秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

わらの犬

2221/J・グレイ・わらの犬(2002)⑪-第4章02。

 J・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)。
 =John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002)。=<わらの犬-人間とその他の動物に関する考察>。
 邦訳書からの要約・抜粋または一部引用のつづき。邦訳書p.136-9。
 第4章・救われざる者(The Unsaved)
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 第5節・ホメロスのハゲタカ(Homer's Vultures)。
 ・「ニーチェの超人は、人類が…奈落の底に落ちこむのを見る。絶大な意志の行使によって、超人は人間をニヒリズムから救い出す。」
 「ニヒリズム」が掲げる理念は「人間が無意味の深淵から救われる」ことだが、「キリスト教が登場する以前、世にニヒリストはいなかった」。
 ・ホメロス・イーリアスには「ニヒリズム」はない。そこでの神々は、「ハゲタカ」になっても「人間を救わない」。「もとより救うべきほどの何もない」。
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 第6節。死すべき運命(In Search of Mortality)
 ・「仏陀は自己の滅却(extinction of the self)に救いを求めた」が、「自己のないところ」での「救い」とは何か。
 「涅槃(Nirvana)は煩悩を離れた悟りの境地」だが、「自然に任せておけばだれもが…手にする以上のもの」を約束しない。
 「死は、生涯の苦行の後に仏陀が約束した平穏を万人にもたらす」。
 ・「動物はなぜ、煩悩から解脱する」のを願わないのか。「輪廻転生」(the round of rebirth)を知らないからか。「考えるまでもなく、生死をくり返すことはないと知っているからか」。
 ・「仏教は、死すべき運命の模索」で、仏陀は「輪廻転生の迷いから脱する悟りの道」を説く。
 「死すべき運命を知っている人間」は、仏陀が追求した道に「すぐ手の届く」ところにいる。「救いが約束されている以上、人生の快楽を否定することはない」。
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 第7節・死にゆく動物(Dying Animals)
 ・「自分の死を思い描ける」ことで人間は動物と異なるとされる。だが、「死んでどうなるか」を動物以上に知らない。「生命活動の停止」と理解しても、「それが何を意味するか」を知らない。
 「時の経過」を人間が恐れないのは、「いずれ死が訪れる」ことを知っているからだ。「時間に抵抗」するのは「死を恐れて」いるからだ。
 「動物が人間ほどには死を恐れない」のは、「時間に縛られていない」からだ。
 ・「自殺」は「人間の特権」だと言うのは、「人間と動物の死に方になんの違いもない」ことを理解していない。肺炎、麻酔薬、…、ほんの少し前まで人間は「進んで死に向かい合っ」て、「多くは猫が静かな場所を捜して息を引き取るのと同じ本能で死を願った」。
 ・「道徳」が生まれて、「そのような死に方は忌避される」に至った。「選択の自由が一種の信仰」である現代では「死を選ぶことは許されない」。
 人間と動物の違いは、「人間が異様なほど生に執着する」に至ったことだ。
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 第8節・クリシュナムルティの重荷(Krishnamurti's Burden)
 ・19世紀末以降のカルト集団が「現代の救世主」に祭り上げたクリシュナムルティは、「重荷を一身に引き受け」られないとしてその役割を否定した。彼の教えは「古来の神秘主義」と多々共通する。
 ・「人間は動物と共有している生き方を捨てきれず、また、捨てようと努めるほど賢くもない。
 不安や苦悩は、静穏や歓喜と同じ人間本来(natural)の心情である。
 自身のうちにある獣性を脱却したと確信すると、そこで人間は偏執、自己欺瞞、絶えざる動揺といった固有の特質をさらけ出す。」
 ・クリシュナムルティの生涯は「並はずれたエゴイズムの貫徹」で、他人には「無私無欲を説き」、自分は「神秘的な陶酔」を「ありきたりの癒やし」と結びつけた。
 ・彼の生き方は何ら不思議ではない。「獣性を排斥する者は人間をやめるわけではなく、ただ自分を人間の戯画に仕立てる」だけだ。
 「よくしたもので」、「大衆は聖人君子(the saints)を崇める反面、同じ程度に忌み嫌う」。
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 第9節以降につづく。

2181/J・グレイ・わらの犬(2002)⑪-第4章02。

 J・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)。
 =John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002)。=<わらの犬-人間とその他の動物に関する考察>。
 邦訳書からの要約・抜粋または一部引用のつづき。邦訳書p.127-p.133。
 第4章・救われざる者(The Unsaved)。
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 第2節・大審問官とトビウオ(The Grand Inquisitor and the Flyingfish)。
 ・ドストエフスキー・<カラマーゾフの兄弟>で、大審問官はキリストに言う。
 「人間はあまりにもひ弱で、自由の恵みには耐えられない。
 人間は自由を必要とせず、求めるのはパン、それも<中略>当たり前のこの世のパンである」。
 D. H. ローレンスによると、大審問官の発言は「決定的なキリスト教批判」で「痛烈な寸言」だ。キリスト教による「幻想」に「現実」を突きつける。
 ローレンスは正しい。科学技術は「窮乏、貧困」を絶滅し人類を「不死」として、「かつてのキリスト教と同様」、科学信仰は「奇跡の希望」を伸ばす。しかし、「科学が人類を変えると思うのは魔術を信じるに等しい」。科学は「暴政の強化と戦争拡大」に利用されるはずだ。
 ・ドストエフスキーの真意は、「人類が自由を求めた例はかつてなく、この先も考えられない」ということだ。
 現代の世俗信仰は人間は自由を望み束縛を嫌うというが、「隷属と引き替えの安逸以上に自由を尊重」するのは稀だ。
 J. J. ルソーは「元々自由に生まれたはずの人間が至るところで鎖に繋がれている」と言う。しかし、「時として自由を求める少数がいるからといって、人間がみな同じだと思うのは、トビウオを見て空を飛ぶのは魚類の習性であると断じるに等しい」。
 ・「自由社会」がいずれ出現するだろうが、「めったにないことで、それも無政府状態か、専制君主制の変形が定石」だろう。独裁者は混乱に乗じて権力を手にするが、つねに庶民に「沈滞や閉塞を打破すると暗黙の約束を掲げる」。
 ・大審問官の偽りは自分を「悲劇の主人公」視していることだ。彼がどんなに気を揉んでも人類を救えないし、人類もそれを当てにしていない。彼の「自己満足」だ。
 宗教裁判官は「気高くも悪魔じみた信念」をもつと考えるのは誤りで、「腹のうちは、恐怖、怨恨、それに弱い者いじめの快感である」。
 ・「科学は人類の知識を増進するが、真理を尊重することは教えない。
 かつてのキリスト教と同じで、科学は権力の網に搦め捕られている。
 生存競争と業績(survival and success)の達成に汲々としている科学者の世界観は、旧弊な思考の貼り混ぜである。」
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 第3節・多神教礼賛。
 第4節・キリスト教が行き着く果ての無神論。
 <この両節は全体として省略。後者に明記はないが、R・ドーキンス的「無神論」の批判・揶揄を含むだろう。>
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第5節以降へ。

2168/J・グレイ・わらの犬(2002)⑩-第4章01。

 J・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)。
 =John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002)。=<わらの犬-人間とその他の動物に関する考察>。
 邦訳書からの要約・抜粋または一部引用のつづき。邦訳書p.123-p.126。太字化は紹介者。(1), (2), (3)は秋月による。
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 第4章・救われざる者(The Unsaved)。
 第1節・救済者(Saviours)。
 (1) 「仏陀は、万人が理解する苦悩からの解放(煩悩からの解脱)〔release from suffering〕を約束した。
 これに対して、だれも人間の原罪とは何かを説明できず、キリスト教の苦悩がどうして人の罪を償うことになるのか、理解してもいない。
 キリスト教はユダヤ教の一宗派(a sect)に始まった。
 初期の信者にとって、罪とは神の意志に背くことであり、罪深い人間に下される罰は世界の終末だった。
 この神話信仰(mythic beliefs)が、救世主(メシア)の人物造形に結実した。世界に懲罰を与え、篤信の少数に救いをもたらす神の使者である。」
 「キリスト教の開祖は聖パウロであって、イエスではない。
 パウロはユダヤ教の救世主信仰(Jewish messianic cult)をギリシア・ローマふうの神秘主義に塗り替えたが、自身の創始した信仰をユダヤ教の伝承から解放するまでには至らなかった。
 罪と償いの理念がユダヤ教の根幹をなす、というだけの話ではない。
 この考えがなかったならば、キリスト教が説く原罪の約束も、意味をなさない。
 人間に罪がないならば、救われるまでもないし、贖罪の約束も、悲痛に耐える身の支えにはならない。」
 (2) 「人類は自分たちを自由で覚醒した存在だと考えているが、じつはたぶらかされた動物(deluded animals)である。
 それでいながら、想像で作り上げた自分の姿から逃れようと足掻き続けている。
 その信仰(religions)は、手にしたこともない自由を打ち捨てる苦行である。
 20世紀には、右翼と左翼のユートピア思想がともに同じ機能を果たした。
 今日では、政治が娯楽(entertainment)としてすら説得力を失って、科学が救世主の役割を引き受けている。
 (3) 「おおかたの人間は救済者(saviours)を軽んじているばかりに、救済者から解放されることを願わない。
 人間が救済者を待ち望む以上に、明日の救済者の方がよほど人間を必要としているのである。
 人間が救済者に期待するのは気散じ(distraction)であって、救済の福音ではない。」
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 第2節以降へ。

2121/J・グレイ・わらの犬(2002)⑦-第3章01。

 J・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)。
 =John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002)。<わらの犬-人間とその他の動物に関する考察>
 邦訳書からの要約・抜粋または一部引用のつづき。邦訳書p.90~p.105。太字化は紹介者。
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 第3章・道徳の害[The Vices of Morality]。
 第1節・磁器と命の値段[The Porcelain and the Price of Life]。
 (1) B・チャトウィン〔Bruce Chatwin〕の小説の、チェコスロヴァキア占領と共産党政権の支配を利用してマイセン磁器を買い漁ったウッツ[Uts]男爵には、「友情の深みも、変わらぬ愛も、主義に殉じる信念も」ない。「稀に見る道徳意識の欠如」を指摘するのは簡単だが、「同時代の市民一般と、いったいどこが違う」のか。「ナチス占領時代から共産主義政権の時代にかけて、大方の市民は唯々諾々と時の権力に従った」のではないか。
 「道徳」を「尊重すべき特別な価値体系」だと考えつつも、「自分に忠実にあろうとすれば」道徳には社会通念が教える以上に「はるかに重みがない」ことに気づくはずだ。
 「道徳」最優先の大本はキリスト教で、神は「義」を命じ「悪」を禁じる。この見方は「とうの昔に廃れた」かもしれないが「今なお広く浸透している」。ヨーロッパ啓蒙運動のヒューマニストたちは「旧時代のキリスト教徒と同様、道徳を絶対視した」。哲学者はとくに「道徳」の意味を問題にしつつ、「道徳的」が最善であることの理由を疑わない。
 小説<ウッツ男爵>に学ぶのは「道徳の虚構」だ。人は生き方を語るときに「道徳」を持ち込んで「生きている自身の姿をぼやかす」。
 (2) 実話。-ナチス強制収容所では無帽で朝礼に並ぶと即銃殺。16歳の収容者を強姦した看守は彼の帽子を盗む。銃殺死すれば強姦の事実は闇へ。その少年はしかし、隣で寝る同胞の帽子を奪い、翌朝その同胞は射殺される。少年は「仲間の死」をこう描く。
 「頭に一発。撃つのは後頭部と決まっている」。「死んだ男がどこの誰か、そんなことはどうでもよかった。生きている歓喜が身内を貫いた」。
 「同胞の貴重な命を救って、自分が死に甘んじる」べきだったか。「手段を選ばず生き延びた青年は許される」か。「道徳は一種の便宜であって、平時にしか通用しない」。
 第2節・道徳の迷信[Morality as Superstition]。
 「道徳を律法の体系」とするのは聖書だが、ユダヤ人に与えられた「神の律法が人間全てを支配する」とするのはキリスト教の独創だ。キリスト教世界は「ユダヤ主義」の「進展」ではなく「後退」だ。全人間を従わせる「律法」という発想と「道徳観こそが、愚劣な迷信」だ。
 第3節・人命軽視[The Unsanctity of Human Life]。
 タスマニア先住民は奴隷となり虐殺されて、5000人以上が1830年には72人に減った。「大虐殺〔genocide〕は、芸術や祈りと同じ人間の行いである」。「大量虐殺は技術進歩の副作用」で、人間は道具を「殺し合い」に使ってきた。J・ダイアモンド〔Jared Diamond〕によると、「古代史は人間の大量虐殺嗜好を証明する」。
 時代は下っても、1492年~1990年に「少なくとも36例の大虐殺」があり、1950年以降でも「20回」を数えた。バングラデシュ・カンボジア・ルワンダ、各々100万人以上。
 タスマニアに入植した善きキリスト教者は「生命の神聖さ〔sanctity〕」を信じたが、その信念は「自分たちの生活圏〔Lebensraum〕の拡大」を抑止せず、キリスト教勢力は1世紀後にヨーロッパが「例のない大量虐殺の現場」になることを防止できなかった。犠牲者の数ではなく「一つの文化をそっくり滅ぼそうと企てた、その魂胆」が問題だ。アーサー・ケストラー〔Arthur Koestler〕の小説<到着と出発>〔1943〕は、総統の目論見をこう描く。
 「ユダヤ人絶滅」は2年以内だろう。「一個人としてはジプシー音楽を愛好し、ときに知恵あるユダヤ人の諧謔を喜ばぬでもないが、我々はヒトの染色体から、…なる要素をもつ流民の遺伝子〔nomagic gene〕を除去しなくてはならない。…手段として、まずは皮下注射器、ランセット、避妊具等を用いる」。
 こうまで過激でなくとも、同じ可能性は「少なからぬ進歩的知識人」も語った。バーナード・ショー〔George Bernard Shaw〕はナチス・ドイツを「ヨーロッパ啓蒙運動の正統な後継ぎ」だとした。
 ナチズムを「啓蒙運動と真っ向から対立する」と見るのは間違いで、「寛容と個人の自由」を掲げる「啓蒙」に「人類の希望」を託した点で、ヒトラーはニーチェと同じだった。優秀な人種を育て、劣等な人種を排除することで、人類は将来の「重大な任務」を全うできる。「科学」による「因習」との断絶・「精神」の純化で初めて、人類は地球の支配者たり得る。
 ショーのナチズム観は「あながち牽強付会」ではなく、ショーの見方ではソ連とナチスは「ともに進歩的な体制」で、「邪魔な余剰人口」の抹殺に不都合はない。この作家にとって、犯罪者は皆殺しがよく、投獄は税金の無駄遣いだ。彼は1930年8月にモスクワで、「飢えに苦しむ聴衆を前に」、「人災の犠牲者に笑いかけた」。
 西側知識人の多数は、「おそらくは古今未曾有の大量殺人が進歩的な現政権下で起きていることを見抜けなかった」。だが、1917-1959年に「6000万を超える一般的庶民がソ連領内で死亡した」。秘密どころか、「公然の政策だった」。ヘラーとネクリッチ〔Michael Heller & Alexander. M. Nekrich, in: Utopia in Power, 1983〕はこう書く。
 「ソヴィエト市民が地方での大虐殺〔massacres〕を知らないはずはない。それ以上に、誰も秘密にしていない。スターリンは「富裕農民階級の廃絶〔liquidation of the kulaks〕」を公言し、取り巻きがこぞってこれに同調した。鉄道の各駅で、地方から逃げてきた夥しい婦女子が飢えて死にかけているのを都市住民は目のあたりにした。」
 西側知識人の「現実の認識」の甘さはよく疑問視されるが「現実が目に見えなかったはずはない」。移住者の手記の多数出版、ソヴィエト当局の発言からも状況は明確だったが、「その現実があまりにも過酷だったため、西側知識人には容認し難かった」。「自分たちの精神衛生〔peace of mind〕を考えて、知識人は分かりきっていること、疑わしく思うことを否定した」。
 「良心的知識人らは、進歩の追求が大量殺人に帰結したことを認める勇気がなかった」。
 20世紀が特殊なのは大虐殺の「頻発」ではなく、その「規模」と、それが「世界の進歩に名を借りた大計画のためにあらかじめ仕組まれたという事実」だ。
 第4節・良心[The Conscience]。
 「道徳家の建前では、良心の声は聞こえなくとも、つねづね残虐や不正を批判している。だが、そのじつ、犠牲者がこっそり葬られるかぎり、良心は残虐と不正を歓迎する。」
 第5節・悲劇の死[The Death of Tragedy ]。
 ヘーゲルによると「悲劇とは正義と正義の衝突」だが、悲劇は「神話」に由来し、「道徳と何の関係もない」。悲劇は「人間が勇気や知力をもってしても乗り切れない情況に屈することを拒んだとき」に、「圧倒的不利を承知で困難な道を選んだ人物」に起きる。
 「みすぼらしい犯罪者の人生が悲劇なら、世界に名を馳せる政治家の人生もまたみすぼらしいかもしれない。」
 今日のキリスト教教徒とヒューマニストは協力して「悲劇を不可能」にしている。天国で涙は拭われる。悲劇の効用は「逆境」に生きることの立派さを教えることにある。しかし、「極限の苦難が人間を高めるというのは、説教か、舞台の上のことである」。
 シャラーモフ〔Varlam Tikhonovich Shalamov〕は1929年に逮捕され3年の苦役、1937年に再逮捕されシベリア北東のコルィマで5年の流刑。そこで17年を過ごす。ここの収容所では推計で最小30万人死亡、毎年3分の1が絶命。彼の体験記<コルィマ物語>には「ソルジェニツィン風の教訓臭は微塵もない」。それでいて、「ときに抑制を忘れてか、悲憤の痛哭が行間にこぼれ出る」。彼は書く-「真っ当にふるまえる」と思う人間は「どん底に触れたことがない」、「『英雄のいない世界』で息を引き取るほかない境遇」とは無縁の人間たちだ。
 「文学趣味のお伽噺」ならば「悲劇と欠乏の緊迫が人間の深い絆」を生むかもしれないが、コルィマで生き延びるには「友愛も共感も希薄」だった。彼は書く-「悲劇と欠乏が…親愛を醸したとすれば、欠乏は極限になお遠く、悲劇は絶望にまで至っていなかったのだ」。
 一切を剥奪された収容者に「生きつづける理由」はなかったが、自ら命を絶つ機会が訪れても「気力、体力」がなかった。「死ぬ気」が萎える前に急ぐ必要があった。「飢えと寒さに衰弱し切って、収容者たちは無感覚なまま無情な死に向かって流されていくしかなかった」。彼は書く-「見るくらいなら死んだ方がましなことがいくらでもある」。
 「人生は最悪でも悲劇ではなく、ただ無意味なだけである。失意の底にあっても、あてどない人生はつづく」。「意志が挫ければ悲劇の仮面は剥がれ落ちて、後に苦しみが残るばかりだ」。「最後の悲劇は言葉にならない」。「悲劇の幻想にすがって生きるのは賢明だ」。
 シャラーモフは1951年に釈放され、1953年にシベリアを去る許可を得て、1956年にモスクワに帰った。「妻はとっくに別の男に走り、娘は接触を拒んだ」。彼は養老施設に住み、75歳のときに知人に詩を口述して外国で出版された。これが原因で養老施設を追われたが、コルィマに連れ戻されると思ってか激しく抵抗して「精神病院」に収容された。その3日後の1982年1月17日、「鉄格子が窓を塞ぐ狭苦しい」病室で死んだ。
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 第6節以降へ。

2111/J・グレイ・わらの犬(2002)⑤-第2章02。

 J・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)。
 =John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002)。=<わらの犬-人間と他動物に関する考察>。
 邦訳書からの要約・抜粋または一部引用のつづき。邦訳書p.54~p.71。本文最後(p.209)まで昨秋に読了しているので、再読しながら、ということになる。太字化は紹介者。
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 第2章・欺瞞〔The Deception〕②。
 第5節・ライオンとの対話〔Conversing with Loins〕。
 ライオンが言葉を発しても人間は理解できないと言ったL・ヴィトゲンシュタイン〔Ludwig Wittgenstein〕は、ヨーロッパの伝統に添うヒューマニストだ。プラトンからヘーゲルまでは世界を「人間の思惟を映す鏡」と、ハイデガーや彼はさらに進めて「人間の思考から成る構築物」と解した。いずれでも、世界は、それまではなきに等しかったが、人間が出現して初めて意味をもつ。
 後期ヴィトゲンシュタインは旧哲学を超越したと自負したが、原点の「観念論」を出ていない。観念論者によれば「精神を離れて」は何も存在せず、究極的には「世界は人間が創造した」に等しい。これは、「人間だけを認める考え方」だ。
 前期の彼は「世界の論理的構造を映し出す思考と言語を記述」しようとしたが、のちに「言語が世界を鏡映する」との考えを捨てて、「言語から隔絶して存在する世界の概念に想定される一切の概念」を否定した。後期には、「言語で表現しえないことは何もない」のであり、「その哲学は所詮、観念論(Idealism)を言語の術語(linguistic terms)で開陳」したものだ。
 第6節・『ポストモダニズム』〔"Postmodernism"〕。
 ポストモダニズムによると、自然などはなく、「ただ人間が造り上げた浮遊する世界」が存在する。せいぜい「相対主義」(relativism)を唱えて「人間は真理(truth)を掴み得ないこと」を認めるが、この真理否定は「質の悪い思い上がり」だ。
 「人間の理解の遠く及ばない世界」を否定するポストモダニストは、そのことで「人間野望の限界を見定める」ことを拒否して人間を「最終調停者」にし、「何ものも人間の意識(onciosness)に現れないないかぎりは存在しない」と暗に断定している。
 「真理は存在しない」との考えはギリシャ哲学にもあった。ポストモダニズムは、「最新流行を装った人間中心主義(anthropocenturism)でしかない」。
 第7節・動物の無心(Animal Faith)。
 従来の全ての哲学者は、「動物の無心」を超える理由を発見していない。
 第8節・プラトンとアルファベット〔Plato and Alphabet〕。
 鳥や獣に対する「人間の特質」は「言葉操作能力」にではなく、「言葉を固定する(crystallisation)」手段として「文字」を持つことにある。
 「文字は仮想の記憶を生む。これによって、人間は世代や境遇の枠を超えて体験を拡張することができる。同時に、文字は抽象世界の創造を可能にし、人間はそれをリアリティと取り違える結果になった。文字の支えで発達した哲学では、人間はもはや自然界に足場がない。」
 原始期の文字には自然界との多様な関係があったが(象形文字)、次第に動物と共有しない「人語」が出現して、「全ての観念(sense)の根拠」になった。
 プラトンらの言語崇敬を批難したヴィトゲンシュタインらは要するに、「表音文字が思考に及ぼす影響を批判した」。
 プラトン哲学の系譜にない中国古文は「豊かな視覚表現」をもつために「抽象思考」を育てなかった。プラトンによると「抽象語が精神、知性の実体を規定」するが、中国思想は一貫して「唯名論」(nominalst)で、抽象語は全て「名称(labels)」にすぎないと理解したので、「観念(ideas)と事実(facts)を混同することがない」。
 プラトンが遺した「真・善・美」の三価値・抽象的理想は、対立抗争・僭政・殺戮を生んだ。ヨーロッパ史の少なからぬ部分は、「アルファベットがもたらした思想の過誤による」。
 第9節・個人崇拝批判〔Agaist the Cult of Personality〕。
 ヒューマニズムによると地球は人間出現まで何の「価値」(value)もなかった。この「価値」は「人間の願望、選択が落とす影」で、本質的に多少とも価値が問題になるのは「個々の人格」だ。人間は神に由来するがゆえに、キリスト教は「個人崇拝」を認めるだろう。しかし、キリスト教を捨てたとなると、そこでの「神」の姿は不分明だ。
 「人格とは、自律の意志をもって人生を選択、決定する主体だが、ほとんどの人間はそこまで自己を確信していず、最良の境遇にある者たちも、自身をそのようには見ていない」。「江戸時代の武士(bushido warriors in Edo Japan)、中世ヨーロッパの王侯貴族や吟遊詩人」等々は「近代的な自律した人格(personal autonomy)の理想像に合致しない」がゆえに「欠陥人間」だったのか。
 「自律した人格である(being a person)か否かは、人間の本質(essence of humanity)にかかわることではない」。歴史的にも、「人格は一種の仮面だ」。「自律した人格、主体的な個人とは、…ヨーロッパに伝搬した仮面を後生大事に被りつづけ、それを自分の素顔だと思い込んでいる人間のことを言う」。
 第10節・意識の貧困〔The Poverty of Conciousness〕。
 プラトンは「人間のすみきった意識で感得(perceive)したこと」を「究極のリアリティ」とした。デカルト以来の命題では「感覚(sensation)や知覚(perception)は意識(conciousness)を必要とはせず」、まして「自己認識(self-awareness)」とは関係がない。「感覚、知覚は、動物にもある」からだ。
 植物は触感・視覚をもち、「最古の単純な微生物も、その感覚は人間に通じる」。
 「地球上の生命の始原」にあるハロバクテリア(halobacteria)は「感光物質ロドプシン(rhodopsin)の作用で光に反応する」が、これは人間の「網膜にあるのと同じ色素蛋白」だ。「人間は、太古の泥の目を通じて世界を見ているのだ」。
 古き二元論によると、「物体(matter)」には知性(intelligence)がなく「精神」(minds)がなければ知識(knowleage)もない。実際には、「知識」は「精神」を必要とせず、マーギュリス〔Lynn Margulis〕の言うように、全生体は「知識を備えている」。-「自律した一個の生体である地球、ガイヤは固有の感覚と知覚によって、人間が登場するはるか以前から全地球規模で自在に情報を交換し、意志伝達を図っていた」。
 「バクテリアは環境に関する知識にもとづいて行動する」。「より複雑な生物の免疫システムには学習機能と記憶の蓄積(learning and memory)が認められる」。
 高度に発達した生物でもふつうは、「知覚や思考は無意識に生じる」。人間は最たるもので、「意識される知覚(concious perception)」は「五感(senses)を介する受容」の「ごく一部」であって、人間は遙かに多くを「閾下知覚(subliminal perception)によって感じ取る」。「意識」の変動(生活リズム、概日性・睡眠等)は、原始以来「人間の生存に不可欠」だ。日々の「行動」はおおむね「無意識」による。
 「心底の動機は疎外されて意識の検証を経ることがなく」、「ほとんどの精神生活(mental life)は、無意識に(unknown)行われる」。意味が「自覚を要する」ことは殆どなく、「致命的に重要なことの多くは、意識が欠如しているうちに生起する」。
 プラトンやデカルトでは「意識が人間と動物を分ける」。後者によると「考えない動物は機械(machines)と変わりがない」。しかし、犬・猫・馬は周囲を「意識」(display awareness)し、行動の当否を「経験に即して判断」する。「思考」(thoughts)も「感覚」(sensations)も備える。類人猿は「知的能力」をもち、人間だけが「意識」をもつのではない。
 「自我の観念(the sensation of selfhood)の欠如」が他動物と人間を分ける。といっても動物が「不幸」なのではなく、「自己認識」(self-awareness)は能力であるとともに妨害物だ。自己忘却により最大の能力を発揮することもある。「日本の弓道では射手が的を忘れ、自分をも忘れて(no longer think)、初めて正鵠を射ると教える」。
 東洋の「瞑想」(meditatives)は「意識高揚」技法ではなく「意識を迂回する」手段だ。
 「意識に上ることのない知覚-閾下知覚は、異状でも変則でもなく、正常なこと」だ。人間の「知覚」のほとんどは、「意識的観測」ではなく「持続する無意識の凝視」による。
 精神分析家のA・エーレンツヴァイク〔Anton Ehrenzweig〕が指摘するように、「無意識の視覚」は「意識的な熟視」よりも大量の情報を収集するが、これは「科学」の視点からも同じだ。
 「閾下知覚」(subliminal perception)の影響は長期的で広範囲だ。約40年前に禁止されたが、「消費者の購買行動を操作する」サブリミカル・プロジェクション企業も登場した。
 「人間が意識のフィルターを通して見る世界は、閾下知覚によって与えられたものの断片でしかない」。人間は「自分の感覚を検閲(censor)」するが、じつは「全てを前意識(preconcious)の世界観に頼っている」。「現時点で知っていること」=「意識を介して学習すること」ではない。
 「精神(mind)の寿命と肉体(body)の寿命は表裏のことだ」。「覚醒した意識」(concious awareness)にのみ頼れば、「精神は全体としては機能しない」。
 第11節・ロード・ジムの行動〔Lord Jim's Jump〕。
 J・コンラッド〔Joseph Conrad〕の小説<ロード・ジム>の主人公の行動〔略〕には、謎がある。乗客を捨てて救命ボートに飛び降りたのは「自分から」か「無意識で」か。「責任」が問われ得るならば別の行動をとるのが「自由意志」だが、どう判別するのか。
 「自由意志(free will)の概念を否定する論拠」は多数あるが、その議論自体を拒絶する立場もある。
 「自ら行動を決定して、初めて人は自由行為者(free agent)だ。ところが、人間は偶然と必要(chance and necessity)の申し子であって、何に生まれるかも自分では選べない。だとすれば、一切の行動は責任外になる」。これが、「自由意志否定」論の有力論拠だ。
 近年の科学研究はますます、「自由意志を薄弱なものに」した。B・リベット〔Benjamin Libet〕の実験では「行動を促す脳内の電気パルス(electtrical impulse)-準備電位は、意識が行動を決定する半秒前に発生する」。自分の意志で行動を決定して実践するとふつうは考えるが、しかし「全ての動作、行動を無意識に開始する」。リベットらは述べる。-「とっさの自発的行為においてすら、脳の作動は意識に先行すると見られる」。
 人間が思うようには行動していない理由の一つは、「意識の帯域幅(bandwidth)、…意識の容量もしくは能力の問題」だ。人間は生物として「毎秒約1400万ビットの情報を処理するが、意識の帯域幅はせいぜい18ビットで」、「意識」は必要な情報の100万分の1しか処理しない。
 「神経科学(neuroscientific)研究は、人間が自由意志では行動できないことを実証した」。リベットは「わずかながら」その働きを「脳の促す行動を保留し、または抑止する意識の力」に認めるけれども、そうした「拒否権」行使の実例や可能性について「検証の術はない」。
 人間は将来の行動を予測できないにもかかわらず、後から振り返って「あの決断は定められた道程の一歩だった」と思う。あるときは降りかかった偶然だとし、あるときは「自身の行為」だとする。「自由」の感覚は、この二つの視点を切り替えるることから生じる。「自由意志は、錯視のいたずら(a trick of perspective)である」。
 ロード・ジムが思い悩むのは「自身の人格探究」だが、虚しい努力だ。「自己認識」がどうであれ、「人間個人の本質」は、「きわめて曖昧なかたちでしか、捉えることはできない」。ショーペンハウアーが、つぎのように言うとおり。
 「自己認識-人が自身の本質をどう規定するか-は、意識のあり方によるとされる」。しかし、決定的に不十分だ。人間はその人生で多くのことを「知る」が、それは微々たるもので、かつ、記憶の1000倍以上のことを忘却してしまう。「外界との接触を重ねるうちに、人がいつか認識の主体-知っているつもりの自分-を自己の本質と考えるようになるのは事実だが、これは脳の機能であって、自己そのものではない」。
 「知っているつもりの自己を探し求めながら、ついに発見に至らない」。「不変の人格は存在しないだろう」と考えつつも、人間は「自分の行動を説明しようと心の裡を覗きこまざるにはいられない」。そこには「記憶の断片ばかり」がある。
 ロード・ジムは「自分が救命ボートに飛び移った理由を知り得ない。知り得ない運命である」。ゆえに、「人生を白紙に戻して出直すことはできない」。
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 第12節<仮想の自己>以降へと、つづける。

2077/J・グレイ・わらの犬(2002)④-第2章01。

 J・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)。<ー人間と他の諸動物に関する考察>。
 =John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002)。
 邦訳書からの要約・抜粋または一部引用のつづき。
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 第2章・欺瞞〔The Deception〕①。邦訳書、p.37~p.54。
 第1節・仮面舞踏会。
 カントが仮面舞踏会で恋慕した仮面の麗人は実妻だったというショーペンハウワーの寓話での妻はカント時代のキリスト教信仰で、ヒューマニズムが現代の信仰だ。哲学は200年の間にキリスト教を捨てたが、「人間は他の生き物と根本的に違うと考える教理の根幹をなす誤謬は温存した」。仮面を剥ぎ取るはずの哲学者の仕事は本格的には開始されていない。
 「動物はみな、この世に生まれ、番(つがい)の相手を求め、餌を漁り、死に果てる。それだけのことだ」。人間は「意識、自我、自由意思」があるから違うと言うが、誤りだ。
 「人の一生は意識の命じる主体的な行動よりも断片的な夢想の堆積である」。
 「死命を分ける重大な決断の多くを知らず知らずのうちに下す」。
 「自身の存在を意志の力で統御することはできない相談であるにもかかわらず、…できると考えるのは神に対する非合理な信仰を棄てて、非合理な人類信仰に乗り換えた思想家の教条主義である」。
 第2節・ショーペンハウアーの難題〔Crux〕。
 ショーペンハウワーは19世紀半ばの人間「全的解放」を批判し、「革命運動には恐怖と侮蔑」を抱き、主流哲学に「猛然と反発し」、「後にマルクスにも強い影響を与えたヘーゲルを国家権力の代弁人風情と扱き下ろした」。
 彼は規則正しく生活し、「人間存在の根底にある盲目的な意志」に従った。哲学は「キリスト教の偏見に毒されている」とし、18世紀の「啓蒙」の主潮だったカント哲学を「キリスト教信仰の世俗版」だと批判した。
 彼にとって「人間は本質において動物と何ら選ぶところがない」。人間も同じく「世界の根底にあって苦悩し、忍従しながらすべてを誘起する生命衝動-盲目的な意志の現れ」だ。
 カントはイギリス(スコットランド)のヒュームの「底知れぬ懐疑主義」に衝撃を受けた。ヒュームによれば「人間は外界の存在を知り得ず、…自分自身の存在すら知っていない」、「何も知らない以上、自然と慣習を標に生きるほかはない」。
 ヒューム説の「人間は事物をそれ自体として知ることはできず、ただ経験のかたちであたえられる現象を知るだけ」によると「経験の背後にあるリアリティ、カントのいわゆる物自体は不可知」だが、カントは「高鼾の熟睡」に再び戻り、ヒューム・懐疑論を拒否した。
 ショーペンハウワーは「世界は不可知」とのヒューム・カントを受容しつつ、「世界も、世界を知ったつもりでいる個別の主観も、リアリティの根拠を欠いた幻影だと論じた」。彼は「ベーダンタ哲学と仏教思想に共鳴している」。そして、カントを進めて、「表象」世界に生きる人間を捉え直した。
 ショーペンハウワーによると「欲情は種の保存を約束するが、個人の福祉や自律にはなんのかかわりもない。体験が人間に自由行為者たる確信を押しつけると考えるのはまちがいである」。また、「独立した個体は存在せず、数多性も差異もない」、ただ「<意志>と名付けた絶えざる衝動だけ」がある。「理知は否応もなく意志にしたがう下僕でしかない」。
 ショーペンハウワーは、「カント哲学を否定し、返す刀でキリスト教信仰とヒューマニズムの根底にある人間の唯我論を切り捨てた」。
 第3節・ニーチェの「楽天主義」〔Optimism〕。
 ニーチェはショーペンハウワーの「ペシミズム」を批判したが、後者は前者の「神の死」という結論をすでに道破していた。
 ニーチェは「キリスト教とその価値観を論難してやまなかった」が、それ自体が「信仰から脱しえなかったことの何よりの証拠」だ。父母に「キリスト教の血筋」もある。
 彼はショーペンハウワーを意識しかつ敬愛しつつも後者の「哀憐」は「至高の徳目ではなく、…生命力の減退の徴」だと弁じた。後者は<意志>に背いて=「自身の幸福や生存に対する執着を断って、はじめて他者を憐れむ心になる」と説いたのだが、ニーチェにとって、「憐れみ」は「反生命主義」で、<意志>を賛美する方が理に叶う。「苛酷な生をそっくりそのまま是認する」のが、ショーペンハウワー・悲観主義に対するニーチェの回答だった。
 しかし、ショーペンハウワーは「哀憐ゆえに蹉跌する」ことはなく、ニーチェの方が「錯乱」して「身を滅ぼした」。
 ニーチェと異ってショーペンハウワーは、キリスト教信仰・その根幹の「人類の歴史を重視する思想」を放棄した。
 「ほんとうにキリスト教と絶縁する気なら、人類は歴史に意味があるとする考えを棄てなければならない」。古来の異教世界と文化ではかかる認識の例はない。「ギリシア、ローマでは、歴史は栄枯盛衰の自然な循環であり、インドでは、ただ果てしなくくり返される共同幻想だった」。
 「人間は生き物で、他の動物と変わらないとわかってみれば、人類の歴史などというものはありえず、ただ個体の一生があるだけである。
 かりに種の歴史を語るとすれば、そうした個体の一生の、知りようもない総和に意味をさぐることでしかない。
 動物と同じで、幸せな生活もあれば、惨めな暮らしもある。
 だが、個体を超えたところに存在の意味はない。」
 ニーチェは「人類の歴史」の無意味を「知っていながら承服できなかった」。「最後まで信仰に囚われて」いたので「動物である人間もどうかなるという迷妄を断ち切れず」、「笑止千万な超人の思想を生み出した」。
 彼は「支離滅裂な人類の夢に、…悪夢を加えるだけで終わった」。
 第4節・ハイデガーのヒューマニズム〔Humanism〕。
 ハイデガーは西欧哲学を支配してきた「人間中心の思想」への決別を宣した。しかし、「人類は必然の存在だが、動物に正当な存在理由はないという」偏見をもち、「存在」に目を向けて「人類の特異な立場を肯定」した。ニーチェと同じく、「キリスト教の希望」を棄てきれなかった「不信仰者」だ。
 ハイデガーは「宗教に依存しない人間存在」を語るが、「現在性」・「無気味さ」・「罪」のいずれも「キリスト教の理念の世俗版」だ。キリスト教の「堕落」・「原罪」等に「実存主義的なひねりを加え」た「焼き直し」にすぎない。
 「存在」の意味は不明で「定義を拒むもの」と考えている節があるが、明らかに「独我論の根拠」になっている。
 ハイデガーは世界を「ただ人間との関係においてしか」見ない。「旧来の人間中心主義」と変わらず、「秘教的知恵」が救うとする「古代思想」や「グノーシス主義」の世俗化した「蒸し返し」だ。
 ニーチェは「放浪者」のために書いたが、ハイデガーは「終生、身の置きどころを求め」た。後者は次第にヒューマニズムから遠ざかったと公言したが、人間中心でない「古来の思想」への関心はなかった。「ギリシア語とドイツ語だけが真の哲学の言葉」だと断じて、「荘子、道元」等々の「深遠な思想も哲学ではありえない」と無視した。
 ハイデガーのごとく「哲学者がかくまで自己を主張し、妄想に取り憑かれることはきわめて稀である」
 晩年に「静謐」を語るが、ショーペンハウワーの「意志からの解放」にとどまるだろう。後者によると芸術・音楽への耽溺で「意志」形成の労苦を忘れて「没我の境」に入り、「無私無欲の観察者の視点」で世界を観察する。ハイデガーは晩年に「迂路をたどってショーペンハウアーに回帰した」。
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 つづける。

2071/J・グレイ・わらの犬(2002)③-第1章03。

 J・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)。
 =John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002)。
 邦訳書からの一部引用・要約のつづき。
 「各『小節』の見出しは原書にはないようで、…」とこれまで記してきたが、大間違いだった。
 例えば、第一章第2節「恣意的進化の蜃気楼」の原語は、The Mirage of Concious Evolution。
 同第6節の「反原理主義…」の原語は、Against Fundamentalism …。
 「」は邦訳書からの直接引用。太字化は秋月による。
 <わらの犬>の意味は、第12節で説明されている。
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 第一章・人間③。邦訳書、p.23~p.35。
 第8節・人間中心主義を矯正する科学。
 「科学」は「人間中心主義の要塞」で、他生物と違って「自然を意のままに服従させることも…可能であるという思い込み」を助長して身を守っている。
 しかし、「最先端の自然科学」は「因果律も古典論理」も本質からずれていると疑問視し、例えば「時間が外的世界の部分」ではないと示唆し、「一つの事象に複数の現実が存在する」ことを肯定する。「観測者の立場次第で世界は変わるとするのが量子力学の根幹」だ。
 「ほんとうは、人間が知覚するように組み立てられた世界は絵空事(ギメラ)であることを露呈するところに、科学ならではの意味がある」のではないか。
 第9節・真理をもたらすもの。
 ヒューマニストは「真理を知ることで人間は自由になる」と言うが、そうした「ヨーロッパ思想」はソクラテスからプラトンを経てキリスト教に伝わった。
 ソクラテスにとって「真理の本質」は問題にならず、「人間の知識と福利は別物」だ。「内省」を重んじ、真の「充足は不変のうちにある」とする立場には「原始宗教の名残」がある。「シャーマニズム」という「精霊との交感」を大切にした風習の影響で、彼は「内なる声」を「神の声」と呼ぶ。
  「ヨーロッパの合理主義は神秘体験が原点」だが、現代ヒューマニズムが異なるのは「その不合理な起源を自覚せず、大それた高望みを正当」とする点にある。
 ヒューマニストの一部は「真理が人間を自由にする」とするソクラテスを含む「ギリシア思想」とキリスト教の「解放の希望は万人のもの」とする信仰を混同している。
 「現代のヒューマニズムは、人間は科学を通じて真理を知り、自由を手にするという信仰である。
 しかし、ダーウィンの自然淘汰説が正しいとしたら、これはありえない。
 人間の頭脳は、…ひたすら真理を求めるようにはできていないからだ。」
 ダーウィン以前の誤りの一例は「ミーム論」=「模倣子」・「意伝子」論で、残念だが「ミームは仮想の主体であり、遺伝子とはちがう」。 
 「思想の対立が真理の勝ちで決着するとは思いもよらない」。「思想は対立し、反目するが、…権力と愚昧を味方につけた側が勝つことに相場が決まっている」。
 ダーウィン・進化論は「真理への関心が生存や繁殖のためには無用で」「むしろ少なからず有害である」ことを示す。
 「進化心理学」は「動物が擬態で外敵を欺く」ことを教えるが、「同じことは政治の場をはじめ、さまざまな人間関係について言える」。
 進化過程は、「真理」は「誤謬」より「優位」ではなく「その逆」で、「自己欺瞞の度合いで方向を選ぶ」ことを示す。
 「生存競争の修羅場で真理を求めるのは贅沢か、さもなければ無知の業である」。
  人間と同じく「科学」は「もっぱら真理の探究と人間の向上を目指す」ことはなく、「知識」は「むら気と曲がった心に妨げられる」。
 「日常生活の中で人間が一所懸命になるのは、損得の勘定である。<一文略>行動がただ感情を発散させるため」だけのこともある。これらは「改まる落ち度ではない」。
 第10節・啓蒙家パスカル。
 17世紀のパスカルは、「信仰」が「心の空白を満たす」と考えなかったが、「信仰を支える習慣」の力を知っていた。同様に現代人は「科学」に期待し、「理性を眠らせて、人類に対する信仰を深め」ている。
 第11節・人間主義対自然主義。
 「分子生物学」のジャック・モノー(J. Monod)によると、「生命は理論では説明できない偶然の産物だが、ひとたび発生すると突然変異と自然淘汰で進化する。人間は、宇宙が賽子を投げていい目が出た他の生き物と少しも変わらない」。
 この「なかなか容認しがたい事実」、「自身の存在がまったくの偶然であることを認めなくてはならない」。但し、モノー自身が「人類は特権に恵まれた孤高の種」だとしてじつは認めていない。 
 モノーは「人間主義と自然主義を折衷」した。ダーウィン・進化論は「自然主義の真理」を明らかにしたが、「逆説」的に、この論が「人間が獣性を超越して地球の支配者たりうるとするヒューマニズム信仰の要石となっている」。
 第12節・わらの犬。
 <ガイア説>は、「地球は一個の自動制御システムであり、その動作は少なからず生命体に似ている」とする。ラヴロックの<デイジー>モデルは「惑星温度は自動制御される」とする。
 <デイジー>モデルのごとく<ガイア説>は「狭義の科学信仰」にもとづくが、「科学原理主義者」はこれに反発する。「ガイア説と現代の正統派の対立は、科学的な論議」に由来せず、「その根底にあるのは、キリスト教信仰と、はるか以前か伝わる古い信仰の衝突」だ。
 <ガイア説>の「概念」は、「老荘哲学の原典」・「道徳経」に明記されている。
 「古代中国では、わらの犬を祭祀の捧げものにした。
 祭りのあいだ、わらの犬は丁寧に扱われたが、祭りがすんで用がなくなると踏みつけにされ、惜しみなく棄てられた」。
 「人間とても、地球の平穏を乱せばたちまちに踏みつけにされ、情け容赦なく棄てられる」。<ガイア説>批判者は「非科学的」だとこれを忌避する。
 しかし、「実を言えば、人間はわらの犬でしかないことを認める勇気がないばかりにそっぽを向いているのである」。
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 第2章以降につづく。

2069/J・グレイ・わらの犬(2002)①-第1章01。

 J・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)。
 =John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002)。
 以下、邦訳書から一部引用したり、要約したりする。
 各章の中の「小節」の見出しは原書にはないようで、邦訳者が読者の便宜のために付したのではなかろうか。「」は邦訳書からの直接引用。
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 第一章・人間。邦訳書、p.1~p.15。
 第1節・科学かヒューマニズムか。
 現代人の多くは自分たちで「運命を支配する」ことができるヒトという生物の種の一員だと考えているが、これは「信仰である。科学ではない」。
 ダーウィンをもう一度振り返る必要がある。
 「種とは遺伝子の集合であって、遺伝子は相互に、かつ変遷する環境と、無作為に関連し合っているにすぎない。
 種は自己の運命を制御できない。
 個々の遺伝子を取り出してみれば、種というものはない。
 生き物はすべて同属で、人間も例外ではない。」
 人間が「人類の進歩」を語るのは、「キリスト教の希望」に由来する「抽象概念」にとらわれているからだ。
 「人間とほかの生き物は同類」だが、人間を優越させるキリスト教を母胎としたために「進化論」は喧しい議論を発生させた。
 現在では、「人間主義者」と、「人間は動物と同じで運命の支配者たりえないことを理解している少数派」が対立する構図がある。
 「人間主義」とはここでは「進歩信仰」を指す。「人間は増しつづける科学知識を力として、ほかの動物〔の〕…限界を超え、自己を解放できるという思いこみ」だ。
 これには何の根拠もない。「知識を身につけたところで、生き物である人間はもとのままである」。
 他の動物と変わりがないとしたダーウィンに対し、「ヒューマニストは人間と動物をいっしょにするなと声高に言う」。それを裏付けるため、「人間は、みな救われる」というキリスト教の「いかがわしい約束」を担ぎ出したが、「ヒューマニストの進歩信仰はキリスト教信仰の世俗版でしかない」。
 ダーウィンの「世界に進歩と呼べるものはない」。
 ヒューマニストにこれは耐え難いことで、ダーウィン説を「逆手に取り」、「人間はいかなる動物とも異なる」とするキリスト教の根底にある「誤信」を永らえさせた。
 第2節・恣意的進化の蜃気楼。
 人間は「偶然にもてあそばれている-当てもなく進化の流れに身を任せてきた」。
 しかし、ウィルソン(E. O. Willson)は遺伝子工学を味方につけて、「人間進化の恣意的な操作」は可能である、と言う。しかし、この主張は「蜃気楼」だ。
 「人類が運命の管理責任を負うという考えは、種に目的意識があってはじめて意味をなす」。しかし、「種は遺伝子の流れに浮かぶ泡沫でしかない」。
 次世紀にかけて「科学の力で人間が変わることはありえよう」。しかし、変わるとしても「無計画な改造に終わる」。
 「人間が神の立場で運命をあやつったところでどうなるものでもない。
 もし人類が改良されるなら、それもまた運命の気紛れである」。
 第3節・人間がいっぱい。
 6500万年前に「全生物の4分の3に相当する種」が忽然と消滅した。その後も急速につづく「種の絶滅」の原因は、「地にはびこって」いる人間にある。
 1万2000年前に人間が登場した世界に生きていた動物の原産種のほとんどは、「狩猟によって絶滅した」。
 「自然破壊はグローバルな資本主義や産業化」や「人間の組織や習慣」の欠陥に起因するのではなく、「進化の過程で異様なまでに貪婪な霊長類が突出した結果」だ。有史以前から今日まで、「人類の隆盛と自然環境の荒廃は軌を一にしている」。
 地球規模で見ると、今後も人口は大幅に増加する。80億人ともなれば、「地球を荒らさずには維持できない」。
 遺伝子工学が「痩せこけた土壌からむりに豊かな収穫を上げる」のに成功すれば、「ほとんど何もなくなつた地球で、人間だけが人工的に欠乏を補った環境に細々と生きる」「孤愁の時代」がやって来る。
 実際には「地球の自動調節機構」によって、人間が住めなくなるか、人口の増加停止が生じるだろう。
 ラヴロック(J. Lovelock)の「筋書き」は、1.病原菌である人類の絶滅、2.慢性的地球汚染、3.宿主たる地球の破壊、4.地球(宿主)と人類(寄生動物)が「互恵関係を維持する共生」、だ。
 最もあり得るのは、1.に「いくぶんか脚色」を加えたものだ。「気候変動の副次的効果で、新しい病気が人口を抑制するとも考えられる」。「戦争の影響は計り知れない」。「生物化学兵器」、「遺伝子兵器」類が「人間社会の生命維持機構にあたえる打撃こそが深刻」だろう。
 モリソン(R. Morrison)はつぎのように言う。
「環境がもたらすストレスに、動物の多くはホルモンによって反応を制御し、栄養源が不足するとなれば新陳代謝をより効率のいい状態に切り替える。当然ながら、エネルギーを消耗する生殖行動は真っ先にその対象となる。<一文略>
 出産を打ち切って環境ストレスに対応する人間は動物一般と少しも変わらない。」
 「気候変動、新型の疾病、戦争の惨害、出生率の低下」等々の複合と「未知の要因」により、それ自体が「一過性の異常」である「人口爆発」は終息するだろう。
 「2150年までに生物圏は無事、ホモ・サピエンスがはびこる以前の状態に戻り、人口は5億から10億のあいだに落ち着くにちがいない」。
 第4節・人類はなぜ技術をもてあますのか。
 「『人類』は存在しない。ただ、矛盾する欲求と幻想に衝き動かされ、とかく不確かな意志と判断に左右される人間がいるだけである」。
 「技術」を手に負えなくしている原因は国家が多数に分かれていることではなく、「技術」を実現する「知識」それ自体は無償であることだ。「大量殺戮」目的の「新種ウイルス」開発に「莫大な資金、大規模な設備、最先端の機材」は必要がない。
 ビル・ジョイ(B. Joy)の言う「知識が招来する大量破壊の危険」という情況の責任の一端は国家にあるが、つまるところは「誤った政治の結果」ではなくて「知識の普及」による。
 「技術の管理は強制できない」。「遺伝子操作」は「戦争」に使われ得る。「政府の目が届かない…生物兵器」を防ぎようがない。「クローン人間」技術は「人間の理性や感情に乏しいか、まったく欠落した兵士」をいくらでも増殖させ得る。
 「ユダヤ人大虐殺」は「鉄道と、電信と、毒ガス」があって可能だった。スターリン・毛沢東の「強制労働収容所」には「近代的な輸送、通信手段」が必要だった。
 「そもそも技術は人類の手に負えない」。テレビ、インターネット…、「新しく登場した技術はとうてい人の理解がおよばないところまで生活様式を変える」。
 「道徳の深化が科学知識の発展に歩調を合わせられなかったこと」を嘆いても、無意味だ。
 「手段に罪はない。その手段をもてあそぶ人間にこそ問題がある」。
 「技術の進歩はひとつだけ未解決の問題を置き去りにする。すなわち、人間の弱さである。
 悲しいかな、こればかりはどうする術もない。」
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 第1章②へと、つづける。

2068/J・グレイ・わらの犬「序」(2003)③。

 政治思想・政治哲学研究者のジョン・グレイ(John Gray)は1948年生まれ。
 John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals は2002/2003年に刊行されている。原版は、54歳になる(なった)年だ。
 そして、2008年まではイギリスの大学教授(最後はロンドン大学)で、その年に引退するまでは講義や研究指導をしていたのだろう。
 それにしては、つまりそうした年齢や境遇からすれば、上記著書の内容は相当に驚くべきものだ。
 邦訳書に依拠すれば、巻末の最後の文章は、以下のとおり。一行ごとに改行する。
 「動物は、生きる目的を必要としない。
 ところが、人間は一種の動物でありながら、目的なしには生きられない。
 人生の目的は、ただ見ることだけだと考えたらいいではないか。
 J・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)、p.209。
 上の「見る」は、原文では see。
 最後の一文を直訳すると、<我々は、人生の目的について、たんに見ることだと、考えることはできないのか?>
 この「たんに見る」というのは、すでに「序」でも書かれているが、社会あるいは世界を「変革」しよう、「改善」しよう、「進歩」させよう、などと考える必要はない、あるいはそうしてはならない、ということを意味するだろうと思われる。
 静かに<見る>、<じっと黙想する>、それでよいではないか、と言いたいのだろう。
 こういう境地には、54歳くらいで、また現役の大学教授が、とくに「文科」系の研究者が、なかなかなれないのではないか。
 上に引用の文だけではなおも理解し難いようだが、脳科学者の茂木健一郎が標題を<生きて死ぬ私>とする書物を30歳代に刊行した、そのような心境に、政治・思想を扱う「文科」系人間でありながら、到達しているように見える。
 80歳を過ぎている日本の「知識人」らしき人物が、なおも<世俗感>・<現世感>丸出しの文章を雑誌に寄稿したり書物を出版しているのとは、大きく違っているだろう。
 もっとも、J・グレイには彼なりの<戦略>があったのかもしれず、そしてその意図どおりに、この著は種々の大きな<衝撃>を欧米の(少なくともイギリスの)「知的」世界に与えたらしい。
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 「序」は邦訳書で計6頁ほどしかなく、以下はこれまで紹介していない最後の部分を、ほとんど邦訳書に依らないで、抜粋的に「試訳」しておく。邦訳書ⅶ~ⅷ。
 「進歩という希望が幻想であるとすれば-つぎのように尋ねられるだろう-、我々はいかに生きるべきなのか?
 この疑問が前提にしているのは、世界を造り直す(remake)力を有していてのみ、人間は幸福に(well)生きることができる、ということだ。
 しかし、過去に生きたほとんどの人間はこれを信じ(believe)なかった。そして、大多数の人間は幸福(happy)に生きてきた。
 この疑問が前提にしているのはまた、人生の目的は行動だということだ。しかし、これは近現代(modern)の異端説だ。」
 プラトンは人間の最高の形態は「行動」だとしたが、同様の見方は「古代インド」にもあった。
 「人生の目的は世界を変革(change)することではない。世界を正しく見る(see rightly)ことだ」。//
 こうした考え方は「今日では破壊的な真実(subversive truth)」を示すものだ。「なぜならば、政治というものの空虚さをその意味に含んでいるからだ」。
 「優れた政治は卑劣であり当座凌ぎのものなので、21世紀の初めの世界には、失敗に終わったユートピアの瓦礫が山のように撒き散らされている。
 左翼は瀕死の状態にあり(moribund)、右翼がユートピア的空想の本拠になった。
 グローバルな共産主義のあとに続いたのは、グローバルな資本主義だった。。
 これら二つの未来像には、多くの共通するところがある。
 両者ともに醜怪で(hideous)、かつ幸いにして、荒唐無稽(chimerical)だ。」//
 「政治活動が救済(salvation)のための代用物になるに至っている。しかし、いかなる政策も、人間をその自然条件から救い上げる(deliver)ことはできない。
 いかに急進的であっても、政治的な諸方針はあくまで便宜的なものだ。-それらは、繰り返し出現する悪に対処するための穏健な方策にすぎない」。
 「人間は、世界を救済することができない。しかし、このことは絶望する理由にはならない。
 人間は、救済を必要としない。
 幸運にも(happily)、人間は決して、自分たちが造る世界に生きることはないだろう。
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 <わらの犬>の意味も含めて、別にこの書物の内容に論及したい。

2066/J・グレイ・わらの犬「序」(2003)②。

 ジョン・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)。
John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002/2003).
「序」のつづき。
 (1) ダーウィン・進化論(ガレリオ・地動説、ニュートン力学も?)がキリスト教世界・文化に対して与えた衝撃を実感として理解することはできない。
 ともあれ、J・グレイはダーウィニズムにこう言及しつつ、さらに、キリスト教→ヒューマニズムの歴史を語り、後者もまた「科学」ではなく「信仰」だと述べる。以下、邦訳書を参照しつつ、そのままには従っていない。
 ・本書は「新ダーウィニズムの思想(Neo-Darwinism orthodoxy)」が「人間という動物(human animal)に関する究極的な説明」だとはどこにも書いていない。支配的な「ヒューマニズムの世界観」を打破するために「戦略的」にダーウィニズムを使っているのだ。にもかかわらず、ヒューマニストたちは「進歩への信仰が今日に揺れ動いている」のを支えるためにダーウィンを用いている。しかしながら、彼が明らかにした世界には「進歩」はない。「真に自然主義の世界観は、世俗的な〔進歩という〕希望の余地を残していない」。
 ・19世紀初めに、Henri Saint-Simon とAuguste Comte が「人間中心教(Religion of Humanity)」を創始した。これが20世紀の「政治的宗教(political religion)」の原型となり、John Stuart Mill に強い影響を与え、「リベラリズムを今日の世俗的信条(secular creed)にした」。また、Karl Marx への影響を通じて「科学的社会主義」の形成を助けた。
 ・「ヒューマニズムは科学ではなく、宗教(religion)である。-人間はこれまでに生きてきたいずれよりも世界をより良く造ることができる、というキリスト教以降の信仰(faith)である。」
 (2) つぎにJ・グレイが言及するのは、ヒューマニズムという「進歩への信仰」のもう一つの淵源(source)としての「知」=「知識(knowledge)」だ。
 ・「科学では、知識の増大は蓄積していく。しかし、人間の生活全体は、蓄積していく活動ではない。ある一つの世代が獲得したものは、つぎの世代には失われるかもしれない。」
 ・「科学では、知識は純然たる善き(good)ものだ。しかし、倫理や政治では、知識は善であるとともに悪(bad)でもある。
 ・「進歩という観念が依拠するのは、知識の増大と種の進化は相伴っている、という信念(belief, 邦訳書では適切に「思い込み」)である」。
 ・「知識は、我々を自由にはしない。知識は我々を、これまでつねにそうだったような、あらゆる種類の愚行の餌食にしたままだ」。
 (3) このような「知識」論は、秋月瑛二の最近の関心を大きく刺激するところがある。
 「知識」は無条件に良いものではない。「知識の増大」=「進化」・「進歩」ではない。
 つまり「良い」必要な知識も「悪い」不要な知識もある。
 にもかかわらず、「知識」ないし「知」がほとんど無条件に良いものだと考えられているのは、いったい何故なのだろうか。
 「知識人」それ自体で<えらい>わけでは全くない。良質の「知識人」もいれば、悪辣で犯罪的な「知識人」もいる。
 にもかかわらず、「知識人」というだけで<立派な>人間だというイメージ・「思い込み」が生じているようであるのは、いったい何故なのだろうか。
 「知識」をほとんど対象とするのが、高校入学試験、大学入学試験、種々の国家試験類(公務員試験・司法試験等々)だ。これらに合格して特定の「大学」生等々の<資格>を得ること自体は、まだ善か悪か、<えらい>か否か、<立派>か否かを決するものでは全くない。
 にもかかわらず、「知識」の有無・多寡によって<全人格>までが決せられるようなイメージがある程度は相当に生じているようであるのは、いったい何故か。
 これは、<学歴>一般のほか<国家公務員最上級職>とか<弁護士>とかの資格の評価に関連する。
 「知」・「知識」の重視、これは少なくとも明治期日本以降には<伝統>になった、と思われる。
 日本国憲法もまた<リベラル・ヒューマニズム>の系列・流れの中にある。
 J・グレイによれば、憲法もまた一つの「宗教」・「信仰」あるいは「仮構」・「虚構」ではある。この点も、私にはよく分かる。
 そしてまた、<リベラル・ヒューマニズム>あるいは「近代啓蒙主義」は「知識」=「善」・「進歩(に役立つもの)」と理解したと考えられるが、これもまた「宗教」・「信仰」・「仮構」・「虚構」だろう。
 「知識」は生命体たる人間の、あるいは人間の脳内の一定部位や一定の仕組みが持つ、一定の側面にすぎない。
 「学歴」意識の虚妄と「学歴」意識の無惨・悲惨。
(つづく)
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2065/J・グレイ・わらの犬「序」(2003)①。

 ジョン・グレイ(John Gray, 1948~)というイギリスの政治・社会思想家(・研究者)の文章を少し読み始めている。
 ジョン・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)。
 この中の「ペーパーバック版序」は2003年に書かれているが、なかなかに興味深い、刺激的な内容を含んでいる。
 本文を読まない、「序言」・「後記」のみ読者の弊害に陥らないで、全体を読んでみたいものだ。しかし、興味深いのでここで論及する。
 原書は2002年刊行で、邦訳書の対象であるPaperback 版は2003年に出たようだ。原書の原題は、つぎのとおり。
 John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002/2003).
 原書の英語(とくに単語)も参照しつつ、「序」に言及する。なお、Paperback 版の元の原書には「Foreword〔序〕」はなかったようだ。
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 J・グレイがこの著で主張したいことは、上の「序」によると、簡単には、以下に対する反抗、あるいは以下のものの「否定」、「消極視」だ。
 すなわち、「リベラル・ヒューマニズム」、あるいはたんに「ヒューマニズム」、「人間中心主義」。
 この文章には出てきていない言葉・概念ではあるが、グレイの意味する「リベラル・ヒューマニズム」、「ヒューマニズム」、「人間中心主義」とは、<近代>あるいは<(近代)啓蒙主義>あるいは<近現代の「科学」主義>であるように思える。
 あるいは、彼が反抗?しているのは「近代進歩主義」または「進歩」という観念自体だ。
 冒頭に、「思想家の不用意な謬見」を「論破」するのが本書の趣意だと明言したあと、つぎのように書いている。原文を参照して、一部またはかなり、邦訳書の訳を変更する。
 ・「リベラル・ヒューマニズム(liberal-humanism)」はかつての「啓示宗教」に劣らず「広く一般に浸透」し、ヒューマニストたち(Humanists)は「理性的(rational)な世界観」を「標榜」している。
 ・しかし、「その核心をなす進歩信仰(belief in progress)」は、いかなる宗教よりもなお、「人間という動物(human animal)の真実」〔邦訳書では、「生き物である人間の本然」〕から遠く離れた「迷信(superstition)」である。
 これと同じ主旨が繰り返し、かつより詳細にまたは具体的に語られている。しばらく追ってみよう。原文を参照して、一部は邦訳書の訳を変更する。
 ・「科学」の分野は別として「進歩とはたんに神話(myth)にすぎない」と原書が主張したので一部の読者は激高し、「リベラルな社会への忠誠という中心的項目を誰も疑問視することができない」、「それなくしては、我々は絶望的だろう」と言った。しかし、彼らは「進歩的希望(progressive hope)」という「虫の食った旗印」に縋りついている。
 ・「宗教界の思想家たち」はもっと自由に考えている。一方で「世俗の信仰者たち(believers)」は、「時流の在来的知識にとらわれて、検証されていないドグマの捕囚になっている」〔これは一般の思想家・哲学者のこと〕。
 つぎに、最近にこの欄に「自由」する西尾幹二著とも関連させて論及した<自由意思>に、J・グレイは説き及ぶ。
 ・現在の「主流の世俗的世界観は、当今の科学正統派と敬虔な希望を混合したもの」だ。ダーウィンは人間は動物だとしたが、「ヒューマニストたち」は「他のどの動物とも違って」、「我々は我々が選択するように生きる自由がある」と説教する。
 ・しかし、「自由意思(free will)という観念は、科学に由来するものではない」。「自由意思」の起源は、彼らが揃って罵倒する宗教・「キリスト教信仰」にある。「人間は、自由意思を持つことによって他の動物いっさいと区別される、という信念は、キリスト教から継承したものである」。
 ・ダーウィンの進化論はインド、中国、アフリカで唱道されたならば、欧米でのような「論議の的」(scandal)にならなかっただろう。「キリスト教以降(post-Christian)の文化でのみ」、「科学的決定論」と「自分の生き方を選ぶ人間に特有の能力」とを調和させようとする「哲学者たち」の努力が見られた。「確信的ダーウィニズムが皮肉であるのは、哲学者たちが宗教に由来する人間性という見方を支持するために、それ〔ダーウィニズム〕を援用している、ということだ」。
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 まだ「序」の1/3も終わっておらず、つづける。
 最後の方に、グレイのこんな文章がある(邦訳書による)。一文ずつ改行する。
 「21世紀を迎えた世界は、…失敗に終わったユートピアの瓦礫の山である。
 左翼は息も絶えだえで、右翼がユートピア思想の本家となり、世界資本主義が世界共産主義に取って代わった。
 この二つの未来像には共通するところ少なくない。
 ともに醜怪この上なく、幸いにして、荒唐無稽である。
 欧米または<キリスト教(を継承した)諸国・社会>との違いもやはり関心を惹くが、日本にも当てはまるだろうという意味で「普遍的な」テーマが提示されているだろう。
 近代・啓蒙・近代「科学」・近代「思想」-これらと現代日本・日本人。
 ヒト・人間と「科学」・思想・宗教。
 J・グレイが合理主義・理性主義(またはヒューマニズム・リベラル)に対して懐疑的・批判的であるのは、日本での本来の「保守」におそらく近いだろう。
 しかし、おそらくはという推測になるのだが、J・グレイは、日本の「いわゆる保守派」とは異なる。
 人間中心ではなく、「自然との共生」とか「環境の保護」とかくらいは(持続可能な社会等とともに)、<容共・左翼>でも主張しているだろう。
 また、日本の「いわゆる保守派」も、人間は「自然の一部」だとか「自然」を畏怖してきた日本人等々とか叙述しているかもしれない。
 しかし、これまた全体を読まないでの推測になるが、J・グレイが主張したいことは、人間が「自然」の一部であることは当然で、かつ犬・猫等々の他の動物・生物と<本質的に>変わるところはない、それらと十分に共通性がある、ということだろうと思われる。 そして、そのことを十分に意識して思考し、議論しなければならない、ということだろう。
 この欄で比較的最近に、私の理解として<ヒト・人間の本性>(の認識・重視)という言葉を使うことがある。上がJ・グレイの主張したいことなのだとすると、かなり共通性がある。
 そして、考える。例えば、<日本精神>、<日本人のこころ>が日本人に自然に「継承」されているかのごとき見解・主張は、<ヒト・人間の本性>に反している。
 なぜならば、人間の生後の獲得形質は「遺伝」の対象にはならないのであって、日本人だから<日本精神>、<日本人のこころ>を受け継いでいる、というのは、人間の本性と学問的にも反する、反科学の「迷信」ごときものにすぎない。
 江崎道朗が6世紀の「保守自由主義」なるものが19世紀に「受け継がれた」とか叙述するのも、荒唐無稽な、日本人を含む<ヒト・人間の本性>に全く反する血迷いごとだ。
 せいぜい<こうあってほしい>という願望で、正確には、<政治的プロパガンダ>の虚言だ。
 J・グレイは「右翼がユートピア思想の本家となり…」と語るが、日本の「右翼」はまともな「ユートピア」像すら示すことができていない。
 ともあれ、さらに次回へ。
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