秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

アリストテレス

2251/アリストテレスの「学問分類」-西尾幹二批判003。

 
 Newton2020年6月号(ニュートンプレス)の特集は<哲学>で、種々の興味深いことが書かれている。
 中でも、アリストテレスによる<学問分類>を紹介しているところが秋月にはきわめて面白い。
 「アリストテレスは学問分類をつくり、『万学の祖』と呼ばれています」と本文で述べて、その「学問分類」を紹介している(p.32)。
 この特集全体の「監修」はつぎの4名。金山弥平、金山万里子、一ノ瀬正樹、伊勢田哲治。元大学教授、現教授、現准教授だが専門は分からず(私には)、執筆担当または監修責任部分も明記されていない。しかし、かなりの素養のあることは、素人の秋月のせいかもしれないが、よく分かる。
 さて、これによると、アリストテレスは、「学問」をつぎの三種に分けた。
 A/理論的学問、B/実践的学問、C/制作的学問。A~Cの符号は秋月。
 これらを総じてアリストテレスは「哲学」と呼び、「論理学」は「哲学」に含めず、後者のための「道具」と見なした、という。
 先走って筆者なりに表現すると、ここでの「哲学」はほぼ、人間の「知的」営為全体だ。「知」への関心・愛着こそが Philosophy の原意だともされてきた。
 つぎに、上の書によると、上の三種はそれぞれ、さらに次のように分けられる。単純な分類ではなく、次の段階へと発展・展開するもののようにも感じられる(この部分は秋月)
 A/理論的学問→a・数学、b・自然学、c・形而上学
 B/実践的学問→a・倫理学、b・政治学
 C/制作的学問→a・弁論術、b・詩学。a~cの符号は秋月。
 上の7つについて、簡単な説明もあるが、ここでは省略する。
 
 なぜ、上の紹介が関心を惹いたかというと、こうだ。
 第一。<理系>・<文系>の区別、あるいは<自然科学>・<人文学>・<社会科学>(・「医学」)といったよく用いられる「学問」分類は、はたして人間の「知」的営為あるいは一定の意味での「精神」活動の段階・構造あるいは対象を的確に捉えて分類しているのか、という疑問をそもそももつに至っている。
 これは、直接には学校教育制度での「教育」内容・体系や日本での「学問」分野の設定・分類にかかわる。
 しかし、この全体または根本的なところを問題にしている研究者等はいるのだろうか。あるいは、全体・根本の適正さもまた問題にしなければならないのではないか。
 そのうちにいずれ、<幼稚な>西尾幹二の学問体系の認識の仕方には触れるだろう。
 人間の「知」とは何かが、脳科学・脳生理学・生物進化学、遺伝学等々も含めて、問われなければならず、そうしないと、無駄な「知」的作業、悪弊ばかりの「知的」活動も生まれてくる。それ自体が、人間の「知的」活動の必然的成り行きなのかもしれないけれども。
 なお、説明されているように今日にいう「自然科学」に最も近いのは、上の「自然学」だ。「法学」は上の「政治学」の中にかなり入りそうだ。
 第二。上のCのa・「弁論術」について、「聴衆に対するすぐれた説得法を対象」とする、との説明がある。また、「詩学」については、「文芸や演劇を対象」とする、とされる。
 これらも(「制作的学問」とアリストテレスが言ったらしいもの)もまた「知的」活動であり、広義には「学問」であり「哲学」でもあるだろう。「知的」、「精神」活動であることに変わりはない。
 上の二つに関連して、「政治」と「文学」の<二つの論壇>で自分は活躍?しているかのごとき迷言を吐いた小川榮太郎を思い出さなくもない。
 だが、もっとも直感的に想起したのは、西尾幹二がやっていること、やってきたことはアリストテレスのいう「弁論術」に最も適確には該当するだろう、ということだ。
 西尾幹二は文芸評論家でも少なくともかつてはあって、自らを「文学者」と呼ぶことにあるいは躊躇しないかもしれない。その意味では、小川榮太郎とも共通して上の「詩学」にも親近的で、傾斜しているかもしれない。
 しかし、何よりも、西尾幹二本人が明言しているように(002参照)、「理論的」であれ「実践的」であれ、西尾は「学問」をしているとは自己認識していない。
 この「理論的」と「実践的」の区別は、「理論・原理」科学と「政策・応用」科学の区分を想起させるところがあるが、どちらであっても、西尾幹二は追求してきていないし、追求してこなかった、と思われる。論理的・理論的な「筋道」、概念の首尾一貫性等々は、この人にとっては後景に退いている。
 では何を目ざしているのかは、別途ゆっくりと「分析」することとしよう。
 前回に紹介したように、西尾自身の言葉によるとやってきたことの全ては「研究でも評論でも」ない「自己物語」であり、「私小説的な自我のあり方」を-おそらくは本質的・究極的にはという限定つきだろうが-問題にしてきたのだ。
 なお、ついでながら、「詩学」にはさらに、「音楽」・「絵画」等の<言語>によらない表現活動も含めてよいのだろう。これらもまた、人間の「知的」、「精神的」活動であることに変わりはない。これらも含めて、「知」は体系化・構造化される必要があるものと思われる。
 
 当然のこととして、アリストテレスの若干の著作(むろん邦訳書)にあたって確認してみようとしたが、どうもよく分からない。
 アリストテレス=出隆訳・形而上学(岩波文庫、1959)は明らかに「哲学」の種別を問題にしているので、この書で上のような<学問分類>が語られているのかもしれないが、簡潔にまとめてくれているような叙述はないようだ。
 したがって、上のNewton2020年6月号のアリストテレスに関する叙述・紹介の適正さを私自身は保障しかねるのだが、「監修」者たちがとんでもない間違いをしているわけではおそらくないだろう。 

2249/西尾幹二批判002。

 
 前回に引用した、つぎの西尾幹二の発言もすでに奇妙だ。月刊WiLL2011年12月号。
 ①「『神は死んだ』とニーチェは言いましたが、」
 ②「西洋の古典文献学、日本の儒学、シナの清朝考証学は、まさに神の廃絶と神の復権という壮絶なことを試みた学問であると『江戸のダイナミズム』で論じたのです」。
 ③「明治以後の日本の思想は貧弱で、ニーチェの問いに対応できる思想家はいません」 。
 上の①・②は一つの文、①・②と③は一続きの文章。
 第一に、前回に書き写し忘れていた「西洋の古典文献学」においては別として、ニーチェが「死んだ」という<神>と「日本の儒学、シナの清朝考証学」における<神>は同じなのか? 一括りにできるのか?
 ニーチェの思い描いた「神」はキリスト教上の「神」であって、それを、インド・中国・日本等における「神」と同一には論じられないのではないか。
 ①と②の間に何気なくある「が、」がクセモノで、いわゆる逆接詞として使われているのではない。
 このように西尾において、同じまたは類似の言葉・観念が、自由に、自由自在に、あるいは自由勝手に、連想され、関係づけられていく、のだと思われる。
 したがって、例えば1999年の『国民の歴史』での「歴史・神話」に関する論述もまた、元来は日本「神話」と中国の史書における「歴史」の差異に関係する主題であるにもかかわらず、「本質的」議論をしたいなどとのカケ声によって、ヨーロッパないし欧米も含めた、より一般的な「歴史・神話」論に傾斜しているところがある。
 そのような<発想>は、2019年(月刊WiLL別冊)の「神話」=「日本的な科学」論でも継承されているが、しかし、神話・歴史に関するその内容は1999年の叙述とは異なっている。西尾において、いかようにでも、その具体的「内容」は変化する。
 連想・観念結合の「自由自在」さと「速さ」は、<鋭い>という肯定的評価につながり得るものではあるが、しかし、「適正さ」・「論理的整合性」・「概念の一貫性」等を保障するものではない。
 ついでに、すでに触れたが、「神話」に論及する際に、「宗教」に触れないのもまた、西尾幹二の独特なところだ。日本「神話」が少なくとも今日、「神道」と切り離せないのは常識的なところだろう。しかし、1999年の『国民の歴史』で<日本>・<ナショナリズム>を示すものとして多数の仏像の「顔」等の表現を積極的・肯定的に取り上げた西尾幹二としては、仏教ではなく神道だ、とは2019年に発言できなかったに違いない。
 もともと1999年著を西尾は、神道と仏教(等)の区別あるいは異同(共通性を含む)に関心を持たないで執筆している。この当時は、神道-神社-神社本庁-神道政治連盟という「意識」はなかった可能性が高いが、これを意識しても何ら不思議ではない2019年の対談発言でも、日本「神話」の「日本の科学」性を肯定しつつも、<仏教ではなく神道だ>とは明言できないのだ。
 ここには、まさに西尾幹二の「評論」類の<政治>性の隠蔽がある。<政治評論>だからいけない、という趣旨ではない。その具体的「政治」性を意識的に隠蔽しようとしている欺瞞性を指摘している。
 第二に、西尾は「明治以後の日本の思想は貧弱で、ニーチェの問いに対応できる思想家はいません」と何げなく発言している。だが、上の第一の問題がそもそもあることのほか、「ニーチェの問い」を問題として設定する、あるいはそれに対して回答・解答する義務?が「明治以後の日本の思想」にあるわけでは全くないだろう。
 したがって、これは西尾の「思い」にすぎない。ニーチェに関心がない者、あるいはニーチェの「問い」を知ってはいても反応する必要がないと考える者にとって、そんなものは無視してまったく差し支えない。
 もともとはしかし、「神は死んだ」というのはニーチェの「問い」なのか?(上の西尾の書き方だと、そのように読める)、という疑問もある。
 
 上の部分を含む遠藤浩一との対談は『西尾幹二全集』の「刊行記念」とされていて、2011年10月の第一回配本の直後に行われたようだ。
 したがって、西尾幹二の個別の仕事についてというよりも、<全体>を視野に入れたかのごとき対談内容になっている。
 そのような観点からは、つぎの西尾幹二の自らの発言は、すこぶる興味深い。p.245。
 「(遠藤さんもご存知のように、)私の書くものは研究でも評論でもなく、自己物語でした。
 …を皮切りに、…まで、『私』が主題でないものはありません
 私小説的な自我のあり方で生きてきたのかもしれません。」
 自分が書いたものは全て①「自己物語」で、②「『私』を主題」にしており、③「『私小説的な自我のあり方』」を問題にしてきた。
 上の③の要約はやや正確さを欠くが、いずれも同じ、またはほとんど同じ趣旨だろう。
 西尾幹二の発言だから、多少の<てらい(衒い)>があることは、差し引いておくべきかもしれない。
 しかし、ここに、西尾幹二の<秘密>あるいは、西尾幹二の文章(論説であれ、評論であれ、研究的論述もどきであれ)を読む場合に読者としてはきちんと把握しておかなければならない<ツボ>がある。
 瞞されてはいけないのだ。
 つまり、西尾自身が明記するように「私の書くものは研究でも評論でもなく、自己物語」だ、というつもりで、読者は西尾幹二の文章を読む必要がある。
 この辺りの西尾自身の発言が興味深いのは、西尾の「論述」に、「自我=自己肥大」意識、その反面での厳密な「学術性・学問性」の希薄さをしばしば感じてきたからだ。
 少し飛躍してここで書いてしまえば-これからも書くだろうが-、政治や社会やあるいは「歴史」を<文学評論>的に、あるいは<文芸評論>的に論じてはならない。
 政治・社会・国家を<文学的・文芸的>に扱いたいならば、小説等の<創作>の世界で行っていただきたい。三島由紀夫のように、「戯曲」でもかまわない。
 「オレはオレは」、「オレがオレが」の気分で溢れていなくとも、それが強く感じ取れるような「評論」類は、気持ちが悪いし、見苦しいだろう。西尾幹二個人の「『私小説的な自我のあり方』」などに、日本や世界の政治・社会等の現状・行く末あるいはそれらの「歴史」に関心をもつ者は、関心を全く、またはほとんど、持っていない。
 
 レシェク・コワコフスキにつぎの書物があり、邦訳書もある。
 Leszek Kolakowski, Why Is There Something Rather Than Nothing - Quetions from Great Philosophers(Penguin Books, 2008/原著2004ー2008).
 =レシェク・コワコフスキ(藤田祐訳)・哲学は何を問うてきたか(みすず書房、2014.01)。本文p.244まで。
 後者の邦訳書の藤田祐「訳者あとがき」も参照して書くと、この書はつぎのような経緯をたどったようだ。
 まず、ポーランドで(ポーランド語で)2004年、2005年、2006年に一部が一巻ずつ計3巻刊行された。
 そして、2007年に1冊にまとめての英訳書が出版された。但し、この時点では23人の哲学者だけが対象とされていて、副題も含めて書くと、英訳書の表題はこうだった。
 Leszek Kolakowski, Why Is There Something Rather Than Nothing - 23 Quetions from Great Philosophers(Allen Lane/Basic Books, 2007)。
 2008年版では、扱っている哲学者の数が、30にふえている。2007年以降に著者がポーランド語で追加したものも含めて、2008年の英訳書にしたものと見られる。
 なお、英訳者は、2007年版も2008年版も、Agnieszka Kolakowska。父親のLeszek Kolakowski は2009年に満81歳で逝去した。
 2008年版と上記のその邦訳書は30人の哲学者を取り上げている。
 つぎの30名だ。横文字で、全てを列挙する。()内の7名は追記版で加えられた人物。
 01-Socrates, 02-Parmenides of Elea, 03-Heraclitus of Ephesus, 04-Plato, (05-Aristotle), 06-Epictetus of Hierapolis, 07-Sextus Empiricus, 08-St. Augustlne, 09-St. Anselm, (10-Meister Eckhard), 11-St. Thomas Aquinas, 12-William of Ockham, (13-Nicholas of Cusa), 14-Rene Descartes, 15-Benesict Spinoza, 16-Gottfried Wilhelm Leibniz, 17-Blaise Pascal, 18-John Locke,(19-Thomas Hobbes), 20-David Hume, 21-Immanuel Kant, 22-George Wilhelm Friedrich Hegel, 23-Arthur Schopenhauer, 24-Sören Aabye Kierkegaard, 25-Friedrich Nietzsche, 26-Henri Bergson, 27-Edmond Husserl, (28-Martin Heidegger, 29-Karl Jaspers, 30-Plotinus)
 原著・第一の英語版では23名で、つぎの7名が後で加えられた(この説明は日本語版「訳者あとがき」にはない)。再掲する。
 05-Aristotle, 10-Meister Eckhard, 13-Nicholas of Cusa, 19-Thomas Hobbes, 28-Martin Heidegger, 29-Karl Jaspers, 30-Plotinus.
 さて、西尾幹二と比べてL・コワコフスキは遥かによく知っているなどという当たり前のことを記したいのではない。
 上に(25-)Friedrich Nietzsche があるように、L・コワコフスキはニーチェも当然ながら?読んでいる。30人の哲学者を一冊で扱っているので(但し、簡易辞典類のものでは全くない)、ニーチェについても邦訳書で8頁しかない(文庫本のごとき2007年版英訳書では、計10頁)。
 それでも、L・コワコフスキのニーチェに関する記述を参考にして(幸いにもすでに邦訳書がある)、ニーチェが西尾幹二に対して与えた深い?影響は何かを、少しは探ってみたい、と思っている。
 つづける。

2046/L・コワコフスキ著第三巻第11章第3節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻の試訳のつづき。分冊版、p.407-p.410。一部について、独訳書を参照した(文章の文法構造は、独文の方が分かり易い)。
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 第11章・ハーバート・マルクーゼ-新左翼の全体主義的ユートピアとしてのマルクス主義。
 第3節・「一次元的人間」。
 (1)しかしながら、マルクーゼはまた、必ずしもフロイトの歴史理論とは関係がなくてマルクーゼのヘーゲル研究の主題に立ち戻る用語法を使って、現代文明を、とくにアメリカのそれを批判する。ヘーゲル研究とはすなわち、人間の解放の問題に作用するものとしての、合理性に関する超越的規範だ。
 「一次元的人間」は、そのような性格の研究書だ。//
 (2)彼はこう論じる。支配的文明は、その全ての側面で一次元的だ。科学、芸術、哲学、日常の思考、政治制度、経済、および技術。
 喪失している「第二次元」は、否定的かつ批判的原理だ。-現にある世界を哲学の規範的諸観念が明らかにする真の世界と対照させるという習慣。これによって、我々は、自由、美、理性、生きる愉しみ等々の真の性質を理解することができる。//
 (3)弁証法的思考と「形式的」思考の哲学上の対立は、プラトンとアリストテレスにまで遡る。プラトンは、経験の諸客体を比較する、規範的観念の重要性を高く評価した。一方でアリストテレスは、「不毛な」形式論理を発展させ、「真実を現実から切り離した」。
 マルクーゼによると、我々にいま必要なのは、たんに諸前提の特徴ではなくて現実そのものとして存在する、真実という存在論的観念に立ち戻ることだ。この現実そのものというのは、経験的で直接に接近可能な現実ではなく、より高次の現実であり、我々が普遍的なもののうちに感知するものだ。
 普遍的なものを直観すると、我々は、非経験的だけれども、独自の態様で存在しており、かつ存在すべき世界へと到達することができる。
 「理性=真実=現実という等式において、<中略> 理性は破壊的な力、理論的かつ実践的理性として人々と事物に関する真実を措定する『否定的なものの力』だ。-つまり、人々と事物が本当にそうであるものになる諸条件だ。」
 (<一次元的人間>, p.123.)
 諸観念の真実は、「直観」(intuition)によって把握される。その直観は、「方法的知的媒介の結果」だ(同上, p.126.)。
 この真実はその性格において規範的なもので、ロゴスやエロスと合致する。
 これは、形式論理の射程を超えるものだ。形式論理は、「事物の本質」に関して何も語らず、「is」という言葉の意味を純粋に経験的な言述に限定する。
 しかし、我々が「美徳は知識だ」または「人間は自由だ」のような言述をするとき、「かりにこれらの命題が真実なのだとすれば、連結詞の『is』は、『あるべき』だという切実な要求を述べている。それは、美徳が知識『ではない』等の条件を判断しているのだ」(p.133)。
 かくして、「is」という言葉は、経験的と規範的の二重の意味をもつ。そして、この二義性は、全ての真正な哲学の主題だ。 
 あるいは、もう一度言えば、「本質的」でかつ「表面的に明らかな」真実を語ることができる。すなわち、弁証法は、本質的なものまたはこうあるべきものとそう見えるもの(つまり、事実)の間の緊張関係を維持することにある。
 従って、弁証法は、現実の条件への批判であり、社会的解放のための梃子なのだ。
 形式論理では、この緊張関係は消失しており、「思考はその客体に対して無関心だ」(p.136.)。そしてこれこそが、真の哲学はそれを超えて進展した理由だ。
 原理的に、弁証法を形式化することはできない。現実それ自体によって決定される、と考えられるものだからだ。
 弁証法は、直接的経験への批判だ。直接の経験は、事物をその偶然的な形象でもって感知し、より深くにある現実を貫きはしない。//
 (4)アリストテレスの思考様式は、直接的経験と推論の形式的規則に知識を限定するものだ。そして、全ての現代科学の基礎となって、意識的に、事物の規範的「本質」を無視し、主観的な選好の領域にとって「どうあるべきか」という問題を見逃している。
 科学とそれにもとづく技術は、人間の自然に対する支配が社会への隷属化と手を携えて進む世界を生み出した。
 この種の科学技術は、実際に生活水準を高めてきた。しかし、その過程において抑圧と破壊を発生させてきた。//
 「科学技術の合理性と操作性は、一緒になって社会統制の新しい形態へと融合した。
 この非科学的な結末は科学の社会的に特有の<適用>の結果だ、という想定に、誰が満足するだろうか?
 私は、適用された一般的方向は、実践的目的を何ら意図していない、純粋な科学に内在しているものだ、と考える。<中略>
 自然の数量化は数学的構造に関する用語によって説明を行うものだが、それは、全ての内在的目的から現実を切り離し、そしてその結果として、善から真実を、倫理から科学を、切り離した。<中略>
 ロゴスとエロスの間の用心深い存在論的連環は破壊され、科学的合理性が本質的に中立的なものとして出現する。<中略>
 この合理性の外側で、人々は価値の世界で生活するが、その価値は、客観的な現実とは切り離されて主観的なものになる。」
 (<一次元的人間>, p.146-7.)//
 (5)マルクーゼは、続ける。かくして、善、美および正義の諸観念は普遍的な有効性を剥奪され、個人的な趣味の領域へと格下げされる。
 科学は、測定可能で技術的目的に利用することができるものにのみ、関係をもとうとする。
 科学はもはや事物は何であるかを問わず、事物がどのように作動するかのみを問題にする。そして、事物が利用される目的には無関心だと宣明する。
 科学的世界像では、事物は一切の存在論的一貫性を喪失する。そして、物質ですら、ある程度は消失する。
 社会的には、科学の機能は根本的に保守的なものだ。科学は、社会的な異議申し立ての根拠を何ら提供しないのだから。
 「科学は、<それ自体の方法と観念に従って>、自然への支配が人間への支配と結びついたままの普遍世界を投射し、促進した」(同上, p.166.)。
 必要なのは、新しい、質的で規範的な科学だ。それは、「自然に関して本質的に異なる考え方に到達し、本質的に異なる事実を確立するだろう」(同上)。//
 (6)醜悪な科学は人間の隷従化をもたらすもので、その哲学的表現は実証主義、そしてとりわけ分析的哲学と操作主義(operationalism)だ。
 これらの教理は「機能的」意義を持たない、または事件を予見して影響を与えることを可能にすることのない、全ての観念を拒否する。
 しかしなお、このような諸観念は最も重要なものだ。それらは現にある世界を超越することを可能にするのだから。
 さらに悪いことには、実証主義は、全ての価値についての寛容さを説き、そうしてその反動的性格を露わにする。社会的実践や価値判断に関しては、いかなる種類の制限も許容しないのだから。//
 (7)思考に関するこのような機能的態度が支配的になるならば、社会は一次元的人間たちで構成されなければならないことになる。
 それは虚偽の意識の犠牲者となる。そして、ほとんどの人々がそのシステムを受容しているという事実は、そのことをより理性的なものにするわけでもない。
 このような社会(マルクーゼは主としてアメリカを意味させる)は、それ自体を害することなくして、全ての反抗の形態を吸収してしまうことができる。
 このような社会はまた、人間の必要(needs)という主人を満足させる包括能力がある。しかし、この必要物は、それ自体がインチキ(bogus)だ。すなわち、利益を受ける搾取者が諸個人に押しつけたものであり、不公正、貧困および攻撃を永続化するのに役立つものだ。
 「宣伝広告物に従って休憩し、愉しみ、振る舞い、身に纏うという、あるいは他人が好んだり嫌悪したりする物を嫌悪したり好んだりするという、支配的な必要物のほとんどは、この虚偽の必要という範疇に入る」(p.5.)。
 誰も、どの必要が「本当」のものでどれが虚偽であるのかを決定することができない。決定することができるのは関係個人だけであり、かつ操作や外部的圧力から免れている場合だけだ。
 しかし、現代の経済システムは、それ自体が支配の道具である自由という条件のもとで、人為的な必要を増大させるように仕組まれている。
 「諸個人に開かれている選択の余地の範囲は、人間の自由の程度を決定する重要な要素ではない。そうではなく、個人が<何を>選択するか、何が選択<されている>かを決定する」(p.7.)。//
 (8)この世界では、人々と事物は例外なく機能的役割へと還元され、「実体」と自律性を剥奪される。
 芸術も同様に、大勢順応主義という普遍的な退廃に巻き込まれる。それは、文化的価値を放棄するがゆえにではなく、現存する秩序をそのうちに取り込むからだ。
 高度のヨーロッパ文化は、かつては基本的に封建主義的で非技術的で、商業や産業から自立した領域で活動していた。
 将来の文明は、思考と感情の第二次元を生み出し、否定の精神を保持することによって、また、普遍的なエロスを元の王座に就けることによって、自立性を回復しなければならない。
 (この点でマルクーゼは、一度だけ「リビドー的文明」で何を意味させているかの実際的な例を示している。自動車の中やマンハッタンの通りででなく牧草地で愛し合う(make love)方がはるかに快適だと明記することによって。)
 新しい文明はまた、我々が知っている自由とは反対のものでなければならない。「自由の拡大は本能的な要求の拡大や発展よりもむしろ収縮を意味しているかぎりで、その自由は、一般的な抑圧という現状<に反対して>作動するというよりも、その<ために>作動するのだから」(p.74.)。//
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 第3節、終わり。第4節の表題は、<自由に反抗する革命>(The revolution against freedom)。

1852/L・コワコフスキ・第一巻第一章/第一節「人間存在の偶然性」。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976-78)。
 第一巻・創始者(・生成)。
 第一章・弁証法の起源(・発生)(The Origins(・Die Entstehung))
のつづきの試訳。
 英訳書と独訳書の両方を参照した。綿密さを期したというよりも、邦訳のしやすさで選択したというのが正確だろう。
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 第一節・人間存在の偶然性(contingency, Zufälligkeit)。
 (1) 存在全体を知的に包括的に把握するのは哲学にとっての宿願だったし、そうでもあるが、それを原初的に刺激したのは、人間の不完全さ(imperfection, 弱さ: Hinfälligkeit)の知覚だった。
 哲学的思考を発動させたこの人間の不完全さという感覚および全体を理解することで人間の不完全さを克服しようとする意志のいずれをも、哲学は神話の世界から受け継いだ。
 (2) 哲学上の関心の中心的位置を占めたのはこの不完全さと人間の悲惨さだったが、明瞭で直接に可視的でかつ治癒しうる不完全さではなく、技術的な手段では克服できない根本的な弱さだった。その弱さはまた、いったん把握されればただちに経験上のかつ明瞭な欠陥だと感じられたもので、後者はたんに二次的な現象にすぎなかった。
 根本的な生来ある弱さは、多様な名称を与えられた。中世のキリスト教哲学は、全ての被造物が分かちもつものだが、人間存在の「偶発性」(contingency, Zufälligkeit)を語った。
 この「偶発性」という語は、アリストテレスの伝統に由来するもので(<de interpretatione, Peri hermeneias>では、その性質を変えることなく付着し得たり又はそうできなかったする事物の特性について申述する偶発的決定が論じられている)、実在し得る又は実在し得ない、だがその本質に固有のものではない、ゆえに必然的ではない、終わりある存在という状態を意味した。
 全ての被造物には、被造物であるがゆえに、時間上の始まりがある。したがって、それが存在しなかった、つまり論理的に必然的に、実在していた<はずがなかった>、そのような時点があった。
 Aristotleに従った中世スコラ哲学にとっては、本質と実在の区別は被造物と実在するのが必然の創造者との区別を際立たせるもので(神の本質と実在は同一のことだった)、被造物という存在の虚しさの最も明確な証拠だった。だがしかしそのことは、決して堕落することの原因でも衰亡することの目印でもなかった。
 人間が偶発的なもので偶然の存在であるということは、謙虚さや創造者崇拝の原因だ。
 それは人間存在の不可避の、根絶し難い側面だが、しかし、より高次の状態からの崩落を意味するわけではなかった。
 人間の肉体的かつ一時的な実在はいかなる退廃の結果でもなく、被造生物の階層の範囲内での人間という種の自然の性質なのだ。
 (3) これに対して、プラトン的伝統では、「偶発的」という語は全くか又は稀にしか用いられず、人間は終わりある一時的な存在だということは、<人間性の本質>とは異なる何か別のものだということだけを、すなわち、<人間は彼が何かである者ではない>のであって、その経験上、事実上のかつ時間的に限定された実在は人間性それ自体の、観念上の完全な、時間を超越した人間の存在と同じことではないということを意味していた。
 しかし、「人間がそうである者ではないこと」は、耐え難い苦痛を受けること、自らの頽廃に気づきながら、肉体的には下降へと向かった、時間的限定のある生活によっては決して保証することのできない完全な自己同一性意識を絶えることなく憧憬しながら、生きることを意味する。
 終わりある個体として、自分たちの無常さを意識しつつ我々が生きる世界は、流刑(exile, Verbannung)の地なのだ。//

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 以上。
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  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
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  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
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  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
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  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
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  • 2096/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史07②。
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  • 2095/西尾幹二の境地・歴史通11月号②。
  • 2092/佐伯智広・中世の皇位継承(2019)-女性天皇。
  • 2085/平川祐弘・新潮45/2017年8月号②。
  • 2085/平川祐弘・新潮45/2017年8月号②。
  • 2083/団まりな「生きているとはどういうことか」(2013年)。
  • 2083/団まりな「生きているとはどういうことか」(2013年)。
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  • 2081/A・ダマシオ・デカルトの誤り(1994, 2005)②。
  • 2080/宇宙とヒトと「男系」-理系・自然科学系と<神話>系。
  • 2066/J・グレイ・わらの犬「序」(2003)②。
  • 2047/茂木健一郎・脳とクオリア(1997)②。
  • 2013/L・コワコフスキ著第三巻第10章第3節①。
  • 1982/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05⑤。
  • 1982/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05⑤。
  • 1982/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05⑤。
  • 1982/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05⑤。
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  • 1980/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05④。
  • 1980/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05④。
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  • 1978/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05②。
  • 1978/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05②。
  • 1978/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05②。
  • 1978/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05②。
  • 1920/L・コワコフスキ著第三巻第四章第5節。
  • 1920/L・コワコフスキ著第三巻第四章第5節。
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