秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

資料・史料

試訳/共産主義とファシズム-「敵対的近接」03。

  F・フュレ=E・ノルテ・<敵対的近接>-20世紀の共産主義(=コミュニズム)とファシズム/交換書簡(1998)の試訳03
 Francoir Furet=Ernst Nolte, "Feindliche Naehe " Kommunismus und Faschismus im 20. Jahrhundert - Ein Briefwechsel(Herbig, Muenchen, 1998)の「試訳」の3回目。
 この往復書簡には、英語版もある。Francoir Furet = Ernst Nolte, Fascism & Communism (Uni. of Nebraska Press、2004/Katherine Golsan 英訳)だ。
 この英語訳書は計8通の二人の書簡を収載している点ではドイツ語版と同じだが、Tzvetan Todorovによる序言(「英語版へのPreface」)および雑誌Commentaire編集者によるはしがき(Foreword)が付いていること、および「ノルテのファシズム解釈について」と題するフュレの文章が第1節にあること(したがって、書簡を含めて第9節までの数字が振られている)で異なる。但し、この第1節のフュレの文章は、フュレの大著〔幻想の終わり-〕の中のノルテに関する「長い注釈」の前に1頁余りを追加したものだ。雑誌編集者による上記は、フュレの突然の死についても触れている。
 また、英語訳書には、ドイツ語版とは違って、各節に表題と中見出しがある。
 番号数字すらなく素っ気ないドイツ語版と比べて分かりやすいとは言えるが、そうした表題をつけて手紙は書かれたわけではないと思われるので、ドイツ語版のシンプルさも捨て難い。だが、せっかくの表題、中見出しなので、以下では、その部分だけは英語版から和訳しておく。
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p.17-p.25.
 イデオロギーの障壁を超えて
 エルンスト・ノルテ <第一信> 1996年02月20日  
 敬愛する同僚氏へ
 貴方の著書、Le passe d'une illusion につい若干の感想をお伝えしたい。ピエール・ノラの申し出により雑誌 Debate で述べた意見よりも個人的で、かつ詳細ではありませんが。
 この本のことを、私はほぼ一年前にフランクフルト・アルゲマイネ新聞の記事で知りました。その記事は貴著の意義を述べているほか、貴方が私の本に論及していた195-6頁の長い注釈にもはっきりと言及していました。ふつうの〔健康〕状態であれば、もっと早く気づいていたでしょう。 
 私は貴方の本のすべてを、一行、一行と、強い関心と、さらには魅惑される愉しみとともに、読みました。
 貴方の本は二つの障害または妨害から自由だ、とすぐに分かりました。
 この障害または妨害によって、ドイツの〔歴史家の〕20世紀に関するすべての考察は狭い空間に閉じ込められており、個々には優れた業績はあっても無力です。
 ドイツではこの20世紀に関する考察は、最初からもっぱら国家社会主義に向けられました。また、その破滅的な結末は明白でしたので、思索の代わりをしたのは、「妄想」、「ドイツの特別の途」あるいは「犯罪国民」のごとき公式的言辞でした。
 ドイツの歴史を概観する、二つの思考方法がありました。
 一つは、全体主義理論です。これは、1960年代半ば以降、すべての「進歩主義者」にとっては旧くなっているか、あるいは冷戦を闘うための手段だと考えられました。
 もう一つは、マルクス主義思考方法です。これの結論は、第三帝国は、偉大でかつそのゆえに罪責ある全体のたんなる一部だ、例えば西洋帝国主義あるいは資本主義的世界市場経済の一部だ、というものでした。
 ドイツとフランスの左翼
ドイツの左翼は、彼ら自身の歴史についての一義的に明白な観点を持ちませんでした。その歴史自体が一義的ではなかったのですから。ナポレオン・フランスに対する自由主義戦争は「反動的な」動機を持ったとされ、1848年の革命は「挫折」でしたから、彼らが何らの留保を付けることなく自らを一体化できるような事象は存在しなかったのです。
 ドイツ左翼の小さな一派のみは、ロシア革命と自らを一体化したでしょう。大部分の左翼は、つまり多数派の社会民主主義者は、実際にも理論的にも〔ロシア革命を〕ドイツへと拡張する試みに断固として反対しました。
 左翼内部の狂熱と忠誠心を定量化できるとすれば、ドイツ共産党は十分に過半に達していたでしょう。なぜなら、社会民主主義者は、いわば「拙劣な社会主義者の確信」でもって共産主義者と闘い、国家社会主義者が大きな敗北を喫した1932年10月の選挙においてすら、ドイツ共産党は選挙のたびに勢力を増大させていたドイツでの唯一の政党でした。
 しかし、1970年代の初期のネオ・マルクス主義においてすら、1932-33年での共産主義者の勝利は可能だったと考えたり、社会民主主義者を「裏切り者」と非難したりする見解は、さほど多数ではありませんでした。
 反対意見もありましたが、まさにこのような見解が、「右派」反共産主義のテーゼ、すなわち、共産主義は現実的危険であり、「そのゆえにこそ」国家社会主義は多数派を獲得したのだ、というテーゼだったのです。
 だが、1945年以降にボンで再興された「ヴァイマール民主主義」の諸大政党にとっても、このような見解は誤りでありかつ危険であると思えたに違いありません。なぜなら、その見解は「ボルシェヴィズムからドイツを救う」という国家社会主義のテーゼときわめて似ていましたので。また、アメリカ合衆国との同盟によって「全体主義的スターリニズム」や東ベルリンにいるそのドイツ人支持者による攻撃を排斥する、というつもりでしたので。
 全体主義理論はたしかに、「全体的」反共産主義と区別される「民主主義的」反共産主義を際立たせる逃げ道を示しました。
 しかし、全体主義理論が優勢だった時期は長くは続かず、のちには右から左まで、かつ出版界から学界まで、ほとんど全ての発言者はつぎの点で一致しました。
 すなわち、注目のすべてを国家社会主義(ナツィス)に集中させなければならない。「スターリニズム」については副次的に言及するので足り、かつ決して「国際共産主義運動」について語ってはならない。
 まさにこの点にこそ、私が先に語った二つの「障壁」があったのです。
 貴方は著書において、「共産主義という理想」から出発し、それに今世紀の最大のイデオロギー的現実を見ています。急速に実際上の外交政策にとって重要になったロシアに限定しないで、フランスでもかつそこでこそ多くの知識人を熱狂させた「10月革命の普遍的な魅力(charme universal d'Octobre)」を語っています。
 貴方がそれをできるのは、ドイツの相手方[私=ノルテ]とは違って、フランス左翼の出身だからです。フランスの左翼は、つねに参照される大きな事象、すなわちフランス革命を国民の歴史としてもっています。フランスの左翼はさらに、ロシア革命を徹底したものおよび相応したものと理解することができ、つねに熱狂的に同一視することなく、ロシア革命に、何らのやましさなく少なくとも共感を覚えることができるからです。
 したがって、つぎのことは全くの偶然ではありませんでした。社会党のほとんどが1920年のトゥールズでの党大会で第三インターナショナルに移行したこと、Aulard やMathies のようなフランス革命についての著名な歴史家がこの世界運動に共感を示し、支持者にすらなったこと。
 貴方が特記している他の人たち、 Pierre Pascal、Boris Souvarine、あるいはGeorge Lukas のような人たちもまた、狂信者であり確信者でした。そして、貴方自身も明らかに、この熱狂に対する関心と共感を否定していません。
 歴史の現実はたしかに、Pierre Pascal、Boris Souvarine およびその他の多くの人々の信仰を打ち砕きました。貴方自身もこの離宗の流れに従っています。しかし、距離を置いたにもかかわらず、貴方は依然として、20世紀の基礎的な政治事象を、ロシア10月革命およびその世界中への拡張に見ています。
 貴方はこの拡張を検証し、それが多様な現実との格闘に消耗して内的な力を喪失し、ついには最初からユートピアたる性格をもつもの、つまり「幻想」であったことが今や決定的になるまでを、追跡しています。
 私から見ると重要でなくはないさらなる一歩を、貴方は進みました。
 今世紀の基礎的事象が結局は幻想だったことが判明してしまったとすれば、それが惹起した好戦的な反応は全く理解できませんし、完全に歴史的な正当性を欠いたものでしょう。また、「犯罪にすぎないものとしてのみ今世紀のもう一つの魅惑的な力」を認識するのは、共産主義者の見解の不当な残滓でなければなりません。
 「今世紀のもう一つの大きな神話」、すなわちファシズムという神話をこのように評価することによって、貴方はフランスですら多くの異論に出くわすでしょう。今日のドイツでは、すぐに「人でなし」になってしまうでしょう。
 しかしながら、私の意見では、貴方は完全に正しい。共産主義思想とファシズムという抵抗思想の対立は、1917年から1989-91年までの今世紀の歴史の「唯一の」内容だった、そして「その」ファシズムは、歴史的現実と共産主義運動の現実とを決定した雑多な差違や前提条件を無視して言えば、一種のプラトン思想だと考えられるべきだ、という貴方の考察を、誰も合理的には疑問視することができないのですから。
 私は貴方とは全く別の途を通って、先の二つの「障壁」を乗り越え、イデオロギーの世界内戦という(概略はずっと以前にあった)考え方に辿り着きました。
 若きムッソリーニ、彼の社会主義思想に対するマルクスやニーチェの影響に偶然の事情によって遭遇していなかったならば、国家社会主義やその「ドイツ的根源」に集中する思考は、私にも付着したままだったでしょう。
 そのゆえにこそ、「ファシズム」は私の1963年の本の対象になりえたのであり、反マルクス主義の好戦的な形態だとする一般的なファシズムの規定や、「過激なファシズム」だとする国家社会主義の特殊な定義は、私がそれ以降に思考し記述したすべてのものを潜在的に含んでいます。
 貴方の出発点である「共産主義思想」は、私には長い間顕在化していない背景のようなものでした。しかし、その状況は、1983年の「マルクス主義と産業革命」によって初めて、1987年の「1917-1945の欧州内戦」でもって顕著に、変わりました。
 全体主義の発生学的・歴史的範型
 そうして我々は、私に誤解がなければ、異なる出発点と異なる途を経て、同じ考え方に到達しています。それは、全体主義理論の歴史・発生学的範型(Version)と私が名づけたもので、ハンナ・アレントやカール・F・フリートリヒの政治・構造的範型とは、マルクス主義・共産主義理論と区別されるのとほとんど同じように区別されます。
 我々の間にはきわめて重大な違いがあるかのように見える可能性があります。貴方は上記の注釈で、私が解釈をおし進めすぎてヒトラーの「反ユダヤ人パラノイア」に「一種の理性的な根拠」を与えたのは遺憾だ、と書いています。
 つぎのことを貴方に強調する必要はないでしょう。すなわち、「ユダヤ人問題の最終解決」としてなされた大量虐殺の個別事象に、ドイツ人〔の歴史家〕が国家社会主義に集中した重大な理由があります。
 歴史において個別性は「絶対性」ではなく、そのように論じられてはならないことに、貴方もきっと同意するでしょう。
 付記します。個別の大量犯罪は、それに理性的で理解可能な根拠を与えうるということでもって悪質でなくなったり非難すべきものでなくなったりはしません。むしろ、逆です。
 貴方は1978年の論文でフランス左翼によるほとんど素朴なシオニズムの解釈を批判し、現象の本質はユダヤ人のメシア主義〔救世主信仰〕と分離されるべきではないと述べた、ということを思い出して下さい。貴方は引用記号を用いていません。そして、当然に、「ロシア的」とか「シーア派メシア主義的」とかと述べることができることをよく知っているにもかかわらず、そのような用語法を正当なものと見なしています。
 「ユダヤ人のメシア主義」なるもの自体への言及なくして、またアドルフ・ヒトラーや少なくはない彼の支持者たちが作り上げた観念にもとづいては、「最終解決」なるものも、-「了解できる(verstaendlich)」とは異なる意味で-理解できる(verstehbar)ものにはならない、と考えます。
 したがって、我々の間にある差違は除去できないものではない、と思います。むろん、引用された、フランスに出自をもつドイツの作家、テオドア・フォンターニュの言葉によれば、「広い畑」があります。
 適切な方法で耕すためには、多くの言葉と熟慮が必要でしょう。
 推測するに、ドイツでは、私が貴方の書物の出版について祝辞を述べると言えば、蔑視されるか、あるいは犯罪視すらされるでしょう。だが、貴方の国は、予断や神経過敏症の程度が、私の国よりも大きくない、と信じます。
  エルンスト・ノルテ
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試訳/共産主義とファシズム-「敵対的近接」/01

 フランソワ・フュレエルンスト・ノルテの交換書簡である、以下の著を試みに訳しておく。その著は、Francoir Furet = Ernst Nolte, "Feindliche Naehe " Kommunismus und Faschismus im 20. Jahrhundert - Ein Briefwechsel(Herbig, Muenchen, 1998)で、仮訳すれば、F・フュレ=E・ノルテ・<敵対的近接>-20世紀の共産主義(=コミュニズム)とファシズム/交換書簡(ヘルビッヒ出版社(ミュンヒェン)、1998年)だ。
 フュレのフランス語文章は、Klaus Joeken とKonrad Dietzfelbinger によってドイツ語に訳されている。
 フーバー大統領回顧録の一部を試みに和訳した際と同様のことを記しておかなければならない。筆者・秋月は共産主義・ファシズムあるいは政治思想史・欧州史等の専門家ではないし、ドイツ語の専門家でもない(ましてや翻訳を業とはしていない)。
 だが、この本の邦訳書は未公刊のようであるので、多少の関心を惹くことができれば幸いだ。
 本文は全体で118頁しかないので、全文を訳出する予定で、かつ(フーバー大統領回顧録の場合とは違って)最初から頁数どおりに訳していく。
 以下の第一回めの「序言」でノルテが書いているように、この本には各章または各節のタイトル・見出しはなく、数字番号すらない。
 全体・概要を把握する一助になるだろうと思って、あえて「第1節」というような見出し(表題)を付け、かつ各冒頭の1-2行めの言葉だけを記しておくと、つぎのようになる。
 第1節/序言〔ノルテ〕 p.05-
 第2節/「一つの長い注釈」〔フュレ〕 p.11-
 第3節/エルンスト・ノルテ 1996年02月20日 p.17-
 第4節/フランソワ・フュレ 1996年04月03日 p.27-
 第5節/エルンスト・ノルテ 1996年05月09日 p.39-
 第6節/フランソワ・フュレ 1996年08月 p.49-
 第7節/エルンスト・ノルテ 1996年09月05日 p.61
 第8節/フランソワ・フュレ 1996年09月30日 p.85-
 第9節/エルンスト・ノルテ 1996年12月11日 p.97-
 第10節/フランソワ・フュレ 1997年01月05日 p.109-p.122
 このように4往復の「交換書簡」が主内容だ。「序言」はテーマに直接に論及しているわけではないが、交換書簡に至る経緯等が記されているので、訳しておいた方がよいと判断した。「一つの長い注釈」(フュレ・幻想の終わり第6章の注13)については、その部分の「訳」の際に説明する(「序言」でも何度か触れられている)。
 全体を3~4回程度に分けて掲載するのが元来の予定だったが、それではこのブログサイトの1回分の掲載容量を超えてしまうだろうと思い直して、試訳作業の途中ではあるが、<第1回・「序説」>部分だけを、まずは紹介する(上記のように、数字番号すら、この書の全体を通じて付されていない)。
 なお、読みやすいように、段落の途中でも改行していることが多い。0
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 F・フュレ=E・ノルテ・<敵対的近接>-20世紀の共産主義(=コミュニズム)とファシズム/交換書簡(1998)01
 序言 <p.5-p.10>
 この交換書簡の特徴を述べることはしない。これの成立と公刊の事情を記しておこう。
 フランソワ・フュレについては、以前からフランス革命に関する指導的な歴史叙述者であることを知っていた。だが、一人の歴史家が自分の専門分野からすれば「資格」がない他の歴史家の仕事を知っている程度においてにすぎなかった。
 彼の側では事情は少しばかり異なっていたことは、1995年末に二十世紀のコミュニズムに関する彼の大著が公刊されたときに初めて明らかになった。彼の大著とは、Le passe d'une illusion, Essai sur l'idee communiste au XXe" siecle 〔秋月訳-幻想の終わり/20世紀の共産主義者の思想に関する省察〕だ。
 この彼の著作についてフランクフルター・アルゲマイネ新聞(Frankfurter Allgemeine Zeitung, FAZ)はすぐに詳しい書評を掲載した。その記事が明らかにしたのは、フュレのテーマはコミュニズムのみではなく、少なくとも含意するところでは、今世紀の第二の「大きなイデオロギー」、すなわちファシスムだ、ということだった。また、その記事には、私の著書が彼の著作の195-196頁にある際立って長い注釈〔秋月-次節「一つの長い注釈」)の中で論及されていると、明確に書かれていた。
 1996年の秋にドイツ語訳書がパイパー出版社(Piper Verlag)から出版されたので、その著書を取り寄せた。見てすぐに分かったのは、私のいくつかの著作が一頁半の長さで、ドイツでは長い間読まなかったほどに、力強く論評されていることだった。
 フュレはむろん、つぎの「悲しい事実」を指摘しなければならないと考えていた。私はユダヤ人をヒトラーの「組織された対抗者」だとし、国家社会主義(ナツィス)の反ユダヤ主義(nationalsozialistisches Antisemitismus)を「理性的核心」だと見なした、という事実をだ。
 この注釈では、同じ程度ではなかったが、同意と批判とが一緒になっていた。
 ほどなくして、ピエール・ノラ(Pierre Nora)が、彼の雑誌「討議」(Debat)が企画するフュレの本についての討論に出席して欲しいと言ってきた。そして、その雑誌の1996年3=4月号、第89号が公刊され、そこには、「20世紀のコミュニズムとファシズム」というタイトルのもとで、Renzo De Felice、Eric J. Hobsbawn、Richard Pipes〔リチャード・パイプス〕、Giuliano Procacci、Ian Kershaw そして私の意見表明とフュレの答えが掲載されていた。
 これと比較できるような討論会は、ドイツでは、私の知る限りでは、構造的な範型による全体主義理解〔秋月-とくにハンナ・アレント〕や1963年の「ファシズムとその時代(Der Faschismus in seiner Epoche)」〔秋月-エルンスト・ノルテの著書〕についてはすでに十分に議論されていたにもかかわらず、催されたことがなかった。
 だが今や、個々に見ると多くの意見の違いはあっても、問題設定自体の正当性は、このきわめて国際的な公開討論の場(Forum)で承認された。
 そのすぐ前に、イタリアの雑誌「リベラル(liberal)」が、フュレと私が手紙を交換して、諸問題についてもっと詳細に意見を述べたい、という気持ちを刺激するような提案を二人にしてきていた。
 我々はお互いにまだ個人的な知り合いではなかったので、ミラノ(Mailand)で出逢うことが計画された。そこで、編集部と考え方を相談することになっていた。
 だが、私は健康上の理由で決まっていた時期を守ることができなかったので、心臓手術の期日がすでに決められていた時点の1996年2月に、第一の手紙を書いた。
 私の手紙とフュレの返書は、「リベラル」の5月号に掲載された。そのとき私はまだ、リハビリテーション施設にいた。
 同じ月にもう私は十分に回復することができたので、第二の手紙を書いた。そして1997年4月に、最後の二つの-二人にとって第四の-手紙が、私には適切では全くない「エルンスト・ノルテがフランソワ・フュレと闘う(… a confronto con …)」というタイトルのもとで、その雑誌上に公刊された。
 1996年の末頃にミラノでのある学会で、フュレと個人的に親しくなっており、1997年の6月に、「リベラル」によってナポリ(Neapel)で開催された「20世紀のリベラリズム」というテーマの会議で、我々は再び逢った。そこで、二人で協力して、古く有名な哲学研究所での夜の催し(Abendveranstaltung)を引き受けた。
 そうしている間に、我々の交換書簡集のイタリアでの書物が発行された。
 上の会議のあとで我々が交換していた私的な手紙では、お互いを「Cher ami(親愛なる友!)」あるいは「親愛なる友よ(Lieber Freund)」と話しかけていた。
 7月11日に、「シュタンパ(Stampa)」から電話があった。きわめて不運なことにフュレがテニスをしているときに転倒し、昏睡状態にある、望みはない、追悼文を書いてほしい、と。
 その報せは、私には青天の霹靂だった〔落雷のごとく私に命中した〕。ようやく70歳になったばかりで、ごく最近に「フランス学士院(Academie francaise)」の会員になっていた。ナポリでは、全く健康な様子だった。
 だがしかし、我々はともに8回めの人生10年間を迎えていた。手紙の交換を始めたとき、一方〔私、ノルテ〕には生命の危険があった。他方、彼の最後には、死があった。
 1920年代に生まれた世代は、1991年〔秋月-ソ連崩壊年〕以降に初めてではなく、最初に、20世紀の基本的特徴を包括的に解釈しようと試みることができたが、その世代の者たちは今や別れをを告げている。
 Renzo De Felice は1996年に逝去し、Thomas Nipperdey〔トーマス・ニッパーダイ〕、Martin Broszat そしてAndreas Hillgruber〔アンドレアス・ヒルグルーバー〕 はもう数年前に逝去している。
 この交換書簡は、ひょっとすれば、この世代の者の、最後の非個人的な証言書の一つだ。
 ナポリ(Neapel)で会話していたとき、フュレは、交換書簡は次はパリの雑誌「批評(Commentaire)」で発表される、と語った。そのとおりに、1997年の秋=冬号、第79-80号が公刊された。
 ドイツ語版は、フュレの私あて第一信が、私の「ヨーロッパの内戦(Europaeisches Buergerkrieg)1917-1945」の新版の付録として、1997年の秋に公刊された(ヘルビッヒ出版社、ミュンヒェン)。同じ出版社から、この完全な交換書簡集が出版される。
 パイパー出版社(Piper Verlag)の厚意により、手紙の交換が始まったきっかけになった彼の脚注〔秋月-次節「一つの長い注釈」〕の文章をこの本に収載することが可能になった。
 一つ一つの手紙に表題を付すこと-イタリア語版のように-はやめることにし、中見出しを挿入すること-「批評(Commentaire)」のように-もやめた。その代わり、本文の後に、人名索引の他に事項索引がある。結びの言葉は、すべての手紙について省略した。フランソワ・フュレやエルンスト・ノルテという名前は、人名索引に載せていない。
 どの読者も、この交換書簡には、とくにフュレには、同意と不同意とが密接に一緒になっているという印象を受けるだろう。どの読者も自分で、彼の見解のどこに最も強調したい点があると理解すべきなのか、決定しなければならない。
 しかし、誰もが決して疑ってはいけないのは、先行業績からすれば非常に異なる二人の歴史家の間のこの交換書簡が、論争的にかつお互いを尊敬する精神でもって交わされた、ということだ。これと類似のことは、残念ながらドイツでは、いわゆる歴史家論争の期間でもなされなかった。
   1998年1月、ベルリン(Berlin)にて、エルンスト・ノルテ。 
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資料・史料-2015.12日韓「慰安婦問題」合意の一部の英訳公文

 2015.12.28日韓「慰安婦」問題合意の1(日本側)の(1)序文とアは、以下のとおりだった。
 「(1)岸田外務大臣による発表は,以下のとおり。
 日韓間の慰安婦問題については、これまで,両国局長協議等において、集中的に協議を行ってきた。その結果に基づき、日本政府として、以下を申し述べる。」
 「ア 慰安婦問題は,当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり、かかる観点から,日本政府は責任を痛感している
 安倍内閣総理大臣は、日本国の内閣総理大臣として改めて,慰安婦として数多の苦痛を経験され,心身にわたり癒しがたい傷を負われた全ての方々に対し、心からおわびと反省の気持ちを表明する。
 以上の部分の英訳公文は、以下のとおり。「ア」は「(i) 」になっている。<出所はすべて、(日本)外務省HP>

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  (1) Foreign Minister Kishida announced as follows.
 The Government of Japan and the Government of the Republic of Korea (ROK) have intensively discussed the issue of comfort women between Japan and the ROK at bilateral meetings including the Director-General consultations. Based on the result of such discussions, I, on behalf of the Government of Japan, state the following:
   (i) The issue of comfort women, with an involvement of the Japanese military authorities at that time, was a grave affront to the honor and dignity of large numbers of women, and the Government of Japan is painfully aware of responsibilities from this perspective. As Prime Minister of Japan, Prime Minister Abe expresses anew his most sincere apologies and remorse to all the women who underwent immeasurable and painful experiences and suffered incurable physical and psychological wounds as comfort women.
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資料・史料-安倍晋三首相/戦後70年談話<英訳公文>。

 原文(日本語文)は、この欄の2016.06.15付にある。以下の出所-官邸HP。
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Statement by Prime Minister Shinzo Abe
 Friday, August 14, 2015


 Cabinet Decision
 On the 70th anniversary of the end of the war, we must calmly reflect upon the road to war, the path we have taken since it ended, and the era of the 20th century. We must learn from the lessons of history the wisdom for our future.
 More than one hundred years ago, vast colonies possessed mainly by the Western powers stretched out across the world. With their overwhelming supremacy in technology, waves of colonial rule surged toward Asia in the 19th century. There is no doubt that the resultant sense of crisis drove Japan forward to achieve modernization. Japan built a constitutional government earlier than any other nation in Asia. The country preserved its independence throughout. The Japan-Russia War gave encouragement to many people under colonial rule from Asia to Africa.
 After World War I, which embroiled the world, the movement for self-determination gained momentum and put brakes on colonization that had been underway. It was a horrible war that claimed as many as ten million lives. With a strong desire for peace stirred in them, people founded the League of Nations and brought forth the General Treaty for Renunciation of War. There emerged in the international community a new tide of outlawing war itself.
 At the beginning, Japan, too, kept steps with other nations. However, with the Great Depression setting in and the Western countries launching economic blocs by involving colonial economies, Japan's economy suffered a major blow. In such circumstances, Japan's sense of isolation deepened and it attempted to overcome its diplomatic and economic deadlock through the use of force. Its domestic political system could not serve as a brake to stop such attempts. In this way, Japan lost sight of the overall trends in the world.
 With the Manchurian Incident, followed by the withdrawal from the League of Nations, Japan gradually transformed itself into a challenger to the new international order that the international community sought to establish after tremendous sacrifices. Japan took the wrong course and advanced along the road to war.
 
And, seventy years ago, Japan was defeated.

 On the 70th anniversary of the end of the war, I bow my head deeply before the souls of all those who perished both at home and abroad. I express my feelings of profound grief and my eternal, sincere condolences.
 More than three million of our compatriots lost their lives during the war: on the battlefields worrying about the future of their homeland and wishing for the happiness of their families; in remote foreign countries after the war, in extreme cold or heat, suffering from starvation and disease. The atomic bombings of Hiroshima and Nagasaki, the air raids on Tokyo and other cities, and the ground battles in Okinawa, among others, took a heavy toll among ordinary citizens without mercy.
 Also in countries that fought against Japan, countless lives were lost among young people with promising futures. In China, Southeast Asia, the Pacific islands and elsewhere that became the battlefields, numerous innocent citizens suffered and fell victim to battles as well as hardships such as severe deprivation of food. We must never forget that there were women behind the battlefields whose honour and dignity were severely injured.
 Upon the innocent people did our country inflict immeasurable damage and suffering. History is harsh. What is done cannot be undone. Each and every one of them had his or her life, dream, and beloved family. When I squarely contemplate this obvious fact, even now, I find myself speechless and my heart is rent with the utmost grief.
 The peace we enjoy today exists only upon such precious sacrifices. And therein lies the origin of postwar Japan.
 We must never again repeat the devastation of war.
 Incident, aggression, war -- we shall never again resort to any form of the threat or use of force as a means of settling international disputes.We shall abandon colonial rule forever and respect the right of self-determination of all peoples throughout the world.
 With deep repentance for the war, Japan made that pledge. Upon it, we have created a free and democratic country, abided by the rule of law, and consistently upheld that pledge never to wage a war again. While taking silent pride in the path we have walked as a peace-loving nation for as long as seventy years, we remain determined never to deviate from this steadfast course.
 Japan has repeatedly expressed the feelings of deep remorse and heartfelt apology for its actions during the war. In order to manifest such feelings through concrete actions, we have engraved in our hearts the histories of suffering of the people in Asia as our neighbours: those in Southeast Asian countries such as Indonesia and the Philippines, and Taiwan, the Republic of Korea and China, among others; and we have consistently devoted ourselves to the peace and prosperity of the region since the end of the war.
 Such position articulated by the previous cabinets will remain unshakable into the future.
 However, no matter what kind of efforts we may make, the sorrows of those who lost their family members and the painful memories of those who underwent immense sufferings by the destruction of war will never be healed.
  Thus, we must take to heart the following.
 The fact that more than six million Japanese repatriates managed to come home safely after the war from various parts of the Asia-Pacific and became the driving force behind Japan’s postwar reconstruction; the fact that nearly three thousand Japanese children left behind in China were able to grow up there and set foot on the soil of their homeland again; and the fact that former POWs of the United States, the United Kingdom, the Netherlands, Australia and other nations have visited Japan for many years to continue praying for the souls of the war dead on both sides.
 How much emotional struggle must have existed and what great efforts must have been necessary for the Chinese people who underwent all the sufferings of the war and for the former POWs who experienced unbearable sufferings caused by the Japanese military in order for them to be so tolerant nevertheless?
 That is what we must turn our thoughts to reflect upon.
 Thanks to such manifestation of tolerance, Japan was able to return to the international community in the postwar era. Taking this opportunity of the 70th anniversary of the end of the war, Japan would like to express its heartfelt gratitude to all the nations and all the people who made every effort for reconciliation.
  In Japan, the postwar generations now exceed eighty per cent of its population. We must not let our children, grandchildren, and even further generations to come, who have nothing to do with that war, be predestined to apologize. Still, even so, we Japanese, across generations, must squarely face the history of the past. We have the responsibility to inherit the past, in all humbleness, and pass it on to the future.
 Our parents’ and grandparents’ generations were able to survive in a devastated land in sheer poverty after the war. The future they brought about is the one our current generation inherited and the one we will hand down to the next generation. Together with the tireless efforts of our predecessors, this has only been possible through the goodwill and assistance extended to us that transcended hatred by a truly large number of countries, such as the United States, Australia, and European nations, which Japan had fiercely fought against as enemies.
 We must pass this down from generation to generation into the future. We have the great responsibility to take the lessons of history deeply into our hearts, to carve out a better future, and to make all possible efforts for the peace and prosperity of Asia and the world.
 We will engrave in our hearts the past, when Japan attempted to break its deadlock with force. Upon this reflection, Japan will continue to firmly uphold the principle that any disputes must be settled peacefully and diplomatically based on the respect for the rule of law and not through the use of force, and to reach out to other countries in the world to do the same. As the only country to have ever suffered the devastation of atomic bombings during war, Japan will fulfil its responsibility in the international community, aiming at the non-proliferation and ultimate abolition of nuclear weapons.
 We will engrave in our hearts the past, when the dignity and honour of many women were severely injured during wars in the 20th century. Upon this reflection, Japan wishes to be a country always at the side of such women’s injured hearts. Japan will lead the world in making the 21st century an era in which women’s human rights are not infringed upon.
 We will engrave in our hearts the past, when forming economic blocs made the seeds of conflict thrive. Upon this reflection, Japan will continue to develop a free, fair and open international economic system that will not be influenced by the arbitrary intentions of any nation. We will strengthen assistance for developing countries, and lead the world toward further prosperity. Prosperity is the very foundation for peace. Japan will make even greater efforts to fight against poverty, which also serves as a hotbed of violence, and to provide opportunities for medical services, education, and self-reliance to all the people in the world.
 We will engrave in our hearts the past, when Japan ended up becoming a challenger to the international order. Upon this reflection, Japan will firmly uphold basic values such as freedom, democracy, and human rights as unyielding values and, by working hand in hand with countries that share such values, hoist the flag of “Proactive Contribution to Peace,” and contribute to the peace and prosperity of the world more than ever before.
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資料・史料/2015.12.28「慰安婦問題」日韓合意

 日韓「慰安婦問題」外相合意 2015年12月28日
  <出所、(日本)外務省HP>
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 12月28日午後2時から3時20分頃まで,岸田文雄外務大臣は,尹炳世(ユン・ビョンセ)韓国外交部長官と日韓外相会談を行い,直後の共同記者発表において,慰安婦問題について以下のとおり 発表した。
 1
 (1)岸田外務大臣による発表は,以下のとおり。
 日韓間の慰安婦問題については,これまで,両国局長協議等において,集中的に協議を行ってきた。その結果に基づき,日本政府として,以下を申し述べる。
  ア 慰安婦問題は,当時の軍の関与の下に,多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり,かかる観点から,日本政府は責任を痛感している。
 安倍内閣総理大臣は,日本国の内閣総理大臣として改めて,慰安婦として数多の苦痛を経験され,心身にわたり癒しがたい傷を負われた全ての方々に対し,心からおわびと反省の気持ちを表明する。
  イ 日本政府は,これまでも本問題に真摯に取り組んできたところ,その経験に立って,今般,日本政府の予算により,全ての元慰安婦の方々の心の傷を癒やす措置を講じる。具体的には,韓国政府が,元慰安婦の方々の支援を目的とした財団を設立し,これに日本政府の予算で資金を一括で拠出し,日韓両政府が協力し,全ての元慰安婦の方々の名誉と尊厳の回復,心の傷の癒やしのための事業を行うこととする。
  ウ 日本政府は上記を表明するとともに,上記(イ)の措置を着実に実施するとの前提で,今回の発表により,この問題が最終的かつ不可逆的に解決されることを確認する。
 あわせて,日本政府は,韓国政府と共に,今後,国連等国際社会において,本問題について互いに非難・批判することは控える。
 (2)尹外交部長官による発表は,以下のとおり。
 韓日間の日本軍慰安婦被害者問題については,これまで,両国局長協議等において,集中的に協議を行ってきた。その結果に基づき,韓国政府として,以下を申し述べる。
  ア 韓国政府は,日本政府の表明と今回の発表に至るまでの取組を評価し,日本政府が上記1.(1)(イ)で表明した措置が着実に実施されるとの前提で,今回の発表により,日本政府と共に,この問題が最終的かつ不可逆的に解決されることを確認する。韓国政府は,日本政府の実施する措置に協力する。
  イ 韓国政府は,日本政府が在韓国日本大使館前の少女像に対し,公館の安寧・威厳の維持の観点から懸念していることを認知し,韓国政府としても,可能な対応方向について関連団体との協議を行う等を通じて,適切に解決されるよう努力する。
ウ 韓国政府は,今般日本政府の表明した措置が着実に実施されるとの前提で,日本政府と共に,今後,国連等国際社会において,本問題について互いに非難・批判することは控える。
 2 なお,岸田大臣より,前述の予算措置の規模について,概ね10億円程度と表明した。
 3 また,双方は,安保協力を始めとする日韓協力やその他の日韓間の懸案等についても短時間意見交換を行った。
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 秋月注記-以下の①~③の、公式の英語訳文はつぎのとおり。<出所、(日本)外務省HP>
 ①「慰安婦問題は,当時の軍の関与の下に,多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題」
 =the issue of comfort women, with an involvement of the Japanese military authorities at that time(, was --)
 ②「日本政府は責任を痛感している」
 =the Government of Japan is painfully aware of responsibilities
 ③「安倍内閣総理大臣は,日本国の内閣総理大臣として改めて、…、心からおわびと反省の気持ちを表明する」
 =as Prime Minister of Japan, Prime Minister Abe expresses anew his most sincere apologies and remorse

Hoover: Freedom Betrayed, p.875-883〔フーバー回顧録001〕

 Hoover: Freedom Betrayed, p.875-883の本文の「試訳」が済んだので、冒頭の編者の文章を新たにとりあえず訳出したうえで、何回かに分けたものの全体を本来の順序どおりに掲載しておく。ごく一部について、今次に訂正・修正した(すでに掲載した「過去」の「試訳」を変更してはいない)。
 なお、以下は、H. C.フーバー著の一部の「試訳」にすぎない。いずれ翻訳権者による正規の訳書が公刊され、結果としては誤りや不適切な訳が明らかになるだろうが、このまま残しておく。すべての文章とすべての語句に意を払ったが、その結果として堅い、こなれていない日本語文章になっているだろう。秋月はアメリカ政治史の専門家ではないし、英文学・英語学の専門家でもない。大学卒業程度の英語力を使っての「試訳」にすぎない(英語文の「構造」自体が分からなかった文章もいくつかあった)。
 また、以下はH. C.フーバーの大著のうち10頁に充たない部分を対象にしているにすぎず、(編者も冒頭に記すように)注でも参照要求されている等のフーバーの長い叙述の「要約」である。H. C.フーバーの理解、評価、考え方を正確に知るには当然に他の部分を読まなければならず、フーバーはアメリカの対日戦争を批判していても、日本の「戦争」全体を擁護しているわけではない(あくまで、アメリカの<愛国者>の一人だと思われる)。
 日本に関連して興味を惹く別の部分の文章は、別に「試(私)訳」することがあるかもしれない。
 全体について、藤井厳喜=稲村公望=茂木弘道・日米戦争を起こしたのは誰か-ルーズベルトの罪状・フーバー大統領回顧録を論ず(勉誠出版、2016)も参照。
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 Hoover: Freedom Betrayed, 2011〔フーバー大統領回顧録〕の一部の試訳 001
 文書18  "正当な政治の喪失/政治家資格失墜〔Lost Statesmanship〕-7年に19度の-に関する省察"  1953
 第89章

 p.875-883
 〔編者(George H. Nash)はしがき〕
 以下は、フーバーの大作の1953年版の最後の章(89章)にある、最終的で思潮的なページ(p.994-p.1001)である。これのタイトルを、フーバーは一時期、「政治家資格失墜」〔正当な政治の喪失〕(Lost Statesmanship)とした。この諸ページはおそらく、1953年の早くに、1952年の大統領選挙の後にほどなくして書かれた。この章でフーバーは、ルーズベルト=トルーマン外交記録に対する彼の修正主義者(revisionist)的告発を、刮目すべき熱心さと強さでもって要約した。「私は、戦争および戦争にかかるすべての段階の政策に反対した」と彼は書いた。そして、「私は、釈明をしないし、後悔もしない」、と。
 この文書は、フーバー研究所文書の中の、Herbert C. Hoober 書類、Box11、"Box11, M.O.21" にある。

  〔序節〕 政治家資格失墜/正当な政治の喪失-7年に19度の-に関する省察
 世界に生起したすべての惨害についてヒトラーとスターリンを非難することによって、なおもルーズベルトとトルーマンを擁護する人々がいる。彼ら〔ヒトラーとスターリン〕が人間の歴史における悪魔的で不吉な人物だったことには、何らの論証も必要としない。
 しかしながら、彼ら〔ヒトラーとスターリン〕との交渉におけるアメリカやイギリスでの正当な政治の喪失〔Lost Statesmanship〕についていかなる省察をしても、歴史の弁明の余地はない。この(正当な政治の喪失という)巨大な過ちがなければ、この惨害は西側世界に生じ得なかったであろう。
 私は、この錯綜した諸行為の中で読者が、何がありいつあったか〔what and when〕 に対する責任がいったい誰にあるのかを忘れてしまうことのないように、以下に、主要な出来事を列挙〔list〕することとする。私は読者に、この回想録中の諸章を注記する。そこ(その諸章)には、彼らが有罪であるとする事実と理由が述べられている。

 〔第一節〕 一九三三年の世界経済会議
 第一。ルーズベルトが国際的な政治家資格を失墜するに至った第一回め(でかつ重要なもの)は、一九三三年の世界経済会議を破壊したことであった。この会議は英国の首相・マクドナルドと私自身〔フーバー〕が準備したもので、一九三三年一月に開催することになっていた。ルーズベルトが(大統領に)選出されたため、六月に延期された。あの頃、世界は全世界的不況からまさに回復し始めていた。しかし、世界はひどい通貨戦争に引き込まれており、貿易障壁を拡大していた。初期の仕事は、専門家たちによってなされていた。ルーズベルトは十名の首相たちをワシントンに呼び集め、国家間の決済における金標準(本位)制を復活することに合意した。〔にもかかわらず、〕この会議の途中で突然に、ルーズベルトはこうした企図を覆し(「爆弾投下))、会議を挫折させ、達成したものが何もないままで死に至らしめた。ルーズベルト自身の国務長官であったハルは、この行為こそが第二次世界大戦の根源であったと、明白に非難した。(注1.)
 注1…第1章参照(編者〔George H. Nash〕注記-この文書の脚注はすべてフーバーによるものである。)

 〔第二節〕 一九三三年に共産主義ロシアを承認したこと
 第二。ルーズベルトにおける第二の正当な政治の喪失は、一九三三年に共産主義ロシアを(国家として)承認したことにあった。四代の大統領たちと五代の国務長官たちが-民主党であれ共和党であれ-(国際共産主義の目的全体と手法に関する知見をもって)このような行為〔国家としての承認〕を拒否していた。共産主義者たちは宗教的誠実さ、人間の自由および諸民族の独立を破壊する胚種を運び込むことによってアメリカ合衆国に侵透することができるだろうと、彼らは知っていたし、そう言った。ソヴィエト・ロシアを(国家として)承認することは他諸国の間での威信と力をそれ〔ロシア〕に与えるであろうと、彼らは考えていた。共産主義者たちは我々〔アメリカ合衆国〕の国境の内部では悪辣なことをしないという、ルーズベルトの共産主義たちとの間の幼稚な合意のすべては、四八時間も経たないうちに、履行不能の登録簿に載ってしまった。共産主義者とその同調者たちの長い車列は、政権の高いレベルにまで入り込んだ。第五列の活動が、国全体に広がった。こうして、ルーズベルトが大統領職にあった一二年の間に、長く続く裏切りの諸行為がなされたのである。(注2.)
 注2…第2章参照。

 〔第三節〕 ミュンヘン
 第三。私は、つぎの理由では、ズデーテンのドイツ人たちを帝国〔ドイツ帝国=ヒトラー・ナチス〕に譲り渡す1938年9月のミュンヘン協定を非難する気にはなれない。それ〔譲渡〕はベルサイユ条約により生じたおぞましい財産で、同条約からしてそれは不可避だったのだ、という理由では。しかしながら、ミュンヘン協定によって、ヒトラーは、ロシアを侵攻するというその再三の決意を達成する諸ゲートを開いたのだ。〔ルーズベルトによる〕正当な政治の喪失は、独裁者たち〔ヒトラーとスターリン〕の間の不可避の戦争に備えることから離れてしまい、そして、怪物たち〔monsters=ヒトラーとスターリン〕がお互いを殺し合うのを止めようとしていた。 

 〔第四節〕 一九三九年にイギリス・フランスがボーランドとルーマニアを保証したこと
 第四。正当な政治の第四の深刻な喪失は、イギリスとフランスが一九三九年の三月にポーランドとルーマニアの独立を保証(garantee)したときになされた。まさにそのとき、欧州の民主主義諸国は、ヒトラーとスターリンの間の不可避の戦争から手を引くという従来の政策を変更したのであった。
 このことは、欧州の勢力外交の全歴史のうちで、おそらくは最大の過ちであった。イギリスとフランスは、ポーランドを侵略から救い出す力を持っていなかった。しかし、この行為〔独立の保証〕によって、彼らは民主主義の政体〔ボーランド・ルーマニア〕をヒトラーとスターリンの間に投げ込んだ。彼らのこの行為によって、彼らはスターリンをヒトラーから守っただけではなく、スターリンに自らの影響力を最も高価な買い手に売ることができるようにした。(イギリスとフランスという)同盟国は入札したが、スターリンが示したのは、よるべない人々が住むバルト諸国および東部ポーランドの併合という、同盟国がとても応じることのできない人道的な対価であった。スターリンは、ヒトラーからその対価を獲得したのである〔=ヒトラーが入札に勝ったのである〕。だがヒトラーは、南東ヨーロッパにまで膨張し、モスクワの共産主義者の聖地(Vatican)を破壊するという決心を放棄するつもりはまったくなかった。しかし今は、ヒトラーはその必要上まずは西側民主主義諸国を中立化しなければならない、そしてそのように進め始めた。
 おぞましい第二次世界大戦の長い連鎖〔列車〕は、ポーランドの保証というこの過ちから出発した。ルーズベルトはこうした勢力外交にいくばくか参加していた。しかし、それがどの程度であったかを測定するには、諸記録文書があまりに不完全すぎる。チャーチルは、まだ政権に入っていなかったが、ミュンヘンでの宥和(-政策)のあとの絶望的な行為へとチェンバレンを駆り立てることによって、何がしかの寄与をなした。(注3.)
 注3…第18章、第19章、第27章参照。

 〔第五節〕 合衆国の宣告なき戦争
 第五。政治家としての第五の大失敗は、1941年の冬にルーズベルトが合衆国をドイツと日本との宣告なき戦争に放り込んだときだった。それは、数週間前に彼が選出された大統領選挙の際の公約に全く違反していた。(注4.)
 注4…第30章参照。

 〔第六節〕 慎重な待機策をとらなかった過ち
 第六。レンド・リース法〔武器貸与法〕の(施行)前、そして軍事費がアメリカの人々の肩に課される前の数週の間に、ルーズベルトは、ヒトラーがロシアを攻撃しようと決意していることを明確に知った。そして彼は、その情報をロシアに伝えた。彼はドイツとの宣告なき戦争を回避すべきであった。また、レンド・リース法(の適用)を、軍需品、糧食や船舶を購入するための金融支援という、イギリスに対する単純な援助に限定するべきだった。そうすれば、国際法の範囲内にとどまったままでいた。正当な政治〔 Statesmanship〕は、あの瞬間において、粛然として、注意深く待機する政策をとることを要求していたのである。(注5.)
 注5…第32章参照。

 〔第七節〕 スターリンとの同盟
 第七。まさにアメリカの全歴史上の最大の正当な政治の喪失は、ヒトラーが1941年6月に侵撃したときに、共産主義ロシアと隠然たる同盟関係をもったこと、かつそれ〔共産主義ロシア〕を支援したことであった。アメリカの軍事力はイギリスを救うために必要とされていたという誤った考え方ですら、今や明らかに消失してしまっていた。ナツィ(Nazi)の狂熱がロシアの沼地へと方向転換したことによって、何人もイギリスとすべての西側世界の安全をもはや疑うことはできなくなっていた。この怪物的な独裁者たち〔ヒトラーとスターリン〕は、どちらが勝とうと、互いに消耗させ合うことになるはずであった。ヒトラーが軍事的勝利を得たとしてすら、ヒトラーは数年間は、隷属状態の人々を保持しようとする窮地に陥っていたであろう。また、ロシアは、ヒトラーが望んでいたかもしれない、いかなる種類の軍需品をも破壊したに違いなかった。彼〔ルーズベルト?〕自身の将軍たちも、彼の行動に反対した。
 ロシアに対するアメリカの援助は、スターリンの勝利を、かつ共産主義の世界中への蔓延を意味した。正当な政治は再び、傍観するように、歯をくいしばって油断なく備えておくように、そして彼らの相互破壊を待つように求めて、切羽詰まって泣き叫んでいたのである。そのような日がやって来たとすれば、アメリカ合衆国とイギリスには、自由主義の世界に真実の平和と安全保障とをもたらすために彼らの力を用いる機会が、存在したであろう。平和を永続させるためのこれほどの大きな機会は、ある大統領にはかつて来ていなかった。その人物〔ルーズベルト〕は、しくじった。(注6.)
 注6…第33章参照。

 〔第八節〕 日本に対する一九四一年七月の経済制裁
 第八。ルーズベルトの政治における第八の巨大な過ちは、一ヶ月のち、一九四一年七月末の、日本に対する全面的経済制裁であった。この制裁は、砲弾発射を除くすべての意味(本質)における戦争であった。ルーズベルトは再三にわたって自分の部下から、このような挑発は遅かれ早かれ戦争への報復を生み出すだろうとの警告を受けていた。(注7.)
 注7…第37章参照。

 〔第九節〕 近衛の和平提案の受諾を拒絶したこと
  第九。一九四一年九月の、太平洋平和のための近衛首相の和平提案をルーズベルトが侮蔑的に拒絶したことによって、第九の正当な政治の喪失が完全になされた。近衛の諸提案を受諾するように、アメリカやイギリスの日本駐在大使たちは祈るような気持ちで強く働きかけていた。近衛が提案した諸条件に従えば、おそらくは満州(注8.)の返還を除いて、アメリカはすべての目的を達成したことになっていたであろう。その満州返還ですら、まだ議論する余地を残していた。 皮肉家(犬儒学者)は、ルーズベルトはこの些末な問題をきっかけにして大きな戦争を起こそうと意図していた、そして共産主義ロシアに満州を与えた、と想起するであろう。(注9.)
 注8…満州はすでに、1933年5月31日の塘沽(Tang-Ku)合意においてシナによって日本に譲与されていた。
 注9…第38章参照。

 〔第十節〕 三ヶ月の冷却期間をおく日本との合意の受諾を拒絶したこと
 第十。第十の正当な政治の喪失は、一九四一年十一月に、三ヶ月の冷却期間をおくことを合意しようという、彼の大使が知らせた日本の天皇からの提案の受諾を拒絶したことであった。我々の軍官僚たちは、ルーズベルトに対して受諾するように強く働きかけた。そのとき日本は、ロシアが同盟国・ヒトラーに対して勝利するかもしれないと警戒していた。九十日間の引き延ばし(delay)があれば、日本は戦意をすべて喪失していたであろう、そして太平洋には戦争が生じないままだったであろう。スティムソン日記が明らかにしたように、ルーズベルトとその官僚たちは、日本人たちが明白な犯行をするように挑発する方法を探していたのである。こうして、ハルは馬鹿げた最後通牒(ultimatum)を発し、我々はパール・ハーバーで敗北した。
 全南アジアの占領地域における継続した損失と日本の勝利は、計算できなかったものであった。さらに、制海権を失ったので、ヒトラーとTogo〔Tojo=東條が正確だと見られる/秋月〕は、我々の海岸線から見えるところで我々の船舶を破壊することが可能であった。(注10.)
 注10…第38章、第39章参照。

 〔第一一節〕 無条件降伏を要求したこと
 ルーズベルトの政治における第十一の巨大な過ちは、一九四三年一月にカサブランカで「無条件降伏」を要求したことであった。そこではルーズベルトは、我々の軍隊の助言なく、チャーチルの助言すらなくして、新聞一面の見出し(headline)〔「無条件降伏」が新聞に大きく取り上げられること〕を狙っていた。この要求は、全敵国の軍国主義者や広報担当者に入り込んだ、そしてドイツ、日本およびイタリアとの戦争を長引かせた。最後には、降伏の際の大きな譲歩が日本とイタリアの両国には与えられた。〔一方、〕この要求は、ドイツ人がナチスを除去したとするならば、彼らには和平へのいかなる希望も与えなかった。苦難の結末となる戦争は、ドイツが再建するための基礎らしきものの一切を、残さなかったのである〔から〕。 (注11.)
 注11…第42章参照。

 〔第一二節〕 一九四三年一〇月にモスクワでバルト諸国と東部ポーランドを犠牲にしたこと
 第十二。正当な政治を喪失する十二番めの過ちは、一九四三年十月、モスクワでの外務大臣会合において、自由な諸国民を犠牲にしたことであった。この会合では、自由とか民主政とかの言葉が使われる真っ只中で、バルト諸国、東部ポーランド、東部フィンランドおよびブコヴィナ(Bukovina)を併合しようとする周知のロシアの意図に対して、一言の異議の言葉も発せられなかった(このことを彼〔ルーズベルト?〕はヒトラーと合意していた)。この黙認は、四つの自由のうちの最後の言葉〔=<恐怖からの自由>〕および太平洋憲章を放棄することを示すものであった。(注12.)
 注12…第46章参照。

 〔第一三節〕 テヘランおよびさらなる七つの国家の犠牲
 第十三。第十三の、そしておそらくルーズベルトとチャーチルの政治家資格失墜を示す錯乱した迷走の最大の一つは、テヘランにおいて、一九四三年十二月になされた。ここでは、諸併合に関するモスクワ会合での黙認が〔正式に〕追認された。また、"友好的な境界線国家"の周縁部-七つの国家を覆う傀儡共産主義政権-についてのスターリンの原則〔doctrin〕が、受容された。国際的な道義や諸民族と自由な人々の独立性に関する彼ら自身の約束に忠実であるならば、ルーズベルトとチャーチルは、テヘランで、一度だけでもスターリンに確固として反対する必要があった。このときまで、これらの合意、黙認そして宥和を正当化できるだろうような、スターリンが分離した平和を作り出す、軍事的な危険は全く存在しなかった〔にもかかわらず〕。(注13.)
 注13…第47章参照。

 〔第一四節〕 ヤルタ-諸国家崩壊についての秘密協定
 第十四。正当な政治の十四度めの致命的な喪失は、ルーズベルトとチャーチルによって一九四五年の二月にヤルタでなされた。十二カ国の独立に対するスターリンの侵食のすべてが承認されたばかりではなく、一連の秘密協定でもって、何世代にもわたって世界を国際的な危険を感染させつづけるだろう不吉な力が作動してしまった。スターリンがすでに七つの国家を覆う共産主義政権を作り出していたことを知って、ルーズベルトとチャーチルは、彼らの政治家資格の失墜を隠蔽(カモフラージュ)しようとした。それには、"自由で独立した"選挙とか、"あらゆるリベラルな分野をもつ代表制"とかの言葉で表現された仕掛け(gadget)が伴っていた。テヘランでの宥和を軍事的な根拠でもって最も強く擁護する者たちですら、ヤルタでのそれをもはや擁護することができなかった。ここでは少なくとも、風格や自由な人類を追求する姿勢が、示され得たであろう。そうであれば、アメリカには、よりクリーンな手と自由な人々からの道徳的な尊敬が与えられ、残されることができていたであろう。(注14.)
 注14…第54章、第55章参照。
 
 〔第一五節〕 一九四五年五月~七月の日本の和平提案を拒絶したこと
 第十五。十五度目の正当な政治の喪失は、日本に関して、一九四五年の五月、六月そして七月に見られた。トルーマンは、日本人たちの白旗〔=降伏のサイン〕に注意することを拒絶した。ルーズベルトの「無条件降伏」に愚かにも従う義務は、トルーマンにはなかった。それ〔無条件降伏の要求〕は、欧州のアメリカ自体の軍事指導者によっても非難されていた。日本とは、ただ一つの譲歩さえすれば和平は達成できていたであろう。その一つとは、ミカド(Mikado)の地位を保全することであった。ミカドは、精神的にも世俗的にも国家の頂点にあった。その地位は、一千年にわたる日本人の宗教的信念と伝統に根ざしていた。そして、我々が最後にようやくこれに譲歩したのは、数十万人の人命が犠牲になってしまった後のことであった。(注15.)
 注15…第61章参照。

 〔第一六節〕 ポツダム
 第十六。第十六の盲目の政治を示したのは、ポツダムでのトルーマンであった。(アメリカ政治の)権力はいまや、民主主義諸国での未経験な人物たちに渡っており、〔一方、〕共産主義者たちはすべての重要な地点に進出していた。ポツダムでの合意のすべては、一連の、スターリンに対するそれまでの降伏の正当化と敷衍であった。共産主義者による併合や傀儡化のすべてが、スターリンとの関係をさらに堅くした。のみならず、ドイツやオーストリアの統治に関する諸条項は、これら両国の一部がスターリンの懐に入ってしまうようにするものであった。賠償政策の結果として、アメリカの納税者たちには怠惰なドイツ人の救済費用として数十億(ドル)の負担が課せられ、ドイツの再興、そうしてヨーロッパのそれが、数年にわたって厳しく抑えつけられることとなった。戦争捕虜に対する悪意ある奴隷化や多数の諸民族の母国地からの放逐は、ヤルタ(密約)によって裁可され敷衍された。
 これに加えて、指導者〔高官〕たちの助言に逆らって、日本に対して無条件降伏を要求する最後通牒が発せられた。その最後通牒には、アメリカの経験ある多くの専門家の意見によれば推奨されていた、ミカドの地位を維持することを許す例外条項は存在しなかった。日本人は回答としてこの点での譲歩のみを求めたのであったが、原子爆弾に遭遇した--そうして、最後に譲歩がなされた。(注16.)
 注16…第61章、第62章参照。

 〔第一七節〕 原子爆弾の投下
 第十七。アメリカの正当な政治の第十七の揺らぎは、日本人たちの上に原子爆弾を投下せよとの、トルーマンの非道徳的な命令であった。日本は繰り返し和平を求めていたのだということだけではなく、この命令は、アメリカのすべての歴史において比較のしようのない残忍な行為であった。これは、アメリカ人の良心に対して、永遠に重くのしかかるであろう。(注17.)
 注17…第62章参照。

 〔第一八節〕 毛沢東にシナを与えたこと
 第十八。正当な政治の喪失の十八度めの歩みは、シナに関してトルーマン、マーシャルおよびアチソンによってなされた。まずはルーズベルトが共産主義者〔中国共産党〕との連合政権(設立)を蒋介石に対して執拗に要求し、それにシナに関するヤルタでのおぞましい秘密協定が続いた。その密約は、モンゴルを、そして実質的には満州を、ロシアに与えるものであった。トルーマンは、彼の左翼的(left-wing)な助言者たちの主張によって、また彼らの意向を実現しようとするマーシャル将軍を任用することによって、全中国を共産主義者たちに犠牲として捧げたのである。トルーマンは、最終的には四億五千万のアジアの人々をモスクワが支配する共産主義傀儡国家〔毛沢東の中華人民共和国〕に組み入れてしまったこうした政策について、巨大な政治の過ちをしたと、査定(評価=asses)されなければならない。(注18.)
 注18…第51章、第82章参照。

 〔第一九節〕 第三次世界大戦の龍の歯(Dragon's Teeth)
 第十九。モスクワ、テヘラン、ヤルタ、ポツダムの諸会議およびシナに関する政策から、第三次世界大戦の龍の歯(Dragon's Teeth、厄災の種)が世界のいたるところにばら撒かれた。そして我々は、何年もの「冷戦」を、ついにはおぞましい朝鮮戦争を、体験することとなった。そして、アメリカが再び勝利することを危うくする、北大西洋同盟の弱々しさをも。(注19.)
 注19…第82章、第83章、第84章参照。

 〔最終節〕 結語
 この文書(諸巻)を終えるには、数行以上の文章は必要でない。私は、戦争および戦争にかかるすべての段階の政策に反対した。私は、釈明をしないし、後悔もしない。
 私はアメリカの人々に何度も、巻き込まれることに対する警告を発した。私は繰り返し、その唯一の結末は世界中に共産主義を蔓延させてしまうことだろうと述べた。我々は合衆国と全世界とを弱体化させてしまうだろう、と。今日の世界の状況は、私の正しさを証明している。
 物質的な損失や道徳的かつ政治的な大失態にもかかわらず、また国際的な愚挙にもかかわらず、アメリカ人は、我々は再び強くなるであろうという確信を持つことができる。進歩の行進はいずれまた再出発するであろう、との確信を。集団主義への漂流にもかかわらず、政府の堕落にもかかわらず、デマゴギーに溢れた知識人たちにもかかわらず、政府の腐敗と我々国民の道徳的な頽廃にもかかわらず、我々は、キリスト教精神をなおも保持している。そして、我々の科学や産業の進歩についての古くからの知恵をなおも持っている。我々は、諸学校を通じて前進している三千五百万人の、より高度の学習のために諸研究施設にいる二百五十万人の子どもたちを持っている。いつぞや、彼らの力はアメリカ人の生活にある苦難に対して勝利するであろう。より偉大なアメリカという約束は、国土中にある数百万の小家屋(cottages)に生き続けている。そこでは、青少年男女たちは、自由のために生きようとなおも決心している。彼らの心には、アメリカの精神がまだ生きている。そうした郷土(homes)から育つ青少年男女たちは、いつの日か、厄災と挫折を追い払うであろう、そして、彼らのアメリカを再び創出するであろう。
 一九五二年の共和党政権にかかる選挙は、このような方向転換の兆しである。
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Hoover: Freedom Betrayed, p.880-1〔フーバー回顧録11〕

 Hoover: Freedom Betrayed, 2011〔フーバー大統領回顧録〕の一部の試訳 11
 文書18  "政治家資格失墜〔Lost Statesmanship〕-7年に19度の-に関する省察"  1953
 第89章

 p.880
 〔第一二節〕 1943年10月にモスクワでバルト諸国と東部ポーランドを犠牲にしたこと。
 第十二。正当な政治を喪失する十二番めの過ちは、1943年10月、モスクワでの外務大臣会合において、自由な諸国民を犠牲にしたことであった。この会合では、自由とか民主政とかの言葉が使われる真っ只中で、バルト諸国、東部ポーランド、東部フィンランドおよびブコヴィナ(Bukovina)を併合しようとする周知のロシアの意図に対して、一言の異議の言葉も発せられなかった(このことを彼〔ルーズベルト?〕はヒトラーと合意していた)。この黙認は、四つの自由の最後の言葉〔=<恐怖からの自由>〕および太平洋憲章を放棄することを示すものであった。(注12.)

 注12…第46章参照。

 p.880
 〔第一三節〕 テヘランおよびさらなる七つの国家の犠牲
 第十三。第十三の、そしておそらくルーズベルトとチャーチルの政治家資格失墜を示す錯乱した迷走の最大の一つは、テヘランにおいて、1943年12月になされた。ここでは、諸併合に関するモスクワ会合での黙認が〔正式に〕追認された。また、"友好的な境界線国家"の周縁部-七つの国家を覆う傀儡共産主義政権-についてのスターリンの原則〔doctrin〕が、受容された。国際的な道義や諸民族と自由な人々の独立性に関する彼ら自身の約束に忠実であるならば、ルーズベルトとチャーチルは、テヘランで、一度だけでもスターリンに確固として反対する必要があった。このときまで、これらの合意、黙認そして宥和を正当化できるだろうような、スターリンが分離した平和を作り出す、軍事的な危険は全く存在しなかった〔にもかかわらず〕。 (注13.)

 注13…第47章参照。

 p.880-1
 〔第一四節〕 ヤルタ-諸国家崩壊についての秘密協定
 第十四。正当な政治の十四度めの致命的な喪失は、ルーズベルトとチャーチルによって1945年の2月にヤルタでなされた。十二カ国の独立に対するスターリンの侵食のすべてが承認されたばかりではなく、一連の秘密協定でもって、何世代にもわたって世界を国際的な危険に感染させつづけるだろう不吉な力が作動してしまった。スターリンがすでに七つの国家を覆う共産主義政権を作り出していたことを知って、ルーズベルトとチャーチルは、彼らの政治家資格の失墜を隠蔽(カモフラージュ)しようとした。それには、"自由で独立した"選挙とか、"あらゆるリベラルな分野をもつ代表制"とかの言葉で表現された仕掛け(gadget)が伴っていた。テヘランでの宥和を軍事的な根拠でもって最も強く擁護する者たちですら、ヤルタでのそれをもはや擁護することができなかった。ここでは少なくとも、風格や自由な人類を追求する姿勢が、示され得たであろう。そうであれば、アメリカには、よりクリーンな手と自由な人々からの道徳的な尊敬が与えられ、残されることができていたであろう。 (注14.)

 注14…第54章、第55章参照。
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 投稿者注記/藤井厳喜=稲村公望=茂木弘道・日米戦争を起こしたのは誰か-ルーズベルトの罪状・フーバー大統領回顧録を論ず(勉誠出版、2016)p.115-120, p.260-1も参照。

日本共産党の大ペテン・大ウソ18

 少し元に戻る。
 1.日本共産党がソ連を<社会主義国ではなかった>と公式かつ明確に性格づけたのは、1994年7月の第20回党大会においてだった。
 既述だが、この1994年7月まで、ソ連は「社会主義」国ではなかった、と性格づけたことは、1991年12月のソ連(の公式)解体後も、一度もなかったと見られる。
1991年12月(ほぼ1992年1月)から1994年7月第20回党大会の直前まで、上の性格づけの明言はなく、まだ曖昧にであれ「社会主義」国の一種と見ていたと理解するほかはない文献上の根拠はすでに挙げたが(2016.05.19の「07」の3②)、いま一度、もう少し詳しく紹介しておく。
 2.上記第20回党大会の2月前の 1994年5月に発行された、日本共産党中央委員会・日本共産党の七十年/下は次のように、その時点からは過去の同党大会について、叙述している。かりにすでに<「社会主義」国理解>を放棄していたとすれば、以下のような叙述にはならない、と考えられる。
 ①p.238-9- 1985年の第17回党「大会は、党綱領の内容をいっそう充実させる一部改正をおこなった」。「第一に、覇権主義の克服を綱領上の課題としてとりあげた」。「また、綱領の一部改正は、…、社会主義諸国、国際労働者階級、…、社会の社会主義的変革のためにたたかっている勢力は、『内部にそれぞれの問題点をもちながらも、社会の歴史的発展にそう活動』によって、今日の時代における『…を決定する原動力となりうるものであり』と規定し、これらの勢力が世界平和、…、社会進歩をめざして『ただしい前進と連帯をはかることが重要』と明記した。この規定は覇権主義、官僚主義などをもつ『内部にそれぞれの問題点』をもつ社会主義諸国がその誤りのゆえに世界史の発展の原動力となりえない場合のあることを意味していた。旧ソ連・東欧の体制の劇的破たんは、これらの規定の歴史的先駆性をあざやかにしめすことになった」。/〔改行〕
 「第二に、『資本主義の全般的危機』という規定を削除した。『資本主義の全般的危機』論は、①……、②社会主義体制が世界史を決定し資本主義体制の危機をふかめることを一面的に強調し、社会主義国依存の傾向をうみ、主体的力を軽視する傾向をうみがちであること、③社会主義国の一部に覇権主義の誤りがつよまり、帝国主義の態勢立て直しと延命をたすけているという情勢の変化がうまれたこと、-以上から誤った理解をうむ不適切な規定をとりのぞいた」。/〔改行〕、<第三、第四、第五および「その他」は省略>
 引用終わり。
 上のうち『』内は1985年改定綱領の中に含まれる文であり、それ以外の「」内は、1994年5月発行の上掲書自体の文章だ。1985年時点の日本共産党のソ連理解を忠実に反映しているとも言えるが、1994年5月時点で、「社会主義(諸)国」の中にソ連を含めて叙述していることは明らかだろう。
 ②p.377-8-「『社会主義崩壊』論による異常な反共攻撃と…のなかで、党は1990年7月9日から…、第19回党大会を、…ひらいた」。<中略>
 「大会は、『現存の社会主義体制をみるさい、レーニンが指導したロシア革命の最初の時期と、スターリンによる逸脱が開始されて以後の時期を区別して分析する必要がある』と指摘して、レーニンの死後『ソ連の体制は対外的には大国主義、覇権主義、国内的には官僚主義・命令主義を特徴とする政治・経済体制へと転換させられていった』ことを解明し、そのうえで『日本共産党は、……』と強調した」。<以下、略>
 引用終わり。上のうち『』内は1990年の党大会決定(または不破哲三幹部会委員長報告)の中に含まれる文であり、1990年7月時点で(ソ連共産党やソ連の解体は1991年)日本共産党がソ連を「現存の社会主義体制」の一つと見ていたことが分かるが、今のここでの文脈では重要なのは、1994年5月の日本共産党の文献が、上のように1990年時点のソ連理解をそのまま引用して「党史」を叙述していることだ。
 なお、日本共産党中央委員会・日本共産党の八十年(2003、日本共産党中央委員会出版局)は、上のような詳しい?叙述を回避している。
 3.1.不破哲三・ソ連・中国・北朝鮮-三つの覇権主義(新日本出版社、1992.11)、2.不破哲三・日本共産党に対する干渉と内通の記録-ソ連共産党秘密文書から/上・下(新日本出版社、1993.09)はいずれも、1991年12月のソ連解体と1994年7月の第20回党大会の間に書かれ、出版されている。
 注目されてよいのは、かなり分厚い上の2冊(または3冊)において、ソ連またはソ連共産党の覇権主義等々を厳しくかつ詳しく批判しながらも、ソ連は<社会主義国ではなかった>という旨の叙述は、いっさい存在しないことだ。
 かりにソ連解体後にソ連は<社会主義国ではなかった>と不破哲三または日本共産党がすでに?理解していたとすれば、上に述べたような叙述には決してならなかっただろうと思われる。
 上の1.の最初の大きなタイトルは、「ソ連共産党とたたかって三十年」だ。
 この30年とは1961年綱領・宮本賢治体制確立以降のことだと考えられるが、日本共産党・不破哲三の1994年7月第20回党大会以降の説明・主張によれば、1961年の時点でソ連はとっくに<社会主義への道>を踏み外し、<社会主義(を目指している・生成途上の)国>ではなくなっている。にもかかわらず、ソ連は<社会主義(を目指している・生成途上の)国>ではなくなっていた、そのような国家又はソ連共産党と「三十年」にわたって「たたかって」きた、というのならば、その旨がはっきりと叙述されているはずだろう。
 この点もまた、1991年12月と1994年7月の間、日本共産党はまだソ連を<社会主義国>と見ていた、あるいは少なくとも(下記の文献の一部も斟酌すれば)、ソ連共産党解散につづくソ連解体に遭遇して明瞭な見地に立ち得ず、<混乱していた>、ということの証左になる、と解される。
 4.1990年8月(日本共産党の第19回党大会の翌月)、ソ連共産党は解体した。
 日本共産党中央委員会常任幹部会は、1990年9月1日付で「大国主義・覇権主義の歴史的巨悪の党の終焉を歓迎する-ソ連共産党の解体にさいして」と題する声明を発表した。同声明は述べる。以下、日本共産党中央委員会出版局・日本共産党国際問題重要論文集23(1992.01)、p.283~による。<後日6/15に訂正ー上に記した二箇所の1990年は、いずれも正しくは1991年>
 「ソ連共産党の解体は、…を直接の契機としたものであったが、長期にわたって…に巨大な害悪を流しつづけてきた大国主義、覇権主義の党が終焉をむかえたことは、これと30年にわたって党の生死をかけてたたかってきた日本共産党として、もろ手をあげて歓迎すべき歴史的出来事である」。/〔改行〕
 「ソ連共産党が、スターリン・ブレジネフ時代から世界に及ぼしてきた大国主義、覇権主義の誤りが、二十世紀の世界史にもたらした重大な否定的影響は、はかりしれないものがあった。1940年の…、45年の…、56年の…、68年の…、79年のアフガニスタン侵略など、くりかえしおこなわれた野蛮な武力による民族自決権のじゅうりんは、ほんらい対外干渉と侵略には無縁である科学的社会主義の理念を傷つけ、平和と社会進歩のためのたたかいにおおきな混乱をもたらした」。<以下、省略>
 引用終わり。
 上のうち、まず、ソ連共産党の罪悪として「科学的社会主義の理念を傷つけ、平和と社会進歩のためのたたかいにおおきな混乱をもたらした」と(まず第一に、または基本的・総括的に)述べているにすぎないことが注目される。たんに「傷つけ」たにすぎず、「おおきな混乱」をもたらしたにすぎないのだ。
 つまりは、この声明の前提には、ソ連共産党も、(科学的)社会主義の理念を追求し、「平和と社会進歩のためのたたかい」をすべき政党だった、という見地があるものと理解して差し支えないだろう。
 したがってつぎに、この声明は(この時点ではまだ存在していた)ソ連邦は<社会主義(を目指している・生成途上の)国>ではなくなっている、という旨など、まったく述べていない、ということに注目しておかなければならない。
 1994年7月になってはじめて、上の旨を明確に述べたのだったから、上の点は当然かもしれない。しかし、ソ連共産党解体の時点で、ソ連を「(現存)社会主義国」の一つと見ていたことを、現在の日本共産党は正直に肯定しなければならない。
 なお、スターリン以後のソ連共産党およびソ連をどのように見ていたかということは、レーニンの時期との対比をどう説明していたかという、(ネップにもかかわる)第二の大きな論点に関係する。再び、上の叙述部分には言及することがあるだろう。
 5.<以下の叙述は、6/15に一部削除したうえでのもの>
 宮本顕治は、1991年1月1日付「赤旗」紙上で、年頭のインタビューに答えている。
 内容としてきわめて重大なのは、宮本のつぎの言葉だ。以下、宮本顕治・日本共産党の立場5(新日本文庫、1997.11)p.7以下の「情勢と科学的社会主義の本道」による。上記の、日本共産党国際問題重要問題集23にも収録されている。「ソ連の事態」についての質問を受けて語る中で、こう言う。
 「…残念ながら、ソ連の出口を科学的に解決できる勢力はいまのところ見あたらない。われわれはソ連の失敗は希望しないし、なんとかソ連も立ち直ってほしいと思うし、現在の経済危機も乗りこえてほといと思うわけですが、しかし、根は深いということです」(p.14)。
 以上、引用終わり。
 宮本顕治は、ソ連共産党という政党とソ連という国家をおそらくは確実に区別して、ソ連については「失敗は希望しないし、なんとか…立ち直ってほしいと思う」と明言し、1991年元旦の党の機関紙上で公にしていたのだ。
 このような言い方が、ソ連はすでに<社会主義の道から踏み外した>、<社会主義国ではもはやない>という理解から生じるはずがない。
 宮本顕治自身が、この時点で、きちんとまだ?、ソ連を「社会主義国」の一つと見ていたのだ。だからこそ、正しい姿へと「立ち直ってほしい」と明言していたわけだ。
 ここには、日本共産党の指導者の、科学的な?予見・予測能力の完璧な欠如も、示されている。宮本は、ソ連が(あるいは社会主義・ロシアが)正式に崩壊することを、全く見通せていなかった、ということになるだろう。
 また、日本共産党の常任幹部会は1991年9月にソ連共産党の解体を「もろ手をあげて歓迎」したのだったが、その一員であったはずの宮本顕治は1991年1月には、「ソ連の失敗は希望しない」と、ソ連邦については明言していたのだ。
 ところで、現在の日本共産党、あるいは不破哲三らは、1991年9月の<ソ連共産党解体歓迎声明>をもって、同党は<ソ連解体も歓迎した>というつもりでいるようだ。そのような趣旨の不破哲三らの文章に出くわすこともある。
 しかし、上の宮本顕治の言葉の論理的な延長は、<ソ連は解体(失敗)してほしくなかった。ソ連解体は残念だ>ということになるはずだ。
 だがしかし、「ソ連解体にさいして」日本共産党常任幹部会等が、上の宮本発言の論理的帰結であるような声明は出していないはずだし、また、逆に<(歴史的巨悪の?)ソ連邦の解体を歓迎する>という声明を出した痕跡もない。いったいどちらだったのだろう。
 日本共産党や同党幹部には知的または論理的な思考力や誠実さはまるでなく、もっぱら<政治的に>・<戦術的(・戦略的)に>、そのつど、無定見に、一見詳しくて、理論的?ふうの戯れ言を撒き散らしてきただけではないだろうか。
 -という、疑いをますます濃くさせる。
 もちろん、<ソ連と30年間にわたってたたかってきた>という言い分は、<大ペテン>だ。
 「社会主義国」ではないソ連や社会主義政党ではないソ連共産党と闘うのと、「社会主義国」の一つであるはずの、あるいは社会主義政党であるはずの、ソ連邦やソ連共産党と闘うのとでは、まるで意味が異なることは明白だろう。嗤ってしまう。

Hoover: Freedom Betrayed, p.878〔フーバー回顧録10〕

 Hoover: Freedom Betrayed, 2011〔フーバー大統領回顧録〕の一部の試訳 10
 文書18  "政治家資格失墜〔Lost Statesmanship〕-7年に19度の-に関する省察"  1953
 第89章
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 p.878
 〔第七節〕 スターリンとの同盟
 第七。まさにアメリカの全歴史上の最大の正当な政治の喪失は、ヒトラーが1941年6月に侵撃したときに、共産主義ロシアと隠然たる同盟関係をもったこと、そしてそれ〔共産主義ロシア〕を支援したことであった。アメリカの軍事力はイギリスを救うために必要とされていたという誤った考え方ですら、今や明らかに消失してしまった。ナツィ(Nazi)の狂熱がロシアの沼地へと方向転換したことによって、何人もイギリスとすべての西側世界の安全をもはや疑うことはできなくなっていた。この怪物的な独裁者たち〔ヒトラーとスターリン〕は、どちらが勝とうと、互いに消耗させ合うことになるはずであった。ヒトラーが軍事的勝利を得たとしてすら、ヒトラーは数年間は、隷属状態の人々を保持しようと試みる窮地に陥っていたであろう。また、ロシアは、ヒトラーが望んでいたかもしれない、いかなる種類の軍需物をも破壊した違いなかった。彼〔ヒトラー?〕自身の将軍たちも、彼の行動に反対した。
 ロシアに対するアメリカの援助は、スターリンの勝利を、かつ共産主義の世界中への蔓延を意味した。正当な政治は再び、傍観するように、歯をくいしばって油断なく備えておくように、そして彼らの相互破壊を待つように求めて、切羽つまって泣き叫んでいたのである。そのような日がやって来たとすれば、アメリカ合衆国とイギリスには、自由主義の世界に真実の平和と安全保障とをもたらすために彼らの力を用いる機会が、存在したであろう。平和を永続させるためのこれほどに大きな機会は、ある大統領にはかつて来ていなかった。その人物〔ルーズベルト〕は、しくじった。(注.6)

 注6.…第33章参照。
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 投稿者注記/藤井厳喜=稲村公望=茂木弘道・日米戦争を起こしたのは誰か-ルーズベルトの罪状・フーバー大統領回顧録を論ず(勉誠出版、2016)p.97-98, p.255も参照。

資料・史料-近衛上奏文/1945.02.14(2)

 近衛上奏文 昭和20年2月14日 (2)
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 〔09〕
 かくの如き形勢より推して考うるに、「ソ」連は、やがて日本の内政に干渉し来る危険十分ありと存ぜられ侯。(即ち共産党の公認、「ドゴール」政府、「バドリオ」政府に要求せし如く、共産主義者の入閣、治安維持法及び、防共協定の廃止等)
 〔10〕
 翻って国内を見るに、共産革命達成のあらゆる条件、日々具備せられ行く観有之侯。
 即ち生活の窮乏、労働者の発言の増大、英米に対する敵慨心昂揚の反面たる親「ソ」気分、軍部内一味の革新運動、之に便乗する所謂新官僚の運動及びこれを背後より操りつつある左翼分子の暗躍等に御座侯。
 右の内特に憂慮すべきは、軍部内一味の革新運動に御座候。
 〔11〕
 少壮軍人の多数は、我国体と共産主義は両立するものなりと信じ居るものの如く、軍部内革新論の基調も亦ここにありと存侯。
 皇族方の中にも、 此の主張に耳を傾けられるる方あり、と仄聞致し侯。
 職業軍人の大部分は、中流以下の家庭出身者にして、其の多くは共産主義主張を受け入れ易き境遇にあり、又彼等は軍隊教育に於て、国体観念だけは徹底的に叩き込まれ居るを以て、共産分子は国体と共産主義の両立論を以て、 彼等を引きずらんとしつつあるものに御座侯。
 抑々満洲事変、支那事変を起し、これを拡大して遂に大東亜戦争にまで導き来れるは、是ら軍部内の意識的計画なりしこと、今や明瞭なりと存侯。
 満洲事変当時、彼等が事変の目的は国内革新にありと公言せるは、有名なる事実に御座侯。
 支那事変当時も、「事変永引くがよろしく、事変解決せば国内革新はできなくなる」と公言せしは、此の一味の中心的人物に御座侯。
 〔12〕
 是ら軍部内一部の者の革新論の狙いは、必ずしも、共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部官僚及び民間有志(之を右翼と云うも可、左翼と云うも可なり、所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義者なり)は、 意識的に共産革命にまで引ずらんとする意図を包蔵し居り、無智単純なる軍人、之に躍らされたりと見て大過なしと存侯。
 此の事は過去十年間、軍部、官僚、右翼、左翼の多方面に亘り交友を有せし不肖が、最近静かに反省して到違したる結論にして、此の結論の鏡にかけて、過去十年間の動きを照らし見る時、そこに思い当る節々頗る多きを、感ずる次第に御座侯。
 不肖は、此の間三度まで組閣の大命を拝したるが、国内の相剋摩擦を避けんがため、出来得るだけ是ら革新論者の主張を容れて挙国一体の実を挙げんと焦慮せる結果、彼等の主張の背後に潜める意図を十分看取する能わざりしは、全く不明の致す所にして、何とも申訳無之、深く責任を感ずる次第に御座侯。
 〔13〕
 昨今戦局の危急を告ぐると共に、一億玉砕を叫ぶ声、次第に勢を加えつつありと存侯。
 かかる主張をなす者は所謂右翼者流なるも、背後より之を煽動しつつあるは、之によりて国内を混乱に陥れ、遂に革命の目釣を達せんとする共産主義分子なりと睨み居り候。
 一方に於て徹底的米英撃滅を唱う反面、親「ソ」的空気は次第に濃厚になりつつある様に御座侯。
 軍部の一部はいかなる犠牲を払いても「ソ」連と手を握るべしとさえ論ずる者もあり、又延安との提携を考え居る者もありとのごとに御座侯。
 以上の如く、国の内外を通じ、共産革命に進むべき凡ゆる好条件が日一日と成長しつつあり、今後戦局益々不利ともならばこの形勢は急速に進展致すべくと存侯。
 〔14〕
 戦局の前途につき、何か一縷でも打開の望みありと云うならば、格別なれど、敗戦必至の前提の下に論ずれば、勝利の見込なき戦争を之れ以上継続するは、全く共産党の手に乗るものと存侯。
 随って国体護持の立場よりすれば、一日も速に戦争終結の方途を講ずべきものなりと確信致し侯。
 〔15〕
 戦争終結に対する最大の障害は、満洲事変以来今日の事態にまで時局を推進し来りし軍部内のかの一味の存在なりと存候。
 彼等は已に戦争遂行の自信を失い居るも、今迄の面目上、飽くまで抵抗致すべき者と存ぜられ侯。
 もしこの一味を一掃せずして、早急に戦争終結の手を打つ時は、右翼左翼の民間有志、此の一味と対応して国内に一大波乱を惹起し、所期の目的を達成し難き恐れ有り侯。
 従って、戦争を終結せんとすれば、先ず其の前提として、此の一味の一掃が肝要に御座侯。
 此の一味さえ一掃せらるれば、便乗の官僚並びに右翼左翼の民間分子も影を潜むべく候。
 蓋し彼等は未だ大なる勢力を結成し居らず、軍部を利用して野望を達せんとするものに他ならざるが故に、其の本を絶てば、枝葉は自ら枯るるものとなりと存侯。
 〔16〕
 尚、これは少々希望的観測かは知れず侯えども、もし是ら一味が一掃せらるる時は、軍部の相貌は一変し、米英及び重慶の空気は緩和するに非ざるか。
 元来米英及び重慶の目標は、日本軍閥の打倒にありと申し居るも、軍部の性格が変り、その政策が改らぱ、彼等としても戦争の継続につき考慮する様になりはせずやと思われ侯。
 〔17〕
 それは兎も角として、此の一味を一掃し、軍部の建て直しを実行することは、共産革命より日本を救う前提、先決条件と存すれば、非常の御勇断をこそ願わしく奉り存侯。
 以上。
 -------------
 以上

資料・史料-近衛上奏文/1945.02.14(1)

 いわゆる<近衛上奏文>は秦郁彦も重きを置いておらず、「陰謀史観」を示す一つとして取り扱われている。
 しかし、数十年後には、異なる評価がなされることもありうるのではないか。
 もちろん、近衛文麿自身に変化がありえただろうことを意識しなければならないと思われる。
 以下、読みやすくするために、一文ごとに改行した。
 また、本来の改行場所との間の一段落を、山口富永・近衛上奏文と皇道派-告発・コミンテルンの戦争責任-(2010、国民新聞社)所収の資料を参考にして、〔01〕、〔02〕のような頭書を付した。
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 近衛上奏文 昭和20年2月14日 (1)
 〔01〕
 敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存侯。
 以下此の前提の下に申述べ侯、
 敗戦は我国体の瑕瑾たるべきも、英米の輿論は今日までのところ、国体の変更とまでは進み居らず、(勿論一部には過激論あり、又将来いかに変化するやは測知し難し)随て、敗戦だけならば、国体上はさまで憂うる要なしと存ず。
 国体護持の建前より最も憂うべきは、敗戦よりも、敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命に御座侯。
 〔02〕
 つらつら思うに、我国内外の情勢は、今や共産革命に向って急速に進行しつつありと存侯。
 即ち国外に於ては、「ソ」連の異常なる進出に御座侯。
 我国民は「ソ」連の意図は的確に把握し居らず、 かの一九三五年人民戦線戦術、即ち二段革命戦術採用以来、殊に最近「コミンテルン」解散以来、赤化の危険を軽視する傾向顕著なるが、これは皮相且つ安易なる見方と存侯。
 「ソ」連は究極に於て世界赤化政策を捨てざるは、最近欧州諸国に対する露骨なる策動により明瞭となりつつある次第に御座侯。
 〔03〕
 ソ連は欧州に於て其の局辺諸国には「ソヴィエート」的政権を、爾余の諸国には少くとも親「ソ」容共政権を樹立せんとし、着々其の工作を進め、現に大部分成功を見つつある現状に有之侯。
 〔04〕
 「ユーゴー」の「チトー」政権は、その最も典型的な具体表現に御座侯。
 波蘭〔ポーランド〕に対しては、 予め「ソ」連内に準備せる波蘭愛国者連盟を中心に新政権を樹立し、在英亡命政権を問題とせず押切申し侯が、羅馬尼〔ルーマニア〕、勃牙利〔ブルガリア〕、芬蘭〔フィンランド〕に対する休戦条件を見るに、内政不干渉の原則に立ちつつ「ヒットラー」支持団体の解散を要求し、実際上「ソヴィエート」政権に非ざれば、存在し得ざる如く強要致し侯。
 〔05〕
  「イラン」に対しては、石油利権の要求に応ぜざるの故を以て、内閣総辞職を強要致し侯。
 端西〔スウェーデン〕が「ソ」連との国交開始を提議せるに対し、ソ連は端西政権を以て、親枢軸的なりとて一蹴し、之がため外相の辞職を余儀なくせしめ侯。
 〔06〕
 占頷下の仏蘭西〔フランス〕、白耳義〔ベルギー〕、和蘭〔オランダ〕に於ては、対独戦に利用せる武装蜂起団と政府との間に深刻なる斗争が続けられ、且つ是ら諸国は、何れも政治的危機に見舞われつつあり。
 而して是ら武装団を指導しつつあるものは、主として共産系に御座侯。
 独逸〔ドイツ〕に対しては波蘭に於けると同じく已に準備せる自由ドイツ委員会を中心に、新政権を樹立せんとする意図なるべく、これは英米に取り今日頭痛の種なりと存ぜられ侯。
 〔07〕
 「ソ」連はかくの如く、欧州諸国に対し、表面は内政不干渉の足場を取るも、事実に於ては、極度の内政干渉をなし、国内政治を親「ソ」的方向に引きずらんと致し居り候。
 〔08〕
 「ソ」連の此の意図は東亜に対しても亦同様にして、現に延安には「モスコー」より来れる岡野〔野坂参三〕を中心に、日本解放連盟組織せられ、朝鮮独立同盟、朝鮮義勇軍、台湾先鋒隊等と連絡、日本に呼びかけ居り候。
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 <つづく>

Hoover: Freedom Betrayed, p.877〔フーバー回顧録09〕

 Hoover: Freedom Betrayed, 2011〔フーバー大統領回顧録〕の一部の試訳 09
 文書18  "政治家資格失墜〔Lost Statesmanship〕-7年に19度の-に関する省察"  1953
 第89章

 p.877
 〔第四節〕 一九三九年にイギリス・フランスがポーランドとルーマニアを保証したこと
 第四。正当な政治の第四の深刻な喪失は、イギリスとフランスが一九三九年の三月にポーランドとルーマニアの独立を保証(garantee)したときになされた。まさにそのとき、欧州の民主主義諸国は、ヒトラーとスターリンの間の不可避の戦争から手を引くという従来の政策を変更したのであった。
 このことは、欧州の勢力外交の全歴史のうちで、おそらくは最大の過ちであった。イギリスとフランスは、ポーランドを侵略から救い出す力を持っていなかった。しかし、この行為〔独立の保証〕によって、彼らは民主主義の政体〔ポーランド・ルーマニア〕をヒトラーとスターリンの間に投げ込んだ。彼らのこの行為によって、彼らはスターリンをヒトラーから守っただけではなく、スターリンに自らの影響力を最も高価な買い手に売ることができるようにした。(イギリスとフランスという)同盟国は入札したが、スターリンが示したのは、よるべない人々が住むバルト諸国および東部ポーランドの併合という、同盟国がとても応じることのできない人道的な対価であった。スターリンは、ヒトラーからその対価を獲得したのである〔=ヒトラーが入札に勝ったのである〕。
だがヒトラーは、南東ヨーロッパにまで膨張し、モスクワの共産主義者の聖地(Vatican)を破壊するという決心を放棄するつもりはまったくなかった。しかし今は、ヒトラーはやむなくも、まずは西側民主主義諸国を無力化しなければならない、そしてそのように進め始めた。
 おぞましい第二次世界大戦の長い連鎖〔列車〕は、ポーランドの保証というこの過ちから出発した。ルーズベルトはこうした勢力外交にいくばくか参加していた。しかし、それがどの程度であったかを測定するには、諸記録文書があまりに不完全すぎる。チャーチルは、まだ政権に入っていなかったが、ミュンヘンでの宥和(-政策)のあとの絶望的な行為へとチェンバレンを駆り立てることによって、何がしかの寄与をなした。(注3.)

 注3…第18章、第19章、第27章参照。

 投稿者注記/藤井厳喜=稲村公望=茂木弘道・日米戦争を起こしたのは誰か-ルーズベルトの罪状・フーバー大統領回顧録を論ず(勉誠出版、2016)p.88-91, p.253-4.も参照。

Hoover: Freedom Betrayed, p.875-6〔フーバー回顧録08〕

 Hoover: Freedom Betrayed, 2011〔フーバー大統領回顧録〕の一部の試訳 08
 文書18  "政治家資格失墜〔Lost Statesmanship〕-7年に19度の-に関する省察"  1953
 第89章

 p.875-6
 〔第一節〕 一九三三年の世界経済会議
 第一。ルーズベルトが国際的な政治家資格を失墜するに至った第一回め(でかつ重要なもの)は、一九三三年の世界経済会議を破壊したことであった。この会議は英国の首相・マクドナルドと私自身〔フーバー〕が準備したもので、一九三三年一月に開催することになっていた。ルーズベルトが(大統領に)選出されたため、六月に延期された。あの頃、世界は全世界的不況からまさに回復し始めていた。しかし、世界はひどい通貨戦争に引き込まれており、貿易障壁を拡大していた。初期の仕事は、専門家たちによってなされていた。ルーズベルトは十名の首相たちをワシントンに呼び集め、国家間の決済における金標準(本位)制を復活することに合意した。〔にもかかわらず、〕この会議の途中で突然に、ルーズベルトはこうした企図を覆し(「爆弾投下))、会議を挫折させ、達成したものが何もないままで死に至らしめた。ルーズベルト自身の国務長官であったハルは、この行為こそが第二次世界大戦の根源であったと、明白に非難した。(注1.)
 注1…第1章参照(編者〔G.H.ナッシュ〕注記-この文書の脚注はすべてフーバーによるものである。)

 p.876
 〔第二節〕 一九三三年に共産主義ロシアを承認したこと
 第二。ルーズベルトにおける第二の正当な政治の喪失は、一九三三年に共産主義ロシアを(国家として)承認したことにあった。四代の大統領たちと五代の国務長官たちが-民主党であれ共和党であれ-(国際共産主義の目的全体と手法に関する知見をもって)このような行為〔国家としての承認〕を拒否していた。共産主義者たちは宗教的誠実さ、人間の自由および諸民族の独立を破壊する胚種を運び込むことによってアメリカ合衆国に侵透することができるだろうと、彼らは知っていたし、そう言った。ソヴィエト・ロシアを(国家として)承認することは他諸国の間での威信と力をそれ〔ロシア〕に与えるであろうと、彼らは考えていた。共産主義者たちは我々〔アメリカ合衆国〕の国境内部では悪辣なことをしないという、ルーズベルトと共産主義たちとの間の幼稚な合意のすべては、四八時間も経たないうちに、履行不能の登録簿に載ってしまった。共産主義者たちと仲間の旅人たちの長い車列は、行政部の高いレベルにまで入り込んだ。第五列の活動が、国全体に広がった。こうして、ルーズベルトが大統領職にあった一二年の間に、長く続く国家叛逆的な諸行為がなされたのである。(注2.)
 注2…第2章参照。

 投稿者注記/藤井厳喜=稲村公望=茂木弘道・日米戦争を起こしたのは誰か-ルーズベルトの罪状・フーバー大統領回顧録を論ず(勉誠出版、2016)p.74-82, p.251-2.も参照。

Hoover: Freedom Betrayed, p.881-2〔フーバー回顧録07〕

 Hoover: Freedom Betrayed, 2011〔フーバー大統領回顧録〕の一部の試訳 07
 文書18  "政治家資格失墜〔Lost Statesmanship〕-7年に19度の-に関する省察"  1953
 第89章

 p.881-2
 〔第十六節〕 ポツダム
 第十六。第十六の盲目の政治を示したのは、ポツダムでのトルーマンであった。(アメリカ政治の)権力はいまや、民主主義諸国での未経験な人物たちに渡っており、〔一方、〕共産主義者たちはすべての重要な地点に進出していた。ポツダムでの合意のすべては、スターリンに対するそれまでの降伏の一連の正当化と敷衍であった。共産主義者による併合や傀儡化のすべてが、スターリンとの関係をさらに堅くした。のみならず、ドイツやオーストリアの統治に関する諸条項は、これら両国の一部がスターリンの懐に入ってしまうようにするものであった。賠償政策の結果として、アメリカの納税者たちには怠惰なドイツ人の救済費用として数十億(ドル)の負担が課せられ、ドイツの再興、そうしてヨーロッパのそれが、数年にわたって厳しく抑えつけられることとなった。戦争捕虜に対する悪意ある奴隷化や多数の諸民族の母国地からの放逐は、ヤルタ(密約)によって裁可され敷衍された。
 これに加えて、指導者〔高官〕たちの助言に逆らって、日本に対して無条件降伏を要求する最後通牒が発せられた。その最後通牒には、アメリカの経験ある多くの専門家の意見が推奨していた、ミカドの地位を維持することを許す例外条項は存在しなかった。日本人は回答としてこの点での譲歩のみを求めたのであったが、原子爆弾に遭遇した--そうして、最後に譲歩がなされた。(注16.)
 注16…第61章、第62章参照。

 p.882
 〔第十七節〕 原子爆弾を投下したこと
 第十七。アメリカの正当な政治の第十七の揺らぎは、日本人たちの上に原子爆弾を投下せよとの、トルーマンの非道徳的な命令であった。日本は繰り返し和平を求めていたのだということだけではなく、この命令は、アメリカのすべての歴史において比較のしようのない残忍な行為であった。これは、アメリカ人の良心に対して、永遠に重くのしかかるであろう。(注17.)
 注17…第62章参照。

 p.882
 〔第十八節〕 毛沢東にシナを与えたこと
 第十八。正当な政治の喪失の十八度めの歩みは、シナに関してトルーマン、マーシャルおよびアチソンによってなされた。まずはルーズベルトが共産主義者〔中国共産党〕との連立政府〔の樹立〕を蒋介石に対して固執して要求し、シナに関するヤルタでのおぞましい秘密協定がそれに続いた。その密約は、モンゴルを、そして実質的には満州を、ロシアに与えるものであった。トルーマンは、彼の左翼的(left-wing)な助言者たちの主張によって、また彼らの意向を実現しようとするマーシャル将軍を任用することによって、全中国を共産主義者たちに犠牲として捧げたのだ。最終的には4億5000万のアジアの人々をモスクワが支配する共産主義傀儡国家〔毛沢東の中華人民共和国〕に組み入れてしまったこうした政策について、トルーマンは政治の巨大な過ちをしたと、査定(評価=asses)されなければならない。(注18.)
 注18…第51章、第82章参照。

 p.882
 〔第十九節〕 第三次世界大戦の龍の歯(Dragon's Teeth)
 第十九。モスクワ、テヘラン、ヤルタ、ポツダムの諸会議およびシナに関する政策から、第三次世界大戦の龍の歯(Dragon's Teeth、厄災の種)が世界のいたるところにばら撒かれた。そして我々は、何年もの「冷戦」を、ついにはおぞましい朝鮮戦争を、体験することとなった。そして、アメリカが再び勝利することを危うくする、北大西洋同盟の弱々しさをも。(注19.)
 注19…第82章、第83章、第84章参照。
 
 投稿者注記/藤井厳喜=稲村公望=茂木弘道・日米戦争を起こしたのは誰か-ルーズベルトの罪状・フーバー大統領回顧録を論ず(勉誠出版、2016)p.124-133, p.262-4.も参照。

Hoover: Freedom Betrayed, p.879-881〔フーバー回顧録06〕

 Hoover: Freedom Betrayed, 2011〔フーバー大統領回顧録〕の一部の試訳 06
 文書18  "政治家資格失墜〔Lost Statesmanship〕-7年に19度の-に関する省察"  1953
 第89章

 p.879-880
 〔第十一節〕 無条件降伏を要求したこと
 ルーズベルトの政治における第十一の巨大な過ちは、1943年1月にカサブランカで「無条件降伏」を要求したことであった。そこではルーズベルトは、我々の軍隊の助言なく、チャーチルの助言すらなくして、新聞一面の見出し(headline)〔「無条件降伏」が新聞に大きく取り上げられること〕を狙っていた。この要求は、全敵国の軍国主義者や扇動家に入り込んだ、そしてドイツ、日本およびイタリアとの戦争を長引かせた。最後には、降伏の際の大きな譲歩が日本とイタリアの両国には与えられた。〔一方、〕この要求は、ドイツ人がナチスを除去したとするならば、彼らには和平へのいかなる希望も与えなかった。苦難の結末となる戦争は、ドイツが再建するための基礎らしきものの一切を、残さなかったのである。 (注11.)
 注11…第42章参照。

 投稿者注記/藤井厳喜=稲村公望=茂木弘道・日米戦争を起こしたのは誰か-ルーズベルトの罪状・フーバー大統領回顧録を論ず(勉誠出版、2016)p.111-, p.259-.も参照。 

 p.881
 〔第十五節〕 1945年5月-7月の日本の和平提案を拒絶したこと
 第十五。十五度目の正当な政治の喪失は、日本に関して、1945年の5月、6月そして7月に見られた。トルーマンは、日本人たちの白旗〔=降伏のサイン〕に注意することを拒絶した。ルーズベルトの「無条件降伏」に愚かにも従う義務は、トルーマンにはなかった。それ〔無条件降伏の要求〕は、欧州のアメリカ自体の軍事指導者によっても非難されていた。日本とは、ただ一つの譲歩さえすれば和平は達成できていたであろう。その一つとは、ミカドの地位を保全することであった。ミカドは、精神的にも非宗教的にも国家の頂点にあった。その地位は、一千年にわたる日本人の宗教的信念と伝統に根ざしていた。そして、我々が最後にようやくこの点に譲歩したのは、数十万の人命が犠牲になってしまった後のことであった。(注15.)
 注15…第61章参照。

  投稿者注記/藤井厳喜ほか・上掲書p.120-, p.261-2も参照。

Hoover: Freedom Betrayed, p.879〔フーバー回顧録05〕

 Hoover: Freedom Betrayed, 2011〔フーバー大統領回顧録〕の一部の試訳 05
 文書18  "政治家資格失墜〔Lost Statesmanship〕-7年に19度の-に関する省察"  1953
 第89章

 p.879
 〔第十節〕 三ヶ月の冷却期間をおく日本との合意の受諾を拒絶したこと
 第十。第十の正当な政治の喪失は、1941年11月に、三ヶ月の冷却期間をおくことを合意しようという、彼の大使が知らせた日本の天皇からの提案の受諾を拒絶したことであった。我々の軍官僚たちは、ルーズベルトに対して受諾するように強く働きかけた。そのとき日本は、ロシアが同盟国・ヒトラーに対して勝利するかもしれないと警戒していた。九〇日間の引き延ばし(delay)があれば、日本は戦意をすべて喪失していたであろう、そして太平洋には戦争が生じないままだったであろう。スティムソン日記が明らかにしたように、ルーズベルトとその官僚たちは、日本人たちが明白な犯行をするように挑発する方法を探していたのである。こうして、ハルは馬鹿げた最後通牒(ultimatum)を発し、我々はパール・ハーバーで敗北した。
 全南アジアの日本占領地域における継続した損失と日本の勝利は、計算できなかったものであった。さらに、制海権を失ったので、ヒトラーとTogoは、我々の海岸線から見えるところで我々の船舶を破壊することが可能であった。(注10.)
 注10…第38章、第39章参照。

 投稿者注記/藤井厳喜=稲村公望=茂木弘道・日米戦争を起こしたのは誰か-ルーズベルトの罪状・フーバー大統領回顧録を論ず(勉誠出版、2016)p.106-, p.258-.も参照。上のTogoは、Tojo=東條が正確だと見られる。〕

Hoover: Freedom Betrayed, p.878-9〔フーバー回顧録04〕

 Hoover: Freedom Betrayed, 2011〔フーバー大統領回顧録〕の一部の試訳 04
 文書18  "政治家資格失墜〔Lost Statesmanship〕-7年に19度の-に関する省察"  1953
 第89章

 p.878-9
 〔第八節〕 日本に対する1941年7月の経済制裁
 第八。ルーズベルトの政治における第八の巨大な過ちは、一ヶ月のち、1941年7月末の、日本に対する全面的経済制裁だった。この制裁は、砲弾発射を除くすべての意味(本質)における戦争だった。ルーズベルトは再三にわたって自分の部下から、このような挑発は遅かれ早かれ戦争への報復を生み出すだろうとの警告を受けていた。(注7.)
 注7…第37章参照。

 投稿者注記/藤井厳喜=稲村公望=茂木弘道・日米戦争を起こしたのは誰か-ルーズベルトの罪状・フーバー大統領回顧録を論ず(勉誠出版、2016)p.99, p.256も参照。

 〔第九節〕 近衛の和平提案の受諾を拒絶したこと
  第九。1941年9月の、太平洋平和のための近衛首相の和平提案をルーズベルトが侮蔑的に拒絶したことによって、第九の正当な政治の喪失が完全になされた。近衛の諸提案を受諾するように、アメリカやイギリスの日本駐在大使たちは祈るような気持ちで強く働きかけていた。近衛が提案した諸条件に従えば、おそらくは満州(注8)の返還を除いて、アメリカはすべての目的を達成したことになっていたであろう。その満州返還ですら、まだ議論する余地を残していた。 皮肉家(犬儒学者)は、ルーズベルトはこの些末な問題をきっかけにして大きな戦争を起こそうと意図していた、そして共産主義ロシアに満州を与えた、と想起するであろう。(注9.)
 注8…満州はすでに、1933年5月31のタンクー(Tang-Ku)合意においてシナによって日本に譲与されていた。
 注9…第38章参照。

 投稿者注記/藤井厳喜ほか・上掲書p.102-4も参照。

Hoover: Freedom Betrayed, p.877-8〔フーバー回顧録03〕

 Hoover: Freedom Betrayed, 2011〔フーバー大統領回顧録〕の一部の試訳 03

 文書18  "政治家資格失墜〔Lost Statesmanship〕-7年に19度の-に関する省察"  1953

 第89章
 p.877-8
 〔第五節〕 合衆国の宣告なき戦争
 第五。政治家としての第五の大失敗は、1941年の冬にルーズーベルトが合衆国をドイツと日本との宣告なき戦争に放り込んだときだった。それは、数週間前に彼が選出された大統領選挙の際の公約に全く違反していた。注4.
 注4…第30章参照。

 投稿者注記/下掲書p.93の指摘のように、上の1941年は、正しくは1940年だと見られる。

 〔第六節」 慎重な待機策をとらなかった過ち
 第六。レンド・リース法〔軍需用品貸与法〕の(施行)前、そして軍事費がアメリカの人々の肩にに課される前の数週の間に、ルーズベルトは、ヒトラーがロシアを攻撃しようと決意していることを明確に知った。そして彼は、そのことをロシアに知らせた。彼はドイツとの宣告なき戦争を回避すべきであった。また、レンド・リース法(の適用)を、軍需品、糧食や船舶を購入するための金融支援という、イギリスに対する単純な援助に限定するべきだった。そうすれば、国際法の範囲内にとどまったままでいた。正当な政治〔 Statesmanship〕は、あの瞬間において、粛然として、注意深く待機する政策をとることを要求していたのである。注5.
 注5…第32章参照。

 投稿者注記/藤井厳喜=稲村公望=茂木弘道・日米戦争を起こしたのは誰か-ルーズベルトの罪状・フーバー大統領回顧録を論ず(勉誠出版、2016)p.95-96、p.254-5も参照。

Hoover: Freedom Betrayed, p.876-7〔フーバー回顧録02〕

 Hoover: Freedom Betrayed, 2011〔フーバー大統領回顧録〕の一部の試訳 02

 文書18  "政治家資格失墜〔Lost Statesmanship〕-7年に19度の-に関する省察"  1953
 89章

 p.876-7
 〔第三節〕 ミュンヘン
 第三。私は、つぎの理由では、ズデーテンのドイツ人たちを帝国〔ドイツ帝国=ヒトラー・ナチス〕に譲り渡す1938年9月のミュンヘン協定を非難する気にはなれない。それ〔譲渡〕はベルサイユ条約により生じたおぞましい財産で、同条約からしてそれは不可避だったのだ、という理由では。しかしながら、ミュンヘン協定によって、ヒトラーは、ロシアを侵攻するというその再三の決意を達成する諸ゲートを開いたのだ。〔ルーズベルトによる〕正当な政治の喪失〔Lost Statesmanship〕は、独裁者たち〔ヒトラーとスターリン〕の間の不可避の戦争に備えることから離れてしまい、そして、怪物たち〔monsters=ヒトラーとスターリン〕がお互いを殺し合うのを止めようとしていた。 
 <「第三節」おわり>

 投稿者注記/藤井厳喜=稲村公望ほか・日米戦争を起こしたのは誰か-ルーズベルトの罪状・フーバー大統領回顧録を論ず(勉誠出版、2016)p.253の「仮の訳」(稲村公望)と比較参照。同p.84-88も参照。

 

Hoover: Freedom Betrayed, p.875〔フーバー回顧録01〕

 Hoover: Freedom Betrayed, 2011〔フーバー大統領回顧録〕の一部の試訳 01

 p.875
 文書18  "政治家資格失墜〔Lost Statesmanship〕-7年に19度の-に関する省察"  1953
 <編集者による8行の記述あり>
 89章
 〔序節〕 政治家資格失墜-7年に19度の-に関する省察
 世界に生起したすべての惨害についてヒトラーとスターリンを非難することによって、なおもルーズベルトとトルーマンを擁護する人々がいる。彼ら〔ヒトラーとスターリン〕が人間の歴史における悪魔的で不吉な人物だったことには、何らの論証も必要としない。
 しかしながら、彼ら〔ヒトラーとスターリン〕との交渉におけるアメリカやイギリスでの正当な政治の喪失〔Lost Statesmanship〕についていかなる省察をしても、歴史の弁明の余地はない。この(正当な政治の喪失という)巨大な過ちがなければ、この惨害は西側世界に生じ得なかったであろう。
 私は、この錯綜した諸行為の中で読者が、何がありいつあったか〔what and when〕 に対する責任がいったい誰にあるのかを忘れてしまうことのないように、以下に、主要な出来事を列挙〔list〕することとする。私は読者に、この回想録中の諸章を注記する。そこ(その諸章)には、彼らが有罪であるとする事実と理由が述べられている。
 <「序節」おわり>

 投稿者注記-藤井厳喜=稲村公望=茂木弘道・日米戦争を起こしたのは誰か-ルーズベルトの罪状・フーバー大統領回顧録を論ず(勉誠出版、2016)p.250-1の「仮の訳」(稲村公望)と比較参照。Lost Statesmanshipの訳し方については、同書p.71-72も参照。
 

安保法案「違憲」論は憲法学者の「学問」か-1。

 しばらく、安保法制整備法案に対する<違憲論>について、それに対する批判的コメントを続けてみよう。
 池田信夫がいうように非専門家または一般国民からすれば「神学」的な、魑魅魍魎の?議論かもしれないが、一部憲法学者さまたちの「違憲」論が一種の<政局>的現象を生じさせているとあっては、無視するわけにはいかない。
 一 まず、そもそも現憲法九条の条文・文言と現在提出されている、「集団的自衛権行使容認憲法解釈」を前提とするという今次の安保法制整備法案とを比較対照させて、簡単にあるいは断定的に<違憲>だと言えるのだろうか、という疑問がわく。一般国民的感覚からすれば、そのことこそが奇妙に感じられる。憲法学者というのは、条文・文言の背後にある規範的意味内容をさほどに明確に取り出せる魔術を持ち、トリックを使える者なのか。
 現憲法は「自衛(権)」という語を用いず、そのための実力行使・それを行なう組織についての言及もしていない。そのことから、いかなる(日本の主権、国土と国民の安全を守るための)「自衛」措置も、「自衛」組織の設立も違憲だと断じるのならば、問題は簡単だ。今次の法案は「自衛」権、そして「自衛隊」の存在を前提としているがゆえに、ただちに違憲となる。
 しかし、言うまでもなく、長谷部恭男たちや昨年07月の「集団的自衛権行使容認閣議決定」への抗議声明に参加した(そして今次の法案にも反対している)憲法学者たちは、上のような立論をしているわけではない。
 とすれば、そしてこの学者たちが憲法解釈上も日本国家に固有の(自然の)「自衛権」を否認していないとすれば、その「自衛権」の行使の程度・範囲・態様等々について、どこまでが合憲で、どこからが違憲なのか、という線引きをしていなければならなくなる。
 長谷部恭男、小林節、笹田榮司および森英樹、樋口陽一らの憲法学者たちは、上の問題についての自らの憲法解釈およびその適用の具体例を、憲法学者ならば積極的に示すべきだろう。そのことをしていないとすれば、学者の怠慢なのではないか。
 二 もちろん、憲法学者のかなり多くが、もともとは自衛隊設置(法律)から始まって、いわゆる有事立法・周辺事態法、自衛隊イラク派遣法等々に反対してきており、その際に当然ながら憲法九条との抵触を指摘してきたことを知っている。つまり自分たちの上の点についての憲法解釈・適用を積極的に示すというよりも、自民党を中心とする(自衛隊設置はそれ以前の<保守>諸政党だが)政権側の諸法律案に反対する・制定に抵抗することに力を注いできたことは分かる。その際に、今次にも見られるように、いわば防戦的に、言葉・概念にかかわる細かな指摘・主張をするとともに、<時の政権の恣意的な解釈を許す>、<「戦争」に巻き込まれるおそれがある>等々と憲法学者たちも述べてきたのだった。
 自衛隊も、有事立法等々も、もちもと「左翼」憲法学者たちにとっては違憲だったのではないか? また、これらの諸法律は、何らかの内閣による<憲法解釈>=「政府解釈」を前提として、その「政府解釈」を立法府・国会による<憲法解釈>にしてきたものだった。もはやたんなる「政府解釈」ではなくなっている。国会も行なったいわば「国会解釈」になっている(これを覆すことができるのは裁判所、とくに最高裁判所だけだ)。
 上の二点はとりあえずさておき、再び論及するだろう。
 三 北側一雄(公明党副代表)が6/11の衆院憲法審査会で語ったらしいように、自衛隊そのものや安保条約ではなく「憲法9条と自衛措置の限界について突き詰めた議論」が憲法学界・憲法学者たちの間でなされてきた、とはとても思えない。上述のように、<「自衛権」の行使の程度・範囲・態様等々について、どこまでが合憲で、どこからが違憲なのか>という問題に積極的に回答することを憲法学者たちはしてこなかった、と思われる。そして、たんに自民党・政府側の動き・法案は憲法九条(・その精神)に反して違憲だとか、違憲の疑いがある、とか言ってきたわけだ。
 この機会に、この欄に引用・掲載している日本共産党系憲法学者たちの2014.07声明にも言及するが、この声明をあらためて読むと、「集団的自衛権行使容認」は憲法九条違反だとは明確には、または断定的には述べていないことに気づく。
 長年にわたって継続した政府解釈を変更するのは「国民的議論」を欠いた「暴挙」だとか、「従来の政府見解から明白に逸脱」だとか言って批判しているが、とくに後者について言えば、政府解釈を<変更>すると安倍内閣は明言しているのだから、従来の政府解釈から「逸脱」するところがあるのは当然で、何ら批判になっていない(原文作成者は頭が悪いのではないか)。
 そして、「憲法9条の根本的変質」に他ならないとも言っている。ここで憲法九条が登場するが、この表現は、現憲法九条に違反する、と明言するものではなく、それよりも弱い表現だ。要するに、この声明ですら、集団的自衛権行使容認は憲法九条違反とは明言・断定していないとも解される。
 では、長谷部恭男らは、今次の、上の解釈にのっとった(そして従前から予定されていた)安保法案は<違憲だ>となぜ、明言・断定できるのか。
 ここで、いわゆる個別的自衛権と集団的自衛権の区別の問題が出てくる。
 四 長谷部恭男は6/04の憲法審査会での発言ののち、6/09の<読売オンライン>上の「国民の生死”をこの政権に委ねるのか?/集団的自衛権―憲法解釈変更の問題点」で、自らの見解を記している。
 かかる論考を掲載する読売新聞はさすがに太っ腹で(?)、例えば「憲法学者が見た審査会」という小特集で、長谷部を擁護する憲法学者のみを二人登場させて、そのインタビュー内容を掲載している6/12の朝日新聞とは大違いだ。
 上のことはさておき、長谷部恭男は上の中で「タバコ」吸引のことを例に挙げたあとで、集団的自衛権行使否認という従来の憲法解釈の変更は「立憲主義を覆す」ものだ、とまで述べている。こういう批判の仕方は上記の日本共産党系学者たちの声明の中には明記されていないようだが、しばしば見られる。また、長谷部恭男は、憲法審査会で、<法的安定性を害する>とも語ったようだ。
 「タバコ」吸引のことを例にとれば、長谷部恭男の言っていることは、次のような、「僕ちゃんよい子」のダダッ子の言葉のようだ。
 <長い間、タバコ喫煙は20歳にならないと許されないと執拗にかつ厳しく言われて、そのとおりだと納得してじっと我慢してきたのに、急に18歳から喫煙可能だと言うなんて、僕が従ってきたルールを勝手に破るもので、僕の内心の(精神的)安定性をひどく害するものだ。
 もちろん、もっと説明が必要だ。次回に行なう。

 
 

資料・史料/2015.06.09<安保法案と憲法>政府見解(2)

 他国の武力の行使との一体化の回避について
                         平成27年6月9日
                         内 閣 官 房
                         内 閣 法 制 局
 1 いわゆる「他国の武力の行使との一体化」の考え方は、我が国が行う他国の軍隊に対する補給、輸送等、それ自体は直接武力の行使を行う活動ではないが、他の者の行う武力の行使への関与の密接性等から、我が国も武力の行使をしたとの法的評価を受ける場合があり得るというものであり、そのような武力の行使と評価される活動を我が国が行うことは、憲法第9条により許されないという考え方であるが、これは、いわば憲法上の判断に関する当然の事理を述べたものである。
  2 我が国の活動が、他国の武力の行使と一体化するかの判断については、従来から、①戦闘活動が行われている、又は行われるようとしている地点と当該行動がなされる場所との地理的関係、②当該行動等の具体的内容、③他国の武力の行使の任に当たる者との関係の密接性、④協力しようとする相手の活動の現況等の諸般の事情を総合的に勘案して、個々的に判断するとしている。
 3 今般の法整備は、従来の「非戦闘地域」や「後方地域」といった枠組みを見直し、
  (1) 我が国の支援対象となる他国軍隊が「現に戦闘行為を行っている現場」では、支援活動は実施しない。
  (2) 仮に、状況変化により、我が国が支援活動を実施している場所が「現に戦闘行為を行っている現場」となる場合には、直ちにそこで実施している支援活動を休止又は中断する。
 という、「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」(平成26年7月1日閣議決定)で示された考え方に立ったものであるが、これまでの「一体化」についての考え方自体を変えるものではなく、これによって、これまでと同様に、「一体化」の回避という憲法上の要請は満たすものと考えている。
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資料・史料/2015.04.29安倍首相アメリカ議会演説

 2015.04.29/安倍晋三首相アメリカ議会演説(全文)
   2015年04月29日(アメリカ東部時間)
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 ■はじめに
 議長、副大統領、上院議員、下院議員の皆様、ゲストと、すべての皆様、1957年6月、日本の首相としてこの演台に立った私の祖父、岸信介は、次のように述べて演説を始めました。
 「日本が、世界の自由主義国と提携しているのも、民主主義の原則と理想を確信しているからであります」。以来58年、このたびは上下両院合同会議に日本国首相として初めてお話する機会を与えられましたことを、光栄に存じます。お招きに、感謝申し上げます。
 申し上げたいことはたくさんあります。でも「フィリバスター」(長時間演説による議事妨害)をする意図、能力ともに、ありません。皆様を前にして胸中を去来しますのは、日本が大使としてお迎えした偉大な議会人のお名前です。
 マイク・マンスフィールド、ウォルター・モンデール、トム・フォーリー、そしてハワード・ベーカー。民主主義の輝くチャンピオンを大使として送って下さいましたことを、日本国民を代表して、感謝申し上げます。
 キャロライン・ケネディ大使も、米国民主主義の伝統を体現する方です。大使の活躍に、感謝申し上げます。私ども、残念に思いますのは、ダニエル・イノウエ上院議員がこの場においでにならないことです。日系アメリカ人の栄誉とその達成を、一身に象徴された方でした。
 ■アメリカと私
 私個人とアメリカとの出会いは、カリフォルニアで過ごした学生時代にさかのぼります。家に住まわせてくれたのは、キャサリン・デル・フランシア夫人。寡婦でした。亡くした夫のことを、いつもこう言いました、「ゲイリー・クーパーより男前だったのよ」と。心から信じていたようです。
 ギャラリーに、私の妻、昭恵がいます。彼女が日ごろ、私のことをどう言っているのかはあえて聞かないことにします。デル・フランシア夫人のイタリア料理は、世界一。彼女の明るさと親切は、たくさんの人をひきつけました。その人たちがなんと多様なこと。「アメリカは、すごい国だ」。驚いたものです。
 のち、鉄鋼メーカーに就職した私は、ニューヨーク勤務の機会を与えられました。
 上下関係にとらわれない実力主義。地位や長幼の差に関わりなく意見を戦わせ、正しい見方ならちゅうちょなく採用する。
 この文化に毒されたのか、やがて政治家になったら、先輩大物議員たちに、アベは生意気だと随分言われました。
 ■アメリカ民主主義と日本
 私の名字ですが、「エイブ」ではありません。アメリカの方に時たまそう呼ばれると、悪い気はしません。民主政治の基礎を、日本人は、近代化を始めてこのかた、ゲティズバーグ演説の有名な一節に求めてきたからです。
 農民大工の息子が大統領になれる――、そういう国があることは、19世紀後半の日本を、民主主義に開眼させました。日本にとって、アメリカとの出会いとは、すなわち民主主義との遭遇でした。出会いは150年以上前にさかのぼり、年季を経ています。
 ■第2次大戦メモリアル
 先刻私は、第2次大戦メモリアルを訪れました。神殿を思わせる、静謐(せいひつ)な場所でした。耳朶(じだ)を打つのは、噴水の、水の砕ける音ばかり。一角にフリーダム・ウォールというものがあって、壁面には金色の、4000個を超す星が埋め込まれている。その星一つ、ひとつが、斃(たお)れた兵士100人分の命を表すと聞いたとき、私を戦慄が襲いました。
 金色(こんじき)の星は、自由を守った代償として、誇りのシンボルに違いありません。しかしそこには、さもなければ幸福な人生を送っただろうアメリカの若者の、痛み、悲しみが宿っている。家族への愛も。
 真珠湾、バターン・コレヒドール、珊瑚海……、メモリアルに刻まれた戦場の名が心をよぎり、私はアメリカの若者の、失われた夢、未来を思いました。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。私は深い悔悟を胸に、しばしその場に立って、黙とうをささげました。
 親愛なる、友人の皆さん、日本国と、日本国民を代表し、先の戦争に斃れた米国の人々の魂に、深い一礼をささげます。とこしえの、哀悼をささげます。
 ■かつての敵、今日の友
 みなさま、いまギャラリーに、ローレンス・スノーデン海兵隊中将がお座りです。70年前の2月、23歳の海兵隊大尉として中隊を率い、硫黄島に上陸した方です。近年、中将は、硫黄島で開く日米合同の慰霊祭にしばしば参加してこられました。こう、おっしゃっています。
 「硫黄島には、勝利を祝うため行ったのではない、行っているのでもない。その厳かなる目的は、双方の戦死者を追悼し、栄誉をたたえることだ」
 もうおひとかた、中将の隣にいるのは、新藤義孝国会議員。かつて私の内閣で閣僚を務めた方ですが、この方のおじいさんこそ、勇猛がいまに伝わる栗林忠道大将・硫黄島守備隊司令官でした。これを歴史の奇跡と呼ばずして、何をそう呼ぶべきでしょう。
 熾烈(しれつ)に戦い合った敵は、心の紐帯(ちゅうたい)が結ぶ友になりました。スノーデン中将、和解の努力を尊く思います。ほんとうに、ありがとうございました。
 ■アメリカと戦後日本
 戦後の日本は、先の大戦に対する痛切な反省を胸に、歩みを刻みました。自らの行いが、アジア諸国民に苦しみを与えた事実から目をそむけてはならない。これらの点についての思いは、歴代首相と全く変わるものではありません。
 アジアの発展にどこまでも寄与し、地域の平和と、繁栄のため、力を惜しんではならない。自らに言い聞かせ、歩んできました。この歩みを、私は、誇りに思います。焦土と化した日本に、子ども達の飲むミルク、身につけるセーターが、毎月毎月、米国の市民から届きました。山羊も、2036頭、やってきました。
 米国が自らの市場を開け放ち、世界経済に自由を求めて育てた戦後経済システムによって、最も早くから、最大の便益を得たのは、日本です。下って1980年代以降、韓国が、台湾が、東南アジア諸国連合(ASEAN)諸国が、やがて中国が勃興します。今度は日本も、資本と、技術を献身的に注ぎ、彼らの成長を支えました。一方米国で、日本は外国勢として2位、英国に次ぐ数の雇用を作り出しました。
 ■環太平洋経済連携協定(TPP)
 こうして米国が、次いで日本が育てたものは、繁栄です。そして繁栄こそは、平和の苗床です。日本と米国がリードし、生い立ちの異なるアジア太平洋諸国に、いかなる国の恣意的な思惑にも左右されない、フェアで、ダイナミックで、持続可能な市場をつくりあげなければなりません。
 太平洋の市場では、知的財産がフリーライドされてはなりません。過酷な労働や、環境への負荷も見逃すわけにはいかない。許さずしてこそ、自由、民主主義、法の支配、私たちが奉じる共通の価値を、世界に広め、根づかせていくことができます。
 その営為こそが、TPPにほかなりません。しかもTPPには、単なる経済的利益を超えた、長期的な、安全保障上の大きな意義があることを、忘れてはなりません。
 経済規模で、世界の4割、貿易量で、世界の3分の1を占める一円に、私たちの子や、孫のために、永続的な「平和と繁栄の地域」をつくりあげていかなければなりません。日米間の交渉は、出口がすぐそこに見えています。米国と、日本のリーダーシップで、TPPを一緒に成し遂げましょう。
 ■強い日本へ、改革あるのみ
 実は……、いまだから言えることがあります。20年以上前、関税貿易一般協定(GATT)農業分野交渉の頃です。血気盛んな若手議員だった私は、農業の開放に反対の立場をとり、農家の代表と一緒に、国会前で抗議活動をしました。
 ところがこの20年、日本の農業は衰えました。農民の平均年齢は10歳上がり、いまや66歳を超えました。
 日本の農業は、岐路にある。生き残るには、いま、変わらなければなりません。私たちは、長年続いた農業政策の大改革に立ち向かっています。60年も変わらずにきた農業協同組合の仕組みを、抜本的に改めます。
 世界標準にのっとって、コーポレート・ガバナンスを強めました。医療・エネルギーなどの分野で、岩盤のように固い規制を、私自身が槍(やり)の穂先となりこじあけてきました。人口減少を反転させるには、何でもやるつもりです。女性に力をつけ、もっと活躍してもらうため、古くからの慣習を改めようとしています。
 日本はいま、「クォンタム・リープ(量子的飛躍)」のさなかにあります。親愛なる、上院、下院議員の皆様、どうぞ、日本へ来て、改革の精神と速度を取り戻した新しい日本を見てください。日本は、どんな改革からも逃げません。ただ前だけを見て構造改革を進める。この道のほか、道なし。確信しています。
 ■戦後世界の平和と、日本の選択
 親愛なる、同僚の皆様、戦後世界の平和と安全は、アメリカのリーダーシップなくして、ありえませんでした。省みて私が心から良かったと思うのは、かつての日本が、明確な道を選んだことです。その道こそは、冒頭、祖父の言葉にあったとおり、米国と組み、西側世界の一員となる選択にほかなりませんでした。
 日本は、米国、そして志を共にする民主主義諸国とともに、最後には冷戦に勝利しました。この道が、日本を成長させ、繁栄させました。そして今も、この道しかありません。
 ■地域における同盟のミッション
 私たちは、アジア太平洋地域の平和と安全のため、米国の「リバランス」(再均衡)を支持します。徹頭徹尾支持するということを、ここに明言します。
 日本はオーストラリア、インドと、戦略的な関係を深めました。ASEANの国々や韓国と、多面にわたる協力を深めていきます。日米同盟を基軸とし、これらの仲間が加わると、私たちの地域は格段に安定します。日本は、将来における戦略的拠点の一つとして期待されるグアム基地整備事業に、28億ドルまで資金協力を実施します。
 アジアの海について、私がいう3つの原則をここで強調させてください。第1に、国家が何か主張をするときは、国際法にもとづいてなすこと。第2に、武力や威嚇は、自己の主張のため用いないこと。そして第3に、紛争の解決は、あくまで平和的手段によること。
 太平洋から、インド洋にかけての広い海を、自由で、法の支配が貫徹する平和の海にしなければなりません。そのためにこそ、日米同盟を強くしなくてはなりません。私たちには、その責任があります。
 日本はいま、安保法制の充実に取り組んでいます。実現のあかつき、日本は、危機の程度に応じ、切れ目のない対応が、はるかによくできるようになります。この法整備によって、自衛隊と米軍の協力関係は強化され、日米同盟は、より一層堅固になります。それは地域の平和のため、確かな抑止力をもたらすでしょう。
 戦後、初めての大改革です。この夏までに、成就させます。ここで皆様にご報告したいことがあります。一昨日、ケリー国務長官、カーター国防長官は、私たちの岸田外相、中谷防衛相と会って、協議をしました。いま申し上げた法整備を前提として、日米がそのもてる力をよく合わせられるようにする仕組みができました。一層確実な平和を築くのに必要な枠組みです。
 それこそが、日米防衛協力の新しいガイドラインにほかなりません。昨日、オバマ大統領と私は、その意義について、互いに認め合いました。皆様、私たちは、真に歴史的な文書に、合意をしたのです。
 ■日本が掲げる新しい旗
 1990年代初め、日本の自衛隊は、ペルシャ湾で機雷の掃海に当たりました。後、インド洋では、テロリストや武器の流れを断つ洋上作戦を、10年にわたって支援しました。その間、5万人にのぼる自衛隊員が、人道支援や平和維持活動に従事しました。カンボジア、ゴラン高原、イラク、ハイチや南スーダンといった国や、地域においてです。
 これら実績をもとに、日本は、世界の平和と安定のため、これまで以上に責任を果たしていく。そう決意しています。そのために必要な法案の成立を、この夏までに、必ず実現します。
 国家安全保障に加え、人間の安全保障を確かにしなくてはならないというのが、日本の不動の信念です。人間一人ひとりに、教育の機会を保障し、医療を提供し、自立する機会を与えなければなりません。紛争下、常に傷ついたのは、女性でした。わたしたちの時代にこそ、女性の人権が侵されない世の中を実現しなくてはいけません。
 自衛隊員が積み重ねてきた実績と、援助関係者たちがたゆまず続けた努力と、その両方の蓄積は、いまやわたしたちに、新しい自己像を与えてくれました。いまや私たちが掲げるバナーは、「国際協調主義にもとづく、積極的平和主義」という旗です。繰り返しましょう、「国際協調主義にもとづく、積極的平和主義」こそは、日本の将来を導く旗印となります。
 テロリズム、感染症、自然災害や、気候変動――。日米同盟は、これら新たな問題に対し、ともに立ち向かう時代を迎えました。日米同盟は、米国史全体の、4分の1以上に及ぶ期間続いた堅牢(けんろう)さを備え、深い信頼と、友情に結ばれた同盟です。自由世界第一、第二の民主主義大国を結ぶ同盟に、この先とも、新たな理由付けは全く無用です。それは常に、法の支配、人権、そして自由を尊ぶ、価値観を共にする結びつきです。
 ■未来への希望
 まだ高校生だったとき、ラジオから流れてきたキャロル・キングの曲に、私は心を揺さぶられました。
 「落ち込んだ時、困った時、……目を閉じて、私を思って。私は行く。あなたのもとに。たとえそれが、あなたにとっていちばん暗い、そんな夜でも、明るくするために」
 2011年3月11日、日本に、いちばん暗い夜がきました。日本の東北地方を、地震と津波、原発の事故が襲ったのです。そして、そのときでした。米軍は、未曽有の規模で救難作戦を展開してくれました。本当にたくさんの米国人の皆さんが、東北の子供たちに、支援の手を差し伸べてくれました。
 私たちには、トモダチがいました。被災した人々と、一緒に涙を流してくれた。そしてなにものにもかえられない、大切なものを与えてくれた。希望、です。米国が世界に与える最良の資産、それは、昔も、今も、将来も、希望であった、希望である、希望でなくてはなりません。
 米国国民を代表する皆様。私たちの同盟を、「希望の同盟」と呼びましょう。アメリカと日本、力を合わせ、世界をもっとはるかに良い場所にしていこうではありませんか。希望の同盟――。一緒でなら、きっとできます。ありがとうございました。
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1301/資料・史料/2015.05.25「慰安婦」問題歴史学関係団体声明。

 「慰安婦」問題に関する日本の歴史学会・歴史教育者団体の声明

 『朝日新聞』による2014年8月の記事取り消しを契機として、日本軍「慰安婦」強制連行の事実が根拠を失ったかのような言動が、一部の政治家やメディアの間に見られる。われわれ日本の歴史学会・歴史教育者団体は、こうした不当な見解に対して、以下の3つの問題を指摘する。
 第一に、日本軍が「慰安婦」の強制連行に関与したことを認めた日本政府の見解表明(河野談話)は、当該記事やそのもととなった吉田清治による証言を根拠になされたものではない。したがって、記事の取り消しによって河野談話の根拠が崩れたことにはならない。強制連行された「慰安婦」の存在は、これまでに多くの史料と研究によって実証されてきた。強制連行は、たんに強引に連れ去る事例(インドネシア・スマラン、中国・山西省で確認、朝鮮半島にも多くの証言が存在)に限定されるべきではなく、本人の意思に反した連行の事例(朝鮮半島をはじめ広域で確認)も含むものと理解されるべきである。
 第二に、「慰安婦」とされた女性は、性奴隷として筆舌に尽くしがたい暴力を受けた。近年の歴史研究は、動員過程の強制性のみならず、動員された女性たちが、人権を蹂躙された性奴隷の状態に置かれていたことを明らかにしている。さらに、「慰安婦」制度と日常的な植民地支配・差別構造との連関も指摘されている。たとえ性売買の契約があったとしても、その背後には不平等で不公正な構造が存在したのであり、かかる政治的・社会的背景を捨象することは、問題の全体像から目を背けることに他ならない。
 第三に、一部マスメディアによる、「誤報」をことさらに強調した報道によって、「慰安婦」問題と関わる大学教員とその所属機関に、辞職や講義の中止を求める脅迫などの不当な攻撃が及んでいる。これは学問の自由に対する侵害であり、断じて認めるわけにはいかない。
 日本軍「慰安婦」問題に関し、事実から目をそらす無責任な態度を一部の政治家やメディアがとり続けるならば、それは日本が人権を尊重しないことを国際的に発信するに等しい。また、こうした態度が、過酷な被害に遭った日本軍性奴隷制度の被害者の尊厳を、さらに蹂躙することになる。今求められているのは、河野談話にもある、歴史研究・教育をとおして、かかる問題を記憶にとどめ、過ちをくり返さない姿勢である。
 当該政治家やメディアに対し、過去の加害の事実、およびその被害者と真摯に向き合うことを、あらためて求める。
 2015年 5月25日
 歴史学関係16団体
 日本歴史学協会/大阪歴史学会/九州歴史科学研究会/専修大学歴史学会/総合女性史学会/朝鮮史研究会幹事会/東京学芸大学史学会/東京歴史科学研究会/名古屋歴史科学研究会/日本史研究会/日本史攷究会/日本思想史研究会(京都)/福島大学史学会/歴史科学協議会/歴史学研究会/歴史教育者協議会
    

1293/資料・史料-防衛省サイトより「憲法と自衛権」等。

 防衛省・自衛隊のHPトップから、>防衛省の取組>防衛省の政策>防衛政策>防衛の基本的考え方>憲法と自衛権と下がって、現在の「憲法と自衛権」等に関する考え方が説明されている。資料・史料の一つとしておくが、現在誰でも閲覧できる、かつ現用の考え方または「解釈」で、2014年7月閣議決定による新しい解釈も組み込まれ、「武力の行使」(「戦争」ではない)の「新三要件」への言及もある。
 現在の後半国会で、政府側はここで示されている理解・解釈を基礎にして答弁等をするはずだ(矛盾していると指弾されることになろう)。
 以下の内容は、自衛「戦争」は認められず、自衛目的のものであれ「戦力」保持も許されないという憲法九条解釈を前提にしている。
 なお、より正確な政府解釈の内容は、個々の文書・答弁に即して、通常の理解力さえあれば、正確に確認することができる。いずれ、より詳細で正確なものを掲載しつつ、コメントをしておく予定だ。
 「前項の目的」とは<侵略戦争等否定・自衛戦争等容認>という趣旨・目的のことだと理解しつつ、そのような前提に政府解釈は立っておらず、この文言に政府解釈は意味を認めていない、という説明の仕方をしてきた。但し、「前項の目的」自体に厳密には二つ(又は三つ)の解釈がありえ、政府解釈は上のような(侵略戦争等と自衛戦争等の区別という)前提には立っていないが、「前項の目的」について別の理解をしているようであることも、その際に述べる。
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 1.憲法と自衛権
 わが国は、第二次世界大戦後、再び戦争の惨禍を繰り返すことのないよう決意し、平和国家の建設を目指して努力を重ねてきました。恒久の平和は、日本国民の念願です。この平和主義の理想を掲げる日本国憲法は、第9条に戦争放棄、戦力不保持、交戦権の否認に関する規定を置いています。もとより、わが国が独立国である以上、この規定は、主権国家としての固有の自衛権を否定するものではありません。政府は、このようにわが国の自衛権が否定されない以上、その行使を裏づける自衛のための必要最小限度の実力を保持することは、憲法上認められると解しています。このような考えに立ち、わが国は、憲法のもと、専守防衛をわが国の防衛の基本的な方針として実力組織としての自衛隊を保持し、その整備を推進し、運用を図ってきています。
 2.憲法第9条の趣旨についての政府見解
 (1)保持できる自衛力
 わが国が憲法上保持できる自衛力は、自衛のための必要最小限度のものでなければならないと考えています。その具体的な限度は、その時々の国際情勢、軍事技術の水準その他の諸条件により変わり得る相対的な面があり、毎年度の予算などの審議を通じて国民の代表者である国会において判断されます。憲法第9条第2項で保持が禁止されている「戦力」にあたるか否かは、わが国が保持する全体の実力についての問題であって、自衛隊の個々の兵器の保有の可否は、それを保有することで、わが国の保持する実力の全体がこの限度を超えることとなるか否かにより決められます。
 しかし、個々の兵器のうちでも、性能上専ら相手国国土の壊滅的な破壊のためにのみ用いられる、いわゆる攻撃的兵器を保有することは、直ちに自衛のための必要最小限度の範囲を超えることとなるため、いかなる場合にも許されません。たとえば、大陸間弾道ミサイル(ICBM:Intercontinental Ballistic Missile)、長距離戦略爆撃機、攻撃型空母の保有は許されないと考えています。
 (2)憲法第9条のもとで許容される自衛の措置
 今般、2014(平成26)年7月1日の閣議決定において、憲法第9条のもとで許容される自衛の措置について、次のとおりとされました。
 憲法第9条はその文言からすると、国際関係における「武力の行使」を一切禁じているように見えますが、憲法前文で確認している「国民の平和的生存権」や憲法第13条が「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」は国政の上で最大の尊重を必要とする旨定めている趣旨を踏まえて考えると、憲法第9条が、わが国が自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置を採ることを禁じているとは到底解されません。一方、この自衛の措置は、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として初めて容認されるものであり、そのための必要最小限度の「武力の行使」は許容されます。これが、憲法第9条のもとで例外的に許容される「武力の行使」について、従来から政府が一貫して表明してきた見解の根幹、いわば基本的な論理であり、1972(昭和47)年10月14日に参議院決算委員会に対し政府から提出された資料「集団的自衛権と憲法との関係」に明確に示されているところです。
 この基本的な論理は、憲法第9条のもとでは今後とも維持されなければなりません。
 これまで政府は、この基本的な論理のもと、「武力の行使」が許容されるのは、わが国に対する武力攻撃が発生した場合に限られると考えてきました。しかし、パワーバランスの変化や技術革新の急速な進展、大量破壊兵器などの脅威などによりわが国を取り巻く安全保障環境が根本的に変容し、変化し続けている状況を踏まえれば、今後他国に対して発生する武力攻撃であったとしても、その目的、規模、態様などによっては、わが国の存立を脅かすことも現実に起こり得ます。
 わが国としては、紛争が生じた場合にはこれを平和的に解決するために最大限の外交努力を尽くすとともに、これまでの憲法解釈に基づいて整備されてきた既存の国内法令による対応や当該憲法解釈の枠内で可能な法整備などあらゆる必要な対応を採ることは当然ですが、それでもなおわが国の存立を全うし、国民を守るために万全を期す必要があります。
 こうした問題意識のもとに、現在の安全保障環境に照らして慎重に検討した結果、わが国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において、これを排除し、わが国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、必要最小限度の実力を行使することは、従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置として、憲法上許容されると考えるべきであると判断するに至りました。
 わが国による「武力の行使」が国際法を遵守して行われることは当然ですが、国際法上の根拠と憲法解釈は区別して理解する必要があります。憲法上許容される上記の「武力の行使」は、国際法上は、集団的自衛権が根拠となる場合があります。この「武力の行使」には、他国に対する武力攻撃が発生した場合を契機とするものが含まれますが、憲法上は、あくまでもわが国の存立を全うし、国民を守るため、すなわち、わが国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置として初めて許容されるものです。
 ■憲法第9条のもとで許容される自衛の措置としての「武力の行使」の新三要件
 ◯ わが国に対する武力攻撃が発生したこと、またはわが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること
 ◯ これを排除し、わが国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと
 ◯ 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと
 (3)自衛権を行使できる地理的範囲
 わが国が自衛権の行使としてわが国を防衛するため必要最小限度の実力を行使できる地理的範囲は、必ずしもわが国の領土、領海、領空に限られませんが、それが具体的にどこまで及ぶかは個々の状況に応じて異なるので、一概には言えません。
 しかし、武力行使の目的をもって武装した部隊を他国の領土、領海、領空に派遣するいわゆる海外派兵は、一般に自衛のための必要最小限度を超えるものであり、憲法上許されないと考えています。
 (4)交戦権
 憲法第9条第2項では、「国の交戦権は、これを認めない。」と規定していますが、ここでいう交戦権とは、戦いを交える権利という意味ではなく、交戦国が国際法上有する種々の権利の総称であって、相手国兵力の殺傷と破壊、相手国の領土の占領などの権能を含むものです。一方、自衛権の行使にあたっては、わが国を防衛するため必要最小限度の実力を行使することは当然のこととして認められており、たとえば、わが国が自衛権の行使として相手国兵力の殺傷と破壊を行う場合、外見上は同じ殺傷と破壊であっても、それは交戦権の行使とは別の観念のものです。ただし、相手国の領土の占領などは、自衛のための必要最小限度を超えるものと考えられるので、認められません。
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 2015年05月21日現在

1250/資料・史料/安全保障法制整備・閣議決定-2014.07.01。

 資料・史料
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 国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について

 平成26年07月01日 国家安全保障会議決定 閣議決定


 我が国は、戦後一貫して日本国憲法の下で平和国家として歩んできた。専守防衛に徹し、他国に脅威を与えるような軍事大国とはならず、非核三原則を守るとの基本方針を堅持しつつ、国民の営々とした努力により経済大国として栄え、安定して豊かな国民生活を築いてきた。また、我が国は、平和国家としての立場から、国際連合憲章を遵守しながら、国際社会や国際連合を始めとする国際機関と連携し、それらの活動に積極的に寄与している。こうした我が国の平和国家としての歩みは、国際社会において高い評価と尊敬を勝ち得てきており、これをより確固たるものにしなければならない。
 一方、日本国憲法の施行から67年となる今日までの間に、我が国を取り巻く安全保障環境は根本的に変容するとともに、更に変化し続け、我が国は複雑かつ重大な国家安全保障上の課題に直面している。国際連合憲章が理想として掲げたいわゆる正規の「国連軍」は実現のめどが立っていないことに加え、冷戦終結後の四半世紀だけをとっても、グローバルなパワーバランスの変化、技術革新の急速な進展、大量破壊兵器や弾道ミサイルの開発及び拡散、国際テロなどの脅威により、アジア太平洋地域において問題や緊張が生み出されるとともに、脅威が世界のどの地域において発生しても、我が国の安全保障に直接的な影響を及ぼし得る状況になっている。さらに、近年では、海洋、宇宙空間、サイバー空間に対する自由なアクセス及びその活用を妨げるリスクが拡散し深刻化している。もはや、どの国も一国のみで平和を守ることはできず、国際社会もまた、我が国がその国力にふさわしい形で一層積極的な役割を果たすことを期待している。
 政府の最も重要な責務は、我が国の平和と安全を維持し、その存立を全うするとともに、国民の命を守ることである。我が国を取り巻く安全保障環境の変化に対応し、政府としての責務を果たすためには、まず、十分な体制をもって力強い外交を推進することにより、安定しかつ見通しがつきやすい国際環境を創出し、脅威の出現を未然に防ぐとともに、国際法にのっとって行動し、法の支配を重視することにより、紛争の平和的な解決を図らなければならない。
 さらに、我が国自身の防衛力を適切に整備、維持、運用し、同盟国である米国との相互協力を強化するとともに、域内外のパートナーとの信頼及び協力関係を深めることが重要である。特に、我が国の安全及びアジア太平洋地域の平和と安定のために、日米安全保障体制の実効性を一層高め、日米同盟の抑止力を向上させることにより、武力紛争を未然に回避し、我が国に脅威が及ぶことを防止することが必要不可欠である。その上で、いかなる事態においても国民の命と平和な暮らしを断固として守り抜くとともに、国際協調主義に基づく「積極的平和主義」の下、国際社会の平和と安定にこれまで以上に積極的に貢献するためには、切れ目のない対応を可能とする国内法制を整備しなければならない。
 5月15日に「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」から報告書が提出され、同日に安倍内閣総理大臣が記者会見で表明した基本的方向性に基づき、これまで与党において協議を重ね、政府としても検討を進めてきた。今般、与党協議の結果に基づき、政府として、以下の基本方針に従って、国民の命と平和な暮らしを守り抜くために必要な国内法制を速やかに整備することとする。
 1.武力攻撃に至らない侵害への対処
 (1)我が国を取り巻く安全保障環境が厳しさを増していることを考慮すれば、純然たる平時でも有事でもない事態が生じやすく、これにより更に重大な事態に至りかねないリスクを有している。こうした武力攻撃に至らない侵害に際し、警察機関と自衛隊を含む関係機関が基本的な役割分担を前提として、より緊密に協力し、いかなる不法行為に対しても切れ目のない十分な対応を確保するための態勢を整備することが一層重要な課題となっている。
 (2)具体的には、こうした様々な不法行為に対処するため、警察や海上保安庁などの関係機関が、それぞれの任務と権限に応じて緊密に協力して対応するとの基本方針の下、各々の対応能力を向上させ、情報共有を含む連携を強化し、具体的な対応要領の検討や整備を行い、命令発出手続を迅速化するとともに、各種の演習や訓練を充実させるなど、各般の分野における必要な取組を一層強化することとする。
 (3)このうち、手続の迅速化については、離島の周辺地域等において外部から武力攻撃に至らない侵害が発生し、近傍に警察力が存在しない場合や警察機関が直ちに対応できない場合(武装集団の所持する武器等のために対応できない場合を含む。)の対応において、治安出動や海上における警備行動を発令するための関連規定の適用関係についてあらかじめ十分に検討し、関係機関において共通の認識を確立しておくとともに、手続を経ている間に、不法行為による被害が拡大することがないよう、状況に応じた早期の下令や手続の迅速化のための方策について具体的に検討することとする。
 (4)さらに、我が国の防衛に資する活動に現に従事する米軍部隊に対して攻撃が発生し、それが状況によっては武力攻撃にまで拡大していくような事態においても、自衛隊と米軍が緊密に連携して切れ目のない対応をすることが、我が国の安全の確保にとっても重要である。自衛隊と米軍部隊が連携して行う平素からの各種活動に際して、米軍部隊に対して武力攻撃に至らない侵害が発生した場合を想定し、自衛隊法第95条による武器等防護のための「武器の使用」の考え方を参考にしつつ、自衛隊と連携して我が国の防衛に資する活動(共同訓練を含む。)に現に従事している米軍部隊の武器等であれば、米国の要請又は同意があることを前提に、当該武器等を防護するための自衛隊法第95条によるものと同様の極めて受動的かつ限定的な必要最小限の「武器の使用」を自衛隊が行うことができるよう、法整備をすることとする。

 2.国際社会の平和と安定への一層の貢献
 (1)いわゆる後方支援と「武力の行使との一体化」
 ア いわゆる後方支援と言われる支援活動それ自体は、「武力の行使」に当たらない活動である。例えば、国際の平和及び安全が脅かされ、国際社会が国際連合安全保障理事会決議に基づいて一致団結して対応するようなときに、我が国が当該決議に基づき正当な「武力の行使」を行う他国軍隊に対してこうした支援活動を行うことが必要な場合がある。一方、憲法第9条との関係で、我が国による支援活動については、他国の「武力の行使と一体化」することにより、我が国自身が憲法の下で認められない「武力の行使」を行ったとの法的評価を受けることがないよう、これまでの法律においては、活動の地域を「後方地域」や、いわゆる「非戦闘地域」に限定するなどの法律上の枠組みを設定し、「武力の行使との一体化」の問題が生じないようにしてきた。
 イ こうした法律上の枠組みの下でも、自衛隊は、各種の支援活動を着実に積み重ね、我が国に対する期待と信頼は高まっている。安全保障環境が更に大きく変化する中で、国際協調主義に基づく「積極的平和主義」の立場から、国際社会の平和と安定のために、自衛隊が幅広い支援活動で十分に役割を果たすことができるようにすることが必要である。また、このような活動をこれまで以上に支障なくできるようにすることは、我が国の平和及び安全の確保の観点からも極めて重要である。
 ウ 政府としては、いわゆる「武力の行使との一体化」論それ自体は前提とした上で、その議論の積み重ねを踏まえつつ、これまでの自衛隊の活動の実経験、国際連合の集団安全保障措置の実態等を勘案して、従来の「後方地域」あるいはいわゆる「非戦闘地域」といった自衛隊が活動する範囲をおよそ一体化の問題が生じない地域に一律に区切る枠組みではなく、他国が「現に戦闘行為を行っている現場」ではない場所で実施する補給、輸送などの我が国の支援活動については、当該他国の「武力の行使と一体化」するものではないという認識を基本とした以下の考え方に立って、我が国の安全の確保や国際社会の平和と安定のために活動する他国軍隊に対して、必要な支援活動を実施できるようにするための法整備を進めることとする。
 (ア)我が国の支援対象となる他国軍隊が「現に戦闘行為を行っている現場」では、支援活動は実施しない。
 (イ)仮に、状況変化により、我が国が支援活動を実施している場所が「現に戦闘行為を行っている現場」となる場合には、直ちにそこで実施している支援活動を休止又は中断する。
 (2)国際的な平和協力活動に伴う武器使用
 ア 我が国は、これまで必要な法整備を行い、過去20年以上にわたり、国際的な平和協力活動を実施してきた。その中で、いわゆる「駆け付け警護」に伴う武器使用や「任務遂行のための武器使用」については、これを「国家又は国家に準ずる組織」に対して行った場合には、憲法第9条が禁ずる「武力の行使」に該当するおそれがあることから、国際的な平和協力活動に従事する自衛官の武器使用権限はいわゆる自己保存型と武器等防護に限定してきた。
 イ 我が国としては、国際協調主義に基づく「積極的平和主義」の立場から、国際社会の平和と安定のために一層取り組んでいく必要があり、そのために、国際連合平和維持活動(PKO)などの国際的な平和協力活動に十分かつ積極的に参加できることが重要である。また、自国領域内に所在する外国人の保護は、国際法上、当該領域国の義務であるが、多くの日本人が海外で活躍し、テロなどの緊急事態に巻き込まれる可能性がある中で、当該領域国の受入れ同意がある場合には、武器使用を伴う在外邦人の救出についても対応できるようにする必要がある。
 ウ 以上を踏まえ、我が国として、「国家又は国家に準ずる組織」が敵対するものとして登場しないことを確保した上で、国際連合平和維持活動などの「武力の行使」を伴わない国際的な平和協力活動におけるいわゆる「駆け付け警護」に伴う武器使用及び「任務遂行のための武器使用」のほか、領域国の同意に基づく邦人救出などの「武力の行使」を伴わない警察的な活動ができるよう、以下の考え方を基本として、法整備を進めることとする。
 (ア)国際連合平和維持活動等については、PKO参加5原則の枠組みの下で、「当該活動が行われる地域の属する国の同意」及び「紛争当事者の当該活動が行われることについての同意」が必要とされており、受入れ同意をしている紛争当事者以外の「国家に準ずる組織」が敵対するものとして登場することは基本的にないと考えられる。このことは、過去20年以上にわたる我が国の国際連合平和維持活動等の経験からも裏付けられる。近年の国際連合平和維持活動において重要な任務と位置付けられている住民保護などの治安の維持を任務とする場合を含め、任務の遂行に際して、自己保存及び武器等防護を超える武器使用が見込まれる場合には、特に、その活動の性格上、紛争当事者の受入れ同意が安定的に維持されていることが必要である。
 (イ)自衛隊の部隊が、領域国政府の同意に基づき、当該領域国における邦人救出などの「武力の行使」を伴わない警察的な活動を行う場合には、領域国政府の同意が及ぶ範囲、すなわち、その領域において権力が維持されている範囲で活動することは当然であり、これは、その範囲においては「国家に準ずる組織」は存在していないということを意味する。
 (ウ)受入れ同意が安定的に維持されているかや領域国政府の同意が及ぶ範囲等については、国家安全保障会議における審議等に基づき、内閣として判断する。
 (エ)なお、これらの活動における武器使用については、警察比例の原則に類似した厳格な比例原則が働くという内在的制約がある。

 3.憲法第9条の下で許容される自衛の措置
 (1)我が国を取り巻く安全保障環境の変化に対応し、いかなる事態においても国民の命と平和な暮らしを守り抜くためには、これまでの憲法解釈のままでは必ずしも十分な対応ができないおそれがあることから、いかなる解釈が適切か検討してきた。その際、政府の憲法解釈には論理的整合性と法的安定性が求められる。したがって、従来の政府見解における憲法第9条の解釈の基本的な論理の枠内で、国民の命と平和な暮らしを守り抜くための論理的な帰結を導く必要がある。
 (2)憲法第9条はその文言からすると、国際関係における「武力の行使」を一切禁じているように見えるが、憲法前文で確認している「国民の平和的生存権」や憲法第13条が「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」は国政の上で最大の尊重を必要とする旨定めている趣旨を踏まえて考えると、憲法第9条が、我が国が自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置を採ることを禁じているとは到底解されない。一方、この自衛の措置は、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として初めて容認されるものであり、そのための必要最小限度の「武力の行使」は許容される。これが、憲法第9条の下で例外的に許容される「武力の行使」について、従来から政府が一貫して表明してきた見解の根幹、いわば基本的な論理であり、昭和47年10月14日に参議院決算委員会に対し政府から提出された資料「集団的自衛権と憲法との関係」に明確に示されているところである。この基本的な論理は、憲法第9条の下では今後とも維持されなければならない。
 (3)これまで政府は、この基本的な論理の下、「武力の行使」が許容されるのは、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られると考えてきた。しかし、冒頭で述べたように、パワーバランスの変化や技術革新の急速な進展、大量破壊兵器などの脅威等により我が国を取り巻く安全保障環境が根本的に変容し、変化し続けている状況を踏まえれば、今後他国に対して発生する武力攻撃であったとしても、その目的、規模、態様等によっては、我が国の存立を脅かすことも現実に起こり得る。我が国としては、紛争が生じた場合にはこれを平和的に解決するために最大限の外交努力を尽くすとともに、これまでの憲法解釈に基づいて整備されてきた既存の国内法令による対応や当該憲法解釈の枠内で可能な法整備などあらゆる必要な対応を採ることは当然であるが、それでもなお我が国の存立を全うし、国民を守るために万全を期す必要がある。こうした問題意識の下に、現在の安全保障環境に照らして慎重に検討した結果、我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において、これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、必要最小限度の実力を行使することは、従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置として、憲法上許容されると考えるべきであると判断するに至った。
 (4)我が国による「武力の行使」が国際法を遵守して行われることは当然であるが、国際法上の根拠と憲法解釈は区別して理解する必要がある。憲法上許容される上記の「武力の行使」は、国際法上は、集団的自衛権が根拠となる場合がある。この「武力の行使」には、他国に対する武力攻撃が発生した場合を契機とするものが含まれるが、憲法上は、あくまでも我が国の存立を全うし、国民を守るため、すなわち、我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置として初めて許容されるものである。
 (5)また、憲法上「武力の行使」が許容されるとしても、それが国民の命と平和な暮らしを守るためのものである以上、民主的統制の確保が求められることは当然である。政府としては、我が国ではなく他国に対して武力攻撃が発生した場合に、憲法上許容される「武力の行使」を行うために自衛隊に出動を命ずるに際しては、現行法令に規定する防衛出動に関する手続と同様、原則として事前に国会の承認を求めることを法案に明記することとする。

 4.今後の国内法整備の進め方
 これらの活動を自衛隊が実施するに当たっては、国家安全保障会議における審議等に基づき、内閣として決定を行うこととする。こうした手続を含めて、実際に自衛隊が活動を実施できるようにするためには、根拠となる国内法が必要となる。政府として、以上述べた基本方針の下、国民の命と平和な暮らしを守り抜くために、あらゆる事態に切れ目のない対応を可能とする法案の作成作業を開始することとし、十分な検討を行い、準備ができ次第、国会に提出し、国会における御審議を頂くこととする。

1237/資料・史料-靖国神社参拝後の安倍晋三内閣総理大臣談話。

資料・史料
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 靖国神社参拝・安倍晋三内閣総理大臣談話
    平成25年(2013年)12月26日

 本日、靖国神社に参拝し、国のために戦い、尊い命を犠牲にされた御英霊に対して、哀悼の誠を捧げるとともに、尊崇の念を表し、御霊安らかなれとご冥福をお祈りしました。また、戦争で亡くなられ、靖国神社に合祀されない国内、及び諸外国の人々を慰霊する鎮霊社にも、参拝いたしました。
 御英霊に対して手を合わせながら、現在、日本が平和であることのありがたさを噛みしめました。
 今の日本の平和と繁栄は、今を生きる人だけで成り立っているわけではありません。愛する妻や子供たちの幸せを祈り、育ててくれた父や母を思いながら、戦場に倒れたたくさんの方々。その尊い犠牲の上に、私たちの平和と繁栄があります。
 今日は、そのことを改めて思いを致し、心からの敬意と感謝の念を持って、参拝いたしました。
 日本は、二度と戦争を起こしてはならない。私は、過去への痛切な反省の上に立って、そう考えています。戦争犠牲者の方々の御霊を前に、今後とも不戦の誓いを堅持していく決意を、新たにしてまいりました。
 同時に、二度と戦争の惨禍に苦しむことが無い時代をつくらなければならない。アジアの友人、世界の友人と共に、世界全体の平和の実現を考える国でありたいと、誓ってまいりました。
 日本は、戦後68年間にわたり、自由で民主的な国をつくり、ひたすらに平和の道を邁進してきました。今後もこの姿勢を貫くことに一点の曇りもありません。世界の平和と安定、そして繁栄のために、国際協調の下、今後その責任を果たしてまいります。
 靖国神社への参拝については、残念ながら、政治問題、外交問題化している現実があります。
 靖国参拝については、戦犯を崇拝するものだと批判する人がいますが、私が安倍政権の発足した今日この日に参拝したのは、御英霊に、政権一年の歩みと、二度と再び戦争の惨禍に人々が苦しむことの無い時代を創るとの決意を、お伝えするためです。
 中国、韓国の人々の気持ちを傷つけるつもりは、全くありません。靖国神社に参拝した歴代の首相がそうであった様に、人格を尊重し、自由と民主主義を守り、中国、韓国に対して敬意を持って友好関係を築いていきたいと願っています。
 国民の皆さんの御理解を賜りますよう、お願い申し上げます。
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1232/立命館大学法学部・法務研究科の「有志」58名!が氏名を出して特定秘密保護法に反対。

 特定秘密保護法に反対する「刑事法」学者の声明の中に9名の現役教員の氏名を出していた立命館大学は、「憲法・メディア法」学者による反対声明でも8名の所属教員の名を連ねていた。
 その立命館大学法学部・法務研究科(後者はいわゆるロ-スクルだろう)は、上記法律(案)についての「有志」の反対「意見」を発表しているようだ(ウェブ上による)。反対「意見」者にはむろん既に紹介した「刑事法」・、「憲法・メディア法」学者のうち法学部・法務研究科所属の者が含まれている。その他、編集長が代わった月刊正論12月号で本間一誠がNHKの婚外子格差違憲判決の報道の仕方を批判する中でその見解に批判的に言及している二宮周平の名もある。
 数え間違いがなければ氏名の明記のある総数は名誉教授を除いて何と54名になる。はたしてこの人たち全員は、学者らしく?<自分の頭で>、<自由に>思考して以下の「反対意見」の文章に賛同したのだろうか。一つの大学の法学部・ロ-スクルの(政治学を除く)<法学>関係教員だけで54名もが名前を出しているのは、恐るべき<奇観>としか言いようがない。この法学部・法務研究科では、実質的には<左翼ファシズムの支配>が確立してしまっているのではなかろうか。
 これまでに紹介した反対声明類と同工異曲の意見内容もあることもあり、いちおうのコメントは別の機会に行う。以下、紹介とリストのみ。
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 特定秘密保護法に反対する立命館大学法学部・法務研究科教員有志の意見
 2013年11月26日、「特定秘密の保護に関する法律案」(以下、特定秘密保護法案)は、衆議院本会議で採決されました。この法案は、全国の弁護士会が反対表明を挙げていることからもわかるように、法的な観点から多くの問題点を抱えています。メディア関係者の反対はもちろん、市民の間にも法の濫用を不安視する声が広がっています。25日の福島での地方公聴会では、原発や原発事故に係る正確な情報が市民に提供されてこなかった教訓も踏まえ、意見陳述者全員が反対しました。26日午前の特別委員会でも、みんなの党・日本維新の会との非公式協議に基づく修正案を、わずか2時間の審議で採決を強行するなど、熟議を尽くしているとはいえません。
 立命館大学法学部・法務研究科に所属する私たちは、こうした拙速な審議を批判するとともに、教育者・研究者の見地から、また「自由と清新」を建学の精神とし「平和と民主主義」を教学理念に掲げる立命館大学の構成員の立場から、特定秘密保護法案の問題性を指摘し、これに反対の立場を表明します。
 1 公務員やジャーナリストを育てる教育者として特定秘密保護法に反対します。/現在審議されている特定秘密保護法は、主権者である国民の「知る権利」や表現の自由を著しく制約し、とくに直接の処罰対象となる可能性が高い公務員や報道に関わる者に深刻な負担を強いるものです。私たちの所属する立命館大学は、「豊かな個性を花開かせ、正義と倫理をもった地球市民として活躍できる人間の育成に努める」ことを憲章で宣言しています。この憲章の理念を反映しながら、法学部においても、これまで多くの国家公務員、警察官、ジャーナリストを輩出してきました。現在も多くの学生が、官公庁や報道機関への就職を目指して勉学に励んでいます。民間企業や研究機関でも、国の「特定秘密」の取扱い者となる業種・分野もあります。彼・彼女らが進路として選択した職場が、「正義と倫理」をもって働ける場であってほしいという願いからも、私たちは、特定秘密保護法に反対します。
(1)公務員や特定秘密取扱い者の行動を、勤務中から私生活に至るまで、萎縮させます。/特定秘密保護法が制定されると、防衛・外交・特定有害活動の防止・テロリズム防止という4分野の情報のうち特に秘匿が必要なものを行政機関の長が「特定秘密」として指定され、その漏えいに対しては懲役10年以下の厳罰が科せられます。いわゆる「違法秘密」(政府の行為が憲法や法令に反しているにもかかわらず、これを秘匿している事実)についても、これを公務員や秘密取扱い者が「正義と倫理」に忠実たらんとして内部告発をした場合、厳罰を覚悟しなければなりません。/特定秘密保護法案は、特定秘密を取り扱う者に対する適性評価制度を導入しようとしています。評価の対象には、公務員だけではなく、業務委託を受けた民間業者や従業員も含まれ、評価項目は、評価対象者の家族関係や犯罪歴、病歴、経済的状態など、極めて広範な点に及びます。「特定有害活動」や「テロリズムとの関係」に関する調査というかたちで、思想・信条に関わる調査も可能です。/  調査は、必要に応じて家族・親族や友人にも及ぶため、評価対象者のみならず家族や友人のプライバシーも評価実施機関が把握するところとなります。その結果、評価対象者は交友関係すら制限されることになり、私生活も含めた行動の自由が縛られることになります。また、「不適正」と評価された場合には、職場における選別や差別の対象となる可能性もあり、また、職場の相互不信を助長しかねません。
 (2)報道・取材の自由を萎縮させ、国民の知る権利を妨げます。/報道機関は、国政に関わる多種多様な情報・資料を提供することで、主権者である国民の「知る権利」に奉仕します。それゆえ、報道機関の取材・報道の自由を最大限に保障することが、社会全体の利益にとって不可欠です。ところが、特定秘密保護法は、公務員や特定秘密取扱い者の漏えいだけではなく、漏えいや取得についての共謀・教唆・せん動にも罰則を科し、過失や未遂も処罰しようとしています。これにより報道・取材の自由が大きく制約されることは明らかです。公務員からの取材活動が困難になるだけではなく、報道機関自身が萎縮し、自主規制の動きもみられることでしょう。/こうした批判をかわすために、法案は適用に際しての「報道の自由又は取材の自由に十分に配慮」する旨を明記しました(22条)が、このような訓示規定は恣意的な運用の歯止めにはなりません。たしかに、「出版又は報道に従事する者」の取材には、公益目的性と方法の正当性を要件に違法性を阻却しうる枠組みになっています(同2項)。しかし、秘密漏えいの教唆やせん動で逮捕・起訴された者が、後の裁判で正当業務の証明に成功して無罪が認められたとしても、逮捕やそれに伴う家宅捜査や押収が、自由な取材を萎縮させます。国会審議の中で、政府は、報道機関の正当な取材に対し捜査を及ぼすことはないという見解も示してはいますが、法案中に、それを担保する規定はみられません。また、法の運用をチェックする第三者機関の設置も、法の附則において「検討」を約束するのみで、具体的な枠組みはなんら示されていません。/また、特定秘密保護法は、市民間の自由なコミュニケーションも萎縮させます。現代のIT社会においては、報道機関のみが「メディア」ではありません。一個人や小規模な市民団体が、HPやブログを立ち上げ、あるいは、Facebookやtwitterを通じて、市民の間の情報発信・情報共有のアクターとなっています。立命館大学の学生・教職員や卒業生の多くも、こうした自由なコミュニケーションに一市民として参画しているはずです。しかし、こうした活動すら、場合によっては、特定秘密の漏えい教唆・せん動とみなされかねません。
 2 「学問の自由」を保障された研究者として特定秘密保護法に反対します。/特定秘密保護法は、「特定秘密」の取扱業務者だけではなく、業務知得者の漏えいも処罰対象にしています。近年の日本の大学や研究機関では、「安全保障」という名目で、直接的な軍事的研究も行われています。そうでなくとも、科学技術研究の多くの分野は、軍事的汎用性を持っています。したがって、「防衛」を対象とする特定秘密保護法の下では、国公立であると私立であると問わず、大学で国や軍事産業の委託を受けて軍事研究や汎用技術の研究などを行う場合には、研究者は適性評価の対象となり、秘密保全義務が課されます。そして、研究者間の情報共有と学術検証を目的とするものであっても、特定秘密の公表は、漏えい罪として、処罰の対象となるのです。その結果、大学や研究機関における自由闊達な研究が大きく阻害されることになるでしょう。/また、秘密指定の期間は5年を超えないとされていますが、最大60年までの延長は可能で、さらに半永久的な情報秘匿も可能な例外項目も設けられています。このような政治的に重要な事実の秘匿は、外交・安全保障を対象とする政治学や歴史学の研究の遂行に著しい支障を来します。官僚機構や警察組織などを研究対象とする場合、公務員からのインタビューや情報収集は、大きく阻害されることでしょう。政治家や官僚からの証言に基づくオーラル・ヒストリーの構築といった研究手法も、数十年前の出来事を対処とする場合ですら、困難になります。こうした事態は、「学問の自由」(憲法23条)にとって致命的です。
 3 「自由と清新」「平和と民主主義」を掲げる立命館大学の構成員として特定秘密保護法に反対します。/立命館大学の建学の精神は「自由と清新」です。さらに、大学としてアジア太平洋戦争に協力した痛恨の反省から、戦後は「平和と民主主義」を教学理念に掲げて、全学をあげて「平和」「民主主義」「人権」に重点を置いた教学と大学運営を展開してきました。特定秘密保護法は、このような本学の建学の精神および教学理念からも、全く賛成できないものです。
 (1)特定秘密保護法は、憲法の平和主義に反します。
 特定秘密保護法は、国家安全保障会議設置と不可分一体で進められ、一般的な秘密の保全というよりは、軍事的な防諜法の側面が強いものになっています。これは、戦争の放棄と戦力の不保持を定め、平和的生存権を保障した日本国憲法の平和主義とは、相反する方向といえるでしょう。
 とりわけ、今回の特定秘密保護法は、それが米軍との一体化による日本の軍事力の全世界的展開を前提としている点で、歴代政府が採ってきた専守防衛の立場をも逸脱する要素を含んでおり、また東アジアの国際的緊張を高めるものです。2012年4月に公表された自由民主党の日本国憲法改正草案は、「国防軍」の創設とともに、機密保持法制の整備を明記しました。同年7月に公表された「国家安全保障基本法案」では、集団的自衛権行使容認とともに、秘密保護法制定が示されていました。秘密保護法の制定は、こうした軍事大国化の流れの中で、かねてから制定が熱望されていたものなのです。そして、その背後には、GSOMIA(軍事情報包括保護協定)締結にも示されるように、日米の情報共有の進展を踏まえた秘密保護強化の要請がある点は、周知のとおりです。
 (2) 特定秘密保護法は、民主主義・国民主権に反します。/「知る権利」の制約が、主権者としての国民の活動を制約するものであることは、1で述べたとおりです。/特定秘密保護法が制定されることになれば、国会議員の調査活動や議院の国政調査権なども制限を受ける可能性があります。国政調査の過程で国会議員が特定秘密に接する場合、委員会や調査会は秘密会とされ、出席した議員にも秘密保全義務が課せられて、漏えい等の処罰対象となるからです。国会を通じた国民の国政監視は、現在以上に形骸化することになるでしょう。/そもそも、特定秘密保護法案の立法作業自体が、秘密かつ非民主的です。法案の方向性を決定づけた有識者会議は、議事録も作成せず、会議資料や討議内容は現在も秘密扱いとなっています。内閣官房情報調査室による立案作業は、与党の国会議員にも法案の内容を知らされない秘密裏のうちに行われました。法案へのパブリック・コメントの実施も、わずか2週間に限定され、国民の意見を十分に聴取する姿勢が見られませんでした。それにもかかわらず寄せられた約9万件のコメントのうち8割近くが反対の意見であったにもかかわらず、こうした意見が反映された様子が見られません。/以上のように、特定秘密保護法は、「自由と清新」という言葉で表現される自由闊達な市民社会を押しつぶし、「平和と民主主義」を歪めるものです。またそれは、「教育・研究機関として世界と日本の平和的・民主的・持続的発展に貢献する」という立命館憲章第5条の精神とも合致しないものです。一部野党との非公式協議の中でなされた部分的修正も、上で述べた特定秘密保護法の問題点を本質的に改善するものではありません。私たちは、特定秘密保護法の制定に強く反対します。
 2013年11月26日

 呼びかけ人(50音順) 市川正人 植松健一 倉田玲 倉田原志 小松浩 多田一路 
 賛同人(2013年12月2日現在:50音順) 浅田和茂 安達光治 荒川重勝* 井垣敏生 生田勝義 生熊長幸 石原浩澄  出田健一 上田寛 大久保史郎 小田幸児 加波眞一 嘉門優、小堀眞裕 斎藤浩 坂田隆介 佐藤渉 島津幸子 須藤陽子 徐勝 高橋直人 田中恒好 遠山千佳 中谷義和* 中谷崇 中島茂樹 浪花健三 二宮周平 野口雅弘 藤原猛爾 渕野貴生 本田稔 堀雅晴 松尾剛 松宮孝明 松本克美 宮井雅明 宮脇正晴 望月爾 森下弘 森久智江 山田希 山名隆男 湯山智之 吉岡公美子 吉田美喜夫 吉田容子 吉村良一 渡辺千原 和田真一 他2名(*は名誉教授)/ 以上、呼びかけ人を含む58名
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1220/資料・史料-2013.09.10「慰安婦の真実」国民へのアピール。

資料・史料-「慰安婦の真実」国民へのアピール

 2013年09月10日

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  「慰安婦の真実」に関する国民へのアピール

 いわゆる「従軍慰安婦」問題をめぐって、日本バッシングの風潮が世界的に広がっています。日本の慰安婦は代価を払わない「性奴隷」であったとか、「20世紀最大の人身売買事件」だったとか、ナチスのユダヤ人虐殺に匹敵するホロコーストだったとか、事実無根の途方もない言説がばらまかれています。アメリカの公共施設に朝鮮人慰安婦の像や碑が建てられ、地方議会の非難決議も行われています。韓国、中国、アメリカにロシアまで加わって日本批判を展開しています。

 アメリカでの慰安婦問題は1990年代初頭から在米中国、韓国人のロビー活動で始まり、2007年にはアメリカ議会下院での日本非難決議がなされ、引き続いてオーストラリア、オランダ、カナダ、フランス、EU、フィリピン、台湾と続き、今や日本はこの問題で、四面楚歌ともいうべき深刻な状況に置かれています。

 このような事態がもたらされた最大の原因は、日本政府が、何一つ証拠がなかったにもかかわらず、慰安婦の「強制連行」を認めたかのように読める「河野談話」を平成5年(1993年)に発表したことにあります。「河野談話」は、慰安婦の強制連行さえ認めれば事は収まるという韓国側の誘いに乗って、事実を曲げて政治的妥協をはかって作成された文書です。しかし、その結果は全く逆に、「河野談話」こそが強制連行の最大の証拠とされ、各国の日本非難決議の根拠となり、韓国人の妄言に見せかけの信憑性を与えることになったのです。

 あるアメリカの有識者は、「古今東西、軍隊と売春婦はつきものであり、それについて謝罪したのは有史以来日本政府だけである」と指摘しました。そして「そのような当たり前の事に謝罪したのは、本当はもっと悪いことをしていて、それを隠すためではないかとさえ勘ぐられている」と言います。日本を貶めようとする外国の謀略に乗せられ、国益を無視して安易に発した「河野談話」が、慰安婦問題で日本を苦境の縁に立たせた元凶なのです。

 日本国民がこのいわれのない侮辱に対して怒らないとしたら、それは日本国家の精神の死を意味します。私たちはどんなことがあってもこの汚名を私たちの子々孫々に負わせることはできません。

 今年7月、この問題を憂慮する個人・団体が集まり、私たちは<「慰安婦の真実」国民運動>を結成しました。今後は日本国内外の多くの同志と広く連携をとり「河野談話」の撤回運動を初めとする、日本の汚名をそそぐための様々な運動を展開していきます。

 国民の皆様には、我々の救国運動に深いご理解をいただき、深甚なるご支援を賜りますよう、心よりお願いいたします。

  平成25年9月10日

  「慰安婦の真実」国民運動   代表 加瀬英明

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1198/資料・史料-1993.08.04河野談話・1995.08.15村山談話。

 資料・史料-いわゆる<河野談話>・<村山談話>

 

 1.<河野談話>

 慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話

 平成5年8月4日

 「いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。
 今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。
 なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。
 いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。
 われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。
 なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。」

 

 2.<村山談話>

 村山内閣総理大臣談話

 「戦後50周年の終戦記念日にあたって」
 
平成7年8月15日

 「先の大戦が終わりを告げてから、50年の歳月が流れました。今、あらためて、あの戦争によって犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳せるとき、万感胸に迫るものがあります。
 敗戦後、日本は、あの焼け野原から、幾多の困難を乗りこえて、今日の平和と繁栄を築いてまいりました。このことは私たちの誇りであり、そのために注がれた国民の皆様1人1人の英知とたゆみない努力に、私は心から敬意の念を表わすものであります。ここに至るまで、米国をはじめ、世界の国々から寄せられた支援と協力に対し、あらためて深甚な謝意を表明いたします。また、アジア太平洋近隣諸国、米国、さらには欧州諸国との間に今日のような友好関係を築き上げるに至ったことを、心から喜びたいと思います。
 平和で豊かな日本となった今日、私たちはややもすればこの平和の尊さ、有難さを忘れがちになります。私たちは過去のあやまちを2度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません。とくに近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、なによりも、これらの諸国との間に深い理解と信頼にもとづいた関係を培っていくことが不可欠と考えます。政府は、この考えにもとづき、特に近現代における日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援し、各国との交流の飛躍的な拡大をはかるために、この2つを柱とした平和友好交流事業を展開しております。また、現在取り組んでいる戦後処理問題についても、わが国とこれらの国々との信頼関係を一層強化するため、私は、ひき続き誠実に対応してまいります。
 いま、戦後50周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。
 わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。
 敗戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。
 『杖るは信に如くは莫し』と申します。この記念すべき時に当たり、信義を施政の根幹とすることを内外に表明し、私の誓いの言葉といたします。」

ギャラリー
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