秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

クラージン

2575/R・パイプス1994年著第8章(NEP)第12節①。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第8章の試訳のつづき。第12節へ。
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 第8章
 第12節・ラパッロ(Rapallo)①。
 (01) 1920年代の(そしてこの問題では1930年代の)ソヴィエトの外交政策は、ドイツに焦点があった。ドイツは、つぎの革命の地域で、かつソヴィエト・ロシアの原理的敵対国のイギリスやフランスに対抗する潜在的な同盟相手だと見られていた。
 モスクワは同時にこの二つの目標—転覆と協力—を追求した。これらは相互に排他的で、そのことによってヒトラーによる権力への進軍への途を掃き清めたのだったとしても。//
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 (02) ヴェルサイユ後の国際関係の最も重要な事件は、アメリカが国際連盟への加入を拒んだことに次いで、Rapallo 条約だった。この条約で、ソヴィエト・ロシアとヴァイマール共和国は、Genoa での国際会議を経て、予期していなかった世界を驚かせた。//
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 (03) Genoa での会議は、二つの目的をもって開催された。
 ヴェルサイユで未解決のまま残された東欧と中欧の政治的、経済的問題を処理すること、ロシアとドイツとを国際社会へと再統合すること。—両国への招待状は第一次大戦の終焉以降それらが初めて受け取ったものだった。
 同盟政治家たちの副次的な関心は、ロシア・ドイツの潜在的な親交関係の成立を事前に防止することだった。彼らには、それは懸念すべき脅威だった。
 そのように判明したが、Genoa 会議は目標を一つも達成できなかった。その唯一の成果は、まさに阻止しようとしていた、ソヴィエト・ドイツの親交関係の成立だった。//
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 (04) ドイツには、ソヴィエト・ロシアと妥結すべき大きな理由があった。
 一つは、通商上の望みだった。
 ドイツは伝統的に、ロシアの主要な取引相手だった。
 二つの経済は、ロシアには豊富な原料があり、ドイツにはロシアが必要とする高い技術と経営技量がある、という点で、よく適合していた。
 ドイツの実業界は、戦後世界が「アングロ-サクソン」諸国に支配されているのは確かだが、ドイツが発展余地のある経済を維持していくための唯一の希望はモスクワとの緊密な関係のうちにある、と感じていた。
 NEP の導入は、このような協力関係を展望する見込みを可能にした。
 ドイツの実業家たちは、1921-22年に、ソヴィエト・ロシアとの通商関係の発展に関する野心的な計画を立てた。ロシアを潜在的な植民地のごとく位置づけるものだった。(注229) 
 彼らは、北部ロシアとシベリアの広大な森林、シベリアの鉄鉱や炭鉱を利用する見通しに夢中になった。それらは、Alsace とLorraine の喪失を埋め合わせてくれるだろう。(注230)
 ペテログラードをドイツの技術的、財政的援助でもって海運と工業の中心地に変える、という壮大な企画が語られた。
 両国の通商交渉は、1921年早くに始まった。それは、ロシアに投資する外国企業をレーニンが招待したことに由来した。(注231)
 ドイツの産業界の幹部たちはKrasin に、ロシアの基幹部門のいくつかの管理と引き換えに、ソヴィエト経済の再建を助ける大規模の投資を呼びかける提案を行なった。(注232)//
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 (05) しかし、通商上の利益は、地政学的な考慮、すなわち、ソヴィエト・ロシアの助けがあって初めてドイツはヴェルサイユで課された足枷を断ち切ることができるという確信、に次ぐ位置にあった。
 ドイツ人の多数、おそらく大部分は、講和条約の条件は屈辱的かつ重いもので、免れるためには何でもする用意があると、考えていた。
 条約が課した義務履行をしたがらないこと(あるいは、ドイツが言ったように、その能力がないこと)は、フランスの報復を挑発した。これが、親西欧のドイツの政治家の立場をさらに悪くした。
 このような状況のもとで、ドイツのnationalist 社会は協力者を探し求めた。そして、共産主義ロシア以外に、連盟諸国からよそ者として非難されていたもう一つのこの大国以外に、この役割をよりよく果たす者があっただろうか?//
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 (06) Genoa 会議は、ソヴィエトの外務人民委員のGeorge Chicherin の声明によって促進された。1921年10月28日のそれは、こう述べた。
 ロシア政府は、一定の条件のもとで、「1914年以前にツァーリ政府が締結した国家借款から生じる他の国家や国民に対する義務の存在を認める」用意がある。
 彼は、「国際会議に、…ロシアに対する諸大国の請求権を考慮し、それらとの間の明確な条約を作成する」ことを提案した。(注233)
 Lloyd George は、この宣言はロシア革命で生じている問題を最終的に解決する魅力的な機会になる、と考えた。
 1922年1月6日、連盟最高会議は、押収や留保によって侵害された財産上の権利の回復も含めて、中欧と東欧の経済再建を考える国際会議を開催すると決議した。//
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 (07) 既に述べたことだが(第四章)、Hans von Seeckt が率いたドイツの将軍たちは、1919年の冒頭に共産主義ロシアに対する裏口の回路たる役割を果たした。
 ソヴィエト・ドイツ軍事協力関係へと至る決定的歩みは、NEP 政策導入とポーランドとの戦争終結のためのRiga 条約の締結がつづいた1921年の春に、すでに採られていた。
 レーニンは、赤軍がポーランドに対して示す無気力さに驚きかつ心配して、ドイツに軍隊の近代化への助けを求めた。
 この分野では、両国の利害は合致した。ドイツにとって、軍事的協力関係に入るのは望ましかった。
 ドイツは、ヴェルサイユ条約の条件として、近代戦争に不可欠の兵器を製造することを禁じられていた。
 ソヴィエト・ロシアの側は、そのような兵器も欲しかった。
 こうした共通する利害にもとづき交渉が行われ、やがてつぎのようになった。ロシアは、ドイツが先進兵器を製造して検査する安全な場所を提供する。その代わりに、ドイツは、赤軍が使う装備を提供し、訓練を行う。
 この協力関係は、1933年9月まで、すなわちヒトラーが権力を掌握して9ヶ月後まで、続いた。
 両国の軍隊にとって、多大なる利益だった。
 協定期限がついにやってきたとき、当時は戦時人民委員代理だったTukhachevskii は、モスクワにいるドイツの臨時代理公使に、「ドイツの遺憾な進展にもかかわらず、ドイツ国軍が赤軍の組織を決定的に助けてくれたことは、決して忘れ去られないだろう」と言った。(注234)(*)
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 (脚注*) すぐ前の1933年5月、ナツィ・ドイツとの軍事協力関係がまだ現実的に見えていたとき、Tukhachevskii は訪問したドイツ代表団に、こう言った。「あなたがたと私たち、ドイツとロシアは、我々が協同するならば世界を我々の考え方で支配することができるということを、つねに心に留めておこう」。Iu. L. Diakov & T. S. Bushueva, Fashistkii mech kovalsia v SSSR (1992), p.25.
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 (08) レーニンは、1921年3月半ばに、赤軍の再編成を助けてくれるよう、ドイツ軍に正式に要請した。(注235) 
 Seeckt は、このような進展を予期して、いくぶんか前に、ドイツ国防軍の内部に「特殊集団 R」を組織していた。これは、ロシア人と付き合った経験のある将校たちに補佐された内密の部隊だ。
 レーニンが要請したあとで、交渉は迅速に進んだ。
 4月7日、Kopp はベルリンからトロツキーに、ドイツ「集団」は生産のための技術人員と製造設備を用意するために、三つのドイツ兵器製造会社をかかわらせることを提案した、と伝えた。—Blöhm & Voss、Albatrosswerke、Krupp。三社それぞれが、潜水艦、航空機、大砲と砲弾の生産。
 ドイツはモスクワに対して、これらの工業の建設のための信用借款と技術的援助の両方を提供した。これらは、赤軍とドイツ軍の双方に同時に役立つはずだった。
 レーニンは、Kopp の報告を是認した。(注236) 
 やがて、「特殊集団 R」の代表者たちがモスクワに到着して、支局を開設した。
 ドイツ側は、厳格な秘密性を強く要求した。
 この協力関係は首尾よく隠蔽されたので、一年半の間、ドイツの社会主義者大統領のFriedrich Ebert は知らなかった。彼がSeeckt から聞いて知ったのは1922年11月で、そのときに遅れて同意した。(注237)//
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 (09) ソヴィエト・ドイツの政治的協力関係は、1921年5月に決定的な方向へと向かった。連合国がドイツの賠償金支払いの改訂要請を拒否したあとでだ。
 ドイツのほとんどの保守主義者と民族主義者たちは上機嫌で、ロシア共産主義者と共通する信条を掲げることで、連合国に制裁を加えようとした。//
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 (10) このような友好関係へのソヴィエトの関心には、明確な動機があった。すなわち、政治や軍事に加えて、経済だった。
 レーニンは、ソヴィエト経済の再建には西側の資本とノウハウが必要であり、これらを最も容易にドイツから得ることができる、と考えた。
 連合諸国はソヴィエト・ロシアとの通商を望んだが、借款問題が満足な結果を得て解決するまでは、信用貸しをするつもりがなかった。
 この問題はロシア・ドイツ関係には大きな障害ではなかった。ソヴィエトの債務不履行と国有化によって被ったドイツの損失ははるかに少ないもので、いずれにせよ、両国の1918年〔ブレスト=リトフスク〕条約の定めでもって実質的には補償されていた。
 連合国・ソヴィエト間の通商のもう一つの障害は、ソヴィエト各省は西側の個々の会社ではなく合弁企業と交渉をすべきだ、という連合諸国の主張だった。  
 これはモスクワの気には全く召さなかった。外国企業を相互に競わせるのを好んだからだった。
 連合諸国とは対照的に、ドイツは、ロシアが一対一でドイツの企業と交渉することに異議を挟まなかった。Rathenau は実際に、ドイツはモスクワの同意なしにはどの合弁企業にも参加しない、とRadek に約束した。(注238)//
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 (11) 9月21日と同24日、Krasin は、Seeckt の副官の一人である参謀部からのドイツ人将校と、ロシア・ドイツの軍事協力に関する詳細を詰めるために逢った。(注239)
 Krasin は、レーニンに報告したとき、金儲けだけ考えて連合国に簡単に脅かされるドイツの銀行家や実業家を巻き込んでも無駄だ、という考えまで述べた。「真剣に復讐を考えている」ドイツ人と交渉するのが最も好い。
 協力関係は、ドイツ政府からは厳格に秘密にされ、その情報は軍部にだけに限定された。
 ドイツは、ソヴィエト・ロシアで企画されている軍需産業を動かす技術者
や経営要員はもとより、財政援助も提供することになるだろう。彼らの公式な監督は、ソヴィエトの「トラスト」に委ねられる。 
 Krasin によると、計画の全体が赤軍の近代化の努力だと偽装されており、現実的かつ直近の目的は、ドイツが数百万人の軍に先進的で禁止されている兵器を装備させないことにあった。//
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 後注
 (229) Rolf-Dieter Müller, Das Tor zur Weltmacht (1984), p.50-p.60.
 (230) Ibid., p.46-47.
 (231) Lenin, PSS, XLII, P.55-p.83; 初出、1963年。
 (232) R. G. Himmer in Central European History, Vol. 9, No. 2, (1976), p.155.
 (233) Correspondence with Mr. Krasin Respecting Russia's Foreign Indebtedness, Parliamentary Papers, Russia, No. 3, Cmd. 1546 (1921) , p.4-5.
 (234) Dispatch of 1933.12.6. in Department of State Documents on Germn Foreign Policy, Series C, Vol. II (1959), p.81.
 (235) Gerald Freund, Unholy Alliance (1957), p.92n. さらに、E. H. Carr, The Bolshevik Revolution, III (1953), p.361-4 を見よ。また、Deutscher, Prophet Unarmed, p.57-58.
 (236) TP, II, p.440-3.
 (237) Freund, Unholy Alliance, p.149.
 (238) PTsKhIDNI, F. 5, op.1, delo 2103, list 84, F. 2, op.2, delo 1124.
 (239) Ibid., F. 2, op.2, delo 897,933,939.
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 ②へと、つづく。

1470/第一次大戦と敵国スパイ④-R・パイプス著9章10節

 前回のつづき。かつ、とりあえずの(第9章の試訳の)最終回。
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 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源。
 第10節・ツィンマーヴァルト・キーンタールおよび敵国スパイ。

 1916年4月に、ツィンマーヴァルト会議の続きが、ベルン高原地方のキーンタールで開かれた。
 この会合は社会主義インター委員会により招集され、三年目に入ろうとしている戦争について議論をした。
 インターナショナルの平和派を代表する参加者は、ツィンマーヴァルト左派に従うことを再び拒否した。しかし、前年よりさらに左派に対して柔軟になった。
 会議は『平和問題へのプロレタリアートの態度』という決議で、資本主義の基盤での戦争を非難し、『ブルジョア的であれ社会主義的であれ、平和主義は』人類が直面している悲劇を解消することができない、と強く主張した。//
 『資本主義社会が永続する平和の条件を提示できないならば、その条件は社会主義によって提示されるだろう…。
 <永続平和を目指す闘いは、ゆえに、社会主義の実現を目指す闘いでのみありうる。> 』(133)
 これの実際的な帰結は、『プロレタリアートは即時休戦と講和交渉の開始を求めて呼びかけるべきだ』ということだった。
 再び言おう。反乱を起こすことや銃砲をブルジョアジーに対して向けることの呼びかけではない。しかし、このような行為は決議の前提から排除されてはおらず、多くのことはその中に暗に含まれていたと言うことができるかもしれない。
 ツィンマーヴァルトでしたように、レーニンは、つぎのようなプロレタリアートへの訴えで締め括る、左派のための少数派報告書を書いた。
 『武器を置け。その武器を、共通の敵(foe)-資本主義政府に向けよ。』(*)
 レーニンの声明文の下の(44人の参加者のうちの)12の署名者の中には、ラトヴィアを代表するジノヴィエフ、オランダのそれのカール・ラデックがあった。
 ジノヴィエフの草案にもとづく『社会主義インターナショナル事務局(Bureau)』に関するキーンタールの鍵となる決議は、左派の要求をほとんど満たすもので、この組織がいわゆる<祖国防衛と公民の平和>政策の共犯者に変わることを非難し、また、つぎのように論じた。//
 『インターナショナルは、<プロレタリアートが全ての帝国主義者と狂信愛国主義者の影響から自らを解放し、階級闘争と大衆行動への途を進むことができる>まで、その明確な政治力を有するに至ってのみ、解体を免れることができる。』(134)//
 インターナショナルの分裂を求めるレーニンの主張は再び敗北したけれども、会議が終わったあとで、右派のメンバーの一人、S・グルムバッハは、なおもつぎのように述べた。
 『レーニンとその仲間たちは、ツィンマーヴァルトで重要な役割を果たした。キーンタールでは<決定的な>役割を果たした。』(135)
 じつに、キーンタールの決議は、レーニンが創設した第三インターナショナル〔共産主義インター=コミンテルン〕の基礎作業だった。//
 1915-16年におけるツィンマーヴァルトとキーンタールでのレーニンの成功は、社会主義者たちを言葉上だけで信頼させたこと、彼らが美辞麗句(rhetoric)に酔うことを求めたことによっていた。
 これによってレーニンは、外国の社会主義団体の間で小さいがしかし熱烈な支持を獲得した。
 より重要なことは、こうした立場によってレーニンが社会主義運動上の道徳的な高位を掴んだために、彼の反対者たちは弱体化し、彼と闘うことが妨げられたことだ。
 インターの指導者たちは、レーニンの陰謀好きや誹謗中傷を軽蔑した。しかし、自分たち自身と縁を切ることなくして、レーニンと絶縁することはできなかった。
 レーニンはその戦術によって、社会主義インターの運動を徐々に左傾させ、ついには自分の党派から分裂させた。ちょうどロシア社会民主党について行なったように。// 
 これを言ったがまた、レーニンとクルプスカヤには戦時中の数年間は、苛酷な時期、貧困とロシアからの孤立の時代だったことも注記しておかなければならない。
 彼らはスラム街に接した区画に住み、犯罪者や売春婦たちと一緒に食事をして、かつての多数の友人から捨てられたと感じていた。
 以前の何人かの支持者ですら今や、レーニンは変人で、『政治的イエズス会士〔策謀家〕』で、廃人だと見なすようになった。(136)
 かつてレーニンの最も親密な仲間の一人だった、そして今は軍需産業に勤める官僚として快適な生活をしているクラージンがレーニンへの寄付を求められて接近されたとき、彼は二枚の5ルーブル紙幣を差し出して、つぎのように言った。
 『レーニンは、支援に値しない人物だ。
 危険なタイプだ。そのタタール頭に芽生えている狂気がいかなるものかを知ってはならぬ。
 レーニンよ、くたばれ!』(137)//
 レーニンが逃亡している間の唯一の光のひと筋は、イネッサ・アルマンドとの情事だった。彼女は、音楽ホールの芸術家二人の娘で、金持ちのロシア人の妻だった。
 チェルニュインスキーの影響を受けたイネッサは、夫と離婚し、ボルシェヴィキ党に加入した。
 彼女は1910年にパリで、レーニンとその妻に会った。
 まもなく忠実な支持者になるとともに、クルプスカヤの暗黙の了解を得て、レーニンの愛人になった。
 ベルトラム・ヴォルフェはイネッサについて『献身的で情熱的なヒロイン』のように語るけれども、しばしば彼女に逢ったアンジェリカ・バラバノッフは、つぎのように描写する。すなわち、『完全な-ほとんど受動的な-レーニンの指示の実行者』、『厳格にかつ無条件に服従する完璧なボルシェヴィキ党員の原型(prototype)』。(138)
 イネッサ・アルマンドは、レーニンがかつて緊密な人間関係を築いた、唯一の人間(human being)だったように思われる。//
 レーニンは、ヨーロッパ革命がいずれ勃発するという信念を失わなかった。しかし、その見込みは遠いように思えた。
 帝国政府は十分に、1916年に大攻撃を行なうべく1915年の軍事的かつ政治的な危機を見通していた。
 ペテログラードにいる工作員、アレクサンダー・シュリャプニコフが送ってくる散発的な通信によって、レーニンは、悪化するロシアの経済状況や都市住民の不満について知った。(139) しかし、彼はこの情報を無視して、帝国政府にはこのような困難を克服する能力があると明らかに信じていた。
 1917年1月9日/22日にツューリヒの青年社会主義者の集会で講演した際、レーニンは、つぎのように予言した。
 ヨーロッパでの革命は、不可避だ。一方でしかし、『われわれ古い世代の者はおそらく、来たりくる革命の決定的な闘いを生きて見ることはないだろう。』(140)
 この言葉は、帝国の崩壊の8週間前に、発せられていた。//
  (*) レーニンはこのとき、こう書いた。〔以下、文献を省略〕
 『客観的に見て、平和というスローガンは、いったい誰の利益になるのだ。確実に、プロレタリアートではない。これは資本主義の崩壊を速めるために用いる考え方ではない。』
 これを引用して、アダム・ウラムは、こうコメントする。
 『レーニンは、数百万の人間の生命にとっても「平和というスローガン」が「利益」になりえた、という事実を看過した。』
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 リチャード・パイプス著『ロシア革命』第9章の試訳を、とりあえず、終える。

 

1460/強盗と遺産狙いの党財政①-R・パイプス著9章8節。

 前回のつづき。
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 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源。
 第8節・ボルシェヴィキ党の財政事情。 
〔p.369-p.372.〕
 1917年革命以前のボルシェヴィキの歴史上最も秘密で今なお深刻な側面の一つは、党の財政にかかわる。
 全ての政治組織は、金を必要とする。しかし、ボルシェヴィキは党員全てに党のために一日中働くことを要求していたので、彼らにはきわめて重い財政上の負担があった。自立・自援のメンシェヴィキと違って、ボルシェヴィキの党員たちは、党の金庫からの手当てに頼っていたからだ。
 レーニンもまた、いつも多数の支援者がいたメンシェヴィキという好敵を策略的に打ち負かすために、金を必要とした。 
 ボルシェヴィキたちは、さまざまな方法で、ある者は伝来的方法で、別の者は高度に非伝来的な方法で、金を確保した。//
 一つの源は、奇矯な金持ちの産業家であるザッヴァ・モロゾフのような、裕福な共調者(シンパ)たちだった。モロゾフは、一月あたり2000ルーブルをボルシェヴィキの金庫に寄付した。
 モロゾフがフランスのリヴィエラ地方で自殺したあとで、彼の生命保険方策の被信託人として仕えていたマクシム・ゴールキの妻によって、彼の遺産から別の6万ルーブルが、ボルシェヴィキへと移された。(92)
 他にも寄贈者はいた。中でも、ゴールキ、A・I・エラマゾフという名の土地管理専門家、ウーファ地方の土地不動産を管理するアレクサンダー・ツィウルーパ(この人物は1918年にレーニン政権の供給大臣になる)、元貴族院議員の妻でストルーヴェの親友だったアレクサンドラ・カルミュイコワ、女優のV・F・コミッサールゼフスカヤ、その他、今日まで名前が分からないままの者たち。(93)
 紳士淑女気取りからするこれらの後援者(パトロン)たちは、根本的には彼らの利益を害するはずの教条のために援助した。レーニンの近い仲間だったレオニード・クラージンはこの当時に、つぎのように書く。
 『革命的党派に金銭を寄付することは、多かれ少なかれ過激なまたはリベラルなサークルでは、育ちの良さ(bon ton)の徴しだと見なされた。5から25ルーブルを定期的に納める寄付者の中には、有名な弁護士、技術者および医師のみならず、銀行の重役や政府組織の官僚もいた。』(94) 
 社会民主党のそれとは別に独立して作動していたボルシェヴィキの金庫の管理は、三人のボルシェヴィキ『中央』の手にあった。これは1905年に形成され、レーニン、クラージンおよびA・A・ボグダーノフから成っていた。 
 まさにこれの存在自体が、ボルシェヴィキの幹部および一般党員からはずっと秘密にされていた。//
 悔い改めたふうの『ブルジョア』たちからの献金ではしかし、不十分であることが判り、1906年早くにボルシェヴィキは、心地よくない手段、人民の意思やエスエル過激主義者が編み出したと思われる考え、に頼った。 
 多額のボルシェヴィキの財源は、それ以来、犯罪活動、とくに婉曲的表現では『収用』として知られる拳銃強盗から来ていた。
 彼らは大胆に急襲して、郵便局、鉄道駅、列車、銀行から強奪した。
 悪名高きティフリスの国有銀行強盗(1907年6月)では、25万ルーブルを強奪した。そのかなりの部分は、連続番号が登録された500ルーブル紙幣の束だった。
 このような略奪の成果品は、ボルシェヴィキの金庫へと移された。
 上の結果として、盗んだ500ルーブル紙幣をヨーロッパで両替えしようとした何人かの人間が逮捕された-その全員が(その中にはのちのソヴェト外務大臣、マクシム・リトヴィノフがいた)、ボルシェヴィキ党員であることが判明した。(95)
 この活動を監督していたスターリンおよび他の関係者は、社会民主党から除名された。(96)
 このような活動を非難する1907年党大会の正式決定を無視して、ボルシェヴィキは、ときにはエスエル党と協力しながら、強盗犯罪を行ない続けた。
 このような方法で、彼らは多額の金を獲得した。これは、相変わらず金欠症のメンシェヴィキに対して、ボルシェヴィキをかなり有利な立場にするものだった。(97)
 マルトフによると、犯罪の成果物のおかげで、ボルシェヴィキはペテルスブルクやモスクワの自分の組織に、それぞれ毎月1000から500ルーブルを送ることができた。この当時、合法的な社会民主党の金庫には、一月で100ルーブルを超えない党員費からの収入が入っていたのだが。
 1910年に、被信託人として仕事する三人のドイツ社会民主党の党員に金を差し出さなければならなくなって、この財源の流れが干上がってしまうや否や、ボルシェヴィキのロシア『委員会』は、薄い大気の中へと消滅した。(98) //
 このような秘密活動の全般的な指揮権は、レーニンの手のうちにあった。しかし、この分野の最高司令官は、いわゆる技術者集団(Technical Group)を率いるクラージンだった。(99)
 職業上は技術者であるクラージンは、二重生活をおくっていた。外面上は、善良なビジネスマンだが(モロゾフのために働くとともに、AEGやジーメンス・シュッケルトというドイツの商社にも勤めていた)、自由時間にはボルシェヴィキの地下活動へと走った。(*)
 クラージンは、爆弾を集めるために秘密の研究室を利用していて、その爆弾の一つはティフリスの強盗で使われた。(100) 
 ベルリンで彼は、3ルーブル紙幣の偽造紙幣作りも行なった。
 クラージンは、鉄砲火薬の密輸入にも従事した。-ときには純粋に商業的理由だったが、ボルシェヴィキの金庫の金を生み出すために。
 技術者集団は、場合によっては、ふつうの犯罪者たちとも取引した。-例えば、ウラル地方で活動する悪名高きルボフ団(ギャング)で、この団体には数十万ドルの価値がある武器を売った。(101) 
 このような活動は不可避的に、ボルシェヴィキ党員たちの中に、『教条』が犯罪生活の口実に使われるという、翳りのある要素を持ち込んだ。//
  (*) この電気製品商社がクラージンを雇ったのは、偶然ではなかったかもしれない。 
 1917年のロシアの反諜報活動(counterintelligence)の長によれば、ジーメンスはスパイ目的で工作員を使っており、ロシア南部のその支店が閉鎖されるに至った。[文献、省略]
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 ②へとつづく。
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  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
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  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
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  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
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  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
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  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
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  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
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