秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

コミンテルン

1470/第一次大戦と敵国スパイ④-R・パイプス著9章10節

 前回のつづき。かつ、とりあえずの(第9章の試訳の)最終回。
 ---
 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源。
 第10節・ツィンマーヴァルト・キーンタールおよび敵国スパイ。

 1916年4月に、ツィンマーヴァルト会議の続きが、ベルン高原地方のキーンタールで開かれた。
 この会合は社会主義インター委員会により招集され、三年目に入ろうとしている戦争について議論をした。
 インターナショナルの平和派を代表する参加者は、ツィンマーヴァルト左派に従うことを再び拒否した。しかし、前年よりさらに左派に対して柔軟になった。
 会議は『平和問題へのプロレタリアートの態度』という決議で、資本主義の基盤での戦争を非難し、『ブルジョア的であれ社会主義的であれ、平和主義は』人類が直面している悲劇を解消することができない、と強く主張した。//
 『資本主義社会が永続する平和の条件を提示できないならば、その条件は社会主義によって提示されるだろう…。
 <永続平和を目指す闘いは、ゆえに、社会主義の実現を目指す闘いでのみありうる。> 』(133)
 これの実際的な帰結は、『プロレタリアートは即時休戦と講和交渉の開始を求めて呼びかけるべきだ』ということだった。
 再び言おう。反乱を起こすことや銃砲をブルジョアジーに対して向けることの呼びかけではない。しかし、このような行為は決議の前提から排除されてはおらず、多くのことはその中に暗に含まれていたと言うことができるかもしれない。
 ツィンマーヴァルトでしたように、レーニンは、つぎのようなプロレタリアートへの訴えで締め括る、左派のための少数派報告書を書いた。
 『武器を置け。その武器を、共通の敵(foe)-資本主義政府に向けよ。』(*)
 レーニンの声明文の下の(44人の参加者のうちの)12の署名者の中には、ラトヴィアを代表するジノヴィエフ、オランダのそれのカール・ラデックがあった。
 ジノヴィエフの草案にもとづく『社会主義インターナショナル事務局(Bureau)』に関するキーンタールの鍵となる決議は、左派の要求をほとんど満たすもので、この組織がいわゆる<祖国防衛と公民の平和>政策の共犯者に変わることを非難し、また、つぎのように論じた。//
 『インターナショナルは、<プロレタリアートが全ての帝国主義者と狂信愛国主義者の影響から自らを解放し、階級闘争と大衆行動への途を進むことができる>まで、その明確な政治力を有するに至ってのみ、解体を免れることができる。』(134)//
 インターナショナルの分裂を求めるレーニンの主張は再び敗北したけれども、会議が終わったあとで、右派のメンバーの一人、S・グルムバッハは、なおもつぎのように述べた。
 『レーニンとその仲間たちは、ツィンマーヴァルトで重要な役割を果たした。キーンタールでは<決定的な>役割を果たした。』(135)
 じつに、キーンタールの決議は、レーニンが創設した第三インターナショナル〔共産主義インター=コミンテルン〕の基礎作業だった。//
 1915-16年におけるツィンマーヴァルトとキーンタールでのレーニンの成功は、社会主義者たちを言葉上だけで信頼させたこと、彼らが美辞麗句(rhetoric)に酔うことを求めたことによっていた。
 これによってレーニンは、外国の社会主義団体の間で小さいがしかし熱烈な支持を獲得した。
 より重要なことは、こうした立場によってレーニンが社会主義運動上の道徳的な高位を掴んだために、彼の反対者たちは弱体化し、彼と闘うことが妨げられたことだ。
 インターの指導者たちは、レーニンの陰謀好きや誹謗中傷を軽蔑した。しかし、自分たち自身と縁を切ることなくして、レーニンと絶縁することはできなかった。
 レーニンはその戦術によって、社会主義インターの運動を徐々に左傾させ、ついには自分の党派から分裂させた。ちょうどロシア社会民主党について行なったように。// 
 これを言ったがまた、レーニンとクルプスカヤには戦時中の数年間は、苛酷な時期、貧困とロシアからの孤立の時代だったことも注記しておかなければならない。
 彼らはスラム街に接した区画に住み、犯罪者や売春婦たちと一緒に食事をして、かつての多数の友人から捨てられたと感じていた。
 以前の何人かの支持者ですら今や、レーニンは変人で、『政治的イエズス会士〔策謀家〕』で、廃人だと見なすようになった。(136)
 かつてレーニンの最も親密な仲間の一人だった、そして今は軍需産業に勤める官僚として快適な生活をしているクラージンがレーニンへの寄付を求められて接近されたとき、彼は二枚の5ルーブル紙幣を差し出して、つぎのように言った。
 『レーニンは、支援に値しない人物だ。
 危険なタイプだ。そのタタール頭に芽生えている狂気がいかなるものかを知ってはならぬ。
 レーニンよ、くたばれ!』(137)//
 レーニンが逃亡している間の唯一の光のひと筋は、イネッサ・アルマンドとの情事だった。彼女は、音楽ホールの芸術家二人の娘で、金持ちのロシア人の妻だった。
 チェルニュインスキーの影響を受けたイネッサは、夫と離婚し、ボルシェヴィキ党に加入した。
 彼女は1910年にパリで、レーニンとその妻に会った。
 まもなく忠実な支持者になるとともに、クルプスカヤの暗黙の了解を得て、レーニンの愛人になった。
 ベルトラム・ヴォルフェはイネッサについて『献身的で情熱的なヒロイン』のように語るけれども、しばしば彼女に逢ったアンジェリカ・バラバノッフは、つぎのように描写する。すなわち、『完全な-ほとんど受動的な-レーニンの指示の実行者』、『厳格にかつ無条件に服従する完璧なボルシェヴィキ党員の原型(prototype)』。(138)
 イネッサ・アルマンドは、レーニンがかつて緊密な人間関係を築いた、唯一の人間(human being)だったように思われる。//
 レーニンは、ヨーロッパ革命がいずれ勃発するという信念を失わなかった。しかし、その見込みは遠いように思えた。
 帝国政府は十分に、1916年に大攻撃を行なうべく1915年の軍事的かつ政治的な危機を見通していた。
 ペテログラードにいる工作員、アレクサンダー・シュリャプニコフが送ってくる散発的な通信によって、レーニンは、悪化するロシアの経済状況や都市住民の不満について知った。(139) しかし、彼はこの情報を無視して、帝国政府にはこのような困難を克服する能力があると明らかに信じていた。
 1917年1月9日/22日にツューリヒの青年社会主義者の集会で講演した際、レーニンは、つぎのように予言した。
 ヨーロッパでの革命は、不可避だ。一方でしかし、『われわれ古い世代の者はおそらく、来たりくる革命の決定的な闘いを生きて見ることはないだろう。』(140)
 この言葉は、帝国の崩壊の8週間前に、発せられていた。//
  (*) レーニンはこのとき、こう書いた。〔以下、文献を省略〕
 『客観的に見て、平和というスローガンは、いったい誰の利益になるのだ。確実に、プロレタリアートではない。これは資本主義の崩壊を速めるために用いる考え方ではない。』
 これを引用して、アダム・ウラムは、こうコメントする。
 『レーニンは、数百万の人間の生命にとっても「平和というスローガン」が「利益」になりえた、という事実を看過した。』
 ---
 リチャード・パイプス著『ロシア革命』第9章の試訳を、とりあえず、終える。

 

1428/北村稔・第一次国共合作の研究(1998)の一部など。

 一 北村稔(1948~)の書物は、文春新書の<南京事件>に関するものが読んだ最初で、韓国・北朝鮮について詳しい西岡力らとともに、それぞれ中国や韓国(・朝鮮半島)についての専門家だと思っていた。
 しかし、北村稔の中国に関する別の書物を一読して、この人はマルクス主義あるいは共産主義についてもよく理解している人ではないか、と感じた。
 同じことは西岡力についてもいえ、2016年の中西輝政との共著(対談)を読んで、反共産主義のしっかりした人だろうと感じた。*中西輝政=西岡力・なぜニッポンは歴史戦に負け続けるのか(日本実業出版社、2016)。
 中国や韓国に対する<民族的>批判・蔑視を基礎にしたような本もあることから中国・韓国本読みを少しは敬遠していたのだが、北村や西岡の本は、これからもっとじっくりと読む必要があると思っている(この二人のほとんどの公刊書物をおそらく所持はしている)。
 北村稔や西岡力は、おそらくこれまでのかつ現在の日本共産党について、当然に知識をもち、何らかの見解・意見をもっているだろう。にもかかわらずそれがおそらく公言されていない理由の一つは、この人たちが現在なお<(特定の大学の)大学教授>という肩書きをもち、それぞれの専門分野があり、専門分野外に口出すのを避ける、という気持ちがあることにある、とも思われる。西岡の中西輝政との対談本は、大きな例外なのではないか。
 <容共左翼>学者の中には、山口二郎とか中島岳志とか、同志社大学の浜矩子とか、他にも多数、国公立大学在職者も含めて、平気で<政治的・党派的>発言をしているものもいるのに、<保守>派らしき学者・研究者たちは、何と奥ゆかしい ?ことだろう。
 上は、北村稔と西岡力を同列に並べるものではない。同じグループに括ってしまうものではない。
 二 さて、北村稔・第一次国共合作の研究-現代中国を形成した二大勢力の出現-(岩波、1998)。
 その本文の冒頭近くに、ロシア共産党を主語としたつぎの文章がある。p.3。
 「ロシア共産党」は1919年にコミンテルンを作って「世界共産主義運動の中央機関とした」。「ロシア共産党は中国内の親ソ勢力の獲得にも努力し、中国国民党に着目してコミンテルン指揮下の中国共産党との合作を推進し、第一次国共合作を成立に導く」。
 さらに続けていう。p.3-4。
 「第一次国共合作は、…ロシア共産党支配下のコミンテルンおよびソ連政府の極東戦略と、…中国国民党の政治政略の合体であった」。「コミンテルン指揮下の中国共産党員たちは、独自の展開を志向しつつもコミンテルンとソ連政府の極東戦略のもとに行動する」。 
 とくに目新しいことはないが、あらためて、複数の国共合作を経ての中国共産党の勝利、毛沢東の権力奪取、1949年の共産中国成立は、コミンテルン、そしてロシア共産党の存在がなければ生じなかっただろうことを確認したい。
 そして、ロシア共産党(ボルシヴィキ)の勝利とコミンテルン創設は、まさしくレーニンが主導したもので、レーニンが最高指導者の「陰謀家」集団によるロシア「10月革命」の勃発とロシア共産党の権力掌握・維持がなければ発生しなかっただろうことも、歴史的にみて明らかだと思われることも確認したい。
 ロシア「革命」がなければ、中国「革命」・<社会主義>中国もなかったのだ。
 中国共産党も日本共産党も「その祖」は間違いなく、レーニン・ロシア共産党そしてコミンテルンにある。そして、現在もなお、<現実>に、大小の違いはあれ、影響を与えている。理論的には、あくまでもレーニンを経由してマルクスに行き着くのだと思われる(但し、日本共産党・不破哲三は直接のマルクス回帰も試みているようだ)。
 両党は、1998年に、<友党>関係を回復した。
 三 ロシア革命期からレーニンのネップ期までの具体的イメージを作りつつ、日本共産党の<大ウソ>連載を終えてしまいたいのだが、大幅に遅れている。
 ロシア「革命」のあとは中国「革命」のできるだけ詳細な過程を知ろうと思っており、上記の北村稔著も熟読したいのだが、さしあたりは積んでおく、あるいは広大な書庫(冗談だ)の中に紛れないように置いておかねばならない。
 *参照、北村稔・「南京事件」の探求(文春新書、2001)、北村稔・中国は社会主義で幸せになったのか(PHP新書、2005)、北村稔・中国の正体(PHP文庫、2015)。

1416/国家・共産党・コミンテルン03。

 一 前回の最後の方で自らの文章として書いたのは、やや先走りすぎている。
 国家と共産党の分離は、有利なことがあった、と言われる。
 つまり、とくに欧州諸国内でのロシア(・ソ連)共産党の活動を、ロシア・ソ連国家(・政府)の活動ではない、<私的な>活動だと言い張れた、又は言い張ろうとした、ということだ。
 その延長が1919年のコミンテルンの結成で、当時の<社会主義国>はソ連一国だつたはずなので社会主義諸国家の連合体又は協議機関だったはずはなく、諸国家の共産党の連合体、実質的にはロシア(・ソ連)共産党を指導者とする、ロシア防衛と<社会主義革命>の輸出のための機関だった。この最後の部分は世界(欧州)同時革命か一国革命か、という論点にかかわるが、立ち入らない。
 二 さて、「10月革命」以前は「臨時政府」系統外の<私的>機構・組織だったソヴィエトは、ボルシェヴィキ派が形成した(と思われる)「軍事革命委員会」の実力行使の結果として国家系統の、国家「権力」の淵源である機構・組織に変わった。
 (ソヴィエト総会)-(代議員による)ソヴェト大会-CEC(元イスパルコム)、そしてさらに、CEC(元イスパルコム)-ソヴナルコム(人民委員会議=政府)、という一つの=国家・政府系統の「ライン」がある。
 だが、一方には、共産党中央委員会(「首領」はレーニン)-ソヴナルコム(人民委員会議=政府)という党系統の「ライン」もある。ソヴナルコムの議長(首相)はレーニン。
 もう一つの可能性として、憲法制定会議-議会設立-政府成立、というラインもありえたはずだったが、この点は先送りする。
 三 「10月革命」成功・ソヴナルコム成立の翌日1917年10月27日、教育人民委員(文部大臣)・ルナチャルスキーは、<ボルシェヴィキと左派エスエルの機関誌>以外の出版物発行を禁止する布告を発表する(レーニンの署名あり)。
 ボルシェヴィキはソヴナルコムの「立法」権を認める。
 これに対して、「社会主義者たち」は、CEC(元イスパルコム)こそが「社会主義者の一種の国会」だと考えていた。
 11月4日、「最初にして最後に」、レーニンとトロツキーが姿を現したCEC(ソヴィエト・中央執行委員会)で、左派エスエルはソヴナルコム(政府)の布告による統治をやめるように求め、レーニン(ソヴナルコム議長)の説明には納得できない旨の動議を提出し、ボルシェヴィキは「全ロシア・ソヴェト大会の全体的な政綱の枠内」でのソヴナルコムによる布告発令を「ソヴェト」側は「拒絶」できない旨の反対動議を提出した。
 ボルシェヴィキ選出委員のうち9名が「変節」してレーニン側を支持したため、左派エスエルの動議は25対20で敗れた。9名のうち4名はもともとはレーニンによる<連立政府の形成の拒絶>に反対していた(つまり左派エスエルと協力し、その支持をえて「統治」しようとする見解だった)。
 一方、ボルシェヴィキ側の反対動議を明確に支持するか否かの票決の予想は23対23だったので、レーニンとトロツキーが採決に加わることを宣言して、25対23でボルシェヴィキが勝った。ソヴナルコムは同日夜、その布告(Decree)が「臨時労農政府通報」に掲載されれば「法としての効力」(Force of Law)をもつと表明(announce)した。「10月革命」後、わずか1週間ほど後。
 その後1918年6-7月までにCEC(ソヴィエト・中央執行委員会)からボルシェヴィキ以外の党派は放逐され、CECは、ボルシェヴィキの委員がソヴナルコムの決定を、したがってボルシェヴィキ中央(共産党中央委員会)の意向を「機械的に裁可」する機関に完全変質する。
 パイプスによれば、1921年には、CECは「わずかに三回」だけ招集された。
 CEC内部での「党争」にもっと言及する必要はあるが、それに勝利しCECを完全に掌握することによって、共産党の意思はソヴナルコム(政府)の意思と同じになった。<一党独裁>制度の完成だ。「10月革命」後、わずか7カ月程度。
 パイプスによれば、ロシアは1905年以前の帝制時代と同じ「布令(布告)」による統治の時代に戻り、ボルシェヴィキ・共産党は「11年間の立憲主義(constitutionalism)を、全く拭い去った(wiped)」。
 11年間とは、日ロ戦争敗北後の「1905年革命」の所産として、「国会(下院・ドゥーマ)(The State Duma)」が開設されていた1906年以降のことをいう。この国会とは、皇帝(ツァーリ)の権能をある程度制限する力をもっており、ロシアはある程度は<立憲君主制>だったとも言える。但し、日本の明治憲法下の国制・法制と同じはない(これについて長い論文が書けるだけの論点があるだろう)。
 以上、紹介者自身の表現を除いて、R・パイプス〔西山克典訳〕・ロシア革命史(成文社、2000)p.163-5、p.59-61。原書では、p.153-6、p.45。
 このような経緯の背後には、重要な事象も発生し、又は継続していた。
 「10月革命」勃発は第一次大戦の途上で、ドイツ帝国軍等と戦闘しており、臨時政府およびソヴェトの大勢は<継戦>を支持していた。ボルシェヴィキのさらに一部が休戦・和平を主張した。翌1918年3月に、ドイツとの講和条約(英仏ら連合国から見ると「戦線離脱」)。
 全ロシア全域に<新しい秩序>が形成されていた、つまりボルシェヴィキ・共産党が全域を<平穏に支配・統治>していた、というわけでは全くなかった。
 憲法制定評議会がどうなったかも触れておかないと、国家と共産党の問題に言及したことにならないだろう。
 戦時中だったロシア帝国軍(兵士)をどうやってボルシェヴィキ・共産党は制御し、「10月革命」時の<反革命軍>にしなったか、という問題もあり、パイプスも論及しているが、この点は省略する。

1389/日本の保守-田村重信(自民党)。

 筆坂秀世=田村重信(対談)・日本共産党/本当に変わるのか-国民が知らない真実を暴く(世界日報社、2016)は、筆坂秀世と自民党政務調査会審議役という田村重信の対談本で、田村重信が安保法制等に関する著書も出している、国会議員ではない有力な論者なので、日本共産党について語られていることが関心を惹く。
 しかし、自民党という政権与党の論客であるわりには、日本共産党の理解に、きわめて大きい、致命的とも思われる誤りがある。田村は、p.55-56でこう言う。
 ・ソ連批判が生じると「ソ連を美化していた」のを「今度は独立路線」だと言う。
 ・「最近は」、結局、「マルクス、エンゲルス」だという。「ソ連も北朝鮮も参考にするものがなくなつたから、原点に戻ってマルクスだと言っている」。
 田村重信は自民党きっての理論家らしく思えてもいたが、日本共産党についての理解は相当にひどい。自民党自体については別に扱いたいが、自民党議員や閣僚等の日本共産党に関する認識もまた相当に怪しいのだろうことをうかがわせる。
 第一に、「ソ連を批判されると…」というのがいつの時期を指しているのか厳密には不明だが、日本共産党は、ソ連は現存の又は生成途上の「社会主義」国家だとは見なしつつ、1960年代後半には、ソ連や同共産党との関係では(中国ついても同様)<自主独立>路線をとっていた。ソ連をかつては全体として「美化」していたかのごとく理解しているようで、正確さを欠いている。
 重要な第二は、日本共産党はソ連崩壊後決して、レーニン・スターリンを飛び越して単純に「マルクス、エンゲルス」に戻れ、と主張しているのではない。「原点に戻ってマルクスだ」と主張していると理解するのは正確でない。
 たしかに不破哲三には<マルクスは生きている>という題の新書もあり、日本共産党はかつてのようにはレーニンの議論全体を採用していないところがある(例えば、「社会主義」と「共産主義」の区別)。しかし、今なおレーニンを基本的には肯定的に評価しており、何度もこの欄で紹介しているように、<スターリンとそれ以降>の歴代指導者が「誤った」と理解・主張しているのだ。
 なぜ日本共産党はレーニンを否定できないのか。それはすでに簡単には記述したし、もっと詳しく明確にこの欄でも書いておく必要があるが、レーニンを否定すれば、レーニン期に作られた(第三)コミンテルンの支部として誕生した「日本共産党」自体の出生も否定することになるからだ。この党が、戦前の「日本共産党」とは無関係の新しい共産主義政党だと主張していないかぎりは。
 自民党の有力な論者がこの辺りを理解していないとは、まったく嘆かわしい。
 現在の日本の「保守」の、日本共産党や共産主義についての理解・認識のレベルの決定的な低さを、田村重信の発言は示しているようだ。ため息が出る。

1344/資料・史料-近衛上奏文/1945.02.14(1)。

 いわゆる<近衛上奏文>は秦郁彦も重きを置いておらず、「陰謀史観」を示す一つとして取り扱われている。
 しかし、数十年後には、異なる評価がなされることもありうるのではないか。
 もちろん、近衛文麿自身に変化がありえただろうことを意識しなければならないと思われる。
 以下、読みやすくするために、一文ごとに改行した。
 また、本来の改行場所との間の一段落を、山口富永・近衛上奏文と皇道派-告発・コミンテルンの戦争責任-(2010、国民新聞社)所収の資料を参考にして、〔01〕、〔02〕のような頭書を付した。
 --------------------
 近衛上奏文 昭和20年2月14日 (1)
 〔01〕
 敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存侯。
 以下此の前提の下に申述べ侯、
 敗戦は我国体の瑕瑾たるべきも、英米の輿論は今日までのところ、国体の変更とまでは進み居らず、(勿論一部には過激論あり、又将来いかに変化するやは測知し難し)随て、敗戦だけならば、国体上はさまで憂うる要なしと存ず。
 国体護持の建前より最も憂うべきは、敗戦よりも、敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命に御座侯。
 〔02〕
 つらつら思うに、我国内外の情勢は、今や共産革命に向って急速に進行しつつありと存侯。
 即ち国外に於ては、「ソ」連の異常なる進出に御座侯。
 我国民は「ソ」連の意図は的確に把握し居らず、 かの一九三五年人民戦線戦術、即ち二段革命戦術採用以来、殊に最近「コミンテルン」解散以来、赤化の危険を軽視する傾向顕著なるが、これは皮相且つ安易なる見方と存侯。
 「ソ」連は究極に於て世界赤化政策を捨てざるは、最近欧州諸国に対する露骨なる策動により明瞭となりつつある次第に御座侯。
 〔03〕
 ソ連は欧州に於て其の局辺諸国には「ソヴィエート」的政権を、爾余の諸国には少くとも親「ソ」容共政権を樹立せんとし、着々其の工作を進め、現に大部分成功を見つつある現状に有之侯。
 〔04〕
 「ユーゴー」の「チトー」政権は、その最も典型的な具体表現に御座侯。
 波蘭〔ポーランド〕に対しては、 予め「ソ」連内に準備せる波蘭愛国者連盟を中心に新政権を樹立し、在英亡命政権を問題とせず押切申し侯が、羅馬尼〔ルーマニア〕、勃牙利〔ブルガリア〕、芬蘭〔フィンランド〕に対する休戦条件を見るに、内政不干渉の原則に立ちつつ「ヒットラー」支持団体の解散を要求し、実際上「ソヴィエート」政権に非ざれば、存在し得ざる如く強要致し侯。
 〔05〕
  「イラン」に対しては、石油利権の要求に応ぜざるの故を以て、内閣総辞職を強要致し侯。
 端西〔スウェーデン〕が「ソ」連との国交開始を提議せるに対し、ソ連は端西政権を以て、親枢軸的なりとて一蹴し、之がため外相の辞職を余儀なくせしめ侯。
 〔06〕
 占頷下の仏蘭西〔フランス〕、白耳義〔ベルギー〕、和蘭〔オランダ〕に於ては、対独戦に利用せる武装蜂起団と政府との間に深刻なる斗争が続けられ、且つ是ら諸国は、何れも政治的危機に見舞われつつあり。
 而して是ら武装団を指導しつつあるものは、主として共産系に御座侯。
 独逸〔ドイツ〕に対しては波蘭に於けると同じく已に準備せる自由ドイツ委員会を中心に、新政権を樹立せんとする意図なるべく、これは英米に取り今日頭痛の種なりと存ぜられ侯。
 〔07〕
 「ソ」連はかくの如く、欧州諸国に対し、表面は内政不干渉の足場を取るも、事実に於ては、極度の内政干渉をなし、国内政治を親「ソ」的方向に引きずらんと致し居り候。
 〔08〕
 「ソ」連の此の意図は東亜に対しても亦同様にして、現に延安には「モスコー」より来れる岡野〔野坂参三〕を中心に、日本解放連盟組織せられ、朝鮮独立同盟、朝鮮義勇軍、台湾先鋒隊等と連絡、日本に呼びかけ居り候。
 ---------------------
 <つづく>

1340/日本共産党の大ペテン・大ウソ12-稲子恒夫は批判する①。

 一 最初に設定した疑問の第二は、「日本共産党は、レーニンまでは正しく、つまりレーニン時代は「社会主義」の方向に向かっていたが、<大国主義・覇権主義>のスターリンによって誤った、と言っているようだ。このような、レーニン時期とスターリン時期の大きな(質的に異なると言っているような)区分論は歴史把握として適切なのか。あるいはまた、この対比は、レーニン=『社会主義』、スターリン=<それ>からの逸脱、と単純化してよいのかどうか」、というものだった。最後の<それ>にかかわる論点には、既に長らく言及した。
 さて、現在の2004年綱領は、レーニンとスターリンについてつぎのように明記している。「世界情勢―二〇世紀から二一世紀へ」の中で書かれている。
 「最初に社会主義への道に踏み出したソ連では、レーニンが指導した最初の段階においては、おくれた社会経済状態からの出発という制約にもかかわらず、また、少なくない試行錯誤をともないながら、真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力が記録された。しかし、レーニン死後、スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨てて、対外的には、他民族への侵略と抑圧という覇権主義の道、国内的には、国民から自由と民主主義を奪い、勤労人民を抑圧する官僚主義・専制主義の道を進んだ。『社会主義』の看板を掲げておこなわれただけに、これらの誤りが世界の平和と社会進歩の運動に与えた否定的影響は、とりわけ重大であった。」 
 この綱領以前の段階で、1980年代後半には、レーニンの時期とスターリン(以降)の時期を区別する必要が、不破哲三らによって(そして日本共産党によって)語られてきた。
 「少なくない試行錯誤をともないながら」という限定はついているが、二つの時期を大きく簡単に区別することができるのか。
 この問題は<正・邪>の論評・評価にかかわるので、単純な<事実>認識の問題ではない。しかし、上のようにソ連の歴史を単純化できるのか、<ロシア革命>自体について、あるいは<新経済政策(ネップ)>等々について、これら等々とレーニンやスターリン等との関係について、種々の議論・歴史学上の検討成果がありうる。
 ロシア社会主義革命とレーニンを否定するということは、日本共産党を否定することに等しい。
 なぜなら、日本共産党は1922年に、ロシア「社会主義革命」を達成したボルシェビキ、のちのソ連共産党が中心として1921年に結成したコミンテルン(国際共産党、第三インター)の日本支部として創立されたからだ。
 日本共産党自体が、ロシア革命がなくコミンテルンもなければ、産まれていないのだ。 日本共産党が「共産党」と名乗り、創立年を(例えば1961年ではなく)1922年とするかぎり、ロシア「社会主義革命」と(かつての、少なくとも1922-35年の間の、コミンテルンの存在の正当性を絶対に否認することができない、という宿命にある。
 そして、ロシア「社会主義革命」とコミンテルン結成に主導的役割を果たしたのはレーニンだから、日本共産党はレーニンを(いまこの政党がスターリンについて行なっているようには)批判し否定することが絶対にできない。
 そのような日本共産党がレーニンとスターリンについて上のように現在主張している(認識している?)のは、そもそも身勝手な主張ではないのだろうか?
 ソ連の政治、法制、社会、歴史の専門家ではない秋月が、レーニン研究もスターリン研究も適切に行えるわけではないことは当然だ。
 しかし、いま日本共産党の主張しているように単純には言えないのではないか、と疑問視することはできるし、日本共産党が主張しているようには理解してはいないソ連(・ロシア)に関する学者・研究者もいる、という程度の指摘・紹介くらいはすることができる。そして、次のようにも言えるだろう。日本共産党は<大ウソ>をついているのではないか、と。
 二 さっそく、稲子恒夫編著・ロシアの20世紀/年表・資料・分析(2007、東洋書店)のうち、編著者自身の分析結果を示す文章の一部を引用・紹介する。
 稲子は、「日本共産党」と名指しはしないが、この党の「説」をこの著で批判していることが明らかだ。
 <レーニンの真実>との見出し-
 ・「スターリンの国家万能とレーニン無関係説は…、レーニンの革命前後の主張と『ウラーの国有化』とその結果の経済の混乱の実際にふれないで、彼〔レーニン〕の功績をもっぱら市場経済移行の新経済政策(ネップ)の開始から始める。//
 しかし、…というネップは…、クロンシュタートの反乱、エスエルが主張していたことであり、レーニンは乗り気でなかった。//
 しかも彼〔レーニン〕は生前最後の22.11.20の演説でネップを『後退のゼスチャー』と言い、新たな飛躍を宣言した。//
 このネップの中止を呼びかける演説は『レーニン全集』に新聞報道による要旨だけが載っており、全文はやっと1995年の…に公表された。//
 ネップは党の戦術(長期政策)ではなく、当面の戦略だからあいまいだった。」/〔改行〕
 ・「そのうえネップには政治の改革がなかった。//
 ネップとレーニン礼賛者はこの時期の…、報道の自由、出版の自由など政治的自由の否定、検閲の確立、教会の弾圧、多数の知識人の国外追放など、ネップにともなうプロレタリアート独裁の制度化にふれない。」/〔改行〕
 ・「さらにネップ時代の広範な政治犯罪と類推適用を認めた1922年刑法典へのレーニンの関与、流刑の復活、法律によらない都市からのネップの湯あか(ネップマン)の追放、彼らの財産没収というレーニンのいう経済的テロも無視できないだろう。」/〔改行〕
以上、稲子・上掲示書p.1008-9. //は原文では改行ではない。
 <稲子編著も含めて、つづく>

1336/2007年3月の秋月瑛二・日本共産党批判(再掲)。

 10年近くも経つと、かつて自分が何を書いていたか、自分のことながら分からなくなってくる。
 2007年3月に、「日本共産党よ、32年テーゼ・50年批判はスターリンの時代ではなかったのか」と題して、つぎのように書いていた。2007/03/23付け。
 現時点で見れば知識不足のところはあるし、当時は日本共産党文献やその他の関係文献を調べてみようという気は起きなかった。但し、最近は、きちんと実証的に正確な「事実」を確認しようと思っている。
 日本共産党が現在およびそれぞれの時期に何と主張していた(いる)かを知ること自体は、「事実」の認識の問題だ。
 問題関心だけは今でも共通するので、過去のものを再掲しておくことにする。
 ---------------------
 日本共産党よ、32年テーゼ・50年批判はスターリンの時代ではなかったのか。
 腑に落ちない、こと又はもの、は沢山あるが、ソ連崩壊に関係する日本共産党の言い分は最たるものの一つだ。
 同党のブックレット19「『社会主義の20世紀』の真実」(1990、党中央委)は90年04月のNHKスペシャル番組による「社会主義」の総括の仕方を批判したもので、一党独裁や自由の抑圧はスターリン以降のことでレーニンとは無関係だなどと、レーニン擁護に懸命だ。昨日に触れたが、2004年の本で不破哲三氏はスターリンがトップになって以降社会主義から逸脱した「覇権主義」になったと言う。そもそも社会主義国ではなかったので、崩壊したからといって社会主義の失敗・資本主義の勝利を全く意味しない、というわけだ。
 だが、後からなら何とでも言える。後出しジャンケンならいつでも勝てる。関幸夫・史的唯物論とは何か(1988)はソ連崩壊前に党の実質的下部機関と言ってよい新日本出版社から出た新書だが、p.180-1は「革命の灯は、ロシア、…さらに今日では十数カ国で社会主義の成立を見るにいたりました」と堂々と書いてある。「十数カ国」の中にソ連や東欧諸国を含めていることは明らかだ。ソ連は社会主義国(なお、めざしている国・向かっている国も含める)でないと言った3年前に、事実上の日本共産党の文献はソ連を社会主義国の一つに含めていたのだ。判断の誤りでした、スミマセン、で済むのか。
 また、レーニンの死は1924年、スターリンが実質的に権力を握るのは遅くても1928年だ。とすると、日本共産党によると、1928年以降のソ連は、そしてコミンテルン、コミンフォルムは、社会主義者ではなく「覇権主義」者に指導されていたことになる。そしてますます腑に落ちなくなるのだが、では、コミンテルンから日本共産党への32年テーゼはいったい何だったのか。非社会主義者が最終的に承認したインチキ文書だったのか。コミンフォルムの1950年01月の論文はいったい何だったのか。これによる日本共産党の所感派と国際派への分裂、少なくとも片方の地下潜行・武装闘争は非社会主義者・「覇権主義」者により承認された文書による、「革命」とは無関係の混乱だったのか。
 1990年頃以降、東欧ではレーニン像も倒された。しかし、日本共産党はレーニンだけは守り、悪・誤りをすべてスターリンに押しつけたいようだ。志位和夫・科学的社会主義とは何か(1992、新日本新書)p.161以下も参照。
 レーニンをも否定したのでは日本「共産党」の存立基盤が無になるからだろう。だが、虚妄に虚妄を重ねると、どこかに大きな綻びが必ず出るだろう。虚妄に騙される人ばかりではないのだ。
 なお、私的な思い出話を書くと、私はいっとき社会主義・東ドイツ(ドイツ民主共和国が正式名称だったね)に滞在したことがある。ベルリンではない中都市だったが、赤旗(色は付いてなかったがたぶん赤のつもりのはずだ)をもった兵士のやや前に立って、十数名の兵士を率いて前進しているレーニン(たち)の銅像(塑像)が、中央駅前の大通りに接して立っていた。
 数年前に再訪して少し探して見たのだが、レーニン(たち)の銅像が在った場所自体がよく分からなくなっていた。
 レーニンまでは正しくて、スターリンから誤ったなどとのたわけた主張をしているのは日本共産党(とトロツキスト?)だけではないのか。もともとはマルクスからすでに「間違って」いたのだが。
 ---------------------
 以上。
 旧東ドイツを訪れた当時、上に言及のレーニン像のほか、比較的大きい建造物の壁面上部に、<我々を解放してくれた「赤軍」に感謝する!>というような旨の大文字が書かれてあるのを見た記憶もある。50年も前のことではない、かつての「社会主義」国・東ドイツの「現実」だった。

1271/コミュニストにより作られたハル・ノート-櫻井よしこ・週刊誌連載。に関連して2。

 櫻井よしこ週刊新潮1/22号(新潮社)で、アメリカ・ルーズベルト政権は日本が呑めないことを見越して「日本に事実上の最後通牒であるハルノートを突きつけ」、開戦に追い込んだ、という旨を記していたが、中川八洋の理解は大きく異なるようだ。
 中川八洋・近衛文麿とルーズヴェルト-大東亜戦争の真実(PHP、1995)p.39によれば、「米国側からの最後通牒『ハル・ノート』の故に、日本は敗戦を覚悟してやむなく窮鼠猫をかむ決断を強いられた、という俗説」が是正されなく今も通用しているのは「歴史の歪曲」、少なくとも「歴史の真実に対する怠慢」だ。
 中川八洋は「大東亜戦争…とは、…東アジア全体の共産化のための戦争であった」(p.34)、「大東亜戦争=日本とアジアの社会主義化」というのが「歴史の真実」だ(p.276)と捉えているので、出発点あるいは逆の結論自体が櫻井よしこらとは基本的に異なっているように見える。
 そして、同書の第二章「『ハル・ノート』とロシアの『積極工作』-財務次官補H・D・ホワイトとルーズヴェルト」でも、上のような「俗説」なるものとは異なる叙述を行っている(p.36-57)。以下、ハル・ノートやそれと日本の関係に限っての要約・抜粋的紹介。
 ・1941.07.28の日本軍の南部仏領進駐(ベトナム・サイゴン入場)は日本の英米蘭に対する実質的な開戦で、ハル・ノートが日米戦争の引き金ではない。同09.06の午前会議で10月上旬の開戦の想定(帝国国策遂行要領)が決定され、さらに11.05には12月上旬に定め直され、11.26午前には南雲中将らの機動部隊は真珠湾に出撃していた。ハル・ノート(のちに述べる最終案)が手交されたのは11.26午後で、日本の真珠湾攻撃はハル・ノートに対する反発によるものではない。日本の対米開戦は同年7月以降の既定路線だった。
 ・といって、ハル・ノートに重大性がないわけではない。ハル・ノートにはハルがまとめた「ハル試案」=暫定案と、時期的にはのちのホワイトが執筆してハルの名で手交されたより強硬な「ホワイト試案」=最終案とがあった。前者であれば日米講和の可能性があり、これによって敗戦・降伏していれば、ソ連の対日開戦はなく、満州の悲劇も千島の領土喪失もなかった。「強硬姿勢一本槍」の「ホワイト試案」=最終的なハル・ノートは日本の関係者すべてを憤激させ、日本を徹底抗戦へと誘導した。そして戦後には、ハル・ノートは日本国民の対米怨念形成の劇薬になり、戦後の日米関係に対して致命的悪影響をもたらした。なお、<最終案>・「最終的なハル・ノート」という語は、秋月が作った。 
 ・「ホワイト試案」=最終的なハル・ノートは、アメリカ内部で、どのようにして採択されたのか。暫定案→最終案への変化は1941.11.17-11.25の間に生じた。財務次官補・ホワイトは試案を11.17に財務長官・モーゲンソーに渡し、その翌日にモーゲンソーはルーズヴェルト大統領とハル国務長官に送付した。ハルは自らの暫定案に固執し続けたが、ルーズヴェルトはホワイト試案を気に入ったようで、11.25にそれの採用をハルに命じた。
 ・ルーズヴェルトが「ホワイト試案」を支持したのは、ソ連擁護のために対ドイツ開戦をしたくて、ドイツと同盟関係にある日本に対米開戦を決行させることにあっただろう。日本の対米開戦はドイツの対米開戦と見なしてよかった。ルーズヴェルトは「100%の確率で受諾拒否となる」「最後通牒」をどうしても日本に手交したかった。
 ・H・D・ホワイトとは何者か。彼の「別の顔」はKGBの前身組織の在米責任者バイコフ大佐指揮下の「ソ連工作員の一人」。のち1953年にブラウネル司法長官は、ホワイトを名指しして「ソ連のスパイであり、米国の機密文書を…他の秘密工作員に渡していた」と言明した。1948年にバイコフ機関に関する証言のために召喚されたホワイトは、喚問三日後の08.16に心臓麻痺で死亡し、ハル・ノートをめぐる歴史の謎は闇の奥にしまわれた。しかし、ハル・ノート(最終案)が「共産主義者」である「ソ連のスパイ」により執筆された、という事実は等閑視できない。「共産主義の心底には破壊主義」が強く潜み、ホワイトはソ連防衛のみならず、日米戦争による「日本の破壊」の目標も秘めていたただろう。
 以上に続いてルーズヴェルト政権内のホワイト以外の「共産主義者」である「ソ連のスパイ」についての叙述があるが省略する。
 中川八洋は「最後通牒」性を否定しているが、かりにハル・ノートが日本に対する「最後通牒」との<俗説>が正しいものであったとしても、そのハル・ノートを実質的に作成したのはソ連・コミンテルンのスバイだった、という指摘はすこぶる大きな意味があるはずだ。
 櫻井よしこはどの程度の知見を持っているのかは知らないが、少なくとも週刊誌上の簡単な叙述だけでは不十分であることは明らかだろう。
 それにしても、先の戦争、大東亜戦争、八年戦争、昭和の戦争(の時代)についての歴史「認識」は同じ<保守派>であっても決して一様ではないことに驚かされるところがある。中川八洋を<保守派>論者でない、と評する者はいないだろう。近く田久保忠衛の戦争(の時代)についての歴史「認識」にも触れる予定だが、<真正保守>の歴史観というものがあるのかは疑わしい。また、自ら<真正保守>と任じている者の歴史把握が<真正>なものである保障は決してない、ということも心得ておいてよいと感じられる。

1270/<保守>派の情報戦略-櫻井よしこ・週刊新潮連載コラムを読んで1。

 櫻井よしこ週刊新潮1/22号(新潮社)の連載コラム639回で「外交も戦争も全て情報戦が決める」と題して、「情報戦」の重要性を説いている。そのことにむろん異論はないが、書かれてあることには、不満が残る。
 櫻井はビーアド・ルーズベルトの責任/日米戦争はなぜ始まったか(開米淳監訳、藤原書店)を読んで、先の戦争時におけるルーズベルトや同政権の認識・言動等をおそらくは抜粋して紹介している。しかし、対ドイツ関係のグリアー事件(1941年)に関することを除いて、すでに何かで読んで知っていたようなことだ。
 また、ビーアドの書物がどこまで立ち入って書いているのかを知らないが、櫻井よしこがここで紹介しているかぎりでは、なおも突っ込みが足りないと感じる。まさかとは思うが、櫻井よしこはビアードのこの本によってここで書いてるようなことを知ったのではないだろう。そして、ビーアドの叙述による事実・現象のさらにその奥・背景が(も)重要なのだと思われる。
 例えば、ビーアドによると、大多数のアメリカ人には対日戦ではなく対ドイツ・ヒトラー戦争こそが重要だったにもかかわらず、ルーズベルトは1941年7月に「在米日本資産を凍結し、通商を停止し、日本を追い込みつつ」対日戦争を準備していた、ということのようだが、「在米日本資産を凍結し、通商を停止し、日本を追い込」んだ原因・背景がアメリカにも日本にもあったはずで、ルーズベルトの個人的な意思のみを問題にしても不十分だろう。
 また、「日本に事実上の最後通牒であるハルノートを突きつけ」ながらも、日本政府がこれを受諾しないで開戦してくるという確信をルーズベルトは隠していた、という旨も書き、さらに、春日井邦夫・情報と戦略(国書刊行会)によりつつ、ルーズベルトはハル・ノートの手交当日にも戦争準備をしており、日本の真珠湾攻撃を「待ち望んでいた」「口実」として対日戦争・参戦を始めた、という旨も書いている。
 何で読んだかは忘れたが、上のようなことは私はおおむねすでに知っていたことだ。
 問題は、ハル・ノートの作成・手交や開戦前の日米交渉において、ルーズベルトだけではなく、同政権内部の誰々がどのような役割を果たしたか、同様に同時期の日本政府は、具体的には誰々が、どのように判断してどのように行動決定したかの詳細を明らかにすることだろう。別の機会に関係コメントは譲るが、コミンテルン(・ソ連)およびその工作員・スパイの役割に論及する必要があると思われる。櫻井は、コミンテルンにもコミュニズム(共産主義)にも何ら触れていない。
 最後に櫻井は、「情報戦の凄まじさ、恐ろしさを実感する。いま、日本は中国の情報戦略で深傷(ふかで)を負わされつつある」と書いて、「情報戦」を戦う強い意思を示している。このことに反対しないが、しかし、揚げ足取りまたはないものねだり的指摘になるかもしれないが、<情報戦略>をもって日本に対応・対抗しているのは、中国だけではない。アメリカも韓国も北朝鮮も、その他の諸国も、多かれ少なかれ、日本に対する<情報戦>を行っている。そして、それに応えるような、日本を謀略に自ら陥らせるような「報道」の仕方をするメディアが、それに巣くう日本人が、日本国内には存在する。
 「情報戦」は、朝日新聞等々の、日本国内の<左翼>・<容共>勢力との間でも断固として行わなければならない。歴史認識、「憲法改正」等々、戦線はいくらでもある。朝日新聞のいわばオウン・ゴール?で少しは助かっているようにも見えるが、日本国内の<左翼>・<容共>勢力の「情報戦略」は決して侮ってはいけないレベルにある。
 私が懸念しているのは、<保守>・<自由>・<反共>陣営にはどのような「情報戦略」があるのか、だ。

1268/先の戦争へのコミュニズムの影響。

 〇 栗田健男中将はなぜレイテ海戦の際に「反転」したのか、といった戦記ものあるいは個々の戦術ものには、ほとんど関心を持たないできた。それは戦後生まれのものにとって敗戦は既定の事実で今さら敗戦の戦術的・技術的原因を探ることがほとんど無意味と思われたことや、占領期についてでも複雑なのに、もっと複雑そうな戦時中の細かな歴史について勉強しておくことの時間的な余裕はないと感じられたことによる。
 但し、1930年代には日本共産党はとっくに壊滅していて一部の者が獄中で念仏のごとく「反戦」を唱えていたかもしれないこと程度で、戦争は日本共産党とは対極にある<右翼的・反共的>グループが継続したというイメージが強かったところ、日本国家あるいは日本の軍部・政治家等に対するコミュニズムやコミンテルンの影響やアメリカのルーズベルト政権自体の<容共左翼>性の指摘があることを知って、にわかに先の戦争と「共産主義(コミュニズム)」の関係についての関心が高まってきた、という経緯が私にはある。
 それは、アトランダムに言えば、先の戦争は<民主主義対全体主義・ファシズム>の戦争だったなどと単純には言えないだろうこと、ソ連や大戦の結果生まれた中国共産党主導の新中国は「民主主義」陣営であるはずはなく<左翼全体主義>の国家ではないか、なぜアメリカはそのようなソ連と手を組んだのか、アメリカは<共産中国>を新たに生み出す結果をもたらした(そしてそれは今日でも大きな悪い影響・問題を生じさせている)戦争をなぜしたのか、なぜアメリカは(中国ではなく)日本を執拗に敵視したのか、といった認識や疑問と関係してくる。
 〇 隔月刊・歴史通2015年1月号(ワック)のいくつかに少しばかり言及する。
 藤岡信勝「戦後レジームの自壊が始まった」の中で藤岡が1995年の「自由主義史観研究会」立ち上げの頃は「私も日本が満州から北支に進出したことは咎められるべきだと思っていました」と率直に「告白」しているのが興味深い(p.41)。その時期からまだ20年ほどしか経っていない。藤岡は、しかしもちろん?、「中国側の絶え間ない挑発に日本は対応していたに過ぎず、侵略行為とは言い難い」、「日本は挑発行為に乗せられて戦争の道に走っていったと見るべき」だ等の今日の認識を示している(同上)。
 「中国側の絶え間ない挑発」は日本の<南侵>を誘導する中国共産党、その背後のコミンテルンの戦略をおそらく意味しているのだろう。
 岡部伸「近代日本を暗黒に染めた黒幕」はカナダ人のハーバート・ノーマンを扱うもので、「日本を貶めた最大の敵ではなかったか」との基本的主張・認識があり、戦前の日本を「封建的要素が残った、いびつな近代社会」と理解する、講座派的な日本「暗黒史観」の持ち主で、戦後当初には日本共産党を「民主主義」勢力とみなした、等々を叙述している(p.70-)。ハーバート・ノーマンを自殺に追い込んだ?アメリカの戦後のマッカーシズムの評価やノーマンと都留重人、尾崎秀実やゾルゲとの関係など、すでにある程度は知っているが、もっと詳細かつ明確な研究成果を読みたいものだ(この最後の部分は岡部の一文を批判するものではない)。
 中西輝政と北村稔の対談「日米・日中/戦争の真犯人」も興味深い(p.94-)。
 北村稔は彼の「学生時代、日本史研究と東洋史研究の分野ではマルクス主義の影響がものすごく強かった」と述べているが(p.103)、とくに日本近現代史の分野では、今日までその現象は続いているのではないだろうか(従って、私は、高校教育における「日本史」必修化には、教科書の書き手からするその内容と、教える教師の、推測される「左翼」=親マルクス主義的傾向のゆえに、現時点では簡単に賛成はできない)。
 中西輝政は例のごとく?、真珠湾攻撃に関するルーズヴェルト陰謀説に近い議論は「日本の国際政治や歴史の学会ではほとんど相手に」されなかったと、<左翼アカデミズム>の支配の一端を語っている(p.104)。
 中西はまた、今後の研究・検証が必要なテーマをいくつか挙げている。例えば、①永田鉄山らの「華北分離」・<南侵>路線の背景-背後にコミンテルンの工作か。②「国民政府を相手にせず」声明(第一次近衛声明)の背景-尾崎秀実が糸を引いていたか等。③海軍の戦争推進・拡大方針の批判的検証。④近衛の「東亜新秩序建設」声明(第二次声明)の背景。
 〇 上に最後に述べた諸点とコミンテルンまたはそのスパイ(・エージェント)の関係はまだ明確には分かっていない、ということなのだろう。
 もっとも、精読したわけではまだないが、すでにある程度の自信をもって確言している論者もいる。
 中川八洋・近衛文麿とルーズベルト―大東亜戦争の真実(PHP、1995)、同・近衛文麿の戦争責任―大東亜戦争のたった一つの真実(PHP、2010)だ。ハル・ノート(日本に開戦させるための強硬な最後通牒?)についても、<保守派>あるいは「自由主義史観」では通説的かもしれない理解とは異なる評価を下しているようだ。
 かなり飛躍するかもしれないが、憲法改正論の具体的内容と同様に、<保守派>あるいは<産経史観>?の論者においても、先の大戦の具体的な認識や評価は一様ではないと見られる。簡単には表現し難いが、欧米「帝国主義」からアジアを解放するための戦争だったという評価と、共産主義者・コミンテルンに誘引されてずるずると嵌まり、拡大してしまった戦争という評価では、大きく異なると感じざるをえない。
 西尾幹二が続けている、戦後にGHQにより「焚書」された戦前・戦中の日本人の諸文献の研究・解明によって、上のような論点はどの程度明らかになるのだろうか(すべて所持しているが、わずかしか熟読していない)。
 戦前・戦中に共産主義者・コミンテルン(・工作員等々)が日本に対してはたした役割、行った悪業にだけは関心をもって、諸文献・論考等を読んでいくことにする。 

1213/戦争中・占領期当初のコミンテルン・共産主義者の暗躍-江崎道朗著。

 江崎道朗・コミンテルンとルーズヴェルトの時限爆弾(展転社、2012)のタイトルは、コミンテルンとその影響をコミンテルン(・共産主義者スパイ)から受けた米大統領によって、敗戦後の日本に対して「時限爆弾」があらかじめ仕掛けられていた、という意味だろう。
 なぜアメリカは戦前に<反日・親中>だったのか、なぜ日本には攻撃的で中国には融和的だったのか。その判断は、のちには中国共産党による大陸中国の「共産化」や南北朝鮮の分離・北朝鮮の「社会主義」化につながり、資本主義国アメリカにとっては大きなミスだったのではないか。そのような判断ミスそして政策・戦略ミスは何故生じたのか、というのはかねて持ってきた疑問だった。
 近年になって、ルーズヴェルト大統領の側近にコミンテルン(モスクワ)のエイジェントがいて、共産主義・マルクス主義に対して「甘かった」同大統領とソ連(・スターリン)とを
結びつけ、アメリカは<反日・親中>政策を採ったことが明らかになってきている。

 中西輝政監訳・ヴェノナ(PHP、2010)についてはこの欄で触れたことがある。
 江崎の冒頭掲記の著書も、主として第三章「アメリカで東京裁判史観の見直しが始まった」で、コミンテルン・同スパイ・アメリカ共産党等の運動・行動について扱っている。
 その内容を簡単にでも紹介することは避けるが、江崎の本よりも第一次資料・史料といえる文献で邦訳されているものやその他の日本語文献があるようなので、以下にリスト・アップしておく。
 第一節「外務省『機密文書』が示す戦前の在米反日宣伝の実態」より(p.126-)
 ①馬暁華・幻の新秩序とアジア太平洋(彩流社)

 ②山岡道男・「太平洋問題調査会」の研究(龍渓書房)

 ③H・クレアほか・アメリカ共産党とコミンテルン(五月書房)

 ④レーニン・文化・文学・芸術論(上)(大月書店)

 ⑤中保与作・最近支那共産党史(東亜同文会)

 第二節「ヤルタ協会を批判したブッシュ大統領と保守主義者たち」より(p.146-)

 ⑥H・フィッシュら=岡崎久彦監訳・日米・開戦の悲劇(PHP文庫)

 第三節「アメリカで追及される『ルーズヴェルトの戦争責任』」より(p.162-)

 ⑦エドワーズ=渡邉稔訳・現代アメリカ保守主義運動小史(明成社、2008)

 第四節「『ヴェノナ文書』が暴いたコミンテルンの戦争責任」より(p.178-)

 ⑧中西輝政監訳・ヴェノナ(PHP、2010)〔所持〕

 ⑨A・コールター・リベラルたちの背信-アメリカを誤らせた民主党の六十年(草思社)

 ⑩クリストファー・アンドルーほか・KGBの内幕・上(文藝春秋)

 ⑪楊国光・ゾルゲ、上海ニ潜入ス(社会評論社)

 ⑫エドワード・ミラー・日本経済を殲滅せよ(新潮社)

 第五節「コミンテルンが歪めた憲法の天皇条項」より(p.203-)

 ⑬ウォード・現行日本国憲法制定までの経緯

 ⑭ビッソン・ビッソン日本占領回想記

 以上 

0687/「ヴェノナ」文書と米国のマッカーシズム。

 中西輝政が「ヴェノナ」文書なるものを使って、種々書いていた。
 別冊正論Extra.10(産経新聞、2009)の福井義高「東京裁判史観を痛打する『ヴェノナ』のインパクト―ソ連-アメリカ共産党の諜報工作と第二次大戦」によると、「ヴェノナ」とは解読プロジェクトのコードネームで、何の解読かというと、第二次大戦中から戦後にかけてソ連がアメリカや他国で活動するKGB・GRUの工作員のモスクワの本部間の暗号電信を米軍の情報機関であるNSAが入手していたもの。作業は1943~80年に行われ、未解読部分等がまだあるものの、ソ連崩壊以降、一部が「公開」されるようになった(NSAのHPで閲覧できるらしい)。
 むろん、「ヴェノナ」文書によって何が明らかになったのかが強い感心の対象になる。
 以下では、マッカーシーの「赤狩り」についてのみ言及する。マッカーシーの「赤狩り」又は<マッカーシズム>は、親コミュニストではなくても、反共主義者の行きすぎた弾圧だという印象を持っているごく平凡な「左翼」あるいはアメリカ(史)研究者が多いと見られるからだ。そうした人々はおそらく、別冊正論を購入しないだろう。目にとまることを期待しながら、抜粋的に引用する。
 ・300人以上のアメリカ人(又は永住権者)が「ソ連のエージェント」で、中には「何人もの」ルーズベルト政権高官もいた。「政府内部にソ連のスパイが多数入り込んでいるという、『赤狩り』で悪名高いジョセフ・マッカーシー上院の荒唐無稽とされてきた主張は、少なくとも一般論としては正しかったのである」(p.93)。
 ・アメリカでは共産党は進歩勢力の最左派で「民主的体制下での批判勢力」にすぎず、戦後アメリカの反共政策はマッカーシーが代表する「根拠のないデマに基づく進歩派弾圧」だとの主張が「一種通説」だった。だが、アメリカ共産党の「ブラウダー書記長以下、アメリカ人エージェントのほとんどが共産党員であり、アメリカ共産党が組織的にソ連のスパイ活動の一翼を担っていたことが明らかとなった」。しかもその周囲には「スパイ活動を知りつつ彼らを擁護するジャーナリストや知識人が存在した」。
 ・共産党員=ソ連のエージェント、「親ソ知識人の背後にソ連影」、は「絶対確実」ではないとしても、「作業仮説、デフォルト・ポジションとしては有効」だった。1945~50年代の「赤狩り」を政府は適正手続のもとで慎重に行っていたが、「マッカーシーの必ずしも証拠に基づかないセンセーショナルな追及方法」は正当な行為にも汚名を着せることで「かえってソ連とその同調者を利する」こことなり、「皮肉にもマッカーシーこそソ連の最大の『味方』」になった(以上、p.94)。
 ロバート・デ・ニーロ、アネット・ベニング出演の映画「真実の瞬間」(1991)も映画業界(ハリウッド)内の共産党員(少なくともその疑いをかけられた者)を被害者として描き、調査・弾圧する側が「悪」であるという前提で作られているはずだ。こうしたシェーマ(図式)で理解してしまうことが誤りである可能性も少なくないことに留意しておくべきだろう。

 日本でも戦時中に政権中枢又は周辺にソ連又はコミンテルンの「エージェント」がいたことは間違いない(そして、例えばその代表者・リヒァルト・ゾルゲを英雄視するかのごとき映画が近年の日本で制作されていたりするのだから、日本は(少なくとも一部は)狂っているとしか言いようがない)。
 今日における日本人(日本国民)の中にも、どのような肩書きであっても、ひょっとしてときには本人の自覚かなくても、中国(中国共産党)、北朝鮮、そしてアメリカの「エージェント」はいるに違いない。日本国籍を有しないで日本に在住している外国人の中にそのような者たちがいても当然だ。政府、政党、マスコミ界等の中には、あるいは官僚、経済人、文化人・マスコミ人(作家等を含む)等々の中には、「日本」以外の国家に役立つことを少なくとも客観的にはしており、対価・代償であることが不明瞭にされたまま他国との何らかの「つきあい」をしている者は、けっこう多いと思われる。そうした可能性を多少意識しているだけでも、新聞の読み方、諸行事、諸事件の理解は少しは変わってくるかもしれない。

0535/中国共産党の「欺瞞」的外交・情報戦に負けるな-中西輝政。

 中西輝政「『冷戦』の勝敗はまだついていない」同・日本の「岐路」(文藝春秋、2008)のつづき(最後)。
 中国共産党系工作員だった者(=「中国共産党の国際的秘密工作ネットワーク」と結びついていた者)は、スメドレー、ラティモア、セオドア・ホワイトらで、直接にコミンテルン工作員だった者(=「より直接にモスクワのコミンテルンと結びついて」いた者)は、ハリー・ホワイト、ロークリン・カリー、ハーバート・ノーマンだった。前者のネットワークを中西は「チナミンテルン」と称する。
 上の二つのうち、第二次大戦末期には国際共産主義ネットワークのイニシァティブは中国共産党(中共)にあった。アメリカ政府内のコミンテルン工作員の多くは50年代にモスクワではなく北京に逃げた。戦後の日本共産党の伊藤律・徳田球一らの逃亡先もソ連ではなく北京だった。1952年の札幌での白鳥事件に関与したとされた日本共産党員も中国に渡った。2000年逮捕の重信房子も、日本と北京の間を極秘に往復していた。
 近衛内閣のブレインでゾルゲ事件に連座して投獄された西園寺公一は、戦後に参議院議員になったのち北京に「移住」し、「日中国交回復」の旗頭となり中国共産党から「人民友好使者」の称号を付与された。
 ここで挿むと、本多勝一、大江健三郎、立花隆が中国政府(南京「大虐殺」記念館を含む)から厚遇されたことはすでに触れた。これも既述だが、日本の政治家、マスコミ関係者、学者等々に対して、今日でも何らかの「工作」が続けられていることは明らかだと思われる(「工作」とそれに「嵌(はま)る」という意識が生じないことこそが巧い「工作」だ)。共産主義者の本質は、陰謀・謀略・策略・嘘・嘘・…にある
 中西輝政は次のように上の点をまとめている。論文全体の最後ではないが、紹介はこれで終えておく。
 「今日なお共産党一党独裁を維持し、…卓抜な外交手法で世界の資本を引きつけ、そして『冷戦は終わった』といいながら歴史問題で『ブラック・プロパガンダ』を展開して日本国内の分断、さらには日米の分断を謀る中国共産党の言動が、いかに欺瞞に満ちたものかを認識し、中国の仕掛ける『歴史問題』という名の外交・情報戦に対処しなければ、日本は単なる敗戦にとどまらず、いよいよ国家としての存立が危ぶまれることになりかねない」(p.315)。

0531/ハーバート・ノーマン(コミンテルン工作員)の所業-中西輝政による。

 中西輝政「『冷戦』の勝敗はまだついていない」同・日本の「岐路」(文藝春秋、2008)の紹介のつづき。
 中西は「コミンテルン工作員」であるハーパート・ノーマンのしたことを、四点にまとめている(p.312-3)。
 第一。石垣綾子(スメドレーの親友)・冀朝鼎都留重人らとともに、アメリカ国内で、「反日」活動をした。日本に石油を売るな・日本を孤立させよ等の集会を開催し、1939年の日米通商航海条約廃棄へとつなげた。
 第二。GHQ日本国憲法草案に近似した憲法案を「日本人の手」で作らせ、公表させる「秘密工作」に従事した。この「秘密工作」の対象となったのが鈴木安蔵。そして、鈴木も参加した「憲法研究会」という日本の民間研究者グループの案がのちにできる。
 中西によると、現憲法は、「GHQ憲法」というだけではなく、「ディープな」「陰の工作」を基礎にしている点で、「ノーマン憲法」、さらに「コミンテルン憲法」という方が「本質に近い」。
 コメントを挿むと、ここのくだりは<日本国憲法制定過程>にとって重要で、この欄でも複数回にわたって取り上げた、小西豊治・憲法「押しつけ」論の幻(講談社現代新書、2006.07)という本の価値・評価にもかかわる。小西は日本人たる鈴木安蔵らの研究会が当時の日本政府よりも<進歩的な>草案を作っていて(但し、現九条は含まず)GHQはそれを参照したのだから(アメリカ又はGHQによる)<押しつけ>ではない、と主張しているからだ。
 中西輝政が根拠資料としている文献も小西豊治の本を読んだあとに入手しているので、別の回にこの問題にはより詳しく論及する。
 少し先走れば、結論的にいって、中西の叙述は誤りではないが、より詳細な説明が必要かと思われる。小西豊治もノーマン・鈴木の接触に言及しているが(上記講談社現代新書p.126-7)、ノーマンを共産主義者・コミンテルン「工作員」と位置づけていない(又は知っていても隠している)小西は、ノーマンに「甘く」、ノーマン・鈴木の接触の意味を何ら感じていないか、その<解釈>が中西とは大きく異なる。
 第三。都留重人の縁戚の木戸幸一を利用して、近衛文麿の(東京裁判)戦犯指名へとGHQを動かした。近衛文麿は出頭期日の1945.12.16に自殺した。
 第四。「知日派」としての一般的な活動として、GHQの初期の日本占領方針の「左傾」化に大きな影響を与えた。
 以上。あと1回で終わるだろう。
 今回紹介したことに限らず、感じるのは、コミュニスト、当時でいうとコミンテルンやソ連・中国各共産党の謀略・陰謀の<スゴさ>だ。この点を抜きにして、いかなる(アジアの)第二次大戦史も書かれ得ないだろう。終戦直後も同様であり、またコミンテルンがなくなってからは主として各国共産党(とそれらの連携。日本では日本社会党(とくに左派)を含む)が謀略・陰謀を担うようになっていき、現在まで続いている、と考えられる(日本社会党は消失したが社民党・民主党「左派」として残存)。
 文藝春秋・スペシャル2008年季刊夏号/日本人へ-私が伝え残したいこと(文藝春秋、2008.07)というのが出版されていて、半藤一利・保阪正康の二人の名前(対談)が表紙にも目次にも大きく載っている。
 すでに書いたことだが、半藤は松本清張と司馬遼太郎に関する新書を書きながら、松本の親共産主義と司馬の反共産主義には何の言及もせず、骨のない戦後日本史の本を書き、かつ<九条の会>よびかけ賛同者、一方の保阪は朝日新聞紙上で首相靖国参拝によって「無機質なファシズム」が再来したと振り返られたくはないとか書いて小泉首相靖国参拝を強く批判した人物。
 こんな二人に、日中戦争や太平洋戦争についての<本質的な>ことが分かる筈はない。優れた又は愚かな軍人・政治家は誰だったとか等々の個別の些細な問題については比較的詳しくて何か喋れる(出版社にとって)貴重な=便利な人たちかもしれないが、この二人はきっと、<共産主義=コミュニズムの恐ろしさ>を何ら分かっていない
 文藝春秋は自社の元編集長(半藤)を厚遇しすぎるし、小林よしのりも<薄ら左翼>と評している保阪正康をなぜこんなに<昭和史に関する大評論家>ごとき扱いをするのか。不思議でしようがない。商売のために、多少は<左・リベラル>の読者・購買層を確保したいという魂胆のためだろうか。諸君!の出版元だが(そして「天皇家」特集で売りたいのだろうが)、文藝春秋も、言うほどには<とても立派な>出版社ではないな、と思う。

0526/中西輝政「『冷戦』の勝敗はまだついていない」の続き。尾崎秀実、都留重人…。

 一 5/28に紹介した中西輝政「『冷戦』の勝敗はまだついていない」(初出2006.09)同・日本の岐路(文藝春秋、2008.05)における「共産主義」論は、もちろん現在の共産主義にもあてはまるものとして読む必要がある。中国や北朝鮮が「共産主義」国又は「共産主義を目指す」国かどうかについて<理論的には>議論の余地があるだろうが、中国共産党にとってマルクス・レーニン(・毛沢東)がその思想的始祖であることに疑いはない。北朝鮮についても同様で、ソ連共産党(モスクワ)から「共産主義の子」として北朝鮮に戦後に<派遣>されてきたのが、金正日の父親、名前を変えた「金日成」(将軍)だった。
 日本国内の「共産主義」にもあてはまる。日本で最大の大衆的支持を得ている共産主義組織は日本共産党。自由主義国・日本だからこそ許容されている「自由」を最大限に活用しつつ、「自由と民主主義を守る」宣言とかを出す等々の<偽装>をし、多くの共産党員は表面的には紳士的・友好的を装いつつ、内心では又は仲間うちだけでは、表面的・対外的な言葉とは異なることを考え、語り合っている。大小の嘘・謀略・策略は、この政党と無縁ではない。
 二、以下は、5/29に続き、中西輝政の上の論文のp.302~の要約的紹介。
 1 ①1927年(昭和2年)、イギリスでのモスクワ・イギリス共産党の謀略の発覚(アルコス事件)、蒋介石による上海の中国共産党の弾圧(四・一二クーデター)により、スターリン・コミンテルンの対日本戦略の、「表面からは全く目に見えない一層ディープな秘密工作」等への見直しが迫られた(p.302-3)。
 ②上海はコミンテルンの「対日工作基地」で、「左翼」ジャーナリスト、「中国に同情的なふりをした」共産主義学者・文化人が集まっていた尾崎秀実、サルヌィニ、アグネス・スメドレー、陳翰笙、エドガー・スノー(のち『中国の赤い星』)ら(p.303)。
 ③昭和4-5年には、上海の「東亜同文書院」にコミンテルンの工作は浸透し、同書院の学生だった中西功(のち日本共産党国会議員)・西里龍夫の指揮で、学生たちは昭和5年(1930年)に「国際共産党バンザイ」・「日本帝国主義打倒」のビラを撒いた。この二人を「指導」していたのは、尾崎秀実。尾崎や中西功は日本共産党やモスクワと関係をもつ以前から中国共産党と「連携」しており、その中で「コミンテルンに間接的にリクルートされていった」(p.304-5)。
 ④尾崎秀実は「ただのスパイ」ではなく、「朝日新聞記者の身分で近衛内閣の中に嘱託として入り込み、…日本の国策を大きくねじ曲げた」。尾崎らは近衛を動かして支那事変を「泥沼の戦争」に陥らせ、「日本の破滅」・対米戦争「敗戦」へと向かわせる上で「重大な役割」を果たした。尾崎は、1937年(昭和12年)~1941年(昭和16年)、「共産主義者であることを隠し、『中国問題専門家』として近衛文麿内閣のブレーン」となり、「英米との衝突を策して南進論を唱え」、対米戦争に追い込む「大きな役割」をした(p.305)。
 2 ①<アジアの第二次大戦>をコミンテルン・中国共産党の「秘密工作、謀略」をふまえて総括すると、勝者はソ連・中国共産党・戦後に「大ブレーク」した「日本の左翼」で、敗者は日本・アメリカ・蒋介石だった。日本の「戦後左派」は自分たちを「戦勝国民」と思っていなかったか。朝日新聞の今日までの「執着」は、「左翼の勝利」という歴史観に発する。アメリカが敗者だというのは、日本を打倒してしまったため、戦後、朝鮮戦争・ベトナム戦争・中台対立で自ら「大変な苦難」を背負ったからだ(p.306)。
 ②なぜアメリカは、ソ連・中国共産党と対峙した日本を「叩く」という「愚かな選択」をしたのか。それへと「最大の役割」を果たしたのは、アメリカ国内での「コミンテルンや中国共産党の秘密工作員たちの活動」だった。彼らは真の意味で「アメリカの敵」で、同時に「日本の敵」、「蒋介石の敵」でもあった(p.306-7)。
 ③「日本の敵」の重要な人脈はゾルゲと尾崎秀実、二人を結びつけたアグネス・スメドレー、オーエン・ラティモア、そしてセオドア・ホワイト。ホワイトは、所謂「南京大虐殺」プロパガンダに協力したハロルド・ティンパーリと同様に、「中国国民党中央宣伝部国際宣伝処」に勤務していた。同「宣伝処」には、「アメリカの言論界に対し嘘をつくこと、騙すこと、中国と合衆国は共に日本に対抗していくのだとアメリカに納得させるためなら、どんなことをしてもいい」という「方針」すらあった(p.307-8)。
 ④ホワイトは戦後・1985年にも、「再び中国と組んで、日本を挟み撃ちにする」必要があるとの論文を書いた。アグネス・スメドレーは所謂<南京大虐殺>を「初めて大々的に」世界に宣伝したジャーナリストで、日米開戦・今日の日中の「歴史問題」に果たした「ネガティブな役割」は非常に大きい(p.308-9)。
 ⑤ラティモアは1941年11-12月、ルーズベルト大統領の「個人代表」として重慶・蒋介石政府の「顧問」をしていた。ロークリン・カリーは「中国担当大統領補佐官」だが、同時に「コミンテルンのスパイ・エージエント」だった(1995年に確証された)。1941年(昭和16年)の開戦直前の日米交渉で開戦回避案で妥結する可能性が出てきた際、その可能性を「潰す」ためにカリーは重慶のラティモアに電信を打ち、それに従ったラティモアの蒋介石説得により、蒋介石はルーズベルトに、「交渉を妥結しないように迫る電文」を送った。この電文は最低でも二通あり、日付は11/24と11/25。対日本最後通牒のハル・ノートは11/26だった。ラティモアが重慶にいなければ、日米交渉は妥結していた可能性は大だった。ラティモアと(コミンテルン工作員)カリーの関係こそ、「日本滅亡」への「恐るべき対日謀略の工作線」だった(p.309-310)。
 ⑥ハル・ノートの原案を作ったもう一人のホワイト、ハリー・デクスター・ホワイトも「日本滅亡への引き金」を引いたが、「日本の敵」の「真打ち」は、ハーバード・ノーマンだ。カナダ外交官・知日派学者のノーマンはマルクス主義者で「ほぼ間違いなくコミンテルン工作員」だった。留学中にイギリス共産党に入党した。「経歴をすべて秘密にして」カナダ外務省に就職し「日本専門家」として出世していくが、ハーバードにいた都留重人と知り合ったのち、1940年(昭和15年)に日本駐在となった(そして『日本における近代国家の成立』を刊行して一躍著名になる)。日米開戦後にアメリカに戻る途中、アフリカの港で都留重人と偶然に遭遇したが、都留はノーマンに、ハーバードに残したアメリカ共産党関係極秘資料の処分を頼んだと、のちに都留を取り調べたFBI捜査官は議会で証言した(p.310~311)。
 ⑦都留重人を「アメリカ共産党の秘密党員」と見ていたFBIは、ノーマンが帰国後にハーバードの都留の下宿に寄ったことを確認した。ノーマンは<マッカーシー時代>に「スパイ疑惑」を追及され、1957年に自殺した(p.311)。
 ここで区切るが、まだ終わっていない。都留重人(1912~2006)は、一時期、朝日新聞の論説顧問。雑誌「世界」(岩波)の巻頭を飾っていた記憶もあり、丸山真男よりも、<進歩的文化人・知識人>の一人だったという現実感は残っている。アメリカ・ハーバードでの前歴を知ると、戦後の彼の言動も不思議ではない。戦後の<左翼>的雰囲気は、こういう人を大切にしたのだ。一九七〇年代に、一橋大学の学長にすらなる。まさに<戦後・左翼の勝利>という時代があったし、その雰囲気は、今日まである程度は(かつて以上に?)継続している。

0522/中西輝政「『冷戦』の勝敗はまだついていない」による、コミンテルン・中国共産党の対日工作。

 一 第二次大戦は<民主主義対ファシズム>の戦争だった、良き民主主義陣営は勝ち、悪しきファシズム陣営は負けた。と、こう学校教育で自分自身が教育されたかどうかの明瞭な記憶はない。ファシズムという語は小学生や中学生にはまだむつかしくて、「軍国主義」から「民主主義」へと時代・世の中は変わった、という程度のことは少なくとも教育されただろう(現在の歴史や公民等の教育用書物がどう書いているか興味があるが、別の機会に確かめてみたい)。
 しかし、どうやら上の冒頭の文のような内容で第二次大戦を理解するのが戦後の少なくともタテマエのようだ。そしてそれは、勝者の一国であり日本を占領したアメリカの歴史観でもあるようだ。
 もっとも、戦後当初又は1970年代頃までは別として、現在でも戦前(昭和)日本について「ファシズム」国家という性格づけがなされ続けているかのかは勉強不足で知らない(この点も、現在の教科書類を別の機会に確かめてみたい)。丸山真男をはじめとして、マルクス主義歴史家たちは<天皇制ファシズム>を語っていたはずなのだが、かかる概念はまだ生きて?いるのだろうか。かりにそうだとすれば、日本における「ファシズム」とは、いかなる要素・いかなる部分が「ファシズム」であり、いかなる人々が「ファシスト」だったのか丸山真男の、学問とは思えないファシズムの「担い手」・「社会的地盤」論については言及したことがあり、一笑に付しておく-丸山真男「日本ファシズムの思想と運動」の5参照)。
 二 迂遠な又は余計なことを書いたが、中西輝政「『冷戦』の勝敗はまだついていない」同・日本の「岐路」(文藝春秋、2008)所収を読んで、第二次大戦の勝利者たちが自分たちに都合のよい<第二次大戦観>(つまり<民主主義対ファシズム>の戦争だった…等の見方)を作りだしたのであり、将来においてかかる歴史観は書き換えられる可能性もある、と思った(読んだのは初めてではなくそう思ったのも最近が初めてではない可能性があるが、こうして文章に残すのは初めてだろう)。
 単純に考えても上の如く、日本はいかなる意味で「ファシズム」国家だったのか、ソ連はいかなる意味で「民主主義」国家だったのか、といった疑問はただちに出てくる。
 1 中西輝政によれば、しかし、このような疑問程度では済まない。
 中西によると、「第二次世界大戦の真の本質」は、「共産主義勢力が、公然たる革命運動によっては成し得ないことを戦争や謀略によって実現しようとした」ことにある(p.296)。
 2 以下、中西の叙述の<流れ>を大掴みに紹介してみる。
 ロシア革命(1917年)により生まれた共産主義ロシアは、①「自由主義国家」の諸自由を利用して「秘密工作や謀略、宣伝」により「知識人やマスコミを反権力的・反国家的になるように煽動し」、その国の「転覆」を図る、②「自由主義国家間の亀裂・対立」に「直ちにクサビを打ち込み」、必要な場合は「自由主義国家同士の戦争や紛争を起こ」すことにより、自国を維持しようとした。
 1910年代末期にコミンテルンを創設してドイツ等で革命を起こそうとしたが失敗したためアジアに目を向け、「国際共産主義運動」のため(=ソ連防衛のため)中国共産党を設立し(1921年)、「国共合作」も実現させた(1924年)。インド独立運動に対しても積極的な(共産主義導入)工作を展開したが、これは成功しなかった。
 日本は、国際社会において、必然的に「共産主義に対する『防波堤』とならざるを得なかった」。シベリア出兵の動機も、日本の「領土的野心」ではなく、「共産主義の対南膨張」の阻止だった(以上、p.296-7)。
 アメリカとソ連に挟撃される日本、これが「大東亜戦争の本質的構造的原因」だった。新興大国・アメリカは「アジアにおける『ソヴィエトの脅威』に一切気付こうとせず」、むしろ日本の動きを「膨張への野心」・「日本軍国主義の発露」だと疑った。ここに、「戦前日本の大きな苦悩」があり、「日米関係の大きな悲劇の出発点」があった
 レーニン以来のソ連の最大の「敵視」国は、日本だった。最近接の「帝国主義」国だったし、日ロ戦争への「怨念」と「人種差別意識」があったからだ。そこで、日本を「自由主義国」の中で「最も弱い環」と見なして「日本をターゲットにしたアジア戦略」を立てた。
 日本は1925年(大正14年)に日ソ基本条約を締結し、いち早くソ連承認・外交関係の樹立をしたが、ここには「日本が一貫して、共産主義の謀略や浸透工作に主要国の中で最も鈍感」だったこと、「当時、共産主義とソ連の工作はすでに広く深く日本国内にエリート層を中心に浸透していた」ことが示されている。日本は治安維持法を条約と同時に制定したが、この条約により日本の「赤化」は「さらに急速に進」み、治安維持法は「日本の国家中枢への工作の浸透には全く無力だった」。
 治安維持法は「本質的には対外防衛、国家安全保障のための措置」だったが、「欧米の反共法」と比較すると「実質的には緩やかな」、「甚だ不備な」ものだった。「思想」のみを問題にしたため、「共産主義者の『偽装』を簡単に見逃し、『天皇制』支持を唱えさえすれば…多くの『偽装転向者』を社会のエリート層に受け入れてしまった」。このことは、日本にとって「誠に不幸な歴史の巡り合わせ」だった。
 ロシア革命後半年以内の「米騒動や過激な労働争議」の続発、「各種の過激な破壊衝動」の広がりは、日本のインテリ層・エリート層に共産主義が「進歩的」と映ったこともあるが、「大規模な対日秘密工作」という要因も大きかった。
 その工作の代表例が、尾崎秀実〔一時期、朝日新聞社員〕だ。1922年(大正11年)に日本共産党=コミンテルン日本支部が発足したが、主要な活動家の多くは、尾崎も入会した「東大新人会」で、この会等に集まった東京帝国大学の共産主義シンパの学生たちは「すぐに共産党を離れ、直接にモスクワの指令で動く工作員」になった。
 彼らの多くは昭和10年代に「革新官僚」になる。「企画院事件」も起こした。また、陸軍軍人もドイツ留学や東大国内留学(「依託学生」)によって「共産主義の洗礼を受け」、昭和10年代に「陸軍統制派」として力を奮った。代表格は池田純久で、その思想的背景の一つには、「天皇制」と「共産主義」は共存できるとの北一輝の論があつた。「軍人や高級官僚に蔓延」したかかる「思想的混迷」が日本を「あの悲劇に導いた最大の要因の一つ」だった。「当然、ソ連・中国共産党の工作はそこを突いてきた」。
 エリート軍人の多くは「直接、意識的に」コミンテルンと関係をもったわけではないが、「共産主義者」・「コミンテルン・エージェント」たることを隠した尾崎秀実のような人物の「接近を許し、無意識のうちにその工作を受け入れ、モスクワや延安の意図に沿って動かされた」者は「少なくなかったはず」だ。かかるモスクワ・延安(=ソ連・中国共産党)の工作は「各ネットワーク全体を体系的にオーケストレート(総合化)して徐々に日本を、対蒋介石そして英米戦争へと誘い込んでいった」。「満州事変前から」、かかる「大目的をもったコミンテルンや中国共産党の対日工作の影響が、日本の指導者層には、それこそ充満していた」(以上、p.298-302)。
 以上で区切って、さらに続けるが、内容的になかなか空恐ろしい叙述だ。むろん、ソ連解体前の戦後のソ連共産党や現在までの中国共産党が以上で記した時期のような「工作」を、日本と日本人(官僚、政治家、有力マスコミ関係者、有力学者等々)に対して行ってこなかった、とは言えないことは明らかだ。

0264/荒木和博・拉致-異常な国家の本質(2005)を読む。

 荒木和博・拉致-異常な国家の本質(勉誠出版、2005)は北朝鮮拉致被害者救出運動に密接に関与している人の本で、詳しい情報・当事者だからこその指摘・主張がある。
 それとともに興味を惹いたのは荒木の歴史観・戦争観だ(p.103-)。
 1.「20世紀の歴史に関する私の基本的見方」は同世紀の「最大の思想的害悪はマルクス・レーニン主義(科学的社会主義あるいは共産主義)であるということだ」。ずばり全く同感だ。
 荒木は根拠資料を示すことなく「この思想によって20世紀に命を失った人が億を下らないのは言うまでもない」と述べる(p.104)。いくつかの本に従って8000万~2億人と書いてきたようにが、<少なくとも1億人>以上というのは、おさらく確実なところだろう。
 2.敗戦の原因につき、私はきちんと整理して考えたことはないが、長らく、「悪い戦争」又は「侵略戦争」だったから負けたのではなく、結局は軍事力等を支える技術・科学を含めての「国力の差」だった、と感じてきたように思う。
 荒木はこう言う-「侵略戦争をやったから負けた」、「陸軍が暴走し勝算のない戦いに突入し物量の差で負けた」とかなのではなく、a「当時の政治家や軍の指導層の切迫感のなさ、無責任」と、b「それに乗じたゾルゲ・尾崎秀実などの謀略の成功」にあった(p.105)。
 また言う-「日本の最大の過ちは国家としての明確な戦争指導方針を欠いたこと」だ、あの戦争は「謀略に乗せられ、なし崩し的に突入せざるをえなくなった、失敗した自衛戦争」だった(p.107)。
 中西輝政等も言及しているが、中国国民党を同共産党と組ませて抗日に向かわせたコミンテルンの「戦略」(又は謀略)、米国ルーズベルト政権に入り込んでいた共産主義者たちの反日・親中姿勢等々が<日本敗戦>の大きな原因だったようだ。おそらくは上の荒木の認識は、教科書的な認識ではない。
 しかし、戦時中にもまた「共産主義という悪魔」の謀略があったことはたしかで、<情報戦争>に負けた、彼らの<情報謀略>に勝てなかった、という側面があったのは事実だろう。
 ソ連共産党のエージェント(スパイ)だったとされるゾルゲにつき、篠田正浩監督の映画<スパイ・ゾルゲ>(2003)は、観ていないのだが、彼と尾崎秀実らをドイツ・ナチスや日本軍国主義と闘った<ヒーロー>の如く描いているらしい(6/18の潮匡人氏に関する部分参照)。そのような映画の製作・上映もまた、今日の、一つの<情報謀略>ではないかと思われる。

0249/日本共産党員<嶋1971>氏が何か言っているようだ。

 頻繁にではなく、ときに、「秋月瑛二」のウェブ上での扱いに関心をもって検索してみることがある。
 
すると、私が6/11に書いた「嶋1971・たしかな野党を応援し続ける勇気を!というブログ」に対する<嶋1971>氏の6/16付の反論らしきものを見つけた。
 個別のブロガー?相互のやりとりはこうして公にするものではないかもしれないが、私自身が蒔いたタネなのでやむをえない。さらに反応しておくことにする。
 嶋?氏の文は同氏のブログ中にではなく、なぜか2チャンネル上でなされている。発表媒体の問題はともかく、同氏の文は正確には反論文ではない。
 私は「嶋1971・たしかな野党を応援し続ける勇気を!」というブログの運営者が「日本共産党の支持者」とか「私は支持者とはいえ日本共産党の主張・政策に共感を持つ時も持たない時もある…」とか<ブロフィール>で書いていることについて、「大ウソ」であり、日本共産党員だとほぼ間違いなく言えるとしてその理由も書いた。
 これについて嶋氏は<私は絶対に日本共産党員でない>と主張してくるなら反論だろうが、同氏は「私は秋月瑛二氏について、私のブログへのリンクを無断で貼ってこない事を理由に「紳士」と感じていたが撤回する事にした。/彼は自身のブログで私の事を「自己紹介でウソをついている。」などと書いたためだ」としか反応していない。要するに、批判してきたから「紳士」との印象を撤回する、というだけのことだ。このことは、嶋氏が自分が日本共産党員であることを認めたに等しい、と私は理解する。
 なお、次のような抗議・不服らしい文も付いている。→「一般ブロガーの自己紹介に対しては「はあ、そうですか」程度に受け止めるのが普通だと思う。
 ここでの「一般ブロガー」の意味は私には解りにくいが、それは別として、はたして、上のように「自己紹介に対しては「はあ、そうですか」程度に受け止めるのが普通」なのだろうか。
 むろん殆どの場合、
「はあ、そうですか
という程度で受けとめるしかない。ブロガーの自己紹介の真否をいちいち確かめる方法などありはしないからだ。また、いちいち真偽につき質問をしまくるヒマな人もいないだろう。
 だが私は、いちおう、「反共産主義」を一つの柱にしたブログを書いてきている。そして、ネット上には所謂ネットウヨのみならず、九条護憲派や日本共産党員のブログ(ネットサヨ?)が意外に多いことに気づいているのだが、そうした関心を元来もつ者が、ほとんど明瞭に共産党員であることが確実な経歴を書き本文も書いているブロガーが、自己紹介欄で
「日本共産党の支持者」・「「代々木レッズ」のサポーター」などと書いているのを知るに至った場合、「ウソ」をつくな、と感じ、その旨を自分のブログ・エントリーで書いても、いかなる非難の対象にもならないと考える(個別のブログを対象にしてよかったかという<政策的判断レベルの>問題は私も感じているが、それを禁止するルールはない筈だ。そうでないとコメント等もできなくなる)。
 嶋氏は私を「卑怯」だともいう→秋月氏は「自分のブログが私のブログよりも「週間IN」の数が多いのをいい事に、私の名誉を傷付ける事を書くのだとしたら卑怯だと思う。/私の秋月…氏への評価は「卑怯」とする。
 ご自由にご判断を、という所だが、私は「
自分のブログが私のブログよりも「週間IN」の数が多いのをいい事に」
嶋氏の自己紹介ぶりを批判したわけでは全くない。嶋氏のブログが上位にあっても同じことをしただろう。従って、「だとしたら」という前提条件が間違っているので、「評価は「卑怯」とする。」と断定的文も取消ししておいて欲しいものだ(どうでもいいが)。
 同じ前提に立って、秋月氏は「自分のブログよりも「週間IN」が少ないブロガーしかたたく事が出来ないほど肝っ玉が小さいんだろう」とも書いている。ここまで来ると、気の毒としかいいようがない。
 なぜ自分が批判の対象になったのかについて、プロフィールに「ウソ」を書いたのが原因であることを忘れたくて、自分のブログの方が(特定のランキングサイトの)人気順位が下だから批判されたのだ、と別の理由によることにしたいのだ(こういうのを心理学的に何て言うのだろう?)。
 繰り返しておくが、「ウソ」を明瞭に感じたからこそ取り上げたのだ。考え方が違うからといって、日本共産党員と堂々と名乗っている者のブログの内容を個別的に批判するつもりは(少なくとも現時点では)ない。ましてや、ランキングが偶々下位のブログだから批判したのだろうと想像するのは、哄笑に値するほどの、<げすの勘ぐり>だ。
 いま一つ、秋月氏も「記事捏造の記者と同じじゃないかと思う」と書いている。これは意味不明だ。嶋氏に関して、捏造をした覚えはない。すべて嶋氏が公にしている情報をもとに書いた。謂われなき誹謗中傷とは、きっと、こういうのを言うのだろう。そして「科学的社会主義」の政党の党員も、こういう事実無根の誹謗を平気で書いているわけだ。
 以上だが、2チャンネル上の他の人の情報だと、「嶋1971」氏は男性らしく、しかも本名まで書かれていた(真偽は知らない)。じつは私は文章の感じから、女性かと思っていた。
 ついでに、きわめて例外的だが、ブログの内容について、この人のものに関してのみ2件コメントしておく。
 「君が代」斉唱時不起立教員解雇訴訟東京地裁判決(東京都側勝訴)が出たあと嶋?氏の上記ブログ6/21は書く-「「君が代」の歌唱や伴奏なんてやりたい人だけにやらせればいいじゃない、と思います」。
 さすが、日本共産党員。いや、何という単純・幼稚さ。
 6/24にいわく-「私は今後9年以内2016年までに、日本共産党が国政で政権入りすると予想しています」。根拠は定かでなく、米国の通告による日米安保の廃棄が前提になっているようだ。
 私、秋月の予想では、現状並みか、それ以下の「泡沫政党」化している(=「諸派」の一つとなっている)。そして消滅(=解党)への途を順調に歩んでいる
 日本共産党の勢力が伸張する根拠・条件など、どこにもない。かりに万が一一時的に議員数が増えることがあっても与党や他党の失策に対する批判票の受け皿になるだけのことで、積極的な日本共産党支持者が増えたわけではなく、ましてや社会主義(・共産主義)の理想が浸透してきた、などというような冗談話は全くありえない。 
 日本共産党とその追随勢力に未来はない。
 日本共産党は1922年にコミンテルン(国際共産党)日本支部としてロシア(ソ連)共産党の理論的・財政的援助のもとで、マルクス・レーニン主義という外国産の「悪魔の思想」に依拠して設立された。
 マルクス・レーニン主義を基礎とするという点で、共通の祖先を持つものに、旧ロシア(ソ連)共産党のほか、中国共産党、北朝鮮労働党(金日成父子)、カンボジア・旧ポルポト派、東欧の旧ルーマニア共産党(チャウシェスク)、旧東独社会主義統一党(ホーネッカー)等々、日本のかつてのブンド(共産主義者同盟)、日本赤軍、現在の(革共同)革マル派・中核派等々がある。
 同じ「親戚」のフランス共産党は今年6月の下院議員選挙で22→15と議席数を減少させた(第一回投票後は9~13の範囲内で半減の予想だったので、それに比べればまだ「善戦」した)。かつて1980年代、仏社会党とともにミッテラン大統領を支えた頃に比べると、見る影もない。イギリス、ドイツにはもともと(戦後~)、イタリアには今や、「共産党」と称する政党は存在していない。

0206/雑誌・幻想と批評(はる書房)は共産主義との闘いを目指す。

 雑誌・幻想と批評(はる書房)の1号~4号(2004~2006)を所持している。この雑誌は、<共産主義にとどめをさすことを目的とする>雑誌だ。
 1号の黒坂真「共産主義国の戦争政策とマルクス主義経済学」は、明確に日本共産党の、レーニンに誤りはなくスターリンになってソ連は「社会主義(をめざす)国」でなくなったとの日本共産党の「理論」・「宣伝」を否定している。
 上の点が論文の主題ではないが、1919年のロシア(ソ連)共産党綱領は61年まで続いており、スターリンの権力継承によって変えられていない。レーニンはポーランド侵攻(戦争)や富農等の粛清を命令している。要するに「スターリンはレーニンの正当な継承者」で「スターリンがレーニンの理論・思想に依拠して大虐殺を断行した」、という(p.159)。
 同誌上の兵本達吉報告も、ソ連崩壊は特定個人の誤りによるのではなくマルクスに遡る「システムの失敗」だとの学者の論や、「ロシアの悲劇の最大の責任者はレーニンです」とのロシア人のNGOの言葉を紹介している(p.123-、p.137)。現在の日本共産党のソ連に関する主張は「願望」又は「言い逃れ」だろう。
 上の黒坂論文は日本共産党員たる経済学者の今の動向にも触れていて興味深い。
 かつての社会主義国の悲惨な経済・凄惨な歴史をまともに研究せず、かといって日本の国家や革命を正面から論じることもなく、資本主義経済の内在的問題を指摘して「維持可能な内発的発展」等を喧伝し、「地方分権」・「まちづくり」、「民主主義」・「人権」を唱えている、という。そして、「党員であることから得られる人脈」を維持し、雑誌・前衛や経済に起用してもらうために「言論の自由」(学問の自由)を自ら放棄している、とまで指摘している。
 同様のことは経済学者に限らず、(とくに欧州・ロシア圏に関する日本の)歴史学者(や欧米思想に影響を受けた、とくにマルクス主義に親近的な法学者)についても言えるのでないか。
 1号の創刊の辞によると、ソ連共産党により殺害された者6200万(1997、モスクワ放送)、KGBによる銃殺死者は本部のみで350万、地方支部も含めて500万(推定)、全世界の共産主義による被殺害者8000万-1億(1998、パリでの「共産主義フォーラム」)とされている(()は典拠)。また、「多くは「裁判も抜きで」「その場で」「見せしめのために銃殺」(レーニン)され」たが、これらの人びとの「九九・九九%が、無実の罪であった」という(1998.01.19元KGBシェバルシン議長代行次官が読売新聞記者に言明)。
 スターリンがすでに実権を握っていた頃にコミンテルン(国際共産党)日本支部として日本共産党が結成され、スターリンのもとで三二年テーゼも作成され、日本支部(日本共産党)に伝えられた。
 こうして生まれた、外国産の思想・マルクス主義(「科学的社会主義」)の政党・日本共産党のどこに<未来>があるのか。日本共産党とその追随者に未来はない。
 
20歳代~30歳代の若い人たちよ、日本共産党に近づくな、日本共産党に入党するな。すでに入党している人は、すみやかに離党を。まだ間に合う。虚偽と腐臭に充ちた「思想」と政党に、せっかくの、一度だけの人生を賭ける意味は全くない。お願いだから、せっかくの貴重な人生を無駄にするな、と心から訴えたい。

0069/産経4/13-ゾルゲの指示で、尾崎秀実の助けも借りて情報収集したコミンテルン参加中国人。

 4/11の22時台に中西輝政の叙述に依拠してコミンテルンの宣伝工作に言及したが、産経4/13に、次のような、上海・前田徹特派員の記事がある。産経購読者には不要だろうが、紹介しておく。
 中国の著名経済学者・中国国際文化書院々長の某の大半が散逸していた自伝が見つかり、次のことが明らかになった。この人(陳幹笙)は1926年にコミンテルン(国際共産主義運動)に加わり、上海で「工作員として活動を始め、表向き…国民政府所属社会科学院で学者として従事する一方、対国民政府対策と同時にゾルゲと共に対日工作に関与」した。上海にいたアグネス・スメドレーの紹介でゾルゲと知り合った。「ゾルゲはスメドレーを通じて陳氏に日本で活動するよう指示」したので、彼は妻と共に来日し、日本で情報収集にあたったが、「その際、当時、朝日新聞記者だった尾崎秀実の支援を受けていた」。1935年04月にモスクワからの某と日本で密会する予定だったが、その某が上海でスバイ容疑で逮捕されたことを知って離日し、スメドラーらに匿われた後モスクワへ脱出し、さらに米国で、表向き「太平洋問題調査会(IPR)」の仕事をしつつ「海外中国人向け雑誌の抗日宣伝活動に傾注した」。
 この種の情報収集や宣伝工作は今日でも行われているに違いない。海上自衛隊員の中国人配偶者の中に、その類の任務をもつ者がいても不思議ではない。

0061/コミンテルン直結のミュンツェンベルク・マシーンによる「大いなる嘘」の宣伝工作。

 諸君!5月号(文藝春秋)の中西輝政論文のタイトルは「「大いなる嘘」で生き延びるレーニン主義」だ(元来は連載ものの第19回。p.217-227)。全文引用したい程だが、以下に要約又は抜粋してみる。
 ソ連型共産主義という共産主義の特殊バージョンは崩壊したが、今日の東アジアにつき、共産主義の本質を見失ってはならぬ。その共産主義の本質とは「対外的には、極度にシニカルで同時に意図と接線を隠した系統的な「敵対的宣伝」と、秘密警察的な国内支配」だ。民主主義諸国でも対外宣伝工作を行っている。だが、今日の米国での対日慰安婦決議問題の根源でもあるが、共産党による対外国世論工作は「全く次元を異にした深さと規模」をもつ。マルクス主義は死んでも死なない。  レーニン主義の本質とは、1.西側諸国の自由の徹底的利用による宣伝、2.西側経済人を「利潤という餌」で取り込んで西側での世論工作の先兵とすること、3.共産主義のためには「大いなる嘘」がつねに必要だとする、道徳を排しシニシズムに徹した宣伝・煽動・洗脳、だ。
 ウィリー・ミュンツェンベルク(1889-1940)は共産主義のもつ「倒錯とシニシズムの世界」の王者だったが、彼の下で働いたアーサー・ケストラーはその「世界」から帰還し、「人間性と普遍的価値に目覚め共産主義宣伝の危険を初めて告発した」。
 1920年代からの「太平洋問題評議会」(IPR)による米国での反日宣伝活動はミュンツェンべルクが仕掛けた。この宣伝工作により、米国の世論は1938年には方向を決していた。
 ミュンツェンべルクは1921年にレーニンからコミンテルンによる「秘密宣伝」のほぼ全権を委ねられ、日本共産党・モスクワ経由の指令系統とは別に、1323年の関東大震災直後には救援を名目にコミンテルンの地下ネット構築に着手した。蝋山政道、有沢広巳らが始めた研究会に高野岩三郎、土屋喬雄、蜷川虎三千田是也らが参加し、周辺には平野義太郎、勝本清一郎、小林陽之助、野村平爾らがいたが、彼らは欧州とくにベルリンに留学していた日本の若い国費留学生で、すでに大正時代末から「ミュンツェンべルク・ネットワーク」と意識的・無意識的に関係を持ったと見られ、在独日本軍人・外交官・ビジネスマン等々にも「取り込み」の魔手が延びていたと見られる。ソ連は1920年代から一貫して日本を敵視していた。ミュンツェンべルクの工作は英国や米国にも及び、とくに今日にもその影響が残る映画界・演劇界にも多大の資金が投入された。こうした工作は1930年代の容共的人民戦線運動の源流でもあった。
 トーマス・マンアンドレ・ジッドは「クレムリンの糸」に気づいて訣別したが、無意識にコミンテルンの戦略に利用された著名人も多かった。戦後日本の「進歩的文化人」についても将来は同様の跡付けが可能となろう
 カール・ラデックはミュンツェンべルクの兄貴分で、「「嘘の芸術」を極限まで高めた「革命的シニシズム」が、宣伝とメディア操作の核心である」ことを植えつけた。ラデックはKGB創設者ジェルジンスキーの「文字通りの同志」だった。
 ミュンツェンべルクはベルリンでゾルゲを取り込み、訓練していたアグネス・スメドレーと結びつけたと考えられ、ゾルゲが日本に来るとき、スメドレーが上海に赴いたとき、二人はいずれもドイツの高級新聞の特派員証を手にしていた。
 彼のマシーンの中にはオットー・カッツもいて、カッツはドイツ国会議事堂放火はナチス自らが共産党を弾圧するために行ったとのベストセラー本を書いた。カッツはロンドンで出版人・ゴランツと逢うが、ゴランツはのちに、ハロルド・ティンパーリの「南京大虐殺」の種本(戦争とは何か)を出版した。ティンパーリは中国国民党のエージェントであったのみならず、コミンテルン又は「ミュンツェンべルク・マシーン」とも「深い繋がり」があったと見られる。
 マシーンの一員だった英国のマリーはアンソニー・ブラントをリクルートし、ブラントがケンブリッジでハーバート・ノーマンをスカウトした。ノーマンは帰国後IPRに拠って反日宣伝に従事し、GHQの占領政策の「左傾化」の中心人物になった。
 孫文の未亡人・宋慶齢は「ミュンツェンべルクのエージェント」だとの証言もある。だとしたら、国民党・共産党間の中国政治史上の多くの疑問は氷塊し、中華人民共和国そのものが「対外宣伝のための「大いなる嘘」」であることが明瞭になる。
 中西輝政氏はVoice5月号(PHP)でも伊藤貫氏との対談で(p.96以下)、「とくに怖いのは中国の仕掛ける対日心理戦で、日本人の世論操作」だ、「日本のメディアはアジア大陸からの操作にとても弱い」、日本の「エリート層のなかにも工作が急速に浸透しています。この十年で、ひたひたと進んでいる空気を感じる」等々と、中国の米国への働きかけも含めた<情報戦>に正面から言及している。
 かつての歴史もまさに今日の諸状況も、共産主義者又は共産党の公然・非公然のプロパガンダ=「大量宣伝工作」によって作られたし、かつ作られている可能性が極めて高い。  北朝鮮による日本国民の拉致や核実験実施が明白になっても、なお無邪気さ・お人好しさ・脳天気さを失わない日本人がいる。平然と人の生命を奪い、平然と微笑とともに「大嘘」を吐く者たち=共産主義者(およびその強い影響を受けた者たち)が現実には存在することを、強く、強く、胆に銘じておくべきだ。
 ちなみに、ゾルゲ(1895-1944)とは所謂「ゾルゲ事件」で検挙され、1944年に尾崎秀実とともに断罪されたスパイ・リヒャルト・ゾルゲ。スメドレーは、中国寄り(=反日)の報道を世界に流し続け、中国贔屓(=反日)の本も書いた米国人。1947年にスパイ容疑が浮かんだが、英国に逃亡した、という(1892-1950)。
 ついでに、余計ながら、また多少は上品でない気もするが、渡部昇一=中川八洋・皇室消滅(ビジネス社、2006)のp.26-27に、中川のこんな、本質を衝く言葉がある。
 「共産党には、その教理から、正直であることは戒律的に許されていません。他人を騙すことをやめることは共産主義者として信仰義務の放棄です。共産主義者として、嘘、嘘、嘘は、毎日、実践しなくてはなりません
」。

0011/日本共産党よ、32年テーゼ・50年批判はスターリンの時代ではなかったのか。

 腑に落ちない、こと又はもの、は沢山あるが、ソ連崩壊に関係する日本共産党の言い分は最たるものの一つだ。
 同党のブックレット19「『社会主義の20世紀』の真実」(1990、党中央委)は90年04月のNHKスペシャル番組による「社会主義」の総括の仕方を批判したもので、一党独裁や自由の抑圧はスターリン以降のことでレーニンとは無関係だなどと、レーニン擁護に懸命だ。昨日に触れたが、2004年の本で不破哲三氏はスターリンがトップになって以降社会主義から逸脱した「覇権主義」になったと言う。そもそも社会主義国ではなかったので、崩壊したからといって社会主義の失敗・資本主義の勝利を全く意味しない、というわけだ。
 だが、後からなら何とでも言える。後出しジャンケンならいつでも勝てる。関幸夫・史的唯物論とは何か(1988)はソ連崩壊前に党の実質的下部機関と言ってよい新日本出版社から出た新書だが、p.180-1は「革命の灯は、ロシア、…さらに今日では十数カ国で社会主義の成立を見るにいたりました」と堂々と書いてある。「十数カ国」の中にソ連や東欧諸国を含めていることは明らかだ。ソ連は社会主義国(なお、めざしている国・向かっている国も含める)でないと言った3年前に、事実上の日本共産党の文献はソ連を社会主義国の一つに含めていたのだ。判断の誤りでした、スミマセン、で済むのか。
 また、レーニンの死は1924年、スターリンが実質的に権力を握るのは遅くても1928年だ。とすると、日本共産党によると、1928年以降のソ連は、そしてコミンテルン、コミンフォルムは、社会主義者ではなく「覇権主義」者に指導されていたことになる。そしてますます腑に落ちなくなるのだが、では、コミンテルンから日本共産党への32年テーゼはいったい何だったのか。非社会主義者が最終的に承認したインチキ文書だったのか。コミンフォルムの1950年01月の論文はいったい何だったのか。これによる日本共産党の所感派と国際派への分裂、少なくとも片方の地下潜行・武装闘争は非社会主義者・「覇権主義」者により承認された文書による、「革命」とは無関係の混乱だったのか。
 1990年頃以降、東欧ではレーニン像も倒された。しかし、日本共産党はレーニンだけは守り、悪・誤りをすべてスターリンに押しつけたいようだ。志位和夫・科学的社会主義とは何か(1992、新日本新書)p.161以下も参照。  レーニンをも否定したのでは日本「共産党」の存立基盤が無になるからだろう。だが、虚妄に虚妄を重ねると、どこかに大きな綻びが必ず出るだろう。虚妄に騙される人ばかりではないのだ。
 なお、私的な思い出話を書くと、私はいっとき社会主義・東ドイツ(ドイツ民主共和国が正式名称だったね)に滞在したことがある。ベルリンではない中都市だったが、赤旗(色は付いてなかったがたぶん赤のつもりのはずだ)をもった兵士のやや前に立って、十数名の兵士を率いて前進しているレーニン(たち)の銅像(塑像)が、中央駅前の大通りに接して立っていた。
 数年前に再訪して少し探して見たのだが、レーニン(たち)の銅像が在った場所自体がよく分からなくなっていた。
 レーニンまでは正しくて、スターリンから誤ったなどとのたわけた主張をしているのは日本共産党(とトロツキスト?)だけではないのか。もともとはマルクスからすでに「間違って」いたのだが。
ギャラリー
  • 1181/ベルリン・シュタージ博物館。
  • 1181/ベルリン・シュタージ博物館。
  • 1180/プラハ市民は日本共産党のようにレーニンとスターリンを区別しているか。
  • 1180/プラハ市民は日本共産党のようにレーニンとスターリンを区別しているか。
  • 0840/有権者と朝日新聞が中川昭一を「殺し」、石川知裕を…。
  • 0801/鳩山由紀夫は祖父やクーデカホフ・カレルギーの如く「左の」全体主義とも闘うのか。
  • 0801/鳩山由紀夫は祖父やクーデカホフ・カレルギーの如く「左の」全体主義とも闘うのか。
  • 0800/朝日新聞社説の「東京裁判」観と日本会議国際広報委員会編・再審「南京大虐殺」(明成社、2000)。
  • 0799/民主党・鳩山由紀夫、社民党・福島瑞穂は<アメリカの核の傘>の現実を直視しているか。