秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

ウソ

2371/L・コワコフスキ「嘘つきについて」(1999)②。

 レシェク・コワコフスキ/Leszek Kolakowski・自由・名声・ 嘘つき・背信—日常生活に関するエッセイ(1999)
 =Freedom, Fame, Lying and Betrayal -Essays on Everyday Life-(Westview Press, 1999)
 第4章の試訳のつづき。この書物に、邦訳書はない。
 ——
 (8-2)もしも誰かが言うこと全てをもはや信じることができないとすれば、人生はじつに耐え難いものになるだろう。
 だが、相互の信頼が完全に消失するとは、想定し難い。
 我々は通常は、どのような場合に、誰かが語ることを安全に信頼することができ、反対に、どのような場合に、我々を惑わせようとしている理由が対話者自身にあるために、ある程度は疑わしいかを、知っている。
 人々は、稀にしか、何の理由もなくてウソをつきはしない。
 もちろん、悪名高いウソつきはいる。
 私はかつて一人の作家を知っていたのだが、その作家は、そのときどきの環境や聴衆に応じて、彼の人生について色彩豊かな物語を作り出すのが好きだった。その彼は、すぐれた想像力と機知でもつてそれを行ったため、苦情を言うのは無作法に感じるほどだった。
 その上に、彼の物語は聞いて楽しいものだった。しかし、誰もが真面目に受け取ってはならないことを知っていた。そのため、真実性という美徳が著しく欠如しているのは彼の性格によるという理由があるので、他人が苦しむという危険はなかった。
 さて、何事についても真実を語ることが全くできない、病的なウソつきはいる。
 その者たちは、それらしい理由が何らなくして、かつまた想像力を発揮することもなく、全てを捻じ曲げ、歪曲するのだ。
 しかし、このような人々は、誰も語ることを信じないで、彼らにふさわしい軽侮の気持ちで対応するために、人畜無害でありそうだ。//
 (9)事業、政治および戦争にウソが蔓延していることは、これらと私的な関係をもつ他者に対する我々の信頼を脅かしている。
 これらの分野で仕事をする人々は、誰がなぜ騙す可能性があるかを完全によく気づいており、警戒すべきときを知っている。
 宣伝広告で語られるウソでも、これらの分野に比べればまだ無害だ。
 全ての国々は、消費者を虚偽表示から保護しようとする法制をもっており、商品についての宣伝広告にある虚偽の主張は、法律によって罰せられることがある。
 例えば、水道水をガンに絶対的効用がある治療法だとして市場で売り出すことは違法だ。
 他方で、奇蹟石鹸(Miracle soap)またはハンブルク・ビールは世界最良だと主張することは、違法ではない。
 違いがどこにあるかと言うと、後者の場合は、広告者は奇蹟石鹸やハンブルク・ビールは本当に世界最良だと我々に信じさせようと意図してはいない。
 そうではなく、彼らの意図は、奇蹟石鹸を特徴のある包装で我々に印象づけ、つぎには一個の石鹸を買わなければならないかのように誘引することにある。我々が何度もテレビでその宣伝広告を見た後では、その商品は我々に馴染みがあるように見えてしまうのだ。
 広告者は、正しく、我々の保守性(conservatism)への自然な志向を考慮している。
 奇蹟石鹸の画像を十分に頻繁に我々に見せれば、我々はかりに実際はそうではないとしても、それに馴染みがあるように感じるはずだ、と知っているのだ。//
 (10)しかしながら、政治の分野で語られるウソに目を向けるとき、重要な区別をしておかなければならない。
 政治では、頻繁にウソがつかれている。だが、民主主義諸国では、言論と批判の自由は、我々を一定の有害な影響から守るものだ。
 真実か虚偽かの違いは、変わりなく残されている。
 かりにある大臣が完全によく知っている何かに関する知識を否認したとすれば、彼はウソをついている。
 しかし、彼が見破られるかどうかはともかく、真実と虚偽の違いは明瞭なままだ。
 同じことを、全体主義国家について言うことはできない。とくに、共産主義が絶頂期にあった、スターリン主義の時代については。
 その国家と時代では、真実と政治的な正しさの区別は、全体として曖昧なままだった。
 その結果として、人々は自分たちが口に出して言ってきた「政治的に正しい」スローガンを、全くの恐怖から、半ば信じるようになった。なぜなら、長い期間だったし、政治指導者たちですらときには自分たちのウソの犠牲者となったからだ。
 このことがまさしく正確に意図されていた。真実と政治的正しさの区別を忘れるさせるような混同を人々の意識(mind)に十分に惹き起こすことができるならば、政治的に正しいものは何であろうとそのゆえに不可避的に真実だと、人々は考えるようになるだろう。
 このようにして、国民がもつ歴史の記憶の全体が、変更され得ることとなつた。//
 (11)これは、たんなるウソつきの例ではない。言葉の正常な意味での真実というまさにその観念をすっかり抹消してしまう、という試みだった。
 この試みは全体としては成功しなかったが、とくにソヴィエト同盟で、それが惹起した精神(mental)の荒廃は巨大だった。
 全体主義体制がその完全な能力を獲得しなかったポーランドでは、影響はより穏やかだったけれども、しかし、やはり強く感じられた。
 かくして、言論と批判の自由は、政治的なウソを排除できないが、それにもかかわらず、「虚偽」、「真実」および「正直」といった言葉の正常な意味を回復し、守ることができる。//
 (12)ウソつきが許され、あるいは「良い動機」があるから望ましいと見なされ得る環境条件はある。しかし、このことは、「ウソつきはときには間違いで、ときにはそうではない」、だから放っておけ、ということを意味しない。
 これでは曖昧すぎて、原理的考え方として依拠することができない。なぜなら、これでは、ウソつきの全ての場合を正当化するために用いることができるだろうから。
 また、このような教訓に従って我々の子どもたちを育てるべきだ、ということにも全くならない。
 どんな環境条件のもとでも、ウソをつくのはつねに間違いだと、子どもたちを教育する方がよいだろう。
 このようにすれば、子どもたちは、ウソをつくときに少なくとも心地悪さを感じるだろう。
 残りは、彼らが自分で、速やかにかつ容易に、大人たちの助けなくして、学ぶことができる。//
 (13)しかし、ウソをつくことの絶対的禁止は、効果がなく、またより重要な道徳的命令と矛盾する可能性もある。ウソをつくのが許される場合を説明することのできる一般的原理をどうすれば見出せるだろうか?
 先に述べたように、答えは、そのような原理的考え方は存在しない、ということだ。どんな一般論も、全ての考え得る道徳的な環境条件を考慮することはできず、過ちがあり得ない結論を与えることはできない。
 しかしながら、この問題の考察から抽出できるかもしれない、また役立ち得ると判るかもしれない、一定の道徳を語ることができるだろう。//
 (14)第一の道徳は、自分たち自身に対してウソをつかない努力をすべきだ、ということだ。
 これが意味するのは、とりわけ、ウソをつくときに我々は事実を知っているはずだ、ということだ。
 自己欺瞞はそれ自体が別の重要な主題で、私はここで論じることができない。
 良い動機から我々がウソをつくときはつねに、ウソをついてることを知っているべきだ、と言うだけにとどめる。//
 (15)第二に、自分たち自身へのウソを正当化する方法を憶えておくべきだ。ウソをつく名目となる「良い動機」という我々の観念は、その「良い動機」が我々自身の利益と合致している場合には、つねに疑わしい。//
 (16)第三に、ウソをつくのが何か別の、より重要な道徳的善の名のもとで正当化されるときでも、ウソをつくことそれ自体は道徳的に善ではないことを、心にとどめておくべきだ。
 (17)第四、そして最後に、ウソをつくのは他人をしばしば傷つける一方で、もっとしばしば我々自身を傷つける、ということを知っておくべきだ。ウソをつくことの効果は、精神(soul)の破壊だ。//
 (18)これら四つの事項を覚えていても、我々は、あるいは我々の大多数は、聖人にはなれないし、この世界からウソを廃絶することもできない。
 しかし、ウソを武器として用いるときに、かりにそうしなければならないときであっても、我々に慎重さを教えてくれるかもしれない。//
 ——
 第四章、終わり。

2370/L・コワコフスキ「嘘つきについて」(1999)①。

 レシェク・コワコフスキ/Leszek Kolakowski・自由・名声・ 嘘つき・背信—日常生活に関するエッセイ(1999)
 =Freedom, Fame, Lying and Betrayal -Essays on Everyday Life-(Westview Press, 1999)。
 試訳のつづき。順序どおり、第四章「嘘つきついて」へと進む。
 この書に邦訳書はない。一文ごとに改行し、段落の区切りを//と原初にはない数字番号で示す。
 第8段落の中途で区切る。
 ——
 第四章・嘘つきについて(On Lying)①。
 (1)偽りの情報の意図的な伝搬は、言ってみれば、物事の自然な状態の一部だ。
 蝶々は鳥に言う。「でも、私は本当は蝶々ではなく、枯葉にすぎない」。
 ハチは巣箱を守る蜜蜂に言う。「でも、私は本当はハチではなく、蜜蜂だ。…蜜蜂くんよ、きみは自分で見て分かる。」
 ハチは学者ふうに付け加える。「嗅覚器官の助けを借りてだ」。
 (どうやら、本当にこういうことをする多種のハチがいるらしい。)
 虚偽のこれら二つの類型の間にある違いは、ただちに明らかになる。
 我々は、食ぺられてしまいそうな捕食者から枯葉のふりをすることで自分を守ろうとしているという理由で、蝶々を称賛する。
 一方で、巣箱に入って蜜蜂の懸命の労働の成果を奪うために蜜蜂のふりをしているだけだという理由で、ハチを非難する。//
 (2)人々が語るウソについて、我々は類似の道徳的判断をする。あるものには衝撃を受け、別のものは正当だと見える。
 ある哲学者たち、とくにカントとSt. Augustine は、どんな環境条件でもウソをつくのは厳格に禁止されるという極端に道徳的な立場を擁護した。
 しかし、どんな環境条件でもウソをついてはならないとする道徳的命令は、実現されそうにないというだけではない。
 一定の環境条件のもとでは、その命令は仲間に対する親切さのような別の命令と、あるいは公共の利益と矛盾し得る。
 当然に戦争が、一つのそのような環境条件として思い浮かぶ。敵を欺くことは、交戦方法の本質的部分なのだから。外交や事業でもそうだ。
 しかし、現実の生活から採った最も単純な事例は、第二次世界大戦の間の占領期間にある。もしユダヤ人があなたの家に隠れていて、SSがその人物を探してドアを叩いたとき、あなたは、あるいは良心を一片でも持つ誰でも、ウソをついてはならないという高貴な命令に従って、そのユダヤ人を確実な死へと引き渡すか?//
 (3)政府はその国民に対して、しばしばウソをつく。直接的にか、割愛することで。
 批判を回避し、過誤や非行を隠蔽するために、しばしばそうする。
 しかしながら、純粋に国民の利益となっているために、政府のウソを正当化し得る場合がある。
 秘密が保持されなければならない国家の安全保障の諸問題は別とすると、このようなウソは経済に関係しているかもしれない。例えば、政府が通貨切り下げを意図しているとき、質問されてもそのような意図を完全に否定しなければならない。そうでなければ、簡単に獲物を得ようとしてバッタのように群がる金融投資家によって、その国は多大な損失を被るだろう。//
 (4)さらに、虚偽と、適宜の判断や思慮深さという社会的美徳の間には、しばしば微妙な差しかない。しかし、ウソがなければ社会生活は実際よりもはるかに悪くなると、我々はみんな認めるだろう。真実という清潔な空気を吸うどころか、がさつで野暮な世界で窒息するだろう。
 我々は、つねに真実を、あるいは本当であれ間違いであれ真実だと考えることを語って、正しさを主張する者たちを高く評価しはしない。そういう者たちを、無骨者と呼ぶ。//
 (5)より複雑で頻繁に論議された問題は、死期に入っている病人に対処している医師の正直さに関係する。
 患者の状態に希望がないことをその両親に告げないとすれば、その医師は、直接的であろうと省略によってであろうと、ウソをついている。
 国によって習慣は異なっており、賛成や反対の論拠を見つけるのは困難ではない。
 しかし、そのような論議は総じて、人道主義(humanitarian)の原理に対する、そして、真実それ自体の価値ではなく両親や家族の利益に対する、訴えかけを含んでいる。//
 (6)要するに、良識が我々に語るのは、ウソつきが良い動機で行われる環境条件がある、ということだ。
 問題は、我々自身の利益となる全てを包含するまでに広げることなく、「良い動機」(good cause)をどのように定義するかだ。
 我々にとって有利な全てのことが、他の誰にとっても「良い動機」であるとは限らない。かつまた、想像し得る全ての動機を含むような定義を思いつくのも困難だ。//
 (7)ウソをついてはならないという厳格な道徳的命令の擁護者たちは、好ましいと感じるときはいつでも、あるいは都合が好いと思えるときはいつでも、全ての者がウソをつくとすれば、他の人々に対する我々の信頼は完全に崩壊してしまうだろう、と主張する。信頼は、秩序ある社会での我々の共存にとって不可欠の条件なのだ。
 この擁護者たちは、こう付け加える。誰も別の誰かが言ったことの全てを信じないのだから、ウソつきはつねに、自分のウソに裏切られることになる、と。//
 (8-1)これはそれ自体は不合理な議論ではないが、ウソをついてはならないという絶対的な道徳的命令を正当化するものとしては、なおも説得力に欠ける。
 ——
 ②へとつづく。
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