前回のつづき。
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 第7節・政治的かつ法的な抑圧の増大②。
 ゲペウ(GPU)は表面的には、チェカほどの専横的権力をもたなかった。
 しかし、現実は違った。
 レーニンとその同僚は、問題は民衆によって引き起こされるが、その災いを作った者を除去すれば問題は解決できる、と考えた。
 ゲペウを設立して一ヶ月も経たない1922年3月に、レーニンはピョートルにつぎのように助言した。ゲペウは『賄賂と闘うことができるし、しなければならない』、反対者を攻撃するその他の経済犯罪も同じだ。
 これを実施するための命令が、政治局を通じて司法人民委員部に送付するこことされた。(121)
 8月10日の布令は、『反革命活動』で告発された国民を、外国かロシアの指定した地方に、三年間まで行政的手続で追放する権限を、内務人民委員部に認めた。(122)
 11月に発せられたこの布令の付属書は、『集団強盗』を相当と判断する程度に処理すること、そして、法的手続によることなく『銃殺で処刑することまで』をゲペウに許した。これはさらに、強制労働を伴う追放〔流刑〕と結びついて強力になった。(123)
 ゲペウの司法上の特権は、1923年1月にさらに増大した。特定の地域(かつロシア共和国の境界内部)に住んでいる者がその活動、その過去あるいは犯罪者集団とのその関係からして革命秩序の警護という観点から危険だと見える(appear)場合には、その者を追放する権限が与えられた。(124)
 帝制時代のように、被追放者は護送車で監護されて、部分的には徒歩によって、苛酷な条件のもとで目的地に到達した。
 追放刑は、理屈上は、ゲペウの勧告にもとづいて内部人民委員部により科された。しかし実際には、ゲペウの勧告は判決文に等しかった。
 1922年10月16日には、ゲペウは審問をすることなく、武力強奪や集団強盗の嫌疑があって現行犯逮捕された者たちを処刑〔殺害〕する権限まで認められた。(125)
 かくして、『革命的合法性』の機関として設立されてから一年以内に、ゲペウは、全ソヴィエト国民の生活を覆うチェカの専制的権力を再び獲得した。//
 ゲペウ・オゲペウは、複雑な構造を進化させ、厳密には政治警察の範囲内にあるとは言えない、経済犯罪や軍隊での反国家煽動のような事件にも権限をもつ、特殊な部署をもった。
 その人員は1921年12月の14万3000人から1922年5月の10万5000人へと減らされたが (126)、それでもなお、強力な組織であり続けた。
 というのは、民間人協力者に加えて、軍隊の形態でのかなりの軍事力を利用したからだ。その数は、1921年遅くには、5万人の国境警備別団を別として、数十万人(hundreds of thousands)に昇った。(127)
 国じゅうに配備されたこれら兵団は、帝制時代の憲兵団(Corps of Gendarmes)と似た機能を果たした。
 ゲペウは国外に、国外ロシア移民を監視し分解させる、コミンテルンの人員を監督する、という二つの使命をもつ『工作機関(agencies)』(agentury)を設置した。
 ゲペウはまた、国家秘密保護局(Glavit)が検閲法令を実施するのを助け、監獄のほとんどを管理した。
 ゲペウに関与されていない公的な活動領域は、ほとんどなかった。//
 集中強制収容所は、ネップのもとで膨らんだ。その数は、1920年の84から1923年10月には315になった。(128)
 内部人民委員部がいくつかを、その他はゲペウが運営した。
 これら強制収容所のうち最も悪名高いのは、極北に位置していた(『特別指定北部収容所』、SLON)。そこからの脱走は、事実上不可能だった。
 そこには、通常の犯罪者とともに、捕獲された白軍将兵、タンボフその他の地方からの反乱農民、クロンシュタットの水兵たちが隔離されていた。
 収容者の中で死亡する犠牲者の数は、高かった。
 一年(1925年)だけでSLONは、1万8350人の死を記録した。(129)
 この強制収容所が満杯になった1923年の夏に、当局はソロヴェツク(Solovetsk)島の古来の修道院を集中強制収容所に作り変えた。そこは、イヴァン雷帝の代以降、反国家や反教会の罪を犯した者たちを隔離するために使われてきた。
 ソロヴェツク修道院強制収容所は1923年に、ゲペウが運営する最大の収容所になり、252人の社会主義者を含めて、4000人の収容者がいた。(130)//
 『革命的合法性』原理は、ネップのもとで日常的に侵犯された。従前と同様に、ゲペウがもつ司法を超える大きな権力のゆえだけではなく、レーニンが法を政治の一部門だと、裁判所を政府の一機関だと考えていたからだ。
 法についてレーニンが抱く考え方は、ソヴィエト・ロシアの最初の刑法典の草案作成過程で明確になった。
 レーニンは司法人民委員のD・I・クルスキーが提出した草案に満足せず、政治犯罪にどう対処するかに関する細かい指示を出した。
 彼は政治犯罪を、世界のブルジョアジーを『助ける虚偽宣伝活動(プロパガンダ)や煽動、または組織参加や組織支援』と定義した。
 このような『犯罪』に対しては、死による制裁が、あるいは酌量できる情状によっては収監または国外追放という制裁が科されるものとされた。(131)
 1845年のニコライ一世の刑法典は政治犯罪を同様に曖昧に標識化していたが、レーニンの定義は、それに似ていた。ニコライ一世刑法典は、『国家当局または国家要人や政府に対する無礼を掻き立てる記述物や印刷物を書いたり頒布したりする罪』を犯した者には苛酷な制裁を科すことを命じていた。
 しかし、帝制時代には、このような行為に死刑が科されることはなかった。(132)
 レーニンの指示に従って、法律官僚は第57条と第58条、裁判所に反革命活動をしたとされる有害人物ついて判決する専制的な権力を与える抱合せ条項を作成した。
 これら条項を、のちにスターリンは、合法性の外観をテロルに付与すべく利用することになる。
 レーニンの指示の意味を彼が認識していたことは、クルスキーに与えた助言からも明らかだ。レーニンは、つぎのように書いた。
 『原理的なかつ政治的な正しさ(かつたんに狭い司法のみならず)、…<テロルの本質的意味と正当化>…』を提示することが司法部の任務だ、『裁判所は、テロルを排除すべきではなく…、それを実現させて原理的に合法化すべきだ。』(133)
 法の歴史上初めて、法手続の役割は、正義を実施することではなく、民衆をテロルで支配することだ、と明言された。//
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  (121) レーニン, PSS, LIV, p.196。 
  (122) 同上のp.335。
  (123) SUiR, No. 65 (1922年11月6日), 布令 844号, p.1053。
  (124) 同上, No. 8 (1923年3月10日), 1923年1月3日付決定 No. 108, p.185。ゲルソン, 秘密警察, p.249-250。
  (125) イズベスチア, No. 236-1, 675 (1922年10月19日), p.3。
  (126) ゲルソン, 秘密警察, p.228。
  (127) 次の、p. 383n を見よ。
  (128) Andrzei Kaminskii, 1896年から今日までの集中強制収容所 :分析 (1982), p.87。ゲルソン, 秘密警察, p.256-7 参照。
  (129) セルゲイ・マセイオフ, in :Rul' No.3283 (1931年9月13日), p.5。ゲルソン, 秘密警察, p.314 参照。
  (130) ディヴッド・J・ダリン=ボリス・I・ニコレフスキー, ソヴィエト・ロシアの強制労働 (1947), p.173。SV, No. 9-79 (1924年4月17日), p.14。
  (131) レーニン, PSS, XLV〔第45巻〕, p.190。
  (132) リチャード・パイプス, 旧体制, p.294-5。
  (133) レーニン, PSS, XLV〔第45巻〕, p.190。
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 ③につづく。