秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

アリストテレス

2046/L・コワコフスキ著第三巻第11章第3節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻の試訳のつづき。分冊版、p.407-p.410。一部について、独訳書を参照した(文章の文法構造は、独文の方が分かり易い)。
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 第11章・ハーバート・マルクーゼ-新左翼の全体主義的ユートピアとしてのマルクス主義。
 第3節・「一次元的人間」。
 (1)しかしながら、マルクーゼはまた、必ずしもフロイトの歴史理論とは関係がなくてマルクーゼのヘーゲル研究の主題に立ち戻る用語法を使って、現代文明を、とくにアメリカのそれを批判する。ヘーゲル研究とはすなわち、人間の解放の問題に作用するものとしての、合理性に関する超越的規範だ。
 「一次元的人間」は、そのような性格の研究書だ。//
 (2)彼はこう論じる。支配的文明は、その全ての側面で一次元的だ。科学、芸術、哲学、日常の思考、政治制度、経済、および技術。
 喪失している「第二次元」は、否定的かつ批判的原理だ。-現にある世界を哲学の規範的諸観念が明らかにする真の世界と対照させるという習慣。これによって、我々は、自由、美、理性、生きる愉しみ等々の真の性質を理解することができる。//
 (3)弁証法的思考と「形式的」思考の哲学上の対立は、プラトンとアリストテレスにまで遡る。プラトンは、経験の諸客体を比較する、規範的観念の重要性を高く評価した。一方でアリストテレスは、「不毛な」形式論理を発展させ、「真実を現実から切り離した」。
 マルクーゼによると、我々にいま必要なのは、たんに諸前提の特徴ではなくて現実そのものとして存在する、真実という存在論的観念に立ち戻ることだ。この現実そのものというのは、経験的で直接に接近可能な現実ではなく、より高次の現実であり、我々が普遍的なもののうちに感知するものだ。
 普遍的なものを直観すると、我々は、非経験的だけれども、独自の態様で存在しており、かつ存在すべき世界へと到達することができる。
 「理性=真実=現実という等式において、<中略> 理性は破壊的な力、理論的かつ実践的理性として人々と事物に関する真実を措定する『否定的なものの力』だ。-つまり、人々と事物が本当にそうであるものになる諸条件だ。」
 (<一次元的人間>, p.123.)
 諸観念の真実は、「直観」(intuition)によって把握される。その直観は、「方法的知的媒介の結果」だ(同上, p.126.)。
 この真実はその性格において規範的なもので、ロゴスやエロスと合致する。
 これは、形式論理の射程を超えるものだ。形式論理は、「事物の本質」に関して何も語らず、「is」という言葉の意味を純粋に経験的な言述に限定する。
 しかし、我々が「美徳は知識だ」または「人間は自由だ」のような言述をするとき、「かりにこれらの命題が真実なのだとすれば、連結詞の『is』は、『あるべき』だという切実な要求を述べている。それは、美徳が知識『ではない』等の条件を判断しているのだ」(p.133)。
 かくして、「is」という言葉は、経験的と規範的の二重の意味をもつ。そして、この二義性は、全ての真正な哲学の主題だ。 
 あるいは、もう一度言えば、「本質的」でかつ「表面的に明らかな」真実を語ることができる。すなわち、弁証法は、本質的なものまたはこうあるべきものとそう見えるもの(つまり、事実)の間の緊張関係を維持することにある。
 従って、弁証法は、現実の条件への批判であり、社会的解放のための梃子なのだ。
 形式論理では、この緊張関係は消失しており、「思考はその客体に対して無関心だ」(p.136.)。そしてこれこそが、真の哲学はそれを超えて進展した理由だ。
 原理的に、弁証法を形式化することはできない。現実それ自体によって決定される、と考えられるものだからだ。
 弁証法は、直接的経験への批判だ。直接の経験は、事物をその偶然的な形象でもって感知し、より深くにある現実を貫きはしない。//
 (4)アリストテレスの思考様式は、直接的経験と推論の形式的規則に知識を限定するものだ。そして、全ての現代科学の基礎となって、意識的に、事物の規範的「本質」を無視し、主観的な選好の領域にとって「どうあるべきか」という問題を見逃している。
 科学とそれにもとづく技術は、人間の自然に対する支配が社会への隷属化と手を携えて進む世界を生み出した。
 この種の科学技術は、実際に生活水準を高めてきた。しかし、その過程において抑圧と破壊を発生させてきた。//
 「科学技術の合理性と操作性は、一緒になって社会統制の新しい形態へと融合した。
 この非科学的な結末は科学の社会的に特有の<適用>の結果だ、という想定に、誰が満足するだろうか?
 私は、適用された一般的方向は、実践的目的を何ら意図していない、純粋な科学に内在しているものだ、と考える。<中略>
 自然の数量化は数学的構造に関する用語によって説明を行うものだが、それは、全ての内在的目的から現実を切り離し、そしてその結果として、善から真実を、倫理から科学を、切り離した。<中略>
 ロゴスとエロスの間の用心深い存在論的連環は破壊され、科学的合理性が本質的に中立的なものとして出現する。<中略>
 この合理性の外側で、人々は価値の世界で生活するが、その価値は、客観的な現実とは切り離されて主観的なものになる。」
 (<一次元的人間>, p.146-7.)//
 (5)マルクーゼは、続ける。かくして、善、美および正義の諸観念は普遍的な有効性を剥奪され、個人的な趣味の領域へと格下げされる。
 科学は、測定可能で技術的目的に利用することができるものにのみ、関係をもとうとする。
 科学はもはや事物は何であるかを問わず、事物がどのように作動するかのみを問題にする。そして、事物が利用される目的には無関心だと宣明する。
 科学的世界像では、事物は一切の存在論的一貫性を喪失する。そして、物質ですら、ある程度は消失する。
 社会的には、科学の機能は根本的に保守的なものだ。科学は、社会的な異議申し立ての根拠を何ら提供しないのだから。
 「科学は、<それ自体の方法と観念に従って>、自然への支配が人間への支配と結びついたままの普遍世界を投射し、促進した」(同上, p.166.)。
 必要なのは、新しい、質的で規範的な科学だ。それは、「自然に関して本質的に異なる考え方に到達し、本質的に異なる事実を確立するだろう」(同上)。//
 (6)醜悪な科学は人間の隷従化をもたらすもので、その哲学的表現は実証主義、そしてとりわけ分析的哲学と操作主義(operationalism)だ。
 これらの教理は「機能的」意義を持たない、または事件を予見して影響を与えることを可能にすることのない、全ての観念を拒否する。
 しかしなお、このような諸観念は最も重要なものだ。それらは現にある世界を超越することを可能にするのだから。
 さらに悪いことには、実証主義は、全ての価値についての寛容さを説き、そうしてその反動的性格を露わにする。社会的実践や価値判断に関しては、いかなる種類の制限も許容しないのだから。//
 (7)思考に関するこのような機能的態度が支配的になるならば、社会は一次元的人間たちで構成されなければならないことになる。
 それは虚偽の意識の犠牲者となる。そして、ほとんどの人々がそのシステムを受容しているという事実は、そのことをより理性的なものにするわけでもない。
 このような社会(マルクーゼは主としてアメリカを意味させる)は、それ自体を害することなくして、全ての反抗の形態を吸収してしまうことができる。
 このような社会はまた、人間の必要(needs)という主人を満足させる包括能力がある。しかし、この必要物は、それ自体がインチキ(bogus)だ。すなわち、利益を受ける搾取者が諸個人に押しつけたものであり、不公正、貧困および攻撃を永続化するのに役立つものだ。
 「宣伝広告物に従って休憩し、愉しみ、振る舞い、身に纏うという、あるいは他人が好んだり嫌悪したりする物を嫌悪したり好んだりするという、支配的な必要物のほとんどは、この虚偽の必要という範疇に入る」(p.5.)。
 誰も、どの必要が「本当」のものでどれが虚偽であるのかを決定することができない。決定することができるのは関係個人だけであり、かつ操作や外部的圧力から免れている場合だけだ。
 しかし、現代の経済システムは、それ自体が支配の道具である自由という条件のもとで、人為的な必要を増大させるように仕組まれている。
 「諸個人に開かれている選択の余地の範囲は、人間の自由の程度を決定する重要な要素ではない。そうではなく、個人が<何を>選択するか、何が選択<されている>かを決定する」(p.7.)。//
 (8)この世界では、人々と事物は例外なく機能的役割へと還元され、「実体」と自律性を剥奪される。
 芸術も同様に、大勢順応主義という普遍的な退廃に巻き込まれる。それは、文化的価値を放棄するがゆえにではなく、現存する秩序をそのうちに取り込むからだ。
 高度のヨーロッパ文化は、かつては基本的に封建主義的で非技術的で、商業や産業から自立した領域で活動していた。
 将来の文明は、思考と感情の第二次元を生み出し、否定の精神を保持することによって、また、普遍的なエロスを元の王座に就けることによって、自立性を回復しなければならない。
 (この点でマルクーゼは、一度だけ「リビドー的文明」で何を意味させているかの実際的な例を示している。自動車の中やマンハッタンの通りででなく牧草地で愛し合う(make love)方がはるかに快適だと明記することによって。)
 新しい文明はまた、我々が知っている自由とは反対のものでなければならない。「自由の拡大は本能的な要求の拡大や発展よりもむしろ収縮を意味しているかぎりで、その自由は、一般的な抑圧という現状<に反対して>作動するというよりも、その<ために>作動するのだから」(p.74.)。//
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 第3節、終わり。第4節の表題は、<自由に反抗する革命>(The revolution against freedom)。

1852/L・コワコフスキ・第一巻第一章/第一節「人間存在の偶然性」。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976-78)。
 第一巻・創始者(・生成)。
 第一章・弁証法の起源(・発生)(The Origins(・Die Entstehung))
のつづきの試訳。
 英訳書と独訳書の両方を参照した。綿密さを期したというよりも、邦訳のしやすさで選択したというのが正確だろう。
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 第一節・人間存在の偶然性(contingency, Zufälligkeit)。
 (1) 存在全体を知的に包括的に把握するのは哲学にとっての宿願だったし、そうでもあるが、それを原初的に刺激したのは、人間の不完全さ(imperfection, 弱さ: Hinfälligkeit)の知覚だった。
 哲学的思考を発動させたこの人間の不完全さという感覚および全体を理解することで人間の不完全さを克服しようとする意志のいずれをも、哲学は神話の世界から受け継いだ。
 (2) 哲学上の関心の中心的位置を占めたのはこの不完全さと人間の悲惨さだったが、明瞭で直接に可視的でかつ治癒しうる不完全さではなく、技術的な手段では克服できない根本的な弱さだった。その弱さはまた、いったん把握されればただちに経験上のかつ明瞭な欠陥だと感じられたもので、後者はたんに二次的な現象にすぎなかった。
 根本的な生来ある弱さは、多様な名称を与えられた。中世のキリスト教哲学は、全ての被造物が分かちもつものだが、人間存在の「偶発性」(contingency, Zufälligkeit)を語った。
 この「偶発性」という語は、アリストテレスの伝統に由来するもので(<de interpretatione, Peri hermeneias>では、その性質を変えることなく付着し得たり又はそうできなかったする事物の特性について申述する偶発的決定が論じられている)、実在し得る又は実在し得ない、だがその本質に固有のものではない、ゆえに必然的ではない、終わりある存在という状態を意味した。
 全ての被造物には、被造物であるがゆえに、時間上の始まりがある。したがって、それが存在しなかった、つまり論理的に必然的に、実在していた<はずがなかった>、そのような時点があった。
 Aristotleに従った中世スコラ哲学にとっては、本質と実在の区別は被造物と実在するのが必然の創造者との区別を際立たせるもので(神の本質と実在は同一のことだった)、被造物という存在の虚しさの最も明確な証拠だった。だがしかしそのことは、決して堕落することの原因でも衰亡することの目印でもなかった。
 人間が偶発的なもので偶然の存在であるということは、謙虚さや創造者崇拝の原因だ。
 それは人間存在の不可避の、根絶し難い側面だが、しかし、より高次の状態からの崩落を意味するわけではなかった。
 人間の肉体的かつ一時的な実在はいかなる退廃の結果でもなく、被造生物の階層の範囲内での人間という種の自然の性質なのだ。
 (3) これに対して、プラトン的伝統では、「偶発的」という語は全くか又は稀にしか用いられず、人間は終わりある一時的な存在だということは、<人間性の本質>とは異なる何か別のものだということだけを、すなわち、<人間は彼が何かである者ではない>のであって、その経験上、事実上のかつ時間的に限定された実在は人間性それ自体の、観念上の完全な、時間を超越した人間の存在と同じことではないということを意味していた。
 しかし、「人間がそうである者ではないこと」は、耐え難い苦痛を受けること、自らの頽廃に気づきながら、肉体的には下降へと向かった、時間的限定のある生活によっては決して保証することのできない完全な自己同一性意識を絶えることなく憧憬しながら、生きることを意味する。
 終わりある個体として、自分たちの無常さを意識しつつ我々が生きる世界は、流刑(exile, Verbannung)の地なのだ。//

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 以上。
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