ダマシオの「自己」理論についての浅野孝雄の叙述のつづき。
 浅野孝雄=藤田晢也・プシューケーの脳科学(産業図書、2010)。p.196以下。 
 三 C 自伝的自己(歴史的自己)
 「新しい経験」はすでに蓄積された記憶に追加され、「記憶」は「一つのニューラル・パターンとして再活性化」され、必要に応じて「イメージとして意識に、あるいは意識下に」表象される。
 こうして生起した「中核意識」において、「中核自己と結びついた記憶の総体との結びつき」が生まれ、その「結びつきが確立・統合」されて、人は「ある程度の不変性・自律性を有する人格(パーソナリティ)」を獲得する。
 獲得するこれが、「自伝的(歴史的)自己」だ。
 つまり、「過去における個体の経験」と「未来において期待される経験の内容」とが「内示的・外示的記憶として蓄積」されることにより、「自伝的(歴史的)自己」が形成される。
 「自伝的自己」は、「生涯のでき事を通じて形成された自己のイメージ」、つまり「ある時点について固定化された陳述記憶と手続き記憶の体系」だ。それは、「自分とは、かくかくの人間である」というような「意識の中に客体化された自己についての観念」だ。
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 このあとに、印象深いとしてすでに紹介した文章がある。
 「しかし記憶は、過去の事実についての必ずしも正確ではない記憶・想像・欲求などが混じりあって形成されたものであるから、選択された陳述記憶から成る自伝的自己とは、脳が自ら作り上げたフィクションにすぎない」。
 「人間の栄光と惨めさ、喜劇と悲劇は、フィクションである自伝的自己への固執から生じる」。
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 四 さて、<原自己>・<中核自己>・<自伝的自己>の三区別とそれらの発展?に関する叙述から、さしあたり、シロウトでもつぎのように語ることができるだろう。
 ①「胎児」もまた、専門知識がないからその時期に論及できないが、いつの時点からか、<原自己>を(無意識に)有している。「自己」を「わたし」と言い換えれば、「胎児」にもいつかの時点以降、「わたし」がある
 ②人間が生誕して、いわゆる<ものごころ>がつく頃、おそらくは「自分」と他者(生物、いぬ・ネコを含む)の区別を知り、「自分」が呼ばれれば反応することができる頃—それは何らかの欲求・感情を表現する「言葉」を覚えた頃にはすでに生じていると思われるが—、<中核自己>は成立している
 ③<中核自己>が「思い出」をすでに持つようになる頃からいわゆる「思春期」にかけて、<自伝的自己>が形成される。むろん、その後もつねに継続して、<自伝的自己>の内容は、(同じ部分を残すとともに)新しい「経験」・「記憶」・「予測」等々によって、変化していく。
 こう考えることができるとすると、「わたし」=自己というものを単一に把握することは決定的に誤りだと気づく。また、単純に「原自己」が後二者へと移行するのではない。成人になっても、<自伝的自己>の根元には(これまた変化している)<原自己>がある。
 こうしたことは、「発達科学」あるいは<子ども>の成長に関する諸研究分野において当然のことを、別の言葉で表現しているのかもしれない。
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 ところで、「わたし」とはいちおう別のレベルの問題だと思われるが、浅野によると、ダマシオは、「拡張意識」や「アイデンティティ」等の言葉を用いて、その「意識」理論をさらに展開しているようだ。興味深いので、さらに別の回に扱う。