〇1.関岡英之=イースト・プレス特別取材班編・アメリカの日本改造計画(イーストプレス、2006)の関岡と小林よしのり・佐藤優の各対談および佐伯啓思「近代主義の堕落と『魂の復興』」まで、すなわちp.79までを読む。
 2.小林よしのりとの対談中の図1・日本の諸思想(思潮)の4分類(4象限化)はなかなか面白く役立ちそうだ(p.19)。
 まず「固有の価値(日本の伝統)」重視か「普遍的価値(個人の自由)」重視かで上下に二分され(前者が①②象限、後者が③④象限)、ついで「政府」重視(=規制擁護・「大きな政府」論と見られる)か「市場」重視(=規制緩和・民営化・「小さな政府」論と見られる)で左右に二分される(左側が②③象限、右側が①④象限)。そして、かかる分類によると①象限(「固有の価値+規制擁護」派)に平沼赳夫・国民新党が、④象限(「普遍的価値+規制擁護」派)に社民党・共産党が、③象限(「普遍的価値+市場重視」派)に小泉純一郞・竹中平蔵が位置づけられる。暫定的だが、民主党は③・④の中間に、安倍晋三は小泉継承の立場だったためか、②象限(「固有の価値++規制擁護」派)に位置づけられているようだ。
 この分類は、かつて八木秀次が何かの雑誌で試みていたテレビ・キャスター類の「思想傾向」分類のチャートよりも適切だと思える。八木は親米(国際的)か反米(閉鎖的?)かを重要な分類軸にしていたが、これは二つのうちの一つに挙げられるほどの分類軸とは思えない。
 上の関岡等編著での関岡による分類のうち「普遍的価値(個人の自由)」重視か否かは親米か反米かの区別のようでもあるが、この後者(「普遍的価値」重視派)の中に社民党・共産党が挙げられているように、「普遍的価値(個人の自由)」派とはより正確には「国際関係重視・グローバリズム」派と表現し直してもよいと思う。
 そうだとすると、①②と③④の対立は反米か親米かではなく、<日本に固有の価値の重視>派と親中国派と親米派のいずれをも含む<国際関係重視派>の対立と理解してよいだろう。
 親中国派と親米派は「左翼」と「保守」の対立のようでもあるが、しかし、<日本に固有の価値>を軽視し、外国に媚び諂(へつらう)うという点では共通性があるのだ。
 上の佐伯啓思の論考も、上の点、グローバリズム(「新自由主義」)擁護の「保守」(上の③象限に当たるだろう)と「左翼進歩派」(上の④象限に当たる)の共通性をやはり指摘し、それらに共通の敵は「ナショナリスト」だ(上では①②にほぼ該当するだろう)と、次のように述べている。
 「彼らのいう保守主義=新自由主義」に即して冷戦以降の世界を「自由な市場経済」時代だとして「改革」論を唱えた。そこでの標語は、グローバリズム、個人的自由、透明な政治、小さな政府。敵対する者は「遅れた日本的システムや日本的官僚政治」に固執する「日本主義者」と見なされた。
 一方、「左翼進歩派」も冷戦以降を「市民主義的なグローバリズム化の時代」だとし、個人主義、人権主義、透明な政治を擁護し、「遅れた官僚制国家日本」に固執する「日本主義者」がやはり最大の敵対者になる。
 かくして、「保守派にとっても進歩派にとっても、…『ナショナリスト』こそが冷戦以降の『反動』のシンボルとなった」。「ナショナリスト」という「共通の敵」こそが「保守派と進歩派の奇妙な野合を可能にした」(p.71)。
 最近、朝日新聞は郵政民営化・「小泉改革」に好意的だったようだとこの欄に書いたが、その訳が、そして朝日新聞が安倍晋三内閣を執拗に攻撃した理由が、あらためて納得できそうだ。
 3.ところで、佐伯啓思「近代主義の堕落と『魂の復興』」(p.68-79)は、2006年の執筆ではなく、初出は月刊正論2000年6月号らしい。そして、最後の「武士道」関係のやや細かな叙述を除いて、その頃以降の佐伯啓思の主張・見解のエッセンスが展開されている。その意味で、さして長くはないので(といっても三段組12頁なので新書版に印刷し直すと20-30頁になるだろうか)何度も読まれてよいように思われる。少しだけ要約的に引用してみる。
 ・冷戦以降につき、F・フクヤマのアメリカ中心の「西欧的なリベラル・デモクラシー」の世界化論、S・ハンチントンの「文明の衝突」論が対立している。但し、日本の戦後「平和主義」の如き「情緒的イデオロギー」による図式化は警戒する必要がある。
 ・「われわれ」の世界解釈の図式は基本的にはフクヤマ的で、地域紛争・民族主義・ナショナリズム等はおおむね「反動的」傾向として危険視される。時代「順行」的なのは、グローバル化、個人の自立、人権の普遍化、抑圧からの解放と「脱国家化」だった。
 ・かくして「進歩」思想は当然視され、IT革命との技術進歩への期待とともにどっぷりと「進歩」たる観念に浸かっている。
 ・この10年の日本の表層を覆ったのは諸「改革」論だった。この論が一貫して問題視し批判したのは「日本型」というシステムで、「西欧的な」あるいは「普遍的な」「世界標準」に改めよと主張された。「日本型特殊性」の経済は「非民主的で後進的」であり、「西欧的(アメリカ的)普遍性」をもつ、「公正、透明、自由な市場」への変革こそが「進歩」だとされた。
 ・「日本型特殊性=後進性」、「西欧的普遍性=先進性」という粗雑な対比の意味に確かな議論はなかったが、「単純化された図式がほぼ暗黙裡に作用した」。
 〔このあと、上で紹介の、「ナショナリスト」を共通の敵とする「保守派と進歩派」の「奇妙な野合」に関する文章がつづく。〕
 ・資本主義か社会主義かは保守派と進歩派を分かつ論点にはもはやならない。保守派の「透明で公正で個人責任に基づいた資本主義」に進歩派も基本的には同調せざるをえず、資本主義競争からの脱落者を救済していたのが「共同体」的「日本型システム」だったとすれば、進歩派もこの道を採らない。そこで、「保守派の改革主義」と「進歩派の市民主義」をつなぐのは「セーフティ・ネット」なるものになっている。
 ・かくして、冷戦以降の言説空間は「保守派からの改革論と進歩派の市民論」の「緩やかな結合」になっており、両者いずれも、守旧的な「日本」に固執する「ナショナリスト」を批判する。そして、広義の改革論的国際派とナショナリストとの対立が構成され、もはや「保守派と進歩派」の対立は「意味をもたない」。実際、何が「保守」か「進歩」かの識別は不可能になっている。
 ・だが、「ナショナリスト」とは何か。確かな意味内容の定義もなく、否定的な物としてのレッテル貼りによって言葉が流通している。「開明的・啓蒙的な国際主義」に対立する「反動的」動向をイメージさせる表象が「ナショナリスト」なのだ。そして、その背後には、戦後の(いや明治以降の?)<先進的西欧・後進的日本>という図式が依然としてある。
 ・保守派改革主義者は「公正な市場」・「個人責任」は「西欧的」ではなく「普遍的」だと、市民主義者は「民主主義」・「人権」は「西欧的」ではなく「普遍的」だと、主張するだろう。しかし、「普遍的」とはいったい何か。市場・個人主義・民主主義・人権のいすれにせよ「多くの欠陥」を持つことは西欧思想においてすら何度も自省されてきた。また、「普遍的」な方向を目指すということ自体が、まだ「普遍的」ではないことを自認しているのだ。
 ・「保守派も進歩派も」、問題設定に失敗している、と私(佐伯)は考える。グローバリズム=進歩、ナショナリズム=反動、という対抗ではなく、問題は「もう少し違ったところ」にある。
 ・「失われた10年」と言うが、失われたのは経済・技術ではなく「もっと根底的なもの」だ。それは「魂の問題」で、「魂」をすっかり奪い取られたのだ。
 ・「魂」・「エートス」は多義的だが、「倫理的な規範意識を持って物事(行動)に対して自己を結びつける精神のあり方を示す」言葉として、また西欧的「エートス」を実質化するものとして、「魂」を用いる。
 ここで止めておくが、このあと佐伯は、日本における倫理・徳・美徳・美意識・「心」、あるいは「価値」の喪失を指摘し、これが「民主主義」・「個人的自由主義」という戦後の公式的・絶対的価値観に由来することを述べている。まさしく同感するところなのだが、「価値や倫理」の問題が、個人的な「好悪」の問題にされてしまっているのだ。善悪・正邪の問題が「好き嫌い」の問題に堕しているのだ。佐伯啓思の指摘するとおり、現在の日本は、「魂を失った人間」で充ち満ちている。「戦後」が、そうした人間を続々と創り出してきた。
 この佐伯啓思論考を読むと、その後にすでに読んだ諸論考や佐伯・日本の愛国心(NTT出版)、佐伯・自由と民主主義をもうやめる(幻冬舎新書)が書かれていることとその背景がさらによく分かる。その意味で無駄ではない読書時間だった。
 〇 田母神俊雄・田母神塾-これが誇りある日本の教科書だ(双葉社、2009)、田母神俊雄=潮匡人・自衛隊はどこまで強いのか(講談社+α新書、2009)を、平行して読書中。