秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

グラク

2208/レフとスヴェトラーナ13-第4章①。

 レフとスヴェータ、No.13。
 (New York, 2012)

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 第4章①。
 (01) グラクは、手紙のやり取りに関する細かな規則を定めていた。
 この規則は状況に応じて変更されたが、各労働収容所(labor camp)ごとの異なる厳格さをもって、適用された。
 受刑者が受け取れる手紙の数の多さは、受けている判決の内容や生産割当て達成の程度によって変わった。//
 (02) 木材工場群では、公式には検閲後に毎月1通が認められた。
 これは、一年に数通にすぎない他の収容所に比べると、多かった。
 1946年8月1日の叔母オルガ宛てのレフの手紙は、受け取ることのできる手紙や小包みの数について制限はない、と書いていた。
 「手紙や印刷物〔banderoli〕はここには2-3週間で届きますが、モスクワからは7-8日で届く場合もあります。
 検閲のために長く留め置かれることはありません。…。
 書いて下さるなら、順番どおりに数字を書くのを忘れないで下さい。そうすれば、手紙を全部受け取っているかどうかを調べることができます。
 おそらく用紙と鉛筆以外には、何も送っていただかなくて結構です。」
 (03) レフが書いたことは、全部が本当ではなかった。
 彼はしばしば、手紙に関する収容所での条件を思い浮かべた。
 実際には手紙類は一ヶ月に2-3回配達され、受刑者は一度に数通を受け取ることがあり得た。
 しかし、これはまだよい方で、確実に1930年代のグラク収容所よりもはるかによかった。かつては、受刑者は数年間に一通の手紙も受け取らずにすごしていたからだ。
 検閲は比較的に緩やかだった。-検閲のほとんどを行っていたのは、収容所監視官やその他の役人たちの夫人たちで、彼女たちは完全には手紙を読み通すことができず、仕事をしていることを示すために若干の無害な語句を黒く塗りつぶすだけだった。
 しかし、受刑者たちはそのことを知らず、自分たちの文章について自主検閲(self-censorship)を行なった。//
 (04) 小包みや印刷物については、そう単純ではなかった。
 これらを送るためには、ムィティシ(Mytishchi)または他のモスクワ近郊都市に行くことを含めた複雑な官僚的手続が必要だった。グラク労働強制収容所への小包みはソヴィエトの首都から送ることができず、検査されて登録されるために数時間の長い質問に耐える必要があった。
 8キログラム以上の重さの小包みは、受理されなかった。
 収容所に届いたときにも、それらを受け取るための同じように複雑な手続が必要だった。
 木材工場群ではMVD官僚のところに集められ、権限ある監視官が全ての中を開け、しばしば勝手に自分のものにし、その後で内容物の残りを受刑者に与えた。
 食糧、金、および暖かい衣服はほとんどつねに監視官に奪われた。そこでレフは、友人や親戚の者たちに、書物以外の物は送らないように頼んだ。書物についても、外国文学書は、とくに1917年以前に刊行されたものは没収されそうだったので、警戒が必要だった。。
 そのことの注意を、レフは最初の手紙でスヴェータに求めた。
 「きみやオルガ叔母さんが本を送ってくれるときは、必ず安価なものにして下さい。
 安くてぼろいほど好いです。そうだと、失ったときに金を無駄遣いしないで済みます。
 外国語の文学書を送ってくれるなら、ソヴィエト版のもの、また古書専門店からのではないものにして下さい。そうしないと、検閲で誤解を招いて私が受け取れない可能性があります。」
 (05) レフの第一の手紙は、スヴェータが8月7日に書き送っていたとき、まだ届いていなかった。
 「私の親愛なるレフ、私は一にちじゅう、7月12日に送った手紙を受け取ったのかどうかと気を揉んですごしています。
 受け取った?」
 レフは受け取っていなかった(その翌日、「重要な」8日にそうした)。
 スヴェータは彼の最初の手紙を23日に受け取った。それは、別荘から帰っあとすぐのことだった。
 スヴェータは、その日の午後に書き送った。
 「私もまた、運命論者になりました。
 私が第一の手紙を書いているとき、あなたは二番めを書いている。
 でも、私が二番めを送るのは、あなたが私の一番めを受け取っているときです。
 そして、私が三番めを書いているのは、あなたの一番めを受け取ったときです。
 -<La Traviata>〔椿姫〕がラジオで流れています!」
 レフは、8月11日にスヴェータへの二番めの手紙を送って、9月10日の彼女の誕生日に確実に間に合うようにと考えた。そしてまさにその日に、彼の一番めの手紙に対する彼女の返事を受け取った。
 レフはその夕方にスヴェータに書いた。
 「私にはプレゼントでした。
 この日には、全てのプレゼントはきみのためのものであるべきなんだけれども。」
 (06) こうして、二人の会話が始まった。
 しかし、たどたどしくて戸惑いのある会話だった。
 スヴェータは、9月6日に、レフに対してこう書いた。
 「あなたの手紙を、今日26日に受け取りました。
 そして、その前に8日付と11日付のあなたの手紙も。
 でも、あなたの21日付はまだ受け取っていません。
 レヴィ、手紙の間隔が合わせて数カ月になると、お話しするのがむつかしい。
 私の気持ちを理解するまでに、あなたはもう別の気分になっているかもしれない。」
 (07) 遅配だけがいらいらの原因ではなかった。
 検閲があるという意識もまた、会話を制限した。
 どの程度までになら明確に書いても問題にならないのか、確信がなかった。
 レフは三番めの手紙で「明確な限界」について書いて、内心を明らかにしている。
 「スヴェータ、手紙を書くことを決して怠けてはいません。
 だから、心の中ではきみと24時間のうち16時間も話していると言っても、信じて下さい。
 頻繁には書けないとしても、それは書きたくないからではなく、明確な限界の範囲内できみに書く方法を私は知らないからだ、ということが分かるでしょう。」
 レフは、手紙に書けることについて慎重に考え、現実に書く前に数日間は頭の中でこしらえた。
 営舎を離れるときに他の受刑者が紙タバコ用に使うのを心配して、書き終わっていない手紙をポケットに入れて運んだ。そのために、書き終えたときには、手紙はしばしばよれよれになっていた。
 (08) レフが伝えたい意味は、行間で読まれなければならなかった。-遠回しの言葉が用いられた。MVDの役人(「叔父」、「親戚」)、グラク制度(「雨傘」)、贈賄金(金を意味するden'gi から「ビタミンD」)。また、収容所内での日常生活の不条理さを伝えるために、文学的隠喩(とくに19世紀のNikolai Gohol やMikhail Saltykov-Shchesrinのそれ)も用いられた。
 友人や縁戚者たちの名前は決して明記されず、イニシャルでまたは通称を使って隠された。
 (09) レフが元々もっていた怖れは、受刑者から手紙を受け取ることでスヴェータが危険に晒されるのではないか、ということだった。
 スヴェータへの最初の手紙で、彼は「局留め」(poste restante)にしようかと提案していた。
 スヴェータは回答した。
 「局留めにする必要は全くありません。
 私たち二人は、隣人たちをみんな知っています。」
 のちに彼女は考えを変えて、隣人たちがそのブロックの入口そばの郵便受けを見たときに「注意を惹かないように」、レフが封筒上の宛先から彼女の名前を省略することを提案した。
 しかしとりあえずは、スヴェータは受刑者に手紙を書いていることを明らかにし、彼女の家族や親友たちはそれに好意的だった。//
 (10) スヴェータも、慎重に手紙を書いた。
 草稿を書き、修正し、かつ自分が考えたことを正確にしておくために複写をすることになる。そして、レフを危険にすることは何も書かなかった。
 スヴェータは自分の手紙がうまく届くかに自信がなかった。そのため、草稿を置いておくことは安全確保のための最後の手段だった。
 彼女は、小さく、ほとんど読み難い手書きの文字を、白紙または最も間隔が細い線の入った便箋に書いた。その文字は、一枚の紙全体を埋め尽くした。
 スヴェータはどの手紙にも、何枚かの白紙を挿入した。レフが返事を書けるようにだった。
 彼女は、自分の家にいるときの夜に、手紙を書いた。
 「手紙を書くには家にいて、また(誰もが眠れるためにも)一人でいる必要があります。私の頭が邪魔されず、眠りたいと思わないために、また落ち着いた気分でおれるために。
 これらの目的(「fors」)は、必ずしもつねには一致しませんが。」
 (11) スヴェータは、自分の日常生活、家族、仕事と友人たちに関する新しい知らせや詳細で手紙をいっぱいにした。
 彼女は自分の手紙を通じて、レフのために生きた。
 スヴェータの文章は表面的には、ロマンティックな感傷に欠けているようにも思える。
 これはある程度は、ソヴィエトの技術系知識人世界-そこで彼女は育てられた-にあるあっさりとして質素な言語上の性格だ。一方で、レフは、彼の祖母や19世紀のロシア紳士階層がもつ、より表現的な言葉遣いに慣れていた。
 スヴェータは、自分は感情を奔出させるのが好きではないと、認めていた。
 実際的な人柄で、感情はたっぷりとあり、愛情についてもしばしば熱いものがあった。しかし、ロマンティックな幻想に負けてしまうほどに実直でも単純でもなかった。
 「愛に関する感傷的な言葉(高慢で安っぽいの両方)は、私には広告と同じような効果を生みます。
 私へのあなたの言葉と同じく、あなたへ私からの言葉も。
 それから生まれるのは、終わることのない哀しみです。
 心の中で、つぎの文章をいつも聴いています。
 『与えよ、そしてその見返りを得ようと手を出すな。-これは、心を全て開くためには不可欠だ』」。
 感傷的な言葉がスヴェータの手紙に少ないことは、誤魔化しでもあった。
 彼女が引用するサーシャ・コルニィ(Sasha Chorny)のつぎの詩は、手紙を毎回書いてレフに示す愛情を完璧に表現している。 
 「窮状を終わらせる最良の決定をしたとしても
 脚の重いハイエナが、世界全体を漁り回るだろう!
 空を飛ぶ本能的な愉しみ…に恋をすれば
 魂のすべてが解き放たれる
 兄弟、姉妹、妻、あるいは夫であれ
 医師、看護師、あるいは芸術の達人であれ
 自由に与えよ-しかし、震える手を出して見返りを求めるな
 これが、心を全て開くためには不可欠だ」
 (12) スヴェータはレフに、自分の生活を説明しつづけた。
 自分が仕事に行く途中のモスクワの風景を描写し、レフが憶えている自分の衣服に関する少しばかりの詳細を付け加えた。
 「モスクワっ子は自分が残しているものは何でも着ます。-皮のコート、綿入りジャッケット(私が電車で仕事に行く朝のお気に入り)。
 工場は8時に始まり、研究所は9時に始まり、役所は11時…。
 冬用コートを持っていません。古くて黒いコートは破りたい熱情の犠牲になりました。破壊願望は二本脚の全ての動物の特性ですが、ママが強く言い張ったので、良いスーツに再利用しました。…。
 灰緑色のコートは、まだ使っています。…。
 まだ他にどうなっているか、知っていますか?
 買っていた靴。これはいつも側にあって、とても軽いので、いま研究所まで履いています。…。
 私の生活の様子で書いておかなけれけばならないのは、以上です。
 -あなたが思い浮かべているだろうと私が思うほど好くはありません。」
 (13) レフは、モスクワに関する知らせを待ち望んだ。
 スヴェータからモスクワについて知るのをとても好んだ。
 彼は収容所で、アニシモフやグレブ・ワシレフ(Gleb Vasil'ev)のようなモスクワ仲間とその都市について、数時間もかけて想い出話をした。ワシレフは、スヴェータと同じ学校で勉強をした、金属工場にいる機械工で、1940年に逮捕されたときはモスクワ大学物理学部の第一年次を終えたばかりだつた。
 ペチョラの荒涼とした北西部の風景から、自分の手紙が夢のモスクワへと彼を運んでくれるのを願った。
 「今日は、灰色で、一面に曇っています。
 秋が静かに、瞞すようにして忍び寄ってきましたが、頑固さを主張するように、ペチョラの上、森林の上、堤防上の家屋の上、そしてわれわれの産業入植地の建物や煙突の上、無表情で厳しい松…の上は、蜘蛛の巣のように覆われています。
 モスクワには、Levitan やKuindzniにふさわしい秋があるでしょう。木の葉が落ち、乾いた葉っぱが足元でさらさらと音を立てる、そんな黄金の季節です。〔原書注-Isaac Levitan(1860-1900)とArkhip Kuindzni(1842-1910)は、ロシアの風景画家。〕
 全てが、何と遠く感じることでしょうか。
 でも、モスクワの夕べはかつてと同じに違いないと、私は思い浮かべます。-人々はかつてと同じで、街路は変わっていないままです。
 そして、きみがかつてそうだったのと同じだということも。
 そして、今なお見えているのは、消え失せる幻想だとは、思いたくはありません。
 ああ、この紙に何度『そして(and)』を書いたことだろう。そして、何と論理的でないことか。
 これは手紙ではなくて、感情を支離滅裂に束ねたものです。」//
 スヴェータは、現実的な描写をして、レフの郷愁を挫いた。
 9月10日に、こう書いた。
 「モスクワでは、もう黄金色は見えません。
 モスクワは、あなたが思い浮かべるようでは全くありません。
 人々の数が、多すぎます。
 街路電車では、それは愉快ではありません。
 人々は、苛立っています。
 人々は口論をし、喧嘩して組み打ちすらします。
 メトロ(地下鉄)はいつも満員です。
 あなたが乗り換えていた地下鉄駅では、もうそれはできません。」
 (14) スヴェータが最初の手紙で約束していたように、彼女はその仕事について、レフにより詳しく書いた。
 研究所は計650人が働く工場と実験所で成る大複合体で、技師120名、研究者および技術助手50名、そして残りは労働者だった。-整備工、組立て工、機械工。
 これら労働者の多くは戦争前に建てられていたラバー(ゴム)工場用の古い木造宿舎で、家族と一緒に生活していた。
 スヴェータが仕事をする実験室では、合成ゴム(重炭酸ナトリウム)からタイアを製造する新しい方法を試験していた。
 彼女の仕事は多数の研究と教育を含んでいたが、西側の最新の発展に追いつくために英語を学習することももちろんだった。西側の最新の状況を、スヴェータは博士号申請論文「ラバーの物理構造について」で論述しなければならなかったからだ。//
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 第4章②につづく。

2201/レフとスヴェトラーナ10-第3章②。

 レフとスヴェトラーナ。
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 第3章②。
 (16) レフは、木を河岸から木材工場群まで引き摺り上げる、一般労働チームに配属された。
 その仕事の意味は、重い材木を、丸太コンベヤにまで引き摺り上げることだった。そのコンベヤには巻き揚げ機と鋼索がついていて、材木の丸太が製材所(saw-mill)まで引き揚げられた。
 仕事はきつくて、一度に数時間も、凍えるような水の中に立ち続けた。
 夜のあいだずっと明るい夏には、たくさんの蚊が我慢できないものだった。
 仕事に出かける前に、受刑者たちは、手と顔を僅かばかりの布で覆った。//
 (17) チームの他の者たちと同様に、レフは、標準服を受け取っていた。耳垂れの付いた帽子、綿入りのエンドウ豆色の上衣、重い綿入りズボン、上衣と同じ素材で作られた手袋、冬季用の靴。
 靴には、毛皮もなく、裏張りもなかった。また、湿っぽくて風通しの悪い営舎では、乾かす手段がなかった。そのために、彼の足はいつも湿っていた。//
 (18) 夜明け前に、24時間交替制が始まった。
 受刑者たちは、割り当て分を達成すれば、一日あたり600グラムのパンという糧食を受け取った。達成しなければ、わずか400グラムだった。
レフが毎日の割り当て量を達成するには、最低で60立方メートルの材木(小さな車庫を充たす量)を河から木材工場群まで引き揚げなればならなかった。
 もし彼がこの割り当て量を超えて労働すれば、800グラムのパンが貰え、そしてボーナスとして、詰め物入りのライ麦パイが貰えた。彼が思い出すに、詰め物は特別の味がなく、また少しも詰め物に値するものではなかった。
 受刑者たちには毎朝、一椀のポリッジ(粥)、一杯の茶、15グラムの角砂糖(これは注意深く測られた)、および一片のニシンが与えられた。
 昼食では、通常はわずかに肉または魚が中に入っている一椀のキャベツ・スープ、別の一椀のポリッジ(粥)、より多い茶を受け取った。
 これらは、木材引き揚げチームの者たちの身体を長く維持するには、十分でなかった。
 病気や死亡の割合は、きわめて高かった。
 1945-46年に、収容所の1600人の受刑者の三分の一以上が、病気で診療所、つまり木材工場群の主要な受刑者地区の外にある分離された建物、にいた。そこには当時、ただ一人の医師しかいなかった。
 墓地掘りチームで当時働いていたある受刑者によると、彼らは毎日、一ダースの受刑者たちを、診療所の後ろにある墓地に埋葬していた。
 引揚げチームの労働条件は非人間的だったので、監視兵のうちの何人かは不安になった。
 ある者は木材工場群の党会議で、「我々は、彼らが生きているかどうかを気にかけているようには思えない」、と愚痴をこぼした。
 「我々は、病気になるまで、彼らを凍えんばかりの水の中に立たせている。そして、彼らがもう働けなくなれば、診療所で死なせている」。
 (19) 引揚げチームで三ヶ月経って、レフの身体は疲労困憊した。
 精神的にも壊れてしまった。
 テレツキーはのちに、初めてを見たときレフは、「トラクターにひかれた農民のように見えた」と語った。
 10年前にイストラ河に飛び込んだ元気な少年の痕跡は、何も残っていなかった。//
 (20) テレツキーに励まされて、労働が終わったあとでレフは木材乾燥所に行き、身体を温めることになる。
 産業区域には監視付きの護送車はなかった-受刑者たちは、仕事場まで自分で行くように放っておかれた。したがって、レフが材木コンベアでまたは製材所の近くで働いていると、毎日の最後に第二入植地区へと帰る途中で、乾燥所のそばに止まることのできる時間があった。なお、第二入植地区に入る際は、監視用建物を通って、人数を数えられた。
 レフは、乾燥所を訪れたことによって、殺されそうになる労働から救われた。//
 (21) 乾燥所に付属している研究実験室の長は、G・ストレルコフ(Georgii Strelkov)という名の、内戦を闘った年配ボルシェヴィキで、ソヴィエトの年長の実業家だった。この人物は、1937年に逮捕されるまで、重工業人民委員部の一部署であるクラスノヤルスク(Krasnoyarsk)のMinusazoloto 金鉱トラストの長だった。
 彼は、シベリアの遠く北東にあるコルィマ(Kolyma)金鉱にいた飢えていく受刑者たちの報告に関心をもって、食糧を載せた二隻の船を派遣した。しかしそれは、NKVDによって妨害され、全ての食糧が奪い去られて、その代わりに新しい受刑者たちが船に乗せられた。
 NKVDは、どれだけ多数の人々が死のうと気にかけず、食糧を無駄にしたとストレルコフを責めた。
 ストレルコフは、「反革命的活動」で訴追された。
 銃殺刑の判決を受けたが、執行は猶予された。そして20年間、ペチョラ労働強制収容所で、手紙をやり取りする権利を奪われたままだった。
 彼の専門技術をペチョラのグラク当局が高く評価したので、彼は木材工場群で実験的な仕事に就くこととなった。但し、25年の判決を受けた受刑者として、困難な手作業に従事しなければならなかった。
 グラク当局は、ストレルコフが営舎ではなく実験室で生活するのを認めた。それは、いくつかの技術的問題や産業区域内のその他の問題を解決するために、彼の存在がばしば必要になったからだった。
 ストレルコフは、標準服ではなく、スーツを着ることすら認められていた。//
 (22) ストレルコフは厳格で頑固だったが、親切でもあった。
 彼の木材工場群での権威のおかげで、彼は引揚げチームで完全に疲労消耗した多数の受刑者たちを、乾燥所または工場へと移すことによって、救うことができた。こうした介入がしばしば、収容所当局との間に悶着をもたらしたのだったとしても。
 ストレルコフは、怖れなかった。
 自分がグラクの幹部たちに必要とされていることを、知っていた。そして、数年間にわたって、彼の意向に沿って何とかシステムを動かそうとした。
 1946年、乾燥所は専門技術をもつ新しい技術者をはなはだしく必要とするようになった。
 高圧蒸気暖房機が十分に速く材木を乾燥させなかったので、設定された目標を達成しようとする工場に、必要な量の材木を供給することができなくなった。そして、内務省または(1946年3月にグラクの運営をNKVDから引き継いだ)MVDからの、業績達成能力を改善せよという圧力が、日増しに強くなった。
 ストレルコフはレフが科学者であることを知って、技術者として乾燥所に加わるようレフを誘った。そして、蒸気室で作業させた。
 レフの仕事は、材木の外皮部分を乾燥する状態にさせることだった。
 蒸気室は最低でも摂氏70度で維持されており、また手と顔を覆って入ったため、一度に数分間以上はそこにとどまることができなかった。
 苛酷な肉体的労働だったが、河から材木を引き揚げるのに比較すると、レにとっては「楽園」だった。//
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 第3章③へとつづく。

2200/レフとスヴェトラーナ09-第3章①。

 レフとスヴェトラーナ。
 今回の試訳には、適宜省略している部分がある。
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 第3章①。
 (01) 列車による護送は北に向かってゆっくり、ミンスクから、ヴォログダ(Vologda)、コトラス(Kotlas)そしてペチョラ(Pechora)へ、北極圏に近い森林奥深くへとつづいた。レフはペチョラで、長期刑に服することになっていた。
 <中略>
 (02) 受刑者は、一日あたり200グラムのパンと塩漬けの魚類を食事として供された。水はほとんど与えられなかった。
 彼らのうちの多数は、病気になり、渇きで死にすらした。
 死んだ者および死にそうな者は、列車から投げ落とされた。
 <中略>
 (03) コトラスを超えても、列車はゆっくりと走るような速さで進み、新しい死者や瀕死者を投げ棄てるために、頻繁に停止した。
 <中略>
 (04) 三ヶ月の旅をして、レフの護送団は、1946年3月にペチョラに到着した。
 春ではまだなかった。
 北極の暗い冬は、ここよりも北では9ヶ月続いた。
 河はまだ凍ったままで、地上には雪があった。
 <中略>
 (05) 受刑者たちは、通過収容所に連れて行かれた。そこが労働強制収容所への到着地点で、有刺鉄線で囲まれた鉄道駅舎の近くの区域にあった。受刑者用の三つの仮設小屋、分離ブロック(懲戒のため)、墓地が付属している診療所、そして狭い作業場があった。
 男たちはシャワーをかけられ、頭を剃られ、シラミを駆除された。そして、いくつかのグループに分けられた。
 病人(主としてペラグラと壊血病)はまっすぐ診療所へと進み、残りの者には、それぞれの身体的条件に応じて、多様な労働と器具が割り当てられた。
 レフには、木材工場群(wood-combine, <Lesokombinat>)が選ばれた。
 <中略>
 (06) 鉄道はペチョラの何よりも大切なもので、鉄道こそがグラクの設置と入植、北部の経済開拓の鍵だった。
 <中略>
 (07) ソヴィエトはしばらくの間は、河をヴォルクタ(Vorkuta)からの石炭輸送に利用しようと考えていたが、ルートが長く間接的で、またペチョラ河とウスト・ウラ河は一年のうち9ヶ月は凍ったままだった。
 そこで1934年に、ソヴィエトは、レニングラードをコトラス、ウフタ(Ukhta)、ペチョラおよびヴォルクタと結ぶ鉄道の建設に取りかかった。
 1939年までには、労働収容所や小さなグラク入植地が、計画路線の全長に沿って設立されていった。
 その年の統計調査によれば、これら労働収容所や入植地に、13万1930人の受刑者がいた(うち1万8647人は女性)。 
<中略>
 (08) ドイツ軍の侵攻によって、鉄道路線の建設はますます緊急を要するものになった。
 1941年末までにドイツは、ソヴィエト同盟の石炭の55パーセントを生産していたドンバス(Donbass)のほとんどを占領した。1942年には、コーカサスにまで着実に前進して、ソヴィエトの石油供給を脅かした。
 ヴォルクタまでの鉄道建設を完了させることは最優先事項、国の生存にかかわる問題になった。そして、この路線を完成させるよう、グラク〔強制収容所〕の幹部たちには多大な圧力が加えられた。
 1942年ころ、15万7000人の受刑者が休みなく鉄道工事に働いていた。彼らは、暖房のないテントで、あるいは外の凍える温度の中で、寝ていた。
 <中略>
 (09) ペチョラは、この地域の主要な経済的中核として発展していた。
 鉄道とペチョラ河とが交差する場所に位置しており、ペチョラは、グラクの木材加工、鉄道事業、および造船産業の中心だった。
 1937年にグラクの施設が建設され、1946年にレフが来た頃まで、1万の受刑者と自由市民がいる、小さな田舎町だつた。
<中略>
 建物の中にトイレはなかった(労働強制収容所の指揮官の家屋を除く)。
 また、どの家屋にも上水がなく、井戸だけがあった。井戸は、長い冬に水が凍らないように、小さな仮設の建築物で覆われていた。冬の気温は、常時摂氏マイナス45度に落ちた。
 ほとんど店舗はなく、シャンハイ地区に小さな郵便局があった(ウォッカを売った)。//
 (10) レフは、木材工場群の入口門を通って、つぎの10年間の刑務所がある産業区域(industrial zone)に入った。
 それは一つの村落の規模の、大きな長方形の区画で、広さが52ヘクタールあり、高い有刺鉄線付きの塀と探照灯のある監視塔で囲まれていた。
 その区画内にはおよそ50の建物があり、それらは主には、計画なしの成り行きで建設されたように見える臨時の木造建築物だった。
 <中略>
 (11) レフとともに護送された男たちは、鉄道荷積み地帯で人数を数えられた。その荷積み地帯では、木材工場群(家具、プレハブ家屋用分区)の最終製品が列車に荷積みされた。
 そして彼らは、第二入植地区(Colony)または労働旅団(work brigade, <kolonna>)の営舎(barrack)へと進んだ。その営舎は、固有の有刺鉄線の塀と衛兵舎を産業地区内にもつ、特別の部門の中にあった。//
 (12) 第二入植地区には、およそ800人の受刑者を収容する、計10の営舎があった。
 全ての営舎は同一だった。つまり、長い一階建ての木造建築物で、各段に二人を収容する、二列の寝台棚(bunk)が中にあった(グラクの専門用語では、<vagonki>として知られていた。旅客用の寝台列車の棚に似ていたからだ)。
 寝台棚の列の間の通路には、テーブル、ベンチ、そして木をくべる暖房器具があった。
 天井からぶら下がる40ワットの白熱灯が、ぼんやりした黄色の光を放っていた。
 マットレスと枕には、木の切り屑が詰め込められていた。
 レフの営舎は、監視兵が暖房具用の木片を持ち込むのを認めてくれたために、つねに暖かくおれるという利点をもっていた。
 営舎は夜にも鍵がかけられず、受刑者たちは、有刺鉄線に近づかないという条件のもとで(違反すれば射殺されただろう)、自由に行き来することができた(外にトイレがあった)。
 (13) レフは、営舎の一方の端の窓側にある下段の寝台棚に場所を占めた。その営舎は、第二入植地区の最も古い建物だった。
 隣人の一人は、西ウクライナのルヴォフ(Lvov)出身の若い「政治犯」だった。彼は小さくて痩せていて、表情豊かな顔と生き生きとした瞳をもっていて、リュボミール(Liubomir)(または「リュブカ」(Liubka))と呼ばれていた。
 彼は、レフのきわめて貴重な友人になることになる。優れた知性、詩的な感性、英知と繊細さで、大いに親しまれた。
 テレツキー(Terletsky)は、ペチョラにすでに6年おり、レフが入営する際にいろいろと助けてくれた。
 彼は、ソヴィエトがルヴォフに侵攻した直後、18歳だった1939年に逮捕された。
 NKVDの部員が彼の家で、地図、磁石、リュックザックを見つけ(テレツキーは大の散歩好きだった)、それらをドイツ軍のための諜報活動の証拠だとしたのだった。
 自白に追い込まれ、彼は銃殺刑の判決を受けた。
 キエフの刑務所で2ヶ月間、処刑を待っていたが、収容所での10年の重労働に判決が変更された。
<中略>
 (14) レフのとなりの寝台棚にいたのは、A・アニシモフ(Aleksei Anisimov)だった(「リョーサ」(Lyosha))。レフとは同じモスクワ仲間で、モスクワ運送技師研究所の学生だった。
 無口で静かな人物で、レフはとても好きだった。レフは彼のことを「とてもよい仲間」(wonderful fellow)だと、スヴェータ宛の手紙でのちに表現した。
 アニシモフは、1937年に逮捕され、「反ソヴィエト活動」の罪で15年の判決を受けていた。
 第二入植地区の受刑者たちのほとんどは、レフ、テレツキ、アニシモフのような「政治犯」だった。
 多数の者(正確には83人)は、ドイツ占領地域で捕らえられ、ソヴィエト同盟に帰還する途中で「スパイ」または「協力者」だとして逮捕された。または、その地域をソヴィエトが1944-45年に再侵攻した際の大量逮捕によつてこぞって摘発された。//
 (15) 木材工場群の他の入植地区には、異なる範疇の受刑者たちがいた。
 第一入植地区(産業区域の外の別の部門に位置していた)は、「特別追放者」(<spetspereselensky>)、行政指令によってグラクに送られた労働者たち、で構成されていた。そこには1946年に、そうした労働者たちのうち約500人がいた。
 第三入植地区(河のそばにあった)は、一般の犯罪者および制裁すべく選び抜かれたその他の受刑者たちで成っていた。
 <以下略>
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 第3章②へとづく。

2134/猪木武徳・自由の思想史(2016)①。

  猪木武徳・自由の思想史-市場とデモクラシーは擁護できるか(新潮選書、2016)。
 オビに「自由は本当に『善きもの』か?/ギリシア哲学から現代の経済思想まで」等とある。
 西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)と比べて読むのも、面白いだろう。
 前者は「選書」、後者は「新書」だが、前者計p.239まで、後者計p.396で、活字の大きさも後者が小さいので、文章・文字の総量は後者がはるかに上回る。
 内容や質は? 以下に書く。
 猪木著の「まえがき」で、こんなことが書かれる。
 ***
 <太った奴隷よりも飢えて自由の方がよい>旨のイソップ寓話がある。
 しかし、「隷従し」、「拘束を受けても」、「十分食べたい」という欲望が人間にはあるのではないか。
 「精神的な欲求としての自由を、いかなる価値よりも優先させるべき理由、そして人間の本性と両立しうる原理の根拠をどこに求めればよいのだろうか」。
 自由の実現には苦痛も伴う。「人間は、自由と不自由のコストとベネフィットを考慮することがあるのではないか」。
 「精神的な欲求としてだけではなく、『制度としての自由』には、さらに本質的な問いが潜んでいる」。
 以下、省略。
 ***
 すでに、勝負あり、だ。その背景は世代・年齢差(10年)にあるのではなく、基本的には、<文学・思想>分野か<経済・思想>分野かという、素養・「教養」の由来にあるだろう。
 西尾幹二は、「精神的な自由」、「ひとつひとつの瞬間の心の決定の自由」を最重視しているかのごとくだ。人間も生物であることを完全に無視している。
 猪木武徳においては、まず「精神的自由」は最重要の価値なのかと問題設定される。
 「十分食べたい」という欲求は人間の本性(nature)に合致している。これを無視することは、少なくとも一切無視することは、絶対にしてはならないだろう。
 西尾幹二はすでに「人間」ではなくなっているのかもしれない。あるいは生物・動物であることを忘却している、そのふりをしているのかもしれない。
 猪木は第3章の冒頭(p.77)で、アダム・スミスに言及しつつ、「自殺」=「自由意思による死」の問題を彼は論じている、という。西尾はこれに論及していないはずだ。
 しかし、これも、「自由」の、しかも難解な「自由」に関する問題だ。<自殺>・<自由意思>一般の問題には立ち入らないが、ここで想起するのは、ジョン・グレイ(John Gray)が言及していた、ソ連の強制収容所体験者の回想記・<北極コルィマ物語>のことだ。紹介部分の一部を、省略しないで、そのまま引用する。
 J・グレイ/池中耿訳・わらの犬(みすず書房、2009)、p.104。
 「意味と名のつく一切を奪われた収容者に、生きつづける理由はなかった。
 しかし、多くは、時にみずからの選択で命を絶つ機会が訪れても、その機会を捉えて行動するだけの気力、体力を残していなかった
 『死ぬ気が萎えないうちに急がなければならない場合もあった』。」
 旧ソ連のでも、ナツィスのユダヤ人強制収容所でもよいのだが、被収容者の「ひとつひとつの瞬間の心の決定の自由」とはいったい何だろうか。
 「死ぬ自由」すら選択できない、その「気力、体力」すら残っていない、という人々にとっての「精神的な自由」とは、いったい何だろうか。
 安全な場所に身を置いて、優雅に「精神・こころ」の大切さを説く高慢と偽善を許してはいけない。
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