秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

司馬遼太郎

0948/松本健一著と司馬遼太郎と週刊朝日(編集長・山口一臣)。

 〇松本健一・三島由紀夫と司馬遼太郎―美しい日本をめぐる激突(2010.10、新潮社)を全読了。計237頁。

 司馬遼太郎につき、その(「思想」と言わないでおくが)考え方・歴史観等にいっそうの関心を覚える。「思想」嫌いで、従って反マルクス主義者・反「左翼」教条主義者でもあったはずだが、司馬遼太郎が<天皇>をこれほどに(松本が指摘するように)避けていたとは気づかなかった。それも、1970年の三島由紀夫の死(正確にはたぶん死に方)によって、その後の司馬の作風(?)に大きな影響が生じたとは、例えば<軍神>乃木希典に対する消極的評価もこれに関係しているとは、松本を信頼するかぎりで、はなはだ興味深い。
 〇三島由紀夫の自決直後に、司馬遼太郎の「街道をゆく」の連載が始まっている。朝日新聞本紙に連載することなどはその<主義>からして朝日側も嫌がり、まだ融通のきく媒体だからこそ<週刊朝日>が選ばれた、と何となく感じてきたが、三島由紀夫(の死が発した「思想」)と対抗するためにも、司馬はあえて<左翼>の週刊朝日を選んだのかもしれない、とも思ったりする。この点には、松本健一は言及していない。

 〇その週刊朝日だが、最近は(ますます?)精彩を欠くようだ。

 最近二号の表紙を見てみると、12/03号では最も大きな文字で「紳士服AOKIの怪経営」。12/10号の最大文字は「酒井法子独占インタビュー」。

 朝日の好きな筈の<政治>ものが表紙の最大の見出しになっていない。

 もっとも、<政治>ものを取り上げていないわけではないようで、12/03号にはかなり小さい文字で「裏切りの15カ月/民主党はどこで間違えたのか」とあり、12/10号にはこれまた小さく「…対北朝鮮日本の『迎撃力』」・「…仙石官房長官が狙う『前原擁立』構想」とある。

 昨年2009年に民主党が総選挙で勝利した直後には、この週刊誌は表紙に<民主党革命!>と大書した。

 同じ週刊誌が「裏切りの15カ月/民主党はどこで間違えたのか」を同じように表紙に大書しないのは、その<政治性>=<左翼性>によると考える以外にない。
 一般週刊誌のごとく見られるために現在の民主党に批判的な記事も掲載せざるをえないのだろうが、さすがに民主党支持政治団体である朝日新聞社系出版物としては、「裏切りの15カ月/民主党はどこで間違えたのか」と大書するのを躊躇したのだろう。

 そもそもが、このタイトルは、間違ってもいる。「民主党はどこで間違えたのか」などと問うのは無駄で、<民主党は最初から間違えていた>のだ。鳩山由紀夫が選挙前に月刊ヴォイスに寄せた論文(?)の内容を読んでも、そのことは明らかだった。

 もっとも、編集長・山口一臣は民主党・政府による<非核三原則の見直し(緩和)>の方向に苦言を呈しているのだから、この「政治活動家」編集長によって編まれる週刊誌がまともな内容になるはずはない。朝日ジャーナルはなく月刊・論座もなく、週刊朝日はいつまで発刊され続けるのだろう。

0752/司馬遼太郎は嘆いていないか-司馬遼太郎賞。

 「司馬遼太郎賞」の授与は司馬遼太郎館(財団法人)の事業の一つ。
 上のこと自体に問題はない。しかし、司馬遼太郎館(財団法人)の事業に司馬遼太郎自身の意向が反映されていないことは言うまでもなく、その運営には、財団の専務理事である上村洋行(記念館長、妻・福田みどりの実弟)の意思・意向の影響が大きすぎるのではないか、との疑いを持っている。
 司馬遼太郎は「国民作家」と言われるが、明確に<反イデオロギー>、そして<反共産主義>・<反マルクス主義>の人だった。
 連載小説の多くは「龍馬がゆく」・「坂の上の雲」等を含めて産経新聞紙上等で、朝日新聞には一つも連載しなかった筈だ。朝日新聞と生前の司馬遼太郎の縁は、週刊朝日誌上の<街道をゆく>シリーズにすぎない。朝日新聞本体は、司馬遼太郎を「産経」ゆかりの作家として意識的に避けていたと推測される。週刊朝日だからこそ、まだ自由があり、冒険?もできたのだ。
 にもかかわらず、現在は朝日新聞社が週刊司馬遼太郎なる季刊雑誌?を堂々と出版しているのは何故なのだろう。遺族あるいは上記の財団や記念館の(形式的ではなく実質的な)関係者の意向によるところが大きいと推測せざるをえない。
 既に書いたことがあるが、「菜の花忌」の講演会に井上ひさしが堂々と司馬遼太郎の後継者の一人のような顔をしてときどき登場しているのにはきわめて違和感をもつ。
 不破哲三との対談本を出して日本共産党をヨイショした「左翼」(隠れ党員かもしれない)の井上ひさしは、司馬遼太郎賞の選考委員の一人でもある。5人のうちのあとの4人は、陳舜臣、ドナルド・キーン、柳田邦男、養老孟司らしい。
 選考経過の詳細は知らないし明らかにされてもいないだろうが、「左翼」(隠れ党員かもしれない)の井上ひさしの発言力が大きい可能性もある。
 第一回(1998)の受賞者が立花隆だったことにもやや首を傾げるが、近年の2回の選考結果はかなりヒドいのではないか。すなわち-。
 第11回(2008)-山室信一・憲法9条の思想水脈(朝日新聞社)
 第12回(2009)-原武史・昭和天皇(岩波新書)

 上の二人は、所謂「左翼」だ。山室信一はNHKの「JAPANデビュー」のプレ番組に現在の学者・研究者の中では唯一人だけ登場して、「左翼的」言辞を吐いた。原武史の少なくとも現在の皇室論が奇矯であることは私も感じたことがある。小林よしのりらの批判の対象になっている人物だ。
 はて、山室信一と原武史の「作品」に続けて受賞させる賞というのは、いったいどのように性格の賞なのだろう(なお、最近は当初のような人物ではなく、「作品」単位の選考らしい)。
 山室信一の上の本を一瞥してみたが、とても何らかの「賞」に値するものとは思えなかった。
 井上ひさしの推薦があったとすれば、それは当然かもしれない。井上は「九条の会」の有力メンバーだからだ。この井上以外の陳舜臣、ドナルド・キーン、柳田邦男、養老孟司はきちんと読んで、審査・評価したのだろうか。
 財団の事業の一つなので、候補の絞り込みに専務理事・上村洋行の意向が関係している可能性は大きい。

 どんな団体が誰に授賞しようと勝手だが、<司馬遼太郎>という名が冠されているとなると無関心ではおれない。
 司馬遼太郎と山室信一や原武史では<肌合い>が異なる。かつ、あとの二人は司馬遼太郎がむしろ嫌ったタイプの人間のように思われる。なぜなら、二人とも、何がしかの<イダオロギー>を、巧妙に隠そうとはしていても、持っている。
 全く余計な第三者の感想に過ぎないのだが、瞑目している司馬遼太郎は、かりに意識・「霊」があるとすれば、草葉の陰で嘆いているのではあるまいか。
 司馬遼太郎記念財団を維持・継続させるための<経営>的感覚のようなものは、司馬遼太郎が忌避したかったものに違いない。その<経営>的感覚の事業によって司馬遼太郎の本来の意思・意向・精神が継承されていればまだよいのだが、そうでは全くなくなっているとすれば、著名人の名を騙る詐欺のような<事業>になってしまうのではないか。「司馬遼太郎賞」がそうでなければよいのだが。

0231/文藝春秋の元編集者は「ウソ」を書いてはいないか。

 延吉実・司馬遼太郎とその時代/戦中篇同・-戦後篇(青弓社、2002、2003)という本がある。著者は戦後篇の奥付によると本名・藤田佳信、1950年生れ、早稲田大学社会科学部卒、藍野学院短期大学助教授、専攻・英米文学・比較文学。
 上のうち戦後篇p.27、p.138-9、p.202-226には、司馬遼太郎の「私事」が書かれている。最大の驚きは、司馬にはみどり夫人の前に婚姻関係にあった女性がいて、実子(男性)もいる、という事実の指摘だ。
 再読してみると、月刊誌・噂の真相1998年6月号で「…司馬遼太郎が歴史から抹殺した私生活の過去」とのタイトルで「暴露」されたというから(p.138)、<知る人ぞ知る>話なのかもしれない。だが、私は知らなかったし、司馬遼太郎全集も含めて、公式の?司馬の履歴には一切書かれていない。
 真相探索というミステリー的興味をそそらないわけではないが、一方で何故こんなに詮索するのかという気分も湧いてきて、読んで楽しいものではない。だが、延吉著に依ってもう少し細かく書くと、司馬の「年譜」には1959年1月に「…みどりと結婚」とあるが、1948年5月に産経新聞社(京都支局)に入社後、1949年(26歳になる年)に某女性(個人名の記載があるが省略)と結婚し左京区某地(同)に借家住まいし、男子(個人名は書かれていない)をもうけた後1952年に守口市に転居し、離婚した(p.204。司馬は大阪からずっと通勤だったとして京都居住の事実を語ったことはないという)。なお、その頃(1952年)大阪本社に転勤、1959年(36歳の年)に再婚、ということになる。
 延吉実の指摘をふまえて、短篇「白い歓喜天」も読んでみた。司馬遼太郎全集には登載されていないが、司馬遼太郎短篇全集第二巻(文藝春秋、2005)p.141以下に収載されている。なお、「白い歓喜天」を含む同名の短編集は1958年(司馬35歳の年)刊行だが、この小説は1948-49年頃(司馬25-26歳)の執筆らしい。
 そしてなるほど、この作品はたぶん、結婚経験がないと書けないものではないか、と私は感じた。結婚経験がなければ、「七年間も続いたあの退屈な結婚生活」とか「妻と自分の不幸が身のうちを腐らせてゆくように思えた」などの文を含む小説はなかったように私にも思える。但し、「白い歓喜天」が司馬の結婚生活そのままであったのではないことは勿論だろう。あくまで「小説」・「創作」なのだから。
 水上勉(1919-2004)は貧苦のために別れた最初の妻との間に子どもがいたことも隠してはいなかった。その子どもとのちに、最初は実子とは気づかないまま、つまり成人した窪島誠一郎とのちに出逢うという実話は、水上勉の人生そのものの如く感動的なものだった。だからといって司馬遼太郎を貶めるつもりは全くなく、彼は「私事」を知られたくなかった、それを厳格に終生貫いた(いや貫こうとした)のであり、そうした考え方を非難することは勿論できない。ましてや、司馬遼太郎の多数の小説の価値に影響があるわけでは全くない。
 ところで、前回言及した半藤一利・清張さんと司馬さん(文春文庫、2005)には、司馬の上のような「私事」には全く触れていない。元文藝春秋社編集者の和田宏・司馬遼太郎という人(文春新書、2004.10)も半藤著と同じく延吉著(2003.09)より後に刊行されているが、同じく論及はない。むしろ後者の和田の本が「はじめに」でこう書いているのが目を惹いた。
 「編集者に守秘義務があるとしたら、その作家にとってマイナスになるイメージを提示することだろう。それは男女関係であったり…さまざまであろうが、…私は司馬さんについてそのようなことはなにも知らない。というよりそんな噂も聞かない。…陰で声をひそめて話さなければならないことなど、少なくとも私は持たない」(p.5)。
 これを読んでやや奇異な感に打たれた。出版業界に生きた人が、半藤もそうだが、上に言及の雑誌・噂の真相の記事やすでに発刊されていた(タイトルに「司馬遼太郎」をずばり含む)延吉実の著書の存在を本当に全く知らなかったのだろうか
 かりにだが、雑誌「噂の真相」や「青弓社」の出版物程度なら多くの一般読者をゴマカせると考えていたとすれば、「大手」の文藝春秋社関係者の傲慢だとも思える。
 上に「かりにだが」と書いたが、おそらく、半藤や和田は<噂>があること、その<噂>は真実らしいことに気づいていたのではなかろうか(だが、たぶん、司馬本人の前で話題にしたりはしなかったのだろう)。だとすると、上の和田宏の文章は「ウソ」だと思われる。上のような話題の文章をわざわざ書いたために、「ウソ」をつかざるを得なくなったのだ。司馬遼太郎個人のことよりも、むしろこちらの方がはるかに気になる。
 社会的には些細なことかもしれないが、文藝春秋という出版社は好みであるにもかかわらず、元編集者の和田宏は信用できない。別の意味で信頼できない面が同じく同社の元編集者の半藤一利にあることは、前回に述べた。

0230/半藤一利とはいかなる人物なのか。

 半藤一利(1930-)という人を、私は信用していない。
 まず、正直、いや率直な人ではない、と思っている。というのは、半藤には清張さんと司馬さん(文春文庫、2005)という本があるが、松本清張の親社会主義・親日本共産党スタンスと司馬遼太郎の反社会主義感情との違いに全く又は明確には触れていないからだ。
 文藝春秋社の元編集者としての同社の営業政策への配慮は理解できるが、個人的に接し、多くの文章を読んでいれば、「戦後の偉大な国民的作家」二人の違いに気づかない筈がない、と思う。
 松本清張は途中から朝日の正社員(広告意匠担当)になり、弱者・下層又は庶民の視覚から高級官僚等の上層・強者・大組織・「権力」を陰に陽に批判するモチーフの小説を書いた。講読紙は第一には朝日だったと確実に推測でき、同・日本の黒い霧は占領軍陰謀史観とでもいえる立場に立つものだったし(推測・結論が誤っていたと主張しはしない。むしろ同意したい点が多い。「占領軍」とはそういう性格のものだとも言える)、日本共産党支持者であることを隠していなかったと思うし、晩年には「創共協定」なるものの締結の立役者だった。
 一方、司馬遼太郎は同全集月報57(文藝春秋、1999)で鶴見俊輔が、若い頃に新聞記者として京都大学回りを続けながら、「京大をひたしていた科学的社会主義の史観からどうして…自由でいられたのだろう」、「イデオロギーを身につけなかったこと」が「珍しい」と書いているくらいだから、鶴見は「イデオロギー」という語を社会主義・共産主義の意味で用いているかもしれないことは別として、司馬の「イデオロギー」は判りにくいのは確かだろう。
 だが、文藝春秋2006年2月臨時増刊号・司馬遼太郎ふたたびp.100-101に紹介されている文藝春秋・この国のかたち編集長あて手紙に次の言葉がある。1.「左翼、疑似左翼猖獗のときに、…水準器の泡のような役割をはたしてきたのが文藝春秋でした。いま相手が消滅して、文春が残ったのです」。2.「岩波のイデオロギー(ドイツ観念論哲学からマルクス主義へ)文春の……」。
 これらでほぼ想像はつき、司馬にしては珍しく「反左翼」心情を示唆していると言えるが、そのような心情形成の背景の一端は、半藤自身の上の本のp.258-9で判る。簡単にいうと1948-49年頃の京都大学の学生・教授たちの「左翼」思想による運動(発言・行動)に対する不信、だ。
 また、司馬は「思想」なるものにつき、現実ではなく「架空の一点」から生まれる等々とも述べている(p.255)。それは殆ど「狂気」と同義でもあるようだ。このような人が、共産主義・マルクス主義に共感できたはずはない。狂信的「皇国主義」にもそうだったかもしれないが。
 というわけで、半藤自身の叙述からも、司馬遼太郎のもつ反共産主義(・反マルクス主義)的感覚を半藤氏が知らなかった筈はなく、松本清張と対比できない筈もない、と考えられるのだ。
 つぎに、半藤一利という人は歴史の観方・視点の明確でない人だ、と思っている。
 同・昭和史-戦後篇(文藝春秋、2006)を既に読んだが、戦後史を一つの又は複雑な「流れ」の物語として語るには「定見」、つまり自分なりの独自の視点からの価値判断がなく、表面的な事象の羅列に終わっているようだ。
 戦前についての同氏の本は未読だが、戦前については「失敗」又は「間違い」の歴史として、問題点・反省点を探る如き観点からそれなりの「流れ」を掴みやすいかもしれない。しかし、戦後については、一定の観方・視点を彼は定立できていないように思う。
 例えば、1.「左翼」勢力の勃興と衰退の歴史として把握することも可能だし、逆に2.「保守」勢力の動向に着目して「危険な」憲法改正への途に向かう歴史と捉えることも不可能ではない。
 半藤は「九条の会」の賛同者の一人だが、勝手に憶測すれば、1.のように描くのは忍び難いし、2.のように明確に書くのも躊躇する、というところではないか。だからこそ、彼の戦後史の叙述は、基本的にこの時代全体をどう評価しているか自体が判りにくいのだ。この点、戦後史をまとまっては叙述していないが、西尾幹二、中西輝政、佐伯啓思らとは違うように思う。これらの人々には、「骨」、「筋」又は「理論」がある。むろん日本共産党には独自の戦後史把握があるが、半藤はたぶんこれにも全面的には寄り掛かれないのだろう。

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