秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

イタリア社会党

1480/ムッソリーニとレーニン④-R・パイプス別著5章2節。

 前回のつづき。[第5章第2節は、p.245-p.253。]
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 第2節・ムッソリーニの『レーニン主義者』という根源④。
 ムッソリーニが社会党から除名される原因になったこの転回について、さまざまな説明が提示されてきた。
 最も好意的でない見方によると、ムッソリーニは賄賂で動かされた。-彼は、その新聞< Il Popolo d'Italia >〔イタリア人民〕を発行するための資金を提供してくれたフランスの社会主義者から強い圧力をかけられていた。
 これが示唆するのは、実際に、ムッソリーニは破産状態にあったことだ。
 しかしながら、ムッソリーニの動機は政治的なものだったというのが、もっとありえそうだ。
 ほとんど全てのヨーロッパの社会主義政党が平和主義の公約を破って政府の参戦を支援したのちに、ムッソリーニは、ナショナリズムは社会主義よりも力強いと結論したように見える。
 1914年12月に、彼はつぎのように書いた。
 『国家は消失しなかった。われわれは、国家は絶滅すると思ってきた。
 そうではなく、われわれは目の前で、国家が立ち、生き、躍動しているのを見た。
 当たり前だが、そうなのだ。
 新しい現実は、真実を抑え込みはしない。すなわち、階級は国家を破壊できない。
 階級は利益の集合体であるが、国家は、情緒、伝統、言語、血統の歴史だ。
 国家の中に階級を挿入することはできるが、それらが互いに破壊し合うことはない。』(29)
 このことの帰結は、社会党はプロレタリアートだけではなくネイション全体(the entire nation)を指導しなければならない、ということだ。すなわち、『<ナショナルな社会主義(un socialismo nazionale)>』を生み出さなければならない。
 たしかに、世界的(インターナショナルな)社会主義から国家の(ナショナルな)社会主義への移行は、野心ある西側ヨーロッパのデマゴーグについてよく理解させる。(30)
 ムッソリーニは、一つのエリート政党が指導する暴力革命という考え方に忠実なままだった。しかし彼はこれ以降は、ナショナルな革命を目指すことになった。//
 ムッソリーニの転回はまた、戦略的な思考だったと説明することもできる。すなわち、革命には国際的な〔international=国家間の〕戦争が必要だとする確信からだ。
 こういう見解はイタリアの社会党創設者たちの間では共通していた。それは、極左のセルジオ・パヌンシオ(のちファシズムの主要な理論家)が戦争開始の二ヶ月後に新聞<前へ!>で書いた、つぎの考察文にも見られる。
 『<私は、現在の戦争だけが-かつより激しくて長引く戦争が-ヨーロッパ社会主義を革命的行動へと解き放つだろうと確信する。>(中略)
 国外での戦争には、国内での戦争が続かなければならない。前者は後者を準備しなければならない。そして、その二つが一緒になって、社会主義の偉大で輝かしい日を用意しなければなならない。(中略)
 われわれ全てが、社会主義の実現は<求められ>なければならないと確信している。
 今が、<求めて> そして<獲得する>ときだ。
 社会主義が緩慢でかつ…<中立的>であれば、明日には、歴史的状況は現在の状態と類似の情勢を再確認するだけにとどまるかもしれない。しかし、客観的には、社会主義からはより離れた、しかしかつ逆の意味での転換点でありうる。(中略)
 われわれは、われわれの全てが、<全ての>諸国家が-<いかなる程度>にブルジョア国家であろうと-勝者と敗者のいずれであろうと、戦争の<あと>では、粉砕された骨とともに衰弱して横たわっているだろう、と確信する。(中略)
 資本主義は深い損傷を受けるので、最後の一撃(< coup de grace >)には十分だろう。(中略)
 平和の教条を支持する者は、無意識に、資本主義を維持する教条を支持しているのだ。』(*)//
 戦争へのこのような肯定的態度は、ロシアの社会主義者たちに、とくに極左の立場の者たちに、もう少しは率直さを抑えて語られたが、知られていなかったわけではない。
 レーニンが第一次大戦の勃発を歓迎し、それが長く続いて、破滅的になることを望んだ、という証拠資料がある。
 世界の『ブルジョアジー』を大量殺戮者と攻撃する一方で、レーニンは個人的には、その自己破壊を称賛していた。
 バルカン危機の間の1913年1月に、レーニンはゴールキにあてて、つぎのように書いた。
 『オーストリアとロシアの戦争は、(東ヨーロッパ全体の)革命にとってきわめて有用だ。しかし、フランツ・ヨゼフとニコラシュカ(ニコライ二世)は、われわれにこの愉しみを与えてくれそうにない。』(31)
 レーニンは、大戦中ずっと、ロシアおよびインターの社会主義運動で、平和主義に関するいかなる宣明をすることも拒否した。社会主義者の使命は戦争を止めることではなく、戦争を内乱へと、つまり革命へと転化することだと主張しつつ。//
 ゆえに、つぎの旨のドメニーコ・セッテンブリーニ(Domenico Settenbrini)の叙述には賛同しなければならない。すなわち、ムッソリーニとレーニンの戦争への態度には、一方は自国の参戦に賛成し、他方はともかくも表向きは反対しているとしても、強い類似性がある。彼はこう書く。//
 『(レーニンとムッソリーニの二人は)以下のことを悟っていた。党は大衆を革命化し、その反応を形成するための道具ではありうる。しかし、党はそれ自身によっては、革命の根本的な前提条件-資本主義的社会秩序の崩壊-を生み出すことはできない。
 プロレタリアートの自己啓発によって自動的に出現する革命精神、その結果として弱体化する市場に資本主義者が商品を売れなくなること、についてマルクスがいったい何を語っていようが、プロレタリアートはますます貧窮化し、革命精神は欠如していることが判り、資本主義秩序は破滅に向かうどころか拡張している、というのが事実だ。
 したがって、マルクスによって自動的に起動すると想定されたメカニズムには、それを補完するものがなければならない。補完するものとは、-戦争だ。』(**)
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  (29) ムッソリーニ, オペラ・オムニエ, Ⅶ (1951), p.101。また、Gregor, ファシスト信条, p.171 も見よ。
  (30) ムッソリーニ, 同上。Gregor, ファシスト信条, p.168-171。
  (*) フェリーチェ, ムッソリーニ, p.245-6 から引用。この論考の正確な著者はムッソリーニ自身である可能性が指摘されてきた。
 1919年にムッソリーニは、イタリアの参戦に関して、『革命とその始まりの最初のエピソードだ。革命は戦争の名のもとで40ヶ月続いた』と語った。これは、A. Rossi, イタリアファシズムの成立, 1918-1922 (1938), Ⅱ に引用されている。
  (31) レーニン, PSS, 第48巻, P.155。
  (**) G. R. Urban 編, ユーロ・コミュニズム (1978), p.151。
 セッテンブリーニ(Settenbrini)は、つぎの興味深い疑問を提出している。
 『かりに1914年のイタリア政府のようにロシア帝制(ツァーリ)が中立のままにとどまっていたとすれば、レーニンはいったい何をしただろうか。レーニンが熱心な干渉主義者(Interventioist)にならなかったとは、確実に言えるのではないか?』
 Settenbrini, in : George L. Mosse 編, 国際的ファシズム (1979), p.107。
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 ⑤につづく。

1478/ムッソリーニとレーニン③-R・パイプス別著5章2節。

 前回のつづき。
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 第2節・ムッソリーニの『レーニン主義者』という根源③。
 労働者階級は生まれながらに改良主義者だ(『経済組織(労働組合)は経済の現実が改良主義的だから改良主義者だ』)と、そして全ての政治制度のもとで、支配しているのは少数者だといったん決定するや、ムッソリーニは、かりに労働者が革命化しなければ、労働者を指導する知性と意思をもつ特権階層が必要になる、と結論づけた。(21)
 彼は1904年には、このような考え方を信奉した。(22)//
 このような前提のもとで、彼は、イタリア社会党の再建へと進んだ。
 ムッソリーニが設立した< La Lotta di Classe > (階級闘争)〔新聞〕で、レーニンがメンシェヴィキに対してしたのと同じように彼は、改良主義多数派を放逐した。誹謗中傷はレーニンほどではなかったけれども。
 レーニンは、この新聞の創刊号の中のムッソリーニの論説に、自分の名前を署名するのを躊躇しなかっただろう。ムッソリーニは、こう書いていた。//
 『社会主義は到来しつつある。そして、社会主義を実現する手段は、政治的征服によってではなく-社会党に頻繁にみられる幻惑的な理屈だ-、将来の共産主義組織の中核をすでに今日に形成している労働者協同体の数、力および意識によって、現存する市民社会の胸中に与えられている。
 カール・マルクスが<哲学の貧困>で述べるように、労働者階級は、その発展の推移のうちに、古い市民社会を、階級とその間の矛盾を廃棄する協同体(association)に取って替えるだろう。(中略)
 このように予期するならば、プロレタリアートとブルジョアジーの間の闘争は、<階級の階級に対する戦い>、最高度に表現すれば、全体的(total)な革命となる戦いだ。(中略)
 ブルジョアジーの収奪は、この闘争の最終結果だろう。そして、労働者階級が共産主義を基盤にして生産を始めるのに困難はないだろう。この戦いと征圧のための武器、制度、人間を、彼らの労働組合の中に、今日すでに用意しているのだから。(中略)
 社会主義労働者は、前衛的で果断のないかつ戦闘的な組織を形成しなければならない。その組織は、刺激し鼓舞することで、理想的目標への展望を大衆に決して忘れさせないだろう。(中略)
 社会主義は商売人の戯れ事ではないし、政治家の遊びでもなく、恋愛小説家の夢でもない。ましてスポーツではない。
 社会主義とは、個人としても集団としても精神と物質の高揚へと努力することであり、そしておそらく、人間集団の感情を掻き乱す最強のドラマだ。また、確実に苦しみ無為に過ごさないで生きたい数百万の人々の、最も大切な希望だ。』(23)//
 ムッソリーニは、党員たちの挫折した過激主義を利用して、1912年の社会党大会で穏健派を指導層から排除することに成功した。
 『ムッソリーニ派』として知られる彼の支持者の中には、のちの著名なイタリア共産主義者の何人かがいた。とりわけ、アントニオ・グラムシ(Antonio Gramsci)がいた。(24)
 ムッソリーニは党の執行委員会へと指名され、<前へ!(Avanti !)>の編集長職を託された。
 レーニンは<プラウダ>紙上で、ムッソリーニ党派の勝利を歓迎した。
 『分裂は、困難で苦痛の出来事だ。
 しかし、ときには必要だ。その状況では、弱さや感傷の全ては…犯罪だ。(中略)
 イタリアの社会主義プロレタリアートの党は、その真ん中からサンディカリストと右派改良主義者を放逐して、正しい途を進んだ。』(25)//
 1912年、30歳に1年足らないムッソリーニは、イタリアの革命的社会主義者の、または『非妥協者』たちの、指導者になることが運命づけられているように見えた。
 しかし、それは現実とはならなかった。イタリアの参戦問題に関する彼の考えの転回が理由だった。//
 レーニンのように、ムッソリーニは1914年の前に、政府が宣戦すれば社会主義者は内乱的暴力でもって答えるだろうと脅かした。
 1911年に政府がトリポリ(リビヤ)へ兵団を派遣したあとで、ムッソリーニは、社会主義者は『諸国間の戦争を階級間の戦争に』変える用意があると警告した。(26)
 この目的を達する手段は、一般的ストライキ〔ゼネ・スト〕だった。
 ムッソリーニは、第一次大戦の直前に、この警告を繰り返した。かりにイタリアが中立を放棄して連合国に抗する中央勢力に加わるならば、プロレタリアの蜂起に直面するだろう、と。(27)
 ファシズム歴史家のエルンスト・ノルテ(Ernst Nolte)は、何らかの理由でレーニンを無視して、ムッソリーニは戦争になれば反乱だと政府を威かしたヨーロッパのただ一人の重要な社会主義者だ、と主張している。(28)//
 戦闘が勃発して、全く予期しなかったことだが、ヨーロッパの社会主義者たちが進んで軍事借款に賛成票を投じたことは、ムッソリーニの自信を激しく動揺させた。
 彼の同僚が驚いたことに、ムッソリーニは1914年11月に、イタリアの連合国側への参戦に賛成することを明らかにした。
 この言葉と行動を合わせるために、彼は軍に歩兵として加入し、1917年2月まで戦闘に加わった。そのとき彼は、重傷を負って後方に送られた。//
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  (21) De Felice, ムッソリーニ, p.122-3。
  (22) Gregor, ファシスト信条, p.145。
  (23) 1910年1月9日付の論説, in : ムッソリーニ, オペラ・オムニア, Ⅲ, p.5-7。
  (24) Gregor, 若きムッソリーニ, p.135。
  (25) レーニン, PSS, 21巻, P.409。
  (26) < La Lotta di Classe >(階級闘争〔新聞〕)1911年8月5日号。De Felice, ムッソリーニ, p.104. に引用されている。
  (27) ムッソリーニ, オペラ・オムニア, Ⅳ (1953), p.311。
  (28) エルンスト・ノルテ, ファシズムの三つの顔 (1965), p.168。
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 ④につづく。

1475/ムッソリーニとレーニン①-R・パイプス別著5章2節。

 前回のつづき。
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 第2節・ムッソリーニの『レーニン主義者』という根源①。
 第一次大戦前の著名な社会主義者の中で、ムッソリーニほどレーニンに似ている人物はいない。
 レーニンのように、ムッソリーニは、自国の社会主義政党の反修正主義派を率いた。
 レーニンのように彼は、労働者は生まれながらに革命的なのではなく、知識人エリートによって革命的行動へと突つかれなければならない、と考えた。
 しかし、ムッソリーニの考えにはより適した環境の中で仕事をした間、添え木となる党を形成する必要が彼にはなかった。
 少数党派の指導者だったレーニンは分離しなければならなかったが、一方のムッソリーニは、イタリア社会党(PSI)の多数派を獲得して、改良主義者を排除した。
 1914年にムッソリーニの戦争に関する考え方の転回が起こらなかったならば、彼は十分に、イタリアのレーニンになっているかもしれなかった。彼は、連合国側へのイタリアの参戦に賛成することを明らかにして、イタリア社会党から除名されたのだった。
 社会主義歴史家は、ムッソリーニの初期の伝記にあるこのような事実を恥ずかしく感じて、それらを抑えて公表しなかったか、社会主義との一時的な戯れとして叙述した。その戯れをした人物の知性の師は、マルクスではなく、ニーチェとソレルだとされた。(*)
 しかしながら、このような主張は、つぎの事実と一致させることが困難だ。すなわち、イタリアの社会主義者たちは、十分に将来のファシズム指導者について考慮して、1912年に党機関である新聞 <前へ!(Avanti !)>の編集長に指名した、ということだ。(14)
 社会主義との一時的なロマンスとは全く違って、ムッソリーニは熱烈に社会主義に傾倒していた。
 1914年の10月まで、いくつかの点では初期の1920年まで、労働者階級の性質、党の構造と活動、社会主義革命の戦略に関する彼の考え方は、レーニンのそれに著しく似ていた。//
 ムッソリーニは、無政府主義的サンディカリストとマルクス主義者の信条をもつ、貧しい伝統工芸家の息子として、イタリアの最も過激な地方であるロマーニャ地方で生まれた。
 父親は彼に、人間は二つの階級に、被搾取者と搾取者とに分けられる、と教えた。(これは社会主義指導者としてムッソリーニが用いた定式だった。『世界には二つの祖国がある。被搾取者の国と搾取者の国だ』。-sfruttatiと sfruttatori。)(15)
 ムッソリーニはボルシェヴィズムの創設者と比べれば低層の出自で、その過激主義はより多くプロレタリアの性質を帯びていた。
 彼は理論家ではなく、戦術家だった。暴力の重要視とともに無政府主義とマルクス主義の混合物である彼の知識人エリート主義は、ロシアの社会主義革命党のイデオロギーと似ていた。
 19歳のときの1902年に、ムッソリーニはスイスに移り、一時雇い労働者として働き、余暇には勉強して、きわめて貧乏な二年間をすごした。(*)
 彼はこの期間に、過激派知識人と交際した。
 確実ではないけれども、ムッソリーニがレーニンと会った、ということはありうる。(++)
 この期間に頻繁にムッソリーニを見たアンジェリカ・バラバノッフによれば、彼は虚栄心をもち自己中心的で、異様な興奮をしがちだった。また、その過激主義は、貧困と金持ちへの憎悪に根ざしていた。(16)
 この時期にムッソリーニは、長く続く改良主義者や進化論的社会主義に対する敵意を形成していった。
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  (+) ソレル(Sorel)はムッソリーニに対して大きな影響を与えたというのは、反ファシスト文献上の長く続く神話だ。彼の影響は小さく一時的なものであることを、証拠資料は示す。以下を見よ。Gaudens Megaro, 生成期のムッソリーニ (1938), p.228. ;エルンスト・ノルテ(Ernst Nolte), ファシズムとその時代 (1963), p.203。
 ムッソリーニの暴力カルトは、ソレルではなくて、マルクスに由来する。ソレルはたまたま、1919年9月に、レーニンへの賛辞を書いた(「レーニンのために」in :暴力に関する考察, 10版, (1946), p.437-54.〔仏語〕)。
 ソレルはそこで、「マルクス以後の社会主義の偉大な理論家であるとともにその天才ぶりはピエール大帝のそれを想起させる」ムッソリーニの知的発展に自分が寄与した、というのが、噂になっているように本当であれば、きわめて誇らしい、と書いた。
  (14) ムッソリーニの初期の社会主義やレーニンのボルシェヴィズムへの親近感についてきちんと取り扱った書物の中に、以下がある。Renzo de Felice, ムッソリーニと革命 1883-1920 (1965) ;Gaudens Megaro, 生成期のムッソリーニ (1938)。A. James Gregor のつぎの二つ, 若きムッソリーニとファシズムの知的淵源 (1979), ファシストの政治信念 (1974)。および、Domenico Settenbrini の二つの論文, 「ムッソリーニとレーニン」in :George R. Urban 編, ユーロ・コミュニズム (1978), p.146-178, 「ムッソリーニと革命的社会主義の遺産」in :George L. Mosse 編, 国際的ファシズム (1979), p.91-123。
  (15) ベニート・ムッソリーニ, オペラ・オムニア (1952), p.137。   
  (*) この移動は、徴兵を避けたい気持ちからだったと、ふつうは説明されている。しかし、James Gregor は、ムッソリーニは1904年にイタリアに戻ってきて翌二年間を軍役ですごしたので、原因とはなりえなかった、と指摘した。James Gregor, 若きムッソリーニとファシズムの知的起源 (1979), p.37。
  (++) Benzo de Felice, ムッソリーニと革命 1883-1920 (1965), p.35n は、この遭遇はあった、と考えている。
 ムッソリーニはレーニン(「ロシア移民は絶えず名前を変えていた」)と会ったか否かの質問に決して明確には答えなかったが、一度、謎めかしてつぎのように語った。『私が彼〔レーニン〕を知っているのより遙かに多く、彼は私について知っていた』、と。
 彼はいずれにせよ、この期間に、翻訳されたレーニンの著作物のいくつかを読んだ。そして、『レーニンに捕まった』と言った。Palazzo Venezia, ある体制の歴史 (1950), p.360。
  (16) アンジェリカ・バラバノッフ(Angelica Balabanoff), 反逆者としてのわが人生 (1938), p.44-52。
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 ②につづく。
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