レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /3.The Breakdown.
 この本の邦訳書はない。
 試訳を続行する。第1章第2節までは、すでに掲載を済ませている。
 同第3節p.9~p.14。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第3節・スターリンの初期の生活と権力への上昇①。
 ボルシェヴィキ指導者の大半とは違って、のちの全ロシアの共産党の指導者は、プロレタリアでなかったとしても、いずれにせよ民衆の一人だった。
 ヨゼフ(ヨシフ、Yosif)・ジュガシュヴィリ(Dzhugashvili)は、ジョージアの小さな町であるゴリ(Gori)で1879年12月9日に生まれた。
 父親のヴィッサリオン(Vissarion)は靴作りの大酒飲みで、母親は読み書きができなかった。
 ヴィッサリオンはティフリス(Tiflis)に移り、靴工場で仕事をして、1890年にそこで死んだ。
 彼の息子はゴリの教区学校に5年間通い、1894年にティフリスの神学校への入学を認められた。この学校は実際のところ、コーカサスでは彼のような社会的条件の有能な若者がより上級の教育を受けることのできる唯一の学校だった。
 正教の神学校は同時に、ロシア化するための機関だった。しかし、多くのロシアの学校のように、政治不安の温床でもあった。ジョージア愛国主義はそうした学校で花咲き、ロシア本域からの多くの被追放者によって、社会主義思想が流布された。
 ジュガシュヴィリは社会主義集団に加入し、神学から得ていたかもしれない関心を全て失い、試験に出席しなかったことで1899年の春に追放された。
  神学校を背景とすることの痕跡は、のちの彼の著作に認めることができる。聖書からの引用があり、のちのプロパガンダとうまくつながる教理問答的文体への好みがあった。
 彼は論文や演説で、回答の中で言葉通りに反復する質問を設定する癖をもっていた。
 彼はまた、個々の考え方や叙述にそれぞれ番号を振ることによって、自分の論文が理解されやすいようにした。//
 神学校での生活以降、スターリンはジョージアにある多様で初歩的な社会主義集団とかかわった。
 ロシア社会民主党は、まだ存在していなかった。1898年のミンスク(Minsk)集会で、設立に向けた正式決議がなされていたけれども。
 1899-1900年の数ヶ月の間、彼はティフリスの地理観測所の事務員として働き、その後、合法と非合法の両方の、政治活動かつプロパガンダ活動に完全に専念した。
 彼は1901年から、秘密のジョージア社会主義者新聞である<闘争(Brdzola)>に論考を書き、労働者の間にプロパガンダを広めた。
 その年の終わり近くに、ティフリスでの党の仕事を指揮する委員会の一員になった。
  バトゥーム(Batum)での労働者の集団示威行動を組織したとして1902年4月に逮捕された。
 彼は、シベリアへの追放刑(流刑)を宣告されたが拘置所から(またはそこへ行く途中で)逃亡し、1904年の初めには再びコーカサスにいて、偽った名の新聞をもつ地下組織の構成員として活動した。
 その間に、社会民主党は第二回大会を開き、ボルシェヴィキとメンシェヴィキの両派に分裂していた。
 スターリンはすみやかにボルシェヴィキを支持することを宣言し、党に関するレーニンの考え方を支援する冊子と論考を書いた。
 ジョージア社会民主党はほとんどがメンシェヴィキで、その指導者は、最もすぐれたコーカサスのマルクス主義者、ノエ・ジョルダニア(Noakh Zhordania)だった。
 1905年の革命の間とその後、スターリンはしばらく、全コーカサス地域を範囲とする職責をもつ党活動家としてバクー(Baku)で働いた。//
 しかしながら数年経って、彼はロシア本域のボルシェヴィキ活動家の一人となった。
 1905年12月のタンメルフォシュ(Tammerfors、フィンランド/タンペレ)での党大会に出席し、1906年には、ストックホルムでの「統一」大会に出席した唯一のボルシェヴィキとなった(そうできる彼の資格をメンシェヴィキは争った)。
 しかしながら、1912年までは、彼の活動の実際の舞台はコーカサスにあった。
 スターリンはタンメルフォシュで初めてレーニンと逢った。彼はレーニンの教理と指導性に、決して真剣に抗うことがなかった。
 しかしながらストックホルムでは、他の全ての問題についてはレーニンの側に立った一方で、党綱領はレーニンが主張する国有化ではなく土地の農民への配分を支持すべきだ、という路線を支持した。//
 この時期のスターリンの著作には、独自のものや記しておくに値するものは何もない。
 当時に生じていた話題に関するレーニンのスローガンを再現する、民衆むけのプロパガンダ的論考だけだ。 
 多くのスペースはメンシェヴィキに対する攻撃にあてられ、もちろん、カデット(立憲民主党)、「召喚主義者」(otzovoists)、「清算主義者」(liquidators)、無政府主義者(アナキスト)等に対する批判もあった。
 いかほどかの長さをもつ唯一の論文、<アナキズムかそれとも社会主義か?>は、1906年にジョージア語で発表された(1905年以降は彼はロシア語でも論考を書いた)。
 これは、社会民主党の世界観とその哲学的諸命題に関する不細工な作文にすぎなかった。//
 スターリンは1906-7年に党財政を充填させるための武装襲撃団である「収奪」の組織者の一人だった、ということが知られている。
 レーニンはこれに味方したが、この活動は1907年のロンドンでの第五回党大会で禁止され、非難された。
 しかし、ボルシェヴィキは、数ヶ月のちに大きなスャンダルを起こすまでは、この活動を実践し続けた。//
 近年に若干の歴史学者が、もともとはジョルダニアが、スターリンの死後は元のソヴィエト諜報機関の高官だったオルロフ(Orlov)が行っている、スターリンは1905年後の数年の間オフラーナ(Okhrana、帝制秘密警察)で仕事をしていた、という申し立てを検証した。
 しかし、この責任追及に有利な証拠は微少なもので、アダム・ウラム(Adam Ulam)やロイ・メドヴェージェフ(Roy Medvedyev)を含むほとんどの歴史家によって却下されている。//
 スターリンは、1908年と二月革命の間、ほとんどの時間を牢獄か追放先で過ごした。最後の期間(1913~1917年)を除いて、彼はそこからいつでも脱出した。
 彼は腕の利く堅固で疲れを知らない革命家だとの評価を獲得して、1907年後のひどい年月の間、党のコーカサス組織を守るために尽力した。
 ロシア内部の多くの他の指導者たちと同じく、彼は移住者(エミグレ、émigré)内部での理論上の議論や口論に強い関心を抱かなかった。
 スターリンはレーニンの<唯物論と経験批判論>について懐疑的な見方をしていた(のちには、哲学思想の最高の偉業だと絶賛した)、そして1910年の暗黒の日々の間にメンシェヴィキとの統一を回復しようと純粋に努力をした、という、ある程度の証拠はある。
 レーニンがメンシェヴィキとの分裂を明確にすべくプラハでの全ボルシェヴィキの大会を招集した1912年1月、スターリンは追放されてヴォログダ(Vologda)にいた。
 その大会は党の中央委員会を選出したが、レーニンの提案によってスターリンはのちにその構成員に選ばれた。かくして、全ロシアの政治舞台にデビューすることとなる。//
 ヴォログダから脱出したのち、スターリンはもう一回逮捕され、追放された。しかし、また逃亡した。
 1912年11月、生涯で初めてロシア国外に旅行をし、オーストリア領ポーランドのクラカウ(Cracow、クラクフ)で数日間をすごした。ここで、レーニンと逢う。
 彼はロシアに戻ったが、12月に再び国外に出た。今度はウィーン(Vienna)に6週間だった-これは外国の土を踏んでいた最長の期間になった。
 ウィーンで彼はレーニンのために「マルクス主義と民族問題」という論文を書き、雑誌<Prosveshchenie(啓蒙)>に1913年に発表された。そして、これは理論家としての名声を求める彼の最も初期の主張をなすもので、また彼の主要な見解の一つだ。
 この論文は、民族問題についてレーニンが語ったことに何も付け加えていない。但し、民族(nation)を単一の言語、領域、文化および経済生活をもつ共同体だと定義したこと以外には。-なお、こうして例えば、スイス(人)やユダヤ(人)は「民族」から除外される。
 この論文は、オーストリア・マルクス主義者、とくにシュプリンガー(Springer、レナー, Renner)とバウアー(Bauer)、およびブント(ロシア・ユダヤ人労働者総同盟)を攻撃するものとして執筆された。
 スターリンはロシア語とジョージア語だけを読めたので、ウィーンにいたときはたぶん、ブハーリン(Bukharin)がオーストロ・マルクス主義著作者からの引用文を選ぶのを助けていたのだろう。
 オーストロ・マルクス主義者は、民族の文化的自治という考えを個人による自己決定にもとづかせていた。これに対抗してスターリンは、民族の自己決定権と領域的な基礎にもとづく政治的分離を支持して論じた。 
 しかしながら、レーニンのように、彼が強調したのは、社会民主主義者は自分たち自身の国家を形成する全ての人民の権利を承認するけれども、それはあらゆる場合に分離主義を支持することを意味しはしない、ということだった。
 決定的な要因は労働者階級の利益であり、分離主義はしばしばブルジョアジーによる反動的なイデオロギーとして用いられるということを想起しなければならないのだ。
 こうした議論の全体は、もちろん、「ブルジョア革命」という前提のもとで行われた。
 トロツキーとパルヴゥスを除く当時の全ての社会主義者と同じく、スターリンは、ロシアは民主主義革命を経験し、その後の多年にわたりブルジョア共和国の支配が続く、と想定していた。
 しかし、その革命を起こすに際してプロレタリア-トは指導的な役割を果たさなければならず、ブルジョアジーの第二伴奏器であったり、ブルジョアジーの利益のためのたんなる従僕者であったりしてはならなかった。//
 民族問題に関する論文は、二月革命前にスターリンが執筆した最後のものだった。
 ウィーンから戻ったあとすぐの1913年2月に、彼はまたもや逮捕され、4年間の国外追放が宣告された。
 このときは逃亡しようとはせず、シベリアにとどまった。そして、1917年3月に再び、ペテログラードに姿を現した。
 レーニンが到着するまでの数週間、スターリンは事実上、首都の党の責任者だった。
 カーメネフとともに、<プラウダ>の編集部を所管した。 
 臨時政府およびメンシェヴィキに対するスターリンの姿勢は、いずれについても、レーニンのそれよりもはるかにより宥和的だった。そして、レーニンがスイスから送っている論文の調子を弱めたことで、レーニンの非難を受けるはめに陥った。
 しかしながら、レーニンのロシアへの帰還とその「四月テーゼ」の提示のあとは、少しは躊躇しつつ、「社会主義革命」とソヴェトによる政府のために活動する政策を受け入れた。
 対照的なことだが、ペテログラードにいた最初の数週間は、まだなお、「ブルジョア革命」、中央諸大国〔ドイツ帝国等〕との講和、大資産の没収、臨時政府の打倒を試みるのではなくそれに圧力を加える、といった趣旨のことを執筆していた。
 七月危機のあとで初めて、ペテログラードの党組織の会合で、スターリンはプロレタリア-トと貧農への権力の移行を明確に語った。
 このときに「すべての権力をソヴェトへ」とのスローガンは放擲された。ソヴェトは、メンシェヴィキとエスエルたちによって支配されていたのだ。
 十月革命の頃までに、スターリンは疑いなく、レーニン、(1917年7月に入党した)トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフ、スヴェルドロフおよびルナチャルスキーと並んで、党の主要な指導者の中に入っていた。
 我々が知るかぎりで、彼は蜂起をした軍事組織に参加していない。しかし、スターリンは、レーニンの最初のソヴェト政権で、民族問題担当のコミッサール(Commissar、人民委員)に任じられた。
 ブレスト=リトフスク条約をめぐって生じた党の危機の間は、ドイツとの革命戦争を押し進めるべきだとする「左翼のボルシェヴィキ」と対抗するレーニンを支持した。
 しかしながら、レーニンのように彼も、ヨーロッパ革命がいつの日にか勃発するだろう、ドイツとの講和の取決めは一時的な戦術的退却にすぎない、と考えていた。// 
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 ②へとつづく。
 下は、分冊版のLeszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. の第1巻と第3巻。
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