秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

クロンシュタット

2572/R・パイプス1994年著第8章(NEP)第四節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第8章の試訳のつづき、第四節の②。
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 第四節・クロンシュタット暴乱②。
 (10) トロツキーは、3月5日にペテログラードに着いた。
 彼は暴乱者たちに、直ちに降伏し、政府の処置に委ねよと命じた。
 他の選択は、軍事的報復だった。(注56)
 少し変更すれば、彼の最後通告は、帝制時代の総督が発したものになっていただろう。
 反乱者に対する呼びかけの一つは、抵抗を続けるならばキジのように撃ち殺されるだろう、と威嚇した。(注57)
 トロツキーは、ペテログラードに住んでいる暴乱者たちの妻や子どもたちを人質に取るよう命じた。(注58)
 彼は、ペテログラード・チェカの長がKronstadt 反乱は自然発生的なものだと執拗に主張するのに困って、解任させるようモスクワに求めた。(注59)
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 (11) 反抗的なKronstadt 暴乱者たちは、トロツキーの行動を知って、1905年の血の日曜日での治安部隊への命令を思い出した。その命令は、ペテルブルク知事だったDmitri Trepov によるとされるものだった。—「弾丸を惜しむな」。
 反乱者たちは誓った。「労働者の革命は、行動で汚れたソヴィエト・ロシアの国土から、卑劣な中傷者と攻撃者を一掃するだろう」。(注60)//
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 (12) Kronstadt は島で、冬以外の季節に力でもって奪取するのはきわめて困難だった。だが、3月では、周囲の水は、まだ固く凍りついていた。
 このことが、猛攻撃を容易にした。大砲で氷を破砕しておくべきとの将校たちの助言を反乱海兵たちが無視していたために、なおさらそうなった。
 3月7日、トロツキーは、攻撃開始を命じた。
 赤軍は、Tukhachevskii の指揮下にあった。
 Tukhachevskii は、常備軍は信頼を措けないことを考えて (注61)、その中に、内部的抵抗と闘うために形成された特殊選抜分団を散在させた。(*) //
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 (脚注*) 1919年に、モスクワは反革命と闘う特殊な目的で、元々は共産党の将校と「特殊任務部隊」(〈Chasti Osobogo Naznacheniia, ChON〉)として知られる徴募された将校とが配属された選抜(エリート)軍を創設した。これらは1921年に3万9673名の幹部兵と32万3373名の徴集兵を有した。G. F. Krivosheev, Grif sekretnosti sniat (1993), p.46n.
 追記すると、内部活動軍(〈Voiska Vnutrennei Sluzhby, VNUS〉)があり、これは、同様の目的で1920年に設立され、1920年遅くには36万人が所属した。同上、p.45n.
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 (13) ペテログラードの北西基地からの攻撃が、本土要塞からの大砲発射とともに、3月7日の朝に始まった。
 その夜、白いシーツで包まれた赤軍兵団が、氷上に踏み出し、海軍基地に向かって走った。
 彼らの背後には、チェカの機銃部隊が配置されていて、退却する兵士は全て射殺せよとの命令を受けていた。
 兵団は海軍基地からの機銃砲で切断され、攻撃は大敗走となった。
 一定数の赤軍兵士たちは、義務の遂行を拒んだ。
 およそ1000人の兵士が、反乱者側へと転じた。
 トロツキーは、命令に背いた5分の1の兵士たちの処刑を命じた。//
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 (14) 第一砲が火を噴いた後のその日、Kronstadt の臨時革命委員会は、綱領的な声明を発表した。「何のために闘っているのか」、それは「第三の革命」を呼びかけることだ。
 アナキスト精神が滲むその文書は、知識人がこれまで書いてきた全ての特性をもっていたが、しかし、進んで闘って死ぬという意思でもって防衛者の気持ちは証明される、と表現してもいた。
 「労働者階級は、十月革命を実行することで、その解放が実現することを望んだ。
 その結果は、人間のいっそうの奴隷化ですらあった。
 権力は、警察と憲兵を基礎にした君主政から「奪取者」—共産主義者—の手に渡った。その共産主義者は労働者たちに、自由ではなく、チェカの拷問室で死に果てるという日常的な不安を、帝制時代の憲兵による支配を何十倍も上回る恐怖を、与えた。//
 銃剣、弾丸、〈oprichniki〉(+) の、チェカからの乱暴な叫び声、これが、長い闘争の成果であり、ソヴィエト・ロシアの労働者が被ったものだ。
 共産党当局は、労働者国家という栄光ある表象—槌と鎌—を、実際には、銃剣と鉄柵に変え、新しい官僚制の平穏で呑気な生活を守るために、共産主義人民委員部と役人機構を生み出した。//
 しかし、これら全ての最基底にあり、最も犯罪的であるのは、共産主義者によって導入された道徳的奴隷制だ。すなわち、彼らは、労働人民の内面世界へも手を伸ばし、彼らが思考するとおりに思考することを強制している。//
 国家が動かす労働組合という手段によって、労働者は自分たちの機構に束縛され、その結果として、労働は愉楽ではなく新しい隷属の淵源になっている。
 自然発生的な蜂起で表現された農民たちの異議申立てに対して、また、生活条件がやむなくストライキに向かわせた労働者たちのそれに対して、彼らは、大量処刑と、ツァーリ時代の将軍たちのそれをはるかに超える血への渇望でもって対応した。//
 労働者のロシア、労働者解放の赤旗を最初に掲げたロシアは、共産党支配の犠牲者の血で完全に浸されている。 
 共産主義者は、労働者革命という偉大で輝かしい誓いとスローガンを全て、この血の海へと溺れさせた。//
 ロシア共産党がその言うような労働人民の守り手ではないこと、労働人民の利益は共産党には異質なものであること、いったん権力を握ればその唯一の恐れは権力を失うことであること、そしてそのゆえに、(その目的のための)全ての手段—誹謗、暴力、欺瞞、殺戮、反乱者の家族への復讐行為—が許容されること、これらはますます明らかになってきており、今や自明のことだ。//
 労働者の長い苦しみは、終わりに近づいた。//
 いたるところで、抑圧と強制に対する反乱の赤い炎が、国の空の上に光っている。…//
 現在の反乱は最後には、自由に選挙された、機能するソヴェトを獲得して、国家が動かす労働組合を労働者、農民、および労働知識人の自由な連合体に作り変える機会を、労働者に提供する。
 最終的には、共産党独裁という警棒は粉砕される。」(注62)//
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 (脚注+) 1560年代に、想定した敵に対するテロル活動(〈Oprichnina〉)で、イワン四世に雇われた男たち。
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 (15) Tukhachevskii は、つぎの週に増援部隊を集め、その間ずっと、守備兵に夜間の襲撃に耐えられるよう警戒を続けさけた。
 島の士気は、本土からの支援の欠如と食料供給の枯渇によって低下した。
 このことを赤軍司令部は、Kronstadt にいる、反乱者から活動の自由と電話の使用を認められていた共産党員から、知らされた。
 仲間を攻撃するのに気乗りしない、自分たちの意気を高めるために、共産主義者は、反乱は反革命の愚かな手段だとプロパガンダするいっそうの努力を開始した。//
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 (16) 5万人の赤軍兵団による最終攻撃は、3月16-17日の夜間に始まった。このときは、主要兵力は南から、Oranienbaum とPeterhof から出発した。
 防衛者たちの人数は1万2000〜1万4000で、そのうち1万人は海兵、残りは歩兵だった。
 攻撃者たちは、何とか這い上がって、気づかれる前に島に接近した。
 激烈な戦闘が続いた。その多くは白兵戦だった。
 3月18日の朝までに、島は共産主義者が支配した。
 数百人の捕虜が殺戮された。
 敗北した反乱者の何人かは、指導者も含めて、氷上を横断してフィンランドへと逃げて、生きながらえた。但し、そこで抑留された。
 生き残った捕虜たちをクリミアとコーカサスに割り当てるのが、チェカの意図だった。しかし、レーニンはDzerzhinskii に、彼らを「北方のどこかに」集中させる方が「便利だろう」と告げた。(注63)
 これが意味したのは、ほとんどの者が生きて帰還することのない、白海上の最も過酷な強制労働収容所に彼らを隔絶させる、ということだった。//
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 (17) Kronstadt 蜂起が壊滅したことは、一般民衆に良く受け入れられたのではなかった。
 そのことはトロツキーの声価を高めなかった。トロツキーは彼の軍事的、政治的勝利を詳しく語るのを好んだけれども。しかし、彼の回想録では、この悲劇的事件で自分が果たした役割には、何ら触れるところがない。//
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 後注
 (56) Berkman, Kronstadt, p.31-32; L. Trotskii, Kak vooruzhalas' revoliutsiia, III/1 (1924), p.202.
 (57) Petrogradskaia pravda, No. 48 (1921.3.4). N. Kronshtadskii miateyh (1931), p.188-9 に引用されている。
 (58) Berkman, Kronstadt, p.14-15, p.18, p.29.
 (59) RTsKhIDNI, F. 76, op. 3, delo 167.
 (60) Pravda o Kronshtadte, p.68.
 (61) RTsKhIDNI, F. 76, op. 3, delo 167: Cheka report.
 (62) Pravda o Kronshtadte, p.82-84.
 (63) RTsKhIDNI, F. 76, op. 3, delo 167.
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 第四節、終わり。

2571/R・パイプス1994年著第8章(NEP)第四節①。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第8章の試訳のつづき、第四節。
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 第四節・クロンシュタット暴乱(the Kronstadt mutiny)①。
 (01) 1920-21年の冬のあいだ、ヨーロッパ・ロシアの都市部での食料と燃料の供給状態は、二月革命の前夜を思い起こさせるものだった。
 運輸の断絶と農民による退蔵が原因となって、配送がきわめて落ち込んだ。
 ペテログラードは、生産地から遠く隔たっていることで、再び最も影響を受けた。
 燃料不足のため、工場は閉鎖された。
 多くの住民が、市から逃げ出した。
 とどまっていた者たちは、政府から無料で配られたまたは仕事場から盗んだ工業製品を食糧と物々交換するために農村地帯へと向かった。但し、産物を没収する「妨害部隊」(〈zagraditel'nye otriady〉)によって、帰りの途中で停止させられた。//
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 (02) こうした状況を背景として、1921年2月に、Kronstadt の船員たち、トロツキーの言う「革命の美と誇り」が、反乱の狼煙を上げた。//
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 (03) 海軍の暴乱に火をつけたのは、モスクワやペテログラード等の多数の都市でのパンの配給を、10日間三分の一減らす、という1月22日の政府命令だった。(注45)
 この措置は、いくつかの鉄道路線を閉鎖させている燃料不足のために必要になった、とされた。(注46) 
 最初の異議申立ては、モスクワで勃発した。
 モスクワ地域の政党色のない冶金労働者の会合が、2月初めに、体制側の経済警察が全面的に非難していると聞き、ソヴナルコム〔人民委員会議、ほぼ内閣〕構成員を含む全員の平等を求めて配給「特権」の廃止を要求した。また、恣意的な食料取立てを定期的な現物税に置き換えることも、要求した。
 何人かの発言者は、立憲会議(Constituent Assembly)の招集を呼びかけた。
 2月23-25日、多数のモスクワの労働者がストライキを行ない、公的な配給制度の外で、自分で食糧を獲得することを認めるよう、要求した。(注47)
 この抗議運動は、実力でもって鎮圧された。//
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 (04) 政府への不満が、ペテログラードに広がった。そこでは、最も特権的な階層である工業労働者の食料配給は一日当たり1000カロリー分減らされていた。
 1921年の2月初め、ペテログラードの大企業のいくつかは、燃料不足のために閉鎖を余儀なくされていた。(注48)
 2月9日、ストライキが散発的に発生した。
 ペテログラードのチェカは、原因はもっぱら経済にあり、「反革命者」が関与している証拠はない、と決定した。(注49)
 2月23日以降、労働者たちは会合を開いた。その中には、そのままストライキに進んだものもあった。
 ペテログラードの労働者たちは、当初は、農村地帯で食料を掻き取る権利だけを要求した。しかし、やがて、おそらくメンシェヴィキやエスエルの影響を受けて、ソヴェトの公正な選挙、言論の自由、そして警察のテロルの中止を呼びかける、政治的要求を追加した。
 ここでも、反共産党気分にときおり伴っていたのは、反ユダヤ主義のスローガンだった。
 2月末、ペテログラードはゼネ・ストの見通しに直面した。
 チェカは、この都市のメンシェヴィキとエスエルの指導者たち全員を逮捕し続けた。
 反乱している労働者たちを鎮静化しょうとするジノヴィエフの試みは、成功しなかった。すなわち、彼の聴衆は敵対的で、話し続けることができなかった。(注50)//
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 (05) レーニンは、労働者の反抗に直面して、まさしくニコライ二世が4年前に行なったように反応した。すなわち、彼がとりかかったのは、軍事だった。
 しかし、最後のツァーリは疲れ切って、不本意に戦闘し、すぐに屈服したのに対して、レーニンは、権力を握り続けるためにどこまでも闘うつもりだった。
 2月24日、共産党ペテログラード委員会は、将軍S.S.Khabalov の1917年二月25-26日の命令を彷彿させる言葉を用いて「防衛委員会」を—誰から「防衛」するのかを特定することなく—設置し、非常事態を宣言し、街頭集会を全て禁止した。
 委員会の議長は、アナキストのAlexander Berkman が「ペテログラードで最も嫌悪されている人物」と称した、ジノヴィエフだった。
 Berkman はこの委員会の一員のボルシェヴィキ、「太って、脂ぎって、不快な感じ」に見えるM.M. Lashevich の演説を聞いていた。このLashevich は、「ゆすりをするヒル」のように、抗議をする労働者を拒否した。(注51)
 ストライキ労働者たちは、ロック・アウトされた。これは、彼らが食料配給を受けられないことを意味した。
 当局はメンシェヴィキ、エスエルを逮捕し続けた。また、反乱「大衆」から遠ざけるためにペテログラードと他の地域のアナキストたちも。
 1917年二月には、不満の主な原因は要塞守備隊だったが、今のそれは工場だった。
 そうであっても、ペテログラードに駐在する赤軍部隊は懸念材料だった。そのいくつかが、労働者の示威行動の抑圧に参加しない、と宣言したからだ。
 そのような部隊は、武装を解除された。//
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 (06) ペテログラードでの労働者騒擾の報せが、Kronstadt の海軍基地に届いた。
 そこに配置された1万の海兵たちは伝統的には、特定のイデオロギー的志向のない、「ブルジョアジーへの憎悪」を強くもつアナキズムを選好していた。
 1917年には、こうした感情はボルシェヴィキのために役立った。
 だが今は、それはボルシェヴィキに反抗する方向に機能した。
 海軍基地でのボルシェヴィキへの支持は、十月の後にすみやかに失われ初めた。そして、1919年に海兵たちはペテログラードを防衛する赤軍のために勇敢に闘ったけれども、体制を熱狂的に支持したのでは全くなかった。とくに、内戦が終わった後ではそうだった。(注52)
 1920-21年の秋から冬に、Kronstadt の党組織員の半分である4000人が、切り札を出した。(注53)
 ペテログラードのストライキ労働者は銃火を浴びているという風聞が広がったとき、海兵の代表団が調査のために派遣された。彼らは帰還して、本土の労働者たちは帝政時代のかつての監獄でのように扱われている、と報告した。
 2月28日に、以前はボルシェヴィキの本拠だった戦艦〈Petropavlovsk〉の乗組員は、反共産党の決議を採択した。
 その決議は、秘密投票によるソヴェトの再選挙、(「労働者、農民、アナキスト、左翼エスエル党員」のためだけの)言論やプレスの自由、集会と労働組合の自由を要求した。また、賃労働者を雇用しないかぎりで、適切と考えるとおりに土地を耕作する農民たちの権利も。(注54)
 翌日、決議が、Kalinin にいる海兵と兵士の集会でほとんど満場一致で採択された。彼らは、暴乱者を鎮圧するために派遣されていたのだったが。
 集められて出席した多数の共産党員たちは、決議への賛成票を投じた。
 3月2日、海兵たちは、島を管理し、予期される本土からの攻撃に対する防衛を担当する、臨時革命委員会を設立した。
 反乱者たちは、赤軍の武力に長く抵抗できるという幻想を持ってはいなかった。だが、彼らの主張へとnation と軍事力 を結集させることを当てにした。//
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 (07) 彼らのこの期待は、失望に終わった。ボルシェヴィキが、暴乱の広がりを阻止すべく、迅速で効果的な対抗措置をとったからだ。この点では、新しい全体主義体制はツァーリ体制よりもはるかに有能だった。
 海兵たちは孤立していると感じ、彼らが勝利できそうにない軍事闘争に閉じ込められた。//
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 (08) 旧体制は、その権威に対する全ての挑戦をどす黒い外国勢力に起因させた。この習癖をボルシェヴィキがすみやかに吸収していたのは、興味深い。
 そして、その外国勢力とはかつてはユダヤ人だったが、今では「白衛軍」だった。
 3月2日、レーニンとトロツキーは、暴乱は「白衛軍」将軍たちの陰謀であり、その背後にはエスエルと「フランスの対敵諜報機関」がいる、と宣告した。(*)
 Kronstadt 暴乱がペテログラードに波及するのを阻止するために、同市共産党委員会が設置した「防衛委員会」は、群衆を解散させ、従わなければ発砲せよとの命令を兵団に発した。
 鎮圧措置は、譲歩と一組のものだった。すなわち、ジノヴィエフは「妨害派遣部隊」を撤収させ、政府は食料徴発を放棄しようとしているとの示唆を与えた。
 実力行使と譲歩の結合によって、労働者たちは鎮静化し、海兵たちへのきわめて重要な支援が奪われた。//
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 (脚注*) Pravda, No. 47 (1921.3.3), p.1. のちにスターリンのプロパガンダはさらに進んで、Kronstadt 蜂起には経済的援助があった、とまで主張することになる。
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 (09) Kronstadt 暴乱勃発から1週間後、ボルシェヴィキ指導者層は第10回党大会にためにモスクワに集まった。
 誰の意識にもKronstadt 暴乱があったけれども、議題はそれではなかった。
 レーニンは演説を行なったが、暴乱の件を軽視し、反革命陰謀だとして却下した。彼は、こう明確に述べた。「白軍の将軍たち」の関与は「完全に証明されている」、陰謀の全体はパリで企てられた、と。(注55) 
 実際には、指導部は、この挑戦をきわめて深刻に受け取っていた。//
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 後注。
 (45) Pravda, No. 14 (1921.1.22), p.3.
 (46) EZh, No. 14 (1921.1.22), p.2.
 (47) Lenin, Sochineniia, XXVI, p. 640; Oravda, No. 27 (1921.2.8), p. 1; Desiatyi S"ezd, p.861-2; RTsKhIDNI, F. 76, op. 3, delo p.166.
 (48) Pravda, No. 32 (1921.2.13), p.4.
 (49)  RTsKhIDNI, F. 76, op. 3, delo p.167.
 (50) Ibid. 〔同上〕
 (51) Alexanser Berkman, Kronstadt, p.6 とThe Bolshevik Myth (1925), p.292.
 (52) Avrich, Kronstadt, p.62-71.
 (53) Ibid., p.69.
 (54) Pravda o Kronshtadte (1921), p.8-10.
 (55) Lenin, PSS, XLIII, p.23-24.
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 第四節②へと、つづく。

2555/O.ファイジズ・内戦と戦時共産主義②。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991-A History (2014).
 第7章の試訳のつづき(で最終回)。
 第19章、第20章の試訳は、すでにこの欄に掲載した
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 第7章・内戦とソヴィエト・システムの形成②。
 第五節。
 (01) 奇妙に感じられるかもしれないが、レーニンがソヴィエト・ロシアで広く知られるようになったのは、ようやく1918年の9月だった。—そして、そのときに彼があやうく死亡しかかったからだった。
 レーニンは、ソヴィエト権力の最初の10ヶ月の間、ほとんど公衆の前に出なかった。
 彼の妻のNadezhda Krupskaya は、「誰も、レーニンの顔すら知らなかった」と回想した。(注6) 
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 (02) このボルシェヴィキ指導者がFanny Kaplan というテロリストの暗殺者が放った二発の銃弾で傷ついた8月30日、全てが変わった。撃たれたのは、レーニンがモスクワのある工場を訪問していたときだった。
 ソヴィエトのプレスで、彼の回復は奇跡だと大きく喧伝された。
 レーニンは、超自然的な力で守られた、人々の幸福のために自分の生命を犠牲にすることを怖れない、キリストのごとき人物として喝采を浴びた。
 レーニンの肖像が、街頭に現れ始めた。
 彼は〈ウラジミール・イリイチのクレムリン散歩〉というドキュメント・フィルムで初めて広く観られた。これは、同年の秋のことで、殺されたという大きくなっていた風聞を打ち消した。
 これが、レーニン個人崇拝の始まりだった。—レーニンの意思の反して、自分たちの指導者を「人民のツァーリ」として持ち上げたいボルシェヴィキが考案した個人崇拝。//
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 (03) かくして、赤色テロルも、始まった。
 Kaplan は一貫して否認したが、エスエルと資本主義諸国家のために働いていたとして訴追された。
 彼女は、ソヴィエトはよく連係した国際的な外部の敵に包囲されている、という体制の偏執狂的理論の、生きている証拠だった。—この理論は、白軍や反革命的蜂起への連合諸国の支援によって明証された。また、ソヴィエトが生き残るには継続的な内戦を闘わなければならない、という理論の。
 同じ論理は、スターリン時代の全体を通じるソヴィエトのテロルを正当化することになる。//
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 (04) プレスは、レーニンの生命を狙った企てに対する大衆的報復を訴えた。
 数千人の「ブルジョアの人質」が逮捕された。
 チェカの牢獄を見れば、膨大な数の異なった人々が拘禁されていることが明らかになっただろう。—政治家、商人、貿易業者、公務員、聖職者、教授、売春婦、反対派労働者、そして農民。要するに、社会の縮図だった。
 人々は、「ブルジョアの挑発」(狙撃または犯罪)の現場の近くにいたという理由だけで逮捕された。
 ある老人は、チェカの一斉捜索の際に法廷服姿の男の写真を身に付けているのを発見されたという理由で、逮捕された。それは、1870年代に撮られた、死亡している親戚の写真だった。//
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 (05) チェカの拷問方法の巧妙さは、スペイン的尋問に匹敵していた。
 地方のチェカにはいずれにも、得意分野があった。
 Kharkov では、「手袋だまし」を使うまでに至った。—被害者の手を水泡ができた皮膚が剥げ落ちるまで沸騰している湯に入れた。
 Kiev では、被害者の胴体をネズミ籠に固定し、ネズミ類が逃げようとする被害者の身体を噛み尽くすように、胴体を温めた。//
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 (06) 赤色テロルは、社会の全領域からの抗議を呼び起こした。
 党内部にも、その過剰さについて、批判があった。
 しかし、指導部内の「強硬派」(レーニン、スターリン、トロツキー)は、チェカを支持した。
 レーニンは、内戦でのテロル行使に怖気付く者たちには耐えられなかった。
 彼は、1917年10月26日にカーメネフが提案した死刑廃止の決議を第二回ソヴェト大会が採択した際の意見聴取で、「きみたちは、狙撃隊なくしてどうやって革命をすることができるのか?」と尋ねた。
 「自分たちが武装解除すれば、きみたちの敵もそうするとでも期待しているのか?
 他に鎮圧するどんな手段があるのか?
 監獄か?
 内戦中にそれはいかほどの意味があるのか?」(注7)//
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 (07) 〈テロリズムと共産主義〉—スターリンが詳細に研究した書物—で、トロツキーは、テロルは階級闘争で勝利を獲得するためには不可欠だと主張した。
 「赤色テロルは、破壊される宿命にあるが死滅するのを望まない階級に対して用いられる武器だ。
 白色テロルがプロレタリアートの歴史的勃興を妨害することができるなら、赤色テロルは、ブルジョアジーの破滅を早める。
 この促進は—たんなる速度の問題だが—、一定の時期には、決定的な重要性をもつ。
 赤色テロルなくして、ロシアのブルジョアジーは、世界のブルジョアジーとともに、ヨーロッパで革命が起きるはるか前に、我々を窒息させるだろう。
 このことに盲目になってはならない。あるいは、これを否定する詐欺師になってはならない。
 ソヴィエト・システムが存在するというまさにそのことの革命的で歴史的な重要性を認識する者は、赤色テロルもまた容認しなければならない。」(注8)//
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 (08) テロルは、最初から、ボルシェヴィキ体制の統合的要素だった。
 この数年間のその犠牲者の数は、誰にも分からないだろう。しかし、赤軍による農民とコサックの大量殺戮の犠牲者数を計算するとするなら、内戦による戦闘で死んだ者たちの数と同程度だった可能性がある。—100万を超える数字。//
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 第六節。
 (01) チェコ軍団は、Samara で捕われたあとで崩壊した。
 1918年11月に第一次大戦が終わったあとでは、戦闘を継続する理由がなかった。
 赤軍に抵抗する有効な兵力がなくしては、Komuch (立憲会議議員委員会)がVolga 地域を掌握しきれなくなる前の、時間の問題にすぎなかった。
 エスエルは、Omsk へ逃げ去った。そこでの彼らの短期間の指令政府は、シベリア軍の右翼主義将校たちによって打倒された。シベリア軍将校たちは、反ボルシェヴィキ運動の最高指導者になるようKolchak 提督を招いた。
 Kolchak はイギリス、フランス、アメリカ各軍の支援を受けていた。これら諸国は、ボルシェヴィキを権力から排除するために政治的な理由でとどまっていた。大戦が今では終わって、連合諸国がロシアに干渉する軍事的理由はもうなかったけれども。//
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 (02) 10万人を擁するKolchak の白軍は、Volga 地域へと進んだ。そこでは、ボルシェヴィキが、1919年春に彼らの戦列の背後で起きた大規模の農民蜂起に対処するために戦っていた。
 赤軍は死にもの狂いの反抗をして、6月半ばまでにKolchak 軍をUfa へと退却させた。そのあと、Ural とそれ以上の諸都市は、白軍が結束を失い、シベリアを通って退却したときにすみやかに引き続いて、赤軍が奪い取った。
 Kolchak はついにIrkutsk で捕えられて、1920年2月にボルシェヴィキによって処刑された。// 
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 (03) Kolchak の攻撃が大きくなっていたあいだ、Denikin の勢力はDonbas 炭鉱地域と南西ウクライナに突入した。この地方では、コサック軍が赤軍によるコサック撃退の大量テロル運動(「非コサック化」)に対する反乱を起こしていた。
 イギリスとフランスの軍事支援を受け、今や明確な政治的理由で反ボルシェヴィキ活動をしていた白軍は、簡単にウクライナに入った。
 赤軍は供給の危機に苦しんでいて、3月と10月の間に南部前線で100万人以上の脱走兵を失った。
 後方は農民蜂起に襲われていた。その当時赤軍は、馬や必需品を徴発し、増援のための徴兵を求め、脱走兵を匿っていると疑った村落を弾圧した。
 ウクライナの南東角では、赤軍はNestor Makhno の農民パルチザンたちに大きく依存していた。彼らはアナキストの黒旗のもとで闘ったが、補給がよく、紀律もある白軍とは比べものにならなかった。//
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 (04) 7月3日、Denikin はそのモスクワ指令(Moscow Directive)、ソヴィエトの首都を総攻撃せよとの命令、を発した。
 これはイチかバチかの賭けだった。赤軍の一時的な弱さを利用しての白軍騎兵隊の速度を考慮していたが、訓練を受けた予備兵、健全な指揮管理と補給戦で守備されていない後方の白軍を残す危険もあった。//
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 (05) 10月14日、白軍は北へと前進し、モスクワからわずか250マイルのOrel を奪取した。
 しかし、Denikin 兵団は大きく伸びすぎていた。
 Makhno のアナキスト・パルチザンやウクライナ民族主義者たちから基盤を防衛するに十分な兵団を後方に残さないままで、出発していた。そして、モスクワ攻撃の真っ最中に、これらと交渉するために撤兵することを余儀なくされた。
 通常の補給がなかったので、Denikin 兵団は分解して農場を略奪した。
 しかし、白軍の主要な問題は、農民たちの恐怖だった。彼らは、白軍は土地所有者たちの報復軍ではないかと思った。
 白軍の勝利は、土地に関する革命を元に戻してしまうのではないか。 
 Denikin の将校たちは、ほとんどが大地主の子息だった。
 白軍は、土地問題について、大地主たちの余った土地は将来には農民層に売却されるというカデット(Kadet)の政策綱領以上に進むつもりはないと明言していた。
 この考え方によると、農民たちは、革命で大地主から奪った土地の四分の三を返却しなければならないことになる。//
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 (06) 白軍がモスクワに向かって進軍したとき、農民たちは赤軍の背後に集まった。
 6月と9月の間に、Orel とモスクワの二つの軍事地域だけから、25万人の脱走兵が赤軍に復帰した。
 これらの地域では、地方農民が1917年に相当に広い土地を獲得していた。
 農民たちの多くがどれほど暴力的な徴発や派遣官僚たちを嫌悪していたとしても、土地に関する革命を守るために白軍に対抗する赤軍の側に付いただろう。//
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 (07) 赤軍は20万の兵団でもって、半分の数の白軍が南へと撤退するよう強いた。白軍は紀律を失った。
 Denikin 軍の残余は、黒海沿岸の連合国の主要な港のあるNovorossisk で敗北した。そのうち5万の兵団は、1920年3月にクリミア地域へと急いで避難した。
 連合国の船舶に争って乗ろうとする、兵士や民間人の絶望的な光景が見られた。
 兵士たちが優先されたが、全員が救われたのでは全くなく、6万人の兵士がボルシェヴィキの手中に残された(ほとんどがのちに射殺されるか、強制収容所に送られた)。
 Denikin 批評者にとって、避難の不手際が決定的だった。
 将軍の謀反はモスクワ指令の批判者だった男爵Wrangel への地位継承を余儀なくした。Wrangel は、1920年にクリミアで、ボルシェヴィキに抵抗する最後の一戦を行った。
 しかし、これは白軍の不可避の敗北を数ヶ月だけ遅らせたにすぎなかった。//
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 (08) 白軍の失敗の原因は何だったのか?
 Constantinople、パリ、ベルリンにあった白軍側のエミグレ共同社会は、長年にわたってこの疑問に苦悶することになる。
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 (09) 彼らの信条に同調する歴史家たちはしばしば、彼らには勝ち目がなかった「客観的」要因を強調した。
 赤軍は、数のうえで圧倒的に優勢だった。
 彼らは、錚々たる諸都市と国の工業のほとんどがある中央ロシアの広大な地勢を統御した。直接の燃料でなくとも、ある前線から別のそれへと移動することができる鉄道網の中核部分も支配した。
 これとは対照的に、白軍はいくつかの異なる前線に分かれ、作戦を協同して展開するのが困難だった。また、補給の多くを連合諸国に頼らなければならなかった。
 こうした要因があった。
 しかし、彼らの敗北の根源にあったのは、政策の失敗だった。
 白軍は、大衆の支持を獲得することのできる政策を立案することができず、またその意欲ももたなかった。
 ボルシェヴィキと比べて、彼らにはプロパガンダがなく、赤旗や赤い星に対抗できる自分たちのシンボルもなかった。
 彼らは、政治的に分裂していた。
 右翼君主制主義者と社会主義的共和主義者を含む何らかの運動が政治的合意に達する論点があっただろう。
 しかし、実際には、白軍が政策について合意するのは不可能だった。
 合意を形成しようとすらしなかった。
 彼らのただ一つの考えは、1917年10月以前に時計を巻き戻すということだった。
 彼らは、新しい革命的状況に適合することができなかった。
 民族独立運動を受け入れるのを彼らが拒んだことは、悲惨だった。
 そのことは潜在的にきわめて貴重だったポーランド人やウクライナ人の支持を失わせ、コサックとの関係を複雑にした。コサックたちは、白軍指導者が準備していた以上のロシアからの自立を欲していた。
 しかし、こうした彼らの無為無策の主要な原因は、土地に関する農民革命を受容することができなかったことにあった。//
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 第七節。
 (01) 農民たちは、革命が脅かされるかぎりでのみ、白軍に対抗する赤軍を支持した。
 白軍が敗北するや、農民たちは反ボルシェヴィキに変わった。ボルシェヴィキの食料徴発によって、農村的ロシアの多くの地方は飢餓の淵に立っていた。
 1920年秋までに、国土全体が農民との戦争で燃えさかった。
 怒った農民たちは、武器を手に取り、ボルシェヴィキを村落から追い出そうとした。
 彼らは徴発部隊と戦う組織を結成していた。そして、田園地帯にあるソヴィエトの基盤施設を破壊するために、ウクライナのMakhno 軍やTambov 中央ロシア地方のAntonov の反乱部隊のような、より大きい農民軍に加入した。
 どこであっても、彼らの意図は、基本的には同一だった。すなわち、1917-18年の農民による自治支配を復活させること。
 ある者たちは、これを混乱したスローガンで表現した。「共産主義者のいないソヴェトを!」、あるいは「ボルシェヴィキ万歳!、共産主義者に死を!」。
 多くの農民が、ボルシェヴィキと共産党は二つの別の政党だと錯覚していた。
 1918年3月の党名の変更は、遠く離れた村落にはまだ伝えられていなかった。
 農民たちは、「ボルシェヴィキ」は平和と土地をもたらし、「共産党」は内戦と穀物の徴発を持ち込んだ、と考えていた。//
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 (02) 1921年までに、ボルシェヴィキ権力は、田園地帯の多くで存在するのを止めた。
 都市部への穀物の輸送は、反乱地域の内部では停止した。
 都市部での食料危機が深化したとき、労働者たちはストライキへと向かった。//
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 (03) 1921年2月にロシアじゅうに押し寄せたストライキは、農民蜂起と同じく革命的だった。 
 ストライキ実行者は制裁を予期し得たので(即時解雇、逮捕と収監、そして処刑すら)、行動に移すのは必死の絶望的行為だった。
 初期のストライキは体制側との取引の手段だったが、1921年のそれは、体制を打倒する企てだった。//
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 (04) 労働者たちは、労働組合を党-国家に従属させるボルシェヴィキの試みに激怒した。
 トロツキーは、輸送人民委員として、鉄道労働組合(十月蜂起に反対だった)を解体させて、国家に服従する一般輸送組合に置き換えようと計画した。
 この計画は労働者のみならず、ボルシェヴィキの労働組合主義者をも憤激させた。組合主義者たちは、これを、全ての自立的労働組合の権利を廃絶しようとする広範な運動の一部だと捉えた。
 1920年に、党内に労働者反対派(Workers' Opposition)が出現していた。これは、経営についての労働組合の諸権利を守り、中央から指名された工場管理者、官僚たち、「ブルジョア専門家」の力の増大に抵抗しようとした。これらの者たちは、「新しい支配階級」だとして労働者たちの怒りの対象となっていた。//
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 (05) モスクワは、反乱が起きた最初の工業都市だった。
 労働者たちは、ストライキへと進んだ。
 彼らが訴えたのは、共産党員の特権の廃止と自由な取引、市民的自由(civil liberties)およぼ立憲会議(憲法制定議会)の復活だった。
 ストライキはペテログラードへと広がり、ここでも同様の要求が掲げられた。
 〔2021年〕2月27日の革命四周年記念日、ペテログラードの街頭につぎの宣言文が出現した。
 新しい革命を呼びかけるものだった。
 「労働者と農民は自由(freedom)を必要とする。
 彼らは、ボルシェヴィキの布令によって生きたいとは思っていない。
 自分たちの運命を統御したいと望んでいる。//
 我々は、逮捕された社会主義者と非党員労働者たちの解放を要求する。
 戒厳令の廃止、全ての労働者の言論、プレス、集会の自由、工場委員会、労働組合、およびソヴェトの自由な選挙を要求する。//
 集会を呼びかけ、決議を採択し、当局に代表団を派遣し、きみたちの要求を実現しよう。」(注9)//
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 (06) 反乱はその日に、Kronstadt 海軍基地へと広がった。
 1917年、トロツキーはKronstadt の海兵たちを、「ロシア革命の誇りと栄誉」と呼んだ。
 彼らは、ボルシェヴィキに権力を付与するに際して不可欠の役割を果たした。
 しかし今では、ボルシェヴィキ独裁の廃止を要求していた。
 彼らは、共産党員のいない新しいKronstadt ソヴェトを選出した。
 言論と集会の自由、「全ての労働人民への平等な配給」を要求し、海兵たちの多くの出身である農民層への残虐な措置の廃止を求めた。
 トロツキーは、反逆鎮圧の指揮権を握った。
 3月7日、海軍基地への砲撃でもって、攻撃が始まった。//
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 (07) この危機的状況の中で、3月8日にモスクワで、第10回党大会が開かれた。
 レーニンは、労働者反対派の打倒を決意して、この派を非難する票決を獲得するとともに、分派を禁止する秘密決議をそのときに採択させた(共産党の歴史の中で最も致命的に重大なものの一つ)。
 これ以来、党が国家を支配したのと同じく独裁的に、中央委員会が党を支配することになる。
 分派主義だという非難を受けるのを怖れて、誰一人、この決定に反対しなかった。
 スターリンの権力への上昇は、この分派禁止の所産だった。//
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 (08) 同じく重要なのは、この大会の第二の目印である、食料徴発を現物税に換えることだった。
 これは戦時共産主義の中心的な拠り所を放棄し、農民たちが現物税を納入すれば余剰の食糧品を販売するのを許すことで新しい経済政策(NEP)の基礎となった。
 レーニンは、代議員たちがNEP は資本主義の復活だと非難するのを懸念して、農民蜂起を鎮圧するために(彼は、「Dinikin 軍とKolchak 軍の全てを合わせたよりはるかに危険だ、と言った)(注10)、そして農民層との新たな同盟関係を築くために必要だ、と強く主張した。//
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 (09) ボルシェヴィキは同時に、民衆の反乱の鎮圧にも力を注いだ。
 3月10日、300人の党指導者たちがKronstadt の前線へ行くために大会を離れた。
 空からの砲弾攻撃のあとで、5万人の精鋭部隊が氷上を横断して海軍基地に突撃した。
 これで、1万人の生命が失われた。
 つづく数週間で、2500人のKronstadt の海兵たちが裁判手続なしで射殺された。別の数百人は、レーニンの命令にもとづいて、白海の島にある従前の修道院、ソヴィエト最初の巨大な収容所に送られた。その収容所では多数の者が、飢え、病気、体力消耗によってゆるやかに死んだ。
 指導者の逮捕と自由取引の復活のあとで、ストライキはペテルブルクとモスクワで勢いを失った。
 しかし、現物税を導入したにもかかわらず、農民叛乱は強くて鎮圧できなかった。
 食料徴発が飢饉の危機をもたらしていたVolga 地域では、農民たちは、今では生きるために、いっそうの決意をもって戦った。
 容赦なきテロルが、Tambov その他の地方の反乱地帯で用いられた。
 村落は、焼かれた。
 抵抗が抑えられるまでに、数万人の人質が取られ、数千人以上が射殺された。
 「国内の前線」で、ボルシェヴィキは内戦に勝った。
 だが今や、統治する仕方を知る必要があった。//
 ——
 第八節。
 (01) 内戦はボルシェヴィキにとって、成長期の経験だった。
 成功のモデル、「いかなる要塞も突破することができた」、革命の「英雄的時代」になった。
 一世代にわたる政治的習癖が形成された。—軍事的成功の新しい例が取って代わった1941年までは。
 スターリンが「ボルシェヴィキ的方法」または「ボルシェヴィキ的速さ」で物事を行うことについて語るとき—例えば五ヶ年計画について—、彼が念頭に置いたのは内戦での党の方法だった。
 ボルシェヴィキは内戦から、恒常的な「闘争」、「運動」、「戦線」とともに犠牲的行為の崇拝、統治の軍事的スタイルを継承した。
 革命の敵と永続的に闘争する必要性に、彼らは固執した。外国にであれ国内にであれ、至るとこるにいる敵たちとの戦いに。
 農民たちへの不信も引き継いだ。また、労働力の軍事化を伴う計画経済の原型と新しい社会の作り手だという国家についての夢想家的見通し(utopian vision)も。
 ——
 第7章、終わり。

2240/L.Engelstein・Russia in Flames(2018)第6部第2章第4節・第5節①。

 L. Engelstein, Russia in Flames -War, Revolution, Civil War, 1914-1921(2018)。
 上の著の一部の試訳のつづき。
 第6部・勝利と後退。
 第2章・革命は自分に向かう。
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 第4節。
 (1)クロンシュタットの海兵たちは、全ての意味での聖像(icon)だった。
 ボルシェヴィキは、バルト艦隊の海兵たちを、革命の初期に果たした役割のゆえに褒めそやした。
 1921年反乱のパルチザンたちは、抑圧の新しい形態に反対する暴徒たちを称揚し、彼らを自由を愛する「アナキスト」、民衆の解放のための闘士だと叙述した。
 ヴィルナ(Vilna)〔リトアニアの都市〕出身のアメリカのアナキスト、A・バークマン(Alexander Berkman)は、その当時、ロシアに住んでいた。彼は事件の一年後に、こう書いた。
 「クロンシュタットは陥落した。
 だが、その理想主義と道徳的純粋さでは、勝った。その寛容さとと高い人間性において。
 クロンシュタットは、立派だった。…。
 素朴な、洗練されていない海兵たちは、振る舞いと言説は粗野だったが、あまりに高貴すぎて、ボルシェヴィキによる復讐の見せしめとして屈従することはできなかった。彼らは、嫌われた人民委員ですら射殺しようとはしなかった。」
 バークマンは、つづける。
 「ボルシェヴィキの勝利は、それ自体の中に敗北を抱えていた。
 その勝利は、共産主義者独裁の真の性格を暴露した。…。
 クロンシュタットはボルシェヴィキとその党の独裁に、狂った中央集権主義に、チェカのテロリズムと官僚主義階層制に、弔鐘を響かせた。
 クロンシュタットは、共産主義者〔共産党〕独裁のまさに心臓部分を突いた。」(67)//
 (2)バークマンの書いたのとは反対に、ボルシェヴィキは敗北しなかった。
 革命に対する脅威を、党を強化するために利用することができた。そして、本当の反対派は、そのときまでに衰退していた。
 社会革命党とメンシェヴィキは、革命を敗北させる「白軍将軍」コズロフスキと協力したと非難された。
 反乱は外国勢力によって使嗾され、財政援助された、と言われた。
 実際には、左翼に対する党の批判者の中の多数は、反乱に対抗して立ち上がるのは気が進まなかった。
 メンシェヴィキ指導者たちは、すでに記したように、労働者たちがその抵抗運動を増大するのを思いとどまらせた。
 アナキストのV・セルジ(Vivtor Serge )は、クロンシュタットは「人民民主主義のための新しい、解放する革命の始まり」だと考えた。しかし、それにもかかわらず、最後の瞬間には、「混乱と、その混乱を通じての農民蜂起と共産主義者の虐殺に、エミグレたちの帰還に」、「とどのつまりは純然たる実力行使による、別の独裁制、今度は反プロレタリアの独裁制が生まれる」ことに反対して、ボルシェヴィキ独裁を擁護した。(68)//
 (3)多くのエミグレたちは、旧体制に復帰する望みをなお捨てていなかった。
 何人かは、立憲主義を基礎にした権力の再構築をなお夢見ていた。
 1918年、カデットの一グループはモスクワで自分たちで国民センター(National Center)と称した団体を設立しており、今では多様なヨーロッパの都市にも根拠を置いていた。そして、1919年には、ユーデニチ(Iudenich)将軍への支援を提供した。
 この団体はクロンシュタットでの騒擾を歓迎し、食糧や武器のかたちでの支援を結集させようとした。
 この活動は、赤十字とフランスのそれに巻き込まれることとなった。
 ある程度の資金が集められたが、反乱者たちにはほとんど何も届かなかった。
 イギリスは当時はロシアとの商取引の交渉に追われていて、これには無反応だった。(69)//
 (4)要するに、反革命陰謀という咎を負わせるのは、あらゆる意味で間違っていた。
 コズロフスキ将軍は、片方の将校たちとは何の関係もなかった。
 反ボルシェヴィキのリベラル反対派は、かつてはユーデニチ(Iudenich)と同盟したが、今では外国に離散して、介入する力がなかった。
 メンシェヴィキは、国内でも外国でも、ソヴィエト体制に根本的な挑戦をすることに、一貫して反対し続けた。彼らはソヴィエト体制のうちに、社会主義の未来の最良の希望を依然として探し求めたのだった。//
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 第5節①。
 (1)1921年初頭、ソヴナルコムはこうして、かつて革命の中枢的基盤-産業プロレタリアートと急進的クロンシュタット海兵-と称したものによる戦闘的な反対に直面した。
 対照的に、農民たちはつねに、懐疑的に「ブルジョア」だと考えられてきた。
 クロンシュタット反乱者が弾圧され、示威的に報復的な制裁を受けると、今度はついに、農村地帯を統制下に置くときがやって来た。
 農民たちはぎこちなくマルクス主義の教条に適合していたけれども、彼らもまた、より良き生活に憧れ、新しい種類の自由としての革命を夢見た。19世紀の人民主義者(Populists)やそれを継承した社会革命党が理解したような革命を。
 飢えは彼らの憤激の唯一の根源ではなかった。
 農民たちは、新しい権力が課す要求と、彼らに向けられる暴力に憤慨した。
 タンボフ(Tambov)地方で長引いている暴動に関係して、ボルシェヴィキの最後の戦闘の残虐さは、誰が目標を定める者で、誰が主人であるかを、明確に示そうとする気概によっていた。
 ボルシェヴィキのタンボフ作戦は反暴動の運動であり、究極的には征服(conquest)と言ってよい行為だった。//
 (2)1921年春、クロンシュタット兵が鎮圧されて第10回党大会が新経済政策を開始した後でも、農村地帯はまだ沈静化していなかった。
 V・アントノフ-オフセエンコ(Vladimir Antonov-Ovseenko)はA・アントーノフの反乱の残滓を絶滅させる権能をモスクワに付与された特別全権委員会の長をしていたが、軍事増援を求めた。
 彼は訴えた。「強盗分子たちが戻ってきて、我々に忠実な農民たちの制裁を始めた」。
 赤軍が撤退すればいつでも、「強盗たちがもう一度やって来て、状況を支配する主人面をしている」。(70)
 党はタンボフを、スター司令官のミハイル・トゥハチェフスキに委ねた。トゥハチェフスキは、最も信頼できる赤軍の大分隊、自動車部隊、偵察用航空機、および軍団を指揮するための1000人の政治委員とともに、5月6日にタンボフに到着した。(71)
 この戦闘でトゥハチェフスキが強く主張したのは、固有の軍隊を制御する制約は-表面的にすにら-存在していない、ということだった。(72)
 反乱者アントーノフはせいぜいのところ、パルチザン-非正規兵-として扱われることとされた。
 最悪の言い方をすると、「強盗」、無法者、犯罪者だった。
 活動中のある点で、森の中に潜んでいる反乱者たちに対して毒ガスを用いる権限すら、トゥハチェフスキに与えられた。
 毒ガスが実際に用いられたかどうかは、明瞭ではない。しかし、毒ガスの脅威は、威嚇の手段として公表された。(73)//
 (3)しかしながら、戦場でアントーノフを敗北させるだけでは十分でなかった。
 トゥハチェフスキは、こう警告した。「盗賊団という病気蔓延から地方住民を守って治癒するには、熟達した手段を用いなければならない」。(74) 
 5月の一連の布告が、この手段がどのようなものであるかを明らかにした。(75)
 一ヶ月のち、指令171号は、農民世帯に深く入り込む戦争に着手した。それは、人質取りや集団責任という悪辣な実務を拡張し、社会的連帯を-家族的紐帯すらも-根こそぎ破壊し、いかなる形式的手続もなしで済ませるものだった。
 「1) 自分の名前を述べるのを拒否する市民は、裁判なくしてその場で射殺する。
 2) 武器が隠匿されている村落では、政治委員は人質を取り、武器が譲り渡されないときは人質を射殺する。
 3) 隠匿された武器が発見されたとき、家族中の最年配の労働者は、裁判なくしてその場で射殺される。
 4) 盗賊を匿う家庭では、全家族が拘束され、その地方から放逐され、資産は没収され、最年配労働者は裁判なくして射殺される。
 5) 盗賊の家族を匿う、または盗賊の資産を隠す農民世帯は、盗賊として扱われ、家族中の最年配労働者は、裁判なくしてその場で射殺される。
 6) 盗賊の家族が逃亡した場合、その資産はソヴェト権力に忠実な農民たちで分けられ、その家屋は焼却するか、解体する。
 7) この指令は、厳格かつ容赦なく適用される。」(76)
 実際に、そのとおりだった。(77)
 ある司令官は6月遅くに、「農民大衆を盗賊と非盗賊に分離する」技術に関して報告した。
 彼は村落に対して、犯罪者の存在を明らかにするために30分を猶予した。その後で、人質-男はむろんのこと女も-を、第三者の面前で射殺した。
 「この方法は、積極的な結果を生んだ」、と彼は報告した。(78)//
 (4)系統的な運動は、抵抗を鎮圧することのみならず、ソヴィエト諸制度を強化することも意図していた。
 地方チェカは数の上では、反乱の過程で少なくなっていた。しかし、アントノフ-オフセエンコは一掃と拘束を呼びかけた。
 A・アントーノフは、信頼することのできる農民世帯のリストを作っていた。
 チェカの工作員も今では、人質を取る誘導指針として、忠実な村民と疑わしい村民のリストをまとめた。
 パルチザン軍は、地方ソヴェトを破壊し始めていた。
 アントノフ-オフセエンコは、既存のソヴェトに代わって地方の党員たちで構成される「革命委員会」を設置した。彼らは、殺害されることを怖れて、都市部の比較的な安全さを捨てるのは気が進まなかったけれども。(79)
 (5)もちろん、農民にとって、作戦行動はつねに簡単に選択できるものではなかった。
 労働農民同盟は、共産党員の家族たちや赤軍に屈従している者たちに対して、復讐をした。
  一方で、チェカは仕事をしていて、同盟の表面部分の委員の跡をつけ、その指導者たちを捕獲し、同盟の村落での支持者の記録を残した。
 地方の司令官たちは人質を射殺することの有効性を正当化したけれども、7月までにモスクワの指導者は、村落でのテロル運動の心理的な影響に疑問を投げかけた。(80)
 ある者たちは、指令171号を廃棄することを望んだが、結局はアントノフ-オフセエンコとトゥハチェフスキは、アントーノフの軍隊の残りを多数殺戮したとして、褒め称えられた。(81)
 トゥハチェフスキ自身は、「強盗たち」への支援の淵源を根絶するのみならず、村落の「ソヴィエト化」(sovietization, sovetizatsiia)を達成するという困難な任務をもやり遂げたことを、誇った。(82)
 (6)しばらくの間は、沈静した状態が実際に続いた。
 7月に指令171号は公式には撤回されたけれども、その有効性は称賛され、「全ての厳格さをもって」一定の地域に適用され続けた。(83)
 人質を住まわせるために用いる強制収容所(この語はすでに述べたように戦争中にすでに流布していた)の数は、女性や子どもを含む収容者の数と同じく、増加し続けた。
 8月頃に、タンボフ地方での10の強制収容所は、1万3000人の収容者を住まわせていた。それらの中には、チェカまたは革命審判所によって「強盗」または「投機者」として有罪とされた者もいた。またもちろん、ポーランドの戦争捕虜、以前の義勇軍兵士たち、実際の犯罪者たち、クラク〔富農〕と想定された農民もいた。
 生活条件は、別に驚くほどのことではないが、きわめてひどかった(dreadful)。(84)
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 第5節②へとつづく。

2232/L.Engelstein・Russia in Flames(2018)第6部第2章第3節。

 L. Engelstein, Russia in Flames -War, Revolution, Civil War, 1914-1921(2018)。
 以下、上の著の一部の試訳。
 第6部・勝利と後退。
 第2章・革命は自分に向かう。
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 第3節。
 (1)攻撃されると考えて、クロンシュタット臨時革命委員会は、島の奪取を計画した。
 海兵たちは、武器庫、電話交換所、行政部署の建物を占拠した。
 委員会は-公式のソヴィエト機関紙のごとく<Izvestiia>と称する-新聞を発行した。その新聞は、秩序の維持を訴え、流血に至ることを警告した。(35) 
 大衆の示威行動の3日後の3月3日、労働者騒擾がペトログラードで衰えていたときであっても、当局は市とその周辺地域に戒厳令を敷いた。
 レーニンとトロツキーがその翌日に署名した布令は、「反乱」を非難し、反抗は「法の外にある」と宣告した。
 首謀的指導者の家族の間には、人質となった者がいた。
 交渉は、拒否された。
 選択できるのは、降伏するか、戦うか、だけだった。
 3月5日、クロンシュタットの将校たち(コズロフスキのような「軍事専門家たち」)は、武装防衛を組織化して、反乱者たちを助けることに同意した。(36)
 (2)同じ日、モスクワは、攻撃する決定を下した。
 トロツキーは、「最終警告」を発した。-「社会主義祖国」に刃向かった者は全員が、「直ちに武器を捨て」なければならない。「無条件で降伏した者だけが、ソヴェト共和国の寛大な措置を期待することができる」。
 「反乱と反乱者を軍隊によって粉砕する」よう、諸指示が発せられた。
 「これによって民間住民に対して生じる損害に対する責任は、あげて白軍反乱兵たちにある」。(37)
 この警告は、ラジオでクロンシュタットに伝えられた。
 ビラ(leaflets)が飛行機から撒かれた。そのビラは、白軍とコズロフスキ将軍を非難していた。
 反乱者たちは、自分たちは「革命が獲得した自由」を防衛していると、強く主張した。
 クロンシュタット兵団のある会合は、こう決議した。
 「我々は、死んでも、屈服しはしない。
 労働者人民の自由なロシアよ、永遠なれ」。(39)
 (3)最後通牒は、24時間延長された。
 3月7日、臨時革命委員会は、「労働者大衆の革命」は「ソヴェト・ロシの顔を冒涜した卑劣な中傷者や屠殺者たちを排除する」心づもりだ、と発表した。
 「トロツキー氏よ、我々はきみたちの寛大さなど必要としない!」。(40)
 ミハイル・トゥハチェフスキが指揮をとる第七軍は、3月8日に攻撃を開始することになっていた。その日は第10回党大会がモスクワで開催される予定の日で、攻撃の成功をその大会で発表することができるようにだった。(41)
 チェカの工作員はこう警告した。「外科手術によって広がる病気を除去する」ときだ。「内科的治療では、もう遅すぎる」。(42)
 (4)クロンシュタット兵士たちは他の要求の中で、強制的徴発(forced requisitions)の中止を主張した。
 1年前の1920年2月、トロツキーは、穀物の徴発(grain levy)、すなわち<razverstka>〔穀物徴発〕に関する知見を再考するようになっていた。これは、厄災的<貧民委員会(kombedy)>に取って代わったものだった。
 ウラルでの経験が示したのは、<razverstka>は収穫物の増大をもたらさなかったこと、そして農民たちが消費高割り当て(comsumption norm)に合わせて種を撒くように自ら制限する原因になっただけだったこと、だった。
 トロツキーは、代わりに一種の現物税(<prodnalog>)、収穫される量の一定割合、を提案し、農民たちがより多く植え付ける誘因にしようとした。(43)
 しかしながら、1920年3月、レーニンは、「数百万を数える、…戦争の気構えをもつ小ブルジョア財産所有者、小規模の投機者」に対する党の方針を再確認した。
 ほとんどのボルシェヴィキは、強制の増加を呼びかけることに同意した。(44)
 1年後、1921年2月頃、レーニンと党の最上層部、およびチェカは、<razverstka>の再検討をようやく開始した。(45)
 <prodnalog>〔食糧税〕導入の問題は実際に第10回大会の議事事項だったが、クロンシュタットに対する攻撃がすでに進行するまでは発表されなかった。
 反乱者たちの要求は、あらかじめ回答が回避されていたのだ。
 問題は、力だった。
 レーニンは、こう言った。「まさに今が、我々がこの民衆たちに教訓を教え込むときだ。そうすると数十年の間は、彼らは抵抗のことなどをあえて考えつこうとすらしないだろう」。(46)
 (5)かりに2日早く、3月6日に第10回大会が始まっていれば、反乱者側は政策変更を知って、おそらくは正しさが認められたと感じて、撤退したかもしれなかった。しかしそれは、レーニンが望んだことではなかった。(47)
 農民の大量の暴動は、党が穀物徴発の方法を緩和することを強いていた。
 労働者たちの抗議は、党内の労働者反対派と呼ばれるグループが労働組合の経済問題に関する役割をより大きくすることを主張するようになる原因となった。 
 しかしながら、レーニンは、党内についてすら、政治的統制を強化する必要性に固執した。
 党の統一を擁護して「アナキストとサンディカリスト的逸脱」を非難する決議は、重大な異見を党内で、上層部内ですら、表現することのできた時代に終焉を告げるものだった。
 こうして、民衆による騒擾の影響が引き起こした経済的譲歩に伴ったのは、新たなイデオロギー上の厳格な締め付けだった。//
 (6)敵に対する党の決定への草の根的挑戦を非難するのは容易だ。敵-黒の百、白軍将校、メンシェヴィキあるいは社会革命党。
 しかし、バルト艦隊の革命的海兵たちが自分たちの信条にもとづいて行動していることは、何ら秘密ではなかった。
 しかしながら、「この民衆たちに教訓を教え込む」のはさほど容易ではなかった。
 3月8日、反乱は、外科的な整然さをもってしても鎮圧されなかった。
 その時点で、およそ1万3000人の海兵と兵士、さらに2000人の武装民間人が、攻撃を退ける準備をしていた。
 彼らはいくぶんかは、大陸と隔てる11マイルの氷の覆いで守られていた。攻撃者たちは、銃火を浴びながらそこを横断しなければならなかっただろう。
 しかしながら、彼らは長期間の包囲に耐えることができなかった。弾薬、燃料、そして食糧が限られていたからだ。(48)
 じつに、飢えこそが、彼らに対して用いられた武器だった。
 「空腹のために、クロンシュタットはボルシェヴィキの力に屈服するのを余儀なくされるだろう」と、公式の報告書は予測していた。(49)
 (7)攻撃の第一局面は、3月7日の夜から8日にかけて始まった。
 銃砲が響く音を、ペトログラードで聞くことができた。だが、雪と霧のために、すぐに戦闘行動が中止された。
 翌朝、冬仕様で身を包んだ赤軍の兵団が、明け方の雪嵐の中を突き進んだ。
 機関銃が、氷を砕いた。
 何人かの兵士が海に落ち、何人かは歩み続けるのを拒んだ。
 陽光が9時頃に輝いたとき、雪の上に死体が横たわっているのが見えた。(50)
 この夜、3月8日の未明、赤軍兵士のグループが、白旗を掲げて島に接近した。
 非武装の〔クロンシュタット側の〕指導者二人が馬から降り、彼らと会おうとした。
 その一人のS・ヴァシニン(Sergei Vershinin)は26歳の<Sevastopol>の電気技師で、明確に使者たちに対して、共産党に対する闘争に加わるよう訴えた。
 のちのあるソヴィエト文献は、ヴァシニンは「一緒になって、Yids(ユダヤ人)をやっつけよう」と言って彼らを誘った、と主張している。
 彼が本当にこの俗語を使ったのだとすれば、驚くべきことだっただろう。
 しかし、この説明が叙述しようとしているのは、彼は「遅れて」、「堕落して」いるが幻滅していない忠実な革命の息子だ、ということもあり得る。
 いずれにせよ、ヴァシニンはたたちに逮捕された。もう一人の仲間は、何とか逃げのびた。(51)//
 (8)3月10日、トロツキーは、湾の氷が解けて反乱者たちがフィンランドへ行けるようになる前に、早く攻撃せよと、主張した。
 彼は苛立っていた。「緊急的手段が必要だ。怖れることだが、党も中央委員会も、クロンシュタット問題がきわめて深刻であることに十分に気づいていない」。(52)
 問題の一つは、彼らを鎮圧するに必要な軍隊の状況に関係していた。
 どちらの側にも、士気(morale)という問題があった。-そう、じつに誰もが、二つの側ではない、と分かっていた。
 同じ者たちだった。革命の同じ戦闘部隊が、相互に対して戦闘隊列を敷いていたのだ。//
 (9)同じ日、トゥハチェフスキはレーニンに書き送った。面倒なのは、反抗がバリケードの向こう側で起きていることだ、と。
 司令官は愚痴をこう述べた。「ペトログラードの労働者は信頼できない。クロンシュタットの労働者は、海兵たちを支持している。…多数のメンシェヴィキが、スモレンスク市ソヴェトに選出された」。
 経済条件が長く困難なままなので、労働者たちはいつでも、「ソヴェト権力に反抗する」かもしれない。
 体制側には本当の、十分に訓練した軍隊が必要だ。そうした軍隊ならば、戦争の挑発、内部に対する戦争に対処することができるだろうから。
 トゥハチェフスキは、こう警告した。「平時にあるようなものではないだろう」。(53)
 (10)トゥハチェフスキのこの時点での任務は、内部からの反抗を軍事的に弾圧することだった。
 空軍と砲兵隊による爆撃が3月10日に始まり、濃霧の妨げがないときに間欠的に続いた。さらに4日間が過ぎたとき、トゥハチェフスキは再編成すべく中断させた。
 彼が気づいていたように、状況は安定していなかった。
 鉄道労働者の中には、兵団を輸送するのを拒む者たちもいた。
 ある兵団は、配置に就くことを拒否した。
 男たちは、躊躇を示していた。
 「前線に行くつもりはない」、「戦争には飽きた、パンをくれ」、そしてよく見られた、「ユダヤ人をやっつけろ」。
 彼らは、仲間たちと戦闘しようとはしなかった。(55)
 (11)兵士たちは溺死させられるために氷の上に連れて行かれる、という風聞が流れた。
 二つの連隊が兵舎から武器を手にして出てきて、「氷の上には行かない」、「村落へと展開されてくれ」、「別の一団を呼び集めよう」と叫んだ。(56)
 司令部はこのとき、外科的手段を自分たちの部隊にも適用した。
 200人の兵士が逮捕され、74人の指導者たちが射殺された。そして連隊は、秩序ある状態に戻った。
 まさにこのような場合に、「臆病さや退却の試みが生じた場合」のために、特殊部隊が至るところに配置された。(57)
 実際に、苛酷な紀律が導入された。-野戦審判所、不服従や脱走に対する死刑、公開の処刑。
 反抗的な分団は拘束され、その場で処刑された。
 兵士の男たちは、一度に30人または40人が、射殺された。(58)
 紀律が回復した。ペトログラードの労働者たちは、静かになった。(59)//
 (12)3月15-16日の夜、クロンシュタット爆撃が再び始まった。
 攻撃側が予想したように、クロンシュタットの防衛者たちには燃料、武器、衣料品が、そして食糧が乏しくなってきていた。
 圧倒的に数は多かったが、特別の食料配給を受け、電線切断機を装備し、その側では反革命者だったと責められている帝制時代と同じ将校によって指揮されている兵団と、彼らは直面していたのだ。
 3月16日夕方、<Sevastopol>が一発の砲弾を受けた。(60)
 その1日後、ペトリチェンコを含む革命委員会全体が、氷上を横切ってフィンランドへと逃亡した。
 総計で8000人のクロンシュタット兵士たちが、これを安全に行わせた。(61)//
 (13)3月18日の朝までに、赤軍が統制権を握った。
 その日は、1871年3月18日のパリ・コミューン開始の第50周年記念日と一致していた。
 ペトログラードの新聞は、喜んだ。
 二隻の裏切り戦艦は、<Marat(マラー)>および<パリ・コミューン>と改名された。
 残っている海兵たちと参加していた赤軍兵団は、再配置され、そして解散させられた。
 死者数の見積もりは、様々だ。
 死体は、街頭や氷上に放っておかれていた。
 この月の末に、ロシアとフィンランドの代表団が、解氷しつつある表面にある死体の処理について、討議した。(62)
 (14)<Petropavlovsk>と<Sevastpol>の乗員兵士たちは、とくに苛酷に扱われた。
 逮捕された者たちのうちほとんどは、この事件に何らの役割を果たしていなかった。しかし、全員が公的な審判で、反乱および武装蜂起の罪があるとして訴追された。
 1921年夏頃までに、チェカと多数の野戦審判所は、2000名以上の者に対して死刑、6000人以上の者に対して収監(懲役)を言い渡した。
 1年後、数千人の家族が要塞都市から追放され、従前の住民たちから離れた。(63)
 処刑された兵士たちの多くは、20歳代には農民だった。(64)
 ヴァシニンはクロンシュタットの使者で攻撃の第一日めに白旗を掲げた計略で拘束されていたのだが、尋問を受ける一人となり、射殺された。(65)
 (15)トロツキーには、形式的な訴訟手続の目的に関する骨格的構想などなかった。
 審判は「重要な煽動的意義」を持ち得るだろう。
 「いずれにせよ、処刑に関する報告、演説等々は、小冊子やビラよりもはるかに力強い影響力をもつだろう」。(66)
 目標は、トロツキーがクロンシュタットの事態と一体視していた社会革命党の影響を排除することだった。そして、元々はマフノ(Makhno)と連携していたが、海兵たちの反乱にも関係したアナキストたちの残滓のそれをも。
 革命家仲間の内部から共産党の権威に反対すること-あるいはそれを疑問視すること-は、率直かつ明快に論証されなければならない。これが、この事態の帰結だった。//
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 第3節、終わり。

2223/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第2節。

 L. Engelstein, Russia in Flames -War, Revolution, Civil War, 1914-1921(2018)
 以下、上の著の一部の試訳。
  序説
  第1部/旧体制の最後の年々, 1904-1914  **p.1-p.28.
  第2部/大戦: 帝制の自己崩壊。      **p.31-p.99.
  第3部/1917年: 支配権を目ざす戦い。  **p.104-p.233.
  第4部/主権が要求する。       **p.238-p.359.
  第5部/内部での戦争。        **p.363-p.581.
  第6部/勝利と後退。         **p.585-p.624,
  結語
  「注記(Note)・「Bibliographic Essay」・「索引(Index)
                      **p. 633ーp.823.
 第6部・勝利と後退(Victory and Retreat)
 第2章・革命は自分に向かう。**p.606~
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 第2節。
 (1)さて、クロンシュタットでは、装甲戦艦の<Sevastopol>と<Petropavlovsk>(主要戦艦、系譜上の戦艦)が、不安な状態にあった。
 乗組兵たちは1918年にすでに、ボルシェヴィキの政策を支持しないことを主張していた。その際、ブレスト=リトフスク条約に対する社会革命党の批判の仕方を採用し、政治委員が自分たちが選んだ委員会に取って代わったことに怒っていた。
 彼らは、自由なソヴェト選挙を呼びかけた。
 1920年12月、怒りの雰囲気が満ち、脱走兵が増えた。
 海兵たちは、劣悪な条件について不満を言うためにモスクワに代表者団を派遣した。
 代表者たちは、逮捕された。(19) 
 1921年1月、不満がさらに増した。
 <Sevastopol>と<Petropavlovsk>の乗員たちは、最近に行われたペトログラードからクロンシュタットへの移転に憤慨していた。また、それに続いた、上陸許可の延期を含むより厳格な紀律の導入に対しても。
 もっと根本的に彼らが憤慨していたのは、不平等な配給制を含む、特権に関する新しい階層制だった。
 農村地帯からの報せも、不満を増した。
 馬も、牛も、最後の一頭まで、家族や隣人から略奪されていた。(20)
 (2)ペトログラードでの操業停止を聞いて、<Sevastopol>と<Petropavlovsk>の乗員たちは、調査のための代表団を送った。
 3月1日、海兵たちは、政治方針を定式化した。
 それは、一連の政治的要求から始まる。
 まず、秘密投票による、かつ予備選挙運動を行う権利を伴う、ソヴェトの再選挙を呼びかけた。現在のソヴェトは「労働者と農民の意思を表現していない」からだ。
 政治方針はまた、言論、プレス、および集会の自由を要求した。-だが、「労働者と農民、アナキスト、および左翼社会主義政党」によるものだけの。
 単一の政党がプロパガンダを独占すべきではない、とも強く主張した。
 「社会主義諸党の全ての政治犯たち、および全ての労働者と農民、そして労働者と農民の運動に関係して逮捕された赤衛軍兵士と海兵たち」の釈放を要求した。また、収監や強制収容所に送る事例の見直しも。
 共産党による政治的統制と武装護衛兵団の除去も、要求した。
 労働者を雇用していないかぎりは、農民たちは土地と家畜に対する権利をもつ、とも主張した。(21)
 (3)クロンシュタット・ソヴェトに召喚されて、1万6000人の海兵たち、赤軍兵士、市の住民が二月革命記念日を祝うべく、島の中央広場に集合した。
 二月革命は、時代の変わり目だった。 
全ロシア〔ソヴェト〕中央執行委員会のM・カリーニン(Mikhail Kalinin)は特別の登場の仕方をした。音楽と旗と、軍事上の名誉儀礼で迎えられた。
 手続を始めたのは、クロンシュタット・ソヴェトの議長のP・ヴァシレフ(Pavel Vasil'ev)だった。
 カリーニンとバルト艦隊委員のN・クズミン(Nikolai Kuz'min)は演壇に昇って、海兵たちに対して、政治的要求を取り下げるよう強く迫った。
 彼らの言葉は、叫び倒された。
 S・ペトリチェンコ(Stephen Petrichenko)という名の戦艦<Petropavlovsk>の書記が、海兵たちの政治方針にもとづく投票を呼びかけた。
 広場にいる海兵たちは、「満場一致で」これを承認した。(22)
 (4)革命側に立った他の有名な指導者たちの多くと同様に、ペトリチェンコは、ボルシェヴィキが培養した草の根活動家の横顔にふさわしかった。
Kaluga 州の農民家庭に生まれ、ウクライナの都市、ザポリージャ(Zaporozhe )に移った彼は、2年間の学修課程と金属労働者としての経験を得た。
 1914年、22歳の年に、海軍へと編入された。
 1919年、共産党に加入した。(23)
 彼は熟練労働者の典型的な者の一人で、とくに技術的分野でそうだった。
 海軍の反乱では指導力を発揮した。このことはすでに、1905年に知られていた。(24)
 (5)指導性のみならず動員の過程もまた、標準的な革命のお手本に従うものだった。
 草の根的ソヴェトの伝統で、海兵たちは代表を選出し、選挙を組織し、元来の参加モデルに回帰することを要求した。
 3月2日、ペトリチェンコは、海兵代議員たちの会合を呼び集め、代議員たちは幹事会を選出し、全ての社会主義政党が参加するよう招聘するクロンシュタット・ソヴェトの新しい選挙を計画した。
 30人の代議員グループがペトログラードに派遣されて、工場での彼らの要求について説明した。
 彼らは、逮捕された。そして、行方不明になった。(25)
 (6)クズミンは海兵たちの不満に対応しようとせず、警告を発した。
 彼はこう発表した。ペトログラードは、静穏だ。あの広場から出現しつつあるものについて、支持はない。しかし、革命それ自体の運命が重大な危機にある。
 ピウズドスキ(Pilsudski)は境界地帯で待ち伏せしており、西側は、襲撃をしかけようしている。
 代議員たちは、「その気があれば彼を射殺できただろう」。
 彼はこう言ったと報告されている。「武装闘争をしたいのなら、一度は勝つだろう。-しかし、共産主義者は進んで権力を放棄しようとはしないし、最後の一息まで闘うだろう」。(26)
 海兵たちの側は、当局との妥協を追求すると言い張った。
 クロンシュタットのボルシェヴィキは、事態の進行から除外されていなかった。
 しかしながら、神経を張りつめていた。
 武装分団が島へと向かっている、との風聞が流れた。
 武力衝突を予期して、会合は、ペトリチェンコの指揮のもとに、臨時革命委員会(<Vremennyi revoliutsionnyi komitet>)を設立した。(27)
 (7) 海兵たちは、ペトログラードの不安は収まっているとのクズミンの主張を、信用しなかった。
 彼らは、自分たちで「第三革命」と称しているものへの労働者支持が拡大するのを期待した。
 大工場群のいくつかは、これに反応した。しかし、ペトログラードの労働者のほとんどは、控えた。
 ペトログラードの労働者たちは、戦争と対立にうんざりしていた。そして、テロルが新しく増大してくるのを恐れた。
 彼らは、海兵たちがすでに特権的地位にあると考えているものを自分たちのそれと比較して、不愉快に感じた。
 彼らは、断固たる公式プロパガンダを十分に受け入れて、クロンシュタット「反乱」は「白軍」のA・コズロフスキ(Aleksandr Kozlovskii)将軍の影響下にあると非難していたかもしれなかった。
 工場地区全域に貼られたポスターは、コズロフスキといわゆる反革命陰謀を非難していた。(28)
 労働者たちは、逮捕されるのを怖れて、公式見解に挑戦するのを躊躇した。(29)
 島には実際に、将軍コズロフスキがいた。
 コズロフスキは帝制軍の将軍の一人で、1918年に、「軍事専門家」として赤軍に加入した。
 クロンシュタット砲兵隊の指揮官として、蜂起の側を支援した。しかし、彼にはほとんど蜂起の心情はなかった。-そして、「白軍」運動への共感を決して示していなかった。 彼はこう述べた。「共産党は私の名前をクロンシュタット蜂起が白軍の陰謀だとするために利用した。たんに、私が要塞での唯一の『将軍』だったことが理由だ」。
 ペトログラードに帰ると、彼の家族は身柄を拘束され、人質となった。(31)//
 (8)反乱者たちは、要求を拒否した。
 彼らは、「我々の同志たる労働者、農民」にあてて、こう警告した。
 「我々の敵は、きみを欺いている。クロンシュタット蜂起はメンシェヴィキ、社会革命党、協商国のスパイたち、および帝制軍の将軍たちによって組織されている、と我々の敵は言う。…厚かましいウソだ。…
 我々は過去に戻ることを欲しはしない。
 我々は、ブルジョアジーの使用人ではなく、協商国の雇い人でもない。
 我々は、労働大衆の権力の擁護者であって、単一政党の抑制なき専制的権力の擁護者ではない。」
 ボルシェヴィキは、「ニコライよりも悪い」。
 ボルシェヴィキは、「権力にしがみつき、その専制的支配を維持するだけのために、全ロシアを血の海に溺れさせようとしている」。(32)
 クロンシュタットの不満の背後に、白軍の陰謀はなかった。しかし、反乱者には社会革命党が用いる言葉遣いがあった。
 しかしながら、ペトリチェンコは社会革命党員ではなく、反乱者のほとんどは特定政党帰属性を否定しただろう。
 それにもかかわらず、彼らは、社会主義と民衆の解放に関する言葉遣いを共有して受け容れていた。//
 (9)「同志たち」による「共産党独裁」に対する戦闘だった。
 革命の現実の敵は、この戦闘を歓迎したかもしれなかった。だが、指導者たちは、「反対の動機」からだと兵員たちに説明した。
 「きみたち同志諸君は、…真のソヴェト権力を再建するという熱意でもって奮起している」。労働者と農民に必要なものを、彼らに与えたいという願いによってだ。
 対照的に、革命の敵は、「帝制時代の笞と将軍たちの特権を回復しようとの願い」でもって喚起されている。…。
 きみたちは自由を求め、彼らはきみたちをもう一度隷従制の罠に落とし込むことを欲している」。(33)//
 (10)報道兵は、闘いの目的をこう説明した。
 「十月革命を達成して、労働者階級は自分たちの解放を達成することを望んだ。
 結果は、個々人の、いっそうひどい奴隷化だった。
 憲兵(police-gendarme)支配の君主制の権力は、その攻撃者の手に落ちた。-共産党(共産主義者)だ。共産党は労働大衆に自由をもたらさず、帝制時代の警察体制よりもはるかに恐ろしい、チェカの拷問室に入ることへの恒常的な恐怖をもたらした」。
 海兵たち自身の「第三革命」は、「なお残存する鎖を労働大衆から取り去り、社会主義の創建に向かう、広くて新しい途を開くだろう」。(34)
 社会主義は、なおも目標ではあった。//
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 第2節、終わり。

2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。

 L. Engelstein, Russia in Flames -War, Revolution, Civil War, 1914-1921(2018)
 以下、上の著の一部の試訳。
 章の下位に「節」はないが、一行空けよりも明確に、各章の中に横線を挿入している箇所がある。その部分までを、便宜的に「節」と見なすこととする。
 一行ごとに改行する。段落の最後に//を付し、段落に原文にはない番号を頭書する。
 注番号は記すが、注記の内容そのものは、省略する。
 第6部・第2章は、<結語>直前の最終の章だ。
 章は省略して各部の表題(とp.の範囲)だけ記しておくと、以下のとおり。
  序説
  第1部/旧体制の最後の年々, 1904-1914  **p.1-p.28.
  第2部/大戦: 帝制の自己崩壊。      **p.31-p.99.
  第3部/1917年: 支配権を目ざす戦い。  **p.104-p.233.
  第4部/主権が要求する。     **p.238-p.359.
  第5部/内部での戦争。      **p.363-p.581.
  第6部/勝利と後退。      **p.585-p.624,
  結語
  「注記(Note)・「Bibliographic Essay」・「索引(Index)
                      **p. 633ーp.823.
 第6部・勝利と後退(Victory and Retreat)
 第2章・革命は自分に向かう。**p.606~
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 第1節
 (1)赤色テロルが前提にしていたのは、つぎのことだ。すなわち、裏切りはつねに隠れている。体制による統制を免れるいかなる集団行動も、体制の存在に対する潜在的な脅威だ。全ての社会的主体は見かけ上のものではない。色を変更することができないグループまたは個人はどこにも存在しない。ゆえに、抑圧は前もってのみならず、専断的に行われなければならない。
 内戦時代を終わらせた1921年2月から3月の事態は、革命を出発させた民衆動員の力学を再びくり返したものだった。
 この事態によって、前線がないような戦争では安全な前線はない、ということが分かった。//
 (2)ペトログラードのプロレタリアート〔工業労働者〕とバルト艦隊は、ボルシェヴィキがもつ草の根の戦闘性の聖像(icon)だった。
 1917年2月、ペトログラードのストライキと街頭示威行動が、事態の懸崖を打ち破った。そこには、海兵と兵士の反乱も含まれていて、それらが、君主制の崩壊の原因となった。
 4年後の1921年2月、ストライキと抗議運動が、再び、ペトログラードを振動させた。
 首都は、モスクワに移っていた。レーニンが、ニコライに取って代わっていた。
 旧体制の終焉を歓迎しソヴェト権力から利益を得ようと期待していた大工業プラントの労働者たちは、今ではその指導者たちに反抗した。自分たちの名のもとで統治すると主張しているが、その政策は社会的経済的危機をもたらし、彼らの生存自体を脅かしている、として。
 工場地区での騒擾は、クロンシュタット要塞近くにいる海兵たちを、彼ら自身の抗議の声を上げるように喚起させた。
 1917年10月の熱心なボルシェヴィキ軍団が、今ではその憤激を、「共産党独裁」に対して向けた。//
 (3)クロンシュタットは、ペトログラードから約20マイル離れた、フィン湾の中の島だ。
 18世紀初頭にピョートル大帝が、彼の新首都の防衛のために要塞を構築した。
 島の東端に都市があり、その中央広場は、2万5000人の兵士たちが整列することのできる広さがあった。
 夏には、ペトログラードから船が着いた。11月遅くから3月初めまでは、湾が凍っていた。
 島は全体でおよそ5万の人口をもっており、半分は軍事関係者で、半分は民間人だった。(1)//
 (4)バルト艦隊の海兵たちはずっと、革命の最も急進的部分を代表してきた。
 彼らは1917年2月には、50人以上の自分たちの将校を半殺しにした。その中には4人の大将(admiral)も含まれていた。
 七月事件のときにはペトログラードにやって来て、動員されたペトログラードの労働者を支援し、ほとんどエスエル〔社会革命党〕の指導者のV・チェルノフ(Viktor Chernov)を殺害するところだった。
 メンシェヴィキのF・ダン(Fedor Dan)が回想するように、「あの記念すべき日々に、彼らは、自発的に射撃をし続け、かつほんの数名しか負傷させなかった」。(2)
 8月、将軍コルニロフに反対するよう世論に訴え、彼の逮捕と処刑を要求した。
 クロンシュタットの将校たちの多くもまた、コルニロフに反対した。しかし、うちの4名は、処刑の呼びかけを拒んだ。
 海兵たちは、この4人の身柄を拘束し、射殺した。(3)
 カデットのA・シンガレフ(Andrei Shingarev)とF・ココシキン(Fedor Kokoshkin)は、1918年2月、病院のベッドで、赤衛兵とクロンシュタット海兵たちによって殺害された。(4)
 彼らは、怒れば危険な男たちだった。//
 (5)1921年2月頃までには、元々いた海兵たちのある程度は、新補充兵に代わっていた。
 最近に加わった者たちはおそらくより熱心でなく、より職業的でなかったけれども、以前と同様に暴力を好む傾向と権威に対する敵意をもっていた。たぶん、いく分かは別の理由からだったが。(5)
 かつてボルシェヴィキの力の淵源だった者たちが、今では脅威だった。しかし、忠誠心をもつ前衛部隊だという神話は、放棄されていなかった。
 党は、クロンシュタットの反乱を白軍の反革命陰謀の傀儡だと非難した。-これは、ソヴィエトの時代を通じて、公式の解釈であり続けた。(6)
 十月以後の他の反乱の場合と同様に、反乱兵士には旧体制を復活させようとする意図は実際になかった。
 今度は、革命の名において、彼らは戦時共産主義と関連する諸政策に異議を唱えた。-強制労働、徴発、多数の者が食料について依存している小規模取引の抑圧、村落からの略奪。
 彼らは不平等の復活に憤激した。-食糧配給量は地位によって異なり、新体制の役人たちが特権を享受していた。
 「共産党(共産主義者)」を彼らが非難するとき、それは反動的白軍に取り憑かれたのが理由ではなかった。
 彼らはこのときにはボルシェヴィキを、かつて歓迎したのと同じ理由で、拒否したのであり、革命的でなくなったのが理由ではなかった。(7)//
 (6)ある者には、まるで1917年二月が再び「空中にある(in the air)」ように見えた。(8)
 1917年2月のように、抽象的な原理ではなく、飢えと貧困が、示威行進者を極端へと走らせた。
 1921年初めには、体制に対する民衆の抵抗が、ロシアの中核部全体に蔓延していた。
 都市部、すなわちボルシェヴィキを支持する中心部で、食糧が稀少になり、工場は燃料と原資材不足で閉鎖し、労働者は街頭へと出た。-飢餓が迫っていた。
 1月下旬、当局は食料配給量を削減した。(9) 
 ペトログラード連隊ですら、食糧が不足した。兵士たちは、飢えで気を失っていると言われた。
 ある者は、物乞いに出かけた。
 モスクワの兵士と労働者たちも、不安だった。彼らは、相次いで集会に集まった。(10)//
 (7)2月11日、体制は、ほとんど100のペトログラードの工場を近く閉鎖する、と発表した。その中には、プティロフ(Putilov)作業場、セストロレツク(Sestroretsk)武器工場、巨大なレンガ造りのTreugolnik 地区のような、急進派運動の温床だったところもあった。総計で2万7000人の労働者が、仕事を失うことになる。
 10日後のトルボシニュイ(Trubochnui)・プラントでの集会から、抗議運動が始まった。この集会は、非ボルシェヴィキ左翼反対派の標語である、純粋な民衆支配(<narodovlastie>)を支持することを宣言した。
 ペトログラード・ソヴェトは、その集会を中止させた。
 工場から閉め出されることにより、労働者たちは賃金だけではなく、食料配給も失った。
 2月24日、街頭はトルボシニュイその他の工場から来た労働者で埋め尽くされ、ヴァシリェフスキ(Vasilevskii)島の工業地区では2万5000人に膨れ上がった。(11)//
 (8)ペトログラード当局は、緊急防衛委員会を設立し、戒厳令を敷いた。(12)
 2月27日、バルト艦隊の人民委員は、2万6000のクロンシュタットの海兵たちの中にある騒乱について報告した。(13)
 その翌日、運動は戦闘的なプティロフ作業場へと拡がった。従前の規模からすると影のようなものだが、なおも6000人の強さがあつた。
 抗議者たちは、工場からの共産主義者〔共産党・ボルシェヴィキ〕軍団の撤退、過剰人員の廃止、政治的権利の回復、を要求した。(14)//
 (9)こうした政治的要求は、メンシェヴィキと社会革命党の煽動活動家の影響を反映していたかもしれない。彼らは工場に、ビラを撒いてきていた。
 社会革命党〔エスエル〕は、反乱(revolt)を呼びかけていた。一方、メンシェヴィキは、忠誠心ある反対派のままだった。
 彼らは政策の変更を求めたのであり、この騒擾の時期が1917年の再演だとは考えていなかった。
 今では労働者は疲れ、組織から離れ、数自体が減っていた。
 彼らは、政治的理想ではなく、肉体的な生存を気にかけた。
 工場が燃料や原資材の不足で閉鎖される場合に、作業が止まるのは何ら脅威ではなかった。
 当局はある程度の譲歩を行い(特別の配給、糧食探しの許可、食糧没収の中止)、メンシェヴィキ中央委員会の委員を逮捕した。(15)
 3月3日頃までに、抗議運動は消滅した。//
 (10)F・ダンは、自分自身が逮捕された状況を思い出した。
 2月26日、抗議運動が始まったばかりのとき、彼はマリインスキ劇場へ行った。そこで、有名なバス歌手のF・シャリアピン(Feodor Chaliapin)がニコライ・リムスキ=コルサコフのオペラ<プスコフの娘>で歌うのを聴くためだった。
 つぎの細部が、語られている。
 ダンはそのようなときでも、劇場に関心があった。入場券はもう売られていなかった。だが、諸関係を通じて入手することができた。上演は早めに終わった。
 家に帰っているとき、夜の10時に、チェカの機関員に迎えられた。
 「シャリアピンが歌うのを楽しく聴くことのできる最後となった運命に感謝」したのだったが、ダンは、暗くて誰もいない街路を通って連れ去られた。(16)//
 (11)かつては帝制秘密警察のオフラーナ(Okhrana)が所在した建物、ダン自身が社会民主党の運動の初期だった25年前に拘禁された建物の中で、彼は服の上から調べられ、衣服を脱がされ、尋問を受けた。
 彼の捕獲者たちは冷酷な職業官ではなかったが、教育をほとんど受けていない者たちで、自分たちの新しい権力に誇りをもち、臆面もなく党のスローガンを捲し立てた。
 彼らは、ストライキをする者は社会主義の根本に対する裏切り者だと非難した。
 本当の労働者ならば、自発的に進んで前線へ行くか、または食糧旅団に加わるべきだ、と。
 あいつらは「くずで、利己主義者で、小商人で、戦争中に徴兵を免れようと工場へと逃げ込んだのだ」。(17)
 メンシェヴィキもまた、裏切り者だ。
 ダンは、このような、「プロレタリアートをくずと呼び、社会主義を海兵たちに押しつけてあてにする共産主義者(共産党員)たち」に、絶望した。//
 (12)一年の拘禁のあと、ダンは国から追放され、最終的にはニューヨークに落ち着いた。(18)
 1905年以降ずっと自分は革命の友人だと考えてきたシャリアピンは、1922年に自分の力でロシアを離れ、最後にパリで死んだ。//
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 第1節、終わり。


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1674/共産党独裁②-L・コワコフスキ著18章4節。

 この本には、邦訳書がない。Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 この第18章とは、第2巻(部)の第18章のことだ。各巻が第1章から始まる。
 前回のつづき。
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 第4節・プロレタリア-ト独裁と党の独裁②。
 非ボルシェヴィキの組織や定期刊行物の閉鎖、数百人の主要な知識人のロシアからの追放(この寛大な措置はまだ採られていた)、全ての文化的組織での迫害、あらゆる日常生活内に入り込んだテロルの雰囲気-これら全てが、社会対立がボルシェヴィキ党それ自体の内部で反映されるという、企図していない、だが当然の結果をもたらした。
 そしてこれは、つぎには、党が社会に対して行使したのと同じ専制的支配という原理を、党の内部に適用することへと導いた。
内戦は、経済的破滅と一般的な消耗をもたらした。そして、強さがなくなった労働者階級は、平和的建設という事業においてかつて戦闘の場で示したのと同じような熱狂と自己犠牲を示すようにとの訴えに敏感でなくなった。
 ボルシェヴィキが労働者階級全体を代表するということは、1918年以降は一つの公理(axiom)だった。それは、立証できないものだった。立証するための仕組みが何も存在していないのだから。
 しかしながら、プロレタリア-トは、怒りと不満を示し始めた。最も烈しかったのは、1921年3月のクロンシュタット蜂起で、これは、大量の死者を出して鎮圧された。
 クロンシュタットの海兵たちは、労働者階級の大多数と同じく、ソヴェトの権力を支持していた。しかし、彼らは、それを単一の支配政党による専政と同じものだとは考えなかった。
 彼らは、党による支配に反対して、ソヴェトによる支配を要求した。
 党自体の内部で、プロレタリア-トの不満は強い『労働者反対派』へと反映された。これは、中央委員会では、アレクサンドロ・シュリャプニコフ(A・Shlyapnikov)、アレクサンドラ・コロンタイ(A・Kollontay)その他が代表した。 
 このグループは経済の管理を労働者の一般的組織、すなわち労働組合に委託することを求めた。
 彼らは報酬の平等化を提案し、党内からの支配という専制的方法に異議を唱えた。
 つまりは、彼らは、レーニンが革命前に書いていた『プロレタリア-トの独裁』を求めた。
 彼らは、労働者のための民主主義と党内部での民主主義は、何か他のものに代わって民主主義が存在しない場合ですら安全装置でありうる、と考えていた。
 レーニンとトロツキーは、もはやそのようないかなる幻想をも抱かなかった。
 この二人は、『労働者反対派』はアナクロ=サンディカ主義的逸脱だと烙印を捺し、彼らの代表者を様々な嘘の理由をつけて党の活動から排除した。投獄したり、射殺したりはしなかったけれども。//
 この事件は、ソヴェト体制での労働組合の位置と機能に関する一般的な議論を生んだ。
 三年早い1918年3月に、レーニンは、『プロレタリア-ト階級の独立性を維持し強化するという利益のために、労働組合は国家組織になるべきではない』と主張したとして、メンシェヴィキを厳しく罵倒した。
 『このような考え方は、かつても今も、最も粗野な類のブルジョアの挑発であるか、極端な誤解であって、昨日のスローガンのスラヴ的な繰り返しだ。<中略>
 労働者階級は、国家の支配階級になりつつあるし、またそうなった。
 労働組合は、国家の組織になりつつあるし、社会主義を基盤として全ての経済生活を再組織化することに第一次的な責任を負う、国家の組織にならなければならない。』 (+)
 (全集27巻p.215〔=日本語版全集27巻「『ソヴェト権力の当面の任務』の最初の草稿」218頁〕。)
 労働組合を国家の組織に変えようとする考えは、論理的には、プロレタリア-ト独裁の理論から帰結する。
 プロレタリア-トは国家権力と同一視されるので、労働者が国家に対抗する利益を守らなければならないと想定するのは、明らかに馬鹿げていた。
 トロツキーは、こうした考えを持っていた。
 しかし、レーニンは上に引用した二つの点のいずれについても、考え方を変更した。
 1920年にソヴェト国家は官僚主義的歪みに苦しんでいると決定したあと、彼は自分自身が最近まで述べていた考えを抱いているとしてトロツキーを攻撃し、つぎのことを明確に宣告した。労働者を守るのは労働組合がする仕事だ、しかし、労働者を彼ら自身の国家から守るのもそうかというと、そうではなくて悪用(abuse)だ、と。
 彼は、同時に、組合は経済を管理するという国家の機能を奪い取るべきだとの考えに、烈しく反対した。//
 そうしているうちに、レーニンは、反対する集団が将来に党内部で発生するのを防止する措置を講じた。
 党内での分派(factions)の形成を禁止し、党大会で選出されていたメンバーの内部から排除する権限を中央委員会に与える規約が、採択された。
 こうして、自然な進展として、最初は労働者階級の名において社会に対して行使されていた独裁は、今や党それ自体についても適用され、ワン・マン暴圧体制(tyranny)の基礎を生み出した。//
 レーニンの最後の数年にますます重要になってきたもう一つの主題は、言及したばかりだが、『官僚主義的歪み』の問題だった。
 レーニンは、つぎのことに、ますます頻繁に不満を述べる。国家機構が必要もなく無制限に膨張している、かつ同時に何も処理する能力がない、煩わしくて形式主義的だ、役人たちは党の幹部官僚にきわめて些細な問題について照会している、等々。
 このような当惑の根源は、彼がつねに強調したように、制度全体が法制にではなくて実力にもとづいていることにある、ということは、レーニンには決して思い浮かばなかったようだ。
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 (+) 日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変更した。
 ③へとつづく。

1583/七月蜂起へ(2)②-R・パイプス著10章10節。

 前回のつづき。
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 第10節・ボルシェヴィキによる蜂起の準備②。
 適切な資料が不足しているため、こうした進展に関するボルシェヴィキの態度を決定的に語るのは困難だ。
 ボルシェヴィキ党の第六回党大会への報告として、スターリンは。7月3日の午後4時に中央委員会が武装の集団示威活動に反対する立場をとった、と主張した。
 トロツキーは、スターリンの主張を確認する。(144)
 指導するレーニンがいない中で、反乱が彼らのスローガンのもとでだが彼らの誘導なくして災難に終わってしまうのを怖れて、ボルシェヴィキの指導者たちが最初から反対した、とは想定し難い。
 しかし、この日に関する中央委員会の議事要領が利用できるならば、この判断についてもっと自信を感じるだろう。//
 提案された集団示威活動について知るや、イスパルコム〔ソヴェト執行委員会〕はただちに、兵団に対してやめるように訴えた。
 イスパルコムには、政府を打倒して、ボルシェヴィキがその手にしようと執拗に押し進んでいる権力を獲得する欲求はなかった。//
 その日の午後、クロンシュタット・ソヴェト執行委員会の前に、機関銃連隊の二人のアナキスト代議員がやって来た。粗雑で、教養が乏しいように見えた。
 彼らは、連隊は他の軍団や工場労働者と一緒に路上に出て権力のソヴェトへの移行を要求する、と伝えた。
 彼らには、武装した支援が必要だった。
 執行委員会は、海兵はペテログラード・イスパルコムが承認しない示威活動をすることはできない、と回答した。
 そのときに使者たちは、海兵たちに直接に訴える、と言った。
 言葉通りに進み、アナキストが政府を非難する演説を聞くために8000人から10000人の海兵が集まった。
 海兵たちには、ペテログラードへと出立する心づもりがあった。
 目的は不明瞭だとしても、両側にある何かを略奪してブルジョアをやっつけることは、彼らの気持ちから離れているはずはなかった。
 ラシャルとラスコルニコフは彼らを抑えようとして、しばらくの間、ボルシェヴィキの司令部に指令を求めて電話した。
 ラスコルニコフは、司令部と通信したあとで、海兵たちに、ボルシェヴィキ党は武装示威活動に参加することを決定した、と伝えた。そのときに、集まった海兵たちは、満場一致でそれに加わることを表決した。(*)//
 機関銃連隊からの代議員は、プティロフの労働者の前にも姿を現した。その労働者の多くから、彼らは自分たちの信条への支持をとりつけた。//
 午後7時頃、集団示威活動に賛成表決した機関銃連隊の兵団は、兵舎に集合した。
 先行分団は、機関銃を山積みした略奪車に乗って、すでにペテログラードの中心部へと分かれて進んでいた。
 午後8時、兵士たちはトロイツキー橋を行進し、そこで他の連隊の反乱兵団が加わった。
 午後10時、反乱者たちが橋を縦断した。
 ナボコフ(Nabokov)は、このときに彼らを見ていた。『我々が二月の日々から記憶しているのと同じ、鈍くてうつろな、野獣のような顔をしていた。』
 川を渡り終わって、兵団は二つの軍団に分かれた。うち一つはソヴェト所在地であるタウリダへ、もう一つは臨時政府所在地であるマリンスキーへと向かった。
 たいていは空中への、的がはっきりしない発砲がいくつかあった。ほんの少しの略奪も。//
 ボルシェヴィキ最高司令部-ジノヴィエフ、カーメネフおよびトロツキー-は、7月3日の正午頃に、党をこの反乱に参加させることを決定したと思われる。すなわちこのとき、機関銃連隊の兵団は集団示威活動をする決定を採択していた。
 このとき、上の三人は、タウリダ宮にいた。
 彼らの計画は、ソヴェトの労働者部会(Section)の支配権を握り、その名前で権力のソヴェトへの移行を宣言すること、そして兵士部会や幹部会とともにイスパルコムに対し、達成した事実を呈示すること、だった。
 その口実は、抗しがたい大衆の圧力にある、とされた。//
 この目的のためにボルシェヴィキは、その日おそくに、労働者部会での小蜂起を企んだ。
 ここではボルシェヴィキは、兵士部会と同じく、少数派だった。
 〔労働者部会の〕ボルシェヴィキ団はイスパルコム〔ソヴェト執行委員会〕に、午後3時に労働者部会の緊急集会を開催するというきわめて簡単な告知をすることを要請した。
 このことですぐに、この部会のエスエルとメンシェヴィキの党員たちが接触できた。
 しかしボルシェヴィキは、自分たち仲間が一団となって出席することで一時的な多数派となる、と確信していた。
 ジノヴィエフは集会を開いて、ソヴェトは政府の全権力を勝ち取ると主張した。
 出席していたメンシェヴィキとエスエル代議員はジノヴィエフに反対し、ボルシェヴィキに機関銃連隊を止めるのを助けるよう求めた。
 ボルシェヴィキがそれを拒んだとき、メンシェヴィキとエスエルは退出して、結果として彼らの好敵に全権を与えた。
 ボルシェヴィキは労働者部会の事務局(Bureau)を選出し、これは、カーメネフが提示した決定をしかるべく裁可した。その最初の文章は、つぎのとおりだった。//
 『権威の危機にかんがみ、労働者部会は、労働者・兵士および農民の代議員から成る全ロシア・ソヴェト大会は権力をその手中に収めると強く主張することが必要だと考える』。
 もちろん、このような『全ロシア大会』は、紙の上にすら、存在していない。
 言いたいことは明らかだ。すなわち、臨時政府は、打倒されなければならない。//
 これを成し遂げて、ボルシェヴィキたちは中央委員会の会議のために、クシェシンスカヤ邸へと向かった。
 午後10時、会議が始まろうとしたときに、一団の反乱兵士たちが近寄ってきた。
 共産党の資料によると、ネヴスキーとポドヴォイスキーがバルコニーから、反乱兵士は兵舎に帰るように強く迫り、それに対して兵士たちが不満の叫びを上げた。(**) //
 ボルシェヴィキは、まだ揺れ動いていた。
 彼らには、動きたい衝動があった。しかし、前線兵士たちのクーに対する反応を心配した。前線兵士たちの中で熱心に情報宣伝を行ったけれども、ボルシェヴィキは何とか、とくにラトヴィア・ライフル部隊といった若干の連隊で勝利したにすぎなかったからだ。
 戦闘部隊の大半は、臨時政府に忠実なままだった。
 ペテログラード守備軍団の雰囲気ですら、確実なものでは全くなかった。
 なおも混乱は増し、プティロフの数千人の労働者たちがタウリダの前に集まっていると妻や子どもたちから伝えられて、ボルシェヴィキの躊躇する心は負けた。
 午後11時40分、この頃までに反乱兵士たちはまでには兵舎に戻り、静穏が街に帰ってきていた。そのとき、ボルシェヴィキ中央委員会は、臨時政府の武力による打倒を呼びかける、つぎの決議を採択した。//
 『現にペテログラードで起きている事態を考慮して、中央委員会会合はつぎのように結論する。
 現在の権威の危機は、革命的プロレタリアートと守備軍団がただちに固くかつ明白に労働者・兵士および農民の代議員から成るソヴェトへの権力の移行に賛成すると宣言しなければ、人民の利益において解消されることはないだろう。
 この目的のために、労働者と兵士はただちに路上に出て、その意思を表明すべく示威行進を行うよう求める』。//
 ボルシェヴィキの目的は、明白だ。しかし、…。
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  (144) レオン・トロツキー, ロシア革命の歴史 II (ニューヨーク, 1937) p. 20。
  (*) Raskolnikov, in : PR = Proletarskaia revoliutiia, No. 5-17 (1923), p.60。ロシャルは、1917年12月に反共産主義者により射殺された。ラスコルニコフは、1910年から党員、1917年にクロンシュタット・ソヴェトの副議長、1920年代と1930年代に国外のさまざまのソヴィエトの外交職にあった。ラスコルニコフは1939年にモスクワへと召還されたが帰国するのを拒み、公開の書簡でスターリンを厳しく非難した。そのあと彼は、『人民の敵』だと宣告された。その年のあと、彼はきわめて疑わしい状況のもとで南フランスで死んだ。
  (**) Vladimirova, in : PR = Proletarskaia revoliutiia, No. 5-17 (1923), p.11-13。Ia. M. Sverdlov, in : ISSSR, No. 2 (1957), p.126。七月叛乱を調査するために任命された政府委員会の報告書は、ボルシェヴィキはより攻撃的に演説したと叙述している(p.95-96)。この報告書は、以下として再発行された。D. A. Chugaev, ed., Revoliutsionoe dvizhenie v Rossi v iiule g. (モスクワ, 1959)。
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 ③につづく。

1580/七月蜂起へ(1)-R・パイプス著10章9節。

 前回につづく。
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 第9節・ボルシェヴィキによる新しい襲撃の用意。
 ロシア革命の事件のうち、1917年の七月暴動ほど、意図的に虚偽が語られているものはない。レーニンの最悪の大失敗だった、党をほとんど破滅させる原因となる誤った判断だった、ヒトラーによる1923年のビア・ホール蜂起と同等だ、という理由でだ。
 ボルシェヴィキは、責任を免れるために、七月蜂起は自然発生的示威行動でボルシェヴィキは平和的な方向に導こうとした、と異様に長々と偽りの説明をした。
 7月3-5日の行動は、予期される敵の反攻に備えてペテログラード守備軍団を前線に派遣するという政府の決定によって、突如として発生した。
 もともとは軍事上の配慮をして、この決定には、ボルシェヴィキの虚偽情報宣伝にきわめて汚染された首都の軍団を取り除くという意味もあった。
 この移動は、権力への次の企てのために使うつもりの実力部隊を奪われるおそれがあったので、ボルシェヴィキにとって、災厄を意味した。
 ボルシェヴィキは応えて、『ブルジョア』政府を攻撃し、『帝国主義的』戦争に抗議し、そして前線に行くのを拒否しようと強く訴える、猛烈な情報宣伝活動を守備軍兵団の間で行った。
 民主主義の伝統をもつならばどの国でも、戦時中にこのような反乱の呼びかけがあるのは耐え難いものだっただろう。//
 ボルシェヴィキへの支援の主要な基盤は、第一機関銃連隊にあり、ここに1万1340名の兵士とほぼ300名の将校がいた。後者の中には、多くの左翼知識人が含まれていた。
 この隊の多くの者は、能力欠如または不服従を理由として、元々の軍団から追い出されてきたよそ者だった。
 急進的な工場群近くのヴュイボルク地区の宿舎に住んでいる、内心では怒り狂っている大衆だった。
 ボルシェヴィキの軍事機構はここに、およそ30名から成る細胞を作った。それには若い将校も含まれていて、ボルシェヴィキは彼らに定期的に煽動技術の訓練をした。
 彼らは、アナーキストはもちろんだが、連隊の前で頻繁に演説をした。//
 連隊は6月20日、500人の機関銃兵団を前線に派遣せよとの指令を受けた。
 その兵団は翌日に会合をもち、『革命戦争』を闘うためだけに、つまり、『資本家たち』が除去された、ソヴェトが全権力をもつ政府を防衛するためだけに、前線へ行くという、-内容で判断するとボルシェヴィキに由来する-決議を採択した。
 決議が言うには、政府がその兵団を解散させようとすれば、連隊は抵抗することになる。
 連隊の別の諸兵団に対して、支援を要請する密使が派遣された。//
 この反乱で最大の役割を果たすボルシェヴィキは、慌てて行動をして愛国主義的反発を刺激してしまうのを懼れた。
 彼らには、ほんの僅かの刺激を与えても襲いかかってくる用意をしている、多くの敵がいた。
 シュリャプニコフ(Shliapnikov)によると、『生命の危険を冒させるにまで至らないと、ネフスキーに我々の支持者が出現することはなかっただろう』。
 そのゆえに、ボルシェヴィキの戦術は、大胆さに慎重さを結合するものでなければならなかった。彼らは、高いレベルの緊張を維持するために兵士や労働者のあいだで激しく煽動した。しかし、把握し切れずに反ボルシェヴィキの集団殺戮(pogrom)に終わるような衝動的な行動には反対した。
 <兵士プラウダ>は6月22日、党からの明確な指令がないままで集団示威活動をしないように兵士と労働者たちに訴えた。//
 『軍事機構は、公然と市街に出現することを呼びかけてはいない。
 かりに必要が生じれば、軍事機構は、党の指導組織-中央委員会およびペテログラード委員会-との合意の上で、公然と街頭へ出現することを呼びかけるだろう。』//
 ソヴェトへの言及は、なかった。
 この抑制した立場の呼びかけは、のちに共産党歴史家がボルシェヴィキ党には七月反乱についての責任がないとする証拠として引用するものだ。しかし、このことはいかなる種類の何をも、証明していない。たんに、党は事態をしっかりと掌握し続けたいと考えていた、ということを示すだけだ。//
 連隊での最初の不穏の波は、ボルシェヴィキが示威活動を思いとどまらせて落ち着いた。ソヴェトはボルシェヴィキの決議を是認するのを拒否した。
 連隊は、諦めて、500人の機関銃兵団を前線に派遣した。//
 このとき、ソヴェトも一緒になって政府は、クロンシュタットでも、暴乱の萌芽を抑圧した。
 ペテログラード近くのこの海軍基地の守備軍団は、アナキストの強い影響のもとにあった。しかし、その政治組織は、F・F・ラスコルニコフ(Raskolnikov)とS・G・ロシャル(Roshal)が率いるボルシェヴィキの手にあった。
 海兵たちには、不満があった。政府が、二月革命のあとで彼らが奪い取って司令本部にしていた元大臣のペーター・ドゥルノヴォ(Peter Durnovo)の邸宅から、アナキストたちを実力で追い出したからだ。
 その邸宅にいたアナキストたちはきわめて乱雑に振る舞ったので、6月19日に19の兵団が、邸宅を取り戻して占有者を拘束するために派遣された。
 そのアナキストたちに扇動されて、海兵たちは6月23日に、収監者を解放するためにペテログラードで行進しようとした。
 彼らもまた、ソヴェトとボルシェヴィキの協同の努力があって、抑制された。//
 しかし、温和しくしていたときでも、機関銃兵士たちは、絶え間なく続く扇動的情報宣伝の影響下にあった。
 ボルシェヴィキは全権力のソヴェトへの移行を主張しており、それにはソヴェトの再選挙、そしてソヴェトが排他的にボルシェヴィキの手に落ちることが続くことになっていた。
 ボルシェヴィキは、このことが直接に平和をもたらすことになると約束していた。
 彼らはまた、『ブルジョアジー』の『抹殺(annihilation)』を主張した。
 アナキストたちは兵士に対して、『ミリュコフ通り-ネフスキーとリテイニュイ-での集団殺害(pogrom)』を扇動した。//
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 第10節へとつづく。

1501/ネップ期の政治的抑圧②-R・パイプス別著8章7節。

 前回のつづき。
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 第7節・政治的かつ法的な抑圧の増大②。
 ゲペウ(GPU)は表面的には、チェカほどの専横的権力をもたなかった。
 しかし、現実は違った。
 レーニンとその同僚は、問題は民衆によって引き起こされるが、その災いを作った者を除去すれば問題は解決できる、と考えた。
 ゲペウを設立して一ヶ月も経たない1922年3月に、レーニンはピョートルにつぎのように助言した。ゲペウは『賄賂と闘うことができるし、しなければならない』、反対者を攻撃するその他の経済犯罪も同じだ。
 これを実施するための命令が、政治局を通じて司法人民委員部に送付するこことされた。(121)
 8月10日の布令は、『反革命活動』で告発された国民を、外国かロシアの指定した地方に、三年間まで行政的手続で追放する権限を、内務人民委員部に認めた。(122)
 11月に発せられたこの布令の付属書は、『集団強盗』を相当と判断する程度に処理すること、そして、法的手続によることなく『銃殺で処刑することまで』をゲペウに許した。これはさらに、強制労働を伴う追放〔流刑〕と結びついて強力になった。(123)
 ゲペウの司法上の特権は、1923年1月にさらに増大した。特定の地域(かつロシア共和国の境界内部)に住んでいる者がその活動、その過去あるいは犯罪者集団とのその関係からして革命秩序の警護という観点から危険だと見える(appear)場合には、その者を追放する権限が与えられた。(124)
 帝制時代のように、被追放者は護送車で監護されて、部分的には徒歩によって、苛酷な条件のもとで目的地に到達した。
 追放刑は、理屈上は、ゲペウの勧告にもとづいて内部人民委員部により科された。しかし実際には、ゲペウの勧告は判決文に等しかった。
 1922年10月16日には、ゲペウは審問をすることなく、武力強奪や集団強盗の嫌疑があって現行犯逮捕された者たちを処刑〔殺害〕する権限まで認められた。(125)
 かくして、『革命的合法性』の機関として設立されてから一年以内に、ゲペウは、全ソヴィエト国民の生活を覆うチェカの専制的権力を再び獲得した。//
 ゲペウ・オゲペウは、複雑な構造を進化させ、厳密には政治警察の範囲内にあるとは言えない、経済犯罪や軍隊での反国家煽動のような事件にも権限をもつ、特殊な部署をもった。
 その人員は1921年12月の14万3000人から1922年5月の10万5000人へと減らされたが (126)、それでもなお、強力な組織であり続けた。
 というのは、民間人協力者に加えて、軍隊の形態でのかなりの軍事力を利用したからだ。その数は、1921年遅くには、5万人の国境警備別団を別として、数十万人(hundreds of thousands)に昇った。(127)
 国じゅうに配備されたこれら兵団は、帝制時代の憲兵団(Corps of Gendarmes)と似た機能を果たした。
 ゲペウは国外に、国外ロシア移民を監視し分解させる、コミンテルンの人員を監督する、という二つの使命をもつ『工作機関(agencies)』(agentury)を設置した。
 ゲペウはまた、国家秘密保護局(Glavit)が検閲法令を実施するのを助け、監獄のほとんどを管理した。
 ゲペウに関与されていない公的な活動領域は、ほとんどなかった。//
 集中強制収容所は、ネップのもとで膨らんだ。その数は、1920年の84から1923年10月には315になった。(128)
 内部人民委員部がいくつかを、その他はゲペウが運営した。
 これら強制収容所のうち最も悪名高いのは、極北に位置していた(『特別指定北部収容所』、SLON)。そこからの脱走は、事実上不可能だった。
 そこには、通常の犯罪者とともに、捕獲された白軍将兵、タンボフその他の地方からの反乱農民、クロンシュタットの水兵たちが隔離されていた。
 収容者の中で死亡する犠牲者の数は、高かった。
 一年(1925年)だけでSLONは、1万8350人の死を記録した。(129)
 この強制収容所が満杯になった1923年の夏に、当局はソロヴェツク(Solovetsk)島の古来の修道院を集中強制収容所に作り変えた。そこは、イヴァン雷帝の代以降、反国家や反教会の罪を犯した者たちを隔離するために使われてきた。
 ソロヴェツク修道院強制収容所は1923年に、ゲペウが運営する最大の収容所になり、252人の社会主義者を含めて、4000人の収容者がいた。(130)//
 『革命的合法性』原理は、ネップのもとで日常的に侵犯された。従前と同様に、ゲペウがもつ司法を超える大きな権力のゆえだけではなく、レーニンが法を政治の一部門だと、裁判所を政府の一機関だと考えていたからだ。
 法についてレーニンが抱く考え方は、ソヴィエト・ロシアの最初の刑法典の草案作成過程で明確になった。
 レーニンは司法人民委員のD・I・クルスキーが提出した草案に満足せず、政治犯罪にどう対処するかに関する細かい指示を出した。
 彼は政治犯罪を、世界のブルジョアジーを『助ける虚偽宣伝活動(プロパガンダ)や煽動、または組織参加や組織支援』と定義した。
 このような『犯罪』に対しては、死による制裁が、あるいは酌量できる情状によっては収監または国外追放という制裁が科されるものとされた。(131)
 1845年のニコライ一世の刑法典は政治犯罪を同様に曖昧に標識化していたが、レーニンの定義は、それに似ていた。ニコライ一世刑法典は、『国家当局または国家要人や政府に対する無礼を掻き立てる記述物や印刷物を書いたり頒布したりする罪』を犯した者には苛酷な制裁を科すことを命じていた。
 しかし、帝制時代には、このような行為に死刑が科されることはなかった。(132)
 レーニンの指示に従って、法律官僚は第57条と第58条、裁判所に反革命活動をしたとされる有害人物ついて判決する専制的な権力を与える抱合せ条項を作成した。
 これら条項を、のちにスターリンは、合法性の外観をテロルに付与すべく利用することになる。
 レーニンの指示の意味を彼が認識していたことは、クルスキーに与えた助言からも明らかだ。レーニンは、つぎのように書いた。
 『原理的なかつ政治的な正しさ(かつたんに狭い司法のみならず)、…<テロルの本質的意味と正当化>…』を提示することが司法部の任務だ、『裁判所は、テロルを排除すべきではなく…、それを実現させて原理的に合法化すべきだ。』(133)
 法の歴史上初めて、法手続の役割は、正義を実施することではなく、民衆をテロルで支配することだ、と明言された。//
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  (121) レーニン, PSS, LIV, p.196。 
  (122) 同上のp.335。
  (123) SUiR, No. 65 (1922年11月6日), 布令 844号, p.1053。
  (124) 同上, No. 8 (1923年3月10日), 1923年1月3日付決定 No. 108, p.185。ゲルソン, 秘密警察, p.249-250。
  (125) イズベスチア, No. 236-1, 675 (1922年10月19日), p.3。
  (126) ゲルソン, 秘密警察, p.228。
  (127) 次の、p. 383n を見よ。
  (128) Andrzei Kaminskii, 1896年から今日までの集中強制収容所 :分析 (1982), p.87。ゲルソン, 秘密警察, p.256-7 参照。
  (129) セルゲイ・マセイオフ, in :Rul' No.3283 (1931年9月13日), p.5。ゲルソン, 秘密警察, p.314 参照。
  (130) ディヴッド・J・ダリン=ボリス・I・ニコレフスキー, ソヴィエト・ロシアの強制労働 (1947), p.173。SV, No. 9-79 (1924年4月17日), p.14。
  (131) レーニン, PSS, XLV〔第45巻〕, p.190。
  (132) リチャード・パイプス, 旧体制, p.294-5。
  (133) レーニン, PSS, XLV〔第45巻〕, p.190。
 ---
 ③につづく。

1412/日本共産党の大ウソ30-志位和夫綱領解説02。

 志位和夫・綱領教室第2巻(新日本出版社、2013)のうち、不破哲三の研究に依拠するという<ネップ>に関する叙述、つまりネップ期にレーニンは「市場経済を通じて社会主義へ」という「新しい考え方」をつくった、あるいはレーニンはそういう「社会主義建設の大方向を打ち立てた」(「」はp.179より引用)ということについての叙述を、要約・部分引用しながら紹介する。
 ・レーニンの1918年夏~1920年の経済政策は「戦時共産主義」と呼ばれ、農民から「余剰穀物のすべてを割当徴発する」ものだった。レーニンが「この戦時の非常措置」を「共産主義」への「直接移行」と「勘違いして位置づけ」たことから、「農民との矛盾が広がってい」った。(p.173-4)
 志位(したがって不破)によれば、レーニンが「深い試行錯誤から抜け出し」「国際情勢の変化」を「的確に見定めた」ことは、1920年11月の「ロシア共産党モスクワ県会議」での「わが国の内外情勢と党の任務」と題する演説で示された。レーニン全集31巻415頁に掲載されており、つぎのような文章を含む。
 ・「われわれがロシアの反革命の企てをみな粉砕し、西欧のあらゆる国々と正式の講話締結をかちとった」ことから、「われわれが息つぎを獲得」しただけではなく、資本主義諸国の包囲の中で「われわれの基本的な存立をかちとった新しい一時期を獲得した」ことが明らかだ。
 これを含むレーニン演説を、志位(不破)はつぎのように理解・解釈する。
 ・レーニンは、ロシア革命の勝利のためには「国際的勝利」(=秋月によると「世界革命」、つまり全欧州レベルでの「社会主義革命」の勃発と勝利)が必要と考えていたが、戦争の結果はそれをもたらさなかったけれども、資本主義諸国の包囲の中で「ソビエト・ロシアが存立していく条件」は闘いとった。「世界革命は起こらなかったけれども、ロシア革命が生きていく条件」をかちとった、という「新しい一時期」になった。
 以上、p.174-5。志位(不破)は、そのあとすぐに続けてこう書く。
 ・「新しい時期」に入ったと「見定めた以上、方針も変えることが求められ」る。レーニンは「やがて」、「多くの分野で」の「路線転換の仕事に取り組むようにな」る。
 志位によると、不破著/レーニン第7巻は、レーニンは上の1920年11月の「転換」を「契機にして」、「レーニンの理論活動が"夜明け"を迎えた」と書いている、らしい(別途確認はする)。
 さて、以下がネップに関する叙述だ。
 ・1921年3月の「クロンシュタットで水兵の反乱」が起こり「やむなく鎮圧しなければならないという事態」が生じ、そういうもとで「ソビエト政権と農民の関係」の改善という「大問題」をつきつけられて、レーニンは「経済政策の大転換を始め」る。
 ・1921年3月に開始され5月ぐらいからその政策は「新経済政策(ネップ)」と呼ばれるようになる。まずは、「割当徴発から『穀物税』(現物税)」への移行。/「現物税」を払っても農民に残る「余剰」部分は「大きくなるはず」だった。
 ・だが、「余剰」部分はどう処理するのかという「大問題」が生じる。レーニンは最初は「市場経済とたたかいながら生産物を交換」するという方式を考えたが「うまくい」かず、余剰の処理・生産物交換は「市場経済の大きな波に呑み込まれた」。
 ・上の「経験をふまえて」レーニンは、1921年10月の「モスクワ県党会議」での報告で、「本格的な転換」に踏み切った。以上、p.177-8。
 志位によると、この報告による「新しい現実に直面」してのその転換した新しい「路線」の内容は、つぎのようなもので、「市場経済=悪」論と「本格的に手を切る」ものだった、という。
 ・「市場経済そのものを正面から認めよう、認めたうえで国家の権限でそれに一定の規制を加えながら、市場経済を活用しながら社会主義への前進に向かう方向性を確保しようという路線」。
 そして、志位は、この会議での「討論」(レーニン全集収載)にも見られるように反対・不満も多かったが、レーニンは「懇切ていねいに説得的に」反論し、「市場経済を認めることが絶対に必要不可欠であることを明らかにし」た、とする。
 以上のあとで、すでに今回の冒頭で記したように、志位は、ネップ期にレーニンは「市場経済を通じて社会主義へ」という「新しい考え方」をつくった、あるいはレーニンはそういう「社会主義建設の大方向を打ち立てた」とする。
 以下(次回以降)で、不破哲三文献やレーニン全集そのものに立ち入る。
 また、前回に紹介したのは、クロンシュタットの「反乱」の前に発生していたタブロフ県地方での<農民反乱>中の(それを鎮圧するための、レーニンも許容したとみられる)トゥハチェフスキーらの「命令(指令)」の内容だが(この反乱自体に志位和夫の綱領解説は言及していない)、1920年の秋から約一年間のレーニン・ロシア共産党(ボルシェヴィキ)、そしてロシアに関する情勢あるいは諸事実にも、併せて言及する(なぜなら、不破哲三と志位和夫は具体的にロシアで生起した諸事情・事件等々の「現実」を「認識」したうえで書いているのか、という大きな疑問があるからだ)。
 1920-21年というのは、日本の大正9年-10年。
 不十分だが、年表的なものを掲載する。のちに補充していく。
 1917年8月/ケレンスキー臨時政府、憲法制定会議の選挙・招集予定を発表。
 1917年9月/レーニンがフィンランドから「蜂起」=「権力奪取」を促す手紙。
 1917年10月/ロシア10月「革命」。
 1918年2月/ブレスト・リトフスク条約でドイツと停戦。
 1918年3月/社会民主労働党・ボルシェヴィキ派から「ロシア共産党」へと名称変更。
 同/ロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国憲法発布。
 1918年5月/チェコ軍団反乱。成人男子を兵役招集、「赤軍」の始まり。
 1918年8月/ブレスト・リトフスク条約の補足条約締結。
 1918年11月/トイツ降伏により第二次大戦終結。
 1919年3月/コミンテルン(国際共産主義者同盟)結成。
 1919年春~/コルチャーク、デニーキンらの攻撃、「白軍」との戦闘(内戦)。
 1920年1月/ベルサイユ条約発効・国際連盟成立。
 1920年2月/ドイツで「国家社会主義労働者」党(ナツィス党)発足(改称)。
 1920年4月/ロシア・ポーランド戦争始まる。
 1920年8月 ?/タンボフの農民「反乱」始まる。
 1921年2月/クロンシュタットの「反乱」始まる。
 1921年3月/クロンシュタットの「反乱」鎮圧される。。
 同/ロシア共産党(10回党大会 ?)がネップ政策導入を決定。
 同/ロシア・ポーランド間でリガ条約。
 1921年6月 ?/タンボフの農民「反乱」鎮圧される。
 1921年7月/モンゴル「革命」。
 同/中国共産党創立。
 1921年10月/レーニン、<戦時共産主義>につき、「誤り」を認める。
 1921年12月/ワシントン会議による4カ国条約。日英同盟廃棄。
 1922年2月/チェカ廃止。同様の機能の「ゲ・ペ・ウ」発足。
 1922年3月/ロシア共産党第11回党大会。
 1922年7月/日本共産党結成=コミンテルン日本支部。
 1922年12月/ソヴィエト社会主義共和国連邦結成。

1403/日本共産党の大ウソ26追-宮地健一による項目別推計数。

 粛清とかテロルという語の正確な意味も問題だが、ソ連におけるとくに第二次大戦のこれらの犠牲者の正確な数も、細かく特定することは永遠にほとんど不可能なのかもしれない。
 第26回で引用した稲子恒夫が示す数字自体は正確だと思われる。しかし、それらは「国家保安委員会の(秘)保存文書によるが、実際は赤色テロではるかに多数の者が裁判なしで銃殺」とされているように、裁判手続を経ない殺戮もあるし、明らかに政策的な(明かな政策に原因があると見なしうる)飢餓による死者もある。
 いろいろな書物が-とくにソ連崩壊後に明らかになった資料による文献は-「共産主義」による犠牲者の数を推測している。稲子恒夫が示す数字も基礎になりうる。
 白井聡のように犠牲者数が<ナチズムのそれよりも多い>と言いたいだけだと<統計数>を馬鹿にするのは、自らの、多数の犠牲者に対する無感覚、人間的な「感情」のなさを暴露していると思われる。
 多数の知り得た文献による推計数を、一回だけで逐一紹介する余裕はない。
 今回は、宮地健一「『赤色テロル』型社会主義とレーニンが『殺した』自国民の推計」幻想と批評第1号(はる書房、2004)にもとづいて紹介する。
 日本共産党・不破哲三はレーニン期とスターリン以降の時代を明確に区別しなければならないと強調するが(なぜか、ブレジネフ以降とかゴルバチョフ期とかいった区分をしない)、宮地は上の論考で、この区別を意識して ?、レーニン期に<レーニンが殺した>犠牲者数を「推計」することを追究している。
 宮地健一はソ連崩壊後に発掘・公表された「レーニン秘密文書」の大量データを不十分かもしれないが見ているようだ。
 詳細は「宮地健一のHP」を見ていただく方が早い。
 88-89頁の表の引用・紹介も省略して、そのあとの各見出しを少し修正したものだけを、紹介しておく。説明・根拠等は本文内にある。推計数字は「肉体的殺人と政治的殺人」の両者を含んでおり、かついわゆる<白軍>との「内戦」による死者数を含んでいない、とされる。
 時期は、1917年12月の「チェカ」(政治秘密警察-KGB等の前身)創設~1922年12月のレーニンの政治活動の実質的停止、の間。
 ①反乱農民-「数十万人」殺害。
 ②兵役忌避の脱走兵・徴兵逃れ-「十数万人から数十万人」銃殺・殺害・人質。
 ③コサック身分農民-「三〇~五〇万人」殺戮・政策的餓死。
 ④ペトログラードのストライキ労働者-「五〇〇〇人」逮捕・「五〇〇人」即時殺害。
 ⑤クロンシュタットの水兵・住民-「五万五〇〇〇人」殺戮・銃殺・強制収容所送りによる殲滅。
 ⑥聖職者(ロシア正教等)-「数万人」銃殺/信徒-「数万人」殺害。
 ⑦反ソヴェト知識人-「数万人」肉体的排除。
 ⑧カデット・エスエル・左派エスエル・メンシェビキ・アナキスト-カッコ付き「数十万人」。
  *最終的に「スターリンは、粛清により、これら百数十万人の全員を、亡命した者以外、一人残らず殺害した」(p.101)。
 ⑨飢饉死亡者-「五〇〇万人」。
  *「飢饉死亡者500万人とウクライナの死者100万人」は定説で、「ランメルは…、意図的政策による餓死者数を250万人としている」(p.101)。
 以上によって、宮地は、レーニンが、「最低値として、数十万人を肉体的・政治的な国家テロルの手口で殺したことは間違いない」とする。
 これらの<最高値>は、秋月によると、数百万人になるだろう。
 かりに「最低値」によるとしてすら、レーニン期は5年余なので、単純に5で除して、総計20万人だと毎年平均4万人、総計30万人だと毎年平均6万人、総計50万人だとすると毎年平均10万人を<レーニンは殺した>ことになる(レーニンによる直接指示のほか、、レーニンをトップとする共産党政治局決定による指示を含むはずだ。上記のとおり「内戦」-そして「対外(干渉)戦争」-の戦死者を除く)。
 これは愕然とする数字に違いない。そして、スターリン期にはこれの何倍・何十倍かの規模で<粛清・テロル>が行われた(宮地p.75は論考冒頭で「スターリンは4000万人の大量粛清をした犯罪者だ。しかし、レーニンは偉大な革命家、愛情あふれる、人間味豊かなマルクス主義者で、大量殺人などしていない、と信ずる日本人はまだ大勢いる。ほんとうにそうだったのか」、と書き始めている)。

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