レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(英訳1978年、合冊版2004年)の試訳を行ってきいるが、1300頁に及ぶ大著で、けっこうな数の回数を費やしても、試訳をこの欄で掲載したのは(最近に紹介した全巻・第一巻の冒頭や新旧のプロローグ・エピローグを除けば)、つぎに限られる。合冊版で示す。しかも、下の①の第17章については、レーニン・唯物論と経験批判論の前の「哲学」論争の一部は割愛している。
 ①第二部(巻)第16章・第17章・第18章、p.661~p.778。…主としてレーニン。
 ②第三部(巻)第1章、p.789~p.823。…主としてスターリン。
 全体からするとまだ10%強にすぎない。
 シェイラ・フィツパトリク・ロシア革命(2017)のスターリン時代の本格的な叙述部分の試訳をまだ紹介していないのだが(14回までで中断している)、スターリン時代の様相を知っておくためにも、L・コワコフスキの著の上の②以降を訳しておくこととした。
 もともとは、レーニン期とされる<ネップ>と「10月革命」前後の政治史にしか関心がなかったのだから、この数年の間に関心は広がり、知識・簡単な素養も増えてきたものだ、と自分のことながら感心する。そして今や、「物質」と「観念」、「認識」あるいはそれにかかわる「言葉」・「言語」・「概念」や「思想なるもの」一般にも関心は広がっている。
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 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(英訳1978年、合冊版2004年)。
 第三巻p.45-47(ドイツ語版p.57-59)、合冊本p.824-826、の試訳。
 改行箇所はこれまで//で示してきたが、改行のつぎの冒頭に原著・訳書にはない番号を勝手に付すことにした(どうやら、その方が読みやすいと独断で判断したことによる。従って、(1)、(2)、…は、ここでの試訳のかぎりのものである)。
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 第三巻/第二章・1920年代のソヴィエト・マルクス主義の理論的対立。
 第一節・知的および政治的な雰囲気(秋月注記・独語版=一般的な知的状況)①。
  (1)述べてきたように、1921年から1929年までのネップの時期は、知的分野での自由の時代では決してなかった。
 逆に、自立した芸術、文学、哲学および人文社会科学に対する圧力は増大していた。
 にもかかわらず、こうした諸分野でものちの集団化の時代に転換点を迎えた。それは、つぎのように叙述すことができる。
 ネップ期の文筆家や芸術家は体制に対して忠誠を示すことを要求され、反ソヴィエト作品を生み出すのは許されなかった。しかし、その制限の範囲内では、多様な動向が許され、実際にそれらが存在した。
 芸術や文学に排他的な派閥はなく、実験が許され、体制やその指導者を直接に称賛することは公刊物の<必須要件(sine qua non)>ではなかった。
 哲学の分野ではマルクス主義が至高なものとして君臨したが、まだ聖典化はされていなかった。そして、何が「真正の(true)」マルクス主義であるかは決して一般的になっていなかった。
 したがって、論争は継続し、マルクス主義と適合的であるのか否かを純粋に探求しようとする信念あるマルクス主義者がいた。
 さらに加えて、とくに重要な著作を残さなかったけれども、1920年代の哲学者たちは、「正常な」知的背景をもつ者たちであり、体制には忠実だったが、自分たちの思索に対して体制がどう反応するかに関して惑わされることがなかった。//
 (2)同様にまた、数年間は、私的な出版団体が活動していた。
 非マルクス主義の文献は1918-1920年にはまだ出版されていた-例えば、Berdyayev、Frank、Lossky、Novgorodtsev およびAskoldov のそれら。そして、<Mysl i slovo>や<Mysl>のような、一つまたは二つの非マルクス主義の定期刊行物もあった。
 こうしたことは、ソヴィエト権力に対する切迫した脅威があるがゆえに抑圧を増大させることが必要だというのちの論拠には根拠がない、ということを示している。
 相対的な文化的自由の数年間は内戦の時期であり、体制に対する脅威はのちの時代よりも大きかった(そして同様に、ある程度の範囲での文化問題の緩和は1941年とその後にに生じたが、それは国家の運命が分岐点に立っていたからだ)。
 しかしながら、1920年には大学での哲学講座は弾圧され、1922年には、上で言及した者たちを含めて、非マルクス主義の哲学者たちは国外に追放された。//
 (3)芸術や文学についての1920年代の特徴は、多数の価値ある成果を生んだことだ。
 革命に共鳴した傑れた作者たちは、著作よって革命に対してある種の真正らしさを与えた。その中には、Babel, 若き日のFadeyev、Pilnyak、Mayakovski、Yesenin、Atem Vesyoly およびLeonov がいた。
 彼らが示した創造性は、革命がたんなる<クー・デタ>ではなくて本当にロシア社会にあった諸力の爆発だったという事実の証拠だ。
 しかし、決してソヴィエト体制を支持しなかったその他の作者たちもまた、当時に活動していた。例えば、Pasternak、AkhmatovaやZamyatin。
  1930代には、こうしたことは全て終わった。
 実際、この時期に革命と合致していたのか否かや「ブルジョアの生き残り」だったのか否か、そしてどちらがいったい安全だったのかを語るのは困難だ。
 文筆家のうち従前の階級の者たちは殺戮(murder)され(Babel, Pylnyak, Vesyoly)、または自殺した(Mayakovski, Yesenin)。第二の範疇に入る者のうちMandelshtam のような何人かは、労働収容所で死んだ。
 しかし、他の者たちは迫害と悲嘆の時代を生き残り(Akhmatova, Pasternak)、あるいは何とかして国外へ逃亡した(Zamyatin)。
 スターリン専制を称賛する物書きになることを選んだ者たち(Fadeyev, Sholokhov, Olesha, Gorky)は、総じて次第に彼らの才能を失っていった。//
 (4)内戦後最初の数年間は、全ての文化分野での高揚があった。
 偉大な演出家や監督の名前-Meyerhold, Pudovkin, Eisenstein-は、演劇や映画の世界史の一つになっている。
 当時の西側の流行、とくに多かれ少なかれ<アヴァン・ギャルド(avant-garde)>型の様式は熱心に、かつその結果に関する恐怖なくして、取り入れられた。
  I. D. Yelmakov のような Freud に対するソヴィエトの支持者は、心理分析の唯物論的で決定主義的な側面を強調した。
 トロツキー自身が、フロイト主義に対する好意的な関心を示した。
 行動主義に関するJ. B. Watson の著作が、ロシア語に翻訳されて出版された。
 その当時はまだ、自然科学での新しい発展に対するイデオロギー的な攻撃はなかった。
 相対性理論は、時間と空間は物質の実存形態だと主張して弁証法的唯物論の正しさを証明すると論じる論評者たちが賛同して、受容された。
 教育分野での「進歩的」傾向もまた、歓迎された。とくに、紀律と権威に対抗するものとしての「自由学校」を Dewey が強調していたことは。
 同時に、例えば、Viktor M. Shulgin は、共産主義のもとでは学校は「消滅する」だろうとの展望を述べた。
 これは実際、旧世界の制度は全て、国家も軍隊も学校も、そして民族も家族も、消滅する運命にあるとするマルクスの教理と矛盾していなかった。
 このような見方は、それ自体がいずれは永遠に消滅する運命にあった、共産主義の無邪気な<アヴァン・ギャルド> 精神を表現していた。
 支持者たちは、理性が栄光ある勝利を獲得する前に、衰えている制度と伝統、神聖と禁忌、礼拝と偶像は灰燼となって崩壊する、そのような新しい世界が実際に実現することになるだろう、と信じた。もう一つのプロメテウスのごときプロレタリアートがヒューマニズム(人間主義)の新しい時代を創出する、そういう世界だ。
 こうした因習を打破する熱情は、文学や芸術上の<アヴァン・ギャルド>派の多数の西側知識人を魅了した。伝統、学界主義(アカデミズム)、権威および過去のもの一般に対する自分たちの闘いを政治的に具現化するものを共産主義のうちに見た、フランスのシュール・レアリスト(surrrealists)のような、西側知識人たちを。
 この時代のロシアの文化的雰囲気には、全ての革命の時期には共通する若々しくて未熟な性質があった。人生は始まったばかりだ、将来は無限にある、人類はもはや歴史の制約に縛られていない、と信じていた。//