秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

ジャコバン独裁

0960/レーニンとフランス・ジャコバン独裁(1793年憲法)-その2。

 レーニンが1915年11月に雑誌か新聞に寄せた論文「革命の二つの方向について」(レーニン10巻選集第6巻(大月書店、1971)p.172-3)は、フランス一七八九年革命に次のように言及している。

 ①プレハーノフは、マルクスの「フランスの一七八九年の革命は、上向線をたどったが一八四八年の革命は下向線をたどった」との文を引用する。前者では権力が「より穏健な政党からより左翼的な政党へと」、すなわち「立憲派―ジロンド派―ジャコバン派」へと移行した。後者では逆だ(「プロレタリアート―小ブルジョア民主主義派―ブルジョア共和派―ナポレオン三世」)。これらの事例からするプレハーノフの現在のロシアに関する推論は誤っている。

 ②「マルクスは、一七八九年にはフランスでは農民と結合し、一八四八年には小ブルジョア民主主義派がプロレタリアートを裏切ったと書いている」。

 ③「一七八九年の上向線は、人民が絶対主義に勝った革命の形態であった。一八四八年の下向線は、小ブルジョアジーの大衆がプロレタリアートを裏切って革命を敗北させた革命の形態であった」。

 プレハーノフによるロシア(1915年時点)への推論を批判してはいるが、マルクスが示したという「革命の二つの方向」、一七八九年の「上向線」と、一八四八年の「下向線」という理解そのものには、レーニンも反対していないことは明らかだ。成功(上向)と失敗(下向)の各事例の階級・階層関係の分析がプレハーノフとは異なるようだ。

 さて、上の②をプレハーノフは知っていたのに無視しているとレーニンは批判しているが(p.172)。上の②とこの批判を含まない、これらに続く文章が、平野義太郎編・レーニン/国家・法律と革命(大月書店、1967)に引用されている(平野編p.115)。

 「一七八九年のフランスでは、絶対主義と貴族を打倒することが問題であった。ブルジョアジーは、……農民との同盟に応じた。この同盟が革命の完全な勝利を保証したのである。一八四八年には、プロレタリアートがブルジョアジーを打倒することが問題であった。フロレタリアートは、小ブルジョアジーを自分のほうに引きつけることに成功しなかった。そして小ブルジョアジーの裏切りが革命を敗北させたのである」。

 このあとに、上記の(レーニン選集第6巻の)③がつづく。

 但し、平野編著は、上の①・②を割愛しているからだろう、そのまま引用するだけではなく、〔〕内に平野による「注」または「補足」を挿入している。したがって、上の③は次のようになっている。
 ③「一七八九年の上向線立憲派―ジロンド党―ジャコバン党〕は、人民が絶対主義に勝った革命の形態であった。一八四八年の下向線〔プロレタリアート―小ブルジョア民主主義派―ブルジョア共和派―ナポレオン三世〕は、小ブルジョアジーの大衆がプロレタリアートを裏切って革命を敗北させた革命の形態であった」。

 レーニン自身による上の①を参照すると、ここでの〔〕内への挿入内容が平野による独自の解釈などではなく、レーニンの理解と矛盾していないことは明瞭だろう。

 つまり、こういうことだ。レーニンは、<絶対主義→ブルジョア民主主義>というフランス革命の「勝利」の最後の頂点に「ジャコバン派(党)」を位置づけている。

 レーニンにおいて、ジャコバン独裁・1793年の時期が肯定的に評価されていることは明らかだ。あらためて記しておくが、そのようなジャコバン独裁期に制定された(だが施行されなかった)、「人民(プープル)主権」原理に立つ1793年憲法を熱心に研究して1989年に著書を刊行したのが、辻村みよ子(現東北大学教授)だ。

 なお、レーニンが執筆したもののすべてに目を通すことは不可能で、平野編著も決して網羅的ではないようだ。河野健二・フランス革命小史(岩波新書、1959)によるとレーニンは1915年に「偉大なブルジョア革命家」として「ロベスピエール」(ジャコバン派)に言及したらしいのだが、該当部分をレーニンの著書や上の平野編著の中に見出すことはできなかった。

 レーニン(またはマルクス)がフランス・ジャコバン独裁をどう評価していたかの探索(?)は、とりあえずはこれで終えておく。

0938/三島由紀夫の「憲法」理解の対極にあった憲法学界の<親社会主義>。

 一 三島由紀夫は1970年11月に、「生命尊重以上の価値」をもつ「われわれの愛する歴史と伝統の国、日本」を「骨抜きにしてしまった憲法」と、1947年憲法(日本国憲法)を評した。そこで念頭に置かれているのはとくに、国家の軍隊の存在を否定する九条2項であることは明らかだ。自衛隊が存在しながらこれを正規の「軍その他の戦力」と位置づけない憲法解釈は、あるいは憲法改正によってそれを明瞭にしない<憲法護持>論は、三島にとって、姑息で欺瞞に満ちたものだった。

 こういう三島のような理解は、しかし、当時の政治家・国民の多数派のものではなかったし、ましてや憲法学者の大勢の理解でもなかった。

 当時はもちろん、今日でも、上の三島由紀夫のような理解は日本の憲法学界においてほとんど支持されていないと見られる。

 なぜか。端的に言って、戦後の憲法学者の圧倒的多数には、<社会主義幻想>がはびこっていたからだと思われる。資本主義→社会主義という<歴史の発展法則>に添うような憲法解釈をしようとすれば、日本が<社会主義>国になるためには、日本は(資本主義国たる日本を守るための)正規の「軍隊」などを保持してはならない、ということになる。その帰結は、①自衛隊を「違憲」の存在と見て廃止または縮小を求めるか、②自衛隊は正規の「軍その他の戦力」ではないために「合憲」であるという一種の強弁に、じつは詭弁・虚言に、少なくとも表向きはしがみつくか、のいずれかだった。

 <社会主義幻想>の内容の一つは、社会主義国は<平和愛好>的で資本主義国は<侵略的>とのデマだった。

 社会主義国ならばともかく、資本主義陣営の日本国家に、<侵略>性を有する軍隊などを保持させてはならなかった。かかる観点から憲法9条2項の解釈と自衛隊へのその適用も論じられたのだ。

 二 日本の憲法学・公法学が、表面的にはともかく、<体制選択>に関する特定の判断を前提として議論を展開させてきたことは、現役憲法学者・阪本昌成(広島大学→立教大学)の次の叙述により、明確だ。

 阪本昌成・法の支配(2006.06、勁草書房)p.1-2は、次のように一著の冒頭に書いている。時期的には、安倍晋三内閣が成立する直前にあたるだろう。

 「公法学における体制選択  20世紀は資本主義と社会主義との偉大な闘争の時代だった。経済思想史においても、政治思想史上においても、この闘争は人類史上の最大の論争点だったといっても過言ではない。この論争は公法学にも当然影を落とした。/

 過去半世紀を超えて、わが国の公法学者は、資本主義か社会主義かという体制選択問題を常に意識しながらも、あからさまなイデオロギー論争を巧みに避けて、個別的な場面での『解釈』や『政策提言』に各自の思想傾向を忍ばせてきた。イデオロギーを異にしながら、多様な『解釈』や『政策提言』を示してきた公法学者にも、奇妙な共通項があった。それは、経済市場と国家の役割への見方である。通常は、国家のもつ強制力に警戒的である論者も、こと経済市場の動きに対しては、国家介入に寛容となる。いくつか例を挙げれば、国家による市場秩序の人為的設計(かたや大企業への警戒感、かたや弱者としての中小企業や労働者の救済策)、社会保障プログラムの拡大・充実(市場における経済的弱者への思い入れ)、環境保護政策の推進(公害問題の発生因を市場経済に求める着想)等の姿勢である。/

 体制選択のひとつの候補が社会主義だった。この言葉には、”人々が程良い豊かさと自由を享受する正しい社会”という響きがどこかにあった。そのため、自由経済体制(「資本主義体制」)の社会主義体制に対する優越を公然と口にする公法学者には『右派・保守』というスティグマが与えられがちだった。ところが、社会主義国家の自己崩壊後、『社会主義』という言葉に輝きも快い響きもない。……」

 上でこの欄での文脈上とくに重要なのは、「自由経済体制(「資本主義体制」)の社会主義体制に対する優越を公然と口にする公法学者には『右派・保守』というスティグマ〔焼き印・刻印〕が与えられがちだった」、という部分だ。

 反社会主義的(または反共産主義的=反共的)言辞・発言には、<右派・保守>というレッテルが貼られがちだった、というのだ。それが少なくとも「社会主義国家の自己崩壊」までは続いた、と阪本昌成は言う。三島の死から約20年経っても、<反共>的言辞は<右派・保守>として異端視されていたのだ。

 社会主義国家はじつはすべて「崩壊」してはおらず、「体制選択」の問題は、日本では、そして日本の公法学界では、「あからさま」ではないにしても残っているように思われる。この点では、「自由経済体制」=「資本主義」の勝利とまだ決定的には断じられないところがある、と私は感じている。

 上のことには留意が必要だが、しかし、憲法学界等の公法学界の雰囲気が<親社会主義>的だったことは、おそらくは上の阪本昌成の文章でも示されているとおりだろう。

 そのような<親社会主義>的姿勢が、九条を始めとする憲法「解釈」や「政策提言」に影響を与えないはずがない

 辻村みよ子・フランス革命の憲法原理―近代憲法とジャコバン主義―(日本評論社、1989.07)は、ルソーの影響を受けたロベスピエールらの「ジャコバン主義」者、彼らの(未施行の)1793憲法の研究書だが、これらへの共感に満ち、これらを称揚しつつ、日本国憲法の「(国民)主権」論等の「原理」に関する示唆を得ようとするものだ。

 この本は東西ベルリンを隔てる「壁」の崩壊直前に執筆されたと見られる。そして、「あからさま」にはイデオロギー表明はしていないものの、(河野健二・岩波新書によると)早すぎた「社会主義」革命だったがゆえに失敗したとされる<ジャコバン独裁>を肯定的に把握しようとするもので、「あからさま」ではないが<社会主義幻想>に依拠して書かれている、と想定して間違いない。
 こうした人々にとって、三島由紀夫などは<右翼・反動>の極致の人物だっただろう。そして、こういう人々こそが(世代は上の杉原泰雄樋口陽一らも含めて)憲法学界・公法学会の主流派だったと見られる。今日に至って、少しは変化しているのだろうか

 ともあれ、日本の憲法学(学界)の大勢は、三島由紀夫の対極に位置していた、ということだけを、少なくとも確認しておきたい

 三 なお、第一に、阪本昌成が学界の「奇妙な共通項」として上に指摘するようなことは、日本国憲法もしっかりと(?)勉強して司法試験に合格した戦後教育の優等生である、福島みずほや仙石由人等を見ていると、なるほどと頷けるところがあるだろう。

 第二に、阪本昌成の上の本は、この欄でメモしながら読みつなぐことを意図したが、二年前にp.21くらいまで進んだだけで終わってしまった。

 上の引用は、最後の部分を除いて全文だが、かつて、次のように要約していた。

 <前世紀は資本主義と社会主義の対立の世紀で、この対立・論争は「公法学」にも影を落とした。日本の公法学者はこの体制選択問題を「常に意識し」つつも「あからさまなイデオロギー論争を巧みに避け」て、個別の解釈論や政策提言に「各自の思想傾向を忍ばせ」てきたが、「経済市場と国家の役割への見方」には奇妙な一致があった。すなわち、通常は国家の強制力を警戒する一方で、経済市場への国家介入には寛容だった。
 体制選択の一候補は社会主義で、快い響きをもっていたため、自由主義経済体制(資本主義)の優越を「公然と口にする公法学者」には「右派・保守」とのレッテルが貼られた。だが、社会主義国家が自己崩壊し体制選択問題が消失した今では、「リベラリズムの意義、自由な国家の正当な役割、市場の役割」を問い直すべきだ。その際のキーワードは、「政治哲学」上の「自由」、「法学」上の「法の支配」>。 

0740/読書メモ-小林よしのり・天皇論、西村幸祐責任編集・世界を愛した日本(オークラ出版)+辻村みよ子。

 〇今月6/05(金)~6/07(日)に、小林よしのり・天皇論(小学館、2009)を全読了。為備忘。
 〇辻村みよ子・フランス革命の憲法原理―近代憲法とジャコバン主義日本評論社、1989.07)はずっと以前に入手しているが、読むに至っていない。副題に見られるように「ジャコバン主義」=「モンターニュ派」・ロベスピエールの「主義」を中心とする研究書のはずで、(未施行の)フランス1793年憲法=「ジャコバン」憲法を主対象とする。
 出版年月の1989.07というのは微妙な年月だ。翌年のドイツ再統一(「社会主義」東独の消滅)、翌々年の「社会主義」ソ連解体のあとであれば、こんな副題をもつ研究書を<恥ずかしげもなく>刊行できたかどうか。いわゆる<フランス革命>の過程中の「ジャコバン主義」時代こそ、「人民主権」=「人民民主主義」=「プロレタリア独裁」の実験時で、<早すぎた>がゆえに失敗した、という説明もある(マルクス主義に立つ河野健二ほか)からだ。
 巻末の「主要参考文献一覧」を見て気づくことはルソーやロベスピエールの著作の原典を直接には読んでいないようであることだ。そもそもロベスピエールには知られた著書はないのかもしれないが、ルソーについても、桑原武夫他訳の岩波文庫「社会契約論」が挙げられているだけで、ルソー「人間不平等起源論」は邦訳書であっても上の「一覧」にはない。素人ながら、「ジャコバン主義」の理解に当たって、マルクスの<原始共産制>の叙述を想起させるような(「自然」=「未開」状態の叙述・理解がルソーとマルクスとで全く同様だとの趣旨ではない)「人間不平等起源論」の内容の理解は重要だと思われるのだが。
 また、「反共」主義であっても、ハイエクの著作が挙げられていないことは仕方がないとしても、ハンナ・アレントの著作が何ら挙げられていないことは気になる。
 ハンナ・アレントは「革命について」、「全体主義の起源」といった著作をすでに刊行していて、邦訳書もあった。前者に限れば、1968年(合同出版)、1975年(中央公論社)に邦訳書が出ている。
 そして、上の後者を基礎にしたアレント・革命について(ちくま学芸文庫、1995。志水速雄訳)の「解説」者・川崎修によると、この本は「アメリカ独立革命とフランス革命との比較史的研究」であり、アレントはマルクス主義によるフランス革命解釈(「逆算」)から「解放」したのではなく、マルクス主義によるフランス革命解釈=後からの「逆算」的解釈を「転倒」させただけの、「かなりの程度マルクス主義的に理解されたフランス革命への批判」をした、とある程度は批判的なコメントもある。
 アレントのフランス革命論又は川崎修のその「解釈」の当否はともあれ、フランス革命理解にとって、ハンナ・アレントの著作は1980年以前においてすでに看過できないものになっていたのではないのだろうか。
 「修正主義」への言及も冒頭にはあり、F・フュレの原著も参考文献に挙げられてはいるが、辻村みよ子の上の著は、所詮は<主流派>=マルクス主義的解釈によるフランス革命・「ジャコバン主義」論を土台にし、かつそれを支持したうえでのもののような気がしてならない。
 〇西村幸祐責任編集・世界を愛した日本(オークラ出版・撃論ムック、2009)も、「中学歴史教科書2009年度版徹底比較」(全読了)を含めてすでにある程度は読了。
 表紙に「『諸君!』さらばと言おう。」と大きくあるが、中身には、雑誌「諸君!」に関する記事・論考が一つもないのはどういうわけか。あまり遊んでもらっても困る。

0704/フランス・ジャコバン派(ロベスピエール)とレーニン・マルクス。

 〇 1.あらためて書くが、河野健二・フランス革命小史岩波新書、1959)は、ロベスピエールをこう称揚した。
 「彼(ロベスピエール)こそは民衆の力を基礎にして資本の支配に断乎たるたたかいを挑み、一時的にせよ、それを成功させた最初の人間だからである」(p.191)。
 この河野の本はまた、レーニンは1915年に次のように述べ、「とくにロベスピエールの名前をあげることを忘れなかった」という。
 「偉大なブルジョア革命家に、最も深い尊敬の念をよせないようでは、マルクス主義者ではありえない」(p.193)。
 ジャコバン(モンターニュ派)独裁については、上の河野の本は次のように叙述する。
 「モンターニュ派、とくにロベスピエールは、こういう運動〔「私有財産に対する攻撃、財産の共有制への要求」-秋月補足〕の背後にある要求をくみとりながら、すべての人間を小ブルジョア的勤労者たらしめる『平等の共和国』をうちたてようとした」(p.189)。
 モンターニュ派の夢見た「第三の革命」は「輪郭がえがかれたままで挫折した。資本主義がまさに出発しようとしているとき、…とすることは歴史の法則そのものへの挑戦であった。悲壮な挫折は不可避であった」。
 これらの文章をもう少しわかりやすく言えば、ジコバン派=ロベスピエールは「ブルジョア(市民)革命」を超えて、さらに「第三の」、すなわち「社会主義革命」まで進もうとしたのだが、それはまだ<早すぎて>「歴史の法則」に反し、「悲壮な挫折は不可避」だった、ということだ。
 2.ところで、のちのマルクスやレーニンが「ジャコバン独裁」に注目しかつそれに学ぼうとしたことは疑いを入れない。
 平野義太郎・レーニン/国家・法律と革命(大月書店、1967)は、日本共産党党員(故人)の平野義太郎がレーニンの「国家・法律と革命」に関する文章・命題を抜粋してそのまま掲載している(体系・順序の編集のうえで)ものだが、事項索引に「ロベスピエール」はないが「ジャコバン」はあり、4箇所の頁数が示されている。それを手がかりに読むと、レーニンおよびマルクスが「ジャコバン独裁」を肯定的にかつ高く評価していたことが明瞭だ。以下、そのまま一部引用する。①~④は、レーニン自身の文章だ。
 ①「ジロンド派は…一貫しない、不決断な、日和見主義的な擁護者であった。だから、…十八世紀の先進的階級の利益を首尾一貫してまもり抜いたジャコバン派は、彼らとたたかったのである」(p.44、1905.03=レーニン執筆の年月、以下同)。
 ②「真のジャコバン派の歴史的偉大さは、彼らが『人民とともにあるジャコバン派』、人民の革命的多数者、当時の革命的な先進的諸階級とともにあるジャコバン派だったことにあった」。「…プレハーノフらの諸君。…一七九三年の偉大なジャコバン派が、ほかならぬ当時の国民の反動的・搾取者的少数者の代表を、ほかならぬ当時の反動的諸階級の代表を、人民の敵と宣言するのを、恐れなかったことを、諸君は否定できるか?」(p.44-45、1917.06)。
 ③「マルクスは、…とくに全プロレタリアートの武装が必要であること、プロレタリア衛兵を組織すること、…を主張している。…マルクスは、一七九三年のジャコバン党のフランスを、ドイツ民主主義派の模範としている」(p.82、1906.03)。
 ④「一七八九年の上向線〔立憲派―ジロンド党―ジャコバン党〕は、人民大衆が絶対主義に勝った革命の形態であった。一八四八年の下向線〔プロレタリアート―小ブルジョア民主主義派―ブルジョア共和派―ナポレオン三世〕は、小ブルジョアジーの大衆がブロレタリアートを裏切って革命を敗北させた革命の形態であった」(p.115、〔〕は前後の文脈からする平野による補足と見られる。1915.11)。
 ⑤〔平野義太郎の「解題」の中〕レーニンは「…革命人民の歴史を述べる必要があり、とくにマルクスと同じように、フランス大革命のジャコバン党の歴史、それから一八四八年のドイツ・フランスの革命、一八七〇年のパリ・コミューンからまなんで革命の歴史を述べるときがきた。…」(p.401)。
 3.以上のとおり、(ルソー→)ロベスピエール(ジャコバン派)→マルクス→レーニンという<系譜>があることは明瞭だ。(ロベスピエールはルソーの思想的弟子。)
 だが、日本のとくに最近の学者たちは、マルクスやレーニンの名を出すことなく(換言すればマルクス(・レーニン)主義の擁護・支持を<隠したままで>)、ルソー、フランス革命、ロベスピエール(ジャコバン派)賛美・称揚を行っている。
 「ルソー・ジャコバン型」民主主義・個人主義を近代原理の典型的な一つとする樋口陽一や、施行もされなかった1793年(ジャコバン)憲法に憲法(思想)史上の重要な位置を与える辻村みよ子も、憲法学者の中でのそうした者の例だ。
 あらためて述べておくが、フランスのジャコバン派や1793年憲法に肯定的・親近的な文章を書いている者は、冒頭の河野健二はもちろんのこと、マルクス主義者又は少なくとも親マルクス主義者であることは疑いないと思われる。「マルクス主義」専門用語をできるだけ使わないようにしつつ、その実は、マルクス主義の骨格部分をなお支持して学者・研究者生活をおくっている者は少なくないと思われる。そのような者たちが少なくないからこそ、日本の「左翼」は他の<先進・自由主義>諸国の「左翼」とは異質で、かつ異様なのだ。
 〇田母神俊雄=潮匡人・自衛隊はどこまで強いのか(講談社+α新書、2009)を4/18に全読了。

0703/朝日新聞にエラそうに語る資格があるのか(週刊新潮問題)+辻村みよ子・ロベスピエール追記。

 〇 某新聞の4/17付社説の一部。週刊新潮「事件」に関するもの。
 「一般に大手出版社は、社内の週刊誌編集部の独立性を尊重しつつも、法務など別のセクションと日常的に意見交換して、問題記事が出るのを防ぐ工夫をしている。
 だが、新潮社では編集部に取材や記事づくりほぼすべてを任せていると同社は説明している。それほどの権限があるのであれば、編集部にはなおのこと厳しい自己点検が必要だ。
 報道機関も間違いを報じることはある。だが、そうした事態には取材の過程や報道内容を検証し、訂正やおわびをためらわないのがあるべき姿だ。事実に対して常に謙虚で誠実であろうと努力をすること以外に、読者に信頼してもらう道はないからだ。
 今回の週刊新潮と新潮社の態度からは、そうした誠実さが伝わってこない。この対応に他の出版社や書き手たちから強い批判の声があがっているのは、雑誌ジャーナリズム全体への信頼が傷ついたことへの危機感からである」。
 某新聞とは朝日新聞。呆れている。 
 1.この引用の冒頭に「大手出版社」とあるが<大手全国(新聞)紙>では、各部(政治部・社会部等)や「編集部の独立性を尊重しつつも、法務など別のセクションと日常的に意見交換して、問題記事が出るのを防ぐ工夫をしている」のか、自社のことも述べてほしいものだ。記事を書いた記者・その属する部(政治部・社会部等)と最終的に掲載するかどうかを判断する(権限があるとすれば)<編集>部との関係も知りたい。ついでに、2005年1月の際の本田雅和らの記事はどのように社内を「通過」したのかも具体的に。
 2.「報道機関も間違いを報じることはある。だが、そうした事態には取材の過程や報道内容を検証し、訂正やおわびをためらわないのがあるべき姿だ。事実に対して常に謙虚で誠実であろうと努力をすること以外に、読者に信頼してもらう道はないからだ」-よくぞこう言えたものだ。
 朝日新聞はこれまで、何度「間違い」を犯し、そのうち何度、「ためらわない」態度で「訂正やおわび」をしてきたのか??
 北朝鮮祖国帰還運動をどれほど煽ったのか。警察・公安当局は北朝鮮によるとの「疑問」を明確に表明していたにもかかわらず、そして「疑い」を当局は示したといくらでも<客観報道>できたにもかかわらず、全くといいほど言及・報道しなかったのは何故か。教科書検定による「侵略」→「進出」への書き換えという誤報について「訂正やおわび」をしたのか。特定政治家によるNHKに対する政治的「圧力」という「間違い」の捏造記事について「訂正やおわび」をしたのか。
 <天に唾する>あるいは<厚顔無恥>あるいは<どの面下げて>とは、上のような文章を言うのではないか。
 〇 前回紹介の辻村みよ子の記述についてコメントを補足。
 ロベスピエールに言及する日本国憲法の教科書・概説書も珍しいとは思うが、「財産権」のところで、それを「社会的制度」として把握した者として(のみ)登場させるのは一種の<偏向>だろう。
 すでに平民の階級になっていた旧国王夫妻がコンコルド広場で処刑(ギロチンによる斬首)された後に、<ジャコバン独裁>とか<恐怖政治>とか称される時代を築き、思想信条の差異を理由として同胞国民(・「市民」)を数万人(数十万人?)も殺戮し、のちのスターリン、毛沢東、金日成、ポル・ポトらの<さきがけ>となった人物こそロベスピエールではないか。
 ロベスピエールは<生命>(<「個人」)の尊さの箇所で、あるいは「思想・信条の自由」の箇所で(その侵害者として)登場させる方が適切だろう。
 あるいは、やや専門的かもしれないが、<宗教・信教の自由>の箇所はどうだろう。キリスト教式ではない「理性の祭典」=「最高存在の祭典」の挙行は、キリスト教に対抗した「理性」を一種の神とする新<宗教>の樹立をしようとしたものとして、<宗教活動(の自由)>を考察する場合でも興味深い素材ではないか。
 いずれにせよ、辻村みよ子はロベスピエールに<肯定的>文脈において言及する(ルソーについても全く同様)。それはいったい何故か。ルソー(・フランス革命)を呼び覚ませば、マルクスは何度でもよみがえる、との旨の中川八洋の言葉は聞くべきところがある。
 ルソー→ロベスピエール→バブーフ/サン・シモンやフーリエ→マルクス、という思想系譜が一つの流れとしてはある。その後、マルクス→レーニン→スターリン・毛沢東・金日成(・宮本顕治)らと続く。この怖ろしい、<共産主義>そして<全体主義>の系譜にロベスピエールも位置するということを(少なくともこのような理解もあるということを)知った上で、教科書・概説書は慎重に書かれるべきだ(特定のイデオロギーを宣伝したいならば別だが)。

0691/フランス1793年憲法・ロベスビエール独裁と辻村みよ子。

 一 「フランス・ジャコバン独裁と1793年憲法再論-河野健二と樋口陽一・杉原泰雄」とのタイトルで簡単にまとめたことがあった(2008/11/02)。
 河野健二・フランス革命小史(岩波新書、1959。1975年に19刷)は、これまでの「体制派」=「進歩派」=「左翼」のフランス革命史・フランス革命観を叙述していると見られる。重複部分があるが、フランス1793年憲法・ジャコバン(=ロベースピエール)独裁については、以下のごとし。
 「ロベスピエール派」の「政治的実践」は失敗したが、「すべて無効」ではなかった。「モンターニュ派」による国王処刑・独裁強化は「一切の古い機構、しきたり、思想を一挙に粉砕し、…政治を完全に人民のものにすることができた」。「この『フランス革命の巨大な箒』(マルクス)があったからこそ、人々は自由で民主的な人間関係をはじめて自分のものとすることができた」(p.166-7)。/「モンターニュ派」独裁の中で、「私有財産にたいする攻撃、財産の共有制への要求があらわれた」。とくにロベスピエールは、「すべての人間を小ブルジョア的勤労者たらしめる『平等の共和国』」を樹立しようとした。しかし、戦争勝利とともに「ロベスピエール派」は没落し、上の意図は「輪郭がえがかれたままで挫折した」(p.190)。/「資本主義がまさに出発」しようとしているとき、「すべての人間を小ブルジョアとして育成し、固定させようとすることは、歴史の法則への挑戦であった」。「悲壮な挫折は不可避であった」(p.190)。/ロベスピエールが「独裁者」・「吸血鬼」と怖れられているのは彼にとって「むしろ名誉」ではないか。彼こそ、「民衆の力を基礎として資本の支配に断乎たるたたかいを挑み、一時的にせよ、それを成功させた最初の人間だから」だ(p.191)。
 ロベスビエールは失敗したが、しかし、それは時代を先取りしすぎていたからで、彼らが指し示した歴史的展望は不滅のものだ、とでもいいたげだ。マルクス主義者又は親マルクス主義者にとって、ロベスピエール独裁とは、<ブルジョア(市民)革命>に続く、<社会主義革命>(プロレタリア独裁?)の萌芽に他ならなかった。
 かかる「ジャコバン(モンターニュ)独裁」観に、樋口陽一も立っていたといってよい。樋口は同・自由と国家(岩波新書、1989=ソ連解体前)p.170で、日本人はフランスの1793年の時期を、「ルソー=ジャコバン型個人主義」を「そのもたらす痛みとともに追体験」せよ、と主張していた。
 二 日本国憲法の教科書・概説書の中に、索引によると、フランス1973年憲法に6カ所で言及しているものがある。
 辻村みよ子・憲法/第3版(日本評論社、2008)だ。なお、日本評論社から憲法(日本)の教科書・概説書を出版しているのは、この辻村みよ子と、浦部法穂の二人かと思われる。日本評論社の<法学>系出版物の「左翼」傾向はこの点でも例証されていると考えられる。
 以下、辻村みよ子の上の著がフランス1973年憲法をどう記述しているかをメモしておく。
 ①「ブルジョアジー」が狭義の「国民主権」を定めた1791年憲法に対して、「王権停止後に初の共和制憲法として成立した1793年憲法は、平等権や社会権の保障のほか、市民の総体としての人民を主体とする『人民(プープル)主権』原理に基づく直接民主主義的な統治原理を採用した。しかし、この急進的な憲法は施行されず、1795年憲法が制定されて、…<以下、略>」(p.22)。
 この部分は諸外国における「近代憲法の成立」の説明の中にある。諸外国とはイギリス、アメリカ、フランスで、ドイツに関する記述はない。
 ②日本の「私擬憲法草案」の中では、植木枝盛起草の『東洋大日本国国憲按』(1881)には、「フランス1789年人権宣言のほか、急進的な1793年憲法の人権宣言の抵抗権や蜂起権の影響が認められる」(p.34)。
 この部分は、明治憲法の制定過程に関する叙述の中にある。
 くり返しておくが、フランス1793年憲法とは、現実には<施行されなかった>憲法だ。つづく。

0614/佐伯啓思・国家についての考察(2001)p.25-全体主義に対立するのは民主主義よりも保守主義。

 一 佐伯啓思・国家についての考察(飛鳥新社、2001)も佐伯の本の中でじくりと味わうべきものの一つだろう。
 全体の詳細な紹介、要約的言及の余裕はない。
 p.23からの数頁は「保守的であること」との見出しが付いている。そして、「保守的である」という気持ちのもち様、態度についての興味深い叙述があり、こうした「態度の背景」には、「人間の理性的能力への過信に対する防御」、「理性万能主義(設計主義)への深い疑問」等がある、とする。
 今回紹介したいのはその次の辺りの文章だ。佐伯啓思は言う(p.25)。
 ・「保守主義が明瞭に対立するのは社会主義にせよ、ファシズムにせよ、社会全体を管理できるとする全体主義に他ならない」。
 ・「理念としていえば民主主義などよりも保守主義の方が全体主義に対立する」。
 ・上のことは、「保守主義の生みの親とも目されるエドモンド・バーク」がその「保守的思考」を、「ジャコバン独裁をもたらすことになるフランス革命批判から生み出した」ことからも「すぐにわかるだろう」。
 二 宮沢俊義をはじめとする戦後・進歩的知識人のみならず日本国民の多くにも、先の大戦は<民主主義対ファシズム>の闘いであり、理論的・価値的にも優れた?前者が勝利した、という認識又は理解が、空気の如く蔓延した(蔓延しつづけている?)ようでもある。
 だが、既述の如くソ連を「民主主義」陣営の一者と位置づけることは、<人民民主主義>という概念などによってかつては誤魔化すことができたかもしれないが、いまや殆ど笑い話に近いほどに、正しくはない。
 また、ヒトラー独裁・ドイツファシズムが<ワイマール民主主義>の中から<合法的に>出現したことをどう説明するか、という問題もある。なお、<日本軍国主義>体制も(そのようなものがあるとして)法的には合憲的・合法的に成立したといわざるをえないだろう。

 つまり、<民主主義対ファシズム>の闘いだったと先の大戦を把握することは歴史の基本を捏造するものだ。従ってまた、今日までずっと<軍国主義・ファシズムの復活を阻止するために、民主主義を守り・徹底する>という目的を掲げてきている又は何となくそういう図式・イメージをもっている者たちもまた、歴史の基本的なところの理解を誤って国家・社会の動向を観察していることになる。
 「左翼」にとっては、とくに日本共産党員をはじめとするコミュニストにとっては、上の佐伯の叙述のように「社会主義」と「ファシズム」を「全体主義」という概念で包括するのは我慢できないことだろうが、社会「全体」の管理可能性を信じる点で、両者にはやはり共通性がある。
 また、この「全体主義」に対立するのはむしろ「個人主義」又は「自由主義」と言うべきであり、「民主主義」は別の次元の主義・理念だろう。
 そしてまた、フランス革命期における<急進的な(又は直接的)民主主義>(ルソー的「人民主権」論の現実化=「ジャコバン独裁」)を警戒したのは、叙上のように、イギリスの「保守主義」者・バークだった。
 佐伯啓思があえて言及しているように、今日において民主主義、さらにはコミュニズム(社会主義・共産主義)を論じる場合において、フランス革命期の「ジャコバン独裁」(ロベスピエールらによる)をどう評価し、どう理解しておくべきかは、不可欠の論点なのだ、と思う。「人民主権」(プープル主権)論の評価についても同じことがいえる。
 フランス革命や「ジャコバン独裁」・「人民(プープル)主権」論に言及してきたし、これからも言及するだろう理由は、まさに上のことにある。

0610/実教出版『世界史B・新訂版』(2007.01)は仏革命期の「恐怖政治」がロシア革命でも、と。

 一 樋口陽一は「ルソー=ジャコバン型個人主義の意義を、そのもたらす痛みとともに追体験することの方が、重要なのではないだろうか」と記した。同・自由と国家(岩波新書、1989)p.170。
 あらためてきちんと引用すると、河野健二は同・フランス革命小史(岩波新書、1959)p.167でこう書いていた。
 「モンターニュ派は、王を処刑し、公安委員会をつくり、独裁を強化することで、旧制度からひきついだ一切の古い機構、しきたり、思想を一挙に粉砕し、超越的であった政治を完全に人民のものとすることができた」。
 モンターニュ派(=ジャコバン派)は国王処刑・公安委員会設置・独裁強化によって、「政治を完全に人民のものとすることができた」、と書いている。
 これは史実か? ここでの「政治」とは、「人民」とは、「人民のものにする」とは、いったいいかなる意味なのか。
 ロベスピエールらモンターニュ派(ジャコバン派)のしたことは「恐怖政治」(テルール)との言葉でも形容されるがごとく、反対派の暗殺等の<大量殺戮>でもあった。
 それを上のように讃えることのできた京都大学教授・河野健二は、そこに、日本でも将来に行われるかもしれない、<プロレタリア独裁>による反対派・「反動」派の<正当な>殺害を見たのではないか、という気がする。「革命」遂行のための<正当な>暴力行使(殺戮>虐殺を含む)、これを(ひそかに?)肯定していたのではないか、と想像する。

 そのような河野において、「献身的な革命家」が「革命の殉教者」として葬られたのが、「テルミドールの反動」だった(上掲書p.167)。
 かつて学習した教科書にも、「テルミドールの反動」という言葉が載っていた。なるほど、<進歩>・<前進>に対する逆流と理解されたゆえにこそ、「反動」という言葉が選ばれていたのだと思われる。
 だが、それは当時の主流派的(マルクス主義的)フランス革命解釈によるもので、客観的にはそれは、<テルミドールの「正常化」>(<狂気の終焉>)に他ならなかっただろう。なおも混乱は続いたが、「正常化」又は「再秩序化」への第一歩ではあったと考えられる。

 二 中学校・高校用のすべての歴史・世界史の教科書を見たわけではないが、実教出版『世界史B・新訂版』(2007.01発行、2006.03検定済)のフランス革命関連の叙述はなかなか面白い(具体的な特定の執筆者名は不明)。少なくとも従来の主流派的(マルクス主義的)フランス革命解釈に依っていないことは明らかだ。
 ①ロベスピエールの「恐怖政治」について書いたあと、こう続ける。「経済統制をきらうブルジョアジーは、革命の徹底化に強い不安を感じはじめ…、戦況の好転によって独裁権力そのものが不必要になったとき、1794年夏、テルミドールのクーデタによってロベスピエールは即決裁判にかけられ処刑された」。
 この教科書には「テルミドールの反動」という言葉は出てこない。
 ②「フランス革命」となお称しつつ、これの「意義」を次のように書いている(p.238-9。以下は全文ではない)。
 フランス革命は「民主主義をめざす革命であったといってよい」。「しかし同時に深刻な問題もあった。不平等の是正については社会各層の利害が鋭く対立したため、反対派を暴力で排除しようとする恐怖政治がうまれたからである。同じような状況は、20世紀のロシア革命でくりかえされることになる」。
 ここではフランス革命が随伴した「問題」の指摘(=「恐怖政治」への言及)があり、同様のことが「20世紀のロシア革命でくりかえされ」た、とまで書かれている。
 かつてフランス革命の未完の部分を完成させたロシア革命という積極的評価が主流派・マルクス主義派のそれだったが、ロシア革命によって生まれたソ連「社会主義」が崩壊してみると、ロシア革命に伴った「悪」はフランス革命に由来する(少なくとも似ている)、とでも言っているような叙述が登場しているのだ。
 こうしてみると、多少は勇気づけられる。明らかに、(部分的かもしれないが)マルクス主義的な「フランス革命」理解は後退し、別の歴史の見方に変わっている。
 あと50年先、100年先、「戦後民主主義」なるものと「昭和戦後進歩的知識人・文化人」(丸山真男、大江健三郎、樋口陽一ら)については消極的・弊害的部分がきちんと総括され、「昭和戦後進歩的知識人・文化人」の活躍(跳梁?)の舞台を提供し、彼らを育成した岩波書店や朝日新聞は一時期の<流行>に影響されただけだという、基本的には消極的・否定的評価が下されているだろう、と確信したいものだ。

0609/フランス・ジャコバン独裁と1793年憲法再論-河野健二と樋口陽一・杉原泰雄。

 フランス「革命」時のジャコバン派(モンターニュ派、ロベスピエールら)独裁、又はその初期を画した1793年憲法(但し、未施行)について、何回か書いてみる。

 一 すでにいく度か言及している。例えば、
 A 憲法学者の杉原泰雄・国民主権の研究(岩波書店、1971)にも触れた。
 より短縮して再紹介するが、杉原は、ルソーの「人民主権論」はとくに「『プロレタリア主権』論として、私有財産制の否定と結合させられながら存続していることは注目されるべき」で、「国民主権と対置して、それを批判・克服するためにの無産階級解放の原理として機能している」と述べたのち、次のようにつなげる。「『ルソー→一七九三年憲法→パリ・コミューン→社会主義の政治体制』という一つの歴史の潮流、…二〇世紀…普通選挙制度・諸々の形態の直接民主主義の採用などに示される人民主権への傾斜現象さらには人民主権憲法への転化現象は、このことを明示するものである」。以上、p.181-2にあり、「」内は直接引用で、私・秋月の要約ではない。
 杉原において、「ルソーは民衆の解放を意図していたために、ブルジョアジーのための主権原理(「国民主権」)を本来構想しえなかった」とされる(p.92)。すでに書いたように、杉原において<ルソーは、早すぎたマルクスだった>のだ。
 また、これも既述だが、1971年には「ルソー→一七九三年憲法→パリ・コミューン→社会主義の政治体制」という歴史的必然?を杉原は語り得たが、今となってみれば、<夢想>であり<幻想>であり、あるいは<妄想>にすぎなかった。
 杉原泰雄の上の著は、むろんジャコバン憲法=1793年憲法にも論及している。例えば、次のように。  ・p.82-「一七九三年憲法」による「『人民主権』の樹立に一応賛成する態度をとりつつ…封建地代の無償廃止に踏み切ったことも、民衆革命の高揚と…反革命に対処するためにブルジョアジーがそれに頼らざるをえない状況」にあったことを前提としてはじめて「合理的に理解」できる。。
 ・p.83-「民衆」は「人民主権」を、「ブルジョアジー」は「国民主権」を要求する。「民衆の革命的エネルギー」に頼らざるを得ない状況下では、「ブルジョアジー」は「『国民主権』の主張を自制」し、留保を付しつつ「『人民主権』に賛成するポーズ」をとった。「その事例」は、「一七八九年人権宣言、一七九三年憲法」である。
 1793年憲法(とくにその「主権論」)それ自体(但し、繰り返すが、施行されなかった!)の<急進的>・<民衆的>・<直接民主主義的>内容には、とりあえず、ここでは立ち入らない(杉原p.273~など)。

 B 憲法学者の樋口陽一・自由と国家(岩波新書、1989)にも触れた。
 樋口陽一は、「一七八九年を完成させた一七九三年」と捉える立場に依って「ルソー=ジャコバン主義」を理解する旨を述べ(p.122)、次のように明言していた。再紹介する。p.170だ。

 日本(の一部)では「西洋近代立憲主義社会の基本的な約束ごと(ホッブズからロックを経てルソーまで)」が見事に否定されている。「そうだとしたら、一九八九年の日本社会にとっては、二世紀前に、中間団体をしつこいまでに敵視しながらいわば力ずくで『個人』をつかみ出したルソー=ジャコバン型個人主義の意義を、そのもたらす痛みとともに追体験することの方が、重要なのではないだろうか」。

 樋口において、「ルソー=ジャコバン主義」、そして1793年憲法が肯定的・積極的に評価されていることは明らかだろう。そして、日本(人)はフランスの1793年の時期を、「ルソー=ジャコバン型個人主義」を「そのもたらす痛みとともに追体験」せよ、と(1989年、ソ連「社会主義」体制の崩壊の直前に)主張していたのだ。

 二 杉原泰雄は「『ルソー→一七九三年憲法→パリ・コミューン→社会主義の政治体制』という一つの歴史の潮流」を明言していたが、樋口陽一も含めて、口には出さなくとも、戦後の所謂<進歩的>知識人・文化人は、ルソー→マルクス→レーニン、あるいはフランス革命(のような「ブルジョア革命」)→ロシア革命(のような「社会主義」革命)という、普遍的で必然的な?<歴史の流れ(発展法則)>を意識し、そのような観念・尺度でもって日本の国家・社会を観察していた(場合によっては何らかの実践活動もした)と思われる。

 そのような歴史観の形成に少なからず寄与したと思われるのは桑原武夫らのグループのフランス「革命」史研究であり、河野健二・フランス革命小史(岩波新書、1959。1975年に19刷)もその一つだろう。

 概読してみると、ジャコバン独裁(・1793年憲法)の位置づけ・性格づけなどについて、杉原泰雄や樋口陽一が前提とし、イメージしているような、マルクス主義的「通念」が<見事に>叙述されている。以下は、その概要又は断片のメモだ。「」は直接引用。

 ・フランス革命は「ブルジョア革命の模範」であるのみならず「歴史上の一切の革命の模範」とされる(「はしがき」)。
 ・1792年8-9月頃、ロベスピエールはこう書いた。「自分たち自身のため」の共和国を作ろうとする「金持ちと役人の利益」だけ考える者たちと、「人民のために」、「平等と一般利益の原則」の上に共和国を樹立しようとする者たちの二つに、これまでの「愛国者」は分裂する、後者こそ「真の愛国者」だ、と。「ロベスピエールが目ざしたのは、後者」だった(p.131)。
 ・1792年の時点で、「ジロンド派」と「モンターニュ派」の議会内対立は封建制・資本主義、資本家・労働者、反革命・革命の対立ではなく、両派ともに「ブルジョア・インテリたち」だったが、「ジロンド派」はチュルゴら百科全書派の弟子で「経済的自由主義」者だったのに対して、「モンターニュ派はルソーの問題意識と理論の継承者だった」。ロベスピエールもマラーもサン=ジュストも後者だった(p.133)。
 ・「モンターニュ派」は「…農民や手工業者を中核として、平等で自由な共和国をつく」ることを理想とし、その実現のための解決を、「政治の上では独裁と恐怖政治、道徳の上では美徳の強調と国家宗教(最高存在の崇拝)の樹立」のなかに求めた(p.134)。
 ・対外国戦争敗北等により1793年春以降、「政治情勢は急速に進んだ」。主流派の「ジロンド派」は抵抗し、「私有財産擁護」や「地方自治体の連合主義」を主張したが、5/31に「モンターニュ派」支持者による「蜂起委員会」の成立等により、6/02にパリでは「モンターニュ派」が勝利した(p.144-6)。
 ・1793年の6/24に議会が1793年憲法を採択、「人民投票」により成立した(但し、緊急事態を理由に施行延期)。この憲法は「ルソー的民主主義を基調」とし、「『人民』主権」を採り、議員は選挙民に「拘束」された。この最後の点は「『一般意思』は議員によって代表されないというルソーの理論の適用」だ(p.148)。
 ・実施されなかったこの憲法を、のちの「民主主義者たち」や「二月革命期の共和派左翼」は「福音書」扱いし、「革命の最大の成果をこの憲法のなかにみた」(p.148-9)。

 ・だが、「あまりにも美しく、あまりにも完全な」この憲法は、「一七九三年の条件のもとでは、まったく実現不可能なものだった」。「モンターニュ派」の「理想」ではあっても「現実政策」の表明ではなかった(p.149)。
 ・「都市の民衆暴動」に「モンターニュ派」は苦しみ、妥協して急進的法律をいくつか作りつつ、「過激派」の逮捕・裁判も強行した。そして、「公安委員会の独裁と恐怖政治がはじまった」(p.149-150)。

 ・公安委員会は「王党派、フイヤン派、ジロンド派」を追及し「処刑」した。だが、「ブルジョア的党派と、プロレタリア党派が排除されると」、「モンターニュ派」自体が左右に分裂し始めた。ロベスピエールら公安委員会は「反対派の生命をうばう」「個人的暴力」を用いた。これが「残された唯一の道」だった。1994年4月以降、公安委員会の独裁というより、「ロベスピエール個人、あるいは…を加えた三頭政治家の独裁」だった(p.155-7)。

 ・三人の一人、サン=ジュストは「反革命容疑者の財産を没収」し「貧しい愛国者たちに無償で分配」することを定める法令を提案し制定した。「ルソーが望んだように『圧制も搾取もない』平等社会を実現」することを企図したものだが、「資本主義が本格的にはじまろう」という時期に「すべての人間を財産所有者にかえようとする」ことは「しょせん『巨大な錯覚』(マルクス)でしかなかった」(p.157)。
 (河野健二による総括的な叙述の紹介を急ごう。)
 ・経済的には「ブルジョア革命」は1793年5月に終わっていた。その後に「ロベスピエールが小ブルジョア的な精神主義」に陥ったとき、「危機が急速度にやってきた」。
 ・だが、「ロベスピエール派」の「政治的実践」は「すべて無効」ではない。「モンターニュ派」による国王処刑・独裁強化は「一切の古い機構、しきたり、思想を一挙に粉砕し、…政治を完全に人民のものにすることができた」。「この『フランス革命の巨大な箒』(マルクス)があったからこそ、人々は自由で民主的な人間関係をはじめて自分のものとすることができた」(p.166-7)。
 ・「モンターニュ派」独裁の中で、「私有財産にたいする攻撃、財産の共有制への要求があらわれた」。とくにロベスピエールは、「すべての人間を小ブルジョア的勤労者たらしめる『平等の共和国』」を樹立しようとした。しかし、戦争勝利とともに「ロベスピエール派」は没落し、上の意図は「輪郭がえがかれたままで挫折した」(p.190)。
 ・「資本主義がまさに出発」しようとしているとき、「すべての人間を小ブルジョアとして育成し、固定させようとすることは、歴史の法則への挑戦であった」。「悲壮な挫折は不可避であった」(p.190)。
 ・ロベスピエールが「独裁者」・「吸血鬼」と怖れられているのは彼にとって「むしろ名誉」ではないか。彼こそ、「民衆の力を基礎として資本の支配に断乎たるたたかいを挑み、一時的にせよ、それを成功させた最初の人間だから」だ(p.191)。

 ・今世紀、ロシア・中国で、「ブルジョア革命のもう一歩さきには、社会主義社会をめざすプロレタリア革命が存在することが…実証された」(p.193)。
 ・レーニンは1915年に書いた。「マルクス主義者」は「偉大なブルジョア革命家に、最も深い尊敬の念をよせ」る、と。その際、「彼はロベスピエールの名前をあげることを忘れなかった」。レーニンは「ブルジョア革命と社会主義革命」との間の「深いつながり」を見ていた。
 ・「事実、ロシア革命の一歩一歩は、フランス革命におけるジャコバンのたたかいと、公安委員会とパリ・コミューンの経験を貴重な先例として学びつつ進められた」(p.193)。
 ・すべての「民族・民衆が『自由、平等、友愛』をめざすたたかいをやめないかぎり」「フランス革命は、…永久に生きつづけるにちがいない」(p.193)。
 三 以上の河野健二著の紹介は、むろん<(肯定的に)学ぶ>ためにメモしたのではない。現在はフランス、アメリカ等で<修正主義>が有力に主張されるなど、フランス革命の「革命」性自体が問題になっている。そして、細かな部分は別として、河野の叙述もじつに教条的なテーゼらしきものを前提としていることが分かる。最後の方の「まとめ」的部分などは、むしろ冷笑と憐れみをもって読んだ。
 <進歩的>知識人・文化人が共有したと見られる<フランス革命観>からもはや離れなければならない。
 <ジャコバン独裁>の中に、ロベスピエールの思考の中に、ロシア革命<「社会主義革命」の「先取り」>を見て、あるいは<早すぎたがための失敗・挫折>を見て、(いかほどに正直に書くかは別として)肯定的側面を見出すような思考をもはや止めなければならない。
 河野健二もまた、(明言はたぶんないが)日本にも徹底した「民主主義」化と「社会主義革命」がいずれ不可避的に生じるだろうと「夢想」していたのだろう(フランス革命の経験が<日本革命>にとってどのように「貴重な先例」として「学び」の対象になると考えているのかは全く不明だが)。
 四 1950年代末に書かれ、長く出版され続けた河野のような本を、杉原泰雄も樋口陽一も読んで、脳内に蓄え込んだものと思われる。そこでのフランス革命観と基本的な歴史発展の認識が誤っているとすれば、彼らのいかなる憲法関連の議論も、どこかが狂っているものになっているだろう。

0523/樋口陽一・自由と国家(岩波新書、1989)とフランス革命・ロシア革命。

 一 樋口陽一の<ルソー=ジャコバン型国家>なる表現及びその肯定的評価に関するコメントは終えたわけではない。そして、今回でも終わらないだろう。
 フランス革命については、少なくともその一過程に見られる<狂熱的残虐さ>やロシア革命を導いたものとの性格づけ(フランス革命なくしてロシア革命(社会主義・共産主義へ)はない)について、いろいろな人の著書等に触れながら、たびたびこの欄でも論及してきた。  すでに紹介した可能性はあるが(有無を確認するには時間を要しすぎる)、中川八洋・正統の哲学/異端の思想(徳間書店、1996)は、その「はじめに」で次の旨を述べていたことを、むろん、一人の研究者の発言としてでよいのだが、確認しておきたい。
 
<1991年以降も、マルクス主義・共産主義・全体主義という「悪の思想ウィルス」は、スタイルを変えてでも、除毒されず、伝染力を温存したままだ。「スタイルの変更」の「代表的なもので、また最も効果的」なものは、「ルソーヘーゲルの温存ならびにフランス革命の賛美をすること」だ。そして「現実にそのとおりのことが集中的になされている」>(p.3)。
 次の中川の文もそのまま引用しておきたい。
 「ルソーとヘーゲルとフランス革命を次世代の青年に教育すれば、もしくはこれに対する親近感を頭に染みこませれば、それだけで全体主義のドグマは充分に生き残ることができる。『マルクス』は何度でも蘇生する」(p.3)。
 また、フランス革命の解釈・理解については<旧い封建制又は絶対王政をブルジョアジーが実力をもって打倒して支配階級にとって代わり、資本主義を準備した「市民(ブルジョア)革命」だ>といった旧来の又は伝統的な主流派解釈に対して、「修正主義」という新しい解釈・理解も有力になっていることも記したことがあるかもしれない。
 「修正主義」解釈の中身にさしあたりここでは立ち入らないが、その内容を紹介しつつ、柴田三千雄・フランス革命(岩波現代文庫、2007.12)は次のようにすら語っている。
 <「修正主義」はフランスでも別途出てきたが、その「潮流はまずイギリスからおこってアメリカにゆき、アングロ=サクソン系の歴史家の間ではこれが主流にさえなっている」(p.41)。
 二 日本で<従来の主流派的解釈>を明瞭にそのまま採用していたのが、桑原武夫や、樋口陽一が「あえて何度でもしつこくたちもどる必要がある」としていた三人の学者のうち、西洋史学者の大塚久雄高橋幸八郎だった(あとの一人は丸山真男樋口陽一・比較の中の日本国憲法(岩波新書、1979)p.9参照)。
 ちなみにやや先走っていえば、上記の柴田三千雄・岩波現代文庫は、高橋幸八郎の「理論」を1頁ほどかけて紹介したあと、「この考え方には無理があると思われます」とこの文自体は素っ気なく述べ、そのあとで理由をかなり詳しく書いている(p.34~p.39)。
 さて、樋口陽一は長谷川正安=渡辺洋三=藤田勇編・講座・革命と法第一巻の「フランス革命と近代憲法」の中で、「修正主義派」の存在に言及しつつ、「そこで提起されている諸論点の意義、などについて、ここではコメントをくわえる紙幅も能力もない」と述べている(p.124)。そして、「右のような論争的争点に直接に立ち入ることなしに」、フランス革命は「『ジャコバン的理想』=一九九三年の段階」を不可欠とする高橋幸八郎「史学」と基本的には全く同様に、「フランスの法・権力構造の基本は、一七八九年が一七九三年によってフォローされたことによって決定づけられた」という前提で、「以下の叙述をすすめる」と書いている。
 この論旨の運びはいささか、いや多分に奇妙だ。  第一に、「高橋史学」等による<従来の主流派的解釈>にそのまま従っている、と見てよいにもかかわらず、その根拠・理由は述べていない。  第二に、論争について「コメントをくわえる紙幅も能力もない」と釈明しながら、「右のような論争的争点に直接に立ち入ることなしに」、上のように<従来の主流派的解釈>に従って叙述をすすめることが「許されると考える」、と書いているが、本当に「許される」のか。まさしく「論争的争点に…立ち入」っていることになるのではないか。そして、基本的には<従来の主流派的解釈>に従うことを選択しているにもかかわらず、その理由は一切述べておらず、<逃げて>いるのだ。  ここには、かつて高橋幸八郎(や大塚久雄ら)を読んで身につけたフランス革命のイメージを壊されたくない、という<情念>の方が優っているのではあるまいか。
 三 先日この問題に言及したときには手元になかった、樋口陽一・自由と国家(岩波新書、1989)を入手した。その「あとがき」によると、この新書の一部(第三章)は上で言及した講座・革命と法第一巻の中の論文での「記述を骨組みとして」いるらしい。
 そして、若干部分の比較的読み方をしてみると、①冒頭での「修正(主義・論)」の存在への言及や「コメントをくわえる紙幅も能力もない」という釈明は、表現を変えて別の箇所に移されている(p.113-「歴史家ならぬ私の役まわりではない」等)。
 ②その代わりに、フランス革命「理解」、とくに1789年と1793年の関係について三説があるとし(そのまま正確に引用したいが省略)、高橋幸八郎の、フランス革命は「『ジャコバン的理想』=一九九三年の段階」を不可欠とする(正確には、つづけて、「…段階を経過することによってこそ、『新たな資本制生産の自由な展開を孕む母胎が形成された』」との文章を引用しつつ、「八九年が九三年によってのりこえられることで革命が完成したと見る―さらに一九一七年によって本当に完成したと見る」第二の説に立って(と解釈できる)、講座・革命と法の中の論文と同様又は類似のことを書いている。
 要するに、特段の詳細な理由づけをすることなく、当時すでに現れて有力にもなっていた「修正主義」をきちんと検討することもなく、やはり<従来の主流派的解釈>に従っている、と見られる。「かつて高橋幸八郎(や大塚久雄ら)を読んで身につけたフランス革命のイメージを壊されたくない、という<情念>の方が優っているのではあるまいか」との疑念は消えない。
 しかも驚くべきことなのは、上の第二の説というのは、革命は「さらに一九一七年によって本当に完成したと見る」という考え方を含んでいるらしい、ということだ。「一九一七年」とは言うまでもなく、「ロシア革命」のこと。この点は、講座・革命と法第一巻の中では明記されていなかっていなかった、と思われる。また樋口は、高橋幸八郎の発したメッセージは「こだわるに値するはず」だとして、高橋の1950年の「われわれ」〔日本人?〕は西欧では100年前に提起・解決された問題を「世界史の法則として直接確認しようとしている」という文章を肯定的に引用している。樋口もまた、「世界史の法則」なるものの存在を信じて(信仰して?)いたのだろう。
 出典は省略するが(確認していると時間がかかる)、大塚久雄は、「近代化」とは「社会主義化」を含むものだ旨を晩年の方の本の中で明記したらしい。上で触れたように、樋口陽一もまた、フランス革命によって残された部分を「社会主義革命」が補充して完成させる(又はロシア革命によって実際に完成された)という理解・考え方に立っていたことを充分に示唆することを、述べていたことになる。いわば、有名な<発展段階>史観でもある。
 しかして、上の岩波新書が刊行されたのは1989年年11月で、講座・革命と法第一巻と殆ど同じ頃。原稿執筆中はベルリンの壁は崩壊しておらず、東ドイツもソ連もまだ表向きは健在だっただろう。しかし、1991年以降になってみれば、「本当に完成した」筈の「革命」は瓦解してしまったのではないか
 そして感じるのだが、ソ連・東欧諸国等の「社会主義」諸国の存在(それも可能ならば健康的な存在)があって初めて成り立つような議論・論旨部分を一部にせよ含む本を、樋口陽一がその後も刊行させ続けていることに驚かざるをえない。私が入手したのは、1996年2月の第14刷の本。
 ソ連解体後も、とっくに破綻が明らかになっていた<朝鮮戦争=韓国軍の北侵による開始>説を述べている井上清・新書日本史8講談社現代新書、1976。1992第9刷)等が発売されていたことにこの欄で批判的に触れたことがある。樋口陽一はソ連解体前のこの岩波新書・自由と国家を一部なりとも訂正・修正することなく発売し続けているようだ。
 樋口は「八九年が九三年によってのりこえられることで革命が完成したと見る―さらに一九一七年によって本当に完成したと見る」説は自説だと明記してはいないとでも釈明又は反論するだろうか。だが、あとの二つの説は「九三年=恐怖政治=闇」とする説と「九三年=一九一七年=スターリニズム説」なので、樋口がこれらに依拠していないことは、「ルソー=ジャコバン型国家像」や「ルソー=ジャコバン主義」という語をフランス革命やフランスの「近代」的国家像を表現するために用いていることでも明らかなのだ。また、歴史学上の「修正派」とは反対に「『九三年』がかならずしも『ブルジョア革命』の軌道から外れてしまったものとはいえない」との見地を「憲法学のほう」から提供できる、とも書いているのだ(p.120-1)。
 一度岩波新書で書いたものを一部でも訂正すると、自説を変えるようで恥ずかしいのだろうか。一部訂正では済まないので(恥ずかしげもなく)発売し続けているのだろうか。有名な憲法学者らしいが(何といっても元東京大学教授)、本当に<学問的>・<良心的>だろうか。<情念>あるいは<信仰>がつきまとってはいないだろうか。
 四 まだ、このフランス革命又は「ジャコバン独裁」に関係する<つぶやき>は続ける。

ギャラリー
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
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  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
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  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
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  • 2564/O.ファイジズ・NEP/新経済政策④。
  • 2546/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor③。
  • 2488/R・パイプスの自伝(2003年)④。
  • 2422/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)④。
  • 2400/L·コワコフスキ・Modernity—第一章④。
  • 2385/L・コワコフスキ「退屈について」(1999)②。
  • 2354/音・音楽・音響⑤—ロシアの歌「つる(Zhuravli)」。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2320/レフとスヴェトラーナ27—第7章③。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2302/加地伸行・妄言録−月刊WiLL2016年6月号(再掲)。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2277/「わたし」とは何か(10)。
  • 2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
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  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
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  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
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  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
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  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
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  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
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  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
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  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
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