秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

天皇・皇室

1982/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05⑤。

  前回に記した少なくともかつての泉涌寺と天皇・皇室との深いつながりを、すでに取り上げたつぎの新書から確認しておこう。結論的に、同じことが書かれている。
 かつて「天皇家自体が非常に熱心な仏教徒」で、「国家仏教の枠組みを導入したのは、用明天皇や推古天皇…、聖徳太子であった…」等と述べたあと、泉涌寺につき、こう書かれる。別に触れる予定の事項を除く。
 鵜飼秀徳・仏教抹殺-なぜ明治維新は寺院を破壊したのか-(文春新書、2018)。p.231-。
 ・「1242年、四条天皇が12歳の若さで崩御」した際に「泉涌寺で葬儀が実施されて以降、ここは『皇室の御寺〔みてら〕』と呼ばれるようになった」。
 ・「さらに、南北朝時代の1374年に後光厳天皇(上皇)が同寺で火葬された」のを始まりとして「9代続けて天皇の火葬所となった」。
 ・「江戸時代の歴代天皇(後水尾天皇から孝明天皇)、皇后はすべて泉涌寺に埋葬されている」。
 ・泉涌寺にある「天皇の墓は九重の意匠が特徴の典型的な仏式墓であり、月輪陵(光格天皇以降は別区画の後月輪陵)に25陵と5灰塚、9墓(親王らの墓)が祀られている」。
  さらに上掲書には、こう書かれている。近くに御陵があるというだけではない。
 ・「泉涌寺の霊明殿には歴代天皇の位牌である尊牌を安置、朝夕のお勤めの際には同寺の僧侶によって、読経がなされる」。
 ・「各天皇の祥月命日には皇室の代理として、宮内庁京都事務所からの参拝が行われるという」。
 ここにいう「歴代天皇」とは全ての天皇ではなく、位牌=尊牌のある天皇の意味で、天武系=持統系の称徳・孝謙天皇までを含まないと思われるが、それ以降は全てとされる。位牌の存在理由も含めて、ここでは立ち入らない。
 泉涌寺の作成にかかる小冊子には、つぎのように毎「朝夕」について書かかれている。
 「今も毎日御回向が行われている」。p.10。
 毎朝夕かどうかの明記はないが、「毎日」だ。その旨は、初めてこの寺を訪問したときに聞いて、驚いた記憶がある。
 さらに、同小冊子は、「御月並」=毎月の特定の日の「法要」について、こう書く。p.31。
 位牌のある天皇と同列以上の特別の扱いがなされている。
 ・毎月7日/昭和天皇、同10日/昭憲皇太后〔明治天皇皇后-秋月注〕、同16日/香淳皇后、同17日/四条天皇・貞明皇后〔大正天皇皇后〕、同25日/大正天皇、同29日/明治天皇。
 また、毎年の「御例祭」の「法要」が、つぎの天皇・皇后について行われるとされる。
 ・毎年1月7日/昭和天皇、同1月11日/英照皇太后〔孝明天皇妃〕、同5月17日/貞明皇后〔大正天皇皇后〕、同6月16日/香淳皇后、同7月29日/明治天皇、同12月25日/大正天皇。
 これら「法要」が霊明殿で行われるのか、仏殿でなのかはよく分からない。
 しかし、<仏教式>のものであることは言うまでもないだろう。
 ついでに、つぎによって、これまで記したことの一部を補足しておく。
 芳賀徹「御寺の風格」上村貞郎=芳賀徹監修・泉涌寺/新版・古寺巡礼京都27(淡交社、2008年)所収。
 ・「…、まことに皇室の菩提所、『御寺』と呼ばれるふさわしい、荘重で、しかも清明に気配に満ちた境内なのである」。-p.8。
 ・「…、明治維新以降、泉涌寺が受けた打撃は大きかった。…天皇家の遠忌法要も葬儀も神式となって、泉涌寺では行われなくなったからである。その上に明治4年(1871年)には寺社領の上知(没収)令が出されて、…20数万坪の土地を約4万坪に減らされたという。…少なくともいったんは官有地となった。」-p.14。
 ・明治天皇、大正天皇の例に倣って、「昭和天皇も御在位の間にいくたびか皇后陛下とともに泉涌寺においでになり、御陵と霊明殿に参拝なさったという」。-p.15。
 ・「いま平成の天皇と美智子様も御上洛の折にはよく泉涌寺にお立ち寄りになり、御先祖の霊に参拝しておられるらしい」。-p.16。
  仏教様式での回向・法要のほか、興味深いのは、御陵・陵墓の「向き」と泉涌寺の建造物の位置関係だ。
 上の古寺巡礼京都27(2008)に末尾にこれがかなり明確になる地図があるが、寺院境内や御陵であることによるのだろう、一般的な地図やネット上の地図(例、google map)では空白が多い。
 下は、ネット上にある、泉涌寺・月輪陵・孝明天皇陵=後月輪東山陵の位置関係を示す古い図面(左)または写真(右)。左は上が「北」、右は上が「東」。
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 専門的にまたは学問的に神社・寺院の「向き」というのが本当にあるのかどうかは知らない。しかし、寺院の場合は本尊たる仏像の顔の「向き」、あるいは参拝する方向とは反対の方向が「向き」だと言えるだろう(但し、本尊仏像がない寺院もある。京都・永観堂の「みかえり」阿弥陀如来像のように顔と身体部分が一致していない稀な仏像もある)。
 「南」向きが多いようでもあるが(とくに神社の場合)、南向きが「通常」または「原則」とは言えないだろう。「北向」や「東向」が現在の寺院名の一部にされている場合もあるし東西本願寺(京都市)・法然院(同)や浄瑠璃寺(京都府木津川市)の本堂に当たるもの(および本尊仏像)は「東」向きで、「西方」(西方浄土?)を向いて参拝する。但し、浄土真宗を含めて、全ての寺院が「東」向きではもちろんない(例、三重県津市・高田専修寺)。
 泉涌寺の場合、やや西北方向に傾いているが、仏殿(本堂に当たると見られる)・舎利殿は「西」向きだ。仏殿・舎利殿とほとんど同じ中心線上に「勅使門」があり、その南に「霊明殿」自体の門と見られる<唐門>・空地・「霊明殿」がある(左の地図の左端半ば辺りの舎利殿の右下)。
 この霊明殿と月輪陵・後月輪陵との位置関係は現地では必ずしもよく分からなかったが、上左の地図が示すように、唐門・霊明殿の中心線が御陵の入口の門および陵区画の中心線と重なってはいないとしても、霊明殿で「東」向きで回向・法要する僧侶・参拝者等方向は、月輪陵・後月輪陵の区画の一部を間違いなく向いている。全体として、御陵と向かい合っている、と言ってよい。
 これは何を意味するのか。
 霊明殿で回向・法要のために読経し瞑目する等々の人々は、諸天皇の位牌のみならず、月輪陵・後月輪陵の各陵墓に対してもまた向き合っているのだ。陵の門を入って間近に各陵墓に参拝する場合もむろんあるのだろうが、陵墓参拝は(まとめて?)泉涌寺の一部である霊明殿でも行うことができる、ということなのではないかと思われる。
 このことは、孝明天皇までの天皇陵等については、「みてら」として当然のことだったのかもしれない。
 しかし、現在でも毎日霊明殿で、仏僧によって回向が行われている、ということは相当に興味深いだろう。また、諸法要が霊明殿ではなく仏殿で行われているとしても、その方向は上の御陵の陵墓の方向を向いている。
 なお、霊明殿の北に「本坊」とされる建物があり、現在観覧することのできる部分の区画または各部屋は、全て、天皇・皇族およびこれらの付き添い者の用に供されていたものだ。「玉座」とされている部屋もあって、「本坊」の東南にある小ぶりの庭園に向かって「南」面しており、その中心線は、霊明殿の東端またはそれと御陵との間の空地を走っている(陵の方を向いていない)。
 上の二つの地図・写真で気づいたが、一般には見ることのできない月輪陵・後月輪陵の各陵墓は、霊明殿・仏殿等がやや西北に傾いて「西」向きであるのに対して、「真西」を向いているようでもある。これは意識的で、「真西」を向かせるという明確な理由があるのではなかろうか。
  孝明天皇陵・英照皇太后陵(後月輪東山陵・後月輪東北陵)へは一般にはこの二つに共通の門の近く(上の右の写真の「孝明天皇陵前広場」)までしか行けない。
 だが、ネット上の写真等を見ていると、興味深いことに気づく。
 第一に、月輪陵・後月輪陵の陵墓と違って、「西」を向いておらず、「南」向きであるようだ。
 第二に、月輪陵・後月輪陵の陵墓と違って、<仏教式>ではない。何重かの「円墳」のようなかたちをしている。上の左の地図およびつぎのネット上の写真を参照。下の写真は上が「北」。左下が月輪陵の一部。
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  英照皇太后陵ではなく孝明天皇陵は明治改元(遡及)前の1867年に造られている可能性はあるが、明治天皇即位後であることは間違いない。そして、孝明天皇陵の造営については、明治新政権の幹部・神官たちの意向が相当に働いたのではないか。
 以下は、全くの素人の推測だ。 
 孝明天皇は明治天皇の実父の先代天皇、英照皇太后は中山慶子が実母であるところ形式上だげは「母」とされた人物。明治天皇を中心とする新しい時代を築こうとする新政権中枢は、この二人の陵墓を粗末・質素なものでなく大きなものにしようとした。
 しかし、場所は江戸時代の長い伝統・慣例によって泉涌寺付近としたが、光格(1840没)、仁孝(1846没)の両天皇とも違う区画を選び、かつ、すでに<仏教式>でないものにすることとした。したがって、第一に九重石塔を用いず、第二に泉涌寺の霊明殿の方向を向かせないことにした。
 仏教によるという伝統からの切断、泉涌寺からの分離が、すでに試みられているように見える。
 図説天皇陵(新人物往来社、2003)は孝明天皇の陵墓を「円丘」だと記す。
 一方で、月輪陵・後月輪陵にある天皇陵墓は「九重塔」だと明記している。
 九重石塔は陵墓の飾りの一種かと思っていたが、陵墓の方式・様式そのものだと理解されている。そのような、江戸時代、御水尾から仁孝までの天皇の各陵墓とは、明瞭な違いをあえて示しているのが、孝明天皇(・英照皇太后)の陵墓だ。
 この①「円丘」、②南向き、ということが<神道式>だといえるかどうかは分からない。古代の前方後円墳は<神道式>なのか、天武・持統合葬陵は<神道式>なのか、といった問題設定はほとんどなされてきていないだろう。
 いずれにせよ、しかし、明治天皇の即位後の新しい時代に、先帝・孝明天皇の陵墓についてもまた江戸幕府時代の「伝統」に従わない、「新しい」様式によることが決断された、と言えそうだ。
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 この機会に、<十三重石塔>も、二つだけ例示しておく。
 下は順に、清水寺(京都)、法住寺(同)。

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1980/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05④。

  日本会議の役員の長谷川三千子・からごころ(中公叢書、1986)の「まえがき」を一瞥していると、何やら息苦しくなる。
 「日本」、「日本人」、「日本的なもの」とかへの拘泥あるいは偏執が強すぎ、かつ同時にこれれらを事実や経験からではなく<観念>的に理解しようとしているからだと思われる。
 こういう一文がある。「われわれ日本人のなかには、確かに、何か必然的に我々本来のあり方を見失わせる機構、といったものがある」。p.8-9。
 日本、日本人あるいは「日本的なもの」を想定してさまざまに論じるのは否定されるべきことではないし、この欄でもそうした作業に関連することは行っているだろう。
 しかし、「我々本来のあり方」という表現・観念には違和感が湧く。
 日本、日本人、「我々」についての「本来のあり方」とは何か?
 そんなものはあるのか? その存在を想定し、前提とすることから始めると、最終的結論も中間的結論も出ない、迷妄の闇の中に入ってしまうような気がする。
 日本会議は、「本来の」が好きだ。「天皇の…に関する、本来のあり方は、……だ」といったふうに語られる。
 だが<天皇の…本来のあの方>とは何か。誰が、どうやって決定するのか。
 日本会議が主張する、または認識するそれが決定的で、<正しい>ものである保障など、どこにもない。むしろ日本会議は、<本来のあり方>と称しつつ<ウソ>をばら撒いている可能性もある。
 なお、長谷川の上の著は全体を熟読しているわけではない。念のため。
  かつて一時期、天皇家の「菩提寺」だった泉涌寺に関連して、言及しておきたいことがまだある。
 大きな一つは、明治維新後の変化、神仏分離・判然政策にかかわる。
 前回も利用させてもらっている泉涌寺作成・頒布の小冊子は、月輪陵について、こう記述している。後月輪陵も含めてよいかと思われる。
 「ここに鎮まる方々の御葬儀は泉涌寺長老が御導師をお勤め申し上げ、御陵もすべて仏式の御石塔でお祀りされている」。
 こここで関心を惹くのは、幕末・明治維新以降、あるいは明治新政権の<宗教政策>上、「…御陵もすべて仏式の御石塔でお祀りされている」という状態が許容されたのか否か、許容されたとすればなぜか、ということだ。
 鵜飼秀徳・仏教抹殺-なぜ明治維新は寺院を破壊したのか-(文春新書、2018)は全国各地の事例に言及しているが、京都(市内)については、こんなことを書いている(第8章「破壊された古都-奈良・京都」)。
 ・「多くの仏教行事」、「例えば『五山の送り火』や地蔵盆、盆踊りも軒並み、『仏教的だ』という理由で禁止になっていた。
 ・1871年10月の京都府府令によるもので、この「府令は、京都市内の各町内の路傍における地蔵や大日如来像などは無益で、怪しく、人を惑わすものであるから、早々に撤去するよう命じた」。
 ・1872年7月にはつぎのような布令が出された(前のものとともに原文が引用されているが、ここでは略。なお、「府令」・「布令」は鵜飼著のママ)。
 「夏のむし暑いさなか、地蔵盆などで地域住民が集まって飲食しては、食中毒になりかねない。送り火と称して無駄な焚き火をし、ほかの仏事もまったく科学的根拠のない迷信だから今後は一切禁止する、という内容である」。
 ・愛宕神社はかつては神仏混淆で、700年代に役行者(修験道)が開いたとされ、781年に和気清麻呂が勅命により境内に白雲寺を建立した。
 だが1868年「神仏分離令」発布により、白雲寺等は「軒並み廃寺処分」となり、愛宕山麓での「鳥居形」の送り火も中止になった。
 ・四条大橋の鉄橋化に際して、寺院内の仏具・金属製什器類が「供出」された。p.209-p.210.
 ・五条大橋欄干の金属製装飾の「擬宝珠」が、「仏教的」であるとの理由で撤去・売却された。 
 ・「石塔婆などが道路の敷設に使われたり、…石仏が踏み石にされた事例は数多い」。p.211.
 ・1871年の「第一次上知令」により、寺領等が「国に取り上げられ」、大幅に縮小した。以下、単位は坪、一部は秋月が1000未満を四捨五入。
 高台寺9万5千→1万6千、平等寺3千→2千、清水寺15万6千→1万4千、東本願寺4万7千→1万9千、大徳寺6万9千→2万4千、鞍馬寺35万7千→2万4千、知恩院6万→4万4千、など。
 のちに「仏教式」ということの関係で触れることのほか、泉涌寺について、こうある。
 ・「泉涌寺における天皇陵の墓域がすべて上知され、官有地とされた」。p.233.
 なお、泉涌寺作成・頒布の小冊子の年表には、1878年(明治10年)のこととして、「御陵、宮内省の所管となる」、と書かれている。
 陵墓地の所有権は版籍奉還とは制度的に別の「上知」により早くに「国」に移り、1878年になって「管理」もまた国に移管した、という意味だろうか。
  現在の月輪陵・後月輪陵の様相は後述するとして、神仏判然、神仏分離の基本理念からすると、事もあろうに天皇の御陵が「仏教式」で供養されたり、その陵墓の築造様式が「仏教式」であってはならない、という発想が容易に出てきたはずだろう。
 二年前は今ほどの関心と問題意識はなかったが、この点についての興味深い史料を紹介して論評する文献を、この欄で取り上げていた。2017/05/03、№1527で、その文献は、以下。
 外池昇・幕末・明治期の陵墓(吉川弘文館、1997)。
 1968年6月の明治新政権「政体書」により律令上の「神祇官」が復活して太政官のもとに置かれて天皇陵の祭祀も担当するようになり(のちに1871年に神祇省に格下げ?)、その中の「諸陵寮」が陵墓地の管理を所管するようになった。
 上の外池著によると、祭祀の施行のほかに陵墓の維持・管理も含めるかどうかという議論があったようだが、陵墓は「穢れ」でないとの前提でこれの管理も含めて神祇官が所掌するとされ、陵墓(山陵)事務については独立の官署「諸陵寮」を設置すべきとの考え方がのちに政府・神祇官内でも出てきて、翌1869年9月に神祇官の「下部」機関として「諸陵寮」が置かれた、とされる。
 以下、二年前の投稿内容をそのまま再掲しないであらためて書き直す。
 1871年(明治3年)8月-御陵御改正案写/諸陵寮。上掲書、おおむねp.330以下。
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 「諸陵寮」はとくに泉涌寺周辺の多数の陵墓の存在とそこでの祭祀について注目していたようだ。
 1870年(明治3年)8月の「諸陵寮」の一文書「御陵御改正案写」はつぎのように書く(p.332-4。漢字カナ候文、直接引用も混ぜる。厳格な正確さはない可能性はある)。
 ・「御一新復古」となり、「神仏混淆不相成旨」を先般布告し、「僧侶ども還俗復飾」等を「仰せ付け」た。
 ・「御陵御祭典」が全て「神祇道」でもって行われることになり誠に「恐悦至極」だ。
 ・しかるところ(「然処」)、御陵に関係している「泉涌寺其外」が依然として「巨刹を構え」「そのままに」されているのは(其儘被差置候者)、恐れ入ることだ(「何共恐入候次第」)。
 ・「皇国に来たりしより既に二千有余年」、「禍害は四隅に蔓延」していて「もとより一朝一夕の事」ではないが、「即今の御回復」は「重大」なことで、「僧侶ども生活の道」が相立たないこともあるだろうが「千緒万端」の手を尽くしたにもかかわらず、このような「重大の事件」は「御一新」のときにあってはならない。
 ・「御盛業」の「確然」相立っており、「諸国の神社の社坊社僧」に比べると「誠に瑣々たる」ことなので「容易に御成功」できないかもしれない。
 ・しかしながらそもそも、「神世以来の御一統」の「皇室御歴代」の「御追孝の御祭典御陵の御取扱」方法は「上親王華族より下億万の庶民まで」の「模範」であるべきで、「断然と浮屠混淆」をしてはならない旨を「神社」に「普く「御布告」した。
 ・「泉涌寺等全御陵に関係の寺院」は、一山残らず「還俗」すること(「一山還俗))人選の上で「相当の職務」に就かせることをを「仰せ付け」た。
 ・「寺院境内ニ御陵」がある寺院は「僧徒」から「還俗」の出願があればよいが、そうでなければ「塔中一院」であっても「還俗」しなければならない。
 -以下つづけるが、以下の諸項が興味深い(なお、原文が項立てしているのではない)。
 ・…。しかし、「九重石御塔あるいは法華堂杯」をそのままに「御建置」したままで「御祭典」をしているのは、「浮屠混淆の一端」なので、少しずつ是正される(「順々其辺御改正」))のは「理の当然」のことだ。
 ・「御陵」とはすなわち「御霊の所在」で、これが「御是正」されるべきは「自然」だ。「寺院ニモ往年格別」の「勅諚」は「叡慮」によって下されなかったけれども、その理由は…ということであった。
 ・「万民の方向」は「御定め」られているのに「肝要の御陵の御取扱」が「浮屠混淆」であっては、「寮官」にはじつに堪えざる懸念がとくに心を苦しめる(「不堪懸念殊更苦心」)。
 ・「先」ずは「泉涌寺御改正」を「別紙」のとおり行うように「寮儀」を差し出すので、すみやかに「御評決」していただきたい。
 -この「別紙」は全文が掲載されていないが、外池著p.334は、つぎの部分を引き、「泉涌寺における神仏分離と陵墓管理の徹底について、極めて具体的かつ厳しい見通しを述べている」と注釈している・
 ・(<別紙>)「御歴代御陵祭祀神典に被為依候上は、泉涌寺をも被廃候儀当然の御儀と奉存候
 =「御歴代御陵祭祀」は「神典」によるべきところ、「泉涌寺をも」「廃」=廃止するのは「当然の御儀」だと申し上げさせていただく。 
 以上、終わり。
 ***
 これは明治政府全体の1871年の政策方針でも、神祇官の見解でもない。しかし、その直下の「諸陵寮」の見解・意見の具申文書だ。
 「九重石御塔」等が存置されたままであるのを批判し、泉涌寺の「廃止」すら提案されている。その根拠は「ご一新」であり、「神仏混淆不相成」であり、「浮屠混淆」の禁止=仏教を含む汚らわしいものとの「混淆」の禁止、だ。
  しかし、現在、泉涌寺は残存しており、御陵もその直近に残っている。
 「九重石御塔」とは<九重石塔>とか<九重石仏塔>とか呼ばれるもので、どうやら仏教様式のものらしい。
 思い出すと、奈良県桜井市の談山神社の本殿の前に立って、ここは寺院だったか神社だったかと一瞬迷ってしまった理由の一つは、石製でなく木造ではあっても13重の、<九重仏塔>のようなものがきちんと存在していたことにあったようだ(神仏混淆の名残りだと思われる)。
 <九重石仏塔>ではなく、実際に多くあると思われるのは<十三重石塔>だ。
 清水寺(京都)、泉涌寺塔頭の新善光寺、長岡京市の乙訓寺、奈良県平群町の千光寺、京都・三十三間堂東の法住寺、神戸市北区の三田に近い鏑射寺には、間違いなく<十三重石塔>があり、京都市・東山の長楽寺には、建礼門院(安徳天皇の実母)の供養塔として、かなり古びた小ぶりの<十三重石塔>がある。但し、これらは御陵または陵墓とは直接の関係がないと見られる。つまり、墓碑の直近に立っているわけではないようだ。なお、建礼門院徳子は天皇ではないものの、その御陵はあって宮内庁が管理している。その位置からして、少なくともかつての「菩提寺」は京都・大原の寂光院だったと見られる。
 もっとも、(五重石塔もあるようなのだが)、これら<九重石塔>や<十三重石塔>の意味、9や13という数字の意味はよく分からない。関心をもって情報を探しているが、簡便な方法によっては手がかりが得られない。ひょっとすると、きちんと説明することのできる仏僧たちすら少ないのではないか、とすら感じている。
 四での前置きが長くなったが、上の1871年諸陵寮改正案が批判・攻撃の対象にしていた「九重石御塔」は、現在でもそのまま残っていると見られる。
 この一年以内に、ネット上で近年または最近の月輪陵(+後月輪陵)を撮影している写真を見つけた。一般人も撮影地点まで入れるかと思ってその後に(そのためだけでもないが)陵の告知板辺りから右上方につづく「道」を入りかけると、そこは立入禁止になっていた。ネット上の写真は特別の資格があるか特別の許可を得た人が掲載しているのだろう(あるいは禁を破った人か)。
 先日にこの陵を西北方向から撮った映像を数秒間流していたテレビ局があった。相当に珍しいフィルムなのではないかと思われる。
 これで泉涌寺関連が終わるのではない。
 各御陵の「向き」(泉涌寺自体の「向き」とほとんど同じ)や孝徳天皇(・英照皇太后)陵の、他陵との違いについて、さらに言及する。
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 以下、ネット上より。月輪陵。後月輪東山陵は写っていない。

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1979/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05③。

  泉涌寺-月輪陵-後月輪東山陵-孝明天皇陵となると、孝明天皇自体について、幕末期の<孝明天皇暗殺>説に触れたくなる。岩倉具視を首謀者とするのかもしれない「暗殺」、または意図的な治療遅延等による「殺人」が万が一にでも事実であったとすると、つまりは幕府および徳川家に対する敵意が薩長両藩や「過激」公家たちほどでは全くなかった孝明天皇がもう少しは長く存命していれば、<幕末・明治の変革>の様相は変わっただろうし、<明治維新>の印象・イメージも大きく変わるに違いない。
 学者・アカデミズム界を超えるか少なくとも同等の推論をしている、本来は小説家・作家の中村彰彦のいくつかの本(暗殺説)にも触れたくなる。
 この主題を忘れているわけではない。但し、「明治維新」を項とするところで、別に扱った方がよいだろう。
 泉涌寺が<天武天皇系の天武から称徳・孝謙天皇まで>の天皇を供養の対象にしていないこと(位牌のないこと)にも今回は触れない。女性・女系天皇とか、光仁・桓武天皇による<王朝交代>説とかに関係してくる。
  上の後者に少しは関連性があるが、泉涌寺自身が制作・頒布している小冊子(<御寺・泉涌寺>)内の「泉涌寺略年表」にしたがうとすると、前回・前々回に記した以上のことが分かる。
 称光天皇(即位1412年、後花園天皇の前代)の御陵は、京都市伏見区深草の深草北陵の中にあるが、1428年に泉涌寺で「火葬、奉葬」が行われている。
 後小松天皇(即位1382年)の御陵も同じく深草北陵の中にあるが、上皇となったのちに没した1433年に泉涌寺で「火葬、奉葬」が行われている。なお、別の資料によると、泉涌寺月輪陵内にではなく、泉涌寺塔頭の雲龍院境内に「灰塚」がある。
 後土御門天皇(即位1464年)の「灰塚」が月輪陵内にあるとされるが(この欄の前回参照)、1500年に泉涌寺で「火葬、奉葬」が行われている。但し、御陵自体は、上と同じく深草北陵の中にある。
 後柏原天皇(即位1500年)の御陵も深草北陵の中にあるが、1526年に泉涌寺で「火葬、奉葬」が行われている。なお、泉涌寺月輪陵内に「灰塚」がある(前回参照)。
 後奈良天皇(即位1526年)の御陵も深草北陵の中にあるが、1557年に泉涌寺で「火葬、奉葬」が行われている。なお、前代と同じく泉涌寺月輪陵内に「灰塚」がある(前回参照)。
 正親天皇(即位1557年)の御陵も深草北陵の中にあるが、1593年に泉涌寺で「火葬」はないようだが「奉葬」が行われている。前代と同じく泉涌寺月輪陵内に「灰塚」がある(前回参照)。 
 後陽成天皇(即位1586年)の御陵も深草北陵の中にあるが、1617年に泉涌寺で「奉葬」が行われている。前代と同じく泉涌寺月輪陵内に「灰塚」がある(前回参照)。 
同じ「略年表」によると月輪陵または後月輪陵に陵墓のある後水尾、明正、後光明、後西、霊元、東山、中御門、櫻町、後櫻町、光格、仁孝の各天皇の「奉葬」を行ったと明記されており、後月輪東山陵に陵墓のある孝明天皇についても同じだ。
  これによると、15-16世紀に、泉涌寺で天皇の「火葬」が行われていた。その場所は筆者には分からず(諸資料にも書かれておらず)、推測するしかない。
 「火葬」もせず、また陵墓自体は別にあって(深草北陵)、泉涌寺が「奉葬」したという、「奉葬」の意味はよく分からない。
 推測になるが、遺体・遺骸を存置しての丁寧なまたは本格的な「法要」ないし「葬送の儀礼」、要するにきちんとした<葬儀>は泉涌寺で行い、遺体・遺骸は泉涌寺より南の深草まで移して「埋葬」した、そこが最終的な「陵墓」となった、ということなのだろう。
 以上の今回記したこともまた、少なくとも孝明天皇までの、天皇と仏教・寺院の関係の深さを、とりわけ仏教寺院である泉涌寺との鎌倉時代以降の関係の深さを示している。
 もちろん、「奉葬」は仏僧たちが、仏教的様式で行ったに違いない。泉涌寺のどの建物で、ということになると、現存建物の中では舎利殿か仏殿かしか考えられないが、特別の建築物が一時的にせよ造られたのかもしれない。

1978/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05②。

  御陵は現在(明治期以降?)は宮内庁の(直接の)管理だ。したがって、泉涌寺とは法的には無関係とは言えなくもないが、すぐ近くにある月輪陵(12天皇)と後月輪陵(2天皇)については、これら陵墓の区画と間際の道路部分へは現在でも泉涌寺の境内を通らないと到達できないと思われる。
 聖徳太子陵についての叡福寺の場合と同じだ。
 但し、孝明天皇についての後月輪東山陵へだけは、金堂・本坊等のある泉涌寺境内を通らなくとも自動車で行ける道路(または道路状の通路)が続いている。
 しかし、どちらにせよ固定資産税の対象にはならないのだから明確にしておく意味はほとんどないが、一般的な道路の一部ではなく、おそらく厳密には泉涌寺(本山)の所有する土地内に設けられているのだろう。
 というのは、泉涌寺付近の三陵墓を訪れるためには泉涌寺(山内)の「総門」をくぐらなければなないが、この門より奥は「私道」だ旨の看板が掲げられている(従って正確にはたぶん、道路交通法の適用はない)。
 「総門」をくぐると左右に<塔頭>がいくつかあり、その中には西国観音巡礼の札所の今熊野観音寺すらある。また、宮内庁書陵部月輪監区事務所の建物も、泉涌寺の仏殿・舎利殿(の近くを通って月輪陵と後月輪陵)や後月輪東山陵に続く道路の近くにある。この管区事務所は全国につあるようだ。大まかな位置としては、その道路に接してはおらず、今熊野観音寺と泉涌寺の中間の叢林の中にあるように思える。
 なお、泉涌寺の大門はやや高い箇所にある。いま言及している道路はそこへさらに上がらないで泉涌寺境内の平地部分と同じ高さで斜め左へと分岐する。泉涌寺を正規に参拝するのは「大門」からだと思われ、そこに入山料受領所もある。左に分岐する道を「御陵参道」と記してある地図を掲げる書物もある(もっとも、大門を経由しない泉涌寺中心部への近道にもなる)。実際にも、「泉山御陵参道」という石碑も立っているようだ。
 その分岐点に「拝跪聖蹟」と彫った大きな石碑が立てられている。
 裏には、「皇紀2594年5月27日」〔タテ書き漢数字〕と刻まれている。
 「拝跪聖蹟」という語は他では見たことがなく、この地点から奥は「拝跪亅すべき「聖蹟」だ、という意味なのだろう。立てられた年だと見られる皇紀2594年は、1934年で、昭和9年だ。これも、現在の通念とはやや異なる印象を与えるだろう。
  泉涌寺近くの御陵には天皇の陵墓だけがあるのではない。
 月輪陵・後月輪陵に陵墓のある天皇は、前回にも示したが、以下の12天皇。孝明天皇陵は、後月輪東山陵という一段と高い丘陵地の中にある。
 四條、後水尾、明正、後光明、後西、霊元、東山、中御門、櫻町、後櫻町、光格、仁孝。
 天皇以外では、以下。
 陽光太上天皇、後水尾天皇皇后和子、霊元天皇皇后房子、東山天皇皇后幸子女王、中御門天皇女御贈皇太后尚子、櫻町天皇女御尊称皇太后舎子、桃園天皇女御尊称皇太后富子、後桃園天皇女御尊称皇太后綾子、光格天皇皇后欣子内親王、仁孝天皇女御贈皇后繁子、仁孝天皇女御尊称皇太后禮子。
 つぎの5天皇については、「陵」ではなく、「灰塚」だとされる。
 後土御門、後柏原、後奈良、正親、後陽成。
 「陵」ではなく、たんに「墓」とされるものも同じ区画内にある。以下の9皇族。
 光格天皇皇子温仁親王、光格天皇皇子悦仁親王、仁孝天皇皇子安仁親王、陽光太上天皇妃晴子、後陽成天皇女御中和門院藤原前子、後水尾天皇後宮壬生院藤原光子、後水尾天皇後宮逢春門院藤原隆子、後水尾天皇後宮折廣義門院藤原國子、仁孝天皇後宮祈祷賛門院藤原雅子。
 以上は、月輪陵入口にある掲示板の写真によった。読み間違い、見間違いがあるかもしれない。
 孝明天皇の御陵は後月輪東山陵(のちのつきのわのひがしのみささぎ)というが、同天皇妃夙子(孝明天皇没後に英照皇太后と追号)の陵は後月輪東北陵といい、孝明天皇陵とおそらく同じ高さの、かつやや北方に離れたところにある(いずれも直視はできない。門付近にある案内地図による)。
 さらに追記すれば、宮内庁管理の「御陵」・「陵墓」扱いがなされているかは疑わしく、そうではないとむしろ思えるのだが、泉涌寺付近には、以下の人物の墓地・墓碑もある。
 「朝彦親王墓」、「淑子内親王墓」、「守脩親王墓」と刻まれている墓碑が、「大門」の南、塔頭の雲龍院の西下にある。その西側に、「賀陽宮・久邇宮墓地」と地図にも出ている墓地の区画がある。ネット上に、7名の皇族名が書かれている。先の「朝彦親王」というのは、久邇宮朝彦親王(香淳皇后の父方の祖父、現上皇の曾祖父)のことだろう。
  このように天皇、皇室の御陵または墓所に泉涌寺は大きな関係があった(・ある)と見られる。
 このことは例えば、つぎのことでも示されているだろう。葬礼等々は、塔頭を含む泉涌寺全山(泉山、洛東泉山)が取り組んだ大仕事?だったのだろう。
 第一に、宗教法人としての関係はよく分からないが(たぶん別法人なのだろう)、泉涌寺に一番近いすぐ北の塔頭の来迎寺は、「禁裡御菩提所別当」だったと自称しているようで、その旨の「印」が現在でもある。
 第二に、泉涌寺からかなり離れた、つまり「総門」には近い塔頭寺院に法音院(ほうおんいん)という仏閣がある(真言宗泉涌寺派)。ここの現在の本堂(不空羂索観音が本尊)は、英照皇太后(孝明天皇妃)の葬儀の際に用いられた「仮屋」を移したものだとされている。なお、英照皇太后は明治天皇の実母ではない。
  泉涌寺関連をまだ続ける。
 神仏習合の長い時代の歴史や天皇・皇室と仏教との関係を日本会議は、あるいは日本会議派諸氏はどう考え、理解し、または感じているのだろうとの関心で書いている。
 こんなことは、彼らにはどうでもよいことかもしれない。「現在の運動」を維持し、拡大するためには、歴史の真実など簡単に無視する。日本共産党もそうだが、政治運動団体というのは、そういうものだ。
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 月輪陵の最後の門と区画入口の告知板。
 
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 後月輪東山陵等への参道(泉涌寺への中間入口の北)と後月輪東山陵=孝明天皇陵の門(一般私人はここまでしか来れない。先日6/12、両陛下がこの石段を上がられるのが数瞬間だけ放映された)。
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1962/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史04。

 「保守」と「右翼」はきちんと区別しておいた方がよい。
 欧米の概念用法に従う必要はないとしても、偏頗なまたは単純な<愛国主義>または<民族主義>の政治運動は決して「保守」ではなく、欧米では「右翼」または「極右」と称されると見られる。
 これまた日本独自のことを欧米に比較して単純に比較して言うことはできないとしても、「君主」が存在する国家で、それを<戴き>、その永続を願うことは<保守>派だとは決して言えないと思われる。むろん、別の趣旨・意味または論脈で「保守」(的)という語は用いられている。
  産経新聞社の要職にあるのかもしれない桑原聡は、月刊正論(同)の編集代表時代に、こう書いた。2013年12月号末尾。
 ①「保守のみなさん、…、内ゲバのような貶し合いは左翼にまかせ、おおらかに共闘していきましょうよ」。
 ②「自信をもって、…天皇陛下を戴くわが国の在りようを何よりも尊いと感じ、これを守り続けていきたいという気持ちにブレはない」
 この当時は上の①に反発を感じたが、振り返ると、上の②で桑原聡が表現する「天皇陛下を戴くわが国の在りようを何よりも尊いと感じ、これを守り続けていきたい」という考えまたは気分が、この人物が理解する<保守>なのだろう。
 これは、「保守」派または「保守主義」か。
 「天皇陛下を戴くわが国の在りよう」というのは、いったいいつの時代のことを想定しているのか。「神武」天皇以来、「わが国の在りよう」は同一または同質だとでも理解しているのであるとすると、恐ろしい。
 ひょっとすれば、明治維新以降、明治天皇の代以降のみが、桑原聡にとっての「保守」すべき「日本」なのではないか。明治維新以降の、とりわけ1945年での断裂と連続について議論すべきところは多々あることは別としても。
 櫻井よしこは、「これからの保守に求められること」と題する小文で、つぎのように書いた。月刊正論2017年3月号84-85頁。一文ごとに改行。
 「五箇条の御誓文と十七条の憲法には重なる部分があります。
 この二つは驚く程普遍的な価値観によって支えられています。
 それが日本の日本たる基本であることを認識していることが、保守の基本ではないでしょうか。」
 これこそが櫻井よしこの「保守」宣言であり、「保守」理解なのだが、「日本の日本たる基本」を示す「それ」が何か不分明であるものの、それはどうやら「五箇条の御誓文と十七条の憲法」が示す「普遍的な価値観」らしい。
 やれやれ、何の専門家でもない櫻井よしこがこうして上の二つを結びつけて、なるほどと感心するのは、江崎道朗等々の<日本会議>の熱心な会員くらいではないか。
 前天皇(上皇陛下)の譲位問題をめぐって、現憲法等の諸条項の文言すら知らないままで上の問題を論じ、<政教分離>条項も知らないままで<祭祀>の憲法上の位置を高めよとか書いていた、「あほ」の一人である櫻井よしこの「歴史認識」など、誰が信頼できるだろう。
 この人物は安倍晋三戦後70年談話を田久保忠衛と一緒にいったん称賛し、中西輝政らの強い批判があることを知るや、「歴史認識」として問題はあるかもしれないが、「政治的文書」として支持すると(雑誌文をまとめた翌年の書物の追加注記で)、のうのうと言い放った人物だ。
 この櫻井よしこによるとどうやら、聖徳太子の時代(いや、正確にはこの人物らしき者による文章)といちおうの権力交替後に発せられた(<倒幕の密勅>の時点でスローガンとして表現されていない)明治新政権の理念(らしき)文書には、一貫性・連続性あるいは同質性があるらしい。
 日本共産党が種々主張しているのと同じで、<何とでも言える>。
 江崎道朗著のおかげでこの聖徳太子・「十七条の憲法」問題にはずっと関心をもっているので、いずれ何か書くだろう。
 いずれにしても、櫻井よしこにおいても桑原聡と共通しているのは、どうやら<明治期以降の日本>の歴史的伝統こそが(それは神武天皇・聖徳太子以降連続しているのかもしれないが)きわめて高く評価されている、ということだろう。
  菅義偉官房長官は、将来の皇位継承問題について、「古来例外なく」男系男子で継承されてきたことを「重く」受け止めつつ検討したい、とか発言していたようだ。
 ここでいう「古来」とは、いったい、いつ以来のことか。
 秋月瑛二によると奈良時代後半以降、最年長で就位したらしい光仁天皇以降のことで、それ以前は少なくとも、含まれない。
 だが、神武天皇以来、と明言する者もいるようだし、櫻井よしこもまた、2600数十年とか、120数代の、とか明記していた。
 秋月は元号という制度に反対していないし、また「建国記念の日」の設定にも反対しなかった。後者についていうと、「神武」天皇が旧暦1月1日に就位したので新暦ではなどという「話」はウソであるに決まっている。
 それでもあえて「建国」を話題にしたいならば「物語」として、<そういうことにしておく>ということに殊更に反対しようとは思わないだけだ。
 厳密にいえば、現在日本の成立・「独立」はサンフランシスコ講和条約の発効日である4月28日ではないか、とも考えられる。これに立ち入らない。
 すでに記したように、通説的な理解に従うとすると、少なくとも孝謙(・称徳)天皇の存在自体が、男系男子「一系」論と矛盾している。
 しばしば奈良時代等の「女性」天皇は男子・男系につなぐための「つなぎ」・「中つぎ」だと説明されるが(とくに男系男子論者によって)、この主張は少なくとも称徳(・孝謙)天皇には当てはまらない。持統天皇にも当てはまらないだろう。江戸時代の明正天皇(女性、17世紀)には当てはまるとしても。
 元に戻ると、「神武」天皇に当たる現在の皇室の始祖はいたのだろうが、系図的に明確なものではなく、あくまで<日本書紀によると>という条件を付けなければならない。
 神武天皇陵は明治維新以降にいくつかの候補の中から決定され、その近くに「橿原神宮」が明治期に建立された。平安神宮は明治憲法下で平安京遷都1100年を記念して設立された。明治神宮は当然ながら大正時代のもの。
 皇室ゆかりの平安期以前からの、などというものでは全くない。これらは、少し立ち入ってみれば<常識>の範疇だろう。こうした明治期以降のものにだけ日本の「伝統」を感じてしまうのは、性急すぎだし、誤っている。
 余計なことをまた書いたが、欠史八代につき神武天皇から父親-男の子という直系継承の連続を語る日本書紀をそのまま「信じる」ことができるわけがない。この点で、在位(・生存)期間は捏造(作為)だろうが「代数」に限っては正確な記憶があったのではないかとする安本美典説は、この代数論は安本説にとって重要だが、少数説なのだろうか。
 ある意味では、日本書紀(・古事記)をそのまま、または原則として「信じる」、「信じようとする」のが日本会議等の<天皇崇敬派>かもしれない。
 しかし、日本書紀(・古事記)等々の古文献の信憑性の範囲や程度は専門家・研究者に任せるべきで、「右」も「左」もだが、政治的に全肯定または全否定することで歴史を歪曲してはならない。政治目的・運動目的のために、日本の歴史を「利用」すべきではないだろう。
 神武天皇以来のとか、皇統2670年、125-6代とかいうのは、全て「ウソ」だ。たんなる「お話」にすぎない。
 櫻井よしこは平気で代数を明記していたが、その数字自体が明治期になった確定されたもので、疑わしかった大友皇子(天智天皇の子)は一代(=弘文天皇)とされ、神功皇后は天皇ではなかったとされ、また南朝ではなく北朝が<正嫡>の皇統だとされた。
 上の論点のいずれについて争っても、代数は違ってくるのであって、「信じれば正しい」というものではない。
 なお、日本会議等は<天皇崇敬派>だというのは、彼らのいう「観念」としての天皇や天皇の歴史についての「崇敬」であって、現実に前天皇(上皇陛下)や今上陛下(・雅子皇后)についてはとても「崇敬」者たちとは言い難い(少なくともかつてそうだった)ことはまた再び記録しておきたい。
  やれやれという気がしたのは、西尾幹二が、こう書いていたことだ。同・ウェブサイトによる。産経新聞2019年3月1日付「正論」欄。
 つぎはまだマシかもしれない。平安時代後期以降の視野を限るとすれば、という条件をつけてだが。
 「皇室は何度も言うが精神的権威であって、政治的権力ではない。昔から…武士の誇示する政治力や軍事力を自ずと超えていた。」
 まだマシだが、しかし、最近に、鎌倉時代には「東」の武士権力と「西」の天皇・公家権力が土地の領主支配としても並列していた、という文献を読んだ(あるいは、一瞥した)。
 ともあれ、つぎはマズいだろう。
 「125代続いた天皇家の血統というものが世界の王家の中で類例を見ないものであり、…」。
 明治期の正嫡論争等を知っているはずの西尾幹二は産経新聞「正論」欄に政治的に媚びているのではないだろうか。善解すれば他国と比べてのレトリックかもしれないし、「125代続いたとされる」が編集者にによって「続いた」との断定文に事実上一方的に変えられた、ということも、前例からにするとありうるのではあるが。
 日本は神の国です、と言うのと、日本は神の国と言われています、では、まるで意味が異なる。
 八幡和郎は、つぎの叙述に関するかぎりで、秋月瑛二よりも日本書記等への信頼度が高く、皇室あるいは天皇制度に対する信頼度・崇敬度も、私よりもやはり高いようだ。
 八幡和郎・最終解答/日本古代史(PHP文庫、2015年)。
 「『日本書記』『古事記』は、系図や出来事がそのままでも、神話を排除し、寿命を一般的な長さにするなど『合理的解釈』すれば外国文献や考古学的成果と矛盾はないのです。」
 この文章は「神話を排除し、寿命を一般的な長さにするなど『合理的解釈』」をするのでよい、とするが、いちおうは説得力ある、スジをたどれる叙述ならば全て「史実」と理解してしまうという懸念・危険があるように思われる。この人によると、「継体」天皇即位期に「対立」はなかった。
 そもそもは、天武天皇(・持統天皇)とその後継者期に編纂・作成されて何らかの政治的(とくに自分たちを正当化する)目的・意図をもって記述されていることを見逃してしまうおそれがあるのではないか。
 具体的な内容を読んではいない。但し、別の主題だが明治維新や明治時代への八幡の評価は、秋月瑛二よりも高いようだ。そのこともあってたぶん、月刊正論(産経)に文章を書いたりしているのだろう。
  奈良時代の女性天皇について、持統天皇を「祖」とする<女系天皇>といったことを元々は書きたかったのだが、つぎの文献に気づいた(新たに買い求めたのではなく広大な書庫?で見つけた)ので、これらをもう少し読んでからにしよう。
 遠山美都男・古代の皇位継承(吉川弘文館、2007)。
 大塚ひかり・女系図でみる驚きの日本史(新潮新書、2017年)。
 追記/前回に仲哀天皇-応神天皇の継承の否定説として井沢元彦の名を挙げたが、安本美典も、その結論および実際の父親の特定も同じ説のようだ。
 こんなことに、櫻井よしこ、江崎道朗、椛島有三らは興味がないだろう。

1960/新元号の決定・公布・施行と日本会議。

 一 <平成31年4月1日月曜日/官報号外特9号>により、つぎのとおり、元号政令が公布された。縦書き漢数字は横書き洋数字に改めた。
 **
 御名 御璽
 平成31年4月1日
  内閣総理大臣 安倍晋三
政令第143号
  元号を定める政令
  内閣は、元号法(昭和54年法律第143号)第一項の規定に基づき、この政令を制定する。
  元号を令和に改める。
  附則
  この政令は、天皇の退位等に関する皇室典範特例法(平成29年法律第63号)の施行の日(平成31年4月30日)の翌日から施行する。
  内閣総理大臣 安倍晋三
 **
 すでにこの欄に記したように、政令一般もそうだし、元号を定める政令もそうだが、政令を制定するということは、内容の①決定、②公布、③施行(発効)という三つの段階を経る。
 今次の元号決定(・変更)は閣僚懇談会のあとの閣議によって、元号法が定める決定権である内閣によって行われた(上に「内閣総理大臣・安倍晋三」とあるのは決定権者を示しているのではなく、署名をして合議体の中の責任大臣を特定しているのだと思われる)。
 それだけでは政令としての法的効果を発生させず、法律と同様に、一般に対して、国民一般に、周知する、という公示・公布が必要だ。
 これは憲法上の国事行為の一つとして、天皇が行うことと、現憲法上定められている。
 上の最初に「御名 御璽」とあるのは(法律等の場合も同じだが)今上天皇が直筆で署名し、天皇の「公印」が捺されていることを示す。
 官報にはそのままの写真を掲載しはしないので、「御名 御璽」という記載の仕方になる。
 この公布=官報への掲載と官報販売所への送付によって初めて元号政令は正式に公にされることになる。
 菅義偉官房長官が「令和」と筆書した額を掲げつつメディアの前で新元号を発表したのは、法的には厳密には意味がない。内閣が決定した内容について(いずれすみやかに公布される前に)情報を提供する行為(事実行為の一つ)にすぎない。
 4月1日の閣議決定後に官邸?を出た自動車が皇居に向かっておそらくは今上天皇と接する?までは官房長官「発表」がなかったのは、どのメディアもほとんど正確には報じていなかったが、新元号政令の「公布」に必要な「御名 御璽」が記され、捺されるのを待っていたためではないか、と思われる。たんに新元号が「令和」に決まったことを伝えるためではない(まして今上陛下の意見・意向を拝するためではない)と思われる。
 何らかの資料・情報で確認しているのではないが、「公布」が4月1日発行の官報によっていることかにすると、そのように確実に推察される。
 今上天皇による、「御名 御璽」の署名・押印のあとすみやかに=4月1日のうちに(独立行政法人)国立印刷局による印刷と頒布がなされたのだろう。
 重要なもう一つは、「公布」があった始めて当該政令は法的効果をもつが、その効果・効力の発生は「公布」時であるとは限らない、ということだ。
 公布されたその日が施行日だという法令もあるが、何時何分とかが問題になりうるので、近い将来の施行日まで定めていることの方が多いのではないだろうか。
 そして、上のとおり、今次の元号政令は、「…(平成31年4月30日)の翌日から」施行される=発効する。
 この「翌日から」は、「5月1日から」で、正確には、5月1日の午前0時からの意味だと思われる。
 二 すでに紹介し批判的コメントを加えた(この欄2月3日、№1915)ように、「日本会議」という最も簡潔な名前で発している日本会議の新元号決定等に関する「見解」は奇妙だ。
 ①「新元号の制定については、新天皇がご即位後決定し公布するというのが、本来の在り方である」。
 ②「新元号は新天皇のご即位後に閣議決定し公表すると共に、『国民生活への支障を回避』するために『施行』時期を遅らせるという方法もあり得た」。
 ③「今回の元号制定方式が、将来の先例とならないよう求める」。
 これらのうち、①と③は、現在の元号法(法律)の定めに反対していることを示す。
 そうだとすると、これをどう改正するかを、日本会議は提言すべきだ。
 たんなる精神・観念論ではなく、法制度の具体的内容を論じることができなければならない。
 不思議で奇妙でもあるのは、とくに上の②だ。
 第一に、新天皇即位後に「新元号を決定し公表」すると述べつつ、正規の「公布」という語が使われていない。官房長官による「公表」と官報登載という正規の「公布」は、意味も時機も同じではない。
 加えて、この日本会議の考え方に従うと、おそらく、5月1日午前0時からの新天皇の就位と新元号の決定・公布までの間にタイム・ラグが必ず生じ、「平成」ではなくなったがまだ新元号が施行されない、または5月1日になってからもしばらくは「平成」のままで新元号が施行されない、という時間がかりに数時間または十数時間であっても生じる、と考えられる。
 前者のように「空白」を生じさせてはダメだし、後者によれば一天皇=一元号を崩してしまう。
 日本会議は、いったい何を考えているのか。
 第二に、「『国民生活への支障を回避』するために『施行』時期を遅らせる」というのは、種々に理解できるところもあり、精確な意味は不明だ。
 そもそも日本会議は、たんに「日本会議」名で発表されている文書は、『国民生活への支障を回避』という場合の「国民生活への支障」を、IT分野の情報プログラムの問題も含めて、どのように理解しているのだろうか。
 あるいはそもそも「施行」という概念を厳密に分かったうえで使っているのだろうか。
 遅れて「施行」されるまでは、新天皇のもとでの元号はまだないのか、それとも元号は「平成」のままなのか??
 要するに、現実の社会に関する知見、法制度に関する知見等々、を日本会議および同会議諸氏はいかほどに有しているのだろう。きちんとした顧問・専門家不在で、<あほ>が集まっているのではないか。

1957/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史03。

  「保守」と「右翼」はきちんと区別しておいた方がよい。
 論点をほとんど一つに絞ったような政治的精神運動団体は、偏頗なまたは単純な<愛国主義>または<民族主義>だとは言えても、「保守」だとは本来は称し難いように思われる。
 「リベラル」も至極あいまいな概念で、この欄ではできるだけ使用を避けている。
 しかし、これまで頻繁に使ってきた「保守」という概念・言葉の意味やそれがもつ射程範囲もまた、この欄でも何度か触れてはきているのだが、基本的な再検討が必要だ。
  曖昧なままで「保守」という語を使っておくと、広い意味での今日の日本の「保守」派を分ける基本的な対立点の一つは、<天皇>制度につき、とりわけ将来または近未来のそれについて、男系に限るべきとするか、少なくとも何らかの時期を想定して<女性かつ女系>天皇も容認すべきだとするか、にあるようだ。
 言うまでもなく日本会議派は前者の立場で、日本会議系または神道政治連盟系を「堅い」読者層とする産経新聞社の主流派および月刊雑誌・正論の基調もまた、前者だと推察される。これらと一線を画してはいるが、この論点に限っては、西尾幹二も前者に入る。
 秋月瑛二もまた、かつて一時期、この立場を支持して、<女系天皇>容認論者を、例えば小林よしのりの議論を批判したこともある。
 その場合の論拠はほとんどもっぱら、日本の<歴史的伝統>であって、「女性」天皇はいても<女系>天皇を日本の歴史は容認したことがない、ということにあった。
 前者の主張の論拠もまた、ここにあったし、またあるものと思われる。
 つまり、せっかくの<歴史的伝統>をあえて崩す必要はないのではないか、という素朴かもしれない発想によっていた。
 もちろん、天照大御神は「女性」だった(ヒミコも女性だった)などということは、<女系>天皇容認論のまともな論拠になるはずはない。、
しかし、もともと日本史の専門家ではないことにもよるのだったが、そもそも日本の歴史には「女性」天皇はいても、<女系>天皇を容認したことはない、かつまた原則的にでも<男系男子>が存在する場合には当該男子が継承してきた、という根本的な論拠については再検討が必要かと思われる。そして、日本会議派等の<男系>限定論者の「歴史認識」は本当に正しいのだろうか、という疑問をもつに至った。
 というのは、基本的な問題として、ある天皇が<男系>か<女系>かは簡単には決定できないのであって、一種の<価値判断>を前提にしている。あるいは、明治維新以降、つまり明治期以降に一般的になった「固定観念」をなお維持している、と考えることのできる根拠があるようだ。
  結論的に言って、<男系>限定と日本の天皇の歴史を認識することができるのは、おそらく光仁天皇以降、つまりはほとんど平安期以降であって、それまでは<男系>に限定されていた、あるいはそういう観念・意識が定着していたとは、全く言えないだろう。
 そもそも、神武天皇以降一貫して<男系>に限られてきた、とするのはたぶん日本書記等による、おそらくは後世になって、平安期以降に造られた「物語」であって、真実はそうではないだろうと思われる。
 こんなことは一部の論者あるいは日本史の専門家から見れば当然のことなのかもしれない。そうだとすると、日本会議派等の<男系>天皇限定論者は、日本の歴史について、<ウソ>をついていることになる。
 そもそも論から言うと、神武天皇以来脈々と「天皇」家の血統は続いてきている、ということ自体、神話・伝承あるいは、櫻井よしこらが好む「物語」にすぎない可能性が十分にある。<万世一系>は歴史認識としては(当然に「万」世ほどに続いていないことは別論として)誤りだろう。
 日本書記の描く古代史とは違う「王朝交替」論があることはよく知られている。そのうちの最初の方の継体天皇について<男系>とするのは、やはり不自然かと思われる。子細には立ち入らない。
 比較的最近につぎの新書を一読していて、須原祥二「第二講・倭の大王と地方豪族」があっさりとつぎのように記述しているが興味深く感じた。
 佐藤信編・古代史講義-邪馬台国から平安時代まで(ちくま新書、2018)。
 「そもそもこの時期までに、盟主の地位が特定一族の男系で継承されていたかどうかわからないが、仮にこの時点で盟主権の移動を想定するなら、例えば『入り婿』のような形での政権中枢内部における権力委譲や権力闘争の問題として、まずは検討した方がいいいだろう」。
のちに言う「継体」天皇が「入り婿」だとすると、むろんそれ以降の天皇の血統は「女系」天皇になる。
 この辺りについてはもっと前にヒミコ・邪馬台国問題にも触れたくなるのだが、割愛する。皇祖神が天照大神であって、神武天皇がその嫡流だとすると、これもまた「天皇」家の歴史と無関係ではない。
 応神天皇(胎中天皇)の母親は神功皇后とされるが、父親が仲哀天皇ではないとすると、<男系>継承は途切れている(井沢元彦説で、「推論」の部類だが、トンデモ説だとは思えない)。
  急いで書いてしまうと、おそらく奈良時代の孝謙天皇(=称徳天皇)の時期までは少なくとも、<男系>での「万世一系」による天皇たる地位の継承という意識・観念は成立していなかった、と考えられる(「天皇」という呼称自体、この時期による)。
 持統、元明、元正という各「女性」天皇の即位の時点で、<男系>皇族の中に男子も存在したはずだ。なぜこれらの「女性」天皇が成立し得たかは、後世の<男系・男子>による継承という原理・原則からはおそらく説明できないだろう。
 天武-草壁皇子-文武-聖武という「男系」の維持との関係でのみこれらの「女性」天皇即位を位置づけるのは、<後づけ>的な、天武-草壁皇子-聖武という<男系>中心史観とでも言うべきではないだろうか。
 また、孝謙(=称徳)天皇の発生と称徳天皇による道鏡への譲位の意向-宇佐神宮の「ご神託」という「話」は、男系か女系かという問題以前に、皇族の中から後継「天皇」を選ぶという原理・原則自体が、完全には定着していなかったことを示しているようにも見える。
 なお、数年前だろう、読売テレビ系の某番組で、竹田恒泰が<女系の例があるなら挙げてみよ>と挑発したのに対して、高森明勅が「元明天皇」と言いかけて口ごもっていた。
 しかし、竹田恒泰に反論するとすれば、かりに<女系>天皇の例がなかったとしても、その反対に<全てが男系だった>とも、厳密には言えないのではなかろうか。つまり、<男系>優先原則を徹底すれば、上記の4名の「女性」天皇もまた成立し得なかったのではないだろうか。
 もう一度換言すると、これら「女性」天皇の即位(重祚を含めると5回)の時点で、なぜ「男性」皇族(の一人)による継承という主張が有力になされなかったのか、という疑問がある(長屋王が好例。草壁皇子との関係では大津皇子も視野に入れるべきだ)。
  ところで、孝謙(・称徳)天皇は聖武天皇と光明皇后(藤原光明子)の間の娘だとされるが、聖武天皇には別の女性(県犬養広刀自)との間に別の娘もいた、とされる。
 井上内親王といい、この女性が光仁天皇との間にもうけた一人が、他戸親王という男性だ。井上内親王は少なくとも一時期は皇后で、その子他戸親王は、聖武天皇の実孫、光仁天皇の実子にあたる男子皇族。
 だが、この二人は皇后の地位および皇太子の地位を廃され、光仁天皇と高野新笠との間に生まれ、山部親王とのちに称された子どもが皇位を継承する(=桓武天皇)。
 「01」で触れた神泉苑(京都市中京区)での<最初の御霊会>の祭神?ではないようだが(神泉苑の小冊子による)、御霊神社(同上京区、相国寺の北方)のウェブサイトによると、「御霊」とされる「八所御霊」のうち、井上内親王・他戸親王は、のちの桓武天皇の弟の早良親王(=「崇道天皇」)に次ぐ、第二、第三の「怨霊」とされる。
 立ち入らないが、この時期、皇位継承のルールはまだ確固たるものになっておらず、何らかの理屈・理念によってではなく、ときどきの政治諸力や個人的意向によって(光仁、桓武以前は女性も含めて)決定されていた可能性が高いのではないか、という感想が生じる。
 平安初期からするとほぼ1300年。櫻井よしこが簡単に言う「2600」余年にわたって連綿と、というのは<大ウソ>で、半分にすぎない。
 それでも長いとは言える。天皇という地位・制度については別途考察する必要があるが、日本では「(世俗)権力」と「(聖的)権威」が分かれて…、などと簡単または単純に説明することはできないものと思われる。「権力」と「権威」という語・観念のそれぞれの意味を明らかにすることから始めなければならない。
 以上、シロウトの文章だが、日本会議派の櫻井よしこや江崎道朗あたりと違って、まだ冷静に実態に接近するという気持ちだけはあるのではないか。
 なお、江崎道朗はかつて、<日本会議専任研究員>という肩書きで文章を書いていたこともあった。

1938/日本の「保守」・西尾幹二の2008年頃の主張。

 西尾幹二・皇太子さまへの御忠言(ワック、2008年)はきっとアホらしくて所持していない。
 万が一入手していたとしても(そしてどこか隅にあるとしても)、捲って読んだことはない。
 今のところ、特段の突発事がないかぎり、本年2019年5月1日に現在の皇太子が天皇に、現皇太子妃・雅子様が皇后になられる。
 この時期だからこそ今のうちに、<保守>派の少なくとも一部がかつて皇太子や同妃についてどう発言していたかをあらためて記録しておいてよいだろう。
 西尾幹二はどちらかというと肯定的にこの欄で言及することが多かったが(これもこの一年以上はやめている)、その天皇・皇室論のうちの現皇太子・同妃<批判>だけは賛同できなかった。
 冒頭に書いたとおり単行本は読んでいないが、ときどきの関係論考は読んだことがあって、この欄でも明確に批判または疑問視してきた。
 あらためて彼の文書を読み直す余裕はないので、自らのこの欄へのかつての記載から振り返ってみる。
一例になるだろうが、①2008/11/08付の、<0615/西尾幹二の月刊諸君!12月号論稿を読む。やはりどこかおかしい>によると、西尾幹二は月刊諸君!(文藝春秋)2008年12月号にこう書いた。
 「私が危惧するのは、いまのような状態をつづければ、あと五十年を経ずして、皇室はなくなるのではないかということです。雅子妃には、宮中祭祀をなさるご意思がまったくないように見受ける。というか、明確に拒否されて、すでに五年がたっている。…皇太子殿下はなすすべもなく見守っておられるばかりなのではないか。これはだれかがお諫めしなければならない。…、言論人がやらなきゃいけない」。
 この当時に秋月がすでに指摘しているが、「雅子妃には、宮中祭祀をなさるご意思がまったくないように見受ける」との指摘はおかしい。
 「宮中祭祀」なるものがいつの頃からかあったとして、皇太子も、ましてや皇太子妃も、その<主体>ではあり得ない。
 また、上の「なさる」が参加する、関与する、という趣旨だったとしても、「宮中祭祀」への参加・関与が皇太子妃の「公務」とはどこにも定められていない。
 ②2008/06/13付の本欄<0548/取り返しのつかない、一生の蹉跌、ではないか-中西輝政・八木秀次・西尾幹二>によると、西尾幹二は月刊WiLL2008年5月号(ワック)につぎの旨を書いた。
 1.小和田家が皇太子妃を「引き取るのが筋」だ。(=おそらく皇太子との「離婚」が前提。)   
2.「秋篠宮への皇統の移動」との提言も「納得がいく」。(=つまりは現皇太子は、次期天皇としてふさわしくないという見解の表明だ)。
 こうなると、論及する気もなくなる<アホらしい>ものだった。
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 今回はこの程度にするが、この頃、<保守派>の少なくとも一部は何を血迷っていたのだろうか。
 上の②の表題にも出てくるように、西尾幹二、中西輝政、八木秀次は、<一致団結して>ではないが、それぞれに皇太子妃・雅子様を批判し、現皇太子の天皇就位資格を疑問視していたのだ。
 八木秀次も入っていることからすると、日本会議は(むろん正規の決定などしていないにせよ)このような論調に反対だった、八木のような主張を阻止しようとした、とは言い難い。容認していたのだろうと推察される。
 中西輝政、八木秀次の主張・発言内容には今回は触れないが、「平成」が終わろうとしている今、これら三人は、かつてのそれぞれの自分の主張・発言の内容の<適否>について、現時点での何らかの「総括」が必要なのではないか。
 なお、重視していなかったので当時はあまり取り上げなかったが、「アホ」の一人の加地伸行も当時に西尾幹二の主張を支持する論調だった。そして、のちに2016年になって明確に、皇太子・皇太子妃に対する<罵詈雑言>を吐く。その際の対談相手は、西尾幹二だ。
 その内容を分かり易く?列記したのが、以下だった。
 2017/07/16付の、<1650/加地伸行・妄言録-月刊WiLL2016年6月号>。
この上の最後の秋月の文章は以下。
 「この加地伸行とは、いったい何が専門なのか。素人が、アホなことを発言すると、ますます<保守はアホ>・<やはりアホ>と思われる。日本の<左翼>を喜ばせるだけだ」。

1915/日本会議1月17日見解への疑問-新元号の決定・公表・公布・施行。

 日本会議機関誌『日本の息吹』本年2月号末尾(裏表紙の反対頁)に、同会見解「『新元号の制定に関する政府の方針』への見解」が掲載されている。
 まず、これは安倍首相による年頭記者会見のうちの新元号に関する部分につき、「遺憾の意を表明せざるを得ない」として、それ以外の部分の表現は穏便さを装いつつも、実質的には厳しく批判するものだ。
 にもかかわらず、上掲誌の同号に目立って特集が組まれ(建国記念日と「御即位三十年奉祝感謝のの集い」)、いくつかの者の文章があるにもかかわらず、上の論点に関するものは一つもない。会長・田久保忠衛に対するインタビュー記事も同様。
 「日本会議」とだけ名うつ「見解」であるからにはしかるべき機関決定手続を履践しているのだろうが、それにしては、最末の一頁とそれ以外の印象が違いすぎる。
 以上は、まだ表面的・形式的な印象であり、問題点だ。
 日本会議「見解」(以下、<見解>)の問題は、その内容・実質にある。
 かねて感じてきたことだが、日本会議の事務総局やら役員または幹事の中には、冷静かつ論理的に緻密に皇室・天皇に関する「法」的議論をすることのできる、同じことだが「法」的見解を作ることのできる人員が全くいないのだろう。
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 一 論点の前提の一つの整理。
 元号が「改め」られるとして、新元号については、時系列的に、つぎの4つの時点が経過していく。
 ①内閣による決定
 ②公表。これは③ではない、事実上、メディア等の報道等によって新元号が明からになること、又はメディア等が一般に明らかにすることをいう。本来は③も②の一部だろうが、分けておく必要があるだろう。
 ③公布。憲法上の国事行為としての正規の「公布」。今上陛下が在位中であれば現天皇が、皇位継承がすでになされていれば新天皇が行うこととなる。
 ④施行。公布されたとおりに新元号が法的にも正規に使用され始めるには、この「施行」が必要だ。<発効>と称する場合もある。
 日本の「国」等の年表示には日本の「元号」を用いることとされていめる場合が「法的にも」多いので、いつの時点から「発効」し、国・地方自治体等の使用義務が発生するかは重要な問題だ。

二 日本会議<見解>は上のどの点に関して、どのようなものか。
 1.新元号決定権限が「内閣」にあることは、<見解>も否定していないようにも解される。
 しかし、<見解>の基本前提は、引用すると、「新元号の制定については、新天皇がご即位後決定し公布するというのが、本来の在り方である」というものだ。のちの文をも読んで善解したとしても、<「決定」は内閣がしてもよいが、その決定は新天皇ご即位後に行うべきだ>、という主張をこの日本会議は最低でも、又は少なくともしているものと理解することができる。
 2.そうなると、安倍内閣方針ではおそらく、上の④のみが新天皇の即位と同一時点になるのに対して、<見解>は、①~④のすべてが新天皇即位後になされるべきと主張していることになるだろう。
 これは政府方針との間の重大な対立であって、今頃に公にするのは遅すぎるという感が生じる。しかし、遅い、早いは、ここで書きたい当面の問題ではない。
 3.政府方針の背景に「国民生活に支障が生じることがないように」との配慮があるとされている。これに対して、<見解>は、「本来の在り方」と「国民生活への支障」発生の抑止の二つはつねに矛盾するのではないとして、つぎを提案していると解される。
 この部分をいちおう全文引用すると、以下。
 「新元号は新天皇のご即位後に閣議決定し公表すると共に、『国民生活への支障を回避』するために『施行』時期を遅らせるという方法もあり得た。
 4.上に最初に用いた①~④を用いて理解すると、<見解>はおそらく少なくとも①~③は今年5月1日になされるもの(なされるべきもの)と主張しているのだろう。
 しかし、④の「時期を遅らせる方法もあり得た」とはいったい、いかなる意味で、いかほどの「遅らせた」時期を想定しているのかは、さっぱり分からない。
 <見解>によると、それは「国民生活への支障を回避」するために必要な期間であり、6月初頭、8月初頭、あるいは10月初頭であってよいのかもしれない。

 三 日本会議<見解>の奇妙さ・異様さ。
 かりに上の4で記したような<見解>理解が誤ってはいないとすると、日本会議はじつに不思議で矛盾した、したがって奇妙奇天烈な「見解」を出していることになろう。
 つまり、新天皇即位後の①~③よりも④新元号の「施行」が<遅れてよい>のだとすると、新天皇就位後、その新元号の施行時までは正規には「平成」がなお数カ月ほどは続くことになる。
 この「遅らせ」を日本会議は許容することで上記の二つの趣旨は矛盾しないようになる、と主張している、と解される。だが、それではそもそも、一天皇=一元号で皇位継承時に元号を「改める」ことにはならないではないか。
 ひょっとすると<見解>は5月1日の早い時期に①~③を全て実施したあと、5月1日-2日の深夜にでも「遅れて」施行する(発効させる)とでも想定しているのだろうか。
 そもそも<見解>が理解する「国民生活への支障を回避」とは何なのだろうか。1日程度「遅らせば」回避できるようなものなのか。それだと、①~④の全てを新天皇就位後に行うこととおそらく何ら、少なくともほとんど(98パーセントは)変わらないだろう。
 くり返すが、では<もっと遅らせてもよい>となると、一天皇=一元号で皇位継承時に元号を「改める」ことにはならない。新天皇は「平成」時代と新元号の二つにまたがって在位することになるだろう。こんなことを日本会議は本当に考えているのか。

 四 そもそも日本会議とは何か。 
 天皇に元号決定権があると正面から主張しているわけでもないことが、すでに胡散臭い。
 「本来のあり方」と現行元号法が矛盾しているならば、そのこと自体を今回のような「譲位」が予想され得た時点(つまり皇室典範付則改正・特別法制定のとき)以降に明確にかつ激しく主張しておくべきだった。
 「日本」、天皇・皇室制度の「本来のあり方」等々とこの人たちが語るわりには、本当に真剣には法的・制度的問題を考えていないし、運動もしてきていないのが、この日本会議だと私は感じてきている。ほぼスローガンだけ、精神論だけ。
 あるいは、決定・公布・施行の各語がもつ意味を、正確には理解していないままなのかもしれない。これも、信じ難いことだが。
 もっともそうした力不足があって、「今回の元号制定方式が、将来の先例とならないよう求める」と書いていることからすると、いわば<今回はまぁよいが、今後は反省してね>という類の言葉の上での「存在証明」(逆アリバイ作り)で、上で紹介したような日本会議「見解」もまともに「現実」になることはないと、とっくに諦めているのだろう。
 しかし、「現実化」する可能性がほぼ全くない「提案」または叙述であっても、何がしかの論旨と論理の一貫性をもって行われるべきだろう。
 この日本会議には(その役員たちにも)、その能力はないようだ。

1910/言葉・文章と「現実」③-元号。

 成文法とは別に不文法があるとは一般論として言えるし、より具体的には、憲法(日本国憲法)よりも高次にある日本に固有の「法」があるという主張が分からなくはない。
 しかし、それは具体的に何かは明確ではない。「法」とは必ずしも、日本に固有の歴史的伝統的価値と同義ではない。歴史的伝統的価値があるとしても(それは具体的に何かも問題だが)、それは倫理、習俗、宗教、世界観・死生観等として継続し得るもので、「法」である必然性はない。
 ここで当然に「法」とは何かが問題になる。マルクスが言ったという、究極的「共産主義」社会での<国家と法の死滅>に影響を受けているわけではないが、「法」をその他の諸規範と区別するのは、国家又は人間集団が帰属する共同体を何らかの意味で「現実に」規律しようとするもので、何らかの意味での「現実化」するための装置が国家又は共同体によって用意されている、ということだろう。
 幼稚なものだが、このようにでも解しておかないと、「法」が諸々の規範と同じものになってしまうか、残る諸規範と区別することができない。
 さて、憲法(日本国憲法)よりも高次の日本に固有の「法」があるという主張はそれとしてあり得ると思うが、具体的に何かは個別に検討されなければならない。
 急に具体的な話題になるけれども、中川八洋が最近に奇妙な、または不思議な主張を天皇・皇室問題について行っていて、その小さな一つは、「天皇の大権である元号制定権に従い、新元号は新天皇にしか制定できない」(2019.01.15)、というものだ。
 この主張はある程度は<日本会議>派とも共通していて、彼らの中には、新元号の発表は新天皇の即位後に新天皇によって行われるべき、と考えるものもあるらしい(その他のいくつかの論点はあるが、立ち入らない)。
 しかし、天皇自身による元号制定・施行が日本の「歴史的伝統的」価値あるいは「法」だったとしても、それが現在までそのまま続いているかどうかは問題になる。
 元号あるいは国歌・国旗の類は最高の(とされる)成文法である憲法典の中に関係条項があってもよいと思うが、現在の日本国憲法には関連条項はない。「世襲」天皇制度を現憲法が明文で認めていることを根拠にして、従前に天皇が有していた「大権」もそのまま継続して認められるという憲法解釈が全く成り立たないとは思えないが、従来の「大権」をほとんど実質的に否認する条項は現憲法上に数多い。そして、「元号」決定権または「元号」制度自体の継続それ自体についてすら、憲法上には明文規定がない。
 そして、この問題を解決したことになっているのは、憲法上の明記ではなく、<元号法>という、憲法よりは下位の<法律>だった。
 「 元号法(昭和54年法律第43号)
 1 元号は、政令で定める。
 2 元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める。
 附則
 1 この法律は、公布の日から施行する。
 2 昭和の元号は、本則第一項の規定に基づき定められたものとする。」
 1979年(昭和54年)6月12日に公布・施行。
 これによると、元号法はさらに<政令>へと元号決定権を委ねている。
 政令とは現憲法上の「内閣」が制定するものだ(これにはいちおう明文規定がある)。
 とすると、これに従えば、元号決定権能は、内閣にある。
もちろん、これを認めず、不文法をこの法律・政令に優先させようとする議論はあり得る。
 しかし、もともとは、<元号法制化>運動は、「昭和」以降を憂慮しての、どちらかというと<保守>または<右派>が主導したものだった。そうだとすれば、元号法制化を推進した人々は、元号決定を天皇の権能とし(但し、現憲法では内閣の助言等に基づくことにはなろう)、上の第一項には断固として反対すべきだった。そのように賛成政党に対して、強力に働きかけるべきだった。
 中川八洋に責任があるとは言わないが、この元号法の制定と施行に大きな反対をしないでおいて、ほぼ40年も経ってから上の第一項と矛盾することを主張するのは奇妙なのだ。
 憲法以上の伝統的な日本の不文「法」または憲法に違反している、と1979年の時点において、元号法(という<法律>)の内容に反対する運動を激しくしておくべきだったのだ。
 しかして現在、今年の4月1日には新元号が「発表」されるらしい。
 ということは、内閣は新元号を3月31日の深夜か4日1日早くに「決定」するのだろう。前日「深夜」と書いたのは、前日の昼間の閣議で決定したのでは、翌日午前0時までにその内容(新元号)が「漏洩」する恐れがあるだろうからだ。そして、たぶんすみやかな公布ののちに施行は5月1日(午前0時)とされるのだろう。この施行によって元号は「改め」られることになる。
 こうして、(種々の運用の可能性のあることには立ち入らないが)、40年前の元号法が定めた「規範」の内容は「現実」化されようとしている。
 中川八洋は「天皇の大権である元号制定権」を剥奪した(しようとしている)のは安倍晋三だとのごとく主張しているが、そうではなくて、とっくに(「違法」・「違憲」だとは確定されていない)法律が天皇の「元号制定」大権を否定しているのだ。そして、今日までそれは、<現実>には、異論をたぶんほとんど挟まれずに推移してきた。
 中川八洋の主張は(それ以外の点も含めて)ひよっとすれば「正しい」のかもしれない。
 しかし、<言葉・文章>上の主張内容がいかに「正しい」ものであっても、あるいは最適なものであっても、それが<現実>になるとは限らない。
 また、<言葉・文章>上の主張内容がいかに正しく、いかに美しくとも、そのように<言葉・文章>を書いたり語ったりしている者が、本当に正しく美しい行動を<現実>に執るかどうかは全く分からない、という基本的論点もある。
 「言葉・文章」と「現実」の乖離は、あるいは前者による主張が後者につながるわけでは決してないことは、これまでの歴史上の(日本に限らず)、貴重な教訓でもあるだろう。
 ところで、中川八洋からかつて多くを教えられたし、その「保守」=「反共産主義」という明確な姿勢は貴重なものだ。
 しかし、最近のブログ欄の主張を読んでいると、上のほかにも、奇妙なものがある。
 例えば、退位式典が4/31で即位式典が5/1とされていることをもって「空位」が生じる、という主張もしていると解される。しかし、両者は近接した、又は継続した儀式である方が望ましいという主張は理解できるとしても、あくまで両者は「式典」なので、5/1の午前0時の一瞬間に退位(又は譲位)と即位が連続して行われる、と当然に理解することができるのではないか。こちらの方が、常識的・良識的な理解なのではないか。
 「きわめて賢い」中川八洋が、大正・明治以前の、あるいは光格天皇譲位の際以前の皇位継承の「実務」が、そのまま現在の「実務」を拘束するわけではないことは理解できるだろう。現憲法とそのもとでの法制によって「現実」は実現されていかざるを得ないことは理解できるだろう。
 この人は、現憲法「無効」論者だったのだろうか。
 日本会議派諸氏の「あほ」ぶりとはまた別だが、ひどく残念に感じざる得ない。

1650/加地伸行・妄言録-月刊WiLL2016年6月号。

 「おかしな左翼が多いからおかしな右翼も増えるので、こんな悪循環は避けたい」。
 平川祐弘「『安倍談話』と昭和の時代」月刊WiLL2016年1月号(ワック)。
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 <あほの5人組>の一人、加地伸行。月刊WiLL2016年6月号p.38~より引用。
 A「雅子妃は国民や皇室の祭祀よりもご自分のご家族に興味があるようです。公務よりも『わたくし』優先で、自分は病気なのだからそれを治すことのどこが悪い、という発想が感じられます。新しい打開案を採るべきでしょう。」p.38-39。
 *コメント-皇太子妃の「公務」とは何か。それは、どこに定められているのか。
 B「皇太子殿下は摂政におなりになって、国事行為の大半をなさればよい。ただし、皇太子はやめるということです。皇太子には現秋篠宮殿下がおなりになればよいと思います。摂政は事実上の天皇です。しかも仕事はご夫妻ではなく一人でなさるわけですから、雅子妃は病気治療に専念できる。秋篠宮殿下が皇太子になれば秋篠宮家が空くので、そこにお入りになるのがよろしいのでは。」p.39。
 *コメント-究極のアホ。この人は本当に「アホ」だろう。
 ①「皇太子殿下は摂政におなりにな」る-現皇室典範の「摂政」就任要件のいずれによるのか。
 ②「国事行為の大半をなさればよい」-国事行為をどのように<折半>するのか。そもそも「大半」とその余を区別すること自体が可能なのか。可能ならば、なぜ。
 ③ 「皇太子はやめるということです。皇太子には現秋篠宮殿下がおなりになればよい」-意味が完全に不明。摂政と皇太子位は両立しうる。なぜ、やめる? その根拠は? 皇太子とは直近の皇嗣を意味するはずだが、「皇太子には現秋篠宮殿下」となれば、次期天皇予定者は誰?
 ④「仕事はご夫妻ではなく一人でなさる」-摂政は一人で、皇太子はなぜ一人ではないのか?? 雅子妃にとって夫・皇太子が<摂政-治療専念、皇太子-治療専念不可>、何だ、これは?
 ⑤雅子妃は「秋篠宮家が空くので、そこにお入りになるのがよろしい」-意味不明。今上陛下・現皇太子のもとで秋篠宮殿下が皇太子にはなりえないが、かりになったとして「空く」とは何を妄想しているのか。「秋篠宮家」なるものがあったとして、弟宮・文仁親王と紀子妃の婚姻によるもの。埋まっていたり、ときには「空いたり」するものではない。
 C「雅子妃には皇太子妃という公人らしさがありません。ルールをわきまえているならば、あそこまで自己を突出できませんよ。」 p.41。
 D「雅子妃は外にお出ましになるのではなくて、皇居で一心に祭祀をなさっていただきたい。それが皇室の在りかたなのです。」p.42。
 *コメント-アホ。これが一人で行うものとして、皇太子妃が行う「祭祀」とは、「皇居」のどこで行う具体的にどのようなものか。天皇による「祭祀」があるとして、同席して又は近傍にいて見守ることも「祭祀」なのか。 
 E「これだけ雅子妃の公務欠席が多いと、皇室行事や祭祀に雅子妃が出席したかどうかを問われない状況にすべきでしょう。そのためには、…皇太子殿下が摂政になることです。摂政は天皇の代理としての立場だから、お一人で一所懸命なさればいい。摂政ならば、そ夫人の出欠を問う必要はまったくありません。」
 *コメント-いやはや。雅子妃にとって夫・皇太子が<摂政-「お一人で一所懸命」、皇太子-「出欠を問う必要」がある>、何だ、これは? 出欠をやたらと問題視しているのは加地伸行らだろう。なお、たしかに「国事行為」は一人でできる。しかし、<公的・象徴的行為>も(憲法・法律が要求していなくとも)「摂政」が代理する場合は、ご夫婦二人でということは、現在そうであるように、十分にありうる。
 以下、p.47とp.49にもあるが、割愛。
 この加地伸行とは、いったい何が専門なのか。素人が、アホなことを発言すると、ますます<保守はアホ>・<やはりアホ>と思われる。日本の<左翼>を喜ばせるだけだ。

1649/天皇制はなぜ存続したか②。

 「天皇制が存続したのは、時代を超えた何か普遍的な要因によるのではなく、その時代の固有の事情による」。
  家近良樹・幕末の朝廷-若き孝明帝と鷹司関白(中公叢書、2007)。p.24。
 「天皇・皇室制度に内在する、固有の理屈・価値というものなどは存在しないのではないか。」
 「天皇・皇室制度は、飛鳥・奈良・平安・鎌倉・…・江戸・明治・…昭和…と連綿と続いているが、それぞれの時代に、天皇・皇室制度には内在しない、各『時代の価値』・各『時代の精神』があったはずなのだ。/つまり、日本の「天皇」制度は、各時代の「価値・精神」に合わせて、姿・形を変えてきたのだ、と思われる。」
 以上、この欄の執筆者。7/14付・№1644。
 天皇制が存続したのは、個々の時代の「固有の事情」による。天皇制は、各時代の「価値・精神」に合わせて、姿・形を変えてきた。
このような見方に対して、3世紀後半からだと1600年以上、6世紀からだと1300年以上、これだけ長く「天皇」制度が続いてきたことの説明にはならないのではないか、との疑問がやはり生じるだろう。
 しかし、こうした長さは、直接に考慮に入れる必要はない。
 つまり、「制度」にはいわば<慣性>というものがあり、いったん設定されてしまうと、改廃を意識しないで長々と続く可能性がある、という面がある
 例えば、戦後72年、明治維新から先の敗戦まで78年、江戸時代の250年以上、平安時代の300年以上、いったん設定された各時代の「天皇」制度はそれぞれに長く継続してきた。つまり、日々あるいは毎年のように、その存続の是非が重大な問題として問われ続けたわけではない。
 上記の、家近良樹・幕末の朝廷-若き孝明帝と鷹司関白(中公叢書、2007)。
 この本は、天皇制が廃止されても不思議ではなかった、換言すれば「天皇にとって替わってもおかしくない権力者や当該時期が幾度も出現した」として、六回または六時期を挙げている。p.18-19。秋月において整理すると、以下になる。
 ①蘇我氏の独裁権力/6世紀後半-崇峻天皇暗殺。*聖徳太子一族滅亡もこの時期。
 ②道鏡/8世紀後半-称德天皇から皇位継承? *宇佐の神言。
 ③北条氏/1221年-承久の変・後鳥羽上皇等の挙兵。土御門・順徳も。
 ④足利義満/室町時代第三代・「日本国王」。*14世紀後半。
 ⑤織田信長・豊臣秀吉/16世紀後半。
 ⑥徳川氏/第三代家光時代くらいまで。*17世紀。
 これにおそらく、⑦?/第二次大戦終結直後-1945-6年、というのを加えてよいだろう。
 長い天皇制の歴史の中で、それが危機を迎えた、あるいはその存廃が現実的な問題になりえた、というのは、さほど多くないことが分かる。
 信長と秀吉を2回に分け、漠然と平安時代の藤原氏による皇位簒奪?というのを想像して加えてみても、計9回ほどにしかならない。
 これらの「危機」、「存廃が意識され得た」時期を、天皇制は、それぞれの時期の固有の事情でもって「乗り切った」のではないか、と思われる。
 その中には、上の④のように、<天皇を目ざした?>足利義満の「死」による決着もあった。
 この④は例外だが、それぞれの時期の世俗権力者は、天皇制の廃止に関して、廃止することのコストと利益、廃止しないことのコストと利益を、つまりは要するに簡単には<費用効果分析(CBA)>を行って、敢えて廃止しようとするときのコスト・不利益も考慮して、それぞれに天皇制そのものには手をつけない、という判断をしたのではないか、と思う。むろん、天皇・朝廷を存続させておくことのコストと「利益」(や「不利益」)もまた配慮したに違いない。また、各時代の様相として、存続を前提にすれば、天皇にある程度の「権力」が少しずつは認められたとも考えられる。
 簡単に書きすぎてはいるのだが-上の各人・各氏・各時期によって事情は異なる-、要するに、そういうことではないか。
 なお、応仁の乱以降の戦国時代は、信長まで、日本は「国家」だったのか、という疑問を持っている(その限りでは天皇制もきちんとは「連続」・「継続」していないのではないか、とのシロウト思いつきにつながる)。
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 現在の日本国憲法のもとでの天皇制を支える世俗権力とは何か ?
 憲法自体が根拠になっている。したがって、憲法制定者だ。建前として、国民主権という場合の「国民」 ? それとも、実質的には戦勝諸国、とくにアメリカ?
 また、<世襲・象徴>としての天皇制を憲法改正によって廃止しようとはしていない、憲法改正権者、つまり有権者国民が支えているとも言えるし、そのような改正発議をしようとはしていない、国会もまた、そして国会内多数派政党も、これを支えている。
 だが、論理的可能性としては、国会内多数派政党の「発議」、国民投票有権者の「国民投票」によって廃止されることが全くないとはいえない。
 この場合、神社神道の「長」、または<最高祭祀者>として憲法には明記されないままで一族は存続する可能性はある。
 上の発想は別として、ともあれ、天皇制の安定性というのは絶対的ではないし、そうではあり得ない、と考えられる。
 長く続いている日本の伝統だから今後も、という考え方はある意味では自然だ。
 このことを批判したり、否定するつもりはない。
 ただ、そういう世俗国民の<気持ち>によってこそ-維持されるとすれば-維持されるのであり、天皇制の中に、それに固有の<存続力>、存続すべき「価値」が先験的に?あるわけではないように思われる。

1647/高森明勅・天皇「生前退位」の真実(幻冬舎新書、2016)。

 高森明勅・天皇「生前退位」の真実(幻冬舎新書、2016)。
 天皇譲位問題に論及することはしない。
 上の高森著を読んで、最も興味深かったのは、じつは、<天皇就位を拒否する>自由が「皇嗣」にはある、という指摘および叙述だった。p.84-86。
 生まれながらにして一定のことを義務づけられるのは出自・血統による<差別>で<平等原則>違反だとの議論もあるので、上のことは重要だ。そしておそらく、高森の言うとおりなのだろう。
 つまり、天皇位に就くことを望まない「皇嗣」が践祚も即位の礼も拒否し、憲法上の国事行為を行うことをいっさい拒んだらとすれば、どういうことになるか?
 おそらく、憲法に根拠がありかつその形式によるとされる皇室典範の定めによって、「皇嗣」は特定され、その方には皇位就任義務がいちおうは生じるのではないか、と思われる。
 しかし、<義務不履行>は世俗の世界ではよくあることで、私自身、友人に貸したはずの50万円が4年近く経っても20万円しか返却されていない、ということが現にある。その人物は、何と!たぶん熱心な<保守>派気分の男だ。
 さてさて、<義務不履行>があれば、裁判手続を経ての<強制執行>の世界、つまり権利義務の<意識>・<観念>の世界を<現実>に変える手続に、ふつうは入っていく。そこまでに至らなくとも、そういう制度は(いちおう)用意されている。
 しかし、<皇位就任義務>の履行の拒否があった場合には、いったいどうなるのか?
 即位の礼、その他皇室行事あるいは国事行為、これらは元来ほとんどが、当該「人物」が出席する等をするしかないもので代替性を大きく欠くとみられる。また代替可能な国事行為にしても、手続を踏んで別途委任するか「摂政」を置くしかない。
 そしてそもそも、そういう代替が検討される前に、就位自体がスムーズにいかなければどうなるのか?
 高森によると、皇室典範三条が定める「皇位継承の順序」の変更の要件のうちの「皇嗣に…重大な事故あるとき」に該当し、皇室会議の「議により」、変更を行うしかない
 理屈を言うと、その次位の「皇嗣」も拒めば、延々と?、同じことを繰り返すしかないだろう。
 そして今上陛下は、その「自由」を行使しないで、粛々と天皇になられる「宿命」を甘受されたのだ、ということになる。深刻な混乱にならなかったこと自体が、今上陛下の「お心」による、ということになる。
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 何となく基礎的には安定的に世の中、あるいは政治は推移しているようにほとんどの国民は思っている。無意識に、そう思いつつ生活している。
 実際にはなかったことだが、……。
 新しい首相(内閣総理大臣)が国会で指名されたとき、公式にはさらに天皇の国事行為としての「任命」が必要であり、これにはさらに「内閣の助言と承認」を要する。
 民主党内閣から第二次安倍内閣に変わったとき、安倍晋三が首相に「任命」されたが、このとき民主党内閣の「助言と承認」があったからこそ、安倍晋三は首相になれた。
 きっと映像が放映されたはずだ。今上陛下が安倍晋三に「任命状」?を手渡す際に、民主党・野田佳彦は(安倍晋三が正式に首相になるまでは、なおも首相)陪席していて、あらかじめ天皇陛下にその書状を手渡していたはずだ。
 さて、日本共産党が国会で多数を占め、または日本共産党らの連合諸政党が国会で過半数を占めて、日本共産党の代表者が国会で首相に指名された、とかりにしよう。
 (実質的な)前の内閣の首班が、熱烈な反共産主義の某安倍康弘という人物だったとして、閣議も開かず、前「内閣」は何もせず、天皇に対して、(国会の意思に反して)新首相の任命に関して「助言と承認」をしないままにいたら、どうなるだろうか。
 憲法違反ということで、マスコミを含めて大騒ぎになるに違いない。
 しかし、それでもなお、共産党政権の発足は認めない、断固として手続に進ませないと安倍康弘ら前内閣が意地を張れば、この憲法上想定されているとみられる「義務」は、いったいどうやって「強制執行」すればいいのだろうか。
 また、実質的な前内閣の「助言と承認」はあって、新首相の<任命状>も用意されたが、ある時代のある天皇が、新首相個人やその所属政党が意に沿わないとして、任命式?そのものにご出席なされない、そして例えば皇居内で行方不明になる、あるいは皇居外に外出されてしまって長期日にわたってお帰りにならない、という場合、いったいどうなるのか?
 もちろん、この場合も(皇室典範の別の条項での)天皇に「重大な事故あるとき」に該当するとして、法的な回復の措置を取らざるをえなくなる可能性が高い。
 それでもなお、1か月ないし数カ月~半年程度の「国政の空白」が生じることが想定される。
 法的連続性のある状態と「無法」あるいは<革命的状態>とは決して大きく離れているわけではない。上の例は一部だろう。突然に<法的混乱>が生じうることは、想定しておいて決して悪くない(こんなことを考えている人はきっといるので、その人たちには、この文章もまだ手ぬるいだろう)。
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 上の高森明勅著については、もう少し書きたいことがある。


1644/天皇制はなぜ存続したか-家近良樹著(2007)。

 「天皇制が存続したのは、時代を超えた何か普遍的な要因によるのではなく、その時代の固有の事情による」。
 「その時々の権力…が、天皇を必要だと認めたからこそ、天皇というシステムが存続したのだ」。「時代を離れた検討はありえない」。
  家近良樹・幕末の朝廷-若き孝明帝と鷹司関白(中公叢書、2007)。
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 上の家近良樹著の初めに、ずばり「天皇制はなぜ存続したのか」(第一章第一節)との表題があり、日本史学上の「支配的見解」として、上のことが書かれている。
 支持したい。思いめぐらせ、考えていたこととほとんど合致する。
 「万世一系の…」というのは勿論言葉の綾で、「万」ではない。神武天皇から数えても、120余代(とされている)だから、およそ100倍に誇張している。
 また、かりに日本書紀等の記載の多くを信頼するとして、いったいいつの頃から天皇家は継続しているかというと議論は分かれている。天照大神・神武天皇からずっと、その前からもずっと、というのは、(実際には誰かの血を承けているのは間違いないだろうが)、「お話」としてはともかく、信じ難い(「神武」天皇にあたる、かつ「天皇」にあたる人物又は集団がいただろうとは思う)。
 継体天皇以降というのは、有力だと思われる。この人はそれ以前の皇統の女性と結婚したことに日本書記上ではなっているので、継体以降は、「女系」天皇だ、とも言える。
 もっと前の天皇の実在性を肯定する学者たちもいる。崇神天皇等々。
 それにしても、5~6世紀頃以降、1000年以上も続いているとすると、貴重な、稀な家系であることに変わりはない。そしてずっと、(言葉としては7世紀からだが)「天皇」という呼称を受け継いできた。
 こう長く続いたのには、それなりの理由・根拠があったに違いないと、誰もがあるいは多くの人が考えたに違いない。 
 上の家近著が紹介する、津田左右吉説、石井良助説もそうだ。
 しかし、天皇・皇室制度に内在する、固有の理屈・価値というものなどは存在しないのではないか、と考えてきた。
 何か特殊で、日本らしい「価値」を持っていたからこそ長く続いてきた、というのは、容易に思いつきやすいが、その「価値」なるものは曖昧模糊とした、「宗教」・「信念」的なものになってしまうだろう、と感じていた。
 また、そもそも、天皇・皇室制度は、飛鳥・奈良・平安・鎌倉・…・江戸・明治・…昭和…と連綿と続いているが、それぞれの時代に、天皇・皇室制度には内在しない、各「時代の価値」・各「時代の精神」があったはずなのだ。
 つまり、日本の「天皇」制度は、各時代の「価値・精神」に合わせて、姿・形を変えてきたのだ、と思われる。
 早い話が、明治維新以降、そして明治憲法下の「天皇」と現日本国憲法のもとでの「天皇」は、類似性もあるが、そしてそのことを強調する向きもあるが(「日本会議」派歴史観)、世俗権力との関係、または自らがもつ「権力」の有無等において、異質なものだ。
 大戦前後についてすらそうなので、古代天皇制の時代と中世・近世の天皇制の時代における「天皇」の意味・位置づけは大きく異なる。古代天皇制と言っても、藤原氏の台頭の前後で、大きく異なる。
 「祭祀王」としての連続性、という主張があるのかもしれない。
 しかし、「祭祀王」として存続し続けることができたのは、「祭祀王」だったから、というのでは全くない。
 秋月瑛二は、①「民主主義対ファシズム」という虚偽の構造認識を打破し、②断固として「反共産主義」の立場に立ち、③<日本的な自由・反共産主義>の国家・社会を目指したい。
 こうした構図の中では、「天皇」は大きな意味・価値を持たない。天皇制護持か否か、「天皇を戴く国柄」を維持するか否か、これは最大の決定的な主題では、全くない。産経新聞社・桑原聡の「思い」ではダメだ。
 このようなことを主張・提唱する人々には、では<日本共産党あるいはその他の共産主義者たちが擁護し、利用する「天皇」制でもよいのか>?と、問いかけたい。
 先の国会の(たぶん)内閣委員会で、日本共産党・小池晃は自民党議員たちとともに起立して賛成し、自由党・森裕子は着席のままで反対していた。このようなことが先々でもありうるだろう。共産主義者・日本共産党は、目的のためならば、「天皇」制もまた、利用するに違いない。<情勢に応じて>それを護持しようとするかもしれない。
 日本の<天皇・愛国>主義者たちは、櫻井よしこも含めて、冷静に歴史と日本を見つめる必要がある。

1557/天皇譲位問題-産経新聞社と「日本会議」派の敗北。

 ○ 勝利や敗北は何らかの「規準」の必要な価値評価なので、簡単には使えない言葉だ。ここでは、<現実化>した又はしそうな見解を主張していたかどうかを規準とする。
 また、産経新聞社は社として公式に譲位反対又は摂政制度利用を主張していたわけではない。但し、当初ないし昨年秋頃には、譲位反対の雰囲気だったことは下記のことでも、また確認しないが、(生前)譲位を認めるとすると膨大な諸法制の改正・整備が必要となって大変だ旨の一般的記事もあった(ネット上で読んだ)。
 「日本会議」派、というのも正確ではない。会員とか関係者の範囲は定かでないが、近いとされる百地章は最終的には摂政利用反対論を述べた。また、上原康男が「日本会議」関係者なのかも知らない(調べればすぐに分かるのかもしれないが、労を厭う。いずれにせよ、この人に多数の天皇制度・政教分離関係研究書・評論書があるを知っているので-たいていは所持しているだろう-、櫻井よしこ・八木秀次らと同じ<アホ>扱いはしていない)。
 しかし、譲位反対派は「日本会議」系だというレッテリ貼りもあったほか、櫻井よしこ、平川祐弘、八木秀次らは明らかにこの組織・団体に「近い」と見られ(これは櫻井よしこについては歴然としている)、申し訳ないが簡潔にするためにも「日本会議」派と称させていただく。
 ○ 関心があるのは、<アホの4人組>らの退位反対論者が、いまどういう感想をもち、どういう自己「総括」をしているのか、だ。
 櫻井よしこはおそらく何も触れないままで、週刊新潮・週刊ダイヤモンドらに相変わらず別のことを<書き散らして>いるようだ。
 自己の見解が、なぜ<現実化>しそうにないのか、その原因・理由をどう考えているのだろうか ?
 「評論家」にせよどういう肩書きにせよ、政府の会議に呼ばれた発言者としてその発言「内容」に関する責任、その後の展開に関してコメントする「責任」くらいはあるのではないか ?
 八木秀次はすぐに①摂政制度の利用と②国事行為委任法(法律)で対応できると判断したように伝えられているが、この二つともに対象は憲法・法律上は天皇の国事行為であり、「公的(象徴的)行為」や天皇・皇室の「宗教行為」祭祀を含むと解されている「私的行為」は法的には全く対象にされていない。したがって、この二つをもってしても、天皇と新「摂政」のいずれが行うかという重大な問題が残ったままになる、ということを、いつ頃に気づいたのだろうか。
 しぶとく譲位反対論を書いていたが、自らの憲法(・法)学者 ?としての「無知」を、恥ずかしく感じなかったのだろうか。
 とくにこの欄でまた触れたくなったのは、既に言及したのだが、月刊正論(産経)昨年11月号末尾の喫茶店での雑談のような「匿名」記事(「編集者」も参加)で、「先生」がこう語っていたからだ。
 「月刊正論10月号で…ご譲位を遠回しに否定した八木秀次が批判されている」が、「間違っているのは、どっちなんだ」。p.319。
 ここに「間違っている」うんぬんが語られているのが、概念または論理の問題として、きわめて気になる。
 つまり、この「先生」は、<譲位否定(論)>が、「間違っている」とは逆の「正しい」ものだと考えているのだろう。
 「正しい」見解がつねに<現実化>されるとは限らない。上の意味で「敗北」することはありうる。それは、そうだ。
 しかし、産経新聞社発行の月刊雑誌・正論に出てくるこの「先生」における、「正しい」か否かの規準は、いったいどこにあるのか。いったい何をもって、「正しい」と「間違い」を区別しているのか。
 多くの者が指摘したように、天皇の生前退位は少なからずあり、<終身在位>が制度として定められたのは1889年のことだ。
 1889年または明治憲法下のことだけが「正しい」とするのは、じつに<誤った>(あえて「誤り」という)、<偏狭な>考え方だ。
 こういう「先生」のような、「先生」と称される者たちがごろごろいるから困る。<保守>派の未来をも、暗くしている。
 「正」・「誤」の問題と「適」・「不適」や「合理的」・「非合理的」の問題は、別の次元にあるだろう。また、<思い込んで>いることがつねに「正しい」などと考えてはいけない。
 「教授」とは八木秀次自身のことでないかとすでに推測したが、「先生」が誰かは分からない。
 この「先生」は、現在までの<現実化>に向けての推移をいかに自己「総括」しているのか、是非とも尋ねてみたい。

1537/櫻井よしこ・天皇譲位問題-「観念保守」批判⑤03。

 櫻井よしこ「発言/有識者リアリング」2016年11月14日<天皇の公務負担軽減に関する有識者会議第4回>。
 平川祐弘もそうだが、櫻井よしこは、天皇の役割として「祭祀」を強調し、天皇の「祭祀」行為の位置づけを高くせよ、と主張する。
 上の発言でも、実質的には冒頭で、こう言う。
 ・「長い歴史の中で、皇室の役割は、国家の安寧と国民の幸福を守る、そのために祈るという形で定着してきました。歴代天皇は、まず何よりも祭祀を最重要事と位置づけて、国家・国民のために神事を行い、その後に初めてほかのもろもろのことを行われました。穏やかな文明を育んできた日本の中心に大祭主としての天皇がおられました」。
 ・「しかし、戦後作られました現行憲法とその価値観の下で、祭祀は皇室の私的行為と位置づけられました。皇室本来の最も重要なお役割であり、日本文明の粋である祭祀をこのように過小評価し続けて今日に至ったことは、戦後日本の大いなる間違いであると私はここで強調したい」。
 ・天皇陛下の「御負担を軽減するために、祭祀、次に国事行為、そのほかの御公務にそれぞれ優先順位を付けて、天皇様でなければ果たせないお役割を明確に」する必要がある。
 ・「現行の憲法、皇室典範では、祭祀の位置づけが国事行為、公的行為の次に来ています。この優先順位を実質的に祭祀を一番上に位置づける形で」整理し直すのが大事だ。
 似たような文章が、櫻井よしこ・月刊ボイス2016年10月号p.46にもある。
 すでに触れたことだが、このような櫻井よしこの文章を読むと、不思議な、奇怪な感じを禁じえない。
 あるいは、ひどく無知だと思う。自分が無知であることに無知であるのは、はなはだしく怖ろしいことだ、と思わざるをえない。
 なぜか。
 つぎのことは、まだ些細なことだ。
 「現行の憲法、皇室典範では、祭祀の位置づけが国事行為、公的行為の次に来ています」。
 憲法・皇室典範が「祭祀の位置づけ」を明記しているはずがない。あくまで現憲法の<解釈>でそうなっているのであり、皇室典範はそれを前提にして何も定めていないのだ。
 これだけでもすでに専門家ならば失格だが、他に致命的なことがあるので、まだ些細に感じてしまう。
 すなわち、櫻井よしこや平川祐弘は、「祭祀」をいかなる性格の行為だと、明確に記せば、<宗教>性を帯びている行為だと、とりわけ「神道」上の行為だと考えているのか、いないのか
 「祭祀」は宗教とは無関係だと理解しているならば、ある程度は筋がとおっている。
 しかし、本当に「祭祀」は無宗教の行為なのか。
 平川祐弘は天皇にとっての「まつりごと」とは「政」ではなく「祭」だと、さも知識ありげに書いていたが、「政治」が「まつりごと」ともされたことは多くの人が知っているだろう。
 さて、あらためて、櫻井よしこに問いたい
 自分の言う祭祀とは「宗教」、とくに「神道」と関係があるのか、ないのか。
 明治元年に(まだ安定・確定していない)新政府は「神武創業」期に<復古>しての「祭政一致」を謳ったのだったが、そこでの「祭政一致」が国家と「宗教」の関係にかかわるものだったことは明確で、だからこそその後に<神仏分離>の基本政策がとられた。実際にどの程度徹底したのかは別だったが。
 そうして逆説的に、 明治憲法の解釈上は(「皇室神道」を含むと解される)神社神道うんぬんは「信教の自由」の問題ではないとして、いわゆる<国家神道>制がとられたとされる。わずかに50年間程度だったと今からは感じるが、神社は国家機関又は準国家機関、神官は公務員又は準公務員だった。
 その(明治憲法後に)1900年頃に確立した時代が理想だと考えて、神社神道(・皇室神道)は「宗教」ではないと論じるのならば、まだ分かる。
 しかし、櫻井よしこは、この欄で批判的にすら取り上げているように、「神道は日本の宗教です」と明言しているのだ。
 天皇・皇室の「祭祀」が神道、正確には神社神道(なるもの)の性格を帯びていることはほとんど常識だろう(但し、<祭祀>の意味にもよるが、神仏の区別が必ずしも明瞭でない時代には「仏教」的なものも部分的にはあったに違いない。だがそれも今日的には<宗教>行為だ)。
 それを知ってあえて、「祭祀」を大切にとか、「祭祀」を最優先に、と主張する場合、そもそも日本国憲法上のつぎの条項は意識されているのか。とくに、第3項。
 この無意識、無知こそが、致命的だ。
 現憲法第20条「第1項第二文/いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」
 同第3項「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」。
 これら条項との関係でも、天皇・皇室の「祭祀」行為は、現憲法7条が定める「国事行為」のうちの「10号/儀式を行ふこと。」にも含まれないと、官民挙げて ?解釈されている。
 憲法学界はほぼ一致しているだろうし、戦後の政治・行政の現実は、この解釈を前提として動いているし、動いてきた。
 この解釈とは、天皇・皇室の祭祀行為は「宗教」行為に該当する、という解釈だ。
 天皇・皇族は「国」あるいは「国家の機関」ではないと櫻井は思うかもしれないが、「国事行為」は内閣の「助言と承認により」行うもので(7条本文)、そこでの行為は「国」ないし「国家」(この二つのしばしばの混同があるが立ち入らない)の行為に他ならない。
 だからこそ「国事行為」なのであり、そこに「祭祀」を含めてしまうと、「祭祀」が国家の行為になる。少なくとも、現20条との関係を厳密に整理・解釈しなければならなくなる。
 憲法20条の規定があるからこそ、国家と「宗教」との関係は、明治憲法のもとでと全く同じには解釈されていないのであり、「祭祀」が神道によるものであるかぎりは、おそらく間違いなく「公的(象徴的)行為」と位置づけることもできず、天皇等の「私的」行為と憲法解釈せざるをえないのだ。これを前提に、皇室経済法(法律)も「内廷費」等々の区分けをしている。
 櫻井よしこは、こうしたことの知識をまるでもっていないようだ。
 だからこそ平気で、「祭祀」を国事行為等よりも優先せよ、と無知ゆえの主張をすることができている(平川祐弘もおそらく同じ)。
 唖然とせざるをえない。
 櫻井よしこの主張・見解を満足させて現実化するためには、現憲法上の国家・「宗教」関係条項の抜本的な改正(憲法改正)か、または<革命的な>憲法解釈の見直しが必要だ。
 これをくぐり抜けるレトリックは、神社神道は「宗教」ではないと法解釈することだが、知ってか知らずか、櫻井よしこは「神道は日本の宗教です」と、堂々と言い切っている。
 櫻井よしこは、昭和天皇の葬礼の際に、どこまでが「国」の行事で、どこからが天皇家の「私的」行事なのかというきわめて(現憲法の解釈・運用にとっては)重要な問題が生じていたことを、まるで知らないようだ。これについては、この欄で触れたことがある。
 怖ろしいことだ。無知も怖ろしいが、無知であることの無知も、輪をかけて怖ろしい。
 櫻井よしこ・憲法とはなにか(小学館、2000)を見てみると、やはり、国家・「宗教」関係条項には、<保守>派にとっても重大な関心事のはずだが、いっさい言及していない。
 手元に、つぎの本もある。著者は「日本政策研究センター所長」。
 伊藤哲夫・憲法かく論ずべし(日本政策研究センター、2000)。
 この本もまた、<政教分離>裁判は多数起きているにもかかわらず、憲法20条または国家・「宗教」関係、天皇・皇室の「祭祀」の憲法問題にはいっさい言及していない。
 櫻井よしこは、この伊藤の書物に影響を受けているのだろうか。
 ついでに書くと、この伊藤哲夫・憲法かく論ずべし(2000)は、「五箇条の御誓文」擁護・解説にじつに40頁ほどを当てている。
 櫻井が最近に「五箇条の御誓文」にやたらと論及する、そのタネ本はこの伊藤著ではないか ?
 他人・第三者の文献・主張を参考文献の明記なくしても平気で援用・借用するのは櫻井よしこの「流儀」なので、同じ<保守派 ?>の伊藤哲夫著ならば、上のように「タネ本」にするのも十分にありうると思われる。
 さらに一つだけ、関連して指摘しておこう。櫻井は、こう発言した。他にも同旨のことを述べる者はいる。
 「天皇様は何をなさらずともいてくださるだけで有り難い存在であるということを強調したいと思います。その余のことを天皇であるための要件とする必要性も理由も本来ないのではないでしょうか」。
 <ご存在だけで有り難い>というのならば、「祭祀」も別になさらずともよろしいのでは ?
 揚げ足取りと言うなかれ。その隙を与えるような言辞を、大切な「国」の諮問・建議機関のメンバーの前で吐いてはいけない。
 国家・「宗教」との関係については、なおも基本的なことに触れたにすぎない。
 それでもなお、「所長」に代わって釈明・反論をしようというならば、どうぞ国家基本問題研究所の「役員」の方々はしていただきたい。櫻井よしこ「所長」では無理だから。
 時間があれば、所持している例えば以下の書物だけでもきちんと読み通してみたい。現憲法注釈書はたいてい持っている。
 ①山口輝臣・明治国家と宗教(東京大学出版会、1999)。
 ②平野武・宗教と法と裁判(晃洋書房、1996)。
 ③大石眞・憲法と宗教制度(有斐閣、1996)。
 あらためて、櫻井よしこという存在の悲惨さを感じつつ。

1534/櫻井よしこ・天皇譲位問題-「観念保守」批判⑤02。

 今年4/07付・№1487からの続き。
 ○ 櫻井よしこ「発言/有識者リアリング」2016年11月14日<天皇の公務負担軽減に関する有識者会議第4回>は、悲痛だ。
 悲痛というのは、悲しいほどに痛々しい、ということだ。
 また、櫻井よしこ自身はそう感じていないようであることも、さらに悲痛、つまり、悲しいほどに痛々しい。
 ○ 櫻井よしこの「気分」を典型的に示しているのは、つぎの一文だろう。
 「天皇は終身、天皇でいらっしゃいます」。
 議事録上では段落変わりの冒頭にある、いっさいの条件、前提、後続の帰結も付いていないこの文こそが、櫻井の「観念」であり、「思い込み」であり、揺るがしてはいけない「前提命題(テーゼ)」なのだ。
 なぜそうなのかと、問う姿勢がここにはない。
 もちろん、その根拠らしきものも別のところにある。そして、それはウソの歴史認識で成り立っている。
 櫻井よしこは言う。「当時の政府は機能せず、国家の命運が危うくなりました。そのとき天皇が政治、軍事、経済という世俗の権力の上位に立たれて、見事に国民の心を統合なされました。それが明治維新でありました。
 その折、先人たちは皇室と日本国の将来の安定のために、従来比較的頻繁に行われていた譲位の制度をやめました。日本国内の事情だけを見ていれば事はおさまった時代が去ってしまったのです。広く国際社会を見渡し、国民を守り続けることのできる堅固な国家基盤を築かなければならない時代では、皇室のありようについても異なる対応が必要だったことは明らかです。」  
 欺瞞に満ちている。前半の「明治維新」について、例えば「当時の政府は機能せず」といった評価・認識等については別に扱う。少なくとも、こんなに簡単にまとめてはいけない。
 大ウソは、「その折」、つまり「明治維新」の「折」に天皇譲位制度を廃止した、述べていることだ。
 明治維新の開始と終末の時期については議論があるだろう。しかし、天皇終身在位を定める旧皇室典範が制定される1889年までをも「明治維新」の時期ということはできないだろう。
 櫻井は巧妙に、自ら高く評価する「明治維新」の際に天皇終身制も定められた、というウソをついている。
 そして上記ではその理由を、「国内の事情」だけにかぎらず「広く国際社会」見渡して「堅固な国家基盤」を築く必要があったことに求める。
 これはいったい、誰が主張している、どの文献が書いていることなのか。
 櫻井よしこによる、デッチあげの類だろう。
 明治天皇は、明治元年に満16歳だった。1888年になっても満36歳だった。
 皇位承継の仕方について全く議論がなかったとは思えないが、それは切実・具体的な論争点ではなかっただろう。かりにあっても、生前譲位を否定する終身在位論が決定的だったとか有力だったとは全く言えないものと思われる。明治憲法の制定(1889年)の時期に、この問題を「家法」として明確にしたのだったが、その際にでも生前譲位の可能性の余地を残しておく主張がなお有力に存在した。
 櫻井は、日本の「開国」・「国際化」に終身在位制の理由を求めるようだが、この二つの間にどういう論理的関係があるのか ? もっと詳しく説明できるのか ?
 櫻井よしこは、その単純に理解する明治維新の「目的」に、天皇終身在位制のそれも重ねているのだ。
 櫻井は、悲痛なほどに<アホ>だろう。なぜ、国家基本問題研究所なるものの「所長」を名乗れるのか。
 ○ 摂政制度の利用は現行の皇室典範上の摂政制度を前提にするかぎりは不可能だが、それを正規に「改正」すれば、論理的には不可能ではないだろうと感じてきた。
 摂政制度利用の主張者すべてを<アホ>だと言ってきたわけではない。
 櫻井よしこがぎりぎり提案しているのは、現在の実体的要件に、「又は御高齢」を追加することだ。
 これは成り立ちうる提案だとは思われる。しかし、これに伴う種々の問題点とその対応・解決策をもきちんと考えたうえで、提案されるべきものだ。
 子細に立ち入らないで櫻井に内在している問題点だけを指摘すると、つぎのとおり。
 櫻井よしこは、「歴史を振り返れば、譲位はたびたび政治的に利用されてきました」、と言う。現在はかりにそうでなくとも「長い長い先までの安定を念頭に置いて、あらゆる可能性を考慮して、万全を期すことが大事です」とも言う。 
 しかし櫻井は、こう言うとき、摂政設置の活用にはこういう問題は全くない、と思っているのだろうか。
 そう見えないので、摂政利用論も、終身在位制をともかくも守りたいがための逃げ道として使われている観がある。
 つまり、摂政を置くことについても、とりわけまさに「御高齢」という要件を充たすとして摂政を置くことについては、「御高齢」だが国事行為等を自ら天皇として行いたいし行えると考える天皇またはその支持者と、天皇の地位はそのままにしたうえで国事行為・公的行為等を天皇とは別の「摂政」たる人物に任せたい人々との間で「たびたび政治的に利用されて」しまう可能性・危険性があるのだ。もちろん、櫻井も言うように「長い長い先まで」のことを考慮すれば、だ。
 太上天皇(・上皇)と天皇との間の権威の分裂を懸念する声があり、それは一般論としてもっともなことだが、天皇と(実際に天皇の行為を継続的に行う)摂政との間にも、<権威の分裂>が十分に起こりうる。
 終身在位・摂政制度活用ならば、「政治的に利用され」る可能性はないのか。
 櫻井よしこという人は、<アホ>ではないか。なぜこの人が国家基本問題研究所の「所長」を名乗れるのか。
 そもそもは、「御高齢」といった曖昧な要件だけでは、現実は動かない。いったい誰が、どのような手続でもって、摂政を置くべき又は置いてよい「御高齢」かどうかを判断するのか。そこまでは櫻井よしこは、まるで考えていないのだろう。
 また、上の過程ですでに、<政争>が生じてしまう可能性もある。
 櫻井よしこは、何も分かっていない。
 ○ まだまだ、櫻井よしこの天皇譲位論について、書き残しておきたいことはある。

1527/日本の保守-「宗教と神道」・櫻井よしこ批判④06。

 櫻井よしこは、天皇・皇族と仏教の関係について、あまりにも無知なのではないか。
 ○ 天皇・皇族の墓=陵墓のかなりの部分は、一定の長い間、仏教寺院によって維持・管理されてきた、と見られる。
 江戸時代の天皇の陵墓は、光格天皇、孝明天皇を含めて、全て泉涌寺(京都市東山区)の周辺(東から南)にある。このことは、先に書いた。
 つぎの本に、興味深いことが書かれている。
 外池昇・幕末・明治期の陵墓(吉川弘文館、1997)。
 そもそもは明治期の神仏分離令・神仏判然令から始める必要がある必要があるのだろうが、割愛してこの本のp.330あたりから読むと、当初の神祇官という重要官署の所管対象に、祭祀の施行のほかに陵墓の維持・管理も含めるかどうかという議論があったようだ。1868年(明治元年)に陵墓は「穢れ」でないとの前提でこれの管理も含めて神祇官が所掌するとされたところ、陵墓事務(山陵)については別の官署・「諸陵寮」を設置すべきとの考え方がのちに政府・神祇官内でも出てきて、1869年9月に「諸陵寮」が置かれた。
 同「寮」は、とくに泉涌寺周辺の多数の陵墓の存在とそこでの祭祀について、注目していたようだ。江戸時代の全天皇の陵墓がそこにあったのだから、当然ではあろう。
 「諸陵寮」の1870年(明治3年)8月の一文書「御陵御改正案写」はつぎのように書く(p.332-4。漢字カナ候文、直接引用を混ぜる。厳格な正確さはない可能性もある)。
 ・維新復古となり「神仏混淆不相成旨」を先般布告した。
 ・「御陵御祭典」が全て「神祇道」でもって行われることになり誠に「恐悦至極」だ。
 ・しかるところ(然処)、御陵に関係している「泉涌寺」その他(其外)が依然として「巨刹」を構えてそのままになっているのは(其儘被差置候者)、恐れ入ることだ(恐入次第)。
 ・歴代皇室の「御祭典御陵之御取扱」方法は官民の「模範」で、仏教との「混淆」をしてはならない旨を神社に普く「布告」した。
 ・「泉涌寺」ら全ての「御陵ニ関係之寺院」は、一山残らず「還俗」することを、人選の上で「相当の職務」に就かせることを命じた。
 ・「寺院境内ニ御陵」がある寺院は「僧徒」から「還俗」の出願があればよいが、そうでなければ「塔中一院」であっても「還俗」しなければならない。
 ・「僧徒」たちは「御陵ニ関係」しては全くなくとも、「九重石御塔」または「法華堂杯」をそのまま建て置いて「御祭典」をしているのは「浮屠混淆」の一端なので、少しずつ是正されるのは当然だ。
 ・「御陵」とは「御霊之所在」で、「寺院ニモ往年格別」の「勅諚」は下されなかったけれども、是正されるべきは「自然」だ。
 ・「肝要御陵之御取扱」が「浮屠混淆」であっては、じつに堪えざる懸念がとくに心を苦しめる(不堪懸念殊更苦心)。
 ・「先」ずは「泉涌寺御改正」を別紙のとおり行うように「寮儀」を差し出すので、すみやかに「御評決」していただきたい。
 ・<別紙>-「御歴代御陵祭祀」は「神典」でなされるべきところ、「泉涌寺をも被廃」=廃止するのは「当然の御儀」だと奉り存じ候。 
 以上、終わり。
 泉涌寺に関連しなくても、いくつか興味深い。例えば、
 ①寺院での祭祀・法要類については、従来は「格別」の「勅諚」類がなかった。つまり、神社と同等の扱いだった。
 ②「寺院境内ニ御陵」という言葉があり、これは「御陵」が「寺院」の「境内」にある、という了解または認識を前提としている、と思われる。寺院の所有区画と陵墓の区域とは厳密には区別されていなかったようだ(近代的「所有権」観念のなさによるのかもしれない)。
 さて、皇族である聖徳太子らの合葬陵墓が大阪府太子町・叡福寺の中または直近にあること、多数の天皇陵墓が京都市東山区・泉涌寺の近くにあることは、すでに記した。
 これらは、現時点でのことだ。
 ○ いくつかの論点が、少なくともかつては、あった。
 第一は、陵墓自体の様式・築造法の問題だ。詳しい知識はないが、神道的または仏教的な仏具ないし神具が置かれたり、墓碑自体が神道式または仏教的ということもありうる。
 第二に、陵墓の維持・管理の問題だ。少なくともかつては実質的に寺院または神社がこれを行っていたことはあった、と見られる。
 神社についてはこの欄でまだ言及したことがないが、現在の姿・位置関係から推察して、それがありうるだろうという例をいくつか知っている。
 第三は、陵墓の前又は直近での慰霊行事の主体の問題だ。形式上は皇室または幕府等々による命令(又は委託)によることがあったかもしれないが、陵墓の維持・管理を実質的に寺院または神社が行っている場合には、これもまたそれぞれの寺院や神社が主体として行っていたのではないだろうか。
 第四は、周辺に陵墓がある場合にとくに、寺院(・神社)内部での上のような行為、つまり慰霊・法要や供養の祈祷の類が認められたかどうか、だ。これまた、陵墓の維持・管理が実質的に寺院(・神社)によっている場合には、大きな問題にならないと思われる。
 ◯ これらが明治期以降どうなって、そして現在に至っているのか。
 上の1870年(明治3年)の<建議書>について言うと、まず、つぎの点の解釈が問題になりうる。
 「御歴代御陵祭祀」は「神典」でなされるべきで「泉涌寺をも被廃」=廃止するのは「当然の御儀」だ。=「御歴代御陵祭祀神典ニ被為依候上ハ、泉涌寺ヲモ被廃候儀当然ノ御儀と奉存候」。
 これは、泉涌寺という仏教寺院の廃絶までを意味しておらず、維持・管理をこの寺院に任さないことも含めて、上の第二、第三を明確に禁止し、かつ場合によっては第四も許さない、という厳しい趣旨だとも読める。
 だが、実際には、これよりも厳しい措置を想定していたようだ。
 外池昇(1957~)の上掲著は、<別紙>について、つぎのように注記している(p.344)。
 「泉涌寺にある総ての陵を泉涌寺から徹底的に分離して管理」する具体策を述べる。
 ①「総ての僧侶」の「復飾」、②その僧侶から人選して「御陵守護に当たらせる」、③「寺中の仏像・経典・梵鐘等の仏器類」の「撤却」、③「本堂を取り除く」、④「寺領」は「陵田」(陵墓の土地)とする。p.344。
 これは、泉涌寺という仏教寺院それ自体の廃止・廃絶を意味するだろう。
 さらには、上に触れた第一の点にかかわって、14の陵墓について、つぎのことすら提言されていた、とされる(同上、p.344)。同寺周辺の他陵については省略。
 ①「仏式の九重塔」を除去して「円丘」を築く、②崩御年号記載の「大石」を前面に設置、③「石垣、玉垣」、「鳥居」の造立、等々。
 ところが、重要なのは、こうした建議はそのままでは採用されたり、実施されたりすることがなかっつた、ということだ。つまり、<神仏分離>を徹底することはできなかった。
 おそらくは、上の第一の点での多少の造作、変更はあった。第二、第三で述べた管理・供養類への主体的関与は(仏教寺院には)なくなった。しかし、寺院それ自体が廃止・廃絶されたわけではなく、すぐ近くに陵墓はありつつ、かつ陵墓面前ではなくとも、当該天皇等に対する慰霊・供養・法要等は寺院内でずっと行われてきた。
 第二、第三は、戦前は国家と世俗宗教との分離、戦後は国家と「宗教」自体の分離の結果だ。陵墓維持・管理は国家の仕事(現在は国・宮内庁)であって、寺院等のすることではない、という法的建前があったし、現憲法のもとでは、寺院のみならず、神道神社についてもある(政教分離、国家と「宗教」との分離)。
 しかし第四については、戦前の実際はよく知らないが(たぶん戦後と同じでないか)、少なくとも戦後は、仏教寺院が天皇の位牌を置いて法要する等のことは、もちろん全ての寺院ではないが、特定範囲の寺院には許されてきた。遺族ともいえる天皇家もまた、それを迷惑に思って封じたりはしてこなかった。
 泉涌寺の「霊明殿」には、天武以降の奈良時代の天皇以外の全天皇(とされる。だが、特定の天皇以降だろう)の「位牌」があって、毎朝読経がされている、とこの寺院で聞いた。
 なお、陵墓それ自体は寺院の土地とは区別されつつ、特定の天皇(・上皇)ゆかりの寺院には、当該天皇(・上皇)の位牌が正面に一つまたは一~三程度置かれて法要を行う畳敷きの部屋が現在でもあることがある(例、仁和寺、青蓮院等々)。その室がある建物に向かう、唐破風であったりする「勅使門」が現在でもあることもある。
 ○ 結局のところ、櫻井よしこのように、天皇・皇室の<宗教>を神道に<純化>させて、仏教と切り離したい、または切り離すのが天皇家の歴史的伝統だと理解している人物が、なんと国家基本問題研究所理事長であっても、いるのかもしれないが、それは過っている、ということだ。
 櫻井よしこは、「無知」を自覚、自認しなければならない。

1488/日本の保守-小川榮太郎とその日本の「保守」批判。

 小川榮太郎は、かなり、又はきわめて、鋭敏な「保守主義」者だ。
 小川が、ほとんど適切に平川祐弘の天皇論・譲位制度反対論を批判し、「日本の保守はじつに危うい」と的確に指摘していることは、すでに言及した。
 月刊正論3月号(産経、1917年)では小川は、<「保守主義」者宣言>と題して、つぎのように書く。保守とは何か、自分にとっての保守、というのがおそらく執筆依頼された主題なので、このような批判的叙述をするのは少しは勇気が必要だっただろう。p.76-。旧かな遣いは勝手ながら現代かな遣いに変えた。
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 「戦後イデオロギーは、今や完全に全日本人の遺伝子に浸透し、保守的な『生き方ないし考え方の根本』そのものが、日本人から失われてしまった。保守を自称する人達も例外ではない」。
 安倍支持保守・安倍批判保守、熱烈天皇主義者、理論派保守(反リベラリズム・バーク・福田恆存・アメリカ共和党に依拠)等々、「様々な自称・他称保守」を見ても、保守的な『生き方ないし考え方の根本』を体現する人は「殆ど見当たらない」。
 「天皇陛下万歳を唱えながら、排他主義のはけ口にしているだけなのかもしれない」。
 蓮舫を批判しつつ「職場では権利の主張に余念がない」かもしれない。等々。
 要するに、「近年保守的な標語が世上に乱舞している状況は、ネットの断片的な情報によって過激化したナショナリズムと評すべきであって、保守的な人間像、保守的なエートスの蘇りではない」。
 「ナショナリズムを否定するつもりは毛頭ない」が、「本当に日本の核になるもの」を「保守」したいのなら「その奥に踏み込まねばならぬ」。「本当に消えつつあるのは、日本人が歴史の持続の中で鍛えあげてきた人間像そのものなのだ」。
 日本が失われるのは「反日勢力に否定された」からではない。「真に侵され、危機に瀕しているのは日本の外被ではない、我々の内側に息づいているべき日本の方なのだ」。「その記憶を取り戻す事こそが『保守』でなくて何なのだろう」。 
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 自分であればこのような表現の仕方はしない、又はできない、と感じはする。
 しかし、小川榮太郎が単純な「安倍支持保守」や「熱烈な天皇主義者」を<保守主義>者と見ていないことはよく分かる。
 秋月瑛二にとつては、「保守」という言葉で自分を意識するか自体も大した問題ではない。がともあれ、「反共産主義」や「反左翼」の意味では<保守>なのだろうという思いはある。
 そのような<保守>感情からすれば、渡部昇一・櫻井よしこらのアホの4人組、加地伸行を含めるとアホの5人組らの「観念保守」は、平川祐弘・八木秀次を含めて、批判されるべき、危険視されるべき人物たちだ。
 そのような気持ちと、小川榮太郎が述べている「保守主義」には、少なくとも部分的には、合致点があるように考えられる。

1487/櫻井よしこ・天皇譲位問題-「観念保守」批判、つづき⑤。

 ○ 櫻井よしこは昨年11月14日の有識者会議のヒアリングでつぎのように語った。
・「現行の憲法、皇室典範では、祭祀の位置づけが、国事行為、公的行為の次に」にきているが、「優先順位を実質的に祭祀を一番上に位置づける形で」天皇陛下の日常日程を整理し直すのがよい。
・天皇像の形成に「求められる最重要のことは、祭祀を大切にしてくださるという御心の一点に尽きる」。
 その他の最近の文章でも、上の趣旨を繰り返し、述べている。平川祐弘もしきりとまつりごと=政治と祭事を、「祈る」ことを語る。
 日本の歴史や天皇に関することになると、櫻井よしこはたんなる「ジャーナリスト・評論家」ではなく、<狂信家>に変わる。平川祐弘も似たようなものだろう。
 ゆっくりと上の点はこの欄で記していくことにして、まずは、おそらく櫻井よしこにはきわめて難しい問題を設定して、質問してみよう。平川祐弘に対しても同じ。
 神宮(伊勢神宮)の<式年遷宮>は、天皇の「祭祀」なのか否か、その理由は何で、これには憲法に関する問題は全くないのか。
 ○ 現代でもおそらく80歳を超えれば長寿だろうし、100歳まで生きる人は少数だろう。そういう時代ですら、20年に1回の遷宮を経験する、又は見聞きするのは、3-4回程度しかないだろう。
 上に20年に一度と書いたが、日本および天皇の歴史上は、そういう時代の方が短い。
 せっかくだから、できるだけ多くの遷宮の間の年数を、下記の文献によって、記しておこう。下記の、//と//内の数字。内宮と外宮が別の年のこともあったので、内宮の遷宮年を意味させる。有史以後のことだから、初期も、神話的伝説・伝承ではないと思われる。
 01回・690年//19年//02回・709年//20年//03回・729年//18年//04回・747年//19年//05回・766年//19年//06回・785年//25年//07回・810年。
 この最後から平安時代に入る。
 //19年//08回・829年//20年//09回・849年//19年//10回・868年//18年//11回・886年//19年//12回・905年//19年//13回・924年//19年//14回・943年//19年//15回・962年//19年//16回・981年//19年//17回・1000年。この最後は一条天皇のとき。
 //19年//18回・1019年//19年//19回・1038年//19年//20回・1057年//19年//21回・1076年//19年//22回・1095年//19年//23回・1114年//19年//24回・1133年。この最後は、崇徳天皇のとき。
 //19年//25回・1152年//19年//26回・1171年//19年//27回・1190年//19年//28回・1209年//19回//29回・1228年//19年//30回・1247年//19年//31回・1266年//19年//32回・1285年//19年//33回・1304年//19年//34回・1323年。ここまで、886年以降の遷宮は19年毎だ。これ以降、南北朝時代に入る。
 //20年//35回・1343年//21年//36回・1364年//27年//37回1391年//20年//38回・1411年//20年//39回・1431年//31年//40回・1462年。このあと、応仁の乱が始まり、じつに122年間中断した。
 //122年//41回・1585年(秀吉)//24年//42回・1609年(家康)。
 これ以降、江戸、明治、昭和前記まで、規則的・定期的に20年毎の遷宮がつづく。省略する。盛大に行われたのが、第58回・1929年(昭和4年)。そのあと変則的な挙行が1回だけあり、あとは復して20年毎になる。
 57回・1909年(明治42年)//20年//58回・1929年(昭和4年)//24年//59回・1953年(昭和28年)//20年//60回・1973年//20年//61回・1993年(平成5年)//20年//62回・2013年(平成25年)。
 以上、茂木貞純=前田孝和・遷宮をめぐる歴史(明成社、2012)、による。
 ○ こうした中断もありつつ長く続く遷宮の諸費用を誰がどうやって支弁したのかは、歴史学的にも重要だろう。122年間の中断は、そのコストを負える人物・組織等が存在しなかったことを意味すると思われる(伊勢神宮自身も含めて)。
 遷宮の祭主が旧皇族であることからも、この遷宮が神道関連行事・儀式であることのほかに、天皇・皇室に由縁のあることもかなり知られているだろう。
 では、これは天皇の「祭祀」なのか。いや、伊勢神宮の行事ではないのか。
 かりに「祭祀」だとしてすら、「宮中祭祀」ではないだろう。
 1949年(昭和24)年に予定されていた第59回遷宮について、「昭和天皇の思し召し」を受けて、当時の内務省・神祇院は、早々と1945年(昭和20年)12月14日に、とりあえず「中止」を決定した。上掲書、p.122。
 そのようなお役所は現在にはない。
 いや、宮内庁はある。だが、宮内庁は伊勢神宮と、何がしかの公的な関係があるのだろうか。
 いつかこの欄で記したように、戦後に限らないように思われるが、少なくとも形式上は、遷宮の最終に至るまでの諸行事は、日程も含めて、各天皇の「ご聴許」により決定される。少なくともそのかぎりで伊勢神宮よりも、天皇は「上」に立つ。
 遷宮自体が広義の?祭祀かどうかも興味ある(又は深刻な)問題だが、この「聴許」とは、天皇の、いかなる性格の行為なのだろうか。「祭祀」そのものではないが、「祭祀」の挙行とその詳細をいわば命令する、「祭祀」の一要素なのだろうか。
 そしてまた、櫻井よしこも触れている、憲法・皇室典範上の位置付け・性格は、遷宮自体とともに、この「聴許」は、どのように位置づけられるのだろうか。かつ、憲法に関係する問題・論点はないのだろうか。
 <保守>的団体の代表者として君臨し、天皇・皇室を敬愛し、天皇を戴く日本を保持しつづけることこそが<保守>だとの旨を述べ、そして「祭祀」の最優先を強く主張する櫻井よしこならば、このくらいのことは答えられるだろう。

1486/天皇譲位問題-産経新聞社・月刊正論の困惑と怨念。

 天皇譲位問題-往生際の悪い産経新聞社・月刊正論。
 昨年夏以降の天皇譲位問題の発生とその帰趨は、少なくとも内部的には産経新聞社を困惑させ、混乱させたと思われる。
 もともとの主張は、当時又はのちの「アホの4人組(加地伸行を含めて5人組でもよい)」の主張と同じで、譲位反対・摂政制度利用論だったようだ。
 産経新聞は昨年8/06社説(主張)で、とくに小堀桂一郎の言を紹介したりして、このような方向の主張をしている。
 但し、世論調査の結果と大きな齟齬がでてきたことは、意識したに違いない。
 それでも、記憶に頼れば、阿比留瑠比は、<世論調査結果に一喜一憂しないで…〔じっくりと正しい方向へ〕>という旨を書いていた。産経や阿比留にとって「喜」となる調査結果、「憂」となる調査結果は何かと思いめぐらさせ、それらが推測できそうで、かなり興味深かった。
 11月のヒアリングの頃には社としての主張を確定していたのかどうかは、私にははっきりしない。購読者でないので、いつ頃に転じたのか分からないが、12/23日社説では、「今の陛下の一代に限り、特別措置法で譲位を実現する方向性が出ている。/陛下のお気持ちを踏まえ、できるだけ早く見直す観点からは、自然な流れではないだろうか」となっており、その後はこの線の主張をしてきている。
 世論を完全に無視できず、かつ皇室典範全面改正も認めたくない、という、政府・自民党がもともと提供しようとしていた折衷案的解決にすがったことになるのかもしれない。
 というわけで、産経新聞と譲位問題には現時点では語ることはほとんどないとも言える。
 しかし、同社発行の月刊正論上の「教授」・「先生」はなおも、<ぐじゃぐじゃ>と述べている。「負け犬の遠吠え」というか「敗者のルサンチマン」というか。
 3月上旬辺りが最終編集だろうか、月刊正論5月号(産経)「メディア裏通信簿」欄によると、以下。
 ①「教授」-「天皇陛下のご意思に基づく法整備と退位は憲法上の疑義がある」。「先生」-「完全に憲法違反だぜ」。
 ②「教授」-「摂政設置や国事行為の代行という選択肢もあると指摘されているのに、あえてその方向をとらず、退位にこだわったのは、天皇陛下が摂政に否定だったからでしょう。そういう意味でも〔=天皇の意思によるのだから〕退位制度は国民や国会の意思という理屈には無理がある」。
 上の①については、「おことば」後の記者会見の際に「内閣の助言の承認により」発したという説明を今上陛下はなされた。また、NHKによる放送を予め政権中枢が全く知らなかったとは考え難い。さらにもともと言えば、今上陛下にも一人間としての意思や思考は当然にあるので、その表明を一切封じてよいのか、「国政」に結果として影響を与えることになるのか否かは「お言葉」の時点ではまだ分からない、といった論点もある。
 ②については、もともと摂政設置と国事行為委任法では天皇の行為の全てをカバーできない部分があるという原理的・基礎的な問題点がある。また、「天皇の意思」によるからと言うが、国会が自立的に法律を改正しその原案・法律案を内閣が自立的に作成するということに問題はないだろう。自立性を正面から否定するのはむつかしい。「教授」や「先生」も、政府が改正準備を始めたあとの、彼らにとって賛成できる皇室典範の非改正、現状維持であれば、それがいかに今上陛下の明示の意思表明にもとづくものであっても、形式や手続を問題にしないのだろう。
 そういう中味よりも、もしこれらを正々堂々と主張したいならば、月刊正論の最後の辺りの、「覆面」雑談記事でではなく、産経新聞の「正論」欄とか、あるいは<誰が正しい譲位否定論を潰したか>とでも題した論考を月刊正論にでも掲載すべきだろう。
 そうしないで覆面をかぶって雑談のごとくしゃべっているのは、じつに諦めの悪い、怨念丸出しの、印象のよくないことだ。
 ところで、「教授」は月刊正論も含めて原稿執筆依頼を受けて、執筆して校正・見出しつけにかかわることがあるらしい(p.335)。
 月刊正論に小さくとも必ずのように登場する、「教授」のごとき主張をしかつ恨み節も述べそうな覆面人間は、八木秀次、という人ではないか。
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 同欄から追加の引用。社説には現れていない、産経新聞又は月刊正論編集部の<本音>や<困惑>がかなり分かる。
 月刊正論2016年11月号p.319〔9月上旬に最終編集か〕。「先生」-「俺たち保守派は伝統と法にもとづいて天皇が政治的決定をしないように主張すべき」だし、それが「天皇の立場を守ることになる」。「月刊正論10月号で終身在位制の意義を強調して、ご譲位を遠回しに否定した八木秀次が批判されている」が、「間違っているのは、どっちなんだ」。
 月刊正論2016年12月号p.308〔10月上旬に最終編集か〕。「先生」-「SAPIO11月号では小林よしのりが…男系維持派の渡部昇一や八木秀次たち保守論客をバカみたいな絵で描いていたな」。
 「教授」-「ひどい描き方ですね。しかも名前を書いていない。文句を付けられないように、わざと書いていないんでしようね」。
 /名前を書いていないのは、「教授」も「先生」も同じで、かつ似顔絵もない〔秋月〕。
 同p.309〔10月上旬に最終編集か〕。「編集者」-「産経も読売も、自分たち自身が本音では『困惑』している当事者でもあるから、はっきりものが言えなくて…。」
 「先生」-「少なくとも、月刊正論ではもっと〔譲位に対する〕反対・慎重論を明記して、議論を喚起すべきじゃないか」。
 「編集者」-「また、そんな厳しいことを。……いろいろ考えるとなかなか…。…を読んでも、そこのところを悩んでいるのが、分かるじゃないですか、勘弁してください」。等々。

1482/天皇譲位問題-小林よしのり・天皇論平成29年の一部を読む②。

 小林よしのりが論及している点にすべて関わると、10回分も必要になるだろうので、感想、コメントの要点を絞る。
 1.天皇の意思による譲位の可能性・許容性の問題と、皇位継承者の資格、つまり女性天皇、女系天皇の可能性・許容性の問題とは、全く無関係ではないとしても、分けて論じなければならない。
 小林よしのりが譲位反対論者を<男系主義者>と非難するのは、前回言及の8~9名については当たっているのかもしれないが、譲位の可否と女性・女系の可否は論理的には関係がない。
 2.小林は「天皇を苦しめてまで天皇制を維持すべきなのだろうか?」と人間的感情の欠如を疑わせるアホ4人組に比べれば自然でまっとうな疑問を示したあと、「いつ自分がリベラルに転向するかわからないほど迷う」と書いている。p.544。
 このように、<観念保守>の主張は、とくにそれがある程度まとまって述べられると、それが<保守>派一般の主張であるかのごとく理解され(池田信夫においてもそうだ)、健全なまたは理性的な人々を、リベラルないし「左翼」へと追いやる可能性・危険性をもっている。<アホ保守>は、その意味でこそ、許されない。
 <アホ4人組>を批判しておく必要があると(そのためには少しはきんと読まないといけないと)秋月が思っているのもそのためで、彼ら<観念保守>は、ふつうの日本人を、<保守>嫌いにさせるという、きわめて悪質な機能を客観的には有していると考えられる。
 小林よしのりはどうか何とか、「リベラルに転向」などをしないでいただきたい。
 3.現皇室典範自体が改正されることになる
 小林よしのりは皇室典範自体の改正を主張し、一代限りのという特例法には反対している。 
 法案自体の正確な内容を知らず(子細はまだ決定されていないだろう)、新聞等による一般的な情報にのみ頼るが、基本的論点についての政治的・政党的な調整もふまえた事実上の決着点は、以下であると見られる。
 ①いわゆる皇室典範改正論と特例法制定案の折衷。
 ②特例法が一代を対象として、かつ先例になりうるものとして制定される。
 ③典範自体の付則で②の特例法が皇室典範と「一体」であることを明示する。
 ④「付則」もまた法律(皇室典範)の一部に他ならないので、皇室典範自体も改正されることになる。
 以上のとおりで、特例法が制定されるとともに、それと併せて皇室典範も改正される。
 この決着の意味は、つぎのとおりだと考えられる。
 A.自民党・特例法制定と民進党・皇室典範改正の二つの主張の両方を生かした。
 B.憲法二条の「国会が議決する皇室典範」によりとの部分との整合性を確保して、違憲だという疑念が生じないようにした。
 小林よしのりが示唆するように、また流布されていたように、自民党は特例法で決着させるつもりだったのかもしれない。
 そして、皇室典範全面改正とその全面否定の間の<特例法>で両派を宥めたかったかにも見える。<観念保守>または前回言及の8-9名のような「保守」の全面否定論-摂政設置主張論にも配慮したという姿勢を示したかったのかもしれない。
 そのために、皇室典範全面改正を支持しない者・主張もある程度多いことを示すために、平川祐弘、櫻井よしこらのかなり多い全面否定-摂政設置論者がヒアリング対象者に(政策的に)選定された可能性がある。
 しかし、皇室典範とは独立の特例法では憲法二条の定めに違反する可能性が高い。
 立法技術にもかかわるが最終的にどうするつもりだろうと、もともと<特例法>のイメージも不明瞭だったのだが、秋月も思ってきた。
 それで最終的には、上のようになった。
 皇室典範の、戦後最初の実質的な大きな改正となるだろう。
 皇位承継方法についての大きな例外を、皇室典範自体が認めることになるからだ。
 特例法は形式的には皇室典範とは別でも、皇室典範そのものの一部となる。これは分かりやすいことではないが、「付則」もまた法律の立派な一部であり、法律の定めの一内容だからだ。
 したがって、その内容は憲法二条にいう「皇室典範」が定めていると理解することができ、憲法問題・違憲問題の発生は回避できる。 
 というわけで、小林よしのりの元来の主張は半分しか通らなかったが、半分は、ある程度は、実現された、ということになるように思われる。

1476/平川祐弘・天皇譲位問題-「観念保守」批判、つづき④02。

 ○ 小川榮太郞の文章を借りて、先に平川祐弘の天皇譲位問題見解を見たのだったが、今回は、平川の文章を直接にあらためて読んでみた。但し、以下に限る。
 ①有識者ヒアリング発言・2016/11/07-内閣府サイト。
 ②「何が天皇様の大切なお仕事か」月刊正論2017年1月号(産経)。
 -これは、①とほとんど異ならない。原稿のほぼ「横すべり」、あるいは「使い回し」だ。
 ③「誰が論点をすり替えたか」月刊Hanada2017年4月号(飛鳥新社)。
 日本の保守というものにいい加減ウンザリしてきた、とこの問題に限らないでいつぞや書いたが、本当にイヤになる。平川祐弘は「アホ」だ。限りなく「アホ」だ。
 <東京大学名誉教授>に対して失礼だなどと怒ってはいけない。
 あの上野千鶴子も、れっきとした<東京大学名誉教授>だ。世俗の肩書きとは関係がない。
 ○ 「このところ新聞では、憲法の文言によって専ら論ぜられ、法学部出身の皆様の解釈が前面に出ますが、それだけでよいのか」。①、他にも同旨あり。
 バカではないか。例えば、本郷和人は文学部出身、正面から平川批判をした小川榮太郎も文学部出身、池田信夫はブログ内で<保守>の譲位反対論を皮肉っていたが、経済学部出身。他にも、平川祐弘を嗤っている人々はたくさんいるに違いない。
 有識者会議のメンバーの出身学部を詳しくは知らないが、例えば山内昌之は文学部出身の<東京大学名誉教授>。山内は、平川祐弘と同様のことを主張するだろうか。
 今上陛下の<お言葉>のあとの世間の反応はあるが、「そもそも退位はあり得るのか。法律的に許されるのか、詳しいことはよく突き詰めて考えていないのが実情ではないでしょうか」。①の冒頭部分。
 これには苦笑してしまった。
 「詳しいこと」を「よく突き詰めて考えていない」のは、平川祐弘自身だろう。
 そうでないと、エドワード八世やら源氏物語とやらが、突如として登場してくるはずはない。
 櫻井よしこもそうだが、日本国民や雑誌読者(週刊新潮を含む)を、<観念保守>の人たちはバカにしているのではないか。とりわけ、せっかくの内閣総理大臣の諮問会議の<公的な>時間と経費を無駄にさせて、申し訳ないと感じるべきだろう。
 ○ 上の「退位はあり得るのか。法律的に許されるのか」、の他に、以下もある。
 今上陛下が「憲法にもない生前退位をしたいと示唆されたのはいかがなものか」。①
 今上陛下の「個人的なお気持ちを現行の法律より優先して良いことか」。①
 仲正昌樹が<精神論保守はダメだが、制度論保守ならいいかも>とか書いていた気分が、よく分かる。
 東京大学名誉教授や「比較文化史家」なるものの、頭の悪さまたは基礎的な法的素養のないことに唖然とする。
 上記のヒアリングに出席して発言する機会が付与されたのだから、憲法の関係条項や現皇室典範の退位・皇位承継関係条項くらいは見ておくのが、当然の姿勢なのではないだろうか。
 後世の、のちのちまで、平川祐弘の発言内容は、日本政府関係情報・電子データとして残っていく。他人事ながら、恥ずかしいことだ。
 さて、憲法に「生前退位」を肯定する規定はないが、それは憲法が生前譲位を否認していることを意味しない。
 「第2条/皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」。
 「国会の議決した皇室典範」の意味については立法技術にも関係する議論があり、かつすでに事実上は決着したようだ。 
 しかしともあれ、皇位継承については「国会の議決した皇室典範」に、つまりはほぼ間違いなく(憲法解釈として)法律の定めに委ねているのが、現憲法の規範内容だ。
 したがって、法律(これがどのようなものか、「典範」か特例法か等には立ち入らない)が憲法の範囲内であれば、いかようにも決しうる。ついでに、男系も女系も、憲法は「世襲」だとだけ定めて何も語っておらず、法律に委ねている。
 現憲法が終身在位を定めているなどと誤解しているとすれば、もちろん<大アホ>。
 「法律的に許されるのか」、「現行の法律より優先して良い」のかなどと問題提起しているのが、さすがに平川祐弘らしい。
 その法律あるいは「現行の法律」を改正すべきか否か、そして改正するとすればどのように改正すればよいのかが、まさしく問われていたのだ。
 ○ このように書いていて、さすがに阿呆らしくなってきた。
 <保守>の、ひょっとすれば多くの人たちは(秋月はその例外のつもりだが)、法律でもって、つまりは世俗の国会議員・両議院議長らや政党関係者がこの問題を扱う権限があると知って(気づいて)、驚天動地の思いだったのではないだろうか。
 長い間(これはある程度は私もだが)、この問題を等閑視してきたのが誤りだった、とも言える。
 ○ そもそもは、譲位問題の結論や帰趨よりも、私には<観念保守>の思考方法に関心があった。
 彼らのほとんどが、現実にある<規範>の意味を無視して、憲法と法律(さらには政令だとか条例だとか)の区別も知らないで議論していることがよく分かった。櫻井よしこにも、渡部昇一にも、その弊は十分にある。
 しかし、彼らの言述を知って気づく、もっと重要な問題は、<天皇の祭祀と宗教・神道>というテーマだろう。
 意識的にか、無知のゆえか、この憲法問題に、彼らは論及しない。簡単に 、憲法問題(国家と宗教の関係)があることを無視して、祭祀や「祈り」を語っている。
 あるいはまた、神道といちおう区別される<仏教>の存在を無視したままで、日本の歴史またはその伝統を語っている。仏教を「疎外」して神道を<国教>化したのは明治維新以降・戦前で、それが日本と天皇の歴史だと勘違いしてはいけない。
 <タブー>が、月刊Hanada編集部の花田紀凱にも、月刊WiLL編集部にも、月刊正論編集部にもあるように思われる。暗黙の前提、もしくは「隠されたイデオロギー」がおそらく存在している。
 こうした問題については、ずっと前に坂本多加雄が言及していたし、たぶん彼の言葉を知らないままに秋月瑛二もかつてこの欄で触れたことがある。
 櫻井よしこについてと同様になるので、別の回にする。

1471/平川祐弘・天皇譲位問題-「観念保守」批判、つづき④。

 ○ 小川榮太郎「平川祐弘氏に反論する-譲位の制度化がなぜ必要なのか」月刊Hanada5月号p.303-による、おそらく同誌4月号の平川祐弘「誰が論点をすり替えたか-天皇陛下『譲位』問題の核心」p.30-に対する批判は、平川批判として優れている。
 書いていることに即しての譲位問題に関する平川祐弘批判は秋月もする予定だったが、小川の言述の紹介でもってほぼ代替させることができるかもしれない。
 もっとも、櫻井よしこらと親交があるらしい編集長・花田凱紀の意向だと思われるが、平川論考のタイトルは4月号の表紙の右側に最も大きく掲載されているのに対して、小川榮太郎の上記については表紙の中になく、目次の中でも目立ってはいない。
 月刊正論、月刊WiLL、月刊Hanadaは、同人誌的サークルが別の名前で、似たような人が似たようなことを順番に書く雑誌に堕してしまっている観がある。ときにはこの小川榮太郎論考のようなものや、西尾幹二や中西輝政のものを載せて、ゴマカしているけれども。
 ○ 小川榮太郎に同意できない部分はあるが、そこはさておき、以下は平川批判。
 ・最後の、「…日本の保守は実に危うい」。p.315。平川を読んでの結論的感想のようだ。そのとおりだ。とくに「観念保守」の精神的頽廃は著しい。もっとも、「…」の「…させねば」の部分には同意できない。
 ・まん中あたりの、「そもそも平川氏-および保守系論客の多数-が、そんなに摂政に固執することが私には寧ろ理解できません」。p.311。そのとおり。かりに本当に「保守系論客の多数」だとすれば、日本の保守はすでに死んでいる。つぎの根拠づけも適切だ。
 「皇太子による摂政の制は、明治の典範で初めて定められたものに過ぎず、本来の天皇伝統ではない」。p.311。
 ・平川祐弘は、今上の「お言葉」は<天皇の役割を拡大する「個人的解釈」・「拡大解釈」>だと理解して、「我が儘を言っておられるだけ」だとし、「祀り主として存在することに最大の意義がある」と言うが、「そもそもが陛下のお言葉への反論になっていない」。p.305。
 ・存在するだけでよいとは、観念的詭弁(秋月の言葉)。「極論すれば」、「植物人間状態で全く『機能』していなくとも、『存在』が継承されれば天皇伝統は続いたか」。p.306。
 ・平川は譲位の問題を縷々述べるが「体系的網羅的懸念」でない。制度又は慣習化で防止できる。p.310。また、例えば以下。
 ①上皇と新天皇の各周辺の「人間関係がうまくいく保証はない」というが、同様のことが「摂政と天皇の間にも」「起こるに違いない」。p.310。
 ②エドワード八世の退位後のヒトラー接近というのは、「失礼極まる」「拡大解釈」だ。p.310。
 ・平川は源氏物語を持ち出して「高齢化」への配慮は不要だとする。しかし、現在の「高齢化」社会の出現は突然のもので、「世襲の制度にとって、この突然の平均寿命の倍増は、根底的な制度設計の変更を要求するものだと考えるのは、寧ろ当然ではないでしょうか」。p.311。
 以下は秋月瑛二による追記。源氏物語がかりに50-100年間の天皇の実態を反映して(物語だが史実に即して)書かれていたとしても、たかだか50-100年間の天皇の歴史にすぎない。なぜこれが、現在の議論の根拠になるのか。源氏物語が描いていない、平安期以前、平安期の残り、鎌倉以降の武家・幕府時代等についての根拠になるはずはない。平川祐弘の言及の仕方は、思いつくままの(限られた個人的な知識にのみ頼った)恣意的なものにすぎない。「バカ(アホ)」なのだ。
 ・小川の論述はさらに進む。「終身在位に固執する弊のほうが、遙かに実際的な危機ではないでしょうか」。p.312。
 (明治皇室典範の摂政位継承順位の定めに関する小川の理解p.311-312は、適切だろう。つまり、摂関時代のように、皇太子等の皇族以外が摂政になることを禁止し、天皇家・摂政家(これにつながる皇族)の対立、後者による「明治新政府を転覆する可能性」を摘み取ったのだ。ちなみに、1989年・明治皇室典範は、1877年・西南戦争のわずか12年後、1968年・新政府樹立の21年あと。)
 皇太子が摂政につくとすると、「事実上、六十代以降に即位した老齢天皇が、八十代で摂政を立てるというのが基本的な天皇のあり方になってしまいます」。p.312。
 ・「宮中祭祀七つに関しては摂政は代行できません」。p.312。
 これについて調べる必要があると感じていたところ、珍しくこの問題に論及している<保守>の人の文章を見た。現在の皇室典範によれば、摂政は天皇の「国事行為」のみを代行できる。また、国事行為委任法(略称)も、名前のとおり、「国事行為」のみを委任できる。八木秀次もいるはずなのに、これについての言及がなかったのは不思議だった。
 いわゆる<公的(象徴的)行為>や祭祀を含む<私的行為>について、どこまで摂政が代替できるかは、本来はきわめて重要な論点だったはずなのだ。
 ・平川祐弘ら「保守派」はただ宮中でお祈りしていただければよいとの議論が多いが、「天皇の祈り」は「そんな気楽なもの」ではない。p.312-3。
 以上にとどめる。小川の批判は、平川祐弘に対してのみならず、、渡部昇一、櫻井よしこ、八木秀次にも、そしてその他の、月刊Hanada、月刊WiLL、月刊正論の関係者やこれらの愛読者に対しても、相当程度にあてはまるだろう。
 昨年の文藝春秋スペシャルの天皇特集号でも、そこにあった八木秀次よりも遙かに柔軟でかつ制度もよく理解していた文章を、小川榮太郎は書いていた。
 ○ 八木秀次を除けば、渡部昇一、平川祐弘、櫻井よしこはすべて<文学部>出身者。「アホ」になるのはどちらかというと文学部系に多い、というのが秋月の見立てだ。
 しかし、小川榮太郎は格段に優れている。話がかなり通じそうな気がする。
 もっとも、先に記載のとおり、小川が天皇について一般論として記していることについては、かなり違和感をもつ部分もある。だが、それは今回のテーマではない。

1465/櫻井よしこ・天皇譲位問題-「観念保守」つづき②のD。

○ 櫻井よしこ・週刊新潮2/16号の見出しは、「4代前の孝明天皇、闘いの武器は譲位」だ。
 そして櫻井は、光格天皇の「社会的遺産」を継承した「孫帝の孝明天皇」との言い方もし、強い意思の天皇だった旨も書いている。
 しかし、光格天皇のようには称えず、福地重孝・孝明天皇(秋田書店)によりつつ、孝明天皇が「天皇の幕府に対する最大最後の抵抗である」「退位」を示唆したとし、「このような歴史もまた、振りかえらざるを得ないのではないだろうか」、とまとめている。
 櫻井よしこは、これでいったい何を言いたいのだろうか。のんびりと、歴史を振り返る必要を指摘することくらいは、誰でもできる。。
 あるいは、天皇の「譲位」・退位の意思表示は世の中を混乱させる大変なことだ、と示唆したいのだろうか。
 ○ 櫻井よしこの記述の仕方には、奇妙なあるいは面白い側面がある。つまり、自分の強い意思をもち、能動的に行動するだけでは、天皇を肯定的には評価しないのだ。
 孝明天皇については、「開国反対の余り、天皇は幕府の考えに一切、耳を貸そうとしなかった」と断定し、「開国こそ生きる道だと説く堀田の主張は正論」だと、(後から見ての)価値評価を下している。そして、たんに<譲位は最後の抵抗手段>だという、この稿のまとめへと進んでいる。
 このような歴史理解は、櫻井よしこらしく、単純すぎる。つまり、孝明天皇は最後まで<開国反対=攘夷>に執着していたのではない。
 また、<開国>が進歩的で、<攘夷>は遅れていたという、のちの<薩長史観>に嵌まったままであることも、櫻井は吐露している。
 孝明天皇にはのちには、すでに記したα・攘夷とβ・開国という政策判断よりもむしろ、C・幕府中心体制でもA・天皇中心体制でもなく、両者が意思疎通しながらB・天皇・幕府協力体制を築いていくことを志向していた、と思われる。軍事力の差が歴然となってからは、開国せざるをえないという判断に至ったものと思われる(長州派も、いつのまにか?、開国派へと変身している)。
 それが長州・薩摩派や「過激」公家たちの路線と違ったのはなぜか。
 それは、彼らは、のちに王政復古維新をした明治新政府から旧幕府側人材(当面は)、とりわけ徳川家を除外する、という強い意思をもっていたからだ(ex.倒幕の密勅、対幕府戦争)。
 この点にこそ、のちの新政府側と孝明天皇側の、決定的な違いがあった。幕府排除・解体しての天皇中心体制か、「公武合体」体制か。孝明天皇がもっと存命であれば、歴史の展開は相当に変わっていただろうことは、しばしば指摘されている。
 以上は簡単な叙述で意を尽くした十分なものではないが、少なくとも、<開国・正、開国反対・邪>、孝明天皇は後者という、櫻井よしこのより単純な理解よりは、より適確だと思われる(櫻井よしこはもっと関係文献を読む必要がある)。
 ○ 櫻井よしこは、後から見ての特定の<勝利者史観>にもとづいて、孝明天皇を高くは評価できないと考えていることが明らかだろう。
 では、櫻井が中心に置いている<闘いの最後の武器は譲位>というのは、孝徳天皇について語るときに、適切な取り上げ方なのだろうか。いや、違う。
 レーニンは、反対者が自分に賛成してくれない場合に賛成を余儀なくさせる最後の手段として、しばしば<オレは辞めるぞ>と言ったと、R・パイプスは書いていた。
 相手を屈服させる、あるいは自分に不本意ながらも同意させるために、そんなことを言うならば、俺は辞めるぞ、それでよいのか、というのは、時代や国を問わずして、今日の日本でも十分にありうる。櫻井よしこは、人間の心理・感情・精神状態というものに知悉した人物なのだろうか。
 櫻井が用いてるのと同じ筆者の書物、藤田覚・江戸時代の天皇(天皇の歴史06、講談社、2011)には、ずばり、つぎの文章がある。1858年、井伊直弼大老就任のあと、「安政の大獄」の直前のことだ。通商条約調印強行の「報告」だけ受けての、孝明天皇。
 6月28日、朝廷公家に対して<退位とのちの明治天皇への譲位>の意思表示をした。幕府の措置に怒り「抗議のために譲位」表明するのは後水尾天皇(1600年代前半在位、幕府による禁中・公家諸法度制定などがあった)以来のこと。
 「天皇は、難局から判断不能に陥り、天皇位を投げ出したともとれるが、譲位の意思表示によって決意のほどを示そうとしたのだろう。/
 ここで重要なことは、孝明天皇は、逆鱗したとはいえ、あくまでも幕府への政務委任と朝幕融和(公武合体)という原則、江戸時代の朝廷の幕府の枠組みを大事にしていることである」。p.315。
 どういう研究者かの詳細を知らない藤田覚の言述をすべて信頼しているわけでは全くない。しかし、櫻井よしこのように単純に歴史や歴史的人物を理解して評価してはいけないこと、<譲位表明は最後の武器>という認識自体が誤っていること、を示しているだろう。
 ○ このような、何かに<取り憑かれた>ような、歴史については中学生少女レベルの人物が、日本や天皇の歴史について何を書いても、言っても、信用することはできない。その天皇譲位問題についての見解の基礎にある歴史観もまた、単純で、「観念論」的な、誤ったものである可能性がすこぶる高いわけだ。

1462/西尾幹二は「国体」を冷静に論じる-「観念保守」批判。

 ○ 櫻井よしこが書いていることは1937年・文部省編纂『國體の本義』とよく似ており、部分的には酷似している、と最近に書いた。そして、そのような一面的・観念的な「史観」による歴史叙述を簡単にしてはいけない、とも書いた。
 日本書記・古事記の記述は全部ウソだという人に対しては、いやいや、かなりの程度は少なくとも事実を反映している、何らかの民族的記憶を背景にしている、と言いたくなる。一方で、日本書記・古事記の世界をそのまま日本の歴史として(たんなる「お話」と事実と合致する歴史叙述を区別しないで)「信じる」人に対しては、いやいや、そう思いたくとも事実ではないところが多い、と言いたくなる。
 全か無か、正か邪か、善か悪か、真か偽か、物事をこのように二項対立的に単純に理解してはいけない。
 ○ 産経新聞社の、かつて月刊正論・編集代表者だった桑原聡は、退任するにあたって、同誌2013年11月号でつぎのように書いた。この欄の2013年11月14日付=№1235も参照。 
 「自信をもって」、「天皇陛下を戴くわが国の在りようを何よりも尊いと感じ、これを守り続けていきたいという気持ちにブレはない」と言える、と。
 ここには、「何よりも尊い」、「天皇陛下を戴くわが国の在りよう」を護持しようとするのが<保守>だという、強い観念、強い思い込みがあるようだ。
 <保守>の意味もさまざまだから、そのように考えている<保守>の主張を一概に否定するつもりはない。
 しかし、秋月は、「天皇陛下を戴く」ことが日本と日本人にとっての最高の価値、最大限に追求すべき価値だとは思っていない。
 むしろ、天皇・皇室制度が「左翼」、とりわけ共産主義者によって利用されることを怖れている。例えば、日本人に親天皇・親皇室感情が強いと知っている共産中国は、かりに将来に日本を何らかのかたちで侵攻して日本の政権を事実上であれ従属させた場合、少なくとも当面は<天皇制度をともに戴く>ことを躊躇しないのではないだろうか。
 共産主義者は、目的達成のためならば、何でもする、何とでも言う、と想定しておかなければならない。日本共産党も同じ。
 なお、かつて雅子皇太子妃に対する批判が<保守>論壇でも有力になされたときに、いわゆる「東宮」側に立ったコメントをこの欄に書いたのは、何が何でも雅子妃を含む皇室を守るという気持ちからではなく、主としては、そのような(私が知らない何らかの情報があったのかもしれないが)批判をするのはもはや遅い、無意味だ、という反発からだった。
 率直にいって、美智子皇后に<ベアーテ・シロタは女性の人権拡張に貢献した>という発言があるという噂・風聞の方が怖ろしい。
 ○ 西尾幹二・GHQ焚書開封4-「国体」論と現代(徳間書店、2010/のち文庫化)は、サブ・タイトルどおり、「国体」論を扱う。その他の巻で扱われている書物もそうだが、GHQが「焚書」にしたからといって、それらの書物の内容が全面的に正しい、または真実だ、ということにはならない。当然ながら、西尾幹二は、そのことをふまえている。
 冒頭で言及した1937年・文部省編纂『國體の本義』に限る。西尾はつぎのように冷静に、この本を読んでいる(p.131~)。櫻井よしこに読ませたいような部分に限って、以下に部分的に引用する。
 『國體の本義』のすぐの冒頭部分を「読んで、正直ちょっとやりきれないな、と感じる人が普通で」はないか、「現代のわれわれの感覚からするとまったく浮世離れして見えるから」だ。p.134。 
 「ここからは私の批評です。ある意味では、この『國體の本義』に対する批判です」。p.154。
 日本人の心の「まこと」が「わが国の国民精神の根底だといわれると、たしかに…、それだけでよいのだろうか」。<和>に加えて<まこと> を説いて「自己完結しているところに、かえって問題を感じます。日本人にわかり易いがゆえに逆に曲者なのです」。p.159。
 「和と『まこと』」の一節を読んで、「日本は戦争に負けたのは当然だ」と思わざるを得なかった。「明き浄き直き心」だけでは「主観的すぎて、他の存在感を欠き、自閉と弱さの表明でもあることをあの大戦を通じて民族的に体験した」のだから、「戦前の『国体論』にそのまま戻ればいいという話ではまったくないということをしかと肝に銘じるべきです」。p.161。
 この書の天皇中心の歴史記述、親政天皇については詳しく(例えば後醍醐)、武士・幕府政治については冷淡だということ、に対する西尾の批判的コメントもあるが、省略する。
 ○ 小林よしのりが何かに、西尾幹二は天皇についてはあまり興味がない、と書いていた。
 たしかにそのようなところはあるが、櫻井よしこ、渡部昇一、平川祐弘らのような<天皇中心史観>のもち主よりは、はるかに冷静で、優れている。つまりは、「観念」論に嵌まってはいない。
 なお、西尾幹二は(日本共産党のように ?)『國體の本義』を全否定しているわけではないことを付記する。西尾は、部分的には、秋月が必ずしも同意できないことも述べている。
 ○ 西部邁の語源探りは読んでいて鬱陶しいのだが、その弊をふむと、R・パイプスの『ロシア革命』原著を読んでいて出くわした spritualism という語の意味は、ある辞書によると「観念論」で、「精神主義」という訳語は出てこない(後者は誤りでもないだろう)。またこれは、「心霊主義」、「降神術」という意味ももつらしい。
 櫻井よしこらの「観念保守」の者たちの「観念論」は、純化すると、すみやかに「心霊」にかかわる、特定の<宗教>に転化するに違いない。

1448/天皇譲位問題-「観念保守」をめぐって、つづき②のA。

 仲正昌樹・松本清張の現実と虚構(ビジネス社・2006)の第9章は「天皇制の謎をめぐって-〔略〕」で、その中のp.226-7に、次の文章がある。/改行は原文にはない。
 「『国家と個人』の関係が危機に瀕するとき、その危機を克服すべく全体主義が登場する素地が醸成される。/
 マルクス主義的な傾向の左の全体主義は、国民国家の作られた "伝統" を破壊して、プロレタリアート独裁の革命政権を作ろうとする。/
 右の全体主義は、"伝統” を純化することによって強化しようとする。」
 現在の日本の「観念保守」派は、「 ”伝統" を純化すること」を意図していないだろうか。
 あるいは、<純化した伝統>なる「観念」を、ことさらに主張してはいないだろうか。
 つぎに、1945年2月のいわゆる<近衛上奏文>には、以下の表現がある。近衛文麿の認識を全面的に肯定するのではないが、存在しうるものだとは思える。
 「軍部内一部の者」を「取巻く一部官僚及び民間有志」、「之を右翼と云うも可、左翼と云うも可なり、所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義者なり」。
 「国体の衣をつけたる共産主義者」も存在しうる、ということを、現在の日本の「観念保守」論者たちは、意識しているだろうか。
 さらには、引用を省略してしまうが、1937年に刊行された文部省編纂<国体(國体)の本義>に書かれていることは、相当に櫻井よしこ等が最近に述べていることとよく似ており、部分的には酷似するところがある。両者の間に関係はないのだろうか。ここでの<国体>観を全体として否定するつもりはないものの、「観念」論、歴史の「事実」に反した日本史理解が多分にあると見られる。
 櫻井よしこも渡部昇一も、この書物の名前と内容に直接には言及していない。知らないのだろうか。知ったうえでのこととすれば、あるいは参考にしている、影響を受けているとすれば、その論述方法は、もしかすると、いささか卑怯ではないのだろうか。
 正確に確認はしないが(その関心、傾注の努力が惜しいと思っている)、4人のうち八木秀次以外(つまり、渡部昇一、平川祐弘、櫻井よしこ)は、日本の「国体」について言及し、「国体」の維持の主張を、その<天皇>観とともに披瀝していたと思われる。
 はたして、彼らのいう「国体」とは何か。日本に固有・独特の歴史・伝統があるだろうことを、むろん否定しているのではない。

1445/天皇譲位問題-「観念保守」派の誤り・無知、つづき①。

 天皇生前譲位問題について。
 一 基本的論点の一つは、日本の天皇(の歴史)をどう見るかだろう。
 <摂政活用>派または生前譲位否定論は、これを根拠にしているからだ。
 しかし、前回も触れたように、この論を<歴史>でもって正当化することはできない。
 また、「観念保守」派の多くが-たぶん産経新聞社の菅原慎太郎も桑原聡も-抱いてるようにみえる、つぎのような<権力・権威>論も日本の歴史の事実に即していない、と考えられる。
 櫻井よしこ「これからの保守に求められること」月刊正論2017年3月号。
 「鎌倉幕府も徳川幕府も、時の権力者といえども、皇室の権威には服せざるをえませんでした。俗世の権力は常に皇室の権威の下にあり、……は実権を握りながらも、究極の権威は彼らの手にはありませんでした。一方、皇室には権威はあっても権力はなかったのです」。p.86。
 よくぞこんなに簡単に言えるものだ。しかも「常に」と断定しているのは、相当にアホだと言える。
 ここにあるのは、<思い込み>であり、<観念>だ。
 勝手に思い込むのはよいが、歴史の事実であるかのような書き方をしてはいけない。あるいは、<こうであってほしい>という願望や<こうであったはずだ>というはず・べき論と歴史的事実を混同してはいけない。少なくとも、自らの言明の「真実」性・事実性を疑ってみる謙虚さが必要だ。
 すでに前回に本郷和人著に言及した。
 既読だが、本郷和人「天皇を知れば日本史がわかる」文藝春秋スペシャル2017冬・皇室と日本人の運命(2017)もある。なお、本郷は、黒田俊雄のような<マルクス主義史観>のもち主ではない。
 ○「権門体制論」は形式はともかく実態を示さず、後鳥羽の承久の変以降「次の天皇を誰にするか」を朝廷の一存で決められず「鎌倉幕府の承認」が要った。
 ○四条天皇後、朝廷の意向とは違った後継者を鎌倉幕府は立てた(後嵯峨天皇)。
 ○鎌倉幕府は後鳥羽本流の皇子の即位を「認めなかった」。
 ○天皇・朝廷は「鎌倉幕府を利用するどころか、それに依存して」いた。
 ○元寇の際に戦ったのは幕府で、「何もしてい」ない朝廷が「国家権力を担っていると言える」のか。
 なお厳密な議論を要するのだろうが(<権門体制論>等について)、世俗権力と天皇の関係は、櫻井よしこが単純に描く上のようなものではないことを、示しているだろう。
 鎌倉時代の<例外>ということはできない。前回した紹介でも上でも本郷は江戸時代にも触れている。
 問題はそもそもは「権力」・「権威」という概念の意味なのだが、櫻井よしこは、これを明らかにした上で、少なくとも、平安時代および鎌倉時代以降幕末までの、上の理解の適正さを歴史的に論証・実証すべきだ。
 また、明治憲法下の天皇・政府関係についても、<権力と権威>如何・これの関係をどう理解すべきかの問題はある。櫻井よしこはこれに厳密に論及はしていない。例えば、戦前の昭和天皇に「権力」は(全く)なかったのか。例えば、<ご聖断>とは何なのか。
 二 つぎに、引用を省略するが、アホ4人組の多くは、生前譲位を認めると、新天皇と前天皇の二つの<権威>の並立・衝突が生じるので、避けるべきだ、と主張して、根拠づけている。
 しかし、こんなバカバカしい、いやアホらしい議論・論拠はない。
 すなわち、では<摂政>を置けば、これを回避できるのか。
 天皇在位のままでいる現天皇と「摂政」就任者との間で、二つの<権威>の並立・衝突もまた生じうる。
 いや、現皇室典範上の摂政就位の要件ならばまだよいが、<摂政制度活用派>はこの要件を緩和することを明示的に主張・提案しているので、(現皇室典範が想定していると解される)ほとんど意思表明能力を失った天皇ではなく、まだなお(意思表明はもちろん)ある程度の行為・活動の能力のある現天皇と新設置される摂政との間に、現実的な<権威>の並立・衝突がより発生する可能性がある。
 また、「上皇」=前天皇の存在を認めると、制度的・財政的手当ての問題が生じるなどと立論する者もいるが、同じ問題は、摂政を置いた場合でも全く同じように生じる。
 現憲法・現皇室典範のもとでは摂政設置の例はなく、そのための具体的な制度的・財政的しくみは、きちんと詰められては全くいないのだ。 
 アホな<脅迫>は、しない方がよい。
 三 あまりつきあいたくないが、明らかに書き残しがあるので、回を改める。

1443/天皇譲位問題ー「観念保守」というアホの4人組。

 一 天皇譲位問題は、現在の私には最優先の論題、思考テーマではない。
 しかし、日本の<伝統と歴史>を守るためにとか言いながら、じつはデタラメな歴史観と歴史知識をもったままで単純かつ<観念的>な議論をする者がいて、しかも首相のもとでの検討会に専門家として見解・意見まで述べる機会が与えられたというのだから、ヒドイものだ、ますます<保守>派の印象は悪くなる、と憂いていた。
 といっても、いくつかの論考や文章にきちんと目を通して、精確に批判しておくことは、むろん不可能ではないが、それだけの手間と労力をかける意味があるのかと思うと、大いに躊躇するところがあった。
 本郷和人・天皇にとって退位とは何か(イースト・プレス、2017)を入手して読んで、やれやれやっと、私が言いたかったこと、論じたかったことの8割ほどは書いてくれている書物が出てきた、と思った。
 すでに昨年8月に、生前譲位を認める何らかの<改正>をせざるをえないだろうと簡単に記した。また、昨年12月頃には<観念保守>の主張らしきものを批判的にコメントしている。その中で、明治期以降だけが日本や天皇の歴史ではない、とも書いた。
 上の本郷著を概読して、あるいは冒頭の数頁をひもといても、やはり、(たぶん年齢順に)渡部昇一、平川祐弘、櫻井よしこ、八木秀次の4人はバカなのだと思う。
 いや、最近読んだ西部邁の文章によると、「バカ」なのは左翼で、右翼・保守は「アホ」なのだそうだ。
 本当に上の4人は、「アホ」らしいことを真面目に書ける、主張できるものだ。恥ずかしい。また、これらの人々の言論のために、政府や出版社も含めて、多くの時間・コストを要していることを、何と無駄なことをしているのか、と感じる。
 二 さて、本郷和人著から、ほぼ首肯できる文章を、ほとんどが以前から私が感じてきたことや知っていることだが、抜き出して引用する。
 「じつは、いわゆる右といわれている思想家や研究者のなかには平気でウソをついている人がたくさんいます」。/歴史に「無知なためにウソをついている人もいれば、なかには知っていてわざとウソをついているのでは、という人もいます」。p.11。
 「摂政のあり方や摂政としての制度の運用のしかたというのは、まだ固まっていません。戦後の象徴天皇制のもとでは、もちろん一度も置かれていません」。p.33。
 「皇室典範を金科玉条のように思い、改正することに対して否定的な考えの人たちも多い」。だが、私が思うに、「じつは天皇陛下は、そういう人たちの動き、いうなれば硬直的というか、極度に保守的な考え方を快く思っていないのではないでしょうか」。p.38。
 「ただ疲れたからやめたい、体力的にキツいというだけで提案したわけではないでしょう。それ以上の意味合いをもっての行動だったのではないでしょうか」。p.45。〔本郷の推測する意味づけは省略。〕
 旧皇室典範が終身在位を定めたのは-「死ぬまで天皇をやってください」と決めたのは-、「天皇の後継者への任命権を制限する行為ともいえる」。天皇の「絶対的な存在」を規定しつつ、「伊藤博文をはじめとする元勲たちは、どこか冷めた目も持っていた」。p.51。
 明治政府は、「もう一度、朝廷の力や権限を担ぎ出されたくはない」。自分たちが成功したのと「同様のことを行われたくはないから」だ。天皇の「政治利用」を極端に恐れたはずだ。「旧幕府軍側が、[奥州戦争で]…皇族の北白川宮能久親王を先頭に押し立てて戦おうとした」ような政治利用の再現を恐れた。「終身天皇という形を制定したことはそういう政治利用の場に引っ張り出される危険性を未然に防ぐ効用もあったはずです」。p.53。
 「明治時代の元勲たち」は、「天皇が絶対であると一般大衆には布告しながら、本音としてはそれは方便でした」。p.54。
 のちの指導者たちは「明治の元勲たちの持っていた冷めた視点を失ってしまった」。「第二世代、第三世代になると建前を盲信してしまい、あやまちを犯す」。p.58。〔この最後の辺りの評価と原因分析は議論の余地があるだろうが、立ち入らないでさらに続ける。〕
 「実在が確認されている天皇のほとんどは生前退位しています。現在のような終身在位の方がめずらしいケースでした」。p.66。
 「第50代くらいまでの歴代の天皇」では「生前退位が行われているケースは、やはり女性と高齢天皇の場合が多いのです。しかるべき人が無事に即位できる時期になれば生前退位をして譲位をすることが前提に近い状態で即位した」。p.69。
 「桓武天皇以降からは生前退位が当たり前になってきます」。p.70。
 「後三条天皇」以降で「死ぬまで天皇でいた人は、若くして亡くなったり、不慮の死で急逝したりした場合と、経済的に苦しかった戦国の天皇たちにかぎられていきます」。p.74。〔経済的に苦しいとなぜ生前譲位できないのか。それは、新天皇の践祚・即位の儀礼等に多大の費用がかかるからだ-秋月瑛二。〕
 「院政の時代」は、「権力を握った上皇のほうが天皇より偉い」。p.77。
 「家康は…、天皇や公家のやることは学問であると『上から』規定して役割を与えて」いった。天皇の存在を重視せず、公家・貴族は、将軍-大名-旗本-御家人の、御家人クラスの「必要最低限の援助」しか受けられなかった。p.85。
 この時代には「天皇の権力は無力化され、江戸幕府がすべての権力を集中して持っていた」。天皇は「領地」も将軍家から与えられて「経済的にもまったく自立していません」。但し、改元と暦に関する権限だけは別だった。p.86。〔但し、これは近世・江戸時代のことで、少なくとも室町時代には改元権は幕府・将軍にあったことがある-秋月。〕
 「天皇というのは、そのときそのときで性格を変えてきた」。地域首長・首長連合の筆頭・院政・武家政治、等々。p.126-7。[武士幕府政治のもとでも、後鳥羽・後醍醐のように「親政」へと挑戦した天皇・上皇はいたし、そうでなくとも、個々の天皇等ごとに幕府と朝廷・公家の関係は一様ではないとみられるー秋月。]
 天皇・武士の関係について「よく耳にする言葉に『天皇は権力は失った、だが権威だった』という言葉があります」。しかし、私は「それはあくまでも言葉の遊びにすぎないと思っています。権力も何も持っていない権威なんてものが存在するのかと考えるからです」。p.128。
 今の社会ならば「権力はなく、権威として存在することは可能」かもしれないが、昔、たとえば「中世社会において権力=力のない権威というものが存在したでしょうか」。同上。
 「そもそも将軍が天皇からお預かりしているという思想自体が、江戸時代の後期になって尊王とともに登場してきた概念にすぎません」。「朝廷の命によって征夷大将軍に任じられて」いるのは、「それこそ形式的なもの」です。p.135。
 「万世一系」を「日本の皇室がもつ特徴のひとつ」と思うのは問題はない。しかし、「だから日本人は偉い」・「日本人は特別の民族」とかの「優越意識や選民思想と結びつくと非常に問題があります」。日本・日本人を誇るときに「『天皇』を引き合いに出して自尊心を満たしたい」という心理はある。p.144。
 三種の神器の存在、前天皇又は上皇の承認の二つを欠いたまま即位した、「かなりグレーというか、いい加減な対応」による、後光厳天皇もいた。p.147-9。
 武家政治は鎌倉時代から江戸時代で「700年」続いたが、「軍事力をほぼ独占した武士たちによる政府ができたからこそ、天皇家は続いた」といえるかもしれない。「天皇が軍事も政治も意欲的に」行えば、とって代わろうとする勢力によって滅ぼされた「かもしれない」。古代の天皇のように自ら軍事行動をすれば、「どこかで戦いに敗れ、滅ぼされていた可能性は高い」。p.150-1。
 「怠惰な国民のもとに独裁者が生まれるし、怠惰な国民が独裁者をつくりだす」。「生臭いものから皇室は距離を保っておくべきだ」との意見が大勢であるようで国民はさほとどバカではない。「日本の場合、独裁者が生まれるとするなら、皇室もしくはその周辺からしか生まれないでしょうから」。p.156。〔この部分の言明は興味深い。「皇室の周辺」等についてさらに発展させて議論したいが、省略。〕
 生前退位による「政争の具」化、「政治的な混乱」の発生は「もはや難しい気がします」。皇室も含めて「絶えず可視化」されている情報化社会はそれを許さないだろう。p.159-160。
 「外部勢力が生前退位というシステムを使って」「手を突っ込んでくることはほぼ考えられません」。「あるとしたら、天皇家のなかでそういう動きがある場合でしょう」。p.162。〔この部分も興味を惹く。別に話題にしたい。〕
 「時の内閣の政治的駆け引きに利用される」という危惧が再三提起されるが、これは「天皇の人格の問題」、「どんな人が天皇になるのかという問題」だろう。p.162。 
 三 以上のすべてではないが、アホの4人組の見解・主張に対する反論や無知の指摘になっているところが多いだろう。
 <観念保守>の思考方法自体に最近は関心があるが、日本共産党による<明治維新以来ずっと日本は悪いことをしてきた-「帝国主義」化と「侵略」戦争>という歴史観を裏返しにした、しかも明治当初の元勲たちにはあった冷静な視点すら失った、戦前の一時期の<皇国史観>に立ち戻れ、というだけではないだろうか。
 本郷も指摘するし、産経新聞・「正論」欄で秦郁彦も述べていたように、明治期の旧皇室典範の内容こそがむしろ長い日本の歴史、天皇の歴史からすると<異例>だったのだ。
 誰も書いていないようだからあえて書いておくが、明治新政府の誕生時(1868年)、明治天皇は16歳で、明治憲法発布・旧皇室典範(勅令ですらない)制定時には38歳だった。かつまた、すでにのちの大正天皇は生まれていた(12年後にはのちの昭和天皇も生まれた)。そのような、40歳にもなっていない若い又は壮年の天皇がいた時期に、言うまでもなく、そのことや当時の後嗣を含む皇室の具体的状況も考慮して、あるいは具体的なそれを背景として、旧皇室典範により終身皇位制度が採用されたのだ-反対論もあったことが知られている-。この当時と大きく具体的な事情が異なる(むろん法的な位置づけも異なる)現在において、旧皇室典範の<精神>を持ち出すのは、狂気であるか、あるいはたんにアホであるとしか思えない。
 旧皇室典範以降で、わずか三代の代替わりしか行われていない(大正・昭和・今上)。これがなぜ、「日本の伝統と歴史」と言えるのか。昨年12月に触れたことだが、(<保守>派ならば神武天皇にまでさかのぼって ?)天皇の歴史に関する知識を持たなければならない。欽明まで遡らなくとも、平安直前の光仁、そして桓武あたり以降の歴史をすべて(概略でもよいが)知っておかないと、いかなる発言もマトモにはできないのではないか。
 本郷和人は、平川祐弘・月刊Hanada4月号(飛鳥新社)が嫌味を言っているような「法学」者ではなく、東京大学史学科出身の(中世が専門の)歴史学者だ。平川は、自らの視野の狭さ、思い込みとそれからくる「無知」、そして<観念論>ぶりを自ら嘆くべきだろう。
 また、平川は源氏物語という<文学>作品を読んでいない「法学」者を批判しているようだが、そんなものを持ち出さなくとも、いくらでも多数、より実際の<歴史>に近い書物・文献・史書はある(すべてが100%信用できるとは言わない)。
 櫻井よしこ、八木秀次らの具体的叙述も、かりにきちんと読めば、いくらでも、反駁あるいは無知の指摘をすることができる。
 こうしたアホたちがなぜ生まれて、出版界等で生きておれるのか。その理由、背景に最近は興味をもっている。アホたちを生息させている産経新聞等にもかつてよりはるかに批判的になっている。
 天皇・皇室制度それ自体について、種々書き残しておきたいことはあるが、今回はこれくらいにしよう。
 なお、本郷の長くはない叙述のすべてに同意しているのではない。例えば、明治新政権を世襲否定として肯定的な見方を示しているが、薩長中心の、藩閥的・門閥的な政府でもあっただろう(それは昭和期にも影響を与えた)。

1421/美しい日本03-神社仏閣の位置02。

 上州一宮・貫前(ぬきさき)神社を訪れたとき、最寄り駅から県道か市道へと登って横断したのち一挙に下って境内に入っていく、という高低差に驚いた。正確には、上がっていかずに下っていく、という神社の位置に驚いた。
 というのは、神社も寺院も、参拝口にある楼門または山門までもふつうはそうだろうし、とりわけ楼門・山門から本殿・本堂までは同じ平地上か、後者が前者よりも少しは高い場所に位置することが圧倒的に多いと思われるからだ。そのような例はいくらでも思い出せる。
 ひょっとすれば、貫前神社の楼門と本殿は同じ高さにあったのかもしれないが、楼門まではかなりの傾斜を下らなければならなかった。珍しいな、という感覚を持ったのは確かだ。
 そういう位置関係でこれまたほぼ正確なと感じるほどの記憶とともにに思い出すのは、寺院では、京都・泉涌寺(せんにゅうじ)だ。山門までタクシーで登り、または歩いて登りきって、山門をくぐり抜けると、何と石砂の参道が明らかに下っていて、本堂かそれらしきものの屋根が、両脇の叢林の間に、下方に見える。
 のちに、同寺の本堂および拝観対象の建物へは、山門まで登らなくとも、ほぼ同じ高さにある地点(今熊野観音寺への参道へと同じか近い)から歩いた方が近くて早いことに気づいた。だが、泉涌寺の最初の訪問では、立派な山門までとりあえず行ってしまうのも無理はないだろう。
 上の二つに比べると微細な変化だが、出雲大社の大鳥居から本殿方向へも、最初は少しずつ下っている。そのような<さがり参道>は、出雲大社の、いくつかの不思議の一つであるらしい。もっとも、そのような高低差を意識していないと、まったく気づかない程度のものだが。
出雲大社の場合、建造時の人々が意識的にそうしたのかは知らない。だが、これ以外の上の二つについては、意識的にそのように作られたとしか思えない。神社本殿は「南」面しており、寺の本堂は「西」面しているようだが、南または西の方向に高く隆起した土地があることは、建造時から明白だったはずだろう。そして、なぜそのような場所に立地させたのかは私には分からない。
 なお、泉涌寺は観光寺院ではないこともあり、何やら清々しく感じられる。かつまたこの寺は御寺(みてら)とも呼ばれ、天皇・皇室ときわめて関係が深い。周囲にはいくつかの天皇の御陵があり、これらは今は国有地・宮内庁管理だが、かつてこの寺が何代かの天皇の菩提寺であったことが(文献で確かめる必要なく)明らかだ。
奈良時代の天皇を除く今日までの全天皇の位牌に対して、毎朝、法要・供養が続けられていると聞いて、気の遠くなるような思いをしたことがある。
 なぜ奈良時代の(正確にはたしか天武以下の)諸天皇だけは、除外されているのか。歴史好き、逆説好きの人ならば想像できるだろうが、テーマから逸れるので、省く。

1420/<観念保守>という日本の害悪-例えば天皇譲位問題。

 仲正昌樹が、精神論保守と制度論保守を区別して、後者ならば支持できる、又は属してもよいような気がしてきた、と何かで書いていた(この欄で触れたかは失念)。
 経緯はばっさりと省略するが、この対比を参考にしつつも、<観念保守>と<理性(合理)保守>の区別という語法の方が適切だと思ってきている。
 天皇譲位問題についての主張を、新聞報道または週刊誌を含む雑誌の記事による紹介、さらにはそれらを読んだ記憶に頼ってのみ以下書くのだが、日本の<観念保守>のまさしく観念論ぶり、いい加減さ、そして欠陥は、渡部昇一、平川祐弘、八木秀次、櫻井よしこらの同問題についての(識者懇談会のヒアリング時での)主張ぶりに現れていそうだ。
 平川祐弘が本当に「保守」派なのかは、もともと怪しく思っていて、数十年前にいた竹山道雄・安倍能成らの(反共・自由主義の)「オールド・リベラリスト」程度ではないかと思っている。だから、ここでの本来の対象にはしたくない。
 安倍70年談話支持の平川の論考はひどいものだったし、その後目にする平川の雑誌論考も、半分ほども他人の文章の引用だったりして、相当に見苦しい。
 そのような平川に執筆を依頼する保守系雑誌の(編集部の)レベルの低さ、あるいは「保守的」な文章作成者の枯渇ぶりを感じざるをえない。
 子細は省略したが、櫻井よしこは<保守派の八方美人>だとこの欄で記したことがある。この人はこちこちの<観念保守>ではなく、天皇譲位問題についても<拙速はいけない。よく考えるべき>とだけ当初は書いていたが、上記ヒアリング時点では、譲位制度化反対へと考えを決したようだ。<保守>系論壇人の状況について<日和見>していたのかもしれない。
 この項はすべて記憶に頼る。月刊正論(産経)の編集長・菅原某は当該雑誌の秋頃の末尾に、譲位制度創設反対か<議論を尽くせ>のいずれかが<保守>派の採るべき立場であるかのごとき文章を載せていて、これが産経新聞の主流派の見解だろうかと想像したことがある。
 百地章は当初は<摂政制度利用>論=譲位制度創設反対論だったように見えたが、ヒアリング時点では、皇室典範(法律。なお、憲法2条参照)を介しての特別法(法律)による(おそらく一代限りの)譲位容認論に変わったようだ。
 譲位制度導入反対論-これはほとんど摂政制度利用論といえる-に反対する立場に百地章が転じた背景は興味深い。その背景・理由はよくは分からないが、譲位制度導入反対論がいう摂政制度利用論は現憲法と現皇室典範を前提にするかぎりは採用できない(法的に不可能)と秋月は考えているので、上の基本的立場については、私も百地と同様だ。
 さて、いくつか考えることがある。
 第一は、渡部昇一や平川祐弘が前提的に主張したらしい、天皇とは「祈る」のが本来の仕事という理解の仕方は、典型的に「観念保守」に陥っていることを示している。
 つまり、「天皇」についてのそれぞれが造成している「観念」を優先させている。さらに正確にいえば、現実の(現日本国憲法下での)天皇が「祈る」ことまたは「祭祀」を行うだけの存在ではないことは、現憲法が定める「国事行為」の列挙だけを見ても瞭然としている。にもかかわらず、この人たちは、現憲法の天皇関係条項を全く知らずして、又は知っていても無視して、自らの主張を組み立てている。
 同問題懇談会のメンバーは、代表的にのみ言えば、この二人が開陳した意見を、すべてまったく無視してかまわない。
 ついでに言うと、西尾幹二は「観念保守」ではないと思うし、小林よしのりが少なくとも少し前までの月刊サピオ(小学館)で揶揄し批判していたこの問題の一連の主張者(渡部昇一、八木秀次ら)の中に含まれていない。
 だが、西尾幹二ですら天皇(または皇室)は京都に戻るべきと何かに書いていた(二度ほどは読んだ)。だが、首相任命・閣僚任命や衆議院解散等にかかる現憲法上の天皇の重要な権能を考えると、京都市在住では実際上国政に支障をきたすおそれが高い。余計なことを書いてはいるが、憲法を改正して現在の天皇の「国事行為」をほとんど除外しないと、京都遷御ということにはならないだろうと思われる。
 第二に、「観念保守」論者が「保守」したい天皇制度とはいったい奈辺にあるのだろうか。
 櫻井よしこは、明治の賢人たちが皇室典範制定に際して生前退位を想定しなかった、その「賢人」の意向を尊重すべきとか、今はよくても100年後にどうなるかわからない(制度変更の責任を持てるのか、という脅かし ?)とか主張しているらしい。
 櫻井よしこは、明治憲法下の天皇制度が最良だと考えているのだろうか、そしてそうであればその根拠は何なのだろうか。
 これは一般的に、<保守>派のいう保守すべき日本の「歴史・伝統」とは何か、という基本問題にかかわる。
 ついでに書けば、大日本帝国憲法にいったん戻れという議論は法的にも事実上も不可能なことを可能であると「観念」上は見なしているもので、議論を混乱させる、きわめて有害なものだ(産経新聞社・月刊正論は、この議論に一部は同調的であるらしい-その理由はバカバカしくも渡部昇一の存在 ?)
 秋月瑛二は、明治期の日本が維持されるべき(復元されるべき)日本であるとはまったく考えない。八木秀次もそのようだが、明治期の議論を持ち出して、譲位容認にはあれこれの弊害・危険性があるというのは、明治の賢人 ?たちを美化しすぎている。
 伊藤博文らには、何らかの「政治的」意図もあった、と考えるのが、合理的かつ常識的なのではないか、と思われる。
 今はよくても100年後にどうなるかわからない、という櫻井よしこの主張(らしいもの)についていうと、旧皇室典範以降100年以上経って、限界が明らかになっているとも言える。つまり、100年後にどうなるかわからない、という時期が皇室典範の歴史上、今日になっている、とも言える。また、譲位制度を作っても、問題があれば、100年後にまた改正すればよいだけの話だ。<今はよくても100年後にどうなるかわからない。改正してよいのか>という議論の立て方は、全く成り立たないものだ。
 したがって、櫻井よしこの脅かし ?-これはいわゆる「要件」設定の困難さを想起させてしまう可能性があるが-に専門家懇談会のメンバーは、そして政府も国会も、屈する必要は全くない。
 問題は要するに、現皇室典範が明記する摂政設置の要件充足にまではいたらないが(したがって「摂政」設置で対応することはできないが)、高齢化により国事行為やその他の公的行為(祭祀の問題はかりにさておくとしても)を適切にはかつ完璧には行えなくなったと見受けられる(文章の1、2行の読み飛ばし、儀式日程の一部の失念などは、高齢の天皇には生じうることだろうと拝察される)場合、かつ譲位の意向を内心にでも持たれた場合に、日本国家と国民は、どう対応すればよいかにある。
 詳細は知らないが、天皇の高齢化問題ととらえているようである、所功の主張は、立論において秋月に似ているかもしれない。
 天皇についての特定の(適切だとは論証されていない)「観念」を前提にした議論をするのではなく、最小限度、現憲法の規定の仕方を考慮した「制度」論を行うべきであるのは、「天皇」もまた制度である以上、当然なのではないか。
 また、明治日本はあくまでの日本の歴史の一時期にすぎない。明治期を理想・模範として描いているとすれば、「観念」主義の悪弊に陥っている。
 現憲法を視野に入れるのは論者として当然の責務だが、それを度外視しても、長い日本の歴史と「天皇」の歴史を視野に入れる必要がある(書く余裕はないが、天皇・皇室をめぐって種々の歴史があった。今から考えて、有能な天皇も無能らしき天皇もいた。暗殺された天皇もいた-崇峻天皇。孝明天皇は ?-。祭祀が、あるいは式年遷宮がきちんと行えない時代もあった。「祭祀」が皇太子妃とまったく無関係に行われていた時期がたくさんあった。そうした問題をすべて解決したのが実質的には今に続く明治期の皇室典範だったとは全く思われない。なお、戦後、現憲法のもとで法律化)。 ゛
 以下、追記する。渡部昇一は、今上天皇に「助言」して思いとどまらせるべきだとか述べたらしい。この人物らしい傲慢さだ。
 平川祐弘は、現天皇(又は昭和天皇も含めて戦後の天皇)が勝手に「象徴天皇」の行動範囲を拡大しておいて辛さを嘆くのはおかしい旨述べたらしい。
 「象徴天皇」の範囲を-とくにいわゆる「公的行為」について-国民やメディアが広げた可能性はある。しかし、「祈る」行為だけにその任務・権能を限らず、「内閣の助言と承認」のもとにではあれ重要な国政・政治上の権能を多く付与したのは、現憲法だ。平川の議論は、現憲法批判もしていないと一貫していないだろう。
 思い出したが、自民党改憲案その他の<保守的> 改憲案は天皇を「元首」と定めることとしている。この「元首」化論と、天皇は「祭祀」が主な仕事だという議論は、ともに成り立つものとは思われない。
 ともあれ、渡部昇一も平川祐弘も、じっと現憲法の天皇条項を読んで確認してから、自らの考えを述べたまえ。勝手な「観念」の先立つ議論は有害だ。
 櫻井よしこについてはなおも、書きたいことがある。八木秀次には、もはやあまり興味がない。
 「真の」保守派の天皇・皇室論があるわけでは全くない、と思われる。月刊正論の編集部・菅原某あたりは、勘違いしない方がよい。
 ヒアリング対象者の発言はそのまま詳細に官邸ホームページ上で読めるらしいので、別途に論じるかもしれない。
 以上は、手元に何も置かず、記憶にのみ頼って書いた。したがって、前提認識に誤りがある可能性はある。

1383/日本の保守-悲惨な渡部昇一・加地伸行。

 天皇譲位問題についての、月刊WiLL9月号(ワック)の渡部昇一、加地伸行、百地章、月刊正論9月号(産経)の渡部昇一、八木秀次、竹田恒泰、月刊Hanada9月号(飛鳥新社)の高森明勅、に触れる。
 あまりにヒドいのは、渡部昇一、加地伸行だ。この二人は、「摂政」の制度の利用で(現実的には)足りるとするが、その際、現行の皇室典範(法律の一つ)が定める「摂政」に関する規定の内容を全く無視している。
 渡部昇一は「天皇がご病気のとき」という要件を勝手にでっちあげており(妄想しており、月刊正論p.56)、加地伸行は「摂政」制度の利用は当然に可能だという前提(思い込み)に立っている(月刊WiLLp.44以下)。
 こうした、議論の作法自体をわきまえない「論考」が保守系とされる月刊雑誌の冒頭近くに置かれ、表紙等でも重要視されていることは、現在の日本の「保守」論壇の悲惨さを曝け出している。
 「保守」言論人のすべてが渡部や加地のごとくではないだろうが、上のような雑誌の編集部が原稿を依頼した十人に満たない中に、皇室典範の規定を一瞥することすらしないで天皇・皇室問題を「論じる」者がいるのだから、「保守」論壇の劣化・悲惨さは明らかだ。
 高森明勅が引用しかつ論及しているが(月刊Hanada、p.293)、天皇が未成年のとき以外に「摂政を置く」と皇室典範が定めている条文は、つぎのとおりだ。第16条二項。
 「天皇が、精神若しくは身体の重患又は重大な事故により、国事に関する行為をみずからすることができないときは、皇室会議の議により、摂政を置く。」
天皇陛下の談話以前に書いた原稿だと弁明するかもしれないが、陛下ご自身が問題は「摂政」制度利用では解決されえないことを明言された。
 また、高森明勅は上の条文の解釈に踏み込みつつ(これは当然の作業だ)、「陛下がお考え」の譲位と摂政設置は「似ても似つかない」と結論している。
 詳論しないが、私もまた、上の条文が定める要件は充たされていないだろう、と考える。
 渡部や加地は、天皇・皇室に関する自らのイメージと理解でもって「摂政」・譲位問題を議論している。愚昧きわまりない。
 渡部や加地は、結果としては、現在の天皇陛下が「精神若しくは身体の重患又は重大な事故により、国事に関する行為をみずからすることができない」状態にある、と主張していると理解される可能性すらある(誤解だが)。
 百地章と八木秀次はさすがに皇室典範の上の条項を意識しているが、二人ともに<柔軟な解釈>をして適用することを主張または示唆していることが興味深い。
 しかし、このような論法は皇室典範の<解釈による実質的改正>の可能性を説くもので、支持し難い。<柔軟な>解釈なるものは、法的安定性を損なうことにもなる。
 また、百地や八木の解釈がほぼ一致して採用されるとは限らず、正面からこれを説けば、世論はもちろん、「皇室会議」での議論も紛糾するだろう。
 竹田恒泰が言うように(月刊正論p.75)、皇室典範の改正か「特別措置法」制定しかないだろう。立ち入らないが、竹田が後者を主張している根拠は必ずしも十分ではない。特別措置法も(現天皇についてのみ適用する、と竹田はイメージしているのだろうか ?)、いったん成立すれば「制度」(しかも皇室典範の特別法として優先する)になってしまうことに変わりはない。
 問題は、天皇・皇族の高齢化を避けることはできず(喜ばしいことかもしれないが)、いわゆる「高齢化」社会を想定していない法律(皇室典範)が60年以上も改正されることなく存在し続けていることにあるだろう。
 加地伸行が「暴力革命を支持する勢力」による譲位・退位の強制がありうるとして、「退位規程」を作るのに反対しているのは、一見もっとものように見えて、現行の制度・皇室典範についての知識のなさを再び示している。
 加地伸行によると、「議会で過半数を占める特定勢力が、議会の議決によって退位を可能」とする危険もあるのだ、という。
 皇室典範を法律ではなく天皇(・皇室 ?)が定める「家法」にせよとの主張ならばまだ分かる。しかし、憲法自体を改正しないとこれも困難だ。
 憲法第2条「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範 の定めるところにより、これを継承する」。
 加地は、この条項も知らないで適当な文章を書いて、小遣い銭を貰っているのだろう。
 むろん、個別案件の適否は、国会が決めるのではなく、現行の制度を前提にすれば「皇室会議」が議決することになろう。
  「暴力革命を支持する勢力」が「議員」の過半数を占める事態は抽象的には想定できるが、そのような事態にな っているのであれば、現憲法の天皇条項自体が廃止・削除されているのではないか。
 ところで、現皇室典範第28条はつぎのように定める。
 「1 皇室会議は、議員十人でこれを組織する。
  2 議員は、皇族二人、衆議院及び参議院の議長及び副議長、内閣総理大臣、宮内庁の長並びに最高裁判所の長たる裁判官及びその他の裁判官一人を以て、これに充てる。
  3 議員となる皇族及び最高裁判所の長たる裁判官以外の裁判官は、各々成年に達した皇族又は最高裁判所の長たる裁判官以外の裁判官の互選による。」
 マスコミによる外からの「煽動」も考えられるが、基本的には、これらの「議員」となる人物が信頼できないとなれば、日本は、国家と諸制度自体が「脆うい」状況にある、ということになろう。
 加地伸行は、上の規定もおそらく知らないままで原稿を書いているのだろう(摂政を置くことも個別には皇室会議の議決が必要)。
 渡部昇一もそうだが、どうして、このような人物が「保守」系雑誌に、よりにもよって天皇・皇室問題について、登場してくるのか。
 嘆かわしい、悲惨な状態だ。
 ついでに。天皇陛下の「ご負担」軽減というとき、①憲法上明記された国事行為、②その他の「公的」行為、③祭祀を含む「私的」行為、を区別して論じてもらいたい。百地、八木、竹田の論考も丁寧にこの問題に言及してはいない。
 法律、政令の改廃に対する御璽押印と署名だけでも(慣行上または法制上、公布=官報掲載のために必要だ。公布自体は憲法上の国事行為だ)、おそらく一年に数千件にのぼるだろう。

1307/日本共産党は「将来、情勢が熟したとき」<天皇制>を廃止する。

 産経新聞5/18で日本共産党・小池晃(政策委員長)は、現行憲法の「全条項を守る」と明言している。
 しかし、これは日本共産党独特の言い方、あるいは<ペテン>であって、<今のところは>または<当面は>という副詞が隠されている、と理解しなければならない。
 軍・戦力の保持を一般に禁止している九条2項についてもそうなのだが、とりわけ一条以下の「天皇」の存在を前提とする諸規定も含めた「全条項を守る」つもりであるとは思えない。
 小池によれば、1946年6月に同党が発表した日本人民共和国憲法草案は「歴史的文書」で、現在における憲法改正案として掲げているのではないらしい。
 だが、そうであるとしても、戦前に<天皇制打倒>を掲げた政党が戦後にその目標を降ろしたとは考え難い。また、日本共産党系の、鈴木安蔵を初代の代表理事とした「憲法改悪阻止各界連絡会議」(「憲法会議」)が、<護憲>ではなく<憲法改悪阻止>と謳っているのも、日本共産党にとっての(改悪ではない)<改正>は追求する趣旨を込めていると解することができるし、実際、そうであるはずだ。
 日本共産党は1961年綱領を2004年に改定した。同綱領は、日本の戦後の変化を、①「アメリカの事実上の従属国」になったこと、②政治制度が「天皇絶対の専制政治から、主権在民を原則とする民主政治」になったこと、③「戦前、天皇制の専制政治とともに、日本社会の半封建的な性格の根深い根源となっていた半封建的な地主制度が、農地改革によって、基本的に解体されたこと」の三点にまとめ、②についてはさらにこう書いている。
 ②の変化の代表は日本国憲法で、「民主政治の柱となる一連の民主的平和的な条項を定めた。形を変えて天皇制の存続を認めた天皇条項は、民主主義の徹底に逆行する弱点を残したものだったが、そこでも、天皇は『国政に関する権能を有しない』ことなどの制限条項が明記された」。
 また、今後について、次のように書いている。これ以外に綱領上の言及はないようだ。
 「天皇条項については、『国政に関する権能を有しない』などの制限規定の厳格な実施を重視し、天皇の政治利用をはじめ、憲法の条項と精神からの逸脱を是正する。/党は、一人の個人が世襲で『国民統合』の象徴となるという現制度は、民主主義および人間の平等の原則と両立するものではなく、国民主権の原則の首尾一貫した展開のため民主共和制の政治体制の実現をはかるべきだとの立場に立つ。天皇の制度は憲法上の制度であり、その存廃は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべきものである」。
 ここでは、<将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって><天皇制度の存廃>が解決される、と言っている。
 これについて、2004年党大会では「国民の総意に転嫁するのは無責任」等の意見があったようで、不破哲三(中央委議長)は次のように「報告」している。以下、不破哲三・報告集/日本共産党綱領p.33-(同党中央委出版局、2004)による。
 党の立場は「明確」だ。「党は、一人の個人あるいは一つの家族が『国民統合』の象徴となるという現制度は、民主主義および人間の平等の原則と両立するものではなく」と、その「評価を明確にして」おり、今後についても、「国民主権の原則の首尾一貫した展開のためには、民主共和制の政治体制の実現をはかるべきだ」という方針を明示している。だが、天皇制について「国民の現在の多数意見はその存在を肯定する方向にあ」り、「その状態が変わって、国民多数が廃止あるいは解消の立場で合意しない限り、この問題での改革は実現でき」ない。「天皇制の問題」については「なんらかの改変」自体が、「憲法の改定を必要とする」。「一方、戦前のような、天皇制問題の解決を抜きにしては、平和の問題も、民主主義の問題もないという、絶対主義的天皇制の時代とは、問題の位置づけが根本から違っていることも、重視すべき」だ。
 「いま、憲法をめぐる中心課題は、第九条の改悪を主目標に憲法を変えようとする改憲のくわだてに反対し、現憲法を擁護することにあ」る。「わが党は、当面、部分的にもせよ、憲法の改定を提起する方針をもちません」。だから、「天皇制の廃止の問題が将来、どのような時期に提起されるかということもふくめて、その解決について」は、「将来、情勢が熟したとき」の問題だ、と「規定するにとどめている」のだ。
 このように、綱領上の文章ではやや曖昧ではあるが、天皇制度廃止を明記しないのは天皇制度を現在の国民の多数は肯定している、したがって廃止論が多数にならないかぎり改憲による天皇制度の廃止はできないからだ、現在の「憲法をめぐる中心課題」は「現憲法を擁護」することだが、平和・民主主義にとって「天皇制問題の解決」は不可欠なので、その解決は「将来、情勢が熟したとき」の問題だ、という趣旨を述べている。
 要するに、当面は「現憲法を擁護」するが、国民多数の意見の動向によって「将来、情勢が熟したとき」に、憲法改正によって「天皇制の廃止」を図る、と主張していると理解して差し支えない。
 このような理解に、小池晃も反対はできないだろう。不破哲三が述べた内容の合理的な理解のはずだからだ。
 したがって、当面は「守る」が、将来は「廃止」する、というのは、やや複雑な言い方をしているが、日本共産党の既定の方針だ、ということになる。日本共産党は、このような、<戦術的>な政策表明をするので、注意しなければならない。
 <未来社会-社会主義・共産主義社会>を目指す手段・過程としての(「自由」と「民主主義」の擁護・徹底を通じての)<民主主義革命>なのであって、この政党にとっては「自由」と「民主主義」も、第二段階の「革命」のための手段あるいは<便法>であることは言うまでもない。

1257/田中英道の新著と佐伯啓思の「天皇制」論。

 田中英道・戦後日本を狂わせた左翼思想の正体(展転社、2014.10)の中に、2013年に皇太子退位・皇位継承を論じた山折哲雄と山折論考は「たいへんに大事な問題を提出しようとしている」と受けとめた佐伯啓思論考(新潮45、1913年4月号)への簡単な論及がある(p.209-210)。
 田中は、山折や佐伯の議論は<「近代」主義者の見解>、あるいは<社会主義者ではなく「近代」主義の立場に立った近代リベラル立場のものだ>とほぼ断定している。田中によると、ここで「近代リベラル」とは「権力や権威から自由な立場に立とうとする、相対的な態度」のことらしい。

 八木秀次が憲法学者・佐藤幸治を「近代主義」者と称していた又は評していた記憶はあるが、私自身はこの「近代主義」なるものの意味はよく分からない。<近代リベラル>も同様だ。大まかには、社会主義者・マルクス主義者(明確なシンパを含む)ではないが、<明確な?>「保守主義」者でもない、という意味なのだろうか。
 上の点はともかく、佐伯啓思については、「日本」や「愛国」を論じながら、「天皇」や「神道」あるいは日本化された仏教への言及がはなはだ少ない、という感想をもち、その旨この欄で記したこともある(但し、正確な内容は思い出せない)。戦前の浪漫主義・西田幾多郎哲学等よりも、日本に固有の天皇や神道(・日本化された仏教)に、その歴史も含めて立ち入らないことには「日本」も「愛国」も語り得ないのではないか、という考えは今でも変わりはない。
 あらためて佐伯啓思の新潮45昨年4月号の論考を瞥見してみると、田中英道が問題視しているごとくであるように、<国民の意思によって天皇制を廃止することも可能だ>旨の指摘・叙述が複数回あって、強調されている。また、「天皇制」という概念用法はともかく、天皇位が「世襲」のものであることは、いわば<世襲の象徴天皇制>は憲法で定められており、国民の意思により変更可能であっても憲法改正によらざるをえないこと、その他の皇位継承のあり方を含む諸論点は国民代表議会による法律で改廃が可能であることが明瞭には区別されず、ともに「国民の意思」による改廃可能性が語られていることも気になる。
 もっとも、憲法1条は皇位が「主権の存する日本国民の総意に基づく」と明記しているので、現憲法を無視しないかぎりは(無効とみない限りは)、佐伯啓思の理解が誤っているわけではない。憲法学者もおそらくすべてがそう解釈しているだろうし、かつ親コミュニズムの学者たちは(日本共産党のように現時点において明確に主張しないものの)将来における天皇制度廃止(憲法14条違反??)を展望しているだろうし、立花隆もまた憲法改正による「天皇制」廃止の可能性を憲法1条を根拠として強調していた。

 佐伯啓思は日本の「天皇制」という政治制度は「おそらく世界に例をみない」と述べつつ、だからといって素晴らしいとも廃止すべきだと言うのではなく、この独自性をわれわれは知っておく必要がある」とのみ述べる(前掲p.332)。この辺りも、佐伯自身の中には「天皇制」尊重主義?はなく、距離を置いた、<相対>主義?だとの印象を与える原因があるかもしれない。
 もっとも、田中英道のように簡単に切って捨ててしまうのも問題があるだろう。佐伯啓思は、日本の天皇制度の特質の三つ、第一に、世襲制、第二、政治権力からの距離(祭祀執行者)、第三、「聖性」のうち、戦後は第三の、「聖性」を公式には喪失している、とする。佐伯による日本の天皇制度の歴史の理解は戦後の歴史教科書による、ひょっとすれば、陳腐で<左翼>的に誤っている可能性がなくはないとも感じるのだが、専門的知識の乏しい私はさておくとして、上の指摘はほぼ妥当なものではないだろうか。<祭祀執行>(むろん神道による)についても戦後憲法のもとでは天皇(又は天皇家)の「私的」行為としてしか位置づけられていないという問題点があることも、そのままではないが佐伯は触れている。
 そして、結論的には佐伯は、国民が<祭祀王としての天皇をフィクションとして承認する>か否かに天皇制度の将来はかかっている旨述べる。「王」という語の使い方は別として、この主張も、私には違和感がない。
 上のことを国民が承認するとすれば、現在の憲法上の天皇条項の内容や政教分離に関する条項の改正、すなわち、佐伯は明言していないが、憲法改正が必要になる。そして、そのようにすべきだと-神道祭祀を公的に位置づけ、政教分離原則の明瞭な例外(またはこの原則がそもそも妥当しないこと)を認めるべきだと-私は考える。
 元に戻れば、少しすでに触れたように、田中英道のように簡単に切って捨ててしまうのはいかがなものか、という気がする。すべてではないにせよ、<保守派>の議論には憲法・法律・行政制度等々についての知識・素養を欠く、もっぱら原理的・精神的な(あるいは文学論的な?)が議論もある(それらだけでは現実的には役に立たない)と感じることもあるところであり、田中英道の本が-まだ一部しか読んでいない-そのような欠点をもつものでないことを願っている。

1219/遷宮と天皇と政教分離と。

 10月初旬の「遷宮」について、テレビは当初の予想よりは丁寧に報道していた。しかし、神宮(伊勢神宮)と天皇(家)との関係に触れたのは全くかほとんどなかったようだ。臨時祭主の黒田清子さんとの語りかテロップが入っても不思議ではないシーンにも、そのようなものはなく、映像だけが彼女を映し出していた。

 また、内宮の遷御の儀に内閣総理大臣・安倍晋三が「出席」したことを知り、そのような事前の知識がなかったので驚いた。かつまた神道という特定の宗教の祭事への出席であるので、憲法上の<政教分離>原則との関係を問題にする者がいても不思議ではないのに、そのような論調はまったく出てこなかったようであることも印象に残った。

 さて、古くなるが、2008年の春頃にこの欄で何度か、伊勢神宮・天皇(家)・政教分離について言及している。

 ・日本の起源・天皇と「神道」(3/25)   ・伊勢神宮「式年遷宮」と天皇(家)(3/27) 

 ・天皇制度と「宗教」-伊勢神宮式年遷宮費用問題から発展させて(4/04)

 ・天皇(家)と神道・神社の関係、そして政教分離(4/15)

 ・天皇(家)と神道・神社の関係、そして政教分離-つづき(4/16)

 ・天皇(家)と神道・神社の関係、そして政教分離-つづき2(4/18)

 ・1945-1947年の神社と昭和天皇(4/19)

 ・天皇(家)と神道・神社の関係、そして政教分離-つづき3(4/20)

 ・天皇(家)と神道・神社の関係、そして政教分離-つづき4(4/21)

 ・日本共産党系の藤谷俊雄=直木孝次郎・伊勢神宮(新日本新書)-1(4/24)

 ・日本共産党系の藤谷俊雄=直木孝次郎・伊勢神宮(新日本新書)-2(4/24) 

 ・天皇・神道・政教分離-つづき4(4/26)

 ほかに、この時期には、つぎのようなものも書いていた。
 ・戦後日本を支える「大ウソ」-非武装・政教分離(4/05)

 ・長部日出雄の「神道」論(諸君!5月号)と石原慎太郎「伊勢の永遠性」(4/28)

 神道関係者、とくに伊勢神宮や神社本庁関係者には自明のことを多く書いているとは思うが、5年以上前によく勉強(?)したものだという個人的な感慨も湧くので、関係者や専門家以外の方々には参照していただきたい。なお、別の時期にも同様のテーマを集中的に書いたかもしれないが、たまたまこの辺りの時期の古い書き込みを見る機会があったので、2008年3月下旬~同4月の書き込みに限っている。

1209/五輪東京誘致とテレビ朝日、式年遷宮における「御治定」・「御聴許」。

 〇前回に触れた、五輪誘致東京「敗退」との誤報を放ったのは、当日のライブだったテレビ朝日池上彰の司会の番組もそうだったようだ。

 池上彰に非難が当たっているようでもあるが、池上個人の問題というより、当該番組制作者、つまりテレビ朝日の制作責任者に原因があるように思われる。氏名は明らかではない当該人物は自分の判断で、または朝日新聞社のツイッターを見て、すぐさま、その旨を書いた紙(カンペというのか?)を池上に見せたのではあるまいか。その誘導に乗って池上の発言になったのではなかろうか。
 池上彰を擁護する気持ちはなく、中途半端な人物だと思っているが、池上よりもテレビ朝日のミスならば十分に考えられる。なぜなら、テレビ「朝日」だからだ。上記の「朝日」関係の人物も、東京誘致が失敗すると面白い、と考えていたのではないか。

 ついでながら、NHKのテレビ放送を見ていて、決定後の座談会において、安倍首相の発言への言及がまったくかほとんどか、なかったのは印象的だった。安倍首相のプレゼン発言で決定的になった旨の外国の報道もあったようだが、わがNHKはそんな旨での報道をしなかった。逆に、安倍首相発言は「正確」なのか、という朝日新聞や毎日新聞等(系列テレビを含む)がのちに問題にしている論点にもまったくかほとんど触れていなかったのだが。

 〇9/11のエントリーで式年遷宮に言及した。その中で、つぎのように書いた。

 「遷宮の細かな準備日程は今上天皇の『許可』(正式用語ではない)にもとづいているように、伊伊勢神宮の式年遷宮とは実質的または本質的には天皇家の行事に他ならない。」

 前段の「許可」という用語および後半の意味について付け加える。
 最もあたらしい伊勢神宮のHPは、次のように知らせる。
 「天皇陛下には第62回神宮式年遷宮の遷御を執り行う日時を以下の通り御治定(ごじじょう・お定め)になられましたのでお知らせいたします。/遷御の儀は大御神様に新しい御殿へお遷り願う式年遷宮の中核となる祭典です。
  【 遷 御 】

 皇大神宮    10月2日(水)  午後8時

 豊受大神宮   10月5日(土)  午後8時」

 ここでは「御治定」という言葉が使われている。最終的な「遷御」の日時は今上天皇陛下が定めるのだ。

 また、同HPの2005年1月1日更新は次のように伝えていた。
 「神宮の最大の祭りである式年遷宮の本格的な準備が、平成16年4月5日、天皇陛下の「御聴許」(お聞き届けいただくこと)をいただき、進められています。/神宮における祭祀の主宰者は天皇陛下です。式年遷宮をおこなうにあたっても、その思し召しを体し、神宮大宮司の責任で遷宮の御準備が進められます。平成16年4月5日、陛下から正式にお許しを戴き、その後設置された各界の代表で構成する大宮司の諮問機関「遷宮準備委員会」の答申に基づいて本格的な御準備が進められています。一方、遷宮諸祭については今春(平成17年春)の山口祭(やまぐちさい)・木本祭(このもとさい)にはじまり、9年間に約30回にも及ぶ諸祭行事が行われ、主要な12のお祭りの日時は、天皇陛下のお定め(御治定・ごじじょう)を仰ぐことになっています。」

 遷宮の本格的準備が、ほぼ10年前の2004年4月の今上天皇の「御聴許」にもとづいて進められていた。この「聴許」という用語を先日は思い出せなかった。但し、「主要な12のお祭りの日時」は、「御聴許」ではなく、「御治定」によるようだ。厳密な違いは私は知らないが、対象からして、おおよその違いは分かる。
 より重要に思えたのは、神宮(伊勢神宮)自体が、「神宮における祭祀の主宰者は天皇陛下です」と明言・公言していることだ。
 これからすると、先日のように「実質的または本質的には」と限定を付す必要はなかったようだ。遷宮とは天皇陛下が「主宰」者として行われる神事なのだ。但し、後日に天皇・皇后両陛下が参拝されるが、当日は東京・皇居から定められた時刻に「御遙拝」される。直系で皇位継承第一位の皇太子殿下もそのはずだ。

 一方、その他の皇族の一部の方々は、当日に伊勢の現地で式典に参加されるか、見守る、ということをされるのではないか。曖昧なことは書けないので、より正確な情報ソースを参照していただきたい。
 ところで、天皇陛下のこのような伊勢神宮への強い関与は、<私事>・<私的行為>だからとして許容されていることになっている。このような説明は、先日に書いたように、奇妙だ。

 天皇陛下は憲法で明記された国家の一つの重要な「機関」のいわば担当者に他ならないが、そのような天皇陛下の伊勢神宮への強い関与を、誰も、朝日新聞も、「政教分離」違反とは言わない。「左翼」をけしかけているわけではない。じつに奇妙で不思議なことだと、常々感じているだけだ。 

1175/佐伯啓思の不誠実と維新の会・天皇。

 〇この欄の4/09で佐伯啓思の昨秋の文章についての私の昨年の12/31を引きつつ佐伯啓思の言論人・知識人としての「責任」を問うたが、12/31の私の文章を読み返していると、こうも佐伯に問うていたことを思い出した。
 「佐伯啓思にまじめに質問したいものだ。佐伯は11/22に『橋下徹氏の唖然とするばかりの露骨なマキャベリアンぶり』という言辞も使っていたのだが、日本維新の会、あるいは自民党の原発、増税、憲法等々についての諸政策は『大衆迎合主義』に陥っていたのかどうか。」
 佐伯啓思がこの秋月の欄を読んでいなくて何ら不思議ではないが、上に言及したようなことを佐伯啓思は産経新聞昨年11/22紙上で公言していたのであり、昨年12月総選挙結果もふまえて、自らの見解が適切だったかに論及することはやはり言論人・知識人としての「責任」なのではないか。佐伯啓思にはそのような感覚・姿勢があるのかどうか。
 〇佐伯啓思は新潮45(新潮社)2013年1月号の連載で「『維新の会』の志向は天皇制否定である」と題する文章を書いている(但し全9頁のうち4頁だけがこのタイトルに添う)。
 このタイトルと内容を一瞥して感じたことの第一は、では佐伯啓思は「天皇制肯定」論者なのか、だ。
 上のようなタイトルからすると、そうであることを前提としているようであるし、またそのように理解しても不思議ではない。しかし、じつは佐伯啓思は、自らの「天皇制度」または「天皇」に対する考え方・立ち位置をほとんど明らかにしてきていない。
 昨年12/05と12/09のこの欄で佐伯啓思の「天皇」観を示している文章に言及したが、そこで紹介したとおり、佐伯啓思は、「天皇という問題となれば、ある意味では、私自身もきわめて『戦後的なもの』の枠組みに捕らえられている」、「私には天皇や皇室への『人物的な関心』がなく、まして、天皇・皇室への『深い敬愛に基づいた情緒的な関心を示すなどということが全くない…」、「天皇陛下や皇室の方々の人柄だとか、その人格の高潔さだとか、といったことにはほとんど興味がない」、日本国憲法第一条の「象徴」という部分も、「象徴」の意味は問題になるにせよ、「しごく当然のことであろう、と思う」、などと書いていた。
 このような佐伯啓思が、<維新の会は天皇制否定>などと銘打つ文章を簡単にかつ堂々と書けるのかどうか。
 まずは自らは「天皇制肯定」論者であることを、その意味も含めて詳細かつ明確にしたうえで、<維新の会は天皇制否定>論は書かれるべきだろう。
 感想の第二は、<維新の会は天皇制否定>という結論的認識が妥当かどうかだ。簡単に書けば、石原慎太郎がそうだという論拠は石原と三島由紀夫の1969年の対談の一部と三島の石原に対する評価(のそのままの追随)だけであり、橋下徹については「橋下氏が天皇制についてどのように考えているのかはわかりません。しかし、彼らが共和主義的であることは十分に想像がつきます」(上掲誌p.333-4)という程度にとどまる。
 丁寧な論証がなされているとはとても思えない(なお、同じことは同じ上掲誌上の青山繁晴論考についても言える)。それにそもそも、欧米の「共和主義」なるものに多大の関心を示し、それに関する書物の共編著者になっていたのは、佐伯啓思自身ではないか(佐伯啓思=松原隆一郎編・共和主義ルネサンス(NTT出版、2007))。そこには、「共和主義」を否定し「天皇制を肯定」する心情のみが基礎になっていたのかどうか、はなはだ疑わしい。
 ついでに書けば、佐伯啓思によると、<私こそがこの国を変える、と軽々と言う>=「共和主義的」=「天皇制否定」という論理が簡単に成り立つらしい(上掲誌p.334)。いくら日本維新の会が嫌いでも、佐伯啓思ほどの者がこんな(大学院生ですら採用しそうにない)論理または推論を提示するとは、嘆かわしく、幻滅しもする。

1155/佐伯啓思において日本書記・古事記はすべて「神話」か。

  前回に続ける。佐伯啓思「『天皇』という複雑な制度をめぐる簡単な考察」隔月刊・表現者2009年9月号)はついで、元来の「すめらのみこと」を意味する「天皇」という語自体が「中国からの影響のもと」にある。しかし、中華秩序からの自立を意味したもので、中国とは異なって「世襲による王権であることを明示」したものだった、ということを述べている。
 再び、左翼的な「王権」という概念が使われていることが気になるが、より気になるのは以下だ。
 佐伯啓思は、「『記紀』による天皇の神格化」
と簡単には叙述し、世襲の「日本の王権の特質」の一つは、「神話」による「政治的正当性」の確保だった、と述べている(p.71)。
 明記はしていないし、紙数の制限により厳密な叙述はしていないと釈明または反論される可能性はあるが、まるで、記紀=日本書記・古事記全体が「神話」の叙述だという理解を前提にしているような書きぶりだ。
 佐伯はむろん「単純左翼」ではないので、①「左翼的意味」で天皇の正当性は「でっちあげられた神話に過ぎない」と言っているのではない、②「神話」は歴史学者のいう「事実」ではないが、「一国の文化的事実」だ、と書いている(「不可欠でそれなりによくできた発明だったと受けとめなければならない」とも言う)。
 だが、「神話」と「記紀」の二つについての正確な叙述がないので、後者全体が「神話」だと理解していると思えなくもない。
 日本書記は明らかに「神代」と神武天皇以下を区別しているし、古事記の中・下巻が神武天皇以下推古天皇の時代までの叙述になっている。
 むろん連続はしているのだが、「記紀」の作者または伝承者においては、神武天皇以前または古事記の上巻のみが「神話」=「神」をめぐる物語と意識されており、それ以降は少なくとも主観的には歴史的な事実だと理解されていたのだ、と私は理解している。
 推古天皇(古事記)または天武天皇や元明天皇(日本書記)、そしてこれらの天皇の時代は執筆者・伝承者にとってはほとんど当時における近現代のことであり「客観的な事実」のつもりで書かれたのだと思われる。
 むろん、客観的な歴史的事実とは異なる叙述も時代より古くなればなるほど含んでいるだろう(場合によっては「作為」も)。しかし、神武天皇以降の叙述は、主観的には決して「神話」ではなかったはずだ、と思われる。
 上のような趣旨が、佐伯の文章からはまるで伝わってこない。「そこに神話が生じる。『記紀』による天皇の神格化である」、という部分などは、繰り返すが、記紀の全体が「神話」だと理解しているごとくだ。こんなことを書くのも戦後の歴史学・戦後教育において日本書記・古事記の全体=とくに世襲天皇を美化・正当化するための「神話」で<ウソ・でっちあげ>という言説が一部には有力にあり、そのような教育等の影響を-「神話」の理解は同じでないとしても-佐伯も受けているようにも思えるからだ。
 些細なことかもしれない。だが、「日本的なるもの」という語をやたら使っている佐伯啓思の諸文章において、天皇も記紀も(いわゆる日本神話も)ほとんど言及されていないのであり、そして天皇に関する「物語」をこの人は十分には知らないのではないか、少なくとも大きな関心を持ってはいないのではないか、という疑いを持たせる。
 ○佐伯啓思は新潮45今年7月号(新潮社)の最後に、「本当にわれわれが支柱にすべき価値」、「日本人にとっての価値の基軸」について「今後、何回かにわたって」
模索してみたい、と書いている(p.334)。
 同誌の今年12月号の佐伯の連載のつづきは橋下徹と石原慎太郎批判で、この二人をそれこそボロカスに批判しているが、「日本人にとっての価値の基軸」の探求といかなる関係にあるのかは分からない。
 8~11月号も所持はしているので、佐伯における「模索」の内容を別の機会に確認してみよう。

1154/佐伯啓思があまり語らない「天皇」につき、2009年に語っていた。

 一 佐伯啓思日本という「価値」(NTT出版、2010)、日本の愛国心(NTT出版、2008)という著書を発行し、最近に記したように「近代民主主義」とうまく結合しないものとして「日本的なるもの」を語っている(新潮45今年8月号)。
 西欧所産の「近代民主主義」よりも「日本的なるもの」に身を寄せていることはほとんど明らかで、また日本にかかわって「価値」や「愛国心」を論じているのだから、「日本的なるもの」についてのある程度は具体的イメ-ジを提示してきていると想定しても、何ら不思議ではないだろう。
 上の二著すら手元に置かないで書くが、これらを読んでも、じつは彼のいう「日本的なのもの」とは何かは、はっきりしていない、と言える。
 「日本(的なるもの)」を語る場合に佐伯啓思が全くかほとんど触れることがないもの、その一つは「天皇」だ。もう一つは、菅野覚明・仏教の逆襲(講談社現代新書、2001)に上のいずれかの中で言及していた記憶はあるが、神道および日本化された仏教という「日本の宗教」だ。
 佐伯啓思の本領または得意分野が西欧近代(の思想・原理)にあるとしても、「日本的なるもの」に言及して、上の二つについてはほとんど立ち入った論及をしていないのは、読者には少なくとも物足りないところがある。あえて、偏頗すぎるとか、保守されるべきものとして語られる可能性がある「日本(的なるものの)」の具体的な象がきわめて不明確だ、といった批判形を使うのはやめておこう。
 二 佐伯啓思が「天皇」について語っている文章はないかと探していたら、隔月刊・表現者2009年9月号の佐伯「『天皇』という複雑な制度をめぐる簡単な考察」(p.68-71)を見つけた。
 「天皇」に関する叙述内容自体以前に、佐伯啓思という人物の「思想」を理解する上で興味深い文章があるので、まずはそれらを要約的に引用する。
 ・私は「戦後的なるもの」を批判的に見てきたが、「しかし、天皇という問題となれば、ある意味では、私自身もきわめて『戦後的なもの』の枠組みに捕らえられているというべきなのかもしれない」。
 ・なぜなら、私には天皇や皇室への「人物的な関心」がなく、まして、天皇・皇室への「深い敬愛に基づいた情緒的な関心を示すなどということが全くないから」だ。「天皇陛下や皇室の方々の人柄だとか、その人格の高潔さだとか、といったことにはほとんど興味がない」。
 ・日本国憲法第一条のうち天皇は日本国および日本国民の「象徴」という部分も、「象徴」の意味は問題になるにせよ、「しごく当然のことであろう、と思う」。
 以上で、佐伯啓思のこの文章のほぼ1/4は終わっているが、ここで示されている心情からすると、次のことが言えそうだ。
 第一。安倍晋三らは<戦後レジ-ムからの脱却>を唱えている。だが、佐伯啓思は<戦後レジ-ム>あるいは「戦後的なもの」から完全に離れるべきだとは少なくとも心情レベルでは感じていない。「戦後的なもの」を自分の意識に内包していることを自覚しつつ、それを問題視する感覚がなさそうだ。
 第二。自民党が2012年4月に決定・発表した日本国憲法改正案の一条の前半は「天皇は、日本国の元首であり、日本国及び日本国民統合の象徴であって…」とある。断定はし難いが、佐伯啓思は、天皇を「元首」とすることを「しごく当然」とは感じず、違和感を感じてしまうのではないか。
 以上のあと佐伯啓思は、明治憲法上の「天皇」には西欧的立憲君主と日本の歴史の中で構成された神格性をもつ世襲的存在の二重構造があり、これを一つにする必要があったことに「明治近代化の悲劇」がある、三島由紀夫は政治的概念としての天皇と区別される文化的概念に「天皇の本義」を求めようとしたが、「天皇」概念には元来「政治的意味合い」、「日本の王権」の政治的正当性を特徴づけるという意味があった、といった趣旨を述べている。
 「左翼」歴史学者と同様に「王権」という語を使っていることも気になるが、より気になることは別の点にもある。次回に扱おう。

1140/月刊正論(産経、桑原聡編集長)の編集方針は適切なのか② 。

 〇8/21に月刊正論による自民党批判を今年8月号と書いたのは誤りで、正しくは7月号。
 6月号以降は月初めに購入せず、のちに古書で手に入れることにしており、かつ従来のように月刊正論を手元に置いておく癖をなくしたまま、確認しないで書いたがゆえの誤りだ。
 月刊正論7月号は<徹底検証/誰が殺した自民党>という特集を組んでいる。10本もの論考から成っていて、編集部が設定したはずのこのテーマは、自民党を「殺した」者がいること、つまり自民党は「殺されている」=「死んでいる」ことを前提として、犯人を探索させる、という趣旨になっている。自民党は「死んだ」という前提に月刊正論編集部は立っているわけだ(ちなみに、このテーマと必ずしも正面からは一致しない論考もあるが、執筆者と犯人とされた者は誰かは、田久保忠衛→谷垣禎一、田母神俊雄→麻生太郎、適菜収→小沢一郎、佐伯啓思→小泉純一郞、上念司→竹下登、倉山満→三木武夫、西尾幹二→中曽根康弘、阿比留瑠比→野中広務、中宮崇→河野洋平、潮匡人→安倍晋三)。
 このような前提的認識自体に疑問がある。少なくとも、疑問を差し挟む余地がある。このような認識をもつとすれば、自民党ではなく現在の民主党こそが、とっくに自壊・分裂して?「死んでいる」という認識・見解も、月刊正論編集部は示さなければならないのではないか。
 民主党政権の三年間の批判的総括の特集がないのは先日に書いたとおり。6月号に<特集/左翼諸君よ、反省しなさい!>があって4本の論考を載せているが、このテーマに即しているのは佐々淳行「進歩主義者の知的退嬰を糾す」くらいで、河添恵子らの「女3人言いたい放題/保守の男と革新のオトコを比べてみれば」という、<遊び>の企画も含んでいる。そして、この特集も、「左翼」・民主党政権の具体的批判とはまるで関係がない。
 「保守派」らしき月刊雑誌が、「保守」・「右」の立場から自民党批判の特集を組むことはありうるだろうが、より熱心でなければならないのは、現実に政権=権力を持っている「左翼」・民主党に対する批判でなければならないのではないか。
 〇月刊正論9月号の「編集者へ/編集者から」の中には、目を剝く「編集者」の文章がある。
 目を剝いた、驚きかつ戦慄を覚えた部分は後回しにして、読者と編集部のやりとりを簡単に要約しておこう。
 ある80歳を超えている読者が、月刊正論には「時々、違和感のある内容の文章も散見されるので、あえて苦言と希望を併せて述べる」という観点から、月刊正論8月号の伊藤悠司「田中卓先生、それを詭弁と言うのです」(p.256-)を読んで「貴誌の姿勢というか、見解を疑いました」と書き始め、「悪意と誹謗に満ちた書きぶり」に「甚だしい違和感を覚えた」、「名のある他人に対する非礼な書きぶり」を掲載している月刊正論に「失望を禁じえない」と続けている。内容的にも「いたずらに異見を責めるのではなくて、国民のための落着点を求めようとする姿勢」が月刊正論のような「日本護持の気持ちの強い月刊誌」には「大切」ではないか、と書き送っている(9月号p.325-6)。
 これに対する「編集者」の応答は、素っ気なく、冷たいものだ。
 「悪意と誹謗に満ちた書きぶり」という「指摘はどうでしょう」、「編集者は冷静で落ち着いた筆の運びと感じました」。
 一毫も一読者の感想・意見を容認・受容することなく、バッサリと切り捨てている。せっかく投稿してくれた読者に対して、こんな姿勢・態度でよいのだろうか、という感想がまず湧く。
 ここで問題になっているのは、女系天皇容認論者らしき田中卓(元皇學館大学教授・学長)に対する伊藤悠司の「書きぶり」だ。
 論争の中身にはさしあたり立ち入らずに、「書きぶり」ははたして「編集者」が言うように「冷静で落ち着いた」ものかどうか、という観点から、8月号の伊藤論考を見てみた。
 結論的には、月刊正論「編集者」が言うように全面的に「冷静で落ち着いた」ものとはいえず、感情的な文章を含み、読者によっては(とくに田中卓に同調したり、彼に敬意を感じている読者には)、「悪意と誹謗に満ちた…」と感じてもやむをえない文章もある、ということだ。
 例を引用しておく。
 ・「…というのは…無頼漢のサカシラゴトである」(p.259)。
 ・「…とは恐れ入る。ラーメンでも寿司でも昼飯は何でもいいというような口ふりで皇室を語っていることに〔田中卓は〕気がつかないのだ」(同上)。
 ・「これほど理を非に言い曲げるこじつけが上手な人もそうはいない。田中氏のは一級品である」(同上)。
 ・「こんな人物が皇學館大学の学長をつとめていたとは驚かざるをえない。神宮の神域に立ち入ることを禁じたらどうか」(p.260)。
 ・「この人はよく皇室を言祝ぐ」が、そうしながら「皇室を貶めるのに成功している文章に接してあきれてしまう。民族的信仰心とでもいうべき精神性からは遠い。傲慢な手つきしか見えない」(p.261)。
 ・「この人〔田中卓〕が眺めている日本の将来像や風景には、ふつうの神経の人が正視できないものが映っているのかもしれない」(p.266)。
 これらの文章を含む論考を月刊正論「編集者」は、「冷静で落ち着いた筆の運びと感じました」と評している。
 月刊正論「編集者」の感覚は、やはり少しおかしいのではないか。とくに上のp.266は対象者を(「かもしれない」としつつも)<狂人>扱いしているごとくであり、かなりの、「悪意と誹謗に満ちた書きぶり」と称しても、差し支えないように感じる。
 月刊正論編集長・桑原聡、編集部員・川瀬弘至らは、やはり、どこかおかしい。まともな、月刊雑誌編集者と言えるのだろうか。
 驚きかつ戦慄を覚えた部分については、さらに後回しにする。
 なお、この文章は女系天皇容認論を支持する立場からのものではまったくない。

1058/中川八洋・小林よしのり「新天皇論」の禍毒(2011)に再び言及。

 中川八洋・小林よしのり「新天皇論」の禍毒(オークラ出版、2011)は、かなり前に読了している。
 いつか既述のように、小林よしのり批判が全編にあるのではなく、小林の天皇論・皇位継承論の由来・根拠となっていると中川が見ている論者、あるいは<民族系>保守への批判が主な内容だ。
 目次(章以上)から引用すると、田中卓は「逆臣」、高森明勅は「民族系コミュニスト」、小堀桂一郎は「極左思想」家・「畸型の共産主義者」、平泉澄「史学」は「変形コミュニズム」(最後は?付き)。
 本文によると、一部にすぎないが、吉川弘之が「共産党のマルクス主義者」とは「合理的推定」(p.177)、園部逸夫は「教条的な天皇制廃止論者のコミュニスト」(p.192)で「共産党員」(p.194)、園部逸夫・皇室法概論は共産党本部で「急ぎとりまとめられ」、「園部は著者名を貸しただけ」(p.197)、園部逸夫を皇室問題専門家として「擁護」した小堀桂一郎や、小堀に「唱和」した大原康男・櫻井よしこは「共産党の別働隊」(p.192)。小堀は共産主義者を防衛する「共産党シンジケートに所属している可能性が高い」(p.193)、小堀は「正真正銘のコミュニスト」(p.207)。宮沢俊義・杉村章三郎は「コミュニスト」(p.199)、中西輝政は「過激な天皇制廃止論者」(p.278)、小塩和人・御厨貴は「共産党員」(p.287)、杉原泰雄は「共産党員」(p.298)。
 これらの断定(一部は推定)には(西尾幹二批判はp.287、p.310)、ただちには同意しかねる。「コミュニスト」等についての厳密な意味は問題になるが。
 但し、永原慶二(p.213)と長谷川正安(p.298)を「共産党員」としているのは、当たっていると思われる。
 また、中川八洋のような、反米自立を強調・重視しているかにも見える西部邁らとは異なる、<英米>に信頼を寄せる保守派または「保守思想」家もあってよいものと思われる。かなり乱暴な?断定もあるが、<反共産主義>のきわめて明瞭な書き手でもある。反中国、反北朝鮮等の「保守」派論者は多くいても、「思想」レベルで明確な<反共>を語る論者は少なくないように思われ、その意味では貴重な存在だ、と見なしておくべきだろう。
 中川八洋の他の本でも見られるが、中川のルソー批判は厳しく、鋭い。ルソーの「人間不平等起原論」は「王制廃止/王殺しの『悪魔の煽動書』」であり(p.255-)、この本は「家族は不要、男女の関係はレイプが一番よい形態」とする「家族解体論」でもある(p.263)、また、中川は、ルソー→仏ジャコバン党〔ロベスピエールら〕→日本共産党→<男女共同参画><〔皇室典範〕有識者会議>という系譜を語りもする(p.259-)。
 さらに、つぎの二点の指摘はかなり妥当ではないかと思っている。
 一つは、「男女共同参画」政策・同法律に対する保守派の反対・批判が弱い(弱かった)、という旨の批判だ。「民族系」という語はなじみが薄いが、以下のごとし(p.268)
 「民族系の日本会議も、櫻井よしこの『国家基本問題研究所』も、共産革命のドグマ『ジェンダー・フリー社会』を非難・排撃する本を出版しようとの、問題意識も能力もない。民族系は、フェミニズム批判など朝飯前の、ハイレベルな知を豊潤に具備する英米系保守主義を排除する」が、それは「自らの知的下降と劣化を不可避にしている」。
 急激な少子化という国家衰退の一徴表は、(とくにマルクス主義的)フェミニズム(「男女共同参画」論を含む)に起因するのではないか。若年女性等の性的紊乱、堕胎(人工中絶)の多さ、若い親の幼児殺し等々につき、<保守>派はいったいいかなる分析をし、いかなる議論をしてきたのか、という疑問も持っている。別に書くことがあるだろう。
 もう一つは、憲法学界に関する、以下の叙述だ(p.298)
 「日本の大学におけるコークやバークやアクトンの研究と教育の欠如が、…、天皇制廃止の狂った学説が猖獗する極左革命状況に追い込んだ…。女性天皇/女性宮家など、今に至るも残る強い影響力をもつ、宮澤らの学説を日本から一掃するには、コーク/バーク/アクトン/ハイエクの学説をぶつける以外に手はない」。
 なお、1952年の日本の主権回復後の「約六十年、日本人は米国から歴史解釈を強制された事実は一つもない。問題は、歴史の解釈権が、日本人の共産党系歴史学者や日本の国籍をもつ北朝鮮人に占有された現実の方である」との叙述がある(p.288)。後半(第二文)はよいとしても、前者のように言えるだろうか、という疑問は生じる。「強制」という語の意味にもよるが、「共産党系」等でなくとも、日本人の<歴史認識>の内実・その変化等に対して、米国は一貫して注意・警戒の目を向けてきた、とも思われるからだ。

0894/<日本>はその美しい自然と四季とともに残り続けるだろうか。

 1970年11月の自裁の際の三島由紀夫の檄文に書かれた日本の近未来の予測文章はよく知られている。
 西尾幹二は1996年に次のように書いたらしい(初出、サンサーラ1996年12月号)。
 「このままいけばおそらく日本は、……いぜんとしてアジアでもっと生活レベルは高く、ハイテク文明に彩られてはいるが、国家意志といったものをもったく持たない国、刹那的な個人主義だけが限りなく跋扈する虚栄の市場としての国になり果てるであろう。…―というような悪夢を心の中で抱くこと久しい。そうなっては困るのだが、しかし、そうなるのではないか、いや間違いなく相違ないという胸騒ぎのような心理を、私はここ数年、ずっと持ちつづけてきたのである」。
 「いぜんとしてアジアでもっと生活レベルは高く、ハイテク文明に彩られてはいる」のか否か、2010年の時点での将来予測としては疑問符もつくが、上のような懸念と「悪夢」はほとんど現実化してしまっているのではないか。
 西尾幹二の書くもの、それで解る西尾の考え方等を全面的に支持しはしないが、この人の時代感覚も(三島由紀夫と同様に?)鋭いと言えるかもしれない。
 私は近年、次のような「悪夢」を抱く、あるいは将来の日本列島の<惨状>を恐怖感とともに思い描くことがある。
 日本の山岳と田畑と海岸の美しい風景はまだ残っている。だが、かつてはどこでも見られたものが無くなってしまっている。
 神社のすべてが、大から小まで物理的に破壊され、消失した(神官・宮司等は当然に職を失った)。路傍の地蔵像や祠などもすべて無くなった。寺院も文化財としてのごく一部の有名(・観光)寺院の建造物を除いてすべて破壊され、消失した。京都・奈良・飛鳥のみならず、日本列島のすべての地域で、<かつての日本>的な神社仏閣は破壊された、無くなった。伊勢神宮も例外ではない。明治神宮も橿原神宮も熱田神宮等々も同じ。
 その時代には、当然に<天皇制度>は廃止され、<皇室>なるものはもはやない。日本国家・日本政府というものももはやない。某国の一州か自治領のようなものになっている。かりに日本「国家」が残っていても、某国との間に主たる仮想敵国をアメリカ合衆国とする安保条約が締結され、日本列島人も徴兵される軍隊の指揮権は当然に某国「人民軍」総司令官にある。
 その某国政府の命令または「勧告」だが実質的には強い要請にもとづいて、日本列島人は自らの手で、神社仏閣のほとんど(一部の遺跡扱いの寺院を除く)を壊したのだった。
 その時代、日本列島人は「何語」を話しているだろうか?。
 これが、立ち入らないが、平川祐弘・日本語は生き延びるか(河出ブックス、2010)の冒頭にある、戦慄を伴う問題設定だ。
 美しい列島、美しい四季は残り続けるかもしれない。だが、<鎮守の杜>が全てなくなって、路傍の祠がいっさいなくなって、さらには日本語が話されなくなるか、正規の言語ではない「方言」の一種と見なされるようになって、いったいどこに<日本>が残っているのだろうか。顔つきだけはかつての「日本人」によく似た日本列島人は残っているとしても。
 西尾幹二は冒頭引用の文章を含む論考を、「私は自分の未来を諦める気にはなれない。自分と自分の国の歴史を見捨てる気にはなれないのだ」、と結んでいる。
 1935年生まれで私よりも10歳余年上の西尾がこう書いているくらいだから「諦め」てはいけないだろう。だが、本音をいえば、西尾の上の言葉よりは私はペシミステイック(悲観的)だ。
 他国によるイデオロギー支配を伴う占領と、その時代に生み出された実質は他国産の1947年憲法がもつ「価値観」にもとづく教育、そして当該「価値観」の実質的な(<時流>としての)押しつけ(「憲法」教育を含む)の影響を拭い去ることは、もはやほとんど不可能なのではないか。
 週刊金曜日5/01号で憲法学者らしき斎藤笑美子(茨城大学)は、皇族の「市民」的平等を確保するには<天皇制廃止>か<皇族離脱の自由の承認>しかないとの自説を述べていた。
 週刊金曜日6/04号の日米安保特集には憲法学者・早稲田大学教授の水島朝穂が(相変わらず?執拗にも)「重大なのは日本が『攻める』危険性」と題する文章を載せている。
 現在書店に並んでいる週刊金曜日には、上杉某が、憲法改正手続法を利用して<天皇制廃止>のための改憲論を展開すべしとの文章を書いている筈だ。
 <天皇制廃止>のための憲法改正を<保守>派は断固阻止しなければならない。世論動向に応じて、日本共産党や社会民主党はこの問題を積極的に提起する可能性はあり、これまた世論を見極めつつ、朝日新聞は<天皇制廃止>の方向に誘導する可能性もある(もっとも、すでにそれは目立たないかたちで実施に移されていると観るのが正確だろう)。
 <ナショナルなもの>の忌避・否定は日本<国家>への反感・怨念にも由来する。日本<国家>と<天皇制度>はもともと不可分のものと考えられる。
 <天皇制度>の維持と雅子妃殿下うんぬんの議論とどちらが大切かは語るまでもない。
 日本<国家>と<天皇制度>を否定しようとし、そして<宗教>意識は自分にはないと考えているのが多数派と見られる日本人の意識を利用して<反神社(・神道)・反寺院(・日本的仏教)>の立場へも誘導しようとするだろう、「左翼」言論人等の活動家たちの策略・大きな顔をしての言動を弱体化させなければならない。
 そうしないと、上に書いたような私の「悪夢」は正夢に、つまり近い将来の現実になってしまうのではないか。
 6/04、西尾幹二・日本をここまで壊したのは誰か(草思社、2010.06)のうち、第一部の「江沢民とビル・クリントンの対日攻撃…」(上に引用はこれの一部)、「トヨタ・バッシングの教訓」、「外国人地方参政権・世界全図」、第三部の「講演/GHQの思想的犯罪」、「『経済大国』といわれなくなったことについて」を読了。
 残りのほとんどは「激論ムック」か月刊正論で既読のような気がするが、あらためて読むかもしれない。

0879/サピオ5/12号(小学館)の小林よしのりも奇妙だ。

 佐伯啓思や雑誌・表現者(ジョルダン)での議論に触れたいし、民主党や鳩山由紀夫についても、日本共産党についても書きたいことは多い。
 小林よしのりの議論にかかわることが当面重要とも思えないが、小林よしのりサピオ5/12号(小学館)の「天皇論・追撃篇」での叙述について、網羅的にではなく断片的にコメントする。
 1.小林よしのりは、①側室の子だった明治・大正両天皇ののち「昭和天皇、今上陛下、皇太子殿下と3代も嫡男が続いたのは異例の幸運だった」、②「女子ばかりつづくことだって当然起こる。現にその後は41年間、9人連続で女子しか誕生しなかった」、とまず言う(p.62)。
 このいずれにもすでに、異論がある(敬語を省略させていただくことがある)。
 大正天皇妃(貞明皇后)は4人お生みになり4人とも男子、昭和天皇妃(香淳皇后)は4人お生みになりうち2人が男子、今上天皇妃(美智子皇后)は3人お生みになり2人が男子。
 なるほど男子の割合の方が多いが、もともと確率的には男子か女子かはほとんど1/2(50%)のはずなので、3人の子のいずれも女子である可能性(確率)は1/2の3乗で12.5%しかない。87.5%の確率で少なくとも1人の男子は生まれる。子が4人の場合は、いずれも女子である可能性(確率)は1/2の4乗で6.25%しかなく、93.75%の確率で少なくとも1人の男子は生まれる。
 上のような確率上の計算・予測からしても、「3代も嫡男が続いたのは異例の幸運」だった、とは思えない。3~4名の子をお産みになれる健康な女性(と配偶者男性)が三代つづけば、「嫡男」が三代続いたのは何ら「異例」ではないと考えられる。従って、上の①は疑問。
 つぎに、上の②は清子内親王~敬宮愛子内親王の9名を指しているのだろう(両親は4組)。たしかに、「女子ばかりつづくことだって当然起こる」が、それが9回も続いたのは決して「当然」のことではない。「9人連続で女子しか誕生しなかった」ことこそが、確率的にはきわめて異例のことだった。
 上のような計算をすれば、9人続けて女子が産まれる確率は、1/2の9乗で1/512であり、これは0.195%で、ほぼ0.2%。つまりはほぼ1%の五分の一の確率でしか起こりえなかったことだ。こちらの方こそが「異例」だった、というべきだ。
 今上陛下・皇后の末子である清子内親王を別とすれば、三笠宮寛仁親王の子は2人とも女子、高円宮憲仁親王の子は3人とも女子、秋篠宮文仁親王の最初の2人の子はいずれも女子、皇太子殿下の子は女子(愛子さま)だった。
 確率的にいうと、これら8名のうち3~5名が男子であっても決して不思議ではなかった。8名全員が女子である可能性は、1/2の8乗で1/256、ほぼ0.4%しかなかったのだ。
 8-9名続けて皇室内に女子しか産まれなかったことがさも「当然」のことだったかのように書く上の②は支持できない。
 小林よしのりは上の①・②を根拠にして③「現在の皇統の危機は一夫一婦制を維持する限り、いつかは必ず訪れた事態」だ、というが(p.62)、①・②が疑問である以上、これも支持できない。8-9名続けて女子しか生まれなかったことこそが確率的には異例で、「必ず訪れた」とは(1000年単位での長期スパンで見ないかぎりは)とても言えない、と思われる。
 上の①・②・③がまともな結論ではないので、その後の小林の議論もまともではなくなっている。
 ④「必要な議論は、『女系容認か?旧宮家復活か?』ではない。『女系容認か?側室復活か?』である!」
 小林は男子が生まれなかった原因を「一夫一婦制」に求め、「男子継承」には「側室制度」(の復活)が不可欠というのだ。これは明らかに奇妙な理解で、誤った前提に立つ、誤った問題設定だ。
 むろん、8-9名続けて皇室内に女子しか生まれなかったことは客観的事実で(その後に悠仁親王がお生まれになった)、悠仁親王と同世代には男子がおられない、という深刻な状況にある、ということまでも否定するものではない。
 2.同号の後半で小林よしのりは「本来、すべての生物はまずメスとして発生するのである!」(p.72)などということを懸命に強調しているが、小林が紹介するような生物学的なオス・メスに関する議論が、皇位継承適格性の問題といったいどういう関係があるのか、大いに疑問だ。
 生物学的な問題をとり上げるのならば、女性は妊娠し出産する可能性がある、妊娠中のまたは出産直後の女性は「天皇」だけしか行うことができない宮中祭祀(の少なくとも一部)を適切にまたは十分に行うことができるのだろうか、ということを議論すべきだ。
 冗言は省くが、ほとんどの場合は天皇位は男に継承されてきたこと、女性天皇の場合の女性は妊娠し出産する可能性がなかったことが多いと想定されること(逐一確認しはしないが)は、天皇しか行えない宮中祭祀(の少なくとも一部)の存在に関係しているものと考えている。
 そのような宮中祭祀の存在、女性は妊娠し出産する可能性がある、ということを考慮しない皇位継承論議・「女系」天皇の是非論はほとんど無意味なのではなかろうか。この程度にする。

0878/最近の小林よしのりはどこか具合が悪いのではないかと憂慮する。

 隔週刊サピオ5/12号(小学館)が(読んだのに)見当たらず困っているのだが、別の機会に追記することとして、最近の小林よしのりは、月刊WiLL(ワック)にも連載を開始した頃から、どこか具合が悪いのではないだろうか。
 1.月刊WiLL5月号につづいて同6月号も、かなり感情的で、論理の飛躍(または論旨不明)の部分が目立つ。
 例えば、竹田恒泰が今上天皇のご真意は「外に漏れるはずがない」旨書いた(月刊正論5月号(産経)p.208-にたしかにその旨がある)ことについて、小林は「憲法を絶対視して、天皇の口封じをしている」(月刊WiLL6月号p.193)とするが、「外に漏れるはずがない」との見解表明→天皇陛下の「口封じ」、になるのだろうか?
 つづいて小林は、竹田は「皇室典範も国民のみで決めるべき」で「天皇は一切口出しまかりならぬ」と言っているも「同然!」とも書く(同上)。月刊正論5月号の竹田論考をそのように読むのは無理で、「同然!」などと断定はできないだろう。
 小林が竹田らは「『宮さま詐欺』に引っ掛かった阿呆と同じ」と罵倒するのも、上品かつ適切な叙述とは感じられない。
 2.そもそも論として内容にも立ち入れば、この号で小林は「承詔必謹」(「天皇の命令を承ったなら、必ず実行しなくてはいけないという意味」、同p.187)を絶対視し、例外を認める竹田ら(たしかに竹田恒泰はその旨を書いている)を批判している。
 皇位継承問題についての今上陛下のご真意が<女系容認>だと忖度した上で小林は上のような立場をとる。その「忖度」が的確か否かはさておき、一般論としていうと、「承詔必謹」の絶対視はやはり無理なのではなかろうか。
 小林よしのりの最近の議論の特徴は、昭和天皇または今上陛下に関する議論・叙述を「天皇」一般に関する議論・叙述として(も)使っている、ということにある、と感じている。
 一種の<スリカエ>あるいは過度の(誤った)一般化があるように思われる。
 歴史的にみて、「承詔必謹」の態度こそが正しかった、あるいは適切だった、ということにはならないだろう。
 論旨飛躍かもしれないが、先日のNHKの<伊藤博文と安重根>に関する番組(プロジェクトJAPAN)を見ていて、この番組は言及しなかったが、安重根は伊藤博文に対する告発状または斬奸状にあたる文書の第一に伊藤の<孝明天皇を殺害した罪>を挙げていたことを思い出した。
 むろんこのような実証的根拠はない。だが、安重根が知っている程度に<噂>として20世紀に入っても残っていたことは確かなようで、また、孝明天皇の死は長州藩側(当時の尊皇倒幕派)に有利に働いたのは事実だろう。また、司馬遼太郎の小説類の影響をかなり受けての叙述にはなるのかもしれないが、幕末の闘いは天皇=「玉(ぎょく)」をどちらの勢力が取り込むかのそれだった、と言っても大きな誤りではないと思われる。
 何が言いたいかというと、歴史的事実としては、「承詔必謹」どころか、天皇・皇室は世俗的な政治権力に、または世俗的政治闘争に利用され、翻弄されてきた、という面がある、ということを否定できない、ということだ。「承詔必謹」が絶対かそれとも例外があるかという問題設定自体が成立しない時期・時代もあった、と思われる。
 そのような時期・時代こそがおかしかった、天皇の意を奉じての「承詔必謹」体制でこそ日本は歩むべきだった、という議論は成立しうるだろう。

 だが、王政復古の大号令、五箇条のご誓文発布のとき、孝明天皇の子である明治天皇(1852-1912)は、まだ16歳だった。そもそも、「承詔必謹」に値する意志・判断の表明を、明治天皇お一人の力で行なうことができたのだろうか。三条実美・岩倉具視を含む当時の公家等の明治新政府勢力が、「天皇」の名義を<利用>した(これもまた日本の歴史の興味深いところでもある)という面を、少なくとも全く否定することはできないと考えられる。

 中西輝政・日本人として知っておきたい近代史・明治篇(PHP新書、2010.04)p.233によると、「明治天皇も〔日ロ戦争〕開戦に反対であったことは、諸々の史料からも推測でき」る、らしい。
 この点はすでに施行されていた大日本帝国憲法のもとでの天皇の地位・権力につき、法文そのままに「統治権の総覧者」としての絶対君主扱いをする戦後「左翼」に対する批判にもなるが、日ロ戦争開戦時は、天皇の真意を推測(忖度)すらしての「承詔必謹」体制ではなかった、ということの一証左にはなるだろう。
 むろん、明治天皇の意志に則って日ロ開戦はすべきではなかった、とも言える論理的可能性はあるのだが、小林よしのりは、(かりに中西輝政の上の叙述に問題がないとしてのことだが)そのようにも主張するのだろうか。
 元に戻るが、いつか書いたように、崇峻天皇、安徳天皇は<殺害>されている。12世紀の安徳天皇は満10歳にもならない年齢のときに亡くなった。源氏・平家の世俗的・現実政治的対立に巻き込まれた、と言ってもよい。どこに安徳天皇について「承詔必謹」を語る余地があったのか?
 思いつくままの特殊な例だと小林よしのりは反論するかもしれないが、他の多くの天皇についても、時代ごとの世俗的・政治的権力者の強い影響を受けつつ、皇位が長く継承されてきた、と言えると思われる(そのことが日本の不思議さでもある)。
 余計ながら、13世紀の「承久の変」後、北条執権体制側によって後鳥羽上皇は隠岐へ、順徳上皇は佐渡へ、土御門上皇は土佐へ<島流し>されている。「承詔必謹」のもとで、こんなことが起きるはずはない。
 3.同じ月刊WiLL誌上で、水島総は、小林よしのりについてこう書く。
 「よしりん君、チャンネル桜をいくらでも批判、非難をしても良いが、NHKや中国共産党と同じ『捏造』だけはしていけない」(5月号p.137)。
 「本誌でチャンネル桜非難を続けている漫画家小林よしのりという存在も、『保守』の側の『田原総一朗』そのまま」だ(6月号p.137)。
 小林よしのりの欄のある同じ雑誌の中にこんな言葉もあるのだから、異様な雑誌(・編集方針)とも言えるが、いずれにせよ、まともな状態ではない。
 4.水島総とともに新田均の側につねに立つつもりもないのだが、月刊正論6月号は新田均「小林よしのり『天皇論』を再読する」を載せている(p.156-)。これは、小林よしのりの議論の論理矛盾・一貫性の欠如等々をかなり詳しく指摘している。
 新田均の指摘部分をいちいち確かめる意欲も時間もないが、新田の指摘はかなり当たっているのではないか(論理矛盾等は私も一カ月ほど前に指摘したことがある)。
 もう一度書いておく。小林よしのりは、月刊WiLL(ワック)にも連載を開始した頃から、どこか具合が悪いのではないだろうか。憂慮している。

0854/小林よしのりの皇位継承論(女系天皇容認論)・その3、旧宮家・限定皇族復帰案。

 平成17年11月24日の皇室典範に関する有識者会議報告書には、「(補論)旧皇族の皇籍復帰等の方策」と題して次のように書く部分がある。
 「旧皇族は、〔①〕既に六〇年近く一般国民として過ごしており、また、〔②〕今上天皇との共通の祖先は約600年前の室町時代までさかのぼる遠い血筋の方々であることを考えると、これらの方々を広く国民が皇族として受け入れることができるか懸念される。…このような方策につき国民の理解と支持を得ることは難しいと考えられる」(〔 〕は引用者)。
 まだ悠仁親王ご誕生前のことだったが、上の①については<たかが六〇年ではないか>と思ったし、また、②についても違和感をもった。全体として、有識者会議の意見としてではなく「国民の理解と支持」を得難いとして、「国民」に責任転嫁(?)しているようなニュアンスも気になった。
 小林よしのりも、次のように、上の②と全く同様の主張をしている。
 <男系主義者>の「唯一の代案」が「旧宮家」の皇族復帰だが、これは「トンデモない主張」だ。「旧宮家」が「男系でつなっているという天皇は、なんと室町時代の北朝3代目、崇光天皇である。あきれたことに20数世代、600年以上も離れている!」(月刊WiLL5月号p.197)。
 このような感想・見解を他にも読んだか聞いたことはあるので、有識者会議が書くほどではかりになかったにしても、かかる懸念をもつ者も少なくないようではある。
 しかし、<男系主義者>たちがどのように反論または釈明しているのかは知らないが、女系天皇容認論者あるいは<(男女を問わない)長子優先主義>者がこのような主張をするのは(有識者会議の文章もそうだが)、じつは奇妙なことだと私は感じている。
 すなわち、将来において男女対等に<女性天皇>・<女系天皇>を容認しようとしながら、旧皇族(11宮家)については、なぜ<男系>でのみたどって今上天皇との「血」の近さを問題視するのか、同じことだが、今上天皇と共通の祖先をなぜ<男系>でのみたどって探そうとするのか。
 これは、無視できない、重要な論点だと考える。
 とりあえず、祖父(・祖母)が旧皇族(旧宮家)だった、竹田恒泰がこう書いていることが、同・語られなかった皇族たちの真実(小学館、2006)を読んだとき、私には印象的だったことを記しておこう。
 「私は明治天皇の玄孫〔孫の孫〕であることを誇りに思っている」(p.23。〔〕は原文ママ)。
 竹田恒泰にとって、室町時代の北朝の天皇・崇光天皇(今上天皇が125代とされるその間の代数には含まれていない)の遠い子孫(男系)であることよりも、まずは明治天皇の玄孫だとの意識の方が強いと思われ、かつそのことを彼は「誇りに思っている」のだ。
 正確に書けば、竹田恒泰の父方(・祖父方)の曾祖母は明治天皇の第六女・昌子内親王だ。女性を介して、彼は明治天皇の血を引いている(男系だけでたどると、既出の崇光天皇の孫の貞成親王が、今上天皇との共通の祖先になる)。なお、今上陛下は、男系でのみたどって、明治天皇の曾孫であられる。男女(息子と娘)の違いを無視すれば、今上天皇陛下と竹田は、明治天皇の曾孫と玄孫の違いでしかない。
 女性を介せば、竹田恒泰よりも現皇室に近い血縁の旧皇族およびその子ども・孫たちはいる。竹田から離れて、一般的に記す。
 最も近いのは<東久邇宮>家だ。男系では、他の宮家と同じく、崇光天皇の子で<伏見宮>家の祖の栄仁親王の子の上掲・貞成親王(後崇光院、1372~1456)が今上天皇との共通の祖先になる。
 しかし、まず第一に、<伏見宮>家から分かれた(伏見宮邦家の子の)<久邇宮>朝彦の子で<東久邇宮>家の初代となった東久邇宮稔彦(元内閣総理大臣)の妻は明治天皇の第九女・聡子(としこ)内親王だ。その二人の間の子どもたち、さらに孫・曾孫たちは、明治天皇の(女性を介しての)子孫でもある。
 第二に、東久邇宮稔彦と聡子の間に生まれた長男の盛厚は、昭和天皇の長女の成子(しげこ)と結婚している。従って、盛厚・成子の子どもたちは、昭和天皇の孫であって、現皇太子・秋篠宮殿下(・清子元内親王)と何ら異ならない。母親は、今上天皇陛下の実姉、という近さだ。
 東久邇宮盛厚と成子の結婚は、竹田恒泰も書くように、「明治天皇の孫(盛厚)と曾孫(成子)との結婚」だったのだ(p.243)。
 何も室町時代、14世紀まで遡る必要はない。現在の「東久邇宮」一族は、今上天皇の実姉の子孫たちなのだ(上掲の二人の子どもから見ると、父方でも母方でも明治天皇へと「血」はつながる)。
 男女対等に?<女性天皇>・<女系天皇>を容認しようという論者ならば、上のようなことくらい知っておいてよいのではないか。いや、知った上で主張すべきなのではないか。
 室町時代にまで遡らないと天皇と血が繋がらない、そんな人たちを<皇族>として崇敬し尊ぶ気になれない、などとして<女系天皇容認>を説く者たちは、小林よしのりも含めて、将来については<女性>を配慮し、過去については<女性>の介在を無視する、という思考方法上の矛盾をおかしている、と考える。
 将来について<女性>を視野に入れるならば、同様に、過去についても<女性>を視野に入れるべきだ。
 「東久邇宮」一族、東久邇宮盛厚と成子を父母・祖父母・曾祖父母とする人々は、「皇籍」に入っていただいてもよいのではないか。そして、男子には皇位継承資格も認めてよいのではないか。たしかに最も近くは昭和天皇の内親王だった方を祖とするので、その意味では<女系>の宮家ということになるかもしれない。また、その昭和天皇の内親王だった方は明治天皇の皇女だった方を母とする東久邇宮盛厚と結婚していて、これまた<女系>で明治天皇につながっていることにはなる。
 だが、将来について女性皇族に重要な地位を認めようとするならば、この程度のことは十分に視野に入れてよいし、むしろ考慮対象とされるべきだ。
 くり返すが、室町時代!などと「あきれ」てはいけない。自らが将来において認めようとする「女系」では、昭和天皇、そして明治天皇に「血」が明確につながっている旧皇族(旧宮家)もあるのだ。
 昭和天皇との血縁はなくとも、かりに明治天皇への(女性を介しての)「血」のつながりでよいとするならば、上記のように<竹田宮>一族の「皇籍」復帰も考えられる。竹田恒泰は明治天皇の玄孫であり、その父は曾孫であって、決して「600年以上も離れている!」ということにはならない。
 竹田宮家以外に、北白川宮家と朝香宮家も、明治天皇の皇女と結婚したという血縁関係がある。但し、今日まで子孫(とくに男子)がいるかは今のところ私には定かではない。
 以上のあわせて4つの宮家以外は、明治・大正・昭和各天皇との間の<女性>を介しての血縁関係はないようだ。やはり、男系でのみ、かつての(室町時代の)皇族の「血」とつながっているようだ。
 従って、上記の4つ、または少なくとも「東久邇宮」家一つだけでも、<皇籍>をあらたに(又は再び)付与してもよいのではないか。
 こうした<限定的皇族復帰案>を書いている、あるいは唱えている者がいるのかどうかは知らない。
 だが、11宮家すべての<皇籍復帰>よりは、有識者会議の言を真似れば、「国民の理解と支持を得ること」がたやすいように思われる。
 小林よしのりにはここで書いたことも配慮して再検討してほしい。また、<男系主義>論者にも、こうした意見があることも知ってもらいたいものだ。
 以上、竹田恒泰の上掲の本のほか、高橋紘=所功・皇位継承(文春新書、1998)のとくに資料(系図)を参照した。
 他にも皇位継承に関する書物はあり、旧宮家への皇籍付与を主張する本はあるだろうが、上の二冊だけでも、この程度のことは書ける。
 他の書物―例えば、櫻井よしこ=大原康男=茂木貞純・皇位継承の危機はいまだ去らず(扶桑社新書、2009.11)は所持はしているが全くといってよいほど目を通していない―については、あらためて十分に参照し直して、何かを書くことにしよう。

0853/山内昌之・歴史学の名著30(ちくま新書)を機縁に皇位継承問題にほんの少し触れる。

 山内昌之・歴史学の名著30(ちくま新書、2007)は「付録」を含めて32のうちに15の和書・漢書を挙げていて、欧米中心でないことにまずは好感をもつ。コミュニスト又は親コミニズムの学者ならば当然に鎮座させるだろう、マルクス=エンゲルス・空想から科学へ、などのマルクス主義文献がないようであることも興味深い(但し、トロツキー・ロシア革命史を挙げているが、山内がマルクス主義者またはトロツキストではないことはすぐ分かる)。
 挙げられる一つに、北畠親房・神皇正統記(14世紀)がある。
 山内昌之によると、この書は「皇室男系相続の将来性がかまびすしく議論される」現在において「改めて読まれるべき古典としての価値」がある、という(p.115)。
 この書を私は(もちろん)未読で、後醍醐天皇・南朝側に立ってその正当性を論じたものくらいの知識しかなかった。だが、山内によると、後醍醐天皇の「新政」の失敗の原因を批判的・反省的に述べてもいるらしい。つまりは、南朝・後醍醐天皇の正当性が「血」にあるとかりにしても、「御運」のよしあし(p.114)はそれだけでは決まらない、ということをも述べているらしい。
 今日の皇位継承に関する議論に関係させた山内の叙述はないが、示唆的な書ではあるようだ。
 <血>なのか、「結果責任」(p.114)を生じさせうる<徳>または<人格>なのか。
 道鏡に譲位しようとして和気清麻呂による御神託によって阻まれた称徳天皇(48代。46代・孝謙の重祚)の例があり、そして皇位は天武天皇の血を引かない天智天皇系の光仁天皇(桓武天皇の父)に移ったという歴史的経緯を振り返っても、やはり基礎的には「血」なのだろう。皇室と血縁のない道鏡への「王朝交代」は許されなかったのだ(なお、天皇・皇后陛下が最近ご訪問された京都のいわゆる「御寺」・泉涌寺に祀られている諸天皇の位牌の中には、称徳・聖武等の天武系の天皇のものはないらしい)。
 少なくとも継体天皇以降は、どの血縁者かについては議論や争いがあったこともあったが、「血」縁者であることが条件になること自体は、結果としては疑われなかった、と言えよう。
 だが、北畠親房すらもかつて少なくとも示唆していたようだが、正当とされる天皇およびひいては皇族のすべてが「有徳」者・「人格」者であったわけではない。「お考え」あるいは諸政策がつねに適切だったわけではない。
 また、かりに「有徳」者・「人格」者だったとしても、ときの世俗的権力者(またはそれを奪おうとする者)によって少なくとも実質的には殺害されたと見られる天皇もいた。崇峻天皇、安徳天皇だ。
 皇位は、純粋に天皇・皇族の内部で決せられたのでは必ずしもなく、また天皇・皇族は純粋に俗世間とは無関係に生活しそれらの地位が相続されてきたのではなく、時代、あるいはときどきの世俗権力者・政治の影響を受けながら、ある意味では「流動」しつつ、長々と今日まで続いてきた、と言えよう。そのような<天皇>位をもつ国家が、世界で唯一か稀少であるという、日本の(文化・政治の)独自性を維持しようとすることに、小林よしのりと見解の違いはない、と思われる。
 だが、前回までに書いたのは、要するに、皇位(天皇)および皇位継承者を含むはずの皇族にとって、「血」と「徳」のどちらが大切なのか、小林よしのりにおいてその点が曖昧であるか、または矛盾した叙述があるのではないか、ということだ。

0852/小林よしのりの皇位継承論(女系天皇容認論)-その2。

 小林よしのりは同・天皇論/ゴーマニズム宣言スペシャル(小学館、2009.06)で(例えばp.179-180)、次のように述べていた。
 ・「日本の天皇は『徳』があるか否かが皇位継承の条件にはならない」。「日本の『皇道』は万世一系、神話からの連続性によってのみ成り立つ」。「『人格』は天皇即位の資格ではない!」。
 そして、「なかなか人格の怪しい天皇も歴史上存在している」とし、安康天皇、武烈天皇、称徳天皇、冷泉天皇の具体例を挙げている。
 ということは、少なくとも一般論としては、天皇または皇族の行動や発言、その基礎にある「お考え」がつねに適切であるとは限らない、つまり「人格」者としての適切な行動・発言・「お考え」であるとは限らない、ということを認めていることに他ならないだろう。
 そうだとすると、皇統・皇位継承あるいは女系天皇問題についても、現在の天皇陛下または皇族のご発言や「お考え」にそのまま従う必要は必ずしもない、ということを認めることになりはしないだろうか。
 しかるに、小林は天皇陛下や皇太子・秋篠宮殿下の「お考え」を女系天皇容認・旧宮家の皇籍復帰反対と「忖度」して、「だからこそわしも女系を認める主張をしているのだ!」と書いている(サピオ3/10号p.71)。
 さらに次のようにすら書く。-観測が外れていて「陛下、殿下が『男系絶対』というご意向ならば、わしは直ちにそれに従うとあらためて言っておく」(同上、p.72)。
 こうした見解は、天皇(・皇族)の地位は「人格」ではなく「血統」にもとづく旨の、すなわち天皇(・皇族)は「人格」者であるとは限らない旨の主張と完全に整合的だろうか。
 つまり、天皇(・皇族)の「お考え」を絶対視してはいけない場合もあることを小林よしのり自身が一方では認めており、少しは矛盾しているのではないか。
 今上陛下や両殿下は「人格」者ではないとか、推測される、あるいは小林が忖度している「お考え」は誤っている、などと主張したいのでは全くない。論理矛盾はないか、と小林に問うている。
 もっとも、小林よしのりは次のようにもいう-「日本の『皇道』では『徳』があるか否かは皇位の条件ではない。しかし、…現在の天皇にあっては、皇位が徳を作るという面も確実にあると言ってよい」(同・天皇論p.186)。
 これはいかなる趣旨だろうか。現在の天皇陛下、皇太子・秋篠宮殿下は「徳」がおありなので、絶対的に従う、との立場表明なのだろうか。
 だがしかし、小林よしのりは次のようなことも書いていた。
 平成16年の園遊会で今上陛下が国旗掲揚・国家斉唱は「強制でないことが望ましいですね」とご発言されたことにつき、「衝撃を受けた!」、陛下の真意は「形式だけでなく、ちゃんとした理解と心が伴っていることが望ましいですね」だろうと思ったものの、「だが、それが理想ではあっても、わしは『現状では強制も必要』と思っている!」(同・天皇論p.367-8)。
 ここでは今上陛下の「お考え」にそのまま従ってはいない小林の気持ちが語られているように読める。
 そうだとすると、天皇陛下・皇族の方々に「徳」があるか否かは、結局は自己が正しい又は適切だと考える見解と合致しているか否かによって決定されることになるのではないだろうか。この辺りはよく判らない。小林よしのりにおいて、必ずしも論旨明快ではないところもあるのではないか。
 内在的矛盾を感じて印象に残った書きぶりに、月刊WiLL3月号(ワック)の以下のようなものがあった。
 私は詳細を知らないが、竹田恒泰(この人が「皇族」だったことはないことは小林の指摘のとおり)が属する旧宮家・竹田家の一族の誰かについて、小林はこう書く(p.196)。
 「『週刊新潮』に家族のスキャンダル記事が出てるじゃないか」、「彼は護憲派であり、護憲のために天皇の公布文を悪利用してるじゃないか!」〔「彼」とは誰のことなのか私は知らない〕。
 この部分は、男系主義者の竹田恒泰を批判するために、または皇族復帰が望ましくない<不人格者>が竹田家一族の中にはいる、ということを言いたいがために、書かれたように思える。
 だが、そもそも、「スキャンダル」とか<人格>は「皇族」適性とは無関係だ、というのが本来の小林よしのりの主張ではないのだろうか。
 <人格>者か否か、<有徳>者か否かは、天皇たる地位、そして皇族たる地位とは関係がなく、決定的なのは「血」(・「血統」)なのではないか。
 その「血」の<薄さ>、つまり、旧宮家が天皇に男系でつながるのは「あきれたことに20数世代、600年以上も離れている」ことを指摘して(月刊WiLL5月号p.197)、小林よしのりは旧宮家の皇族復帰による男系維持論を批判する有力な論拠にしている。
 この論拠についても、私は(思考方法にもかかわる)異論または違和感を持っている。別の機会に書く。

0851/小林よしのりの皇位継承論(女系天皇容認論)-サピオ4/14・21号。

 小林よしのり・昭和天皇論(幻冬舎、2010)は読み了えているし、小林よしのりのサピオ(小学館)と月刊WiLL(ワック)上の天皇・皇室関係の連載もすべて読んできている。
 そのつど何らかの知識も追加的に得ており、何らかの感想も持ってきている。
 皇位継承問題が-雅子皇太子妃の個人的問題などよりはるかに-重要であることは言うまでもない。但し、小林よしのりの議論・主張に全面的に反対はしないが、無条件に支持することもできない。
 結論・内容自体についてもそうだが、論旨・論理過程にいささか無理なところもあると感じるし、内在矛盾がある点もあると感じる。
 さかのぼることは面倒なので(ヒマがあればいつか書いてもよいが)、最も新しい、サピオ4/14・21号(小学館)の2本の「天皇論・追撃篇」を取り上げてみる。
 小林よしのりは女系天皇容認論者で、男系限定論者、小堀桂一郎・櫻井よしこ・渡部昇一らを批判する。それはそれでもよいとして、その理由づけには疑問も残る。
 小林よしのりは今上天皇および皇太子・秋篠宮両殿下の意向は<女系天皇容認>だとし、それを「忖度」せよ、と主張している。
 基礎的データを小林が使っているものに限るが(いろいろと調べ、確認するのにも時間が要るし、そのヒマがない)、第一に、天皇陛下が「将来の皇室の在り方については、皇太子とそれを支える秋篠宮の考えが尊重されることが重要」と述べられたその意味は、「将来の皇室の在り方」は皇太子・秋篠宮殿下の「考え」そのままに決定してほしい、という趣旨かどうかは疑問が残る。日本国憲法を遵守する旨を仰ったこともある天皇陛下が、皇室典範が法律として国会が定めることに現憲法ではなっていることを御存じないはずはなく、現実にも「国会の議論にゆだねるべきであると思いますが…」と前置きされている(p.61)。
 皇太子・秋篠宮殿下の「考え」そのままに決定してほしいとかりに望まれているとしても法制上はそれが絶対的に可能だとは思われていないと推察されるのであり、上のご発言の基本的な趣旨は、国会が議論する際には、皇太子・秋篠宮の「考え」も十分に配慮して議論して決定してほしい、ということではないだろうか。
 国会(あるいは加えて政府・審議会)だけで議論すれば足り、皇族の意見などいちいち聴く必要はないと考えている者たちもいるので、その意味では、陛下のご発言は「実に異例」、あるいは画期的だったかもしれない。
 だがそれは、審議(議論)・決定の<過程>に皇族、とくに皇太子・秋篠宮殿下も参画する機会、ご意見を発表する機会が与えられ、かつそれが十分に配慮されるように望む、という趣旨ではないかと思われる。
 上の意味でのご発言に、私はまったく異存はない。皇太子・秋篠宮殿下に限らず、皇族は発言して(意見発表して)も構わない、と考える。その内容について自由に批判する自由も国民には(あるいは政治家・評論家等)あるが、しかしそうした発言をすること自体を<けしからん>・<余計な介入をするな>とは言えないだろう。そのような意味で、天皇陛下のご発言は理解されるべきではないか。
 上の趣旨に沿ったことを秋篠宮殿下も言われているようだが(p.63、「皇太子」とご自分・「秋篠宮」殿下にとりあえず限定されているようだ)、第二に、皇太子殿下や秋篠宮殿下のお考えが「女系天皇」の容認(p.65)、あるいは「将来の皇族は…皇太子と秋篠宮、そしてその子供が新設する宮家に限定すべき」というもの=かつての皇族の皇族復帰の否定(p.63)であるかどうかは、なおも断定できないし、断定してはいけないような気がする。
 小林は「というお考えにしか読めない」(p.63)、「誰にでも『お察し』できよう」(p.65)と言うが、それは自らの女系天皇容認論に都合のよいように推測(忖度)している可能性を、なおも論理的には否定できないのではないか? かりに「せっかく」の「サイン」だとしても(p.65)、あくまで推測であり、「忖度」の結果であることは明瞭に意識しておく必要があるように思われる。
 第三に、小林よしのりは女系天皇容認の論拠の一つとして皇祖・天照大御神が女性だったことを挙げ、「ならば日本の天皇は女系だったと考えることもできる!」と言っているようだが(p.66)、これはさすがに無理だ。
 天照大御神が女性だったとしても(これは間違いないだろう。「卑弥呼」も女性だ)、その後の天皇位の継承が<男系>主義でなされたことは歴史的事実だろう。女性天皇は存在したが例外的で、<女系天皇容認>の歴史的根拠を探すならば、皇子がいたのに皇女が皇位を継承した例、あるいは最初に生まれた子供が女性(皇女)だったが最長子を優先して天皇となった、というような例、というのを見出さなければならないように思われる。あらためて勉強する気持ちは今はないが、そのような例は皆無だったのではないか。
 まだ「天皇」位というものが意識されていない時代の、そしてまた後世(飛鳥時代・奈良時代)になっても「天皇」とはされなかった天照大御神が女性だったことを援用するのは、いかにも苦しい。
 「日本の天皇は女系だったと考えることもできる」と小林は言うが、その場合の「女系」という語は一般に理解された「女系」ではなく、拡張された、あるいはズラされた「女系」概念で、今日の議論にそのまま当てはまるものではないだろう。
 第四に、上の点をもち出したうえで、小林は男系限定論者は天照大御神が登場する「神話」を無視、否定しようとしていると批判しているが(p.66、p.73)、そこで登場させている小堀や新田均の主張を正確には知らないものの、これも無理筋、<いいがかり>にすぎないような気がする。
 小堀、新田均のこの問題に関する主張を支持している、と言いたいわけではない。彼ら「男系主義者」は天照大神を「排除」するために「神話」を「切り離し」、「何が何でも『神武天皇から』にしたいのだ、という論難は当たっていないような気がする、と言いたいだけだ。彼らとて、神話を完全に「否定」・「排除」する気などはないだろう。
 したがって、「神話を否定することは、天皇を否定することだ」、<男系主義者>は「どこまでカルト化」するのか、彼らは「うるさい少数者」で「左翼プロ市民と変わらない」、「神話と歴史を切り離し、天皇を単なるホモ・サピエンスの子孫としか」見ない、などと批判するのは(p.74)、感情的な表現で、それこそ「左翼プロ市民」の言い方にも似ている悪罵・罵詈雑言の類のように思える。
 それに、そもそもが、天照大神からか神武天皇からか、という議論の仕方は不毛なのではないか。
 第五に、最後の基本的な問題として、かりに天皇陛下や(重要な)皇族の意向が「忖度」できたとして、日本国民はそれを絶対的に支持しなければならないのか、という問題があるだろう。
 こんなことを書くと、小林よしのりから<不忠>・<左翼>と罵られるのかもしれないが、しかし、皇位継承の仕方は、歴史的に見ても、各時期の天皇や皇族の意向どおりになった、とは必ずしもいえないように思われる。この点もあらためて勉強しないで書くが、ときどきの政治的・世俗的権力者の意向も反映して定められたことはあったのではないか。
 そのような事例こそ異例であり、純粋に天皇・皇族の意向どおりに皇位の継承(とその仕方)は決定されるべきだ、という主張は成り立つだろう。しかし、かりに異例であっても事実としては、天皇・皇族の意向どおりには皇位継承されなかったこともあった。あるいはそもそも天皇・皇族の間で(皇室の内部で)皇位継承につき争いのあったこともあったのだ。
 天皇陛下や皇太子殿下等の皇族のご意向・ご意見も十分に考慮して審議・決定はなされるべきだろう。だが、かりに万が一正確に拝察できたとしても、「忖度」されたその内容に国民(・国会)はそのまま従うべきなのか、という問題はなおも残っている、と私は考えている。重く受け止めるべき、という程度のことは言えるだろう。しかし、「そのまま」拘束されるべき、とまで言えるのか…。
 以上は思考方法、論理の立て方の問題にかかわる。皇位継承の仕方の中身の問題については別途書くつもりだ。

0826/長部日出雄・「君が代」肯定論(小学館101新書)の一感想。

 長部日出雄・「君が代」肯定論(小学館101新書、2009)はずっと前に、概略は読んだ。タイトルはテーマではなく(あるいは一つにすぎず)、「世界に誇れる日本美ベストテン」として、伊勢神宮・出雲大社・古事記・法隆寺五重塔・東大寺大仏・明治神宮・「羅生門」・「釈迦十大弟子」・「お伽草紙」・「君が代」を挙げて、それぞれにつき叙述する。
 書物の趣旨・内容に大きな不満はないし、むしろ肯定的に読まれるべきだろう。
 しかし、気になることもある。
 第一。伊勢神宮を語るのに、カント→カントの墓のあるカリーニングラードで成育した建築家ブルーノ・タウト、という外国人二人からなぜ始めるのだろう。
 出雲大社を語るのに、ラフカディオ・カーンという外国人の経歴からなぜ始めるのだろう。
 古事記を語るのに、外国人作家C・S・ルイスの作品からなぜ書き始めるのだろう。
 東大寺大仏に関する叙述はなぜ、マックス・ウェーバーから始まるのだろう。
 文章の書き方の趣味・作法の一つと言われれば、そうだというしかないかもしれないけれども。
 第二。かつて何であったか忘れたが、長部日出雄の文章の内容に感心・共感するともに、「左翼臭」を感じたこともあった。
 長部が伊勢神宮を初めて訪れたのは「なんと還暦をすぎてから」らしい(p.24)。「敗戦直後」の「いちばん多感な少年期」のために、「皇国史観アレルギー」が「骨髄まで徹して」、伊勢神宮を含む高校の修学旅行への参加を拒否し、「以後もずっとそこを敬して遠ざける人生」だった、という(同上)。
 同書の著者経歴欄によると、長部日出雄(1934~)は大学中退後、「週刊誌記者、フリーライター」を経て「作家」活動に入っている。
 「皇国史観アレルギー」が「骨髄まで徹して」、伊勢神宮を「敬して遠ざけ」てきたのが正確にいつまでなのかは分からないが、中高年になっても、少なくとも「還暦」の頃までは、上のような心情・態度だったと推察される。「還暦をすぎて」、「生まれて初めて鳥居をくぐって、…一回りしたとたんに、いっぺんに宗旨変えし」た、と書いている(p.24)。
 伊勢神宮のもつ不思議な力については共感する。
 だが、気になるのは、とくに「週刊誌記者、フリーライター」の時代に、「皇国史観アレルギー」を抱きつつ、いかほど<進歩的>・<左翼的>な文章を書いてきたのだろう、ということだ。そして、読者にいかほど<進歩的>・<左翼的>な影響を与えてきたのだろう、ということだ。そのような文章を、今では<自責>とでも称しうるような感覚で振り返っているのだろうか。
 他人の、しかも「作家」様の人生経路を、とやかく言う資格はないかもしれないけれども。

0825/三島由紀夫「文化防衛論」の一部。

 三島由紀夫「文化防衛論」の末尾(最後の一段落)は、つぎのような文章だ。「昭四三、五、五」という執筆年月日が一番最後にある。
 「私がかういうことを言ふのは、東南アジア旅行で、……、共産主義の分極化と土着化の甚だしい実例を見聞してゐるからである。時運の赴くところ、象徴天皇制を圧倒的多数を以て支持する国民が、同時に、容共政権の成立を容認するかもしれない。そのときは、代表制民主主義を通じて平和裡に、『天皇制下の共産政体』さへ成立しかねないのである。およそ言論の自由の反対概念である共産政権乃至容共政権が、文化の連続性を破壊し、全体性を毀損することは、今さら言ふまでもないが、文化概念としての天皇はこれと共に崩壊して、もつとも狡猾な政治的象徴として利用されるか、あるひは利用されたのちに捨てられるか、その運命は決つてゐる。このやうな事態を防ぐためには、天皇と軍隊を栄誉の絆ーでつないでおくことが急務なのであり、又、そのほかに確実な防止策はない。もちろん、かうした栄誉大権的内容の復活は、政治的概念としての天皇をではなく、文化概念としての天皇の復活を促すものでなくてはならぬ。文化の全体性を代表するこのやうな天皇のみが窮極の価値自体だからであり、天皇が否定され、あるひは全体主義の政治概念に包括されるときこそ、日本の又、日本文化の真の危機だからである。/―昭四三、五、五―」
 (初出-中央公論昭和43年7月号。決定版三島由紀夫全集第35巻p.50-51(新潮社、2003))
 <文化概念としての天皇>なる概念に拘るつもりはない。 
 「象徴天皇制を圧倒的多数を以て支持する国民が、同時に、容共政権の成立を容認するかもしれない。そのときは、代表制民主主義を通じて平和裡に、『天皇制下の共産政体』さへ成立しかねない」、という41年前の三島の懸念と予想は現実化しつつあるのではないか。三島の鋭さと今現実にある虞れを、ともに強く感じる(なお、現在の「国民」が「圧倒的多数を以て」「象徴天皇制を支持」していると考えるのは、甘い認識である可能性もある)。
 「〔文化概念としての〕天皇が否定され、あるひは全体主義の政治概念に包括されるときこそ、日本の又、日本文化の真の危機だ」、という指摘も適確だと思われる。皇太子妃バッシングに耽り、「小和田王朝」うんぬんと能天気なことを話題にする前に、「天皇」(制度)、そして「日本」の危機こそが深刻に意識されなければならないのではないか。雅子妃殿下こそが「天皇」(制度)と「日本」の危機の一因だなどと喧伝するのは狂気の所業だ。また、皇太子妃の「公務」なるものを平気で語る知識人(らしき者)がいるのにも驚いている。
 「〔文化概念としての天皇が崩壊して、〕もつとも狡猾な政治的象徴として利用されるか、あるひは利用されたのちに捨てられるか、その運命は決つてゐる」、という指摘も-怖ろしくも-当たっていると思われる。
 
<容共>政権のもとで、米国よりも中国(中国共産党)を選好するような政策が選択されれば、その行き着くところは、<容共>政策のために「利用される」かぎりでの(中国共産党にとって少なくとも邪魔にならない)「天皇」(制度)が残るか、現憲法上の「天皇」条項が国会議員の2/3以上の発議によって国民投票にもとづき削除されるか、ではないか。
 この懸念・憂慮は、まっくの杞憂だとは思えない。心ある日本国民は、現実を深刻に受けとめる必要がある。

ギャラリー
  • 1982/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05⑤。
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  • 1980/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05④。
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  • 1978/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05②。
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  • 1920/L・コワコフスキ著第三巻第四章第5節。
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  • 1916/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑳完。
  • 1916/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑳完。
  • 1906/NYタイムズ2009.07.20の訃報-L・コワコフスキ。
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  • 1901/Leszek Kolakowski-初代クルーゲ賞受賞者。
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  • 1900/Leszek Kolakowski の写真。
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  • 1811/リチャード・パイプス逝去。
  • 1811/リチャード・パイプス逝去。
  • 1809/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑧。
  • 1777/スターリン・初期から権力へ-L・コワコフスキ著3巻1章3節。
  • 1767/三全体主義の共通性⑥-R・パイプス別著5章5節。
  • 1734/独裁とトロツキー②-L・コワコフスキ著18章7節。
  • 1723/2017年秋-兵庫県西脇市/大島みち子の故郷。
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  • 1721/L・コワコフスキの「『左翼』の君へ」等。
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