秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

ケレンスキー

1954/R・パイプス著・ロシア革命第11章第11節②。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。原書のp.492-p.496.
 ----
 第11節・ボルシェヴィキが臨時政府打倒を宣言②。
 (11)ボルシェヴィキの一連の布令類の中でも最上位の位置を占めるこの文章は、ロシアを支配する至高の権力を、ボルシェヴィキ中央委員会以外の誰もその資格を認めなかった組織が掌握した、と宣言した。
 ペトログラード・ソヴェトは、政府を転覆させるためではなく首都を防衛するために、軍事革命委員会を設立した。
 クーを正当化するものとされていた第二回全国ソヴェト大会は、ボルシェヴィキがすでにその名前で行動したとき、開会すらされていなかった。
 しかしながら、こうした手続的推移は、誰の名前でもって権力が奪取されるかには意味がない、とするレーニンの主張と合致していた。
 彼は前の晩に、こう書いていた。「そのことはただちには重要ではない。軍事革命委員会が奪っても、『別の何かの装置』がそうするのであっても。」
 クーが正当化されていないままで静かに実行されたために、ペトログラードの民衆はこの宣言的主張を真剣に受け取るべき理由がなかった。
 目撃証人たちによれば、10月25日にペトログラードには日常生活が戻って、事務所や店舗は再営業を始め、工場労働者たちは仕事へと向かった。そして、娯楽施設は再び群衆で溢れた。
 ひと握りの主だった人物たち以外は誰も、何が起きたかを知らなかった。首都は武装したボルシェヴィキの鉄の拳で握られており、もはや全く同じ事態ではないだろうことも。
 レーニンは、のちにこう語った。世界革命は「羽毛を拾い上げる」ように簡単だった、と。(194)
 (12)その間、ケレンスキーはプスコフ(Pskov)に向かって急いでいた。そこには北部戦線の司令部があった。
 歴史の精巧な捻りだろう、ボルシェヴィキに対してただ一つ動員可能な兵団は、二ヶ月前にはケレンスキーがコルニロフの「大逆」に参加した責任を追及した、同じ第三騎兵軍団のコサック部隊だった。
 彼らはコルニロフを抹殺して自分たちの司令官のクリモフを自殺に追い込んだ人物として、ケレンスキーを侮蔑していた。その結果として、彼らはケレンスキーの求めに応えるのを拒否した。
 ケレンスキーは最終的には、ルガ(Luga)を経由して首都に前進するように彼らのうちのある程度を説得した。
 アタマン(Ataman)の司令官のP. N. Krasnov の指揮のもとで、彼らはボルシェヴィキが送り込んでいた兵団を撒き散らし、ガチナ(Gatchina)を占拠した。
 その日の夕方、ツァールスコエ・セロ(Tsarskoe Selo)に着いた。そこは、首都まで二時間の進軍の位置にあった。
 しかし彼らは、他のどの軍団も加わらないことに失望し、それ以上進むのを拒否した。//
 (13)ペトログラードの状況は、実質的に、喜劇のごとく見えた。
 ボルシェヴィキが大臣たちは解任されたと宣言した後で、彼ら大臣は冬宮のネヴァ河側にあるMarachite〔孔雀石〕室にとどまっていた。ケレンスキーが救援軍を率いて到着するのを待っていたのだ。
 そのために、スモルニュイに集まっていた第二回ソヴェト大会は、一時間、一時間と延期しなければならなかった。
 午後2時、クロンシュタットから5000人の海兵たちが到着した。しかし、この「革命の誇りと美」である海兵たちは、武装していない民間人を手荒く処理するのには慣れていたが、戦闘する意欲はなかった。
 彼らは冬宮を攻撃して反撃の砲弾を受けたとき、襲撃をやめた。
 (14)レーニンは、内閣(推測するにその逃亡が気づかれていないケレンスキーを含む)がボルシェヴィキの手に入るまでは、公衆の前に姿を見せようとはしなかった。
 彼は包帯をし、鬘を被り、眼鏡を着けて、10月25日のほとんどを過ごした。
 ダンとスコベレフが近くを通ってレーニンの変装を見破ったあとで、隠れた行動に終止符を打ち、床で仮眠をとった。トロツキーが行き来して、最新の報せを伝えた。//
 (15)トロツキーは、冬宮がまだ耐えている間はソヴェト大会を開会するつもりはなかったが、しかし代議員たちが去ってしまうのを怖れて、午後2時35分、ペトログラード・ソヴェトの臨時会議を招集した。
 誰々がこの会議での検討に参加していたかを、確定することはできない。エスエルとメンシェヴィキはその日の前にすでにスモルニュイからいなくなっており、建物の中には数百名のボルシェヴィキと諸地方から来ていた親ボルシェヴィキの代議員たちしかいなかったので、事実上は完全にボルシェヴィキと左翼エスエルのものだった、と安全に言うことができる。//
 (16)会議(これにレーニンはまだ出席しなかった)を開いてトロツキーは、つぎのように表明した。「軍事革命委員会の名のもとに、臨時政府は存在しなくなったと宣言する」。
 トロツキーの表明文の一つに反応してある代議員が、「きみたちは全ロシア・ソヴェト大会の意思を宣告するのが早すぎる」とフロアから叫んだとき、トロツキーはつぎのように言い返した。//
 「全ロシア・ソヴェト大会の意思は、昨晩に起きたペトログラードの労働者および兵士たちの蜂起という偉大な功績によって予め決定されている(predetermined, pre-dreshena)。
 いま我々がしなければならないのは、この勝利を拡大することだけだ。」//
 労働者および兵士たちの「蜂起」とは、何のことか? そう十分に疑問視し得ただろう。
 しかし、この言葉の意図は、ボルシェヴィキ中央委員会がその名前で「予め決定していた」決定を受容すること以外の選択はあり得ない、と大会代議員たちに知らせることだった。//
 (17)レーニンが短いあいだ、姿を現した。そして、代議員たちを歓迎し、「世界的社会主義革命」を熱烈に呼びかけた。(197)
 そのあと彼は、再び舞台から消えた。
 トロツキーは、レーニンがこう語ったと想起している。「地下生活とPereverzev 体験(<pereverzevshchina>)からの権力への移行は突然すぎた」。
 そして、トロツキーはぐるぐると歩き回って、ドイツ語でこう付け加えた。「<目が眩む(Es schwindelt)>」(「It's dizzying」)。(198)//
 (18)午後6時30分、軍事革命委員会は臨時政府に対して、降伏するかそれとも巡洋艦<オーロラ>とペーター・パウル要塞からの砲撃に遭うか、という最後通告を発した。
 閣僚たちは今にも救援が来るのではないかと期待して、回答しなかった。この頃、ケレンスキーが忠実な兵団を率いて首都に接近しているとの風聞があったのだ。(199)
 彼らは、物憂げに雑談し、電話で友人と会話し、長椅子の上で休み、身体を伸ばした。//
 (19)午後9時、巡洋艦<オーロラ>が砲撃を始めた。弾薬を込めていなかったので、一度だけの一斉空砲射撃であり、再び静寂になった。-十月に関する伝説のうちに著名な位置を占めるには、これでも十分だった。
 2時間後、ペーター・パウル要塞が爆撃を始めた。これは実弾だったが、その照準が不正確で、30から35発の丸弾のうち二発しか冬宮に当たらず、微少な損害を与えたにとどまった。(200)
 数カ月にわたる工場や連隊での組織工作のあとで分かったのは、ボルシェヴィキは自分たちの信条のために死ぬのを厭わない実力部隊を持っていない、ということだった。
 僅かしか防衛されていなくとも臨時政府の者たちは対抗心を持ったままだった。そして、臨時政府は解体したと宣言した者たちを嘲弄した。
 実弾爆撃の隙間に、赤衛軍の部隊がいくつかある入り口の一つから冬宮に侵入した。しかしながら、武装した<ユンカー>に対抗されて、ただちに降伏した。//
 (20)夜の帳が深くなるにつれて、王宮の防衛者たちは約束された救援がないことに意気消沈し、撤兵し始めた。
 最初に去ったのは、コサック兵だった。それに、武器を装備した<ユンカー>が続いた。
 女性決死部隊は、とどまった。
 深夜まで防衛に加わっていたのは彼女らと、Marachite〔孔雀石〕室を防備していた一握りの十歳代のカデットたち〔立憲民主党員〕だった。
 冬宮から銃砲がもう発せられなくなったとき、赤衛隊と海兵たちが注意深く接近した。
 最初に突入したのは、エルミタージュ側の開いた窓へとよじ登った海兵たちとPavlovskii 連隊の兵士たちだった。(201)
 他の者たちは、閂がかけられていない門を通って入った。
 冬宮は、急襲によって奪取されたのではない。アイゼンスタインの映画<十月の日々>が描くような突入する労働者、兵士・海兵たちの隊列の映像は全くの作り物で、バスティーユ牢獄の陥落のイメージをロシアに与えようと狙っていた。
 実際には、防衛することをやめた王宮は、暴徒となった群衆に荒らされた。
 被害者は死亡者5名、重傷者数名が全てで、そのほとんどは流れ弾が当たったことによるものだった。
 (21)深夜が過ぎ去り、王宮は豪奢な内装品を強奪したり破壊したりする群衆で溢れた。
 女性防衛者のうち何人かは、レイプされたと言われている。
 司法大臣のP. N. Maliantovich は、臨時政府の最後の瞬間について、つぎのような生々しい描写を残した。
 「突然にどこかから、騒音が上がった。それはすぐに強くかつ大きくなって近づいて来た。
 その騒音の中で-別々だったが一つの波に融合していた-、何か特別な、従前の騒音とは違う何かが、何か最後だと感じさせる音が、鳴り響いた。<…>
 最後がすぐにあるのが、瞬時に分かった。<…>//
 横たわっていたか座っていた者たちは跳び上がって、外套に手を伸ばした。<中略>//
 物音が、ますます強く急速になって、大きな波になって、我々に向かって押し寄せてきた。<…>
 毒ガスによる殺戮に遭うがごとき、耐えられない恐怖が我々を貫き、掴んだ。<…>//
 これは全て、数分の間でのことだった。<…>//
 控え室に向かう扉のところで、一群の鋭く興奮した叫び声を、いくつかの別々の射撃音を、床を踏む足音を聞きつづけた。足音のいくつかは激しく踏み叩き、動き、それらが入り混じっていて、段々と大きくなり、混沌としたまとまりとなって響いた。そして、恐怖が極限に達した。//
 明瞭だった。襲撃されている。我々は襲撃で掴まれていた。<…>
 防衛は役立たなかった。被害者は無意味な生け贄になるだろう。<…>//
 扉がサッと開いた。<…> 一人の<ユンカー>が飛び込んできた。
 警戒心を露わにし、かつ敬礼しつつ、彼の顔は緊張していたが、決然たるものがあった。
 『臨時政府は、何を司令しているのか?
 臨時政府が命令するとおりに、我々は行動する。』//
 『そんなものは必要ない! 無用だ!
 もう明らかだ! 血を流すな! 降参だ!』
 我々は、事前の合意もなく、そうしたかった。お互いに見つめ合って、全員の眼の中にある同じ感情を読み取った。//
 Kishkin が、前に進み出た。『彼らがここにいるということは、王宮はすでに奪取されているという意味だ』。(*)//
 --------
 (*) N. M. Kishkin はカデットの臨時政府一閣僚で、ケレンスキーが冬宮を去った後の責任者に就いていた。
 --------
 『そうだ。入り口は全て奪い取られている。
 全員が降伏した。
 この区画だけが、まだ守られている。
 臨時政府は、何を司令しているのか?』//
 Kishkin が言った。『血を流したくない。力(force)に屈服する。降伏する。』//
 扉の傍らで、恐怖が弛まなく上昇してきた。また、血を流すことになる、そうせずに済むにはもう遅すぎる、という不安がよぎり始めた。<…>
 我々は不安になって叫んだ。『急げ! 行って彼らに告げろ! 血はいやだ!。降伏する!』//
 その<ユンカー>は去った。<…>
 全ての出来事は一瞬のうちに起きた、と私は思う。」(202)
 (22)午前2時10分にアントノフ=オフセエンコによって、閣僚たちは拘束された。
 護衛つきでペーター・パウル要塞へと連れていかれた。
 途中で彼らは、リンチで殺されるのを辛うじて免れた。//
 --------
 (194) レーニン, <PSS>XXXVI, p.15-p.16.
 (195) トロツキー, <歴史>Ⅲ, p.305-6.
 (196) K. G. Kotelnikov, <<略>>(Moscow-Leningrad, 1928), p.164, p.165.
 (197) 同上, p.165-6.
 (198) トロツキー, <レーニン>, p.77.
 (199) <Rech'>No.252(1917年10月26日), <Revoliutsiia>Ⅴ収載, p.182.
 (200) <Revoliutsiia>Ⅴ, p.189.
 (201) Dzenis, <Living Age>No.4049(1922年2月11日)収載, p.331.
 (202) Maliantovich, <Byloe>No.12(1968年)所収, p.129-p.130.
 ----
 つぎの第12節の目次上の見出しは、「第二回ソヴェト大会が権力移行を裁可し、講和と土地に関する布令を承認する」。

1953/R・パイプス著・ロシア革命第11章第11節①。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。
 ----
 第11節・ボルシェヴィキが臨時政府打倒を宣言①。
 (1)ボルシェヴィキ・クーの最終段階は、10月24日、火曜日の朝に進行していた。それは、軍事幕僚たちが政府によって前夜に命じられた熱の入らない手段を履行したあとだった。
 10月24日の早い時間に、<ユンカー(iunkers)>が戦略的重要地点を護衛する義務を受け持った。
 二または三の部隊が、冬宮の防衛のために派遣された。そこで彼らは、140人の志願者から成るいわゆる女性決死部隊(Women's Death Battalion)、いくつかのコサック、自転車部隊、将校に指揮された義肢の、および若干の銃砲の破片が体内にある、40人の戦争傷病者の兵団と合流した。
 驚くべきことに、一発の銃砲も用いられなかった。
 <ユンカー>は、<Rabochiipof>(<元プラウダ>)と<兵士>の印刷所を閉鎖した。 スモルニュイとの電話線は、切断された。
 親ボルシェヴィキの兵士や労働者が首都中心部に入るのを阻止するため、ネヴァ河(Neva)に架かる橋を上げよとの命令が、発せられた。
政府軍事幕僚は、連隊に対して軍事革命委員会の指示を受けることを禁じた。
 また、実際の効果はなかったが、軍事革命委員会のコミサールを逮捕せよとも命じた。(187)//
 (2)こうした準備によって、危機の雰囲気が生まれた。
 その日、ほとんどの事務所は午後2時半までに閉じられ、人々は家へと急いで帰って、街頭は空になった。
 これは、ボルシェヴィキが待ち望んでいた「反革命」の合図だった。
 ボルシェヴィキはまず、彼らの二つの新聞を復刊させた。午前11時までに、これを達成した。
つぎに、中央電信電話局とロシア電信庁を奪取すべく、軍事革命委員会は武装分団を派遣した。
 スモルニュイからの電話線は再びつながった。
 このように、クーの最も早い目標は、情報と通信線の中心地だった。//
 (3)その日午後に行われた唯一の実力行使(violence)は、軍事革命委員会の部隊がネヴァ河を横切る橋梁を下げさせたことだった。//
 (4)蜂起がこの最後で決定的な段階に至っているとき、軍事革命委員会は10月24日夕方、風聞にもかかわらず、反乱をしているのではなく、たんに「ペトログラード連隊と民主主義」を反革命から防衛する行動をしている、との声明文を発した。(188)//
 (5)考えられ得ることしてはこの虚偽情報の影響を受けて、全く連絡をとっていなかったに違いないレーニンは、同僚たちに実際に行っていることをさせるべく、絶望的な覚え書を書いた。//
 「私はこの文章を(10月)24日夕方に書いている。状況はきわめて深刻だ。
 今や本当に、ますます明らかになっている。蜂起を遅らせるのは、死に等しい。//
 ある限りの最大の力を使って、同志たちに訴えたい。全てがいま、危機一髪の状態だ。どの集会に(ソヴィエト大会であっても)諮っても回答されない問題に直面している。答えられるのは、人民、大衆、武装した大衆の闘いだけだ。//
 コルニロフ主義者のブルジョア的圧力、Verkhovskii の解任は、待つことはできない、ということを示す。
 ともかく何であれ、必要だ。この夕方、この夜に、政府人員を拘束すること、<ユンカー>を武装解除する(抵抗があれば打ち負かす)こと、…<略>。
 誰が、権力を奪うべきなのか?
 これは、今すぐには重要でない。軍事革命委員会に権力を、または「何らかの他の装置」を奪取させよ。…<略>//
 権力掌握こそが、蜂起の任務だ。その政治的目標は、権力を奪取した後で初めて明らかになるだろう。//
 10月25日の不確実な票決を待つのは、地獄か形式主義だ。
 人民には、投票によってではなく実力行使でもってその問題を解決する権利と義務がある。…<略>」(*)//
 --------
 (*) レーニン, <PSS>XXXIV, p.435-6. Verkhovskii は、ロシアは中央諸国と即時講和をすべきだと閣僚会議で主張して、その前日(10月23日)にその職を解任されていた。<SV>No.10, 1921年6月19日, p.8.
 --------
 (6)レーニンは、その夜おそく、スモルニュイにやって来た。
 彼は完全に変装していて、包帯を巻いた顔からして歯医者の患者のように見えた。
 途中で政府の巡視隊にほとんど逮捕されるところだったが、酔っ払っているふりをして免れた。
 スモルニュイでは、背後の部屋の一つにいて、最も親しい仲間たちだけが近づけるようにして、姿を消したままでいた。
 トロツキーは、こう想起する。レーニンは、軍事幕僚との間に進行中の交渉について聞いて懸念を覚えたが、この対話は見せかけ(a feint)だと理解すると、ただちに愉快に微笑んだ。//
 レーニンは「おう、それはよい(goo-oo-d)」と陽気に強い声で言って、緊張して手を擦りながら、部屋の中を行ったり来たりしていた。
 「それは、とても(verr-rr-ry)よい」。
 レーニンは軍事的な策謀を好んだ。敵を欺くこと、敵を馬鹿にすること-何と愉快な仕事だ!(189)//
 レーニンはその夜を床の上でゆっくりと過ごした。その間に、ポドヴォイスキー、アントノフ=オフセエンコ、およびトロツキーの全幅的指揮下にある彼の友人のG. I. Chudnovskii が、作戦行動を司令した。//
 (7)その夜(10月24日-25日)、ボルシェヴィキはピケを張るという単純な方法で、戦略上重要な目標地点の全てを系統的に奪い取った。
 Malaparte が論述したように、これは現代の模範的なクー・デタだった。
 <ユンカー>護衛団は、家に帰れと言われた。そして自発的に撤退するか、または武装解除された。
 こうして、闇夜に紛れて、一つずつ、鉄道駅、郵便局、中心電話局、銀行、そして橋梁が、ボルシェヴィキの支配のもとに置かれた。
 抵抗に遭遇することはなく、一発の銃火も撃たれなかった。
 ボルシェヴィキは、想像し得る最もさりげない方法でエンジニア宮を奪取した。
 「彼らは入ってきて、幕僚たちが立ち上がって去っていった座席を占めた。かくして、幕僚本部は奪取された。」(190)
 (8)ボルシェヴィキは、中央電信電話交換局で冬宮からの電話線を切断した。しかし、登録されていなかった二つの線を見逃した。
 この二つの線を使って、Malachite 室に集まっていた大臣たちは外部との接触を維持した。
 ケレンスキーは、公的な声明では自信を漂わせてはいたものの、ある目撃者によると、「苦悩と抑制した恐怖」を隠して半分閉じた眼で、虚ろを見つめて誰も視ておらず、老けて疲れているように見えた。(191)
 午後9時、T・ダン(Theodore Dan)とAbraham Gots が率いるソヴェト代表が現れて、「革命的」軍事参謀の影響によってボルシェヴィキの脅威を過大評価している、と大臣たちに告げた。
 ケレンスキーは、彼らを閉め出した。(192)
 その夜にケレンスキーはついに、前線の司令官たちに連絡をし、救援を求めた。
 しかし、無駄だった。誰も求めに応じなかった。
 10月25日午前9時、ケレンスキーは、セルビア将校に変装し、アメリカ合衆国大使館から借りた車で冬宮を抜け出した。その車はアメリカの旗を立て、助けを求めて前線へと走った。
 (9)その頃までに、冬宮は、政府の手に残された唯一の建造物だった。
 レーニンが執拗に主張したのは、第二回ソヴェト大会が正式に開会して臨時政府を排斥する前に、大臣たちは拘束されなければならない、ということだった。
 しかし、ボルシェヴィキの軍組織はその任務を果たすのに適切ではなかった。
 彼らボルシェヴィキ部隊は主張はしたけれども、敢えて銃砲を放とうとする者たちがいなかった。
 4万5000人いるとされた赤衛隊(Red Guards)とペトログラード守備連隊内部の数万の支持者たちは、どこにも現れなかった。
 冬宮に対する不本意な攻撃が、明け方に始まった。しかし、最初の射撃の音を聞いて、攻撃者たちは退却した。
 (10)苛立ちを燃え上がらせ、前線の兵団による介入を怖れて、レーニンは、もう待たない、と決断した。
 午前8時から9時までの間に、彼は、ボルシェヴィキの作戦指揮室に入った。
 最初は誰も、彼が何者なのか分からなかった。
 ボンチ=ブリュエヴィチ(Bonch-Bruevich)は、彼がレーニンだと認識して、嬉しさが爆発した。「ウラジミル・イリイチ、我が父だ。きみだとは気づかなかった」と叫びながら、レーニンを抱擁した。(193)
 レーニンは座って、軍事革命委員会の名前で臨時政府が打倒されたことを宣言する文書を起草した。
 プレスに(10月25日)午前10時に発表された文章は、つぎのとおりだった。
 「ロシアの市民諸君!
 臨時政府は打倒された。
 政府の権能は、ペトログラードのプロレタリアートと守備連隊の頂点に位置する、ペトログラード労働者・兵士代表ソヴェト、軍事革命委員会の手に移った。
 人民が目ざして闘うべき任務-民主主義的講和の即時提案、土地にかかる地主的所有制の廃絶、生産に対する労働者による統制、ソヴェト政権の確立-、これらの任務の遂行は保障された。
 労働者、兵士および農民の革命に栄光あれ!
 ペトログラード労働者・兵士代表ソヴェトの軍事革命委員会。」(*)
 --------
 (*) <Dekrety>I, p.1-2. ケレンスキーの妻は拘束され、この宣言書を破ったとしてつぎの日の48時間留置された。A. L. Fraiman, <<略>>(Leningrad, 1969), p.157.
 --------
 (187) <Revoliutsiia>V, p.164, p.263-4.
 (188) <SD>No.193(1917年10月26日), p.1.
 (189) トロツキー, <レーニン>p.74.
 (190) Maliantovich, <Boyle>No.12(1918年)所収, p.114.
 (191) 同上, p.115.
 (192) Melgunov,<Kak bol'sheviki>p.84-p.85.; A・ケレンスキー,<ロシアと歴史の転換点>(New York, 1965), p.435-6.
 (193) S. Uranov, <PR>No.10/33(1924年), p.277.
 -----
 ②へとつづく。

1952/R・パイプス著・ロシア革命第11章第10節。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。
 ----
 第10節・ケレンスキーの反応。
 (1)10月22日、軍事革命委員会が連隊を奪い取ろうとしていることを知って、軍事幕僚はソヴェトに対して最後通告を発した。撤回するか、それとも「決定的手段」に直面するか。(175)
 ボルシェヴィキは活動時間のことを慎重に考えて最後通告を「原理的に」受け入れ、かつクーを進行させている間ですら、交渉することを提案した。(176)
 その日の遅く、軍事幕僚と軍事革命委員会は、ソヴェトの代表団が幕僚とともに加わる「協議機関」の設立に合意した。
 10月23日、軍事革命委員会からの代理者が〔臨時政府〕軍事幕僚に対して、表面的には対話のために、実際には「偵察」を実施するために、派遣された。(177)
 これらの行動は、望んだ効果を生んだ。すなわち、政府が軍事革命委員会を拘束することを防いだ。 
 10月23-24日の夜のあいだに、内閣(コルニロフ事件以降は一種の影の存在になったと見える)は、二つの指導的なボルシェヴィキ日刊紙の閉刊を命じた。均衡をとるため、同じ数の、<Zhivoe lovo>を含む右翼新聞紙にも同じ措置をとった。この新聞は7月に、レーニンのドイツとの接触に関する情報を掲載していた。
 兵団が、冬宮を含む戦略的諸地点を防衛すべく派遣された。
 しかし、軍事革命委員会を拘束する権限の付与をケレンスキーが求められたとき、彼は、幕僚が軍事革命委員会との間の違いを交渉しているという理由で、思いとどまらせた。(178)
 (2)ケレンスキーは、ボルシェヴィキの脅威をはなはだしく過少評価していた。彼はボルシェヴィキ・クーを怖れなかったばかりか、実際には、それを望んだのだ。このクーによって自分は最終的に一気にボルシェヴィキを粉砕し、これを取り除くことができる、という自信をもって。
 10月の半ばに、軍事司令官たちはケレンスキーに対し、ボルシェヴィキが間違いなく武装蜂起の準備をしている、という報告をし続けた。
 同時に司令官たちは、クーに対するペトログラード守備連隊の「圧倒的」な地位を見れば、そのような蜂起はすみやかに失敗する、と保障していた。(179)
 ボルシェヴィキの策略とは反対に連隊は政府を支持することを意味すると誤解していたこのような評価を根拠にして、ケレンスキーは、同僚や外国の大使たちにあらためて保障した。
 ナボコフ(Nabokov)は、彼には粉砕する勢力が十分にあったのでこの蜂起が発生することに祈りを捧げた、と回想している。(180)
 George Buchanan に対して、ケレンスキーは一度ならずこう言った。「(ボルシェヴィキが)出てくるのを望むだけだ、そのときは彼らを鎮圧する」。(181)
 (3)しかし、明白かつ現存する危険に直面してのケレンスキーの確信は、自信過剰のゆえにのみ生じたものではなかった。1917年の残りの月日の間のように、「反革命」への恐怖こそが、彼の行動と非ボルシェヴィキの左翼全体の行動の要点(key)だった。
 ケレンスキーは以前にコルニロフとその他の将軍たちを反逆罪で訴追し、彼らに対抗する助けをソヴェトに求めた。職業的将校たちの目から見ると、ケレンスキーはもはやボルシェヴィキと見分けることができない人物だった。
 ゆえに、8月27日の後は、ケレンスキーは軍部を結集させることをあまりにも長く躊躇していた。
 戦時大臣の将軍A. I. Verkhovskiiは、事件のあとでイギリス大使に、「ケレンスキーはコサックが(十月)蜂起を彼ら自身で抑圧することを望まなかった。それは革命が終わることを意味しただろう、という理由でだった」、と語った。(182)
 恐怖の共有にもとづき、二つの運命的な敵、つまり「二月」と「十月」の間の致命的な連結(bond)がでっち上げられた。
 ケレンスキーとその補佐官たちが依然として抱いていた唯一の望みは、7月にそうだったように、最後の瞬間にはボルシェヴィキが中枢を失って退出する、ということだった。
 10月24-26日に冬宮の防衛を指揮したP. I. Palchinskii は、冬宮への包囲攻撃の間またはその陥落の後で、政府の態度についての彼の印象をメモ書きした。
 「Polkovnikon の無力さと計画の全くの欠如。非常識なことは行われないだろうとの願望。にもかかわらずそれが発生したときにすべきことの無知。」(183)
 (4)誰もが知っていた攻撃を阻止するための軍事上の真剣な用意は、何も行われていなかった。
 ケレンスキーはのちに、自分は10月24日に前線の指揮官による増援を要請した、と主張した。しかし、歴史的研究によると、彼は深夜になるまで(10月24-25日)そのような命令を発していない。クーはそのときまでにすでに完了していたので、遅すぎたのだった。(184)
 将軍アレクセイエフは、ペトログラードには1万5000人の将校がいた、そのうちの三分の一はボルシェヴィキと闘う用意があった、と概算した。だが結果は、首都が奪取されているときに彼らは座り込んでいるか、酒宴で浮かれているかのいずれかだった。(185)
 最も驚くべきことは、政府防衛の中枢、エンジニア宮(Mikhailovskii 宮)にあった軍事幕僚本部が、防衛されていないことだった。身分証明を求められることなく、通行人は自由にそこに入ることができた。(186)
 --------
 (175) <NZh>No.161/155(1917年10月24日), p.3.
 (176) <Protokoly TsK>, p.119., p.269.; <Revoliutsiia>V, p.160.
 (177) A. Sadovskii, <PR>No.10(1922), p.76-p.77.; <Revoliutsiia>V, p.151.; Melgunov, <Kak bol'sheviki>, p.69.
 (178) <Revoliutsiia>V, p.163-4.; Melgunov, <Kak bol'sheviki>, p.69.
 (179) <Revoliutsiia>V, p.111-2.
 (180) <ナボコフと臨時政府>, p.78.
 (181) G. Buchanan, <My Mission to Russia>(Boston, 1923)II, p.201.; つぎを参照せよ。J. Noulens, <Mon Ambassade en Russie Sovietique, 1917-1919>I(Paris, 1933), p.116.
 (182) Buchanan, <Mission>II, p.214.
 (183) <KA>, 1/56(1933), p.137.
 (184) Melgunov, <Kak bol'sheviki>, p.93-p.94.
 (185) 同上, p.88-p.89.
 (186) P. N. Maliantovich, <Byloe>No.12(1918)所収, p.113.
 ----
 以上が第10節。第11節の目次上の見出しは、<ボルシェヴィキが臨時政府打倒を宣言する>。

1948/R・パイプス著・ロシア革命第11章第7節。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。p.477-p.482.
 ----
 第7節・ボルシェヴィキによるソヴェト軍事革命委員会の乗っ取り(take over)。
 (1)第二回ソヴェト大会を偽装した、親ボルシェヴィキの集会は、ボルシェヴィキのクーを正当化することとなった。
 しかしながら、レーニンの執拗な主張では、クーは大会が開催される前に、軍事組織の指揮のもとにある突撃兵団によって達成されるべきものだった。
 この突撃兵団は首都の戦略上重要な地点を掌握し、政府は打倒されたことを宣言することとなっていた。これは大会に対して、不可逆的な既成事実を突きつけることになるだろう。
 この行動を、ボルシェヴィキ党の名前で行うことはできなかった。
 ボルシェヴィキがこの目的のために用いた装置は、10月早くの恐慌のときにペトログラード・ソヴェトが設立した軍事革命委員会だった。これの目的は、首都を予想されるドイツの攻撃から防衛することだとされていた。
 (2)ドイツ軍がリガ(Riga)湾で作戦行動をしたことで、事態は早まった。
 ロシア兵団がリガを撤退したあと、ドイツは偵察部隊をRevel(Tallinn)の方向へと派遣した。
 この行動は、300キロしか離れておらず、防衛に信頼を措けないペトログラードを脅かすことを装っていたので、ロシアの将軍幕僚たちは多大の関心を引いた。
 (3)首都へのドイツの脅威は、10月半ばにはますます不気味なものになった。
 9月6日/19日、ドイツの最高司令部はリガ湾にあるMoon、Ösel、およびDagoの各島の占拠を命令した。
 9月28日/10月11日に航行した小型艇隊はすみやかに機雷敷設地域を除去し、予期ししていなかった頑固な抵抗を抑えたあと、10月8日/21日にこれら三島の占領を完遂した。(135)
 敵は今や、ロシア軍の背後の地上に位置していた。
 (4)ロシアの将軍幕僚はこの海上作戦を、ペトログラード攻撃の予備行動だと見た。
 10月3日/16日、Revel からの退避が命じられた。ここは、ドイツ軍と首都の間に位置する、最後の大きい拠り所だった。
 その翌日、ケレンスキーは、危機に対処する方法に関する討議に加わった。
 ペトログラードはもまなく戦闘地帯に入ってしまう可能性があるので、政府と憲法制定会議はモスクワへと移転する、という提案がなされた。
 この考え方は一般に同意されたが、唯一の不一致は移動の時機の問題だった。ケレンスキーは、即座に行うことを望んだが、他の者たちは遅らせるのを支持した。
 政府は、広範な世論の支持を要請する会合として予備議会(Pre-Parliament)を10月7日に開催する予定でいた。この予備議会の同意を確保したあとで撤退することが、決定された。
 つぎの問題は、イスパルコムに関して何をするか、について生じた。
 合意があったのは、イスパルコムは私的な機構なので、その撤退は自分で行うべきだ、ということだった。(*)
 --------
 (*) <Revoliutsiia>V, p.23. ケレンスキーによると、この議論は秘密のはずだったが、彼らはすぐにプレスに漏らした。同上, V, p.81.
 --------
 10月5日、政府の専門家たちが、行政官署のモスクワへの撤退には二週間がかかる、と報告した。
 ペトログラードの諸産業を内陸部へと再配置する計画が、策定された。
 (5)このような予防措置は、軍事的かつ政治的な意味をもった。それは、フランスが1914年9月にドイツ軍がパリに接近したときにしたこと、ボルシェヴィキが1918年3月に同様の状況のもとですることになるだろうこと、だった。
 しかし、社会主義的知識人たちは、これらのうちに、「赤いペトログラード」、「革命的民主主義」の主要な基地を敵に明け渡す「ブルジョアジー」の策略を見た。
 プレスが政府の退避計画を公表する(10月6日)とすぐに、イスパルコム事務局は、自分たちの同意なくしていかなる撤退も行われてはならない、と声明した。
 トロツキーはソヴェトの兵士部門に向けて演説し、「革命の首都」を放棄しようとする政府を非難する決議を採択するよう、説得した。
 彼の決議は、こう言う。ペトログラードを防衛することができないのであれば、講和するか、別の政府に従うか、のいずれかだ。(137)
 臨時政府は、ただちに屈服した。
 同じ日に、臨時政府は、反対意見があることを考慮して撤退を一ヶ月遅らせる、と発表した。
 そのうちに、この退避の考えはすっかり放棄された。(138)
 (6)10月9日、政府は守備連隊の補充部隊に対して、予期されるドイツの攻撃を阻止するのを支援するために前線に向かうよう、命令した。
 過去の経験から予期され得たことだったが、守備連隊は、抵抗した。(139)
 この対立にかかる判断は、審判するためにイスパルコムに委ねられた。
 (7)その日遅くのイスパルコムの会合で、メンシェヴィキ派の労働者のMark Broido が、一つにペトログラード守備連隊に首都防衛に備えること、二つにソヴェトがこの目的の「計画遂行」をするための「革命的防衛の委員会」を設置(またはむしろ再構成)すること、を呼びかける決議を提案した。(140) 
 ボルシェヴィキと左翼エスエルは驚き、臨時政府の力を強くするという理由で、Broidoの決議案に反対した。
 これはしかし、際どい過半数(13対12)で採択された。
 票決のあとで、ボルシェヴィキは、過ちを冒したことに気づいた。
 ボルシェヴィキには、武装蜂起のために育ててきている軍事組織があった。それはボルシェヴィキ中央委員会に従属し、ソヴェトとは関係がなかった。
 このような地位の良さには、複雑な面があった。というのは、その軍事組織はボルシェヴィキ最高司令部の命令を忠誠心をもって遂行することができる一方で、一政党の一機関として、ソヴェトを代表して行動することはできなかった。ボルシェヴィキはその名前を用いて権力掌握を達成しようと意図していたのだったが。
 数年のちに、トロツキーはこう回想することになる。この不利な条件に気づいて、ボルシェヴィキは、1917年9月に、彼が「非党派『ソヴェト』機関」と称したものを蜂起を率いさせるために設立するよう、全ての機会を活用する、と決定していた。(141)
このことは、その軍事組織の一員だったK. A. Mekhonoshin によっても確認されている。この人物は、こう言う。ボルシェヴィキは、「守備連隊の部隊と連結する中枢部を、決定的行動のときにソヴェトの名前で前進することができるように、党の軍事組織からソヴェトへと移行させる必要がある、と感じていた」。(142)
 メンシェヴィキによって提案された組織は、この目的には理想的に相応していた。
 (8)メンシェヴィキの提案がソヴェトの総会での票決に付されたその夕方(10月9日)、ボルシェヴィキ代議員は保留の立場をとった。彼らはそのときには、ソヴェトがドイツからペトログラードを防衛するための組織を設立することに、それが「国内」の敵からも防衛するだろうかぎりで、同意していた。
 この「国内」の敵という後者によってボルシェヴィキが意味させたのは、つぎのことだ。すなわち、あるボルシェヴィキの言葉では、「臨時政府は皇帝に対する革命の主要な基地を陰険にも引き渡そうとしており、そして皇帝は、ボルシェヴィキの理解によれば、ペトログラードへの前進について、同盟する帝国主義者たちに支援されている」。(143)
こうした目的のために、ボルシェヴィキは、「軍事防衛委員会」はロシアの「反革命活動家」からはもちろんドイツ「帝国主義者」からの脅威に対して、首都の安全を確保する全ての責任を負わなければならない、と提案した。
 (9)ボルシェヴィキがBroido の提案を再定式化した内容に驚き、また何故彼らがそうしたのかを知って、メンシェヴィキはその修正に、断固として反対した。
 首都の防衛は、政府とその軍事幕僚たちの責任だった。
 しかし、総会はボルシェヴィキの案を選択し、「革命的防衛委員会」の形成に賛成する票決を行った。
 「労働者を武装させる全ての手段を講じることとともに、その手中にペトログラードとその近郊の防衛に関与する全ての力を結集すること。
 こうすることで、公然と準備されている軍および民間のコルニロフ一派の攻撃に対する、ペトログラードの革命的防衛と民衆の安全確保の二つをいずれも確実にすること」。(144)
 この異常な決議は巧妙に、ドイツ軍がもたらしている現実的な脅威に対応する新しく設立された委員会の責任と、コルニロフへの支持者による空想上の脅威とを、結びつけていた。コルニロフはどこにも、姿を見せていなかったのだが。
 メンシェヴィキとエスエルは、臨時政府は「ブルジョア」的性質をもつという悪宣伝的な強い主張と、反革命に対する強迫観念的な不安という彼らの収穫物を、このとき刈り取った。
 (10)票決の結果は、決定的に重要だった。
 トロツキーはのちに、これは臨時政府の運命を封じた、と述べた。
 彼の言葉では、これは10月25-26日に達成された勝利の10分の9でなくとも4分の3をボルシェヴィキに与えた、「静か」で「素っ気ない(dry)」革命だった。(145)
 (11)しかしながら、事態はまだ完全には終わっていなかった。総会での決定にはイスパルコムとソヴェト全体の同意が必要だったからだ。
 10月12日のイスパルコムの非公開会合で、2人のボルシェヴィキ議員がボルシェヴィキ革命を激しく攻撃した。しかし、彼らは再び敗れ、この二人以外の満場一致で、総会の決定はイスパルコムの支持を得た。
 イスパルコムは、新しい組織の名を「軍事革命委員会」と改めた(Voenno-Revoliutsionnyi Komitet。または略称してMilRevkom 〔ミルレヴコム〕)。また、これに首都の防衛の責務を付与した。(146)
 (12)問題は正式には、10月16日のソヴェトの会合で確定された。
 ボルシェヴィキは、注意を自分たちから逸らすために、ミルレヴコムを設立する決議の案文起草者に、無名の若い衛生兵である左翼エスエルのE. Lazimir を指名した。
 遅まきながらボルシェヴィキの策略(maneuver)の意味に気づいたエスエル(社会革命党)は、おそらくは欠席している同党の議員を集めるために、票決を遅らせようとしたが、失敗した。
 このエスエルの動議は却下され、彼らエスエルは棄権した。
 Broido はもう一度、ミルレヴコムは欺瞞だ、その真の使命はペトログラードを防衛することではなく、権力掌握を実行することだ、と警告した。
 トロツキーは、ロジアンコ(Rozianko)をインタビューした新聞記事を引用することで、ソヴェトの注意を逸らせた。ロジアンコは、かつての(今は政府の何の地位も占めていない)ドゥーマ議長はドイツによるペトログラード占領を歓迎する、と意味していると解釈することのできる語り口だった。(147)
 ボルシェヴィキは、Podvoiskii を副官に付けて、Lazimir をミルレヴコムの議長に指名した(十月のクーの前夜に、Podvoiskii はこの組織の長を正式に引き受けることになる)。(**)
 --------
 (**) Lazmir はのちにボルシェヴィキに入党した。1920年にチフスによって死んだ。
 --------
 ミルレヴコム〔軍事革命委員会〕のその他の委員を確定するのは困難だ。彼らはもっぱら、ボルシェヴィキか左翼エスエルだったと思われる。(+)
 --------
 (+) N. Podvoiskii, <KL>No.18(1923年)所収, p.16-p.17.
 トロツキーは、1922年に、かりに生命が危うくなってもミルレヴコムのでき方を思い出すことはできない、と書いた。
 -------- 
 しかし、誰がミルレヴコムにいたかは大きな問題ではなかった。それはクーの本当の組織者のための便宜的な旗にすぎなかったからだ。つまりは、ボルシェヴィキの軍事組織だった。//
 (13)トロツキーは今や、心理〔神経〕の戦いを始めた。
 ダン(Dan)がボルシェヴィキに、風聞があるように蜂起を準備しているのか否かをソヴェトで明確に表明するよう要請したとき、トロツキーは意地悪く、ケレンスキーとその対抗諜報機関の利益のためにその情報を欲しがっているのか、と尋ねた。
 「我々は権力掌握のための隊員を組織している、と言われている。
 我々はそのことを秘密にしていない。<略>」(148)
 しかしながら、二日後にトロツキーは、かりに蜂起が発生したとすれば、ペトログラード・ソヴェトは「我々はまだ蜂起を決定していなかった」との決定を下すだろう、と主張した。(149)
 (14)これらの言明には意識的な両義性があるにもかかわらず、ソヴェトは告知されていた。
 社会主義者たちは、トロツキーが何を語ったかを聞かなかったか、またはボルシェヴィキの「冒険」は不可避だと諦めていたかのいずれかだった。
 彼らは、レーニンの支持者たちと一緒に自分たちも一掃するだろう、あり得る右翼からの反応に対するほどには、ボルシェヴィキの行動を怖れなかった。
 ボルシェヴィキのクーの前夜(10月19日)、ペトログラード社会革命党の軍事組織は、予期される蜂起に対して「中立的」立場をとることを決定した。
 守備連隊内の同党員および共感者たちに送られてた回覧書は、示威活動からは離れたままでいること、黒の百人組、虐殺主義者および反革命の者たちからなされることがあり得る攻撃<中略>による容赦なき抑圧に十分に注意していること、を強く迫っていた。(150)
 これは疑う余地なく、エスエルの指導者たちはいったいどこに民主主義に対する主要な脅威を見ていたのか、を示している。//
 (15)トロツキーはペトログラードにずっといて、つねに緊張し、約束、警告、脅迫、甘言、激励をしている状態だった。
 スハノフ(Sukhanov)は、この時期の日々の典型的な情景を、つぎのように叙述する。
 「ホールに充満する3000人を超える聴衆の雰囲気は、明確に興奮のそれだった。
 彼らの一瞬の静けさは、つぎの期待を示していた。
 公衆は、もちろん主としては労働者と兵士だった。男女ともに、少しばかりの典型的なプチ・ブルジョア的様相も呈していなかったが。//
 トロツキーに対する熱烈な喝采は、好奇心と性急さで短く切られたように見えた。彼はつぎに何を語ろうとしているのか?
 トロツキーはただちにその巧みさと才幹でもって、会場の熱気を舞い上がらせ始めた。
 私は、彼が長い時間をかけてかつ異常なる力強さで、前線部隊が体験している…<中略>困難な状態を表現したのを憶えている。
 私の心にひらめいた思考は、その修辞的な言葉全体の諸部分にある、避けられない矛盾だった。
 しかし、トロツキーには、自分が何をしているかが分かっていた。
 根本的なのは、<ムード>〔雰囲気・空気〕だった。
 政治的な結論は、長い間にわたってお馴染みのものだった。<中略>//
 (トロツキーによると、)ソヴェトの権力は前線の戦場での損失で終末を迎えるべく運命つけられているだけではない。
 それは土地を提供し、国内の不安を止めるだろう。
 もう一度、飢餓に対処する昔からの秘訣が大きく持ち出される。どのようにして兵士、海兵および労働若年女性たちは裕福な者からパンを調達し、それを無料で前線に送るのだろう。<中略>。
 しかし、この決定的な「ペトログラード・ソヴェトの日」(10月22日)に、トロツキーはさらに進んだ。
 『ソヴェト政府は、国が貧者と前線の兵士のために有する全てのものを与えるだろう。
 きみ、ブルジョア、所有する二着の外套? 前線の塹壕で震えている兵士に一つをやれ。
 きみには、暖かい半長靴がある? きみの靴は労働者が必要としている。<中略>』//
 私の周りの雰囲気は、恍惚状態に近くなった。
 群衆はいつでも自発的に、求められることなく、突然に一種の宗教的な聖歌の中へと入り込んでいきそうに見えた。
 トロツキーは、『我々は最後の血の一滴まで、労働者と農民の根本教条を守るだろう』というのと似通った、短い一般的な決議を定式化し、あるいはいくつかの一般的な定式を宣告した。 
 誰に賛成か? 数千の群衆は、一人の男のようにその手を挙げた。
 私は、男性、女性、青年、労働者、兵士、農民そして典型的なプチ・ブルジョアの人物たちの挙げた手と燃える眼を見た。
 (彼らは)同意した。(彼らは)誓った。<中略>
 私はこの壮大な奇観を、異様に<重たい>心でもって眺めていた。」(151)//
 --------
 (135) この作戦はM. Schwarte et al, <大戦 1914-1918: ドイツの戦争>(Leipzig, 1925), Pt. 3, p.323-7.で叙述されている。
 (136) <Revoliutsiia>V, p.30-p.31.
 (137) <Izvestiia>No.191(1917年10月7日), p.4; <Revoliutsiia>V, p.37.
 (138) <Revoliutsiia>V, p.38, p.67.
 (139) 同上, p.52.
 (140) 同上, p.52, p.237-8.
 (141) <PR>No.10(1922年), p.53-p.54.
 (142) 同上, p.86.
 (143) I. I. Mints, ed., <<略>>Ⅰ(Moscow, 1938), p.22.
 (144) <Rabochii put'>No.33(1917年). <Revoliutsiia>V, p.238. が引用。
 (145) トロツキー, <歴史>III, p.353.
 (146) <Rabochii put'>No.35(1917年). <Revoliutsiia>V, p.70-p.71. と<Izvestiia>No.197(1917年10月14日), p.5. が引用。
 (147) Utro Rossi. Melgunov, <Kak bol'sheviki>, p.34n.が引用。
 (148) <Izvestiia>No.199(1917年10月17日), p.8.; <Revoliutsiia>V, p.101.
 (149) <Izvestiia>No.201(1917年10月19日), p.5.
 (150) <Revoliutsiia>V, p.132.
 (151) N. Sukhanov, <Zapinski o revoliutsii>VII(nberlin-Petersburg-Moscow, 1923), p.90-p.92.
 ----
 第7節は終わり。第8節の目次上の見出しは、<10月10日の重大な決定>。

1942/R・パイプス著・ロシア革命第11章第5節①。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。p.467-p.470.
 ----   
 第5節・隠亡中のレーニン①(Lenin in hiding)。
 (1)その間、レーニンは田舎に隠れていて、世界の再設計に没頭していた。//
 (2)ジノヴィエフとN. A. Emelianov という名前の労働者に付き添われて、レーニンは、別荘地域の鉄道接続駅Razliv に、7月9日に着いた。
 レーニンは髭を剃り落として、農業従事者のごとく変装していた。二人のボルシェヴィキは導かれて近くの、翌月の彼らの住まいとなる畑小屋に入った。//
 (3)備忘録を書くのが嫌いなレーニンは、その人生のうちのこの時期に関する回想録を残していない。しかし、ジノヴィエフの簡単な文書資料がある。(97)
 (4)彼らは潜伏したままで生活したが、伝達人を通じて首都との接触を維持していた。
 レーニンは彼と党への攻撃に立腹して、しばらくは新聞を読むのを拒んだ。
 7月4日の事態は、彼の心を苦しめていた。しばしば、ボルシェヴィキは権力を奪取できていたかどうかを思いめぐらしたが、いつも消極的な結論に達した。
 夏遅くに雨による洪水が彼らの小屋を浸したので、移動するときだった。
 ジノヴィエフはペトログラードに戻り、レーニンは、ヘルシンキへと進んだ。
 フィンランドを縦断するために、レーニンは労働者だとする偽造の書類を用いた。その旅券の、きれいに髭を剃って鬘をつけた写真で判断すると、颯爽とした外見を偽装していた。//
 (5)党を日常的に指揮することから離れ、おそらくは権力奪取の新しい機会はもうないだろうと諦念して、レーニンは、共産主義運動の長期目標に関心を向けた。
 彼は、マルクスと国家に関する論文を再び執筆し始めた。その論考を翌年に、<国家と革命>との表題で出版することになる。
 これは、将来世代への彼の遺産、資本主義秩序が打倒された後の革命戦略の青写真となるべきものだった。//
 (6)<国家と革命>は急進的虚無主義の著作であり、革命は全ての「ブルジョア」的制度を完膚なきまで破壊しなければならない、と論じる。
 レーニンは、国家は、どこでも、いつでも、搾取階級の利益を代表し、階級対立を反映する、という趣旨のエンゲルスの文章の引用で始める。
 彼はこれを証明済みのこととして受容し、もっぱらマルクスとエンゲルスのみを参照して、政治制度や政治実務の歴史にはいずれもいっさい参照することなく、さらに詳論する。//
 (7)この論考の中心的メッセージは、マルクスがパリ・コミューンから抽出し、<ルイ・ナポレオンのブリュメール十八日>で定式化した教訓から来ている。
 「議会制的共和国は、革命に対する闘いで、抑圧の手段や国家権力の集中化の手段を全て併せて、自らを強くすることを強いられた。
 全ての革命は、国家機構を粉砕するのではなくて完全なものにしてきた。」(*)//
 --------
 (*) レーニン,<PSS>XXXIII, p.28.から引用。レーニンは最後の文章に下線を引いて強調した。
 --------
 マルクスは、この議論をある友人への手紙で表現し直した。
 「私の<ブリュメール十八日>の最終章を見入れば、私がフランス革命のつぎの試みを宣言しているのが分かるでしょう。すなわち、今まで行われてきたように、手にあるひと組の全体を別の官僚制的軍事機構に移行させるのではなく、粉砕(smash)すること。」(98)
 マルクスが革命の戦略や戦術について書いたことのうちこれ以上に、レーニンの心に深く刻み込まれたものはなかった。
 レーニンはしばしば、この文章部分を引用した。彼の、権力奪取後の行動指針だった。
 彼がロシアの国家と社会およびこれらの全装置に向けた破壊的な怒りは、このマルクスの言明によって理論的に正当化された。
 マルクスはレーニンに、現在の革命家たちが直面している最も困難な問題の解決策を与えた。成功している革命を、いかにして、反革命の反動が生じないようにして守るか。
 解決策は、旧体制の「官僚制的軍事機構」を廃絶させることだった。反革命からそれを育んだ土壌を剥奪するために。//
 何が、古い秩序に置き代わるのか?
 パリ・コミューンに関してマルクスが書いたことを再び参照して、レーニンは、反動的な公務員や将校の安息所にならないコミューンや人民軍のような大衆参加組織を指し示した。
 これとの関係で、彼は職業的官僚機構が最終的には消滅することを予言した。
 「社会主義のもとでは、我々の<全て>が順番に統治して、すぐに誰も統治していない状態に慣れるだろう。」(99)
 のちに共産党の官僚機構が前例のない割合で大きくまっていたとき、この文章部分は レーニンの顔に投げ込まれることになるだろう。
 彼は、ソヴィエト・ロシアに巨大な官僚機構が出現したことに驚いて不愉快になり、かつ大いに困惑することになる。おそらくは彼の主要な関心は、人生の最終の日々にあった。
 しかし彼は、官僚機構は「資本主義」の崩壊とともに消失するだろうとの幻想は決して抱かなかった。
 レーニンは、革命の後の長期間にわたって、「プロレタリア独裁」が国家の形をとる必要がある、と認識していた。しかも、このように示唆した。
 「資本主義から共産主義への移行に際して、抑圧は<まだ>必要だ。
 しかし、その抑圧はすでに、多数者たる被搾取者による少数者たる搾取者に対するものだ。
 特別の装置、特別の抑圧機構、「国家」は<まだ>必要だ。」(100)
(8)レーニンは<国家と革命>を執筆している間に、将来の共産主義体制の経済政策にも取り組んだ。
 コルニロフ事件のあとの9月に、これを二つの論考でまとめた。そのときは、ボルシェヴィキの見通しは予期しなかったほどに良くなっていた。(101)
これらの論考のテーゼは、レーニンの政治的著述物とは大きく異なっていた。
 古い国家とその軍隊を「粉砕」すると決意する一方で、「資本主義」経済を維持し、革命国家に奉仕するように利用することに賛同した。
 この主題は、「戦時共産主義」の章で扱われるはずだ。
 ここではこう叙述しておくので十分だ。すなわち、レーニンの経済に関する考え方は、当時の一定のドイツの著作を読んだことから来ている。ドイツの著作者とはとくにルドルフ・ヒルファーディング(Rudolf Hilferding)で、この学者は、先進的または「金融」資本主義は、銀行や企業連合の国有化という単純な方法で相対的には社会主義へと続きやすい集中のレベルを達成している、と考えていた。
 (9)かくして、古い「資本主義」体制の政治的および軍事的装置を根絶することを意図する一方で、レーニンはその経済的装置を維持すねることを望んだ。
 最終的には、彼は三つの全てを破壊することになるだろう。
 (10)しかし、これは先のことだ。
 直近の問題は革命の戦術で、この点でレーニンは彼の仲間たちと一致していなかった。
 (11)ソヴェトの社会主義派は七月蜂起を許しかつ忘れようとしていたにもかかわらず、また政府による嫌がらせからボルシェヴィキを防衛しようと彼らはしていたにもかかわらず、レーニンは、ソヴェトのもとでの権力追求という仮面を剥ぎ取るときがやって来ている、と決意した。
 すなわち、ボルシェヴィキはこれからは、武装暴動という手段によって、権力を直接にかつ公然と獲得すべく奮闘しなければならない。
7月10日、田舎へと隠れるようになった一日後に書いた<政治情勢>で、レーニンはこう論じた。
 「ロシア革命の平和的な進展への望みは全て、跡形もなく消え失せた。
 客観的な状況は、軍事独裁の究極的な勝利か、それとも<労働者の決定的な闘争><中略>のいずれかだ。
 全ての権力のソヴェトへの移行というスローガンは、ロシア革命の平和的進展のスローガンだった。それは、4月、5月、6月、そして7月5-9日まではあり得た。-すなわち、現実の権力が軍事独裁制の手へと渡るまでは。
 このスローガンは今では、正しくない。(権力の)完全な移行を考慮に入れておらず、じつにエスエルとメンシェヴィキによる革命に対する完全な裏切りを考慮していないからだ。」(102)
 レーニンは原稿の最初の版では「武装蜂起」という語を使って書いていたが、のちに「労働者の決定的な闘い」に変更した。(103)
 こうした論述の新しさは、権力は実力でもって奪取されなければならない、ということにあるのではない。-ボルシェヴィキ化していた労働者、兵士および海兵たちは4月や7月に街頭でほとんど歌や踊りの祭り騒ぎをしなかった。そうではなく、ボルシェヴィキは今や、ソヴェトのために行動するふりをしないで、自分たちのために闘わなければならない、ということにある。
 (12)7月末に開催されたボルシェヴィキ第6回党大会は、この基本方針を承認した。
 その決議はこう述べた。ロシアは今や「反革命帝国主義ブルジョアジー」によって支配されている。そこでは「全ての権力をソヴェトへ」というスローガンは有効性を失ってしまった。
 新しいスローガンは、ケレンスキーの「独裁制」の「廃絶」を呼びかけた。これはボルシェヴィキの任務であって、その背後には、プロレタリアートに率いられ、貧しい農民たちに支持された全ての反革命グループが集結している。(104)
 冷静に分析すると、この決議の前提は馬鹿げており、その結論は欺瞞的だ。しかし、実際上の意味は、間違えようがない。すなわち、ボルシェヴィキはこれから、臨時政府とはもちろん、ソヴェトとも闘うだろう、ということだ。//
 --------
 (97) <PR>No.8-9/67-68(1927), p.67-p.72.
 (98) レーニン,<PSS>XXXIII, P.37. から引用。
 (99) 同上, p.116
 (100) 同上, p.90.
 (101) レーニン「迫る危機。それといかに闘うか」同上, XXXIV, p.151-p.199, 「ボルシェヴィキは国家権力を掴みつづけるか?」同上, p.287-p.339.
 (102) 同上、p.2-p.5. 強調を施した。
 (103) レーニン,<Sochineniia>XXI, p.512, n18.
 (104) <Revoliutsiia>Ⅲ, p.383-4.
----
 ②へとつづく。

1941/R・パイプス著・ロシア革命第11章第4節。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。
 ----   
 第4節・ボルシェヴィキの好運(運命の上昇)(rise in Bolshevik fortunes)。
 (1)ケレンスキーが挑発してコルニロフと決裂し、自分の権威を高めようとした、というのがかりに正しいとすると、彼はこれに失敗したのみならず、全く反対のことを成し遂げてしまった。
 コルニロフとの衝突によって、保守派およびリベラル派世界との関係は、彼の社会主義派の基盤が強固になることなく、致命的に危うくなった。
 コルニロフ事件の第一の受益者は、ボルシェヴィキだった。
 8月27日の後、それらの支持にケレンスキーが依拠していたエスエルとメンシェヴィキは、徐々に消失していった。
 臨時政府は今や、そのときまでは有していたとされたかもしれない限定的な意味ですら、その機能を失った。
 9月と10月、ロシアは操縦者がいないままに漂流した。
 舞台は、左翼からの反革命のために用意された。
 かくして、ケレンスキーはのちにこう書いた。「(ボルシェヴィキのクーの)10月27日を可能にしたのは、8月27日だけだった」。
 こう書いたのは正しかったが、しかし、彼が言おうとした意味でではなかった。(84)
 (2)叙述したように、ケレンスキーは、ボルシェヴィキに対して七月蜂起についての厳しい制裁措置を何ら執らなかった。
 ケレンスキーの対抗諜報機関の主任であるニキーチン大佐によれば、ケレンスキーは、7月10-11日に、軍事スタッフからボルシェヴィキを逮捕する権限を剥奪し、ボルシェヴィキの所有物のうちから見つかった武器を没収することを禁じた。(85)
 7月末にはケレンスキーは、ボルシェヴィキがペトログラードで第6回党大会を開いたとき、見て見ぬふりをしていた。
 (3)この消極性は、ボルシェヴィキも参加しているイスパルコムと宥和しておきたいとのケレンスキーの願望に多くは由来していた。
 すでに述べたように、イスパルコムは8月4日、ツェレテリ(Tsereteli)の動議によって、微妙にも「7月3-5日の事件」と呼ばれたものに参加した者のさらなる迫害を止めるよう要求する決議を採択した。
 ソヴェトは8月18日の会合で、「社会主義諸党派の中での極端な潮流」の代表者たちに対してなされた「不法な逮捕と濫用に断固として抗議する」と票決した。(86)
 政府はこれに反応して、次々と著名なボルシェヴィキを釈放し始めた。ときには保釈金を課して、ときには友人の保証にもとづいて。
 最初に自由にになった(そして全ての責任追及を免れた)のは、カーメネフだった。彼は、8月4日に釈放された。
 ルナチャルスキー(Lunacharskii)、アントニオ-オフセーンコ(Antonio-Ovseenko)およびA・コロンタイ(Alexandra Kollontai)はすぐあとで、自由になった。そして、その他の者が続いた。
 (4)その間に、ボルシェヴィキは、政治的勢力として再登場していた。
 ボルシェヴィキは、政治的両極化によって利益をうけた。この政治的両極化は、リベラル派と保守派がコルニロフへと引かれ、急進派は極左へと振れた夏の間に生じていた。
 労働者、兵士、海兵たちは、メンシェヴィキとエスエルの優柔不断さを嫌悪し、これらを諦めて、大挙して唯一の選択肢もボルシェヴィキを支持するに至った。
 しかし、政治的な疲れもあった。
 春には揃って投票所へと行っていたロシア人は、彼らの状態の改善に何らつながらない選挙に徐々に飽きてきた。
 このことはとくに、過激派に対抗する機会がないと感じた保守的な人々について本当のことだった。しかし、リベラル派や穏健な社会主義立憲派についても当てはまった。
 この趨勢は、ペトログラードとモスクワの市議会選挙の結果でもって例証され得る。
 コルニロフ事件の一週間前、8月20日のペトログラード市会(Municipal Council)の投票で、ボルシェヴィキは得票率を1917年5月の20.4パーセントから33.3パーセントへと、さらには過半数へと伸ばした。
 しかしながら、絶対得票数では、投票数の低下によって17パーセントしか伸ばさなかった。 
 春の選挙では有権者の70パーセントが投票所へ行ったのだったが、8月にはそれは50パーセントに落ちた。首都のいくつかの地区では、前には投票した者の半分が棄権していた。(*)(87)
 --------
 (*) Crane Brinton はその<革命の解剖学>(New York, 1938, p.185-6)で、革命的状況下では庶民的市民は政治参加するのに退屈し、極端主義者に広場を譲る、というのはふつうだと観察する。
 後者の影響力は、民衆の幻滅と政治に対する利害の喪失に比例して増大する。
 --------
 モスクワでは、9月の市会選挙での投票参加者の減少は、さらに劇的だった。
 こちらでは、以前の6月の64万票に対して、38万票しか投じられなかった。
 投票票の半分以上はボルシェヴィキで、12万票を掘り起こしていた。一方、社会主義派(エスエル、メンシェヴィキおよびこれらの友好派)は37万5000票を失った。後者のほとんどはおそらくは、自宅にいるのを選んだ。
 ********
 モスクワ市会選挙(議席数の割合)(88)
 党       1917年3月 1917年9月 変化
 エスエル    58.9     14.7    -44.2
 メンシェヴィキ 12.2      4.2    - 8.0
 ボルシェヴィキ 11.7     49.5    +37.8
 カデット    17.2     31.5    +14.3   
 ********
両極化の一つの効果は、ケレンスキーが変わらない権力を求めて計算していた政治基盤の風化だった。
 8月半ばのペトログラードの市会選挙で社会主義諸党が示した貧弱さは、同じその月の遅くでのケレンスキーの行動の、重要な要因だったかもしれない。
 というのは、彼の政治基盤が消失していたとき、「反革命」の勝利者としてよりも左翼の側への自分の人気と影響力を高めるよい方法は、何だったたのか? かりに想像上のものだったとしても。
 (5)コルニロフ事件は、ボルシェヴィキの運命を、予期されなかった高さにまで押し上げた。
 コルニロフの幻想上の蜂起を抑止し、クリモフの兵団がペトログラードを占拠するのを阻止するために、ケレンスキーはイスパルコムの助けを求めた。
 8月27-28日の深夜会議で、あるメンシェヴィキの動議にもとづき、イスパルコムは、「反革命と闘う委員会」の設立を承認した。
 しかし、ボルシェヴィキの軍事組織だけがイスパルコムが用いることのできる実力部隊だったので、この行動は、ボルシェヴィキにソヴェトの部隊という責任を負わせるという効果をもった。(89) こうして、昨日の犯罪者は、今日は戦闘員になった。
 ケレンスキーはまた、ボルシェヴィキに対して直接に、コルニロフに対抗する自分を、その当時に明らかに大きくなっていたボルシェヴィキの兵士たちに対する影響力を使って助けるよう訴えた。(90)
 ケレンスキーの代理人は、アナキストとボルシェヴィキ共感者としてよく知られた巡洋艦<オーロラ>の海兵たちに、ケレンスキーの住居であり臨時政府の所在地である冬宮の防衛の責任を引き受けるように要請した。(91)
 M・S・ウリツキ(Ulitskii)はのちに、ケレンスキーのこの行動がボルシェヴィキを「名誉回復させた」と述べることになる。
 ケレンスキーはまた、ボルシェヴィキが労働者たちに4000丁の鉄砲を配って武装することを可能にした。相当の数の武器がボルシェヴィキの手に入ることになつた。
 ボルシェヴィキはこれらの武器を、危機が過ぎ去ったあとも保持し続けた。(92)
 ボルシェヴィキの再生とともにどの程度に事態が進行していたかは、8月30日の政府の決定、すなわち訴訟手続が始まっているごく数名を除いて拘禁されているボルシェヴィキ全員を釈放するとの決定、でもって判断できるかもしれない。(93)
 トロツキーは、この恩赦の受益者の一人だった。トロツキーは3000ルーブルの保釈金でKresty 監獄から9月3日に釈放され、ソヴェト内のボルシェヴィキ党派の責任者となった。
 10月10日までに、27人のボルシェヴィキ以外は全員が釈放され(94)、つぎのクーを準備した。一方で、コルニロフと他の将軍たちは、Bykhov 要塞に惨めに捨てられていた。
 9月12日、イスパルコムは政府に対して、レーニンとジノヴィエフについて、身体の安全の保証と公正な裁判を要請した。(95)
 (6)コルニロフ事件の劣らず重要な帰結は、ケレンスキーと軍部の間の分断だった。
 というのは、将校団は事件に混乱して政府を公然とは拒否するつもりはなく、コルニロフの反乱に参加するのを拒絶したけれども、彼らの司令官に対する措置や多数の優れた将軍たちの逮捕、そして左翼への追従についてケレンスキーを軽蔑したからだ。
 のちの10月遅くにケレンスキーがボルシェヴィキから自分の政府を救うのを助けるよう軍部に呼びかけたとき、ケレンスキーの嘆願は全く聞き入れられないことになる。
 (7)9月1日、ケレンスキーは、ロシアは「共和国」だと宣言した。
 一週間後(9月8日)、彼は政治的対抗諜報機関を廃止した。これは、彼自身からボルシェヴィキの企図に関する主要な情報源を奪うことを意味した。(96)
 (8)堅固な指導力をもつことができる誰かによってケレンスキーが打倒されることになるのは、ただ時間の問題だった。
 そのような人物は、左翼から出現するに違いなかった。
 種々の違いが彼らを分けていたとはいえ、左翼の諸政党は、「反革命」という妖怪と闘うときには隊列を固めた。「反革命」とはその定義上、ロシアに実効的な政府としっかりした軍隊を回復しようとする全ての先導的行為を含む用語だった。
 しかし、国家は〔政府と軍隊の〕いずれをも有しなければならないので、秩序を回復しようとする先導力は、彼らの内部から出現しなければならなかった。
  「反革命」は、「真の」革命を偽装して、やって来ることになる。//
 --------
 (84) ケレンスキー,<Delo>, p.65.
 (85) ミリュコフ,<Istoriia>Ⅰ, Pt. 2, p.15n. <Echo de Paris>, 1920, <Oiechestvo>No.1, と<Poslednie Izvestiia>(Ravel), 1921年4月、を引用している。
 (86) <Revoliutsiia>Ⅳ, p.299-p.300, p.70.
 (87) <NZh>No.108(1917年8月23日), p.1-2とNo.109(1917年8月24日), p.4.; W. G. Rosenberg, <SS>No.2(1969年)所収, p.160-1.
 (88) <Revoliutsiia>Ⅲ, p.122.; Rosenberg, 同上.
 (89) Golvin,<反革命>Ⅰ, Pt. 2, p.53-p.54.
 (90) Sokolnikov,<Revoliutsiia>Ⅳ所収, p.104.
 (91) 同上Ⅴ, p.269.
 (92) S. P. Melgunov,<<略>>(Paris, 1953), p.13.
 (93) <NZh>No.116(1917年8月31日), p.2.
 (94) <NZh>No.149/143(1917年10月10日), p.3.
 (95) <NZh>No.125/119(1917年9月12日), p.3.
 (96) <NZh>No.123/117(1917年9月9日), p.4.
 ----
次節の目次上の表題は、「隠れている間のレーニン」。

1937/R・パイプス著・ロシア革命第11章第3節③。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー/第3節。試訳のつづき。 
 ----
 第3節・ケレンスキーとコルニロフの決裂③。
 (25)ケレンスキーがコルニロフを訴追したことは、彼に制御できない激しい怒りをもたらした。彼の最も敏感な神経、つまり彼の愛国心に直接に触るものだったからだ。
 声明文を読んで、彼はもはやケレンスキーをたんなるボルシェヴィキの捕囚だとは考えず、自分とその軍隊を陥れるために仕組んだ、卑しむべき挑発の原作者だと見なした。
 コルニロフの反応は、Zavoiko が起草した抗議声明を全ての前線司令官に送ることだった。(+)//
 --------
 (+) 政治的野心をもつ事業家だったZavoiko はネクラソフの対応相手者で、コルニロフを右翼側へと押した。彼について、Martynov,<コルニロフ>, p.20-p.22.
 --------
 「首相による声明は、<中略>その最初の部分で、完璧なウソだ。
 私は、ドゥーマ代議員Vladimir・ルヴォフを臨時政府へと遣わさなかった。
 -彼は、首相からのメッセージの伝達者としてやって来た。<中略>
 かくして、この祖国の運命を賭けるごとき大きな挑発行為が行われた。
 ロシア人民よ。我々の偉大な母国が死にそうだ。
 死の瞬間は、もうすぐだ。
 公然と明確に語らざるを得ない。私、将軍コルニロフは、ソヴェト多数派ボルシェヴィキの圧力によって、臨時政府は、ドイツの将軍幕僚たちの企図と完全に一致して行動し、切迫しているリガの海岸への敵軍の上陸と同時に軍隊を破壊して、この国を内部から震撼させる<中略>、と宣告する。
 私、将軍コルニロフは、コサック農民の息子は、全ての者に対して、私は偉大なロシアを救うこと以外の何ものをも個人的に望んでいない、と宣告する。
 私は誓う、敵国に対する勝利によって人民を立憲会議(憲法制定会議)まで導く、と。その会議は、我々の運命を決定し、我々の新しい政治体制を選択するだろう。」(70)//
 (26)これは、結局は、反逆だった。コルニロフはのちに、公然たる反乱-すなわち大逆罪-だとして訴追されたがゆえに政府と明確に決裂することに決した、ということを認めた。
 Golvin は、ケレンスキーはその行為によってコルニロフを挑発して反乱を起こさせた、と考える。(71)
 この評価は、コルニロフは反乱したとして訴追されたあとで初めて反乱し始めたという意味で、正しい。//
 (27)ケレンスキーが亀裂を修復するのではなくて傷口を広げることを欲していることは、彼が8月28日に行ったいくつかの記者発表から明瞭になった。
 その一つで彼は、「祖国を裏切った」として訴追したコルニロフによる指令を無視するよう、全軍の司令官に命令した。(72)
 もう一つの中で彼は、コルニロフの軍団がペトログラードへと進んでいる理由に関して、公衆にウソをついた。以下のとおり。//
 「前最高司令官、将軍コルニロフは、臨時政府の権威に反抗して反乱を起こした。その電信通話では愛国心と人民への忠誠を表明しているものの、その行為はその欺瞞性(treachery)を明確に例証した。
 彼は前線から連隊を撤退させ、容赦なき敵であるドイツ軍に対する抵抗を弱め、それら全ての連隊をペトログラードに対して向けさせた。
 彼は祖国を救うと語り、意識的に兄弟殺しの(fratricidal)戦争を煽動した。
 彼は、自由の側に立つと言い、ペトログラード出身分団に対抗して軍団を送った。」(73)//
 ケレンスキーがのちに主張したのだが、彼は、ほんの一週間前には彼自身が第三騎兵軍団が自分の指揮下にあるペトログラードに来るように命令したことを、忘れていたのか?
 このような説明を説得力があると考えるのは、極度にひどい強引な軽はずみの信じ込み(credulity)だろう。//
 (28)その後三日間、コルニロフは、「ペトログラードを支配している欲得ずくのボルシェヴィキの手から祖国を救い出す」ために国民を結集させようとしたが、成功しなかった。(75)
 彼はコサックにとともに常備軍に訴えかけ、クリムロフに対してペトログラードを占拠するよう命じた。
 多数の将軍たちがコルニロフに精神的な支持を与え、最高司令官に対する措置に抗議する電信をケレンスキーに送った。(76)
 しかし、彼らも保守派政治家たちも、コルニロフに加わらなかった。ケレンスキーが広めた虚偽情報で混乱していたのだ。ケレンスキーによって、臆面もなく事態の背景を歪曲し、コルニロフは反逆者で反革命者とする情報が流れていた。
 高位の将軍たちの全員がコルニロフに従うことを拒否したことはむしろ、彼らがコルニロフとの陰謀に加わっていなかったことを示す証拠を追加する。
 (29)8月29日、ケレンスキーはクリモフに対して、つぎのように電信で伝えた。//
 「ペトログラードは完全に平穏だ。
 騒乱(vystupleniia)はありそうにない。
 貴下の軍は必要がない。
 臨時政府は貴下に対して、貴下自身の責任でもって、解任された最高司令官が命じた、ペトログラードへの進軍を停止し、軍をペトログラードではなくNarva の作戦目標値へと向かわせるよう、命令する。」(77)//
 このメッセージは、ケレンスキーはクリモフがボルシェヴィキの騒乱を鎮静化すべくペトログラードに進んでいると考えていたとしてのみ、意味をもつことになる。
 混乱していたけれども、クリモフは従った。
 Ussuri コサック分団は、ペトログラードに近いKrasnoe Selo で止まった。そして、8月30日に、臨時政府に対する忠誠を誓約した。
 明らかにクリモフの命令により、ペトログラード出身分団もまた、前進を停止した。
 ドン・コサック分団の行動は決まっていなかった。
 いずれにせよ、ペトログラードへと進軍しないように説得する、通常はソヴェトにより派遣された活動家が行う役割が格段に誇張された、ということを、利用可能な歴史資料は示している。
 クリモフの軍団がペトログラードを占拠しなかった主要な理由は、言われていたようにはペトログラードはボルシェヴィキの手に落ちておらず、自分たちの仕事は不必要だという、司令将校たちの認識だった。(*)//
 --------
 (*) Zinaida Gippius は、かくして、コルニロフの騎兵軍団とそれを遮断するべくペトログラードから派遣された軍団の遭遇について、こう叙述する。
 「『流血』は、なかった。
 Lugaや別の場所で、コルニロフが派遣した分団と『ペトログラード人』はお互いに偶然にぶつかった。
 彼らは、理解できないままに、互いに向かい合った。
 『コルニロフ者たち』はとくに驚いた。
 彼らは、『臨時政府を守る』ために進み、やはり『臨時政府を守る』ために進んだ『敵』と遭遇した。<中略>
 彼らは立ったままで、思案した。
 事態を理解することができなかった。
 しかし、『敵と親しくすべきだ』との前線の煽動活動家の教示を思い出して、彼らは、熱烈に仲良くなった。」
 <Siniaia kniga>(Belgrade, 1929), p.181.; 1917年8月31日の日記への書き込み。
 --------
 (30)クリモフはケレンスキーに招かれて、かつ身の安全を約束されて、8月31日にペトログラードに着いた。
 彼はその日の遅く、首相と会った。
クリモフは、ケレンスキーとその政府を助けるために軍団をペトログラードへと動かした、と説明した。
 政府と軍司令部との間にあった誤解について知るとすぐに、彼は、部下たちに停止を命じていた。
 クリモフには、反乱の意図はなかった。
 説明の詳細に進む前に、ケレンスキーは握手することすら拒んで、クリモフを解任し、軍事裁判所本部に報告するよう彼に指示した。
 クリモフはそうしないで友人のアパートへ行き、自分の心臓を銃弾で打ち抜いた。(**)
 --------
 (**) ケレンスキー,<Delo Kornilova>, p.75-p.76.; <Revoliutsiia>Ⅳ, p.143.; Martynov,<コルニロフ>, p.149-p.151.
 クリモフは、コルニロフに遺書を残した。それはコルニロフに衝撃と苦しみを与えた。
 Martynov,<コルニロフ>, p.151.
 クリモフは反動的君主制論者ではなく、1916年の反ニコライ二世陰謀に関与していた。
 --------
 (31)コルニロフの職責を引き受けるよう頼んだ二人の将軍-ルコムスキーのあとはV. N. Klembovskii-が拒んだために、ケレンスキーは、公然と大逆罪で訴追した人物の手にあった軍事司令権限を自分に残さなければならないという厄介な状態にあるのに気づいた。
 コルニロフの命令を無視せよと軍司令部に従前に指示していたのだったが、今では逆に、当分の間はコルニロフの命令に従うことを許容した。
 コルニロフは、状況きわめて異常だと考えた。彼はこう書いた-「世界の歴史上に珍しい事件が起きた。大逆罪で訴追された最高司令官が、…他に誰も任命される者がいないために、司令し続けるように命じられている」。(78)//
 (32)ケレンスキーとの亀裂のあと、コルニロフは落胆し切っていた。首相とサヴィンコフが意識的に自分を罠に嵌めた、と確信していた。
 自殺するのを怖れて、彼の妻は、夫に回転式拳銃を引き渡すよう求めた。(79)
 アレクセイエフ(Alekseev)が司令権を引き継ぐため、9月1日にモギレフに到着した。ケレンスキーが彼をこの任務に就かせるまで、3日を要した。
 コルニロフは、この決定に抵抗することなく従った。ただ、政府は堅固な権威を確立し、彼を悪用しないようにだけ求めた。(80)
 コルニロフは、最初はモギレフのホテルに軟禁され、のちにBykhov 大要塞へと移された。そこには、「共謀」に関与したと疑われた30人の将校たちが、ケレンスキーによって幽閉されていた。
 どちらの場所でもコルニロフは、忠実なTekke Turkomans に護衛された。
 彼はBykhov から、ボルシェヴィキ・クーの直後に脱出し、ドンへと向かった。そこで彼は、アレクセイエフとともに、自主〔義勇〕軍を設立することになる。//
 (33)「コルニロフの陰謀」はあったのか?
 ほとんど確実に、なかった。
 利用可能な証拠資料はむしろ、「ケレンスキーの陰謀」を指し示している。それは、空想上のだが広く予期されていた反革命の首謀者だとしてコルニロフを貶めるために仕組まれたものだった。反革命を抑止することは首相を対抗者のいない人気と権力がある地位へと引き上げ、彼が増大しているボルシェヴィキの脅威に対処することを可能にするだろう、として。
 本当のクー・デタの要素は何も露見しなかった、というのは偶然ではあり得ない。共謀者の名簿、組織上の図表、暗号信号、計画といった要素だ。
 ペトログラードの将校たちとの通信や軍事単位への命令のような疑わしい事実は、予期されるボルシェヴィキ蜂起との関係では、全ての場合について完全に解明することができる。
 将校の陰謀が企てられていれば、確実に何人かの将軍は、その反乱に加われとのコルニロフの訴えに従っただろう。
 誰も、そうしなかった。
 ケレンスキーとボルシェヴィキのいずれも、コルニロフと結託していたことを認める、またはそれについて例証することのできる一人の人間も、特定することができなかった。一人による陰謀というのは、明らかに馬鹿げているのだ。
 1917年10月に指名された委員会は、1918年6月に(すなわち、すでにボルシェヴィキによる支配にあったときに)コルニロフ事件に関する調査を完了した。
 それは、コルニロフに向けられた訴追は根拠がない、と結論づけた。すなわち、コルニロフの軍事的動きは臨時政府を打倒するためではなくて、ボルシェヴィキから臨時政府を防衛することを意図していた、と。
 その委員会は、コルニロフの嫌疑を完全に晴らした。そして、「コルニロフ問題にかかる真実を意識的に歪曲したとして、また自分が冒した壮大な誤りについて罪があることを認める勇気が欠如しているとして」、ケレンスキーの責任を追及した。(***)(81)//
 --------
 (***) コルニロフ事件の全体が挑発だったのではないかとの疑念が、ネクラソフが不用意にプレスに対して行った言明で強くなった。
 ネクラソフは、事件後2週間のときに新聞に答えて、ルヴォフをコルニロフの陰謀を暴露したとして褒め讃えた。
 ルヴォフによる通告書をまるで確認したかのごとく感じさせるようにケレンスキーに対するコルニロフの回答を歪曲して、彼はこう付け加えた。
 「V. N. ルヴォフは革命を助けた。彼は二日前に用意された爆発するはずの地雷を破裂させた。
 疑いなく、陰謀はあった。ルヴォフは、ただ早めに発見しただけだ。」<NZh>No.55(1917
年9月13日), p.3.
 このような言葉は、あり得ることとしてはケレンスキーの黙認のもとで、ネクラソフがコルニロフを破滅させるためにルヴォフを利用した、ということを示唆する。
 --------
 (34)コルニロフは特別に複雑な人間ではなく、1917年7月-8月の彼の行動は、陰謀理論に頼ることなくして説明することができる。
 彼の第一で最大の関心は、ロシアと戦争にあった。
 彼は、臨時政府の優柔不断な政策とそのソヴェトへの依存に、警戒心を抱いた。ソヴェトは軍事問題に干渉して、軍事作戦を展開することがほとんど不可能になっていたのだ。
 臨時政府には敵国の工作員が浸透している、と彼が考えた理由はあった。
 しかし、ケレンスキーはその職にふさわしくないと感じていてもなお、コルニロフには彼に対する個人的な敵意はなく、政府にとって不可欠の人物だと彼を見なしていた。
 8月のケレンスキーの行動によってコルニロフは、首相は自分の側の人間なのかという疑問をもつに至った。
 ケレンスキーが望んでいたはずだとコルニロフは知っている軍隊改革を実現することができなかったことは、コルニロフに、ケレンスキーはソヴェトの捕囚であり、ソヴェトの中にいるドイツ工作員の捕囚だという確信を抱かせた。
 サヴィンコフがボルシェヴィキの蜂起が切迫していると彼に伝え、それを鎮圧するための軍事的助力を求めたとき、コルニロフは、政府をソヴェト自体から解放するのを助ける機会がやって来たと考えた。
 ボルシェヴィキ蜂起を鎮静化しあとで「二重権力」状態は解消されるだろう、そして、ロシアは新しくて効率的な体制をもつだろう、と期待するあらゆる理由が、彼にはあった。
 その過程で、彼は役割を果たす一部になりたかった。
 こうした危機的な日々を通してずっと傍らにいた将軍ルコムスキーは、サヴィンコフのモギレフ訪問とケレンスキーとの決裂の間の短い期間の間のコルニロフの思考について、合理的な説明だと思えるものを提示している。つぎのとおりだ。//
 「私は、ペトログラードでボルシェヴィキの行動があり、それを最も仮借なく鎮圧する必要があると確信した将軍コルニロフは、このことが当然に政府の危機、新しい政府、新しい権威の設立へと導くだろうと考えた、と思う。
 彼は、現在の臨時政府の若干の構成員や全面的な支持を信頼できると考える理由のある公的に知られた政治家たちと一緒に、その権威を形成することに関与しようと決意した。
 彼の言葉から私が知るのは、将軍コルニロフは新しい政府の形成に関して議論したが、、A. F. ケレンスキー、サヴィンコフおよびフィロネンコとともに、最高司令官の資格でそれに加わろうとしていた、ということだ。」(82)
 (35)最高司令官が軍隊を再活性化して有効な政府を再興するのを助けようと努力したことを「反逆」だ理解するのは、ほとんど正当化できるものではない。
 述べてきたように、コルニロフは正当な根拠なく裏切り者として訴追された後で初めて反乱を起こした。
 彼はケレンスキーの際限のない野望の犠牲者であり、首相が行った政治的基盤が侵食されていくのを阻止しようとする虚しい追求のために、生け贄として供された。
 事態をすぐそばで観察していた、あるイギリスのジャーナリストは、コルニロフが欲し、そして達成できなかったことを、つぎのように公正に要約している。//
 「彼は、政府を弱めるのではなくて強化したかった。
 彼は、その権威を侵犯したかったのではなく、他者がそうするのを阻止したかった。
 彼は、つねに表明されるが決して現実にならなかったものを実現させたかった-統治権力の唯一で不可変の受託者(depository)。
 彼は、ソヴェトの不当で停滞させる影響からそれを解放したかった。
 結局のところ、その影響がロシアを破壊した。そして、コルニロフの政府に対する果敢な抵抗は、その破壊過程を押し止めようとする最後の絶望的な努力だった。」(83)
 --------
 (70) Chugaev,<<略>>, p.445-6.
 (71) Golovin,<反革命>Ⅰ, Pt. 2, p.37.
 (72) <Revoliutsiia>Ⅳ, p.109.
 (73) 同上、p.115.
 (74) Miliukov,<Istoriia>Ⅰ, Pt. 2, p.162n; ケレンスキー,<Delo>, p.80.
 (75) <Revoliutsiia>Ⅳ, p.109.
 (76) ルコムスキー,<Vospominaniia>Ⅰ, p.245.
 (77) <Revoliutsiia>Ⅳ, p.125.
 (78) Golovin,<反革命>Ⅰ, Pt. 2, p.71, p.101.
 (79) Khan Khadzhiev,<Velikii boiar>(Belgrade, 1929), p.123-p.130.
 (80) Golovin,<反革命>Ⅰ, Pt. 2, p.71. 1917年8月30日-9月1日のアレクセイエフ、コルニロフ、ケレンスキーの間の会話のテープは、Denikin Archive, Box24, Bakhmeteff Archive(コロンビア大学)所収。
 (81) <NZh>No.107/322(1918年6月4日), p.3.; <NV>No.96/120(1918年6月19日), p.3.
 (82) Chugaev,<<略>>, p.431.
 (83) E. H. Wilcox,<ロシアの破滅(Ruin)>(New York, 1919), p.276.
 ----
 第3節、終わり。次節は《ボルシェヴィキの好運》。

1936/R・パイプス著・ロシア革命第11章第3節②。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946。
 第11章・十月のクー/第3節。試訳のつづき。 
 ----
 第3節・ケレンスキーとコルニロフの決裂②。
 (15)この簡単な対話は、勘違いのゆえの喜劇だった。しかし、最も悲劇的な結末をもたらした。
 ケレンスキーは、のちにこう主張した-そして人生の最後までこの見方に固執した-。すなわち、コルニロフは、コルニロフの名前で語るルヴォフの権限を肯定したのみならず、ルヴォフが彼の言ったとして伝えた言葉の正確さをも確認した。つまりは、コルニロフは独裁的権力を要求した、というのだ。(52)
 しかし、我々は、ヒューズ(Hughs)装置の一方の端での目撃証人から、コルニロフは会話が終わったときに、安堵のため息をついたことを知る。すなわち、彼にとっては、モギレフに来るというケレンスキーの同意は、首相は新しくて「強い」政府を形成するための作業に一緒に加わる気持ちがある、ということを意味した。
 その夜の遅く、コルニロフはルコムスキー(Lukomskii)と、そのような内閣の構成について議論した。その内閣では、ケレンスキーとサヴィンコフの両人は大臣の職を保持することになるだろう。
 コルニロフはまた、モギレフにいる自分と首相に加わるように指導的政治家たちを招く電報も発した。(53)
 (16)テープの有用性のおかげで、二人の人物は食い違って(cross-purposes)会話していたことを、確定することができる。
 コルニロフについては、彼がルヴォフのふりをしたケレンスキーに確認したことの全ては、実際のところ、ケレンスキーとサヴィンコフをモギレフに招いた、ということだけだ。
 ケレンスキーは、コルニロフが確認したことをもって、-熱にうかされた自分の妄想で生じたということ以外には何の根拠もなく-コルニロフは自分を捕囚にし、彼が独裁者だと宣言する意図をもつ、ということを意味するものと解釈した。
 ケレンスキーの側には、直接にまたは間接的にですら、コルニロフが実際にルヴォフに三点の通告を自分に伝達するように言ったのかに関して調査しなかったという、途方もなく大きい手抜かりがあった。
 コルニロフは、ケレンスキーとの会話で、内閣が職権を放棄し、軍事と民政の全権力がコルニロフの手へと置き換わることに関して、いっさい何も言わなかった。
 コルニロフの言葉-「そのとおり。私は、私が貴方(ここではルヴォフ)にAleksandr Fedorovich が<モギレフに来る>ことを求める私の切迫した要請を伝えることを頼んだ、ということを確認する」-から、ケレンスキーは、ルヴォフにより彼に提示された三項の政治的条件は真正なものだ、と推論する方を選択した。
 フィロネンコ(Filonenko)がテープからの文章を見たとき、ケレンスキーは尋ねていることを述べておらず、コルニロフは何に対して回答しているかを分かっていない、と彼は気づいた。(*)
 --------
 (*) Miliukov, <Istoriia>Ⅰ, Pt. 2, p.213.
 ケレンスキーとは違ってコルニロフはのちに、自分は無分別にも、ルヴォフが自分に代わってケレンスキーにルヴォフが伝えた内容をケレンスキーに質問したなかったことを、認めた。A. S. ルコムスキー, <Vospominaniia>Ⅰ(Berlin, 1922), p.240.
 --------
 ケレンスキーはルヴォフに成りすますことによって、理解可能な暗号でもってコルニロフと意思疎通していると考えたのだったが、じつは謎々話を語っていたのだ。
 首相の行動を弁護するために言うことができる最良のことは、彼は過度に緊張していた、ということだ。
 しかし、ケレンスキーは聞きたいと思っていたことをそのままに聞いたつもりだったのではないか、という疑念はくすぶり続ける。
 (17)かかる薄弱な根拠にもとづいて、ケレンスキーは、コルニロフと公然と決裂することに決意した。
 ルヴォフが遅まきに姿を現したとき、ケレンスキーは彼を拘束した。(+)
 --------
 (+) 彼〔ルヴォフ〕はその夜を、首相が使っていたアレクサンダー三世スイートの隣の部屋で過ごした。首相は、大声のオペラ・アリアを鳴り響かせて、覚醒し続けさせた。彼はのちに自宅で軟禁され、精神病の医者によって治療された。<Izvestiia>No.201(1917年10月19日), p.5.
 --------
 重要なことをする前にもう一度コルニロフと通信してサヴィンコフの心の裡にあった曖昧な誤解を明確にすべきだとの彼の請願を無視して、ケレンスキーは、深夜に内閣の会議を招集した。
 ケレンスキーは閣僚たちに、何が明らかになったかを告げ、軍部のクー・デタに対処できるよう「全権限」を-つまり独裁的権力を-自分に与えるよう要請した。
 大臣たちは、「陰謀者・将軍」に立ち向かう必要がある、ケレンスキーは非常事態に対処すべく全権限を持つべきだ、として合意した。
 それに応じて彼らは、辞表を提出した。ネクラソフはこれを、臨時政府は事実上は存在することをやめた、と解釈した。(54)
 ケレンスキーは、この会議によって、名目上の独裁者となった。
 8月27日午前4時、閣議が休会となった以降、正規の閣議は開催されず、10月26日まで、ケレンスキーが単独で、またはネクラソフやテレシェンコ(Tereshchenko)と相談して行動する、との決定が下された。
 午前中早くに、大臣たちの同意があったのかなかったのかいずれにせよ-ほとんどがケレンスキーの個人的権威にもとづいていそうだが-、ケレンスキーは、コルニロフに対して、解任する、ただちにペトログラードへと報告することを命じる、との電報を打った。
 コルニロフの後継者が任命されるまでは、将軍ルコムスキーが最高司令官として仕えることとされた。(**)
 --------
 (**) <Revoliutsiia>Ⅳ, p.99. サヴィンコフによると、午後9時と10時の間に-すなわち、閣議が開かれる前に-、ケレンスキーは彼に、コルニロフを解任する電報はすでに発せられたのだから、コルニロフの理解を得るには遅すぎる、と言った。<Mercure de France>No.503(1919年6月1日), p.439.
 --------
 コルニロフと決裂したことにより、ケレンスキーは、革命の代表者を気取ることができた。ネクラソフによると、内閣の深夜会議の間にケレンスキーは、「私は彼らに革命を譲り渡すつもりはない」と発言した。-まるで、与えるか守るかの勝負であるごとくに。
 (18)このように事態が推移している間、簡単なやり取りに関するケレンスキーの解釈を知らないままのコルニロフは、想定されるボルシェヴィキ蜂起を政府が鎮圧するのを助ける準備を進めていた。
 午前2時40分、コルニロフはサヴィンコフと電信を繋いだ。//
 「一団が、8月28日夕方にかけて、ペトログラード郊外に集結する。
 ペトログラードが8月29日に戒厳令下に置かれることを要請する。」(56)//
 コルニロフが軍事蜂起にかかわらなかったということの証拠がもっと必要だとかりにしても、この電信記録こそ、その証拠を与えるに違いない。
 なぜなら、コルニロフがかりに第三軍団に対して政府を倒すためにペトログラードへと進むよう命令していたとすれば、彼が電信でもってあらかじめそのことを政府に警告することはしないだろう。
 言われるところのクーを彼は副次的なものと見なしていただろうとは、ますます信じがたい。
 Zinaida Goppius は、発生して数日後にコルニロフ事件の不思議さを想い、明白な疑問を抱いた。すなわち、「どのようにして、コルニロフが静かに最高司令部に座っている間に、彼は自分の兵団を「派遣した」のか?」(57)
 じつに、コルニロフが本当に政府を転覆させて独裁者たる地位を奪取することを計画していたとすれば、彼のような気質と軍人的態度をもつ人物は、本人自身がきっと、軍事行動を指揮しただろう。//
 (19)ケレンスキーがコルニロフを解任する電信通告は、8月27日午前7時、最高司令部に届いた。将軍たちに完璧な混乱が襲った。
 彼ら最初の反応は、電信文が10時間前にあったケレンスキー=コルニロフ会談から見てその内容が無意味であるばかりか、慣例の連続番号に欠け、表題なしで「ケレンスキー」との署名しかないので様式が適切ではないがゆえに、偽造されたものに違いない、というものだった。
 また、法制上は内閣のみが最高司令官を解任する権限をもつので、いかなる法的効力もなかった。
 (司令部はもちろん、前夜に閣僚たちは辞任してケレンスキーが独裁的権力を握ったことを知らなかった。)
 将軍たちはさらに考えて、この連絡はおそらく本当のものだが、ケレンスキーは強迫を受けて、あり得ることとしてはボルシェヴィキに捕らわれている間に送信した、と結論づけた。
 このように考えて、コルニロフは辞職を拒み、ルコムスキーが「状況が十分に明確になるまで」彼の職務を執行することとなった。(58)
 ボルシェヴィキはすでにペトログラードを掌握している、とコルニロフは確信し、ケレンスキーの指示に反してそれを無視し、クリモフ(Krymov)に彼の兵団が前進する速度を早めるよう命令した。(59)//
 (20)モギレフの誰も、ルヴォフを詐欺師だと疑っていなかった。そのルヴォフの質問に対するコルニロフの回答に関係してペトログラードで発生したかもしれない混乱について明確にするため、ルコムスキーは、自分の名前で政府に対して、軍隊の崩壊を阻止するためには強い権威が必要であることを再確認すべく電報を送った。(60) //
 (21)その日の午後、ルヴォフの策謀をまだ知らなかったが何か大きな過ちがあると疑っていたサヴィンコフは、コルニロフに接触した。
 V・マクラコフ(Vasilii Maklaov)は傍らに立っていて、終わりの方で会話に加わった。(61)
 サヴィンコフは、ルコムスキーの最新の電報を話題にして、モギレフを訪れることで自分は政治問題を全く起こさなかったと抗議した。
 コルニロフはこれに反応して、初めてV・ルヴォフに言及し、ルヴォフが自分の前に提示した三つの選択肢に言及した。
 さらに彼は、第三騎兵軍団は、サヴィンコフが伝えた政府の指示に従ってペトログラードに向けて進んでいる、とまで言った。
 コルニロフは完全に忠誠心をもって行動していて、政府の命令を履行していた。
 「(解任)決定は私には全く予期され得なかったもので、労働者兵士代表ソヴェトの圧力によってなされた、と確信していた。<中略>
 私は宣告する、<中略>自分の職から離れるつもりはない。」 
 コルニロフは、「個人的な説明を通じて、誤解はさっぱりとなくなるに違いない」と確信して、首相とサヴィンコフにこの最高司令部で会うのを幸せに思っている、と付け加えた。//
 (22)この時点では、亀裂の修復はまだ可能だった。
 ケレンスキーが一月前にレーニンの事案でとったのと同じ慎重な行動をコルニロフへの責任追及に関する対処で示し、コルニロフの「最終的形態での反逆」を証明する「文書上の証拠」を提示していたならば、これから発生したことの全ては、避けることができていただろう。
 しかし、ケレンスキーはレーニンを抑圧するのを怖れた一方で、将軍と宥和することには何の関心もなかった。
 Miliukovが事態の推移を知らされて調停者としての役割をすると提案したとき、ケレンスキーは、コルニロフとの和解はあり得ない、と回答した。(62)
 ケレンスキーは、連合諸国の大使たちからあった同様の提案も拒絶した。(63)
 この当時にケレンスキーを見た人々は、彼は完全に異常発作(hysteria)の状態にあると考えた。(64)
 (23)臨時政府と将軍たちとの間の完全な分裂を阻止するために必要だったのは、ケレンスキーまたはその代理者が、独裁的権力を要求する資格をルヴォフに対して与えたのかと、<コルニロフに>直接に尋ねることだけだった。
 ケレンスキーがこの明確な一歩を執らなかったことは、つぎのうちの一つでのみ説明することができる。
 第一に、あらゆる判断をすることのできない精神状態にあった。さもなくば第二に、革命の救済者との名誉を握りつづけ、そうして左翼からの挑戦を弱体化させる、ということを目的として、意識的にコルニロフと決裂することを選んだ。
 (24)サヴィンコフは、コルニロフからルヴォフの行動について知って、急いで首相の事務室の方へと走り戻った。
 途中でたまたまネクラソフと遭遇した。ネクラソフはサヴィンコフに、コルニロフとの友好関係を追求するのはもう遅い、反逆罪で最高司令官を訴追するとの首相の声明文をすでに自分が夕刊の新聞に送った、と語った。(66)
 ケレンスキーはサヴィンコフに、コルニロフと通信する機会をもつまではそのような文書を発表しない、と約束していた。しかし、にもかかわらず、それが行われた。(67)
 数時間のち、新聞は号外でもって、ネクラソフが草稿を書いたと言われている、ケレンスキーの署名の付いた衝撃的な声明文を発表した。(68)
 Golvin はこう考えている。サヴィンコフがコルニロフとの会話についての報告をする機会をもつ前に、ネクラソフが意識的に発表した、と。(69)
 その声明文は、つぎのとおり。
 「8月26日、将軍コルニロフは私へと、ドゥーマ代議員のVladimir Nikolaivich ルヴォフを遣わせて、臨時政府は将軍コルニロフに、民政および軍事の全権限を移行させるように、彼自身がその裁量でもってこの国を統治する新しい政府を任命するとの条件付きで、要求した。
 このような要求を行うドゥーマ代議員のルヴォフの権能は、直接の電信会話で将軍コルニロフによって、のちに私に対して確認された。」(69)
 声明文はつづく。「革命の成果に対して有害な政治体制<中略>を構築する」目的でもって困難時を利用しようとする「ロシア社会の特定の分野」による企てからこの国を防衛するために、内閣は、コルニロフを解任しペトログラードに戒厳令を布く権限を首相に与えた。//
 --------
 (52) ケレンスキー,<Delo>, p.91.
 (53) Miliukov,<Istoriia>Ⅰ,Pt.2, p.200.; ルコムスキー,<Vospominaniia>Ⅰ, p.241.
 (54) この会合の資料は以下。N. V. Nekrasov, <RS>No.199(1917年8月31日), p.2. およびMartynov,<コルニロフ>, p.101.
 (55) <NZh>No.120/126(1917年9月13日), p.3.
 (56) <Revoliutsiia>Ⅳ, p.98.
 (57) Gippius, Siniaia kniga, p.180-1.
 (58) <Revoliutsiia>Ⅳ, p.99.; ルコムスキー,<Vospominaniia>Ⅰ, p.242.; ケレンスキー,<Delo>, p.113-4.; Golovin,<反革命>Ⅰ, Pt.2, p.33-p.34.
 (60) ルコムスキー,<Vospominaniia>Ⅰ, p.242-3.
 (61) 全文は、Shugaev,<<略>>, p.448-p.452.
 (62) <NZh>No.114(1917年8月29日), p.3.
 (63) <Revoliutsiia>Ⅳ, p.111.
 (64) Gippius, Siniaia kniga, p.187.
 (65) ケレンスキー,<Delo>, p.104-5.
 (66) サヴィンコフ, <K Delu>, p.26.; Golovin,<反革命>Ⅰ, Pt.2, p.35.
 (67) B・サヴィンコフ, <Mercure de France>所収、No.503/133(1919年6月1日), p.438.
 (68) Richard Abraham, <アレクサンダー・ケレンスキー: 革命への初恋>(New York, 1987), p.277.
 (69) Shugaev,<<略>>, p.445-6. ; <Revoliutsiia>Ⅳ, p.101-2.
 ----
 ③へとつづく。

1932/R・パイプス著ロシア革命・第11章第3節①。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。
 今まで気づいたことがなかったが、1990年版とPaperback版(1996年)とで記載(注のごく一部)が異なっている部分がある。タイトルの一部の「1899-1919」の追記は、1990年版にはない。
 なお、これまでどおり、<>は原文が斜体字(イタリック体)のもの。ほとんどが文献名だが、今回の部分には筆者による<強調>らしき部分があるようだ。 
 ----
 第3節・ケレンスキーとコルニロフの決裂①。
 (1)このとき、首相と最高司令官との間の不一致を明確な分裂へと変える出来事が発生した。
 その触媒になったのは、自称国家「救済者」、V・N・ルヴォフ(Vladimir Nikolaevich Lvov)という名の、怒れる聖ペテロだった。
 ルヴォフは45歳の、裕福な土地所有家庭に生まれた、燃え立つ野心を持つがそれに相応した才幹はない人物で、落ち着かない人生を送ってきた。
 ペトルブルク大学で哲学を学んだのち、モスクワの神学校に入った。そして、とりとめのない研究をつづけ、しばらくの間は、修道僧になることを考えていた。
 彼は最終的には、政治を選んだ。
 オクトブリスト〔十月主義者〕となり、第三と第四のドゥーマでは議員を務めた。
 戦争中は、進歩ブロックに属した。
 幅広い社会関係のおかげで、第一次の臨時政府で、Holy Synod の検察官に任命された。その職に1917年7月まで就き、その月に解任された。
 彼は解任を悪く受け取り、ケレンスキーに怨みを抱いた。
 相当に個人的な魅力があったと言われているが、繊細で「信じがたいほど軽薄だ」と見なされた。George Katkov は、彼の精神状態(sanity)を疑問視している。(40)
 (2)ルヴォフは、8月、迫りつつある崩壊からロシアを救いたいと考えているモスクワの保守派知識人のグループに入った。
 7月初め以降、国には本当の内閣がなかった。ケレンスキーが独裁的権力を握った。
 ルヴォフと彼の友人たちは、コルニロフのように、臨時政府は事業や軍隊の代表者たちによって強化される必要があると感じていた。
 その考えをケレンスキーに伝えたらどうかと、ルヴォフは提案された。
 このような動きの主導者はA. F. Aladin だったように見える。彼は、陰から姿を一切見せることなく大きな影響力を発揮した、(N.V. Nekrasov やV. S. Zavoiko のような)ロシア革命での不思議な人物の一人だった。
 Aladin は、若いときは社会民主党の革命家で、第一ドゥーマでのTrudovik 会派を率いた。
 第一ドゥーマが解散したあと、彼はイギリスに移って1917年2月までとどまった。
 彼は、コルニロフに近かった。
 親しくてグループを形成したのは、赤十字の役人でルヴォフの兄のI. A. Dobrynskii や、著名なドゥーマ議員で、進歩的ブロックの指導的人物のニコラス(Nicholas)だった。//
 (3)ルヴォフの回想録(全体として信頼できないという特徴をもつが)によれば、国家会議のあとの8月17-22日の間に、コルニロフを独裁者にしてルヴォフを内務大臣にしようという陰謀が最高司令部にある、いう風聞を知った。(*)
 --------
  (*) 1917年9日14日に作成されている、ルヴォフが最初に記したものは、Cguganov 編<<略>>, p.425-8.に収載。
 1920年11月と12月に<PN>に掲載されたルヴォフの回想は、A・ケレンスキー=R. Browder編<ロシア臨時政府1917>Ⅲ( Stanford, Califf., 1961), p.1558-68.
 Vladimir Nabokov <père>が彼との会話に関するルヴォフの説明を「ナンセンス」だとして否定する手紙を<Poslednie novosti >に書き送ったあとで、その掲載は終了した。
 ルヴォフは、パリの路上浮浪者として人生を終えたと言われている。
 (〔上の一行の初版の記述〕=ルヴォフは1921年または1922年にロシアに戻り、変節した「生(Living)教会」に加わった。) 
 --------
 ルヴォフは、ケレンスキーに知らせる義務があると感じた、と主張した。
 二人は、8月22日午前中に、会った。
 ケレンスキーがのちに語るには、国の救い手になろうとする多数の訪問客がおり、その客たちにはほとんど気をかけなかった、しかし、ルヴォフの「伝言」は自分の注意を惹く脅威を伴っていた、と。(+)
 --------
  (+) ケレンスキーは1917年10月8日に、コルニロフ事件調査委員会でルヴォフの交替に関する説明をした。のちに、注記をつけて、<Delo Kornilov>, p.83-p.86.を出版した。
 --------
ケレンスキーによれば、ルヴォフは彼に、政府への世論の支持は基礎を浸食されるまでに至っており、軍部と良好な関係を築く公的人物たちを政府に入れることで政府を下支えすることが必要だ、と語った。
 ルヴォフはそれらの人物に代わって語っていると言ったが、それが誰々なのかを明らかにすることは拒んだ。
 ケレンスキーはのちに、自分の名前で交渉する権限をルヴォフに与えたことを否定した。ルヴォフの言葉に対して「意見を明確に述べる」ことができる前に彼の仲間たちの名前を知る必要はなかった、と言って。
 ケレンスキーはとくに、ルヴォフがコルニロフに助言するためにモギレフへと行く可能性について議論した、ということを否定した。(41)
 彼によれば、ルヴォフが役所を去ったあと、彼はルヴォフとの会話に特別の考えを抱かなかった。
 ケレンスキーを疑う理由はない。しかし、意識的か否かは別として、もっと多くのことを知りたいという印象を与えたというのは、本当らしくないでもない。その場合には、正規の代理人でなかったとしても、モギレフでの反政府陰謀という継続している風聞に実体があるのかどうかを知るための情報探索員(intelligence agent)としてルヴォフを使って、ということになる。(++)
 --------
 (++) これはGolovin の<反革命>Ⅰ, Pt. 2, p.25.の見解だ。
 ルヴォフはのちに彼は要請してケレンスキーから、ルヴォフが大きな裁量をもちかつ完全に秘密に行動するという条件で、自分の仲間たちと交渉する権限を受け取ったと主張した。<PN>190号(1920年12月4日)p.2.
 ケレンスキーののちの活動からすれば、このような振る舞いは彼らしくなかったということにはならないだろう。
 ケレンスキーの側近であるNekrasov の黙認があったというのが、もっとあり得そうだ。彼は、二人〔ケレンスキーとコルニロフ〕の対立を誇張する大きな役割を果たした。
 --------
 (4)ルヴォフは、首相との会話について友人たちに報告するためにモスクワへ戻った。会見は成功だった、と彼は友人たちに語った。そして、ケレンスキーは内閣の再組織を議論する用意がある、と。
 ルヴォフの説明を基礎にして、Aladin が、覚え書きを起草した。
 「1. ケレンスキーは最高司令部と交渉する意思がある。
  2. 交渉はルヴォフを通じて行われるものとする。
  3. ケレンスキーは国と軍部全体に信頼される内閣を形成することに同意する。
  4. これらのことを考慮して、特別の諸要求がまとめられなければならない。
  5. 特別の計画が作り出されなければならない。
  6. 交渉は、秘密に行われなければならない。」(*)
 --------
 (*) Martynov, <コルニロフ>, p.84-p.85. この証言では、ルヴォフは、Aladin の覚え書きは「私の立場ではなくAladin の私の言葉から推論した結論」を示している、と言った。Chugaev,<<略>>, p.426.
 --------
 この文書は、ケレンスキーとの会話を報告する際に、ルヴォフは自分の提案に対する首相の関心を誇張した、ということを示唆している。//
 (5)Dobrynskii に付き添われて、ルヴォフはモギレフへと向かった。
 彼は8月24日、ちょうどサヴィンコフが離れたときに到着した。
 コルニロフはケレンスキーの指令を実施するのに忙しすぎたので、ルヴォフはホテルに入った。ルヴォフはそのホテルでコルニロフがケレンスキーを殺害するとの風聞を聞いた、と主張した。
 恐怖にかられて、ルヴォフはケレンスキーに代わって行動するふりをしてケレンスキーを守り、内閣の再構成について交渉しようと決心した。
 彼は詳しく、こう語った。「ケレンスキーは私にコルニロフと交渉をする特別の権限を与えなかったけれども、私は、一般論として、政府の再組織に同意できるかぎりは、ケレンスキーの名前で交渉することができると感じていた。」
 彼はその夜と再び次の日(8月25日)の朝に、コルニロフと会った。
 コルニロフの証言と同席していたLukomoskii の回想録によれば、ルヴォフは自分自身は「重要な使命」に関する首相の代理人だと考えていた。(43)
 無謀にも警戒心を抱かず、コルニロフはルヴォフに信任状の提示を要請しなかったし、ペトログラードに対して首相に代わって語る権限が彼にあることの確認もしなかった。しかるにそうして、コルニロフはルヴォフとともに、ただちに最も微妙で潜在的には犯罪になり得る議論を始めてしまった。
 ルヴォフの任務はロシアの政府をいかにして堅固なものにするかに関するコルニロフの見解を知ることだ、と彼は語った。
 彼自身の意見では、このことは三つの方法のいずれかによって達成することができる。
 (1) ケレンスキーがかりに独裁的権力を掌握する。(2) 名簿がコルニロフを構成員として形成される。(3) コルニロフが独裁者になり、ケレンスキーとサヴィンコフは閣僚職を担当する。(44)
コルニロフはこの情報を額面通りにそのまま受け取った。彼は以前のいつかに、政府は戦争遂行の運営を改善するためのイギリスの小さな戦争内閣を範とする内閣制を検討していると公式に聞いていたからだ。(45)//
 (6)ケレンスキーは独裁的権力を彼に提示しているということを意味させていたルヴォフの言葉を解釈して、コルニロフは第三の選択肢が最もよいと反応した。
 彼は、自分は権力を欲しがりはしないし、国家のあらゆる長の職の者にに従うだろう、と言った。しかし、ルヴォフが提案したように主要な責任を引き受けることを求められたならば、拒否しないかもしれないし、拒否できないだろう、とも語った。(46)
 コルニロフはさらに進んで、ペトログラードで切迫しているボルシェヴィキ・クーの危険を見るならば、首相とサヴィンコフはモギレフに安全を求め、そこで新しい内閣の構成に関する議論にコルニロフとともに参加するのが賢明かもしれない、と言った。//
 (7)会見は終わった。ルヴォフはただちに、ペトログラードに向けて出立した。
 (8)政治的にはもっと明敏なLukomoskii は、ルヴォフの任務に関して疑念を表明した。
 コルニロフはルヴォフに信任状の提示を求めたのか?
 コルニロフは否と答え、ルヴォフは誠実な人物だと知っているから、と理由づけた。
 サヴィンコフはなぜ、内閣変更に関するコルニロフの意見を尋ねなかったのか?
 コルニロフは、この質問を、とるに足らぬものとして無視した。(47)
 (9)8月25日の夕方、コルニロフは電信で、ロジアンコ(Rodzianko)を別の公的指導者たちと一緒に、三日以内にモギレフに来るように、招聘した。
 ルヴォフは同様の伝言を兄に送った。
 会合は、新しい内閣の構成に対応するためだった。(48)
(10)次の日(8月26日)の午前6時、ルヴォフは冬宮でケレンスキーと会った。(*)
 --------
 (*) この会見に関する資料は、ケレンスキー,<Delo Kornilova>, p.132-6. およびMiliukov, <Istoriia>Ⅰ, Pt. 2, p.204-5. ミリュコフは、首相との会見の前と後にすぐにルヴォフに話しかけた。
 --------
 コルニロフとの会見の際には首相の代わりだとの姿勢をとっていたのと同じように、今はルヴォフは、最高司令官の代理人(agent)の役割を引き受けていた。
政府の再構築に関する三つの案に関するコルニロフの意見をルヴォフが尋ねた、ということは、ケレンスキーに言わないままだった。その件を彼は友人たちとまとめていたのだったが、首相から求められて提示した。彼は、コルニロフは独裁的権限を要求しているとケレンスキーに言った。
 ケレンスキーは、これを聞いて笑いはじけたことをのちに記憶している。しかし、愉楽はすみやかに警戒へと変わった。
 ケレンスキーはルヴォフに、コルニロフの要求を書き止めておくよう頼んだ。
 ルヴォフは、つぎのようにメモ書きをした。
 「コルニロフ将軍は提案する。
 1: 戒厳令がペトログラードに布かれること。
 2: 全ての軍事および内政当局は最高司令官の手のもとに置かれること。
 3: 首相を排除しない全ての大臣は退任し、最高司令官による内閣の形成までは、臨時の執行権限が副大臣へと移行すること。
     V・ルヴォフ」
 (11)これらの言葉を読んでただちに全てが明白になった、とケレンスキーは語る。(50)
 軍事クーが、行われつつある。
 彼は、コルニロフがなぜすぐに、サヴィンコフではなくHoly Synod の元検察官を選んだのかと自問し得ただろう。また、もう少しはましに、コルニロフかフィロネンコに、最高司令官は本当に自身の代理としてルヴォフに委託したのかと、急いで直近の電信で問い合わせることもなし得ただろう。
 ケレンスキーは、いずれもしなかった。
 コルニロフがまさに権力を奪取しようとしているとの彼の確信は、ケレンスキーとサヴィンコフがその日にモギレフに向けて出立するのを望んでいるとのルヴォフの主張によって、強められた。
 ケレンスキーは、コルニロフは二人を捕囚にしようとしいる、と結論づけた。//
 (12)ルヴォフがコルニロフによって提示されたとした三条件が、発令を強いるためにルヴォフとその友人たちによって捏造されたものであることを、ほとんど疑うことはできない。
 三条件は、コルニロフの回答を反映させていなかった。その回答は、首相がコルニロフに対してした質問だと言われたものに対してのものだった。
 しかし、それらの条件は、まさにケレンスキーがコルニロフと決裂するには必要なものだつた。
 コルニロフの陰謀の明白な証拠を獲得するために、ケレンスキーは、さしあたりは協力することに決めた。
 ケレンスキーは、電信機でコルニロフ将軍と通信するために、ルヴォフを午後8時に軍事大臣室に招いた。//
 (13)Miliukov と合間の時間を過ごしたルヴォフは、遅刻した。
 午後8時半、コルニロフを30分間待たせたままだった後で、ケレンスキーは、電信による会話を始めた。彼は、この会話中に、不在のルヴォフになりすまし続けた。
 ケレンスキーがのちに語るには、彼は、この偽装によって、ルヴォフの最終報告を確認するか、さもなくば「当惑したうえで」否定をするかを知ることを望んでいた。//
 (14)以下は、電信テープに記録されている、この祝福すべきやり取りの全文だ。
 「ケレンスキー: 首相がライン上。将軍コルニロフを待っている。
  コルニロフ: 将軍コルニロフがライン上。
  ケレンスキー: ごきげんよう、将軍。ケレンスキーとV. N. ルヴォフがライン上。
 我々は、Vladimir Nikolaivich 〔=ルヴォフ〕が伝えた情報に従ってケレンスキーは行動することができることを確認するよう、貴方にお願いする。
  コルニロフ: ごきげんよう、Aleksandr Fedorovich 〔=ケレンスキー〕。ごきげんよう、Vladimir Nikolaivich。
 この国と軍隊が置かれていると私が思う情勢の概略をもう一度確認する。その概略は、彼〔ルヴォフ〕が貴方に報告しなければならないという要請によりVladimir Nikolaivich に述べたものだ。さらにもう一度、明確に言わせてほしい、最近数日の事態、すでに差し迫っている事態は、可能なかぎり短時間のうちに完全に明確な決定を行うことを絶対に必要にさせている、と。
  ケレンスキー〔ルヴォフの声色で〕: 私、Vladimir Nikolaivichは、厳格に内密にして<貴方が私にAleksandr Fedorovich に知らせてほしいと頼んだ、行われなければならないこの明確な決定に関して>照会している。
 貴方からの個人的な確認がなくしては、Aleksandr Fedorovich は私を完全に信頼することを躊躇している。
  コルニロフ: そのとおり。私は、私が貴方にAleksandr Fedorovich が<モギレフに来る>ことを求める私の切迫した要請を伝えることを頼んだ、ということを確認する。
  ケレンスキー: 私、Aleksandr Fedorovich は、Vladimir Nikolaivich が私に報告した言葉を貴方が確認する、という回答を得た。
 私がそのことをするのは、今日ここを出発するのは、不可能だ。しかし、明日に出発することを望んでいる。
 サヴィンコフは必要だろうか?
  コルニロフ: 私は切実に、Boris Viktorovich が貴方と一緒に来ることを要請する。
 私がVladimir Nikolaivich に対して語ったことは、Boris Viktorovich に同等に当てはまる。
 私は、貴方がたの出立が明日以降にまで延期されないよう、真剣に乞い願うだろう。<以下略>
  ケレンスキー: 我々は、それに関する風聞が飛び回っている、示威活動(demonrtration)がある場合にかぎって、行くべきなのか、それとも、いかなる場合でもか?
  コルニロフ: いかなる場合でも。
  ケレンスキー: さようなら。我々はすみやかに会うべきだろう。
  コルニロフ: さようなら。」(51)
 --------
 (40) I. G. Tsereteri, <<略>>Ⅰ(Paris, 1963), p.108-9.; <V. D. Navokov, <略>(1976)>; Katkov,<コルニロフ>, p.85.
 (41) ケレンスキー, <Delo>, p.85.
 (42) Chugaev,<<略>>, p.427.
 (43) Katkov,<コルニロフ>, p.179.; Lukomskii,<<略>>Ⅰ, p.238-9.
 (44) Lukomskii,<<略>>Ⅰ, p.238-9.
 (45) サヴィンコフ, <RS>No.207(1917年9月10日)収載, p.3.
 (46) Katkov,<コルニロフ>, p.179-p.180.
 (47) Lukomskii,<<略>>Ⅰ, p.239.
 (48) 同上, p.241.; Chugaev,<<略>>, p.432.
 (49) Chugaev,<<略>>, p.442.
 (50) ケレンスキー, <Delo>, p.88.
 (51) Katkov,<コルニロフ>, p.90-p.91. 強調〔試訳者注<>部分〕は補充した。原文のロシア語全文は、Chugaev,<<略>>, p.443.に収載。
 ----
 ②へとつづく。

1928/R・パイプス著ロシア革命・第11章第2節。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。
 ----
 第2節・ケレンスキーが予期されるボルシェヴィキ蜂起鎮圧への助けをコルニロフに求める。
 (1)8月半ば、ドイツ軍は予期されていたリガに対する攻撃を開始した。
 紀律不十分で政治化していたロシア兵団は後退し、8月20-21日にこの都市を放棄した。
 コルニロフにとって、このことはロシアの戦争行動が切実に再組織されなければならないこと、そうでなければペトログラード自体がやがてリガと同じ運命を味わうだろうことの決定的な証拠だった。
 コルニロフ事件があった雰囲気を理解するには、この軍事的後退を視野の外に置いてはならない。
 現代人は歴史家も、コルニロフとケレンスキーの対立をもっぱら権力闘争として扱ってきたけれども、コルニロフにとってそれはまず第一に、戦争に敗北しないようにロシアを救う、重要であるいは最後かもしれない努力だったからだ。//
 (2)8月半ば、サヴィンコフは信頼できるフランス諜報機関の情報源から、ボルシェヴィキが9月最初に新しい蜂起を計画しているとの情報を受け取った。その情報は8月19日に、日刊紙<Russkoe slovo>に掲載された。(*)
 --------
 (*) 新聞によると(189号、p.3)、これはボルシェヴィキの総力挙げてのものだと政府は考えた。
 --------
 その時期は、最高司令部がドイツの作戦の次の段階が始まり、リガからペトログラードへと前進してくるとと考えた時期と合致していた。(27)
 この情報の源は、知られていない。ボルシェヴィキの資料にはその時期にク-を準備していると示すものは何も存在しないので、誤りだったように見える。
 サヴィンコフは、この情報をケレンスキーに伝えた。
 ケレンスキーは動じなかったように見えた。彼はそのとき、のちと同様に、ボルシェヴィキのクーを自分の対抗者による空想の産物だと考えた。(28)
 しかし、言われるボルシェヴィキ蜂起に関する情報を、コルニロフを弱体化させるための言い分として利用することをすぐに思いついた。
 彼はサヴィンコフに、ただちにモギレフに行ってつぎの任務を果たすように頼んだ。
 1: フィロネンコが報告している、最高司令部での将校による陰謀を消滅させること。
 2: 軍最高司令部の政治部署を廃止すること。
 3: ペトログラードとその近郊をコルニロフの指揮から政府の指揮へと移して、そこに戒厳令を敷くことについて、コルニロフの同意を得ること。および-。
 「4: ペトログラードを戒厳令のもとに置いて臨時政府を全ての攻撃から、とりわけボルシェヴィキによる攻撃から防衛するために、コルニロフ将軍が騎兵軍団を派遣するよう頼むこと。ボルシェヴィキはすでに7月3-5日に反乱を起こし、外国の諜報機関の情報によれば、ドイツ軍の上陸とフィンランドでの蜂起と連結して、もう一度蜂起を準備している。」(29)//
 この第四の任務は、ケレンスキーがのちにはコルニロフが政府を打倒するためにペトログラードに対して騎兵軍団を派遣したと主張し、それは将軍を国家反逆罪によって追及する理由にされることになるので、とくに記憶されつづけるに値する。//
 (3)サヴィンコフのモギレフでの任務の目的は、そこで企てられているとされる反革命陰謀を終わらせ、かつそのようにして、ボルシェヴィキの蜂起に対抗する準備をしているふりをすることだった。
 ケレンスキーはのちに、「最高司令部に対する軍事上の自立性」が欲しかったので、自分の指揮下におく軍事力-すなわち、第三騎兵軍団-を求めた、ということを婉曲的ながら認めた。(30)
 ペトログラード軍事地区をコルニロフの指揮から除外することは、同じ目的に役立つものだった。//
 (4)サヴィンコフは8月22日にモギレフに到着し、24日までそこに滞在した。(31)
 彼はまずコルニロフとの会見から始め、全ての違いを乗り越えて将軍と首相が協力することがきわめて重要だと語った。
 コルニロフは、同意した。ケレンスキーについてその職責からすると弱くて適してもいないと考えてはいたが、彼が必要だった。
 コルニロフは、アレクセイエフ(Alekseev)将軍、プレハノフ(Plekhanov)やA A. アルグノフ(Argunov)のような愛国主義社会主義者を用いて政府の政治的基盤を拡大するようケレンスキーは十分に助言されるされるだろうと付け加えた。
 サヴィンコフはコルニロフの改革提案に話題を転じて、政府はそれに関して行動する用意があると保証し、最終的な改革草案を提示した。
 コルニロフは、軍事委員会やコミサールを残したままだったので、全体としては満足できないものだと考えた。
 これらの改革はすぐに行われるのか?
 サヴィンコフは、ソヴェトからの激しい反応を刺激する怖れがあるので、政府は今のところはまだこれを公にするつもりがない、と反応した。
 彼はコルニロフに、ボルシェヴィキが8月末か9月初めにペトログラードで新しい騒擾を起こすことを計画しているという情報があることを知らせた。軍隊改革の基本方針を早まって発表すると、ボルシェヴィキの即時の蜂起を惹起するだろう、軍隊改革に反対しているソヴェトもまたボルシェヴィキに同調する可能性がある、と言いつつ。//
 (5)サヴィンコフはついで、予期されるボルシェヴィキのクーへの対処方法に関する話題へと移した。
 首相は、ペトログラードとその近郊をペトログラード軍事地区から除外し、直接に自分の指揮のもとに置きたいと考えていた。
 コルニロフはこの要請に不満だった。しかし、従った。
 軍隊改革が提示された場合のソヴェトの反応を誰も予想することはできないので、また、ボルシェヴィキの蜂起が予期されることを考慮してサヴィンコフは、ペトログラードの守備連隊に追加して、信頼できる戦闘軍団を投入するのが望ましい、と続けた。
 彼はコルニロフに、二日以内に第三騎兵軍団をVelikie Luki から、政府の指揮が及ぶことになるペトログラード近接地へと動かすよう要請した。
 このことが行われればすぐに、自分は電報でペトログラードに知らせることになる。
 彼はまた、必要となれば、政府はボルシェヴィキに対する「容赦なき」行為を実行する用意がある、かりにボルシェヴィキに加勢するならばペトログラード・ソヴェトに対しても同様だ、と語った。
 この要請に対して、コルニロフはすぐに同意した。//
 (6)コルニロフはまた、最高司令部の将校たちの同盟に対して、モスクワへと移動するよう要請することに同意した。しかし、政治的部署を廃止することは拒否した。
 彼はさらに、注意を引く最高司令部での全ての反政府陰謀を消滅させることも約束した。
 (7)8月24日朝、ペトログラードへと出発しようとしていたときに、サヴィンコフは、二つの要請を追加した。
 コルニロフがこれらを実行しなかったことをのちにケレンスキーは重視しようとしなかったけれども、サヴィンコフの記録では、ケレンスキー自身がこれらの要請を主導的に行ったことが知られている。(33)
 一つは、第三軍団がペトログラードへと出立する前に、この軍団の司令官を将軍クリモフ(Krymov)が取って代わること。サヴィンコフの意見では、クリモフの評判は「望ましくない事態」を生じさせ得るというものだったが。
 もう一つは、コーカサス出身者にロシアの首都を「解放」させかねないので、土着分団を第三軍団から分離すること。//
 (8)コルニロフはケレンスキーの欺瞞を見抜かなかったのか?
 コルニロフの言葉や行動からは、彼はケレンスキーの指示を額面通りにそのまま理解した、という結論に達するに違いないだろう。ケレンスキーの危惧の本当の対象はボルシェヴィキではなくコルニロフ自身だった、ということに彼は気づかなかった。
 二人が別れを告げていたとき、コルニロフはサヴィンコフに、国家がケレンスキーを必要としているのだからケレンスキーを支えるつもりだ、と保障した。(34)
 欠陥が多々あったとしても、ケレンスキーは真の愛国者であり、そしてコルニロフにとって、愛国的社会主義者は貴重な財産だった。//
 (9)サヴィンコフと別れたのち、コルニロフは、その職責を与える将軍クリモフに対してつぎのような命令を発した。
 「1: 私からまたは現地で直接にボルシェヴィキの蜂起が始まったと連絡を受ければ、遅滞なく軍団をペトログラードへと動かし、ボルシェヴィキの運動に参加するペトログラード守備連隊を武装解除させ、ペトログラードの民衆を武装解除して、ソヴェトを解散させること。
 2: この任務を達成したならば、将軍クリモフは砲弾を装備する一旅団をOranienbaum へと分離すること。そこに到着したあとで、クロンシュタット連隊に対して要塞を武装解除し、中心場所へと移るように命令すること。」(35)
 これら二つの命令は、ケレンスキーの指示を補完するものだった。
 第一のもの-騎兵軍団のペトログラードへの派遣-は、サヴィンコフが口頭でした要請に従っていた。
 第二のもの-クロンシュタットの武装解除-は、8月8日にケレンスキーが発したが履行されなかった命令と、その基本趣旨が一致していた。(36)
 これら二つの任務は、臨時政府をボルシェヴィキから防衛するためのものだとされた。
 コルニロフは、第三騎兵軍団の司令官の地位をクリモフに与えるのを拒否する姿勢を示した、と言われているかもしれない。これを正当化するために、コルニロフはLukomskii に、クリモフでは反乱に対処するのは苛酷すぎるだろうと政府は怖れた、と説明した。しかし、全てが終わってしまったときには、その方が彼には喜ばしいことだっただろう。(37)
 Lukomskii は、サヴィンコフがもたらした指令は一種の罠ではなかったかと、気をめぐらした。コルニロフは「Lukomskii は邪推をしすぎる」と言って、この疑念を却下した。(38)//
 (10)このとき、コルニロフに将校たちが近づいてきて、ペトログラードにはボルシェヴィキ鎮圧を助けるつもりの2000人の軍員がいる、と言った。
 彼らは、その軍員たちを指揮する100人の将校の派遣をコルニロフに要請した。コルニロフは、その人数を派遣すると約束した。
 コルニロフは、8月26日までには全員が準備できる状態になるはずだ、と語った。その日は、予期されるボルシェヴィキ蜂起の時期の最も早い日で、ボルシェヴィキが立ち上がったときにはクリモフが率いる騎兵軍団が接近していて、義勇兵たちがソヴェトの議場のあるスモルニュイ(Smolnyi)を掌握できるはずだった。(39)//
 (11)サヴィンコフは、8月25日にケレンスキーに報告した。ケレンスキーの指令は全て履行されるだろう、と。//
 --------
 (27) N. N. Golovin,<<略>>(Tallin, 1937), p.15.
 (28) ケレンスキー,<Delo>, p.62.
 (29) サヴィンコフの供述書から。<Revoliutsiia>Ⅳ, p.85. 所収。
 (30) Miliukov,<Istoriia>Ⅰ, Pt. 2, p.158.
 (31) サヴィンコフが書き取った会見要領は、つぎに再録されている。Chugaev,<<略>>, p.421-3. コルニロフと二人の将軍が署名している別の要録書は、つぎにある。Katkov,<コルニロフ>, p.176-8. サヴィンコフの回想録である<K. delu Kornilova>, p.20-p.23.
 (32) Miliukov,<Istoriia>Ⅰ, Pt. 2, p.175.; Chugaev,<<略>>, p.422.
 (33) サヴィンコフ, <RS>No.207(1917年9月10日), p.3.
 (34) Miliukov,<Istoriia>Ⅰ, Pt. 2, p.178.
 (35) Miliukov,<Istoriia>Ⅰ, Pt. 2, p.202.によるコルニロフの供述書から引用。<Revoliutsiia>Ⅳ, p.91. 参照。
 (36) Martynov,<コルニロフ>, p.94.; Miliukov,<Istoriia>Ⅰ, Pt. 2, p.202.
 (37) Lukomskii, <<略>>Ⅰ, p.238.
 (38) 同上、p.237-8.
 (39) 同上、p.232.
 ----
 第3節へとつづく。

1924/R・パイプス・ロシア革命(1990)第11章第1節②。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990)
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。
 なお、著者(R・パイプス)はアメリカで存命だったA・ケレンスキー(1881-1970)に直接に会って、インタビューしている。
 ----
 第1節・コルニロフが最高司令官に任命される②。
 (10)Boris Savinkov (B・サヴィンコフ)は、軍事省の部長代行で、ケレンスキーとコルニロフの二人の信頼を得ていたため、仲介者としての役割を果たすには理想的にふさわしい人物だった。彼は、8月初めにつぎを求める四項目の案を起草した。すなわち、後方兵団への死刑の拡大、鉄道輸送の軍事化、軍需産業への戒厳令の適用、〔ソヴェトの〕軍事委員会の権限の縮小に対応する将校の紀律権限の回復。(8)
 彼によると、ケレンスキーは文書に署名すると約束したが、それを引き延ばし続け、8月8日に、「いかなる状況にあっても、後方部隊への死刑については署名しない」と彼に言った。(9)
 コルニロフは欺されたと感じて、ケレンスキーに「最後通牒」を突きつけた。これがケレンスキーを憤激させ、コルニロフをほとんど解任しそうになった。(10)
 ケレンスキーが軍隊の再活性化に強い関心を持っているのを知って以降、コルニロフはケレンスキーの不作為によって、首相は自由な人間ではなく社会主義者たちの道具にすぎないという疑念を持たざるをえなかった。社会主義者たちのうちの何人かは、七月蜂起以降、敵と通じていると言われていた。
 (11)コルニロフの執拗な要求は、ケレンスキーを困難な状態に追い込んだ。
 ケレンスキーは5月以降、何とか政府とイスパルコムの間に股がってきた。立法に関するイスパルコム〔ソヴェト執行委員会〕の拒否権に譲歩してそれが離反しないようにし、他方では同時に、力強く戦争を遂行して、リベラル派や穏健な保守派すらの支持を得ることによって。
 コルニロフは、ケレンスキーが是非とも避けたいと願っていること-つまり左翼と右翼のいずれかを、国際的社会主義の利益とロシア国家の利益のいずれかを、選択すること-をするように首相に迫った。
 ケレンスキーは幻想のもとにいることはできなかった。すなわち、多くは合理的だと考えていたコルニロフの要求に応じるのは、ソヴェトとの決裂を意味するだろう。
 ソヴェトの会議は8月18日、ボルシェヴィキの動議にもとづき、軍隊へ死刑を復活させる案について議論した。
 この案は事実上の満場一致で、すなわち4人(ツェレテリ、ダン、M. I. Liber、チェハイゼ)の反対に対するおよそ850人の賛成で、前線部隊への死刑の適用を拒否する決議を採択した。それの適用は、「司令幕僚たちに対する奴隷にする目的でもって兵士大衆に恐怖を与えようとする手段だ」として。(11)
 明白なことだが、戦闘地域にいない後方の兵団に対して死刑を拡大することにソヴェトが同意することはあり得なかった。防衛産業や輸送の労働者たちに軍事紀律を課すことについては、言うまでもない。//
 (12)理論的には、ケレンスキーはソヴェトに対抗して、リベラル派と保守派に運命を委ねることも考えられ得ただろう。
 しかし、とくに六月攻勢の失敗と七月蜂起に対する優柔不断な対応の後でこれらの社会勢力が彼に抱いている低い評価を考えると、ケレンスキーがこれを選択する可能性はあらかじめすでに排除されていた。
 8月14日のモスクワの国家会議にケレンスキーが姿を現したとき、彼は左翼側によってのみ強く称賛された。右翼側は石のごとき沈黙でもって迎えた。彼らが拍手喝采を浴びせたのは、コルニロフに対してだった。(12) 
 リベラル派と保守派のプレスは、包み隠さすことのない侮蔑をもってケレンスキーに触れていた。
 したがって彼には、左翼側を選択する以外の余地はなかった。イスパルコムの社会主義知識人たちに従順でありつつ、一方では確信と成功の見込みは減っていても、ロシアの国家利益を推進しようとしながら。//
 (13)ケレンスキーが左翼側と宥和したかったのは、約束した軍隊改革をしなかったことのみならず、ボルシェヴィキに対して断固たる措置をとらなかったことでも明らかだった。
 彼は大量の証拠を手にしてはいたけれども、イスパルコムとソヴェトに遠慮して七月蜂起の指導者たちを訴追しなかった。彼らは、ボルシェヴィキの責任を追及するのは「反革命的」だと考えていた。
 ケレンスキーは、右翼と左翼の両方の戦争遂行「妨害者」に保護されるべきとの軍事省からの提案に反応して、これと類似した先入観をもっていることを示した。
 彼は、右翼側の逮捕されるべき者の名簿を承認した。しかし、別の名簿が届けられたときには躊躇を示した。そして、結局は半分以上の名前を除外したのだった。
 それらの文書が、連署が必要な内務大臣でエスエルのN. D. Avksentiv に届いたとき、彼は最初の名簿を再確認したが、第二の名簿からは2名(トロツキーとコロンタイ)以外の全ての者の名前を削除した。(13) //
 (14)ケレンスキーは、民主主義的ロシアを指導すると運命づけられていると自認する、きわめて野心的な人物だった。
 この野心を実現する唯一の方法は、民主主義的左翼-すなわちメンシェヴィキとエスエル-の主張を管掌することだった。そして、そうするためには、その左翼がもつ「反革命」という強迫観念を分かち持たなければならなかった。
 彼は、コルニロフのうちに全ての反民主主義勢力が集中したものを見たのみならず、そう見る必要があった。
 ボルシェヴィキが4月、6月そして7月の武装「示威行動」で何を意図していたのかをよく知っており、またレーニンやトロツキーが将来に企てていることを容易に理解したけれども、ケレンスキーは、ロシアの民主主義は左翼からの危険ではなく右翼からの危険に直面していると、自らを納得させた。
 知識がなかったわけでも知的精神をもっていなかったわけでもなかったので、彼のこのような馬鹿げた評価は、それが彼には政治的にふさわしかったという前提でのみ、意味があることになる。
 コルニロフにロシアのボナパルトの役を割り当てて、ケレンスキーは無批判に-じつは進んで-、コルニロフの友人や支持者たちが巨大な反革命の陰謀を企てているという風聞に反応した。(14)
 (15)軍隊改革が実行されないままで、貴重な日々が過ぎ去った。
 コルニロフは、ドイツがまもなく軍事攻勢を再開しようとしていると知り、また事態を動かすことを意図して、内閣と会うことの許可を求めた。
 彼は8月3日に、首都に着いた。
 大臣たちに挨拶をして、彼は軍隊の状態の概略を述べ始めた。
 コルニロフは、軍隊の改革に関して議論したかった。しかし、サヴィンコフが軍事省がその問題に取り組んでいると言って、遮った。
 コルニロフはそのあと、前線の状況に話題を変えて、ドイツとオーストリアに対して準備している軍事行動について報告した。
 この時点で、ケレンスキーはコルニロフに寄りかかって囁いて、注意するように求めた。(15) 一瞬のちに、同様の警告がサヴィンコフからもあった。
 この出来事によって、コルニロフと彼の臨時政府に対する態度が、動揺した。
 彼はこのことに何度も言及して、その後の彼の行動を正当化するものだとした。
 彼はケレンスキーとサヴィンコフの警告を正しく解釈していたので、一人のまたは別の大臣は軍事機密を漏洩する疑いがあった。
 モギレフに戻ったときコルニロフは、衝撃を受けた状態のままで、Lukomskii に起きたことを語り、いかなる性格の政府がロシアを動かしていると考えるかと尋ねた。(16)
 彼は、自分が警告された大臣はチェルノフだと結論づけた。チェルノフは、ボルシェヴィキを含むソヴェトの仲間たちに秘密情報を伝えていると信じられていた。(17)
この日以降、コルニロフは臨時政府を国家と国民を率いるに値しない、と見なした。(*)
 --------
 (*) 政府は忠誠心のない者やおそらくは敵の工作員に惑わされているとの彼の確信は、彼がこの時期に政府に提出した秘密のメモ文書がプレスに漏れたことで強められた。
 左翼のプレスは抜粋版を発行し、コルニロフに反対する運動を開始した。悪口のキャンペーンだった。Martynov <コルニロフ>, p.48.
 ---------
(16)この出来事からほどなくして(8月6日又は7日に)、コルニロフは、第三騎兵軍団の司令官である将軍クリモフ(A. M. Krymov)に、その兵団をルーマニア地域から北方へ動かすよう命令した。そして、別の軍団を投入し、西部ロシアの大雑把にはモスクワとペトログラードと等距離にある都市のVelikie Luki で位置を整えるよう命じた。
 第三軍団は、二つのコサック分団とコーカサスからのいわゆる土着(または粗雑)分団で構成されていた。いずれも人員不足だったが(土着分団には1350人しかいなかった)、頼りになると見なされた。
 こうした命令に当惑して、Lukomskii は、これらの勢力をドイツ戦に用いるのだとするとVelikie Luki は前線から遠すぎる、と指摘した。
 コルニロフは答えて、モスクワかペトログラードのいずれかで発生する可能性が潜在的にあるボルシェヴィキの蜂起を鎮圧するための場所に軍団はいて欲しいと語った。
 彼はLukomskii に対し、臨時政府に対抗するつもりはない、だが必要だと分かれば、クリモフの兵団がソヴェトを解散し、その指導者たちを吊し、ボルシェヴィキを-政府の同意があってもなくても-簡単に片付ける、と付け加えた。(18)
 彼はまたLukomskii に、ロシアは国家とその軍隊を救うことのできる「確固たる権威」を絶望的にだが必要としている、と語った。
 つぎは、コルニロフの文章だ。
 「私は反革命家ではない。<中略>私は旧来の統治体制の形態が嫌いだ。それは私の家族を手酷く扱った。過去に戻ることはない。決して、あり得ない。
 しかし、我々は、本当にロシアを救うことのできる権威を必要としている。その権威は、戦争を栄誉をもって終わらせることを可能にし、立憲会議〔憲法制定会議〕へとロシアを指導するだろう。<中略>
 我々の現在の政府には、しっかりした個人はいるが、事態を、ロシアを、破滅させる者もいる。
 重要なことは、ロシアには権威がなく、そのような政府が設立されなければならないということだ。
 おそらくは私は、そのような圧力を政府に対してかけることになるはずだ。
 かりにペトログラードで騒擾が勃発すれば、それが鎮圧された後で私は政府に入り、新しい、強い権威の形成に参加しなければならないだろう。」(19)//
 (17)ケレンスキーがコルニロフに対して一度ならず自分も「強い権威」に賛成だと言っていたのを聞いていたので、Lukomskii は、コルニロフと首相は困難なく協力するはずだ、と結論した。(20)
 コルニロフはサヴィンコフの要請に応じて8月10日にペトログラードに戻った。しかしこれは、首相の望みには反していた。
 ケレンスキーの生命を狙う試みに関する風聞を聞いて、彼はTekke の護衛団とともに到着し、護衛団はケレンスキーの事務所の外側に機関銃を積み上げた。
 ケレンスキーは内閣全員と会いたいとのコルニロフの要請を拒否した。そしてその代わりに、顧問団であるNekresov とTereshenko が同席して、彼を迎えた。
 将軍の非常時意識は、ドイツが軍事攻勢をリガの近くで開始し、首都の脅威になりそうだ、という知識にもとづいていた。
 彼は改革の問題に話題を転じた。外国勢力のために働くロシア人に対する死刑も含めての、前線および後方での紀律の回復、および防衛産業や輸送の軍事化だった。
 ケレンスキーは、コルニロフが望んだことの多く、とくに防衛産業と輸送に関しては「馬鹿げている」と考えた。しかし、軍隊の紀律を強化することを拒否することはなかった。
 コルニロフは首相に、自分はまさに解任されそうで、軍での騒擾を刺激しそうな行動をしないように「助言されている」ということを分かっている、と言った。(22)
 (18)4日後、コルニロフは国家会議にあっと言わせる登場の仕方をした。その会議はケレンスキーがモスクワに国民の支持を集めるべく招集したものだった。
 まず最初に、ケレンスキーは会議で挨拶するのを許可せよとのコルニロフの要請を拒否した。しかし、軍事問題に限定するという条件つきで、容赦した。
 コルニロフがボリショイ劇場に着いたとき、彼は喝采を受け、群衆によって持ち上げられた。
 右翼の議員たちは、騒がしい歓迎の仕方で迎えた。
 むしろ素っ気ない演説でコルニロフは、政府の政治的な打撃になると解釈され得るものは何も語らなかった。ケレンスキーにとっては、この事態が、分岐点だった。すなわち彼は、将軍に対する共感を示すことはケレンスキーへの個人的な侮蔑だと解釈したのだ。
 ケレンスキーののちの証言によると、「モスクワ会議の後で、つぎの攻撃の試みは右翼から来るだろう、左翼からではない、ということは自分には明瞭だった」。(23)
 このような確信が彼の心の裡にいったん定着してしまうと、それは<固定観念(idée fixe)>になった。
 のちに起こることは全て、それを強化するのに役立つだけになる。
 右翼のクーが進行中だとの彼の確信は、将校たちや一般市民からの電信で強まった。それらは、コルニロフをその職のままにとどめておくことを求めるもので、また幕僚将校たちによる陰謀の軍事的中心部からの内密の警告だった。(24)
 保守派のプレスは、ケレンスキーとその内閣に対する連続的な批判を開始した。
 典型的だったのは右翼<Novoe vremia>の編集部で、ロシアを救う鍵は最高司令官の権威を疑いなく受容することだ、と主張した。(25)
 コルニロフがこの政治的キャンペーンを使嗾したという、いかなる証拠も存在しなかった。しかし、それを受け取る側には、彼は疑念の対象になった。//
 (19)冷静に観察すれば、司令官たる将軍への共感が高まるのは、ケレンスキーへの不満の表現であって、「反革命」の兆候ではなかった。
 国家は、しっかりとした権威の存在を切に必要としていた。
 しかし、社会主義者たちは、この雰囲気を敏感に気づくことはなかった。
 実際の政治ではなく歴史を詩文的に見て、社会主義者たちは保守派(「ボナパルティスト」)の反動は不可避だと堅く信じていた。(*)
 --------
 (*) 著者〔R・パイプス〕との私的な会話でケレンスキーは、彼の1917年の行動はフランス革命の教訓に強く影響されていたことを認めた。
 --------
 8月24-25日、何かがたまたまにでもそれを正当化する前に、社会主義派のプレスが反革命の存在を告げた。8月25日、メンシェヴィキの<Novaia zhizn>は、「陰謀」との見出しのもとに、真っ最中だ、政府が少なくともボルシェヴィキに対して示したのと同じだけの情熱をもってこれと闘うよう希望を表明する、と発表した。(26)
 かくして、筋書き(plot)は書かれた。
 残るのは、主人公を見つけることだった。//
 --------
 (8) Boris Savinkov <K delu Kornilova>(Paris, 1919), p.13-14.
 (9) 同上、p.15. P. N. Miliukov <Istoriia <以下略>>(Sofoia, 1921), p.105.
 (10)ケレンスキー<Delo>p.23. Savinkov <K delu>p.15-16. Miliukov <Istoriia>Ⅰ, Pt.2, p.99.
 (11) <Revoliutsiia>Ⅳ, p.69-70.
 (12) 同上、p.54.
 (13) Savinkov <K delu>p.15.
 (14) ケレンスキー<Delo>p.56-57. 同<Catastrophe>p.318.
 (15) Savinkov <K delu>p.12-13. Geprge Katkov <コルニロフ事件>(London-New York, 1980), p.54.
 (16) A. S. Lukomskii, <<略>>(Berlin, 1922), p.227.
 (17) Katkov <コルニロフ事件>, p.170.
 (18) Lukomskii, <<略>>, p.228, p.232.
 (19) Chuganov, <<略>>, p.429.
 (20) 同上、p.429-430.
 (21) <Revoliutsiia>Ⅳ, p.37-38. Lukomskii, <<略>>Ⅰ, p.224-5.
 (22) Miliukov <Istoriia>Ⅰ, Pt.2, p.107-8. Trubetakoi<<略>>No.8(1917年10月4日)所収。Martynov <コルニロフ>p.53が引用。
 (23) ケレンスキー<Delo>p.81. Gippius, <Siniaia kniga>p.164-5.
 (24) ケレンスキー<Delo>p.56-57.
 (25) <DN>No.135(1917年8月24日), p.1 に引用。
 (26) <NZh>No.110(1917年8月25日), p.1.
 ----
 第2節へとつづく。

1923/R・パイプス・ロシア革命第11章<十月クー>第1節①。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes, 1923-2018)には、ロシア革命(さしあたり十月「革命」)前後に関する全般的かつ詳細な、つぎの二つの大著がある。
 A/The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 B/Russia under the Bolshevik Regime (1994).
 いずれについても、邦訳書はない。
 但し、前者の2/3と後者を一つに併せたような簡潔版があり、これには、邦訳書がある。
 C/A Concise History of the Russian Revolution (1996).
 =西山克典訳・ロシア革命史(成文社、2000年)。
 上のうちAの一部を二年近く前から「試訳」してこの欄に紹介し始めたのだったが(その後Bの一部へも移動)、このAについて試訳の掲載を済ませているのは、第9章(レーニンとボルシェヴィズムの起源)と第10章(権力を目指すボルシェヴィキ)の二つの章にすぎず、本文だけで計842頁になる全体のうち98頁にすぎない。
 ある程度は黙読しかつCの邦訳書も参考にしているので、すでに多少の知識はある。しかし、きちんと日本語に置き換える作業をしておく必要があるだろう。
 トロツキーを長とするペトログラード・ソヴェトの軍事革命委員会の設立辺りから再開したいところだが(なお、確認しないが、ここでの「革命」はレーニンが考え抱く「社会主義革命」では決してなかっただろう)、R・パイプスのAの書物は急いでくれない。
 <コルニロフ事件>という<右への揺れ>があったからこそつぎに<左への揺れ>でレーニン・ボルシェヴィキに有利になった(偶然なのか必然なのか)ともされるので、じっくりとつぎの第11章(十月のクー)の冒頭から「試訳」作業を続けてみよう。
 各節の見出しは本文中にはなく、目次(内容構成)上のものを用いている。
 注記のうち(*)は本文の下欄(文字どおりの脚注)で数字番号付きの注は全体の後にまとめて掲載されている。ここでは前者は本文中に挿入し、後者は試訳掲載部分ごとに最後に記載する。
 一文ごとに改行し、段落の冒頭に、原著にはない数字番号を付した。注記のうちロシア文字が長くつづくものは記載を省略する。
 ----
 Richard Pipes(R・パイプス)・ロシア革命1899-1919 (1990)。
 第11章・十月のクー。
 「捕食動物がその食する動物よりも賢くなければならないのは、自然の法則だ。」
 -自然史入門(Manual of Natyral History)。
 「我々がその当時に本当の危険に直面したのは、まさにその瞬間からだった。」
 -Alexander Kerensky. (1)
 --------
 (1) A・ケレンスキー <The Catastrophe>(New York-London, 1927), p.318.
 ----
 (はしがき)
 1917年9月、レーニンは隠れており、ボルシェヴィキ勢力の指揮権はトロツキーに渡った。トロツキーは、二ヶ月前に入党していた。
 即時の権力奪取というレーニンからの圧力に抗して、トロツキーはより慎重な戦略を採用した。ボルシェヴィキの企図は権力のソヴェトへの移行への努力だと偽装したのだ。
 ほぼ間違いなくその考案者だと言ってよいが、近代クーデタの技術にきわめて熟達しているトロツキーは、革命を勝利へと導いた。//
 トロツキーは、レーニンを補完する理想的な人物だった。
 より目立ち、より派手な、はるかに上手い演説者かつ著述者として、彼は群衆を魅了することができた。レーニンのカリスマ性は、その支持者たちの間に限られていた。
 しかし、トロツキーは、ボルシェヴィキ党員からは人気がなかった。一つには、ボルシェヴィキを辛辣に攻撃して数年のちに遅く党に加入したからだ。また一つには、耐えられないほどに傲慢だったからだ。
 いずれにせよ、ユダヤ人であるトロツキーは、革命であれ何であれ、ユダヤは外部者だと見なされた国での全国的な指導者になることを、ほとんど見込めなかった。
 革命と内戦の間、彼はレーニンの分身(alter ego)で、腕を組み合う不可欠の同僚だった。しかし、勝利を得たのちには、当惑の種になる。//
 ----
 第1節・コルニロフが最高司令官に任命される①。
 (1)ボルシェヴィキが七月の敗走から回復することを可能にしたのは、ロシア革命のうちでのもっと奇怪な出来事の一つによる。それは、コルニロフ(Kornilov)事件として知られる。(*)
 --------
 (*) ロシア革命に関する歴史家にこれほどの関心を惹起した主題はほとんどない。したがって、これに関する文献はきわめて多い。
 主要な第一次資料は、D. A. Chugaev, ed., <以下、〔略〕>で公刊されている。
 ケレンスキーに関する資料は、Delo Kornilova所収(英語訳<ボルシェヴィズムへの前奏>、ニューヨーク、1919)、Boris Savinkovに関する資料は、K delu Kornilova所収(Paris, 1919)。二次的文献のうち、とくに教示的なものは以下。E. I. Martynov の党派的だが豊かな資料をもつ<コルニロフ>(Leningrad, 1927)、P. N. Miliukovの<〔略〕>(Sofia, 1922)、およびGeorge Katkov の<コルニロフ事件>(London-New York, 1980)。
 --------
 (2)将軍Larv Kornilov (コルニロフ)は、1870年にシベリア・コサックの家庭に生まれた。
 父親は農民かつ兵士で、母親は家事従事者だった。
 コルニロフの庶民的出自は、ケレンスキーやレーニンの出自とは対照的だった。彼らの父親は公職貴族の上位階層に属していた。
 コルニロフは、カザフ・キルギスの中で幼年時代を過ごし、アジアとアジア人に対する終生の情愛を保持し続けた。
 軍事学校を卒業して、参謀学校に入り、栄誉を得てそこを修了した。
 彼はトルキスタンで活動任務を開始し、アフガニスタンやペルシアへの遠征隊を率いた。
 中央アジア語のトルコ方言を習得していてロシアのアジア地域の専門家になっていたコルニロフは、赤い外衣を身にまとってTekkeトルコ人の護衛兵に囲まれているのを好んだ。彼らとはその母国語で会話し、彼は「Ulu Boiara」あるいは「大ボヤール(Great Boyar)」として知られていた。
 彼は日本との戦争に参加し、その後に軍事随行員として中国に配置された。
 1915年4月、ある分隊を指揮していたときに重傷を負い、オーストリア軍の捕虜となった。だが、脱走して、ロシアに帰還した。
 1917年3月、ドゥーマの臨時委員会はニコライ二世に、コルニロフをペトログラード軍事地区の司令官に任命するよう求めた。
 4月のボルシェヴィキ反乱までこの地位に就いていたが、そのときに離任し、前線へと向かった。//
 (3)まず第一にかつ主としては政治家であるほとんどのロシアの将軍とは違って、コルニロフは戦闘する人間で、伝説的な勇気をもつ野戦の将校だった。
 彼には愚鈍との評判があった。アレクセイエフは、コルニロフは「獅子の心と羊の脳をもっていた」と語ったと伝えられている。しかしこれは、公正な評価ではない。
 コルニロフには、多量の実践的知識と一般常識があった。このタイプの他の兵士たちに似て、政治や政治家を軽蔑していたけれども。
 彼は、「進歩的」見解をもっていた、と言われた。そして、彼かツァーリ体制を嫌っていたことについて、疑う理由はない。(2)//
 (4)軍人としての履歴の最初の頃、コルニロフは不服従の傾向を示し、それは1917年二月以降にさらに強くなった。そのとき彼は、ロシア軍の解体と臨時政府の無能力さを観たのだった。
 彼に対する反対者はのちに、独裁的野心をもっていたと彼を責めるだろう。
 このような追及は、一定の条件をつけてのみ行うことができる。
 コルニロフは愛国者で、とくに戦時中に国内秩序を維持し勝利のために必要な全てのことを行ってロシアの国家利益を前進させる、そういういかなる政府に対しても、奉仕する心づもりがあった。
 1917年の夏遅く、彼は、臨時政府はもはや自由な活動者ではなくて社会主義インターナショナル派の捕囚になっており、敵の工作員がソヴェトの中に収まっている、と結論づけた。
 独裁的権力を掌握するという示唆を彼に受容させたのは、まさにこのような信念だ。//
 (5)ケレンスキーは七月蜂起の後でコルニロフに向き直って、コルニロフが軍隊の紀律を回復し、ドイツの反攻を抑えることを望んだ。
 7月7-8日の夜、ケレンスキーはコルニロフを戦闘の先端にある西南方前線の責任者に任命した。そして三日後に、補佐官のBoris Savinkov の助言にもとづいて、コルニロフに最高司令官の地位を提示した。
 コルニロフは、急いでは受諾しなかった。
 彼は政府がロシアの戦争努力全体を妨げている諸問題と真剣に取り組むまでは、かつそうでなければ、軍事活動の指揮を執る責任を負うのは無意味だと考えていた。
 その諸問題には、二つの性格のものがあった。狭くは軍事的なもの、より広くは、政治的および経済的なものだ。
 他の将軍たちと相談して、コルニロフは軍隊の戦闘能力を回復するには何がなされる必要があるかについて、幅広い合意を見出した。すなわち、指令第一号が権限を与えた軍事委員会は廃止されなければならず、または少なくともその権能が縮小されなければならない、軍事司令官たちは紀律に関する権能を再び取得しなければならない、後方の連隊への秩序を回復するために諸手段が用いられなければならない。
 コルニロフは、後方はもちろんのこと前線での脱走や反抗について有罪である軍隊人員に対して、再び死刑を導入することを要求した。
 しかし、そこに彼はとどまらなかった。
 他の交戦諸国の戦時動員計画について知っており、ロシアについても同様のものを望んだ。
 防衛産業および輸送-戦争努力にとって最も重要な経済部門-を担当する従事者たちが軍事紀律に服すべきことは、コルニロフには不可欠のことだと思えた。
 前任者たちよりも大きな権限を要求した範囲は、1916年12月にドイツの経済に対する事実上の独裁的権力を握った将軍ルーデンドルフと対抗するためだった。すなわち、国家が全面戦争を遂行することができるようにするためだ。
 コルニロフが主任幕僚の将軍A. S. Lukomski と共同で作り上げたこの計画は、彼自身とケレンスキーとの間の対立の主要な源泉になった。この計画は将校団および非社会主義者の意見を反映しており、ケレンスキーはソヴェトの監視のもとで行動しなければならなかったからだ。
 調整できないものがあるために、対立を解消するのは不可能だった。国際社会主義の利益に対して、一方にはロシア国家の利益があった。
 両人をよく知っていたサヴィンコフ(Savinkov)が、つぎのように述べるように。
 コルニロフは「自由を愛した。<中略> しかし、彼にとってロシアが第一で、自由はその次だった。一方、ケレンスキーにとって<中略>、自由と革命が第一で、ロシアはその次だった」。(3)//
 (6)7月19日、コルニロフは司令官を受諾するために用意している条件を、ケレンスキーに対して伝えた。
 1: 良心と国家に対してのみ責任を負う、2: 自分の活動命令と司令官任命のいずれについても何者も干渉しない、3: 政府と議論している紀律確保の手段は、死刑による制裁も含めて、後方の兵団にも適用される。4: 政府は自分の従前の提案を受け入れる。(4)
 ケレンスキーはこれらの要求に対して激しく怒り、コルニロフに対する提示を撤回することを考えたほどだった。しかし、翻って考え直したうえで、これを将軍の政治的な「無邪気さ(naïveté)」を表現したものだとして取り扱うことに決めた。(5)
 実際のところ、軍隊がなければ彼は無力であるため、ケレンスキーはコルニロフの助力に大きく依存していた。
 確かに、コルニロフの四条件のうち第一のものは、ほとんど無作法だった。しかしながら、将軍の望みはソヴェトによる介入を除去することにある、と説明することはできる。ソヴェトは、指令第一号で、軍事命令を取り消す権限を要求していたのだ。
 最高司令部にいるケレンスキーの副官でエスエル〔社会革命党〕のM. Filonenko がコルニロフに、「責任」とは臨時政府に対するものを意味させていないとすれば、この要求は「きわめて深刻な懸念」を呼び起こすだろう、と語った。これに対してコルニロフは、そのことはまさしく考えていることだ、と答えた。(6)
 そして、のちに見られるようにコルニロフがケレンスキーと最終的に決裂するまでは、彼の「不服従」はソヴェトに対して向けられていたのであり、臨時政府に対してではなかった。//
 (7)コルニロフが軍隊の司令権を掌握したいと考える条件は、おそらくはコルニロフの公的関連将校のV. S. Zavoiko によって、プレスへと漏らされた。
 各条件が<Russkoe slovo>7月21号で公にされた結果、大騒動が発生した。コルニロフは非社会主義の集団ではすぐに人気を獲得し、一方でそれに対応するだけの敵愾心を左翼に生じさせた。(7)
 (8)首相と将軍の間の交渉は、ゆっくりと二週間つづいた。
 コルニロフは、自分が提示した条件は充たされるだろうとの保障を得て、ようやく7月24日に新しい任務を引き受けた。
 (9)しかしながら、実際には、ケレンスキーは約束を守ることができなかつたし、その意思もなかった。
 彼は自由な人物ではなくイスパルコム(Ispolkom〔ソヴェト執行委員会〕)の意思の執行者だというのが、できない理由だった。イスパルコムはとくに後方での軍事紀律を回復しようとする全ての手段を「反革命的」だと考えており、それらを拒否していた。
 したがって、ケレンスキーが改革を実行するためには、彼の主要な政治的支持者である社会主義者たちと分裂することを強いられただろう。
 そして彼は、コルニロフは将来の危険な対抗者であることをすぐに理解するに至っただろうから、約束を断固として守ろうとはしなかっただろう。
 歴史研究者が歴史上の個人の心の裡を見通そうとするのは、つねに危険なことだ。しかし、7月と8月のケレンスキーの行動を観察すれば、彼は慎重に、自分の軍事官僚たちの不同意を惹起させ、妥協する機会をもつことを断固として拒否した、という結論以外のものを見出すのは困難だ。
 なぜなら、ケレンスキーは、ロシアの指導者かつ革命の擁護者としての自分の地位を脅かすいかなる者をも、打倒しようと考えていたからだ。(*)//
 --------
 (*)これは、将軍Martynov の見解でもある。彼は、こうした事態をすぐ傍らで観察していて、文書上の証拠を研究した。すなわち、同<コルニロフ>, p.100。N. N. Golovin<<略>>(Tallin, 1937), p.37.参照。
 --------
 (2) A・ケレンスキー <ボルシェヴィズムへの序曲>(New York, 1919),xiii. D. A. Chugaev, ed, <<略>>(Moscow, 1959),p.429.
 (3) Zinaida Gippius, Sinoaia kniga (Belgrade, 1929), p.152.
 (4) E. I. Martynov <コルニロフ>(Leningrad, 1927), p.33-34.
 (5) A・ケレンスキー・Delo Kolnilova (Ekaterinoslav, 1918), p.20-21.
 (6) Martynov <コルニロフ>p.36.
 (7) 同上、p.34.
 ----
 ②へとつづく。 

1857/安倍晋三・改憲姿勢とレーニン・ロシア革命。

 安倍晋三首相・自民党総裁は「改憲」に積極的な姿勢をしばしば示しているようだ。
 しかし、彼が自民党単独の賛成で国民投票にかけることができ、本当に「改憲」できると考えているかきわめて疑わしく、<見せかけ>あるいは<そのふり>だと思われる。
 来年の参院選の結果にも左右され、そもそも自民党で文案がまとまるか否かにも不透明さが残っている。
 党の役員人事が<改憲布陣>などと報道され、論評されることもあるが、かりに人物的にそのような印象があったとしても、これまた<見せかけ>あるいは<そのふり>の可能性が高い。
 なぜそのような「ふり」をするのか。
 言うまでもない。<改憲>=<保守>、<護憲>=<左翼・革新>という根深い観念・イメージがあるからだ。
 そして、安倍晋三と同内閣・同自民党の支持者、かつ<堅い>支持者とされる日本会議等々のいわゆる<堅い保守層>からすると、「改憲」と主張しているかぎり、断固として支持しよう、支持しなければならない、と思いたくなるからだ。
 その際、現九条二項を残したままでの「自衛隊」憲法明記がどういう意味をもつのか、それによって「自衛隊」が本当に合憲なものになるのか、それに弊害はないのか、とったことを考えはしない。あるいは、理解できる者たちも、あえて口を閉ざしている。
 現九条二項の削除が本来は望ましいが、とりあえず「自衛隊」の合憲化だけでもよい、という程度のことしか多くの上記支持者たちは考えていない。
 こういう「現実的」?案を案出した者たちの責任はすこぶる重い。
 ---
 <見せかけ>・<そのふり>で想起するのは、1917年4月・ロシア帰還前後のレーニンの主張だ。
 レーニンは、臨時政府打倒を叫び、「全ての権力をソヴィエトへ!」と主張した。
 しかし、この政治的人物は、この時点で臨時政府を打倒し、そり権力を全てソヴィエトに移すことなど不可能だと知っていたはずだ。
 もともと、臨時政府自体が<二重権力>と言われるように実質的には半分はソヴィエトによって支えられていたが、そのソヴィエトの中で、レーニン率いるボルシェヴィキ(翌年3月に正式には共産党に改称)は少数派であって、本当に「全ての権力をソヴィエトへ!」が実現されたとかりにしても、その主導権をレーニンらが掌握することはできなかった。
 レーニンの上の主張は、実現不可能を見越した上での、いわばスローガン、プロパガンダにすぎなかったのだ。何のためか? 他のソヴィエト構成諸党との<違い>を際立たせ、最も先鋭的な層の支持を獲得しておくためだ。
 さて、その後7月事件を経てケレンスキー首相による継戦努力が不首尾だったりして臨時政府・ソヴィエトに対する不信が高まり、レーニンのボルシェヴィキがソヴィエト内での一時的にせよ多数派(相対的な第一会派)を握る、という状態が生じる。
 しかし、このとき、レーニンは<「全ての権力をソヴィエトへ!」とはもう強調しない。
 この辺りは歴史研究者に分かれがあるかもしれないが、トロツキー(首都のソヴィエト執行委員会が設立した軍事委員会の委員長)は、のちのボルシェヴィキ中心政権がソヴィエト・システムの中から生まれたように(少なくとも擬制するために)努力したとされる。
 つまり、ソヴィエト全国総会-同執行委員会-新「革命政権」(1917年10月)という流れで、新政権をソヴィエトも正当化した、という「かたち」を辛うじて取るようにしたらしい。
 しかし、上もすでに「擬制」であって、レーニンは、<全ソヴィエト派>が生み出した権力、あるいは<全ソヴィエト派が権力を分有する>政権を成立させようとは全くしなかった、と推察される(しろうとの秋月だけの解釈ではない)。
 「全ての権力をソヴィエトへ!」ではなく、「全ての権力を自分たち(=レーニン・ボルシェヴィキへ)!」が本音だったわけだ。
 つまり、ソヴィエト内の各派・各党がそれぞれの勢力比に応じて内閣・閣僚を分け合うような政権を作るつもりはなかった。
 そして、じつに際どく、ソヴィエト全国大会が開催中に!新政権が発足したことにし、おそらくは事実上または結果としてソヴィエト大会に「追認」させた、または「事後報告の了解」を獲得した。あるいは、獲得した「ふり」をした。
  レーニンはもはや「全ての権力をソヴィエトへ!」というスローガンを捨てていて、それを守るつもりなどなかった。そして、既成事実の産出こそ、この人物の強い意思だった。
 たしかに「左翼エスエル(社会革命党左派)」も最初は数人だけ閣僚(=人民委員会議委員)の一部になっているが、エスエル本体の主要メンバーは入っておらず、エスエルとともにソヴィエトの有力構成派だったメンシェヴィキも加わっていない。
 この実質的一党独占政権は、半年後には正式に?一党独裁政権へと(まだ1918年夏だ!)へと変化し、形骸化していた「ソヴィエト」はさらに形骸化し、セレモニーの引き立て役になる。
 しかしながら、「ソヴィエト」による正当化という「かたち」はぎりぎり維持したかったのだろう、レーニンたちはロシア以外の諸民族・「国家」を統合した連邦国家に、「ソヴィエト」という地名でも民族でもない、本来はただの普通名詞だった言葉を冠した(強いて訳せば、<ロシア的評議会式の~>だろう)。
 ---
 以上要するに、政治家の発言の逐一を、そのまま本気であると、その内容を本当に実現したがっており、かつ実現できると考えている、などと理解してはいけない。
 政治家は、平気でウソをつく(政治家ばかりではないが)。日本共産党もまた、目的のためならば「何とでも言う」。
 自民党を念頭におくと、政治家は、例えば選挙で当選するためには、大臣にしてもらうためには、あるいは政権を何としてでも維持するためには、平気でウソをつく。
 ウソという言葉が厳しすぎるとすれば、平気で「そのふり」をし、何らかの「見せかけ」の姿勢を示そうとする
 以上は、安倍晋三を批判するために書いたものではない。
 この人は、ずいぶんと現実的になり、政治家として「したたかに」なったものだと感心し、ある意味では敬服している。ただの<口舌の徒>にすぎないマスコミ・ジャーナリストや評論家類に比べて、人間という点ではあるいはその職責上の役割という点でははるかに上かもしれない。
 もちろん、こう書いたからといって、安倍晋三を100%支持して「盲従」しているわけではない。

1809/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑧。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017). 試訳第8回。
 ----
 第4節・夏の政治危機
 6月半ば、今は臨時政府の戦時大臣であるケレンスキーはロシア軍に、ガリシアの前線での大規模な攻撃を命じた。
 それは二月革命以降の最初の、重大な軍事行動だった。ドイツ軍は自分たちがさらに東部へと侵入することなくしてロシア軍隊が解体していくのを見守っているので満足しており、ロシア軍の最高司令部は敗北を怖れ、主導性を発揮せよとの連盟諸国からの圧力に早くに抵抗していたときだったから。
 ロシアのガルシア攻撃は6月と7月初頭に行われ、積算で20万人の死傷者を出して失敗した。
 これは、あらゆる意味での厄災だった。
 軍隊の志気はいっそう低下し、ドイツ軍は反抗に成功し始めて、夏から秋の間じゅう続いた。
 土地略奪の報せに反応して農民兵士になっているロシア軍側の脱走兵は、異常な割合にまで達した。
 臨時政府の信用は地に落ち、政府と軍指導者の間の緊張が高まった。
 7月初め、政府の危機が、カデット(リベラル派)の全閣僚が去り、臨時政府の長のルヴォフ公が辞任したことで急に発生した。//
 この危機のさ中、ペテログラードで再び大衆の集団示威行動、街頭での暴力、そして七月事件(the July Days)として知られる民衆騒擾が突如として起こった。(15) //
 同時代の目撃者は50万人にまで達するとする群衆は、クロンシュタットの海兵の派遣団、兵士、ペテログラード工業施設からの労働者を含んでいた。
 臨時政府には、ボルシェヴィキによる蜂起の試みのようだった。
 ペテログラードに到着して騒擾を開始したクロンシュタットの海兵たちは、その指導者の中にボルシェヴィキがおり、「全ての権力をソヴェトへ」というボルシェヴィキのスローガンを記した旗を持った。そして、最初の目的地は、ボルシェヴィキ党の司令部があるクシェシンスカヤ宮(Kseshinskaya -)だつた。
 だが、示威行進者がクシェシンスカヤ宮に着いたとき、レーニンの挨拶は抑制的なもので、ほとんど無愛想だつた。
 レーニンは、臨時政府または現在のソヴェト指導部に対して暴力的活動をするように勇気づけはしなかった。
 そして、群衆はソヴェト〔の所在地〕へと動いて威嚇しつつ、暴力的活動を行わないで周りをうろつき回った。
 混乱し、指導部と特定の計画を持たず、示威行進者たちは市内を歩き回り、酔っ払って略奪し、そして最後に解散した。//
 七月事件は、ある意味では、4月以降のレーニンの揺るぎない立場を証明するものだった。臨時政府と二重権力に反対する民衆の強い感情、連立する社会主義者に耐えられないこと、そしてクロンシュタット海兵その他の一部にある暴力的対立意識およびおそらくは蜂起への熱意を示したものだったからだ。
 しかし、別の意味では、七月事件はボルシェヴィキにとっての災難だった。
 レーニンとボルシェヴィキ中央委員会は明らかに、動揺していた。
 彼らは蜂起について一般的には語り合ったが、それを企画することはなかった。
 海兵たちの革命的雰囲気に反応したクロンシュタットのボルシェヴィキは、実際にはボルシェヴィキ中央委員会が承認していない主導性を発揮した。
 事件全体は、ボルシェヴィキの志気と革命指導者としてのレーニンの信頼性を損なった。//
 指導者たちの躊躇と不確実な対応があったにもかかわらず、ボルシェヴィキは七月事件について臨時政府とソヴェトの穏健な社会主義者たちから非難されたため、損失はそれだけ大きかった。
 臨時政府は、二月革命以来全政党の政治家たちが享有してきた「議員免責特権」を撤回して、厳罰に処することを決定した。
 いく人かの著名なボルシェヴィキが逮捕された。その中には、5月にロシアに帰って以降はレーニンに近い極左の立場を採り、8月に正式にボルシェヴィキ党員になる予定のトロツキーもいた。
 レーニンとボルシェヴィキ指導部の中の彼の緊密な仲間であるジノヴィエフの逮捕状が発せられた。
 さらに、七月事件の間に臨時政府は、ある噂の信憑性を支持する証拠があるという示唆を握った。その噂とは、レーニンはドイツの工作員だというものだった。そして、ボルシェヴィキは、新聞の愛国主義的論調による非難にさらされ、一時的に軍隊や工場での人気を落とした。
 ボルシェヴィキ党中央委員会は(そして疑いなくレーニン自身も)、レーニンの身柄の安全を気遣った。
 レーニンは潜伏し、8月早くに作業員に変装して境界を越え、フィンランドに逃亡した。//
 しかしながら、ボルシェヴィキが困難な状況にあったとすれば、それは七月初めから首相になったケレンスキーが率いる臨時政府についてもそうだった。
 リベラル派と社会主義派の連立は恒常的な混乱に陥り、社会主義者はソヴィエトの支援者たちによって左へと動き、リベラルたちは実業家、土地所有者および軍事司令官たちの圧力をうけて右へと動いた。後者の者たちは、権威の崩壊と民衆騒擾でもってますます警戒心を強めていた。
 ロシアを救うという使命を気高く意識していたにもかかわらず、ケレンスキーは本質的には中庸を行く、政治的妥協への交渉者だった。大しては信頼もされず尊敬もされず、諸大政党のいずれにも政治的基盤がなかった。
 彼が悲しくも、こう愚痴をこぼしたように。
 「私は左翼のボルシェヴィキと右翼のボルシェヴィキの両方と闘っている。
 しかし、民衆はそのどちらかに凭り掛かれと要求する。<中略>
 私は真ん中の途を進みたい。しかし、誰も私を助けてくれようとしない」。(16)//
 臨時政府はますます、いずれかの方向に崩壊しそうに見えた。しかし、問題はどの方向にか?、だった。
 左翼からの脅威は、ペテログラードでの民衆蜂起および/またはボルシェヴィキのクーだった。
 このような挑戦は7月に失敗したが、北西前線でのドイツ軍の活動は、最も不吉な徴候としてペテログラードの周りの軍隊に対してきわめて強い緊張を強いていた。そして、憤慨し、武装した、働き場のない脱走兵たちの大量流入が、間違いなく市自体の中での街頭暴力を生じさせる危険を増大させた。
 臨時政府に対するもう一つの脅威は、法と秩序の独裁制を樹立しようとする右翼からのクーの可能性だった。
 夏までに、この方策は軍隊上層部で論議されており、ある範囲の実業家たちから支持を得ていた。
 徴候としては、このような動きに事前にかつ公共的言明によって明らかに反対しなければならなかっただろうカデットですら、少なからず安堵して既成事実を受け入れるかもしれなかった。//
 8月、ついに将軍コルニロフ(Lavr Kornilov)が右翼からのクーを試みた。ケレンスキーは最近に彼を、ロシア軍の秩序と紀律を回復させるという指示のもとで軍最高司令官に任命していた。
 コルニロフの動機は明らかに、個人的野心にではなく、国家の利益に関する意識にあった。
 実際、強力な政府を確立して騒ぎを起こす左翼に対処するために軍が干渉するのをケレンスキーは歓迎するだろうと、コルニロフは考えていたかもしれなかった。ケレンスキーはある程度はコルニロフの意図を知っていて、奇妙に迂回したやり方で彼を処遇したのだから。
 二人の主要な役者の間にあった誤解は事態を混乱させ、コルニロフが動く直前にドイツ軍がリガ(Riga)を掌握したという予期しなかったことも、狼狽に輪をかけた。そして、疑念と絶望の気分がロシアの民間および軍隊の指導者たちに広がっていた。
 8月の最終週、将軍コルニロフは、当惑しつつも決断して、表向きは首都の不安を鎮静化して共和国を救うために、兵団を前線からペテログラードへと派遣した。//
 クーの企図が挫折した理由の大部分は、兵団に信頼がなかったこととペテログラードの労働者の旺盛な行動だった。
 鉄道労働者たちは兵団列車の方向を変えて、妨害した。
 印刷工たちは、コルニロフの動きを支持する新聞の発行を止めた。
 金属労働者たちは近づく兵団を迎えるために外に飛び出し、ペテログラードは平穏で、兵団は将校たちに欺されているのだと説明した。
 このような圧力をうけて兵団の志気は減退し、大きな軍事的成功は何もないまま、ペテログラードの郊外でクーは終わった。そして、コルニロフの指令で行動していた指揮官の将軍クリモフ(Krymov)は臨時政府に降伏し、自殺した。
 コルニロフ自身は軍司令部に逮捕され、抵抗することなく、全責任を甘受した。//
 ペテログラードでは中央と右翼の政治家たちが、ケレンスキーが引き続き率いる臨時政府への忠誠を再確認した。
 しかし、ケレンスキーの立場はそのコルニロフ事件への対応の仕方のためにさらに傷つき、政府は弱体化した。
 ペテログラード・ソヴェトの執行委員会もまた、信頼を低下させた。コルニロフに対する抵抗は、多くは地方の組合や工場レベルのものにすぎなかったからだ。
 そして、これらによって、ボルシェヴィキへの支持は急上昇し、ボルシェヴィキがソヴェト内のメンシェヴィキ・エスエル指導部をすみやかに解任することが可能になった。
 軍司令部は最大の打撃を受けた。最高司令官の逮捕とクーの失敗によって、志気は喪失し、混乱に陥ったのだ。
 将校たちと兵士たちの間の関係は、明瞭に悪化した。そして、これだけでは不十分であるかのごとく、ペテログラードを明らかに目指して、ドイツ軍が前進し続けていた。
 9月半ば、コルニロフの後継者の将軍アレクセイエフが、コルニロフの高潔な動機を称える気持ちを言明して、突然に辞任した。
 アレクセイエフは、紀律が崩壊してしまい「我々の将校たちは殉教者である」軍隊についての責任をもう負うことはできない、と感じていた。//
 『現実に、この戦慄すべき危険があるときに、私は恐怖に脅えて、我々には軍は存在しない(この言葉の際に将軍の声は震え、彼は数滴の涙を零した)、一方でドイツ軍は、いつでも我々に最後のかつ最大の強力な一撃を放つように準備をしている、と言明する。』(17)//
 左翼が、コルニロフ事件によって最も多くを得た。この事件は右翼による反革命の脅威という以前は抽象的だった観念に実体を与え、労働者階級の強さを証明し、同時に多くの労働者たちに、自分たちの武装した警戒だけが革命をその敵から守ることがでるきと確信させた。
 まだ投獄されているか潜伏中の指導者が多くいるボルシェヴィキは、コルニロフに対する実際の抵抗には特別の役割を何ら果たさなかった。
 しかし、民衆の意見の新しい揺れの方向はボルシェヴィキであり、そのことはすでに8月初めには感知されていたが、コルニロフがクーに失敗した後で急速に明らかになった。
 そして、実際的な意味で言うと、コルニロフの脅威に対する反応として始まった労働者の軍団、あるいは「赤衛隊」(the Red Guards)、の設立により、将来の収穫を刈り取るのはボルシェヴィキであることになった。
 ボルシェヴィキの強さは、ブルジョアジーや二月体制との連携へと妥協しなかった唯一の政党だということだった。そしてこの党は、労働者の権力と武装蜂起という考え方と最も緊密に結びついていた。//
 --------
 (15) 七月事件につき、A. Rabinowitch, <革命への序曲-ペテログラード・ボルシェヴィキと1917年7月蜂起>(Bloomington, IN, 1968)を見よ。
 (16) A. Rabinowitch, <ボルシェヴィキが権力に至る>(New York, 1976).p.115. から引用した。
 (17) 将軍アレクセイエフへの新聞インタビュー(Rech', 1917年9月13日付、p.3)、Robert Paul Browder & Alexander Kerensky 編, <1917年のロシア臨時政府: 資料文書>Stanford, 1961), ⅲ, p.1622に収載。
 ----
 第5節・十月革命。
 4月から8月まで、ボルシェヴィキのスローガン「全ての権力をソヴェトへ」は本質的には挑発的なものだった。-ソヴェトを支配した穏健派に向けられた皮肉であって、全ての権力を奪うつもりはなかった。
 しかし、穏健派に支配権がなくなったコルニロフ事件の後では、状況は変わった。
 8月31日、ボルシェヴィキはペテログラード・ソヴェトの多数派を握った。9月5日、モスクワ・ソヴェトでもそうなった。
 かりに10月に予定されていた全国ソヴェト第二回大会で首都でと同じ政治的趨勢が続いていたとすれば、いったい何が意味されただろうか?
 ボルシェヴィキは、臨時政府はもはや支配する権能を持たないとするその大会の決定にもとづいて、法に準じた(quasi-legal)ソヴェトへの権力の移行を望んだだろうか?
 それとも、そのかつてのスローガンは、実際に暴力的蜂起への呼びかけだったのか、あるいはボルシェヴィキは(他とは違って)権力を奪取する勇気があることの宣言だったのか?//
 9月、レーニンはフィンランドの潜伏場所からボルシェヴィキ党に対して、武装蜂起の準備をするように迫る手紙を書き送った。
 革命のときは来た、遅くなる前に、奪取しなければならない、と彼は述べた。
 遅れるのは、致命的だろう。
 ボルシェヴィキは、ソヴェトの第二回〔全国〕大会の会合の<前に>行動を起こして、大会がするかもしれないいかなる決定をも阻止しなければならない、と。//
 レーニンによる即時の武装蜂起の主張は情熱的なものだったが、指導部にいる仲間たちの確信を完全には抱かせはしなかった。
 潮目が明らかに我々に向かっているときに、なぜボルシェヴィキは絶望的な賭けを冒す必要があるのか?
 さらに言えば、レーニン自身が帰ってきておらず、責任を取れなかった。レーニンが本当に真剣であるならば、確実に彼はこれをしたのか?
 夏にレーニン向けられた責任追及によって、疑いなくレーニンは過分に疲れていた。
 可能性としては、彼は七月事件の間の彼と中央委員会の躊躇について思い悩み、権力を奪取する希有の機会を失ったと考えていた。
 いずれにせよ、全ての大指導者たちと同じく、レーニンは気まぐれだった。
 この雰囲気は、過ぎ去るかもしれなかった。//
 この時点でのレーニンの行動は、確かに矛盾していた。
 一方では、ボルシェヴィキによる蜂起を強く主張した。
 他方では、臨時政府が7月に収監されていた左翼政治家を釈放し、今やボルシェヴィキはソヴェトを支配していて、レーニンに対する切迫した危険があった時期は確実に過ぎていたにもかかわらず、彼は数週間もフィンランドにとどまった。
 彼がペテログラードに戻ったとき、おそらくは10月の第一週の末、ボルシェヴィキすらから離れて潜伏し、怒りと激励の一連の手紙によってのみ党中央委員会に連絡通信をした。//
 10月10日、ボルシェヴィキ中央委員会は、蜂起は好ましいということに同意した。
 しかし、ボルシェヴィキたちの明らかに多くは、ソヴェトの自分たちの立場を使って法に準じた、非暴力的に権力を移行させることに傾斜していた。
 あるペテログラード・ボルシェヴィキ委員会の一員の、のちの回想録はつぎのように語る。//
 『ほとんど誰も、ある特定の時期での、統治の全装置を武装奪取することの始まりだとは考えていなかった。<中略>
 我々は、蜂起とはペテログラード・ソヴェトによる権力の掌握のことだと単直に考えていた。
 ソヴェトは、臨時政府の命令に従うことをやめ、ソヴェト自体に権力があると宣言し、これを妨害しようとする者は誰でも排除するだろう、と。』(18)
 監獄から最近に解放されてボルシェヴィキ党に加入していたトロツキーは、今やペテログラード・ソヴェト多数派の指導者の一人だった。
 トロツキーはまた、1905年のソヴェト指導者の一人でもあった。
 公然とはレーニンに反対しなかったけれども(のちには二人の見解は一致していたと主張した)、彼も蜂起を疑問視し、ソヴェトが臨時政府を除去する課題に対処することができるし、そうすべきだ、と考えたというのは、ありうるように思われる。(19)
 ボルシェヴィキが行う蜂起に対する強い反対が、レーニンの古くからのボルシェヴィキの同僚だった二人、ジノヴィエフ(Grigorii Zinoviev)とカーメネフ(Lev Kamenev)から挙がった。
 彼らはボルシェヴィキがクーによって権力を奪取するのは無責任であり、その権力を単独で保持できるとするのは非現実的だ、と考えた。
 ジノヴィエフとカーメネフがこうした主張を自分たちの名前を出して非ボルシェヴィキの日刊新聞紙(マクシム・ゴールキの<Novaya zhizn>)に公表したとき、レーニンの怒りと憤激は新しい次元へと高まった。
 これは理解できるものだった。二人の行為は果敢な抵抗だったのみならず、ボルシェヴィキは秘密裡に蜂起を計画しているということを公的に発表するものだったからだ。//
 このような状勢からすると、ボルシェヴィキの十月クーが巧くいったのは驚くべきことのように見える可能性がある。
 しかし、実際には、積極的な公表があったことは、レーニンの基本的考えを妨げたのではなく、むしろ助長した。
 そのことは、ボルシェヴィキたちが事前に逮捕されたり、ペテログラード地域の労働者、兵士・海兵がいかなる革命的行動をも非難するという強い徴候を知らされないかぎり、ボルシェヴィキが行動<しない>のは困難な立場へと、ボルシェヴィキを追い込んだ。
 しかし、ケレンスキーは、ボルシェヴィキに対する果敢な反抗措置を取らなかった。そして、ペテログラード・ソヴェトの革命軍事委員会(Military-Revolutionary Committee)をボルシェヴィキが支配していることは、クーを組織するのを比較的に容易にした。
 革命軍事委員会の基本的な目的は、コルニロフのような反革命に対する労働者の抵抗を組織することだった。そして、ケレンスキーは明らかに、そのことに干渉する立場にはいなかった。
 戦争の情勢もまた、重要な要因だった。すなわち、ドイツ軍は前進しており、ペテログラードは脅かされていた。
 労働者たちはすでに、大工業施設を引き渡して市から避難するようにとの臨時政府の命令を拒否していた。彼らは革命に対する政府の意向を信用しておらず、そのゆえにまた、政府のドイツ軍と戦う意思をも信用していなかった。
 (逆説的にだが、ボルシェヴィキの「平和」スローガンに労働者が賛同していたので、労働者たちもボルシェヴィキも、ドイツの脅威が切迫しかつ現実的になったときに戦闘的に反応した。かつての平和スローガンは、リガの陥落後の1917年の秋と冬にはほとんど聞かれなくなっいた)。
 ドイツ軍が接近してきたときにケレンスキーが労働者を武装解除していたならば、彼はおそらく、裏切り者で降伏主義者だとしてリンチを受けて殺されていただろう。//
 10月24日、第二回ソヴェト大会の会合の直前に、ソヴェトの軍事革命委員会の実力部隊が枢要な政府組織を占拠し始めて、蜂起が始まった。彼らは、電信施設と鉄道駅舎を奪い取り、市の橋梁で路上封鎖を開始し、臨時政府が会合をしている冬宮を取り囲んだ。//
 彼らは、ほとんど実力による抵抗に遭遇しなかった。
 街頭は平穏なままであり、市民は日常の仕事をし続けた。
 10月24-25日の夜、レーニンは潜伏場所から現れて、スモルニュイ(Smolny)研究所で同志たちに合流した。スモルニュイは、かつては若い女性たちの学校で、今はソヴェトの最高司令部があった。
 彼もまた静穏で、神経質な不安の状態から回復しているように見えた。そして、当然のこととして、かつての指導者としての地位を取り戻した。//
 10月25日の午後までに、クーはほとんど成功した。-刺激的なことに、中にいる臨時政府の構成員たちをまだ取り囲んでいる冬宮の制圧を除いては。
 その日の夕方遅く、冬宮は陥落した。徐々に減っていく防衛者の一団に対する、いくぶんは混乱した攻撃によって。
 これは、のちのソヴィエトの資料が示唆するよりも英雄的でない事態だった。ネヴァ川の冬宮の反対側に停泊していた戦艦<オーロラ>は、一発の実弾も撃たなかった。そして占拠した部隊はケレンスキーを脇の出入口から抜け出させ、車でうまく市から逃亡させた。
 政治ドラマの観点からすると、これもいくぶん不満足なものだった。ソヴェト大会-ボルシェヴィキの強い主張にもとづいて数時間も最初の会議を延期していた-は、冬宮の陥落の前についに手続を開始した。こうして、劇的な開会の宣言をしようとのボルシェヴィキの意向は打ち砕かれることとなった。
 だがなお、基本的な事実は残ったままだ。すなわち、二月体制は打倒され、権力は十月の勝利者の手に移った。//
 もちろん、このことも、一つの問題を未解明のまま残した。
 いったい誰が、十月の勝利者<だった>のか?
 ソヴェト大会よりも前の蜂起をボルシェヴィキに迫ることで、レーニンは明らかに、この資格がボルシェヴィキに与えられることを望んでいた。
 しかし、ボルシェヴィキは実際には、ペテログラード・ソヴェトの軍事革命委員会を通じて蜂起を組織した。
 そして、偶々なのか企図してか、軍事革命委員会はソヴェト全国大会の会合の直前まで、遅らせた。
 (トロツキーはのちに、これはボルシェヴィキの権力奪取を合法化するためにソヴェトを用いるという輝かしい-明らかにレーニンのそれではないので推測するに彼自身の-戦術だったと描写した。(20))
 報せが地域の外に伝わったとき、最も共通した見方は、ソヴェトが権力を奪取した、というものだった。//
 この問題は、10月25日にペテログラードで開かれたソヴェト大会で十分には明らかにされなかった。
 分かったとき、大会代議員の明確な多数派は、全ての権力のソヴェトへの移行を支持するよう委任(mandat)を受けて出席していた。 
 しかし、これはもっぱらボルシェヴィキ派だったのではなかった(670人の代議員のうち300人がボルシェヴィキで、最大の位置を占めていたが、多数派ではなかった)。そして、そのような委任は、必ずしもボルシェヴィキによる先立つ行動を是認することを意味しはしなかった。
 そのボルシェビキの行動は最初の会合で、メンシェヴィキとエスエルの大集団によって厳しく批判された。この両派は、そのあと、抗議するために大会に出席しなくなった。
 レーニンの古い友人であるマルトフが率いるメンシェヴィキの宥和的姿勢については疑問が出されている。しかし、トロツキーはこのような批判を、思い出しての文章の中で、「歴史のごみ函」に送ってしまった。//
 ソヴェト大会では、ボルシェヴィキは全国すべてについての権力の労働者、兵士、農民のソヴェトへの移行を呼びかけた。
 中央権力に関するかぎりで、論理的に意味するところは、確かに古い臨時政府の場所がソヴェトの常勤の中央執行委員会に奪われるだろう、ということだった。このソヴェト中央執行委員会はソヴェト大会によって選出され、多数の政党の代表者を含むものだった。
 しかし実際は、こうではなかった。
 多くの代議員が驚いたのだが、中央政府の機能は新しい人民委員会議(Council of People's Commissars)が獲得する、と発表された。ソヴェト大会のボルシェヴィキ派全員は、10月26日の大会でボルシェヴィキ党の報道員が読み上げたことによって知った。
 新政府の長はレーニンで、トロツキーは外務人民委員(大臣)だった。//
 ある歴史研究者たちは、ボルシェヴィキの一党支配は意図してではなく歴史的偶然の結果として出現した、と主張してきた。(21)-すなわち、ボルシェヴィキは自分たちだけで権力を奪うつもりはなかった、と。
 しかし、問題にしている意図がレーニンのものだとすれば、この論拠は怪しいように見える。
 そしてまた、レーニンは、党の他の指導者の反対を無視したのだ。
 9月と10月、レーニンは明らかに、複数政党のソヴェトではなくてボルシェヴィキが権力を奪うことを望んでいたと思われる。
 彼は、ソヴェトをカモフラージュとして用いることすら望まず、明確なボルシェヴィキのクーを演じることを選好していただろう。
 確かに、地方では十月革命の直接の結果はソヴェトが権力を掌握した、ということだった。そして、地方のソヴェトはつねにボルシェヴィキが支配していたわけではなかった。
 ボルシェヴィキの十月後のソヴェトに対する態度については異なる諸解釈に開かれているけれども、原理的には、ソヴェトがボルシェヴィキを信頼しているかぎりで地方レベルでソヴェトが権力を行使するのに反対しなかった、と言うのがおそらく公平だろう。
 しかし、この要件を他の政党と競い合う民主主義的選挙と一致させるのは困難だつた。//
 確かにレーニンは新しい中央政府、人民委員会議での連立問題については、全く頑固だった。
 1917年11月、全員がボルシェヴィキの政府からより広い社会主義者の連立へと移行する可能性についてボルシェヴィキ党中央委員会が討議したとき、レーニンは断固としてそれに反対した。異論を受けて若干のボルシェヴィキですら、政府から離れたのだったけれども。
 のちに数人の「左翼エスエル」〔左翼社会革命党、社会革命党左派〕(十月クーを受容したエスエル党の分裂集団の一員たち)が、人民委員会議に加わった。しかし、彼らは、強い党基盤をもたない政治家だった。
 彼らは1918年半ばに政府から除外された。そのとき左翼エスエルは、その最近にドイツと調印された講和条約に反対する暴動を起こしていた。
 ボルシェヴィキは、他政党と連立政府を形成する努力をもはやしなかった。//
 ボルシェヴィキが単独で支配すべきという民衆からの委任(mandate)を得ていたのか、それとも、ボルシェヴィキはそう信じていたのか?
 立憲会議の選挙で(十月のクー以前の予定だったが、1917年11月に実施された)、ボルシェヴィキは民衆による投票数の25パーセントを獲得した。
 これは投票総数の40パーセントを獲得したエスエル党に次ぐ多さだった(クーの問題ではボルシェヴィキを支持した左翼エスエルは、投票リストでは〔エスエル全体と〕区別されなかった)。
 ボルシェヴィキは、より良い結果を期待していた。そしてこれは、投票結果をもっと詳細に検証するならば、おそらく解明できる。(22)
 ボルシェヴィキはペテログラードとモスクワで、そしておそらく都市的ロシア全体では勝利した。
 500万の票をもつ軍隊では別々に計算され、ボシェヴィキは北部および西部の前線とバルト艦隊で絶対多数を獲得した。-ボルシェヴィキが最もよく知る支持者たちであり、ボルシェヴィキが最もよく知られている場所だった。
 南部戦線と黒海艦隊では、ボルシェヴィキはエスエルとウクライナ諸党に敗北した。
 エスエルの全体的な勝利は、農民層の票を村落で獲得したことの結果だった。
 しかし、これに関して一定の不明瞭さはあった。
 農民たちはおそらく単一争点の投票者であり、エスエルとボルシェヴィキの土地に関する基本政策は、ほとんど同じだった。
 しかしながら、エスエルは農民層にははるかによく知られていて、農民はエスエルの伝統的な支持層だった。
 農民がボルシェヴィキの基本政策を知っていたところでは(ふつうは、ボルシェヴィキがより多くの宣伝活動を行った、町、軍駐屯地または鉄道の近くである結果として)、彼らの票は、ボルシェヴィキとエスエルに割れた。//
 にもかかわらず、民主主義的選挙による政治では、敗北は敗北だ。
 ボルシェヴィキは、立憲会議についての選挙が示す見方を採用しなかった。つまり、選挙で勝利できなかったことを理由として権力を手放しはしなかった(そして、会議が招集されて敵だと分かったとき、ボルシェヴィキはそれを素っ気なく解散させた)。
 しかしながら、支配すべきとの委任(mandate)の観点からは、ボルシェヴィキは、自分たちが代表すると主張しているのは民衆全体ではない、と議論することができたし、そう議論した。
 ボルシェヴィキは、労働者階級の名前で権力を奪取した。
 第二回〔全国〕ソヴェト大会と立憲会議の二つの選挙から導き出すことのできる結論は、ボルシェヴィキは、1917年10月から11月にかけて、労働者階級については他のどの党よりも多くの票を獲得した、ということだった。//
 しかし、のちのある時期に、労働者がその支持を撤回することがあれば、いったいどうなるのか?
 プロレタリア-トの意思を代表するというボルシェヴィキの主張は、事実の観察はもとより信念にもとづいている。すなわち、レーニンの見方からすれば、つぎのことは全くあり得ることだ。将来のある時期に労働者プロレタリア-トの意識はボルシェヴィキ党のそれよりも劣っていると分かってしまうが、支配すべきとの党への委任を変更する必要は必ずしもない、ということ。
 おそらくはボルシェヴィキは、このようなことが起きるとは想定していなかった。
 しかし、1917年のボルシェヴィキに対する反対者の多くは想定し、そしてレーニンの党はかりに労働者階級の支持を失っても、権力を放棄することはないだろう、と考えた。
 エンゲルスは、未成熟のままで権力を奪う社会主義政党は、孤立して、抑圧的な独裁制へ向かうこと強いられる可能性があるという警告を発していた。
 明らかにボルシェヴィキの指導者たちは、とくにレーニンは、そうした危険を冒すのを厭わなかった。//
 --------
 (18) Robert V. Daniel, <赤い十月>(New York, 1967), p.82. から引用した。
 (19) 十月革命に関与した大物ボルシェヴィキの行動と意図は、のちに大量に自己に役立つ修正と政治神話の形成を行う主題になった。-公式のスターリニズム的歴史書でのみならず、トロツキーの古典的な<回顧録つき>歴史書である、<ロシア革命の歴史>でも。
 Daniels, <赤い十月>, Ch. 10. を見よ。
 (20) Leon Trotsky, <ロシア革命の歴史>, Max Eastmanによる訳書(Ann Arbor, MI, 1960), ⅲ, Chs. 4~6. 1976
 (21) 例えば、Roy Medvedev, <歴史に判断させよ: スターリニズムの起源と帰結>(1st ed.; New York, 1976), p.381-4. を見よ。
 (22) 以下の分析は、O. Radkey, <ロシアが投票箱に進む-全ロシア立憲会議・1917年>(Ithaca, NY, 1989)にもとづく。
 ----
 第二章の第4節(夏の政治危機)と第5節(十月革命)の試訳が終わり。
 ***
 この著の表紙/左-第4版、右-第3版。
 fitspatrick000

 

1807/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑦。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017). 試訳第7回。
 ----
 第二章/第2節・ボルシェヴィキ。
 二月革命のとき、事実上全てのボルシェヴィキ指導者は、外国に亡命しているかロシア帝国の遠い地方に追放されていた。ボルシェヴィキがロシアの参戦に反対しただけではなくてロシアの敗北が革命のために利益になると主張したたために、一まとめになって拘束されたのだ。
 スターリンやモロトフを含むシベリアに追放されたボルシェヴィキ指導者は、中では最初に首都に戻った。
 しかし、ヨーロッパに亡命していた指導者たちが帰るのははるかに困難な状況にあった。何しろ、ヨーロッパは戦争中だったからだ。
 バルト地域を経て帰還するのは危険で、連盟諸国の協力を必要とした。一方で、陸上のルートは敵国の領土内を走っていた。
 にもかかわらず、レーニンとエミグレ社会の他の者たちは、切実に戻りたかった。
 そして、仲介者によって行われた交渉の後で、ドイツ政府は彼らに封印列車でドイツを縦断する機会を与えた。
 戦争に反対しているロシアの革命家たちをロシアに帰還させるのは、明らかにドイツの利益だった。しかし、政治的に妥協する危険を冒して帰ってよいのかと革命家たちは慎重に衡量しなければならなかった。
 レーニンは、主としてボルシェヴィキのエミグレの一団とともに、危険を冒すことを決断し、3月末頃に出発した。
 (スイスにいたロシア革命家たちのより多数のグループは、ほとんど全てのメンシェヴィキを含んでいたが、慎重に考えて待つことに決めた。-これは、レーニンの旅が引き起こした論争と責任追及を全て回避できたので、賢明な行動だった。
 このグループは、一ヶ月のちに、ドイツとの同様の取り決めによって、第二の封印列車でつづいた。)//
 4月初めにレーニンがペテログラードに戻る前に、シベリアに追放されていた者たちはすでにボルシェヴィキ組織を再建し、新聞を発行し始めていた。
 この時点で、他の社会主義者グループのようにボルシェヴィキは、ペテログラード・ソヴェトの周囲にある緩やかな連携の中で漂っている徴候を示していた。
 しかし、ソヴェトのメンシェヴィキとエスエルの指導者たちはレーニンが悶着の種だったことを忘れておらず、憂慮しつつレーニンの到着を待った。
 それは正当なことだったと分かることなる。
 4月3日、レーニンがペテログラードのフィンランド駅で列車から降りたとき、彼はソヴェトの歓迎委員会に素っ気なく反応し、群衆に向かって反対者を不快にする耳障りな声で若干の言葉を発した。そして突然に離れて、ボルシェヴィキ党の仲間たちとの私的な祝宴と会合に向かった。
 レーニンは明らかに、かつての党派的な習癖を失っていなかった。
 かつての政治的対立者を革命の勝利という栄光の仲間だと受け容れる、この数ヶ月にはしばしばあった愉快な感情の一つの徴候も、彼は示さなかった。//
 歴史上四月テーゼとして知られる、政治情勢に関するレーニンの評価は、戦闘的で、非妥協的で、明らかにペテログラードのボルシェヴィキたちを不安にさせるものだった。彼らは、躊躇しつつも社会主義の一体性というソヴェトの基本方針を受容し、新政府を批判的に支持する立場にいた。
 二月に達成したことを承認すべく立ち止まることをほとんどしないで、レーニンはすでに、革命の第二の段階、プロレタリア-トによるブルジョアジーの打倒、を目指していた。
 レーニンは、臨時政府を支持してはならない、と述べた。
 団結という社会主義者の幻想や新体制への大衆の「無邪気な信頼」を、破壊しなければならない。
 ブルジョアの影響力に屈服している現在のソヴェト指導部は、使い物にならない(ある演説でレーニンは、ローザ・ルクセンブルクによるドイツ社会民主党の戯画化を借用して、ソヴェト指導部を「腐臭を放つ死体」だと呼んだ)。//
 にもかかわらずレーニンは、ソヴェトは-再活性化した革命的指導部のもとで-ブルジョアジーからプロレタリア-トへの権力の移行にとってきわめて重要な組織になるだろうと予見した。
 レーニンの四月テーゼのスローガンの一つである「全ての権力をソヴェトへ!」は、実際には、階級戦争の呼びかけだった。
 「平和、土地、パン」は四月の別のスローガンだったが、同様に革命的な意味合いがあった。
 レーニンの言う「平和」は、帝国主義戦争から撤退することだけではなくて、その撤退は「資本主義の打倒なくしては…<不可能>だ」と認識することをも意味した。
 「土地」は、土地所有者の資産を没収し、農民が自分たちにそれを再配分することを意味した。-農民の随意による土地取得にきわめて近いものだった。
 「革命的民主主義のど真ん中で内戦の旗を掲げている」というレーニンに対する批判が生じたのは、不思議ではなかった。(10)//
 レーニンの見方と指導性を尊重してきたボルシェヴィキは、彼の四月テーゼに衝撃を受けた。ある者は、レーニンは国外にいる間にロシアの生活の現実に関する感覚を失ったのではないかと考えた。
 しかし、レーニンの訓戒と叱責を受けて数ヶ月のうちに、ボルシェヴィキは社会主義者の連立から離脱するという、より非妥協的な立場へと移行した。
 しかしながら、ボルシェヴィキなくしてもペテログラード・ソヴェトの多数派は形成されていたので、「全ての権力をソヴェトへ!」というレーニンのスローガンはボルシェヴィキに実践的な行動指針を与えはしなかった。
 レーニンの戦略は秀れた政治家のそれだったのか、それとも偏頗な過激主義者-古い社会主義者のプレハノフの左翼側の対応者-のそれだったかは、未解明の問題であるままだ。プレハノフは、戦争問題に関する留保なき愛国主義のために、ロシアの社会主義者政治家の主流から外された。//
 かつての偏狭な不一致を抑えることを誇りとする、ソヴェトに関係するたいていの政治家には、社会主義者の一体性の必要は自明のことだと思われた。 
 6月、ソヴェトの第一回全国大会の際、ある発言者が否定の返答を想定して修辞的に、いずれかの政党に単独で権力の責任を負う用意があるだろうかと問うたとき、レーニンは「その政党はある!」と言って遮った。
 しかし、ほとんどの大会代議員にとって、それは真面目な挑戦ではなく虚勢のように聞こえた。
 しかしながら、、ボルシェヴィキは民衆の支持を得つつあり、連立する社会主義者は失いつつあったので、真面目な挑戦の言葉だった。//
 6月のソヴィエト大会の際にはボルシェヴィキはまだ少数派で、大都市での選挙でさらに勝利しなければならなかった。
 しかし、ボルシェヴィキの強さが大きくなっていることはすでに草の根レベルで-労働者の工場委員会、軍隊内の兵士・海兵委員会および大きな町の地方的地区ソヴェトで-明白だった。
 ボルシェヴィキの党員数も、劇的に増加していた。党は大衆的に入党させる運動をする正式の決定をしておらず、多数の流入にほとんど驚いたように見えたけれども。
 党員の数は、確実なものではなくておそらく実際よりも誇張されてはいるが、その拡大をある程度は示している。すなわち、二月革命のときのボルシェヴィキ党員は2万4000人(この数字は、ペテログラードの党組織は2月には実際には約2000人だと識別しており、モスクワの組織は同じく600人なので、とくに疑わしい)、4月の終わり頃に10万人以上、そして1917年十月には総計で35万人だった。これには、ペテログラードおよびその近郊地方の6万人、モスクワおよびそこに近い中央工業地域での7万人が含まれる。(11)
 --------
 (10) V. I. レーニン, 全集(Moscow, 1964)24巻p.21-26。レーニンが引用する批判者は、Goldenberg。
 (11) 党員の数字に関する注意を払った分析として、T. H. Rigby, <ソヴェト同盟の共産党員-1917-1967年>(Princeton, NJ, 1968), Ch. 1.を見よ。
 ----
 第3節・民衆の革命。
 1917年の初頭に、軍には700万の男たちがおり、200万人の予備兵もいた。
 軍隊は多大な損失を被り、脱走率の増大や前線でのドイツ人との交流への反応から見て戦争疲れのあることは明確だった。
 兵士たちから見て二月革命とは戦争がまもなく終わるという暗黙の約束で、彼らは臨時政府が-主導しなくともペテログラード・ソヴェトの圧力によって-それを実現するのを辛抱強く待った。
 1917年の早春に、選出された委員会という新しい民主主義的構造をもち、不十分な供給という昔からの問題を抱え、そして不安で不確実な雰囲気のあった軍は、せいぜいのところ、有効性の疑わしい戦闘部隊だった。
 前線では、志気が完全に喪失していたというわけではなかった。
 しかし、予備兵団が駐留している、国の周囲の守備軍団の状況は、かなり険悪なものだった。//
 1917年のロシアの兵士と海兵たちは、伝統的に、制服を脱いだ場合の職業を無視して、「プロレタリア-ト」に分類されてきた。
 実際には入隊している者たちのたいていは、農民だった。バルト艦隊や北部および西部の前線の部隊では、彼らが入隊した地域が比較的に工業化されていたために、不均衡に労働者が多かったけれども。
 マルクス主義の概念上は、軍隊の兵士たちは現在の仕事を理由としてプロレタリア-トだということは、議論の余地がある。しかし、より重要なのは、この問題は明らかに、彼らはどのように自分たち自身のことを意識していたのか、だ。
 Wilderman の研究が示すように (12) 、1917年春に前線にいた兵士たちは-革命と新しい行動規範を受け入れる将校たちと協力する心づもりがあったときですら-、将校と臨時政府は一つの階級、「ご主人」の階層に属していると考え、自分たちの利益は労働者やペテログラード・ソヴェトのそれと一体のものだとみなしていた。
 5月までに、最高司令官が警戒して報告したように、将校と兵士たちの間の「階級対立」が軍の愛国的連帯精神の中に深く浸入していた。//
 ペテログラードの労働者は2月に、革命的精神をすでに力強く示した。「ブルジョア」的臨時政府の設立に抵抗するほどに十分に戦闘的で、その心理的な用意があったわけではなかったけれども。
 二月革命後の最初の数ヶ月、ペテログラードその他で表明された不満は経済的なもので、一日八時間労働(戦時という非常時を根拠にして臨時政府はこれを拒否した)、賃金、超過勤務、および失業に対する保護のような日常的問題に焦点を合わせていた。(13)
 しかし、ロシア労働者階級にある政治的戦闘性の伝統からして、この状態がつづいていく保証はなかった。
 戦争が労働者の構成を変えたというのは本当のことだ。労働者の全体数がいくぶんは増大したのはもちろんだが、女性の割合も大きく増えた。
 女性労働者は男性よりも革命的ではないと、通常は考えられてきた。
 だが、国際女性日でのストライキが二月革命のきっかけになったのは、女性労働者だつた。また、前線に夫をもつ女性労働者たちは、戦争の継続に反対する傾向がとくに強かった。
 ペテログラードは、熟練技術をもつ男性労働者が徴兵義務を免除された軍需産業の中心地として、戦前からの男性労働者階級のうちの比較的に大きな割合を、工場に雇用していた。 
 戦争初期のボルシェヴィキの摘発にもかかわらず、また、その後の、工場にいる多数の政治的問題者の逮捕や軍事召集にかかわらず、ペテログラードの大きな冶金や防衛の工業施設は、ボルシェヴィキや他の革命的諸政党に所属する、驚くべきほどに多くの労働者を雇用し続けていた。戦争勃発の後でウクライナやその他の帝国部分から首都にやって来た、ボルシェヴィキの職業的な革命家をもすら。
 他の革命的労働者たちは、二月革命後に工場に戻った。そのことは、さらなる政治不安の潜在的可能性を増大させていた。//
 二月革命は、ロシアの工業中心部全てに、とくにペテログラードとモスクワに、労働者の力強い陣容を生み出した。
 労働者ソヴェトはペテログラード・ソヴェトのような都市レベルだけではなく、より下位の都市的地域でも設立された。後者では、指導部が社会主義的知識人ではなくて、通常は労働者自身で成っており、その雰囲気はしばしばより急進的だった。
 新しい労働組合も、結成された。そして、労働者たちは、工業施設レベルで、経営にかかわるべく工場委員会を設立し始めた(これは労働組合組織の一部ではなく、ときには地方の労働組合支部と共存した)。
 最も草の根に近い工場委員会は、全ての労働者組織の中で最も急進的になる傾向にあった。
 ペテログラードの工場委員会では、ボルシェヴィキが1917年5月までに、支配的地位を獲得した。//
 工場委員会の元来の機能は、資本家による工業施設の経営に対する労働者のための監視者(watchdogs)であることだった。
 この機能を表現するために使われた言葉は「労働者による統制(control)」(rabochii kontrol)で、経営上の意味での統制(支配)ではなくて監視(supervision)を含意させていた。
 しかし、工場委員会は実際には、しばしばさらに進んで、経営上の機能も奪い取り始めた。
 ときには、これは雇用や解雇の統御をめぐる紛争にかかわった。あるいは、いくつかの工業施設で労働者が人気のない作業長や幹部を手押し車に押し込んだり、川に投げ込んだりするに至る一種の階級対立の産物になった。
 別の例で言うと、工場委員会は、所有者または経営者が金がかかるとの理由で工業施設を放棄したり、閉鎖すると脅かしたときに、労働者を失業から守るために事業を引き継いだ。
 このような事例がより一般的になってくるにつれて、「労働者による統制」の意味は、労働者による自己経営のようなものに接近してきた。//
 労働者の政治的雰囲気がより戦闘的になり、ボルシェヴィキが工場委員会での影響力を獲得するにつれて、このような変化が生じた。
 戦闘性とは、ブルジョアジーに対する敵意と労働者の革命における優越性を意味した。変化した「労働者による統制」の意味が、労働者は彼らの工業施設の主人であるべきだというのと全く同じように。こうして、「ソヴェトの権力」とは労働者は地区、都市およびおそらくは国家全体の単一の主人であるへきだということを意味するという考えが、労働者階級に出現してきた。
 これは政治理論としては、ボルシェヴィズムよりもアナキズムやアナクロ・サンディカリズムに近いものだった。そして、ボルシェヴィキの指導者たちが、工場委員会やソヴェトを通じての労働者による直接民主主義は党が指導する「プロレタリア-トの独裁」という彼ら自身の考え方に至るあり得るまたは望ましい選択肢の一つだという見方に、実際に賛同したのではなかった。
 にもかかわらず、ボルシェヴィキは現実主義者だった。そして、1917年夏の政治的現実はその党が工場委員会の強い支持を得ているということであり、彼らはその支持を失うのを欲しはしなかった。
 その結果として、ボルシェヴィキは、何を意味させるのかを厳密には定義しないままで、「労働者による統制」を擁護した。//
 使用者たちは、大きくなる労働者階級の戦闘性に対して警告を発した。多くの工業施設が閉鎖され、ある著名な実業家は用心深く、「飢えて痩せた手」は最後には都市労働者が秩序を回復する手段になるかもしれない、という意見を表明した。
 しかし、田園地域では、土地所有者の農民層に対する警戒と恐怖の方がはるかに強かった。
 二月のときに村落は平穏で、若い農民の多くは、兵役へと徴用されていたためにいなかった。
 しかし、5月までに、明らかに田園地域は、都市革命に反応して1905年にそうだったように、騒乱に陥った。
 1905-6年でのように、地主の邸宅は略奪されて燃やされた。
 加えて、農民たちは私有地や国有地を自分たちが使うために奪取していた。
 夏の間、騒擾が多くなったときに、多数の土地所有者が資産を放棄して田園地域から離散した。//
 ニコライ二世は、1905-6年反乱の後でも、地方の役人や土地所有貴族の意見がどうであれロシアの農民はツァーリを敬愛しているという考えに縋りついていた。しかし、多数の農民は君主制の崩壊と二月革命の報せに、それと全く異なる反応をした。
 農民ロシア全体で、新しい革命は貴族たちのかつての不当な土地に関する権限を破棄したことを意味する-または意味させるべきだ-と想定されていたように見える。
 土地は耕作する者に帰属すべきだと、農民たちは春に、臨時政府に対する夥しい請願書で書いた。(14)
その具体的言葉で農民たちが意図したのは、農奴のごとく貴族のために耕作してきた、そして農奴解放の取り決めによって土地所有貴族が保有している土地を自分たちが取得すべきだ、ということだった。
 (この土地の多くは当時には土地所有者から農民に賃貸されていた。別の事例では、雇用労働者として地方の農民を使って、土地所有者が耕作していた。)//
 農民たちが半世紀以上前の農奴制時代に溯る土地に関する考え方を抱いていたとすれば、ストリュイピンが第一次大戦前に実施した農業改革が農民の意識にほとんど影響を与えなかったというのは、何ら驚くべきことではない。
 まだなお、1917年に、農民の<ミール>が明らかに活力を有していることは、多くの人々には衝撃だった。
 マルクス主義者たちは1880年代以降、<ミール>は基本的には内部的に解体しており、国家がそれを有用な装置だと考えただけの理由で存続している、と主張してきた。
 紙の上では、ストリュイピンの改革の効果によって欧州ロシアの村落の相当程度に高い割合で<ミール>は解体することになっていた。
 だが、それにもかかわらず、<ミール>は明らかに、1917年の農民の土地に関する思考における基本的な要素だった。
 請願書で彼らは、貴族たち、国家および教会が保有している土地の平等な再配分を求めた。-つまり、<ミール>が村落の田畑に関して伝統的に行ってきた村落世帯間での平等な再配置と同じ種類のものを。
 1917年夏に非合法の土地略奪が大規模で始まったとき、その略奪は個々の農民世帯のためではなくて村落共同体のために行われた。そして、一般的な態様は、かつての土地を伝統的に分割してきたように<ミール>がすみやかに村民へと新しい土地を分割する、というものだった。
 さらに加えて、しばしば<ミール>は、かつての構成員に対するその権能を、1917-18年にあらためて主張した。すなわち、戦前に<ミール>に自立小農民として身を立てる力を残したストリュイピンの「分割者」は、多くの場合は彼らの保有物をもう一度、村落の共有地に戻して、それと一体となるように強いられた。//
 土地問題の深刻さや1917年春以降の土地奪取に関する報告にもかかわらず、臨時政府は、土地改革の問題を先送りにした。
 リベラルたちは、原理的には私有地の収奪に反対ではなかった。そして、一般的には農民の要求は正当なものだと考えていたように見える。
 しかし、いかなる急進的な土地改革も、明らかに重大な問題を惹起させただろう。
 第一に、政府は、土地の収奪と譲渡のための複雑な公職機構を設定しなければならなかっただろう。それはほとんど確実に、当時の行政上の能力を超えるものだった。
 第二に、政府は、たいていのリベラルたちが必要だと考えていた土地所有者に対する多額の補償金を何とかしでも支払うことはできなかっただろう。
 臨時政府の結論は、立憲会議が適正に解決するまで、問題を棚上げするのが最善だ、というものだった。
 その間に、政府は農民に対して(ほとんど役に立たなかったけれども)、かりにでも一方的に制裁することはない、と通告した。//
 --------
 (12) Wilderman, <ロシア帝国軍隊の終焉>。1917年2月-4月の軍というその中心主題に加えて、この書物は、二月の権力移行に関する利用可能な最良の分析の一つを提供している。
 (13) Marc Ferro, <1917年2月のロシア革命>, J. L. Richards 訳(London, 1972), p.112-121.
 (14) 多様な民衆の反応について、Mark D. Steinberg, <革命の声-1917年>(New Haven & London, 2001)にある資料文書を見よ。
 ----
 第二章(二月と十月の革命)のうち第2節(ボルシェヴィキ)と第3節(民衆の革命)の試訳が終わり。

1806/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑥。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017). 試訳第6回。
 注記-the (a) Constituent Assembly は「憲法制定会議(-議会)」とするのが<定訳>のようでもあるが、ここでは「立憲会議」という語で訳出する。予定されていた会議(集会)は「憲法」制定を目的にしたものではなく(正確には「国制」の基本的あり方を決定するためのものであり)、ボルシェヴィキを含む各政党・党派が各党独自の「憲法草案」を用意して競った、というものでは全くないからだ。
 ----
 第二章・二月と十月の革命。
 (はじめに)

 1917年2月、民衆の集団示威行進と体制への支持の撤退を見て、専制体制は崩壊した。
 革命の高揚感からして、政治的解決の方策は簡単であるように見えた。
 ロシアの将来の統治形態は、もちろん民主政的(democratic)だっただろう。
 この曖昧な言葉とロシアの新しい国制(constitution)の性格の正確な意味は、情勢が許すかぎりですみやかにロシア民衆が選出する立憲会議(the Constituent Assembly)が決定するだろう。
 それまでの間は、エリートの革命と民衆の革命とが共存するだろう。1905年の国民の革命的連帯という栄光の日々にそうだったように。-前者の範疇にはリベラル政治家たち、有資産階層と専門家階層、および上級官僚層が入り、後者の範疇には、社会主義政治家たち、都市的労働者階級および兵士や海兵という軍人たちが入る。
 制度の観点から言うと、新しい臨時政府(Provisional Government)はエリート革命を代表し、新たに再生したペテログラード・ソヴェトは民衆の革命を代弁するだろう。
 これら二つの関係は、競争的ではなくて補完し合うものだろう。そして、「二重権力」(dual power)(この語は臨時政府とソヴェトの共存を示すために使われた)は、弱さではなくて強さの淵源になるだろう。
 ロシアのリベラルたちは結局のところ、社会主義者たちを同盟者だと見なす傾向に伝統的にあった。社会主義者たちの社会改革への特別の関心は、政治的民主主義化というリベラルたち自身の特別の関心と類似していて、併存可能だったのだ。
 同じように、ロシアのたいていの社会主義者には、リベラルたちを同盟者だと見なす心づもりがあった。リベラルたちは、ブルジョア的でリベラルな革命が政治課題の第一段階で、社会主義者は専制体制に反対する闘いでそれを支援せざるを得ないという、マルクス主義の考え方を受容していたのだから。//
 だが8ヶ月以内に、二月の希望と期待は、朽ち果てた。
 「二重権力」は、権力の真空を覆い隠す幻想だと分かった。
 民衆革命は、徐々に過激になっていった。一方でエリート革命は、財産、法と秩序を守ろうとする不安気で保守的な立場の方向へと動いた。
 臨時政府は、将軍コルニロフ(Kornilov)による右からのクーの試みを辛うじて生き延び、10月のボルシェヴィキによる左からの成功したク-には屈服した。後者は一般的には、「全ての権力をソヴェトへ」というスローガンを連想させた。
 長く待った立憲会議は召集されたが、1918年1月にボルシェヴィキが無作法に解散させたので、何ごとも達成されなかった。
 ロシアの周縁部では、旧帝制軍の将校たちがボルシェヴィキと闘う勢力を集結させていた。ある範囲の者たちは、1917年に永遠に消失したと思われた君主制の旗のもとにいた。
 革命は、リベラルな民主政体をロシアに生み出さなかった。
 その代わりに、アナーキー〔無政府状態〕と内戦とをもたらした。//
 民主主義の二月から赤い十月への一気の推移は、勝者と敗者のいずれをも驚かせた。
 ロシアのリベラルたちには、衝撃は巨大だった(traumatic)。
 革命がついに起きた-<彼らの>革命は、西側ヨーロッパの歴史が明確に例証し、正当に思考するマルクス主義者すら同意するように正しいはずのものだった。しかしその革命は、彼らの手中から、邪悪で理解し難い勢力が奪い去っていっただけだった。
 メンシェヴィキとその他の非マルクス主義者たちは、同様にひどく憤慨した。すなわち、プロレタリア-トの社会主義革命には、時機がまだ成熟していない。マルクス主義政党がルールを破って権力を奪取するなどとは、釈明することができないことだ。
 ヨーロッパでの戦争の仲間である連盟諸国は、突然の政府崩壊に呆然として新政府の承認を拒絶した。このことは、ロシアを戦争から一方的に閉め出す用意をすることだった。
 外交官たちは、ロシアの新しい支配者の名前すらほとんど知らなかった。しかし、最悪のことの発生を疑い、彼らが2月に歓迎した民主政の希望がすみやかに復活するようにと祈った。
 西側の新聞の読者は、文明化から無神論の共産主義(Communism)という野蛮な深みへとロシアが崩落したことを、恐怖とともに知った。//
 十月革命が残した傷痕は深かった。そしてそのことは、ボルシェヴィキの勝利に続いた内戦の間または直後に国外逃亡した多数の教養あるロシア人によって、外部世界にもより痛ましくかつより理解できるようになった。
 エミグレたちにとって、ボルシェヴィキ革命はギリシャの意味での悲劇だというよりもむしろ、予期していない、不当で、本質的には不公正な災難だった。
 西側の、とくにアメリカの世論にとって、ロシアの民衆はそのために長く高潔に闘ってきたリベラルな民主主義に欺されたように思えた。
 ボルシェヴィキの勝利を説明することのできる陰謀論が、広い範囲で信憑性を獲得した。
 そのうち最も知られているのは、国際的なユダヤ人による陰謀だとの説だった。トロツキー、ジノヴィエフおよび多くの他のボルシェヴィキ指導者はユダヤ人だったのだから。
 だが、Solzhenitsyn の<チューリヒのレーニン>が蘇らせた別の論は、ボルシェヴィキはドイツの人質だったと描き、ドイツは〔ボルシェヴィキを使って〕ロシアを戦争から追い出す策略に成功した、とする。
 もちろん歴史研究者は、陰謀論には懐疑的な傾向にある。
 しかし、このような議論が盛んになることを可能にした感じ方は、この問題に対する西側の学問的接近方法にも影響を与えた。
 ほんの最近まで、ボルシェヴィキ革命に関する歴史的説明は、何らかの方法でその非正統性を強調した。まるで、事件とその結末について、ロシアの民衆をいかなる責任からも免れさせようとしているかのごとく。//
 ボルシェヴィキの勝利とその後のソヴィエト権力の展開に関する西側の古典的解釈によると、<問題解決の神>(deus ex machina)は、党の組織と紀律という、ボルシェヴィキの秘密兵器だった。
 レーニンの小冊子<何をなすべきか>(上述、p.32参照)は非合法の陰謀的政党が成功するための組織に関する必要条件を述べたもので、基本的なテキストとしてつねに引用された。
 そして、<何をなすべきか>が示した考え方は成長期のボルシェヴィキ党の型を形成し、1917年2月の地下からの最終的な出現の後ですらボルシェヴィキの行動を決定し続けた、と主張された。
 ロシアでの二月以降の開かれた民主主義的な多元主義的政治は、それゆえに弱体化し、陰謀組織による十月のクーによるボルシェヴィキの非合法の権力奪取でもって頂点に達したのだ、と。
 中央志向の組織と厳格な党紀律というボルシェヴィキの伝統によって、新しいソヴィエト体制は抑圧的な権威主義の方向へと向かい、のちのスターリンの全体主義的独裁制の基礎を設定した、と。(1)
 だが、ソヴィエト全体主義の起源というこの一般的な考えを1917年の二月と十月の間に展開した特有の歴史的状況へと適用するのは、つねに問題があった。
 第一に、かつての秘密結社的ボルシェヴィキ党には新しい党員が大量に流入した。とくに工場や軍隊からの新規加入は、他の全ての政党を凌駕していた。
 1917年の半ばまでに、ボルシェヴィキ党は開かれた大衆政党になっていて、<何をなすべきか>で叙述された一日中を働く革命家たちの紀律あるエリート組織とはほとんど似ていなかったのではないか?
 第二に、党全体も党指導者も、1917年の最も基本的な政策問題に関して一致していなかった。
 例えば10月に、蜂起が望ましいか否かに関して党指導者内部に大きな不一致があったために、その論点についてボルシェヴィキは、日刊新聞上で公的に議論した。//
 1917年のボルシェヴィキの力強さは厳格な組織と規律にあるのではなく(当時はほとんど存在しなかった)、政治の射程での極左に位置する頑強な急進主義だった、と言えるかもしれない。
 他の社会主義やリベラルのグループは、臨時政府やペテログラード・ソヴィエト内での地位を求めて競い合った。一方でボルシェヴィキは、選任されるのを拒み、連立と妥協の政策を非難した。
 従前は急進的だった他の政治家は節度と責任を、そして政治家らしい指導力を求めた一方で、ボルシェヴィキは、責任がなくかつ戦闘的な革命的群衆とともに街頭に出ていた。
 「二重権力」構造が解体し、臨時政府とペテログラード・ソヴェト指導層に代表される連立諸党派への信頼が失墜したとき、ボルシェヴィキだけが利益を得る立場にあった。
 社会主義諸政党の中で、ボルシェヴィキだけがマルクス主義者としての良心の咎め(scruples)を抑制し、群衆の空気を掴み、プロレタリア革命の名のもとで権力を奪取する気概があることを宣言した。//
 臨時政府とペテログラード・ソヴェトの「二重権力」関係は、階級の観点から、ブルジョアジーとプロレタリア-トの間の同盟だとつねに考えられてきた。
 それの存続は、これら両階級やそれらを代表すると主張する政治家たちの間の継続的な協力関係に依存していた。
 しかし、二月の脆弱な合意は、1917年夏までには深刻なほどに掘り崩されていた。
 都市社会が法・秩序の右派と革命的左派にますます分極化していったとき、民主主義的連立という中間的な基盤は、粉々になり始めた。
 7月、労働者、兵士および海兵はペテログラードの街頭に出現して、ソヴェトが労働者階級の名前で権力を奪取することを主張し、臨時政府の「10人の資本主義大臣」を非難した。
 8月、コルニロフ将軍のクーが失敗した月、指導的な実業家はリベラル派に対して、自分たちの階級利益を守るためにもっと断固であれと、つぎのように迫った。
 『我々は…、現在の革命はブルジョア革命であり、現に存在しているブルジョア秩序は不可避だ、と言うべきだ。そして、不可避であるがゆえに、完璧に論理的な結論を導出しなければならず、国家を支配する者はブルジョア的様式で思考し、ブルジョア的様式で行動しなければならない。』(2)
 「二重権力」は立憲会議が招集されるまでの暫定的な仕組みだと考えられていた。
 しかし、左派と右派からの攻撃を受けてそれが解体し、ロシアの政治がいっそう分極化したことは、1917年半ば頃、現時点に関してはもちろんのこととして将来に関する憂慮すべき問題を生じさせた。
 ロシアの政治的諸問題は民衆により選出される立憲会議と西側モデルによる議会制民主主義の形式的な制度化によって解決することができる、という望みは、まだ合理的だったのか?
 立憲会議による解決は、暫定的な「二重権力」のように、ある程度の政治的な一般的合意と妥協が必要であることについての了解を必要とした。
 合意と妥協に至る、気づかれていた代替選択肢は、独裁制や内戦だった。
 しかしながら、これらの代替案は、政府の手綱を放り捨てた、動揺して鋭く分極化した社会によって選択されそうに見えた。//
 --------
 (1) この議論に関する批判的な歴史編集的考察として、Stephen F. Cohen, <ボルシェヴィズムとスターリニズム>, in: Robert C. Tucker, ed., <スターリニズム>(New York, 1977)を見よ。
 (2) W. Rosenberg, <ロシア革命におけるリベラル派>(Prinston, NJ, 1974)p.209 から引用した。
 ----
 第1節・二月革命と「二重権力」。
 2月の最終週、食糧不足、ストライキ、ロックアウト、そして最後にヴィボルク地区での女性労働者による国際女性日記念の集団示威行進が、群衆をペテログラードの街頭へと送り込んだ。これを当局は、解散させることができなかった。
 会期の最後に達していた第四ドゥーマは皇帝に対して、責任ある内閣の再度の設置と危機存続中の会期延長とを懇願した。
 いずれの要望も、拒否された。
 しかし、カデット党内リベラル派および進歩派が支配していたドゥーマの無権限の委員会は、実際は開会中のままだった。
 皇帝の閣僚たちは最後の、何も決定しない会合を開き、そして逃げ去った。彼らのうちの用心深い者は、即時に首都を離れた。
 ニコライ二世自身は出席しておらず、モギレフ(Mogilev)にある軍最高司令部を訪れていた。
 危機に対する彼の反応は、騒擾はただちに終焉させるべしという、電報でのわずかな言葉による指示だった。
 しかし、警察は解体しつつあり、ペテログラード守備軍から群衆を統制すべく市内に派遣された兵士たちは、群衆に同調し始めた。
 ペテログラードの軍司令官は、革命的群衆が全鉄道駅、全銃砲施設、そして知る限りで市の全体を奪い取った、と報告しなければならなかった。
 彼の指示を受け入れる信頼できる兵団はほとんど残っていなかった。そして、彼の電話ですら作動しなくなっていた。//
 軍の最高司令部には、二つの選択肢があった。一つは新しい兵団を送り込むことだが、彼らは結束するかもしれないけれども、そうしない可能性もあった。もう一つは、ドゥーマの政治家の助けを借りて政治的解決を追求することだった。
 軍最高司令部は、後者を選択した。
 モギレフからの帰路にあったプスコフ(Pskov)で、ニコライの列車に最高司令部とドゥーマからの使者がやって来た。彼らはニコライに恭しく、皇帝位を放棄するように示唆した。
 若干の議論のあとで、ニコライは穏やかに同意した。
 しかし、最初は彼の子息へと譲位するという提案を受け容れたのだったが、皇太子アレクセイの健康をもう一度考えて、自分と子息のために退位するのではなく、弟のミハエル大公に譲位すると決断した。
 つねに家庭的だったニコライは、驚くべき平穏さをもって、また自分の私人としての将来に関する政治的無邪気さをもって残りの旅を過ごした。//
 『〔対ドイツ戦争という〕対立が続いている間は外国へ行こう、そしてロシアに戻り、クリミアに定住して、子息の教育に完全に没頭したい、と彼は言った。
 彼に対する助言者のある者は、彼はそうするのを許されるだろうかと疑った。しかし、ニコライは、子どもの世話をする権利を否定する親はどこにもいない、と答えた。』(3)//
(ニコライは首都に到着したあと、家族と一緒になるためにペテログラードの外に送られた。そのあと、臨時政府と連盟諸国が彼の処遇を決めようとしている間は、軟禁状態で静かにしていた。
 のちに家族全員がシベリアに、ついでウラルに送られた。まだ軟禁状態で、かつ状況はますます困難になっていたが、ニコライは強い精神力でそれに耐えた。
 1918年7月、内戦開始のあとで、ニコライとその家族は、ボルシェヴィキのウラル・ソヴェトの指令にもとづいて処刑された。(4)
 退位からその死のときまで、ニコライは実際に私人として振る舞い、積極的な政治的役割はいっさい果たさなかった。)
 ニコライの退位につづく日々、ペテログラードの政治家たちは、高度に興奮し熱狂的に行動する状態だった。
 彼らの元来の意図は、君主制ではなくてニコライを取り去ることにあった。
 しかし、ニコライのその子息への譲位は、アレクセイが未成年の間の摂政政治の可能性をも奪い取った。
 そして、賢明な人物のミハエル大公は、兄を嗣ぐという誘いに乗り気ではなかった。
 したがって、ロシアは事実上もはや君主制国ではなかった。//
 国家の将来の統治形態はいずれ開催される立憲会議(a Constituent Assembly)で決定される、それまでの間は自己任命の「臨時政府」が従来の帝国閣僚会議の責任を引き継ぐ、と決定された。
 ゼムストヴォ連盟の長で穏健なリベラルのルヴォフ(Georgii Lvov)公が新政府の長になった。
 彼の内閣には、歴史学者でカデット党の理論家のミリュコフ(Pavel Milyukov)が外務大臣として、二人の著名な実業家が財務大臣および通商産業大臣として、社会主義者の法律家であるケレンスキー(Aleksandr Kerensky)が司法大臣として入った。//
 臨時政府には選挙による委任(mandate)がなく、その権威は、今は消滅したドゥーマ、軍最高司令部の同意およびゼムストヴォ連盟や戦時産業委員会のような公共的組織との非公式の合意に由来した。
 旧帝制の官僚機構はその執行的機能を提供したが、先立つドゥーマの解体の結果として、臨時政府にはそれを支える立法機関がなかった。
 脆弱でありかつ形式上の正統性が欠けていても、新政府が権力を掌握することはきわめて容易であると思われた。
 連盟諸国はただちに、それを承認した。
 ロシアで一夜にして君主主義感情が消滅したように見えた。第十軍の全体と二人の将校だけが、臨時政府に忠誠を誓うことを拒否したのだ。
 リベラルのある政治家は、のちにこう振り返った。//
 『多くの個人や組織は、新権力への忠誠を表現した。
 Stavka〔軍司令部〕は全体として、それに続いて全ての司令官たちも、臨時政府を承認した。
 帝制期の大臣たちや副大臣の何人かは、収監された。しかし、その他の官僚たちはそれぞれの職にとどまった。
 各省、役所、銀行、実際にはロシアの政治機構の全体が、作動するのを止めなかった。
 この点では〔二月の〕クー・デタは順調に過ぎ去ったので、その当時ですら、これは終わりではない、こんな危機がこれほど平和裡に過ぎ去ることはありえない、という漠然とした胸騒ぎを覚えたほどだった。』(5)//
 実際、まさに最初から、権力移行の有効性を疑うことのできる理由はあった。
 最も重要なのは、臨時政府には競争相手があった、ということだ。すなわち、二月革命は、全国的な役割を主張する、一つではなく二つの自己形成的権威を生んだ。
 第二のものはペテログラード・ソヴェトで、労働者、兵士および社会主義政治家による1905年のペテルブルク・ソヴェトを範型として形成された。
 3月2日に臨時政府の設立が発表されたとき、ソヴェトはすでにタウリダ宮で会合をしていた。//
 臨時政府とペテログラード・ソヴェトの二重の権力関係は自然に明らかになってきたもので、政府はそう選択するしかなかったためにこれを広く受け容れた。
 最も現実的な面から述べると、自由にできる力を持たない10人ほどの大臣は、むさ苦しい労働者、兵士および海兵たちの群れから王宮(政府とソヴェト両者の最初の会合場所)を無事に通過することがほとんどできなかった。彼らは中をどしどしと歩き回り、外に向かって演説し、食べて、寝て、議論し、宣言文を書いていた。
 断続的にソヴェトの部屋に突入してきて、捕まえた警察官やかつての帝制期大臣を〔ソヴェトの〕代議員のもとに残していく、そのような群衆の雰囲気は、何とか通り過ぎようとの意図を萎えさせたに違いない。
 もっと広い観点からは、戦時大臣だったグチコフ(Guchkov)は3月初めに、軍の最高司令官に対してこう説明していた。//
 『臨時政府は、本当の(real)権力を何も持っていない。
 その公的な命令は、労働者・兵士代表ソヴェトが許す範囲でのみ実施される。ソヴェトは、本当の権力の本質的な要素を全て享有している。兵団、鉄道、郵便および電信、これらは全て、彼らの手中にあるからだ。
 平易に言うと、臨時政府は、ソヴェトが許容しているかぎりでのみ存在している。』(6)//
 最初の数ヶ月、臨時政府は主としてリベラルたちで構成されていた。一方、ソヴェトの執行委員会は社会主義者の知識人によって、党派所属上は主としてメンシェヴィキとエスエルによって占められていた。
 臨時政府の一員でありかつ社会主義者でもあるケレンスキーは、二つの組織を結び合わせるめに活動し、両者の間の連絡者として働いた。
 ソヴェトの社会主義者たちは、ブルジョア革命がその行程を終えるときまで労働者階級の利益を守るために、臨時政府に対する監視者(watchdogs)として行動するつもりだった。
 このようなブルジョアジーに対する敬意は、一つには、社会主義者が良きマルクス主義教育を受けていたからであり、二つには、警戒と不確実さの産物だった。
 ソヴェトのメンシェヴィキ指導者の一人であるスハノフ(Nikolai Sukhanov)が記したように、先には厄介なことが起きそうだった。そしてリベラルたちが責任をもち、必要ならば責めを甘受した方がよかったかもしれない。//
 『ソヴィエトの民主政は、権力を階級敵である有資産要素に託さなければならなかった。その者たちの関与がなければ、解体という絶望的状況で行政の技術を急に修得することはできなかったし、帝制主義者やそれと一体となったブルジョアジーをうまく処理することもできなかっただろう。
 しかし、この移行の<条件>は、近い将来での階級敵に対する完全な勝利という民主政体を確実にするものでなければならない。』(7)
 しかし、ソヴィエトを構成した労働者・兵士・海兵は、さほどに用心深くはなかった。
 臨時政府の公式の樹立またはソヴィエトでの「責任ある指導者層」の出現よりも前の3月1日、悪名高い命令第一号がペテログラード・ソヴェトの名前で発せられた。
 命令第一号は革命的文書で、ソヴィエトの権力を主張するものだった。
 それは、選挙された兵士委員会の設立による軍の民主主義化、将校の懲罰権限の削減、軍隊に関する全ての政策問題に関するソヴィエトの権限の承認を要求した。すなわち、ソヴィエトの副署がないかぎりは、いかなる政府のまたは軍の命令も有効ではない、と述べていた。
 命令第一号は、現実に将校をその地位に確保するための選挙の実施を要求するものではなかった。また、そのような選挙は実際には、より規則に則らない単位で組織されてきていた。
 そしてまた、数百人の海軍将校たちがクロンシュタットとバルティック艦隊の海兵によって二月の時期に拘束されて殺害された、という報告があった。
 ゆえに、命令第一号は、階級戦争を強調する意味をもつもので、階級の協力という展望についての保障を提供することは全くできなかった。
 これは、二重権力という最も機能できない形態を予兆した。つまり、軍隊に入った者たちはペテログラード・ソヴェトの権威だけを承認し、一方で将校団は臨時政府の権威だけを承認する、という状況の予兆だった。//
 ソヴィエトの執行委員会は、命令第一号が意味させていた急進的立場から退却をすべく最大限の努力をした。
 しかし、スハノフは4月に、執行委員会が事実上臨時政府と連立していることが生んだ「大衆からの孤立」について論評した。
 もちろんそれは、部分的な連立だった。
 ソヴィエト執行委員会と臨時政府の間では、労働政策や農民の土地要求の問題について、対立が頻出していた。
 また、ヨーロッパの戦争へのロシアの関与に関して、重要な不一致もあった。
 臨時政府は、戦争努力をしっかりと行い続ける立場だった。そして、外務大臣のミリュコフによる4月18日の覚書は、コンスタンチノープルとその海峡に対するロシアの支配の拡大(ツァーリ政府と連盟諸国とで調印された秘密条約で同意されていた)に利益を持ち続けることすら意味させていた。大衆的な抗議と新しい街頭示威行進によって、ミリュコフは辞任を余儀なくされた。
 ソヴィエト執行委員会は「防衛主義」の立場を採った。ロシアの領土が攻撃されている間は戦争継続に賛成するが、併合主義的戦争意図や秘密条約には反対する、というものだ。
 しかし、ソヴェトの側では-そして街頭、工場、とくに守備軍団では-、戦争に対する態度はより単純でかつ強烈なものになる傾向にあった。すなわち、戦闘をやめよ、戦争から抜け出せ、兵士たちを故郷に。//
 ペテログラード・ソヴェトの執行委員会と臨時政府の間に進展した関係は、1917年の春と夏には熱心で、親密で、そして議論を嫌がることがなかった。
 執行委員会は、その別々の主体性を用心深く守った。しかし、最終的には、二つの組織は緊密に結びついていたために、お互いの運命に無関心ではおれなくなり、あるいは、悪い事態が発生したときに相手から離れることができなくなった。
 連携は5月には強化された。その月に、臨時政府がリベラル派のものであることをやめ、ソヴェト執行委員会で最も重要な影響力をもつ大きな社会主義政党(メンシェヴィキとエスエル)の代表者たちを引き込むことによって、リベラル派と社会主義者との連立政権になったのだ。
 社会主義者たちは、政府に加わることに乗り気ではなかった。しかし、国民的な危機の時期に、ぐらつく体制を強化するのは自分たちの義務だと結論づけた。
 彼らは、ソヴェトは自分たちが政治行動をする、より自然な分野だと見なし続けた。とりわけ、社会主義者である新しい農務大臣と労働大臣がリベラル派の反対によって彼らの政策を実施することができないと明らかになったときには。
 しかしながら、象徴的な選択が行われていた。すなわち、臨時政府とより緊密に連携し合ううちに、「責任のある」社会主義者たちは(そして広く言えばソヴェト執行委員会は)、「責任のない」民衆革命から離れていっていた。//
 「ブルジョアの」臨時政府に対する民衆の反感は、戦争の疲労が増大し、都市の経済状況が悪化していたので、春遅くには高まった。(8) 
 7月に発生した街頭での集団示威行動(七月事件)の間、示威行進者たちは「全ての権力をソヴェトへ」と呼びかける旗を掲げていた。これが実際に意味したのは、臨時政府から権力を奪い取ることだった。
 逆説的にだが-政府に参加する趣旨からすると論理的にだが-、ペテログラード・ソヴェト執行委員会は、「全ての権力をソヴェトへ」というスローガンを拒絶した。
 そして、実際、集団示威行進は、政府に対してと同様に現在のソヴェト指導部に対して向けられた。
 ある行進者は「おまえたち、与えられているときに、権力を奪え!」と社会主義政治家に向かって、拳を振り上げながら叫んだ。(9) 
 しかしこれは、「二重権力」の支持を誓った者たちには返答することができない訴え(あるいはおそらく脅迫?)だった。//
 --------
 (3) George Katkov, <ロシア・1917年-二月革命> (London, 1967), p.444.
 (4) ニコライの最後の日々に関する資料的文書として、Mark D. Steinberg & Vladimir M. Khrustalev,<ロマノフ王朝の最後>(New Haven & London, 1995), p.277-366. を見よ。
 (5) A. Tyrkova-Williams, <自由からブレスト・リトフスクへ>(London, 1919), p.25.
 (6) Allan K. Wildman, <ロシア帝国軍隊の終焉>(Princeton, NJ, 1980), p.260. から引用した。
 (7) Sukhanov, <ロシア革命・1917年、i> p.104-5.
 (8) 地方での展開する状勢に関する生き生きとした説明として、Donald J. Raleigh, <ヴォルガでの革命>(Ithaca & London, 1986)を見よ。
 (9) Leonard Schapiro, <共産主義専制体制の起源>(Cambridge, MA, 1955), p.42, n.20. から引用した。
 ----
 第二章(二月と十月の革命)のうち「はじめに」と第1節(二月革命と「二重権力」)の試訳が終わり。

1661/ロシア革命①-L・コワコフスキ著18章2節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 この本には、邦訳書がない。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 前回のつづき。第2節へ。第2巻の単行著、p.473~。
 ---
 第2節・1917年の革命①。
 多様な社会主義集団が革命を期待して存在してきたが、1917年二月の勃発は彼らの助けを借りないままで生じ、彼ら全ての驚愕だった。
 数週間前に、トロツキーはアメリカ合衆国に移り住んで、永遠に欧州を離れることになると考えた。
 レーニンは1917年1月に1905年の革命に関する講演をツューリヒでしたが、その中にはつぎの文章があった。
 『我々、旧い世代の者たちは、来たる革命の決定的な闘いを生きて見ることはないだろう。』(全集23巻p.253〔=日本語版全集23巻「1905年の革命についての講演」277頁〕。)
 この二月革命に何らかの政党が何か直接に関係しているとすれば、それは、協約諸国に呼応したカデット(リベラルたち〔立憲民主党〕だった。
 レーニン自身は、ロシアはもちろんフランスやイギリスの資本主義者たちはツァーリがドイツ皇帝と分離講和を締結するのを妨害したかった、したがってツァーリの皇位を奪うことを共謀した、と観察した。
 この企みが、飢餓、敗北および経済的混沌によって絶望的になった大衆の反乱と合致した。 
 300年にわたって続いてきたロマノフ王朝は、一夜にして崩壊した。そして、社会のいかなる重要な勢力にもそれを防ぐ用意がない、ということが明白だった。
 八ヶ月の間、ロシアの歴史は最初にして最後の、完全な政治的自由を享受した。何らの法的秩序によってではなく、主としてはどの社会勢力も状況を統御していなかったがゆえに。
 ドゥーマにより設置された臨時政府は、1905年革命を真似て形成された労働者・兵士代表評議会(ソヴェト)と、不確定な権限を共有した。しかしどちらも、大都市の武装した大衆を適切に統制することができなかった。
 ボルシェヴィキは当分の間はソヴィエト内の小さな少数派だった。そして、全政党が、革命が進んでいる行路に関して完全に混乱していた。//
 レーニンは、4月にペテログラードに到着した。ドイツはレーニンに、様々の政党から成る数ダースの帰還者と一緒に、安全な護衛を付けた。
 もちろんレーニンは、皇帝の戦争を助けるためにではなくて革命がロシアからヨーロッパの残りへと広がるだろうと望んで、ドイツからの援助を受けた。
 スイスを出立する直前に書いた<遠方からの手紙>で、レーニンは、その基本的な戦略を定式化した。
 ロシアの革命はブルジョア的なそれなので、プロレタリアートの任務は、人民に食物、平和そして自由を与えることのできない支配階級の欺瞞の皮を剥ぎ取ることだ。そしてその日の命令は、憤激した半プロレタリア農民層に支持されたプロレタリアートに権力を譲り渡す、革命の『第二段階』を準備することだ。
 このような綱領はロシア帰国後にすぐに、有名な『四月テーゼ』へと発展した。
 戦争に対する不支持、臨時政府に対する不支持、プロレタリアートおよび貧農のための権力、議会制共和国をソヴェト共和国に置き換えること、警察、軍隊および官僚制度の廃止、全官僚が選挙されかつ解任可能であること、地主所有地の没収、全ての社会的生産と分配へのソヴェトによる統制、インターナショナルの再結成、〔党名に〕『共産主義』を明示することの党による採択。//
 革命の社会主義段階への即時移行を明確に要求することを含むこれらのスローガンは、社会主義者の伝統を完全に否定するものと見なしたメンシェヴィキによってのみならず、多数のボルシェヴィキ党員からもまた、反対された。
 しかしながら、レーニンの揺るぎなき信念は、全ての躊躇を抑えた。
 同時に、彼は支持者たちに、ソヴェトに支えられているので臨時政府をただちには打倒できない、ということを明確にした。
 ボルシェヴィキは先ずはソヴェトの支配権を握り、そして労働者大衆の多数派を自分たちの側に獲得しなければならない。帝国主義者の戦争はプロレタリアートの独裁によってのみ終わらせることができる、との確信を抱かせることによって。//
 レーニンは7月に、『全ての権力をソヴェトへ』とのスローガンを破棄した。ボルシェヴィキはしばらくの間はソヴェト内での多数派を獲得することができない、支配するメンシェヴィキとエスエルは反革命に転化して、帝制主義の将軍たちのの奉仕者になった、と決定したのだった。
 かくして、革命への平和的な途は、閉ざされた。
 このスローガンの破棄は、ボルシェヴィキがその暴力を示した〔七月蜂起の〕後で起こった。レーニンはのちの数年の間、この暴力行使を猛烈に否定したけれども、おそらくは(probably)、権力奪取の最初の企てだった。
 逮捕されるのを怖れて、レーニンはペテログラードから逃げて、フィンランドに隠れた。そこで党活動の指揮を執り、同時に、<国家と革命>を書いた。
 -この書物は、武装する全人民により権力が直接に行使されるというプロレタリア国家のための、異常なほどに半(semi-)アナキスト的な青写真を描くものだ。
 この綱領の根本的考え方は、ボルシェヴィキ革命の行路によってすぐに歪曲されたのみならず、レーニン自身によって、アナクロ=サンデカ主義的夢想だとして愚弄された。//
 将軍コルニロフ(Kornilov)による蜂起の失敗はますます一般的な混乱を増大させ、ボルシェヴィキにとって事態がより容易になった。
 レーニンの政策は党がコルニロフの反抗を助けることで、ケレンスキー政権の支持へと漂い込むことではなかった。
 彼は、8月30日付の中央委員会あて手紙でこう書いた。
 『この戦争が発展することだけが、<我々を>権力へと導くことができる。しかし、我々は情報宣伝(扇動・プロパガンダ)では、可能なかぎりこれについて言わないようにしなければならない。明日の事態すらもが我々に権力を握らせるかもしれないこと、そのときには我々は決して権力を手放さない、ということを十分に銘記しながら。』(+)
 (全集25巻p.289〔=日本語版全集25巻「ロシア社会民主労働党中央委員会へ」312頁〕。)
 ボルシェヴィキは9月に、ペテログラード・ソヴェトの多数派を獲得した。そして、トロツキーが、その議長になった。
 10月に入って、〔ボルシェヴィキ〕中央委員会の多数派は、武装蜂起に賛同する表決をした。
 ジノヴィエフとカーメネフは、反対した。そして、この彼らの態度は一般に広く知られた。
 ペテログラードでの権力奪取は、比較的に簡単で、無血だった。
 その翌日に集まったソヴェト大会は、ボルシェヴィキが多数派で、土地問題に関する布令と併合や賠償なき講和を呼びかける布令を裁可した。
 純粋にボルシェヴィキの政府が権力を握った。そして、レーニンが約束していたように、それを手放すつもりは全くなかった。//
 レーニンの暴動政策および全ての見込みが、ロシアの革命は世界革命を、少なくともヨーロッパの革命を誘発するだろうとの確固たる予測にもとづいていたことに、何ら疑いはあり得ない。
 こうした考えは、実際、全てのボルシェヴィキ党員に共有されていた。
 革命後、最初の数年間のロシアでは、『一国での社会主義』に関する問題は何もなかった。
 1917年のスイス労働者に対する別れの手紙で、レーニンはこう書いた。
 ロシア農業の性格と満足していない農民大衆の熱望からすると、ロシアの革命はその規模からして、世界の社会主義革命の序曲(prelude)である『かもしれない』、と。
 しかし、この『かもしれない』は、すみやかにレーニンの演説や論文から消えて、次の数年の間のそれらは、西側でのプロレタリアの支配がごく間近に接近している(just round the corner)という確信に充ち満ちていた。
 ---
 段落の途中だが、ここで区切る。
 (+ 注記) 日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変更した。
 ②へとつづく。

1601/ケレンスキー首相-R・パイプス著10章12節。

 前回からのつづき。
 ---
 第12節・蜂起鎮圧、レーニン逃亡・ケレンスキー独裁③。
 7月6日の夕方にペテログラードに帰ったケレンスキーは、ペレヴェルツェフに激しく怒って、彼を解任した。
 ケレンスキーによると、ペレヴェルツェフは、『レーニンの最高形態での国家叛逆を文書証拠が支えて確定する機会を、永遠に喪失させた』。
 この言い分は、レーニンとその支持者に対して行ったその後の日々の果敢な行動が失敗したことについて、尤もらしい釈明をしたもののように見える。
 『レーニンの最高形態での国家叛逆を確定する』努力がなされなかったとすれば、それは、レーニンの弁護へと跳びついた社会主義者たちを宥める気持ちからだった。
 それは、『すでにカデット〔立憲民主党〕の支持を失ってソヴェトを敵に回す余裕のない政府が、ソヴェトに対して行なった譲歩』だった。(*)
 このように考察すると、7月とそれ以降数ヶ月のケレンスキーの行動は、際立っていた。//
 ケレンスキーはルヴォフに代わって首相になり、陸海軍大臣職を兼任した。
 彼は独裁者のごとく行動し、自分の新しい地位を見える形で示すために、冬宮(Winter Palace)へと移った。そしてそこで、アレクサンダー三世のベッドで寝て、その机で執務した。
 7月10日、コルニロフ(Kornilov)に、軍司令官になるように求めた。
 コルニロフは、7月事件に参加した兵団の武装解除および解散を命令した。
 守備軍団は10万人へと減らされ、残りは前線へと送られた。
 プラウダその他のボルシェヴィキ出版物は、戦陣から排除された。//
 だが、このような決意の表明はあったものの、臨時政府は、ボルシェヴィキ党を破滅させるだろう段階へとあえて進むことをしなかった。公開の審問があれば、国家叛逆活動に関して所持している全ての証拠資料が、呈示されていただろう。
 新しい司法大臣のA・S・ザルドニュイ(Zarudnyi)のもとに、新しい委員会が任命された。
 その委員会は資料を集めたが-10月初めまでに80冊の厚さになった-、結局は法的手続は始まらなかった。
 この失敗の理由は、二つあった。すなわち、『反革命』への恐怖、イスパルコム〔ソヴェト執行委員会〕と対立したくないとの願望。//
 7月蜂起によってケレンスキーには、右翼がボルシェヴィキの脅迫を利用して、君主制主義者がクーを企てるのではないかとの強迫観念的な恐怖が、染みついた。
 彼は7月13日にイスパルコムで挨拶し、『反革命勢力を刺激する行動』から構成員は距離を置くように強く要求した。そして、『ロシア君主制を復古させる全ての企ては断固として、容赦なき方法で抑圧される』と約束した。
 ケレンスキーは、多くの社会主義者たちのように、7月反乱を打ち砕いた忠誠ある諸兵団の献身さを、喜んだというよりむしろ警戒した、と言われている。
 彼の目からすると、ボルシェヴィキが脅威だったのは、そのスローガンや行動が君主制主義者を助長するという範囲においてのみだった。
 ケレンスキーが7月7日に皇帝一族をシベリアに移送すると決定したのは、同じような考えにもとづくものだったと、ほとんど確実に言える。
 皇帝たちの出立は、7月31日の夜の間に、きわめて秘密裡に実行された。
 ロマノフ家の者たちは、50人の付添いや侍従たちの随行員団に同伴されて、トボルスク(Tobolsk)へと向かった。それは、鉄道が走っておらず、したがってほとんど逃亡する機会のない町だった。
 この決定の時機-ボルシェヴィキ蜂起およびケレンスキーのペテログラード帰還の三日のち-は、ニコライを皇位に復帰させる状況を右翼の者たちが利用するのを阻止することに、ケレンスキーの動機があった、ということを示している。
 このような見方は、イギリスの外交部のものだった。//
 関連して考えられるのは、ボルシェヴィキを仲間だと見なし、それへの攻撃を『反革命』の策謀だと考え続けている、イスパルコム〔ソヴェト執行委員会〕の機嫌を損ないたくないという願望だった。
 ソヴェト内のメンシェヴィキとエスエルは、政府のレーニンに対する『誹謗中傷運動』を繰り返して攻撃し、訴追を取り下げて、拘留されているボルシェヴィキたちを解放することを要求した。//
 ボルシェヴィキに対するケレンスキーの寛大な措置は、ボルシェヴィキは彼とその政府をほとんど打倒しかけたにもかかわらず、翌月にコルニロフ将軍に関して見せた素早いやり方とは著しく対照的だった。//
 政府とイスパルコムのいずれもの不作為の結果として、ペレヴェルツェフが主導して解き放とうとしたボルシェヴィキに対する憤激は、消散した。
 この両者は、右翼からの想像上の『反革命』を怖れて、左翼からの本当の『反革命』を消滅させる、願ってもない機会を失った。
 ボルシェヴィキはまもなく回復し、権力への努力を再び開始した。
 トロツキーは、1921年の第3回コミンテルン大会の際にレーニンが党は敵との取引で間違いをしたとを認めたとき、1917年の『性急な蜂起のことを頭の中に想い浮かべた』、とのちに書いた。
 トロツキーは、つぎのように付記した。『幸運にも、我々の敵には十分な論理的一貫性も、決断力もなかった』。(203)
 ------
  (*) Richard Abraham, Alexander Kerensky (ニューヨーク, 1987), p.223-4。ペレヴェルツェフはネクラソフとテレシェンコが言い出して7月5日の早いうちに解任されたが、二日長く職務にとどまつた。
  (203)トロツキー, レーニン, p.59。 revolution
 ---
 第10章、終わり。第11章の章名は、「十月のク-」。但し、第11章の最初から「軍事革命委員会によるクー・デタの開始」という目次上の節までに、48頁ある。

1595/犯罪逃亡者レーニン②-R・パイプス著10章12節。

 前回のつづき。
 ---
 第12節・蜂起の鎮圧、レーニン逃亡・ケレンスキー独裁②。
 兵士たちは、7月6日から7日の夜の間に、ステクロフの住居にやって来た。彼らがステクロフの居室を壊して彼を打ちのめそうと脅かしたとき、彼は電話して救いを求めた。
 イスパルコムは、二台の装甲車で駆けつけて、彼を守った。ケレンスキーも、ステクロフの側に立って仲裁した。
 同じ夜に、兵士たちは、レーニンの妹のアンナ・エリザロワ(Anna Elizarova)のアパートに現われた。
 部屋を捜し回ったとき、クルプスカヤは彼らに向かって叫んだ。『憲兵たち! 旧体制のときとそっくりだ!』
 ボルシェヴィキ指導者たちの探索は、数日の間つづいた。
 7月9日、私有の自動車を調べていた兵団がカーメネフを逮捕した。この際には、ペテログラード軍事地区司令官のポロヴツェフの力でリンチ行為は阻止され、ポロヴツェフはカーメネフを自由にしたばかりではなく、彼を自宅に送り届ける車を用意した。
 結局は、暴乱に参加したおよそ800人が収監された。(*)
 確定的に言えるかぎりで、ボルシェヴィキは一人も、身体的には傷つけられなかった。
 しかしながら、ボルシェヴィキの所有物に対しては、相当の損傷が加えられた。
 <プラウダ>の編集部と印刷所は、7月5日に破壊された。
 クシェシンスキー邸を護衛していた海兵たちが無抵抗で武装解除されたあと、ボルシェヴィキ司令部〔クシェシンスキー邸〕もまた、占拠された。
 ペトロ・パヴロ要塞は、降伏した。//
 7月6日、ペテログラードは、前線から新たに到着した守備軍団によって取り戻された。//
 ボルシェヴィキ中央委員会は7月6に、レーニンのレベルでの叛逆嫌疑の訴追を単調に否定し、詳細な調査を要求した。
 イスパルコムは、強いられて、5人で成る陪審員団を任命した。
 偶然に、5人全員がユダヤ人だった。このことはその委員会について、レーニンに有利だという疑いを、『反革命主義者』に生じさせたかもしれない。そこで、委員会は解散され、新しくは誰も任命されなかった。//
 ソヴェトは実際、レーニンに対する訴追原因について調査しなかったが、被疑者の有利になるように断固として決定することもしなかった。
 レーニンの蜂起は、5月以来のそれと緊密に連関して、政府に対してと同程度にソヴェトに対して向けられていた。それにもかかわらず、イスパルコム〔ソヴェト執行委員会〕は、現実と向き合うことをしようとしなかった。
 カデット〔立憲民主党〕の新聞の表現によると、社会主義知識人たちはボルシェヴィキを『叛逆者』と呼んだが、『同時に、何も起こらなかったかのごとく、ボルシェヴィキの同志たちのままでいた。社会主義知識人たちは、ボルシェヴィキとともに活動し続けた。彼らは、ボルシェヴィキとともに喜んだり考えたりした。』(186)
 メンシェヴィキとエスエルは今、以前と今後もそうであるように、ボルシェヴィキをはぐれた友人のごとく見なし、彼らの敵は反革命主義者だと考えた。
 彼らは、ボルシェヴィキに向けられた追及がソヴェトや社会主義運動全体に対する攻撃をたんに偽ったものなのではないかと、怖れた。
 メンシェヴィキの< Novaia zhizn >は、つぎのように、Den' 〔新聞 ND = Novyi den' 〕から引用する。//
 『今日では、有罪だとされているのはボルシェヴィキだ。明日は、労働者代表ソヴェトに嫌疑がかかるだろう、そして、革命に対する聖なる戦争が布告されるだろう。』//
 この新聞はレーニンに対する政府の追及を冷たくあしらい、『ブルジョア新聞』は『嘆かわしい中傷』や『粗雑なわめき声』だとして非難した。
 これは、『意識的に労働者階級の重要な指導者の名誉をひどく毀損』している者たち-おそらくは臨時政府-を強く非難しようとしていた。
 レーニンに対する追及は『誹謗中傷』だとしてレーニンの弁護に飛びついた社会主義者の中には、マルトフ(Martov)がいた。(**)
 こうした主張は、事案の事実とは何も関係がなかった。イスパルコムは政府に証拠の開示を求めなかったし、自分たち自身で詳しい調査をしようともしなかった。//
 そうであっても、ボルシェヴィキを政府による制裁から守るのは多大な痛みにはなった。
 7月5日の早くに、イスパルコムの代表団がクシェシンスカヤ邸へ行き、この事件の平和的な解決に関するボルシェヴィキ側の条件を議論した。
 彼らは全員が、党に対する抑圧はもうないだろう、事件に関係して逮捕されている者はみな解放されるだろう、ということで合意した。
 イスパルコムはそして、ポロヴツェフに対して、いつ何時でもしそうに思えたので、ボルシェヴィキ司令部を攻撃しないように求めた。
 レーニンに関係がある政府文書の公表を禁止する決定も、裁可した。//
 レーニンは自分でいくつかの論考を書いて、自己弁護した。
 < Novaia zhizn >に寄せたジノヴィエフとカーメネフとの共同論文では、レーニンは、自分のためにでも党のためにでも、ガネツキーやコズロフスキーから『一コペック〔硬貨の単位〕』たりとも決して受け取っていない、と主張した。
 事態の全体は新しいドレフュス(Dreyfus)事件または新しいベイリス(Beilis)事件で、反革命の指揮をしているアレクジンスキー(Aleksinsky)によって組み立てられたものだ。
 7月7日、レーニンは、この状況では審判に出席しない、彼もジノヴィエフも、正義が行われると期待することができない、と宣言した。//
 レーニンはつねに、その対抗者の決意を大きく評価しすぎるきらいがあった。
 彼は、彼とその党は終わった、パリ・コミューンのように、たんに将来の世代を刺激するのに役立つだけの運命だ、と確信していた。
 レーニンは、党中央をもう一度外国へ、フィンランドかスウェーデンに移すことを考えた。
 彼は、その理論上の最後の意思、遺言書、『国家に関するマルクス主義』の原稿(のちに<国家と革命>の基礎として使われた)を、最後のものには殺される事態が生じれば公刊してほしいという指示をつけて、カーメネフに託した。
 カーメネフが逮捕されてほとんどリンチされかけたあとで、レーニンはもはや成算はないと決めた。
 7月9日から10日にかけての夜、レーニンは、ジノヴィエフとともに、小さな郊外鉄道駅で列車に乗り込み、田園地方へと逃れて、隠れた。//
 党が破壊される見通しに直面していた際のレーニンの逃亡は、ほとんどの社会主義者には責任放棄に見えた。
 スハノフの言葉によると、つぎのとおりだ。//
 『逮捕と審問に脅かされてレーニンが姿を消したことは、それ自体、記録しておく価値のあることだ。
 イスパルコムでは誰も、レーニンがこのようにして『状況から逃げ出す』とは想定していなかった。
 彼の逃亡は我々仲間にな巨大な衝撃を生み、あらゆる考えられる方法での熱心な議論を生じさせた。
  ボルシェヴィキの間では、ある程度はレーニンの行動を是認した。
 しかし、ソヴェトの構成員のうちの多数派の反応は、鋭い非難だった。
 軍やソヴェトの指導者たちは、正当な怒りの声を発した。
 反対派は、その意見を明らかにしないままでいた。しかし、その見解は、政治的および道徳的観点からレーニンを無条件に非難する、というものだった。<中略>
 羊飼いが逃げれば、羊たちに大きな一撃を与えざるをえないだろう。
 結局、レーニンに動員された大衆が、七月の日々に対する責任の重みの全体を負った。<中略>
 「本当の被告人(culprit)」が、軍、同志たちを捨てて、個人的な安全を求めて逃げた!』//
 スハノフは、レーニンの逃亡は、彼の人生でも個人的な自由行動でもあえて危険を冒さなかったほどの、最も非難されてしかるべきことだと見られた、と付け加える。//
 ------ 
  (*) Zarudnyi, in : NZh, No. 101 (1917年8月15日), p.2。Nikitin, Rokovye gody, p.158 は、2000人以上だった、とする。
  (186) NV = Nash vek, No. 118-142 (1918年7月16日), p.1。
  (**) 8月4日に、ツェレテリが提案して、イスパルコムは、7月事件に関与した者を迫害から守るという動議を、このような迫害は『反革命』の始まりを画するという理由で、採択した。
 --- 
 ③へとつづく。

1593/犯罪逃亡者レーニン①-R・パイプス著10章12節。

 前回第11節終了からのつづき。
 ---
 第12節・蜂起の鎮圧、レーニン逃亡・ケレンスキー独裁①。
 こうした事態が推移していたとき、ケレンスキーは戦線にいた。
 恐れおののいた大臣たちは、何もしなかった。
 タウリダ宮の前の数千人の男たちの叫び声、見知らぬ目的地へと走る兵士や海兵を乗せた車の光景、守備軍団が放棄したとの知識、これらは、大臣たちを絶望感で充たした。
 ペレヴェルツェフによると、政府は、実際には捕らえられていた。//
 『私は、資料文書を公表する前に、7月4日蜂起の指導者たちを逮捕することはしなかった。彼らの決意が彼らの犯罪の活力の十分の一でもあれば、そのときに彼らはすでに実際にはタウリダ宮の臨時政府の一部を征圧して、何の危険を冒すことなくルヴォフ公、私自身そしてケレンスキーの議員団を拘束することができた、という理由でだけだ。』//
 ペレヴェルツェフは、この絶望的な状況下で、兵士たちの間に激しい反ボルシェヴィキの反応を解き放つことを期待して、レーニンのドイツとの関係について、利用できる情報の一部を公表することに決めた。
 彼は二週間前に、この情報を公表しようと強く主張していた。しかし、内閣は、(メンシェヴィキの新聞によると)『ボルシェヴィキ党の指導者に関する事柄には、慎重さを示すことが必要だ』という理由で、彼の提案を却下していた。
 ケレンスキーはのちにレーニンに関する事実を発表したのは『赦しがたい』過ちだったとしてペレヴェルツェフを非難したけれども、ケレンスキー自身が7月4日に騒擾のことを知って、『外務大臣が持つ情報を公開するのを急ぐ』ように、ルヴォフに対して強く迫った。
 ニキーチン総督およびポロヴツェフ将軍と確認したあとで、ペレヴェルツェフは、報道関係者とともに80人以上のペテログラードおよびその周辺の駐留軍団代表者を、彼の執務室へと招いた。
 これは、午後5時頃のことだった。タウリダでの騒乱は最高度に達していて、ボルシェヴィキのクーはすぐにでも達成されるように見えた。(*)
 将来に見込まれるボルシェヴィキ指導者の裁判での最も明確な有罪証拠資料を守るために、ペレヴェルツェフは、持っている証拠の断片だけや、価値がきわめて乏しいものを公表した。
 それは、D・エルモレンコ(Ermolenko)中尉のあいまいな調書で、彼はドイツ軍の戦時捕虜だった間に、レーニンはドイツ軍のために働いていると言われた、と報告していた。
 こうした伝聞証拠は、政府関係の事件では、とくに社会主義者関係のそれでは、多大に有害なものだった。
 ペレヴェルツェフはまた、ストックホルムを経由したボルシェヴィキのベルリンとの金銭関係に関する情報も、ある程度は発表した。
 彼は愚劣にも、信用のないかつてのボルシェヴィキ・ドゥーマ〔帝制国会下院〕議員団長、G・A・アレクジンスキーに対して、エルモレンコの調書の信憑性を調べてほしいと頼んだ。//
 司法省にいる友人、カリンスキーはすぐに、ペレヴェルツェフがまさにしようとしていることをボルシェヴィキに警告した。それによってスターリンは、レーニンに関する『誹謗中傷』の情報をばらまくのを止めるようにイスパルコム〔ソヴェト執行委員会〕に求めた。
 チヘイゼとツェレテリは、ペテログラードの日刊新聞社の編集部に電話をかけ、イスパルコムの名前で、政府が発表したことを新聞で公表しないように懇請した。
 ルヴォフ公も、同じようにした。そして、テレシェンコとネクラソフ(Nekrasov)も。(**)
 全ての新聞社が、一つだけを除いて、この懇請を尊重した。
 その一つの例外は、大衆紙の < Zhivoe slovo >だった。
 この新聞の翌朝の第一面の大見出し--レーニン・ガネツキーと共謀スパイたち--のあとにはエルモレンコの調書と、ガネツキーを通してコズノフスキーとスメンソンに送られたドイツの金に関する詳細が続いていた。
 この情報を記載した新聞紙は、街中に貼られた。//
 レーニンとドイツに関するこの暴露情報は、ペレヴェルツェフの説明を受けた連隊の使者から伝わり、諸兵団に電流を通したかのような効果をもった。
 ほとんど誰も、ロシアはソヴェトと友好関係にある臨時政府によって統治されているのか、それともソヴェトのみによって統治されているのか、などとは気に懸けなかった。敵国と協力していることに関して、感情的になった。
 敵国領土を縦断した旅で生じたレーニンにつきまとう疑念によって、レーニンは兵団にはきわめて不人気になっていた。
 ツェレテリによると、レーニンは制服組から嫌われているのでイスパルコムに保護を求めなければならなかった。
 タウリダに最初に到着したのはイズマイロフスキー守備兵団で、プレオブラジェンスキーと、軍楽隊のあとで行進したセメノフスキーの各兵団が続いた。
 コサック団も、現われた。
 兵団が接近してくるのを見聞きして、タウリダ正面の群衆たちは、慌てふためいてあらゆる方向へと逃げた。何人かは、安全を求めて宮の中に入った。//
 このときタウリダ宮の内部では、イスパルコムとボルシェヴィキ・工場『代表団』との間の議論が進行中だった。
 メンシェヴィキとエスエルたちは、政府が救出してくれるのを期待して、時間を潰していた。
 政府側の兵団がタウリダ宮に入ってきた瞬間、彼らはボルシェヴィキの提案を拒否した。//
 反乱者たちがそれぞれに分散したので、ほとんど暴力行為は行われなかった。
 ラスコルニコフは海兵たちにクロンシュタットへ戻るように命令し、400人をクシャシンスカヤ邸を守るために残した。
 海兵たちは最初は離れるのを拒んだが、勢力が優る非友好的な政府側の軍団に囲まれたときに屈服した。
 深夜までには、群衆は、タウリダにいなくなった。//
 事態の予期せぬ転回によって、ボルシェヴィキは完全に混乱に陥った。
 レーニンは、カリンスキーからペレヴェルツェフの行動を知るやただちに、タウリダから逃げた。それは、兵士たちが姿を現わす、寸前のことだった。
 レーニンが逃げたあと、ボルシェヴィキは会議を開いた。その会議は、蜂起を中止するという決定を下して終わった。
 正午頃に彼らは、大臣職の書類を配布されていた。6時間後には、探索される獲物の身になった。
 レーニンは、全ては終わった、と思った。
 彼は、トロツキーに言った。『今やつらは我々を撃ち殺すつもりだ。やつらには最も都合のよいときだ』。(181)
 レーニンはつぎの夜を、ラスコルニコフの海兵たちに守られて、クシェシンスカヤ邸で過ごした。
 7月5日の朝、新聞紙< Zhinvoe slovo >の売り子の声が通りに聞こえているときに、レーニンとスヴェルドロフは抜け出して、仲間のアパートに隠れた。
 つづく5日間、レーニンは地下生活者になり、毎日二度、いる区画を変更した。
 他のボルシェヴィキ指導者たちは、ジノヴィエフを除いて、逮捕される危険を冒して公然としたままだった。ある場合には、逮捕するのを要求すらした。//
 7月6日、政府は、レーニンとその仲間たちの探索を命じた。全員で11人で、『国家叛逆(high treason)と武装蜂起の組織』で訴追するものだった。(***)
 コズロフスキーとスメンソンは、すみやかに拘引された。
 -------
  (*) NZh = Novaia zhin', No. 68 (1917年7月7日), p.3。この事態に関するペレヴェルツェフの説明は、つぎの編集部あて書簡にある。NoV = Novoe vremia, No. 14-822 (1917年7月9日), p.4。ペレヴェルツェフは、その回想をつぎで公刊した、と言われる。PN = Poslednie novosti, 1930年10月31日。しかしこの新聞のこの号を私は利用できなかった。
  (**) Zhivoe slovo, No. 54-407 (1917年7月8日) p.1。参照、Lenin, PSS, XXXII, p.413。ルヴォフは、早すぎる公表は機密漏洩罪になるだろうと編集者たちに言った。  
  (181) Leon Trotzky, O Lenin (モスクワ, 1924), p.58。
  (***) Alexander Kerensky, The Crucifixion of Liberty (ニューヨーク, 1934), p.324。その11人とは、以下のとおり。レーニン、ジノヴィエフ、コロンタイ、コズロフスキー、スメンソン、パルヴゥス、ガネツキー、ラスコルニコフ、ロシャル、セマシュコ、およびルナチャルスキー。トロツキーはリストに載っていなかった。おそらくは、ボルシェヴィキ党の党員ではまだなかったためだ。彼は7月末にようやく加入した。トロツキーはのちに、収監される。
 ---
 本来の改行箇所ではないが、ここで区切る。②へとつづく。

1582/七月蜂起へ(2)①-R・パイプス著10章10節。

 前回のつづき。
 ---
 第10節・蜂起の準備①。
 V・D・ボンシュ-ブリュヴィッチ(Bonch-Bruevich)によると、6月29日の夕方に、フィンランドのヴュイボルク市(Vyborg)近くのネイヴォラ(Neivola)の彼の別宅に、予期せぬ訪問者が現れた。ペテログラードから、小列車に少しばかり乗ってやって来ていた。
 それは、レーニンだった。
 迂回した経路を-『秘めたクセで』-旅したあとだったが、レーニンは、とても疲れた、休みが欲しい、と説明した。
 これはきわめて異様な行動で、レーニンの性格から全く外れていた。
 彼には、休暇をとるという習慣がなかった。1917年から1918年にかけての冬のような、疲労を感じた方がよかった重要な政治的事件の真っ只中ですら、そうだった。 
 レーニンの説明は、この場合について、きわめて疑わしい。レーニンが欠席したいと思っていたとは想定し難い、ペテログラード組織の大会を、ボルシェヴィキは二日のちには開くことになっていたからだ。
 レーニンの『陰謀めいた』行動はまた、当惑させるものだ。なぜなら、彼には自分の動きを隠すもっともらしい必要がなかったからだ。
 ゆえに、レーニンがペテログラードから突然に姿を消した理由は、別のところに求めなければならない。
 政府がレーニンがドイツと金銭上の取引をしている十分な証拠資料を得て、彼をまさに逮捕しようとしている、という風聞を彼が知った、というのがほとんど確実だ。//
 フランス諜報機関のピエール・ローラン(Pierre Laurent)大佐は、6月21日に、敵国〔ドイツ〕との取引を示す、ペテログラードのボルシェヴィキとストックホルムのその仲間たちとの間の14回の傍受した通信内容を、ロシアの防諜機関に渡した。すぐに、さらに15回分が増えた。
 政府はのちに、レーニンの第一のストックホルム工作員、ガネツキーを捕まえたかったのでボルシェヴィキの逮捕を遅らせた、と述べた。ガネツキーはロシアに次に来るときに有罪証拠となる文書を携帯しているはずだった、と。
 しかし、蜂起後のケレンスキーの行動を見てみると、政府が遅らせた背後には、ソヴェトを怒らせることへの恐怖があったと疑うに足る、十分な根拠がある。//
 しかし、6月末日には、訴追するための証拠は当局に十分にあり、7月1日に当局は、一週間以内に28名のボルシェヴィキ指導者党員を逮捕するように命じた。//
 政府内部の誰かが、この危険についてレーニンに察知させた。
 最も疑わしいのは、ペテログラード司法部(Sudebnaia Palata、高等裁判所)の他ならぬ長官の、N・S・カリンスキー(Karinskii)だ。ボンシュ-ブリュヴィッチによると、このカリンスキーは、レーニンはドイツ工作員だとして有罪視することを司法省が公的に発表する予定だと、7月4日にボルシェヴィキに漏らすつもりだった。
 レーニンもまた、6月29日に諜報機関員がスメンソンの尾行を始めたことを知らされて、警戒しただろう。
 何も他には、レーニンがペテログラードから突然に姿を消したことを説明していない。ロシア警察の手の届かないフィンランドに彼が逃亡したことについても、だ。(*)//
 レーニンは、6月29日からボルシェヴィキ蜂起が進行していた7月4日の早朝の時間まで、フィンランドに隠れた。
 七月の冒険(escapade)の準備へのレーニンの役割を、確定することはできない。
 しかし、現場に存在していなかったことは、彼が無関係だったと不可避的に意味させるわけではない。
 1917年の秋、レーニンはまたフィンランドに隠れていたが、なおも十月のクーへと導く諸決定に積極的な役割を果たした。//
 七月作戦は、政府が機関銃連隊を解散してその兵員を前線へと分散させようとしていることを、この連隊が知って、始まった。(**)
 ソヴェトは6月30日、軍事専門家と問題を議論するために連隊の代表者たちを招いた。
 その翌日、連隊の『活動家たち』は、自分たちの会合をもった。
 隊員たちの雰囲気は緊張していて、強熱的な焦燥の中にあった。//
 ボルシェヴィキは7月2日、人民会館(Narodnyi Dom)で、連隊との協同集会を組織した。
 外部の発言者は全てボルシェヴィキで、その中に、トロツキーとルナシャルスキー(Lunacharskii)がいた。
 ジノヴィエフとカーメネフは出席する予定だったが、おそらくはレーニンのように逮捕を怖れて、姿を見せなかった。
 トロツキーは5000人以上の聴衆を前に演説して、六月軍事攻勢について政府をなじり、権力のソヴェトへの移行を主張した。
 彼は連隊員に対して、多くの言葉を使って政府への服従を拒否するようにとは言わなかった。
 しかし、〔ボルシェヴィキ〕軍事機構は会合を開いて、つぎの趣旨の決議を採択した。その決議は『ニコライ、血の皇帝』の歩みに従うケレンスキーを非難し、全ての権力をソヴェトへと要求した。//
 連隊員たちは兵舎へ戻ったが、興奮して眠れなかった。
 彼らは徹夜で事態について議論し、その結果として、暴力行動を要求する声が挙がってきた。スローガンの一つは、『<ブルジョア>をやっつけろ(beat the burzhui)』だった。//
 集団暴行(pogrom)が行われていた。
 クシェシンスカヤ邸に集合したボルシェヴィキたちは、どう反応すればよいか分からなかった。加わるか、やめさせようとするか。
 ある者は、兵団は後退できないから、我々もあえて行動すべきだと主張し、別の者は、動くのは早すぎると考えた。
 そしてこのあと、民衆的な激しい怒りの波に乗って権力に昇るという願望と、自然発生的な暴力はナショナリストの反応を刺激してその最大の犠牲者は自分たちになるだろうという恐怖の間で、ボルシェヴィキたちは引き裂かれた。//
 ボルシェヴィキと機関銃連隊の連隊委員会は、さらに7月3日に、会議を開いた。その雰囲気は、農民反乱の前の村落集会と同じだった。
 主な発言者はアナキストで、中で最も著名なのは、『シャツを開けて胸を見せ、巻き毛を両側に飛ばしていた』I・S・ブレイクマン(Bleikhman)だった。彼は兵士たちに、武器を持って街頭に出て、武装蜂起へと進むことを、呼びかけた。
 アナキストたちは、こうした行動の客観的な目的については語らなかった。『街頭が自ら明らかにするだろう』。
 アナキストたちのあとのボルシェヴィキたちは、その問題を論じなかった。彼らはただ、行動する前にボルシェヴィキ軍事機構の指令が必要だと主張した。//
 しかし、連隊員たちは、前線での務めをやめると決意して、またアナキストに激高へと駆り立てられて、待とうとしなかった。
 彼らは満場一致で、完全武装をして路上に出動することを表決した。
 臨時革命委員会が選出されて示威活動を組織することになった。この委員会の長になったのは、ボルシェヴィキのA・Ia・セマシュコ(Semashko)中尉だった。
 以上は、午後2時と3時の間に起きた。//
 セマシュコと、何人かは軍事機構に属する仲間たちは、政府が抑圧行動をとっているかどうかを知るために、かつ自動車を取り上げるために、偵察兵を送り出した。
 彼らはまた、工場と兵舎およびクロンシュタットへ、使者を派遣した。//
 使者たちは、異なる対応を受けた。守備軍団の若干の兵団は、参加することに合意した。主としては、第一、第三、第一七六および第一八〇歩兵連隊だった。
 その他の兵団は、拒否した。
 プレオブラジェンスキー(Preobrazhenskii)、セメノフスキー(Semenovskii)およびイズマイロフスキー(Izmailovskii)の守備兵団は、『中立』を宣言した。
 機関銃連隊自体の中では、多くの隊員が、身体に暴力被害を受ける危険はあったが、線上で待ち構えることに投票した。
 結局、連隊の半分だけが、およそ5000人の連隊員が、蜂起に参加した。
 工場労働者の多くもまた、参加するのを拒んだ。//
  ------
  (*) レーニンは5月半ばにはすでに、スットックホルムとの連絡が政府によって傍受されていることに気づいていた。レーニンは5月の16日付の<プラウダ>紙上で、『ロシア・スウェーデン国境を越えた』けれども、全ての手紙や電信類は掴みそこねた『カデットの下僕』を侮蔑した。Lenin, PSS, XXXII, p.103-4。参照、Zinoviev, in : PR = Proletarskaia revoliutiia, No. 8-9 (1927), p.57。
  (**) 7月のこの連隊の役割に関する最良の叙述は、資料庫文書にもとづく、P. M. Stulov in : KL = Krasnaia letopis', No. 3-36 (1930), p.64~p.125 だ。参照、レオン・トロツキー, ロシア革命の歴史 II (ニューヨーク, 1937) p. 17。
  --- 
 ②へとつづく。 

1578/六月の軍事攻勢-R・パイプス著10章8節。

 前回につづく。
 ---
 第8節・ケレンスキーの夏期軍事攻勢。
 ロシア軍は、6月16日、連合国からの銃砲と砲弾をたっぷりと装備して、二日間の砲弾攻撃を開始し、終わって砲弾づめをした。
 ロシアの攻撃の矛先は南部戦線で、ガリシアの首都のルヴォウ(Lwow)を狙っていた。
 コルニロフ将軍が指揮する第八軍は、目立った。
 第二次の攻撃作戦は、中部および北部前線に向けられた。
 政府が望んだように、この攻勢は愛国主義の明確な兆候を呼び起こした。
 ボルシェヴィキは、このような雰囲気の中であえて軍事行動に反対はしなかった。
 6月のソヴェト大会で、レーニンもトロツキーも、支持に対する反対動議を提案はしなかった。//
 オーストリアに対するロシアの作戦は、二日間よい展開を示た。だが、十分に義務を果たしたと思った諸兵団が攻撃命令に従うのを拒否したことで、やむなく停止した。
 彼らはすぐに、大急ぎで逃げ出した。
 7月6日、追い詰められるオーストリア軍を助けに何度か来ていたドイツ軍が、反攻をはじめた。 
 ドイツの軍人たちが見ていると、ロシア軍は略奪し狼狽を広げて、逃げていた。
 6月大攻勢は、旧ロシア軍の死直前の喘ぎだった。//
 旧ロシア軍は1917年7月以降は、重要な作戦を行わなかった。
 この辺りが、第一次大戦でのロシアの人的被害について述べる、適当な場所だろう。
 ロシアの戦争に関する統計は貧相なので、人的損失を正確に決定するのは困難だ。
 標準的な情報源によれば、ロシアの死傷者数は交戦国のうちそれが最大のものと同程度だった。
 例えば、クラットウェル(Cruttwell)は、ロシア人死者数170万人、負傷者数495万人と推算する。
 これらは、ドイツの被害を僅かに上回り、ロシアよりも16ヶ月間長く戦争を続けたイギリスやフランスとほぼ相応する。
 別の外国人は、死者数は250万人に達すると概算する。(114) 
 これらの数字は、多すぎると考えられてきた。
 公式のロシアの情報源によれば、戦場での死者数は、77万5400人だ。
 もっと最近のロシア人の概算では、いくぶんか多い数字になる。
 戦場での死者数は90万人、戦闘負傷による致死者数40万人、合計で死者は130万人。
 これは、フランス軍およびオーストリア軍の死者数に並び、ドイツ軍のそれよりも三分の一少ない。//
 ロシア軍は、はるかに超える最大数の戦争捕虜を敵国に手に残した。
 ドイツとオーストリアの戦時捕虜収容所(POW camps)には390万人のロシア人捕虜がいた。これは、イギリス、フランスおよびドイツ各軍の戦争捕虜の合計数(130万人)の3倍に達した。
 オーストリア=ハンガリー軍だけは220万人の捕虜を出し、接近した。
 戦闘に投じられた100人のロシア人ごとに、300人が降伏した。
 比較してみると、イギリス軍ではこの数字は20、フランス軍では24、ドイツ軍では26だった。
 言い換えると、ロシア人兵士たちは、西側の諸軍の兵士よりも12倍から15倍の高い確率で降伏した。//
 六月軍事攻勢の失敗は、分断された国家を彼と政府の周りに再結集させようとしたケレンスキーにとって、個人的な惨事だった。
 大きな賭けをして負けて、彼は狼狽し、立腹しやすくなり、極度に懐疑的になった。
 こうした気分の中で、彼は重大な過誤を冒して、敬愛される指導者から、左からも右からも軽蔑される生け贄に変わった。//
 六月軍事攻勢の失敗がもたらした士気低下と失望の雰囲気の中で、レーニンとその部下たちは、新しい蜂起へと冒険的企てをした。
  (114) C. R. M. F. Cruttwell, A History of the Great War, 1914-1918 (Oxford, 1936), p.630-2。Tsen-tral'noe Statistiki, Rossiia v Mirovoi Voine 1914-1918 goda (モスクワ, 1925), p.4n。
 ---
 第9節につづく。

1574/ケレンスキー着任・六月騒乱①-R・パイプス著10章7節。

 前回のつづき。第7節は、p.412~p.417。
 ---
 第7節・ボルシェヴィキの挫折した6月街頭行動①。
 ケレンスキーは、戦時大臣としての職責に、称賛すべき積極さで取り組んだ。
 ロシアの民主主義の生き残りは、強くて紀律ある軍隊にかかっていると、そして沈滞気味の軍の雰囲気は軍事攻勢に成功することで最も高揚するだろうと、確信していたからだ。
 将軍たちは、軍がこのまま長く動かないままであれば、軍は解体すると考えていた。
 ケレンスキーは、フランス軍の1792年の奇跡を再現したかった。フランス軍はその年、プロイセンの侵攻を止めて退却させ、全国民を革命政府へと再結集させた。
 二月革命前に取り決められていた連合諸国への義務を履行するために、大攻勢は6月12日に予定されていた。
 それはもともとは純粋に軍事的な作戦として構想されていたが、今や加えて、政治的な重要性を持ってきていた。
 軍事攻勢の成功に期待されたのは、政府の権威を高め、全民衆に愛国主義を再び呼び起こすことだった。これらは、政府に対する右翼や左翼からの挑戦にうまく対処するのを容易にするだろう、と。
 テレシェンコはフランスに対して、攻勢がうまくいけばペテログラード守備兵団にある反抗的な要素を抑圧する措置をとる、と語った。//
 軍事攻勢を行う準備として、ケレンスキーは軍の改革を実施した。
 彼は、おそらくロシアの最良の戦略家だったアレクセイエフについて、敗北主義的行動者だという印象を持った。そしてアレクセイエフに替えて、1916年の運動の英雄、ブルジロフ(Brusilov)を任命した。(*)
 ブルジロフは軍隊の紀律を強化し、服従しない兵団に対する措置について、広い裁量を将校たちに与えた。
 フランス軍が1792年に導入した commissaires aux armees を真似て、前線の兵士たちの士気高揚のために委員(commissars)を派遣し、兵士と将校の間の調整にあたらせた。これは、のちに赤軍でボルシェヴィキが拡大して使うことになる、新しい考案物だった。
 ケレンスキーは、5月と6月初めの間のほとんどを、愛国心を掻き立てる演説をしながら、前線で過ごした。
 彼が現れることは、電流を流すような刺激的効果をもった。//
 『前線へのケレンスキーの旅を表現するには、「勝利への進軍」では弱すぎるように思える。
 扇動的な力強い演説のあとは、嵐が過ぎ去るのに似ていた。
 群衆たちは彼を一目見ようと、何時間も待った。
 彼の通り道はどこにも、花が撒かれた。
 兵士たちは、握手しようとまたは衣服に触ろうと、何マイルも彼の自動車を追いかけた。
 モスクワの大きな会館での集会では、聴衆たちは熱狂と崇敬の激発に襲われた。
 彼が語りかけた演台は、同じ信条の崇拝者たちが捧げた、時計、指輪、首輪、軍章、紙幣で埋め尽くされた。』(103)//
 ある目撃者は、ケレンスキーを『全てを焼き尽くす火を噴き上げている活火山』になぞらえた。、そして、彼には自分と聴衆の間に障害物があるのは堪えられないことだった、とつぎのように書いた。
 『彼は、あなた方の前に、頭から脚まで全身をさらしたい。そうすれば、あなた方と彼の間には、見えなくとも力強い流れのあるお互いの放射線が完璧に埋め尽くす、空気だけがある。
 彼の言葉はかくして、演壇、教壇、講壇からは聞こえてこない。
 彼は演壇を降りて台に飛び移り、あなた方に手を差し出す。
 苛立ち、従順に、激しく、信仰者たちの熱狂が打ち震えて、彼を掴む。
 自分に触るのを、手を握るのを、そして我慢できずに彼の身体へと引き寄せるのを、あなた方は感じる。』(104)//
 しかしながら、このような演説の効果は、ケレンスキーが見えなくなると突如に消失した。現役将校たちは、彼を『最高説得官』と名づけた。
 ケレンスキーはのちに、6月大攻勢直前の前線軍団の雰囲気は、両義的だった、と想い出す。
 ドイツとボルシェヴィキの情報宣伝活動の影響力は、まだほとんどなかった。
 その効果は、守備兵団と、新規兵から成る予備団である、いわゆる第三分隊に限られていた。
 しかし、ケレンスキーは、革命は戦闘を無意味にしたとの意識が広がっていることに直面した。
 彼は、書く。『苦痛の三年間の後で、数百万の戦闘に疲れた兵士たちが、「新しい自由な生活が故郷で始まったばかりだというのに、自分はなぜ死ななければならないのか?」と自問していた。』(105)
 兵士たちは、彼らが最も信頼する組織であるソヴェトからの返答をもらえなかった。ソヴェトの社会主義者多数派は、きわめて特徴的な、両義的な方針を採用していたからだ。
 メンシェヴィキと社会主義革命党(エスエル)の(ソヴェトでの)多数派が裁可した典型的な決議を一読すれば、戦争に対する完全に消極的な性格づけに気づく。すなわち、この戦争は帝国主義的なものだ。また、戦争は可能なかぎり速やかに終わらせるべきだとの主張にも。
 また一方で、ケレンスキーの強い要求に従って挿入された、遠慮がちの数行にも気づくだろう。それは、全面平和を遅らせて、ロシアの兵士たちが戦い続けるのは良いことだ、と、曖昧な論理で、かつ感情に訴える何ものをもなくして、示唆する数行だった。//
 ボルシェヴィキは政府に対する不満や守備兵団の士気低下を察知して、6月初めに、この雰囲気を利用することを決めた。
 ボルシェヴィキの軍事機構は6月1日に、武装示威活動を行うことを表決した。
 この軍事機構は中央委員会から命令を受けていたので、当然のこととして、その決定は後者の承認を受けているか、おそらくは後者の提唱にもとづいていた。
 中央委員会は6月6日に、4万人の武装兵士と赤衛軍を街頭に送り込んでケレンスキーと連立政権を非難する旗のもとで行進し、そして適当な瞬間に『攻撃に移る』ことを議論した。
 これが何を意味するのかは、軍事機構の長のネフスキー(Nevskii)からボルシェヴィキの計画を知ったスハノフの文章によって分かる。//
 『6月10日に予定された「宣言行動」の対象は、臨時政府の所在地のマリンスキー宮(Mariinskii Palace)とされた。
 これは、労働者分遣団とボルシェヴィキに忠実な連隊の最終目的地だった。
 特に指名された者が宮の前で、内閣のメンバーに出て来て質問に答えよと要求することになっていた。
 特別指名の集団は、大臣が語ったとき、『民衆は不満だ!』と声を挙げて、群衆の雰囲気を興奮させる。
 雰囲気が適当な熱度以上に達するや、臨時政府の人員はその場で拘束される。
 もちろん、首都はすぐに反応することが予想される。
 この反応の状態いかんによって、ボルシェヴィキ中央委員会は、何らかの名前を用いて、自分たちが政府だと宣言する。
 「宣言行動」の過程でこれら全てのための雰囲気が十分に好ましいと分かれば、そしてルヴォフ(Lvov)やツェレテリが示す抵抗は弱いと分かれば、その抵抗はボルシェヴィキ連隊と兵器の実力行使によって抑止する。(**)
 示威行進者の一つのスローガンは、『全ての権力をソヴェトへ』だとされていた。
 しかし、ソヴェトが自らを政府と宣言するのを拒んで武装の示威活動を禁止すれば、スハノフが合理的に結論するように、権力がボルシェヴィキ中央委員会の手に渡されるということのみを意味したことになっただろう。
 示威活動は第一回全ロシア・ソヴェト大会(6月3日に開会予定)と同時期に予定されたので、ボルシェヴィキは既成事実を作って大会と対立するか、または大会の意思に反して、大会の名前で権力を奪うか権力を要求することを無理強いするかを計画していたかもしれない。
 レーニンは実際に、その意図を秘密にはしなかった。
 ソヴェト大会でツェレテリがロシアには権力を担う意思がある政党はないと述べたとき、レーニンは座席から、『ある!』と叫んだ。
 この逸話は、共産主義者の聖人伝記類では伝説になった。//
 ------
   (*) ブルジロフ(Brusilov)はその回想録で、最高司令官になったときにすでに、ロシア軍団には戦闘精神が残っておらず、攻勢は失敗すると分かったと主張している。A. B. Brusilov, Moi vospominaniia (モスクワ・レニングラード, 1929), p.216。 
  (103) E. H. Wilcox, Russian Ruin <ロシアの破滅> (ニューヨーク, 1919), p.196。
  (104) 同上, p.197。V. I. Nemirovich-Danchenko を引用。  
  (105) Alexander Kerensky, Russia and History's Turning Point <ロシアと歴史の転換点>(ニューヨーク, 1965), p.277。
  (**) N. Sukhanov, Zapinski o revoliutsii, IV (ベルリン, 1922), p.319。スハノフはこの情報の源を示していない。だが、メンシェヴィキ派の歴史家のボリス・ニコラエフスキー(Boris Nikolaevskii)は、ネフスキーから来ているのだろうと推測している。SV, No. 9-10 (1960), p.135n。ツェレテリは、スハノフが回想録を公刊した1922年に主要な人物はまだ生きていて、スハノフの説明を否定できたはずだったにもかかわらず、誰もそうしなかった、と指摘する。I. G. Tsereteli, Vospominaniia o Fevral'skoi Revoliutsii, II (パリ, 1963), p.185。
 ---
 ②につづく。

1572/レーニンらの利点とドイツの援助③-R・パイプス著10章6節。

 前回のつづき。
 ---
 ボルシェヴィキの権力闘争での利点とドイツの資金援助③。
 これらの出版物は、レーニンの考え方を広めた。しかし、隠した内容で、だった。
 採用した方法は『プロパガンダ(propaganda)』で、読者に何をすべきかを伝える(これは『アジテーション(agitation)』の任務だ)のではなく、望ましい政治的結論を自分たちが導く想念を読者に植え付けることだった。
 例えば、兵団に対する訴えで、ボルシェヴィキは、刑事訴追を受けさせることになるような脱走を唆しはしなかった。
 ジノヴィエフは、<兵士のプラウダ>第1号に、新聞の目的は労働者と兵士の間の不滅の緊密な関係を作り出し、結果として兵団員たちが自分たちの『真の』利益を理解して労働者の『集団虐殺』をしないようにさせることにある、と書いた。
 戦争の問題についても、彼は同様に用心深かった。//
 『我々は、いま<銃砲を置く>ことを支持しない。
 これは、決して戦争を終わらせない。
 いまの主要な任務は、全兵士に、何を目ざしてこの戦争は始まったのか、<誰が>戦争を始めたのか、誰が戦争を必要とするのか、を理解させ、説明することだ。』(91)//
 『誰が』、もちろん、『ブルジョアジー』だった。兵士たちは、これに対して銃砲を向けるようになるべきだ。//
 このような組織的な出版活動を行うには、多額の資金が必要だった。
 その多くは、ほとんどではなかったとしても、ドイツから来ていた。//
 ドイツの1917年春と夏のロシアでの秘密活動については、文書上の痕跡はほとんど残っていない。(*)
 ベルリンの信頼できる人間が、信頼できる媒介者を使って、文書に残る請求書も受領書も手渡すことなく、中立国スウェーデン経由で、ボルシェヴィキに現金を与えた。
 第二次大戦後にドイツ外交部の文書(archives)が公になったことで、ボルシェヴィキに対するドイツの資金援助の事実を確かなものにすることができ、そのある程度の金額を推算することができるが、ボルシェヴィキがドイツの金を投入した正確な用途は、不明瞭なままだ。
 1917-18年の親ボルシェヴィキ政策の主な考案者だったドイツ外務大臣、リヒャルト・フォン・キュールマン(Richard von Kuelmann)は、ドイツの資金援助を主としてはボルシェヴィキ党の組織と情報宣伝活動(propaganda)のために用いた。
 キュールマンは1917年12月3日(新暦)に、ある秘密報告書で、ボルシェヴィキ党派に対するドイツの貢献を、つぎのように概括した。//
 『連合諸国(協商国、Entente)の分裂およびその後の我々と合意できる政治的連結関係の形成は、戦争に関する我々の外交の最も重要な狙いだ。
 ロシアは、敵諸国の連鎖の中の、最も弱い環だと考えられる。
 ゆえに、我々の任務は、その環を徐々に緩め、可能であれば、それを切断することだ。
 これは、戦場の背後のロシアで我々が実施させてきた、秘密活動の目的だ--まずは分離主義傾向の助長、そしてボルシェヴィキの支援。
 多様な経路を通して、異なる標札のもとで安定的に流して、ボルシェヴィキが我々から資金を受け取って初めて、彼らは主要機関の<プラウダ>を設立することができ、活力のある宣伝活動を実施することができ、そしておそらくは彼らの党の元来は小さい基盤を拡大することができる。』(92) //
 ドイツは、ボルシェヴィキに1917-18年に最初は権力奪取を、ついで権力維持を助けた。ドイツ政府と良好な関係をもったエドュアルト・ベルンシュタイン(Edward Bernstein)によれば、そのためにドイツがあてがった金額は、全体で、『金で5000万ドイツ・マルク以上』だと概算されている(これは、当時では9トンないしそれ以上の金が買える、600~1000万ドルになる)。(93)(**)//
 これらのドイツの資金のある程度は、ストックホルムのボルシェヴィキ工作員たちを経由した。その長は、ヤコブ・フュルステンベルク=ガネツキー(J. Fuerustenberg-Ganetskii)だった。
 ボルシェヴィキとの接触を維持する責任は、ストックホルム駐在ドイツ大使、クルツ・リーツラー(Kurz Riezler)にあった。
 B・ニキーチン(Nikitin)大佐が指揮した臨時政府の反諜報活動によると、レーニンのための資金はベルリンの銀行(Diskontogesellschaft)に預けられ、そこからストックホルムの銀行(Nye Bank)へと転送された。
 ガネツキーがNye 銀行から引き出して、表向きは事業目的で、実際にはペテログラードのシベリア銀行(Siberian Bank)の彼の身内の口座へと振り込まれた。それは、ペテログラードのいかがわしい社会の女性、ユージニア・スメンソン(Eugenia Sumenson)だった。
 スメンソンとレーニンの部下のポーランド人のM・Iu・コズロフスキー(Kozlovskii)は、ペテログラードで、表向きは、ガネツキーとの金融関係を隠す覆いとしての薬品販売事業を営んでいた。
 こうして、ドイツの資金をレーニンに移送することができ、合法の取引だと偽装することができた。
 スメンソンは、1917年に逮捕されてのちに、シベリア銀行から引き出した金をコズロフスキー、ボルシェヴィキ党中央委員会メンバー、へと届けたことを告白した。
 彼女は、この目的で銀行口座から75万ルーブルを引き出したことを、認めた。
 スメンソンとコズロフスキーは、ストックホルムとの間に、表向きは取引上の連絡関係を維持した。そのうちいくつかは政府が、フランスの諜報機関の助けで、遮断した。
 つぎの電報は、一例だ。//
 『ストックホルム、ペテログラードから、フュルステンベルク、グランド・ホテル・ストックホルム。ネスレ(Nestles)は粉を送らない。懇請(request)。スメンソン。ナデジンスカヤ 36。』(97)//
 ドイツは、ボルシェヴィキを財政援助するために、他の方法も使った。そのうちの一つは、偽造10ルーブル紙幣をロシアに密輸出することだった。
 大量の贋造された紙幣は、七月蜂起〔1917年〕の余波で逮捕された親ボルシェヴィキの兵士や海兵から見つかった。//
 レーニンは、ドイツとの財政関係を部下に任せて、うまくこうした取引の背後に隠れつづけた。
 彼はそれでもなお、4月12日のガネツキーとラデックあての手紙で、金を受け取っていないと不満を述べた。
 4月21日には、コズロフスキーから2000ルーブルを受け取ったと、ガネツキーに承認した。
 ニキーチンによると、レーニンは直接にパルヴス(Parvus)と連絡をとって、『もっと物(materials)を』と切願した。(***)
 こうした通信のうち三件は、フィンランド国境で傍受された。
 ------
  (91) <兵士のプラウダ>第1号(1917年4月15日付) p.1。
  (*) 1914年~1917年のロシアの事態にドイツが直接に関与したことを示すと称する、『シッション文書(Sission Papers)』と呼ばれるひと塊の文書が、1918年早くに表れた。これはアメリカで、戦争情報シリーズ第20号(1918年10月)の<ドイツ・ボルシェヴィキの陰謀>として、公共情報委員会によって公刊された。ドイツ政府はただちに完全な偽造文書だと宣言した(Z. A. ゼーマン, ドイツとロシア革命 1915-1918, ロンドン, 1958, p.X.。さらに、ジョージ・ケナン(George Kennan) in: The Journal of Modern History, XXVIII, No.2, 1956.06, p.130-154、を見よ)。これは、レーニンの党に対するドイツの財政的かつ政治的支援という考え自体を、長年にわたって疑わせてきた。
  (92) Z. A. ゼーマン, ドイツとロシア革命, p.94。
  (93) <前進(Vorwaerts)>1921年1月14 日号, p.1。
  (**) ベルンシュタインが挙げる数字は、ドイツ外務省文書の研究で、大戦後に確認された。そこで見出された文書によると、ドイツ政府は1918年1月31日までに、ロシアでの『情報宣伝活動』のために4000万ドイツ・マルクを分けて与えた。この金額は1918年6月までに消費され、続いて(1918年7月)、この目的のために追加して4000万ドイツ・マルクが支払われた。おそらくは後者のうち1000万ドイツ・マルクだけが使われ、かつ全てがボルシェヴィキのためだったのではない。当時の1ドイツ・マルクは、帝制ロシアの5分の4ルーブルに対応し、1917年後の2ルーブル(いわゆる『ケレンスキー』)にほぼ対応した。Winfried Baumgart, Deutsche Ostpolitik <ドイツの東方政策> 1918 (ウィーン・ミュンヘン, 1966), p.213-4, 注19。
  (97) Nikitin, Rokovye gody, p.112-4。ここには、他の例も示されている。参照、Lenin, Sochineniia, XXI, p.570。  
  (99) Lenin, PSS, XLIX, p.437, p.438。
  (***) B. Nikitin, Rokovye gody (パリ, 1937), p.109-110。この著者によると(p.107-8)、コロンタイ(Kollontai)も、ドイツからの金を直接にレーニンに渡す働きをした。ドイツの証拠資料からドイツによるレーニンへの資金援助が圧倒的に証明されているにもかかわらず、なおもある学者たちは、この考え(notion)を受け容れ難いとする。その中には、ボリス・ソヴァリン(Boris Souvarine)のようなよく知った専門家もいる。Est & Quest, 第641号(1980年6月)の中の彼の論文 p.1-5、を見よ。
 ---
 第7節につづく。

1563/五月連立・エスエルら入閣-R・パイプス著10章5節。

 前回からのつづき。
 ---
 第5節・社会主義者の臨時政府への加入。p.405-7。
 四月騒乱は、臨時政府の最初の重大な危機だった。
 ツァーリ体制(帝制)が崩壊して僅か二ヶ月後に、知識人たちはその眼前で国の統合が壊れていくのを見た-そしてもはや、責めるべき皇帝も官僚層もいなかった。
 政府は4月26日に、もう統治できない、『今まで直接で即時には内閣の一部を占めていなかった国の創造的な人たちの代表者』を、つまり社会主義知識人の代表者を、招き入れたい、という感情的な訴えを国民に対して発した。
 『大衆』の目から妥協しているとされるのをまだ怖れて、イスパルコムは4月28日に、政府からの打診を拒否した。
 イスパルコムが態度を変えた原因は、戦時大臣、グチコフの4月30日の退任だった。
 グチコフが回想録で説明するように、ロシアは統治不能になったと彼は結論していた。
 唯一の救済策は、コルニロフ将軍や実業界の指導者たちに代表される『健全な』勢力を政府に招き入れることだ。      
 社会主義知識人の態度が変わらなければこれは不可能なので、グチコフは階段を下りた。
 ツェレテリによれば、そのあとでミリュコフの任務から解放されたいとの要請がつづいたグチコフの辞任は、もはや一時凌ぎの方策では対応できない範囲に及んでいる、危機の兆候だった。
 『ブルジョアジー』が、政府を放棄しようとしていた。
 5月1日にイスパルコムは方針を変え、総会に諮ることなく、賛成44票対反対19票、保留2票の表決をして、メンバーが内閣の職を受諾することを許した。
 反対票は、ソヴェトが全ての権力を獲得することを願うボルシェヴィキと(マルトフ支持者の)メンシェヴィキ国際派によって投じられた。
 ツェレテリは、〔国際派以外の〕多数派を合理化する説明をしている。
 彼が言うには、政府は、迫りつつある破滅から国を救うことができないことを認めた。
 このような状況では、一歩を踏み出して革命を救う義務が、『民主主義』勢力にある。
 ソヴェトは、マルトフやレーニンが望むように、自らのために自らの名前で権力を得ることは、できない。そんなことをすれば、民主政を信じてはいないが民主主義勢力と協力するつもりのある多数の国民を、反動者たちの手に押し込んでしまうことになるのだから。
 別のメンシェヴィキのV・ヴォイチンスキー(Voitinskii)にツェレテリが語ったのは、つぎのようなことだ。
 『ブルジョアジー』との連立に賛成し、『全権力をソヴェトに』のスローガンに間接的には反対することになるのは、農民たちがソヴェトの『右翼側に』位置しており、おそらく彼らは自分たちが代表されていない組織を政府だと認めるのを拒むだろうからだ。//
 イスパルコムは、連立政府の設立に同意する際に、一連の条件を付けた。
 すなわち、連合国間の協定の見直し、戦争終結への努力、軍隊の一層の『民主化』、農民に土地を配分する段階を始める農業政策、そして憲法制定会議(Constituent Assembly)の召集。
 政府の側では、新政府を、軍隊の最高指令権の唯一の源泉であることはもとより、状況によれば軍事力を実際に行使する権限をもつ、国家主権の排他的保持者だと認めることを、イスパルコムに要求した。
 政府とイスパルコムの代表者たちは、五月の最初の数日間を、連立の条件を交渉することで費やした。
 5月4日から5日にかけての夜に、合意に達した。それに従って、新しい内閣が職務を開始した。
 安定感があって無害のルヴォフ公が首相に留任し、グチコフとミリュコフは正式に辞任した。
 外務大臣職は、カデット〔立憲民主党〕のM・I・テレシェンコ(Tereschenko)に与えられた。
 若き実業家のテレシェンコは政治経験がほとんどなく、公衆にはあまり知られていなかったので、これは不思議な選抜だった。
 しかし、一般に知られていたのは、ケレンスキーのようにフリーメイソンに所属しているということだった。この人物の任命はフリーメイソンとの関係によるという疑問の声が挙がった。
 ケレンスキーは、戦時省を所管することになった。
 彼もこの職へと後援するものは持たなかったが、ソヴェトでの卓越ぶりと弁舌の才能によって、夏期の攻勢を準備している軍隊を鼓舞することが期待された。
 6人の社会主義者が、連立内閣の大臣になった。そのうち、チェルノフは農務省の大臣職に就き、ツェレテリは郵便電信大臣になった。
 この内閣は、二ヶ月間、生き存えることになる。//
 五月協定は、究極的な権威について国民を当惑させる二重権力体制(dvoevlastie)の奇妙さを、いくぶんか和らげた。
 五月協定は、大きくなっていく失望の意識だけを示すのではなく、社会主義知識人の成熟さが増大したことをも示していた。そして、そのようなものとして、一つの明確な発展だった。
 表面的には、『ブルジョアジー』と『民主主義』を一つにした政府は、二つの集団が相互に敵対者となるよりは効率的だと、約束した。
 しかし、この合意は、新しい問題も生じさせた。
 社会主義政党の指導者が入閣した瞬間に、彼らは反対者〔野党〕の役割を失った。
 内閣に入ることで彼らは自動的に、間違う全てについての責めを分け持つことになった。
 このことが許したのは、政府に入らなかったボルシェヴィキが現状に対抗する唯一の選択肢であり、ロシア革命の守護者であるという位置を占めることだった。
 そして、リベラルおよび社会主義知識人の行政能力は救いようもなく低かったので、事態は、より悪化せざるをえなかった。
 ボルシェヴィキが、唯一の想定できるロシアの救い手として、現われた。//
 臨時政府は今や、崩壊する権威から権力統御権を奪う穏健な革命家たちの、古典的な苦境に立ち至った。
 クレイン・ブリントン(Crane Brinton)は、革命に関する比較研究書の中で、つぎのように書く。//
 『穏健派たちは、少しずつ、旧体制の反対者として得ていた信頼を失っていることに気づく。そして、ますます旧体制の相続人としての地位と見込みでは結びついていたものを失墜させていることに。
 防御側に回って、彼らはつぎつぎと間違いをする。防御者であることにほとんど慣れていないのが理由の一つだ。』
 『革命の進行に遅れる』と考えることが心情的に堪えられなくて、左翼にいる好敵と断交することもできなくて、彼らは誰も満足させず、十分に組織され、十分に人員をもつ、より決意をもつ好敵たちに、喜んで道を譲る。(79) //
  (79) Crane Brinton, Anatomy of Revolution (ニューヨーク, 1938), p.163-171。

 ---
 第6節につづく。 

1543/スイスにいたレーニン②-R・パイプス著第10章。

 前回のつづき。
 第1節・1917年初期のボルシェヴィキ党②。
 ---
 1917年3月のボルシェヴィキ党は、このような〔レーニンの〕野心的計画を遂行できる状況ではほとんどなかった。
 大戦中に警察に逮捕されて、それは2月26日が最もひどかったのだが、党の最も重要な組織体であるペテログラード委員会の委員が勾留され、党の機構は無力になった。
 指導部の者たちはみな、投獄されるか、追放されていた。
 1916年12月初期のレーニンあて報告で、シュリャプニコフ(Shliapnikov)は、いくつかの工場や要塞守備兵団での前の数ヶ月間の党の活動について、『戦争をやめろ』、『政府を倒せ』とのスローガンだったと叙述した。だが同時に彼は、ボルシェヴィキが警察の情報員にスパイされていて非合法の活動をするのがほとんど不可能になった、と認めた。
 二月革命を呼びかけたとか組織したとすらしたとかのボルシェヴィキによるそのすぐあとの主張は、したがって、全く事実ではない。
 ボルシェヴィキは、自発的な示威行動者たち、そしてまた、メンシェヴィキやそれが支配するソヴェトの後にくっついて、その人たちの上着の裾を握って歩いたようなものだった。
 反乱兵団の中には支持者はほとんどいなかったし、この時期の工場労働者の中でボルシェヴィキを支持する者は、メンシェヴィキやエスエルに対してよりもはるかに少なかった。
 二月の日々の間、ボルシェヴィキがしたことと言えば、訴えや宣言文書類を発行することに限られていた。
 せいぜいのところ、2月25-28日のデモ行進で労働者や兵士たちが運んだ革命の旗を準備するのに手を染めたかもしれない。//
 しかしボルシェヴィキは、数の少なさを組織化の技術で埋め合わせた。
 3月2日、監獄から釈放されたばかりの党ペテログラード委員会は、三人総局(Bureau)を立ち上げた。それは、シュリャプニコフ、V・A・モロトフおよびP・A・ザルツキー(Zalutskii)の三人で構成された。
 この総局は3日後に、モロトフが編集長になって、再生した党の機関誌、<プラウダ>の第一号を発行した。
 3月10日には、N・I・ポドヴォイスキーとV・I・ネフスキー(Nevskii)のもとに軍事委員会(のち軍事機構と改称)を設立して、ペテログラード守備兵団への情報宣伝と煽動を実施することになった。
 ボルシェヴィキは活動の本拠として、若いニコライ二世の愛人だとの風聞のあったバレリーナのM・F・クシェシンスカヤ(Kshesinskaia)の贅沢なアール・ヌーヴォー様式の邸宅を選んだ。
 この邸宅をボルシェヴィキは、所有者の抗議を無視して、友好的兵団の助けで『収用した』。
 1917年7月までここに、ペテログラード委員会と軍事機構はもちろんだが、ボルシェヴィキ党の中央委員会も所在した。//
 1917年3月はずっと、ロシアのボルシェヴィキはその指導者から切り離され、メンシェヴィキやエスエルとほとんど異ならない政治路線を追求した。
 中央委員会のある決定は、口では臨時政府は『大ブルジョア』や『地主』の代理人だと述べていたが、それに対抗するとは主張しなかった。
 最も力があるボルシェヴィキの組織であるペテログラード委員会は、3月3日に、メンシェヴィキ・エスエルの立場を採用して、< postol'ku-poskol'ku >、つまり『民衆』の利益を向上させる『範囲で』政府を支持することを訴えた。
 理論的にも実務的にも、ペテログラードのボルシェヴィキ指導部は、レーニンのそれとは完全に対立する基本方針を採った。
 ペテログラード指導部はしたがって、レーニンから一週間後に届いた3月6日の電報の内容が気に入ったはずはなかった。
 ペテログラード委員会の会議に関する公刊されている議事録は、電報を受け取った後の議論を記載していない。//
 この親メンシェヴィキの方向は、追放されていた三人の中央委員会メンバーがペテログラードに着いて、強化された。三人とはL・B・カーメネフ、スターリンおよびM・K・ムラノフで、年長者優先原理により、この三人が、党の指揮権と<プラウダ>の編集権を握った。 
 これら三人はいずれも、彼らの論考や演説で、レーニンがツィンマーヴァルト(Zimmerwald)やキーンタール(Kiental 〔いずれもスイスの小村、社会主義インターの会合地〕)でとった見地を拒否した。
 彼らは、国家間の戦争を内乱に転化するのではなく、社会主義者が講和交渉の即時開始を強く主張することを望んだ。(11)
 ペテログラード委員会は、3月15-16日に会議を開いた。
 そのときの議事録も決定集も公刊されていないことは、新政府や戦争への態度という重大な論争点について、多くの出席者が反レーニンの立場を選択したことを強く示唆する。
 しかし、知られていることだが、3月18日のペテログラード委員会の閉鎖会議で、カーメネフは、臨時政府は間違いなく『反革命的』で打倒されるべき運命にあるが、その打倒のときはまだ将来だ、『重要なことは権力を掌握することではなく、それを維持し続けることだ』と主張した。
 カーメネフは、同旨のことを3月末の全ロシア・ソヴェト協議会でも語った。
 この当時のボルシェヴィキは、メンシェヴィキとの再統合を真剣に考えていた。
 3月21日にペテログラード委員会は、ツィンマーヴァルトやキーンタールの基本線を受け入れるメンシェヴィキと合同するのは『可能でかつ望ましい』と宣言した。(*)//
 こうした態度を考えると、アレクサンダー・コロンタイ(A. Kollontai)がレーニンの第一と第二の『国外からの手紙』を携えて彼らの前に現れたときに、ペテログラードのボルシェヴィキが衝撃や疑惑の反応を示したことは、理解できない。
 レーニンはこの手紙で、3月6日/19日の電報について詳述していた。つまり、臨時政府の不支持と労働者の武装。
 この基本方針は、ロシアの状況の雰囲気を全く知らない誰かが考え上げた、完全に現実離れしているものだと、彼らは感じた。
 数日間の躊躇の後で、彼らは第一の『国外からの手紙』を<プラウダ>に載せたが、レーニンが臨時政府を攻撃している部分の文章は除外した。
 彼らは、第二の手紙、およびその後のものを掲載するのを拒んだ。//
 3月28日と4月4日の間にペテログラードで開かれた全ロシア・ソヴェト大会で、スターリンが動議を提案して、代議員たちが採択した。それは、臨時政府への『統制』、および『反革命』と闘い革命運動を『拡大する』目的をもつその他の『進歩勢力』との協力を呼びかけるものだった。(+)
 ボルシェヴィキのこのようなもともとの『反ボルシェヴィキ』的態度とレーニンが到着した後の速やかな変化は、彼らの振る舞いが、信奉して適用する原理にもとづいているのではなく、指導者の意思にもとづいている、ということを示す。
 すなわち、ボルシェヴィキは、信じることにではなく信じる人物に、完全に拘束されていた。//
  ------
  (11) カーメネフ, プラウダ, No.9 (1917年3月15日), p.1、スターリン, プラウダ, No.10 (1917年3月16日), p.2。
  (*) シュリャプニコフは、つぎのように書く。ペテログラードのボルシェヴィキは、カーメネフ、スターリンおよびムラトフが強く主張して迫った政策方針を知って狼狽した、しかし、ペテログラードに現れた年長の三人のボルシェヴィキの前で自分たちが従った政策の見地に立ったので、狼狽した別のありそうな原因は、端役を演じなければならなかったことへの憤慨にあったように見える、と。 
  (+) この大会の記録はロシアでは公刊されてこなかったが、レオン・トロツキー, Stalinskaia shkola falsifikatsii (ベルリン, 1932) で見い出せる。上の決定は、p.289-p.290 に出てくる。
 ---
 第2節につづく。

1467/第一次大戦と敵国スパイ②-R・パイプス著9章10節。

 前回のつづき。
 ---
 第10節・ツィンマーヴァルト・キーンタールおよび敵工作員との関係。
 戦争が勃発するや、連合国〔仏、英ら〕および中央諸国〔ドイツ、オーストリアら〕のいずれの社会主義議会人も、公約に背いた。
 1914年夏に、彼らは情熱的に平和について語り、戦争継続に抗議して集団示威行進をする大衆を街路へと送り込んだ。
 しかし、交戦が始まったとき、彼らは列に並んで戦争予算に対して賛成票を投じた。
 とくに痛ましかったのは、ヨーロッパで最強の党組織を持ち、第二インターの背骨になっていたドイツ社会民主党の裏切りだった。
 戦争借款に対して彼らの議員団の全員が一致して賛成したのは驚くべきことで、かつ、分かったことだが、社会主義インターナショナルに対するほとんど致命的な一撃だった。//
 ロシアの社会主義者は、西側にいる同志たちよりも、インターの公約を真面目に考えていた。一つは、母国での社会主義の源が浅く、母国を愛する誇りがほとんどなかったこと、もう一つは、シュトゥットガルトの決定が想定した『戦争によって生じる経済的かつ政治的な危機』を利用すること以外に権力へと到達する機会はないことを知っていたこと、による。
 プレハーノフやL・G・ダイヒのごとき社会民主主義運動の長老者および軍事衝突で愛国的感情に目覚めた多くの社会主義革命党員(ザヴィンコ、ブルツェフ)から離れて、ロシア社会主義の著名人の多くは、インターナショナルの戦争反対決定に忠実なままだった。
 第四ドゥーマの社会民主党および Trudovik(エスエル)議員団は、全員一致して戦争借款に反対票を投じて、このことを証明した。-これは、セルビアの社会民主党を除けば、ヨーロッパでただ一つの議会人の行動だった。//
 スイスに到着したレーニンは、『ヨーロッパ戦争における革命的社会民主主義者の任務』と呼ばれる綱領的声明を起草した。(124)
 ドイツ、フランスおよびベルギーの指導者を裏切りだと非難したあとで、レーニンは、非妥協的にラディカルな立場を概述した。
 『任務』の第6条には、つぎの提案が含まれていた。//
 『労働者階級および全ロシア人民の被搾取大衆の視座から見ると、最も害悪ではないことは、ポーランド、ウクライナ、および多数のロシア人民…を抑圧している皇帝君主制とその軍の敗北である。』(*1)
 その他のいかなる主要なヨーロッパの社会主義者も、自分の国が戦争で敗北することに賛成だとは公言しなかった。
 ロシアの敗北を支持するレーニンの驚くべき主張は不可避的に、彼はドイツ政府の工作員だという非難をもたらした。(+) 
 戦争に関するレーニンの言明の実際上の結論は、このテーゼの第7条と最後の条で述べられていた。その内容は、『全ての国家の反動的でブルジョア的な政府と政党』に対する内戦を解き放つために、戦争をしている諸国の民間人や軍人の間で精力的な扇動と組織的な宣伝活動を行う、というものだった。
 この文書の模写物はこっそりとロシアに持ち込まれ、帝国政府が<プラウダ>を廃刊させ、ドゥーマのボルシェヴィキ議員たちを逮捕する根拠になった。 
 この事件でボルシェヴィキを弁護した法律家の一人は、アレクサンダー・ケレンスキーだった。 
 生命を落とす可能性がある大逆(treason)という罪で審問され、ボルシェヴィキたちは判決により追放された。これは、二月革命まで、党をほとんど舞台の外に追い出した。//
 レーニンの綱領の重点は、社会主義者は戦争を終わらせるためにではなく、自分たち自身の目的で戦争を利用するために奮闘すべきだ、ということにあった。レーニンは1914年10月に、つぎのように書いた。
 『「平和」というスローガンは、この瞬間では、誤っている。
 このスローガンは、ペリシテ人と聖職者のスローガンだ。 
 プロレタリアートのスローガンは、こうでなければならない。内戦(civil war、内乱)、だ。』//
 レーニンは、戦争の間ずっと、この定式に忠実であろうとした。
 もちろん中立国スイスでは、戦闘中のロシアにいる彼の支持者たちに比べれば、レーニンの身はかなり安全に守られた。//
 レーニンの戦争に関する綱領を知ると、ドイツは熱心に彼を自らのために利用しようとした。ロシア帝国軍の敗北を主張することは、結局のところ、ドイツの勝利を支持するのと全く同じことだ。
 ドイツの主要な媒介者は、パルヴゥスだった。このパルヴゥスは、1905年のペテルスブルク・ソヴェトの指導者の一人で、『連続革命』理論の創始者だったが、最近はウクライナ解放同盟の協力者だった。
 パルヴゥスは、きわめて腐敗した個性をもつとともに、ロシアの革命運動上、最も大きな知性をもつ知識人の一人だった。
 1905年の革命が失敗したあとで彼は、ロシアでの革命の成功はドイツ軍の助けを必要とする、という結論に達した。ドイツ軍だけが、帝制を打倒することができる。(*2) 
 パルヴゥスは、その政治的関係を使って相当の財産を蓄え、ドイツ政府に身を任せた。
 戦争勃発の際、彼はコンスタンチノープルに住んでいた。 
 パルヴゥスは、その地のドイツ大使と接触し、ドイツの利益を促進するためにロシアの革命家を利用するときだと、概述した。
 その論拠は、ロシアの過激派は、帝制が倒れてロシア帝国が破滅する場合にのみその目的を達成することができる、ということだった。この目的は偶然にだが、ドイツにとっても都合がよい。『ドイツ政府の利益は、ロシアの革命家たちのそれと一致している』。
 パルヴゥスは、金を求め、かつ左派のロシア移民と連絡をとることの承認を求めた。(126)
 ベルリン〔ドイツ政府〕に奨められて、彼は1915年5月に、ツューリヒにいるレーニンと接触した。パルヴゥスは、ロシア移民の政界に通暁していたので、レーニンが左翼の鍵となる人間であることを知り、もしも自分がレーニンを獲得すればロシアの残りの戦争反対左翼は一線に並ぶだろうことが分かった。(127)
 この企図は、さしあたりは、失敗した。
 レーニンがドイツと取引きすることに反対したというのでも、ドイツから金をもらうことが不安だったわけでもない。-この失敗は、レーニンが、社会主義の教条に対する裏切り者、変節者、『社会主義狂信愛国者(socialist chauvinist)』と交渉しようと思わなかったことによるだけだ。
 パルヴゥスの伝記作者は、その個人的な嫌悪感に加えて、レーニンはつぎのように考えたのではないかと示唆している。すなわち、レーニンは、もしもパルヴゥスと交渉すれば彼〔パルヴゥス〕が『そのうちにロシアの社会主義組織の支配権を獲得し、その財産資源と知的能力を使って他の全ての政党指導者を打ち負かしてしまう』ことを恐れた、と。(128) 
 レーニンは、このパルヴゥスとの出会いについて、公にはいっさい言及しなかった。//
  (*1) レーニンはロシアのウクライナに対する『抑圧』と強調して当惑させているが、それは少なくとも部分的には、レーニンのオーストリア政府との金銭上の協定によって説明されるものでなければならない。レーニンは、ウクライナもオーストリアの支配から解放されるべきだと要求しはしなかった。
  (+) この点についての告発は、警察官僚について日常的によく知っているスピリドヴィッチ将軍によってなされた。彼は、証拠を提出しないでつぎのように主張する。
 1914年の6月と7月にレーニンは二度ベルリンへと旅行したが、ドイツ人とともにロシア軍背後での反ロシア的活動計画を作るためで、その対価として7000万マルクがレーニンに支払われることになっていた、と。
 Spiridovich, ボルシェヴィズムの歴史, p.263-5。
  (*2) パルヴゥスは事態を見て自分の正しさが分かったと感じた。彼は1918年に、1917年の革命に言及して、以下のように書いた。
 『プロシア〔ドイツ〕の銃砲は、ボルシェヴィキのビラよりも大きな役割を果たした。とりわけ思うのは、もしもドイツ軍がヴィステュラ(Vistula〔ポーランドの河〕)に達していなかったら、ロシアの移民たちはまだ放浪し、自分で苦しんでいただろう、ということだ。』
  (126) Zeman 編, ドイツとロシアでの革命, 1915-18 (1958), 1915年1月の配達便, p.1-2。
  (127) パルヴゥスのレーニンとの出会いについて、Zeman and Scharlau, 商人, p.157-9。
 ---
 ③につづく。

1439/レーニンの青少年期②-R・パイプス著9章1節。

 前回のつづき。
 ①Richard Pipes, The Russian Revolution (1990) <原著・大判でほぼ1000頁>と② Richard Pipes, Russia under Bolshevik Regime (1995)<原著・大判で約600頁>とを併せて、「一般読者むけ」に「内容を調整し」「注を省き簡略に」(下記の西山による)一冊にまとめたものに、③Richard Pipes, A Concice History of the Russian Revolution (1995) <原著・中判で約450頁>がある。そして、この最後の③には、R・パイプス〔西山克典訳〕・ロシア革命史(成文社、2000)という邦訳書<約450頁>がある。したがって、この欄で邦訳を試みている書物①の内容は、上の邦訳書の前半分程度を占めていることになる。内容に大きな矛盾はないだろうが、しかしまた、1990年の本の方が前半部については優に二倍以上の詳細さをもっているだろう。西山克典の訳書を参考にさせていただいていることは言うまでもない。
 ---
 レーニンの青少年期について印象的なのは、彼の同時代の者たちの多くと違って、レーニンは公的な出来事への関心を示さなかった、という事実だ。(3)
 検閲という鉄の掴みがレーニンを非人間的にする前に彼の姉妹の一人が出版した書物から浮かび上がってくるのは、きわめて勤勉な少年の肖像だ。きれい好きで、几帳面な-このタイプを、現代の心理学は、強迫神経症的と分類するだろう。(4) 
 レーニンは模範的学生で、素行を含むほとんど全ての科目で優秀な成績を獲得し、それで毎年金のメダルを授与されていた。
 彼は、クラスのトップの成績で卒業した。
 われわれが利用できる乏しい証拠資料からも、彼の家族に対してであれ体制に対してであれ、反抗的態度の痕跡を見出すことはできない。
 レーニンののちの好敵になるアレクサンダーの父親、フョドール・ケレンスキーはたまたまレーニンがシンビルスクで通っていた学校の校長だった。その校長はレーニンに、カザン大学に進学するように薦めたのだったが、それは、『学校の中でも外でも年長者や教師に対して、言葉によっても行為によっても、好ましくない意見をもつに至る理由を全く示さない』、『無口』で『非社交的』な学生として、だった。(5)
 1887年に高校を卒業するまで、レーニンは『明確な』政治的意見を抱いていなかった。(6)
 レーニンの初期についての伝記には、将来の革命家を暗示するものは何もない。むしろ、レーニンは父親の足跡に従い、名のある官僚の経歴へと進むだろう、ということが示唆されている。
 カザン大学で法学を学修することが認められたのは、このような特性によってだ。これがなければ、彼の家族に関する警察の記録によって、レーニンは大学進学を妨害されていただろう。// 
 大学に入って、レーニンは名高いテロリストの弟だと仲間の学生たちに認識され、秘密の人民の意思グループへと引き摺り込まれた。
 ラザール・ボゴノフを長とするこの組織は、ペテルスブルクを含む他都市の同意見の学生たちとの接触があり、明らかに、アレクサンダー・ユリアノフ〔レーニンの兄〕とその仲間が処刑された行為を実行する意図をもっていた。
 この計画がどの程度進行していたか、レーニンがどの程度関与していたか、を確認することはできない。
 このグループは1887年12月に逮捕され、大学の規制に対する抗議のデモが行われた。
 走り、叫び、両腕を振っているのを目撃されていたレーニンは、短期間だけ、拘留された。
 郷里に戻ったレーニンは、自主退学することを告げる手紙を大学に書き送った。しかし、退学処分を免れようとする企図は失敗に終わった。
 レーニンは逮捕され、39人の学生たちとともに流刑〔追放〕に遭った。
 この苛酷な制裁はアレクサンダー三世が自立や不服従の兆候を抑え込むために用いた典型的な手法だったが、革命運動への新規加入者をつねに与えつづけることにもなった。//
 レーニンはそのうちに忘れられ、復学することが許されたかもしれなかった。捜査の過程で警察がボゴラス・サークルとの関係を暴き、彼の兄がテロリズムに関与していたことを知る、ということがなければ。
 ひとたびこのような事実が知られるようになるや、レーニンは『不審者』リストに掲載され、警察による監視のもとに置かれることになった。
 レーニンおよびその母親の復学を求める請願書は、決まって却下された。
 レーニンの前には、将来がなかった。
 彼は、つぎの4年間、母親のペンションを離れて、強いられた怠惰の生活をおくった。
 彼の気分は絶望的で、母親の請願書の一つによると、すぐにも自殺をしそうだった。
 われわれがもつこの期間のレーニンに関する資料からすると、彼は傲慢な、嫌味のある、友人がいない青年だった。 
 しかし、レーニンを尊敬していたユリアノフ家族の中では、彼は天才の卵であり、その意見は福音(gospel)だった。(7)//
 レーニンはこの期間に、大量の読書をした。
 彼は、1860年代および1870年代の『進歩的』な雑誌や書物を読み漁り、とくにニコライ・チェルニュイシェフスキーの書物には、彼自身の証言文書によると、決定的な影響をうけた。(8)(*)
 この試行錯誤的な期間、ユリアノフ家はシンビルスクの社会からのけ者にされた。人々は、警察の注意を惹きつけることを恐れて、処刑されたテロリストの近親者との交際を断ったのだった。
 これは苦い体験であり、レーニンが過激化するについて、少なからぬ役割を果たしたように見える。
 レーニンが母親とともにカザンへ移った1888年の秋までに、レーニンは完全に巣立ちのできるラディカルになっていた。そして、彼の約束された経歴を切断し、家族を拒否した者たち-帝制支配者層および『ブルジョワジー』-に対する際限のない憎悪で、充ち満ちていた。
 彼の亡兄のような、理想主義へと駆られるロシアの典型的な革命家とは対照的に、レーニンの主要な政治的衝動は、滞留する憎悪だった。
 この感情的な土壌に根ざして、レーニンの社会主義とは、最初から本質的に、破壊という原理(doctrin)のものだった。
 レーニンは将来の世界についてほとんど何も考えず、感情的にも知性的にも、現在の世界を粉砕することに没頭していた。
 この偏執症的な破壊主義こそが、ロシアの知識人を魅惑したり嫌悪させたり、喚起したり畏怖させたりしたものだ。彼らは、ハムレットの逡巡とドン・キホーテの愚昧の間を揺れ動きがちだった。 
 1890年代にレーニンと頻繁に逢ったストルーヴェは、つぎのように言う。//
 『彼の最も重要な-新しい有名なドイツの心理学用語を使うと-気質(Einstellung)は、<憎悪>だった。
 レーニンはマルクス主義の原理を採用したが、それは本質的には、彼の心性のうちのあの重要な<気質>が、その原理に反応したことが理由だ。  
 容赦なくかつ完璧に、敵の最終的な破壊と絶滅を目指す階級闘争の原理は、周囲の現実に対するレーニンの感情的な態度に適応するものだった。 
 レーニンは、実存する専政体制(帝制)や官僚制のみならず、また警察の無法さや恣意性のみならず、それらと対照的なもの-『リベラル』や『ブルジョワジー』-をも、憎悪した。
 あの憎悪には、嫌悪を感じさせる恐ろしい何かがあった。というのは、具体的な-あえて私は野獣的なと言いたいが-感情や反感に根源があるので、それは同時に、レーニンの全存在に似て抽象的でかつ冷酷なものだった。』(9) //
  (3) Nikolai Valentinov, The Early Years of Lenin (1969), p.111-12 参照。
  (8) Valentinov, Early Years, p.111-38, p.189-215。レーニンとの会話にもとづく。
  (*) チェルニュイシェフスキーは1860年代の指導的な過激派宣伝者で、<何がなされるべきか>という、青年に家族を捨てて新しい実証主義的かつ功利主義的な思考方法による共同体に加わるよう促した小説、の著者だ。彼は、現存の世界を腐っていて絶望的だと見なした。この小説の主人公、ラフメトフは、鉄の意思をもつ、過激な変革に完全に献身した『新しい人間』として描かれている。レーニンは、彼の最初の政治的小冊子にこの小説のタイトルを使った。
 ---
第2節につづく。

1435/ロシア革命史年表④-R・パイプス著(1990)による。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990)の「年表」より。p.852-p.854。/の左右に日付(月日)がある場合、左は旧暦、右は新暦。()ではない〔〕内は、秋月が補足・挿入。

 1917年〔9月以降〕
  9月10日 ボルシェヴィキ支援による第3回ソヴェト地方大会開く、フィンランドで。
  9月12日・14日 レーニン、〔ボルシェヴィキ党〕中央委員会に、権力掌握のときは熟している、と書き送る。  
  9月25日 ボルシェヴィキ、ペトログラード・ソヴェトの労働者部門で過半数を獲得。トロツキー、〔ペトログラード・〕ソヴェト議長に。
  9月26日 CEC〔ソヴェト中央執行委員会〕、ボルシェヴィキの圧力のもとで、第2回全ロシア・ソヴェト大会を10月20日に開催することに同意。
  9月28日-10月8日 ドイツ軍、リガ湾の島々を占拠、ペトログラードを脅かす。
  9月29日 レーニン、権力奪取について中央委員会あて第三の手紙。
 10月 4日 臨時政府、ペトログラードからの避難を討議。 
 10月 9日 CEC、メンシェヴィキの動議により、首都防衛軍事組織の結成を票決(すみやかに、軍事革命委員会と改称)。
 10月10日 レーニン出席して、ペトログラードでボルシェヴィキ中央委員会が深夜の真剣な会議、武力による権力奪取に賛成票決する。
 10月11日 ペトログラードで、ボルシェヴィキ支援による北部地方ソヴェト大会開く。『北部地方委員会』を設立し、第2回ソヴェト大会への案内状を発行。
 10月16日 ソヴェト、軍事革命委員会(Milrevkom、ミルレヴコム)の設立を承認
 10月17日 CEC、第2回〔全ロシア〕ソヴェト大会を10月25日に延期。
 10月20日 軍事革命委員会、ペトログラード市内および近郊の軍団に『コミッサール』を派遣。
 10月21日 軍事革命委員会、各連隊委員会の会議を開く。兵団へのいかなる命令も軍事革命委員会の副書を必要とする旨を参謀部(Military Staff)に提示する無毒のような決定を裁可させようとする。要求は却下される。
 10月22日 軍事革命委員会、参謀部は『反革命的だ』と宣言。 
 10月23-24日 軍事革命委員会、参謀部と欺瞞的な交渉を継続。 
 10月24日 政府〔ケレンスキー首班の臨時政府〕に忠実な軍団、ペトログラードの要所を占拠、ボルシェヴィキの新聞社を閉鎖。ボルシェヴィキ、反対行動を起こし、ペトログラードの多くを奪い返す。
 10月24-25日の夜 ケレンスキー、前線からの助けを求める。変装したレーニン、ボルシェヴィキが支える第2回ソヴェト大会が始まろうとするスモルニュイへと進む。ボルシェヴィキ、軍事革命委員会を使って、首都を完全に征圧。
 10月25日朝 ケレンスキー、軍事支援を求めて冬宮から前線へ逃亡。レーニン、軍事革命委員会の名で、臨時政府打倒と権力のソヴェトへの移行を宣言。
 10月25日 ボルシェヴィキ、冬宮の確保に失敗。そこでは、政府の大臣が忠実な兵団による救出を待つ。トロツキー、午後に、ペトログラード・ソヴェトの緊急会議を開く。レーニン、7月4日以来初めて、外に姿を現す。ボルシェヴィキの動議により、モスクワで、軍事革命委員会を設立。
 10月26日 モスクワ軍事革命委員会の兵団、クレムリンを掌握。
 10月25-26日の夜 冬宮が落ち、諸大臣が逮捕される。ボルシェヴィキ、第2回ソヴェト大会を開会。
 10月26日夕 ソヴェト大会、レーニンの土地および講和に関する各布令を裁可。レーニンを議長(首相)とする新しい臨時政府、すなわち人民委員会議(ソヴナルコム、Sovnarkom)の形成を承認。ボルシェヴィキが支配する新しいCECを任命。
 10月27日 第2回ソヴェト大会、中断。反対派のプレス、非合法に(プレス布令)。
  10月28日 親政府の兵団、モスクワ・クレムリンを再奪取。
 10月29日 鉄道被用者組合、ボルシェヴィキに対して政府の構成政党の拡大を要求する最後通告を渡す。カーメネフ、同意。政府、ソヴェト・CECの事前の同意なくして法令を発布するつもりだと表明。政府被用者〔公務員〕組合、ストライキを宣言。
 10月30日 プルコヴォ近くで、コサックと親ボルシェヴィキ船員および赤衛軍との間の衝突。コサックが撤退。鉄道被用者組合、権力を手放すようボルシェヴィキに対して要求。
 10月31日-11月2日 モスクワで戦闘が起こり、親政府兵団の降伏で終わる。
 11月 1-2日 ボルシェヴィキ中央委員会、鉄道被用者の要求を拒否。カーメネフとその他4名のコミッサール〔人民委員〕、内閣構成の拡大の妥協に対するレーニンの拒否に抗議することを諦める。
 11月 4日 レーニン、トロツキーとソヴェト・CEC〔中央執行委員会〕の間の深刻な出会い。票決を操作することにより、ソヴナルコム〔人民委員会議=内閣〕が布令(decree)により立法(legislate)する公式権限を獲得。 
 11月 9日 ボルシェヴィキ、講和に関する布令を、政府は即時停戦に反対している同盟諸国の代表者に送る。
 11月12日 憲法制定会議(Constituent Assembly)の選挙、ペトログラードで始まる。月末まで、非占領のロシア全域で続く。社会主義革命党〔エスエル〕が最大多数票を獲得。
 11月14日 銀行従業員、金銭を求めるソヴナルコムの要求を拒否。
 11月15日 ボルシェヴィキのソヴナルコム、第1回定期会合。
 11月17日 ボルシェヴィキ兵団、国有銀行を襲い、500万ルーブルを奪う。 
 11月20日/12月3日 ブレスト・リトフスクで停戦交渉始まる。ソヴェト代表は、ヨッフェ。
 11月22日 裁判所のほとんどおよび法曹職業を廃止する布令。革命裁判所の創設。
 11月22-23日 憲法制定会議防衛同盟の設立。
 11月23日/12月6日 ロシアと中央〔中部欧州〕諸勢力、停戦で合意。
 11月26日 農民大会、開かれる、ペトログラードで。
 11月28日 憲法制定会議の座り込み〔 ?〕会合。
 12月    国家経済最高会議、創設(VSNKh)。 
 12月 4日 ボルシェヴィキと左翼エスエル〔社会主義革命党左派〕、農民大会を破壊。 
 12月 7日 チェカ(Cheka〔秘密政治警察〕)、設立。
 12月9-10日 ボルシェヴィキと左翼エスエルの協議成立。左翼エスエル、ソヴナルコムおよびチェカに加入。
 12月15日/28日 ブレスト会議、一時休止。
 12月27日/1月9日 ブレスト会議、再開。トロツキーがロシア代表団を率いる。
 12月30日/1月12日 中央〔中部欧州〕諸勢力、ラダ〔ウクライナ・ソヴェト〕をウクライナ政府として承認。
 12月後半 アレクセイエフ、コルニロフ各将軍、義勇軍(Volunteer Army)を立ち上げる。

 1918年 1月
  1月 1日 レーニンの暗殺未遂。  
  1月 5日/18日 憲法制定会議の一日会合。憲法制定会議を支持するデモ、発砲され、逃散。労働者『幹部会』、第1回会合。トロツキー、ブレストからペトログラードへ戻る。
  1月 6日 憲法制定会議、閉じられる。
  1月 8日 ボルシェヴィキが支援する第3回ソヴェト大会、開く。『労働者および被搾取大衆の権利の宣言』を採択し、ソヴェト・ロシア共和国を宣言。
  1月15日/28日 ソヴェト・ロシア、国外および国内の債務履行を拒否。
  1月28日 ラダ、ウクライナの独立を宣言。」  
-----------
*1918年2月以降につづく。

1434/ロシア革命史年表③-R・パイプス著(1990)による。

Richard Pipes, The Russian Revolution (1990)の「年表」より。p.850-p.852。 〔〕は、秋月が補足・挿入。

 1917年〔8月末まで〕
「  1月27日 プロトポポフ、労働者集団を逮捕。
   2月14日 ドゥーマ、再開会。
   2月22日 ニコライ、モギレフへと出立。
   2月23日 国際婦人日と連携したペトログラードでの集団示威行進(デモ、Demonstrations)。
   2月24日 ペトログラードでさらに大きなデモ。
   2月25日 デモが暴力に変わる。ニコライ、力による鎮圧を命令。
   2月26日 ペトログラード、軍隊により占拠される。ヴォリンスキー連隊の一団が民衆に発砲し、40人死亡。パヴロフスキー連隊の一団、抗議して反乱。
   2月26日-27日の夜 パヴロフスキー連隊兵団、徹夜で会合し、対民間人発砲命令に対する不服従を票決。
   2月27日 ペトログラードの大部分、反抗する守備部隊の手中に。政府の建築物が燃焼。ニコライ、混乱を収拾する特殊兵団を率いてペトログラードへと進むよう、イワノフ将軍に命令。メンシェヴィキ、ソヴェト代議員選挙を要求し、夕方に、ペトログラード・ソヴェトの会合を組織。
   2月28日 ニコライ、早朝にツァールスコエ・セロに向かう。ドゥーマの年長者議員会議が行われ、臨時委員会を設立。ペトログラードの全域で、工場や軍駐屯地がソヴェトへの代議員を選出。ソヴェトの最初の幹部会合。混乱がモスクワへと広がる。
   2月28日-3月1日の夜 皇帝列車、停止。プスコフへと方向転換。
   3月 1日 イスパルコム(Ispolkom 〔ペトログラード・ソヴェト執行委員会〕)、ドゥーマの臨時委員会との合意の基盤とする9項目綱領を起草し、第一命令を発布。ニコライ、夕方にプスコフに到着、ドゥーマによる内閣形成を求めるアレクセイエフ将軍の懇願に同意し、イワノフ将軍に任務終了を命令。モスクワ・ソヴェトの設立。
   3月1日-2日の夜 ドゥーマとソヴェト代議員、9項目綱領を基礎に合意を達成。ランスキー将軍がモギレフで、ドゥーマ議長・ロジアンコと電信による会話。
   3月 2日 G・E・ルヴォフを議長として臨時政府設立。アレクセイエフは前線の兵団長たちと連絡をとる。ニコライ、子息への譲位に同意。シュルギンとグシュコフがプスコフへと出発。ニコライ、帝室医師と子息について会話し、弟・ミハイルに譲位すると決めたとシュルギンとグシュコフに伝える。退位声明に署名。ウクライナのラダ(ソヴェト)、キエフで設立。
   3月 3日 臨時政府がミハイルと会見し、帝位を放棄するように説得。 
   3月 4日 ニコライの退位宣言とミハイルの帝位放棄が公表される。臨時政府、警察部局を廃止。
   3月 5日 臨時政府、官僚と幹部職員の全員を解任。
   3月 7日 イスパルコム、臨時政府を監視する『連絡委員会』を設置。
   3月 8日 ニコライ、軍兵士たちに別れを告げることを懇願、逮捕されたままでツァールスコエ・セロに向かう。
   3月 9日 合衆国〔アメリカ〕、臨時政府を承認。
   3月18日 イスパルコム、全ての社会主義政党が3名の代議員を出す権利があると決める。
   3月22日 ミリュコフ、ロシアの戦争目的を明確にする。
   3月25日 臨時政府、穀物取引の国家独占を導入。
   3月 末  イギリス、皇帝一族を保護すべく撤退を提案。
   4月 3日 レーニン、ペトログラードに到着。
   4月 4日 レーニン『四月テーゼ』。
   4月21日 最初のボルシェヴィキのデモ、ペトログラードとモスクワで。
   4月26日 臨時政府、秩序維持能力の欠如を認める。
   4月28日 ボルシェヴィキ、赤衛軍(Red Guard)を組織。
   4月 初期 ソヴェト・全ロシア協議会、ペトログラードで開会。ソヴェト・全ロシア中央執行委員会(CEC)を形成。
   5月 1日 CEC、メンバーの臨時政府参加を容認。   
   5月4日-5日の夜 ルヴォフのもとで連立政権の形成、ケレンスキーは戦争大臣、6人の社会主義者が閣内に。 
   5月    トロツキー、ニューヨークからロシアに帰還。
   6月 3日 第1回全ロシア・ソヴェト大会、開会。
   6月10日 CECの圧力により、ボルシェヴィキが政府転覆の考えを放棄。
   6月16日 ロシア軍、オーストリアへの攻撃を開始。
   6月29日 レーニン、フィンランドへ逃亡、7月4日朝までとどまる。
   7月 1日 臨時政府、ボルシェヴィキ指導者の逮捕を命令。
   7月2-3日 ペトログラード第一機銃連隊の反乱。
   7月 4日 ボルシェヴィキの蜂起、レーニンがドイツと交渉するとの情報により鎮圧される。
   7月 5日 レーニンとジノヴィエフ、最初はペトログラードに、のち(7月9日)首都近くの田園地域に隠れる。最後に(9月)、レーニンはフィンランドへ。
   7月11日 ケレンスキー、首相に。
   7月18日 コルニロフ、最高司令官に指名される。
   7月 末  第6回ボルシェヴィキ党大会、ペトログラードで。
   7月31日 ニコライとその家族、トボルスクへ出立。
   8月 9日 臨時政府、憲法制定会議(Constituent Assembly)の選挙を11月12日に行い、11月28日に同会議を招集する予定を発表。
   8月14日 モスクワ国家会議、開かれる。コルニロフ、騒然として迎えられる。
   8月20-21日 ロシア軍、ドイツに対してリガを放棄。 
   8月22日 V・N・ルヴォフ、ケレンスキーと会合。
   8月22-24日 モギレフのザヴィンスキー、コルニロフにケレンスキーの命令を渡す。
   8月24-25日 ルヴォフ、コルニロフと逢う。
   8月26日 ルヴォフ、ケレンスキーにコルニロフの「最後通告」文を伝える。ケレンスキー、コルニロフと電話会談。ルヴォフ、逮捕される。 
   8月26日-27日の夜 ケレンスキー、内閣から独裁的権力を確保。コルニロフを解任。 
   8月27日 コルニロフ、反逆者とされる。コルニロフ暴乱、武装団にコルニロフに従うよう求める。
   8月30日 臨時政府、7月蜂起によりまだ収監中のボルシェヴィキの解放を命令。」
--------------
 *1917年9月以降につづく。

0057/ロシア革命から90年-選挙結果報道の中の好記事。

 日本の幕末・明治維新期のような「面白さ」がありはしないかと、一度きちんとロシア革命史を勉強してみたいと思っているが、まだできておらず、「血なまぐい」だけで、過程をフォローしておく意味は少ないかもしれない。
 それにしても、ロシア革命のうち二月革命からは完全に90年が過ぎた。90年前のロシアでは4月にレーニンが帰国してきてケレンスキーとの闘いがあり11月の「ボルシェビキ革命」へと進んでいく激動の時期だったわけだ。なお、1908年にニコライ二世一族は全員銃殺された。
 このロシア革命は結果として何だったのか? 人類が後年もじっくりと考察すべきテーマだろう。人類最大の「失敗」の一つではないか。
 ソ連時代には大多数が二月革命を支持していたというが(そりゃそうだろう)、今年二月のモスクワでの世論調査では、革命支持6%、帝政支持-つまり帝政のままの方がよかった-が29%だった、という。このように自国の歴史を回顧しなければならないとは、現在のロシア国民は、とくに若い世代は、可哀想に思わなくもない。
 帝政-ソ連時代の共通性は「権威」による支配で、「自由と民主主義」がはたしてどの程度新ロシアに根付いているのだろう。政権側がプーティンの「疑似皇帝」化をもくろんでいる、というのも、ありうる話だ。
 またもや、それにしても、と続けるが、1990年以前のソ連はなくなり、ベラルーシ、ウクナイナ(ユークレイン)、カザフスタン等々が独立国になったという大きな変化があったことを、あらためて噛みしめる。私が小学校・中学校時代に習った世界とはまるで違うのだ。
 黒海の東岸に接するグルジアはソ連の一部だったが、ここも一独立国となった。グルジアといえば、あのスターリン(1879-1953)の出身地だ。両親はロシア語を話さなかったというし、彼はロシア人ではなくグルジア人で、ソ連共産党の実質的トップになった。そのグルジアが今やNATO加盟を希望しているという報道が先日あった。
 世が世なら、グルジアのどこか(スターリンの生誕地、生育場所?)は「革命の聖地」だったかもしれない。隔世の感がある。そして再び感じる。ロシア「社会主義」革命は、人類にとって、いったい何だったのか?

ギャラリー
  • 2013/L・コワコフスキ著第三巻第10章第3節①。
  • 1982/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05⑤。
  • 1982/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05⑤。
  • 1982/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05⑤。
  • 1982/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05⑤。
  • 1982/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05⑤。
  • 1980/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05④。
  • 1980/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05④。
  • 1980/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05④。
  • 1978/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05②。
  • 1978/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05②。
  • 1978/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05②。
  • 1978/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05②。
  • 1920/L・コワコフスキ著第三巻第四章第5節。
  • 1920/L・コワコフスキ著第三巻第四章第5節。
  • 1916/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑳完。
  • 1916/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑳完。
  • 1906/NYタイムズ2009.07.20の訃報-L・コワコフスキ。
  • 1906/NYタイムズ2009.07.20の訃報-L・コワコフスキ。
  • 1906/NYタイムズ2009.07.20の訃報-L・コワコフスキ。
  • 1906/NYタイムズ2009.07.20の訃報-L・コワコフスキ。
  • 1901/Leszek Kolakowski-初代クルーゲ賞受賞者。
  • 1901/Leszek Kolakowski-初代クルーゲ賞受賞者。
  • 1901/Leszek Kolakowski-初代クルーゲ賞受賞者。
  • 1900/Leszek Kolakowski の写真。
  • 1900/Leszek Kolakowski の写真。
  • 1900/Leszek Kolakowski の写真。
  • 1900/Leszek Kolakowski の写真。
  • 1900/Leszek Kolakowski の写真。
  • 1811/リチャード・パイプス逝去。
  • 1811/リチャード・パイプス逝去。
  • 1809/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑧。
  • 1777/スターリン・初期から権力へ-L・コワコフスキ著3巻1章3節。
  • 1767/三全体主義の共通性⑥-R・パイプス別著5章5節。
  • 1734/独裁とトロツキー②-L・コワコフスキ著18章7節。
  • 1723/2017年秋-兵庫県西脇市/大島みち子の故郷。
  • 1723/2017年秋-兵庫県西脇市/大島みち子の故郷。
  • 1723/2017年秋-兵庫県西脇市/大島みち子の故郷。
  • 1723/2017年秋-兵庫県西脇市/大島みち子の故郷。
  • 1723/2017年秋-兵庫県西脇市/大島みち子の故郷。
アーカイブ
アマゾン(Amazon)
記事検索
カテゴリー