秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

橋下徹

1656/橋下徹と知的傲慢者・藤井聡ら。

 橋下徹が、藤井聡を批判しているようだ。
 詳しい経緯、内容は知らない。最近の橋下徹の言動について、ずっとフォローしているわけでもない。
 しかし、かつては<橋下徹信者>と書かれたことがあるくらい、橋下徹批判に対しては、この人を擁護してきた。また、藤井聡は知的傲慢さの目立つ信用のおけない人物で<アホ>と形容したこともあるし、これまた週刊誌上で「今週のバカ」を毎週くり返していた本当の<バカ>らしい適菜収を全く信頼できない人物だと判断してきた。
 そしてまた、月刊正論(産経、編集代表・桑原聡の時代)がかつて、この適菜収を橋下徹徹批判の主要論考執筆者に使い、桑原自身が編集代表執筆者欄で橋下徹を「危険な政治家」だと明記したのだった。
 こうしたかつての経緯を思い出すので、少しは興味をもつ。
 もともとはどうも、つぎの、今年2/8配信のBestTimes(KKベストセラーズ)提供の記事(ヤフー・ニュース欄)だったようだ。以下、8割程度を引用。
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 適菜収「保守主義の本質はなにかを考えたときに、私は『愛』だと思うんですよ。日々の生活や守ってきたものに対する愛着です。/政治で言えば制度ですね。安倍に一番欠けているのは、制度に対する愛です。だから軽々しく『社会をリセットする』と言ったり、制度の破壊を進める。つまり、安倍は保守主義からはもっとも遠い位置にいる政治家と言えると思います」。
 藤井聡「京都学派の哲学者、西田幾多郎の哲学『絶対矛盾の自己同一』も適菜さんがおっしゃったことと同じです。 日本的に言うと『和をもって尊としとなす』ですし、西欧でも『矛盾との融和』の力を『愛』と呼んでいる。ただし、こうした『愛』は、…左翼のグローバリストの感覚、『国籍や国境にこだわる時代が過ぎ去った』という感覚とは全く違う。これは、『皆一緒』という発想で、おぞましい『全体主義』につながる。その意味で『地球市民』というのは危険な発想で、人間や文化の違い、豊穣性を認めないニヒリズムです。でも、西田の『絶対矛盾の自己同一』は、『違う部分を引き受けて統一することを目指す』というもので、グローバリストやニヒリストたちの全体主義と根本的に違う。」
 適菜収「ヤスパースも言っていますが、哲学は答えを出すことが目的ではなく、矛盾を矛盾のまま抱えることだと。知に対する愛なんです。ヘーゲル的な「哲学史」、学問としての哲学を批判したわけですね。わが国では、アメリカのシンクタンクから「地球市民賞」をもらったグローバリストが、保守を名乗ったりしていますが、国全体が発狂しているとしか思えません。保守は、善悪二元論とか、白黒はっきりつけるという話ではない。/複雑な問題を複雑なまま引き受けるということです。考え続けることに対する愛ですね。知に対する愛です。住民投票で民意を問うとかそういう話でもない。そもそも、白黒はっきりつけがたいものについて、議論を行い、利害調整をするのが政治の役割です。民意を背景に、数の論理で政策を押し通すのは、議会主義の否定です。」
 藤井聡「住民投票は必ず憎しみを産む。都構想では大阪市民が割れたし、イギリスでも国民が割れた。多数決の先にあるのは内乱です。極論すれば、多数決で負けたほうが悔しかったら内乱を起こすしかなくなります。橋下氏の一番の問題はそこだった。議会の破壊です。
 藤井聡「橋下氏が典型ですが、それ以外の多くの政治家もその罠にはまっています。日本中の政治家が今、どんどん橋下化している。」
 適菜収「その典型が安倍晋三です。…つまり、議会主義の根本がわかっていない。」
 藤井聡「橋下化した世界、全体主義化した世界では、ほとんどが大人になるにつれて劣化して、良し悪しのわからない分別のない人間になっていく。でもその中に、空気を読まない、(精神医学の世界では)「高機能広汎性発達障害」や「ASD」などと呼ばれる人たちがいる。彼らは、定義を広くとるとだいたい10人に一人くらいはいる。彼らの特徴は空気が読めない、あるいは気にしないこと。だから彼らは世界がどれだけ全体主義化、橋下化していても、『正しいこと』を言い続けてしまう。
 藤井聡「皆が嘘にまみれた空気に付き従うようになった世界は、もうASDくらいでしか救えないのではないかと思う。おおよそ今の官僚組織で出世するやつは、空気を読むのが上手い。僕は今、学者としてそういう組織に協力しているだけなので、出世は関係ありませんし、まったく空気を読む必要はない。」
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 こんな対談にはついていけない。私の頭が悪いからではなくて、言葉・概念で何らかの意味を伝えようとする誠実で、きちんとした態度、姿勢がこの二人にはまるでないからだ。
 いちいち挙げないが、こんなことを簡単に言うな、断定するな、と感じる部分ばかりだ。
 また、二人は一時期に大阪市長時代の橋下徹を<コキおろす>文章を月刊ボイス等に載せたりしてきたのだが、今年の2017年になってもその<怨念>は消えてないようで、その執念にも、どこか<異常さ>を感じる。まだこれだけ話題にされるのだから、私人・橋下徹の威力あるいは(反語であれ)魅力は、すごいものだなと却って感心してしまう。
 それに、橋下徹も指摘したようだが、安倍内閣「参与」らしい藤井は、適菜のこれまた執念深い<安倍晋三憎し>発言に、反論してもいないし、たしなめてもいない。
 あるいはまた、<住民投票>制度について、間接民主主義(議会中心主義)か直接民主主義の議論に持ち込んで、イギリスについてまで言及しているのは、論理・思考方法そのものが間違っている。大阪市での住民投票を要求したのは国の法律なのであり、国全体の議会中心主義に反したものではない。藤井は、こんな言い方をしていると、法律または条例にもとづく<住民投票>制度一般を批判しなければならなくなる。藤井はやはり、「政治感覚」優先で、法制度的思考がまるでできていない。
 こんな対談がどこかで活字になったらしいのだから、日本の表現の自由、出版の自由の保障の程度は、天下一品だ。
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 正確に理解するつもりはないが、橋下徹は「ツイート」でこんなことを書いたらしい。
 橋下徹「内閣官房参与藤井氏。/虚言癖。こんなのが内閣官房参与なら日本も終わりだ。」
 橋下徹「内閣官房参与の藤井氏。/虚栄心の塊の虚言癖。」
 橋下徹「内閣官房参与藤井氏。彼はこんなことばっかりやっている。とにかく人格攻撃。いい大人がするようなことではない。それで自分が批判されると人格攻撃は許さんと吠える。誰か藤井氏に社会人のマナーを教えてやって欲しい。内閣官房参与に不適格」。
 橋下徹7/09「内閣官房参与藤井氏のこの発言、こういう文脈で発達障害を持ち出したら政治家なら完全にアウト。メディアからも猛批判を受ける。稲田さんの発言よりも問題。安倍政権は許すのか。しかも安倍さんを侮辱する対談相手に一言も言わない内閣参与。」
 橋下徹7/11「内閣官房参与・京大教授藤井氏。彼は大阪都構想について猛反対し、橋下はデマ、嘘、詐欺、詭弁の限りを尽くしていると公言。そして大阪府と大阪市が話し合いをすれば課題は解決できると断言。ところがこの権力の犬メールには、府と市の大阪会議はショボいと明言。藤井氏は学者としてもアウトだな。」
 たしかに、藤井聡の<精神医学の世界での「高機能広汎性発達障害」や「ASD」などと呼ばれる症状の人たちはの特徴は、空気が読めない、あるいは気にしないこと。だから彼らは世界がどれだけ全体主義化、橋下化していても、『正しいこと』を言い続けてしまう。>という発言は問題があるだろう。
 相も変わらず、藤井聡は問題発言をし、下らないことを書いたり、喋ったりしているようだ。
 この人の専門分野は何か。きちんと研究し、研究論文を書いているのか。
 知的傲慢とか既に書いたが、消極的な意味で藤井聡に感心したのは、つぎの本を刊行した<勇気・自身・身の程知らず>だ。
 この人は京都大学大学院工学研究科教授のはずなのだが、いったい何をしているのか。
 ハンナ・アレントを読んで、日本社会と「全体主義」について論じるというのだから、ほとんど、あるいは100%、信じ難い。
 藤井聡・<凡庸>という悪魔-21世紀の全体主義(晶文社、2015)。
 オビには何と、「ハンナ・アレントの全体主義論で読み解く現代日本の病理構造」、とある。
 「ハンナ・アレントの全体主義論」は三分冊になる大著で、工学研究科教授が簡単に読んで理解できるとはとても考えられない。
 しかもまた、藤井聡は、「全体主義」といえばハンナ・アレントだと、すぐに幼稚に思い込んだのかもしれないが、そんな単純なものではない。
 この欄の執筆者・秋月瑛二ですら、「全体主義」にかかわる種々の文献を(一部であれ)読んでいる。
 この傲慢さは、<オレは京都大学出身の教授だぞ>という、戦後教育が生み出した入学試験・学歴主義と「肩書き」主義、<権威>主義によるのだろうか。
 じつは、橋下徹に対する何がしかの「怨念」とともに、<精神病理学>の対象になるのではないかとすら感じる。
 上の著の目次を見ると、内容の<薄さ>とこれまた<橋本徹批判>へと流し込んでいることがよく分かる。//

 目次/序章 全体主義を導く「凡庸」な人々
 第1部 全体主義とは何か?──ハンナ・アーレントの考察から
  第1章 全体主義は、いたって特殊な「主義」である
  第2章 ナチス・ドイツの全体主義
  第3章 〝凡庸〟という大罪
 第2部 21世紀の全体主義──日本社会の病理構造
  第4章 いじめ全体主義
  第5章 「改革」全体主義
  第6章 「新自由主義」全体主義
  第7章 グローバリズム全体主義
 おわりに 「大阪都構想」と「全体主義」//
 この人は「全体主義」を理解しているのか? レーニン、スターリンはどう理解しているのか。
 こんな程度で書物を刊行できるのだから、日本の表現の自由、出版の自由の保障の程度は、天下一品だ。

1269/安倍首相は大阪都構想に好意的で、橋下徹は改憲のため「何でもする」。

 安倍晋三首相は昨年10/06の衆議院予算委員会で、維新の党の「大阪都構想」について「二重行政の解消と住民自治拡充を図ろうとするものだ。その目的は重要だ」と述べていた。
 昨日の1/14の大阪・関西テレビでの生発言でも、「二重行政をなくし住民自治を拡充していく意義はある。住民投票で賛成多数となれば必要な手続きを粛々と行いたい」と述べたらしい。
 これは重要なニュースだ。
 第一に、大阪市・府の自民党議員団は(したがって大阪府本部も)「大阪都構想」に反対で、住民投票にも反対している。公明党は住民投票実施には賛成に(なぜか?)回ったので、大阪の自民党は公明党よりも<反・橋下>姿勢が強固なのだ。にもかかわらず、公明党の姿勢が変化し、大阪・自民党は従来のままである中で、首相であり自民党総裁でもある安倍晋三が上記のごとく、「大阪都構想」には「意義」があるとし、「住民投票で賛成多数となれば必要な手続きを粛々と…」と語ったのだから、かりに一般論であり、かつ仮定形の発言だったとしても、ふつうであれば、驚くべきことだ。
 安倍首相は昨年10月には大阪府連の姿勢について質問されて「地方自治のことなので、そこまで私が『ああせよ、こうせよ』ということは差し控える」とだけ述べたようだが、大阪の自民党とは真っ向から異なる見解を明らかにしているに等しいだろう。
 安倍首相には、自民党大阪府連を困らせてもかまわない、という大局的判断があるものと思われる。そしてまた、この欄ですでに記したように、大阪の自民党は、橋下徹・維新の党よりも民主党や共産党と<仲良く>するような愚行をいま以上続けるな、と言いたい。大阪の自民党は<保守政党>の支部なのか、それとも<容共>の「左翼」的支部なのか。あるいは、そんなことはどうでもよい、面子と自分の選挙当選にのみ関心を持って周囲を見渡している<日和見>者たちの集団なのか。
 第二に、安倍首相の親維新・親橋下徹の姿勢だ。橋下徹は1/15に「ありがたい。僕はうれしくてしょうがない」と述べて喜び、憲法改正について、「絶対に必要で、〔安倍〕総理にしかできない。何かできることがあれば何でもする」と語ったらしい。
 安倍首相が出演したと思われる関西テレビの夕方の番組の水曜のゲスト・コメンテイターの青山繁晴はいつぞや、安倍から直接に<橋下徹をどう思うか>と尋ねられたことがあり、安倍は橋下徹に期待をもっているようだ、という旨を語っていた。
 安倍首相の、橋下徹に期待し、少なくとも<反・橋下>姿勢を示さない、という感覚、政治的センスは優れていて、1/14の発言も、大局的かつ戦略的な判断にもとづいている、と思われる。すなわち<保守>勢力を糾合し、拡大し、ひいては憲法改正を成就するためには、橋下徹あるいは現維新の党の協力が必要だ、少なくとも<敵に回す>ようなことをしていいけない、と判断しているものと思われる。地方議会議員を中心とする、自民党大阪府連の面々とは、考えていることの次元・レベルがまるで異なる。
 産経新聞社・月刊正論1月号p.377の「編集者から」はかなり露骨な安倍晋三政権擁護の回答をしており、質問者・意見者である読者を斬って捨てている観があり、気になる。この点はあらためて触れるとして、ここにも見られるように、月刊正論編集部は親・安倍晋三、親安倍自民党姿勢を採っているように見える。
 しかるに、前編集長の桑原聡は橋下徹を「危険な政治家」だ、日本を「解体」しようとしている、と明言した。そして、「今週のバカ」を某週刊誌(週刊文春)に書いて<毎週のバカ>ぶりを示し、安倍+橋下徹による憲法改正には反対だと明言した適菜収に<反・橋下徹>論考を巻頭に書かせ、さらには適菜を「賢者」の一人として扱っていさえした。
 このかつての編集長の文章は取消しされていないし、むろん謝罪の言葉があるはずもない。むろん政治家等について月刊雑誌またはその編集長がどのような評価をしようと自由なのだが、自由に評価したその結果は誤っていることを認め、自覚しておくくらいはしておいてもらいたいものだ。
 なぜなら、むろん、簡単に言って、安倍晋三擁護・支持と橋下徹批判・悪罵が両立することはありえない。安倍晋三の橋下徹に対する姿勢だけは誤っている、という見解もありうるが、そうならば、そのような趣旨を含む文章を掲載すればよいだろう。
 月刊正論の出版母体・産経新聞社は橋下徹に対して決して暖かくないし(例、1/15社説)、松本浩司のように皮肉まじりの文章を書いている者もいる。
 産経新聞社、そして月刊正論には、<堅い>読者層の支持と購読さえ得られればよい、<そこそこに>収益が出ればよい、といった程度の気構えで仕事をしてほしくない、と思っている。できるならば、<憲法改正>のための情報センターのような役割を果たすことを期待して、産経新聞には厳しいことも書いているのだが、月刊正論の執筆者に見られると感じられる偏りや(おそらくは産経新聞が想定していない定期購読者だろう)橋下徹のような人物まで<取り込む>姿勢がないように見られることは、残念なことだ。
 ついでながら、上に<憲法改正>という語を何度か使っているが、それでは本来はいけないことは別に述べる。また、産経新聞社「国民の憲法」案の地方自治条項について、橋下徹は<これではダメだ>と言い放ったが、これは橋下徹の感想の方が適切だ。いずれも、別の機会に触れる。
 安倍首相と橋下徹の関係から、産経新聞社に論点が移ってしまった。
 さらについでに、私自身は維新の「大阪都構想」に双手を上げて賛同しているわけではない。
 大都市制度がどうあるべきかは、現地方自治法制定時にも、基本的には都道府県のもとにある一市とする、どの都道府県にも属さない「特別市」とする、の二案があったところ、妥協・折衷の結果として、<政令指定市>制度ができた。近時にも、名称・細かい制度設計は違うが、似たような議論・政策提言があった。そして、砂原庸介・大阪-大都市は国家を越えるか(中公新書、2012)p.223-が述べるように、「仮に彼〔橋下徹〕がはじめから大阪市長になっていれば、現在とは異なるかたちで特別市構想が復活していたかもしれない」、と言える。橋下徹は最初に府知事になったからこそ、政令指定市・大阪市域について知事の権限が及ばない部分があることに疑問を持ったのだと推測される。最初に市長になっていれば、府知事が大阪市に関与・介入できる余地を削減し又はゼロにする運動すらしたかもしれない、とも思われる。
 「大阪都構想」の是非は、イデオロギーの問題ではなく、日本における大都市制度のあり方という、法制度・行政制度の設計にかかわる、すぐれて政策的・技術的な問題だ。それに、「大阪都構想」の具体的な制度内容はまだ詳細には詰められていないように見える。それでも、「ファシスト」であり安倍首相とも親しい憲法改正派だというだけで、橋下徹・維新提案の「大阪都構想」に絶対反対の姿勢をとる日本共産党などもいるに違いない。大阪の自民党が親橋下か反橋下かだけで態度を決めるとすれば、愚かしいことだ。

1226/月刊正論・桑原聡編集長等に対する批判的コメント一覧。

 桑原聡が月刊正論編集長になって半年も経っていないとき、民主党政権下の月刊正論2011年3月号で、桑原はこう書いていた。-「かりに解散総選挙となって、自民党が返り咲いたとしても、賞味期限の過ぎたこの政党にも多くを期待できない」。

 ということは現在の自民党も「多くを期待できない」のか。桑原聡という人は「政治感覚」がどこかおかしかったように感じる。
 上のことを以下で記した。

 ①2011.04.06

 「月刊正論(産経新聞社)編集長・桑原聡の政治感覚とは。」

 ほかに、月刊正論の編集方針等について書いたものに以下がある。存外にたくさん、非生産的なことに時間を費やしてきた想いが生じ、あまり楽しくはないが。再度同旨のことを繰り返すのはやめにし、リストアップにとどめておくことにする。

 ②2012.04.06 「月刊正論(産経)編集長・桑原聡が橋下徹を『危険な政治家』と明言1。」

 ③2012.04.09 「月刊正論(産経)編集長・桑原聡が橋下徹を『危険な政治家』と明言2。」 

 ③2012.04.10 「月刊正論(産経)編集長・桑原聡が橋下徹を『危険な政治家』と明言3。」

 ④2012.04.11 「月刊正論(産経)編集長・桑原聡が橋下徹を『危険な政治家』と明言4。」 

 ⑤2012.04.13 「『B層』エセ哲学者・適菜収を重用する月刊正論(産経)。」

 ⑥2012.04.15  「『保守』は橋下徹に『喝采を浴びせ』たか?」

 ⑦2012.05.17  「月刊正論の愚-石原慎太郎を支持し、片や石原が支持する橋下徹を批判する。」

 ⑧2012.06.06 「月刊正論編集部の異常-監督・コ-チではなく『選手』としても登場する等。」

 ⑨2012.08.06 「憲法改正にむけて橋下徹は大切にしておくべきだ。」

 ⑩2012.08.21 「月刊正論(産経、桑原聡編集長)の編集方針は適切か?①」

 ⑪2012.08.29 「月刊正論(産経、桑原聡編集長)の編集方針は適切か?②」

 ⑫2012.09.03 「月刊正論(産経、桑原聡編集長)の編集方針は適切か?③」

 ⑬2013.09.08 「適菜収が『大阪のアレ』と書くのを許す月刊正論(産経新聞社)」

 ⑭2013.10.04 「月刊正論(産経)・桑原聡は適菜収のいったい何を評価しているのか。」

 ⑮2013.10.13 「錯乱した適菜収は自民+維新による憲法改正に反対を明言し、『護憲』を主張する。」

1222/錯乱した適菜収は自民+維新による憲法改正に反対を明言し、「護憲」を主張する。

 10/04に、適菜収が月刊正論2013年8月号で、「反日活動家であることは明白」な橋下徹を「支持する『保守』というのが巷には存在するらしい」のは「不思議なこと」とだと書いていることを紹介し、「適菜収によれば、石原慎太郎、佐々淳行、加地伸行、西尾幹二、津川雅彦らは、かつ場合によっては安倍晋三も、『不思議』な『保守』らしい。そのように感じること自体が、自らが歪んでいることの証左だとは自覚できないのだろう、気の毒に」とコメントした。「保守」とされているのが「不思議」だ(「語義矛盾ではないか」)という言い方は、橋下徹を支持する人物の「保守」性を疑っている、ということでもあるだろう。

 それから一週間後の10/11に、明確に安倍晋三の「保守」性を疑問視する適菜収の文章を読んでしまった。週刊文春10/17号p.45だ。適菜収は「連載22/今週のバカ」として何と安倍晋三を取り上げ、「安倍晋三は本当に保守なのか?」をタイトルにしている。その他にも、驚くべきというか、大嗤いするというというか、そのような奇怪な主張を適菜は行っている。

 ①まず、簡略して紹介するが、橋下徹と付き合う安倍晋三を以下のように批判する。

 ・付き合っている相手によって「その人間の正体」が明らかになりうる。橋下徹の「封じ込めを図るのが保守の役割のはず」、日本の文化伝統破壊者に対して「立ち上がるのが保守」であるにもかかわらず、「こうした連中とベタベタの関係を築いてきたのが安倍晋三ではないか」。
 ②また、安倍晋三個人を次のように批判する。

 ・組んでよい相手を判断できない人間は「バカ」。「問題は見識の欠片もないボンボンがわが国の総理大臣になってしまったこと」だ。

 ③ついで、安倍内閣自体をつぎのように批判する。

 ・「耳あたりのいい言葉を並べて『保守層』を騙しながら、時代錯誤の新自由主義を爆走中」。
 ④さらには、次のように自民+維新による憲法改正に反対し、「護憲」を主張する。
 ・「維新の会と組んで改憲するくらいなら未来永劫改憲なんかしなくてよい。真っ当な日本人、まともな保守なら、わけのわからない野合に対しては護憲に回るべきです」。

 ビ-トたけしあたりの「毒舌」または一種の「諧謔」ならはまだよいのだが、適菜収はどうやら上記のことを「本気」で書いている。

 出発点に橋下徹との関係がくるのが適菜の奇怪なところだ。与えられた原稿スペ-スの中にほとんどと言ってよいほど橋下徹批判の部分を加えるのが適菜の文章の特徴だが、この週刊文春の原稿も例外ではない。よく分からないが、適菜は橋下徹に対する「私怨」でも持っているのだろうか。何となく、気持ちが悪い。

 それよりも、第一に、安倍晋三を明確に「バカ」呼ばわりし、第二に、安倍晋三の「保守」性を明確に疑問視し、第三者に、「野合」による憲法改正に反対し、「護憲に回るべき」と説いているのが、適菜収とはほとんど錯乱状態にある人間であることを示しているだろう。

 少し冷静に思考すれば、憲法改正の内容・方向にいっさい触れることなく、「維新の会と組んで改憲するくらいなら」と憲法改正に反対し、「野合」に対して「護憲に回るべき」と主張することが、憲法改正に関するまともな議論でないことはすぐ分かる。

 適菜収は論点に即して適切な文章を書ける論理力・理性を持っているのか?

 適菜といえば「B層」うんぬんだが、そのいうA~D層への四象限への分類も、思想・考え方または人間の、ありうる分類の一つにすぎない。容共・反共、親米・反米(反中・親米)、国家肥大化肯定的・否定的(大きな国家か小さな国家か)、自由か平等か、変革愛好か現状維持的か、等々、四象限への分類はタテ軸・ヨコ軸に何を取り上げるかによってさまざまに語りうる。適菜のそれの特徴は「IQが高い・低い」を重要な要素に高めていることだが、少なくとも、ある程度でも普遍的な分類方法を示しているわけではない。
 さらにまた、適菜のいうA~D層への四象限への分類は、適菜自身が考えたのではないことを適菜自身が語っている。適菜はある程度でも普遍的だとはまったくいえない「B層」・「C層」論等を、「借り物の」基準を前提にして論じているのだ。
 そしてどうやら適菜は自らは規制改革に反対(反竹中平蔵・反堺屋太一)で「IQが高い」という「C層」に属すると考えているようなのだが、この週刊文春の文章を読むと、「D層」ではないかと思えてくる。

 また、自民党・維新の会による憲法改正に反対し、「護憲」を主張しているという点では辻元清美、山口二郎等々々の「左翼」と何ら変わらない(中島岳志とも同じ)、安倍晋三を「バカ」と明言するに至っては、かつて第一次内閣時代の安倍について「キ〇〇〇に刃物」とも称していた、程度の低い「左翼」(またはエセ保守)文筆家(山崎行太郎だったか天木直人だったか)とも類似するところがある。

 この適菜が「橋下徹は保守ではない!」という論考で月刊正論(産経)の表紙をよくぞ飾れたものだ。

 もう一度10/04のこの欄のタイトルを繰り返しておこうか。

 <月刊正論(産経)・桑原聡は適菜収のいったい何を評価しているのか。> 

1218/月刊正論(産経)・桑原聡は適菜収のいったい何を評価しているのか。

 〇何度も書いたことだが、月刊正論(産経新聞社)編集長・桑原聡は同2012年5月号の末尾の編集長欄とでもいえる「操舵室から」一頁の中で、「編集長個人の見解だが、橋下氏はきわめて危険な政治家だと思う」、「橋下氏の目的は日本そのものを解体することにあるように感じるのだ。なぜ…特集を読み判断していただきたい」、とほとんど理由・論拠を示すこともなく明言した。
 以下はたぶんまだ触れていないと思うので、記録に残しておきたい。

 月刊正論の翌月号、つまり2012年6月号の「編集者へ/編集者から」の欄で内津幹人という人が、前号の「操舵室から」について、「民意」という語が8回、百文字に一回以上出てきた、「こういう書き方もあるのか、と学んだ」と皮肉っぽく記したのち、次のように感想を記した。
 「編集長個人の見解だが--これほど自信を感じさせる書き方はない。”個人”以外何百万人が異議を唱えても、俺は勝つ。/特集を読み判断していただきたい--と結ぶ。/編集長はいいなあ、と思う。よく、
男は一度は野球の監督をやりたい、というが、編集長と較べたら子どもの遊びだ」。

 どう読んでも、この文章は前号の桑原聡編集長の文章に対する<皮肉>であり、かつ隠してはいるがかなり批判的な感想の文章だ。

 これに対して、同号の「編集者から」は、上に引用した部分に言及せず、投書者(内津幹人)の後半の叙述の一部を採用して「新聞が橋下氏を取り上げなければ『大阪のバカ騒ぎは収まる』というご指摘はその通りですね。無視こそが最強の意思表示であることは分かりますが、それではメディアの責任は果たせないと思います。悩ましいところです」と書いている。これが全文で、上に引用した「編集長個人の見解だが」、「編集長はいいなあ、と思う」等を含む文章への反応は全くない。

 編集者は「編集者から」応えやすい部分のみを扱ったようで、<皮肉>まじりの部分には反応を避けているのだ。
 それとも批判的感想を含む「皮肉」であるということが、まったく理解できていないのだろうか。そうだとすれば、月刊正論編集者は日本語文章の意味・含意を理解できない、きわめて低能力の「編集者」だろう。

 〇上記の月刊正論2012年5月号は適菜収「理念なきB層政治家…橋下徹は保守ではない」を大阪維新の会特集の最初に置き、かつ雑誌表紙に最も大きい文字でそのタイトルを表示していたのだが、相変わらず、月刊正論は適菜収を重用しているようだ。
 月刊正論2013年8月号では「正論壁新聞」執筆者4人の1人として登場し(最近の他号でもそうかもしれない)、内容のきわめて空虚な文章で1頁余りを埋めたあとで、橋下徹慰安婦発言に言及したあと、次のように断じる。
 「橋下の……を見れば、反日活動家であることは明白である。/不思議なことに、こうした人間を支持する『保守』というのが巷には存在するらしい。これも…語義矛盾ではないか」(p.47)。

 月刊正論という産経新聞社発行の「保守系」雑誌の冒頭近くに適菜収が出てくること自体が奇妙なのだが、上の文章も不思議だ。
 橋下徹に批判的な佐伯啓思らもいるが、橋下徹を支持しているまたは彼に好意的であることを明らかにしている人物に、佐々敦行、加地伸行、西尾幹二、津川雅彦らがいる。また、産経新聞社から個人全集を発行しかつ同新聞紙上に連載欄も持っている石原慎太郎は同じ政党の共同代表だ。

 なお、①中島岳志は憲法改正に反対し、週刊金曜日の編集者の一人でもあるという「左翼」または「かくれ左翼」なので、中島が橋下を「保守ではない」と批判したところで、何の意味もない。

 ②安倍晋三は首相になる前も後も橋下徹と個人的に会話等をしているようだ。政治家どうしだから単純に支持か反対かを分けられないが、安倍晋三は橋下徹を「敵」と見ていないことは間違いないだろう。
 さて、適菜収によれば、石原慎太郎、佐々敦行、加地伸行、西尾幹二、津川雅彦らは、かつ場合によっては安倍晋三も、「不思議」な「保守」らしい。そのように感じること自体が、自らが歪んでいることの証左だとは自覚できないのだろう、気の毒に。

 適菜は、月刊正論誌上でこれから毎号、上記のような人物を批判して「改心」させる文章を書き続けたらどうか。
 〇元に戻ることになるが、上記の月刊正論2012年6月号の「編集者へ」の投稿者(内津幹人)は次のようにも書いていた。

 「執筆者たちは、どんなに偉そうに書くときも、チラッと操舵室が浮かぶだろう。そりゃそうだ。原稿料は生活の糧だ。ボクはどの人を呼んでも、操舵室が浮かんだ文字をみつけるのが好きだ。編集長がいなければ、こう書きたいのだろうな、と」。

 この投稿者はかなりの書き手であると見える。この文章は、編集者(・編集長)の顔色をうかがいながら、「生活の糧」である「原稿料」を稼ぐために、編集者(・編集長)の意向に添った文章を書かざるをえない雑誌原稿執筆者の性(さが)または苦労を指摘している。

 適菜収は、週刊新潮上では「保守系」論壇雑誌を批判している文章を書いていることはこの欄でたぶん先月に触れた。適菜は、月刊正論に書かせてもらうときは、編集長・桑原聡の顔色(・意向)をうかがいながら原稿を執筆しているに違いない。
 適菜収は「哲学者」という肩書きしかない。大学や研究所等からの給与はなさそうだ。日本の大学は信頼できないが、まともな研究論文が書けて、ある程度の研究業績があれば、日本の大学の教員の職を見つけることは決して困難ではないだろう。おそらく適菜にはそのような研究業績がなく、当然に博士号すら持っていないのだろうと思われる。

 日本の大学も博士号も決して信頼できるものではなく、アカデミズムの世界以外で大学研究者以上の仕事をした人もあるだろうが(小室直樹ら)、適菜収にはそれだけの実力がないことは、二頁を埋めるだけの内容と密度のある文章が書けていないことでも分かる。

 どのような背景・経歴の人物かよく知らないが、あまり大言壮語は吐かない方がよい。もちろん、そのような人物を重用する月刊正論編集部もおかしい。とても40周年とやらを祝う気になれないし、最新号を購入する気もないのである。

1204/適菜収が「大阪のアレ」と書くのを許す月刊正論(産経新聞社)。

 〇適菜収をいつぞや「C層哲学者」と書いた。それは、適菜がよく使う「B層」よりも下、低劣という趣旨だったのだが、週刊新潮8/15・22号(新潮社)の適菜の文章によると、「B層」とは近代的価値に肯定的(構造改革に肯定的)・IQは低い、「C層」とは近代的価値に否定的(構造改革に否定的)でIQは高い、のだそうだ。そして、「C層」とは簡単には「真っ当な保守」である。という(p.47)。
 こういう意味であるとすれば、適菜収を「C層」哲学者と称するわけにはいかない。

 ところで適菜は、自らは上の意味での「C層」と自認している様子なのだが、「最近の保守系論壇誌は面白くない」と強調し、また、参院選自民党勝利を「保守」の勝利と称することを疑問視している。

 何が「真っ当な保守」なのか、むろん適菜は詳細に論じているわけではないし、そもそも適菜の理解が正しい保障はまったくない。

 はっきりしているのは、上の週刊新潮によるかぎり、現在の日本で<保守>といわれている論壇や人々とは適菜は距離を置いている、ということだ。

 〇だが、しかし、定期購読していないので真面目に読んでいないのだが、月刊正論(産経新聞社)の今年4月号あたりから、適菜収は、「正論壁新聞」という比較的に冒頭の欄で、田母神俊雄らとともに常連の執筆者になっている。

 適菜の議論の基調はだいたい決まっている。<大衆はバカだ>、<大衆迎合の政治家は危険だ>、…。

 最近の月刊正論10月号では適菜は「生理的に受け付けない」、「紋切り型」の文章やその書き手を批判する退屈な文章を書いているが、某評論家(おそらく屋山太郎)や「紋切り型ライター」を批判したあと、最後に次のように書く。

 「大阪のアレに倣って言えば、一度彼らを『グレートリセット』をしたらどうか?」(p.53)。

 「大阪のアレ」とは橋下徹のことだとは容易に分かる。
 〇さて、日本の代表的な、とは言わなくとも、<保守>系論壇誌としては著名な産経新聞社発行の月刊正論が、「大阪市長」または「日本維新の会代表」という名前を冠することもなく、それらがなくとも橋下徹という固有名詞を明示することもなく、「大阪のアレ」という表現で橋下徹を意味させる文章を掲載するのは、橋下に対してきわめて失礼であり、また読者に対しても品性を欠く印象を与えるものではないか。

 字数の制限によって「大阪のアレ」とせざるをえなかったわけではない(橋下徹の三文字の方が短い)。
 月刊正論の編集部の誰かはこの適菜の文章を事前に見たはずだが、「大阪のアレ」という言葉遣いに違和感を感じず、修正を求めることはしなかったと見える。
 雑誌原稿の文章ははむろん依頼した執筆者の言葉遣いが優先はされるだろうが、問題があると考える場合には編集者(編集部)として「要望」くらいのことはできるはずだ。

 もともと適菜収の文章は「生理的に受け付けない」ところがあり、<気味が悪い>のだが、上のような月刊正論編集部の対応も「気味が悪い」。<~のアレ>で済ますような言葉遣いを含む文章を、新聞でも週刊誌でもその他の雑誌でも見たことがない。

 〇もともと、月刊正論が適菜収をまるで自らの雑誌に親近的な論者として使っていること自体が異様だ(田母神俊雄らに失礼でもあろう)。だが、昨年に同誌・桑原聡編集長が適菜に「橋下徹は保守ではない」と大きく宣伝したタイトルの文章を書かせ、橋下徹は「きわめて危険な政治家」と編集長自体が編集後記の中で明記した。そのような考え方を、桑原聡と同誌編集部(産経新聞社員)は現在でも維持している、ということだろう

 最近に産経新聞内にあるように見られる、橋下徹に対するアレルギー・嫌悪感にこの欄で触れたが、その潜在的な背景の一つは、昨年の<橋下徹は保守ではない>という表紙上および雑誌の新聞広告の大きな見出しにあるのではないか

 このような効果を適菜論考がもたらしたとすれば、犯罪的にも、日本維新の会を妨害し、そして憲法改正を妨害している。

 〇適菜についていえば、彼は上記週刊誌上で「毎号同じような見出しが並び、同じような論者が同じようなテーマについて執筆」、「基本的には、中国や韓国、北朝鮮、朝日新聞はケシカランみたいな話」等と「最近の保守系論壇誌」を批判しているが、これによくあてはまるのは、月刊正論そのものだろう。

 月刊正論の特徴の一つは、<憲法改正>に関する特集をしないこと、少なくとも表紙の見出しを見るかぎりは、憲法改正を重視してはいないことだ。
 月刊正論編集部または桑原聡に尋ねたいものだ。
橋下徹を批判することと、憲法改正に向けて世論を活性化することと、いったいどちらが重要なのか。

 適菜収が週刊新潮に書いていることを全面的に支持するわけではむろんないが、月刊正論という雑誌は、少なくとも<保守>派の国民ならば誰でも読みたいと感じる「保守系論壇誌」になっているだろうか。

 金美齢が産経新聞について言った「深刻な『質の低下』」は月刊正論にも、そして同誌編集部にも言えそうに見える。

1202/小林よしのりと橋下徹慰安婦発言と安倍首相・自民党。

 〇久しぶりに、小林よしのりの言説をとり挙げよう。

 ①5/16に「ゴー宣道場」のブログでこう書いた。

 「橋下徹の慰安婦問題に対する認識は基本的に正しい。/微妙に間違ってる点もあるが、一歩も引かぬ態度は支持するから、頑張ってほしい。
 安倍晋三や、稲田朋美や、産経新聞は、慰安婦に対する見解を180度変えてしまっている。/『女性の尊厳損ね許されぬ』には呆れてしまった。
 まったく唾棄すべき奴ら、軽蔑すべき奴らだ!
 安倍政権も産経新聞も、結局、アメリカの顔色を見て怯え、慰安婦問題でもどんどん自虐史観に戻ってしまったのだ。/卑怯者とは、こういう奴らのことを言う。」

 これは産経新聞5/15社説も読んだ後のものに違いない。

 ②また、産経新聞5/26の「花田紀凱の週刊誌ウォッチング」によると、小林よしのりは週刊ポスト(小学館)5/31号で次のように語った、という。

 「橋下徹は、まるで『王様は裸だ』と叫んでしまった子供のようである。どんな反応が起きるのかまったく考えず、愚直に“本当の話”をし始めている」。「橋下発言は、何ら間違っていない」。「強制連行」・「従軍」に関しては「議論はとっくに決着している」。

 ③小林の舌鋒の矛先は、自民党・安倍晋三政権に強く向けられている。6/04発行となっているメールマガジン「小林よしのりライジング」40回では、次のように言う。

 「『河野談話』を修正か破棄し、「慰安婦制度は、当時は必要だった』と唱えたら、どんな目に合うか橋下徹が身をもって示し、安倍自民党はそれを傍観して震え上がったわけだ。

 誰も国のために戦った祖父たちの名誉を守ろうとしない。/日本は「性奴隷」を使用したレイプ国家にされてしまっているのに、安倍政権は何のアクションも起こさない

 橋下徹と一線をひいて、『村山談話』、『河野談話』を引き継ぐ歴代政権と何ら変わりがないことを、国際会議の場で必死で強調し、『戦後レジーム』の洞穴に引き籠って出て来なくなった」。

 〇小林よしのりの上の③は当たっているかもしれない。

 安倍首相は5/15、参院予算委員会で、「過去の政権の姿勢を全体として受け継いでいく。歴代内閣(の談話)を安倍内閣としても引き継ぐ立場だ」と述べた。これは翌5/16の産経新聞の記事による。同時に、「日本が侵略しなかったと言ったことは一度もない」と述べたようだ。

 これは<村山談話>を引き継ぐ、という趣旨だろう。
 産経の同記事が書くように、安倍首相は4/22に<村山談話>について「安倍内閣として、そのまま継承しているわけではない」と述べ、翌4/23には「侵略の定義は定まっていない。国と国との関係で、どちらから見るかで違う」と述べていたにもかかわらず、である。

 いったい何があったのか。
 5/13が橋下徹慰安婦発言、橋下徹発言ほぼ全面批判の産経新聞社説は5/15だった。
 安倍首相は、橋下徹発言に対する反響に驚き、かつ産経新聞までが橋下発言を厳しく批判していることを知ったからこそ「軌道修正」(5/16産経記事)をしたのではなかっただろうか

 参院選挙まであと二月余という時期も関係していたかもしれない。
 だが、産経新聞5/15社説が<橋下徹発言は舌足らずだが、また一部に問題はあるが、おおむね(基本的には)正しい。河野談話の見直しを急ぐべきだ」という基本的な論調で書かれていたらどうなっていただろうか
 社説は場合によっては瞬時に基本的な主張内容を判断して数時間以内に文章化しなければならない場合もあるだろう。そういう場合にこそ、書き手のまたは論説委員グループの<政治的感覚>が問われ、試される。

 結果として、基本的には朝日新聞のそれと似たようなものになった産経新聞5/15社説は、安倍首相の感覚・判断をも狂わせた可能性がある、と感じられる。「女性の尊厳損ね許されぬ」を優先し、問題の「本質」、「より重要な問題」の指摘を数日あとに遅らせた5/15産経新聞社説は、基本的には<犯罪的な>役割を果たしたのではないか。怖ろしいことだ。

 最近にこの欄で<村山談話>の見直しはどうなっているのかと書いたばかりだが、安倍首相が国会で(少なくとも当面は、だろうが)「引き継ぐ」と明言しているとは、ガックリした。選挙対策、あるいは日本維新の会との差別化の意図によるとしたら、馬鹿馬鹿しいことだ。

1201/橋下徹発言と産経新聞のとくに5/15社説。

 〇産経新聞5/18付「一筆多論」欄での、論説委員・鹿間孝一の叙述によれば、いわゆる橋下徹慰安婦発言は、今年5/13午前の<ぶら下がり>会見で(朝日新聞記者から)「安倍晋三首相の『侵略の定義は定まっていない』との発言に対する見解を問われて、『首相が言われている通りだ』と述べた後、唐突に」出されたようだ。

 いつか述べたように、マスコミの中には「失言」・「妄言」なるものを引き出して中国や韓国に<ご注進>し、批判的コメントを貰ったうえで日本国内で<騒ぐ>輩がいるから気をつける必要がある。

 上の点はともあれ、橋下徹発言はあらかじめ準備され、用意されてのものではなく偶発的なものと思われる。従って、産経6/03付「正論」欄で桜田淳が、「橋下市長の一連の発言において批判されるべきは、その発言の中身というよりも、それを語る『必然性』が誠に薄弱だということにある」等と批判しているのは、的確ではないか、または橋下徹に対してやや厳しすぎるだろう。

 〇さて、産経新聞5/16付で阿比留瑠比は、「橋下発言検証『大筋正しいものの舌足らず』」と題して、<大筋は正しいが、舌足らずだ>という印象を与える(内容もそのような)記事を書いていたが、その前日5/15の産経社説(同新聞では「主張」欄)は、<大筋は正しいが、舌足らずだ>という内容のものだったのか。

 そうではなく、「橋下市長発言/女性の尊厳損ね許されぬ」というタイトルどおり、橋下発言を全体として厳しく批判した。

 やや立ち入れば、この社説は、第一に、橋下徹発言を、①「慰安婦制度は当時は必要だった」など、②米軍幹部に「海兵隊員に風俗業を活用してほしい」、と述べた、と紹介したうえで、「女性の尊厳を損なうものと言わざるを得ない。許されない発言である」とまず断定し、切って捨てている。この対象の中には、上の①の、「慰安婦制度は当時は必要だった」という、「当時は」という限定つきの発言も含めている。
 第二に、安倍首相は公権力による強制があったという「偽り」を含む河野談話を「再検討」しようしているのに、橋下徹が「『必要な制度』などと唱えるのは事実に基づく再検討とは無関係だ。国際社会にも誤解を与えかねない」と書いて、これまた橋下を批判している。但し、趣旨は不明瞭だ。<当時は必要な制度だった>という発言趣旨を誤解している可能性があるし、また、安倍内閣による再検討作業を橋下徹発言が邪魔をしているかの如き批判の仕方になっている(のちにこの旨を明記。第四点)。

 第三に、橋下が「当時の慰安婦の必要性を肯定した」ことについて、とここでは「当時の」と限定しつつも、自民党の稲田朋美下村博文両大臣の簡単な言葉を紹介し、「稲田、下村両氏は自民党内の保守派として河野談話の問題点を厳しく指摘したこともあるが、橋下氏の考えとは相いれないことを示すものといえる」と書いた。ここでは、橋下徹発言は自民党内「保守派」のそれとも異質だ、と指摘したいようだ。

 第四に、安倍政権の河野談話見直し作業を、「いわれなき批判を払拭すべきだという点は妥当としても、…見直しの努力を否定しかねない」と切って捨てて、疑問視している。

 第五に、「風俗業活用」発言について、「もってのほか」、「人権を含む普遍的価値を拡大する『価値観外交』を進める日本で、およそ有力政治家が口にする言葉ではなかろう」と断定的に批判した。

 この部分は橋下徹自身がのちに撤回しているが、橋下自身も言うように、売買春を勧めたわけではなく法律上合法的な(沖縄以外の本土にもあるような)「風俗業」の利用に言及したものだった。「もってのほか」と産経新聞社説が主張するならば、理屈の上では全国にある「風俗業の活用」はすべて「もってのほか」になるはずだ。

 以上、要するに、橋下発言に理解を示しているのは「いわれなき批判を払拭すべきだという点は妥当としても」という部分だけで、あとはすべて橋下発言を批判・否定する内容になっている。

 産経新聞がこうなのだから、朝日新聞や毎日新聞の社説がいかほどに厳しい批判だったのかは、容易に想像がつく。

 この「偽善」も一部に含むと考えられる産経新聞社説はいったい何なのだろう。参議院選挙前に、自民党と日本維新の会との差別化を図り、自民党を有利にしたい、という思惑を感じなくもない。もっとも、産経新聞自体が、自民党・稲田朋美が、慰安婦営業は「当時は」合法だった旨を発言したと報道してもいた。橋下発言と「自民党内の保守派」には(あるいは日本維新の会と後者には)この産経新聞社説が指摘するほどの違いがあるのか疑わしい。

 あるいは、朝日新聞等からの批判を予測して、「左」からの攻撃から自らをあらかじめ守っておこうという気分があったのかもしれない。一種の<横並び意識>でもある。少なくとも、一部でも橋下徹を守ろう、庇おう、という意識が感じられない社説だ。上記5/16付阿比留瑠比記事とトーンがまるで異なることは言うまでもないだろう。

 この5/15社説だけが社論ではない、と産経新聞関係者(とくに社説執筆者)は言うかもしれない。

 なるほど、5/17付で憲法96条改正の必要性を強調した産経新聞社説は、5/18付では、みんなの党の日本維新の会との選挙協力解消決定をうけて「橋下氏発言/避けたい改憲勢力の亀裂」というタイトルのもとで、両党の連携への期待を述べている。そして、次のようにも書く。

 「より根本的な問題は、根拠なしに慰安婦の強制連行を認めた平成5年の河野洋平官房長官談話が今も、日韓関係などを損ねている事実だ。/政府や国会がすべきことは河野談話の検証である。慰安婦問題の本質を見失ってはならない」。

 この部分を読んで不思議に思う。「慰安婦問題の本質を見失ってはならない」、「根本的な問題」の原因が河野談話にある、というならば、その旨を、なぜ、5/15の段階で強調しなかったのか。5/15社説の基調は橋下徹発言批判であって、「慰安婦問題の本質」を見失うな、河野談話にこそ「根本的な問題」の原因がある、というものではまったくなかった。なぜ、こうした旨を数日前の5/15に書けなかったのか。
 橋下徹発言に対する批判の高まりを考慮して多少は抑制しようと考えたのかもしれないが、そうであるとすれば、時機を失している。朝日新聞等々ともにさっそく足並みをそろえて橋下徹発言批判を始めたのは、5/15社説だったのだ。

 産経新聞5/28社説では橋下徹発言批判はさらにトーンダウンしている。日本外国特派員協会での橋下徹会見に関するものだが、橋下会見での発言につき、こう書いている。

 「橋下氏は『国家の意思として組織的に女性を拉致したことを裏付ける証拠はない』とも述べ、慰安婦問題に関する平成5年の河野洋平官房長官談話について『否定しないが、肝心な論点が曖昧だ』と指摘した。/河野談話は、根拠なしに慰安婦の強制連行を認めたものだ。橋下氏は以前、『河野談話は証拠に基づかない内容で、日韓関係をこじらせる最大の元凶だ』と主張していた。これこそまさしく正論だ。後退させる必要はない」。

 5/15段階での威勢の良い橋下徹批判はどこへ行ったのか? そして、「安倍政権はいわれなき日本非難には、きちんと反論すべきだ」と、橋下にではなく安倍政権に向けての注文を書いて、締めくくっている。

 こうして見ると、産経新聞の論調の中でも、むしろ5/15社説こそが異様だったような気もしてくる。 

 もっとも、冒頭の5/18鹿間孝一の叙述は「橋下流は『賞味期限切れ』か」と題するもので、上記5/15社説にさらに追い打ちをかけるように、橋下徹が「自身『あと数年たてば、賞味期限切れになる』と語っていたが、現実になるのは意外に早いかもしれない」と締めくくっている。

 こうして見ると、他の例は省略するが、産経新聞社の中には、間違いなく橋下徹に対する一種のアレルギー、嫌悪感のようなものが、少なくとも一部にはあるのは否定できないろう。それが5/15社説で噴出し、諸々の事情を配慮して橋下徹批判の論調を抑制する方向に変化したのだ、と思われる。

 〇今年8/08に別の文献を参照して書いたことだが、産経新聞も他紙と同じく「当時は」という限定を付けることなく、橋下発言について「慰安婦制度は必要」と見出しを付けて報道したようだ。また、その同じ書き込みの中で紹介したように、産経新聞の5/15付社説の論調は、櫻井よしこの週刊新潮5/30号での、橋下徹発言は「日本の国益を大きく損ないかねない…」という明記等と共通するところがある。

 〇その後、産経新聞は5/27付で、<橋下氏の慰安婦発言「不適切」75%/維新支持も急落>、日本維新の会支持率20・7%から10・7%へほぼ半減、という世論調査結果を発表するなど、<維新失速>という「客観」報道をし続けた。
 世論調査はマスメディアが自分たちの国民の意見に対する誘導の効果を立証し、確認するための道具くらいに思っているが、上のような結果の少なくとも原因の一つは、あるいはとりわけ<保守層>の中での維新の会支持率減少の原因の大きなものは、産経新聞自体の社説・社論にあるのではないか。
 日本維新の会代表の発言をそっけなく冷たく批判しておいて、<維新支持も急落>とあとで報道しているわけだ。そうした点では、朝日新聞も産経新聞もほとんど変わりはしない。
 経緯・理由は私と異なるが、月刊WiLL10月号(ワック)で、金美齢は今年7月末をもって産経新聞の定期購読者たることをやめた、ということを明らかにしている(p.230以下)。

 産経新聞は決して<保守派>国民全員が信頼し支持できる新聞ではない。相対的にはまだマシなのだろうが、奇妙な点、歪つな点もある。あたり前のことだが、読者は、「教条的信仰」に陥らず、産経新聞もまた批判的に読まなくてはいけない。

1200/橋下徹慰安婦発言と産経新聞。

 橋下徹慰安婦発言に関連する産経新聞の記事をウェブ上で探してみた。

 〇5/28に、<「河野談話」の撤廃を求める緊急国民集会>が開かれた。先輩同胞が「女性を性奴隷にした、などという罪を着せられていることはもっとも屈辱的なこと」等の佐波優子発言はもっともなことだが、他にも興味深い発言がなされている。以下はごく一部。

 ・一色正春-「橋下さんの陰に隠れているが、正直な発言をして日本維新の会を除名された西村真悟代議士を救わねば、正直者がバカをみることになってしまう」。

 ・黄文雄-「橋下市長の発言には100%賛成。西村真悟先生の発言に関しては120%賛成だ」、慰安婦問題に関して「マスコミも政治家も偽善的だ」。

 〇5/23付の「直球&曲球」欄で宮嶋茂樹はこう書いている(もちろんかなり省略している)。

 「国会のセンセイ方。半年前の総選挙のときは、…、橋下徹・大阪市長にすり寄っとったのに、“落ち目”と見るや、韓国人や“ジェンダーフリー原理主義者”に、くみしてまで手のヒラ返すか」。「そもそも“従軍慰安婦”なるもんは、頼まれもせんのにどっかの新聞が、どこぞで見つけてきて作り上げた『強制連行された慰安婦』を日本まで連れてきたんや」。

 「日本の大新聞もこの問題、批判するんやったら、傘下に置くスポーツ紙はフーゾクの記事や広告を一切、載せたらアカンで」。

 産経新聞には「傘下に置くスポーツ紙」はなかっただろうか。いや産経は「大新聞」ではないか?

 〇政治部編集委員の阿比留瑠比は、5/16付で、秦郁彦の助けも借りながら、「橋下発言検証『大筋正しいものの舌足らず』」と題して、論点をつぎの4つに整理し、つぎのようにまとめている。

 ①強制連行-1997年3月に「当時の平林博内閣外政審議室長」が国会・委員会で「強制連行を直接示す政府資料は発見されていない」と答弁。第一次安倍内閣は2007年3月に「軍や官憲による強制連行を直接示す記述も見当たらなかった」とする答弁書を閣議決定。「橋下氏は政府の公式見解を述べたに等しい」。

 ②各国の慰安所-GHQ下の東京、ベトナム戦争時の米軍や韓国の慰安所の利用や管理からして、「橋下氏の『なぜ日本の慰安婦制度だけが取り上げられるのか』との問題意識はもっともだ」。

 ③侵略の定義-橋下は「学術上、定義がないのは安倍晋三首相が言われている通り」と発言したが、「第一次安倍内閣は平成18年10月、『『侵略戦争』について国際法上確立されたものとして定義されていない』とする答弁書を閣議決定」。

 ④風俗業の利用・慰安婦の「当時の」必要性-「真意はともかく、秦氏は『政治家なら内外情勢を勘案し、何か主張する際には裏付けとなる証拠を示すなどもっときめ細かな配慮をすべきだった』と指摘」。
 以上のように見ると、①~④のうち、橋下徹発言に問題がある(=批判されてしかるべき)可能性があったのは、④だけであることになる。

 しかして、産経新聞は、橋下徹発言について、肝心の「社説」上ではいかなる主張をしたのか。次回に扱う予定だ。

1188/橋下徹のいわゆる慰安婦発言をめぐって。

 一 「正論を堂々と臆することなく述べる人物に対する、メディアという戦後体制側の恐怖と嫌悪感」という表現を、撃論シリ-ズ・従軍慰安婦の真実(2013.08、オ-クラ出版)の中の古谷経衡「”橋下憎し”に歪むテレビ芸人の慰安婦論」は末尾で使っている。
 このタイトルと上の表現の直後の「防御反応としての橋下叩き」という表現でも分かるように、冒頭の表現は橋下徹のいわゆる慰安婦発言に対するマスメディア側の反応についてのものだ。
 二 古谷によると、橋下発言に対する大手メディアの反応はおおむね4・4・2の割合で次に分かれたという。①「強制性」を強調して日本に反省を求める、②一定の理解を示しつつ「タイミングや発言のニュアンス、つまり方法論」に異議を述べる、③平和・議論必要等の美辞麗句を伴う「無知を基底とする思考停止」の反応。
 小倉智昭、田崎史郎、古市憲寿、吉永みち子、みのもんた、等が「歪むテレビ芸人」としてそれらの発言とともに紹介されているが、宮根誠司は「じっくりと議論していく。ちゃんと勉強して、諸外国の方に謝るべきところは謝る。いつまでもこの話を堂々巡りでやっていては日中韓の信頼は築けない」と述べたようで(日テレ系列)、上の③に分類されるだろう。古谷は「手前の無勉強を棚にあげての高みの謝罪推奨説教の美辞麗句」と評している。
 感心し?かつ唖然ともしたのは、紹介されている次の菊川怜の発言だ(フジテレビ系列)。
 「従軍慰安婦の問題で傷ついている人がたくさんいて、私は根本的に戦争とかをなくしていくという方向が気持ちとしてあります。従軍慰安婦について、強制だったとか、日本以外の国もやっていたとか言うのではなくて、それを反省して二度と戦争を起こしてはいけないという気持ちを持つことだと思います」。

 古谷によると「橋下氏は苦笑いで対応」したらしいが、この菊川怜の発言の仕方・内容は東京大学出身者にふさわしい、<二度と戦争を起こしてはいけない>ということだけはきちんと学んだ?、「戦後教育の優等生」のなれの果て、または「戦後教育の優等生」の、実際の日本が経験した戦争についての「無知蒙昧」のヒドさ、を示しているだろう。橋下徹発言に「戦争反対」とコメントとするのはバカバカしいほど論点がずれていることは言うまでもない。
 クイズ番組には登場できても、現実の歴史や日本社会の諸問題、政治的な諸思想・諸論争には関心を持たず、知らないままで、デレビ界で生き延びるためには、自分がそこそこに目立つためには、どうすればよいかをむしろ熱心に考えているのだろう「無知蒙昧」さを、「テレビ芸人」としての菊川怜は見事に示してくれた、と言うべきだ(むろんそのような者を使っているテレビ界自体により大きな問題があるのだが)。
 三 橋下徹のいわゆる慰安婦発言に対して<保守論壇>は、あるいは自民党はどう対応したのだっただろうか。
 詳細にはフォロ-していないが、橋下徹があとで批判していたように、自民党は<逃げた>のではなかっただろうか。自党の見解とは異なるというだけではなく、また政府見解は強制性を明示的には肯定していない等でお茶を濁すのではなく、橋下発言には支持できる部分もある、というくらいは明言する自民党の政治家・候補者が現れていてもよかったのではないか。
 自民党は公明党とともに<ねじれ解消>を最優先して、減点になりかねないとして重要な<歴史認識>問題の争点化を避けたのではないか。安倍晋三は密かには自民党だけでの過半数獲得を期待し、比例区での当選者が期待的予測よりも数名は少なかったことを嘆いたとも伝えられているが、その原因は<無党派層>を意識するあまりに確実な<保守層>の一部を棄権させたことにあったのではないか、とも思われる。

 四 <保守>派論者では、櫻井よしこは上記二の分類では明らかに②の立場を表明していた。テレビ界にも何人かは(決して「保守」派とは思えないが)存在はしていた、「タイミングや発言のニュアンス、つまり方法論」を批判する立場だった。

 櫻井よしこは、週刊新潮5/30号で橋下発言の要点を11点に整理した上で、7-11の5点を問題視し、自民党の下村博文文科大臣の、「あえて発言をする意味があるのか。党を代表する人の発言ではない。その辺のおじさんではないのですから」というコメントを「まさにそれに尽きる」と全面的に支持した。
 さらには、「歴史問題を巡る状況は本稿執筆中にも日々変化しており、これからの展開には予測し難い面がある。なによりも橋下氏自身が慰安婦問題をより大きく、より烈しく世界に広げていく原因になるのではないか。氏は日本の国益を大きく損ないかねない局面に立っている」と明記し、一部でいわれる「情報戦争」または「歴史認識」戦争の状況下で、橋下徹は「日本の国益を大きく損ないかねない」とまで批判(こきおろして)いる。
 興味深いのは、櫻井よしこは、問題がないとする(と読める)1-6の橋下徹発言については言及せず、正しいことを言ったとも明記せず、むろん褒めてもいないことだ。
 この櫻井よしこの文章は、実質的には<保守>内部での厳しい橋下徹発言批判だっただろう。
 このような櫻井よしこ的風潮が保守派内を覆っていたとしたら、<維新失速>も当然ではあっただろう。

 なお、何度か書いたように、櫻井よしこの<政治的感覚>は必ずしも適切ではない場合がある。
 産経新聞ははたしてどうだったのか。7/04付社説では(自民党は選挙公約には明記しなかったのに対して)憲法96条先行改正を明記した日本維新の会をむしろ肯定的に評価しているようだ。
 但し、先の古谷論考によれば、産経新聞もまた他紙と同じく「当時は」という限定を付けることなく橋下発言につき「慰安婦制度は必要」と見出しを付けたようだし、平然と<維新失速>または<第三局低迷>という客観的または予測記事を流し続けたのではなかったか。真に憲法改正のためには日本維新の会の(実際にそうだったよりも大きい)獲得議席の多さを望んでいたのだったとすれば、多少は実際とは異なる紙面構成・編集の仕方があったのではあるまいか。もっとも、定期購読をしていないので、具体的・実証的な批判または不満にはなり難いのだが。

1187/憲法改正に向けて維新の会や橋下徹は大切にしておくべきだ。

 遠藤浩一月刊正論2月号(2013、産経新聞社)の「保守合同こそが救国への道」で、次のことを述べていた。

 戦後の日本政治は昭和24年のように保守合同によって局面を打開してきた。憲法改正のためにも、民主党に匹敵する議席を獲得した「日本維新の会との連携を緊密にする必要がある」。安倍首相が本気で<戦後レジ-ムからの脱却>を目指すのなら、「自公政権」ではなく、「あくまでも、より厚みのある本格的保守政権の確立をめざす」べきではないか(p.37-38)。

 みんなの党への言及はないようで、タイトルにいう「保守合同」とはまずは自民党と日本維新の会の「合同」を意味させていると読める。

 大阪の維新の会が太陽の党と合併したことについては批判もあったが、既述のように両党にとってよかったと思っている。合併=橋下徹と石原慎太郎の結合がなければ、衆院選54議席の獲得はなかった。この点を、ジャパニズム11号(2013.02、青林堂)の田口圭「日本維新の会/その歴史と未来を徹底分析」は次のように適確に指摘している。
 石原慎太郎の維新の会への合流という<正しい判断>は、たちあがれ日本→太陽の党の「いわゆる愛国保守系の落選議員を多数当選させた」ことによって証明された(p.97)。
 また、田口は触れていないが、日本維新の会が全国的に多地域から支持を受けて比例区票数では民主党をも上回ったのは、大阪中心の、橋下徹らだけの維新の会ではなしえなかったことだろう。

 上の点はさておき、参院選直前にも、日本維新の会支持を明確にしていたのが、撃論シリ-ズ・大手メディアが報じない参議院選挙の真相(2013.08、オ-クラ出版)の冒頭の無署名(編集部)「反日マスコミの自民・維新の会包囲網を打ち破れ」で、つぎのように書いている。
 「維新の会は、歴史、外交、安全保障において、明らかに自民党以上に正当な保守政党としての理念を表明している」。

 残念ながら数ヶ月前に読んだためか文献を確認できないが、中西輝政もまた、<リベラル系>をなお含んでいる自民党に比べて日本維新の会は<保守性>が高いという旨を書き、上記の遠藤浩一のごとく、とくに憲法改正向けての自民党と日本維新の会の協力・連携を期待する旨をこの数カ月以内にどこかで書いていた。
 このような意見もあり、上記撃論の冒頭は、「維新の拡大なくして憲法改正はありえない、この認識が現在の政治を取り巻くもっとも重要な鍵である。…参院選は、自民党の安定した勝利、そして維新の凋落ーせき止めること、この二点に懸かっている」とも書いていた。
 そしてまた、同文章は、「一部保守派」による橋下徹批判をたしなめてもいる(p.3)。
 完全・完璧な人間や政党は存在するはずがないのであり、何が相対的に最も重要な論点・争点なのかについての間違いのない判断を前提として、橋下徹についても日本維新の会についても論評される必要がある。重要な政治的課題が憲法とくに9条2項の改正であることはほとんど言うまでもないだう。そして、日本維新の会は(橋下徹個人のこれまでのいちいちの発言ではなく政党の政策表明に着目すれば)9条2項の改正を支持している。
 このような状況において関心を惹くのは、月刊正論も出版している産経新聞社の維新の会・橋下徹に対する「社論」ははたして一致しているのか、だ。
 何度か書いたが、何しろ産経新聞社発行の月刊正論とは、その昨2012年5月号において、編集長・桑原聡が「編集長個人の見解だが、橋下氏はきわめて危険な政治家だと思う。…橋下氏の目的は日本そのものを解体することにあるように感じる」と、その「個人」による詳細な理由づけ・説明もないまま明記してしまっている雑誌だ(末尾、p.336)。そして、同号の表紙には、その編集者の見解に添ってだろう、C級哲学者・適菜収の論考タイトル、「理念なきB層政治家…橋下徹は『保守』ではない!」が一番目立つように大書されているのだ。そしてまた、月刊正論の公式ブログ内で「あなたの保守度」を点検などという読者に対する<上から目線>の設問を書いて遊んでいたりした編集部の川瀬弘至は、この適菜収論考を「とてもいい論文です」と好意的に評価してもいたのだ。
 産経新聞本紙が維新の会に対して少なくとも全面的に批判し敵対視しているというわけではないだろう。但し、少し怪しい記事もあるようだし、ネット上ではとくに関西発のニュ-ス・評価の発信の中に橋下徹や維新の会に対して厳しいまたは不要に批判的すぎると感じられるものもある。
 産経新聞社の維新の会・橋下徹に対する「社論」ははたして一致しているのか。少なくとも一部には、上記にいう「一部保守派」のごとき記事や論考もあるように感じられる。
 そして、そのような姿勢・「社論」では日本のためにならないだ
ろう。橋下徹に多少は?批判的なのが<真の保守>だ、などという勘違いはしない方がよい。
 桑原聡や川瀬弘至は見解を改めたのかどうか(後者は適菜に対してむしろ批判的になったのか)は知らない。たぶん明示的には何も書いていないだろう。
 その他の気になる「一部保守派」たちもいるので、さらに書き継ぐ必要があるようだ。
 なお、上記の撃論本で遠藤浩一は、「第三極の失速・減速」を理由として、先の「保守合同」論を改めている。この点も別の機会に扱う。

1184/久しぶりに月刊正論を読む-西尾幹二論考。

 産経新聞も月刊正論も定期購読しなくなって、かなり経過した。

 月刊正論8月号(産経新聞社)の西尾幹二「日本民族の偉大なる復興・上/安倍総理よ、我が国の歴史の自由を語れ」は、まったくかほとんどか、違和感なく読める。

 論旨の一部ではあるが、橋下徹のいわゆる慰安婦発言に対するコメントも-「旧日本軍だけを責めるのはおかしい、とくりかえし主張したことは正論で、良く言ってくれたと私は評価している。/ただ橋下氏は多くを喋り過ぎることに問題があった」等々-穏当またはおおむね公平な評価と批判だと思われる。

 西尾自身が自らの月刊WiLL6月号(ワック)上の論考に言及しているが、おそらく橋下徹はその西尾論考を読んでいただろう。記者の質問に対する咄嗟の応答の過程で西尾論考の基本的な内容も頭をよぎっていたのではないかと想像している。なお、質問をして橋下発言のきっかけを作ったのは朝日新聞の記者のようだ。「歴史認識」にかかわる質問をして十分な用意のないままでの<妄言>を引き出し、韓国政府・マスコミ等に批判させて日本国内で騒ぐ(そのために辞任した閣僚もこれまで何人もいた)、というのは、今回がそのまま該当するかは不明だが、朝日新聞がよくやってきた陰謀・策略的手口で、橋下徹もその他の「保守」政治家も<用心>するにこしたことはない。

 ところで、これまた西尾幹二の月刊正論論考の重要部分でないかもしれないが、そこで紹介されている渡辺淳一の週刊新潮上の連載随筆の一つ(橋下徹発言批判)には、それを読んでいなかったこともあり、あらためて驚愕した。この人物がこの随筆欄で50~60年代の「進歩的・左翼知識人」が言っていたような奇妙で単純なことを現在でも自信をもって書いているらしきことに驚きかつ呆れていたものだが、西尾はこう断じる-渡辺淳一は「日教組教育に刷り込まれた頭のままで成人して、以後人間と世界のことは新しく何も学ばずに成功し、太平楽を並べ、身すぎ世すぎができた幸福なご仁だ…」。
 西尾は「成功」と書いているが、けっこうな収入を得て有名にもなった、ということだけのことで、渡辺は日本国家・社会、日本人にとっては何事もなしてはいない人物にすぎないだろう。それはともかく、渡辺淳一、1933年生まれ。西尾幹二にも近いが、大江健三郎にも近い、私のいう、1930年代前半生まれの<特殊な世代>の一人だ。そして、西尾幹二の指摘する、「日教組教育」あるいはその基礎・背景にあるGHQまたはアメリカによる<自虐史観>教育を受け、成人後も、あるいは日本再独立後も、「人間と世界のことは新しく何も学ばずに」戦後の日本社会で生きてきた人間たちが、この世代には「塊」となってまだ残存している、と思われる。彼らは、いわゆる「団塊」世代よりもタチが悪い(大江のほかに同じく9条の会の樋口陽一や奥平康弘もこの世代だ)。
 大江、樋口、奥平あたりにはまだ「確信犯」的なところがあるだろうが、「新しく何も学ばずに」、現在で言えば、月刊WiLLや月刊正論「的」な論調があることやその正確な中身を知らず、そうした論調の一部を知るや<脊髄反射的>に、「保守・反動」だ、<偏っている>、と決めつけてしまう「単純・素朴な(バカの)」人たちがまだ多数いる。

 西尾幹二にはまだもっと活躍していていただく必要があるが、そういう人たちは、日本のためにも早く消え去っていただきたいものだ。

1174/橋下徹昨秋にいわく、日本共産党は事実誤認とウソばっかりの政党。

 〇半年以上前の古いことだが、橋下徹の面白く、かつ適切な発言をYouTubeの中から見つけたので、記録しておく。
 昨年2012年9月5日市役所登庁時の記者会見。堺市議会の日本共産党議員・石谷泰子が、ある大阪市地下鉄職員の自殺につき「橋下のせいで自殺した」との見出しの記事または文章を何かに掲載したらしい。そのことについての感想を質問されて橋下徹は以下のとおり答えた。

 「共産党だからしょうがないんじゃないですか。ウソばっかりの政党ですから。事実誤認とウソばっかりの政党なので、まぁそれくらいは共産党なので…。三流週刊誌以下でしょ。」
 ここまで明確に断言できる市長・政治家は少ない。少し表現を変えると、日本共産党は<事実歪曲とウソばっかりの政党>だ。

1166/資料・史料ー橋下徹対週刊朝日・朝日新聞再燃?

 週刊朝日の最近号(4/02発売号?)の一記事が再び橋下徹を刺激したようだ。ほとんど「資料・史料」扱いだが、以下に関連橋下徹ツイ-トを全文引用しておく。
 橋下徹には大いに週刊朝日と、そしてとりわけ、背後にいる、昨秋には第三者委員会の見解を紹介しつつ、自らは「深刻に受け止めている」とだけ述べ、厳密には橋下徹に対する「詫び」・「謝罪」の言葉をひとことも語らず、「深刻に受け止め」今後はもっと巧妙に橋下徹を非難・攻撃しますと内心では思っているのではないかと勘ぐることすらできる朝日新聞社と対決し、これらを攻撃してもらいたい。
 ただ、主観的意図を疑問視はしないが、ツイッタ-での表現方法には十分に気をつけてもらいたい。大丈夫だろうとは思うが、校正・推敲しないままで書きなぐっているとみえる文章が思わぬ致命的な誤りや言葉使いを含んでしまう可能性がないとはいえないだろう。
 せっかくの人材・逸材なのだから、つまらないミスで退場しなければならなくなるようなツイッタ-文章にならないように、公人・政治家の橋下は(周囲に人物がいるとすればその人物も)十分に気をつけてほしいものだ。
 2013年04月05日夜ツイ-ト

 「しかし週刊朝日も頭が悪いと言うか常識がないと言うか。こいつらは自分たちがやったことの反省と言うものがないのかね。自分たちは重大な人権侵害をやったにもかかわらず、半年やそこらでもう忘れているようだ。」
 「週刊朝日が僕に対して重大な人権侵害をやったのはつい半年前。そのことで公人チェックを緩める必要はないが、せめてそのような大失態をやったなら、真正面からの政策批判かルール違反行為の追及で攻めて来いよ。それを、こんな人をバカにしたような記事を載せやがって。」
 「5年も知事と市長をやってたら飽きられるのも当然だし、だいたい視聴率とるために知事や市長になったわけではない。自分でやらなきゃならないと思ってやっていることを、メディアが報じているだけだ。飽きられても結構毛だらけ。行列やたかじんのNOマネーに出たことを週刊朝日はちゃかしている。」
 「俺が知事になって今があるのは、行列のおかげだし、たかじんさんのおかげでもある。たかじんさんが復帰したと言うことで番組に伺って何が悪い。週刊朝日な、いい加減にしろよ。重大な人権侵害雑誌よ。こっちも公人だから公人チェックまでは否定しない。それでもやり方ってあるだろ。」
 「重大な人権侵害雑誌の週刊朝日よ、真正面からの政策批判か、ルール違反を追及する記事で勝負しろよ。だいたいお前らの100%親会社の朝日新聞は、日本の過去の歴史についてとにかく謝り続けなさいと、素晴らしい徳性に基づいて主張しているじゃないか。子会社の週刊朝日は社訓になっていないのか?」
 「僕は報道の自由を尊重する。民主主義の根幹だからだ。公人チェックの重要性を承知している。一度人権侵害を受けたからと言って、週刊朝日の僕に対するチェックを否定するつもりはない。それでもやり方ってあるだろ。真正面から来いよ。」
 「だいたい週刊朝日は、僕に対する人権侵害記事で、その号の部数を大幅に伸ばして利益を増やした。重大な人権侵害行為で儲けているんだ。普通だったら贖罪寄付をするが、どうしたんだい、人権侵害週刊朝日よ。まさか従業員の給料に回したんじゃないだろうな。」
 「報道の自由、表現の自由が民主主義の根幹だからと思って黙っていたが、こういう人権侵害週刊誌は、性根が腐っている。黙っていたら調子に乗るばかりだ。公人になってから報道の自由は絶対的に尊重していたが、こりゃダメだ。人権侵害週刊誌の週刊朝日に対して法的手続きを執ります。」
 「今回の茶化し記事についてではないです。過去の人権侵害記事について、民事、刑事の法的手続きを執ります。ほんと週刊朝日もバカだよねえ。」

 2013年04月06日朝ツイ-ト

 「週刊朝日は何を考えているのかね。そしてあの人権侵害記事をどう考えているのか。呆れるばかりだ。週刊朝日から市役所に面会申し入れが来た。誰が会うかバカ。僕はそんな暇人じゃない。報道機関だからと言って調子に乗るな。民主国家のルールで週刊朝日のやったことがどういうことがはっきりさせてやる。」
 「週刊朝日が社長を更迭し、僕に謝罪に来たが、それで僕が呑み込んだと言うことがどういうことが、あのバカ集団は分かっていないらしい。普通なら、慰謝料請求が当たり前だろう。僕は呑み込んだつもりだ。しかし請求権を放棄したわけではない。事実上、黙っていただけ。」
 「週刊朝日も終わっているね。事態が全く分かっていない。週刊朝日がとりあえず反省の姿勢を示したので、公人と言う立場から黙った。週刊朝日は自分の立場が全く分かっていない。報道機関だからと言って特別な地位にあるとでも思っているのか?あれだけのことをやって全てがチャラになると思っているのか。」
 「普通は配慮するだろう。ただ、僕も公人。あのような人権侵害があったからと言って、公人に対する正当なチェックまで否定しようとは思わない。ところが、週刊朝日のバカは、おちょくった記事を書いてきた。社を挙げて、半月前に頭を下げてきたあの日の事をもう忘れたか
 「報道機関だからと言って調子に乗るんじゃない。俺に対する人権侵害の記事で、いつもは売れない週刊朝日が10万部も増刷になったとか聞いた。人権侵害で利益を得たなんて、不法団体そのものだ。こちらの心情も推し量らずに、報道機関と言うことで、特権意識を持ったのか。」
 「週刊朝日よ。お前らがそういう態度なら、こっちもとことん行ってやるぜ。」
 「週刊朝日よ。二度目の面会なんてあるか、バカ。久しぶりに弁護士魂が燃えてきた。余計な仕事を増やしやがって。司法の場で決着を付けようぜ。」
 「週刊朝日だけでなく100%親会社、人材も重なり合う朝日新聞も訴えます。法人格否認の法理でね。週刊朝日と朝日新聞は別だとご気楽なコメントを出していたコメンテーターに何が問題なのか教えてやる。さて弁護士の仕事も一つ増えた。週刊朝日、朝日新聞が人権侵害報道機関であることを明らかにする
 「ツイッター返信で誤解が多い。しょうもない記事を書かれるのは公人だから仕方がない。週刊朝日は、重大な人権侵害行為をやったんだからそこは意識しろってこと。真正面から批判してくるなら良いが、自分たちがやったことをもう忘れたのかってこと。報道機関と言えども一民間企業だ。」
 「こっちは慰謝料は一銭たりとも何も受け取ってない。やつらは人権侵害行為で売り上げ増、利益増収。これはやっぱり公正じゃない。きちんと慰謝料請求する。そして刑事告訴もする。普通なら、こんな記事くらいで目くじら立てない。週刊朝日は過去に重大な人権侵害行為をやった。それを忘れるな。」

1164/2012.11.09朝日新聞社報道と人権委員会見解-週刊朝日橋下徹記事。

 資料・史料
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 週刊朝日の橋下徹・大阪市長についての連載記事に関する、朝日新聞社・報道と人権委員会の見解
 2012年11月9日  朝日新聞社報道と人権委員会
 委員 長谷部恭男
 委員 藤田 博司
 委員 宮川 光治

 1.当委員会の調査の経緯と見解の要旨
  当委員会に対し委員藤田博司から,本年10月20日,週刊朝日10月26日号掲載の標記記事(以下「本件記事」という。)に関して,重大な人権侵害,及び朝日新聞出版記者行動基準に触れる行為があると判断されるので当委員会で取り上げることが相当であるとする問題提起があった。また,株式会社朝日新聞出版(以下「朝日新聞出版」という。)から,10月24日,今後の再発防止策等を検討するため記事の内容や作成過程,批判を招いた事態などについて見解を示すよう要請があった。当委員会は調査を開始した。まず,朝日新聞出版より企画段階から取材・報道,連載中止に至るまでの経緯について報告書の提出を受けた。次に,本件記事の取材・報道に関わった週刊朝日編集部(以下「編集部」という。)の河畠大四編集長(以下「編集長」という。),デスク,記者,雑誌部門の責任者である雑誌統括ら及び筆者であるノンフィクション作家・佐野眞一氏から聞き取りを行った。11月3日,委員会を開催し,朝日新聞出版から詳細な説明を受けたうえで,編集長,デスクらのほか佐野氏からもあらためて説明を聞いた。そして,以上の調査の結果を踏まえて審議し,以下の通り本見解をまとめたものである。

  (当委員会の見解の要旨)
  本件記事は,橋下徹・大阪市長(以下「橋下氏」という。)についての人物評伝を意図したものであり,10回から15回を予定した連載の第1回分であるが,見出しを含め,記事及び記事作成過程を通して橋下氏の出自を根拠にその人格を否定するという誤った考えを基調としている。人間の主体的尊厳性を見失っているというべきである。そして,部落差別を助長する表現が複数個所あり,差別されている人々をさらに苦しめるものとなっている。また,各所に橋下氏を直接侮辱する表現も見られる。さらに記事の主要部分が信憑性の疑わしい噂話で構成されており,事実の正確性に関しても問題がある。
  以上は,報道を通じて差別や偏見などの不当な人権抑圧と闘うことを使命の一つとし,正確で偏りのない報道に努めなければならない報道機関として,あってはならない過ちである。本件記事の作成及び掲載に携わった者たちは差別に対する認識及び人権への配慮を欠いていたというべきで,編集部におけるチェック体制が的確に機能していないという問題も存在している。
  また,企画段階からタイトルの決定,表紙の作成,情報収集,原稿チェック,おわびの掲載まで編集部が主体になり,佐野氏は編集部の意向を受けて取材・執筆活動をしており,問題の責任は全面的に編集部側にある。ただし,佐野氏も人権や差別に対する配慮の足りない点があったと思われる。
  以下,企画から掲載後の対応に至る経緯を検討し,そこにおける問題点を指摘する。

  2.企画段階での問題
  この連載企画は,本年春頃,編集部において,編集長の提案により将来の首相候補とも言われる橋下氏の人物評伝として検討され,編集部の「目玉企画」として部数増対策の一環にも位置づけられた。編集長は外部の作家に執筆を依頼した方がよりインパクトの強い記事ができると考え,ノンフィクション作家として多くの実績があり孫正義ソフトバンク社長の評伝『あんぽん』を上梓した佐野氏が適任であると判断し,同氏と親交があるデスクに本企画を担当させた。担当デスクは,『あんぽん』と同様の手法で,橋下氏の人物を描くことはもちろんのこと,家族の視点で日本の社会史を描くというスケールの大きい作品をイメージした。
  デスクは佐野氏と話し合い,企画の狙いとして概ね次の3点を説明し,単なる人物評伝にとどまらず,各視点を総合した作品とすることに関して佐野氏の同意を得た。①橋下氏を知る多くの人たちの証言を得て橋下氏の人物像に迫り,それが彼の政治姿勢や政治思想とどう関わるのかを探る。②橋下氏の巧みなマスコミ操作を検証し,他方,メディアに今何が起きているのかを考える。③ツイッターを多用する橋下氏の手法を通じて,政治とネット社会を探る。担当デスクは,①との関連で,橋下氏の政治信条や人格に出自が投影しているであろうとの見方に立ち,出自について書くべきだと考えていた。それが差別を助長することにならないかという点に関しては,橋下氏は公人中の公人であり,知る権利,表現の自由からもその名誉及びプライバシーは制限されること,その人物の全体像を描くこととの関連で取材の対象に家系を構成する人々を入れることは必然であることから,表現することは可能であると考えた。
  6月末頃から,記者2人が取材活動を開始した。9月半ばまでに,橋下氏の親戚,各地の知人,維新の会議員,関西政界関係者,部落解放同盟関係者,郷土史家ら,60人近い人々に取材した。9月中旬には数日,佐野氏も取材に出向いた。9月20日頃,デスクは佐野氏から構想について書かれたペーパーを受領し,説明を受けた。2回目までは父親の話,3回目,4回目は母親の話,5回目以降は橋下氏の中学・高校時代,弁護士時代,知事時代,市長時代と続き,各回においてマスコミ論やツイッター社会論に触れるという構想であった。10月初め,10月16日発売の10月26日号から連載を開始することが決定した。
  以上の経緯によれば,本企画は,多様な視点を含みつつも,差別や偏見を助長する危険の伴う極めてセンシティブな内容であったことが認められる。したがって,本企画については,その狙いの当否,各視点の相互関係,手法,表現のあり方等について,社内において慎重に議論すべきであった。しかし,これらを検討する資料となる企画書はなく,レジュメもコンテもない。佐野氏が示した連載展開の概要像も編集部で検討した事実はない。本件は,企画の段階において,慎重な検討作業を欠いていたというべきである。

  3.タイトルの決定及び本件記事の問題
  9月23日頃,担当デスクと佐野氏が打ち合わせる中で,デスクは孫正義氏に関する評伝が,孫氏の通名であった「安本」からとった「あんぽん」というタイトルであることにも影響され,また,すでに週刊朝日(8月17日,24日合併号)で,橋下氏の父が「ハシシタ」姓を「ハシモト」に変えたと報じていたこともあり,連載のタイトルをもともとの呼び名である「ハシシタ」とすることを思いつき,佐野氏に提案した。佐野氏はこれを了承した。
  氏名はその人の人格を表象するものであり,氏名権は人格権の一つとされている。一般に,氏名と異なる呼称をことさらに用いることは,人格権を侵害することにもなりかねない。本件では 
,「ハシシタ」とことさら呼称することに,読者は橋下氏に対する侮蔑感情を読み取ると思われる。また,「奴の本性」というサブタイトルの「奴」「本性」という言葉にも橋下氏への敵対意識,侮蔑意識を窺うことができる。それらが大きなタイトル文字として表紙を飾っていることが,一層,敵対・侮蔑の度合いを強めている。なお,表紙の作成には佐野氏は関与していない。
  表紙の「DNAをさかのぼり 本性をあぶり出す」といった表現を含め,本件記事全体の論調から,いわゆる出自が橋下氏の人柄,思想信条を形成しているとの見方を明瞭に示している。人物像を描く際に,出自をたどる取材をすることはあり得る。しかし,極めて慎重に報道することが求められる。出自が人格と何らかの関連を有することがあり得るとしても,それは人格を形成する非常に多くの要因の一つにすぎないのであって,決定的要因とはなり得ないものである。出自と人格を強く関連づける考えは,人間の主体的な尊厳性を見失っており,人間理解として誤っているばかりか,危険な考えでもある。なお,家系図を掲載しているが,こうした流れに照らすと橋下氏が家系(血筋)に規定されているという前提での参考図と位置づけられているとも理解でき,極めて問題である。
  本件記事の主要部分は,「大阪維新の会」の旗揚げパーティーに出席していた正体不明の出席者と,縁戚にあたるという人物へのインタビューで構成されている。彼らの発言内容は,橋下氏の親族に関する話であり,橋下氏の出自につながる部分であるが,噂話の域を出ていない。前者は発言自体から信憑性がないことが明白である。後者はその信憑性を判断する手がかりが読者にはまったく提供されていない。人権に関わる伝聞事実については裏付け取材をすることが基本であるが,本件記事ではそうした裏付け取材がなされていることを読み取ることができない。
  本件記事には被差別部落の地区を特定する表現がある。朝日新聞出版記者行動基準には「報道を通じて,民族,性別,信条,社会的立場による差別や偏見などの人権侵害をなくすために努力する。」とあるほか,報道の取り決めにも「人権を守る報道」に関する基本的な考えが示されている。また,取り決めには,具体的に「被差別部落の場所が特定されないよう十分配慮する。」と明記されてもいる。本件記事は,これらに明白に違反している。

  4.記事チェック段階での問題
  10月9日夕刻,本件記事の原稿が佐野氏から担当デスクの手元に届いた。デスクと2人の担当記者は読んだが,編集長の手元に原稿が届いたのは12日昼頃であった。遅れた理由について,デスクは「原稿には秘匿すべき情報提供者らの名前が入っており,そのままでは渡せなかった」と言っている。しかし,編集長は当然すべての情報源を知るべき立場にあり,編集部の責任者にデスクが情報源を伝えないという考えは誤りである。
  原稿を読んだ編集長は,部落差別に関連する文章上の問題点をデスクにいくつか指摘し,同時に,雑誌統括に当該原稿をメールで転送した。折り返し雑誌統括は「こんなことを書いていいと思っているのか。掲載できると思っているのか」と編集長と電話で激しくやり合った。雑誌統括からの依頼で原稿を読んだ他部門の社員からも,原稿には多数の問題があるという指摘があった。12日夕刻にも雑誌統括の依頼で原稿を読んだ雑誌編集の経験が長い社員は,「出自が悪い者はろくなやつがいないという考えそのものが誤りだ。完全な差別表現であり,これはダメだ。」という意見を述べている。雑誌統括はこうした意見を編集長に伝え,編集長は,デスクに佐野氏と交渉して直しを検討するよう求めた。佐野氏は当日,テレビのゲストコメンテーターとしての仕事があり,検討が遅れたが,締め切り日である13日夕刻,数点の修正を行った。雑誌統括は,さらに被差別部落の地区の特定その他の削除を強く求めたが訂正されなかった。最後は,編集長が「これは佐野さんの原稿です。これで行かせてください」と押し切った。表紙が12日に校了しており,この段階では掲載中止は困難であった。掲載するか雑誌自体の発行を停止するかという選択であったが,発行停止が検討された形跡は見られない。 
 こうして16日発売に至った。
 編集部内ではこれまで,このようなセンシティブな問題に関する記事掲載の際には,顧問弁護士に助言を求めるリーガルチェックを行うことがあった。しかし,締め切り間際に表現の手直しに追われたため,今回はリーガルチェックを受けることもなく,最後は「時間切れ」の状況で,掲載に至っている。出自が人格を規定しているという誤った考え方を基調とし,主要部分を信憑性が乏しいインタビューで構成していることが問題なのであって,表現の手直しでは解消できる問題ではなかった。編集部としては,その点にいち早く気づき,本件記事の掲載を止めるべきであった。佐野氏から本件記事の原稿が編集部に届いたのは9日夕刻であり,デスクが原稿を直ちに編集長に示していれば,編集長は社内の意見を聞くとともにリーガルチェックを受けることが可能であった。
 なお,社内では差別的表現や侮蔑的表現に関し多くの点が指摘されている。編集部はデスクを通じて佐野氏にすべて伝えたとしているが,佐野氏は「指摘があったところで飲めないところはなかった」といい,言い分が食い違っている。社内の指摘が担当デスクを通じて佐野氏に的確に伝えられていたかどうか疑問である。また,編集部は筆者のオリジナリティーを大切にしたいという思いがあったとしているが,そのような範疇の表現ではなく,事柄の重大性に対する認識が欠けていたといわなければならない。
 本件記事と同内容に近い記事が既に他の月刊誌・週刊誌等に複数掲載されている。編集部や記事をチェックした者たちは,それらについては橋下氏からの特段の抗議はなく,社会問題ともなっていないと即断し,こうしたことから本件記事も許されるものと考えたとしている。しかしながら,仮にそうだとしても,人権侵害を拡散し,再生産した責任を免れることはできない。

 5.掲載後の対応の問題
 掲載後の対応にも問題があった。橋下氏が記者会見をした10月18日前日の17日夜に朝日新聞出版が発表した「今回の記事は,公人である橋下徹氏の人物像を描くのが目的です。」などとするコメントは,発行から2日経っていながら,本件記事の正当化とも受け取れるものである。また,18日夜に発表したおわびコメントや,週刊朝日11月2日号に掲載した編集長名での「おわびします」でも,タイトルや複数の不適切な記述に関するおわびにとどまっていた。この段階においても,問題の本質に気づいていなかった
  連載中止については,佐野氏は「1回目だけを読んで判断すべきではない。中止は言論機関の自殺行為だ」としている。また,この問題に関する新聞等の報道では,中止は読者の期待を裏切り,知る権利を損なうことを意味すると指摘する識者もいた。しかし,連載を続けるためには,この問題についての検証,編集態勢の見直し,企画の狙いや記事執筆の基本的な考え方などの再検討,タイトルの変更などが必要だった。さらに,2回目以降も橋下氏の親族を取り上げることが予定されており,過ちを繰り返さないためには一層の慎重さが求められた。以上の点を考えると,継続は困難であり,連載中止はやむを得なかった。

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 <出所-朝日新聞出版ウェプサイト。太字化・下線は掲載者>

1161/日本維新の会54議席と橋下徹らへの佐伯啓思の評価の適切さ。

 旧たちあがれ日本の日本維新の会への合流について、維新の会の純粋さ・新鮮さがなくなった、政策があいまいになった、等の批判もあったようだ。しかし、私は、橋下徹グループと石原慎太郎グループの合流・新しい日本維新の会の結成は、結果としてもよかったことだ、と思っている。
 橋下徹はもともとは全選挙区に候補者を立てるとか過半数の獲得を目指すとか言っていたが、これらは橋下一流の建前的「ホラ」のようなものだっただろう。そして、衆議院議員選挙で(合流後の)日本維新の会が民主党の57に次ぐ(ほぼ並ぶ)54議席を獲得したことは、第三極の失速とも言われた中での、大きな成果だっただろう。
 小選挙区での当選者が大阪府下に限られていたことをもって、全国的な広がりに欠けた、という論評もある。だが、選挙区では自民党2564万、民主党1360万に対して日本維新の会は694万で大きく劣ってはいたものの、比例区では、自民党1662万に次ぐ1226万を獲得して第二党であり、民主党の963万を大きく上回った。
 54という議席のかなりの部分は、比例区での獲得票の多さによる。そして、この全国的な(東日本を含む)比例区票の獲得は大阪中心の橋下・松井グループだけでは不可能で、石原慎太郎のネームバリューや(もともとたちあがれ日本が持っていた)全国的に散在する「保守」への期待によって可能になったものと思われる。繰り返せば、もともとの、橋下・松井グループだけの日本維新の会では、54議席の獲得は無理だったに違いないと思われる。
 そして、54という数は決して小さくはない。この欄の11/30付で「来月の総選挙の結果として憲法改正派2/3以上の勢力が衆議院の中にできるとは想定しがたい(この予測が外れれば結構なことだ)」と書いたのだったが、自民党と日本維新の会を合わせて、348も、みんなの党まで含めると366と、2/3をゆうに超える(3/4をも超える)議席を獲得してしまった。これで憲法改正(・自主憲法制定)が一挙に近づいたとはもちろん考えないが、理念的・理論的には改憲派の政党がこれだけの議席を衆議院で持っていることの意味は、決して軽視してはならないだろう。
 ところで、すでにこの欄の11/24と11/25で11/22の産経新聞上の佐伯啓思「正論」に言及したが、「大衆迎合の政治文化問う総選挙」というタイトルを掲げた同欄で佐伯啓思は、「今回の選挙の基本的な争点」は「あまりにポピュリズムや人気主義へと流れた今日の政治文化に決着をつけうるか否かでもある」と(も)述べていた。
 佐伯啓思にまじめに質問したいものだ。そのように述べていた佐伯啓思において、今回の総選挙の経緯と結果は、いったいどのように総括され、評価されているのか? 「大衆迎合の政治文化」は、あるいは「あまりにポピュリズムや人気主義へと流れた今日の政治文化」はさらに拡大したのか、それとも少しは(あるいは大いに)是正されたのか?
 この問いに答えることは、全国紙の11/22付で上のように述べた言論人の<責任>なのではないか。
 たまたま読んだ読売新聞12/30朝刊の中で、細谷雄一(慶応大学教授)は、「反原発や反増税などポピュリズム(大衆迎合主義)とも思える政策」という表現を用いて少なくとも「反原発や反増税」は「大衆迎合主義」の政策だったという見解を示し、これらの政策を掲げた政党は支持を得られなかった、とも述べていた。
 佐伯啓思にまじめに質問したいものだ。佐伯は11/22に「橋下徹氏の唖然とするばかりの露骨なマキャベリアンぶり」という言辞も使っていたのだが、日本維新の会、あるいは自民党の原発、増税、憲法等々についての諸政策は「大衆迎合主義」に陥っていたのかどうか。
 石原慎太郎グループとの合流前の維新の会の主張が<脱原発>寄りだったことは否定できず、それには飯田哲也(のち日本未来の党代表代行)等から成る大阪府市(?)エネルギー戦略会議の見解の強い影響があったと思われるが、石原グループとの合流後は、よい意味でこの点は曖昧になったと私は思っている。
 佐伯啓思は、「(政治)改革」という「大衆迎合主義」(・ポピュリズム)の流れの中に橋下徹や維新の会がある、という捉え方をこれまでし続けてきた。
 このような評価はそもそも適切だったのか。中高年層に「痛み」を求めることもあることを明言し、決して「大衆」受けはまだしそうにない「憲法」問題にも論及する日本維新の会は、そして橋下徹は、決して「大衆迎合主義」者・ポピュリストではないのではないか。
 真摯な言論人・研究者であるならば、佐伯啓思にはぜひ、上の問いに答えてもらいたいものだ。

1158/毎日新聞12月09日社説と橋下徹の反論-集団的自衛権。

 毎日新聞の2012年12月09日社説は、集団自衛権行使を可能とする自民党や日本維新の会の主張に反対している。
 だが、以下に橋下徹の反論ツイッターのやや長い全文を紹介するように、その趣旨・論理は不明瞭だ。
 憲法解釈として集団自衛権の行使不可能や行使の際の限界が疑いもなく出てくるのであれば、すでに、同社説のタイトルのいう「社説:集団的自衛権/憲法の歯止めが必要だ」は、満たされている。憲法上の限界がすでにあるのだ。
 だが、憲法の意味内容の解釈が一義的に明確ではないからこそ、複数の解釈が生じうるのであり、従来の政府解釈の変更に対して「憲法の歯止め」とか「憲法上の制約」とかを語っても、まったく無意味だ。その「憲法」の歯止め・制約の内容自体が明らかではないのだから。
 さらに突っ込んだ、適確とみられる鋭い指摘を、橋下徹はしている。
 憲法と法律の関係、憲法「解釈」というものの性格・位置づけについての基礎的な素養が必要なので、橋下徹の文章の意味は、 毎日新聞社の社説氏とともに、一般の読者には分かりづらいかもしれない(それでも全国紙の社説の書き手がこの程度のことは理解しておけよ、くらいのことはいえる)。
 以下、毎日新聞社説と橋下徹の反論ツイッターのそれぞれ全文のそのままの引用。なお、橋下徹の文章は10回余りに分けて書かれたものを連続化したものだ(10分以内で一気に書かれていることも、ある種、驚くべきところがある)。
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社説/集団的自衛権 憲法の歯止めが必要だ
毎日新聞 2012年12月09日
 「自民党が衆院選の政権公約で、集団的自衛権の行使を可能とし、これを盛り込んだ「国家安全保障基本法」を制定すると主張している。日本維新の会も同様の公約を掲げた。
 これに対し、共産、社民両党は反対を明確にし、公明党も慎重姿勢である。民主党公約には言及がない。
 政府は従来、憲法9条が許容する自衛権行使は日本を防衛する必要最小限度にとどめるべきもので、集団的自衛権行使はその範囲を超え、憲法上許されないとしてきた。自民党の主張は、改憲しなくても集団的自衛権を行使できるよう、憲法解釈を変更しようというものだ。
 日米同盟は日本の安全保障政策の基盤であり、東アジアの安保環境は厳しさを増している。今後、日米の共同対処が求められる場面も想定されよう。日米同盟の効果的な運営に集団的自衛権行使が必要だとする政治的要請が強くなっている。具体的には、共同行動している米艦防護、米国に向かうミサイルの迎撃が議論となることが多い。これらは集団的自衛権行使の限定されたケースにとどまっているとも言える。
 しかし、自民党の憲法解釈によると、集団的自衛権の行使について憲法上の制約はない。歯止めを設けるとすれば、法律(国家安全保障基本法)によるとの考えのようだ。
 これでは、憲法が他国の領土における武力行使も容認していることになってしまうのではないか。北大西洋条約機構(NATO)加盟の英国は集団的自衛権の行使としてアフガニスタン戦争に参加したが、憲法上は日本も参戦が可能となる。
 現憲法が他国の領土、領海での戦争参加を認めているとは到底考えられない。集団的自衛権行使を容認するよう憲法解釈を変更するとしても憲法による歯止めは必須である。
 集団的自衛権をめぐる議論の中には、現憲法の下でも、「日本の実体的権利が侵害されている」と認定される場合には、その行使が容認される余地が生まれるとの解釈もある。その場合は「日本の防衛との緊密性、一体性」が要件となる。たとえば、いわゆる「周辺事態」において共同行動している米艦防護はこれにあたろう。この議論では、「緊密性、一体性」なしには集団的自衛権は行使できない。これは憲法上の制約である。
 現在の政府の憲法解釈は長年の論議の積み重ねの結果であり、法体系の根幹である憲法の解釈変更には慎重な検討が必要だ。日米同盟の重要性や安保環境の変化といった「政治論」だけ で「憲法論」を乗り越えるという手法には違和感が残る。」
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 橋下徹 2012年12月10日 ツイッター
 「12月9日毎日新聞社説。集団的自衛権。憲法の歯止めが必要だ。この社説は酷過ぎる。もう少し法の専門家の話を聞いた方が良い。もうロジックがぐちゃぐちゃ。結局、集団的自衛権が嫌な
もんだから、結論先にありきなので、ロジックがぐちゃぐちゃ。何を言っているか分からない。
 集団的自衛権の権利は認めるが、行使を認めないと言うのは政府の憲法解釈。毎日の社説は、憲法解釈を変更するとしても憲法の歯止めが必須である。えーーーっ?それをやるなら憲法改正しかないですよ。憲法が一義的でないから、解釈の余地が生まれる。ゆえに解釈に憲法自体は歯止めにはならない。
 だから憲法解釈に歯止めをかけるのは、憲法改正か立法しかない。そもそもこのような重大な憲法解釈を行政・内閣法制局に許していることの方が問題。憲法を改正するか、法律で明確化するか。この解釈を今の憲法で歯止めをかけろって・・・・歯止めにならないあいまいなものだから解釈が生まれるのに。
 毎日のこの社説は、大手新聞社の社説では見られないほどのロジック破綻。憲法解釈に歯止めがかからなくなるのは危険だ。そこは毎日に賛同。そこでその実践論。まさに毎日も政策の実現プロセスの認識が全くない。今の憲法は歯止めにならない。ゆえに方法は2つ。憲法改正か法律の制定か。
 毎日は、憲法改正は嫌だし、国家安全保障基本法も嫌。それが絶対条件だから、ロジックがむちゃくちゃになった。憲法解釈に歯止めをかけるのは憲法改正か法律の制定しかない。毎日は憲法改正反対だから、そうなると法律の制定しかない。法律で解釈に制限をかければ良いだけだ。
 僕はもっと自衛権の範囲を広げるべきという立場。毎日はそれを危険視しているのであろう。だからこそ、法律で明確化すれば良い。内閣法制局が憲法の最終解釈者ではない。毎日はそこも分かっていない。立法府も憲法解釈はでき、少なくても内閣よりも建前上は上だ。憲法の最終解釈者は司法だ。
 毎日は中学の公民の教科書をもう一度勉強すべき。なぜ政府の内閣法制局の憲法解釈を絶対視するのか。毎日の社説の最後の文章は致命的。「政治論」だけで「憲法論」を乗り越えるという手法には違和感がある。もう世も末だ。まさに政策の実現プロセスを全く認識していない。
 この毎日の社説は、内閣法制局の「憲法論」を、国会の「憲法論」が超えてはならないというロジック。日本の憲法上は逆だ。国会の憲法論を、内閣の憲法論が超えてはならない。だから法律

制定こそが健常なのだ。毎日は何故内閣法制局の憲法解釈を絶対視する?国会が超えてはならないのは、司法の憲法論だ。
 憲法論と言っても、誰が解釈するかでその意義は全く異なる。日本において憲法の最終解釈者は裁判所。だから憲法解釈においては国会=政治は裁判所に従わなければならない。しかし、国会は内閣法制局の憲法解釈に従わなくても良い。内閣法制局と国会の見解が異なるなら、国会は法律を作れば良いだけだ。
 12月9日の毎日新聞の社説は、毎日の哲学が端的に表れている。政府・内閣至上主義。国会はぼんくら集団。まあそう思われるような国会にも責任があるが。しかし日本の統治機構上は、毎日の考えは絶対に間違いだ。政治論が憲法論を超えてはならない・・・・すごいフレーズ。
 毎日新聞は、国会議員の憲法論は、内閣法制局の憲法論を超えてはならないということ。政治論とは国会議員の議論との意味だろう。しかしそこでの議論の対象は、まさに憲法論。だから国会議員と内閣法制局の憲法論同士のぶつかり合いに過ぎない。そして毎日は内閣法制局至上主義。今の憲法に反しますよ!」
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 毎日新聞の社説執筆者は「中学の公民の教科書をもう一度勉強すべき」とまで、書かれているのだが、はたして上の橋下の文意をきちんと理解できるのかどうか。
 こうしたレベルの憲法(とくに9条)にかかわる論述が大手マスメディアによって堂々と平気で書かれているのだから、憲法にかかわる議論が一般有権者にわかりにくいものになっているのも当然だ。
 いつかすでに書いたように、現9条一項で禁止されているのは戦争一般ではなく「侵略戦争」のみである、ということすらわきまえていないような(産経新聞の)論述もあった。
 現9条の問題には、今後も何度か言及しておく必要がありそうだ。

1153/西尾幹二が橋下徹について語る-月刊正論1月号。

 橋下徹を擁護する文章をこの欄に書いてはいるが、いつかも触れたように、この人物のすべてを、この人物の主張・言動のすべてを手放しで賞賛しているわけではない。
 ただ、橋下徹を「保守ではない」とか「ファシスト」・「ヒットラ-」だとか、あるいは佐伯啓思のごとくロベスピエール(の再来の懸念あり)>だとか、簡単または単純に決めつける論調が自称<保守派>の中にすらあることに強い危惧を覚えているのだ。
 佐伯啓思の名を先に挙げてしまったが、中島岳志-本質が「左翼」ならば当然だが-、適菜収、新保祐司、月刊正論編集長・桑原聡らがこれに該当する(藤井聡もこれらに近い)。
 月刊正論2013年1月号(産経)に、西尾幹二「救国政権誕生の条件と保守の宿命-危機克服のリ-ダ-に誰を選び、何を託すのか」がある。
 西尾論考全体の趣旨の方が重要だろうが、橋下徹への言及もあるので、ここでも触れておく。西尾が橋下徹に論及するのを読むのは初めてでもあるからだ。
 結論的に言って、西尾の橋下評は穏便で、無難なものだ。
 西尾幹二の橋下評は、「橋下氏は毀誉褒貶が激しいが、私は早くから好意を抱いてきた」から始まる(p.80)。続けて述べる-「言葉は激しく時に辛辣だが、意外に柔軟性がある。自分に対して謙虚なところもあって、彼からは決して傲慢なイメ-ジは受けないのである」。
 基本的に私と異ならない。はっきりと意見を述べることと、「ファシスト」・「独裁者」とはまるで異なる。そのような論評の仕方をする者またはグル-プの中に私は「左翼」を見い出してもきたのだ。
 西尾幹二が「都」は天皇のおられるところ一つで、「大阪都構想」はおかしいという点も同感できる。ただ、言葉遣いのレベルの問題で、東京都制のように政令指定都市ではない特別区をうちに含む大都市制度というイメ-ジで用いられている可能性はあるだろう。
 西尾幹二はまた、橋下に「地方」のイデオロギ-に「過度にこだわらないでほしい」と助言し、道州制には反対だと述べている。
 果たして橋下徹が<地方のイデオロギ->を持っているかは、とくに「イデオロギ-」という語が適切かは疑問で、コメントし難い。また、道州制の問題は種々の具体的制度設計にかかる議論が今後なされなければならない。「アメリカ式」の「州政府」を持つものに必ずなるのかは疑問だし、アメリカやドイツのように州憲法までもつ「道州」が日本で構想されているわけでもないだろう。
 「国家観の根幹がぼやけている危ういと思うこともある」、というコメントも理解できる範囲内だ。ついでながら、石原慎太郎・橋下徹らの日本維新の会は、できるだけ早く、制定を目指すという「自主憲法」の具体的内容を明らかにすべきだろう。
 西尾幹二の橋下徹への言及はつぎの文章で終わる。
 「どうかもっと勉強してほしい。若いのだから、歴史も法律も国際関係もいくら学んでも学び足りない謙虚さを一方ではもちつづけてもらいたい」。
 何と暖かい言葉だろう。40歳すぎそこそこの人間に過大な注文をつけるな、若造に高いレベルのものを要求した上で物足りないと言って批判・攻撃するな、というのは、単純で乱暴な橋下徹批判論に対して感じてきたことでもある。

 西尾幹二は安倍晋三、石原慎太郎についても興味深いコメントを明確にしている。紹介は省略して、今回はここまで。

1151/自主憲法制定と維新の会・橋下徹、橋下徹をヒトラ-扱いした新保祐司。

 一 日本維新の会は11/29発表の衆院選公約「骨太2013-2016」で「自主憲法の制定」を明記したようだ。
 おそらくは現憲法の改正というかたちをとると思われる「自主憲法の制定」をし、「…軍その他の戦力」を保持しないと明記する現9条2項を削除して正式に「国防軍」または「自衛軍」(前者の方がよいだろうといつぞや書いた)を保持するようにしてこそ、中国・同共産党とより強く対決できるし、アメリカに対する自主性も高めることができる、と考えられる。「自主憲法の制定」は、<戦後レジ-ムからの脱却>の重要な、かつ不可欠の徴表であるに違いない。
 今から10年以内に、ということは2022年末までに、現9条改正を含む「自主憲法の制定」ができないようでは、「日本」はずるずると低迷し、やがて<消滅>してしまう、という懸念をもつ。
 来月の総選挙を除いて3~4回の総選挙があるだろう。2013、2016、2019、2022年には参議院選挙がある。最も遅くて、2022年には改正の発議と国民投票が行われなければならない。
 先立って改正の発議条件を2/3以上から過半数に改正しようとの主張も有力にあるようだが、それをするにしても、国会各議院の議員の2/3以上の賛成が必要だ。
 問題は、したがって、どのようにして憲法改正賛成2/3以上の勢力を国会内に作るか、にある。
 かりに自民党が第一党になり維新の会がかなりの議席を獲得したとしても、来月の総選挙の結果として憲法改正派2/3以上の勢力が衆議院の中にできるとは想定しがたい(この予測が外れれば結構なことだ)。
 従って、何回かの総選挙、参議院選挙を通じて、徐々に各院で2/3以上になるように粘り強く闘っていくしかない。
 改憲案をもつ自民党以外に(必ずしも改憲内容は明確でないが)「自主憲法制定」を目指すとする日本維新の会が誕生していることは貴重なことだ。これに加えて、現在の新党改革やみんなの党の他、現民主党内の松原仁のような「保守」派をも結集して、何とかして2/3以上の勢力確保を達成しなければならない。
 二 かかる時代状況の中で、日本維新の会の要職(代表代行)を占める橋下徹を「きわめて危険な政治家」などと評していたのでは(月刊正論編集長・桑原聡)話にならない。
 ましてや、純然たる「左翼」ならばともかく、橋下徹を「ファシスト」と呼んで攻撃している(自称)保守派がいるのだから、「自主憲法制定」への径は険しいと感じざるを得ないし、そのような感覚を誤った保守派らしき者は、改憲への闘いを混乱させるだけだろう。
 新保祐司は産経新聞「正論」欄に登場するなど<保守派>らしいが、産経新聞社発行・桑原聡編集長の月刊正論の2012年6月号の遠藤浩一との対談の中で、橋下徹の言動を眺めて小林秀雄「ヒットラアと悪魔」を思い出した、「やはりヒトラ-の登場時とよく似ている」、ヒトラ-と同様に「高を括れるような人物じゃない」、「橋下ブ-ムは、構造改革のどん詰まりに咲いた徒花」かもしれない、等と語っている(p.139-140、p.143)。
 欧州ではヒトラ-呼ばわり、ファシストとの形容は最大限の悪罵の言葉で、通常は用いないのが良識的な人間らしいが、新保祐司は、実質的に、橋下徹を「ヒトラ-」呼ばわりしている(なお、最初に読売の渡邊恒雄が橋下徹を「ファシスト」と呼び、遠慮していた者たちも安心してその語を使うようになったとか何かで読んだが、確認できない)。
 それはともかく、そのような新保祐司を、あるいはかつてこの欄で批判的に記したように<旧かなづかひ>を使った憲法改正でないと真の憲法改正とは言えない旨を「正論」欄で述べていた新保祐司の諸写真を、月刊正論の2012年9月号の「私の写真館」でとりあげ、まるでまともな保守派知識人のごとく扱っている月刊正論の編集方針もまた、きわめて奇怪なもので、ある意味では「奇観」ですらある。
 現実に「自主憲法の制定」が叶わなくとも、マスコミ人として、文筆業者として、あるいは国会議員としてすら、それなりに、そこそこに現状が保たれればよい、ささやかな「既得権」が守られればよい、と思っている保守派の者たちもいるのだろう。
 大切なのは言葉や観念ではない。綺麗事の世界ではない。現実に国会内に改憲勢力を作り出していくことだ。それこそ<小異を捨てて大同につく>姿勢で、真に<戦後体制の終焉>を意欲する者たちは結集する必要がある。
 三 なお、面白くもない話題だから書かないできているが、上の対談を読んで、遠藤浩一という大学教授はひどいものだと感じ、それまでのこの人の論調へのかなりの共感も、すっかり消え失せた。遠藤自身はよく憶えているだろう。同時期の別の雑誌上では橋下徹による憲法改正の可能性をいくつかの条件をつけつつ肯定的に叙述しながら(この点はこの欄で記したことがある)、上の対談では橋下徹の登場等による政治状況を「厄介な事態だなぁ」と感じるのが「正直」なところだ(p.136)などと述べつつ、新保祐司に同調する多々の発言をしている。編集者からの依頼内容によって、どのようにでも(ほぼ真反対の内容でも)書き、語るというのが、この拓殖大学教授のしていることなのだ。
 四 というわけで、自主憲法制定への道は紆余曲折せざるをえないと思われる。しかし、日本維新の会代表・石原のほか、佐々淳行など、保守派の中ではどちらかというと政治・行政実務の経験者の中に橋下徹支持者または期待者が多いのは興味深いし、心強いことだ。安倍晋三もこれに含めてよいかもしれない。
 政治・行政の経験者である岡崎久彦も、産経新聞11/28の「『戦後レジーム脱却』に、再び」と題する「正論」欄の中で、「教育基本法の、教育の現場における徹底は安倍内閣の課題であるが、これについては、今や日本維新の会が大阪における実績によって頼もしい友党となっている。これには期待できよう」と述べて、教育行政分野に限ってにせよ、大阪維新の会・橋下徹に好意的な評価を寄せている。
 中島岳志、適菜収らの保守とも「左翼」ともつかない売文業者は勿論だが、桑原聡らの出版業界人や新保祐司らの自称保守論者もいる中で、まともな保守派論客もいることを将来への希望がまだあることを確認するためにも、記しておきたい。
 

1149/適菜収は「B層」国民は投票するな、と主張する。

 「B層」哲学者・適菜収は相変わらず橋下徹を攻撃しているようで、新潮45(新潮社)の今年10月号の冒頭近くの適菜「民主の次は維新? いつまでも懲りない人々」も、その一つだ。
 内容は容易に想像できることで、立ち入らない。(小泉改革→)民主党→維新の会の「大衆迎合」ぶりの連続を批判的またはシニカルに観ている佐伯啓思とも似た論調だ。
 興味をもつのは、では、適菜収はいったいどのような政治勢力を支持しているのか、適菜収は有権者国民に対してどのような投票行動をとるように求めているか又は期待しているか、だ。
 この点、じつに興味深いことを上の文章の最後に適菜収は述べている。以下のとおり。
 「前回民主党に投票し、そのことに少しでも良心の呵責を感じている人は、次の選挙には行かないことです」。「選択」に不向きの人が「選択をしようとするから道を誤るのです」(p.33)。
 なんと、(どの党にも)投票するな、棄権せよ、と言っているのだ。
 適菜収は橋下徹・維新の会を批判しつつも、橋下・維新ではなくどの政党が(相対的にであれ)好ましいかを明らかにすることができていない。

 また、上の文からは適菜収の、そのいう「B層」国民に対する激しい侮蔑の感情が窺える。適切に候補者の中からの適格者を「選択」できないような者は、投票するな、と述べているのだ。
 適菜収のこの論の行き着くところは、一定年齢以上の国民の全員が選挙権・投票権をもつ、いわゆる<普通選挙>制度の否定に他ならないだろう。
 「A層」哲学者だと自らを位置づけているに違いない適菜収は、彼のいう<B層>=バカな国民(=「マスコミ報道に流されやすい『比較的』IQが低い人たち」)には選挙権を認めないという、<普通選挙>制度否定論を真面目に主張してみたらどうか。

1147/橋下徹、石原慎太郎、安倍晋三、佐伯啓思、中島岳志。

 一 <左翼>は間違いなく橋下徹・維新の会を危険視・警戒視してきた。社民党も共産党も勿論だ。
 最近の某週刊誌に東京都知事選で宇都宮某を「市民派」・「リベラル」等だとして支持することを明記していた者に森永卓郎、池田理代子、香山リカ、雨宮処凜がいたが、社共両党が支持するこの元日本弁護士会会長を支持する者たちもまた、橋下徹に対しては批判的であるに違いない(すでに明確に批判している者もいる)。
 一方、<保守>の中では橋下徹・維新の会に対する評価が分かれたし、現在でも分かれたままであることは興味深いことだ。
 その橋下徹を石原慎太郎は義経に、自分を義経を支え保護する武蔵坊弁慶になぞらえ、橋下を義経ではなく頼朝にしたいとか発言していた。そして、石原新党は橋下徹・日本維新の会に合流した。
 安倍晋三も橋下徹に対して決して警戒的・批判的ではなく、将来における「闘いの同志」と言っていたこともあるし、衆議院解散後も「お互いに切磋琢磨して‥」などと言っていた。
 <保守>派論者はおおむね又はほとんど石原慎太郎・安倍晋三を支持しているか好意的だと思われるが、この二人には好感を持ち、かつ橋下徹は「きわめて危険な政治家」だとか「保守ではない」とか言って批判していた者たちは、近時の石原や安倍の橋下徹に対する態度をどう観ており、どのような感想を持っているのだろうか。
 石原慎太郎や安倍晋三は橋下徹の本質、その危険性を見抜いていないとして苦々しく思っているのだろうか、そして、この二人に諫言または忠告でもしたい気分だろうか。それとも、橋下徹に対する評価を少しは改めたのだろうか。
 二  佐伯啓思は産経新聞11/22の「正論」で、新日本維新の会について次のように述べている。
  「石原新党が合流した日本維新の会は、ただ『統治機構改革』すなわち中央官僚組織をぶっこわし、既成政党をぶっこわす、という一点で政権奪取をうたっている」。
 そのあと「橋下徹氏の唖然とするばかりの露骨なマキャベリアンぶりを特に難じようとは思わない」としつつ、かなりの国民が維新の会を支持しているとすれば、「われわれは民主党の失敗から何を学んだことになるのだろうか」と結んでいる。
 この後半部分はどうぞご自由に論評を、と言いたいが、その前提となっている、「ただ『統治機構改革』すなわち中央官僚組織をぶっこわし、既成政党をぶっこわす、という一点で政権奪取をうたっている」という認識は、学者らしくなく、あるいはある意味では学者らしく、あまりに単純すぎる。
 日本維新の会はもっといろいろなことを主張しているのであり、とりわけ「自主憲法の制定」の方向を明確にしていることを看過する論評は、大きな欠陥があるだろう。とても、緻密な?佐伯啓思の文章だとは思えない。
 三 「左翼」だと思われるが、自称「保守」または「保守リベラル」でもあるらしい中島岳志は、宇都宮健児・雨宮処凜・佐高信・本多勝一らとともに編集委員をしている週刊金曜日の11/16号の、朝日新聞にある欄の名称とよく似た「風速計」という欄に、「第三極のデタラメ」と題する文章を書いている。それによると、以下のごとし。
 橋下徹代表の日本維新の会とみんなの党は「リスクの個人化」を志向し、「小さな政府」に傾斜しているのに対して、「たちあがれ日本」は「リスクの社会化」を志向している。また、日本維新の会
と「たちあがれ日本」は「タカ派的主張」を中核にしているが、みんなの党は「消極的リベラルの立場」だ。
 こうして実質的にはこれら三者の合流は困難だと、のちに聞かれた「野合」論を先走るような叙述をしている。
 各党の個々の評価には立ち入らない。興味深いのは、学者らしく、あるいは厳密にはしっかりした研究者らしくなく、「リスクの個人化」か「リスクの社会化」か、「タカ派」か「リベラル」か、という単純な対比によって各党を評価しようとしていることだ。
 実際は、もっと複雑だと思われる。学者の、レッテル貼りにもとづく単純な議論はあまり参考にしない方がよいだろう。
 ところで、中島岳志は、橋下徹代表時の日本維新の会と「たちあがれ日本」の主張を「タカ派的」と称している。このような称し方は「左翼」論者や「左翼」マスコミと変わりはしない。まともな<保守>派論者ならば、改憲の主張を「タカ派」などと呼びはしないだろう。
 中島岳志の「左翼」ぶりは、今回の総選挙に際しての「緊急の課題」を次のように述べていることでも明瞭になっている。すなわち-。
 「保守・中道リベラルと社民リベラルが手を結び、新自由主義・ネオコン路線と対峙すること」。以上、上掲誌p.9。
 「新自由主義・ネオコン路線」という一時期の<左翼>の好んだ語がまだ使われていることも目を引くが、中島が「社民リベラル」に好意的であることを明瞭にしていることの方が面白い。
 中島岳志が<保守>であるはずがない。この中島を同好の者のごとく同じ月刊雑誌(「表現者」)に登場させている西部邁や佐伯啓思の<保守>派性すら疑わせる人物だ。

1145/石原新党と橋下徹・維新の会-憲法「破棄」か否かで対立するな。

 1 石原慎太郎、都知事辞職、新党結成・代表就任・総選挙立候補を表明。
 これについての、みんなの党・渡辺某と比べて、維新の会の国会議員団代表・松野頼久の反応ないしコメントの方がよかった。自民党も含めて「近いうち」の衆議院選挙の結果はむろんまだ不明だが、連携・協力の余地は十分に残しておいた方がよい。
 2 石原慎太郎と橋下徹(・維新の会)との違いの一つは、現憲法の見方にあり、石原は憲法<破棄>論であるのに対して、橋下は<改正>論である、らしい。つまり、石原は、渡部昇一の影響を受けてか、現憲法を<無効>と考えているのに対して、橋下は<有効>であることを前提にしているようだ(彼らの発言を厳密にフォローすることを省略するので、<ようだ>と記しておく)。
 おそらくこの違いもあるのだろう、橋下徹は、代表を務める日本維新の会の「傘下」にあるはずの東京維新の会の東京都議会議員が「憲法破棄」・旧かな遣いの大日本帝国憲法復活の請願に賛成したことについて、大きく問題視はしないとしつつも、クレームをつけた、という(10/09。都議会全体としては請願を否決)。
 石原慎太郎が産経新聞紙上で述べていた「憲法破棄」論については、この欄で疑問視したので子細を反復しないが、橋下徹の「憲法改正」論の方が適切だ。現実性はないと思うが、かりに国会で「憲法破棄」決議をしたところで法的には無意味で、そのことによって大日本帝国憲法が復活するわけでもない。国会についてすらそうで、現憲法によってはじめて府県レベルでも設置することとされた住民公選議員により構成される都道府県議会が、橋下も言っていたように、現憲法「破棄」決議をする権限はなく、かりに決議または請願採択をしてもまったく無意味だ。
 3 上のことをとくに指摘しておきたいのではない。あとでも触れるかもしれないが、この問題は今日ではほとんど決着済みの、議論する必要がないと思われる論点だ。
 なぜあえてこの論点に触れているかというと、この問題についての石原新党と維新の会の違いが強調されまたはクローズアップされて、両党の連携に支障が生じることを、あるいは支障の程度が大きくなることを危惧しているからだ。
 安部晋三内閣時代に2007年に成立しのちに施行された憲法改正手続法=正確には「日本国憲法の改正手続に関する法律」は、名称どおり、現憲法の有効性を前提にして、同96条によるその「改正」のための国民投票等の手続を定めたものだ。自民党の第一次、第二次の新憲法案も<憲法改正案>であり、ずっと前の読売新聞案も同様だったかと記憶する。
 橋下徹は 「日本維新の会としての方針としては、憲法破棄という方針はとらない。あくまで改正手続きをとっていく。理論上は憲法破棄ということも成り立ちうるのかもしれないが、その後現実的に積み重ねられてきた事実をもとにすると、簡単に憲法について破棄、という方法はとれないのではないのか」と発言したらしい。この発言のとおり、「理論上は憲法破棄ということも成り立ちうるのかもしれない」とかりにしても、上のような法律が安部晋三の新憲法制定の意欲のもとに作られ、重要な「改正案」も発表されているのであり、石原慎太郎・石原新党は、政治的・現実的に判断し、<憲法破棄>論に拘泥すべきではない、だろう。実質的に日本国民による新憲法の制定がなされる方向で、両党(と自民党)は連携・協力すべきだ。
 4 上の論点についての見解の相違が<保守勢力の結集>を妨げるようなことがあってはならない。
 この点、産経新聞(社)はどういう立場を採っているのだろうか。
 上記のように維新の会・東京都議会議員団は旧かな遣いの憲法に戻したいようだが、この主張およびそのもととなった都民の請願が産経新聞「正論」欄に掲載された新保祐司のそれの影響を受けているとすると、新保祐司と産経新聞は、極論すれば<保守派>の中に分裂を持ち込むものだ。そして、国民の過半数の支持による新憲法制定を妨害する役割を客観的には果たすものだ。また、石原の<憲法破棄論>が渡部昇一らの<現憲法無効論>の影響を受けているか支えの一つになっているのだとすると、渡部昇一らの議論もまた、極論すれば<保守派>の中に分裂を持ち込むものだ。そして、国民の過半数の支持による新憲法制定を妨害する役割を客観的には果たすものだ。
 念のため確かめてみると、産経新聞社に置かれたという数名による委員会の議論について、同新聞は「新憲法起草」とか「国民の憲法」起草とかと見出しを立てていて、<改正>と明記していないようだ。つまり、<破棄>論に配慮したとも解釈できる言葉遣いを採用しているように見える。
 また、「産経新聞出版」ではなく産経新聞社発行の月刊雑誌・正論(編集長・桑原聡)の今年8月号p.232-は、渡部昇一と大原康男の「対論/改正か無効か~日本が『日本』であるための憲法論」を掲載して、「改正か無効か」が大きな論点であるかのごとくとりあげている。この問題に関心を持つことや月刊正論上で取り上げること自体を批判はしないが、このとり上げ方は、月刊正論、そして産経新聞が少なくとも<憲法無効・破棄論>を一顧だにしないという立場ではない、ということを示しているだろう。
 また、上の二人のうち大原は実質的には有効・改正論者だと読めるが、大原が渡部に敬意を表して遠慮しているせいか、法学に「素人」だと自認している渡部にしゃべらせ過ぎており(大原は京都大学法学部卒でもある)、<憲法無効・破棄論>の無意味さを明確にするものには(私には残念ながら)なっていない。
 こうしたことも併せ考えると、産経新聞社・月刊正論(編集長・桑原聡)は、石原・同新党と橋下・維新の会の協力・連携を阻害する役割を果たしている可能性、そして今後も果たす可能性があると危惧される。
 月刊正論の編集長・桑原聡は橋下徹を「きわめて危険な政治家」だと判断しているので、上の両党の協力・連携が阻害されるのは、少なくとも桑原聡の意図には即しているのかもしれない
 だが、産経新聞も月刊正論も少なくとも強くは批判していない安部晋三・現自民党総裁は、憲法改正のためには橋下徹・維新の会と連携する必要がある、あるいはそういう時期が来る可能性がある、という旨を発言している。橋下徹が現憲法96条の要件緩和に賛成していることは周知のことだ。
 大局を見ない、または国民の過半数の支持という重要なハードルを考慮しない主張や議論は(旧仮名遣い復活論も含めて)、新憲法の制定に賛成する立場の新聞や雑誌からは排されるべきだ。 
 5 <憲法無効・破棄論>はむろん、自民党の立場でもないと考えられる。この論に固執することは、石原新党と自民党との対立も深めることとなり、<保守派の結集あるいは連携・協力>を妨げることとなるだろう。自民党全体を<リベラル>または「左翼」と考えるならば話は別だが。

 憲法「破棄」論に立ち、<旧かな遣い>の憲法に戻すべきだ、という見解こそが「真の保守」だ、などという大きな、かつ危険な勘違いをしてはいけない。
 なお、中島岳志のごとき、現憲法9条改正(2項削除・国防軍明記)反対論は、言うまでもなく「保守派」のそれではない。
 6 上の渡部・大原対論も含めて、産経新聞や月刊正論の記事・主張・議論に、この欄で最近はほとんど言及していない。だからといって、何の感想も持っていないわけではない。以上で書いたものの中には、その一部は含まれているだろう。

1144/資料・史料-2012年10月18日12時50分・橋下徹による朝日新聞/週刊朝日批判。

 橋下徹の2012年10月18日の対朝日新聞ツイート(12時50分)

 「朝日新聞社グループの考えを聞くまでは記者の質問を受けないについて」 退庁時は最後の部分です。本日、14時からの定例会見でメディアサイドと議論をします。
  僕は報道の自由を最大限尊重してきたつもりだ。民主国家においては報道の自由こそが権力チェックになるからだ。僕自身も永く政治家をやるつもりはない。
 普通の住民に戻った時に、報道機関が権力チェックをしなければ、それは恐ろしい国になる。報道で腹立つことは山ほどあったけど、それにも会見時やツイッターで反論してきた。
 当たり前だけど、行政の権力を使って報道機関に何かしたことなど一度もない。言論には言論で、を徹底してきたつもりだ。毎朝夕と週に一度の定例会見。時間の許す限り質問には答える方針でやってきた。それは報道機関こそが民主国家を支える骨だと思ってきたからだ。
 しかし今回の週刊朝日の記事だけは、どうしても納得ができない。週刊朝日は、朝日新聞の100%子会社なので、朝日新聞にもその考えを聞かなければ、納得できない。
 週刊朝日の記事は、僕のルーツを探るらしい。この著者は「政策論争をするつもりはない。橋下の敵を許さない人格を暴くために徹底的に両親や祖父母、先祖、親族の出自を暴いて、橋下のDNAを明らかにする」との趣旨で連載を始めると言い切った。
 この著者が、毎朝夕、記者会見に姿を現したことはない。僕が知事時代にやったこと市長としてやっていることへの取材は全くやならい、そんなことには全く興味がないようだ。著者は、僕のやっていることが全て気に入らないらしい。それも有権者がどう感じるかは自由だ。
 政策については一切取材せず、府庁時代のこと、今の市長時の態度振る舞い、こういうことには全く無関心で、ただただ僕の出自、先祖、親族を徹底的に調べる。「橋下のDNA」を明らかにするという一点のみで。僕は、生まれてから今に至るまでを丸裸にされるのは仕方がないと思っている。
 それが権力チェックだ。どのように育てられ、育ちどのような人格形成になったのか、分析・評論されても当然だろう。友人関係などへの取材で全て明らかにされても仕方がない。まあ真面目にやってきたわけではないから、それも含めて有権者に判断してもらわなければならない。
 また死者の名誉権侵害は、虚偽の事実の適示でなければ法的には成立しないことも承知している。だから死者となった僕の先祖について一定の報道があっても法的には已むを得ない。
 ただ、今回の週刊朝日は、死んだじいさんや、死んだ実父の知人と言われる人に取材して、その人がしゃべったことをそのまま載せているだけ。完全なる客観的証拠と言うよりも、知人がしゃべっていることをそのまま事実として報じている。それが信用に値するかどうかの裏付け検証はまったくない。
 じいさんや、実父の知人と言う人が、じいさんや実父とどういう関係にあったのか、信頼に値する人物か、客観的事実に符合するのか、そういう検証は全くなく、しかも80歳ほどの人がしゃべったことをそのまま記載しているらしい。何が事実で何が事実でないのか、僕ですら分からない。
 そして朝日新聞に一番問いたいのは、朝日新聞は血脈主義、身分制度を前提にするのかどうかということ。これは優生思想、民族浄化思想にもつながる極めて危険な思想だ。僕の権力チェックは良い。それだったら政策論争か、僕が生まれてから今に至るまでを丸裸にすべきだ。
 僕は実父に育てられた記憶はない。それでもなお、実父の生き様が、僕の人格に影響しているという今回の週刊朝日の連載目的を肯定するなら、それはまさに血脈主義そのものである。僕が母親にどう育てられ、育ち、友人関係がどうだったのか。こちらが僕の人格形成の主因ではないのか。
 育てられた記憶もない実父、実父の親族の非嫡出子で、僕は2度ほどしか会ったことのない遠戚者の生き様。これから報道されるであろうじいさんなどの生き様。こういうものが全て著者の気に食わない僕の人格に影響して、それを明らかにしなければならないというのは、権力チェックの一線を越えている。
 朝日新聞の思想そのものの問題だ。個人を重視せず、血脈を重視する。政策論はどうでもよく、血脈を暴くことだけを目的とする。こういう報道が必要と言うなら、朝日新聞は堂々と社会にその考えを示すべきだ。
 血脈主義は身分制度の根幹であり、悪い血脈というものを肯定するなら、優生思想、民族浄化思想にも繋がる極めて危険な思想だと僕は考えるが、朝日新聞はどうなのか。アメリカでの人種差別、ヨーロッパにおけるナチス思想に匹敵するくらいの危険な思想だと僕は考える。
 僕がどう論じられようがある意味仕方がないが、しかしこの血脈主義を肯定すると、僕だけの問題ではない。僕の子どもや孫までの否定につながる。僕は公人だが、人間でもある。公人として制約されることはあるにせよ、それでも権利が全くないわけではない。
 今回の週刊朝日は、「政策論争は全くしない。橋下の人格を暴くために、橋下の血脈を徹底的に暴く」とする。この血脈思想を朝日新聞は肯定するのかどうか、ここを聞きたい。人は先祖によって全てが決まる。先祖の生き様が子孫の存在そのものを規定する。当該個人の努力、生き様など全く無意味。
 週刊朝日はこのような思想を肯定した上での連載である。その完全親会社である朝日新聞もそのような思想を肯定しているのか。そこが明らかにならなければ、民主国家にとって重要な言論機関として対応するわけにはいかない。ただ報道の自由を侵害するつもりはない。
 取材会見場に来てもらうのは一向に構わない。またこれは僕個人の問題なので、大阪市役所や日本維新の会の他のメンバーまだ取材に応じないというわけではない。僕が朝日新聞社の質問には答えないというだけ。他社とのやり取りを取材してもらえればいい。
 こういうときにバカな学者がバカコメントを一斉に出している。経歴は報道の範囲だと。だから僕は、生まれてから今に至るまでは丸裸にされても良いと言っている。死者に関する事実も報道の範囲だ。僕が問題視しているのは、政策論争や僕の生き様ではなく、実父や先祖、遠戚の生き様を暴く目的だ。
 それが民主国家を支える権力チェックの範囲内なのかどうか。身分制度や優生思想につながる血脈主義という思想を堂々と肯定するのか。刑法理論でも日本では否定されている。また部落差別思想を堂々と認めるのかどうか。朝日新聞こそ言論機関としてきっちりと国民に説明すべきだ。
 週刊朝日は部落差別を堂々と展開している。僕個人は良い。しかしこれは日本では認められていないのではないか?部落解放運動に問題があったのは事実だ。それはそれで批判をすれば良い。しかし部落差別自体を肯定するのか。
 もしこれが僕でなかったら、この部落差別報道は問題になる。公人ならそれを甘受しろと言うのか。朝日新聞社に問いたい。
 週刊朝日は「橋下の公人としての人物像を描く目的」と説明。それは結構だ。それなら僕が生まれてから今に至るまでを徹底して取材し、公にして欲しい。きれいまっとうな人生じゃないかもしれないが、それでも後ろ指を差されるものではないと自信を持っている。しかし週刊朝日はその気はない。
 週刊朝日は、僕の人物像を描くとしながら、僕の実父や祖父母、母親、遠戚のルーツを徹底的に暴くとしている。血脈を暴くことが人物像につながるという危険な血脈思想だ。そして僕の人格を否定することを目的として血脈を暴くと言うことは、これは僕の子どもや孫の人格否定にもなる。
 要するに、週刊朝日は僕の人物像を描くとしながら、僕の血脈を否定しようとしている。これは権力チェックの一線を越えている。そして週刊朝日は朝日新聞の100%子会社。朝日新聞は無関係とは言えないし、こんなことを許したら、子会社を作っていくらでもやりたい放題できる。
 今回は僕個人への批判ではない。僕の血脈、先祖や子や孫への批判、否定でもある。そして、育ててもらった記憶もない実父方がいわゆる被差別部落地域で生活してたという事実の開示。これは人物像を描くものでも何でもない。だいたいこの地域がいわゆる被差別部落地域であるということを公にして良いのか。
 週刊朝日の記事は、僕を人格異常者だと断定し、それを明らかにするために血脈を徹底調査すると言う。すなわち僕の血脈が僕の人格異常の原因だと。そうであれば、それは子や孫も人格異常だと断言していることになる。これは許せないし、今の日本社会では認められない思想だと思う。
 週刊朝日や朝日新聞は、公人の人物像を描くと言うなら、真正面からしっかりと描くべきだ。僕が生まれてから今までどのような人生を歩んだのか、丸裸にすべきだ。産経新聞が以前やったように。血脈を暴くことと、人物像を描くことは全く異なる。
 14時からの記者会見で朝日新聞に考えを問います。大阪市ホームページで公開します。朝日新聞は、子会社がやったことなので自分たちには関係ないと主張するようです。
 僕は報道の自由を侵害するつもりはない。朝日が取材の場所や会見場に来ることは拒まないし、市役所はもちろん日本維新の会の他のメンバーはこれまで通りだ。ただ僕が朝日の記者の質問に答える「法的」義務はない。答えなくてもそれは説明不足と有権者にとられるかどうかの政治的責任の問題。
 僕は他社の質問には答えていくが、血脈主義、部落差別思想を全面的に肯定する朝日新聞を相手にするつもりはない。この対応については有権者の判断に委ねます。また天皇制は血統主義を認める憲法上の制度であり、個人の血脈を否定するものではないので、僕は天皇制を否定しているわけではありません。
 繰り返しますが僕は厳しくチェックを受けるのは当たり前。人物像を描かれるのも当然。しかし今回の週刊朝日のDNA論を肯定したらとんでもないことになる。親が犯罪を犯した子ども、親が何かしでかした子ども全てを否定し、差別し、親の出自や生き様を調査することを認めることに繋がる。
 ひいては人種差別、民族浄化論そのものにもなる。人種差別やナチス肯定論はアメリカでもヨーロッパでも公言することは禁止されている。人が心の中でどう思うかまでは制約できないが、少なくても公言することは禁止されている。一線を越えた言論は民主国家でも許されない。
  <出所-ツイッターサイト「BLOGOS」>
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 週刊朝日の記事を読まないままでの、ごく僅かなコメント
 1.共産主義者そして確信的「左翼」は、<(自分たちが正当と考える)目的のためならば何でもする(または書く)>。虚偽も記すし、人権も侵害する。場合によっては人を死に至らしめても、良心の呵責、内心の葛藤を覚えない。
 朝日新聞週刊朝日については、例えば2007年参議院選前の、安倍晋三内閣に打撃を与えるための「謀略」報道にも見られた。他にもある。
 2 取材等に協力したとされている二人のうちの一人、今西憲之は、文化人類学者・今西錦司の子か孫(たぶん孫)。けっこうな「血筋」のようだが、週刊朝日にとくに「飼われ」つつ、祖父の名を辱め、人権侵害的な取材や記事執筆をしてきている。

1130/適菜収・世界(岩波)・月刊正論(産経)と変説?した川瀬弘至。

 〇月刊正論5月号(産経、2012.04)の適菜収論考は「理念なきB層政治家」を副題として橋下徹を批判・罵倒している。
 冒頭の一文は、「橋下徹大阪市長は文明社会の敵です」。この一文だけで改行させて次の段落に移り、「アナーキスト」、「国家解体」論者、「天性のデマゴーグ」等々と、十分な理由づけ・論拠を示さないままで<レッテル貼り(ラベリング)>をしていることはすでに触れた。
 この論考では「B層」という概念が重要な役割を果たしているはずだが、これの意味について必ずしも明確で詳細な説明はない。いくつか「B層」概念の使い方を拾ってみると―。
 ・「B層」=「近代的理念を妄信する馬鹿」(p.51)。
 ・橋下徹は「天性のデマゴーグ」なので「B層の感情を動かす手法をよく知っている」(p.52)。
 ・橋下徹の「底の浅さ」は「B層の『連想の質』を計算した上で演出されている」(p.53)。
 ・橋下徹・維新の会をめぐる言説は「B層、不注意な人、未熟な人の間で現在拡大再生産されている」(p.53)。
 ・「B層は歴史から切り離されているので、同じような詐欺に何度でも引っかかります」(p.54)。
 ・「マスメディアがデマゴーグを生みだし、行列があればとりあえず並びたくなるB層…」(p.54)。
 ・「小泉郵政選挙に熱狂し、騙されたと憤慨して民主党に投票し、再び騙されたと喚きながら、橋下のケツを追いかけているのがB層です」(p.55)。
 このくらいだが、要するに適菜のいう「B層」とは<馬鹿な大衆>を意味していると理解して、ほとんど間違っていないだろう。
 産経新聞5/04の「賢者〔何と!―秋月〕に学ぶ」欄でも適菜収は、「B層」とは、「マスメディアに踊らされやすい知的弱者」、ひいては「近代的諸価値を妄信する層」を指す、と明確に述べている。「知的弱者」、つまりは「馬鹿」のことなのだ。
 またニーチェのいう「畜群人間」はまさに「B層」だとし、この「B層」人間は「真っ当な価値判断ができない人々」で、「圧倒的な自信の下、自分たちの浅薄な価値観を社会に押し付けようとする。そして、無知であることに恥じらいをもたず、素人であることに誇りをもつ」、そして、「プロの領域、職人の領域」を浸食し、「素人が社会を導こうと決心する」、「これこそがニーチェが警鐘を鳴らした近代大衆社会の最終的な姿だ」、とも書いている。
 適菜において「B層」とは「知的弱者」=「馬鹿」で、「畜群」と同義語なのだ。
 そして、こうした「B層」を騙し、かつこうした「B層」に支持されているのが橋下徹だ、というのが、適菜の主張・見解の基調だ。前回に少し述べたが、決して、「伝統」か「理性」かを対置させて後者の側(「理性の暴走」)に橋下を置いているのではない。
 さて、月刊世界7月号(岩波)は「橋下維新―自治なき『改革』の内実」という特集を組んでいるが、その中の松谷満「誰が橋下を支持しているのか」(p.103-)は興味深い。
 松谷は、多段無作為抽出にもとづく有効回答数772のデータを基礎にして、次のように述べている(逐一のデータ紹介は省略する)。
 ①一部の論者が「社会経済的に不安定な人びと」が橋下を支持している、「弱い立場にいる人びと」が「その不安や不満の解消を図るべくポピュリズムを支えている」という<弱者仮説>を提示しているが、「少なくとも調査結果をみる限り、妥当性は低い」。
 ②橋下徹に対する支持は「若年層」で高いというわけではなく、「強い支持」は「六〇代がもっとも多い」。
 ③六〇才以下の男性について雇用形態・職業から5つに分類すると、「管理者職層、正規雇用者で支持率が高く、自営層、非正規雇用、無職層」で支持率が低い。
 ④自身の「階層的位置づけ」意識との関係では、「上・中上」、「中下」、「下」の順で「強い支持」が高い=前者ほど<強く支持>している。(以上、p.106)
 これらにより松谷は、「マスコミや知識人の『空論』は、ポピュリズムを支持する安定的な社会層を不問に付し、その責任を『弱者』に押しつけているのではないか」と問題提起している(p.107)。
 その他、次のような結果も示している。
 ⑤「高い地位や高い収入を重視する者のほうが、それらを重視しない者に比べて、橋下を支持している」(p.109)。
 適菜収のいう「知的弱者」と松谷のいう「弱者」は同じではないし、無作為抽出とはいえ772の母数でいかほどの厳密な結論が導出できるのかはよく分からないが、それにしても、上のとくに③・④・⑤あたりは、橋下徹は(先に述べたような意味での)「B層」を騙し、かつ「B層」に支持されているとの、「仮説」とも「推測」とも断っていない適菜収の「決め付け」的断定が、松谷のいう「知識人の空論」である可能性を強くするものだ、と考えられる。そのような意味で、興味深い。
 隔週刊サピオ5/09・16号の中の小林よしのり・中野剛志の対談とともに、月刊正論の適菜収論考は、橋下徹に対する悪罵・罵倒の投げつけにおいて、最悪・最低の橋下徹分析だったと思われる(立ち入らないが、小林よしのりは研究者ではないからある程度はやむをえないとしても、中野剛志の、学者とは思えない断定ぶり・決めつけ方には唖然とするものがあった―下に言及の新保祐司の発言も同様―。橋下徹がツイッターで中野剛志に対して激しく反応したのも―ある程度は―理解できる)。
 この機会に記しておけば、佐藤優はいろいろな媒体で橋下徹に対する見解・感想等々をたくさん書いていて、批判的・辛口と見えるものもあるが、週刊文春5/17号の特集「橋下徹総理を支持しますか?」の中の、つぎの文章は、多数の論者の文章の中で、私には最もしっくりくるものだった。
 「国政への影響を強める過程で……外交、安全保障政策について勉強する。その過程で…確実に国際水準で政治ゲームを行うことができる政治家に変貌する。…府知事、市長のときと本質的に異なる安定した政治家になると私は見ている。言い換えると橋下氏の変貌を支援するのが有権者の責務と思う」(p.48)。
 中西輝政とは異なり、橋下徹・維新の会の政策に「殆ど賛成」とは言い難い私も、このような姿勢・期待は持ちたいと考えている。
 〇だが、橋下徹を暖かく見守り、「変貌を支援する」どころか、早々と「きわめて危険な政治家」、橋下徹の「目的は日本そのものの解体にある」と(理由・論拠も提示することなく)断定したのが、産経新聞社発行・<保守>系と言われている月刊正論の編集長桑原聡だった。
 また、同編集部員の川瀬弘至は、上記の適菜収論考を「とってもいい論文です」と明記し、自民党の石破茂に読むことを勧めるまでした(月刊正論オフィシャルブログ4/04)。  ところが、何とその同じ川瀬弘至は、同ブログの5/29では、橋下徹の憲法関係発言を知って
、「橋下市長、お見逸れいたしました。これまで国家観がみえないだとか歴史観があやふやだとか批判してきましたが、自主憲法制定に意欲を示してくれるんなら全面的に応援しますぞ。どうか頑張っていただきたい」と書いている。
 この契機となった発言よりも前の2月中に橋下徹は現憲法九条を問題視する発言をしているし、3月には震災がれきの引きうけをしないという意識の根源には憲法九条がある旨を発言している。月刊正論4月号の編集期間中には、橋下徹は今回に近い発言をすでにしていたのだ。月刊正論5月号の山田宏論考は、橋下徹による改革の先に「憲法改正」が「はっきり見えている」と明言してもいる(p.58)。
 今頃になって、川瀬弘至は何を喚いているのだろう。それに、「全面的に応援しますぞ。どうか頑張っていただきたい」と書くのは結構だが、それが本心?だとしたら、橋下徹に対する悪罵を尽くした論考だったも言える適菜収論考を「とってもいい論文です」と評価していたことをまずは反省し、この言葉を取消し又は撤回して、読者に詫びるのが先にすべきことだと思われる。
 だが、しかし、この川瀬の言葉とは別に、月刊正論6月号(産経、2012.05.01)は、依然として、橋下徹を批判し罵倒する、遠藤浩一と「文芸評論家」新保祐司の対談を掲載している。<反橋下徹>という編集方針を月刊正論(産経)は変えていないと見られる。
 この対談、とくに遠藤浩一については書きたいこともある。同号の「編集者へ/編集者から」欄への言及も含めて、再びあと回しにしよう。

1129/月刊正論編集部の「異常」-監督・コーチではなく「選手」としても登場する等。

 月刊正論(産経)は、発売日(毎月1日)から二週間経てば、送料を含めても150-200円安く、一ヵ月も過ぎれば約半額で購入することができることが分かった。
 そのようにして入手した月刊正論6月号(産経)を見て、驚き、あるいは唖然とした点がいくつかある。とりわけ「編集者へ/編集者から」という読者・編集部間のやりとりは、注目に値する。
 月刊正論5月号の適菜収論考には読者からの疑問・反論も多かったようで、そのうちの一つを紹介し(p.324-5)、「編集者」が簡単に答えて(コメントして?)いる。適菜は自らの考える「保守の理想形」を提示していないという疑問(の一つ)に関して、「編集者」は以下のように書いている(p.325)。
 「おそらく適菜さんは、人間の理性には限界があり、その暴走を食い止めるために伝統を拠り所としようという態度こそが保守であると考えているのだと思います。その立場から見ると、橋下氏には理性暴走の傾向が感じられませんか。」
 これには驚き、かつ唖然とした。
 第一。「…が感じられませんか」という質問形・反問形での文章にしているのもイヤらしい。それはさておくとしても、この読者はもっと多くの疑問・批判を適菜収論考に対して投げかけている。
 それらを無視して、ただ一点についてだけ答える(コメントする)というのは、紙面の限界等もあるのかもしれないが、到底誠実な「編集者」の態度だとは言えないように思われる。紙面の関係で一点だけに限らせていただく、といった断わりも何もないのだ。
 第二。月刊正論編集部は橋下徹に「理性の暴走の傾向」を感じているようだが、その根拠・理由は全く示されていない。編集長・桑原聡の前月号の末尾の文章と同じく、理由・根拠をいっさい述べないままの、結論のみの提示だ。こんな回答(コメント)でまともで誠実な対応になると思っているのだろうか。
 なるほど適菜収論考の中に、橋下徹には「理性暴走の傾向」がある旨が書かれていたのかもしれない。そのように解釈できる部分が(あらためて見てみたが)ないではない。
 だが、「伝統を拠り所」にするか「理性の暴走」かという対置を適菜は採っていない。従って、上の短い文章は「編集者」自身が新たに作ったもので、適菜論考の簡潔な要約ではない。
 あらためて適菜「橋下徹は『保守』ではない!」の橋下徹に対する罵倒ぶりを見てみたが、適菜は橋下徹を「文明社会の敵」、「アナーキスト」、「国家解体」論者、「天性のデマゴーグ」等と断じている。
 明らかな敵意・害意を感じるほどに異常な文章であり、「決めつけ」だ。何段階かの推論(・憶測)を積み重ねて初めて導き出せるような結論を、適菜はいとも簡単に述べてしまっている。
 ともあれ、「伝統を拠り所」にするか「理性の暴走」か、という対立軸を立てて、適菜は書いているのではない。とりわけ、「伝統を拠り所」に、という部分は適菜の文章の中にはない。
 第三。読者の(省略するが)これらの疑問に対しては、本来、適菜本人が答えるか、別の新しい論考の中で実質的に回答するのが、正常なあり方だと思われる。
 しかるに、これが最も唖然としたことなのだが、月刊正論「編集者」は、「おそらく」という副詞を使いつつ、適菜収に代わって、適菜の「保守」観を述べ、読者に回答(コメント)しているのだ。適菜論考から容易に出てくる文章ではないことは上の第二で述べた。
 雑誌、とくに月刊正論のような論壇誌の編集部というのは、「監督」または「コーチ」であって、自らが「プレイヤー(選手)」も兼ねてはいけないのではないだろうか。にもかかわらず、月刊正論「編集者」はプレイヤー(執筆者)に代わって、自らブレイヤーとして登場として、自らの見解を述べてしまっている。
 雑誌編集者のありようについての詳細な知見はないが、これは編集者としては<異様>な行動ではないだろうか。しかも、「執筆者」の考え方を代弁して自ら回答(コメント)するという形をとりながら、上に述べたように、結論らしきものを語っているだけで、いっさいの理由づけ、論拠の提示を割愛させてしまっているのだ。
 「編集者」・「編集長」に用意された短い文章の中で、特集を組んでいるような重要なテーマについての編集者・編集長自らの(特定の)「結論」を、執筆者に代わって、理由づけをすることもなく明らかにしてよいのか??
 雑誌出版・編集関係者のご意見を伺いたいところだ。
 第四。適菜は(おそらく)「伝統を拠り所」にする態度を「保守」と考えており、橋下徹にはこれとは異なる「理性の暴走の傾向」があるのではないか、というのが月刊正論(産経)「編集者」の見解のようだ。
 このような対置が「保守」と「左翼」の間にはある、という議論・説明があることは承知している。
 だが、少しでも立ち入って思考すれば容易に分かるだろう。いっさいの<変化>やいっさいの<理性>を否定しようとしないかぎり、維持すべき「伝統」とそうでない「伝統」、必要な「理性」と危険視すべき「理性の暴走」の区別こそが重要であり、かつ困難で微妙な問題でもあるのだ。
 もちろん、月刊正論「編集者」の文章(p.325)はこの点に触れていない。全ての<変化>・<理性>を否定しないで、かつ「伝統を拠り所」とする態度と「理性暴走の傾向」とを明確に区別するメルクマール・基準・素材等々を、何らかの機会に、月刊正論編集部(編集長・桑原聡)は明らかにしていただきたい。
 第五。月刊正論「編集者」の文章に乗っかるとして、そもそも橋下徹に「理性暴走の傾向」はあるのだろうか。
 むろん「理性暴走」の正確な意味、それと断じる基準等が問題なのだが、それはさておくとしても、例えば橋下徹における次の二例は、「理性暴走」というよりもむしろ日本の「伝統」を重視している(少なくとも軽視していない)ことの証左ではないか、と考えられる。
 ①橋下徹は5/08に、公務員が国歌(・君が代)を斉唱するのは「当たり前」のこと、「ふつうの感覚」、「理屈じゃない」と発言している。
 ②橋下徹は大阪府知事時代の最後の時期、昨年秋の、大阪護国神社秋季例大祭の日に(知事として)同神社に参拝している。
 推測にはなるが、上の②は、大阪府出身の、「国家のために」死んだ(そして同神社の祭祀の対象になっている)人々を「慰霊する」(とさしあたり表現しておく)のは大阪府知事としての仕事・「責務」でもあると橋下は考えたのではないかと思われる。
 これらのどこに「理性暴走の傾向」が
あるのだろうか。月刊正論編集部(編集長・桑原聡)は、何らかの機会に回答してほしいものだ。
 なお、この欄で既述のとおり、産経新聞や月刊正論でもお馴染みの八木秀次は、隔週刊サピオ5/09・16号の中で、橋下徹は「間違いなく素朴な保守主義者、健全なナショナリスト」だ等と述べている(p.16)。
 八木秀次のあらゆる議論を支持するのではないが、上の指摘は、適菜収や月刊正論編集部とはまるで異なり、素直で的確な感覚を示していると思われる。
 第六。そもそも、「保守」か否かの基準として、「伝統」重視か「理性」重視(「理性暴走」)かをまず提示する、という(適菜ではなく)月刊正論「編集者」の考え方自体が正しくはない、と考えられる。
 上でも少し触れたように、この基準は明確で具体的なものになりえない。
 「保守主義の父」とか言われるE・バークもこうした旨を説いたようだが、私の理解では、上のような<態度>・<姿勢>という一種の<思考方法>ではなく、バークは、その結果としての<価値>に着目している。つまり、フランス革命によって生じた「価値」(の変化)の中身にバークは嫌悪感を持ったのであり、たんに「ラディカルさ」・「急激な変化」を批判したのではない、と言うべきだと思っている。
 「保守」か否かは、第一義的には、「伝統」か「理性」かといった<思考方法>のレベルでの対立ではないだろう、と思われる。
 E・バークの時代には、まだ「共産主義」思想は確立していなかった(マルクスらの「共産党宣言」は1848年)。従って、余計ながら、いくらバークを「勉強」しても、今日における「保守」主義の意味・存在意義を十分には明らかにすることはできないだろう。
 この問題は、「保守」という概念の理解にかかわる。月刊正論編集部がいかなる「保守主義」観をもっているのかきわめて疑わしいと感じているのだが、この問題には、何度でも今後言及するだろう。
 なお、関連して触れておくが、月刊正論編集部が「保守」の論客だと間違いなく認定していると思われる中西輝政は、月刊文藝春秋6月号(文藝春秋)の中の橋下への「公開質問状」特集の中で、「私は橋下徹氏の率いる『大阪維新の会』が唱える政策の殆どに賛成である」と明記し、橋下の「中国観」についてのみ質問する文章を書いている(p.106-7)。
 どう読んでも中西輝政が橋下徹を「保守ではない」と見なしているとは思えないのだが、中西の橋下徹観が誤っており、橋下は「保守ではない!」「きわめて危険な政治家」だと言うのならば、月刊正論編集長・桑原聡は、末尾の編集長コラム頁に書くなりして、中西輝政を「たしなめる」ことをしてみたらどうか。 
 いずれにせよ、上に六つ並べたように、月刊正論編集部はどこか<異常>なのではないか。今回言及した以外にもある。月刊正論6月号の上記冒頭の欄についてはもう一度言及する。

1126/産経新聞「論壇時評」欄における橋下徹に対する<冷たさ>。

 〇月刊文藝春秋6月号(文藝春秋)が橋下徹特集を組み12人に橋下への「公開質問状」を書かせたり、週刊文春5/17号が14頁の特集をして13人の対橋下見解を載せたり、週刊現代6/02号(講談社)が「橋下徹とこの時代」と題する20頁の特集を組んで8名の意見を紹介する等々と、相変わらず、橋下徹へのマスコミの関心は高い。
 マスメディアまたはそこに登場する識者たち?はしばしば「ポピュリズム」を問題視するが、「ポピュリズム」の主体であり中心にいるのは、むしろマスコミ自体ではないかと思われる。それは、橋下徹ものを載せれば、販売部数が増える(または維持される)といった(とりあえず儲かればよいとの)経営者感覚ともつながっているのかもしれない。
 〇比較的最近に目を通した上記のものではなく、もう少し前の橋下徹特集類に言及しておこう。
 月刊宝島6月号(宝島社)の背表紙は「特集・虚構の橋下徹旋風」で、この言葉にも示されているように基本的に橋下徹批判の立場に立つ。それは巻頭1頁の編集長・富樫生の言葉にも表れていて、「宝島社は、橋下徹という人物について懐疑的です。…などでもその欺瞞を追及しており、今後も続けてまいります」と明言している。
 面白いのは、例えば、「橋下徹『5人の外敵』」として、①「大阪市役所」、②「共産党」、③「部落解放同盟」、④「在京メディア」、⑤「日教組」を堂々と?明記していることだ(p.28-)。
 ①と④をとりあえず別にしておけば、月刊宝島編集部は、日本共産党・部落解放同盟・日教組を「外敵」とする橋下徹に対して「懐疑的」だということになる。ということは、日本共産党・部落解放同盟・日教組を、「懐疑」されるべき橋下徹から擁護するという機能を果たしたい、と言っていることに客観的にはなるだろう。
 日本共産党・部落解放同盟・日教組はふつうは「左翼」と称される組織・団体なので、宝島社編集部は「左翼」の立場に立っている、と言ってよい。
 このことは、「現職・共産党大阪府議団長」宮原威への2頁にわたるインタビュー記事を掲載して、橋下徹を批判させていることでも分かる。
 なお、宝島社の別の出版物の執筆者・編者である一ノ宮美成とは日本共産党員か日本共産党系の人物ではないかと思われる。
 このように「左翼」の立場を明確にして(日本共産党や日教組と同様の立場から)橋下徹を批判するのは、何ら奇妙でも、不思議でもない。月刊宝島編集長名で橋下徹への「懐疑」を示しているのは、明確で、潔いとすら言える。
 〇問題は、<保守派>メディアのはずの、産経新聞や月刊正論(産経新聞社)だ。
 社説で明確にしてはいないが、どうやら、産経新聞もまた、社論として、橋下徹に対して<懐疑的>で<冷たい>ように思われる。
 産経新聞の今年になってからの「論壇時評」を読んでいて、そう感じた。
 産経新聞は(正確にはMSN産経ニュースは)5月になってからの産経新聞・FNN世論調査で、12人の政治家のうち「評価する」の第1位は橋下徹(63.1%)、第2位は石原慎太郎(62.0%)だったと報道している(5/21、ワースト3は、鳩山由紀夫、菅直人、小沢一郎)。
 このような結果であるにもかかわらず、産経新聞は、「大衆迎合」はよろしくないと、さすがに立派な新聞社らしく?考えたのだろうか、月刊正論編集長・桑原聡が「評価する」とは正反対の評価を明言している他、「論壇時評」での扱いも、私には異様に感じられるほどに、橋下徹に対して「冷たい」、または批判的だ。
 朝日新聞等々も同様だろうが、書物・論文等の書評や紹介欄(の採り上げ方、内容)は、その新聞の性格(・主張)を問わずして答えていることが多いとみられる。産経新聞「論壇時評」については、以下のとおり。
 産経新聞3/18の、4月号についての「論壇時評」では、私がこの欄で「アホ丸出しの…」と批判した、月刊WiLL4月号(ワック)の藤井聡論考を採り上げ、「思想的あるいは政策的吟味を十分に経ていない橋下流改革案(船中八策、維新八策)の欠陥をつく。地方分権も中央集権もそれ自体が善あるいは悪なのではない。両者のバランスの欠如が悪なのだ。現在、通貨、国防・安全保障、国際経済などの諸分野で緊要なのは何より国家としてのまとまりであって、それを弱体化する試みは、地方分権を含め避けなければならない。それに橋下らの地方分権論で念頭に置かれるのは大都市であって、地方は一層の格差に沈むという。そのことを税、地方債などの財源移譲の面から裏付ける」と、多くはない字数の欄にしては多くの文字を使ってわざわざ紹介している。
 月刊WiLL4月号の数多い論考の中で言及しているのはこれだけだ。藤井聡論考の稚拙さには、もはや触れない(「地方分権も中央集権もそれ自体が善あるいは悪なのではない。両者のバランスの欠如が悪なのだ」なんていうくらいは誰でも書ける。とくに引用することの方が恥ずかしい)。その稚拙さに気づかないとは、産経新聞の「論壇時評」者・稲垣真澄の識見・能力自体も疑われる。
 産経新聞4/22の、5月号についての「論壇時評」(石井聡)は、月刊ヴォイス5月号(PHP)の特集は「基本的に橋下を支援、擁護する立場から」のものだと述べつつ、その「支援、擁護」の内容にはいっさい言及せず、橋下徹を基本的にはむしろ支持・擁護する立場からの山田宏の論考の中から、あえて橋下徹への「危惧」を記した部分のみを抜き出して、紹介している。大前研一論考についても同様で、橋下徹を基本的に支持する大前の文章の中の、原発問題についての意見の相違部分のみを取り出して紹介している。かなり偏頗な、何らかの意図すら感じられる紹介の仕方だ。
 月刊ヴォイス5月号の現物を見ながら書いている。山田宏の文章の最後の一文は次のとおり-「日本の再生には大阪維新の会の力が必ず必要となってくる。今後、必ず国の運命を左右する存在になることだろう」(p.63)。
 大前研一の最後は次のとおり-「私はハシズム批判には与しない。橋下イズムは健全な国家ビジョンであり、まさに必要な方向性であり、手段でもある。それだけに国民が期待しているいま、みなが大阪の成功を祝福するかたちをつくることが、日本変革の近道であり、この国にとって最後に残されたチャンスなのである」。
 こうした山田宏、大前研一の文章が、石井聡にかかると、まるで逆の趣旨のごとく印象づけられる。恣意的な、(橋下徹を危惧・批判する部分のみの)抽出は、果たしてまともな「時評」なのかという疑問が生じるが、産経新聞(社)の意図、または社論に即して書かれているのだとすると、(朝日新聞等についてと同様に)そのような取り上げ方自体を批判することはできないのかもしれない(むしろ問題になるのは、産経新聞の意図・社論なのだろう)。
 石井聡はまた、月刊正論5月号の特集の中の佐藤孝弘論考のみを採り上げ、橋下徹批判になりそうな部分のみを紹介しているが、立ち入らない(実際の佐藤論考は全体としては、石井が描いているよりも、より中立的だ)。
 産経新聞5/20の、6月号についての「論壇時評」(稲垣真澄)は、月刊WiLL月号の中の多くの論考・記事のうち、久保紘之・堤堯の対談〔雑談〕―見出しは「橋下のやってるのは単なる“維新ごっこ”」―のみを採り上げ、「『維新の会』の掲げる脱中央、地方主権がいかに幕末維新の精神から遠いものかを説く」等と紹介する。上記のような産経「論壇時評」の姿勢・方向性・方針からすると、この部分がお気に召した、ということだろう。
 わずか3号分にすぎないが、橋下徹への支持・期待の論考類を紹介・引用したものは一つもない。言及・紹介があるのはすべて、橋下徹批判・懐疑だ。
 追記すれば、隔週刊サピオ5/09・16号には、産経新聞や月刊正論でもお馴染みの遠藤浩一、八木秀次らが、「橋下首相なら日本をこう変える」という文章を各論点ごとに書いている。遠藤浩一は憲法改正について、八木秀次は靖国参拝について書いている。
 前者は条件・前提を種々に加えてはいるが、橋下徹自身を批判してはいない。後者は、橋下徹は「間違いなく素朴な保守主義者、健全なナショナリスト」だ等と述べている(p.16)。
 これらも<論壇>での見解の一部だろう。しかるに、産経新聞社にとって身近な?人物の文章であるにもかかわらず、産経「論壇時評」はいっさい無視している。 
 おそらくは、以上に紹介したようなことの中に、少なくとも現在の産経新聞の橋下徹に対する姿勢が明らかに示されているのだろう。
 日本共産党・志位和夫(委員長)は大阪での集会で、橋下徹・維新の会について「独裁にも通じる恐怖政治…」、「維新に反撃ののろしを…」とか演説したと伝えられる(5/20)。
 このように日本共産党や日教組その他の民主党・共産党系労組が敵視している橋下徹を擁護・応援するどころか、「冷たく」批判をし続ける産経新聞というのは、いったいいかなる政治的傾向・政治的感覚の新聞なのだろう、という基本的な疑問すら湧いてくる。
 少なくとも、素直でまっとうな<保守>ではないのではないか? 本紙と
月刊正論の購読中止は正解だった、と思っている。<資料>として読むことは、今後もむろんあるだろう。

1123/君が代斉唱命令の目的についての小森陽一の文章と斉加尚代。

 〇戒告等の懲戒処分がのちに伴った国歌斉唱職務命令が教育委員会によって出されたのは東京都が最初で、昨年および今年(1月)の最高裁判決も、東京都教員を第一審原告とする、職務命令違反・懲戒処分(・再雇用拒否)にかかるものだ。
 その職務命令(通達)は2003.10.23(平成15年)に出され、後記の小森陽一の文章によると「10・23通達」と呼ばれ、翌年4月号の岩波・月刊世界は「『日の丸・君が代』戒厳令」というタイトルで特集を組んだらしい。もちろん岩波書店のことだから、反石原慎太郎・反君が代等の立場でだ。
 編集委員会編・「日の丸・君が代」処分(高文研、2004)の中で小森陽一は、職務命令そして「『日の丸・君が代』戒厳令」の目的を、つぎのように書いている。
 なお、小森陽一とは、東京大学教授だが研究者ではなく活動家・運動家・オーガナイザーとしての能力の方が上回ると思えるほどに、もちろん<九条の会>運動を含めて、しばしば岩波の本や冊子に名前を出している人物だ。
 「『日の丸・君が代』戒厳令」は公立学校を「教育の場ではなく、国民を統治・管理する、国家意思を貫徹する場」に、「軍隊と同じ、『人格』を破壊し、国策人材を作る組織」にすることを「最終的ねらい」としている。「『軍隊』の一員として、国家のために人殺しを正当化する洗脳を、子どもたちにかけるために、公立学校を軍事組織化する」ことにねらいがある。「『日の丸・君が代』戒厳令」は、東京都立学校の教職員だけではなく、「この列島に生きるすべての人々を戦時体制に組み込んでいくための攻撃」だ(p.196-7)。
 日の丸掲揚・君が代斉唱職務命令に、おどろおどろしくも、こういう意図を感じ取るのだから、その妄想的感覚は異常に発達している、と言ってよい。
 また、「左翼」教条主義者が何かにつけて繰り返すように、かつての「戦時」体制に戻そうとしているとか、新しい「戦争」を準備しているとかと、小森や上の本の中の(当時の)現役教員たちの文章は書いている。
 <反君が代(・日の丸)運動>には(むろん「反・天皇制」と結合して)このような意識・感覚があることは、知っておいてよいだろう。
 〇5/08朝の大阪市役所での<囲み取材>の場で、毎日放送の斉加尚代は「一番訊きたかったこと」だとして、「卒業式・入学式で君が代を歌うということは何の目的ですか」、「教員、先生が歌わなければいけないのはどういう理由」か、と橋下徹に尋ねている。
 こんな質問を大阪市長(大阪府君が代斉唱条例を提案したかつての大阪府知事)にするのは、それこそ「何のため」なのかと、奇妙な感じも受けた。
 橋下が実際に答えたように、国歌だから(公立学校の儀式で歌う)、という回答が返ってくることくらい通常は予測できるだろう。それを敢えて訊くのは、よほど<反・君が代>で凝り固まった「左翼」なのだろうと思ったのだが、上に紹介した小森陽一の文章を読んで、なるほどと得心するところがあった。
 斉加尚代が上の本を読んでいるという証拠はないし、読んでいないかもしれない。しかし、<反・君が代(斉唱命令)>の立場の雑誌や書物では、上の小森のような主張が繰り返し語られていると見られ、間違いなく斉加尚代はそのような主張を読み、そしてそのように理解し、賛同していると思われる。
 つまり、斉加尚代は、おそらく間違いなく、公立学校教職員への「国歌(君が代)斉唱職務命令」は、戦前と同様に天皇を称え、戦前と同様の「軍国主義」の時代にするために、子どもたちを「軍隊の一員」とし、子どもたちに「人殺しを正当化する洗脳」をかける意図をもって、発せられている、と理解しているのだと考えられる。
 たんに漠然と<分からない>から橋下に訊いているのではなく、(表現の仕方は同じではないにしても)自らは上のように明確に「理由」・「目的」を理解して(理解したつもりになって)、橋下徹が何と答えるのか、ひょっとすれば(上のようには表向きは答えられないために)答えに窮するのではないか、とでも思って、あえて(幼稚とも感じられる)質問をしたのではないだろうか。
 斉加尚代はフェミニズム・ジェンダーフリー(「男女共同参画」?)の集会に参加して放送記者の肩書きで発言したりもしているようだが、おそらく間違いなく、松井やよりと同じく、固い「左翼」信条・心情の人物のように思われる。
 「左翼」文献ばかり読んでいると、特定の<右翼・保守>以外の者は自分と同様の考え方のはずだ、自分を理解してくけるはずだ、などという、大きな勘違いをする可能性がある。
 そのように理解すれば、一人で長々と(30分程度も)質問し続けた背景も分かる。市政記者たちによる<囲み取材>の「空気」が読めていないのだ。
 そしてまた、当日の橋下徹の回答いかんにかかわらず、<反・君が代(斉唱命令)>の立場で、基本的にはそれまでに準備し予定していたとおりに、毎日放送「ヴォイス」の特集を編成し、放映した理由・背景も分かる。
 一テレビ局(しかも関西ローカルの)の放送とはいえ、数百万人は視聴していただろう。
 「君が代斉唱命令」によって最終的には公立学校を「軍事組織」化し、子どもたちを<国家のために死ぬことのできる>兵士へと育てようとしている、と考えているような「左翼」活動家がテレビ局内に番組製作担当者として(毎日放送に限らず)存在しているだろうという現実を、深刻に受けとめる必要がある。
 前後したが、斉加尚代が「子どもたち」にどう教えたら(答えたら)よいのか、という質問の仕方をしているのも、上記の小森陽一の文章を読んでみると、理由がきちんとあることが分かる。 

1121/月刊正論の愚―石原慎太郎を支持し、片や石原が支持する橋下徹を批判する。

 〇月刊正論(産経新聞社)編集部の川瀬弘至は、既述のように、自らを「保守主義者」と称し、「今後は『真正保守』を名乗らせていただきます」とまで明言していた(イザ・ブログ4/04)。
 その川瀬弘至は同じ文章の中で月刊正論5月号の、橋下徹を批判する適菜収論考を「とってもいい論文」と紹介してもいたのだが、産経新聞4/03の月刊正論の紹介(宣伝広告)記事の中で、次のように書いていた。
 「橋下市長は、自分に対する批判にツイッターなどでいつも手厳しく反論する。今回の適菜氏による『保守』の視点からの批判には、どんな反応を示すだろう…」。
 その答えは、無視だった。4月初めの数日間の橋下ツイートは空白になっているので、何か事情があったのかもしれない。
 だが、月刊正論5月号とほぼ同じ頃に出た、「橋下首相なら日本をこう変える」と表紙に大きく銘打ったサピオ5/09・16号(小学館)の中の(特集・諸論考の中では少数派の辛口の)小林よしのり中野剛志の対談(p.20-)については、橋下徹は反応して、小林よしのり・中野剛志への批判・反論をツイッターで書いているので、橋下徹は月刊正論の方は(おそらくは知ったうえで)<無視>したのではないか、と思われる。
 小林よしのり・中野剛志と適菜収では、まるでネーム・バリュー(・影響力)が違う。加えて、適菜の主張内容は、小林よしのりらのそれと比較して、まるで話にならない、相手にするのも馬鹿馬鹿しい、というのが、無視したと仮定したとしての私の推測だが、その理由でなかったかと思われる。橋下徹は自ら「しつこい」とも書いているので、気に食わず、反論しておくべきと感じたとすれば、月刊正論5月剛の適菜論考にも触れただろう。
 しかし、何の反応もしなかった。それだけ、適菜収論考の内容はひどい(と橋下は判断したのだろう)。
 〇この適菜収については、これまた既述のように、「産経新聞愛読者倶楽部」という名のウェブサイトが、適菜の前歴も指摘しつつ、「産経新聞は適菜を今後も使うかどうか、よく身体検査したほうがいいでしょう」と助言?していた。
 しかし、産経新聞は―何ヶ月か一年かの約束でもしたのかどうか―適菜収を使うのをやめていない。
 産経新聞4/04に続いて5/04の「賢者に学ぶ」欄に適菜は再び登場して、橋下徹の名こそ出さないものの、「閣僚から地方首長にいたるまで政治家の劣化が急速に進んだ背景には、《偽装した神=近代イデオロギー》による価値の錯乱という問題が潜んでいる」を最後の一文とする文章を書いている。
 批判されている「地方首長」の中に橋下徹・大阪市長を含意させていることは明らかだろう。
 ところで、執筆者名は不明(明記なし)だが、産経新聞5/14の月刊正論紹介記事は「尖閣・石原発言を支持する!」 という特集が組まれていることに触れていて、一色正春の主張をかなり紹介している。その前にある次の文章は、月刊正論編集部の見解だろうと思われる。 
 「自分の国は自分で守る―。この当たり前の意識が、戦後70年近くも置き去りにされてきた。それが諸悪の根源だ。もしも石原発言に何かリスクがあるとしても、喜んで引き受けよう。私達は石原発言を断固支持する」。
 一色正春の主張内容との区別がつきにくいところが大きな難点だが、以下の文章は、月刊正論編集部の言葉のようにも読める。
 「繰り返す。私たちは今、スタートラインに立った。石原都知事が号砲を鳴らした。さあ、胸を張って走り出そう。続きは正論6月号でお読みください」(途中に改行はない)。 
 (なお、産経新聞本紙は購読しておらず、もっぱら電子版(無料)に依っている。この部分以外も同様)。
 このように石原慎太郎発言・行動を支持するのは結構なことだが、月刊正論編集部は、石原慎太郎産経新聞5/14の連載「日本よ」で書いている内容は支持するのだろうか??。
 石原のこの文章は大きな見出しが「中央集権の打破こそが」で、「……東の首都圏、大阪を芯にした関西圏そして中京圏と、この三大都市圏が連帯して行おうとしているのは中央集権の打破、国家の官僚の独善による国家支配の改善に他ならない」、から始まっている。
 また、「志のある地方の首長たちが地方の事情に鑑みた新規の教育方針を立てようとしても、教育の指針はあくまで文部科学省がきめるので余計なことをするなと規制してかかるが、その自分たちがやったことといえば現今の教育水準の低下を無視した『ゆとり教育』などという馬鹿げた方針で…」とか、「日本の政治の健全化のためには多少の意見の相違はあっても、地方が強い連帯を組むことからしか日本の改革は始まりはしない」とかの文章もある。
 「地方」の中に大阪市(・大阪市長/橋下徹)も含めていることは、石原慎太郎は橋下徹を支持して選挙の際には応援演説までしたこと等々からも疑いえないことだ。
 適菜収は月刊正論5月号で「地方分権や道州制は一番わかりやすい国家解体の原理ですと書いていた(p.51)。
 一般論・超時代的感覚での適菜の<中央集権>志向と、具体的・現実的な現在の状況をふまえての石原の<地方の連帯>等の主張は嚙み合ってはいないだろうが、ともあれ、ほぼ真反対の議論・主張であることは間違いない。
 これら石原と適菜の、矛盾する二つの文章を掲載する産経新聞というのは、はたして、いったい何を考えているのだろうか。何らかの一致した編集方針はあるのだろうか。
 適菜の言葉を借用すれば、「価値の錯乱」は、産経新聞においても見られるのではなかろうか。
 「価値の錯乱」は産経新聞社の一部の、月刊正論編集部においても見られる
 一方で橋下徹を批判・攻撃しておいて、一方で、その橋下徹を支持し、連携しようとしている石原慎太郎の(別の点での)発言を大々的に支持する特集を組むとは、少しは矛盾していると感じないのだろうか。
 橋下徹を批判する適菜収論考を(も)掲載するくらいならばまだよい。月刊正論の編集長・桑原聡自身が、自分の言葉として、橋下徹について、「きわめて危険な政治家」だ、「目的は日本そのものの解体にある」と明言したのだ。
 こんな単純で粗っぽい疑問・批判を加えることにより、産経新聞や月刊正論の購読者を一人でも失うとすれば、それは、産経新聞・月刊正論の<価値の錯乱>、いいかげんな編集方針に原因があるのではないかと思われる。
 私のような者の支持・支援を大きく失うようでは、<保守>メディアとしては立ちゆかないだろう、少なくとも日本の「体制派」・「多数派」になることはありえないだろう、と私は秘かに自負している。
 〇「保守」・「右派」、「左翼」・「共産主義」といった言葉は使わなくともよい。
 橋下徹は毎日放送・斉加尚代ディレクターの質問に対して、公立学校の教職員が入学式等で日本(国家)の国歌である君が代を歌うのは、<国歌だから。式典だから。君が代を歌うときに、起立斉唱するのは当たり前のこと。感覚で、「理屈じゃない」。>等と答えている。
 こうした橋下の答えが虚偽の、あるいはパフォーマンス的なものではないことは、<囲み取材>の雰囲気等々からも明らかだろう。
 しかるに、月刊正論編集長・桑原聡は―繰り返すが―橋下の「目的は日本そのものの解体にある」と思うと明記した(月刊正論5月号)。
 上のような<国歌・君が代観>の持ち主が、<日本そのものの解体>を目的として行動しているのだろうか??
 何度でも書いておきたい。何の、誰の影響を受けたのか知らないが、月刊正論編集長・桑原聡の<感覚>は異常なのではないか

1120/斉加尚代(毎日放送)・橋下徹(大阪市長)の質疑全文③完-2012.05.08。

 斉加尚代(毎日放送)・橋下徹(大阪市長)の質疑全文③完
 2012.05.08 
<資料・史料>


 〇斉加 じゃ、最後にお訊きします。市長が中原校長だったら、中原校長と同じことをしますか?
 〇橋下 当たり前ですよ。職務命令で起立・斉唱というのが出てるんじゃないですか。子どもたちに、音楽の課題を与えて、歌いなさいと言ったときに、唇をチェックしない音楽の先生がいますか。それがダメなんだったら、教育委員会が、起立をするだけという命令に切り替えたらいいんですよ。君が代を歌うときには起立だけでいい、という命令にしたらいいじゃないですか、教育委員会が。
 〇斉加 もう一つ、じゃあ、何のために歌うのか、教えていただけますか。これは一般論として。
 〇橋下 われわれが答えるべき問題じゃない。あなたが、何も取材もしていないしね、勉強不足なのにね、それは、取材する側としてはちょと失礼ですよ。あまりにも、勉強不足。あなた、この方はどこの記者の方なんですか? <他記者の発言あり> で、市政担当でも何でもないでしょ。まったく、だって、それが事実から何にも知らないんだもん。
 〇同僚?記者 条例上問題ないのはよく…。
 〇橋下 そしたら、おたくの方から、記者の方から、ちゃんと知ってる方から訊いて下さいよ。
 〇同上同僚?記者 いや、取材はよくしてて、分かってるんですが、ちょっと、訊き方にちょっと問題があったのかもしれませんけど…。
 〇橋下 だって、何にも分かっていないだもん。
 〇同上同僚?記者 条例上問題がないのは分かってるんですが、…。
 〇斉加 それは私も分かってます。
 〇同上同僚?記者 アンケートの結果でね、やはり口元チェックについては、…過半数がですね、ちょっとやり過ぎだと思うと、だから条例上問題がなくとも口元チェックはやり過ぎだと思うというのが、やはり校長の、過半数の校長のご意見で、実際、問題ない、当然だというのはわずか3人しかいらっしゃらなかったんで、やはり一般論的には問題だなとお考えても、いいんじゃないですか、ということをお訊きしたいんです。
 〇橋下 全然、問題はないと思いますよ。それは世間一般に確認してもらったらいいんじゃないですか。問題があるんだったら、教育委員会が命令の内容を変えないと。起立・斉唱命令を出したんですもん。全教員に対して。じゃあ、われわれ命令出してね、何でもいいですよ、市民のみなさんに命令出しますよ、うー、例えばタバコ・ポイ捨て禁止の条例でも何でもいいです、そのときに、タバコのポイ捨てをしたときにね、ポイ捨て禁止の条例になってるのに、いやそれは、ふつうに捨てるのならいいですよ、そこまではやり過ぎです、そんなこと取り締まったらダメですよなんて言えますかね。
 〇同上同僚?記者 まぁ、例えば、陰に隠れてこそっと見てて、捨てるの待って言わなくても、捨てるかもしれなかったら先に注意するとか、いろんなやり方があるというような、そんな裁量の範囲内の話かな、と。
 〇橋下 法の適用に裁量を求めていいんですか?
 〇同上同僚?記者 でも、この…斉唱に対して校長のマネージメントの範囲というのがあるじゃないですか。
 〇橋下 そしたらね、範囲の中だったら、それぞれの個人の主観といいますか、その裁量の範囲内でしょ。やり過ぎかどうかなんていうことを、コメント出すこと自体が失礼ですよ、それは。裁量の範囲内じゃないですか。
 〇同上同僚?記者 だから、明らかにダメですと、こっちが断言しているんじゃなくて…。
 〇橋下 いや、ダメだ、ダメだ、と訳の分からないことばかり言ってるじゃない。範囲内だったら、何にも問題ないでしょ。
 〇斉加 私も範囲内…<不明>。
 〇橋下 だから、それだったら、教育委員会が、しっかりそういうことをね、言ったらいいじゃないですか。口元のチェックまでしたらダメですよ、とか。
 〇同上同僚?記者 ダメですよとまではもちろん言えないと思うんです…。
 〇橋下 それじゃ、やってもいいわけじゃないですか。
 〇同上同僚?記者 そうです。やっても別にいいんです。
 〇橋下 じゃあ、あとはやり過ぎかどうかなんてのは、それぞれの校長の判断なわけでしょ。
 〇同上同僚?記者 そうなんです。で、そこの判断のところを、やはり過半数の人がやり過ぎだと思うというふうに答えているので、それについていかがですか、と…。
 〇橋下 それは、人数、関係ないじゃない。裁量の範囲だったら。そういうふうに思う人もいれば、そういうふうに思わない人もいる。それぞれ尊重しましょうというのが裁量の範囲内でしょ。そんなところでアンケート取ったって、意味ないじゃないですか。裁量の範囲内なんですから。裁量の捉え方なんですから。そんなところでアンケートで40何人がやり過ぎだと思うということ言って何の意味があるんですか。裁量の範囲内なんでしょ。
 〇斉加 ですから…。
 〇橋下 だから、やる校長もいれば、やらない校長もいるわけだから、どっちがいい悪いなんてことを評価してはいけないでしょ、それは。ダメなんだったら、ダメって言っておくべきなんであってね。裁量の範囲内なんだったら、やる校長もいれば、やらない校長もいる。中原校長だってね、あなた、取材も何もしていないと思うけれども、あの校長だって教育委員会とやりとりをやって、そのやり方を、ほんとに創意工夫というか、頭を悩ましたんですよ。3秒間、式を乱さないように、後方からパッと各校長〔ママ〕の口元を見た、その場で指摘はしない、式を乱すから。別室に行って、あなた歌ったか歌ってないかということを、確認した。そこで歌ってましたよと言った人は、別にお咎めなしですよ。そこまで追及しない、彼は。歌っていないと認めた人を教育委員会に報告したんですよ。何が悪いんですか、それの。歌っていないことを、ちゃんと管理、マネージメントしてるわけじゃないですか。あなたの質問の趣旨は、一貫して…。最後はもうブレ始めている。じゃあ何のために質問してるのか、言ってくださいよ。質問の意図がわからない。
 〇斉加 わかりました。
 〇橋下 まず、事実関係も勉強していない。
 〇斉加 じゃあ、中原校長のやってらっしゃることを、私は何も評価はしていません。ただですね、中原校長が私はこれを裁量権でやりましたとおっしゃったんだったら、私は納得します。けれども、教育委員会から命じられてとおっしゃって、教育委員会が口元チェックまで命じていないと思うんですね。
 〇橋下 何を言ってるんですか。裁量を誰が与えたんですか。中原校長に、最初に、始源的に、オリジナルに権限があるんですか? 誰がその裁量を与えたんですか、そしたら。中原校長が、そのマネージメントをする権限を与えたのは、誰ですか? 言って下さい。法の授権の話です、これは。もう、原理・原則の当たり前の話も分かっていない。教育委員会が、口元のチェックをしてもいいし、やらなくてもいいし、やることも、その権限を与えたのは教育委員会の職務命令ですよ。職務命令に従ってやったというふうに言って、何の問題があるんですか。
 〇斉加 まったく問題はない。まったく問題ないです。
 〇橋下 じゃあ、何を訊いてるんですか?
 〇斉加 何…。どういうことですか。
 〇橋下 何の質問なんですか。何の問題もないんだったら、何を質問してるんですか、そしたら。
 〇斉加 でも、アンケートの結果は、それについて、市長のおっしゃったように素晴らしいマネージメントとの結果にはなってませんので、そこをお訊きしたいんです。
 〇橋下 全然それは、校長がそれぞれそういうふうに判断してるだけじゃないですか。素晴らしいマネージメントでいいじゃないですか。その範囲内できちっとチェックをした。歌ってないと言う人をちゃんと報告してるじゃないですか。それマネージメントですよ。条例作って、歌ってない人を放置してたら、全然法の意味がないじゃないですか。起立・斉唱という条例を作った。歌ってない人をきちんと報告した。その報告の仕方は、式を乱さずに、本人の思想良心を害することなく、本人に歌っていませんということを認めさせて、報告させたんですよ。こんな完璧なマネージメント、どこにあるんですか。言って下さい。じゃあ、あなたのところの社内のルールはありますか? 社内のルールはあるのか、まず訊いてます。社内のルールはある?
 〇斉加 それはあるに決まってるじゃ…。
 〇橋下 チェックはしないの? そしたら。ねぇ、MBSへ行ったら、トイレに入ったら、ここでタバコ吸うなとか禁煙とかいろいろありますけど、それはチェックはしないの?
 〇斉加 時間の無駄ですので…。
 〇橋下 無駄じゃない。それは重要なの。ルールは作って、チェックはしないの、MBSは?
 〇斉加 チェックはしますけれども、チェックの仕方はいろいろ…。
 〇橋下 チェックの仕方はいろいろあるけれども、教育委員会の裁量の範囲内でしょ。中原校長は、教育委員会が口元のチェックはしてもいいし、しなくてもいいし、そのあたりのことは教育委員会が裁量を与えたんでしょ。その範囲内でやっていることを、何が問題があるんですか。完璧なマネージメントじゃないですか。思想良心を害したわけでもなく、本人に強制させたわけでもなく、本人に認めさせた。式典と違うところに出させて、そして式典でのチェックは3秒間だけの、パッとした一律の、目視というか、目で視ただけ。そして別室に寄せて、連れてきて、歌ってますか、歌いませんでしたか。最初何人か呼んできたらしいですよ。歌いましたという人に対して、それを否定するようなことを彼はしなかった。歌ったと本人が言ったんだったら、それでいい。口元が動いていようが、動いていなくとも、心の中で歌っていたんだったらそれでいいと彼は判断した。完璧なマネジメント。他の40何人の校長というのは、そういう法律のね、そういう知識がないから、強制しちゃいけないとか、一律にやっちゃいけないとか、四の五の言ってますけれども、彼は、緻密に緻密に論理を構成して。こんなの、裁判所に行ったって、あなたのように勉強不足の記者がいくら質問したって、こんな論理は崩せませんよ。僕らは、これは緻密に緻密に、誰からも、どの法学者に言われても、破綻しないような論理を組み立ててきている。組み立ててきたんだから。そんな勉強不足のね、そんなのが、何を言ったって、無理なの。もしそれを言うんだったら、教育委員会の方に、どういう命令を出したのか、各校長に与えた権限はどの範囲内なのか、しっかり勉強してからやらないと。
 〇斉加 あの、最後の質問なんですけど…。
 〇橋下 いやいや、もっとね、報道がね、誤った情報を伝えるから、中原校長は、社会的に、非常にね、大変な状況になっている。
 〇斉加 あ、そうなんですか。
 〇橋下 当たり前じゃないですか。ネットでも見て下さいよ。あなたみたいな、そんな頓珍漢な記者がね、いろんなことを報道するから。ネット見て下さいよ。
 〇斉加 でも、メールを見て公表してもいいとおっしゃって下さったのは…。
 〇橋下 彼の覚悟ですよ。
 〇斉加 それは橋下さんがお勧めになられたんですよね。
 〇橋下 勧めじゃないです。二人で考えて、この馬鹿げた、このような状況を何とか正さなければならないということで、僕がお願いをして、それで彼も合意をしてくれて出した。どういう状況になるかというと、案の定、あなたみたいな頓珍漢な記者が、事実関係も知らずに、ワンワカワンワカ吠えまくって…。こうやって話したら、あなたの論理、もう無茶苦茶じゃないの。何も、質問していることが何も伝わって来ない。誰が聞いても頓珍漢です。あのー、ホームページにまた出すから、いいけれども。自分で、頓珍漢さ加減、分かってないの? じゃあ結局、質問を整理して、一から質問して、もう一回。何が訊きたかったんですか、僕、さっぱり分からない。
 〇斉加 じゃあ、一番訊きたかったことを最後にお訊きします。あの、子どもたちにですね、卒業式・入学式で君が代を歌うということは何の目的ですかと訊かれた場合、どういうふうにお答えになれますか?、
 〇橋下 子どもたちに、われわれ、義務課してませんよ。
 〇斉加 いえいえ…。
 〇橋下 教員に課しているんです。
 〇斉加 じゃあ、教員、先生が歌わなければいけないのはどういう理由かっていうことを、子どもたちに分かるようにお伝えいただけますか。
 〇橋下 国歌だからですよ。式典だからですよ。君が代、歌うときに、起立斉唱するのは当たり前のことじゃないですか。国歌斉唱、式典で国歌斉唱って言ってるんですよ。何で、卒業式や入学式で、国歌斉唱という儀式があるんですか。まず、そこ、答えて下さい。それをまず言って下さい。
 〇斉加 今の、子どもたちにはちょっと分かりにくいと思うんですけれども、どういう理由かを教えて…。
 〇橋下 じゃあ、入学式や卒業式で、国歌斉唱という、そういう儀式は要らないんですね。それこそ、大相撲でも、ワールドカップのサッカーの試合でも、国歌斉唱ということは要らないんですね。
 〇斉加 あの、公立学校で国歌を歌ってるというのは、それほど世界的に見ても多くはないと聞いてますけれども…。
 〇橋下 公立学校で、世界的に見てとか、そうではなくて。でも歌っているところもある。ある国によっては、ある国というか、ある地域によっては、映画を見終わった後に、そこに国歌が流れる場合もある。いろんな式典で国歌が歌われることもある。公立学校とか、式典とか、そこはさまざまじゃないですか。
 〇斉加 市長の今のご説明だと、それは、当たり前のことですね、というご説明だと思うんですが、子どもたちに分かるようにもっとご説明いただけないですか。
 〇橋下 それは各学校で親に訊くべきじゃないですか。そんなのは常識です。じゃあ入学式や卒業式で国歌斉唱しなくていいのか。そんなふうに考えられるかどうかってことですよ。それはもうふつうの感覚。理屈じゃないんです。
 〇斉加 それじゃ、親に訊けと言った子どもは市長に訊いてるんですってなりますよねぇ。
 〇橋下 いや、そしたら親が、国民として親が言ったらいいじゃないですか。もう、卒業式や入学式で、もう国歌は歌わなくていいよっていうふうに親が言われるんだったら、子どもたちは歌わなくていいですよ。僕たちが言ってるのは、教員に対して言ってるんですよ、公務員に対して。公務員なんだから。彼らは、公務員で、日本のために、日本の国家から税金をもらって、国家のために仕事しているんだから、キッショキッショ〔?〕の式典で、国歌を歌うの、当たり前じゃないですか。そんなこと言い出したら、日本の国歌斉唱の儀式、全部、理由を問うことになりますよ。国民に対しては義務は課しません。歌うかどうかは自由です。子どもたちも自由。親がどうしても歌いたくない、いろんな考え方がある。うちの子どもは歌わなくていい、着席しろと言うんだったら、それも自由です。公務員に対して言ってるんだから、子どもたちに対して、という話とは違うでしょ。われわれが言ってるのは、条例で決めてるのは、公務員に対してルール化してるんですよ。話が無茶苦茶。国民に対する義務じゃないわけ。
 〇斉加 いや、そうじゃなくて、先生に無理やり歌わせることについて、子どもたちにどうご説明されるか、ということを…。
 〇橋下 公務員だから。当たり前です。公務員だからですよ。大阪市の職員も、採用の任命式のときに歌わせましたよ。公務員ですから。きちんと日本国家のために働いてもらわなきゃ困るんですから。憲法、条例、法令にもとづいて…。国民とは違うんです。憲法、法令、条例にもとづいてしっかりと職務をまっとうする、それが公務員なんです。公務員の歌は何ですか、社歌は何なのか。国歌じゃないですか。
 〔一部省略〕        
 〇斉加 もうこれで最後にしますけれど、13年前、野中広務さんが、一律強制はしないとあれほどくどく言ったのにと、大阪は大きなマイナスの一歩を踏み出したと、つい先日おっしゃったんですよ。
 〇橋下 強制は国民にはしていません。
 〇斉加 公務員も…。
 〇橋下 公務員は、だって、社歌なんだから。それは自由じゃないですか。社歌を歌う、大阪市の市歌というのもありますよ。どういう歌をきちんと歌うのか、僕の組織の感覚では、公務員だから国歌を歌ってよ。当たり前じゃないですか。
 〇斉加 じゃあ、歌えない方は退場すればいいと…。
 〇橋下 そうです。公務員を辞めればいいんです。そういう、歌いたくないんだというんだったら、公務員じゃなく、民間の企業に行ったらいいじゃないですか。MBSなんか行ったらいいですよ。社歌も何もないんだし。〔省略〕
 〇斉加 フフフフフ…。まぁ、あの、このくらいにしておきますけど…。
 〇橋下 このくらいにしておきますけどって、失礼な言い方は何ですか。吉本の新喜劇でもですね、もうちょっと丁寧な対応をしますよ。
 〇斉加 どうも、ありがとうございました。
 〇橋下 これ、ちょっとどうですか、みなさん。この質問の仕方。これくらいにしときますけどもって。
 〇斉加 いや、噛み合わないなというふうに、私もちょっと感じましたので。
 〇橋下 だって、勉強していないんだもの。
 〇斉加 いや、市長が、私が答えていただきたいことに、お答えいただけないこともありましたので。
 〇橋下 だって、事実関係、何も勉強していないんだもの。答えようがないじゃない。命令の主体も、命令の対象者も分かってないし、一律に強制してどうなんですかって、教育委員会が決定してるんじゃない。全教員に対して、歌いなさいよって職務命令を出したんじゃない。そんなことも知らないで、一律に強制が、一律に強制がって、一律に強制したのは教育委員会じゃないの。
 〇斉加 それは知ってますよ、だから…。
 〇橋下 だからそんなの、知ってるも何も、それを質問でね…。知ってますよって、今、後づけで言ってるのはみんな分かってる。
 〇斉加 後づけじゃなくってですね…。
 〇橋下 結局、だからもう全部ね、おたくが考えていた論理というのはおかしいというのは分かっている。まぁ、本人はね、納得されないけれども、ここでもう明らかになったから、いいです。こういう場でね。もう、MBSも、おたくみたいな頓珍漢な質問が出て、何がおかしいのかよく分かったんで。
 〇斉加 ありがとうございました。
 〇橋下 はい。
 <おわり。青太字は掲載者。忠実な再現に努めたが、聴き誤っている可能性か全くないとはいえない。>

1119/斉加尚代(毎日放送)・橋下徹(大阪市長)の質疑全文②-2012.05.08。

 斉加尚代(毎日放送)・橋下徹(大阪市長)の質疑②
2012.05.08 
<資料・史料>


 〇橋下 何言ってるんだよ。一律強制…。もう、ふざけた取材するなよ。
 〇斉加 一律強制ですよね。
 〇橋下 当たり前じゃないか。命令に入ってるだろ。
 〇斉加 では、一律強制で歌わせることについては、思想良心の自由とでどうですか?
 〇橋下 教育委員会に訊いたらいいじゃないですか。起立・斉唱命令で、教育委員会が全教員に出したんだから。教育委員会に訊いたらいいじゃないの。
 〇斉加 いや、市長にお訊きしてるんです。
 〇橋下 教育委員会が出したんだから、その命令は。
 〇斉加 でも市長が条例を制定されて、出した…。
 〇橋下 条例にもとづいて出したのは教育委員会なんだから。出すか出さないかは、教育委員会の教育マネージメント。それが地教行法による教育委員会の教育マネージメントなんです。われわれは条例を作っただけ。職務命令を出すかどうかは教育委員会のマネージメント。2002年に教育委員会が、起立・斉唱を決定したのは教育委員会なんだ。まず、そこを取材しないと。
 〇斉加 あの、取材はしています。
 〇橋下 じゃあ、教育委員会は何と言ってました?
 〇斉加 歌わせるかどうかは…。
 〇橋下 教育委員会は何と言ってた?
 〇斉加 市長…。
 〇橋下 教育委員会は何と言ってたかをまず聞かないと。思想良心に反するというように言ってた?
 〇斉加 いや、それはおっしゃってませんよ。
 〇橋下 じゃあ、それでいいじゃないの。それで。
 〇斉加 だから、中原校長の口元チェックについては、この条例の枠内だというふうに、おっしゃってました。
 〇橋下 じゃあ、それでいいじゃないの。職務命令の範囲内じゃないの。
 〇斉加 だから、教育委員会がやり過ぎだとおっしゃってないですよね。
 〇橋下 誰が?
 〇斉加 私は、市長にお訊きしたいんです。
 〇橋下 僕は命令の主体じゃないんだから。まず、法律の構造を聞かないと。考えないと。
 〇斉加 それは無責任じゃないですか。
 〇橋下 無責任じゃないです。それが教育委員会制度だよ。僕に決定権があるんだったら、命令を出しますよ。決定権がないから、教育委員会が出してるんじゃないか。それが教育委員会の中立性っていうもんだろ。何が無責任なんだ。地教行法を見て、誰が決定主体なのか、見てみろってもんだ。
 〇斉加 それを作られたのは…。
 〇橋下 条例と命令は違うだろ。命令は違う。条例と命令は違う。
 〇斉加 じゃあ、学校長のマネージメントについてはいかがでしょうか?
 〇橋下 それは教育委員会が考えること。
 〇斉加 このアンケートについては…。
 〇橋下 教育委員会の教育行政の範囲内じゃないの。僕が答えることじゃないでしょ。
 〇斉加 逃げてらっしゃい…。
 〇橋下 逃げてないよ。
 〇斉加 私が答えなかったら、逃げてるとおっしゃったじゃ…。
 〇橋下 地教行法の教育委員会と首長の権限分配のことを言ってみなさい。地教行法の24条と25条に書いてあるから。
 〇斉加 こちらとしては、学校長が思想良心の配慮がなくなったと、無理して一律に歌わせるということは、思想良心の自由への配慮がなくなったと受けとめている校長が9人いらっしゃるんですが。
 〇橋下 教育委員会に訊いたらいいじゃないの。教育行政は教育委員会が最終決定権者なんだから。校長のそういう考えを全部くみ取るのは教育委員会でしょうが。今の法律上の制度では。誰が教育行政の最髙の決定者で責任者なんですか。答えてみなさい。そこに問題提起をしているのが、今の僕の考え方なんでしょ。
 〇斉加 条例を作られたのは、市長ですよね。
 〇橋下 教育行政の決定者で責任者は教育委員会なの。
 〇斉加 じゃあこの話と切り離しまして、斉唱、歌っているかどうかと、憲法19条についてはどうお考えなのか、ちょっとおうかがいしたい。
 〇橋下 教育委員会に訊いて下さい。教育委員会の命令に関して、僕が答えるようなことじゃありません。教育委員会の命令です。
 〇斉加 いや、一般論としてお訊きしてるんです。どうお考えですか。
 〇橋下 僕の職務権限外です。質問の仕方が悪い。
 〇斉加 じゃあ、もうちょっと質問させていただきます。何のために、教職員は君が代を歌うんですか
 〇橋下 教職員や公務員は、職務宣誓をしています。憲法、法令、条例にもとづいて職務をしっかりする、という職務宣誓をしている。だから、条例にもとづいて、ちゃんと仕事すればいいじゃないですか。条例に、君が代を起立・斉唱する、入学式や卒業式のときに、子どもたちの晴れ舞台のときに、起立・斉唱するというように条例で定まっている。だから、条例にもとづいて、職務をまっとうする。服務宣誓やってるじゃないの、公務員は。何がおかしいんですか。答えてみなさいよ、何がって。
 〇斉加 一斉に、歌いたくない先生にも歌わせるということまで、憲法の中ですか。
 〇橋下 条例は、やりたくないことまで国民に命じてるでしょ。国民に対して、みんな、条例、命じてるじゃないの。いやなことでも。
 〇斉加 それは憲法の範囲内だと思うんですけれど。
 〇橋下 憲法の範囲内かどうかは最高裁判所の解釈でしょ。あなたの解釈じゃないよ。
 〇斉加 いや、だから、市長の解釈を訊いているんです。
 〇橋下 条例は憲法に全然問題ないですよ。何にも問題ないですよ。
 〇斉加 最高裁は職務命令は合憲というところまではいっていますけれど、その守らせ方については言っていないと思うんですけれど。
 〇橋下 条例を制定しただけですよ、われわれは。職務命令を出したのは教育委員会ですよ。それだったら、教育委員会に確認しなさいよ、それが憲法に違反しているかどうかは。われわれは条例を作っただけですよ。

 <つづく>(青太字は掲載者)

1118/2012.05.08-斉加尚代(毎日放送)・橋下徹(大阪市長)の質疑全文①。

 斉加尚代(毎日放送)・橋下徹(大阪市長)の質疑①
2012.05.08
<資料・史料>


 〇毎日放送・斉加尚代 毎日放送の斉加と申します。君が代の起立斉唱についてアンケートを行ったのですけれども、府立学校の校長の43人の方から回答がありまして、そのうち22人が職務命令によって起立斉唱を行ったことについては賛成とおっしゃってるんですが、起立と斉唱とをそれぞれ確認すべきと考えていたという校長はわずかに一人だったんですけれども、いかがですか?
 〇大阪市長・橋下徹 それはもう各校長の判断でしょうね。ただ、職務命令の内容は起立と斉唱です。それが教育委員会、教育行政の最高意思決定機関の決定内容です。だから、起立と斉唱を命令、命じたわけですから、それをしっかり守るということが、教育委員会の管理下に入ってる校長の職務だと思いますね。あとはそれぞれどのように判断するかというものは、教育委員会も各校長の判断に委ねるということを言っていますので、そこは校長のマネジメントに委ねますけれども、しかし、職務命令の内容は起立と斉唱です。
 〇斉加 ただ実際には43人のうち38人が起立と斉唱を一つと捉えればいいというふうに思っていた、ということなんですけれども…。
 〇橋下 うん? 起立と斉唱。起ってるだけじゃ起立じゃないですか。そんな国語がありますか。起立・斉唱ということを小学生に言って、起立斉唱しなさいと言って、起っているだけで音楽の点がつきますか? どうですか?
 〇斉加 いや、一律に…。
 〇橋下 いや、僕がまず質問していることについて、答えて下さい。
 〇斉加 いや、私の方からお訊きするんですけれども…。   
 〇橋下 いや、お訊きするんじゃなくて、この場は別に議会じゃないんです。僕は答弁の義務だけを負っているんじゃないんです。どうですか? 起立と斉唱について、起立・斉唱という言葉の中に、起つだけの意味しか入っていませんか?
 〇斉加 あの、歌っていることも入っていますけれども、一律に歌わせることまで強制するということについてはいかがですか?
 〇橋下 起立・斉唱命令なんです。どうなんですか? 教育委員会の決定なんです。起立・斉唱命令です。この国語の中で、斉唱の命令は入っていませんか?。
 〇斉加 あ、そうすると、歌…。
 〇橋下 まず、どうですか?
 〇斉加 歌わせない先生にも…。
 〇橋下 いや、回答を、答えを言わなければ、僕も質問には答えません。それは対等な立場ですから。どうですか? 斉唱の命令の中に、斉唱命令という言葉の中に、斉唱の命令は入っていませんか? どうですか?
 〇斉加 斉唱の命令は入っているとしまして、では、一律に歌わせることについてはどうですか?
 〇橋下 起立・斉唱命令は誰が誰に対して出したんですか? 命令は誰が誰に出したんですか? 言って下さい。まず、そういう事実確認から入りましょう。命令は誰が誰に出したんですか?
 〇斉加 命令は出していらっしゃいますけれども…。
 〇橋下 誰が出したんですか?
 〇斉加 それはマネージメントの…。
 〇橋下 誰が誰に出したんですか?
 〇斉加 それは市長がよく御存知じゃないですか?
 〇橋下 いや、だから、誰が出したんですか? まずそこを、事実確認をしっかりしてから、取材をして下さい。誰が出したんですか? 命令は。
 〇斉加 あの、学校長の…。
 〇橋下 命令は誰が出したんですか? まず答えて下さい。事実確認が不十分な取材なんてとんでもないですよ。命令は誰が出したんですか?
 〇斉加 市長がご存知のことを、私に尋ねていらっしゃるだけですよね。それはおかしなことじゃ…。
 〇橋下 いや、そんなことないですよ。知らないのに質問なんてできないじゃないですか。
 〇斉加 いや、知ってますよ。
 〇橋下 じゃ、言って下さいよ。
 〇斉加 <不明>
 〇橋下 じゃ、僕も答える必要ありません。どうぞ次の質問へ行って下さい。
 〇斉加 すみません、じゃあですね…。
 〇橋下 いや、答えません。そんな事実確認が不十分な取材なんかに答えません。命令は、誰が主体なんですか? まず答えて下さい。
 〇斉加 中西教育長じゃないですか。
 〇橋下 えっ?
 〇斉加 中西教育長。
 〇橋下 とんでもないですよ。もっと調べて下さいよ。教育長が、命令を出せるんですか?
 〇斉加 教育委員長ということですか?
 〇橋下 委員長じゃないですよ。誰が教育行政の決定機関なんですか。そんなことも知らずに、取材なんかくるんじゃないですよ。何を取材しに来てるんですか。命令の主体くらい知らないのにね、なんでこんな取材ができるんですか。じゃあ、誰に対して命令を出したのか、言って下さい。命令の名宛人、命令の対象者は誰ですか?
 〇斉加 あの…。
 〇橋下 答えて下さい。そこが、重要なんです。一律だっていうふうにに言ったでしょ。命令の対象は誰なんですか。
 〇斉加 一律強制じゃないんですか。
 〇橋下 命令の対象をまず言いなさい。そこに全部、答えが入ってます。命令の対象は誰ですか?
 〇斉加 あの、私からお訊き…。
 〇橋下 命令の対象は誰か、まず言いなさい。そこに答えは全て入っている。
 〇斉加 あの、一律に…。
 〇橋下 一律かどうかは、命令の対象の中に全部入っているから、答えなさい。
 〇斉加 …
 〇橋下 答えられないんだったら、ここに来るな。命令の対象の中に全部入っている。命令を読め。まず読んでから、ここに来い。勉強してから来い。
 〇斉加 思想・良心の自由との関係で…。
 〇橋下 関係…。まず、言え。命令の対象は誰なんだ。
 〇斉加 …
 〇橋下 命令の対象は誰なんだ。
 〇斉加 市長、ちょっと落ち着いて…。
 〇橋下 キミの方が落ち着きなさい。事実関係も知らないのに、取材するなって。勉強不足なのは、みんなもう分かっている。
 〇斉加 学校長のマネージメントについてお訊きしたいんですけれども…。
 〇橋下 まずは、命令の対象を答えてから。
 〇同僚?記者 教育委員会から校長に出されているんですけれども、その受けとめというのは校長によって違うと思うので、そこのあたりを訊きたかっただけなんで…。
 〇橋下 まず、命令の対象をまず確定しましょう。命令は誰から誰に出されたのか、そこに全てが入ってますから。
 〇同上同僚?記者 教育委員会から校長に出されている。
 〇橋下 違います。そこは変わりました。全教員に出されているんです。
 〇同上同僚?記者 校長から教員に…。
 〇橋下 違います。教育委員会から全教員に、です。これが職務命令。教育委員会が決定したのが、教育委員会から全教員に出される。それ、知ってたか? 知ってたのかどうか?
 〇斉加 ではですね。
 〇橋下 まず、知ってたのかどうか。僕が知ってることは全部知ってると言ってた。
 〇斉加 知ってましたよ。
 〇橋下 全教員だろ。それが一律かどうかってことくらい、言葉で分かるじゃないか。
 〇斉加 だから、一律強制ですよね。
 <つづく>

1117/斉加尚代・毎日放送の5/11国歌斉唱問題特集の<偏向>。

 大阪のキー局の一つ・毎日放送(MBS)5/11の夕方、君が代斉唱条例・職務命令と「口元チェック」(とりわけ最後の職務命令順守の確認のための方法)について、<特集>が放送された。
 いくつかの点で、<政治的偏向>を感じざるをえない。
 第一。<口元チェックはやりすぎとする校長が26人で過半数にのぼった>との語り(ナレーション)があり、円グラフの赤色部分で「過半数」ぶりが紹介されている。
 もともと「府下の学校長の声を特集」との前振りで始まっていたのだが、「口元チェック」という方法について府下学校長(高校長かと思われる)164名に対してアンケートを取ったところ、44名から回答を得たのだ、という。
 そうすると、回答率は44/164で、約27%(弱)。このようなアンケート回収結果でもって、校長の「揺れ動く声」(女性アナの言葉)について、何がしかのことを語れるのだろうか??
 回答しなかった120名の中には、この問題に関して何も感じていない校長の他、毎日放送によるアンケート調査の意図そのものを疑問視した校長もいたかと思われる。
 そのような<声なき>校長(73%)を無視して、いったいいかほどのことを語りうるのか。この点がそもそも疑問だ。
 「26人で過半数にのぼった」と明瞭に述べていたが、総数の164名に対する割合は約16%(弱)にすぎない。
 おおよそ6人に1人なので、それでも多いかなという印象はあるが、少なくとも、「過半数(の校長)が」チェック方法を「やり過ぎ」だと考えている、と報道するのは、3/4ほどが回答していないことからすれば、強引すぎるし、すでに何がしかの<意図>を感じても不思議ではないだろう。
 第二。学校での日の丸・君が代問題の<歴史>について、次のような説明が(昔の映像とともに)ナレーションで語られた。
 「…軍国教育を反省する気運が教師たちの間で高まった。…〔文部省学習指導要領による国歌化等のあとも〕多くの教員が戦争の記憶を刻む君が代・日の丸が再び教育現場に持ち込まれることに抵抗感を示してきた。…」。
 現在の日本の中学校や高校の教科書には、戦後史の一部について、このように書かれているのだろうか。
 こうした説明・叙述は、歴史の一つの見方にすぎないと思われる。にもかかわらず、まるで客観的な事実のごとく紹介されている。
 いずれにせよ、「…気運が教師たちの間で高まった」、「多くの教員が…抵抗感を示してきた」ことに共感する立場で、この特集が作られたことが明確になっている。
 言うまでもなく、製作担当者の、毎日放送労働組合書記次長・斉加尚代の<歴史認識>、そして<(先の)戦争観>が示されているに他ならないだろう。
 第三。今年1月に出た最高裁判決(東京都での君が代斉唱職務命令合憲、制裁としての懲戒処分の程度は一定程度に制限)のうち、一裁判官の、次の意見の部分を取り出して、語りととともに、画面上に文章を大書した。
 「憲法学などの学説及び日本弁護士連合会等の法律家団体においては,君が代を起立して斉唱することを職務命令により強制することは憲法19条等に違反するという見解が大多数を占めていると思われる。確かに,この点に関して最高裁は異なる判断を示したが,こうした議論状況は一朝には変化しないであろう」。
 このMBSの特集は、そして斉加尚代は、この意見に共感ないし賛成し、あるいは勇気づけられて、この部分をとくに紹介したのだろう。
 上の部分は一部省略されていて、原文の当該箇所全体ではない。それはともかくとしても、番組では何ら紹介されなかったが、上の部分は、そもそも職務命令自体も違憲だとして5名中1名だけの反対意見を書いた、弁護士出身の裁判官・宮川光治のものだ。
 「君が代を起立して斉唱することを職務命令により強制することは憲法19条等に違反するという見解が大多数を占めている」のか否か、「こうした議論状況は一朝には変化しない」のかどうか、私には即断できない。
 だが、少なくとも、上のような見方は宮川光治という一裁判官の見方にすぎないのであり、これがまるで正しいもしくは適切だという保障は何もない。
 番組では「ある裁判官はむつかしさを指摘」しているとして上の部分を紹介したが、「むつかしさを指摘」しているのではなく、<国歌斉唱職務命令の強制は憲法19条等違反だとするのが法学界等では大多数だ>という認識が述べられており、それが法学界等では常識(大多数の見解)だとの印象を与えるものになっている。
 このあたりには、おそらくは斉加尚代の、巧妙なゴマカシがある。五名中四名は、つまり最高裁の裁判官という<法律の世界>の重要な人物たちは、国歌斉唱職務命令を合憲だとしたという重要な事実を、まるで忘れさせようとするかのごときものになっている。 
 巧妙な、そしてじつにいやらしい、偏向した番組作りだと思われる。
 さらに、(あらためて録画を見てみると)宮川裁判官の意見は「反対意見」であるにもかかわらず、画面には「補足意見」と書かれていた。明らかな間違いだ。この二つは、まるで意味が違う。
 5/08朝に橋下徹に質問されても国歌起立斉唱職務命令の発布機関を答えることができず、「教員委員長」などという、存在しない行政機関名まで出していた斉加尚代は、肝心の判決すらきちんと読んでおらず、誰かの紹介した要約的なものをそのまま安直に使ったのだろう。
 なお、上のように「反対意見」中に書いた、おそらくは日弁連推薦によると思われる最高裁裁判官、元弁護士の宮川光治は、名古屋大学法学部出身で、経歴からして、学生時代に憲法学を長谷川正安に学んでいる。そして、長谷川正安(現在は故人)は日本共産党員学者だったと見られ、マルクシズム法学入門(理論社、1952年)、憲法とマルクス主義法学(日本評論社、1985年)といった著書もあった。
 宮川光治は政治的活動団体でもある日弁連のほか、もともと長谷川正安等の日本共産党またはマルクス主義的学者の影響を受けていたのではないか、とも想定される。
 そのような宮川の「反対意見」の一部を、特集では、宮川の個人名も出さず、少数の(一名だけの)「反対意見」中のものだとも明瞭にしないまま放映したのだ。杜撰であるとともに、意図して<偏向させた>ものになっているようだ。
 第四。大阪府教育委員会が、某一校長の口元チェックを同委員会の職務命令の範囲内、または校長が行いうる職務命令順守のチェック方法として許容される範囲内であることを確認する場面が映し出された。この私の文章も不鮮明であるように、いったい何を教育委員会が許容したのだったのか、分かりづらい、曖昧な放送(放映)内容になっていた。
 このあたりにも、何らかの意図が働いている可能性がないとは言えないだろう。
 第五。橋下徹は教員の(上司による)職務命令順守の問題に焦点を当てようとしており、<思想良心の自由とは別々だ>と主張している、と司会者たちは紹介した。
 私は、斉加尚代との間の5/08朝のやりとりの映像も見たが、橋下徹は<思想良心の自由とは別だ>とか<思想良心の自由とは無関係だ>とは一言も明言していない。
 そのように解釈できるのかもしれないが、それはあくまで<解釈>にすぎず、橋下徹が明確にそう言ったかのごとき印象を与えており、虚偽の報道ぶりではないだろうか。ここにも、何らかの意図をもった<政治的偏向>が感じられる。
 第六。上の前に、口元チェックを当然とする校長一人と批判視する校長二人の発言または文章を紹介した。前者は文章も短く、後者は長い。明らかに後者に好意的に、後者に重点を置いて、番組作りがなされていた。
 第七。上(第五で言及した部分)の後に、職務命令と内心の自由または思想良心の自由とは切り離すことはできない旨の、高橋和之(明治大学。前東京大学)、山西義明(大阪弁護士会副会長)の発言をインタビュー画面とともに放映した。
 橋下徹は切り離そうとしている、という紹介のあとだから、当然に、二人は橋下徹の主張を批判した、という構成になっている。
 そのような構成になることに高橋らが事前に知っていたかも疑わしいが、その点はともかくとしても、高橋和之、山西美明とは異なる見解の持ち主も登場させないと、公平さを欠いているだろう。知るかぎりでは、国歌斉唱職務命令と「内心の自由」の関係について、百地章はこの二人とは異なる旨を産経新聞紙上に書いていた
 もともと、橋下徹が、斉唱職務命令と憲法19条等とが無関係(完全に別々のもの)と主張している、という番組の前提自体がおかしいとも言えるのだが。橋下徹は、斉加尚代との間の5/08朝のやりとりでは、憲法との関係は府教育委員会に訊いてほしい、と応答していたと記憶する。
 以上。
 斉加尚代と毎日放送は、橋下徹批判を意図して番組(特集)を作ろうとしたが、最後の本人のコメント取材のところで、斉加尚代の勉強不足・知識不足が露呈したものの、そして、何とか橋下徹との(同僚らとの間での)事前確認事項をぎりぎり守ろうとししつつも、その結果としてある程度は抑えつつも、基本的な部分では当初の企図どおりの番組にしたのではないか、と思われる。
 5/08の橋下徹への質問の前にすでに描いていたストーリーと取材・作成済みの映像等をおそらくは基本的には利用できたのではないか、と想像される。
 女性アナ(髙井美紀)が最後に「…今一度立ち戻ってみなさんと考える機会になればと思いとり上げた」とか述べたのは、白々しい。偽善丸出しのマスコミの現在を象徴している、とも言える。
 斉加尚代、およびこのような政治活動家を「飼っている」毎日放送(MBS)については、なお別に言及する機会を持ちたい。

 斉加尚代も有名になったものだ。朝日新聞の本多勝、松井やより(故人)、本田雅和、NHKの長井暁らに次ぐ、大阪から出たマスコミ界のスターになるだろうか。

1114/未読の多数の書物に囲まれてBSフジで西部邁を観る。

 〇机・椅子の周囲に現在積まれている書物。順不同。
 ①竹内洋・革新幻想の戦後史(中央公論新社) ②西尾幹二・壁の向うの狂気―東ヨーロッパから北朝鮮へ(恒文社21) ③産経新聞取材班・親と子の日本史 ④船橋洋一・同盟漂流(岩波)、⑤内田樹ほか・橋下主義〔ハシズム〕を許すな!(ビジネス社)、⑥古谷ツネヒラ・フジテレビデモに行ってみた!(青林堂)、⑥b/ケストラー・真昼の闇黒(岩波文庫)、⑦産経新聞論説委員室・社説の大研究(扶桑社)、⑧宮野澄・最後の海軍大将・井上成美、⑨水田洋・社会科学の考え方(講談社現代新書)、⑨佐伯啓思・反・幸福論(新潮新書)、⑩不破哲三・現代前衛党論(新日本出版社)、⑪中島義道・人生に生きる価値はない(新潮文庫)、⑫小林よしのり編・国民の遺書(産経新聞出版)、⑬田母神俊雄=中西輝政・日本国家再建論(日本文芸社)、⑭田母神俊雄・ほんとうは強い日本(PHP新書)、⑮高橋たか子・高橋和巳の思い出(構想社)、⑯月刊正論5月号、⑰月刊WiLL6月号、⑱Japanism第6号、⑲月刊ヴォイス5月号、⑳撃論第4号、21林敏彦・大災害の経済学(PHP新書)、22池田信夫・原発「危険神話」の崩壊(PHP新書)、23佐藤優・はじめての宗教論〔右巻〕(NHK出版)、24ダワー・容赦なき戦争(平凡社)、25中島義道・ヒトラーのウィーン(新潮社)、26秦郁彦・靖国神社の祭神たち(新潮選書)、27杉原誠四郎・日本の神道・仏教と政教分離/増補版(文化書房博文社)、28石平・中国人大虐殺史(ビジネス社)、29坂本多加雄・象徴天皇制度と日本の来歴(都市出版)、30上杉隆・新聞・テレビはなぜ平気で「ウソ」をつくのか(PHP新書)、31石光勝・テレビ局削減論(新潮新書)、32不破哲三・「資本主義の全般的危機」論の系譜と決算(新日本出版社)、等々等々。
 整理し忘れのものもあれば、読むつもりで放っていたものもある。また、多少とも読んで、何がしかの感想・コメントくらいは書けたのに、書けないままになってしまっているものがすこぶる多い(言及しても不十分なままのものも含む)ことにあらためて気づく。
 〇西部邁がBSフジ(プライムニュース)の憲法特集の中で喋って(喚いて?)いた。年齢にしては頭の回転は速そうだし、間違ったことを語っているわけでもないように見えた。
 橋下徹をどう思うか旨の問いに、大した関心はないとしてまともに答えていなかったのが、興味深かった。西部邁は週刊現代3/17号(講談社)でも、橋下徹の政策論に批判的に言及してはいるが、<西部邁・佐伯啓思グループ>の総帥?のわりには、中島岳志、藤井聡、東口暁、佐伯啓思のような、「決めつけ」的な警戒論・批判論を展開してはいない。
 そのことともに、上の週刊誌の末尾には「あの世のほうがよほどに真っ当そうだ」との老人?の言葉があるが、自分の言いたいことをいうが、自分の言うようにはならないだろう、自分の主張を大勢は理解できないだろう、という日本の現実についての<諦念>または<ニヒル>な気分が濃厚であることも印象的だった。
 そのような末世的気分からは、自らの発言の優先順位に関する思考、現在の日本の状況(政治・論壇・国民意識等)を動かすことのできる重要なテーマは何で、些細な論点は何か、という戦略的な?判断は抜け落ちてしまうのではなかろうか。
 視聴者大衆への具体的な影響への配慮よりも、とにかく自分が正しい(または適切だ)と考えることを喋りまくるのでは、却って、何が言いたいのかが不鮮明になるおそれなきにしもあらずだ。
 西部邁とともに、私もまた、多分に、ニヒリスティックな気分なのだが、私とは異なり著名な<自称保守派>論客には、戦略・戦術も配慮した発言や論考を期待したいものだ。

1110/橋下徹の「手順」・「情報公開」感覚と「役立たず知識人」や月刊正論。

 〇橋下徹のツイッターについて松井一郎が「今日もストレスがたまっているんやな、という感じで見てます。早く寝ればいいのに」と語ったそうだが(産経新聞4/18の記事「一日平均11ツイート/つぶやきすぎの橋下市長に松井知事『ストレスたまってるんやな』」)、たしかに「ストレス」もあるだろう。但し、内容の当否について議論の余地はあるとしても、並々ならぬ文章力、論理構成力、熱意等々によるところも大きいだろう。
 宮崎哲弥月刊ヴォイス5月号(PHP)で、橋下徹は「他方で非常に手続き的政正当性にこだわる側面があって、府政にせよ、市政にせよ、つぶさにみればプロシージャー(手続き)に重きが置かれているのが特徴的です。…やはり弁護士出ということでしょう」と発言している(p.66)。
 さすがに宮崎は長年にわたって橋下徹を観察して、よく理解しているようだ。上は原発再稼働問題に関連したものではないが、ブログを読んでいると、橋下徹は、原発の危険性を過度に強く認識しているというよりも、民主党政府が進めている再稼働に向けての「手順」を問題視し、批判している、と理解できる。
 消費税問題について小沢一郎の言い分の方が正しいと橋下徹が言って小沢グループは喜んだと伝えられているが、これまた、民主党は選挙マニフェストで逆のことを書いていた、それとの矛盾を指摘する小沢の方が「論理的」に正しい、というだけのことで、全体として小沢一郎という政治家への信頼を語っているのでは全くないと思われる。
 朝日新聞が消費増税に賛成していることも橋下徹は批判している。また、橋下徹が市長選で「公約」していなかった教育関係条例の制定を朝日新聞の(大阪の?)記事が批判したこと等々に対して、その記事の記者を名指ししてツイッターで、ではなぜマニフェストに書いたのと真逆のことをしている民主党を批判しないのかと、正しい「論理」でもって反論・批判したりしている。異なるテーマも含むが、例えば、以下。
 「朝日新聞は本当にご都合主義。原発の是非を決める住民投票について大阪市議会は否決をしたけど、朝日新聞はそれにご不満。僕は署名した5万5000人の熱い思いをしっかりと受け止めて関西電力に対して新しい電力供給体制に向けての株主提案をします。しかし朝日新聞は住民投票をやりたい模様。」

 「朝日新聞はいつも僕に言ってるじゃない。物事を二者択一に単純化するな!もっと議論を尽くせ!中身を説明しろ!議論が拙速だ!白か黒かで決めるな!…だから今回は朝日新聞のご意見に従ったのですが。原発を是か非かで決めちゃいけないと。」(3/28)。 

 「君が代起立斉唱条例の採決の際には強行採決だ!と朝日新聞や毎日新聞は批判し続けた。マニフェストにも載っていなかった!と。消費税増税に関する今回の民主党内での決定についてはどう考えるんだ?国政は議院内閣制なので法案を出す前に過半数を獲る攻防がある。まさに今の状況。」

 「しかし朝日も毎日も消費税増税だから民主党には決めろ決めろの大プレシャーをかける。民主党のマニフェストにも増税のぞの字もなかった。むしろ消費税は上げないと明言していた。ほんと朝日も毎日も都合が良いよ。自分たちの好きなことは決めろ!自分たちの嫌いなことは決めるな!赤ん坊だね。」(同上)
 原発再稼働問題については、例えば以下。 

 「定期検査後の再稼働に原子力安全委員会の安全コメントは現行法上不要だ。ただそれは福島の原発事故が発生する前の平時の手続き。定期検査が目的だから定期検査だけで良い。民主党政権は完全に統治を誤った。今大飯に求められているのは定期検査ではない。安全性なのだ。定期検査と安全性は全く異なる」

 「民主党政権は、大飯の原発を定期検査の手続きで再稼働している。政権(保安院)が確認したのは定期検査を確認したまでだ。定期検査については、安全委員会はコメントしなくても良い。ところが定期検査の手続きを踏んだだけなのに、民主党政権は安全宣言をした。完全に国民を騙した。」

 「安全委員会は法令上、定期検査についてコメントをする立場にはない。ということは民主党政権は、大飯の定期検査をやっただけだ。これが今回の安全委員会のコメントではっきりとした。にもかかわらず政権は安全宣言。危険だ。これはもはや統治ではない。」

 イデオロギー的に「反原発」ではないことはもちろん、原発の危険性・安全性に関する特定の立場・考え方に立っているわけでもないように見える。
 橋下徹にとっては、決定の「手続」・「手順」、「統治」のシステム・プロセス(・仕方)に基本的な関心があるように見える。
 そのかぎりで、産経新聞4/20の社説「原発と橋下市長/電力確保の責任はどうした」は、気分は分かるが、必ずしも橋下徹に対する正面からの批判になっていない面があることを否めないだろう。
 〇橋下徹は、「手順」を重視するほか、(プロシージャーではなく)ディスクロージャーにも相当に熱心な政治家(地方自治体首長)だ。
 4/16~4/19の、大阪市改革プロジェクトチームと各部局の施策・事業(改革)担当者との間の「オープン議論」が、出席者全員の顔と発言内容(声)も含めて、すべて、大阪市のホームページを通じて、ユーストリームでビデオ(動画)として、(事後的にだろうが?)「公開」されていることをごく最近になって知り、一部を実際に見て驚いた。橋下徹はもちろん、大阪市職員の顔も発言もすべて、おおっぴらだ(なお、その会議に配布された資料は上記ウェブサイトから入手することもできる)。
 〇「ワンフレーズ・ポリティクス」とかいう言葉があり、小泉純一郞の手法はそれだと言われもしたが、橋下徹のツイッターや上記動画を見ると、橋下徹は「ワン・フレーズ」どころではない。
 テレビ等では数語で何かを断定するかのごときコメントを発しているような印象もあるが、それはテレビ局の「編集」による「ぶった切り」によるところも大きいようだ(橋下徹がテレビ用に意識して短くしている側面もあるだろう)。
 〇橋下徹のツイッターの内容や動画上での会議での発言の仕方等を見聞きしていると、いったいどこに「ファシスト」、「アナーキスト」、「デマゴーグ」がいるのかと、そのように断定的に書いた者たちの<神経>を疑いたくなる。
 上掲の宮崎哲弥発言が載っている座談会で、萱野稔人は橋下徹について「彼や彼の政策を現段階で『〇〇主義』と表現するのは、過大評価でもあるし、見くびっていることにもなる気がします」と言っている(月刊ヴォイス5月号p.73)。
 萱野稔人とはどういう人物か知らないが(宮崎に「萱野さんは本当に左翼だったの?」と言われている。p.71)、上の発言は、的確だろう。
 同じ座談会の中で宮崎哲弥は橋下徹について「彼のうちにナショナリスティックな意気が宿っていることは疑いえません」と、また「文化左翼の嫌いな体育会的な気風も多分にもっている」と、語っている(p.66)。
 なぜ「左翼」は橋下徹を嫌うのかについては書いたこともあるが、宮崎哲弥も言及しているように、簡単には、「保守」的または「右派」的な心性をもつ人物だからこそ、「左翼」はこぞって批判した(している)に違いないと考えられる。そして逆に、石原慎太郎は自らに近い「心性」・「感性」を橋下徹のうちに見出したのだろう。
 日本共産党は誰が「敵」かを、さすがに鋭く掴んでいるように思われる。
 民主党・自民党推薦だった前市長平松某よりも、自分たち・日本共産党にとってのはるかに強い脅威を、橋下徹に見出したからこそ、あえて民主党・自民党が推したのと同じ候補を支持したのだ(自党独自の候補を降ろしてまで。<反・反共統一戦線>)。
 そうした中で、自称<保守>派の佐伯啓思・中島岳志・藤井聡・東口暁という<西部邁・佐伯啓思グループ>が種々の観点から橋下徹を批判し、<保守>派らしき、「真正保守」を名乗る編集部員もいる産経新聞社発行の月刊正論5月号の巻頭で適菜収は橋下徹を「全体主義」者扱いし、国家解体を狙う「アナーキスト」だ、「デマゴーグ」だと断じた。
 月刊正論編集長・桑原聡までが-くどいが繰り返しておく―橋下徹を「きわめて危険な政治家」、「目的は日本そのものの解体にある」と明言した。
 こういう構図は、どこかきわめて奇妙なのではないか。倒錯が見られるのではないか。
 中国共産党の「工作」は、日本の<保守>系論壇・雑誌(評論家・編集者等々)にすら及んでいるのではないかとすら考えたくなる。
 小泉純一郞・民主党・橋下徹をすべて「(構造)改革」派と一括して理解して批判する佐伯啓思も、あまりに単純かつ短絡的だ。小泉「改革」と民主党(の意図した)「改革」と橋下徹(の意図している)「改革」とは、一括できるほどに同じなのか(=共通性が大きいのか)? 佐伯啓思にしてすら、学者らしき抽象化・単純化、概念・言葉の操作(・遊び)があると思えてならない。
 上記の萱野稔人の言葉を再び引用したいところだ。
 別の、中央公論5月号の<官僚覆面座談会>から、最後の二つを、一部省略して紹介して、今回は終えておこう。
 B「…期待しすぎてもいけないけれど、彼のような政治家を殺してはいけないと思う」。
 A「…ここでした批判や意見についても徹底的に勉強して、対抗するために研鑽を積む」だろう、「批判をすべて養分にしてしまう。そういう希有な人物であることは間違いない」。(以上、中央公論5月号p.133)。

1108/日本国憲法「無効・破棄」論について①。

 一 佐伯啓思産経新聞の昨年2011年の9/19、すなわち講和条約締結ほぼ60年後に、連載コラムの「日の蔭りの中で」で、①同条約によって主権を回復したと言っても、占領期に日本は「完全に」主権を喪失していたわけではなく、日本国政府は存在していたので、「主権はせいぜい『制限』され」ていた、②同条約締結(・発効)後も、日米安保条約により「国防という主権の最高の発動を『制限』されて」いるので、「いまだに日本は『不完全な主権国家』ということになる」のではないか、と述べる。相当に乱暴に要約したが、講和条約の前後でさほど大きな(質的な)変化はなかったのではないかと、(佐伯啓思らしく)辛口で?分析しているわけだ。
 また佐伯は最近4/16、講和条約発効ほぼ60年後の同連載でも、「同条約と同時に日米安全保障条約が締結された」ことにより、「形の上では日本は主権国家となり、実体の上では『不完全主権国家』となった」、と同旨を述べている。「戦後日本の繁栄であり発展であるとされるもの、すなわち日本が得た『利』は、実は、『完全な主権』をいまだに回復していないがゆえに可能だったということになる」とも書いている。
 翌日4/17の産経新聞「正論」欄では稲田朋美が「主権回復記念日を設ける意義は」と題し、自民党が4/28を「主権回復記念日として祝日に」する法案を国会に提出したことから書き始めていることと対比すると、本当に「主権回復」したのか?、そんなに喜んでよいのか?と佐伯啓思はあらかじめ言っているようで、なかなか面白い。
 この対立?について、ここでコメントしたいのではない。稲田朋美も、「主権回復記念日を祝うということは、安倍晋三首相が掲げた『戦後レジームからの脱却』を今一度わが党の旗にすること」だとか述べ、「今年の主権回復記念日を、日本が…真の主権国家になる始まりの一日に、そして保守政治再生の一歩にしたい」と結んでいるので(現状は「真の主権国家」ではないと言っているようであったりするので)、そもそも基本的な対立があるかどうかも疑わしい可能性がある。
 二 佐伯啓思の4/16の連載コラムで関心を惹いたのはむしろ、「サンフランシスコ条約締結以前の占領状態は、公式的にいえば、いまだ戦争継続中なのであり、広義の戦争状態における占領である。日本には主権はない。したがって、『本来』の意味でいえば、あの憲法は無効である。憲法制定とは、主権の最高度の発動以外の何ものでもないからだ」と書いていることだ。
 「本来」の意味では無効、ということの正確な意味はむろん問題になるが、なぜ関心を惹いたかというと、石原慎太郎が最近(も)、日本国憲法「無効」かつ<破棄>論を述べているからだ。
 産経新聞3/26の「新憲法起草/熱帯びる地方-石原、橋下氏が牽引」と題する記事は次のように伝える。
 「東京都の石原慎太郎知事は今年2月下旬、『占領軍が一方的に作った憲法を独立後もずっと守っている。こんなばかなことをしている国は日本しかない』と強調、憲法破棄と自主憲法制定を呼びかけた。/大阪市の橋下徹市長率いる『大阪維新の会』も3月上旬に公表した公約集『維新八策』の原案で憲法改正を明記。橋下氏は『平穏な生活を維持しようと思えば不断の努力が必要で、国民自身が汗をかかないといけない。それをすっかり忘れさせる条文だ』と憲法9条批判も展開している」。
 石原慎太郎は産経新聞3/05の連載コラムで「歴史的に無効な憲法の破棄を」と題して、たとえば次のように明言している。
 「憲法改正などという迂遠な策ではなしに、しっかりした内閣が憲法の破棄を宣言して即座に新しい憲法を作成したらいいのだ。憲法の改正にはいろいろ繁雑な手続きがいるが、破棄は指導者の決断で決まる。それを阻害する法的根拠はどこにもない。/敗戦まで続いていた明治憲法の七十三条、七十五条からしても占領軍が占領のための手立てとして押しつけた現憲法が無効なことは、美濃部達吉や清瀬一郎、そして共産党の野坂参三までが唱えていた」。
 佐伯啓思は「ではどうすべきか」を書いてはいないのだが、憲法が「本来」の意味では「無効」だと、あるいは、石原慎太郎とともに<センティメント(情緒・気分)>としては現憲法は「無効」だと、言いたいし、そういう情緒・気分も理解できる。しかし、現在における現実的かつ法的な議論としては、日本国憲法「無効」・<破棄>論は成り立たないし、成り立つべきでもない、と考える。
 さらに続けるつもりだったが、長くなったので、次回にする。
 なお、橋下徹の、憲法九条に限っての「国民投票」による(憲法九条改正問題の)決着、という意見にも、完全には同意しない。この点に、いつ言及できるだろうか。橋下徹のツイッターをすべてフォローすることはできないように、この欄のために費やせる時間が無限にあるわけでもないので、困ってはいる。

1107/橋下徹は佐々淳行・「正論」にツイッターで答えていた。

 一 佐々淳行産経新聞2/24の「正論」欄で橋下徹・「維新八策」に論及していることはすでに触れた。
 月刊ボイス5月号(PHP)の中に佐々淳行「日米安保条約改定を『八策』に加えよ」があることを知り、「正論」欄と似たようなことを書いているのかと思ったら、何と、上の佐々淳行「正論」に対して、同じ2/24に橋下徹はトゥイッターでコメントしたらしい。
 佐々淳行の文章によると、産経新聞2/24で「国政を担うには外交、安全保障分野への認識が著しく欠けている、と厳しい論調で批判したのだ。そのうえで、『天皇制の護持』や『憲法九条改正』などが必要だと指摘した。/すると同日午後一時過ぎに、橋下氏はツイッターで私に対するコメントを発表した」。
 1カ月以上前のことであり、また、橋下徹ツイッターのフォロヤーには無意味かもしれないが、以下、橋下徹の対佐々淳行コメントの全文をそのまま掲載(転載)しておく。
 二 「佐々さんのご意見も厳しいご意見ではあるが、役立たずの学者意見とは全く異なり、国家の安全を取り仕切ってこられた実務者の視点で迫力あるご意見です。」(posted at 13:09:54、以下省略)

 「佐々さんのご主張はまさに正論。内容自体に反論はありません。ただし、今の日本が動くようにするためにはどうすべきかの観点から、僕は次のように考えています。まだ維新の案として確定したものではありません。佐々さんの言われるように、日本は国家安全保障が弱い。これは全てに響いてきています。」
 「世界では自らの命を落としてでも難題に立ち向かわなければならない事態が多数ある。しかし、日本では、震災直後にあれだけ「頑張ろう日本」「頑張ろう東北」「絆」と叫ばれていたのに、がれき処理になったら一斉に拒絶。全ては憲法9条が原因だと思っています。」
 「この憲法9条について、国民的議論をして結着を付けない限り、国家安全保障についての政策議論をしても何も決まりません。国家の大きな方針が固まっていないのですから。しかし憲法9条議論や国家安全保障議論をしても結局憲法改正は非現実ということで何も動かない。学者議論に終始。」

 「だから僕は仕組みを考えます。決定でき、責任を負う民主主義の観点から。憲法96条の改正はしっかりとやり、憲法9条については国民投票を考えています。2年間の議論期間を設けて国民投票。この2年の間に徹底した国民議論をやる。」
 「これまでの議論は決定が前提となっていないから、役立たず学者議論で終わってしまう。その議論でかれこれ何十年経つのか。決定できる民主主義の議論は決定が前提の議論。そして期限も切る。2年の期間で、最後は国民投票。この仕組みを作って、そして国民的に議論をする。」

 「朝日新聞、毎日新聞、弁護士会や反維新の会の役立たず自称インテリは9条を守る大キャンペーンを張れば良い。産経新聞、読売新聞は9条改正大キャンペーンを張れば良い。2年後の国民投票に向かって。そして国民投票で結果が出れば、国民はその方向で進む。」

 「自分の意見と異なる結果が出ても、それでも国民投票の結果に従う。これが決定できる民主主義だと思う。9条問題はいくら議論しても国民全員で一致はあり得ない。だから国民投票で国のあり方を国民が決める。そのために2年間は徹底して議論をし尽くす。意見のある者は徹底して政治活動をする。」
 「その上で国民投票の結果が出たら、国民はそれに従う。そんな流れを僕は考えているのです。佐々さん、そう言うことで、今維新の八策にあえて安全保障については入れていません。憲法9条についての国民の意思が固まっていない以上、ここで安全保障政策について論じても画餅に帰するかなと。」

 「憲法9条について国民意思が確定していない日本において、それを確定するというのが僕の考えです。あくまでもシステム論です。まずはその決定できる仕組みを作る。仕組みができれば、次に実体論に入る。実体論から先に入ると、その賛否によって決定できる仕組みすら作ることができません。」

 「まずは憲法9条について国民意思を固める仕組み作りが先決だと思います。佐々さん、またご意見下さい。」
 翌日の2/25にもある。

 「政治は学者や論説委員の議論と違う。決定しなければならない。実行しなければならない。自民党が憲法改正案を出すらしいが、本当にこのようなやり方で憲法問題が結着すると考えているのであろうか?憲法改正案を選挙の公約に掲げて、仮に自民党が勝ったとしても、選挙が全てでないと言われる。」(posted at 09:35:36、以下、省略)

 「自民党に投票したけど、憲法問題は違うと必ず言われる。政策等であれば、選挙結果に従って欲しいと言えるだろうが、憲法の本質的価値に触れるところまでそれを言えるだろうか?首相公選、参議院の廃止は、分かりやすいので選挙になじむ。しかし憲法9条はどうだろう?これは選挙になじまないと思う。」 
 「政治には自分の価値観を前面に出すことと、国民の価値を束ねることの2つの側面があると思う。これは領域、状況によって使い分けるものであり、その使い分けもまた政治と言える。自称インテリは後者ばかりを言う。それでは現実の課題は解決しない。議論ばかり。」

 「しかし憲法9条問題こそは、国民の価値を束ねて行くことが政治の役割だと思う。自らの価値を前面に出すのではなく、国民に潜在化している価値を顕在化していく作業。単なる議論で終わるのではなく一定の結論を出す。そういう意味では、憲法9条問題は選挙で決するのではなく、国民投票にかけるべきだ。」

 「選挙の争点には、憲法9条の中身・実体面・改正案を掲げるのではなく、憲法9条問題に結着を付けるプロセス、仕組み、手法、手続きを掲げるべきだと思う。この点は、今後維新の会で議論していきます。」

 「簡単に言えば、憲法9条は色々な政治公約の一つとして選挙で決めるのではなく、憲法9条だけを取り上げる国民投票で決めましょうということです。この問題はある種の白紙委任で政治家に委ねるわけにはいかないと思う。」 

 「一定期間を定めて国民的大議論。そして国民投票の結果には皆で従う。反対の結果が出た国民も国民投票の結果に従う。だからこそ自分の主義主張がある人は一定期間内に徹底して国民に訴えかける。その上で結果が出たなら潔くその結果に従う。これが決定できる民主主義だと思う。」

 「憲法9条については国民的大議論を巻き起こす裏方役が政治家の役割だ。政治家が憲法9条について自分の価値観を前面に出せば出すほど、憲法9条問題は決着しない。政治家は学者と違う。自分の考えを控えることが決定のための必要条件なら自分の考えを押し殺す。決定こそ政治だ。」

 「佐々さん、幕末の世は民主主義ではありませんでした。ですから坂本竜馬は船中八策で国家安全保障のことを一人で決しました。しかし、今の世は国民主権です。国家安全保障を決するのも国民です。憲法9条問題は、国民全員が坂本竜馬です。その裏方を引き受けるのが政治だと思います。」

 以上。
 三 ・内容は、憲法9条改正問題が中心になっている。この問題についての橋下徹の考えについて、私はこの欄で「世論の趨勢を測りかねていて、個人的見解を明確にする時期ではまだないと判断しているように…推察している」と書いたことがある(4/11エントリー)が、少し異なるようだ。別の機会にコメントしたい。
 ・佐々淳行は、この橋下徹コメントを読んだうえで、「私は彼を『百年に一度の政治家』とみている。強い正義感と信念をもち、現代においてこれほど政策提言に命を懸ける人物はいないと思うからである」(ボイス5月号p.76)、「この戦闘機」=橋下氏の「敵・味方識別装置」は「有効に機能している」(p.82)等と、高く評価している。
 橋下徹は憲法9条改正に賛成と明言しているわけではなく、厳密には憲法9条改正問題について国民投票で決着をつけたいと考えている、と読めるが、この点も含めて、別にコメントする。
 ・しかしともあれ、一日平均11通(?)というツイッターで発信された橋下徹の文章を眺めていて、大阪市長という公職や維新の会代表を務めながら、よくもこれだけ書けるものだと本当に(それだけでも)、橋下徹に感心する。若い、まだ頭脳明晰、文章作成能力旺盛、むろん政策・行政に対する熱意十分、の証左だ。
 ・ボイス5月号の橋下徹特集(大阪府知事・松井一郎のものを除いて計4本、1つが佐々淳行のもの)のほか、中央公論5月号(中央公論新社)の橋下徹特集(計5本)も、すべて今日(4/16)読んだ。必要に応じて、別の機会に言及したい。
 四 PHP研究所と中央公論新社の上の二つと比べて、産経新聞社の月刊正論5月号の橋下徹特集の「貧弱さ」が目立つ
 上の二特集の計9本の論考(座談も含む)はいずれも面白く読める。観念的で現実感覚に欠けた論考がないからだ(中央公論5月号の北岡伸一論考には少し感じるが)。これらと比べて、月刊正論5月号の適菜収論考は「最低」・「最悪」だ、と言ってよい。すでに言及した、別の雑誌での中島岳志藤井聡の<反橋下>論考と優るとも劣らない「劣悪」さだ。
 中島岳志や藤井聡の論考は各雑誌のメインと位置づけられてはいなかったが、月刊正論5月号は適菜収論考のタイトルを表紙最右翼に大きく印字し、巻頭にもってくる、「売り」の論考と位置づけていたのだから、機能的には最もヒドく、「最悪」だ。
 あまつさえ、月刊正論の編集長自体が、自分自身は何ら詳論することもなく、橋下徹を「きわめて危険な政治家」、「目的は日本そのものを解体することにある」と明記したのだから、始末に負えない。バランスを取るために山田宏の(インタビュー)記事を載せたのだろうが、橋下徹を「デマゴーグ」等と断じる適菜収論考をメインにする編集・広告方針のうえでのものであり、かつまた編集長個人が山田宏とは異なる見解を明示するとは、山田宏に対して非礼でもあろう。
 上記の月刊ボイスや中央公論には、編集長(個人)の特定の考え方などはどこにも書かれていない。産経新聞社の月刊正論が、最も異様なのだ。産経新聞社の人々は、恥ずかしい、あるいは情けないと思わないのだろうか。

1106/橋下徹・大阪市長と原発再稼働問題。

 橋下徹に対する単純で性急な批判を批判してきているが、自民党を全面的に支持しているわけではないのと同様に、橋下徹のすること、言うことを、全面的に支持しているわけでは全くない。
 何かのきっかけで、橋下自身が政治に関係するすることをきっぱりと止めてしまうことがないとは言えないと思っている。それは、彼が恥ずかしいと思うくらいの、何らかの蹉跌を明らかにしてしまったときだろう。
 最近に気になるのは、<脱原発>への傾斜ぶり、大飯原発再稼働(現時点での)反対論だ。
 <保守>か否か、といった大上段の議論の対象になる問題ではない。だが、政策論として、きわめて重要な問題ではある。
 撃論第4号(オークラ出版、2012.04)に掲載されている田母神俊雄=中川八洋(対談)「避難県人を全員ただちに帰宅させよ」の他、中川八洋・脱原発のウソと犯罪(日新報道、2012)、池田信夫・原発「危険神話」の崩壊(PHP新書、2012)を多少は読んだことの影響によるのかもしれないが、安全性の確保=脱原発の方向に傾斜しすぎているのではないか。
 詳細な紹介は差し控えるが、池田信夫の分析・説明は、なかなかに冷静で、客観的のように感じられる。
 田母神俊雄や中川八洋らの指摘が正しいとすれば、菅直人を「反原発」始祖とする「左翼」民主党政権は、一部の(だが相当数の)福島県民から「ふるさと」を奪う、という大犯罪を敢行中であることになる。
 宮城県にあり、震源には福島第二よりも近かった女川原発は何ら支障なく存続し続けた、ということ、そしてそれは何故か(つまりなぜ福島第二では事故になったのか)について、テレビ等の大手メディアが全くかほとんど触れないのはいったい何故なのだろう。
 櫻井よしこ週刊ダイヤモンド3/31号の連載は、「放射線量の低い所から高い所に川内村の人たちは避難させられ」ていることを述べている。低い所とは、川内村いわなの里で0.178マイクロシーベルト(毎時放射線量)、高い所とは福島県の郡山駅で0.423マイクロシーベルト(同)、だ。
 こういう正確なデータに言及することなく、中島岳志「トポス喪失への想像力」西部邁=佐伯啓思ら編・「文明」の宿命(NTT出版)という「保守派」(??)の<反原発>論は書かれている。
 この生硬な「保守主義」に立つという<反原発>論の思考方法については別に言及したいが、ともあれ、中島岳志は、「原発という過剰な設計主義的存在」による、「トポス」、「生まれた土地や伝統、…歴史的・集合的価値観」の喪失の蓋然性を理由として脱原発論を説いている。だが、「生まれた土地」等の喪失の原因が原発にあるのではなく、政治的判断にあるのだとしたら、この中島岳志の論考は後世に残る「大嗤い」論文になるだろう。
 元に戻ると、橋下徹がいくら有能な人物でも、顧問等々の意見・見解に全く左右されない、ということはありえないだろう。
 この点で、特別顧問(のはず)の、民主党政権に冷や飯を食わされで有名になった、古賀茂明はやや気になる。古賀茂明・日本中枢の崩壊(講談社、2011)を半分くらい読んで止めたのだったが、それは、細かな動きはよく分かったものの、古賀の基本的な政治観・国家観がよく分からなかったからだ。それにそもそも、古賀茂明とは、民主党による「公務員制度」改革に期待していた人物なのであり、民主党という政党・同党の政治家がいかなる政党でありいかなる政治家たちであるかに無知な人物だったのではないか。要するに、民主党の「改革」に<幻想>を持った人物であったのだ。民主党の危険性に無関心だった者を、無条件に信頼することはできない。
 環境経済学者という触れ込みの植田和弘(京都大学教授)も、冷静できちんとした「保守」派であるか否かがよく分からない。原発について、正確な科学的知見にもとづいて判断するという「政治的・行政的感覚」を持っているだろうか。
 橋下徹自身についても、総選挙の争点化する、などの発言はまだ早すぎ、焦りすぎで、<前のめり>し過ぎている印象がある。
 せっかくの、可能性を秘めた人物を、<取り巻き>が誤らせないように、早まって腐らせてしまうことのないように、うまく誘導し、「盛り立てて」?ほしいものだ。
 参照、池田信夫ブログ→ http://ikedanobuo.livedoor.biz/

1105/「保守」は橋下徹に「喝采を浴びせ」た(桑原聡)か?

 月刊正論(産経)編集長・桑原聡は、同5月号の末尾、「操舵室から」と題する編集長コラムの中で、「保守を自任する人々まで、……橋下氏に喝采を浴びせるが、」と書いたあとで、橋下徹を「きわめて危険な政治家」、「目的は日本解体そのものにある」と断じた。
 上にいう、「保守を自任する人々まで、…橋下氏に喝采を浴びせる」との認識は正確なものだろうか?
 「保守」派、あるいは「保守を自任する人々」のうち誰が明確に橋下徹に対して「喝采を浴びせて」いるのだろうか。
 橋下徹に関する論評類のすべてを見ることはむろんできないが、大阪市長戦後の産経新聞の昨年の11/28で、「保守」派だとふつうは思われているだろう産経新聞の政治部次長・石橋登は、「橋下氏は救世主なのか。それとも破壊王なのか」と、やや長い署名記事を結んでいた。喝采を浴びせてもいないし、「大衆迎合の危うさ」という見出しもあるほどで、少なくとも肯定的・積極的にのみ橋下徹を評価したわけではなかった。
 産経新聞を含む選挙前の報道の仕方自体、「保守」派らしき産経新聞も含めて、決して橋下徹に有利で好意的はものではなかった。「左翼」人士たちが大阪まで行って集会等を行い(それが逐一報道され)、週刊文春や週刊新潮が露骨な<反橋下>の記事を載せたことはよく知られている。関西の書店では、<反橋下>の本の方がはるかに多く目立つところに並べられていただろう。橋下徹自身の書物(堺屋太一との対談本を含む)の他には、彼を応援する<保守>派の書物などは一つもなかったのではないか。
 選挙・投票当日の朝の産経新聞の第一面には、対立候補・平松某の最後の演説の遠望写真のみが(写真としては)載っていた(有名な場所なので記事と照合するとどちらの陣営のものかが簡単に分かった)。橋下徹がリード、との予測を各紙がしていたにもかかわらず、だ。
 橋下徹市長の誕生後の産経新聞紙上でも、櫻井よしこ遠藤浩一櫻田淳らの、名うての?<保守>派論客も、橋下徹への明確な判断を避けていて(単純かつ性急に批判・非難する桑原聡よりはまだマシだが)、最近触れたように、佐々淳行が橋下徹への期待または「祈念」を語っていたのが、むしろ目立つくらいだ。
 いったいどこに、「橋下氏に喝采を浴びせる」「保守を自任する人々」がいるのか? 桑原聡は、虚偽を書いているのではないか。
 「保守」を自認している<西部邁・佐伯啓思グループ>が、佐伯啓思中島岳志藤井聡など、橋下徹を明示的に(桑原聡と同じく)厳しく批判していることは、この欄で言及したとおりだ。
 橋下徹を支持・応援している人々として挙げられうるのは、石原慎太郎堺屋太一のほか、特別顧問や政治塾の講師になったりしている、中田宏山田宏古賀茂明高橋洋一らだと思われ、必ずしも多くはない。
 こうした名前を記していて気づくのは、橋下徹を支持・応援しているのは、政治・行政の実務をしているか、その経験がある者ばかりだ、ということだ。
 反面ではこのことは、もっぱら<口舌の徒>であることを生業としている者たち、つまり、評論家や大学教授類で橋下徹支持を明確にしている者はほとんどいない、ということを意味している。
 <文章書き>だけの世界では、あるいは<文章書き>たちと接触している編集者たちの世界では(新潮45の編集長も含めて)、むしろ<反橋下>がモーデ(Mode、ムード)なのではないか。
 そのムードの中に「真正保守」の川瀬弘至・月刊正論編集部員もいるのだろう。
 そうした中で、産経新聞4/14の高木桂一のコラムなどによると、自民党の小泉進次郎は2/10に、橋下徹・維新の会に関して、「…新しい勢力がそこに刺激を与えてくれる。自民党にとってそれが危機感となって、自分たちを省みて『よくしなきゃいかん』という方向に行くならプラスじゃないですか」と答えたらしい。
 「デマゴーグ」とか「きわめて危険な政治家」と簡単に言い放つ「口舌の徒」の者たちに比べて、政治家らしく、冷静で、<大人>だ。

1104/「B層」エセ哲学者・適菜収と重用する月刊正論(産経)②。

 〇前回に引用・紹介した丸山真男の文章は、昭和22年(1947年)06月に「東大で行った講演」を母体にしたもので、丸山真男自身の著では、最も古くは、丸山・現代政治の思想と行動/上巻(未来社)の第二論文「日本ファシズムの思想と運動」の一部として、1956年12月に刊行されている(p.25以下、注記はp.190)。
 この講演録の中で、丸山は「まず皆さん方」(東大での聴衆)は「第二の類型」(=「本来のインテリ」)に「入るでしょう」と臆面もなく、言っている(当然に丸山自らもその一員だ)。ここでの「東大」とは、時期からすると、まだ東京帝国大学だったに違いない。
 丸山真男は「インテリ」を「本来の」それと「似非」・「亜」インテリに分けて、後者が「日本ファシズム」の社会的基盤だったするのだが、「日本ファシズム」とともに「インテリ」(インテリゲンチャ)という言葉は昨今ではほとんど使われなくなった。
 適菜収は<A層とB層>あるいは<一流と二・三流>の区別がなくなったことを今日の問題だと捉えているようだ。たしかに、<リーダー>、「ノブレス・オブリージュ」意識のある<エリート>の不存在(または稀少さ)が日本の問題の一つではあろうが、「インテリ」と「一般大衆」の区別の相対化・不明確化は、問題視しても簡単に元に戻るわけがない、客観的な現実だろう。
 同世代の半分もが大学に進学する今日では、少なくとも半分程度は「インテリ」意識を持っているかもしれないし、間違いなく「インテリ」だと自任しているかもしれない者もまた、実際には相当に「大衆」化している。
 そのような時代背景の変化をふまえれば、丸山真男の「似非」・「亜」インテリが「日本ファシズム」の社会的基盤だったとする丸山真男の議論は、「比較的にIQ(知能指数)が低い人たち」=「B層」を問題視し、批判している適菜収の議論と類似性がある。
 適菜収は橋下徹を「ファシスト」とは形容してはいないが、「全体主義」者である旨、民主主義が生む「独裁者」である旨は語っている(月刊正論5月号p.49、p.50)。
 丸山真男については竹内洋水谷三公らによる批判的分析もあり、竹内は丸山「理論」は東京大学の直系の研究者にのみ継承されるだろう、とかどこかで書いていたとか思うが、長谷川宏のように今なお「左翼」知識人・「進歩的文化人」だった丸山真男を称揚する新書を書いている「左翼」もいる(この三人の各文献についてはこの欄で言及している)。
 適菜収はどうやら自らを「保守」派だと、あるいは少なくとも「左翼」ではないと位置づけているようだが、「左翼」・丸山真男の上記のごとき「似非」インテリ論、<相対的にバカな者たち>論の影響を受けているのではなかろうか。丸山真男の議論・「政治思想」論は哲学・思想界にも(少なくともかつては強い)影響力を持っていたのだから。
 〇さて、気は進まないが、行きがかり上、月刊正論5月号の適菜収「橋下徹は『保守』ではない!」に批判的にコメントする。
 すでに最近、橋下徹関係の(月刊正論上の)4つの論考のうち最も空虚で観念的な言葉が並んでいる、と書いた。
 橋下徹を離れて一般論で言うと、間違いではないだろうことを書いてはいる。
 フランス革命時の「ジャコバン派」と「ナチス」を同類視し、ルソーを「全体主義の理論家」と形容しているのもそれにあたる。ハンナ・アレントの議論に肯定的に言及しているのも、よいだろう。
 ついでながら、ジャコバン派はのちにレーニンも明示的に肯定的に論及しており、ルソー→ジャコバン派(・フランス革命)→マルクス→レーニン(・ロシア革命)という系譜を語ることができるものだ。
 しかし、適菜収がその一般的な議論を橋下徹に適用するとき、あるいは「B層」を巧妙に騙す政治家だと断じるとき、実証性や論理の緻密さなどはまるでない。
 この適菜収によれば、選挙を経て、つまり「民意」によって選ばれた者はすべて「デマゴーグ」であり、「独裁者」であるがごとくだ。そんなことはないだろう。
 「橋下はアナーキストなので、イデオロギーは飾りにすぎません」(p.52)、「橋下は天性のデマゴーグです」(p.52)、橋下は「B層の感情を動かす手法をよく知って」おり、「その底の浅さはB層の『連想の質』を計算した上で演出されています」(p.52-53)といった言葉が並んでいる。だが、悪罵の投げつけだけの印象で、橋下徹批判としての説得力はほとんどない。むしろ、「B層」であれ何であれ、有権者大衆の「感情」を捉えることができるのは、今日の政治家としての優れた資質の一つではないかと、いちゃもんをつけたくもなる。
 適菜収の大言壮語・罵詈雑言はさらに続く。-①「この二〇年にわたる政治の腐敗、あらゆる革命思想、反文明主義、国家解体のイデオロギーを寄せ集めたものが、橋下の大衆運動を支えているのです」(p.55)、②「水道民営化、カジノ誘致、普天間基地の県外移転、資産課税、小中学生の留年、市職員に対する強制アンケート…。これはB層を大衆運動に巻き込むための餌です」(同上)。
 呆れたものだ。こんな文章が並んでいるのが、天下の?産経新聞社発行の論壇?誌・月刊正論の巻頭論文なのだ。
 今気づいたが、適菜収は「大衆運動」という語を使っている。この語は、丸山真男が使っていた「ファシズム運動」に似ている。
 この点はともかく、①のようによくぞ大胆に言えたものだ。橋下徹は、それほどでもないよと、却って恐縮するのではないか? ②について言うと、すでに実現しそうなものもある、橋下徹・維新の会の政策・主張はすべて「餌」か? 橋下徹が主張している<敬老パス>(市営交通の老人無料)の見直しもまた「B層」に対する「餌」なのか?
 論文というよりも場末の?喫茶店での雑談レベルで語られるような指摘を、適菜収は行ってもいる。-橋下徹は首相公選を主張しているが、それは「テレビタレントの橋下を首相にするための制度」だ(p.50-51)。これには笑ってしまった。橋下徹はそのようなことを考えている可能性が全くないではないとは思うが、適菜収はこのように何故、断定できるのだろう。
 また、<アホ丸出し>では藤井聡に<優るとも劣らない>次のような叙述もある。
 「地方分権や道州制は一番わかりやすい国家解体の原理です」(p.51)。
 藤井聡の勉強不足・知識不足を指摘する中ですでに書いたことだが、「地方分権・道州制」=「国家解体」とは、アホ(・バカ)が書く命題だ。
 この議論でいくと、国家内に「邦」・「州」を設けている国(アメリカ、ドイツなど)は解体していないといけないのではないか。連邦制は道州制以上に「分権的」だ。
 また、書かなかったが、戦前の日本においてすら、「地方自治」・「地方分権」制度がなかったわけではない。幕藩体制という相当に分権的な国家から明治日本は中央集権的な国家に変わったのだったが、それでも旧憲法のもとでの「市制」・「町村制」といった法律によって、市町村の「自治」がある程度は認められていた。市町村長は(有権者は限定されていたが)選挙で選ばれ、(現行憲法・法令と同様に)法令の範囲内での「自由な」行政・活動もある程度は認められていた。現在の(現憲法上の)「地方自治」も「法律の範囲内」のものであることに変わりはない。「地方分権」の要素は戦前は法律レベルで、現在は憲法レベルで認められているもので、「原理」的に「国家解体」につながるわけではない。
 橋下徹自身も書いていたと思うが、問題は「分権」の程度・内容、国と地方の「役割・機能」の分担のあり方にある。
 法学部・政経学部の学生のレポートでも書かれていないだろうようなことを、適菜収は、恥ずかしげもなく書いている。そんな部分を含む論考を、月刊正論が巻頭論文とし、大々的に宣伝し、編集部員は「とってもいい論文です」とブログ上で明記する。適菜収も自らを恥ずかしいと感じるべきだと思うが、桑原聡や川瀬弘至もまた、赤面すべきなのではないか。
 楽しくもない作業なので、この程度にしておく。
 まことにイヤな時代だ。川瀬弘至が「真正保守」を自ら名乗り、ひょっとすれば月刊正論や産経新聞全体が自分たちは「真正保守」の雑誌・新聞と考えているのだとすれば、日本の「保守」の将来は惨憺たるものだろう。

1103/「B層」エセ哲学者・適菜収と重用する月刊正論(産経)。

 〇月刊正論5月号の巻頭、適菜収「橋下徹は『保守』ではない!」は「保守ではない」と言っているだけで橋下徹を全面的に消極的に評価しているわけではないとの印象を持つ人や、そのように釈明する者もいるかもしれない。しかし、この論考は「橋下徹大阪市長は文明社会の敵です。そして橋下流の政治…の根底には国家解体のイデオロギーがある」という文章から始まっているいるように、全面的な、人格面も含む、橋下徹攻撃・非難の論考に他ならない。したがって、問題はたんに「保守」の意味・内容にとどまるものではない。
 月刊正論編集長・桑原聡が明言している、橋下徹は「きわめて危険な政治家」、「橋下氏の目的は日本そのものの解体することにあるように感じられる」、というのと全く似たようなことを、より長く書いているのが適菜収だ。
 編集部員の川瀬弘至もまた、イザ!内のブログで、適菜論考を「とってもいい論文」と評価し、川瀬が「保守」性を疑っている石破茂に読むことを勧めている(4/04エントリー)。
 ちなみに、川瀬弘至は自ら「保守主義者」と称し、さらに「小生、今後は『真正保守』を名乗らせていただきます」とまで明言している。
 そのような「真正保守」の方にはご教示を乞いたいこともあるので、別の回に質問させていただくことにしよう。
 〇さて、適菜収は月刊正論5月号で「B層」という概念を使い、橋下徹を「理念なきB層政治家」(タイトル副題)と称したりして「B層」を何度か用いているが、その意味をきちんと説明しているわけではない。
 ほぼ同じ時期に公表された、雑誌・撃論+(オークラ出版、2012.05)上の適菜収「B層政治家の見抜き方」(p.142~)の方が「B層」なるものについては詳しいだろう。
 これによると、「B層」とは「マスコミ報道に流されやすい『比較的』IQ(知能指数)が低い人たち」を意味する(p.142)。より簡単には「知能指数の低い者たち」、だ。
 こんな言葉がキーワードとして用いられる論文(?)に、まともなものはない、と思われる。また、自らは「B層」には含まれないことを当然の前提にしているようだが、「知能指数の高い」者ならば、そのこと自体をまずは疑ってみる方がよいように思われる。
 ところで、適菜の「B層」論という<じつに差別的な>議論を気持ち悪く感じながら読んで思いだしたのは、丸山真男の<ファシズムの担い手>論だった。
 この欄でかつて紹介したことがあるが、丸山真男は「日本ファシズム」も「中間層が社会的担い手」だったとし、以下の「層」が(日本ファシズムの)「社会的基盤」だったと断じた。丸山真男はこれを「疑似」又は「亜」インテリと称する。
 「たとえば、小工業者、町工場の親方、土建請負業者、小売商店の店主、大工棟梁、小地主、乃至自作農上層、学校職員、殊に小学校・青年学校の教員、村役場の吏員・役員、その他一般の下級官吏、僧侶、神官
 これに対して、丸山真男によると、以下の「本来のインテリ」は、「ファシズムの社会的基盤」でなかったとする(つまり<免責>する)。
 「都市におけるサラリーマン、いわゆる文化人乃至ジャーナリスト、その他自由知識職業者(教授とか弁護士とか)及び学生層」。
 ここで丸山真男が「学生層」として念頭に置いているのは、彼が「皆さんのような」と呼んだこともある、東京帝国大学の学生(その他、広げても旧制大学の後身大学の大学生)だ。
 丸山真男と適菜収が同一のことを言っているのではなく、適菜の方がはるかに粗くて単純なのだが、丸山真男の上の区別も、何やら<知能指数の程度>による<職業差別>意識を背景にしているように見える。
 丸山真男のこの部分を読んで、アホらしい、まともな学問の結果ではないと思ったものだが、適菜収が書いていることについても、そのまま、あるいはそれ以上にあてはまる。
 適菜は要するに、<バカ>が多いから<バカ政治家>が生まれ、勝利する(=民主主義)、バカは政治家等の甘言にダマされやすい、したがってうまくバカを騙せる政治家等が勝利し、バカの「民意」を背景にして「独裁者」も生まれる、というようなことを、ときどきは外国人や歴史に言及したりしながら、言っているだけのことなのだ。
 じつは、行きがかり上、仕方なくこれを書いているようなところがあって、適菜の文章をまともに取り上げようとすることすら、本当はアホらしい時間潰しだと感じている。
 「大衆民主主義」時代における「大衆」を、私もまた基本的なところでは信頼してはいない。この点では、大衆=有権者は結局のところは適切な判断をするものだ、とかときどき書いている産経新聞の論説委員・コラムニスト等とは少し異なる。
 しかし、騙されやすい「大衆」を「『比較的』IQ(知能指数)が低い人たち」と定義して、思考し叙述する気はまったくない。
 騙しているマスメディア(や政治家)の責任の方がはるかに大きい。また、結果的には読者を騙そうとしている、月刊雑誌等の「論壇」の執筆者=評論家・大学教授たち(・「哲学者」?)の責任も大きいだろう。
 適菜収は、「かつて『B層を騙す側』にいたB層政治家がB層そのものになりつつある」と書いているが(撃論+p.143)、「かつて『B層を騙す側』にいたB層哲学者がB層そのものになりつつある」のではなかろうか。
 適菜収というまだ三〇歳代の自称「哲学者」は、大学・研究機関に所属しているわけでもなく、また、学術研究者(・哲学者)または「評論家」としてのまともな業績は全くかほとんどないようだ。
 こんな人物の「トンデモ」論考を巻頭に持って来て大々的に広告を打つ編集長がおり、また「とってもいい論文」だと評価する編集部員もいる月刊正論という雑誌は、まともな雑誌なのだろうか。
 このような疑問は、当然に産経新聞(社)自体にも向けられうる。

 産経新聞本紙はともあれ、月刊正論には常連の「保守派」の執筆者もいるとは思うが、こんな編集長・編集部員の依頼を受け、唯々諾々と従って文章を提供して金銭をもらって、編集長・編集部員の<考え方>・<質>については何の関心もないのだろうか?? 

1102/月刊正論編集長・桑原聡が橋下徹を「きわめて危険な政治家」と明言④。

 何度めになるのだろう、産経新聞4/06の「正論」欄で田久保忠衛が憲法改正の必要を語っている。そのことに反対はしないが、憲法改正(九条2項の削除、国防軍保持の明記を含む)の必要性をとっくに理解している者にとっては、そんな主張よりも、いかにして<改憲勢力>を国会内に作るかの戦略・戦術、そういう方向での運動の仕方等を語ってもらわないと、「心に響かない」。
 両議院の2/3以上の賛成がないと憲法改正を国民に発議できないのだから(現憲法上そのように定められているのだから)、いくら憲法改正の必要性を説いても、国会内での2/3多数派形成の展望を語ってもらわないと、厳しい言い方をすれば、ほとんど空論になるのではないか。
 現在のところ、憲法改正の具体的案文を持っているのは自民党で、さらに新しいものを検討中らしい。憲法改正にも現憲法第一章の削除を含む、かつての日本共産党の<日本人民共和国憲法案>のようなものもありうるが、自民党のそれは、九条改正・自衛軍設置明記等を含むもので、「左翼的」な改正ではない。
 自分が書いていながらすっかり忘れていたが、1年余り前に(も)、月刊正論編集長・桑原聡を、「月刊正論(産経新聞社)編集長・桑原聡の政治感覚とは」と題して、批判したことがあった。
 月刊正論の昨年2011年の4月号の末尾に、自民党を「賞味期限の過ぎたこの政党」と簡単に断じていたからだ。桑原聡は同時に、「かりに解散総選挙となって、自民党が返り咲いたとしても、<賞味期限の過ぎたこの政党にも多くを期待できない」とも明言していた。
 自民党については種々の意見があるだろうが、「はたして、かかる立場を編集長が明記することはよいことなのかどうか。それよりも、その<政治的>判断は適切なものなのかどうか」、という観点から批判的にコメントしたのだった。背景には、編集長が替わってからの月刊正論は編集・テーマ設定等が少しヘンになった、と感じていたことがあったように思う。
 一年前のこの言葉の考え方を桑原聡がまったく捨てているとは思えないので、彼にとっては、自民党は基本的には、「多くを期待できない」「賞味期限の過ぎた」政党のままなのだろう。
 しかし、産経新聞(社)は「国民の憲法」起草委員会まで設けたのだが、現在のところ、産経新聞社の見解に最も近い憲法改正を構想しているのは、自民党なのではないか。
 将来における<政界再編>によってどのようになるかは分からないが、憲法改正に向けての動きが進んでいくとすれば、現在自民党に所属している国会議員等が担い手になることは、ほとんど間違いはないものと思われる。
 しかるに、桑原聡のように、自民党を「多くを期待できない」「賞味期限の過ぎた」政党と断じてしまってよいのか
 桑原聡はこのように自民党を貶し、かつまた橋下徹を「きわめて危険な政治家だ」と明言する。この人物は、いったいどのような政党や政治家ならば(相対的にではあれ)肯定的・好意的に評価するのだろうか。ただの国民でも雑誌・新聞の記者でもない、<月刊正論>の編集長である桑原聡が、だ。
 読売新聞4/08安倍晋三が登場していて、橋下徹は憲法改正に向けての大きな発信力になるので期待しているといった旨を書いて(答えて?)いた(手元になく、ネット上で発見できないので厳密に正確ではない)。

 憲法改正の内容を橋下徹・大阪維新の会は具体的・明確にはまだ明らかにしていないが、国会議員連盟もあるらしい、憲法改正のための国会発議の要件を2/3超から1/2超に改正することには橋下徹は賛成している。憲法改正の必要性自体は、彼は十分に認識していると思われる。
 桑原聡は憲法改正には反対なのだろうか。大江健三郎、香山リカ、佐高信、立花隆らと同じく<護憲派>なのだろうか。
 そうではないとしたら、橋下徹を「きわめて危険な政治家だ」となぜ簡単に断じてしまえるのか。不思議だ。<異常な>感覚の持ち主の人物だとしか思えない。
 なお、佐々淳行産経新聞2/24の「正論」欄で、「橋下徹大阪市長に申す。国家安全保障問題、国家危機管理の問題こそが国民の龍馬ブームの源であり、物事を勇気を以て改めてくれる強い指導力を貴方に期待している国民の声なのだ。国政を担わないのなら、今の八策でもいいが、命をかけて、先送りされ続けた国家安全保障の諸問題を、貴方の『船中八策』に加え、国策の大変更を含めて平成の日本の国家像を示してほしい」、と書いている。
 この文章の途中で、「船中八策」には「一番肝心の安全保障・防衛・外交がそっくり抜け落ちて」いると批判もしている。
 このような佐々淳行の批判もよく理解できる(九条については、橋下徹は世論の趨勢を測りかねていて、個人的見解を明確にする時期ではまだないと判断しているように私は推察している)。

 だが、佐々淳行は最終的には<期待>を込めた文章で結んでいるのであり(最末尾の文章は「…など橋下市長の勇気ある決断を祈っている」だ)、きわめて穏当だと感じられる。
 大人の、まっとうな<保守>派に少なくとも求められるのは、橋下徹に対する、このような感覚・姿勢ではないだろうか。
 逆を走っているのが、月刊正論(産経)の現在の編集長・桑原聡だ。
 こんな人物が産経新聞発行の政治関係月刊誌の編集長であってよいのか。
 川瀬弘至という編集部員が、イザ!で月刊正論編集部の「公式ブログ」を書いているのに気づいた。この川瀬の文章の内容の奇妙さにも、今後は言及していくつもりだ。

1101/月刊正論編集長・桑原聡が橋下徹を「きわめて危険な政治家」と明言③。

 〇「産経新聞愛読者倶楽部」という名のブログサイトがあるようで、月刊正論5月号や産経新聞における適菜収とその内容を批判する投稿を紹介している。
 上の団体が本当に「保守」派なのかは知らないし(「左翼」の立場から産経を批判することはありうる)、他のブログからの引用・紹介はほとんどしたことがないのだが(もともと他のブログを見て読むことがほとんどない)、珍しくそのようなことをしてみる。
 〇4/07付で、「『B層』という嫌な言葉…産経新聞は橋下叩きをやめよ!」とのタイトルのもとで、まず、以下の投稿を掲載している(一部省略)。
 ①「産経新聞社発行の月刊『正論』5月号(3月31日発売)は『【徹底検証】大阪維新の会は本物か 理念なきB層政治家 橋下徹は『保守』ではない!』と題した論文をメーン記事として掲載しました。/筆者は適菜収という37歳の聞いたことのない哲学者です。この中で適菜は『B層』について『近代的理念を盲信する馬鹿』と定義して、橋下市長を『アナーキスト』『デマゴーグ』などと非難しています。/巻末の編集長コラム『操舵室から』でも桑原聡編集長が『編集長個人の見解だが、橋下氏はきわめて危険な政治家だと思う』と表明しています。/
 雑誌を売るためにインパクトのある記事を載せているのなら仕方ないなと思っていたら、なんときのう(6日)の産経新聞1面左上(東京本社版)にも適菜収が登場して<【賢者に学ぶ】哲学者・適菜収 「B層」グルメに群がる人>というコラムを書いていました。B級グルメをもじって「B層グルメ」という言葉を紹介しています。『≪B層≫とは、平成17年の郵政選挙の際、内閣府から依頼された広告会社が作った概念で『マスメディアに踊らされやすい知的弱者』を指す。彼らがこよなく愛し、行列をつくる店が≪B層グルメ≫だ』そうです。/締めくくりは『こうした社会では素人が暴走する。≪B層グルメ≫に行列をつくるような人々が『行列ができるタレント弁護士』を政界に送り込んだのもその一例ではないか』です。橋下叩きを書くために、延々と食い物と『B層』の話をしているだけの駄文です。/
 われわれ保守派としては、橋下徹氏が今後どのような方向に進んでいくかはもちろん分かりません。自称『保守』の中には小林よしのりや藤岡信勝のような偽物もいました。しかし、職員組合に牛耳られた役所、教職員組合に支配された教育現場を正常化する試みは橋下氏が登場しなければできませんでした。自民党は組合との癒着構造に加わってきたのです。私は少なくとも現段階では橋下氏を圧倒的に支持します。/

 そもそも『B層』という言葉には非常に嫌な響きがあります。適菜がいみじくも『馬鹿』と書いているように、いろいろな連想をさせる言葉です。/
 ちなみに適菜収はサイモン・ウィーゼンタール・センターから抗議を受けたこともあります。/読売新聞平成19年2月22日付夕刊/徳間書店新刊書の販売中止を要請 米人権団体「反ユダヤ的」/【ロサンゼルス=古沢由紀子】ユダヤ人人権団体の「サイモン・ウィーゼンタール・センター」(本部・米ロサンゼルス)は21日、徳間書店の新刊書「ユダヤ・キリスト教『世界支配』のカラクリ」について、「反ユダヤ主義をあおる内容だ」として、同書の販売を取りやめるよう要請したことを明らかにした。同書の広告を掲載した朝日新聞社に対しても、『広告掲載の経緯を調査してほしい』と求めたという。/同書は、米誌フォーブスの元アジア太平洋支局長ベンジャミン・フルフォード氏と、ニーチェ研究家の適菜収氏の共著で、今月発刊された。サイモン・ウィーゼンタール・センターは反ユダヤ的な著作物などの監視活動で知られている。/
徳間書店は、「現段階では、コメントできない。申し入れの内容を確認したうえで、対応を検討することになるだろう」と話している。/
 産経新聞平成19年2月23日付朝刊/米人権団体『反ユダヤ的陰謀論あおる』本出版、徳間に抗議/【サンフランシスコ=松尾理也】米ユダヤ系人権団体のサイモン・ウィーゼンタール・センター(ロサンゼルス)は21日、日本で発売中の書籍「ニーチェは見抜いていた ユダヤ・キリスト教『世界支配』のカラクリ」(徳間書店)について、「反ユダヤ的な陰謀論の新しい流行を示すもの」と批判する声明を発表した。同センターは同時に、同書の広告を掲載した朝日新聞社に対しても、掲載の理由を調査するよう求めている。/

 問題となった書籍は、米誌フォーブスの元アジア太平洋支局長、ベンジャミン・フルフォード氏と、ニーチェ研究家、適菜収氏の共著。2月の新刊で、朝日新聞はこの本の広告を18日付朝刊に掲載した。/同センターは、同書の中に『米軍は実はイスラエル軍だ』「ユダヤ系マフィアは反ユダヤ主義がタブーとなっている現実を利用してマスコミを操縦している」などとする内容の記載があり、米国人とイスラエル人が共同で世界を支配しているという陰謀論をあおっているとしている。(後略)/
 産経新聞1面左上のコラム(東京本社版)は約30人の『有識者』が日替わりで執筆しています。適菜収がここに登場したのは初めてです。つまり適菜は執筆メンバーになったわけですが、いったい誰が登用したのでしょうか。産経新聞は適菜を今後も使うかどうか、よく身体検査したほうがいいでしょう。」
 この①の投稿文に関して、つぎのコメントが寄せられている。、
 ②「橋下市長を100%支持するわけではありませんが、適菜収の批判は嫌らしさを感じます。」
 ③「正論と産経新聞がこんないやらしい橋下批判をしたら、現場の大阪市役所や府庁の担当記者がどれだけ迷惑するか、産経の幹部は考えてやっているのでしょうか。」
 〇産経新聞本紙までが、「賢者」として適菜収を登用しているらしい。うんざりする。憲法改正、そのための<保守派>の結集のための事務局あるいは情報センターのような役割を、産経新聞に(ましてや桑原聡編集長の月刊正論に)期待することは、とても無理なようだ。
 適菜収という<怪しい哲学者>の文章については、あらためて私自身の言葉でコメントする。

1100/月刊正論編集長・桑原聡が橋下徹を「きわめて危険な政治家」と明言②。

 〇産経新聞1/24の「正論」欄、藤井聡「中央集権語ること恐るべからず」に対して、2/04に、「揚げ足取りと感じられる部分、橋下らの真意を確定する作業をしないままで批判しやすいように対象を変えている部分が見られ、まともなことを書いている部分が多いにもかかわらず、後味が悪い」から始まる批判的コメントを書いたことがあった。  上の藤井聡の文章について、当の橋下徹自身が、すぐさま1/24の夜に、ツイッターとやらで次のようにコメントしていることをつい最近に知った(私は橋下徹ツイッターの読者・フォローヤーではない)。
 「24日産経『正論』には愕然とした。藤井教授の震災復興で日本を強くするという趣旨の新書を読んでいたが、現実の政治・行政を預かる僕には、何も響かなかった。そして今回の正論。学者論評の典型だが、まず今の中央政府が機能しているという前提から入っている。現在の実態分析が何もない。」
 「行政機構が機能するためには、決定権と責任がはっきりとしていること。そして仕事の役割分担がきちんとなされていること。これが全てである。そして今の中央政府は、これが全くなされていない。だから行政機構を作り直そうと僕は言っているのである。」
 「藤井教授は、一から最適な政体を設計できる万能な人間などこの世にはいないという。確かに世の中に完璧な制度などない。しかし今よりも少しでも良いものを作ることに挑戦するのが政治である。学者は完璧な制度を研究するのが仕事なのであろう。」
 「そして藤井教授は、僕の言うところの地方分権、中央政府の解体が、中央政府の不存在だと曲解している。地方分権とは、中央政府と地方政府の役割分担の明確化である。現在、仕事がオーバーフローして機能していない中央政府を、身軽にして機能するようにする。これが地方分権なのである。」
 「藤井教授は行政機構をマネジメントしたことがない。ゆえに今の中央政府が機能不全に陥っていることが分からない。中央政府がやらなくてもいい仕事を中央政府がやっている。そのことが中央政府を弱くしているのである。」
 「そして国の出先機関を地方に移管することに反対しているが、これは国交省官僚の主張そのものである。まだこんな論を張るのかと愕然とした。確かに今回の東日本大震災において地方整備局は大活躍した。しかし地方へ移管しても同じ機能を発揮させる仕組みを考えれば良いのである。」
 「学者さんが陥るのは、問題提起された新しい制度についての批判点だけを挙げる。現実の政治・行政で重要なのは、現在の制度と新しい制度のどちらが良いのかという比較である。現在の制度の問題点の分析なのである。藤井教授は非常事態に備えて現在の地方整備局を維持せよと言われる。」
 「ところが現在の地方整備局の仕組みで、非常事態ではなく平時において、どれだけの問題点があるのかの分析が全くない。非常事態においては現在の地方整備局の形が必要だ!という主張しかしていない。地方の首長が現実の行政を仕切るにあたって、国の出先機関との関係でどのような問題意識を持っているか」
 「藤井教授の考えの根幹には中央と地方が相互に補完する関係を基調としている。現実の行政とはかけ離れた認識だ。これだけ複雑化した現代日本において行政の仕組みは複雑怪奇になり過ぎた。そして決定権と責任が全く分からなくなってしまった。非常事態が起きたときの行政機構の混乱ぶりは酷過ぎる。」
 「今新しい国づくりとしてやらなければならないことは、国と地方、そして地方部においても広域行政と基礎自治行政の役割分担、決定権と責任の整理・明確化。これが急務である。日本の中央政府を強くするためにも国の仕事をはっきりとさせて決定権と責任を明確化させる。これしかない。
 「行政機構も現実の人間が動かしている。生身の人間ができることなど知れている。藤井教授は中央政府にとてつもない幻想を抱いているがそれは研究室での話しだろう。普通の人間が適切・的確に仕事ができるような行政機構に改める。国と地方の役割分担。これが地方分権である。」
 「藤井教授は現在の体制で中央政府が強くなるとでも思っているのか?政治家を変える?もっと官僚組織を大きくする?組織が大きくなることと強くなることは全く別物。組織が強くなるということは大きさではない。機能することだ。」
 「国の出先機関、特に地方整備局を地方移管しても非常時に対応できるような仕組みを探る。これが現実の政治・行政論である。藤井教授の震災復興の著書が、現実の政治・行政を預かる僕の心に全く響かなかったのは、藤井教授の政府の実態分析の弱さ、そして組織を動かした経験のないことに起因する。」
 以上。1月24日23時54分以降。
 「現実の政治・行政を預かる」者が現実を知らない「研究室」の者に説諭しているようで、大人が子どもを説教するごとく、あるいは教師が学生を教示しているごとく、橋下徹と藤井聡の勝負?がまるで対決になっていないことは明らかだ。
 月刊WiLL4月号に藤井聡「橋下『地方分権論』の致命的欠陥」を掲載した編集長・花田紀凱にも、「地方分権とは、中央政府と地方政府の役割分担の明確化である。現在、仕事がオーバーフローして機能していない中央政府を、身軽にして機能するようにする。これが地方分権なのである」等の橋下徹自身の言葉をしっかり読んでおいていただきたい。
 〇たとえば上のようなことを橋下徹は(おそらくは推敲もしないで一気に)書いているのだが、月刊正論(産経)編集長の桑原聡は、橋下徹が「民意を利用する」「目的は日本そのものを解体することにあるように感じるのだ。なぜ解体するのか? 日本のため? それとも面白いから?」と同誌上で明記した。
 他の橋下徹の文章や政策等も含めて、いったいどこから、橋下徹は「日本そのものを解体」することを目的としている、という判断が出てくるのだろう?
 「左翼」論者の文章・文献の読み過ぎだろうか。
 桑原聡の感覚は<異常>だ。
 こんな感覚の持ち主が、産経新聞社発行の月刊正論の編集長であってよいのか。産経新聞社の多くのメンバーに尋ねたいものだ。

1099/月刊正論(産経)編集長・桑原聡が橋下徹を「きわめて危険な政治家」と明言1。

 一 月刊正論(産経)の現在の編集長・桑原聡が、「個人の見解だが、橋下氏はきわめて危険な政治家だと思う」と同5月号の末尾に書いている。740円という価格と情報量のCBA分析をして?やはり購入し、いくつかの論考等を読んだあとで見たのだが、喫驚した。
 少なくとも桑原聡が編集長でいる間は、月刊正論を新刊雑誌としては購買しないことにする。この欄の閲覧者にも、そのように呼びかけたい。
 「編集者個人の見解」としてはいるが、一頁分の編集後記にあたるものを一人で書いている、れっきとした編集長の文章であり、上のような、橋下徹を「きわめて危険な政治家」視する意識が、月刊正論の編集に反映されないはずはない。
 5月号の巻頭が先だって広告を見て言及したように、適菜収「橋下徹は『保守』ではない!」であり、表紙にも最大の文字で銘打たれているのも、桑原聡のかかる意識の現われだろう、と得心する。
 個人的にはそれこそどのように考えていてもいいとしても、このように明言するとは大胆で、珍しいと思われる。
 この月刊正論を発行している産経新聞社自体に問い糾したいものだ。
 第一。見解が分かれている中で、貴社の発行している雑誌の編集長が、上のような特定の「政治的」立場・見解を明らかにしてしまってよいのか
 第二。橋下徹を「きわめて危険な政治家」だと明言する人物を、貴社の発行する雑誌の編集長にとどめているのは何故か
 産経新聞も、月刊正論も、岩波の「世界」や朝日新聞とは異なる、むしろそれらの対極にある「保守」派の、または「保守」的な新聞であり、雑誌であるという印象をもたれてきている、と言ってよいだろう。そして、その点に共感して購読・購入している国民も少なくないはずだと思われる。そしてまた、産経新聞における橋下徹に関係する記事は、したがって彼への注目度は、他紙に比較して多く、大きいような印象もある。
 しかるに、同じ会社が発行する月刊雑誌の編集長が上のように明言してしまうのは、そしてそのような考え方のもとで雑誌が編集されるのは、むろん雑誌編集の裁量がかなり認められているのではあろうが、貴社自身のマスメディアの一つとしての姿勢と整合しているのか
 二 桑原聡自身はなぜ橋下徹を「きわめて危険な政治家」だと思うかの根拠・理由をほとんど書いていない(根拠にもならないような文章については後で触れる)。
 その代わりに、自分自身の考え方に近い適菜収の(低劣な)論考を巻頭にもってきて、自らの「個人的」な姿勢を反映させた、ということなのだろう。
 ということは、かりに橋下徹を肯定的に評価している編集長であったならば、山田宏「平成の『龍馬伝』がはじまった」から採って、「橋下徹は平成の龍馬だ!」というタイトルで大きく広告され、表紙も作成されていたのかもしれない。
 桑原聡はこの山田宏の論考も加えるなどして、編集の公平さを装っているようだ。そして「特集を読み判断していただきたい」と読者に判断を委ねるかっこうをつけている。
 それはそれで一見公平らしくも見えるのだが、しかし、上の一文は「橋下氏の目的は日本そのものを解体することにあるように感じるのだ。なぜ解体するのか? 日本のため? それともたんに面白いから? 特集を読み判断していただきたい」という文章の一部だ。念押し的に、橋下徹は<日本解体(論)者だ>との桑原聡の考え方を書いた上での言葉なのだ。
 一見読者の判断に委ねつつ、自己の見解の方向へと誘導しようとしている、情報操作・意識操作をしようとしていることは疑いえない。
 それにしても、上の文章の、上野千鶴子ら「左翼」にも似た、気味の悪さはどうだろう。「日本解体」が目的だろうとする論拠を示していないこともあまりにも不誠実で唐突だが、その後の?の連続部分からは、感覚・判断能力の<異常さ>をすら感じてしまう。
 産経新聞社にあらためて問うておこう。こんな内容の文章を唐突に書いてしまう人物は貴社発行の月刊雑誌編集者としてふさわしいのか、と。
 三 桑原聡の情報操作・意識操作の意図(・意識)にもかかわらず、橋下徹関係の四つの論考のうち、最も空虚、最も観念的で低劣なのは適菜収のそれであり、あとは大きな抵抗感なく読めるもので、橋下徹が「きわめて危険な政治家」だとの印象は(桑原の意図に反して?私は)まるで受けない。
 適菜収のものは別に扱いたいが(出発点の「B層」大衆論など、それこそファシスト紛いの気持ち悪いものだ)、山田宏は的確にポイントを衝いている。橋下徹は簡単に前言を翻すとか最近に書いたが、山田宏によると、橋下徹は「実際に会ってみると、じつに謙虚で人の話をよく聴く…。しかも、自説の間違いに気付くと素直に認めて撤回する」と、上手に説明されている(p.61)。

 佐藤孝弘「日本よ、『保守する』ことを学べ」は橋下を肯定的に評価してはいないが、消極的・否定的に論評してもおらず、性急な判断を避けている(あと一つは、内田透「かくて職員組合は落城せり」で、橋下徹を貶すような内容ではなく、むしろ逆かもしれない)。
 四 桑原聡は同じ文章の中でこうも書いている。
 「保守を自任ママ〕する人々まで、印籠を掲げて労働組合を組み伏せようとする橋下氏に喝采を浴びせるが、その矛先がいつか自分たちに向けられると考えたことはないのだろうか」。
 これも産経新聞社発行の月刊正論の現在の編集長の文章だ。
 先に紹介した部分と併せて見ても、どうやら、桑原聡にとっては<反橋下>は<情念>にまで高められているようだ。
 それに、上の文章には反論することが十分に可能だ。橋下徹が攻撃しようとしているのは「戦後体制」・戦後の既得権者たち(官公労働組合も当然に含む)であって、<戦後レジーム>の終焉、日本の「再生」を望む人々にとっては、喝采こそすれ何ら怖いものではなく、橋下徹を怖れているのは、現状に(そこそこ?)満足している、<戦後レジーム>に基本的な疑問を持たない、(そこそこに)利益を得てきている者たちではないか、と。
 桑原聡はどうやら、「左翼」と同様に橋下徹の矛先が自分に向けられることを怖れているようだが、それは、月刊雑誌の編集長にまで登りつめ?、さらに販売部数を伸ばして会社内で「いい気分」を味わいたいと思っている、その現状を「保守」したいからではないのか。
 桑原聡にとっては、現状はそこそこに安住できるもので、その現状・地位を橋下徹によって攪乱されたくない、というのが本音ではあるまいか。
 こういう意識は、昨年秋の大阪市長選で、橋下徹に対立した現職市長を民主党とともに支持した自民党市議団の意識とほとんど等しいと思われる。
 あらためて言っておこう。「右」からという粧いをとってはいるようだが、「右」からか「左」からかは不明なままに、日本共産党・民主党、両党支持の労働組合、そして上野千鶴子、香山リカ、山口二郎、佐高信等々の「左翼」論者と同様に、産経新聞社発行の月刊正論の編集長が、橋下徹は「きわめて危険な政治家」だと明言した。
 山田宏も指摘しているように、<保守>派の最大の課題と言ってもよい憲法改正(をシンボルとする「敗戦後体制」の破棄)の方向で、産経新聞や月刊正論の記事・論考の多くの字数よりもはるかに大きな影響力を、橋下徹の今後のひとこと・ふたことが持つだろう(p.58参照)。そのような人物を「危険」視するとは、とりわけ月刊正論の編集長としては、桑原聡の感覚は<異常>なのではないか。
 五 産経の月刊正論が「橋下市長に日本再生のリセットボタンを押させまいと、イメージ悪化を狙ったさまざまな妨害活動を仕掛けてくる」(山田宏、p.59)ようなことのないように、切に望みたい。
 桑原聡では危ない。月刊正論(産経新聞社)は、編集長が替わるまで、新刊本としては購入するのは避けた方がよい。買うとしても、桑原聡編集長による月刊正論の販売部数が一部でも増えないように、発行後しばらくして、アマゾンあたりのお世話になることにしよう。

1098/月刊WiLLの藤井聡論考による誤解・謬論の蔓延?

 〇忘れかけていたが、「投稿」欄を見て思い出したので、再び触れる。
 月刊WiLL4月号(ワック)掲載の藤井聡「橋下『地方分権論』の致命的欠陥」について<アホ丸出し>と批判して、具体的指摘もした。表現はいささか下品ではあるが、評価に変わるところはない。
 月刊WiLL5月号(同)を見ると、「藤井氏提言に感銘」と題された一読者の投稿文が掲載されている。それによると、投稿者は藤井の「姿勢に心強いものを感じ」ているそうで、とくに次の文を引用して「国家的見地からの国民の利益、幸福を願う思いを強く感じた」と書いている(p.322)。
 「中央集権は悪でも何でもないし。地方分権が善でも何でもない。国家・国民のためには中央集権あっての発展・成長が多々あり、双方のバランスが大切である」(じつは原文と同一ではないが、ほぼ同じ文章が刊WiLL4月号p.202)にある。
 感銘を受けるのはけっこうなことだが、しかし、「双方のバランスが大切」、原文では中央集権と地方分権の「不適切なバランスが悪」で「両者の間の良質なバランスが善」だ、と藤井が言っていることは、誰でも言える、当たり前のことにすぎない
 一般論として橋下徹や大阪維新の会が「中央集権は悪」で「地方分権が善」などとは主張していないはずだ。そのように誤解される部分があるとすれば、それは、日本という国の、戦後の現在という時点での、国政を担う特定の集団(国会議員や国の行政官僚等)を念頭において、<地方分権>の方を重視した主張をしているにほかならないからだろう。
 この点ですでに上の藤井の文章は橋下徹批判になっていないのだが、既述のように橋下徹らは中央集権=国の役割を否定し、「国家」を解体しようとてしいるわけでもない。外交・防衛・通貨発行権等を橋下らは語っていたかと記憶する。
 というわけで、拙劣な・不勉強の藤井論考だけを読んで、橋下徹らの考え方・政策を誤解する人たちがいるとすれば、困ったことだ、言論人の一人のはずの藤井聡の責任は大きい、と感じる。
 加えて、同じ投稿者は次のように書いているが、藤井に影響を受けたのかもしれない―従って藤井の責任が大きい―誤った考え方だ、と思われる。
 すなわち、「地方分権論、道州制の強化は、ますます地方を窮地に追い込むこと必定である。そのような事態にならないよう…」。
 上記のとおり必要なのは「バランス」なので、一般に、「地方分権論、道州制の強化」が排斥されることにはならない、と思われる。
 問題は「強化」の具体的程度・中身にある、と言ってもよい。
 民主党のいう「地方主権」論には、「主権」概念の使用について問題があるが、「地方分権」自体は、現憲法に「地方自治」という章(第八章)があるほどに法的に根付いた(はずの)もので、一般的に批判することはできない(問題はその程度だ)。
 また、道州制にしても、もともとはたしか関経連という財界・経済界が主張した、「保守(・反動)」の側からの「地方自治」破壊論とすら(少なくとも「左翼」からは)目されたもので、「国(国家)」の役割を否定したり無視したりする議論ではまったくない(問題はその具体的な制度設計だ)。
 「地方自治」を重視し「地方」に権限・財源をより多く配分しようとする議論が、自民党政府時代に、ある程度は<政治的に>(つまり憲法解釈論を部分的には超えて)とくに「左翼的」学者によって少なからず唱えられたことは承知しているが、そのような時代と同じように<地方分権>論を「左翼」的だと反発するのは、「左翼」・民主党が国政を担っている時代には、必ずしもそぐわないだろう。
 あるいは逆に、民主党政権だからこそ、橋下徹らは<地方分権>の方を重視するような主張の仕方をしているのだ、と理解することが、少なくともある程度はできる。
 問題は、現実の時代・政治状況を前提として議論されなければならない。一般論としていえば藤井の書くとおり「バランス」が問題なのであり、片方の「強化」も、その具体的意味・内容が明らかにされていないかぎり、論評の仕様がない。上記のとおり一般に、「地方分権論、道州制の強化」が排斥されることにはならないはずで、このような誤解を与えたとすれば、藤井に責任があると言えるだろう。
 〇具体的な国、時代、政治状況を前提にしてはじめて<地方分権>論等の是非も議論できることは、外国の例を見ても分かる。
 古い知識だが、ミッテラン大統領までのフランスはきわめて中央集権的で(=パリ中心で)、「県」知事も戦前の日本と同様に国の任命の国家公務員だったはずだ。現在は多少は地方分権の要素が増大したとされている。
 一方、隣国のドイツはドイツ連邦共和国という国名のとおり連邦制をとる。ということは、連邦のもとに「州(・邦・国)」=ラント(Land)があり、その下に市等の基礎的自治体(Gemeinde)がある。そして、「州」ごとに憲法があり、州ごとに(州法律としての地方自治法にもとづいて)異なる基礎的自治体制度(狭義の地方制度)があり、例えば市長の選び方も州によって異なり、また教育事務は連邦ではなく州が行い、連邦には教育(文部科学)大臣はいない。若干の例を挙げただけだが、フランスと比べれば、もともとドイツは<地方分権>的だ。
 そして、アメリカも同様だが、連邦制を採っているということは、上に州(国)が憲法まで持つ(そして州法律まである)と書いたように、ドイツは、日本でいわれる<道州制>以上に、<分権>的なのだ。
 でははたして、ドイツにおいて国家=連邦は「解体」されているだろうか。そんなことはないことは誰でも知っているだろう。
 地方分権や道州制が、あるいはその強化が「国家」全体を解体させるとか弱体化させるという議論は、一般論としていえば、謬論(誤った見当はずれの議論)にすぎない。
 イギリスもまた「連合王国」と言われるように、少なくともイングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドという、「国家」の中の「国(・州)」で成り立っていて、日本よりも―ドイツと同じく日本よりも人口は少ないが―<分権>的だ。だからといって、イギリスに中央政府がないとか、「国家」が全体として解体または弱体化しているというわけではない。

 このように若干の国を見ても地方(分権)制度は多様なのだが、それぞれの国の歴史、地理的条件、成り立ち等に由来するもので、「国家」全体の観点からしても、どれが最も優れている、ということにはならない。
 〇大学理科系学部出身の藤井聡はおそらく、上のような具体的なことも何ら知らないで、月刊WiLLの論考を書いている。
 今の日本の、具体的状況の中で、地方分権も「道州制」も議論する必要がある(都道府県制度は明治以降の長い歴史をもつが、いずれ「道州制」に向かわざるをえない時期が来るのではないかと、おそらくは橋下徹と同様に私も予想している)。
 ついでながら、最近に論及した雑誌・撃論+の中の小川裕夫「検証/橋下改革は本当か?」には東京都に独特のシステムとしての「都区財政調整制度」への言及がある。これが<大阪都>においてもそのまま適用されるかどうかは問題だが、ともあれ、藤井聡は「都区財政調整制度」なるものとその内容を知っているのだろうか。専門家面するならば、この程度の知識は持った上で、地方自治・地方分権・大都市制度等に関する文章を書いていただきたいものだ。

1097/安倍晋三は正しく橋下徹を評価している。

 一 安倍晋三は4/02のBS朝日の放送の中で、大阪市の橋下徹市長を「こういう時代に必要な人材だ」と評価したらしい(ネットのの産経ニュースによる)。
 いろいろと問題はあり、あやういところもあるが、<保守>派は、橋下徹という人間を大切にしなければならない、あるいは大切に育てなければならない
 安倍晋三には同感だ。
 これに対して、谷垣禎一は、橋下徹・大阪維新の会への注目度の高まりについて、先月、ムッソリーニやヒトラーの台頭の時代になぞらえた、という(同上)。
 自民党リベラル派とも言われる谷垣と朝日新聞がかつて「右派政権」と呼んだときの首相だった安倍晋三の感覚の違いが示されているのかもしれない。
 ムッソリーニ、ヒトラーを引き合いに出すのは、昨秋の選挙前に、日本共産党の府知事選挙候補者が大阪市長選への独自候補を降ろして民主党・自民党と「共闘」して前市長の(当時の現職の)候補に投票したことについて<反ファシズム統一戦線ですよ>と述べた感覚にほとんど類似している。
 <反ファシズム統一戦線>という「既得(利)権」擁護派に勝利したのが橋下徹・大阪維新の会だった。日本共産党や「左翼」労組がきわめて危険視し警戒した(している)のが、橋下徹だ。
 そういう人物について「保守」ではない、といちゃもんをつけている月刊正論(産経新聞)または適菜収中島岳志の気がしれない。
 別の機会にあらためて書くが、佐伯啓思が「敗戦後体制」の継続を疎み、それからの脱却の必要性を感じているとすれば(佐伯啓思・反幸福論(新潮新書))、その方向にあるのは橋下徹であって、「敗戦後体制」のなれの果てとも言える、自民・民主・共産党に推された対立候補の平松某ではなかったはずだ。その点を考慮せずして、あるいはまったく言及せずして、なぜ佐伯啓思は、橋下徹批判だけを口にすることができるのか。
 優れた「思想家」ではある佐伯啓思は、週刊新潮にまで名を出して(週刊新潮4/05号p.150)「橋下さんのようなデマゴーグ」等と橋下徹を批判している。インタビューを拒むことも出来たはずなのに、佐伯啓思は自分の名を「安売り」している。佐伯啓思のためにもならないだろう。
 なお、橋下徹を批判する(とくに「自称保守」派の)者やメディアは、橋下徹を支持または応援している、石原慎太郎、堺屋太一、中田宏、古賀茂明等々をも批判していることになることも自覚しておくべきだろう。
 二 橋下徹があぶなかしいのは、例えば<脱原発>志向のようでもあることだ。彼は、現時点では福井県大飯原発の再稼働に反対している。
 私はよくは解っていないが、別に書くように、<脱・反原発>ムードの「左翼」臭が気になる(大江健三郎らの大集会の背後に、または平行して、日本共産党の政策と動員があった)。必要以上に危険性を煽り立て、日本の経済の、ひいては、健全な資本主義経済の発展を阻害することを彼らはイデオロギー的に意図しているのではないか。
 コミュニスト・「容共」を含む「左翼」は、基本的に資本主義に対する「呪い」の情念を持っていて、資本主義経済がうまく機能することを邪魔したいし、同じことだが、「経済」がどのようになっても、破綻することになっても(それで自分が餓死することはないとタカを括って)平気でおれる心情にある。枝野幸男経済産業大臣にも、それを少しは感じることがある。
 しかし、橋下徹はそのような<イデオロギー的>脱・反原発論者ではなさそうだ。
 青山繁晴によると、大阪府知事・市長の二人は原発問題について「ダマされている」とナマのテレビ番組で述べたあとで、(楽屋で?)二人と話したとき、橋下徹は<関西電力から情報を出させたいだけですよ>旨を言った、という(某テレビ番組による)。
 けっこう前言を翻すこともある橋下徹は、また<戦術>家でもある橋下徹は、この問題についても、納得ずくで意見を変える可能性はあるだろう。
 ついでにいうと、大阪府市統合本部とやらは関西電力の原発について「絶対的」安全性を求めるようだが、これは無茶だ。この点では、「絶対的」という条件には反対だったという橋下徹の考え方の方が正常だ。
 市販されている薬剤でも使用方法によっては死者を生み出す。売られ、乗られている自動車によって、毎日20人程度は死亡している(かつては一年間の交通事故死亡者は1万人を超えていた)。にもかかわらず、自動車の製造・販売中止の運動または政策があったとは聞いたことがない。<生命最優先>は現実のものにはなっていない。
 「絶対的」に安全なものなどありはしない。<リスク>と共存していく高度の知恵を磨かなければからない。―という、しごくあたり前で抽象的な文章で今回は終える。
 冒頭に戻って繰り返せば、安倍晋三の橋下徹に関する感覚はまっとうだ。

1095/水島総、適菜収、橋下徹、野田内閣。 

 〇水島総が、「撃論+(プラス)」という雑誌(oak-mook。2012.04)で、「今、最も問題なのは、反日メディアや反日政治家、反日財界なのではない『戦後保守』と言われる言論人の一種の頽廃というべき姿である」と書いている(p.171)。
 現在の「保守」派がかなり混乱していることは確かだと思われ、「頽廃」という形容が的確かは悩むが、私とも問題関心に共通するところはあるだろう。
 このようなブログだから「保守」派のあれこれに対して批判的な言辞も吐いてきた。100%信頼できる人物はいないと(残念ながら)感じているので、テーマ、論点に応じて、櫻井よしこ、西尾幹二、佐伯啓思等々を批判したこともある。だが、<このようなプログだから>影響力は微々たるものだとの自覚があるからなのであり、保守派内部の対立・軋轢を拡大する意図はない。
 産経新聞社も(以前から)意図しているようである憲法改正にしても、現憲法を前提にすれば(なお、石原慎太郎の「破棄」論は精神論としてはともかく、現実的には無謀だ)国会内に2/3以上の改憲勢力を作らなければならず、有権者国民の過半数の支持を受けなければならない。
 産経新聞3/31に論説委員・皿木喜久が書いているように(この人にはまともな文章が多い)、かりに憲法を軸にした「保守合同」を展望するとしても、それは命がけ」で取り組まれなければならない課題だ。
 そうした状況において、「保守」派内部において、「自称保守」とか「エセ保守」とか言い合っている余裕は本来は十分にはないはずだ。あるいは個々の論点について対立してもよいが、憲法改正、正確にはとくに現憲法九条2項の削除と「国防軍」の設置(「自衛軍」という語よりもよいと思う)、についてはしっかりと<団結>しておく必要があろう。

 憲法・国防といった国家の基本問題に比べれば、橋下徹・現大阪市長をどのように評価するかなどという問題は「ちんまい」テーマだ。
 にもかかわらず、産経新聞社の月刊正論5月号は、3/31の大きな広告欄によると、「橋下徹は『保守』ではない!」という一論考のタイトルを最大の文字の惹句にしている。
 「国民の憲法」起草委員会を作ったのだったら憲法改正大特集でも不思議ではないが、上の文字を最大の謳い文句にする感覚は(私には)尋常とは思えない。
 上の論考の執筆者らしい適菜収は冒頭掲記の「撃論+」にもたぶん似たようなことを書いているので、―今回は立ち入らないが―主張内容はおおよその推察ができる。「評論家」の佐伯啓思にもむつかしい問題に「哲学者」が適切に対応できるとはとても思えないが、この、よく知らない適菜収という「哲学者」にとっては、またとない「売名」の機会になったことだろう。あるいはまた、橋下徹をテーマにすれば(とくに批判すれば)<売れる>という月刊正論編集部の<経営的>判断に乗っかかっているだけなのかもしれない。
 ついでだから立ち入るが、「撃論+」の中の小川裕夫「検証/橋下改革は本当か?」(p.150-)の方が、橋下徹について冷静にかつ客観的に判断しようとしており、性急な結論づけをしていない。
 このような性急に単純な結論・予測を述べない姿勢の方が好感をもてる。「撃論+」よりも数倍の(十倍以上の?)読者をもつだろう月刊正論の編集部が、<橋下徹は保守ではない!>と訴えたいらしいのはいったいどうしてなのだろうか。まだ民主党政権のゆくえや解散・総選挙問題を直接のテーマにする方が時宜にかなっているように思われる。
 〇水島総の文章に戻ると、しかし、水島がいう「戦後保守」の「頽廃」の意味、したがってまた水島の考えている「(真の)保守」の意味は必ずしも明確ではない。水島は次のように書く。
 ・保守を標榜しつつも「TPP参加や増税、女性宮家創設等で分かるように、GHQ日本国憲法内閣と言ってもいいほど」なのが野田民主党内閣の本質であり、「日本の国体そのものの解体を目ざしている」にもかかわらず、「戦後日本意識」を脱し切れず、有効に批判できていない。「戦後保守と呼ばれる言論人は、野田内閣の『改革路線』を批判出来ず、野田内閣に一定の支持を与えたり、政権権力にすり寄る、まことに見苦しい迷走を続けている」(p.171)。
 ここで批判されている「戦後保守」言論人とはいったい誰々なのだろうか。
 「TPP参加」を批判されるべき野田内閣の政策の一つとして挙げているところを見ると、櫻井よしこ、竹中平蔵あたりなのだろうか(きちんと確認しないが、岡崎久彦もこれに反対ではなかったようだ)。政権権力に「すり寄る」とは厳しいが、櫻井よしこは野田内閣への期待を明確に(産経新聞紙上で)述べたことがある。
 だが、「TPP参加」に反対するのが「(真の)保守」とは私は考えないし、「保守」か否かで簡単に判断できるものでもないように思っている。
 月刊正論に連載欄を持っている水島総の「保守」派性を(その内容から見て)微塵も疑いはしないが、具体的問題となると、私とまったく同じように考えているわけでもなさそうだ。
 急いで書かれただろう文章にあまり拘泥するのもどうかとは思うが、いま一つ、水島の論述には分かりにくいところがある。
 水島は、「アメリカ拝跪から中国拝跪へ」という時代の変化を語りつつ、いずれも「主権国家意識の欠如した戦後意識」に由来する点で共通する、と批判的に指摘している。
 この点はまだ分かるのだが、次の文章との関係はどうなるのだろう。
 ・「親米反中だから、保守内閣であるとの誤解は、冷戦構造が世界的に終焉した現在にあっては全く通用しない」(p.171)。
 後半の冷戦構造の終焉うんぬんは、そのままでは支持できないことは何度もこの欄で書いた。よく分からないのは、野田内閣を「親米反中」内閣と性格づけていることだ(なお、「保守」内閣だなどと私は「誤解」したことはない)。
 まず、「中国拝跪」意識を水島が批判しているところからすると、野田内閣の「反中」性を批判し難いのではないだろうか。
 つぎに、野田・民主党内閣は本当に「反中」内閣なのだろうか。なるほど、鳩山由紀夫、菅直人と比べると<中国拝跪>性は弱いようにも思えるが、「反中」とまで言いきれるのかどうか。具体的に<南京大虐殺>の存在を肯定しているわけでもない村山談話を継承すると(河村たかし名古屋市長発言問題に関連して)官房長官が答えるような内閣は「反中」なのだろうか。
 〇「保守」派を攪乱する意図はないし、そのような力もないが、いろいろと考え方あるいは表現の仕方が異なるのはやむを得ない。ひょっとすれば、水島総における「反米」性(TPP参加反対はこちらだろう)と「反中」性との関係がよく分からない、ということかもしれない。
 だが、早晩憲法改正の具体的展望が出て来たときには、水島総が、その先頭に立つ運動家の一人だろうことは疑いえないだろう。この点では「思想家」佐伯啓思らよりもはるかに信頼が措けそうだ。余計ながら、西部邁と中島岳志はまるであてになりそうもない、という印象を抱いている。中島岳志は、憲法改正、正規の軍隊保持などという「ラディカル」な変化の追及は、「保守主義」と適合しない、などと言い始めるのではないか(??!)。
 〇西部邁・佐伯啓思グループの隔月刊・表現者(ジョルダン)は、橋下徹批判特集の最新号からは購読しないこととした。駄文につき合っているヒマはない。前の「発言者」時代の古書を購入したことすらもあったのに、ある意味では寂しく、ある意味では爽快でもある。
 このグループの橋下徹批判よりもレベルが落ちていると疑われる適菜収論考が<売り>の論文として宣伝されている月刊正論5月号(産経)も購入したくないが、はて、どうしたものだろう。

1088/道州制と広域連合-橋下徹と藤井聡。

 〇 道州制には、前回にイメージしたもの以外のものもありうる。市町村・都道府県という二層制の上にあるいわば三層めの地方公共団体としてそれを構想することだ。現在よりもさらに複雑になるが、「広域行政」の必要からして、そういう「道州制」もありえなくはない。そして、道州住民の選挙による議会が置かれる可能性とともに、構成員を都道府県(または加えて現在の政令市など特定の市)という団体として住民代表議会を設置せず、構成団体(の長)が道州の「長」(知事・長官)を選出することにする、という構想も考えられる。この後者の場合、「道州制」は現行制度としての「広域連合」に類似しているところがある。
 但し、上の後者の場合であっても、特定の事務のために関係都道府県や市町村が任意に構成員となる広域連合とは違って(従ってその実際の例は関西広域連合があるにすぎないともされている)、「道州」制は<国家のしくみ>の一部としての統治機構である(一般的制度化が想定されているはずの)地方団体であるから、上のようなイメージのもとでも、その「長」は構成長(・代表者)の選挙により、それらの都道府県知事等とは別の者の中から選出されることになろう。
 鳥取県は関西広域連合の構成員の一つであり、現在の当該連合の「長」は兵庫県知事が兼任しているようだ。したがって、鳥取県知事(かつては片山善博)が関西連合の「長」になる可能性は抽象的には(現実的にはともあれ)あるだろう。
 前回言及した藤井聡が紹介する片山善博の発言は、そのような場合の気持ちを表明したものだろう。つまり、広域連合の「長」になっても元来は鳥取県民に直接に選ばれた者なのだから、鳥取県域を超えて「関西」広域全体について「真剣に親身に」なれる自信はない、と言っているのだと解される。
 従って、道州制の「長」が(考えられるその一つの制度設計のもとで)関係都道府県等(の代表)の選挙によって選出される場合だったとしても、特定の都道府県等の長を兼ねていない者が選任されるかぎりは、その者は当該「道州」全体について「真剣に親身に」ならなければならないし、そのようになれない人物は選任されるべきではないことになる。
 前回は想定またはイメージしていなかった「道州」制を構想してみても、やはり片山善博の発言についての藤井聡の理解は結論的には間違っているのだ。お分かりかな? 藤井聡くん。
 それにそもそも藤井は、自ら「道州制」をどのように理解・想定するかを明らかにしていないのだから、あらためて記しておくが、「道州制」や「地方分権」(国・地方関係)に関する論考としては、きわめて拙劣なものだ。
 〇 「道州制」の意味が大阪維新の会・橋下徹らにおいても明確でないと見られることは、既に記したとおりだ。「大阪都」構想との関係も明瞭ではない。
 橋下徹らは走りながら考える、考えながら走っているようなところがあって、研究者的に厳密な検討をすれば不十分なところは多々あるように思われる(藤井の論考は研究者の厳密な検討ではないが)。このことはこれまでも述べてきている。
 但し、「保守」主義の祖のごとく語られるE・バークも、抽象的かつ体系的に「保守主義」論を著したのではなく、現実のフランスの状況(フランス革命の推移)を念頭において、のちに<保守主義>と冠されるような論考を新聞等に発表したのだ。
 橋下徹らの提起する論点・問題が、抽象的ないし論理的に、学者の「書斎」から出ているのではないことは言うまでもない。現在の「国」・民主党政権の実際を念頭に置いて、さらにはそれら至る現実の日本の「統治の仕組み」を現実に・リアルに意識しながら、発せられているものと思われる。
 現実の「国」のありようを無視していかに一般的・抽象的に国・地方関係を議論しても無駄だ。少なくとも現実に建設的な検討結果は生まれないだろう。
 さまざまの現実を眼にした問題意識をもって語られる橋下徹らの言葉尻をとらえて、「書斎」派あるいは「アーム・チェア」派の論者があれこれと批判してみても、生産的な意味を持たず、橋下徹らのいう「既得権」者を利するだけではないか。あるいは、その批判に単純かつ性急なものがあるとすれば、(文章で構成されるマスコミの世界では「売れ」ても)ほとんど積極的な現実的意味をもたず、意識の攪乱を通じてむしろ現実を悪い方向に導くのではないか。
 最近に書いてきたのは、簡単には上のようなことだ。
 〇 何のワクワクした気分もなく、ただ久しぶりにこの欄を埋めて置こうという気分から書いた。本来は書きたいこと、言及・論及したいことが他にたくさんあるのだが、こんなに気軽には書けそうにないので、つい、起稿するのをやめてしまう。

1087/藤井聡-アホ丸出しの橋下徹批判(月刊WiLL4月号)。

 <西部邁・佐伯啓思グループ>の一人、藤井聡が月刊WiLL4月号で、珍妙な(バカ・アホ丸出しの)橋下徹批判を行っている。表紙では第二番めに大きな活字が使われている、藤井聡「橋下『地方分権論』の致命的欠陥」(p.198-)だ。
 藤井聡は京都大学土木工学科卒だが、現在の専門は「公共政策論、国土計画論、土木計画学」らしい(p.207の紹介による)。このように広く専門分野を掲げていること自体がすでに、広く浅い知識はかりに持っているとしても、「地方自治(論)」に関する専門的学者ではないことが明瞭だ。
 上の論考でも、粗雑な、かつ専門家ではない私から見ても明確な誤りを含む見解を示していて、橋下「地方分権」に対するまともな批判にはなっていない。それこそ、「致命的欠陥」がいくつか見られる。
 一読して珍妙だと分かる事項を順不同で挙げておこう。
 第一。「地方出先機関の廃止と道州制の推進」を橋下徹らの政策と理解してうえでこれを批判する文脈の中で片山善博元鳥取県知事の発言を一つの論拠として紹介しているが、まったく的はずれだ。
 片山は「広域連合」の長にかりになった場合の心情について語っているのであり、「道州制」への気持ちを語っているのではない。
 藤井は何と初歩的にも、「道州制」と現行制度でもある「広域連合」を同一視または類似視するという「致命的な欠陥」をおかしているのではないか。
 「道州制」をどのように制度設計するか、現憲法の枠内で考えるか、憲法改正も視野に入れて構想するかによって違いが出てくるだろうが、「州」が国の出先機関とされない限りは、「州」に議会が置かれることが常識的には想定される。現憲法を前提にすると、議会議員に加えて「長」も住民によって直接に選出されることになる(藤井は憲法の地方自治に関する規定をきちんと記憶していないし、現行地方自治法の基本的内容も知らないようだ)。憲法上の「地方公共団体」ではないとの前提で構想すれば、州議会が長を選出するという(現在の国の議会・執行府関係のような)制度にすることも考えられなくはない。あるいは、州議会がかりに置かれないとすれば、「州」が国の出先機関ではない限り、長は住民が直接に選挙で選ぶことになるだろう。
 ともあれ、議会議員か長の(またはいずれについても)住民の選挙による選出が「道州制」については想定されるのであり、これが否定され、例えば長が戦前の都道府県のように国の大臣によって任命されるのであれば(戦前は内務大臣による、現在は総務大臣か内閣総理大臣になろう)、それは「国の出先機関」とほとんど変わらず、そもそも「地方自治」制度とは言えない。
 一方の「広域連合」は複数の地方公共団体により構成され、議員や長の選出に住民が直接に関与することはないが、それは現行地方自治法が「特別地方公共団体」の一つと位置づけ、かつそのような住民による選出を定めていないからだ。藤井聡は、さっそく地方自治法の条文を探してみるがよい。
 このように両者は別のもので、「広域連合の長」と「州」の長(知事・長官?)とはまるで異なる。
 藤井はアホらしくも両者を少なくとも似たようなものとイメージしているようで、片山が「広域連合の長」になっても当該「広域」について「真剣に親身に」なれる自信がない、と言っているらしいことを根拠にして、「州政府が実態として大きく活躍することは難しいと言わざるを得ないであろう」と述べているのだ(p.205)。
 こんな、明らかに誤りと言ってよい推論を行っているのでは、藤井論考は、「地方自治」あるいは「道州制」に関する大学院学生の修士論文のレベルにすら達していない、と断じてよい。
 第二。橋下徹らが「公債発行権の分権化」を主張しているとしたうえで、藤井は「公債発行権が地方に『委譲』されれば、…大都会でさえ、十分な財源を確保することができなくなってしまう」と言っている(p.204)。
 この部分の何が珍妙かと言うと、すでに地方公共団体は「公債発行権」を付与されている(委譲されている)からだ。藤井は、現行地方自治法230条等々を見てみるがよい。
 橋下徹らが公債発行権の「分権化」を主張しているとすれば、現行制度上にある「地方債」の発行(起債)にかかる国の行政機関による関与を廃止するか縮減せよ、という趣旨だろう。
 何と藤井聡は、現在の自治体(ここでは地方自治法にいう「普通地方公共団体」)は「公債発行権」を有している(法律によって「委譲」されている)ことを知らないままで、上のように述べて批判しているのだ。
 これまた「致命的欠陥」だ。藤井は別のところでいわく-「税や公債を中央から『地方委譲』してしまえば、どの自治体も(あるいは州政府も)財源が減ってしまうこととな」る。アホらしい論述?で、―「公債」発行と財源の関係についての議論も、地方には「通貨発行権」がないことを理由にするなど相当に怪しいが、ともあれ―前提的認識が誤っている。この点もまた、修士論文においてすら「致命的欠陥」として不合格認定をする十分で決定的な理由になる。
 第三。橋下徹ら(大阪維新の会)の「地方分権」に関する主張を正確に理解したうえで批判しているのか?
 上に二つ述べたような誤った制度理解にも示されているように、かりにきちんと読んでいたとしても、「正確に」その意味・趣旨を理解できる能力自体が藤井にはなさそうだ。
 また、橋下徹らの見解が民主党の「地域主権」論と同一線上にあるかのごとき前提に立って、藤井は批判しているが、それは適切か?
 最近の「維新八策/骨子」によると、「統治機構の作り直し」という大項目の中に、「・中央集権型から地方分権型へ」(「・国と地方の融合型から分離型へ」)や「・道州制」という項目が見られる。但し同時に、「・国の仕事を絞り込む=国の政治力強化」という項目も見られるのであり。「国」の任務が無視されているわけではない。
 民主党の議論がどうだったかは確認しないが、おおよそ「国」の任務・権限を無視した「地方自治」論・「地方分権」論が成り立つはずがない。誰でも理解できる常識的なことだ。
 だが、藤井はあえて、橋下徹らは「国」の任務・権能を無視しているまたは軽視しすぎている、という前提に立って、橋下「地方分権」論を論難しているようだ。
 維新の会の「八策」は「地域主権」の「路線」に立つという叙述(p.207)も含めて、藤井は橋下徹らの見解・政策を歪曲して(批判しやすいように把握=捏造して)理解したうえで、批判していると見られる。
 藤井が「自称保守」なのだとすれば、何やら偉そうな表向きの大言壮語にもかかわらず、「自称保守」陣営に見られる知的水準のレベルの低さを―この藤井だけに限らないが―大いに嘆かなければならない。
 月刊WiLLの編集長・花田紀凱は、自分の編集する雑誌に載っている(ひょっとすれば重要視しているのかもしれない)論考が、上のような水準のものに過ぎないもの、多少の知識を持つ者でもただちに首を傾げるような「致命的欠陥」をもつもの、であることをよく理解した上で、今後の執筆者の選択をしてほしいものだ。
 佐伯啓思についてもまだ書きたいことがあるが、上の藤井の文章を読んで、こちらを優先した。それにしても、<西部邁・佐伯啓思グループ>の一人が、つぎのようなことを橋下徹らについて述べているのは興味深いし、よくもこんなに単純かつ性急に論定できるものだと感心?する。
 ・橋下徹の演技が「国益を損ね、国民の安寧と誇りある暮らしを根底から破壊するものであるのなら」批判するのが「日本国民として正当な振る舞い」だ。
 ・「維新の会」が「次の総選挙に出て大きく勝利するようなことがあれば、国益は大きく損なわれるであろうことを『確信』している」(以上、p.200)。
 「自称保守」論者らしき者が、このように言ってしまっている。嘆かわしいことだ。

1086/橋下徹を単純かつ性急に批判する愚③―佐伯啓思ら。

 〇佐伯啓思は、新潮45/3月号で「橋下現象」に「イヤなもの」・「嫌悪感」を覚えるとし、それは近年の日本の「必然的帰結」・今日の日本の「象徴」だという。そして、「一歩間違えば、とんでもない事態にわれわれを導きかね」ないと警戒視する(p.323)。このような基本的論調は三点に分けられてより詳しく論述されているが、直感的にこれは誤っている、単純化しすぎていると思われたのは、佐伯のいう第一点だ。第二、第三点の叙述も疑問はあるが、橋下徹の「姿勢」・「手法」への違和感が示されているだけ(?)なので、とりあえず、以下では触れない。
 佐伯啓思によると、以下のとおり。
 ①橋下徹の基本的な「政策」は、90年代以降の「行政の無駄の削減、財政再建、福祉の見直し、地方分権、政治的リーダーシップの強化など」という「改革」論そのもので、それを「とことん徹底したもの」だ。
 ②「徹底した成果主義」・「実力主義、業績主義、強力な指導力」による「徹底した『改革』」こそ、90年代以降の日本を覆ったもので、「民主党現象」もそうだった。「改革」は官僚や既得権者を敵対者と見なした。
 ③これまでの民主党を含む「改革」が不十分だった(と感じられた)ために橋下徹が期待された。
 ④90年代以降の「改革」論は「成果主義や能力主義や財政再建化や自由競争」等の「いわゆる新自由主義政策」だったが、「橋下改革もきわめて新自由主義的傾向の強い」もので、大阪市の場合も「新自由主義によって社会に活を入れるというショック療法が施されている」(p.323-4)。
 おおむね叙述順に要約的に紹介したが、かかる議論あるいは分析は正鵠を射ているのだろうか?
 第一に、上にも出てくる「新自由主義」を筆頭に、「財政再建、福祉の見直し、地方分権」というより具体的でもなおも抽象度の高い諸概念の意味がきちんと明らかにされていないと、よほど忠実にこれまでの佐伯の議論を読んできた者以外には、ほとんど理解不可能だろう。
 第二に、かりにより高いレベルの読者が読んだとしても、にわかに賛同することはできないだろう。それはまずは、90年代以降の「改革」(論)という一色の歴史理解(時代認識)のもとに「橋下現象」を位置づけよう、把握しようとしていることによる。
 佐伯の言うほどに単純なものではなかろう。自民党(末期?)の「小泉」改革・民主党の「改革」・橋下「改革」と、同じ「改革」(論)だと一括りにしてよいものなのか?
 佐伯の時代認識は、学者・「思想家」らしく、抽象度が高すぎる。「左翼(=容共)・反日」政権として登場した民主党政権による「改革」を従来の「改革」路線の延長と捉えるのは妥当ではあるまい。なるほど民主党も「改革」を唱えたようだが、「戦後民主主義」のなれの果てと言える「左翼(=容共)・反日」政権による改革論を自民党のそれと本質的に同一視することはできないと思われる。
 実際にも、労働組合によって支持され、現在は日教組の「親分」が幹事長をしている政党が、いかほどの「改革」を行いえてきているかはきわめて疑問だ。その「民主党現象」と「橋下現象」が似たようなもので、したがって橋下改革も「おおよそロクな結果をもたせさないでしょう」とまで佐伯は断言するのだから、呆れてしまう。
 「地方分権」論といっても、自民党・民主党そして「大阪維新の会」とでは中身が異なる。立ち入らないが、「維新八策」における「国」・「地方」の役割分担に関する叙述を見ても、民主党の曖昧な「地域主権」論よりもまともだと思われる。
 佐伯は「成果主義」等々を批判するが、これを一概に批判することができないことくらいは佐伯だから分かっているだろう。また、佐伯は「新自由主義的」と橋下徹の政策を論定しているが、報道されている大阪市西成区に対する施策の方向を知ると、とても「新自由主義主義的」などと論難できるものではないように思える。
 交通事業の民営化方針も佐伯によると「成果主義や能力主義や財政再建化や自由競争」等の「いわゆる新自由主義政策」なのかもしれないが、大阪市営交通事業の経営主体等の問題は、抽象度の高い、「新自由主義」的か否かといったレベルで決せられるものではあるまい。
 「財政再建」も「福祉の見直し」も、似たようなことが言える。
 いっさいの「改革」が悪だ、いっさいの「変化」を許さない、という立場に立たないかぎり、佐伯啓思の議論は支持できるものではない
 第三に、以上とほぼ同旨だが、そもそも90年代以降の「改革」(論)を否定し批判する佐伯啓思の立論の内容および立脚点自体が、十分に説明されていないし、十分に肯定されるものなのかという問題があるだろう。
 佐伯啓思は、「改革」論の帰結は「地域格差」・「所得格差」・「地方のコミュニティの崩壊」・「医療現場の崩壊」・「労働と雇用の不安定化」・「教員や家庭の崩壊」だったとし、「何よりも経済はちっともよくはなせなかった」と、社民党や2009年選挙以前の民主党のようなまとめ方を簡単にしてしまっている(p.324)。
 このような「帰結」をもたらした「改革」論と橋下改革は同じなのかという問題のあることは先に述べたとおりだが、これらの原因をあげて「改革」論に求めることは、きわめて粗雑だと思われる。
 問題は「改革」の具体的中身、その達成手法、そして「改革」論議と実際になされた「改革」の区別、をきちんとふまえて論じられなければならないだろう。
 佐伯啓思は産経新聞2/20付で、「『改革』についての功罪」をこう述べている。
 「グローバル化の功罪、金融自由化の功罪、日本的経営の崩壊の意味、二大政党政治の功罪、小選挙区制やマニフェストの問題、これらを自民も民主も整理できていない。むろん、マスメディアもジャーナリズムとて同様である」。
 <改革の功罪>を誰も整理できていない、というのだ。いやおそらく、佐伯啓思自身は「整理」しているつもりなのだろう。だが、佐伯自自身の「整理」が、つまりは「改革」(論)を総じて批判し否定し消極的に評価するという結論自体の正しさが、十分に論証されていないとまるで説得力がない、
 佐伯にとっての「悪」を橋下徹は継承している、というのが佐伯の論点の一つで、橋下徹が「継承」しているとにわかに論定すべきではない、と上では述べた。いま一つの佐伯の論点は「改革」(論)は悪だった、ということにある。この点がここで批判しているところだ。
 90年代以降の「改革」(論)をこのようにまとめ、あるいは上記のように簡単に「改革」の帰結=「罪」を列挙するだけでよいのだろうか。
 ともあれ、佐伯啓思以外には誰も(?)整理できていない課題の克服を橋下徹らに求めても無理強いであり、整理していないことをもって論難することも橋下徹らにとっては酷というべきだ。佐伯啓思は声を大にして、民主党と自民党のほかに、「マスメディアもジャーナリズムも」批判するがよいだろう。
 簡単に上のことを再述すれば、以下のとおり。
 ①橋下徹らの政策が90年代以降の「改革」(論)の系譜上にあり、それをさらに徹底したものだ、という把握の仕方は、単純で性急すぎる。
 ②90年代以降の「改革」(論)がよいものではなかった、ということ自体が説得的には何ら論証されていない。佐伯啓思の頭の中にはあるのかもしないが、ほとんどの読者には伝わっていない、と思われる。
 いっさいの「改革」や「変化」を許さない、という立場に立たないかぎり、佐伯啓思の議論は容易に支持できるものではないのではないか
 産経新聞2/20付の佐伯啓思論考にはあまり言及しなかったが、上で紹介したのと似たようなことを書いており、ほぼ同じような感想を抱くので、もはや省略しておく。
 〇産経新聞2/23の特集記事中に、橋下徹のつぎの言葉が紹介されている。
 ・「世間の民意とは関係なく、自分の主義主張だけで『世の中の方が間違っている』『衆愚政治だ』『大衆迎合だ』『世論は間違っている』『市民は一時の熱情に狂っている』とか、平気で言えるのが学者だ」。 
 同じ記事によると、田原総一郞はこう言った、という。「橋下さんに対する批判の弱さに、日本のインテリの弱さが出た」、「日本のインテリは権力側を批判はするが、対案を持っていない。『じゃあ、あなたはこの問題をどうしますか』といわれたときに、答えを持っていない」。
 佐伯啓思そして<西部邁・佐伯啓思グループ>の面々は、これらの言葉をどう聞くのだろうか。
 書き忘れていたが、佐伯啓思は90年代以降の「改革」(論)を批判してきているが、「じゃあどうすればよいのか(よかったのか)」という問題には具体的にはほとんど何も答えていない、と思われる。地方分権にせよ財政再建等々にせよ、具体的な「対案」があるわけでもないのだ。論壇・大学のインテリ=「口舌の徒」は楽なものだ、とあらためて感じている。かかる皮肉も、「思想家」には何の痛痒にもならないのかもしれないが。

ギャラリー
  • 1181/ベルリン・シュタージ博物館。
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  • 1180/プラハ市民は日本共産党のようにレーニンとスターリンを区別しているか。
  • 1180/プラハ市民は日本共産党のようにレーニンとスターリンを区別しているか。
  • 0840/有権者と朝日新聞が中川昭一を「殺し」、石川知裕を…。
  • 0801/鳩山由紀夫は祖父やクーデカホフ・カレルギーの如く「左の」全体主義とも闘うのか。
  • 0801/鳩山由紀夫は祖父やクーデカホフ・カレルギーの如く「左の」全体主義とも闘うのか。
  • 0800/朝日新聞社説の「東京裁判」観と日本会議国際広報委員会編・再審「南京大虐殺」(明成社、2000)。
  • 0799/民主党・鳩山由紀夫、社民党・福島瑞穂は<アメリカの核の傘>の現実を直視しているか。