秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

ねじれ国会

0499/大衆民主主義とマスコミ-飯田経夫・日本の反省(PHP新書)等。

 飯田経夫・日本の反省-「豊かさ」は終わったのか(PHP新書、1996)の第三章「ケインズ経済の落とし穴」(p.63~95)だけを読了。
 まず、1950年頃の「成長」論争に関して、(おそらくはマルクス経済学主流の)<日本(経済)はダメだ>との「日本の知識人に固有なマゾヒズム」に対して、政府の需要抑制策は不要とし高度成長を予測した「下村治理論」が「ひとつの強力なアンチテーゼ」で、事実は後者のとおりになった、との叙述が興味深い。
 つぎに、経済(財政・金融)政策につき「(大衆)民主主義」との関連を
述べるところがきわめて面白い。
 ・大衆=「選挙民」は「つねに近視眼的」で「遠い未来」よりは「目先のこと」を重視するので、財政支出の増加・減少については前者を歓迎し後者を忌避する、増税・減税については前者を忌避し後者を歓迎する。かくして「財政支出はとかく膨らみがち」で「税収はとかく不足がち」になる。
 ・これは「民主主義政治の永遠のディレンマ」で、①「福祉国家」論と②財政による介入を是認するケインズ経済学という「悪条件」がさらに加わった。
 ・国民は「受益」の最大化と「負担」の極小化を望む。これは換言すれば「ただ乗り」・政府からの「タカリ」を指向することだ。
 ・「(大衆)民主主義を否定するつもりは毛頭ないが、それにもかかわらず、(大衆)民主主義とは、ほんとうに困ったもの、ひどいものだと思う。この認識を片時も忘れないことが、現代の理解にとって必須」だ。
 以上、しごく当然の指摘だ。(大衆)民主主義のもとで国会議員が選出されるとなれば、財政負担についての<正しい>理論・政策の主張者よりも「つねに近視眼的」で「遠い未来」よりは「目先のこと」を重視した<財政支出(給付)の増大・負担の減少(減税)>政策の主張者の方がより容易に当選することとなり、そうした国会議員が政府の経済政策を決定する(又は決定的な影響を与える)のだ。
 短い文章だが、選挙の結果=<民意>を最大限の価値をもつものとし、<誤っていても尊重すべき>等と堂々と?主張していた、<単純・素朴・幼稚な民主主義者>には是非読んでほしいものだ。
 また、福田内閣の支持率低下の原因が<もっぱら>ガソリン代再値上げという目に見える(分かりやすい)金銭的負担の増大にあるのではないこと、民主党の支持率が上がっている(とすれば)、その原因が<もっぱら>財源・負担に言及しないで<(ばらまき)給付=財政支出>政策を主張していることにあるのではないこと、を願うばかりだ。現在は民主党の小沢一郎は、有権者の<劣情>を刺激して<支持率>を高め、<票>を掠め取る戦術に長けているように見えるから。
 1989年参議院選挙で日本社会党が躍進し(これは今日の参院構成にも影響を与えている)、土井たか子が<ダメなものはダメ>・<山が動いた>とか言ったのは、<消費税導入反対>の主張によっていた、ということも思い出した。
 飯田経夫はまた、「失業と餓えの恐怖」がなくなったために「不平不満・うらみつらみ」を述べ、吐き出す「余裕」が出てきた旨も書いている。明瞭に述べてはいないが、<より豊かな者>・<より力をもつ者>に対する(戦後教育も助長したと見られる)「平等主義」の観点からの「不平不満・うらみつらみ」は、容易に選挙の際の<投票>行動へと結実もしただろう。
 「不平不満・うらみつらみ」に支えられた<大衆民主主義>。まさに、飯田とともに、「否定するつもりは毛頭ないが、ほんとうに困ったもの、ひどいものだと思う」。
 さて、かかる大衆民主主義において大衆の「不平不満・うらみつらみ」を高めたり煽ったりするのは、決定的に、マスメディア、とりわけテレビと一般新聞だろう。1年前の政治家「事務所経費」問題は、いったい何の騒ぎだったのか?
 <国民主権>の国家ならば、政府や官僚に失態・失策があったとしてもその最終的な責任を負うべきは<国民>の筈だ。「ねじれ国会」が国家・国民のためになっていないとすれば、その最終的責任は「ねじれ国会」を現出させた<国民>自体にある。より正確には、2005年衆院選挙と2007年参院選挙とで異なる投票行動をとった、多くても数十%の有権者国民にある(余計ながら、新しいほど「民意」に近いとは実際上は言えないと思われる)。
 マスコミがそうした「国民」の側に立つことをしばしば明言し、「国家」・「政府」を監視することを役目と考えているならば、政府や官僚の失態・失策についてもマスコミ自身が<責任>を感じなければならないのは当然だ。<国民>の世論を適切に誘導・形成することに失敗すれば、あるいは政府や官僚の失態・失策を防止できなかったとすれば、そのかなりの部分の責任はマスコミ(とくに大マスコミ、テレビ局・有力一般新聞)にこそある。そのような自覚と責任感を現代日本のマスコミ関係者はもっているだろうか。
 この点でも、産経新聞5/08阿川尚之「正論-『マスコミの常識』は非常識」は、ほとんど首肯できる。
 「特ダネ、視聴率、締切といったことばかりにエネルギーを注ぎがち」。「不祥事の疑いがあるだげで、会社や役所の責任者に記者会見で居丈高な物言いをする」。「テレビのワイドショーやニュースで、無責任かつ根拠のないコメントをする」。「誤報を流しても簡単な訂正で済ませる」(この最後のものは、<誤報を流しても、訂正しないで開き直ることもある>の方がより正確だろう)。
 「報道ステーションの某など、基本的知識の欠如、大仰な言葉や身振りばかり目立ち、見るに堪えない。横に坐るジャーナリストは恥ずかしくないだろうか」(恥ずかしいという感覚は朝日新聞の者にはない。某と同レベルではないか)。
 「マスコミは…非常識を衝くのを商売にしていながら、自らの非常識が問われることが少ない」。
 マスコミ関係者は自分たちの影響力を自覚していないふうに思えるときもあるが、その<力>に、身の震える想いをもって仕事をすべきだろう。また、阿川が指摘するように、「内容など気にせず、広告の効果のみを基準に番組を提供する企業の責任は重い」。 

0490/「政治謀略」新聞・朝日と現憲法九条二項。

 朝日新聞(社)が<政治運動>団体であるのは明瞭だが、読売新聞や産経新聞もまた<政治的>主張をしており、その<政治>性だけでは、他の新聞社と区別し難い。そこで、<謀略を使った政治活動をする新聞>という意味で、朝日新聞のことを、今後、「政治謀略」新聞・朝日と称することにする。
 ごく最近でも、映画「靖国」に対して自民党国会議員・稲田朋美が「圧力」を加えたがために上映中止映画館が出てきたとのイメージをばら撒く「政治謀略」報道をした。また、5年前には、そもそもが自社の本田雅和と民間<市民>団体(とくにその役員・朝日出身の松井やより)との「距離の近さ」をこそ問題にすべきだった事例にもかかわらず、安倍晋三・中川昭一という政治家がNHKに「圧力」を加えたとの捏造報道をし、それが断定し難くなるや、政治家とNHKの「距離の近さ」に問題をすり替えたりして、結局は、安倍晋三・中川昭一が何か圧力的行為をして<関与>したらしいというイメージをばら撒く「政治謀略」も行った。
 そういう新聞社が行う世論調査の数字がいかほど正確なのかは疑問だが(いかようにでも操作できるし、朝日なら操作するだろう)、5/03朝刊は憲法九条改正反対が66%との大きな見出しを打った(少し読めば憲法全体について改憲か現在のままかでいうと改憲派の数字の方が多い)。朝日新聞だから<誇らしげ>でもある。
 この数字や「政治謀略」新聞・朝日の記事を見ていて思ったのは、では、現在ある自衛隊と憲法九条との関係を国民は、そして朝日新聞はどう理解しているのだろうか、ということだった。<現在の自衛隊は憲法九条(二項)に違反すると思いますか思いませんか>という問いを発して回答を得ないと、憲法九条(二項)問題についての世論調査は完結したものにならないだろう(他に日米安保条約・米軍駐留の合憲性という問題もあるが、以下では触れない)。
 憲法九条二項は「…、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と明記する。自衛隊は、素直に又は常識的に判断して、「陸海空軍その他の戦力」ではないのか? だとすると、現在の自衛隊は違憲の存在で、<九条を実現する>ためには、自衛隊を廃止するか、合憲の範囲内のものへとその「武力」を削減しなければならない。自衛隊の存在自体が違憲なら、それのイラクへの派遣が違憲であることは論じるまでもなくなる。
 しかるに、朝日新聞はこの点を曖昧にしたままだ。自衛隊は違憲と判断しているなら、なぜ、その廃止又は縮減を堂々と主張しないのか? 「日本国憲法―現実を変える手段として」という見出しの5/03社説を書くのなら、「現実を変える」ために、自衛隊の廃止・縮減をなぜ主張しないのか? それとも、現在の自衛隊は合憲だ(=「陸海空軍その他の戦力」ではない)と判断しているのか? これを曖昧にしたまま、九条二項の条文だけは改正させない、というのが朝日新聞の主張ならば、それは<謀略性>を隠した幼稚なものだ。
 東京大学元教授の樋口陽一は、<現実を変えないという発想が現在では「現実的」>旨の驚くべき(九条)護持論を述べ、東京大学現教授の長谷部恭男は<解釈改憲ですでに済んでいるのにあえて条文改正する必要はない>旨のこれまた驚くべき主張をしている。
 「政治謀略」新聞・朝日は、これらの呆れた九条護持論に乗っかっているのだろうか。
 このような、現在の自衛隊は合憲と判断した上での(呆れた)九条護持論に立っているのだとすると、九条(とくに二項)が改正されれば(二項が廃止されて自衛隊が自衛軍・国軍だと正式に認知されれば)戦争になる、というのはとんでもないマヤカシの議論だということが明確になる。<九条が改正されても戦争にならないと思っている人へ>などとの一般国民の無知・知識不足につけ込んだ謀略的宣伝が犯罪的なデマであることが明瞭になる。
 自衛隊は実質的にはすでに「…その他の戦力」なので、それを自衛軍・防衛軍・国軍等と何と称しようと、その本質が変わるわけではない、と考えられる。集団的自衛権の問題には立ち入らないが、<自衛・防衛>のためにのみ戦争又は交戦できることに変わりはない(そのような「正しい」戦争はある)。また、九条二項が改正されなくとも実質的には「戦争」は発生しうるのであり、現在まで直接に自衛隊と日本国家が「戦争」に巻き込まれていないのは九条二項があるためでは全くない。核兵器をもつ米国軍が日本に駐留していて、他国が日本に対する<侵略>戦争を仕掛けられないためだ。
 九条二項を改正して、自衛隊を正規の自衛軍・防衛軍・国軍と認知すべきだ。<大ウソ>をつき続けるのはいい加減に止めなくてはならない。自衛隊を正確に軍隊と位置づければ戦争の危険が増大するなどというのは、とんでもない妄言で、<日本には「軍隊」はない>という<大ウソ>に満足して現実をリアルに認識しようとしない観念主義者、「軍隊」はないのだから「戦争」も起こりえないと考える<言霊>主義者だろう。
 日本に<自衛>・<防衛>のための正規軍を持たせず、有事の際には個々の国民の(竹槍でも持った?)ゲリラ的抵抗に委ねる、などという発想は、それこそ国民の「平和に生存する」権利・「安全」権を国家が保障することを妨げるものだ(日本「軍」は<侵略>しかしないと考えるような反日本主義者・自虐者とは、議論がそもそも成立しない)。
 朝日5/03の記事の中で辻井喬(作家、西武グループの経営者)が「徴兵制、海外派兵」等(もう一つは「侵略戦争」だったか?)の三つの禁止を明記することも考えられるとか語っていた。この発言は現二項を前提とする(改正しないままの)ものだろうか、それとも自衛隊の「軍」としての認知を前提とする発言なのだろうか。たぶん前者なのだろう(辻井喬は九条の会賛同者の一人だ)。だが、「徴兵制、海外派兵」(「侵略戦争」も?)のように「兵」(「戦争」も?)という言葉を使っており、これは自衛隊が少なくとも実質的には「軍隊」であることを肯定している用語法だと考えられる。
 九条二項の改正によって自衛隊の自衛・防衛「軍」として正式に認知することには反対しつつ、一方では自衛隊が「軍」であることを前提とするが如き「徴兵制、海外派兵」等の概念を用いることは自家撞着だと、(言葉には繊細なはずの)辻井喬は感じないのだろうか。
 同じことは、朝日新聞にも、九条(二項)改正に反対しつつ、現在の自衛隊は合憲だと考えている人々にも言える。
 戦後の<大ウソ>(の重要な一つ)を改めないといけない。政府や大マスコミが<大ウソ>をつき続けて、子どもたちに<ウソをついてはいけない>と教育できる筈がない。
 それにしても、「政治謀略」新聞・朝日の、憲法九条をめぐる観念遊戯・言葉遊びぶりは顕著だ。5/03社説の最後に「一本調子の改憲論、とりわけ自衛隊を軍にすべきだといった主張」という表現をして批判しているが、「自衛隊を軍に」することによって、いかなる<悪い>変化が生じると考えているのか、具体的にきちんと述べるべきだろう。現在の自衛隊が合憲と考えているなら、「自衛隊を軍に」しても実質的・本質的には変わりはない(集団自衛権、国際協力については別に論ずべき点があるだろうが、基本的には異ならない)。少なくとも<悪い>方向に変わることはありえない(「軍」としての法的整備をすればイージス艦衝突事故は避けられ、海外で被害を受ける日本国民の「武力」救出等も可能になるとすればむしろ<よい>方向への変化が生じる)。一方、朝日が現在の自衛隊は違憲と考えているなら、上記のとおり、その廃止・縮減を堂々と主張すべきだ。
 朝日新聞は、重要なポイントを意識的に誤魔化しているように思われる。意識的にではないとすれば、言葉・観念の世界に酔っている<アホ>だ
 現憲法の条項のままだと、現在のような<ねじれ国会>のもとでは(与野党の調整・協議が功を奏さず、対立したままであるかぎり)一部以外の法律は全く成立しない(国会が立法できない)、という異様な状況が現出する。この問題に触れて、読売新聞5/03紙上の座談会では2人が、衆議院による再可決の要件を2/3から1/2に改正すべきとの発言をしている。このような、現実的な議論は朝日新聞紙上には見られなかったようだ(むしろ衆議院の地位を高めることに反対の世論の方が多いと報道していたが、現状をきちんと把握したうえで質問し回答しているのか極めて疑わしい)。
 「政治謀略」新聞・朝日<言葉・観念遊戯>新聞・朝日、がある程度の影響力をもち続けるかぎり、日本の将来は暗い。朝日新聞だけを読んでいる国民は現実を正しく又は適切に把握することができない。この旨を、今後も何度でも繰り返すだろう。

0384/読売新聞も<寝呆けて>いないか。

 時機遅れだが、書いておく。
 読売新聞1/08(2008)社説は、「『ねじれ』が生む政治の停滞」との副見出しを打ち、国会のいわゆる「ねじれ」のために「今日の日本政治の停滞は深刻」になつており、「国としての意思決定を困難にしている」と憂いている(そして、「連立」の追求が必要との結論に繋げていっている)。
 「連立」うんぬんはともかくとして、不思議に思うのは、同じことだが腑に落ちないのは、次のことだ。すなわち、読売新聞もまた「ねじれ」国会の誕生、つまり昨年参院選での自民党「敗北」に(少なくとも客観的には)加担していた、にもかかわらず、今ごろになって「ねじれ」を憂う資格がそもそもあるのか
 昨年参院選直後(7/30)の私の文章の一部を引用する。
 <読売新聞はどうだったか。投票日7/29の1面左には橋本五郎・特別編集委員の「拝啓有権者の皆さんへ」を載せていちおうまともなことを言わせている。社説も朝日に比べればはるかに良い。だが、1面右を見て唖然とする。大きく「参院選きょう投開票」とあるのは当然だろうが、そのすぐ右に白ヌキで大きく「年金」「格差」「政治とカネ」と謳っているのだ。これをこの三つが(最大の)争点なのだと(読売は考えている)と理解しない読者がいるだろうか。
 橋本五郎が何を書こうと、社説で何を主張しようと、文章をじっくりと読む読者と、1面は見出しを眺めた程度の読者とどちらが多かっただろうか。少なくとも過半は、「参院選きょう投開票」のすぐ右に白ヌキの「年金」「格差」「政治とカネ」の三つの言葉のみを見たかそれの方に影響を受けたのではないかと思われる。そして、読売新聞の読者でも民主党に投票した者は相当数に上るだろう。
 読売は7/30社説で「国政の混迷は許されない」と主張している。読売の社説子や論説委員に尋ねてみたいものだが、読売新聞自体が「国政の混迷」を生み出すような、少なくともそれを阻止する意図のない、紙面づくりをしたのではないか。もう一度書くが、投票日の読売の1面最右端の見出し文字は白ヌキの「年金」「格差」「政治とカネ」の三つの言葉だったのだ。
 よくもまぁ翌日になって、「国政の混迷は許されない」などと説教を垂れることができるものだ、という気がする。
 読売は、いったい何を考えているのか。官僚界・一部知識人を通じて<反安倍>気分が少しは入っているのではなかろうか。何と言っても1000万部を誇る新聞紙だ、その影響力は大きいと思うが、結果としては、朝日新聞と似たような役割を(少なくともかなりの程度は)果たしてしまったのではないか。この新聞社が安倍内閣をどう位置づけ・評価し、日本国家・社会をどういう方向に持って行きたいと考えているのか、私には、少なくとも極めて分かりにくかった。まっとうな<保守>路線と<大衆迎合>路線とが奇妙に同居しているのではないか。>
 以上。朝日新聞(社)が先頭に立って選挙前の<反安倍(反自民)報道>に狂奔したのだったが、読売新聞もまた客観的にはその片棒の一つくらいは担いでいたのではないのか。
 これまたすでに書いたことだが(昨年8/01)、読売新聞7/31夕刊の読売新聞編集委員・河野博子のコラムによっても上のような印象は弱まるどころか逆に強まった。この人は、次のように書いたのだ。参院選の結果の肯定的評価を前提としていたことは明らかだと思われる。
 <「有権者の投票」という「アクション」が「自民党大敗をもたらした」。「年金、政治と金の問題、閣僚の問題発言に、国民は肌で「これはおかしい」と感じ、反応した。頂点に達した不信がはっきりした形で示された」。これをどう今後に生かすかが問題で簡単ではないが、「しかし、信じたい。人びとのアクションの積み重ねが世の中を、一つ、一つ変えていくのだ、と」。>
 さらに指摘すれば、これまた産経報道に依って書いたように(昨年12/29)、昨年参院選2日後の7月31日に、読売グループ代表・渡辺恒雄と氏家斉一郎・日テレ取締役会議長が「招集」して、山崎拓、加藤紘一、古賀誠、津島雄二の計6人が「ひそかに集結」し、「早々に安倍を退陣させ、次期総裁に福田康夫を擁立する方針を確認した」、という。
 もともと安倍ではなく福田を支持していたという渡辺恒雄のこうした動きを前提にすると、読売は、昨年の参院選で安倍・自民党が<敗北してもかまわない>という基本スタンスだった、と疑われてもやむをえないのではないか。
 上の<敗北>が自民党の過半数割れ、さらには参院での民主党の第一党化まで見越していたとはむろん断言できない。だが、読売の上のような基本スタンスもまた、参院での民主党の第一党化を伴う自民党敗北の原因になったのではないか。
 以上、断片的に記したのみだが、<ねじれ>を後になってから嘆き、憂うのであれば、その方向で、つまり<ねじれ>が生じないような方向で昨年の参院選に関して報道しなければならなかったのではないか。そのような報道ぶりを読売は昨年6~7月にしたのか。朝日新聞とは対照的な、冷静で客観的な報道ぶりをしたのか。朝日新聞の狂乱ぶりを断固として批判し、「国としてなすべき意思決定を困難」にしないような報道をしたのか。
 <ねじれ>を嘆き<連立の追求を>などと後になってから主張するのでは、それこそ時機遅れというものだろう。
 マスコミ(マスメディア)と政治・民主主義(>選挙)の関係についてはまた別の機会にも書くが、以下に一つだけ要約して紹介しておく。
 小林よしのり責任編集・わしズム25号(2008「冬」-2/29)号の佐伯啓思「どうでもよいことだけが政治家も大衆も動かすデマゴギーの時代」は、昨年参院選について、こう書いている(p.77-78)。
 民主党も朝日新聞等のマスメディアも「戦後レジーム」を問題にしたくなく、「消えた年金」・「政治と金」等に飛びつき、本筋から大きく逸脱した「どうでもよいこと」が選挙を動かした。さらにいえば、「民主党も朝日新聞も」大衆を扇動したというより、大衆には「戦後レジームからの脱却」という大問題に関心がなく、彼ら(民主党・朝日新聞)は「大衆の好奇心に寄り添い、大衆が求めるものを提示しただけともいえる」。かくして、「マスメディアと大衆」の共同作業として「安倍おろし」が「民意」となった。/「民主政は大衆化するほど、それ自体が『デマゴーグ的なもの』へと流れてゆく」。「大衆はデマゴーグを求めている。この構造をうまく利用したものが…即席のデマゴーグになる」。…
 読売新聞(社)には、「大衆の好奇心に寄り添い、大衆が求めるものを提示しただけ」ではなかった、と言い切る自信があるだろうか読売新聞(社)は、「デマゴーグ」ではないし、かつ「デマゴーグ」を助ける報道ぶりを一切しなかった、と自らに誇りを持って断言できるのだろうか
 朝日新聞については、殆ど諦めている(〇〇は死ななきゃ治らない)。読売新聞にはまだ期待するところがあるので、あえて苦言を呈する。

0362/朝日新聞-日本共産党とともに陰鬱にさせる最たるもの。

 朝日新聞若宮啓文が<ジャーナリズムはナショナリズムの道具じゃないんだ>との奇妙な叫び声を紙上に載せたのはほぼ一年前だった(2006年の12/25)。
 これについて、全文を紹介をしつつすでにコメントしたことがある。
 自分の文ながら、一部を引用すると、「日本人ではない「無国籍」者であることの宣言だ」。この「言明が適切だとしても、次のようにも語って貰いたい。『ジャーナリズムは左翼運動の道具ではないのだ』、『マルクス主義及びその亜流の道具ではないのだ』、『空想的・観念的平和主義の道具ではないのだ』、『国家を忘れた地球環境主義の道具ではないのだ』、『フェミニズム(又はジェンダー・フリー運動)の道具ではないのだ』。これらのどこに誤りがあるだろうか。若宮さんは、何故、なぜ「ナショナリズム」のみを問題にするのか。返答できるなら返答してみなさい」。
 むろん返答はなく、若宮啓文らはその後、安倍「右派」政権打倒のために狂奔した。
 さて、山際澄夫・これでも朝日新聞を読みますか?(ワック、2007.12)。
 読了はしていないが、たぶんほとんどのことは知っており、かつほとんどの指摘・主張に異論はないだろう。
 まえがきp.2にこうある。
 「全面講和論の主張に始まって、非武装中立、日米安保反対、毛沢東の文化大革命礼賛、湾岸戦争時への後方支援妨害、自衛隊のPKO派遣反対、教科書改ざん協力、靖国参拝の政治問題化、北朝鮮拉致の無視――等々、戦後のマスメディアの誤謬を一社で代表してきた観さえある」。
 月刊Will2008年2月号(2007.12発売)の本郷美則による朝日ウォッチの連載記事にはこうある(p.141)。
 「…「ねじれ国会」によって国際公約を頓挫させ、国会に機能不全をもたらした」のは、戦後「レジームの恩恵を貪って、数多の利権をほしいままにしてきた新聞界と役人集団」、そして「国外では、日本の弱体化をしつこく画策している『ネオコミンテルン』の勢力」だ。
 「人権を顧みぬ全体主義と、独裁が支えの『革命』を夢見続けて、特定の国際勢力に呼応し、読者を誤らせてきた朝日『社説』の罪は極めて重い」。
 そして、朝日新聞なるものが何故まだ存在しているのかと訝る気分はむろん強いが、こう書いていても空しい。
 こんな文章に影響をうける人は読者の中にはおらず、それでも朝日新聞を読みます、という人が世の中には数多(あまた)いるだろうことを考えると、歯がゆいというよりも、げんなりとなり、陰鬱になる。大江健三郎、佐高信、本多勝一、福島瑞穂、自民党の加藤某等々々々、熱心な朝日の読者はたくさんいるのだろう。こういう人たちが、今さら、山際澄夫や本郷美則等の言論の影響を受けるはずがない。
 日本国内に、したがって日本人の間に、大きな「国論」の対立、基本的考え方の違い、があることは歴然としている。この対立の中で、いずれかが勝利し、<安定>することは近い将来にあるのだろうか。
 朝日新聞が代表する「戦後民主主義」勢力の決定的勝利は、「日本」という国家を消失させる可能性がある。それは「日本」という独特の意味とも無関係に、主権を失って某国日本省に変わるという形で、「日本」国家を文字通り消滅させる可能性すらあるだろう(その場合、公用語は日本語ではなくなるだろう。あるいは、少なくとも別の言語が第一の公用語になるだろう)。
 このような戦慄すべき事態を想定しなくとも、大きな「国論」の対立・分裂が国家を弱体化させることがあることは、近代のアジアの某国を見ても明らかだ。
 対立も闘いもむろん必要な場合があるのだが、無駄な混乱と対立を通過する必要もない。一方の極に立って、空想的観念論によって国家・国政に、国民の間に、不毛な対立を持ち込んでいる(だ)のは、朝日新聞・とくにこの新聞社の歴代の政治記者たちではない(なかった)か。朝日新聞の言論、この新聞社の政治記者の動きこそ、日本を弱体化し外国の一部<不純>勢力を喜ばせることに(少なくとも客観的には)つながっていることに、もっと多数の人が気づく必要があるのだが……。

ギャラリー
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