秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

クルーゲ賞

1904/NYタイムズ2004.02.14の記事-L・コワコフスキ。

 Leszek Kolakowski の第一回Kluge 賞受賞はアメリカのメディアの関心を惹いたようで、翌2004年の2月14日付The New York Times は、Oxford まで記者を派遣して(又はロンドン在住の記者によって)一部は明瞭にL・コワコフスキからのインタビューから成る記事を掲載している。
 上記期日のThe New York Times(Online)から試訳する。記者はSarah Lyall。
 L・コワコフスキの評価は彼の書物自体の内容によって行うべきことは明らかだ。
 しかし、その<人物>にも関心は向かうのはやむをえず、とくにL・コワコフスキの場合は、例えばつぎのような疑問が生じ、知りたくなる。
 ①ポーランド出国の詳細な経緯。
 ②例えば、強制的国外追放という制裁が「法的に」は想定し難いとすると(シベリア流刑とは異なる)、どのようにして国外に移ったのか。家族はいたのか。家族はいたとすれば、彼らも一緒だったのか、等々。
 ③L・コワコフスキの「連帯」運動への影響というのは、より詳細にはいかなる態様、内容のものだったのか。
 これらのうち、上の②の一部は、以下の記事によって判明する。
 その他の①について、相当に参考になる情報・知識をネット上で得たが、以下では明瞭ではない。
 さらに、上の③は私にはまだほとんど分からない。なお、ポーランド青年たちを「目覚ました」とされる1971年の小論<希望と絶望について>は、ネット上にフランス語→英語版が掲載されていたが、読んでいない。
 なお、以下で言及されている1960年代の"社会主義とは何か"は、長い論文ではなく標語の羅列のようなもので、のちの彼のエッセイ集にそのまま収載されている。
 また、手元で確認できていないが、日本では加藤哲郎が、何かの本でこの「社会主義とは何か?」に気づいてそのまま紹介、掲載していた。その元の本自体も不明なので、別の機会にこの欄に記す。
 加藤哲郎がその後ひき続いて、このポーランドの「レシェク・コワコフスキ」に対する関心を維持しなかったのは、間違いないように思える。
 その他のコメントは避ける。この記事の内容も、興味深いものがある。
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 The New York Times/2004年2月14日付。
 哲学者が変化をもたらすとき。

 記者・Sarah Lyall。
 連邦議会図書館が76歳のポーランド人哲学者のレシェク・コワコフスキに初めて語りかけたのは、100万ドルの新しい人文社会科学賞の候補に指名された、と伝えるためだった。
 のちに彼自身がその賞を受けたと伝えられたとき、彼はこのときのことを思い出した。//
 コワコフスキ博士は驚いたのだとすれば、ほとんどのアメリカ人はたぶん当惑しただろう。彼の名前は合衆国では十分に知られていなかったのだから。
 しかし、図書館長の James H. Billington 博士は、三ヶ月前の発表の際に、なぜこの哲学者が人文学および社会科学での生涯にわたる業績に対する初代のJohn W. Kluge 賞に選抜されたかを知りたい人々のために、つぎのように説明した。
 「これほどの広さで洞察しその時代の大きな政治的事件に重要な影響を与えた、奥深く熟考する思索家を、他にはほとんど誰も見出すことができない。」//
 ポーランドで生まれ、1960年代に、増大していた反正統派信条を理由として大学での地位と共産党から追放された。
 国外でのコワコフスキ博士は、1980年代のポーランド連帯運動の重要人物になった。
 三巻にわたるマルクス主義の分析作業、"マルクス主義の主要潮流" (1978年)は、その主題にかかる決定的著作だと考えられている。
 しかし、彼は明快で魅力あふれたエッセイ著述者でもあり、その書物や著作はSpinoza、Kant、モダニズム、権威と自由意志および日常生活での哲学の意味といった主題にかかわっている。//
 このような素晴らしい諸業績があるにもかかわらず、コワコフスキ博士は穏やかな人物のままであり、個人的な質問から逸らせた。
 「あなたは、私の人生について知らなくてもよいです」。
 彼は、数年前までAll Souls College の主任研究員だったOxford の北郊にある自宅の居間で、コーヒーをすすりながら、そう言った。//
 同じように、最近の受賞の報せにどう反応したかにも触れたくはないようだった。
 いや、そうだ。お金はどうしますか?
 彼はカップに目を落とし、悪戯っぽい笑いを浮かべて、言った。
 「金を使うことに、大きな問題は全くないです」。//
 コワコフスキ博士-その名は、LESH-ehk ko-wah-KUHV-skee と発音される-の人生は、二度、引き裂かれた。先ず、ナツィズムによって、次いで、共産主義によって。
 知識人の子息だった彼は、ドイツによる侵略のあと、家族とともに何度も中央ポーランドの町や村へと転居させられ、学校に通うことは禁じられた。彼は語った。
 「ドイツ人はポーランド人のための学校を閉鎖しました」。
 「ドイツ人のための豚飼いであるポーランド人を読み書きができないようにしておくというのは、素晴らしい考えでした」。//
 にもかかわらず、彼は多数の本をこっそりと読んで勉強し、戦後には、ワルシャワ大学から哲学で博士の学位を得た。
 最初は、ナツィズムの解毒剤として、そしてうむをいわさぬユートピア理想として、教条的マルクス主義を受け入れた。彼は、こう説明した。
 「私はポーランド文化にある一定の伝統-右翼、聖職主義、反ユダヤ-をひどく嫌いました。そして、戦争中に左翼の環境(milieu)の中に入りました」。
 「ドイツのもとでの恐怖の5年間のあと、われわれは、赤軍を解放者として歓迎しました」。//
 彼が語るには、そのあと、彼が信じて誓約したものはそう主張していたものではない、ということに気づくことができた。
 1950年に、有望な青年マルクス主義知識人のための企画の一環として三ヶ月の間モスクワに行って初めて、彼はイデオロギー的に目覚め、マルクス主義の豊かなイデオロギー上の修辞は薄っぺらで皮肉に満ちた現実と食い違っていることを発見した。//
 「文化的頽廃-ソヴィエトの科学とイデオロギーの指導的著名人の知的生活の貧しさ、芸術等々の貧しさ-が、分かった」、と彼は語った。//
 ポーランドに戻って、彼はワルシャワ大学での経歴を登り、最後には哲学史部門の講座長になった。一方では、マルクス主義を辛辣に攻撃した。また、しばしば風刺的に著述したことによって、彼はますます既成組織集団(establishment)には相容れないものになった。
 彼は人間主義的社会主義または社会主義的人間中心主義を擁護して議論することを始め、改革を支持して運動する知識人たちでが起こしていた「ポーランドの十月」運動を背後で支える指導的思考家になった。//
 コワコフスキ博士の影響力あるスターリン批判、"社会主義とは何か"は、多数ある著述の中でもとくに、政府によって発表が禁止された。しかし、幻滅していたその他の知識人たちの間には広く流通した。
 1966年に党から除名され、その二年後に、大学での仕事を奪われた。
 そして、精神病理学者の妻、妻との間の一人の娘とともに国を去り、Montreal のMcGill 大学の客員教授職を得た。彼は、つぎのように語った。
 「ポーランドにいなくなるのは2年だろうと想定していた。しかし、20年に延びた」。//
 1970年代および1980年代にポーランドで反対運動が力強くなり始めたとき、コワコフスキ氏の著作はポーランドの運動に対して中枢的な(pivotal)影響力をもち、とくに1981年に発布された戒厳令のあとでは、国外での運動を活気づける効果をもった。
 しかし、自分は著作物や政治的動きが影響力をもった多数の知識人の一人にすぎない、自分のしたことは「わずかな奉仕」だ、と言って、彼は自分の役割を軽く扱った。//
 あるときに、彼は英語で口挿んだ。-「私は一つの言葉しか持たない-ポーランド語だ。多数の言語で話すふりをしている(pretend)けれども」。
 (英語以外に、フランス語、ドイツ語およびロシア語だ。)//
 共産主義体制の解体について、コワコフスキ博士はこう語った。
 「このイデオロギーは、人々の思考(thinking)を型に入れて作るものだと考えられていた。しかし、ある時点で、きわめて弱くて馬鹿々々しいものになり、結果として、誰も、被支配者も支配者も、信じないようになった」。//
 コワコフスキ博士は、共産主義の崩壊とともに、Spinoza を含む初期の関心へと立ち戻った。
 彼は、哲学の歴史や宗教の歴史、倫理および形而上学に関する書物を執筆した。
 彼の著作は16世紀と17世紀のヨーロッパのキリスト教運動の歴史的検証から、風刺劇の脚本や寓話的童話にまで及んでおり、その寓話では彼はとくに、旧訳聖書から現代の弁証法的理性までの物語を主題にした。
 "悪魔との対話"(1972年)という初期の書物では、狡猾な魔王(Satan)は神話や歴史上の人物たちと討論する-Orpheus, Héloïse、Luther、St. Peter the Apostle、St. Bernard -。さらには「形而上学的新聞社大会」への参加者とも。
 最新の著作である"スピノザに関する二考と哲学者たちに関するその他のエッセイ"は、まもなく店頭に並ぶはずだ。//
 批評家のGeorge Gomori は、コワコフスキ博士について、こう書いた。
 「これが十分に、彼のメッセージの要点であるかもしれない。すなわち、真実と権威の双方を、貴方は愛することはできない
 ドグマに囚われず、貴方自身がもつ前提を頻繁に再思考して、貴方は選択しなければならない。
 コワコフスキは、大人のための哲学者だ」。
 その書いたものは実際上は難解であることがある多数の今日の哲学者たちとは対照的に、コワコフスキ博士は、学界に属していない者ですら平易に理解することができるように書く。//
 連邦議会図書館のScholarly programs の長であるProsser Gifford 博士は、コワコフスキ博士にKluge 賞を授賞することに最終的には決した選考過程を統括した。彼は、こう言った。
 「学界の仲間たちを、こき下ろしたくはない。
 しかし、ある範囲の側面での近年の人文社会科学は、きわめて奥義的(arcane)になっていて、専門家的隠語(jargon)でいっぱいだ。」
 「我々は、基礎的な諸問題を対象にして研究している。そしてそれらは、学界人ではなくそうした作業に職業的に関与していない人々にも理解可能なものであるべきだ。
 コワコフスキ博士は、それをしている」。//
 コワコフスキ博士はまた、答え難い質問にも尋ねる価値があると認める、無邪気とも言える率直さでも目立っている。
 例えば、"形而上学的恐怖(Metaphysical Horror)'' (1988年)で彼は、「ありえない疑問」に対する人々の恐怖を戯れ的に描き、ある意味では彼の生涯の作業を、この書物の最初の一行にまとめている。
 「似而非専門家(charlatan)だという感情を決して抱いたことのない今日の哲学者たちは、薄っぺらな心性しかもたないので、その著作はたぶん読むに値しない」。
 上のような見方について質問されて、彼は笑った。そして、ときどきは彼も似而非専門家のように感じるけれども、としつつ、こう語った。
 自分の似而非専門家的思考は、「似而非専門家ですら、有用な役割を果たすことができるという感情」でもって均衡が保たれている、と。
 コワコフスキ博士によると、根本的な諸問題を検討することは、それぞれの時点ではいかに無益で虚しいことのように見えるとしても、経験にとって根本的なことだ
 彼は語った。「形而上学上の、認識論上の、倫理上の諸問題を発するのは、人間の精神(mental)の抑え難い欲求だ。
 それについて思考するのが幸福だ、というのではない。そうした諸問題そのものが、抜け出すことが困難だからだ。」
 付け加える。「決定的に明確な回答はない。
 しかし、そうした諸問題に接近することによって、望む目標地点に到達しなかったとしても、正しい(right)途の上を進んでいるという感情を得ることができる」。
 彼は語った。「にもかかわらず、そうした場所(position)は、劇的で面白いものではない
 戦慄にみちたものでもない。
 人は、そうした場所で生きることができる。」
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 以上。

1901/Leszek Kolakowski-初代クルーゲ賞受賞者。

 Leszek Kolakowski は、アメリカの連邦議会図書館によるクルーゲ賞の第一回の受賞者だった。
 と言っても私は全く知らなかったのだが、このクルーゲ賞は、人文社会科学のうちでノーベル賞の対象になっていない分野(というと経済、文学(、平和)以外)の傑出した研究者に与えるべく設定されたもののようで、2003年が第一回。日本の人文社会科学の研究者は、はたして候補者にでもなったことがあるのかどうか。
 クルーゲ(John W. Kluge)というのは個人名で、以下によると、財政支援者のようだ。
 先走って書くと、L・コワコフスキが受賞したからといって<反共産主義>の鮮明な性格の賞ではないようで、のちにはドイツのJ・ハーバマス(Jürgen Habermas)も受賞している。
 以下に試訳を紹介しておくのは、レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)への授賞と選考過程を伝える、同図書館報(Bulletin)。
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 アメリカ合衆国・連邦議会図書館報(Bulletin)2003年12月。
 /執筆者-Gail Finberg 〔館員で編集スタッフとみられる〕。
 ***
 A/授賞式の模様。
 レシェク・コワコフスキ、76歳、学者、哲学者、歴史家および才幹溢れる著述者で、その諸著作が母国ポーランド内部での反全体主義の若者の運動を教示し喚起させた人物が、人文社会科学での生涯にわたる業績に対して、第一回のJohn W. Kluge 賞を授与された。//
 100万ドルの賞金が、人文および社会科学-ノーベル賞の対象でない分野-での生涯の業績に対して、連邦議会図書館によって与えられる。
 この分野は、哲学、歴史、政治学、人類学、社会学、宗教学、言語学および芸術・文学評論を含む。//
 <つぎの3段落省略-*要旨-図書館長は、この賞はアメリカで、ワシントンで、Kluge センターの本拠であるこの図書館で授与するのがふさわしい、と語った。>
 図書館長Billington は受賞者を紹介して、語った。
 「レシェク・コワコフスキは…人間の思想についての歴史家、…非常に広い範囲でのエッセイ著述者です。
 自由がポーランドに始まっていたとき、ようやくこの人物の名前を発することがその国で可能になったそのときに、国民たちは彼を『ヨーロッパ文化の理論家』だと称しました」。//
 受賞者は30以上の書物および、多様な方式と四つの言語-先ずはポーランド語、ついでフランス語、英語およびドイツ語-での400以上の「あらゆる種類の対象に関する」論文の執筆者だと、館長は述べた。
 受賞者の主要な研究対象は哲学の歴史および宗教哲学だった、とも。//
 「彼はソヴィエト体制の内部から、その体制の奥にあるイデオロギーの知的頽廃、自由と多様性に対する寛容、および卓絶への絶えざる追求の必要性を明らかにしてきました」、と館長は述べた。
 「この人物は、ほとんど全てのことに関して執筆し、つねに、人間の条件にとって根本的に重要な諸問題に焦点を当てました」。//
 館長は、「彼は、二〇世紀後半の最も重要な事件-ソヴィエト体制の内部崩壊と平和的で非暴力的な終焉-の背後にいた、最も重要な一人の思索者(single thinker)でした」、と続けた。
 「ポーランドの連帯運動は、彼を頼って見つめていました。
 彼は、絶望に対して希望を注入し、恐怖を希望に取り替える、甚大な影響力をもちました。
 希望に関する彼の偉大な1971年の小論は、ポーランドの若者たちの運動の決定的な開始点であり、それが<連帯>へと流れ込んでいきました。」//
 「彼はヒューマニストで、哲学者で、文化批評者で、知性の歴史家であり、大きな諸問題を知的誠実さと深さでもって探求しました。その知的な誠実さと深さこそが、我々がKluge 賞でもって栄誉を与え、この国の最古の連邦文化施設にあるKluge センターに歓迎しようとしてきたものです」、と館長は語った。//
 選考過程に簡単に論及して館長は、こう語った。世界じゅうからの候補指名者たちは、人文学またはその近接した関連分野での業績が同学者たち(peers)によって優れていると承認され、別の分野や公的世界の人々に対して訴えかけるもののある傑出した学者を推薦するように、求められた、と。
 館長は、賞の支援者であるKluge は選抜に関与しておらず、とりわけ最初の受賞者が誰なのかを知らないように求められた、と述べた。//
 コワコフスキは館長Billington およびKluge 賞の初代の選抜に責任ある全ての人々に対して謝辞を述べ、Kluge に暖かく挨拶した。
 「彼は『kluge(賢明な)』人です」と、彼は言った。//
 <つぎの4段落省略>
 コワコフスキは公式の挨拶を水曜の夜に行った。そのときに彼はKluge賞を受けたが、その儀式はCoolidge Auditorium で行われ、著名人の中ではとくに、ノーベル賞の母国であるスウェーデンの皇太子Victoria 〔女性〕が同席した。// 
 B/選考過程。
 レシェク・コワコフスキをKluge賞に選抜するまでの過程は、二年前から始まった。世界じゅうの2000人を超える人々による候補者指名の要請とともに。すなわち、大学や優れた研究所の学長または理事長、人文学および社会科学の英れた仕事を評価する地位にいる広くかつ多様な著名研究者の人たちへの要請によって。
 この候補者指名その他は、別の多数の研究者たちによって、確認(review)されていた。
 図書館の専門家職員たちは、被指名者に関する経歴や資料を提供した。そして、2002年9月に、図書館の研究者会議(Council of Scholars)は、その確認(review)を行った。
 特定の分野、科目、文化および言語に精通した外部の検討者たち(reviewers)は相談を受け、過程全体に関する評価書を書いた。//
 選考過程の最終段階は、賞候補者14名から成る被選抜者たちを評価するための、特別の外部的審査員団を招集した2003年9月の会合だった。
 多様な高度の学術的選考手続に習熟している5名の傑出した研究者が、最終的な審査員団を構成した。
 これらの人々は、つぎのとおり。// 
 David Alexander。Pomona College in California の名誉学長、the Phi Beta Kappa Fellows の副所長、かつてthe Rhodes Trust のアメリカ事務局長、Oxford からの博士学位は宗教と哲学。//
 Timothy Breen。Northwestern University の米国史の教授、Yale での博士学位取得ののち、Princeton, N. J. のthe Institute for Advanced Study およびthe National Humanities Center in Durham, N.C.で勤務してきた。//
 Bruce Cole。The National Endowment for the Humanities (NEH) の現在の議長。Indiana University in Bloomington で芸術と比較文化の優れた教授だった。博士学位は、Bryn Mawr College in Pennsylvania から。//
 Gertrude Himmelfarb。The Graduate School of the City University of New York の歴史の名誉教授で、17-18世紀の精神史および文化史の研究者、the British Academy and the Royal Historical Society の主任研究員。//
 そして、Amartya Sen。英国のTrinity College, Cambridge University の修士で、2004年にHarvard 大学の経済および哲学の教授になるだろう。ノーベル経済学賞の受賞者の一人。インド・カルカッタのPresidency College とCambridge で教育を受けた。//
これら5名の審査員団による討議と推薦は、館長に最終的な選抜を答申するうえでの決定的な要因(key factor )だった。
 第13代図書館長Billington は、かつてPrinceton University の歴史の教授で、the Fulbright 〔フルブライト〕Program を指揮する委員会の議長、かつthe Woodrow Wilson International Center for Scholars の理事長。//
 この図書館のScholarly Programs at the Library の長であるProsser Gifford は、Kluge賞の選考過程全体を統括した。
 彼は、三大学を、人文社会科学の三つの異なる分野で卒業し、かつてfaculty at Amherst College の学部長かつthe Wilson Center の副所長だった。//
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 以下は、連邦図書館サイト上のL・コワコフスキらと、同時期に訪れたホワイト・ハウスでの写真(これはWhite House が発表)。いずれも「公」的なものだ。2003年時点でのブッシュ大統領との写真は、ブッシュらを嫌悪する人たちがL・コワコフスキを「その仲間」だとして利用していることがある。
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