秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

エスエル

1459/レーニンと農民・民族-R・パイプス著9章7節。

 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源。
 
第7節・レーニンの農民・民族問題に関する綱領。
 1905年と1914年の隙間の期間、レーニンは、その他の社会民主主義者によって採択されたのとはつぎの二つの点で異なる、革命の綱領を発展させた。すなわち、農民の問題と、少数民族の問題。
 党派間の差違は、メンシェヴィキは解決について考えたが、レーニンの関心はもっぱら戦術にあった、ということに由来した。つまり、レーニンは、革命を促進する目的で、不安の源泉を自らのものとして活用することを望んだ。
 すでに記したように、彼は1905年以前に、つぎのように結論していた。社会民主主義者は、産業労働者の数がロシアでは大きな意味をもたないことを見れば、『反革命的』と見なす『ブルジョアジー』を除いて、専制体制に反抗する全てのグループを闘いへと惹き付けて指導しなければならない。闘いに勝利したあとでは、一時的な同盟関係を解消するときがあるだろう。//
 マルクスとエンゲルスのそれによれば、農民に関する社会民主党の伝統的な見方は、つぎのようなものだ。土地を持たないプロレタリアートというありうる例外を除いて、農民は反動的な(『プチ・ブルジョアの』)階級だ。(85)  
 しかし、1902年の農業騒乱の間のロシア農民の行動を観察して、またロシア農民の地主財産に対する攻撃がもつ帝制崩壊への寄与の程度に着目して、レーニンは、つぎのように結論づけた。小作農民(muzhik)は、一時的だとしても、産業労働者の自然の同盟者だ、と。
 レーニンに都合のよいことには、党は、いわゆる otrezki 、1861年の解放令が責任を逃れるか必要とする分け前の一部になるかという選択肢を与えた土地、を補填するということのみを農民に約束する公式の綱領をさらに超えて進まねばならなかった。
 彼は、血の日曜日の後でヨーロッパへに逃亡していたガポンときわめて長く会話して、ロシア農民の気質(mentality)について多くのことを学んだ。クルプスカヤによれば、ガポンは農民の要求に習熟していて、レーニンは、彼を社会主義に転向させることを試みたほどに親しくなった。(86)
 レーニンは、このような観察と会話から、『プチ・ブルの』、『反革命的な』素質をもつ者たちを支援することを意味するとしてすら、社会民主党は農民に地主財産の全てを約束しなければならないという、オーソドクスでない見解を抱くようになった。社会民主党は、事実上、エスエル(社会主義革命党)の農業問題綱領を採用しなければならなかった。
 レーニンの綱領では、農民は今や『プロレタリアート』の主要な同盟者として、リベラルな『ブルジョアジー』に取って代わる。(87)
 彼の支持者たちの『第三回大会』で、レーニンは、地主財産を農民が獲得することを支持する条項を提案し、裁可させた。
 詳細を仕上げたあとでは、ボルシェヴィキの綱領は、私有または共同体所有の全ての土地の国有化、およびそれらの農民による耕作、ということになった。
 レーニンは、土地国有化は農民が土地は国家財産だと考えるようになったロシア歴史の『中国的な』伝統を促進するというプレハーノフの反対に直面しても、この綱領に執着した。 
 しかしながら、農民に関する綱領の出発点は、1917年遅くかつ1918年早くに、権力への闘争の深刻な局面の期間に、農民を宥和するためにボルシェヴィキにとって大きな価値をもつものだった、ということが証されることになる。//
 レーニンの農業問題綱領は、自立した保守的な農民階級を生み出すと約束した(あるいは別の視点からすれば脅迫した)ストリュイピンの改革によって危うくなった。 
 まさに現実主義者(リアリスト)のレーニンは、1908年4月につぎのように書く。ストリュイピンの農業改革が成功すれば、ボルシェヴィキはその農業に関する基盤を放棄する必要があったかもしれない、と。//
 『こんな政策は「不可能だ」と言うのは、空虚で馬鹿げた、民主主義的言葉商人的だ。可能だ!…。 
 大衆の闘いにもかかわらず、ストリュイピンの改革が『プロシア』モデルを勝利させるほどに長く続いたら、いったいどうなるのだ。
 ロシアの農業秩序は完全にブルジョア的なものに変わり、より強くなった農民たちは共同体の土地から分け前の全てを奪い、農業は資本主義のものになり、そうして<資本主義>のもとでは-過激かどうかはどちらでも-農業問題のいかなる解決もありえないだろう。』(88)
 この言明には、奇妙な矛盾がある。マルクスによれば資本主義は自らを破壊する種子をうちに胚胎していると想定されたので、大群の土地なきプロレタリアートが増大するロシア農業の資本主義化は、革命家が『農業問題』を『解決』するのを不可能にというより容易にするはずのものだった。
 しかし、われわれが知るように、レーニンの恐れはいずれにせよ根拠がないものだと判る。というのは、ストリュイピンの改革はロシアの土地所有の性格をほとんど変更せず、内心では反資本主義のままの muzhik〔小作農民〕の気質を全く変えなかったのだから。//
 レーニンは、民族問題についても、破滅的な接近方法をとった。 
 社会民主主義の仲間うちでは、ナショナリズムは労働者を階級闘争から引き剥がして大国家の破壊を促進する反動的なイデオロギーだ、ということが真正なものだった。
 しかしレーニンは、帝国ロシアの人口の半分が非ロシア人であり、そのある程度は強い民族意識を持っていて、ほとんど全てがより強い領土的かつ文化的な自主的政府を望んでいることにも、気づいていた。
 1903年の公式の綱領は、農民問題についてと同様にこの論点についても、きわめて微少なことしか述べていなかった。少数民族に対して、公民的平等、母国語での教育、地方の自治を提示していた。そのあとで、『全ての民族の自己決定権』という曖昧な定式が、具体的なことは何もなくして、述べられていた。(89)//
 レーニンは1912-13年に、これでは十分でない、と結論した。たしかにナショナリズムは階級矛盾が増大する時代には反動的な力でありおそらくは時代錯誤的なものだが、それが一時的に現れてくるのをまだ認めなければならない。 
 したがって、社会民主党は、農民が私的土地を要求する場合と全く同様に、それ〔ナショナリズム〕を条件つきのかつ一時的なという前提で利用する用意をしなければならない。//
 『ナショナリズムは、<現にある>敵に反抗する同盟者を支えるものだ。社会民主党は、共通する敵を崩壊させるのを速めるために、この支えについて定めなければならない。しかし、この一時的な同盟に<何も>期待しないし、いっさい譲歩しない。』(90)
 綱領による定式化を吟味して、レーニンは、東ヨーロッパの社会主義者には周知の二つの解決方法を拒絶した。すなわち、連邦主義と文化的自治を。前者は大国家の解体を促進するという理由で、後者は民族の差違を制度化するという理由で。
 レーニンは長い逡巡ののちに1913年に、最終的に、民族問題に関するボルシェヴィキ綱領を定式化した。
 それは、社会民主党の綱領上の『民族の自己決定権』の公式を独特に解釈して、一つの意味、そしてそれだけの意味をもたせる、という考えに依拠していた。主権ある国家から脱退する、かつそのような国家を形成する、全ての民族集団の権利。
 この定式は独立主義を助長すると彼の支持者たちが抗議したとき、レーニンは彼らを安心させた。 
 第一に、ロシア帝国の多様な地域をますます一つの経済全体へと融合させている資本主義の発展の勢いは、分離主義を抑止し、究極的にはそれを不可能にさせる。
 第二に、自己決定という『プロレタリアート』の権利は、民族の権利につねに優越する。このことは、想定とは逆に、非ロシア人が分離するならば、力でもって再統合されることを意味する。
 少数民族に全か無かの選択肢を提示することによって、レーニンは、(ポーランド人とフィンランド人を除く)ほとんど全ての彼らがその選択肢の間を望んでいる、という事実を無視していた。 
 彼は、少数民族が分離することなくロシア人と同化することを、完全に期待した。(91)
 レーニンは、デマゴギー的なこの定式を利用して、1917年によい結果を残した。//
  (87) John L. H. Keep, ロシアにおける社会民主主義の成立 (1963), p.194-5。
  (89) リチャード・パイプス, ソヴェト同盟の形成-共産主義とナショナリズム, 1917-23 (1954), p.31-p.33。
 
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 第8節につづく。

1455/メンシェヴィキと決裂②-R・パイプス著9章6節。

 前回のつづき。
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 ソヴェトの出現を、レーニンは懐疑的に見ていた。というのは、ソヴェトは非パルチザンの労働者組織で、政党による統制の外にいるものだと、考えられていたからだ。労働者階級の融和主義者的な傾向を考えると、レーニンやその支持者たちには、ソヴェトは信頼できるものではなかった。
 ソヴェトが形成されたとき、いくらかのペテログラードのボルシェヴィキは、労働者に社会民主党に対する労働者組織の優位を認めれば、『任意性という意識に従属すること』-いい換えると、労働者を知識人の上に持ち上げること-を意味するだろうという理由で (70)-、ソヴェトをボイコットするように呼びかけた。  
 レーニン自身は、ソヴェトの機能や有用性を全く決定できなかったが、より柔軟だった。
 1906年のあとで結局、彼は、ソヴェトは有用だが、『革命軍』の協力者としてのみだ、と決定した。
 ソヴェトは革命(『暴乱』)に不可欠だが、それ自体だけでは何も役立たない。(71)
 レーニンはまた、自主規律をもつ組織だとソヴェトを見なすことも拒否した-ソヴェトの働きは、厳格な規律の武装分遣隊が実行する暴乱の『道具』として役立つことだ。//
 1905年革命の勃発とともに、彼は党の主要な部分から離れて、公然と自分自身の組織を形成するときがきた、と決心した。
 1905年4月に、レーニンはロンドンに、社会民主党の正当ではない『第三回大会』を招集した。代議員のすべて(38名)が彼の党派の構成員だった。
 クルプスカヤは、つぎのように言う。//
 『第三回大会には労働者はいなかった-とにかく、少しでも目立つ労働者は一人もいなかった。 
 しかし、大会には、多数の「委員会の者たち」がいた。
 第三回大会のこの構造を無視すれば、多くのことはほとんど理解できないだろう。』(72) 
 レーニンには、このような友好的会合で自分の全ての決定が裁可されるのに何の困難もなかった-その諸決定は、正当な社会民主主義労働者党-翌年のストックホルムでの決定でこう明確にされた-を拒絶した。
 第三回大会は社会民主党の正式な分裂の始まりという画期をなすものだった。それは、1912年に完了する。//
 レーニンは、1905年11月早くにロシアに戻って、翌月のモスクワ蜂起の準備を進めた。だが、射撃が始まるや否や、彼は姿を消すということになった。 
 モスクワでバリケードが築き上げられた翌日に(1905年12月10日)、彼とクルプスカヤはフィンランドに避難した。
 彼らは12月17日に帰ってきたが、それは蜂起が敗北したあとだった。//
 1906年4月に、ロシア社会民主党の二つの分派は、ストックホルムの大会で気乗りのしない再統一の試みをした。
 レーニンはここで中央委員会での多数派を獲得しようとし、失敗した。
 彼はまた、多くの実際的な案件についても敗北した。大会は、武装分遣隊の創設と武装暴乱の考えを非難し、レーニンの農業問題綱領を拒否した。
 レーニンは怯むことなく、メンシェヴィキからは秘密に、非合法で内密の『中央委員会』(『事務局(ビュロー)』の後継機関)を、彼の個人的指揮のもとに形成した。
 最初は明らかに3人で構成されていたようだが、1907年には15人へと増加した。(73)//
 1905年の革命の間とそのあとに、数万人の新たな支持者が入党に署名し、社会民主党の党員は多方面で増加した。そのうち最も多いのは、知識人だった。 
 二つの分派は、このときまでに、異なる様相を呈していた。(74)
 1905年のボルシェヴィキには8400人の党員がいた、と見積もられている。それは大まかには、メンシェヴィキや同盟主義者(Bundists)と同じ数だった。 
 1906年4月にあった社会民主党のストックホルム大会は、3万1000人党員を代表し、そのうち、1万8000人はメンシェヴィキで、1万3000人はボルシェヴィキだったと言われる。
 1907年には、党は8万4300人の党員を擁するように成長し-この数字は、立憲民主党(カデット)とほぼ同じだった-そのうち4万6100人はボルシェヴィキ、3万8200人はメンシェヴィキだった。また、2万5700人のポーランド社会民主党、2万5500人の同盟主義者および1万3000人のラトヴィア社会民主党が連携していた。
 この数字は、増大する波の最頂点の記録だった。 
 1908年に脱退が始まり、1910年のトロツキーの見積もりでは、ロシア社会民主党は、1万人かそれ以下の党員数へと衰退した。(75) //
 メンシェヴィキ、ボルシェヴィキの各分派の社会的および民族的な構成は、異なっていた。  
 両派が惹き付けた上級階層者(gentry, dvoriane)の割合は不均衡だった-全国民中の dvoriane の割合は1.7%であるのに対して、20%だ(ボルシェヴィキについてはさらに多く、22%。メンシェヴィキはやや少なくて、19%)。
 ボルシェヴィキの党員の中には、かなり高い割合で、農民がいた。38%は、この農民グループの出身で、これと比べると、メンシェヴィキの場合は26%だった。(76)
 彼らは社会主義革命党(エスエル)を支持する耕作農民ではなく、仕事を求めて都市に移ってきた、基盤なき、階級を失った農民たちだった。 
 この社会的過渡期の構成要素は、ボルシェヴィキ党派に多数の中枢党員を提供することとなり、ボルシェヴィキの精神性(mentality)に多大の影響を与えた。
 メンシェヴィキは、より多く、低層階級の都市居住者(meshchane)、熟練労働者(例えば、印刷工、鉄道従業員)および知識人や専門職業人を惹き付けた。//
  (73) Schapiro, 共産党, p.86, p.105。 
  (74) 以下の情報は、多くは、D. Lane, The Roots of Russian Communism 〔ロシア共産主義の根源〕(1969) から抜粋している。
  (76) D. Lane, 根源, p.21。
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 ③につづく。
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