秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

イスパルコム

1415/国家と共産党-ロシア-02。

 一 つづき。 
 ペトログラード・ソヴェトは当初は同市(首都)でのみ活動したが、他都市のソヴィエト・前線部隊(後者は説明が要るが省略)の代表も加えて「全ロシア労兵ソヴェト」となり、その「イスパルコム」(執行委員会)は「全ロシア(All-Russian)中央執行委員会」(CEC=Central Executive Committe)と自らの名前を変更した。
 その構成員72名のうち、メンシェビキ23、エスエル(社会革命党)22、ボルシェヴィキは12名。ソヴェト総会も開かれたが(3月-4回、4月-6回)、CECの提案を「拍手喝采」で承認するだけの力になる。
 イスパルコム=CECの構成員には農民代表者はいない。それと「ブルジョアジー」が除外されているので、「全ロシア・ソヴェト」およびCECは、「全ロシア」住民の「せいぜい10-15%を代表」したにすぎない。
 以上、R・パイプス〔西山克典訳〕・ロシア革命史(成文社、2000)p.108。
 原書である、R.Pipes, A Concice History of the Russian Revolution (1995)では、p.94-95。
 二 その後(レーニン「4月テーゼ」・ケレンスキー政府首班の約束等々)および「10月革命」事件でのソヴェト等と「政府」の関係・役割については、以下の一部を除き、別途、<権力奪取>の具体的な様相を語る中で言及することにしよう。相当に興味深い<ドラマ>ふうだ。
 三 ボルシェヴィキは、各および全ロシア・ソヴェトのイスパルコム又はCECの多数を獲得するかこれを強引に屈服させることによって、結果としてソヴェト全体を支配するようになり、ソヴェトのもとに首都防衛名目の「防衛に関する革命委員会」=「軍事革命委員会」を設置することを、メンシェビキの反対を押して、ソヴェト総会で是認させた(1917年10月9日、p.150)。
 1917年10月26日、ソヴェト第2回大会開催中に、「軍事革命委員会」部隊による市内要所占拠、臨時政府閣僚逮捕・拘束、「冬宮」占拠という<ほとんど無血の><実力行使>が完了した(10月「革命」又は政変・クー・デタ)。
 その前の24日に、レーニンはつぎの宣言を起草していた。
 「臨時政府は廃された。政府の権力はペトログラード労兵ソヴェトの機関であり、ペトログラードのプロレタリアートと守備隊の先頭に立つ軍事革命委員会に移った。…。」
 <宣言>なので、実際に「プロレタリアート」なるものの「先頭に立つ」のかどうかは疑問視できる。
 また、パイプスによれば-秋月の言葉を挿むと<法的>または<国制>の観点からは-、「ボルシェヴィキの中央委員会を除き、誰もそうすることを正当と認めていなかった一機関が、ロシアの最高権力を掌握した、と宣言した」。
 以上、p.153-6、原書p.143-6。
 第2回ソヴェト大会が再開され、諸「布告」(Decree)発布が承認され、憲法制定会議招集までの暫定政府になる「はず」の、新しい「臨時政府」閣僚候補者名簿が発表され、承認された。
 この<暫定・臨時>の「はず」の「政府」または「内閣」は「ソヴナルコム」(Sovnarkom)と呼ばれた。パイプス(および訳者・西山)も同様だが「人民委員会議」(Council of People's Comissars)とも訳される。
 議長(首相)はレーニン、内務人民委員(内務大臣)はルイコフ、外務人民委員(外務大臣)はトロツキー。スターリンは、いわば民族問題担当長官。
 新しいソヴェト・イスパルコム(CEC)も形成された。ボルシェヴィキのみによらず、101名のうち、ボルシェヴィキ62名、左派エスエル(左翼社会革命党)29名など。イスパルコム議長は、カーメネフ。
 以上、p.156-7。
 四 1918年3月にボルシェヴィキは「共産党」と名乗る。同月に-民族諸問題の一定の解決を経て-ロシア・ソヴェト連邦社会主義共和国成立・同憲法発布。
 この憲法は実質的には左派エスエルの支持も受けていた。だが、同党はもちろん共産党や政党には触れていない。
 また、「ソヴェト」については明確に語り、「全ての権力をソヴェトに」旨を規定したが、各(村・郡・県・中央)ソヴェトの関係、ソヴェトと「(中央)政府」の関係も曖昧なままで、パイプスによれば、「その憲法が真剣に受けとめられることを意図していなかった」、という(p.161-2)。 
 五 関心を惹くのは、1917.10政変以降、少なくとも「内戦」終了頃までの、国家またはソヴェトと「政府=ソヴナルコム・人民委員会議」の関係およびこれらと共産党(ボルシェヴィキ)の関係だ。このあたりは、ロシア革命等に関する諸文献でも分かりにくい。
 R・パイプスは訳書p.163-165(原書p.154-)で、つぎのように説明している。
 ソヴェトの中央執行委員会であるCEC(イスパルコム)は、ソヴェト大会が創設したソヴナルコム」(人民委員会議=政府・内閣)の「行動と構成に関する監督権」を持った。
 しかし、上はレーニンが自ら提案したものだったが、レーニンもトロツキーも、できるかぎり早く、「人民委員会議」をソヴェト(・中央執行委員会)から解放させたかった。あるいは後者に対する責任をなくし、後者による監督をなくしたがっていた。
 レーニンらが「真に意図」したのは、「人民委員会議」が、共産党の中央委員会に「排他的に責任を負う」ことだった。
 これにより、ソヴィエト・ロシアの歴史で「最初にして唯一の国制上の衝突(constitutional clash)」が生じた。
 なお、人民委員会議(内閣)の議長(首相)はレーニンであり、共産党中央委員会のトップにいたのはレーニンだ。
 共産党の「トップ」と書いたが、「最高指導者」という呼称も見られるものの、正式に何と呼ばれていたかは、諸文献で、じつははっきりしない。
 現在またはレーニン以降の諸共産党ならば、「総書記」、「第一書記」、「書記長」あるいは「(幹部会 ?)委員長」なのだろう。
 存在していると誰もが明確に意識しているもの(・人物)については、言葉を用意する必要がなく、従って言葉・概念が作られることがないことがある、ということを示しているようでもある。あるいはそもそも、国家と政党(共産党)を厳密に分けて考えるという発想自体が、この時期のレーニンらボルシェヴィキ党員にはなかったのかもしれない。それこそ、党(共産党)=国家、なのだ。
 さらに、上記の問題についてのR・パイプスの説明・叙述を追跡する。

1414/国家・共産党・コミンテルン01。

 一 ロシア革命またはレーニン(を首領とするボルシェヴィキ)が生み出した国家のことを<一党制国家>とか<党所有国家> ということがある。
 下斗米伸夫・ソ連=党が所有した国家(講談社メチエ、2002)も参照。
 国家・政府と(一国家の)共産党(政党)の関係、さらにはこれらと1919年設立のコミンテルンの関係・違いに焦点を当てて、以下、紹介したりコメントしたりする。
 渡部昇一が何と言おうと、過去の問題ではない。コミンテルン、コミンフォルムはもうないが、国家・政府と(一国家の)共産党の関係は見事に、現在の共産中国や北朝鮮、そしてベトナムやキューバにまで継承されていると考えられる。
 なお、現在開催されているらしい、中国共産党の<中央委員会第~回総会>という表現の仕方は、現在の日本共産党と同じ。共産党の<党大会>の間は、<中央委員会総会>でつないでいくのだ。
 二 R・パイプス〔西山克典訳〕・ロシア革命史(成文社、2000)によると、ソヴィエト(ソビエト)・ソヴェート・ソヴェト(Soviet)という言葉が、日常的意味でなく制度的な又は機関を指すものとしてロシアで用いられたのは、1905年の10月、ペテルブルク工科大学で「ストライキ委員会」が招集されたとき、それがすぐのちに「労働者代表ソヴェト」と名乗ったことが最初のようだ(p.58。以下、同じ)。
 英語ではCouncil、独語ではRat と訳されているはずだ。日本語では、「評議会」または「会議」だろう。
 なぜ大学にという疑問には、政治的集会・デモに対する当時の規制が大学構内については緩かったと、パイプスに従って指摘するにとどめる。
 このソヴェトの指導部には、学生も農民も入っておらず、また労働者でも兵士でもなく、それは「社会主義諸政党」が指名した「急進的」「知識人」で構成されていた(p.58)。
 1905年12月に「モスクワ・ソヴェト」は①帝制打倒、②憲法制定会議招集、③「民主共和国」の宣言を要求し、④「武装蜂起」を呼びかけた、という(p.59)。
 この「ソヴェト」はのちに、ボルシェヴィキ・共産党ではなく、国家・政府の系列の機関へと発展 ?していく。
 三 1917年二月革命により「臨時政府」(国会議員臨時委員会)が組織され、ケレンスキーが委員の一人になった。これは、パイプスによれば「私的な性格」のものとされるが、(帝制終焉時の)の国会の議員全体ではないにせよ、国会議員内の「私的な会合」または「指導者たち」が設立を決定したとされるので(p.94)、二月革命による<非連続>的なものではあるが、のちの「10月革命」に比べればまだ、国家機関又は政府としての連続性・「民主性」を少しは保っているかもしれない。
 上の臨時政府の設立と同日(2月28日)、「ペトログラード・ソヴェト」が設立された。主導権はメンシェヴィキにあった。2週間後の代議員3000名のうち、2000名以上が兵士で、二月革命の「初期の局面」は「兵士の反乱」だった(p.95)。
 代議員数千人では会議・実質的な決定ができない。ソヴェトの決定機関が「イスパルコム」という「執行委員会」に移った。この機関は「社会主義諸政党の調整機関」で、兵士に支持者がおらず、労働者の中でも「わずか」の支持者しかいないボルシェヴィキに属する委員の比重が不均衡に高かった。またこれは、ソヴェト総会から自立して活動し、あらかじめ実質的に決定する「社会主義知識人の幹部会」のようなものになった(p.96)。
 このソヴェトは「臨時政府」系列ではなく、社会主義諸政党による「私的」な組織で、臨時「政府」には参加しないと決定する(同上)。同年10月末まで続く、いわゆる<二重権力>の時代だ。
 パイプスによると、表向きは臨時政府が「全ての統治上の責務」を引き受け、「現実には」、ソヴェト「イスパルコム」が「立法と執行」の両機能を果たした(同上)。
 皇帝逮捕(のち一族がボルシェヴィキ=共産党により全員殺害される)ののちソヴェト・「イスパルコム」は5名から成る「連絡委員会」を設置し、政府に、イスパルコムの事前承認を得ることなく重要な決定をすべきでないと主張し、政府はこれに応じた、という(p.108)。
 中途だが、いわゆる「10月革命」事件以前のペトログラード・ソヴェトの状況から、次回につづける。
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