)と、歴史的な特権をもつプロレタリアートの意識という彼の神話(myth)の両方ではないか、と私は疑っている(suspect)。
 このような言葉遣いでもって彼は思考したというのが理由ではなく、根本的諸価値をそれ以外の方法でもって認識することはできないからだ。 
マルクスの理論には未来社会に関する見解が欠けている、というのではなかった。欠けてはいなかった。
 しかし、マルクスの力強い想像力をしてすら、「前史」から「真の歴史」への移行を予測することまでには、そして前者を後者に転換する適切な社会的技術を提案することまでには、達することができなかった。
 この歩みは、実際の指導者たちによって達成されなければならなかった。
 しかも、受け継がれた教理の全体に追加することや詳細部分を充填することもまた、必ずや示唆されていたのだ。//
 (4)完璧に統合された人間性というマルクスの夢において、彼は厳密に言えば、ルソー主義者ではなかった。
 ルソーは、各個人と共同体の間の失われた自発的一体性はいずれ回復されるだろう、そして文明化という毒は人間の記憶から抹消されるだろう、とは考えなかった。
 しかし、このことこそが、マルクスが信じたものだった。
マルクスは文明を放擲して野蛮な状態の原始的幸福に戻ることが可能でかつ望ましい、と考えた、という理由からではなかった。
 そうではなく彼は、抗しがたい技術の進歩は究極的には自ら自身の破壊性を(弁証法的に)克服して、人間に新しい統合性を付与するだろう、と考えたからだった。その統合性は、必要性を抑圧することではなく、欲求からの自由にもとづいている。
 この点で、マルクスは、サン・シモン主義者(St Simonists)の希望を共有していた。//
 (5)マルクスのいう解放された人類は、諸個人間の対立や個人と社会の間の紛議を解決するためにブルジョア社会が用いている装置を、何ら必要とはしない。
 人権宣言で構想され、宣告されているごとき、法、国家、代表制民主主義および消極的意味での自由。
 これらの装置は、市場によって経済的に支配され、対立する利害から切り離された諸個人で成る、そういう社会に特徴的なものだ。
 国家とその法的な骨組みは強制によってブルジョアの財産を守り、紛争に対して規準を押しつける。
それらの存在こそが、人間の活動や願望が自然に相互に衝突し合う社会を前提としている。
 自由というリベラルな観念は、私の自由は不可避的に私の仲間たちの自由を制限する、ということを意味包含している。そしてこのことがじつに、 自由の射程範囲が所有制の規模と合致するならば起きることだ。
ブルジョア社会がいったん共同的財産制〔共産主義〕に置き換えられるならば、こうした装置はもはや目的を持たない。
 個人の利益は普遍的なそれに収斂する。そして、個人の自由の範囲を明確に画する諸規範でもって社会の不安定な状態を支える必要は、もはやない。
そのときに打倒されているのは、リベラルな社会の「理性的な」装置だけではない。
 継承されている種族的、民族的な紐帯もまた、消失するだろう。
 資本主義秩序は、この点で、共産主義への途を踏み固めている(pave)。
 資本の世界的な力のもとで、かつプロレタリアートの世界的な意識の結果として、古い非理性的な忠誠心は崩れ落ちる。
 こうした過程の終わりにあるのは、個人と全体としての人間という種以外には何も残されていない、そして、諸個人が自分自身の生活、能力、社会的力としての活動と自らを直接に一体化(identify)する、そのような社会だ。
 諸個人は、この一体性(identity)の経験を媒介するための、政治的諸装置、あるいは伝統的な民族的紐帯をもはや必要としないだろう。// 
 (6)これは、いかにして達成することができるのか?
 このような社会的全質変化を引き起こす技術はあるのか?
 マルクスはこの疑問に答えなかった。そして、彼の見方からすると、問題が間違って設定されていたように見える。
 要点は、望ましい社会を恣意的に描いたで後で社会的設計をするための技術を見出すことではなかった。そうではなく、そりような社会を生み出すべくすでに作業をしている社会的諸力を理論的に「見極め」(identify)し、「表現」することだった。
 そして、その諸力を表現することは、実際的にその活力を補強し、それらが意識する自己一体化(self-identification)に必要な自己に関する知識を与えることでもあった。
 (7)マルクスの叙述については、多数の可能な実際的解釈があった。ある者はその価値に依拠して、その教理にとって基礎的なものを考察した。
 ある者は、その定式化を全体にとっての根本的な手がかりだと解釈した。
 マルクス主義のレーニン-スターリン範型となった解釈には、間違っているものは何もないように見える。
 つぎのように進んだ。
 (8)マルクス主義は既製の教理体であり、その成熟した、かつ理論的に練り上げられた形態ではプロレタリアートの階級意識と合致するとされる。
 マルクス主義は、「科学的」価値をもち、また「最も進歩的な」社会階級の願望を明瞭に述べるがゆえに、「正しい」(true)。
 言葉の発生論的意味とその通常の意味の区別は、教理ではつねに曖昧だった。
 プロレタリアートはその歴史的使命のおかげで特権的な認識する地位にある、そしてそのゆえに社会「全体性」に関する見方は正しくなければならない、ということが、当然の前提とされていた。
 かくして、「進歩的なもの」は自動的に「正しい」ものになる。この「正しさ」が普遍的に受容されている科学的手続によって確認され得るのか否かは別として。//
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 つづく。

1987/マルクスとスターリニズム③-L・コワコフスキ1975年。

 Leszek Kolakowski, The Marxist Roots of Stalinism, in: Is God Happy ? -Selected Essays (2012)の試訳のつづき。
 第三節と第四節。
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 スターリニズムのマルクス主義という根源。
 第三節・スターリン主義全体主義の主要な段階。
 (1)全体主義のソヴィエト変種は、絶頂点に到達する前に多年を要して成熟していった。
 その成長の主要な諸段階はよく知られている。だが、簡単に言及しておく必要があるだろう。
 (2)第一段階では、代表制民主主義の基本的諸形態-議会、選挙、政党、自由なプレス-が廃絶された。
 (3)第二段階(第一段階と一部重なる)は、「戦時共産主義」という誤解を生む名前で知られる。
 この名前は、この時期の政策は、内戦と干渉が強いた甚大な困難さに対処するための一時的で例外的な手段として考案された、ということを示唆する。
 実際には、指導者たち-とくにレーニン、トロツキーおよびブハーリン-の関連する著作からして、彼ら全員がこの経済政策-自由取引の廃止、農民からの「余剰」(すなわち地方指導部が余剰だと見なしたものの全て)の強制的徴発、一般的な配給制度、強制労働-を新しい社会の永続的な成果だと想定していた、ということが明らかだ。
 また、それを存在する必要がないものにした戦争諸条件を理由としてではなく、それが惹起した経済的災厄の結果としてその経済政策がついには放棄された、と考えられていたことも。
 トロツキーとブハーリンはいずれも、強制労働は新しい社会の有機的部分だとの確信を強調していた。//
 (4)この時期に設定された全体主義秩序の重要な要素は持続し、ソヴィエト社会の永続的な構成要素になった。
 このように継続した成果の一つは、政治勢力としての労働者階級の破壊だった。すなわち、民衆の主導性の自立した表現としての、また自立した労働組合や諸政党の目的としての、ソヴェトの廃棄。
 もう一つは、-まだ決定的でなかった-党それ自体の内部での民主主義の抑圧だった。
 ネップの時期を通じてずっと、システムの全体主義的特性はきわめて強く表れていた。自由取引が受容され、社会の大部分-農民-は国家からの自立を享有していたにもかかわらず。
 ネップは、政治的にも文化的にも、まだ国家所有でないかまたは完全には国家所有でない、そのような主導性を発揮する中心拠点に対する、一党所有国家による圧力の増大を意味した。この点での完全な成功を達成したのは、進展の後続の段階だったけれども。
 (5)第三段階は、強制的集団化だ。これは、まだ国有化されていなかった最後の社会的階級の破壊へと到達させ、経済生活に対する完全な支配権を国家に付与した。
もちろんこのことは、国家が経済の計画化に携わることが可能になった、ということを意味しなかった。国家は、そうしなかった。
 (6)第四段階は、粛清を通じての、党それ自体の破壊だ。なぜなら、党は、もはや現実的でなかったとしても潜在的な力をもつ、国有化されていない勢力だったのだから。
 有効な反抗する勢力は党の内部には残存していなかったけれども、多数の党員たち、とくに年配の党員たちは、伝統的な党イデオロギーへの忠誠を保ちつづけた。
 かくして、彼らが完全に服従していたとしても、現実の指導者と在来の価値体系の間で忠誠心を分化させるのではないか、と疑われた。-換言すれば、指導者に対して潜在的には忠誠していないのではないか、と。
イデオロギーとは指導者がいついかなるときでも語ったものだ、ということを彼らに明確にする必要があった。
 大虐殺は、この任務を成功裡に達成した。それは、狂人が行ったことではなく、イデオロギーの<指導者(Führer、総統)>の作業だった。//
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 第四節・スターリニズムの成熟した様相。
 (1)こうした推移の各段階は、慎重に決定されたり、組織化されたりした。全てがあらかじめ計画されていたのではなかったけれども。
 結果として生じたのは完全に国家が所有する社会で、それは、完璧な統合体という理想にきわめて近く、党と警察によって塗り固められていた。
 完璧に統合されるとともに、完璧に断片化されてもいた。同じ理由により、集団生活の全ての形態が完全に従属するという意味で統合され、市民社会が全ての意図と目的のために破壊されるという意味で断片化された。そして各市民は、国家との全ての関係について、唯一の全能の装置に向かい合った。孤独で、無力な個人だ。
 社会は、マルクスが<ブリュメール十八日>でフランスの農民について語った、「トマト袋」のような物に変えられた。//
 (2)こうした状況-原子のごとき個人に向かい合う統合された国家有機体-は、スターリニズム体制の重要な特質の全てを明確にした。
 その特質はよく知られ、多くのことが叙述されてきた。しかし、我々の主題に最も関連性のある若干のことに簡単に言及しておこう。
 (3)第一は、法の廃棄だ。
 法は確かに、公共生活を規制する一セットの手続的規準として、継続した。
 しかし、国家が個人と交渉をするその全能性を制限することのできる一セットの規準としては、法は完全に廃棄された。
 言い換えれば、市民は国家の所有物だという原理を制限する可能性のある規準を、法は含まなかった。
 その決定的な点で、全体主義の法は、曖昧でなければならなかった。その適用が執行当局の恣意的で変化する決定の要になるように、また、執行当局が選択するときはいつでも各市民を犯罪者だと見なすことができるように。
 顕著な例はつねに、刑法典に定められている政治的犯罪だった。
 その諸規定は、市民がほとんど毎日冒さないことがほとんど不可能であるように、条文化されていた。
 そうした犯罪のうちいずれを訴追して、どの程度のテロルを行使するかは、支配者たちの政治的決定にかかっていた。
 この点は、ポスト・スターリニズムの時代でも何も変わらなかった。すなわち、法は際だって全体主義的なままで、大量テロルから選択的テロルへの移行も、手続的規準をより十分に遵守することも、-個人の諸生活に対する国家の実効的権力を制限しないかぎりは-それが持続することとは関係がなかった。
 民衆は、政治的冗談を話したという理由で投獄されることもあれば、そうされないこともあった。
 彼らの子どもたちは、共産主義の精神(これが何を意味していようと)を発揮するという法的義務を履行しなければ、強制的に連れ去られることもあれば、そうされないこともあった。
 全体主義的な無法性が意味したのは、極端な手段をいつどこでも現実に適用するということではなく、国家が所与のときに用いたいと欲する全ての抑圧に対するいかなる防護をも市民に与えない、ということだった。
 国家と民衆の媒介者としての法は消失し、国家の際限なく融通性のある道具に変質した。
 この点で、スターリニズムの原理は変わらないままで存続している。//
 (4)第二は、一人による専制だ。
 これは全体主義国家の発展のための駆動力である完全な統合という原理の、自然で「論理的な」所産だった、と思える。
 完全な姿を出現させるために、国家は、無制限の権力を授けられた一人の、かつ一人だけの指導者を必要とした。
 このことは、レーニン主義の党のまさに創立そのものに暗に示されていた(トロツキーのしばしば引用される1903年の予言と合致した。予言者の彼自身はすぐに忘れてしまったが)。
 1920年代のソヴィエト体制の進展の全体に見られたのは、闘い合う諸利害、諸思想および政治的諸傾向を表現することのできるフォーラムが一歩ずつ狭められていく、ということだった。
 短い時代の間に、それらは社会で公的に表明され続けたが、その表現は次第に限定され、狭くなる方向へと動いた。先ず党、ついで党装置、そして中央委員会、最後には政治局に限定された。
しかし、ここでも社会的紛議に関する表現を妨げることができた。その紛議の情報入手先は抹消されなかったけれども。
 この最も狭い範囲の党幹部会ですら、かりに続けることが許されたとしても、対立する見解の表明は、社会内部にまだ残存している利害対立の影響を受けるだろう、というのが、十分に練ったスターリンの主張だった。
 これは、党の最上級機関ですら異なる諸傾向または分派が自分たちの見解を表明している場合は、市民社会の破壊は十分には達成されなかった、ということの理由だ。
(5)スターリン以後にソヴィエト体制に生じた変化-個人的僭政から寡頭制への移行-が、ここでは大きく目立つように見える。
 それは、システムに内在する治癒不可能な矛盾から生じた。システムが必要とし、個人的な僭政に具現化された指導者層の完全な統合は、別の指導者たちの最小限度の安全確保の要求とは両立し難い。
 スターリンの支配のもとでは、彼らは他の民衆と同様の不安定な状態に格下げされた。
 彼らの膨大な特権の全ても、上層からの突然の崩落、投獄、そして死に対して彼らを防護してくれなかった。
 スターリンの死以降の寡頭制は、スターリニズムの病的形態だと適切に描写され得るかもしれない。
 (6)にもかかわらず、最悪の時代ですらソヴィエト社会は、警察によっては支配されなかった。
 スターリンは警察機構の助けを借りて国と党を統治したけれども、警察の長としてではなく、党指導者として統治した。
四半世紀の間スターリンと同一体だった党は、全てを包み込む支配権を決して失わなかった。//
 (7)第三は、統治の原理としてのスパイの普遍化だ。
民衆は相互にスパイし合うように奨励された-そして強いられた-。しかし、これは、国家が現実的な危険に対して自己防衛する方法ではなかった。そうではなく、全体主義の原理を究極にまで高めるための方策だった。
 民衆は市民として、目標、願望および思考-これらは全て指導者の口を通じて表現される-を完全に統合して生活することが想定されていた。
 しかしながら、個人としては、お互いに憎悪し合い、継続的に相互の敵対感をもって生活するように期待された。
 このようにしてこそ、個人の他者からの孤立は完全なものになり得た。
 実際に、達成不能のシステムの理想は、誰もが同時に強制収容所の収容者でありかつ秘密警察の工作員であることだったように思える。//
 (8)第四は、イデオロギーの明確な全能性だ。
これはスターリニズムに関する全ての議論の要点だ。そして、他の点よりも混乱や不同意が多い。
 Solzhenitsyn とSakharovの、この主題に関する見解のやり取りを見るならば、これが明瞭になる。
 前者はおおまかには、こう言う。ソヴィエト国家全体が、内政にせよ外交にせよ、経済問題であれ政治問題であれ、マルクス主義イデオロギーの圧倒的な支配に従属していた。また、国家と社会の両方に与えた全ての大災難について責任があるのは、この(偽りの)イデオロギーだ。
 後者は、こう返答する。公式の国家イデオロギーは死んでいる、誰もそれを真摯には受け取っていない。したがって、そのイデオロギーは実際の政策を導いて形成する現実の力であり得ると想像するのは、愚かだ。//
 (9)これら二つの観察はいずれも、一定の限定の範囲内で、有効だと思える。
 要点は、つぎのことだ。すなわち、ソヴィエト国家はそのまさに始まりから、その正統性のための唯一の原理として創設の基礎に組み込まれているイデオロギーをもつ。
 たしかに、ボルシェヴィキ党がロシアで権力を奪取したイデオロギー上の旗印(平和と農民のための土地)は、マルクス主義はむろんのこと社会主義に特有の内容をもつものではなかった。
 しかし、ボルシェヴィキ党は、レーニン主義のイデオロギー原理を基礎にしてのみ独占的支配を確立することができた。定義上労働者階級と「被搾取大衆」の、彼らの利益、目標および願望(かりに大衆自身は意識していないとしても)の、唯一の正統な語り口である党。そのことは「正しい」マルクス主義イデオロギーに即して大衆の意思を「表現」する能力があることによっている党。
 専制的権力を支配する党は、その権力を正当化する、自由選挙や伝来の王制のカリスマがない場合に、正統性の唯一の基礎であるそのイデオロギーを放棄することができない。
 このような支配システムでは、信じている者の数の多寡に関係なく、誰が信じ、誰が真摯に受容しているかに関係なく、イデオロギーはなくてはならないものだ(indispensable)。
 そして、イデオロギーは、支配者たちおよび被支配者たちのいずれにももはや信じている者は事実上いなくなったとしても-ヨーロッパの社会主義諸国にいま見られるように-、なくてはならないもののままだ。
 指導者たちが明らかにすることができないのは、権力システムの完全な崩壊という危機に直面させてまで、彼らの政策の本当のかつ悪名高い諸原理を暴露してしまう、ということだ。
 誰にも信じられていない国家イデオロギーは、国家の全構造が粉砕されてはならないとすれば、全ての者に対して拘束的でなければならない。//
 (10)これは、実際の諸政策の各段階を正当化するために訴えたイデオロギー的考察は、本当の、スターリンまたはその他の指導者たちがその前で拝跪した独立の力をもっている、ということを意味してはいない。
 ソヴィエト体制は、スターリンのもとでもその後でも、つねに、大帝国の<現実政策>を追求した。そして、そのイデオロギーは、各政策を是認するに十分なほどに、曖昧なものでなければならなかった。
 ネップと集団化。ナツィスとの友好関係とナツィスとの戦争、中国との友好関係と中国に対する非難。イスラエルの支持とイスラエルの敵たちへの支援。冷戦とデタント〔緊張緩和〕、国内体制の締め付けと緩和。総督(satrap)の東方カルトとそれに対する弾劾。
 そして、このイデオロギーはソヴィエト国家を維持し、全てを抱え込んでいる。//
 (11)ソヴィエトの全体主義システムはロシアの歴史的背景、強い徴表となっている全体主義的特性、を考慮しなければ理解できない、としばしば言われてきた。
 国家の自律性と市民社会に対するその圧倒的な権力は、19世紀のロシア歴史研究者によって強調された。そして、こうした見方は多数のロシア人マルクス主義者によってある程度の留保つきで、是認されてきた(プレハノフの<ロシア社会思想史>、トロツキーの<ロシア革命史>)。
 こうした背景は、革命の後で、ロシア共産主義の本当の根源だとして繰り返して論及された(Berdyaev)。
 多数の著作者たち(Kucharzewski は最初の一人)は、ソヴィエト・ロシアはツァーリ体制を直接に拡張したものだと捉えた。
 彼らは、とりわけ、ロシアの膨張主義政策、新しい領土への飽くなき欲求を見た。また、全市民の「国有化」(nationalization)、人の全ての形態での活動の国家目標への従属も。
 若干の歴史研究者たちはこの主題について、きわめて説得的な研究書を刊行してきた(直近では、R. Pipes 〔リチャード・パイプス〕、T. Szamuely)。
 私は、彼らの結論を疑問視しはしない。
 しかし、歴史的背景はソヴィエト秩序でのマルクス主義イデオロギーがもつ特有の機能を説明しはしない。
 ロシアでのマルクス主義の意味の全ては、結局は不安定なイデオロギー帝国に、最終的な崩壊の前にしばらくの間は生き残ることができる血と肉を注入することにあった、ということを(Amalrik とともに)認めるところにまで進むとしてすら、いかにしてマルクス主義はこの任務に適合的なものになったのか、という問題は、未回答のままだ。
 マルクス主義の歴史哲学は、その明瞭な希望、企図および価値でもって、いかにして、全体主義的、帝国主義的かつ排外主義的国家に、イデオロギー上の武器を与えることができたのか?//
 (12)マルクス主義歴史哲学はそうできたし、そうした。
 本質的部分で歪曲される必要はなかった。たんに適切な態様で解釈されたにすぎない。
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 つぎの(最終)節の表題は<マルクス主義としてのスターリニズム>。次節だけで、全体の過半を占める。
 

1986/マルクスとスターリニズム②-L・コワコフスキ1975年。

 Leszek Kolakowski, The Marxist Roots of Stalinism, in: Is God Happy ? -Selected Essays (2012)の試訳のつづき。
 一部について、ドイツ語訳を参照した。
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 スターリニズムのマルクス主義という根源。
 第2節・スターリニズムはどう定義(identify)されるか?
 (1)「スターリニズム」という語を用いる場合に、ソヴィエト同盟の十分に明確にできるワンマン僭政制の時代(つまりはおよそ1930年から1953年まで)を意味させるのか、同じ特質を明らかに示す体制を意味させるのか、にはほとんど違いはない。
 にもかかわらず、スターリニズム後のソヴィエト社会やソヴィエト型の国家がどの程度において本質的にそのシステムを拡張したものであるのかという問題は、明らかに、言葉の使い方の問題ではない。
 しかしながら、多くの理由で、システムの継続性を強調する、より歴史的ではなくてより抽象的な第二の定義が、より好都合だ。
 (2)「スターリニズム」は、生産手段の国家所有制にもとづく(ほとんど完全な)全体主義社会だと特徴づけられるかもしれない。
 私は「全体主義的」(totaritarian)という語を常識的に、社会的紐帯が国家が押しつけた組織に置き換えられ、その結果として全ての集団と個人がその行動について国家の目標であり国家がそうだと明確にした目標によってのみ導かれる、そのような政治システムの意味で用いる。
 言い換えると、理想の全体主義システムは、市民社会の完全な破壊をその意味に包含することになるだろう。すなわち、国家とその組織的な諸装置が社会生活の唯一の形態であり、人の-経済的、知的、政治的および文化的-活動の全ての形態はそれらが国家目標(もう一度記すがこれは国家によって明確に定められる)に奉仕する場合にかぎってのみ許容されかつ押しつけられる(許容と賦課の区別は消失していく)、そのようなシステムになるだろう。
 このようなシステムのもとでは、全ての個人(支配者たち自身を含む)は国家の所有物だと考えられてしまう。//
 (3)このように理解される観念は-こう定義することで私はこの主題を論じたほとんどの著作者たちと異なっていないと思うのだが-、なお若干の論評を加えて説明することが必要だ。//
 (4)第一に、完全な形を達成するためには、組織に関する全体主義的原理は生産手段の国家による統御を必要とする、ということが明瞭だ。
 言い換えると、生産活動や経済的主導性の重要部分を諸個人に委ねる、その結果として社会の諸部分が経済的に国家から自立していることを許容する、そのような国家は、理想の形態になることができない。
 ゆえに、全体主義は、社会主義経済のうちにその理想を達成する最良の機会をもつ。//
 (5)第二に、絶対的に完璧な全体主義システムはかつて存在しなかった、ということが強調されなければならない。
 しかしながら、いくつかの社会は個人と共同体の生活の全ての形態を「国有化」する、きわめて強い、内在していて継続的に作用している傾向をもつことを、我々は知っている。
 ソヴィエトの社会と中国の社会はいずれも、この理想にきわめて近いか、一定の時期にはきわめて近かった。
ナツィ・ドイツもそうだった。十分に発展させるほどには長く続かなかったとしても、また、全てを国有化することなく強制を通じて経済活動を国家目標に従属させることで満足していたのだったとしても。
 その他のファシスト国家は、この方向ではドイツよりはるかに遅れていた(または、遅れている)。
 ヨーロッパの社会主義国家もまたかつて、全体主義のソヴィエトの段階まで決して到達しなかった。永続的で衰えることのない、そうしたいという意思はあったにもかかわらず。//
 (6)全体主義の<entelechia〔明確な精神〕>が理想的な形態で実現され得るだろうとは、言えそうにない。
 このシステムによる圧力に頑固に抵抗する生活の諸形態-とくに家族、情動および性的関係-がある。
 そのような生活諸形態はあらゆる種類の国家の強い圧力にさらされてきたが、明らかに、決して完全には達成されなかった(少なくともソヴィエト国家ではそうだった。おそらくは中国ではより多く達成された)。
 同じことが個人や共同体の記憶についても言える。全体主義システムはこれを、当今の政治的必要に従って歴史を変形させ、書き直し、捏造することによって否定しようとしてきたのだったが。
 工場と労働を国有化することは、感情をそうすることより明らかに容易だ。そして、希望を国有化することは、記憶をそうすることよりも容易だ。
 過去の=歴史の国有化に対して抵抗することは、反全体主義の運動の重要な部分だ。//
 (7)第三に、上述のような定義は、全ての僭政システムまたはテロルの支配は必ず全体主義的だとはかぎらない、ということを意味包含している。
 あるシステムは、最も血なまぐさいものであれ、限定された目標をもち、その範囲内での人の活動の全ての形態を吸収して奪い取る必要がないかもそれない。
 最悪の形態の植民地支配は、最も苛酷な時期であっても、通常は全体主義的でない。
 目標は従属している諸国を経済的に搾取することであり、この観点からして中立的な多くの生活領域は、多かれ少なかれ侵害されないままにされた。
 逆に、全体主義システムは、抑圧の手段としてテロルをつねに用いる必要はない。
(8)その完全な形態では、全体主義は、奴隷制の、主人なき奴隷制の、異常な形態だ。
 それは、全ての人々を奴隷へと転化させる。そしてそのゆえに、それは平等主義(egalitariansm)の確かな徴表を帯びる。//
 (9)このように用いる全体主義という観念は最近は「古くさい」または「信の措けない」ものとしてますます却下されてきていることを、私は知っている。
 その有効性は、疑問視されてきた。
 だが、私は、観念上であれ、歴史的にであれ、それの正当性を否定する分析というものを知らない。むしろ、それを正当視する、以前の多数の分析を知っている。
 じつに、共産主義は個人の国家所有を意味するだろうとの予言は、プルードン(Proudhon)において現れた。そして、のちに多数の著名な著作者たちは、そのことが実際にソヴィエト社会で発生したと指摘し、そのように描写すらした(その際に彼らが「全体主義」という語を用いたか否かは別として)。ここでそれらを引用することは、無意味な衒学趣味になるだろう。//
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 第三節につづく。

1984/マルクスとスターリニズム①/L・コワコフスキ論考(1975)。

 L・コワコフスキに、英語とドイツ語ではそれぞれつぎのように訳されている小論考がある。The Marxist Roots of Stalinism./Marxistische Wurzern des Stalinismus.
 「スターリニズムがもつマルクス主義の根源」といった意味だろう。
 この原論考は1975年に執筆されたとされるが、つぎの文献の中に収録されている。2年後の1977年に、ドイツ語版と英語版とが出ている。
 Leszek Kolakowski, Leben trotz Geschichte (1977, Taschenbuch 1980), p.257-p.281.
 Robert C. Tucker, ed, Stalinism - Essays in Historical Interpretation (English Edition -1st Edition, 1977).
 1977年というのは、L・コワコフスキの<マルクス主義の主要潮流>のポーランド語版がパリで出版された翌年、その第一巻のドイツ語版がドイツで出版されたのと同年、全三巻分冊版の英語訳書が出版される前の年だ。
 ドイツ語版は、1977-79年に一巻ずつ刊行された。上のLeben trotz Geschichte はL・コワコフスキの大著を刊行したのと同じ出版社が、その大著の宣伝と人物紹介も兼ねて出版したようにも思える(まだ試訳していないが、この著のLeonhard Reinisch というジャーナリストによる「まえがき」は、英語諸文献には書かれていないコワコフスキの経歴・家族環境にも触れている)
 英語版はのちに、以下に収載された。
 Leszek Kolakowski, Is God Happy ? -Selected Essays (2012), p.92-.p.114.
 上の大著の中の<フランクフルト学派>等々の論述を試訳する前に、レーニン・スターリン・トロツキーに関するその論述の試訳を終えたところなので、この論考を、上の2012年の英語著によって試訳しておくことにする。
 一行ずつ改行し、段落の冒頭に原文にはない番号を付す。
 小論考とはいえ、独語版、英語版ともに、計20頁を上回る。
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 スターリニズムのマルクス主義という根源。
 第1節・設定している問題と設定していない問題。
 (1)マルクス主義のスターリニズム・イデオロギーやスターリン主義権力体制との関係を問題にするとき、大きな困難さがあるのは、問題をどのように設定し、定式化するかだ。
 この問題は多くの態様で設定することができるし、また、そうされてきた。
 結果として生じた問題設定のうちのいくつかは回答不能であるか、無意味だ。またいくつかは、答えが明確であるために、修辞的だ。
  (2)回答不能でも無意味でもある問題設定の一例は、こうだ。
 <マルクスが今日に生きて彼の思想(ideas)がソヴィエト体制で具体化されているのを見たとき、彼は何と言っただろうか?>
マルクスが生きていたとしたなら、彼はその言葉を必ずや変更しただろう。
 マルクスが何らかの奇跡で現在に蘇生したとするなら、自分の哲学の最良の実際的解釈はいずれかに関する彼の見解はたんに多数の中の一つの見解にすぎないだろう。そして、ある哲学者は自分の思想が包含する意味内容を理解するに際してつねに無謬であるとは限らない、と語ることでその見解は簡単に却下されることだろう。
 (3)答えが明瞭で議論する必要がほとんどない問題設定の一例は、こうだ。
 <スターリン主義体制は、マルクスの理論から、その因果関係として生まれたのか?>
 <我々はマルクスの文章の中に、明示的にまたは黙示的に、スターリン主義社会で設定された価値体系とは矛盾する価値判断を見出すことができるか?> 
 第一の疑問に対する回答は、明らかに「違う」だ。なぜなら、一つのイデオロギーで完全に作られ、その起源に寄与した諸思想でもって完全に説明され得るような社会は、一度なりとも存在しなかった。
 誰もが、このことを受け入れることのできるマルクス主義者だ。
 全ての社会の諸装置は、その社会はどうあるべきかに関するその構成員や設立者たちの(相互に闘い合う)思想(ideas)を反映する。しかしまた、いかなる社会も、そのような-それが存在する前の想念も含めて-思想だけでは生み出されたことがない。
 ある社会が一つの夢想郷(ユートピア)から(あるいはまさに<kakotopia>から)発生し得ると思い描くならば、人間共同体はその歴史を廃絶(do away)する権能があると信じることにまで到達するだろう。
 これは常識だ。陳腐な贅言であり、おまけに全く否定されるべきものだ。
 社会はつねに、その社会が自分自身について思考したことによって塑型されてきた。しかし、この依存関係は、決して部分的なもの以上のものではない。//
 (4)第二の疑問に対する回答は、明らかに「そのとおり」だ。しかし、我々の問題にとって、何の重要性もない。
 マルクスが自由の社会主義王国は一党による僭政支配で成るだろうという趣旨で何かを書いたことは一度もなかった、ということは簡単に確定される。
 また、マルクスは社会生活の民主主義的形態を拒絶しなかったこと、マルクスは社会主義が政治的な強制<に反対した>ではなくそれ<に加えた>経済的強制の廃棄へと至るのを期待していたこと、等々も。
 それにもかかわらず、マルクスの理論は論理的には、彼の表向きの価値判断とは両立し得ない帰結を意味包含(imply)するものであるかもしれない。
 あるいは、経験上の諸事情によって他の何らかの態様で実現され得たものが妨げられた、ということなのかもしれない。
 政治的および社会的な基本政策(programs)、夢想や予見が、たんに異なる態様のではなくそれらの作成者の意図とは著しく矛盾する、そのような結果をもたらす、ということは何ら奇妙なことではない。
 従前には気づかれなかったり無視されたりした経験上の関係は、他の構成部分を放棄することなく、夢想(the utopia)の一部のみについて、実現することを不可能にしてしまうかもしれない。
 このことは、またもや常識的なことで、瑣末なことだ。
 我々が人生で学ぶことのほとんどは、矛盾なく両立するのはどの諸価値に関してなのか、どの諸価値が相互に排他的であるのか、だ。そして、たいていの夢想は、両立し得ない価値が<ある>ということを学習する力を単直に欠いている。
一度ならず以上にしばしば、この両立不可能性は経験上のもので、論理的なものではない。そして、このことは、そうした夢想が論理的観点からは必ずしも自己矛盾しておらず、世界がそうであるがゆえにたんに実践不可能だ、ということの理由だ。//
 (5)かくして私は、スターリニズムとマルクス主義の間の関係を議論する際に、つぎのような思考表明を重要ではないものとして、却下する。これらが真実であるか否かを確実に決定することができるかどうかを別として(前者についてはいくぶんか疑わしい)。
 <マルクスは墓の下で、これを嘆いているだろう>、あるいは、<マルクスは検閲に反対し、自由選挙に賛成しただろう>。
 (6)私自身が関心をもつことは、別の態様でもっとよく表現されるだろう。
 すなわち、社会の組織化に関するスターリン主義体制を正当化するために考案された特徴的スターリン主義イデオロギーは、歴史に関するマルクス主義哲学の正統(legitimate)な解釈だった(または、である)のか?
 これは、私の問題設定の穏健な範型だ。
 より強い範型は、こうだ。すなわち、マルクス主義的社会主義の全根本的諸価値を実現しようとする全ての試みは、スターリニズムという間違いなき特質を帯びる政治組織体を生みだす傾向があった(likely)のか?
 私は、上の二つの問題設定を肯定する回答を行う立場で、以下を論述する。
 但し、第一の問いに「そのとおり」と語ることは第二の問いに「そのとおり」と語ることを論理的には含んでいない、ということを認識している。
 また、スターリニズムはマルクス主義のいくつかの受容可能な変種の一つだと主張することと、マルクス主義哲学のまさにその内容は他のいずれよりもこの特有の〔スターリニズムという〕範型に対してより有利に働いたということを否定することとは、論理的には矛盾していない、ということも。//
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 第二節へとつづく。

1975/L・コワコフスキ著第三巻第五章・トロツキー/第6節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。合冊本は注記・索引等を含めて、計1284頁。
 今回の試訳部分は、第三巻分冊版のp.212-p.219。合冊版では、p.957-p.962。
 なお、トロツキーに関するこの章は分冊版で37頁、合冊版で29頁を占める。この著の邦訳書はない。
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 第5章・トロツキー。
 第6節・小括(conclusions)。
 (1)今日から見ると、1930年代のトロツキーの文筆による活動や政治的活動は、極端に願望に充ちた思考だの印象を与える。
 実現しない予言、空想じみた幻想(fantasic illusions)、間違った診断、そして根拠のない希望、これらの不幸な混合物だ。
 もちろん、トロツキーが戦争の成り行きを予見できなかったというのは、第一に重要なことではない。この時代に多数の者が予言したが、たいていは事実によって裏切られた。
 しかしながら、重要で特徴的なのは、トロツキーが、深遠な弁証法と大きな歴史発展の理解にもとづく科学的に正確な判断だとして、その論述を弛むことなく提示した、ということだ。
 実際に、彼の予見が基礎にしていた一つは、歴史は彼の正しさを証明するだろうという望みであり、また一つは彼が遅かれ早かれ実現するに違いないと信じて想定した歴史の法則から導いた、教理上の(doctrinaire)結論だった。
 かりにスターリンが戦争の結末を予見し、殺戮しないでトロツキーに復讐していたとすれば、どうなっただろうと人は考えるだろうか。生かしたままにして、トロツキーの希望や予言の全てが崩壊して、ただの一つも実現していないことを見させる、という復讐だ。
 戦争は反ファシスト戦争だった。
 ソヴィエトによる東ヨーロッパの制圧を別として、ヨーロッパまたはアメリカに、プロレタリア革命は一つも発生しなかった。
 スターリンもそうだったように、スターリン主義の官僚機構は一掃されず、測りがたいほどに強くなった。
 民主主義政体は生き残り、西ドイツやイタリアで復活した。
 植民地領域の多くは、プロレタリア革命なくして、独立を達成した。
 そして、第四インターナショナルは、無能力なセクトのままだった。
 かりにトロツキーがこれら全てを見たならば、自分の悲観的な方の仮説が正しいものだったこと、そしてマルクス主義は幻想だったことが証明された、ということを認めただろうか?
 我々はもちろん、これを語ることができない。しかし、トロツキーの心性からするとおそらく、彼はこのような結論を導き出さないだろう。
 彼は疑いなく、歴史の法則の働きが再びいくぶんか遅れた、だが大きな動きは近い将来にあるという信条と歴史の法則は合致していると、たんに述べただろう。//
 (2)本当の教理主義者(doctrinaire)であるトロツキーは、自分の周りで生起している全てのことに無神経だった。
 彼はもちろん、諸事件を身近で追い、それらに論評を加えた。そして、ソヴィエト同盟や世界政治に関する正確な情報を得るために最善を尽くした。
 しかし、教理主義者の本質は、新聞を読まなかったとか、事実を収集しなかった、ということにあるのではない。経験上の情報に鈍感な、あるいはきわめて漠然としているためにどんな事態もそれに適合させるために用いることのできる、そのような解釈の体系に執着する、ということにある。
 トロツキーには、何らかの事態が自分の考えを変える原因になるかもしれないと怖れる必要がなかった。彼の議論はつねに、「一方の形態では、他方…」、あるいは「…が認められるとしても、しかし、にもかかわらず…」なのだった。
かりに共産主義者が世界のどこかで後退するとすれば、スターリン官僚制が(彼がつねに言ったように)運動を破滅に導いているという彼の診断の正しさを確認した。
 かりにスターリンが「右翼主義」へと振れたならば、それはトロツキーの分析の勝利だった。ソヴィエト官僚制は反動へと退廃していくだろうと、彼はいつも予言していたのだから。
 しかし、かりにスターリンが左翼へと振れたならば、これまたトロツキーにとっての勝利だった。つねに、ロシアの革命的前衛は力強いので官僚機構はそれに配慮するに違いない、と明瞭に彼は述べてきたのだ。
 かりにどこかの国のトロツキスト党派がその党員数を増したとすれば、それはもちろん良い兆候だ。最良の党員たちは、真のレーニン主義が正しい政策であることを理解し始めているのだ。
 一方でかりにその集団が規模を小さくしたまたは分裂を経験したとすれば、これもまたマルクス主義の分析の正しさを確認するものだ。すなわち、スターリン主義の官僚機構は大衆の意識を息苦しいものにしており、革命の時期に動揺する党員たちはつねに戦場から逃げ出すのだ。
 かりにソヴィエト・ロシアの統計が経済的な成功を記録するならば、それはトロツキーの主張の正しさを確認する。プロレタリアートの意識によって支えられた社会主義は、官僚機構の存在にもかかわらず、基盤を確立しているのだ。
 かりに経済的な後退または厄災があったとすれば、トロツキーは再び正しい。彼がつねに言ってきたように、官僚機構は無能力で、大衆の支持を受けていないのだ。
このような精神の構造は、入り込む隙がないもので、事実によって矯正されることがない。
 明らかなことだが、社会には多様な勢力と競い合う傾向の組織があって活動している。そして、異なるものが、異なった時期に有力になる。
この常識的な真実が哲学的思考の真ん中に存在しているならば、経験が拒否される危険はない。
 しかしながら、トロツキーは、多数のマルクス主義者と同様に、誤謬なき弁証法の方法に助けられて自分は科学的に観察していると空想していた。//
 (3)トロツキーのソヴィエト国家への態度は、心理的には理解可能だ。すなわち、ソヴィエト国家の大部分は彼が生み出したもので、自分の子どもがとてつもなく退廃したことを認めることができなかったのは、驚くべきことではない。
 ゆえに、彼はつぎの異常な矛盾した言辞を絶えず繰り返し、ついには忠実なトロツキストたちすら理解できないと感じるようになった。
 労働者階級は政治的に収奪(expropriate)され、全ての権利を剥奪され、隷属化して踏みにじられてきた。しかし、ソヴィエト同盟は今もなお労働者階級の独裁のもとにある。土地と工場が国家の所有物になっているのだから。
 時が経るにつれて、トロツキーの支持者たちは、このドグマが原因で、ますます彼から離れた。
 ある者は、ソヴィエト共産主義とナツィズムの間の明確な類似性を看取し、世界じゅうの全体主義体制の不可避性について、悲観的に予感した。
 ドイツのトロツキストのHugo Urbahns は、あれこれの形態での国家資本主義が普遍的になるだろう、と結論した。
 1939年にフランス語で「世界的な官僚主義化」に関する書物を発行したイタリアのトロツキストのBruno Rizzi は、世界は新しい形態での階級社会に向かって動いている、その社会ではファシスト国家やソヴィエト同盟で実際に例証されている官僚制の衣をまとった集産的所有制へと、個人所有制が置き換えられる。
 トロツキーは、このような考えに烈しく反対した。ブルジョアジーの一機関であるファシズムが、政治的官僚機構に有利に自分たちの階級を収奪することができる、と想定するのは馬鹿げている、と。
 同様に、トロツキーは、Burnham やShachtman と決裂した。彼らが、ソヴィエト同盟を「労働者の国家」と呼称するのはもはやいかなる認知可能な意味もない、と結論づけたときに。
 Shachtman は、資本主義のもとでは経済的権力と政治的権力を分離することができるが、この分離はソヴィエト同盟では不可能だ、そこでは財産関係とプロレタリアートの政治的権力への関与は相互に依存し合っている、と指摘した。プロレタリアートは、政治的権力を喪失しながら経済的独裁制を実施し続けることはできない。
 プロレタリアートの政治的な収奪とは、全ての意味でのそれによる支配の終焉を意味する。従って、ロシアはまだ労働者の国家だと主張するのは馬鹿げている。支配している官僚機構は、言葉の真の意味での「階級」なのだ。
 トロツキーは、最後まで断固として、このような結論に反対した。ソヴィエト同盟にある生産装置の全ては国家に帰属している、との彼の唯一の論拠を何度も繰り返すことによって。
 このこと自体は、誰も否定しなかった。
 対立は理論上のものというよりも、心理上のものだった。ロシアは新しい形態の階級社会と収奪を生んでいるということを承認することが意味したのは、トロツキーの生涯にわたる仕事は無意味だった、彼自身が、自分が意図したものとはまさに正反対のものを産出することを助けた、ということを受け入れる、ということだった。
 これは、ほとんど誰も導き出すつもりのない一種の推論だ。
 同じ理由で、トロツキーは必死になって、自分が権力をもっていたときのソヴィエト同盟とコミンテルンは全ての点で非難される余地がなかった、と主張した。真のプロレタリアートの独裁、真のプロレタリア民主主義であって、労働者大衆から純粋な支持を得ていたのだ。
 抑圧、残虐行為、武装侵攻等々の全ては、それらが労働者階級の利益になるのならば、正当化される。しかしこのことは、スターリンがとったのちの諸手段とは関係がない。
 (トロツキーは逃亡中に、ロシアには宗教弾圧はない-正教教会は独占的地位を剥奪されただけで、それは正しくかつ適切だった、と主張した。
 彼はこの点では、スターリン体制を擁護するのを強いられた。スターリンはレーニンの政策から何ら逸脱しなかったのだから。)
 トロツキーは、レーニン時代の新生ソヴィエト国家が実施した武装侵入は間違っていたなどとは決して考えていなかった。
 そうではなく逆に、革命は地理を変更することはできないと、何度も繰り返した。言い換えると、帝制時代の国境線は維持され、または復活されるべきなのであり、ソヴィエト体制はポーランド、リトアニア、アルメニアおよびジョージアやその他の境界諸国を「解放する」あらゆる権利をもつのだった。
 彼は、1939年に赤軍の官僚主義的頽廃がなかったとすれば、フィンランドの労働大衆に解放者として歓迎されていただろう、と主張した。
 しかし、彼は、自分が権力をもち、かつ頽廃していないときに、フィンランド、ポーランドあるいはジョージアの労働大衆は歴史の法則に合致して、なぜ熱狂的に彼らの解放者を歓迎しなかったのか、と自問することがなかった。//
 (4)トロツキーは、哲学上の諸問題には関心がなかった。
 (彼は晩年に、弁証法と形式論理にもとづいて自分の見解を深化させようとした。しかし、明らかなのは、彼が知る論理の全ては高校でおよびプレハノフに関する青年時代の学修から収集した断片で成り立っており、彼はそれらの馬鹿らしさを繰り返した、ということだ。
 Burnham はトロツキーに、彼は現代論理学について何も知らないことを指摘して、議論をやめるように助言した。)
 トロツキーはまた、マルクス主義の基礎に関するいかなる理論的な分析をすることも試みなかった。
 彼にとってすでに十分だったのは、マルクスが、現代世界の決定的な特徴はブルジョアジーとプロレタリアートの間の闘争であり、この闘争はプロレタリアート、世界的社会主義国家の勝利、および階級なき社会でもって終わるよう余儀なくされていると示した、ということだった。
 このような予見がいったい何を根拠にしているのかについては、トロツキーは関心がなかった。
 しかしながら、これらが真実だと確信し、また自分は政治家としてプロレタリアートの利益と歴史の深部を流れる趨勢を具現化していると確信して、彼は、最終的な結末に対する忠誠さを揺らぐことなく維持した。
 (5)ここで、我々は異論に対して答えるべきだろう。
 つぎのように語られるかもしれない。トロツキーの努力や彼のインターナショナルが完全に有効でなかったことは彼の分析内容を無効にしはしない、なぜなら、仲間たちの多くまたは全てが同意しなかったとしてすら、ある人間は正しいということがあり得る、そして、<不可抗力(force majeure)>は論拠にならない、と。
 しかしながら、我々はここで、力が論拠になるか否かは人が何を証明したいかに依存するという、(<社会主義のもとでの人間の魂>での)Oscar Wilde の論評を想起することができる。
 我々はさらに、同様の思考方法で、問題とされている論点がある者が強いかそうでないかであるならば、力は論拠になる、と付け加えることができる。
 科学史上一度ならず起きたように、ある理論が全員またはほとんど全員によって拒否されるということは、その理論が間違いであることを証明しはしない。
 しかし、それは、偉大な歴史的趨勢を(または神の意思を)「表現」したものだという趣旨で、生来の自己解釈力をもつ理論だというのとは異なる問題だ。 
 上でいう趣旨とは、やがて勝利する運命にある階級の真の意識を具現化している、あるいは真実を発現したもので成る、したがって理論上は(または「理論上の意識」によれば)不可避的に必ず全ての者に打ち勝つ、といったものだ。
 かりにこのような性格のある理論が承認されないとするならば、そうされないことは、それ自体の諸前提に反対する一つの論拠だ。
 (他方で、実践における成功は、必ずしもそれに有利となる論拠ではない。
 イスラムの初期の勝利が証明するのはコーランが真実だったことではなく、それが生み出した信仰が、本質的な社会的要求に対応していたがゆえに最も力強い集結地点(rallying-point)だったということだ。)
 同じように、スターリンの諸成功は、彼が理論家として「正しい」者だということを証明するものではなかった。
 このような理由で、トロツキズムの実践での失敗(failure)もまた、科学的な仮説の拒絶とは違って、理論上の失敗だった。すなわち、トロツキーが確信していた理論は、間違っていたことの証拠だ。//
 (6)教条的(dogmatic)特質をもつトロツキーは、マルクス主義の教理のいかなる点についても、理論上の解明への貢献をしなかった。
 彼はしかし、無限の勇気、意思力および忍耐力を備えた、際立つ個性の人物だった。
 スターリンと全ての国々のその子分たちから悪罵を投げつけられ、最強の警察と世界じゅうの宣伝機関によって追及されても、彼は決して怯むことがなかったし、闘いを放棄することもなかった。
 彼の子どもたちは殺された。彼は自国から追い出され、野獣のごとく追跡され、最後には殺戮された。
 あらゆる審判での彼の驚くべき抵抗はその忠誠心の結果であり、決して、-それとは反対に-彼の揺るぎなき教条主義や精神の非融通性と矛盾してはいない。
 不運なことだが、忠誠心の強さや迫害を耐え忍ぼうとする支持者たちの意気は、知的に、または道徳的に正しい(right)、ということを証明しはしない。//
 (7)ドイチャー(Deutscher)はその単著の中で、トロツキーの生涯は「先駆者の悲劇」だった、と語る。
 しかし、こう主張する十分な根拠はなく、トロツキーはいったい何の先駆者だと想定されていたのかも明瞭でない。
 トロツキーはもちろん、スターリン主義者による歴史編纂の捏造ぶりの仮面を剥ぐことや、新しい社会での条件に関するソヴィエトによる宣伝活動の欺瞞を明らかにして論難することに、貢献した。
 しかし、その社会や世界の将来に関する彼の予見は全て、間違っていたことが分かった。
 トロツキーはソヴィエトの僭政体制を批判した点で独自性をもつのではなく、そのような批判を行った最初の人物でもなかった。
 逆に、彼は民主主義的社会主義者たちに対してよりははるかに穏やかに、ソヴィエト体制を批判した。また、僭政体制<だとして(qua)>反対したのではなく、彼がそのイデオロギー上の原理的考え方にもとづいて診断した、究極的目標についてのみ反対した。
 スターリンの死後に共産主義諸国で表明された種々の彼に対する批判論は、事実についても批判者自身の気持ちにおいても、トロツキーの著作や思考と何の関係もなかった。
 これら共産主義諸国での「反対派(dissident)」運動には、彼の考え方はいかなる役割も果たさなかった。共産主義の見地からソヴィエト体制を批判した、次第に少なくなっている一群の者たちの間にすら。
 トロツキーは、共産主義に代わる別の選択肢を提示しなかったし、スターリンと異なる何らかの教理を提示したわけでもなかった。
 「一国での社会主義」に対する攻撃の主要な対象は、スターリンとは何の関係もない理由で非現実的になっていた一定の戦術上の方針を説き続ける試みにすぎなかった。
 トロツキーは「先駆者」ではなく、革命の落とし子(offspring)だった。その彼は、1917-21年に採用された行路との接線部分に投げ込まれたが、のちには内部的かつ外部的な理由で遺棄されなければならなかったのだ。
 彼の生涯は「先駆者」というよりも、「亜流の者」(epigone)の悲劇だったと呼称する方が正確だろう。
 これはしかし、適切な表現ではない。
 ロシア革命は、一定の諸点で行路を変更したが、全ての点で変えたのではなかった。
 トロツキーは絶えず革命的侵略を擁護し、かりに自分がソヴィエト国家とコミンテルンを運営することができれば、全世界は遅滞なく輝かしいものになるだろうと、自分自身や他者を説きつづけた。
 彼がそう信じた根拠は、それこそがマルクスの歴史哲学(historiosophy)が教える歴史の法則だ、ということにあった。
 しかしながら、ソヴィエト国家は、成り行きでその時点までの行路を変更することを余儀なくされた。そしてトロツキーは、そのことを理由としてその指導者たちを叱責するのをやめなかった。
 しかしながら、国内体制に関するかぎりは、スターリニズムは明らかに、レーニンとトロツキーが確立した統治のシステムを継承したものだった。
 トロツキーはこの事実を承認することを拒んだ。また、スターリンの僭政はレーニンとは関係がない、実力による強制、警察による抑圧および文化生活の荒廃化は「官僚機構による」<クー・デタ>だ、これらについて自分はほんの少しの責任もない、と自分に言い聞かせた。
 このような絶望的な自己欺瞞は、心理学的に説明可能なものだ。
 ここで我々に判明するのは、たんなる「亜流の者」(epigone)の悲劇ではなく、自分が作った罠に嵌まった、革命的僭政者の悲劇だ。
 トロツキストの理論というようなものは何もなかった。-絶望的に自分の地位を回復しようとする、退いた指導者だけがいた。
 彼は自分の努力が虚しいことを実感することができなかった。また、奇妙な頽廃だと自分は見なしたが現実にはレーニンやボルシェヴィキ党全員と一緒に社会主義の創設だとして確立した諸原理の直接の帰結に他ならない、そういう諸事態について自分に責任がある、ということを受け入れようとしなかった。//
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 第6節が終わり、第5章・トロツキーも終わり。

1970/L・コワコフスキ著第三巻第五章第4節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。合冊本は注記・索引等を含めて、計1284頁。
 今回は、第三巻分冊版のp.201-p.206。
 なお、トロツキーに関するこの章は分冊版で37頁、合冊版で29頁を占める。この著の邦訳書はない。
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 第5章・トロツキー。 
 第4節・ソヴィエトの経済と外交政策に対する批判。
  (1)少なくとも理論上は、工業化と将来の農業政策はソヴィエト同盟の左翼反対派にとってきわめて重要な問題だった。そのために、スターリンが反対派の政策方針の全てを採用し、強化した態様で実施することが分かったとき、トロツキーは、ぎこちない立場を示した。
 彼は、スターリンは実際に反対派の政策意図を実行したが、官僚機構でかつ十分な考慮のない方法でそれを行った、と宣告することで、困難な状態を切り抜けた。
「左翼反対派は、ソヴィエト同盟で工業化と農業の集団化のための闘争を始めた。
 この闘いは一定の意味では勝利した。すなわち、1928年に始まり、ソヴィエト政府の全政策が左翼反対派の基本的考え方を官僚主義的に歪曲して適用していることが示されている。」
 (G. Breitman & B. Scott 編<レオン・トロツキー著作集-1933-1934年(1972年)>p.274.)
 官僚機構はこの措置を、政府の論理で自分たちの利益のために実施することを「強いられ」た。そして、プロレタリアートの歴史的任務を歪曲した方法で履行したけれども、変革それ自体は「進歩的」だった。さらには、スターリンがその考えを変えるように強いたのは、左翼からの圧力だ。
 「革命を目指す創造的勢力と官僚機構の間には、深い対立が存在する。
 スターリン主義者の組織が一定の限界に来て立ち止まるならば、そして左翼へと鋭く舵を切るのを強いられているとすら感じるならば、無定型で散在してはいるが今もまだ力強い、革命党の要素による圧力こそが、それを起こしているのだ。」
 (<著作集, 1930-1931年>, p.224.)
集団化に関して言うと、トロツキーは、経済的準備の性急さと欠落を批判し、スターリン主義者たちはコルホーズ(kolkhozes)を社会主義の制度だと見なす過ちを冒している、と強調した。コルホーズは過渡的な形態にすぎない、と。
 もっと言えば、集団化は資本主義復活の方向への一歩だったと判明している、と。
 トロツキーは<裏切られた革命>で、スターリンは土地をコルホーズに与えることで国有化することを止めた、他方では農民に私的区画地の耕作を許すことで「個人主義」の要素を強化した、と書いた。
 かくして、ソヴィエト農業が朽ち果てて数百万の農民が飢えて死んでいたとき、あるいは最後になって彼らが受け取った私的区画地を維持する許可で何とか生きながらえていたとき、トロツキーの主要な関心は、この現象が示している「個人主義」の危険だった。
 彼は、富農(kulaks)との闘いは全く不十分だと主張すらした。スターリンは彼らにコルホーズで組織する機会を与えた、かつまた最初の廃絶運動のあとでは田園地帯での新しい階級分化をもたらすに違いない実質的な譲歩を行うまでした、のだと。
 (これは1935年のトロツキーの基本的主張だった。そのときに彼は、スターリンの外交政策に「右翼への揺れ」を感知し、ゆえにソヴィエトの内政問題にも類似の兆候を探し求めた。)//
 (2)トロツキーは<裏切られた革命>やその他のあちこちで、ソヴィエト工業への出来高払い労働(piece-work)の導入を非難した。
 しかしながら、彼の議論からすると、警察的強制または革命的熱情が生産性向上のための物質的誘導に代わるべきだと考えたかのかどうか、あるいは革命的熱情がどのようにして喚起されるべきなのかと考えていたのか、を語るのは困難だ。//
 (3)スターリンの外交政策に関して言うと、トロツキーは、「一国での社会主義」のために国際的革命は放棄されている、という主題を奏でた。だからこそ、革命は、ドイツ、中国およびスペインで連続して裏切られたのだ。
 (トロツキーによると、スペイン内戦は「本質的には」社会主義を目指すプロレタリアートの闘いだった。)
 彼は、赤軍は1923年にドイツの共産主義者を助けるために派遣されるべきだったかどうか(彼は1920年にそうすべく試みたが成功しなかった)、あるいは、1926年に中国共産党を助けるべくそうすべきだったかどうかを、語らなかった。
 一般的に言ってトロツキーは、発展途上の国々での「民族ブルジョアジー」を支援する政策には反対だった。
 この政策方針はしばしば、資本主義大国を弱体化させるには大いに役立った。
 トロツキーはしかし、「民族ブルジョアジー」の支援は致命的だ、と考えていた。その理由は、他のどこでもそうだが植民地領域では、革命を継続的に社会主義の段階へと高める共産主義者の指導にもとづいて行われてはじめて、「ブルジョア革命」の任務は履行される、というものだった。
 例えば、インドがプロレタリア革命による以外の方法で独立を達成することができると想定するのは馬鹿げている。このようなことは、歴史の法則から絶対的に外れている。
 ロシアの例が示すように、最初からプロレタリアート、すなわち共産党によって指導された「永続革命」こそが唯一可能にする方策だ。
 トロツキーは、ロシアの範型は世界の全ての国々を絶対的に拘束するものだと考えた。そのゆえに彼は、諸々の国々の歴史や特有の条件に関して何がしかのことを知っているかどうかに関係なく、全ての諸問題について決まり切った回答を行った。//
 (4)革命期の共産主義者は完全に情勢を統御することができるまでは過渡的な目標を活用しなければならない、ということに、トロツキーは反対しなかった。
 かくして、トロツキーは中国のトロツキストたちへの1931年の手紙で、国民議会という考えはその基本的政綱から排除されなければならない、と書いた。その理由は、貧農を支援することが説かれるときには、「農民層の不信を掻き起こすために、あるいはブルジョアジーが虚偽宣伝を開始することを可能にするために、プロレタリアートは国民議会をしを招集してはならない」、ということだった。
 (<著作集、1930-1931年>, p.128.)
 他方で我々は、別の箇所で、「プロレタリアートと農民の独裁」という1917年のレーニンのスローガンを繰り返すのは致命的な過ちだろう、という文章を読む。
 ロシア革命の最初から、政権はプロレタリアートと貧農を代表するものだとされてきた。
 この点についてトロツキーは、つぎのように書いた。
 「たしかに後になって我々は、ソヴィエト政権を労働者と農民のものだと呼称した。
 しかし、そのときまでにプロレタリアートの独裁はすでに事実であり、共産党は権力を握っており、その結果として労働者と農民の政府という名前は、何ら曖昧さを残すものでも警戒心を起こさせる理由になるものでもなかった」(同上、p.308.)。
 要するに、いったん共産党が権力を手中にすれば、虚偽的なまたは欺瞞的な名称には何ら害悪は存在し得ないのだった。//
 (5)ドイチャー(Deutscher)のようなトロツキーの支持者や崇拝者は、トロツキーが「社会ファシズム」とのスローガンに反対したことを、その評価を高める事実として強調した。
 たしかにトロツキーは社会民主主義政党内の労働者大衆を共産党から切り離すという理由で、このスローガンを批判した。しかし、社会民主主義者たちに関して何らかの現実的な政策方針を彼は持っていなかったように見える。
 トロツキーは、改良主義ときっぱりと決別しないで社会民主主義の再生を図っている諸組織との永続的な協力関係など語ることはできない、と書いた。
 同じ時期に、ヒトラーの権力継承の前に、彼は、「社会ファシズム」を語って同時に社会民主主義者に屈服していると、スターリン主義者たちを非難した。
 ナツィの勝利の直後の1933年6月には、ヒトラーの従僕であるドイツの社会民主党との統一戦線などを考えつくこともできない、と書いた。
 しかし、トロツキーの憤激は、1934-35年のソヴィエト政策の変更に対して、ひどく真剣に向けられた。
 スターリニズムは、その右翼の様相を最終的に提示した。スターリニストたちは、第二インターナショナルの裏切り者たちと同盟した。さらに悪いことには、彼らは平和と国際的仲裁を語り、さも重要な違いがあるかのごとく、世界を民主主義者とフシストに分けている。
 彼らは、世界戦争の脅威を与えるファシズムについて語っているが、しかし、マルクス主義者として、帝国主義戦争には「経済的基盤」があることを知らなければならない。
 彼らスターリニストたちはジュネーヴで、資本主義諸国の間での戦争も同じように含む概念用法で侵略者(aggressor)を定義することを受諾すらした。
 これは、ブルジョア平和主義に対する屈服だ。マルクス主義者は原理として、全ての戦争に反対してはならない。クエーカー教徒やトルストイ愛好者に向けた種類の偽善的言葉遣いを残すものだ。
 マルクス主義者は、階級の観点から戦争を判断しなければならない。そして、侵略者とその犠牲者の間のブルジョア的区別に関心を持ってはならない。
 マルクス主義者の原理は、侵略的であれ防衛的であれ、プロレタリアートの利益となる戦争は正しい(just)戦争であり、一方で帝国主義国間の戦争は犯罪だ、ということにある。//
 (6)社会民主主義者に対する態度の変化についてのトロツキーの初期の訴えは全て、実際には幻想的な(illusory)もので、かりに彼に権力があったとしても成果を何ら生まなかっただろう。社会民主党<と向かい合った>イデオロギー上の党を維持することは可能だと彼は空想し、一方で同時に、特定の情勢下での彼ら社会民主主義者の助けを懇願してもいたのだ。
 フランスがナツィ・ドイツと折り合うのを阻止するために、スターリンが「人民戦線」と社会主義者との間の反ファシスト同盟の政策を開始したとき、スターリンは、かりに自分の政策が成功するとすれば、いずれにせよ宣伝活動の観点から、大きな代償を払わなければならない、と意識していた。  
 トロツキーは他方で、事あるごとに偽善者、ブルジョアジーの代理人、労働者階級に対する裏切り者、帝国主義者の下僕だ-これらは「社会ファシスト」への軽蔑語にすぎなかった-と非難しつつ、彼ら社会主義者との反ナツィ戦線を形成することは可能だと考えた。
 トロツキーがかりに当時にコミンテルンの責任ある地位に就いていたとしても、彼の政策方針は、スターリンのそれよりも成功する見込みは少なかっただろう。//
 (7)トロツキーはじつに、(戦争と革命の間に何度も繰り返された)国際的な条約、調停、軍縮等々を信頼するのは怠惰な反動的性格をもつ、というレーニンの見解の、真の支持者だった。
どちらが侵略者であるかが問題なのではなく、重要なのは、どの階級が戦争を遂行しているか、なのだ。
 世界のプロレタリアートの利益を代表する社会主義国家は、いったい誰が戦争を開始したかとは関係なく、全ての戦争について「正しい」(right)。そして、帝国主義国の諸政府との条約類に拘束されるなどと、真面目に考えてはならない。
 スターリンの関心事は、世界革命ではなく、ソヴィエト国家の安全保障だつた。ゆえに、あらゆる場合に、平和の擁護者で国際的な法と民主主義の有力な主張者だと自分を見せかけなければならなかった。
 しかしながら、トロツキーは、情勢の主要な要素は1918年に自分が見ていたもの、つまり一方での帝国主義諸国、他方での社会主義国家や革命を行う正しいスローガンを待ち望んでいる世界のプロレタリアートだ、と信じていた。
 現実政治の唱道者であるスターリンは、「革命の上げ潮」を信じなかった。そして、ヨーロッパの共産主義諸党をソヴィエトの政策実現の道具として利用した。
 トロツキーは、「革命戦争」の絶えざる主張者だった。そして、彼の全教理は、事物の当然のこととしてかつ歴史の法則に従って、世界のプロレタリアートは革命を志向しており、スターリン主義官僚制の誤った政策だけがこの本来の趨勢が現実化するのを妨げている、という確信にもとづいていた。//
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 つぎの第5節の表題は、<ファシズム、民主主義および戦争>。

1967/L・コワコフスキ著第三巻第五章第二節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。合冊本は注記・索引等を含めて、計1284頁。
 今回の以下は、第三巻分冊版のp.190-p.194。合冊本ではp.939-942。
 なお、トロツキーに関するこの章は分冊版で37頁、合冊版で29頁を占める。この著の邦訳書はない。
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 第5章・トロツキー。
 第2節・スターリン体制、官僚制、「テルミドール」に関するトロツキーの分析。
 (1)トロツキーの全ての分析が基礎にしていた確信は、彼とレーニンの政策方針は間違いなく正しい(right)、永続革命理論は事実によって豊富に裏付けられている、「一国での社会主義」は致命的に誤っている、というものだった。
 彼は「ロシア革命に関する三つのコンセプト」と題する論文(1939年)で、つぎのように主張した。
 人民主義者(Populists)は、ロシアは資本主義段階を完全に迂回できると考えた。一方、メンシェヴィキは、ロシア革命はブルジョア的性格のものでのみありうる、そしてプロレタリアート独裁という段階を語ることはできない、と考えた。
 そしてレーニンは、プロレタリアートと農民の民主主義的プロレタリアート独裁というスローガンを提唱した。この旗のもとで実施される革命は西側での社会主義革命を促進し、急速なロシアでの社会主義ヘの移行を可能にするだろう、と。
 トロツキー自身の見方は、民主主義革命という基本方針はプロレタリアート独裁の形態でのみ達成可能だが、プロレタリアート独裁は革命が西側ヨーロッパに伝搬してのみ維持することができる、というものだった。
 レーニンは1917年に同じ方針に立ち、その結果としてロシアでのプロレタリア革命は成功した。
トロツキーがその<ロシア革命の歴史>で長々と示したのは、ボルシェヴィキの誰も、ロシアのプロレタリアートは西側のプロレタリアートに支持されて初めて勝利することができる、ということを疑っていなかったこと、そして、「一国での社会主義」というきわめて有害な考え方は1924年の末にスターリンが考案するまでは誰の頭の中にも入っていなかった、ということだった。//
 (2)1917年以降はレーニンのものでもあった、トロツキーの疑いなく正しい(correct)政策方針が「寄生的官僚制」による統治を帰結させ、また、トロツキー自身が権力から排除されて裏切り者との烙印を捺されたのは、一体いかにして生じたのか?
 これに対する答えは、ソヴィエト権力の頽廃と「テメミドール主義」に関する分析のうちに見出されることになる。//
 (3)追放されていた最初の数年間、トロツキーがとっていた見方は、スターリンとその仲間たちはロシアの政治的範疇の中の「中央」(centre)を占め、革命に対する主要な危険は-ブハーリンとその支持者たちに代表される-「右翼」および「テルミドール反動」、つまり資本主義の復活、の脅威のある反革命分子から生じる、というものだった。
 トロツキーは、これに従って、スターリンに反革命に対する支援を提示した。
 彼は、スターリンは右翼にあまりに譲歩しすぎていて、その結果、「工業党」やメンシェヴィキの連続裁判に見られるように、罷業者や人民の敵が国家の計画部局の高い地位を占めて工業化を意識的に遅らせている、と考えた。
 (トロツキーは、被告人たちの有罪を暗黙にながら信じていた。そして、この裁判がでっち上げだとの思いは、一瞬なりとも持たなかった。
 彼は数年のちに、自分や仲間たちの悪事が大きな見せ物裁判で強力な証拠でもって同じように立証されていってようやく、驚嘆し始めた。)
 トロツキーは1930年代初めに、スターリン体制は「ボナパルティズム」だとした。
 しかし1935年に、フランス革命では初めにテルミドールが来て、ナポレオンはその後だった、順序はロシアでも同じであるに違いない、そしてすでにボナパルトは登場しているので、テルミドールはやって来てかつ過ぎたに違いない、と観察した。
 彼は「労働者国家、テルミドールおよびボナパルティズム」と題する論文で、その理論をいくぶん修正した。
 テルミドール反動はロシアで1924年(すなわち彼自身が権力から最終的に排除された年)に発生した、と述べた。
 しかしそれは、資本主義者の反革命ではなく、プロレタリアートの前衛を破壊し始めていた官僚機構による権力奪取だった。
 生産手段を国家がまだ所有しているので、プロレタリアート独裁は維持されている。しかし、政治権力は官僚層の手中へと移った。
 しかしながら、ボナパルティズム体制はすみやかに崩壊するに違いない。歴史の法則に反しているのだから。
 ブルジョア反革命はあり得るが、本当のボルシェヴィキ党員たちが適切に組織されるならば、避けることができるだろう。
さらにトロツキーは、こう付け加えた。ソヴィエト国家の労働者階級性に関する自分の見方を決して変更しないが、より精細に歴史的類推による説明を施しただけだ、と。
 フランスでも、テルミドールは<アンシャン・レジーム>への元戻りではなかった。
 ソヴィエト官僚制は社会階級(class)ではない。しかし、プロレタリアートからその政治的権利を剥奪し、残虐な専制制度を導入している階層(caste)だ。
 しかしながら、現在のかたちでのその存在は十月革命の至高の成果である国有財産制に依存しており、その成果を官僚制は守るように強いられるし、それなりの方法で守ってきた。
 ゆえに、スターリン主義の頽廃と闘いつつ、世界革命の根拠地として無条件にソヴィエト同盟を防衛することは、世界のプロレタリアートの義務だ。
 (トロツキーは、この二つの意図が実践的にいかにして結合されるのかについて、詳細には説明しなかった。)
 1936年までには、彼はつぎの結論に到達した。スターリニズムを改革や内部的圧力で打倒することはできない。簒奪者を実力(force)によって排除する革命が起こらなければならない。
 この革命は所有制度を変更するものではなく、ゆえに社会的革命ではなく、政治的革命だ。
 これはプロレタリアートの先進的前衛によって実施され、スターリンが破壊した真の(true)ボルシェヴィズムの伝統を具現化することになるだろう。//
 (4)「一国での社会主義」理論は、ロシアおよび外国での官僚主義的過ちの全てについて、責任がある。
 それは世界革命の希望を、ゆえに世界のプロレタリアートでのロシアの主要な支援という希望を、放棄することを意味する。
 一国での社会主義は不可能だ。換言すれば、開始することはできても完了させることができない。それ自体の内部に閉じられた一国では、社会主義は腐敗せざるを得ない。
 1924年末までは世界革命を発生させるという適切な政策目標を追求したコミンテルンは、スターリンによって、ソヴィエトの政策と陰謀の道具へと変質させられた。そして、世界の共産主義運動は、頽廃と不能の状態に落ち込むことになった。//
 (5)トロツキーは、つぎのことを説明しようと多数の試みをした。プロレタリアートの政治権力が破壊され、官僚機構が支配権を獲得し、(のちに再三にわたり述べたように)統治の全体主義的システムを導入した、と。
 多数の書物や論文でのこの試みは、首尾一貫した議論を形づくるものではなかった。
 彼はしばしば、頽廃の主要な原因は世界革命の勃発が遅れていることにある、と主張した。西側のプロレタリアートはその歴史的な任務を適時に引き受けることをしなかった、と。
 彼は他方で同様にしばしば、ヨーロッパでの革命の敗北はソヴィエト官僚制の過ちだ、と主張した。
 かくして、いずれの現象が原因であり結果であるのかについて、疑問が残った。-のちには彼が指摘したごとく、相互に悪化させ合っていたのだけれども。
 我々は<裏切られた革命>で、官僚主義が成長した社会的基盤はネップ時代のクラク〔富農〕を厚遇した誤った政策だ、と語られる。
 かりにそうであるなら、富農の廃絶と第一次五カ年計画のもとでの工業化の強行によって、官僚機構はかりに破滅しなくとも少なくとも弱体化したことになるだろう。
 実際に正確には、それとは反対のことが起きた。そしてトロツキーは、なぜそうだったかをどこでも説明していない。
 彼はのちに同じ書物で、官僚機構は元々は労働者階級のための機関だったが、のちに物品の配分に関与するようになったときに、「大衆の上」のものになって特権を要求し始めた、と語る。
 しかしこれは、特権のシステムの発生は避けられ得たのか否か、どのようにすれば、を説明していないし、なぜ本当は権限のある労働者階級がそのような事態が起きるのを許したのか、も説明していない。
 トロツキーは同じ書物でさらに、官僚制的統治の主要な原因は、歴史的使命を履行すべき世界のプロレタリアートの緩慢さだ、と語る。
 初期の小冊子<ソヴィエト連邦発展の諸問題>(1931年)では、彼は別の理由を挙げる。すなわち、内戦後のロシアのプロレタリアートの疲弊、革命の時代に育まれた幻想の解体、ドイツ、ブルガリアおよびエストニアでの革命的蜂起の挫折、および中国とイギリスのプロレタリアートの官僚主義的裏切り。
 彼は翌年の論文で、戦争に疲弊した労働者たちが秩序と再建のために権力を官僚機構の手に委ねた、と述べた。
 しかし、なぜそのことが自分が指導する「真のボルシェヴィキ・レーニン主義者」によって実行され得なかったのか、を説明しなかった。 //
 (6)多くの種々の説明から、一つの明瞭な論拠が明らかになる。つまり、トロツキー自身は官僚制的システムの形成に些かなりとも関係しなかった、そして、官僚機構は革命後の初期6年の間の独裁とは何の関係もなかった、ということだ。
 しかし、現実は、これらの反対だった。
 初期6年の間に党組織が絶対的な権力を行使したという事実は、スターリンとその徒党の体制とは関係がない、と主張しているとトロツキーの議論は読める。なぜなら、この時代の党は「プロレタリアートの先進的前衛」であり、一方でスターリンの後続の体制は何物も何者も、いっさい代表しなかったからだ。
 そうであるならば、我々はつぎのように尋ねることができる。
 なぜプロレタリアートは、いかなる社会的背景も欠く簒奪者の徒党たちを一掃することができなかったのか?。
 トロツキーはこれに対する答えも用意している。すなわち、プロレタリアートは、現在の状況では自分たちの革命は資本主義の復活を招くだろうと怖れたので、スターリンの統治に反抗しなかった(しかし、継続的な反抗があった、と我々はいたるところで読める)。//
 (7)トロツキーの議論からは、このような惨憺たる結果が生まれるのを避ける方法は全くなかったのか否か、が明確ではない。
 全体として言えば、なかった、ように思われる。なぜなら、あったならば、トロツキーとその仲間たちは絶えず正しい政策方針と本当のプロレタリアートの利益を「表明」しようとしていたのであって、官僚層による権力奪取を確実に阻止できたはずだろう。
 トロツキーたちが阻止しなかったとすれば、その理由は、そうできなかったからだ。
 かりに官僚機構が可視的な社会的基盤なくして存続しつづけたとすれば、そのことはきっと、歴史の法則によるところに違いない。//
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 つぎの第3節の表題は、<ボルシェヴィズムとスターリニズム。ソヴィエト民主主義という観念>。

1965/L・コワコフスキ著第三巻第五章トロツキー/第一節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。第五章へ。
 第三巻分冊版p.183以下。合冊本ではp.934以下。
 第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。合冊本は注記・索引等を含めて、計1284頁。
 トロツキーに関するこの章は分冊版で37頁、合冊版で29頁を占める。
 この著の邦訳書はない。ドイツでは1977-79年に、独訳書が刊行された(のちにpaperback 版となった)。
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 第5章・トロツキー。
 第1節・逃亡時代。
 (1)1929年1月、左翼反対派が抑圧的手段でもってソヴィエト同盟からほとんど完全に一掃されたあと、一年間カザフスタンに追放されていたその指導者のレオン(レフ)・トロツキーは、トルコへと移された。彼はトルコで、Marmara 海のプリンキポ(Prinkipo)島に住まいを構えた。
 他諸国は長い間、世界で最も危険な革命家だとの評判をもつ人物を自分の領国内に受け入れようとしなかった。トロツキーがトルコで生活した4年の間に、彼は一度だけ、コペンハーゲンで講演をするためにこの国を離れた。//
 (2)トルコにいた間、彼は長大な<ロシア革命の歴史>を書いた。これは革命の過程の原因と進展を分析するもので、歴史は自分の予見の正しさ、とくに「永続的革命」論の正しさ(rightness)を確認した、と証明しようとした。この考え方はすなわち、民主主義革命は継続的にプロレタリアート独裁へと発展せざるをえない、そうしてのみ革命は成功するものになる、というものだ。
 彼はこのときまた、自叙伝や膨大な数の論文と、ロシアと世界全体の両方でのスターリンに対する左翼反対派の支持と発展を求める訴えや書簡を書いた。
 追放されて数カ月のうちに、彼はロシアで雑誌<Opposition Bulletin>を創刊した。この雑誌は、彼の人生の終焉時まで発行され続けた。息子のLeon Sedev が最初はドイツで、ナツィの権力奪取後はパリで出版した。
 トロツキーのロシア語での書物についてと同じく、これの主要な目的はソヴィエト同盟での反対運動が組織されるのを促進することだった。
 しかしながら、やがて、警察の監視によってこの雑誌をロシアに密かに持ち込むことがほとんど不可能になった。そして、ロシアにいる左翼の残余とのトロツキーの接触は全く絶たれたのと同然になった。//
 (3)トロツキーは同時に、自分の尽きない活力の大部分を、強い支持者を他諸国で獲得することに費やした。
 反対派の小集団があちこちにあった。それらを通じて彼はいずれはコミンテルンを再生させ、共産主義運動のうちに本当のボルシェヴィズムとレーニン主義の精神を復活させることを望んだ。
 これらの集団は1930年以降に活動し、インターナショナル・左翼反対派という集合的名称のもとで、コミンテルンの一派だと自称していた。-しかしこれは、イデオロギー上の虚構だった。トロツキーは最終的にコミンテルンから除名されていて、ロシアに残っている者たちのほとんどは収容所か監獄の中にいたのだから。
 1932年11月にいくつかの国から来たトロツキー主義者の会合がコペンハーゲンで開かれ、その間は指導者たちはそこに滞在した。数カ月のちに、パリで同様の集会が開かれた。
 トロツキーは数年間は、第四インターナショナルの設立に強く反対した。スターリン体制には社会的基盤がないのでいずれ崩壊するに違いない、その唯一のあり得る継承者は、その真の目的に向かうコミンテルンを復活させる「ボルシェヴィキ・レーニン主義者」だろう、と主張していたのだ。
 しかしながら、ヒトラーの権力掌握後の1933年、トロツキーは、新しい国際組織が必要だと決意し、新しい旗のもとに仲間たちを組織し始めた。
 第四インターナショナルは、公式にはパリの大会で、1938年9月に設立された。//
 (4)1932年末、トロツキーは、インターナショナル・左翼反対派の戦略と基本的考え方をつぎの11点に定式化した。
  1) プロレタリア政党の独立性の承認。したがって、1920年代の中国(国民党への共産党員の加入)やベルリン(アングロ・ロシア労働組合委員会)に関するコミンテルンの政策に対する非難。
  2) 革命の国際性、ゆえに永続性。
  3) ソヴィエト同盟はその「官僚主義的頽廃」にもかかわらずなおも労働者国家であること。
  4) 1923-28年の「日和見主義」段階、1928-32年の「冒険主義」段階、これら双方でのスターリンの諸政策に対する非難。
  5) 共産党員は、大衆組織で、とくに労働組合で活動しなければならないこと。
  6) 「プロレタリアートと農民の民主主義的独裁」およびそのプロレタリアート独裁への平和的移行の可能性という定式の拒絶。
  7) 封建的制度、民族的抑圧およびファシズムに反対する闘争に必要な場合での、プロレタリアート独裁を目指す闘いの間の一時的スローガンの必要性。
  8) 「日和見主義」形態によらない、社会民主主義者を含む大衆組織との統一戦線。
  9) スターリンの「社会ファシズム」論の拒否。
 10) 共産主義運動内部でのマルクス主義、中央派、右翼の区別。中央派(スターリン主義者)に対抗する右翼との同盟は排除され、中央派は階級敵との闘争では支持されるべきこと。
 11) 党内部に民主主義が存在すべきこと。
 (5)トロツキーはこれらの諸原則を最後まで維持したが、これらの完全な意味は、ソヴィエト国家の性格、党内民主主義および政治的同盟という考えに関する彼のより詳細な分析で初めて明確になる。//
 (6)追放中の最初の年月の間、トロツキーは、つぎのような思い違いをしていた。すなわち、反対派はロシアで巨大な勢力だ、スターリン主義官僚機構はその力をますます失っている、共産党は一方でボルシェヴィキ、他方で「テルミドリアン」、つまり資本主義への復古の擁護者、へと急速に両極化している、と。
 ソヴィエト体制を存続させたいならば、この二つの勢力が衝突するときに、官僚機構はもう一度、左翼からの助けを求めるに違いない。
 トロツキーはこう考えて、ソヴィエトの指導者たちへの手紙や宣言文で、反対派は復古や外国の干渉に反対する闘争に参加する用意がある、と表明した。
 彼は対抗者たちに復讐するつもりはないと約束し、「名誉ある協定」を提案し、致命的な危機にあるときは階級敵に対抗して自分たちは助けるとスターリン主義者たちに提案した。
 トロツキーが明らかに想定していたのは、いずれ危機のときにスターリンは自分に助けを乞うだろう、そして条件を明示するだろう、ということだった。
 しかしこれは、幻想(fantasy)だった。
 スターリンとその仲間たちは、トロツキー主義者たちと折り合うつまりは全くなく、いかなる情勢下でも彼らに助けを求めようとはしていなかった。
 ロシアの左翼反対派は、トロツキーが歴史発展の法則でそうなるに違いないと考えたようには力を得ておらず、逆に、仮借なく根絶された。
 スターリンが工業化と集団化の強行という「新路線」を宣告したとき、反対派の中の多数派はその方針に従い、スターリンは自分たちの政策を採用したと理解した。
 これは、例えば、ラデクやプレオブラジェンスキー(Preobrazhensky)についても当てはまった。
 トロツキー後の最も著名な左翼だったラコフスキー(Rakovsky)は、他の者たちよりは長く抵抗した。しかし、迫害された数年間ののちに、彼もまた屈服した。
 彼らのうち誰も、何らかの重要性をもつ地位に就くことはなかった。そして、誰も、大粛清(the Great Purge)による殺戮を免れれることがなかった。
 トロツキーは、反対派は社会的基盤を欠く支配的官僚機構に対抗する真正なプロレタリアートの勢力の立場にあると信じつづけた。
 ゆえに反対派は最終的には勝利するのであって、一時的な敗北や迫害ではこれを破壊させることはできないだろう。
 彼は、弾圧は歴史が非難する階級に対しては有効であっても、「歴史的に進歩的な」階級に対しては決してそうでない、と書いた。 現実には、トロツキーが追放中の数年間で、左翼反対派は完全に消失した。弾圧、殺戮、意気喪失、および屈服の結果として。
 しかしながら、反対派に潜在的な強さをもつトロツキーの希望や信念を生かしておく以上のことをスターリンはほんど何もできなかった、というのは本当だ。
 「トロツキー主義」に対する連続した反対運動、見せ物裁判および司法による殺人によって、外部の観察者たちは実際につぎのように納得した。「トロツキー主義」はなおも力強いソヴィエト国家の敵だ、と。
 スターリンは現実にトロツキーに対する脅迫観念的な憎悪感をもち、彼の名前を、普遍的な悪の象徴として、またスターリンが多様な表現をもつ反対論者あるいはどんな理由を使ってでも破壊させたい誰かに烙印を捺す汚名として、利用した。
 こうして、スターリンはその継続的な反対運動の目的に照応させるべく、二連の-「トロツキスト=右翼ブロック」、「トロツキスト=ファシスト」、「トロツキスト=帝国主義者」、「トロツキスト=シオニスト」のような-表現方法を作り出した。
  「トロツキスト」という接頭辞は、「ユダヤ=共産主義者の陰謀」、「ユダヤ=金権政治的反動」、「ユダヤ=リベラルの腐敗」等々を語る反ユダヤ主義者の口に出てくる「ユダヤ」がもつのと同じ目的に役立った。
1930年代の最初から、「トロツキズム」はスターリンの宣伝活動で特有の意味を持っておらず、スターリン主義がもつ抽象的な表象にすぎなかった。
 スターリンがヒトラーに対抗している間は、トロツキーはヒトラーの工作員だとして晒し台に置かれ、スターリンとヒトラーが友好的になったときは、トロツキーは、イギリス=フランス帝国主義国の工作員になった。
 モスクワの見せ物裁判では、トロツキーの名は<いやになるほど>思い起こされた。犠牲者たちは一人ずつ、追放中の悪魔がどのように強いて彼らを陰謀、罷業、殺害に向かわさせたかを語ったのだったから。
 こうしたスターリンによる迫害についての偏執症的神話によって、トロツキー自身は何度も再確信した。トロツキーはあまりに頻繁に弾劾されたので、スターリンは本当に、自分が簒奪した王冠を剥奪する用意をしている「ボルシェヴィキ=レーニン主義者」を怖れているのだ、と。
 一度ならずトロツキーは、モスクワ見せ物裁判はトロツキー自身をソヴィエト警察に取り戻す望みをもって組織されている、という見方を明確に述べた。何人かによると、スターリンは、彼の敵を後腐れがないように殺害せずに追放したことを後悔していた。
 トロツキーもまた、1937年の最後のコミンテルン大会は左翼反対派の脅威に対処するという目的のためにだけ招集された、と考えた。
 つまりは、追放された指導者は、スターリンが割り当てた役割を演じた。だが、闘いの多くは、トロツキー自身の想像の中で起きていた。
 インターナショナル・左翼反対派は、その後の第四インターナショナルのように、政治的な意味合いは皆無のものだった。
 むろんトロツキー自身は有名な人物だったが、歴史の大きな法則によればいずれは世界の基礎を揺り動かすはずのその運動は、どこにあるスターリン主義諸政党に対しても事実上は何の影響力をもたない、瑣末な党派(sect)であることが判明するに至った。//
 (7)スターリニズムに幻滅した、またはコミンテルンでトロツキーと連携した数少ない共産主義者たちは、中国の党の前のトップの陳独秀(Chen Tu-hsiu)を含めて、トロツキーの側から去った。
 多様な諸国の知識人たちは、ソヴィエトの指導者たちはもはや代表していない、本当の革命精神の具現者だとしてトロツキーを支持した。
 しかし、遅かれ早かれ、彼の支持者は消失していった。とくに、知識人たちが。
 トロツキー自身に、この事実に対する大半の責任はある。絶対的な服従を要求し、どんな主題であっても彼の見解からの逸脱を許さなかったのだから。
 個人的な問題、彼の独裁者ぶり、自分の万能さについての驚くべき信念を別に措けば、
主要な不一致は、ソヴィエト同盟との関係についてにあった。
 ソヴィエト連邦はまだプロレタリアート独裁の国家だ、その官僚機構は階級ではなく社会主義という健全な身体上の異常な発達物にすぎない、とのトロツキーの主張は、彼の見方はますます明瞭な現実感覚を失っているように見えたことから、論争と分裂の主要な原因だった。
 しかしながら、この問題についてはトロツキーは終生にわたって頑固で、その結果として全ての重要な知識人はトロツキーへの信頼を捨てた。フランスのSouvarine、アメリカ合衆国のVictor Serge、Eastman、およびのちに、Hook、Schachman、Burnham。
 トロツキーはまた、著名な画家の、メキシコでの寄宿先提供者だったDiego Rivera の支持も失った。
 トロツキスト集団の教理的厳格さは、それらの頻繁な解散の原因になり、間違いなく第一のそれではなくとも、その運動が政治的な勢力に決してならなかったことの理由の一つだった。
 努力が完全に実を結ばないことが指摘されたときにいつでも、トロツキーは同じ答えを用意していた。1914年のレーニンは完全に孤立していた、3年後にレーニンは革命を勝利に導いた、という答えを。
 トロツキーもまた歴史発展の深遠な趨勢を代表しているので、彼もレーニンが行ったことをできるはずなのだった。
 この信念によって、彼の全ての活動と政治的分析は可能になった。そして、これが彼の不屈の希望と活力の源泉だった。//
 (8)ロシアでの左翼の最初の勝利についてトロツキーが基礎にしていた経験上の根拠は、今日の目からすると驚くほどに微少だ。
 一人または二人のソヴィエト外交官が職を辞して、西側にとどまった。
 トロツキーはこのことに、つぎの証拠として、繰り返して言及した。スターリン主義者の党は解体しつつあり、「テルミドリアン的要素」と革命に対する裏切りが目立ってきている、そして防塞の反対側にいる本当のボルシェヴィキが力を得つつあることをこれらは意味しているのだ。
 1939年の第二次大戦の勃発の際、彼は新聞で、ベルリンにいる誰かが「ヒトラーとスターリンよ、くたばれ!、トロツキーに栄光あれ!」と壁に描いていることを読んだ。
 トロツキーはこれに勇気づけられ、スターリンが支配するモスクワが暗闇になるとすれば、このような警告で壁は塗りつぶされるだろう、と書いた。
 のちに彼は、フランスの外交官がヒトラーに、かりにフランスとドイツが戦争を始めればトロツキーが唯一の勝利者になるだろうと語った、という記事を読んだ。
 これもまた彼は、ブルジョアジーすらも自分の正しさを理解している証拠だとして、いくつかの論文で勝ち誇って引用した。
 彼は揺るぎなく、本当のボルシェヴィキ、つまりトロツキストたち、が勝利する世界革命でもって戦争は終わるだろうと、確信していた。
 第四インターナショナルの設立に関する彼の論文は、「来たる10年以内に第四インターの綱領は数百万人の指針となり、その革命的な数百万人は地上と天国を急襲する方法を知るだろう」という予言で終わっていた(<レオン・トロツキー著作集、1938-1939年>N. Allen=G. Breitman 編, 1974, p.87.)。//
 (9)長い努力のあと1933年夏、トロツキーはついに、警察による多くの制限を条件として、フランスに居住する許可を得た。
 彼は2年間異なる住所に住んでいて、その状況は日増しに危険なものになっていった。全てのスターリン主義政党が声高に彼に敵対し、ソヴィエト警察のテロ活動が増えていた。
 1935年6月、トロツキーはノルウェイに亡命することが認められ、ここでおそらくは最もよく知られた書物を執筆した。
 ソヴィエト体制の一般的分析書である<裏切られた革命>だ。これは、ソヴィエト体制の頽廃と見通しを記述し、革命によるスターリン官僚制の打倒を訴えるものだった。
 1936年末、ノルウェイ政府は、メキシコに送ることで、扱いにくい賓客を自国から排除した。トロツキーは、人生の残りをそこで過ごす。
 この時期の彼の活力の多くは、モスクワ裁判という虚偽の仮面を剥ぐことに費やされた。モスクワ裁判で彼は、あらゆる陰謀、罷業および被訴追者たちが起こしたテロ行為の背後にいる首謀者だと非難されていたのだった。
 トロツキーの友人たちの尽力によって、アメリカの哲学者で教育者のジョン・デューイ(J. Dewey)を長とする国際調査委員会が設置された。
 この機関はメキシコを訪問してトロツキー自身から聴取を行い、最終的にはモスクワ裁判は完全なでっち上げだったと結論づけた。//
 (10)トロツキーはメキシコで、さらに3年半の間生活した。
 この地域のスターリン主義者は追及運動を組織し、1940年5月にソヴィエト工作員とともに彼の住居を武装襲撃した。
 トロツキーとその妻は奇跡的に逃れて生きたままだったが、長くはつづかなかった。すなわち、8月20日、訪問者を装ったソヴィエト警察の工作員の一人が、彼を殺した。
 ヨーロッパで父親の代理をしていた彼の息子のレオンは、1938年にパリで、おそらくはソヴィエト工作員によって毒をもられて、死んだ。
 ロシアを離れず政治にかかわらなかったもう一人の息子のセルゲイ(Sergey)は、スターリンの牢獄に消えた。
 トロツキーの娘のZina (ジーナ、ジナイダ)は、1933年にドイツで、自殺した。//
 (11)トロツキーは11年の逃亡中に、膨大な数の論文、小冊子、書物、宣言文を出版した。
 彼はあらゆる時期に、世界のプロレタリアート全体に、あるいはドイツ、オランダ、イギリス、中国、インドそしてアメリカの労働者たちに、指示、助言を与え、訴えを発した。
 もとよりこれら全ての文書はひと握りの崇拝者たちにしか読まれず、事態に対しては微少の影響すら与えなかったので、トロツキーの活動は玩具の兵士との遊戯だとして否認される傾向にある。
 しかし、暗殺者のアイス・ピックは玩具ではなく、スターリンは世界じゅうのトロツキズムを抹殺するために多大の精力を用いた、という事実は残っている。-この目的をスターリンは、大部分は達成した。//
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 第2節の表題は、<スターリン体制、官僚制、「テルミドール」に関するトロツキーの分析>。 

1959/L・コワコフスキ著第三巻第四章第13節③。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。第三巻分冊版p.174-。
 第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
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 第13節・スターリニズムの最終段階でのヨーロッパ・マルクス主義③。
 (16)ソヴィエトの宗主権のもとにある他諸国では、文化上のスターリン主義化は、さまざまな理由で、より全面的で、より破壊的だった。
 東ドイツはソヴィエトによる直接占領下にあり、スターリニズムはプロシア的(Prussian)伝統と結合して、硬い反啓蒙主義の雰囲気を生んだ(のちに別に論述するErnst Bloch の活動のおかげで救われた)。
 さらに、1961年までは西ドイツへと逃亡することが困難でなかった。そう行動した400万の人々の中には、多数の知識人がいた。そして、彼らがいなくなったことで、その母国地域の荒廃が増大することになった。
 チェコスロヴァキアもまた、容赦なきイデオロギー的迫害(purge)を被った。その影響の跡を、今日でもまだ感じ取ることができる。
 ここでのしばらくの間の文化的独裁者は、元来は音楽に関する歴史学者のZdeněk Nejedlý だった。この人物は強権でもって芸術を監視し、チェコの古典文学を「校訂」し、「コスモポリタン」のドヴォルザーク(Dvořák)の作品の上演を禁止するなどをした。
 ブルガリアで彼の位置にいたのは、Tedor Pavlov だった。この人物は典型的なマルクス主義好事家(dilettante)で博識ぶっており、生物学、文学、哲学その他について執筆した。
 最もよく知られた著作は、戦争前に刊行されてロシア語に翻訳された、<反射の理論>と題するレーニン主義の認識論の論文だった。
 「反射」という概念はこの著作では、機械的な因果関係論から先に進んだ、個々の事物が相互に行使し合うことのできる全種の影響力を指すという、広い意味で用いられていた。
人間の感知いう行動と抽象的思考はこの「反射」の特殊な場合であって、最高度の次元で事物を構成化したものだ。
 たまたまこの時期に、ソフィア大学〔ブルガリア〕の哲学の老練教授のMikhalchevが、第二級のドイツ経験批判論者であるRehmke (1930年没)の指導を受けていた。
 そのゆえにそれ以降の多年にわたり、ブルガリアのマルクス主義哲学者の主要な課題は、 「Rehmke 主義と闘う」ことになった。//
 (17)ハンガリーでは、マルクス主義は最初から強い地位にあった。それは、前世代に何人かの傑出した哲学者たちが存在したことを理由とした。すなわち、J. Révai、B. Fogarsai、そしてG. Lukács (ルカチ)。
 Révai は、一時期、ハンガリー文化のスターリン主義化の責任をもつ党代表者だった。
 ルカチ(Lukács)は、この時期を通じて二重の位置にあった。スターリニズムの最後の年月の間での彼の書物や論文は、ヘーゲルに関する書物を除いて申し分なく正統派のものだったけれども。
 ヘーゲルに関する書物は戦争前に執筆され、1948年にドイツで出版された。
 この本は完全に非ソヴィエト様式のもので、決してスターリン・ズダノフの公式と適合していなかった。//
 (18)西ヨーロッパでは、マルクス主義の位置はいくぶん異なっていた。
 全ての共産党がいつでもスターリンの方針を忠実に支持し、ソヴィエトの政策を称え、指導者(Leader)の個人崇拝を伝道していた、というのは本当だ。
 しかし、フランス、イギリスでは、そしてイタリアでも、ソヴィエトの範型は、哲学や歴史学に関する理論上のマルクス主義著作物を完全には支配していなかった。
 とは言え、それからの逸脱の程度は、内容の点でよりも様式や議論の方法の方が大きかった。//
 (19)フランスの共産主義者の運動は、1945年後の最初の数年間で大きな勢いで強くなった。
 冷戦の最初から、共産党は主要な政治および議会の諸問題で堅牢な態度を維持し、利点とは関係なく全ての政府の動きを妨害した。但し、地域または都市内の問題については、その政策は戦術的で融通性があった。
 同時に、共産党は、第一次大戦以前のドイツ社会民主党にむしろ似ている基本方針をもって、文化生活の入念で高級なかたちを発展させた。
 党は、理論誌<Pensée>を含む多数の定期刊行物を出版し、その隊列の中に、国民的に名高い多数の優れた男女を数え込んだ。すなわち、Aragon やÉluard のような文筆家、Picasso (ピカソ)やLéger のような画家、Juliot-Curie (ジョリオ=キュリー)たちのような科学者。
 こうした全ての者たちの力で、共産党の活動は相当の威信を獲得した。
 かなりの量の哲学上の文献が、出版された。その中のある程度は純粋にスターリニズムのもので、とくに党の月刊誌<Nouvell Critique>上のものはそうだった。
 例えばこの雑誌は、当時にフランスで関心が増えていた精神分析論に対する反対運動を打ち上げた。
 予期されるように、寄稿論考のほとんどは、精神分析論をブルジョア的学問だ、そのうえに観念論で機械論だ、と非難し、社会現象を個人の心理に、人間の精神を生物的な衝動に帰一させるものだ、とした。  
1960年代の「リベラルな」共産主義の運動者として注目されるべきRoger Garaudy(ロジェ・ガロディ) は、内容的はスターリニズムだがソヴィエトでの著作物よりも確実に十分に知見のある好著をいくか執筆した。
 その一つは<Grammaire de la libertéa〔自由の文法〕>で、自由を獲得する方法は産業を国有化して失業を廃絶させることだ、と論じた。
 Garaudy は<Les Sources françaises du socialisme scientifique 〔科学的社会主義のフランスの起源〕>(1948年)では、共産主義はフランス文化に深てかつ独特の根源をもつことを論証しようとした。
 彼はまた、キリスト教に関する書物を書き、カトリック教会が反啓蒙主義であり科学の進展に反抗している証する文章類を引用した。//
 (20)いくぶん異なる性格の、多作の文筆家だったHenri Lefebvre(アンリ・ルフェーヴル)は、マルクスとヘーゲルの著作撰者の一人で、民族主義およびファシズムに反対する複数の著書の執筆者だった。
 彼は1947年に、<Logique formelle et logique dialectique(形式論理と弁証法的論理)>と興味深い<Critique de la vie quotidienne(日常生活批判)>を出版した。
のちには実存主義批判に至り(1960年代や1970年代のフランス・マルクス主義者が論述するのを避けられないものだった)、さらに、デカルト、ディドロー、ラブレー、パスカル、ミュッセ〔Alfred de Musset〕、マルクスおよびレーニンの著作に批判を向けた。絵画や音楽に関する学位論文もある。
 これらの著作は全て、スケッチ風のもので深遠な研究書ではない。しかし、独特のかつ有意義な観察を含んでいる。
 ルフェーヴルは、幅広い文化、とくにフランスとの関係でのそれを知る人物だ。
 彼の著作は生き生きとしていて、独創的だ。しかし、あまりに多数の主題に接触しすぎて、それらのいずれの主題についても長くは存続しなかった。
 彼は、フランスのマルクス主義に対して相当大きい影響力をもった。それは中でも、ソヴィエト・マルクス主義が実践的に無視したマルクスの初期の著作に、頻繁に立ち戻って思考したことによる。
 彼はとくに、「全体的(total)人間」という主題に関心をもった。
 「若きマルクス」が1940年代および1950年代初めにフランス哲学の支え(staple)になったのは、ルフェーヴルに大きく依っている。
 彼はまた、おそらく「疎外(alienztion)」というマルクス主義用語を一般的にした最大の人物だ。この語は(彼が意図したのではないが)、曖昧に心地よくない状況を指し示すためのフランスの日常用語として、好まれる表現句となった。
 傑出したマルクス主義歴史学者のArguste Cornuk(オーギュスト・コルニュ)の著作は、この時期での党の哲学の主流とはいくぶんか離れている。//
 (21)スターリン・イデオロギーの解体の時代のフランス・マルクス主義の進展は、1940年代のヘーゲル主義と実存主義のうねりに影響を受けていた。
 ヘーゲル、とくに<精神現象学>、のフランスの読者への主要な紹介者は、Alexandre Kojève(A・コジェーヴ)とJean Hyppolite(J・イポリット) だった。前者は、戦争前にヘーゲル哲学に関して深く研究して論評していた。
 この二人はいずれもマルクス主義者または共産主義者ではなかったが、マルクスの思想に同調的な関心をもち、真摯に分析し、ヘーゲル体系(schemata)の諸要因がマルクスの思想に影響を与えたことを強調した。
コジェーヴとイポリットは、フランス哲学をその伝統的な回路と関心から逸らす大きな仕事をした。
 とりわけ、歴史の進行の中に具現化された理性(Reason)という考えに通用力を与えた。-この観念は反デカルト的なものだった。なぜなら、デカルトは、歴史を本質的には偶然が支配する領域で、哲学の及ぶ範囲外にあり、意識的な虚構による人為的な構成物、デカルトが名付けたような<fabula muudi>、という手段による以外には合理的に説明することができないものだ、と考えたからだ。
 コジェーヴは1947年に出版された講義録で、労働と闘争によって人間が自分で作り出す歴史としての<現象学(Phenomenology)>を提示した。
 主人と下僕の弁証法のうちに、彼は、マルクスのプロレタリアート理論と歴史を創造するもの(demiurge)としての労働という考えの起源を感得した。
 コジェーヴとイポリットは、マルクスの歴史にかかる哲学はヘーゲルの否定の弁証法を継続させたものだとということを示した。-悪、隷従および疎外は、人類が自己の理解と解放を達成するために必要な手段だ。
 イポリットはとくに、マルクスにとってと同様にヘーゲルにとって理性は、歴史の行路から自立した独自の法則をもつ超越的な観察者ではなく、それ自体が歴史の要素、側面または表現だということを、強調した。また、「理性的なもの」に向かう人類の進歩は漸次的に同質化していく、思考についての既製の法則の問題ではなく、共同体と他者にある理性的なもの承認という意識の成長の問題だ、とも。
 この目的を達成するためには、人間は商品(commodity)として機能することをやめることが必要であって、このことがマルクスの主要なメッセージだ。//
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 ④へとつづく。次の段落の冒頭は、「サルトルの実存主義哲学…」。

1956/L・コワコフスキ著第三巻第四章第13節②。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。第三巻分冊版p.170-。
 第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
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 第13節・スターリニズムの最終段階でのヨーロッパ・マルクス主義②。
 (7)武装侵攻以外の全ての形態での圧力が激烈に加えられたにもかかわらず、ユーゴスラヴィア共産党はその自立性を維持し、スターリン主義共産主義体制に戦争以降で最初の実質的な亀裂をもたらした。
 分裂後すぐに、ユーゴの党イデオロギーは、共産主義諸党は自立していなければならないと強調し、ソヴィエト帝国主義を非難する点でのみ、ソヴィエトと異なった。
 マルクス=レーニン主義の一般的原理はユーゴスラヴィアに力を持って残ったままであり、その点ではソヴィエト同盟で観察されたものと異なってはいなかった。
 しかしながら、やがて政治的教理の基礎は修正主義へと進み、ユーゴスラヴィアは社会主義社会についての自分自身のモデルを生み出し始めた。それは、重要な態様でロシアのそれとは異なっていた。
 (8)この頃までのコミンフォルムは、反ユーゴスラヴィア情報宣伝活動の道具とほとんど同じだった。その<存在理由>は、1955年春にフルシチョフ(Khrushchev)がベオグラードと和解しようと決定したときに消滅した。
 だが現実には、コミンフォルムは1956年4月までは解体されなかった。
 知られているかぎりで、そのとき以降、ソヴィエトの党は国際共産主義の組織的形態を設立しようとはせず、可能なかぎり、個別の諸党に対して直接的な統制を加えることによって闘い、ときおりは、世界的問題に関する決議を採択するための会議を呼びかけた。
 しかしながら、これらは従前に比べると成功しなかった。努力したにもかかわらず、ソヴィエトの指導者たちは、かつてユーゴスラヴィアについて行ったのと同様に中国共産党からの国際的非難を受けないようにすることが、うまくはできなかった。
 (9)スターリン支配の最後の年は、共産主義世界全体での、教理のソヴィエト化(Sovietization)を特徴とした。
 このことの影響はブロック内の国々によって異なった。しかし、圧力と趨勢は、一般的に言って同一だった。
 (10)以前の章で述べたように、ポーランドのマルクス主義はそれ自体の伝統をもち、ロシアのそれから全く自立していた。
 この伝統には単一の正統な形態はなく、厳密な党イデオロギーもなかった。
 ポーランドの知的情景の中では、マルクス主義はたんに一つの傾向にすぎず、きわめて重要なものでもなかった。
しかしながら、型にはまった教理を主張するのではなかったが、マルクス主義の諸範疇をその研究に利用した歴史学者、社会学者、および経済学者たちがいた。
 とりわけLudwik Krzywicki とStefan Czarnowski (1879-1937)だ。後の人物は傑出した社会学者、宗教歴史学者で、その晩年には、ある範囲で、マルクス主義へと接近した。
 (彼は、プロレタリア文化に関するある小論文で、新しい精神性と新しい類型の芸術の起源を労働者階級の状況と関連させて分析した。)
1945年の後の数年のうちに、この伝統が復活した。新しいマルクス主義の思考は、古いそれと同じく、特定の厳格な方向に何ら限定されておらず、むしろ、合理主義や文化的諸現象を社会紛争と関連させて分析する習慣の背景であるように見えた。
 こうした緩やかで、聖典化されないマルクス主義は、月刊誌<Mysl Wspolczesna(現代思想)>や週刊誌<Kuźnica(前進)>などの雑誌で表現されていた。
 1945-50年に、諸大学が戦前の方針のもとで再設立された。たいていは同じ教育スタッフが担当した。
 教育の分野でのイデオロギー的な粛清(purge)は、まだ存在しなかった。
 この時期に出版された多数の科学書や科学雑誌は、マルクス主義とは何の関係もなかった。
 体制側は「プロレタリアート独裁」とはまだ自称しなかった。そして、党のイデオロギーは共産主義の主題を強調せず、むしろ、愛国主義、民族主義または反ドイツの主題を重視した。
 ソヴィエト類型のマルクス主義は、この時期の背景には多く見られた。
 その主要な語り手は、Adam Schaff だった。この人物は、レーニン=スターリン主義の範型の弁証法的唯物論や歴史的唯物論について解説する書物や手引き書を執筆した。但し、ソヴィエトにいる同種の者たちのものほどに幼稚ではなかった。
 最悪の時代であってすら、ポーランドのマルクス主義はソヴィエトの水準にまで低落することがなかった、と一般的に言ってよい。
 ロシアの範型によって浸食されたにもかかわらず、ポーランド・マルクス主義は、ある程度の独創性と、理性的な思考に対する内気な敬意を保った。//
 (11)1945-49年に、政治と警察による抑圧がより強くなった。
 戦争後のおよそ二年の間、ドイツの侵略者と闘った、そしてロシアによって押しつけられた新しい体制に屈服するのを拒む、地下軍隊との武装衝突があった。
 処刑と頻繁な流血は、武装地下軍団や戦時中の政治組織に対する闘いの特質だった。農民政党やその他の合法的な非共産主義集団に対する闘いについても同様だったが。
 にもかかわらず、この時期の文化的圧力は、純粋に政治的な問題についてに限られていた。
 マルクス主義はまだ、哲学または社会科学での拘束的な標準たる地位を占めていなかった。かつまた、芸術や文学での「社会主義リアリズム」は、知られていなかった。//
 (12)1948-49年、ポーランドの党は「右翼民族主義者」を粛清した。
 党指導部は交替し、政治生活はロシアの指針に適合するようになり、農村の集団化が決定された(但し、いかなる程度にでも実施されなかった)。そして、体制はプロレタリアート独裁であることが、公式に宣言された。
 1949-50年、政治的な浄化のあとに続いたのは、文化のソヴィエト化だった。
 多数の学術および文化に関する雑誌が閉刊され、それらには新しい編集者が着任した。
 1950年代の初めに、ある範囲の「ブルジョア」教授たちが解任された。しかし、その数は大して多くはなかった。そして、教育や出版はすることができなかったけれども、給与を貰って、状況が苛酷でなくなった数年のちには出版することとなった書物を執筆していた。
 哲学学部の一定範囲の教授たちには職が残されたが、論理の教育に限定するように命じられた。
 その他の者たちには、科学アカデミーの中に再び職が与えられた。そこで彼らは、学生たちとの接触をしなかった。
 社会科学部門のカリキュラムは変更され、社会学の講座は歴史的唯物論の講座に替えられた。
 党の特別の研究所が、イデオロギー的に微妙な哲学、経済学および歴史学の部門について、「ブルジョア」教授たちに代わって幹部たちを研修するために、設置された。
 哲学については、マルクス主義的「攻撃」の手段は雑誌<Mysl Filozoficzna(哲学的思考)>だった。
 マルクス主義哲学者たちは一定期間、非マルクス主義の伝統と、とくに分析哲学のLwow-Warsaw 学派と闘うことに傾注した。Kotarbinski、Ajdukiewicz、Stanislaw Ossowski、Maria Ossowska、等々だ。
 多数の書物と論文が、上の学派の考え方の多様な論点を批判した。
 もう一つの攻撃対象は、トーマス主義(Thomism) だった。これは、Lublin カトリック大学を中心として強い伝統を持っていた。
 (この大学は-社会主義国家の歴史上例のないことだが-抑圧されたことがなく、様々な圧力と干渉の手段が講じられたにもかかわらず、今日まで機能している。)
 老若両世代の多数のマルクス主義者たち-Adam Schaff、Bronislaw Baczko、Tadeusz Kroński、Helena Eilstein、Wladyslaw Krajewski-が、この闘いに参加した。この著の執筆者〔L・コワコフスキ〕もそうだったが、この事実が誇りの大元だとは考えていない。
研究のもう一つの主題は、過去数十年間のポーランド文化に対するマルクス主義の寄与だった。//
 (13)この時代の文化的進展について完全に論評するのは、まだ時機が早すぎる。しかし、強要された「マルクス化(Marxification)」には、ある程度の埋め合わせ的な特徴があった。
知的生活は確かに、貧困でかつ不毛なものになった。しかし、マルクス主義の普及は、それが伴った強制にもかかわらず、良いことももたらした。
 破壊的で反啓蒙主義的な部分もあったが、本質的に価値があり、多かれ少なかれ知的な世界的相続財産たる性格をもつ特質を、それは持ち込んだ。
 例えば、文化的諸現象を社会的対立の側面だと把握したり、歴史的進展の経済的および技術的背景を強調したりする習慣だ。概して言うと、諸現象を、幅広い歴史的な趨勢との脈絡で研究する、ということだ。
 人文諸学問の新しい方向のある程度は、イデオロギー的な契機をもつものではあったが、例えばポーランドの哲学や社会思想の歴史に関して、価値ある結果を生み出した。
 哲学上の古典の翻訳書の出版やポーランドの社会思想、哲学思想、宗教思想に関する標準的著作物の再出版というかたちで、有意味な仕事がなされた。//
 (14)スターリン主義の時代には、国家は文化に対して全く寛容に助成金を支給した。その結果として、大量のがらくた作品が生産されたが、しかし、永続的価値をもつものも多く生まれた。
 一般的な教育水準と大学への入学者数は、戦前と比べて顕著に上昇した。
 破壊的だったのはマルクス主義での一般的教育ではなく、強制と政治的欺瞞の道具としてそれが用いられたことだった。
 初歩的で型に嵌まった形態だったとしてすら、マルクス主義は、その伝統の一部である有益で理性的な思考を植え付けることに、ある程度はなおも貢献した。
 しかし、そうした思考方法の種子は、マルクス主義の諸教理の抑圧的な利用が緩和されていてのみ、成長することができた。//
 (15)概していえば、厳密な意味でのスターリニズムは、ポーランドの文化にとって、ブロックの他諸国のそれに対するほどには有害ではなかった。そして、元に戻せない程度は、より低かった。
 このことには、いくつかの理由があった。
 まず、たいていは受動的だったが自発的な文化的抵抗と、ロシアに由来するもの全てに対する深く根ざした不信または敵意があった。
 スターリニズム文化の押し付けについては、一定の気乗り薄さ、あるいは首尾一貫性の欠如もあった。すなわち、マルクス主義が人文諸科学を絶対的に独占することは決してなかった。また、ソヴィエト的様式で生物学に圧力を加えようとする試みは貧弱だったし、効果もなかった。
 「社会主義リアリズム」の運動はある程度の釈明的な無価値のものを生んだが、文学や芸術を破壊することはなかった。
 高等教育の諸施設での迫害(purge)は、比較的に小規模だった。
 図書館で禁書とされた書物の割合は、他のどの諸国よりも小さかった。
 さらに加えて、ポーランドでの文化的スターリニズムは、比較的に短命だった。
 それは本気で1949-50年に始まったが、1954-55年にはすでに衰亡しつつあった。
 実証するのは困難ではあるが、もう一つの緩和要因が働いていた、と言うことができる。すなわち、戦前のポーランド共産党を破壊してその指導者たちを殺戮したスターリンに対する、多数の老練共産主義者たちの反感だ。//
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 ③へとつづく。

1931/L・コワコフスキ著第三巻第四章第10節②。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。 
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 第10節・スターリン晩年時代のソヴィエト文化の一般的特質②。
 (7)イデオロギー全体の礎石は、指導者に対する個人崇拝(cult)だった。これは、この時代にグロテスクで悪魔的な様相を見出したもので、のちの毛沢東に対する個人崇拝を例外として、おそらくは歴史上にこれを上回るものはない。
 スターリンを賛美する詩歌、小説および映画が、途切れない潮流の中に溢れ出た。彼の写真や肖像が全ての公共広場を飾った。
 作家、詩人、および哲学者はお互いに競って、新しい酒神礼賛的(dithyrambic)崇拝の形態を考案した。
託児所や幼稚園の子どもたちは、彼らの幸福な幼年生活について、スターリンに心溢れる感謝を捧げた。
 民衆の宗教心の形態は全て、歪められた形で復活した。すなわち、聖像(icon)、行列、声を揃えて朗読される祈り、(自己批判という名のもとでの)罪の告白、遺物崇拝。
 このようにしてマルクス主義は、宗教のパロディー(parody)となった。 但し、内容を欠いたパロディーだ。
 適当に選んで、以下は、この当時のある哲学上の著作にある、典型的な導入部だ。
 「同志スターリン、諸科学に関する偉大な指導者は、深さ、明瞭さ、および活力について無比の研究をして、弁証法的かつ歴史的唯物論の基礎の体系的論述を、共産主義の理論上の土台として、与えた。
同志スターリンの理論的諸著作は、全同盟共産党(ボルシェヴィキ)中央委員会およびソ連邦閣僚会議により、彼の70歳の誕生日での同志スターリンへの挨拶で、尊敬の念をもって語られた。
 『科学の偉大な指導者!。帝国主義、わが国におけるプロレタリア革命と社会主義の勝利という新しい時代に関連させてマルクス=レーニン主義を発展させた貴方の古典的な諸著作は、人類の巨大な達成物であり、革命的マルクス主義の百科辞典である。
 ソヴィエトの男女および全国の労働人民の指導的代表者たちは、労働者階級の運動の勝利へと向かう闘いにおいて、知識、確信および新たな強さを、共産主義への今日の闘争に関する最も焦眉の諸問題についての解答を見出しつつ、これら諸著作から獲得している。』
 <弁証法的および歴史的唯物論>に関する同志スターリンの輝かしい哲学的全集は、知識と世界の革命的変革の力強い手段であり、不可避的に打倒される宿命にある、唯物論の敵および資本主義社会の衰亡していくイデオロギーと文化、に対抗する圧倒的な武器である。
 それは、マルクス=レーニン主義世界観の発展…<中略>における新しい、至高の段階である。
 同志スターリンはその全集において、無比の明瞭さと簡潔さをもって、マルクス主義の弁証法的方法の基本的特質を解説し、自然と社会の法則的な発展に関する理解の重要性を指摘した。
 同じ深さ、力強さ、簡潔さおよび党政治上の決意をもって、同志スターリンは、その諸著作で、マルクス主義の哲学的唯物論の基本的特質…<以下略>を定式化した。」
 (V. M. Pozner, <マルクス主義の哲学的唯物論の基本的特質に関するJ. V. スターリン>、1950年)
 (8)スターリンは、ロシア史上の偉大な英雄たちを通じて、間接的にも称賛された。
 ピョートル大帝、イワン雷帝およびアレクサンダー・ネフスキーに関する映画や小説が、スターリンの栄誉のために捧げられた。
 (しかしながら、イワン雷帝のほかにスターリンの明確な命令にもとづきその<oprichnina〔親衛隊〕>または秘密警察を賛美するアイゼンシュタイン(Eisenstein)の映画は、スターリンが生きている間は上映されなかった。そうした映画は、いかに雷帝が、たとえ気が重くても、最も執念深い陰謀家たちの手を切り落とさざるをえなかったかを描写していたからだ。-なるほど、観客たちには疑いなく、まさしく札付きの悪漢だが、イワンは思慮深い政治家には期待され得たことを何もしなかった、という気分が残っただろうけれども。
 身長の低いスターリンは、映画や劇では、レーニンよりもかなり身長のある、背の高い男前の人間のように描かれた。//
 (9)ソヴィエト官僚機構の階層的構造は、スターリン崇拝が下位の者たちにまで影を落としていたということに見られた。
 全てではないにせよ多数の分野で、スターリンの線上で公式に「最も偉大な者」として知られる者たちがいた。
 スターリン自身が最高位を占める多数の場合-哲学者、理論家、政治家、戦略家、経済学者-は別として、例えば、誰が最も偉大な画家、生物学者、あるいはサーカスの道化師なのか、が知られていた。
(ちなみに、サーカスは1949年に、この分野でのブルジョア形式主義を非難した<プラウダ>上の論文でイデオロギー的に改革された。
 ユーモアの世界主義的形態へと堕落して、イデオロギー的内容がなく、階級敵に対処するために教育するのではなく、たんに人々を笑わせようとしていた上演者が、どうやらいたようだ。)//
 (10)この時代に、歴史の偽造と歴史研究者に対する圧力が、クライマクスに達した。
 帝制ロシアの外交政策は基本的に進歩的だった、とくにロシアによる征服は他民族にロシア文明の恵みをもたらした、ということを示すのは、歴史家の任務になった。
 レーニン全集の第四版は新しい文書をいくつか含んでいたが、別のいくつかは削除されていた。その中には、一国での社会主義の建設の不可能性に関する、きわめて断定的(categorical)な論述があった。また、ジョン・リード(John Reed)の<世界を震撼させた十日間>への熱心な序言も、そうだった。
 十月革命の間はペトログラードにいたリードは、レーニンとトロツキーについては多くのことを語っていたが、スターリンには全く言及していなかった。したがって、レーニンが彼の書物を世界に推奨するのは、〔スターリンには〕許しがたい<失態(gaffe)>だった。
 新しい版はまた、ほとんど完全に、執筆者が粛清によって殺戮された者たちである、いくつかのきわめて貴重な歴史的な論評や記述を、削除した。
 (こうした過去の再編集の方法は、スターリンの死でもって終わった。
 ベリヤ(Beriya)が新指導者によって死刑に処せられたその数カ月のち、<大ソヴィエト百科辞典>の申込み者たちはその次の巻の注意書きが、こう求めていることに気づいた。以前の一定の頁分をカミソリ刃を使って切除し、注意書きに添えられた新しい頁の用紙をそこに挿入するよう求めていることに。
 読者たちは、指示された場所を開いてみて、ベリヤに関する記載部分だと分かった。
 しかしながら、補充する新しい頁の用紙は、ベリヤに関するものでは全くなく、ベーリング海(Bering -)の追加の写真が掲載されたものだった。)
 歴史的な資料は、警察が例外なく握っており、それらを利用するのは、今日でもそうであるように、厳格に制限されていた。
 これはしばしば、賢い手段で判明することだった。すなわち、例えば、女性ジャーナリストがかつて古い教会区の書庫でレーニンの母親はユダヤ人の血を引いていると発見したとき、彼女にはこの情報をソヴィエトのプレスに掲載しようと試みる馬鹿正直さ(naïvety)すらがあった。//
 (11)この雰囲気は、当然にあらゆる種類の、適切に愛国的言語を用いて彼らの偉業を宣言する科学的ぺてん師を培養した。
 ルィセンコが最も有名だったが、他にも多数いた。
 Olga Lepeshinskaya という名前の生物学者は1950年に、無生の有機物から生細胞を作り出すのに成功したと発表した。そして、プレスはこれをブルジョア科学に対するソヴィエトのそれの優越性を証明するものだとして拍手喝采した。
 しかしながら、すみやかに、彼女の実験は全て無価値であることが判明した。
 スターリンの死後、なお一層衝撃的な記事が<プラウダ>に出た。それは、消費するよりも大きなエネルギーを生み出す機械がSaratov の工場で製造されたというものだった。
 -かくしてこれは、ついに熱力学の第二法則を定めて、同時に宇宙に放散されたエネルギーはどこかに(Saratov の工場に特定される)集中するはずだというエンゲルスの言明を確認することになる。
 しかしながら、のちにすみやかに、<プラウダ>は恥じ入った撤回記事を掲載しなければならなかった。-知的雰囲気がすでに変化してしまっていた徴しだった。//
 (12)書き言葉の世界も話し言葉の世界も、スターリン時代の雰囲気を忠実に反映していた。
 公共に対して何かを発表する目的は知らせることではなく、教示し、啓発することだった。
 プレスの内容は、ソヴィエト体制を賛美する、または帝国主義者を非難する報告だけだった。
 ソヴィエト同盟は、罪からのみならず自然災害からも免れていた。これらはともに、帝国主義諸国家の不幸な特権なのだった。
 事実上は、いかなる統計も公表されなかった。
 新聞の読者たちは、公然とは語られないが全ての者が知っている特殊な符号(code)で情報を得るのに慣れていた。
 例えば、党の幹部たちがあれこれの場合に名前を呼ばれる順序は、彼らがその時点でスターリンの好みの中のいかほどの位置にいるかを知る指標(index)だった。
 表面的には、「コスモポリタニズムおよび民族主義と闘おう」は「民族主義およびコスモポリタニズムと闘おう」と同じだと思えるかもしれなかった。しかし、ソヴィエトの読者は、スターリンの死後に後者の表現を見つけるやいなや、「方針が変わった」、民族主義が現在の主要な敵だと気づいた。
 ソヴィエト・イデオロギーの言語は暗示で成り立っており、直接的な言明によってではなかった。すなわち、<プラウダ>の指導的論文の読者は、決まり文句の洪水の真ん中にさりげなく書かれた単一の文章が掴みどころだと知っていた。
 意味を伝えるのは特定の言明の内容なのではなくて、言葉の順序であり、文章全体の構造なのだった。
 官僚制的な言語の独占、死んでいるがごとき非人間的な文章、そして不毛な言葉遣いは、社会主義文化のこり固まった聖典(canon)となった。
 多数の語句が、自動的に繰り返された。したがって、一つの言葉から次の言葉を予測することができた。例えば、「帝国主義者の凶暴な顔」、「ソヴィエト人民の栄光ある偉業」、「社会主義諸国家の揺るぎない友情」、「マルクス=レーニン主義の古典執筆者たちの不滅の業績」。-このような類の無数のステレオタイプの語句は、数百万のソヴィエト民衆の、知的な規定食(diet)だった。//
 (13)スターリンの哲学は、成り上がり者的な官僚制的心性に、形式と内容のいずれについても見事に適合していた。
 彼の論述のおかげで、誰もが30分で哲学者になることができた。真実を完全に所有するに至るだけではなくて、ブルジョア哲学者たちの馬鹿げて無意味な思想を知ることができた。
 例えば、カントは何かを知るのは不可能だと言ったが、我々ソヴィエト人民は多数の事物を知っている。カントには多すぎたのだ。
 ヘーゲルは世界は変わると言い、世界は観念(idea)で構成されていると考えた。にもかかわらず、誰でも、我々の周りにあるものは観念ではなくて物(things)であることを理解している。
 マッハ主義者は私が座っている椅子は私の頭の中にあると言ったが、明らかに、私の頭と椅子とは別の場所にある。
 このような考え方をして、哲学は、全ての小役人の遊戯場になった。彼らは、若干の常識的で自明なことを繰り返すことによって哲学上の問題を全て片付けたと思って、満足していたのだ。//
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 つづく第11節の表題は、「弁証法的唯物論の認知状態」。

1903/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑮。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017). 試訳のつづき。
 第4章までは済ませている。
 各節の前の見出しのない部分はこれまでどおり「(はじめに)」とここでは題しておく。しかし、正確な言葉ではなく、これまでの章もそうだが、章全体の内容をあらかじめ概述するような意味合いのものであるようにも見える。
 これまでと同様に、一文ごとに改行し、本来の改行部分には//を付す。但し、新規にだが、原文にはない段落番号を( )の中に記すことにした(但し、太字化はしない)。
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 第5章・スターリンの革命。
 (はじめに)
 (1)第一次五カ年計画(1929-1932)による工業化追求とそれに伴う強制的農業集団化は、しばしば「上からの革命」だと叙述されてきた。
 しかし、戦争の比喩的描写と同じようにするのが適切だった。そしてこの当時は、-ソヴィエトの注釈者たちが好んで行ったように「戦闘の真只中」のときには-戦争に関係する暗喩の方が、革命的な語法よりすら一般的だった。
 共産党員(共産主義者)は「戦闘員」だった。ソヴィエトの力は工業化と集団化という「戦線」へと「動員」されなければならなかった。
 ブルジョアジーやクラク〔富農〕という階級敵から「反撃」や「伏兵攻撃」がなされることが、想定され得た。
 ロシアの後進性に対する戦争だった。そして同時に、国の内部と外部にいるプロレタリア-トに対する階級敵との戦争だった。
 実際にこの時期は、ある範囲の歴史研究者ののちの見方によれば、「国民(the nation)」に対するスターリンの戦争の時代だった。(1)//
 (2)戦争で喩えるのは、明らかに、内戦と戦時共産主義の精神に立ち戻ることおよび非英雄的なネップという妥協を非難することを意味していた。
 しかし、スターリンはたんに表象を弄んでいたのではなかった。第一次五カ年計画の時代のソヴィエトは、多くの点で、戦争中の国家に似ていたからだ。
 体制の政策に対する政治的な反対と抵抗は裏切りだと非難され、ほとんど戦争中の厳しさでもって頻繁に罰せられた。
 スパイと破壊工作に対する警戒の必要性は、ソヴィエトの新聞の決まった主題になっていた。
 民衆一般は愛国的連帯意識を強く搔き立てられ、工業化という「戦争遂行」のために多大の犠牲を払わなければならなかった。すなわち、戦争時の条件や配給制をさらに進めたものが(意図せざるものであっても)都市部に再導入された。//
 (3)戦時中のごとき危機的雰囲気は、ときに純粋に工業化や集団化の失墜に対する緊張への反応として認められた。しかし、それはじつに、現実に起きたことに先行していた。
 戦争非常事態という心理状態は、1927年の大戦の恐怖でもって始まった。その頃、党や国家では全体として、資本主義諸国による新しい軍事干渉が近づいていると信じられていた。
 ソヴィエト同盟はその当時、その外交政策およびコミンテルンの政策が連続して拒絶されるという憂き目に遭っていた。-英国は突然にロンドンのソヴィエト通商使節団(ARCOS〔=All Russian Co-operative Society〕)を攻撃し、中国の国民党の蒋介石は、同盟者である中国共産党への攻撃を開始し、ポーランドではソヴィエトの外交幹部団の暗殺があった。
 トロツキーとその他の反対派たちは、このような外交政策の失敗に、とくに中国でのそれについてスターリンを非難した。
 多数のソヴィエトおよびコミンテルンの指導者たちは、こうした拒絶はイギリスが指導している積極的な反ソヴィエト陰謀の証拠だと大っぴらに解釈した。ソヴィエト同盟に対する計画的な軍事攻撃で終わるものと想定される陰謀なのだった。
 国内の緊張が増したのは、GPU(チェカの後継機関)が体制の敵である嫌疑者を探し回り始め、新聞が反ソヴィエトのテロルの事件や反体制の国内陰謀を発見したことを報道したときだった。
 戦争が始まるのを予期して、農民たちは穀物を市場に出すのを拒み始めた。そして、村落と都市の両方の住民はパニックを起こして、基礎的な消費用品を買い漁った。//
 (4)たいていの西側の歴史研究者は、干渉という現実的かつ即時の危険はなかった、と結論づける。これはまた、ソヴィエト外務人民委員部〔=外務省〕の見解であり、そしてほとんど確実に、陰謀の気持ちのないアレクセイ・ルィコフ(Rykov)のような政治局員たちの見解でもあった。
 しかし、党指導部のその他の者たちは、本当にもっと怖れていた。
 その中には、このときはコミンテルン議長だった興奮しやすいブハーリンがいた。コミンテルンには、不安を撒き散らす噂が溢れ、外国の政府の意図に関する真実(hard)の情報はほとんどなかった。//
 (5)スターリンの態度を推測するのは、むつかしい。
 戦争の危険に関する数ヶ月の間の憂慮的議論の間、彼は沈黙を保ったままだった。
 そして、1927年の半ば、スターリンはきわめて巧妙に、反対派たちへと論点を向き変えた。
 戦争が切迫していることを否定したが、にもかかわらず彼は、トロツキーを公然と批判した。第一次大戦の間のクレマンソー(Clemenceau)のようにトロツキーは、敵が資本の傍らにいるときでも国の指導部には積極的に反対すると言明した、として。
 忠実な共産党員やソヴィエト愛国者にとって、これは国家への大逆行為に近いものに受け止められた。そして、この批判は、スターリンが数ヶ月のちに反対派に対する最後の一撃を下すためにおそらくは決定的だった。そのとき、トロツキーと反対派指導者たちは、党から除名(expell)されたのだった。//
 (6)スターリンのトロツキーとの間の1927年の闘いは、政治的雰囲気を悪い方向に高める不吉な背景になった。
 ボルシェヴィキ党でのそれまでの禁忌(タブー)を犯して、指導部は政治的反対者の逮捕、行政的な追放、および反対派に対するGPUによる嫌がらせという制裁を課した。
 (トロツキー自身は、党から除名されたのちアルマ-アタ(Alma-Ata)へと追放された。
 1929年1月には、政治局の命令によってソヴィエト同盟から強制的に国外追放された。)
 1927年末に、反対派によるクーの危険があるとのGPUの報告に反応して、スターリンは政治局に、フランス革命期の悪名高き嫌疑令(Law of Suspects)とのみ対比することが可能な一体の提案を行った。(2)
 承認されたが公表はされなかったその提案は、つぎのようなものだった。//
 (7)『反対する見解を宣伝する者は、ソヴィエト同盟に対する外部および内部の敵の危険な共犯者(accomplices)だと見なされる。
 かかる者は、GPUの行政布令によって「スパイ」として処刑される。
 広くかつ枝分かれした工作員のネットワークが、その最高部まで含めて政府機構内部にいる、および党の最高指導層を含めて党内部にいる、敵対分子を探索する職責をもつものとして、GPUによって組織される。』//
 スターリンの結論は、こうだった。「微小なりとも疑いを掻き立てる者は全て、排除されなければならない」。(3)//
 (8)反対派との最後の対決と戦争への慄えによって一般化した雰囲気は、1928年当初の数カ月の間に、さらに悪化した。この頃に、農民層との大規模な対立が始まり(後述、p.125-7.参照)、忠誠さの欠如の追及が直接に古い「ブルジョア」知識人に対して行われたのだ。
 1928年3月、国家検察庁長官は、鉱業での意図的な罷業と外国勢力との共謀を訴因として、Donbass のShakhty 地方の技術者集団を裁判に処する、と発表した。
 これはブルジョア専門家に対するひと続きの見せ物裁判の最初だった。これらの訴追によって、階級敵による内部的脅威は外国資本主義勢力による干渉の脅威と連結された。(4)
 そして、被告人たちは罪状を自白し、陰謀劇ふうの活動に関する状況的説明を行った。//
 (9)毎日の新聞が決まり文句でその大部分を報道した諸裁判がもたらしたのは、つぎの明白なメッセージだった。すなわち、ブルジョア知識人たちは、ソヴィエト権力に対して忠誠心をもつと主張していても、階級敵のままなのであり、その定義上、信頼するに値しない。
 ブルジョア専門家たちと一緒に仕事をしている党管理者や行政職員にそれほどに明白ではなくとも明瞭に伝わったのは、党の幹部たちもまた、かりにより酷くはなくとも、間違って、専門家たちに欺されるという愚かさ又は軽々しさの罪を冒す、ということだった。(5)//
 (10)新しい政策方針は、ロシアの労働者階級と党員たちに独特の、かつての特権階層出身の知識人に対する懐疑と敵愾の感情を利用していた。
 ある程度はそれはまた、疑いなく、第一次五カ年計画らによって到達すべきものと設定された高い目標に対する、多数の専門家や技術者たちの懐疑心に対する反応だった。
 にもかかわらず、工業化という突貫的な計画に着手しようとする体制にとって、莫大な犠牲を伴う政策方針だったのだ。農業分野での「クラク〔富農〕」という敵に対する1928-29年の運動がそうだったのと全く同様に。
 国にはあらゆる種類の専門家が不足していた。とくに、工業化への途にとって決定的に重要な知識をもつ技術者たちが。(1928年でのロシアの有資格技術者の大多数は、「ブルジョアジー」で、非党員だった)。//
 (11)反専門家運動を始めたスターリンの動機が何だったかは、歴史研究者たちを困らせている。
 共謀や罷業という訴因は容易には信じ難く、被告人たちの自白は強制されたか欺されたものだったために、スターリンとその仲間たちは彼らを信じることができなかっただろうと、しばしば考えられている。
 しかしながら、公文書庫から新しい資料が出てきたために、ますます、(必ずしも政治局の同僚たち全員ではなく)スターリンは共謀の存在を信じていた、そう信じることが同時に政治的利益になると知りつつ、少なくとも半分は信じていた、ように見える。//
 (12)OGPU(GPUの後身)の長官、Vyachevlav Menzhinskii が「工業党」党員だと追及している専門家の尋問調書からする資料をスターリンに送った。この党の指導者はたちはエミグレ資本主義者たちにより支援されるクーを計画し、外国による軍事干渉を企図する計画を抱いて活動しているとされていた。これを送られてスターリンは、面前での自白をいずれも価値があるものとして受領した、切迫する戦争の危険はきわめて深刻だと思う、との趣旨の返答をした。
 スターリンはMenzhinskii に対して、最も興味深い証拠は、予定される軍事干渉の時期にかかわっていると、つぎのように語った。//
 (13)『干渉を1930年に意図していたが、1931年または1932年に延期した、ということが判る。
 これは全くありそうだし、重要なことだ。
 これが第一次な情報源から、つまりRiabinsky、Gukasov、DenisovおよびNobela (革命前のロシアの大きな利益をもつ資本主義者たち)という、ソ連および他国移住者たちの中に現存する全ての集団の中で最も有力な社会経済グループ、資本およびフランスやイギリス両政府との関係という観点からして最も有力なグループを代表しているグループから得られたがゆえに、より重要なものだ。』//
 証拠が手に入ったと考えて、スターリンは、こう結論づけた。
 ソヴィエト体制はこれを国内かつ国外で集中的に公にすることができるだろう、「そうすれば、つぎの一年または二年の間、干渉の企てを全て抑え、阻止することができる。これは、我々には最大限に重要なことだ」。(6)//
 (14)スターリンおよび他の指導者たちが反ソヴィエト陰謀の存在と直接的な軍事的脅威を信じたか否かとは関係なく、あるいはいかほどに信じたかとは関係なく、こうした考え方はソヴィエト同盟に広く行き渡るようになった。
 これは体制側のプロパガンダ活動によるだけではなく、すでにある先入観と恐怖を強めるこのような見方が、ソヴィエトの国民の大部分にとって信じ得るものだったことにもよる。
 1920年代の遅くに始まったことだが、食糧不足、工業、輸送および電力の故障のような経済的諸問題の発生を説明するために、このような内部的および外部的な陰謀は決まって言及された。
 戦争の危険もまた、この時期にソヴィエトの<心性(mentalité)>に深く埋め込まれた。
 政治局および新聞読者たちの注意は絶えず戦争の脅威へと向かい、それは1941年に実際に起きた戦争勃発まで続いた。//
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 (1) Adam B. Ulam, <スターリン>(New York, 1973), Ch. 8.を見よ。
 (2) ジャコバンの大会は、嫌疑令(Law of Suspects、1793年9月17日)によってつぎのことを命じた。その行動、人間関係、著述物または一般的な挙措に照らして革命に対する脅威となる可能性のある全ての人物を即時に逮捕すること。
 スターリンはフランス革命のテロルを称賛していたことにつき、Dimitri Volkogonov, <スターリン-栄光と悲劇>, Harold Shukman 訳(London, 1991), p.279. を見よ。
 (3) Reimann,<スターリニズムの誕生>, p.35-p.36. によるドイツ外務省政治文書庫の中の文書から引用した。
 (4) Shakhty 裁判およびその後の「工業党」裁判につき、Kendall E. Bailes, <レーニンとスターリンのもとでの技術と社会>(Princeton, NJ, 1978), Chs. 3-5.を見よ。
 (5) S・フィツパトリク「スターリンと新エリート層の形成」同・<文化戦線(The Cultural Front)>, p.153-4, p.162-5.を見よ。
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 第一節・スターリン対右派、へとつづく。

1898/Wikipedia によるL・コワコフスキ③。

 Wikipedia 英米語版での 'Main Currents of Marxism' の項の試訳のつづき。
 2018年12月22日-23日の記載内容なので、今後の変更・追加等はありうるだろう。
 前回に記さなかったが、この本の総頁数は、つぎのように書かれている。
 英語版第一巻-434頁、同第二巻-542頁、同第三巻-548頁。秋月の単純計算で、総計1524頁になる。
 英語版全巻合冊書-1284頁
 さて、以下の書評類は興味深い。何とも直訳ふうだが、英語そのままよりはまだ理解しやすいのではないか。
 書評者等の国籍・居住地、掲載紙誌の発行元の所在地等は分からない。多くは、イギリスかアメリカなのだろう。
 こうした書評上での議論があるのは、なかなか愉快で、コワコフスキ著の内容の一端も教えてくれる。
 それにしても、わが日本では、コワコフスキの名も全くかほとんど知られず、この著の存在自体についても同様だろう。2017年の最大の驚きは、この著の邦訳書が40年も経っても存在しないことだった。
 マルクス主義・共産主義に関する<情報>に限ってもよいが、わが日本の「知的」環境は、果たしていかなるものなのか。
 なお、praise=讃える、credit=高く評価する、describe=叙述する、accuse=追及する、consider=考える、等にほぼ機械的に統一した(つもりだ)。criticize はむろん=批判する。これら以外に、論じる、主張する、等と訳した言葉がある。
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 3/反応(reception)。
 1.主流(main stream)メディア。
 (1) <マルクス主義の主要潮流>はLibray Journal で、二つの肯定的論評を受けた。
 一つは最初の英語版を書評した Robert C. O'Brien からのもので、二つはこの著作の2005年合冊版を書評した Francisca Goldsmith からのものだった。
 この著作はまた、The New Republic で政治科学者 Michael Harrington によって書評され、The New York Review of Books では歴史家の Tony Judt によって書評された。
 (2) O'Brien は、この著作を「マルクス主義教理の発展に関する包括的で詳細な概観」で、「注目すべき(remarkable)著作だ」と叙述した。
 彼はコワコフスキを、「マルクスの思想が<資本>に到達するまでの発展の基本的な継続性」を提示したと讃え、Lukács、Bloch、Marcuse、フランクフルト学派および毛沢東に関する章が特別の価値があると考えた。
 Goldsmith は、コワコフスキには「明瞭性」と「包括性」はもちろんとして「完全性と明晰性」があると讃えた。
 哲学者のJohn Gray は、<マルクス主義の主要潮流>を「権威がある(magisterial)」と呼んで讃えた。//
 2.学界雑誌。
 (1)<マルクス主義の主要潮流>は、Economica で経済学者のMark Blaug から、The American Historical Review で歴史研究者の Martin Jay から、The American Scholarで哲学者のSidney Hook から、the Journal of Economic Issues で John E. Elliott から肯定的な書評を受けた。
 入り混じった書評を、社会学者のCraig CalhounからSocial Forces で、David Joravsky からTheory & Society で、Franklin Hugh Adler からThe Antioch Review で、否定的な書評を社会学者の Barry Hindess からThe Sociological Reviewで、社会学者 Ralph Miliband からPolitical Studies で受けた。
 この本の書評はほかに、William P. Collins が The Journal of Politics に、Ken Plummeが Sociology に、哲学者のMarx W. Wartofsky がPraxis International に、それぞれ書いている。
 (2) 経済学者Mark Blaug は、この本を「輝かしい(brilliant)」かつ社会科学にとって重要なものだと考えた。
 マルクス主義の強さと弱さを概括したことを高く評価し、歴史的唯物論、エンゲルスの自然弁証法、Kautsky、Plekhanov、レーニン主義、Trotsky、トロツキー主義、Lukács、Marcuse およびAlthusser に関する論述を讃えた。 
 しかし、哲学者としての背景からしてマルクス主義を主に哲学的および政治的な観点から扱っており、それによってマルクス主義のうちの中核的な経済理論をコワコフスキは曲解している、と考えた。
 彼はまた、Paul Sweezy によるThe Theory of Capitalist Development (1942)での Ladislaus von Bortkiewicz の著作の再生のようなマルクス主義経済学の重要な要素を、コワコフスキは無視していると批判した。
 彼はまた、「1920年代のソヴィエトでの経済政策論争」を含めて、コワコフスキがより注意を払うことができただろういくつかの他の主題がある、と考えた、
 彼はコワコフスキの文献処理を優れている(excellent)と判断したけれども、 哲学者H. B. Acton のThe Illusion of the Epoch や哲学者 Karl Popper のThe Open Society and Its Enemies が外されていることに驚いた。
 彼は、コワコフスキの著述の質を、その翻訳とともに、讃えた。
 (3) 歴史研究者Martin Jay は、この本を「きわめて価値がある(extraordinarily valuable)」、「力強く書かれている」、「統合的学問と批判的分析の、畏怖すべき(awesome)達成物〔業績〕」、「専門的学問の記念碑」だと叙述する。
 彼は、コワコフスキによる「弁証法の起源」の説明、マルクス主義理論の哲学的側面の論述を、相対的に独自性はないとするけれども、讃える。
 彼はまた、マルクス主義の経済的基礎の論述や労働価値理論に対する批判を高く評価する。
 彼は、歴史的唯物論が原因となる力を「究極的には」経済に求めることの誤謬をコワコフスキが暴露したことを高く評価する。
 しかし、Lukács、Korsch、Gramsci、フランクフルト学派、GoldmannおよびBloch の扱い方を批判し、「痛烈で非寛容的で」、公平さに欠けるとする。こうした問題のあることをコワコフスキは知っていると認めるけれども。
 彼はまた、コワコフスキの著作はときに事実に関する誤りや不明瞭な解釈を含んでいるとする一方で、この本の長さを考慮すれば驚くべきほどに数少ない、と書いた。
 (4) 哲学者Sidney Hook は、この本は「マルクス主義批判の新しい時代」を開き、「マルクスとマルクス主義伝統にある思想家たちに関する最も包括的な論述」を提示した、と書いた。
 彼は、ポーランドのマルクス主義者、Gramsci、Lukács、フランクフルト学派、Bernstein、歴史的唯物論、マルクス主義へのHess の影響、「マルクスの社会的理想」での個人性の承認、「資本」の第一巻と第三巻の間の矛盾を解消しようとする試みの失敗, マルクスの「搾取」概念、およびJaurès やLafargue に関するコワコフスキの論述を讃える。
 彼は、トロツキーの考え方は本質的諸点でスターリンのそれと違いはない、スターリニズムはレーニン主義諸原理によって正当化され得る、ということについてコワコフスキに同意する。
 しかし、ある範囲のマルクス主義者の扱い方、 社会学者の Lewis Samuel Feuer の「研究がアメリカのマルクスに関するユートピア社会主義の植民地に与えた影響」を無視していること、を批判した。
 彼は、マルクスとエンゲルスの間、マルクスとレーニンの間、に関するコワコフスキの論述に納得しておらず、マルクスの Lukács による読み方を讃えていることを批判した。
 彼は、マルクスは一貫して「Feuerbach の人間という種の性質に関する見解」を支持していたとのコワコフスキの見方を拒否し、思想家としてのマルクスの発展に関するコワコフスキの見方を疑問視し、マルクスの歴史的唯物論は技術的決定論の形態にまで達したとのコワコフスキの見方を、知識(knowledge)に関するマルクスの理論の解釈とともに、拒否した。
 (5) Elliott は、この本は「包括的」で、マルクス主義を真摯に研究する全ての学生の必須文献だと叙述する。
 彼は、<資本>のようなマルクスの後半の著作は1843年以降の初期の著作と一貫しており、同じ諸原理を継続させ仕上げている、とするコワコフスキの議論に納得した。
 彼は、マルクスは倫理的または規範的な観点を決して採用しなかったという見方、マルクスの「実践」観念や「理論と実践の編み込み」に関する説明、マルクスの資本主義批判は「貧困によってではなく非人間化によって」始まるとの説明のゆえに、「制度的伝統」にある経済学者にとって第一巻は価値があると考えた。
 彼は、第二巻を<tour de force>だとし、三巻のうちで何らかの意味で最良のものだと考えた。
 彼は、第二インターナショナルの間の多様なマルクス主義諸派がいかに相互に、そしてマルクスと、異なっていたか、に関するコワコフスキの論述を推奨した。
 彼はまた、レーニンとソヴィエト・マルクス主義に関するコワコフスキの論述は教示的(informative)だとする一方で、ソヴィエト体制に対するコワコフスキの立場を知ったうえで読む必要があるとも付け加えた。
 彼は、コワコフスキはマルクス主義を批判するよりも叙述するのに長けていると考え、マルクスの価値理論に対する Böhm von Bawerk による批判に依拠しすぎていると批判した。
 しかし彼は、コワコフスキの著作はこれらの欠点を埋め合わす以上の長所をもつ、と結論づけた。
 (6) 社会学者Calhoun は、この本はコワコフスキのマルクス主義放棄を理由の一部として左翼著述者たちからの批判を引き出した、しかし、マルクス主義に関する「手引き書」として左翼に対してすら影響を与えた、と書いた。
 彼は、コワコフスキがマルクス主義への共感を欠いていることを批判した。また、哲学者または逸脱したマルクス主義者と考え得る場合にかぎってのみマルクス主義の著述者に焦点を当て、マルクス主義の経済学者、歴史家および社会科学者たちに十分な注意を払っていない、と主張した。
 彼は、この本は明晰に書かれているが、「不適切な参考書」だと考えた。
 彼は、第一巻はマルクスに関するよい(good)論述だが、「洞察が少なすぎて、もっと読みやすい様式で書かれなかった」と述べた。
 彼はまた、第二巻のロシア・マルクス主義に関する論述はしばしば不公平で、かつ長すぎる、とした。
 また、スターリニズムはレーニンの仕事(works)の論理的な帰結だとのコワコフスキの議論に彼は納得しておらず、ソヴィエト同盟がもった他諸国のマルクス主義に対する影響に関するコワコフスキの論じ方は不適切(inadequate)だ、とも考えた。
 彼は、全てではないが、コワコフスキのフランクフルト学派批判にある程度は同意した。
 <マルクス主義の主要潮流>は一つの知的な企てとしてマルクス主義の感覚〔sense=意義・意味〕を十分に与えるものではない、と彼は結論づけた。
 (7) Joravsky は、この本はコワコフスキが以前にポーランド共産党員だった間に行った共産主義に関する議論を継続したものだと見た。
 マルクス主義の歴史的な推移に関するコワコフスキの否定的な描写は、<マルクス主義の主要潮流>がもつ「事実の豊富さと複雑さ」と奇妙に矛盾している、と彼は書いた。
 彼は、マルクス主義者たちの間の論争から超然としていると自らを提示し、一方でなお Lukács のマルクス解釈を支持するのは一貫していない、とコワコフスキを批判した。また、マルクスを全体主義者だと非難するのは不公正だ、とも。
 彼は<マルクス主義の主要潮流>の多くを冴えない(dull)ものだとし、哲学史上ののマルクスの位置に関するコワコフスキの説明は偏向している(tendentious)、と考えた。
 彼は、社会科学に投げかけたマルクスの諸問題を無視し、諸信条の社会的文脈を考察したごとき常識人としてのみマルクスを評価しているとして、コワコフスキを批判した。また、マルクス主義の運動や体制に関係があった著述者のみを扱っている、とも。
 彼は、オーストリア・マルクス主義、ポーランドのマルクス主義と Habermas に関する論述にはより好ましい評価を与えたが、全体としての共産主義運動の取り扱い方には不満で、コワコフスキはロシアに偏見を持っており、他の諸国を無視している、と追及した。
 (8) Adler は、この本を先行例のない、「きわめて卓絶した(unsurpassed)」マルクス主義の批判的研究だと叙述する。
 コワコフスキの個人的な歴史がマルクス主義に対するその立場の大部分を説明すると彼は結論づけたが、<マルクス主義の主要潮流>は一般的には知的に誠実だ(honest)、とした。
 しかし、彼は、コワコフスキの東欧マルクス主義批判は強いものだとしつつ、その強さが西欧マルクス主義と新左翼に関する侮蔑的な扱いをすっかり失望させるものにしている、と考えた。
 新左翼に対するコワコフスキの見方は1960年代のthe Berkeley の反体制文化との接触によって形成されたのかもしれない、としつつ、彼は、新左翼を生んだ民主主義社会の価値への信頼の危機を何が招いたのかをコワコフスキは理解しようとしていない、と述べた。
 彼は、Gramsci と Lukács に関する論述を讃えた。しかし、「東側マルクス主義批判へとそれを一面的に適用しており、彼らの主導権や物象化に関する批判は先進資本主義諸国の特有の条件に決して適用できるものではない」、と書いた。また、フランクフルト学派とMarcuse の扱いは苛酷すぎ、不公平だ、とも。
 彼はまた、この本の合冊版は大きくて重くて、扱いにくく身体的にも使いにくい、とも記した。
 (9) 社会学者Hindess は、この本はマルクス主義、レーニンおよびボルシェヴィキに対して「重々しく論争的(polemic)」だ、と叙述した。
 彼は、コワコフスキは公平さに欠けていると考え、マルクス思想は<ドイツ・イデオロギー>の頃までに基本的特質が設定された哲学的人類学だというコワコフスキの見方に代わる選択肢のあることを考慮していない、と批判した。また、「政治分析の道具概念としては無価値」の「全体主義という観念」に依拠している、とも。
 彼は、コワコフスキはマルクス主義を哲学と見ているために、「政治的計算の手段としてのマルクス主義の用い方、あるいは具体的分析を試みる多数のマルクス主義者に設定されている政治的および経済的な実体的な諸問題」への注意が不十分だ、と主張した。
 彼はまた、Kautsky のようなマルクス主義著述者、レーニンの諸政策、スターリニズムの進展に関して誤解を与える論述をしている、と追及した。
 彼は、コワコフスキによるマルクス主義の説明は「グロテスクで侮辱的な滑稽画」であり、現代世界に対するマルクス主義の影響力を説明していない、と叙述した。
 (10) 社会学者Miliband は、コワコフスキはマルクス主義の包括的な概述を提供した、と書いた。
 しかし、マルクス主義に関するコワコフスキの論述の多くを讃えつつも、そのマルクス主義に対する敵意が強すぎて、「手引き書」としての著作だという叙述にしては、精細すぎると考えた。
 彼はまた、マルクス主義とその歴史への接近方法は「根本的に見当違い(misconceived)」だと主張した。
 彼は、マルクス主義とレーニン主義やスターリニズムとの関係についてのコワコフスキの見方は間違っている(mistaken)、マルクスの初期の著作と後期のそれとの間の重要な違いを無視している、コワコフスキは第一次的には「経済と社会の理論家」だというよりも「変わらない哲学的幻想家」だとマルクスを誤って描いている、と主張した。
 マルクス主義は全ての人間の願望が実現され、全ての諸価値が調整される、完璧な共同体たる社会」を目指した、とのコワコフスキの見方は、「馬鹿げた誇張しすぎ」(absurdly overdrawn)だ、と彼は述べた。また、コワコフスキの別の著述のいくつかとの一貫性がない、とも。
 彼はまた、コワコフスキの結論を支える十分な論拠が提示されていない、と主張した。
 彼は、コワコフスキはマルクスを誤って表現しており、マルクス主義の魅力を説明することができていない、と追及した。また、歴史的唯物論に関する論述を非難し、 Luxemburg に対する「誹謗中傷〔人格攻撃〕」だとコワコフスキを追及した。
 彼は、改革派社会主義とレーニン主義はマルクス主義者にとってのただ二つの選択肢だった、とのコワコフスキの見方を拒否した。
 彼は結論的に、<マルクス主義の主要潮流>は著者の能力とその主題のゆえに無価値(unworthy)だ、と述べた。
 コワコフスキはMiliband の見方に対して返答し、<マルクス主義の主要潮流>で表現した自分の見解を再確認するとともに、Miliband は自分の見解を誤って表現していると追及した。
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 以上。つぎの、<3/反応の3.書物での評価>は割愛する。

1883/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第1節④。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第三章/ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。1978年英語版 p.88-p.91、2004年合冊版p.857-p.860。
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 第1節・大粛清のイデオロギー上の意味④。
 (24)組織的に作りごとをする同様の仕組みは、例えば一般的「選挙」のような、他の多くの分野に見られた。
 選挙を実施するような面倒事を行い費用を割くのを政権はやめたはずだ、と思われるかもしれない。誰が見ても、その馬鹿々々しさは明白だ。
 しかし、それを実施するのは重要だった。全ての市民を、共同の虚構の、まさにそのことによって完全な紛い物ではなくなる公式の「現実」の、参加者かつ共作者に変えることができたのだから。
 (25)第四の問題は、不可解な現象を我々に再び提示する。
 ソヴィエト同盟から西側に入った情報は、むろん、断片的で不確かなものだった。
 体制は接触を厳格にし、いずれの側からの情報の流出入も制限しようと最大限の努力をし尽くした。
 ソヴィエト国民による外国旅行は国家利益のために厳しく統制され、外国人による無資格の通信や報道は、諜報活動か反逆行為だと見なされた。
 にもかかわらず、ソヴィエト国家は、完全に世界から自らを遮断することはできなかった。
 警察テロルに関するある程度の情報は西側へと浸み出た。その情景を実感した者はいなかったけれども。
 さらに、モスクワ裁判は急いでかつ不器用に準備されたので、いくつかの西側の新聞は、明らかな矛盾や不条理を指摘した。
 だが、そうしたときに、西側の知識人たちがスターリニズムに対してとった寛容な態度を、いったいどう説明すればよいだろうか。彼らは、積極的に支援しなかったか?
 実直で腐敗とは無縁のイギリスの社会主義者、Sysney Webb とBeatrice の夫妻は、テロルが高揚していた間に一度ならずソヴィエト同盟を訪問し、「新しい文明」に関する喫驚するばかりの書物を発行した。
 彼らが明確に記述するところによると、ソヴィエトの制度は正義と幸福を求める人間の最も貴重な希望を具現化したものだった。そして彼らは、イギリスの汚辱と対照させて観察し、イギリスのエセ民主主義を罵倒した。
 モスクワ裁判の真正さやロシア最初の「民主主義」政権の完璧さを疑う理由が、彼らにはなかった。
 ソヴィエトの制度を擁護し、裁判の虚偽性を看取しなかった者たちの中には、Leon Feuchtwanger、Romain Rolland、およびHenri Barbusseらがいた。
 そうした合唱に加わらなかった数少ない一人は、André Gide(アンドレ・ジッド)だった。彼は1936年にソ連邦(USSR)を訪れ、印象記を書いた。
 彼は当然に、暴虐行為については何も見なかった。へつらいに囲まれ、体制による偉業の幻惑だけを示された。しかし、彼は、表面的なものが普遍的な虚偽(mendacity)のシステムを隠蔽していると悟った。
 何人かのポーランドの文筆家たちもまた、見せかけ(make-believe)のものを見抜いた。イギリスの報道記者のMalcom Muggeridge がそうだったように(<モスクワの冬>、1934年)。//
 (26)西側知識人たちの反応は、良識や批判的精神に対する、教理的イデオロギーの特筆すべき勝利だった。
 粛清の時期は確かに、ナツィの脅威の時期でもあった。このことによって、左翼またはリベラルな伝統の中で育て上げられた多数の思索者や芸術家たちが、文明に掛かる脅威からその文明を救い出すという唯一の希望をロシアに見た、ということが説明され得るかもしれない。
 ファシストの野蛮さに対する防波堤を与えてくれると頼ることができるならば、彼らは、「プロレタリア国家」を最大限に許す心の用意があった。
 彼らは、スターリニズムとは違ってナツィズムはその悪の顔を世界から隠そうとはほとんど努力しなかったために、それだけ一層、たやすく巧みに欺された。ナツィズムは公然と、その意図は他の民族を粉々にして塵とし、「劣った諸人種」を奴隷状態に貶める、そのような強大で全能のドイツを作ることだ、と宣言していたのだ。
 一方でスターリンは、平和と平等、被抑圧民衆の解放、国際協調主義、そして諸民衆の間の友好、という社会主義の福音を説きつづけた。
 批判的に思考することが職業であるはずの西側の者たちは、事実よりも無用の言葉を信頼した。すなわち、イデオロギーと願望を伴う思考が、最も明白な現実よりも強力だったのだ。//
 (27)粛清に関して考察する際には、スターリンのロシアはどの時期であれ、警察には、ましてや<党の上にある>警察には、統治されなかった、ということを知ることが重要だ。
 <党の上にある>警察うんぬんは、党の優越性を回復するのが課題だと主張した、スターリン死後の自称改革者が用いた口実(alibi)だった。
 スターリンのもとでの警察は随意に党員たちを逮捕し殺害した、というのは本当のことだ。しかし、党組織の最高部が、とくにスターリン自身が指示しまたは是認しなければならない履行者たちがいる、党の最高のレベルに対してではなかった。
 スターリンは党を支配するために警察を使った。しかし、彼自身が、秘密警察の長ではなく党指導者としての権能をもって、党と国家のいずれをも支配した。
 この点は、ソヴィエト体制における党の機能に関する研究で、Jan Jaroslawski が十分に明らかにしている。
 スターリンに具現化される党は、一瞬なりとも至高の権力を放棄しなかった。
 スターリン後の改革者たちが党は警察よりも上位だと主張したとき、彼らは、党員は党当局の承認なくしては逮捕されてはならないということのみを意味させたかった。
 しかし、かつてもつねにそのような状態だった。警察が同等の階層にいる党指導者たちをある程度は逮捕したとしてすら、さらに上位の党指導者たちの監視のもとにあった。
 警察は、党の手中にある道具だった。
 厳格な意味での警察システム、つまり警察が完全に自由に権限を行使するシステムがロシア国家を覆ってはいなかったし、またそうすることはできなかった。それは、党が権力を失うことを意味していただろう。そしてそれは、システムの全体が崩壊することを原因とすることなくしては生じ得なかっただろう。//
 (28)このことによってまた、スターリンのもとでの、かつ現在でのいずれについても、イデオロギーが果たす特殊な役割が、説明される。
 イデオロギーは、たんにシステムに対する助けや飾りにすぎないのではない。それを民衆が本当に信じようと信じまいと、そのいずれにも関係なく、システムが存在するための絶対的条件だ。
 スターリニズム的社会主義は、その正統性の根拠は完全にイデオロギーに由来する、モスクワが支配する帝国を生み出した。とくに、ソヴィエト同盟は全ての労働大衆の利益を、とりわけ労働者階級の利益を具現化する、ソヴィエト同盟は彼らの要求と希望を代表する、ソヴィエト同盟はいずこにいる被搾取大衆の解放をも実現する世界革命に向かう最初の一歩だ、という諸教理に由来する、そういう帝国を。
 ソヴィエト体制は、このイデオロギーなくしては作動することができなかった。そのイデオロギーこそが、今ある権力装置の<存在理由(raison d'etre)>だった。
 その権力装置は、性質上本質的にイデオロギー的でかつ国際主義的なもので、警察、軍隊その他の諸制度によって代替されることはできないものだった。//
 (29)ソヴィエト国家の警察はいつでもイデオロギーによって決定された、と述べているのではない。
 そうではなく、必要としたときに警察を正当化するために、イデオロギーが存在しなければならない。
 イデオロギーはシステムの中に組み込まれており、その結果としてイデオロギーは、正統化の基本原理が国民による選挙かまたは世襲君主制のカリスマ性かに由来する国々と比べて、全く異なる役割を果たす。
 (30)ソヴィエトのような体制には、その行動の正当化を公衆(the public)に求める必要がない、という利点がある。その定義上、公衆の利益と要求を代表する、そして、このイデオロギー上の事実を変更できるものは何もないのだ。
 しかしながら、ソヴィエト的制度は、民主主義的諸体制には存在し得ない危険(risk)にもさらされている。すなわち、イデオロギー上の批判に対して極度に敏感(sensitive)なのだ。
 このことはとりわけ、知識人が他の体制下とは比べものにならない地位を占める、ということを意味する。
 システムの知的な正当性(validity)に対する脅威、あるいは異なるイデオロギーの擁護は、道徳的な危険を示す。
 全体主義国家は決して全くの不死身のものになることはできないし、批判的思考をすっかり抑え切ることもできない。
 全体主義国家は、生活の全様相を支配するので全能であるように見えるかもしれないが、イデオロギー上の一枚岩に生じるいかなる裂け目もその存在に対する脅威になるというかぎりでは、弱いものでもある。//
 (31)さらに、イデオロギーがそれ自体の慣性的運動を失い、国家当局による現実的命令以外の何ものでもほとんどないものへと位置を下げる、そのようなシステムを維持することは困難だ。
 スターリニズムの論理は、真実はそれぞれの時点で党が、すなわちスターリンが語ることだ、というものだった。そして、このことの効果は、イデオロギーの実質をすっかり空虚なものにすることだった。
 他方で、イデオロギーは、それ自体の首尾一貫性をもつ一般的理論として提示されなければならない。そしてそれがなされるかぎりは、イデオロギーがそれ自体の推進力を得られない、そして-実際にスターリン後の時期に生じたように-その主要な代表者や単独の権威ある解釈者に対抗して用いられる、といったことは保障されるはずはない。
 (32)しかしながら、1930年代の遅くには、このような危険からはきわめて遠くにいるように思われた。
 市民社会がもはやほとんど存在せず、一般民衆はスターリンに個人化された国家の命令に服従すること以外のいかなる志向も持たないように見える、そうしたほとんど理想的な、完璧な国家へと、システムが持ち込まれた。
 (33)社会的紐帯を破壊するきわめて重要な手段は、隣人たちを相互にこっそりと監視(spy)する普遍的な制度だった。
 全ての市民が法的にまたは道徳的にそうするように義務づけられ、密告(tale-bearing)は立身出世するための主要な方法になった。
 こうしてまた、莫大な数の人々が、個人的な上昇のために犯罪加担者になった。
 スターリニズム的社会主義の理想は、国の誰もが(スターリンを除いて)強制収容所の収監者であり、同時にまた秘密警察の工作員でもある、そのような状態であるように見えた。
 これを究極的な完成形にまで至らせるのは困難だったが、それへと向かう趨勢は、1930年代にはきわめて強かった。//
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 ④終わり。第1節も終わり。第2節の表題は「スターリンによるマルクス主義の編纂」(仮)。

1876/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第1節②。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第三章/ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。1978年英語版 p.80-p.84、2004年合冊版p.852-p.854。
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 第1節・大粛清のイデオロギー上の意味②。
 (7)大粛清の地獄の様相は、しばしば歴史研究者、小説家、記録作家によって描写されている。
 見せ物裁判は、党をそれの主要な犠牲者とするジェノサイドの大量執行のうちの見える断片にすぎなかった。。
 数百万人が逮捕され、数十万人が処刑された。
 従前は散発的に用いられ、通常は真実にたどり着くことを目的としていた拷問は、今や、最もありそうにない犯罪について数千の虚偽の告白を引き出すための日常的な方法になった。
 (拷問は、18世紀にロシアの司法手続の一部であることをやめていた。のちには、ポーランド暴動や1905年革命のような例外的状況に際してのみ用いられた。)
 捜査官たちは、検察官が全くの想像上のものであることを知っている犯罪を行ったことを認めるように人々を誘導するための、肉体的および精神的な苦痛の全ての方法を自由に考案し、課した。
 このような手段には負けなかったわずかの人々も、自白するのを拒めば妻や子どもは殺されると聞いて、ふつうは屈服した。-この妻子の殺害は、ときどきは実際に実施された。
 誰もが安全だとは感じなかった。専制者に対するいかなる程度の阿諛追従の言動も、責任が追及されない保障にはならなかったからだ。
 いくつかの場合には、地域の全党委員会の委員たちが殺戮され、その後には、処刑の悪臭をまだ漂わせる彼らの委員会の後継者たちが墓場へと続いた。
 犠牲者たちの中にいたのは、ほとんど全てのオールド・ボルシェヴィキたち、レーニンの親密な同僚たち、政府、政治局そして党書記局の以前の構成員たち、全ての階位の活動家たちであり、また、研究者、芸術家、文筆家、経済学者、軍人、法律家、技術者、医師、そして-割り当てられた仕事をしなかったときには当然に-秘密警察の上層官僚であれとくに熱心だった党員であれ、粛清それ自体の機関員たち、だった。
 陸軍および海軍の将校団は、まとまって殺害された。これは、対ドイツ戦争で最初の二年間はロシアが敗北したことの原因だった。
 逮捕と処刑の指定数は、党当局によって特定の分野や地域ごとに割り当てられた。
 警察官たちがこの数字を履行しなければ、彼ら自身が処刑される可能性が高かった。かりにその数字を履行すれば、党幹部たちを皆殺しにしていることの説明に使われるのに間に合うかもしれなかった。
 (スターリンに関する典型的なおぞましい冗句によると、大量殺戮運動の功労者だったPostyshev のような者に対しても、責任追及は行われた。) 
 その任務を履行するのが不十分だった者は、怠慢を理由として射殺されるかもしれなかった。
 その任務を履行するのが十分すぎた者は、自分の不満を隠蔽するために熱意を示していると疑われるかもしれなかった。
 (1937年の演説でスターリンは、多くの破壊者たちは精確にこれを行っていると言った。)
 裁判と取り調べの意味は、レーニンの最も緊密な協力者たちも含めて、党の元来の中核のほとんど全体が一団のスパイ、帝国主義者の工作員、人民の敵であって、それらの考えはソヴィエト国家を破壊することであり、またかつてつねにそのことだった者たちだ。
 驚く外国の前で、全ての空想上の犯罪について、大きな見せ物裁判の場で被告たちの自白が行われた。
 全てのGrand Guignol(グラン・ギニョール=恐怖劇)の犠牲者のうち、ブハーリンは、架空の反革命の組織化という申し立てられた犯罪に対しては一般的責任を認めたけれども、スパイ行為やレーニン暗殺の企画のような罪を免れない責任追及に対しては、自白することを拒んだ。
 誤った指導に対する懺悔の念を明白に表明しつつ、ブハーリンは、裁判の雰囲気を典型化する言葉として、「新しい生活の愉快さに対抗する犯罪的な方法で我々は反抗した」と付け加えた。
 (明らかにブハーリンは、肉体的な拷問を受けていなかった。しかし、彼の妻と幼い息子を殺害すると脅かされていた。)//
 (8)粛清がもった第一の効果は、荒廃を生み出したことだった。党にのみならず、ソヴィエト同盟の全社会生活の全側面に。
 血の海(blood-bath)が、指導者に対して阿諛追従を表明する票決をしたにすぎない第17回党大会に出席した代議員たちの大多数、忠実なスターリニストたちのほとんどの者の気分の原因だった。
 きわめて多くの傑出した芸術家たちが、ソヴィエトの全文筆家の三分の一以上が、殺された。
 国家全体が、明らかに単一の専制者の意思が生じさせた-但し、表面的には欺瞞が講じられたが-悪魔的狂気によって握られた。//
 (9)ロシアにいる外国人共産主義者たちも、粛清の犠牲になった。
 ポーランド人の被害が最大だった。コミンテルンの1938年の決定によって、トロツキー主義者その他の敵の温床だとの理由でポーランド共産党は解散させられ、ソヴィエト同盟にいるその幹部たちは、逮捕され、処刑としてまとめて殺戮された。
 ほとんど全ての指導者たちは投獄され、ごく数人だけが、数年後に自由を再獲得した。
 幸運だったのは、ポーランドで収監されていたので招集されたときにロシアへ行くことができなかった者たちだった。
 招集に実際に従わなかったごく数人は、ポーランド警察の工作員だと公式に宣告され、そのポーランド警察の手に渡された。-これは、1930年代にロシア以外の国の地下共産党組織の「偏向主義者」に対して、しばしば用いられた手段だった。
 ポーランド人以外の粛清の犠牲者は、多数のハンガリー共産党員(Kun Béla を含む)およびユーゴスラヴィア、ブルガリアおよびドイツのそれらだった。1939年まで生き残ったドイツ共産党員のうちの何人かは、当然のごとくして、スターリンからGestapo(ゲシュタポ=ナツィス・ドイツの秘密警察)へと引き渡された。//
 (10)強制収容所は張り裂けそうなほどに、満杯だった。
 全てのソヴィエト市民は、つぎのことに慣れてしまっていた。すなわち、仕事を懸命にしようとしまいと、いかなる種類の反対派に属していたとしてもまた属していなかったとしても、あるいはさらに、スターリンが好きであろうとなかろうと、逮捕されて死刑を宣告されることあるいは恣意的に不特定の期間のあいだ収監されることには、全く何の関係もない、ということに。
 暴虐(atrocituy)の雰囲気は、一種の一般的なパラノイア(偏執狂)を、従前の全ての規準が、「通常の」専制体制の規準ですら、適用することができなくなる怪物的で非現実的な世界を、生じさせた。//
 (11)後年に流血と偽善のこの異常な秘宴(orgy)を理解しようとつとめた歴史研究者その他の者たちは、答えることが全く容易ではない問題を設定した。//
 (12)第一。どう考えても、スターリンまたはその体制には現実的な脅威は存在せず、党内部での反乱の源は全て、大量の殺戮なくして容易に一掃することができた、そのようなときに、かかる破壊的狂乱(frenzy)が生じた理由はいったい何だったのか?
 とりわけ、上層幹部たちの無差別の破壊は軍事的にも経済的にも国家を致命的に弱体化させるだろうことが明瞭だと思われることを、どのように説明するのか?//
 (13)第二。暴虐行為をきわめて献身的に実行した者たちですら含めて、民衆の全てに脅威が迫っていたにもかかわらず、抵抗が完全に欠けていたのはいったい何故だったか?
 多くのソヴィエト国民は軍事的な勇敢さを示し、戦闘では生命を危険に曝した。なぜ、誰も専制者に反抗する拳を振り上げなかったのか? なぜ進んで、全ての者が殺戮へと向かったのか?//
 (14)第三。見せ物裁判の犠牲者たちが虚偽宣伝を理由として存在しない犯罪を告白させられたということを認めるとしても、数十万人のまたは数百万人ほどの人々に、なぜ、誰もかつて聞いたことがないような告白が無理強いされたのか?
 警察の記録簿に載せられるが、どんな公的な目的にも使われない虚偽の認諾書に署名するように未知の犠牲者たちを追い込むために、なぜ途方もない労力がつぎ込まれたのか?//
 (15)第四。まさにこの時代に、スターリンはいかにして、自分個人に対する崇拝(cult)をかつて例のないほどの程度まで高めたのか?
 とくに、いったい何故、個人的な圧力を受けていないはずの、あれほど多くの西側知識人たちがこの時期にスターリニズムへとはまり込み、モスクワの恐怖の館を従順に受け入れ、あるいは積極的に称賛したのか? 現実に行われていることの虚偽と残虐さは誰にも明瞭だったはずではなかったのか?//
 (16)これらの疑問は全て、マルクス主義・社会主義(Marxist-socialist)が新しいシステムで稼働させ始めた特有の機能を、どう理解するかにとって重要だ。//
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 ③へとつづく。

1874/L・コワコフスキ著・第三巻第二章第3節④。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第二章/1920年代のソヴィエト・マルクス主義の論争。
 1978年英語版 p.74-p.76、2004年合冊版p.847-p.848。
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 第3節・哲学上の論争-デボリン対機械主義④完。
 (24)1931年以降、スターリンのもとでのソヴィエト哲学の歴史は大部分が、党の布令の歴史だ。
 つぎの20年間、出世主義者、情報提供者および無学者から成る若い世代が国家の哲学生活を独占した。あるいはむしろ、哲学研究の廃絶を完成させた。
 この分野で経歴を積んだ者は、一般的に、同僚を裏切るかまたはときどきの党のスローガンを鸚鵡返しに繰り返すことで、そうした。
 彼らは通常は外国語の一つも知らず、西側の哲学に関するいかなる知識もなかった。しかし彼らは、多少ともレーニンやスターリンの著作を暗記しており、彼らの外部世界に関する知識は、主としてはそれらに由来した。//
 (25)「メンシェヴィキ化する」観念論や機械主義に対する非難は、洪水のごとき論考と博士号論文を発生させた。それらの執筆者たちは、党の布令を反復し、哲学の怠業者たちの狡猾な道筋について、憤慨を表現するのをお互いに競い合った。
 (26)議論全体で、いったい何が本当の論争点だったのか?(それがあれば適切な名前は?)
 明らかに、議論は特定の哲学上の考え方とは何ら関係がなく、むろん政治的考え方とも関係がなかった。
 「機械主義」のブハーリンの政策との連関づけあるいは「メンシェヴィキ化する」観念論のトロツキーの政策との連関づけは、最も恣意的な種類の捏造だった。すなわち、非難された哲学者たちはいかなる政治的反対派にも帰属しておらず、彼らの考え方と政治的反対派のそれとの間には論理的関係が存在しなかった。
 (追及者の論拠は、機械主義者は「質的な跳躍」を否定することで「発展の継続性を絶対化し」た、というものだ。それゆえに、ブハーリンの側ではDeborin主義者は「跳躍」を強調しすぎ、そうしてトロツキー主義者の革命的冒険主義を代表する。しかし、これは議論するに値しない薄弱な類似性を根拠にしている。)
 機械主義者はたしかに科学の哲学に<向かい合った>自立性を強調することで非難を受けたが、それは実際には、無謬の党が科学理論の正確さについて発表し、科学者に対して何が探求すべき課題であるかを指示し、その結果はいかなるものであるべきかを語る、そういう権利をもつのを拒否することを意味した。
 しかしながら、このような責任追及をDeborin主義者に向けることはできなかった。彼らは、最も純粋なタイプのレーニン主義者だったように見える。すなわち、初期のDeborinは、「象形文字」に関する自分のプレハノフ的誤りを認めて撤回しており、反射の理論と矛盾するこの教理を支持しているという理由で、機械主義者たちを攻撃していた。
 Deborin主義者たちは、正当な敬意をレーニンに払っていた。したがって、党の報道官たちは、彼らを攻撃するのに役立つ引用文を発見するのに大いに困惑した。ゆえに、攻撃はほとんど全体的に曖昧で、支離滅裂の一般論から成っていた。すなわち、Deborin主義者はレーニンを「低く評価しすぎた」、プレハノフを「過大に評価しすぎた」、弁証法を「理解していない」、「カウツキー主義」、「メンシェヴィズム」へと転落している、等。
 論争点は単純に、この段階での党があれこれの哲学上の考え方か正当だ(right)とか、Deborin主義者はその考え方とは異なる見解を表明した、ということではなかった。
 係争点は、何らかの教理の実体ではなかった。すなわち、後年に採用された弁証法的唯物論の公式で経典的な範型は、事実上はDeborin のそれと区別することのできないものだった。
 責任追及が分かり易くしているように、重要なのは、「党志向性」(party-mindedness)の原理、またはむしろその適用だった。-むろん、Deborinもそれ自体は受容していたのだから。
 知的な観点からはDeborin 主義者たちの書いたものは内容の乏しいものだったが、彼らは純粋に哲学に関心があり、マルクス主義とレーニン主義の特有の原理の有効性を証明しようと最大限の努力をした。
 彼らは、哲学は社会主義建設を助けるだろう、と信じた。そしてその理由で、彼らは哲学者としての能力のかぎりで哲学を発展させた。
 しかし、スターリンのもとでの「党志向性」は、全く異なるものを意味していた。
 継続的な保障にもかかわらず、哲学にそれ自体の原理を作動させたり、政治に用いられるか適用されるかすることのできる真実を発見させたりするという思考は、まったく存在しなかった。
 党に対する哲学の奉仕は、純粋にかつ単純に、次から次に出てくる諸決定を賞賛することにあった。
 哲学は知的な過程ではなく、考えられ得るどのような形態をとっていても、国家イデオロギーを正当化し、宣伝する手段だった。
 じつにこのことは、全ての人文科学について本当のことだったが、哲学の崩落が最も悲惨だった。
 全ての哲学文化が依って立つ柱-論理と哲学の歴史-は、一掃された。すなわち、哲学は微少な技術的支援ですら得られなかった。それは、歴史科学の頽廃の程度は激しかったにもかかわらず、歴史科学にまったく適用されないやり方だった。
 哲学にとってのスターリニズムの意味は、哲学に強いられた何らかの特定の結論にあったのではなく、奴隷状態(servility)が実際にはその存在理由の全体になった、ということにある。
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 ④終わり。第3節、そして第二章が終わり。

1860/笹倉秀夫・法思想史講義(下)(2007)②。

 笹倉秀夫・法思想史講義(下)(東京大学出版会、2007)
 この本の、14のマルクスの部分、15のマルクス・レーニン・スターリンの部分をしっかりと読んで、この人物の基本的な情念・前提命題と「論理」らしきものを分析してみたい。
 前提として、上に関する部分の注記に文献名が挙げられているので、以下にそのままその文献名だけを列挙する。
 執筆時に参照したのだろうから、この人物にはすでにこれら以外の諸文献を通じた「知識」や「感情」があるに違いないが、それでも「頭の中」をある程度は覗くことができるだろう。
 注記は元来は連番なので、ここでは14の(222)を(01)とし、15の(239)をあらためて(01)として紹介する。頁数や叙述内容は記載しない。前掲書と同じ趣旨の記載の場合も、あらためて同一文献名を記した。
 ***
 14注
 (01) 藤田勇「社会の発展法則と法」渡辺洋三ほか・現代法の学び方(岩波新書、1969)。林直道・史的唯物論と経済学/下(大月書店、1971)。
 (02)マルクス・経済学批判-マルクス・エンゲルス全集37巻(大月書店)。
 15注
 (01) 渓内謙・現代社会主義を考える(岩波新書、1988)。
 (02) レーニン・国家と革命(大月書店、国民文庫)。
 (03) マルクス・ゴータ綱領批判-マルクス・エンゲルス全集19巻(大月書店)。
 (04) 不破哲三・マルクスの未来社会論(新日本出版社、2004)。
 (05) 渓内謙・現代社会主義を考える(岩波新書、1988)。
 (06) 渓内謙・現代社会主義を考える(岩波新書、1988)。
 (07) 渓内謙・現代社会主義を考える(岩波新書、1988)。
 (08) 渓内謙・現代社会主義の省察(岩波書店、1978)。
 (09) 大江泰一郎・ロシア・社会主義・法文化(日本評論社、1992)。鳥山成人・ロシア・東欧の国家と社会(恒文堂、1985)。浅野明「君主と貴族と社会統合」小倉欣一編・近世ヨーロッパの東と西(山川出版社、2004)。
 (10) 渓内謙・現代社会主義を考える(岩波新書、1988)。
 (11) 丸山真男・現代政治の思想と行動(未来社、1964)。
 (12) 山口定・ファシズム(岩波現代文庫、2006)。
 以上。
 不破哲三はご存知、日本共産党の幹部(元最高指導者)、藤田勇・渡辺洋三は、前回に言及した二つの講座もの全集(日本評論社刊行)の編者、林直道はマルクス主義経済学者で日本共産党員と推察される人物(元大阪市立大学)、渓内謙は今日でも基本的な<レーニン幻想>を崩していない人物(元東京大学)。
 これらの諸文献も秋月も参照しながら、「読解」してみる。結論はすでに出ているし、この人物の主観的な「願望」が空想的社会主義のレベルまで戻るようなものであることも分かる。歴史的(史的)唯物論なるものを「観念的」・「主意的」に理解した、結局は政治・世俗優先の<日本の戦後教育の優等生>の一人が行った「作業」であることが判るだろう。
 ***
 なお、藤田勇(1925-)に、上と同年刊行の、つぎの著がある。第3段階とは1960年代~1990年前後を言うとされる。
 藤田勇・自由・民主主義と社会主義1917-1991-社会主義史の第2段階とその第3段階への移行(桜井書店、2007年10月)。
 ネップ期に関する叙述もあるが、日本の「共産主義政党」の基調の範囲内で行ってきた「自由」な研究の末路を見る想いもする。

1858/笹倉秀夫・法思想史講義(下)(2007)①。

 マルクス主義法学講座(日本評論社、全8巻、1976-1980)の編者5名のうちの一人、講座・革命と法(日本評論社、全3巻、1989-1994)の編者3名のうちの一人で、それぞれに文章を複数回掲載していた者に、渡辺洋三(1921-2006)という人物がいた。元東京大学社会科学研究所教授。
 その渡辺洋三は1996年に、つぎの岩波新書を刊行していた。
 渡辺洋三・日本をどう変えていくのか(岩波書店/岩波新書、1996)。
 自社さ連立政権の頃で、この年に首相は村山富市から橋本龍太郎に替わった。
すでにこの欄で多少は触れたことだが(№0041)、この書物の最後で当時の「政局」との関連で憲法問題を論じ、小沢一郎批判から始めて、自民党・新進党・(新)社会民主党に対して批判的に言及し、その中で公明党や「さきがけ」にも触れている。
 ところが何と、日本共産党には何ら言及せず、「日本共産党」または「共産党」という言葉をいっさい出していない(p.234~p.240)。
 その直後に渡辺は「日本社会の改革目標」を平和大国・生活大国・人権大国・民主主義大国とまとめるのだが(p.241-2)、上のことからして、こうした主張は日本共産党員である自らの主張であり、かつまた同党の主張・路線と一致していることを「問わず語り」に暴露している、と言えよう。
 真偽は定かではないが、渡辺洋三のことを日本共産党の「大学関係」責任者だと述べていた人もいた。
 さて、笹倉秀夫・法思想史講義(下)(東京大学出版会、2007)。
 この書物にも、たぶん一度触れた(№1408)。
 あらためてこの本を捲ってみると、目次(構成内容)からしてじつに興味深い。
 最終の「部」である「近代の変容・現代」のうち、14(章)以降の構成・叙述内容を「目次」から紹介してみよう。以下、省略部分はあるが、それ以外は忠実な再現だ。
 「14」の表題は<「近代の疎外」との対峙>、「15」のそれは<社会主義>、「16」のそれは<近時の主な法思想>(17はここでは略す)。
 14-1/マルクス 14-1-1 マルクスの思想形成、14-1-2 史的唯物論の素描
 14-2/自由主義と民主主義の再結合へ (1) ミル、(2) ラスキ
 14-3/ヴェーバー
 14-4/フロム 14-4-1 学説史的位置、14-4-2 現代社会論
 14-5/フーコと「紀律化」 14-5-1 フーコの議論、14-5-2 私見
 15-1/社会主義思想の形成
 15-2/スターリニズム 15-2-1 スターリニズムの問題点、15-2-2 スターリニズムの要因、15-2-3 スターリニズム批判とその後
 15-3/まとめ
 16-1/価値相対主義、16-2/「実践哲学の復興」、16-3/ポストモダニズム  
 以上
 ここですでに明らかなのは、マルクスに論及があり、かつスターリニズムについての詳細らしき叙述はあるが、「レーニン」という語が全く出てこないことだ。
 これはこの人物の<政治的立場>をすでに「問わず語りに」示唆しているのではないだろうか。
 もっとも、さらに下の項を見ると、「15-2-2 スターリニズムの要因」の中の(3) として「マルクス・レーニンらの問題点」が叙述されている。
 そこではマルクス(・エンゲルス)とレーニンに関しては構成上は「一括して」叙述されており、「レーニン」という小見出し(黒ゴチ)がある部分は、15-2-2-3-2-2のところに位置する(正確な又は的確な言葉を知らないが、「ディレクトリ」の階層的に示すと「レーニン」はここに位置する)。
 内容には別途立ち入るとして、このように「マルクス・レーニン」と「スターリン(スターリニズム)」を明瞭に区分していること、レーニンをマルクス(・エンゲルス)と「一括して」、正確にはおそらく「引きつけて」理解して同様にレーニンとスターリンとを切り離していること、これらは、この人のこの書物の時点での、少なくとも過去の一定の時点での<政治的立場(・心情)>を示唆しているように感じられる。
 全集・世界の大思想(河出書房)の一つの巻を「レーニン」が占めていた(1965年)。「法思想」と「思想」は同じではないのだが、この笹倉秀夫は、レーニンを大々的には、あるいは正面からは論述の対象にはしたくないのではなかろうか。

1780/スターリン・権力へ②-L・コワコフスキ著3巻1章3節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
 試訳のつづき。第3巻第1章第3節の p.14~p.18。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第3節・スターリンの初期の生活と権力への上昇②。
 この時期にスターリンは民族問題に関する専門家として、自己決定は「弁証法的に」理解されなければならない(換言すると、それ以外ではなく党のスローガンに適応したものとして用いられなければならない)という旨を演説した。
 1918年初頭のソヴェトの第三回大会で彼は、適正に言えば自己決定とは「大衆」のためのもので「ブルジョアジー」のためのものではない、それは社会主義を目ざす闘いに従属しなければならない、と説明した。
 その年に公表した論文では、ポーランドとバルト諸国の分離は、これらの国々は革命ロシアと革命的西欧との間の障壁を形成するだろうから、反革命の動きであって帝国主義者の手中に嵌まる、と強調した。
 他方で、エジプト、モロッコまたはインドの独立を目ざす闘争は、帝国主義を弱体化することを意図しているので進歩的な現象だ、と。
 これら全ては完全に、レーニンの教理および党のイデオロギーと合致していた。
 分離主義運動は、ブルジョア政権に対して向かっていれば進歩的だ。しかし、ひとたび「プロレタリア-ト」が権力を手中にすれば、民族的な(national)分離主義は自動的にかつ弁証法的に、そのもつ意味を変化させる。それはプロレタリア国家、社会主義、そして世界革命に対する脅威なのだから。
 その定義からして社会主義は、民族的抑圧を行うはずがない。そうして、侵攻だと見えるものは、実際には解放のための行為なのだ。-例えば、スターリンの命令によって赤軍がジョージアの中へと進軍したときのように。ジョージアにはその当時(1921年)、代表制民主政体にもとづくメンシェヴィキ政府が存在していたのだが。
 こうしたことにもかかわらず、決して取り消されなかった民族自決権(自己決定権)というスローガンは、内戦でのボルシェヴィキの勝利に大きく貢献した。白軍の司令官たちは包み隠さず、自分たちの目的について、革命前の領土を少しも失うことなく一つで不可分のロシアを復活させることだ、と述べていたのだ。//
 スターリンがしたことはトロツキーのそれで覆い隠されているけれども、彼は内戦で重要な役割を果たした。
 この二人が対立する起源は、疑いなくこの時期にさかのぼる。この時期に、個人的な嫉妬と非難のし合い-誰が最もツァリツィン(Tsaritsyn)での勝利に貢献したのか、ワルシャワの前の敗北は誰の過ちによるのか、等々-があった。//
 スターリンは1919年に、労農監察部(the Workers' & the Peasants' Inspectorate)の人民委員になった。
 すでに述べたように、官僚制の侵入からソヴェト体制を守ろうとするレーニンの絶望的で見込みなき企てを、この組織は代表した。
 「純粋な」労働者と農民から成る監察部は、国家行政の他部門全てに対して監督する無制限の権限をもった。
 状況を改善するどころか、事態をさらに悪くした。この監察部には民主主義的な仕組みが欠けていたので、これはたんに大官僚組織に一列を付け加えたにすぎなかった。
 しかしながらスターリンは、これを利用して諸組織に対する自分の力を強化した。そして疑いなく、人民委員の地位にあったことは、彼が最高権力者へと昇りつめるのを助けることになった。//
 この段階で、独自性はなくとも重要な考察をしておくべきだろう。
 のちに党の歴史全体がスターリンの命令によって彼自身を称揚するために書き直されたとき、彼は若いときからレーニンの「副司令官」だったと叙述された。あるいはむしろ、自分をそう示そうとした。
 全ての活動分野で、スターリンは指導者、第一の組織者、同志の鼓舞者、等々だった。
 (党の質問で、彼は革命活動を行ったことが理由で放校になったと主張した。しかし、疑いなく彼はそこにいた間の禁じられた主題を議論してしまった。実際には、試験に出席することができなかったために追放された。)
 この狂熱的な考え方によると、彼はレーニンの最も親密な腹心で、党が創立されたまさにその瞬間からの助手だった。彼の輝かしい指導のもとで、コーカサスの幼なかった社会主義運動は成長した。そしてのちには、全党が疑問の余地なくスターリンをレーニンの正当で自然な後継者だと考えた、等々。
 彼は、革命のための頭脳、内戦の勝利の設計者、ソヴィエト国家の組織者だった。
 ベリア(Beriya)が創作した偉人伝では、1912年はロシアの党史上の、ゆえにまた人類史上の転換点として選び出された。スターリンが中央委員会委員になったのはまさにその年だったのだから。//
 他方で、トロツキーやスターリンを厭う理由をもつ他の多くの共産党員は、ボルシェヴィキの歴史でのスターリンの役割を何とか貶め、狡猾さと好運とが混じり合って階段の頂上へと昇りつめた二級の<党官僚(apparatchik)>と描写しようとした。その階段から踏み外させるのは不可能だと分かっていたのだった。//
 このような見方もまた、真実だと受け止めることはできない。
 確かなことは、スターリンは1905年以前には目立たない地方活動家で、より高く評価されて、より重要な役割を果たした者は彼の出身地域に多数いた、ということだ。
 にもかかわらず、1912年までには、6人または7人の著名なボルシェヴィキ指導者の一人になっていた。そして-トロツキー、ジノヴィエフあるいはカーメネフに比べると知られてはいなかったし、誰もレーニンの「当然の」後継者だとは考えていなかったけれども-、レーニンの晩年には、党を支配する小集団の中にいた。
 そしてレーニンが死んだとき、彼は理論上ではなく実務上だが、その国の誰がもつよりも大きな権力を保持していた。//
 我々には現在用いることのできる資料から、スターリンの同志たちは革命の前からすら、のちに病的な圧制者となった彼の性格に気づいていた、ということが分かっている。
 いくつかは、レーニンの「遺言」で記述された。
 スターリンは粗暴(brutal)で、不誠実で、我が儘で、野心家で、嫉妬深く、反対者に非寛容で、部下たちにとっては専制君主だった。
 彼がボルシェヴィキの「古い保護者」を全て一掃してしまうまでは、誰も真面目に哲学者だとか理論家だとかは思っていなかった。この点から見ると、トロツキーやブハーリンだけではなくて、党の主なイデオロギストたちの方が、スターリンよりも勝れていた。
 彼の論文、小冊子や演説には何も独自性がなく、それらの意図をきちんと伝えていない、ということを誰もが知っていた。マルクス主義理論家ではなく、数百人も他にいる党宣伝者(propagandist)の一人だったのだ。
 もちろんのちに、「人格カルト〔個人崇拝〕」の興奮状態の中で、彼が執筆した一片の紙切れも、マルクス=レーニン主義の財産に不朽の貢献をしたものになった。
 しかし、理論家としての全ての名声は命じられた儀礼の一部にすぎず、それは彼の死後たちまちに忘れ去られた、ということは完璧に明らかだ。
 スターリンのイデオロギー的著作が政治的に名声を求めることのない人物によって書かれたものであったとすれば、マルクス主義の歴史で言及するにほとんど値しなかっただろう。
 しかし、彼が権力を握っている間は、それ以外にマルクス主義の焼き印(ブランド)の付いたものは稀にしかなかった。また、この当時のマルクス主義は、彼の権威との関連でしかほとんど明らかにすることはできない。したがって、四半世紀にわたってスターリンが偉大なマルクス主義理論家だったと言うのは、本当のことであるばかりか、実際には、同義反復(トートロジー)だ。//
 いずれにせよ、スターリンは党に有用な多くの性質をもった。頂点にまで達して対抗者を排除したのは、偶然にのみよるのではなかった。
 彼は疲れ知らずの、目聡い、そして有能な活動家だった。
 実際上の諸問題に関して、教理的な考察を軽視し、論点の相対的な重要性の程度を明確に見分ける方法を知っていた。
  彼は(ヒトラーが侵攻してきた最初の数日を除いて)パニックに陥らなかったし、達成することしか頭にはなかった。
 また、見せかけの権力と実際の権力を区別することも巧かった。
 演説は下手で文章は退屈だったが、平易に喋ることができたので、ふつうの党員たちの心を掴んだ。そして、繰り返しや要点の番号振りをする衒学的な習癖は、提示した言葉(exposé)は力強くて明瞭だとの印象を与えた。
  彼は部下たちに威張りちらしたが、うまく彼らを使うことができた。
 党員、外国の新聞記者あるいは西側の政治家のいずれであれ、違う対話者に応じて異なるやり方で適応する術を知っており、プロレタリア-トの根本教条のために立ち向かう果敢な闘争者の役割を、あるいは国家にとって無意味ではない「親分」の役割を演じることができた。
  彼は、全ての成功を自分の栄誉として受け取り、全ての失敗を他者の責任として追及することのできる、類い稀な才能をもっていた。
 スターリンが確立するのを助けた体制によって、自分は僭政者になることができた。
 しかし、彼はその所期の成果を収めるべく長く懸命に仕事をした、ということは言っておかなければならない。//
 スターリンの有能さと組織する力を、レーニンは疑いなく評価していた。
 ときにはレーニンに同意しなかったが、危機にあるときにはつねにレーニンを守った。
 幹部級のボルシェヴィキの多くとは違って、「知識人的な」学習をしておらず、それについてレーニンは平気ではおれなかった。
 スターリンは淡々とした性格で、困難で下品な仕事をするのを気に懸けなかった。
 そして、遅れて見方を変えて、レーニンは自分が権力の頂部へと昇らせてい人物が危険だと気づいたけれども、スターリンがその敵対者に対して応答した言葉にはいく分かの真実がある。
 彼の敵対者たちが最後になってレーニンの「遺言」を書類庫から引っ張り出し、スターリンに反対する証文として使ったとき、スターリンはこう言った。
 そのとおり、レーニンはかつて私は粗暴だと責めた。そして、革命に関するかぎりは、私は粗暴<である>。-しかし、レーニンは一度でも、私の政策は過っていると言ったか?
 これには、反対者は答えることができなかった。//
 1922年4月にスターリンが党の総書記(the Secretary-General)になったのはレーニンの個人的な選抜だった、ということを疑う根拠はない。そして、他の指導者たちの誰かがこの指名に反対した、という証拠資料はない。
 トロツキーがのちにつぎのように明確に述べたのは、全く本当のことだ。
 この職を創設してスターリンをその地位に就かせることが彼がレーニンの継承者になることを意味するとは、誰も考えなかった。総書記の地位にある者は実際にはソヴェトの党と国家の最高支配者になるだろう、とも。
 全ての重要な決定は、まだ中央委員会政治局によって行われており、その諸決定は人民委員会議という媒介物を経て、国家を動かしていた。  
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 段落の途中だが、ここで区切る。③へとつづく。

1769/三全体主義の共通性⑦-R・パイプス別著5章5節。

 リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア。
 =Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)。
 第5章第5節・三つの全体主義体制に共通する特質。試訳のつづき。p.272~p.274。
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 Ⅲ〔第三款〕・党と社会①。
 民衆を独裁者の手中にある本当に黙従する素材にするためには、政治に関する意見発表を剥奪するのでは十分でない。 
 彼らの公民的自由-法による保護、集会・結社の自由そして財産権の保障-を剥奪することも必要だ。
 この「権威主義」(authoritarianism)を「全体主義」と分かつ線上にある途へと、独裁制は進んだ。
 合衆国で1980年にジーン・カークパトリック(Jean Kirkpatrick)が最初に広めたのだが、また、彼女から引用してレーガン政権がよく使う、それゆえにある者は冷戦のための修辞だとして拒否する用語法になったのだが、この区別の先行例は、1930年代の初期にさかのぼる。
 ナツィによる権力奪取の直前だった1932年に、一人のドイツ人政治学者が<権威主義国家か全体主義国家か?>というタイトルの本を書いた。そこで彼は、この区別を明瞭にした。(96)
 ドイツの亡命学者のカール・レーヴェンシュタイン(Karl Loewenstein)は、1957年に、このように二つの体制を区別した。
 『「権威主義的」(authoritarian)という語は、単一の権力保持者-一人の個人または「独裁者」、集団、委員会、軍事政権(junta)、あるいは党-が政治権力を独占する政治組織を意味する。
 しかしながら、「権威主義的」という語はむしろ、社会の構造よりも統治の構造に関連する。
 通常は、権威主義体制は、共同体の社会経済生活を完全に支配しようとする欲求を持たないで、国家を政治的に統制することに自らを限定する。…
 これと対照的に、「全体主義的」という語は、社会の社会経済上の活力、生活の態様に関連する。
 全体主義体制の統治技法は、必ずや、権威主義的だ。
 しかし、この体制は、国家意思の形成に正当に関与する権能を相手方たる民衆から剥奪すること以上のはるかに多くのことをする。
 この体制は、私的な生活、精神、感情、そして市民の習俗を鋳型に入れて、支配的イデオロギーに合うように作り上げようとする。…
 公式に宣明されたイデオロギーは、社会の隅々と裂け目の全てに浸透する。
 そのもつ野望は、「全体的」(total)だ。』(*)//
 二つの類型の反民主主義体制の区別は、20世紀の政治を理解するためには基礎的なものだ。
 見込みなくマルクス主義-レーニン主義の用語法の陥穽に嵌まった者だけが、ナツィのドイツと、まぁ言ってみると、サラザール(Salazar)のポルトガルまたはピルズドスキ(Pilsudski)のポーランドとの違いを理解することができないだろう。
 権威主義体制は、現存する社会を過激に変えて人間自体を作り直そうとすら懸命に努める全体主義体制とは異なり、防衛的なもので、その意味では保守的だ。
 権威主義体制は、調整のつかない政治的社会的利害に翻弄されて、民主主義諸制度がもはや適切に機能を果たすことができなくなったときに、出現する。
 それは、基本的には、政治的な意思決定を容易にするための手段だ。
 統治するにあたって、それは、支えてくれる伝統的な淵源に依拠する。そして、社会を「設計して構築する」(engineer)よう努めるのでは全くなくて、現状を維持しようと努める。
 知られるほとんど全ての場合で、権威主義的独裁者が死亡するか追放されたのがいつであっても、それらの国々は民主政体を再建する困難さをほとんど経験しなかった。(**)//
 このような基準で判断すると、スターリニズムを最頂点とするボルシェヴィキ・ロシアだけが、完全に発展した全体主義国家だと性質づけられる。
 なぜなら、イタリアとドイツは、社会を原子化するのを意図するボルシェヴィキの方法を摸倣したが、最もひどいとき(戦争中のナツィ・ドイツ)ですら、レーニンが意図しスターリンが実現したものには及ばなかった。  
 ボルシェヴィキの指導者たちはほとんどもっぱら強制力に頼ったのに対して、ムッソリーニは、そしてヒトラーですら、強制を合意と結合すべきとのパレート(Pareto)の助言に従った。
 彼らは命令が疑いなく遵守されている間は、社会とその諸制度を無傷なままで残そうとした。
 この場合には、歴史的伝統の相違が決定的だった。
 ボルシェヴィキは、数世紀にわたる絶対主義体制のもとで政府を専制的な権力と同一視することに慣れていた社会で活動した。そして、社会を奪い取ってそれを管理しなければならなかっただけではなく、責任を果たしていると示すために厳密には必要だった以上の抑圧を行った。
 ファシストもナツィスも、それぞれの国の社会構造を破壊しはしなかった。それが理由で、第二次大戦で敗北した後に、それらの国は速やかに正常状態に戻ることができた。
 ソヴィエト連邦では、1985年と1991年の間のレーニン主義-スターリン主義体制の全ての改革の試行は、社会的であれ経済的であれ、全ての非政府諸制度が最初から建設されなければならなかったために、行き着くところがなかった。
 その結果は、共産主義体制の改革でも民主政体の確立でもなく、組織的な生活の継続的な瓦解だった。//
 ロシアで自立した非政府諸制度の破壊が容易だったのは、形成されつつあった社会制度の全てが1917年のアナーキー(無政府状態)によって分解されたことによっていた。
 いくつかの(例えば、労働組合、大学および正教教会の)場合には、ボルシェヴィキは既存の管理者を自分たちの党員で置き換えた。それ以外では、単純に解体させた。
 レーニンが死亡する頃までには、共産党の直接の支配のもとにないいかなる組織も、ロシアには事実上は存在していなかった。
 生活に必要な一時的な借地が認められた農村共同体を例外として、個々の公民と政府との間を取り持つことのできるものは何も存在しなかった。//
 ファシスト・イタリアとナツィ・ドイツでは、私的団体ははるかによく活動できた。とくに、党の統制のもとに置かれてはいたけれども、労働組合は、民主主義社会の市民には取るに足らないと思われるほどのものでもソヴィエト同盟では労働者の届く範囲から完全に除外された、ある程度の自治と影響力とを享受し続けた。//
 ムッソリーニは、イタリア社会に対する自分の個人的な権威を強く主張しつつ、政治組織に関して示したのと同じ用心深さをもって、ことを進めた。
 ムッソリーニの革命は、二つの段階を経て進展した。
 1922年から1927年まで、彼は典型的な権威主義的独裁者だった。
 彼の全体主義への動きが始まったのは、私的団体の自立性を奪った1927年だった。
 その年に彼は、全ての私的団体に対して、その規約と構成員名簿を政府に提出することを要求した。
 この方法は、それらの団体を隊列に取り込むことに寄与した。それ以降にファシスト党に順応しようとしない諸組織の構成員は、個人的なリスクを冒すことになったのだから。
 これと同じ年に、イタリアの労働組合は伝統的な諸権利を剥奪され、ストライキが禁止された。
 そうであってすら、ムッソリーニが私的企業への対抗機構として利用したので、労働組合はある程度の力を維持した。ファシストの法制のもとでは、企業は、党による全般的な指導のもとで、労働組合の代表者たちに意思決定に関与する同等の権利を与えなければならなかったのだ。//
 --------   
 (96) H. O. Ziegler, Autoritaeter oder totaler Staat ? (Tübingen, 1932).
 (*) Loewenstein, Political Power and the Government Process (Chicago, 1957), p.55-p.56, p.58.
 不適切なことだが、レーヴェンシュタインは、1942年にファシスト後のブラジルの独裁者、ジェトリオ・ヴァルガス(Getulio Vargas)に関する本でこの区別を導入したという名誉を求めた(同上、p.392、注3)。
 (**) その例は、フランコ(Franco)のスペイン、サラザールのポルトガル、軍事政権排除後のギリシャ、ケマル・アタテュルク(Kemal Atatürk)のトルコ、そしてピノチェト(Pinochet)のチリだ。
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 党と社会②へとつづく。

1746/スターリニズムとは何か①-L・コワコフスキ著3巻1章。

 もともとロシア革命等の歴史をもっと詳しく知っておこうと考えたのは、日本共産党(・不破哲三)が1994年党大会以降、レーニンは「ネップ」路線を通じて<市場経済を通じて社会主義への途>を確立したが、彼の死後にスターリンによってソ連は「社会主義を目指す国家」ではなくなった、レーニンは「正しく」、スターリンから「誤った」という歴史叙述をしていることの信憑性に疑いを持ち、「ネップ(新経済政策)」期を知っておこう、そのためにはロシア「10月革命」についても、レーニンについても知っておこうという関心を持ったことに由来する。元来の目的は、日本共産党の「大ウソ・大ペテン」を暴露しようという、まさに<実践的な>ものだった。
 不破哲三(・日本共産党)によるレーニン・「ネップ」理解の誤り(=捏造)にはとっくに気づいているが、最終の数回の記述はまだ行っていない。
 もともとはスターリン時代(この時代のコミンテルンを含む)に立ち入る気持ちはなかった。それは、日本共産党もまたスターリンを厳しく批判しているからだ。但し、以下のL・コワコフスキ著の第三巻の冒頭以降は、スターリンに関する叙述の中でレーニンとスターリンとの関係や「ネップ」に論及しているので、しばらくは、第三巻の最初からの試訳をつづけてみる。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.

 第一章から第三章までの表題と第一章の中の各節の表題は、つぎのとおり。
 第一章/ソヴィエト・マルクス主義の第一段階/スターリニズムの開始。
  第1節・スターリニズムとは何か。
  第2節・スターリニズムの諸段階。
  第3節・一国での社会主義。
  第4節・ブハーリンとネップ・イデオロギー、1920年代の経済論争。
 第二章・1920年代のソヴィエト・マルクス主義における理論上の論争。
 第三章・ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。
 p.1~の第一章から。Stalinism は「スターリン主義」ではなく「スターリニズム」として訳す。なお、Leninism は「レーニニズム」ではなく「レーニン主義」と訳してきた(これからも同じ)。
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 第1節・スターリニズムとは何か①。
 「スターリニズム」という語が何を意味するかに関する一般的な合意はない。
 ソヴィエト国家の公式なイデオロギストたちはこの語を使ったことがなかった。一つの自己完結的な社会体制の存在を示唆するように見えるからだろう。
 フルシチョフ(Khrushchev)の時代以降、スターリン時代は何を目指していたかに関する受容された定式は、「人格(personality)のカルト」だった。そして、この常套句は、必ず二つの想定と関連づけられていた。
 第一は、ソヴィエト同盟が存在している間ずっと、党の政治は「原理的に」正しく(right)、健康的(salutary)だったが、ときたま過ち(errors)が冒され、その中で最も深刻だったのは「集団指導制」の無視だった、つまり、スターリンの手への無限の力の集中だつた、というものだ。
 第二の想定は、「過ちと歪曲」の主要な原因はスターリン自身の性格的な欠陥、すなわちスターリンの権力への渇望や専制的傾向等々にあった、というものだ。
 スターリンの死後、これら全ての逸脱はすみやかに治癒され、党はもう一度適切な民主主義的原理に適応した。そして、事態は過ぎ去った、ということになる。
 要するに、スターリンの支配は偶然の以外の奇怪な現象だった。そこには「スターリニズム」とか「スターリン主義体制」というものは全くなく、いずれにせよ、「人格のカルト」の「消極的な発現体」はソヴィエト体制の栄光ある成果とは関係なく消え去ったのだ。//
 こうした事態に関する見方は疑いなく執筆者やその他の誰かによって真面目には考察されなかったけれども、今日的用法上の「スターリニズム」という語の意味と射程に関しては、今なお論争が広く行われている。それは、ソヴィエト同盟の外に共産主義者の間にすらある。
 しかしながら、その考え方が批判的であれ正統派的であれ、上の後者〔外部の共産主義者〕は、スターリニズムの意味を、1930年代初期から1953年の死までのスターリンの個人的僭政の時期に限定する。
 そして、彼らがその時代の「過ち」の原因として非難するのはスターリン自身の悪辣さというよりも、遺憾だが変えることのできない歴史的環境だ。すなわち、1917年の前および後のロシアの産業や文化の後進性、ヨーロッパ革命を期待したという失敗、ソヴィエト国家に対する外部からの脅威、内戦後の政治的な消耗。
 (偶然だが、同じ理由づけは、ロシアの革命後の統治の堕落を説明するために、トロツキストたちによって決まって提出される。)//
 一方、ソヴィエト体制、レーニン主義あるいはマルクス主義的な歴史の図式を擁護するつもりのない者たちは、総じて、スターリニズムを多少とも統一した政治的、経済的およびイデオロギー的体制だと考える。それはそれ自体の目的を追求するために作動し、それ自体の見地からは「過ち」をほとんど犯さない体制だ。
 しかしながら、この見地に立ってすら、スターリニズムはいかなる範囲でかついかなる意味で「歴史的に不可避」だったのか、が議論されてよい。
 換言すると、ソヴィエト体制の政治的、経済的およびイデオロギー的様相は、スターリンが権力に到達する前にすでに決定されており、その結果としてスターリニズムだけがレーニン主義の完全な発展形だったのか?
 いかなる範囲でかついかなる意味で、ソヴィエト国家の全ての特質は今日に至るまで存続しているのか、という疑問もやはり、まだ残る。//
 用語法の観点からは、「スターリニズム」の意味を独裁者が生きた最後の25年間に限定するか、それとも現在でも支配する政治体制をも含むように広げるかは、特別の重要性はない。
 しかし、スターリンのもとで形成された体制の基本的な特質は最近の20年で変わったのかは、純粋に言葉の問題以上のものだ。そしてまた、その本質的な特徴は何だったのかに関する議論を行う余地も残っている。//
 この著者〔L・コワコフスキ〕も含めて、多くの観察者は、スターリンのもとで発展したソヴィエト体制はレーニン主義を継承したものだと、そしてレーニンの政治的およびイデオロギー上の原理にもとづいて創設された国家はスターリニズムの形態でのみ存続することができた、と考えた。
 さらに加えて、論評者は、狭い意味での「スターリニズム」、つまり1953年まで支配した体制は、スターリン後の時代の変化によっても本質的には決して影響をうけなかった、とする。
 これらの論点の第一は、これまでの各章で、ある程度は確証された。そこでは、レーニンは全体主義的教理および萌芽にある(in embryo)全体主義国家の創設者だ、と示された。
 もちろん、スターリン時代の多くの事件の原因は偶然だったり、スターリン自身の奇矯さだったりし得る。出世主義、権力欲求、執念、嫉妬、および被害妄想的猜疑心。
 1936~1939年の共産党員の大量殺戮を「歴史的必然」と呼ぶことはできない。
 そして我々は、スターリン自身以外の僭政者のもとではそれは生起しなかっただろうと想定してよい。
 しかし、典型的な共産主義者の見方にあるように、かりに大殺戮をスターリニズムの本当の「消極的」意味だと見なすとすれば、スターリニズムの全体が嘆かわしい偶発事だということに帰結する。-これが示唆するのは、傑出した共産党員たちが殺害され始めるまでは、共産主義者による支配のもとでは全てがつねに最善のためにある、ということだ。
 歴史家がこれを受容するのは困難だ。それは歴史家が党の指導者または党員ですらない数百万人の運命に関心があるということによるのみならず、特定の期間にソヴィエト同盟で発生した巨大な規模の血に染まるテロルは、全体主義的僭政体制の永遠の、または本質的な特質ではない、ということも理由としている。  
僭政体制は、個々の一年での公式の殺害者が数百万人と計算されるか、数万人とされるかに関係なく、また、拷問が日常の事として用いられていたのか、たんにときたまにだつたのかに関係なく、さらに、犠牲者は労働者、農民、知識人だけだったのか、あるいは党の官僚たちも同様だったのかに関係なく、力を持ったままで残っている。//
 ----
 ②へとつづく。

1525/L・コワコフスキ『マルクス主義-』1976年の構成②。

 トニー・ジャット(Tony Judt)の以下は、L・コワコフスキーの『マルクス主義の主要潮流』について一章を設けている(第二部/第8章)。この部分は、「称賛の価値ある」Norton社による一巻本での再発行の決定を契機に2006年9月のNew York Review of Booksに掲載したものを再収載しているようだ。
 Tony Judt, Reappraisal -Refrections on the Fogotten Twentieth Century (2008). - Part Two, Chapter VIII -Goodby to all that ? Leszek Kolakowski and the Marxist Legacy.
 =トニー・ジャット(河野真太郎ほか訳)・失われた二〇世紀/上(NTT出版, 2011)/第二部/第8章「さらば古きものよ ?-レシェク・コワコフスキとマルクス主義の遺産」。
 また、同じくトニー・ジャットは、つぎの著の一部(第5部/第18章)で L・コワコフスキーの逝去のあとで哀惜感溢れる文章でコラコフスキーの仕事と人物を振り返っている。これは、2009年9月にやはりNew York Review of Booksに掲載したものが初出だ。
 Tony Judt, When the Facts Change -Essays 1995-2010 (2015). -Part 5, Chapter 18 -Leszek Kolakowski (1927-2009).
 後者は、トニー・ジャットのいわば遺稿集で、彼はコワコフスキの死の翌年、上を書いてほぼ1年後の2010年8月に、62歳で亡くなった(1948-2010)。
 以下は構成内容の紹介のつづき。一部について、節名も記した。
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第三部・破滅。
 第1章・ソヴェト・マルクス主義の初期段階、スターリニズムの開始。
  第1節・社会主義とは何か ?。
  第2節・スターリニズムの諸段階。
  第3節・スターリンの初期と権力への到達。
  第4節・一国社会主義。
  第5節・ブハーリンとネップのイデオロギー、1920年代の経済論争。
 第2章・1920年代のソヴェト・マルクス主義の理論的諸論争。
  第1節・知的および政治的風土。
  第2節・哲学者としてのブハーリン。
  第3節・哲学論争:デボーリン対機械論者。
 第3章・ソヴェト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。
  
第1節・大粛清のイデオロギー上の意義。
  第2節・スターリンによるマルクス主義の編纂。
  第3節・コミンテルンと国際共産主義のイデオロギー上の変形。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化
 第5章・トロツキー。
 
第6章・アントニオ・グラムシ(A. Gramsci): 共産主義修正主義。
 第7章・ジョルジ・ルカーチ(Gyorgy Luka'cs):ドグマ提供の理性。
 第8章・カール・コルシュ(K. Korsch)。
 第9章・ リュシアン・ゴルトマン(Lucien Goldmann)。
 第10章・フランクフルト学派と『批判理論』。
  第1節・歴史的および伝記的なノート。
  第2節・批判理論の原理。
  第3節・消極的弁証法。
  第4節・実存主義的『真正主義』批判。
  第5節・『啓蒙主義』批判。
  第6節・エーリヒ・フロム(Erich Fromm)。
  第7節・批判理論(続き)、ユルゲン・ハーバマス(Juergen Habermas)。
  第8節・結語。
 第11章・ハーバート・マルクーゼ(H. Marcuse):新左翼の全体主義的ユートピアとしてのマルクス主義。
 第12章・エルンスト・ブロッホ(Ernst Bloch):未来派的直感としてのマルクス主義。
  第13章・スターリン死後のマルクス主義の発展。
  第1節・『脱スターリニズム』。
  第2節・東ヨーロッパでの修正主義。
  第3節・ユーゴスラビア修正主義。
  第4節・フランスにおける修正主義と正統派。
  第5節・マルクス主義と『新左翼』。
  第6節・毛沢東の農民マルクス主義。
 ---
 以上。

1522/レシェク・コワコフスキーという反マルクス主義哲学者。

 L・コワコフスキーのつぎの小論選集(Selected Essays)も、当然に ?、邦訳されていない。
 Leszek Kolakowski, Is God Happy ? -Selected Essays (2012).
 前回にこの人物について紹介したのはかなり古い情報だったので、この著によって上書きする。
 多数の書物を刊行し(略)、欧米諸国の学士院類の会員であり、多数の「賞」を受けている人物・哲学者が、なぜ日本ではほとんど知られていないのか。なぜ邦訳書が前回紹介のもの以外にはおそらく全くないのか。
 一部を読んだだけなので確言はしかねるが、つぎのことを推測できる。
 日本の「左翼」、とりわけ熱心な容共のそれ、そして日本の共産主義者(トロツキー派を含む)、とくに日本共産党にとって、<きわめて危険>だからだ。
 この人の著作を知っている哲学またはマルクス主義関係の「学者・研究者」はいるだろう。しかし、例えば岩波書店・朝日新聞社に、この人物の書物(『マルクス主義の主要な潮流』もそうだが)の邦訳書を刊行するようには助言や推薦を全くしないだろうと思われる。
 一方、日本の「保守」派は、いちおうは「反共」・反共産主義を謳いながら、共産主義理論・哲学に「無知」であり、欧米の共産主義をめぐる議論動向についてほとんど完全に「無関心」だからだ。
 じつに奇妙な知的雰囲気がある。
 この欄の№1500・4/14に書いた。-「冷静で理性的な批判的感覚の矛先を、日本共産党・共産主義には向けないように、別の方向へと(別の方向とは正反対の方向を意味しない)流し込もうとする、巨大なかつ手の込んだ仕掛けが存在する、又は形成されつつある、と秋月瑛二は感じている」。
 L・コラコフスキーの日本での扱いも、他の人物についてもすでに何人か感じているが、この「仕掛け」の一つなのではないか。
 ---
 A-経歴。
 無署名の冒頭注記および縁戚者(実娘か。Agnieszka Kolakowska)執筆の「Introduction」(vii-xiii)から、L・コラコフスキーのつぎのような履歴が分かる。年齢は、単純に生年を引いたもの。
 1927年、ポーランド・ラドム生まれ。
 ロズ(Lodz)大学、ワルシャワ大学で哲学を学ぶ。
 (第二次大戦後、ソ連・モスクワ大学留学。)
 1953年/26歳、ワルシャワ大学で博士号取得。助教授に。
 1955年以降の研究著作の重要主題は、「マルクス主義」という「イデオロギーの危険性、欺瞞と虚偽および全体主義の本質」だった(Agnieszka による、vii)。
 1956年までに、「修正主義者」扱いされ、国家当局から睨まれる重要人物になる。
 1956年/29歳、『神々の死』<上掲書所収、新訳>を執筆。
 これは、「共産主義のイデオロギーと実際を極めて強く攻撃し、体制の偽った合理化やそれの虚偽情報宣伝の神話を強く批判する。当時としては驚くべきほど明快で、理解し易さや力強さに息を呑む」(Agnieszka による、viii)。
 この論考は「検閲」されて、「共産主義崩壊までのポーランドでは刊行されないまま」だった。「地下では、手書きの模写物が回覧された」(同)。
 1956年/29歳、『社会主義とは何か ?』<上掲書所収>を執筆。初期のもう一つの重要論考。「検閲」されて、これを掲載した雑誌は廃刊となる。ポーランドで非刊行、地下での回覧は、上と同じ。
 (1956-57年、オランダ、フランス・パリの大学に留学。)
 1959年/32歳、現代哲学史の講座職(the Chair)=教授に任命される。
 数年にわたり、ポーランド学術学士院(Academy)哲学研究所でも勤務。
 1966年/39歳、ワルシャワ大学で<ポーランドの10月>10周年記念の講演。
 「1956年10月以降の好機を逸し、希望を実現しなかった」として(Agnieszka による、ix)、党(ポーランド統一労働者党=共産党)と共産主義政府を、激しく批判する。
 これを理由に、党から除名される。
 1968年3月/41歳、政府により、大学の講座職(the Chair)=教授資格が剥奪され、教育と出版が禁止される。
 1968年の遅く/41歳、モントリオール・マギル(McGill)大学-カナダ-からの招聘を受けて、客員教授に。
 1969年-70年/42-43歳、カリフォルニア大学バークレー校-アメリカ-の客員教授。
 1970年/43歳~1995年/68歳、オクスフォード大学-イギリス-に移り、哲学学部の上級研究員。
 1975年/48歳、イェール大学-アメリカ-客員教授を兼任。
 1981年/54歳~1994年/67歳、シカゴ大学-アメリカ-社会思想研究所教授を兼任。
 (2009年/82歳、逝去。)
 ---
 B。かつて、英国学士院(Academy)会員、アメリカ学士院外国人会員。ポーランド学士院、欧州学士院(Academia Europea)、バイエルン(独)人文学士院、世界文化アカデミー(Akademie Universelle des Cultures)の各メンバー。
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 C-受賞、とりわけ以下。
 Jurzykowski 賞(1969)、ドイツ出版協会平和賞(1977)、欧州エッセイ賞(仏, 1981)、エラスムス賞(1982)、ジェファーソン賞(1986)、トクヴィル賞(1993)、ノニーノ(Nonino)特別賞、イェルザレム賞(2007)。
 多数の大学から、名誉博士号。
 生涯にわたる人間性についての業績に対して、連邦議会図書館W・クルーゲ賞の第一回受賞者(2003)。
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 D-書物。30冊以上。17冊の英語著・英訳書を含む<略>。
 E-上掲書のIs God Happy ? -Selected Essays (2012).
 つぎの小論から成る。タイトルの仮の訳と発表年、およびこの本で初めて英語文で刊行されたか否か(<新訳>と記す)を記載する。また、Agnieszka Kolakowskiによる<改訳>もある。既に公刊されているものは、文献を省略して、()で刊行年のみ記す。p.324-7の「第一刊行の詳細」による。
 第一部/社会主義、イデオロギーおよび左翼。
 「神々の死」1956年<新訳>。
 「社会主義とは何か ?」1956年(英語1957年)。
 「文化の力としての共産主義」1985年(講演1985、英語<改訳>2005年)。
 「左翼の遺産」1994年(1994年)。
 「全体主義と嘘の美徳」1983年(1984年)。
 「社会主義の左翼とは何か ?」1995年(英語2002年)。
 「ジェノサイドとイデオロギー」1977年(英語1983年)。
 「スターリニズムのマルクス主義根源」1975年(英語1977年)。
 「全てに関する私の適正な見方」1974年(1974年)。
 第二部/宗教、神および悪魔の問題。
 「イェス・キリスト-予言者と改革者」1956年(英語<改訳>2005年)。
 「ライプニッツと仕事」2002年(英語2003)。
 「エラスムスとその神」1965年<新訳>。
 「外見上の神なき時代の神に関する不安」1981年(<改訳>, 2003年)。
 「神からの祝宴への招待」2002年<新訳>。
 「なぜ仔牛 ? 偶像崇拝と神の死」1998年<改訳>(講演)。 
 「神は幸せか ?」2006年<英語・新訳>(講演, オランダ語で初刊)。
 第三部/現代性、真実、過去およびその他。
 「無期日性を称賛して」1961年<新訳>。
 「俗物根性を称賛して」1960年<新訳>。
 「罪と罰」1991年(英語1991年)。
 「自然法について」2001年(講演, 英語2003)。
 「集団的同一性について」1994年(2003年)。
 「歴史的人間の終焉」1989年(1991年)。
 「我々の相対的な相対主義について」1996年(1996年, ハーバマス(Habermas)やロルティ(Rorty)との討議の中で)。
 「真実への未来はあるか ?」2001年<新訳>。
 「理性について(およびその他)」2003年<新訳>。
 「ロトの妻」1957年(<改訳>, 1972年, 1989年)。
 「我々の楽しいヨハネ黙示録」1997年<新訳>。
 ---
 以上。

0479/佐伯啓思・諸君!5月号における「社会主義」・「共産主義」。

 某の連載があることを理由に諸君!(文藝春秋)の購入をやめていたが、佐伯啓思の最新の文章が読みたくなって、20日ほど遅れて同・5月号を買った。
 佐伯啓思「アメリカ文明の落日と『世界史の哲学』の構築」(p.26~44)。新聞のコラムと比較するのは無理があろうが、朝日新聞の若宮啓文の駄文を読んだあとでは、知的刺激を感じる、豪奢な食事の如き論稿だ。
 佐伯啓思・日本の愛国主義(NTT出版、2008)についてと同様に、筆者(佐伯)の主題とは異なる(佐伯にとっては)瑣末であろう事項・問題についての叙述を要約的に記しておく。すなわち、「社会主義」あるいは「共産主義」について。
 ・<「冷戦の主役である社会主義という実験」も「西欧近代主義の極限的な形態」だった。20世紀初頭の「西欧知識人たち」は「新たな価値創造」に賭けるとすれば、「ファシズムかボルシェビズムかという選択に迫られた」。>
 ・<「社会主義という人間理性の極端なまでの過信」と「歴史を導く正義という理念への過剰な期待」は、「あまりに独断的な価値創出」で、「世俗化された疑似宗教というべきもの」だった。>
 ・<20世紀「西欧社会」の「ニヒリズム的状況」を「不透明に覆い隠した」のは、「ナチズムとスターリニズムの蛮行」だった。「ナチスによるユダヤ人虐殺とスターリンによるおそるべき粛清、さらに共産主義による驚くべき虐殺」は、「自由・民主主義、ヒューマニズム、人権などの近代主義の理想をもう一度、呼び覚ますに十分」だった。>(以上、p.38)
 「社会主義」・「共産主義」に言及があるのはこの部分だけだと思われる。そして、以上の諸点に反対はしないし、逆に基本的にはそのとおりだろうと相槌を打つ。
 但し、上の最後の文は、そのために「自由・民主主義」あるいはアメリカの「歴史観」や「価値観」が検討されずに「聖域」化された、という論旨につながっていき、全体としてアメリカニズム(「アメリカ文明」)の問題点・限界を指摘することが主題になっている(その帰結として、最後に「日本の精神」の再発見の必要を説いているが)。
 そして、(上のカッコ内を除いて)どこか違う、「思想的」にはともかく「現実的」には、日本の現在の焦眉の論点ではないのではないか、という感想をもってしまった。別の機会に少しはより詳しく書こう。

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  • 2354/音・音楽・音響⑤—ロシアの歌「つる(Zhuravli)」。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2320/レフとスヴェトラーナ27—第7章③。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2302/加地伸行・妄言録−月刊WiLL2016年6月号(再掲)。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2277/「わたし」とは何か(10)。
  • 2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
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  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
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  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
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  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
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  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
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  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
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