秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

行政

2653/池田信夫のブログ030-03。

 (つづき)
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 第三。「内閣法制局が重複や矛盾をきらうので、ひとつのことを多くの法律で補完的に規定し、法律がスパゲティ化している」。
 「必要なのは法律をモジュール化して個々の法律で完結させ、重複や矛盾を許して国会が組み替え…」。
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 現在(2023年8月1日時点)に有効なものとして「e-Gov 法令」に登載されているのは、一つの名称(表題)をもつ一本ずつを数えて、法律2120政令2288府省令4161、計8569。
 他に、政令としての効力を今でももつ「勅令」71、国家公安委員会・公正取引委員会、海上保安庁等々の「規則」433。これら504を加えると、総計・9074。上の政府サイトによる。
 およそ10000本(1万本)と理解して、大きな間違いではない。
 これらの中には「民法」、「刑法」、「民事訴訟法」、「刑事訴訟法」、「商法」、「会社法」等々も含まれている。したがって、全てではないが、「ほとんど」、おそらくは95パーセント以上が、「行政諸法」だろう。
 なお、以上には、地方公共団体の「条例」と「規則」は含まれていない。47都道府県・全市町村の「条例」等の総数は旧自治省の総務省が把握しているかもしれないが、公表・情報提供されているのかどうか。
 地方公共団体のこれらは、<ほぼ全て>が「行政」関連だと考えられる。地方公共団体は、「民法」や「刑法」、各「訴訟法」の特別規定(特則)を定める権能を有しない。
 政令や府省令は上位の1本の法律のもとに体系化できるはずだが、一つの法律の下に政令が1つだけ、府省令が1つだけでは通常はないだろう。「府令」とは、内閣総理大臣に策定権限がある「内閣府令」のことをいう。
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 「行政法規」である法律に限っても、諸法律が錯綜していることは顕著なことだ。池田信夫の言う「スパゲティ化」の正確な意味は不明だが。
 有名なのは都市計画法分野で、「都市計画法」という法律は一般的に「建築基準法」と連結している。同法にいう「都市計画」の内容や策定手続の特則定める、「都市計画法」から見れば「特別法」にあたる「都市再生特別措置法」、「文化財保護法」、「明日香特別措置法(略称)」等々もある。同じく「都市計画法」から見れば「特別法」にあたるが、同法にいう「都市計画事業」に関して定める「土地区画整理法」、「都市再開発法」等々がある。
 これらを概観するのは、ほとんど不可能だ。一冊の書物が必要になる。安本典夫・都市法概説第三版(2017)参照。
 都市計画法という名前の法律は国土交通省(旧建設省)所管で、関係諸法令に詳しい職員がいるはずだ。それでも関連諸条項の全てを知っているはずはない。まして関連「通達」類を熟知しているはずがない。
 全「行政」諸法に詳しいのは法律(内閣提出のもの)と政令を事前に「審査」する内閣法制局の職員だろうが、担当する分野が区分されており、また長期にわたって担当するのでもない。
 したがって、日本の<行政諸法>・「行政法規」の内容の全体に関する知識をもつ者は、かりに全てについて「ある程度」であっても、日本の中に誰一人存在しない。
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 分かりにくいのは確かだが、「重複」は別としても、「矛盾」があれば問題で、その矛盾は発生が防止され、あるいは事後に是正・解消される必要があるのではないだろうか。
 「法治主義」ではなく「法の支配」原理に立つと池田信夫が理解するアメリカやイギリスで、法律または法令間の「矛盾」は公然と承認されているのだろうか。一般論としては、なかなか想定し難い。
 もっとも、イギリスでは三国(国?、イングランド・ウェールズ・スコットランド)ごとに議会があり、アメリカには各州法があるので、連邦法とそれらの間、または諸州法相互の間に「差異」が存在するのはむしろ自然で、適用法令の発見自体が司法部(・判例)に委ねられるのかもしれない。
 ドイツ、フランスのこともよく知らないが、日本では、「矛盾」が正面から承認されることはないと思われる。
 しかし、何らかの特殊な事案が発止して、「矛盾」が明らかになることはあるだろう。但し、その場合、とりあえずは、適用条項の「選択」・「発見」の問題として処理される可能性が高い。
 「矛盾」しているか否かがときに重要な法的問題になるのは、国の法律(+法令)と、「法律の範囲内」でのみ制定可能な(憲法94 条参照)地方公共団体の「条例」との間の関係だ。独自に土地利用や建築を規制しようとする条例と都市計画法・建築基準法等との関係など。
 一般論としては「矛盾」は許容されず、法律に違反する条例は、違法・無効だ。だが、「違反」しているか否かの判断が必ずしも容易ではない。「地方自治の本旨」(憲法92条)に反する法律の方が違憲で無効だ、という議論を始めると、ますますそうなる。
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 池田信夫の問題関心は、「法治主義」と「法の支配」の違い、<レガシーシステム>からの脱却、<モジュラー>化しての弾力的?運用、「最終的判断は司法に委ねる法の支配への移行」にあるのだろう。
 したがって、今回に以上で書いたことも、そうした関心に対応していないことは十分に承知している。
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  いつか書こうと思っていたのは、「法学」という学問分野の特性だ。経済学と異なり、諸「文学」とも異なる。
 法令類の有効性を前提とした<法解釈学>の場合、「真実」の発見が目的なのではない。「正しい」・「正しくない」という議論も、厳密には成り立ち難い。法的主張、法学説それぞれの間での決定的な「差異」は、裁判所、とくに最高裁判所の判決によって支持されているか否かだ。
 「正しい」解釈が最高裁判例になっているのではない。逆に、最高裁判所の判例になっている法学説こそが「正しい」という語法を使うことは(きっと反対が多いだろうが)不可能ではない。
 では、最高裁判例とは何か? 科学の意味での「真実」ではない。社会管理のために立法者が定めた基準類を具体的事案に適用するために必要な「約束事」を、立法者の判断を超えて示したもの、とでも言えようか。
 裁判所、とくに最高裁判所の判決という「指針」、「手がかり」のあること、これは<法(解釈)学>の、経済学等々とのあいだの決定的な違いだ、と考えられる。
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2651/池田信夫のブログ030-02。

 (つづき)
 第二。「ルールもほとんどが法律や省令として官僚によってつくられ…」。「省令・政令を含めた『法令』で決まる文書主義…」。
 これらのフレーズから生じ得るイメージは、(官僚が実質的にはつくる)「法令」によって、またはそれらにもとづいて「行政」は行なわれている、というものではないだろうか。
 法律でもって「法令」を代表させれば、「法律による行政」または「法律にもとづく行政」というイメージだ。
 あるまだ若い憲法研究者から、行政は全て「法律」に根拠をもって行われている(はず)でないのか、と問われて驚いたことがある。
 これは誤解だ。実際にはそうではない。また、こちらの方が重要だが、日本(および諸外国)の憲法学、行政法学、ひっくるめて「公法学」で、全ての「行政」が議会制定法規という意味での「法律」によって根拠が与えられかつ制約されてなければならない、とは考えられていない(余談だが、立憲民主党議員の中には素朴かつ幼稚な<国会・行政>関係のイメージをもっている者がいるようだ)。
 「法律による」や「法律にもとづく」の意味によって多少は異なってくるが、しかし、重要なことは、「法令」=「行政法規」と無関係の、または「法令」=「行政法規」上の多少とも具体的な規定が存在しない「行政」が実際には存在する、ということだ。
 全ての行政が「憲法」に違反してはならない。<関連行政法規>が存在すれば、全ての行政はそれに違反してはならない。これらは間違いではない。
 しかし、上の後者は<存在していれば>の叙述であって、<関連行政法規>が存在しないならば、「違反」することもあり得ない。
 あえて単純化していうと、具体的な行政には、つぎの二つがある。
 ①憲法—法律—政令・省令等→行政。
 ②憲法—予算—配分基準を定める「通達」類→行政。
 法律または条例がなく、正確には多少とも具体的な規定のある法律・条例がなく、あっても「責務」規定、行政「目的」規定だけがあり、別途財源措置だけが「予算」によってなされていて、その一定の額の財源の配分先・金額の上限、交付・助成決定にいたる「手続」等が「行政法規」に定められておらず、「通達」類(<内部的>だが「公表」されていることも多い)が定めている、そういう「行政」がある。
 池田信夫も用いている言葉である「業法」というものがある行政分野ではない。
 定着した概念はないと思うが、手段に着目すれば「補助金行政」であり、目的に着目して「助成」行政とも言える。社会保障分野に多いかもしれない。だが、特定の産業、起業あるいは研究・開発を誘発・誘導しようとするものもある。
 池田信夫がよく用いている「裁量」という語は、本来は、①の行政の場合に行政法規に制約されつつも行政担当者になおも認められる「自由な判断・選択の余地」を意味する。当然に、広狭があり得る。
 だが、広くは②でも使われ得る。もともと行政法規による「制約」がなく法令との関係では「自由」なのであり、憲法とせいぜい「法の一般原理」に制約されるだけだからだ。
 ところで、上につづくとして、「関連行政法規」がなく、「予算」上の財源措置とも無関係な「行政」もあるだろう。現実にも存在すると思われる。
 この分野ではしかし、「法令」によらないでそんなことをしてよいのか、そもそも「(公)行政」ではないのではないか、という「国家」・「行政権」の存在意義に関わる深遠な(?)問題が生じることもあると考えられる。
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 さて、関連して想起してしまうのは、<行政指導>という「行政手法」だ。
 「お願いベース」という言葉が、コロナ対策に関連しても使われた。
 お願い、要請、奨励、指導。全て「法的」拘束力はない。これらは、「行政法規」が正規に国民あるいは「私人」に要求する以上のことを「求める」。上の①の行政でもあり得る。②の行政では、これらはもともと「セット」の一部のようなものだ。
 しかし、これらに国民・「私人」が従えば、正確には「任意に」従えば、「お願い」行政もまた現実化する。あるいは、<機能する>。
 反コロナワクチンを打たれる際には、あれこれのことに「同意」する旨の署名が求められていた。だが、医学上の専門用語を使った「副反応」等の説明をいったい何%の人々が「十分に」理解して「任意に同意」して(署名して)いるのか、と感じたものだ。
 諸外国と比べての相対的な意味でだが、「任意」性の曖昧さ、「意思」の曖昧さこそが、そしてその点を利用?して行なわれる<行政指導>、「お願い」、「要請」の盛行こそが、英米の他に仏独とも異なる、日本の「行政スタイル」の特徴の一つではないだろうか。
 この問題は、簡単には論じ尽くせられない。
 なお、<行政指導>概念には特定の様式に関する意味は付着していない。文書によることも、メディアを通じることもあり、個別に「口頭」で行われることもある。
 行政手続法という法律(1993年第88号)は、口頭による場合の一定の「行政指導」について、相手方私人の文書(書面)交付請求権を認めている。一種の「文書主義」だ。
 行政手続法35条第3項「行政指導が口頭でされた場合において、その相手方から前二項に規定する事項を記載した書面の交付を求められたときは、当該行政指導に携わる者は、行政上特別の支障がない限り、これを交付しなければならない」。
 その他、35条全体、32条〜36条の2も参照。「行政指導」は、一般的・世俗的用語にすぎないのではなく、ここに見られるように、法律上の(法的)概念だ。
 これ以上は立ち入らない。
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2650/池田信夫のブログ030—官僚機構・日本の行政。

 池田信夫ブログマガジン2023年7月24日号。
  この号にある、フランクフルト学派(アドルノ、ホルクハーイマーら)と啓蒙・合理主義の関係に関する叙述も興味深いのだが、秋月瑛二にとって面白いのは、<名著再読「Cages of Reason」>の中の文章だ。
 最初にある、英米法と大陸法、英米型と日仏型の官僚機構の違いは1993年の原本著者の、日本についての研究者でもあるらしいSilberman の叙述に従っているのかもしれない。
 だが、「日本の官僚機構は『超大陸法型』」という中見出しの後の文章は、池田信夫自身の考えを述べたものだろう。
 以下、長くなるが、引用する。一文ごとに改行。本来の段落分けは----を挿入した。
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  「日本の法律は、官僚の実感によると、独仏法よりもさらにドグマティックな超大陸型だという。
 ルールのほとんどが法律や省令として官僚によってつくられ、逐条解釈で解釈も官僚が決め、処罰も行政処分として執行される。
 法律は『業法』として縦割りになり、ほとんど同じ内容の膨大な法律が所管省庁ごとに作られる。
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 このように省令・政令を含めた『法令』で決まる文書主義という点では、日本の統治機構は法治主義である。
 これはコンピュータのコードでいうと、銀行の決済システムをITゼネコンが受注し、ほとんど同じ機能のプログラムを銀行ごとに作っているようなものだ。
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 しかも内閣法制局が重複や矛盾をきらうので、一つのことを多くの法律で補完的に規定し、法律がスパゲティ化している、
 一つの法律を変えると膨大な『関連法』の改正が必要になり、税法改正のときなどは、分厚い法人税法本則や解釈通達集の他に、租税特別措置法の網の目のような改正が必要になるため、税制改正要求では財務省側で10以上のパーツを別々に担当する担当官が10数人ずらりと並ぶという。
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 こういうレガシーシステムでは、高い記憶力と言語能力をそなえた官僚が法律を作る必要があるが、これはコンピュータでいえば、デバッガで自動化されるような定型的な仕事だ。
 優秀な官僚のエネルギーの大部分が老朽化したプログラムの補修に使われている現状は、人的資源の浪費である。
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 問題はこういう官僚機構を超える巨視的な意思決定ができないことだ。
 実質的な立法・行政・司法機能が官僚機構に集中しているため、その裁量が際限なく大きくなる。
 国会は形骸化し、政治家は官僚に陳情するロビイストになり、大きな路線変換ができない。
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 必要なのはルールをモジュール化して個々の法律で完結させ。重複や矛盾を許して国会が組み換え、最終的な判断は司法に委ねる法の支配への移行である。
 これは司法コストが高いが、官僚機構が劣化した時代には官僚もルールに従うことを徹底させるしかない。」
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  学術研究論文の一部として書いたものではない、印象、感想にもとづく提言的文章だろう。
 だが、テーマは重くて、多数の論点に関係している。
 これを素材にして、思いつくまま、気のむくまま、雑文を綴る。
 第一。「ルールのほとんどが法律や省令として官僚によってつくられ、逐条解釈で解釈も官僚が決め…」。
 法律の重要な一つである刑法について、法務省?の「解釈通達」はない。刑法施行政令も法務省令〈・国家公安委員会規則)もない。法律の重要な一つである民法をより具体化した、その施行のための政令も省令もない。民法特別法の性格をもつことがある消費者保護関係法律には、関係省庁の「解釈」または「解説」文書があるかもしれない。かりにあっても、民法とその特別法の最終的解釈は裁判所が判断する。
 池田信夫が念頭に置くのは、雑多な<行政関係法令>だろう。つまり、「行政」執行を規律する「法令」だろう。<行政法令>を適用・執行するのは(あとで司法部によって何らかの是正が加えられることもあるが)先ずは「行政官僚」・「行政公務員」あるいは中央省庁等であることが、行政諸法が刑事法や民事法と異なる大きな特色だ。
 その<行政法令>・<行政関係法令>を、私は「行政法規」と称したい。
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 「行政法規」は、法律、政令、省令に限られない(憲法典は除外しておく)。
 伊東乾はかつて団藤重光(元最高裁判事、東京大学教授)と交流があって「法的(法学的)」思考にも馴染みがあるようだ。そして、いつか、「告示」で何でも決められるものではないと、「告示」の濫用を疑問視していた。安倍晋三の「国葬」決定の形式に関してだったかもしれない。
 発想、着眼点は正当なものだ。だが、「告示」を論じるのはむつかしい。ここでは、「告示」には、「法規」たるものと、たんに<伝達・決定>の形式にすぎないものの二種がある、とだけ書いておく。
 学校教育法33条「小学校の教科に関する事項は,第29条及び第30条の規定に従い,文部科学大臣が定める」→学校教育法施行規則(文部科学省令)52条「小学校の教育課程については,この節に定めるもののほか,教育課程の基準として文部科学大臣が別に公示する小学校学習指導要領によるものとする」。
 こんな包括的で曖昧な根拠にもとづいて「学習指導要領」が文部科学大臣「告示」の形式で定められている。そして、最高裁判所判例は「学習指導要領」の「法規」性を肯定している。中学校・高校にはそれぞれ同様の規定が他にある。<日本の義務教育の内容>は、この「告示」によって決められている。
 教科用図書(教科書)「検定」についても似たようなもので、省令でもない「告示」が幅をきかし、最高裁判所も「委任」・「再委任」のあることを肯定し、その「法規」性を前提にしている。
 「都市計画」その他の一般的に言えば<土地利用・建築の規制のための「地域・地区」指定行為>の法的性格も怪しい。最高裁判所判例は都市計画の一類型の「処分」性(行政事件訴訟法3条参照)を否定しているので、そのかぎりで、「法規範」に類したものと理解していると解される。
 以上のほか、地方公共団体の議会が制定する「条例」や知事・市町村長の「規則」もほとんどが「行政法規」だ。条例には、法律(または法令)の「委任」にもとづくものと、そうでない「自主条例」とがある(憲法94条参照)。
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 これら「行政法規」に行政官僚は拘束される。但し、その原案を「行政官僚」が作成することがほとんどだろう。法律ですら、内閣の「法律案提出権」(内閣法5条参照)を背景として、行政官僚が作成・改正の任に当たっていることは、池田信夫が書いているとおり。
 なお、日本国憲法74条「法律及び政令には、すべて主任の国務大臣が署名し、内閣総理大臣が連署することを必要とする」
 これは、興味深い、かつ重要な憲法条項だ。
 法律・政令には「主任の国務大臣」が存在し、それの「署名」のあとで「内閣総理大臣」が「連署」すると定めている。憲法は「法律の誠実な執行」を内閣の職責の一つとするが(憲法73条第一号)、法律・政令の「所管(主任)の国務大臣」の責任が実質的には「内閣総理大臣」よりも大きいとも読める憲法条項であって、各省庁「縦割り」をむしろ正当化し、その背景になっている(ある程度は、明治憲法下からの連続性があるだろう〉。
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2611/審査請求認容答申(・裁決)の一例③。

 行政不服審査法による審査請求にかかる認容答申(・裁決)の実例。つづき。太字化は掲載者。
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 第五 審査会の判断
 2 判断とその理由
 ((1)のつづき) 
 (2)本件処分の内容とそれに至る判断過程について
  本件弁明書は、上記のとおり本件診断書「⑱日常生活における動作の障害程度」の記載から第一に、「屋外での生活制限はあるが屋内ではほぼ日常生活ができる状態と考えられる」とし、また、審査請求人の主張に対して「日常生活が著しい制限を受ける」とまでは言えない、第二に、「一人では全くできないとする項目もあるが、年齢が○歳ということで年齢的にできない可能性もあり判断できない」と記述し、よって施行令別表が定める二級の要件に該当しない、と結論づけている。
 以下、これら二点の判断の適否について、まず検討する。
 第一に、本件診断書⑱の記載から「屋外での生活制限はあるが屋内ではほぼ日常生活ができる状態と考えられる」と判断するのは、つぎの理由により、合理的なものであるかは疑わしい。同じことは結果として、「日常生活が著しい制限を受ける、とまでは言えない」という判断についても言える。
 項目⑱は「日常生活における動作」の計17項目について、状態が良い場合の「一人でもうまくできる場合には○と記載する」から状態が悪い場合の「一人では全くできない場合には×と記載する」までの4段階評価で診断結果を記載している。
 そのうち、本件児童については、最も状態が悪い「×」(「一人では全くできない場合」)と診断された項目が、半数を超える10項目もある(右・左の肢体部分に分けて記載されている場合は両者ともに×である場合に限る)。17項目のうちほとんどが「屋内」でも行われる動作であることをも考慮すれば(明確に「屋外」の動作は第17項のみである)、「屋外での生活制限はあるが屋内ではほぼ日常生活ができる状態と考えられる」とするのは、合理的な判断であるとは言い難い。
 第二に、「一人では全くできないとする項目もあるが、年齢が<省略>歳ということで年齢的にできない可能性もあり判断できない」とするのも、つぎの理由により、本件処分を正当化する理由にはならない、と言うべきである。
 すなわち、これは障害によるのか年齢によるのかいずれであるのかが判断できない、という趣旨だと解されるが、障害による可能性があることを全く否定しているわけではない。したがって、項目⑱における診断結果について年齢による影響がある可能性を全く無視することがかりにできないとしても、法令が定める2級の要件に該当しないとする理由にはなり得ない。
 なお、平成30年7月19日付の処分庁回答書第二(本答申の後掲参照)は、前記第二として引用した部分が、平成28年8月23日に判定医から行った「聴取」の結果を反映したものだとするが、かりにそのとおりだとしても、上述のとおり、前記の弁明書記載の部分では、本件処分を正当視する理由にはなり得ない。

  (ⅰ)審理員意見書が本件児童の症状について示していると判断することのできる「解釈」は、つぎの理由により、採用できない
 処分庁が作成して提出した本件別紙は判定医からの処分庁による「聴取」内容について、障害によるのか年齢によるのか「現時点では判別できないことから非該当とした」、と最終的にまとめている。さらに、審理員意見書は、この部分について、「症状が固定したとは言えない、ということを述べていると解釈される」と記している。
 まず、上の前者の叙述は処分庁が平成28年8月23日に判定医から行った「聴取」の内容を、保存されている聞き取りメモおよび担当市への連絡メモとともに担当者の記憶をもとに作成されたものであり、しかも処分庁の担当者は聞き取りから一年半も経過した平成30年2月9日に文書化してまとめて審理員に提出したものである。したがって、この文書の記載内容がはたして本件判定医自身が診断書作成時に説明した内容をそのままに反映しているか否かが疑わしく、当該部分の正確さをそのままに信頼することはにわかにはできない。
 また、その正確さを相当に信頼するとしても、その意味するところは十分に明確なものではない。
 すなわち、障害によるのか年齢によるのか「現時点では判別できないことから非該当とした」ということは「判別」できなければ「非該当」にすることができるということを論理的な前提にしているが、判定医自身が作成した文章であればともかく、当該判定医が本当にそのような前提に立って「聴取」に応じたのかについては、なお疑問が残る。
 したがって、審理員意見書がこの部分について行っている、判定医は「症状が固定したとは言えない、ということを述べている」という「解釈」もまた、ただちに採用することができるものではない、と言うべきである。
 また、審理員意見書は、このような「解釈」を前提として、本件児童が法2条1項にいう「障害の状態にある者」に該当しない、又はその症状が別紙認定要領の2(1)にいう「障害が固定した」とは言えない、と推論しているように解される(必ずしも明白ではないところはある)。しかし、かりにそうだとしても、そのようにただちに結論づけることもできない。
 むしろ、その他の多くの資料は、本件児童には「障害」があることを前提として記述され、作成されていることは、つぎに述べるとおりである。
 例えば、第一に、本件処分も、本件弁明書も、審理員意見書とは異なり、前提として上のような「解釈」、すなわち「症状が固定したとは言えない」とする「解釈」を採用していない。
 第二に、小児神経科の専門医師である診断医が本件原診断書において、本件児童につき、項目①「障害の原因となった傷病名」として「<省略>」という旨を手書により記載等をしており、判定医もこれを前提としているごとくである。
 第三に、判定医は、処分庁作成・提出の「本件別紙」において、「聴取」された内容として、「2級の基準に該当すると考えられる」とも述べており、この部分は、本件児童は「障害」の状態にあることを前提としている。
 第四に、審査請求人が審査請求時に提出した平成28年10月○○日付の別件診断書において、当該文書の作成者・記載者である専門医師は、本件児童の障害名について「<省略>」、その「原因となった疾病・外傷名」について「<省略>」と手書で明記している。
 (ⅱ)なお、審理員意見書は、上のように「解釈される」と記しつつ、そのあとで、本件児童が認定基準第二の(3)が定める2級の基準に該当しないこと、および認定基準第一が確認的に記している、施行令別表の「二級/十五号」が定める2級該当の要件を充足していない旨を、何らの条件や留保をつけることなく、つづけて述べている。
 しかしながら、対象児童の症状が別紙認定要領の2(1)にいう「障害が固定した」ものではなく法2条1項にいう「障害の状態にある者」に該当しないのであれば、そもそも障害の程度が2級に該当するか否かを問題にする必要はないのであり、審理員意見書が「障害」であること自体を否定すると解される「解釈」に言及しながら、同時にいわば並列的に、障害の程度、すなわち2級該当性を問題にしているのは、論理的に矛盾している。
 また、審理員意見書がその判断理由の中で「認定基準第二」の(3)に言及しながら、また、「本件にかかる法令等の規定」の中に「認定基準第二」の(2)を含めているにもかかわらず、その具体的な認定に直接に関係する同(4)や(5)にまったく論及していないのは、きわめて奇妙である

  本件弁明書が述べる本件処分の理由では本件処分、つまり2級に該当しないという根拠を説明することができない、ということはアで述べた。
 さらに進んで、2級に該当するか否か(2級該当性)について、本件弁明書または審理員意見書が言及しておらず、考慮していない要素等がなかったのかどうか、また、考慮すべき要素または事情または資料があったとすれば、それらはどのように考慮することが少なくとも可能であったか、について検討する。
 まず、つぎの二つの専門医師による本件児童にかかる診断書類がある。
 第一に、本件診断書における診断医師による診断の項目「⑱日常生活における動作の障害程度」において、すでに言及したように、計17項目の動作のうち10項目が最も状態が悪い、「一人では全くできない場合」に該当する「×」と診断されている。
 また、同本件診断書「㉒現症時の日常生活活動能力」の項においては、「日常生活の一部において同年令の児より、やや多く介助、援助を要す」と記載され、同「㉓予後」において、「今後も麻痺は残存し、継続的なリハビリ、介助を要す」と記載されている。
 第二に、別件診断書は、「3/動作・活動」において「自立―○」、「半介助―△」、「全介助又は不能―×」までの3段階評価で、計18項目に関する診断結果を示しているが、計18項目のうち「自立―○」は3、左右で「自立―○」と「半介助―△」が分かれているのは1、「半介助―△」が3、左右で「半介助―△」と「全介助又は不能―×」が分かれているのは4、「全介助又は不能―×」が7であって、障害の程度は決して軽いものではないことがうかがえる。
 しかも、この「診断書・意見書」は対象児童が○歳8か月に当たる平成28年10月○○日に作成されており、対象児童が○歳4か月に当たる同年6月○○日に作成された本件診断書から約4か月後のものである。それにもかかわらず、「自立―○」と診断された項目が3項目、(左)が「自立―○」、(右)が「半介助―△」と診断された項目が1項目に留まっている。
 また、後掲の対比表のとおり、本件診断書とこれを詳細に比較対照させてみると、同一のまたはほぼ同一の項目について、「寛解」が2項目、「差なし」が3項目であるのに対して、「差なしまたは悪化」が2項目、「悪化」が4項目存在している。このように児童が成長とともに可能な動作が増える時期であると考えられる4か月間においても、本件児童について上記障害が寛解したとみられる事項が増えていないことが明らかである。 
  本件診断書と別件診断書の対比表
   <省略>
 なお、この別件診断書は本件処分時に処分庁が知り得たものではないが、本件診断書の内容にもとづいてつぎに言及する認定基準第二の定めを十分に考慮するならば、本件児童の症状が客観的にはこのようなものであることをより正確に判断することができ、異なる内容の処分に至った可能性が十分にあった、と言うことができる。

  つぎに、本件に関係する定めが、認定基準第二の(2)~(5)にある。既述のとおり、本件弁明書はこれに全く言及しておらず、審理員意見書は判断理由中で同(3)を、それが定める要件に該当しないとする結論だけを示すために言及し、本件関係法令等の記載の中で同(2)の規定内容だけを記している。
 認定基準第二の(3)は「一部例示すると」として、つぎのものは2級に該当するとする。
 ①一上肢及び一下肢の機能に相当程度の障害を残すもの」、②「四肢に機能障害を残すもの」。
 同(5)は「身体機能の障害の程度と日常生活における動作の障害との関係」を「参考として示すと」として、その「イ」で「機能に相当程度の障害を残すもの」とは、「日常生活における動作の多くが『1人で全くできない場合』又は日常生活における動作のほとんどが『1人でできるが非常に不自由な場合』をいう」と記述する。また、「ウ」で 「機能障害を残すもの」とは、「日常生活における動作の一部が『1人で全くできない場合』又はほとんどが『1人でできてもやや不自由な場合』をいう」と記述する。
 また、(4)は、「日常生活における動作と身体機能との関連」は厳密に区別できないとしつつ「おおむね」として、その関連性を判断する際の考慮要素を大きく三分しつつ計16項目列挙している。
 これらは(同(2)も含めて)、本件児童が2級の要件を充足するか否か(2級該当性)に明らかに関係する定めであるが、処分庁弁明書はいっさい言及しておらず、審理員意見書も、上記のとおりの趣旨で(2)と(3)に言及するにすぎない。
 そして、さらに立ち入れば、(4)で列挙される16項目について本件診断書の⑱項で用いられている4段階の診断基準を適用すれば、ほぼ類似の結果に至るのであって、かつ、(5)で定義されているような(2)が定める一般的な要件を充たしている可能性が十分にあることを否定することはできない。
 もちろん、これらの定めは、(施行令別表の一部を確認的に再述していると見られる認定基準第一とも異なり)法令上の定めではなく、かつ(2)は「~を総合的に認定するとし」、それ以降も「一部例示」、「参考」、「おおむね」等と明記されているように、これらを形式的、機械的に適用することが想定され、また要求されているものではない。
 しかし、処分庁の本件弁明書はこれらにいっさい言及してはいないこと(なお、審理員意見書も同じであること)からすると、本件処分にあたってもいっさい又はほとんど考慮されていない、と判断することができる。もとより本件弁明書や審理員意見書が認定基準第二の法的性格に鑑みて、これらをいっさい無視することができると主張することがまったく不可能ではないとしても、処分庁は(審理員意見書も)「関係法令等」の中に認定基準第二等を明確に含めている。
 そして、そのような認定基準第二等への考慮を欠いて行われた、とりわけ認定基準第二の(2)・(3)の具体的適用の仕方や(4)・(5)の具体的定めの意味内容への考慮を欠く本件処分は、意味内容やそれらの適用を考慮すべき条項の一部を考慮していないものとして、その判断過程には大きな瑕疵があったというべきである

 (3)結論
 以上により、(1)の理由付記の不備という違法性が本件処分の取消し事由になるかという検討をするまでもなく、(2)のイで言及した審理員意見書の一つの「解釈」は採用し難いことを前提としたうえで、とりわけ同(2)のアとエで述べた点において、本件処分の判断過程は適正かつ合理的なものではなく、その結論もまたそのような判断にもとづく点において違法である。そして、この違法性は、ただちに本件処分の取消し事由になる。

 (4)付言
 本件処分の違法性または不当性に直接に関係するものではないが、審理員意見書作成にいたるまでの、本件審査請求にかかる審理過程には、少なくともつぎの二点について明瞭な瑕疵がある、と判断することができるので、併せて、付記する。
 第一に、処分庁弁明書は、審査請求書添付の「身体障害者診断書・意見書」を、申請時に添付していなかったことを理由にして(審査請求にかかる審理の)「対象ではない」として無視しているが、この文書のこうした扱いは違法である
 審査請求人は、行政不服審査法30条1項にいう処分庁の弁明書に対する「反論書」とは別に同法32条1項が認めるように「証拠書類又は証拠物」を提出できるのであり、これは審査請求にかかる処分の申請時に提出されていたかどうかに関係はない。
 第二に、審理員が処分庁提出の本件別紙について審査請求人に閲覧等の機会を与えず(従ってそれに対する反論・反証の機会を与えないままで)審理対象・審理資料としていることは、違法である
 行政不服審査法32条2項および同38条1項以下によれば、32条2項により処分庁から提出された「当該処分の理由となる事実を証する書類その他の物件」について審査請求人は閲覧又は交付を求めることができ、この求めがあれば原則としてこれを拒むことができない、とされている。
 そして、この証拠書類等閲覧・交付を求める手続上の権利を行使することができるためには、処分庁から証拠書類等が提出されたことを先ず審査請求人は通知される必要があると解されるところ、本件における審理過程 では、この通知は何らなされず、したがって審査請求人には本件別紙に対する反論等の機会は与えられなかった、と認定することができる。
 さらに、関連して追記すれば、上記32条2項による処分庁から審理員に対する証拠書類等の提出は審理にかかわる重要な行為であるにもかかわらず、本件別紙については提出と受領の日を本件処分庁も本件審理員もそれぞれ明確に記録していないことがうかがえる(部会長からの回答要請に対する回答書第一)。
 このような本件別紙に関する文書管理等はじつに杜撰であって、そもそも、本件別紙の提出がもつ法的意味を、両者ともに全く認識していなかった可能性が十分にあると推測される。

 付・調査審議の経過
 平成30年 6月11日  諮問書の受領
 平成30年 6月13日  審査関係人に対する主張書面等の提出期限通知
  主張書面等の提出期限:6月27日
   (口頭意見陳述申立期限:6月27日)
 平成30年 6月28日 第1回審議
 平成30年 7月 2日 審査会(部会長)から審査庁に対し回答の求め
 平成30年 7月 5日 審査庁が審査会に対して回答書(子家第1899号)を提出(回答書第一。)
 平成30年 7月18日 審査会(部会長)から審査庁に対し回答の求め
 平成30年 7月19日 審査庁が審査会に対して回答書(子家第2007)を提出(回答書第二。)
 平成30年 7月27日 第2回審議
 平成30年 8月28日 第3回審議
 平成30年 9月28日 第4回審議
 平成30年 DD月 FF日 第5回審議、答申内容決定
  以上

 平成30年 GG月 HH日
 大阪府行政不服審査会第○部会
  委員(部会長)XX
  委員     YY
  委員     ZZ
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 以上。
 この事案につき、処分庁の弁明書、審理員意見書、審査庁の意見にほとんど添った(請求棄却の)審査会答申案を作成し、審査会の審議以前に全委員に配布していたのは、審査会の事務の担当者の一人の近藤富美子、これを指示し、かつ容認・事前了解していたのは、法規課長の松下祥子(いずれも当時)。
 ——

2610/審査請求認容答申(・裁決)の一例②。

 行政不服審査法による審査請求にかかる認容答申(・裁決)の実例。つづき。
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 第五 審査会の判断
 1 法令等の規定
 本件処分庁および審理員において、本件に関係する法令等の定めの摘示は十全のものではないと判断されるので、あらためて全てを列挙し、正確に引用する。
 (1)特別児童扶養手当等の支給に関する法律(昭和39年法律第134号)(以下、「法」という。)
 第2条第1項「この法律において『障害児』とは、二十歳未満であつて、第五項に規定する障害等級に該当する程度の障害の状態にある者をいう。」
 同条第5項「障害等級は、障害の程度に応じて重度のものから一級及び二級とし、各級の障害の状態は、政令で定める。」
 第3条第1項「国は、障害児の父若しくは母がその障害児を監護するとき、又は父母がないか若しくは父母が監護しない場合において、当該障害児の父母以外の者がその障害児を養育する(その障害児と同居して、これを監護し、かつ、その生計を維持することをいう。以下同じ。)ときは、その父若しくは母又はその養育者に対し、特別児童扶養手当(以下この章において「手当」という。)を支給する。」
 (2)ア 特別児童扶養手当等の支給に関する法律施行令(昭和50年政令第207号)(以下、「法施行令」という。)
 第1条第3項「法第二条第五項に規定する障害等級の各級の障害の状態は、別表第三に定めるとおりとする。」
 イ 法施行令・別表第三(第一条関係)(以下、「施行令別表」とい う。)
   <省略>
 (3)特別児童扶養手当等の支給に関する法律施行令別表第三における障害の認定について(昭和50年9月5日付け児発第576号厚生省児童家庭局長通知)
 同・別紙/特別児童扶養手当等の支給に関する法律施行令別表第三における障害の認定要領(つぎに記載部分にかぎり、以下、「別紙認定要領」という。)
 「1 この要領は、特別児童扶養手当等の支給に関する法律施行令(昭和五十年七月四日政令第二百七号。以下「令」という。)別表第三に該当する程度の障害の認定基準を定めたものであること。
 2 障害の認定については、次によること。
 (1)法第二条第一項にいう「障害の状態」とは、精神又は身体に令別表第三に該当する程度の障害があり、障害の原因となった傷病がなおった状態又は症状が固定した状態をいうものであること。なお、「傷病がなおった」については、器質的欠損若しくは変形又後遺症を残していても、医学的にその傷病がなおれば、そのときをもって「なおった」ものとし、「症状が固定した」については、症状が安定するか若しくは回復する可能性が少なくなったとき又は傷病にかかわりなく障害の状態が固定したときをいうものであり、慢性疾患等で障害の原因となった傷病がなおらないものについては、その症状が安静を必要とし、当該医療効果が少なくなったときをいうものであること。
 (6)各傷病についての障害の認定は、別添1「障害程度認定基準」により行うこと。
 3 障害の状態を審査する医師について
 (1)都道府県又は指定都市においては、児童の障害の状態を審査するために必要な医師を置くこと。」
 (4)別紙認定要領・別添1/特別児童扶養手当/障害程度認定基準
 第6節/肢体の障害
 第4/肢体の機能の障害
 1/認定基準(この1を以下、「認定基準第一」という。)
 肢体の機能の障害については、次のとおりである。
  <省略>
 2/認定要領(この2を以下、「認定基準第二」という。)
 (1)(本答申において、省略)
 (2)肢体の機能の障害の程度は、関節可動域、筋力、巧緻性、速さ、耐久性を考慮し、日常生活における動作の状態から身体機能を総合的に認定する。
 なお、他動可動域による評価が適切でないもの(例えば、末梢神経損傷を原因として関節を可動させる筋が弛緩性の麻痺となっているもの)については、筋力、巧緻性、速さ、耐久性を考慮し、日常生活における動作の状態から身体機能を総合的に認定する。
  (3)各等級に相当すると認められるものを一部例示すると次のとおりである。<省略>
      (注)<略>
 (4)日常生活における動作と身体機能との関連は、厳密に区別することができないが、おおむね次のとおりである。
 ア 手指の機能
 (ア)つまむ(新聞紙が引き抜けない程度)
 (イ)握る(丸めた週刊誌が引き抜けない程度)
 (ウ)タオルを絞る(水をきれる程度)
 (エ)ひもを結ぶ
 イ 上肢の機能
 (ア)さじで食事をする
 (イ)顔を洗う(顔に手のひらをつける)
 (ウ)用便の処理をする(ズボンの前のところに手をやる)
 (エ)用便の処理をする(尻のところに手をやる)
 (オ)上衣の着脱(かぶりシャツを着て脱ぐ)
 (カ)上衣の着脱(ワイシャツを着てボタンをとめる)
  ウ 下肢の機能
 (ア)片足で立つ
 (イ)歩く(屋内)
 (ウ)歩く(屋外)
 (エ)立ち上がる
 (オ)階段を上る
 (カ)階段を下りる
 なお、手指の機能と上肢の機能とは、切り離して評価することなく、手指の機能は、上肢の機能の一部として取り扱う。
 (5)身体機能の障害の程度と日常生活における動作の障害との関係を参考として示すと、次のとおりである。
 ア (本答申において、省略)
 イ 「機能に相当程度の障害を残すもの」とは、日常生活における動作の多くが「1人で全くできない場合」又は日常生活における動作のほとんどが「1人でできるが非常に不自由な場合」をいう。
 ウ 「機能障害を残すもの」とは、日常生活における動作の部が「1人で全くできない場合」又ほとんどが「1人でできてもやや不自由な場合」をいう。
 (5)行政手続法(平成5年法律第88号)
 第8条第1項「行政庁は、申請により求められた許認可等を拒否する処分をする場合は、申請者に対し、同時に、当該処分の理由を示さなければならない。ただし、法令に定められた許認可等の要件又は公にされた審査基準が数量的指標その他の客観的指標により明確に定められている場合であって、当該申請がこれらに適合しないことが申請書の記載又は添付書類その他の申請の内容から明らかであるときは、申請者の求めがあったときにこれを示せば足りる。」
 同条第2項「前項本文に規定する処分を書面でするときは、同項の理由は、書面により示さなければならない。」

 2 判断とその理由
 (1)理由付記について
 ア 本法にもとづく処分には国の法律である行政手続法が適用され、同法8条第1項が定める処分の際の理由の提示、同第2項が定める書面による処分の場合の理由付記の要求も、適用される。
 行政手続法も明示的に要求する理由付記の趣旨は、行政庁の判断の慎重・合理性を担保してその恣意を抑制するとともに、申請者に処分の理由を知らせて不服の申立てに便宜を与えることにあり、その趣旨からして、単に根拠規定を示すだけでは足りず、いかなる事実関係に基づきいかなる法規を適用して処分を行ったかを、申請者において、その記載自体から了知し得るものでなければならないと解されている(最高裁昭和60年1月22日判決・民集39巻1号1頁等)。
 イ 本件処分にかかる通知書の理由の欄には、「本件児童の障害の程度が、特別児童扶養手当等の支給に関する法律第2条第5項(同法施行令第1条第3項別表第3)に定める障害の程度に該当しないため」との記載しかなく、児童の障害の程度が、施行令別表のうちのいずれに該当していないと判断したのかが明記されていない。もとより、認定基準第二の(1)~(5)の定めをどのように考慮し、検討したのかについても、全く明記されていない。
 このような理由付記では、理由付記がなされていないのにほとんど等しく、行政手続法8条に違反し、違法である
 このような程度の理由付記では、処分庁の判断が慎重かつ合理的になされたのか自体を疑わせるし、また、申請者の不服の申立てに便宜を与えるという機能をほとんど果たしていない、と言わざるを得ない。
 ウ なお、本件弁明書は、本件処分の理由を、本件診断書の「⑱日常生活における動作の障害程度」の内容から、「屋外での生活制限はあるが屋内ではほぼ日常生活ができる状態と考えられる」、また、「一人では全くできないとする項目もあるが、年齢が○歳ということで年齢的にできない可能性もあり判断できない」ので、認定基準第一が定める「2級」の「認定基準に達していない」と記述している。
 もともと、審査請求の審理過程における処分庁弁明書の記載によって処分にあった理由付記の欠如または不備が治癒されるものではない。
 また、上のような理由の記述においても、本件診断書によって「屋外での生活制限はあるが屋内ではほぼ日常生活ができる状態」だと判断した十分な説明がなく、認定基準第二の(1)~(5)はどのように考慮され、適用されたのかについての記載が全くない。
 なお、この弁明書が言及する認定基準第一の「2級」の「認定基準」は、「前各号に掲げるもののほか、」という語句を省いている以外は、施行令別表の「二級」に関する「十五号」の定めと同一である。
 エ このように、本件理由付記は行政手続法に違反して違法である。そして、理由付記義務違反という瑕疵は手続または形式の瑕疵であって、処分の効力にただちには影響しないと考えられなくはないが、その瑕疵が処分の効果・内容にどのような影響を与えたかとは無関係に、理由付記の瑕疵があれば処分自体を違法とし、理由付記の瑕疵は直接に取消し事由となるとするのが最高裁判例でもある(上記最高裁判決等参照)。
 したがって、この点を理由とすることにのみによって、本件処分は違法として取り消されるべきものとなる可能性が高い。
 但し、最高裁判例の射程範囲にはなお議論の余地が全くないわけではないであろうこと等に鑑み、本件処分の実際の過程または内容等に照らして、本件処分が取り消されるべきものであるかは総合的に判断することとする。
 よって、本件処分は理由付記について違法ではあるが、それをただちに取り消し原因とするかどうかは結論を留保して、本件処分の過程・内容の論点へと立ち入る。
 ----
 つづく。
 この事案につき、処分庁の弁明書、審理員意見書、審査庁の意見にほとんど添った(請求棄却の)審査会答申案を作成し、審査会の審議以前に全委員に配布していたのは、審査会の事務の担当者の一人の近藤富美子、これを指示し、かつ容認・事前了解していたのは、法規課長の松下祥子(いずれも当時)。

2609/審査請求認容答申(・裁決)の一例①。

 行政不服審査法による審査請求にかかる認容答申(・裁決)の実例。
 以下、実際の答申の文書のまま。但し、元来省略されてネット上に公表されている部分がある。また、今回のこの欄への掲載に際して省略または記号化した部分がある。
 認容の旨(審査請求人の請求を肯定し、被申立て人・処分庁の言い分を排斥する趣旨)の審査庁に対する答申である。
 このほか、①「本件処分庁および審理員において、本件に関係する法令等の定めの摘示は十全のものではない」と断言されており、②「本件処分の違法性または不当性に直接に関係するものではないが、審理員意見書作成にいたるまでの、本件審査請求にかかる審理過程には、少なくともつぎの二点について明瞭な瑕疵がある、と判断することができる」と明言され、「併せて、付記」がなされている。
 ——

 諮問番号:平成30年度諮問第A号
 答申番号:平成30年度答申第B号

  答 申 書
 第一 審査会の結論
 大阪府知事(以下「処分庁」という。)が審査請求人に対して平成28年8月30日付けで行った特別児童扶養手当等の支給に関する法律(昭和39年法律第134号)にもとづく特別児童扶養手当認定請求却下処分(以下「本件処分」という。)の取消を求める審査請求(以下「本件審査請求」という。)は、認容すべきである。

 第二 事案の概要
 事案の概要は、おおむね次のとおりである。
 1 平成28年8月30日、処分庁は審査請求人に対して本件処分を行った。
 2 平成28年10月10日、審査請求人はこの日付けで、大阪府知事(以下、「審査庁」ともいう。)に対して本件審査請求を行った。その際に審査請求人は、身体障害者福祉法(昭和24年法律第283号)にもとづいて「身体障害者手帳の申請」のために利用した、平成28年10月CC日付「身体障害者診断書・意見書(<省略>」を添付した(以下、これを「別件診断書」という。なお、この別件診断書を作成した医師は、本件にかかる後掲の「診断医」または「判定医」ではない)。
 3 平成29年8月14日、処分庁は、審理員に弁明書(以下、「本件弁明書」という。)を提出した。その際、本件弁明書に「別紙認定要領」(本答申の後掲参照)3(1)により都道府県に置くこととされている医師が平成28年8月23日に記載し最終的に作成して本件処分庁に手交した本件にかかる「特別児童扶養手当認定診断書」を添付した(以下、当該医師を「判定医」、この「診断書」を判定医の記載・捺印等の部分も含めて「本件診断書」といい、そのうち判定医の記載・捺印等の部分以外を「本件原診断書」、本件原診断書に診断結果等の記入等を行った医師を「診断医」という。)。
 4 平成29年8月15日、審理員は審査請求人による反論書の提出期限を同年9月4日とし、本件弁明書を審査請求人に送付した。
 5 平成30年1月31日、審理員は審査請求人が反論書の提出意向がない旨を電話で確認した。
 6 平成30年2月9日、処分庁は「診断書判定について」と表記する文書を作成し、「数日後」に審理員に提出した。
 7 平成30年2月27日、審理員は審査請求人及び処分庁にあてて審理手続終結の旨を通知した。
 8 平成30年3月6日、審理員は審理員意見書(以下、「審理員意見書」という。)及び事件記録を審査庁に提出した。その審理員意見書には、処分庁が提出した上記の「診断書判定について」と表記する文書を「別紙1」として添付した(以下、この添付文書を「本件別紙」という。)。
 9 平成30年6月6日、審査庁は同日付けの諮問書を大阪府行政不服審査会に提出した(同年6月11日、同審査会事務局が受領した)。

 第三 審査関係人の主張の要旨
 1 審査請求人
 電話で「屋外での活動は難しいが屋内では十分生活ができる」と言われたが、「屋内でも階段の登降、着がえなどは介助が必要」である。また、「○○○市療育センターに親子通園をしているため母親が仕事をする事ができず、生活が厳しい」。
  以上により、本件処分の取消しを求める。
 2 審査庁
 本件審査請求は、棄却すべきである。

 第四 審理員意見書の要旨
 1 審理員意見書の結論
  本件審査請求は棄却が妥当である。

 2 審理員意見書の理由
 (1)本件原診断書には「⑱日常生活における動作の障害程度」には、「一人では全くできない場合」に該当する項目が複数あり、「㉒現症時の日常生活活動能力」では「日常生活の一部において同年令の児より、やや多く介助・援助を要す」と診断されているが、本件別紙によれば判定医は「対象児童は○歳であり年齢的なものでできないのか、障害が原因でできないのか現時点では判別できないことから非該当とした。」とのことである。
 「別紙認定要領」(後掲参照)の2(1)が「法第2条第1項にいう『障害の状態』とは、精神又は身体に令別表第3に該当する程度の障害があり、障害の原因となった傷病がなおった状態又は症状が固定した状態をいうものであること」、「『症状が固定した』については、症状が安定するか若しくは回復する可能性が少なくなったとき又は傷病に関わりなく障害の状態が固定したときをいうもの』」と定めていることからすると、この判定医の本件別紙上に記述された見解は、「症状が固定したとは言えない、ということを述べているものと解釈される」。
 (2)対象児童が「2級相当」の①「一上肢及び一下肢の機能に相当程度の障害を残すもの」、②「四肢に機能障害を残すもの」に並ぶ障害状態とは言えず、認定基準第一(本答申の後掲参照)が定める要件を充足しない、また、「2級基準」として法施行令別表第三 十五号が定める要件に該当しない、とした処分庁の主張は正当である。
 (3)審査請求人は「本件児童の日常生活状態に加えて、生活が厳しい旨を述べているが、手当の支給要件には関係がない」。
 (4)よって、「本件児童の障害の状態が施行令別表第3に定める障害等級の2級に該当しないとして行った本件処分は、違法又は不当なものであるということはできない」。
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 つづく。
 この事案につき、処分庁の弁明書、審理員意見書、審査庁の意見にほとんど添った(請求棄却の)審査会答申案を作成し、審査会の審議以前に全委員に配布していたのは、審査会の事務の担当者の一人の近藤富美子、これを指示し、かつ容認・事前了解していたのは、法規課長の松下祥子(いずれも当時)。

2341/山村恒年・行政法と合理的行政過程論(2006)。

 山村恒年・行政法と合理的行政過程論—行政裁量論の代替規範論—(慈学社出版、2006)。
 この著の目次の紹介。「細目次」もあって、後者の方が重要かもしれず、別に掲載する。
 本文計、580頁。事項索引・判例索引、計12頁(p.581-p.592)。
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 はじめに
 第1編/行政過程論の基本問題。
  第1章・行政過程論の意義と論争。
  第2章・行政過程論思考の枠組。
  第3章・行政過程の基本原理と規範論。
 第2編/行政過程における判断形成手法—行政裁量規範論。
  はじめに
  第1章・行政過程と行政調査手法。
  第2章・行政過程における評価の手法。
  第3章・行政過程とアカウンタビリティ。
  第4章・行政過程における参加と協働論。
 第3編/行政過程と司法審査。
  第1章・行政過程論と紛争解決の司法審査。
  第2章・鉄道立体交差都市計画事業と司法審査。
  第3章・圏央道あきる野IC事業認定·収用裁決事件。
  第4章・行政過程の住民訴訟と司法審査。
 補筆/小田急最高裁本案判決(第3編第2章)の補足。
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2326/E. Forsthoff・ドイツ行政法I·総論(1973)—目次③。

 Ernst Forsthoff, Lehrbuch des Verwaltungsrechts,Erster Band, Allgemeiner Teil, 10., neubearbeitete Auflage(C.H.Beck, München, 1973)。
 上のドイツ語著、エルンスト·フォルストホフ・行政法教科書第一巻・総論、第10版・改訂版の、目次部分の試訳のつづき。丸数字は試訳者が挿入。
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 第三部/行政作用の理論(Lehre)。
  第一一章・行政行為。
   第一節—①概念の限定、②行政行為・目的論的学問的概念、③行政私法、④二段階説、⑤高権的作用への限定、⑥直接的法的効果の要件、⑦行政行為としての事実上の作用、⑧行政行為の一方性、⑨行政行為と法律行為、⑩個別事案への関係性、⑪一般拘束的表示と地区詳細計画、⑫名宛人なき行政行為、⑬行政行為と裁判判決、⑭特別権力関係内部の指示、⑮基本関係と経営関係、⑯行政行為の定義。
   第二節—①一般的特徴・意図性、②私法上の法律行為の意思概念に委ね得ないこと、③行為者の心理からの隔絶。
   第三節—①行政行為の分類、②命令的・形成的・確認的・公証的・決定的行政行為、③二重効果をもつ行政行為。
   第四節—①協働を要する行政行為・概要、②同意にもとづく行政行為、③この概念の論理、④「両面的行政行為」、⑤申請の意義、⑥それがない場合の法的帰結、⑦原則として無効、⑧例外。
   第五節—①行政行為の附款、②条件、③負担との区別、④この困難性、⑤法的帰結の差異、⑥期限、⑦撤回の留保、⑧許容性。
   第六節—行政行為の形式・一般的規律の不存在、②原則としての形式の自由、③黙示の行政行為、④特定性と一義性の要件、⑤知らせること。
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  第一二章・行政行為の瑕疵。
   第一節—①完全な規律の欠如、②諸理由、③学問と司法部による原則、④特徴、⑤その目的的性格、⑥法的帰結の差異化の必要性、⑦たんなる不当性と瑕疵、⑧是正、⑨重大な瑕疵の意義、⑩民法上の意思表示との区別、⑪国家の権威の意味、⑫信頼保護、⑬通用性の推定、⑭重要性のない瑕疵、⑮技術的意味での瑕疵、⑯無効と取消し可能性(抗告取消し、職権取消し)、⑰両者に原理的区別はないこと、⑰取消し可能性の推定、⑱無効の意味、⑲法的争訟手段。
   第二節—①典型的瑕疵・一般、②官吏でない者の行為、③官署の過誤。
   a.権限の欠缺
    aa—①地域的無権限、原則・取消し可能、②例外、③独立行政主体の地域的領域の踰越、④事物の占有による権限。
    bb—①事項的無権限・その種類、②事項的権能の欠如の二種・上級官庁との関係と対等官庁との関係、③信頼保護、④権限欠如の明白性、⑤欠缺ある場合の有効請求。
   b.①官庁の所管の欠缺・その種類、②成文法への言及、③官吏の人的配置、④合議制機関の特性。
   c.①その他の手続の欠缺・関係者の関与の欠如、②成文法上の聴聞の懈怠、③他官庁の同意または関与の欠如。
   d.①形式の欠缺・直接的および間接的な形式規定、②形式類型の瑕疵、③形式類型内での欠缺、④多様な帰結。
   e.内容の欠缺・緒言・この欠缺の特性。
    aa—①関係者による不正な手段の使用(欺瞞、贈収賄、強制)、②成文法上の規定、③BGB116条以下の不適用、④主観的でない客観的要因を決定する、⑤例外としての害意・故意・過失の考慮、⑥瑕疵事実の錯誤、⑦贈収賄、⑧取消し可能性、⑨強制と脅迫、⑩無効性。
    bb—①事実上の性質の内容的欠缺・事実的不可能性、②事実上の不能、③民法と異なる判断、④取消し可能性、⑤不正な手段の選択、⑥取消し可能性。
    cc—①法的性質の内容的欠缺・法律違反と不法、②法規に対する違反、④訓令的規準違反は無意味、⑤行政の自己拘束、⑥国内法と国際法、⑦行政の志気(moralite administrative)、⑧原則・取消し可能性、⑨制約、⑩刑法違反の場合の無効性、⑪倫理と道徳、⑫法律上の禁止に対する違反、⑬無効性、⑭禁止規範について、⑮法的不能の限界、⑯第三者の関与。
    dd—①その他の内容的欠缺・不明瞭と理解不可能、②不明確性、③追跡可能性、④認定の要件。
   第三節—①部分的無効・行為全体への効果、②自立部分についての例外、③官庁の見做し意図、④意図されない行為の強制不可。
 --------
  第一三章/行政行為の法確定性。
   第一節—①法的確定力・拘束性、②本質と必要性、③法的確定力、④学説の位置、⑤用語法、⑥裁判判決、⑦形式的確定力、⑧実質的確定力、⑨目的論的評価、⑩実質的確定力の目的と機能、⑪異なる見解、⑫可変的および不可変的要件、⑬実質的確定力の限界、⑭処分と決定、⑮Bernazik 理論、⑯独自の見解、⑰司法部、⑱信頼保護と法律適合性。
   第二節—取消しと撤回。
   a.①一般的規律の欠如、②適法な・瑕疵ある・授益的な・負荷的な行政行為、③用語法について、④行政行為の発布と否認(Aufhebung)。
   b.①違法な行政行為の取消し、②取消しする法的義務、③負荷的行政行為、④結果除去請求権、⑤授益的行政行為、⑥論争状態、⑦行政の法律適合性と信頼保護、⑧行政行為の違法性、⑨actus contrarius としての取消し、⑩官庁と関係者の法的義務、⑪第三者効をもつ行政行為。
   c.①瑕疵なき行政行為の撤回、②actus contrarius でないこと、③瑕疵なき授益的行政行為、④自由な撤回可能性のないこと、⑤撤回の許容性、⑥撤回の留保、⑦法的効果、⑧証明責任の転換、⑨撤回の限界、⑩反対諸権利、⑪保証行為と形成行為、⑫例外の承認、⑬反対の諸権利の拡張解釈、⑭排除の根拠としての現実化、⑮特別の利用。
   d.①形成的行政行為、②撤回(・取消し)の排除、③撤回(・取消し)の撤回(・取消し)でないこと、④撤回(・取消し)の形式と理由づけ、⑤ ex nunk (将来に向かって)の効果。
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  第一四章・法律行為的行為の形式。
   第一節—公法上の契約。①広がり、②理由、③規範執行と契約、④法政策的衡量、⑤契約の利用領域、⑥学説、⑦pacta sunt servanda、⑧法的本質、⑨限界、⑩法的争訟、⑪関係者、⑫適用される法、⑬形式要件、⑭法的効果、⑮国家が認可する契約、⑯両面的拘束と公益、⑰法律状態の変化。
   第二節—一方的法律行為。a.相殺。①成文法上の規律、②知られた一般的法制度、③相殺の対象、④民法の類推適用、⑤公法上の要求と私法上の要求の競合。b.放棄。①条件、②授益、③国家の処分権、④詳細、⑤法的効果、⑥形式の自由。
 --------
  第一五章・行政強制。
   第一節—総説。①強制行使の可能性、②行政強制と国家監督、③刑法、④特別の法的資格の必要性、⑤行政執行法(-法律)、⑥行政への個人の依存、⑦行政の権力(Macht)、⑧事物に反する連結の禁止。
   第二節—特別の強制手段。①行政上の強制執行手続、②執行官庁、③強制執行を受ける者。
   第三節—①金銭債権の強制執行、②作為・甘受または不作為の強制、③警告、④即時強制、⑤国家非常権、⑥強制手段の体系、⑦代替執行、⑧強制金、⑨その刑事罰との関係、⑩直接的強制。
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  第一六章・計画と計画策定。
   ①現代的計画策定の意味、②空間関係計画策定への制限、③計画確定、④総合計画の策定、⑤計画策定主体、⑥連邦の枠づけ権能(GG79条)、⑦空間整序、⑧規範としての計画、⑨計画・異物(aliud)、⑩権利保護の問題、⑪複数の計画の衝突、⑫自治体の計画策定権。
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 第四部へとつづく。

2322/E. Forsthoff・ドイツ行政法I·総論(1973)—目次②。

 Ernst Forsthoff, Lehrbuch des Verwaltungsrechts,Erster Band, Allgemeiner Teil, 10., neubearbeitete Auflage(C.H.Beck, München, 1973)。
 上のドイツ語著、エルンスト·フォルストホフ・行政法教科書第一巻・総論、第10版・改訂版の、目次部分の試訳のつづき。丸数字は試訳者が挿入。
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 第二部/行政法規とその適用。
  第七章・行政法源。
  A・行政内部での組織的立法。
   第一節—①緒言、②法律の機能、③一般権力関係と特別権力関係、④行政の法律適合性原則の中の空隙、⑤営造物法の問題性、⑥行政過程での立法(法の定立)の増大。
   第二節—①法規命令(法的命令)、②概念、③その法規性、④問題性、⑤伝来的理論への批判、⑥法律との関係、⑦法規(法的)命令の限界、⑧法規命令の公告、⑨法的拘束性、⑩制約としての法律、⑪裁判所による審査。
   第三節—①行政命令、②概念、③前提としての特別権力関係、④職務規程、⑤行政訓令、⑥法規定の画定、⑦形式、⑧瑕疵ある行政命令。
   第四節—①自治法(条例)・概念、②法規との関係、③自主性、④拘束性、⑤公布強制、⑥形式要件。
  B・非組織的法源。
   第一節—①慣習法・成文法との関係、②公法における慣習法、③慣習法の生成、④慣習法に対する異論、⑤期限、⑥慣習法の生成、⑦たんなる裁判慣行または行政慣行では十分でないこと、⑧法的確信の要件、⑨慣習法の力、⑩consuetudo abrogatoria、⑪連邦慣習法と州慣習法。
   第二節—①地方的慣習法、②法律との関係、③生成。
 --------
  第八章・行政法規の時間的・地域的通用性。
   第一節—①時間的通用・施行、②失効、③期限、④廃止、⑤授権の消失、 ⑥行政主体の消滅、⑦遡及効、⑧永続的効力、⑨権利の取得、⑩法曹界、⑪法政策的考察、⑫措置法律、⑬連邦憲法裁判所の判例、⑭行政規程の特性。
   第二節—①地域的通用・国境の変更、②国内行政の限定、③司法部、④成文法上の諸規定。
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  第九章・法適用の原則。
   ①主題の限定、②行政法上の概念の目的的性格、③目的論的方法の正当性と限界、④行政作用の法的指針としての社会的正当性、⑤法解釈の原理、⑥行政法の法典化、⑦行政手続法の法典化、⑧行政法の規範形式の表面的欠如、⑨実証主義の克服、⑩制度的法解釈、⑪その文言上の証拠、⑫成文法の欠缺、⑬類推、⑭その許容性の限界、⑮民法の適用可能性、⑯類推と直接の法適用、⑰BGB(民法典)の一般条項、⑱信義誠実、⑲行政の法律適合性の原則、⑳官庁による許諾、㉑失効、㉒期間の算入、㉓期間満了、㉔BGB812条以下、㉕BGB688条以下、㉖法律の回避。
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  第一〇章・行政法関係。
   第一節—①憲法上の義務、②その種類、③属人的義務と代替的義務、④職務遂行義務、⑤行政上の責務の私人への負荷。
   第二節—①行政法関係の概念、②関与者、③権利能力、④行為能力、⑤一般的規律の欠如、⑥代理、⑦法定代理、⑧限定的効力、⑨法律行為による代理、⑩機関による代理。
   第三節—①行政法関係の対象・権利と義務、②公権(公法上の主観的権利)、③その憲法上の条件、④法人としての国家、⑤公権の概念、⑥たんなる反射権、⑦GG〔基本法=現ドイツ憲法〕19条4項。
   第四節—①公権と公的義務の非融通性の原則、②法律行為による変更の排除、③例外、④例外としての法的効果、⑤純粋に財産法上の権利の特性。
   第五節—①期限による発効、②置換、③失効、④除斥期間。
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 第三部へとつづく。

2318/E. Forsthoff・ドイツ行政法I·総論(1973)—目次・試訳①。

 Ernst Forsthoff, Lehrbuch des Verwaltungsrechts,Erster Band, Allgemeiner Teil, 10., neubearbeitete Auflage(C.H.Beck, München, 1973)。
 上のドイツ語著、エルンスト·フォルストホフ・行政法教科書第一巻・総論、第10版・改訂版(1973年)の、目次部分だけの試訳。丸数字は試訳者において挿入。
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 目次
 略語一覧
 第一部/行政法の本質的性格と歴史。
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  第一章・行政—特性と画定。
   第一節—①定義の問題、②行政と法、③形成するものとしての行政、④司法との区別、⑤憲法と行政法、⑥法律制定〔立法〕との関係、⑦憲法上の補助作用、⑧外交〔外務行政〕。
   第二節—①行政に対する法治国家的拘束、②その諸段階、③行政行為の自己確定性〔公定力〕、④行政の一体性、⑤行政と統治、⑥統治作用の概念。
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  第二章・近年の行政の歴史の画期。
   第一節—①主題の限定、②行政と近代国家、③嚮導的行政の構造、④身分制議会による授権、⑤ラント法上の主権性、⑥財産秩序への拡張、⑦自然法による行政の正当化、⑧土地所有権の優先(dominium eminens)、⑨職業官僚制度、⑩その市民法的特徴、⑪規律する法源の欠如、⑫合議制的官庁の編成、⑬官房司法(Kammerjustiz)、⑭司法と行政の分離の開始、⑮国庫概念)。
   第二節—①専門部署と国家省庁の発生、②それらの構造、③合議制原則の制限、④諸官庁の編成、⑤司法の独立化)。
   第三節—①法律による行政の原理、②意義と意味、③自由の保障と権利の理性化、④個人的権利の前国家性はないこと、⑤財産秩序の構成、⑥行政に対するラント法上の影響。
   第四節—①世紀半ば以降の変遷、②給付主体としての行政、③行政諸団体の社会的構造の変化、④行政と政党制度、⑤官吏法。
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  第三章・行政法学の歴史。
   ①18世紀の警察国家でのその欠陥、②市民的法治国家の生成、③Von Mohl の意義、④国家と社会の二元論、⑤Lorenz von Stein、⑥行政学、⑦その利用と限界、⑧法的概念への体系的志向、⑨最初の文献、⑩Otto Mayer、⑪その体系、⑫法的諸制度、⑬実証主義の基盤に接近し難いこと、⑭特別権力関係、⑮総論部分、⑯Laband による批判、⑰行政法的実務の学問的意味。
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  第四章・近代行政の構造について。
   第一節—①市民的法治国家と財産秩序、②第一次大戦に伴う変化、③ワイマール憲法、④社会秩序の侵害の形成、⑤体系的関係の欠如。
   第二節—①かかる侵害の原則的意味、②形成的行政、③それの法との関係、③実証主義に到達し難いこと、④自然法からの逸脱、⑤法原則、⑥形成的行政の二つの形式、⑦「商品経済活動」、⑧その行政性、⑨権利保護の特殊性。
   第三節—①行政と技術、②行政における専門家。
   追記—三権分立内部での行政の重み。
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  第五章・行政の自由と拘束。
   第一節—①行政と法規(Rechtssatz)、②裁量概念の問題、③不確定法概念、④裁量と法の解釈、⑤価値概念、⑥裁量概念の定義、⑦行政法規範の特殊性、⑧行政法的実務。
   第二節—①差違化の必要性、②官庁の行為義務の前提に関する決定、③経験上の価値概念の変遷、④社会観の影響。
   第三節—①裁量活動の事後審査、②裁量による自己拘束、③随意と恣意、④裁量の瑕疵の類型、⑤自由な形成領域における法的瑕疵。
   第四節—①覊束された行政、②行政の融通性。
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  第六章・司法と行政。
   第一節—①司法と行政の関係一般・両部門の自立性、②これらの機能の関係、③職務支援(Amtshilfe)、④増大する職務支援、⑤国家行為の相互承認、⑥構成要件的機能、⑦確定する機能、⑧曖昧な瑕疵ある行為についての拘束力のなさ。
   第二節—①法的争訟の許容性、②裁判所構成法第13条、③州議会への授権、④欧州共同体民事訴訟法第4条、⑤欧州共同体裁判所構成法第4条、⑥行政訴訟法第179条、⑦国庫理論の影響、⑧その克服、⑨公法と私法の区別、⑩従属と協働、⑪ライヒ裁判所の判決、⑫行政裁判所の権限、⑬公権力に対する請願訴訟の排除、⑭混合した法関係、⑮一体の判決の原則、⑯手続の停止、⑰前審による決定。
   第三節—①権能の維持・権能争議、②行政権能、③判例における差違。
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 以降の部の表題等は、つぎのとおり。
 第二部/行政法規とその適用。
 第三部/行政作用の理論。
 第四部/国家賠償制度。
 第五部/給付主体としての行政。
 第六部/官庁と行政組織の法。
 第七部/地方自治行政の法。
 付記。
 人名索引・事項索引。

2261/枝野幸男(立民)は古い―「裁量」。

 枝野幸男(立憲民主党)が菅義偉首相に対して、日本学術会議会員の任命に首相に「裁量権があるとしたら(その裁量は)自由裁量ですか、羈束裁量(きそく―)ですか?」と質問したらしい。
 昨今の学術会議問題全般には触れない。
 枝野は弁護士資格があるようだが、その「裁量」の理解は古い。どの段階の誰の教科書で勉強したのだろうか。一般的な誤解もありそうなのであえて記しておく。
 自由裁量と羈束裁量の区別はドイツ公法学や美濃部達吉にまでさかのぼるようだが、今日的には意味がない。
 行政の、又は行政にかかわる「裁量」とは法学的には結局のところは裁判所(司法部)との関係で理解すべきもので、あるいはそのようにしか理解できないもので、裁判所・裁判官が自らの判断・決定を抑制して、つまり自分の判断と行政部・行政権・行政機関の判断とを比較して単純に自らの判断を優先させるのではなく、一定範囲内に限っては行政側の判断を尊重し、自らの判断とかりに同一ではないとしても、ただちに違法とは判断しない場合に結果として認められることとなる、行政側の(司法部との関係で結果としては)「自由な」判断の余地・範囲を意味する。
 現行法制も<自由裁量・羈束裁量>の区別を前提にしておらず、行政事件訴訟法は「裁量」という言葉・概念を用いつつ、つぎのように定めるだけだ。
 第30条行政庁の裁量処分については、裁量権の範囲をこえ又はその濫用があつた場合に限り、裁判所は、その処分を取り消すことができる」。
 枝野がいう「羈束裁量」とは、行政側に「自由」(あるいは「裁量」)があるように法文等の上では一見?感じられても司法部・裁判所は上記の<抑制と尊重>をする必要はなく、「客観的法則」とか「条理」を適用して自らの判断を優先することができる場合を意味してきたのであって(枝野が参照した教科書でも結果的にはこれを認めているはずだ)、その意味では―司法部による「違法」性審査との関係では―他の一般的な場合と区別することはできない。
 上の条文が「裁量処分」とか「裁量権」とか言う場合の「裁量」とは、上の区別を(かりにだが)前提にするとすると、<自由裁量>のことだ。
 したがって、今日、現代・現在に問題になるのは、①「裁量」権が存在するか否か、②その「裁量」権の行使に(裁量権の)「範囲をこえ又はその濫用があ」ったか否か、であって、<羈束裁量と自由裁量>のいずれなのか、が前提となる、又は問題になる、のではない。
 とほぼ書き終えて思い出したが、この問題が報道された当初の時期に東京大学教授・加藤陽子は報道陣に<裁量(権)の濫用があったのではないか>旨答えていた。
 この日本史学者(宇野重規とともに、茂木健一郎が任命「拒否」を明確に不思議がっている二人の一人だが)は、法学者ではないが、枝野幸男よりもよく知っているのではないか?
 むろんこの発言の適正さは、「裁量」権がこの件に関して存在する、ということを前提にしなければならないのだが。はて。

2248/東京大学・大学院情報学環・学際情報学府の「処分」(2020.01)。

 以下の東京大学(・大学院情報学環・学際情報学府)の措置については、だいぶ前にネット上で目にして、<直感的に>疑問を感じた。
 資料掲載だけにとどめたいが、詳細を知らないままで、つぎのことを書いておく。
 第一。懲戒にかかる<要件>規定は一義的明確ではなく、要件認定に際しては濫用されるおそれがある条項になっている。つまり、<多数派>によってどのようにでも認定できる可能性を排除できない。
 第二。「被差別者」、「人格権被侵害者」が訴えを起こしたのちの司法判断ではなく、大学という組織がこうした問題にどのようにかかわるべきかは、教員個人の関係でも、微妙な問題を含んでいる。一般論として、今回の被処分者が特定大学・大学院所属を明確にしていても、それがただちに<特定大学・大学院>の名誉等を傷つけたことになるとは限らないだろう。「感覚」で判断してはならない。
 ちなみに橋下徹は京都大学(・大学院工学研究科)の藤井聡のマスコミ上の言論活動についてかつて、「京都大学は何とかしろ」旨をしきりと言っていたが、当然ながら京都大学は何の措置も執っていない。むろん、上の件とは、言論活動自体の内容が同じでないだろうことは認める。しかし、まったく共通性がないとも思われない。
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 東京大学HP(本部広報課)
 掲載日:2020年1月15日
 懲戒処分の公表について(記者発表)
 
東京大学は、大学院情報学環 大澤昇平特任准教授(以下「大澤特任准教授」という。)について、以下の事実があったことを認定し、1月15日付けで、懲戒解雇の懲戒処分を行った。
 <認定する事実>
 大澤特任准教授は、ツイッターの自らのアカウントにおいて、プロフィールに「東大最年少准教授」と記載し、以下の投稿を行った。
 (1) 国籍又は民族を理由とする差別的な投稿
 (2) 本学大学院情報学環に設置されたアジア情報社会コースが反日勢力に支配されているかのような印象を与え、社会的評価を低下させる投稿
 (3) 本学東洋文化研究所が特定の国の支配下にあるかのような印象を与え、社会的評価を低下させる投稿
 (4) 元本学特任教員を根拠なく誹謗・中傷する投稿
 (5) 本学大学院情報学環に所属する教員の人格権を侵害する投稿
 大澤特任准教授の行為は、東京大学短時間勤務有期雇用教職員就業規則第85条第1項第5号に定める「大学法人の名誉又は信用を著しく傷つけた場合」及び同項第8号に定める「その他この規則によって遵守すべき事項に違反し、又は前各号に準ずる不都合な行為があった場合」に該当することから、同規則第86条第6号に定める懲戒解雇の懲戒処分としたものである。
<添付資料>
 ・東京大学短時間勤務有期雇用教職員就業規則(抄) (PDFファイル: 68KB)
 ・東京大学における懲戒処分の公表基準 (PDFファイル: 12KB)
 東京大学理事(人事労務担当)
 里見朋香 
 東京大学では、大学の依って立つべき理念と目標を明らかにした「東京大学憲章」の前文で、『構成員の多様性が本質的に重要な意味をもつことを認識し、すべての構成員が国籍、性別、年齢、言語、宗教、政治上その他の意見、出身、財産、門地その他の地位、婚姻上の地位、家庭における地位、障害、疾患、経歴等の事由によって差別されることのないことを保障し、広く大学の活動に参画する機会をもつことができるように努める。』と明記しています。この東京大学憲章の下、東京大学は「東京大学ビジョン2020」を策定し、誰ひとり取り残すことのない、包摂的(インクルーシブ)でより良い社会をつくることに貢献するため、全学的に教育・研究に取り組んでまいりました。
 東京大学の構成員である教職員には、東京大学憲章の下で、それぞれの責任を自覚し、東京大学の目標の達成に努める責務があります。そのような中で、対象者により、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)上で、「東大最年少准教授」の肩書きのもとに国籍・民族を理由とする差別的な投稿がなされたこと、また本学の元構成員、現構成員を根拠なく誹謗・中傷する投稿がなされたこと、それによって教職員としての遵守事項に違反し、ひいては東京大学の名誉又は信用を著しく傷つけたことは誠に遺憾です。このような行為は本学教職員として決して許されるものではなく、厳正な処分をいたしました。
 東京大学としては、その社会的責任にかんがみ、今回の事態を厳粛に受け止めております。今後二度とこのような行為がおこらないよう、倫理規範を全教職員に徹底するとともに、教員採用手続や組織運営の在り方を再検証するなど、全学を挙げて再発防止に努めます。また、世界に開かれた大学として、本学の教職員・学生のみならず、本学に関わる全ての方々が、国籍や民族をはじめとするあらゆる個人の属性によって差別されることなく活躍できる環境の整備を、今後も進めていく所存です。
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 東京大学大学院情報学環・学際情報学府HP
 January 15, 2020
 大澤昇平特任准教授に対する懲戒処分について
 この度は大澤昇平特任准教授による一連のSNSへの書き込み等により、大変なご迷惑をおかけしました。そこには、差別や誹謗、中傷、虚偽の数々があり、それによって多くの方々を傷つけ、不快感や不安を与え、また多方面から激しい憤りを頂戴することとなりました。心よりお詫び申し上げます。まことに申し訳ございませんでした。2020年1月15日、情報学環・学際情報学府における調査等を経て、東京大学により、大澤特任准教授に対し懲戒解雇の懲戒処分がなされたことをご報告いたします。
 〔以下、上の大学全体の公表資料-略〕
 東京大学は学問の府であり真理を探求する場です。そのために、多様な人々がそれぞれの立場から自由闊達に議論できることが本質的に重要であるのは言うまでもありません。しかしそれは、SNS等のメディアを含む公の場において、いわれなき個人攻撃や差別をまき散らしてよいことを意味しません。そのような行為は、むしろ自由闊達な議論や言論を封殺し、侵害するものです。一連のSNSへの書き込みについて、私たちはこれを決して許されるものではないと考えています。
 真理探求の環境は、放っておけば自然とできあがるようなものではありません。東京大学の構成員である私たち自身が高い理想と倫理観を常に携え、たゆまぬ努力を積み重ねていくことが不可欠です。私たちは今回の事案を厳粛に受け止めます。問題は書き込みをした本人だけにあるのではなく、情報学環・学際情報学府の対応の不十分さ、努力不足にも起因するものと考え、深く反省しています
 私たちは今回のような問題を二度と起こさぬために、以下の活動を計画的かつ迅速に進めます。まずなにより学生や教職員との対話を深めます。当該寄付講座については、本年度末で廃止する予定です。そして原因究明と再発防止策に関する調査委員会を設置するとともに、倫理規定の整備、寄付講座や社会連携講座の設置方法の見直しを進めます。また情報学環・学際情報学府における教員採用手続や組織運営の在り方の検討を含め、本部とも連携をとりつつ根本的な改革に全力を挙げて取り組んでいくつもりです。
 東京大学大学院情報学環長・学際情報学府長
 越塚登
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 後者の、上の傍線部あたりは、なかなかに<怖ろしい>見解だとも感じる。-自主規制的「全体主義」の萌芽でなければよいが。あるいは、<多数のクレーマー>への事なかれ主義的な対応(・屈服)か。
 例えば、「いわれなき個人攻撃や差別」だと、あるいは「高い理想と倫理観」に反すると、「越塚登」や当該学府(→東京大学)は、どうして認定・判断できるのか。地裁の複数の裁判官あるいは最高裁判所の多数裁判官がそう判断するなら、まだいちおうは納得しもするが。

2225/田中二郎・行政法の基本原理(1949年)①。

 A/田中二郎・行政法の基本原理(勁草書房/法学叢書、1949年)。
 日本国憲法施行後2年のこの書物は、書名のとおり、「行政法の基本原理」を論述する。最終表記の頁数は297。
 4つの章で構成されていて、つぎのとおり。第二章のみ、節も紹介する。旧漢字は新漢字に改める。
 第一章・序論。
 第二章・行政法の基本原理の変遷。
  第1節・旧憲法の下における行政法の基本原理。
  第2節・新憲法の下における行政法の変遷の概観。
 第三章・新憲法の下における行政法の基本原理。
 第四章・連合国の管理における行政法の特質。
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 第三章(およびすでに第二章第2節)で著者が示す現憲法下での「行政法の基本原理」はつぎの四つだ。各節の表題とされている。p.58~p.264.
 ①地方分権主義の確立。
 ②行政組織の民主化。
 ③法治主義の確立。
 ④司法国家への転換。
 これらにそれぞれ(ほぼ)対比されるものが、第二章第1節で「旧憲法の下における行政法の基本原理」とされている。p.11以下。
 ①中央集権主義。
 ②官僚行政主義。
 ③警察国家主義。
 ④行政国家主義。
 従って、①中央集権主義→地方分権主義、②官僚行政主義→行政組織の民主化、③警察国家→法治主義、④行政国家→司法国家、という<行政法の基本原理>の<変化>も語られていることになる。
 「警察国家」は必ずも語感どおりのものではないし、「行政国家」・「司法国家」の対比は大まかに<行政事件>または<行政訴訟>をとくに行政裁判所(東京に普通裁判所とは別に一審かぎりのものとして、かつてあった)に管掌させるか、現在の最高裁判所以下の<司法裁判所>が一括して扱うかの違いなので、上の諸概念自体について説明や叙述が必要だろうが、立ち入らない。
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 上のような「行政法の基本原理」は、当時のとくに公務員志望の学生たちが教科書・参考書にしたかもしれない、つぎの田中二郎著では、少しく変更されている。
 B/田中二郎・行政法総論-法律学全集6(有斐閣、1957)。
 これのp.188-p.195によると、「現行行政法の基本原理」は、つぎの4つだ。
 ①民主主義の原理。
 ②法治主義の原理。
 ③福祉国家の原理。
 ④司法的保障の原理。
 上のA、つぎのCで出てくる「地方」行政上の「原理」は、この①の中で、新憲法にいう「地方自治の本旨に基づ」く地方行政は「団体自治」・「住民自治」の保障を意味し、これは地方自治法等の法律による首長主義による「代表制民主主義」と直接請求等の「直接民主主義の諸制度」によって実現されている(p.189)というかたちで、<①民主主義の原理>の中に包含されているようだ。
 **
 教科書としてはより詳しくなったつぎの田中二郎著は、上のAよりはBを継承しつつ、全く同じでもない。この書が、<田中二郎行政法>としては最も読まれた(利用された)かもしれない。
 C/田中二郎・新版行政法上-全訂第一版(弘文堂/法律学講座叢書、1964年)、p.33-p.44。
 ①地方分権の原理。
 ②民主主義の原理。
 ③法治国家・福祉国家の原理。
 ④司法国家の原理。
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 むろん一人の学者・研究者の<変化>を問題にしたいのではいない。
 また、「自由主義」との関係・関連も含めたそれぞれの説明・叙述を批判的に検討したいのでもない(その能力はない)。
 最も関心を惹くのは、そもそも一法(学)分野の「基本原理」とは何か、だ。
 これについて論じるまたは検討する意味が多少ともあるのは、田中二郎著について言うと、上のB・Cが「原理」とする、①地方分権、②民主主義、③法治主義(・法治国家)・④福祉国家、⑤司法国家、の諸「原理」の<法的意味・機能>ということになるだろう。
 だが1980年代はおろか2020年代に入っている今日に、これについて議論する意味または価値がいかほどあるかは、別途の説明が必要だろうが、疑わしいようにも見える。
 また、そもそも、田中二郎以降の次世代・次々世代等が、どれほどに、あるいはどのように、<行政法の基本原理>を論じ、あるいは叙述してきたか、きているか、という問題もある。
 但し、現在から70年以上前の、1949年に刊行された上のAについては少なくとも、そこでの「行政法の基本原理」の意味を検討してみる価値が、少なくとも<歴史>ないし<法史>の探求の一つとして、なおあるようだ。
 **
 結論として、上のAでの「行政法の基本原理」には、つぎの三つがあると解される。
 第一。日本国憲法上の(明文規定上の)「行政」に関する諸規定が示す、<行政に関する憲法原理>
 概念上、憲法と行政法は相互に排他的ではない。法学上の説明にはしばしばこういうのがあるが、憲法(典)の中にも<実質的意味での行政法>はある。この第一は、このことをおそらくは前提とする。
 第二。日本国憲法施行と同時に、またはその後1949年春頃までに制定(または改正)された、諸行政関係法律が有している、もしくは担っている、あるいは基礎にしている「基本原理」
 これを明らかにするためには簡単には戦後(正確には日本国憲法施行後)の行政関係立法の内容(とくに前憲法下との違い)をフォローしなければならない。子細・詳細ではないにしても、上の田中二郎著もこれを行っているだろう。
 第三。上の二つもふまえた、今後に行政関係法制を整備・改正していくための基本的な方向を示すための<基本原理>
 しかして、かりにこうだとして、かつまた1949年ないしその後数年に限ったとして、<行政法の基本原理>は誰の、どんな異論を受け付けないほどの<適正>なものとして、きちんと「把握」され得るものなのか?(だったのか?)。
 これはむろん、田中二郎の直接には1949年著による「把握」の適正さに論理的にはかかわる。
 しかしてさらに、「(法)原理」の「把握」とはいったい何のことか?
 また、その「把握」の「適正さ」の有無や程度は、いったいどのようにして<評価>され、あるいは<論証>されるのか?
 こうした論点には、純粋「文学」畑の幼稚な論者たちがおそらくは全く想定しておらず一片も理解することのできない、あるいは法学者ですら無自覚であることがあるかもしれない、<法学(的)>議論の特性、があるように見える。

2211/塩野宏・行政法Ⅰ・行政法総論(有斐閣,第6版2015)。

 塩野宏・行政法Ⅰ・行政法総論(有斐閣、初版1991・6版2015)。
 この中に、「行政スタイル」についての、つぎのような叙述がある。
 第6版、p.390以下。第二部・行政上の一般的制度/第5章・「行政情報管理」の中の第3節・「補論」。
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 ・ここで「行政スタイル」とは「行政が私人との関係において行政を遂行する実際上のあり方」といい得る。
 各国にそれぞれの「行政上の法制度」があるように、それぞれの「行政スタイル」がある。
 「法制度」と「行政スタイル」が照応していない、というのも「一つのあり方」だ。
 日本の「行政スタイル」の態様を「厳密に規定する」のは困難だが、「ごく大まかには」、「次のような特徴を備えている」と言えるだろう。
 ・「①」。まず、「行政指導の活用」だ。全行政過程で用いられている。
 「申請-処分の場合」は「申請に至る前段階で」行政指導がなされ(「事前指導」)、これに従った「申請書」だけを「受理」することが「よく行われる」。その間に「返戻」が反復されることもある。
 私人の「違法行為」について行政が「監督上の権限」もつ場合でも、直ちに発動することなく「勧告、警告等のよりマイルドな手法」が用いられる。
 「法律上の監督権限や規制権限がないとき」も、「適切な行政指導」がむしろ要請されることもある。
 ・「②」。日本では「相手方との一定のコンセンサスの下に行政がなされていく」。行政指導は形式上は一方的行為だが、「実務上には」「相手方との交渉の余地を残していることが多い」。交渉結果は「契約ないし申合わせ」ではなく「行政指導という形でまとめられる」。
 ・「③」。かりに不本意でも「一応、相手方の納得」があると、紛争が裁判所に持ち込まれ」ない。日本の「行政訴訟の数は欧米諸国に比較すると極めて小さい」。
 日本の裁判そのものに関係するが、日本の「行政のあり方にもよるものと解される」。
 これに対応して、行政は「訴訟の提起を予想せずになされる」。「行政部内における文書管理が必ずしも十分に整理されていない」こともこれと関係があるだろう。
 ・「④」。このような「行政スタイル」のもとでは、「行政過程は、…、とりわけ局外にある者にとっては不透明である」。「基準」が公表されることもあるが、当事者間でも「文書」によらず、従って「記録として残されていないことも多い」。
 ・「インフォーマルな形式」の行政はどの国にもあって、「複雑な現代の行政需要」に対応するには「必要なこと」だ。しかし、日本では、「インフォーマルな行政活動の比重が極めて大きい」。また、相手方私人・私企業も、「かかる方式になじんできた」。
 ・日本の「行政スタイル」を「一概に前近代的であるとか、パターナリズムの現れであると批判することはできない」。
 「現代行政に必要な柔軟性、機敏性もみられる」。しかし、これに頼りすぎると、相手方だけでなく「国民一般の信頼を失い、紛争をこじらせる」だろう。「行政スタイルも変化していかなければならない」。
 ・行政手続法制、情報公開法制、行政機関個人情報保護法制はそれぞれ、憲法上の根拠・法体系上の位置づけ・具体的機能が異なる。
 「しかし、これらは、…日本の行政スタイルに対して、それぞれの仕方において、変革を迫るものであることに注意しなければならない」。
 ***
 秋月瑛二にはとくに珍しくもない指摘であり、文章だ。しかし、さしあたりはつぎの点で興味深いものがある。
 第一。行政を含む日本「社会」のとくに欧米と比べての遅れ、前近代性は、戦後早くの川島武宜の研究?にも見られるように、しばしば指摘されてきた。ある程度は、明治維新=「近代」革命ではなく、半封建的絶対王制の確立といった、「講座派」ないし日本共産党的歴史観が反映されていたのかもしれない。
 しかし、そのような認識・理解の仕方は<法社会学>は別論として、「法解釈学」を中心とする大方の法学分野では共有する必要はなく、そういう次元での議論に関与しなくとも、大方の法学者たちは「仕事」を継続することができた(もっとも、潜在意識または基礎的感覚として、「進歩的」・「民主的」法学者には重要な意味と機能をもったかも知れない)。
 だが、上の塩野宏の叙述は、行政法学という「法解釈学」を中心とする法学分野の教科書・概説書であるにもかかわらず、「行政スタイル」という観点から、上の論点に立ち入っている。
 もちろん、行政法学のみならず他の「法解釈学」を中心とする大方の法学分野の教科書・概説書を全て見ているわけではないが、行政法学分野に限ったとしてすら、このような指摘または叙述自体が数少ない、あるいは稀少なものだろう。
 第二。単純に前近代的として批判しているのでも、「日本的」として是認しているのでもないことは上のとおりで、柔軟な思考がここでも垣間見える。
 しかしむしろ、「日本的」だとして称賛するのではなく、「変革」が必要である旨が強調されているとも読めることが-行政手続法や情報公開法と関連させてはいるが-、注目に値するだろう。
 第三。「わが国の行政スタイル」について、どのような観点または規準でもって、議論し考察すればよいのか。これはもちろん、法学分野の問題に限らないし、その中の行政法学に固有の問題でもない。
 「わが国」・「日本」という特定は、事の性質上(国民国家の成立ないし「日本」という一国家の存在を前提にすれば)当然だろう。
 上の塩野宏の叙述に出てくるのは、まずは「(行政に関する)法制度」とは必ずしも同一ではない、という当然だが至極重要で適切な前提だ(「インフォーマル」うんぬんも基本的にはこれにかかわる)。他に、「欧米諸国」との対比、「前近代」・「パターナリズム」とは一概には言えないこと、「(複雑な)現代」といった、基本的なタームや論述がある。
 また、「コンセンサス」・「納得」とか、「たとえ不本意なものではあっても」とか、「マイルドな手法」とかの語も出てくる。余計ながら、「こころ」・「意思」は、一部<文学>畑の無知な学者たちが想定している以上にはるかに、社会系学問分野では重要なのだ。
 私には特段の困難なく理解できる(意味・趣旨を判別できる)内容だが、これらを用いた叙述以上にどこまで詳細に書けるかというと、著者にもまた覚束ないところがおそらくあるだろう。
 行政指導についても、多数の判決例が別の箇所で言及されている。最高裁判決を含むそのような諸判決にも触れることなくして、上の主題を全て語ることは不可能だ。
 ***
 戦前からあったわけではないし、戦後すぐに定式化されたわけでもないが、1970年代には法学あるいは行政法学上は「行政指導」は一定の学術上の概念としても用いられてきたと見られる(のちに制定法律上の概念・言葉にもなる)。当然に、議論があり、判決例の蓄積もある。
 そのようなこと自体が広く国民一般、マスメディア従事者等にはほとんど知られていないこともまた、「日本的」かもしれない。
 法的拘束力の有無、一方的か「申請」が必要か、といった関心・観点すら乏しい、少なくとも不十分だ、というのが実態かもしれない。
 行政指導にも法律に根拠があるものとないものもある。法律上の(明文の)根拠がない場合、行政指導を行うことができるのは、憲法上の「行政権」に由来するのか、それとも大臣を含む個々の官署の行政組織法制上列挙されている「所掌事務」にもとづいているのか。
 法律上の(明文の)根拠がなくとも、行政指導に従わない私人(・民間企業)の名前を「公表」することができるのか。その「公表」は<制裁>(「不利益処分」?)か、それとも一般公共ないし国民・住民一般のための<情報提供>か。
 指導・要請と「指示」はどう違うのか。
 ……。……。
 

2204/松下祥子関係文書⑤ー2019年1月10日。

 松下祥子関係文書⑤-2019年1月10日。
 前注/職務上作成され行政運営のために供されたもので、「公文書」または「行政文書」に該当する。一部曖昧化している。
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 日ごろよりお世話になりありがとうございます。平成31年1月4日付け++および+++でご送付いただきました文書回答要請文書につきまして、下記のとおり回答いたします。
 平成31年1月10日
  ** 松下祥子
  記
 第一
 (1)現在審理中の29-++号事件、29-**号事件、29-..号事件について、事務局が作成して**部会の各委員にすでに配布させていただいている答申書案・たたき台につきましては、**の審議、答申書作成に悪影響を与えるとの御指摘がございましたので、事務局から回収させていただきます。

 (2)29-++号事件、29-**号事件、29-..号事件につきましては、事務局としては、審理員意見書の「理由」部分がほぼそのまま採用できると考え、ほぼそのまま書き写したうえで、「要旨」となることを意図して作成いたしました。従いまして、審理員意見書の理由部分を「要旨」とする表現に間違いないと昨年11月の時点では考え、11月22日の夕方、「これは要旨です」と発言いたしました。
 しかし、**ご指摘の通り、事務局作成答申書案・たたき台の「審理員意見書の要旨」と審理員意見書の「理由」部分を対比させますと、ほぼ丸写しであることは事実でございますので、**「要旨とはいえない」とのご指摘はごもっともであると理解するに至りました。
 その後、御連絡をさせていただくタイミングが12月18日になってしまった(私の上司であるA次長とお会いいただくことが最善と考えておりました)ため、1か月を要した次第です。
 私が11月22日に「要旨である」と主張したこと、その後すぐに訂正し**ご連絡しなかったこと、またそれらのことで**に大変御不快な思いをさせてしまったことに対しましてまことに心よりお詫び申し上げます。

 第二
 (1)
 ①担当者が検査方法を審査庁に尋ねたのは事実です。「『あ』と聞こえてきたら文字の書いてあるものを指差すような検査らしい」という説明でした。
 ②平成30年1月24日です。(諮問書が審査庁から事務局に持ち込まれた日)

 (2)
 ①担当者がインターネットで検索して探し当て、印刷したものを所持していたのは事実です。
 ②平成30年1月25日から1月30日の間です。
 ③担当者は、本検査がどのようなものであるかのイメージをつかむことが目的でしたので、資料の作成時期については考慮しませんでした。
 ④審査庁職員から、インターネットに資料が載っている等の示唆・教示等はいっさいありませんでした。

 (3)
 ①11月9日の部会より前に資料の存在を「見て、知っていた」のは事実です。
 ②最初に説明を受けたのは、平成30年1月31日、**開催(平成30年2月5日)前の打ち合わせ時です。
 ③最初に説明を受けた日と、初めて「見て、知った」日は同じです。
 ④最初に説明を受けた日と、初めて「見て、知った」日は平成30年1月31日であり、資料はその後担当者だけが所有していました。

 (4)
 ①11月9日の「部会前の打合わせ」に参加していたのは、私以外に、*、近藤課長補佐、T総括主査です。
 ②私以外に、*、近藤課長補佐、T総括主査の4名です。知った時期は、近藤課長補佐は平成30年1月25日から1月30日の間、私は平成30年1月31日、*およびT総括主査は平成30年4月です。
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2197/松下祥子関係文書④-2018年11月27日。


 松下祥子関係文書④。
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 論点2/2018年11月9日**部会にかかる「当該文書」の入手方法等々に関する松下課長の説明は誠実で正直なものか。*-きわめて不思議な点がある。
 前注/2018年11月27日に事務局を通じて他委員に送信された<連絡等>文書の一部。「」はそのままの引用。
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 「本年11月9日(金)」の「部会の審議中に近藤課長補佐によって配布された、正確には我々のテーブル上に置かれた文書(以下、当該文書)について、11月22日(木)の夕方、***行政不服審査会事務局(法務課長)・松下祥子氏から、つぎのように理解することができる説明を受けました」。「当該文書には下部に『9』という数字が頁番号としてスタンプされて(そしてコピーされて)」いましたが、「『5』という数字が下部にある文書(以下にいう「表紙」)が私に手交され、私は現在保持しております」。「1」~「4」および「10」以降の内容は不明。
 ①当該文書は「平成15年(2003年)1月10日付の厚労省担当部長から都道府県主管部長等あての「身体障害者障害程度等級の解説(身体障害認定基準)について」と題する文書を含む一連の文書のうちの一部・一枚」である。この表題等の記載された文書(以下、「表紙」)の下部におそらく頁番号として「5」のスタンプ押しがある。
 ②「『表紙』には左上に<写>という丸囲みのスタンプ印が、右上に「肝機能障害の評価に関する検討会(第1回)/平成20年10月27日/資料4③」という記載のスタンプの押印かワープロ作成の罫線表の印刷がなされている。」
 ③「当該文書は、平成30年になって案件<29-44>が**部会に諮問されて以降に、近藤課長補佐がネット上で見つけて、印刷したものである(「表紙」も同時にであったかどうかについては、質問もせず、積極的な説明もなし)。」
 ④「松下課長は近藤課長補佐印刷にかかる当該文書の存在をいつかの時点以降に『見て』知っており、第二部会の審理に『参考になる』と感じていたが、同課長自身は11月9日(金)の部会中に所持してはおらず、(おそらく11月22日の)『二、三日前』に所持する(自らのファイルに写しを挿入する)にいたった。」
 ⑤「当該文書が11月9日(金)の部会中にテーブルに置かれたのは、部会委員に文書として提示・配布する」のではなく「『見せる』ためだったので、委員三人分の三枚は用意しなかった。」
 ⑥当該文書が部会中にテーブルに置かれたのは松下課長の指示によるものではないが、同「課長はそのような行動をすることを職員の自発的な判断に委ねていたので、当日も許容したし、現在も許容している」。
 ⑦「松下課長は、当該文書の作成者・作成年・出典等が不明確で部会としての正規の証拠文書・参考資料として扱うことに問題があるということを、11月12日(月)午前には***行政不服審査会事務局職員が読める状態になっていた部会長・**からのメールによって気づいた。」
 (注<略>
 ⑧「『表紙』の***への手交により当該文書と併せて正規の証拠文書として欲しい旨の意向」は「少なくとも明示的には」なかった。また、この「表紙」が部会審理中に「見せられ」なかったのかの理由等は質問せず、「積極的な説明はなかった。」
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 後注(上記文書に付された文書(一部は割愛))。
 以上の①~⑧はすべて「つぎのように理解することができる説明」として記したもの。
 1.⑦は松下課長の注意不足または職責に照らしての能力不足を示唆する。
 2.これらが全て「本当の」ことだとすると、松下課長は、部会審理の「参考」になる文書を一枚だけ委員たちに「見せて」、それで審理・結論の方向に影響を与えてよい、のちにきちんと出所等を確認して報告しかつ全委員に当該文書を送付する手続きは必要がない、と少なくとも11月12日までは考えていたことになる。これも、注意不足または職責に照らしての能力不足を示唆する。
 3.上のうち③~⑥、とりわけ③・④は奇妙な又は不思議な説明であって、にわかには信用できない。
 なぜなら、第一に2015年の国の会議での、かつ(写)等のスタンプつき文書を「表紙」とする文書がネット上に公開されていたとは相当に信憑性を欠く(11月22日時点でネット上に掲載されているとの報告もなかった)。
 第二に、松下課長等が当該文書の存在を「見て」知っていたが、写し等を11月9日に手元に所持していなかったとするのも、きわめて不思議である。
 つまり、どこかに「ウソ」がある。なぜ、そのような虚偽の説明をしたのか。

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 以上。

2190/松下祥子関係文書③-2018年05月。

 松下祥子関係文書③。
 2018年12月作成・送付文書に添付された文書による/原文は2018年05月。
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 前注1/第一と第二の違いは以下。
 第二文書は、近藤富美子が作成し松下祥子が了承して「公式に」提出されたもの。
 ①原文書では1(1)・(2)、2・(1)・(2)、3であるの対して、第二文書では、(1)ア・イ、(2)ア・イ、である。
 ②原文書の3の二行が、第二文書では割愛されている。
 ③それぞれの冒頭近くが、つぎのように異なる。
 ・原文書/
 …とされ、施行令第1条第3項で「障害の状態は、別表第三に定めるとおりとする。」と規定されている。
 「認定基準」の「第2節/聴覚の障害」では、2級は「両耳の聴力レベルが90デシベル以上のもの」または「身体の機能の障害が前各号と同程度以上と認められる状態であって、日常生活が著しい制限を受けるか、又は日常生活に著しい制限を加えることを必要とする程度のもの」とされ、…。
 ・第二文書/
 …とされ、特別児童扶養手当等の支給に関する法律施行令(昭和50年政令第207号。以下「施行令」という。)第1条第3項で『障害の状態は、別表第三に定めるとおりとする。』と規定されている。
 「施行令別表第3における障害の認定について」(昭和50年9月5日付け児発第576号厚生省児童家庭局長通知。以下「認定要領」という。)の別添1「特別児童扶養手当障害程度認定基準」(以下「認定基準」という。)の「第2節/聴覚の障害」では、2級は「両耳の聴力レベルが90デシベル以上のもの」または「身体の機能の障害が前各号と同程度以上と認められる状態であって、日常生活が著しい制限を受けるか、又は日常生活に著しい制限を加えることを必要とする程度のもの」とされ、…。
 前注2/松下祥子の2018年11月22日の「発言」。
 (要旨とは言えない、そのまま丸写しでないか、との指摘に対して、つぎだけ)
 ①「『そのまま丸写しならば要旨とは言えない』と先日は言っただけです」。
 ②(第二文書は)「少し詳しくなっているところもあります」。

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 論点1/以下の第二は以下の第一の「要旨」と言えるか(「要旨」と理解できるか)。**松下課長-言える。*-言えない。

 第一 審理員意見書(第4・理由)
 1 本件に係る法令等の規定について
 (1)手当においては、まず法第2条第1項で「障害児」の定義があり、同条第5項で「各級の障害の状態は、政令で定める」とされ、施行令第1条第3項で「障害の状態は、別表第三に定めるとおりとする。」と規定されている。
 (2)「認定基準」の「第2節/聴覚の障害」では、2級は「両耳の聴力レベルが90デシベル以上のもの」または「身体の機能の障害が前各号と同程度以上と認められる状態であって、日常生活が著しい制限を受けるか、又は日常生活に著しい制限を加えることを必要とする程度のもの」とされ、後者について、具体的には、「両耳の平均純音聴力レベル値が80デシベル以上で、かつ、最良語音明瞭度が30%以下のもの」とされており、別添2では診断書の様式も定められている。
 2 本件処分が、法令等が求める要件に該当するかについて
 (1)審査請求人が有期再認定請求の際に処分庁に提出した診断書において、⑩障害の状態(1)聴覚の障害で聴力レベルは「右 103.8dB 左 80dB」と記載され、最良語音明瞭度については記載がない。本件診断書の内容を2級の認定基準である「両耳の聴力レベルが90デシベル以上のもの」または「身体の機能の障害が前各号と同程度以上と認められる状態であって、日常生活が著しい制限を受けるか、又は日常生活に著しい制限を加えることを必要とする程度のもの」と照らし合わせると、本件児童は⑩障害の状態(1)聴覚の障害において「左 80dB」とあることから、2級の認定基準の前者には該当しない。
 また、2級の認定基準の後者について、具体的には「両耳の平均純音聴力レベル値が80デシベル以上で、かつ、最良語音明瞭度が30%以下のもの」とされており、本件診断書において、両耳の平均純音聴力レベル値は80デシベル以上であるが、最良語音明瞭度については記載がない。最良語音明瞭度については、処分庁の提出書類である、「<別紙1>診断書判定について」によると、「本件児童の年齢(3歳)では成長に差があり、検査ができていないとしても不思議ではないことから、本検査欄に記載がないことは診断書の不備とは言えないと解している。」とあることから、本件診断書の記載内容をもって判断すると、2級の認定基準に該当しているとは言えない。
 (2)審査請求人は審査請求書において、本件児童及び審査請求人の生活状態等について述べ、「左耳は88dbでたった2dbの事なのです。」との記載があるが、本件診断書においては「左 80db」であり、本件児童の障害の状態は2級の認定基準を満たしておらず、本件診断書をもって判定医の審査判定に基づいた本件児童の障害の状態が施行令別表第3に定める障害等級の2級に該当しないとして行った本件処分は、違法又は不当なものであるということはできない。
 3 上記以外の違法性または不当性について
  他に本件処分に違法又は不当な点は認められない。
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 第二/事務局作成答申案で審理員意見書の理由の「要旨」とされているもの。
 (1)本件に係る法令等の規定について
 ア 特別児童扶養手当(以下「手当」という。)においては、まず法第2条第1項で「障害児」の定義があり、同条第5項で「各級の障害の状態は、政令で定める」とされ、特別児童扶養手当等の支給に関する法律施行令(昭和50年政令第207号。以下「施行令」という。)第1条第3項で「障害の状態は、別表第三に定めるとおりとする。」と規定されている。
 イ 「施行令別表第3における障害の認定について」(昭和50年9月5日付け児発第576号厚生省児童家庭局長通知。以下「認定要領」という。)の別添1「特別児童扶養手当障害程度認定基準」(以下「認定基準」という。)の「第2節/聴覚の障害」では、2級は「両耳の聴力レベルが90デシベル以上のもの」または「身体の機能の障害が前各号と同程度以上と認められる状態であって、日常生活が著しい制限を受けるか、又は日常生活に著しい制限を加えることを必要とする程度のもの」とされ、後者について、具体的には、「両耳の平均純音聴力レベル値が80デシベル以上で、かつ、最良語音明瞭度が30%以下のもの」とされており、別添2では診断書の様式も定められている。
 (2)本件処分が、法令等が求める要件に該当するかについて
 ア 審査請求人が有期再認定請求の際に処分庁に提出した平成28年12月21日付け診断書(以下「本件診断書」という。)において、⑩障害の状態(1)聴覚の障害で聴力レベルは「右 103.8dB 左 80dB」と記載され、最良語音明瞭度については記載がない。本件診断書の内容を2級の認定基準である「両耳の聴力レベルが90デシベル以上のもの」(以下「前者」という。)または「身体の機能の障害が前各号と同程度以上と認められる状態であって、日常生活が著しい制限を受けるか、又は日常生活に著しい制限を加えることを必要とする程度のもの」(以下「後者」という。)と照らし合わせると、本件児童は⑩障害の状態(1)聴覚の障害において「左 80dB」とあることから、2級の認定基準の前者には該当しない。
 また、2級の認定基準の後者について、具体的には「両耳の平均純音聴力レベル値が80デシベル以上で、かつ、最良語音明瞭度が30%以下のもの」と規定されており、本件診断書において、両耳の平均純音聴力レベル値は80デシベル以上であるが、最良語音明瞭度については記載がない。最良語音明瞭度については、処分庁の提出書類である、「<別紙1>診断書判定について」によると、「本件児童の年齢(3歳)では成長に差があり、検査ができていないとしても不思議ではないことから、本検査欄に記載がないことは診断書の不備とは言えないと解している。」とあることから、本件診断書の記載内容をもって判断すると、2級の認定基準に該当しているとは言えない。
 イ  審査請求人は審査請求書において、本件児童及び審査請求人の生活状態等について述べ、「左耳は88dbでたった2dbの事なのです。」との記載があるが、本件診断書においては「左 80db」であり、本件児童の障害の状態は2級の認定基準を満たしておらず、本件診断書をもって判定医の審査判定に基づいた本件児童の障害の状態が施行令別表第3に定める障害等級の2級に該当しないとして行った本件処分は、違法又は不当なものであるということはできない。
 他に本件処分に違法又は不当な点は認められない。
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 以上。

2183/松下祥子関係文書②-2019年1月23日。

 松下祥子関係文書②-2019年1月23日。
 〔一部、この欄用に曖昧化している。全体はA4用紙2枚で印刷され、空行がある。〕
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 第×部会に関する報告と若干の問題提起〔口頭報告のレジュメ〕
               2019年1月23日 第×部会々長
 はじめに
 12/14第×部会不開催/12/05次長宛て明記の理由は、*1)と*2)。
 *1)で十分として口頭発言して11/22退席。他にも「不信」の理由はあった。

 一 事務局作成の「答申案」のでき具合。
  ①答申案中の審理員意見書の「要旨」*1)-ほぼ丸写しで「要旨」でない。
  法務課長01/10「11/22に『要旨』であると主張したこと、その後すぐに訂正し…御連絡しなかったこと、またそれらのことで**部会長に大変御不快な思いをさせいしまったことに対しまして心よりお詫び申し上げます」。cf. 12/28
  ②関係規定-無確認・不正確あり。
  ③答申案中の本案判断の「理由」-独自性なし。
  cf.法務課長11/22回答文書「僭越ですが、少しでも負担を軽くと…」
  <実際には、審理員意見書+α程度では、むしろ邪魔>
  二答申ともに**が<ゼロから>書き改めている。

 二 部会審理と事務局の役割(・行動)。
   11/09文書の提示の経緯
 昨年01/25-30に(法務課長回答1/10)ネットから印刷し一人しか所持せず。
 但し、「存在」だけは法務課長はずっと既知。
 11/09に部会に初めて「提示」(このときも一人だけ所持)。-3月、10月には?
  cf.法務課長11/22発言「部会への提示等は、自主的判断に任せていた」。
  どこかに「ウソ」がある。*2) ・審査庁との関係
  T主査11/20頃(なぜ出所等の連絡ない?→)「いま審査庁に問い合わせ中でして」。
   一般論
  審理中の、事務局からの(事前了解なしの)資料提出の可否。
  cf. 総務次長01/11発言「そもそもあり得ないこと。それ自体が問題」。?

 三 諮問書(資料含む)のでき具合。
  ①関係規定の提示の仕方・正確さ、②審理員意見書の判断理由、等々。
  ①につき法務課長11/09-「丁寧さを欠く」ことを承認。
  同11/22「決裁済みで変更できない」。
  事務局が関係規定(整理表)を改めて作成できないのか? *3)

 四 部会長の部会(・会)との関係・区別。
  ①原則として部会長の意思は部会の意思ではない。
  ②部会長は部会委員の意思を拘束せず。配布されている答申案文書の処置も。
 法務課長11/22「部会長からの指示がないから(しなかったの)です!」。*4)
  同01/10三事件に関する事務局答申案は「事務局から回収させていただきます」。

 五 その他-○○○の行政不服審査体制。
 ①処分庁弁明書までの期間。8カ月?
  ②審理員意見書までの期間。弁明書-反論の反復、年度末の帳尻合わせ?
  ③諮問までの期間。
 ①原処分庁担当者の資質、
  ②審理員担当者の資質-指名の仕方、
  ③上の二者の<非分離>?、同じ局・課の中の課長補佐どおしが①と②。
 -とくに審理員担当者の行政不服審査法・行政手続法等の無知。
   (○○○行政不服審査会の事務局体制?)
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2176/松下祥子関係文書①-2019年03月20日。

 松下祥子関係資料①。

 退 任 届 /2019年(平成31年)3月20日
 記
 以下に記載の理由により、任期途中ですが、2019年(平成31年)3月19日をもって、***行政不服審査会委員を退任する旨を、真摯かつ明確に意思表示いたします。
 事後処理等を、どうぞよろしくおとりはからい下さい。
 第一。松下祥子・総務部法務課長の、例えば昨年11月以降に「ウソ」を含む文書回答を行った等々の、審査会(同部会を含む)の事務運営にかかる、「人間的感情」を持っていることをも疑問視させるひどさ・拙劣さ。
 第二。阿児和成・総務部次長の、例えば本年1月に見られた、「かたちだけ」詫びつつ部下と「組織」を守ろうとし、当委員の主張や当委員が知って理解している「事情」を可能ながり訊こうともしない姿勢。
 第三。近藤富美子・***総務部法務課課長補佐の、基礎的な「法」的素養と「法」的文書作成能力の欠如。
 第四。***福祉部子ども室家庭支援課(貸付・手当グループ)職員(課長を含む)に見られる、行政不服審査法および行政手続法に関する基礎的「法」的知識・素養の欠如。
 以上。
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2097/松下祥子・阿児和成・近藤富美子④。

 奇妙で不思議なことはあるものだ。「桜を見る会」問題から
  ①「内閣総理大臣・安倍晋三」の名で招待状を発送しておきながら、<最終的なとりまとめには関与していません>という釈明が可能であるはずはないだろう。
 安倍晋三なのか内閣府か等の問題は、いわば「内部」問題で、主催者・招待者が内閣総理大臣・安倍晋三であるかぎり、安倍に全面的な「責任」の所在があることは当たり前のことだろう。組織・機関・個人(政治家個人)の意識的な混同でもって逃げているのだろう。
 ②野党議員または国会による招待者名簿の公開または提出要求に対する、<個人情報>だからという理由づけは、むちゃくちゃで、一体誰が考えだしたのか。
 <個人情報>該当性を理由にして提出・公開ができないとすれば、<春・秋の叙勲>者たちの氏名は、どうして新聞にも細かく出て報道されるのだろうか。内閣府褒賞局が、データ(名簿一覧)を積極的にマスコミに提供しているからだろう。
 しかも、現在の<叙勲>は「数字による等級づけ」はしなくなっているのかもしれないが(未確認)、何がしかの分類・評価づけはしているだろう。そのような情報提供によって他者と比べての不満・不快感を中には感じる人もいるだろうが、全員から、新聞発表についての個別の「同意」を得ているのか。
 ③さらによく分からないのは、行政機関情報公開法を引き合いに出して、一方では開示請求の対象となる「行政文書」性がないとかの議論をしながら、同情報公開法には<個人情報であれば全て開示しないことができる(開示してはならない)> という旨の規定など、どこにもないということだ。開示することによる「公益」と比較考量をすることを前提としている。要するに、<個人情報>だからというだけでは、公開しない<天下の御旗>には全くならない。
 一方で法律を細かく解釈するようなことをしながら、一方ではズルズルだ。このアンバランスは不思議でしようがない。
 <現用組織共用文書>ではない旨の、法律上は唱え得る主張も、苦しい。存在しているかぎりは、実際上アクセス可能者が限られるとしても、<現用組織共用文書>ではあって、「行政文書」だろう。もっとも、「存在しない」となると、かつそれが事実だとすると、どうしようもないかもしれない。
 存在してはじめて、開示請求の対象になる。しかし、「存在する」ことの立証・証明は申し立て側に、強制的立入・調査権でも認めないと、ほぼ困難だ。
 ④ついでに書くと、国会・野党議員の<提出・公開>要求への応じ方を、行政機関情報公開法の条項を手がかりとして論じる、というのにも違和感が残る。
 国民による法的請求に対する対応の仕方と国会に対する政治的・行政的対応の仕方は、同じである必要はないのでないか。つまり、例えば、「個人情報」の観点から問題があるというならば、一部については国会議員は自分たちだけの「秘密」にして、マスコミには氏名等々は発表しないということもあり得るだろう。

 安倍晋三首相が早々に来年度の「桜を見る会」中止を決定し、選考基準等の「見直し」・「改革」をすると発表した。
 面白いと思うのは、<今後、改革する>と強調することによって、現に発生している、または発生した問題の「責任」の所在・問題点を可能なかぎり不問にしようとしていることだ。
 こういう対応の仕方は、消費者から正当なクレームを受けた民間企業でもあるだろうが、国や地方公共団体(地方自治体)の通常の行政の過程でもある。
 問題の所在が指摘されたとき、いったい誰のどういう言動に問題があったかを特定して説明することなく、ともかくも「詫びて」、場合によっては「深く頭を下げる挙措」を芝居がかってすることによって「詫びて」、それで過去の問題はなくなったことにする。
 あとは「今後の問題」で、ときには、改革する、改善するとすでにたくさん言ったではないか、それ以上の何の文句があるのか!と<逆ギレ>して、問題提起者とケンカしようとする。
 繰り返せば、いったい誰のどういう言動に問題があったかを曖昧にし、そのような関係関係公務員にはどういう<責任>を取らせるのかを全く曖昧にしたままでだ。
 このようなことが、今回の安倍晋三首相・内閣府関係でも行われているようで、すこぶる興味深い。

  「桜を見る会」問題に関連して、JBpress のサイト上で、伊東乾は厳しい立場に立つ。
 2019.11.22付「民主主義を知らない『桜を見る会』擁護者」-「現在の内閣が本件を契機に終焉を告げる可能性が高いと思います」。
 2019.12.03付「ついに疑獄へ発展『桜を見る会』」-「実際、進んでも退いてもこの政権はもたないことが、いまやまともにものを見る大人の目には明らかで、…事態はいまや『桜を見る会』疑獄事件と呼ぶべき段階に到達してしまいました」。
 2019.12.05付「なぜ官僚は嘘の見え透いた言い訳に終始するのか?」。
 郷原信郎によると、安倍首相は<もう詰んだ>らしい→2019.11.28 付/HUFFPOST。
 こうした意見が公にされるのはよいことだ。
 それにしても、伊東乾は物理学と音楽が専門とは。パリのノートルダム寺院の構造が音響・音楽に関係していたとかのかなり前の話題提供には驚き、感心した。また別の機会に。

2062/松下祥子・阿児和成・近藤富美子③。

 前回№2043/2019年09月16日付に「要旨」という語は法律用語ではないと記述したが、法令で用いられている概念ではない、という趣旨であるとすると、誤りだ。
 行政不服審査法50条第1項は、こう定める。
 「裁決は、次に掲げる事項を記載し、審査庁が記名押印した裁決書によりしなければならない。
 一 主文
 二 事案の概要
 三 審理関係人の主張の要旨
 四 理由(<中略>を含む。)」
 他にも、何らかの文書について、その「要旨」の記載や公表を求める法令上の条項がある。
 しかし、「この法律(や政令等)において、要旨とは…をいう」などといった定義規定はおそらく間違いなく存在しないので、前回に記したように、「要旨」の語意は、「結局は、健全な適切な<社会的感覚>または<社会的常識>で判断するしかない」。
 そして、常識的な日本語の用法からして、例えば元の文書・文章よりも<長く>なっている文書・文章は、前者の「要旨」だとは言えないだろう,と書いたのだった。
 上に引用の条項によると、「裁決」なるものには「審理関係人の主張の要旨」を記載しなければならない。
 これはいわば必要的記載事項だから、これを欠く、または「要旨」ではない文章を記載している「裁決」は、瑕疵あるものになるだろう。
 但し、行政不服審査(行政不服申立)制度やそこでの「裁決」の意味・位置づけ等にはここでは立ち入らない。行政事件訴訟法3条2項によると、同法上の「取消訴訟」には「処分」についてのそれと「裁決」についてのそれがあるようなのだが。
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 G・トノーニら/花本知子訳・意識はいつ生まれるのか-脳の謎に挑む統合情報理論(亜紀書房、2015)、p.78に、つぎのような文章がある。
 「脳に損傷を受けた患者に意志に基づく身動きが見られるならば、確かに意識があるといえる」。しかし、「身動きがまったく見られない場合でも、意識がある可能性がないとはいえない」。
 相当に幼稚な叙述になるが、上の文章は、単純にはつぎのことを意味することが容易に分かる。
 Aであれば、Bといえる。しかし、Aでなければ、Bでない、ということにはならない。
 そして、ここでG・トノーニらが問題にしているのは「意識」があると言えるか否か、であることも明らかだろう。彼らは、「意識」の有無に関心があるのだ。
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 幼稚な叙述を続けるが、「要旨」という語を使って、つぎの文章があると想定してみよう。
 ①A文章と<まったく(ほとんど)同じ>だから、B文章はAの<「要旨」とは言えない>。
 このような主張・指摘に対して、某行政担当者で法規・文書関係の責任者(知事または市長の「専決」権をもつ者)は、つぎのように反論・釈明または主張をしたらしい。
 ②<まったく(ほとんど)同じ>ではなく、<少し異なっているし、少し詳しくなっている部分もある。>
 分量的には、B文章の方がA文章よりも<少し長い>か<ほとんど同じ>であることを、この話題は前提にしている。
 しかし、上の②を述べることによって、この人物は、<BはAの「要旨」とは言えない、ということにはならない>、という趣旨を述べたつもりだったらしい。G・トノーニらの場合に問題は「意識」の存否であつたのと同様に、この場合の問題は<BはAの「要旨」と言えるか>だったのだから、厳密にはまたは論理的には同一ではないとしても、上の②を述べることは、まるで<BはAの「要旨」だと言える>というに等しいだろう。
 幼稚で、馬鹿らしい話だ。
 この人物は、<BはAの「要旨」とは言えない、ということにはならない>と明言しただけで、その後自らは何もせず、何の反応もしなかったらしい。
 そして、この人物が、上にいうB文章はA文章の「要旨」であるとは言えない、ということを公式に?肯定したのは、一ヶ月半のち、つまり約6週間後だった、とされている。
 ここまでをまとめると、<まったく(ほとんど)同じ>だからB文章はA文章の「要旨」ではない、というのが主旨である主張・指摘に対して、この人物は、B文章はA文章と<まったく(ほとんど)同じ>ではなく<少し異なっているし、少し詳しくなつていいる部分もある>といったん明確に回答した。そののち、ひょっとすれば両者の文書をきちんと比較して読んでみたのか、一ヶ月半、約6週間後になってようやく?、上にいうB文章はA文章の「要旨」であるとは言えない、と認めた、というのだ。
 いったいなぜ、こんなことが生じるのだろうか。
 じつに興味深い。人間というものの意識・発言・行動について、考えさせられる。
 人間個人(自然人)といっても様々だ。組織・団体に帰属している場合、そしてその帰属によって<食って生きている>場合、自分の身を守るために、あるいは自分の身の安全を図るために、その組織・団体との関係で、あるいはその組織・団体のために、その人間個人はどう振る舞うのか。
 (つづく)

2043/松下祥子・阿児和成・近藤富美子②。

 恐るべき「行政」、行政担当者、の実態がある。
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 行政機関情報公開法(平成11年法律42号。略称)は「行政文書」をこう定義している。
 第2条第2項本文「この法律において『行政文書』とは、行政機関の職員が職務上作成し、又は取得した文書、図画及び電磁的記録(電子的方式、磁気的方式その他人の知覚によっては認識することができない方式で作られた記録をいう。以下同じ。)であって、当該行政機関の職員が組織的に用いるものとして、当該行政機関が保有しているものをいう。ただし、次に掲げるものを除く。」
 「行政文書」なるものには地図・写真や「電磁的記録」も含む、というのがこの定義の仕方のミソだ。その際、「電磁的記録」も必ずしも一般的用語でないかもしれないが、それを「…その他人の知覚によっては認識することができない方式で作られた記録」と定義して、「知覚」・「認識」をいわば法律用語または法的概念として用いている。
 しかして、「知覚」や「認識」という行為が厳密に何を意味するかのさらに厳密な定義はない。
 ここでの「知覚」や「認識」という語法は私の何となくのこれらの語の理解の仕方に近いので、違和感はない。しかし、哲学的には?、あるいは脳神経生理学的には?、当然にこれらの正確な意味が問題になるはずだ。類似語に、「意識」、「感知」、「認知」、「理解」などがある。
 しかし、そのような言葉の厳密化を循環させるとキリがないので、法律用語としては、または「電磁的記録」をさらに定義する際に使う言葉としては、ギリギリ「知覚」と「認識」でとどめた、ということだろう。法律の適用・運用としては、この程度でおそらく十分なのだ。あとは健全で適切な<社会的感覚>または<社会的常識>に委ねている、ということだろう。
 ついでに、上の法律が「開示」を義務づけられない情報類型の一つとして定めるいわゆる「個人情報」(にかかる行政文書)の原則的・一般的な定義はつぎのとおりだ。
 第5条本文<略>
 同条第1号本文「個人に関する情報(<中略>を除く。)であって、当該情報に含まれる氏名、生年月日その他の記述等(文書、図画若しくは電磁的記録に記載され、若しくは記録され、又は音声、動作その他の方法を用いて表された一切の事項をいう。<以下略>)により特定の個人を識別することができるもの(他の情報と照合することにより、特定の個人を識別することができることとなるものを含む。)又は特定の個人を識別することはできないが、公にすることにより、なお個人の権利利益を害するおそれがあるもの。ただし、次に掲げる情報を除く。」
 ここでは「記述等」が原則的には「…に記載され、若しくは記録され、又は音声、動作その他の方法を用いて表された一切の事項」とされ、「等」が曖昧なまま「一切の事項」に包み込まれているとともに、「記載」・「記録」・「音声、動作その他の方法を用いて表された」もの、というこれら自体がなおも曖昧さを残した規定の仕方をしている。
 「記述」、「記載」、「記録」、「表された…」。これらは一体どう違うのか?
 文学的には(または文学趣味的には)、あるいは人間の「表現」にかかわる行為態様の分類という関心からは、さらに厳密な議論をすることが可能であるのかもしれない。
 しかし、<個人情報>を限定するための条文上の書きぶりとしては、上の程度で十分だろう、という判断を立法者は(そして法律案作成者は)したのだろう。
 あとは、健全で適切な<社会的感覚>または<社会的常識>に委ねているわけだ。
 同じことは、上の定めの中に出てくる、「照合」と「識別」についても言えるだろう。
 「識別」とは特定の個人の「識別」(英訳すると動詞はきっとidentify)を指しているのだから、きわめて重要な概念ではある。しかし、これをさらに詳細に記述することができない、またはそうしても実際上の意味がない、ということなのだろう。
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 <要旨>という言葉、概念がある。
 これは、法律用語、法的概念(または法学上の専門用語)ではないだろう。その意味では、一般的な、または日常的な用語であり、言葉、概念だ。
 もっとも、種々の判決例(を掲載した雑誌類)を見ていると、判決文自体の上下に<判旨>との注記があって、傍線(下線)と連動させていたり、判決文紹介の最初に、「判旨」とか「要旨」とか「判決要旨」とかと題されて、当該判決の<要旨>が記述されていることがある。
 また、例えば「原審判決の要旨」とか「この最高裁判決の要旨」とかは、裁判実務にかかわる情報の流通に際して、法学系論考の執筆や法学教育の場を含めて、かなりよく用いられるようでもある。
 しかし、ある判決の作成者(裁判官たち)が自らその判決の<要旨>なる文書をまとめることはないものと推測される。少なくとも、最高裁判所の判決については。
 下級審の判決であっても、その内容をメディア等に発表する場合に、その内容・「要旨」の作成は裁判官ではなく、裁判所の書記官が行っているのではなかろうか。
 よく知らないことが多いが、そうした文書を作成したり、注記を施すのは、当該判決の作成の過程にかかわった(最高裁の場合には)最高裁判所調査官であり、判決例を掲載する雑誌の編集者だったりするものと思われる(公的とされる雑誌・裁判例集の場合は、調査官・書記官が関与しているかもしれないが、民間の雑誌・裁判例集での判決例の「要旨」作成にまで携わっていないはずだ)。
 ともあれ、「要旨」は一般的・日常的な用語ではあるが、裁判や法的実務にかかわって、ある程度はよく使われている言葉かもしれない。
 だが、「要旨」とは、いったいどういう意味なのか。
 これは結局は、健全で適切な<社会的感覚>または<社会的常識>で判断するしかないと思われる。そして、各種「国語」辞典での意味記述・解説が、最も安直かもしれないが最も有力な手がかりになるだろう。
 とくに出典を明記しないが、<要旨>という語は様々に、しかし核心部分は一定して、その意味が説明されている。つぎのとおりだ。
 ①「主要な内容。あらまし。大要、サマリー。
 ②「述べられていることの主要な点。また、内容のあらまし。
 ③「講演・研究発表・論文などに述べられる(述べられた)事の、大事な部分を短くまとめたもの。
 ④「肝要な趣旨。大体の内容。
 ⑤「内容のあらまし、述べられているものの内容の主要な点を短くまとめたもの。
 国語辞典類に見られるこのような<要旨>という日本語の意味の説明のされ方からすると、健全で適切な<社会的感覚>または<社会的常識>と言ってよいものを前提とすれば、物理的・算術的な意味で、原文よりも<長く>なっている文章は、原文の<要旨>では、-あくまで通常はと丁寧に留保を付けておくが-あり得ない。
 だが、行政担当者の中に、しかも「法務」ないし「法規」関係の行政実務を担当している行政公務員の中に、上の意味で「あり得ない」言葉の用い方をする者、または そのような「あり得ない」言葉の用い方を擁護する者、あるいは少なくとも明示的にはそのような言葉遣いを何ら問題視しない者、がいるとなると、そもそも日本語の用い方に根本的な間違いがある点で、恐るべき「行政」、恐るべき行政担当者、の実態が存在する、と言えるだろう。さしあたりは、あくまで通常は、と丁寧に留保を付けておくが。
 憂うべきであるのは、決裁文書の<改竄>にとどまらない。
 (つづく)

2007/松下祥子・阿児和成・近藤富美子①。

 佐川宣寿(元財務省理財局長)に対する衆議院・参議院各予算委員会の「証人喚問」があったのは2018年(昨平成30年)3月末で、いわゆる決裁文書の改竄・書換えについて検察(大阪地検)が不起訴としたのは同年5月だった。まだ1年余しか経っていないが、この問題は(も?)今やすっかり忘れられているかもしれない。
 不起訴の報を受けて野村修也(弁護士・中央大学法科大学院教授)は、日本テレビ系番組の中で、つぎの旨を言った。正確な引用ではないが、趣旨は間違いない。
 <違法でない(違法だと断じがたい)というのは、道義的に問題がなかったということを意味しないのだから、その点は注意していただきたい。>
野村修也は会社法(・商法)専門だと紹介されている。また基本的諸法律しか勉強していなくとも弁護士になれるのだから、弁護士一般にもしばしば見られることだが、上の発言内容には大きな問題がある。
 上の一般論はそのとおりだろうが、これを公務員による<決裁文書改竄・書換え>に当てはめるのは間違っている。
 野村修也も知っているように、刑法上の犯罪の構成要件と民事法上の不法行為の成立要件は異なり、それらにおける「違法」の意味も同一ではない。
 書くのが恥ずかしいほどの常識だろう(もっとも麻生太郎が担当する財務大臣が「国」という行政執行団体(法人だ)の「機関」だという認識がなく、政治家としての麻生太郎とごっちゃにしている藤原かずえ(kazue fgeewara)は知らないかもしれない)。
 さらにまた、刑法・民法との関係以外でも「違法」を語ることはできる(憲法との関係での「違憲」もその一種だろうが、ここでは別に措く)。
 つまり、国の行政省庁・地方自治体の職員の大多数を規律し拘束する<公務員法>(国家公務員法・地方公務員法という法律)に、<決裁文書改竄・書換え>は間違いなく違反しており、道義的には問題があるというのみならず、明確に「違法」な行為だ。
 いったん成立した決裁文書を、それに誤記等のごく軽微な瑕疵があるという場合ではなく、内容的にも変更するために遡って取消し、別途新しい決裁をする(新しい決裁文書を作成する)というのは通常よくあることではないだろうが、法的には可能であるし、何ら違法ではない。
 しかし、いったん成立した決裁文書を決裁そのものがなかったかのごとく「抹消」して、おそらくは時期・期日も同じにして内容的には別の文書に「差し替える」というのは、条項名の逐一の確認を避けるが、明らかに違法だ。公務員としてしてはならないことになっている、禁止されているに決まっている。
 いったん成立した決裁文書を「改竄・書換え」してはならないことは、かりに明文規定がなくとも、公務員としての根本規範だろう。
 だからこそ、佐川宣寿らは国家公務員法にもとづく正規の「懲戒処分」を受けているのであり、これは刑法上の「違法」にかりに至らなくとも、公務員法上「違法」であることを前提にしている(なお、法令ではない行政内部基準に従わないことも、後者が上司の職務命令にあたるかぎりは、公務員担当職員の「違法」な行為だ(国家公務員法の関係条項参照))。
 ところで、こう書きつつ思い出した。
 第一に、決裁裁文書等の「行政文書」の保存期間は「三ヶ月」だ等の佐川答弁等を鵜呑みにして、これをそのまま肯定的に叙述していたのが、小川榮太郎だった。
 小川榮太郎は自らが代表を務める研究所らしきものの、光熱水費にかかる請求書も領収書も、三ヶ月経過しないうちに廃棄してしまう(のを許す)のだろうか。
 小川は、「文学」的に、<政治文書>と<行政文書>を勝手に?区別して、後者は重要でない文書だと思い込んだのだろうか? 「行政文書」とは正規の法制上の概念だ。
 しかしそれでも、佐川宣寿らが関係した文書の保存期間が「三ヶ月」とは短かすぎると思わなかったのか。いや、そう感じた可能性はある。但し、制度上そうなっているから問題はない、という趣旨も書いて、財務省側を擁護していた。
 要するに、この小川榮太郎という、どの分野が中心かよく分からない「評論家」には、<社会常識>が決定的に足りないのだ。
 <政治的に>判断して、合理性・正常性・社会常識に関係なく、財務省(ひいては安倍晋三・安倍内閣)を擁護し、杉田水脈も擁護する。
 一定の<政治グループ>の(締め切りを守って文章を書いてくれる)「お抱え文章書き」に堕していることに気づく必要がある。
 第二。この欄に書かなかったが、冒頭の国会答弁(証人喚問)で佐川宣寿(元財務省理財局長)は、籠池泰典・森友学園側への土地売却価額につき、<専門家による第三者的鑑定を経ている>から問題がない(安すぎることはない)と何度か答弁していた。
 国会議員(および政界・行政関係マスメディア担当記者)の無知・無能さは限りなく知っているので別に驚くほどのことではないが、上の答弁を疑問視した、質問者・国会議員は、与野党ともに一人もいなかった。
 正確な引用ではないが、<専門家による第三者的鑑定>とは不動産鑑定士によるものを意味するのだろうが、(かりに複数の鑑定意見があってそれの平均をとったのだとしても)それで<問題がない>ことの証拠には全くならない。
 不動産鑑定士による鑑定価格はそれなりの「権威」をもつのは知っているが、決して「正しい」ものではなく、<考慮要素>をどう見るかによって相当程度に可変的なことは、ほとんど常識だろう。とくに問題の土地には、通常の土地価格鑑定の方法・基準・技術はあてはまらなかったように見える。
 それでも佐川宣寿の答弁をそのままやり過ごして、「それでなぜ問題がない(正当な)ことの根拠になるのか」と突っ込む国会議員がいなかったのだから、呆れ返った。
 <議会・国会による行政に対する統制>。これは相当に幻影になっている。
 ***
 もともと書き記す予定の内容にまで、前書きを書いていて、到達しなかった。
 恐るべき「行政」の実態、「国と地方」の関係の実態。
 こうしたことに(も)、政治評論家でも行政評論家でも全くないが、言及していくことにする。

1798/内閣の法律案提出権-池田信夫の5/08ブログ。

 一 国会-行政権(内閣以下)-司法権(最高裁判所以下)、権力分立または三権分立。
 上を<水平的分立>といい、<国-地方>または<国-都道府県-市区町村>のことを<垂直的分立>と称することがある。
 後者は「国」といっても、実質的には国の行政権を意味することが多いだろう。
 というのは自治体(法令用語では「地方公共団体」またはその一部)は国の立法(法令)に原則として拘束され、自治体には裁判所はなく、国の司法権(裁判所)の判決に服するしかないからだ。
 以上にはすでに現行法制を前提とした説明が入っているが、ゼロから「国制」(constitution, Verfassung=憲法という語の別の訳語)を考え直す場合は、種々の基本設計があり得る。
 例えば、内閣総理大臣(首相)とは別に実質的に最高行政権者としての大統領を置くか、裁判所制度内に通常の裁判所系統とは異なる憲法裁判所を置くか(ドイツ・韓国にはある)、あるいは軍事裁判所は必要ないのかどうか、等々。
 二 池田信夫の5/08「劣化した国会を正常化する二つの方法」は、部分的には憲法改正の問題にも発展するが、現行法制の問題にも関係する。
 池田のいう二つの一つは、議員立法を増やすことだ。野党は憲法違反の「閣法」はやめよと主張してはどうか、とすら書く。
 「閣法」とは内閣が(国会に)提案した法律案または成立した法律のことで、衆議院議員・参議院議員(但し、一議員では現行法制上はダメ)が提案した法律案または法律は「衆法」・「参法」とかいうらしい。
 これらはたんに第三者的または便宜的な呼称ではなく、国会に上程されている法律案の種類を示すために国会またはその議事運営にかかる実務上の用語として使われているのではないかと思われる。
 内閣が法律案提案権を有するか否かは、池田が言及するように憲法41条との関係で問題になる。
 現憲法は内閣の「予算」作成・国会提出権を明記するが(73条5号)、「法律案」または「法案」に関しては沈黙しているようだ(同1号は法律を「誠実に執行」することを内閣の権能の第一に挙げる)。
 しかし、現在は(現憲法下ずっと)法律レベルでこれを明記して認めている。
 内閣法5条内閣総理大臣は、内閣を代表して内閣提出の法律案、予算その他の議案を国会に提出し、一般国及び外交政策について国会に報告する」。
 この条項は、内閣の「法律案」国会提出権能を明示的に認める。
 したがって、「閣法」が違憲という主張は、この現内閣法5条の一部が違憲だという主張になる。
 この点はすでに現憲法施行時に議論があり、内閣が提出するのはあくまで「案」で、国会は最終的に可決も否決もできるので、憲法41条が定める国会の「唯一の立法機関」性に反するわけではないと、政府もおそらくは憲法学界の大勢も解釈してきた。
 これは戦前の実際を連続させたものなのだろう。
 法律の制定「過程」に行政権が関与しても「結果」自体は国会が生み出すならば、国会はなお「唯一の立法機関」だ、と説明されることになる。
 この解釈はなかなか動かし難いように見える。
 三 そうなると、いわゆる議員立法をもっと増やすよう運用することが大切で(上の条項はもちろん内閣の排他的な法案提出権を認めるものではない)、そのための衆議院法制局・参議院法制局の強化、何よりも、国会議員の「立法」技術と能力の向上が必要だ。
 しかし、法制局等の力を借りてでも「法案」を書ける、作れる議員が実際にいかほどいるかは、現在では、相当に疑わしい。「法案」作成のための見識・能力などによって有権者は議員候補を選択しているわけではないし、それを「売り」にする候補がいたというのも聞いたことがない。
 <国会-行政>のやりとりが<野党-政府・与党>のやりとりになって久しい。ほとんどずっとそうだろう。国会・行政の間の<権力分立>の理念は実際には形骸化している。
 立法府・議会優位の建前とは異なる「行政権」の実質的優位はどの国でも広く見られるようで、政治学・行政学では「行政国家」化現象と言うらしい。
 これを改善する妙策はあるだろうか。
 現状にどっぷりと浸かって、それを前提に<生きていく>ことを考えている者たちは、現状とは異なる世界もあり得る、という発想がそもそも湧かないだろう。
 議会-行政の関係についてもそうだ。
 そしてまたこれは、日本の国会議員なるものの成り立ち・出身にも大いに関係しているに違いない。一概に「二世」議員がいけないということはできないが、数的に多すぎる感じがあるのは事実だろう。また、落選しても困らない(生活に支障が出ない)職を持つ者、とくに弁護士は、とくに野党に多いようだ。この点、落選すればいちおう困るだろうが、上級官僚出身者はどちらかというと自民党の方に多い。
 職業選択の自由を持ち出さなくとも、国会議員への「新規参入」の途を広げる工夫が必要だ。しかし、国会自体に期待することはたぶん全くできず、これは日本の「政党」、とくに自民党の<リクルートの仕方>の問題なのかもしれない。
 地方議会の議員については、また別の問題もある。

1756/「日本会議」問題としての森友問題と決裁文書⑤。

 小川榮太郞の昨年の著というのは、つぎだ。
 小川榮太郞・徹底検証「森友・加計事件」-朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪(飛鳥新社、2017.10)。
 小川はまた、同じく飛鳥新社を出版元とする、花田紀凱編集長の姓を名とする月刊Hanadaでしきりと朝日新聞を攻撃している。後者は、別に、<日本の保守>の項あたりで触れたい。
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 小川榮太郞もまた、言葉の厳密な使い方をしていないように見える。
 もまた、というのは、安倍晋三首相と同様に、という意味だ。
 3/19・20あたりの安倍首相国会答弁は、1年余り前の「かかわる」・「関係する」を「関与する」に変えているように感じる。
 関係すると、関与するは、意味・ニュアンスが異なる。
 つまり、<関与>の方が主体的・積極的だ。
 <関係>だと、意に反して<関係させられた>、<かかわったことになった>ということが語義上は認められると思われるが、<関与>の場合は、そのような語法が適切である可能性はより低いと考えられる。
 上の小川榮太郞著は、p.29で昨年2月17日のいまや有名な「間違いなく総理大臣も国会議員も辞める」の発言部分を引用している。
 一方で、小川は、こういう表現の仕方をする。
 p.1-①「森友学園問題、…は、いずれも安倍とは何ら関係のない事案だった。」
 p.5-②「朝日新聞自体が、…安倍の関与などないことを知りながらひたすら『安倍叩き』のみを目的として、疑惑を『創作』した」。 
 p.25-③「現実の政治を知れば関与などあり得ない-そういう地方案件が今回の森友の土地払い下げ問題」だ。
 安倍晋三首相の昨年の発言中の「かかわる」・「関係する」の真の意味は、<働きかけ>を含みうる「関与」だった可能性はあるだろう。対象を「この認可にもあるいは国有地払い下げにも関係していない」と明言していて、「日本会議」との関係を否定しているのでもない。
しかし、言葉それ自体としては、「関係」と「関与」は同じではない、というべきだ。これらを同じ意味で使ったのだとすれば、厳格さが足りないし、総理答弁としては不用意で、これに限っても「問題視」されうるのではないかと思われる。
 これと同様に、小川榮太郞もまた、上の①~③のように、「関係」と「関与」を意識的にかどうか、混用している。文学部出身の文芸評論家<あがりの政治評論家?>だとは思えない。
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 つぎに、前回に論及した、小川による佐川局長答弁の(結果としての)擁護・支持部分はつぎのとおり。p.43~p.44。小川が引用する佐川答弁(2017年2月24日)も、そのままここでも引用する。
 小川-「佐川は、交渉の詳細を幾ら質問されても、全て交渉記録は破棄して残っていないの一辺倒で通した」。
 A・佐川局長(当時)「…確認しましたところ、近畿財務局と森友学園の交渉記録というのはございませんでした。/面会等の記録につきましては、財務省の行政文書管理規則に基づきまして保存期間一年未満とされておりまして、具体的な廃棄時期につきましては、事案の終了ということで取り扱いをさせていただいております。」
 (同・つづき)「本件につきましては、平成28年6月の売買契約締結をもちまして既に事案が終了してございますので、記録が残っていないということでございます。」 
 B・小川榮太郞<いくつかに分け、適宜番号を付す>①「国の行政文書は、よほどの特例でない限り一年未満に破棄する規則がある。」
 ②「この規則は、森友、加計の二例に鑑みれば明らかに問題だ。二例とも国政と関係のない細かな行政事案で、記録がない為に国会が重大な遅滞を呈した。行政文書の保存基準は大幅に見直すべきだろう。」
 ③「だが、現状では佐川の答弁は規則通りで、特例ではない。」
 小川は財務省に対して批判的な記述もするが、ここの文書管理部分では明らかに、財務省・理財局・佐川局長を擁護・支持している-③。「現状」ではやむをえない旨を明記している。
 既述のように、不審をもったのは、奇妙だと「直感」したのは、この部分だ。
 立ち入っていくと、佐川答弁についてもいろいろと不思議なことが出てくる。
 しかし、とりあえず書けば、小川榮太郞は、財務省の行政文書管理規則あるいは現状である「行政文書の保存基準」を見て、きちんと精査したうえで、昨年秋に上の文章を書いたのか?(同じことは、この答弁を聞いたメディア関係者もなぜ吟味しなかったのか、と言える。)
 上の①は、対象を「行政文書」全体にまで拡張していて、文書管理のあり方自体を知らない、全くのウソだ。「行政文書」の定義もおそらく知らず、つぎの規則も見ず、堂々と書いているのが怖ろしい。
 財務省行政文書管理規則(・同細則)の読み方(解釈の仕方)は別の機会にでもさらに触れるだろうとして、「面会等の記録」は「一年未満」だとは前回言及の「別表第一」には少なくとも明記されていない(同細則でも同じ)。
 「別表第一」は正確にはまだあくまで「基準」であるので、大臣官房文書課または理財局内部での「文書管理者」が(局長であることがありうる)かなり個別的な決定をして「面会等の記録」は「一年未満」だと定め可能性がある。
 つぎを参照-「別表」 の「備考」/「六 本表が適用されない行政文書については、文書管理者は、本表の規定を参酌し、当該文書管理者が所掌する事務及び事業の性質、内容等に応じた保存期間基準を定めるものとする。」
 もう一つの不審は、「面会等の記録」と「売買契約締結」に関する文書を明確に分けることができるのか、だ。まず、面会「等」の「等」は何を含むのか不明瞭だが、貸付または売買(予定者又は具体的にその方向である者)の一方当事者と会うことや、話を聞くことを、ふつうはたんなる「面会」とは言わないように感じられる。すでに「交渉」だ。
 つぎに、より重要なのは、「売買契約締結」に関する文書の中に、「面会」を含めてもよいが、交渉過程、つまり当該契約締結に至るまでの過程はいっさい含まれないのか?だ。 
 これは、<含む>と解される。なぜなら、前回言及の財務省行政文書管理規則・別表第一の「28」の項の一つめの列の見出しは「…の実施に関する事項」だが、二つめの列には「国有財産の管理(取得、維持、保存及び運用 をいう。) 及び処分の実施に関する重要な経緯」 とある。そして保存期間30年とされる取得・処分にかかる文書の例として明記されるのが「売払決議書」だ。なお、貸付にかかる文書(例、貸付決議書)については、保存期間は、貸付期間終了後の10年とされている。
 小川榮太郞は佐川局長の言い分をそのまま信じて、本の叙述の前提にしているのだが、前提自体が怪しいと感じるべきだろう。感じないのは「ど素人」の証拠だ。すなわち、「面会等」あるいは「交渉」にかかる文書と「売買契約締結書」またはそのための「決裁文書」は明確に区別されてはいないし、区別してはいけないのだ(上記のとおり規則「本文」と一体である「別表」上に「重要な経緯」と書かれている。)
 前回にこの欄で紹介した、2017年2月24日午後の-佐川答弁より後の-菅官房長官発言は、すでに?なかなか的確だ(あるいは意味深?)だと思われる。
 「基本的には、決裁文書についてはは30年間保存するのだから、そこに、ほとんどの部分は記録されているのではないでしょうか」。
 佐川局長のつぎの言い分も、したがってまた、奇妙だ。
 「平成28年6月の売買契約締結をもちまして既に事案が終了してございますので、記録が残っていない。」
 2017年2月は「平成28年6月の売買契約締結」後の半年余の後だ。
 佐川局長は「面会等の記録」は「1年未満」で廃棄してもよいからそうしたのだ、という趣旨を言いたかったのだろう。
 しかし、「平成28年6月の売買契約締結」に関する文書自体は30年とされていることを、局長クラスが全く知らないとは想定し難い。
 この時点の佐川氏について、推測できるのは、つぎの二つのいずれかだ。
 A「売買契約締結」文書・決裁文書に「交渉過程・経緯」まで書かれていることを知らなかった。そして、迂闊にか、意識的にか、「面会等の記録」の中には書かれていたかもしれないが、廃棄して今はない、というストーリーにした。
 B 上のこと及びその詳細な内容をすでに知って驚き?、書き直し・改竄をすでに指示して、「交渉過程・経緯」を含む(前の)決裁文書が存在しないようにしていた(答弁時点で完璧に終了していたかは別として)。だからこそ、かなりの自信を持って、断定的に答弁できた。
 いずれについても、不思議さは残る。さらに言及する。
 小川榮太郞に戻ると、この人は、現実の政治や行政についての知識が乏しい、ということを自覚した方がよいと思われる。今回は書かなかったことで、そういう例、言葉遣いがまだ多くある。

1754/「日本会議」問題としての森友問題と決裁文書④。

 今夕の日本テレビ/読売テレビ系番組で、しっかりと報道されていた。
 2017年2月24日午後の記者会見で、菅官房長官は、財務省の国有地売却等「決裁文書」の保存期間について、つぎのように明言していた。
 秋月瑛二が前回に「すでに私自身は判明させたつもりでいる」と書いたとおりだ。30年だ。
 そして、なぜこんな単純なことに誰も気づいていなかったのだろう、財務省の文書管理関係職員はきっと知っていたに違いない、と思っていた。
 私は知らなかったのだが、一年も前に政府高官・菅官房長官が、つぎのように語っていた。
 したがって、第一に、佐川元理財局長が、交渉に関する記録は「残ってございません」と答弁していたのは、虚偽だったと思われる。実際の決裁文書に「交渉過程」も記されていることを知らなかったのか?
 第二に、小川榮太郞著の<政治的偏見に満ちた>叙述も、間違いだったことが判明する。
 小川は、昨年の書物で、森友文書関連質問を受けて「面会等の記録(の保存期間)は1年未満だ」旨の佐川答弁をそのまま支持し、<廃棄してしまっていたことに何ら問題はない>と昨年の本で叙述していた。
 以下、菅官房長官・2017年2月24日午後記者会見にかかる、ネット上の映像・動画情報による。 http://www.kantei.go.jp/jp/tyoukanpress/201702/24_p.html -首相官邸ホームページ。
 記者質問「今日の予算委員会の方で、財務省の佐川理財局長が、森友学園と財務局側の交渉記録について、記録は残っていないと、事案が終了したのですみやかに廃棄されていると思うと答弁しているが、その点について、これは適当だと思うか」。
 菅官房長官「財務省においては公文書管理法の規定にもとづいて制定されている。
 そして、その財務省の行政文書管理規則にもとづいて国有財産の取得および処分に関する決裁文書については、30年の保存期間が定められている。
 ですから、30年間は保存するのです。
 一方で、面会等に関する記録文書については、その保存期間は1年未満とされている。そこで、具体的な廃棄がされている。その時期については説明したとおりだと思っている。」
 記者質問要旨/<面会等に関する記録についての1年未満を再検討する考えはないか>。
 菅官房長官「いずれにせよ、各省庁とも公文書管理法の規定にもとづいて行っているのだろう。そのことで、著しい弊害があるのであれば、また見直しする必要があると思うが、基本的には、決裁文書については30年間保存するのだから、そこに、ほとんどの部分は記録されているのではないでしょうか」。
 これの基礎にある、財務省側からこの日に資料提供を受けたのではないかと見られる、財務省行政文書管理規則の定めは、つぎのとおり。
 「第13条1項 文書管理者は、別表第1に基づき、標準文書保存期間基準を定めなければならない。
 2項 第11条第1号の保存期間の設定については、前項の基準に従い、行うものとする。」
 「別表第1・行政文書の保存期間基準」。
 <秋月注-以下は一部で、全体が表の形式をとっているため、表の最上部にある「列」の見出し-事項・業務の区分・当該業務に係る行政文書の類型・保存期間・具体例-を書き加え、かつ後の三者は一括して同じ行で記載する。いずれによ、実質的に原文ママ。> 
 『28・事項/国有財産の管理及び処分の実施に関する事項。
 業務の区分/国有財産の管理(取得、維持、保存及び運用をいう。)及び処分の実施に関する重要な経緯。
 当該業務に係る行政文書の類型 (令別表の該当項)/保存期間/具体例/
 ①国有財産(不動産に限る。)の取得及び処分に関する決裁文書/30年/・引受決議書 ・売払決議書。
 ②国有財産の貸付けその他の運 用に関する決裁文書で運用期間を超えて保有することが必要な文書/運用終了の日に係る特定日以後10年/・貸付決議書。
 ③国有財産の管理及び処分(① 及び②に掲げるものを除く。 )に関する決裁文書又は管理及び処分に関する重要な実績が記録された文書/10年/・行政財産等管理状況等監査報告。』
 この<保存期間>に関心をもったのは、小川榮太郞著が<「面会等の記録」は1年未満とされているのだから、文書が残っていなくとも何ら問題はない>と書いているのを、不審に思ったことによる。
 国有地の貸付・売却(処分)に関する「決裁文書」が「面会等の記録」の中に含まれるのか、1年未満というのはこの「決裁文書」についてはいかにも短かすぎるだろう、という直感による。
 小川榮太郞著の正確な引用と批判は、別の回に行う。

1753/「日本会議」問題としての森友問題と決裁文書③。

 一 「普通財産」とは、国公有財産のうち「行政財産」以外のものをいう(国有財産法。公有財産については、地方自治法)。以下は国有地に対象を限る。
 「行政財産」とは違って、原則的には民事上(の私人間取引)と同じ処理がなされる。しかし、「国有」であり「行政」権者としての「国」が管理・処分をするので、一私人のそれとは異なり、それなりの法的制約がある。
 だがしかし、一方で、対等当事者の契約によるというのが建前なので、厳格なまたは厳密な法的規制があるわけではない。
 「法治国家」、「法治行政」あるいは「法の支配」も具体的様相は多様であり、これらから、行政官による「法の機械的な執行」というイメージを導くのは誤り。「法の機械的な執行」でなければ<政治の圧力による>と理解するのも誤り。
 相手方の選択、価額、諸条件等について、関係法令を適正にかつ「機械的に執行」すれば、一律の結論が出てくる、というものではない。<それなりの法的制約>の具体的内容は、それこそ関係法令を見なければわからないし、正規の法令ではないがほとんど実務慣行の規準となっているような「内部規則」類も存在する。それらは、財務大臣あるいは実質的には局長等々のレベルで(実務の必要を充たすために)定められている。
 <忖度(そんたく)>というとすれば、その意味を明確にさせて、本来は用いるべきだろう。最も広く理解すれば、これは、考慮、斟酌、参酌、配慮等々と同じ意味だ。そして、<それなりの法的制約>の範囲内では、<それなりの考慮、斟酌、参酌、配慮等々>が実際には行われているし、それは場合によっては、あるいはむしろ通常は、必要なことだ。
 だからといって、<それなりの考慮、斟酌、参酌、配慮等々>がつねに適正で合理的とは限らず、種々の観点から、政治的観点からも(政治家による圧力等々が重要な動機となっている場合のように)、その合理性・正当性は検証されてよい。
 二 つぎに、「決裁文書」という概念について。
 <公文書管理法>(略称)という法律自体が、前回にも触れた<(行政機関)情報公開法(略称)を補完する重要な役割をもつものとして制定・施行された。
 この法律がいう「行政文書」の定義は、後者と全く同じ(公文書管理法2条4項)。
 情報公開(行政文書の開示)請求に対して、その情報・文書が存在しなければそもそも公開・開示できない。存在しない場合に非公開・不開示とすることを、情報公開法自体が認めている。
 それはそうだろう。ないものを、見せるわけにはいかないし、見せたくとも見せることができない。
 しかし、存在・不存在の判断自体が奇妙だと、存在してはいるが、<存在していないことにして>公開しない、というむろん本来許されない決定がなされる可能性がある。
 森友文書問題でも、都合の悪い(書き換え・改竄前の)文書を「存在しない」ものとして公開・非公開の判断をした事例があった、と報道されている。
 そうすると、「存在」するか否かは重要な問題だ。そして、行政機関に「行政文書」が<存在するように>、つまりは<作成>したり<保存>したりする義務を課すのが、情報公開法を補完するものとしての公文書管理法の重要な機能だ(それだけではないとしても)。
 しかし、この法律自体は「基本精神」と<公文書管理の基本的仕組み>を定めるだけで、「保存」についても、詳細は各省大臣等が定めるものとされる「行政文書管理規則」に委ねている(10条)。
 そして、おそらく全省庁について同様だろうが、この各省庁の「行政文書管理規則」の中に、「決裁文書」という概念が出てくる。しかも、本体の別表のかつ「備考」の欄で。
 財務省行政文書管理規則(大臣訓令。最新改正、2015年4月)は、上記の微妙な?箇所でこう定義する。
 「4 決裁文書 行政機関の意思決定の権限を有する者が押印、署名又はこれらに類する行為を行うことにより、その内容を行政機関の意思として決定し、又は確認した行政文書」。
 ここで「行政機関」とは財務省のことを意味する。「行政機関の長」は財務省の場合、財務大臣。
 この「決裁」の<内部委任>が通常の行政の多くの場合になされていることは、すでにこの欄に書いた。
 「決裁文書」という日本語をどのような意味で使おうともそれは自由なのだが、このように行政的?または公的には?定義されていることは知っておいても悪くないだろう。
 しかして、(決裁文書に限っても)いわゆる森友文書なるものの「保存期間」は、この「規則」(訓令)上はどう定められていたのか。廃棄されていて(=一定期間以上は保存する必要がなくて)存在しない、と言えるものなのか?
 これについては、たぶん次回に書く(すでに私自身は判明させたつもりでいる)。
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 資料・史料。2017年2月19日、安倍晋三首相・衆議院予算委員会答弁。 
 「私や妻」は、「もちろん事務所も含めて」、「この認可あるいは国有地払い下げ」に、「一切かかわっていない」。「もしかかわっていたのであれば」、「私は総理大臣をやめる」。/「繰り返」すが、私や妻が「関係していたということになれば」、「間違いなく総理大臣も国会議員もやめる」。「全く関係ない」。

1751/「日本会議」問題としての森友問題と決裁文書②。

 片山さつきが某テレビ番組でふいに「よけつれい」という語を出していた。
「よけつれい」とは、間違いなく<予算決算及び会計令>(勅令→政令、1947年。2017年最終改正)のことだ。
 何の説明もなくこんな言葉を発するとは、時間不足のためもあろうが、視聴者・庶民には分からないかもしれないが、知らないだろうが、という感覚も感じさせられて、愉快にはならない。
 山口真由は別の某テレビ番組で率直に?、「キャリア」・「ノンキャリア」という語を使って、両者の行政・公務員感覚の違いを述べていた。
 これはこれで、そのような観点からのコメントを聞かないので、よいだろう。
 しかし、言葉不足があって、むろん山口真由が知らないはずはないが、財務省(・理財局)と同省近畿財務局の違いが「キャリア」と「ノンキャリア」の違いに該当するかのごとき誤解を生じさせかねなかった。
 本省にも「ノンキャリア」はいるし、近畿財務局にも「キャリア」はいる。
 「キャリア」組が<地方支分部局>の長を経て(渡り歩いて?)地方の実情と現場も知って(?)いずれ本省に戻ってくる、というのは、よく知られる。
 森友問題時代の近畿財務局長の迫田?という人物はいま、財務省の別の局長らしい。
 その他、八幡和郎も含めて、森友問題あるいは決裁文書改竄にかかる元「キャリア」のコメントを知るのは、なかなか面白い。
 さすがに行政経験からもよく知っている(ある範囲の問題については)と思うが、「上級行政官僚だった」ことについての<矜持>(・誇り)らしきものも、人によって同一ではないが、垣間見えて、この点も興味深い。
 ついでに書くと、第一に、文書処理に関して<公文書管理法>という法律に焦点があてられている印象もある。しかし、国会との関係以外に直接に対国民でも重要な関係法律に、<(行政機関)情報公開法>がある。
 これによると、「決裁」済み文書のみならず、<組織として行政のために用いた、用いている>文書(電子情報もこの場合は含む)も開示請求の対象になり、かつ、原則としては(この法律が定める「支障」等に該当する等の例外事由のないかぎり)請求者(国民)に開示しなければならない。
 第二に、<書き換え前>文書は「起案文書」あるいは「ドラフト(案)」ではなかったのか、という問題も提起されていたようだが、これは否定されたはずだ。
 なお、(最終)決裁文書に問題があるとすれば、もう一度決裁をやり直して、新しい、最々終の決裁文書を作成すればよいことになるはずだ(技術的な些細な修正ならやり直す必要もないかもしれない)。このことは否定できないだろう。
 しかし、<最々終の決裁文書>を作成しても、その前の<最終の決裁文書>の存在を否定・消去できるわけではない。
 本当に最後の「決裁」文書でなくとも、存在していれば、上記のとおり、情報公開請求の対象にはなる。
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 「私や妻がこの認可あるいは国有地払い下げに、もちろん事務所も含めて、一切かかわっていないということは明確にさせていただきたいと思います。もしかかわっていたのであれば、これはもう私は総理大臣をやめるということでありますから、それははっきりと申し上げたい、このように思います。/
 繰り返しになりますが、私や妻が関係していたということになれば、まさにこれはもう私は、それはもう間違いなく総理大臣も国会議員もやめるということははっきりと申し上げておきたい。全く関係ないということは申し上げておきたいと思います。」
 池田信夫が適切に指摘しているように(3/14)、この安倍晋三首相国会答弁をどう<理解>するかは、同首相又は同夫人が「かかわっていた」とか「関係していた」という言葉の意味にかかわる。
 曲解しなくとも、言葉をふつうに理解するかぎりは、「かかわっていた」・「関係していた」ことにはなるだろう。
 「(直接の)働きかけ」とか、「直接の関与」という言葉を安倍晋三は用いなかったのだから。
 この答弁の当日(昨年2月)の報道によってだろう、随分と思い切ったことを言っているな、という感想を自分が抱いたことは明確に記憶している。
 したがって、この答弁の<正確な意味・意図>が問われなければならないし、また、少なくとも安倍首相の不用意・迂闊さ(あるいは傲慢・慢心?)は指摘されなければならないだろう。
 八幡和郎は、池田信夫と同じブログ・サイトで、つぎのように書く(3/13)。
 「森友問題の本質は、文書改竄ではない。籠池さんという厄介な人にいろんな人が振り回されて、苦し紛れに、少し安すぎるかもしれない価格で国有財産を売り渡したというだけのことである。」
 これは少し違う。第一に、決裁文書の扱い方、という<行政>上の基本問題がある。
 第二に、森友某氏の娘と結婚した籠池某氏という「厄介な人」が少なくともかつて「日本会議」に属していて(日本会議もこれを否定してはいない。日本会議大阪の役員だったようだ)、この籠池某氏が「日本会議」の名(知名度?、権威?)を少なくとも<利用>したことは間違いないだろう。
 そうでなければ、竹田恒泰や安倍総理夫人は関係する小学校での講演などしなかっただろう。ましてや、経緯はあっても、強く固辞しても、最終的に「名誉校長」にはならないだろう、と普通人の私は感じる。
 <政治>的には、森友問題は「日本会議」問題だ。「日本会議」問題としての森友問題なのだ。むろん、安倍首相と「日本会議」には「関係がある」ことが前提。
 だからこそ、日本共産党も朝日新聞も躍起になって突き、叩こうとしている。
 小川榮太郞が昨年以来の各種報道は<朝日新聞の謀略>だつたと言いたい気持ちは分かるし、実際に間違いなく、日本共産党や朝日新聞の<謀略>的な政治姿勢・報道姿勢はある(なお、朝日新聞社内には日本共産党の党員もいる)。
 しかしまた、<安倍晋三あるいは安倍政権は絶対に誤らない>はずだというのも、一つの<謀略>観に似た<思い込み・観念>なのであり、<反・朝日新聞>史観?・政治観?にだけ頼るのも、危険だ。
 小川榮太郞の書物を、森友問題の「勉強」のためにいま読んでいるのだが、この本の主張内容もまた、(興味深いという意味で)面白い。
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 なお、日本共産党と「日本会議」が(まして朝日新聞と「日本会議」が)真正面から対立しているとは、秋月瑛二は考えていない。そう理解してはいない。
 180度反対では全くなく、せいぜい45度以下の、30-35度程度の角度の開きしかないだろう。
 しかし、もちろん、「日本会議」-安倍晋三と朝日新聞・日本共産党が正面から対立している「ように見えている」現実はある、ということは承知している。

1745/「日本会議」問題としての森友問題と「決裁」文書①。

 共産主義や「日本会議」にのみ秋月瑛二が関心をもっているわけではないことを、ときには知らせておこう。
 「日本会議」、月刊正論編集部および産経新聞社主流派について昨年からずっと感じてきたのは、つぎのことだった。
 安倍晋三がいつまでも首相であるわけではない。かりに2020年時点で首相・内閣総理大臣だったとしても、いつか辞める。そのとき、この人たちはいったいどの人物を、あるいは自民党でないとすればどの政党を支援するのだろう、と。
 そう感じさせるほどに、この人たちの安倍晋三・自民党びいきは目立った。
 「日本会議」、月刊正論編集部および産経新聞社主流派は昨年の総選挙でも、日本共産党や立憲民主党を叩き、批判することよりも、「希望の党」、正確には小池百合子を批判の主対象にしていたように感じる。
 2017総選挙については、当時の池田信夫のブログ・コメントに大いに共感するところがあったが、今回は立ち入らずに、別の機会に、余裕があれば触れる(秋月瑛二は前回の総選挙について、感じることは多々あったが、この欄に記していない)。
 「日本会議」は、<保守>運動の中心的位置という立場を守りたい、維持したいのだ、と思われる。
 以上については、もっと書かなければならない。
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 「決裁」文書と国・省の意思決定について。
 森友学園問題について詳細にフォローはしていないので、第二に言及したい「日本会議」問題とは別の、「決裁」文書なるものに関する一般論を記しておく。
 メディア関係者・テレビや新聞関係者(とくに記者)および多くのコメンテイターはきちんと知って、きちんとした情報を提供してほしい。以下は、行政の実務経験者であれば、あるいは企業等の組織管理経験者には、おそらく常識的だろう。しかし、メディア関係者にはー「左翼」意識は強くてもーしばしば一般的知識に欠ける人がいる。
 まず、国有地を含む国有財産の売買(売却をむろん含む)契約の当事者は、一方はふつうは私人で(法人の場合もむろんある)、他方の当事者は、「国」だ。この場合の「国」は正確には裁判所や国会を含みうるが、とりあえず<行政>担当法人のことを意味させる。
 しかして、個々の行政、あるいは個々の売買契約の法的な最高責任者は、一般論として語るが-現行法制上は-首相・内閣総理大臣ではなく、個別省庁の長、財務省関係だと財務大臣のはずだ。
 個別の法律による特殊な売買を除いて(強制買収に該当する場合はどうだったかな?)、今回の森友問題におけるような契約締結の法的な最高責任者は財務大臣だと解される。
 ではなぜ、「決裁」文書書き換えにかかる「責任」がとくに理財局長について問題になっているのか。
 それは、財務大臣の「決裁」権限の<内部委任>が行われているからだと思われる。
 つまり、「国」を当事者とする契約締結には本来はすべて省庁の長(とざっくり言う)の最終「決裁」が必要だが、大臣・長官が全てに関与して全てに押印または署名するわけにはいかない。
 そこで、いわば<便法>として、案件に応じて、<理財局長>あるいはその下の課長等に<決裁権限>を「内部的に」委譲しているのだ。よく知らないが、軽微なものだと近畿財務局長に「内部委任」されているものもあると考えられる(森友問題は文部科学省・内閣府も関係するので形式上・内部的にも最後は本省扱いになっているのだろう)。かつまた、この決裁権限の「内部委任」はおそらくは正規の「法令」によるものではない。省庁「内部」の(それこそ大臣等の名前で決定された)規程類にもとづくもののはずだ。
 したがって、政治的にはともかく、全ての案件について大臣には行政上の法的「責任」がある。大臣にそのような「責任」をとらせることになったのは誰か又はどの機関かは、あくまで「国」または省の「内部」問題にすぎない。
 この点をしっかりふまえて報道等をしてほしいものだ。
 むろん、財務省「内部」の問題を報道して悪いわけではない。すべきだろう。しかし、局長に<責任転嫁>してのトカゲの頭か尻尾かを切る、というのは、きわめて<政治的>または<政治家的>発想だ、ということは知っておく必要がある。官僚機構や組織の問題等を<大筋>の問題と混同させてはいけない。
 ついでに、安倍首相の問題。首相には内閣を構成する各大臣に対する指揮権・指導権は、憲法上重要な位置を占める「内閣」の一体性や国会に対する<政治的・行政的>責任の観点からもあると見られる。
 したがって、<政治的>観点以外でも、当然に首相の責任は問われうる。
 では、安倍首相夫人の明確な<関与>が証されたとすれば、いったいどうなるのか?
 おそらくもはや契約自体の有効性の問題にはならないのだろう。だが、これとは別に「違法性」は問われ得る。また、違法でなくとも、正当ではない、正義・適正さの観点から疑問だ、ということはあり得る。こうなると安倍晋三と椛島有三を事務総長とする「日本会議」の関係にかかわるので、回を改める。

1703/陸自「日報」問題・情報公開と古賀茂明・佐藤正久。

 陸上自衛隊日報にかかる情報開示問題につき、佐藤正久・現外務省副大臣、古賀茂明・元経済産業省官僚で元内閣審議官の二人の論評類をネット上で読んだ。
 テレビ、新聞等は、陸上自衛隊「日報」問題を、稲田朋美・安倍内閣問題にのみほとんど焦点をあてて<政治的に>報道してきた。産経新聞、フジ系テレビ局でも、事態はほとんど変わらない(かりに立場が正反対のようでも)。国の情報公開制度に関する基礎知識に曖昧な部分または誤りがあるのではないか、と思われる。
 ましてや、月刊正論(産経)等の「特定保守」系雑誌に稲田・安倍等に関して書いている人は、何も知らないだろうと思われる。
 現副大臣・佐藤正久、そして著名?評論家・古賀茂明。この人たちはだいじょうぶなのだろうか。
 曖昧さや明らかな誤りではないかと思う部分がある。なお、この二人を個人的に批判するのが、以下の目的ではない。
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 A「2016年7月の情報公開請求があったとき、陸自の現場は、日報の存在を隠す判断をしている。文書が物理的に存在するのに、情報公開請求に対して不存在と回答する場合の官僚の言い訳は、『物理的に存在しても、単なる個人のメモ、あるいは、ただの走り書きのようなもので正式なものではないから<行政文書>としては存在していない』という理屈である。加計学園問題で文部科学省でも同様の言い訳が使われたことは記憶に新しい。
 今回のケースでは、組織内のネット上で多数の職員が閲覧できる形で存在したものだから立派な行政文書なのだが、それを捻じ曲げて、不開示決定をしてしまった。/その時の陸自関係者の意識は、こういうものではないか。」
 以上、古賀茂明「官僚と稲田防衛相に“阿吽の呼吸”が成立しなかった本当のワケ」2017年7/31付・朝日新聞系のアエラ・ドットコム上。
 B「“日報”とは、現場の部隊から国内の大臣等に報告のため、作成されるものであり、文書の性質上、“行政文書”に属する。そのため、行政文書に係る法令等に従うことは当然であり、情報開示請求の対象となるのである。/これは、現状の法令に則った回答である。
 現在の報道では、日報の存在を組織ぐるみで隠蔽したとされ、“情報開示”の在り方に主にスポットが当てられている。/確かに、情報開示に関する防衛省の組織体制は再考する必要はあるだろう。//
 しかし根本の問題を見過ごしていないであろうか?/すなわち、“情報保全”である。
 日報には当然であるが、隊員の健康状態・装備品の状況の詳細といった、我が国の“手の内”が記載されている。/現場での任務遂行のための必要な情報の塊といっても良いであろう。/さらに、今回の対象となったのは、現在進行中の任務である。
 その様な状況の日報・レポートを開示請求されたならば開示するといった国は、おそらくどこにもない。開示するような国と共に行動する国も、おそらくないであろう。
 実行中の任務の日報については、不開示という判断も当然あり得る。
 “情報”の取り扱いの在り方について、引き続き考えて行きたい。」
 以上、佐藤正久ブログ7/31「“情報保全か?”それとも“情報開示か?”」
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 A・古賀は、日報という「文書が物理的に存在」する場合に「情報公開請求に対して不存在と回答する場合の官僚の言い訳は、『物理的に存在しても、単なる個人のメモ、あるいは、ただの走り書きのようなもので正式なものではないから<行政文書>としては存在していない』という理屈」だ。/今回のケースでも「組織内のネット上で多数の職員が閲覧できる形で存在したものだから立派な行政文書なのだが、それを捻じ曲げて、不開示決定をしてしまった」、と書く。
 しかし、「立派な行政文書」であっても、不開示決定にすることはできる。かつ、その判断に「裁量」が認められてよい、と考えられる。「裁量」性の問題を別にすると、上の「かつ」以前の文意は、法律上で<明記>されている、と言ってよい。
 もとより具体的事案に立ち入るつもりはないが、<行政文書なのに「捻じ曲げて」不開示決定した>という叙述はおかしい。どちらかと言うと、誤りだ。関係条文は、あとで以下に示す。
 B・佐藤の文章の趣旨は、必ずしも明晰でない。
 行政文書→開示請求の対象になる→不開示もあり得る、と明確に書いてくれないと困る。
 つまり、先ずは例えば、開示請求の対象になる=開示義務が発生する、ではない、ということを。
 Aの古賀の文章だと、行政文書→不開示決定は「捻じ曲げられ」たことになる。正しくは、上記のとおり、(文書・情報→)「行政文書」→開示請求の対象になる=審査・検討の義務が大臣等に発生する→開示決定または不開示決定、なのだ。
 もっとかみくだいて言うと、不開示決定には、つぎの二つのものが、厳密にはつぎの三つのものがある、ということを明確に知っておく必要があるだろう。
 新聞記者、メディア関係者は知ったうえで報道してきたのだろうか。
 「特定保守」雑誌への執筆者たちは、たぶん全く知らない。
 ①文書・情報そのものが不存在のとき。古賀のいう「物理的」な不存在の場合。
 ②文書・情報はあっても、法律上の「行政文書」に該当しないとき。つまり、<行政文書の不存在>のとき
 ③当該文書・情報は「行政文書」だが、法律が定める「不開示情報」に該当する(と認める)とき
 いずれの場合も、間違いなく同じく<開示しない旨の決定>がなされるはずだ。
 ①の場合は、存否の判断が正しいものならば、開示(公開)したくてもできない。
 ②、③には、「行政文書」か否か、「不開示情報」を含むか否か、という法律解釈または法律の適用・個別案件ごとの要件充足性の認定が伴う。
 以上のことを、佐藤正久は分かったうえで書いているのだろうか。どうも微妙だ。
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 ①と②で、「ある」(ない)・「存在」(不存在)と言っても、意味・レベルが違う
 ②の場合の「ある」・「存在」は、法律上の一定の概念に当てはまる経験上の現物たる「もの」がある(ない)とか存在する(存在しない)という意味で、<現実の客観的(・物理的)認識>上の「ある」・「存在」ではない。
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 関係法律と関係条文は以下。防衛省(・自衛隊)も同じ法律の適用をうけ(かつ適用除外されておらず)、開示に関する法的な決定権限者は防衛省でも事務次官でも自衛隊でもなく、一人の人間が担当する職としての防衛大臣であることの根拠・関連条項は省略。 
 行政機関の保有する情報の公開に関する法律(平成11年=1999年法律第42号、最近改正・2016.05)。
 いわゆる国の情報公開法(法律)。独立行政法人には直接の適用はなく別の法律があるので、<行政機関情報公開法>とも略称されている。
 同法2条項本文「この法律において「行政文書」とは、行政機関の職員が職務上作成し、又は取得した文書、図画及び電磁的記録(電子的方式、磁気的方式その他人の知覚によっては認識することができない方式で作られた記録をいう。以下同じ。)であって、当該行政機関の職員が組織的に用いるものとして、当該行政機関が保有しているものをいう。ただし、次に掲げるものを除く。」(但書の各号省略)
 同法第5条本文「行政機関の長は、開示請求があったときは、開示請求に係る行政文書に次の各号に掲げる情報(以下「不開示情報」という。)のいずれかが記録されている場合を除き、開示請求者に対し、当該行政文書を開示しなければならない。」
 同第5条第3号「三 公にすることにより、国の安全が害されるおそれ、他国若しくは国際機関との信頼関係が損なわれるおそれ又は他国若しくは国際機関との交渉上不利益を被るおそれがあると行政機関の長が認めることにつき相当の理由がある情報」。
 シロウトにも、「公にすることにより、国の安全が害されるおそれ…」が「あると行政機関の長が認めることにつき相当の理由がある情報」は「不開示情報」として開示しないことができる、ということが分かる。
 佐藤正久は、このことをきちんと知って、意識して、上の文章を書いたのだろうか。
 怪しい。それとも、具体的に問題になった<陸自日報>が「公にすることにより、国の安全が害されるおそれ、他国若しくは国際機関との信頼関係が損なわれるおそれ又は…」のある情報かどうかに逡巡があって、上のような、「引き続き考えて行きたい」という、締めくくりの言葉になったのか。
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 天皇譲位問題も自衛隊憲法明記問題も、数ヶ月遅れてまともに書く気になった。天皇制度も憲法九条も、主要な関心対象ではなくなっているからだ。この回の情報公開制度は、さらにもっと同じ。
 だが、ネット上の諸発言・主張・見解等々をいつになく見ていると、気になることが山ほど出てくる。
 早く卒業して、本来の?L・コワコフスキ、R・パイプスの本の試訳作業、共産主義や「全体主義」・「ファシズム」の問題に戻りたい。

1227/「政治結社」朝日新聞に「国民の知る権利」を語る資格はない。

 一 特定秘密保護法成立。それにしても、逐一言及しないが、朝日新聞の騒ぎ方、反対の仕方はすごかった。「捏造に次ぐ捏造」がほとんどだったのではないか。秘密指定は行政が勝手に、などと批判していたが、では誰が指定するのか。戦前の治安維持法を想起させるというような記事か意見紹介もあったが、批判の対象を別のものに作り替えておいて批判しやすくするのは、「左翼」メディアには常套の、しかし卑劣な報道の仕方に他ならない。
 この数ヶ月、朝日新聞がこの法案に反対の記事等で紙面を埋めていたのは「狂って」いたかのごとくであり、かつ実質的には政治団体の機関紙だから当然ではあるが、この法案を支持する国民の声・意見をほとんど無視したという点で、じつは「国民の知る権利」を充足させないものだった。
 国会の議席数からして成立するだろうことは容易に予想できた。しかし、朝日新聞の意図は、あわよくばとは思いつつも、結局は安倍内閣に打撃を与えること、そして安倍内閣への支持率を減少させること(そして、次期衆院選挙・参院選挙の結果によって安倍内閣の継続を許さないこと)にあったと思われる。特定秘密保護法案に対する法的な・理屈の上での批判ではなく、相変わらず、<戦争準備>とか<戦前の再来>とかを基調とする紙面作りによって読者国民を欺き、反安倍ムードを醸成することにあったかと思える。
 本日報道されたNHKの1000人余をベースとする世論調査によると、安倍内閣支持率は10%下がり、不支持率は10%上がったとか。あの、朝日新聞の無茶苦茶な「反」ムードを煽る「捏造に次ぐ捏造」報道は、この数字を見るとかなり効いたようで、アホらしくもある。安倍晋三首相は「反省」の言葉も述べていたが、<マスコミの一部は…>という堂々とした批判をしてもよかっただろう。朝日新聞らの報道ぶりやデモに怯んだのか、与党・自民党の閣僚や議員にも朝日新聞らに対する反論をするのにやや消極的な面があったような印象ももつ。
 こんなことでは、いかなる手順によるにせよ、憲法改正(の国民投票)はとてもできない。今回すでに山田洋次や吉永小百合らの「左翼・映画人」が反対声明を出していたが、本番?の憲法改正(とくに現九条二項の削除と「国防軍」の設置)では今回以上に激しい<反対>運動が起こる(日本共産党や朝日新聞社が中心として起こす)ことは間違いない。心ある政治家・国会議員たちは、周到な<左翼・マスメディア>対策を(もっと)用意しておくべきだろう。
 二 朝日新聞は「国民の知る権利」や表現の自由・集会の自由を持ち出して<物言えば唇寒き時代の到来>とかの批判もしていたようだが、安倍内閣を批判することを目的とするレトリックにすぎない。何ら真剣な検討を必要としないものだ。
 朝日新聞が「国民の知る権利」を擁護・尊重する側につねには立たない<ご都合主義>の新聞であることは、以下のことでも明らかだ。
 2010年秋のいわゆる尖閣・中国船衝突事件の衝突の際のVTRは、当時においてかなり多くの海上保安官が観ていたようだが、今次の秘密保護法の「特定秘密」には当たらないと政府は答弁している。当時も、警察・検察当局は公務員法上の「職務上知り得た秘密」漏洩罪で逮捕せず、また起訴しなかった。
 しかし、当時の民主党内閣・仙谷由人官房長官はVTRを公にした一色正春を「犯罪者」扱いし、一色の気持ちは分かるが政府・上級機関の方針にはやはり従うべきだとの世論をある程度は作り出した。そして、一色は懲戒停職1年の行政的制裁をうけ、-この処分にもっと抵抗していてよかったのではないかと思うが-一色は依願退職した(おそらくはそのように余儀なくされた)。
 さて、「国民の権利」を充足させたのは一色正春であり、「中国を刺激したくないという無用な配慮から、一般への公開に後ろ向きだった」(読売新聞2010.11.06社説)のは当時の民主党政権だったのは明らかだと思われる。
 しかるにこの当時、朝日新聞はいったい何と言っていたか。2010.11.06朝日新聞社説はつぎのように書いた(一部)。
 「流出したビデオを単なる捜査資料と考えるのは誤りだ。その取り扱いは、日中外交や内政の行方を左右しかねない高度に政治的な案件である。/それが政府の意に反し、誰でも容易に視聴できる形でネットに流れたことには、驚くほかない。ビデオは先日、短く編集されたものが国会に提出され、一部の与野党議員にのみ公開されたが、未編集の部分を含めて一般公開を求める強い意見が、野党や国民の間にはある。/仮に非公開の方針に批判的な捜査機関の何者かが流出させたのだとしたら、政府や国会の意思に反する行為であり、許されない。/もとより政府が持つ情報は国民共有の財産であり、できる限り公開されるべきものである。政府が隠しておきたい情報もネットを通じて世界中に暴露されることが相次ぐ時代でもある。/ただ、外交や防衛、事件捜査など特定分野では、当面秘匿することがやむをえない情報がある。警視庁などの国際テロ関連の内部文書が流出したばかりだ。政府は漏洩ルートを徹底解明し、再発防止のため情報管理の態勢を早急に立て直さなければいけない。/流出により、もはやビデオを非公開にしておく意味はないとして、全面公開を求める声が強まる気配もある。/しかし、政府の意思としてビデオを公開することは、意に反する流出とはまったく異なる意味合いを帯びる。短絡的な判断は慎まなければならない」。
 この朝日新聞社説は「短絡的な判断は慎まなければならない」との説教を垂れ、「もとより政府が持つ情報は国民共有の財産であり、できる限り公開されるべきものである」と言いつつも、「外交や防衛、事件捜査など特定分野では、当面秘匿することがやむをえない情報がある」と書いて、民主党内閣の方針を擁護し、政府の「非公開の方針に批判的な」者が「流出させたのだとしたら、政府や国会の意思に反する行為であり、許されない」と、VTR公開者・情報流出者を批判したのだ。
 かかる当時の朝日新聞の主張は、今次の特定秘密保護法案に対する態度と首尾一貫しているか。「外交や防衛…など特定分野」には「当面秘匿することがやむをえない情報がある」という主張を、ここでいう情報は今次の「特定秘密」よりも広いと解されるが、最近の朝日新聞は述べていただろうか。「政府の意に反し、誰でも容易に視聴できる形でネットに流れたことには、驚くほかない」と上では書いていたのだが、このような「政府の意に反し」た情報の取材・報道が困難になる、不可能になる、今年の秋は狂ったかのごとく騒いでいたのではなかったか。
 別に驚きははしないが、2010年秋には「国民の権利」よりも「政府の意」の方を優先させていたことは明らかだ。この「ご都合主義」はいったい何だろう。政権が民主党にあるか安倍・自民党等にあるかによって使い分けられている、と理解する他はない。
 「国民の権利」も表現・集会の自由も朝日新聞にとっては主張のための「道具」にすぎず、政治状況・政権政党の違いによって適当に異なって使い分けられているのだ。
 以上の理解および批判に朝日新聞の社説執筆者等は反論できるか? <安倍批判(・攻撃そして退陣へ)>を社是とする「政治結社」の朝日新聞にできるはずがない。

1044/石井聡と櫻井よしこ論考+政治部記者の法的感覚。

 〇すでに批判的に言及した月刊正論9月号巻頭の櫻井よしこ論考(談)を、産経新聞8/21の「論壇時評」で、石井聡は、こう紹介している。
 「『菅災』が大震災や原発事故対応にとどまらず、外交面でも国益を大きく損なったと批判するジャーナリストの櫻井よしこは『希望がないわけではありません』という〔出所略〕。民主、自民両党の保守系議員らが『衆参両院の各3分の2』という憲法改正の高いハードルを2分の1に下げることを目指す『憲法96条改正を目指す議員連盟』で既成政党の枠を超えた活動を始めており、これが日本再生への起爆剤となると期待しているからだ。/同時に櫻井は『不甲斐ないのは自民党現執行部』と、菅の延命を見過ごした野党第一党の責任を問うている。谷垣禎一総裁の下で『相も変わらず、元々の自民党の理念を掲げていない』と憲法改正に取り組む熱意の薄さを批判し、民主党政権と『大差のない政策しか提示し得ていない』と言い切る」。
 以上が全文で、「時評」と掲げるわりには論評部分はない。
 この石井聡や最近に吉田茂の「軍事参謀」だった辰巳栄一に関する著書(産経新聞連載がもと)を刊行した湯浅博等々のように、産経新聞社内には、屋山太郎や某、某等々の知名度はよりあると思われる者たち以上の知見と文章力を持った論客がいると、とくに最近感じているのだが、上の後半部分、とくに櫻井よしこが自民党は「民主党政権と『大差のない政策しか提示し得ていない』と言い切」ったことについて石井聡は、あるいは産経新聞編集委員たちは、どう評価しているのかを知りたいものだ。
 産経新聞は民主党を厳しく批判してきたが、自民党を積極的に支持してきたわけでもなさそうだ。それは、産経新聞が自民党の機関紙のごとく世間的に印象づけられることが経営的にもマズいと判断しているからかもしれないが、よく分からない。
 だが、もともと産経新聞は自民党よりも「右」だという印象を持つ者も少なくはないだろう。一方また、西部邁や西尾幹二のように、産経新聞に対する批判を明言する「保守」派論者もいる。
 ともあれ、櫻井よしこに対する遠慮などをすることなく、個人名であるならば、自民党は民主党と「大差がない」という櫻井の理解が適切なものかどうかくらいにはもう少し立ち入ってみてもよかったのではないか。日本の今後にとっても基本的な論点の一つだろうから。
 〇産経新聞の8/14社説は「非常時克服できる国家を」等と題うち、菅直人政権の非常時対応について、こう書いた。
 「戦後民主主義者が集まる国家指導部は即、限界を露呈した。緊急事態に対処できる即効性ある既存の枠組みを動かそうとさえしなかったからだ。安全保障会議設置法には、首相が必要と認める『重大緊急事態』への対処が定められているが、菅直人首相は安保会議を開こうとしなかった。重大緊急事態が認められれば、官僚システムは作動し、国家は曲がりなりにも機能したはずである」。
 菅政権を「戦後民主主義者が集まる…」と規定していることも興味深い(誤りではないだろう)。さらに、菅首相(当時)の「不作為」として、安全保障会議設置法にもとづく同会議の招集の不作為のみを挙げ、一部?に見られた、①災害対策基本法による<緊急政令>発布の不作為、②武力攻撃事態等国民保護法の震災・原発事故への適用の不作為、を挙げていないのは、私と同じ適切な法的理解に立っているように思われる。このような社説(産経の「主張」)の中でこれらの①②も問責していれば、おそらく産経新聞は大恥をかいていただろう。
 さらに遡るが、但木敬一(元検事総長)は産経新聞7/27でこう論じていた(一部要約)。
 ・内閣法6条は「内閣総理大臣は、閣議にかけて決定した方針に基づいて、行政各部を指揮監督する」と定めるが、同法5条の1999年改正により閣議を内閣総理大臣が主宰する旨の規定に、「この場合において、内閣総理大臣は、内閣の重要政策に関する基本的な方針その他の案件を発議することができる」という文言が追加された。
 ・菅直人首相が「特に7月13日、官邸に記者を集め、脱原発を提唱したのは、内閣法の精神にもとるように思われる。エネルギー政策の転換は、国民生活、経済活動に幅広く、かつ深刻な影響を与える。従来の内閣の方針に明示的に反する政策の大転換は、まさに『内閣の重要政策に関する基本的方針』そのものではないのか。各国務大臣がそれぞれの観点から複眼的に閣議で論議すべき典型的事例であり、閣議を経ずして総理が独断で口にすべきことではない」。
 このように但木は、菅による「脱原発」との基本政策の表明を、内閣法(法律)違反ではないか旨を述べている。
 首相のあらゆる言動が(浜岡原発稼働中止要請も含めて)閣議による了解(または閣議決定)を必要とするかは、上の内閣法6条「内閣総理大臣は、閣議にかけて決定した方針に基づいて、行政各部を指揮監督する」の射程範囲の理解または解釈にかかわる議論が必要だし、すでにあるものと思われる。「内閣の重要政策に関する基本的な方針その他の案件を発議」する権限が、「重要政策に関する基本的な方針」の決定・表明に関する<義務>なのかどうかも議論する余地はなおあるだろう。
 むろん政治的・政策的な検討や議論はなされてよいのだが、上で指摘しているのは「法的」検討の必要性であり、「法的」論点の所在だ。
 菅直人による(閣議を経ない)浜岡原発稼働中止要請や(閣議を経ない)「脱原発」基本政策表明がはたして法的にあるいは法律上許容されるのか、という問題があるはずなのだが、産経新聞の阿比留瑠比も含めて、どの新聞社の政治部記者たちも、そうした法的問題があるという意識自体をほとんど欠落させたままで日々の記事を書いているのではないか。これはなかなか恐ろしい事態だ、というのが先日に書いたことでもある。

1043/屋山太郎は「恥を知れ」と指弾されるべき。

 民主党「たらい回し」野田政権成立にかかわって書きたいことも多いが、とりあえず書きやすいテーマでごぶさたを埋めておこう。
 産経新聞9/02の「正論」欄で岡崎久彦は「官僚を使えなかった教訓学ぶ」という見出しを立てて、こう書いている。
 「官僚の使い方を知らなかったことに気付いたということも大きい。〔中略〕/日本人は誰も任務をサボろうなどとはしない。そんな時に上から、思い付きで、チョロチョロ小知恵を出すのが一番いけない。政治家の決断は必要であるが、決断の必要は、緊急事態ほど、応接に遑ないほど後から後から、下から上がって来る。その都度、果断な決断を下し、その責任を取るのが上に立つ人の任務である。/事件が起きてから有識者の意見を求めるなどは本末転倒である。意見は普段からよく聞き、有事には決断しなければならない。忙しい時に有識者会議など人選して招集するなどは、部下に余計な事務の負担を強いることになる。/その点、今や全て反省されている。民主党政権ができて以来、現在までに国民が被った損害、負担は少なからぬものがあるが、それで教訓を得たというならば、将来の二大政党体制にとってはプラスとなったといえよう」。
 同じく産経新聞8/24に但木敬一(元検事総長)はこう書いていた。
 「わが国の危機を深めたのは、政治主導という無意味なスローガンによって官僚機能を破壊してしまったことである。憲法上も法律上も、行政権は内閣に属しており、各省の権限は大臣に集中している。政治主導はわが国の基本的システムであり、これをことさらに提唱することは、自らの統治能力のなさを独白するに等しい。/それによって何が起こっているか。大臣が壁となった省庁間の情報の切断と省庁を超えた官僚による解決策の模索の放棄である。極端な大臣は、省の重要な政策決定の場から官僚を排除し、副大臣、政務官とだけ協議するという手法を用いた。そこで決断できないときは、いわゆる有識者の意見で政策を決定することになった。官僚たちは、官僚の出すぎと叱責されることを嫌い、以前にも増してリスクをとることを避け、自主的に判断することを躊躇し、待ちに徹することになる。行政の意思決定は明らかに遅くなり、外交・内政を問わず、頓珍漢な大臣コメントが出され、朝令暮改されるケースも珍しくなくなった」。
 岡崎久彦のように将来のための良い教訓になったと楽観的に?見てよいかは疑問なしとしないが、民主党政権のもとで、<政治主導>(=官僚支配の打破)のかけ声の下で生じたことを、上の二人は、適確に述べていると思われる。外務・検察官僚OBで、より一般的な官僚OBではないが、さすがに事態を適切に把握している。
 一言でいえば、民主党内閣は、行政公務員を(行政官僚を)うまく使いこなすことができなかったのだ。それは自らの行政(・関係行政法令)に関する知識の足りなさを自覚することなく、議員出身というだけで行政官僚よりも<すぐれた>知見を持っている、というとんでもない「思い上がり」によるところが大きかっただろう。そんな、行政官僚に実質的には軽視・侮蔑される副大臣や政務官が何人いたところで、適切に行政(多くは法令の執行)がなされるはずはない。
 ところで、再述になるが、「政治主導の確立と官僚主導の排除」の問題を「公務員制度改革」の問題へと次元を小さくし、さらに<天下り禁止>の問題に矮小化しているのが、屋山太郎と櫻井よしこだ。
 最近に書いたように、屋山太郎の意見を紹介しつつ、櫻井は、菅政権のもとで<以前よりも官僚が強くなった(以前よりも「勝手を許」した)>のが問題だ、という事態の把握をしている。
 屋山太郎は産経新聞8/16の「正論」欄でこう書いていた。
 2009総選挙の際に(民主党が)「最も人心を捕らえたのは『天下り根絶』の公約だっただろう。〔中略〕/民主党は『天下り根絶』と『わたり禁止』を標榜(ひょうぼう)した。天下りをなくすということは肩たたきという役所の慣行を変えることである」。
 これが実践されなかったと嘆いた?のち屋山は、「『天下り根絶』の旗降ろすな」という見出しを立てて、こう続ける。
 「代表選に当たって、民主党はあくまで、『天下り根絶』の意思があるかどうかを争点にすべきだ。/公務員制度を改革し、政治主導の司令塔としての国家戦略局、独法潰しのための行政刷新会議を設置(立法化)できるかどうかで、民主党の真価が決まるだろう」。
 この屋山太郎という人物によると、現今の政治課題で最重要なのは、行政官僚の<天下り禁止>を実現するか否か、にあるようだ。
 同じようなことを月刊WiLL等々でも書いている。
 どこかズレているか、同じことだが焦点の合わせ方が違っているか、政治課題全体を広く捉えることができていないことは明らかだ。
 この人物によると<天下り禁止>さえできれば世の中はバラ色になるが如きだ。
 <政治主導>〔官僚支配の打破)なるかけ声の問題性は、上の二人が述べているように、<天下り禁止>の問題に矮小化されるようなものではない。
 やや離れるが、上の産経新聞「正論」で屋山太郎は「蠢く『小鳩』よ、恥を知れ」という見出しで小沢一郎らを批判している。しかし、屋山太郎こそ「恥を知れ」と言われなければならないだろう。
 2009年総選挙の結果について<大衆は賢明な選択をした>と明言し、自民党を批判しつつ民主党に期待したのは他ならぬ屋山太郎だったことを忘れてはならない(この点は当時に正確に引用したことがある)。
 そのような民主党への期待が幻想にすぎなかったことはほぼ明確になっているが、二年前の自らの期待・評価・判断が誤っていたということに一言も触れず、読者等を民主党支持に煽った責任があることについて一言も詫びの言葉を述べていないのが、屋山太郎だ。
 屋山は自らを恥ずかしいと思っていないのか? 無責任だと思わないのか? こんな人物が「保守」派面をして産経新聞等々の「保守」派らしき新聞・雑誌に登場しているのだから、日本の「保守」派もレベルは低いと言わざるをえない。
 政府の審議会の委員を何年か務めたくらいで、政治・行政、政権・行政官僚関係をわかったような気がしているとすれば大間違いだろう。冒頭の二人のように(佐々淳行もそうだが)、実務経験の長かった行政官僚OBの方が、はるかに、政治と行政公務員の関係をよく理解し、適切に問題把握している、と見て間違いはない。

1035/国民保護法の適用は可能か?-佐々淳行著(幻冬舎)を1/3読む②等。

 〇「その損害が異常に巨大な天災地変又は社会的動乱によつて生じたものであるとき」は免責する旨を定原子力損害賠償法〔原子力損害の賠償に関する法律〕3条第一項但書に関する政府の解釈もマスメディアの議論も不明瞭なままではないか旨を先日8/02に記した。
 産経新聞の「主張」=社説をさかのぼって見ていると、「原子力賠償法案/『国の責任』はっきり示せ」と題する7/29付のそれで、次のように論及されていた。他紙は調べていない。
 「損害賠償をめぐる議論には、最初からボタンの掛け違いがあった。原子力事故の際の補償を定めた原子力損害賠償法では、異常に巨大な『天災地変』の場合、電力会社は賠償を免責され、国が責任を負うと定めている。/しかし、菅直人政権は初めから、この条項の適用の可否を議論することなく、東電の『無限責任』を前提にしてきた。そこにそもそもの根本問題がある」。
 菅内閣はやはり上の法律の解釈問題にほとんど立ち入らず、事業者の「無限責任」を前提にしているようだ。ここにも法律または法令の順守=誠実な執行ではなく「政治」・「政策」=国民の人気取りの方を優先しようとする菅直人内閣(・民主党内閣)の本質の一端が見られるように思われる。
 〇さて、佐々淳行・ほんとに彼らが日本を滅ぼす(幻冬舎、2011)への言及をつづける。
 一 第二章「危機管理の検証」の既読の最初あたりまでは、佐々は、安全保障会議設置法と国民保護法の適用を主張し、それをしなかった菅内閣を難詰している。
 国民保護法の問題は別に扱うが、前者による安全保障会議の招集・開催については(その要件も充足しており)それをすべきだっただろう旨は私もこの欄で既に書いた。
 興味深く、かつなるほどと思わせるのは、佐々淳行が推測する、菅直人が上の諸法律を適用しなかった理由だ。
 佐々は次のように言っている。
 ・自衛隊・警察という「力のあるもの」には「生理的に体質的に拒否反応」があり、できるだけ「平和的に、事勿れの楽観論」をとるという「左翼特有の基本姿勢」があったからではないか(p.77)。
 ・「市民運動家の感覚で生理的に…実力部隊の国家的掌握を嫌い」、「地方分権、非権力主義的権力分散の発想」で今回の大震災に取り組んだ。都道府県・市町村を中心主体とする災害対策基本法を使い、「なるべく自衛隊や警察機動隊を使わないですまそうとしたにちがいない」(p.78)。
 ・上の二つの法律の適用を拒否したのは、これらの法制の淵源が「有事法制の研究」にあり、菅直人は昔から「有事法制」に反対だったからだ(p.82)。
 安全保障会議についてこの指摘があたっているとすると、震災・原発事故後の政府の対応(不作為を含む)は人災・<政治災害>であり、「菅災」である可能性が高い。「左翼」政権であったがために、適切な対応ができなかったのだ。何という悲劇か。
 二 一方、国民保護法(武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律)の適用可能性を前提とする、佐々淳行の主張については、にわかには賛成しかねる。
 佐々は、次のように言う。-緊急的な「国民の保護のための措置」は「武力攻撃事態等」になされうるのであり、「災害」を含むとは明記されていなくとも、「武力攻撃事態等」の「等」に中に含めることができる(実質的にも東北被災地は武力攻撃を受けたに等しい惨状だ)。「列挙」には「限定列挙」と「例示列挙」があるが、国民保護法は「例示列挙」で、「必要に応じて同種同類のものは高度の政治行政の有権解釈で拡大解釈や準用が許される」(p.85-86)。
 「列挙」に関する説明は一般論としてはその通りだろう。問題は、国民保護法についてそれがあてはまるかだ。
 佐々淳行は立ち入っていないが、法律の名称にいう「武力攻撃事態等」とは何を意味するかを、当該法律自体がどう定義しているか等を明らかにすることを試みる(そのために条文を調べてみる)ことがまず必要かと思われる。
 国民保護法(上記のとおりで略称)2条第一項は次のように規定する。
 「この法律において『武力攻撃事態等』、『武力攻撃』、『武力攻撃事態』、『指定行政機関』、『指定地方行政機関』、『指定公共機関』、『対処基本方針』、『対策本部』及び『対策本部長』の意義は、それぞれ事態対処法第一条、第二条第一号から第六号まで(第三号を除く。)、第九条第一項、第十条第一項及び第十一条第一項に規定する当該用語の意義による。 」
 ここにいう「事態対処法」という略称は、国民保護法1条の中で明記されてように
、「武力攻撃事態等における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律」を意味する(平15法律79)。この事態対処法(略称)で「武力攻撃事態等」等の意味は定められている、というわけだ。
 従って、事態対処法(略称)をつぎに見てみる。
 この法律の1条の冒頭にまずこうある-「
この法律は、武力攻撃事態等(武力攻撃事態及び武力攻撃予測事態をいう。以下同じ。)への対処について、基本理念、国、地方公共団体等の責務、国民の協力その他の基本となる事項を定めることにより、……」。
 「武力攻撃事態」とは「武力攻撃事態及び武力攻撃予測事態」のことをいうのであり、それは国民保護法(略称)についても同じなのだ。これらの中に地震・津波災害や原発災害は含まれるのか?
 事態対処法(略称)2条は、「武力攻撃」・「武力攻撃事態」・「武力攻撃予測事態」を、さらに、次のように定義している。

   武力攻撃 我が国に対する外部からの武力攻撃をいう。
   武力攻撃事態 武力攻撃が発生した事態又は武力攻撃が発生する明白な危険が切迫していると認められるに至った事態をいう。
   武力攻撃予測事態 武力攻撃事態には至っていないが、事態が緊迫し、武力攻撃が予測されるに至った事態をいう」。  

 いかに大規模で深刻なものであっても、地震・津波災害や原発災害は「武力攻撃事態及び武力攻撃予測事態」の中には含まれないとするのがおそらくは適切な法解釈だろう。
 なお、「武力攻撃事態等」=「武力攻撃事態及び武力攻撃予測事態」なので、前者の「等」は、「武力攻撃予測事態」を意味することになるが、これは佐々の用語にいう「限定列挙」にあたる。「武力攻撃予測事態『等』」ではない。
 というわけで、すでに<有事立法>に簡単に触れる中で自然災害・原発災害は含まない旨を記したことがあるが、それは正しく、いわゆる国民保護法を今時の大震災・原発災害に適用することは、いかに高度の政治的判断をもってしても、「法的には」無理ではないか、と思われる。
 佐々淳行の本は最後まで読み続ける価値があると思っているが、全く瑕瑾のない書物だとは、残念ながら言えそうにないように見える。

1034/佐々淳行・ほんとに彼らが日本を滅ぼす(幻冬舎)を1/3読む①。

 佐々淳行・ほんとに彼らが日本を滅ぼす(幻冬舎、2011.07)を一気に1/3ほどまで読む(計245のところp.86まで)。以下、まずは順を追ってメモしておく。
 ・佐々によると、「菅氏は冥府魔界から人間界に這い出してきた魑魅魍魎の地底人の妖怪の類だ。ウソをいい、人を裏切り、人を欺し、自己愛と総理の椅子に一日でも長くしがみつくこと自体が(略)目的のエゴイストで、国家観も社会正義観もない。日本人の道徳律〔略〕のすべてを欠く。その人格は論評のしようもない程低劣、妖怪としかいいようのない恥知らずである」(序章p.11)。
 こうまで罵倒される首相も珍しいだろう。8/10にようやく明確な近日中の辞任を表明した。かかる人物を首相にならしめた契機になった2009総選挙に際しての、民主党への投票者は、どの程度反省し、後悔しているだろうか。数千万分の一票にすぎず、何の反省も後悔もないのかもしれない。むろん第一の主犯は、そのような投票行動を誘発した朝日新聞等の「左翼」マスメディアにあると思われるが。
 ・日々の新聞・テレビ報道等は断片的で非本質的なものを多く含むため、佐々のこの著によるこの間の経緯の叙述は、資料的にも、わずか5カ月のことだが歴史回顧的にも、大いに役立つ。 
 例えば、原子力対策特別措置法にもとづく「原子力緊急事態宣言」は3/11の午後7時3分に発令された、とされる(p.27)。
 政府(・枝野内閣官房長官)が当初、直接の危険はないが「万全を期すため」と称して規制・指導を行ったこと、最初の塔屋爆発後の政府・東電の混乱や情報提供の不備等々も、具体的に叙述されている。
 ・3/25の福島第一原発付近住民への<自主的な避難の要請>が、原子力災害対策特別措置法による正規の避難「指示」・「勧告」だと「放射性物質による汚染拡大を正式に認定することになり、周辺住民の不安に拍車をかけかねない」(下記新聞)という理由での、中途半端かつ人任せの無責任な措置だったことも、毎日新聞3/26記事を引用しながら指摘している(p.52-53)。
 ・他にも、「菅直人という人間の宿痾ともいうべき『責任逃れ』」、「専門家への丸投げ」、会議・本部の「二〇以上の組織」の乱造、「惨憺たる」東電・原子力安全保安院等の「広報体制」等が言及されている。
 ・佐々によると、原子力安全委員会委員長・斑目春樹は、3/12の首相現地視察に同行して(塔屋爆発前に)「原発は大丈夫です。構造上爆発しません」と進言したらしい(p.59)。
 ・ 4/04に東電は第一原発の汚染水の海中放出を始めた。これは原子炉等規制法64条による(緊急)措置らしい。このように、法学部出身警察・危機管理官僚だった人物らしく、根拠法令(・条項)やその有無にも配慮された叙述がなされているのが、一般新聞・テレビ報道などとは異なる。
 もっとも、この緊急措置の実施は、関係自治体や諸外国への事前連絡・根回しがなかったために混乱や批判も生じた(p.63-64)。
 ・佐々は、5/06の、菅直人首相による浜岡電発運転停止要請に対しても批判的だ。
 理由をあえて整理すれば一つは「法的根拠」のないこと、二つは「人気取り」の側面が大きく、「電力需要への責任など、菅総理は毛頭感じていない」のだろうということ、両者に関連して「政府での検討過程も明らかにされていない」こと、が挙げられている。
 かつてこの欄で、法的根拠がなくとも行政指導ならばできるだろう旨を書いたことがある。厳密な法的理屈はそのとおりだと今でも思うが、重要な政策決定についてはいかに「要請」ではあっても、少なくとも「閣議決定(了解)」くらいは得ておくべきだ、内閣総理大臣かぎりでの行政指導・「要請」権限は濫用されてはならない、ということは今の時点で追記しておきたい。

 ・東電が第一原発一号機は津波襲来から16時間後に「メルトダウン」していたことを認めたのは、5/12だった(p.72)。確認まで二ヶ月以上も要する(p.72)ものなのか、東電は隠してはいなかったのか、疑問は残るだろう。
 
・「言った、言わない」の「水掛け論は、菅内閣の特徴にして看過できない悪弊」だとして具体例も挙げられている(p.73-74)。佐々は第一原発所長・吉田昌郎の継続注入の判断を「称賛に値する」としているが、海水注入延期問題も斑目春樹の「言った、言わない」水掛け論的だった(p.72-73参照)。
 ・第一章は、「菅内閣は危機管理以前に、組織としての体を成していない。/…この人は組織というものがわかっていない」、「保身に走り、言い訳を繰り返す姿は醜い」等と、まとめられている(p.74)。
 本来書きたかったことは、次の国民保護法に関する叙述についてだ。次回以降にする。

1033/菅直人と「法治国家や議院内閣制」等々。

 一 昨年の参議院選挙の前に「たちあがれ日本」という政党のそれこそ立ち上げに石原慎太郎が尽力または協力していたようで、当時、石原慎太郎は都知事を辞めて国政選挙に出て参議院議員となり、<最後のご奉公>をするつもりではないか、と感じたことがあった。また、そうであれば、この政党は石原の知名度の助けもあってかなりの議席を取れるのではないか、とも予測した。
 石原慎太郎の議員立候補とはたぶん無関係に、櫻井よしこらをはじめ、<真の>保守政党に少なくとも自民党よりは近いらしいこの政党に期待する向きも(保守論客の中には)多かったようだが、選挙結果は芳しくなかった(なお、山田宏らの「創新党」は議席一つすら獲得できなかった)。
 今でも、石原慎太郎が今年の都知事選挙に結局は立候補するくらいならば、昨年の国政選挙に出てもらいたかったと思うのだが、このあたりの話題は雑誌・週刊紙類でほとんど読んだことがない。
 二 「たちあがれ日本」には、平沼赳夫の他に片山虎之助がいるようだ。
 この片山のウェブサイトによると、片山虎之助は、7/22に参議院予算委員会で次のように発言した。このサイト内の「メールマガジン」によると、最後の第五点は次のようだ。
 ⑤「首相の『脱原発依存』の記者会見は、まさか個人の意見表明ではなかった筈で、言いっ放しでなく、本当の政策転換につなげて行く努力が求められる。しかし、首相には法治国家や議院内閣制についての認識が乏しいような気がしてならない」。

 最後の指摘の根拠はこれだけでは必ずしもよく分からないが、第二次補正予算案の6割近く(復旧・復興予備費)についての、「使途を決めない、政府に白紙一任するような8千億円の予算は、国会軽視で問題だ」という指摘(②)は根拠の一つなのだろう。
 阿比留瑠比の産経7/31の文章によると、片山は「菅直人首相は法治国家や議院内閣制に正しい理解があるのかなと思う。自分だけで独裁者であったら、この国は回りませんよ」と述べたらしい。こちらの方が、上のメールマガジンの文章よりは臨場感がある。
 そして、阿比留も指摘しているように、菅直人の答弁が「従来の長い自民党のやり方は、ほとんどの決定を官僚任せにしてきたのを見てきたので…」というものだったとすると、まことに菅直人は「法治国家や議院内閣制」について何も理解していないように思える。
 ところで日本国憲法66条第三項には、こうある-「内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負ふ」。
 この条項を現菅直人内閣はきちんと履行しているだろうか。今さら指摘するようなことでもないが、首相と経産大臣の意思疎通のなさ、後者の涙ぐみ答弁、「忍」との手文字等々は、内閣不一致も著しく、とても<連帯して>国会=国民の代表機関に対して責任を負っている、とは思えない。これだけでも十分に内閣不信任に値するとすら感じるが。
 三 菅直人は憲法を松下圭一から学んだとか書いたか発言したはずだ。岩波新書に「市民自治の憲法理論」等々を書いている「左翼」出版社お墨付きの学者・松下圭一は、しかし、憲法学者ではなく、政治学者。「憲法の専門家」がどの程度信頼できるかという問題はあるが、そもそも松下は憲法の専門家ですらないのだ。
 菅直人はまた国際政治を永井陽之助に学んだ、とかも書いているか発言したはずだ。
 松下圭一の名をとくに出すことも含めて、このような菅直人の学者名の列挙は、むしろ憲法・政治・国際政治等々に関する基礎的な学識のなさを窺わせる。なぜなら、これらをきちんと勉強していれば、それぞれの分野で一人ずつくらいの名前しか挙げられないはずはなく、首相たる者は、問われてあえて挙げるとすれば誰にするか、困るというほどでなければならないはずだ。そして、通常は、名指しできない人物に失礼にあたるので、影響を受けた学者の特定の氏名などを、首相が簡単に挙げたりはしないものだろう。
 しかるに、菅直人の<軽さ>=無知蒙昧さはここでも極まっている。社会系の学者の名を挙げて、理系出身の自分でもきちんと勉強して知っていますよ、と言いたいのかもしれないが、叙上のような特定の数人の専門書(らしきもの)しか読んだことはないのではなかろうか。そして、菅直人の脳内に蓄積されているのは、<市民活動>の中でてっとり早く読んできた、諸団体の機関紙類の断片的で煽動的な(学問性の乏しい)、かつ「自民党政治」を批判する目的のものを中心にした、論理や概念なのではなかろうか。
 鳩山由紀夫に続いて、菅直人もダメだ。ひどいレベルにある。「たらい回し」されるかもしれない民主党の三番目の人物ははたして大丈夫なのか?? 

1030/原子力損害賠償法・エネルギー政策基本法と菅直人・マスメディア。

 〇原子力損害賠償法〔原子力損害の賠償に関する法律〕3条第一項は、次のように定める。
 
「原子炉の運転等の際、当該原子炉の運転等により原子力損害を与えたときは、当該原子炉の運転等に係る原子力事業者がその損害を賠償する責めに任ずる。ただし、その損害が異常に巨大な天災地変又は社会的動乱によつて生じたものであるときは、この限りでない」。
 ここでいう「原子力事業者」とは原子炉等規制法〔核原料物質、核燃料物質及び原子炉の規制に関する法律〕23条・23条の2・13条第一項・43条の4第一項・44条第一項・51条の2第一項・52条第一項のいずれかの「許可」を受けた者をいうので(同法2条第三項)、福島第一原発等の事故にかかる事業者は東京電力となる。
 さて、この規定は、損害賠償につき一般的・原則的な過失責任主義を採っていない(=無過失責任主義を採る)ことを明らかにしている、とされる。但し、完全な無過失・結果責任を要求しているわけでもなく、上記のとおり、「異常に巨大な天災地変又は社会的動乱によつて生じたものであるとき」は免責されるものと定めている。
 かねて不思議に思ってきたのは、この規定の解釈が政治・行政界でまともに議論されたことはなく、マスメディアにおいて話題にされたこともほとんどないと見られることだ。
 むしろ、おそらくは上にいう免責される場合にはあたらないことを当然に前提として、早々に、原子力損害賠償法自体にもとづく「原子力損害賠償紛争審査会」が発足し、議論を始めている。
 上の免責規定には該当しない、すなわち、「異常に巨大な天災地変又は社会的動乱によつて生じたもの」ではない、ということを内閣も各政党も、そしてマスメディアも十分に納得したうえで、損害賠償に関する細かな議論は進めてほしかったものだ。
 たぶん4月中の毎日新聞だっただろう、与謝野馨が上の免責条項に該当するので東電は免責される旨を言ったら、枝野幸男がそんな解釈には法律改正が必要ですよ(=今の法律のままだと東電は免責されない)と反論した、というような記事を読んだ。見出しになってもおらず、記事本文中の一部だったが、じつに基本的・根本的な問題に触れていたのだ。
 結論としてはどちらでもよい、と言えば語弊はあるし、最終的な決定権者は裁判所なのだが、政府として、上の法律の重要な関係条項をどのように解釈して損害賠償関係事務を遂行していくかは、きちんと明確にして国民(・マスコミ)に対して公表しておくべきだっただろう。
 ひょっとすれば、それはなされていたのかもしれない。そうだとすると、この点について重要な報道対象としなかった日本のマスメディアは、いったいいかなる「法的」感覚をもっているのかと、恐怖に近いほどの感想をもたざるをえない。
 東京電力を擁護する意図はないが、「異常に巨大な天災地変
」による損害か否かは、議論するに足りる論点だったと思われる。
 また、この法律の裏付けをもって被害者が権利として要求(請求)できる損害賠償(金銭による償いの一つ)と、東電や国等が<見舞金>的に行う、被災者=弱者救済という目的も含めての、政策的な金銭給付とは、論理的にはきちんと区別されなければならない。
 これらは、「法的」議論のイロハなのではないか?
 こうしたことが曖昧にされたまま?何となく事態が進行するのは、<法的秩序感覚>を不快な方向に動揺させる。
 〇産経新聞7/30付社説は、以下のことを述べている。
 菅直人内閣の「エネルギー・環境会議」が「原発への依存度を下げていく」ことを目指し、2050年までに原発を減らす工程表を作る方針を打ち出したが、「そもそも、首相は本来あるべき手続きを無視している。エネルギー政策は『エネルギー政策基本法』に基づき策定され、変更する場合、エネルギー基本計画を変えなければならない。策定者は経済産業相と決まっている。だが、首相は原発を推進してきた経産省の影響力排除を狙い、国家戦略室による見直しにこだわっている。その結果が今回の中間整理である」。
 菅直人とその内閣が<法律を誠実に執行>しているのか疑問を呈したところだが、阿比留瑠比の産経新聞7/30付「日曜日に書く/順法精神見あたらぬ菅首相」とともに、産経新聞だけは(?)、「本来あるべき手続」等の表現でもって、菅直人・同内閣の政治・行政スタイルの異様さを指摘し始めた(?)ようだ。
 上の産経社説が指摘している例は、<法律を誠実に執行>していないどころか、明らかに<違法な法令執行>をしているのではないか。左であれ右であれ、(現行の)法律に従っていない内閣・行政権は、それだけで厳しく糾弾・指弾されるべきではないのか??
 阿比留瑠比の文章の中に出てくる片山虎之助(たちあがれ日本)の発言を探してみたりしたのだが、長くなったので、次回以降に委ねる。

1028/菅内閣は「法律を誠実に実施」したか-その3。

 菅直人および同内閣の<法的>感覚は少なからず異様であり、その点を問題にしないマスメディアもまたどうかしているのではないか。
 前回までの続きで第三に、中西輝政も言及している災害対策基本法にもとづく措置に触れる。
 災害対策基本法24条によると、内閣総理大臣は「非常災害が発生した場合において、当該災害の規模その他の状況により当該災害に係る災害応急対策を推進するため特別の必要があると認めるとき」は、「臨時に内閣府に非常災害対策本部を設置することができ」、設置したときはその旨を「直ちに、告示」しなければならず、同法28条の2によると、内閣総理大臣は「著しく異常かつ激甚な非常災害が発生した場合において、当該災害に係る災害応急対策を推進するため特別の必要があると認めるとき」は、「閣議にかけて、臨時に内閣府に緊急災害対策本部を設置することができ」、設置したときはその旨を「直ちに、告示」しなければならない。後者が設置されたときは、前者は廃止される(28条の2第三項)。
 今時の東日本大震災のときは発生日の3/11に、後者の「緊急災害対策本部」が正式に設置されたようだ。
 原子力災害対策特別措置法にも同様の規定があり、福島第一原発事故発生後に、同法16条にもとづいて、「原子力災害対策本部」が3/11に設置されたようだ。なお、災害対策基本法の場合と違って、これの設置には前提として内閣総理大臣による「原子力緊急事態宣言」が必要なので(同法16条)、この宣言もなされたものと見られる。
 「原子力災害対策本部」が置かれる前提となる「原子力緊急事態宣言」にかかる原子力緊急事態」については、災害対策基本法にもとづく「緊急災害対策本部」に関する諸規定は適用されないので、原子力(原発)災害とこれ以外の地震・津波災害について、「原子力災害対策本部」と「緊急災害対策本部」という二種の<対策本部>があった(今でもある)ことになる。
 地震・津波災害にかかる災害対策基本法のシステムと原子力災害対策特別措置法のそれとの大きな違いは、前者には「災害緊急事態」の布告という制度が上記の災害対策本部の設置とは切り離されて存在することだ(原子力災害の場合は、「原子力緊急事態宣言」→「原子力災害対策本部」で、一体化されている)。

 すなわち、災害対策基本法105条第一項によると、「非常災害が発生し、かつ、当該災害が国の経済及び公共の福祉に重大な影響を及ぼすべき異常かつ激甚なものである場合において、当該災害に係る災害応急対策を推進するため特別の必要があると認めるときは、内閣総理大臣は、閣議にかけて、関係地域の全部又は一部について災害緊急事態の布告を発することができる」。
 この布告は「区域」・それを「必要とする事態の概要」・「効力を発する日時」 を明記して行われなければならず(同条第二項)、また、事後的な国会による承認が必要等の定めもある(106条)。
 この「災害緊急事態の布告」を、現菅内閣は行なっていない。「当該災害が国の経済及び公共の福祉に重大な影響を及ぼすべき異常かつ激甚なものである場合において、当該災害に係る災害応急対策を推進するため特別の必要があると認めるとき」に該当しない、との判断をしたことになるが、はたして適切だったのかどうか。安全保障会議の招集・開催に関して書いたことと同様の問題を指摘することができるだろう。
 次に述べるように、この布告がいかなる法的意味をもつかが問題であるとはいえ、この布告だけをしておくことも法的には可能だったはずだ。
 さて、「災害緊急事態の布告」の重要な法的意味は、それを前提として、いわば<緊急(非常時)政令>を制定することができ、かつその政令(内閣が制定する)は次の事項を定めることができる、とされていることだ。以下は、109条第一項各号。 
 
 その供給が特に不足している生活必需物資の配給又は譲渡若しくは引渡しの制限若しくは禁止

   災害応急対策若しくは災害復旧又は国民生活の安定のため必要な物の価格又は役務その他の給付の対価の最高額の決定
   金銭債務の支払(賃金、災害補償の給付金その他の労働関係に基づく金銭債務の支払及びその支払のためにする銀行その他の金融機関の預金等の支払を除く。)の延期及び権利の保存期間の延長

 これらの制限(権力的規制)に対する違反には罰則を定めることも可能だと定められている(同条第二項)。
 中西輝政は、前々回に言及したウェッジ7月号p.9で、次のように書いている。
 首相が105条にもとづき「災害緊急事態」を布告すれば、「生活必需品の配給や日本中のガソリンを1カ所に集めて東北に送ることも、物資の買占めを制限することもできたにもかかわらず」、政府は布告せず、不可欠の各種制限をしなかった、と。
 だが、このような中西輝政の理解と叙述は誤っている、と考えられる。
 以上では意識的に省略したのだが、109条は、いわば<緊急(非常時)政令>を制定することができる場合を、「災害緊急事態に際し国の経済の秩序を維持し、及び公共の福祉を確保するため緊急の必要がある場合」とするほか、次の限定を加えている。
 「…の必要がある場合において、国会が閉会中又は衆議院が解散中であり、かつ、臨時会の召集を決定し、又は参議院の緊急集会を求めてその措置をまついとまがないとき」。
 つまり、国会開会中等の期間には<緊急政令>を発することはできないのだ。3/11から今日まで、国会は開会され続けている。従って、「政府」>内閣かぎりでの判断によって、各種制限をすることはできないことになる。
 だからといって、「災害緊急事態の布告」をしない、という決定的な理由になるわけではないだろう。また、上記のような諸事項(各種制限)は、<緊急政令>によってではなく開会中の国会による法律制定によって行うことができるのは当然で、内閣はいうまでもなく法律案を作成して国会に提出することはできた。
 法的性格のあいまいな要請・お願い等々の弱腰の(?)措置を多用するのではなく、必要ならば、きちんと法律を改廃したり、新法律を制定すればよかったのだ。
 はたして、それだけの見識と十分な意欲があったのかどうか、はなはだ疑わしい。そういう状況になった理由・背景の大きな一つはおそらく、<政治主導>とやらで、行政官僚が有している関係法令についての専門的知識とそれにもとづく「補助」を、菅直人らが嫌悪し忌避したからではないかと思われる。行政官僚を軽視した、彼らの意欲をそぐ<政治主導>とやらは、大災害に際して、国民をより<不幸な>状態に追いやってしまっているのではないか。

1027/「ストレステスト」の法的問題性-「権威による行政」。

 <法令による行政>を軽視している(そして<権威による行政>を行っているのではないか)という感想は、(前回からのつづきで)第二に、「ストレス・テスト」導入をめぐるいきさつからも生じる。
 産経ニュースをたどれば、菅直人は7/07に参議院委員会で、民主党・大久保潔重の「首相自ら再稼働の条件について説明してほしい」との質問(・要求)に対して、次のように答えている。
 「従来の法律でいえば点検中の原子炉の再開は(経済産業省)原子力安全・保安院のチェックで経産相が決められるが、それでは国民の理解を得るのは難しい。少なくとも原子力安全委員会に意見を聞き、ストレステストも含めて基準を設けてチェックすることで国民に理解を得られるか、海江田氏と細野豪志原発事故担当相に仕組みの検討を指示している」。
 玄海原発再稼働にかかる地元町長と佐賀県知事の同意を得られそうになった時点で、菅直人が「ストレス・テスト」なるものの必要性を唐突に(?)かつ独断的に言い出して、<政治的>にも話題になった。また、上の発言に見られるように、「ストレス・テスト」の具体的内容・基準について細かな想定のない抽象的なイメージしか持っていないことも明らかだった。
 ここで問題にしたいのは、あとで自民党・片山さつきがストレステスト(合格)は再稼働の要件かと質問しているが、
海江田万里経産大臣が「今回、佐賀県玄海町の岸本英雄町長には(玄海原発の)安全性が確保されているとして(再稼働の同意を)お願いしたが、そういうわけにいかなくなった」等と述べているように、結果的にまたは実質的には、再稼働の要件を厳しくしていると見てよいことだ。
 ここでも(より十分な)安全性の確保・確認が大義名分とされている。しかし、詳細は知らないが「法律」とはおそらく原子炉規制法〔略称〕およびそれの下位の法令(・運用基準?)を意味するのだろう、菅直人の言うように「従来の法律でいえば点検中の原子炉の再開は(経済産業省)原子力安全・保安院のチェックで経産相が決められる」のだとすれば、そのような法律(・法令)上の定め以上に厳しい基準を再稼働について課すことは、原発・電気事業者からすれば、法令で要求されていないことを内閣総理大臣の思いつき(?)的判断でもって実質的に要求されるに等しい。
 これは関係法律の「誠実な執行」にあたるのだろうか? 「ストレステスト」なるものがかりに客観的にみて必要だとしても、内閣総理大臣の唐突な思いつきで事業者に対して実質的により大きな負担を課すことになるものだ。そうだとすれば、関係法律(または政令等)をきちんと改正して、あるいは関係法律の実施のために厖大な「通達」類があるのかもしれないがその場合は「通達」類をきちんと見直して改訂したうえで、「ストレステスト」なるものを導入すべきだろう。
 菅直人のあまりにも<軽い>あるいは<思いつき>的発言は、個々の関係法律(上の言葉にいう「従来の法律」)をきちんと遵守する必要はない、それに問題があれば内閣総理大臣という地位の<権威>でもって法令以上のことを関係者に要求し実質的に服従させることができる、という思い込みまたは考え方を背景としているのではないか。
 <軽い>・<思いつき>・<唐突>といった論評で済ますことのできない問題がここには含まれている、と思われる。既存の法令類に必ずしも従う必要はなく、それらの改廃をきちんと行っていく必要もない、そして首相の<権威>でもって「行政」は動かすことができる、と菅直人は考えているのではないか。<独裁者>は、法令との関係でも「独裁」するのだ。
 その他の民主党閣僚等も自民党幹部も、このような菅直人の言動の本質的な部分にあるかもしれない問題を、どの程度意識しているだろうか。
 瞥見するかぎりでは、かかる<法的>感覚または<法秩序>感覚にかかわる問題関心・問題意識は、一般全国紙等々のマスメディアにはない。阿比留瑠比(産経)は有能な記者だと思うが、法学部出身者らしいにもかかわらず、<法令と行政>の関係についての問題意識はおそらくほとんどない(少なくとも彼が執筆している文章の中には出てこない)。阿比留瑠比がそうなのだから、他の記者に期待しても無理、とでも言っておこうか。
 まだ、続ける。

1026/菅直人・民主党内閣は「法治行政」ではない「権威による行政」志向?

 一 よく分からないことが多すぎる。菅直人は、あるいは民主党内閣そのものが、そもそも<法律にもとづく又は法律にしたがった>行政活動という考え方を理解していないか、無視する傾向にあるように感じる。法律(やそれ以下の政令等)の制定・改廃そのものが<政治>でもあるが、法律や政令等(以下、法令)があるかぎりは、それを内閣総理大臣をはじめとする行政部は遵守し、きちんと実施・執行すべきものだろう。また、既存の法令に不備・不都合があれば、淡々と改正や新法令の制定をすべきものだろう。
 現憲法73条は、「内閣」の事務の一つとして「法律を誠実に執行」することを明記している(第一号)。
 はたして菅内閣は「法律を誠実に執行」しているのだろうか、あるいはそもそも、そういう姿勢・感覚を身につけているのだろうか。菅直人にあるのは、<法的権限にもとづく政治・行政>よりも<権威による政治・行政>をより重視しようという感覚ではないかと思われる。法律は「国家」権力そのものなので、それをできるだけ忌避したいという<反国家>=<反法律>心情を有しているのではないかとすら疑いたくなる。あるいは、何となく国家中枢が溶融していて、シマリがないように感じてしまうのは、法令を遵守した行政とそうではない政治的に自由な(具体的な法令が存在しないために法令から自由な)行政との区別がきちんとついていない、ということにも原因があるのではないだろうか。
 以下、専門的な議論に立ち入る能力はないが、いくつかの具体例を紹介し、またはそれらに言及する。こうした諸問題があるにもかかわらず、テレビの報道系番組はもちろんのこと、一般全国紙もまた、以下のような<法的>議論・問題についてほとんど論及することがないのは、いったい何故なのだろうか、というのも、最近感じる不思議なことでもある。
 二 安倍晋三らもすでに批判的に指摘していることだが、今時の大震災・原発事故に関して、法律上の「安全保障会議」が召集・開催されなかった、という問題がある。

 安全保障会議設置法(法律)によると、同会議は内閣に設置され、議長と議員で組織され、議長を内閣総理大臣、「議員」を総務・外務・財務・経済産業・国土交通大臣・防衛の各大臣、内閣官房長官、国家公安委員会委員長およびこれら以外に内閣総理大臣の臨時の職務代理者(内閣法10条)があるときはその者、が担当する(4条・5条)。
 内閣総理大臣は、次に記す事項については、この会議に「諮らなければならない」と定められている(2条1項。 また、諮問なしにでも「意見を述べる」ことができる-2条2項)。
  その法定の事項のすべてを列挙するのは省略して、今時の震災・事故が該当する(または、その可能性がきわめて高い)のは、9つの事項のうち最後に明記されている以下の事項だ。
 「
 内閣総理大臣が必要と認める重大緊急事態(武力攻撃事態等、周辺事態及び前二号の規定によりこれらの規定に掲げる重要事項としてその対処措置につき諮るべき事態以外の緊急事態であつて、我が国の安全に重大な影響を及ぼすおそれがあるもののうち、通常の緊急事態対処体制によつては適切に対処することが困難な事態をいう。以下同じ。)への対処に関する重要事項 」。
 一~八に列挙されているのは大雑把には国防(・防衛)の基本方針・大綱類あるいは「武力攻撃事態」・「武力攻撃予測事態」、「周辺事態」に関する重要事項であり、今時の大震災・原発事故に直接の関係はなさそうだ(但し、この災害を奇貨としてのテロ・内乱等が予想されれば、全くの無関係ともいえないことになろう)。
 さて、今時の大震災・原発事故は、その地域的な広さおよび原発事故の深刻さの程度からみて、上にいう「我が国の安全に重大な影響を及ぼすおそれがあるもののうち、通常の緊急事態対処体制によつては適切に対処することが困難な事態」に該当するように考えられる。一~八号は別としても、今時のような災害発生が上の九号に該当しないとすれば、そもそもいかなる事態が九号に該当することになるのか(何のために九号があるのか)、きわめて疑わしいものと思われる。
 たしかに上の事項には「内閣総理大臣が必要と認める~」という限定が付いており、内閣総理大臣の判断の<裁量>性が認められ、内閣総理大臣が「必要と認め」なければ安全保障会議に諮るべき事項ではないということに形式的にはなりそうだ。
 しかし、今時の大震災・原発事故は、「我が国の安全に重大な影響を及ぼすおそれがあるもののうち、通常の緊急事態対処体制によつては適切に対処することが困難な事態」だと、内閣総理大臣が認めてしかるべき事態ではないかと思われる。すべてが内閣総理大臣の<政治的・政策的>な、自由な判断に委ねられている、とは考え難い。
 そうだとすると、安全保障会議が招集・開催されず、「重要事項」についてその会議に諮ることなく震災や原発事故への対処がなされたことは、菅直人首相による「必要と認める」ことの懈怠を原因とする、安全保障会議設置法の基本的な趣旨に違反した違法な対応だったのではないか、と考えられる。
 むろんその「違法」が法的にまたは裁判上どのように、またはどのような形で問題にされることになるのかはむつかしい問題があるだろう。だが、かりに訴訟・裁判上の問題に直結しなくとも、たんなる<政治>領域に押しやることができず、客観的には<違法=法律違反>を語ることができる場合のあることを承認しなければならないだろう。
 まだあるが、長くなったので、第二点以降は、次回へと委ねる。
 なお、上記法律7条には、「議長は、必要があると認めるときは、統合幕僚長その他の関係者を会議に出席させ、意見を述べさせることができる」とも定められている。

1025/非常事態への対応に関する法的議論。

 <保守>派に限られるわけでもないのだろうが、ときに奇妙な<法的>言説を読んでしまうことがある。
 表現者37号(ジョルダン、2011年7月)の中の座談会で、柴山桂太(1974~、経済学部卒)は、こんな発言をしている(以下、p.46)。
 「今回の大震災に関しても、…、復旧に関しては、ある程度超法規的措置をとらなければいけない。本来であれば国家が、非常事態で一時的に憲法を停止して…それで対応しなければいけないんだけれども、日本ではそれが出てこない。そもそも戦後憲法に『非常事態』というものに対する規定がないからです」。「日本は近代憲法を受け入れたんだけれども…、平時が崩れた時にどうするかという国家論の大事な部分を見落としてきたという問題も出てきている…」。
 問題関心は分からなくはないが、俗受けしそうな謬論だ。この柴山という人物は憲法と法律を区別しているのか(その区別を理解しているのか)、「超法規的措置」という場合の「法規」に憲法は含まれるのか否か、といった疑問が直ちに生じる。
 そして、「一時的に憲法を停止」しなければ非常事態に対処できないという趣旨が明らかに語られているが、これは誤りだ。
 憲法に非常事態(あるいは「有事」)に関する規定がなくとも、あるいは憲法を一時的に「停止」しなくとも、憲法とは区別されるその下位法である法律のレベルで、<非常事態>に対処することはできる。
 なるほど日本国憲法は「非常事態」に関する規定を持たないが、1947年時点の産物とあればやむをえないところだろうし、ドイツ(西)の憲法(基本法)もまた、当初から非常事態(Notstand)に関する規定を持ってはいなかった(彼我の現在の違いは改正の容易さ-いわゆる硬性憲法か否かによるところも大きいだろう)。
 憲法が非常事態に対処するための法律を制定することを国会に禁止しているとは解せられないので(実際に、いくつかの「有事」立法=法律およびそれ以下の政令等が日本にも存在している。但し、いわゆる「有事立法」は自然災害を念頭には置いていない)、自然災害についても、現行法制に不備があれば法律を改正したり新法律を制定すれば済むことなのだ。
 ともあれ、憲法に不備があるから非常事態に対応できない、というのは(不備は是正されるのが望ましいとは言えても)、真っ赤なウソだ。
 JR系の薄い月刊誌であるウェッジ7月号(2011)の中西輝政「平時の論理で有事に対処/日本は破綻の回路へ」も、今回のような大災害に遭遇したとき、本来は「国家非常事態」を宣言して「平時の法体系とは別の体系」に移行すべきだったが、戦後日本の憲法には「そんな条項」はなく、「従って非常法体系も備わってはいなかった」と、柴山桂太と似たようなことを書いている(p.9)。
 しかし、<憲法の一時停止>に(正しく)言及してはおらず、「平時の法体系とは別の体系」・「非常法体系」とは法律レベルのものを排除していない、と解される点で(日本国憲法に触れているために少し紛らわしくなってはいるが)、基本的には誤っていない。
 上のことは、中西輝政が「現行法にもある災害対策基本法第105条」に(正しく)言及していることでも明らかだ。
 次の機会に、「現行法」制度の若干を紹介し、それを菅直人内閣が適切に執行・運用しているかどうかという問題に言及する。これは、 阿比留瑠比も含む「政治部」記者が―法学部出身であっても―十分には意識していない(または十分な知識がない)問題・論点であり、震災に関するマス・メディアの報道に「法的」議論がほとんど登場してこない、という現代日本の異様な状態にも関係するだろう。

1007/朝日新聞6/08付社説のいいかげんさ。

 朝日新聞6/08付社説は、大阪府の日の丸・君が代起立斉唱条例の成立に関連させて、次のように締めくくる。
 「橋下知事は、自ら設立した政党で議会の過半数を押さえ、首長と第1党が一体となって物事を決めていこうとしている。/だが多数派の首長政党が少数意見に耳を貸さなければ、議会は形骸化する。/多数決主義は民主主義の基本である。一方で、多数を握る側が少数派の声をくみあげ、多くの人が納得できる結論に収斂させていく作業を怠れば、議会制民主主義は成り立たない」。
 「議会制民主主義」のはずの国政については、朝日新聞はこう主張すべきであることになろう。
 <菅直人首相は、自ら設立した政党で議会(衆議院)の過半数を押さえ、首相と第1党が一体となって物事を決めていこうとしている。/だが多数派の民主党が少数意見に耳を貸さなければ、議会は形骸化する。/多数決主義は民主主義の基本である。一方で、多数を握る側が少数派の声をくみあげ、多くの人が納得できる結論に収斂させていく作業を怠れば、議会制民主主義は成り立たない。>
 このような主張を、朝日新聞は国政について行なってきたか?
 相変わらず嗤わせる。
 なお、朝日の上の社説は「地方自治は、予算案の提出や執行権をもつ首長と、チェック機能や議決権をもつ議会がそれぞれの立場で責任を果たす二元代表制をとっている」と書いている。
 「二元代表制」と「議会制民主主義」は矛盾しないかの書きぶりだが、この二つはそうではあるまい。はしなくも、この点でも、朝日新聞社説執筆者の見識の甘さ・いいかげんさを露呈しているようだ。

1003/独裁者・菅直人、一刻も早くクビをとるべきだ。

 一 かりに目的がよくても為政者はいかなる手段を用いてもよいわけではない。

 万が一「共産主義」社会が理想的なものであっても、その社会実現のために、邪魔になる「反共」主義者をその思想ゆえにのみすべて殺害することは許されるのか?。

 菅直人は、上と似たような発想をする<独裁者>のようだ。

 なるほど浜岡原発は、その立地において他の原発と比べて地震・津波の安全性に疑問が高いように見える。安全性の確保が(東北地方・太平洋側の原発とともに)急がれる原発かもしれない。

 上のような印象がただちに浜岡の「運転停止」を正当化するものではない。この点についても検証が必要だが、これもスルーして、浜岡は「運転停止」すべき原発だということが合理的判断だ、ということにしてみよう。

 そうしてみたところで、内閣総理大臣による「停止」要請が正当化されるわけではまっくない。

 二 菅直人による今回の要請はなるほど唐突であり、総合的・長期的考察を欠いているだろう。

 だが、より大きな問題は、内閣総理大臣たる菅直人が(口頭によったのか文書によったのかも新聞紙上では不明確ななままで)「要請」という<行政指導>によって、「運転停止」を実現しようとし、かつ実現しそうだ、ということにある。

 菅直人は、法律と行政に未熟な、かつ「左翼」的心性をもった菅直人は、その「独裁者」ぶりを、いよいよ発揮してきた。

 三 自民党の石波茂(政調会長)は菅直人の措置の「根拠」を問題にしているが、相手方が任意に協力してくれるかぎりでの「行政指導」に具体的な法的根拠(法律上の根拠条項)は要らないだろう。

 だが、思い出しても、バブルを終熄させたのは、1990年3月の大蔵省銀行局長の「行政指導」通達だった(農林系金融機関は対象外だったことが大きな問題を残したことは周知のとおり)。

 このときはたかが銀行局長の…と感じたものだが、今回は内閣総理大臣たるものの「要請」=「行政指導」だ。建て前上、行政指導に拘束力はない、従うか否かは相手方の任意といってみたところで、強く規制・監督されるかわりに強く保護されている電力会社が内閣総理大臣の「要請」を拒否できるはずがない、と考えるのが常識的な感覚だろう。

 そして、菅直人によると「指示や命令は現在の法制度は決まっていない」らしいのだが、「現在の法制度」では不可能なことを、便宜的な「行政指導」という措置で実現しようとした、かつその意思形成過程はほぼ菅直人の脳内にあり、わずかにせよ存在するはずの国(行政)の意思形成システムをもほとんど無視してそれはなされた。ここに問題の本質がある。

 四 浜岡原発の運転停止を求める「指示や命令は現在の法制度は決まっていない」のだとすれば、そのような正規の法的権限を与えるように原子炉等規制法等を改正して、内閣総理大臣または経済産業大臣等に<運転停止>権限を付与するのが、正常な法的感覚だ。

 そんな悠長なことをいっておれない、緊急性を有する、と菅直人は考えたのかもしれない。しかし、幸い?国会は開会中で、官僚たちに指示して原案を作らせて国会で審議すれば、菅直人の浜岡原発の焦眉の危険性が国会議員多数に共有されるかぎり、数週間で法律は(場合によっては政令・省令も)改正できるはずだ。

 法律改正が難航して、いよいよ浜岡原発が危ない、となれば、その時点で停止「要請」しても間に合うだろう。国会での審議中に浜岡に放射性物質にかかわる震災または津波が起こったときにかぎり、菅直人の措置は結果として(カンが当たったとして)正当化されるだろう。

 なぜ、関係法令の改正をしようとしないのか、なぜ、そのための改正案を菅直人(内閣)は国会に提出しないのか。

 「熟議を」とかいいながら、国会を軽視・無視している菅直人(そして民主党)内閣の本質が一段と明らかになっている。

 国会の軽視・無視、国会に諮らないままでの事案処理、これはまさしく<行政独裁>であり、さらにほとんど菅直人の脳内でのみ意思形成がなされたようであることも含めて、<菅直人の独裁>に他ならない。

 五 場当たり的、人気取り、原発政策全体との整合性は?、とかの批判は当たっていないことはないだろう。

 だが、最大の問題は、現行法制上は不可能なことを内閣総理大臣たる菅直人個人の「行政指導」で行った、という点にある。目的さえよければ(菅直人は「国民の安全と安心」のためと明言している)、現行法制を無視して、いかなる事項・問題でも首相の「行政指導」によって実現する、という道が拓かれた、という点にある。これを座視すれば、今後のその他の問題でもまた、同様のことが繰り返されるだろう。「国民の安全と安心」のために、現行法制では決められていないので「行政指導」で、という行政スタイルが構築されようとしている。しかもまた、その「行政指導」にあたって、行政部内全体での十分な検討が行われたようにも見えないのだ。

 国会軽視・無視の、かつ行政部内全体の調整も不十分なこの行政スタイルは、菅直人(個人)による<独裁体制>だ、と言って過言ではない。

 六 目的さえよければ、手段はどうでもよいとするのが「左翼」の基本的な発想だ。さっそく日本共産党・社民党、そして民主党系・容共らしき川勝某静岡県知事は<英断を歓迎する>と述べている。

 そこには、法律(国会)と行政の関係あるいは行政にかかわる法秩序感覚は乏しい。

 一種の非常事態の中で、日本の立憲主義、法治主義は危機に瀕している

 菅直人という政治・行政の「素人」が、まがりなりともある程度は築かれてきた日本的な立憲主義、法治主義を破壊している。

 そのような深刻な危険性を、今回の浜岡「停止要請」はもつものだ。この点を良識ある人々は鋭敏に見抜くべきだ。

 菅直人はあぶなっかしいのではなく、現に危ない。独裁者は退場させなければならない。早くクビを取らなければならない。

 七 菅直人のクビを取ること、そしてさらにそもそも「現行法制」はどうなっているのか、について次回以降に書く。

 三万人近い死者にとっては「勇気を」、「希望を」等々とか言っても空しいだけだ。死者が、どのようにして「勇気」・「希望」をもちうるのか?? そう感じ、言葉の無力さをひしひしと感じてしばらくこの欄に向かわなかったが、菅直人の行動により「日本」という国家がさらに一段と自壊していくのを感じて、再び文章をつづる気になった。

0930/仙石由人・枝野幸男の卑劣な詭弁-「刑事事件」にしたくなかった筈なのに。

 一 11/01に<尖閣ビデオ>を「視聴」対象を短くし、かつ一部の国会議員にのみ「視聴」させたことにつき、社民党・福島みずほや民主党政府に対して<ふざけるなと言いたい>と書いた。

 11/06の深夜現在も、政府側は全面<公開>の方向性を示していない。

 二 いわゆる流出後の11/05に仙石由人健忘(・官房)長官は、「捜査記録」であるために<公開>できない旨を、あるいは「捜査の観点から言っても」流出が問題視される旨を言ったらしい。

 また、枝野幸男・民主党副幹事長は、「刑事訴訟法」の観点からも全面<公開>できない旨を(少なくともその観点を含めて公開の是非は考えるべき旨を)述べたようだ。

 何を言っているのか、この二人は。この議論に何となく同意したい民主党(または民主党政権)支持者もいそうだから、あらためて書いておく。<ふざけるな>。

 三 なるほど、情報公開法5条六号によると(前回は言及しなかったが)「公にすることにより、次に掲げるおそれその他当該事務又は事業の性質上、当該事務又は事業の適正な遂行に支障を及ぼすおそれ」があるときは開示(公開)しないことができる旨を定め、その事務・事業の例として「争訟に係る事務」を明記している(六号ロ)。

 なお、海上保安庁自体の事務・事業すなわちその任務・所掌事務の遂行一般のいずれかに「支障を及ぼす」おそれがある、という主張もありえそうだが、仙石、枝野はそうは主張していないようだ。

 また、そもそも「流出者」として海上保安庁職員も疑われているようであることからも示されるように、ビデオが公開されても海上保安庁の<仕事>に悪い影響は与えないのではないか。むしろ、その仕事の苛酷さ等が国民によく判り、同庁職員の「士気」も上がって、「支障を及ぼす」おそれがあるのではなく、逆に<利益を及ぼす>ものと常識的には考えられる。

 さて、仙石・枝野の主張は情報公開法にあてはめると、上記のとおり、主としては、「争訟」に関する情報性を根拠とするかに見える。

 だがこれはふざけている。詭弁だ。

 たしかに、<処分保留>で釈放したのだから、いかなる(刑事)処分をするかはまだ決定されていない、刑事訴訟法の手続に入る可能性はある、その意味で訴訟で証拠資料として使われる可能性がある「捜査記録」にはなるのだろう。

 しかし、上はあくまで論理的にはまたは抽象的には想定できる<可能性>にすぎない。

 そしてそもそも、その可能性が現実になるように仙石等の現内閣や枝野らの民主党幹部は努力しているのか。すなわち、釈放した中国人(「船長」)の身柄拘束と日本への移送を、仙石や民主党は中国政府(・共産党)に求めているのか??

 仙石らは隠蔽・糊塗しているつもりかもしれないが、もともと<刑事事件>にしたくなかったからこそ、那覇地検は勾留決定まで得ていたにもかかわらず(そして実際に勾留していたにもかかわらず)、換言すれば那覇地検は<刑事事件>にするつもりだったにもかかわらず、それをなしくずしにし、(ここではもう経緯は省略するが)<釈放>して(させて)しまったのだ。

 仙石も菅直人も、正規の<刑事事件>にしたくなかったのだ。

 それを今になって、あるいは<釈放>後ずっと、<刑事事件>(となる可能性のある)関係情報(>ビデオ)だから国民一般に<公開>することはできない、と理屈づけるとは、何と言う卑劣な詭弁だろう。

 自ら「捜査」の継続を諦めさせておいて、「刑事訴訟」手続になることをさせないでおいて、「捜査記録」だからとか、「刑事訴訟法」上の問題があるとか、よくも言えたものだ

 呆れてものが言えない。<ふざけるな>という他ない。

 「赤い」健忘(・官房)長官・仙石由人は現役「左翼」活動家としていくらでも平気で詭弁を弄するだろうことは理解できるが、枝野幸男まで、仙石みたいなことを言う人物だとは知らなかった。

 これまで国民の「知る権利」という言葉を使っていないが、社民党や民主党「左翼」こそが、この概念を使って自民党中心内閣の政治・行政の「公開」あるいは「透明性」を要求してきたと思われる。

 仙石も枝野も、この概念・言葉は忘れてしまったのだろう。

 四 ついでに。傾向的には「左翼」こそが、捜査・尋問・調書作成過程の<透明性>・<可視化>を要求している。

 今回のビデオは日本国民のいかなる「プライバシー」を侵害するものではないし、海上保安庁の今後の活動を阻害しないことはもちろん、地検の捜査・起訴活動に何の不利益も与えないと考えられる。

 このことは、元警察官僚トップの佐々淳行が「今回の映像は初動段階で公開すべきもので、国家機密でも何でもない。それを菅内閣が勝手に機密化した」とコメントしたようであることからも、明らかだろう。

 被疑者との尋問過程にはるかに及ばない今回のようなビデオの「公開」・<可視>化を怖れて、いったい何をもって捜査・尋問・調書作成過程の<透明性>・<可視化>を要求できるのか??
 「左翼」・仙石よ、民主党よ、<ふざけるな。>

0925/岡崎トミ子は「警察庁」と「警視庁」の区別ができているか?

 岡崎トミ子は国家公安委員会委員長というブラックジョークのような地位についているが、11/02に、警視庁の内部資料のネット掲載問題につき、閣議後の記者会見で<情報管理の重要性は「きちんと警察に指示している」と述べた>らしい。そのあと、<「警察で管理しなければならないものがネット上に出ていると、こういうことですよね?」と逆質問>という珍?問答もしたらしい。

 上の後半はさて措くとして、国家公安委員会委員長に、「警察に指示」する法的権限はあるのか?? とりわけ今回の文書管理者は警視庁という、法的または形式的には東京都に属する組織だ。

 国家公安委員会は内閣府設置法により、その外局として置かれる(同64条)。

 具体的な権能・権限等は警察法が定めていて、国家公安委員会は五人の委員により構成される(同4条2項)。この委員会の委員長には「国務大臣」があてられるが(同6条1項)、委員長が独自に権限を行使するのではない。いわゆる合議制の行政委員会であり、委員長は「会務を総理し、国家公安委員会を代表する」にすぎない(同6条2項)。

 以上からでもすでに、岡崎が、<警察に指示した>などと簡単に発言していることに疑問符がつく。いつ、そのための委員会の会議は行われたのか?

 国家公安委員会規則である国家公安委員会運営規則によると、「委員会は、会議の議決により、その権限を行う」(同2条1項)。 いつ、<警察への指示>のための国家公安委員会の会議・議事は行われたのか? とり巻いている新聞記者たちは、そういう疑問をまったく持たなかったのだろうか。

 委員会は警察法が定める委員会の任務・所掌事務の「運営の準則その他当該事務を処理するに当たり準拠すべき基本的な方向又は方法」を示す「運営の大綱方針」を定めることができ、「この大綱方針に適合していないと認めるとき」には「警察庁長官」に対して「必要な指示をするものとする」とされているが(2条4項)、第一に、これは委員会の権限で委員長かぎりでの権限ではないし、第二に、指示の相手方は国の機関の一つである「警察庁長官」であり、今回の件の「警視庁(総監)」とは直接の関係がない。
 また、警察法12条の2は「国家公安委員会は、第五条第二項第二十四号の監察について必要があると認めるときは、警察庁に対する同項の規定に基づく指示を具体的又は個別的な事項にわたるものとすることができる 」ととくに定めているが、ここでもまた、この権限の行使主体は委員長ではなく委員会であり、かつ、相手方は「警察庁」であって「警視庁」ではない。さらに、もともとこの条項は、対象事項を「第五条第二項第二十四号の監察」にとくに限定している。

 岡崎が述べたという<きちんと警察に指示している>とはいったい何だったのか。いかなる法的根拠にもとづいて、岡崎は、そんな大それたことを行うことができたのか。この人物をとり巻いている新聞記者たち等は、疑問に思わなかったのだろうか。寒心に堪えない。 

 ついでに書いておくが、第一に、国家公安委員会(委員長ではない)の基本的な任務は、「警察庁」を「管理」することだ。上のようの特段の定めがないかぎり、「警察庁(・長官等々)」の権限行使・事務処理に関して、個別具体的な指揮監督権を持っているわけではない。ましてや、委員長となると、委員会を代表するが、その構成分肢にすぎない。

 第二に、警視庁を「管理」するのは東京都公安委員会だ。国家公安委員会ではない。

 岡崎が「警察」と言ったとき、国の「警察庁」と東京都の「警視庁」の区別はついていたのだろうか。そもそも、「警視庁」とはいかなる行政組織なのかを理解していたのだろうか。

 委員会と委員長の区別も含めて、こんなことすら知らないで、「警視庁の内部資料」についてうんぬと述べているのだとすれば、当然に資質・資格が問われる。この人物をとり巻いている新聞記者等々は、何の疑問も持たなかったのだろうか。寒心に堪えない。

 新聞記者はともあれ、岡崎が上のとおりならば、即刻、辞任した方がよい。菅直人は罷免してもよい。ここに書いたことだけでも、十分な理由になる。

 なお、警察法5条4項に、「国家公安委員会は、都道府県公安委員会と常に緊密な連絡を保たなければならない」、とある。前者は後者に(直接に)<指示>する権限をもっているわけではない。念のため。

0842/最高裁判決の「傍論」だから「法的拘束力はない」?-外国人地方参政権問題の一つ。

 外国人(地方)参政権(選挙権)付与法案に関して論議がなされている。その際に、保守系論者・評論家の中から、<外国人地方参政権付与を許容したかのような最高裁判決(平成07.02.28)は傍論でそれを述べたのであり、法的拘束力はない>旨が発言または論述されることがある。
 かかる保守系論者・評論家の発言・叙述には(私は上記の案に反対だが)「ひとこと言っておきたいことがある」(「さだまさし」ふう)。ひとことではなく二言以上になるかもしれない。
 第一。そもそも、最高裁判決の理由中の一文(「傍論」だろうとなかろうと)が「法的拘束力」をもつとはどういう意味をもち、「法的拘束力」をもたないとはどういう意味をもつのか、きちんとわきまえて発言等をしているのだろうか。
 いわゆる東京裁判の「拘束」力についてもかなり近いことが言えるが、そもそも「法的拘束力」をもつ・もたないがいかなる法的意味をもつかを説明できない議論は無意味だ。
 専門的な詳細は知らないが、判決主文の「拘束」力、あるいは判決理由中の(とくに直接に主文に関係する)<争点>に関する記述の「拘束」力の有無や「拘束」を受ける者の範囲等々について、議論があるはずなのだ。
 もともと訴訟および判決は原則としては訴訟当事者の権利義務に関する紛争について提起され、出されるもので、厳密にいえば直接には、訴訟当事者にしか<効力>を及ぼさない。
 <法的拘束力>の有無をうんぬんする論者は<判例としての法的意味>を言っているつもりなのかもしれないが、それにしても判決理由中の叙述がいかなる<判例(理論)としての意味>をもつかは一概に答えられるものではなかろう。
 そして、<判例(理論)としての法的意味>だとしても、<傍論には法的意味(法的拘束力)はない>などと簡単に言い切れない、と考えられる。
 とりあえず<傍論>を主文=結論とは直接には関係のないつぶやき、某のいう「司法のしゃべりすぎ」のようなもの、と理解するとしても、<傍論>は全く無意味というわけではない。ある紛争の発生・訴訟の提起に応じて、結論とは直接に関係なくとも、判決を出す機会に最高裁としての法的見解をついでに述べておくという運用は頻繁ではないが(とくに最高裁では)行われているようだ。対立している下級審判決の統一、行政・立法への警告等の意味をもつこともあるのだろう。 
 某のいう「司法のしゃべりすぎ」は、主文=結論とは直接には関係のない<つぶやき>のすべてを指しているわけでもなかろう。
 傍論中の判示ではあっても<最高裁判例>(最高裁の考え方)として重要な意味をもたされている例もあることを私は知っている。
 第二に、上記の最高裁判決は憲法は外国人に(地方公共団体レベルでも)選挙権を保障していない、憲法上の権利として憲法上付与されるものではない、と言っている。原文はつぎのとおり(下線部は引用者)。
 憲法第三章による基本的人権の保障は、権利の性質上日本国民のみをその対象とするものを除き在留外国人に対しても等しく及ぶが、「憲法一五条一項にいう公務員を選定罷免する権利の保障が我が国に在留する外国人に対しても及ぶものと解すべきか否かについて考えると、憲法の右規定は、国民主権の原理に基づき、公務員の終局的任免権が国民に存することを表明したものにほかならないところ、主権が『日本国民』に存するものとする憲法前文及び一条の規定に照らせば、憲法の国民主権の原理における国民とは、日本国民すなわち我が国の国籍を有する者を意味することは明らかである。そうとすれば、公務員を選定罷免する権利を保障した憲法一五条一項の規定は、権利の性質上日本国民のみをその対象とし、右規定による権利の保障は、我が国に在留する外国人には及ばないものと解するのが相当である。そして、地方自治について定める憲法第八章は、九三条二項において、地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が直接これを選挙するものと規定しているのであるが、前記の国民主権の原理及びこれに基づく憲法一五条一項の規定の趣旨に鑑み、地方公共団体が我が国の統治機構の不可欠の要素を成すものであることをも併せ考えると、憲法九三条二項にいう『住民』とは、地方公共団体の区域内に住所を有する日本国民を意味するものと解するのが相当であり、右規定は、我が国に在留する外国人に対して、地方公共団体の長、その議会の議員等の選挙の権利を保障したものということはできない」。
 上の部分は外国人(地方)参政権(選挙権)付与に反対する保守系論者・評論家において、要旨的にでも言及されることが多い。
 だが、あくまで、憲法上は外国人(地方)参政権(選挙権)を保障していない、と述べているにすぎず、憲法は外国人(地方)参政権(選挙権)を<法律によって>付与することを禁止している、とまでは述べていない。
 憲法上付与されてはいないとしつつ、法律で付与することは憲法違反(違憲)になる、とも明言していないのだ。
 上のことを、上のような違いを、保守系論者・評論家はきちんと理解しているだろうか。
 そして、<法律で付与することまで憲法が禁止しているわけではない>旨を明言したのが、いわゆる「傍論」部分だ。原文はつぎのとおり(下線は引用者)。
 「憲法九三条二項は、我が国に在留する外国人に対して地方公共団体における選挙の権利を保障したものとはいえないが、憲法第八章の地方自治に関する規定は、民主主義社会における地方自治の重要性に鑑み、住民の日常生活に密接な関連を有する公共的事務は、その地方の住民の意思に基づきその区域の地方公共団体が処理するという政治形態を憲法上の制度として保障しようとする趣旨に出たものと解されるから、我が国に在留する外国人のうちでも永住者等であってその居住する区域の地方公共団体と特段に緊密な関係を持つに至ったと認められるものについて、その意思を日常生活に密接な関連を有する地方公共団体の公共的事務の処理に反映させるべく、法律をもって、地方公共団体の長、その議会の議員等に対する選挙権を付与する措置を講ずることは、憲法上禁止されているものではないと解するのが相当である。しかしながら、右のような措置を講ずるか否かは、専ら国の立法政策にかかわる事柄であって、このような措置を講じないからといって違憲の問題を生ずるものではない」。
 保守系論者・評論家は、憲法レベルと法律レベルでの問題をきちんと分けて論じているだろうか。
 この最高裁判決は小法廷判決だが、裁判官全員一致による文章として、上のように書かれたことの意味は(その当否・評価は別論として)小さくない、と思われる。<傍論だから法的拘束力はない>などと言って切り捨てて無視しようとすることはできないものと思われる。
 むろん、この部分を、特定外国人への(地方)参政権(選挙権)付与賛成論者が、最高裁が積極的に認めているとして援用するのも間違いだ。
 最高裁は法律レベルで、つまり国会による立法政策によって、<特定範囲の>外国人について(「国」政ではなく)<地方公共団体>レベルでの参政権(被選挙権を含めていないと解される)を付与するかどうかを判断できる、と言っている、と理解するのが、日本語文の素直な読み方だろう(繰り返すが、法律で付与しても、逆に法律で付与しなくても、どちらでも違憲ではない、と言っているのだ)。
 以上のようなやや複雑な(といって、さほど理解困難でもない)最高裁判決の論理構造(?)を、外国人(地方)参政権(選挙権)付与に反対する保守系論者・評論家はきちんと理解しているだろうか?
 第三。最高裁判決とは、最高裁判決の「理由」とは(「傍論」かどうかはともあれ)、いったいいかなる機能をもつものなのか。最高裁判決はその「理由」も含めて(少なくとも「傍論」でないかぎりは)、日本国民は金科玉条、高貴で権威あるものとして絶対視しなればならないものなのか?
 そんなことはない。確定したとされる最高裁の判例(理論)ですら、国民は批判することが可能だ。最高裁「判例」を最高裁自身が大法廷によって「変更」することも可能なのだ(追記すれば、最高裁の裁判官というのは、「戦後」の「平和と民主主義」教育―日本国憲法等にもとづく憲法等の教育を含む―のトップ・エリート的「優等生」たちであることを忘れてはいけない)。
 なぜこんなことを書くかというと、外国人(地方)参政権(選挙権)付与に反対する保守系論者・評論家の最高裁判決への言及の仕方には一種の<ご都合主義>が紛れ込んでいないか、という疑問がある。
 つまり、最高裁判決がいわゆる<傍論>において<保守派>にとって都合のよいことを書いていれば、彼ら<保守派>(といって私も広くは<保守派>のつもりなのだが)の多くは、<最高裁も傍論において(傍論ではあれ)述べているように……>などという言い方をして、自己の主張を正当化するために、最高裁判決の「傍論」を援用し、利用しようとするのではないか? かりにそういうことがあるとすれば、それは<ご都合主義>であり、最高裁判決に対する<ダブル・スタンダード>だ。
 こんな思考方法、議論の仕方としては朝日新聞的な「左翼」が採用するようなことを、まともでまっとうな<保守派>はしてはいけない。
 <傍論だから法的拘束力はない>とのフレーズが気になって書いておこうと思っていたが、思いの外、長くなってしまった。
 八木秀次はもちろん、百地章も、上のようなことをきちんとは書いてくれていないのではないか? だが私としては、上記最高裁判決の読み方も含めて、しごくまともなことを書いたつもりだ。
 上の最高裁判決を前提にしても、法律レベル、つまり立法政策レベルでの議論をきちんとすれはそれで足りる。この次元の問題についてはあえて書くまでもないだろう。

0645/日本の「戦後民主主義・親中」外務官僚のなれの果て?-産経コラムに見る岡本行夫。

 一 産経新聞12/30二面右上は岡本行夫のコラムで、先月に「田母神論文は検証に耐えない論拠でつづられている」と書いたらお叱りをうけた、から始まる。
 自分も「愛国心」をもった「日本人」だ、と反論するのがこのコラムの重要な趣旨のようだ。
 従って、田母神論文は検証に耐えない論拠でつづられている」との見解は取消されておらず、叱りに対して<詫びて>もいない。開き直っている。
 問題は開き直りの仕方で、まず、朝日新聞に北岡伸一等が田母神に対する「優れた論駁をしている」ので参照をとの趣旨を述べる。
 次に、司馬遼太郎が「昭和から戦前まで」を「日本がさまよいこんだ『魔法の森』」と呼んだことを挙げる。司馬遼太郎が昭和戦前を<暗い><間違った>時代と印象認識していたことは間違いない。
 だが、ともあれ、岡本が挙げるのは上の二つのみ。ただちに気のつくのは、この人は、「朝日新聞」と「司馬遼太郎」という<権威>(又は名声)を利用している、ということだ。自らの「検証」は何も書いていない。
 それにまた、朝日新聞が選択した論者に<左翼>偏向があるのは常識だと思うが、そんな考慮を何ら感じさせずに、堂々と「朝日新聞」を見よとの旨を書いているのに驚く。
 所謂司馬史観にしても、それが妥当・適切だと何故言えるのか。司馬遼太郎は個人的な体験・感覚に重きを置きすぎ、あの戦争に関する近時明らかになった史料も含めた知識を十分には持たないままで<感覚・イメージ>で書いている可能性がある。
 上のことから続けて、岡本行夫は自分も「愛国者」で、「近代に至る日本の文化と国民には素晴らしいものがあった。世界に誇れる歴史である」と書くが、「昭和から終戦」の「時代の軍国主義を別にすれば」と明記し、「昭和から終戦」の「軍国主義」時代は「素晴らしい」ことはなく「世界に誇れる歴史」ではない、と明言している。
 つまりこの人は、村山富市元首相・元日本社会党委員長と同じく、日本は「遠くない過去の一時期」に「植民地支配と侵略」をした(村山談話による)、という<歴史認識>に立っている。
 こんな歴史認識があることに驚きはしないが、産経新聞の目立つ場所に書かれていること、かつこのような人がかつては内閣の補佐官だったということ、にはあらためて寒気を覚える。
 岡本は元外務官僚だ。外務省の職員は全員がこのような認識のもとで、戦後日本の外交を担当してきたのだろう。宮沢喜一内閣時代の天皇陛下訪中・謝罪的発言も、「従軍慰安婦」にかかる河野談話も外務官僚たちがお膳立て・準備をしたのではないか(政治家もむろん問題だが)。また、安倍晋三官房長官(当時)が同行していなければ、金正日による拉致肯定もなく、さらにはいったん帰国した拉致被害者たちは外務省官僚の意向に添って再び北朝鮮に向かっていたのではないか。外務省こそが日本国家にとって最も<弱い環>になっているのではないかとの疑問が改めて湧く。
 岡本行夫個人の見解はどうでもよいとも言える。だが、外務省で培った認識・見解は変わらないのだろうし、それが産経新聞まで侵食していることが怖ろしい。
 二 岡本行夫のみならず、朝日新聞的な、より広くは<昭和戦前日本=「侵略」国家>と見るGHQ史観・「左翼史観」の人々に是非尋ねてみたいことがある。
 <昭和戦前日本=「侵略」国家=悪>だとすれば、日清戦争・日ロ戦争(の日本の勝利)はいったいどのように<歴史認識>されるのか??
 日清・日ロ戦争の勝利があったからこそ朝鮮半島併合もあり、「満州国」への日本軍駐在もあった。<昭和戦前日本=「侵略」国家=悪>だとすれば、その決定的要因は日清・日ロ戦争の勝利だったのではないか? そして、日清・日ロ戦争も遅れた「帝国主義」国・日本の「侵略」戦争だとして断罪するならば筋がとおっているとも思えるが、岡本行夫は、朝日新聞論説子は、その他の「左翼」諸氏は、この問題をどう考えているのかが、じつにはっきりしない。
 日清・日ロ戦争は「防衛」(自衛)のための(「正しい」)戦争で<昭和戦前>の戦争は「侵略」戦争だと言うならば、いかなる基準と論拠でそのように区別するのか、ご教示いただきたいものだ。
 日清・日ロ戦争は「勝利」だったから「正しく」、<昭和戦前>の戦争は「敗北」だったから「誤り」だった、などという程度の感覚で上のように主張する(又はイメージする)のならば、それは要するに「戦勝国」史観そのものではないのか。
 さらに言えば、日清・日ロ戦争勝利を用意した<明治>という時代、そして「明治維新」についてをも、その<歴史認識>の具体的内容を仔細に述べていただきたいものだ。
 若宮啓文に対してだって、問いたい。君は、日清・日ロ戦争について、「明治維新」について、いかなる<歴史認識>をもつのか。村山富市のいう「遠くない過去の一時期」はおそらく<昭和戦前>を指すのだろう。では、日清・日ロ戦争はどうなのか?、「明治維新」はどうなのか? 岡本もそうだが、<昭和戦前>についてエラそうに断定的なことをさも疑いが全くないかのごとく書くのならば、是非、上の問いにもきちんと答えていただきたいし、答えるべきだ。言うまでもなく、<昭和戦前>は少なくとも、「明治維新」→「日清・日ロ戦争(勝利)」を前提として築かれた歴史であって、これらと完全に切り離すことはできない筈だ。
 「明治維新」を、天皇を中心とした日本的(「半封建的」な)「帝国主義」形成への出発点と(日本共産党マルクス主義的に)位置づけるのならば、それでも構わない。だが、「明治維新」や「日清・日ロ戦争(勝利)」には口をつぐんで、<昭和戦前>のみを「侵略国家」だったと自虐的に断罪するのは奇妙ではないか(冒頭の岡本コラムは、「明治維新」や「日清・日ロ戦争(勝利)」は「世界に誇れる歴史」の中に含めていると読めるが、その理由まで述べてはいない)。
 三 正月は伊勢神宮を(も)参拝したい。だが、伊勢市内にはよいホテルが全くなく、手前の松阪市か先の鳥羽市・志摩市に宿泊しないとゆっくりできないのが難点だ(神社関係者には「神宮会館」とかがあるようだが)。

0539/樋口陽一・丸山真男らの「個人」主義と行政改革会議1997年12月答申。

 樋口陽一らの憲法学者が最高の価値であるかに説く「個人主義」又は「個人の(尊厳の)尊重」について疑問があることは、私自身が忘れてしまっていたが、振り返ると何度も述べている。
 この欄の今年(2008年)1/12のエントリーのタイトルは「まだ丸山真男のように『自立した個人の確立』を強調する必要があるのか」で、こんなことを書いていた。以下、一部引用。
 佐伯啓思・現代日本のイデオロギー(講談社、1998)p.197-8によると、「日本社会=集団主義的=無責任的=後進的」、「近代的市民社会=個人主義的=民主的=先進的」という「図式」を生んだ、「『市民社会』をモデルを基準」にした「構図」自体が「あらかじめ、日本社会を批判するように構成され」たもので、かかる「思考方法こそ」が戦後日本(人)の「観念」を規定し、「いわゆる進歩的知識人という知的特権」を生み出す「構造」となった。
 佐伯啓思・現代民主主義の病理(NHKブックス、1997)p.74-75によると、丸山真男らにおいて、「日本の後進性」を克服した「近代化」とは「責任ある自立した主体としての個人の確立、これらの個人によって担われたデモクラシーの確立」という意味だった。
 憲法学者の樋口陽一佐藤幸治も、丸山真男ら<進歩的>文化人・知識人の上記のような<思考枠組み>に、疑いをおそらく何ら抱くことなく、とどまっている。
 文字どおりの意味としての<個人の尊重>・<個人の尊厳>に反対しているのではない。だが、<自立した個人の確立>がまだ不十分としてその必要性をまだ(相も変わらず)説くのは、もはや時代遅れであり、むしろ反対方向を向いた(「アッチ向いてホイ」の「アッチ」を向いた)主張・議論ではなかろうか。少なくとも、この点だけを強調する、又はこの点を最も強調するのは、はたして時代適合的かつ日本(人)に適合的だろうか。
 有数の大学の教授・憲法学者となった彼らは、自分は<自立した個人>として<確立>しているとの自信があり、そういう立場から<高踏的に>一般国民・大衆に向かって、<自立した個人>になれ、と批判をこめつつ叱咤しているのだろう。
 かりにそうだとすれば、丸山真男と同様に、こうした、<西欧市民社会>の<進んだ>思想なるものを自分は身に付けていると思っているのかもしれない学者が、的はずれの、かつ傲慢な主張・指摘をしている可能性があるのではないか。
 憲法学者が戦後説いてきた<個人主義>の強調こそが、それから簡単に派生する<平等主義>・<全国民対等主義>と、あるいは個人的「自由」の強調と併せて、今日の<ふやけた>、<国家・公共欠落の・ミーイズムあるいはマイ・ホーム型思想>を生み出し、<奇妙な>(といえる面が顕著化しているように私には思える)日本社会を生み出した、少なくとも有力な一因だったのではなかろうか。
 以上。すでに1月に書いていたこと。
 同じようなことは繰り返し書いているもので、上に出てくる佐藤幸治にかかわることも含めて、<個人主義>の問題に1年半前の昨年(2007年)1月頃には、別の所で、こんなことを記していた。再構成して紹介すると、つぎのとおり。
 八木秀次・「女性天皇容認論」を排す(清流出版、2004)は皇位継承問題だけの本かと思っていたら、1999-2004年の間の彼の時評論稿を集めたものだった(07.1/06)。この本のp.167-171は、1府12省庁制の基礎になった橋本内閣下の行政改革会議の1997.12.03最終答申に見られる次のような文章を批判している。
 行政改革は「日本の国民になお色濃く残る統治客体意識に伴う行政への過度の依存体質に訣別し、自律的個人を基礎とし、国民が統治の主体として自ら責任を負う国柄へ転換すること」 に結びつく必要がある。「日本の国民がもつ伝統的特性の良き面を想起し、日本国憲法のよって立つ精神によって、それを洗練し、『この国のかたち』を再構築」することが目標だ。戦後の日本は「天皇が統治する国家」から「国民が自らに責任を負う国家」へと転換し、「戦時体制や「家」制度等従来の社会的・経済的拘束から解放され」たが、今や「様々な国家規制や因習で覆われ、…実は新たな国家総動員体制を作りあげたのではなかったか」。
 類似の認識は2003.03.20の中教審答申にもあるらしいが、八木によると行革会議の上の部分の執筆者は、「いわゆる左翼と評される人物ではない」、「近代主義者」の京都大学法学部の憲法学者・佐藤幸治らしい(07.1/12)。
 上のように、1997.12の行革会議最終報告は「自律的個人」を基礎に「統治客体意識に伴う行政への過度の依存体質に訣別」して「国民が統治の主体として自ら責任を負う」国のかたちへ変える必要を説いた。「様々な国家規制や因習で覆われ」た、「新たな国家総動員体制」のもとで、「自律的個人」が創出されていない、という認識を含意していると思われる。また、上の報告書は「個人の尊重」をこう説明している。-「一人ひとりの人間が独立自尊の自由な自立的存在として最大限尊重」されるべきとの趣旨で、国民主権とは「自律的存在たる個人の集合体」たる「われわれ国民」が統治主体として「個人の尊厳と幸福に重きを置く社会を築」くこと等に「自ら責任を負う理を明らか」にしたものだ(八木p.168-9)。
 「自律的個人」の未創出という認識は、日本では<近代的自我>が育っていない、と表現されてもきた。加賀乙彦・悪魔のささやき(2006、集英社新書)は「『個』のない戦後民主主義の危険性」との見出しの下で戦争中も現在も日本人には「流されやすいという危うさ」があり(p.78)、「自分の頭で考えるのが苦手な国民」だ(p.82)等と言う。これは日本人の「自律的個人」性の弱さの指摘でもあろう。
 だが、加賀のように、「人権」も「個人の自由」も闘いとったのではない「ガラスの民主主義のなかで」は「個は育ちません」(加賀p.79-86)と言ってしまうと、日本人は永遠に「自律的個人」、自分の頭で考え自分の意見を言える「個人」にはなれない。日本人の長い歴史の変更は不可能だからだ。
 丸山真男等の「戦後知識人」の多くも日本社会の脆弱性を「個人主義」の弱さに求め、「個人の確立」あるいは「自律的個人」の創出の必要性を説いていたように思う。そのかぎりで行革会議最終報告の文章は必ずしも奇異なものではない。
 しかし、思うのだが、日本人は本当に「自律的個人」性が弱く、かつそれは克服すべき欠点なのだろうか。<特徴>ではあっても、「克服」の対象又は「欠点」として語る必要はないのではないか。行革会議最終報告は、「自律的個人」をどのように創出するかの方法又は仕組みには全く触れていないと思われる。弱さ・欠点の指摘のみでは永遠の敗北宣言をするに等しくないか(07.1/11)。
 八木秀次は、行革会議報告の既引用部分等を、今日でも「様々な国家規制や因習で覆われ」た「新たな国家総動員体制」のもとで「自律的個人」が創出されていない、かかる「個人」を解放すべく「『国のかたち』を変革する」必要がある旨と理解する。そして、これは「有り体に言えば、市民革命待望論」だ、今からでも「市民革命を起こして市民社会に移行せよ、という主張」だと批判し、佐藤幸治氏のような「いわゆる左翼」ではない人物でさえ「結局はマルクスの発展段階説の虜となり、無自覚なマルクス主義者」になってしまうことに注意が必要だとする。
 たしかに、伝統・因習から解放された「個人の自立」や民主主義・国民主権の実質化の主張は、日本共産党の考え方、ひいては戦前の、コミンテルンの日本に関する「32年テーゼ」と通底するところがある。日本は半封建的で欧米よりも遅れており、フランス等のような「市民革命(ブルジョア民主主義革命)」がまだ達成されていないことを前提として、民主主義の成熟化・徹底化(そのための個人の自立・解放)を主張し、「社会主義革命」に急速に転化するだろう「民主主義革命」を当面は目指す、というのは、日本共産党の現在の主張でもある(フランスの18世紀末の状態にも日本は達していないとするのが正確な日本共産党の歴史観の筈だ)。
 佐藤幸治等の審議会関係者が「革命」を意識して自覚的に「自律的個人を基礎に」と記したとは思えない。そして、おそらくは日本共産党というよりもマルクス主義の影響を受けた社会・人文諸科学の「風潮」を前提として政府関係審議会類の文書が出来ていることを、八木は批判したいのだろう(ちなみに、行革会議答申後に内閣府にフェミニスト期待の「男女共同参画局」が設置された)。八木秀次は、所謂「体制」側も所謂「左翼」又はマルクス主義の主張・帰結と同様のものを採用している、との警告をしていることになる(07.1/13)。
 まだ続くが、長くなったので省略。
 この欄でも上の今年1/12の他に、佐伯啓思の他の書物等に言及する中で<個人主義>(「自立的個人」)問題には何度も触れてきた。だが、飽きることなく、樋口陽一らの単純な<西欧的>図式・教条への批判は今後も続ける。

0319/泥棒の巣-社会保険庁。

 社保庁職員による着服あるいは横領は、たまたま公務員としての不適格者が多かった、では済ませられない。また、「たまたま」でもないだろう。
 「犯罪者」のすべてが少なくともかつて、上部団体を自治労とする組合員だったとは言わないが、組合員もいたに違いなく、かつ組合の幹部がおそるべき実態をいっさい知らなかったとは考え難い。
 反(資本主義的)権力・反「保守」権力者たちにとっては、政治と行政が円滑に効率よく、国民のために機能してもらっては困る。年金制度が問題なく、あるいは問題ができるだけ少ないままで運営されては困る。自由主義・「保守」主義の政治・行政を混乱させ、麻痺させ、自由主義・「保守」主義では困るとの印象を国民大衆に与える必要があるのだ。そうした<社会主義>幻想の尻尾を残した反権力・反資本主義国家「主義」のためならば、総計数億円が国庫から消えたところで、何の痛痒も感じない。そうした確信犯的「犯罪者」や知らぬ振りをした組合幹部がいたはずだ。
 国家組織内に巣くう「白蟻」。当然にすみやかに駆除し、かつ刑罰という制裁を課す必要がある。金額が微少だとかの理由で告発もされずまだ公務員の身分を持っている者がいるだろうと思うが、将来の日本年金機構に採用されてはならないのは当然のことだ。  --------  メモ-サピオ8/22・9/05合併号の共産党特集を読んだ。

0265/2/27君が代伴奏命令拒否懲戒処分取消訴訟最高裁判決。

 やや旧聞だが今年2/27、君が代伴奏命令拒否懲戒処分取消訴訟で東京都側の勝訴が確定した。最高裁判決を支持したい。この判決に関しても、関心を惹くことはある。
 1.原告音楽教諭は「君が代は、過去の日本のアジア侵略と密接に結びついて」いると考えているらしい。簡単に「過去の日本のアジア侵略」と理解してよいのか、いつから「侵略」になったのか既に満州事変からかさらに日清・日露戦争もそうだったのか、原告はきちんと理解しているのだろうか。始まりの時点に誤りがあれば、またそもそも全体として「アジア侵略」と称し得ないものであれば、原告が前提とする理解・歴史認識自体が誤りであることになる。
 2.かりに1.の前提が正しいと仮定して、そのことと君が代とがどういう関係があるのか。君が代が「アジア侵略」と「密接に結びついている」という感覚は、前者が後者の象徴として用いられたということなのだろうが、理解し難い。読売の要旨によると藤田宙靖裁判官は「君が代に対する評価に関し、国民の中に大きな分かれが存在する」と書いたらしいが、かかる認識は妥当だろうか。かりにそうだとしても、国民代表議会制定の法律によって国歌を君が代と明定していることとの関係はどうなるのか。擬制でも、国民の多数は君が代を国歌と見なしていると理解すべきではないのか。過去の歴史を持ち出せばとても現在の国歌たりえないものは外国にもいくらでもありそうだ。
 ともあれ、原告は戦後の悪しき歴史教育の、あるいは「一部の教師集団が政治運動として反「国旗・国歌」思想を教員現場に持ち込んできたこと」(読売社説)の犠牲者・被害者だともいえる。その意味では実名は出ていないが気の毒な気もする(尤も、仲間に反「国旗・国歌」思想を吹き込む積極的な活動家だったかもしれないが)。
 3.判決は学習指導要領を根拠にしており、従って私立学校についても今回の判決はあてはまりそうだが、公務員であることを理由とする部分は私立学校教員にはそうではない。懲戒処分取消訴訟という行政訴訟の形もとらないはずで、私立の場合はどうなるのかは気になる。但し、学校長の命令が特定の歴史観・世界観を否定したり強要するものではないとする部分は私立学校の場合でも同じはずで、命令拒否を理由とする何らかの懲戒は私学でも許されることになるように思われる。尤も、これも採用又は雇用時点での契約にどう書かれるのかによるのかもしれない。
 60年以上前のことで多大のエネルギーを司法界も使っている。南京事件も「慰安婦」問題も一体何年前の出来事なのか。今だに引き摺っているとは情けないし、痛憤の思いもする。

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