秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

民主党

1189/櫻井よしこは民主党政権について当初は何と論評していたか。

 かつてのこの欄での記述の(各回のうちの)一部をそのまま再掲しておく。二つのいずれも、櫻井よしこに関するものだ。
 一 2010年5月14日

 「櫻井よしこは-この欄で既述だが-昨年の2009総選挙前の8/05の集会の最後に「民主党は…。国家とは何かをわきまえていません。自民党もわきまえていないが、より悪くない方を選ぶしかないのかもしれません」とだけ述べて断固として民主党(中心)政権の誕生を阻止するという気概を示さず、また、鳩山由紀夫内閣の誕生後も、「…鳩山政権に対しては、期待と懸念が相半ばする」(産経新聞10/08付)と書いていた。文字通りには「期待と懸念」を半分ずつ持っている、と言っていたのだ!。
 鳩山由紀夫の月刊ヴォイス上の論考を読んでいたこともあって、私は民主党と鳩山由紀夫に対しては微塵も<幻想>を持たなかった、と言っておいてよい。<総合的によりましな>政党を選択して投票せざるをえず、民主党(中心)政権になれば決して良くはならない、ということは明らかだったように思えた。外交・安保はともあれ<政治手法>では良い面が…と夢想した屋山太郎のような愚者もいただろうが、基本的発想において<国家>意識のない、またはより正確には<反国家>意識を持っている首相に、内政面や<政治手法>面に期待する方がどうかしている。
 しかし、櫻井よしこは月刊WiLL6月号(ワック)p.44-45でなおもこう言っている。
 「自民党はなすすべきことをなし得ずに、何十年間も過ごしてきました。その結果、国家の基本というものが虫食い状態となり、あちこちに空洞が生じています。/そこに登場した民主党でしたが、期待の裏切り方は驚くばかりです」。
 前段はとりあえず問題にしない。後段で櫻井よしこは、何と、一般<日和見>・<流動>層でマスコミに煽られて民主党に投票した者の如く、民主党・鳩山政権に「期待」をしていたことを吐露し、明らかにしているのだ!
 何とまあ「驚くばかり」だ。これが、<保守系シンクタンク>とされる「国家基本問題研究所」の理事長が発言することなのか!? そのように「期待」してしまったことについて反省・自己批判の弁はどこにもない。」

 二 2010年12月31日 

 「「左翼」政権といえば、櫻井よしこは週刊新潮12/23号(新潮社)の連載コラムの中で、「三島や福田の恐れた左翼政権はいま堂々と日本に君臨するのだ」と書いている(p.138)。
 はて、櫻井よしこはいつから現在の民主党政権を「左翼政権」と性格づけるようになったのだろうか?

 この欄で言及してきたが、①櫻井よしこは週刊ダイヤモンド11/27号で「菅政権と谷垣自民党」は「同根同類」と書いた。

 自民党ではなくとも、少なくとも「谷垣自民党」は<左翼>だと理解しているのでないと、それと「同根同類」のはずの「いま堂々と日本に君臨する」菅政権を「左翼政権」とは称せないはずだ。では、はたしていかなる意味で、「谷垣自民党」は「左翼」なのか? 櫻井よしこはきちんと説明すべきだろう。
 ②昨年の総選挙の前の週刊ダイヤモンド(2009年)8/01号の連載コラムの冒頭で櫻井よしこは「8月30日の衆議院議員選挙で、民主党政権が誕生するだろう」とあっさり書いており、かつ、民主党批判、民主党に投票するなという呼びかけや民主党擁護のマスコミ批判の言葉は全くなかった。

 ③民主党・鳩山政権発足後の産経新聞10/08付で、櫻井よしこは、「鳩山政権に対しては、期待と懸念が相半ばする」と書いた。「期待と懸念」を半分ずつ持っている、としか読めない。

 ④今年に入って、月刊WiLL6月号(ワック)で、櫻井よしこは、こう書いていた。-「「自民党はなすべきことをなし得ずに、何十年間も過ごしてきました。……そこに登場した民主党でしたが、期待の裏切り方は驚くばかりです」。期待を持っていたからこそ裏切られるのであり、櫻井よしこは、やはり民主党政権に「期待」を持っていたことを明らかにしているのだ。→ <略>

 それが半年ほどたっての、「三島や福田の恐れた左翼政権はいま堂々と日本に君臨するのだ」という櫻井よしこ自身の言葉は、上の①~④とどのように整合的なのだろうか。
 Aもともとは「左翼」政権でなかった(期待がもてた)が菅政権になってから(?)「左翼」になった。あるいは、Bもともと民主党政権は鳩山政権も含めて「左翼」政権だったが、本質を(迂闊にも?)見ぬけなかった。
 上のいずれかの可能性が、櫻井よしこにはある。私には、後者(B)ではないか、と思える。

 さて、櫻井よしこに2010年の「正論大賞」が付与されたのは、櫻井よしこの「ぶれない姿と切れ味鋭い論調が正論大賞にふさわしいと評価された」かららしい(月刊正論2月号p.140)。

 櫻井よしこは、「ぶれて」いないのか? あるいは、今頃になってようやく民主党政権の「左翼」性を明言するとは、政治思想的感覚がいささか鈍いか、いささか誤っているのではないか?」

 なお、屋山太郎については再掲しないでおく。この人物が靖国神社の総代会か崇敬奉賛会の役員に名を出している筈であるのは異様であると、靖国神社のためにも言っておきたい。

 以上は、先月の<民主党政権成立を許したことについての保守派の責任をきちんと総括すべきだ>旨のエントリーの続きの意味ももっている。

1185/「絆」と「縁」の区別、そして「血縁」ー民主党・菅直人と自民党。

 菅直人が首相の頃、自民党の記者発表の場の背景にも「絆(きずな)」という言葉が書かれてあったのでこの欄に記す気を失ったのだったが、当時、菅直人は好きな、または大切な言葉として「絆」をよく口に出していたように思う。あるいはテレビ等でも、大震災の後でもあり、人間の「絆」ということの大切さがしばしば喧伝されていたように思う。
 だが、少なくとも菅直人が使う「絆」については、次のような疑問を持っていた。すなわち、彼がいう「絆」とは主としては自らの意思で選びとった人間関係を指しており、市民団体やNPO内における人間関係や、これらと例えば被災者との間の「絆」のことを主としては意味させようとしているのではないか、と。
 そして、「絆」とは異なる別の貴重な日本語があることも意識していた。それは、「縁」だ。「縁」とはおそらく(辞典類を参照したことはないが)、個人の「意思」とは無関係に、宿命的なまたは偶然に生じた人間関係のことで、例えば、<地縁>、<血縁>などという言葉になって使われる。これらは菅直人が好みそうな「絆」とは違うものではないか。「縁」による人間関係も広義には「絆」なのかもしれないが、後者を狭く、個人の意思による選択の要素が入るものとして用いれば、「絆」と「縁」は別のものなのではないか。
 そして、かなり大胆に言えば、「左翼」はどちらかというと個人の意思の介在した「絆」を好み、血や居住地域による、非合理的な「縁」という人間関係は好まないのではないか、「保守」の人々ははむしろその逆に感じる傾向があるのではないか、と思ってきた。
 さて、被災地において「地縁」関係が重要な意味を持ったし、今後も持つだろうということは明らかだが、戦後日本で一般に「血縁」というものが戦前ほどには重要視されなくなったことは明らかだろう。
 戦前の「家族」制度に対する否定的評価は-それは「悪しき」戦前日本を生んだ温床の一つとされた-「個人の(尊厳の)尊重」と称揚と対比されるものとして幅広く浸透したし、現にしている、と思われる。
 「個人の尊重」は書くが「家族」にはいっさい言及しない日本国憲法のもとで-樋口陽一は現憲法の中で最重要なのは13条の「個人の尊重」だとしばしば書いている-、「血縁」に重要な意味・位置を戦後日本と日本人は与えてこなかったのではないか、広義での「絆」の中に含まれる基礎的なものであるにもかかわらず。
 もちろん、親(父または母)と子の間や「家族」の中の<美しい>人間関係に関する実話も物語も少なくなく紹介されたり、作られたりしている。
 だが、本来、基本的な方向性として言えば、樋口陽一ら<左翼>が最重要視する「個人の(尊厳の)尊重」と「血縁」関係の重要性を説くことは矛盾するものだ。親子・家族の<美しい>人間関係を語ることには、どこかに上の前者と整合しない要素、または<きれいごと>も含まれているのではないか。こんな関心から、さらに何がしかを追記していこう。

1183/<保守>論者は「左翼」民主党政権成立を許したことをどう反省し、自己批判しているのか。

 〇元首相・鳩山由紀夫が中国で妄言を吐いている。「棚上げ」で一致していたとかも言っているようだが、万が一そうだったとしても、尖閣諸島を「中核的利益」と正規に位置づけ、同諸島を自国領土とする法律を制定して、さらには「公船」をときどき侵入させたりして、そもそも「棚上げ」していないのは、中国(政府・共産党)自身ではないか。日本政府や日本のマスコミはなぜ、この点を指摘または強調しないのだろう。
 〇ずっと書きたくて書かなかったことだが、2009年8月末総選挙による翌月の民主党政権の成立を許し、鳩山首相を誕生させたことについての、<保守>論壇の側の深刻な反省と総括が必要だと思っている。安倍・自民党中心内閣が昨年末に誕生したからよいではないか、ということにはならない。
 いずれ繰り返すかもしれないが、この欄に当時に書いたように、例えば屋山太郎は明確に民主党政権誕生を歓迎し、外交・安保問題も心配することはないだろう旨を明確に発言していた。この屋山に影響を受けたか、櫻井よしこは、民主党内閣に<期待と不安が相半ば>する、と明言していた。選挙前において、櫻井よしこは、決して民主党に勝利させてはならないとは一言も主張していなかった。
 過去のことにのみ関係するわけではない。上はわずかの例だが、<保守>論者の現在および将来の主張が決して適切なものであるとは限らないことを、2009年総選挙前後の<保守>論壇の状況は示している。

 〇月刊WiLL7月号(ワック)で、渡部昇一はこんなことを(相変わらず)発言している。-「筋としては理想的な憲法を創り、国民に示して、天皇陛下に明治憲法への復帰(一分間でよい)と新しい憲法の発布をしていただく。…憲法の継承問題が起こらないから…」(p.55)。

 渡部昇一ら一部論者の現憲法無効・破棄論の「気分」は理解できないわけではない。但し、この欄で何度も書いたように、この議論はもはや貫徹できない。
 上の渡部発言にしても、誰が、いかなる機関が、いかなる手続によって「理想的な憲法を創り」出すのか、何ら論及していない。こんな議論がやすやすと通用するはずがない。またそもそも(確かめるのを厭うが)、渡部の主張は「国会」が無効・破棄宣言をする、というものではなかったか。
 天皇陛下に「お出ましいただく」とする点に新味があるのかもしれないが、現天皇に「新しい憲法発布の宣言」をしていただくという場合の「新しい憲法」を誰がどうやって創るかという問題に言及していないことは上記のとおりだし、現憲法は昭和天皇の名において「裁可し、公布せしめ」られたこと、今上天皇は皇位継承・即位に際して「日本国憲法にのっとり」と明確に述べられたこと、等との関係をどう整理しているのか、という基本的な疑問がある。

 <保守>論壇の中の大物らしく扱われている渡部昇一ですらこの程度なのだから、現在の日本の<保守>論壇のレベルは相当に低い(あえて言えば、論理の緻密さが足りず、某々のような「精神」論で済ませている者もいる)と感じざるをえない。

 そして再び上記のことに戻れば、「左翼」民主党政権成立をかつて許したことについて、各<保守>論者はどのように反省し、自己批判しているのかを厳しく問いたいところだ。

1046/親北朝鮮・酒井剛の「市民の党」と菅直人・民主党。

 菅直人が存外にあっさりと首相を辞任したのは、北朝鮮と関係の深い団体への献金問題が明るみに出て、この問題が広く騒がれ出すと「もうもたない」と判断したかにも見える。もう少しは「粘る」=しがみつく可能性があると思っていた。
 その献金問題につき、隔月刊・ジャパニズム第03号(青林堂)に、野村旗守「菅直人/謀略の正体-亡国首相の原点を読み解く」、西岡力「菅直人首相の北朝鮮関連献金問題の本質」がある。
 両者から事実を確認しておくと、菅直人事務所と菅直人代表・民主党東京都連は2007-2009の三年間に、「市民の党」(後記)の「派生団体」(西岡p.146)である「政権交代をめざす市民の会」に6850万円の献金をした。また、鳩山由紀夫・小宮山洋子等の民主党国会議員の政治団体も計8740万円の献金をした。「市民の党」自体へも、上記三年間に小宮山洋子等の政治団体から計1693万円の献金があった。これらを合計すると、6850+8740+1693で、1億7283万円になる。野村p.70は「民主党関係団体」から三年間で「計2億5000万円も」と書いている。
 「市民の党」 は本名・酒井剛、通称?・斎藤まさしを代表とする。この男は除籍前の上智大学で「ブント系ノンセクト」ラジカル、退学後に「日本学生戦線」を結成、逮捕された1977年に社会市民連合の江田三郎(・のち江田五月)の選挙を手伝う。1979年に毛沢東主義を標榜する「立志社」を設立しカンボジアのポル・ポト派支援運動を展開、同年に社市連と社会クラブが合同した社会民主連合の初代代表・田英夫の娘と結婚する。1983年、田英夫・横路孝弘らと「MPD・平和と民主運動」を結成。野村によると、「過激派学生組織と市民派左翼政党の合体」だった(p.71)。
 MPD→「大衆党」→「新党護憲リベラル」のあと、1996年に酒井(斎藤)は「市民の党」を結成、1999年の広島市長・秋葉忠利、2001年の千葉県知事・堂本暁子、2006年の滋賀県知事・嘉田由紀子、2007年の参議院議員・川田龍平らの選挙を「勝手に応援」して結果としてすべて当選させた。
 「市民の党」機関紙は1988年に北朝鮮にいた田宮高麿のインタビュー記事を掲載したりしていたが、2011年4月の三鷹市議選候補として、田宮高麿と森順子(松本薫・石岡亮両名を欧州で拉致)を父母とする、2004年に日本帰国の森大志を擁立(落選)。
 かかる政治団体に対して民主党が三年間で1億円以上を、菅直人(都連を含む)がその「派生団体」に約7000万円を献金していたとは、相当に「いかがわしい」。また、そのような献金をする人物が日本国家の首相だったという歴然とした事実に、愕然とせざるをえない。まがうことなく、日本は「左翼」に乗っ取られていたのだ。
 江田五月は衆院議長・法相を経験し、横路孝弘は現在の衆院議長だ。酒井(斎藤)という「いかがわしい」人物は<権力>の側にいて、議会・選挙を通じた「革命」を展望しているらしい。あらためて戦慄する。
 恐ろしいのは、菅直人ら民主党による「市民の党」への献金問題は(それ自体は違法性が明瞭ではないためか?)、産経新聞・関西テレビの某番組とチャンネル桜しか報道していない(野村p.71)ということだろう。違法ではなくとも、菅直人や民主党の「左翼」性または親北朝鮮ぶりを明確に示すもので、ニュース価値はあると思うが、日本の主流派マスメディアは、自らが「左翼」的だからだろう、民主党には甘い。
 この問題を月刊正論はどう取り扱っているかと見てみると、10月号(産経新聞社)に、野村旗守「市民の党代表『斎藤まさし』の正体と民主党」、西岡力「拉致と『自主革命党』、そして『市民の党』の深い闇」と、同じ二人の論考が載っていた。ひょっとすれば、こちらを先に見ていたかもしれない(なお、北朝鮮の「自主革命党」に森大志は所属していた(いる)とされる。ジャパニズム上掲・西岡p.149-150におぞましい「綱領」?が紹介されている)。
 ところで、ジャパニズム第03号には、毎日新聞にも定期的に寄稿している西部邁の連載ものもある。さすがに「左翼」の文章ではないし、「民主主義を振りかざしてきた戦後日本は、多数制原則という民主主義のギロチンによって、おのれの首を刎ねようとしている」(p.168)という表現の仕方も面白い。
 但し、末尾にある「菅直人」の名前をもじった文章などは、言葉遊び的な要素の方が強い感じで、とても好感はもてない。

1040/朝日新聞・「政治活動家」集団について久しぶりに。

 〇朝日新聞社の存在を意識すると、この国に住みたくなくなる気分が生じるほどだ。
 こんな社の作る新聞が700万部も発行され、2000万人程度には読まれ、評論家類は必ず目を通し、マスコミ関係者も参照してテレビでもワイドショー類を通じて拡散されていく。恐ろしい現実だ。
 その「左翼・売国」ぶりは相変わらずで、「野田佳彦財務相が、靖国神社に合祀されているA級戦犯について、戦争犯罪人ではないとの見解を示した」ことについて、8/18付朝日新聞社説はさっそくいちゃもんをつけている。そして、「首相になれば過去の歴史を背負い、日本国を代表して発言しなければならない。行動を慎み、言葉を選ぶのが当然だ」などと説教を垂れている。さすがに、「歴史認識」問題に関して、中国・韓国(政府・マスコミ)に対して「ご注進」してきた新聞社だ。
 〇3.11あるいは6.02以降、「政治」的話題に事欠かなかった。
 震災対応への不手際や内閣不信任頓挫等の事象・事件は、自民党(中心)内閣下のものであれば、朝日新聞はもっと大きくとり上げて騒いでいただろう。大震災への「政治」の誤った作為・不作為を問う姿勢に乏しく(むしろ原子力政策を推進したのは自民党内閣だったという自民党への批判が記事作りにも感じられた)、政府にむしろ暖かかったのではないか(他紙に比べて)。
 また、民主党出身議長による菅直人首相への辞職要求発言は客観的には大きな話題とされてよいとてつもない「事件」の筈なのだが、朝日新聞は大きくとり上げた気配がない(他紙も問題の大きさのわりには、話題を大きくしなかった。菅直人の不人気ぶりが極まっていたので、それに埋没した感もある)。
 震災への対応、不信任頓挫事件、参院議長発言等々、これが自民党(中心)内閣下のものであったなら、朝日新聞はまったく異なる報道ぶり・紙面づくりをしていたと思われる。なぜなら、この新聞社は「政治活動家」団体であり、自民党内閣打倒のためならば、いかなる誇張もデマ宣伝まがいのことも平気でしてきた新聞社だからだ。
 〇安倍晋三内閣のもとでの2007年参議院選挙の前後の朝日新聞や「週刊朝日」の報道ぶり・誌面や記事作りは、産経新聞が「何たる選挙戦」との連載記事に含めたほどのヒドい、悪辣なものだった。
 と思いつつ最近の「週刊朝日」の表紙のタイトルを見ていると、面白いことに気づく。3/11以降、一号(6/17号)だけを除き、08/19号の「菅直人が3.11以後のすべてを語る」まで、すべて「政治」性を直接には感じさせないテーマ・タイトルが選ばれている。以下のとおり。
 110812 プロ13人が注目する31銘柄
 110805 あの店の肉は大丈夫?
 110729 社長の年収
 110722 食品から解毒法まで・放射能の疑問に答える
 110715 忍び寄る放射能から家族を守れ!
 110708 放射能・震災からペットを守る!
 110701 食べてはいけない!夏の食材・見分け方
 110624 あなたの街の放射能汚染
 110617 今度の総理はだ~あれ?
 110610 放射能汚染・食べてはいけない見分け方
 110603 放射能から身を守れ!
 110527 浜岡原発停止はフクシマの「罪滅ぼし」
 110520 ビンラディン射殺作戦の全貌
 110506・13 東電が公表しない放射線量データ
 110429 響け!負けないで
 110422 復興への祈り(両陛下)
 110415 福島原発のデス・ロード
 110408 東北振興で始まるニッポン復活のへの道
 110401 日本は必ず復興する!
 110325 東北関東大震災・奇跡の生還
 110318 元「暴」系タニマチが豪語・前原は総理になる<震災以前の発行と思われる>
 2007年の安倍晋三内閣時代との違いは大きい。
 本来は「政治」が好みの朝日新聞が、上のごとく「政治」的話題をできるだけ避けていることは明白だ。「政治」状況が、「歴史的な政権交代」をなしとげた民主党には不利で、それに輪をかけるような報道・記事作りをしたくなかった、というのが本音だろう。
 さすがに、「政治活動家」組織の朝日新聞社だ。この新聞社が消滅するか大きく弱体化しないと、「戦後」は終わらないし、終わらせることもできないだろう。

1033/菅直人と「法治国家や議院内閣制」等々。

 一 昨年の参議院選挙の前に「たちあがれ日本」という政党のそれこそ立ち上げに石原慎太郎が尽力または協力していたようで、当時、石原慎太郎は都知事を辞めて国政選挙に出て参議院議員となり、<最後のご奉公>をするつもりではないか、と感じたことがあった。また、そうであれば、この政党は石原の知名度の助けもあってかなりの議席を取れるのではないか、とも予測した。
 石原慎太郎の議員立候補とはたぶん無関係に、櫻井よしこらをはじめ、<真の>保守政党に少なくとも自民党よりは近いらしいこの政党に期待する向きも(保守論客の中には)多かったようだが、選挙結果は芳しくなかった(なお、山田宏らの「創新党」は議席一つすら獲得できなかった)。
 今でも、石原慎太郎が今年の都知事選挙に結局は立候補するくらいならば、昨年の国政選挙に出てもらいたかったと思うのだが、このあたりの話題は雑誌・週刊紙類でほとんど読んだことがない。
 二 「たちあがれ日本」には、平沼赳夫の他に片山虎之助がいるようだ。
 この片山のウェブサイトによると、片山虎之助は、7/22に参議院予算委員会で次のように発言した。このサイト内の「メールマガジン」によると、最後の第五点は次のようだ。
 ⑤「首相の『脱原発依存』の記者会見は、まさか個人の意見表明ではなかった筈で、言いっ放しでなく、本当の政策転換につなげて行く努力が求められる。しかし、首相には法治国家や議院内閣制についての認識が乏しいような気がしてならない」。

 最後の指摘の根拠はこれだけでは必ずしもよく分からないが、第二次補正予算案の6割近く(復旧・復興予備費)についての、「使途を決めない、政府に白紙一任するような8千億円の予算は、国会軽視で問題だ」という指摘(②)は根拠の一つなのだろう。
 阿比留瑠比の産経7/31の文章によると、片山は「菅直人首相は法治国家や議院内閣制に正しい理解があるのかなと思う。自分だけで独裁者であったら、この国は回りませんよ」と述べたらしい。こちらの方が、上のメールマガジンの文章よりは臨場感がある。
 そして、阿比留も指摘しているように、菅直人の答弁が「従来の長い自民党のやり方は、ほとんどの決定を官僚任せにしてきたのを見てきたので…」というものだったとすると、まことに菅直人は「法治国家や議院内閣制」について何も理解していないように思える。
 ところで日本国憲法66条第三項には、こうある-「内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負ふ」。
 この条項を現菅直人内閣はきちんと履行しているだろうか。今さら指摘するようなことでもないが、首相と経産大臣の意思疎通のなさ、後者の涙ぐみ答弁、「忍」との手文字等々は、内閣不一致も著しく、とても<連帯して>国会=国民の代表機関に対して責任を負っている、とは思えない。これだけでも十分に内閣不信任に値するとすら感じるが。
 三 菅直人は憲法を松下圭一から学んだとか書いたか発言したはずだ。岩波新書に「市民自治の憲法理論」等々を書いている「左翼」出版社お墨付きの学者・松下圭一は、しかし、憲法学者ではなく、政治学者。「憲法の専門家」がどの程度信頼できるかという問題はあるが、そもそも松下は憲法の専門家ですらないのだ。
 菅直人はまた国際政治を永井陽之助に学んだ、とかも書いているか発言したはずだ。
 松下圭一の名をとくに出すことも含めて、このような菅直人の学者名の列挙は、むしろ憲法・政治・国際政治等々に関する基礎的な学識のなさを窺わせる。なぜなら、これらをきちんと勉強していれば、それぞれの分野で一人ずつくらいの名前しか挙げられないはずはなく、首相たる者は、問われてあえて挙げるとすれば誰にするか、困るというほどでなければならないはずだ。そして、通常は、名指しできない人物に失礼にあたるので、影響を受けた学者の特定の氏名などを、首相が簡単に挙げたりはしないものだろう。
 しかるに、菅直人の<軽さ>=無知蒙昧さはここでも極まっている。社会系の学者の名を挙げて、理系出身の自分でもきちんと勉強して知っていますよ、と言いたいのかもしれないが、叙上のような特定の数人の専門書(らしきもの)しか読んだことはないのではなかろうか。そして、菅直人の脳内に蓄積されているのは、<市民活動>の中でてっとり早く読んできた、諸団体の機関紙類の断片的で煽動的な(学問性の乏しい)、かつ「自民党政治」を批判する目的のものを中心にした、論理や概念なのではなかろうか。
 鳩山由紀夫に続いて、菅直人もダメだ。ひどいレベルにある。「たらい回し」されるかもしれない民主党の三番目の人物ははたして大丈夫なのか?? 

1031/片山杜秀「ヒトラーの命がけの遊び」新潮45/8月号と菅直人。

 産経新聞7/24の稲垣真澄「論壇時評」は、新潮45の2011年8月号の、片山杜秀「国の死に方2/ヒトラーの命がけの遊び」にほとんどを費やして注目し.要約的な紹介もしている。
 この書評記事を読む前に上記の片山杜秀の新潮45論考を読んで感心していたので、あらためて印象に残った。
 稲垣真澄の文章から離れて(それに依拠しないで)片山の文章の一部を紹介してみるが、菅直人・菅内閣という言葉はどこにもないにもかかわらず、つまりヒトラーに関する文章であるにもかかわらず、菅直人・菅内閣を強く想起させるものになっている。以下、一部の要約的紹介。
 ・ナチス時代のドイツは無統制的で責任の所在不明確で役割分担が曖昧だった。平時にも非常時にも徹しきれず、中途半端。ヒトラーは何か失敗したのか。いや、すべてが計算づくだった。「ヒトラーは意図的に国家を麻痺させていった」。ハンナ・アレントはこれを(のちに)「無秩序の計画的創出」と呼んだ(p.83-84)。
 ・なぜそんなことをしたのか。「ヒトラーは一日でも長くドイツ国家の頂点に居座りたかっただけ」だ。しかも、自らの権力を単なる調整ではない実のあるものにしておきたかった。それには、「ワイマール共和国の作り上げたいかにも近代国家らしい複雑精緻で能率的な機構」が邪魔だった。政治・経済・文化・科学の専門組織がきちんと機能すれば、各分野の専門家が実権を握る=「官僚等が幅を利かせる」。独裁者・権力者も調整役に甘んじ、専門家たちを統制できず、権力の上層は空洞化する(p.84)。
 ・いやならば専門組織を機能させなければよいが、「いきなり壊しては国家が即死する」だけなので、近代国家の「精密なメカニズムを怪奇なポンコツへとわざとゆっくり時間をかけて」変貌させる。党と政府の組織をすべて「二重化」し、党と政府の中に「似た役割の機関を増殖させる」(p.84)。
 ・その果ては「国家の死」だが、ヒトラーにはそれでよかったのだろう。彼は中下層の実務家に降りていた権力を上へと回収し、裁量権を拡大した。「法律の裏付けも実現可能な根拠もない思いつきの命令」を「唐突に」発しても、組織が多すぎて批判すべき部署が分からなくなり、「権力の暴走」を止められなくなった(p.84)。
 ・ここに「ヒトラーの政治の肝腎かなめ」がある。古代ローマの「一時的独裁」とはまるで異なる「ファシズム」なのだ。軍国主義・戦争を連想するように、平時にはファシズムは成立し難い。しかし、非常時は戦争に限らず、軍隊が登場しなくてもよい。「経済危機でも大災害でも電力不足」でもヒトラーの掲げた「共産主義の恐怖」でも何でもよい。そうした「非常事態に対処するためと称して、社会の見通しを悪くし、人々から合理的な判断の基盤を失わせ、世の中が刹那的な気分で運ばれてゆく」ようになれば、もう「立派なファシズム」だ(p.85)。
 ・ヒトラーは「命がけの遊び」を続けた。「日々に新しい組織を仕立て、次々と非常事態的新事態を引き起こした」。何が根本的問題でどう解決すべきなのか、彼はナチス党員にも国民にもゆっくり考える暇を与えなかった。そして、「目先の混乱状況をエスカレートさせては、それだけでいつも人々の頭を一杯にさせた。そうやって一日一日と綱渡りで延命した」(p.85)。
 以上、どう考えても、どう読んでも、菅直人(・民主党内閣)が念頭に置かれていないはずはない文章だ。
 例えば、大災害・原発不安等々の「非常事態に対処するためと称して、社会の見通しを悪くし、人々から合理的な判断の基盤を失わせ」ているのは菅直人そのものであり、ほとんどのマスメディアも本質的なことは報道しないで、ヒトラー、いや菅直人のお先棒を担いでいるだけではないのだろうか。
 思えば、ナチス党の正式名称は「国家(民族)社会主義労働者党」なのだった。ナチスあるいはファシズム=「右翼」と多くの人々は理解している(感じている)のかもしれないが、「社会主義」・「労働者」を冠した、立派な<左翼>政党だったとも言える。
 もともとハイエクやハンナ・アレントが指摘したように、あるいは旧民社党が「左右両極の全体主義を排し…」などと言っていたように、コミュニズム(共産主義)とナチズムは「全体主義」という点で共通性がある。
 「左翼」・菅直人がヒトラーによる「ファシズム」的政治・行政手法を採っていても、何の不思議もない。

1023/菅直人と朝日新聞の低劣・卑劣・愚劣ぶり-あらためて。

 何ともヒドイものだ。これほどとは。
 一 菅直人は7/13に、「脱原発」=「将来は原発がない社会を実現する」と記者会見で述べたが、閣僚等から疑問・批判が出ると、7/15に、「私の考え」、「個人的な考え方」だったと釈明?した。
 内閣総理大臣たる者が、英語で「首相」と書かれ、桐の紋まで刻まれた台に自ら積極的に立って行った記者会見(記者発表)での発言を、わずか二日後に「私(個人)」の考えの表明だった(政府方針ではない)と後退させてしまうとは。
 この人は自らの内閣総理大臣たる地位を何と理解しているのだろう。首相としての記者会見(発表)の場で、内閣総理大臣担当者たる立場を離れた「私(個人)」の考えを表明できるはずがないではないか。
 かりにそれが閣内や民主党内で支持されていないこと(または唐突感も含めて疑問視されていること)が判明したとすれば、<私的>だったと逃げるのではなく、首相見解そのものを撤回・変更するというのが、スジというものだろう。
 こんなことが罷り通るのならば、菅直人の中部電力への浜岡原発停止要請はいったい何だったのかと言いたくなる。
 内閣総理大臣による行政指導だったのか、それとも、内閣総理大臣を担当している菅直人個人の<私的>要請(・願望)だったのか? 後者ならば、中部電力はまともに取り上げ、まともに検討する必要はなく、結果として従う必要もなかった。その後に今回のような閣内・民主党内での疑問・批判が出なかったから、たまたま(私的・個人的ではない)内閣総理大臣による要請(行政指導)になったのだとすれば、怖ろしい<政治・行政スタイル>だ。
 思いつきで適当なことを(ウケが良さそうで支持率がアップしそうなことを?)発言しておいて、反対論・疑問論が大きいと見るや、「私(個人)」の考えでしたとして逃げることが可能だとすれば、ヒドい、とんでもない、呆れるほどの<政治・行政スタイル>だ。
 この一点だけを取り上げても、菅直人首相とそれが率いる内閣の不信任に十分に値する。
 産経新聞はほぼ同旨で、7/16社説の大文字の見出しを「首相の即時辞任を求める」と打った。首相が辞任すれば、当然に菅直人内閣は瓦解する。
 産経とともに菅の7/13発言の内容にも疑問を呈していた読売新聞は、7/16社説で、<私的(個人的)>見解への転化をさほど大きくは問題視せず、その代わりに、主としてその発言内容自体をあらためて批判している。
 いわく、「そもそも、退陣を前にした菅首相が、日本の行方を左右するエネルギー政策を、ほぼ独断で明らかにしたこと自体、問題である。閣僚や与党からさえ、反発の声が一斉に噴き出したのは、当然だ」。「その発言は、脱原発への具体的な方策や道筋を示さず、あまりに無責任だった」。「首相は、消費税率引き上げや、環太平洋経済連携協定(TPP)への参加などを掲げ、実現が危ぶまれると旗を降ろしてきた。同様の手法のようだが、今回は明らかに暴走している」。
 二 何ともヒドイのは、菅直人だけではない。朝日新聞も、(やはり)ひどい。
 菅首相の7/13記者会見の内容につき
、「国策として進めてきた原発を計画的、段階的になくしていくという政策の大転換である」とし、「私たちは13日付の社説特集で、20~30年後をめどに「原発ゼロ社会」をつくろうと呼びかけた。…方向性は同じだ。首相の方針を歓迎し、支持する」と社説で明確に支持し、大歓迎した。
 そして内閣や民主党の全体的支持を得られるかどうかに懸念を示しつつも、最後は
「いまこそ、与野党を問わず、政治全体として脱原発という大目標を共有して、具体化へ走り出そう」と結んでいたのだ。
 とあれば、7/15の<私的(個人的)見解>との釈明後に、この問題をあらためて社説で取り上げて不思議ではないし、むしろ取り上げるべきだろう。
 しかし、朝日新聞は逃げた。トンズラを決め込んだ。7/17社説の見出しは、「福島の被災者―「原発難民」にはしない」と「レアアース―WTOを通じた解決を」の二つで、読売・産経が取り上げた重要な問題をスルーした。
 「いまこそ、…政治全体として脱原発という大目標を共有して、具体化へ走り出そう」と大見得を切ったところが、わずか二日後での(閣内・民主党内事情による)挫折?に、さすがに恥ずかしくなったのだろうか。いやいやそんな純情な朝日新聞ではない。要するに、自分たちに都合の悪いことには触れない。それだけのことだ。

1003/独裁者・菅直人、一刻も早くクビをとるべきだ。

 一 かりに目的がよくても為政者はいかなる手段を用いてもよいわけではない。

 万が一「共産主義」社会が理想的なものであっても、その社会実現のために、邪魔になる「反共」主義者をその思想ゆえにのみすべて殺害することは許されるのか?。

 菅直人は、上と似たような発想をする<独裁者>のようだ。

 なるほど浜岡原発は、その立地において他の原発と比べて地震・津波の安全性に疑問が高いように見える。安全性の確保が(東北地方・太平洋側の原発とともに)急がれる原発かもしれない。

 上のような印象がただちに浜岡の「運転停止」を正当化するものではない。この点についても検証が必要だが、これもスルーして、浜岡は「運転停止」すべき原発だということが合理的判断だ、ということにしてみよう。

 そうしてみたところで、内閣総理大臣による「停止」要請が正当化されるわけではまっくない。

 二 菅直人による今回の要請はなるほど唐突であり、総合的・長期的考察を欠いているだろう。

 だが、より大きな問題は、内閣総理大臣たる菅直人が(口頭によったのか文書によったのかも新聞紙上では不明確ななままで)「要請」という<行政指導>によって、「運転停止」を実現しようとし、かつ実現しそうだ、ということにある。

 菅直人は、法律と行政に未熟な、かつ「左翼」的心性をもった菅直人は、その「独裁者」ぶりを、いよいよ発揮してきた。

 三 自民党の石波茂(政調会長)は菅直人の措置の「根拠」を問題にしているが、相手方が任意に協力してくれるかぎりでの「行政指導」に具体的な法的根拠(法律上の根拠条項)は要らないだろう。

 だが、思い出しても、バブルを終熄させたのは、1990年3月の大蔵省銀行局長の「行政指導」通達だった(農林系金融機関は対象外だったことが大きな問題を残したことは周知のとおり)。

 このときはたかが銀行局長の…と感じたものだが、今回は内閣総理大臣たるものの「要請」=「行政指導」だ。建て前上、行政指導に拘束力はない、従うか否かは相手方の任意といってみたところで、強く規制・監督されるかわりに強く保護されている電力会社が内閣総理大臣の「要請」を拒否できるはずがない、と考えるのが常識的な感覚だろう。

 そして、菅直人によると「指示や命令は現在の法制度は決まっていない」らしいのだが、「現在の法制度」では不可能なことを、便宜的な「行政指導」という措置で実現しようとした、かつその意思形成過程はほぼ菅直人の脳内にあり、わずかにせよ存在するはずの国(行政)の意思形成システムをもほとんど無視してそれはなされた。ここに問題の本質がある。

 四 浜岡原発の運転停止を求める「指示や命令は現在の法制度は決まっていない」のだとすれば、そのような正規の法的権限を与えるように原子炉等規制法等を改正して、内閣総理大臣または経済産業大臣等に<運転停止>権限を付与するのが、正常な法的感覚だ。

 そんな悠長なことをいっておれない、緊急性を有する、と菅直人は考えたのかもしれない。しかし、幸い?国会は開会中で、官僚たちに指示して原案を作らせて国会で審議すれば、菅直人の浜岡原発の焦眉の危険性が国会議員多数に共有されるかぎり、数週間で法律は(場合によっては政令・省令も)改正できるはずだ。

 法律改正が難航して、いよいよ浜岡原発が危ない、となれば、その時点で停止「要請」しても間に合うだろう。国会での審議中に浜岡に放射性物質にかかわる震災または津波が起こったときにかぎり、菅直人の措置は結果として(カンが当たったとして)正当化されるだろう。

 なぜ、関係法令の改正をしようとしないのか、なぜ、そのための改正案を菅直人(内閣)は国会に提出しないのか。

 「熟議を」とかいいながら、国会を軽視・無視している菅直人(そして民主党)内閣の本質が一段と明らかになっている。

 国会の軽視・無視、国会に諮らないままでの事案処理、これはまさしく<行政独裁>であり、さらにほとんど菅直人の脳内でのみ意思形成がなされたようであることも含めて、<菅直人の独裁>に他ならない。

 五 場当たり的、人気取り、原発政策全体との整合性は?、とかの批判は当たっていないことはないだろう。

 だが、最大の問題は、現行法制上は不可能なことを内閣総理大臣たる菅直人個人の「行政指導」で行った、という点にある。目的さえよければ(菅直人は「国民の安全と安心」のためと明言している)、現行法制を無視して、いかなる事項・問題でも首相の「行政指導」によって実現する、という道が拓かれた、という点にある。これを座視すれば、今後のその他の問題でもまた、同様のことが繰り返されるだろう。「国民の安全と安心」のために、現行法制では決められていないので「行政指導」で、という行政スタイルが構築されようとしている。しかもまた、その「行政指導」にあたって、行政部内全体での十分な検討が行われたようにも見えないのだ。

 国会軽視・無視の、かつ行政部内全体の調整も不十分なこの行政スタイルは、菅直人(個人)による<独裁体制>だ、と言って過言ではない。

 六 目的さえよければ、手段はどうでもよいとするのが「左翼」の基本的な発想だ。さっそく日本共産党・社民党、そして民主党系・容共らしき川勝某静岡県知事は<英断を歓迎する>と述べている。

 そこには、法律(国会)と行政の関係あるいは行政にかかわる法秩序感覚は乏しい。

 一種の非常事態の中で、日本の立憲主義、法治主義は危機に瀕している

 菅直人という政治・行政の「素人」が、まがりなりともある程度は築かれてきた日本的な立憲主義、法治主義を破壊している。

 そのような深刻な危険性を、今回の浜岡「停止要請」はもつものだ。この点を良識ある人々は鋭敏に見抜くべきだ。

 菅直人はあぶなっかしいのではなく、現に危ない。独裁者は退場させなければならない。早くクビを取らなければならない。

 七 菅直人のクビを取ること、そしてさらにそもそも「現行法制」はどうなっているのか、について次回以降に書く。

 三万人近い死者にとっては「勇気を」、「希望を」等々とか言っても空しいだけだ。死者が、どのようにして「勇気」・「希望」をもちうるのか?? そう感じ、言葉の無力さをひしひしと感じてしばらくこの欄に向かわなかったが、菅直人の行動により「日本」という国家がさらに一段と自壊していくのを感じて、再び文章をつづる気になった。

1000/菅直人内閣は「ある程度、落ち着いたところで」総辞職せよ。

 ・この欄1/27に紹介したが、今年1月中に執筆したとみられる屋山太郎月刊WiLL3月号(ワック、2011)の連載で屋山はこう書いていた。
  「…総選挙をやって、自民党が政権を取れば、ましな政府ができるのか。…自民党は国民から見離されて大敗し、野党に転落したのである。一年四ヶ月の間に、大いに反省して生まれ変わったという証拠もない。/一方、『解散しろ』という建前論に従って、民主党が大敗必至の総選挙に打って出るわけがない。…」(p.22)。
 屋山太郎は、しかし、2カ月ほどのちの 産経新聞3/15付「正論」欄でこう書く。
 「民主党の命脈は6月までと考えていた。…失政で政局は行き詰まり、菅直人首相は総選挙を打つ構えだった」。
 解散・総選挙をすべきではないし、するはずもないという趣旨の1月(菅直人改造内閣発足後)から3月半ばまでの間に、屋山の認識・見解を変えさせるような何があったのか?

 屋山の論述は、こうつづく。
 「菅氏のこれまでの政治には全く不満だが、当分この人物に大仕事を任せるしかない」。「非常時だから解散は求めない。その代わり…間違った路線の転換も同時並行的に進めなければならない」。
 「間違った路線」とは、屋山にとってはまずは公務員制度改革の懈怠にあるのだろうから、この点でもじつは「お笑い」(重点・優先順序の判断の誤り)だ。だが、それよりも、屋山太郎は「菅氏のこれまでの政治には全く不満」だと言いつつも、「国民から見離されて大敗」した「自民党が政権を取」るよりは<マシ>だと考えていたのだろう。その旨が、この3/15付文章では伝わってこない。

 また、「非常時だから解散は求めない」と書くが、それでは、「非常時」ではなかったら、屋山太郎は「解散」を求めたのか? 1月には「『解散しろ』という建前論に従って、民主党が大敗必至の総選挙に打って出るわけがない」と書いていたにもかかわらず、3/15付では「民主党の命脈は6月までと考えていた。…」と書いている。

 この人の頭の中には、どこかに誤魔化し、自己撞着があるかに見える。結局のところ、「非常時だから解散は求めない」というあたりで後づけ的に自己の見解の矛盾を隠蔽しているかに見える。

 このような感覚は、つぎの東京大学教授・御厨貴のそれと大きくは異なっていないようだ。御厨はむろん<保守派>ではない、<親民主党>のイデオローグ(デマゴーグ)だ。

 ・朝日新聞3/17付で御厨貴はこう発言している。

 「あの日、大きな揺れに立ちつくしながら思ったのは、『これで菅直人政権は続く』だった。政治休戦は当然だ。…野党が与党の足を引っ張ることは許されない」。
 とりわけ今回の大震災の被災者には、とくに上の太字部分の、東京大学現役教授の言葉をしかと憶えておいていただきたい。

 ・しかし、こんな見解もある。産経新聞3/16付「正論」欄で、佐々淳行はこう書く。
 「野党の良識ある『政治休戦』で、土肥隆一…の…も、菅首相の…献金問題も吹き飛んだ感があり、『これで菅政権の寿命が延びた』との声もあるが、とんでもない話だ。菅氏は、ある程度、落ち着いたところで、東日本大震災の危機管理の失敗の責任を取って、総辞職すべきである」。

 「『これで菅政権の寿命が延びた』との声」の中には、屋山太郎や御厨貴の<便乗的>な声も実質的・結果的には含まれているのではないか。

 「東日本大震災の危機管理」の実態についてはなおも検証が必要かもしれない。しかし、大震災以前の政治的問題が消えてしまったと考えるのは、むろん誤りだ。
 どのような時点で「ある程度、落ち着いた」と言えるかはむつかしいかもしれない。しかし、佐々淳行の言っていることはまさに「正論」だろう。

 ・それにしても、村山富市社会党委員長が首相になった翌年に1995年の阪神淡路大震災は起きた。自民党所属の経験のない、かつ与党に自民党がいない初めての首相である菅直人政権発足の翌年に今回の大震災は起きた。

 理性的・合理的ではないことはよく分かっているつもりだが、これははたして偶然なのか?

 被災者から見れば不適切な発言なのだろうが、石原慎太郎東京都知事が言ったという<日本に対する天罰>というのは、当たっているような気もする。日本人の「我欲」(戦後「個人主義」→エゴイストの大群の発生)が原因であるとともに、<左翼化>する日本に対する大自然の<警告>なのではないか。

 週刊新潮3/24号の連載記事を、高山正之はこう締め括っている。
 「二昔前の村山富市政権…。/今回の菅政権…。/単なる偶然とも思えない。罪深い政権はもうこれきりにしろという暗示か」(p.154)。

 上の「正論」中で、佐々淳行は、より合理的に、湾岸戦争(海部俊樹首相)、サリン事件(村山富市首相)も含めてこう書いている。心して記憶しておいてよいものと思われる。

 「…のように、弱い首相の時に、大事件が起きるという危機管理ジンクスがまたまた当たってしまった」。

0998/民主党・長妻昭の「無能」さと中川八洋による「子ども手当」批判。

 〇桝添要一は半年ほど前のテレビ番組で、長妻昭(民主党・前厚労大臣)を「無能です」と一口で切って捨てていた。

 長妻昭が大臣時代に、年金切替忘れの専業主婦を「救済」する方針が決定され、課長「通達(通知)」でもって今年から実施された。

 近日において、民主党内閣(細川厚労大臣)はこれを「違法」ではないが「不適切」だったとし、当該課長を官房付に「更迭」したと伝えられる。

 長妻昭は課長「通達」で済ますことの問題性を何ら認識していなかったようだ。ほとんど誰もその点を問題にしなかった旨を他人事のように述べていた。当該課長が「更迭」されるという<行政>的責任をとったとすれば、大臣だった長妻はどう<政治的>責任をとるつもりか?

 日本経済新聞の政治・行政担当の記者の経験もあるらしい長妻昭は、やはり「無能」なのではないか。かつて政治・行政担当の新聞記者であっても、法律によるべきかかそれとも「通達」によってもよいか、という問題意識すらなかったようなのだから、行政担当の政治家としては「無能」と断言してよい。長妻に期待を寄せていた者もいるのだろうが、そのような人々も「無能」なのだろう。かつての新聞記者というのはこの程度だ(という者も多い)、ということもよく分かる。
 「違法」か「不適切」かはじつは重大な違いがある。特定範囲の在日外国人に対しても日本国民(国籍保持者)と同様の生活保護措置が執られることは、関係公務員(自治体も当然に含む)なら誰でも知っているだろうが、自民党内閣時代からの、古い、<生活保護法を……に準用する>旨の一片の「通達(通知)」にもとづいているにすぎない。このような例も含めて、国会では、法律によるべきかかそれとも「通達」によってもよいかを論議してほしいものだ。

 〇上の「救済」策は、忘却した直接の当事者に対しては、一種の「バラまき」にあたる。

 民主党は少子化対策とか景気浮揚の経済政策とか言っているようだが、<子ども手当>施策には「バラまき」との批判も強い。

 だが、「バラまき」福祉という批判だけではこの施策の本質を見抜いていない、という重要な指摘を中川八洋はしている(中川に限らないだろうが、ここでは中川の文章をとり挙げる)。中川八洋・民主党大不況(清流出版、2010)によると、以下のとおり。

 ・「子ども手当」等の「子育て」支援はマルクス=エンゲルス『共産党宣言』(1848)を教典とするカルト信仰からの思いつきで、「日本人から家族をとりあげ『家族のない社会』に改造する」ためのステップだ。共産党宣言にはこうある-「家族の廃止!……我々は両親の小児に対する搾取を廃止しようとする。〔親による教育の禁止は〕……〔子どもの〕教育を支配階級の影響からひき離すにすぎない」(p.14)。

 ・「子育て支援」とは<国家こそが子育ての主体>、<親は産んだ瞬間に役割を終える>等の狂気のイデオロギーによる共産党の造語だ。かかる施策が立法・行政に闖入したのは「自由社会では日本のたった一カ国」。類似の政策は①レーニンによる家族解体の狂策(但し1936年頃廃止)、②金日成・北朝鮮の「子供の国家管理」の制度化(p.16)。

 ・「子育て支援」施策の異様さは「扶養控除」の廃止と連結していることで分かる。「扶養控除」は<親が子供を育てる>を大前提として、親に対して国家が減税により若干の協力をしようとするもの。一方の「子育て支援」思想は「家族=孤児院」とするイデオロギーだ。子供=孤児、親=孤児院の経営者に見立てている(p.17)。

 ・「子育て支援」の狂気は、ルソー(重度精神分裂症者・孤児)の『人間不平等起源論』・『エミール』を教典とし、それを盗作的に要約したマルクスら『共産党宣言』にもとづき、レーニンが実行したおぞましい歴史を21世紀の日本で再現しようとするもの。民主党のマニフェストの「子ども手当」の背後思想は日本共産党により大量出版された「子育て支援」文献を援用しており、民主党は「共産党のクローン」になっている(p.17-18)。

 まだまだ続くが、ここで止めておく。

 民主党の元来の「子ども手当」の思想は<所得制限>といったものに馴染まない(だからこそ結果としては一貫して所得制限は導入されていない)。両親の収入の多寡に応じた「社会福祉」という国家の<援助>とは異なる。「国家」こそが「子育て」の主体(子どもを家族・両親から早期に切り離す)というイデオロギーに支えられたワン・ステップ(一里塚)と位置づけられている、と考えられる。中川八洋の指摘は決して大げさなものとは思えない。

0994/日本の「保守」は生き延びられるか-中川八洋・民主党大不況へのコメント2。

 中川八洋は刺激的な書物を多数刊行しているが、さすがに、全面的または基本的に支持する、とも言い難い。

 細かな紹介は省くが、中川八洋・民主党大不況(清流出版、2010)の、例えばp.287の安倍晋三、大前研一、江口克彦、平山郁夫、山内昌之、川勝平太、中西輝政に対する罵倒または特定の党派性の決めつけは、詳しく具体的な根拠が示されているならばともかく、私がこれらの人々を基本的に信頼しているわけでは全くないにしても、にわかには信じ難い。

 つづくp.288には、安倍晋三が「マルキスト中西輝政をブレーンにしたのは、安部の思想軸に、(無意識にであれ)マルクス主義が根強く浸透しているから」だとの叙述もあるが、これに同感できるのはきわめて少数の者に限られるのではないか。もっとも、例えば、戦後<左翼>的「個人主義」・「自由主義」等々が(渡部昇一を含む)いわゆる<保守派>の面々に「無意識にであれ」浸透していないかどうかは、つねに自省・自己批判的克服が必要かと思われるが。

 より基本的な疑問は、中川の「保守主義」観にある。中川の、反共主義(・反極左・反フェミニズム等)、共産主義と闘争することこそ「保守」だとする議論には全面的と言っていいほど賛同する。そして、この点で曖昧さや弱さが日本の現在の<保守>にあるという指摘にも共感を覚えるところがある。この点は、のちにも具体的に論及していきたい。

 しかし、中川八洋の「保守主義」は、マルクス主義が外国産の思想(・イデオロギー)であるように、「英米」のバークやハミルトン等々を範とするやはり外国産のそれをモデルとしている。それを基準として日本の「保守」を論じるまたは批判するのは、自由ではあるものの、唯一の正しいまたは適切な立脚点だとはなおも思えない。

 日本には日本的な「保守主義」があってもよいのではないか。

 中川八洋によると、「保守主義の四哲人」はコーク→ハミルトン・バーク・ハイエクだ(p.310の図)。そして、レーガンはハミルトンとバークの、サッチャーはバークとハイエクの系譜上にある(同)。また、「八名の偉大な哲人や政治家」についても語り、コーク、バーク、ハミルトン、マンネルハイム、チャーチル、昭和天皇、レーガン、サッチャーの八人を挙げる(p.351)。

 昭和天皇は別として、中川の思考・思想の淵源が外国(英米)にあることは明らかであり、なぜ<英米の保守主義>を基礎または基準にしなければならないのかはじつは(私には)よく分からない。学ぶ必要はあるのは確かだろう。だが、中川のいう<英米の保守主義>をモデルにして日本で議論すべきことの不可避性は絶対的なものなのだろうか。

 外国人の名前を挙げてそれらに依拠することなく、中川八洋自身の独自の思想・考え方を展開することで十分ではないのか。その意味では明治期以来の<西洋かぶれ>の弊は中川にもあるように感じられる。

 また、以上と無関係でないだろうが、中川八洋が「保守」はつねに(必ず)「親米」で、「反米」は「(極左・)左翼」の特性だ、と断じる(p.361-2)のも、釈然としない。「親米」の意味の理解にもよるのかもしれないが、<保守>としても(論者によっては<保守>だからこそ?)「反米」的主張をせざるをえないこともあるのではあるまいか。

 このあたりは小泉構造改革の評価にも関連して、じつは現在のいわゆる<保守派>でも曖昧なところがある。また、「反米」よりも<反共>をこそ優先させるべきことは、中川八洋の主張のとおりだが。

 以上のような疑問はあるが、しかし、日本の<保守派>とされる論客、<保守派>とされる新聞や雑誌等は、中川八洋の議論・指摘をもう少しきちんととり上げて、批判を含む議論の俎上に乗せるべきだろう。さもないと、似たようなことをステレオタイプ的に言う、あるいはこう言っておけば(閉鎖的な日本の)<保守>論壇では安心だ、との風潮が、いっそう蔓延しそうに見える(かかる雰囲気があると私には感じられる)。

 中川八洋の主張・指摘の中には貴重な「玉」も多く含まれていて、「石」ばかりではないと思われる。<保守>派だと自認する者たちは、中川八洋とも真摯に向かい合うべきだろう。

0991/古田博司「時代の触角/親中メディアの生理的イライラ」(歴史通3月号)。

 歴史通3月号(ワック)の古田博司「時代の触角③/親中メディアの生理的イライラ」(p.200-)によると、日本の全国紙のうち朝日・毎日・日経は1960年代に「黙って」・「素知らぬ顔で」反米・親中へと変化した、読売は2006年に「鋭角的に」そう変化し、産経は非親中のまま、らしい。これにNHKの親中ぶりを合わせると、大手メディアの<親中>体制は強固だ。

 NHKは在日エジプト人の200人ほどの集会を丁寧に放送し、別の某民放局(忘れた)は在日リビア人のそれよりも少ない数の活動を追っていたが、昨秋の尖閣事件を契機とする他ならぬ日本人の東京での数回にわたる数千人規模のデモ・集会をほとんど無視した。だが、菅直人内閣の支持率の急落の最大の原因は私にはこの尖閣問題への対処のヒドさ(国民に生じた基本的な平和・安全自体への危惧)にあったと思える。大手メディアの報道ぶりと庶民的<世論>の感覚はかなりズレているのではないか。

 古田論考には他にも興味を惹く叙述がある。詳しく反復しないが、親中べったり派の毎日新聞の元・現の記者として、石川昌、中野謙二、辻康吾、金子秀敏という固有名詞を挙げている。そして、「尖閣事件以来、毎日の『スター』はずっとイライラし続けている」のだそうだ。

 古田によると日中友愛の<理想・幻想・空想>は「ウソの団子三兄弟」または「想兄弟」。これに該当する兄弟たちは、東京新聞の清水美和、慶應大学の国分良成、みずほ総研の細川美穂子、東京大学の苅部直(「事後のピエロ」)、慶應大学の添谷芳秀

 「わが日本国ではリベラルと親中が六〇年代に進歩的文化人らにより接着されてから、ずっと剥がせないまま、インテリのマジョリティを作り上げて今日まで来てしまった」のだが、古田は、自分たちで剥がせなければ「際限なくウソ」をつき続ける他はないとして、若干の例も挙げている。
 この古田論考をとり上げたくなったのは、次の最後の一文にある。「東アジア情勢の変動が国内政治にどう反映するか、いよいよ楽しみになってきた今日この頃である」。

 「いよいよ楽しみになってきた今日この頃である」。日本の将来を悲観し、悲痛に思い詰める必要はない。菅直人政権の右往左往ぶり、支持率急落(最新の某調査で20%以下!)、衆議院解散を求める世論の増大(事態の改善方向の第一位意見)に対して、朝日新聞はこれからどう菅・民主党政権を擁護し、自らのかつての主張との齟齬を取り繕うだろうか、「いよいよ楽しみになってきた今日この頃である」、という気分で日々を過ごすことにしよう。

0988/日本の「保守」は生き延びられるか-中川八洋・民主党大不況へのコメント1。

 中川八洋・正統の哲学/異端の思想(徳間書店、1996)、中川八洋・保守主義の哲学(PHP、2004)はいずれも読んでいる。とりわけフランス革命やルソーについては、これらの本の影響を受けているかもしれない。

 これらの本についても感じることは、中川八洋は学術的な研究論文にして詳論すればそれぞれ数十本は書けるだろう、そしてその方が読者にはより説得的によく理解できるような内容を、きわめて簡潔に一冊の本にまとめてしまっている、ということだ。この人は、海外・国内のいずれの文献についても、(外国人の著についてはおそらくは英語のまたは英訳された原書で)すさまじいスピードで読み、理解できる能力をもつ人だと思われる。

 中川八洋・民主党大不況(清流出版、2010)についても、ほぼ同様のことはいえるだろう。中川八洋のすべての本を読んできているならば少しは別かもしれないが、そうでないと、簡潔に言い切られている多数のことが、ふつうの?読者には容易には理解できないように思われる。それは、むろん、すでに紹介したように、「民族派(系)」の江藤淳・渡部昇一・西尾幹二等々は「保守」ではない、控えめに言っても「真正保守」ではない、という、中川ら(?)以外の者にとっては一般的ではない、独特の?見解・立場に立っていることにもよる。

 中川の上の著は「ハイパー・インフレと大増税」という副題をもち、「大不況」というメイン・タイトルをもつことから民主党の経済・財政政策批判の本との印象も生じるが、まるで異なる。「大不況」には「カタストロフィ」というフリガナがついていることからすると、<民主党による日本大崩壊(大破綻)>というのが基本的趣旨で、同時にそのような民主党政権誕生を許した自民党や<民族系>論者を批判することを目的としているように感じられる。その意味では<「民族派」(保守)大批判>というタイトルでも決して内容と大きく矛盾していないと思われる。

 にもかかわらず、実際のタイトルになっているのは、<「民族派」(保守)大批判>では売れない、<民主党批判>本なら売れる、という出版社・編集者の判断に従っているかにも見える。

 上のことはこの本の感想の第一ではまったくないが、中川八洋とて、<出版>そして<売文>業界という世俗と完全に無縁ではいられない、ということを示してもいるだろう。

 さて、中川八洋・民主党大不況(2010)への簡単なコメントはむつかしい。ここで触れられていることは、この欄であれこれと書いてきた多くのことに、あるいはマスメディアや多数の論者が議論してきた多くのことに関係している。

 とりあえずは二点だけ述べる。

 秋月瑛二の私見あるいはこの欄の基本的立場は昨年の7月に「あらためて基本的なこと」と題して書いたとおりだ。
 以下は一部のそのままの引用。 

 ・左右の対立あるいは<左翼>と<保守>の違いは、<容共>か<反共>かにある。<容共>とは、コミュニズムを信奉するか、あるいはそれを容認して、それと闘う気概を持たないことを意味する。<容共>と対立するのがもちろん<反共>で、<保守>とは<反共主義>に立つものでなければならない。コミュニズムを容認または放置してしまうのではなく、積極的に闘う気概をもつ立場こそが<保守>だ。
 ・米国との関係で、自立を説くことは誤ってはいない。<自主>憲法の制定も急がれる。その意味では<反米>ではある。だが、現在の最大の<溝>・<矛盾>は、コミュニズム(共産主義・社会主義)と<自由主義>(・資本主義)との間にある。<反共>をきちんと前提とするあるいは優先した<反米>でなければならない。<反共>を優先すべきであり、そのためには、米国や欧州諸国のほか韓国等の<反共>(・自由主義)諸国とも<手を組む>必要がある。以上のかぎりでは、つまり<反共>の立場を貫くためには、<親米>でもなければならない。
 ・日本と日本人は<反共>のかぎりで<親米>でありつつ、欧米とは異なる日本の独自性も意識しての<反米>(反欧米、反欧米近代)でもなければならない。そのような二重の基本的課題に直面していると現代日本は理解すべきものだ。

 こうした考え方からする中川八洋著に対する第一の感想は、<反共>主義の立場であること、<保守=反共>と完璧に理解すること、が鮮明で、他の多くの<保守>派とふつうは言われている人々の論調に比べて、共感するところ大だ、ということだ。

 述べたことがあるように、佐伯啓思の本は刺激的で思考誘発的で、かつ<西欧近代>への懐疑の必要性について教えられることが多い。だが、佐伯はコミュニズム(・共産主義)との対立は終わった、<社会主義対資本主義>という議論の立て方はもはや古い、というニュアンスが強く、結果として、現実の中国・北朝鮮に対する見方が甘くなっているのではないかという疑問も生じる。上記のような<親米>でも<反米>でもあるという立場は佐伯啓思の論じ方にも影響を受けているが、<反共>と<反米>のどちらをより優先させるべきか、と二者択一を迫られた場合、やはり<反共>(現実には反中国・反北朝鮮等)を選択すべきで、そのためには米国をも利用する(その限りでは<親米>になる)必要があると考えられる。そういう根本的な発想のレベルでは、佐伯啓思にはやや物足りなさも感じている。昨秋の尖閣問題の発生以降の佐伯の産経新聞紙上の論調は何となく元気がないと感じるのは、気のせいだろうか。

 櫻井よしこ渡部昇一がとの程度マルクス(・レーニン)主義を理解しているのかはかなり疑わしい。櫻井よしこはしきりと<反中国>の主張を書いていて、そのかぎりで<反共>だと言えると反論されそうだが、しかし、そのとおりではあるとしても、桜井の文章の中には、見事に、「共産主義」や「社会主義」という言葉が欠落している。

 櫻井よしこに限らず、中国について<中華思想>の国(・地域)だとか、日本と違う<王朝交代>の国(・地域)だとか、その<民族>性自体に対する批判は多く、桜井も含めて中国の帝国主義的(?)、覇権主義的(?)、領土拡張主義的(?)軍事力増大に対する懸念・批判は多く語られてきている。だが、中国の元紙幣には現在でも毛沢東の顔が印刷されているように、中国は毛沢東が初代の指導者であった中国共産党が支配する国家であり続けている。

 そして毛沢東・中国共産党はまぎれもなく、マルクス・レーニン(・スターリン)の思想的系譜をもっていること、中国は<現存する社会主義>国家であることを決して忘れてはいけない。その領土拡張主義的政策に大昔からの<中華思想>等をもって説明するのは本質を却って没却させるおそれなきにしもあらずだ。<中国的>な発展または変容を遂げていることを否定しないが、現在の中国は基本的にはなおもマルクス・レーニン(・スターリン)主義に依拠している国家だからこそ、日本にとっても害悪となる種々の問題を生じさせているのではないか。

 このマルクス主義(・共産主義・社会主義)自体の危険性への洞察・認識が櫻井よしこらにどの程度あるのかは疑わしいと感じている。田久保忠衛についても同じ。

 述べきれないが、以上のようなかぎりで、中川八洋の<民族系>批判は当たっている、と感じられるところがある。

 くり返すが、<ナショナリズム>を、あるいは<よき日本への回帰>を主張し称揚することだけでは<保守>とはいえないだろう。ナショナリスムに対する国際主義(グローバリズム、ボーダーレスの主張)に反対するだけでは<保守>とは言えないだろう。「グローバリズム」、朝日新聞の若宮啓文の好きな「ボーダー・レス」の主張の中に、ひっそりとかつ執拗に「共産主義」思想は生きていることをこそ、しっかりと見抜く必要がある。

 <万国の労働者団結せよ!>とのマルクスらの共産党宣言の末尾は、国家・国境・国籍を超えて<万国>のプロレタリアートは団結せよ、という主張であり、脱国家・ボーダーレスの主張をマルクス主義はもともと内包している。外国人参政権付与論も、上面は美しいかもしれない<多文化(・民族)共生>論もマルクス主義の延長線上にある。

 やや離れかけたが、<反共産主義>の鮮明さ、この点に中川八洋の特徴があり、この点は多くの論者が(ミクロな論点に過度にかかわることなく)共有すべきものだ、と考える。

 といって、中川八洋の主張を全面的に納得して読んだわけでもない。別の機会に書く。

0986/中川八洋・民主党大不況(2010)の「附記」を読む③。

 中川八洋・民主党大不況(清流出版、2010)p.351-「附記/たった一人の(日本人)保守主義者として」の引用・抜粋-その3、p.359~p.365-。
 ・「民族系」論者には「自由社会の存立」に必要な「反共」・「反社会主義」の知識が全く欠落している。「民族系」は南京事件・沖縄集団自決・従軍慰安婦強制連行・百人斬りなど、「左翼」の歴史捏造問題には反撃論陣を張る。これは正しいが、石井731部隊人体実験・シナでの毒ガス作戦などの他の歴史捏造には口を噤む。
 ・「民族系」には歴史の「真実」への関心がない。彼らは観客相手の「売文業者」で、観客のいない問題には関心がなく、知識もない。「観客」とは「旧軍の将兵(退役軍人)たち」だ。「民族系」論者の東京裁判批判は「意味不明な論旨」で、東京裁判史観の拡大宣伝をする日本共産党系学者の「狂説」を目に入れていない。「観客」=退役軍人たちは南京事件・従軍慰安婦等の問題は体験からすぐ分かるので、これらの捏造を糾弾すればすぐに反応がある。「民族系」論者は「花代」欲しさに、捏造歴史問題を一部に限定して声を大にしている。①ソ連軍の蛮行(満州でのレイプ・殺人・財産奪取)、②シベリア拉致日本人の悲惨さ、③南方作戦(餓死から奇跡的な一部が生還)には「何一つ語ろうとはしない」。その理由は、これらの被害はあまりに悲惨で「観客」が思い出したくない、つまり「民族系」の「金にならない」からだ。

 ・「民族系」は「保守主義者」ではなく「保守」か否かも疑問だ。「真正保守」ならば、反「極左イデオロギー」闘争を優先し、「国家の永続」を最重視する。「保守」は昭和天皇や吉田茂のように必ず「親米」だ。「反米」は「左翼」・「極左」の特性で、「日の丸」・「天皇」を戴くだけで彼らを「保守」と見なすのは不正確で「危険」だ。「真正保守」の再建には、彼等を「再教育」して「一部を選別するほかない」。

 ・「民族系」は過去20年間、「第二共産党」・民主党の政権奪取に貢献してきた。彼らは日本の国を挙げての「左傾化」を阻止しようとはせず、助長した。「民族系」は、「ソ連の脅威の一時的な凍結」を好機として、「反米→大東亜戦争美化論→東京裁判批判→A級戦犯靖国合祀の無謬」を「絶叫する狂愚」に酔い痴れてきた。「大東亜戦争美化論」は日本廃絶論・日本「亡国」待望論で、林房雄、保田與重郎・福田和也の系譜だ。
 ・民主党は「国家解体」に直結する「地方分権」、民族消滅に直結する「日本女性の売春婦化である性道徳の破壊」など、「日本滅亡の革命を嫡流的に後継する政党」だ。だが、「民族系」は、民主党が支持される「土壌づくり」に協力した。
 ・「民族系」が「正気に目覚める」のは「外国人参政権」と「夫婦別姓」の二つに限られ、これ以外では無知で無気力だ。「深刻な出生率低下をさらに低下させる法制度や日本の経済発展を阻む諸制度」に反対せず、関心もない。「財政破綻状態にも、日本人の能力の深刻な劣化問題にも」憂慮しない。「民族系」論客・団体の「知的水準」は低く、民主党批判を展開する「学的教養を完全に欠如」する。
 ・だが、「あきらめるのは、まだ早い」。「十八世紀のバークやハミルトン、二十世紀のレプケやハイエクなど、多くの碩学から」学んで、「日本国の永続」方策を探り、「悠久の日本」のための「国民の義務」に生きる道を「歩み続けるしかない」。

 以上で、終わり。

 若干のコメントは次に回したい。

0982/中川八洋・民主党大不況(2010)の「附記」を読む②。

 中川八洋・民主党大不況(清流出版、2010)p.351-「附記/たった一人の(日本人)保守主義者として」の引用・抜粋-その2-。
 ・日本には「保守主義の知識人」が「ほとんど存在しない」。明治期には井上毅がおり、武士階級の子弟が「家」制度の存在とともに結果として日本を「保守主義」で導いたが、1910年以降、①「ルソー系の平等思想」と②「マルクス主義」が台頭し、1917年以降、「マルクス・レーニン主義」が燃えさかった。この火は大東亜戦争を生み、戦後日本を決定づけ、いまは日本全体に浸透し日本人を「洗脳」している。
 ・「保守」は戦後の新語で、社会党・共産党ら「革新」に対する「親米/日米同盟支持」勢力を指し、もともと「思想やイデオロギーが弱く、ほとんど無い」。英米の、バーク、ワシントン、ハミルトンらの「保守主義」は「全体主義とアナーキズムの極左思想」の排撃を目的とする「人類史に燦然と輝く最高級の知で武装された戦闘的イデオロギー」だ。

 ・「ないよりまし」だった「日本の保守」すら、1991年末のソ連崩壊によって「壊滅的に瀕死」の状態になった。「革新」に対する「保守」はもはや不要だと、自ら棄てる、「愚昧な選択」をした。私(中川八洋)はソ連崩壊により「国防の軽視ばかりか、コミュニズムが日本の隅々まで浸透し支配する」と予見したが、それは「完全な正確さで」的中した。
 ・予見した日本の「新型コミュニズム革命」は、想像をはるかに超えて大掛かりとなり、翌1992年に本格化した。「政治改革」キャンペーンは「新型共産主義革命」のための「新体制」づくりだった。「民族系論者」にも<反「政治改革」>を協力要請したが、「だれ一人として」相手にしてくれなかった。彼らは、翌年の1993年政変=細川政権誕生の意味を理解できず、「極左イデオロギー」は「変幻自在に衣装を変え色を変え信仰され続」いて「永遠に死滅しない」ことも知らない。(以上、p.351-355)

 ・1994年1月の選挙区制の改悪と同時に「極左イデオロギー一色の新型共産革命」が列島全体を覆った。1990年代半ばの「夫婦別姓」運動の盛り上がりはその一つ。1999年には、男女共同参画基本法という「伝統と慣習を破壊するマルクス・レーニン主義」そのものの「日本共産革命法」が制定された。その他、①ブルセラ/援助交際の奨励による道徳破壊、②フェミニズムやジェンダー・フリーによる日本男性の「夢遊病患者」化と日本女性の「動物」化という「人格改造革命」、③ポスト・コロニアリズムによる国家解体、等々の「大規模で組織的な」革命が日本を襲っていることを自覚する知識人は「ほとんどいなかった」。「正しい保守」は「日本から完全に消えた」。自民党の民族系国会議員は「新型共産革命」を傍観するばかりか「積極的に協力した」。日本の「民族系政治家の無教養ぶり」は「教育不可能な絶望のレベル」だ(p.356)。

 ・1960代までの日本の「保守」には吉田茂などの「保守主義」の匂いが残存した。バークやハミルトンが検閲されて「焚書」状態の中で、ベルジャーエフとクリストファ・ドウソンが「真正保守」を代用していた。
 ・「日本の保守」=「反共」人士は、1970年代に入ってから「激減」した。偶然にか、この劣化・消滅は核武装支持者の大衰退の傾向と合致する。核拡散防止条約加盟・批准(1970.02、1976.06)を境に、日本の核武装支持者は急激に下向した。上の加盟と批准の間に、1972.09の日中国交回復があった。これこそは、日本から「反共」を撲滅する「劇薬的な除染液」となった。「反・中共」路線が、「保守」であるべき自民党政権によって行われたことは、ブーメラン的に日本の「反共=真正保守」を撃破した。
 ・「反共」の文藝春秋社社長・池島信平が月刊誌・諸君!を創刊したのが「保守」衰退開始の1969年だったのは皮肉だ。諸君!は21世紀に入ると、「保守つぶし」の一翼を担った。諸君!は1990年代には「反米(隠れ親ソ)・アジア主義」の「民族系論客」や「反米一辺倒(極左)アナーキスト」を主執筆者に据えたため、「保守=民族系」との「大錯覚」が読者「保守」層に蔓延し、「保守偽装の極左=保守」という狂気の「逆立ち錯誤」すら90年代後半以降広く蔓延した。

 ・「民族系」は「反米(隠れ親ソ)・アジア主義」という「左翼思想」を基盤とするもので、「反共」の「真正保守」とは根源的に対立する。彼らは、日本国内でのコミュニズムの浸透・偽装・変身を見抜けない。たまには「左翼批判ごっこ」はするが、「左翼イデオロギー」に関する知識欠如のために「左翼運動や左翼言説」に「致命傷」を与えず、「必ず不毛に終わる」。(以上、p.357-359)
 まだ中途。余裕があれば、なお続ける。

0981/中川八洋・民主党大不況(2010)の「附記」①真正保守と「民族系」。

 中川八洋・民主党大不況(清流出版、2010)p.351-「附記/たった一人の(日本人)保守主義者として」の引用・抜粋。
 ここで中川が書いていることが適切ならば、日本は「ほとんど絶望的」どころか、「絶望的」だ。

 かの戦争の理解についても多くの<保守>論者のそれとは異なる<中川史観>が日本の多数派になることはないだろう。<日本は(侵略戦争という)悪いことした>のではない、という多数派<保守>の歴史観(歴史認識)が日本全体での多数派になることすら疑わしい、と予測しているのだから。かつての歴史理解の差異はさておいても、将来の自主的(自立・武装の)憲法制定くらいでは多数派を形成できないだろうかとささやかに期待している程度にすぎないのだから。

 さっそく脱線しかかったが、中川八洋の主張・見解を基本的なところで支持するにはなお躊躇する。あれこれと苦言を呈してもいるが、多数派<保守>の影響下になおある、つまり中川から見れば誤った<思い込み>があるのかもしれない。しかし、少なくとも部分的には、中川の主張や指摘には首肯できるところがある。

 以下、コメントをできるだけ省く。

 最後の方の図表(p.363)は以下のとおり。

 中川はタテ軸を上の<反共or国家永続主義>と下の<共産革命or国家廃絶(亡国)主義>で分け、ヨコ軸を左の<アジア主義(反英米)/倫理道徳の破壊>と右の<反アジア主義(親英米・脱亜)/倫理道徳重視>に分ける。

 四つの象限ができるが、左・かつ下の<共産革命or国家廃絶(亡国)主義+アジア主義(反英米)/倫理道徳の破壊>が中川のいう「Ⅱ・極左」だ。中心に近いか端に近いかの差はあるが、文章化しにくいので割愛し、そこで挙げられている人名(固有名詞)は、①林房雄、②福田和也、③保田與重郎、④共産党、⑤近衛文麿、⑥白鳥敏夫、⑦河野洋平、⑧松本健一、⑨村山富市、⑩宮沢喜一〔番号はこの欄の紹介者〕。①~③は、ふつうは<保守派>と理解されているのではなかろうか。

 右・かつ上(反共or国家永続主義+反アジア主義(親英米・脱亜)が中川のいう「Ⅰ・真正保守」で、次の8人のみ(?)が挙げられている。①昭和天皇、②吉田茂、③中川八洋、④殖田俊吉、⑤福田恆存、⑥竹山道雄、⑦林健太郎、⑧磯田光一

 右・かつ下はなく、左・かつ上の<反共or国家永続主義+アジア主義(反英米)>が中川のいう「Ⅲ・民族系」だ。自民党のある議員集団について中川が「容共・ナショナリスト」と断じていた、その一群にあたるだろう。そして、①渡部昇一、②松平永芳、③小堀桂一郎、④江藤淳、⑤西尾幹二、が明示されている。

 このグループはふつう <保守派>とされており、上のごとく(たぶん②を除いて)その「大御所」ばかりだが、中川八洋によれば、「真正保守」ではない。図表によると「反英米」か「親英米」のうち、前者を中川は「真正保守」に反対するものと位置づけていることになる。

 西尾幹二と江藤淳は対立したこともあるが広くは同じグループ。櫻井よしこも、渡部昇一と現在ケンカしている小林よしのりも、おそらくはこの一群の中に位置づけられるのだろう。

 西部邁や佐伯啓思はどう扱われるのだろうか。この二人の<反米>ぶりからして、「真正保守」とは評価されないのだろう。

 佐伯啓思は保田與重郎らの「日本浪漫派(?)」に好意的に言及していたように記憶するので、ひょっとすれば、中川からすると「極左」かもしれない。佐伯は親共産主義をむろん明言してはいないが、「反共」主張の弱いことはたしかだ。その反米性・ナショナリズムは「左翼」と通底するところもある旨をこの欄に書いたこともある(佐伯啓思が自らを「親米」でもある旨を書いていることは紹介している)。

 以上は、冒頭に記したように、中川の整理を支持して紹介したものではない。だが、少なくとも、思考訓練の刺激または素材にはなりそうだ。

 一回で終えるつもりだったが、ある頁の表への論及だけでここまでになった。余裕があれば、さらに続ける。

0980/自民党は「民族系・容共ナショナリズム」-中川八洋・民主党大不況(2010)から③。

 中川八洋・民主党大不況(清流出版、2010)p.300以下の適宜の紹介。逐一のコメントは省く。

 ・細川・村山「左翼」政権は二年半にすぎず、自民党が「保守への回帰」をしておけば「自由社会・日本」の正常路線に戻ることは可能だった。だが、自民党は村山「左翼」路線を継承し、「日本の左傾化・左翼化」は不可逆点を超えた。2009年8月の自民党転落(民主党政権誕生)は、自民党が主導した「日本国民の左傾化」による、同党を支える「保守基盤」の溶解による。「マスメディアの煽動や情報操作も大きい」が、橋本以降の自民党政権自体こそが決定的だった(p.300-1)
 ・自民党内の「真・保守政策研究会」(2007.12設立)には①~⑦〔前回のこの欄に紹介〕の知識がない。①の「マルクス・レーニン主義」すら「非マルクス用語に転換」しているので、知識がなければ見抜けず、民主党が「革命イデオロギーの革命政党」であることの認識すらない(p.312)。
 ・彼ら(同上)が理解できるのは、①外国人参政権、②人権保護法、③夫婦別姓がやっとで、1.①「男女共同参画社会」、②「少子化社会対策」、③「次世代育成」、④「子育て支援」が共産主義(「共産党」)用語であることを知らない。2.「貧困」・「派遣村」キャンペーンの自民党つぶしの「革命」運動性を理解できず、3.過剰なCO2削減規制が、日本の大企業つぶし・その「国有化」狙いであることも理解できず、4.「地方分権」が「日本解体・日本廃絶の革命運動」であることも理解できない(p.312-3)。

 ・彼ら、「民族系自民党議員」は正確には「容共ナショナリスト」で、チャーチル、レーガンらの「反共愛国者」・「保守主義者」とは「一五〇度ほど相違」する。自民党が英国のサッチャー保守党のごとき「真正の保守政党になる日は決してこない」。それは自民党ではなく「日本の悲劇」だ(p.313)。

 今回は以上。西部邁の言葉を借りれば、日本について「ほとんど絶望的になる」。

 中川八洋によれば、安倍晋三の「極左係数」は「98%」で(p.295)、明言はないが、平沼赳夫も「真正保守」ではなく「民族系」に分類されるはずだ。安倍晋三についての評価は厳しすぎるように感じるが、平沼赳夫の-そして「たちあがれ日本」の-主張・見解がけっこう<リベラル>で、<反共>が鮮明でないことを、最近に若干の文献を読んで感じてもいる。

 ナショナリズム(あるいは「ナショナル」なものの強調)だけでは「保守」とは言えない。反共産主義(=反コミュニズム)こそが「保守」主義の神髄であり、第一の基軸だ、という点では中川八洋に共感する。
 さらに、機会をみて、中川八洋の本の紹介等は、続ける。

0979/「透明な共産主義」の蔓延-中川八洋・民主党大不況(2010)による②。

 中川八洋・民主党大不況(清流出版、2010)は1週間ほど前に全読了。
 第八章の自民党批判(または批判的分析)の中の同党や同党幹部の「極左」扱いにはさすがに首を傾げる。櫻井よしこの「谷垣自民党」と民主党の「同根同類」論または<同質性が高い>論をはるかに超えて、自民党を「リベラル」以上に「左翼」政党視している。だが、同質論を強調しているわけではなく、中川によると、民主党はすっぽり全体が<極左>そのものなのだろう。

 中川八洋によると、「保守主義」とは「全体主義とアナーキズムの極左思想を祖国から排除すべく、剣を抜く戦闘的イデオロギー」だ(p.308)。あるいはまた、具体的には「反マルクス・レーニン主義」・「反ルーマン(社会学)」・「反フェミニズム」・「反ポスト・モダン主義」・「反ポスト・コロニアリズム」だ(p.311)。

 中川の論調にはついて行けないところがあるとはいえ、かかる反共主義・反コミュニズムという立場の鮮明さが、中国やアメリカとの関係での<ナショナリズム>の強調をむしろ主眼としているように読めなくはない<保守派>論者たちと比較しての中川の特長だ。その点は、「共産革命の脅威は、ソ連崩壊とともに日本から消えた」(p.304)と錯覚して、その旨を主張し、誤った幻想をふり撒いているかにも見える論者たちよりも明確に支持されるべきだ。

 中川が言うように、「日本の共産革命勢力」は、ソ連崩壊の頃(1991年末)より、「言葉を変え、まとう衣装を変え、従来のマクロな革命手法を、ミクロ的作戦を多く乱立させる戦術に変えた」のだろうと思われる。中川はこれを「透明な共産主義」と称している(p.304)

 日本共産党の国会獲得議席はたしかに減少し続けている(ついでに社民党もそうだ)。しかし、そのことをもって、「左翼」は弱体化していると見るのは大間違いだ。コミュニズム、マルクス主義あるいは「左翼」は、民主党等に影響を与え、あるいは浸透しているのであり(自民党もその影響の例外ではない)、戦後日本の主流的思潮の<平和と民主主義・合理主義・進歩主義>の中で、執拗かつ強靱にコミュニズム、マルクス主義(共産主義・社会主義)イデオロギーが根を張っている、ということを知っておく必要がある。その点でも、やや大げさに感じなくはなくとも、中川八洋の指摘・主張は基本的には正当と思われ、耳を傾けるべきだ。

 中川は、1992年以降の「共産革命の戦術」を大きく四つに分け、それぞれの具体的政策も挙げている。以下のとおり(p.304-6)。これらは「日本共産党」系のものとされ、他に大きくは二つあるが、今回は省略。

 A・マルクス/エンゲルス/レーニンの家族解体を実践する革命>①夫婦別姓→民法改悪・②子育て支援→少子化対策基本法・次世代育成支援対策推進法・子ども手当の支給・保育園の聖性化など。
 B・子どもの人格を「共産主義的な人間」に改造する革命>①ジェンダー・フリー教育・②性教育。

 C・共産革命にとって最大の障害である日本の伝統と慣習を全面的に破壊する革命>①男女共同参画社会基本法・②女系天皇への皇室典範の改悪。

 D・自由社会の生命で根幹たる「法の支配」を破壊する革命>①裁判員法〔ここは①のみ〕。

 また、中川八洋は、「主要な極左イデオロギー」に次の七つがあるとし、すべてに対して思想闘争をするのが「保守主義」だとする。心ある<保守派>は、けっして次の①のみではないことをしっかりと意識しておく必要がある、と考えられる。なお、→は分化または派生関係を示している。

 ①マルクス・レーニン主義→②ラディカル・フェミニズム、①→③性差破壊のフェミニズム、①→④フランクフルト学派社会学+知識社会学+ルーマン、①→⑤ポスト・モダン思想、⑤→⑥生殖放棄のセックス・サイボーグ化フェミニズム、⑤→⑦ポスト・コロニアリズム
 別の機会に、あらためて、このあたりについては紹介・言及する。
 不思議に思うのは、中川八洋が自らを「たった一人の(日本人)保守主義者」と理解している(p.351~)ことの当否は別としても、産経新聞や月刊正論、月刊WiLL等々の書評欄または新刊書紹介欄等で、中川八洋の本はほとんど無視されているように思われることだ。かりに中川八洋に論考執筆を求めることはしなくとも、この人の本(他にもある)を紹介し、書評くらいしたらどうなのか。

 なるほど、産経新聞やワックの基本的な論調とは異なるところはあるのだろう。しかし、産経新聞的(?)保守、あるいは中川のいう「民族系」論者に対する中川の批判を無視することなく、疑問だと思えばきちんと反論したらどうなのだろうか。

 中川の本からは、間接的に<保守>論壇の奇妙なところも感じさせられる。<保守>論壇が、そこそこの収益をもたらす、自己満足の<売文業界>に堕してはならないだろう。

0976/民主党は「騙し取った政権を国民に返せ」。かつての朝日新聞社説・月刊WiLL3月号。

 一 昨年(2010年)の6/02と6/28の二回にわたって言及しているが、鳩山由紀夫前首相の退陣表明前の6/02の朝日新聞社説は、次のように主張していた。あえて反復して記録しておく。番号はこの欄の執筆者。
 ①民主党内等にある「首相退陣論」は「目前の参院選を何とか乗り切るために、鳩山由紀夫首相に辞めてもらう。そういう狙いが見え見えである。考え違いというほかない」。この論では「逆風はかわせない」。
 ②「昨年の政権交代の大義は、……首相の座を『たらい回し』してきた自民党政治との決別」だった、「政治の質を根本的に変える試みの意義は大きい」。「そうした政治の流れから誕生した首相を退陣させようというのなら、早期に衆院解散・総選挙を実施し、有権者に再び政権選択を求めるべきではないか。それなしに『たらい回し』に走るのは、民主党の自己否定に等しい」。
 朝日新聞社説は、とくに上の②、すなわち総選挙を経ない首相交代=「たらい回し」は「政権交代の大義」と矛盾し、「民主党の自己否定」だ、と主張していた、ということをしっかりと記憶しておくべきだ。
 その6/02(新聞朝刊発行後)に鳩山由紀夫は退陣表明した。ついでに書いておけば、退陣表明前の鳩山・小沢一郎・輿石東の三人の<談合>において、後任は菅直人になるだろうということが想定されていたと見られる。実際に菅直人はすみやかに次期代表選に立候補の意思を表明し、実際にも新代表となり、そして新首相になった。これを「たらい回し」と称して誤りではない。

 さて、6/03の朝日新聞社説はどう書いたか。これまた反復して記録しておく。
 ①「歴史的な政権交代の意義を無駄にはできない。今回のダブル辞任が『平成維新』の出直しに資するなら、必要な通過点だと考えるべきだろう。/問題はすべてこれからである」。
 前日の社説を忘れたかのごとく、「問題はすべてこれからである」と開き直ったのだ。批判・皮肉は繰り返さない。だが、次のように書いていたことも記憶されておくべきだろう。

 ②「…一定の判断材料を国民に示したうえ、なるべく早く解散・総選挙をし、信を問うのが筋である」。

 さて、昨年にも書いたことだが、「なるべく早く」とはいかほどの時期を想定していたのだろうか。
 ともあれ、昨年6月初め、朝日新聞は、「なるべく早く」解散・総選挙をすべし、と主張していたのだ。

 この主張を、年も新たになった現時点で、朝日新聞の社説子(論説委員)はなおも維持しているのか、それともうやむやにしているのか、どこかで(私は気づいていないが)明瞭に否定したのか?
 朝日新聞の節操のなさを詰っても無意味で、カエルの面に何とかだろう。この新聞社の酷さをあらためて確認しておきたい。

 二 月刊WiLL3月号(ワック)に、表紙・目次の最初の方の数本を除いて、かなり目を通した。
 山際澄夫「騙し取った政権を国民に返せ!」(p.218-)が、タイトルも内容も、さしあたり最もしっくりくる(気分に合っている)。

 最後の一段落の文章は次のとおり(そのままの全文引用)。
 「負けることを承知でやる解散だけは避けたいというのが民主党の本音だろうが、これ以上、政権のたらい回しは許されない。民主党政権がやらなければならないことは、国民を欺いて奪い取った政権を国民に返すこと、つまり衆院の解散総選挙に踏み切ることしかない」(p.225)。
 全くの同感だ。
 だが、上にいう「民主党の本音」を実質的に擁護し、結果として解散・総選挙を要求することなく、相変わらず民主党を叱咤激励しているのは屋山太郎だ。屋山は上掲誌巻頭コラムで言う。
 「…総選挙をやって、自民党が政権を取れば、ましな政府ができるのか。…自民党は国民から見離されて大敗し、野党に転落したのである。一年四ヶ月の間に、大いに反省して生まれ変わったという証拠もない。/一方、『解散しろ』という建前論に従って、民主党が大敗必至の総選挙に打って出るわけがない。…」(p.22)。
 前段について言えば、<よりましな>政府にはなるだろうというのが私の理解・見解だ。民主党政権と「谷垣自民党」の<同根同類>論または<同質性が高い>論は、内容的にも、戦略的にも、誤っている、と考える。<左翼・売国>政権をできるだけ早く打倒すべきだ。今回の内閣改造によっても、本質は変わっていない。江田五月らは旧社会党の「左翼」であり、仙谷由人は民主党の代表代行に居座っている。

 後段についていえば、屋山太郎の、総選挙をやって民主党を負けさせたくない(民主党内閣を崩壊させたくない)という感情が混じっているようだ。

 だが、解散・総選挙は、さほどに非現実的なものなのかどうか。大連立(大連合)等よりも解散・総選挙を望む意見の方が多いとの世論調査もいくつか出ているようだ。また、上の山際澄夫「騙し取った政権を国民に返せ!」は、こうも書いている。
 予算は通過しても「予算関連法案の通過は困難」という国会の議席状況にある。「となると、政権はたちまち立ち往生し、総辞職か解散を引き換えに関連法案の通過を認めてもらうといった事態も充分予想される」(p.225)。
 2013年の8月の衆議院議員の任期満了まで(あと2年半余!)、菅直人政権が、あるいは民主党内による「たらい回し」政権が続くはずはないし、続かせてもいけない。

 今年2011年3月ですでに菅直人政権は行き詰まるだろうとの予測も、ほぼ同旨と思われる上の山際のごとく、十分に成り立つ。

 鳩山由紀夫と小沢一郎を「恥を知れ」と罵倒する(上掲誌p.23)資格をもっているのか疑われる屋山太郎が何といおうと、それと関係なく事態は推移するだろう(屋山は「恥を知る」べき予測や主張をしてきている)。

 朝日新聞もまた、多少は正気が残っているならば、あらためて、「なるべく早く解散・総選挙をし、信を問うのが筋」だと主張してみたらどうか。

0974/屋山太郎のいかがわしさ、再び。

 櫻井よしこの、週刊ダイヤモンド2009年7/25号、つまり2009年8月末総選挙の一ヶ月余前に出された週刊誌の連載をあらためて読んで見ると興味深い。
 とりあえずは、櫻井よしこが、総選挙の日程が決まって「自民党政権の終焉と民主党政権の誕生の間近さが予定調和のように示された」等としつつ、民主党の政策の明確化を望む、ということを基本的な主張としている、ということに目が向く。
 最初の方で、「民主党政権誕生を前にして気になるのが同党の政策である。党内の考え方は多くの点、特に外交・安保問題で統一されていない」と述べ、最後のまとめの文は、「こうして見ると、民主党の政策は本当に見えてこない。もはや自民党への反対だけではすまないのは明らかだ。政権を取ってどんな政策を実施するのか。選挙までの日々にマニフェストの発表を望むものだ」となっている。
 民主党への懸念は示されているが、批判はない、と理解して誤りではないだろう。むろん、<民主党(中心)政権断固阻止>という気概は全く示されていない。

 上のこととともに興味深いのは、櫻井よしこが紹介している、国家基本問題研究所理事の屋山太郎の(当時の)考え方だ。
 櫻井よしこは、屋山太郎の言葉を次のように紹介している。-以下の内容に誤りまたは不備があれば櫻井よしこの文章に原因がある。そうであれば、屋山は桜井にクレームをつけられたし(といっても一年半ほど前の古い文章だが)。
 ①「民主党政権が誕生するとして」、重要政策に党内一致がなく、憲法改正への姿勢も不明瞭だが、「政治評論家で民主党事情に詳しい屋山太郎氏は、しかし、楽観的である」。/「大胆に安全運転、これが政権奪取時の民主党の基本でしょう。外交・安保問題についても、従来の政策から大きくはずれることはないと思います。極論に走り、国民の信を失うような選択をするはずがないのです」。
 ②「屋山氏は、民主党と自公の最大の違いは外交・安保問題ではなく、国内政策に表れると予測する」。/「自公政権は公務員制度改革を事実上葬りましたが、民主党は本気です。国家公務員33万人、ブロック局など地方に21万人。彼らの権益擁護のために政治が歪められ、国民の利益が失われてきました。〔一文略〕麻生政権の終焉で同法案が廃案になるのは、むしろ、歓迎すべきです。民主党が真っ当な改革をするでしょう」。
 ③「屋山氏はさらに強調する」。/「教育についても、民主党政権下で日教組路線が強まると心配する声があります。輿石東参議院議員会長が山梨日教組出身だから、そう思われるのでしょう。しかし、民主党の教育基本法改正案は自民党案よりまともでした。加えて、教育では首長の影響が非常に大きい。民主党政権イコール教育のねじ曲げではないと思います」。
 このような予測が正鵠を射ていたかどうか、屋山太郎はもちろんだが、櫻井よしこもまた紹介者として<反省>し、屋山の見識に疑問を持つべきではなかろうか。

 普天間基地問題、尖閣諸島問題等々、民主党政権は<外交・安保問題>について実際に「従来の政策から大きくはずれることはな」かったのか? 「公務員制度改革」なるものを民主党政権は「本気」で「真っ当に」行ったのか、あるいは行おうとしているのか(「公務員制度改革」の内容自体も問題だが)?
 いちいちこの欄で取り上げていないが、屋山太郎の主な論説類はフォローしてきている。
 2009年7月段階のみならず、その後も一貫して、屋山太郎は、<自民党が再び政権を手にすることはない>旨を断言しつつ、民主党を支持・擁護してきている。批判的にコメントをすることがあっても、朝日新聞とほとんど同様に、こうすれば支持(率)が高まるよ、といった<叱咤激励>がほとんどだ(最近では<仙石由人切り>を勧告?していた)。

 民主党が「左翼」政権だとすると、屋山太郎もまた「左翼」論者(・「評論家」)だ。そのような者が産経新聞の「正論メンバー」なのだから、産経新聞の<品格>に傷をつけているのではないか?

 もっとも、櫻田淳が産経新聞「正論メンバー」であるとももに朝日新聞の<ウェブ論座>とやらの執筆者でもあるのだから、屋山太郎は櫻田淳とともに、<産経新聞はいうほど「右翼」・「保守(・反動)」ではありませんよ。安心して読んで(購読して)下さい>というための広告塔として用いられているのかもしれない。
 屋山が国家基本問題研究所の理事を務めているという不思議さ及びこの研究所自体について生じる疑問はいつか述べたので、今回は省略。

0970/産経新聞・笠原健はまともな内容の文章を書いているか?

 産経新聞の長野支局長らしい笠原健がいろいろと書いているが、奇妙な見解・主張もある。

 昨年(2010年)12/11には、ほとんど櫻井よしこと同じく、次のように書く。

 <「大連立論」がある。しかし、それは「所詮は民主党政権の延命でしかない」。「民主党政権が朝鮮半島有事で的確に対応できると信じている日本人」がいかほどいるか疑問だが、「大連立によって谷垣禎一総裁が率いる自民党が政権に入ることになっても所詮は同じだろう」。なぜなら、「谷垣氏は系譜的にいって宮沢喜一元首相や加藤紘一元幹事長らと同じ党内左派に属する。菅直人首相や仙谷由人官房長官はもちろん、リベラル思想の持ち主だ。思想的に党内左派に属する谷垣氏らと菅首相らの提携は結果的にはリベラル勢力の結集でしかない」。自社さ村山政権の愚を繰り返してはならない。>
 民主党政権の延命とか村山政権の愚とかいうのはよい。しかし、谷垣禎一は「党内左派」の「リベラル思想」の持ち主なので、谷垣(自民党)と菅直人らとの提携は「リベラル勢力の結集でしかない」という見方、あるいは主張はどうだろうか。
 まず、そもそもこの人は、「リベラル(勢力)」という概念をいかなる意味で用いているかを明らかにしておくべきだ。つぎに、いちおうその意味が明らかになったとして、「リベラル」にも幅があるのであって、決して単色で塗りつぶせるようなものではないはずだと思われるが、谷垣と菅や仙石由人はいかなる意味で「同じ」で、<違い>はまったくないのか否かにさらに言及すべきだ。
 ちなみに、中島岳志のように、「保守リベラル」の立場に立つとする者もいて、中島は佐高信らとともに週刊金曜日の編集委員であると同時に、西部邁らの発行する隔月刊・発言者(ジョルダン)に「保守」思想について連載する。笠原のいう「リベラル」の中に、この中島岳志は入るのか?

 元に戻り、櫻井よしこについても言えるが、谷垣(自民党)と菅直人(民主党)政権とは「同根同類」だ、あるいは両者の連合は「リベラル」勢力の結集だ、というのならば、なぜ現時点において谷垣は連立・連合を拒否しているのか、なぜ「リベラル」勢力の結集ができていないのか、を笠原はきちんと説明すべきだ。

 谷垣(自民党)と民主党(政権)の<同質>論(あるいは今年になってからの櫻井よしこによると<同質性が高い>論)は、自民党中心政権に(総選挙を経て)変わってもほとんど意味がない、というかたちで、結果としては、総選挙実施を遅らせ、<左翼・反日>政権の延命に手を貸しているように見える。

 かりに主観的意図はそうでなくとも、現実に問題視されるべきは、客観的な機能・役割だ。
 この文章の中でも笠原は幕末期の「倒幕」運動に触れているが、今年(2011年)の1/10にはこう書いている。

 「…民主党が政権の座にとどまっている限り、状況が好転する訳がない。国家の基盤はますます劣化していくだけだ。一日も早く倒幕を成し遂げなければならない」。

 上のとおり笠原はいわゆる大連立に反対している。おそらくは、菅直人・仙石由人と同じ「リベラル」だとする谷垣を総裁とする自民党にもほとんど期待していない筈だ(そのようにしか読めない)。
 では、笠原健は、どのようにして「倒幕」=民主党政権打倒をすべきだ(することができる)、と主張しているのか?

 この点こそに関心を持たれるが、笠原はいっさい触れていない。「総選挙」あるいは「解散」という言葉すらどこにもない。言論人として(笠原が「言論人」だとしてだが)、あるいはたんなるブログではない記事(・文章)の書き手として、無責任だとは自らを思わないのだろうか。

 民主党を批判し、民主党政権打倒を唱えることくらいは多くの人ができることだ。谷垣禎一(・自民党)も批判しておいて、どのようにすれば民主党政権を打倒できるかを語らないとは、ひとことも触れないとは、無責任きわまりないと思われる。

 まさか、主な内容である日英同盟締結論というマンガのような主張がそれにあたるとは考えていないだろう。
 好き勝手に適当なことが書けるようで、産経新聞はさすがに「自由」だ。
 笠原によると、日英同盟締結論の根拠として、①インテリジェンスの面で多くの利益をもたらす、②アフリカ・中東と関係が人脈も含めて深いので外交上もプラス、③兵器の共同開発や共同生産も「ぜひとも進めたい」。

 この人は「同盟」という語をいかなる意味で用いているのか。かつての、1902年の日英同盟は明らかに<軍事>(少なくともそれを含む)同盟だった。上の①~③は、英国との「同盟」締結をしなくとも、外交政策によって多くは達成できるのではないか? それに、なぜ笠原健は、英国と同様にアフリカ等に植民地を多く持っていた、かつ英国と同様に国連安保理メンバーでもあるフランスとの「同盟」には、触れないのか。

 思いつきの適当な文章を、「ちょっとした夢」を、真面目ぶって書くな、と言いたい。「夢想」は朝日新聞・若宮啓文に任せておけばよいだろう。
 ついでにいえば、笠原は、米国との1951年以降の安保条約は「日本自らが国際情勢を真剣に見極めたうえに締結した同盟とはやはり言い難い」とし、1902年日英同盟は「自らの選択で同盟を締結した」という。たしかにその自主性の程度において違いはあるかもしれない。しかし、このような対比を強調しすぎると、あるいはとりわけ前者を強調すると、1910年日韓併合条約は韓国の<自主>性のない<無効な>ものだという<左翼>の論調へと接近するだろう。

 産経新聞の記者の中に「左翼」もいるだろうから、別に驚くことではないのだが。 

0966/櫻井よしこはいつから民主党政権を「左翼」と性格づけたのか?

 〇月刊正論2月号(産経新聞社)の中宮崇「保存版/政治家・テレビ人たちの尖閣・延坪仰天発言録―そんなに日本を中国の『自治区』にしたいですか」(p.184-191)に「仰天発言」をしたとされている者の名を資料的にメモしておく。

 田中康夫(新党日本)、福島瑞穂(社民党)、服部良一(社民党)、小林興起(民主党、元自民党)、田嶋陽子(元社民党)、大塚耕平仙石由人(民主党)、浅井信雄(TBSコメンテイター)、山口一臣(週刊朝日編集長)、三反園訓(テレビ朝日)、高野孟伊豆見元(静岡県立大学)、田岡俊次(朝日新聞)、金平茂紀(TBS)、NEWS23X(TBS)。
 なお、CNN(中国)東京支局は「テレビ朝日」と「提携関係」にあるが、この事実を記す「ウィキ」等のネット上の書き込みは「即座に削除隠ぺい」されてしまう、という(p.189)。
 〇隔月刊・表現者34号(ジョルダン、2011.01)の中で西部邁は、戦後日本人が「平和と民主」というイデオロギー(虚偽意識)で「隠蔽」した、その「自己瞞着の行き着く先」に「左翼のダラカン(堕落幹部)たち」による「民主党政権」が登場した、と書く(p.181)。
 戦後憲法体制の「行き着いた」果てが現民主党政権で、自民党→民主党への政権交代に戦後史上の大きな<断絶>はない、というのが私の理解で、西部邁もきっと同様だろう。だが、民主党政権は自民党のそれと異なり、明瞭な「左翼」政権だ。この旨も、西部邁は上で書いていると見られる。
 「左翼」政権といえば、櫻井よしこ週刊新潮12/23号(新潮社)の連載コラムの中で、「三島や福田の恐れた左翼政権はいま堂々と日本に君臨するのだ」と書いている(p.138)。
 はて、櫻井よしこはいつから現在の民主党政権を「左翼政権」と性格づけるようになったのだろうか?

 この欄で言及してきたが、①櫻井よしこは週刊ダイヤモンド11/27号で「菅政権と谷垣自民党」は「同根同類」と書いた。→ http://akiz-e.iza.ne.jp/blog/entry/1950116/

 自民党ではなくとも、少なくとも「谷垣自民党」は<左翼>だと理解しているのでないと、それと「同根同類」のはずの「いま堂々と日本に君臨する」菅政権を「左翼政権」とは称せないはずだ。では、はたしていかなる意味で、「谷垣自民党」は「左翼」なのか? 櫻井よしこはきちんと説明すべきだろう。
 ②昨年の総選挙の前の週刊ダイヤモンド(2009年)8/01号の連載コラムの冒頭で櫻井よしこは「8月30日の衆議院議員選挙で、民主党政権が誕生するだろう」とあっさり書いており、かつ、民主党批判、民主党に投票するなという呼びかけや民主党擁護のマスコミ批判の言葉は全くなかった。

 ③民主党・鳩山政権発足後の産経新聞10/08付で、櫻井よしこは、「鳩山政権に対しては、期待と懸念が相半ばする」と書いた。「期待と懸念」を半分ずつ持っている、としか読めない。

 ④今年に入って、月刊WiLL6月号(ワック)で、櫻井よしこは、こう書いていた。-「「自民党はなすべきことをなし得ずに、何十年間も過ごしてきました。……そこに登場した民主党でしたが、期待の裏切り方は驚くばかりです」。期待を持っていたからこそ裏切られるのであり、櫻井よしこは、やはり民主党政権に「期待」を持っていたことを明らかにしているのだ。→ http://akiz-e.iza.ne.jp/blog/entry/1603319/

 それが半年ほどたっての、「三島や福田の恐れた左翼政権はいま堂々と日本に君臨するのだ」という櫻井よしこ自身の言葉は、上の①~④とどのように整合的なのだろうか。
 Aもともとは「左翼」政権でなかった(期待がもてた)が菅政権になってから(?)「左翼」になった。あるいは、Bもともと民主党政権は鳩山政権も含めて「左翼」政権だったが、本質を(迂闊にも?)見ぬけなかった。
 上のいずれかの可能性が、櫻井よしこにはある。私には、後者(B)ではないか、と思える。

 さて、櫻井よしこに2010年の「正論大賞」が付与されたのは、櫻井よしこの「ぶれない姿と切れ味鋭い論調が正論大賞にふさわしいと評価された」かららしい(月刊正論2月号p.140)。

 櫻井よしこは、「ぶれて」いないのか? あるいは、今頃になってようやく民主党政権の「左翼」性を明言するとは、政治思想的感覚がいささか鈍いか、いささか誤っているのではないか? 

 厳しい書き方をしているが、櫻井よしこを全体として批判しているのではない。例えば、憲法改正(とくに九条2項削除)のための運動・闘いの先頭に立ってもらわなければならない人物の一人だと承知している。

 佐伯啓思に対しても、西尾幹二に対しても、西部邁に対しても、盲目的に従うつもりは全くない(それにもともとこれら三人の論調は同じではない)。<保守教条>主義者・論者であってはならないとの基本的立場は、櫻井よしこ等の他の<保守>論客に対しても、変わりはない。
 さらには、<保守>論壇・論客の中に、ひょっとして中国あるいは米国の<謀略>として送り込まれた人物もいるのではないか、くらいの警戒心をもって、<保守>系雑誌等の執筆者の文章や発言は読まれるべきであろうとすら考えている。
 

0949/櫻井よしこの「谷垣自民党」批判は民主党・菅政権を利する。

 櫻井よしこ週刊ダイヤモンド11/27号で、「谷垣自民党」を批判している。

 「谷垣自民党」にも「自民党」にも批判されるべき点はあると思うが、この櫻井よしこの文章・論理による批判は決して説得的ではない。

 櫻井によると、菅直人内閣の支持率の低下にもかかわらず、問題は「自民党がいっこうに国民の信頼を回復できないこと」、すなわち「次の選挙では民主党には入れたくないという有権者が急増しているのに、自民党も支持したくないと考える人びとは少なくない」ことで、その理由は、「菅政権と谷垣自民党が同根同類だからだ」。

 「菅政権と谷垣自民党が同根同類だからだ」と評価するまたは断じる理屈づけ・説明には、しかし、いくつかの論理飛躍がある。

 第一に、かつての「加藤の乱」の当事者である自民党・加藤紘一は、「乱」の当時、「民主党幹事長だった菅氏の支持と連携に自信があった」、加藤は「複数の人間に、菅氏の番号を登録している携帯電話を見せて、自慢げに語っていた」、加藤は「菅氏とは『同志の仲』『ツーカーの仲』だと自慢していたという」といった、加藤・菅の10年前!の友好?関係を、論拠の出発点にしている。

 10年前の加藤・菅の関係を、なぜ「菅政権と谷垣自民党が同根同類だからだ」ということの理由付けの出発点にできるのか、大いに疑問だ。推測・伝聞も含まれており、できるとしても、かなり弱いと言うべきだろう。

 第二に、加藤ではなく谷垣禎一を登場させる必要があるのだが、櫻井よしこは、次のように言うのみだ。

 「自民党現総裁の谷垣禎一氏は、加藤氏の側近中の側近だった。『乱』の失敗を認める記者会見の席で、大粒の涙をこぼし『あなたが大将なんだから!』と加藤氏の肩を抱くようにして励ましていたのが谷垣氏だった。氏が加藤氏同様、菅氏とも『ツーカーの仲』なのかは、私は知らない。だが、価値観が似通っていることは確かだ」。

 加藤紘一=谷垣禎一とは櫻井よしこもさすがに書いていない。谷垣は加藤の「側近中の側近だった」とするにすぎない。

 しかも、谷垣が菅直人と「『ツーカーの仲』なのかは、私は知らない。だが、価値観が似通っていることは確かだ」と自ら書いている。断定的な資料・根拠を何ら示すことなく、「価値観が似通っている」と推測しているにすぎない。「確かだ」と書くが、「確かだ」とする証拠・資料を示していない。

 第三に、かりに谷垣と菅直人の「価値観が似通っている」としても、そのことが、、「菅政権と谷垣自民党」は「同根同類だ」とする十分な根拠になるのか? もともと菅直人と菅政権は全くの同じではなく、谷垣禎一と「谷垣自民党」を同一視することも厳密には誤っている。

 にもかかわらず、櫻井よしこは谷垣と菅直人とは「価値観が似通っていることは確かだ」ということから、上のことを導く。

 さらに上述のように、そのように判断している根拠は、谷垣はかつて菅と友好関係にあった加藤紘一の「側近中の側近だった」ということだけだけだ。

 そしてまた、そもそものかつての(!)菅と加藤紘一の友好・協力関係も確定的にそう断じることはできない。少なくとも、櫻井よしこはその旨を説得的に納得させうる材料をほとんど示していない。論理は二重・三重に破綻している。

 櫻井よしこはこうまとめる。-「つまり、谷垣自民党は、『加藤の乱』が、決起から10年後に巧まずして実現した姿であり、菅氏との協力が政治力の源泉と考える人が主導するのが自民党である」。
 ここで語られる一つ、現自民党は「加藤の乱」の遅れての実現形、という断定ににわかに納得することはできない。谷垣が総裁だという以上の理由を櫻井は示していない。

 もう一つ、「菅氏との協力が政治力の源泉と考える人が主導するのが自民党」だと書いているが、この旨はそれまでの文章のどこにも出てきていいない。万が一、加藤紘一がかつて自分の力の源泉をかつての菅直人(当時、民主党幹事長)に)求めていたとしても、そのことによって、谷垣禎一もまた「菅氏との協力が政治力の源泉と考える人」だなどと論定することはできないだろう。

 わりあいと丁寧で、けっこう細かく論理的な文章を書く櫻井よしこだが、この週刊ダイヤモンドの連載コラムでの文章・論理はかなりひどい。

 さらに自民党も変わるべきとの最末尾の文章の前に、櫻井よしこはこうも書いている。-「菅政権もダメ、谷垣自民党もダメ」という国民は、両者が同根同類であることを見抜いている点で、きわめて正鵠を射ている」。

 叙上のように、「両者が同根同類である」という論定には、説得力がない。それだけの論証がない。したがって、そのように判断する国民は「正鵠を射ている」と言ったところで、ほとんど意味がない。

 最後に、次のようにも書いておこう。

 かりに万が一、谷垣禎一と菅直人の「価値観が似通っている」としても(櫻井よしこも「同じ」と言わず「似通っている」と言うだけであることにも注意)、そのことを何故、現時点であえて指摘しておく必要があるのか??

 もともと、上記のように谷垣禎一と菅直人の関係を「谷垣自民党」と「菅政権」の関係を同一視するかのごとき論理は厳密には正しくない。

 かりに万が一、そのように大まかに言えるとしても、そのことが「同根同類」という論定につながるのは、どう考えても、著しい論理飛躍だ。あるいは、デフォルメのしすぎだ。

 それにそもそも、現時点で何故、こんなことをあえて指摘するのか。

 池に落ちた犬を打てとかの言葉もあるようだが、きちんとした民主党批判、菅直人政権批判を、レトリック上の多少の強調・誇張混じりであってもしておくべきなのが、現在という時期状況なのではないか。

 にもかかわらず、「菅政権もダメ、谷垣自民党もダメ」、「菅政権と谷垣自民党が同根同類」ということをコラム全体で書きまくる(?)のは、客観的には民主党・菅直人政権をむしろ助けるものだ。自民党もどうせダメだから、民主党をまだ支持せざるを得ない、という読者・国民を増やすまたはその数を維持する機能をもつだけだ。

 どうも櫻井よしこという人の<政治的感覚>には信用が措けない。

 なお、追記しておくが、「谷垣自民党」を全面的に支持しているわけではない。谷垣が加藤紘一にも似た自民党内(宮沢派の流れをひく)「リベラル」派に属しているらしいこと(但し、現在の時点での評価と必ずしも合致するとは限らないだろう)、尖閣事件で中国「船長」を逮捕しないですぐに追放しておけばよかったと間の抜けた発言をいったんはしたことも知っている。また、幹事長の石原伸晃や政調会長の石波茂は、かつての<田母神俊雄論文問題>発生のときに田母神俊雄を何ら守ろうとはせず<更迭>を容認した人物たちだ。さらに、前々回に書いたように、仙石「暴力装置」発言を「われわれの平和憲法」の立場から批判する、という皮肉な論法しか採れないというのもじつに情けないことだ。

 だが、「赤い」(またはピンクの)官房長官とともに例えばいわゆる国家解体三法案の上程を試みる可能性がある菅政権よりは、「谷垣自民党」の方が<まだまし>だろうことはほとんど明らかであるように見える。

 「菅政権と谷垣自民党が同根同類」であることを「見ぬく国民は正鵠を射ており」、「自民党も支持したくないと考える人びとは少なくない」のは当然だ、との論調には、とても同意することができない。

 そんなに現自民党が嫌いならば、その自民党を「変える」ために、あるいは<真の保守>政治勢力の統合・強化をするために、口先だけではなく、具体的な何らかの行動を起こしたらどうか。

0947/仙石由人「暴力装置」発言は「平和憲法」に反する?

 仙石由人「健忘・左翼」官房長官が自衛隊を「暴力装置」と称したそのとき、質問者の自民党・世耕弘成は<自衛隊に失礼だ>と批判しただけだったが、たしか同日の後の質問者だった自民党参議院議員・丸川珠代(1971年1月生)は、「われわれの平和憲法を否定」するものだ、として仙石を批判した。
 また、誰が原文を執筆したのかは知らないが、自民党・みんなの党の幹部の了解を得ただろう、参議院での仙石由人問責決議の「理由」文は、上記発言についてだけではないが、次のように書いている。

 「第3に、日本国憲法に抵触する発言を繰り返し、憲法順守の義務に違反している」。「平和憲法に基づき国家の根幹である国防を担い、国際貢献や災害救助に汗をかく自衛隊を『暴力装置』と侮辱したことは、決して許されるものではないし、自衛隊を『暴力装置』と表現することは、憲法9条をはじめとする日本国憲法の精神を全く理解していないということである」。
 丸川は仙石発言を「平和憲法」否定だとし、問責決議は仙石は「憲法9条をはじめとする日本国憲法の精神を全く理解していない」と指弾している。

 上の二つは基本的には同じ趣旨だが、これはきわめて奇妙な批判の仕方だ。つまり、現憲法のもとでの「自衛隊」の位置づけがどうなっているのか、丸川や多くの自民党国会議員等はきちんと理解しているのだろうか。「暴力装置」発言の適否よりも、こちらの方がむしろ気になる。

 日本国憲法九条2項第一文は、「…、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と明記する。こんな条文のもとで、現在の自衛隊は、上の「理由」中に書かれているように、「平和憲法に基づき国家の根幹である国防を担」っていると断じられるのか?

 また、この規定との関係で、自衛隊の合憲性が問題となった(なっている)ことくらいは、国会議員ならば知っているはずだろう。

 「戦力」の保持が憲法によって禁止されているにもかかわらず、<自衛隊>という「実力」組織は法律制度上存在している。<自衛隊>は憲法で保持が禁止されている「戦力」にあたらないのか、という問題が生じることは常識的なことだろう。

 そして、現在までの日本の憲法学界では、自衛隊は「戦力」で、違憲の存在だ、との説の方が有力だと思われる。

 例えば、東京大学法学部の現役教授による、長谷部恭男・憲法(第4版)(2008、新世社)は次のように叙述する。

 多数説は「侵略」目的のもののみならず「あらゆる戦力」の保持が禁止されていると解する。これによると、「現在の自衛隊は、上述の意味における憲法によって禁止された戦力にあたることとなろう」(p.62-63)。

 このようなわが憲法学界によれば、仙石発言ではなく、むしろ自衛隊こそが「われわれの平和憲法を否定」しているのだ。自衛隊の方が、「憲法9条をはじめとする日本国憲法の精神」(平和主義?)に反しているのだ。

 こういう緊張関係が日本国憲法(とくに九条2項)と自衛隊(という「軍隊・戦力」まがい?)との間にはあることを全く知らないまま、上記のような論評が出てきているとすれば、まことに驚きという他はない。

 自衛隊違憲論をここで主張したいのではない。これまでの政府見解(憲法解釈)は<戦力に至らない程度の、自衛のための最小限度の実力の保持>は九条2項でいう「戦力」にあたらない、現存の自衛隊もこれに該当しない>、というものであることも知っている。

 だが、(「警察予備隊」レベルならばともかく)相当に苦しい解釈であることは確かで(政府解釈によると、核兵器も保持が可能だ)、自衛隊は正規の「自衛軍」ではなく、「軍隊・戦力」まがい?のものとして、いわば<憲法嫡出子>、憲法上に堂々たる正当な根拠をもつもの、とは見なされてこなかったのだ。

 ここに「戦後」日本の、憲法にかかわる<大ウソ>を指摘することもできる。<欺瞞>と<偽善>がここにある、と見ることもできる。こんな<大ウソ>または<欺瞞>・<偽善>を罷り通らせる大人たちを、子どもたちは信頼するだろうか。国民全体が<憲法ニヒリズム>に陥らないだろうか。

 再び1970年の三島由紀夫の「檄」を見てみよう。

 「法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によってごまかされ、軍の名を用いない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因」になってきた。「自衛隊は敗戦後の国家の不明確な十字架を負いつづけて来た。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与えられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与えられず、その忠誠の対象も明確にされなかった」。

 そして、三島は次のようにまで言っていた。政府は自衛隊によらずとも治安保持できることを示して、「左派勢力には憲法護持の飴玉をしゃぶらせつづけ名を捨てて実をとる方策を固め、自ら、護憲を標榜することの利点を得た」。

 こうした三島由紀夫の「懊悩」を、丸川珠代や現在の自民党等の幹部はまるで知らないか、理解していないごとくだ。

 必要なのは、仙石発言を「憲法違反」と論評することではなく、むしろ、自衛隊を明確に憲法適合的なものにするように、憲法改正(とくに九条2項削除と自衛軍・防衛軍・国軍設置の明記)をすることだろう。

 現憲法と現実の自衛隊や現実の軍事情勢との間には不適合あるいは矛盾・緊張関係がある、ということを意識しておかなければならない。その意味で、上に記したような仙石発言に対する批判の仕方には、寒気を覚えるところがある。

 なお、「日本国憲法に抵触する発言を繰り返し、憲法順守の義務に違反している」という一般的な批判の仕方も慎重であるべきだ。なぜなら、現憲法の不備や憲法改正を指摘または示唆・主張するかつての首相等の閣僚に対しては、民主党内閣以前の野党は、憲法99条の「国務大臣」等の<憲法尊重・擁護義務>に反すると批判してきたからだ。丸川珠代や自民党・みんなの党が現憲法を100%容認し、不備も感じず、改正の必要も意識していないのならば、話は別だが。

0945/資料・史料-2010.11.26仙石由人官房長官問責決議案理由

 史料・資料-参議院・仙石由人官房長官問責決議案「理由」 2010.11.26問責決議可決

 

 理由

 「菅内閣発足以来、国難ともいうべき事態が続いており、内閣の要であり、実質的に内閣を取り仕切っているといわれる仙谷大臣の官房長官としての責任は極めて重大である。菅内閣では、仙谷官房長官が実質的に重要事項の決定を主導しており、最近では法務大臣、拉致問題担当も兼務することになったが、仙谷官房長官が内閣の中枢に居座ったままでは、現状の打開は望むべくもない。

 以下、仙谷官房長官を問責する理由を、列挙する。

 第1に、「尖閣諸島沖中国漁船衝突事件」における極めて不適切な対応である。

 公務執行妨害で逮捕された中国人船長の釈放は、那覇地検が「わが国国民への影響や今後の日中関係を考慮」して判断したとしているが、このような重大な外交上の判断が一地方検察庁でなされたと信じる者は誰もいない。総理、外務大臣が国連総会で不在の中、官邸の留守を預かる仙谷官房長官主導で釈放の政治判断が行われたと考えざるを得ない。

 しかし、仙谷官房長官は、釈放は那覇地検の判断であったとの強弁を繰り返している。仮に、一行政機関である那覇地検が外交判断による釈放を行い、それを政府が是認したとすれば、検察が外交を行ったという日本外交史上、例を見ない越権行為が民主党政権下で行われたことになる。逆に、官邸が那覇地検に釈放の圧力をかけたとすれば、仙谷官房長官は虚偽の答弁を重ねてきたことになる。どちらにしても、この件を主導してきた仙谷官房長官の責任は重大である。
 さらには、諸外国に対してわが国の正当性を訴えるために戦略的に使われるべきであった衝突時のビデオは、官房長官の主導により長期間非公開にされ、事件発生から50日間を経て、ようやく6分50秒に編集されたものが国会に提出されただけであった。仙谷長官の誤った対処により、わが国は貴重な外交カードを失ってしまったのである。一連の対応により、失われた国益は大きい。

 さらに政府が国会に提出したビデオの6倍以上にわたる2回の衝突の時間を含む44分間のビデオが一海上保安官の手で流出し、全世界で視聴可能な状態となった。仙谷官房長官はビデオの国会提出にあたり書面で「慎重な扱い」を求めていたにもかかわらず、政府内では情報管理を行っていなかったことが露呈した。本来公開すべきビデオを公開しなかったからこそ起こった問題と言わざるを得ない。この責任も重大である。加えて事態発覚後は「政治職と執行職」という詭弁を弄して、自分たちの責任を海上保安庁長官一人になすり付けようとしたことも糾弾されるべきである。

 第2に、国権の最高機関たる国会を愚弄する、暴言、失言の数々が繰り返されていることである。

 菅総理自らが今国会冒頭の所信表明演説で、熟議の国会を呼び掛けているにもかかわらず、指名されてもいない仙谷官房長官がしゃしゃり出て、話をすり替え、恫喝し、また答弁席からやじを飛ばすなど、国会軽視もはなはだしい。また、報道に基づき質問した質問者に対して、自らも過去に何度もの質問をしていたことを棚に上げて「最も拙劣な質問」だと侮辱し、予算委員会が民主党も賛成した議決に基づいて呼んだ参考人に対して疑義を唱え、さらには恫喝を加え、内閣のスポークスマンとしての官房長官の資質を疑わざるを得ない。
 第3に、日本国憲法に抵触する発言を繰り返し、憲法順守の義務に違反していることである。

 中国漁船衝突事件のビデオ公開関連の「厳秘」書類を予算委員会で撮影された際に、自らの危機管理の甘さを恥じることもなく、「盗撮」呼ばわりし、取材規制の強化を振りかざし報道の自由を侵害しようとした。また、国会の外においては、自衛隊の施設内での民間人の発言を規制することを認めるなど、仙谷官房長官は憲法に定める表現の自由の侵害に加担している。

 仙谷官房長官は自衛隊を「暴力装置」と発言した。学生時代、社会主義学生運動組織で活動していた仙谷長官にとっては、日常用語であるかもしれないが、平和憲法に基づき国家の根幹である国防を担い、国際貢献や災害救助に汗をかく自衛隊を「暴力装置」と侮辱したことは、決して許されるものではないし、自衛隊を「暴力装置」と表現することは、憲法9条をはじめとする日本国憲法の精神を全く理解していないということである。

 第4に、国会同意人事案件に対する怠慢である。

 民主党政権は、今次国会召集からかなり日時を経た、10月半ばに5機関11名について提示した。これらはすべてが任期満了か、既に辞任した空席を補充するための人事であった。さらに今なお再就職等監視委員会の人事については提示さえしてきていない。さらには、この同意人事の国会議決がされていないにもかかわらず、次の人事を提示した。これらを長く放置していたことは国会軽視、政府の怠慢以外の何ものでもない。同意人事を担当する官房長官の責任は重大である。

 第5に、北朝鮮による韓国・延坪島砲撃事件における危機管理能力の欠如である。

 北朝鮮の砲撃開始は午後2時34分であるが、菅総理は砲撃を3時半ごろ報道で知り、官房長官もほぼ同時刻に第一報を東京都内の私邸で受け取っている。総理が官邸に入ったのは午後4時45分、仙谷官房長官は同50分である。総理、官房長官ともに、砲撃から2時間以上、一報を受け取ってから1時間20分経過してから官邸に入っている。しかも官房長官は総理より遅い登庁である。

 仙谷官房長官のその傲岸不遜な発言、失策の数々には、与野党を問わず、批判が集中している。一刻も早く、官房長官が職を辞すことが、菅内閣による日本の国益への損失を少しでも抑えることにつながると確信する。

 以上が本決議案を提出する理由である。」 

0939/自衛隊を「暴力装置」と呼ぶ仙石由人の「反日」・マルクス主義者ぶり。

 一 仙石由人「健忘」官房長官が、11/18、自衛隊を「暴力装置」と呼んだ。

 軍(・警察)を「暴力装置」と呼ぶのはマルクス主義用語で、仙石の頭の中には、<自衛隊(軍)=暴力装置>という固定観念が根強く残っていることが、とっさの国会(参院予算委)答弁中の発言であることからもよく分かる。

 しかも、仙石由人は、「法律用語としては適切ではなかった」とだけ述べて陳謝し、撤回した。「法律用語」ではない「政治(学)」用語または「社会科学」(?)用語としては誤ってはいない、という開き直りを残していることにも注意しておいてよい。

 厳密には、マルクス・レーニン主義(コミュニズム)においては「国家」こそが「暴力装置」で、その国家を体現するのが<軍(・警察)>ではなかったか、と思われる。そして、マルクス・レーニン主義上は、「暴力装置」としての(またはそれを持つ)「国家」は、「家族」・「私有財産」とともにいずれ死滅する筈のものだった。現実に生まれたマルクス主義国家=社会主義国家が、まだ過渡的な時代のゆえか(?)、強力で残忍な「暴力装置」(政治犯収容所等を含む)があってはじめて存立しえたこと(しえていること)はきわめて興味深いことだが…。

 二 仙石由人は、奇妙で重要な発言を官房長官になって以後、しばしばしている。ソ連(ロシア)とは平和条約を締結しておらず国交を回復していないとの認識を示したらしいことも、官房長官としての資格を疑うに足りた(たしかのちに撤回した)。これよりも重大なのは、日韓関係についての発言だろう。

 2010.08.10の菅直人首相談話は100年前の日韓併合条約によって「その〔韓国の人々〕の意に反して行われた植民地支配」が始まった、と述べた。閣議を経ていることからも、仙石由人がこの文案作成に大きく関与している可能性がきわめて高い。

 また、2010.07.07には1965年の日韓基本条約に関連して、次のように述べた、と伝えられる。すなわち、「日韓基本条約を締結した当時の韓国が朴正煕大統領の軍政下にあった」ことを指摘し、「韓国国内の事柄としてわれわれは一切知らんということが言えるのかどうなのか」と述べ、同条約で韓国政府が日本の「植民地」時代にかかる<個人補償>請求権を放棄したことについて「法律的に正当性があると言って、それだけで物事は済むのか」と発言した。解決済みの筈の、または問題自体が存在しない、<従軍慰安婦>個人補償「問題」を、政府としてむし返す意向だ、と理解された。

 さて、当時にすでに感じたままこの欄に書いてこなかったことだが、仙石由人は、では、日本と日本国民にとって(韓国人にとっての日韓併合条約と同等に)重要な1947年の日本国憲法は日本国民の完全に<自由な意思>にもとづいて、つまり<意に反して>ではなく、制定され、施行されたのだろうか。当時は間接統治だったが、GHQの「軍政下」で制定され、施行された。朴正煕の「軍政」以上の、外国の「軍政」下にあったときに日本国憲法は作られたのだ。

 仙石由人は、日韓併合条約や日韓基本条約の韓国側の<任意性>や<(軍政下という)内部事情>を問題にするならば、日本国憲法の出自につき、万が一「法律的に正当性がある」と主張できるとかりにしても、なぜ「それだけで物事は済むのか」と考え、主張したことがあるのか?

 自分の国の憲法制定についての<任意性>や<(軍政下という)内部事情>という重大な事柄には思いを馳せず、韓国側の<任意性>や<(軍政下という)内部事情>は考慮するのは、いったい何故なのか? ちゃんちゃらおかしい。

 さらにいえば、1945.08.14の<ポツダム宣言>受諾自体、日本の<任意>だった、と言えるのか? 昭和天皇の「ご聖断」により決定された。だが、<任意に>とか<自由意思により>とかは厳密にはありえず、アメリカの強大な武力(核を含む)による威嚇によって<不本意>ながら受諾した、というのが、真実に近いだろう。敗戦という<終戦>が、本来の「意」に反して、行われない筈がない。国家間の戦争・紛争・対立の解消とは、少なくともどちらか一方の「意に反して」行われるのが通常だろう。

 仙石由人(や菅直人)には、このような常識は通用しないらしい。<意に反して>=<任意ではなく>=<強制的に>といった彼らの(とくに日中・日韓関係にかかわる)言葉遣いには注意が必要だ。

0934/衆議院の解散・総選挙で改めて民意を問うべきだ。

 〇産経新聞11/13によると、時事通信社の世論調査(11/05-08)の結果は次のとおり。

 菅内閣支持27.8%(前月比-11.4)、不支持51.8%(+12.6)。

 政党支持率 民主党16.2%、自民党16.5%。政権交代後「初めて」自民党が逆転したらしい。

 この種の世論調査にどの程度の信頼性があるのか知らないが、菅内閣支持率の続落(仙石由人健忘長官の詭弁は上昇に役立っていない)ことのほか、上の第二点の「逆転」はかなり重要なニュースではないか。

 もっとも、「支持政党なし」という、隠れ共産党支持者(同党員)等を除いて、ほぼ<日和見層>・<浮遊層>にあたるものが、57.4%。今後のマスメディアの報道の仕方によってなお大きく変わりそうではある。

 〇NHKの11/08の午後七時からのニュースは、興味深いデータ(NHK世論調査)を報道していた。

 菅内閣支持31%(前月比-17)、不支持51%(+16)。

 これらよりも「興味深い」のは、<法案を成立させることが難しい「ねじれ国会」をどう打開すべきだと思うか>との問いに対する回答で、次のとおりだったという。

 ①「衆議院の解散・総選挙で改めて民意を問うべきだ」38%

 ②「与党と野党が政策ごとに連携すべきだ」36%

 ③「与党と野党の一部が連立政権を組むべきだ」・③「与党と自民党が大連立政権を組むべきだ」、それぞれ7%。

 なんと、解散・総選挙であらためて民意を問うが相対的には第一位になっている。

 一世論調査の結果の数字だとはいえ、このような「民意」が、産経新聞を含む全国紙やテレビメディア等に表に出てきていないのは、何故なのだろう。

 〇櫻井よしこの週刊新潮の連載コラムを3回分見てみる(11/04、11/11、11/18各号)。

 中国批判またはその批判的分析が多く、最近号の前半でようやくまとまった菅・仙石由人批判が出てくる。

 どこにも、「(衆議院)解散」、「総選挙」、「内閣打倒」、「倒閣」等の言葉は出てこない。

 中国や対中国対応を批判しているのは親中内閣を批判しているのと同じであり、内閣を批判しているのは内閣不支持→倒閣(そのための総選挙等)の主張と実質的には同じだと強弁(?)されるかもしれない。しかし、明確な言葉で書いているのとは大きな違いだ。

 あれこれとかりに正しく適切な<保守派的>言説をバラ撒いても、適切な時期に適切な主張をしなければならない。

 とくに櫻井よしこだけを論難してはいないが、民主党政権の誕生という、とり返しのつかない(既成事実としてすでに1年以上経った)政変を許してしまったのは、民主党政権誕生を許してよいのか、ということこそが昨年の総選挙の争点だったことの認識または政治的感覚の不十分さが<保守派>の側にあったことも大きいと考えている。

 そうだったからこそ、櫻井よしこらはなぜか安心して(?)自民党を<右から>批判して、結果としては民主党政権誕生の流れに棹さした。櫻井よしこは総選挙前の2009.07に、自民党は<負けるなら潔く負けよ>とまで明記していたのだ(櫻井よしこ・日本を愛すればこそ警鐘を鳴らすp.43-(2010.06、ダイヤモンド社)。

 政権交代直後にも民主党政権には期待と不安とが<相半ば>すると明記していた櫻井よしこだから、適切な政治感覚を期待しても無理かもしれない。それに、近傍には屋山太郎という民主党政権誕生大歓迎者もいる。

 せっかくよいことを多数の雑誌や本で書いても、ある程度の適切な政治的感覚・「勘」がないと、これらが<鈍い>と、今後も日本の具体的な方向性を結果として誤らせる可能性があることを懼れる。

0930/仙石由人・枝野幸男の卑劣な詭弁-「刑事事件」にしたくなかった筈なのに。

 一 11/01に<尖閣ビデオ>を「視聴」対象を短くし、かつ一部の国会議員にのみ「視聴」させたことにつき、社民党・福島みずほや民主党政府に対して<ふざけるなと言いたい>と書いた。

 11/06の深夜現在も、政府側は全面<公開>の方向性を示していない。

 二 いわゆる流出後の11/05に仙石由人健忘(・官房)長官は、「捜査記録」であるために<公開>できない旨を、あるいは「捜査の観点から言っても」流出が問題視される旨を言ったらしい。

 また、枝野幸男・民主党副幹事長は、「刑事訴訟法」の観点からも全面<公開>できない旨を(少なくともその観点を含めて公開の是非は考えるべき旨を)述べたようだ。

 何を言っているのか、この二人は。この議論に何となく同意したい民主党(または民主党政権)支持者もいそうだから、あらためて書いておく。<ふざけるな>。

 三 なるほど、情報公開法5条六号によると(前回は言及しなかったが)「公にすることにより、次に掲げるおそれその他当該事務又は事業の性質上、当該事務又は事業の適正な遂行に支障を及ぼすおそれ」があるときは開示(公開)しないことができる旨を定め、その事務・事業の例として「争訟に係る事務」を明記している(六号ロ)。

 なお、海上保安庁自体の事務・事業すなわちその任務・所掌事務の遂行一般のいずれかに「支障を及ぼす」おそれがある、という主張もありえそうだが、仙石、枝野はそうは主張していないようだ。

 また、そもそも「流出者」として海上保安庁職員も疑われているようであることからも示されるように、ビデオが公開されても海上保安庁の<仕事>に悪い影響は与えないのではないか。むしろ、その仕事の苛酷さ等が国民によく判り、同庁職員の「士気」も上がって、「支障を及ぼす」おそれがあるのではなく、逆に<利益を及ぼす>ものと常識的には考えられる。

 さて、仙石・枝野の主張は情報公開法にあてはめると、上記のとおり、主としては、「争訟」に関する情報性を根拠とするかに見える。

 だがこれはふざけている。詭弁だ。

 たしかに、<処分保留>で釈放したのだから、いかなる(刑事)処分をするかはまだ決定されていない、刑事訴訟法の手続に入る可能性はある、その意味で訴訟で証拠資料として使われる可能性がある「捜査記録」にはなるのだろう。

 しかし、上はあくまで論理的にはまたは抽象的には想定できる<可能性>にすぎない。

 そしてそもそも、その可能性が現実になるように仙石等の現内閣や枝野らの民主党幹部は努力しているのか。すなわち、釈放した中国人(「船長」)の身柄拘束と日本への移送を、仙石や民主党は中国政府(・共産党)に求めているのか??

 仙石らは隠蔽・糊塗しているつもりかもしれないが、もともと<刑事事件>にしたくなかったからこそ、那覇地検は勾留決定まで得ていたにもかかわらず(そして実際に勾留していたにもかかわらず)、換言すれば那覇地検は<刑事事件>にするつもりだったにもかかわらず、それをなしくずしにし、(ここではもう経緯は省略するが)<釈放>して(させて)しまったのだ。

 仙石も菅直人も、正規の<刑事事件>にしたくなかったのだ。

 それを今になって、あるいは<釈放>後ずっと、<刑事事件>(となる可能性のある)関係情報(>ビデオ)だから国民一般に<公開>することはできない、と理屈づけるとは、何と言う卑劣な詭弁だろう。

 自ら「捜査」の継続を諦めさせておいて、「刑事訴訟」手続になることをさせないでおいて、「捜査記録」だからとか、「刑事訴訟法」上の問題があるとか、よくも言えたものだ

 呆れてものが言えない。<ふざけるな>という他ない。

 「赤い」健忘(・官房)長官・仙石由人は現役「左翼」活動家としていくらでも平気で詭弁を弄するだろうことは理解できるが、枝野幸男まで、仙石みたいなことを言う人物だとは知らなかった。

 これまで国民の「知る権利」という言葉を使っていないが、社民党や民主党「左翼」こそが、この概念を使って自民党中心内閣の政治・行政の「公開」あるいは「透明性」を要求してきたと思われる。

 仙石も枝野も、この概念・言葉は忘れてしまったのだろう。

 四 ついでに。傾向的には「左翼」こそが、捜査・尋問・調書作成過程の<透明性>・<可視化>を要求している。

 今回のビデオは日本国民のいかなる「プライバシー」を侵害するものではないし、海上保安庁の今後の活動を阻害しないことはもちろん、地検の捜査・起訴活動に何の不利益も与えないと考えられる。

 このことは、元警察官僚トップの佐々淳行が「今回の映像は初動段階で公開すべきもので、国家機密でも何でもない。それを菅内閣が勝手に機密化した」とコメントしたようであることからも、明らかだろう。

 被疑者との尋問過程にはるかに及ばない今回のようなビデオの「公開」・<可視>化を怖れて、いったい何をもって捜査・尋問・調書作成過程の<透明性>・<可視化>を要求できるのか??
 「左翼」・仙石よ、民主党よ、<ふざけるな。>

0929/産経11/03社説(主張)の「能天気」ぶり。

 産経新聞11/03の社説(「主張」)「憲法公布64年/国家の不備を正す時だ/尖閣を守る領域警備規定を」は、おわりの直前まではまともな指摘・叙述をしているようだ。

 しかし、最後の段落の「審査会の早期始動を」の部分は、寝言に等しい。

 憲法改正の必要性を前提としてだろう、「参院の民主、自民両党幹部の協議で、委員数など審査会の運営ルールとなる『規程』の制定に民主党が応じる考えを示した」ことをもって「注目すべき動き」と捉え、両院での議論の活性化につなげるべきだとし、「日本の守りの不備をどう是正するかなどを、審査会で論議すべきだ。……/民主党は党の憲法調査会ポストを空席にしたままだ。政権与党として、憲法改正への主体的な取り組みを求めたい」と結んでいる。

 なるほど民主党が憲法改正手続法により設置されたはずの憲法審査会の動きを前進させるようであるらしい(参院の審査会「規程」の制定に「応じる」らしい)ことは、好ましい変化なのかもしれない。

 だが、現在の国会の議席状況から見て、かりに万が一両院で憲法審査会での「議論」が始まったとしても、まともな憲法改正の方向に結実しないことは、ほぼ明らかではないのだろうか。

 民主党に「政権与党として、憲法改正への主体的な取り組みを求めたい」と産経社説は書くが、厳密にいえば、ともかくもいかなる内容であれ憲法が改正されればよい、というものではないことは自明のことだろう。かりに万が一、政権与党が憲法改正に積極的になったとして、民主党と同様の見解の政党とともに出した結論が、現9条2項の削除ではなく、第一章・天皇条項の削除であったとしたら、社説子は歓迎するのか?

 現在の民主党政権のもとで、あるいは現在の議席配分状況からして、「戦後の絶対平和主義」から脱した、自主・自立の国家を成り立たせるための憲法改正(の発議)が不可能なことは、常識的にみてほぼ明らかではないか。

 産経新聞社説子がとりわけ現9条2項の削除・正規の「自衛軍」(防衛軍・国軍)の設置の明記を望んでいるならば、現与党による「憲法改正への主体的な取り組み」を求めても無駄だ。

 こんなことを理解していないとすれば、<能天気>であり、本当に思考力は<寝た>ままではなかろうか。

 自民党自体にいかほどに憲法改正(・現9条2項削除等)を目指す「意思」と「力」があるかは問題だ。しかし、民主党よりは「まだまし」だろう。

 喫緊の課題は、現与党・民主党に憲法改正への何らかの「期待」を寄せることではなく、民主党政権自体を「よりましな」内閣に変えることだ。それを抜きにして、望ましい方向での憲法審査会の「議論」がなされるとはとても思えない。
 産経社説は、寝惚けたことを書く前に、現内閣<打倒>をこそ正面から訴えるべきだ。

 <打倒>という表現でなくともむろんよい。<あらためて政権選択を!>とか、<政権選択のやり直しを!>とかくらいは主張したらどうか。

 と考えているところに、民主党には「政権与党として、憲法改正への主体的な取り組みを求めたい」などと主張されたのでは、ガックリくる。

 近いことは、同じ11/03の田久保忠衛の「正論」についても言える。「憲法改正の狼煙上げる秋がきた」(タイトル)と叫ぶ?のはいいのだが、どのようにして憲法改正を実現するか、という道筋には全く言及していない。「狼煙」を上げて、そのあとどうするのか? 「憲法第9条を片手に平和を説いても日本を守れないことは護憲派にも分かっただろう」くらいのことは、誰にでも(?)書ける。
 問題は、いかにして、望ましい憲法改正を実現できる勢力をまずは国会内に作るかだ。産経新聞社説子もそうだが、そもそも両院の2/3以上の賛成がないと国民への憲法改正「発議」ができないことくらい、知っているだろう。

 いかにして2/3以上の<改憲>勢力を作るか。この問題に触れないで、ただ憲法改正を!とだけ訴えても、空しいだけだ。
 国会に2/3以上の<改憲>勢力を作るためには、まずは衆議院の民主党の圧倒的多数の現況を変えること、つまりは総選挙を早急に実施して<改憲>派議員を増やすべきではないのか?

 <保守>派の議論・主張の中には、<正しいことは言いました・書きました、しかし、残念ながら現実化しませんでした>になりそうなものも少なくないような気がする。いつかも書いたように、それでは、日本共産党が各選挙後にいつも言っていることと何ら違いはないのではないか。

0925/岡崎トミ子は「警察庁」と「警視庁」の区別ができているか?

 岡崎トミ子は国家公安委員会委員長というブラックジョークのような地位についているが、11/02に、警視庁の内部資料のネット掲載問題につき、閣議後の記者会見で<情報管理の重要性は「きちんと警察に指示している」と述べた>らしい。そのあと、<「警察で管理しなければならないものがネット上に出ていると、こういうことですよね?」と逆質問>という珍?問答もしたらしい。

 上の後半はさて措くとして、国家公安委員会委員長に、「警察に指示」する法的権限はあるのか?? とりわけ今回の文書管理者は警視庁という、法的または形式的には東京都に属する組織だ。

 国家公安委員会は内閣府設置法により、その外局として置かれる(同64条)。

 具体的な権能・権限等は警察法が定めていて、国家公安委員会は五人の委員により構成される(同4条2項)。この委員会の委員長には「国務大臣」があてられるが(同6条1項)、委員長が独自に権限を行使するのではない。いわゆる合議制の行政委員会であり、委員長は「会務を総理し、国家公安委員会を代表する」にすぎない(同6条2項)。

 以上からでもすでに、岡崎が、<警察に指示した>などと簡単に発言していることに疑問符がつく。いつ、そのための委員会の会議は行われたのか?

 国家公安委員会規則である国家公安委員会運営規則によると、「委員会は、会議の議決により、その権限を行う」(同2条1項)。 いつ、<警察への指示>のための国家公安委員会の会議・議事は行われたのか? とり巻いている新聞記者たちは、そういう疑問をまったく持たなかったのだろうか。

 委員会は警察法が定める委員会の任務・所掌事務の「運営の準則その他当該事務を処理するに当たり準拠すべき基本的な方向又は方法」を示す「運営の大綱方針」を定めることができ、「この大綱方針に適合していないと認めるとき」には「警察庁長官」に対して「必要な指示をするものとする」とされているが(2条4項)、第一に、これは委員会の権限で委員長かぎりでの権限ではないし、第二に、指示の相手方は国の機関の一つである「警察庁長官」であり、今回の件の「警視庁(総監)」とは直接の関係がない。
 また、警察法12条の2は「国家公安委員会は、第五条第二項第二十四号の監察について必要があると認めるときは、警察庁に対する同項の規定に基づく指示を具体的又は個別的な事項にわたるものとすることができる 」ととくに定めているが、ここでもまた、この権限の行使主体は委員長ではなく委員会であり、かつ、相手方は「警察庁」であって「警視庁」ではない。さらに、もともとこの条項は、対象事項を「第五条第二項第二十四号の監察」にとくに限定している。

 岡崎が述べたという<きちんと警察に指示している>とはいったい何だったのか。いかなる法的根拠にもとづいて、岡崎は、そんな大それたことを行うことができたのか。この人物をとり巻いている新聞記者たち等は、疑問に思わなかったのだろうか。寒心に堪えない。 

 ついでに書いておくが、第一に、国家公安委員会(委員長ではない)の基本的な任務は、「警察庁」を「管理」することだ。上のようの特段の定めがないかぎり、「警察庁(・長官等々)」の権限行使・事務処理に関して、個別具体的な指揮監督権を持っているわけではない。ましてや、委員長となると、委員会を代表するが、その構成分肢にすぎない。

 第二に、警視庁を「管理」するのは東京都公安委員会だ。国家公安委員会ではない。

 岡崎が「警察」と言ったとき、国の「警察庁」と東京都の「警視庁」の区別はついていたのだろうか。そもそも、「警視庁」とはいかなる行政組織なのかを理解していたのだろうか。

 委員会と委員長の区別も含めて、こんなことすら知らないで、「警視庁の内部資料」についてうんぬと述べているのだとすれば、当然に資質・資格が問われる。この人物をとり巻いている新聞記者等々は、何の疑問も持たなかったのだろうか。寒心に堪えない。

 新聞記者はともあれ、岡崎が上のとおりならば、即刻、辞任した方がよい。菅直人は罷免してもよい。ここに書いたことだけでも、十分な理由になる。

 なお、警察法5条4項に、「国家公安委員会は、都道府県公安委員会と常に緊密な連絡を保たなければならない」、とある。前者は後者に(直接に)<指示>する権限をもっているわけではない。念のため。

0924/<尖閣ビデオ>はなぜ一般的「公開」ではなく一部国会議員限定の「視聴」なのか。

 一 いわゆる情報公開法、正確には行政機関の保有する情報の公開に関する法律、によると、開示(公開)請求の対象となる「行政文書」とは「行政機関の職員が職務上作成し、又は取得した文書、図画及び電磁的記録(電子的方式、磁気的方式その他人の知覚によっては認識することができない方式で作られた記録をいう。以下同じ。)であって、当該行政機関の職員が組織的に用いるものとして、当該行政機関が保有しているものをいう」(2条2項)。但書による例外もあるが、以下で言及するものは例外にあたらない(「官報、白書」等々)。ビデオテープも、ここでいう「行政文書」には含まれる。

 開示請求があると、行政機関の長(以下のものについては、国家行政組織法別表第一が定める「行政機関」の長である海上保安庁長官になると見られる)は、以下の事項のいずれかに該当しないかぎり、開示(公開)しなければならないものとされている(5条本文)。いわゆる個人情報・法人情報にあたるもの(の一部)を除けば、次のとおり。
 5条の第三号~第六号。
 「三
 公にすることにより、国の安全が害されるおそれ、他国若しくは国際機関との信頼関係が損なわれるおそれ又は他国若しくは国際機関との交渉上不利益を被るおそれがあると行政機関の長が認めることにつき相当の理由がある情報
 四  公にすることにより、犯罪の予防、鎮圧又は捜査、公訴の維持、刑の執行その他の公共の安全と秩序の維持に支障を及ぼすおそれがあると行政機関の長が認めることにつき相当の理由がある情報

 五 国の機関、独立行政法人等、地方公共団体及び地方独立行政法人の内部又は相互間における審議、検討又は協議に関する情報であって、公にすることにより、率直な意見の交換若しくは意思決定の中立性が不当に損なわれるおそれ、不当に国民の間に混乱を生じさせるおそれ又は特定の者に不当に利益を与え若しくは不利益を及ぼすおそれがあるもの 

 六 国の機関、独立行政法人等、地方公共団体又は地方独立行政法人が行う事務又は事業に関する情報であって、公にすることにより、次に掲げるおそれその他当該事務又は事業の性質上、当該事務又は事業の適正な遂行に支障を及ぼすおそれがあるもの

 イ 監査、検査、取締り、試験又は租税の賦課若しくは徴収に係る事務に関し、正確な事実の把握を困難にするおそれ又は違法若しくは不当な行為を容易にし、若しくはその発見を困難にするおそれ 
 ロ 契約、交渉又は争訟に係る事務に関し、国又は地方公共団体の財産上の利益又は当事者としての地位を不当に害するおそれ
 ハ 調査研究に係る事務に関し、その公正かつ能率的な遂行を不当に阻害するおそれ 

 ニ 人事管理に係る事務に関し、公正かつ円滑な人事の確保に支障を及ぼすおそれ

 ホ 国若しくは地方公共団体が経営する企業、独立行政法人等又は地方独立行政法人に係る事業に関し、その企業経営上の正当な利益を害するおそれ」。
 二 今日11/01に国会議員の一部のみが、国家審議の参考資料という名目で海上保安庁作成・保管の<尖閣ビデオ>、しかもそれをかなりカットした(編集した?)もの、を国会内で見ることができたらしい。
 社民党代表・福島みずほは、国民一般に見せるのはいかがかと、国民一般に対する<公開>には消極的な発言をしていた。
 与党・民主党も同様だが、ふざけるな、と言いたい。
 国民のかなりの部分が関心をもっている問題に関する情報について、かつての自民党(中心)政府・自民党等が公開に消極的な姿勢を示せば、<隠蔽体質糾弾!>とか<国政・行政の透明化を!>などと叫んで、「公開」・「透明化」を強く要求しただろう。
 民主党や社民党・福島みずほのダブル・スタンダードには呆れる。再び、ふざけるな、と言っておく。情報公開法や情報公開条例の制定に熱心だったのは、<左翼>だった、あるいは自民党よりもむしろ社民党・民主党だったのではないのか??
 国民一般(つまりはマスメディアということになろう)への「公開」を否定できる法的・政策的根拠はいったい何なのか?
 おそらくは、<中国(政府・共産党)のご機嫌を損ないたくない>、ほぼ同じことだが<日本国民に「反中国」感情を増やしたくない>(<日本人の「ナショナリスム」を煽りたくない>)、ということだろう。
 これははたして、法廷の場でも通用する理屈なのか? 弁護士資格をもつらしい、社民党・福島みずほや民主党・仙石由人等々は、上の情報公開法という法律のどの(開示しないことができる)例外的事由にあたるのか、を明言してもらいたいものだ。
 5条の四~六号は関係がないと見られる。四号について言えば、「公にすることにより、犯罪の予防、……その他の公共の安全と秩序の維持」を、むしろ増進させることとなる、と言うべきだ。
 唯一残るのは、三号の「公にすることにより、国の安全が害されるおそれ、他国若しくは国際機関との信頼関係が損なわれるおそれ又は他国若しくは国際機関との交渉上不利益を被るおそれがあると行政機関の長が認めることにつき相当の理由がある」、ということだろう。
 ビデオ公開によって、どのようにして「国の安全が害されるおそれ、他国若しくは国際機関との信頼関係が損なわれるおそれ」があるのか、民主党・仙石や社民党・福島は説明してほしいものだ。
 公開すれば、中国軍によって日本の「安全が害されるおそれ」があるのか。もし本当にそうだと言うならば、法的問題以上の、真に由々しき事態にあると言わなければならないだろう。
 あるいは中国との「信頼関係が損なわれるおそれ」があるのか。しかし、中国という特定の国家との「信頼関係」を守るために、日本と日本国民の正当な利益まで失ってよいことまでをも、上の号は含意しているのか?。そんな形式的解釈は成り立たないだろう。「信頼関係」とは正当な(・国家や国民の利益と矛盾することが明らかではない)「信頼」関係でなければならないだろう。また、外国(人)の「犯罪」を当該外国のために<隠蔽>することが当該外国との「信頼関係」を維持するために必要だとかりに主張する者がいるとすれば、詭弁であり倒錯した論理だと言うべきだ。
 三 おふざけの弁護士を多数かかえているようである民主党の目を醒まさせる意味でも、全面・一般的公開を主張しているらしい自民党は、その代表(・総裁)あるいは幹事長個人の名前で(むろん自民党国会議員全員が名を連ねてもよい)、上の法律にもとづく開示請求をすることを考えたらどうか。むろん国会議員でなくとも「何人」でも、日本国民でも外国人でも、産経新聞記者個人でも、開示請求はできるのだが(3条)。

0923/資料・史料-菅直人2010年8月談話。

 資料・史料-韓国併合100年菅直人首相談話 2010.08.10

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 内閣総理大臣談話
 平成二十二年八月十日
 本年は、日韓関係にとって大きな節目の年です。ちょうど百年前の八月、日韓併合条約が締結され、以後三十六年に及ぶ植民地支配が始まりました。三・一独立運動などの激しい抵抗にも示されたとおり、政治的・軍事的背景の下、当時の韓国の人々は、その意に反して行われた植民地支配によって、国と文化を奪われ、民族の誇りを深く傷付けられました。
 私は、歴史に対して誠実に向き合いたいと思います。歴史の事実を直視する勇気とそれを受け止める謙虚さを持ち、自らの過ちを省みることに率直でありたいと思います。痛みを与えた側は忘れやすく、与えられた側はそれを容易に忘れることは出来ないものです。この植民地支配がもたらした多大の損害と苦痛に対し、ここに改めて痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明いたします。
 このような認識の下、これからの百年を見据え、未来志向の日韓関係を構築していきます。また、これまで行ってきたいわゆる在サハリン韓国人支援、朝鮮半島出身者の遺骨返還支援といった人道的な協力を今後とも誠実に実施していきます。さらに、日本が統治していた期間に朝鮮総督府を経由してもたらされ、日本政府が保管している朝鮮王朝儀軌等の朝鮮半島由来の貴重な図書について、韓国の人々の期待に応えて近くこれらをお渡ししたいと思います。
 日本と韓国は、二千年来の活発な文化の交流や人の往来を通じ、世界に誇る素晴らしい文化と伝統を深く共有しています。さらに、今日の両国の交流は極めて重層的かつ広範多岐にわたり、両国の国民が互いに抱く親近感と友情はかつてないほど強くなっております。また、両国の経済関係や人的交流の規模は国交正常化以来飛躍的に拡大し、互いに切磋琢磨しながら、その結び付きは極めて強固なものとなっています。
 日韓両国は、今この二十一世紀において、民主主義や自由、市場経済といった価値を共有する最も重要で緊密な隣国同士となっています。それは、二国間関係にとどまらず、将来の東アジア共同体の構築をも念頭に置いたこの地域の平和と安定、世界経済の成長と発展、そして、核軍縮や気候変動、貧困や平和構築といった地球規模の課題まで、幅広く地域と世界の平和と繁栄のために協力してリーダーシップを発揮するパートナーの関係です。
 私は、この大きな歴史の節目に、日韓両国の絆がより深く、より固いものとなることを強く希求するとともに、両国間の未来をひらくために不断の努力を惜しまない決意を表明いたします。
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0920/久しぶりに月刊WiLL(ワック)を見る-遠藤浩一・山際澄夫・屋山太郎。

 〇 前回に言及した遠藤浩一の2001年の著書には、遠藤自身が、月刊WiLL8月号(2010、ワック)「『菅直人総理』という亡霊―第三の道か破壊主義か」(p.44-)で論及し、部分的には2001年の本よりも詳しい批判的分析も加えている。この今年の遠藤論考を読んだ者にはあまり意味がなかったかもしれないが、これが言及していない部分も記載しておいたので(私のエントリーは)資料的価値くらいはあるだろう。

 私は最後に簡単にコメントしただけだったが、月刊WiLLの上の論考で、遠藤は私と似たようなことを(も)書いている。

 遠藤によると、2001年時点で、①菅直人の「国家観、否、脱国家観」が「ほの見えて」きた、②歴史的「日本」国家への帰属は「宿命」なのに、「自立した市民」により国家を「作る」というのは「左翼革命思想」に他ならない(月刊WiLL8月号p.52)。また、遠藤は、③「日本人に対する不信感」との小見出しのもとで、菅直人は「日本人に対する根本的な不信感」を表明し、「日本人を変えたい」と考えている、とも書いている(同p.51、p.52)。
 「自立した市民が共生する社会」なるものについては、私も再び触れるだろう。

 〇敬意を表して、月刊WiLL12月号(ワック)。

 山際澄夫「日本のメディアは中国の御用機関か」(p.201-)が、テレビメディア等の現在の日本の(主流的または大勢的な)マスコミ・マスメディアの<異様さ>をとみに感じている者にとっては、まず目を惹いた。

 10/02の東京・渋谷での対中国抗議デモを産経新聞を除いていっさい無視した日本のメディアは、10/16の同旨の(規模は上回る)デモについては報道した、という。「これは、もうお笑いというしかない」。山際によると、その後に頻発している中国での「反日」デモが日本での対中国抗議運動に対抗する狙いをもつため、日本のメディアも、中国でのデモを報道する際に日本での二回のデモに触れざるをえなくなった、という(p.203)。

 但し、山際によれば、「大半は中国デモのついでに触れただけ」(p.204)。日本のデモについては、読売の10/17付1面は8行だけ、2面では「ささやかな」記事のみ、同日付朝日新聞は1面の最後に約100文字(これは私が大まかに計算。月刊WiLLでは3段組のほぼ7行)だけ。

 NHKは酷くて、午後7時のニュースで中国のデモはトップで報道しつつ日本でのデモは「完全に無視」。その後のニュースで日本人のデモの映像を流したが「右翼デモ」と印象づけるかのように中国サイトの「日本右翼」との文字を長い間「どアップ」。深夜のニュースでは「日本右翼」との文字はそのままにしてデモの映像は映さず、田母神俊雄らによる中国大使館への抗議姿を報じた。さらに、TBSは同日夜のニュースで中国の「反日」デモを長々と映したが、日本のデモは「完全にスルー」(無視)(以上、p.204-5)。

 山際もさすがに全メディアの報道振りを確認してはいないだろうが、上によると、<酷い>・<異様な(・狂った)>順に、TBS、NHK、朝日新聞、読売、ということになるだろうか。

 中国の「反日」デモを大きくとり揚げるのは、<そんなに日本に抵抗感があるのか。日本人はやはり、もっと(過去を)反省し、謝罪しなければならないな>とでも感じる日本人が増えることを意図してだろうか。

 ともあれ、今さらながら、尖閣中国船舶<突撃>事件以来の経緯からする日本の数千人のデモを無視または軽視し、その背景・理由を分析することもない日本のメディアは一部を除いて異様きわまりない。山際によると、中国以外の外国のメディアの方がきちんと報道・分析していた、というから尚更だ(p.205)。

 いま一つ。今さらながらだが、山際も言うように、中国に<世論>があるはずがない。中国(政府または共産党)が<世論>に押されて、とか、<世論>の動向に注視しながら、とかして行動することはありえない。

 外国政府または外国資本法人の所有物(その他財産権の対象物)を破壊することは中国でも<犯罪>のはずだろう。なぜ、中国の警察は中国人デモ隊の乱暴・狼藉を<放置>しているのか? 中国政府・共産党の意向が働いており、中国の種々の「デモ」とやらも(その沈静化も)ほぼ政府・共産党のコントロール下にある、と認識しておくのがまっとうなものの見方であることは言うまでもない。

 〇やはり、屋山太郎はおかしい。屋山の月刊WiLL12月号の巻頭コラムは「民主党が踏み出した政権党の第一歩」というタイトルをもち、「国家戦略室」の設置に「踏み切った」ことなど(?)をもって、「実に際どい一年間だったが、民主党はようやく政権党の一歩を踏み出したように見える」と評している(p.22)。

 昨年総選挙での民主党勝利につき<大衆は賢明な選択をした>と明記したのは、屋山太郎だった。民主党に対する批判的なことも述べつつも、なおも、この政党、そして民主党政権に<期待>をつないでいるらしい。

 アホらしくて、批判する気もおきない。櫻井よしこに問いたいものだ。屋山太郎のような人物を理事とする国家基本問題研究所とはいったいいかなる団体なのか?、と。

 ついでに、些細なことと思って書いてこなかったが、<行政>や<公務員(制度)>に関する専門家らしく(少なくともこれらに詳しい評論家のごとく)振る舞っているようである屋山太郎だが、それはきちんとした学識にもとづくものではなく、<やっつけ勉強>と審議会委員等の<経験>に頼っているものでしかないように見える。

 一例は、今は(どの雑誌のどの欄だったかか)確認しないが、「内閣の規則」などという言葉を使っていたことでも明らかだ。内閣が定めるのは、法律に準じた<政令>と、法令と同一視はできない<閣議決定>・<閣議了解>等に限られ、「内閣の規則」なるものは存在しない。それとも、屋山は、<内閣府令>と混同していたのだろうか? だが、内閣府令は内閣が定めるものではない。(内閣ではなく)内閣府の長としての内閣総理大臣が定める。

 要するに、公務員制度を含めて行政一般についても論じる屋山太郎を信頼してはいけない。

 第一に、なおもって民主党に一抹の(?)希望を寄せ、あるいは期待していること、第二に、「行政」に関する学識・経験は大したものではないと見られること、これらだけでも月刊WiLLという雑誌の巻頭を飾る(?)一文を寄せる資格はないように思われる。この点に関する質問は、櫻井よしこではなく花田紀凱に対して向けておこう。

0919/菅直人の政治「心情」はいかに-遠藤浩一の2001年著に見る。

 遠藤浩一・消費される権力者-小沢一郎から小泉純一郞へ(中央公論新社、2001)は、「かくいう筆者自身も…『無党派』の一人である」(p.149、p.150)と述べつつ、刊行の2001年頃の時点での、菅直人(現首相)の発言・考え方を紹介している。

 原則的に、紹介にとどめる。以下は原則として、菅直人の言葉。

 ①(当時の)野党により国会が空転すると金融システム自体の崩壊の危険があるがよいのか?→「それでもかまわない。日本は焼け野原になって、再び”八月十五日”からやり直せばいい」(p.155-6)。

 ②あなたは織田信長のような独裁者になるのでは?→「民主主義というのは、交代可能な独裁なんです。選挙で政治家や政党を選んだ以上、任期いっぱい、その政治家や政党の判断に任せるべきだ」(p.156)。
 ③「…官僚中心の政治、行政を変えたい。…自民党政治も含めて、官僚中心のシステムはもはや機能しなくなった。だからそれを憲法に書いてある国民主権国家の内閣に変えていこうということ」だ(p.170)。

 ④日米関係という「基軸は基本的に維持していく。と同時に、日本がアジアの一員であることを重視していかなければならない。五十年かかってもクリアしていない問題があるので、それをクリアして日中関係、日韓関係を構築していく」(p.171)。

 ⑤中国から「政治的にある種の圧迫感を受けるということはあるだろうけど、日米、日中、米中のトライアングル関係がきちんと構築されれば、軍事的脅威は心配ないと思う。確かに尖閣列島の問題もあるけれども、リアルに見れば純軍事的な脅威はそれほどでもない」(p.171)。

 ⑥戦後という時代を「丸呑み」は、「うーん、できない」。「どこまでの深い覚悟があって非武装中立なんて言ったのか、大いに疑問」。「戦後の日本人は覚悟を忘れてしまった」(p.172)。

 ⑦覚悟なき日本人を法的に支えたのは日本国憲法では?→「日本人は、この百三十年というもの、一度だって自分の力で憲法を変えていない。…きわめて政治的に未熟だよね。…日本人は、憲法を変えることについて自分を信用できないという思いがある。だから、多少解釈を変えてお茶を濁している」(p.173)。
 ⑧日本人を信じるか?→「基本的には信じる」が「リスクがあるだろうな。…日本というのは結局水戸黄門型の国ですよ。お上とか偉い人とか、何かに依存している。その裏返しとして反対のための反対をする。だから自立した市民が共生する社会を作りたいと私は考えている」(p.173)。

 ⑨なぜ「市民」なのか?→「市民」とは「職業的価値から独立した普遍的価値を重要視するタイプの人間」だ。医者・農民・労組といった「所属的価値を超えた人々」という意味。「国民というのは人間の思考タイプを示す言葉ではありませんね」。「市民」と「国民」は「全然、対立はナシ」(p.173-4)。

 ⑩「自立した市民」とは「公への責任感の回復」だとすると「国民」という語を使うべきでは?→「日本人ほど日本に対する所属意識が強い人間はいない…。日本人は日本人の中に閉じこもっています。だから愛国心がないというのも大嘘…。日本人は意識の深い部分で、しっかり国家に帰属している…。むしろ足らないのは市民意識」だ(p.174)。

 ⑪では日本人を信じている?→「逆だよ。そういう無意識的な所属意識しかないというのは問題だと思っている。国家というものがアプリオリにあって、そこに国民がいて、それで国家を大事にするという発想が、僕の中ではちょっと違和感があるんだ」(p.174)。

 ⑫「天皇制」は「歴史的なものとしてまさに尊重すべき」で、「僕のイメージの中の国家とはまったく別だ」。「国家というのはアプリオリにあるものではなく、自立した市民によって作られるべきものなんだ。そのとき国家に対する潜在的な帰属意識は、むしろそれを妨げる働きをする」(p.175)。

 ⑬「国家という形での価値」には「抵抗」がある。「必ずしも戦後革新的な抵抗感」ではなく「何か薄っぺらな感じ」。「もちろん国家という枠組みは厳然としてある」。それは非常に重要だが、「主体者」は「結局人間なんだ」。「主体である人間が当事者意識をもって存在していなければ、極端に言えば、何のために国を守るのかという話に」なる(p.175)。

 とりあえず、以上。
 菅直人自身による著書中での記述または発言ではないことに留意しておくべきだが、簡単には、菅直人の<反「国家(・国民)」心情>、戦後憲法教育の影響大と思われる<個人主義(「自立した市民」の強調)>という立脚点は明らかだ、と感じられる。また、<親中・親韓感情>も示されており、一種の<大衆=「日本人」蔑視(自分は「自立した個人」だとの距離感)>も感じられる。この程度にしておく。

 すでに遠藤浩一もコメントしているのだが、とくに、<自立した市民が共生する社会というキー概念については、十分に検討し議論する余地があるだろう。「国家」は「自立した市民によって作られるべき」とのテーゼについても同様で、すでに日本「国家」はある以上、これは<革命>が必要とする<思想(・イデオロギー)>だと思われる。 

0918/佐伯啓思・日本という「価値」(2010)は民主党の「日本を外国に売り渡す」政策も語る。

 一 民主党政権になった一年余前、<左翼(=容共)・売国>政権だとこの欄で位置づけた。朝日新聞が嫌いなはずの、鳩山・小沢・輿石三人の「談合」の結果としての菅直人への(総選挙を経ない)政権「たらい回し」ののちには、この欄で<本格的「左翼」政権>誕生、と書いた。

 菅・民主党政権の具体的なことに言及するのは精神衛生に悪いので、極力書かないようにはしている。

 仙石由人官房長官はかつて日韓基本条約(1965年)締結に対する反対運動をしていた社会党系活動家で、のちに社会党から国会議員になった筈だから、社会党の党是、すなわち「社会主義への道」を少なくともかつては信奉していたはずだ。現に(おぞましき)「社会主義」の道を共産党・労働党指導のもとで歩んでいるらしい中華人民共和国や北朝鮮に、仙石が<甘く・優しく>ならないわけがない。

 拘禁後の中国人(船長?)釈放は、菅→仙石(または仙石→菅→仙石)→某法相→最高検総長→那覇地検という<事実上の>上意下達の結果であることはほぼ明らかだ。地検の<自主的な>判断という大嘘は当然に<卑怯だ>(検察一体の原則からして、もともと最高検が諒解していたかその指示によるかのどちらかであることは法制度上少なくとも明確で、那覇地検かぎりでの判断などはありえない)。

 田嶋陽子(かつて国会議員)らと「従軍慰安婦」個人補償法案を提案し、ソウルで韓国人運動家たちとともに日本大使館に向かって拳を突き上げた岡崎トミ子が国家公安委員会委員長(国務大臣)なのだから、呆れて大笑いしたくなるほどの、ブラック・ジョークのような現菅直人内閣だ。

 かかる「左翼・反日」政権とそのもとでの生活への<嫌悪に耐えて>、生きていかねばならないとは…。

 二 佐伯啓思・日本という「価値」(2010、NTT出版)は、民主党政権の<売国(・反日)>性をこの人にしては明瞭に語っている(以下の初出は2010年1月)。

 佐伯いわく-民主党の基本政策は「対米依存からの脱却」、「市場原理主義的な経済自由主義の見直し」、「土建型公共事業による経済成長」から「福祉に軸足を置いた生活中心社会への転換」で、これらに「特に異論はない」。だが一方でこの政権は①「二酸化炭素」25%削減を国際公約にし、②「外国人参政権」を認めようとし、③「夫婦別姓」も打ち出している。/「こうなるとよくわからなくなる」。「対米依存からの脱却」・「新自由主義路線の修正」は「国家の自立性を高める」という意図をもつ筈だが、他方で、「外国人参政権」を唱え、「聞こえのよい国際公約」を行って、「小々大げさにいえば」、「日本を外国に売り渡す」類の政策を促進する。「一体これらがどのような関係にあるのか」、マスメディアを含めて誰も問題にしていない(p.146-7)。

 佐伯は続ける-この「支離滅裂」は「国家や国民の捉え方の曖昧さ」が生んでいる。叙上のような基本政策は結構だが、その種のことを唱えるには、①「日本という国家の防衛をいかに行うのか」、②「経済成長に代わる価値観をどうするのか」、③「日本社会の将来像をどのように描くのか」、という「国家像がなければならない」。しかも、「相当な国民的な結束」が不可欠だ。「国家像」を描き、それを実現するためには「国民の道徳的な力」が必要なのだ。なぜ、「そのことを言わないのか」。言わないがために「政策に厚みがなく、他方で、『日本を外国に売り渡す』類の政策が平然と」行われる。民主党の政策は「ご都合主義的でファッショナブルなものへの追従かその羅列に過ぎない」ように見える。政策の背景にあるのは「幾分のサヨク・リベラル路線」をとっての「世論の流れと時代状況への追従」の「終始」ではないか(p.147-8)。

 佐伯啓思は私よりも民主党の具体的政策をよく知っていそうだから、あえて異は唱えない。おそらくは昨年末に書かれた文章にしては、民主党の<脆うさ>を、適確に指摘していると思われる。

 但し、民主党全体を評価するにしても、「サヨク・リベラル」と性格づけるのは(p.118も)、「リベラル」の意味が問題にはなるが、やや甘いかもしれない。

 にもかかわらず、「新自由主義路線」が<対米依存>でその「見直し」は「国家の自立性を高める」ことを意味するはずだということも含意しての、佐伯啓思による明確な、民主党政権の<売国性>の指摘は重要だろう。佐伯は8月の<菅談話>も一例として挙げるだろうか。

 なお、菅直人内閣についても、櫻井よしこ等の保守論者は「国家観なき…」とか「国家観のない」と(お題目のように?)言って批判することが多いが、彼ら民主党の要人たちにも何らかの「国家観」はあるのであり、ないのは、佐伯が上に指摘するような、具体的な「国家像」だ、と考えられる。

 仙石や菅らは(そして、その他の仲間たち諸々は)、<国家なんて本当はなくてよいのだ>、<国家意識を過分にもつことは危険だ>、等々の「国家観」を持っているように思われる。対立は、<国家観>の有無・存否ではなく、<どのような国家観をもつか(そしてどのように日本の将来像を描くか)、というその内容にある、のではないか。

0893/本格的な<左翼(・売国)>政権誕生。

 本格的な<左翼(・売国)>政権誕生。
 麻生太郎が「本格的な左翼政権」が生まれた旨を演説しているシーンをどこかのテレビニュースで一回だけ見たが、これは他局や新聞では(産経新聞も含めて)取り上げられていない。
 (麻生太郎は田母神俊雄を「見殺し」にした首相だったので、その<保守>性を全面的に信頼しているわけではない。)
 マスメディアは、相変わらず正常ではない。NHKの報道ぶりも、どこか<菅期待>を滲ませている。
 鳩山退陣の週の週刊朝日6/11号は民主党・鳩山問題を隠して「みんなの党大研究」とやらを表紙に出していたが、同6/18日号は大きく「民主党革命/再スタート!」と表紙に掲げて、あらためて民主党を支持せよ(自民党等の<右派>に投票するな)旨を煽動している。今回は朝日新聞社説の厚顔無恥ぶりに言及しないが、朝日新聞社論説委員・編集委員、週刊朝日編集長・山口一臣は<恥ずかしく>ないのだろうか。
 確信的な<左翼>活動家集団は、民主党(・同政権)を当面は(叱咤激励しつつ)守ることが「ジャーナリスト」の使命だと思い込んでいるのだろう。
 それにしても、「首」が代わっただけで民主党支持が10%以上も回復する(支持なし層から移る?)というのだから、日本の有権者国民の<日和見>ぶり、<浮遊>ぶりには、あらためて呆然とする。
 偽善者たちの喜劇はまだまだ続きそうだ。

0872/鳩山由紀夫「ルーピー」首相はやはり鈍感。ついでに朝日新聞。

 1.鳩山由紀夫首相は4/28に、東京検察審査会での小沢一郎「起訴相当」議決のあと、こう言ったらしい。

 政府としては「検察の判断に予断を与えることになるから、私は何もいうべきではない」。(したがって?)小沢氏は幹事長として「引き続き(このまま)頑張っていただきたい」。

 首相が小沢につき「このまま頑張って…」と言うこと自体が、小沢一郎にかかわる刑事問題について何らかのコメントを発している、少なくともそのように受け止められる可能性がある、ということを、この「現実から遊離した(ルーピー)」首相・鳩山由紀夫は分かっているのだろうか。

 もともとその発言ぶり等から、首相としての資質が疑問視されるている人物だが、上の簡単な言葉にもそれは表れているだろう。
 政府としては「検察の判断に予断を与えることになるから」余計なことは言えない(言わない)というつもりならば、同じ会見・コメントの場でつづけて、小沢氏は幹事長として「引き続き(このまま)頑張っていただきたい」ということも言うべきではないのだ。
 この程度のことが分からない人物が首相を務めているのだから、怖ろしい。
 鳩山由紀夫については「病気ではないか」とか「ビョーキ」とかの論評も出てき、また「現実から遊離した」とのまことに適切な形容も出てきた。
 その資質・基本的素養・能力への疑問は昨秋からすでに感じていたことだ。何だったか特定できないが、記者への受け答えを見聞きしていて、この人はどこかおかしいのではないか?、自分の地位・責任をきちんと理解しているのか?と感じてきた。
 だが、それでも、次のように昨秋11月初旬には書かざるを得なかった。

 「だからこそ、鳩山由紀夫のブレ等々にもかかわらず、少なくとも来年の参院選挙くらいまでは、鳩山政権が続きそうだとの予想が出てくる」(注-「だから」とは自民党のだらしなさを指す)。
 これを書いたとき、「来年の参院選挙くらいまで」とすることに、かなりの勇気または思い切りが必要だった。
 鳩山政権が発足して一年くらいは政権(内閣)がつづくだろうことは当時はまだ当然視されていて、衆議院での民主党の多数派ぶりからして3~4年間の継続を想定していた人たちも多かっただろう。したがって、<来年の参院選挙くらいまでは、鳩山政権が続きそうだとの予想>というのは随分と思い切って、少なめに見積もって書いたのだった。個人的には、本当にこの人物が2~4年も首相の任に耐えられるのだろうか、と感じていたからこそ、あえて<来年の参院選挙くらいまでは>という表現を使った。

 ところが現在では、5月末・6月初めまたは遅くとも7月参院選以前での鳩山退陣がかなりの現実性をもって語られている。

 実際にどうなるのか分からないが、昨年の10月・11月頃に比べれば政治状況・世論は大きく変化している(ようだ)。

 2.「無党派層」とは「日和見層」・「流動層」であって、マスメディアによる評価・ムード作りによって、どうにでも転ぶ(または「転びそうな」)人たちのことだ。
 「無党派」などという体裁のよい(?)、または「支持政党なし」層などという中立的な(?)言葉は使わない方がよいと思われる。
 この「日和見層」・「流動層」・<マスメディアによる評価・ムード作りによって、どうにでも転ぶ(転びそうな)人たち>に対して、これから参院選(の投票日)までマスメディアはどういうメッセージを発するだろうか。
 とくに朝日新聞はどういう<政治的戦略>のもとで報道し、記事を書き、紙面を編集するだろうか。「左翼」活動家集団・朝日新聞は、そろそろ基本的な<政治的戦略>を決定しているだろう。

0841鳩山由紀夫には行政権・検察の関係をわきまえる素養があるのか?

 鳩山新内閣につき、当初、<美辞麗句(だけの)>内閣と呼んだことがあったが、ほんのしばらくして<左翼(=容共)・売国政権>との呼称と評価で一貫させてきた(つもりだ)。
 それは今でも変わらないし、ますますその感を強める。だが、<学級民主主義内閣>とか<生徒会運営内閣>とかの旨の論評も散見するし、そもそも鳩山由紀夫という人物には、(かりに日本国憲法を前提としても)国家・国政・権力分立等に関する基本的な素養が欠けているのではないか。
 1月16日午前に鳩山は小沢一郎と逢ったが、その後の記者会見で鳩山は、その際に小沢に対して、<幹事長を信じています。どうぞ(検察と)闘って下さい>と述べた、と自ら明らかにした。
 唖然とする、異常な発言だ
 小沢が<検察と闘う>ことを支持する、少なくとも容認することを鳩山が明言するということは、現在の<検察>の動きを支持していない、疑問視している、ということを意味するはずなのだ。
 そうでなければ、「どうぞ闘って下さい」などと言えるはずがない。
 しかして、鳩山は民主党代表であるとともに、日本国の内閣総理大臣、行政権・内閣の長でもある。
 検察組織も広義の行政組織に他ならない(明確に裁判所=司法権とは区別される)のだが、行政権・内閣の長が、かくも簡単に<検察>批判をしてもよいのか?? 少なくとも<検察と闘う>ことを支持・容認することをかくも安易に明言してよいのか??
 田中角栄などの元首相等が検察組織と「闘って」きたことはある。だが、現職の内閣総理大臣が<検察と闘う>ことを少なくとも支持・容認することを明言したことはなかった、と思われる。
 一般論として、検察の動きに<政治性>が全くない、とは言わない。だが、内閣総理大臣、行政権・内閣の長は、政治家がらみで捜査中あるいは訴訟継続中の事案について、どちらかに傾斜した特定の見解を示すべきではなかろう。このような、中立的・抑制的姿勢が全く感じられない「お坊ちゃん」は、首相という自らの立場を忘れ、(幹事長に頭の上がらない)政党の代表という意識しかないのではないか。こんな首相が現に、いま存在しているということは極めて怖ろしい。
 佐伯啓思は今年に入ってから産経新聞に日本では<型の喪失>が進行している旨指摘していたが、あえて関連させれば、現職内閣総理大臣においても、基本的な部分での立憲主義的<型>の忘却が見られるわけだ。異様、異常という他はない。
 ついでに続ければ、民主党の森裕子議員は「検察をトップとする官僚機構と国民の代表である民主党政権との全面的な戦争です。一致団結して最後まで戦う」と発言した。
 笑わせる、のひとこと。現に「政権」を握る者たちと「検察」の「全面的な戦争」とはいったい何だ?? それに「検察をトップとする官僚機構」と「国民の代表である民主党政権」という基本的区分自体に誤りがある。幻想・錯覚と妄想の中で生きている民主党議員も多いのだろう。 

0838/「行政刷新会議」なるものによる「事業仕分け」なるものの不思議と危うさ。

 「行政刷新会議」なるものによる「事業仕分け」なるものには、よく解らないことが多すぎる。
 一 まず、「行政刷新会議」とはいかなる行政機関なのか?
 憲法上、「予算を作成して国会に提出すること」は内閣の職務とされている(73条五号)。その内閣の職務を内閣総理大臣が代表?して行い、その手伝いをしているのが、従来は主として財務省(財務大臣)だったところ、現政権においては「行政刷新会議」なのだろう。
 それはそれでよいとして、では、「行政刷新会議」なるものの設置根拠はどこにあるのか?
 国家行政組織法によると、国の「行政機関」である「省、委員会及び庁」の設立には法律の定めが必要だが(3条)、この「会議」にはそのような法的根拠はないと見られる。
 国の組織・機構に関して国のHPを見てみても、「行政刷新会議」は正確には位置づけられていない。官邸HPのトップに突如として「行政刷新会議」なるものが現れる。そしてどうやら、つぎの<閣議決定>に設置根拠はあるようだ。
 「行政刷新会議の設置について 平成21年9月18日閣議決定
 1 国民的な観点から、国の予算、制度その他国の行政全般の在り方を刷新するとともに、国、地方公共団体及び民間の役割の在り方の見直しを行うため、内閣府に行政刷新会議(以下「会議」という。)を設置する。
 2 会議の構成員は、以下のとおりとする。ただし、議長は、必要があると認めるときは、構成員を追加し、又は関係者に出席を求めることができる。
 議長   内閣総理大臣
 副議長  内閣府特命担当大臣(行政刷新)
 構成員  内閣総理大臣が指名する者及び有識者
 3 関係府省は、会議に対し、関係資料の提出等必要な協力を行うものとする。
 4 会議の事務は、内閣府設置法第4条第2項の規定に基づき、内閣府が行うこととし、内閣府に事務局を設置する。
 5 会議は、必要に応じ、分科会を置くことができる。
 6 前各項に定めるもののほか、会議の運営に関する事項その他必要な事項は、議長が定める。」
 閣議決定は法律でも政令でもない(省令でもない)。「国民の皆さま」を代表する議員によって構成される国会によって承認されてはおらず、行政権かぎりでの事実上の決定にすぎない。これによる機関・「会議」の設置が違法とまでは言えないだろうが、そのような機関・「会議」がそのような位置づけにふさわしい仕事だけをしているかが問題になりうる。
 だが、担当大臣(仙石某)まで置かれ、事実上であれ、予算案編成作業に関して重要な役割を果たしているようだ。むろん法的には、そこでの作業は内閣総理大臣や内閣を法的に拘束しない、たんなる<たたき台>にすぎない、と説明されるのだろう。
 だが、たかがそんな組織にしては、(とくにその<仕分け作業>に)マスコミは注目しすぎているのではないか。また、民主党や政府の側も、たかが一つの準備作業を<オープン>にすることによって<ショー>・<パフォーマンス>化して、政治的には自らに有利な方向に利用しようしているのではないか。それに引っ掛かっているマスメディアも見識が不足しているというべきだ。
 二 ますます不思議なのは、<仕分け人>の位置づけだ。
 上の設置要綱(閣議決定)によると、「議長〔内閣総理大臣〕は、必要があると認めるときは、構成員を追加」することができ、また、「構成員」は「内閣総理大臣が指名する者及び有識者」とされている。
 気になるのは、第一に、国会議員、すなわち枝野某や蓮某らが、<仕分け人>として仕事をしており、どうやら少なくとも「分科会」の構成員であることだ。
 内閣によって提出された予算案を議決して正式の予算とするのは国会の仕事だ。
 ということは、彼ら国会議員は(上の二人に限らない)、予算案の作成の準備作業に参画し、かつ最終的には国会議員として、予算に関する議決にも関与することになる。この後者の権限・任務は当然だが、そのような権限・任務・職責を持つ者が、そもそも同時に前者、つまり事前の作成作業にまでかかわってよいのか??
 たとえば、事前の段階で<仕分け人>として持って(<仕分け>会議で)公にした見解(特定の事業補助費等の予算配分への賛否等々)と矛盾する案が最終的には内閣によって決定され、国会に提出された場合、彼らはどういう態度をとるべきか?、という問題が生じうる、と考えられる。
 むろん、見解・意見は変わりうるものだとして、かつては反対した予算配分を含む予算案全体に賛成することは法的に禁じられるわけでもあるまい。
 だが、そもそも、このような問題を生じさせるようなことをすること、つまり副大臣でも政務官でもない国会議員を、「行政刷新会議」(の分科会?)の構成員とすること自体が適切とはいえないのではないか??
 屋山太郎は、これまた政治家による行政官僚統制だとして肯定的・好意的に評価するのかもしれないが、ここで生じているのは、立法府(法律制定者・予算決定者)の一員と、行政府(予算案作成・「行政刷新会議」)の一員との兼職であり、国会と行政権との間の混淆あるいは区分の崩壊であるように思われる。
 これは議会制民主主義の範疇を超えている、というのが私の直感的感想だ。
 第二に、<仕分け人>の中には、民間人も入っている。「有識者」とされているのだろう。この民間人の「参加」はどのように考えられるべきものだろうか。
 審議会類に民間人が学識経験者として入ることはよくあることだが、その場合、非常勤の「公務員」として扱われる。そして、「行政刷新会議」の<仕分け人>もそのように位置づけられるのだろう。
 だが、マスコミによって大きくとり挙げられるわりには、いかなる基準・資格認定によって、一定の民間人が<仕分け人>として採用されているのかは、さっぱり分からない。議長=内閣総理大臣(鳩山)も副議長(担当大臣=仙石)も、この点を何ら明らかにしていないように見える。
 こんな曖昧な選任方法によって仕分け人とされた者に、華々しく話題にされるような仕事をさせてよいのか?
 あるいは、これは予算編成作業の過程への<市民参加>なのだろうか。だが、予算編成作業編成過程の透明化や何らかの「国民」参加がかりに必要であり、少なくとも違法ではないとしても、現在行われている専門家?民間人の「参加」が、そのための十分に必要な条件を満たしているとは思えない。
 何ゆえに、いかなる理由でもって、特定の民間人(専門家?)が仕分け人に選任されているのか、その基準がさっぱり分からず、公にされていない、と思われるからだ。
 第三に、ますます訳が分からないことがあることがある。仕分け人の中には碧眼の欧米人も入っている。きちんと確認していないが、その人物は日本人、すなわち日本国籍をもつ者なのか??
 かりに外国籍の者だとするとそのような者に、日本国の予算案作成(編成)過程に関与させてよいのか?? これに関与して意見を言う資格(・権利)は国政参加権にもとづく一票(投票権)の行使よりも大きいというべきだ。
 この疑問はすこぶる大きい。いかに「友愛」だとて、「地球市民」感覚だとて、外国人には日本の予算案策定事務に「参加」する<資格>も<権利>もなく、これらを与えてはならないだろう。
 三 以上のような種々の疑問をもつが、大(?)新聞である産経新聞を含めたマスメディアがこのような問題について説明したり解説したりしているのを読んだり見たりしたことはない。
 野党・自民党もまた、このような観点からの批判はまるでしていないようだ。ただ<ショー的>だ、と指摘しているだけで、重要な政治的・法的問題がある、という問題意識はないように見える。
 重要な政治的・法的問題がある可能性がある、という問題意識が全く希薄であるようなのは、大(?)新聞である産経新聞を含めたマスメディアも同じ。評論家たちの意見はよく知らない。
 国会(立法府)と行政権(府)の議会制民主主義における適切な協働と緊張関係を超えた融合は、むしろ危険視すへきだ。
 国会(議会)・行政権の一体化と、それらを背後で実質的に制御する政党(共産党)、というのが、今もかつても、<社会主義>国の実態だった。
 そこまで大げさな話にしなくてもよいが、<行政刷新会議>とそこでの<事業仕分け>なるものには、何やら怪しさ・奇妙さと覚束なさがつきまとう。
 大マスコミも、多数いるはずの政治・行政評論家も(憲法研究者を含む学者はもちろん)、以上のような疑問に答えてくれていないようであることこそ、まさに異常なことではないか。成りゆき、ムードに任せてはいけない。

0828/鳩山由紀夫「私の政治哲学」に見るアメリカ・「経済」観等。

 一 有名になった鳩山由紀夫「私の政治哲学」月刊ボイス9月号(PHP、2009)に、この欄で8/28と9/18に既に二回言及した。
 → 
http://akiz-e.iza.ne.jp/blog/entry/1192822/
 → 
http://akiz-e.iza.ne.jp/blog/entry/1227260/
 前者では、鳩山が紹介するカレルギーの「友愛」理念のように、鳩山は「左右の全体主義との激しい戦い」(p.133)をする気が本当にあるのかを疑問視し、後者では「東アジア共同体」構想を疑問視した。
 これらとは別の論点に触れる。鳩山は上掲の文章で次のように書く。
 「友愛」は「グローバル化する現代資本主義の行き過ぎを正し、伝統の中で培われた国民経済との調整をめざす理念」で、「それは、市場至上主義から国民の生活や安全をめぐる政策に転換し、共生の経済社会を建設すること」を意味する。
 「いうまでもなく、今回の世界経済危機は、冷戦終了後アメリカが推し進めてきた市場原理主義、金融資本主義の破綻によってもたらされた」。「米国のこうした市場原理主義や金融資本主義は、…グローバリズムとか呼ばれた」。
 「米国的な自由市場経済が、普遍的で理想的…であり、諸国は…経済社会の構造をグローバルスタンタード(じつはアメリカンスタンダード)に合わせて改革していくべきだという思潮だった」。
 「日本の国内でも、…、これを積極的に受け入れ、すべてを市場に委ねる行き方を良しとする人たちと、これに消極的に対応し、社会的な安全網(セーフティネット)の充実や国民経済的な伝統を守ろうとする人たちに分かれた。小泉政権以来の自民党は前者であり、私たち民主党はどちらかというと後者の立場だった」。
 「グローバリズムは、…経済外的諸価値や環境問題や資源制約などをいっさい無視して進行した」。
 「冷戦後…の日本社会の変貌を顧みると、グローバルエコノミーが国民経済を圧迫し、市場至上主義が社会を破壊してきた過程といっても過言ではないであろう。郵政民営化は、…をあまりにも軽んじ、…、郵便局のもつ経済外的価値や共同体的価値を無視し、市場の論理によって一刀両断にしてしまったのだ」(p.136)。
 <郵政民営化>問題に立ち入らない(立ち入れない)。
 上の文を読んで感じる一つは、この鳩山<論文(?)>がどのように要約されて英訳されたのかは知らないが、明瞭に<反米>的なことだ(なお、鳩山の上掲の文章に<反中国>的言辞はない)。
 「アメリカが推し進めてきた市場原理主義、金融資本主義」=「グローバリズム」=「市場至上主義」が日本を含む諸国の国民経済を「圧迫し」、社会を「破壊し」てきた、と明確に論難している。これは明らかにアメリカ(の経済政策)批判だ。当否はさて措くとしても、<反米>的だと受け止められても仕方がない。
 第二の感想は、近年のアメリカの経済政策あるいはその「資本主義」を、「市場至上主義」・「市場原理主義」などという概念で簡単に理解して(しまったつもりになって)よいのか、ということだ。また、「小泉政権以来の自民党」は「すべてを市場に委ねる行き方を良しとする人たち」だった、と簡単に言ってしまってよいのか。「すべてを市場に委ねる行き方」とは、いくら何でもいい過ぎだろう。
 ついでにいえば、鳩山自身あるいは「私たち民主党はどちらかというと」上とは違う、「社会的な安全網の充実や国民経済的な伝統を守ろうとする」立場だったとするが、これはマスメディアが騒いだ<格差拡大>等々の<小泉(構造)改革>の結果らしきもの(いかほどに証明されているのか?)を受けての<後づけ>的なものである疑いが強い。
 この文の中心的テーマにしないが、鳩山由紀夫や民主党は<小泉(構造)改革>のための法律案に<すべて>反対してきたのか? 派遣業法の改正等々に賛成したのではなかったのか?
 さらに離れて言えば、現在民主党(鳩山政権)を支持し擁護している朝日新聞は、<自民党をぶっ壊す>と叫んだ小泉を、<郵政民営化>が争点とされた2005年総選挙での小泉(自民党)をむしろ支持し、少なくとものちの安倍晋三内閣に対する態度とは全く異なる好意的評価をしていたのではないか。
 二 共生」の経済社会論とか、最近に国会で鳩山由紀夫が強調している<NPO・市民の方々の(国政)参加>の積極的推進論は、従来からの<左翼>の主張であり、また彼らが好む言葉・概念だ。この点にも、鳩山由紀夫の「左翼」性は露見している。これを自覚していないとすれば、よほどの勉強不足か、もともと「左翼」的(=容共的)心情の人物なのだろう。
 三 上の点は再び触れることがあるだろう。
 上の一で言及した、「市場至上主義」・「市場原理主義」などという概念で簡単に理解して(しまったつもりになって)よいのか、という疑問(・批判)に関連して、根井雅弘・市場主義のたそがれ(中公新書、2009.06)の以下の指摘は興味深い。鳩山由紀夫は読んでいないだろう。以下、要約又は抜粋的引用。
 〇<ソ連・東欧社会主義国崩壊後に「資本主義」の勝利が「市場メカニズム」の勝利とされ、「市場主義」・「市場原理主義」との言葉が頻繁に使われ始めたが、これらは「厳密な学術用語」ではない。伊藤元重(東京大学教授)は『市場主義』との本を出したが(1996年)、「市場メカニズム」を「軽視してきたようにみえる日本の経済システムに活を入れる意図」なのだろう。伊藤は決して「市場万能論者」ではない。>(p.92-93)
 〇<フリードマンは「ほとんど『自由市場至上主義』に近い立場」から「市場の失敗」よりも「政府の失敗」をはるかに「深刻」視した。この点では、「独自の知識論」にもとづき、「市場メカニズム」(ハイエクのいう「価格システム」)を排した「計画経済は必ずつまづくだろう」と社会主義批判をしたハイエクの方が「本質を突いていた」のではないか。>(p.94-95)
 〇<ケインズの受容以降、「純粋な『資本主義』・『市場』」なるものは存在せず、「各国は、程度の差こそあれ、『混合経済』になっている」ことを等閑視すべきではない。サミュエルソン教科書の読者なら容易に分かるだろう。にもかかわらず、「市場メカニズム」・「市場主義」・「市場経済」
等々の「大合唱」が生じた。>(p.95-96)
 以下、長くなるので省略。または別の回に書く。
 根井雅弘著を論評する気はない。要するに、鳩山由紀夫は、「市場至上主義」・「市場原理主義」等をいかなる意味で用いているつもりなのかという疑問をもつし、これらの意味を十分に理解したうえで書いているのか、という批判をしたい。同じことは、<新自由主義>という、日本共産党系の学者・評論家等を含む「左翼」が(かつ経済学の専門家でも何でもない者たちが)、批判するために近年しばしば用いてきている言葉・概念についても言える。
 「混合経済」というか否かは別として(経済学者に任せるとして)、「市場」も「政府」(計画)のいずれも万能ではないことは常識的なことだ。<自由と(公的)規制>の間の具体的な調整こそが<現代国家(自由主義国家・資本主義国家)>の基本的な役割だろう。国と時期によって、どちらにどのように傾斜するかは異なりうる。「市場原理主義」なるものを今は批判している者が、いつかは<政府(公的介入)の失敗>を慨嘆することにならなければよいのだが。

0819/鳩山由紀夫・民主党政権と朝日新聞(・週刊朝日)・花田紀凱。

 ・「東アジア共同体」につき、鳩山首相は米国を排除しない旨を言い、岡田外相は米国抜きで、インド・豪州等も含むことを想定する旨発言している。
 「東アジア共同体」構想の実現は現政権の重要政策の一つのはずだが、首相と外相でこうもイメージが違っていてよいのか?
 もともと、鳩山由紀夫が(自民党<保守>派と異なる?)親アジア(とくに東アジア)姿勢を示しておきたくて、かなりの程度は幼稚な「思いつき」の域を出ないことを書いたことに、各閣僚のイメージの違いの原因があるのだろう。
 しかし、首相と外相との間の重大な<不一致>ではある。
 重要課題として掲げるテーマの<閣内不一致>を、なぜ、朝日新聞を先頭とするマスメディアは重大視して問題にしないのだろうか?。自民党中心内閣の場合だと、朝日新聞は一面に持ってきて、首相と外相の不一致を大々的に取り上げて、問責するのではないか?
 ・衆院選で近畿比例区で当選した民主党の渡辺義彦は、今年3月に大阪地裁により破産手続開始の決定を受けていた。そのことは選挙中は本人も有権者に公にしていなかった。
 立候補資格の欠如や当選を無効とする効果はないとしても、破産手続の渦中にあるということは、渡辺義彦にとっての、重要な個人的履歴であり(しかも過去のものではない)、そのことを公にしていなかったのは、選挙公報への重大な(消極的意味での)虚偽記載にあたるのではないか。
 ポルノ映画に出演していた以上に、現在に関係する、重要な個人情報であり、有権者に提供されていなければならなかった、と思われる。
 しかるに、なぜ、朝日新聞等のマスメディアはこのことを大きく取り上げないのか?
 ポルノ映画出演の過去もある程度はそうだろうが、破産手続中の者が国会議員として居座っていることを、その国会議員が民主党ではなく自民党所属であれば、朝日新聞を先頭とするメディアは一面でも大々的に取り上げて、少なくとも<道義的>責任を問題にするのではないか。
 ・たまたま二つ挙げたのみだが、建前として朝日新聞がジャーナリズムとして<権力監視・批判>を続けると言った(書いた)ところで、信用することはできない。
 朝日新聞は2006年夏、安倍晋三が自民党総裁になりそうなときに、<福田(康夫)氏よ、対抗馬として立て>旨の社説を書いた。
 2007年春、石原慎太郎の都知事再選が有力視されていた頃、<菅直人よ、対抗馬として立て>旨の社説を書いた。2007年7月参院選の前哨戦として、朝日新聞は都知事選の結果を気にしていたのだ。
 とっくに明らかなことだが、朝日新聞(社)は、<ふつうの>新聞(社)ではなく、<政治団体>に他ならない。なお多くの国民が朝日新聞(社)が<ふつうの>新聞(社)の一つと見なしているようであることにこそ、現代日本の悲劇はある。
 ・そのような朝日新聞(社)が、自分たちに近いか、自分たちと同じ見解・主張・歴史観をもつ内閣を支持しない筈がない。そして、反対や攻撃から新内閣を守ろうとするのはむしろ当然又は自然のことだ。
 朝日新聞(社)や同グループは、今後、再び「右派政権」(かつて安倍内閣を朝日新聞社説が称した言葉)が誕生しないように、懸命の努力をするだろう。
 ・週刊朝日10/16号(朝日新聞出版)は、冒頭に、「国会の質問王・前衆院議員」と紹介して、保阪展人に、「八ツ場ダムの隠された真実」と題する文章を書かせている。
 保阪展人は社民党の前国会議員だったのだが、「社民党」との紹介が一言もないことにも驚く。あえて隠したとしか思えない。
 週刊朝日の記者の文章ではなく本文の全体が保阪展人のもののようで、5頁分の紙面を保阪にまるまる提供していることにも驚く。
 中身は、「八ツ場ダム」建設中止問題についての前原国交相の立場を支持するものだ。
 この問題の賛否に立ち入るつもりも知識もほとんどない。
 だが、明確なのは、朝日新聞(社)とほぼ同一視してよい週刊朝日が、この時期に、客観的に見て、民主党を応援する文章(5頁)を冒頭にもってき、かつ表紙でも大きく宣伝していることだ。
 朝日新聞は、「八ツ場ダム」建設中止問題で民主党のイメージが悪くなるのを懼れた。前原大臣の意向に反対する地元住民や町長・知事等の声がかなりテレビ等で流された。朝日新聞(社)は、この辺りから民主党政権に傷がつき始めることを、さっそく危惧したのではないか。
 10/25には参院補選もある。それに(民主党に不利な)影響が及ぶことを避けようとしたのではないか。
 客観的・中立的に「八ツ場ダム」建設中止問題を扱ったのではないのは明らかだ。朝日新聞(社)・週刊朝日の<政治的>狙いを感じても当然だろう。
 ・だが、朝日新聞(社)はそんな<政治>性を持たないと考えている人物がいるようだ。
 月刊WiLL編集長の花田紀凱
 花田紀凱は産経新聞10/10の「週刊誌ウォッチング」のほとんどを、上の保阪展人の文章(リポート)の紹介にあて、「詳細は是非このリポートをお読みいただきたい」と結んで、反国交省官僚、つまりは民主党の大臣の見解を支持するかのごとき文章を書いている。
 なるほど保阪展人は重要なことを指摘し又は明らかにしているのかもしれない。だが、前社民党国会議員が書き、週刊朝日(朝日新聞出版)が掲載する内容を、花田紀凱のごとく簡単に又は安易に注目し又は<信頼>してよいのか?
 花田紀凱は<保守>系(のはずの)雑誌・月刊WiLLの編集長。いつから、社民党と朝日新聞(・週刊朝日)にこんなに甘くなったのだろう?。
 それとも、民主党批判ではなく国交省の官僚を批判しておくことの方が重要だと考えたのだろうか。
 西尾幹二ーの文章を掲載する週刊朝日に、西尾幹二の皇室論議を支持している花田紀凱は親密感でも持ったのだろうか?
 産経新聞の読者の中にも花田紀凱の文を読んで週刊朝日上掲号を購入した者もいるだろう。かくして、経営的にも花田紀凱は週刊朝日に貢献していることになる。
 不思議で奇妙な構図だ。   

0814/資料・史料-2009.09.24鳩山由紀夫国連一般討論演説。

 資料・史料-2009.09.24鳩山由紀夫首相国連一般討論演説 
 /第64回国連総会における鳩山総理大臣一般討論演説/2009年9月24日/ニューヨーク

 議長、ご列席の皆様、/トレイキ議長の第64回国連総会議長への就任をお祝い申し上げます。また、デスコト前議長の卓越した指導力に敬意を表します。
 私は、国連が直面する様々な課題への対応において潘基文事務総長が示している献身と指導力を、高く評価します。

 議長、/日本で、制限的なものとは言え選挙制度が始まったのは、今から120年前の1889年のことです。その後、20世紀のはじめには「大正デモクラシー」と呼ばれる時代もあり、選挙によって政府が変わることは、実は日本でも当たり前のことでした。
 このように、日本は民主主義と選挙の確かな伝統を持つ国です。しかし、第二次世界大戦後の日本では、投票を通じた政権交代が行われることはありませんでした。政と官の間の緊張関係が消えて、結果として日本外交から活力を奪ってしまった面があることは否めません。
 しかし去る8月30日、日本国民は総選挙において遂に政権交代を選択しました。それは日本の民主主義の勝利であり、国民の勝利でした。そして先週9月16日、私が日本国首相に就任し、今ここに立っています。
 私の率いる新政権は、民主主義のダイナミズムを体現し、オール・ジャパンの陣容で、直面する内政・外交の課題に全力で取り組む所存です。

 議長、/日本が国際連合への加盟を承認されたのは、1956年12月18日です。その時の首相が、我が祖父、鳩山一郎でした。
 日本の国連デビューとなった第11回総会で、当時の重光葵外相は次のように述べています。
 「日本の今日の政治、経済、文化の実質は、過去一世紀の欧米及びアジア両文明の融合の産物であって、日本はある意味において東西の架け橋となりうるのであります。このような地位にある日本は、その大きな責任を十分自覚しておるのであります」と。
 当時の首相である祖父・一郎は「友愛」思想の唱導者でした。友愛とは、自分の自由と自分の人格の尊厳を尊重すると同時に、他人の自由と他人の人格の尊厳をも尊重する考え方です。
 重光葵の演説にある「架け橋」という考え方が、一郎の友愛思想と共鳴していることは実に興味深いことです。

 それから53年後の今日、同じ国連総会の場で、私は日本が再び「架け橋」としての役割を果たさんことを、高らかに宣言したいと思います。

 議長、/今日、世界はいくつもの困難な挑戦に直面しています。決して、やさしい時代ではありません。しかし、「新しい日本」はそのような挑戦に背を向けることはしません。友愛精神に基づき、東洋と西洋の間、先進国と途上国の間、多様な文明の間等で世界の「架け橋」となるべく、全力を尽くしていきます。
 本日、私は日本が架け橋となって挑むべき5つの挑戦について述べます。

 第一は、世界的な経済危機への対処です。
 世界経済は、最悪期を脱したかに見えるものの、雇用問題をはじめ、予断を許さない状態が続いています。
 そこでまず、日本がやるべきことは、自身の経済再生です。新しい日本にはそのためのプランがあります。
 年間5.5兆円の子ども手当は、教育への投資であると同時に、消費刺激策であり、少子化対策となります。
 自動車の暫定税率の廃止は、年2.5兆円の減税策であるとともに、流通インフラの活性化によって日本産業のコスト競争力を改善することが期待されます。
 後で述べるように、我々は極めて高い気候変動対策の目標を掲げていますが、そのことによって電気自動車、太陽光発電、クリーンエネルギー事業など、新しい市場が生まれるでしょう。また、海洋・宇宙・次世代ITなどの分野でも、新産業・新技術の創造を通じて安定的な成長力を確保します。
 政権交代を通じた経済政策の見直しにより、日本経済は復活の狼煙を上げるに違いありません。

 次に、新しい日本はグローバリゼーションに適切に対処する必要があります。グローバリゼーションという世界的な相互依存の深化には、光の側面と影の側面があります。光の部分を伸ばし、影の部分を制御することが今日の世界の課題となっています。
 貿易・投資の自由化を進める一方、市場メカニズム任せでは調整困難な「貧困と格差」の問題や、過剰なマネーゲームを制御する仕組みづくりのため、国際協調が求められています。G20を含む国際会議の場で、日本は共通のルール作りに向けて、「架け橋」の役割を果たしていきます。

 二番目の挑戦は、気候変動問題への取組みです。
 異常気象の頻発や海水面の上昇などに見られるように、地球温暖化は我々の目の前に現実に存在する危機です。しかも、一国で取り組んでも限られた効果しかあがりません。ところが、先進国と途上国、先進国の間、途上国の間と、各国の間で短期的な利害が一致せず、ポスト京都議定書の枠組み構築の道のりは決して平坦ではありません。
 新しい日本政府は、温室効果ガスの削減目標として、1990年比で言えば2020年までに25%削減を目指すという非常に高い目標を掲げました。交渉状況に応じ、途上国に対して、従来以上の資金的、技術的な支援を行う用意があることも明らかにしました。もちろん、すべての主要国による公平かつ実効性のある国際的枠組みの構築及び意欲的な目標の合意がわが国の国際約束の「前提」となりますが、日本がこのような野心的な誓約を提示したのは、日本が利害関係の異なる国々の「架け橋」となり、将来世代のためにこの地球を守りたい、と願ったからにほかなりません。
 私はご臨席の皆様に強く訴えます。来るべきCOP15を必ず成功させようではありませんか。
 第三は、核軍縮・不拡散にむけた挑戦です。
 米ロ間で核兵器削減交渉が進展しつつあることを私は歓迎します。英仏の独自のイニシアティブも同様に評価しており、すべての核保有国が具体的な核軍縮措置をとることが急務です。そして、新たに核兵器の開発を企図する国が存在するほか、核物質や核技術がテロリストの手に渡り、実際に使われる危険性は、今後ますます高まりかねません。
 この分野でも、日本は核保有国と非核保有国の「架け橋」となって核軍縮の促進役になれる可能性があります。すなわち、核保有国に核軍縮を促し、非核保有国に核兵器保有の誘惑を絶つよう、最も説得力を持って主張できるのは、唯一の被爆国としてノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキを訴え続けてきた日本、そして、核保有の潜在的能力を持ちながら非核三原則を掲げ続けている日本です。
 今年4月、オバマ大統領がプラハで「核兵器のない世界」の構想を示したことは、世界中の人々を勇気づけました。私もその一人です。来年5月のNPT運用検討会議を成功させるためにも、CTBTの早期発効やカットオフ条約交渉の早期開始に向け、我々は今こそ行動すべきです。
 ここで北朝鮮について触れておかなければなりません。北朝鮮による核実験とミサイル発射は、地域のみならず国際社会全体の平和と安全に対する脅威であり、断固として認められません。北朝鮮が累次の安保理決議を完全に実施すること、そして国際社会が諸決議を履行することが重要です。日本は、六者会合を通じて朝鮮半島の非核化を実現するために努力を続けます。日朝関係については、日朝平壌宣言に則り、拉致、核、ミサイルといった諸懸案を包括的に解決し、不幸な過去を誠意をもって清算して国交正常化を図っていきます。特に、拉致問題については、昨年に合意したとおり速やかに全面的な調査を開始する等の、北朝鮮による前向きな行動が日朝関係進展の糸口となるでありましょうし、そのような北朝鮮による前向きかつ誠意ある行動があれば、日本としても前向きに対応する用意があります。
 第四の挑戦は、平和構築・開発・貧困の問題です。
 21世紀の今日においても、貧困、感染症、保健、教育、水と衛生、食料、麻薬などの問題から世界は解放されていません。特に、途上国において事態は深刻です。破綻国家がテロの温床になるという、残念な現実も指摘せざるをえません。昨年来の世界経済危機は、状況の悪化に拍車をかけています。新しい日本はここでも「架け橋」になるべきです。
 日本は国際機関やNGOとも連携し、途上国支援を質と量の双方で強化していきます。アフリカ開発会議(TICAD)のプロセスを継続・強化するとともに、ミレニアム開発目標(MDGs)の達成と人間の安全保障の推進に向け、努力を倍加したいと考えます。
 アフガニスタンの安定と復興のために、日本は、警察支援を含む治安能力の強化や社会インフラの整備、日本の援助実施機関であるJICAによる農業支援や職業訓練を含む人材育成など幅広い分野での支援を実施してきました。その上に立って、アフガニスタンがその安定と復興のために注ぐ努力を、国際社会とともに積極的に支援します。言うまでもなく、アフガニスタンで平和を達成し、国の再建を進める主役はアフガニスタンの人々です。その際、反政府勢力との和解や再統合は、今後重要な課題となります。日本は、この分野で、和解に応じた人々に生活手段を提供するための職業訓練などの社会復帰支援の検討も含め、有益な貢献を果たします。また、周辺地域の安定も重要であり、パキスタンなどに対する支援も着実に行います。
 今日の世界において、「国家の安全保障」と「人間の安全保障」はますます分離不可能になってきました。様々な国家も、民族も、人種も、宗教も、互いの違いを認めて共生する、つまり「友愛」の理念によって「支えあう安全保障(shared security)」を実現することこそが、人類を救う道なのです。
 第五は、東アジア共同体の構築という挑戦です。
 今日、アジア太平洋地域に深く関わらずして日本が発展する道はありません。「開かれた地域主義」の原則に立ちながら、この地域の安全保障上のリスクを減らし、経済的なダイナミズムを共有しあうことは、わが国にとってはもちろんのこと、地域にとっても国際社会にとっても大きな利益になるでしょう。
 これまで日本は、過去の誤った行動に起因する歴史的事情もあり、この地域で積極的な役割を果たすことに躊躇がありました。新しい日本は、歴史を乗り越えてアジアの国々の「架け橋」となることを望んでいます。
 FTA、金融、通貨、エネルギー、環境、災害救援など――できる分野から、協力し合えるパートナー同士が一歩一歩、協力を積み重ねることの延長線上に、東アジア共同体が姿を現すことを期待しています。もちろん、ローマは一日にしてならず、です。ゆっくりでも着実に進めていこうではありませんか。
 議長、/最後に私は、国際連合こそがまさに「架け橋」の外交の表現の場であることを、列席の皆さま方に思い起こしていただきたいと思います。
 国際の平和と安全、開発、環境などの諸問題の解決にあたり、国連の果たす役割には極めて大きいものがあります。私は、国連をもっと活かしたいし、国連全体の実効性と効率性を高めたいとも思います。
 日本は国連、中でも安全保障理事会において、様々な国の間の「架け橋」として、より大きな役割を果たすことができる、と私は確信しています。安全保障理事会の常任・非常任理事国の議席の拡大と日本の常任理事国入りを目指し、そのための安保理改革に関する政府間交渉に積極的に取り組んでまいります。
 以上、「新しい日本」からのメッセージをお伝えしました。
 ご清聴に感謝します。
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 いくつかコメント。
 気になる言葉・表現-①選挙による「政権交代」がなかったことが、「政と官の間の緊張関係が消えて、結果として日本外交から活力を奪ってしまった面がある」。②「日本国民は総選挙において遂に政権交代を選択しました。それは日本の民主主義の勝利であり、国民の勝利でした」。←これらの認識は妥当か?
 ③「これまで日本は、過去の誤った行動に起因する歴史的事情もあり、この地域〔東アジア〕で積極的な役割を果たすことに躊躇がありました」。←日本の「過去の誤った行動」と明言。これは何の意味か? かく発言する意義・必要性は?
 幼児的美文-①「友愛とは、自分の自由と自分の人格の尊厳を尊重すると同時に、他人の自由と他人の人格の尊厳をも尊重する考え方です」。
 ②「新しい日本」は、「友愛精神に基づき、東洋と西洋の間、先進国と途上国の間、多様な文明の間等で世界の「架け橋」となるべく、全力を尽くしていきます。」
 ③「今日の世界」では「国家の安全保障」と「人間の安全保障」は「ますます分離不可能になって」いる。「様々な国家も、民族も、人種も、宗教も、互いの違いを認めて共生する、つまり「友愛」の理念によって「支えあう安全保障」を実現することこそが、人類を救う道なのです。
 上の③などは、かかることを国連総会(!)で発言することを<恥ずかしく>思わないのだろうか。どこかの高校あたりの(何十年か前の?)弁論大会ではあるまいし。
 地球環境問題、核問題、五本柱の一つとされた「東アジア共同体の構築」問題等々についての内容的なコメントは省略。 

0810/屋山太郎が民主党を応援し「官僚内閣制」の「終焉」を歓迎する。

 民主党政権誕生を屋山太郎が大歓迎している。
 イザ・ブログ上の屋山によると、「民意を反映した民主主義とは根本的に異なる」、明治以来の「官僚内閣制」が「終焉を迎えた」。そして、「民主党の『官僚内閣制』から『議会制民主主義』へ脱却するための仕掛けは実によく考えられている」らしい。
 また屋山は、「民意を汲み上げることを日本ではポピュリズムと非難する」が、「民意とほとんど無関係に政治が行われていることを国民が実感したからこそ、自民大敗、民主圧勝の答えを出したのではないか」、と書く。今回の結果は、上のような「実感」の答えではない、と私は思うが、この点はさておく。
 憲法上、国会が(法律が必要な場合は)法律を制定し、「内閣」を筆頭とする行政官僚が法律を「実施」する。国会議員を「政治家」と言うならば、憲法上、行政官僚よりも「政治家」の方が上、政治家が行政活動(・行政官僚)を監視し、とくに法律に従って適正に行政がなされているかを監督することは当然のことで、あえて言うまでもない。
 「官僚内閣制」という概念は-決して一般的ではないと思うが-法律自体が行政に「裁量」を認めていること、補助金のように具体的な事項を法律が定めなくてもよいとされる分野があること、法律を実施するための具体的細目等を定める政令・省令等々は内閣や所管大臣が定めるもので、実質的には補助部局たる事務次官以下(実質的には課長・課長代理・室長あたりが決定すると言われる)が決定していること、さらには法律案・法律改正案すら内閣に法案提出権がある(国会法)ことを根拠として、形式的・表面的には「内閣」提案でありつつ、実質的には事務次官以下(カッコ内、上と同じ)が決定してきた、といった現象を指しているのだろう。
 これを行政「官僚」ではなく「政治家」に取り戻す、<政治家主導>にする、というのが民主党の方針であり、屋山太郎が拍手を送っているものだ。
 しかし、いろいろと言いたいこともある。
 まず、国会と内閣の関係の問題と捉えた場合、<政治家主導>というならば、国会構成員であると同時に行政担当者となった大臣・副大臣等々、あるいはそれ以下の行政官僚が法律(改正)案を検討して国会に提案できるということ自体が奇妙とも言える、すなわち、法律(改正)案を国会に提案できるのは(一定数以上の)国会議員に限る(いわゆる「閣法」をなくす)という抜本的改正も考慮されるべきと考えるが(その方向での国会法改正は違憲ではないだろう)、そんな議論は(マスメディア上では)誰もしていない。
 法律(改正)案の検討のための審議会類を行政部局である「内閣」、「大臣」、各省「局長」レベルに置くことこそ、本当は奇妙で、国会こそが、国会議員=政治家こそが、字句改正の技術的なことも含めて法律(改正)案を形成・提出できる能力を身につけなければならないのではないか。また、そのような能力のある者こそが国会議員に選出されるべきではないか。
 次に、屋山は事務次官会議を廃止し重要案件を「閣僚委員会」で決することを是としているが、一省でも反対なら閣議決定にならないのは異常であることは認めるとしても、「閣僚委員会」なるものに実質的決定権を持たせた場合、本来は内閣で議決すべき案件の場合(現行法上は法律案の決定もそうである)、「閣僚委員会」が実質的に「内閣」の権限を奪ってしまう危険がある。閣議による自由闊達な議論こそ「内閣」制度の基本だとすれば、「関係閣僚」だけに限った「閣僚委員会」なるものは(法制化するのか?)憲法・現行法律に違反するこことなる、あるいは「内閣」での議論を-事務次官会議と同様に?-形骸化する可能性がある。
 第三に、これが最も言いたいことだが、「官僚」主導か「政治(家)」主導は憲法を離れていえば、システム(又は手段・方法)の問題にすぎず、それらのシステムを通じて形成される決定・判断・意思の合理性、他方に対する<優位>を何ら保障するものではない。
 てっとり早く言って、「政治家」主導は結構だとしても、その「政治家」主導で決められた政策等が国民等にとって<悪い>ものだったら、どうなるのか。民主党を中心とする「政治家」たちが決定し実行しようとしている諸政策は、「政治家」主導だ、と歓迎するほどに<よい>ものなのか。
 総じて、「政治家」主導の方がよい結果になるだろう、という見方はありうる。選挙で洗われる危険のない行政官僚ではない「政治家」は、次回の当選のために、行政官僚と違って「民意」を尊重して、政策判断・決定する、というのだろう。だが、むろん何が<よい・悪い>のかが問題なのではあるが、「民意」を尊重した政策判断・決定はつねに<よい>決定だとは絶対にいえない。
 むろん「民意」は何かの問題もある。全国の国民か特定の地域の国民か、現在の国民か将来の国民も含めてか、等々。
 要するに、<政治家主導>だからといって手放しで喜んで済む問題ではない。
 「官僚内閣制」→<政治(家)主導>は憲法上はタテマエとして当然のことで、実質論をするとしても、<政治(家)主導>だからといって長期的観点を含めた日本国民の利益となる保障は、論理的には、どこにもない。<政治家主導>によって何が具体的に決定されるかが問題なのだ。
 総選挙後の週刊朝日は表紙に「民主党革命」という語を使っていたが、<明治以来の大変革>というようなイメージは、おそらくは間違っている。スタイル・方法よりも(あるいはそれだけではなく)具体的政策の内容を議論すべきだ。

0809/鳩山由紀夫新内閣における「東アジア共同体」。

 9/16新内閣発足。美辞麗句(だけ?)の「お坊ちゃん」首班内閣。
 鳩山由紀夫、1947年生まれ。初の「団塊」世代首相。「団塊」世代生まれはけっこうなことだが、「団塊」世代の中の優等生らしく、<(戦後)平和と民主主義>教育をきちんと受けて、そこから基礎的理念も得ているようだ。
 <東アジア共同体>の構築を、中国共産党の一党独裁、中国の他民族弾圧、同国の対台湾姿勢、尖閣諸島・ガス田問題、朝鮮労働党の一党独裁、同国による日本人拉致問題に一言も言及することなく、「目標」として掲げるとは<狂っている>としか思えない。
 三党連立合意文書の中にも「東アジア共同体(仮称)の構築…」が出てくる。最長で4年間しかないこの内閣で、「東アジア共同体(仮称)の実現」に向けていったい何をしようというのか。
 以下、主として資料。
 一 鳩山由紀夫「私の政治哲学」月刊ボイス9月号(PHP、2009)より
 「友愛」が導く大きな「国家目標」の二つのうちなんと一つとして「『東アジア共同体』の創造」を挙げ、「ナショナリズムを抑える東アジア共同体」との見出しを掲げる(p.139)。以下、抜粋的引用。
 「新たな時代認識に立つとき、われわれは、新たな国際協力の枠組みの構築をめざすなかで、各国の過剰なナショナリズムを克服し、経済協力と安全保障のルールを創り上げていく道を進むべきであろう。…この地域〔東アジア〕に、経済的な統合を実現することは一朝一夕にできることではない。しかし、…延長線上には、やはり地域的な通貨統合、『アジア共通通貨』の実現を目標としておくべきであり、その背景となる東アジア地域での恒久的な安全保障の枠組みを創出する努力を惜しんではならない」。
 「軍事力増強問題、領土問題など地域的統合を阻害している諸問題は、それ自体を日中、日韓などの二国間で交渉しても不可能なものであり、二国間で話し合おうとすればするほど双方の国民感情を刺激し、ナショナリズムの激化を招きかねないものなのである。地域的統合を阻害している問題は、じつは地域的統合の度合いを進める中でしか解決しないという逆説に立っている。たとえば地域的統合が領土問題を風化させるのはEUの経験で明かなところだ」。
 私は「世界、とりわけアジア太平洋地域に恒久的で普遍的な経済社会協力及び集団的安全保障制度」の確立に向けて努力することが「日本国憲法の理想とした平和主義、国際協調主義を実践していく道であるとともに、米中両大国のあいだで、わが国の政治的経済的自立を守り、国益に資する道である、と信じる。またそれは、かつてカレルギーが主張した『友愛革命』の現代的展開でもあるのだ」。
 「こうした方向感覚からは、たとえば今回の世界金融危機後の…、…将来のアジア共通通貨の実現を視野に入れた対応が導かれるはずだ」。
 「アジア共通通貨の実現には今後十年以上の歳月を要するだろう。それが政治的統合をもたらすまでには、さらなる歳月が必要であろう。…迂遠な議論と思う人もいるかもしれない。しかし、…政治は、高く大きな目標を掲げて国民を導いていかなければならない」。
 「『EUの父』…カレルギーは、…言った。/『すべての偉大な歴史的出来事はユートピアとして始まり、現実として終わった』、『…ユートピアにとどまるか、現実となるかは、それを信じる人間の数と実行力にかかっている』」。
 ・そもそもが、「EU」という発想を東アジアに持ち込むこと、カレルギーの「理想」を東アジアにも適用しようとすることに、思考上の方法論的疑問がある。(「欧州」と同様の歴史的・文化的基盤は東アジアにはない、と私は思っている。)
 ・鳩山は遠い将来の東アジア地域の「政治的統合」を構想し、その前の「アジア共通通貨の実現」を構想するが、これらが、とくに前者が望ましい国家「目標」なのか自体を吟味しなければならない。中国共産党・朝鮮労働党の解体に一言も触れない東アジア地域の「政治的統合」とはいったい何なのか?!
 ・「軍事力増強問題、領土問題など地域的統合を阻害している諸問題は、それ自体を日中、日韓などの二国間で交渉しても不可能」だとの断言は、尖閣・ガス田や竹島問題を、対中・対韓では持ち出さない、外交の場で言及しない(しても無駄)、外務省にも何も言わせない、という趣旨なのか? そうだとすれば、ひどい<土下座>外交ではないか。
 「地域的統合を阻害している問題は、…地域的統合の度合いを進める中でしか解決しないという逆説」とはいったいどういう趣旨か。「地域的統合の度合いを進める」とはいったい何の意だろう。
 ・鳩山由紀夫の頭の中には常人には理解できない(=狂った)「夢想」が宿っているようだ。主観的な<善意>が好ましい現実的効果・結果を生み出すとは、全く限らない。<ファシズム>は美辞麗句・ユートピア的言辞とともにやって来うる(ナチスは正確には国家「社会主義」「労働者」党だった)。
 ・16日に鳩山は「東アジア共同体」に関する質問に対して、「米国を除外するつもりはない。その先にアジア太平洋共同体を構想すべき…」などと述べたらしい。米国が「東アジア」に入るはずはなく、前者はその場かぎりでのウソか、せいぜい<大ブレ>。「先にアジア太平洋共同体を構想すべき」と主張するなら、この論考で述べておくべきだし、そもそも、<アジア太平洋共同体>とはいったい何か? 訳のわからないことを言う新首相。
 二 民主党の政権政策マニフェスト(2009年7月27日)
 「政策各論/7外交/
 52.東アジア共同体の構築をめざし、アジア外交を強化する
 ○中国、韓国をはじめ、アジア諸国との信頼関係の構築に全力を挙げる。
 ○通商、金融、エネルギー、環境、災害救援、感染症対策等の分野において、アジア・太平洋地域の域内協力体制を確立する。
 ○アジア・太平洋諸国をはじめとして、世界の国々との投資・労働や知的財産など広い分野を含む経済連携協定(EPA)、自由貿易協定(FTA)の交渉を積極的に推進する。その際、食の安全・安定供給、食料自給率の向上、国内農業・農村の振興などを損なうことは行わない。」
 三 
「連立政権樹立に当たっての政策合意」(民主党・社会民主党・国民新党、2009年9月9日)
 「9、自立した外交で、世界に貢献/

 ○中国、韓国をはじめ、アジア・太平洋地域の信頼関係と協力体制を確立し、東アジア共同体(仮称)の構築をめざす。」

0803/鳩山由紀夫の過去の発言-8/17阿比留瑠比ブログによる。

 本イザ・ブログの産経・阿比留瑠比の8/17のエントリーに、民主党代表・鳩山由紀夫の過去の発言のいくつかが紹介されている。
 この人物が九月には次代の内閣総理大臣の国会で指名されるのだろうか。以下に阿比留の紹介そのままに再引用させていただく。再確認をして又は最近の言辞と比較等をして、面白く、また恐ろしい。
 この人は総理大臣を辞したら議員(政治)から身を引く旨をすでに!!述べて、自らの<老後>のこともすでに考えている。戦後<個人主義>者の徴し。
 ①「選挙に言動を左右されない志を持った政治家の集団を生み出すことが日本の未来を導く可能性をもたらすのである。常に選挙を念頭に行動し、世話になっている団体に頭が上がらず、本音が言えない政治家を政治家と呼ぶべきではない」(平成8年1月16日付朝日、新党さきがけ代表幹事、「論壇」欄に寄稿して)

 ②「あまり苦労知らずに今日まで政治の世界にいて、無理をしてきてない。それだけ市民の発想に近いところに身を置くことができるんじゃないか。政治家は 目指して苦労を重ねていると、例えば、金銭的に危ない橋を渡らないといけない。しかも一度得たバッジは絶対失いたくないということで、わりと国民に迎合的な政策しか打ち出せなくなる恐れがある」(平成8年5月3日付読売、新党さきがけ代表幹事、世襲議員のメリットについて)
 ③ 「日本と北朝鮮は体制が違うことを前提に相互理解を深めるべきです。北朝鮮へのコメ支援でも、隣国として支援の手を差し伸べれば、わだかまりを減らすことができます。ただ、こういう発想をすると北朝鮮ロビーと思われる日本の風土があります」(平成8年7月18日付日経、新党さきがけ代表幹事、インタビュー)
 ④「大変強いリーダーシップを持たれるときもあったが、逆に自分の主張を遂げるために民主主義の基本的原則を超越、無視してきた部分があって信奉者が離れていった」(平成10年4月11日付産経、「旧」民主党幹事長、自由党の小沢一郎党首に対する評価で)
 ⑤「私は創価学会さんのヒューマニズムを追求する姿勢は非常に大事だと思っております。我々と公明党さんとの距離が一番近いぞ、ということを選挙で示すことはできるだろうと思っていますし、(公明党との)連立政権のところまで導くことが必要だ」(平成11年1月22日付毎日、民主党幹事長代理、公明党との選挙協力に関して)
 ⑥「結局、小沢氏が五年前に自民党を飛び出したのは、派閥内や自民党内の権力闘争に敗れて飛び出しただけで、国民にそれを悟らせないために『政治改革』の旗を掲げていただけ--としかいいようがありません」(平成11年2月25日付夕刊フジ、民主党幹事長代理、自身のコラム「永田町オフレコメール」で)
 ⑦「日本としては日米韓の安全保障体制を基軸としながら、韓国の太陽政策の線で協力すべきだと思います。現在、日本と北朝鮮の間で交渉のテーブルがないことがお互いを疑心暗鬼にしています。確かに、わが国は拉致疑惑といった特殊事情を抱えていますが、真っ先に拉致疑惑を持ち出せば交渉は成立しません。まず、何の前提もなく協議の場を設けるべき」(平成11年3月11日付夕刊フジ、民主党幹事長代理、コラム「永田町オフレコメール」で)
 ⑧「『対話と抑止』より韓国の包容政策(太陽政策)のような方向にすべきです。拉致疑惑や不審船事件があると日本は硬化しがちだが、冷静に対話の道を切り開くことが大切」(平成11年4月25日付朝日、民主党幹事長代理、インタビュー)
 ⑨「私は核武装は絶対反対ですが、国会でそういう議論があってもいいと思うのです」(平成11年10月28日付夕刊フジ、民主党代表、コラム「永田町オフレコメール」で)
 ⑩「東北選出のある議員が、知事にかけ合って地元の有料道路を無料化させたのに、喜ばれたのは二日間だけで『どうせ税金から出すんでしょ。それなら使う人だけ払った方がいい』と批判されている」(平成12年1月6日付夕刊フジ、民主党代表、小泉元厚相との対談で)
 ⑪「(ドイツと比べて歴史の総括が不十分だったことが)今でも日本への信頼を勝ち得ていないことを事実として認めたい。もし、首相となる機会に恵まれれば、歴史認識の問題は皆さんの前でしっかり話す」(平成12年12月14日付産経、民主党代表、北京市内の中国人民大学で講演して)
 ⑫「偏狭なナショナリズムに基づくような教科書が日本の子供たちに影響を与えないよう努力していきたい」(平成13年5月4日付産経、民主党代表、韓国の金大中大統領との会談で扶桑社のの教科書の不採択を働きかける考えを伝えて)
 ⑬「私は、憲法や安全保障といった最も基本的なテーマについてマニフェストが機能していないのが最大の問題だと思っている」(平成15年9月4日付毎日夕刊、民主党前代表、インタビューで)
 ⑭「政権交代に向けて次期衆院選に憲法改正を掲げて挑むべきだ。政権党が当然やるべき改憲を自民党に先駆けて実現させるという意欲が必要だ」(平成15年9月12日付産経、民主党前代表、インタビューで)

0802/憲法改正による天皇制度廃止を可能にする議席を民主党等に与えてよいのか。

 民主党300-320?、自民党100-140?。こうした予想を見ていると、民主党(中心)政権の与党は320という、衆院議席の2/3を超えそうだ。
 来年の参院選でも与党側(民主党ら)が勝利してしばらくは衆議院議員選挙がないとすると、大いに危惧されるのは、憲法改正による「天皇」条項の削除、すなわち、公的又は憲法秩序としての<天皇制度>の廃止への動きだ。国会が各議員2/3以上の多数で「天皇」条項の削除=<天皇制度>の廃止を発議すれば、今の国民は過半数でもってそれを支持しかねないと思われる。
 すでに天皇・皇室(制度)に対する攻撃がなされていることは知られている。もともと日本共産党は戦後当初から(いや戦前から)「天皇制」を(本音では)廃止したかっただろうし、現在の社民党も同様に見える。民主党の中にもこれを積極的に推進したいはずの「左派」議員はいる。
 また、今年のNHK番組の中に<反天皇>宣伝と見られるものがいくつかあったことも周知のこと。朝日新聞はイザとなれば(?)<天皇制度>廃止に賛成するに決まっている。岩波書店も同様。
 そのうち、皇族のための皇居は広すぎる、「主人公・国民」にもっと利用させよ、皇居下に地下鉄を走らせれば速く・近くなる、皇族への国費出費は多すぎる、皇族にも人権を、天皇陛下をもっとお楽に(現憲法上の公務なしにしてもっぱら祭祀に)、等々の意見が、共産党・社民党・民主党「左派」系や、朝日新聞・岩波書店お気に入りの「学者・知識人」、あるいは一般「庶民」の声として、チラホラと出てくるようになるのではないか。
 きっと誰かが、あるいは何らかのグループが、国会の多数を利用しての<天皇制度>廃止の策謀を仕掛けるに違いない(すでになされている可能性も高い)。
 改憲=憲法改正は九条(2項)改正をほぼ意味するとして反対する者たちの中には、「第一章・天皇」の削除ならば改憲大賛成の者も多いだろう。
 <天皇制度>廃止とは、「日本」国家の喪失、亡国に他ならないだろう。この方向へ動いていくのを強く憂慮せざるをえない。
 (なお、「天皇制」は勿論<天皇制度>という語の使用にも、「制度」ではないとの理由で反対する論者がいる。では、どう表現すればよいのか。一つの公的「制度」であることに違いはないのではないか。)

0801/鳩山由紀夫は祖父やクーデカホフ・カレルギーの如く「左の」全体主義とも闘うのか。

 月刊ヴォイス9月号(PHP)の鳩山由紀夫「私の政治哲学」(p.132-)によると、彼のいう「友愛」は、フランス革命のスローガン中の「博愛」=フラタニティ(fraternite)のことのようだ。言葉だけ似ていて別物かと思っていたら、本人がそう書いている。
 その祖父・鳩山一郎がクーデカホフ・カレルギーの『全体主義国家対人間』を訳したときに(邦題は『自由と人生』)、「フラタニティ」を「友愛」としたらしい。
 鳩山由紀夫も共鳴・共感しているらしいカレルギーの本によると「友愛が伴わなければ、自由は無政府状態の混乱を招き、平等は暴政を招く」。そして、カレルギーの本は反ヒトラー・反スターリンという、「左右の全体主義との激しい戦いを支える戦闘の理論だった」と由紀夫は書いている。
 この「友愛」主義を現代日本にあてはめると、基本的には「市場至上主義」ではない「共生の経済社会の建設」になる。より具体的な政策レベルでは、第一に「地域主権国家」の確立、第二に、「『東アジア共同体』の創造」だ、と述べられる。
 「左右の全体主義」の排斥は結構なことだ。だが、こう言うとき、鳩山由紀夫は、「右」のそれとして、安倍晋三平沼赳夫らを(あるいは「靖国」参拝政治家・国民を)イメージしているのではないか。
 「左の全体主義」とも戦うとすればぎりぎり容認されるのは社民党までで、日本共産党や中国共産党とは対立しなければならないはずだが、はたして中国「社会主義」を鳩山はどう見ているのか。鳩山は「中国の軍事的脅威を減少させながら、その巨大化する経済活動の秩序化を図りたい」(p.140)とか書いてはいるが、「『東アジア共同体』の創造」を現時点から国家目標として掲げ(p.139)、「各国の過剰なナショナリズムを克服し、経済協力と安全保障のルールを創り上げ…」と言うとき、彼の立場はかなり「左」にあり、「共生」と「東アジア共同体」の背後に中国「社会主義」は退いて、「左の全体主義」には相当に甘いようだ。
 もともと鳩山のみの意向で政権が運営されるわけはなく、民主党の中には明瞭な親中国派、親「社会主義」派もいることが留意される必要がある。
 そして、サピオ9/09号(小学館)の巻頭の大原康男「ますます遠くなった首相の靖国神社参拝を憂う」から借りると、民主党現幹事長・岡田克也は、結果的・客観的には中国の主張に応じて「A級戦犯が祀られている限り、日本の首相は参拝に行くべきではない」と明言し(鳩山が同旨のことから別の国立追悼施設設置を主張していることは別の回でも言及した)、<チベット、新疆ウィグル問題>については「中国国内の事柄」で「中国の内政に干渉すべきではない」と明言した、という。
 A級戦犯「合祀を理由とする参拝反対は中国からの内政干渉が発端であるにもかかわらず、…たび重なる残虐な・非道な少数民族迫害・弾圧には内政不干渉の美名の下に容認」している(大原、p.3)わけだ。
 こうして見ると、鳩山由紀夫の二つ又は左右の「全体主義」との戦いという「友愛」主義も、嘘くさい。この人物も、戦後<民主主義・個人主義・自由主義>の優等生で、究極的には、右翼「ファシズム」よりも<左翼全体主義>=社会主義・コミュニズムを選択しそうな、つまり「容共」の考え方・意識の持ち主なのではないか。そして、それはもともとの祖父やクーデカホフ・カレルギーの考え方・意識からは離反しているのではないか。
 (なお、誰かがどこかで書いていたように、民主党政権ができるとすれば、それは<戦後レジーム維持>派の大勝利なのだ。)
 サピオ9/09号に上で言及したが、同号の小林よしのりの連載の最後の頁の欄外上には、「民主党は政権をとったら靖国神社に代わる新たな『国立追悼施設の建設』を本格化させ、『外国人参政権』『非核三原則の法制化』も実現させるつもりだ。……左翼全体主義の時代が近づいている」とある。
 鳩山政権が「左右の全体主義との激しい戦い」をするとは信じられず、むしろ「左翼全体主義」へ接近するように見える。ちなみに、「左翼全体主義(左翼ファシズム)」とは、昨秋の所謂田母神俊雄論文後の政治・社会状況を見て、私が(も)使った概念だった。
  

0799/民主党・鳩山由紀夫、社民党・福島瑞穂は<アメリカの核の傘>の現実を直視しているか。

 八月に入って、田母神俊雄・サルでもわかる日本核武装論(飛鳥新社、2009.08)をかなり読む。
 
 1.仔細に立ち入らないが、かつて直近の上司だっただけに、元防衛相・石破茂に対する批判は厳しい。
 有事の際の<敵基地攻撃>論につき石破茂は「(北朝鮮が)ミサイルを日本に…撃つ段階であれば、そこをたたくのは理論的にはあり得る。ただノドンがどこにあるのか分からないのにどうやってたたくのか。二〇〇基配備されているとして、二つ三つ潰して、あと全部降ってきたらどうするんだ。(敵基地攻撃論は)まことに現実的でない」と朝日新聞のインタビューに答えたらしい(p.32)。
 田母神も<敵基地攻撃>はむつかしい旨書いているが、石破茂の議論は素直に考えても奇妙なのではないか。つまり、「ノドンがどこにあるのか」を事前に徹底的に調査・情報収集して、できるだけ(二〇〇基あるのだとすれば)二〇〇の場所を特定できるよう準備しておけばよいだけのことではないか。費用はかかるかもしれず、米軍との関係もあるかもしれない。だが、最初から「二つ三つ」しか分からないという前提で議論し、だから<敵基地攻撃はしない(できない)>と結論づけるのはスジが違うと思える。
 こんなことを公言して北朝鮮が知れば(おそらくすでに知っているだろう)、北朝鮮は自国の基地が(ノドン発射直前又は直後に)日本の「自衛隊」により攻撃されることはない、と安心し喜ぶだけだろう。
 こんな石破茂が「軍事オタク」と言われ、自民党の中でも防衛・軍事通とされているらしいのだから、自民党内にもはびこる「平和ボケ」には寒気を覚える。社民党も参加するような民主党政権ではますます心胆が冷え続けるに違いない。
 2.東京・水道橋上空で長崎原爆と同程度の核爆発が起きたとして、某シミュレーションによると、死者500,000人、負傷者3,000,000~5,000,000人らしい(p.20)。
 日本政府は官邸を含む政府・国家機関施設や皇居等を防衛するための(地下施設を含む)何らかの措置を講じているのだろうか。
 3.「自称『保守』論陣を疑う」(p.16)文章もある。
 名指しされているのは岡本行夫(元外務省)、森本敏(元防衛庁)、村田晃嗣(同志社大)。これらはNPT=核拡散防止条約体制の維持を主張し日本脱退論は日本の「世界で孤立」を招く、と言うらしい。さしづめ、<現実的保守>派とでも称されるのか。森本敏は所謂田母神俊雄論文とその公表の仕方にも批判を投げかけていた。
 田母神によると、IAEA(国際原子力機関)の事務総長に日本人・天野之弥が選出されたのは、<日本に核論議・核武装させない>との「核保有国の思惑が背景」にある(p.11)。
 上の点はともかく、NPT=核拡散防止条約体制とは常識的に見て、一定の既核保有国以外には保有国を広げないようにしたいとの特定の「核大国」(米・ロ・中・英・仏)の利益になるものではあっても、日本を含む他の国家の利益にもなるかは問題だ。
 イスラエル、インド、パキスタンの核保有により実質的には「いまや崩壊寸前」(p.50)だとされる。
 オバマ米大統領のプラハ演説は、加えて北朝鮮の核保有を前提としていたかに見える(イランはまだだが、北朝鮮から「輸出」される懸念があるようだ)。
 このような核をめぐる状況の中で、日本の各政党・政治家はノンキなものだ。社民党は<非核三原則>の法制化を主張し、民主党・鳩山由紀夫は「検討」を約束する。また、民主党・鳩山由紀夫は、政権奪取後にはアメリカに<核を持ち込ませず>をきちんと申し入れる、のだと言う。
 呆れてものが言えない。歴年の自民党内閣は佐藤栄作内閣以降、なぜに野党や国民の「核アレルギー」を、事実がそうだったように、気にしてきたのだろう。世界の現実を国民一般に説明し、啓蒙する努力をなぜしなかったのだろう(首相個人よりも歴代の外務省高官の責任だろうか)。
 <アメリカの核の傘>、これの日本の平和にとっての意味を、社民党・福島瑞穂民主党・鳩山由紀夫はいかほどに評価しているのだろう。<核を持ち込むな>ときちんと言う、とは、笑わせるという程度を超えて、アホらしい。この二人は、とくに前者は、私から見ると(最大限の侮蔑の表現だが)<狂っている>。
 なお、この<傘>が永続して米国により保障されるかという現実的問題はあるのだが、今回は立ち入らない。

 4.こんなことを書いていると、日本の中国の一「省」又は「自治区」化と中国共産党の崩壊・解体とどちらが先になるだろうとの想いがあらためて強くなる。中国の一「省」又は「自治区」化でなくとも、日本に親中・反米政権ができて、日米安保が廃棄され、日中平和友好(安全保障)条約が締結され、日本「軍」のミサイルは東、太平洋方向へと向けられる、という事態になっても、ほとんど同じだ。
 ついでに書くと、日本共産党のいう日本の「社会主義」化は、こういう道筋をとおって(日本共産党が親中・反米政権に参加し又はその中心になることを通じて)、辛うじて現実化する可能性がある。国内のみの事情や同党の力のみで親中反米の「民主連合」政府ができるはずがない。中国と比べれば、北朝鮮は(狂乱して暴発しなければ)長期的には現実的に大きな影響はないようにも思える。中国共産党、そして中華人民共和国が崩壊・解体すれば、もはや日本共産党の「空想」は100%の「夢想」となり、おそらくは同党自体も存在しなくなるに違いない。
 生きている間に、はたして東アジアのどのような変化を知ることになるだろうか。

0796/産経新聞・高木桂一は「日本の議会制民主主義」のために「政権交代」=民主党勝利を待望する。

 一 NHKニュース(例えば公示日18日の午後9時台)によると、今次の総選挙の<争点>は「政権選択」らしい。
 産経新聞によっても同じで、18日夕刊は「政権選択・決戦の夏」が一面上の大見出し。
 だとすると、いちいち確認しないが、朝日新聞・毎日新聞・日経新聞等々はすべて同じことを謳っているに違いない。
 だが、「政権選択」が争点だというのは、むろん奇妙なことだ。
 なぜなら、内閣総理大臣の指名について優先権をもつ衆議院の議員の選挙(総選挙)はつねに、「政権選択」のための、少なくともそれに直接関係する選挙だからだ。
 佐伯啓思も7/22に書いていた。-「これほど奇妙な選挙もめずらしい。政策上の大きな争点が何も提示されず、ただ政権交代だけが争点になってしまった」。
 これまでも一貫して総選挙は「政権選択」選挙だったのだが、1955年以降、自由民主党が第一党であることは変わらず、同党が過半数を占めるか、どの程度それを超えるか、過半数を割った場合に第二党以下による連立政権になるか、が現実的な<争点>になることはあった。事前にどの程度予測されていたかは不明だが、1993年には第二党以下による非自民・連立政権になった(第一党は自民党)。
 こうした過去とは違って、第一党自体が代わり、民主党中心政権ができるかどうかが争点になっている、とマスメディアは言いたいのだろう。だが、総選挙はつねに「政権選択」選挙なのであり、これを争点とするのは厳密には誤っている。
 具体的な政策論議を軽視して(全く無視しているとは言わない)、民主党か自民党か、政権はいずれの党に、ということを争点化すること自体が「政権交代」を第一の旗印とする民主党の戦略に沿ったもので、実際には民主党に有利に働いている。
 結果としてそうなっているというより、むしろ意識してそういう争点設定をしているマスメディア等もあるだろう。朝日新聞・同系出版物・出版社しかり、岩波書店の月刊誌しかり。
 なお、麻生太郎首相・自民党総裁が「政権」選択ではなく「政策」の選択をと主張しているらしいのは、民主党に有利な土俵設定を避けたいためだろうが、「政策」選択の結果としてやはり「政権」選択につながるのが総選挙で、厳密には正しくはない。
 二 産経新聞の「高木桂一」の8/18夕刊の文章(署名記事)も嘆かわしいものだ。
 高木桂一は「今回の総選挙」は「投票箱を開けずして勝負あったというムードが広がっている…」と書く。これが選挙・投票日前、しかも公示日にまともな新聞が載せる文章なのだろうか。
 またこうも書く-①「保守合同で自民党が誕生してから半世紀余り、有権者は戦後初めて自ら政権を選ぶ機会を手にした。歴史的な意義をもつ政権選択選挙である」。②「二大政党が雌雄を決するリングが用意された。先進国で選挙による政権交代が実現しなかった日本の議会制民主主義が大きな転換期を迎えた」。
 朝日新聞の記事かと見紛う。
 第一に、日本の有権者はこれまでのほとんどの総選挙において、少なくとも自民党を中心とする「政権」を「自ら…選ぶ」ことをしてきたのだ。何を血迷ったことを書いているのか。1993年総選挙にしても、相対的多数派有権者の選択は「自民党(中心)政権」だっただろう。過半数を下回ったために高木のいう「疑似政権交代」になったが。
 第二に、「選挙による政権交代が実現しなかった」ことが「日本の議会制民主主義」の問題点・遅れで、「先進国」並みになっていなかった、と言いたげだが、いったい何を喚いているのか。
 欧米「先進国」としてとりあえず米・英・仏・独を念頭に置くが、「左派」政党であっても明確にコミュニズム(共産主義・社会主義)と理論的にも現実的にも離れている<反共・反社会主義>の立場に立ち、上のうちドイツ以外では「左派」政党も自国の核保有を支持する<健全で建設的な>政党だからこそ、「左派」政党にも政権を担わせることができたのだ。
 米・民主党、英・労働党、仏・社会党、独・社民党は、日本のかつての社会党とは異なる(仏・社会党はいっとき社共連合を組むなど必ずしも一般化できないがここでは詳細に立ち入らない)。
 日本社会党の少なくとも有力な部分が<容共・親社会主義>だったからこそ(そして党として日米安保に反対だったからこそ)、日本の有権者は同党に政権を委ねることができず、結果として自由民主党(中心)の政権が続いた、従って「政権交代」はなかったのだ。
 高木桂一は長く新聞記者をしていると思われ、上の程度の知識くらい、持っているだろう。しかるに何故、上のような幼稚な、かつ朝日新聞のごとき<事実の捏造をするに近い>文章しか書けないのか。
 高木はまたこうも書く-「国民が政権交代という未体験の果実で議会制民主主義のダイナミズムを味わい、政権交代定着への道筋をつけられるチャンスだ」。
 上の文章は「政権交代」のために民主党に投票しようと主張しているに等しい。1993年の「疑似政権交代」ではない、正式・本来の「政権交代」をこの人は(そして産経新聞も?)望んでいるようだ。何と朝日新聞的で表面的かつ幼稚な(しかしとりあえずは時代迎合で何とか通用しそうな)主張だろうか。
 また、投票日前の新聞記事にしては<公正・公平さ>を欠くもので、一般的な<新聞倫理>の観点からすら問題視できるものだ(「意見」・「主張」・「論壇」等ではなく、一般の報道記事の中の文章だ)。高木桂一は自ら、ヒドいと思わないか? 
 世論調査でほぼ明らかになっているようでもある「民意」を尊重するのが「民主主義」だ(そしてそれに沿って投票をするのが<KYではない>行動だ)と主張しそうな、そして二年前に朝日新聞等の報道ぶりを異様に感じず自社のそれを疑問視していた
記者・山本雄史が民主党を担当して同党に関する記事を書き、保阪正康の本を半藤一利が評する書評記事を載せる産経新聞。
 上の高木桂一の文章を読んで、ますます、産経新聞の購読を止めようという気持ちになってきている。

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