秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

イギリス共産党

2433/F・フュレ、うそ・熱情・幻想⑫。

 François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012
 試訳のつづき、第7章へ。途中に「+」のついた空白の1行があるので、短いながら、節を分ける。下線は、試訳者。
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 第7章・ボルシェヴィズムの魅惑(The Seduction of Bolshevism)。
 第1節。
 (1)私は明らかにしたいのだが、ボルシェヴィズムに関する尋常ではないものは、その魅惑(seduction)の可塑性だ。
 これの三つの類型を挙げる。第一に、B・スヴァーリン(Boris Souvarine)は、フランスの伝統でのジャコバンであるがゆえに、最も単純だ。
 第二に、P・パスカル(Pierre Pascal)は、ロシアと教会連合を熱愛した、反マルクス主義キリスト教者だ。
 彼の場合はすでに、理解するのがむつかしい。
 第三は、G・ルカーチ(Georg Lukács)で、より突飛ですらある。この人物の出身は、ニーチェ、キルケゴール、およびその種の著作者だ
 彼は、芸術愛好家、ユダヤ人銀行家の息子、オーストリア=ハンガリーの伊達男で、ブダペストのカフェやウィーンでよく知られていた。
 換言すると、知識人には、可能なかぎり異なっている、三タイプがある。
 そして、少しのちに、イギリスのファビアン派(Fabians)が現れた。
 ボルシェヴィズムは、ヨーロッパの全ての知識人界を揺さぶった。
 ボルシェヴィキ思想はどのようにして、かくも多くの文化的伝統—シュール・リアリスト、ニーチェ主義者、フランス・ジャコバン、イギリス・ファビアン派—をその周りに集めることができたのか?
 社会民主主義者たちは、少し大きい抵抗を示した。彼らはボルシェヴィキ・ボルシェヴィズムと同じ宗派育ちであり、通暁していたからだ。
 しかし、反共主義者と呼ばれるのを恐れて、おとなしくしていた。//
 (2)イギリスの場合は独特だ。プロテスタントの国民と文化を巻き込んでいるのだから。
 ブルームズベリー・グループ(the Bloomsbury Group)の特徴は、反既得権益層、フランスのシュール・リアリストのそれに似た反ブルジョア的耽美主義だった。
 耽美的反応による親共産主義者というこの流れは、この世紀中ずっとイギリスの知識人界を貫いた。
 1930年代のCambridge は、その一例だ。
 しかし、イギリスの共産党は、フランス共産党と違って、議員が選出されたりする現実的にナショナルな存在となることができなかった。
 おそらくその理由は、フランスでは多数の例が提示されたような、演劇的かつ悲劇的な解体の場面をイギリスの国民は露骨に見ることがなかった、ということだ。
 忠実な活動家は、全ゆる罵倒を浴びせられる「背教者」に変わった。
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 第2節。
 (1)共産主義者の最大の犯罪は、先ずロシア人に対して、次いでポーランド人—西ヨーロッパにとって忘れられた人々—に対して、冒された。
 パリ、ローマ、あるいはロンドンではしばしば、共産主義に関する歴史的判断はロシアやウクライナの農民層の廃絶、殺戮または追放された数百万の人々、強制収容所(the Gulag)、カティン(Katyn)に基づいている。
 トゥール(Tours)大会での分裂や共産党とのつながりがなければ、左翼はもっと早くもっと頻繁にフランスを支配していただろう。このことを忘れて、フランス人は、人民戦線や有給休暇の名前でもって共産主義を理解してきた、としばしば言われる。//
 (2)共産主義者が最も非難されるべき行為は、ソヴィエト体制に関してうそをついていたことだ。
 我々は、彼らが行ったことよりも—結局はフランスのような国では彼らはたいていは天使の側にいたのだ—、むしろ彼らが言ったこと、あるいは逆に言わなかったことを、非難することができる。
 彼らは決して、うそをつくことを止めなかった。
 今日ではあまりに巨大で、あまりにも明瞭だと見えるこのうそは、意図された欺瞞であったことだけで、あれほどにまで共有され、信じられたのではなかった。
 このうそは、20世紀に、ソヴィエト同盟がその歴史的伝説の一つだと想定される、民主主義的普遍主義を求める熱情に、遭遇したのだ。
 このことが理由となって、共産主義は、暴力や独裁に反対する勢力から狂信的に守られなければならなかった。//
 (3)普遍的なものを求めるこの熱情が我々の同時代人たちに対して及ぼした力に、私は衝撃を受けている。
 今日の豊かで平和な国々で、若い世代のための政治の大路は、人道主義(humanitarianism)だ。
 人間の諸権利は、階級闘争に置き代わった。そして今のところ、同一の目標、人間性の解放に役立っている。
 しかし私は、 それは政治を明晰に判断するのを回避するもう一つの路にすぎないのではないかと、不思議に思って(wonder)いる。//
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 第7章、終わり。


1961/L・コワコフスキ著第三巻第四章第13節④。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第三巻分冊版p.178-p.182。合冊本では、p.929-p.933.
 第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。合冊本は注記・索引等を含めて、計1284頁。
 何度も記したように、この著の邦訳書はない。ドイツでは1977-79年に、独訳書が刊行された(のちにpaperback 版となった)。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
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 第13節・スターリニズムの最終段階でのヨーロッパ・マルクス主義④。
 (22)戦争後のしばらくの間フランスで甚大な成功をかち得たサルトル(Sartre)の実存主義哲学は、この当時の態様では、マルクス主義と全く相容れないものだった。
 サルトルは、自然という決定要因に支配された異質で緩慢な世界にいる、絶対的な自由の虚無(Vacuum、真空)が人間という存在だ、と主張した。
 この自由は、人間が逃れようとしてきた耐え難い重荷だが、誠実さ(good faith)と矛盾することなしには逃れることができないものだ。
 私の自由は絶対的で無制限だという事実こそが、私が言い訳すること(alibi)を全く不可能にし、自分が行う全てについて百パーセントの責任を私に負わせる。
 私の恒常的な自己予想は、そこにこの自由が提示されているのだが、時間を発生させるものだ。それは人間存在の本当の形態であり、自由のごとく我々の全てがもつ独自の属性だ。
 サルトルにとって、協同的かつ共同体的な時間のごときものは存在せず、自然の、希望のない、かつ抑圧的な、個人が絶えることなく自分を生み出すための不可避性(necessity=必然性)以外には、いかなる自由も存在しない。-この自己の生産は、神またはその他の超越的価値、歴史的伝統や同類の人間たち、によって助けられることのない過程だ。
 私は空虚な自由と純粋な否認性によって定義されているがゆえに、私自身の外部にある全ての存在は私の自由を制限しようとしているものだ、と私には思える。
 したがって、存在というまさにその本性によって、いわば存在論的に(ontologically)、人間関係は、他の人間存在を併合しようとする、まるで他者は物であるがごとき、敵対的な形態のみをとることができる。-このことは、全ての論脈に、そして、政治的支配のように、愛(love)にあてはまる。//
 (23)いかなる形態のものであれマルクス主義と、このような基本的考え方の間には、共通する基盤が存在していないことが明瞭だ。この基本的考え方は、人間の共同体または共有される時間という観念を、全て排除する。そして、生活の全体を、自分自身の虚無性(vacuity、真空性)を非合理的に追求することへと帰一させる。
 この点によって、フランスの共産主義知識人たちは、実存主義に対して激しい非難を投げつけた。
 他方で、サルトルは初期の段階から、労働者階級と被抑圧者一般を同一視しようとした。その結果として、サルトルの共産党との関係の特徴は、逡巡と不明瞭さになった。
 彼は実際に、共産党員たちとの一体感と彼らに対する激しい敵意との間で揺れ動いた。その複雑な過程を、ここで立ち入って叙述することはできない。
 しかしながら、彼の全ての段階で、「左翼」(Leftist)としての自分自身の名声を維持しようと努めた。そして、自分自身と彼の哲学を<格段に優れた(par excellence)>「左翼主義」を具現化したものだと示そうとすらした。
 つまるところは、共産党員たちを攻撃して彼らから罵倒を浴びせられたときですら、サルトルは、反動やブルジョアジーの勢力、あるいはアメリカ合衆国政府に対して、もっとはるかに激烈な攻撃をする立場をとった。
 サルトルが一体化したプロレタリアートの諸要求を共産党が代表していると考えることで、彼は一時的に政治的共産主義と同盟したばかりではなく、解放という人間の最良の希望だとして、スターリニズムの最終段階にあったソヴィエト同盟を称賛した。
 彼の政治的活動全体の価値が減少する理由は、影響力を何ら持たないという知識人には絶えられない事態の典型的状況に陥るのを怖れる、そういう気持ちにもとづいていることにあった。
 要するに、サルトルのイデオロギーは、「内部」に存在したいという充たされない野心のうちに抱かれた、政治的<不満(manqué)>のそれだった。//
 (24)一時期はサルトルと一緒に活動したメルロ=ポンティ(Merleau-Ponty)は、マルクス主義と共産主義に関して、最初からもっと懐疑的だった。彼の自由の理論は、虚無としての自由というサルトルの考え方よりもマルクス主義に近いものだったけれども。-この理論は、自由はつねに現実の状況によって決定され、克服する障壁をつうじてのみ存在する、というものだ。
 メルロ=ポンティは<人間中心主義とテロル(Humanisme et terreur)>(1947年)で、共産主義者のテロルとその歴史的正当化の可能性を論じ、我々は自分たちの行動の完全な意味を知ることはできない、全ての帰結をまだ知らないのだから、と主張した。その帰結がまさに「意味」の一部であって、否応なく我々の責任になるものだ、と。
 そのゆえに、歴史的過程とそこでの我々の役割は、不可避的に不明瞭で、不確実だ。
 また、その究極的効果が暴力を排除することにあるならば、暴力(violence)は歴史的に正当化されるかもしれない、ということになる。
 彼はしかし、このように寛容な暴力の承認について、いかなる規準も確定しなかった。
 時が経るにつれて、メルロ=ポンティはますます共産主義に対する批判を強めるに至った。//
 (25)西側ヨーロッパ諸国でのマルクス主義著作の様式と内容は、当然に、それぞれの異なる文化的伝統を反映した。
 フランスのマルクス主義は戯曲ふうに修辞的で滑らかな人間主義の語句に耽溺しがちで、革命的雄弁さをもって語った。
それは印象主義的で、論理的には杜撰だったけれども、文語的な(literary)観点からは有効だった。
 イギリスのマルクス主義は、何がしかの経験主義の伝統を維持した。すなわち、もっと現実的(down-to-earth)で、論理的議論に関心をもち、歴史にもっと根拠をおき、哲学的「歴史主義」(historicism)への傾斜が少なかった。
 イギリスでの共産主義はきわめて弱体で、労働者階級の中での大衆的支持を一度も獲得しなかった。
 しかし、他諸国でと同様に、共産主義は純粋に知的な運動ではなく、薄弱だったかもしれないにせよ、つねに労働組合との関係を維持した。
 多くの知識人たちが1930年代に共産党を通り過ぎ、別の者たちは、戦後もそうした。
 共産党の信条をもつマルクス主義哲学者の中に、モーリス・コーンフォース(Maurice Cornforth)とジョン・ルイス(John Lewis)がいた。
 前者は、<科学対観念論>(1946年)と題する、論理的経験主義と分析哲学に対する批判書を書いた。この書物で彼は、知に関するエンゲルス・レーニン理論を擁護し、「論理的原子論」、思考の経済の原理、哲学の言語分析学への矮小化を攻撃した。
 後者は、とりわけ、プラグマティズムを批判する書物を書いた。
 ベンジャミン・ファリントン(Benjamin Farrington)は、古代ギリシャの科学に関する書物など、戦後初期の時代に歴史に対する価値ある貢献をした。彼はこの書物で、技術をもつ現代国家へと哲学的諸教理を関係づけた。//
 (26)フランス・マルクス主義が人間主義的言い回しを強調し、イギリス・マルクス主義が経験的かつ理性主義的論拠を重視したのに対して、イタリアのマルクス主義は、その伝統に忠実に、「歴史主義」への注目を強調した。
 スターリニズムの最終時期ですら、イタリアのマルクス主義哲学はレーニン主義やスターリン主義の規準から遠く離れていた。
 しかしながら、イタリア共産党は、他諸国の同志たちと同様に国際的諸問題についてはソヴィエトの方針に従順だった。この党は、ファシズム瓦解のあとで、20年間の停滞と無気力状態からきわめてすみやかに復活していた。
 のちに1956年〔試訳者注-ハンガリー事件の年〕のあとで、Parnimo Togriatti(1893-1964)は、共産党指導者たちの中で最も「心を開いた」、モスクワから最も自立している人物だという名声を獲得することになった。しかし、このことをスターリン時代にまで遡らせることのできる根拠はない。
 Togriattiはこの当時は、ソヴィエトの政策の紆余曲折に、全て忠実に適応していた。
 しかしながら、彼は特段の困難なく、(共産党専門用語で「教条的」、「左翼主義」、「党派的」と表現された)厳格な孤立主義から、ゆより融通性があって効果的な「人民戦線」政策へと方向転換した。
 文化的諸問題について、イタリア共産党は一般に他のどの共産党よりも攻撃的に口汚く罵るということはなく、マルクス主義とイタリア独自の伝統の連環を強調し、伝統的にある反動的要素ではなく「積極的」要素を重視して宣伝した。
 グラムシ (Gramsci)が1947-49年に公刊した<獄中からのノート(note)>はイタリア共産主義の歴史上の画期的なもの(milestone)で、レーニン主義の教典が許した以上にはるかに柔軟な範型のマルクス主義を党知識人が受容することを可能にした、そういう発想方法の根源だった。
 1950年代初期の傑出した著述者は、Galvano della Volpe(1896-1968)とAntonio Banfi (1886-1957)だった。彼らは人生のかなり遅くにマルクス主義者になり、かつ共産党員となって、普遍的な人間中心主義についてのイタリア的精神でもって、新しい信条を解釈した。
Della Volpe は、Eckhart に関する価値ある書物を執筆し、認識論に関する<Logica come scienza positiva>(1950年、ここでの「論理」は知に関する理論一般を意味する)と題する書物を書いた。彼はこれによって、マルクス主義を反ヘーゲルの立場および経験論者の用語法で解釈した。
 この解釈にもとづくと、マルクス主義は世界に関する科学的説明というほどのものではなく、さらに形而上学の体系以下のものだ。こうしたものではなくて、人間の自己創造の今日的段階を歴史的に表現するものであり、人間の生(life)の条件を統御しようとする実践的闘いを明瞭に叙述しようとするものだ。//
 (27)要約するとすれば、つぎのように言えるかもしれない。すなわち、西側ヨーロッパでのスターリニズムの最後の時代は、理論書および歴史書に関するかぎりで全体として無意味なものだったわけではない。しかし、何らかの価値のある数少ない書物は、組織された政治的瞞着の洪水の中で溺れ死んでいった。これについて非難されるべき責任は、何の例外もなく世界中の全ての共産主義知識人たちにある。(なお、何らかの価値のある数少ない書物も大部分は、今日ではそれ自体を目的として読む価値はない。)
 この時代に共産主義運動に加わったフランスまたはイタリアの著作者たちは、一般的に言ってソヴィエト体制や世界革命の展望にはほとんど関心がなかった。彼らが党を支持した理由の一部は、共産党が熱心に彼らの要求と利益を語ったことにあった。
 しかしながら、彼らはマルクス主義と共産主義を普遍的な教理として心に抱いていた一方で、運動が完全にモスクワによって支配されていることや、ソヴィエトの政治目的に従属していることに、十分に気づいていた。
 それにもかかわらず、無批判に、彼らは、ソヴィエトの社会体制の真の(true)性格に光を当てる全ての情報を拒絶した(そうした情報は西側の書物から、また直接に東ヨーロッパ諸国から、容易に入手可能だった)。
 彼らは、状況に応じてつねに、言葉と行為でもって、また共産党の党員であることをもって、この体制を賛美した。
 彼ら全員が、茶番劇の「平和運動」に参加した。この標語のごときオーウェル的表題は、冷戦時代のソヴィエト帝国主義の重要な道具だった。
 彼ら全員が、全く平気で、アメリカは朝鮮半島で細菌戦争を行っているという非難のごとき、狂信的な捏造事を信じ込んだ。
 ソヴィエト体制の完璧さに疑いを差し挟んだ者は誰もが、「結局は」(after all)、共産主義がファシズムに対抗する唯一の、または最も有効な防塞だ、と自分に言い聞かせた。そして、そのゆえに共産主義を百パーセント、無条件で受容しなければならない、と。
 このような自発的な自己欺瞞の心理的な動機は、さまざまだった。
 とりわけあった心理的動機は、普遍的な人間的友愛という古来からの夢を世界の誰かが具現すると信じたい、というきわめて切実な欲求だった。
 「歴史の進歩」に関する知識人たちの幻想。
 多くの西ヨーロッパ諸国では大戦間に完全に地に落ちた、民主主義的「既得権益層」(establishment)に対する侮蔑意識。
 歴史や政治を含む普遍世界(the universe)の秘密をこじ開ける、そういう万能の鍵(master key)を求める切望感。
 歴史という波の頂上に、換言すると、勝利する側に、立っていたいという野心。
 知識人たちはとくに陥りがちな、現実的影響力(force)への信仰。
 彼らが考えていたように現世界で剥奪され迫害されている人々と同じ防塞の中にいると願望しつつ、共産主義〔共産党〕知識人たちは、最も抑圧的な体制の預言者となり、そして、権力を拡張するために用いる、巨大で効率的な虚偽(lies)の装置のための、現存するかつ自発的な工作員(agents)となった。//
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 第13節、および第四章が終わり。
 次章以降の表題は、<トロツキー>、<アントニオ・グラムシ>、<ジョルジュ・ルカチ>、<カール・コルシュ>、<ルシアン・ゴルトマン>、<フランクフルト学派と「批判理論」>、……。

1826/江崎道朗2017年8月著の悲惨⑱。

 江崎道朗・コミンテルンの陰謀と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)。
 この本が<レーニンの生い立ち>についてもっぱら、正確には一つだけの邦訳書として、「参考に」しているので、おかげで著書の執筆者、クリストファ・ヒル(Christopher Hill)について、関心をもち、知識も得ることができた。
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 既述のようにヒルは、1945-46年にLenin and the Russian Revolution(1947)を執筆し、1947年に英国で刊行し、これが1955年にクリストファー・ヒル〔岡稔訳〕・レーニンとロシア革命(岩波新書、1955年)という邦訳書となって日本でも刊行された。これは、彼の43歳の年で、原書を執筆していたのは、33~34歳のとき。
 また、80歳をすぎた1994年1月の英国新聞紙上で、私に言わせればなお<レーニン幻想>をもつことを明らかにし、「スターリンのゆえにレーニンを責めるという罠(trap of blamming Lenin for Stalin)」に陥ってはならない旨を語った。
 なお、「スターリン以降の歴代指導者」が「社会主義の原則」を踏みにじったのであって、レーニンは社会主義に向かう「積極的努力」をした、というのは現在の日本共産党の歴史理解だ。したがって、Ch・ヒルは(も?)日本共産党と似たようなことを言っていることになる。
 但し、<レーニンはまだマシだった>くらいの議論は欧米にも(当然に?日本でも)あるようだが、レーニンは<市場経済を通じて社会主義へ>の路線を確立した、とまで書いている欧米文献は見たことがない
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 さて、とりあえず、ネット上の情報によると、つぎのことは確実だろうと思われる。
 クリストファー・ヒル(Christopher Hill)、1912年2月~2003年2月。満91歳で死去、イギリス人。
 1930年代の前半、イギリス共産党に入党。共産党員となる。
 これはコミンテルンの支部としての、「共産党」と名乗ったイギリスの党だと思われる。一般的な言葉ではなく、私の造語かもしれないが、日本共産党とともに出自は<レーニン主義政党>だ。
 つづき。のち1956年に<ハンガリー事件(動乱)>をきっかけとして、離党した。
 マルクス主義歴史家としてイギリスで著名で、主要研究分野は17世紀のイギリス。
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 以上は英米語と日本語のWiki (ウィキ)でほぼ共通することを書いた(一部は私の文章だが)。
 英米語版Wikipedia は相当に詳しい。以下、それによる。
 ソ連による1956年のハンガリー侵攻の際に「多くの他の知識人たち〔党員〕」は離党したが、Ch・ヒルが離党したのは1957年の春で、「多くの他の知識人たち」と違っていた(unlike)。
 1931年にドイツ・フライブルクにいて、ナツィスの勃興を目撃。
 1934年にUniversity of OxfordのBalliol College を卒業。
 1932~1934年の間に、マルクス主義に馴染み、イギリス共産党に入党。
 1935年、OxfordのAll Souls Collegeの研究員になり、10箇月間のモスクワ旅行。
 1936年、the University College of South Wales and Monmouthshire(at Cardiff )の「助講師」。
 この年、コミンテルン設立の「国際旅団」に参加して「人民戦線」側で戦う(スペイン内戦)ことを応募したが却下された。代わりに、バスク難民救済事業に参加。
 1938年、University of Oxford/Balliol College の「研究員兼講師」(歴史学)。
1946年、<イギリス共産党・歴史家グループ>を結成。
 1949年、新設の Keele University の the chair of History に応募したが、共産党員であること(his Communist Party affiliations)を理由として、拒否される。
 以上が、江崎道朗が「参考」にした本が書かれる頃までの、かつ共産主義・共産党にかかわるCh・ヒルの「経歴」の一部だ。全くのウソではないだろう。
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 ハーヴェイ・J・ケイ(監訳/桜井清)・イギリスのマルクス主義歴史家たち(白桃書房、1989)という邦訳書がある。原書は、以下。
 Harvey J. Kaye, The British Marxist Historians (Polity Press, Cambridge, 1984).
 邦訳書によると、これはアメリカ人によるものだが、上では省略した邦訳書の副題に並べられているように、5人のイギリス・マルクス主義歴史家について叙述する。5人とは、以下。
 ①モーリス・ドップ(Maurice Dopp)、②ロドニー・ヒルトン(Rodony Hilton)、③クリストファ・ヒル(Christopher Hill)、④エリック・ホブズボーム(Eric Hobsbawm)、⑤トムソン(E. P. Thompson)
 ⑤のE. P. トムソンは、1970年代前半にL・コワコフスキを批判し、逆に後者から辛辣な反論を浴びた学者。L・コワコフスキの文章はこの欄で試訳した。トニー・ジャッㇳ(Tony Judt、1948-2010)による両者の論争?への言及についても紹介した。
 ④のE・ホブズボームについては、マルクス主義・共産主義と「ロマンス」をした、イギリス共産党員たることをやめなかった人物だと Tony Judt が描いていると、この欄で言及したことがある。
 そして、③クリストファ・ヒル(Christopher Hill)。1984年の時点で、元イギリス共産党員。
 上の本の著者自体が、マルクス主義者または明瞭な親・マルクス主義者だ。
 著者のハーヴェイ・J・ケイ(Harvey J. Kaye)はアメリカ人だが、イギリスのマルクス主義歴史学者の確かな流れ・系譜を上記の5人に見ている。
 例えば、序論で、つぎのように書く。
 彼ら(上の5人)は個別研究分野で優れているのは勿論だが「共に理論的伝統を支えてきた」。筆者(ケイ)の「論拠は、これらイギリス・マルクス主義歴史家たちが、共通の理論的問題設定に取り組んでいるという点に基礎」を置く。p.4。 
 その最終章(第7章)は「共通する貢献」と題しており、例えば、つぎのように書いている。
 彼らの研究は「総体的にみて、筆者の言う『階級闘争分析』と『底辺からの歴史』という視点から歴史研究と歴史理論の再構築をはかろうとする理論的伝統に立っている」。「特にマルクス主義との関連で言えば、彼らは、…マルクス主義あるいは史的唯物論を、階級決定論として発展させることに努めている」。p.249。  
 あくまでH. J. ケイによる見方だが、ともあれ、Ch・ヒルとは、1980年代前半の時点で、イギリス・マルクス主義歴史学者の(当時までの)5人の中の一人なのだ。マルクス主義内部の細部の論点には立ち入らない。
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 さて、江崎道朗は冒頭掲記の2017年8月の著で、いったい何ゆえに、<レーニンの生い立ち>に関して、このCh・ヒルが30歳台のとき、第二次大戦後すぐの1947年に刊行して1955年に日本語訳書となった古い本をもしかも岩波書店刊行(岩波新書・岡稔訳)の本を、<ただ一つだけ>「参考に」したのだろうか。
 大笑い、大嗤いだろう。
 <インテリジェンス>うんぬんを語る日本の<保守>派らしき人物が、当時はれっきとしたイギリス共産党員だった者が執筆したレーニン・ロシア革命に関する本を、何の警戒も、何の注意も払うことなく(まさか岩波新書だから古くても信頼が措けると判断したのではあるまい)、ただ一つの「参考」書として使っているのだ。
 この本刊行のあと晩年まで<レーニン幻想>を抱いていた人物であることは、私は突きとめた。
 なぜ、こんな安易な本の参考の仕方を江崎道朗はしているのか。
 要するに「無知」、「幼稚」の一言か二言でもよいのだろう。
 だが少し想像すれば、おそらく、レーニンの「生い立ち」を叙述する必要に迫られて、手頃に、簡単に入手できたCh・ヒル著(岩波新書)を見つけ、60年以上前に刊行された岩波新書であることも無視して、あえて使ったのだろう。
 この本以外に、レーニンの伝記的な部分を含むレーニンに特化しての研究書が邦訳書も含めて多数(しかも詳しいものが)あると想像すらしなかったようであることは、信じられないほどだ。
 江崎道朗の2017年8月著は悲惨であり、無惨だ。
 なぜ、この程度の人物が月刊正論(産経)の毎号執筆者なのか。
 なぜ、この程度の人物が<インテリジェンス>の専門家面しておれるのか。
 このような人を<培養している>のはいったいどういう情報産業界なのか。
 そして、<日本の保守>派とはいったいいかなる人たちで成っているのか。なぜ、これほどに頽廃した人々が<保守>を名乗っておれるのか。
 昨年8月に覚えた絶望的な気分を、再び思い出した。精神衛生によくない。

1819/江崎道朗2017年8月著の悲惨⑰。

 レーニンに関する記述のうち、その範囲は不明確だが、つぎの書物は、「…を参考に、レーニンの生い立ちを見てみよう」と明記している(p.45)。少なくともレーニンの「生い立ち」について、「参考」文献を一つだけ挙げているわけだ。その文献を、つぎの書物名の下に記す。
 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)。
 クリストファ・ヒル〔岡稔訳〕・レーニンとロシア革命(岩波新書、1955年)。
 この岩波新書は、先だってその文章をこの欄でとり上げたクリストファ・ヒル(Christopher Hill)の若い頃の書物の邦訳書だ。
 のちに1994年になって、ソ連解体後にこのCh・ヒルがどのような文章を書いていたかは、江崎道朗著による「参考」の仕方と直接の関係はない。ただ、「1945-46年に」執筆して1947年に(英米語で)出版したときの基礎的な考え方をその後50年近くも<珍しくも>維持し続けたようであることは、少しは驚かされる。
 上の点はともあれ、江崎道朗がCh・ヒル著の邦訳書をレーニンの「生い立ち」についてはただ一つ「参考」にしたようであることは、ただちに、つぎの疑問を生じさせる。
 原著は1947年、岩波新書として邦訳されて日本で(日本語となって)出版されたのは1955年。
 なんとまぁ。レーニンの生涯については、「生い立ち」も含めて、おそらくは100冊以上は出版されていて、どんなに少なくとも10冊以上は日本語文献もあるだろう。なぜこの本が利用されているかについて、より具体的には、つぎの疑問が<即時に>出てくるのだ。
 第一。原著1947年、邦訳書1955年、というのはいくら何でも、古すぎるだろう。
 レーニンの党・ボルシェヴィキ(共産党)と「国家」そのものとの関係が問題になおなり得たかもしれない、あるいは「マルクス=レーニン主義」と称してマルクスと同等の地位にまでレーニンを「持ち上げた」スターリン体制のもとでは実質的に「党」=「国家」または「党」>「国家」だったかもしれない、その国家・<ソ連>の創設者だったといえるレーニンについては、とりわけ1991年12月(ソ連解体)以降は、従前とは異なる<レーニン像>が、ロシア・旧ソ連も含めて、種々に語られ、論じられている可能性がある。
 なぜ、江崎道朗は、邦訳書刊行が1955年という、とんでもなく<古い>書物をただ一つ「参考」にしたのか?
 1955年とは、宮本顕治=不破哲三を指導部とする日本共産党はまだ存在していないほどの、60年以上も前の年だ。
 第二。この1955年当時すでに、岩波書店は月刊雑誌・世界等を通じて、例えば「全面」講和か否か等の問題について、明らかに「左翼」(当時は「革新」?、「平和」系?、親ソ派?)の代表的な出版者であり、当時の「左翼」たちにとっての代表的な出版社だったと思われる。
 なぜ、<インテリジェンス>の専門家を少なくとも装っているらしい江崎道朗は、岩波書店の出版物を、こんなに安易に「参考」にするのか
 秋月瑛二もまた岩波新書等の岩波の出版物に言及することがあるが、決して<警戒>を怠ったことはない。どこかに、あるいは、ともすれば、<左翼>臭があるのではないかと、いちおうは用心する。
 この欄にすでに<岩波書店検閲済み>の近年のファシズム関係邦訳書を取り上げたことがある。さすがに岩波書店だと感じたものだ。
 要するに、なぜ江崎道朗は①1955年の②岩波書店出版物を「レーニンの生い立ち」についてのただ一つの「参考」文献にしているのか。
 つぎに、古くてかつ岩波の本であっても、内容に問題がなければ、あるいは公平に見て適正といえる範囲内にあれば、それはそれでよいのかもしれない。
 しかし、江崎道朗の叙述は、戦後・1940年代後半に執筆されたCh・ヒル著の影響を受けているに違いなく、つぎのような記述を江崎道朗の<自分自身の>文章として、つまり直接の「引用」ではなく、行っている。
 以下は、ほぼ上の江崎道朗著p.46-p.47からの「引用」。
 ①「両親ともに開明的な思想の持ち主であり、貧民救済に強い関心を持っていた。レーニンはその影響を受けて育っている」。
 ②レーニンは「極めて頭脳優秀であった」が父親の死と実兄がロシア皇帝暗殺陰謀への「連座」により「処刑」され、「テロリストの弟」とレッテルを貼られて「進路を閉ざされて苦労することになった」。〔この直後にCh・ヒル著からの引用が二文ある。〕
 ③「カザンの田舎大学の法学部にしか入れなかった」〔Ch・ヒル〕が「その大学も、学生騒動に関わって四ヶ月後に放校に」なった。
 ④「ほかの大学からは軒並み入学を断られ」、「校外生」として入ったペテルブルク大学で「成績はここでも極めて優秀だったが、常に警察の監視下にあった」。
 ⑤「出世の道を断たれたレーニンは、社会主義を学び、反帝国主義・反帝制ロシアの活動にのめりこんでいく」。
 ⑥レーニンはのち、第二インター活動家として活動し「帰国しては警察の追及を受け、脱出、亡命を重ねている」。
 ⑦「貧民や労働者の救済のために活動すればするほど、帝政ロシアに弾圧されるという繰り返しだった」。
 このあとの別の書物を「参照」したうえでのレーニンの「主張」内容の紹介も、レーニン側に立っているかのごとく<優しい>。
 上の最後の点はともかくとして(いつか触れるかもしれない)、上のような第二インターでの活動を含む「生い立ち」についての江崎の叙述もまた、まるで(Ch・ヒルと全く同じく?)じつに<穏便>で<優しく>、レーニン、そしてロシア革命、そして「社会主義・共産主義」の擁護者であるがごとき口吻がある。
 事実関係には、おそらく<ほとんど>間違いはないのかもしれない(もちろん、書かれていないことのなかに重要な「事実」が隠されていることはある)。
 しかし、「出世の道を断たれた」という記述は(Ch・ヒルを真似たのだろうが)、おそらく間違っている。
 R・パイプスの同時期のレーニンの記述も読んでいるが(この欄で試訳を昨年中に掲載している)、R・パイプスによると(記憶にさしあたり頼るが)、当時の<司法試験>に合格して<専門法曹>の資格を、レーニンは得ている。
 活動家としてしか「生きて」いけなかった、というごとき叙述は誤りだろうと思われる。
 上の⑦も、正確ではない。帝政ロシアが「弾圧」したのはそこに書いていることではなくて、帝政を敵とする刑罰法令違反行為を行ったり、大戦勃発後はロシアが敗北することを望む運動をしたから、というのがまだ正確だろう。
 つぎに、「レーニンの側」に立ったような、「進路を閉ざされて苦労」した、「成績はここでも極めて優秀だった」とかの一定の価値判断を含むような叙述がある。この二箇所だけではない。
 最後に、A/両親の影響を受けて「貧民救済に強い関心を持っ」た、B/「貧民や労働者の救済のために活動すればするほど…」という叙述の仕方は、江崎による「共産主義」なるものの理解と同様に、レーニンに極めて<優しい>もので、間違いだと考えられる。
 レーニンが目指したのは「貧民救済」あるいは「貧民や労働者の救済」だったのか?
 あるいは別の箇所での江崎によれば、「格差是正」という<平等>だったのか?
 こうした叙述を読んでいると、レーニンの<動機>は、あるいは<掲げた理念・理想>は、間違っていなかった、素晴らしいものだった、という<動機は純粋だった>論のごとくだ。
 たまたま、この欄に最近に試訳を掲載したS・フィツパトリクの本の一部に、ボルシェヴィキは<革命および共産主義(社会主義)への移行期に平等主義だと主張したことは一度もない>という旨の叙述があった。彼らが夢見た究極の(国家も法も階級もない)「共産主義」社会ではともかく、レーニンらが目指したのは決して「貧民や労働者の救済」・「平等」ではない。
 長くは立ち入らないが、これらは<ロシア帝政>打倒のための<一つの方便>だった。 
 革命成功後は<旧搾取階級>・<資本主義の階層>を<逆に>虐げたのであって、その意味では不平等に(差別的に)取り扱ったのだ。
 レーニンのそもそもの<動機>・<気分>は何だったかの解明はなかなかむつかしいだろう。
 50歳すぎるまでのあの<活力>、死後に50巻近くの全集が刊行される(20歳以降だとして1年あたり1巻以上になる)ほどの文章を書きまたは演説をした<活力>の根源をたどるのは専門家でもむつかしいかもしれない。感情、意欲の元の問題だ。
 しかし、「貧民や労働者の救済」・「平等」といった<綺麗事>・<美辞麗句>にあったのではないことは明確だと思われる。
 人間としてのレーニンの「ルサンチマン」を、江崎道朗は理解しようとは何らしていないのだ。
 この機会に私見を少し書いておくと、つぎのようだ。
 否定的または消極的に捉える(欧米の)歴史研究者もいるようだが、やはり実兄が処刑=死刑とされたことは若きレーニンにとって大きかった。
 兄の死に様も、死体そのものも、弟・レーニンは見たのだろう。
 その前のこととして、R・パイプスか誰かの記述の中に、収監されている兄を「見舞う」または「接見」?するためにウラル近辺へと母親が向かおうとしたとき、父親に代わる随行者を母親が近隣で探し、若きレーニンも同行していたが、近隣の人々は「皇帝暗殺グループの一員だった」ことを理由として、無碍に?断った、というのがあった。
 そのときの母親の様子を、レーニンは見ていただろう。自分を含む<みじめさ>を、感受性が高いときに感じただろう。
 兄を「殺し」、自分を<ひどく惨めな>気持ちにさせたロシア帝政に対して、いつか仕返し(復讐)をしてやる-これがレーニンの根本的な「怨念」の少なくとも重要な一つではなかったかと思える。
 以上は全くの、文献上の根拠はない<推測>にすぎない。
 だが、そのための手段として、まずは「人民主義者」または「人民の意思」派に接近し、アナキストからも種々学んだうえで、西方のドイツを含む欧州の<マルクス主義>を知り、これを<イデオロギーとして利用>しようと感覚的に判断したのではなかっただろうか。
 ともあれ、江崎道朗はすでに、「共産主義者」に屈服している。
 この人に、反共産主義のインテリジェンスを語る資格などはない。
 上に言及した邦訳書が岩波書店から刊行された時点で、クリストファ・ヒル(Christopher Hill)は、種々の情報からおそらく確実に、イギリス共産党の党員だった。
 <マルクス主義歴史学者>だったくらいのことは、クリストファ・ヒルに関する人物情報のどこにでも書かれているだろう。だからこそ、すなわちそういう人物が書いた「レーニンとロシア革命」だからこそ、内容的にも問題はないと確認したうえで、岩波は新書としたのだ。
 江崎道朗著は悲惨で、無惨だ。もう少しだけ、Ch・ヒルについては触れる。
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