秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

コミュニズム

1854/左翼は「ファシスト」の存在・ファシズムの再来可能性を必要とする。

 この欄で2016年に、青木理が同年7/24夜のテレビ番組で「歪んだ民主主義からファシズムは生まれるとか言いますからね」とか言い放った、と紹介している。
 日本の左翼にとって、その歴史観・政治観の形成にとって、「ファシズム」・「ファシスト」=絶対の悪という公式は不可欠なのだ。
 もっと幅広く、歴史的または欧州史または欧米思想の観点から、この欄ですでに紹介して言及したように、François Furet, The Passing of an Illusion - The Idea of Communism in the Twentieth Century - (原仏語版1995年) は、<第6章/共産主義とファシズム>の中で、つぎのように述べていた。
 前回の投稿の補足として掲載する。すでに掲載した部分をあらためてできるかぎり全文に近くなるように、邦訳書と原英訳書を見て、紹介・掲載し直す。邦訳書は、以下。なお、この邦題は「過去」と「全体主義」の二カ所ですでに適切ではないと指摘した。<幻想の終わり-20世紀の共産主義>が原書(フランス語版)の意味にも添う。
 楠瀬正浩訳・幻想の過去-20世紀の全体主義(バジリコ、2007)。 p.244-。 
 ・「20世紀の歴史を織り成しているのは、…全く新たな政治体制であり、また20世紀が特異な性格を示すようになったのは、まさにそうした政治体制の出現のゆえにだった。そのために、歴史家は20世紀を19世紀の眼鏡を通して理解する誘惑を避けられなかった。彼らはあくまで、民主主義対反民主主義という闘いの図式を繰り返し、ファシズム対反ファシズムという対立の構図に固執した。こうした傾向は、…第二次大戦終結以降、ほとんど神聖にして犯すべからざる思想上の観点とさえ見なされるようになった。」
 ・「こうした精神的束縛にはきわめて強力なものがあり、ゆえに欧州で最も大きな力を獲得した国々-フランスとイタリア-で、コミュニズムと反ファシズムは同一の立場を示すものだと考えられ、そのため長い間、コミュニズムに対する分析はすべて妨げられる結果になってしまった。かつまた、ファシズムの歴史を語ることすら、相当に困難になってしまった。」
 ・「反ファシズム思想が20世紀の歴史に充溢するためには、≪ファシズム≫が敗北や消滅の後にもなお生き続けている必要があったのだ! 栄光から見離された政治体制が、これらの政治体制を打倒した人々の空想の世界でこれほどまでに長く後世の摸倣者を輩出したという例は、決して見られなかった現象だろう。」
 ・「我々は今日なお、ファシズムに対する偏った見方によって積み重ねられてきた廃墟の中から完全には脱し切れていない。ファシズム以上にわかりやすい攻撃目標を見つけることのできなかった欧州の政治世界は、定期的にファシズムの亡霊を蘇らせ、反ファシズムの人々の結集を図ってきた」。
 以上、神谷匠蔵の一文での指摘はF・フュレの叙述や秋月の理解と大きくは違っていないだろう、ということの例証で、さして大きな意味はない。

1720/T・ジャッド(2008)によるL・コワコフスキ④。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流は1976年に原語・ポーランド語版がパリで刊行され、1978年に英語訳版が刊行されている(第三巻がフランスでは出版されていない、というのは、正確には、<フランス語版>は未公刊との意味だ。-未公刊の旨自体はジャットによる発見ではなく、L・コワコフスキ自身が新しい合冊版の緒言かあとがきで明記している)。したがって、第三巻が「潮流」の「崩壊」(Breakdown, Zerfall)と題していても、1989-1992年にかけてのソ連・「東欧社会主義」諸国の「崩壊」を意味しているのでは、勿論ない。
 日本の1970年代後半といえば、「革新自治体」がなお存続し、日本共産党が「民主連合政府を」とまだ主張していた時期だ。
 1980年代前半にはこのコワコフスキ著の存在を一部の日本人研究者等は知ったはずだが、なぜ邦訳されなかったのか。2018年を迎えても、つまりほぼ40年間も経っても、なぜ邦訳書が刊行されていないのか。
 考えられる回答は、すでに記している。
 トニー・ジャット・失われた二〇世紀/上(NTT出版、2011。河野真太郎ほか訳)、第8章・さらば古きものよ?-レシェク・コワコフスキとマルクス主義の遺産(訳分担・伊澤高志)の紹介のつづき。
 前回と比べても一貫しないが、今回は原注の邦訳の一部を紹介する。原注の執筆者は、むろんトニー・ジャット(Tony Judt)。本文にも出てくる Maurice Merleu-Ponty (メルロ=ポンティ)とRaymond Aron (アロン)に関する注記が(注14)と(注15)だが、フランス語文献が出てくるこの二つはすべて割愛し、その他の後注の内容も、一部または半分ほどは省略する。
 なお、トニー・ジャットは20世紀の欧州史に関する大著があるアメリカの歴史学者で、最も詳しいのは「フランス左翼」の動向・歴史だったようだ(コワコフスキと同じく、すでに物故)。上の二人のフランス人への言及がとくにあるのも、そうした背景があると思われる。
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 『マルクス主義の主要潮流』は、マルクス主義に関する第一級の解説として唯一のものというわけではないが、これまでのところ最も野心的なものではある(注10)。
 この書を類書と分かつのは、コワコフスキのポーランド人としての視点だ。
 その点が、彼がマルクス主義を一つの終末論として重視していることの説明となりうるだろう。
 それは、「ヨーロッパの歴史に連綿と流れてきた黙示録的な期待の、現代における一変奏だ<*an eschatology-"a modern varient of apocalyptic expectations --">」。
 そしてそのことによって、20世紀の歴史に対する非妥協的なほど道徳的で宗教的とさえ言えるような読解が、許される。
 「悪魔<*the Devil>は、私たちの経験の一部だ。
 そのメッセージをきわめて真面目に受け入れるに十分なほど、私たちの世代は、それを見てきた。
 断言するが、悪<*evil>とは、偶然のものではなく、空白でも、歪みでも、価値の転覆でもない(あるいは、その反対のものと私たちが考える、他の何ものでもない)。
 そうではなく、悪魔とは、断固としてそこにあって取り返しのつかない、事実なのだ」(注11)。 
 西欧のマルクス主義注解者は誰も、どれだけ批判的であっても、このような書き方をしたことはなかった。//
 しかしその一方で、コワコフスキは、マルクス主義の内部だけではなくコミュニズムの下でも生きてきた者として、書いている。
 彼は、マルクス主義の知的原理から政治的生活様式への変遷の、目撃者だったのだ。
 そのように内部から観察され経験されると、マルクス主義はコミュニズムと区別することが難しくなる。
 コミュニズムは結局のところ、マルクス主義の実践的帰結として最も重要なものというだけでなく、その唯一のものだったのだから。
 マルクス主義の様々な概念が、自由の抑圧という卑俗な、権力を握ったコミュニストたちにとっての主要な目的のために日々用いられたことによって、時とともに、その原理自体の魅力がすり減ってしまったのだ。//
 弁証法が精神の歪曲と身体の破壊へと適用されたという皮肉な事態を、西欧のマルクス主義研究者が真剣にとりあうことは、なかった。
 彼らは、過去の理想か未来への展望に没頭し、ソ連の状況についての不都合なニュースには、犠牲者や目撃者たちから伝えられた際にさえも、平然としていた(注12)。
 コワコフスキが多くの「西欧」マルクス主義とその進歩的従者に対して強烈な嫌悪感をいだいた理由は、そのような人々と出会ったことであるのは確かだ。
 「教育のある人々の間でマルクス主義が人気を得ていることの原因の一つは、マルクス主義が形式的に単純なため、わかりやすいという事実だ。
 マルクス主義たちが怠惰であることや……〔マルクス主義が〕歴史と経済の全てを実際には学ぶ必要もなく支配することを可能にする道具であることに、サルトルでさえも、気づいていたのだ」(注13)。//
 このような出会いこそが、コワコフスキの最近出版された論集の冷笑的な表題エッセイを書かせることになった。*注(後注と区別されている本文全体の直後に追記されている文ー秋月)
 *<始まり> このエッセイ<秋月注-このジャッド自身の文章のことで、コワコフスキの上記エッセイとは別>は最初、コワコフスキの『マルクス主義の主要潮流』を一巻本で再刊しようとするノートン社の称賛に値する決定に際して、2006年9月の『ニューヨーク・レヴュー・オブ・ブックス』誌に掲載された。
 私がE・P・トムソンに少し触れたことで、エドワード・カントリーマン氏からの猛烈な反論を引き起こした。
 彼の手紙と私の返答は、『ニューヨーク・レヴュー・オブ・ブックス』誌2007年2月、54巻2号に掲載された。*<終わり> (*の内容は、原邦訳書p.197)
 英国の歴史家E・P・トムソン<*Thompson>は、1973年、『ソーシャリスト・レジスター』誌に「レシェク・コワコフスキへの公開書簡」を掲載し、このかつてのマルクス主義者を、若き頃の修正主義的コミュニズムを放棄したことで西欧の彼の崇拝者たちを落胆させた、と咎めた。
 「公開書簡」は、堅苦しい小英国主義者としてのトムソンの最悪の面を、よく表すものだった。
 それは冗長で(印刷された紙面で100頁にも及ぶ)、いばった調子で、殊勝ぶったものだった。
 勿体ぶった、扇動的な調子で、彼を信奉する進歩的読者に対しては意識しつつ、トムソンは、流浪の身のコワコフスキに対してレトリックをもって警告を与えようとし、彼の変節を咎める。
 「私たちはともに、1956年のコミュニズム的修正主義を代表する声だった。
 ……私たちはともに、スターリニズムに対する正面切った批判から、マルクス主義的修正主義の立場へと移った。
 ……貴方と、貴方の依って立った大義とが、私たちの最も内側の思考のなかに存在したときもあった」。
 トムソンがイングランド中部の葉の茂った止まり木から見下ろして言うのは、よくもお前は、コミュニズム下でのポーランドでの不都合な経験によって、われわれ共通のマルクス主義の理想という見解を妨害することで、われわれを裏切ってくれたな、ということだ。//
 コワコフスキの応答である「あらゆる事柄に関する私の正確な見解<*My Correct Views on Everything>」は、政治的議論の歴史で最も完璧になされた、一人の知識人の解体作業であるかもしれない。
 これを読んだ者は、二度とE・P・トムソンの言うことを真面目に受け取ることがなくなるだろう。
 このエッセイが分析する(そして徴候的に例証する)のは、コミュニズムの歴史と経験によって「東欧」と「西欧」の知識人たちの間に穿たれ、今日もなお残されている大きな精神的な隔たりだ。
 コワコフスキが容赦なく批判するのは、トムソンの熱心で利己主義的な努力、マルクス主義の欠陥から社会主義を救おうという努力、コミュニズムの失敗からマルクス主義を救おうとする努力、そしてコミュニズムをそれ自身の罪から救おうとする努力だ。
 トムソンはそれら全てを、「唯物論的」現実に表面上は根差した理想の名のもとに行っている。
 しかし、現実世界の経験や人間の欠陥によって汚されないままにされることによって、その理想は保たれていたのだ。
 コワコフスキは、トムソンにこう書いている。
 「貴方は、『システム』の観点から考えることが素晴らしい結果をもたらす、と言っている。
 私も、そのとおりだと思う。
 素晴らしいどころではなく、奇跡的な結果をもたらす、と。
 それは、人類の問題すべてを、一挙に簡単に解決してくれるのだろう」。//
 人類の問題を、一挙に解決する。
 現在を説明し、同時に未来を保障してくれるような包括的理論を見つけ出す。
 現実の経験の腹立たしい複雑さと矛盾とをうまく解消するために、知的または歴史的「システム」という杖に頼る。
 観念や理想の「純粋」な種子を、腐った果実から守る。
 このような近道は、いつでも魅惑的で、もちろんマルクス主義者(あるいは左翼)の専売特許というわけではない。
 しかし、そのような人間的愚行のマルクス主義的変種はせめて忘れ去ってしまおう、というのが魅惑的なことなのは、理解できる。
 コワコフスキのようなかつてのコミュニストが備える醒めた明察と、トムソンのような「西欧」マルクス主義者の独善的な偏狭さとの間に、歴史それ自体による評決が下されてしまったことは言うまでもなく、この論争の主題は、すでに自壊してしまったように見えるだろう。//
 たぶん、そうだったのだ。
 しかし、マルクス主義の盛衰の奇妙な物語を、急速に遠のいていき、もはや今日的な重要性のない過去へと委ねてしまう前に、マルクス主義が20世紀の想像力に及ぼした際立って強い支配力を思い出すべきだろう。
 カール・マルクスは失敗した予言者だったかもしれないし、彼の弟子のうち最も成功した者たちでさえ、徒党を組んだ独裁者たちだったかもしれないが、マルクス主義の思想と社会主義のプロジェクトは、20世紀の最良の精神の持ち主たちに、比類なき影響力を及ぼした。
 コミュニズムの支配の犠牲となったような国々でも、その時代の思想史と文化史は、マルクス主義の諸理念とその革命の約束がもつ、強い魅力から切り離すことはできない。
 20世紀の最も興味深い思想家たち<*thinkers>の多くが、モーリス・メルロ=ポンティによる称賛を認めただろう。
 「マルクス主義は、歴史哲学の一つというわけではない。
 それこそが歴史哲学であり、それを放棄することは、歴史に理性の墓穴を掘ることだ。
 その後には、夢や冒険が残るだけだ」(注14)。//
 マルクス主義はかくのごとく、現代世界の思想史と密接に絡み合っている。
 それを無視したり忘れてしまったりするのは、近い過去を故意に誤解することに他ならない。
 元コミュニストやかつてのマルクス主義者--フランソワ・フュレ、シドニー・フック、アーサー・ケストラー、レシェク・コワコフスキ、ヴォルフガング・レオンハルト、ホルヘ・センプルン、ヴィクトル・セルジュ、イニャツィオ・シローネ、ボリス・スヴァーリン、マネス・シュペルバー、アレグザンダー・ワット、そのほか多くの者たち--は、20世紀の知的・政治的生活について最良の記録を書き残している。
 レーモン・アロンのように生涯にわたって反コミュニストだった人物でさえ、マルクス主義という「世俗の宗教」に対する拭いがたい興味を認めることを恥じはしなかった(マルクス主義と戦うことへのオブセッションが、つまるところ、所を変えた一種の反聖職者主義だと認めるほどだ)。
 そのことは、アロンのようなリベラル派<*a liberal>が、自称「マルクス主義者」の同時代人の多くよりもマルクスとマルクス主義にはるかによく通じていることに、特別な自負を抱いていた、ということを示している(注15)。
 あくまでマルクス主義との距離を保った存在だった<the fiercely independent>アロンの例が示すように、マルクス主義の魅力は、馴染みのある物語、つまり古代ローマから現代のワシントンにまで見られるような、三文文士やおべっかい使い<*scribblers & flatters>が独裁者にすり寄るという物語、それをはるかに越えたものだ。
 三つの理由によって、マルクス主義はこれほど長持ちし、最良で最も明晰な知性の持ち主たちをこれほど惹きつけた。
 第一に、マルクス主義は非常に大きな思想だからだ。
 そのまったくの認識論的図々しさ<*sheer epistemological cheek>、つまりあらゆる物事を理解し説明しようというきわめて独特な約束は、様々な思想を扱う者たちに訴えかけたが、まさにその理由によって、マルクス自身にも訴えかけた。
 さらに、ひとたびプロレタリア-トの代わりにその名で思考することを約束する政党をおけば、革命的階級を代弁するだけでなく、古い支配階級にとって代わることも志向する集合的な(グラムシの造語の意味での)有機的知識人<*a collective organic intellectual>を創造したことになるのだ。
 そのような世界では、諸観念は、ただの道具ではなくなる。
 それらは、一種の制度的支配を行う。
 それらは、是認された路線に従って、現実を書き直すという目的のために利用される。
 コワコフスキの言葉を使えば、諸観念はコミュニズムの「呼吸器官」なのだ(ついでに言えば、それはファシズムに発する他の独裁制と区別するものだ。それらはコミュニズムとは違って、知的な響きのある教条的なフィクションを必要としない)。
 そのような状況では、知識人たち--コミュニストの知識人たち--は、もはや権力に対して真実を語るだけの存在ではない。
 彼らは、権力を持っているのだ。
 あるいは、少なくとも、この過程についてのあるハンガリー人の説明によれば、彼らは、権力への途上にある。
 これは、人を夢中にさせる考えだ(注16)。//
 マルクス主義の魅力の二つ目の源泉は、--<以下、つづく>
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 (注10) 見事にまとまっていて、それでいて人と思想とともに政治学と社会史をも含む、マルクス主義に関する一巻本の研究として今でも最良のものは、1961年にロンドンで最初に刊行された、ジョージ・リヒトハイム<*George Lichtheim>の Marxism: An Historical and Critical Study だ。
 マルクス自身については、デイヴィッド・マクレラン(<中略>、1974)と Jerrold Seigel (<中略>、2004)による70年代以来の全く異なった二種類の伝記が最良の現代的記述となっているが、1939年に出たアイザイア・バーリンの卓越した論考、Karl Marx: His Life and Enviroment によって補完されるべきだろう。
 (注11)"Devil in History", in My Current Views, p.133。<以下、省略>
 (注12)そのような証言が信頼できないという点が、長い間スターリニズムに対して繰り返された西側諸国からの弁明のテーマだった。それと全く同じように、かつてのアメリカのソヴィエト研究者たちは、ソヴィエト圏の亡命者や移民たちからもたらされる証拠や証言を、割り引いて考えていた-あまりに個人的な経験は、その人の視野を歪め、客観的分析を妨げるのだ、と広く考えられていた。
 (注13)コワコフスキの抱く西欧進歩主義者に対する軽蔑は、彼の同朋のポーランド人やほかの「東欧人」たちにも共有されている。
 1976年に詩人アントニン・スロニムスキーは、その20年前にジャン=ポール・サルトルがソヴィエト圏の作家たちに対して、社会主義を放棄しないように、それによってアメリカ人と向き合う「社会主義陣営」が弱まってしまうことのないように、鼓舞したことを想起している。<以下、省略>
 (注14)・(注15)<省略>
 (注16) Georgy Konrad and Ivan Szelenyi, The Intellectuals on the Road to Class Power (New York: Harcourt, Brace, Jovanovich, 1979)〔G・コンラッド=I・セレニー『知識人と権力-社会主義における新たな階級の台頭』船橋晴敏ほか訳、新曜社、1986年〕。<以下、省略>
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 以上、原邦訳書の本文p.185の半ばから、p.190途中まで。後注は、同p.242-3。
 上の(注10)に邦訳者の(注16)のような日本語版紹介はないが、G・リヒトハイムの本には、以下の邦訳書がある。
 G・リヒトハイム//奥山次良=田村一郎=八木橋貢訳・マルクス主義-歴史的・批判的研究(みすず書房、1974年)。

1381/試訳ー共産主義とファシズム・「敵対的近接」02。

 Francoir Furet=Ernst Nolte, "Feindliche Naehe " Kommunismus und Faschismud im 20. Jahrhundert - Ein Briefwechsel(Herbig, Muenchen, 1998)、F・フュレ=E・ノルテ・<敵対的近接>-20世紀の共産主義(=コミュニズム)とファシズム/交換書簡の「試訳」の2回目。p.11~16.
 大きな段落の区切り後の表題は「(一つの)長い注釈」で、これは、書簡の交換の契機となったフュレの大著・Le passe d'une illusion. Essai sur l'idee communiste au XXe siecle (1995)の第6章に付せられた、もっぱらノルテに言及している長い注釈のことだ。
 この著には邦訳書・楠瀬正浩訳/幻想の過去-20世紀の全体主義(バジリコ、2007)があり、上の注釈部分も訳出されている(p.253-4)。したがって、この邦訳書の一部を読めば、この注釈の内容も分かるので、これを参照すれば足りる。フランス語原文にもとづく翻訳書は、いわば「正訳」書のようなものだろう。
 但し、フランス語文からドイツ語に訳された冒頭掲記の本に少し立ち入り、上記邦訳書と少しばかり対照させてみて、私なりの(ドイツ語文からの)訳も掲載しておこうと考えた。楠瀬正浩訳は一部にせよ間違っている、という理由では全くない。ドイツ人訳者の判断又は思い入れらしきものもあるのだろうか、同じ趣旨だとしても(それは当然だろう)、選択された言葉のニュアンスや意味の理解に、微妙な違いがあるように感じられたからだ。また、文章の構造自体が違っている場合があることも歴然としている。
 なお、英語訳書である、The Passing of an Illsion, The Idea of Communism in the Twentieth Century(Univ. Chicago、1999)ものちに入手したが、これまたかりに直訳すれば同じような感想を抱きそうだったので、これの参照は、ほとんどしていない。
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 <(一つの)長い注釈>
 この20年、とくに1987年にドイツの歴史家が議論した国家社会主義(ナツィス)の解釈に関する論争(歴史家論争〔注12/秋月注、フュレの原本の数字〕)以来、エルンスト・ノルテの見解はドイツおよび全西欧で異口同音に批判されたので、特別の注釈を施しておく価値があると思われる。
 エルンスト・ノルテの功績は、とりわけ、きわめて早い時期にコミュニズムとファシズムを比較してはいけないという禁止を打ち破ったことにある。この禁止は西欧では多かれ少なかれ一般的であり、理解しうるまだきわめて生々しい理由でとくにイタリアとフランスで、またドイツでは特別に厳しく遵守された。
 エルンスト・ノルテはすでに1963年にその著「ファシズムとその時代(Der Faschismus in einer Epoche 〔秋月注-in seiner が正しいと見られる〕)で、新ヘーゲル派とともにハイデガー(Heidegger)の影響を受けた、彼の歴史哲学的な20世紀の解釈を、概述した。
 自由主義の制度(liberales System)はそれがもつ矛盾性と将来に対する開放性によって、コミュニズムとファシズムという二つの大イデオロギーを生んだ。マルクスが道を拓いたコミュニズムは、近代社会の「超越性」を極端にまで狩り立てた。著者はそれを、人間の思考と行動から本性と伝統の領域を奪い去る、民主政的な普遍性の抽象化と理解する。
 ファシズムは、これに対して、予め決定されていない自由な存在に対する不安を除去して安心を与えようと意図した。それは遠くは、ニーチェおよび「生」と「文化」を「超越性」から守ろうとする彼の「意思」に着想を得ていた。
 こうして導き出される帰結は、二つのイデオロギーを別々に切り離して考察することはできない、ということだ。これらは、一緒になって、ラディカルな方法で自由主義の矛盾を明らかにする。そして、我々の世紀全体が、これらの相互補完性・対立性の影響のもとにあった。
 年代史的な時系列でもって、それらを整序することもできる。レーニンの勝利はムッソリーニのそれに先行し、言うまでもなくヒトラーのそれに先行した。
 ノルテの見解によれば、最初のものが後続の二つの誘発原因になった。そしてノルテは後続の諸著作で、このような関係を強調している(1966年「ファシズム運動」、1974年「ドイツと冷戦」、中でも1987年「欧州の内戦 1917-1945」)。
 イデオロギーの面から見れば、ボルシェヴィズムという普遍主義的な過激主義は、ナツィズムにおける特殊性の増大を誘発した。実際の面から見ると、レーニンによって行われた階級なき社会という抽象化を掲げてのブルジョア階層の抹殺は、ヨーロッパはコミュニズムの脅威に対して最も弱いので、忽ちのうちにパニックをもたらした。これは、ヒトラーの、およびナショナリストによる逆テロルの勝利を導いた。
 ヒトラーですら彼の敵に対して、最初から敗北するはずの闘争を遂行した。彼も「技術」の普遍的な魅力に惹かれ、同じ方法を彼の敵対者に対しても適用した。スターリンと全く同様に彼は工業化を好み、社会的「超越性」をもつ、ユダヤ・ボルシェヴィキという双頭体の怪物と闘う、と彼は称した。だが実は、ゲルマン種族の支配のもとに人類を一つにするつもりだった。このようにして準備された戦争には、勝利できる根拠は何もなかった。
 ナツィズムは、その発展とともにその元来の論理に忠実ではなくなる。この観点からノルテは、彼の最近の著書(1992年「ハイデガー-人生と思索における政治と歴史」)で、ナツィズムに味方したハイデガーの短い活動家時代を擁護しかつ釈明している。
 ノルテによれば、のちに彼の師となった哲学者には、国家社会主義に対して初めに熱狂しのちに速やかに幻滅するだけの理由があった。
 以上のように見ると、贖罪意識に囚われている者であれ、ファシズムを理解しようとすることでそれへの嫌悪感を弱めるのではないかと怖れる者であれ、あるいはたんに時代の空気に順応しているにすぎない者であれ、戦後世代の人々にとって、ノルテの著作がきわめて衝撃的だったことが十分に理解できる。
 上の前の二つのような振る舞い方は少なくとも高貴な動機によるもので、歴史家はそれを尊重できるし、しなければならない。だが、そのような態度を歴史家がとるならば、ソヴィエトのテロルは1920年代と1930年代にファシズムとナツィズムが大衆性を獲得した重要な要因であることを考察することができなくなってしまうだろう。また、ヒトラーの権力奪取が、先行するボルシェヴィズムの勝利に、およびレーニンが統治のシステムにまで高めた裸の暴力という悪い実例に、いかに条件づけられていたかを、さらには、コミンテルンが共産主義革命をドイツへと拡張しようとしているとの強い印象づけよっていかに条件づけられていたかも、無視してしまうに違いない。
 実際のところ、このような出発点から考察することの禁止は、ファシズムの歴史の徹底的な研究を妨げている。歴史の世界でのこの禁止は、政治の世界でソヴィエトの影響を受けた反ファシズムが発揮しているのと同じ効果を持った。
 反ファシズムに対する批判を禁止することによって、この種の歴史資料編纂的な反ファシズムは、ファシズムを理解することも妨げる。
 ノルテの功績は、何よりも、このタブーを打ち破ったことにある。
 残念なことにノルテは、 ナツィズムに関するドイツの歴史家論争の過程で、彼のテーゼを強調しすぎて、彼の立場の解釈を弱めている。すなわち、彼はユダヤ人について、ヒトラーの組織化された対抗者で、敵と結びついた、と説明しようとした。
 ノルテを「アウシュヴィッツ否認者」[秋月ー邦訳書および英訳書では「ネガ・シオニスト」]と称することはできない。彼は、繰り返しナツィスによるユダヤ人虐殺への嫌悪感を強く表明しているし、一つの人種のかつてない工業的な抹殺だとして、ユダヤ人ジェノサイドの異常性も承認する。
 彼が維持する考え方は、だが、ボルシェヴィキによるブルジョア階級の廃絶がそうしたものへの道を開いた、強制収容所(Gulag)はアウシュヴィッツよりも前にすでに存在した、というものだ。
 しかし、ノルテの眼からすればユダヤ人ジェノサイドは時代風潮を構成する要素だったとしても、勝利のためのたんなる手段だと見なされてはいない。彼は恐るべき特異性を認める。その特異性とは、目標それ自体が目標で、さらに優位する目標が「最終的解決」という勝利の産物だ、というものだ。
 さらにノルテは、彼の最近の文書が示すように、ヒトラーの反ユダヤ主義というパラノイアを考察しようとするに際して、ハイム・ヴァイツマン(Chaim Weizmann)が世界ユダヤ人会議の名前で1939年9月に世界中のユダヤ人に対してイギリス人の側に立って闘うことを呼びかけた宣言に、一種の「理性的な」根拠を見い出したようだ。
 このような議論は、衝撃的であると同時に、誤りだ。
 疑いなく、ノルテは、潜在意識下にある辱められたドイツ・ナショナリズムと関係している。それについて、ノルテの論敵はこの二十年の間、彼を非難してきた。また、それは、彼の諸著作の主要なモティーフだ。
 しかし、ある観点からはこのような批判が適切だとしてすら、彼の全業績と解釈の価値を失わせることはできない。それは、最近の50年間において最も洞察力に富むものの一つだ。
 参照、〔以下、ノルテに関するフランス人の二つの論考が挙げられており、邦訳書にもあるが、省略〕。 
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1372/F・フュレの大著・共産主義という「幻想」の終わり(1995)等。

 この欄の2008年5月に言及したことがあるが、フランソワ・フュレはフランス革命の研究で知られるフランスの歴史学者で、フランソワ・フュレ(大津真作訳)・フランス革命を考える(岩波書店、1989)でも知られるように、従来の通説的フランス革命観を批判する「修正主義」派の代表者だともされる。
 一 そのフュレに、Le passe d'une illusion. Essai sur l'idee communiste au XXe siecle (1995)という著作がある(フランス文字に独特の記号?は表現できないので悪しからず)。つぎの邦訳書をほとんど読んでいないが、いくつか指摘したいことがある。
 邦訳書はフランソワ・フュレ(楠瀬正浩訳)・幻想の過去-20世紀の全体主義(バジリコ、2007)で、700頁を超える厚い本だ。
 1 訳者(だけ)の責任ではないと思うが、この邦訳書のタイトルは、正確には、<幻想の終わり-20世紀の共産主義(コミュニズム)>でなければならない、と感じる。
 後半部については、もともとフランス語の表現が「20世紀の共産主義〔又は共産主義者の思想〕に関する省察」と訳されるべきものであることは、フランス語に通暁していなくとも、上に示したフランス語の題名から、容易に理解できるだろう。
 前半部については、たしかに「幻想の過去」と日本語訳できそうだ。
 しかし、このフランス語書のドイツ語訳書(1996、Muenchen)の前半部は、Das Ende der Illusion. だ。このドイツ語の意味は「幻想の終わり」または「幻想の終焉」だろう。
 むろん、フランス語のLe passe は「過去」とも訳せるのだろうが、ドイツ語版と照合すると、<過去になってしまったもの>、つまりは<終わったもの>、という意味で、「終わり」または「終焉」の方が適切であるように思われる。
 後半部のドイツ語版の表現はやはり、Der Kommunismus im 20. Jahrhundert. であり、決して日本語訳本のように「20世紀の全体主義」と訳してはいけないものだろう。
 2 さらに翻訳者(1947-)の責任から遠ざかるかもしれないが、この邦訳書のいわゆるオビの背部分には、「コミュニズムとファシズムが繰り広げた血みどろの争いの軌跡。」とかなり大きい文字で書かれている。
 これは、フュレの真意を全く損なっているのではないか、と感じる。後でノルテとの交換書簡集にも触れるが、そのタイトルは日本語に仮訳すれば「敵対的な近似」なのであり、コミュニズム(共産主義)とファシズムの近似性こそが、フュレの(そしてエルンスト・ノルテ)の重要な関心事(の少なくとも大きな一つ)なのだと思われる。
 また、そのオビの表紙部分の最初には、「コミュニズムの『幻想』を通して、20世紀の総括を試みた初めての書」とある。
 これで誤りだとは言えないだろう。しかし、フュレが叙述する前提にあるのは、<コミュニズム(共産主義)とは「幻想」だ(だった)>、ということもまた強調されなければならない、と思われる。
 なぜこのようなオビの文章になり、なぜ明確に「コミュニズム(共産主義)」と書かれている言葉が「全体主義」と翻訳されているのか、を考えると、奇妙な気分になる。
 憶測、仮説なのだが、日本の出版界には、「共産主義」を堂々とタイトルにすることを避けたい<特殊な>事情があるのではないだろうか。
 この憶測、仮説はさらに大きな<仕掛け>があることの想像にもつながるが、その点にはここでは触れない。
 二 少し上で言及したように、半分は本国といえるドイツ語版の書、フランスのフランソワ・フュレとドイツのエルンスト・ノルテ(Ernst Nolte)の「交換書簡(集)」=Ein Briefwechsel. として、"Feindliche Naehe" Kommunismus und Faschismus im 20. Jahrhundert.(1998、Muenchen)が公刊されている。上のフュレの大著のドイツ語訳書と同じく、ミュンヒェンのHerbig Verlag GmbH (ヘルビッヒ書店・有限会社)から出版されている。
 このタイトルの直訳を試みると(既に前半部を記したが)「敵対的近似-20世紀におけるコミュニズム(共産主義)とファシズム」ということになる。
 ほんの少し目を通しただけだが、相当に面白い(ものであるような気がする)。
 だが、この本の日本語訳書は、まだ(なぜか)ないようだ。
 なお、面白くかつ十分に教えられつつ読み了えている、福井義高・日本人が知らない最先端の世界史(祥伝社、2016)の末尾の参考文献として、フュレ=ノルテの上の本は(「敵対的近親関係」と仮訳されて)挙げられている。しかし、先の、フュレ・幻想の終わり(Le passe d'une illusion)を、福井は挙げていないようだ。邦訳本もあるのに、不思議だ。
 三 前者は日本語本の一部を読み、後者はドイツ語本の一部を通読したにとどまるので断定的なことは言えないが、いずれも、少しは知的営為を行なっている日本の<保守>派の人々は、読むべきではないか、と感じている。
 そして、前者については、2007年に日本語への訳書もあるのに、<保守>派論壇人によって紹介・言及・引用等がなされているのを読んだことがない、ということを不思議に思っている(たんに私の怠惰かもしれないが)。
 また、後者については言及されにくいのはある意味では仕方がないかもしれないが、テーマ自体ですでに(私には)魅力的であるのに、日本語への訳書が出版されていないことを不思議に思っている。
 四 なぜ、日本の<知識層>は(左も右も)、「コミュニズム(共産主義)」を(そして日本共産党を)正面から問題にしようとすることがきわめて少ないのか。
 なぜ、日本の出版界は、「コミュニズム(共産主義)」を(そして日本共産党を)正面から問題にしようとすることがきわめて少ないのか。「左翼」出版社がコミュニズム(・日本共産党)批判につながるような書物を出版したくないのは分かる。しかし、「左翼」とは言えない出版社もまた(産経新聞出版も含めて)、なぜ似たような状態にあるのだろう。
 敢えていえば、福井義高の上記の本も、表向きは<世界史>の本になっているが、じつは<反・共産主義>という観点・関心で一貫しているように読める(そう私は読んだ)。
 にもかかわらず、「共産主義(コミュニズム)」とか「共産党」とか「反共」とかを表に直接には出せないのは、日本の戦後に<特殊な>知的風土と出版界の事情があるようにも見える。
 日本人の多くは(福井義高を含めてはいない)、日本とアメリカの戦後<主流派>による<大仕掛けのトリックに嵌められた>ままではないか、ということを最近は感じる。
 報われることのない鱓(ゴマメ)の歯軋りのような作業を、生きているかぎりは、時間的余裕があれば、続けてはいく。

1354/共産主義の罪悪とナチス①ーヘインズ=クレーア。

 Haynes, J.E.とKlehr, H.の二人は、中西輝政監訳の日本語訳書(PHP、2010)もある、1999年刊行の "Venona-Disclosing Soviet Espionage in America"(ヴェノナ)の著者だ。
 同じ二人の著書である、In Denial-Historians, Communism & Espionage(2003、Encounter Books -New York, London)の Introduction に目を通していて、他でも読んだことがあるような表現に出くわした。とりあえず、あまり辞書を引かないようにして、「Introduction」の最初から訳してみよう。Communism、Communistは、「共産主義(者)」ではなく、コミュニズム・コミュニストという訳語にする。
 「50年以上前、アメリカ、イギリス、そしてソヴィエトの軍隊はナツィ・ドイツをやっつけて人類史上最も殺人狂的な体制の一つを破壊した。その崩壊は、ファシズムへの関心やそれとの関わりがなくなることを意味しなかった。年月が経るにつれて、ナツィズムは、その主な犠牲者であったユダヤ人の記憶ばかりではなく、その復活を許さないと決心した世界中の多くの人々の記憶において、seared であり続けた。ホロコーストを"normalize"しようとする努力やその恐怖を極小化しようとする努力は、怒りや嫌悪感を誘発し続けている。
 ソヴィエト同盟の崩壊やそれがかつて指導したコミュニスト世界の融解から、10年とほんの少ししか経っていない。コミュニストの諸体制は、ナツィ・ドイツよりも長く生き延びた。そして、それら〔コミュニスト諸体制〕の犠牲者数全体は、欧州のファシズムによって殺戮された人々の数をはるかに上回る。にもかかわらず、まだ、コミュニズムによる莫大な人的犠牲は、アメリカ人の知的生活にほとんどregister されていない。さらに悪いことに、かなり多くのアメリカの中心的知識人たちは、今や公然と、人類史上の最も血塗られたイデオロギーの一つに喝采を浴びせ、そのために弁明している。そして、彼らは、社会のはみ出し者として扱われるのではなく、アメリカの高等な教育や文化生活の中で顕著な地位を占めている。ナツィによる犯罪の記憶が新しいままでいる一方で、コミュニストによる犯罪の記憶がかくも速く消失してしまったのは、いったいどのようにして可能であるのか?
 冷戦は諸国家間の闘いであったのみならず、諸国家の内部でのイデオロギー闘争でもあった。アメリカの知識人たちの間には明確なファシスト傾向はなかったが、一方で、合衆国は、その他の民主主義諸国のように、明確なコミュニスト運動を匿った(harbored)。それ〔コミュニスト運動〕は、知識人たちによる支持を不相当にも引き出したのである。かくして、合衆国におけるコミュニズムのノスタルジックな余生は、世界中の現実のコミュニスト諸体制のほとんどを延命させてきている。冷戦は地上ではなくなったにもかかわらず、しかし、歴史上の冷戦は荒れ狂っており、学者たちの間でのたんなる口喧嘩以上のものである。コミュニズムを修復しようとする彼らの意識的な努力によって、覚えられるだろうものは何か、忘れられるだろうものは何か、に関するアメリカ人の彼ら自身の国民的な経験の記憶を、そして21世紀の挑戦についての我々の理解を形成するだろうあの歴史からの教訓を、多数の著述家や教授たちが変形しようとしている。」
 <p.1-2、以下の段落は省略>
 「他でも読んだことがあるような」、というのは、クルトワ=ヴェルト・共産主義黒書<ソ連篇>のやはり最初の方だ。
 <つづく>

1078/西部邁=佐伯啓思ら編・「文明」の宿命(2012)の富岡幸一郎「はじめに」。

 西部邁=佐伯啓思=富岡幸一郎編・「文明」の宿命(NTT出版、2012.01)の、富岡幸一郎による「はじめに」だけを読了。
 中身についてものちに触れるかもしれないが、著者9人の一人は「雑菌」の中島岳志なので、読者はこの本がまともな「保守」主義による議論・論考をまとめたものだと誤解しない方がよい、と思われる。
 富岡による「はじめに」の前半は、素直に納得しながら読める。
 すでに一九世紀末・第一次大戦前に「西洋の没落」(シュペングラー)は語られていたのであり、「西洋近代を形成してきた進歩史観への警鐘」も発せられていた(はじめにp.2)。
 以下は私の言葉だが、しかるに、日本国憲法は<欧州近代>所産の法思想を疑問がないものとして、アメリカ独立宣言・フランス人権宣言等に遡及可能なものとして、継受してしまった。日本国憲法97条はつぎのように定めるのだが、私はこのような「お説教」を読んで、いつも苦笑を禁じ得ない。日本の今の憲法学者はどうなのかは知らないが。
 「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」

 富岡の文章に戻ると、こう述べられている。
 現代の「文明」社会を深く覆うのは「ニヒリズム」で、すでに一九世紀末にニーチェが語ったものだ。それによると、「人々が生きる意味と目標を失い、よるべない虚無の淵に立たされる危機」のことで、あるいは、<宗教・道徳・理性・精神といった価値が無意味なものと化してしまったあとに出現する「最も気味のわるいもの」>だ(はじめにp.3-4)。
 このあたりまではよいのだが、その後の富岡の叙述には大きな疑問を持たざるをえない。
 富岡は、そのような「最も気味のわるいもの」が二〇世紀以降に生みだしたものを、あれこれと列挙している。まず単語だけを取り出しておこう。
 ・第一次大戦という「全面戦争」、科学技術による大量殺戮兵器、欧州の「血の地獄」化、世界恐慌から第二次大戦へ、核エネルギーの使用(はじめにp.5)
 続いて次のように所産または結果を述べている。
 ・「一九八〇年代後半からの冷戦崩壊によって社会主義体制はついえ去り、資本主義はそのまま生き延び」、九〇年代以降はアメリカ中心の「強欲ともカジノ的ともいわれる金融資本主義へと展開された」(はじめにp.6)。
 ・ニーチェのリヒリズムは二〇世紀には「大量殺戮の悲劇」を生み、二一世紀の今日では「…資本主義のテーモンに体現されている」(p.6)。
 このような時代または「文明」史の叙述には―一瞬はすらっと読んでしまいそうだが―、疑問を禁じ得ない。
 細かなことを言えば、二つの大戦の「外的要因」は「帝国主義の政策による衝突」で「内的要因」は「世界恐慌という経済的危機」だったという叙述(上では省略。はじめにp.6)は教科書的・通俗的で、はたしてこんな理解でよいのか、と感じさせる。これは、「左翼」の描く歴史とまったく同じなのではないか。それに、第二次大戦の前のロシア革命・社会主義ソビエトの成立とその影響にはまったく!言及がないのだ。
 「社会主義」の無視・軽視、これこそが富岡の文章の致命的な欠陥だと思われる。
 富岡は八〇年代後半以降に「社会主義体制はついえ去り」と平気で書き、その前に「冷戦崩壊によって」と簡単に書いてしまっている。だが、冷戦は終わっていない、あるいは新しい冷戦にとって代わっている。また、そもそも、「社会主義体制はついえ去」っていないどころか、この東アジアにおいて、中国、北朝鮮等というれっきとした「社会主義」国家はあるではないか(両国の共産党・労働党の大会において誰の肖像画・写真が大きく掲げられているかを思い出すがよい)。

 また、この日本の現実の中に「社会主義」の(「体制」ではなくとも)<思想>は脈々と残存し続けている。
 富岡幸一郎の書いてきた文章をいっさい否定するつもりはないが、上の点はあまりにヒドい、と思われる。いったい、この人は何を考えているのか?
 さらには、上にも関連するが、富岡によると、現下の最大の「文明」問題は、「資本主義のデーモン」であるようだ。しかし、現在の資本主義に問題がないとは言わないが、アメリカ中心の「強欲ともカジノ的ともいわれる金融資本主義」を批判すること、そのようなものを「現代文明の全般的危機」として把握することともに、あるいはそれ以上に、覇権主義・軍国主義を伴う「社会主義」国家が現存し、かつ「社会主義」イデオロギーが(日本においてこそ顕著に)残存し続けていることを、きちんと、そして深刻に「現代文明」の重要な問題と把握すべきだ。
 このような「社会主義」に対する<甘さ>は、「大量殺戮(の悲劇)」に関する富岡の理解の仕方にも表れている。富岡は明らかに、これを近現代の「科学技術」の所産として(第一次大戦との関係で)語っている。
 しかし、富岡は知らないのだろうか。両大戦の死者(大量殺戮の被害者)の数よりも、ソビエト連邦や共産主義・中国等々における革命・内戦・「粛清」の犠牲者の数の方が多いのだ。
 「大量殺戮(の悲劇)」という語を使いながら、コミュニズムの犠牲者(大量殺戮被害者)をまったく思い浮かべていないようであるのは、少なくとも<保守>派の論者としては、致命的な欠陥がある、と考えざるをえない。
 佐伯啓思や西部邁について、<反米・自立>を説くのはよいが、<反共>または「反中国」の姿勢・文章をもっと示して欲しい旨を書いたことが何回かある。
 西部邁・佐伯啓思グループの一人のようである富岡幸一郎にも、同じような弊があるようだ。

0980/自民党は「民族系・容共ナショナリズム」-中川八洋・民主党大不況(2010)から③。

 中川八洋・民主党大不況(清流出版、2010)p.300以下の適宜の紹介。逐一のコメントは省く。

 ・細川・村山「左翼」政権は二年半にすぎず、自民党が「保守への回帰」をしておけば「自由社会・日本」の正常路線に戻ることは可能だった。だが、自民党は村山「左翼」路線を継承し、「日本の左傾化・左翼化」は不可逆点を超えた。2009年8月の自民党転落(民主党政権誕生)は、自民党が主導した「日本国民の左傾化」による、同党を支える「保守基盤」の溶解による。「マスメディアの煽動や情報操作も大きい」が、橋本以降の自民党政権自体こそが決定的だった(p.300-1)
 ・自民党内の「真・保守政策研究会」(2007.12設立)には①~⑦〔前回のこの欄に紹介〕の知識がない。①の「マルクス・レーニン主義」すら「非マルクス用語に転換」しているので、知識がなければ見抜けず、民主党が「革命イデオロギーの革命政党」であることの認識すらない(p.312)。
 ・彼ら(同上)が理解できるのは、①外国人参政権、②人権保護法、③夫婦別姓がやっとで、1.①「男女共同参画社会」、②「少子化社会対策」、③「次世代育成」、④「子育て支援」が共産主義(「共産党」)用語であることを知らない。2.「貧困」・「派遣村」キャンペーンの自民党つぶしの「革命」運動性を理解できず、3.過剰なCO2削減規制が、日本の大企業つぶし・その「国有化」狙いであることも理解できず、4.「地方分権」が「日本解体・日本廃絶の革命運動」であることも理解できない(p.312-3)。

 ・彼ら、「民族系自民党議員」は正確には「容共ナショナリスト」で、チャーチル、レーガンらの「反共愛国者」・「保守主義者」とは「一五〇度ほど相違」する。自民党が英国のサッチャー保守党のごとき「真正の保守政党になる日は決してこない」。それは自民党ではなく「日本の悲劇」だ(p.313)。

 今回は以上。西部邁の言葉を借りれば、日本について「ほとんど絶望的になる」。

 中川八洋によれば、安倍晋三の「極左係数」は「98%」で(p.295)、明言はないが、平沼赳夫も「真正保守」ではなく「民族系」に分類されるはずだ。安倍晋三についての評価は厳しすぎるように感じるが、平沼赳夫の-そして「たちあがれ日本」の-主張・見解がけっこう<リベラル>で、<反共>が鮮明でないことを、最近に若干の文献を読んで感じてもいる。

 ナショナリズム(あるいは「ナショナル」なものの強調)だけでは「保守」とは言えない。反共産主義(=反コミュニズム)こそが「保守」主義の神髄であり、第一の基軸だ、という点では中川八洋に共感する。
 さらに、機会をみて、中川八洋の本の紹介等は、続ける。

0939/自衛隊を「暴力装置」と呼ぶ仙石由人の「反日」・マルクス主義者ぶり。

 一 仙石由人「健忘」官房長官が、11/18、自衛隊を「暴力装置」と呼んだ。

 軍(・警察)を「暴力装置」と呼ぶのはマルクス主義用語で、仙石の頭の中には、<自衛隊(軍)=暴力装置>という固定観念が根強く残っていることが、とっさの国会(参院予算委)答弁中の発言であることからもよく分かる。

 しかも、仙石由人は、「法律用語としては適切ではなかった」とだけ述べて陳謝し、撤回した。「法律用語」ではない「政治(学)」用語または「社会科学」(?)用語としては誤ってはいない、という開き直りを残していることにも注意しておいてよい。

 厳密には、マルクス・レーニン主義(コミュニズム)においては「国家」こそが「暴力装置」で、その国家を体現するのが<軍(・警察)>ではなかったか、と思われる。そして、マルクス・レーニン主義上は、「暴力装置」としての(またはそれを持つ)「国家」は、「家族」・「私有財産」とともにいずれ死滅する筈のものだった。現実に生まれたマルクス主義国家=社会主義国家が、まだ過渡的な時代のゆえか(?)、強力で残忍な「暴力装置」(政治犯収容所等を含む)があってはじめて存立しえたこと(しえていること)はきわめて興味深いことだが…。

 二 仙石由人は、奇妙で重要な発言を官房長官になって以後、しばしばしている。ソ連(ロシア)とは平和条約を締結しておらず国交を回復していないとの認識を示したらしいことも、官房長官としての資格を疑うに足りた(たしかのちに撤回した)。これよりも重大なのは、日韓関係についての発言だろう。

 2010.08.10の菅直人首相談話は100年前の日韓併合条約によって「その〔韓国の人々〕の意に反して行われた植民地支配」が始まった、と述べた。閣議を経ていることからも、仙石由人がこの文案作成に大きく関与している可能性がきわめて高い。

 また、2010.07.07には1965年の日韓基本条約に関連して、次のように述べた、と伝えられる。すなわち、「日韓基本条約を締結した当時の韓国が朴正煕大統領の軍政下にあった」ことを指摘し、「韓国国内の事柄としてわれわれは一切知らんということが言えるのかどうなのか」と述べ、同条約で韓国政府が日本の「植民地」時代にかかる<個人補償>請求権を放棄したことについて「法律的に正当性があると言って、それだけで物事は済むのか」と発言した。解決済みの筈の、または問題自体が存在しない、<従軍慰安婦>個人補償「問題」を、政府としてむし返す意向だ、と理解された。

 さて、当時にすでに感じたままこの欄に書いてこなかったことだが、仙石由人は、では、日本と日本国民にとって(韓国人にとっての日韓併合条約と同等に)重要な1947年の日本国憲法は日本国民の完全に<自由な意思>にもとづいて、つまり<意に反して>ではなく、制定され、施行されたのだろうか。当時は間接統治だったが、GHQの「軍政下」で制定され、施行された。朴正煕の「軍政」以上の、外国の「軍政」下にあったときに日本国憲法は作られたのだ。

 仙石由人は、日韓併合条約や日韓基本条約の韓国側の<任意性>や<(軍政下という)内部事情>を問題にするならば、日本国憲法の出自につき、万が一「法律的に正当性がある」と主張できるとかりにしても、なぜ「それだけで物事は済むのか」と考え、主張したことがあるのか?

 自分の国の憲法制定についての<任意性>や<(軍政下という)内部事情>という重大な事柄には思いを馳せず、韓国側の<任意性>や<(軍政下という)内部事情>は考慮するのは、いったい何故なのか? ちゃんちゃらおかしい。

 さらにいえば、1945.08.14の<ポツダム宣言>受諾自体、日本の<任意>だった、と言えるのか? 昭和天皇の「ご聖断」により決定された。だが、<任意に>とか<自由意思により>とかは厳密にはありえず、アメリカの強大な武力(核を含む)による威嚇によって<不本意>ながら受諾した、というのが、真実に近いだろう。敗戦という<終戦>が、本来の「意」に反して、行われない筈がない。国家間の戦争・紛争・対立の解消とは、少なくともどちらか一方の「意に反して」行われるのが通常だろう。

 仙石由人(や菅直人)には、このような常識は通用しないらしい。<意に反して>=<任意ではなく>=<強制的に>といった彼らの(とくに日中・日韓関係にかかわる)言葉遣いには注意が必要だ。

0904/「共産党ではないが左翼」の社会・人文系学者たちの多さ-月刊正論11月号・竹内洋を読む。

 月刊正論(産経新聞社)連載の竹内洋「革新幻想の戦後史」は月刊諸君!(文藝春秋)から「続」となって月刊正論に移ってしばらくはもたもたしている感もあったが、先月号あたりから再び(私には)面白くなった。
 1.月刊正論11月号の竹内洋・同上は丸山真男批判(の一部。竹内には丸山真男に関する新書一冊がすでにある)。その基本的趣旨自体も興味深く、1970年代以降の丸山真男の「衰え」を再確認させる。
 丸山真男については著書・全集の一部をじかに読んだことがあり、この欄でも言及した。
 このブログサイトでの「丸山真男」を検索してみると、なんと最初から13個までが「秋月瑛二」によるこの欄がヒットした!。もう忘れたが、丸山真男を主題としたものを20回は書いただろう。

 そして、丸山真男を積極的・好意的に評価する本が今日でも新たになお出ていることも思い出して、あらゆる戦線(?)での<左翼の執拗さ>をあらためて感じる。
 2.さて、p.282-3のデータ(資料)はきわめて興味深いもので、私の推測ともほとんど合致している。
 p.282の表は、ごく大まかに一言でいうと、1973年時点の支持政党調査では、「日本人平均」では自民党が一位で二位・社会党の1.5倍ほどの支持率があるのに対して、「大学教師」の支持政党の一位は社会党、二位は民社党、三位は自民党で(「特になし」を除く)、社会党支持が自民党支持の二倍以上ある、ということだ。
 竹内の関心に即して言うと、「大学」の世界では、(1980年代前半の丸山真男による叙述とは異なり)「進歩的文化人」は「多数派」だった、ということが明瞭に判る。

 これは1973年の数字だが、現在でも、「大学」教員の世界では(「進歩的文化人」という語は今日的用語としてはあまり使われなくなっていると見られるが)、「左翼」または「何となく左翼」が(とくに社会・人文系では)<圧倒的多数派>を形成しているのではないか。
 p.283の表が示す数字の方がさらに興味深い。
 1983年時点での「保守・中間・革新」意識の調査結果によると(出典の再引用は上ととともに省略)、「中間」を割愛して「保守」対「革新」の数字だけ示せば、「一般国民」が34対24、「財界」が74対10、「官僚」が56対23であるのに対して、「マスコミ」(人)は34対46、「学者・文化人」は31対51、ついでに「市民運動」(家)は14対81、「学生」は42対46だった、という。
 27年前の数字だが、「マスコミ」(人)や「学者・文化人」における「革新」または<左翼>性向が明瞭に数字化されている。
 そしてまた、今日でも、その傾向は変わらないものと思われる。

 70年代(とくに前半または初頭までの)「革新」ムードは全体としては80年代には消滅または弱体化していたはずだが、「マスコミ」(人)や「学者・文化人」においては異なることが上の資料からは明らかだ。そしてまた、ソ連が解体し北朝鮮や中国の実態がより明らかになってきている現在でもまた、「マスコミ」(人)や「学者・文化人」の<政治意識>=<左翼・なんとなく左翼>性は(驚くべきことに、また執拗にも)大して変化していないのではなかろうか。
 ここでの「左翼」とは、いつかも書いたように、<容共>志向、換言すると、<反共>の立場に立たない(立てない)政治的意識・主張・見解のことを意味させている。
 3.そういう「左翼」的雰囲気の「学者・文化人」や「マスコミ」(人)の世界において、日本共産党支持またはコミュニズム支持を少なくとも明確に示しはせず、むしろそれとは距離を置きつつも、「保守(・反動)」、ましてや「右翼」と評されないことが最も<安全で・安心な>態度=処世術なのだろう。
 p.283に引用されている、2009年の某雑誌での伊藤隆(東京大学名誉教授)の次の言葉は、十分に納得がいく。
 竹内洋が使った「共産党員ではないけど、いつも共産党員に気兼ねをしている学者」という表現につなげて、伊藤隆は言う。
 「気兼ね学者は大学の人事を握っていて、リベラルということで良心が満たされる気分になると同時に利益もある…。(一文略-秋月) 学者にとって一番理想なのは、東大教授で、共産党ではないが左翼である。そして、ジャーナリズムにどんどん登場するということでしょう」。

 日本共産党を支持はしないが決して「保守(・反動)」、ましてや「右翼」と呼ばれたくはない、という気分の多数の(とくに社会・人文系)「学者・文化人」さまには、上のような言葉も傾聴していただきたいものだ。
 また、「共産党ではないが左翼」で、「ジャーナリズムにどんどん登場」して(世間的)知名度も獲得したいという「東大教授」は、現に多数存在するのではないか(それを現実化している「東大教授」の名を具体的に何人かは挙げることができる)。
 くり返せば、「共産党ではないが左翼」で、学界内部でも、共産党そのものに<染まっている>わけではないが決して<反共>の立場に立たない(少なくともそれを明言しない=日本共産党に「気兼ね」する)大学教員たち、そして東京大学教授たちは、世間一般の相場に比べれば著しく多い、と想定される。現在の日本の<異常さ>はこんなところにもある。あるいは、こんなところにも起因している。 

0900/あららためて基本的なことー共産主義。

 一 20世紀の重要な事件は二つの世界大戦だったという歴史理解も多いのだろう。
 だが、ロシア革命の勃発(・成功)(と後続する社会主義諸国の成立)とソビエト連邦の解体(ロシア中心地域での「社会主義」の<実験>の失敗の明瞭化)こそが、20世紀の最大の事件・できごとだった、というべきだ。
 そして、この中には、コミュニズム(マルクス主義)によるほぼ一億人の生命の抹殺(「粛清」等のほか政策失敗による餓死等も含む)も含まれる。この数字は、二つの世界大戦による死者数よりも大きい。
 二 左右の対立あるいは<左翼>と<保守>の違いは、私にとっては、単純に、<容共>か<反共>かにある。前者の中核にもちろん(日本では)日本共産党があり、その党員たちや強いシンパ(同調者)たちがいる(学者・研究者、評論家、文筆家も含む)。朝日新聞もまた<容共>だ。
 <容共>とは、コミュニズムを信奉するか、あるいはそれを容認して、それと闘う気概を持たないことを意味する。<容共>と対立するのがもちろん<反共>で、<保守>とは<反共主義>に立つものでなければならない。コミュニズムを容認または放置してしまうのではなく、積極的に闘う気概をもつ立場こそが<保守>だ。
 三 <冷戦後>とか<冷戦終結後>とかいう表現が保守的論壇等も含めてかなり使われているが、かかる時代認識は(日本と日本人にとっては)誤っており、下手をするとコミュニズムのいっそうの浸透を許す(またはそれを阻止できない)原因になりうる。
 なるほど欧州諸国と同諸国民にとっては、ソ連の崩壊によってかつての<冷戦>は過去のものとなったと受け止めてられてもよいのかもしれない。
 しかし、東アジアには北朝鮮はもちろん中国・ベトナム等の<社会主義>国がなおも残存し、中国は盛大化の傾向を見せるなど、東アジアにとっては、<冷戦は終わっておらず、継続したまま>だ。<冷戦>どころか、<ホットな戦争>になる火種すら、あちこちに存在している。
 中国等がかつてのマルクス・レーニン主義あるいはコミュニズムに依拠しているかについては議論の余地があるだろうが、どの現存「社会主義」国家も共産党(またはそれに実質的に該当する)政党・政治組織の独裁体制下にあることは疑いなく、彼ら自身が自分たちをマルクスやレーニンの思想的系譜のうちにあることを自覚しているはずだ(いつか言及したように中国共産党幹部は日本共産党・不破哲三と世界の「社会主義」運動の現在と将来を話題にしており、自分たちが「社会主義」運動の主体の一つであることを前提としていることは明瞭だ)。
 四 日本と日本人は、まずは、中国・北朝鮮・ベトナム等の<社会主義>勢力と断固として闘う必要がある。<間接侵略>も許してはならない。
 だが、領土的にはまだ微小だが、精神的にはかなりの程度、中国による<間接省略>をすでに許してしまっているのが実態だろう。<親中>の朝日新聞、<親中>の若宮啓文や大江健三郎等の人士等々の助けも借りて、それは執拗になされてきている。
 五 米国との関係で、自立を説くことは誤ってはいない。<自主>憲法の制定も急がれる。その意味では<反米>ではある。
 だが、現在の最大の<溝>・<矛盾>はやはり従来と同じく、コミュニズム(共産主義・社会主義)と<自由主義>(・資本主義)との間にあることを没却してはいけない。
 <反共>をきちんと前提とするあるいは優先した<反米>でなければならない。<反共>を優先すべきであり、そのためには、米国や欧州諸国のほか韓国・インド等の<反共>(・自由主義)諸国とも<手を組む>必要がある。そのかぎりで、かつて言われた<価値観外交>は正しく、<日米中正三角形(等距離)外交>などは誤った、中国を利する、<親中>政策の一つだ。
 以上のかぎりでは、つまり<反共>の立場を貫くためには、<親米>でもなければならない。
 日本と日本人は<反共>のかぎりで<親米>でありつつ、欧米とは異なる日本の独自性も意識しての<反米>(反欧米、反欧米近代)でもなければならない。
 そのような二重の基本的課題に直面していると現代日本は理解すべきものだ。
 冷戦は終わったとのたまい、中国に対する警戒心を何らまたは十分には表明することなく<反米>または<欧米的個人主義・自由主義>への懐疑のみを表明するような議論は、下手をすると(<反米>のかぎりで)中国等を利する可能性があり、日本の<左翼>とも共闘?してしまうことになりかねないことに注意すべきだ。
 六 上のような基本的論点に比べれば、経済政策または市場への国家の関与の仕方・程度に関する論点は、まだ些細な問題だ。
 <自由>に傾くか<平等>に傾くか、<競争>か<保護(的介入)>かは、資本主義または自由主義の範囲内で、大いに論ずればよい。<反共>・<反社会主義>をきちんと前提としてあるいは優先して、いわゆる社会民主主義的な政策が、<日本と日本人>の意識と歴史に即した形で導入されることも完全には否定すべきではないと考えられる。
 但し、その「社会民主主義的な政策」が「社会主義」につながっていくような、親社会主義意識を増大させるようなものであれば、排斥される必要がある(自民党は民主党の政策を「社会主義的」と論定していたようだが、そこまでには至っていないのではないか。本当の「社会主義」とはもっと強烈で苛酷なものだと思い知っておくべきだ)。
 七 反復になるが、<親米>かつ<反米>である必要があり、これらは矛盾しない。当然に、<保守>的議論・人士を上面だけで<親米>か<反米>かに分類することは馬鹿げている。

0873/山内昌之・歴史の作法(文春新書、2003)中の「アカデミズム」。

 山内昌之・歴史の作法-人間・社会・国家(文春新書、2003)を何となく捲っていると、面白い叙述に出くわした。
 「一般(純粋)歴史学」・<歴史学者>の存在意義にかかわるような文章だが、社会・人文系の<学>・<学者(研究者)>にも一般にあてはまりそうだ。
 「アカデミズムとは、職人的な『掘鑿』に頼りながら『専門家』であることを根拠に、現在と過去から超然とし、人びとや社会に向かって客観的な評価を下せると妙な自信をもたせる制度といえるかもしれません。『権力』の場とは別に『権威』の場ができたわけです。反『権力』を自負する学者たちが専門家としての『権威』を自明のものとし、自分たちの閉ざされた世界で『権力』を誇示する現状に無自覚なのは、あまりにもアカデミズムの環境にどっぷりと浸っているからでしょう。/…によれば、『専門家』であることは『公平』であるという事実を意味せず『仕事に対して報酬を受けている』だけの事実を意味するとのことです」(p.164-5)。
 アカデミズムとは耳慣れない言葉だが、要するに、<学問・学者の世界>またはそれを<世俗(俗世間)>よりも貴重で、超然として優越したものとする考え方(「主義」)もしくはそのような考え方にもとづく「制度」を指すものと思われる。
 そのような<アカデミズム>からの「人びとや社会」に対する影響力は、かつてと比べると格段に落ちているだろう。だが、それにもかかわらず、上に使われている表現を借りれば、「『専門家』であることを根拠に、現在と過去から超然とし、人びとや社会に向かって客観的な評価を下せると妙な自信」をもっている学者・研究者(要するに、大学教授たち。但し、社会・人文系を念頭に置いている)はなおも多いのではないか。
 また、閉ざされた<アカデミズム>内部での「権威」が「権力」をもちうることは、教育学の分野に関する竹内洋の(生々しい?)叙述でも明らかだろうと思われるが、その「権威」・「権力」は必ずしも一般社会(俗世間)の、または<客観的>な評価にもとづくわけではないことを知らず、その「権威」・「権力」的なものに(無意識にではあれ)追従し、依存して生きて(学問研究なるものをして)いる学者・研究者も少なくはないと思われる。
 やはり指摘しておくべき第一は、日本の<アカデミズム>(社会・人文系)内部での「権威」・「権力」は(現在でもなお)コミュニズム・マルクス主義または親コミュニズム・親マルクス主義、あるいは少なくとも反コミュニズム・反マルクス主義=<反共>ではないという意味で「左翼的」な彩りをもっていることが多いと想定されることで、意識的・自覚的にではなくとも、学界内部に入った者は自然に少なくとも「左翼的」になってしまうという仕組み・制度があるのではないか、ということだろう。
 そして、そのような「左翼的」学者・研究者(大学教授たち)によって教育され指導を受けた少なくない者たちが例えば高校・中学等の教師になり、官僚になり、マスメディア等へと輩出されてきている、ということに思いを馳せる必要があろう。
 現在の民主党政権の誕生とその後の愚劣さ(または現実感覚から奇妙に遊離していること)は、戦後のそのような「左翼的」学問・研究にもとづく教育の<なれの果て>でもあるように考えられる。
 第二に、かつてほどの影響力はなくとも、マスメディアあるいは政治の世界は何らかの目的をもって「学者・研究者(大学教授たち)」を利用しようとすることがあり、現にそうしている。そして、上に書かれている(または示唆されている)ように、「学者・研究者(大学教授たち)」・「専門家」たちの発言・コメント類は決して「公平」でも「中立的」でもない、ということだ。言うまでもなく、朝日新聞に多用されているような<識者コメント>は信頼できない。そうでなくとも、大学教授・何らかの専門家(社会系・人文系)というだけで社会的な権威があるものと見なしてはいけない。
 以上のとくに第二は、当たり前のことを書いてしまったようだ。

0614/佐伯啓思・国家についての考察(2001)p.25-全体主義に対立するのは民主主義よりも保守主義。

 一 佐伯啓思・国家についての考察(飛鳥新社、2001)も佐伯の本の中でじくりと味わうべきものの一つだろう。
 全体の詳細な紹介、要約的言及の余裕はない。
 p.23からの数頁は「保守的であること」との見出しが付いている。そして、「保守的である」という気持ちのもち様、態度についての興味深い叙述があり、こうした「態度の背景」には、「人間の理性的能力への過信に対する防御」、「理性万能主義(設計主義)への深い疑問」等がある、とする。
 今回紹介したいのはその次の辺りの文章だ。佐伯啓思は言う(p.25)。
 ・「保守主義が明瞭に対立するのは社会主義にせよ、ファシズムにせよ、社会全体を管理できるとする全体主義に他ならない」。
 ・「理念としていえば民主主義などよりも保守主義の方が全体主義に対立する」。
 ・上のことは、「保守主義の生みの親とも目されるエドモンド・バーク」がその「保守的思考」を、「ジャコバン独裁をもたらすことになるフランス革命批判から生み出した」ことからも「すぐにわかるだろう」。
 二 宮沢俊義をはじめとする戦後・進歩的知識人のみならず日本国民の多くにも、先の大戦は<民主主義対ファシズム>の闘いであり、理論的・価値的にも優れた?前者が勝利した、という認識又は理解が、空気の如く蔓延した(蔓延しつづけている?)ようでもある。
 だが、既述の如くソ連を「民主主義」陣営の一者と位置づけることは、<人民民主主義>という概念などによってかつては誤魔化すことができたかもしれないが、いまや殆ど笑い話に近いほどに、正しくはない。
 また、ヒトラー独裁・ドイツファシズムが<ワイマール民主主義>の中から<合法的に>出現したことをどう説明するか、という問題もある。なお、<日本軍国主義>体制も(そのようなものがあるとして)法的には合憲的・合法的に成立したといわざるをえないだろう。

 つまり、<民主主義対ファシズム>の闘いだったと先の大戦を把握することは歴史の基本を捏造するものだ。従ってまた、今日までずっと<軍国主義・ファシズムの復活を阻止するために、民主主義を守り・徹底する>という目的を掲げてきている又は何となくそういう図式・イメージをもっている者たちもまた、歴史の基本的なところの理解を誤って国家・社会の動向を観察していることになる。
 「左翼」にとっては、とくに日本共産党員をはじめとするコミュニストにとっては、上の佐伯の叙述のように「社会主義」と「ファシズム」を「全体主義」という概念で包括するのは我慢できないことだろうが、社会「全体」の管理可能性を信じる点で、両者にはやはり共通性がある。
 また、この「全体主義」に対立するのはむしろ「個人主義」又は「自由主義」と言うべきであり、「民主主義」は別の次元の主義・理念だろう。
 そしてまた、フランス革命期における<急進的な(又は直接的)民主主義>(ルソー的「人民主権」論の現実化=「ジャコバン独裁」)を警戒したのは、叙上のように、イギリスの「保守主義」者・バークだった。
 佐伯啓思があえて言及しているように、今日において民主主義、さらにはコミュニズム(社会主義・共産主義)を論じる場合において、フランス革命期の「ジャコバン独裁」(ロベスピエールらによる)をどう評価し、どう理解しておくべきかは、不可欠の論点なのだ、と思う。「人民主権」(プープル主権)論の評価についても同じことがいえる。
 フランス革命や「ジャコバン独裁」・「人民(プープル)主権」論に言及してきたし、これからも言及するだろう理由は、まさに上のことにある。

0467/共産主義との闘い-人間が人間らしく生きるために。

 「なぜ1917年に出現した現代共産主義は、ほとんど瞬時に血なまぐさい独裁制をうちたて、ついで犯罪的な体制に変貌することになったのだろうか。…この犯罪が共産主義勢力によって、平凡で当たり前の施策と認識され実践されてきたことをどう説明できるのだろうか」。
 これはクルトワ等共産主義黒書コミンテルン・アジア篇(恵雅堂出版、2006)p.334の文章だ。「犯罪」はむろん粛清=大量殺戮を含む。
 この本はフランス人によるだけにフランス革命後のロベスピエール等によるギロチン等による死刑とテロルの大量さとの関連性にも言及しているのが興味深いが、この文章の「現代共産主義」は殆どソ連のみを意味する。だが、「現代共産主義」は欧州では無力になったとしても、東アジアではまだ「生きている」。アジア的・儒教的とか形容が追加されることもある、中国・北朝鮮(・ベトナム)だ。中国との「闘い」に勝てるかどうかが、これらの国を「共産主義」から解放できるかどうかが、大袈裟かつ大雑把な言い方だが、日本の将来を分ける。下手をすると(チベットのように<侵略>されて)中華人民共和国日本州になっている、あるいは日中軍事同盟の下で事実上の中国傀儡政権が東京に成立しているかもしれない。そうした事態へと推移していく可能性が全くないとはいえないことを意識して、そうならないように国と全国民が「闘う」意思を持続させる必要がある、と強く感じている。むろん「闘い」は武力に限らず、言論・外交等々によるものを含む。
 といって、現在の北朝鮮・中国情勢に関して日本「国家」が採るべき方策の具体的かつ詳細な案が自分にあるわけではない。だが、中国・北朝鮮対応は共産主義との闘いという大きな歴史的流れの中で捉えられるべきだし、将来振り返ってそのように位置づけられるはずのものだ、と考えている。
 近現代日本史も「共産主義」との関係を軸にして整理し直すことができるし、そうなされるべきだろう。共産主義がロシアにおいて実体化されなかったら、日本共産党(国際共産党日本支部)は設立されず、治安維持法も制定されなかった。コミンテルンはなく、その指導にもとづく中国共産党の対日本政策もなく、支那は毛沢東に支配されることもなかった。米ルーズベルト政権への共産主義の影響もなく、アメリカが支那諸政府よりも日本を警戒するという「倒錯」は生じなかった。悪魔の思想=コミュニズムがなかったら、一億の人間が無慈悲に殺戮される又は非人間的に死亡することはなかったとともに、今のような東アジアの状態もなかった。

0416/佐伯啓思のいくつかの本を読んでの付随的感想二つと樋口陽一。

 全て又は殆どではないが、佐伯啓思の本を読んでいて、感じることがある。
 第一は、佐伯の仕事全体からすれば些細なことで欠点とも言えないのだろうが、欧米の「思想(家)」には造詣が深くとも、日本人の政治・社会・経済思想(家)-漱石でも鴎外でもよいが-については言及が少ないことだ。無いものネダりになるのだろうが、この点、「日本」政治思想史を専門としていたらしい丸山真男とは異なる。
 だが、丸山真男よりも劣るという評価をする気は全くない。丸山真男には岩波書店から安江良介を発行者とする「全集」(別巻を含めて計17巻)があり、さらに書簡集まで同書店から出ているようだが、いつかも書いたように、そこまでの内容・質の学者又は思想家だったとは思えない(<進歩的知識人>の、客観的には又は結果的には浅薄で時流に乗った文章の記録にはなる)。
 むしろいずれ将来、佐伯啓思については既刊行の著書も全て再録した「全集」をどこかの出版社が出してほしいものだ。それに値する、現在の「思想家」ではないか。
 第二に、佐伯はしばしば<冷戦の終了(冷戦体制の崩壊)>という旨の表現を簡単に使っている。しかし、<冷戦終了>(フクシマの「歴史の終わり」)もまた欧米的発想の観念で、<冷戦が終了した>と言えるのはソビエト連邦が傍らにあった欧州についてである、そして、アジア、とくに東アジアではまだ<冷戦は続いている>、のではなかろうか。
 欧州を祖地と感じる国民が多いと思われるアメリカにとってはソ連崩壊は自らのことでもあったが、北朝鮮・中国については、どこか<遠い>地域の問題という感覚が(ソ連の場合に比べてより強く)あるのではないか。
 北朝鮮・中国(中華人民共和国)が近隣にある日本はまだ、これらの国との<冷戦>をまだ続けている、と認識すべきだろう。そして、<冷戦>からホットな戦争になる可能性は厳として残っていると考えられる。
 <冷戦終了>=ソ連崩壊・解体(+東欧の「自由化」等)によって<社会主義>・<コミュニズム(共産主義)>あるいは<マルクス主義>というイデオロギーは大きな打撃を被った筈で、このことの影響・インパクトを軽視し、又は巧妙に誤魔化している<親社会主義>の(又は、だった)学者・文化人への批判を、おそらく佐伯もするだろう。ましてや、ソ連は「(真の)社会主義国」でなかったと言い始めた日本共産党に対しては<噴飯もの>と感じているだろうと推測はする。但し、北朝鮮・中国問題への関心が現実的重要性からするとやや少ないように感じられるのは残念ではある(これも無いものネダりかもしれないが)。
 ところで、樋口陽一・「日本国憲法」まっとうに議論するために(みすず書房、2006)は1689(英国・権利章典)、1789(フランス革命)、1889(明治憲法施行)の各年に次ぐ4つめの89年の1989年も重要なことがあった、として次のように述べている。
 「…旧ソ連・東欧諸国での一党支配の解体です」(p.29)。
 ここの部分は多くの論者によるとソ連等の<社会主義国の崩壊(解体)>と表現されるのではないかと思うが、樋口は「一党支配」と言い換えている。だが、「『権力の民主的集中を掲げて対抗してきた旧ソ連・東欧諸国での一党支配の解体」という表現は、本質を、あるいはその重要性を少なからず隠蔽していると感じられる。その意味で、<政治的>に配慮された表現を採用している、と思われるのだが、<深読み>かどうか。

0412/佐伯啓思における4種の「リベラリズム」=<市場経済>の見方。

 佐伯啓思・自由とは何か(講談社新書)からの確認的メモのつづき。
 「リベラリズム」は「自由主義」と言い換えてもよいが、前回紹介の「自由」や「現代のリベラリズム」は、佐伯が自ら述べるように、「拘束」・「抑圧」からの解放という「近代の入り口」での「自由」とはかなり性格を異にしている。かつ、あくまで「今日の代表的な立場」における「自由」観で、「アメリカ的」又は「アングロサクソン的」と限定をつけてもよい、とも言う(p.160)。
 また、佐伯によると、「拘束」・「抑圧」からの自由がおおよそ実現し、「自由」の内実が「多様な主観的価値の共存のための条件」になってしまった結果、「自由」には「それほどの切迫さも切実さも」なくなった(p.161)。
 上にも見られるように、佐伯は「現代のリベラリズム」を説明・分析しているだけで、それを自らの価値として主張しているわけではない。<価値相対主義>(「価値」に関する「主観主義」)についても、「価値」による行動は社会的「妥当性」を要求するので、「価値」は本質的に個人の「主観を超えた次元」にある(「嗜好」や「趣味」とは異なる)、と疑問視する。かかる立場からすると、例えば<援助交際>は「特定の行為に示された価値の問題」、「本質的に社会的な問題」、「社会的普遍化、妥当性要求をはらんだ問題」で、「主観の問題」ではなく、「それは個人の自由であり、自己責任だ」で済ますことはできない(p.162-163)。
 もともと予定していなかった部分の要約はこれくらいにする。確認的にメモしておきたかったのは以下だ。佐伯は、「市場経済」(「市場競争」)について四つのタイプの議論があり、それぞれに対応して、「四つのリベラリズム」がある、とする(p.187以下)。この部分はなかなか参考になる。
 第一、「市場中心主義」。共通の透明なルールのもとで人々が「自己利益を最大化」せんとするのは当然で、たとえ報酬格差が数百倍に開こうと受け容れるべきだ。
 第二、「能力主義」。人の「能力や努力」に対して報酬を付与するのは市場競争でも同じ。但し、例えば「莫大な遺産」による「不労所得」は市場の結果であっても修正されるべき。「投機的利益」への課税等も同旨。「古典的な」「プロテスタント風の倫理精神」やロックの「財産保有と労働」に基づく市場を擁護する。
 第三、「福祉主義」。市場競争により勝者・敗者が発生するが、敗者は「たまたま市場経済のなかでうまくいかなかっただけ」で、それで「彼の人格や生活のすべて」を左右すべきでない。競争が「結果としてもたらす不平等」を、敗者=弱者に対する福祉給付・所得再配分によって政府が是正すべき。敗者も「そこそこ幸福な人生を送る権利」をもつ。
 第四、「是正主義」。勝者・敗者という「不平等」は多くの場合は「ある種の人々が構造的に不利な立場」にあることから生じるので、彼らの救済には事後的な福祉給付では不適切で、「初期条件をできるだけ平等化」すべき。アファーマティブ・アクション、自立支援プログラム等によって。
 こうした分類を前提にすると、佐伯によると、第一の論者としてはミルトン・フリードマンハイエク、第二はロバート・ノージック(第一に近いかもとの注記あり)、第三は「いうまでもなく」ジョン・ロールズ、第四はロナルド・ドゥウォーキンアマルティア・センを想起できる。
 さらに佐伯はこう述べる。第一、第二は「個人主義的な側面を濃厚に持った自由主義」で、とくに第一は、しばしば「リバータリアニズム」と呼ばれる。これらは「最小国家観、夜警国家観」に立ち、国家は「特定の価値を含まない」(→中立的国家)。
 第三、第四は「どちらかといえば」、「平等性に傾いた平等主義的な自由主義」で、「狭い意味」ではこれらをとくに「リベラリズム」と呼ぶことが多い。これらは「介入主義的国家」観に立つともいえるが、介入は基本的には「個人の権利を保障するための平等化政策」で、それ以上のことを目指さない(→やはり中立的国家)。
 説明は続く。第一において、市場競争への「参加の権利」の付与が重要で、結果は特に問題視しない。第二も同じだが、「人の能力の帰結としての財産への権限」を決定的に重要視する。「能力と努力が権利を生み出す」のだ。
 第三では、福祉給付により実現される「人間として最低限の生活をなすという権利」が唱えられる。第四は弱者・構造的被差別者にも「平等な機会へアクセスする権利」が保障されるべきだとする。
 以上の論述を前提にして佐伯啓思自身による議論が続いていくが省略する。
 上にみたように、「リベラリズム」とはさしあたりは広義に、市場経済=資本主義(=広義の「自由主義」)に立つ、非・反社会主義(・共産主義)とほとんど同義に用いられているようだ(なお、佐伯は「コミュニズム」あるいは「マルクス主義」を殆ど無視している。議論の俎上に乗せる意味自体を否定しているように見える)。その上で、上記の如く「狭い意味」での、<社会民主主義>にかなり近いかもしれない「リベラリズム」概念も用いられている。
 さて、かりに上記の如き整理が適切だとして、われわれはいずれの立場・考え方を支持すべきか? こうした基底的?レベルでの思考と選択をひとまずは誰でもしておくべきではなかろうか。こうした思考と選択は、「人間」観や「人生」観にもかかわる、けっこう現実的で、その意味では<生臭い>、重要な問題だと思える。

0403/佐伯啓思・隠された思考を読む-第3回め。

 佐伯啓思・隠された思考(筑摩、1985)の第一章のⅢ「差異と持続」(p.42~p.58)を読んだ。
 ソシュール、パース、ウィトゲンシュタインが出てきて、読みやすくはないが、最後の方に印象に残る表現が続いている。適宜、一部引用する。
 ・<語り得ないことが「言語」の背後にあり、それによってこそ「言語(記号)世界」は「生きた」意味をもつ。さもなくば、「薄っぺらな記号が漂うだけの世界は…まがいもののアナーキー」で、「記号表現と記号内容の関係をズラすという意図的な工作」はいずれ「単なる騒音を生み出す」。「言葉は、背後に沈黙の影を引きずっているときにだけ生きたものになる」。>(p.56)
 ・<語り得ないことは「潜在的記憶」として「時間の底をゆっくりと流れてゆく」。「伝統とか慣習」は過去・死者たちが沈黙から発する声でかつ「生き続けた物語」だが、「巨大な偏見の塊」であるものの「深遠宏大な叡智を内包した偏見」(バーク)でもある。「歴史」は「死者と生者の交わり」。伝統・慣習の中の「共同体的」「暗黙知」は、「真理を含んだ偏見」、「事実と形而上学の混融」、「科学と神話のアマルガム」だ。>(p.56-p.57)
 ・「真理は常に偏見に縁どられ、その中に包み込まれている。だからといって偏見を切りきざめば、真理も傷つけられる」だろう。(p.57)
 ・<人は「伝統や慣習」に「真の神話を、形而上学を」見出そうとしてきた。これらを「自己のものとして解釈」することで、人は「時間と共にあり、持続の中に自己を象徴的に定位できる」。「自己同一性」の確保とは、「記号世界」と「沈黙世界」の、つまり「顕在化した生と沈潜した生」の、あるいは「生と死」、「瞬時性(状況)と連続性(歴史)」の間の架橋が「過不足ない均衡を保つ」ということだ。>(p.57)
 ・「人間の事象」には一方で「記号表現の過剰」があり、他方で「記号表現は記号内容に対し過少でもあるというべきだろう」。(p.57)
 ・<「記号の表現系列と内容系列」が、「過剰と過少」が均衡を保つ「不動の…地平」が作る「安定的な象徴秩序」が反復され「記憶の中に受け継がれる限り、人は、生の現実性が実働性と重なり合う、確かなものという手ごたえ」を決して「忘れ去り」はしないだろう。>(p.58)
 以上。<保守>主義の基礎が結果的には述べられているような気もする。少なくとも、マルクス主義者(コミュニスト・共産主義者)が思考もせず、関心も持たないテーマだろう。マルクス主義者はマルクス主義の「言葉」・概念の<呪術>を真理又は「社会科学」と<錯覚>して<取り憑かれている>、可哀想な、単細胞の人々だからだ。

0393/映画「母べぇ」の製作意図は?

 山田洋次監督・吉永小百合主演の映画「母べぇ」というのが上映されている(らしい)。
 読売新聞1/24の全面広告欄で、原作者・野上照代はこう語る(一部)。
 <今も世界には「暴力による支配」に苦しむ多数の人々がいる。日本で「も」、「戦争の怖さ、悲惨さ、残酷さを語り継ぐ体験者」が減り、「戦争を知らない世代がほとんど」。戦争の時代は「すっかり過去の遺物」となりつつある。「しかし、…ああいう時代がいつまた来るかわかりません」。「暴力」は「本当に恐ろしく、私の父のように戦争反対を唱える人はまれで、…。だから、ひたひたと恐ろしい時代が忍び寄っていたとしても気付かず悲惨な歴史がまた繰り返されるのではないかという不安があるのです」。>
 かかる発言は一体何だろう。どこかで何回も聞いたことがある、<二度と繰り返すな、警戒しないとまたあの時代が>という<狼少年>的な教条「迷い言」そのままではないか。
 「ああいう時代がいつまた来るかわかりません」などと言っているが、「ああいう時代」は絶対に二度とやって来ない、と私は考えている。まるで現在が「ひたひたと恐ろしい時代が忍び寄っていたとしても気付かず…」という時代であるかの如き発言もしているが、じつに幼稚な、日教組等がかつてよく言っていたような、情緒的な<戦後左翼>の言葉そっくりではないか。
 吉永小百合も「ひとりの日本人として『母べぇ』の時代のことは忘れてはならないとの思いを胸に、心を込めて」演じた、と語る。
 山田洋次もいわく、「軍国主義の時代…」、「表現の自由が認められない、辛く厳しく、重苦しい時代でした…」、「こうした時代の記憶…作品として次世代に残していくのが使命…」等々。
 戦時中に「思想犯」として投獄されていた者の家族(吉永小百合ら)をその妻(子の母)を中心に描く、表向きは、またたぶんかなりの程度は<ヒューマニズム溢れた>映画なのだろうが、しかし、上の言葉等からすると、<戦争反対>の「思想犯」を英雄視し、又は英雄とまではいかなくとも真っ当な立派な人物として描き、日本「軍国主義」を批判する<反戦>映画であることは間違いないだろう。
 逮捕・投獄されるほどの当時の「思想犯」とは、コミュニスト(マルクス主義者)あるいは親コミュニズム者(親マルクス主義者)である可能性も高い。少なくとも、日本の戦勝を喜びはしなかったと思われる「国民」で、戦後初期、例えば占領中の人物評価基準と同じ価値基準を今日でも用いるのは適切ではないだろう。
 また、言うまでもなく、山田洋次も吉永小百合も「九条の会」(現憲法九条の改正に反対するグループ)の有力な賛同者であって、たんなる監督・女優あるいは文化人ではない。
 <ヒューマニズム溢れた>映画に反対するつもりはないが、しかし、野上照代が「暴力による支配に苦しめられている人々がたくさんいます」などと言うのならば、山田洋次監督・吉永小百合主演で、例えば、北朝鮮、中国、チベット、かつてのカンボジア、ソ連等々の「表現の自由」のない人々と関係のある日本人を主人公とする映画を作ってほしいものだ。北朝鮮については、その「暴力」のれっきとした被害者が現に日本にいるではないか。
 なぜ山田洋次は、<めぐみさん>又はその両親を描く映画を作ろうとしないのか?
 現・旧の<社会主義国>の「暴力」や「弾圧」には目が向かず、日本「軍国主義」を結局は(間接的にせよ)糾弾する映画作りには熱心になるという山田洋次は、そして吉永小百合も、やはり、私に言わせれば、<ふつうじゃない>。
 なお、産経新聞1/30は、広告記事ではなく一般のインタビュー記事として野上照代に語らせている。この映画の上映収益の増大に一役買っていることになる。読売の広告欄のような言葉を野上は(あからさまには)述べていないが、これが野上の<自粛>なのか、記者の判断による取捨選択の結果なのかは分からない。
 ともあれ、映画もまた、<時代の空気>のようなものを作っていく。1970年代には、「容共的」作家・五味川純平原作の、日本の財界人を「悪徳」者視し、中国共産党員をヒロイックに描いていた、山本薩夫監督の『戦争と人間』全三部という大作映画もあった(吉永小百合も山本学・圭らとともに出演)。「母べぇ」を観る気はないが、<政治>的匂いのある映画には(良かれ悪しかれ)関心を向けておくべきだろう。

0207/小嵐九八郎・蜂起には至らず(講談社、2003)と樺美智子。

 筆名と見られるが、反日本共産党系(中核?)活動家だったらしい小嵐九八郎という人の蜂起には至らず(講談社、2003)という本がある。そのp.339は、こう書いている。
 ソ連解体は「衝撃であった」、「旧だけでなく新の左翼も…思想の核心、在ることの意味、組織の土台を問われた―問われ続けているはず。…共産党宣言、…ロシア革命、…中国革命って何であったのだろうかと。九八郎めもここいらを境にして、やっと自分の半生を疑いはじめ、四十ウン歳にして、茫然とした覚えがある」と告白している。
 まだ中国等が「社会主義」国として残っているとはいえ、日本共産党員等の中に生じたに違いない「動揺」は当然のことで、「良心の揺らぎ」を世俗的人間関係や不破哲三等の言説によって誤魔化す必要はない。
 この本は副題が「新左翼死人列伝」で27人の物故した新左翼活動家又はシンパを扱っている(高橋和巳を含む)。『二〇歳の原点』で知られる高野悦子(1949.01.02-1969.06.24*20歳)は含まれておらず、最初に登場するのは樺美智子(1937.11.08-1960.06.15*22歳)だ。
 小嵐氏の本から離れるが、樺美智子は高校時代からコミュニズムに関心をもち、一浪して1957年に東京大学入学後に日本共産党に入党、翌年には離党して共産主義者同盟(ブント)に入り積極的活動家になった。1960.06.15に国会南通用門から国会敷地内に入ろうとしたときに倒れて死亡した。たぶん学生の隊列の先頭あたりにいたのでないか。
 死因については、「虐殺抗議」との文字を掲げたデモがあったことに見られるように警官隊の暴力に求める立場もあるが、西尾幹二は、東京大学内での「虐殺抗議集会」で「虐殺じゃないではないか。自分たちで踏み殺したんではないか」と少し大きな声で言ったらのちの芥川賞作家・柏原兵三が心配して会場から連れ出してくれた、などと当時のことを振り返っており(西尾幹二氏のHPblog/2006/08/による)、警察側に責任があることは自明ではないようだ。ともあれ、彼女は、一人の優秀だったはずの女子学生は、満22歳でその人生を終えた。
 この樺美智子の死は-人の死への哀惜の念はもちろんもつが-、しかし、活動中に他セクトの暴力=内ゲバによって殺されたり、同じセクト内で「総括」し合ったり、懊悩から自殺したりした若者も含めて、共産主義というものがなかったら、コミュニズムを(理解の仕方に差違はあれ)信奉する団体・組織がなかったら、そのような団体・組織に彼らが入ったり接触したりしなければ、避け得たのではないか。 マルクスらが共産党宣言を書かず、レーニンらがロシア「革命」を成功させなかったら、彼らの多くはまだ生きているのではないか。存命であれば、樺さんは今年70歳の古稀を迎える。
 彼らの一度しかない人生を短くしたのはコミュニズムではないか。哀しく、そして怖ろしい。

-0018 /2008年北京五輪へ行って、お腹を毀したくない。

 読売6面の小さな記事によると、2004年以降の2年間余、中国での外国メディア記者の拘束の件数38、人数85、取材妨害は15ケ国メディアに対して72件、うち記者等への暴行10件、写真やノートの没収21件。中国の実態の一端だ。かかる状況に文句をつけると「内政干渉」、「中国の自由・民主主義を他国と同列に論じられない」とか言うのだろう。日米・欧州的基本価値を共有しない異質な「社会主義国」だのに、一衣帯水とか漢字文化に目眩ましされて、チャイナスクール卒外務省お歴々の中には「東アジア共同体」構想をめざす人もいるらしい。
 せめて中国共産党の支配が終わり毛沢東以降歴代の党書記の全ての「罪」が明らかになり、かつ北朝鮮「金」王朝が終焉してからにしてほしいものだ。ECはすべて自由主義国でかつドイツの社民党もNATOを承認しドイツへの米軍駐留を肯定するという(日本の社会党、現社会民主党と正反対の)現実的対応をとる国々で構成されている。そのような基盤は現在、東アジアにはまるでない。
 誰かがどこかに書いていたが、ドイツナチスは1936年のベルリン五輪の9年後に滅び、1980年のモスクワ五輪の9年後にベルリンの壁がなくなり、11年後にソ連が崩壊した。とすると、2008年北京五輪から9~11年後の2017~19年には大きな世界史的事件が東アジアで起きるかも。その前後の日本を巻き込んだ大暴発又は大混乱はいやだが。
 毛沢東の矛盾論・実践論をなるほどと感心しつつ読んだのは1970年頃だった。矛盾・対立には根本的なものから些細なものまであるので見極めが肝心ということはたぶん書いてあったと思う。
 優先順位の選択といってもよいが、国際政治でも国内政治でもこの見極めが大切で、日本と人類にとっての最大の矛盾・対立はコミュニズムとの間にある、コミュニズムの国と勢力に絶対に屈してはならない、が私見だ。ルーズベルト又はアメリカはコミュニズムへの認識が甘すぎた時期があったようだ。毛沢東・共産党が中国の覇権を握る可能性を真剣に予測し得ていたら、戦争中の日本への対応も違ったのでないか。ソ連と中国で計1億人以上が殺戮されたともいわれる。権力把握者から「嫌いな」主張者と感じられたとの理由だけでも。「政治犯収容所」と容赦ない殺人を伴うコミュニズムの「おそろしさ」を-日本共産党とも決して無縁でない-、昔風の「反共」で済ませず、深刻に考えておく必要がある。

-0016/日本共産党綱領を瞥見してみると面白く、楽しい。

 1991年のソ連解体と東欧諸国の「自由」化によって<冷戦>は終わったとも感じたが、東アジアには中国・北朝鮮・ベトナムがあり前二者は日本への現実的脅威なのだから、少なくとも東アジアでは<冷戦>は継続していると見るのが正しい。<冷戦>とは社会主義経済・共産党独裁政治と資本主義経済・自由主義政治の戦いであり、日本国内でも前者を目指す又は前者に甘い勢力は残存しているので(日本共産党・社会民主党・これら周辺の団体等)、国内での戦いも継続している。
 日本共産党もHPをもつことを今年になって知ったが、そこにある2004年改正同党綱領にはまず「日本共産党は、わが国の進歩と変革の伝統を受けつぎ、日本と世界の人民の解放闘争の高まりのなかで、1922年7月15日、科学的社会主義を理論的な基礎とする政党として、創立された。」とあるが、ここですでに虚偽がある。戦後もかなり後からの造語「科学的社会主義」をさも当時の概念かのごとく使っているのは別としても、<共産主義インターナショナルの日本支部として、天皇制と日本帝国主義の打倒をめざして(=大日本帝国の敗戦・崩壊をめざして)、ソ連共産党の理論的・財政的援助を受けて設立されました。>と述べる方がより正確だ。そのあとで「たたかった」を6つ並べていて戦前に一貫して継続的に「たたかった」かのごとく書くが、これも虚偽=ウソ。長く見たとしても党としての活動は1934年くらいまでで、10年間以上は見るべきものはない。獄中で「帝国主義戦争反対」と念仏の如く呟くことも「闘い」だったというなら話は別だが。それに、1934年頃の中央委は半分以上がスパイで実質は特高にコントロールされていたのだ(笑っちゃうね)。22年以降一貫してでなく、1961年綱領・宮本体制の確立が実質的には現在の党の開始で、これは自民党、日本社会党よりも遅い。そのあと、「平和と民主主義の旗を掲げて不屈にたたかい続けた」、ポツダム宣言受諾は「日本の国民が進むべき道は、平和で民主的な日本の実現にこそあることを示し」、「党が不屈に掲げてきた方針が基本的に正しかったことを、証明した」と書く。よくもまぁヌケヌケととは、こういう文章にこそあてはまる。まずは自党の党員を騙す=洗脳しておく必要があるのはわかるが。
 共産主義、コミュニズムへの批判は絶えず意識的に行うべきだ。とくに共産党が現に活動している国では。

-0007/「中国は社会主義の衣をまとった封建国家」-立花隆は?

 日曜とはいえ勝谷某と比べて12時間遅い(早い)生活リズムになって、体の調子がどこかおかしい。今日は2+1の計3冊届いた。このあと、5日ぶりくらいに最寄りの繁華街を散策し古書店にも入ってみよう(歩ける遠さではない)。
 読売の昨日の朝刊2面に、中国南東部地方で台風のため少なくとも104人死亡、行方不明190人とある。日本で水害数百人の死者となれば大騒ぎだが、治水のインフラ不備等の中国では珍しくもないのだろう。6面の「ドイモイ20年」との連続囲み記事中には、ベトナム「共産党の支配は大きく傷ついている」、「公正な社会の実現は、はるかかなただ」等とある。今でも社会主義・共産主義幻想を残している人々はいるのだろう。20世紀に関する歴史学上の最大の課題はなぜコミュニズムはある程度の期間、ある程度の地域で成功したのかだ、というのが私見方だ。帝国主義でもドイツ・ファシズムでも日本軍国主義でもない。
 立花隆・滅びゆく国家(2006.04、日経BP)は少なくとも一部に中国への「愛着」と「幻想」を示しており、かつての立花作品の愛読者としては幻滅した。逐一コメントしていくには、多すぎてこの欄は相応しくない。
 この本と同様に月刊誌・週刊誌等への連載寄稿をまとめたものに、最近では櫻井よしこ・この国をなぜ愛せないのか(ダイアモンド社、2006.06)がある。表面的に比べてみると、北朝鮮・拉致問題への言及が立花本には一切なく!、櫻井本には当然にある。精読していないが、立花本には(小泉は靖国参拝で中国を「挑発」するな旨言うくらいだから)中国批判、将来の中国への憂慮を示すフレーズはないのでないか。
 どちらが売れているのだろうと、某ネット販売サイトに今朝の未明に入って見てみたら、櫻井本5534位に対して立花本は80684位、しかも立花本の「カスタマーレビュー」の見出しに(だけでも)「立花隆にしてこれか」、「真に滅びゆくのは誰?」、「知の巨人?」などがあった。某社の販売数がどの程度全体を反映しているのか確たる知識はないが、それでも読者は「健全な」反応をしていると感じた。
 これまた読みかけの北村稔・中国は社会主義で幸せになったのか(PHP、2005)は中国を「社会主義の衣をまとった封建国家」としている。黄文雄・それでも中国は崩壊する(ワック、2004)などもある。ソ連と同様に中国共産党の支配もいずれ破綻するのが「歴史的必然」のように思うのだが。
ギャラリー
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
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  • 2354/音・音楽・音響⑤—ロシアの歌「つる(Zhuravli)」。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
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  • 2320/レフとスヴェトラーナ27—第7章③。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
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  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
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  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
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  • 2302/加地伸行・妄言録−月刊WiLL2016年6月号(再掲)。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
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  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
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  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
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  • 2277/「わたし」とは何か(10)。
  • 2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
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  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
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  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
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  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
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  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
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  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
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