秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

ケレンスキー

1543/スイスにいたレーニン②-R・パイプス著第10章。

 前回のつづき。
 第1節・1917年初期のボルシェヴィキ党②。
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 1917年3月のボルシェヴィキ党は、このような〔レーニンの〕野心的計画を遂行できる状況ではほとんどなかった。
 大戦中に警察に逮捕されて、それは2月26日が最もひどかったのだが、党の最も重要な組織体であるペテログラード委員会の委員が勾留され、党の機構は無力になった。
 指導部の者たちはみな、投獄されるか、追放されていた。
 1916年12月初期のレーニンあて報告で、シュリャプニコフ(Shliapnikov)は、いくつかの工場や要塞守備兵団での前の数ヶ月間の党の活動について、『戦争をやめろ』、『政府を倒せ』とのスローガンだったと叙述した。だが同時に彼は、ボルシェヴィキが警察の情報員にスパイされていて非合法の活動をするのがほとんど不可能になった、と認めた。
 二月革命を呼びかけたとか組織したとすらしたとかのボルシェヴィキによるそのすぐあとの主張は、したがって、全く事実ではない。
 ボルシェヴィキは、自発的な示威行動者たち、そしてまた、メンシェヴィキやそれが支配するソヴェトの後にくっついて、その人たちの上着の裾を握って歩いたようなものだった。
 反乱兵団の中には支持者はほとんどいなかったし、この時期の工場労働者の中でボルシェヴィキを支持する者は、メンシェヴィキやエスエルに対してよりもはるかに少なかった。
 二月の日々の間、ボルシェヴィキがしたことと言えば、訴えや宣言文書類を発行することに限られていた。
 せいぜいのところ、2月25-28日のデモ行進で労働者や兵士たちが運んだ革命の旗を準備するのに手を染めたかもしれない。//
 しかしボルシェヴィキは、数の少なさを組織化の技術で埋め合わせた。
 3月2日、監獄から釈放されたばかりの党ペテログラード委員会は、三人総局(Bureau)を立ち上げた。それは、シュリャプニコフ、V・A・モロトフおよびP・A・ザルツキー(Zalutskii)の三人で構成された。
 この総局は3日後に、モロトフが編集長になって、再生した党の機関誌、<プラウダ>の第一号を発行した。
 3月10日には、N・I・ポドヴォイスキーとV・I・ネフスキー(Nevskii)のもとに軍事委員会(のち軍事機構と改称)を設立して、ペテログラード守備兵団への情報宣伝と煽動を実施することになった。
 ボルシェヴィキは活動の本拠として、若いニコライ二世の愛人だとの風聞のあったバレリーナのM・F・クシェシンスカヤ(Kshesinskaia)の贅沢なアール・ヌーヴォー様式の邸宅を選んだ。
 この邸宅をボルシェヴィキは、所有者の抗議を無視して、友好的兵団の助けで『収用した』。
 1917年7月までここに、ペテログラード委員会と軍事機構はもちろんだが、ボルシェヴィキ党の中央委員会も所在した。//
 1917年3月はずっと、ロシアのボルシェヴィキはその指導者から切り離され、メンシェヴィキやエスエルとほとんど異ならない政治路線を追求した。
 中央委員会のある決定は、口では臨時政府は『大ブルジョア』や『地主』の代理人だと述べていたが、それに対抗するとは主張しなかった。
 最も力があるボルシェヴィキの組織であるペテログラード委員会は、3月3日に、メンシェヴィキ・エスエルの立場を採用して、< postol'ku-poskol'ku >、つまり『民衆』の利益を向上させる『範囲で』政府を支持することを訴えた。
 理論的にも実務的にも、ペテログラードのボルシェヴィキ指導部は、レーニンのそれとは完全に対立する基本方針を採った。
 ペテログラード指導部はしたがって、レーニンから一週間後に届いた3月6日の電報の内容が気に入ったはずはなかった。
 ペテログラード委員会の会議に関する公刊されている議事録は、電報を受け取った後の議論を記載していない。//
 この親メンシェヴィキの方向は、追放されていた三人の中央委員会メンバーがペテログラードに着いて、強化された。三人とはL・B・カーメネフ、スターリンおよびM・K・ムラノフで、年長者優先原理により、この三人が、党の指揮権と<プラウダ>の編集権を握った。 
 これら三人はいずれも、彼らの論考や演説で、レーニンがツィンマーヴァルト(Zimmerwald)やキーンタール(Kiental 〔いずれもスイスの小村、社会主義インターの会合地〕)でとった見地を拒否した。
 彼らは、国家間の戦争を内乱に転化するのではなく、社会主義者が講和交渉の即時開始を強く主張することを望んだ。(11)
 ペテログラード委員会は、3月15-16日に会議を開いた。
 そのときの議事録も決定集も公刊されていないことは、新政府や戦争への態度という重大な論争点について、多くの出席者が反レーニンの立場を選択したことを強く示唆する。
 しかし、知られていることだが、3月18日のペテログラード委員会の閉鎖会議で、カーメネフは、臨時政府は間違いなく『反革命的』で打倒されるべき運命にあるが、その打倒のときはまだ将来だ、『重要なことは権力を掌握することではなく、それを維持し続けることだ』と主張した。
 カーメネフは、同旨のことを3月末の全ロシア・ソヴェト協議会でも語った。
 この当時のボルシェヴィキは、メンシェヴィキとの再統合を真剣に考えていた。
 3月21日にペテログラード委員会は、ツィンマーヴァルトやキーンタールの基本線を受け入れるメンシェヴィキと合同するのは『可能でかつ望ましい』と宣言した。(*)//
 こうした態度を考えると、アレクサンダー・コロンタイ(A. Kollontai)がレーニンの第一と第二の『国外からの手紙』を携えて彼らの前に現れたときに、ペテログラードのボルシェヴィキが衝撃や疑惑の反応を示したことは、理解できない。
 レーニンはこの手紙で、3月6日/19日の電報について詳述していた。つまり、臨時政府の不支持と労働者の武装。
 この基本方針は、ロシアの状況の雰囲気を全く知らない誰かが考え上げた、完全に現実離れしているものだと、彼らは感じた。
 数日間の躊躇の後で、彼らは第一の『国外からの手紙』を<プラウダ>に載せたが、レーニンが臨時政府を攻撃している部分の文章は除外した。
 彼らは、第二の手紙、およびその後のものを掲載するのを拒んだ。//
 3月28日と4月4日の間にペテログラードで開かれた全ロシア・ソヴェト大会で、スターリンが動議を提案して、代議員たちが採択した。それは、臨時政府への『統制』、および『反革命』と闘い革命運動を『拡大する』目的をもつその他の『進歩勢力』との協力を呼びかけるものだった。(+)
 ボルシェヴィキのこのようなもともとの『反ボルシェヴィキ』的態度とレーニンが到着した後の速やかな変化は、彼らの振る舞いが、信奉して適用する原理にもとづいているのではなく、指導者の意思にもとづいている、ということを示す。
 すなわち、ボルシェヴィキは、信じることにではなく信じる人物に、完全に拘束されていた。//
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  (11) カーメネフ, プラウダ, No.9 (1917年3月15日), p.1、スターリン, プラウダ, No.10 (1917年3月16日), p.2。
  (*) シュリャプニコフは、つぎのように書く。ペテログラードのボルシェヴィキは、カーメネフ、スターリンおよびムラトフが強く主張して迫った政策方針を知って狼狽した、しかし、ペテログラードに現れた年長の三人のボルシェヴィキの前で自分たちが従った政策の見地に立ったので、狼狽した別のありそうな原因は、端役を演じなければならなかったことへの憤慨にあったように見える、と。 
  (+) この大会の記録はロシアでは公刊されてこなかったが、レオン・トロツキー, Stalinskaia shkola falsifikatsii (ベルリン, 1932) で見い出せる。上の決定は、p.289-p.290 に出てくる。
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 第2節につづく。

1467/第一次大戦と敵国スパイ②-R・パイプス著9章10節。

 前回のつづき。
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 第10節・ツィンマーヴァルト・キーンタールおよび敵工作員との関係。
 戦争が勃発するや、連合国〔仏、英ら〕および中央諸国〔ドイツ、オーストリアら〕のいずれの社会主義議会人も、公約に背いた。
 1914年夏に、彼らは情熱的に平和について語り、戦争継続に抗議して集団示威行進をする大衆を街路へと送り込んだ。
 しかし、交戦が始まったとき、彼らは列に並んで戦争予算に対して賛成票を投じた。
 とくに痛ましかったのは、ヨーロッパで最強の党組織を持ち、第二インターの背骨になっていたドイツ社会民主党の裏切りだった。
 戦争借款に対して彼らの議員団の全員が一致して賛成したのは驚くべきことで、かつ、分かったことだが、社会主義インターナショナルに対するほとんど致命的な一撃だった。//
 ロシアの社会主義者は、西側にいる同志たちよりも、インターの公約を真面目に考えていた。一つは、母国での社会主義の源が浅く、母国を愛する誇りがほとんどなかったこと、もう一つは、シュトゥットガルトの決定が想定した『戦争によって生じる経済的かつ政治的な危機』を利用すること以外に権力へと到達する機会はないことを知っていたこと、による。
 プレハーノフやL・G・ダイヒのごとき社会民主主義運動の長老者および軍事衝突で愛国的感情に目覚めた多くの社会主義革命党員(ザヴィンコ、ブルツェフ)から離れて、ロシア社会主義の著名人の多くは、インターナショナルの戦争反対決定に忠実なままだった。
 第四ドゥーマの社会民主党および Trudovik(エスエル)議員団は、全員一致して戦争借款に反対票を投じて、このことを証明した。-これは、セルビアの社会民主党を除けば、ヨーロッパでただ一つの議会人の行動だった。//
 スイスに到着したレーニンは、『ヨーロッパ戦争における革命的社会民主主義者の任務』と呼ばれる綱領的声明を起草した。(124)
 ドイツ、フランスおよびベルギーの指導者を裏切りだと非難したあとで、レーニンは、非妥協的にラディカルな立場を概述した。
 『任務』の第6条には、つぎの提案が含まれていた。//
 『労働者階級および全ロシア人民の被搾取大衆の視座から見ると、最も害悪ではないことは、ポーランド、ウクライナ、および多数のロシア人民…を抑圧している皇帝君主制とその軍の敗北である。』(*1)
 その他のいかなる主要なヨーロッパの社会主義者も、自分の国が戦争で敗北することに賛成だとは公言しなかった。
 ロシアの敗北を支持するレーニンの驚くべき主張は不可避的に、彼はドイツ政府の工作員だという非難をもたらした。(+) 
 戦争に関するレーニンの言明の実際上の結論は、このテーゼの第7条と最後の条で述べられていた。その内容は、『全ての国家の反動的でブルジョア的な政府と政党』に対する内戦を解き放つために、戦争をしている諸国の民間人や軍人の間で精力的な扇動と組織的な宣伝活動を行う、というものだった。
 この文書の模写物はこっそりとロシアに持ち込まれ、帝国政府が<プラウダ>を廃刊させ、ドゥーマのボルシェヴィキ議員たちを逮捕する根拠になった。 
 この事件でボルシェヴィキを弁護した法律家の一人は、アレクサンダー・ケレンスキーだった。 
 生命を落とす可能性がある大逆(treason)という罪で審問され、ボルシェヴィキたちは判決により追放された。これは、二月革命まで、党をほとんど舞台の外に追い出した。//
 レーニンの綱領の重点は、社会主義者は戦争を終わらせるためにではなく、自分たち自身の目的で戦争を利用するために奮闘すべきだ、ということにあった。レーニンは1914年10月に、つぎのように書いた。
 『「平和」というスローガンは、この瞬間では、誤っている。
 このスローガンは、ペリシテ人と聖職者のスローガンだ。 
 プロレタリアートのスローガンは、こうでなければならない。内戦(civil war、内乱)、だ。』//
 レーニンは、戦争の間ずっと、この定式に忠実であろうとした。
 もちろん中立国スイスでは、戦闘中のロシアにいる彼の支持者たちに比べれば、レーニンの身はかなり安全に守られた。//
 レーニンの戦争に関する綱領を知ると、ドイツは熱心に彼を自らのために利用しようとした。ロシア帝国軍の敗北を主張することは、結局のところ、ドイツの勝利を支持するのと全く同じことだ。
 ドイツの主要な媒介者は、パルヴゥスだった。このパルヴゥスは、1905年のペテルスブルク・ソヴェトの指導者の一人で、『連続革命』理論の創始者だったが、最近はウクライナ解放同盟の協力者だった。
 パルヴゥスは、きわめて腐敗した個性をもつとともに、ロシアの革命運動上、最も大きな知性をもつ知識人の一人だった。
 1905年の革命が失敗したあとで彼は、ロシアでの革命の成功はドイツ軍の助けを必要とする、という結論に達した。ドイツ軍だけが、帝制を打倒することができる。(*2) 
 パルヴゥスは、その政治的関係を使って相当の財産を蓄え、ドイツ政府に身を任せた。
 戦争勃発の際、彼はコンスタンチノープルに住んでいた。 
 パルヴゥスは、その地のドイツ大使と接触し、ドイツの利益を促進するためにロシアの革命家を利用するときだと、概述した。
 その論拠は、ロシアの過激派は、帝制が倒れてロシア帝国が破滅する場合にのみその目的を達成することができる、ということだった。この目的は偶然にだが、ドイツにとっても都合がよい。『ドイツ政府の利益は、ロシアの革命家たちのそれと一致している』。
 パルヴゥスは、金を求め、かつ左派のロシア移民と連絡をとることの承認を求めた。(126)
 ベルリン〔ドイツ政府〕に奨められて、彼は1915年5月に、ツューリヒにいるレーニンと接触した。パルヴゥスは、ロシア移民の政界に通暁していたので、レーニンが左翼の鍵となる人間であることを知り、もしも自分がレーニンを獲得すればロシアの残りの戦争反対左翼は一線に並ぶだろうことが分かった。(127)
 この企図は、さしあたりは、失敗した。
 レーニンがドイツと取引きすることに反対したというのでも、ドイツから金をもらうことが不安だったわけでもない。-この失敗は、レーニンが、社会主義の教条に対する裏切り者、変節者、『社会主義狂信愛国者(socialist chauvinist)』と交渉しようと思わなかったことによるだけだ。
 パルヴゥスの伝記作者は、その個人的な嫌悪感に加えて、レーニンはつぎのように考えたのではないかと示唆している。すなわち、レーニンは、もしもパルヴゥスと交渉すれば彼〔パルヴゥス〕が『そのうちにロシアの社会主義組織の支配権を獲得し、その財産資源と知的能力を使って他の全ての政党指導者を打ち負かしてしまう』ことを恐れた、と。(128) 
 レーニンは、このパルヴゥスとの出会いについて、公にはいっさい言及しなかった。//
  (*1) レーニンはロシアのウクライナに対する『抑圧』と強調して当惑させているが、それは少なくとも部分的には、レーニンのオーストリア政府との金銭上の協定によって説明されるものでなければならない。レーニンは、ウクライナもオーストリアの支配から解放されるべきだと要求しはしなかった。
  (+) この点についての告発は、警察官僚について日常的によく知っているスピリドヴィッチ将軍によってなされた。彼は、証拠を提出しないでつぎのように主張する。
 1914年の6月と7月にレーニンは二度ベルリンへと旅行したが、ドイツ人とともにロシア軍背後での反ロシア的活動計画を作るためで、その対価として7000万マルクがレーニンに支払われることになっていた、と。
 Spiridovich, ボルシェヴィズムの歴史, p.263-5。
  (*2) パルヴゥスは事態を見て自分の正しさが分かったと感じた。彼は1918年に、1917年の革命に言及して、以下のように書いた。
 『プロシア〔ドイツ〕の銃砲は、ボルシェヴィキのビラよりも大きな役割を果たした。とりわけ思うのは、もしもドイツ軍がヴィステュラ(Vistula〔ポーランドの河〕)に達していなかったら、ロシアの移民たちはまだ放浪し、自分で苦しんでいただろう、ということだ。』
  (126) Zeman 編, ドイツとロシアでの革命, 1915-18 (1958), 1915年1月の配達便, p.1-2。
  (127) パルヴゥスのレーニンとの出会いについて、Zeman and Scharlau, 商人, p.157-9。
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 ③につづく。

1439/レーニンの青少年期②-R・パイプス著9章1節。

 前回のつづき。
 ①Richard Pipes, The Russian Revolution (1990) <原著・大判でほぼ1000頁>と② Richard Pipes, Russia under Bolshevik Regime (1995)<原著・大判で約600頁>とを併せて、「一般読者むけ」に「内容を調整し」「注を省き簡略に」(下記の西山による)一冊にまとめたものに、③Richard Pipes, A Concice History of the Russian Revolution (1995) <原著・中判で約450頁>がある。そして、この最後の③には、R・パイプス〔西山克典訳〕・ロシア革命史(成文社、2000)という邦訳書<約450頁>がある。したがって、この欄で邦訳を試みている書物①の内容は、上の邦訳書の前半分程度を占めていることになる。内容に大きな矛盾はないだろうが、しかしまた、1990年の本の方が前半部については優に二倍以上の詳細さをもっているだろう。西山克典の訳書を参考にさせていただいていることは言うまでもない。
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 レーニンの青少年期について印象的なのは、彼の同時代の者たちの多くと違って、レーニンは公的な出来事への関心を示さなかった、という事実だ。(3)
 検閲という鉄の掴みがレーニンを非人間的にする前に彼の姉妹の一人が出版した書物から浮かび上がってくるのは、きわめて勤勉な少年の肖像だ。きれい好きで、几帳面な-このタイプを、現代の心理学は、強迫神経症的と分類するだろう。(4) 
 レーニンは模範的学生で、素行を含むほとんど全ての科目で優秀な成績を獲得し、それで毎年金のメダルを授与されていた。
 彼は、クラスのトップの成績で卒業した。
 われわれが利用できる乏しい証拠資料からも、彼の家族に対してであれ体制に対してであれ、反抗的態度の痕跡を見出すことはできない。
 レーニンののちの好敵になるアレクサンダーの父親、フョドール・ケレンスキーはたまたまレーニンがシンビルスクで通っていた学校の校長だった。その校長はレーニンに、カザン大学に進学するように薦めたのだったが、それは、『学校の中でも外でも年長者や教師に対して、言葉によっても行為によっても、好ましくない意見をもつに至る理由を全く示さない』、『無口』で『非社交的』な学生として、だった。(5)
 1887年に高校を卒業するまで、レーニンは『明確な』政治的意見を抱いていなかった。(6)
 レーニンの初期についての伝記には、将来の革命家を暗示するものは何もない。むしろ、レーニンは父親の足跡に従い、名のある官僚の経歴へと進むだろう、ということが示唆されている。
 カザン大学で法学を学修することが認められたのは、このような特性によってだ。これがなければ、彼の家族に関する警察の記録によって、レーニンは大学進学を妨害されていただろう。// 
 大学に入って、レーニンは名高いテロリストの弟だと仲間の学生たちに認識され、秘密の人民の意思グループへと引き摺り込まれた。
 ラザール・ボゴノフを長とするこの組織は、ペテルスブルクを含む他都市の同意見の学生たちとの接触があり、明らかに、アレクサンダー・ユリアノフ〔レーニンの兄〕とその仲間が処刑された行為を実行する意図をもっていた。
 この計画がどの程度進行していたか、レーニンがどの程度関与していたか、を確認することはできない。
 このグループは1887年12月に逮捕され、大学の規制に対する抗議のデモが行われた。
 走り、叫び、両腕を振っているのを目撃されていたレーニンは、短期間だけ、拘留された。
 郷里に戻ったレーニンは、自主退学することを告げる手紙を大学に書き送った。しかし、退学処分を免れようとする企図は失敗に終わった。
 レーニンは逮捕され、39人の学生たちとともに流刑〔追放〕に遭った。
 この苛酷な制裁はアレクサンダー三世が自立や不服従の兆候を抑え込むために用いた典型的な手法だったが、革命運動への新規加入者をつねに与えつづけることにもなった。//
 レーニンはそのうちに忘れられ、復学することが許されたかもしれなかった。捜査の過程で警察がボゴラス・サークルとの関係を暴き、彼の兄がテロリズムに関与していたことを知る、ということがなければ。
 ひとたびこのような事実が知られるようになるや、レーニンは『不審者』リストに掲載され、警察による監視のもとに置かれることになった。
 レーニンおよびその母親の復学を求める請願書は、決まって却下された。
 レーニンの前には、将来がなかった。
 彼は、つぎの4年間、母親のペンションを離れて、強いられた怠惰の生活をおくった。
 彼の気分は絶望的で、母親の請願書の一つによると、すぐにも自殺をしそうだった。
 われわれがもつこの期間のレーニンに関する資料からすると、彼は傲慢な、嫌味のある、友人がいない青年だった。 
 しかし、レーニンを尊敬していたユリアノフ家族の中では、彼は天才の卵であり、その意見は福音(gospel)だった。(7)//
 レーニンはこの期間に、大量の読書をした。
 彼は、1860年代および1870年代の『進歩的』な雑誌や書物を読み漁り、とくにニコライ・チェルニュイシェフスキーの書物には、彼自身の証言文書によると、決定的な影響をうけた。(8)(*)
 この試行錯誤的な期間、ユリアノフ家はシンビルスクの社会からのけ者にされた。人々は、警察の注意を惹きつけることを恐れて、処刑されたテロリストの近親者との交際を断ったのだった。
 これは苦い体験であり、レーニンが過激化するについて、少なからぬ役割を果たしたように見える。
 レーニンが母親とともにカザンへ移った1888年の秋までに、レーニンは完全に巣立ちのできるラディカルになっていた。そして、彼の約束された経歴を切断し、家族を拒否した者たち-帝制支配者層および『ブルジョワジー』-に対する際限のない憎悪で、充ち満ちていた。
 彼の亡兄のような、理想主義へと駆られるロシアの典型的な革命家とは対照的に、レーニンの主要な政治的衝動は、滞留する憎悪だった。
 この感情的な土壌に根ざして、レーニンの社会主義とは、最初から本質的に、破壊という原理(doctrin)のものだった。
 レーニンは将来の世界についてほとんど何も考えず、感情的にも知性的にも、現在の世界を粉砕することに没頭していた。
 この偏執症的な破壊主義こそが、ロシアの知識人を魅惑したり嫌悪させたり、喚起したり畏怖させたりしたものだ。彼らは、ハムレットの逡巡とドン・キホーテの愚昧の間を揺れ動きがちだった。 
 1890年代にレーニンと頻繁に逢ったストルーヴェは、つぎのように言う。//
 『彼の最も重要な-新しい有名なドイツの心理学用語を使うと-気質(Einstellung)は、<憎悪>だった。
 レーニンはマルクス主義の原理を採用したが、それは本質的には、彼の心性のうちのあの重要な<気質>が、その原理に反応したことが理由だ。  
 容赦なくかつ完璧に、敵の最終的な破壊と絶滅を目指す階級闘争の原理は、周囲の現実に対するレーニンの感情的な態度に適応するものだった。 
 レーニンは、実存する専政体制(帝制)や官僚制のみならず、また警察の無法さや恣意性のみならず、それらと対照的なもの-『リベラル』や『ブルジョワジー』-をも、憎悪した。
 あの憎悪には、嫌悪を感じさせる恐ろしい何かがあった。というのは、具体的な-あえて私は野獣的なと言いたいが-感情や反感に根源があるので、それは同時に、レーニンの全存在に似て抽象的でかつ冷酷なものだった。』(9) //
  (3) Nikolai Valentinov, The Early Years of Lenin (1969), p.111-12 参照。
  (8) Valentinov, Early Years, p.111-38, p.189-215。レーニンとの会話にもとづく。
  (*) チェルニュイシェフスキーは1860年代の指導的な過激派宣伝者で、<何がなされるべきか>という、青年に家族を捨てて新しい実証主義的かつ功利主義的な思考方法による共同体に加わるよう促した小説、の著者だ。彼は、現存の世界を腐っていて絶望的だと見なした。この小説の主人公、ラフメトフは、鉄の意思をもつ、過激な変革に完全に献身した『新しい人間』として描かれている。レーニンは、彼の最初の政治的小冊子にこの小説のタイトルを使った。
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第2節につづく。

1435/ロシア革命史年表④-R・パイプス著(1990)による。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990)の「年表」より。p.852-p.854。/の左右に日付(月日)がある場合、左は旧暦、右は新暦。()ではない〔〕内は、秋月が補足・挿入。

 1917年〔9月以降〕
  9月10日 ボルシェヴィキ支援による第3回ソヴェト地方大会開く、フィンランドで。
  9月12日・14日 レーニン、〔ボルシェヴィキ党〕中央委員会に、権力掌握のときは熟している、と書き送る。  
  9月25日 ボルシェヴィキ、ペトログラード・ソヴェトの労働者部門で過半数を獲得。トロツキー、〔ペトログラード・〕ソヴェト議長に。
  9月26日 CEC〔ソヴェト中央執行委員会〕、ボルシェヴィキの圧力のもとで、第2回全ロシア・ソヴェト大会を10月20日に開催することに同意。
  9月28日-10月8日 ドイツ軍、リガ湾の島々を占拠、ペトログラードを脅かす。
  9月29日 レーニン、権力奪取について中央委員会あて第三の手紙。
 10月 4日 臨時政府、ペトログラードからの避難を討議。 
 10月 9日 CEC、メンシェヴィキの動議により、首都防衛軍事組織の結成を票決(すみやかに、軍事革命委員会と改称)。
 10月10日 レーニン出席して、ペトログラードでボルシェヴィキ中央委員会が深夜の真剣な会議、武力による権力奪取に賛成票決する。
 10月11日 ペトログラードで、ボルシェヴィキ支援による北部地方ソヴェト大会開く。『北部地方委員会』を設立し、第2回ソヴェト大会への案内状を発行。
 10月16日 ソヴェト、軍事革命委員会(Milrevkom、ミルレヴコム)の設立を承認
 10月17日 CEC、第2回〔全ロシア〕ソヴェト大会を10月25日に延期。
 10月20日 軍事革命委員会、ペトログラード市内および近郊の軍団に『コミッサール』を派遣。
 10月21日 軍事革命委員会、各連隊委員会の会議を開く。兵団へのいかなる命令も軍事革命委員会の副書を必要とする旨を参謀部(Military Staff)に提示する無毒のような決定を裁可させようとする。要求は却下される。
 10月22日 軍事革命委員会、参謀部は『反革命的だ』と宣言。 
 10月23-24日 軍事革命委員会、参謀部と欺瞞的な交渉を継続。 
 10月24日 政府〔ケレンスキー首班の臨時政府〕に忠実な軍団、ペトログラードの要所を占拠、ボルシェヴィキの新聞社を閉鎖。ボルシェヴィキ、反対行動を起こし、ペトログラードの多くを奪い返す。
 10月24-25日の夜 ケレンスキー、前線からの助けを求める。変装したレーニン、ボルシェヴィキが支える第2回ソヴェト大会が始まろうとするスモルニュイへと進む。ボルシェヴィキ、軍事革命委員会を使って、首都を完全に征圧。
 10月25日朝 ケレンスキー、軍事支援を求めて冬宮から前線へ逃亡。レーニン、軍事革命委員会の名で、臨時政府打倒と権力のソヴェトへの移行を宣言。
 10月25日 ボルシェヴィキ、冬宮の確保に失敗。そこでは、政府の大臣が忠実な兵団による救出を待つ。トロツキー、午後に、ペトログラード・ソヴェトの緊急会議を開く。レーニン、7月4日以来初めて、外に姿を現す。ボルシェヴィキの動議により、モスクワで、軍事革命委員会を設立。
 10月26日 モスクワ軍事革命委員会の兵団、クレムリンを掌握。
 10月25-26日の夜 冬宮が落ち、諸大臣が逮捕される。ボルシェヴィキ、第2回ソヴェト大会を開会。
 10月26日夕 ソヴェト大会、レーニンの土地および講和に関する各布令を裁可。レーニンを議長(首相)とする新しい臨時政府、すなわち人民委員会議(ソヴナルコム、Sovnarkom)の形成を承認。ボルシェヴィキが支配する新しいCECを任命。
 10月27日 第2回ソヴェト大会、中断。反対派のプレス、非合法に(プレス布令)。
  10月28日 親政府の兵団、モスクワ・クレムリンを再奪取。
 10月29日 鉄道被用者組合、ボルシェヴィキに対して政府の構成政党の拡大を要求する最後通告を渡す。カーメネフ、同意。政府、ソヴェト・CECの事前の同意なくして法令を発布するつもりだと表明。政府被用者〔公務員〕組合、ストライキを宣言。
 10月30日 プルコヴォ近くで、コサックと親ボルシェヴィキ船員および赤衛軍との間の衝突。コサックが撤退。鉄道被用者組合、権力を手放すようボルシェヴィキに対して要求。
 10月31日-11月2日 モスクワで戦闘が起こり、親政府兵団の降伏で終わる。
 11月 1-2日 ボルシェヴィキ中央委員会、鉄道被用者の要求を拒否。カーメネフとその他4名のコミッサール〔人民委員〕、内閣構成の拡大の妥協に対するレーニンの拒否に抗議することを諦める。
 11月 4日 レーニン、トロツキーとソヴェト・CEC〔中央執行委員会〕の間の深刻な出会い。票決を操作することにより、ソヴナルコム〔人民委員会議=内閣〕が布令(decree)により立法(legislate)する公式権限を獲得。 
 11月 9日 ボルシェヴィキ、講和に関する布令を、政府は即時停戦に反対している同盟諸国の代表者に送る。
 11月12日 憲法制定会議(Constituent Assembly)の選挙、ペトログラードで始まる。月末まで、非占領のロシア全域で続く。社会主義革命党〔エスエル〕が最大多数票を獲得。
 11月14日 銀行従業員、金銭を求めるソヴナルコムの要求を拒否。
 11月15日 ボルシェヴィキのソヴナルコム、第1回定期会合。
 11月17日 ボルシェヴィキ兵団、国有銀行を襲い、500万ルーブルを奪う。 
 11月20日/12月3日 ブレスト・リトフスクで停戦交渉始まる。ソヴェト代表は、ヨッフェ。
 11月22日 裁判所のほとんどおよび法曹職業を廃止する布令。革命裁判所の創設。
 11月22-23日 憲法制定会議防衛同盟の設立。
 11月23日/12月6日 ロシアと中央〔中部欧州〕諸勢力、停戦で合意。
 11月26日 農民大会、開かれる、ペトログラードで。
 11月28日 憲法制定会議の座り込み〔 ?〕会合。
 12月    国家経済最高会議、創設(VSNKh)。 
 12月 4日 ボルシェヴィキと左翼エスエル〔社会主義革命党左派〕、農民大会を破壊。 
 12月 7日 チェカ(Cheka〔秘密政治警察〕)、設立。
 12月9-10日 ボルシェヴィキと左翼エスエルの協議成立。左翼エスエル、ソヴナルコムおよびチェカに加入。
 12月15日/28日 ブレスト会議、一時休止。
 12月27日/1月9日 ブレスト会議、再開。トロツキーがロシア代表団を率いる。
 12月30日/1月12日 中央〔中部欧州〕諸勢力、ラダ〔ウクライナ・ソヴェト〕をウクライナ政府として承認。
 12月後半 アレクセイエフ、コルニロフ各将軍、義勇軍(Volunteer Army)を立ち上げる。

 1918年 1月
  1月 1日 レーニンの暗殺未遂。  
  1月 5日/18日 憲法制定会議の一日会合。憲法制定会議を支持するデモ、発砲され、逃散。労働者『幹部会』、第1回会合。トロツキー、ブレストからペトログラードへ戻る。
  1月 6日 憲法制定会議、閉じられる。
  1月 8日 ボルシェヴィキが支援する第3回ソヴェト大会、開く。『労働者および被搾取大衆の権利の宣言』を採択し、ソヴェト・ロシア共和国を宣言。
  1月15日/28日 ソヴェト・ロシア、国外および国内の債務履行を拒否。
  1月28日 ラダ、ウクライナの独立を宣言。」  
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*1918年2月以降につづく。

1434/ロシア革命史年表③-R・パイプス著(1990)による。

Richard Pipes, The Russian Revolution (1990)の「年表」より。p.850-p.852。 〔〕は、秋月が補足・挿入。

 1917年〔8月末まで〕
「  1月27日 プロトポポフ、労働者集団を逮捕。
   2月14日 ドゥーマ、再開会。
   2月22日 ニコライ、モギレフへと出立。
   2月23日 国際婦人日と連携したペトログラードでの集団示威行進(デモ、Demonstrations)。
   2月24日 ペトログラードでさらに大きなデモ。
   2月25日 デモが暴力に変わる。ニコライ、力による鎮圧を命令。
   2月26日 ペトログラード、軍隊により占拠される。ヴォリンスキー連隊の一団が民衆に発砲し、40人死亡。パヴロフスキー連隊の一団、抗議して反乱。
   2月26日-27日の夜 パヴロフスキー連隊兵団、徹夜で会合し、対民間人発砲命令に対する不服従を票決。
   2月27日 ペトログラードの大部分、反抗する守備部隊の手中に。政府の建築物が燃焼。ニコライ、混乱を収拾する特殊兵団を率いてペトログラードへと進むよう、イワノフ将軍に命令。メンシェヴィキ、ソヴェト代議員選挙を要求し、夕方に、ペトログラード・ソヴェトの会合を組織。
   2月28日 ニコライ、早朝にツァールスコエ・セロに向かう。ドゥーマの年長者議員会議が行われ、臨時委員会を設立。ペトログラードの全域で、工場や軍駐屯地がソヴェトへの代議員を選出。ソヴェトの最初の幹部会合。混乱がモスクワへと広がる。
   2月28日-3月1日の夜 皇帝列車、停止。プスコフへと方向転換。
   3月 1日 イスパルコム(Ispolkom 〔ペトログラード・ソヴェト執行委員会〕)、ドゥーマの臨時委員会との合意の基盤とする9項目綱領を起草し、第一命令を発布。ニコライ、夕方にプスコフに到着、ドゥーマによる内閣形成を求めるアレクセイエフ将軍の懇願に同意し、イワノフ将軍に任務終了を命令。モスクワ・ソヴェトの設立。
   3月1日-2日の夜 ドゥーマとソヴェト代議員、9項目綱領を基礎に合意を達成。ランスキー将軍がモギレフで、ドゥーマ議長・ロジアンコと電信による会話。
   3月 2日 G・E・ルヴォフを議長として臨時政府設立。アレクセイエフは前線の兵団長たちと連絡をとる。ニコライ、子息への譲位に同意。シュルギンとグシュコフがプスコフへと出発。ニコライ、帝室医師と子息について会話し、弟・ミハイルに譲位すると決めたとシュルギンとグシュコフに伝える。退位声明に署名。ウクライナのラダ(ソヴェト)、キエフで設立。
   3月 3日 臨時政府がミハイルと会見し、帝位を放棄するように説得。 
   3月 4日 ニコライの退位宣言とミハイルの帝位放棄が公表される。臨時政府、警察部局を廃止。
   3月 5日 臨時政府、官僚と幹部職員の全員を解任。
   3月 7日 イスパルコム、臨時政府を監視する『連絡委員会』を設置。
   3月 8日 ニコライ、軍兵士たちに別れを告げることを懇願、逮捕されたままでツァールスコエ・セロに向かう。
   3月 9日 合衆国〔アメリカ〕、臨時政府を承認。
   3月18日 イスパルコム、全ての社会主義政党が3名の代議員を出す権利があると決める。
   3月22日 ミリュコフ、ロシアの戦争目的を明確にする。
   3月25日 臨時政府、穀物取引の国家独占を導入。
   3月 末  イギリス、皇帝一族を保護すべく撤退を提案。
   4月 3日 レーニン、ペトログラードに到着。
   4月 4日 レーニン『四月テーゼ』。
   4月21日 最初のボルシェヴィキのデモ、ペトログラードとモスクワで。
   4月26日 臨時政府、秩序維持能力の欠如を認める。
   4月28日 ボルシェヴィキ、赤衛軍(Red Guard)を組織。
   4月 初期 ソヴェト・全ロシア協議会、ペトログラードで開会。ソヴェト・全ロシア中央執行委員会(CEC)を形成。
   5月 1日 CEC、メンバーの臨時政府参加を容認。   
   5月4日-5日の夜 ルヴォフのもとで連立政権の形成、ケレンスキーは戦争大臣、6人の社会主義者が閣内に。 
   5月    トロツキー、ニューヨークからロシアに帰還。
   6月 3日 第1回全ロシア・ソヴェト大会、開会。
   6月10日 CECの圧力により、ボルシェヴィキが政府転覆の考えを放棄。
   6月16日 ロシア軍、オーストリアへの攻撃を開始。
   6月29日 レーニン、フィンランドへ逃亡、7月4日朝までとどまる。
   7月 1日 臨時政府、ボルシェヴィキ指導者の逮捕を命令。
   7月2-3日 ペトログラード第一機銃連隊の反乱。
   7月 4日 ボルシェヴィキの蜂起、レーニンがドイツと交渉するとの情報により鎮圧される。
   7月 5日 レーニンとジノヴィエフ、最初はペトログラードに、のち(7月9日)首都近くの田園地域に隠れる。最後に(9月)、レーニンはフィンランドへ。
   7月11日 ケレンスキー、首相に。
   7月18日 コルニロフ、最高司令官に指名される。
   7月 末  第6回ボルシェヴィキ党大会、ペトログラードで。
   7月31日 ニコライとその家族、トボルスクへ出立。
   8月 9日 臨時政府、憲法制定会議(Constituent Assembly)の選挙を11月12日に行い、11月28日に同会議を招集する予定を発表。
   8月14日 モスクワ国家会議、開かれる。コルニロフ、騒然として迎えられる。
   8月20-21日 ロシア軍、ドイツに対してリガを放棄。 
   8月22日 V・N・ルヴォフ、ケレンスキーと会合。
   8月22-24日 モギレフのザヴィンスキー、コルニロフにケレンスキーの命令を渡す。
   8月24-25日 ルヴォフ、コルニロフと逢う。
   8月26日 ルヴォフ、ケレンスキーにコルニロフの「最後通告」文を伝える。ケレンスキー、コルニロフと電話会談。ルヴォフ、逮捕される。 
   8月26日-27日の夜 ケレンスキー、内閣から独裁的権力を確保。コルニロフを解任。 
   8月27日 コルニロフ、反逆者とされる。コルニロフ暴乱、武装団にコルニロフに従うよう求める。
   8月30日 臨時政府、7月蜂起によりまだ収監中のボルシェヴィキの解放を命令。」
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 *1917年9月以降につづく。

0057/ロシア革命から90年-選挙結果報道の中の好記事。

 日本の幕末・明治維新期のような「面白さ」がありはしないかと、一度きちんとロシア革命史を勉強してみたいと思っているが、まだできておらず、「血なまぐい」だけで、過程をフォローしておく意味は少ないかもしれない。
 それにしても、ロシア革命のうち二月革命からは完全に90年が過ぎた。90年前のロシアでは4月にレーニンが帰国してきてケレンスキーとの闘いがあり11月の「ボルシェビキ革命」へと進んでいく激動の時期だったわけだ。なお、1908年にニコライ二世一族は全員銃殺された。
 このロシア革命は結果として何だったのか? 人類が後年もじっくりと考察すべきテーマだろう。人類最大の「失敗」の一つではないか。
 ソ連時代には大多数が二月革命を支持していたというが(そりゃそうだろう)、今年二月のモスクワでの世論調査では、革命支持6%、帝政支持-つまり帝政のままの方がよかった-が29%だった、という。このように自国の歴史を回顧しなければならないとは、現在のロシア国民は、とくに若い世代は、可哀想に思わなくもない。
 帝政-ソ連時代の共通性は「権威」による支配で、「自由と民主主義」がはたしてどの程度新ロシアに根付いているのだろう。政権側がプーティンの「疑似皇帝」化をもくろんでいる、というのも、ありうる話だ。
 またもや、それにしても、と続けるが、1990年以前のソ連はなくなり、ベラルーシ、ウクナイナ(ユークレイン)、カザフスタン等々が独立国になったという大きな変化があったことを、あらためて噛みしめる。私が小学校・中学校時代に習った世界とはまるで違うのだ。
 黒海の東岸に接するグルジアはソ連の一部だったが、ここも一独立国となった。グルジアといえば、あのスターリン(1879-1953)の出身地だ。両親はロシア語を話さなかったというし、彼はロシア人ではなくグルジア人で、ソ連共産党の実質的トップになった。そのグルジアが今やNATO加盟を希望しているという報道が先日あった。
 世が世なら、グルジアのどこか(スターリンの生誕地、生育場所?)は「革命の聖地」だったかもしれない。隔世の感がある。そして再び感じる。ロシア「社会主義」革命は、人類にとって、いったい何だったのか?

ギャラリー
  • 1181/ベルリン・シュタージ博物館。
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  • 1180/プラハ市民は日本共産党のようにレーニンとスターリンを区別しているか。
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  • 0801/鳩山由紀夫は祖父やクーデカホフ・カレルギーの如く「左の」全体主義とも闘うのか。
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