秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

天皇・皇室

2645/高森明勅のブログ③—2023年6月11日。

 一 高森明勅の2023年6月11日付ブログ。
 この記事は「旧宮家系男性」が現存するのは「久邇・賀陽・竹田・東久邇の4家」としたうえで、こう書く。
 「なお、これらの諸家は…、全て非嫡系(側室に出自を持つ系統)である。
 ところが、現在の皇室典範では“一夫一婦制”を前提として、皇族の身分を厳格に嫡出・嫡系(正妻に出自を持つ系統)に“限定”している(皇室典範第6条)。
 よって、非嫡系の男子に新しく皇族の身分を認めることは、制度上の整合性を欠くとの指摘がある(大石眞氏)。
 「現行法が採用する強い嫡出制原理との整合性という点から考えると、『皇統に属する男系の男子』がすべてそのまま対象者・適格者になるとするのは問題であろう」(大石氏、第4回「“天皇の退位等に関する皇室典範特例法に対する附帯決議”に関する有識者会議」〔令和3年5月10日〕配布資料)
 この指摘を踏まえると、(仮に「門地差別」や当事者の意思などの問題を一先ず除外しても)旧宮家系男性に「対象者・適格者」は“いない”、という結論になる(非嫡系の旧宮家が、現行典範施行後、皇籍離脱までの僅かな期間〔5カ月ほど〕、皇族の身分を保持できたのは、典範附則第2項の“経過規定”による)。」
 以下、秋月の文章。これで、旧皇族系男性の皇族復帰(・養子縁組)が法的理屈上ほぼ不可能であり、絶望的であることは「決まり」だ。後記のことを考慮すると、正確には「ほとんど決まり」。
 秋月が気づくのが遅れたので、上の資料上の大石眞の文章をもう少し長く抜粋的に引用しておく。
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 皇室典範特例法附帯決議有識者会議(2021年5月10日)・配布資料3—大石眞。
 皇族数の減少をもたらす「制度上の潜在的な要因」がある。養子縁組ができないこと(典範9条)、「明治典範とは異なって(旧典範4条参照)、三后を除いて皇族であるためには、すべて『嫡出の皇子』と『嫡男系嫡出』の皇孫・子孫とされて嫡出原則が強く求められ(典範6条)、庶出・庶系の者はすべて排除される」こと、婚姻により皇族女子が「皇族を離脱」するとされること(典範12条)、の三つだ、
 「とくに皇位継承という面から見ると、嫡出制原理のもつ意味は大き」い。
 継続的な継承資格者確保のための「立法論としては、(1) 「皇統に属する男系の男子」、及び、(2) 『嫡出』である皇族」という要件の「いずれか又は両方を緩和することによって、その範囲の拡大を図るほかはない」。
 このうち、「(2) の庶出を認めるべきかどうかについては議論が乏しい」。この点から考察すると、「皇庶子孫の皇位継承」を明治典範は認めたが(旧典範4条)、そこには夭折する皇子が多かったこと、光格・仁孝・孝明のほか明治天皇や嘉仁親王(のち大正天皇)も皇庶子だったこと、という事情がある。「我が国の庶出を断たざるは実に已むを得ざるに出る者なり」(旧典範4条義解)なのだった。
 「現行典範の制定過程では、嫡出子に限ると皇位継承資格者を十分に確保できないのではないかとの懸念が示された。しかし、立案者側は、『庶出子は正しい系統ではない』とする国民の間における『道義心』を理由に庶出・庶系を外したと説明している。しかも、いわゆる正配・嫡妻のほか側室を正面から認めるような国民意識の乏しい現在では、上記(2) の嫡出要件を外す途は建設的な議論といえない」。
 「そのため、結局、上記(1) の男系・男子要件を外すことにより皇位継承資格者の拡大を図るしかない」。
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 この大石眞の見解と、「旧宮家系男性」は「全て非嫡系(側室に出自を持つ系統)」だとの高森明勅の認識が結びつくと、「旧宮家系男性に〔皇族「復帰」・皇位継承の〕「対象者・適格者」は“いない”」との高森の結論となる。
 「庶出を認めるべきかどうかについては議論が乏しい」ので秋月も十分に意識していなかったが、大石の見解は妥当と思われる。
 旧皇族の後裔者が現存していても、現皇室典範の<嫡出原理>もとでは、「皇族」化するのはきわめて困難であり、かつ現典範上のその原理を廃止するのは現実的・建設的ではない、ということだ。
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  しかし、上は厳密には、現皇室典範のレベルでの議論だとも思われる。
 そこで、これまでの議論にやや奇妙な思いももってきたので、この機会に、若干のことを付言したい。憲法レベルでの議論は完全に尽くされているのだろうか。
 第一。数年前に青山繁晴ら自民党国会議員有志が男子に限っての旧皇族(の後裔たち)の皇族「復帰」を目指す提言(または法案)を発表したとき、不思議に思ったのは、当該旧皇族個々人の「同意」・「合意」が必要であることを前提にしていることだった。
 西尾幹二も、「皇族」となる意思のある旧皇族(の子孫)はいるかと、竹田恒泰に訊ねていたことがある(二人の対談書で)。
 しかし、将来に皇位を継承する(=天皇となる)か否かが「皇族」化に関する当事者の<意思>に依存するというのは、つぎの意味で適切でない、と考える。
 世襲たる天皇位はその「血統」を理由として継承される。ときどきの、または関係個々人の「意思」によるのではない。「皇族」化に同意した者には皇位継承の可能性が開かれ、同意しない者にはその可能性は一切なくなる、というものではないだろう。
 「同意」を要件とするのは、一方的・強制的でなく「合意・同意」にもとづいて穏便に、という戦後の「風潮」に合致し、つぎに触れるが、一般国民となっている者の「人権」に配慮しているのかもしれない。
 第二に、国民の一部の「皇族」化は、—上で出てくる高森の表現では—「門地による差別」であって憲法上絶対に許されない、と言い切れるのかどうか、なおも疑問とする余地がある。高森はこの点を疑っていないようだが。
 全ての「人権」も、「平等取扱い要求」も、絶対的なものではなく、「公共の福祉」による制限を課し得ることは憲法自体が許容している(この点に一般論としては争いはない)。
 問題は、制限する、問題に即してより具体的に言えば国民の一部を一方的(・強制的)に「皇族」化して「身分」を変更し「自由」を制限することを正当化することができるだけの「公共の福祉」はあるのか、その「公共の福祉」とはいったい何か、だ。
 このように問題を設定しなければならないのではないか。
 その「公共の福祉」として考えられるのは、現憲法も「価値」の一つとしている<天皇位>の保持だ。つまり、<安定的・継続的な皇位就任資格者の数の確保>だ。
 これが個々の一定の国民を「門地により差別」し、「平等」には取り扱わない根拠・理由になり得るならば、そのための(一方的な)法律策定・改正もまた憲法上許容される、と考えられる。
 このような議論をしてほしいものだ、と感じてきた。
 こう書いたからといって、上の具体的な「公共の福祉」を持ち出すことによる憲法上の正当化ができる、と秋月は主張しているのではない。
 男系天皇制度護持を強く主張する者たちこそが、「同意」要件などを課さずに、こういう議論をし、こういう「論法」を採用すべきだ、と感じてきただけだ。<男系天皇の保持>はこの人たちにとって、日本国家の存立にかかわる、絶対的な「公共の福祉」ではないのか。
 「国民意識」や国民の「道義心」を理由として<嫡出原理>の廃止は困難だとする大石の議論の仕方も参照すると、結論的に言って、法律(典範)改正等による一定範囲の男性国民だけの「皇族」化は、世論の支持を受けず、法的にも<安定的な(男性皇族による)皇位継承>という「公共の福祉」による正当化を受けそうにないと思われる。
 したがって、結論は、おそらく高森明勅と異ならない。
 なお、以上のようなことはすでに誰かが書いているかもしれない、と弁明?しておく。
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2637/月刊正論(産経新聞社)と皇室。

  月刊正論(産経新聞社)という雑誌のすごいところは、いや凄まじいところは、<祝・令和—改元特大号>と謳った同2019年6月号の<記念特集・新天皇陛下にお伝えしたいこと>に西尾幹二と加地伸行の文章を掲載していることだ。
 西尾幹二は2008年に〈皇太子さまへの御忠言〉(ワック)を出版し、2012年にそれに加筆して文庫(新書?)化して再刊した。また同年には別途『歴史通』に「『雅子妃問題』の核心」という文章を書いて、現在の天皇(当時の皇太子)は「…と言ってのけた」と表現するなどし、現在の皇后(当時の皇太子妃)を「地上に滅多に存在しない『自由』の実験劇場の舞台を浮遊するように、幻のように生きている不可解な存在」表現し、離婚せよの旨を明確に出張した。さらに、2008年8月のテレビ番組で西尾は、雅子妃は「仮病」だから「一年ぐらい以内にケロッと治る」だろう、雅子妃は「キャリアウーマンとしても能力の非常に低い人。低いのははっきりしている」、「実は大したことない女」と発言したらしい。
 加地伸行の当時の皇太子・同妃に対する主張も似たようなものだった。
 しかるに、二人のこうした主張・見解を知っていたはずだが、菅原慎一郎を編集代表とする月刊正論2019年6月号は、当時の皇太子・同妃が天皇・皇后に即位する時点で、「新しい天皇陛下にお伝えしたいこと」の原稿執筆を依頼した。そして、この二人は、文章執筆請負業の「本能」からか?、原稿を寄せた。
 西尾幹二、加地伸行は、かつてのそれぞれ自身の発言・文章に明確には言及しておらず、むろん取消しも撤回もせず、当然のこととして「詫び」もしていない。
 よくぞ、「新天皇陛下にお伝えしたいこと」と題して執筆できたものだ。
 二人の「神経」の正常さを疑うとともに、月刊正論(・菅原慎一郎)の編集方針(原稿執筆依頼者の選定を含む)もまた、「異常」だと感じられる。
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  月刊正論の元編集代表(2010年12月号〜2013年11月号)だった桑原聡は、「天皇陛下を戴く国のありようを何よりも尊い、と感じることに変わりはない」旨を編集代表としての最後の文章の中で書いた。
 これは、いわば<ビジネス保守>の言葉だけの表現ではないか、との疑問はある。
 上の点はともかく、月刊正論、そして産経新聞社、産経グループ全体が読売新聞社系メディアよりも<より親天皇(天皇制度)>的立場にあった(ある)、という印象はあるだろう。
 しかし、現在の天皇・皇后、上皇・上皇后各陛下等々の皇室の方々は、月刊正論・産経新聞社・産経グループを「最も支持し、最も後援してくれる」最大の味方だと感じておられるだろうか。
 すでに誰かが書いているだろうように、また書かずとも広く理解されてしているだろうように、桑原聡の上の言葉とは違って、月刊正論(・産経新聞社)は全体として皇室の「味方」だとは思えない。
 前天皇の「退位」に反対した(終身「天皇」でいるべきだと主張した)櫻井よしこ、平川祐弘、八木秀次、加地伸行らは月刊正論や産経新聞「正論」欄への主要な執筆者だった(秋月による「あほ」の人たち)。当時の天皇はこの議論に「不快」感をもったとも報道されたようだが、その真否を確言できないとしても、当時の天皇の意向とはまるで異なっていたことは明確だった。
 現在の皇后、雅子妃、前皇太子妃を最も厳しく攻撃し、批判したのは、西尾幹二だっただろう
 その西尾幹二はまた、月刊正論や産経新聞「正論」欄への継続的な執筆者だった(2023年時点でどうかは知らない)。
 現在の皇后、雅子妃も、現在の天皇、前皇太子も、西尾幹二が自分たちについてどのように書き、どのように主張していたかを、よくご存知だったと思われる。
 皇居内の「私的」空間にはおそらく主要な新聞紙が置かれ、それらのうちいくつかには西尾幹二のものも含む単行本の宣伝広告も掲載されていただろう。そして、皇族であっても「私的に」本や雑誌を購入することは可能だ。
 西尾幹二によって、小和田家まで持ち出されて攻撃された雅子妃は、ひどく傷つかれただろう。西尾幹二の言い分は、「病気」治癒を却って遅らせるものだった。前皇太子も、激しい怒りを感じられたに違いない。
 西尾幹二は前皇太子・同妃が2019年(5月)に新天皇・新皇后として即位するとは思いもしていなかっただろう。2016年に「意向」表面化、2017年にいわゆる退位特例法成立だったが、西尾は早くとも2012年まで、皇太子等を批判し続けた。「不確定の時代を切り拓く洞察と予言」の力(西尾・国家の行方(産経新聞出版、2020)のオビ)が、彼にはなかったのだ。
 西尾幹二は2008年に、自分の文章を「一番喜んでおられるのは皇太子殿下その方です。私は確信を持っています」と発言したようだが、いったいどういう「神経」があれば、こういう態度がとれたのだろう。
 現在の天皇・皇后にとって、西尾幹二は「最大の敵」ではなかったか、と思われる。
 その人物を、改元=新天皇・新皇后即位の記念号の執筆者の一人として起用した月刊正論(編集部)もまた、「異様」だ。
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 参考→Yoshiki, 即位10年奉祝曲・Piano Concerto "Anniversary"

2636/加地伸行・妄言録—月刊WiLL2016年6月号<再々掲>。

 加地伸行月刊WiLL2016年6月号(ワック)での発言と秋月瑛二のコメント(2017年07月16日No.1650)の再々掲。
 対談者で、相槌を打っているのは、西尾幹二
 最初に掲載したとき、冒頭に、つぎの言葉を引用した。
 「おかしな左翼が多いからおかしな右翼も増えるので、こんな悪循環は避けたい」。
 平川祐弘「『安倍談話』と昭和の時代」月刊WiLL2016年1月号(ワック)。
 2023年5月末の時点で書くが、平川祐弘はこのとき、自分自身が「おかしな右翼」と称され得ることを全く意識していなかったようで、可笑しい。
 なお、花田紀凱編集長の月刊Hanada(飛鳥新社)の創刊号は2016年6月号で、加地伸行の対談発言が巻頭に掲載されたのは、「分裂」後最初の月刊WiLLだった。おそらく、手っ取り早く紙面を埋めるために起用されたのが、加地伸行・西尾幹二の二人だったのだろう(対談だと録音して容易に原稿化できる)。
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 <あほの5人組>の一人、加地伸行。月刊WiLL2016年6月号p.38~より引用。
 「雅子妃は国民や皇室の祭祀よりもご自分のご家族に興味があるようです。公務よりも『わたくし』優先で、自分は病気なのだからそれを治すことのどこが悪い、という発想が感じられます。新しい打開案を採るべきでしょう。」p.38-39。
 *コメント-皇太子妃の「公務」とは何か。それは、どこに定められているのか。
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 「皇太子殿下は摂政におなりになって、国事行為の大半をなさればよい。ただし、皇太子はやめるということです。皇太子には現秋篠宮殿下がおなりになればよいと思います。摂政は事実上の天皇です。しかも仕事はご夫妻ではなく一人でなさるわけですから、雅子妃は病気治療に専念できる。秋篠宮殿下が皇太子になれば秋篠宮家が空くので、そこにお入りになるのがよろしいのでは。」p.39。
 *コメント-究極のアホ。この人は本当に「アホ」だろう。
 ①「皇太子殿下は摂政におなりにな」る-現皇室典範の「摂政」就任要件のいずれによるのか。
 ②「国事行為の大半をなさればよい」-国事行為をどのように<折半>するのか。そもそも「大半」とその余を区別すること自体が可能なのか。可能ならば、なぜ。
 ③ 「皇太子はやめるということです。皇太子には現秋篠宮殿下がおなりになればよい」-意味が完全に不明。摂政と皇太子位は両立しうる。なぜ、やめる? その根拠は? 皇太子とは直近の皇嗣を意味するはずだが、「皇太子には現秋篠宮殿下」となれば、次期天皇予定者は誰?
 ④「仕事はご夫妻ではなく一人でなさる」-摂政は一人で、皇太子はなぜ一人ではないのか?? 雅子妃にとって夫・皇太子が<摂政-治療専念、皇太子-治療専念不可>、何だ、これは?
 ⑤雅子妃は「秋篠宮家が空くので、そこにお入りになるのがよろしい」-意味不明。今上陛下・現皇太子のもとで秋篠宮殿下が皇太子にはなりえないが、かりになったとして「空く」とは何を妄想しているのか。「秋篠宮家」なるものがあったとして、弟宮・文仁親王と紀子妃の婚姻によるもの。埋まっていたり、ときには「空いたり」するものではない。
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 「雅子妃には皇太子妃という公人らしさがありません。ルールをわきまえているならば、あそこまで自己を突出できませんよ。」 p.41。
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 「雅子妃は外にお出ましになるのではなくて、皇居で一心に祭祀をなさっていただきたい。それが皇室の在りかたなのです。」p.42。
 *コメント-アホ。これが一人で行うものとして、皇太子妃が行う「祭祀」とは、「皇居」のどこで行う具体的にどのようなものか。天皇による「祭祀」があるとして、同席して又は近傍にいて見守ることも「祭祀」なのか。
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 「これだけ雅子妃の公務欠席が多いと、皇室行事や祭祀に雅子妃が出席したかどうかを問われない状況にすべきでしょう。そのためには、…皇太子殿下が摂政になることです。摂政は天皇の代理としての立場だから、お一人で一所懸命なさればいい。摂政ならば、そ夫人の出欠を問う必要はまったくありません。」
 *コメント-いやはや。雅子妃にとって夫・皇太子が<摂政-「お一人で一所懸命」、皇太子-「出欠を問う必要」がある>、何だ、これは? 出欠をやたらと問題視しているのは加地伸行らだろう。なお、たしかに「国事行為」は一人でできる。しかし、<公的・象徴的行為>も(憲法・法律が要求していなくとも)「摂政」が代理する場合は、ご夫婦二人でということは、現在そうであるように、十分にありうる。
 以下、p.47とp.49にもあるが、割愛。
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 この加地伸行とは、いったい何が専門なのか。素人が、アホなことを発言すると、ますます<保守はアホ>・<やはりアホ>と思われる。日本の<左翼>を喜ばせるだけだ。
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 以上。

2629/西尾幹二批判063。

 以下は、西尾幹二の言説(妄言)の「歴史的記録」として。あるいは、その「人格」を例証する一つとして。このとき、満76歳。
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 西尾幹二「『雅子妃問題』の核心」歴史通2012年5月号(ワック)
 一部(当時の皇太子妃批判・攻撃)を引用する。以下での「皇后陛下」は現在の上皇后陛下、「皇太子妃殿下」・「雅子妃」は現在の皇后陛下、「皇太子殿下」は現在の天皇陛下—以上、引用者。一文ずつで改行した。/は本来の改行箇所。下線は引用者による。
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 ①「皇后陛下は…耐え、馴れて、ご自身の世界を切り拓いて新境地に達した。
 皇太子妃殿下はいまだその域に達していない。
 『適応障害』といわれて九年目になる。
 一般人の自由を奪われたことが病気の原因であることは間違いない。
 皇室という環境にあるかぎり病気は治らないと医師も証言している。
 であるなら、道は二つに一つしかない。
 皇室を離れて、一般人の自由を再び手に入れるか、それとも皇室の掟に従うことを覚悟して、わが身に自由は存在しないことを大悟徹底するか、の二つに一つである。/」p.36。
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 ②皇室問題に「独特の混乱」を招いているのは「女性宮家創設」問題ではなく、「男系か女系か」も「緊急のテーマ」ではない。
 「最重要の問題は、雅子妃が皇室に一般的人の自由を持ち込み始めていることである。
 そしてそれを次第に拡大し、傍目にも異常に見えるようになったのは、単に皇室の掟に従わないだけではなく、一般社会人も当然生活する上で日常のさまざまな掟に縛られているのであるが、彼女はそこからも解放され、自由であり、天皇に学び皇后に従い皇室の歴史における自分の立つ位置を定めるという義務を怠っているので、一般社会からも皇室からも解放され、ついに何者でもない宇宙人のような完璧に自由であるがゆえに、完璧に空虚な存在になりはじめていることである。」p.36〜p.37。
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 ③「皇太子殿下」は…と「発言されたのだ」。
 「病気治癒に役立つなら公務を私的に利用すると平然と言ってのけたのでる。
 つい口を滑らして本音が出てしまったのかもしれないが、一般人が享受する私的自由は皇室にはない、との覚悟を内心深く蔵していたなら、不用意であっても、こんな言葉が出てくる筈はない。
 一般人の自由を皇室に持ち込み、なにごとも "自分流" を通されようとする妻の影響下に置かれている有様が透けて見えるようで、悲しい。/」p.37。
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 ④佐藤あさ子『雅子さまと愛子さまはどうなるのか?』(草思社)の「以上の叙述と思想から浮かび上がってくるのは、一般社会からも皇族社会からも完全にフリーな、どちらにもコミットしていない真空地帯、稀にみる楽園のような、地上に滅多に存在しない『自由』の実験劇場の舞台を浮遊するそうに、幻のように生きている不可解な存在である。…
 天皇陛下皇后陛下には生活があり、佐藤さんはじめ働く一般庶民にも生活があるが雅子妃には『生活』がない。
 無限の自由の只中にあって、それゆえに自由を失っている。
 ご病気の正体はこれである。/
 『裸の王様』という言葉があるが、ご自分ではまったく気がついていないものの、外交官のライフスタイルを失ったという嘆きやぼやきが思うに唯一の生き甲斐となり、夫への怨みや脅迫となり、与えられた花園の中を好き勝手に踏み歩く権利意識になっていると思われる
 …、学歴も高く才能もあるといわれて久しいのにほとんど目ぼしい活動もなく、子供の付き添い登校にひどくこだわって顰蹙を買ったのも、理由ははっきりしている。
 『生活』のないところにどんなライフワークも生まれようがないからである。/」p.41〜p.42。
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 ⑤「妃殿下に皇族として生きる覚悟が生じたときにはじめて彼女の『生活』が開始する。
 あるいは、ご離婚あそばされ、一般民間人になられたなら、そこでも『生活』が始まることは間違いない。
 その中間はない。
 どっちつかずの真中はない。
 あれかこれかの二つに一つで、選択への決断だけが彼女に自由を与える。/
 これがどうしてもお分かりならないでいる。
 そのために現代社会では起こり得ない次のような奇怪な絵図が展開されている。/
 「雅子妃の愛子さま付き添い登校」等…。
 「…、つい先頃まで毎日のように学習院初等科の校門前で行われた…珍妙な儀式は、封建時代の悪大名の門前を思わせる、たしかに ”異様” の一言でしか言い表せない光景である。
 こんな出来事がわれわれの現代社会に立ち現れていたことはまことに嘆かわしいし、恥しい。/」
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 参考。→即位祝賀奉祝曲・嵐「Ray of Water」(作曲・菅野よう子)、2019年11月9日

2490/西尾幹二批判050—古事記には男性天皇だけ?

 「彼らには学問上の知識はあるが、判断力はなく、知能は高いが、知性のない人たちなのだ。
 彼らの呪いのヴェールを破り、裸形の現実をありのままに見るようにならない限り、これからの日本も世界も浮かばれないだろう。
 以上、西尾幹二・全集第11巻「後記」の実質的に最後の文章。2015年。
 特定の者たちへの罵倒の言葉は相変わらずだ。だが、西尾は上の「彼ら」の中に、なぜ自分を含めていないのか。
 F. Turner やR. Pipes の本を「試訳」しつつ、西尾幹二の書や文章も見ている。
 とりわけ、全集の「自己編集」ぶりと長い「後記」での自己賛美ぶりは、ひどい。
 と感じつつ、予定の草稿を掲載していこう。
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  「山ほど」ある中から、便宜的に、手元に資料があるものから再開する。  
 月刊諸君!2006年4月号、p.50以下。
 皇位継承につき、男系男子限定論に立って女系天皇容認論とその論者を批判するものだ。
 もともとはと言えば、西尾幹二にとって男系でも女系でも本質的な問題ではなく、ただ<産経文化人>の一人たる位置を占めたいがための主張であるような気もする。
 女系天皇容認論者として田中卓・所功・高森明勅の三人を挙げているが(小林よしのりの名はない)、この三人はいっとき以降、産経新聞や少なくとも月刊正論(産経)には寄稿者として登場しなくなった。西尾幹二は、「ごほうび」ではないだろうが(いや、そうであるかのごとく)、「正論メンバー」にとどまり続け、2020年には国家の行方(産経新聞出版、編集担当・瀬尾友子)を出版してもらっている。
 また、上が「邪推」だったとかりにしても、西尾幹二における独特の歴史観・宗教観・現実感覚がこの問題についても背景にあると考えられるが、今回では立ち入らない。
 簡単に記せば、神道や仏教への自分の「信仰」を何ら語らないにもかかわらず、(西尾が男系男子限定を語るとじつは「解釈」する)<日本の神話>への「信仰」だけは、なぜ語るのか?、なぜこの人には「神話信仰」だけはあるのか?、だ。不思議な思考過程・思考方法がこの人物にはある。
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  上の文章に内在的な論点に限る。容易に気づいた点だ。
 第一に、西尾はこう田中卓を批判する。p.57。
 「田中卓氏は前掲論文で皇室には『氏』がないという特色を理解せよ、というが、それはダメである。
 『氏』がなくても系図が意識されている。
 現代は古代社会ではない。
 西尾は得意げに書いているようだ。
 『氏』うんぬんの論争の意味を秋月は知らない。しかし、上のような「反駁」の<方法>はおかしい。
 なぜなら、西尾は「現代は古代社会ではない」とするその「現代」の日本人であるにもかかわらず、「古代社会」に作られた(8世紀)または生まれた(史実を反映しているとすると内容はもっと前にさかのぼる)「神話」の内容を根拠にして、男系男子限定論を主張しているではないか。
 一方では「古代社会」でないのだからと主張し、一方では西尾が想念する「古代社会」にズッポりとはまっている。思考「方法」、評価の「基準」に一貫性がない。
 ついでに言えば、「神代」-「人代」の区別はなく、神代の「神」につながることこそ天皇家の世界に唯一の特質だと西尾は語るが、この辺りでは、この人は、上に少し触れたが、「神話」と史実、「信仰」と現実を完全に相対化している、または区別していない。「認識論」上の問題を胚胎している。
 そんな「哲学」的問題をこの人は無視するのだろうが、指摘されるべきは、西尾のような「神話信仰」が「現代」の日本人にいかほど理解されるかどうかだ。単純な理性・非理性、科学・非科学の問題に持ち込んではならない。
 なお、別の2019年の発言によると、神話信仰または神話それ自体が「日本的な科学」らしい(月刊WiLL2019年4月号)。こんな言葉の悪用、言葉「遊び」をしてはならない。
 また、水戸光圀・大日本史は「記紀神話」を歴史とせず、そこでの「神代」は除外された、と西尾幹二自身が上の中で書いている(p.54、「日本的な科学」の精神を持っていなかったわけだ)。
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  第二に、決定的間違いがある。西尾幹二は古事記も日本書紀もきちんと読んでいないと何回か書いてきたが、ここでもそれが暴露されている。
 天照大御神が女性神だったとしても、このことは女系天皇容認論の直接的論拠にはなり得ないだろう。
 この点はよいのだが、西尾は、女系天皇の実例があるのなら、それを「明証」せよ、との論脈で、つぎのように諭すように?明記した。p.56。
 「『古事記』に出てくる天皇はすべて男性ではないか」。
 ああ、恥ずかしい。
 日本書紀(720年)より先に成立し献上されたらしい古事記は(だが8世紀)、前者より前の時代までしか対象としていないが、最後に言及されている天皇は、推古天皇だ(明治に作られた皇統譜では第33代とされる)。
 西尾は、推古天皇も(じつは)男性だったと「明証」できるのだろうか。本居宣長がそう書いていたのだろうか。
 『古事記』の最後の部分を捲らないで上のように執筆して、活字にすることのできる人物に、「神話」信仰を説き、皇位継承者論議に加わる資格はないだろう。
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  ついでに。 
 第一。女系天皇容認論者(田中卓・所功・高森明勅)に対する一般的言葉は「迂闊」というだけだ(p.55)。
 2002年の小林よしのり批判、2006-7年の八木秀次批判に比べると、はるかに優しい。小林、八木への批判の仕方は(ニーチェにも似た?)西尾の精神・「人格」を示していると思うので、「人格」なる抽象的なものが全てまたはほとんどを決めるとは全く考えていないが、別に触れる(対八木についてはすでに紹介しているが反復する)。
 第二。いわゆる奈良時代の天皇は、天武と淡路廃帝(淳仁天皇)を除いて、元明は持統の実妹、その他は持統天皇の血を引く、その意味では女系天皇だ(元正は女性天皇・元明の娘なのでまさに女系だと表現してよいだろう。但し、これら2名は草壁皇子・文武・聖武への「中継ぎ」だと<解釈>されもする)。
 天武の血を引く男子だが母親は持統とその子孫ではなかった者は少なくなく、上の淳仁のほかにも、例えば、大津皇子(大伯皇女の弟)、長屋王がいた。大津(二上山に墓)は持統により殺されたともいう。
 抽象論・観念論好きの西尾幹二は、こんな瑣末な?ことにはきっと興味すらないのだろう。
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2479/高森明勅のブログ②—2021年11月12日。

  内親王だった女性と某民間人の結婚をめぐるマスコミの報道姿勢についてこう書く(もともとはテレビ放送予定の発言内容だったようだ)。
 ①「その人物は早い段階で弁護士に相談したが、法的に勝ち目がないと言われていたことを、自ら語っている。にも拘らず、…ご婚約が内定した後に、にわかに“金銭トラブル”として週刊誌で取り沙汰されるようになった。この間の経緯は、不明朗な印象を拭えない」。
 ②「一次情報にアクセスできず、又しようともせずに、真偽不明のまま無責任なコメントを垂れ流して来たメディアの責任は大きい」。
 ③「『週刊現代』の記者が当該人物の代理人めいた役割を果たしていたことは、ジャーナリズムにとってスキャンダルと言ってよい事実だが、その記者に直撃取材をしたメディアはあるのか」。
 ④「上皇后陛下の半年間に及ぶ失声症、皇后陛下の今もご療養が続く適応障害に続いて、眞子さまも複雑性PTSDという診断結果が公表された。名誉毀損罪、侮辱罪で相手を訴えることも事実上できず、言論による反論の自由すらない皇室の方々に対して、いつまで一方的な誹謗中傷を続けるのか」。
 上のうちほとんど無条件で共感するのは、③だ。
 この『週刊現代』の人物は、母親の元婚約者とかに「食い込んで」いたようで、要所要所で感想を聞いたりして、『週刊現代』(講談社)に掲載したようだ。但し、法職資格はなく、「法的」解決のために動いた様子はない。
 この記者(講談社の社員?)の氏名を同業者たち、つまりいくつかの週刊誌関係者、同発行会社、そしてテレビ局や新聞社は知っていたか、容易に知り得る立場にあったと思われる。
 一方の側の弁護士は氏名も明らかにしていたように思うが、この記者の個人名を出さなかったのは、本人が「困る」とそれを固辞したことの他、広い意味での同業者をマスメディア関係者は「守った」のではないか
 そう感じているので、「その記者に直撃取材をしたメディアはあるのか」(上記)との疑問につながるのはよく分かる。
 (『週刊現代』の記事は個人名のあるいわゆる署名記事だったとすると上の多くは適切ではなくなるかもしれないが、その他のメディアがその氏名情報を一般的視聴者・読者に提供しなかったことの不思議さ、「その記者に直撃取材をしたメディアはあるのか」という疑問の正当性に変わりはないだろう。)
 マスメディアは一般に、大臣等の政治家の名前を出しても、各省庁の幹部の名を出さない(情報公開法の運用では、たしか本省「課長」級以上の職員の氏名は「個人情報」であっても隠してはならないはずだが。公開することの「公益」性を優先するのだ)。
 個人情報の極め付けかもしれない氏名を掲載または公表すべきか、掲載・公表してよいか否かの基準は、今の日本のマスメディアにおいて曖昧だ、またはきわめていいかげんだ、と思っている。
 立ち入らないが、例えば災害や刑事事件での「死者」の氏名も個人情報であり、警察等の姿勢どおりに安直に掲載・公表したりしなかったりでは、いけないはずなのだが。
 災害や刑事事件には関係のない『週刊現代』の記者の氏名の場合も、その掲載・公表には<本人の同意>が必要だ、という単純なものではない筈だ。
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  高森の上の④も気になる。「誉毀損罪、侮辱罪で相手を訴えることも事実上できず、言論による反論の自由すらない皇室の方々…」というあたりだ。
 天皇は民事裁判権に服さない(被告にも原告にもなれない)という最高裁判決はあったと思う。但し、皇族についてはどうかとなると、どいう議論になっているかをよく知らない。
 しかし、かりに告発する権利が認められても、いわゆる親告罪である名誉毀損罪や侮辱罪について告訴することは「事実上できず」、反論したくとも、執筆すれば掲載してくれる、または反論文執筆を依頼するマスメディアは今の日本には「事実上」存在しないだろう。
 そういう実態を背景として、相当にヒドい言論活動があるのは確かだ。
  「上皇后陛下の半年間に及ぶ失声症」の原因(の一つ)は、高森によると、花田紀凱だ。
 「皇后陛下の…適応障害」が少なくとも継続している原因の一つは、おそらく間違いなく西尾幹二だ。
 「仮病」ではないのに「仮病」の旨を公的なテレビ番組で発言して、「仮病」なのに病気を理由として「宮中祭祀」を拒否している、または消極的だとするのは、立派に「名誉毀損罪」、「侮辱罪」の構成要件を充たしている。
 告訴がないために免れているだけで、西尾幹二は客観的にはかなり悪質な「犯罪者」だ(これが名誉毀損だと思えば秋月を告訴するとよい)。
 『皇太子さまへの御忠言』刊行とテレビ発言は2008年だった。その後10年以上、西尾幹二が大きな顔をして「評論家」を名乗る文章書きでおれるのだから、日本の出版業界の少なくとも一部は、相当におかしい。この中には、西尾の書物刊行の編集担当者である、湯原法史(筑摩書房)、冨澤祥郎(新潮社)、瀬尾友子(産経新聞出版)らも含まれている。
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2457/西尾幹二批判038—皇太子妃問題②。

 本来の予定では、西尾幹二個人編集の同全集第17巻・歴史教科書問題のつぎの重要な特徴を書くことにしていた。すなわち、一定時点以降にこの問題または「つくる会」運動(分裂を含む)に関して西尾が自ら書いて公にした文章を(「後記」で少し触れているのを除き)いっさい収載していない、という「異常さ」だ。
 いつでも書けることだが、再度あと回しにして、新しい「資料・史料」に気づいたので、それについて記す。
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  西尾幹二が2008年前後に当時の皇太子妃は「仮病」だとテレビ番組で発言した、ということは高森明勅の今年になってからのブログ記事で知った。
 その番組を見直すことは到底できないと思っていたら、実質的には相当程度に西尾の発言を記録している記事を見つけた。つぎだ。
 「セイコの『朝ナマ』を見た朝は/第76回/激論!これからの“皇室”と日本」月刊正論2008年11月号166-7頁(産経新聞社)。
 ここに、2008年8月末の<朝まで生テレビ>での西尾発言が、残念ながら全てではないが、かなり記録されている。引用符「」付きの部分はおそらく相当に正確な引用だと思われる。
 以下、西尾発言だけを抜き出して、再引用しておく。「」の使用は、原文どおり。
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 雅子妃は「キャリアウーマンとしても能力の非常に低い人低いのははっきりしている」。「実は大したことない女」。
 雅子妃には「手の打ちようがないな」。
 「一年ぐらい以内に妃殿下は病気がケロッと治るんじゃないかと思います。理由はすでに治っておられるからです。病気じゃないからです。」
 「これも言いにくいことですが、私が書いたことで一番喜ばれているのは皇太子殿下、その方です。私は確信を持っています」。「皇太子殿下をお救いしている文章だと信じております」。
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 以上、「仮病」というそのままの言葉はないが、「病気じゃない」という発言があるので、実質的に同じ。上の<セイコ>も、「最後に平田さんも雅子様を仮病と批判」と記して「仮病」という言葉を使い、出席者のうち西尾幹二と平田文昭の二人が「仮病」論者だったとしている。
 <セイコ>の感想はどうだったかというと、「二人とも、やけくそはカッコ悪いよ」と書いているから、西尾・平田に対して批判的だ。
 なお、上の引用文のうち最初の発言に対して、矢崎泰久は「天皇家にと取っ掛かることによって自分の存在価値を高めたいという人」と批判し、出版済みの『〜御忠言』についても「天皇をいじくるな」「あなた、天皇で遊んでいるよ」と批判した、という。
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  あらためて「仮病」発言について論評することはしない。
 だが、想像していたよりも醜い発言ぶりだ。「能力の非常に低い」、「実は大したことない女」とは、凄いではないか。
 これによると西尾幹二は自著を最も喜んでいるのは当時の皇太子殿下だと「確信」し、同殿下を「お救い」していると「信じて」いる、とする。
 別に書くかもしれないが、西尾幹二著によって最も傷つかれたのは、雅子妃殿下に次いで、皇太子殿下だっただろう。さらに、現在の上皇・上皇后陛下もまた。「ご病気」の継続の原因にすらなったのではないか。
 西尾幹二
 この氏名を、皇族の方々は決して忘れることはない、と思われる。もちろん、天皇男子男系論者としてではない。
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 三 1 上を掲載している月刊正論2008年11月号の<編集者へ>の欄には、西尾幹二を擁護して当時の皇太子妃に批判的な投稿が二つあり、逆の立場のものはない。
 同編集部は、<セイコ>記事とのバランスを取ったのか。それとも、<セイコ>の原稿を訂正するわけにもいかず、編集部は西尾幹二の側に立っていたのか(代表は上島嘉郎で、桑原聡よりは数段良い編集者ぶりなのだが)。
 2 上の<セイコ>記事を読んで、当時に月刊正論上で西尾と論争していたらしい松原正は、月刊正論同年12月号にこう「追記」している。
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 「西尾幹二という男について真顔で論ずるのは、所詮、愚か者の所行なのかもしれない」。
 なぜ唐突にこう書くかというと、11月号の(セイコの)記事を読み、「呆れ返ったから」だ。
 「西尾が狂っているのではなく、本当の事を喋ってゐるのならば、西尾が…くだくだしく述べてきたことの一切が無意味になってしまう」。
 「かふいう無責任な放言を、それまで熱心に西尾を支持した人々はどういふ顔をして聞くのであらうか」。
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 ほとんど立ち入らない。
 ただ、「西尾が狂っているのではなく、本当の事を喋ってゐるのならば」、という部分は、相当にスゴい副詞文だと感じる。
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  ついでに。
 西尾幹二『皇太子さまへの御忠言』(2008年)は相当に話題になり「売れた」はずの、単一の主題をもつ西尾の単行本だ(主題が分散している単行本もこの人には多い)。
 しかし、同全集には収載されないようであり、そもそもが「天皇・皇室」を主テーマとして函の背に書かれる巻もないようだ。
 個人編集だから、自分の歴史から、自著・自分が紛れもなく書いた文章の範囲から、完全に排除できる、と西尾は考えているのだろうか。全集第17巻にも見られる、自分史の一種の「捏造」・「改竄」なのだが。
 だが、活字となった雑誌や本は半永久的に残り、こういう文章を残す奇特な?者はきっといる。
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2447/西尾幹二批判035—「日本に迫る最大の危機」。

  西尾幹二の諸君!2008年12月号によると、日本の「論壇誌」は「イデオロギー」に嵌まらないで、「現実」に目を開き、「現実」を回復しなければならない。
 しかし、まさにその同じ論考の中で、雅子皇太子妃(当時)に関する「現実」をおそらくは完全に無視する文章を書いている。
 西尾によると、「自分の好むひとつの小さな現実を見て、他のすべての現実に目を閉ざそうとする怠惰な心の傾き」がイデオロギーの意味のようなのだが、この「怠惰な心の傾き」は、西尾幹二にも厳然と存在するようだ。
 西尾は、皇室問題での自分の主張を非難する二つの立場について、こう反駁する。
 「二つの立場の、どちらも方々も、あれほど明白になっている東宮家の危機を、いっさい考慮にいれないのです。
 問題は何もない、と言い張るのです。
 目を閉ざしてしまうのです。」
 <危機>というのは評価または解釈が混じる言葉だ。では、<日本に迫る最大の危機>という中見出しのあとのつぎの文章はどうだろうか。
 「雅子妃には、宮中祭祀をなさるご意思がまったくないように見受ける。
 というか、明確に拒否されて、すでに五年がたっている。
 <見受ける>だけだと、厳密には、あくまで「推測」なのかもしれない、とも言える。
 しかし、上を全体として読むと、<雅子妃は宮中祭祀を『なさる』意思がなく、拒否し続けている>ということを、西尾が「事実」または「現実」だと受け取っていることは明確だろう。
 なお、その原因にはここでは西尾はいっさい触れていない。
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  元に戻って記すと、西尾『皇太子さまへの御忠言』による「提言」は、西尾によると「典型的な二種類の反応」を惹起した。
 一つは、多くの選択権・無制約をよしとする「いわば平和主義的、現状維持的イデオロギー」で、将来の皇后にも「もっと自由を」、「新しいご公務を」、とするもの。
 もう一つは「むしろ古風な、がちがちに硬直した、皇室至上主義的イデオロギー」で、例えば「臣下の身」で「不敬の極み」だとするもの。自称「旧皇族」から国学院大・皇學館大学の教授まで、「伝統保守イデオロギー」からの反発も「熾烈」だった。
 これら二つ、一方は「新しい時代の自由」、他方は「旧習墨守」という「固定観念への執着」を見て、西尾幹二はこう感じた、という。
 「私は思わず笑いがこみあげてきました」。
 そのあと、既述の「あれほど明白になっている東宮家の危機」をめぐって、「自由派」も「伝統派」も、「現実はいっさい見ない、現実はどうでもいい」、「自分たちの観念や信条の方が大切なのです」と批判する。
 「論壇誌」に対しては、あらためてこう指弾する。
 「イデオロギーに頼って『ことなかれ主義』に手を貸し、揺れ動く世界の現実から目を逸らしているうちに、日本に迫る最大の危機すら曖昧になってしまう
 それが今の雑誌ジャーナリズムを覆う、いちばんの病弊なのではないですか。」
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  西尾幹二の議論が雅子皇太子妃に宮中祭祀を「なさる」意思がなく、それを拒否している、という西尾にとっての「現実」から出発していることは疑い得ない。
 その理由は一般に「ご病気」とされていたが、西尾の別の発言によるとそれは「仮病」だ。そのような「行動と思想」をもつ人物が将来に皇后になるかもしれない、これは「日本に迫る最大の危機」だ、そのような危険性を、「自由派」も「伝統派」も見ていない(自分はちゃんと見ている)、というわけだ。
 その後の事態の推移をも踏まえてということにはなるが、詳細は省いて、西尾幹二の以上のような指摘・主張は、いささか異様、異常ではないだろうか。
 「つくる会」分裂後の八木秀次に対する「人格攻撃」も凄いものだったが、皇太子妃問題をめぐって自分を批判する両派に対する反批判も、なかなかのものだ。
 「私は思わず笑いがこみあげてきました」。
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  ところで、西尾は、皇太子妃の宮中祭祀を「なさる」意思の欠如を問題にしている。
 ここでは、皇太子妃も宮中祭祀を「行う」主体の一人であることが前提とされている。このような表現をする点は、天皇退位問題に関する「5バカ」の一人、妄言者の加地伸行も同じ。
 そうだとすると、少なくとも天皇・皇后、皇太子・同妃の四名は、宮中祭祀の場所である宮中三殿で、全員で一緒に?、三殿またはいずれかの「殿」の祭神に対して「祭祀」を行う、ということなのだろうか。
 西尾幹二は、宮中祭祀とはどういうものであるのか、その際に皇太子妃はどうある「べき」かをいったい何がどのように定めているのか、正確に知っているのだろうか。明治時代、大正時代、さらには「皇太子妃」がいたとして江戸時代とそれより以前は、どうだったのか?
 不十分な理解のままであったとすれば、西尾の議論のほとんど全てが、ガラガラと崩れることになるだろう。
 --------
  ついでに。この西尾論考は、諸君!12月号の実質的には巻頭に置かれている。
 月刊雑誌・諸君!は、その後一年以内に廃刊となった。以上のような西尾論考を重視したこととその反応は、小川榮太郎が新潮45(新潮社)の廃刊の引き金を引いた程ではかりにないとしても、諸君!編集部と文藝春秋の判断に影響を与えたのではなかろうか。
 また、西尾も明記するように、<保守>派内でも異論があり、西尾幹二(や中西輝政)はその中でも少数派だっただろう。
 いずれにせよ、<保守>派内に亀裂を生んだことは間違いない。
 翌2009年8月末実施の総選挙で自民党は大敗し、政権は民主党に移る。
 西尾幹二に限らないが、<保守>派論者はいったい何をしていたのだろう。政権交替は、自民党だけの「責任」ではあるまい。
 雅子皇太子妃・皇室問題が「日本に迫る最大の危機」だと!?
 西尾幹二は、「ねごと」を書いていたのだ。他にも多数書いている(編集者はきちんと読むべし)。
 それにもかかわらず、産経新聞出版(編集者・瀬尾友子)、新潮社(同・冨澤祥郎)、筑摩書房(同・湯原法史)らは、近年にも西尾の本を出版している。こちらも、大いに不思議だ。
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2442/西尾幹二批判033。

  諸君!(文藝春秋)2009年9月号はこの月刊雑誌の最終号で、記念企画の一つとして、宮崎哲弥(司会)を含む8名の座談会が掲載されている。宮崎のほか、村田晃嗣、松本健一の名があるのも、少なくとも近年の「保守」系雑誌よりは、執筆者や読者の幅広さを感じさせられる。
 この座談会は「諸君!これだけは言っておく」と題して、種々多様な話題に及んでいるが、皇室問題にも当然に?言及がある。そして、初めて知った西尾幹二の主張または理解の仕方の部分があり、興味深い。
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  四部まであるうちの<第一部・保守は何を守るべきか>の途中でアメリカが出て来た辺りから、西尾幹二は、アメリカと日本の皇室との関係の問題性を持ち出して、強調する。他の者の賛同を得ていない、彼独自の論だ。
 厳密に正確な紹介はし難しいが、おおよそつぎのような「理屈」だ。
 ①「皇室を守るのは権力なのです」。
 ②昭和天皇は「アメリカという権力を採り入れた」が、結果として「我が国は国家権力がなくなってしまったのではないか」。「権力を担っていた自民党保守政権」はかくまでに「弱体化」してしまった。
 ③「日本の国家権力がなくなっている」現在、皇室を守っている権力は何か。「それはアメリカなのではないでしょうか。だとすれば大変だぞ、というのが私の思い」。
 ④「権力が外国に移っている」。「軍事」のみならず「皇室というご存在そのものも、いまやアメリカに従属しかかっている、と考えています」。
 ⑤「東宮家が外務省に牛耳られていること」への疑問と不安を書いてきた。「対米依存心理にもっとも染まった省庁が外務省であるのは疑問の余地がない」。
 ⑥「雅子妃殿下の父君である小和田恒さん」、「この方も元外務官僚ですが、…」。
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  この欄で、西尾幹二は何故、小和田恒または小和田一族をしつこく批判するのだろうか、と書いたことがあった。
 教養学部出身だが職務上も「法学」と縁が深かった東京大学卒業者に対するやっかみまたは劣等感からする憤懣は原因になっていると今でも想像している。
 しかし、その「論理的」原因が上では語られていて、なるほど、と思わせた。
 むろん、肯定的な意味で納得したのでは、全くない。
 ①日本に国家権力はなく、アメリカに移っている。→②皇室もアメリカに従属している。→③外務省は最もアメリカに従属。→④小和田氏は元外務官僚。→⑤雅子妃はその娘(かつ元外務官僚)。
 西尾幹二が雅子妃殿下の「行動と思想」を問題視したのには、このような深遠な?、連想関係があったわけだ。
 しかし、上の①〜③は西尾の「思い込み」または「幻想」だから、真面目に受け取れる筈がない。座談会でも、例えば上の②を田久保忠衛が明確に疑問視している。
 また、雅子妃の問題の原因が父親にある、と言わんがごとき叙述は(この座談会では明瞭でないが)、雅子妃の個人的自立性をすら無視するものだ。
 アメリカと日本の「国家権力」の関係には、立ち入らない。
 但し、日本の対米従属性の指摘は西尾に限らず多いものの、それ以上に、日本には「国家権力がない」、「国家権力は外国に移った」という旨まで明言するものは稀だろう。ここには、西尾の希少性と異様性がある。
 そもそも疑問に思うのは、天皇・皇室には保護する(世俗的)権力が必要だということを前提として(日本の歴史のいつからか?)、現在はアメリカだとするが、アメリカが皇室を牛耳って、あるいは「従属」させて、アメリカにはいかなる利益があるのだろうか、ということだ。
 現在の天皇は明治憲法下と違って「国政に関する権能」を有しない。当時の皇太子が天皇になっても変わりはない。まして、皇太子妃や皇后が日本の軍事・外交に関する「国政」に(アメリカに有利になるように—括弧内・後日挿入)関与できるはずがない。天皇の「国事行為」には内閣の助言と承認が必要だが、天皇ですら、そうなのだ。
 西尾幹二は、アメリカが現在もつ皇室に対する「悪意」(p.209)として、いったいどのようなことを「妄想」しているのだろうか。
 アメリカによる日本の皇室のコントロール、これはアメリカの政策的意図として、本当に存在するのか。西尾独特の「妄想」ではないか。
 これを問題視するならば、現上皇(昭和天皇の皇太子)の家庭教師をアメリカ人女性が担当したことに遡って議論しなければならないのではないか。
 皇室を通じての日本人の「精神」のアメリカ化あるいは欧米化、ということが考えられなくはない。しかし、これも全く愚かで時代錯誤的発想だ。
 皇室を媒介としなくとも、(映画や音楽等の流通もそうだが)日本人と日本社会は、相当程度にすでに欧米化しており、一部を除いて、アメリカを「許容」している、という現実がある。アメリカにとって天皇と皇室は、今以上にいかなる役割が求められているのだろうか。
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  西尾幹二の論述の仕方の特徴と見られるものに、つぎがある。
 a’’/〜でないか、と疑問視または問題提起する。
 a’/上の疑問または問題設定をほぼ事実または正しいものに近いものと叙述する。
 a/疑問視または問題設定した事項を、事実または正しいものと(断定的に)みなして、論述を続ける。
 a’’→a’→a、と、叙述がいつのまにか進展する
 これがb’’→b’→b、c’’→c’→c と続いていくと、a、b、c について十分なまたは説得的な論証、理由づけが欠けているために、論理的に筋が通ったものという印象は生じず、良く言っても、ただ何やら深遠そうなことをあれこれと書いている、という印象しか受けない。
 上の座談会の発言の「論理」にも、例証はしないが、これに近いものがある。他の西尾の文章でも、きちんと読めば、私は同様のことをしばしば感じる。
 出てくる言葉・概念や文章の運びに関心を持つ「文学的」な人々は、西尾を高く評価する可能性はある。しかし、小説等の創作作品、「文芸」評論の文章でない限り、これではダメだ。社会、国内政治、国際政治の適確な「評論」にはならない。学術的な研究論文にならないことは、勿論のことだ。
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2441/高森明勅のブログ①-2021.11.19。

  11月19日付け。<旧皇族で天皇陛下よりお若い方は既婚女性だけという事実>
 「旧皇族」という場合、実際に皇族であったことがある人(最近の真子さまもこれにあたる)と、そのような人の子孫で自分自身は一度も皇族であったことはない人(例えば竹田恒泰)を厳密には区別して考え、前者のみを指す、というのは、一つの常識的な概念用法かと思われる。高森によると、国会での宮内庁次長答弁もその旨らしい。
 ほとんどもっぱら高森明勅のブログから検討状況を知ってきたのだが、手っ取り早くついさっき見た後出の勝岡寛次論考から引用すると、皇位継承問題を考える菅内閣の有識者会議が今年7月の中間報告が出した二つの方向性のうちの一つは、以下だった。
 「皇族の養子縁組を可能とすることで、皇統に属する男系の男子が皇族となることを可能とすること」。
 ここでいう養子縁組の具体的イメージは無知なためかさっぱり湧かないが、ともあれ、「皇統に属する男系の男子」という表現が用いられ、「旧皇族」の男子ではない、ということに気づく。
 高森は上の厳密なまたは常識的な語法を採用すべきと主張する。これによるとおそらく、例えば竹田恒泰は前者であっても後者ではないのだろう。
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  高森が上のブログで、「先頃、保守系の論者の文章の中で、『元皇族』と『旧皇族』を“別の”概念の言葉として使っているのを見かけた(『日本の息吹』11月号)。もはや何をか言わんやだ」と書いている。
 『日本の息吹』とは日本会議の月刊機関誌。秋月瑛二は、何を隠そう、F・フュレの一著等の読者であるとともに、この雑誌の読者なのだ(だからいざとなれば、『日本の息吹』の文章も正確に引用できる)。
 さて、上に該当する部分は少なくて、勝岡幹次「旧皇族の皇籍復帰を考える—有識者会議の議論から」のうち、つぎではないかと思われる。p.13 。
 「旧皇族には多くの元皇族(内親王)が嫁がれていることから、皇族にとっては身内も同然なのだ」。
 勝岡は、「旧皇族」の国民にとっての疎遠さに反駁する論脈で、こう述べている。疎遠感は、皇族離脱からすでに長く経つことのほか、男系男子に限定すると祖たる天皇は室町時代にまで遡ることも理由の一つだろう(この点では、八幡和郎の明治天皇の内親王の末裔(女系!)という理解の上で含めるべきとの議論は現実的だが、実現可能性はほとんどないのでないか)。
 しかし勝岡は、「旧皇族」と「元皇族」の意味の違いをきちんと説明していない。
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  したがって、高森がわざわざ言及した意味は私には不分明だ。
 しかし、上の厳密かつ常識的な概念用法からすると、上の論考で勝岡寛次は、次のように、目を剥く!言葉遣いをしている。
 (検討会の提言にいう)「皇統に属する男系の男子とは旧皇族(旧宮家)のことを指す」。p.11。
 ここでは、今回の冒頭で触れた、現に皇族であったことがある者と皇族だったことはないがその子孫(の男子)とは区別されておらず、全員が「旧皇族」だ。
 自民党総裁選挙中に高市早苗は「旧皇族復帰案」を支持したらしく、高森はそこでの「旧皇族」の用法を批判する。
 思うに、自民党の<いわゆる保守派>は、言葉遣いについても、有力な支持母体である日本会議や神道政治連盟の強い影響を受けている。
 考え方や歴史認識についてもそうで、男系男子で続いてきた我が国の伝統も考慮し、とか言っていた菅前総理大臣もそうだろう。
 政治家は歴史家でも学者でもない。だから多くを期待しても無駄だが、特定政治団体・運動団体の見解・概念用法だけを知って発言するのは危険だ。
 明治の皇室典範発布前には、男系男子に継承者を限るか、という論点について、政府内でも、現在よりも自由で活発な議論があったのではないか。
 今の方が制約が多そうなのは、不思議なことだ。
 現在の「皇族」数、とくに男子の数の減少が今後についての検討が必要なそもそもの問題なのだが、これ以上は省略する。
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2439/西尾幹二批判032。

  諸君!2008年7月号(文藝春秋)の特集の中での計56人による<われらの天皇家、かくあれかし>の文章のうち、最も明確な皇太子妃(当時)皇后位就位疑問視の見解として、先に中西輝政のそれを紹介した。→「2421/中西輝政—2008年7月の明言」。
 但し、これは表向きの文章に着目したもので、実質的には、西尾幹二のものの方がさらに「進んでいる」。
 西尾幹二は当時月刊WiLL(ワック)上に<皇太子さまへの御忠言>を連載中か連載後で、小和田家は雅子妃を「引き取れ」と明記していたのだから、皇后就位資格を疑問視していたのは当然のことだった。
 上の諸君!7月号上の文章では、末尾にこう書いていた。
 「皇太子妃殿下のご病気と治療、ご行動と思想に取り返しのつかない事態が進行するより前に、福田総理大臣閣下が皇室会議を招集し、必要にして緊急な、後顧の憂いなき方向を模索し、打開して下さることを期待してやまない」。
 ここでは、皇太子妃の皇后就位再検討必要(不適格)論を前提として、それを具体化する方策(の第一歩)を提言している。
 首相は皇室会議を招集せよ、と主張していたのだ。
 --------
  首相が皇室会議の議長であり、招集権を有することに間違いはない。
 では、西尾は、いったい何を議題とし、どういう結論を(議員の多数決で)得られることを期待していたのだろうか。
 現行法律の<皇室典範>上、皇室会議が議決できる事項、あるいはその議決が必要な事項は限定されている。
 西尾の願望は「皇太子妃殿下」の「行動と思想に取り返しのつかない事態」が進行することの阻止にある。その真意からすると、とりあえずは皇后位就位資格の否定ということになるだろう。
 しかし、これを直接に議決できる権限は皇室会議にはない。
 「皇嗣」たる皇太子が天皇に就位すれば、それに伴って皇太子妃は皇后に就位することを法律は当然のこととしていると思われる。10条は「立后」には皇室会議の議決が(形式上)必要である旨定めるが、皇太子が天皇になるときでも同妃が皇后になることができない場合がある旨や、あるとしてもその場合の要件を全く記していない。
 但し、皇太子に天皇就位資格がなくなれば、上の事態=皇后就位は発生しない。
 これに関係するのが、つぎの定めだ。
 皇室典範第3条「皇嗣に、精神若しくは身体の不知の重患があり、又は重大な事故があるときは、皇室会議の議により、…、皇位継承の順序を変えることができる」。
 この条項が定める大きなニつの要件のうち「重大な事故」に「祭祀をしないこと」は該当すると明記したのは、上の56の文書のうちの八木秀次のものだった。八木はそれ以上は明記していないが、皇嗣たる皇太子の配偶者=皇太子妃が「祭祀をしない」ときも上の規定を準用できる、従って皇位「継承の順序を変える」ことが可能だ、という含みをもっていた、と読むことができないではない。
 しかし、皇太子と皇太子妃を実質的にせよ同一視・一体視するのは、法解釈としてはほとんど不可能だ。
 西尾幹二も、上の条項に言及しない。そして、「必要にして緊急な、後顧の憂いなき方向」の模索・打開を求めるにとどめている。
 善解すれば(良いように理解すれば)、現行皇室典範上は採りうる方策は存在しないことをきちんと理解したうえで、上のようにだけ書いたのだろう。
 しかし、皇太子妃の皇后就位資格を疑問視しただけの中西に比べると、その積極性は明確だ。当時の首相に対して、皇室会議を招集して一定の方向で「模索」することを明示的に要求していたのだから。
 論理的には、法律改正案提出権を持つ内閣の長に、皇室典範改正によって雅子皇太子妃の皇后就位を不可能にすることを可能とする条項の新設を求めていた、という可能性もある。
 あるいは、現行法律は皇室会議の権限を明文がある場合に限っていない、つまり、法的効果をもつ議決以外に、「要請」あるいは「お願い」を皇太子や皇太子妃等の皇族に対して行うことができる、という法解釈を前提として、祭祀への出席をとか、さらに進んで祭祀出席がないならば皇太子・同妃は離婚を(雅子妃は小和田家が引き取れ!)とかを「お願い」すべきだ、と考えていたのだろうか。
 ————
  2008年に上のように公の雑誌上で書き、ほぼ同時期に別途『皇太子さまへの御忠言』(2008年9月、ワック)を単行本で出版した西尾幹二は、2019年の雅子妃の皇后就位時に、自己のかつての主張についていったいどうのように論及したのか?
 中西輝政について先日書いたことは当然に、西尾幹二にも当てはまる。
 何も触れないようなことは、「よほど卑劣な文章作成請負自営業者でなければ、あり得ないだろう」。
 西尾は、実際には、中西よりも<ひどい>。つまり、もっと<卑劣>だった。
 2019年の前半に、西尾は天皇または皇室関連の少なくともつぎの二つの記事を公にした。
 ①月刊WiLL2019年4月号「皇室の神格と民族の歴史」(岩田温との対談)
 ②月刊正論2019年6月号「新天皇陛下にお伝えしたいこと/回転する独楽の動かぬ心棒に」
 しかし、かつて雅子妃の「行動と思想」を自分が批判していたこと等について、いっさい、何も言及していない。後者では何と、<祝・令和>の「記念特集」に登場している。「新天皇」の后は、いったい誰なのか。
 驚くべき、恐るべき「意識」と「精神」の構造が西尾幹二にはある。
 ———
  諸君!2008年7月号に戻ると、56の文章のうち、雅子皇太子妃に対して明らかに批判的なのは、多く見積もって5〜6で一割程度だ(もっとも、56人の選定基準が明確でないので、この割合に大した意味はないかもしれない)。
 大袈裟に騒ぐ問題ではない旨書いてある数の方が多いが、そのうち西尾幹二の名を出して西尾をはっきりと批判しているのは、笠原英彦だった。
 笠原の見解全体を擁護するのではないが、西尾批判の部分を、以下に紹介しておく。p.197。
 西尾の論を「読み進むうちに、だんだんイデオロギーがにじみ出てくるのには正直いって驚いた。//
 東宮をめぐる氏の論評の根拠となる情報源は何処に。
 いつのまにか西尾氏まで次元の低いマスコミ情報に汚染されていないことを切に祈る。
 氏の論考は格調高くスタートして、しだいに『おそらく』を連発しながら思いっきり想像を膨らませ、ついにエスカレートして妃殿下を『獅子身中の虫』と呼び、結果として週刊誌の噂話の類まで権威づけてしまった。//
 そして唐突に『朝日』、『NHK』、『外務官僚』が批判的トーンで登場する。
 同志へのエールのおつもりか。
 かくして、一般読者は煙に巻かれるのである。
 西尾氏…でもイデオロギーを身にまとうと、迷走、脱線を免れない。」
 以上。
 高森明勅によると、当時西尾は雅子皇太子妃の病気は「仮病」だとテレビで発言したらしい。
 また高森は、最近のブログ上で、『御忠言』は「タイトル」だけで、中身は「確かな事実に基づかないで、不遜、不敬な言辞を連ねたもの」だった、とする。
 笠原は上で「イデオロギー」という言葉を用いている。西尾の場合は「同志」のいる「イデオロギー」はまだ綺麗すぎ、西尾幹二の「意識」・「精神構造」に全体としてあるのはおそらく、「私小説的自我」を肥大させた、この人独特の「妄想と幻想の体系」とでも称すべきものだろう。
 問題はまた、そのような西尾を<保守の論客>の一人として遇してきている一部情報媒体(とくに編集者)に見られる、「知的劣化」のひどさにもある。
 ——

2332/西尾幹二批判023—皇太子妃問題。

  西尾幹二・皇太子さまへの御忠言〔ワック出版)が刊行されたのは、2008年(平成20年)9月だった。
 月刊WiLL2008年5·6·8·9月号(ワック)に四連載した(ほとんど)同名のものに、月刊正論2005年4月号、諸君!!2006年4月号既掲載のものを加えたもの。
 雑誌のものは首を傾げながら読んだ記憶がある。
 その当時から長く、うかつにも(幼稚にも)思ってきたのは、「皇太子さまへの御忠言」なのだから、直接に宛名とすることはなくとも、丁寧に包装して宮内庁でも通じて、当時の皇太子殿下にお届けしたのだろう、ということだった。
 本当に、真摯に「御忠言」したいならば、皇居にまで出向いて、直接に手渡すことを考えてすら、不思議ではないだろう。
 しかし、近年になって、上のようなことが行われた(出版社が送付したということを含めて)旨の記事はないこともあって、自分の無知、浅はかさは相当のものだと思った。
 西尾幹二は当時の皇太子殿下に届けていない。ということは、読みたいならば費用を出して購入せよ(して下さい)ということだったのだろう。
 そして、西尾は、皇太子・同妃その他皇室の方々に読んでもらうのが目的で雑誌論考を書いたり書物を出したりしたのではなく一般国民・一般読者に向けて、自分の意見を知ってもらいたくて書いたのだ。
 反応はかなりあったらしい。つまり、雑誌は売れたらしい。確認しないが、「手応え」・「反響」が大きかった旨を自分でのちに書いている。
 しかし、反応があり、「売れた」ということは、(書物も含めて)購入して読んだ読者の「支持を得た」のと同じでは、もちろんない。
 もっとも、支持であれ、疑問視であれ、反対であれ、西尾幹二にとっては、自分というものの存在を世に「広く」(どれほどか?)知らせることとなったのは悪い気分ではなかったかもしれない。
 また、出版社にとっては、—まだ雑誌の奇妙な分裂と移行前だったので、ワック・編集担当は花田紀凱だったが—好意的であろうとなかろうと、「売れさえすれば」それで良かったのだろう。西尾幹二もまた、原稿執筆を請負い、出版社から代金を受け取る自営業者なので、多少の「経済的利益」となっただろう。
  高森明勅のブログが「6日前」、たぶん3/28に①「『保守』知識人の皇室バッシング」と題して、「個人的には、以前に些かご縁があったので、…少し気が引けるが」としつつ、上の西尾幹二の「御忠言」を批判している。
 「『御忠言』という殊勝なポーズは、タイトルだけの話。中身は、確かな事実に基づかないで、不遜、不敬な言辞を連ねたものだった」、等々。
 ここには、私が知らなかったことも書かれている。月刊WiLLのこの当時の編集長・花田紀凱はかつて週刊文春の編集長だった(これは知っていた)。
 高森によるとこうだ。 
 「『週刊文春』が上皇后陛下(当時は皇后)へのバッシングを繰り返し、果てに上皇后が悲しみとお疲れの余りお倒れになり、半年もの間、失声症に苦しまれた時の編集長も同じ人物」、つまり花田紀凱。
 花田紀凱は現在は、月刊Hanada 編集長。
  高森はまたその翌日?にも②「皇后陛下を仮病扱いした『保守』知識人」と題して、やはり西尾幹二を批判している。
 2008年頃のことなのだろうか、この頃の<朝まで生テレビ>はもう観ていなかったので、知らなかった。 
 高森によると、同も出演していた<朝まで生テレビ>で、同じく出演していた西尾幹二が、雅子皇太子妃について、こう発言した、という。
 「雅子妃(皇后陛下)は来年の今頃には全快しています!」。
 なぜそう言い切れるのかと司会・田原総一朗が質問すると、西尾幹二はこう答えた、という。
  「だって仮病だから!!」。
 うーん。仮病?だったとすると、西尾が上掲書で2名以上の専門医を雅子妃に付けよとか書いているのは、医師によって<仮病であること>=<病気ではないこと>を見抜け、と主張したかったのだろうか。
 しかし、熟読していないが、上の書物でその旨(仮病)を示唆するところはなかったように思えるのだが。
 再び、高森から引用する。 
 「この予言(?)は勿論、外れたし、外れたことに対して、同氏が謝罪したとか、弁明したという話を(少なくとも私は)聞かない
 周知の通り、皇后陛下は今もご療養を続けておられる。この事実を、同氏はどう受け止めるのか。」
  西尾幹二はなぜ、あのあたりの時期に<反雅子妃>の立場を取り、皇太子に「忠言する」ことを考えたのだろうか(「売れる」という反応に喜んだのは別として)。
 この人の<性格>・<精神世界>にまで立ち入らないと分からないだろう。あるいは<人格>だ。
 人間が関係する全ての事象が各人間、全ての人間の<人格>と無関係ではない。
 複雑で、総合的かつ歴史的な因果関係があるから、簡単に論じることはできないし、論じれば、必ず誤り、短絡化につながる。
 したがって、簡単に西尾幹二の<人格>論に持っていくつもりはない。
 だが、西尾幹二が<雅子妃>問題に関して、特定の人物の<人格>をやたらと問題にしていたことは、間違いない。西尾自身がその<人格>を簡単にかつ単純に論評されることがあっても、甘受しなければならないのではないか。
 また、そもそも皇族外の特定の人物(雅子妃の父親)にやたら関心をもち、その人物を問題視するのはいったいなぜだったのだろうか。
 以下は例示。上掲書の文庫版(ワック文庫。但し、新書版に近い大きさ)の頁数による。いずれも、執筆は2012年。
 p.7(まえがきに代えて)—「雅子妃の妹さんたちが…、…会っている様は外交官小和田氏の人格と無関係だと言えるだろうか」。
 p.37(序章)—「雅子妃のご父君は娘にいったいどういう教育をしてきたのでしょうか。…畏れ多いのだという認識が小和田一族に欠けていることに根本の問題があるのではないか」。
 **

2241/西尾幹二・西部邁と「天皇」の変容。

 
 西尾幹二・皇太子さまへの御忠言(ワック、2008/2012)。
 西尾幹二「皇太子さまへの御忠言/+第2弾!」月刊WiLL2008年5月号/6月号(ワック)。
 西尾幹二「女性宮家と雅子妃問題」月刊WiLL2012年3月号(ワック)。
 こうした西尾幹二の発言・主張に対して、西部邁は2013年秋にこう批判的にコメントしていた。なお、これら月刊WiLLのこの時期の編集長は花田紀凱。
 西部邁「天皇は世襲の法王なり」月刊WiLL2013年10月号(ワック)。p.283-4。
 「…。しかし、戦後に進んでいるのは、日本の伝統を全て天皇に預けて国家の歴史には無関心でいる、という伝統に関する無責任体制です。//
 そう考えると、僕には西尾幹二さんのように、皇太子さまや雅子妃殿下に対して『御忠言申し上げる』という態度には出られない。
 …全面否定しているわけではありません。国民が皇室のあり方について発言するというのは、最低限のエチケットを守っているかぎりにおいて許されることだと思いますし、『畏れを知らずに皇室にもの申すとはけしからん』などいう意味で疑問を呈しているわけではない。
 国民の責任をまず問えと言いたいだけです。//
 しかし、今日の国民を見ればわかるように、これほどまでに伝統を無視し、つまりは、天皇の地位の基盤となるものを破壊しておきながら、しかも皇室に様々な問題が生じている時に皇室批判に立ち上がるというのは、僕にはどうしても本末転倒だと思う。」
 上の西部邁論考全体ではなく、上のコメント・感想のかぎりで、西部の言いたい趣旨もよく理解できる。
 そして、「(今日の国民は)天皇の地位の基盤となるものを破壊しておきながら、…」という部分に関して、別に長く書こうと思っていたのだが、よく調べて確認しないままで以下に記しておくことにする。
 
 上で西部の言う「天皇の地位の基盤となるもの」の「破壊」の具体的意味ははっきりしない。
 だが、「破壊」された「天皇の地位の基盤」を無視して、まるで旧憲法下の「天皇」制度が戦後に継承されているかのごとき<錯覚>を、自称あるいは「いわゆる保守」派はしていることが多いと見られる。あるいは、<錯覚>していることを意識しながら、その点を無視して、一生懸命に女系天皇排除とか容認とかに焦点を当てて論じているのようにも見える。
 女系天皇・女性天皇うんぬんの議論が全く無意味だとは思えない。
 しかし、旧憲法下と現憲法下と、「天皇」をめぐる環境は大きく変容していることを十分に意識しておく必要があるだろう。
 世襲天皇制の現憲法上の容認でもって、「天皇」制の連続を語る者は多いだろう。125代とか126代とか言われる。
 しかし、江戸時代の「天皇」と明治憲法下の「天皇」とが大きく変化したように、戦後の「天皇」もまた、戦前とは大きく変わっている。この「現実」をまずは明確に認識しなければならない。以下、立ち入った確認作業を省略して書く。
 第一。戦前の、「皇族」・「華族」・「士族」・「平民」・…という<身分>制度が、「皇族」を除き、全て消滅した。
 「天皇」制度はなぜ長く残ってきたのか、武家政権はなぜ「天皇」を許容したのか、といった問題が設定されることがある。これについては、「天皇」一身または天皇「一族」程度ならば、世俗武家政権は<廃絶>あるいは露骨には<一族根絶>くらいのことはすることのできる実力(・暴力)機構を有していたかと思われる。
 それをしなかった、またはそうできなかった理由は、「天皇」をとり囲む「貴族」あるいは「公家社会」の存在だ。天皇個人や天皇一族を殺しても、「公家社会」全体を廃絶することはできず(皇位主張者はおそらく途切れず)、むしろ大きな反発を喰い、重大な「社会不安」の原因となる。
 専門家ではないから、一種の思いつき的なものだが、上のような事情が少なくともあったことを否定できないのではないか。
 明治以降も「華族」制度は残った。それには公家に加えて新しく、<廃藩置県>後に旧藩主階層まで入ってきた(公卿に加えての諸侯)。これらかつての<貴族・公家>にあたる階層は、明治以降も、「天皇」、そして「皇族」を(現在よりも)厚く取り囲み、心理的・精神的面を含めて保護する役割を果たしていたかに見える。
 そのような「華族」(公爵・伯爵・侯爵・子爵・男爵)は現在にはない。あるのは「皇族」とそれ以外(あるいは「皇族」と「旧皇族の末裔」とそれ以外)だけだ。
 「天皇(家)」は、孤独なのだ。「皇族」の数も減ってきた。この減少、そして敗戦後の「旧皇族」の多くの皇籍離脱の実質要求がGHQの「陰謀」だとする見方も多いようだが、今のところそうは感じない。
 「皇族」以外についての<法の下の平等>、それ以外の<身分>制の廃止にこそ根源があると見るべきだ。
 そして、<いわゆる保守>派も、日本会議も、「華族」・「士族」の廃止を批判してこれらの復活を主張しているわけでは、全くないだろう。明治憲法下への<郷愁>があるとするなら、この点はいったいどうなのか??
 第二。上野「恩賜」公園という名前で現在でも残っているが、戦前は、天皇および「天皇家」は大資産家だった。<天皇財閥>という語もあったと読んだことがある。
 もともと一般の「公家」一家以上には天皇「家」は少しは裕福だったようだが、明治維新後の近代<所有権>制度の確立とともに、「国(国家)」とともに「天皇(家)」も大資産家になったのではないか。神宮(・外苑)もまた、天皇(家)の「私」有地だった。
 戦後憲法下ではどうなったか。
 国有財産法(法律)に「皇室用財産」という言葉・概念がある。しかしこれは「国有財産」の一種であって、「皇室」または「天皇」の<私有>財産ではない。
 皇居の土地も建物も、逗子や那須の「御用邸」も皇室用財産としてもっぱら皇室または天皇家の利用に供されているようだが、全て国有財産であって、排他的に利用できる地位・権能が「皇室」であるがゆえに実質的に認められているにすぎない。
 三種の神器は天皇家に伝わる「由緒ある」ものとされて国有財産ではないようだが、天皇(家)あるいは秋篠宮家等が<私的に・個人的に>所有している>財物というのは(外国賓客からの個人的贈答品は含まれるかもしれない)、相当に限られているのではないか。
 かつて現在の上皇陛下が皇居内で某ホンダ製自動車を運転される映像を見たことがある。皇居内の公園・緑地ならば<運転免許証>は不要だろうと感じたものだが、はてあの自動車は「誰の所有物」だったのか? 当時の天皇個人の所有だったのか、宮内庁(・国)から「借りて」いたのか。
 要するに、ここで言いたいのは、現在の天皇(家)はまともな?私有財産をほとんど所有していない、ということだ。国からの「内廷費」から、個人的な支出も行われている、ということだ。天皇(家)は「ほとんど裸の」状態にある、との叙述を読んだこともある。
 以上、少なくとも二点、旧憲法下から現在へと憲法上「世襲天皇制」が、そして皇室典範(法律)上原則としての?<終身在位>制が明治憲法下の皇室典範においてと同様に継承されているとは言え、「天皇」(家)をとりまく環境は、大きく、決定的と言ってよいほどに変容している。
 そのような天皇(家)だけに対して日本の「伝統」を守れ、と主張するのは、西部邁も指摘するように、「本末転倒」という形容が適切かどうかは別として、やや異常なのだ。あるいは、何らかの「政治上」または「商売上」の目的・意図を持つものと思われる。

2158/神社新報編輯部・皇室典範改正問題(2019.10)。

 神社新報編輯部・皇室典範改正問題と神道人の課題/鎮守の杜ブックレット3(神社新報社、2019.10)。
 この冊子的な書物の刊行時期(昨2019年秋)からすると、現今の皇室典範改正・皇位継承問題について、神社本庁の現在の姿勢・見解を提示しているかと思ったが、そうではなかった。
 収載されているのは全て、2005年(平成17年)に神社新報に掲載されたもののようだ。2004年末に、小泉首相の私的諮問・有識者会議が設置されていた。
 とはいえ、昨年秋にこれを出版するということは、2005年時点の見解を大きくは変更していないこと、または現時点での一致した定見を神社本庁は有していないことの表れかと思える。
 外野的第三者の印象では、「一部保守」または「宗教右翼」は、つぎで一致している。
 ①男系男子限定、そのための②旧皇族の子等の「皇族」復帰。
 従って、③女性宮家創設反対(女性天皇容認につながるから)、④女性天皇反対(女系天皇につながるから)、⑤女系天皇反対。
 こうまでの趣旨は、上掲冊子(書物)では読み取れない。
 ①男系男子限定・②旧皇族男子復活・③女性宮家反対、というだけの論者たちは、「現実」から再び取り残される可能性がある(今回は西尾幹二を含む)。
 とはいえ、自民党有志らは上の②を可能とする法案を作成したりしているので、この主張は、政治的影響力をまだ持っていそうだ。
 自民党有志案で驚いたまたは注目したのは、「皇族復帰」について該当候補者の「同意」を得る、ということだった。
 簡単に「同意」を得ることができるか、そのような人物はいるか、という問題はある。
 最近の高森明勅ブログを読むと、政府は実際上はこの該当候補者の「意向確認」・「打診」を行ったが、よい結果が出なかったようだ、とか書いてあった。
 上の点はともかく(重要なことだが)、皇族復帰を各人の「意思」に委ねるというのは皇位継承を各人の「意思」に委ねることをほとんど意味する(子どもにとってはその「運命」を親が決定する)、あるいはほぼ等しく、継承候補者の「意思」いかんによる皇位継承を天皇制度は予定してきたのか、という基本的・原理的な問題があることを感じる。
 但し、と言っても、一定の要件のもとで一律に一括して(強制的に)皇族とし、「一般」国民たる地位を剥奪することがどういう理屈のもとで現行法上可能か、というこれまた困難な問題があることは、たぶん昨年の初夏あたりに書いた。
 ***
 資料として、いくつか興味深いものが上掲冊子には載っている。
 一つだけ、紹介する。 
 光格天皇~明仁上皇までの「側室」、嫡子・庶子、男子・女子、各数一覧。p.28。
 「編輯部調」となっている。ここでは「皇子・皇女」→「男子・女子」、「0」→「無」と記載を改めた。皇后名・天皇の出身(例、閑院宮典仁親王第六王子)は割愛している。
         側室 子計 嫡子・庶子 男子・女子
 119代・光格天皇 7   18  2  16  12 06
 120代・仁孝天皇 5   15  3  12  07 08
 121代・孝明天皇 3   06  2  04  02 04
 122代・明治天皇 5   15  無  15  05 10
 123代・大正天皇 無  04  4  無  04 無
 124代・昭和天皇 無  07  7  無  02 05
 125代・明仁上皇 無  03  3  無  02 01
 ***

2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。

 京都・泉涌寺直近の、宮内庁管理地だが実質的には同寺境内と言い得る月輪陵・後月輪陵の葬礼様式は仏教・火葬で、孝明天皇についての後月輪東山陵は神道・土葬だ、というのは幼稚かつ単純な誤解だった。
 前者の区画でも土葬は行われている。火葬-仏教、土葬-儒教または神道という対照関係は日本では成立していなかったようだ。
 前者-仏教様式、だとしても、後者=孝明天皇陵-神道様式、だと明確に断定できるかというと、後者についてはなお疑問符がつく。
 1868年09月-明治改元(1月に遡及)。
 同年03月-五箇条の御誓文。神仏判然令。
 同年01月-鳥羽伏見戦争。
 1867年12月-大政奉還・倒幕の密勅。坂本龍馬暗殺。王政復古宣言。
 同年01月-明治天皇践祚。
 1866年12月-孝明天皇崩御。
 孝明天皇の死はまだいちおうは「公武合体」政策上にあったが尊王・倒幕の動きが強くなっていたときに生じた。
 「政治」体制・過程とともに「宗教」、そして「葬礼」の様式についての意識変化も生じていたようだ。
 1867年に入ってからの、孝明天皇陵の造営に関する興味深い文書が、つぎの著に紹介されている。
 大角修・天皇家のお葬式(講談社現代新書、2017)。
 実際に造営が行われ、現在に残る孝明天皇陵にとってどの程度決定的だったかは著者も明記していないが、大きな影響を与えただろうと推察される。
p.100ー101によると、<孝明天皇紀>に収載されている文書のようだ。
 幕府に置かれ、山陵(天皇陵)の管理を職掌とした山陵奉行・戸田忠至(宇都宮藩)は、孝明死後に、大角修がつぎのように要約する文書を提出した。p.101ーp.102。
 「仏法伝来以後、上古淳朴の習わしが失われ、この数百年は玉体を灰にして九輪塔をたてるようになったのは恐懼悲嘆の至りである。
 後光明天皇から火葬は廃止されたけれども、その後も山頭堂(荼毘所の葬場殿)で荼毘の作法が行われている。
 山頭堂から廟所までは僧たちが密行と称して、表面は火葬、内実は埋葬と称している。
 このような表裏不合の葬礼では四海臨御の皇室の傷にもなると痛哭する。
 名分国体は天下人心の向背にかかわることなので、元来の埋葬に戻してほしい。」
 これの原文・読み下し文も掲載されているが、それをさらに秋月流に「くずして」紹介すると、つぎのとおりだ。「」は上掲書での原語。
 <今般、御陵御造営のこと、取り調べて進達するよう、広橋大納言殿から言いつけがあった。
 「中古、仏法渡来已後」、造営の様式も変革されて、ついに「上古淳朴の風」、「刻薄残忍」になってしまい、「持統天皇に始め奉りて御荼毘」のこと、代々「御常例」となり、「恐れ乍ら万乗〔天子〕の玉体を一旦灰燼に委せ奉り」、九輪石の御塔を「御表」としてしまうのが「数百年来」の御定制となり、「遷延〔ずるずると延びて〕今日に」至ったことは、「恐懼悲嘆の至り」である
 ……、「後光明天皇御新喪御時より御火葬廃され」たけれども、その後、「御代々」の葬儀では「御龕前堂へ入御、御式なされ、済夫より山頭堂〔荼毘所〕にて御荼毘の御作法」がある。
 その場所から御廟所までは「寺門僧徒とも御密行と称」して「御表面は御火葬、御内実は御埋葬」と言っている、と存じている。<中略>
 「勿体なくも一天万乗の大君として表裏不合の御礼節」があることは「四海臨御の御体裁」として、恐れ乍ら「御瑕瑾にも渡さるべきかと痛哭」いたしている。<中略>
 「断然内外一致の御埋葬の御礼儀に復され、右御荼毘無実の御規式一切御廃止」となるように、していただきたい。
 まさに「名分国体は天下人心の向背に関係」しているので、「右」を早々に「御英断」し、「臣子忠孝の標準、御教誨」をすることがなければ、御陵のことは「取調」することができないので、「微衷」を申し上げる。…>
 この上申文書が大きな影響を与えたにちがいない。実際には、つぎのように変わったようだ。p.102以下。
 ①後光明天皇の葬礼以後は火葬〔荼毘に付す〕をしなくなったが、それまで(仁孝天皇まで)の火葬の際の仏教的「密行」を同様に行ってきたところ、これを廃止した。
 ②これまでは遺体の入る「棺」を「廟所」(陵所)まで運んだのは「僧」だったが、「御所衛士と戸田忠至が手配した人夫がかつぎ」、戸田が先導して登って「地中の石槨に棺を納めた」。
 要するに、「仏式」の排除、「仏僧」の関与の排除が明確だ。後者は江戸時代は、泉涌寺の僧侶たちだったのだろう。
 しかし、第一に、「火葬」の否定の趣旨は明確だとしても、火葬ではなく土葬が「上古淳朴の風」に合致することの根拠が明確に語られているわけでもなさそうだ。持統天皇の名を明記して、それ以来まずくなった、とは言っている。「玉体を一旦灰燼に委せ」るのが怪しからんと、明確に述べているのかどうか。
 また、第二に、火葬の否定よりも、実際には火葬ではないにもかかわらずそのふうの儀礼を(仏教式で)行っているという、つまり「御表面は御火葬、御内実は御埋葬」で、「御荼毘無実の御規式」が「表裏不合」だということを、強調しているようでもある。
 仏教色排除という「変革」の方針だけは明確であっても、天皇・皇族の陵墓の様式や葬礼の仕方について、「宗教」的または「思想」的な深い、確固たる考え方を前提にしていたわけではなさそうに見える。それでもしかし、数百年の「慣例」を破る「新しい」ものではあった。
 なお、戸田らはもともとは、孝明天皇の陵地自体を、泉涌寺近辺を排して、吉田山(吉田神社がある)または天智天皇山科陵の丘を構想していたようだ。p.102。
 泉涌寺=仏教寺院からの、地理的にも完全な離脱だ。
 しかし、泉涌寺関係者の猛反対があり、また英照皇太后(孝明の后)が多数の陵墓のある泉涌寺から「ひとり先帝だけ」遠ざけるのは「しのびず」、泉涌寺以外では「十分に供養ができない」として泉涌寺(付近)を望んだことで、結局は現在の後月輪東山陵となった、という。同上。
 よくありがちな、折衷的、妥協的解決だ。
 孝明天皇陵へは、今でも泉涌寺の名を掲げる「総門」を入らないと到達できない。同寺の境内にある、という感覚が生じてもやむを得ないだろう。
 しかし、仁孝天皇までの月輪陵・後月輪陵は山丘の西麓の平面地にあって、両区画への一つの入り口となる門がある。泉涌寺霊明殿から東を向いて供養・読経する場合に、ほぼ正面に各陵墓はある。陵墓には九重石塔があるなど、仏教式だ。
 一方、孝明天皇陵は山丘中腹にある円墳様式で、南面していると見られる。つまり、拝礼場所は、円墳の南側にある。泉涌寺内の霊明殿と向かい合っていない。なお、これを造営できるだけの丘が泉涌寺の東に存在しなかったとすれば、孝明天皇陵は別の箇所に築かれたのではないだろうか。
 明治天皇陵以降は、仏教寺院近辺には設営されなくなる。

 **以下、すべてネット上より。
 一段め左は、上が北。同右は、孝明天皇(+英照皇太后)陵への門(西向き)。
 二段め左は月輪陵・後月輪陵。同右の地図は再掲。


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2150/西尾幹二の境地-歴史通・月刊WiLL2019年11月号別冊④。

  西尾幹二=岩田温「皇室の神格と民族の歴史」歴史通・月刊WiLL11月号別冊(ワック)。
 西尾発言、p.219。
 「女性天皇は歴史上あり得たが、女系天皇は史上例がないという認識は、今の日本で神話を信じることができるか否かの問いに他なりません。」
 ①「神話」とだけ言い、日本書記や古事記の名を出さないこと、また②「神」という語が付いているが、神道等の「宗教」にはいっさい言及しないこと。これらにすでに、西尾幹二の<言論戦略>があると見られる。これらには別途触れる。
 上の、神話→女系天皇否認、というこの直結はほとんど信じがたいものだ。
 かりに神話→万世一系の天皇、を肯定したとしてもだ。
 しかし、神話→女系天皇否認、ということを、西尾幹二は2010年刊の書で、すでに語っていた。
 西尾幹二・GHQ焚書図書開封4/「国体」論と現代(徳間文庫、2015/原書2010)。
 文部省編・国体の本義(1937年)を読みながら解説・論評するふうの文章で、この中の「皇位は、万世一系の天皇の御位であり、ただ一すじの天ツ日嗣である」を引用したのち、西尾はこう明言する。p.171(文庫版)。一文ごとに改行。
 「『天ツ日嗣』というのは天皇のことです。
 これは『万世一系』である、と書いてあります。
 ずっと一本の家系でなければならない。
 しかもそれは男系でなくてはならない
 女系天皇では一系にならないのです。」
 厳密に言えば文部省編著に賛同しているか否かは不明であると言えるが、しかしそれでもなお、万世一系=女系天皇否認、と西尾が「解釈」・「理解」していることは間違いない。
 ひょっとすれば、2010年以前からずっと西尾はこう「思い込んで」きて、自分の思い込みに対する「懐疑」心は全く持とうとしなかったのかもしれない。これは無知なのか、傲慢なのか。
  万世一系=女系天皇否認、と一般に理解されてきたか?
 通常の日本語の解釈・読み方としては、こうはならない。
 しかし、前者の「万世一系」は女系天皇否認をも意味すると、この辺りの概念・用語法上、定型的に理解されてきたのか?
 結論的に言って、そんなことはない。西尾の独りよがりだ。
 大日本帝国憲法(1889)はこう定めていた。カナをひらがなに直す。
 「第一條・大日本帝國は萬世一系の天皇之を統治す
  第二條・皇位は皇室典範の定むる所に依り皇男子孫之を繼承す」
 憲法典上、皇位継承者を「皇男子孫」に限定していることは明確だが、かりに1条の「萬世一系」概念・観念から「皇男子孫」への限定が自動的に明らかになるのだとすると、1条だけあればよく、2条がなくてもよい。
 しかし、念のために、あるいは「確認的」に、2条を設けた、とも解釈できなくはない。
 形成的・創設的か確認的かには、重要な意味の違いがある。
 そして、結論的には、確認的にではなく形成的・創設的に2条でもって「皇男子孫」に限定した(おそらく女系天皇のみならず女性天皇も否認する)のだと思われる。
 なぜなら、この旧憲法および(同日制定の)旧皇室典範の皇位継承に関する議論過程で、「女帝」を容認する意見・案もあったところ、この「女帝」容認案を否定するかたちで、明治憲法・旧皇室典範の「皇位」継承に関する条項ができているからだ。
 「万世一系」が「女帝」の否認・排除を意味すると一般に(政府関係者も)解していたわけでは全くない。
 明治憲法制定過程での皇位継承・「女帝」をめぐる議論は、以下を読めばほぼ分かる。
 所功・近現代の「女性天皇」論(展転社、2001)。
 とくに、上掲書のp.25~p.45の「Ⅰ/明治前期の『女性天皇』論」。
 ***

2146/岡田英弘著作集第三巻・日本とは何か(2014)①。

 岡田英弘著作集第三巻・日本とは何か(藤原書店、2014)。
 これのうち、第Ⅰ部/<日本の歴史への基本的視点>のうちの「倭国をつくったのはだれか」より。
 ・「『日本書記』に特徴的な記述の第一は、紀元前660年に最初の天皇・神武が即位して日本が生まれ、日本は紀元前7世紀以来、天皇によって統一されていたとしていることにある。
 これが嘘であることはだれが見てもわかるのだが、『日本書記』のそもそもの目的からすると、そのようにしなければならなかった。」
 ・…。「こうした構成がとられたのは、舒明系統の流れをくむ日本の皇室が、みずからの尊厳を正当化するという目的があったからだ。神武以来の、架空の「万世一系」の系譜をつくり、みずからの王権の古さと由緒の正しさを主張すること、ここにこそ『日本書記』編纂の目的があった」。以上、p.31。
 ・「日本が建国される以前の日本列島には何があったか。
 先に触れたが、そこには「倭国」と呼ばれる有力な王国があった。
 この倭国はけっして日本列島を統一していなかったし、倭国王が列島のなかの唯一の王だったかどうかはきわめて疑わしい。
 7世紀のシナの史料『隋書』や『北史』の「倭国伝」をそのまま解釈すると、倭国は日本列島を統一するような国ではありえなかった」。以上、p.32。
 ・「紀元57年の「漢委奴国王」の金印に触れた記事が、『後漢書』の倭伝にある。
 …。倭人の代表を「王」に任命したということは、倭人が今後漢の皇帝と交渉しようとする場合、その窓口にいる倭人の「王」を通さなければならない、という「お墨付き」を与えたことになる。
 奴国は博多湾にあり、韓半島に渡る出発地だった。倭人社会の出入口に位置する場所の酋長に「王」の称号を与えて、いわばシナの名誉領事的な地位を授けたのである」。p.43。
 ・「それから50年経った107年に倭国王・帥升が歴史に現れる」。
 その頃の後漢王朝は内外ともに混乱していた。「困難な情勢を乗り切るために後漢が演出したのが、倭国王・帥升の使いだった。 
倭国王の使者は、107年に生口(奴隷)を従えて洛陽に現れ、倭国王が自身で来朝して皇帝に敬意を表したいと申し出た。…。
 「王」の使者の来朝は、シナの政治の安定に重要な意味を持った。
 朝貢を受けた皇帝には、異種族を感化する徳がある、という証明にもなるからである。
 この朝貢は、あくまでシナ側の都合によって演出された事件だった」。以上、p.44。
 岡田英弘、1931~2017。
 少なくとも近年の西尾幹二の「取り憑かれ」ぶりよりは、冷静だ。

2133/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史14②。

 八幡和郎・皇位継承と万世一系に謎はない~新皇国史観が中国から日本を守る~(扶桑社新書、2011)。
 八幡和郎のこの書の問題性・不備を、聖武から孝謙への移行に関するつぎの一文も、明瞭に示していると思われる。p.93。
 「孝謙天皇の即位自体は予定されていましたが、749年に即位したのは、聖武天皇が出家され、神である天皇が僧であり『三宝の奴』であるというややこしいことになっていたことも譲位を急ぐ理由だったようです」。
 八幡は「…ようです」と書いて、自らの主観的推測でしかないことを活字にしているわけだ。こういう程度の推測・憶測を読まされたのでは、「おもに保守的な読者」も我慢できないのではないか。
 いろいろと問題はある。
 第一に、「ややこしいことになっていた」とあるが、天皇の<出家>(=少なくとも仏教徒だと宣言・宣告すること)が「ややこしい」ことだったのは、はたして聖武天皇に限られるのか。
 この時代、以下の書物のタイトルが「仏都」の語を用いるように、「仏教」の天皇・皇族への影響は相当のものがあった。
 吉川真司・聖武天皇と仏都平城京/天皇の歴史02(講談社、2011)。
 八幡はまるで聖武が出家した最初の天皇だと理解しているのかもしれないが、日本書記によるとだが、天武天皇もまた天皇就位以前に「出家」していた、と明記されている。<壬申の乱>直前の有名な話の中にある。病臥中の天智天皇の言葉から始まる。
 「天皇は東宮〔大海人皇子=天武〕に勅して、皇位を授けようと仰せられた。東宮は辞退して、『不運にも、私はもともと多くの病をすかかえております。どうして国家を保つことができましょうか。<中略> 私は今日出家して、陛下のために功徳を修めたいと存じます』と申し上げられた」。
 「天皇は、これをお許しになった。その日に、東宮は出家して法衣を着られた。そうして私有の兵器を残らず宮司に納められた」。
 このあと、のちの天武は「吉野宮」に入る。
 以上、新編日本古典文学全集04/日本書記3(小学館、1998)、p.301-3。
 「出家」が出てくる原文は、「臣今日出家、為陛下欲修功徳」、「即日、出家法服」。この書には原漢字文(返り文字付き)のほかに訓み下し文もあるが、上の引用は、読み下しではなく<現代文訳>による。
 つぎも参照。「天武は一度出家した経歴をもち、…」と明記している。p.65。
 勝浦令子「仏教と教典」列島の古代史07/信仰と世界観(岩波書店、2006)
 勝浦は、<偽装>の仏教重視ではなく、仏教との関係での天武天皇の重要性について、こうも書いている。同頁。
 「神祇祭祀を基盤…だけでなく、…一切経を網羅具備し、これを含む三宝に帰依することで補完する信仰体制を構築したことは、8世紀以降の国家と仏教、天皇と仏教との関係に大きな影響を与えたといえる」。
 具体的には685年3月の詔に言及があるので(p.66)、上掲書から日本書記の記述を引用しておこう。天武天皇14年(685年)のことだ。
 「壬申〔3月〕に、詔して、『諸々の国の家ごとに、仏舎を造り、仏像と経とを置いて、礼拝し供養せよ』と仰せられた」。p.445
 勝浦によると、「地方への仏教普及」を目的としたもので、実際にも「急速に諸国に寺院が建立されたことは考古学的にもよく知られている」(p.66)。
 というわけで、仏教の影響は「出家」に至るかはともかく、この時代では特段に「ややこしい」ことではないだろう。
 第二に、八幡和郎の「神である天皇が…」という表現も、いささか不用意だろう。「大君は神にしませば」等という万葉集内での詩・句の表現が記憶にあったのだろうか。
 しかし、立ち入らないが、天皇と「神」の関係、例えば天皇は「神」かそれとも「祭祀者」かは、時代の観念によっても異なるだろうが、かく言うほどに簡単ではないだろう。
 第三に、仏教との関係では、聖武天皇はたんに出家しただけ、というのではない。
 東大寺(・盧舎那大仏)建立、死後の光明皇后による財宝類・史資料の同寺・正倉院への寄託の程度の知識はあった。だが、上掲の吉川真司著(天皇の歴史02)は、シロウトには驚くばかりの仏教信者ぶりだったことを叙述している。以下、この吉川著による。
 ①726年、元正太上天皇の病気平癒を願って、興福寺東金堂を建てた。なお、光明皇后も730年に、興福寺五重塔を建てた。この二つは、現在地に残る(15世紀前半の再建にせよ)。
 ②737年、全国(諸国)に、釈迦三尊像の造顕、大般若経一部600巻の書写を命令。
 ③741年、「国分寺建立の詔」を発した。「国分寺(跡)」は全国に現在に残り、地名となっていることも少なくない。この詔は言う-凶作・疫病は「みな朕の政治が悪い」からだが、「神仏の加護を祈ったところ、たしかに霊験があった。そこで、全国に最勝王経・法華経を根本教典とする国分寺・国分尼寺を創建し、国分寺には七重塔を造立して、金字の金光明最勝王経を安置せよ」。
 ④743年、紫香楽宮で盧舎那大仏建立の詔を発した。詔書に言う-「仏法によって天下に幸いをもたらしたく、朕は菩薩の大願を発して、盧舎那仏の金銅像を造りたてまつる」。
 ⑤ 746年、元正太上天皇・光明皇后と3名で行幸して、盧舎那仏「燃灯供養」。747年、大仏建立開始、官大寺である東大寺と名称変更。
 ⑥748年、諸国に「夏安居」=寺院での勉学修行、「最勝王経」講説を命じる。
 ⑦749年、全国諸寺での法会=「悔過会」を発願して、命じる。
 ⑧同年4月、光明皇后・阿倍内親王(=孝謙)とともに東大寺・大仏鋳造現場で、大仏に「北面」し、「三宝の奴」と称して陸奥での黄金産出を報告。/改元
 ⑨同年閏5月、大安寺・薬師寺・元興寺・興福寺・東大寺等12大寺に資財・墾田を施す(一切経講説等の財源)。(/出家。)
 ⑩上のとき、各寺院あて詔書で、「太上天皇沙弥勝満」と自称〔下記参照〕。/5月23日、都を離れて薬師寺に移る。7月、譲位・孝謙即位。
 以上のとおり。
 最後の⑩部分の「沙弥勝満」は聖武自身のことで、「勝満」は固有名。「沙弥」とは大まかには正式の(「授戒」された)僧ではなく「見習い」・「修行」中の僧を言う。このように書いた文書の一つ(「勅」だけが自筆)が現在でも残っているらしい(吉川著p.200-1に写真がある)。
 このとおりで、仏教への「帰依」は、八幡が想定するよりはおそらく、著しい。
 第四に、八幡は「聖武天皇が出家され、神である天皇が僧であり『三宝の奴』であるというややこしいことになっていたことも譲位を急ぐ理由だったようです」と記述するが、このあたりの吉川著の叙述ぶりからすると、聖武は「出家」・譲位を覚悟のうえで大仏鋳造現場に向かい、正式の譲位の前に「太上天皇」号をすでに文書中で使った頃には「出家」していて、その後にすみやかに正式に譲位=孝謙即位となったようだ。
 つまり、期間の重なりが厳密にはあったかもしれないとしても、「出家」と天皇位は両立し得ない、「出家」した人間は天皇位に就けない、というおそらくは伝統的でかつのちにも一貫した考え方・観念が存在したのだろう。
 八幡の記述するように「出家」していたからそれを理由として「譲位を急いだ」、というのではなく、聖武にとって「出家」と「譲位」は一セットで、同じことだっただろうと考えられる。
 天武が壬申の乱前に「出家」したとされるのは、「皇位」への意図・執着はない、という意思表示のつもりだったのだろう。また、後世にも、天皇が退位して「出家」する、あるいはこれをほとんど同期日に行う、逆に、「出家」した者が「還俗」して天皇となる(またはほとんど同期日に行う)、ということは行われた(例を確認することはしない)。
 「出家する」とか「出家させる」というのは(あるいはその逆の「還俗」)は、少なくとも宗教的意味をもつばかりではなく、重要な<政治的>判断だったし、その後の日本史・天皇史上もそうなった、と見られる。。
 なお、「三宝」=仏法僧とは、ふつうは、仏=ブッダ(・釈迦)、法=法経・教典・仏典、僧=僧侶(僧尼)だとされる。「三宝の奴」とは、かなり強烈な言葉だ。
 上の⑩のあと、吉川著p.201-2によると、こういうことがあった。。
 752年、聖武太上天皇・光明皇太后・孝謙天皇が行幸して、東大寺で「大仏開眼」の法要。1万人の僧侶が参列(名簿が残存と近年に判明)。この年は、552年の「仏教伝来」公伝からちょうど200年、その日は釈迦生誕とされる4月8日。大仏の「鍍金」終了は762年前後。使用した黄金総量は「1万446両」だつた。
 同著p.200によると、文武天皇が果たせなかった「譲位を決行させた原動力は、聖武の篤い仏教信仰であったが、それを後押ししたのが『陸奥黄金のインパクト』だった」。
 ***
 黄金産出はともかく、「篤い仏教信仰」にかかわって、考えさせられることもある。
 八幡は天皇(家)=「神道」というイメージで叙述して「ややこしい」という語を使ったのかもしれないが、天皇または皇室・皇族の、明らかに<天神地祇>に対するのとは異なる、<仏教>との関係だ。それは聖武に限らず、基本的には明治維新期直前まで続いたのではないかと推察される。
 決して「神道」・「仏教」、と並列させることはできないものがある、と感じられる。
 むろん、これは<天神地祇>信仰や「神道」概念の意味にかかわる。
 ***
 聖武天皇に戻る。「仏教」の意義と役割にも関係するが、この天皇の仏教への執着(?)、より具体的には東大寺大仏建立等の<仏教・寺院>支援と出家は、有力な?<俗説>によると、<長屋王殺害>事件による長屋王の「怨霊(・御霊)」からの離脱、「怨霊」の鎮魂にある。この点は、八幡は言及していないが、別に扱うだけの価値があるだろう。

2132/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史14①。

 西尾幹二=竹田恒泰・女系天皇問題と脱原発(飛鳥新社、2012年12月)。西尾発言、p.11。
 「歴史的に見ても日本の皇室は女性に対しては常に一貫して民間に開かれていたいうこと。…、皇統という "鎖の輪" に民間の女性がぶら下がっているという形で続いてきた」。
 「歴史上、女性の天皇が8人いますが、緊急避難的な "中継ぎ" であったことは、つとに知られている話です。そうしますと男系継承を疑う根拠は何もない」。
 上の部分の「緊急避難的な "中継ぎ" 」には編集者によると見られる小文字の注記があり、8名の女性天皇名を記載するとともに、こう書いている(p.13)。
 「いずれも皇位継承候補が複数存在したり、幼少であったことからの緊急避難的措置で、すべて男系の寡婦か未婚であった」。
 女性天皇否認ではなく、<万世一系>の「神話」について、西尾幹二が同年にこう書いていたことに気づいた。
 西尾幹二・天皇と原爆(新潮社、2012年1月)。p.142、p.145-6。
 「なぜ天皇は唯一のご存在で、ご高貴であるかについて合理的な説明などあってはいけません」。
 「要するに神武天皇以来ずっと続いているのも神話なんであって、神話だから信じるんです。不合理ゆえに信ずるというのが信仰の本質ですから、天皇という問題は、日本人の信仰に深く関わっています」。
 「大東亜戦争は、天皇を中心とした信仰のもとに戦った宗教戦争だったんです」。
 「日米戦争は、アメリカの強い宗教的動機と日本の天皇信仰とがぶつかり合った戦いにほかなりません」。
 ここで西尾は、特定の(であるはずの)「信仰」・「宗教」という語を明記している。
 こう明確には必ずしも発言、執筆はしてこなかったことについては、別に書く。
 つぎの書も、「おもに保守的な読者に提供しよう」とするからか、上のような<万世一系>論、<女性天皇「中継ぎ」>論を、支持するものになっている。
 八幡和郎・皇位継承と万世一系に謎はない~新皇国史観が中国から日本を守る~(扶桑社新書、2011年9月)。
 しかし、まず(推古、皇極=斉明は「中継ぎ」ではない)、持統以下、桓武以前の女性天皇のうち、持統・元明・元正は「緊急避難的」「中継ぎ」の女性天皇だったということも、現在のごく一部にあるらしい「都市伝説」のようなものだ。
 現在の女系否認・女性「中継ぎ」論者たちがいう<男系男子>絶対優先ならば、持統・元明・元正は天皇になり得ていない。
 <男系男子>継承一般ではなく、「特定の男子皇族」への継承が優先されたのだ。
 天武-①草壁皇子-②文武-③聖武。いずれの継承のときにも、<男系男子>皇族・天皇就位資格者は、他にもいた。のちに天智天皇の孫の老人・光仁を天皇にするくらいなら、いくらでも候補者はいた。この点は、天武の親王とその母親等について、一覧表または系図関係をきちんと調べて、いずれまた書く。
 現在の女系否認・女性「中継ぎ」論者たちでも間違いなく困るのは、聖武-孝謙(女性)という皇位継承だ。
 聖武天皇(701-756、在位724-749)の妃となった光明皇后は、聖武との間に718年、阿倍内親王(のち孝謙天皇)を生み、727年、皇子を生んだ(「基王」または「某王」)。この皇子(男子)はただちに皇太子とされたが、728年に1年も生きずに死んだ。この子の供養のために聖武が発願して創建した寺院がのちに東大寺に発展した、という(場所は現在地と異なる)。
 以上は、つぎの書に依っている。なお、吉川は「基王」につき「某王」説に立つ。
 吉川真司・聖武天皇と仏都平城京/天皇の歴史02(講談社、2011)。
 その後光明皇后は男子を生まなかったようだ。しかし、聖武天皇の別の夫人・県犬養広刀自との間に、男子・安積親王が、「基王」の死と同年に生まれていた。母親の違いはあるが、聖武からすれば第二皇子・次男になる。なお、この安積親王の同母の姉が、のちにいったんは光仁天皇の皇后となる井上内親王(聖武天皇の第一皇女)。
 この当時、「長屋王」という皇族がいた(684-729)。天武の孫・高市皇子の子、母は持統・元明の妹の御名部皇女、妻・吉備内親王の父は草壁皇子、同じく母は元明天皇。
 持統の血が入っていないことを別とすれば、光明皇后はもともとは藤原氏の娘(「藤三娘」)で皇族外だったので、「血統」だけでいうと、長屋王の方が聖武天皇よりも上回るとすら言える。
 長屋王の684年出生が正しいとすると、「基王」が死去したとき、44歳前後だ。皇太子の姉、のちの孝謙(718-770)はこのとき、10歳前後だった。聖武天皇は、27歳前後。安積親王は生まれたばかり。
 かりに<男子>を優先すれば、時期次第では長屋王が聖武天皇の後継者の有力な候補になり得るとともに、安積親王の立太子や皇位継承を長屋王が主張し、支援することも十分に考えられただろう。
 しかし、現実には、聖武の子の阿倍内親王=孝謙天皇という<女性>が継承した。
 729年の<長屋王の変>で、「謀反」があるとする「誣告」を契機として、長屋王が妻・吉備内親王とその間の3人の子(全員が男子)および別の男子(計4王子)とともに揃って「殺された」または「自害させられた」ことが大きいだろう。744年、直系男子の安積親王も16歳ほどで死んでいる(暗殺説がある。728-744)。
 このあたりは、八幡和郎もまた、少しは叙述に困ったようだ。p.91。
 ・「皇位継承は混沌としました。/ここで起きたのが長屋王の変です」。
 ・720年の藤原不比等死後「長屋王が最大実力者になりました」。
 そして、<長屋王の変>の背景について、こう推測する。p.91。三千代とは光明皇后の母(県犬養橘三千代)。
 「基皇子を呪詛したとか光明子の立后に反対したともいいますが、阿倍内親王への継承を確実にするために、聖武天皇、皇后、三千代の誰かが主導したのでしょうか」。
 この一文のあたりは、はなはだ興味深い。
 第一に、「安積親王」という直系男子皇族への言及がない。第二に、長屋王による「謀反」は「誣告」=ウソだった、つまり長屋王は無実・無罪だったとするのが定説とみられるが(吉川真司も同じ)、これを断定的には記していない。
 注目されるべき第三は、「阿倍内親王(女性=孝謙)への継承を確実にするため」という推測にとどめている動機について、非難・批判めいたニュアンスがまるでないことだ。
 そして、さらにこう書く。p.92。
 「女帝の即位は、それまではいずれも正統な皇位継承者につなぐためのものでした」。
 ここでの「正統な皇位継承者」とは何か、誰かは当然に問題になるが、続ける。
 「孝謙天皇の即位は、そうした見通しを持ったものではありませんでした」。
 この明記は重要だ。しかし、ここでも非難・批判めいたニュアンスはまるでない。つまりは、男系男子への「中継ぎ」だとは言えないこと(これは実際にも、のちに判明する)を、既成事実としてなのかどうか、八幡和郎もまた肯定していることになるだろう。
 この孝謙=称徳の例を、きわめて僅かな例外と見なすことはできない。西尾幹二らが、「女性の天皇が8人」が「緊急避難的な "中継ぎ" であったことは、つとに知られている話です」と言うのは、まっ赤なウソなのだ。なお、こう評しているのは、他の女性天皇についてはそうだった、と認めている趣旨ではない。
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 八幡のつぎの書は、上の著の1年前のものだが、上で指摘した点を、より断定的に強調している。
 八幡和郎・本当は謎がない「古代史」(ソフトバンク新書、2010)。p.226-7。
 「長屋王の排除は対立する藤原氏の陰謀のようにいわれるが、不比等と長屋王との関係は良好で次女(ただし母は三千代ではない)を嫁がせているくらいだ」。
 「長屋王の失脚は、あまりに権勢が強くなりすぎて四方から総スカンをくっていたことが原因であり、そこに聖武天皇のあとの阿倍内親王(孝謙天皇)の即位を視野に入れたときに、長屋王と吉備内親王との間の王子たちが競争相手となるのを嫌った阿倍内親王の父母、すなわち聖武天皇、光明子らの意志が反映されて排除したものだろう」。
 これらの全ての言葉を否定はしないが、専門の歴史研究者ではないにもかかわらず、「長屋王の失脚は、あまりに権勢が強くなりすぎて四方から総スカンをくっていたことが原因であり(、…反映されて…)」と、八幡はよくも書いたものだ。
 なぜこんなに傲慢になれるのだろう。そして、この点だけではないが、なぜ、古い時代の事象・事件について、ときどきの「天皇」の側、当時の「政権」側に立った叙述をし続けるのだろう。
 なお、八幡はこの書では、長屋王は「殺された」=「自害させられた」のではなく、「自殺」した、と記述している。p.224。
 「この翌年に、長屋王が謀反の疑いをかけられ、妃の吉備内親王(文武・元正の同母姉妹)とともに自殺するという事件が起きた(729年。長屋王の変)」。
 「疑い」をかけられて「自殺」するのと、「誣告」を根拠に(実質的に)「殺された」というのでは、意味が全くというほど異なっている。前者は、八幡和郎「説」。

2128/津田左右吉・日本の神道(1948)-第1章②。

 津田左右吉・日本の神道(1948)/同全集第9巻(1964)。
 第1章・神道の語の種々の意義。紹介のつづき。
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  付言すべきなのは、①「近ごろ」になって、「第一の意義での神道に国家的権威の表徴たる意義を付与しようとする主張」が生じたことだ。
 このような主張は「思想」として第三~第五の意義の「神道」に含まれ、由来もあることなので第三~第五と「離して」取り扱う必要はない。しかし、「現実の国家的施設または政策に関連させようとする」点に、「この主張の特異性」があることに注意しなければならない。
 この主張は「国家的権威を神道の基礎の上に置いて」、国家に「宗教的意義を持たせよう」とするものの如くだが、そのためには「神道に国家的意義を与える」ことがまず要求されたのだろう。
 この場合に「神道」という呼称を使うのは、かりに「公式のこと」ではないかも知れないとしても、この語を「第一の意義」として用いることが許容されるならば、「一つの主張」ではある。
 しかし、これは「民族的宗教としての神道に本から具わっていることではない」。
 ②「現実に行われている民族的風習としての神の崇拝」や「神社における神の崇拝」を「神道」と称しつつ、その神道から「宗教的性質を排除し、道徳的政治的意義においての典礼」と見ようとする主張もあるようだ。
 これまた歴史的には「第五の意義での神道」に淵源があるとともに、かりに「現実の風習としての神の崇拝と神社における神の祭祀とに宗教的性質がない」とするものならば、「明白なる現在の事実を無視」するものだ。
 ③なお、「日本の民族精神というような観念を神道の名によって表現しようとする傾向」もあるようだ。これはしかし、「神道という語の濫用とすべき」だろう
  さらに付言する。①「原始神道」という語で「上代の」第一の意義の神道を呼ぶ人がいるようだ。しかし、その語で想定されるはずの「発達した神道」が第三~第五の意義の「神道」を指すのならば、その名称は「その実」に即していない。
 ②本居「宣長などの国学者」が説いた「神の道」が、「復古神道」とも称されているようだ。
 しかし、その「古の状態」が上代の第一の意義の神道を指すとすれば、その名もまた「妥当ではない」。宣長らの説示が「神道」と言い得るのは第五の意義のものであり、「上代の民族的風習としての宗教的信仰とは全く違った」ものだからだ。 
 但し、第一の意義の神道も種々の変化が生じて、後世には第三~第五の意義から影響を受け、後者が前者と「ある関連」をもって説かれている場合もある。
 しかし、「民族的風習としての神道は、とくに民間信仰」は、「表面的」にはともあれ「内面的」・「本質的」には後世でも「なお昔のままに」継承されている点が多いのであって、「学者が説くような神道は、それとは関係がはなはだ少ない」。
 また、「学者」の「考説」は民間信仰をもとに「思想的に深めたり体系づけ理論づけたりするする」のではない。「その仕事は、主として古典、とくに神代の巻などの記載に何らかの解釈を加えること」だが、「その神代巻には、…、宗教的要素が甚だ少なく、その少ないものでも民間信仰がそそのままに現れているのではない」。
 のみならず、「その解釈」は「古典そのものに内在する思想を明らかにする」のではなく「古典の記載とは全く別」の、「それとは関係のない思想をそれに付会する」ことにあり、そこに「シナ思想(またはインド思想)の働く理由がある」。
 従って、第三~第五の意義の神道が「現実の民族的宗教としての神道と深い交渉のないものであることは、当然である」。
 この論考の目的の一半はこれらを明らかにすることで、以上を予め述べておくのは、「神道」にも多義のものことが知られていないために、「原始神道」や「復古神道」という呼称が生じるのだろうからだ。
  「上代の民族的宗教がほとんどそのままに後世まで存続しているのは、珍しい」。
 これには種々の理由があろうが、知性の発達と文化の進展時代となって「学者が種々の神道学説を構成した」のも、各時代の学者が「そうしなければ知性の満足ができなかったから」でもある。最近に「民族的風習としての神道」に「強いて種々の思想を付会し、又はむりに」本来の性質と異なる意義の如く「解釈」して「宣伝」されるのも、理由はこの点にあるだろう。
 「宣伝」にはそれなりの意図があるのだろうが、「民族的宗教としての神道が、そのままの姿においては、現代人の知性の欲求とあまりに隔たっていること」も考慮すべきだろう。
 本稿では「主として」第三~第五の意義の「神道」を扱う。第一の意義のものは、第三~第五の意義のそれが「学者の思惟によって形成せられた何らかの教説であるのとは全く性質が違い」、後者こそが「シナ思想の要素を含む」。
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 つづける。

2127/津田左右吉・日本の神道(1948)-第1章①。

 一 津田左右吉全集第9巻(岩波書店、1964)の全体を、津田・<日本の神道>が占める。
 津田による1948年2月記の「まへ書き」によると、1937~39年(昭和12~14年)に雑誌に掲載した「日本の神道に於けるシナ思想の要素」と題する論考を「補訂したもの」。
 そして、たんに「日本の神道」としたのは「呼称としての便宜」で、神道には「仏教」の要素があったり「仏教」に「もとづいてくみたてられた」ものもあるので当たっていないようでもあるが、「主としてシナ思想との交渉の面」でだが「仏教との関連」も考察しているから、こう称しても「著しい僭称とはなるまい」、と述べている。
 二 第一章の表題は<神道の語の種々の意義>。この部分を要約・抜粋する。旧漢字・旧かな遣いは、新体・新遣いに改める。全集第9巻本文1頁以下。
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 「神道」はいろいろな意義で用いられているので、言葉のもつ意義を明らかにしておく必要がある。
 第一に、「古くから伝えられてきた日本の民族的風習としての宗教(呪述を含めていう)的信仰」を意味する。「最古の文献」上の用例はこの意味だ。日本書記の用明天皇紀・孝徳天皇紀での「仏法」に対する「神道」がこれ。
 「民族的風習としての宗教的信仰」には呼称がなかったが、「仏教」の外来・伝搬以降の区別・対抗のためにこの語が新たに作られたた(元来は「シナの成語」)。
 「儒教」は宗教ではなく「道徳・政治の道」を教えるものであっても、「礼」は学ばれず、書物から「その思想」が知られたにすぎない。
 「宗教としての道教」は入ってこなかった。
 「在来の民族的宗教」に対して宗教としての力あるのは「仏教」のみだったので、これに対する「神道」という語が必要だったのだろう。ある程度は前者が「力のあるもの」になって以降に。仏教伝来の最初の頃は、「仏が神といわれていた」ことも考えておく必要がある。
 「仏教」興隆に関する記載の多い推古天皇紀15年に「神祇拝祭」の記事を設けた書記編者に、「仏教に対立するものとしての神道を存在させようとする意図」があったと推測しても大きな間違いではないだろう。用明天皇紀・孝徳天皇紀の記事も、その「精神の現れ」ではないか。
 「いわゆる十七条の憲法」は「在来の民族的宗教を問題とせず、仏教のみを重んじ」、「仏教興隆」の趨勢下にあるが、この趨勢は一方で「民族的宗教を明らかにしようとする態度」を生んだと思われ、それが書記編纂者に継承されたのだろう。
 この意味は以下の諸「神道」概念の「根源」となった。
 第二に、「神の権威、力、はたらき、しわざ、神としての地位、神であること、もしくは神そのもの、などを指していう場合」がある。
 続紀延暦元年「神道難誣」、類聚三代格延暦17年「神道益世」等々。
「第一の意義から転化した」ものと推測される。
 「神代記の記載のごとき神代の説話を宗教的意義のものと見て、そこに語られている神、または神と称せられている人物の行動などを神道と称することもあ」り、釈紀が引用する私記等にもあるが、それも「ここに述べた意義での神道の一例」だと考えるべきだろう。
 第三は、「両部神道」、「唯一神道」、「垂加神道」等という場合のように、「第一の意義での神道に、あるいはむしろ第二に付言したような意義に解せられた神代の説話に、何らかの思想的解釈を加えた、その思想」を意味する。
 これは一種の「神学」、「教説」であって、その思想の違いから「種々の神道」が生じ、各々の「伝承」をもつに至っている。
 但し、「両部神道」のように「特異なる崇拝の儀礼」を行う場合もある。しかし、その「儀礼的側面」を離れても「たんに思想」と見ることが可能な点に、この意味での「神道」という語の存在意義がある。
 第四は、「何れかの神社を中心として宣伝せられているところに特異性があるもの」で、「伊勢神道とか山王神道とか」いうのを例とする。
 「思想的側面」としての「神学」や「教説」があるので、その点の限りでは第三の意義と同じで、「ただその神学なり教説がその神社との特殊の関係において組み立てられているのみ」だけれども、他の側面として「種々の方面に対するその神社の権威が…称揚せられることになる」ので、ここにこの意義での「神道」の「対世間的意義」がある。
 第五は、「日本の神の教え又は定めた、従って日本に特殊な、政治もしくは道徳の規範というような意義」で用いられた「神道」だ。
 「主として儒教の影響を受け、それに対抗するものとしての神道」、すなわち「儒者のいう聖人の道とか先王の道とかに対する意義で『神の道』というものを立てようとするところから生じた」ものだ。
 「徳川時代の学者に最も多く行われた神道の語の用い方」で、「いわゆる国学者が神の道とか皇神の道とか言っているもの」も、これに属する。
 第三・第四の「神道」は第一のそれを継承するもので、「神道」とい文字は「神を祭る道」、最も広義には「神に関する道」とでも解すべきものであって、「神の定め又は教えた道」を意味しない。この第五の意義での「神道」は、これらとは異なる。
 この第五の意義での「神道」は「思想として存在するのみ」で、「本質的には、現実の民族的風習としての神の崇拝とは、ほとんど関係がないと言ってもよいほどであり、また古典の記載からも離れている」。しかし、「いろいろな点でそれらに付会して説かれている」。よって、第三の意義と「はっきりと区別することはできぬ」。
 第六は、「いわゆる宗派神道のそれ」だ。
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 つづける。

2120/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史13②。

 小倉慈司・山口輝臣・天皇と宗教/天皇の歴史09(講談社、2011)。
 上の書のうち山口輝臣担当部分から、いくつかを抜粋・要約または引用しておこう。
 私自身を含めて、何らかの通念・イメージ・「思い込み」が形成されてきているので、そうした<通念>とは矛盾するような資史料・文献・事実等を、著者はある程度は意識的に採用している可能性はあるだろう。但し、私が要するに無知・勉強不足だっただけかもしれない。
 まず取り上げたいのは、「宗教」それ自体が、あるいは「神道」がどのようにイメージされていたか、だ。
 第一。旧憲法・旧皇室典範は<宗教宣言>(国家自体の「宗教」に関する記述)を回避したが、伊藤博文による「起案の大綱」はこう書いている、という。p.236。この時期での伊藤の「神道」に関する「認識」等は、相当に興味深い。1888年頃と見られる。新仮名遣いに改める。一文らしきものごとに改行する。
 「欧州においては憲法政治の萌せること千余年、…また宗教なる者ありてこれが機軸を為し、深く人心に浸潤して人心これに帰一せり。
 しかるに、我国にありては宗教なる者その力微弱にして、一も国家の機軸たるべきものなし。
 仏教は一たび隆盛の勢いを張り上下の心を繋ぎたるも、今日に至りてはすでに衰替に傾きたり。
 神道は祖宗の遺訓にもとづきこれを祖述するとはいえども、宗教として人心を帰向せしむるの力に乏し
 我国にあって機軸とすべきは独り皇室あるのみ
 皇室=神道、ではない、ということが明瞭だ。伊藤は、憲法にもとづく新国家の「機軸」は、「神道」ではなく「皇室」だ、とする。
 このあたりの論述は、山口輝臣の「往々にして明治維新によってすべてが定まったかのように描」くのは「怠惰なうえに明らかな誤りである」(p.219)という理解にもとづく。「神仏分離」を過剰に重視してはならないのだ(同上)。
 太政官と並ぶ神祇官の設置から始まる明治新政権が、かりに「神祇官」=「神道」だとしてもだが、当初から<神道>を中軸にしようとしていた、というイメージは誤っていることになる。
 明治の最初の10年間で、「神祇」に関する国制・所管行政組織も毎年のように変遷していった。
 第二。明治4年(1871年)、<岩倉使節団>が渡米・渡欧するが、同行者の久米邦武は、船中をこう回想している、という。p.222。
 宗教は何かと訊かれそうだ。ある人が「仏教」だと言ったが「仏教信者とはどうも口から出ない」。では何だと問われると、困る。「儒教だ、忠孝仁義」だと言おうとすると、一方で、「儒教は宗教ではない」、「一種の政治機関の教育」だ、と言う。
 「神道を信ずると言うが相当との説」があるが、「それはいかぬ。なるほど国では神道などと言うけれども、世界に対して神道というものはまだ成立ない。かつ、何一つの経文もない。ただ神道と言っても世界が宗教と認めないから仕方がない」。
 かくて「神儒仏ともにどれと言う事も出来ないから、むしろ宗教は無いと言おう」としたが、それはダメだ、「西洋」では「無宗教はいけない」。そういう話になって「皆困った」。
 以上。興味深い、1871年時点に関する回想記だ。
 第三。そもそも明治期、旧憲法制定・施行の頃まで、日本人にとって「宗教」とは何だったのか。山口は、p.223以下で、こう説明・論述している。
 ・「宗教」という語・観念は、「19世紀中頃」に生まれ、「それ以降、はじめて宗教について考えるようになった」。
 ・「宗教」はreligion (又は類似の欧米語)の訳語として「創造」された。その経緯から、ほとんど「宗教」=<キリスト教>だった。
 ・次いで、「~教徒」という語から<仏教>がそれとして意識・観念された=「宗教という名に値しそうなものは日本には仏教しかない」。だが、「それを信じているとは言いにくい」。なぜなら、西洋人がキリスト教を信じているようには「仏教を信じていない」から。/以上。
 要するに、「宗教」という言葉・観念は少なくとも現在よりは相当に狭く、「神道」があっても(むろんこの言葉はすでにあった)、「神道」を簡単に含み入れることができるようなものではなかったのだ。
 第四。むしろ、<神道は宗教ではない>、との理解が一般的だった。山口によれば、つぎのとおりだ。p.232以下。
 ・1884年(明治17年)、政府は「神職・神社を宗教の枠外に置くことと引き換えに、葬儀への関与を禁じた」。これは、キリスト教式の「葬儀」の自由化、「葬儀を独占」したい仏教・僧侶たちの意向を反映するものだった。
 ・「神社が宗教ではないのはおかしい」と感じられるかもしれないが、「この時代の常識」だった。-「藩閥政府は19世紀の常識をもとに、仕組みを拵えた」。当然のことだ、「彼らのような『素人』が、独自の宗教理解を捏造し得たと考える方が、どうかしていよう」(p.234)。
 ・1887年(明治20年)、釈宗演という僧侶は日記にこう書いた。
 「この神道なるものの宗旨は何かと云ば何等の点にあるか。予いまだにその教を聞かざりしも、天下の世論従えば、純然たる宗教とは認めがたきが如し。
 彼の皇統連綿は比類無き美事なれども、これを以て直ちに宗教視することは穏当ならずと覚ゆ」。
 第五。かくして、明治新政権は、山口によると「第三の道」を選択した、という。
 上の釈宗演は、つづけてこう書いていた。
 ・「国教、否帝室の奉教は何なる宗旨なるか」。ひそかに考えるに「仏教にあらずんば必ず耶蘇教ならん」。p.235。
 また、福沢諭吉は1884年に「宗教もまた西洋風に従わざるを得ず」(表題)と新聞紙上で明言し(p.230)、中村正直はすでに1873年に「陛下、…先ず自ら洗礼を受け、自ら教会の主となり、しこうして億兆唱率すべし」と書いていた(同上)。
 現在では信じ難い感があるが、これが<第一の道>だ。つまり、文明開化=西欧化するためのキリスト教の「国教」化だ。
 <第二の道>は、「祭政一致」、つまり「祭」=「神道」という理解を前提としての、「神道と国家」の一体化、つまりは「神道の国教化」だ(この一文も秋月)。
 上に少し触れたように「神祇」に関する所管官庁は変遷する。神祇官→神祇省→教務省→内務省社寺局(p.205参照)。
 山口輝臣によると、「国学者」たちは「祭政一致」・「神仏分離」・「神社の優遇とキリスト教の敵視」を追求した(第一章第3節の表題「学者の統治」)。しかし、藩閥政治家たちの主流派、伊藤・木戸・大久保・大隈重信らは「誤っている」または「行き過ぎ」と考えて、「軌道修正」をした(p.205-6)。
 「国学者たち」は、「素人」政治家によって、1871-2年に「一掃」された(同上)。
 従って、<第三の道>となる。上の第一に紹介したように、伊藤によると、「神道」は「国家の機軸」になり得ず、それとすべきは「皇室」だ。
 繰り返すが、皇室・天皇=「神道」では全くない、ということが興味深い。
 具体的には、憲法の中に「国教」に関する条項を設けない、その点は曖昧なままにする、という「現実的」選択だったのだろう。
 以下、再び山口による。p.239以下。
 ・「天皇を機軸」とするため、「天皇」の存在・その統治権の根拠を「万世一系」に求めた(旧憲法1条)。憲法のほか、皇室典範、その他の告文でも同様。
 ・天皇の「神聖」性(旧憲法3条)は「祭政一致」論者には嬉しいものだったが、<天皇無答責>の旨(伊藤・<憲法義解>)を定めただけ。 
 ・この道は「祭政一致や国教」に関心をもつ人々の「夢を完全には潰さないが、それらのいずれとも異なる道だった」。 
 以上で今回は終える。
 「国体」概念・観念はまだ登場しない。この語は旧憲法・旧皇室典範にはない。
 しかし、山口はつぎの二つは重要な課題のままだったとしている、と記しておこう。p.241。
 ①「天皇家の宗教」は何か。②「天皇が機軸である」とは具体的に何であり、どうすればよいのか。
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 以上は、1890年頃の話。敗戦まで、さらに戦後、いったいどう「展開」したのか。
 1868年~1889年はほぼ20年間。1890年~1945年は、55年間。1945年~2020年は、75年間。日本国憲法(1947年~)のもとで、我々はいったい何を議論してきたのだろうか。
 <神道は日本人の宗教です>、<先ず神道の大祭司としてのお務めを>と一文書くだけで済むのか。

2119/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史13①。

 先月から今月、全部を読み終えた書に、以下がある。早いもの順。
 1.本郷和人・権力の日本史(文春新書、2019/2010)。
 2.大津透・神話から歴史へ/天皇の歴史01(講談社、2010)。
 3.小倉慈司・山口輝臣・天皇と宗教/天皇の歴史09(講談社、2011)。
 最初の二つに関しても、感想・メモを記せば何回もにかはなる。
 すこぶる面白くて勉強になったのは、3.だ。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(英訳初版・計三巻、1978)の邦訳書がないことを知って衝撃を受け、日本の<文科系>ないし<人文社会系>情報界・学界への諦念を持ったのが2017年だった(諦念、「そんなものだろう」という気分は変わっていない)。
 上の小倉・山口・天皇と宗教(講談社、2011)は、「衝撃」となったというよりも自分の無知・不勉強を感じた。そして、現在の「右翼」・一部「保守」の言い分の単純さ・幼稚さ・誤謬をあらためて強く思い知らされる。
 とりあえず、備忘のために目次構成をメモしておく。
 小倉慈司・山口輝臣・天皇と宗教/天皇の歴史09(講談社、2011)。
 第一部/小倉慈司(1967-)・「敬神」と「信心」と-古代~近世。
  第1章・国家装置としての祭祀。
   1/大嘗祭の成立、2/令制前の大王の祭り、3/律令制と地方神祇制度の整備、4/伊勢神宮と斎宮、5/神社制度の変化、6/宮中祭祀の諸相。
  第2章・鎮護国家と玉体安穏。
   1/新たなイデオロギーの導入、2/王法と仏法、3/天皇と出家
  第3章・「神事優先」と「神仏隔離」の論理。
   1/「神事優先」の伝統、2/「神仏隔離」の成立、3/神祇から仏教へ
  第4章・天皇の論理-象徴天皇制の原像。
   1/内省する天皇、2/皇室宗教行事の変容。
  第5章・皇室の葬礼と寺院。
 第二部・山口輝臣(1970-)・宗教と向き合って-19・20世紀。 
  第1章・祭政一致の名のもとに-19世紀。
   1/天皇とサポーター、2/祈りの力、3/学者の統治、4/維新と、その後。
  第2章・宗教のめぐみ-19世紀から20世紀へ。
   1/キリスト教との和解、2/第三の道、3/明治天皇の「御敬神」、4/天皇のいる国家儀礼。
  第3章/天皇家の宗教。
   1/皇族に信教の自由はあるのか?、2/宮中に息づく仏教、3/天皇に宗教なし?。
  第4章・国体の時代-20世紀前半。
   1/天皇に絡みつく神社、2/天皇制vs.国体、3/兄の格律、弟たちの反抗、4/国体を護持し得て。
  第5章・天皇制の果実-20世紀後半。
   1/国体の行方、2/象徴を探して。
 以上。
 このように紹介してもすでに、中身が単純ではないこと、もっぱら「神道」に焦点を当てたものでもないこと、は分かる。
 神道または仏教に関するのみの歴史書、天皇を中心とする政治の歴史書や概観書では得られない、概略的な知識が得られる。二人の厳密な意味での共著ではなくいわば「連著」だが、大きな断続感はないのが不思議だ。
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 以下の叙述は、本当に<あほ>であるか<無知>だろう。
 ①櫻井よしこ・週刊新潮2019年1月3日=10日号。
 「神道の価値観」は「穏やかで、寛容である。神道の神々を祭ってきた日本は異教の教えである仏教を受け入れた。
 **既述のように、「仏教伝来」以前の「神道」とは何か。日本の「神々」はなぜ「神道の神々」なのか。また、神道は「穏やかで、寛容」という形容は、西尾幹二によると<新しい教科書をつくる会>分裂時直前に日本会議の誰かが言ったらしい、<八木(秀次)くんはイイやつですよ>という形容と、いかほどに違うのか。なお、荒ぶる、怒れる、あるいは「祟る」神もある、ということは、常識的なのだが。
 ②櫻井よしこ・月刊正論2017年3月号、p.85。
 「古事記」は「日本が独特の文明を有することや、日本の宗教である神道の特徴」を明確に示している。
 **「古事記」が示す「神道の特徴」とは何か。古事記編纂時代に意識されていた<神話>は「神道」なのか? 既述のように、なぜ日本書記ではなく古事記なのか?
 ③櫻井・同上p.85。
 「神道には教義がありませんから、神道は宗教ではないという人もいます。しかし神道は紛れもなく日本人の宗教です」。
 **櫻井のいう「宗教」とは何か。日本書記・古事記編纂時点でもよいが、「宗教」の意味するところは何だったのか。なぜ、<日本化した仏教>をいっさい無視するのか。
 ③平川祐弘・新潮45-2017年8月号。
 「日本では古代から天皇家」は「祭祀」、すなわち「民族宗教のまつりごと」を司どってきた。「天皇家にはご先祖様以来の伝統をきちんと守って、まず神道の大祭司としてのおつとめを全うしていただきたい」。
 **天皇が歴史上一貫して「神道の大祭司」だったかのごとくだが、その際の「神道の大祭司」または「神道」とは何か。
 櫻井よしこや平川祐弘らが「神道」、「宗教」といった基本語彙・概念の意味を探求することなく、勝手に?論述していることは明瞭だ。
 上の小倉=山口著への言及は今回はできるだけ避けるが、小倉著部分には、櫻井や平川らにとっては刺激的な叙述がある。以下は、わずかな例にすぎない。
 1.「天神地祇」=「神祇」(神=天神、祇=地神)」という言葉は中国古文献や「百済本紀」等にも出てくる。「古代朝鮮」にも「神祇信仰」はあった。2.七世紀以降に(大宝令>「神祇令」等により)「神祇信仰」を核とする国家構想が生じた。3.仏教上の「仏」は当時の日本人にとって新しい「神」だった。4.律令国家時代、まだ「神道」という語はない。
 そもそもが「神道」の意味の確定・探求なくして、「蕃神」=仏教との違いやその「大祭司」の意味も全く明からにならない。天皇・皇室と「仏教」との関係の濃淡は時代により異なるが、仏教との関連(仏教による国家鎮護・玉体安穏等)が一切否定された時代はなかっただろう(あるとすれば、これに近いのが戦後の現在かと思われる)。
 既述のことだが、櫻井よしこの「無知」ぶりは、以下にも歴然としている。
 ④櫻井よしこ「発言/有識者リアリング」2016年11月14日<天皇の公務負担軽減に関する有識者会議第4回>。
 ・現行憲法とその価値観が「祭祀」を「皇室の私的行為」と位置づけたのは、「祭祀」は「皇室本来の最も重要なお役割であり、日本文明の粋」であるにもかかわらず、「戦後日本の大いなる間違いであると私はここで強調したい」。
 ・「国事行為、公的行為の次に」に来ている「優先順位」を、「実質的に祭祀を一番上に位置づける形で」整理し直すべきだ。
 上の山口著部分でも触れられているが、天皇・皇室の祭祀を天皇の国事行為の列挙(7条)の中の「儀式を行ふこと」(第10号)に含めず、かつ「神道」=「宗教」の一つと解して20条(とくに3項-<政教分離>を前提にすれば、櫻井よしこがいかに「大いなる間違い」だと喚いても、上のようにならざるを得ない。おそらく間違いなく、櫻井は現行憲法7条10号や20条の条文すら見ていない。
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 日本会議派諸氏のアホぶりはともかくとして、多くの感想が生じ、多くの知的刺激が得られる。
 第一に、山口輝臣の最後あたりの述懐・「好奇心」にも共感するところが大きい。
 <権威>的だけだったとしても江戸時代の天皇には一定の権能があり(それ以前も応仁の乱期を除けば同様だろう)、奈良時代はもちろん、<院制>期にも天皇や前天皇には「権力」そのものがあった。明治憲法下では「統治権の総攬」者だった。現憲法下では、国事行為以外の「国政に関する権能」を持たず、かつ「天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ」。先だっての外国賓客等を前にしての「即位礼」での新天皇の言葉も、内閣が承認したもので、内閣が作成したと言って過言ではないだろう。「即位」式は「国事行為」だったのだ。なお、従って、<古式>・<伝統的>ではあっても、「神道」式には(可能であっても)法的にはできない。
 国家と国民統合の「象徴」である(にすぎないこと)は古来からの天皇の本来的な地位と意味として、ずっと一貫してきた、とはとても思えない。<万世一系の天皇>と称揚して、いかほどの意味があるのだろうか。天皇条項の積極的・能動的な改正案を提示するならば別として。
 第二に、(律令制前の素朴信仰-)長い神仏両立・習合体制-明治期に入っての「神道」への純化(-「国家神道」)-戦後の公的な「神道」行為の否定(「私的行為」化)、というのはきわめて単純な理解の仕方だ、誤りだ、ということがよく分かる。
 とくに明治改元後の「神仏判然」・「神仏分離」が徹底せず、現在以上にはるかに、天皇・皇室は「仏教」との関係が深かったことが、山口著部分で分かった。このことは、別途紹介するに値する。
 八幡和郎がかつて存したと理解しているらしき<皇国史観>とはいったい何だったのか。存在していても1937年の文部省<国体の大義>以降だろうが、山口によると、この文書自体がなおも「仏教」を排除・否定していない。
 なお、現在でも、①「後七日御修法」という仏事は現在も行われ、②泉涌寺等への「下賜」は継続し、④「師号宣下」も同様で、法然800年「遠忌」の2011年には「法璽大師」が新たに贈られた、という。p.350。
 第三に、天皇・皇室制度に関する政治家の意識として興味深いのは、つぎの記述だ。旧憲法28条(「信教ノ自由」の原則的保障)に関する枢密院での議論を、伊藤博文はこう述べて終結させた、という。これは山口による原文引用ではなく、要旨紹介だろう。p.241。
 <人は100年も生きられないのだから、そんなことはその時々の政治家が考えればよい!>
 「明治の元勲」すらこうなので、政治家ですらない現在の日本の政治運動の活動家や「評論家」類が、自分または自分たちの「利益」のためにだけ<天皇・皇室>に関して論じても、何ら不思議ではない。

2103/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11②。

  藤田覚・江戸時代の天皇/天皇の歴史06(講談社,2011)、p.280-1によると、少なくとも江戸時代、生前に譲位して(つまり前天皇であって)生存中の天皇は「太上天皇」と号され、死亡すると「~院」と称された。おそらく、死亡による譲位・退位の場合も、崩御した天皇はほとんどすみやかに「~院」と称されたのだろう
 したがって、<日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08>(№2098・2019/12/11)が、光格天皇は父の閑院宮典仁について<「太上天皇」の尊号付与>を願い出たと記述したのは誤ってはいないと思われる。しかし、その直後に、<「天皇」ではなく、「太上天皇」=「院」号付与に関する2例を先例として挙げた>と記述しているのは、典仁親王はまだ存命だったので誤りになる。
 この誤解は、太上天皇=上皇=「~院」という等式や、上皇による「院政」という言葉に影響を受けていたのだろう。
 現在での歴史記述や一般的論議では「天皇」や太上天皇の簡略形としての上皇、そしてときには後者の意味での「~院」という語を使って、多くの場合は問題がないのだろう。
 しかし、当時の言葉遣いは、以下のとおりで、この時期に「天皇」号の使用も改められた(再興された)、とされる。上掲書、p.281等。
 在位中の天皇が「~天皇」と呼ばれることはないし、「天皇」とすら称されない。
 光格天皇在位の時代を基準にすると、村上天皇についてその死後の967年に「村上天皇」と追号されたのは、天皇が死後に「~天皇」と追号された最後だった。そして、円融天皇の死(991年)以降はずっと、「~院」、つまり例えば「円融院」と追号されてきた。この場合の「院」は、上皇・太上天皇の就位とは関係がない。
 これを変えたのは光格天皇(119代)で、光格天皇は死後に「光格天皇」という諡号を付与され(翌年の1842年)、天皇が死後に「~天皇」と追号されたのは、じつに874年ぶりだった(!)、とされる。「天皇」号の<再興>もまた光格天皇についてであり、次代の仁孝(120代)の時代になる。
 なお、追号ではなく厳密な意味での諡号は、887年に崩御した「光孝天皇」以来、何と954年ぶりだった(!)とされる。上掲書、p.281。
  知識がかつてなかった上のことを前提として、<尊号一件>にかかわる「太上天皇」や「院」号の問題に触れる。
 光格天皇(119代)は即位後に、実父・閑院宮典仁について、「太上天皇」尊号の付与を幕府に願い出た。幕府側は最終的にも拒否したのだったが、光格が先例として挙げたのは、つぎの2件だった、とされる。その時点では死亡しているので、天皇在位者ではなかったにもかかわらず生前は「太上天皇」尊号がおくられ、死後は「院」号が付与された例となる。
 1/守貞親王=後高倉院。1221年即位の後堀河天皇(86代)の父。高倉(80代)の子、後鳥羽(92代)の実兄。承久の乱を契機とする後鳥羽の系統ではない後堀河の即位にもとづき、「太上天皇」の尊号を送られて実質的に朝政に関与し、死後は「後高倉院」とされた。
 2/伏見宮貞成親王=後崇光院。1428年践祚の後花園天皇(102代)の父。北朝3代・崇光天皇の孫、伏見宮家初代の栄仁親王の子。存命中は「太上天皇」の尊号がおくられ、死後は「後崇光院」と称された。
 なお、この伏見宮貞成親王(後崇光院)の父・栄仁親王が伏見宮家第1代で、戦後に「皇籍」を離れた男子とその後裔男子たちは、男系でのみたどると、この伏見宮栄仁親王(1351-~1416。室町・南北朝時代)に行き着く。
 これら2例では、後高倉院、後崇光院はともに「天皇」ではなかったが上の2天皇との関係では「院政」を敷いた、あるいは実質的に政治(主として朝政)に関与した、とされる。但し、代数をもつ歴代天皇には加えられない。
 以上の2例につき、藤田覚・幕末の天皇(講談社学術文庫、2013/原著1994)、p.112も参照。
 ところで、上掲書二つには言及がないが、つぎの例も加えてよいのではないかとも思われる。
 3/誠仁親王=陽光院。1586年に即位した後陽成天皇(107代)の父。正親町天皇(106代)の子。
 しかし、誠仁親王=陽光院は正親町が30余年在位したためか天皇に就位せず、誠仁親王の死後にその子の後陽成が天皇となった。したがって、「太上天皇」と尊号されたことはなく、この点で、「院」号を受けたにもかかわらず、上の後高倉院・後崇光院の例とは異なるようだ。
  朝廷・幕府関係一般の問題に発展しそうであるため、<尊号一件>問題の経緯の詳細は省く。しかし、ともあれ、朝廷側が幕府に要請すること自体、あるいは尊号付与をいったんは天皇・朝廷の独断で決定したこと自体が、それまでと比べて異様だつたと、とされる。この光格の幕府に対する姿勢をふまえて、のちの孝明天皇も存在する。あるいは、幕府側が天皇・朝廷の意見を「聴取」したり「勅許」を求めたりする実例の発端が(後水尾と比べても強い)光格の姿勢・見解にあった、とも言われる。しかし、光格や孝明が江戸幕府の打倒や「徳川」家の廃絶を考えていたわけでは、むろんない。
 幕府側(11代将軍・德川家斉、老中・松平定信)は承久の乱・応仁の乱いう混乱期の「悪しき事例」だったとして、拒否した(上の2は応仁の乱と厳密には関係がないともされる)。また、子が天皇になっても生前に「太上天皇」と尊号されなかった天皇の父親の方がむしろ多いともされる。
 しかし、光格天皇がこだわったのは、御所でまたは朝議の際に典仁は「天皇の実父とはいえ親王であるため、関白はおろか三公(太政大臣・左大臣・右大臣)より下に座らなければなら」ないこと-これは幕府側の諸<法度>を根拠とするとされる-を嘆いたためだという(藤田覚・江戸時代の天皇(2011)、p.259)。親への「孝行」が強い理由の一つだ。
 なるほどと思わせる理由だが、幕府側にはそんな心情を慮る気持ちがなかったようでもある。
 この事件の決着後に、朝廷側の「議奏」だった中山愛親は、上官の「武家伝奏」だった正親町公明とともに幕府側から「閉門・逼塞」を命じられ、朝廷側にそれぞれの役職を解任することが要求された(藤田・上掲書p.261-2)。
 この中山愛親とは、前回に記述のとおり、明治天皇の実母・中山慶子の父親の中山忠能(1809-88)の、実の曾祖父だ(~1814)。「墓」は廬山寺内にある。
 とりあえず推測として書いておくが、中山愛親等々の、この事件で幕府に<苦渋を舐めさせられた>一部の公家たち・朝廷官僚たちの後裔たちの間に、幕府に対する何らかの<心のしこり>ができた、そのような意識・精神の伝達が各家で行われた、後の時期での幕府や「徳川家」に対する厳しい姿勢にもつながった、と想像することは全く不可能ではないだろう。
 さて、江戸幕府の介在なく、典仁親王に「慶光〔きょうこう〕天皇」と追諡され、かつさかのぼって太上天皇とも尊号されたのは、時代が変わった、明治17年(1884年)のことだった。1794年の典仁没後、90年後のことになる。「皇威」を高める光格天皇の努力に、その子孫の明治天皇が遅れて応えたことになる。但し、慶光天皇は歴代の天皇の1代には数えられない。しかし、「天皇」であるがゆえの「陵」は、その後に整備された。
  今回に記したようなことも、<いわゆる保守系>月刊雑誌である月刊正論(産経)・月刊WiLL(ワック)、月刊Hanada(飛鳥新社)の三誌をいくら毎号読んでも出てこず、「知識」にならないだろう。

2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。

 <日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史07①>(№2082・2019/11/22)で、光格天皇と京都・廬山寺の間の関係に触れ、<同07②>(№2096・12/08)で、「慶光天皇廬山寺陵」に言及して写真も紹介した。
 廬山寺の実質的には境内に「慶光天皇陵」があることを述べている一般的文献を、のちに見つけた。
 藤田覚・幕末の天皇(講談社学術文庫、2013/原著1994)。p.108-9に、こうある。
 「…京都御苑の清和院御門を出て、三条実方、実美親子を祀る梨木神社を過ぎると右手に廬山寺(<略>)がある。紫式部の邸宅址とされる庭園があり、現在の本堂…。その門に『慶光天皇御陵』と書いた看板が立てられている。
 本堂の右手の道を進むと墓域となるが、その奥に『慶光天皇御陵』がある。
 陵内へは柵で周囲を囲まれているので入れないが、正面奥、前面の両側に石灯籠があり、石の柵に囲まれた、台座の上に二重の塔(多宝塔)のような墓石がある。これが慶光天皇の墓である。」
 以上について、<同07②>(12/08)で紹介した写真のうちの一つをそのまま下の一段めの左に再掲する。
 上掲著は、さらにこう書く。p.109。
 「ちなみに、泉涌寺(<略>)の月輪陵にある江戸時代の歴代天皇の墓石は、慶光天皇の石塔と同じような造りであるが、二重の石塔ではなく九重の塔の形をしているという。」
 「さらにそのすぐ奥、やや左手に小さな円墳が見える。…大正天皇や昭和天皇と同じ円墳である。」
 これらの叙述またはコメントはなかなか興味深く、考えさせられもする。
 著者・藤田覚が実見したのは原著1994年の刊行前だったのだろうから、2019年はそれから25年以上も経っている。私は、本堂の建物近くの「門」の掲示には気づかなかった。また、中央奥の墓基が慶光天皇の陵墓だろうとは推測したが、注意を惹いたのは、台座の上の「二重の塔(多宝塔)のような墓石」のさらに上の九重の円形石部分だった。
 また、上のBはおそらく実見はしないままで月輪陵の墓石は「二重の石塔ではなく九重の塔の形をしているという」と書くが、前者では墓基の上に九重の円形石があるのに対して、ネット上にあった(この欄ですでに紹介した)写真からすると、後者では墓基の脇に正方形の石の九重の石塔が立っているように見える。
 これらは、墓碑・墓基の直前までは一般人は立ち入れないことからする不明瞭さかもしれない(廬山寺でも鉄柵の手前から撮影している。なお、孝明天皇陵の円墳の前に一般人は行けない)。仏教様式における石塔等の位置づけや意味に関する知識が当方に欠けているからでもあるが。
 さらに、上掲書のCには「円墳」の所在に言及がある。気がついていなかったが、確かに、撮った写真には「円墳」らしきものがある。下の一段めの右に拡大して紹介する。但し、上の著者もこれと慶光天皇の墓との関係には少なくとも明示的には言及していない。また、円墳が一つだけしかないようであるのも不思議なような気がする。
 なお、<同07②>(12/08)で廬山寺のすぐ北に隣接する清浄華院にあった(墓石ではない)九重石塔の写真を紹介しているが、「慶光天皇廬山寺陵」の区画内にもこれとほぼ同じの石塔が写真に写っていた。こちらは明らかに慶光天皇以外の皇族についての墓石だ。
 下の二段目に、前者を少し修正したものと後者の写真を紹介する。
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 ところで、藤田・上掲書は、つぎのようにさらに書いている。p.109。
 「慶光天皇御陵」の右手の「白壁の塀で区切られ」た「墓域」には、「江戸時代の公家が多数葬られている」。
 「その中にある中山家の墓所の一角に、ひときわ大きな石塔がある。
 …、正面に『正二位藤原朝臣愛親』、横に文化十一年〔1814年-秋月〕八月一八日と刻まれている」。
 この区画は、この覧で「一般の墓地」の区画と記した部分だと見られるが、私は長方形の区画の奥の方までは入り込まなかった。
 上の「愛親」=「中山愛親」は、光格天皇の実父への「尊号」付与にかかわる<尊号一件>のときの、朝廷側の「議奏」だった
 しかも興味深いことに、藤田の実見にもとづく叙述のとおりだとすると、つぎのことが分かる。
 すなわち、明治天皇の父方の祖父(仁孝天皇)の、そのまた祖父の典仁親王(のちに「慶光天皇」と追号)と、明治天皇の母方の祖父(中山忠能)の、そのまた曾祖父の中山愛親とは、いずれも実質的に特定の廬山寺という仏教寺院に葬られている、ということだ。
 典仁親王-光格天皇-仁孝-孝明-明治天皇。
 中山愛親-忠尹-忠頼-忠能-中山慶子-明治天皇。
 明治天皇は現在の皇統につながる。もっとも、現在の廬山寺(ろざんじ)は、紫式部・源氏物語に関する由緒を優先して強調しているようではある。
 <尊号一件>に関係する「太上天皇」追号の先例等には、さらに別に触れることとする。
 少なくとも江戸時代には「太上天皇」=「院」ではなかったこと、その点で誤解があった。その機会に記すが、この点は、藤田覚・江戸時代の天皇/天皇の歴史06(講談社、2011)、p.281、を参照。

2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。

 連綿たる「万世一系」の126代とか言うと、きれいに?きちんと?天皇位が継承されてきたようなイメージもある。しかし、三王朝交替説に立たなくとも、いろいろな、中には血なまぐさい皇位をめぐる闘い等があったことも分かる。
 多彩なことがあった、多様な天皇がいたことの一例は、つぎだ。
 全天皇について、少なくとも薨去・崩御後にすみやかに諡号・追号が付与されたのではない(諡号は美称、追号は御所・山稜名に由来する呼称で、正確には意味が違うようだが、使い分けない)。
 少なくとも、つぎの三天皇は、明治期になって「新しく」名称が決定されている。
 1は、記紀においてすら、天皇だったことが、つまり天皇に即位していたことが、否定されいてた。 
 2・3は天皇に該当する人物だとはされていたが、公式の歴史書を含めて、固有の名称(諡号・追号)が長い間なかった。これは日本史のシロウトには喫驚すべきことだ。数字は現在の皇統譜上のもの。
 1/大友皇子→「弘文」天皇(39代)。
 天智天皇(38代)の子。母は伊賀采女宅子。正妃は天武(40代)の子の十市皇女。葛野王は子で、葛野王の孫の淡海三船は曽孫。「壬申の乱」で天武・持統(41代)側に敗北する。
 2/廃帝・淡路廃帝→「淳仁」天皇(47代)。
 天武(40代)の子の舎人親王の子、つまり天武の孫で大炊王とも。舎人親王の母は新田部皇女で持統ではない。いったん天武の子の、母は持統ではない新田部親王の子の道祖王が孝謙(46代)の皇太子とされたが、これに代わって即位した(758年)。藤原仲麻呂=恵美押勝の乱(764年)終息とともに廃位され淡路に幽閉された。翌765年に脱出先で死亡。孝謙が重祚(=称徳。48代)。
 宇治谷孟・全現代語訳/続日本紀・中(講談社学術文庫、1992)p.191の巻二十一冒頭は「廃帝・淳仁天皇(第47代)」と記しているが、後記のとおり「淳仁」諡号は明治3年のことなので、代数も含めて、明治期の皇統譜に従って記したものと思われる。
 3/九条廃帝・後廃帝→「仲恭」天皇(85代)。
 安徳天皇(81代)と二重に在位していた後鳥羽(82代)が承久の乱を起こし(1221年)、敗北後に隠岐に流刑され(死後は一時期に「顕徳院」と呼ばれたらしい)、その子土御門(83代)と順徳(84代)も、それぞれ土佐・佐渡に流刑となった。
 その順徳の子で1221年に践祚したが、在位のべ4カ月で退位。1234年に満16歳で死亡。母は九条良経の娘・立子。
 上の三天皇についての天皇「諡号」付与は、つぎの明治3年「布告」により一括してなされた。
 明治3年7月24日太政官布告<大友帝廃帝九条廃帝ニ御諡号奉上ニ付御典執行>。 
 「大友帝 弘文天皇
  廢帝  淳仁天皇
  九條廢帝 仲恭天皇
  右 三帝御諡號被爲奉候ニ付明廿三日八字於神祇官御祭典破爲行候事」。
***
 このとおりで、大友皇子以外は「天皇」だったことは認められていながら、淡路廃帝や九条廃帝(または廃帝・後廃帝)はいわば通称で、正式の「固有」名は各々1100年、650年ほどの間も存在しなかった。
 これで済ませておれたというのだから、後裔たる天皇たちや皇室の過去の天皇在位者たちに対する<崇敬>心はいかほどのものだったのかと、疑い得るのではないか。
 ちなみに、第一。3/仲恭天皇(85代)の名は「仲哀」天皇(14代。神功皇后の夫)とともに「仲」の字をもち、気のせいか痛ましい。
 第二。仲恭天皇を継いだのは後堀河天皇(86代)で、後鳥羽(82代)の実兄である守貞親王の子。その子の四条(87代)とともに、皇統は後鳥羽の系統からいったんは逸れる。
 この後堀河天皇の陵は「観音寺陵」といい、その子の四条天皇の陵は「月輪陵」内にある。前者は今熊野観音寺に距離的には近いかもしれないが、参拝道は途中まで孝明天皇の後月輪東山陵と共通しており、直進しないで途中で左に分岐する。この後堀河天皇・観音寺陵も<泉涌寺境内>と記述されることがある。後者の四条天皇陵はは文字通りかつては明瞭に泉涌寺境内にあり、のちの江戸時代の後水尾天皇らと陵の区画を共通にしている。
 この二人の陵墓が泉涌寺境内または付近に造営されたのは、文献で確かめていないが、承久の乱(変)に勝利した幕府(北条義時ら)の意向だろうと推察される。すでに存在はしていた泉涌寺境内・付近への天皇陵設置は、この後堀河・四条から始まるのだ(江戸時代は全天皇の陵がが泉涌寺「境内」の月輪陵・後月輪陵)。
 第三。2/淳仁天皇(47代)の陵は淡路島にあるようだが、現在にも京都市にある白峯神宮の祭神となって祀られている。
 白峯神宮(上京区飛鳥井町)のウェブサイトによると、この神社はもともとは陵(白峯陵という)は香川県坂出市にある崇徳天皇(崇徳院)を祀るためのもので孝明天皇の発願によるが、遺志をひきついで明治天皇が明治元年(1868年)に造営して祭神とした。そして、同6年(1874年)に淳仁天皇も「併祀」した、という。
 同ウェブサイトは「由緒-御祭神と御聖徳崇敬の意義」の中でこう明記する。-崇徳天皇は「~御非運の生涯であ」った、「~御無念の様子を偲んであまりあるものがあ」る。淳仁天皇(淡路廃帝)は「藤原仲麻呂の乱を契機に御廃位となり淡路島に御配流されて、…同島にて崩御」した。
 「当神宮は、かような歴史上御非運に会われた御二方の天皇の御神霊をお祀り申し上げております。
 しかしながら、両天皇の<中略>御聖徳はまことに偉大でありながら、かつ御無念な御生涯であられたことを悲しむものです。
 かかる場合は、後世の人々がその聖徳を偲び、御霊を慰め奉ることが大切です。」
 崇徳天皇とともに、明治になるまで固有名称すらなかった淳仁天皇がどのように意識されているかが分かるだろう。「御霊を慰め」る必要があるのだ。
 なお、①明治天皇が皇位践祚後に白峯山稜に勅使を派遣して崇徳に「謝罪」した翌日に即位式を行ったこと(8/27)、②京都の白峯神宮に「霊」が遷って親拝した翌々日に明治改元をしたこと(9/8。年頭に遡って明治となった)については、以下を参照(著者は<白峯神宮御鎮座120年史>に依拠している)。
 井沢元彦・逆説の日本史02/古代怨霊編(小学館文庫、1998/原著1994)、p.161-4。
 第四。「ちなみ」ついでに、さらに蘊蓄を傾けよう。天皇から話題が逸れていくけれども。
 白峯神宮(京都・今出川通り北)の歩いていける南西方向に晴明神社がある(堀川通り西)。安倍晴明を祭神とする神社だ。参拝者はサッカーとのゆかりもある(旧飛鳥井家宅跡の)白峯神宮とどちらが多いのだろうか。「晴明」由縁で、羽生結弦選手による絵馬か額が(手の届かない上の方に)掲示されているらしい。安倍晴明は近くの「一条戻橋」下に「式神」たちを匿っていたともされる。
 ところで、近くの阿倍王子神社の末社のように思えるが、安倍晴明神社という神社が大阪市阿倍野区にある(独自の社務所がないようだ)。祭神は名前のとおり。この辺りで生まれたとの伝承があるらしい。
 やや北方に、「阿倍野保名郵便局」という名の小さな郵便局がある。「保名」(やすな)という地名はどこにもないと思われるが、これは阿倍晴明の父親の名前だとされている。安倍晴明が生きた(らしい)時代から1000年以上経って、その名を冠する神社があり、父親の名に由来する郵便局がある。気が遠くなるような話の一つだ。
 さらについでに。阿倍王子神社の裏、安倍晴明神社の前を通っているのがかつての「熊野街道」で、現存する僅かな部分の一つらしい。地名としても残る「王子」という名も、後白河上皇等々による<熊野詣で>から由来する。
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 下は、白峯神宮(京都市上京区)、安倍晴明神社(大阪市阿倍野区)。いずれも、ネット上より。

 
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2099/所功・近現代の「女性天皇」論(2001)。

 所功・近現代の「女性天皇」論(展転社、2001)。
 今日での皇位継承論というのは現行の皇室典範(法律)の維持・改廃に関する議論とほぼ同じだ。
 男系限定・女系否認か女系容認かは現代日本の世論・政治的論議を分ける最大の分岐点などとは考えていない。広い意味での「保守」の内ゲバのようなものだと思ってきたから、切実な関心を持ってきたわけでもない。
 しかし、男系限定・女系否認論者の、つまりは日本会議系の論者の「ウソつき」ぶり、政治的な党派づくりぶりを気味悪くは感じてきた。
 というわけで相当に遅くなってはいるが、上掲の所功著を手にして一瞥して、なるほどと非常によく分かることがある。
 2001年段階での所功の主張・見解だと断っておくが、「あとがき」によると、所のこの時点での「今後とも皇位世襲の原則を確実に保持」するための提言は(この目的は現憲法と合致する)、「皇位継承資格者の範囲を、可能なかぎり広げる」ことで、つぎの三つ(必ずしも相互排他的ではないとみられる)が考えられる、という。上掲書、p.198。
 「内親王(および女王)が一般人と結婚されても、皇族身分に留まることができるよう女性宮家を作り、その皇族女子(男系女子)のみを有資格者に加える」。
 「その女性宮家の所生(女系の男子)まで含める」。
 「旧宮家の所生男子を皇籍に復して男性宮家を増やす」。
 この③も加えられているので、この点では櫻井よしこ・西尾幹二らと異なるところはない。
 但し、①や②の主張が、女系否認論者には「許し難い」「敵」と見られているのだろう。
 天皇・皇族の「公務」負担の軽減という観点からすると、結婚した内親王(女王)が皇族でなくなるのを避けて、婚姻後も「皇族」の一員として天皇・皇室の「公的」行為を補佐する、というのも考えられる。
 そのかぎりだけの「女性宮家」容認論というのは、制度設計としては成り立つと思われる。婚姻相手の男性をどう処遇するかという問題は残っているものの。
 このように漠然とは思い、女性宮家容認は女系天皇容認の先兵理論だなどという批判の仕方をいかがわしく感じてきたが、上の①は少なくとも女性天皇容認、②は女系天皇容認の見解だと分かる。
 だからといって、これら所功の見解に反対する必要もない。
 女系天皇断固否定論には、例えば西尾幹二が「神話」を持ち出したり、あるいはほぼ一般的にかつての女性天皇を「中継ぎ」または「応急避難的」だったとして歴史を歪曲する等の欠陥がある。
 この問題についてかつての日本・天皇の歴史が決定的な手がかりを提供するものではないとしても(それぞれにときどきの現実的問題として対処しなければならない)、しかし、今日の女系天皇否定論とは違って、明治期の皇室典範の制定過程では女性・女系天皇容認論もあり井上毅らの否定論で決着したことなど、明治期にも多様な議論があったらしいことはきわめて興味深い。当然ながら、かつての女性天皇の存在・発生理由についても、検討が行われた(これは敗戦後に現憲法に併せて現皇室典範を制定した-男系の男子限定では旧皇室典範と同じ-ときも同様)。これらをこの書は記しているようだ。
 まだきちんと読んでいないが、こうしたかつては存在した、かつての女性天皇の存在・発生理由を含めての検討を、おそらくは今日の男系限定・女系否認論者は行っていないだろう。男系男子にかつては限定することのできた事情(上掲書p.197参照)についても同じ。
 <男系限定・女系否認>論だけが<真の保守>、女系天皇容認につながる議論をするのは天皇制度廃止論者だ、「左翼」だ、などと喚いているのは、知的でも理性的でもない。せめて、明治維新後の旧皇室典範制定までにあった議論くらいは、今日でも(その維持・改廃を問題にするかぎりは)行う必要があるだろう。
 というわけで、この書は全部、きちんと読んでみる。一瞥のかぎりで、かつての各女性天皇の存在・発生の経緯について、秋月とは異なる理解が政府関係者によって語られたりしているようであるのも、シロウト論議ながら、検討する価値があるというものだ。

2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。

  今上天皇は<神武天皇を初代として126代>と皇統譜上はなっているようだが、この<126代>にはいかほどの意味と信憑性があるのだろうか。
 神武天皇やのちの天皇の実在性を疑えば、126代も簡単に虚構になってしまう。しかし、神武やその後の8代を実在とし、かつ王朝交替も否定して<一系>性を肯定したとしても、126代ということの<根拠>はけっこういいかげんだと思われる。
 ふと思うのだが、例えば光格天皇は、あるいは後醍醐天皇は、あるいは天武天皇、持統天皇は、即位する際に自分は神武以降の何代めの天皇にあたるということを明確に意識していたのだろうか。日本書記の記述をほぼ絶対のものとして、自らの代数を数えていたのだろうか? 種々の歴史関係書を見ていると、即位当時の文献に<~代めとして即位する>と宣明したとある、といった記述は全くかほとんどないようだ。
 「天皇」という漢風称号自体も天智または天武あたりの時代から使われ出したらしいのだが、この「天皇」という言葉の発生・成立については詮索せず、大和朝廷の長または「大王」位も含める。
  光格天皇の実父の閑院宮典仁のように、実際には天皇に在位したことがないにもかかわらず、のちに「天皇」(慶光天皇)と称され、かつ「~天皇陵」(慶光天皇陵)まで存在する皇族は、他にもあるようだ。
 以下、代数は明治期以降の皇統譜のもの。
 1/「岡宮天皇」=草壁皇子。
 草壁皇子は天武(40代)・持統(41代)の子で、文武(42代)・元正(44代)の父。妃は元明(43代)=持統の妹。 
 続日本紀の巻第一の分注に、758年に「勅があって、天皇の号を追贈し、岡宮御宇天皇と称した」とある。
 宇治谷孟・全現代語訳/続日本紀・上(講談社学術文庫、1992)、p.13。
 陵は「岡宮天皇真弓丘陵」と呼ばれ(宮内庁の掲示と石碑がある)、現在の奈良県、橿原市南の高取町内にある(但し、場所の治定の正確さには争いがあるようだ)。
 2/「春日宮天皇」=志貴皇子。
 志貴皇子は天智(38代)の子で、光仁(49代)の実父。草壁・大津・高市・川島・刑部各皇子とともに、いわゆる「吉野の盟約」をした6皇子の一人。持統(41代)・元明(43代)と同父だが、天武・持統の血統ではない。光仁即位後に、「春日宮御宇天皇」と追尊された。
 陵は「春日宮天皇田原西陵」と呼ばれ(宮内庁の掲示と石碑がある)、奈良市矢田原町にある(光仁陵が東にあって、「-田原東陵」とされる)。
 3/「崇道天皇」=早良皇子。
 桓武天皇(50代)と同父母(光仁・高野新笠)の弟。桓武在位中に「崇道天皇」と追号された。
 陵は「崇道天皇八嶋陵」と呼ばれ、奈良市八島町にある。但し、文久・明治期の治定で、正確さには疑問があるという。
 この陵付近にも小さな崇道天皇社がいくつかあるようだが、著名なのは、京都市上高野の<崇道神社>で、この神社の唯一の祭神が、崇道天皇=早良親王。御所の東北にあるのは、比叡山延暦寺とともに、<怨霊封じ>のためともいわれる。
 この神社の頒布による小冊子p.4によると、ほぼ同じ場所に出雲高野神社と伊多太神社があり、崇道天皇を祀ることとなって前者が崇道神社と改称された。現在でも本殿すぐ近くに摂社のごとく伊多太神社が別にある。
 崇道天皇=早良皇子は神泉苑での最初の御霊会(863年)で祀られた第一の人物で、上御霊神社や下御霊神社でも代表的な「御霊」とされている。
 4/「飯豊天皇」=飯豊皇女(・飯豊女王)。
 日本書記によると、履中天皇(17代)の孫で、同じく孫である仁賢天皇(24代)・顕宗天皇(23代)の姉。
 清寧天皇(22代)崩御後の(仁賢・顕宗による譲り合いでの)天皇不在中に「姉の飯豊青皇女が、忍海の角刺宮で、仮に朝政をご覧になった」。崩御後、「葛城の埴口丘陵」に葬られた。
 以上、宇治谷孟・全現代語訳/日本書記・上(講談社学術文庫、1988)、p.324。
 陵は「飯豊天皇埴口丘陵」と呼ばれ(宮内庁の掲示と石碑がある)、奈良県葛城市新庄町北花内にある。
 上の1と2は実の子が天皇に就位したことにより、天皇号が付与されたとみられる。
 はおそらく、いったん皇太子とされたが死亡により天皇になれになかったことが直接の理由ではなく、しばしば指摘されているように、その死亡にかかわる経緯からする<鎮魂>のためだろう。
 は、短期間にせよ、実質的に天皇と同じ役割を果たした(とされている)ことによるのだろう。なお、日本書記や古事記ではなく<扶桑略記>では「24代」と明記されているらしい(皇統譜上は23代・顕宗、24代・仁賢)。とすると、日本で最初の「女帝」=「女性天皇」だったことになる。
 なお同じく<扶桑略記>では神功皇后は「15代」とされているらしい(皇統譜上は14代・仲哀、15代・応神)。しかし、神功皇后は、日本書記での記載ぶりを別とすれば、「天皇」と追号されておらず、「~天皇陵」と称されるものも存在しない(この点で4=飯豊天皇と違う)。陵は奈良市内にあるが、あくまで「神功皇后~陵」だ。
 ***
 さて、光格天皇の父・閑院宮典仁がのちに「慶光天皇」と称されたのは、光格が天皇になったためで、上の1や2と同じまたは同類で、「先例」があったと見られるかもしれない。
 しかし、事情は異なる。
 江戸時代には天皇・皇室に天皇就位や継承を決定する自由または自立性はなく、全て幕府の「許可」が必要だった。いったん天皇になった者の父親についての「天皇」または「太上天皇」号の付与についても同じ。
 光格天皇が幕府に願い出たのは実父・典仁についての「太上天皇」尊号の付与で、幕府側はこれを拒否した(いわゆる「尊号一件」という事件)。
 光格天皇が先例として挙げたのは上の1・2ではなかった。この二つは「天皇」号の例だ。
 そして、光格が挙げた先例は「天皇」ではなく、「太上天皇」=「院」号に関する2例だった、とされる(別に書く)。
 藤田覚・江戸時代の天皇/天皇の歴史06(講談社、2011)参照。p.259。
 では誰によっていつ閑院宮典仁に「慶光天皇」号が付与されたかというと、明治維新後に明治天皇(・明治新政府)によってだった。旧幕府と違って、光格天皇による「皇室の権威」を高める努力に応えた、ということかもしれない。
 しかし、「慶光天皇」が歴代の、皇統譜上の天皇の一人とされたわけではない。
 もともと明治期以降の皇統譜では、日本書記等が明らかに無視して天皇在位を否定している大友皇子に「弘文天皇」という諡号を与えて代数をもつ天皇に数えているのだから、明治新政権は、日本書記等をその点では少なくとも全く信用していないことになる。水戸光圀編纂・大日本史等々による歴史「解釈」の影響があったのかもしれないが、現在で「126代」というのも、その意味するところは相当に曖昧であることになるだろう。
 天皇であるための「要件」は何か。あるいは、日本史全体を通して、何だったのか?
 三種の神器の継承のなかった天皇もいた。即位礼や大嘗祭の挙行をしなかった(できなかった)天皇もいた。かりに神武等々を含めて古代の天皇は全て実在だったとしても、「天皇」たることの本質や要件はやはり曖昧なのではないか。
 126代の全天皇が三種の神器の継承をしたわけでも、即位礼や大嘗祭を挙行したわけでもない。といったことも、廬山寺・「慶光天皇」に関連して考える。
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 以下、各段が、岡宮天皇・草壁皇子陵、春日宮天皇・志貴皇子陵、飯豊天皇陵。いずれも、ネット上より。


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2096/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史07②。

 櫻井よしこは光格天皇を「皇室の権威を蘇らせ、高めた」として、高く評価する。
 問題は、そのことが「神道」の権威をいかほどに高めたのか、だろう。
 櫻井は「日本の宗教」=「神道」で、かつ「天皇家の宗教」=「神道」と単純かつ幼稚に考えているので、「皇室の権威」が高まることは「神道」の力が大きくなることと全く同義で、そのゆえにこそ、光格天皇を高く評価しているのかもしれない。
 しかし、江戸時代はまだ<神仏習合>の時代で、儒教ないし儒学・朱子学の影響も大きくなっていた。
 櫻井よしこのように「幸福に」は叙述できないことは、光格天皇と京都市に現在もある廬山寺という仏教寺院との関係について、すでに述べた。
 光格天皇と廬山寺の関係については、まだ重要なことが残っている。
 光格天皇の近親者たちのの墓陵が、廬山寺の境内にある。正確にいえば、同寺経営・管理とみられる一般の墓地の区画と同寺の建物部分の間の、宮内庁管理地の区画内にある。入口辺りにある宮内庁設置の掲示施設によると、以下の皇族等の「墓」がある。2名は、あと回しにする。
 ①東山天皇後宮新崇賢門院藤原実子、②同皇子直仁親王、③同皇子直仁親王妃脩子、④同曽孫美仁親王、⑤同曽孫美仁親王妃因子、⑥同玄孫孝仁親王、⑦同玄孫孝仁親王妃吉子、⑧同五世皇孫致宮、⑨同五世皇孫愛仁親王。
 ⑩光格天皇皇子俊宮、⑪同皇子埼宮、⑫同皇女多址宮、⑬同皇女治宮。
 ⑭仁孝天皇皇子胤宮。
 上の東山天皇(113代)は、光格天皇(119代)の曾祖父、仁孝天皇(120代)は光格天皇の子。また、東山天皇皇子直仁親王とは東山天皇から分岐した閑院宮家の第一代(光格は第三代で東山天皇の三世の孫=曽孫)。
 東山天皇自身の陵墓は京都・泉涌寺直近の「月輪陵」内に、光格天皇と仁孝天皇(=孝明天皇の父)の陵墓はやはり泉涌寺直近の「後月輪陵」内にある。
 また、東山天皇皇后幸子女王、光格天皇皇后欣子内親王、仁孝天皇女御贈皇后繁子、仁孝天皇女御尊称皇太后禮子、の4名についても「月輪陵」・「後月輪陵」にある。各天皇の皇后またはそれに準じた女性たちだ。
したがって、<廬山寺陵>には、光格天皇に血縁が近い者で天皇または皇后ではかった人たちの多数の「墓」があることになるだろう。
 しかし、あと2名が残っている。掲示によれば、冒頭に記載されている2名だ。陵名自体が<慶光天皇廬山寺陵>と称される。
 ①慶光天皇、②慶光天皇妃成子内親王。
 この「慶光天皇」は、江戸時代には、その名前自体が存在しなかった。
 該当する人物は存在していて、1870年(明治3年)にこのように追号され、名前だけは「天皇」ということになった。しかし、天智の子の弘文天皇=大友皇子のように、「皇統譜」に正規に天皇として記載・登録されたわけではない(他にも追号または諡号が明治期に決まった過去の歴代天皇がある-別に書く)。
 「慶光天皇」とは、光格天皇の実父、閑院宮典仁のことだ。上に出てきた東山天皇の孫、直仁親王の子で、閑院宮二代目にあたる。
 この人が明治維新後に「慶光天皇」と呼ばれ、その陵墓が廬山寺にある。
 そして、その墓陵の様式は仏教式だ。現在は厳密には廬山寺ではなく宮内庁の管理地だろうが、かつて廬山寺が<菩提寺>として管理し、法要等をしていたことは、先に書いた位置関係からしても明確だと思われる。
 そして、やはり「九重仏塔」と称してよいと考えられるものが墓碑にある。しかし、興味深いのは、どうも泉涌寺直近の(孝明天皇陵の丘の麓にある)「月輪陵」・「後月輪陵」の写真にある「九重仏塔」・「九重石塔」は各墓碑そのものの脇に立てられているように見える、少なくとも四方形の九重石塔もあるのに対して、「廬山寺陵」のそれらは、四方形の石積みの塔はなく、各墓碑のまさに上が「九重石塔」になっている、ということだ。石塔と一体となってその下部に中心的な墓碑部分がある。
 以下の写真のとおり。ともかくも、仏教様式ではあるとは見られる。
 では、なぜ代数もない「慶光天皇」=閑院宮典仁は「天皇」と(明治になってから)称されたのか。「天皇」称号にかかわる他の点も含めて、次回とする。代数表記は明治以降の皇統譜、宮内庁HPにしたがったもの。
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 この項の前回に光格天皇について「火葬」としたのは陵墓の孝明天皇陵と比べての小ささからする勝手な推測で、実際には「土葬」だった。改める。
 「月輪陵」に陵墓のある天皇のうち、後陽成天皇(107代、1617年没)までは「火葬」、後光明天皇(110代、1654年没)以降は「土葬」に変わった、とされる。なお、死亡年の順序と即位の代数の順序は一致しない。後水尾天皇(108代)は1680年没、明正天皇(109代・女性)は、1696年没。
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 下の二つは廬山寺陵の二つの陵墓。前者が中央奥にある。
 その下の二つは、廬山寺陵の宮内庁掲示板と、廬山寺のすぐ北にある寺院・清浄華院で見かけた円形の石による<九重石塔>(これは墓碑の上にあるのではなく、少なくとも今は独立の石塔だ)。いずれも、2019年。

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2095/西尾幹二の境地・歴史通11月号②。

 西尾幹二=岩田温「皇室の神格と民族の歴史」歴史通/WiLL11月号別冊(ワック)。月刊WiLL2019年4月号の再収載。
 この項の前回①(№2074)に記したように、西尾幹二の原理的考え方は、「神話」>「歴史」>「自然科学」、という公式だ。
 これが何のために使われているかというと、タイトルに「皇室の神格と民族の歴史」とあるが、今日での皇室論、そして皇位継承論、そして男系継承論=女系否定論を主張するためにある。
 西尾幹二によれば、「女系天皇を否定し、あくまで男系だ」とするのが「日本的な科学の精神」であり、「自然科学ではない科学」であって、通常の「自然科学」とは「戦う」必要がある。p.222。
 また、「女系天皇は史上例がないという認識は、今の日本で神話を信じることができるか否かの問い」に他ならず、「神話は歴史と異なる」。歴史観として言えば、通常の歴史観=「可視的歴史観」ではなく「超越的歴史観を信じる」か否か、の問題だ。p. 219。
 そして、最も簡潔には、つぎのことを言いたいのだろう。
 「126代の皇位が一点の曇りもない男系継承である…」。p. 219。
 西尾の「神話」崇敬論・「日本の科学」論・「超越的歴史観」からすると、次のとおりなのだ。
 <126代の皇位は、一点の曇りもなく、男系で継承されてきた。
 かりに西尾の「神話」崇敬の立場にたつとして、はたしてそうなのか、というのが前回の最後に指摘しておいたことだ。
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 西尾は「神話」という言葉を使い、単純な?「歴史」と区別して前者の優越性を説く。
 そのとおりだとかりにして、そこでいう「神話」とは、対談の主旨・論脈からして、日本(民族)の「神話」であることはおそらく論じるまでもないだろう。
 つまり、日本の「神話」、<日本神話>のことを意味させていると理解しなければ、西尾の論旨を理解することができない。
 とすると、問題は、つぎのようになる。
 <日本神話>は、「女系天皇を否定し、あくまで男系」と語っているのか?
 <日本神話>からして、「126代の皇位が一点の曇りもない男系継承である」と言えるのか?。
 気の毒なことだ。一種の悲劇だろう。
 第一。<日本神話>として通常は理解されているのは、日本書記と古事記(その他の風土記類)の中にある「神話」とされている部分だ。
 日本書記と古事記の記述の全てが「神話」なのではない。
 以下、つぎの著をとりあえず瞥見する。
 宇治谷孟・全現代語訳/日本書記-上・下(講談社学術文庫、1988)。
 竹田恒泰・現代語/古事記〔ポケット版〕(学研、2016)。
 ほとんど常識的なことを、以下に書く。
 日本書記と古事記の記述の全てが「神話」なのではない。
 前者は全30巻から成るが、巻第一・巻第二がそれぞれ「神代上」・「神代下」とされ、巻第三がのちにいう「神武天皇」=初代天皇の項だ。
 常識的な理解だろうが、巻第一・巻第二が「神代」についての「神話」なのであって、巻第三以降のいわば<人代>は「神話」的部分を継承または包含しているとしても、執筆者または編纂者は<歴史>のつもりで叙述しているものと解される。本当の「史実」か否かは別の問題。なお、西尾は神武以下8代を含む「126代」を真実と信じて疑っていないようだ。
 後者は大きく三つの「巻」に分かれていて、「上つ巻」・「中つ巻」・「下つ巻」がある。
 これらのうち「上つ巻」の最後の節・項が「天孫降臨と日向三代」で、「中つ巻」の最初の節・項は「神武天皇」(「下つ巻」の最初は仁徳天皇)。
 常識的な理解では、これらのうち「上つ巻」だけが、そのまま<日本神話>を構成する。
 さて、上を前提として西尾に問おう。
 これら二著(=記紀)の「神話」部分、つまり「神代」や「上つ巻」の叙述において、「126代の皇位が一点の曇りもない男系継承である」ことは、いったいどこに書かれているのか??
 そもそも初代天皇自体が厳密には「神話」ではないこととして叙述されていると見られ、日本の「神話」=記紀等の「神話」部分が<皇位継承の仕方>を記述していないのは、明々白々だろう。
 第二。つぎに、一歩かあるいは百歩か譲って、かりに日本書記や古事記の全体を「神話」だと理解することしよう。
 前者はいわゆる「壬申の乱」の時代も含んでおり、最後の巻第三十は「持統天皇」に関する記述だ。後者の最後はそれよりも早く、「下つ巻」の最後は「推古天皇」に関する節・項だ。
 ついでに竹田恒泰の「解説」によると、古事記が「推古朝」で終わっているのは、古事記完成の元明天皇の「当時には推古天皇の次の舒明天皇以降が『現代』と考えられて」いたかららしい。上掲書、p.488。
 さて、日本書記と古事記の上記のそれぞれの範囲内の、いったいどこに、「126代の皇位が一点の曇りもない男系継承である」ことが書かれているのか?
 日本書記と古事記の各全体を見て、これらが皇位継承について「女系天皇を否定し、あくまで男系」だとしていると、なぜ判断することができるのか。
 気の毒なことだ。一種の悲劇だろう。いや笑い話だ。
 西尾は、こう釈明または反論するのかもしれない。
 いや、これらの「日本神話」の趣旨の<解釈>によって導くことができる、と。
 この反論・釈明は西尾にとっては成り立たない。
 なぜなら、西尾は「一点の曇りもない」と明記している。
 かつまた、そもそもが西尾にとって、「神話」を前にしては「解釈の自由」はないのであって、「人間の手による分解と再生」を許さないものなのだ(対談、p.219)。
 記紀の各全体の<趣旨>とか<解釈>とかを、西尾は持ち出すことができない。
 第三。さらに、かりに日本書記や古事記の記述を全体として「日本神話」だと理解するとして、それらの「解釈」によって、皇位継承につき「女系天皇を否定し、あくまで男系」だ、と主張することができるのか?
 これもまた、否定せざるを得ない。推古の前までの大王または天皇は全て「男」であることや、持統の前までを含めても女性天皇の数は少ない(推古、皇極=斉明。+のちに皇位に就いていることが否定されたが神功皇后)ことをもって、上のことの根拠にすることはできないだろう。
 以上、三段階をとって、記した。①記紀の本来の「神話」部分には天皇・皇位の問題すら出てこない。②記紀全体が「神話」だとしても、皇位継承の仕方は「一点の曇りもない」ほどに明瞭には記述されていない。③全体が「神話」だとしても日本書記・古事記から、<女系>否定の趣旨を「解釈」することはできない。
 皇位継承の問題も含めて、日本書記と古事記の間には記述内容に違いがある。また、それぞれについて、「解釈」の余地があり、実際に種々の議論が学説等においてなされている。
 これらを別に措くとしても、「神話」論から出発する西尾の見解・主張は根拠のないものだ。西尾の「信念」・「信仰」を披瀝したものにすぎない。
 もともとは、日本の歴史・「伝統」が現在または将来の皇室・皇位に関する議論の決定的な根拠になるわけではない。西尾もこれを認めているからこそ、<論陣>を張っているのだろう。<新しい伝統>は形成され得る。
 しかし、そのような限度であっても、秋月には妄言・虚言だと思われる「信念」を露骨に活字にしてほしくないものだ。
 境地・心境といえば響きはまだよいが、西尾幹二はなぜ、このような「信念」を強弁する<境地・心境>に至ったのか
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 下は歴史通/WiLL11月号別冊(2019)より。
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2093/安本美典・神功皇后と広開土王の激闘(2019年)。

 安本美典・神功皇后と広開土王の激闘-蘇る大動乱の五世紀(勉誠出版、2019年)。
 安本美典、1934年2月生まれ。85歳の人の新著だ。しかも、今年になってすでに3冊も刊行している。
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 アマゾン・書籍販売サイトでの最低の評価(星一つ)の文にこうある。
 「安本が神功皇后の三韓征伐伝承の史実性を認めたことは評価するが、皇后にあらぬ疑いをかけたのは許しがたい。たとえ仲哀の死、応神の出生が不自然だとしても、神功皇后と武内宿禰の不義密通の確たる証拠はどこにもない。疑うのは勝手だが、あやふやな状況証拠だけで不倫をしたと決めつけるのは名誉棄損ではないのか。」
 そもそもは、歴史の叙述や考察への評価は「許す」・「許さない」、「許し難い」とかなのだろうか。なお、「確たる証拠」があるとは著者も主張していない。「決めつけ」もしていないだろう。仲哀死後のことだとかりにすると、「不義密通」にもなりそうにない。
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 安本美典は「日本神話」そのまま信仰論者ではなく、かつ<王朝交替>論者でもない。血統断続と王権交替を主張できるとすれば、上の書の<推測>くらいは可能だろうという旨を書いている。この人にとって重要なのは、確率、つまり合理的推測の努力における合理性又は説得性の程度なのだ、と考えられる。とくに古代史については、史資料が乏しいため、そうならざるをえないのではないか。
 また、安本は直接に皇位継承の男系とか女系とかを論じていない。この著を離れて思うのは、つぎのようなことだ。
 神功皇后が実在の人物で応神天皇(これも実在とする)の父親が仲哀天皇でなかったとすれば、日本書記がまるで<天皇>扱いをして一巻をあてている神功皇后を祖として、応神天皇以降の天皇・皇室は女系だった、と言えなくもない。
 しかし、<古事記>によると神功皇后は開化天皇の「5世の孫」とされているらしいので、仲哀ではなく神功皇后だけの血を引いていても、応神天皇は<男系>だとすることは、この語の理解によっては、可能だ。また、応神天皇の実の父親だろうと安本や井沢元彦が強く推測している武内宿禰の祖先も遠くは天皇・皇室にたどりつくようなので、そうすると、まぎれもなく<男系>ではある。
 しかし、のちの継体天皇は、日本書記等によると応神天皇の「5世の孫」とされている。その遠さを一つの理由として、継体以降は応神<王朝>とは別の<新王朝>と推測する説もあるのだとすると、神功皇后は開化天皇の「5世の孫」だとするのも、その信憑性の程度を疑問視することもできる。武内宿禰については尚更だ。
 継体天皇が仁賢天皇の子で武烈天皇の姉の女性(手白香皇女)を妃とした(とされている)のは、自らは<男系>であってもまるで<入り婿>のように当時の直近の天皇・皇室に入って、その<権威>を高めようとした、と考えられなくはない。そのように叙述したのは後世の日本書記等の編纂者だけれども。
 そうすると、神功皇后は自らは遠くは<男系>であっても、現天皇の妃となることによって、その<権威>を高めようとした、と考えられなくはない。
 <権威>を高めようとしたどころか、天皇(仲哀)の妃であり天皇(応神)の実母とすることによって、その権威・神聖性を最高度にしたのは、日本書記の執筆者・編纂者だったかもしれない。
 とすると元に戻るのだが、のちの継体が(現在につづく)<新>王朝の祖だったとかりにすると、神功皇后-応神天皇もその前の<新>王朝の祖だった、と言えなくもない。
 いずれも、天皇・皇室あるいは皇統の<系図>に加えられることによって、地位・権威が高められているのだ。同じことだが、そう記述することによって、日本書記等編纂者は、地位や権威を高めているのだ。
 以上は、素人の<趣味>的な想像なので、真面目に学術的に?主張しているのではない。
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 かつて私が日本史を初めて勉強したとき(小学6年生?)、<任那日本府>の存在が明確に書かれていたように思う。そして、神功皇后の「三韓征伐」とやらも、この言葉ではなかったかもしれないが、史実として語られていたような気がする。しかし、神功皇后も<任那日本府>も、実在性やその意味が今ではかつてとは違って教科書に書かれていないらしい。だからどうだ、といきり立つ気持ちは全くないのだけれども。
 さて、上記の安本美典著。第一章・<奇怪な神功皇后伝承>と「おわりに」はきちんと読んだ。安本の本あるいは安本による神功皇后関連の文章を読むのは初めてではない。
 初めて知ったか、改めて想起させられたのは、仲哀天皇には神功皇后よりも前に妃がいて(大中津比売)、すでに二人の皇子(香坂王・忍熊王)もいた、ということだ(史実としてではなく、後世の書の記載によると、として書いている)。
 にもかかわらず、これらを押しのけて?、あるいは打倒して?、神功皇后の子(応神)が皇位を継承したのは、神功皇后によほどの「力」があったのだろう、とは言える。
 次いで、「神懸かり」=一種の「解離性同一性障害」に関する医学的・精神科学的探究も興味深い。p.8-p.12。たんなる<文学>趣味系の学者・評論家は、こういう作業を思いつかないかもしれない。
 さらに、神功皇后や武内宿禰の「顔」が戦前の紙幣に描かれていたことの叙述も面白い。
 前者の紙幣は1881年・1883年に、後者の紙幣は1889年・1899年に発行されている。
 前者は日清戦争前、後者は日ロ戦争前後ということも、なるほどという気がする。しかしそれよりも、当時の「日本国民のだれもが、その〔紙幣に描かれた〕絵を見た」、二人は福沢諭吉・夏目漱石よりも有名だったかもしれない、という記述が印象に残る。p.42-p.46。
 紙幣もまた、時代(の歴史観)を反映する、ということか。神功皇后とか、武内宿禰とか、今日では一般には、ほとんど無名だろう。
 最後に、この書の「おわりに」で、安本は第一に、その研究上の「立場」を、こう記述している。同趣旨はこれまでにも読んだことがある。
 ・この書は「イデオロギー的な立場にたつ人々の支持をうけにくい」だろう。
 まず、「天皇家の尊厳を保ちたいと考える人々」に。「しかし、『古事記』・『日本書記』はもともと、事実をかなり記しているのであって、諸天皇の尊厳性ばかりを記しているわけではない」。
 次いで、「戦後のいわゆる進歩的文化人や、津田左右吉流の文献批判学の立場にたつ人々」等の学者たちに。これらの人々は「神功皇后や武内の宿禰は架空の人物、…と考える傾向が強いから」だ。
 ・「一定のイデオロギー、先入観、先輩の学説の拳拳服膺によって、見るべき事実も見ない古代史研究があまりにも多すぎる。」
 第二に、安本にしては、これまでに全くなかったわけではないと思うが、やや「感傷的」なまたは「文学的」な文章がある。安本美典もまた人間で、当然に感情・情感をもつ。その意味では、好感をもつべきなのかもしれない。以下、全て引用。
 ・「私は、私の復元した古代史像に、かなりたしかな手ごたえを感じているが、私は、空中に楼閣を描いたのであろうか。」
 ・「西暦400年ごろ以降の春秋でさえ、ふりかえれば、夢のようでもある。長い絵巻物をひもといているようである。」
 ・「琴の音が聞こえる。若い皇后には、神の威厳がそなわっている。…」
 ・「天皇位も、さらにはみずからの命さえ、恋の業火になげいれた皇子がいた。…」
 ・「金色に輝く釈迦像をはじめて見て、小おどりした若い天皇、…がいた。…」
 ・「燃える炎で、海も空も、まっ赤にそまった日もあった。船の崩れ沈む音。異国の海に投げだされ、潮水を飲みながら藻屑となっていく兵士たちの叫びも聞こえる。」
 ・撤退、外国文化の衝撃。「国政を改革し、国力の充実をはかる。そのあいだにも、人は恋する。あるいは、欲望のほしいままにする人がおり、あるいは、高い倫理観で自己を犠牲にする人がいる」。
 ・「数百万、数千万人の生死哀歓も、必死の努力も、歴史は、ただ一片の、春の夜の夢にしてしまう。河に散るただ一ひらの花びらにしてしまう。
 ・「歴史は哀しい。今日も、歴史の河は流れている。
 ・この本の「小舟」が「ふとした縁で、あなたの心の港にもしばらくとどまり、あなたとひととき、よい運命をともにできますように。」 p.294。
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2092/佐伯智広・中世の皇位継承(2019)-女性天皇。

 西尾幹二発言・同=竹田恒泰・女系天皇問題と脱原発(飛鳥新社、2012)、p.11。
 「歴史上、女性の天皇が8人いますが、緊急避難的な"中継ぎ"であったことは、つとに知られている話です。そうしますと男系継承を疑う根拠は何もない。」
 西尾幹二発言・同=岩田温(対談)「皇室の神格と民族の歴史」歴史通/WiLL2019年11月号別冊(ワック)。
 「126代の皇位が一点の曇りもない男系継承であるから…」。
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 公然とかつ平然と歴史の大ウソが日本会議関係者等の「右翼」または「一部保守」派によって語られているので、皇位継承の仕方、女性天皇への継承の背景等に関心をもって、かなりの書物に目を通してきた。
 つぎは相当に役立つので、ほとんど引用することによって、紹介する。
 書名は<中世>を冠しているが、中身は「古代」も含んでいる。著者は1977年~、京都大学博士、帝京大学文学部講師。
 佐伯智広・中世の皇位継承-血統をめぐる政治と内乱(吉川弘文館、2019)。
 主として「女性天皇」関係部分から引用する。実質的に第一章の<古代の皇位継承>から。代数は明治期以降作成の皇統譜上、宮内庁HP上のもの。
 (なお、この第一章<古代の皇位継承>は、以下の「節」からなる。
 1/「万世一系」と女性天皇。
 2/古代の女性天皇の重要性
 3/父系と母系が同じ重みをもつ双系制社会。
 4/兄弟姉妹間での皇位継承。
 5/相次ぐ「皇太弟」。)
 ①「最初の女性天皇」の推古(33代)は欽明(29代)の娘、敏達(30代)の妻で、夫の死後、「オオキサキとして天皇とともに統治権を行使していたと考えられている」。
 「オオキサキ」は推古の頃に成立した地位で、推古は用明(31代)、崇峻(32代)にも「引き続きオオキサキとして統治に関与していた」。
 「この統治実績が」推古の天皇擁立に「重要な役割を果たしたと考えられている」。
 ②推古は「単なる中継ぎなどと評価できない、正統の皇位継承者だった」。
 ③推古に続く女性天皇の皇極=斉明(35代・37代)、持統(41代)、元明(43代)、元正(44代)も、「即位以前から統治実績を積んでおり、中継ぎという消極的な立場ではなく、正統の皇位継承者として即位している」。
 ④孝謙=称徳(46代・48代)もこれら「女性天皇の伝統の上に即位しているのであって、必ずしも、男子不在による苦し紛れの即位というわけではない」。
 ⑤光仁(49代)は聖武(45代)の実娘・井上内親王を妻とし、その子の他戸親王を皇太子としていたので、「皇統は、当初、母系を通じて受け継がれるよう設定されていたのである(実際には、<中略>廃太子され、実現せず)」。
 ⑥「天皇の外戚の地位」の重要化の「それ以前の皇位継承において女性や母系が重視されたのは、古代日本が双系制社会、すなわち父系(男系)と母系(女系)の双方の出自が同等の重みをもつ社会だったからだ」。
 ⑦7世紀後半から8世紀にかけて、「父系制社会へと緩やかに移行したと考えられている」。
 ⑧「関連して注目されている」が、「大宝令」(701年)では、「女性天皇の皇子女も、男性天皇の皇子女と同様に、親王・内親王とすることとされていた」。
  「このことは、女性天皇の皇子女も皇位継承権を有する存在だったことを意味する」。
 日本の律令は「男系主義」を採るが、「その中に残された双系制社会の名残が、この女性天皇の皇子女に関する規定であった」。
 ⑨「男系主義の浸透」で称徳以降、女性天皇は長く出現しない。
 江戸時代の明正(109代)・後桜町(117代)は、「皇位継承者たる男子不在の状況で擁立された、まさに『中継ぎ』の天皇であった」。
 ⑩その他の古代での皇位継承の特徴は、「兄弟姉妹間での皇位継承」や「皇太弟」の設立がかなりの範囲で行われたことだ。
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 以上。
 上の⑤に関する秋月の注記。
 井上(いがみ)内親王は光仁の皇后の地位を廃された。その子・他戸(おさべ)親王(聖武天皇の孫、父は光仁天皇)とともに、「殺された」とみられる。
 のちに光仁の子で高野新笠を母とする桓武天皇の同母実弟・早良(さわら)親王=「崇道天皇」も「殺されて」、崇道神社(京都市上高野・京都御所の東北方向)の唯一の祭神となった。
 井上内親王・他戸親王は、早良親王らとともに、御霊神社等での「八所御霊」の中に入っている。
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2054/福田恆存における「史実」と「神話」-1965年。

 福田恆存「紀元節について」同評論集第8巻(麗澤大学出版会、2007)。
 これの初出は、雑誌・自由(自由社)1965年4月号。
 福田恆存は「建国記念日(2月11日)」設置に反対する「左翼」に反対し、旧紀元節の復活に賛成していたのだが、上の中でこう明確に記述している。
 福田恆存の主張・論評類の全体を知らないと、<神話と歴史>・<物語と史実>に関するこの人の正確な考えは分からないだろう、ということは承知している。但し、なかなかに面白い、興味深いことを上の論考で主張している。
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 福田は「二/史実」の中で、反対論者は「史実」に反するという、と述べて、こう続ける。一文ごとに改行。旧かなづかいは現在のものに改めさせていただく。
 ・「私たちは絶対天皇制の時代に育ちましたけれども、伊邪那岐命・伊邪那美命の話をほんとうの話と思ったことは一度もない。
 天照大神のこともほんとうだと思ったことはない。
 神武天皇のことでもほんとうのことだと思ったことはない。
 歴代の天皇が100年も200年も生きているなどという馬鹿げたことはないのですから、そんな馬鹿なことを先生が学校でむきになって教えても、本気にしない。<中略>
 だから戦前の歴史教育は間違っていたと言いますけれども、それはあまりに国民を馬鹿にするものです。」p.120。
・「『日本書記』についていえば、当時の大和朝廷が、国の基が固まったという一つの喜びを、将来この国がりっぱに伸びていくというようにということで、自分たちの仕事を権威づけ、仕事が後に末長く栄えていくようにと祈る気持ちで、当時の歴史編纂官に命じて書かせたものであります。
 そして作者は日本の紀元を、そう言いたければ、あえて『でっち上げた』のです。」p.122。
 ・戦前の天皇制と当時の大和朝廷は「全く違った」もので、「いまの気持ちからその当時の気持ちを推察するのは間違い」だが、1月1日=新暦2月11日を「日本の紀元」とすることに問題はない。かつての「日本人の心理的事実を史実とみなしての上の根拠」だが、「その日が最も根拠があると思う」。p.123。
 ・「記紀の話は事実としては作り話であっていいわけです。
 しかしなぜ作り話が一定の効果をもったかが問題なんですね」。p.124。
 ・「どういう気持ちで日本人が日本民族の紀元を定めたのか、こうありたいと願ったその当時の人々の気持ち、それを受け継いだ明治政府の気持ち、そしいうものを全部否定してしまうのは、日本国の歴史は歴史上くだらない歴史であった、敗戦に至るまだ全部だめだったということで、日本人の過去を全部抹殺してしまうことになります」。p.124-5。
 ・「紀元節が史実に反するとかなんとか言うのは、全くの言いがかりで、その本当の反対理由は、日本の過去を全部過ちの連続としてとらえたいという戦後の歴史観が危うくなりそうだと不安感の悲鳴にすぎません」。p.126。
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 福田恆存、1912年生~1994年没。
 相当に鋭いのではないか。論旨も、ほとんどよく分かる。
 幼稚にまとめれば、「史実」ではなくとも「当時の人間の心の動きだとか、価値観だとか」(p.123)が史実以上に大切なことがあるのだ。
 ともあれ、喫驚するほどに、福田恆存は日本書記または記紀が記述する<日本神話>の「史実」性を否定している。だが、いっさい無視するのでもなく、そこに示された当時の(ということは天武=持統天皇系の皇室になるが)人々の「感情・価値観」を大切に理解すべきだ、という旨を言っている。
 まことに、冷静で、知的な<保守>の考えだと思われる。
 このような認識や議論の仕方は、天皇<万世一系>論、天皇<男系継続>論(女系否定論)等についても、大切だと思われる。あるいは当てはまり得るものだと思われる。例えば、「記紀」がこれらの問題に関する主張の根拠になるわけがない。
 このような人が、現在はほとんどいなくなった。福田恆存の没後に数年だけ経過して<日本会議>が設立され(1997年)、まるでこの団体が<保守>の代表だと見なされるようになった観があるのは、日本にとって大きな悲劇であり厄災だった。
 <日本会議>は反共・自由主義という意味での「保守」ではなく、「日本」と「天皇」にだけほとんど執心する「右翼」団体だ。
 この日本会議に批判的であったはずの西尾幹二が2019年には見事に、上の福田恆存とは真逆に<神がかり>的になって、<日本の神話を信じるか、信じないか>の対立だ、などと血迷い事を述べるに至っていることは、別に触れる。

2012/池田信夫のブログ010-天皇・「万世一系」。

 菅義偉官房長官は天皇位は「古来例外なく男系男子で継承してきた」=女系天皇はいなかった、との政府見解(政府の歴史認識)を明言しているが、これは「正しい」または「適切な」ものなのか。①「古来例外なく」とはいつからか。②「男系」・「女系」という意識・観念はその「古来」からあったのか。
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 池田信夫ブログ2019年5月5日付「『男系男子』の天皇に合理的根拠はない」。
 ・愛子様への皇位継承に反対する人々は「かつて『生前退位』に反対した人々と重なっている」。
 ・<男系男子継承は権威・権力を分ける日本独特のシステム>と言うのは「論理破綻」しており、「権威と権力が一体化した中国から輸入したもの」
 ・「江戸時代には天皇には権威も権力もなくなった」。
 ・「天皇家を世界に比類なき王家とする水戸学の自民族中心主義が長州藩士の『尊王攘夷』に受け継がれ」、「明治時代にプロイセンから輸入された絶対君主と融合したのが、明治憲法の『万世一系』の天皇」だった。
 ・旧皇室典範が男系男子としたのは「天皇を権威と権力の一体化した主権者とするもの」で、古来のミカド…とはまったく違う「近代の制度」だった。
 ・日本の「保守派には、明治以降の制度を古来の伝統と取り違えるバイアスが強いが、男系男子は日本独自の伝統ではなく、合理性もない」。
 ・「男系男子が『日本2000年の伝統』だというのは迷信」だ。
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 この池田ブログ・アゴラ5月5日付は丁寧に、「男系男子は権威と権力を分ける日本独特のシステム」は八幡和郎の意見ではないとして、「訂正版」と銘打つ。
 但し、「権威と権力を分ける」は別として(この「権権二分論」は西尾幹二にも見られる、西尾を含めての<いわゆる保守>または「産経文化人」の有力主張だ)、八幡和郎の<万世一系>に関する見解・意見の重要部分は、つぎの文章でも明らかだ。
 八幡和郎「万世一系: すべての疑問に答える」アゴラ2019年5月31日付。
 ・日本が外国と異なるのは「万世一系の皇室とともに生まれ」、独立を失ったり分裂したことがないとされることだ。
 ・「女系天皇を認めるべきだという議論…」、「こうしたトンデモ議論…」。
 上の両者をつなげると、八幡和郎は「万世一系の皇室」に肯定的であり、かつそこには「女系天皇」を含めていない、と理解してよいだろう。
 そうすると八幡和郎はおそらくは、池田信夫のいう「明治以降の制度を古来の伝統と取り違える」「男系男子」論という「迷信」に(2000年とまでその歴史の長さを見るかは別として)嵌まっていることになる。
 「皇統」はこの<男系男子>天皇で続いてきた、かりに「女性」天皇はいてもかつて「女系天皇」は存在しなかった、というのは、現時点以降の皇位継承のあり方について、可能なかぎり「女性」天皇も認めない、それにつながる可能性のある「女性宮家」の設立も認めない、という<いわゆる保守>派の主張の有力な「歴史的」根拠になっている、と見られる(これは、現行皇室典範(=明治憲法期のそれと同じく男系男子論を採用)を改正する必要は全くない、という主張で、この部分については現行皇室典範に触るな、という主張でもある)。
 八幡和郎には、つぎの書物もある。一つだけ。
 八幡和郎・皇位継承と万世一系に謎はない(扶桑社新書、2012年1月)。
 熟読していないが、上に触れたことと併せてこのタイトルも見ただけでも、八幡の意見・見解が池田信夫とはかなり異なることは十分に推測することができる。
 上に記した、かつて日本に「女性」天皇はいても「女系天皇」は存在しなかった、というのは、例えば典型的には、<いわゆる保守>派の中でもまだ相対的には理知的だと感じてきた西尾幹二についても明言されている「歴史認識」だ。
 西尾幹二発言・西尾幹二=竹田恒泰・女系天皇問題と脱原発(飛鳥新社、2012)p.11。
 「歴史上、女性の天皇が8人いますが、緊急避難的な"中継ぎ"であったことは、つとに知られている話です。そうしますと男系継承を疑う根拠は何もない。
 なお、この発言の頭書の見出しは、<女系容認は雑系につながる>。
 また、「緊急避難的な"中継ぎ"」の部分についての編集者らしき者による注記は、「いずれも皇位継承候補が複数存在したり、幼少であったことなどからの」緊急避難的措置だった、と記している(同上、p.13)。
 男子継承の理念?を最優先すれば、複数の男子候補のいずれかを選ばざるを得ないのではないか、と思うのだが。また、文武(男子)は何歳で即位したのか?。
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 さて、いくつか、コメントしておきたい。
 まず手近に上の西尾発言、というよりも<いわゆる保守>の公式見解・公式歴史認識らしきものについて。
 ①過去の全ての「女性」天皇について、上の意味のような「緊急避難」的措置だったことを、8天皇ごとに、具体的かつ詳細に説明する必要がある。
 「女性」天皇による重祚の例が2回あるが、その各回についても、背景事情を詳しく説明すべきだ。
 西尾幹二はむろんのこと、男系男子論者(この点についての皇室典範改正不要論者)がこれをきちんと行っているのだろうか。
 <男系男子論>(これは日本会議・同会議国会議員連盟の主張のようでもあるが)を「社是」としているらしき産経新聞社(あるいは同社関係雑誌・月刊正論編集部)は、これをきちんと行ってきているだろうか。
 また、日本史学界を全幅的に信頼しはしないが、上の「歴史認識」は学界・アカデミズムではどう評価されているのかも気になる。
 ②そもそも皇位継承について、「男系」と「女系」の区別は、明治維新以降はともかくとして、皇室関係者その他の各時代の論者・社会の各分野で、どの程度明確に意識または観念されてきたのだろうか。
 ア/聖武天皇皇后(光明子)が初めて「民間」(といっても藤原氏)出身らしいのだが、そうすると、それまでの皇后は、そしてのちに「女性」天皇となった前皇后は(なお、全「女性」天皇がかつて皇后だったわけでは必ずしもない)、当然に「皇族」だった。
 とすると、全ての「女性」天皇は、その父親が天皇だったかを問わず、全て「男系」ではある。
 イ/一方で、例えば持統天皇(天武天皇皇后)の子や孫で天皇になった人物は、男女を問わず、天智・天武の血統であっても、持統天皇の皇統?にあるという意味では、「女系」天皇だと観念または理解して、何ら誤っていない、と思える。なお、高市皇子・長屋王は持統の子・孫ではない。
 ウ/具体的にいえば、孝謙天皇・称徳天皇(同じ一女性)は、いかなる「緊急避難」的必要があって、二度も天皇位に就いたのか?
 西尾幹二は、これらを実証的に、歴史的に、説明できるのだろうか。
 エ/すでに書いたことだが、少なくとも奈良時代後期の光仁天皇までは、天皇は「男系男子」でなければならないなどという観念・意識はまったく支配的ではなかった、と思われる。
 まだ十分に確認していないし、母親の地位・「身分」が問題にされたことも承知はしているが、持統天皇就位のとき、年齢的にも問題のない<男系男子>はいなかったのか。これは、奈良時代の全ての「女性」天皇について言える。また、わざわざ男系男子の淳仁天皇を廃して孝謙が称徳としてもう一度天皇になったのは、いかなる意味で「緊急避難的な"中継ぎ"」だったのか。「つとに知られている話」とはいったい何のことか。
 西尾幹二は、あるいは日本会議派諸氏、あるいは八幡和郎は、これらを実証的に、歴史的に、説明できるのだろうか。
 おそらく明らかであるのは、<男系男子>を優先するなどという考え方あるいは「イデオロギー」は、この当時はまだ成立していなかった、少なくとも支配的ではなかった、ということだ。男系男子の有資格者がいたにもかかわらず「女性」天皇となった人物がいるだろう。
 なお、高森明勅と大塚ひかり(新潮新書、2017)のそれぞれの「女系天皇」存在の主張には言及を省略する。元明ー元正。元正の父は草壁皇子で天皇在位なし。元明は持統の妹。
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 少し遡った議論を、一度行っておこう。
 第一。今後の皇位(天皇位)継承のあり方につつき、日本の「古来の」伝統的に立ち返ることが一般的に非難されるべきことであるとは思えない。
 しかし、将来・未来のことを「歴史」や「伝統」だけで決めてしまってよいのか。
 そのような発想を、「伝統」や「歴史」を重視するという意味では、私自身もしたことはある。しかし、かりに、または万が一「男系男子」で継承が「伝統」・「歴史」だったとしても、将来をもそれらが未来永劫に日本国民を拘束するとは考えられない。
 かりに天皇制度の永続を最優先事項とするならば、「女性」天皇はむろんのこと「女系」天皇も認めないと、そもそも天皇制度を永続させることができなくなる、という事態の発生の可能性が全くないとは言い難い。
 かりにそうして「女系」天皇が誕生したならば、それは、日本は従来とは異なる(しかし「天皇」制はある)新しい時代に入った、ということになるにすぎない、と考えられる。
 こういう発想に対して、「男系男子」論者は、おそらくこう言うだろう。
 そんな天皇は「本来の天皇」ではない、「天皇制度」が継続されているとは全く言えない、と。
 そのとおりかも知れず、気分はよく分かる。しかし、そう主張し続けることは、男系男子が皇位を継承しなければ「天皇」とは言えない、「天皇制度」ではない、と言っているに等しく、これは、<天皇制度の廃止>を実質的には主張している、または同意していることになる。
 偏頗な「男系男子」論は、じつは<天皇制度の廃止>をも容認する議論に十分につながってしまう。
 第二。こういう議論に対して、「男系男子」論者はおそらくこう主張するのだろう。
 天皇(男性)に側室・私妾を認めて男子が誕生する可能性を拡大する、と主張はしない、だからこそ皇室・皇族の範囲を拡大して皇位継承資格のある男子の数・範囲を広げることが喫緊なのだ、と。いわゆる<旧宮家・皇族復帰論>だ。
 しかし、ここで絶対に検討しておくべきであるのは、<旧皇族復帰>を現実化する、つまり法制上の「皇族」を拡大することの現実的可能性だ。
 つまり、「旧皇族または旧宮家」(この範囲には議論の余地はある)にどの程度の人数(男子)がおり、彼らが(いたとして)どういう「意思」であるかの問題は全く別の問題として、<旧皇族復帰論>を現実化するためには、皇族範囲を定めている皇室典範(法律)を改正する必要がある。または新しい特別法を制定する必要がある。
 要するに、上の方向で皇室典範(法律)が改正される現実的可能性がいかほどあるか、だ。
 しかして、「法律」であるがゆえにその改正には両議員の国会議員の過半数の同意を必要とする(特例等は省略)。そして、現在および今後の日本の国会は、上のような趣旨の皇室典範(法律)改正・特別法制定を議決する可能性が、いかほどにあるのだろうか。
 西尾幹二はつぎのことも、新天皇・新皇后に「お願い」している。
 西尾「新しい天皇陛下にお伝えしたいこと/回転する独楽の動かぬ心棒に」月刊正論2019年6月号p.219。
 「安定した皇統の維持のために、旧宮家の皇族復帰、ないしは空席の旧宮家への養子縁組を進める政策をご推進いただきたい」。
 まさか西尾幹二が皇室典範は天皇家家法であって天皇(・皇后)の意向でいかようにも改正できると考えているとは思えないが、天皇(・皇后)に一定の皇室「政策」の推進を求めるのはいささか筋違いで、八木秀次によって「国政」介入の要請と厳しく批判される可能性もある。建前論としては国会・両議員議員に対して行うべきものだ。
 第三。この機会に少しだけ立ち入れば、「旧宮家の皇族復帰」等の趣旨でかりに皇室典範改正の基本方向が国会で賛同を得たとしても、検討する必要がある、そして必ずしも簡単に解決できそうにない法的論点がいくつかあると思われる。
 例えば、①対象者(旧宮家の後裔たる男子)の「同意」は必要か否か。必要であるとすると、「同意」しない者は対象者にならないのか。
 ②高度の「公共」性(天皇制度の安定的継続)を理由として、対象者(旧宮家の後裔たる男子)の「意思」とは無関係に、(一方的・強制的に)「皇族(男子)」と(法律制定・改正により)することはできるのか。その場合にそもそも、高度の「公共」性(天皇制度の安定的継続)を理由として、これまで皇族でなかった対象者の「身分」を変更することが<基本的人権>の保障上許容されるのか(皇族になるまでは一般国民だ)。
 ③「身分」変更に伴う、財産権等々にかかわる細々とした制度変更をどう行うか。
 上の①と②は、たんなる「法技術」の問題ではない。
 さらに、より「そもそも」論をしておこう。
 第一。池田信夫のように、「明治以降の制度を古来の伝統と取り違える」「男系男子」論という「迷信」について語る者もいる。
 いかなる「歴史認識」が(むろん運動論・政治論ではなく)より歴史学的ないし学問的に「正しい」かは、相当程度において、日本書記(・古事記)を信じるか・信頼するか、どの程度においてそうするか、に関係する。
 これは、二者択一の問題ではなく<程度と範囲>の問題だ。相対的に、秋月瑛二よりも、八幡和郎や西尾幹二のそれへの「信頼度」は高いようだ。
 しかし、古代史一般について言えるだろうが、「信じる」程度の問題になってしまうと、いずれが「正しい」かの議論にはならない。「神話」という「物語」を微妙に「史実」へと転換している部分がある西尾幹二についてもこれは言えると思われる。
 「信仰」の程度で、重要な問題の決着をつけては、あるいは重要な問題の根拠にしては、いけないのではないか。あるいは、よくわからないこと、信憑性の程度がきわめて高くはないことを、現在時点での問題解決の「歴史的」根拠にしてはいけないのではないか。
 なお、孝謙・称徳天皇あたりの「話」になると、続日本記等の記述の信頼性の程度の問題が生じてくる。
 公定または準公定の史記に相当に依拠せざるを得ないことは当然かもしれない。
 しかし、天武以前に関する(壬申の乱を含む)日本書記の記述を天武・持統体制?の意向と無関係にそのまま理解することはできないのと同様に、光仁・桓武天皇期以降の続日本記等の叙述や編纂が、平安京遷都以前の歴史につき、必ずしも公正には記していない可能性があるだろう。
 こんなことを感じるのも、孝謙・称徳天皇に関する記述・「物語」は先輩の?天皇に対するものとしてはいささか冷たい部分があるように、素人には感じられるからだ。
 なお、八幡和郎は変化も交替もなかったかのごとく叙述しているが、奈良王朝と平安王朝?の違いとその背景については(意味の取り方にもよるが)、関心がある。八幡が想定するよりももっと複雑な背景があると見るのが、より合理的な史実理解でありそうに見える。
 第二。皇位継承の仕方・あり方は(かりに「歴史」・「伝統」が有力な論拠になるのだとしても)、日本書記等での記述の仕方を含めて、ときどきの時代の史書がそれをどう理解していたか、も当然に配慮しなければならない。
 明治期以降の櫻井よしこらのいう「明治の元勲たち」が日本古代からの皇位継承の仕方・あり方をどう観念・理解したのかは考慮すべき一つの事項にすぎず、「明治以降の制度を古来の伝統と取り違える」のは、思考方法としても全く間違っている。
 <天皇親政の古来の在り方>に戻ったとし、仏教、修験道等を「神道」の純粋性を汚すものとした、明治新政府とその後の薩長中心藩閥政権等々が、日本古代からの皇位継承の仕方・あり方を本当に客観的または冷静に分析し理解し得たとは、とても思えない。
 昭和に入ってからの<国体の本義>に書いてあることが全てウソまたは欺瞞または政治的観念論だと主張はしないが、「天皇」に関する叙述・論述をそのまま信頼することもできない。これは当たり前のことだろう。そして、「万世一系」もまた、明治憲法が用いた術語であることを知らなければならない(むろん、その趣旨の論は江戸時代等にもあったかもしれないがどの当時から「体制」のイデオロギーではなかったように思われる)。
 第三。江戸時代の「女性」天皇についても上記の「緊急避難的な"中継ぎ"」の意味は問題になり得る。その点は別としても、しかし、歴代の天皇の大多数が男子(男性)だったことは間違いないようで、なぜそうだったかは別途論じられてよいだろう。
 池田信夫は冒頭掲記の文章の中で、「日本で大事なのは『血』ではなく『家』の継承だから、婿入りも多かった。平安時代の天皇は『藤原家の婿』として藤原家に住んでいた。藤原家は外戚として実質的な権力を行使できたので、天皇になる必要はなかった」と書いている。
 但し、その後の時代も含めて、武家等が「天皇」になる必要はなかったとしても、その天皇はなぜほとんど男子で継承されてきたのか、という疑問はなお残る。
 簡単な論述には馴染まないが、結局のところ、人間・ヒトとしてのオスとメス(男と女)の違いに求めるしかないのではないか、と私は思っている。むろん、ただ一つの理由、背景として述べているのではない。
 中国の模倣も少しはあったかもしれない。しかしそもそもは、「天皇」になることがいかほどの特権だったかは時代や人物によっては疑問視することもでき(例えばかりに同族が天皇位に就いていて自分の生活・財産が保障されていれば、あえて「天皇」になる必要はないと考えた候補者もいたかもしれない)、また「女性」天皇が少ないことは女性蔑視思想の結果だとも思えない。
 妊娠・出産はメス・女性しかすることができない、というのは古来から今日までの、日本人に限らない「真理」だろう。このことと「天皇」たる地位の就位資格と全く無関係だったとは思われない。むろん代拝等によることによってあるいは摂政・代理者によって祭祀行為や「執政」等々をすることはきるのだが、日本史の全体を通じて、妊娠し出産し得るという身体性は、天皇という「公務」執行の支障に全くならなかったとは思えない。むろん100%決した要因ではないだろうと強調はしておくが、この要素を無視できないのは当然のことではなかろうか。
 これは女性「差別」でも何でもない。むしろ「保護」をしていたのかもしれない。
 第四。天皇の問題だけではないが、日本の「文化」・「文明」の独自性・特有性は、日本人の「精神」・「こころ」・「性格」等によるのではなく、大陸や半島から「ほどよく」離れた、かつ東側にはさらに流れ着く島等がないという列島という地理関係とそこでの自然・気候等の「風土」によるのだろうと思っている。天皇という制度の継続もこれと全く無関係とは感じられない。
 「民族」・「日本人」が先ではなく、人が生きていく列島の「地理的条件」・「自然」・「風土」が先だ。
 前者という「観念」的なものを優先させるのは、この列島にやって来たヒトたち・人間たちの本性とは決して合致していないだろう。

1982/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05⑤。

  前回に記した少なくともかつての泉涌寺と天皇・皇室との深いつながりを、すでに取り上げたつぎの新書から確認しておこう。結論的に、同じことが書かれている。
 かつて「天皇家自体が非常に熱心な仏教徒」で、「国家仏教の枠組みを導入したのは、用明天皇や推古天皇…、聖徳太子であった…」等と述べたあと、泉涌寺につき、こう書かれる。別に触れる予定の事項を除く。
 鵜飼秀徳・仏教抹殺-なぜ明治維新は寺院を破壊したのか-(文春新書、2018)。p.231-。
 ・「1242年、四条天皇が12歳の若さで崩御」した際に「泉涌寺で葬儀が実施されて以降、ここは『皇室の御寺〔みてら〕』と呼ばれるようになった」。
 ・「さらに、南北朝時代の1374年に後光厳天皇(上皇)が同寺で火葬された」のを始まりとして「9代続けて天皇の火葬所となった」。
 ・「江戸時代の歴代天皇(後水尾天皇から孝明天皇)、皇后はすべて泉涌寺に埋葬されている」。
 ・泉涌寺にある「天皇の墓は九重の意匠が特徴の典型的な仏式墓であり、月輪陵(光格天皇以降は別区画の後月輪陵)に25陵と5灰塚、9墓(親王らの墓)が祀られている」。
  さらに上掲書には、こう書かれている。近くに御陵があるというだけではない。
 ・「泉涌寺の霊明殿には歴代天皇の位牌である尊牌を安置、朝夕のお勤めの際には同寺の僧侶によって、読経がなされる」。
 ・「各天皇の祥月命日には皇室の代理として、宮内庁京都事務所からの参拝が行われるという」。
 ここにいう「歴代天皇」とは全ての天皇ではなく、位牌=尊牌のある天皇の意味で、天武系=持統系の称徳・孝謙天皇までを含まないと思われるが、それ以降は全てとされる。位牌の存在理由も含めて、ここでは立ち入らない。
 泉涌寺の作成にかかる小冊子には、つぎのように毎「朝夕」について書かかれている。
 「今も毎日御回向が行われている」。p.10。
 毎朝夕かどうかの明記はないが、「毎日」だ。その旨は、初めてこの寺を訪問したときに聞いて、驚いた記憶がある。
 さらに、同小冊子は、「御月並」=毎月の特定の日の「法要」について、こう書く。p.31。
 位牌のある天皇と同列以上の特別の扱いがなされている。
 ・毎月7日/昭和天皇、同10日/昭憲皇太后〔明治天皇皇后-秋月注〕、同16日/香淳皇后、同17日/四条天皇・貞明皇后〔大正天皇皇后〕、同25日/大正天皇、同29日/明治天皇。
 また、毎年の「御例祭」の「法要」が、つぎの天皇・皇后について行われるとされる。
 ・毎年1月7日/昭和天皇、同1月11日/英照皇太后〔孝明天皇妃〕、同5月17日/貞明皇后〔大正天皇皇后〕、同6月16日/香淳皇后、同7月29日/明治天皇、同12月25日/大正天皇。
 これら「法要」が霊明殿で行われるのか、仏殿でなのかはよく分からない。
 しかし、<仏教式>のものであることは言うまでもないだろう。
 ついでに、つぎによって、これまで記したことの一部を補足しておく。
 芳賀徹「御寺の風格」上村貞郎=芳賀徹監修・泉涌寺/新版・古寺巡礼京都27(淡交社、2008年)所収。
 ・「…、まことに皇室の菩提所、『御寺』と呼ばれるふさわしい、荘重で、しかも清明に気配に満ちた境内なのである」。-p.8。
 ・「…、明治維新以降、泉涌寺が受けた打撃は大きかった。…天皇家の遠忌法要も葬儀も神式となって、泉涌寺では行われなくなったからである。その上に明治4年(1871年)には寺社領の上知(没収)令が出されて、…20数万坪の土地を約4万坪に減らされたという。…少なくともいったんは官有地となった。」-p.14。
 ・明治天皇、大正天皇の例に倣って、「昭和天皇も御在位の間にいくたびか皇后陛下とともに泉涌寺においでになり、御陵と霊明殿に参拝なさったという」。-p.15。
 ・「いま平成の天皇と美智子様も御上洛の折にはよく泉涌寺にお立ち寄りになり、御先祖の霊に参拝しておられるらしい」。-p.16。
  仏教様式での回向・法要のほか、興味深いのは、御陵・陵墓の「向き」と泉涌寺の建造物の位置関係だ。
 上の古寺巡礼京都27(2008)に末尾にこれがかなり明確になる地図があるが、寺院境内や御陵であることによるのだろう、一般的な地図やネット上の地図(例、google map)では空白が多い。
 下は、ネット上にある、泉涌寺・月輪陵・孝明天皇陵=後月輪東山陵の位置関係を示す古い図面(左)または写真(右)。左は上が「北」、右は上が「東」。
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 komei-map01 (3) komei-map03 (2)

 専門的にまたは学問的に神社・寺院の「向き」というのが本当にあるのかどうかは知らない。しかし、寺院の場合は本尊たる仏像の顔の「向き」、あるいは参拝する方向とは反対の方向が「向き」だと言えるだろう(但し、本尊仏像がない寺院もある。京都・永観堂の「みかえり」阿弥陀如来像のように顔と身体部分が一致していない稀な仏像もある)。
 「南」向きが多いようでもあるが(とくに神社の場合)、南向きが「通常」または「原則」とは言えないだろう。「北向」や「東向」が現在の寺院名の一部にされている場合もあるし東西本願寺(京都市)・法然院(同)や浄瑠璃寺(京都府木津川市)の本堂に当たるもの(および本尊仏像)は「東」向きで、「西方」(西方浄土?)を向いて参拝する。但し、浄土真宗を含めて、全ての寺院が「東」向きではもちろんない(例、三重県津市・高田専修寺)。
 泉涌寺の場合、やや西北方向に傾いているが、仏殿(本堂に当たると見られる)・舎利殿は「西」向きだ。仏殿・舎利殿とほとんど同じ中心線上に「勅使門」があり、その南に「霊明殿」自体の門と見られる<唐門>・空地・「霊明殿」がある(左の地図の左端半ば辺りの舎利殿の右下)。
 この霊明殿と月輪陵・後月輪陵との位置関係は現地では必ずしもよく分からなかったが、上左の地図が示すように、唐門・霊明殿の中心線が御陵の入口の門および陵区画の中心線と重なってはいないとしても、霊明殿で「東」向きで回向・法要する僧侶・参拝者等方向は、月輪陵・後月輪陵の区画の一部を間違いなく向いている。全体として、御陵と向かい合っている、と言ってよい。
 これは何を意味するのか。
 霊明殿で回向・法要のために読経し瞑目する等々の人々は、諸天皇の位牌のみならず、月輪陵・後月輪陵の各陵墓に対してもまた向き合っているのだ。陵の門を入って間近に各陵墓に参拝する場合もむろんあるのだろうが、陵墓参拝は(まとめて?)泉涌寺の一部である霊明殿でも行うことができる、ということなのではないかと思われる。
 このことは、孝明天皇までの天皇陵等については、「みてら」として当然のことだったのかもしれない。
 しかし、現在でも毎日霊明殿で、仏僧によって回向が行われている、ということは相当に興味深いだろう。また、諸法要が霊明殿ではなく仏殿で行われているとしても、その方向は上の御陵の陵墓の方向を向いている。
 なお、霊明殿の北に「本坊」とされる建物があり、現在観覧することのできる部分の区画または各部屋は、全て、天皇・皇族およびこれらの付き添い者の用に供されていたものだ。「玉座」とされている部屋もあって、「本坊」の東南にある小ぶりの庭園に向かって「南」面しており、その中心線は、霊明殿の東端またはそれと御陵との間の空地を走っている(陵の方を向いていない)。
 上の二つの地図・写真で気づいたが、一般には見ることのできない月輪陵・後月輪陵の各陵墓は、霊明殿・仏殿等がやや西北に傾いて「西」向きであるのに対して、「真西」を向いているようでもある。これは意識的で、「真西」を向かせるという明確な理由があるのではなかろうか。
  孝明天皇陵・英照皇太后陵(後月輪東山陵・後月輪東北陵)へは一般にはこの二つに共通の門の近く(上の右の写真の「孝明天皇陵前広場」)までしか行けない。
 だが、ネット上の写真等を見ていると、興味深いことに気づく。
 第一に、月輪陵・後月輪陵の陵墓と違って、「西」を向いておらず、「南」向きであるようだ。
 第二に、月輪陵・後月輪陵の陵墓と違って、<仏教式>ではない。何重かの「円墳」のようなかたちをしている。上の左の地図およびつぎのネット上の写真を参照。下の写真は上が「北」。左下が月輪陵の一部。
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 koumei00 (3)

  英照皇太后陵ではなく孝明天皇陵は明治改元(遡及)前の1867年に造られている可能性はあるが、明治天皇即位後であることは間違いない。そして、孝明天皇陵の造営については、明治新政権の幹部・神官たちの意向が相当に働いたのではないか。
 以下は、全くの素人の推測だ。 
 孝明天皇は明治天皇の実父の先代天皇、英照皇太后は中山慶子が実母であるところ形式上だげは「母」とされた人物。明治天皇を中心とする新しい時代を築こうとする新政権中枢は、この二人の陵墓を粗末・質素なものでなく大きなものにしようとした。
 しかし、場所は江戸時代の長い伝統・慣例によって泉涌寺付近としたが、光格(1840没)、仁孝(1846没)の両天皇とも違う区画を選び、かつ、すでに<仏教式>でないものにすることとした。したがって、第一に九重石塔を用いず、第二に泉涌寺の霊明殿の方向を向かせないことにした。
 仏教によるという伝統からの切断、泉涌寺からの分離が、すでに試みられているように見える。
 図説天皇陵(新人物往来社、2003)は孝明天皇の陵墓を「円丘」だと記す。
 一方で、月輪陵・後月輪陵にある天皇陵墓は「九重塔」だと明記している。
 九重石塔は陵墓の飾りの一種かと思っていたが、陵墓の方式・様式そのものだと理解されている。そのような、江戸時代、御水尾から仁孝までの天皇の各陵墓とは、明瞭な違いをあえて示しているのが、孝明天皇(・英照皇太后)の陵墓だ。
 この①「円丘」、②南向き、ということが<神道式>だといえるかどうかは分からない。古代の前方後円墳は<神道式>なのか、天武・持統合葬陵は<神道式>なのか、といった問題設定はほとんどなされてきていないだろう。
 いずれにせよ、しかし、明治天皇の即位後の新しい時代に、先帝・孝明天皇の陵墓についてもまた江戸幕府時代の「伝統」に従わない、「新しい」様式によることが決断された、と言えそうだ。
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 この機会に、<十三重石塔>も、二つだけ例示しておく。
 下は順に、清水寺(京都)、法住寺(同)。

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1980/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05④。

  日本会議の役員の長谷川三千子・からごころ(中公叢書、1986)の「まえがき」を一瞥していると、何やら息苦しくなる。
 「日本」、「日本人」、「日本的なもの」とかへの拘泥あるいは偏執が強すぎ、かつ同時にこれれらを事実や経験からではなく<観念>的に理解しようとしているからだと思われる。
 こういう一文がある。「われわれ日本人のなかには、確かに、何か必然的に我々本来のあり方を見失わせる機構、といったものがある」。p.8-9。
 日本、日本人あるいは「日本的なもの」を想定してさまざまに論じるのは否定されるべきことではないし、この欄でもそうした作業に関連することは行っているだろう。
 しかし、「我々本来のあり方」という表現・観念には違和感が湧く。
 日本、日本人、「我々」についての「本来のあり方」とは何か?
 そんなものはあるのか? その存在を想定し、前提とすることから始めると、最終的結論も中間的結論も出ない、迷妄の闇の中に入ってしまうような気がする。
 日本会議は、「本来の」が好きだ。「天皇の…に関する、本来のあり方は、……だ」といったふうに語られる。
 だが<天皇の…本来のあの方>とは何か。誰が、どうやって決定するのか。
 日本会議が主張する、または認識するそれが決定的で、<正しい>ものである保障など、どこにもない。むしろ日本会議は、<本来のあり方>と称しつつ<ウソ>をばら撒いている可能性もある。
 なお、長谷川の上の著は全体を熟読しているわけではない。念のため。
  かつて一時期、天皇家の「菩提寺」だった泉涌寺に関連して、言及しておきたいことがまだある。
 大きな一つは、明治維新後の変化、神仏分離・判然政策にかかわる。
 前回も利用させてもらっている泉涌寺作成・頒布の小冊子は、月輪陵について、こう記述している。後月輪陵も含めてよいかと思われる。
 「ここに鎮まる方々の御葬儀は泉涌寺長老が御導師をお勤め申し上げ、御陵もすべて仏式の御石塔でお祀りされている」。
 こここで関心を惹くのは、幕末・明治維新以降、あるいは明治新政権の<宗教政策>上、「…御陵もすべて仏式の御石塔でお祀りされている」という状態が許容されたのか否か、許容されたとすればなぜか、ということだ。
 鵜飼秀徳・仏教抹殺-なぜ明治維新は寺院を破壊したのか-(文春新書、2018)は全国各地の事例に言及しているが、京都(市内)については、こんなことを書いている(第8章「破壊された古都-奈良・京都」)。
 ・「多くの仏教行事」、「例えば『五山の送り火』や地蔵盆、盆踊りも軒並み、『仏教的だ』という理由で禁止になっていた。
 ・1871年10月の京都府府令によるもので、この「府令は、京都市内の各町内の路傍における地蔵や大日如来像などは無益で、怪しく、人を惑わすものであるから、早々に撤去するよう命じた」。
 ・1872年7月にはつぎのような布令が出された(前のものとともに原文が引用されているが、ここでは略。なお、「府令」・「布令」は鵜飼著のママ)。
 「夏のむし暑いさなか、地蔵盆などで地域住民が集まって飲食しては、食中毒になりかねない。送り火と称して無駄な焚き火をし、ほかの仏事もまったく科学的根拠のない迷信だから今後は一切禁止する、という内容である」。
 ・愛宕神社はかつては神仏混淆で、700年代に役行者(修験道)が開いたとされ、781年に和気清麻呂が勅命により境内に白雲寺を建立した。
 だが1868年「神仏分離令」発布により、白雲寺等は「軒並み廃寺処分」となり、愛宕山麓での「鳥居形」の送り火も中止になった。
 ・四条大橋の鉄橋化に際して、寺院内の仏具・金属製什器類が「供出」された。p.209-p.210.
 ・五条大橋欄干の金属製装飾の「擬宝珠」が、「仏教的」であるとの理由で撤去・売却された。 
 ・「石塔婆などが道路の敷設に使われたり、…石仏が踏み石にされた事例は数多い」。p.211.
 ・1871年の「第一次上知令」により、寺領等が「国に取り上げられ」、大幅に縮小した。以下、単位は坪、一部は秋月が1000未満を四捨五入。
 高台寺9万5千→1万6千、平等寺3千→2千、清水寺15万6千→1万4千、東本願寺4万7千→1万9千、大徳寺6万9千→2万4千、鞍馬寺35万7千→2万4千、知恩院6万→4万4千、など。
 のちに「仏教式」ということの関係で触れることのほか、泉涌寺について、こうある。
 ・「泉涌寺における天皇陵の墓域がすべて上知され、官有地とされた」。p.233.
 なお、泉涌寺作成・頒布の小冊子の年表には、1878年(明治10年)のこととして、「御陵、宮内省の所管となる」、と書かれている。
 陵墓地の所有権は版籍奉還とは制度的に別の「上知」により早くに「国」に移り、1878年になって「管理」もまた国に移管した、という意味だろうか。
  現在の月輪陵・後月輪陵の様相は後述するとして、神仏判然、神仏分離の基本理念からすると、事もあろうに天皇の御陵が「仏教式」で供養されたり、その陵墓の築造様式が「仏教式」であってはならない、という発想が容易に出てきたはずだろう。
 二年前は今ほどの関心と問題意識はなかったが、この点についての興味深い史料を紹介して論評する文献を、この欄で取り上げていた。2017/05/03、№1527で、その文献は、以下。
 外池昇・幕末・明治期の陵墓(吉川弘文館、1997)。
 1968年6月の明治新政権「政体書」により律令上の「神祇官」が復活して太政官のもとに置かれて天皇陵の祭祀も担当するようになり(のちに1871年に神祇省に格下げ?)、その中の「諸陵寮」が陵墓地の管理を所管するようになった。
 上の外池著によると、祭祀の施行のほかに陵墓の維持・管理も含めるかどうかという議論があったようだが、陵墓は「穢れ」でないとの前提でこれの管理も含めて神祇官が所掌するとされ、陵墓(山陵)事務については独立の官署「諸陵寮」を設置すべきとの考え方がのちに政府・神祇官内でも出てきて、翌1869年9月に神祇官の「下部」機関として「諸陵寮」が置かれた、とされる。
 以下、二年前の投稿内容をそのまま再掲しないであらためて書き直す。
 1871年(明治3年)8月-御陵御改正案写/諸陵寮。上掲書、おおむねp.330以下。
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 「諸陵寮」はとくに泉涌寺周辺の多数の陵墓の存在とそこでの祭祀について注目していたようだ。
 1870年(明治3年)8月の「諸陵寮」の一文書「御陵御改正案写」はつぎのように書く(p.332-4。漢字カナ候文、直接引用も混ぜる。厳格な正確さはない可能性はある)。
 ・「御一新復古」となり、「神仏混淆不相成旨」を先般布告し、「僧侶ども還俗復飾」等を「仰せ付け」た。
 ・「御陵御祭典」が全て「神祇道」でもって行われることになり誠に「恐悦至極」だ。
 ・しかるところ(「然処」)、御陵に関係している「泉涌寺其外」が依然として「巨刹を構え」「そのままに」されているのは(其儘被差置候者)、恐れ入ることだ(「何共恐入候次第」)。
 ・「皇国に来たりしより既に二千有余年」、「禍害は四隅に蔓延」していて「もとより一朝一夕の事」ではないが、「即今の御回復」は「重大」なことで、「僧侶ども生活の道」が相立たないこともあるだろうが「千緒万端」の手を尽くしたにもかかわらず、このような「重大の事件」は「御一新」のときにあってはならない。
 ・「御盛業」の「確然」相立っており、「諸国の神社の社坊社僧」に比べると「誠に瑣々たる」ことなので「容易に御成功」できないかもしれない。
 ・しかしながらそもそも、「神世以来の御一統」の「皇室御歴代」の「御追孝の御祭典御陵の御取扱」方法は「上親王華族より下億万の庶民まで」の「模範」であるべきで、「断然と浮屠混淆」をしてはならない旨を「神社」に「普く「御布告」した。
 ・「泉涌寺等全御陵に関係の寺院」は、一山残らず「還俗」すること(「一山還俗))人選の上で「相当の職務」に就かせることをを「仰せ付け」た。
 ・「寺院境内ニ御陵」がある寺院は「僧徒」から「還俗」の出願があればよいが、そうでなければ「塔中一院」であっても「還俗」しなければならない。
 -以下つづけるが、以下の諸項が興味深い(なお、原文が項立てしているのではない)。
 ・…。しかし、「九重石御塔あるいは法華堂杯」をそのままに「御建置」したままで「御祭典」をしているのは、「浮屠混淆の一端」なので、少しずつ是正される(「順々其辺御改正」))のは「理の当然」のことだ。
 ・「御陵」とはすなわち「御霊の所在」で、これが「御是正」されるべきは「自然」だ。「寺院ニモ往年格別」の「勅諚」は「叡慮」によって下されなかったけれども、その理由は…ということであった。
 ・「万民の方向」は「御定め」られているのに「肝要の御陵の御取扱」が「浮屠混淆」であっては、「寮官」にはじつに堪えざる懸念がとくに心を苦しめる(「不堪懸念殊更苦心」)。
 ・「先」ずは「泉涌寺御改正」を「別紙」のとおり行うように「寮儀」を差し出すので、すみやかに「御評決」していただきたい。
 -この「別紙」は全文が掲載されていないが、外池著p.334は、つぎの部分を引き、「泉涌寺における神仏分離と陵墓管理の徹底について、極めて具体的かつ厳しい見通しを述べている」と注釈している・
 ・(<別紙>)「御歴代御陵祭祀神典に被為依候上は、泉涌寺をも被廃候儀当然の御儀と奉存候
 =「御歴代御陵祭祀」は「神典」によるべきところ、「泉涌寺をも」「廃」=廃止するのは「当然の御儀」だと申し上げさせていただく。 
 以上、終わり。
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 これは明治政府全体の1871年の政策方針でも、神祇官の見解でもない。しかし、その直下の「諸陵寮」の見解・意見の具申文書だ。
 「九重石御塔」等が存置されたままであるのを批判し、泉涌寺の「廃止」すら提案されている。その根拠は「ご一新」であり、「神仏混淆不相成」であり、「浮屠混淆」の禁止=仏教を含む汚らわしいものとの「混淆」の禁止、だ。
  しかし、現在、泉涌寺は残存しており、御陵もその直近に残っている。
 「九重石御塔」とは<九重石塔>とか<九重石仏塔>とか呼ばれるもので、どうやら仏教様式のものらしい。
 思い出すと、奈良県桜井市の談山神社の本殿の前に立って、ここは寺院だったか神社だったかと一瞬迷ってしまった理由の一つは、石製でなく木造ではあっても13重の、<九重仏塔>のようなものがきちんと存在していたことにあったようだ(神仏混淆の名残りだと思われる)。
 <九重石仏塔>ではなく、実際に多くあると思われるのは<十三重石塔>だ。
 清水寺(京都)、泉涌寺塔頭の新善光寺、長岡京市の乙訓寺、奈良県平群町の千光寺、京都・三十三間堂東の法住寺、神戸市北区の三田に近い鏑射寺には、間違いなく<十三重石塔>があり、京都市・東山の長楽寺には、建礼門院(安徳天皇の実母)の供養塔として、かなり古びた小ぶりの<十三重石塔>がある。但し、これらは御陵または陵墓とは直接の関係がないと見られる。つまり、墓碑の直近に立っているわけではないようだ。なお、建礼門院徳子は天皇ではないものの、その御陵はあって宮内庁が管理している。その位置からして、少なくともかつての「菩提寺」は京都・大原の寂光院だったと見られる。
 もっとも、(五重石塔もあるようなのだが)、これら<九重石塔>や<十三重石塔>の意味、9や13という数字の意味はよく分からない。関心をもって情報を探しているが、簡便な方法によっては手がかりが得られない。ひょっとすると、きちんと説明することのできる仏僧たちすら少ないのではないか、とすら感じている。
 四での前置きが長くなったが、上の1871年諸陵寮改正案が批判・攻撃の対象にしていた「九重石御塔」は、現在でもそのまま残っていると見られる。
 この一年以内に、ネット上で近年または最近の月輪陵(+後月輪陵)を撮影している写真を見つけた。一般人も撮影地点まで入れるかと思ってその後に(そのためだけでもないが)陵の告知板辺りから右上方につづく「道」を入りかけると、そこは立入禁止になっていた。ネット上の写真は特別の資格があるか特別の許可を得た人が掲載しているのだろう(あるいは禁を破った人か)。
 先日にこの陵を西北方向から撮った映像を数秒間流していたテレビ局があった。相当に珍しいフィルムなのではないかと思われる。
 これで泉涌寺関連が終わるのではない。
 各御陵の「向き」(泉涌寺自体の「向き」とほとんど同じ)や孝徳天皇(・英照皇太后)陵の、他陵との違いについて、さらに言及する。
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 以下、ネット上より。月輪陵。後月輪東山陵は写っていない。

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1979/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05③。

  泉涌寺-月輪陵-後月輪東山陵-孝明天皇陵となると、孝明天皇自体について、幕末期の<孝明天皇暗殺>説に触れたくなる。岩倉具視を首謀者とするのかもしれない「暗殺」、または意図的な治療遅延等による「殺人」が万が一にでも事実であったとすると、つまりは幕府および徳川家に対する敵意が薩長両藩や「過激」公家たちほどでは全くなかった孝明天皇がもう少しは長く存命していれば、<幕末・明治の変革>の様相は変わっただろうし、<明治維新>の印象・イメージも大きく変わるに違いない。
 学者・アカデミズム界を超えるか少なくとも同等の推論をしている、本来は小説家・作家の中村彰彦のいくつかの本(暗殺説)にも触れたくなる。
 この主題を忘れているわけではない。但し、「明治維新」を項とするところで、別に扱った方がよいだろう。
 泉涌寺が<天武天皇系の天武から称徳・孝謙天皇まで>の天皇を供養の対象にしていないこと(位牌のないこと)にも今回は触れない。女性・女系天皇とか、光仁・桓武天皇による<王朝交代>説とかに関係してくる。
  上の後者に少しは関連性があるが、泉涌寺自身が制作・頒布している小冊子(<御寺・泉涌寺>)内の「泉涌寺略年表」にしたがうとすると、前回・前々回に記した以上のことが分かる。
 称光天皇(即位1412年、後花園天皇の前代)の御陵は、京都市伏見区深草の深草北陵の中にあるが、1428年に泉涌寺で「火葬、奉葬」が行われている。
 後小松天皇(即位1382年)の御陵も同じく深草北陵の中にあるが、上皇となったのちに没した1433年に泉涌寺で「火葬、奉葬」が行われている。なお、別の資料によると、泉涌寺月輪陵内にではなく、泉涌寺塔頭の雲龍院境内に「灰塚」がある。
 後土御門天皇(即位1464年)の「灰塚」が月輪陵内にあるとされるが(この欄の前回参照)、1500年に泉涌寺で「火葬、奉葬」が行われている。但し、御陵自体は、上と同じく深草北陵の中にある。
 後柏原天皇(即位1500年)の御陵も深草北陵の中にあるが、1526年に泉涌寺で「火葬、奉葬」が行われている。なお、泉涌寺月輪陵内に「灰塚」がある(前回参照)。
 後奈良天皇(即位1526年)の御陵も深草北陵の中にあるが、1557年に泉涌寺で「火葬、奉葬」が行われている。なお、前代と同じく泉涌寺月輪陵内に「灰塚」がある(前回参照)。
 正親天皇(即位1557年)の御陵も深草北陵の中にあるが、1593年に泉涌寺で「火葬」はないようだが「奉葬」が行われている。前代と同じく泉涌寺月輪陵内に「灰塚」がある(前回参照)。 
 後陽成天皇(即位1586年)の御陵も深草北陵の中にあるが、1617年に泉涌寺で「奉葬」が行われている。前代と同じく泉涌寺月輪陵内に「灰塚」がある(前回参照)。 
同じ「略年表」によると月輪陵または後月輪陵に陵墓のある後水尾、明正、後光明、後西、霊元、東山、中御門、櫻町、後櫻町、光格、仁孝の各天皇の「奉葬」を行ったと明記されており、後月輪東山陵に陵墓のある孝明天皇についても同じだ。
  これによると、15-16世紀に、泉涌寺で天皇の「火葬」が行われていた。その場所は筆者には分からず(諸資料にも書かれておらず)、推測するしかない。
 「火葬」もせず、また陵墓自体は別にあって(深草北陵)、泉涌寺が「奉葬」したという、「奉葬」の意味はよく分からない。
 推測になるが、遺体・遺骸を存置しての丁寧なまたは本格的な「法要」ないし「葬送の儀礼」、要するにきちんとした<葬儀>は泉涌寺で行い、遺体・遺骸は泉涌寺より南の深草まで移して「埋葬」した、そこが最終的な「陵墓」となった、ということなのだろう。
 以上の今回記したこともまた、少なくとも孝明天皇までの、天皇と仏教・寺院の関係の深さを、とりわけ仏教寺院である泉涌寺との鎌倉時代以降の関係の深さを示している。
 もちろん、「奉葬」は仏僧たちが、仏教的様式で行ったに違いない。泉涌寺のどの建物で、ということになると、現存建物の中では舎利殿か仏殿かしか考えられないが、特別の建築物が一時的にせよ造られたのかもしれない。

1978/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05②。

  御陵は現在(明治期以降?)は宮内庁の(直接の)管理だ。したがって、泉涌寺とは法的には無関係とは言えなくもないが、すぐ近くにある月輪陵(12天皇)と後月輪陵(2天皇)については、これら陵墓の区画と間際の道路部分へは現在でも泉涌寺の境内を通らないと到達できないと思われる。
 聖徳太子陵についての叡福寺の場合と同じだ。
 但し、孝明天皇についての後月輪東山陵へだけは、金堂・本坊等のある泉涌寺境内を通らなくとも自動車で行ける道路(または道路状の通路)が続いている。
 しかし、どちらにせよ固定資産税の対象にはならないのだから明確にしておく意味はほとんどないが、一般的な道路の一部ではなく、おそらく厳密には泉涌寺(本山)の所有する土地内に設けられているのだろう。
 というのは、泉涌寺付近の三陵墓を訪れるためには泉涌寺(山内)の「総門」をくぐらなければなないが、この門より奥は「私道」だ旨の看板が掲げられている(従って正確にはたぶん、道路交通法の適用はない)。
 「総門」をくぐると左右に<塔頭>がいくつかあり、その中には西国観音巡礼の札所の今熊野観音寺すらある。また、宮内庁書陵部月輪監区事務所の建物も、泉涌寺の仏殿・舎利殿(の近くを通って月輪陵と後月輪陵)や後月輪東山陵に続く道路の近くにある。この管区事務所は全国につあるようだ。大まかな位置としては、その道路に接してはおらず、今熊野観音寺と泉涌寺の中間の叢林の中にあるように思える。
 なお、泉涌寺の大門はやや高い箇所にある。いま言及している道路はそこへさらに上がらないで泉涌寺境内の平地部分と同じ高さで斜め左へと分岐する。泉涌寺を正規に参拝するのは「大門」からだと思われ、そこに入山料受領所もある。左に分岐する道を「御陵参道」と記してある地図を掲げる書物もある(もっとも、大門を経由しない泉涌寺中心部への近道にもなる)。実際にも、「泉山御陵参道」という石碑も立っているようだ。
 その分岐点に「拝跪聖蹟」と彫った大きな石碑が立てられている。
 裏には、「皇紀2594年5月27日」〔タテ書き漢数字〕と刻まれている。
 「拝跪聖蹟」という語は他では見たことがなく、この地点から奥は「拝跪亅すべき「聖蹟」だ、という意味なのだろう。立てられた年だと見られる皇紀2594年は、1934年で、昭和9年だ。これも、現在の通念とはやや異なる印象を与えるだろう。
  泉涌寺近くの御陵には天皇の陵墓だけがあるのではない。
 月輪陵・後月輪陵に陵墓のある天皇は、前回にも示したが、以下の12天皇。孝明天皇陵は、後月輪東山陵という一段と高い丘陵地の中にある。
 四條、後水尾、明正、後光明、後西、霊元、東山、中御門、櫻町、後櫻町、光格、仁孝。
 天皇以外では、以下。
 陽光太上天皇、後水尾天皇皇后和子、霊元天皇皇后房子、東山天皇皇后幸子女王、中御門天皇女御贈皇太后尚子、櫻町天皇女御尊称皇太后舎子、桃園天皇女御尊称皇太后富子、後桃園天皇女御尊称皇太后綾子、光格天皇皇后欣子内親王、仁孝天皇女御贈皇后繁子、仁孝天皇女御尊称皇太后禮子。
 つぎの5天皇については、「陵」ではなく、「灰塚」だとされる。
 後土御門、後柏原、後奈良、正親、後陽成。
 「陵」ではなく、たんに「墓」とされるものも同じ区画内にある。以下の9皇族。
 光格天皇皇子温仁親王、光格天皇皇子悦仁親王、仁孝天皇皇子安仁親王、陽光太上天皇妃晴子、後陽成天皇女御中和門院藤原前子、後水尾天皇後宮壬生院藤原光子、後水尾天皇後宮逢春門院藤原隆子、後水尾天皇後宮折廣義門院藤原國子、仁孝天皇後宮祈祷賛門院藤原雅子。
 以上は、月輪陵入口にある掲示板の写真によった。読み間違い、見間違いがあるかもしれない。
 孝明天皇の御陵は後月輪東山陵(のちのつきのわのひがしのみささぎ)というが、同天皇妃夙子(孝明天皇没後に英照皇太后と追号)の陵は後月輪東北陵といい、孝明天皇陵とおそらく同じ高さの、かつやや北方に離れたところにある(いずれも直視はできない。門付近にある案内地図による)。
 さらに追記すれば、宮内庁管理の「御陵」・「陵墓」扱いがなされているかは疑わしく、そうではないとむしろ思えるのだが、泉涌寺付近には、以下の人物の墓地・墓碑もある。
 「朝彦親王墓」、「淑子内親王墓」、「守脩親王墓」と刻まれている墓碑が、「大門」の南、塔頭の雲龍院の西下にある。その西側に、「賀陽宮・久邇宮墓地」と地図にも出ている墓地の区画がある。ネット上に、7名の皇族名が書かれている。先の「朝彦親王」というのは、久邇宮朝彦親王(香淳皇后の父方の祖父、現上皇の曾祖父)のことだろう。
  このように天皇、皇室の御陵または墓所に泉涌寺は大きな関係があった(・ある)と見られる。
 このことは例えば、つぎのことでも示されているだろう。葬礼等々は、塔頭を含む泉涌寺全山(泉山、洛東泉山)が取り組んだ大仕事?だったのだろう。
 第一に、宗教法人としての関係はよく分からないが(たぶん別法人なのだろう)、泉涌寺に一番近いすぐ北の塔頭の来迎寺は、「禁裡御菩提所別当」だったと自称しているようで、その旨の「印」が現在でもある。
 第二に、泉涌寺からかなり離れた、つまり「総門」には近い塔頭寺院に法音院(ほうおんいん)という仏閣がある(真言宗泉涌寺派)。ここの現在の本堂(不空羂索観音が本尊)は、英照皇太后(孝明天皇妃)の葬儀の際に用いられた「仮屋」を移したものだとされている。なお、英照皇太后は明治天皇の実母ではない。
  泉涌寺関連をまだ続ける。
 神仏習合の長い時代の歴史や天皇・皇室と仏教との関係を日本会議は、あるいは日本会議派諸氏はどう考え、理解し、または感じているのだろうとの関心で書いている。
 こんなことは、彼らにはどうでもよいことかもしれない。「現在の運動」を維持し、拡大するためには、歴史の真実など簡単に無視する。日本共産党もそうだが、政治運動団体というのは、そういうものだ。
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 月輪陵の最後の門と区画入口の告知板。
 
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 後月輪東山陵等への参道(泉涌寺への中間入口の北)と後月輪東山陵=孝明天皇陵の門(一般私人はここまでしか来れない。先日6/12、両陛下がこの石段を上がられるのが数瞬間だけ放映された)。
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1962/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史04。

 「保守」と「右翼」はきちんと区別しておいた方がよい。
 欧米の概念用法に従う必要はないとしても、偏頗なまたは単純な<愛国主義>または<民族主義>の政治運動は決して「保守」ではなく、欧米では「右翼」または「極右」と称されると見られる。
 これまた日本独自のことを欧米に比較して単純に比較して言うことはできないとしても、「君主」が存在する国家で、それを<戴き>、その永続を願うことは<保守>派だとは決して言えないと思われる。むろん、別の趣旨・意味または論脈で「保守」(的)という語は用いられている。
  産経新聞社の要職にあるのかもしれない桑原聡は、月刊正論(同)の編集代表時代に、こう書いた。2013年12月号末尾。
 ①「保守のみなさん、…、内ゲバのような貶し合いは左翼にまかせ、おおらかに共闘していきましょうよ」。
 ②「自信をもって、…天皇陛下を戴くわが国の在りようを何よりも尊いと感じ、これを守り続けていきたいという気持ちにブレはない」
 この当時は上の①に反発を感じたが、振り返ると、上の②で桑原聡が表現する「天皇陛下を戴くわが国の在りようを何よりも尊いと感じ、これを守り続けていきたい」という考えまたは気分が、この人物が理解する<保守>なのだろう。
 これは、「保守」派または「保守主義」か。
 「天皇陛下を戴くわが国の在りよう」というのは、いったいいつの時代のことを想定しているのか。「神武」天皇以来、「わが国の在りよう」は同一または同質だとでも理解しているのであるとすると、恐ろしい。
 ひょっとすれば、明治維新以降、明治天皇の代以降のみが、桑原聡にとっての「保守」すべき「日本」なのではないか。明治維新以降の、とりわけ1945年での断裂と連続について議論すべきところは多々あることは別としても。
 櫻井よしこは、「これからの保守に求められること」と題する小文で、つぎのように書いた。月刊正論2017年3月号84-85頁。一文ごとに改行。
 「五箇条の御誓文と十七条の憲法には重なる部分があります。
 この二つは驚く程普遍的な価値観によって支えられています。
 それが日本の日本たる基本であることを認識していることが、保守の基本ではないでしょうか。」
 これこそが櫻井よしこの「保守」宣言であり、「保守」理解なのだが、「日本の日本たる基本」を示す「それ」が何か不分明であるものの、それはどうやら「五箇条の御誓文と十七条の憲法」が示す「普遍的な価値観」らしい。
 やれやれ、何の専門家でもない櫻井よしこがこうして上の二つを結びつけて、なるほどと感心するのは、江崎道朗等々の<日本会議>の熱心な会員くらいではないか。
 前天皇(上皇陛下)の譲位問題をめぐって、現憲法等の諸条項の文言すら知らないままで上の問題を論じ、<政教分離>条項も知らないままで<祭祀>の憲法上の位置を高めよとか書いていた、「あほ」の一人である櫻井よしこの「歴史認識」など、誰が信頼できるだろう。
 この人物は安倍晋三戦後70年談話を田久保忠衛と一緒にいったん称賛し、中西輝政らの強い批判があることを知るや、「歴史認識」として問題はあるかもしれないが、「政治的文書」として支持すると(雑誌文をまとめた翌年の書物の追加注記で)、のうのうと言い放った人物だ。
 この櫻井よしこによるとどうやら、聖徳太子の時代(いや、正確にはこの人物らしき者による文章)といちおうの権力交替後に発せられた(<倒幕の密勅>の時点でスローガンとして表現されていない)明治新政権の理念(らしき)文書には、一貫性・連続性あるいは同質性があるらしい。
 日本共産党が種々主張しているのと同じで、<何とでも言える>。
 江崎道朗著のおかげでこの聖徳太子・「十七条の憲法」問題にはずっと関心をもっているので、いずれ何か書くだろう。
 いずれにしても、櫻井よしこにおいても桑原聡と共通しているのは、どうやら<明治期以降の日本>の歴史的伝統こそが(それは神武天皇・聖徳太子以降連続しているのかもしれないが)きわめて高く評価されている、ということだろう。
  菅義偉官房長官は、将来の皇位継承問題について、「古来例外なく」男系男子で継承されてきたことを「重く」受け止めつつ検討したい、とか発言していたようだ。
 ここでいう「古来」とは、いったい、いつ以来のことか。
 秋月瑛二によると奈良時代後半以降、最年長で就位したらしい光仁天皇以降のことで、それ以前は少なくとも、含まれない。
 だが、神武天皇以来、と明言する者もいるようだし、櫻井よしこもまた、2600数十年とか、120数代の、とか明記していた。
 秋月は元号という制度に反対していないし、また「建国記念の日」の設定にも反対しなかった。後者についていうと、「神武」天皇が旧暦1月1日に就位したので新暦ではなどという「話」はウソであるに決まっている。
 それでもあえて「建国」を話題にしたいならば「物語」として、<そういうことにしておく>ということに殊更に反対しようとは思わないだけだ。
 厳密にいえば、現在日本の成立・「独立」はサンフランシスコ講和条約の発効日である4月28日ではないか、とも考えられる。これに立ち入らない。
 すでに記したように、通説的な理解に従うとすると、少なくとも孝謙(・称徳)天皇の存在自体が、男系男子「一系」論と矛盾している。
 しばしば奈良時代等の「女性」天皇は男子・男系につなぐための「つなぎ」・「中つぎ」だと説明されるが(とくに男系男子論者によって)、この主張は少なくとも称徳(・孝謙)天皇には当てはまらない。持統天皇にも当てはまらないだろう。江戸時代の明正天皇(女性、17世紀)には当てはまるとしても。
 元に戻ると、「神武」天皇に当たる現在の皇室の始祖はいたのだろうが、系図的に明確なものではなく、あくまで<日本書紀によると>という条件を付けなければならない。
 神武天皇陵は明治維新以降にいくつかの候補の中から決定され、その近くに「橿原神宮」が明治期に建立された。平安神宮は明治憲法下で平安京遷都1100年を記念して設立された。明治神宮は当然ながら大正時代のもの。
 皇室ゆかりの平安期以前からの、などというものでは全くない。これらは、少し立ち入ってみれば<常識>の範疇だろう。こうした明治期以降のものにだけ日本の「伝統」を感じてしまうのは、性急すぎだし、誤っている。
 余計なことをまた書いたが、欠史八代につき神武天皇から父親-男の子という直系継承の連続を語る日本書紀をそのまま「信じる」ことができるわけがない。この点で、在位(・生存)期間は捏造(作為)だろうが「代数」に限っては正確な記憶があったのではないかとする安本美典説は、この代数論は安本説にとって重要だが、少数説なのだろうか。
 ある意味では、日本書紀(・古事記)をそのまま、または原則として「信じる」、「信じようとする」のが日本会議等の<天皇崇敬派>かもしれない。
 しかし、日本書紀(・古事記)等々の古文献の信憑性の範囲や程度は専門家・研究者に任せるべきで、「右」も「左」もだが、政治的に全肯定または全否定することで歴史を歪曲してはならない。政治目的・運動目的のために、日本の歴史を「利用」すべきではないだろう。
 神武天皇以来のとか、皇統2670年、125-6代とかいうのは、全て「ウソ」だ。たんなる「お話」にすぎない。
 櫻井よしこは平気で代数を明記していたが、その数字自体が明治期になった確定されたもので、疑わしかった大友皇子(天智天皇の子)は一代(=弘文天皇)とされ、神功皇后は天皇ではなかったとされ、また南朝ではなく北朝が<正嫡>の皇統だとされた。
 上の論点のいずれについて争っても、代数は違ってくるのであって、「信じれば正しい」というものではない。
 なお、日本会議等は<天皇崇敬派>だというのは、彼らのいう「観念」としての天皇や天皇の歴史についての「崇敬」であって、現実に前天皇(上皇陛下)や今上陛下(・雅子皇后)についてはとても「崇敬」者たちとは言い難い(少なくともかつてそうだった)ことはまた再び記録しておきたい。
  やれやれという気がしたのは、西尾幹二が、こう書いていたことだ。同・ウェブサイトによる。産経新聞2019年3月1日付「正論」欄。
 つぎはまだマシかもしれない。平安時代後期以降の視野を限るとすれば、という条件をつけてだが。
 「皇室は何度も言うが精神的権威であって、政治的権力ではない。昔から…武士の誇示する政治力や軍事力を自ずと超えていた。」
 まだマシだが、しかし、最近に、鎌倉時代には「東」の武士権力と「西」の天皇・公家権力が土地の領主支配としても並列していた、という文献を読んだ(あるいは、一瞥した)。
 ともあれ、つぎはマズいだろう。
 「125代続いた天皇家の血統というものが世界の王家の中で類例を見ないものであり、…」。
 明治期の正嫡論争等を知っているはずの西尾幹二は産経新聞「正論」欄に政治的に媚びているのではないだろうか。善解すれば他国と比べてのレトリックかもしれないし、「125代続いたとされる」が編集者にによって「続いた」との断定文に事実上一方的に変えられた、ということも、前例からにするとありうるのではあるが。
 日本は神の国です、と言うのと、日本は神の国と言われています、では、まるで意味が異なる。
 八幡和郎は、つぎの叙述に関するかぎりで、秋月瑛二よりも日本書記等への信頼度が高く、皇室あるいは天皇制度に対する信頼度・崇敬度も、私よりもやはり高いようだ。
 八幡和郎・最終解答/日本古代史(PHP文庫、2015年)。
 「『日本書記』『古事記』は、系図や出来事がそのままでも、神話を排除し、寿命を一般的な長さにするなど『合理的解釈』すれば外国文献や考古学的成果と矛盾はないのです。」
 この文章は「神話を排除し、寿命を一般的な長さにするなど『合理的解釈』」をするのでよい、とするが、いちおうは説得力ある、スジをたどれる叙述ならば全て「史実」と理解してしまうという懸念・危険があるように思われる。この人によると、「継体」天皇即位期に「対立」はなかった。
 そもそもは、天武天皇(・持統天皇)とその後継者期に編纂・作成されて何らかの政治的(とくに自分たちを正当化する)目的・意図をもって記述されていることを見逃してしまうおそれがあるのではないか。
 具体的な内容を読んではいない。但し、別の主題だが明治維新や明治時代への八幡の評価は、秋月瑛二よりも高いようだ。そのこともあってたぶん、月刊正論(産経)に文章を書いたりしているのだろう。
  奈良時代の女性天皇について、持統天皇を「祖」とする<女系天皇>といったことを元々は書きたかったのだが、つぎの文献に気づいた(新たに買い求めたのではなく広大な書庫?で見つけた)ので、これらをもう少し読んでからにしよう。
 遠山美都男・古代の皇位継承(吉川弘文館、2007)。
 大塚ひかり・女系図でみる驚きの日本史(新潮新書、2017年)。
 追記/前回に仲哀天皇-応神天皇の継承の否定説として井沢元彦の名を挙げたが、安本美典も、その結論および実際の父親の特定も同じ説のようだ。
 こんなことに、櫻井よしこ、江崎道朗、椛島有三らは興味がないだろう。

1960/新元号の決定・公布・施行と日本会議。

 一 <平成31年4月1日月曜日/官報号外特9号>により、つぎのとおり、元号政令が公布された。縦書き漢数字は横書き洋数字に改めた。
 **
 御名 御璽
 平成31年4月1日
  内閣総理大臣 安倍晋三
政令第143号
  元号を定める政令
  内閣は、元号法(昭和54年法律第143号)第一項の規定に基づき、この政令を制定する。
  元号を令和に改める。
  附則
  この政令は、天皇の退位等に関する皇室典範特例法(平成29年法律第63号)の施行の日(平成31年4月30日)の翌日から施行する。
  内閣総理大臣 安倍晋三
 **
 すでにこの欄に記したように、政令一般もそうだし、元号を定める政令もそうだが、政令を制定するということは、内容の①決定、②公布、③施行(発効)という三つの段階を経る。
 今次の元号決定(・変更)は閣僚懇談会のあとの閣議によって、元号法が定める決定権である内閣によって行われた(上に「内閣総理大臣・安倍晋三」とあるのは決定権者を示しているのではなく、署名をして合議体の中の責任大臣を特定しているのだと思われる)。
 それだけでは政令としての法的効果を発生させず、法律と同様に、一般に対して、国民一般に、周知する、という公示・公布が必要だ。
 これは憲法上の国事行為の一つとして、天皇が行うことと、現憲法上定められている。
 上の最初に「御名 御璽」とあるのは(法律等の場合も同じだが)今上天皇が直筆で署名し、天皇の「公印」が捺されていることを示す。
 官報にはそのままの写真を掲載しはしないので、「御名 御璽」という記載の仕方になる。
 この公布=官報への掲載と官報販売所への送付によって初めて元号政令は正式に公にされることになる。
 菅義偉官房長官が「令和」と筆書した額を掲げつつメディアの前で新元号を発表したのは、法的には厳密には意味がない。内閣が決定した内容について(いずれすみやかに公布される前に)情報を提供する行為(事実行為の一つ)にすぎない。
 4月1日の閣議決定後に官邸?を出た自動車が皇居に向かっておそらくは今上天皇と接する?までは官房長官「発表」がなかったのは、どのメディアもほとんど正確には報じていなかったが、新元号政令の「公布」に必要な「御名 御璽」が記され、捺されるのを待っていたためではないか、と思われる。たんに新元号が「令和」に決まったことを伝えるためではない(まして今上陛下の意見・意向を拝するためではない)と思われる。
 何らかの資料・情報で確認しているのではないが、「公布」が4月1日発行の官報によっていることかにすると、そのように確実に推察される。
 今上天皇による、「御名 御璽」の署名・押印のあとすみやかに=4月1日のうちに(独立行政法人)国立印刷局による印刷と頒布がなされたのだろう。
 重要なもう一つは、「公布」があった始めて当該政令は法的効果をもつが、その効果・効力の発生は「公布」時であるとは限らない、ということだ。
 公布されたその日が施行日だという法令もあるが、何時何分とかが問題になりうるので、近い将来の施行日まで定めていることの方が多いのではないだろうか。
 そして、上のとおり、今次の元号政令は、「…(平成31年4月30日)の翌日から」施行される=発効する。
 この「翌日から」は、「5月1日から」で、正確には、5月1日の午前0時からの意味だと思われる。
 二 すでに紹介し批判的コメントを加えた(この欄2月3日、№1915)ように、「日本会議」という最も簡潔な名前で発している日本会議の新元号決定等に関する「見解」は奇妙だ。
 ①「新元号の制定については、新天皇がご即位後決定し公布するというのが、本来の在り方である」。
 ②「新元号は新天皇のご即位後に閣議決定し公表すると共に、『国民生活への支障を回避』するために『施行』時期を遅らせるという方法もあり得た」。
 ③「今回の元号制定方式が、将来の先例とならないよう求める」。
 これらのうち、①と③は、現在の元号法(法律)の定めに反対していることを示す。
 そうだとすると、これをどう改正するかを、日本会議は提言すべきだ。
 たんなる精神・観念論ではなく、法制度の具体的内容を論じることができなければならない。
 不思議で奇妙でもあるのは、とくに上の②だ。
 第一に、新天皇即位後に「新元号を決定し公表」すると述べつつ、正規の「公布」という語が使われていない。官房長官による「公表」と官報登載という正規の「公布」は、意味も時機も同じではない。
 加えて、この日本会議の考え方に従うと、おそらく、5月1日午前0時からの新天皇の就位と新元号の決定・公布までの間にタイム・ラグが必ず生じ、「平成」ではなくなったがまだ新元号が施行されない、または5月1日になってからもしばらくは「平成」のままで新元号が施行されない、という時間がかりに数時間または十数時間であっても生じる、と考えられる。
 前者のように「空白」を生じさせてはダメだし、後者によれば一天皇=一元号を崩してしまう。
 日本会議は、いったい何を考えているのか。
 第二に、「『国民生活への支障を回避』するために『施行』時期を遅らせる」というのは、種々に理解できるところもあり、精確な意味は不明だ。
 そもそも日本会議は、たんに「日本会議」名で発表されている文書は、『国民生活への支障を回避』という場合の「国民生活への支障」を、IT分野の情報プログラムの問題も含めて、どのように理解しているのだろうか。
 あるいはそもそも「施行」という概念を厳密に分かったうえで使っているのだろうか。
 遅れて「施行」されるまでは、新天皇のもとでの元号はまだないのか、それとも元号は「平成」のままなのか??
 要するに、現実の社会に関する知見、法制度に関する知見等々、を日本会議および同会議諸氏はいかほどに有しているのだろう。きちんとした顧問・専門家不在で、<あほ>が集まっているのではないか。

1957/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史03。

  「保守」と「右翼」はきちんと区別しておいた方がよい。
 論点をほとんど一つに絞ったような政治的精神運動団体は、偏頗なまたは単純な<愛国主義>または<民族主義>だとは言えても、「保守」だとは本来は称し難いように思われる。
 「リベラル」も至極あいまいな概念で、この欄ではできるだけ使用を避けている。
 しかし、これまで頻繁に使ってきた「保守」という概念・言葉の意味やそれがもつ射程範囲もまた、この欄でも何度か触れてはきているのだが、基本的な再検討が必要だ。
  曖昧なままで「保守」という語を使っておくと、広い意味での今日の日本の「保守」派を分ける基本的な対立点の一つは、<天皇>制度につき、とりわけ将来または近未来のそれについて、男系に限るべきとするか、少なくとも何らかの時期を想定して<女性かつ女系>天皇も容認すべきだとするか、にあるようだ。
 言うまでもなく日本会議派は前者の立場で、日本会議系または神道政治連盟系を「堅い」読者層とする産経新聞社の主流派および月刊雑誌・正論の基調もまた、前者だと推察される。これらと一線を画してはいるが、この論点に限っては、西尾幹二も前者に入る。
 秋月瑛二もまた、かつて一時期、この立場を支持して、<女系天皇>容認論者を、例えば小林よしのりの議論を批判したこともある。
 その場合の論拠はほとんどもっぱら、日本の<歴史的伝統>であって、「女性」天皇はいても<女系>天皇を日本の歴史は容認したことがない、ということにあった。
 前者の主張の論拠もまた、ここにあったし、またあるものと思われる。
 つまり、せっかくの<歴史的伝統>をあえて崩す必要はないのではないか、という素朴かもしれない発想によっていた。
 もちろん、天照大御神は「女性」だった(ヒミコも女性だった)などということは、<女系>天皇容認論のまともな論拠になるはずはない。、
しかし、もともと日本史の専門家ではないことにもよるのだったが、そもそも日本の歴史には「女性」天皇はいても、<女系>天皇を容認したことはない、かつまた原則的にでも<男系男子>が存在する場合には当該男子が継承してきた、という根本的な論拠については再検討が必要かと思われる。そして、日本会議派等の<男系>限定論者の「歴史認識」は本当に正しいのだろうか、という疑問をもつに至った。
 というのは、基本的な問題として、ある天皇が<男系>か<女系>かは簡単には決定できないのであって、一種の<価値判断>を前提にしている。あるいは、明治維新以降、つまり明治期以降に一般的になった「固定観念」をなお維持している、と考えることのできる根拠があるようだ。
  結論的に言って、<男系>限定と日本の天皇の歴史を認識することができるのは、おそらく光仁天皇以降、つまりはほとんど平安期以降であって、それまでは<男系>に限定されていた、あるいはそういう観念・意識が定着していたとは、全く言えないだろう。
 そもそも、神武天皇以降一貫して<男系>に限られてきた、とするのはたぶん日本書記等による、おそらくは後世になって、平安期以降に造られた「物語」であって、真実はそうではないだろうと思われる。
 こんなことは一部の論者あるいは日本史の専門家から見れば当然のことなのかもしれない。そうだとすると、日本会議派等の<男系>天皇限定論者は、日本の歴史について、<ウソ>をついていることになる。
 そもそも論から言うと、神武天皇以来脈々と「天皇」家の血統は続いてきている、ということ自体、神話・伝承あるいは、櫻井よしこらが好む「物語」にすぎない可能性が十分にある。<万世一系>は歴史認識としては(当然に「万」世ほどに続いていないことは別論として)誤りだろう。
 日本書記の描く古代史とは違う「王朝交替」論があることはよく知られている。そのうちの最初の方の継体天皇について<男系>とするのは、やはり不自然かと思われる。子細には立ち入らない。
 比較的最近につぎの新書を一読していて、須原祥二「第二講・倭の大王と地方豪族」があっさりとつぎのように記述しているが興味深く感じた。
 佐藤信編・古代史講義-邪馬台国から平安時代まで(ちくま新書、2018)。
 「そもそもこの時期までに、盟主の地位が特定一族の男系で継承されていたかどうかわからないが、仮にこの時点で盟主権の移動を想定するなら、例えば『入り婿』のような形での政権中枢内部における権力委譲や権力闘争の問題として、まずは検討した方がいいいだろう」。
のちに言う「継体」天皇が「入り婿」だとすると、むろんそれ以降の天皇の血統は「女系」天皇になる。
 この辺りについてはもっと前にヒミコ・邪馬台国問題にも触れたくなるのだが、割愛する。皇祖神が天照大神であって、神武天皇がその嫡流だとすると、これもまた「天皇」家の歴史と無関係ではない。
 応神天皇(胎中天皇)の母親は神功皇后とされるが、父親が仲哀天皇ではないとすると、<男系>継承は途切れている(井沢元彦説で、「推論」の部類だが、トンデモ説だとは思えない)。
  急いで書いてしまうと、おそらく奈良時代の孝謙天皇(=称徳天皇)の時期までは少なくとも、<男系>での「万世一系」による天皇たる地位の継承という意識・観念は成立していなかった、と考えられる(「天皇」という呼称自体、この時期による)。
 持統、元明、元正という各「女性」天皇の即位の時点で、<男系>皇族の中に男子も存在したはずだ。なぜこれらの「女性」天皇が成立し得たかは、後世の<男系・男子>による継承という原理・原則からはおそらく説明できないだろう。
 天武-草壁皇子-文武-聖武という「男系」の維持との関係でのみこれらの「女性」天皇即位を位置づけるのは、<後づけ>的な、天武-草壁皇子-聖武という<男系>中心史観とでも言うべきではないだろうか。
 また、孝謙(=称徳)天皇の発生と称徳天皇による道鏡への譲位の意向-宇佐神宮の「ご神託」という「話」は、男系か女系かという問題以前に、皇族の中から後継「天皇」を選ぶという原理・原則自体が、完全には定着していなかったことを示しているようにも見える。
 なお、数年前だろう、読売テレビ系の某番組で、竹田恒泰が<女系の例があるなら挙げてみよ>と挑発したのに対して、高森明勅が「元明天皇」と言いかけて口ごもっていた。
 しかし、竹田恒泰に反論するとすれば、かりに<女系>天皇の例がなかったとしても、その反対に<全てが男系だった>とも、厳密には言えないのではなかろうか。つまり、<男系>優先原則を徹底すれば、上記の4名の「女性」天皇もまた成立し得なかったのではないだろうか。
 もう一度換言すると、これら「女性」天皇の即位(重祚を含めると5回)の時点で、なぜ「男性」皇族(の一人)による継承という主張が有力になされなかったのか、という疑問がある(長屋王が好例。草壁皇子との関係では大津皇子も視野に入れるべきだ)。
  ところで、孝謙(・称徳)天皇は聖武天皇と光明皇后(藤原光明子)の間の娘だとされるが、聖武天皇には別の女性(県犬養広刀自)との間に別の娘もいた、とされる。
 井上内親王といい、この女性が光仁天皇との間にもうけた一人が、他戸親王という男性だ。井上内親王は少なくとも一時期は皇后で、その子他戸親王は、聖武天皇の実孫、光仁天皇の実子にあたる男子皇族。
 だが、この二人は皇后の地位および皇太子の地位を廃され、光仁天皇と高野新笠との間に生まれ、山部親王とのちに称された子どもが皇位を継承する(=桓武天皇)。
 「01」で触れた神泉苑(京都市中京区)での<最初の御霊会>の祭神?ではないようだが(神泉苑の小冊子による)、御霊神社(同上京区、相国寺の北方)のウェブサイトによると、「御霊」とされる「八所御霊」のうち、井上内親王・他戸親王は、のちの桓武天皇の弟の早良親王(=「崇道天皇」)に次ぐ、第二、第三の「怨霊」とされる。
 立ち入らないが、この時期、皇位継承のルールはまだ確固たるものになっておらず、何らかの理屈・理念によってではなく、ときどきの政治諸力や個人的意向によって(光仁、桓武以前は女性も含めて)決定されていた可能性が高いのではないか、という感想が生じる。
 平安初期からするとほぼ1300年。櫻井よしこが簡単に言う「2600」余年にわたって連綿と、というのは<大ウソ>で、半分にすぎない。
 それでも長いとは言える。天皇という地位・制度については別途考察する必要があるが、日本では「(世俗)権力」と「(聖的)権威」が分かれて…、などと簡単または単純に説明することはできないものと思われる。「権力」と「権威」という語・観念のそれぞれの意味を明らかにすることから始めなければならない。
 以上、シロウトの文章だが、日本会議派の櫻井よしこや江崎道朗あたりと違って、まだ冷静に実態に接近するという気持ちだけはあるのではないか。
 なお、江崎道朗はかつて、<日本会議専任研究員>という肩書きで文章を書いていたこともあった。

1938/日本の「保守」・西尾幹二の2008年頃の主張。

 西尾幹二・皇太子さまへの御忠言(ワック、2008年)はきっとアホらしくて所持していない。
 万が一入手していたとしても(そしてどこか隅にあるとしても)、捲って読んだことはない。
 今のところ、特段の突発事がないかぎり、本年2019年5月1日に現在の皇太子が天皇に、現皇太子妃・雅子様が皇后になられる。
 この時期だからこそ今のうちに、<保守>派の少なくとも一部がかつて皇太子や同妃についてどう発言していたかをあらためて記録しておいてよいだろう。
 西尾幹二はどちらかというと肯定的にこの欄で言及することが多かったが(これもこの一年以上はやめている)、その天皇・皇室論のうちの現皇太子・同妃<批判>だけは賛同できなかった。
 冒頭に書いたとおり単行本は読んでいないが、ときどきの関係論考は読んだことがあって、この欄でも明確に批判または疑問視してきた。
 あらためて彼の文書を読み直す余裕はないので、自らのこの欄へのかつての記載から振り返ってみる。
一例になるだろうが、①2008/11/08付の、<0615/西尾幹二の月刊諸君!12月号論稿を読む。やはりどこかおかしい>によると、西尾幹二は月刊諸君!(文藝春秋)2008年12月号にこう書いた。
 「私が危惧するのは、いまのような状態をつづければ、あと五十年を経ずして、皇室はなくなるのではないかということです。雅子妃には、宮中祭祀をなさるご意思がまったくないように見受ける。というか、明確に拒否されて、すでに五年がたっている。…皇太子殿下はなすすべもなく見守っておられるばかりなのではないか。これはだれかがお諫めしなければならない。…、言論人がやらなきゃいけない」。
 この当時に秋月がすでに指摘しているが、「雅子妃には、宮中祭祀をなさるご意思がまったくないように見受ける」との指摘はおかしい。
 「宮中祭祀」なるものがいつの頃からかあったとして、皇太子も、ましてや皇太子妃も、その<主体>ではあり得ない。
 また、上の「なさる」が参加する、関与する、という趣旨だったとしても、「宮中祭祀」への参加・関与が皇太子妃の「公務」とはどこにも定められていない。
 ②2008/06/13付の本欄<0548/取り返しのつかない、一生の蹉跌、ではないか-中西輝政・八木秀次・西尾幹二>によると、西尾幹二は月刊WiLL2008年5月号(ワック)につぎの旨を書いた。
 1.小和田家が皇太子妃を「引き取るのが筋」だ。(=おそらく皇太子との「離婚」が前提。)   
2.「秋篠宮への皇統の移動」との提言も「納得がいく」。(=つまりは現皇太子は、次期天皇としてふさわしくないという見解の表明だ)。
 こうなると、論及する気もなくなる<アホらしい>ものだった。
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 今回はこの程度にするが、この頃、<保守派>の少なくとも一部は何を血迷っていたのだろうか。
 上の②の表題にも出てくるように、西尾幹二、中西輝政、八木秀次は、<一致団結して>ではないが、それぞれに皇太子妃・雅子様を批判し、現皇太子の天皇就位資格を疑問視していたのだ。
 八木秀次も入っていることからすると、日本会議は(むろん正規の決定などしていないにせよ)このような論調に反対だった、八木のような主張を阻止しようとした、とは言い難い。容認していたのだろうと推察される。
 中西輝政、八木秀次の主張・発言内容には今回は触れないが、「平成」が終わろうとしている今、これら三人は、かつてのそれぞれの自分の主張・発言の内容の<適否>について、現時点での何らかの「総括」が必要なのではないか。
 なお、重視していなかったので当時はあまり取り上げなかったが、「アホ」の一人の加地伸行も当時に西尾幹二の主張を支持する論調だった。そして、のちに2016年になって明確に、皇太子・皇太子妃に対する<罵詈雑言>を吐く。その際の対談相手は、西尾幹二だ。
 その内容を分かり易く?列記したのが、以下だった。
 2017/07/16付の、<1650/加地伸行・妄言録-月刊WiLL2016年6月号>。
この上の最後の秋月の文章は以下。
 「この加地伸行とは、いったい何が専門なのか。素人が、アホなことを発言すると、ますます<保守はアホ>・<やはりアホ>と思われる。日本の<左翼>を喜ばせるだけだ」。

1915/日本会議1月17日見解への疑問-新元号の決定・公表・公布・施行。

 日本会議機関誌『日本の息吹』本年2月号末尾(裏表紙の反対頁)に、同会見解「『新元号の制定に関する政府の方針』への見解」が掲載されている。
 まず、これは安倍首相による年頭記者会見のうちの新元号に関する部分につき、「遺憾の意を表明せざるを得ない」として、それ以外の部分の表現は穏便さを装いつつも、実質的には厳しく批判するものだ。
 にもかかわらず、上掲誌の同号に目立って特集が組まれ(建国記念日と「御即位三十年奉祝感謝のの集い」)、いくつかの者の文章があるにもかかわらず、上の論点に関するものは一つもない。会長・田久保忠衛に対するインタビュー記事も同様。
 「日本会議」とだけ名うつ「見解」であるからにはしかるべき機関決定手続を履践しているのだろうが、それにしては、最末の一頁とそれ以外の印象が違いすぎる。
 以上は、まだ表面的・形式的な印象であり、問題点だ。
 日本会議「見解」(以下、<見解>)の問題は、その内容・実質にある。
 かねて感じてきたことだが、日本会議の事務総局やら役員または幹事の中には、冷静かつ論理的に緻密に皇室・天皇に関する「法」的議論をすることのできる、同じことだが「法」的見解を作ることのできる人員が全くいないのだろう。
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 一 論点の前提の一つの整理。
 元号が「改め」られるとして、新元号については、時系列的に、つぎの4つの時点が経過していく。
 ①内閣による決定
 ②公表。これは③ではない、事実上、メディア等の報道等によって新元号が明からになること、又はメディア等が一般に明らかにすることをいう。本来は③も②の一部だろうが、分けておく必要があるだろう。
 ③公布。憲法上の国事行為としての正規の「公布」。今上陛下が在位中であれば現天皇が、皇位継承がすでになされていれば新天皇が行うこととなる。
 ④施行。公布されたとおりに新元号が法的にも正規に使用され始めるには、この「施行」が必要だ。<発効>と称する場合もある。
 日本の「国」等の年表示には日本の「元号」を用いることとされていめる場合が「法的にも」多いので、いつの時点から「発効」し、国・地方自治体等の使用義務が発生するかは重要な問題だ。

二 日本会議<見解>は上のどの点に関して、どのようなものか。
 1.新元号決定権限が「内閣」にあることは、<見解>も否定していないようにも解される。
 しかし、<見解>の基本前提は、引用すると、「新元号の制定については、新天皇がご即位後決定し公布するというのが、本来の在り方である」というものだ。のちの文をも読んで善解したとしても、<「決定」は内閣がしてもよいが、その決定は新天皇ご即位後に行うべきだ>、という主張をこの日本会議は最低でも、又は少なくともしているものと理解することができる。
 2.そうなると、安倍内閣方針ではおそらく、上の④のみが新天皇の即位と同一時点になるのに対して、<見解>は、①~④のすべてが新天皇即位後になされるべきと主張していることになるだろう。
 これは政府方針との間の重大な対立であって、今頃に公にするのは遅すぎるという感が生じる。しかし、遅い、早いは、ここで書きたい当面の問題ではない。
 3.政府方針の背景に「国民生活に支障が生じることがないように」との配慮があるとされている。これに対して、<見解>は、「本来の在り方」と「国民生活への支障」発生の抑止の二つはつねに矛盾するのではないとして、つぎを提案していると解される。
 この部分をいちおう全文引用すると、以下。
 「新元号は新天皇のご即位後に閣議決定し公表すると共に、『国民生活への支障を回避』するために『施行』時期を遅らせるという方法もあり得た。
 4.上に最初に用いた①~④を用いて理解すると、<見解>はおそらく少なくとも①~③は今年5月1日になされるもの(なされるべきもの)と主張しているのだろう。
 しかし、④の「時期を遅らせる方法もあり得た」とはいったい、いかなる意味で、いかほどの「遅らせた」時期を想定しているのかは、さっぱり分からない。
 <見解>によると、それは「国民生活への支障を回避」するために必要な期間であり、6月初頭、8月初頭、あるいは10月初頭であってよいのかもしれない。

 三 日本会議<見解>の奇妙さ・異様さ。
 かりに上の4で記したような<見解>理解が誤ってはいないとすると、日本会議はじつに不思議で矛盾した、したがって奇妙奇天烈な「見解」を出していることになろう。
 つまり、新天皇即位後の①~③よりも④新元号の「施行」が<遅れてよい>のだとすると、新天皇就位後、その新元号の施行時までは正規には「平成」がなお数カ月ほどは続くことになる。
 この「遅らせ」を日本会議は許容することで上記の二つの趣旨は矛盾しないようになる、と主張している、と解される。だが、それではそもそも、一天皇=一元号で皇位継承時に元号を「改める」ことにはならないではないか。
 ひょっとすると<見解>は5月1日の早い時期に①~③を全て実施したあと、5月1日-2日の深夜にでも「遅れて」施行する(発効させる)とでも想定しているのだろうか。
 そもそも<見解>が理解する「国民生活への支障を回避」とは何なのだろうか。1日程度「遅らせば」回避できるようなものなのか。それだと、①~④の全てを新天皇就位後に行うこととおそらく何ら、少なくともほとんど(98パーセントは)変わらないだろう。
 くり返すが、では<もっと遅らせてもよい>となると、一天皇=一元号で皇位継承時に元号を「改める」ことにはならない。新天皇は「平成」時代と新元号の二つにまたがって在位することになるだろう。こんなことを日本会議は本当に考えているのか。

 四 そもそも日本会議とは何か。 
 天皇に元号決定権があると正面から主張しているわけでもないことが、すでに胡散臭い。
 「本来のあり方」と現行元号法が矛盾しているならば、そのこと自体を今回のような「譲位」が予想され得た時点(つまり皇室典範付則改正・特別法制定のとき)以降に明確にかつ激しく主張しておくべきだった。
 「日本」、天皇・皇室制度の「本来のあり方」等々とこの人たちが語るわりには、本当に真剣には法的・制度的問題を考えていないし、運動もしてきていないのが、この日本会議だと私は感じてきている。ほぼスローガンだけ、精神論だけ。
 あるいは、決定・公布・施行の各語がもつ意味を、正確には理解していないままなのかもしれない。これも、信じ難いことだが。
 もっともそうした力不足があって、「今回の元号制定方式が、将来の先例とならないよう求める」と書いていることからすると、いわば<今回はまぁよいが、今後は反省してね>という類の言葉の上での「存在証明」(逆アリバイ作り)で、上で紹介したような日本会議「見解」もまともに「現実」になることはないと、とっくに諦めているのだろう。
 しかし、「現実化」する可能性がほぼ全くない「提案」または叙述であっても、何がしかの論旨と論理の一貫性をもって行われるべきだろう。
 この日本会議には(その役員たちにも)、その能力はないようだ。

1910/言葉・文章と「現実」③-元号。

 成文法とは別に不文法があるとは一般論として言えるし、より具体的には、憲法(日本国憲法)よりも高次にある日本に固有の「法」があるという主張が分からなくはない。
 しかし、それは具体的に何かは明確ではない。「法」とは必ずしも、日本に固有の歴史的伝統的価値と同義ではない。歴史的伝統的価値があるとしても(それは具体的に何かも問題だが)、それは倫理、習俗、宗教、世界観・死生観等として継続し得るもので、「法」である必然性はない。
 ここで当然に「法」とは何かが問題になる。マルクスが言ったという、究極的「共産主義」社会での<国家と法の死滅>に影響を受けているわけではないが、「法」をその他の諸規範と区別するのは、国家又は人間集団が帰属する共同体を何らかの意味で「現実に」規律しようとするもので、何らかの意味での「現実化」するための装置が国家又は共同体によって用意されている、ということだろう。
 幼稚なものだが、このようにでも解しておかないと、「法」が諸々の規範と同じものになってしまうか、残る諸規範と区別することができない。
 さて、憲法(日本国憲法)よりも高次の日本に固有の「法」があるという主張はそれとしてあり得ると思うが、具体的に何かは個別に検討されなければならない。
 急に具体的な話題になるけれども、中川八洋が最近に奇妙な、または不思議な主張を天皇・皇室問題について行っていて、その小さな一つは、「天皇の大権である元号制定権に従い、新元号は新天皇にしか制定できない」(2019.01.15)、というものだ。
 この主張はある程度は<日本会議>派とも共通していて、彼らの中には、新元号の発表は新天皇の即位後に新天皇によって行われるべき、と考えるものもあるらしい(その他のいくつかの論点はあるが、立ち入らない)。
 しかし、天皇自身による元号制定・施行が日本の「歴史的伝統的」価値あるいは「法」だったとしても、それが現在までそのまま続いているかどうかは問題になる。
 元号あるいは国歌・国旗の類は最高の(とされる)成文法である憲法典の中に関係条項があってもよいと思うが、現在の日本国憲法には関連条項はない。「世襲」天皇制度を現憲法が明文で認めていることを根拠にして、従前に天皇が有していた「大権」もそのまま継続して認められるという憲法解釈が全く成り立たないとは思えないが、従来の「大権」をほとんど実質的に否認する条項は現憲法上に数多い。そして、「元号」決定権または「元号」制度自体の継続それ自体についてすら、憲法上には明文規定がない。
 そして、この問題を解決したことになっているのは、憲法上の明記ではなく、<元号法>という、憲法よりは下位の<法律>だった。
 「 元号法(昭和54年法律第43号)
 1 元号は、政令で定める。
 2 元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める。
 附則
 1 この法律は、公布の日から施行する。
 2 昭和の元号は、本則第一項の規定に基づき定められたものとする。」
 1979年(昭和54年)6月12日に公布・施行。
 これによると、元号法はさらに<政令>へと元号決定権を委ねている。
 政令とは現憲法上の「内閣」が制定するものだ(これにはいちおう明文規定がある)。
 とすると、これに従えば、元号決定権能は、内閣にある。
もちろん、これを認めず、不文法をこの法律・政令に優先させようとする議論はあり得る。
 しかし、もともとは、<元号法制化>運動は、「昭和」以降を憂慮しての、どちらかというと<保守>または<右派>が主導したものだった。そうだとすれば、元号法制化を推進した人々は、元号決定を天皇の権能とし(但し、現憲法では内閣の助言等に基づくことにはなろう)、上の第一項には断固として反対すべきだった。そのように賛成政党に対して、強力に働きかけるべきだった。
 中川八洋に責任があるとは言わないが、この元号法の制定と施行に大きな反対をしないでおいて、ほぼ40年も経ってから上の第一項と矛盾することを主張するのは奇妙なのだ。
 憲法以上の伝統的な日本の不文「法」または憲法に違反している、と1979年の時点において、元号法(という<法律>)の内容に反対する運動を激しくしておくべきだったのだ。
 しかして現在、今年の4月1日には新元号が「発表」されるらしい。
 ということは、内閣は新元号を3月31日の深夜か4日1日早くに「決定」するのだろう。前日「深夜」と書いたのは、前日の昼間の閣議で決定したのでは、翌日午前0時までにその内容(新元号)が「漏洩」する恐れがあるだろうからだ。そして、たぶんすみやかな公布ののちに施行は5月1日(午前0時)とされるのだろう。この施行によって元号は「改め」られることになる。
 こうして、(種々の運用の可能性のあることには立ち入らないが)、40年前の元号法が定めた「規範」の内容は「現実」化されようとしている。
 中川八洋は「天皇の大権である元号制定権」を剥奪した(しようとしている)のは安倍晋三だとのごとく主張しているが、そうではなくて、とっくに(「違法」・「違憲」だとは確定されていない)法律が天皇の「元号制定」大権を否定しているのだ。そして、今日までそれは、<現実>には、異論をたぶんほとんど挟まれずに推移してきた。
 中川八洋の主張は(それ以外の点も含めて)ひよっとすれば「正しい」のかもしれない。
 しかし、<言葉・文章>上の主張内容がいかに「正しい」ものであっても、あるいは最適なものであっても、それが<現実>になるとは限らない。
 また、<言葉・文章>上の主張内容がいかに正しく、いかに美しくとも、そのように<言葉・文章>を書いたり語ったりしている者が、本当に正しく美しい行動を<現実>に執るかどうかは全く分からない、という基本的論点もある。
 「言葉・文章」と「現実」の乖離は、あるいは前者による主張が後者につながるわけでは決してないことは、これまでの歴史上の(日本に限らず)、貴重な教訓でもあるだろう。
 ところで、中川八洋からかつて多くを教えられたし、その「保守」=「反共産主義」という明確な姿勢は貴重なものだ。
 しかし、最近のブログ欄の主張を読んでいると、上のほかにも、奇妙なものがある。
 例えば、退位式典が4/31で即位式典が5/1とされていることをもって「空位」が生じる、という主張もしていると解される。しかし、両者は近接した、又は継続した儀式である方が望ましいという主張は理解できるとしても、あくまで両者は「式典」なので、5/1の午前0時の一瞬間に退位(又は譲位)と即位が連続して行われる、と当然に理解することができるのではないか。こちらの方が、常識的・良識的な理解なのではないか。
 「きわめて賢い」中川八洋が、大正・明治以前の、あるいは光格天皇譲位の際以前の皇位継承の「実務」が、そのまま現在の「実務」を拘束するわけではないことは理解できるだろう。現憲法とそのもとでの法制によって「現実」は実現されていかざるを得ないことは理解できるだろう。
 この人は、現憲法「無効」論者だったのだろうか。
 日本会議派諸氏の「あほ」ぶりとはまた別だが、ひどく残念に感じざる得ない。

1650/加地伸行・妄言録-月刊WiLL2016年6月号。

 「おかしな左翼が多いからおかしな右翼も増えるので、こんな悪循環は避けたい」。
 平川祐弘「『安倍談話』と昭和の時代」月刊WiLL2016年1月号(ワック)。
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 <あほの5人組>の一人、加地伸行。月刊WiLL2016年6月号p.38~より引用。
 A「雅子妃は国民や皇室の祭祀よりもご自分のご家族に興味があるようです。公務よりも『わたくし』優先で、自分は病気なのだからそれを治すことのどこが悪い、という発想が感じられます。新しい打開案を採るべきでしょう。」p.38-39。
 *コメント-皇太子妃の「公務」とは何か。それは、どこに定められているのか。
 B「皇太子殿下は摂政におなりになって、国事行為の大半をなさればよい。ただし、皇太子はやめるということです。皇太子には現秋篠宮殿下がおなりになればよいと思います。摂政は事実上の天皇です。しかも仕事はご夫妻ではなく一人でなさるわけですから、雅子妃は病気治療に専念できる。秋篠宮殿下が皇太子になれば秋篠宮家が空くので、そこにお入りになるのがよろしいのでは。」p.39。
 *コメント-究極のアホ。この人は本当に「アホ」だろう。
 ①「皇太子殿下は摂政におなりにな」る-現皇室典範の「摂政」就任要件のいずれによるのか。
 ②「国事行為の大半をなさればよい」-国事行為をどのように<折半>するのか。そもそも「大半」とその余を区別すること自体が可能なのか。可能ならば、なぜ。
 ③ 「皇太子はやめるということです。皇太子には現秋篠宮殿下がおなりになればよい」-意味が完全に不明。摂政と皇太子位は両立しうる。なぜ、やめる? その根拠は? 皇太子とは直近の皇嗣を意味するはずだが、「皇太子には現秋篠宮殿下」となれば、次期天皇予定者は誰?
 ④「仕事はご夫妻ではなく一人でなさる」-摂政は一人で、皇太子はなぜ一人ではないのか?? 雅子妃にとって夫・皇太子が<摂政-治療専念、皇太子-治療専念不可>、何だ、これは?
 ⑤雅子妃は「秋篠宮家が空くので、そこにお入りになるのがよろしい」-意味不明。今上陛下・現皇太子のもとで秋篠宮殿下が皇太子にはなりえないが、かりになったとして「空く」とは何を妄想しているのか。「秋篠宮家」なるものがあったとして、弟宮・文仁親王と紀子妃の婚姻によるもの。埋まっていたり、ときには「空いたり」するものではない。
 C「雅子妃には皇太子妃という公人らしさがありません。ルールをわきまえているならば、あそこまで自己を突出できませんよ。」 p.41。
 D「雅子妃は外にお出ましになるのではなくて、皇居で一心に祭祀をなさっていただきたい。それが皇室の在りかたなのです。」p.42。
 *コメント-アホ。これが一人で行うものとして、皇太子妃が行う「祭祀」とは、「皇居」のどこで行う具体的にどのようなものか。天皇による「祭祀」があるとして、同席して又は近傍にいて見守ることも「祭祀」なのか。 
 E「これだけ雅子妃の公務欠席が多いと、皇室行事や祭祀に雅子妃が出席したかどうかを問われない状況にすべきでしょう。そのためには、…皇太子殿下が摂政になることです。摂政は天皇の代理としての立場だから、お一人で一所懸命なさればいい。摂政ならば、そ夫人の出欠を問う必要はまったくありません。」
 *コメント-いやはや。雅子妃にとって夫・皇太子が<摂政-「お一人で一所懸命」、皇太子-「出欠を問う必要」がある>、何だ、これは? 出欠をやたらと問題視しているのは加地伸行らだろう。なお、たしかに「国事行為」は一人でできる。しかし、<公的・象徴的行為>も(憲法・法律が要求していなくとも)「摂政」が代理する場合は、ご夫婦二人でということは、現在そうであるように、十分にありうる。
 以下、p.47とp.49にもあるが、割愛。
 この加地伸行とは、いったい何が専門なのか。素人が、アホなことを発言すると、ますます<保守はアホ>・<やはりアホ>と思われる。日本の<左翼>を喜ばせるだけだ。

1649/天皇制はなぜ存続したか②。

 「天皇制が存続したのは、時代を超えた何か普遍的な要因によるのではなく、その時代の固有の事情による」。
  家近良樹・幕末の朝廷-若き孝明帝と鷹司関白(中公叢書、2007)。p.24。
 「天皇・皇室制度に内在する、固有の理屈・価値というものなどは存在しないのではないか。」
 「天皇・皇室制度は、飛鳥・奈良・平安・鎌倉・…・江戸・明治・…昭和…と連綿と続いているが、それぞれの時代に、天皇・皇室制度には内在しない、各『時代の価値』・各『時代の精神』があったはずなのだ。/つまり、日本の「天皇」制度は、各時代の「価値・精神」に合わせて、姿・形を変えてきたのだ、と思われる。」
 以上、この欄の執筆者。7/14付・№1644。
 天皇制が存続したのは、個々の時代の「固有の事情」による。天皇制は、各時代の「価値・精神」に合わせて、姿・形を変えてきた。
このような見方に対して、3世紀後半からだと1600年以上、6世紀からだと1300年以上、これだけ長く「天皇」制度が続いてきたことの説明にはならないのではないか、との疑問がやはり生じるだろう。
 しかし、こうした長さは、直接に考慮に入れる必要はない。
 つまり、「制度」にはいわば<慣性>というものがあり、いったん設定されてしまうと、改廃を意識しないで長々と続く可能性がある、という面がある
 例えば、戦後72年、明治維新から先の敗戦まで78年、江戸時代の250年以上、平安時代の300年以上、いったん設定された各時代の「天皇」制度はそれぞれに長く継続してきた。つまり、日々あるいは毎年のように、その存続の是非が重大な問題として問われ続けたわけではない。
 上記の、家近良樹・幕末の朝廷-若き孝明帝と鷹司関白(中公叢書、2007)。
 この本は、天皇制が廃止されても不思議ではなかった、換言すれば「天皇にとって替わってもおかしくない権力者や当該時期が幾度も出現した」として、六回または六時期を挙げている。p.18-19。秋月において整理すると、以下になる。
 ①蘇我氏の独裁権力/6世紀後半-崇峻天皇暗殺。*聖徳太子一族滅亡もこの時期。
 ②道鏡/8世紀後半-称德天皇から皇位継承? *宇佐の神言。
 ③北条氏/1221年-承久の変・後鳥羽上皇等の挙兵。土御門・順徳も。
 ④足利義満/室町時代第三代・「日本国王」。*14世紀後半。
 ⑤織田信長・豊臣秀吉/16世紀後半。
 ⑥徳川氏/第三代家光時代くらいまで。*17世紀。
 これにおそらく、⑦?/第二次大戦終結直後-1945-6年、というのを加えてよいだろう。
 長い天皇制の歴史の中で、それが危機を迎えた、あるいはその存廃が現実的な問題になりえた、というのは、さほど多くないことが分かる。
 信長と秀吉を2回に分け、漠然と平安時代の藤原氏による皇位簒奪?というのを想像して加えてみても、計9回ほどにしかならない。
 これらの「危機」、「存廃が意識され得た」時期を、天皇制は、それぞれの時期の固有の事情でもって「乗り切った」のではないか、と思われる。
 その中には、上の④のように、<天皇を目ざした?>足利義満の「死」による決着もあった。
 この④は例外だが、それぞれの時期の世俗権力者は、天皇制の廃止に関して、廃止することのコストと利益、廃止しないことのコストと利益を、つまりは要するに簡単には<費用効果分析(CBA)>を行って、敢えて廃止しようとするときのコスト・不利益も考慮して、それぞれに天皇制そのものには手をつけない、という判断をしたのではないか、と思う。むろん、天皇・朝廷を存続させておくことのコストと「利益」(や「不利益」)もまた配慮したに違いない。また、各時代の様相として、存続を前提にすれば、天皇にある程度の「権力」が少しずつは認められたとも考えられる。
 簡単に書きすぎてはいるのだが-上の各人・各氏・各時期によって事情は異なる-、要するに、そういうことではないか。
 なお、応仁の乱以降の戦国時代は、信長まで、日本は「国家」だったのか、という疑問を持っている(その限りでは天皇制もきちんとは「連続」・「継続」していないのではないか、とのシロウト思いつきにつながる)。
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 現在の日本国憲法のもとでの天皇制を支える世俗権力とは何か ?
 憲法自体が根拠になっている。したがって、憲法制定者だ。建前として、国民主権という場合の「国民」 ? それとも、実質的には戦勝諸国、とくにアメリカ?
 また、<世襲・象徴>としての天皇制を憲法改正によって廃止しようとはしていない、憲法改正権者、つまり有権者国民が支えているとも言えるし、そのような改正発議をしようとはしていない、国会もまた、そして国会内多数派政党も、これを支えている。
 だが、論理的可能性としては、国会内多数派政党の「発議」、国民投票有権者の「国民投票」によって廃止されることが全くないとはいえない。
 この場合、神社神道の「長」、または<最高祭祀者>として憲法には明記されないままで一族は存続する可能性はある。
 上の発想は別として、ともあれ、天皇制の安定性というのは絶対的ではないし、そうではあり得ない、と考えられる。
 長く続いている日本の伝統だから今後も、という考え方はある意味では自然だ。
 このことを批判したり、否定するつもりはない。
 ただ、そういう世俗国民の<気持ち>によってこそ-維持されるとすれば-維持されるのであり、天皇制の中に、それに固有の<存続力>、存続すべき「価値」が先験的に?あるわけではないように思われる。

1647/高森明勅・天皇「生前退位」の真実(幻冬舎新書、2016)。

 高森明勅・天皇「生前退位」の真実(幻冬舎新書、2016)。
 天皇譲位問題に論及することはしない。
 上の高森著を読んで、最も興味深かったのは、じつは、<天皇就位を拒否する>自由が「皇嗣」にはある、という指摘および叙述だった。p.84-86。
 生まれながらにして一定のことを義務づけられるのは出自・血統による<差別>で<平等原則>違反だとの議論もあるので、上のことは重要だ。そしておそらく、高森の言うとおりなのだろう。
 つまり、天皇位に就くことを望まない「皇嗣」が践祚も即位の礼も拒否し、憲法上の国事行為を行うことをいっさい拒んだらとすれば、どういうことになるか?
 おそらく、憲法に根拠がありかつその形式によるとされる皇室典範の定めによって、「皇嗣」は特定され、その方には皇位就任義務がいちおうは生じるのではないか、と思われる。
 しかし、<義務不履行>は世俗の世界ではよくあることで、私自身、友人に貸したはずの50万円が4年近く経っても20万円しか返却されていない、ということが現にある。その人物は、何と!たぶん熱心な<保守>派気分の男だ。
 さてさて、<義務不履行>があれば、裁判手続を経ての<強制執行>の世界、つまり権利義務の<意識>・<観念>の世界を<現実>に変える手続に、ふつうは入っていく。そこまでに至らなくとも、そういう制度は(いちおう)用意されている。
 しかし、<皇位就任義務>の履行の拒否があった場合には、いったいどうなるのか?
 即位の礼、その他皇室行事あるいは国事行為、これらは元来ほとんどが、当該「人物」が出席する等をするしかないもので代替性を大きく欠くとみられる。また代替可能な国事行為にしても、手続を踏んで別途委任するか「摂政」を置くしかない。
 そしてそもそも、そういう代替が検討される前に、就位自体がスムーズにいかなければどうなるのか?
 高森によると、皇室典範三条が定める「皇位継承の順序」の変更の要件のうちの「皇嗣に…重大な事故あるとき」に該当し、皇室会議の「議により」、変更を行うしかない
 理屈を言うと、その次位の「皇嗣」も拒めば、延々と?、同じことを繰り返すしかないだろう。
 そして今上陛下は、その「自由」を行使しないで、粛々と天皇になられる「宿命」を甘受されたのだ、ということになる。深刻な混乱にならなかったこと自体が、今上陛下の「お心」による、ということになる。
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 何となく基礎的には安定的に世の中、あるいは政治は推移しているようにほとんどの国民は思っている。無意識に、そう思いつつ生活している。
 実際にはなかったことだが、……。
 新しい首相(内閣総理大臣)が国会で指名されたとき、公式にはさらに天皇の国事行為としての「任命」が必要であり、これにはさらに「内閣の助言と承認」を要する。
 民主党内閣から第二次安倍内閣に変わったとき、安倍晋三が首相に「任命」されたが、このとき民主党内閣の「助言と承認」があったからこそ、安倍晋三は首相になれた。
 きっと映像が放映されたはずだ。今上陛下が安倍晋三に「任命状」?を手渡す際に、民主党・野田佳彦は(安倍晋三が正式に首相になるまでは、なおも首相)陪席していて、あらかじめ天皇陛下にその書状を手渡していたはずだ。
 さて、日本共産党が国会で多数を占め、または日本共産党らの連合諸政党が国会で過半数を占めて、日本共産党の代表者が国会で首相に指名された、とかりにしよう。
 (実質的な)前の内閣の首班が、熱烈な反共産主義の某安倍康弘という人物だったとして、閣議も開かず、前「内閣」は何もせず、天皇に対して、(国会の意思に反して)新首相の任命に関して「助言と承認」をしないままにいたら、どうなるだろうか。
 憲法違反ということで、マスコミを含めて大騒ぎになるに違いない。
 しかし、それでもなお、共産党政権の発足は認めない、断固として手続に進ませないと安倍康弘ら前内閣が意地を張れば、この憲法上想定されているとみられる「義務」は、いったいどうやって「強制執行」すればいいのだろうか。
 また、実質的な前内閣の「助言と承認」はあって、新首相の<任命状>も用意されたが、ある時代のある天皇が、新首相個人やその所属政党が意に沿わないとして、任命式?そのものにご出席なされない、そして例えば皇居内で行方不明になる、あるいは皇居外に外出されてしまって長期日にわたってお帰りにならない、という場合、いったいどうなるのか?
 もちろん、この場合も(皇室典範の別の条項での)天皇に「重大な事故あるとき」に該当するとして、法的な回復の措置を取らざるをえなくなる可能性が高い。
 それでもなお、1か月ないし数カ月~半年程度の「国政の空白」が生じることが想定される。
 法的連続性のある状態と「無法」あるいは<革命的状態>とは決して大きく離れているわけではない。上の例は一部だろう。突然に<法的混乱>が生じうることは、想定しておいて決して悪くない(こんなことを考えている人はきっといるので、その人たちには、この文章もまだ手ぬるいだろう)。
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 上の高森明勅著については、もう少し書きたいことがある。


1644/天皇制はなぜ存続したか-家近良樹著(2007)。

 「天皇制が存続したのは、時代を超えた何か普遍的な要因によるのではなく、その時代の固有の事情による」。
 「その時々の権力…が、天皇を必要だと認めたからこそ、天皇というシステムが存続したのだ」。「時代を離れた検討はありえない」。
  家近良樹・幕末の朝廷-若き孝明帝と鷹司関白(中公叢書、2007)。
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 上の家近良樹著の初めに、ずばり「天皇制はなぜ存続したのか」(第一章第一節)との表題があり、日本史学上の「支配的見解」として、上のことが書かれている。
 支持したい。思いめぐらせ、考えていたこととほとんど合致する。
 「万世一系の…」というのは勿論言葉の綾で、「万」ではない。神武天皇から数えても、120余代(とされている)だから、およそ100倍に誇張している。
 また、かりに日本書紀等の記載の多くを信頼するとして、いったいいつの頃から天皇家は継続しているかというと議論は分かれている。天照大神・神武天皇からずっと、その前からもずっと、というのは、(実際には誰かの血を承けているのは間違いないだろうが)、「お話」としてはともかく、信じ難い(「神武」天皇にあたる、かつ「天皇」にあたる人物又は集団がいただろうとは思う)。
 継体天皇以降というのは、有力だと思われる。この人はそれ以前の皇統の女性と結婚したことに日本書記上ではなっているので、継体以降は、「女系」天皇だ、とも言える。
 もっと前の天皇の実在性を肯定する学者たちもいる。崇神天皇等々。
 それにしても、5~6世紀頃以降、1000年以上も続いているとすると、貴重な、稀な家系であることに変わりはない。そしてずっと、(言葉としては7世紀からだが)「天皇」という呼称を受け継いできた。
 こう長く続いたのには、それなりの理由・根拠があったに違いないと、誰もがあるいは多くの人が考えたに違いない。 
 上の家近著が紹介する、津田左右吉説、石井良助説もそうだ。
 しかし、天皇・皇室制度に内在する、固有の理屈・価値というものなどは存在しないのではないか、と考えてきた。
 何か特殊で、日本らしい「価値」を持っていたからこそ長く続いてきた、というのは、容易に思いつきやすいが、その「価値」なるものは曖昧模糊とした、「宗教」・「信念」的なものになってしまうだろう、と感じていた。
 また、そもそも、天皇・皇室制度は、飛鳥・奈良・平安・鎌倉・…・江戸・明治・…昭和…と連綿と続いているが、それぞれの時代に、天皇・皇室制度には内在しない、各「時代の価値」・各「時代の精神」があったはずなのだ。
 つまり、日本の「天皇」制度は、各時代の「価値・精神」に合わせて、姿・形を変えてきたのだ、と思われる。
 早い話が、明治維新以降、そして明治憲法下の「天皇」と現日本国憲法のもとでの「天皇」は、類似性もあるが、そしてそのことを強調する向きもあるが(「日本会議」派歴史観)、世俗権力との関係、または自らがもつ「権力」の有無等において、異質なものだ。
 大戦前後についてすらそうなので、古代天皇制の時代と中世・近世の天皇制の時代における「天皇」の意味・位置づけは大きく異なる。古代天皇制と言っても、藤原氏の台頭の前後で、大きく異なる。
 「祭祀王」としての連続性、という主張があるのかもしれない。
 しかし、「祭祀王」として存続し続けることができたのは、「祭祀王」だったから、というのでは全くない。
 秋月瑛二は、①「民主主義対ファシズム」という虚偽の構造認識を打破し、②断固として「反共産主義」の立場に立ち、③<日本的な自由・反共産主義>の国家・社会を目指したい。
 こうした構図の中では、「天皇」は大きな意味・価値を持たない。天皇制護持か否か、「天皇を戴く国柄」を維持するか否か、これは最大の決定的な主題では、全くない。産経新聞社・桑原聡の「思い」ではダメだ。
 このようなことを主張・提唱する人々には、では<日本共産党あるいはその他の共産主義者たちが擁護し、利用する「天皇」制でもよいのか>?と、問いかけたい。
 先の国会の(たぶん)内閣委員会で、日本共産党・小池晃は自民党議員たちとともに起立して賛成し、自由党・森裕子は着席のままで反対していた。このようなことが先々でもありうるだろう。共産主義者・日本共産党は、目的のためならば、「天皇」制もまた、利用するに違いない。<情勢に応じて>それを護持しようとするかもしれない。
 日本の<天皇・愛国>主義者たちは、櫻井よしこも含めて、冷静に歴史と日本を見つめる必要がある。

1557/天皇譲位問題-産経新聞社と「日本会議」派の敗北。

 ○ 勝利や敗北は何らかの「規準」の必要な価値評価なので、簡単には使えない言葉だ。ここでは、<現実化>した又はしそうな見解を主張していたかどうかを規準とする。
 また、産経新聞社は社として公式に譲位反対又は摂政制度利用を主張していたわけではない。但し、当初ないし昨年秋頃には、譲位反対の雰囲気だったことは下記のことでも、また確認しないが、(生前)譲位を認めるとすると膨大な諸法制の改正・整備が必要となって大変だ旨の一般的記事もあった(ネット上で読んだ)。
 「日本会議」派、というのも正確ではない。会員とか関係者の範囲は定かでないが、近いとされる百地章は最終的には摂政利用反対論を述べた。また、上原康男が「日本会議」関係者なのかも知らない(調べればすぐに分かるのかもしれないが、労を厭う。いずれにせよ、この人に多数の天皇制度・政教分離関係研究書・評論書があるを知っているので-たいていは所持しているだろう-、櫻井よしこ・八木秀次らと同じ<アホ>扱いはしていない)。
 しかし、譲位反対派は「日本会議」系だというレッテリ貼りもあったほか、櫻井よしこ、平川祐弘、八木秀次らは明らかにこの組織・団体に「近い」と見られ(これは櫻井よしこについては歴然としている)、申し訳ないが簡潔にするためにも「日本会議」派と称させていただく。
 ○ 関心があるのは、<アホの4人組>らの退位反対論者が、いまどういう感想をもち、どういう自己「総括」をしているのか、だ。
 櫻井よしこはおそらく何も触れないままで、週刊新潮・週刊ダイヤモンドらに相変わらず別のことを<書き散らして>いるようだ。
 自己の見解が、なぜ<現実化>しそうにないのか、その原因・理由をどう考えているのだろうか ?
 「評論家」にせよどういう肩書きにせよ、政府の会議に呼ばれた発言者としてその発言「内容」に関する責任、その後の展開に関してコメントする「責任」くらいはあるのではないか ?
 八木秀次はすぐに①摂政制度の利用と②国事行為委任法(法律)で対応できると判断したように伝えられているが、この二つともに対象は憲法・法律上は天皇の国事行為であり、「公的(象徴的)行為」や天皇・皇室の「宗教行為」祭祀を含むと解されている「私的行為」は法的には全く対象にされていない。したがって、この二つをもってしても、天皇と新「摂政」のいずれが行うかという重大な問題が残ったままになる、ということを、いつ頃に気づいたのだろうか。
 しぶとく譲位反対論を書いていたが、自らの憲法(・法)学者 ?としての「無知」を、恥ずかしく感じなかったのだろうか。
 とくにこの欄でまた触れたくなったのは、既に言及したのだが、月刊正論(産経)昨年11月号末尾の喫茶店での雑談のような「匿名」記事(「編集者」も参加)で、「先生」がこう語っていたからだ。
 「月刊正論10月号で…ご譲位を遠回しに否定した八木秀次が批判されている」が、「間違っているのは、どっちなんだ」。p.319。
 ここに「間違っている」うんぬんが語られているのが、概念または論理の問題として、きわめて気になる。
 つまり、この「先生」は、<譲位否定(論)>が、「間違っている」とは逆の「正しい」ものだと考えているのだろう。
 「正しい」見解がつねに<現実化>されるとは限らない。上の意味で「敗北」することはありうる。それは、そうだ。
 しかし、産経新聞社発行の月刊雑誌・正論に出てくるこの「先生」における、「正しい」か否かの規準は、いったいどこにあるのか。いったい何をもって、「正しい」と「間違い」を区別しているのか。
 多くの者が指摘したように、天皇の生前退位は少なからずあり、<終身在位>が制度として定められたのは1889年のことだ。
 1889年または明治憲法下のことだけが「正しい」とするのは、じつに<誤った>(あえて「誤り」という)、<偏狭な>考え方だ。
 こういう「先生」のような、「先生」と称される者たちがごろごろいるから困る。<保守>派の未来をも、暗くしている。
 「正」・「誤」の問題と「適」・「不適」や「合理的」・「非合理的」の問題は、別の次元にあるだろう。また、<思い込んで>いることがつねに「正しい」などと考えてはいけない。
 「教授」とは八木秀次自身のことでないかとすでに推測したが、「先生」が誰かは分からない。
 この「先生」は、現在までの<現実化>に向けての推移をいかに自己「総括」しているのか、是非とも尋ねてみたい。

1537/櫻井よしこ・天皇譲位問題-「観念保守」批判⑤03。

 櫻井よしこ「発言/有識者リアリング」2016年11月14日<天皇の公務負担軽減に関する有識者会議第4回>。
 平川祐弘もそうだが、櫻井よしこは、天皇の役割として「祭祀」を強調し、天皇の「祭祀」行為の位置づけを高くせよ、と主張する。
 上の発言でも、実質的には冒頭で、こう言う。
 ・「長い歴史の中で、皇室の役割は、国家の安寧と国民の幸福を守る、そのために祈るという形で定着してきました。歴代天皇は、まず何よりも祭祀を最重要事と位置づけて、国家・国民のために神事を行い、その後に初めてほかのもろもろのことを行われました。穏やかな文明を育んできた日本の中心に大祭主としての天皇がおられました」。
 ・「しかし、戦後作られました現行憲法とその価値観の下で、祭祀は皇室の私的行為と位置づけられました。皇室本来の最も重要なお役割であり、日本文明の粋である祭祀をこのように過小評価し続けて今日に至ったことは、戦後日本の大いなる間違いであると私はここで強調したい」。
 ・天皇陛下の「御負担を軽減するために、祭祀、次に国事行為、そのほかの御公務にそれぞれ優先順位を付けて、天皇様でなければ果たせないお役割を明確に」する必要がある。
 ・「現行の憲法、皇室典範では、祭祀の位置づけが国事行為、公的行為の次に来ています。この優先順位を実質的に祭祀を一番上に位置づける形で」整理し直すのが大事だ。
 似たような文章が、櫻井よしこ・月刊ボイス2016年10月号p.46にもある。
 すでに触れたことだが、このような櫻井よしこの文章を読むと、不思議な、奇怪な感じを禁じえない。
 あるいは、ひどく無知だと思う。自分が無知であることに無知であるのは、はなはだしく怖ろしいことだ、と思わざるをえない。
 なぜか。
 つぎのことは、まだ些細なことだ。
 「現行の憲法、皇室典範では、祭祀の位置づけが国事行為、公的行為の次に来ています」。
 憲法・皇室典範が「祭祀の位置づけ」を明記しているはずがない。あくまで現憲法の<解釈>でそうなっているのであり、皇室典範はそれを前提にして何も定めていないのだ。
 これだけでもすでに専門家ならば失格だが、他に致命的なことがあるので、まだ些細に感じてしまう。
 すなわち、櫻井よしこや平川祐弘は、「祭祀」をいかなる性格の行為だと、明確に記せば、<宗教>性を帯びている行為だと、とりわけ「神道」上の行為だと考えているのか、いないのか
 「祭祀」は宗教とは無関係だと理解しているならば、ある程度は筋がとおっている。
 しかし、本当に「祭祀」は無宗教の行為なのか。
 平川祐弘は天皇にとっての「まつりごと」とは「政」ではなく「祭」だと、さも知識ありげに書いていたが、「政治」が「まつりごと」ともされたことは多くの人が知っているだろう。
 さて、あらためて、櫻井よしこに問いたい
 自分の言う祭祀とは「宗教」、とくに「神道」と関係があるのか、ないのか。
 明治元年に(まだ安定・確定していない)新政府は「神武創業」期に<復古>しての「祭政一致」を謳ったのだったが、そこでの「祭政一致」が国家と「宗教」の関係にかかわるものだったことは明確で、だからこそその後に<神仏分離>の基本政策がとられた。実際にどの程度徹底したのかは別だったが。
 そうして逆説的に、 明治憲法の解釈上は(「皇室神道」を含むと解される)神社神道うんぬんは「信教の自由」の問題ではないとして、いわゆる<国家神道>制がとられたとされる。わずかに50年間程度だったと今からは感じるが、神社は国家機関又は準国家機関、神官は公務員又は準公務員だった。
 その(明治憲法後に)1900年頃に確立した時代が理想だと考えて、神社神道(・皇室神道)は「宗教」ではないと論じるのならば、まだ分かる。
 しかし、櫻井よしこは、この欄で批判的にすら取り上げているように、「神道は日本の宗教です」と明言しているのだ。
 天皇・皇室の「祭祀」が神道、正確には神社神道(なるもの)の性格を帯びていることはほとんど常識だろう(但し、<祭祀>の意味にもよるが、神仏の区別が必ずしも明瞭でない時代には「仏教」的なものも部分的にはあったに違いない。だがそれも今日的には<宗教>行為だ)。
 それを知ってあえて、「祭祀」を大切にとか、「祭祀」を最優先に、と主張する場合、そもそも日本国憲法上のつぎの条項は意識されているのか。とくに、第3項。
 この無意識、無知こそが、致命的だ。
 現憲法第20条「第1項第二文/いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」
 同第3項「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」。
 これら条項との関係でも、天皇・皇室の「祭祀」行為は、現憲法7条が定める「国事行為」のうちの「10号/儀式を行ふこと。」にも含まれないと、官民挙げて ?解釈されている。
 憲法学界はほぼ一致しているだろうし、戦後の政治・行政の現実は、この解釈を前提として動いているし、動いてきた。
 この解釈とは、天皇・皇室の祭祀行為は「宗教」行為に該当する、という解釈だ。
 天皇・皇族は「国」あるいは「国家の機関」ではないと櫻井は思うかもしれないが、「国事行為」は内閣の「助言と承認により」行うもので(7条本文)、そこでの行為は「国」ないし「国家」(この二つのしばしばの混同があるが立ち入らない)の行為に他ならない。
 だからこそ「国事行為」なのであり、そこに「祭祀」を含めてしまうと、「祭祀」が国家の行為になる。少なくとも、現20条との関係を厳密に整理・解釈しなければならなくなる。
 憲法20条の規定があるからこそ、国家と「宗教」との関係は、明治憲法のもとでと全く同じには解釈されていないのであり、「祭祀」が神道によるものであるかぎりは、おそらく間違いなく「公的(象徴的)行為」と位置づけることもできず、天皇等の「私的」行為と憲法解釈せざるをえないのだ。これを前提に、皇室経済法(法律)も「内廷費」等々の区分けをしている。
 櫻井よしこは、こうしたことの知識をまるでもっていないようだ。
 だからこそ平気で、「祭祀」を国事行為等よりも優先せよ、と無知ゆえの主張をすることができている(平川祐弘もおそらく同じ)。
 唖然とせざるをえない。
 櫻井よしこの主張・見解を満足させて現実化するためには、現憲法上の国家・「宗教」関係条項の抜本的な改正(憲法改正)か、または<革命的な>憲法解釈の見直しが必要だ。
 これをくぐり抜けるレトリックは、神社神道は「宗教」ではないと法解釈することだが、知ってか知らずか、櫻井よしこは「神道は日本の宗教です」と、堂々と言い切っている。
 櫻井よしこは、昭和天皇の葬礼の際に、どこまでが「国」の行事で、どこからが天皇家の「私的」行事なのかというきわめて(現憲法の解釈・運用にとっては)重要な問題が生じていたことを、まるで知らないようだ。これについては、この欄で触れたことがある。
 怖ろしいことだ。無知も怖ろしいが、無知であることの無知も、輪をかけて怖ろしい。
 櫻井よしこ・憲法とはなにか(小学館、2000)を見てみると、やはり、国家・「宗教」関係条項には、<保守>派にとっても重大な関心事のはずだが、いっさい言及していない。
 手元に、つぎの本もある。著者は「日本政策研究センター所長」。
 伊藤哲夫・憲法かく論ずべし(日本政策研究センター、2000)。
 この本もまた、<政教分離>裁判は多数起きているにもかかわらず、憲法20条または国家・「宗教」関係、天皇・皇室の「祭祀」の憲法問題にはいっさい言及していない。
 櫻井よしこは、この伊藤の書物に影響を受けているのだろうか。
 ついでに書くと、この伊藤哲夫・憲法かく論ずべし(2000)は、「五箇条の御誓文」擁護・解説にじつに40頁ほどを当てている。
 櫻井が最近に「五箇条の御誓文」にやたらと論及する、そのタネ本はこの伊藤著ではないか ?
 他人・第三者の文献・主張を参考文献の明記なくしても平気で援用・借用するのは櫻井よしこの「流儀」なので、同じ<保守派 ?>の伊藤哲夫著ならば、上のように「タネ本」にするのも十分にありうると思われる。
 さらに一つだけ、関連して指摘しておこう。櫻井は、こう発言した。他にも同旨のことを述べる者はいる。
 「天皇様は何をなさらずともいてくださるだけで有り難い存在であるということを強調したいと思います。その余のことを天皇であるための要件とする必要性も理由も本来ないのではないでしょうか」。
 <ご存在だけで有り難い>というのならば、「祭祀」も別になさらずともよろしいのでは ?
 揚げ足取りと言うなかれ。その隙を与えるような言辞を、大切な「国」の諮問・建議機関のメンバーの前で吐いてはいけない。
 国家・「宗教」との関係については、なおも基本的なことに触れたにすぎない。
 それでもなお、「所長」に代わって釈明・反論をしようというならば、どうぞ国家基本問題研究所の「役員」の方々はしていただきたい。櫻井よしこ「所長」では無理だから。
 時間があれば、所持している例えば以下の書物だけでもきちんと読み通してみたい。現憲法注釈書はたいてい持っている。
 ①山口輝臣・明治国家と宗教(東京大学出版会、1999)。
 ②平野武・宗教と法と裁判(晃洋書房、1996)。
 ③大石眞・憲法と宗教制度(有斐閣、1996)。
 あらためて、櫻井よしこという存在の悲惨さを感じつつ。

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