レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)のマルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
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 第7節・ソヴィエト科学に対する影響一般。
  (1)ルィセンコの事件は、体制による文化との闘争の歴史を、幸いにもかなりの程度、例証している。
 獲得された特性の遺伝の問題よりも宇宙論の問題にイデオロギーが多くかかわり合った、と容易に理解することができる。
宇宙には時間の始まりがあるという理論を弁証法的唯物論と調和させるのは困難だ。
 しかし、遺伝に関する染色体理論の場合は、明らかにそうではない。誰でも容易に、この理論はマルクス=レーニン=スターリン主義という不朽の思想を完璧に確認するものだと、勝利感をもって宣言する、と想像することができる。
 実際には、イデオロギー的闘いは、遺伝学の場合の方がとくに激しかった。党による介入が最も残虐な形態をとったのはまさにこの遺伝学の分野だった。一方で、宇宙論に対する扇動的攻撃は、かなり穏健なものだった。
 このような違いに関する論理的な説明を行うのは困難だ。すなわち、多くは偶然による。反対運動を担当したのは誰だったのか、スターリン個人は論争になっている問題に関心があったのか否か、等々。//
 (2)にもかかわらず、この時代の歴史を概観するならば、イデオロギー的圧力の強さに、コントやエンゲルスが確立した諸科学の階層に大まかには対応した、一定の段階的差異があることを感知し得るかもしれない。
 数学については圧力はほとんどゼロで、宇宙論と物理学についてはかなり強かった。生物学については、さらに強かった。そして、社会科学や人文科学については、圧力は最大限に強力だった。
 年代史的順序も、大まかにはこうした重要性の程度の差異を反映していた。
 社会科学は、最初から統制管理の対象だった。一方で、生物学や物理学はスターリニズムの最後の段階までは統制されなかった。
 スターリン後の時代に最初に自立性を取り戻したのは、物理学だった。しばらくして、生物学が続いた。だが、人文社会系(humanistic)学問はかなり厳格な支配のもとに置かれたままだった。//
 (3)イデオロギー的監督の中でも幸運な要素は、高次の神経機能に関する心理学と生理学の場合にも、見出すことができる。
 この分野の特質は、ロシアが世界的に有名なパブロフ(Ivan P. Pavlov )の誕生地だったことだ。1936年に死んだこの人物には若干の弟子たちがおり、彼らはパブロフの実験を継続し、またイデオロギー的圧力とは関係なくその理論を発展させることが許されていた。
 典型的にも、体制側は反対方向の極端へと進み、パブロフの理論を、生理学者や心理学者が逸脱することを禁止される、公式のドグマにまで屹立させた。
 かりにパブロフがイギリス人あるいはアメリカ人であったならば、彼の考えは、ソヴェトの哲学者によって厳しく非難されていただろう。パブロフ理論は条件反射によって精神作用を説明するがゆえに機械主義者だ、という根拠でもって。
 パブロフはまた、人間と動物の「質的な違い」を無視する等々によって人間の精神を神経活動という最も下位の形態へと「矮小化(reduce)」した、と責め立てられただろう。
 実際には、パブロフ理論は公式に神経生理学の分野でのマルクス=レーニン主義を代表するものとされ、この分野でのイデオロギー攻撃は他のどの分野よりも酷くなかった。
 にもかかわらず、たとえ真摯で科学的な実験にもとづいてはいても、一つの理論が国家と党のドグマにまで持ち上げられたという、まさにその事実こそが、研究の進展に対して激痛を与えるごとき効果をもった。//
 (4)ソヴィエト国家の利益に反して動いたイデオロギーのとくに驚くべき事例は、サイバネティクス〔人工頭脳学〕、動態的過程統制システムに関する科学、に対する攻撃だった。
 サイバネティクス研究は、全ての技術分野、とくに軍事技術、経済計画等々での自動化の発展に大きな貢献をした。しかし、マルクス=レーニン主義の純粋性という権威は、しばらくの間は、ソヴィエト同盟での自動化の進展を完全に抑えることができた。
 1952-53年、サイバネティクスという帝国主義的「えせ科学」に対する反対運動が起こされた。
 ここにはじつに、本当の哲学上の問題または哲学に準じた問題が介在していた。
 すなわち、社会生活がサイバネティクスの範疇でもって記述され得るのか否か、および記述され得る程度、精神的活動はいかなる意味でサイバネティクスの図式へと「推論され得る」のか、あるいは逆に、いかなる意味で、人工的なメカニズムの一定の作用が思考と同等であり得るのか、等々。
 しかし、本当のイデオロギー上の危険性は、サイバネティクスは西側で発展してきた広い視野をもつ学問分野で、その当否はともあれ、<普遍的数学(mathesis universalis)>、動態的現象を全て包含する一般的理論だと自己主張しているものだ、ということにあった。そのような自己主張は、正確にマルクス=レーニン主義こそが行っていたものだったからだ。
 非公式の(むろん公的な情報で確認されていない)報告によると、最終的にサイバネティクスに対する反対運動を中止させたのは軍隊だった。軍はその主題の実践的重要性に気づいており、ソヴェトの根本的な国家利益を損傷する反啓蒙主義的攻撃と闘うに十分な強さを持っていた。//
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 つぎの第8節の表題は「スターリンと言語学」。