秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

グラムシ

2067/L・コワコフスキ著第三巻第13章第2節②。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終章の試訳のつづき。
 第13章・・スターリン死後のマルクス主義の進展。
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 第2節・東ヨーロッパでの修正主義②。
 (9)修正主義者たちは、これら全ての問題について、民衆一般のそれと合致するように要求した。
 しかしながら、彼らは、民族主義的または宗教的議論ではなく社会主義やマルクス主義の論拠を用いた。そして、党生活やマルクス主義研究に関連する要求も提示した。
 この点では、歴史上の異端者たちと同様に、「根源への回帰」を訴えた。すなわち、システムに対する批判論の基礎にしたのは、マルクス主義の伝統だった。
 とくに初期の段階では、一度ならず、レーニンの権威が持ち出された。彼らはレーニンの著作の中に、党内民主主義、統治への「広範な大衆」の参加、等々に関する文章を探し求めた。
 要するに、修正主義者たちは、しばらくの間は、この運動の残存者たちが今でもときどき行っているように、レーニンをスターリニズムに対抗させた。
 しかし、知的な面での多くの成果はなかった。スターリニズムとは、レーニンの基本的考え方を自然かつ正当に継承するものであることが、議論を通じてますます明確になったからだ。
 もっとも、政治的に見れば、彼らの論拠は、自分たちのステレオタイプに訴えかけることで、すでに述べたように共産主義イデオロギーが壊れていくのを助けた、という重要な意味があった。
 状況が特有だったのは、マルクス主義とレーニン主義はいずれも、人間的で民主主義的なスローガンに充ちたものとして語られた、ということだ。それらは、権力システムに関するかぎりでは空虚な修辞用語だったが、当時のシステムに反対するために呼び起こされた。
 修正主義者たちは、マルクス=レーニン主義が語ったことと現実の生活との間のグロテスクな対照を指摘することで、教理自体に内在する矛盾を暴露した。
 イデオロギーは、いわば政治的運動から切り離されるようになった。イデオロギーは運動のたんなる表面にすぎなかったのだが、しかし、独自の歩みをとり始めた。//
 (10)しかしながら、レーニン主義にしがみ付く試みはほとんどの修正主義者たちによってすみやかに放棄されたが、他方で、「真の(authentic)」マルクス主義に回帰するという望みは、より長く継続した。//
 (11)修正主義者たちを党の仲間たちから分かつ主要な論点は、彼らはスターリニズムを批判したということではなかった。
 当時、とくに20回党大会の後では、党員たちのほとんど誰も、異様な力をもってスターリニズムを防衛する、ということがなかった。
 主に批判論の範囲についてすら、違いはなかった。そうではなく、違いは、スターリニズムは「誤り」または「歪曲」だった、あるいは一続きの「誤りと歪曲」だった、という公式の見解を拒否した、ということにあった。
 彼らのほとんどは、スターリン主義システムはその社会的機能の観点からはほとんど誤っておらず、ゆえに悪の根源はスターリンの個人的な性格または共産主義権力の性質以外の「誤り」に求められなければならない、と考えていた。
 しかしながら、彼らがある範囲の時期の間に信じていたのは、共産主義をその基盤を疑問視することなく再建する、または「脱民主主義化」することができる、という意味で、スターリニズムは治癒可能だ、ということだった(その特質のうち基本的なのはは何で偶然的なのは何かはほとんど分かっていなかったけれども)。
 しかし、ときが経つにつれ、このような立場は成り立たないことがますます明瞭になった。すなわち、かりに一党システムが共産主義の不可欠の前提条件であるならば、共産主義システムを改良することはできない。//
 (12)しかしながら、しばらくの間は、マルクス主義の社会主義はレーニン主義改革がなくとも可能であるように、そして共産主義は「マルクス主義の枠組みの内部で」攻撃することが可能であるように見えた。
 このゆえに、反レーニン主義の意味でのマルクス主義の伝統を再解釈する試みが行われた。//
 (13)修正主義者たちは、マルクス主義は検閲、警察や特権といった一元的権力に依拠するのではなく、科学的な合理性という規範的規準に従うべきだ、と要求することから始めた。
 そのような特権的地位は不可避的にマルクス主義の頽廃をもたらし、マルクス主義から生命力を奪う、と論じた。
 マルクス主義は、科学が普遍的に受容する経験的かつ論理的な方法でもって、その存在を防衛することが可能でなければならない。かつまた、マルクス主義研究は、批判から免れる国家イデオロギーへと制度化されてきたがゆえに廃絶されなければならない。
 こうしたことは、理性的論拠でもってこそ各人の地位を守らなければならない、そのような自由な議論があってのみ、一般化することができただろう。
 批判論は、マルクス主義諸著作の未熟さと不毛さを、今ある時代の主要諸問題について適切さを欠くことを、図式性と硬直性を、そしてその教理の主要な構成員だと見なされている者たちの無知を、攻撃した。
 レーニン=スターリン主義的マルクス主義の観念的範疇の貧困さを、全ての文化を階級闘争の用語法で説明し、全ての哲学を「唯物論と観念論の間の闘い」へと還元し、全ての道徳性を「社会主義の建設」の手段に変える、等々の単純な企てを、攻撃した。//
 (14)哲学に関するかぎりは、修正主義者たちの主要な目標は、レーニン主義教理とは対立する、人間の主体性(human subjectivity)の擁護だった、と定式化することができるかもしれない。
 彼らによる攻撃の主要点は、つぎのとおりだった。//
 (15)第一に、レーニンの「反射の理論」を批判した。マルクスの認識論(epistemology)の意味とは全体として異なっている、と論じることによって。
 認識(cognition)とは客体が心(mind)に反射されることではなく、主体と客体の相互作用であり、社会的および生物的要因に規定されているこの相互作用を、世界を複写したものと見なすことはできない。
 人間の精神(mind)は、存在と関係し合う態様を超越することができない。
 我々の知る世界は、部分的には人間によって造られた。//
 (16)第二に、決定論(determinism)を批判した。
 マルクス理論も事実に関するいかなる考察も、とくに歴史に関する決定論的形而上学を正当化しない。
 不変の「歴史の法則」があり、社会主義は歴史的に不可避だという考えは、共産主義に対する熱望を掻き立てるのに一定の役割を果たしたかもしれない、しかしなおそれ以上のものをもった神話的迷信だった。
 偶然と不確実さを過去の歴史から排除することはできない。未来の予言については、なおさらのことだ。//
 (17)第三に、不確定な歴史編纂の定式から道徳的価値を帰結させようとする企てを、批判した。
 かりに間違って、社会主義の将来はあれこれの歴史的必然性によって保障されている、ということが支持されたとしても、そのような必然性を支持するのが我々の義務だ、ということにはならない。
 必要なことは、その貴重な理由のためにあるのではない。社会主義は、「歴史的法則」の結果だと主張されるものの基盤の上に、それを超えたところに、なおも道徳的基礎づけを必要としている。
 社会主義という観念を回復するためには、価値のシステムが先ずは歴史編纂上の教理からは別個に再建されなければならない。//
 (18)こうした批判論は全て、歴史過程および認識過程での主体の役割を回復するという共通の目的を持っていた。
 それらは、官僚制的体制への批判と結びついた。また、党装置は「歴史的法則」に関する優れた見解と知識をもっており、この力の強さにもとづいて無制限の権力と特権をもつのだ、という馬鹿げた偽装に対する批判とも。
 哲学の観点からは、修正主義はすみやかに、レーニン主義と完全に決裂した。//
 (19)修正主義者たちは、批判論を展開する過程で、当然のこととして、さまざまの根拠に訴えた。そのうちある範囲はマルクス主義で、別のある範囲はマルクス主義ではなかった。
 東ヨーロッパでは、一定の役割を実存主義(existentialism)が、とくにSartre の著作が、果たした。多くの修正主義者たちは、Sartre の理論、主体は事物たる地位に還元できないこと、に惹き付けられたのだ。
 別の多数の者たちは、ヘーゲルに着想を求めた。一方では、エンゲルスの科学理論に関心をもった者たちは、分析的(analytical)哲学をエンゲルスとレーニンの「自然弁証法」へと適用しようとした。
 修正主義者たちは、マルクス主義と共産主義に関する西側の批判論や哲学上の文献を読んだ。すなわち、Camu、Merleu-Ponty、Koesler、Orwell。
 過去のマルクス主義の権威は、彼らの議論と批判では二次的な役割しか果たさなかった。
 トロツキーへの言及は、ごく稀れだった。
 ある程度の関心はRosa Luxemburg に向けられたが、それは彼女のレーニンおよびロシア革命に対する攻撃のゆえだった(しかし、この点に関する彼女の書物をポーランドで出版する試みは、成功しなかった)。
 哲学者たちの中では、一時的にはLukács に人気があった。それは主として、主体と客体は統一へと向かうという歴史過程に関する彼の理論に理由があった。
 いくぶんか後に、Gramsci が関心の対象になった。彼の著作は完全にレーニンのそれとは反対する認識(knowledge)に関する理論の概略を含んでおり、それはまた、共産主義官僚制、先進的前衛という党に関する理論、歴史的決定論および社会主義革命への「操作的」接近方法、に関する批判的考察を伴っていた。//
 (20)このときにさらに補強する力を与えたのは、イタリア共産党だった。
 そのときまで生え抜きのスターリン主義者という、それに値する評価を受けていたPalmiro Togliatti は、第20回党大会の後では、ソヴィエトの指導者たちを批判した者として記録に残された。彼の言葉遣いは穏やかだったが、重要なのはその結論だった。
 彼はソヴィエト指導者たちを、スターリニズムの責任の全てをスターリンに負わせ、官僚機構の退廃の原因を分析できなかったとして非難した。そして、世界共産主義運動の「多極化(polycentrism)、すなわち他諸国共産党に対するモスクワの覇権を終焉させること、を訴えるに至った。//
 (21)1950年代の批判運動が東ヨーロッパの他国よりもはるかに進んだポーランドの修正主義は、党知識人から成る多数のグループの作業だった。-哲学者、社会学者、ジャーナリスト、文筆家、歴史家および経済学者。
 彼らは特別のプレスや文学、政治の週刊誌(とくに<Po prostu>と<Nowa Kultura>)に表現の場を見出し、それらは当局に抑圧されるまでは重要な役割を果たした。
 修正主義者だとして頻繁に攻撃された哲学者および社会学者の中には、B. Baczko、K. Pomian、R. Zimand、Z. Bauman、M. Bielińska および、主犯者として抜き出されたこの書物の執筆者がいた。
 修正主義理論を前進させた経済学者は、M. Kalecki、O. Lange、W. Brus、E. Lipinski およびT. Kowalik だった。//
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 ③へとつづく。

1961/L・コワコフスキ著第三巻第四章第13節④。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第三巻分冊版p.178-p.182。合冊本では、p.929-p.933.
 第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。合冊本は注記・索引等を含めて、計1284頁。
 何度も記したように、この著の邦訳書はない。ドイツでは1977-79年に、独訳書が刊行された(のちにpaperback 版となった)。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
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 第13節・スターリニズムの最終段階でのヨーロッパ・マルクス主義④。
 (22)戦争後のしばらくの間フランスで甚大な成功をかち得たサルトル(Sartre)の実存主義哲学は、この当時の態様では、マルクス主義と全く相容れないものだった。
 サルトルは、自然という決定要因に支配された異質で緩慢な世界にいる、絶対的な自由の虚無(Vacuum、真空)が人間という存在だ、と主張した。
 この自由は、人間が逃れようとしてきた耐え難い重荷だが、誠実さ(good faith)と矛盾することなしには逃れることができないものだ。
 私の自由は絶対的で無制限だという事実こそが、私が言い訳すること(alibi)を全く不可能にし、自分が行う全てについて百パーセントの責任を私に負わせる。
 私の恒常的な自己予想は、そこにこの自由が提示されているのだが、時間を発生させるものだ。それは人間存在の本当の形態であり、自由のごとく我々の全てがもつ独自の属性だ。
 サルトルにとって、協同的かつ共同体的な時間のごときものは存在せず、自然の、希望のない、かつ抑圧的な、個人が絶えることなく自分を生み出すための不可避性(necessity=必然性)以外には、いかなる自由も存在しない。-この自己の生産は、神またはその他の超越的価値、歴史的伝統や同類の人間たち、によって助けられることのない過程だ。
 私は空虚な自由と純粋な否認性によって定義されているがゆえに、私自身の外部にある全ての存在は私の自由を制限しようとしているものだ、と私には思える。
 したがって、存在というまさにその本性によって、いわば存在論的に(ontologically)、人間関係は、他の人間存在を併合しようとする、まるで他者は物であるがごとき、敵対的な形態のみをとることができる。-このことは、全ての論脈に、そして、政治的支配のように、愛(love)にあてはまる。//
 (23)いかなる形態のものであれマルクス主義と、このような基本的考え方の間には、共通する基盤が存在していないことが明瞭だ。この基本的考え方は、人間の共同体または共有される時間という観念を、全て排除する。そして、生活の全体を、自分自身の虚無性(vacuity、真空性)を非合理的に追求することへと帰一させる。
 この点によって、フランスの共産主義知識人たちは、実存主義に対して激しい非難を投げつけた。
 他方で、サルトルは初期の段階から、労働者階級と被抑圧者一般を同一視しようとした。その結果として、サルトルの共産党との関係の特徴は、逡巡と不明瞭さになった。
 彼は実際に、共産党員たちとの一体感と彼らに対する激しい敵意との間で揺れ動いた。その複雑な過程を、ここで立ち入って叙述することはできない。
 しかしながら、彼の全ての段階で、「左翼」(Leftist)としての自分自身の名声を維持しようと努めた。そして、自分自身と彼の哲学を<格段に優れた(par excellence)>「左翼主義」を具現化したものだと示そうとすらした。
 つまるところは、共産党員たちを攻撃して彼らから罵倒を浴びせられたときですら、サルトルは、反動やブルジョアジーの勢力、あるいはアメリカ合衆国政府に対して、もっとはるかに激烈な攻撃をする立場をとった。
 サルトルが一体化したプロレタリアートの諸要求を共産党が代表していると考えることで、彼は一時的に政治的共産主義と同盟したばかりではなく、解放という人間の最良の希望だとして、スターリニズムの最終段階にあったソヴィエト同盟を称賛した。
 彼の政治的活動全体の価値が減少する理由は、影響力を何ら持たないという知識人には絶えられない事態の典型的状況に陥るのを怖れる、そういう気持ちにもとづいていることにあった。
 要するに、サルトルのイデオロギーは、「内部」に存在したいという充たされない野心のうちに抱かれた、政治的<不満(manqué)>のそれだった。//
 (24)一時期はサルトルと一緒に活動したメルロ=ポンティ(Merleau-Ponty)は、マルクス主義と共産主義に関して、最初からもっと懐疑的だった。彼の自由の理論は、虚無としての自由というサルトルの考え方よりもマルクス主義に近いものだったけれども。-この理論は、自由はつねに現実の状況によって決定され、克服する障壁をつうじてのみ存在する、というものだ。
 メルロ=ポンティは<人間中心主義とテロル(Humanisme et terreur)>(1947年)で、共産主義者のテロルとその歴史的正当化の可能性を論じ、我々は自分たちの行動の完全な意味を知ることはできない、全ての帰結をまだ知らないのだから、と主張した。その帰結がまさに「意味」の一部であって、否応なく我々の責任になるものだ、と。
 そのゆえに、歴史的過程とそこでの我々の役割は、不可避的に不明瞭で、不確実だ。
 また、その究極的効果が暴力を排除することにあるならば、暴力(violence)は歴史的に正当化されるかもしれない、ということになる。
 彼はしかし、このように寛容な暴力の承認について、いかなる規準も確定しなかった。
 時が経るにつれて、メルロ=ポンティはますます共産主義に対する批判を強めるに至った。//
 (25)西側ヨーロッパ諸国でのマルクス主義著作の様式と内容は、当然に、それぞれの異なる文化的伝統を反映した。
 フランスのマルクス主義は戯曲ふうに修辞的で滑らかな人間主義の語句に耽溺しがちで、革命的雄弁さをもって語った。
それは印象主義的で、論理的には杜撰だったけれども、文語的な(literary)観点からは有効だった。
 イギリスのマルクス主義は、何がしかの経験主義の伝統を維持した。すなわち、もっと現実的(down-to-earth)で、論理的議論に関心をもち、歴史にもっと根拠をおき、哲学的「歴史主義」(historicism)への傾斜が少なかった。
 イギリスでの共産主義はきわめて弱体で、労働者階級の中での大衆的支持を一度も獲得しなかった。
 しかし、他諸国でと同様に、共産主義は純粋に知的な運動ではなく、薄弱だったかもしれないにせよ、つねに労働組合との関係を維持した。
 多くの知識人たちが1930年代に共産党を通り過ぎ、別の者たちは、戦後もそうした。
 共産党の信条をもつマルクス主義哲学者の中に、モーリス・コーンフォース(Maurice Cornforth)とジョン・ルイス(John Lewis)がいた。
 前者は、<科学対観念論>(1946年)と題する、論理的経験主義と分析哲学に対する批判書を書いた。この書物で彼は、知に関するエンゲルス・レーニン理論を擁護し、「論理的原子論」、思考の経済の原理、哲学の言語分析学への矮小化を攻撃した。
 後者は、とりわけ、プラグマティズムを批判する書物を書いた。
 ベンジャミン・ファリントン(Benjamin Farrington)は、古代ギリシャの科学に関する書物など、戦後初期の時代に歴史に対する価値ある貢献をした。彼はこの書物で、技術をもつ現代国家へと哲学的諸教理を関係づけた。//
 (26)フランス・マルクス主義が人間主義的言い回しを強調し、イギリス・マルクス主義が経験的かつ理性主義的論拠を重視したのに対して、イタリアのマルクス主義は、その伝統に忠実に、「歴史主義」への注目を強調した。
 スターリニズムの最終時期ですら、イタリアのマルクス主義哲学はレーニン主義やスターリン主義の規準から遠く離れていた。
 しかしながら、イタリア共産党は、他諸国の同志たちと同様に国際的諸問題についてはソヴィエトの方針に従順だった。この党は、ファシズム瓦解のあとで、20年間の停滞と無気力状態からきわめてすみやかに復活していた。
 のちに1956年〔試訳者注-ハンガリー事件の年〕のあとで、Parnimo Togriatti(1893-1964)は、共産党指導者たちの中で最も「心を開いた」、モスクワから最も自立している人物だという名声を獲得することになった。しかし、このことをスターリン時代にまで遡らせることのできる根拠はない。
 Togriattiはこの当時は、ソヴィエトの政策の紆余曲折に、全て忠実に適応していた。
 しかしながら、彼は特段の困難なく、(共産党専門用語で「教条的」、「左翼主義」、「党派的」と表現された)厳格な孤立主義から、ゆより融通性があって効果的な「人民戦線」政策へと方向転換した。
 文化的諸問題について、イタリア共産党は一般に他のどの共産党よりも攻撃的に口汚く罵るということはなく、マルクス主義とイタリア独自の伝統の連環を強調し、伝統的にある反動的要素ではなく「積極的」要素を重視して宣伝した。
 グラムシ (Gramsci)が1947-49年に公刊した<獄中からのノート(note)>はイタリア共産主義の歴史上の画期的なもの(milestone)で、レーニン主義の教典が許した以上にはるかに柔軟な範型のマルクス主義を党知識人が受容することを可能にした、そういう発想方法の根源だった。
 1950年代初期の傑出した著述者は、Galvano della Volpe(1896-1968)とAntonio Banfi (1886-1957)だった。彼らは人生のかなり遅くにマルクス主義者になり、かつ共産党員となって、普遍的な人間中心主義についてのイタリア的精神でもって、新しい信条を解釈した。
Della Volpe は、Eckhart に関する価値ある書物を執筆し、認識論に関する<Logica come scienza positiva>(1950年、ここでの「論理」は知に関する理論一般を意味する)と題する書物を書いた。彼はこれによって、マルクス主義を反ヘーゲルの立場および経験論者の用語法で解釈した。
 この解釈にもとづくと、マルクス主義は世界に関する科学的説明というほどのものではなく、さらに形而上学の体系以下のものだ。こうしたものではなくて、人間の自己創造の今日的段階を歴史的に表現するものであり、人間の生(life)の条件を統御しようとする実践的闘いを明瞭に叙述しようとするものだ。//
 (27)要約するとすれば、つぎのように言えるかもしれない。すなわち、西側ヨーロッパでのスターリニズムの最後の時代は、理論書および歴史書に関するかぎりで全体として無意味なものだったわけではない。しかし、何らかの価値のある数少ない書物は、組織された政治的瞞着の洪水の中で溺れ死んでいった。これについて非難されるべき責任は、何の例外もなく世界中の全ての共産主義知識人たちにある。(なお、何らかの価値のある数少ない書物も大部分は、今日ではそれ自体を目的として読む価値はない。)
 この時代に共産主義運動に加わったフランスまたはイタリアの著作者たちは、一般的に言ってソヴィエト体制や世界革命の展望にはほとんど関心がなかった。彼らが党を支持した理由の一部は、共産党が熱心に彼らの要求と利益を語ったことにあった。
 しかしながら、彼らはマルクス主義と共産主義を普遍的な教理として心に抱いていた一方で、運動が完全にモスクワによって支配されていることや、ソヴィエトの政治目的に従属していることに、十分に気づいていた。
 それにもかかわらず、無批判に、彼らは、ソヴィエトの社会体制の真の(true)性格に光を当てる全ての情報を拒絶した(そうした情報は西側の書物から、また直接に東ヨーロッパ諸国から、容易に入手可能だった)。
 彼らは、状況に応じてつねに、言葉と行為でもって、また共産党の党員であることをもって、この体制を賛美した。
 彼ら全員が、茶番劇の「平和運動」に参加した。この標語のごときオーウェル的表題は、冷戦時代のソヴィエト帝国主義の重要な道具だった。
 彼ら全員が、全く平気で、アメリカは朝鮮半島で細菌戦争を行っているという非難のごとき、狂信的な捏造事を信じ込んだ。
 ソヴィエト体制の完璧さに疑いを差し挟んだ者は誰もが、「結局は」(after all)、共産主義がファシズムに対抗する唯一の、または最も有効な防塞だ、と自分に言い聞かせた。そして、そのゆえに共産主義を百パーセント、無条件で受容しなければならない、と。
 このような自発的な自己欺瞞の心理的な動機は、さまざまだった。
 とりわけあった心理的動機は、普遍的な人間的友愛という古来からの夢を世界の誰かが具現すると信じたい、というきわめて切実な欲求だった。
 「歴史の進歩」に関する知識人たちの幻想。
 多くの西ヨーロッパ諸国では大戦間に完全に地に落ちた、民主主義的「既得権益層」(establishment)に対する侮蔑意識。
 歴史や政治を含む普遍世界(the universe)の秘密をこじ開ける、そういう万能の鍵(master key)を求める切望感。
 歴史という波の頂上に、換言すると、勝利する側に、立っていたいという野心。
 知識人たちはとくに陥りがちな、現実的影響力(force)への信仰。
 彼らが考えていたように現世界で剥奪され迫害されている人々と同じ防塞の中にいると願望しつつ、共産主義〔共産党〕知識人たちは、最も抑圧的な体制の預言者となり、そして、権力を拡張するために用いる、巨大で効率的な虚偽(lies)の装置のための、現存するかつ自発的な工作員(agents)となった。//
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 第13節、および第四章が終わり。
 次章以降の表題は、<トロツキー>、<アントニオ・グラムシ>、<ジョルジュ・ルカチ>、<カール・コルシュ>、<ルシアン・ゴルトマン>、<フランクフルト学派と「批判理論」>、……。

1898/Wikipedia によるL・コワコフスキ③。

 Wikipedia 英米語版での 'Main Currents of Marxism' の項の試訳のつづき。
 2018年12月22日-23日の記載内容なので、今後の変更・追加等はありうるだろう。
 前回に記さなかったが、この本の総頁数は、つぎのように書かれている。
 英語版第一巻-434頁、同第二巻-542頁、同第三巻-548頁。秋月の単純計算で、総計1524頁になる。
 英語版全巻合冊書-1284頁
 さて、以下の書評類は興味深い。何とも直訳ふうだが、英語そのままよりはまだ理解しやすいのではないか。
 書評者等の国籍・居住地、掲載紙誌の発行元の所在地等は分からない。多くは、イギリスかアメリカなのだろう。
 こうした書評上での議論があるのは、なかなか愉快で、コワコフスキ著の内容の一端も教えてくれる。
 それにしても、わが日本では、コワコフスキの名も全くかほとんど知られず、この著の存在自体についても同様だろう。2017年の最大の驚きは、この著の邦訳書が40年も経っても存在しないことだった。
 マルクス主義・共産主義に関する<情報>に限ってもよいが、わが日本の「知的」環境は、果たしていかなるものなのか。
 なお、praise=讃える、credit=高く評価する、describe=叙述する、accuse=追及する、consider=考える、等にほぼ機械的に統一した(つもりだ)。criticize はむろん=批判する。これら以外に、論じる、主張する、等と訳した言葉がある。
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 3/反応(reception)。
 1.主流(main stream)メディア。
 (1) <マルクス主義の主要潮流>はLibray Journal で、二つの肯定的論評を受けた。
 一つは最初の英語版を書評した Robert C. O'Brien からのもので、二つはこの著作の2005年合冊版を書評した Francisca Goldsmith からのものだった。
 この著作はまた、The New Republic で政治科学者 Michael Harrington によって書評され、The New York Review of Books では歴史家の Tony Judt によって書評された。
 (2) O'Brien は、この著作を「マルクス主義教理の発展に関する包括的で詳細な概観」で、「注目すべき(remarkable)著作だ」と叙述した。
 彼はコワコフスキを、「マルクスの思想が<資本>に到達するまでの発展の基本的な継続性」を提示したと讃え、Lukács、Bloch、Marcuse、フランクフルト学派および毛沢東に関する章が特別の価値があると考えた。
 Goldsmith は、コワコフスキには「明瞭性」と「包括性」はもちろんとして「完全性と明晰性」があると讃えた。
 哲学者のJohn Gray は、<マルクス主義の主要潮流>を「権威がある(magisterial)」と呼んで讃えた。//
 2.学界雑誌。
 (1)<マルクス主義の主要潮流>は、Economica で経済学者のMark Blaug から、The American Historical Review で歴史研究者の Martin Jay から、The American Scholarで哲学者のSidney Hook から、the Journal of Economic Issues で John E. Elliott から肯定的な書評を受けた。
 入り混じった書評を、社会学者のCraig CalhounからSocial Forces で、David Joravsky からTheory & Society で、Franklin Hugh Adler からThe Antioch Review で、否定的な書評を社会学者の Barry Hindess からThe Sociological Reviewで、社会学者 Ralph Miliband からPolitical Studies で受けた。
 この本の書評はほかに、William P. Collins が The Journal of Politics に、Ken Plummeが Sociology に、哲学者のMarx W. Wartofsky がPraxis International に、それぞれ書いている。
 (2) 経済学者Mark Blaug は、この本を「輝かしい(brilliant)」かつ社会科学にとって重要なものだと考えた。
 マルクス主義の強さと弱さを概括したことを高く評価し、歴史的唯物論、エンゲルスの自然弁証法、Kautsky、Plekhanov、レーニン主義、Trotsky、トロツキー主義、Lukács、Marcuse およびAlthusser に関する論述を讃えた。 
 しかし、哲学者としての背景からしてマルクス主義を主に哲学的および政治的な観点から扱っており、それによってマルクス主義のうちの中核的な経済理論をコワコフスキは曲解している、と考えた。
 彼はまた、Paul Sweezy によるThe Theory of Capitalist Development (1942)での Ladislaus von Bortkiewicz の著作の再生のようなマルクス主義経済学の重要な要素を、コワコフスキは無視していると批判した。
 彼はまた、「1920年代のソヴィエトでの経済政策論争」を含めて、コワコフスキがより注意を払うことができただろういくつかの他の主題がある、と考えた、
 彼はコワコフスキの文献処理を優れている(excellent)と判断したけれども、 哲学者H. B. Acton のThe Illusion of the Epoch や哲学者 Karl Popper のThe Open Society and Its Enemies が外されていることに驚いた。
 彼は、コワコフスキの著述の質を、その翻訳とともに、讃えた。
 (3) 歴史研究者Martin Jay は、この本を「きわめて価値がある(extraordinarily valuable)」、「力強く書かれている」、「統合的学問と批判的分析の、畏怖すべき(awesome)達成物〔業績〕」、「専門的学問の記念碑」だと叙述する。
 彼は、コワコフスキによる「弁証法の起源」の説明、マルクス主義理論の哲学的側面の論述を、相対的に独自性はないとするけれども、讃える。
 彼はまた、マルクス主義の経済的基礎の論述や労働価値理論に対する批判を高く評価する。
 彼は、歴史的唯物論が原因となる力を「究極的には」経済に求めることの誤謬をコワコフスキが暴露したことを高く評価する。
 しかし、Lukács、Korsch、Gramsci、フランクフルト学派、GoldmannおよびBloch の扱い方を批判し、「痛烈で非寛容的で」、公平さに欠けるとする。こうした問題のあることをコワコフスキは知っていると認めるけれども。
 彼はまた、コワコフスキの著作はときに事実に関する誤りや不明瞭な解釈を含んでいるとする一方で、この本の長さを考慮すれば驚くべきほどに数少ない、と書いた。
 (4) 哲学者Sidney Hook は、この本は「マルクス主義批判の新しい時代」を開き、「マルクスとマルクス主義伝統にある思想家たちに関する最も包括的な論述」を提示した、と書いた。
 彼は、ポーランドのマルクス主義者、Gramsci、Lukács、フランクフルト学派、Bernstein、歴史的唯物論、マルクス主義へのHess の影響、「マルクスの社会的理想」での個人性の承認、「資本」の第一巻と第三巻の間の矛盾を解消しようとする試みの失敗, マルクスの「搾取」概念、およびJaurès やLafargue に関するコワコフスキの論述を讃える。
 彼は、トロツキーの考え方は本質的諸点でスターリンのそれと違いはない、スターリニズムはレーニン主義諸原理によって正当化され得る、ということについてコワコフスキに同意する。
 しかし、ある範囲のマルクス主義者の扱い方、 社会学者の Lewis Samuel Feuer の「研究がアメリカのマルクスに関するユートピア社会主義の植民地に与えた影響」を無視していること、を批判した。
 彼は、マルクスとエンゲルスの間、マルクスとレーニンの間、に関するコワコフスキの論述に納得しておらず、マルクスの Lukács による読み方を讃えていることを批判した。
 彼は、マルクスは一貫して「Feuerbach の人間という種の性質に関する見解」を支持していたとのコワコフスキの見方を拒否し、思想家としてのマルクスの発展に関するコワコフスキの見方を疑問視し、マルクスの歴史的唯物論は技術的決定論の形態にまで達したとのコワコフスキの見方を、知識(knowledge)に関するマルクスの理論の解釈とともに、拒否した。
 (5) Elliott は、この本は「包括的」で、マルクス主義を真摯に研究する全ての学生の必須文献だと叙述する。
 彼は、<資本>のようなマルクスの後半の著作は1843年以降の初期の著作と一貫しており、同じ諸原理を継続させ仕上げている、とするコワコフスキの議論に納得した。
 彼は、マルクスは倫理的または規範的な観点を決して採用しなかったという見方、マルクスの「実践」観念や「理論と実践の編み込み」に関する説明、マルクスの資本主義批判は「貧困によってではなく非人間化によって」始まるとの説明のゆえに、「制度的伝統」にある経済学者にとって第一巻は価値があると考えた。
 彼は、第二巻を<tour de force>だとし、三巻のうちで何らかの意味で最良のものだと考えた。
 彼は、第二インターナショナルの間の多様なマルクス主義諸派がいかに相互に、そしてマルクスと、異なっていたか、に関するコワコフスキの論述を推奨した。
 彼はまた、レーニンとソヴィエト・マルクス主義に関するコワコフスキの論述は教示的(informative)だとする一方で、ソヴィエト体制に対するコワコフスキの立場を知ったうえで読む必要があるとも付け加えた。
 彼は、コワコフスキはマルクス主義を批判するよりも叙述するのに長けていると考え、マルクスの価値理論に対する Böhm von Bawerk による批判に依拠しすぎていると批判した。
 しかし彼は、コワコフスキの著作はこれらの欠点を埋め合わす以上の長所をもつ、と結論づけた。
 (6) 社会学者Calhoun は、この本はコワコフスキのマルクス主義放棄を理由の一部として左翼著述者たちからの批判を引き出した、しかし、マルクス主義に関する「手引き書」として左翼に対してすら影響を与えた、と書いた。
 彼は、コワコフスキがマルクス主義への共感を欠いていることを批判した。また、哲学者または逸脱したマルクス主義者と考え得る場合にかぎってのみマルクス主義の著述者に焦点を当て、マルクス主義の経済学者、歴史家および社会科学者たちに十分な注意を払っていない、と主張した。
 彼は、この本は明晰に書かれているが、「不適切な参考書」だと考えた。
 彼は、第一巻はマルクスに関するよい(good)論述だが、「洞察が少なすぎて、もっと読みやすい様式で書かれなかった」と述べた。
 彼はまた、第二巻のロシア・マルクス主義に関する論述はしばしば不公平で、かつ長すぎる、とした。
 また、スターリニズムはレーニンの仕事(works)の論理的な帰結だとのコワコフスキの議論に彼は納得しておらず、ソヴィエト同盟がもった他諸国のマルクス主義に対する影響に関するコワコフスキの論じ方は不適切(inadequate)だ、とも考えた。
 彼は、全てではないが、コワコフスキのフランクフルト学派批判にある程度は同意した。
 <マルクス主義の主要潮流>は一つの知的な企てとしてマルクス主義の感覚〔sense=意義・意味〕を十分に与えるものではない、と彼は結論づけた。
 (7) Joravsky は、この本はコワコフスキが以前にポーランド共産党員だった間に行った共産主義に関する議論を継続したものだと見た。
 マルクス主義の歴史的な推移に関するコワコフスキの否定的な描写は、<マルクス主義の主要潮流>がもつ「事実の豊富さと複雑さ」と奇妙に矛盾している、と彼は書いた。
 彼は、マルクス主義者たちの間の論争から超然としていると自らを提示し、一方でなお Lukács のマルクス解釈を支持するのは一貫していない、とコワコフスキを批判した。また、マルクスを全体主義者だと非難するのは不公正だ、とも。
 彼は<マルクス主義の主要潮流>の多くを冴えない(dull)ものだとし、哲学史上ののマルクスの位置に関するコワコフスキの説明は偏向している(tendentious)、と考えた。
 彼は、社会科学に投げかけたマルクスの諸問題を無視し、諸信条の社会的文脈を考察したごとき常識人としてのみマルクスを評価しているとして、コワコフスキを批判した。また、マルクス主義の運動や体制に関係があった著述者のみを扱っている、とも。
 彼は、オーストリア・マルクス主義、ポーランドのマルクス主義と Habermas に関する論述にはより好ましい評価を与えたが、全体としての共産主義運動の取り扱い方には不満で、コワコフスキはロシアに偏見を持っており、他の諸国を無視している、と追及した。
 (8) Adler は、この本を先行例のない、「きわめて卓絶した(unsurpassed)」マルクス主義の批判的研究だと叙述する。
 コワコフスキの個人的な歴史がマルクス主義に対するその立場の大部分を説明すると彼は結論づけたが、<マルクス主義の主要潮流>は一般的には知的に誠実だ(honest)、とした。
 しかし、彼は、コワコフスキの東欧マルクス主義批判は強いものだとしつつ、その強さが西欧マルクス主義と新左翼に関する侮蔑的な扱いをすっかり失望させるものにしている、と考えた。
 新左翼に対するコワコフスキの見方は1960年代のthe Berkeley の反体制文化との接触によって形成されたのかもしれない、としつつ、彼は、新左翼を生んだ民主主義社会の価値への信頼の危機を何が招いたのかをコワコフスキは理解しようとしていない、と述べた。
 彼は、Gramsci と Lukács に関する論述を讃えた。しかし、「東側マルクス主義批判へとそれを一面的に適用しており、彼らの主導権や物象化に関する批判は先進資本主義諸国の特有の条件に決して適用できるものではない」、と書いた。また、フランクフルト学派とMarcuse の扱いは苛酷すぎ、不公平だ、とも。
 彼はまた、この本の合冊版は大きくて重くて、扱いにくく身体的にも使いにくい、とも記した。
 (9) 社会学者Hindess は、この本はマルクス主義、レーニンおよびボルシェヴィキに対して「重々しく論争的(polemic)」だ、と叙述した。
 彼は、コワコフスキは公平さに欠けていると考え、マルクス思想は<ドイツ・イデオロギー>の頃までに基本的特質が設定された哲学的人類学だというコワコフスキの見方に代わる選択肢のあることを考慮していない、と批判した。また、「政治分析の道具概念としては無価値」の「全体主義という観念」に依拠している、とも。
 彼は、コワコフスキはマルクス主義を哲学と見ているために、「政治的計算の手段としてのマルクス主義の用い方、あるいは具体的分析を試みる多数のマルクス主義者に設定されている政治的および経済的な実体的な諸問題」への注意が不十分だ、と主張した。
 彼はまた、Kautsky のようなマルクス主義著述者、レーニンの諸政策、スターリニズムの進展に関して誤解を与える論述をしている、と追及した。
 彼は、コワコフスキによるマルクス主義の説明は「グロテスクで侮辱的な滑稽画」であり、現代世界に対するマルクス主義の影響力を説明していない、と叙述した。
 (10) 社会学者Miliband は、コワコフスキはマルクス主義の包括的な概述を提供した、と書いた。
 しかし、マルクス主義に関するコワコフスキの論述の多くを讃えつつも、そのマルクス主義に対する敵意が強すぎて、「手引き書」としての著作だという叙述にしては、精細すぎると考えた。
 彼はまた、マルクス主義とその歴史への接近方法は「根本的に見当違い(misconceived)」だと主張した。
 彼は、マルクス主義とレーニン主義やスターリニズムとの関係についてのコワコフスキの見方は間違っている(mistaken)、マルクスの初期の著作と後期のそれとの間の重要な違いを無視している、コワコフスキは第一次的には「経済と社会の理論家」だというよりも「変わらない哲学的幻想家」だとマルクスを誤って描いている、と主張した。
 マルクス主義は全ての人間の願望が実現され、全ての諸価値が調整される、完璧な共同体たる社会」を目指した、とのコワコフスキの見方は、「馬鹿げた誇張しすぎ」(absurdly overdrawn)だ、と彼は述べた。また、コワコフスキの別の著述のいくつかとの一貫性がない、とも。
 彼はまた、コワコフスキの結論を支える十分な論拠が提示されていない、と主張した。
 彼は、コワコフスキはマルクスを誤って表現しており、マルクス主義の魅力を説明することができていない、と追及した。また、歴史的唯物論に関する論述を非難し、 Luxemburg に対する「誹謗中傷〔人格攻撃〕」だとコワコフスキを追及した。
 彼は、改革派社会主義とレーニン主義はマルクス主義者にとってのただ二つの選択肢だった、とのコワコフスキの見方を拒否した。
 彼は結論的に、<マルクス主義の主要潮流>は著者の能力とその主題のゆえに無価値(unworthy)だ、と述べた。
 コワコフスキはMiliband の見方に対して返答し、<マルクス主義の主要潮流>で表現した自分の見解を再確認するとともに、Miliband は自分の見解を誤って表現していると追及した。
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 以上。つぎの、<3/反応の3.書物での評価>は割愛する。

1868/L・コワコフスキ著・第三巻第二章第2節②。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第二章/1920年代のソヴィエト・マルクス主義の論争。
 第2節・哲学者としてのブハーリン②完。合冊版、p.836~p.838。
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 (14)一般的には、弁証法全体は平衡状態(equilibrium)に対する妨害と復活の無限の過程へと簡略化されてよい。
 諸現象の「機械主義的」見方に対して「弁証法的」見方を対峙させることには、もはや何の目的もない。現代では、機械それ自体が弁証法的になっているごとく。すなわち、我々は物理学から、全てが他の全てに影響を与える、そして自然界に孤立しているものはいっさい存在しない、ということを学習しなかったのか?
 全ての社会現象は、人間の自然との闘いを原因とする、対立する力の闘争だとして説明することができる。 
 (にもかかわらす、ブハーリンは、共産主義が最終的に建設されればそれを最後に平衡状態は確立されてしまう、と考えたように見える。
 しかしながら、今のところは、技術的問題についての後退をも不可避的に含む革命的な時代に我々はいるのだ。)
 生産関係は単直に言って、「生きている機械」だと見なされた人間たちの、労働過程にかかる共同作用だ。
 この過程に従事している間に人々が考えたり感じたりしているということは、生産関係はその性質上精神的(spiritual)なものだということを意味しはしない。すなわち、精神的なものは全て、それらが存在するのは物質的な必要性があるからであり、生産と階級闘争に奉仕している。
 例えば、Cunow とTugan-Baranovski が主張するように、ブルジョア国家が全階級の利益となる働きをする、ということはあり得ない。
 ブルジョアジーはたしかに、自分たちのために、公共的業務の分野で活動することを強いられる。例えば、道路の建設、学校の維持、科学知識の普及。
 しかし、これらは全てが純粋に資本主義者の階級利益の観点から行われるのであり、そうして、国家は階級支配のための道具に他ならなくなる。//
 (15)ブハーリンは<史的唯物論>の中で、「平衡状態の法則」以外に、社会生活に関する他のいくつかの法則を定式化した。
 そのうちの一つ、「社会現象の物質化の法則」は、イデオロギーと精神生活の多様な形態は、それ自体の実存性があって一層の進化の出発地点となる、そういう物体に-書籍、図書館、美術画廊等に-具現化される、というものだ。
 (16)ブハーリンのこの書物は極端に単純なもので、ある範囲ではそれはレーニンの<経験批判論>を上回りすらする。
 レーニンの論拠は論理的に無価値のものだったが、それでも彼は少なくとも論じようとした。しかし、ブハーリンは論じようとすらしていない。
 ブハーリンの著作は、教義的にかつ無批判に、使われる概念を分析する試みをいっさいすることなく明言される「諸原理」、「根本的諸点」の連続だ。また、それらは、諸教理を定式化するとすぐに生じる、そして繰り返して批判的に進められた、史的唯物論に対する反対論を論駁しようともいっさいしないで語られている。
 彼がピアノが存在していなければ誰もピアノを弾けないということで芸術が社会条件に依存していることが証明される、と我々に述べていることは、その推論のレベルを明らかに例証している。
 思考の未熟さの例は、つぎのように幼稚に信じていることだ。すなわち、未来の科学は技術的発展の光を当てて社会革命の日付を「客観的に」予言することができるだろう。
 さらには、人々が書物を執筆する「科学的法則」、あるいは宗教の起源に関する根拠なき幻想、等々。
 この「手引き書」の特質は、のちのマルクス主義文献の多くのそれのように、「科学的」という語を絶え間なく使用していることでありり、それ自体の言明がこの性格を特別の程度に有すると執拗に主張していることだ。//
 (17)ブハーリンの書物の凡庸さを、グラムシ(Gramsci)やルカチ(Lukács)のような知的なマルクス主義批判者は見逃さなかった。彼らはとくに、ブハーリンの「機械主義」の傾向に注意を向けた。
 ブハーリンは社会を、生起する全てはそのときどきの技術の状態によって説明することのできる、結び合った全体だと考えた。、
 人々の思考や感情、人々が表現する文化、人々が作り出す社会制度、これらは全て、自然法則がもつ不変の規則性を伴う生産力によって生み出される。
 ブハーリンは、「平衡状態の法則」でもって何を明瞭には意味させたいのかを、説明しない。
 社会での平衡状態は継続的に攪乱されかつ復活されている、そして平衡状態は技術のレベルと生産関係の「合致」に依存する、と我々は語られる。
 しかし、ある所与のときにこの合致が存在するか否かを決定する際に用いる規準(criteria)に関する示唆は、いっさい存在しない。
 実際にブハーリンは、平衡状態の攪乱を革命または全ての社会転覆と同一視しているように見える。
 かくして「平衡状態の法則」が意味するのは、危機と革命は歴史上に発生した、そして疑いなくもう一度発生するだろう、ということのように見える。
 社会現象の研究はそれ自体が社会現象で、そのようなものとして歴史的な変化を発生させるのを助ける、ということをブハーリンの頭は思いつかなかった。
 ブハーリンは、天文学が惑星の運動を我々に教えるのと同じ方法で、未来に関する「プロレタリアの科学」は歴史的事象を分析して予言するだろうと信じていた。//
 (18)ブハーリンの政治的地位のおかげで、彼のマルクス主義に関する標準版は長らく、党の「世界観」を最も権威をもって言明したものと見なされた。スターリンの著作がそうなったほどには、忠誠者に対する拘束力あるものにはならなかつたけれども。
 彼の<史的唯物論>は実際、スターリンが自分自身の手引きとしたほとんど全てのものを含んでいた。
 スターリンは、「平衡状態の法則」に言及しはしなかった。
 しかし彼は、ブハーリンの「弁証法の法則」を継受して、歴史的唯物論について哲学上の唯物論の一般原理の「適用」または特殊な場合であると説明した。
 その基礎をエンゲルスに、とくにプレハノフに見出すことができるこのような接近方法は、ブハーリンによって経典的マルクス主義の本質部分だとして提示された。//
 (19)のちにブハーリンがその栄誉ある地位から転落して「機械主義」が非難されたとき、つぎのことを示すのが、党哲学者たちの仕事になった。すなわち、彼の「機械主義」的誤りとその政治上の右翼偏向は分かち難く結びついている、そしてレーニンが正当に譴責した弁証法の無知こそが彼が富農(kulak)を防衛し集団化に反対した根本原因だ。
 しかしながら、この種の哲学と政治の連関づけは全く根拠がなく、わざとらしい。
 ブハーリンの著作にある曖昧な一般論は、特定の政治的結論の根拠を何ら提供していない。
 但し、当時にまたはのちに誰も論難しなかったつぎのような前提命題は除く。例えば、プロレタリアートの社会主義革命は、最終的に世界を制覇するはずだ。宗教とは闘わなければならない。プロレタリア国家は、産業の成長を促進するはずだ。
 より厳密な結論について言えば、最も矛盾する趣旨が、同じ論理を使って同じ理論上の定式から演繹されている。教理(doctrin)は事実上、政治に従属している。
 「一方で」土台は上部構造を決定するが、「他方で」上部構造は土台へと反作用するのだとすれば、いかなる程度であっても、またいかなる手段をとるのであっても、「プロレタリア国家」は経済過程を規整するだろうし、つねに教理と合致して行動することになるだろう。
 ブハーリンは、都市と田園地帯の間の経済の均衡を混乱させるとスターリンを責め立てた。しかし、彼の「平衡状態の法則」は、いつそしてどのような条件のもとであれば現在の平衡状態が維持されるのかそれとも破壊されるのかに関する手がかりを、何ら提供しなかった。
 最終的な安定が共産主義のもとで達成されるまでは、平衡状態は攪乱されつづけるだろう、そしてスターリンの「上からの革命」(revolution from above)、換言すると農民層の強制的収奪、のごとき政策は、平衡状態へと向かう社会の一般的趨勢と完全に合致しているかもしれない。なぜならば、国有産業と私的農業の間の矛盾を除去すること、そのことで不均衡の要因を取り除くことは、政策の目標だからだ。
 Cohen はつぎのことを正しく(rightly)観察している。すなわち、ブハーリンが手引書を執筆したのは、党の言葉遣いでは極端に「主意主義的な」(voluntaristic)ものと称される経済現象に対する態度の実例を彼自身が示したときだった。ブハーリンは、経済生活の全ては行政的かつ強制的な手段によって完全に十分に規整され得る、プロレタリアートの勝利ののちには全ての経済法則が弁証法的に取り替えられるだろう、と信じた。
 ブハーリンはのちに戦時共産主義の考えを放棄し、ネップのイデオロギストになった。
 しかし彼は、<史的唯物論>の諸テーゼを変えることはなかった。
 そのゆえに、彼の著作の中に1929年の彼の政策のための着想を探し出そうというのは馬鹿げたことだ。
 ついでに言えば、戦時共産主義という観念もまた、それから演繹することはできない。
 我々は、もう一度、かかる曖昧な哲学的言明はいかなる政策を正当化するためにも用いることができる、とだけ言おう。あるいは、同じことに帰一するのだが、かかる曖昧な哲学的言明は、いかなる政策もいっさい正当化しはしない。
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 第2節終わり。

1478/ムッソリーニとレーニン③-R・パイプス別著5章2節。

 前回のつづき。
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 第2節・ムッソリーニの『レーニン主義者』という根源③。
 労働者階級は生まれながらに改良主義者だ(『経済組織(労働組合)は経済の現実が改良主義的だから改良主義者だ』)と、そして全ての政治制度のもとで、支配しているのは少数者だといったん決定するや、ムッソリーニは、かりに労働者が革命化しなければ、労働者を指導する知性と意思をもつ特権階層が必要になる、と結論づけた。(21)
 彼は1904年には、このような考え方を信奉した。(22)//
 このような前提のもとで、彼は、イタリア社会党の再建へと進んだ。
 ムッソリーニが設立した< La Lotta di Classe > (階級闘争)〔新聞〕で、レーニンがメンシェヴィキに対してしたのと同じように彼は、改良主義多数派を放逐した。誹謗中傷はレーニンほどではなかったけれども。
 レーニンは、この新聞の創刊号の中のムッソリーニの論説に、自分の名前を署名するのを躊躇しなかっただろう。ムッソリーニは、こう書いていた。//
 『社会主義は到来しつつある。そして、社会主義を実現する手段は、政治的征服によってではなく-社会党に頻繁にみられる幻惑的な理屈だ-、将来の共産主義組織の中核をすでに今日に形成している労働者協同体の数、力および意識によって、現存する市民社会の胸中に与えられている。
 カール・マルクスが<哲学の貧困>で述べるように、労働者階級は、その発展の推移のうちに、古い市民社会を、階級とその間の矛盾を廃棄する協同体(association)に取って替えるだろう。(中略)
 このように予期するならば、プロレタリアートとブルジョアジーの間の闘争は、<階級の階級に対する戦い>、最高度に表現すれば、全体的(total)な革命となる戦いだ。(中略)
 ブルジョアジーの収奪は、この闘争の最終結果だろう。そして、労働者階級が共産主義を基盤にして生産を始めるのに困難はないだろう。この戦いと征圧のための武器、制度、人間を、彼らの労働組合の中に、今日すでに用意しているのだから。(中略)
 社会主義労働者は、前衛的で果断のないかつ戦闘的な組織を形成しなければならない。その組織は、刺激し鼓舞することで、理想的目標への展望を大衆に決して忘れさせないだろう。(中略)
 社会主義は商売人の戯れ事ではないし、政治家の遊びでもなく、恋愛小説家の夢でもない。ましてスポーツではない。
 社会主義とは、個人としても集団としても精神と物質の高揚へと努力することであり、そしておそらく、人間集団の感情を掻き乱す最強のドラマだ。また、確実に苦しみ無為に過ごさないで生きたい数百万の人々の、最も大切な希望だ。』(23)//
 ムッソリーニは、党員たちの挫折した過激主義を利用して、1912年の社会党大会で穏健派を指導層から排除することに成功した。
 『ムッソリーニ派』として知られる彼の支持者の中には、のちの著名なイタリア共産主義者の何人かがいた。とりわけ、アントニオ・グラムシ(Antonio Gramsci)がいた。(24)
 ムッソリーニは党の執行委員会へと指名され、<前へ!(Avanti !)>の編集長職を託された。
 レーニンは<プラウダ>紙上で、ムッソリーニ党派の勝利を歓迎した。
 『分裂は、困難で苦痛の出来事だ。
 しかし、ときには必要だ。その状況では、弱さや感傷の全ては…犯罪だ。(中略)
 イタリアの社会主義プロレタリアートの党は、その真ん中からサンディカリストと右派改良主義者を放逐して、正しい途を進んだ。』(25)//
 1912年、30歳に1年足らないムッソリーニは、イタリアの革命的社会主義者の、または『非妥協者』たちの、指導者になることが運命づけられているように見えた。
 しかし、それは現実とはならなかった。イタリアの参戦問題に関する彼の考えの転回が理由だった。//
 レーニンのように、ムッソリーニは1914年の前に、政府が宣戦すれば社会主義者は内乱的暴力でもって答えるだろうと脅かした。
 1911年に政府がトリポリ(リビヤ)へ兵団を派遣したあとで、ムッソリーニは、社会主義者は『諸国間の戦争を階級間の戦争に』変える用意があると警告した。(26)
 この目的を達する手段は、一般的ストライキ〔ゼネ・スト〕だった。
 ムッソリーニは、第一次大戦の直前に、この警告を繰り返した。かりにイタリアが中立を放棄して連合国に抗する中央勢力に加わるならば、プロレタリアの蜂起に直面するだろう、と。(27)
 ファシズム歴史家のエルンスト・ノルテ(Ernst Nolte)は、何らかの理由でレーニンを無視して、ムッソリーニは戦争になれば反乱だと政府を威かしたヨーロッパのただ一人の重要な社会主義者だ、と主張している。(28)//
 戦闘が勃発して、全く予期しなかったことだが、ヨーロッパの社会主義者たちが進んで軍事借款に賛成票を投じたことは、ムッソリーニの自信を激しく動揺させた。
 彼の同僚が驚いたことに、ムッソリーニは1914年11月に、イタリアの連合国側への参戦に賛成することを明らかにした。
 この言葉と行動を合わせるために、彼は軍に歩兵として加入し、1917年2月まで戦闘に加わった。そのとき彼は、重傷を負って後方に送られた。//
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  (21) De Felice, ムッソリーニ, p.122-3。
  (22) Gregor, ファシスト信条, p.145。
  (23) 1910年1月9日付の論説, in : ムッソリーニ, オペラ・オムニア, Ⅲ, p.5-7。
  (24) Gregor, 若きムッソリーニ, p.135。
  (25) レーニン, PSS, 21巻, P.409。
  (26) < La Lotta di Classe >(階級闘争〔新聞〕)1911年8月5日号。De Felice, ムッソリーニ, p.104. に引用されている。
  (27) ムッソリーニ, オペラ・オムニア, Ⅳ (1953), p.311。
  (28) エルンスト・ノルテ, ファシズムの三つの顔 (1965), p.168。
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 ④につづく。
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