秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

アメリカ独立宣言

0846/佐伯啓思「幸福追求という強迫観念」と日本国憲法13条。

 一 産経新聞3/15の佐伯啓思「幸福追求という強迫観念」を読んで、深い感慨に耽らざるをえなかった。
 二 鳩山由紀夫が「幸福度指数」なるものを持ち出していることに刺激を受けてだろう、佐伯は次のように言う。
 A<アメリカ独立宣言は「幸福追求の権利」等を「普遍的価値」と謳ったが、「自由」とともに「幸福追求の権利」はイギリスに対する「抵抗」の思想だったにもかかわらず、それが忘れられ、「誰もが幸福でなければならない、という一種の強迫観念」を生んだ。これに浸かってしまい、「他人が幸福であれば自分も幸福でなければ面白くない。不幸だと感じた途端、自分の人生は失敗だった」と感じてしまう。この強迫観念に捉えられれば「人は決して幸福になれない。それどころか…人をますます不幸にする」。>
 B<日本にはもともとは「かくも利己的で強迫的な幸福追求の理念」はなかっただろう。①「仏教的な無常観」、②「武士的な義務感」、③「儒教的な『分』の思想」、④「神道的な晴明心」、のいずれを持ち出し、いずれに依拠するにせよ、これらはすべて「個人的な幸福追求に背馳する境地をよし」とするものだ。ここに「日本人の死生観や自然観や美意識」が生まれた。「病と死と別離から逃れえないかぎり、人の生は、本質的に不幸」だ。「幸福」の指標などと言う前に「日本人の背負ってきた死生観や自然観を学び直す」必要がある。>
 このような佐伯啓思の見解・主張を私はほとんど違和感なく受け容れることができる。「病と死と別離から逃れえないかぎり、人の生は、本質的に不幸」だ、との部分も、論争的であるとしても(議論の対象になりうるとしても)、結論的にはそういう他はない、と感じている。
 三 佐伯の一文を読んで深い感慨を覚えた、というのは、佐伯啓思の見解・主張を私個人は十分に納得できるものの、しかし、現在の日本人の多数はむしろ理解できず、あるいは反発するのではないか、という、うんざりとするような気分も同時に湧いたからだ。
 なぜなら、佐伯も言及するアメリカ独立宣言が謳う「自由」や「幸福追求の権利」は現日本国憲法において、まさしく実定法化され(=明文で憲法典にまで書かれており)、少なくとも成文法としては日本国憲法は「最高法規」とされ、それにもとづいて行われた戦後の公教育のための、疑いをもつことが許されないほどの<理念>としてすらされてきた。
 あらためて、現日本国憲法13条を引用しよう。
 「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」
 第一文でいう「個人の尊厳」(の保障)が樋口陽一をはじめとする<左翼>(かつおそらくは圧倒的に多数の)憲法学者において、現憲法の最重要の基本理念とされていることは、すでにニュアンスを変えつつ、この欄でも何度も言及した。
 この<個人の尊厳(の保障)>=「個人の尊重」とともに「(自由および)幸福追求に対する権利は…国政上最大の尊重を必要とする」と現憲法は謳っているのであり、かかる憲法規定を知り、学んだほとんどの(かつての、も含む)少年・青年たちには、とりわけ、狭く言えば大学の法学部で憲法を勉強した者たちには、さらには司法試験に合格し専門法曹になったような者たちには、<個人が尊重され>、個人がそれぞれ<幸福を追求する権利をもつ>ことは、疑問を微塵も生じさせないだろうような、しごく常識的で、当然のことになってしまっている、と思われるのだ。
 この13条の淵源はアメリカに、ひいては西欧(欧米)の法(人権・)思想にある。そして、佐伯啓思も指摘するように、必ずしも日本人本来の「人間」観・「人生」観とは合致していない、と思われる。
 だが、そのような問題があることを全くかほとんど意識することなく、<個人の尊厳>と<幸福追求権>の保障が存在することを、現在の日本人の多くは当然視しているのではないか。
 佐伯啓思の一文の内容を諒解しつつ、怖ろしいと感じるのは、上のことにある。
 佐伯啓思の考えていることと、日本国憲法に明示されていることにもよる、多数日本人の意識の間の、この大きな乖離。ここに怖ろしく感じる原因はある。
 それぞれの個人が(自由に)<幸福を追求>することができる、ということ自体は当然のようにも思えるが、佐伯も指摘又は示唆するように、個人は<平等に>「自由」・<幸福追求権>をもつと考えられていることから、他人との間の比較意識、<格差>を嫌う、<そねみ・ねたみ>の意識は容易に生じる。もともと日本人にとっての「自由」とは(他人に害悪を及ぼさない限度での)<気まま>・<放恣>・<何でもアリ>の気分に転化してしまっていること(これはほとんど<多様な個性の尊重>という通念に等しいこと)は、あえて長々と書かなくてよいだろう。
 こうした「自由」・<幸福追求権>を支えるかのごとき<個人の尊重(「個人の尊厳」保障)>の理念も元来は欧米に由来するものであることは、代表的な憲法学者だったらしい樋口陽一が、フランス革命期の<ジャコバン型個人主義>を日本人も(もっと?)体験すべき、と主張していることからも明らかだ。そして簡潔に書くが、丸山真男・樋口陽一(・辻村みよ子)らの日本の「左翼」知識人たちは、日本人は(欧米人のように?)自己を確立した<強い個人になれ>と戦後ほぼ一貫して(戦前から?)主張してきたのだ(そこでは自分は欧米的な「個人」として自立しているが日本の
「大衆」はまだ<遅れている>という暗黙の前提があった)。
 このような欧米的思想を継受した日本国憲法のもとで培養された現代日本「国民」の意識は必ずしも佐伯啓思のそれと同じではないと思われる。佐伯を批判しているのではなく、はがゆい思いで、事実の認識として書いている。
 そして、ここにもまた、日本「国民」の間の<国論の分裂>の根っこを感じ取らざるをえない。
 (「家族」に関する規定のない)日本国憲法も描く<自立した強い個人>の<自由(勝手)>な<幸福追求>活動の保障というイメージは、佐伯啓思の指摘するとおり、やはり日本と日本人の本来の意識とは合致しない、合致するはずがないのではないか。
 「日本人の背負ってきた死生観や自然観」に依拠して日本国憲法をも含めて見直すのか、それともかかる「日本人」意識あるいは<ナショナルなもの>は捨てて<普遍的な>「国際人」(地球市民?)になることを目指すのか、人についても国家についても、基本的なところで<国論の分裂>があり、あちこちで火花を散らしている。
 以上、内容としてはじつに幼稚な、新味のない文章になった。 

0639/宮沢俊義(1950)と阪本昌成(2008)における<アメリカ独立宣言>。

 一 宮沢俊義(深瀬忠一補訂)・新版補訂憲法入門(勁草書房、1993。第一版は1950)p.7は、「近代諸国のほとんどすべての憲法の基礎になっている政治原理の最も根本的なものを表明した」、世界史上「非常に重要な文書」(p.6)と前口上を述べたうえで、アメリカ独立宣言(1976.07)の一部の原文と邦訳文を掲載している。そのまた一部は次のとおり(邦訳文の中に原語を挿む)。
 「われわれは、次のような諸原理は自明だと考える。…すべて人間は平等に作られ(created eaqual)、それぞれ造物主(Creator)によって譲り渡すことのできない一定の権利を与えられている(endowed)」。
 endowは「賦与する」でもあるので、<天賦人権>論が宣明されている、と言える。
 このあと「一定の権利」として「生命、自由および幸福の追求」が例示される。現日本国憲法13条第二文の淵源はこれだ。13条第二文参照-「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」。
 さらに、「これらの権利を確保するために、…政府(国家)が作られる(instituted)」。ここでは「権利(不可譲の人権)」→「国家(政府)」という論理関係を示す考え方が示されている。
 二 日本国憲法は「基本的人権」を「この憲法が(日本)国民に保障する」もの(11条・97条)と書いて「憲法」→「人権」という考え方に立つようでもあるが、一方では「基本的人権」は「現在及び将来の国民」の「侵すことのできない永久の権利」であるとも書いている(11条・97条)。ここには、<生まれながらの=憲法前の=自然権としての>人権という考え方の影響が看取できるだろう。
 だが、社会契約説的な、自然の「権利(人権)」→それを保護するための「国家」という考え方は日本人と日本「国家」にとって、たやすく理解し納得できるものだろうか。
 なお、フランス人権宣言(1789.08)の前文等には、「生まれながらの」、「自然」の(「市民」の)」「権利」が語られている。

 まわりくどくなったが、要するに書いておきたいのは、「造物主(Creator)」なる絶対神又は一神教を前提とすると見られる観念は日本に存在せず、「天」という概念で誤魔化してみても、一神教的「神」=「造物主」観念を前提とする、「造物主」により賦与された「権利」(人権)→「国家」という説明は、日本と日本人にはそもそも馴染まない、(厳密には大多数の)日本人にはそもそも理解不能な概念を用いた、理解不能の説明にしかならないのではないか、ということだ。
 戦後の<進歩的>憲法学者たちは、この点(要するに近代「欧米」の「人権」観念はキリスト教又はそこでの「神」が背景にあること)に目をつむって、<生まれながらの=憲法前の=自然法上の>権利という<美しい>?物語のみを語ってきたのではないか。そうだとすると、「人権」観念・意識が日本人の「古層」的意識のレベルでは浸透しないことになるのも至極当然だと思える。
 三 マルクス主義を擁護してきた憲法学者たちは「反省」すべきだとソ連解体後に明記した、勇気ある憲法学者・阪本昌成の教科書、阪本昌成・憲法2/基本権クラシック(有信堂、2008/全訂第三版)を見てみると、p.11にはこうある。
 アメリカ「独立宣言」は「人権思想の歴史的な流れ」からみたとき、「さほど重要な文書ではない」。「個々人」を「神の子」として想定しつつ「不可譲の人権の主体」との「自明の理」を「神学的様相」をもって述べた、「ピューリタニズムの人間像」の表明にとどまる、等々。
 (おそらくは)米軍(正確には連合国軍)占領下において(1950年に)、宮沢俊義はあえてアメリカ独立宣言について数頁を割いたのだったが、他の現在の憲法学の概説書類がどうかの詳細は知らないものの、阪本昌成に上のように書かれてしまうと、宮沢俊義がアメリカ独立宣言は「近代諸国のほとんどすべての憲法の基礎になっている政治原理の最も根本的なものを表明した」、世界史上「非常に重要な文書」だと書いたことが、白々しく感じられる。
 アメリカ独立宣言の位置づけはともかくとしても、「国家」・「国民」・「人権(基本権)」等の概念関係の問題はこの欄ではほとんど何も言及していないに等しい。<社会契約説>も含めて、この基本的問題に(も)関心をもって憲法等々に関する本を(も)読んでみたい。

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