秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

コロンタイ

1674/共産党独裁②-L・コワコフスキ著18章4節。

 この本には、邦訳書がない。Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 この第18章とは、第2巻(部)の第18章のことだ。各巻が第1章から始まる。
 前回のつづき。
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 第4節・プロレタリア-ト独裁と党の独裁②。
 非ボルシェヴィキの組織や定期刊行物の閉鎖、数百人の主要な知識人のロシアからの追放(この寛大な措置はまだ採られていた)、全ての文化的組織での迫害、あらゆる日常生活内に入り込んだテロルの雰囲気-これら全てが、社会対立がボルシェヴィキ党それ自体の内部で反映されるという、企図していない、だが当然の結果をもたらした。
 そしてこれは、つぎには、党が社会に対して行使したのと同じ専制的支配という原理を、党の内部に適用することへと導いた。
内戦は、経済的破滅と一般的な消耗をもたらした。そして、強さがなくなった労働者階級は、平和的建設という事業においてかつて戦闘の場で示したのと同じような熱狂と自己犠牲を示すようにとの訴えに敏感でなくなった。
 ボルシェヴィキが労働者階級全体を代表するということは、1918年以降は一つの公理(axiom)だった。それは、立証できないものだった。立証するための仕組みが何も存在していないのだから。
 しかしながら、プロレタリア-トは、怒りと不満を示し始めた。最も烈しかったのは、1921年3月のクロンシュタット蜂起で、これは、大量の死者を出して鎮圧された。
 クロンシュタットの海兵たちは、労働者階級の大多数と同じく、ソヴェトの権力を支持していた。しかし、彼らは、それを単一の支配政党による専政と同じものだとは考えなかった。
 彼らは、党による支配に反対して、ソヴェトによる支配を要求した。
 党自体の内部で、プロレタリア-トの不満は強い『労働者反対派』へと反映された。これは、中央委員会では、アレクサンドロ・シュリャプニコフ(A・Shlyapnikov)、アレクサンドラ・コロンタイ(A・Kollontay)その他が代表した。 
 このグループは経済の管理を労働者の一般的組織、すなわち労働組合に委託することを求めた。
 彼らは報酬の平等化を提案し、党内からの支配という専制的方法に異議を唱えた。
 つまりは、彼らは、レーニンが革命前に書いていた『プロレタリア-トの独裁』を求めた。
 彼らは、労働者のための民主主義と党内部での民主主義は、何か他のものに代わって民主主義が存在しない場合ですら安全装置でありうる、と考えていた。
 レーニンとトロツキーは、もはやそのようないかなる幻想をも抱かなかった。
 この二人は、『労働者反対派』はアナクロ=サンディカ主義的逸脱だと烙印を捺し、彼らの代表者を様々な嘘の理由をつけて党の活動から排除した。投獄したり、射殺したりはしなかったけれども。//
 この事件は、ソヴェト体制での労働組合の位置と機能に関する一般的な議論を生んだ。
 三年早い1918年3月に、レーニンは、『プロレタリア-ト階級の独立性を維持し強化するという利益のために、労働組合は国家組織になるべきではない』と主張したとして、メンシェヴィキを厳しく罵倒した。
 『このような考え方は、かつても今も、最も粗野な類のブルジョアの挑発であるか、極端な誤解であって、昨日のスローガンのスラヴ的な繰り返しだ。<中略>
 労働者階級は、国家の支配階級になりつつあるし、またそうなった。
 労働組合は、国家の組織になりつつあるし、社会主義を基盤として全ての経済生活を再組織化することに第一次的な責任を負う、国家の組織にならなければならない。』 (+)
 (全集27巻p.215〔=日本語版全集27巻「『ソヴェト権力の当面の任務』の最初の草稿」218頁〕。)
 労働組合を国家の組織に変えようとする考えは、論理的には、プロレタリア-ト独裁の理論から帰結する。
 プロレタリア-トは国家権力と同一視されるので、労働者が国家に対抗する利益を守らなければならないと想定するのは、明らかに馬鹿げていた。
 トロツキーは、こうした考えを持っていた。
 しかし、レーニンは上に引用した二つの点のいずれについても、考え方を変更した。
 1920年にソヴェト国家は官僚主義的歪みに苦しんでいると決定したあと、彼は自分自身が最近まで述べていた考えを抱いているとしてトロツキーを攻撃し、つぎのことを明確に宣告した。労働者を守るのは労働組合がする仕事だ、しかし、労働者を彼ら自身の国家から守るのもそうかというと、そうではなくて悪用(abuse)だ、と。
 彼は、同時に、組合は経済を管理するという国家の機能を奪い取るべきだとの考えに、烈しく反対した。//
 そうしているうちに、レーニンは、反対する集団が将来に党内部で発生するのを防止する措置を講じた。
 党内での分派(factions)の形成を禁止し、党大会で選出されていたメンバーの内部から排除する権限を中央委員会に与える規約が、採択された。
 こうして、自然な進展として、最初は労働者階級の名において社会に対して行使されていた独裁は、今や党それ自体についても適用され、ワン・マン暴圧体制(tyranny)の基礎を生み出した。//
 レーニンの最後の数年にますます重要になってきたもう一つの主題は、言及したばかりだが、『官僚主義的歪み』の問題だった。
 レーニンは、つぎのことに、ますます頻繁に不満を述べる。国家機構が必要もなく無制限に膨張している、かつ同時に何も処理する能力がない、煩わしくて形式主義的だ、役人たちは党の幹部官僚にきわめて些細な問題について照会している、等々。
 このような当惑の根源は、彼がつねに強調したように、制度全体が法制にではなくて実力にもとづいていることにある、ということは、レーニンには決して思い浮かばなかったようだ。
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 (+) 日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変更した。
 ③へとつづく。

1572/レーニンらの利点とドイツの援助③-R・パイプス著10章6節。

 前回のつづき。
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 ボルシェヴィキの権力闘争での利点とドイツの資金援助③。
 これらの出版物は、レーニンの考え方を広めた。しかし、隠した内容で、だった。
 採用した方法は『プロパガンダ(propaganda)』で、読者に何をすべきかを伝える(これは『アジテーション(agitation)』の任務だ)のではなく、望ましい政治的結論を自分たちが導く想念を読者に植え付けることだった。
 例えば、兵団に対する訴えで、ボルシェヴィキは、刑事訴追を受けさせることになるような脱走を唆しはしなかった。
 ジノヴィエフは、<兵士のプラウダ>第1号に、新聞の目的は労働者と兵士の間の不滅の緊密な関係を作り出し、結果として兵団員たちが自分たちの『真の』利益を理解して労働者の『集団虐殺』をしないようにさせることにある、と書いた。
 戦争の問題についても、彼は同様に用心深かった。//
 『我々は、いま<銃砲を置く>ことを支持しない。
 これは、決して戦争を終わらせない。
 いまの主要な任務は、全兵士に、何を目ざしてこの戦争は始まったのか、<誰が>戦争を始めたのか、誰が戦争を必要とするのか、を理解させ、説明することだ。』(91)//
 『誰が』、もちろん、『ブルジョアジー』だった。兵士たちは、これに対して銃砲を向けるようになるべきだ。//
 このような組織的な出版活動を行うには、多額の資金が必要だった。
 その多くは、ほとんどではなかったとしても、ドイツから来ていた。//
 ドイツの1917年春と夏のロシアでの秘密活動については、文書上の痕跡はほとんど残っていない。(*)
 ベルリンの信頼できる人間が、信頼できる媒介者を使って、文書に残る請求書も受領書も手渡すことなく、中立国スウェーデン経由で、ボルシェヴィキに現金を与えた。
 第二次大戦後にドイツ外交部の文書(archives)が公になったことで、ボルシェヴィキに対するドイツの資金援助の事実を確かなものにすることができ、そのある程度の金額を推算することができるが、ボルシェヴィキがドイツの金を投入した正確な用途は、不明瞭なままだ。
 1917-18年の親ボルシェヴィキ政策の主な考案者だったドイツ外務大臣、リヒャルト・フォン・キュールマン(Richard von Kuelmann)は、ドイツの資金援助を主としてはボルシェヴィキ党の組織と情報宣伝活動(propaganda)のために用いた。
 キュールマンは1917年12月3日(新暦)に、ある秘密報告書で、ボルシェヴィキ党派に対するドイツの貢献を、つぎのように概括した。//
 『連合諸国(協商国、Entente)の分裂およびその後の我々と合意できる政治的連結関係の形成は、戦争に関する我々の外交の最も重要な狙いだ。
 ロシアは、敵諸国の連鎖の中の、最も弱い環だと考えられる。
 ゆえに、我々の任務は、その環を徐々に緩め、可能であれば、それを切断することだ。
 これは、戦場の背後のロシアで我々が実施させてきた、秘密活動の目的だ--まずは分離主義傾向の助長、そしてボルシェヴィキの支援。
 多様な経路を通して、異なる標札のもとで安定的に流して、ボルシェヴィキが我々から資金を受け取って初めて、彼らは主要機関の<プラウダ>を設立することができ、活力のある宣伝活動を実施することができ、そしておそらくは彼らの党の元来は小さい基盤を拡大することができる。』(92) //
 ドイツは、ボルシェヴィキに1917-18年に最初は権力奪取を、ついで権力維持を助けた。ドイツ政府と良好な関係をもったエドュアルト・ベルンシュタイン(Edward Bernstein)によれば、そのためにドイツがあてがった金額は、全体で、『金で5000万ドイツ・マルク以上』だと概算されている(これは、当時では9トンないしそれ以上の金が買える、600~1000万ドルになる)。(93)(**)//
 これらのドイツの資金のある程度は、ストックホルムのボルシェヴィキ工作員たちを経由した。その長は、ヤコブ・フュルステンベルク=ガネツキー(J. Fuerustenberg-Ganetskii)だった。
 ボルシェヴィキとの接触を維持する責任は、ストックホルム駐在ドイツ大使、クルツ・リーツラー(Kurz Riezler)にあった。
 B・ニキーチン(Nikitin)大佐が指揮した臨時政府の反諜報活動によると、レーニンのための資金はベルリンの銀行(Diskontogesellschaft)に預けられ、そこからストックホルムの銀行(Nye Bank)へと転送された。
 ガネツキーがNye 銀行から引き出して、表向きは事業目的で、実際にはペテログラードのシベリア銀行(Siberian Bank)の彼の身内の口座へと振り込まれた。それは、ペテログラードのいかがわしい社会の女性、ユージニア・スメンソン(Eugenia Sumenson)だった。
 スメンソンとレーニンの部下のポーランド人のM・Iu・コズロフスキー(Kozlovskii)は、ペテログラードで、表向きは、ガネツキーとの金融関係を隠す覆いとしての薬品販売事業を営んでいた。
 こうして、ドイツの資金をレーニンに移送することができ、合法の取引だと偽装することができた。
 スメンソンは、1917年に逮捕されてのちに、シベリア銀行から引き出した金をコズロフスキー、ボルシェヴィキ党中央委員会メンバー、へと届けたことを告白した。
 彼女は、この目的で銀行口座から75万ルーブルを引き出したことを、認めた。
 スメンソンとコズロフスキーは、ストックホルムとの間に、表向きは取引上の連絡関係を維持した。そのうちいくつかは政府が、フランスの諜報機関の助けで、遮断した。
 つぎの電報は、一例だ。//
 『ストックホルム、ペテログラードから、フュルステンベルク、グランド・ホテル・ストックホルム。ネスレ(Nestles)は粉を送らない。懇請(request)。スメンソン。ナデジンスカヤ 36。』(97)//
 ドイツは、ボルシェヴィキを財政援助するために、他の方法も使った。そのうちの一つは、偽造10ルーブル紙幣をロシアに密輸出することだった。
 大量の贋造された紙幣は、七月蜂起〔1917年〕の余波で逮捕された親ボルシェヴィキの兵士や海兵から見つかった。//
 レーニンは、ドイツとの財政関係を部下に任せて、うまくこうした取引の背後に隠れつづけた。
 彼はそれでもなお、4月12日のガネツキーとラデックあての手紙で、金を受け取っていないと不満を述べた。
 4月21日には、コズロフスキーから2000ルーブルを受け取ったと、ガネツキーに承認した。
 ニキーチンによると、レーニンは直接にパルヴス(Parvus)と連絡をとって、『もっと物(materials)を』と切願した。(***)
 こうした通信のうち三件は、フィンランド国境で傍受された。
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  (91) <兵士のプラウダ>第1号(1917年4月15日付) p.1。
  (*) 1914年~1917年のロシアの事態にドイツが直接に関与したことを示すと称する、『シッション文書(Sission Papers)』と呼ばれるひと塊の文書が、1918年早くに表れた。これはアメリカで、戦争情報シリーズ第20号(1918年10月)の<ドイツ・ボルシェヴィキの陰謀>として、公共情報委員会によって公刊された。ドイツ政府はただちに完全な偽造文書だと宣言した(Z. A. ゼーマン, ドイツとロシア革命 1915-1918, ロンドン, 1958, p.X.。さらに、ジョージ・ケナン(George Kennan) in: The Journal of Modern History, XXVIII, No.2, 1956.06, p.130-154、を見よ)。これは、レーニンの党に対するドイツの財政的かつ政治的支援という考え自体を、長年にわたって疑わせてきた。
  (92) Z. A. ゼーマン, ドイツとロシア革命, p.94。
  (93) <前進(Vorwaerts)>1921年1月14 日号, p.1。
  (**) ベルンシュタインが挙げる数字は、ドイツ外務省文書の研究で、大戦後に確認された。そこで見出された文書によると、ドイツ政府は1918年1月31日までに、ロシアでの『情報宣伝活動』のために4000万ドイツ・マルクを分けて与えた。この金額は1918年6月までに消費され、続いて(1918年7月)、この目的のために追加して4000万ドイツ・マルクが支払われた。おそらくは後者のうち1000万ドイツ・マルクだけが使われ、かつ全てがボルシェヴィキのためだったのではない。当時の1ドイツ・マルクは、帝制ロシアの5分の4ルーブルに対応し、1917年後の2ルーブル(いわゆる『ケレンスキー』)にほぼ対応した。Winfried Baumgart, Deutsche Ostpolitik <ドイツの東方政策> 1918 (ウィーン・ミュンヘン, 1966), p.213-4, 注19。
  (97) Nikitin, Rokovye gody, p.112-4。ここには、他の例も示されている。参照、Lenin, Sochineniia, XXI, p.570。  
  (99) Lenin, PSS, XLIX, p.437, p.438。
  (***) B. Nikitin, Rokovye gody (パリ, 1937), p.109-110。この著者によると(p.107-8)、コロンタイ(Kollontai)も、ドイツからの金を直接にレーニンに渡す働きをした。ドイツの証拠資料からドイツによるレーニンへの資金援助が圧倒的に証明されているにもかかわらず、なおもある学者たちは、この考え(notion)を受け容れ難いとする。その中には、ボリス・ソヴァリン(Boris Souvarine)のようなよく知った専門家もいる。Est & Quest, 第641号(1980年6月)の中の彼の論文 p.1-5、を見よ。
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 第7節につづく。
ギャラリー
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  • 1978/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05②。
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  • 1920/L・コワコフスキ著第三巻第四章第5節。
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  • 1916/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑳完。
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  • 1906/NYタイムズ2009.07.20の訃報-L・コワコフスキ。
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