秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

宗教

2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。

 岡山県真庭市・木山寺—2023年6月
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 神仏混淆(・習合)や神仏分離について学校や家庭でとくに教えられないままで育った。歴史教科書の明治維新の項に書いてあったかもしれないが、記憶していなかった。
 だから、この15年ほどの間に神社仏閣、とくに寺院を訪れて、驚き、また興味深く感じることもあった。
 談山神社(奈良県桜井市)を訪れて、拝礼のときに、ここは寺だったか神社だったか一瞬迷ったことがあったことは、だいぶ前にこの欄に書いた。小ぶりの十三重塔の存在は原因の一つだった。豊川稲荷(愛知県)は今は寺院だと訪問時に知って驚いた。そのうちに、今は寺院だが、境内や本堂のすぐ前に「鳥居」があるのにも慣れてきた。「聖天」と付く寺院はそうだろう。宝山寺(奈良県生駒市)、世義寺(伊勢市)など。
 今年になって、神社本庁が「本宗」としている神宮(伊勢神宮)にもかつては一体だった寺院があった、五十鈴川を挟んだ丘陵の中腹にかつてはあって今は破壊されたままだ、と書いてある文献を読んで、驚いた。伊勢神宮にすら、江戸時代には、ペアとなる仏教寺院があったのだ。
 今年2023年の6月に特段の大きな期待なく木山寺(岡山県真庭市、高野山真言宗)を訪れてみて、神仏が物理的にも一体になっている、正確には仏教的本堂のすぐ後ろに神道的建物(「鎮守社」)がくっついて存在しているのをこの目で見て、驚くというよりも、感心した。神仏混淆そのままだ、と。
 下の写真のように、仏教上の本尊は薬師如来と観音菩薩、「鎮守社」の祭神は「木山牛頭天王」と「善覚稲荷明神」。本堂・鎮守社の建物の他に、境内には四つの「稲荷大明神」を祀る「末社」の祠等々もあった。
 この寺院はもともと現在もある木山神社と一体だったようで、山の上の方の木山寺に対して、下の方に今の木山神社の本殿等がある。
 しかし、かつては神社の本殿(正殿)だったらしい現在の「奥宮」は、一つだけ道を隔てて、木山寺のすぐ近くにある(下の写真の8枚めが「奥宮」)。
 木山神社の現在の本殿の祭神は「須佐之男命」で、その隣の別の大きい木造建物は「善覚稲荷神社」とされている。両者のあいだに「天満宮」(菅原道真が祭神)もある。牛の石像が前にある。
 「牛頭天王」とは現在の京都・八坂神社の祭神と同じで、元々は中国・朝鮮半島由来の「神」だったところ、諸説があるようだが、日本的に「素戔嗚」に転じることがあるらしい。そして、アマテラス系の神を祭る神社(全国の数の上では少ない)とは別のグループの神社群を形成している。スサノオ(>牛頭天王)系を祭神とする神社に限っている、八坂神社を含む<朱印帳>がある(正確には、かつて八坂神社の朱印が捺されたその朱印帳を所持していた)。
 京都・八坂神社(祇園社)の境内には、かつて薬師如来を本尊とした仏教建築物もあるはずだ(確認しない)。
 牛頭天王・蘇民将来命は「疫病」から人々を守ってくれる神だったはずなのに、昨年までコロナ禍の数年間、「祭り」である「祇園祭り」自体が挙行されなかったのだから、その「ご利益」は本当は信じられていないのではなかろうか。最も健康のための仏神であるはずの(左掌に薬壺を乗せる)薬師如来を本尊とする京都の著名寺院も、数年間は「拝観」停止にしていたのだから、似たようなことが言えるだろう。
 肝心のときに祭りが行われず、拝礼も遠慮させるとは、いったい何のための宗教なのか、と問題にしたくもなる。本格的に立ち入るつもりは全くない。比叡山延暦寺と北野天満宮の僧侶・神職者は、同日・同場所で<ご霊会>を開催したり(2020年9月4日、500年以上ぶり)、関西薬師霊場(49+α)構成寺院は同日に一斉に<祈願法要>をした(2020年5月2日)、といったことはあったのだけれども。逸れてしまったので、元に戻ろう。
 木山寺の「鎮守社」の造形は見事だ(と素人には感じさせる)。かつて見た、高千穂神社(宮崎県)の本殿を思い出した。それが寺院の本堂に接続して後ろにひっそりと?存在しているわけだ。これほど明確に、神仏混淆の名残りを感じさせられたことは、これまで他にない。
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2324/H.J·バーマン/宮島直機訳・法と革命I(2011)②。

 ハロルド·J·バーマン/宮島直機訳・法と革命I-欧米の法制度とキリスト教の教義(中央大学出版部、2011/原書1983)。
 つづき
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  L·コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(ポーランド語版、1976)の英訳書は1978年に三巻揃って刊行された(なお、第一巻のドイツ語訳書は1977年に出ている)。
 そして第三巻はなぜか?フランスでは出版されなかったというが、それを除くフランス語訳書も含めて、英語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語等々の翻訳書が世界中で広く刊行された。
 しかし、この欄でしきりと書いたことだが、L·コワコフスキの大著の日本語訳書(邦訳書)は出版されなかった。
 英語が読める関係学界の学者、とくに1970年代後半以降にヨーロッパに留学経験のある者はポーランドを出てOxford にいたコワコフスキとその大著を全く知らなかったとは考え難い。しかし、それでも、邦訳書は出なかった。今後も永遠に出版されないかもしれない。
 今後のことはともかく、1978年以降の日本で、なぜ邦訳書が出なかったのか。
 要するに、その<反マルクス主義>性・<反共産主義>性によって、日本の出版社・出版業界、関係学者(とくにアカデミズム内にいる者)は、国家による<検閲>ではなく、<自主検閲>をしたのだと考えられる。その内容を、日本の学界や読者に知らせたくなかったのだ。
 なお、<反マルクス主義>等と書いたが、一片の「反マルクス」の呼号をしているのではなく、第一巻のほとんどはマルクスに充てられているなど、コワコフスキはマルクスを読んで、マルクス主義研究をしている。彼は、若いときはワルシャワ大学の「思想史」講座の正教授だったのであり、当然にマルクスやレーニン等を読んで、それらを用いて<正統な>?講義もしたことがあったと思われる。それだけの蓄積が早くからあったのだ。
  かなり似た感想をもつのは、上掲のハロルド·J·バーマンの著だ。
 1983年には母語・英語で刊行されたようだが、すみやかに邦訳書が出たわけではない。上の邦訳書は2011年刊行で、30年近く経過している。
 コワコフスキの著もバーマンの著も1991年のソ連解体前に出版されている。
 その時代に、明確な<反共産主義>の書物を日本で日本語訳として出版するのがいかに困難で、危険?だったかが、分かろうというものだ。
 むろん、<反ファシズム>・<反ナツィス>・<ヒトラー批判>の書物ならば、岩波書店のものを中心に多数刊行されていただろう(日本共産党系出版社ではもちろん)。
 上の邦訳書の訳者である宮島直機(1942〜)は、マルクス主義・共産主義というよりも、むしろ「キリスト教」との関係に着目して(この方がこの書の読み方としてはおそらく適切だろう)、「訳者あとがき」で、こう書いている。キリスト教との関係という意味では、秋月瑛二もまたきわめて納得でき、了解することのできる感想だ。一文ごとに改行。p.709。
 「再度、強調しておきたいのは、30年近くまえに出版された本書が、ヨーロッパ各国語のみならず中国語にまで訳されながら、日本語に訳されなかったことである。
 我々はキリスト教の教義に無関心なのだろうか。
 それとも、欧米の法制度がキリスト教の教義を前提にしていることを認めたくないのだろうか迷信としか思えないものが自分たちの継受した法制度を作ったなんて !!)。」
  じつに重たい主題だ。
 池田信夫が最近、「個人主義」発生の基礎には「キリスト教」や欧州領域内での長い「戦争」があった、日本では欧米的「個人主義」は根づかなかった旨を数回書いていることにもかかわる。
 上の著や池田の指摘は、日本の(とくに戦後の)法学界・法学者に重要なかつ厳しい批判を含むことになると考えられる。
 しかし、何と言っても、日本国憲法自体が、直接にはアメリカかもしれないが、その背景にある<ヨーロッパ>の法思想を基礎にしていることの影響は甚大だ。
 「西欧近代立憲主義の基本的約束ごと」をキリスト教には触れることなく無条件に擁護したいらしい樋口陽一(元東京大学教授、元日本公法学会理事長)は、1989年の岩波新書で、日本人は「…力づくで『個人』をつかみ出したルソー=ジャコバン型個人主義の意義を、その痛みとともに追体験する」必要がある、と明言した(No.0524/2008.05.30)。→No.0524
 つぎの現行憲法の条項は、秋月が(理論的には)最も改正・削除すべきものとして、この欄で何回か書いたことがある。こんなに単純には語りえない、と考えるからだ。むろん、憲法の一条項でありながら、「法的」意味の希薄性も問題だ(この条項が現在の人権条項の「改正」をいっさい認めない趣旨だとは一般には解釈されていないと思われる)。
 日本国憲法97条「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」。
  現在も残る<自主検閲>とその主謀?学者、一方で、共産主義・「宗教」についてまるできちんとした知識・素養がなく(「左翼」も似たようなものかもしれないが)、まともな議論をする能力のない、とくに(西尾幹二を含む)「いわゆる保守」の悲惨さ、といった論点もある。
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2323/H.J.バーマン/宮島直機訳・法と革命I(2011)①。

  Harold J. Berman, Law and Revolution -The Foundation of the Western Legal Tradition(1983).
 =ハロルド·J·バーマン/宮島直機訳・法と革命I-欧米の法制度とキリスト教の教義(中央大学出版部、2011)。
 No.2291/2021.02.13はむしろ西尾幹二・ニーチェとの関係でこの書で触れた。→No.2291
 そこでは著者について「宗教史ないし法制史の学者・研究者」と書いた。しかし、より正確には主専門は「ソヴィエト法」だったようだ。
  この書物の熟読までには至っていないが、すでに重要な感想はある。
 この著で「革命」=Revolutionと称されるのは、つぎの6つだと見られる(邦訳書p.6, p.22-)。「」を付けない。ここでは年代・時期にも触れない。
 ①教皇革命、②イギリス革命、③アメリカ革命、④フランス革命、⑤ドイツ革命、⑥ロシア革命。
 秋月の文章になるが、これらは全て、第一に<ヨーロッパ>世界のものと捉えられていること(アメリカもロシアもヨーロッパの延長ないし辺境だとは言える—秋月)、かつ第二に(ロシア革命を含めて)<キリスト教>とその展開の中で位置づけられていること、が注目される。
 後者につき—「ヨーロッパの革命に共通しているのは、千年王国の実現を目指していたことである」(p.29)等々。
 この<ヨーロッパ>(ないし「欧米」)や<キリスト教>の文明・文化の中に日本はもともとはいなかったこと、明治以降にその「一部」を、あるいはその「表面」を吸収・継受してきたのだということに、深い感慨を感じないでもない。
  従って、以上の部分もすでにきわめて関心を惹く。しかし、それ以上に、さしあたりは強く印象に残ったことがある。
 それは著者=ハロルド·J·バーマンが「ロシア革命」を冷静にかつきわめて批判的に見ていることだ。
 ロシア革命がキリスト教の影響下での「ヨーロッパの革命」の一つであることについて、例えば以下。p.30-31。
 「アメリカ革命、フランス革命、ロシア革命では、千年王国は『地上の国』に実現するはずであった」。
 「6つの革命はキリスト教の終末論が前提になっていたが、キリスト教の終末論は、もともとは…ユダヤ教に特有の歴史観に基づいている」。
 また、「ロシア革命」に対する冷静かつ批判的な見方は、とりあえずはつぎに顕著なようだ。p.38-9。やや長く引用しておく。一文ずつ改行。
 「最初に登場してきた宗教的なイデオロギー、つまりキリスト教とは無縁な装いを凝らしながら、同時に宗教的な聖性・価値を主張した最初のイデオロギーは自由民主主義であった。
 そして、これに対抗して登場してきたのが、もう一つの宗教的イデオロギーである共産主義であった。
 1917年にロシアで共産主義体制が登場してくると、共産主義は宗教的な教義と変わらないものになった。
 また共産党は、まるで修道院のようになった組織になった。
 第二次大戦後のソ連で粛清の嵐が吹き荒れたとき、ある共産党員が口にした言葉は象徴的である。
 『救いは共産党のなかにしかない』。」
 「共産主義が主張する『法的な原則』と自由民主主義が主張する『法的な原則』は違っていたが、いずれも出自はキリスト教の教義である。
 たとえば『共産主義者の道徳指針』には、つぎのようなことが謳われていた。<略>」
 「さらにソ連の法制度では、法律に教育的な役割を期待しており、職場や近隣組織による『同志裁判』や『人民パトロール隊』などを使って、民衆を裁判に参加させたりもしていた。
 それも共産主義の理想が実現した暁には、すべての法制度と強制は消滅し、だれもがお互いに『同志となり、友人となり、兄弟となる』(これも『道徳指針』からの引用である)というような『黙示録』的な予言によって正当化されていた。
 ユートピア的な未来と強圧的な体制は、決して矛盾するとは考えられていなかったのである。」
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 引用、終わり。さらにへとつづける。

2306/松岡正剛·佐藤優ら・宗教と資本主義·国家(2018)。

 <宗教>という概念はむつかしい。
 西尾幹二らに倣って曖昧にさせたまま始めると、これについて、少なくとも次の二つは言えると思われる。
 第一。かつては、「哲学」や「学問」そのものだった、またはこれらの一部だった。
 神道でも仏教でもないと(明治以降に?)される陰陽思想・陰陽五行思想(説)というのも「宗教」であり「哲学」・「学問」だったようだ。
 時間・日々ををどのように区切るかをヒト・人間はずっと昔から考えてきたようで、その中に年・月のあとに「週」がある。
 これを7日とするのは古代からあったようなのは不思議だが(例外的にフランス革命暦では10日、ソ連暦では5日だったようだ)、これを今の日本のように、日・月・火・水・木・金・土の各曜日に分けるのは、正確には各曜日にこういう名称を付けるのは何故なのか。
 「日」曜と「月」曜は英語・ドイツ語でも同じだが〔これも不思議だ)、残る5つは、太陽・月・地球を除く可視的な惑星の数によるともされる。火星・水星・木星・金星・土星。
 だが、そもそも各惑星をこう呼称するのはどうしてなのか。日・月以外については欧米と同じではきつとないだろう(確認しない)。
 素人的発想なのだが、<陰陽五行説(・思想)>と関係がある。
 「陰陽師」・安倍晴明を祭神とする晴明神社〔京都市)の鳥居の額には<五芒星>と全く(かほとんど)同じ<晴明紋>が堂々と?掲げられている。
 欧米でもあるという五芒星紋と晴明紋(とされるもの)が同じだというのも不思議だ。先端が五つとなる星形で中央に逆正五角形が残る。
 この五つは、<陰陽五行説>のいう五つの要素だろう。強い〔後者を弱める)順に、水→火→金→木→土→水→…、弱い(後者を強めて発生させる)順に、木→火→土→金→水→木→…。
 しかし、またそもそもだが、何故、この五つ、つまり、「火」、「水」・「木」・「金」・「土」なのか。火(炎)・水・樹木・金属・土(土地・土壌)なのか。
 素人的発想だが、昔の中国大陸や(いまでいう)日本の人々は、<世界>またはヒト・人間を中心とする(これを主体として除外する)<自然界>・<外界>は、これら5要素で構成されている、と理解・認識したのだ、と思われる。世界・自然界・外界は(人間以外に)、火・水・木・金・土でできている、構成されている。これら五つに、分類される。
 これは、むろんその当否は別として、立派な世界観・自然観だ。「学問」であり、「科学」(だった)だろう。
 第二。ヒト・人間の「生と死」を問題にすること。
 ヒト・人間は生まれてやがて死ぬことを大昔から人々は当然に知っていて、<どこから来て、どこへ行くのか>と、生きていくのに忙殺されることはあっても、ときには思い浮かべただろう。「死生観」だ。
 生前・死後に関心が及ぶと、当然に、いまをどう生きるかという<生き方>を考える人も出て来たに違いない。
 この点では「仏教」は明らかに<宗教>だが、はて日本の「神道」において人間の「生と死」とは何か。どのように説かれているか、が気になってくる。
 だが、そもそも神道には明確な「教義」がないとされるのだとすると、神道における「生き方」以外を詮索しても無意味かも知れず、立ち入らない。
 以上のようなことをふと考えたのも、以下の書物から受けた刺激によるかもしれない。直接の内容的な関係はない。
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 松岡正剛·佐藤優ら・宗教と資本主義·国家(角川書店、2018)。
 5名による共著だが、シンポか研究会の記録のようで、「開会の辞」を松岡正剛が述べ、出版に際しての「おわりに」を佐藤優が書いているので、二人の名だけを挙げた。
 全体にわたって「宗教」が関係している。その中で、佐藤優が面白い(興味深い)ことを述べている。
 「宗教」の意味に立ち入らないが、途中で佐藤優は、「拝金教」(貨幣・信用にかかわってマルクスも出てくる)、「出世教」、「お受験教や学歴教」、「国家主義教」に触れている。p.37〜p.40。これらの<宗教>だ。
 佐藤優は「おわりに」では、つぎの三つに整理?している。p.195。
 ①「拝金教」、②「出世教」、③「受験教」。
 これらのうち、秋月が近年もっとも関心を持って来たのは、③「受験教」、あるいは途中に出てきていた「学歴教」だ。これは他者と無関係ではなく、大まかには、③→②→①という関連があるかもしれない(この部分は佐藤の説ではない)。
 なぜ関心をもつかというと、日本の現代または現在を覆っている「空気」、現在の日本の人々における<自己認識>(<他者認識・評価>)、あるいはA·ダマシオのいう「自伝的(歴史的)自己」、これと少し異なる意味での「アイデンティ」に、「受験」やその結果としての「学歴」は大きく関係している、と感じているからだ。
 見えない「空気」が、意識しつつも大っぴらにはあまりされることのないかもしれない、人々の「意識」がある。それは「学歴」であり、明治維新以降の「知識」教育、換言すると西欧(・欧米)「文明」の急速な吸収過程から始まって戦後も一貫して培養されてきた、と考えている。むろん<仮説>だ。
 その現在の「知識」教育、ひいては「学歴」意識(・<宗教>)は、本当は衰亡していかなければならないのではないか。戦後・現在の学校・教育制度や教育内容に関係する。これらにおける「知識」の扱い方を問題にしたいのであり、一般に「知識」・「知性」・「知」を排除するつもりはない。

2255/西尾幹二批判004-佐藤優・籠池泰典。

 
 佐藤優が週刊現代(講談社)2020年4月7号で、籠池泰典(森友事件参照)の書物(文藝春秋、2020年2月)を読んで、つぎのようなことを書いている。
 佐藤優のおそらく直接引用によると、籠池泰典は奈良県庁職員だった頃に「目の前に興福寺があり、東大寺や春日大社といった由緒正しい神社仏閣も間近に位置し、この国の伝統文化の息吹を日々感じることができた」。
 この部分に着目して、佐藤優はこう述べる。
 神社仏閣に日本の「伝統文化の息吹を感じる」という認識が重要だ。彼においては「神仏が融合して神々になっている」、「このような宗教混淆は神道の特徴だ」。
 彼は、「神道と日本文化を同一視している」。
 「実はここに『神道は日本人の習俗である』という言説で、事実上、国家神道を国教にしてきた戦前・戦中の宗教観との連続性がある」。
 「神社非宗教という論理に立てば、キリスト教徒でも仏教徒でも日本人であれば習俗として神社を参拝せよ、という結論になる」。
 佐藤はこのあたりに、かつて一時期は明確に日本会議会員(かつ大阪での役員)だった籠池についての「草の根保守」の意識を感じとっている。
 日本会議うんぬんは別として、上の佐藤の叙述は、じつはかなり意味深長であり、奥深い。あるいは、明瞭には整理されてないような論点を分析している。
 神道と仏教はそれぞれ別個の「宗教」だとの書き方をこの欄でしたことがあるのは現在の様相・建前を前提としているからで、江戸時代・幕末までの両者の関係・異同は分かりやすいものではなかったことは承知している。
 また、<神仏分離>の理念らしきものが生まれた一方で、伊藤博文は大日本帝国憲法制定の際に、「神道」は「宗教として人心を帰向せしむるの力に乏し」く、日本国家の「機軸とすべきは独り皇室あるのみ」としたのだった。この点はすでに、以下の著に主としてよってこの欄で紹介した。
 小倉慈司=山口輝臣・天皇の歴史09/天皇と宗教(講談社、2011)。
 こうして「神道」は仏教と並ぶような(本来の?)「宗教」性を認められず、「宗教」に該当しないとされたがゆえに、実際には戦後すぐに生まれてすぐに消滅した観念であるらしい「国家神道」の状態が(上の佐藤によると)「事実上」生じたのだった。
 ともあれ、佐藤優は上の籠池著の紹介・書評を、籠池の印象に残ったというつぎの別人(日本会議大阪の役員)の言葉と、つぎの自らの言葉で結んでいる。
 <籠池さん、日本会議というタマネギの皮を剥いでいくと最後に何が残ると思います? 芯にあるのは神社なんです。>
 「国家神道が静かに蘇りつつある現実が、本書を読んでよく分かった」。
 
 西尾幹二は、岩田温との対談で、2019年末にこう発言した。月刊WiLL2019年11月号別冊、p.225。①~⑤は秋月が付したが、一続きの文章・発言だ。
 「①日本人には自然に対する敬愛の念があります。②日本には至るところに神社があり、儀式はきちんと守られている。③…、やはり日本は天皇家が存在するという神話の国です。④決して科学の国ではない。⑤だからそれを守らなくてはなりません。」
 全体として奇妙な論理でつながっているが、ここではとくに、①→②の「論理」が興味深い。
 ①日本人には「自然に対する敬愛の念がある」、②日本には「至るところに神社があ」る、という二つは、どのようにして、何故、こう<論理的に>結びつくのだろうか?
 ②の原因が①であることを肯定したとしても、①であれば当然に②になる、という論理的関係はないはずだ。
 日本人以外の人々もまた、アジアの人々も、たぶんキリスト教以前のヨーロッパ人も、「自然に対する敬愛の念」(かつ同時に<畏怖>の念)は持って来ただろうと思われる。
 それが、太陽・月、風雨、山海等々の「自然」の中で生きなければならなかったヒト・人間の自然の、素直な感情、<宗教意識>と称してよいようなもの、だったと考えられる。
 仏教徒も(あるいは日本的仏教らしい<修験道>者も)、「自然」を敬愛しかつ畏怖してきただろう。
 にもかかわらず、西尾幹二においてはなぜ、①日本人には「自然に対する敬愛の念がある」<から>、②日本には「至るところに神社があ」る、という発言の仕方になるのだろうか。深読みすると、「自然に対する敬愛の念」は当然に「神社」につながる、と理解され得るような発言の仕方になるのだろうか。
 既述のように、西尾幹二は「宗教」という語も、また「神道」という語すらもいっさい用いない。「神社」は「神道」の施設であることは常識、周知のことであるにもかかわらず。
 そして、上の佐藤優の表現を想起すると、西尾幹二においても戦前・戦中の「国家神道が静かに蘇りつつある」という現象が見られるのではないか、と感じられる。
 むろん、「日本会議」との関係を否定したい、あるいはそれを推測もされたくはないだろう西尾幹二が、その旨を明言するはずはない。
 しかし、「自然」→「神社」→「天皇」という上のような関係づけ(の単純な肯定)は、「国家神道」的であり、かつ(どのように西尾幹二が否定しようとも)日本会議と共通性または親近性がある。
 西尾幹二は、<最後の身の置き所を見つけておきたい、という境地>にあるのだろう、というのが、秋月瑛二の見立てだ。それが日本会議ではなく、産経新聞社・ワック等の<いわゆる保守>情報産業界隈であるとしても。
 
 追記。明治初年のいわゆる「学者の統治」の時期(上の山口輝臣らp.194-。これは「国学者の優越」時期のことだ)、萩藩=毛利藩の萩城下で起きたのが、隠れキリシタンの処遇に関する<乙女峠の惨劇事件>だった。一般には知られていない、明治初年の「状況」を知ることのできる事件と思われるので、この欄でいつか紹介したい。
 ***
 上に萩としたのは誤りで、乙女峠の所在は、正しくは石見国津和野藩。訂正する。/7月22日に後記。

2229/史料・資料-神社本庁憲章(一部)。

 神社本庁憲章(一部)。
 一部の太字化は、掲載者。
 ***
 神社本庁憲章/昭和55年5月21日 評議員会議決
 第1条 神社本庁は、伝統を重んじ、祭祀の振興と道義の昂揚を図り、以て大御代の彌栄を祈念し、併せて四海万邦の平安に寄与する。
 第2条 神社本庁は、神宮を本宗と仰ぎ、奉賛の誠を捧げる。
2 <略>
 第3条 神社本庁は、敬神尊皇の教学を興し、その実践綱領を掲げて、神職の養成、研修、及び氏子・崇敬者の教化育成に当る。
 第4条 神社本庁は、総裁を推戴する。
 2 総裁は、神社本庁の名誉を象徴し、表彰を行ふ。
 第5条 神社本庁に統理以下の役員、その他の機関を置く。
 2 統理は、神社本庁を総理し、これを代表する。
 3 <略>
 第6条 祭祀は、報本反始の誠を捧げ、古来の伝統と、別に定める制規に従って厳修する。
 第7条 神社本庁は、幣帛促進の伝統を重んじ、神社に本庁幣を献ずる。
 第8条 神社は、神祇を奉斎し、祭祀を行ひ、祭神の神徳を広め、以て皇運の隆盛と氏子・崇敬者等の繁栄を祈念することを本義とする。
 2 霊代の神聖は、厳に護持しなければならない。
 3以下<略>
 第11条 神職は、ひたすら神明に奉仕し、祭祀を厳修し、常に神威の発揚に努め、氏子・崇敬者の教化育成に当ることを使命とする。
 2以下<略>
 <以下、略>
 出所-神社本庁総合研究所監修・戦後の神社・神道-歴史と課題-(神社新報社、2012年2月)
 ***
 さしあたりの感想・コメント。
 第一。「大御代の彌栄を祈念」(1条)、「敬神尊皇」(3条)。「皇運の隆盛」(8条1項)。つまり、<天皇・皇室>を崇敬・尊重する、ということが明記されている。やや失礼かもしれないが、神社本庁系神社=「神道」・「天皇」教なのだ。8条1項によると氏子・崇敬者よりも「皇運」は優先するごときだ。
 第二。「神社本庁は、神宮を本宗と仰ぎ」。厳密な意味を問題にする余地はあろうが、「神宮」=<伊勢神宮>(そして内宮の祭神は<天照大御神>)が「本宗」と明記されている。
 歴史的・由緒的にはアマテラスではなくスサノヲ・大国主命系の神を主祭神とする神社も多く、かつまた稲荷神社系、八幡系(応神天皇・神功皇后)、天神・天満系(菅原道真)もあり、日吉・日枝系(日吉大社、日枝神社等)もあるが、神社本庁を「包括法人」としているかぎりは、「本宗」は、伊勢神宮=アマテラス系だ、とされている。したがって、「天皇・皇室」との縁が遠いと思われる神社も、神社本庁系あるいは「神社神道」であるかぎりは、<世界で最古の王朝・日本の皇室>などというノボリを立てたり、看板を立てたり、冊子を頒布していることになる(神社本庁から配布されたのだろう)。
 

2209/折口信夫「神道の新しい方向」(1949年)②。

 折口信夫「神道の新しい方向」(1949年)②。
 折口信夫全集第20巻/神道宗教篇(中公文庫、1976)より。②はp.464以下。原出/1949年06月。
 ***(つづき)
 ②。
 ・「只今におきましても、神道の根源は神社にあり、神社以外に神道はない、と思っていられる方が、随分世の中にあるだろうと思います。
 それについて、なお反省して戴かなければならない。
 相変わらずそうして行けば、われわれは遂に、西洋の青年たちにも及ばない、宗教的情熱のこれっぱかりもないような生活を、続けて行かなければならないのです。
 思うて見れば、日本の神々は、かつては仏教家の手によって、仏教化されて、神の性格を発揚した時代もあります。
 仏教教理の上に、そういう意味において、従来の日本の神と、その上に、仏教的な日本の神というものが現れてまいりました。
 しかし同時に、そういう二通りの神をば信じていたのです。
 しかもその仏教化せられた日本の神々は、これは宗教の神として信じられていたのではないのです。
 たとえば法華経では、これに附属した教典擁護の神として、わが国の神を考え、崇拝せられて来たにすぎません。
 日本の神として、独立した信仰の対象になっていた訳ではありません。
 だから日本の神が本道に宗教的に独立した、宗教的な渇仰の的になって来たという事実は、今までの間になかったと申してよいと思います。」
 ・「日本の神々の性質」は「多神教なものだという風に考えられて来ておりますが、事実においては日本の神を考えます時には、みな一神教的な考え方になるのです」。
 例えば、多数の神があっても「天照大神」、「高皇産霊神」、「天御中主神」のいずれかを感じるというように、「一個の神だけをば感じる考え癖」がある。
 「最卑近な考え方では、いわゆる八百万の神というような神観は、低い知識の上でこそ考えておりますが、われわれの宗教的あるいは信仰的な考え方の上には、本道は現れてはまいりません」。
 日本の信仰にはそういう風があると見えて、「仏教の側で申しましても、多神的な信仰の方面を持ちながらも、その時代時代によって、信仰の中心はいつでも移動いたしておりまして、二三あるいは一つの仏・菩薩が対象として尊信されてまいりました。
 釈迦であり、観音であり、あるいは薬師であり、地蔵であり、そういう方々が中心として、信じられていたのです。
 これが同時に日本人の信仰の為方でと思います」。
 ・日本人が「数多の神」を信じているように見えても、「やはり考え方の傾向は、一つあるいは僅かの神々に帰してくるのだと思います」。
 「植民地に神社を造った」経験からは「皆まづ天照大神を祀っております」。この考え方は「間違った考え」を含んでいた、または「指導する神道家が間違った指導をしていた」ことを意味するのだろうが、「その間違いの根本に、そういう統一の行われる一つの理由があった。
 つまりどうしても、一神に考えが帰せられなければならならぬというところがあったのだと思います」。
 ・「神社において、あんなに尊信を続けられて来たという風な形に見えていますけれども、神その方としての本道の情熱をもっての信仰を受けておられたかということを、よく考えて見る必要があるのです。
 千年以来、神社教信仰の下火の時代が続いていたのです。
 ギリシア・ローマにおける『神々の死』といった年代が、千年以上続いていたと思わねばならぬのです。」
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 ③につづく。
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 現在読みかけの本を4つだけ。
 1. 飯倉晴武・地獄を二度も見た天皇-光厳院(吉川弘文館/歴史文化ライブラリー、2002)。
 2. 及川智早・変貌する古事記・日本書記(ちくま新書、2020)。
 3. 安西祐一郎・心と脳認知科学入門(岩波新書、2011)。
 4. 松岡正剛・心とトラウマ(角川ソフィア文庫、2020)。

2194/折口信夫「神道の新しい方向」(1949年)①。

 折口信夫「神道の新しい方向」同全集第20巻/神道宗教篇(中公文庫、1976)より。p.461以下。原出/1949年06月。一文ごとに改行。太字化は秋月。
 ***
 ・昭和20年の終戦前、「われわれには、この戦争に勝ち目があるのだろうかという、静かな反省が起こっても来ました」。
 不安でした。「それは、日本の国に果して、それだけの宗教的な情熱を持った若者がいるだろうかという考えでした」。
 ・「日本の若ものたちは、道徳的に優れている生活をしているかも知れないけれども、宗教的の情熱においては、遙かに劣った生活をしておりました」。
 「それが幾層倍かに拡張せられて現れた、この終戦以後のことでも訳りますように、世の中に、礼儀が失われているとか、礼が欠けているところから起る不規律だとかいうようなことが、われわれの身に迫ってきて、われわれを苦痛にしているのですが、それがみんな宗教的情熱を欠いているところから出ている。
 宗教的な、秩序ある生活をしていないから来るのだという心持ちがします。
 心持ちだけではありません。
 事実それが原因で、こういう礼儀のない生活を続けている訳です。
 これはどうしても宗教でなければ、救えません。」
 ・「ところが唯一ついいことは、われわれに非常に幸福な救いのときが来た、ということです。
 われわれにとっては、今の状態は決して幸福な状態だとは言えませんが、その中の万分の一の幸福を求めれば、こういうところから立ち直ってこそ、本道の宗教的な礼譲のある生活に這入ることが出来る。
 義人の出る、よい社会生活をすることが出来るということです。」
 ・「しかし時々ふっと考えますに、日本は一体宗教的の生活をする土台を持っているか、日本人は宗教的な情熱を持っているか、果して日本的な宗教をこれから築いてゆくだけの事情が、現れて来るかということです。
 事実、仏教徒の行動などを見ますと、<中略>というような感じのすることもございます。
 殊に、神道の方になりますと、土台から、宗教的な点において欠けているということが出来ます。」
 ・「神道では、これまで宗教化することをば、大変いけないことのように考える癖がついておりました。
 つまり宗教として取り扱うということは、神道の道徳的な要素を失って行くことになる。
 神道をあまり道徳化して考えております為に、そこから一歩でも出ることは道徳外れしたもののようにしてしまう。
 神道は宗教じゃない。
 宗教的に考えるのは、あの教派神道といわれるものと同様になるのだという、不思議な潔癖から神道の道徳観を立てて、宗教に赴くことを、極力防ぎ拒みして来ました。」
 ・「…、明治維新前後に、日本の教派神道というものは、雲のごとく興ってまいりました。
 どうしてあの時代に、教派神道が盛んに興って来たかと申しますと、これは先に申しました潔癖なる道徳観が、邪魔をすることが出来なかった。
 いったん誤られた潔癖な神道観が、地を払うた為に、そこにむらむらと自由な神道の芽生えが現れて来たのです。」
 ・「ただこの時に、本道の指導者と申しますか、本道の自覚者と申しますか、正しい教義を持って、正しい立場を持った祖述者が出て来て、その宗教化を進めて行ったら、どんなにいい幾流かの神道教が現れたかも知れないのです。
 それから幸福な、仮に幸福な状態が続いてまいりました。
 その為にまた再び、神道を宗教化するということが、道徳的にいけない、道徳的な潔癖に障るような気持ちが、再び盛んに起こってまいりました。
 そうして日本の神道というものは、宗教以外に出て行こうとしました。」
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 ②につづく。折口信夫、1887年~1953年。

2178/折口信夫「神道の史的価値」(1922)。

 折口信夫全集第02巻-古代研究(民俗篇1)(中公文庫、1975)より。
 折口信夫「神道の史的価値」(1922年1月)。p.161~の一部。
 一文ごとに改行する。旧字体を原則として改める。1922年=大正11年。
 ***
 「…。所謂『官の人』である為には、自分の奉仕する神社の経済状態を知らない様では、実際曠職と言わねばならぬ。」
 「併しながら此の方面の才能ばかりを、神職の人物判定の標準に限りたくはない。
 又其筋すじの人たちにしても、其辺の考えは十二分に持ってかかっているはずである。
 だが、此の調子では、やがて神職の事務員化の甚だしさを、嘆かなければならぬ時が来る。
 きっと来る。
 収斂の臣を忌んだのは、一面教化を度外視する事務員簇出の弊に堪えないからと言われよう。
 政治の理想とする所が、今と昔とで変わって来て居るのであるから、思想方面にはなまじいの参与は、ない方がよいかもしれぬ。
 唯、一郷の精神生活を預かって居る神職に、引き宛てて考えて見ると、単なる事務員では困るのである。
 社有財産を殖し、明細な報告書を作る事の外に、氏子信者の数えきれぬ程の魂を托せられて居るという自覚が、持ち続けられなければならぬ。<中略>
 …其氏子・信者の心持ちの方が、既に変わって了うて居る。
 田園路を案内しながら、信仰の今昔を説かれた、ある村のある社官の、寂し笑みには、心の底からの同感を示さないでは居られなかった。」
 「世間通になる前に、まず学者になって頂きたい。
 父、祖父が、一郷の知識であった時代を再現するのである。」
 「こうした転変のにがりを啜らされて来た神職の方々にとっては、『宮守りから官員へ』のお据え膳は、実際百日ひでりに虹の橋であった。
 われひと共に有頂天になり相な気がする。
 併し、じっと目を据えて見回すと、一向世間は変わって居ない。
 氏子の気ぐみだって、旧態を更めたとは見えぬ。
 いや其どころか、ある点では却って、悪くなってきた。
 世の末々まで見とおして、国家百年の計を立てる人々には、其が案ぜられてならなくなった。
 閑却せられていた神人の力を、借りなければならぬ世になった、ということに気のついたのは、せめてもの事である。
 だが、そこに人為のまだこなれきらぬ痕がある。
 自然にせり上がって来たものでないだけ、どうしても無理が目立つ。」
 「我々は、こうした世間から据えられた不自然な膳部にのんきらしく向かう事が出来ようか。
 何時、だしぬけに気まぐれなお膳を撒かれても、うろたえぬだけの用意がいる。
 其用意をもって、此潮流に乗って、年頃の枉屈を伸べるのが、当を得たものではあるまいか。
 当を得た策に、更に当を得た結果を収めようには、懐手を出して、書物の頁を繰らねばならぬ。」
 ***

2170/折口信夫「神道に見えた古代論理」(1934)。

 折口信夫全集第20巻-神道宗教篇(中公文庫、1976)より。
 折口信夫「神道に見えた古代論理」(1934年)。p.416~の一部。
 一文ごとに改行する。旧字体を原則として改める。
 ***
 ・「神道の歴史において、一番に考えなければならない事は、神道の極めて自然に発生的に変化してきたという以外に、なお不自然に飛躍してきた部分のある事である。<中略>」
 ・「しかし、じつは我々の知識による判断であるから、自然的な或いは不自然的な発展過程だと明確に決め込むには、十分の警戒を要する事である訳だ。
 たとえば仏教が社会を規定していた時代には、仏教的な神道が生まれ、儒教が世間の指導精神となっていた時代には、儒教的な神道が現れたのである。
 がしかし、なおも陰陽道が盛んになる以前の古い時代においても、種族的な信仰としての陰陽道が神道にとり入れられ、神道の神学の一部を形成したこともあるに違いない。
 これは、じつは元来宗教的に何の立場もない神道として、如何ような説明でも出来たためである。
 だからその発達の途中にとり入れられたものでも、時代を経るに従うて自然的なものになって、後の神道観からは、こう言うものが神道の最初から存在し、発達してきたと見る事もあり、また観者の中には、神道の中にある陰陽道的要素或いは仏教的要素などをば、それだとするを潔しとしない者もあるのだ。
 従って我々には歴史の経過以外に、素朴なものの考えられ様はないのだから、神道要素として含まれている仏教・陰陽道・道教・儒教などをば取り除いて見れば、神道と考えられるものがなくなる訳である。
 と同時に、我々の神道に対する従来の先入主を取り去って考えなければ、結局神道についての正常な理解は得られないのみならず、事実、人間の思考においては最初の出発点について考えることは空想なのだから、不用意な推定には必ず誤りが混じてくるのである。」
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 折口信夫、1887年~1953年。

2168/J・グレイ・わらの犬(2002)⑩-第4章01。

 J・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)。
 =John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002)。=<わらの犬-人間とその他の動物に関する考察>。
 邦訳書からの要約・抜粋または一部引用のつづき。邦訳書p.123-p.126。太字化は紹介者。(1), (2), (3)は秋月による。
 ***
 第4章・救われざる者(The Unsaved)。
 第1節・救済者(Saviours)。
 (1) 「仏陀は、万人が理解する苦悩からの解放(煩悩からの解脱)〔release from suffering〕を約束した。
 これに対して、だれも人間の原罪とは何かを説明できず、キリスト教の苦悩がどうして人の罪を償うことになるのか、理解してもいない。
 キリスト教はユダヤ教の一宗派(a sect)に始まった。
 初期の信者にとって、罪とは神の意志に背くことであり、罪深い人間に下される罰は世界の終末だった。
 この神話信仰(mythic beliefs)が、救世主(メシア)の人物造形に結実した。世界に懲罰を与え、篤信の少数に救いをもたらす神の使者である。」
 「キリスト教の開祖は聖パウロであって、イエスではない。
 パウロはユダヤ教の救世主信仰(Jewish messianic cult)をギリシア・ローマふうの神秘主義に塗り替えたが、自身の創始した信仰をユダヤ教の伝承から解放するまでには至らなかった。
 罪と償いの理念がユダヤ教の根幹をなす、というだけの話ではない。
 この考えがなかったならば、キリスト教が説く原罪の約束も、意味をなさない。
 人間に罪がないならば、救われるまでもないし、贖罪の約束も、悲痛に耐える身の支えにはならない。」
 (2) 「人類は自分たちを自由で覚醒した存在だと考えているが、じつはたぶらかされた動物(deluded animals)である。
 それでいながら、想像で作り上げた自分の姿から逃れようと足掻き続けている。
 その信仰(religions)は、手にしたこともない自由を打ち捨てる苦行である。
 20世紀には、右翼と左翼のユートピア思想がともに同じ機能を果たした。
 今日では、政治が娯楽(entertainment)としてすら説得力を失って、科学が救世主の役割を引き受けている。
 (3) 「おおかたの人間は救済者(saviours)を軽んじているばかりに、救済者から解放されることを願わない。
 人間が救済者を待ち望む以上に、明日の救済者の方がよほど人間を必要としているのである。
 人間が救済者に期待するのは気散じ(distraction)であって、救済の福音ではない。」
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 第2節以降へ。

2167/折口信夫「宮廷生活の幻想」(1947年)。

 折口信夫全集第20巻-神道宗教篇(中公文庫、1976)より。
 p.41~。折口信夫「宮廷生活の幻想」(1947年)
 一文ごとに改行する。旧字体を原則として改める。青太字化は秋月。
 ***
 ・「神話という語は、数年来非常に、用語例をゆるやかに使われて来ている。
 戦争中はもとより、戦争前からで、すでに広漠とした、延長することの出来るだけ、広い意味に使われていた。
 それは、ナチス・ドイツの用語をそのまま直訳したものであろうが、-<中略>-この神話という語も、そうした象徴風な受けとり方がせられている。」
 ・「私ども、民俗学を研究する者の側から考えると、神話という語はすこぶる範囲を限って使うべき語となる。
 普通に使われているより、さらに狭い意義なのだから、それとはよほど違うのである。
 神話は神学の基礎である。
 雑然と統一のない神の物語が、系統づけられて、そこに神話があり、それを基礎として、神学ができる。
 神学のために、神話はあるのである。
 従って神学のない所に、神話はない訳である。
 言わば神学的神話が、学問上にいう神話なのである。」
 ・「神代の神話とか神話時代とか、普通称されているが、学問上から言う神話は、まだ我が国にはないと言うてよい。
 日本には、ただ神々の物語があるまでである。
 何故かと言えば、日本には神学がないからである。
 日本には、過去の素朴な宗教精神を組織立てて系統づけた神学がなく、さらに、神学を要求する日本的な宗教もない。
 それですなわち、神話もない訳である。
 統一のない、単なる神々の物語は、学問的には、神話とは言わないこととするのがよいのである。
 従って日本の過去の物語の中からは、神話の材料を見出すことは出来ても、神話そのものは存在しない訳である。」
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 折口信夫について、以下の著に接した。
 植村和秀・折口信夫-日本の保守主義者(中公新書、2017)。
 斎藤英喜・折口信夫-神性を拡張する復活の喜び (ミネルヴァ書房、2019)。


2158/神社新報編輯部・皇室典範改正問題(2019.10)。

 神社新報編輯部・皇室典範改正問題と神道人の課題/鎮守の杜ブックレット3(神社新報社、2019.10)。
 この冊子的な書物の刊行時期(昨2019年秋)からすると、現今の皇室典範改正・皇位継承問題について、神社本庁の現在の姿勢・見解を提示しているかと思ったが、そうではなかった。
 収載されているのは全て、2005年(平成17年)に神社新報に掲載されたもののようだ。2004年末に、小泉首相の私的諮問・有識者会議が設置されていた。
 とはいえ、昨年秋にこれを出版するということは、2005年時点の見解を大きくは変更していないこと、または現時点での一致した定見を神社本庁は有していないことの表れかと思える。
 外野的第三者の印象では、「一部保守」または「宗教右翼」は、つぎで一致している。
 ①男系男子限定、そのための②旧皇族の子等の「皇族」復帰。
 従って、③女性宮家創設反対(女性天皇容認につながるから)、④女性天皇反対(女系天皇につながるから)、⑤女系天皇反対。
 こうまでの趣旨は、上掲冊子(書物)では読み取れない。
 ①男系男子限定・②旧皇族男子復活・③女性宮家反対、というだけの論者たちは、「現実」から再び取り残される可能性がある(今回は西尾幹二を含む)。
 とはいえ、自民党有志らは上の②を可能とする法案を作成したりしているので、この主張は、政治的影響力をまだ持っていそうだ。
 自民党有志案で驚いたまたは注目したのは、「皇族復帰」について該当候補者の「同意」を得る、ということだった。
 簡単に「同意」を得ることができるか、そのような人物はいるか、という問題はある。
 最近の高森明勅ブログを読むと、政府は実際上はこの該当候補者の「意向確認」・「打診」を行ったが、よい結果が出なかったようだ、とか書いてあった。
 上の点はともかく(重要なことだが)、皇族復帰を各人の「意思」に委ねるというのは皇位継承を各人の「意思」に委ねることをほとんど意味する(子どもにとってはその「運命」を親が決定する)、あるいはほぼ等しく、継承候補者の「意思」いかんによる皇位継承を天皇制度は予定してきたのか、という基本的・原理的な問題があることを感じる。
 但し、と言っても、一定の要件のもとで一律に一括して(強制的に)皇族とし、「一般」国民たる地位を剥奪することがどういう理屈のもとで現行法上可能か、というこれまた困難な問題があることは、たぶん昨年の初夏あたりに書いた。
 ***
 資料として、いくつか興味深いものが上掲冊子には載っている。
 一つだけ、紹介する。 
 光格天皇~明仁上皇までの「側室」、嫡子・庶子、男子・女子、各数一覧。p.28。
 「編輯部調」となっている。ここでは「皇子・皇女」→「男子・女子」、「0」→「無」と記載を改めた。皇后名・天皇の出身(例、閑院宮典仁親王第六王子)は割愛している。
         側室 子計 嫡子・庶子 男子・女子
 119代・光格天皇 7   18  2  16  12 06
 120代・仁孝天皇 5   15  3  12  07 08
 121代・孝明天皇 3   06  2  04  02 04
 122代・明治天皇 5   15  無  15  05 10
 123代・大正天皇 無  04  4  無  04 無
 124代・昭和天皇 無  07  7  無  02 05
 125代・明仁上皇 無  03  3  無  02 01
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2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。

 「死は事実ではない。概念である」。
 ある霊長類学者によると、ニホンザルは仲間の「死」を理解できない。
 「私たちホモサピエンスは、その進化の過程で、いつの時代にか死を発見した」。
 「死」の「理解」・「概念化」・「認識」があった。
 「死の発見は、ホモサピエンスに、絶望的な恐怖とともに、精神世界のビッグバンをもたらした。
 生と死の認識、つまり霊魂観念と他界観念の発生である。それは、宗教の誕生であった。」
 新谷尚紀監修=古川順弘執筆・神様に秘められた日本史の謎(洋泉社新書、2015)、「はじめに」。
 神道・神社・宗教に関する、かなりの数の書物に目を通した。
 上の本は、かなり上質だと思える。
 上の叙述のあと、さらにこうある。p.5。
 人間が「想像し創造した」、日本の「神さま仏さま」の「歴史的な追跡と整理」は可能だ。
 第一は、古代の動向の整理だ。
 ①「古代日本の神々への信仰とその伝承」。
 ②「中国から伝来した陰陽五行の思想や道教の信仰などの受容とその消化と醸成」。
 ③インドから中国、韓半島を経て「日本に請来され」、その後も7ー9世紀の遣唐使随行の僧侶たちにより「請来された圧倒的な仏教信仰」。
 これら三者が「古代社会において大きな奔流となっていった」。そして、「併存混淆状態であった」。簡単には、①「神祇信仰」、②「陰陽五行信仰」、③「仏教信仰」。
 第二は、「中世神祇信仰の複雑奇妙な動態」。
 上の①も「古代のまま」ではなく、②も「卜占や防疫や呪術の信仰として中世的な進化を遂げ」、③も「顕密体制の根底を維持」しつつ、新仏教の伝来・発達により「動揺しまた活性化」した。
 「武家政権の誕生と大陸貿易の活性化」により、「新たな中世的神仏信仰や霊異霊妙信仰」が生まれた(祇園天神・牛頭天王、毘沙門天、泰山夫君・新羅明神など)。
 以下は、省略。
 上の①「神祇信仰」=「古代日本の神々への信仰とその伝承」は、今日でイメージされる「神道」ではないと考えられる。
 少なくとも、津田左右吉も指摘していただろうように、日本人(日本列島生活者たち)の「民俗的宗教」または「宗教的信仰」と律令制下の国家(・天皇家)が束ねる「神祇信仰」とを分ける必要がある。そして、いずれも、つまり後者ですら、今日にいう「神道」と同じものだとは言い難いだろう。
 櫻井よしこのつぎの文二つは、<あほ丸出し>だ。
 「古事記」は、「日本の宗教である神道の特徴を明確に示しています」。
 =櫻井よしこ・月刊正論2017年3月号(産経)。
 「神道の価値観」は「穏やかで、寛容である。神道の神々を祭ってきた日本は異教の教えである仏教を受け入れた」。
 =櫻井よしこ・週刊新潮2019年1月3日=10日号(新潮社)。
 <仏教伝来>以前にあったという「神道」とは、いったい何のことか?
 常識に属するが、日本書記や古事記の編纂は<仏教伝来>よりも後のこと。
 ところで、上の新谷尚紀監修著の特徴の一つは、「神祇信仰」・「仏教信仰」と「陰陽五行信仰(+道教信仰)」を並列させることだろう。むろん「併存混淆状態」だったことを前提としてだ。
 その的確さを判断する資格・能力はないが、今日では「神道」でも「仏教」でもなさそうな宗教的「信仰」・「儀礼」・「習俗」が現に存在しているのは確かだろう。
 太古の日本人(日本列島居住者たち)は「時間」や「方位」をどうやって感得し、把握したのだろうか。
 何らかの知識を蓄えていたに違いない。そうでないと、生き残ることはできない。
 だが、おそらくは公式の仏教伝来以前から、半島や大陸の人々との交流を通じて、「時間」(=つまり「暦」)や方向・方位に関する、より綿密で体系的な「知識大系」を得てきたのだろうと推察している。
 以下は、付け足しの、ほとんど断片的記述。
 「干支」による年表記を、日本書記も古事記も用いている。
 干支、そして「えと」は、日本「古来」のものか? 違うだろう。
 「鬼門」(表鬼門・裏鬼門)封じは、日本「古来」の「神道」上のものか? 違うだろう。
 京都御所を取り囲む塀の東北角には「猿が辻」といわれる、「へこみ」が、現在でもある。
 「五芒星」のマークが、晴明神社の石鳥居についている。晴明神社は神社だから、これは「神道」の何らかの表徴なのか? 違うだろう。安倍晴明は神道者か?
 「妙見」信仰というのは北極星または北斗七星への信仰らしい。そして、これを神仏とする、今の分類でいう仏教寺院も神社もあるようだ。
 これらは全て、櫻井よしこのいう<神道の穏やかな寛容さ>によって生まれたのか? 馬鹿なことを書かない方がよい。
 無知か、何らかの<政治的>動機にもとづいている。後者だとすると、日本会議、神道政治連盟、神社本庁の「運動」員・「活動」員としてのものだろう。

 *下は、京都御所の北東角・「猿が辻」(かつて撮影したもの)。

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2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。

 京都・泉涌寺直近の、宮内庁管理地だが実質的には同寺境内と言い得る月輪陵・後月輪陵の葬礼様式は仏教・火葬で、孝明天皇についての後月輪東山陵は神道・土葬だ、というのは幼稚かつ単純な誤解だった。
 前者の区画でも土葬は行われている。火葬-仏教、土葬-儒教または神道という対照関係は日本では成立していなかったようだ。
 前者-仏教様式、だとしても、後者=孝明天皇陵-神道様式、だと明確に断定できるかというと、後者についてはなお疑問符がつく。
 1868年09月-明治改元(1月に遡及)。
 同年03月-五箇条の御誓文。神仏判然令。
 同年01月-鳥羽伏見戦争。
 1867年12月-大政奉還・倒幕の密勅。坂本龍馬暗殺。王政復古宣言。
 同年01月-明治天皇践祚。
 1866年12月-孝明天皇崩御。
 孝明天皇の死はまだいちおうは「公武合体」政策上にあったが尊王・倒幕の動きが強くなっていたときに生じた。
 「政治」体制・過程とともに「宗教」、そして「葬礼」の様式についての意識変化も生じていたようだ。
 1867年に入ってからの、孝明天皇陵の造営に関する興味深い文書が、つぎの著に紹介されている。
 大角修・天皇家のお葬式(講談社現代新書、2017)。
 実際に造営が行われ、現在に残る孝明天皇陵にとってどの程度決定的だったかは著者も明記していないが、大きな影響を与えただろうと推察される。
p.100ー101によると、<孝明天皇紀>に収載されている文書のようだ。
 幕府に置かれ、山陵(天皇陵)の管理を職掌とした山陵奉行・戸田忠至(宇都宮藩)は、孝明死後に、大角修がつぎのように要約する文書を提出した。p.101ーp.102。
 「仏法伝来以後、上古淳朴の習わしが失われ、この数百年は玉体を灰にして九輪塔をたてるようになったのは恐懼悲嘆の至りである。
 後光明天皇から火葬は廃止されたけれども、その後も山頭堂(荼毘所の葬場殿)で荼毘の作法が行われている。
 山頭堂から廟所までは僧たちが密行と称して、表面は火葬、内実は埋葬と称している。
 このような表裏不合の葬礼では四海臨御の皇室の傷にもなると痛哭する。
 名分国体は天下人心の向背にかかわることなので、元来の埋葬に戻してほしい。」
 これの原文・読み下し文も掲載されているが、それをさらに秋月流に「くずして」紹介すると、つぎのとおりだ。「」は上掲書での原語。
 <今般、御陵御造営のこと、取り調べて進達するよう、広橋大納言殿から言いつけがあった。
 「中古、仏法渡来已後」、造営の様式も変革されて、ついに「上古淳朴の風」、「刻薄残忍」になってしまい、「持統天皇に始め奉りて御荼毘」のこと、代々「御常例」となり、「恐れ乍ら万乗〔天子〕の玉体を一旦灰燼に委せ奉り」、九輪石の御塔を「御表」としてしまうのが「数百年来」の御定制となり、「遷延〔ずるずると延びて〕今日に」至ったことは、「恐懼悲嘆の至り」である
 ……、「後光明天皇御新喪御時より御火葬廃され」たけれども、その後、「御代々」の葬儀では「御龕前堂へ入御、御式なされ、済夫より山頭堂〔荼毘所〕にて御荼毘の御作法」がある。
 その場所から御廟所までは「寺門僧徒とも御密行と称」して「御表面は御火葬、御内実は御埋葬」と言っている、と存じている。<中略>
 「勿体なくも一天万乗の大君として表裏不合の御礼節」があることは「四海臨御の御体裁」として、恐れ乍ら「御瑕瑾にも渡さるべきかと痛哭」いたしている。<中略>
 「断然内外一致の御埋葬の御礼儀に復され、右御荼毘無実の御規式一切御廃止」となるように、していただきたい。
 まさに「名分国体は天下人心の向背に関係」しているので、「右」を早々に「御英断」し、「臣子忠孝の標準、御教誨」をすることがなければ、御陵のことは「取調」することができないので、「微衷」を申し上げる。…>
 この上申文書が大きな影響を与えたにちがいない。実際には、つぎのように変わったようだ。p.102以下。
 ①後光明天皇の葬礼以後は火葬〔荼毘に付す〕をしなくなったが、それまで(仁孝天皇まで)の火葬の際の仏教的「密行」を同様に行ってきたところ、これを廃止した。
 ②これまでは遺体の入る「棺」を「廟所」(陵所)まで運んだのは「僧」だったが、「御所衛士と戸田忠至が手配した人夫がかつぎ」、戸田が先導して登って「地中の石槨に棺を納めた」。
 要するに、「仏式」の排除、「仏僧」の関与の排除が明確だ。後者は江戸時代は、泉涌寺の僧侶たちだったのだろう。
 しかし、第一に、「火葬」の否定の趣旨は明確だとしても、火葬ではなく土葬が「上古淳朴の風」に合致することの根拠が明確に語られているわけでもなさそうだ。持統天皇の名を明記して、それ以来まずくなった、とは言っている。「玉体を一旦灰燼に委せ」るのが怪しからんと、明確に述べているのかどうか。
 また、第二に、火葬の否定よりも、実際には火葬ではないにもかかわらずそのふうの儀礼を(仏教式で)行っているという、つまり「御表面は御火葬、御内実は御埋葬」で、「御荼毘無実の御規式」が「表裏不合」だということを、強調しているようでもある。
 仏教色排除という「変革」の方針だけは明確であっても、天皇・皇族の陵墓の様式や葬礼の仕方について、「宗教」的または「思想」的な深い、確固たる考え方を前提にしていたわけではなさそうに見える。それでもしかし、数百年の「慣例」を破る「新しい」ものではあった。
 なお、戸田らはもともとは、孝明天皇の陵地自体を、泉涌寺近辺を排して、吉田山(吉田神社がある)または天智天皇山科陵の丘を構想していたようだ。p.102。
 泉涌寺=仏教寺院からの、地理的にも完全な離脱だ。
 しかし、泉涌寺関係者の猛反対があり、また英照皇太后(孝明の后)が多数の陵墓のある泉涌寺から「ひとり先帝だけ」遠ざけるのは「しのびず」、泉涌寺以外では「十分に供養ができない」として泉涌寺(付近)を望んだことで、結局は現在の後月輪東山陵となった、という。同上。
 よくありがちな、折衷的、妥協的解決だ。
 孝明天皇陵へは、今でも泉涌寺の名を掲げる「総門」を入らないと到達できない。同寺の境内にある、という感覚が生じてもやむを得ないだろう。
 しかし、仁孝天皇までの月輪陵・後月輪陵は山丘の西麓の平面地にあって、両区画への一つの入り口となる門がある。泉涌寺霊明殿から東を向いて供養・読経する場合に、ほぼ正面に各陵墓はある。陵墓には九重石塔があるなど、仏教式だ。
 一方、孝明天皇陵は山丘中腹にある円墳様式で、南面していると見られる。つまり、拝礼場所は、円墳の南側にある。泉涌寺内の霊明殿と向かい合っていない。なお、これを造営できるだけの丘が泉涌寺の東に存在しなかったとすれば、孝明天皇陵は別の箇所に築かれたのではないだろうか。
 明治天皇陵以降は、仏教寺院近辺には設営されなくなる。

 **以下、すべてネット上より。
 一段め左は、上が北。同右は、孝明天皇(+英照皇太后)陵への門(西向き)。
 二段め左は月輪陵・後月輪陵。同右の地図は再掲。


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2137/東大寺二月堂修二会と「御霊」。

 いつだったか、たぶん今年になってから、東大寺二月堂の法会の一つ、修二会に関する興味深い記述を読んだ。最初は下記ではなかったようにも思うが、この著の導入部分のp.10~p.24はほとんど東大寺修二会の話なので、関心をもった部分を要約して、まとめておく。
 吉川真司・聖武天皇と仏都平城京/天皇の歴史02(講談社、2011)。
  修二会という法会は他寺院でも行われるが、東大寺では752年開始。聖武天皇の時代。
 〔*長屋王の変/729年・藤原四兄弟疫病死/737年ー秋月〕
 「薬師悔過・阿弥陀悔過・吉祥悔過など」の本尊による「悔過会」の規模は東大寺修二会が最大で、「諸行事・諸作法」が全て出揃っていた。-今日に残るのは貴重。
 第5日・第12日には「過去帳の奉読」がある。東大寺や修二会に「ゆかりの深い」人物を読み上げる作法だ。
 「大伽藍聖武帝」に始まり「聖母皇大后宮」、「光明皇后」、「行基菩薩」、「本願孝謙天皇」、「不比等右大臣」、「諸兄左大臣」、「根本良弁僧正」、「当院本願実忠和尚」と続き、中世・近世そして現代に至る。
 平安期末までの歴代天皇を抜き出すと、<聖武・淳仁・光仁・桓武・嵯峨・淳和・仁明・文徳・清和・陽成・光孝・宇多・醍醐・朱雀・村上・冷泉・円融・一条・三条・後一条・後朱雀・後冷泉・後三条・白河・堀河・鳥羽・近衛・後白河>の29人。「崇道天皇」=早良親王も出てくる。「なぜ数人の天皇だけが抜けているのか」。
  「過去帳」奉読の由来・起源の特定は困難だ。「呪術作法は明らかに真言密教の呪禁」で、「当院本願実忠和尚」の時代には存在しなかった。
  毎日読み上げられる「神名帳」(じんみょう-)も興味深い。
 日本全国から1万3700余の「神々」を勧請し、加護を祈る儀礼だ。
 「金峰大菩薩」・「八幡三所大菩薩」等の大菩薩号の「神々」→「廿五所大明神」・「飯道大明神」等の大明神。それぞれが大和の「神々」から全国に及んでいく。
 「過去帳」が時間軸で形成されているなら、「神名帳」は空間秩序を表現している。
  「神名帳」が最終段(全九段のうち)に入ると、「奉読にあたる練行衆は急に声をひそめ、重々しい声で『御霊』の名を唱え始める」。
 「八島御霊、霊安寺御霊、西寺御霊、普光御霊、天満御霊、先生御霊、氷室御霊、木辻御霊、大道御霊、塚上御霊、葛下郡御霊」。
 この11柱(「天満先生」を一つとすると10柱)のうち、①「八島御霊」=崇道天皇(早良親王)、②「霊安寺御霊」=井上内親王〔光仁天皇の廃后〕、③「天満天神」=菅原道真であることは「明瞭」だ。「あとはよくわからない」。
 863年(貞観5年)の「神泉苑御霊会」では、①早良親王、②伊予親王、③藤原吉子、④藤原仲成、⑤橘逸勢、⑥文屋宮田麻呂の6人が「疫病をもたら御霊として祀られた」。
 「八所御霊」と使用する場合には、a 「吉備真備・菅原道真」が加わったり、b 「伊予・仲成に代えて」、「井上内親王・他戸親王」が入れられる、ということもある。
 「これらが修二会神名帳の御霊とほとんど重複している可能性は高い」。
  「ともあれ、修二会には御霊信仰が含みこまれていた。敗残・憤懣のなかに死んだ王族や貴族が祟りをなす、それゆえ彼ら・彼女らを祀り慰撫しようとする信仰。その起源もまた、平城京の時代にあった」。
 「亡魂」信仰の初出史料は757年の「橘奈良麻呂の変」に見られるが、729年に「謀殺」された長屋王も、「その怨霊が深く恐れられたと推定されている。いずれも皇位継承をめぐる政争、もっと具体的に言えば、聖武天皇の後継者争いにおける敗北者が、怨霊として畏怖されていることになる」。
 仏都平城京は「御霊信仰の揺籃の地」で、「聖武天皇の存在が大きく関与していた」。
 「神仏習合と御霊信仰の発生は奈良時代の天皇に関わる問題として、深く追及される必要があるだろう」。
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 いつぞやこの欄で触れ、上でも吉川著が言及しているように、今は京都市の「御池通り」の北に接する、「池」をもつ神泉苑で、863年に初回の(公式の)御霊会が開かれた。
 この神泉苑という今では明確に仏教寺院は、<祇園祭>が有名になったためか、祇園祭の「発祥」の地だと宣伝?しているようだ。
 しかし、祇園祭に最も関係のある八坂神社(祇園社)は「神道」の「神社」なのではないか、とすぐに感じる。
 とはいえ、こう簡単ではないのが「ややこしい」ところで、「祇園」という語自体が仏典上の言葉だったこととともに、祇園社はもともとは「日本の神々」を祀った社ではない。前回の所功著によると、例えば、こう叙述されている。
 所功・京都の三大祭(角川ソフィア文庫、2014/原著1996)。
 p.112-八坂神社の呼称は新しく、1868年(慶応4年=明治1年)の神仏分離令にもとづき、「八坂郷」にある「感神院祇園社」を「八坂神社」と改称すると布告されたことによる。
 p.118-「もともと薬師如来を本尊としていた『観慶寺』」が「天神(午頭天王)」を祀る「祇園社(天神堂・感神院)」と称されるようになった。
 p.119-祇園社には「仏教と神道だけでなく、陰陽道などの要素も習合していた」。
 p.123-祇園社には創立まもない935年頃から、①「薬師本尊などを安置する本堂と礼堂」、②「午頭天王などを祀る神殿と礼堂(礼拝殿)」が並存していた。等々々。
 修二会というのは(諸種の習合した)「御霊信仰」の仏教寺院への発展形かもしれないのだが、このあたりにしよう。

2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。

 所功・京都の三大祭(角川ソフィア文庫、2012/角川選書1996)。
 京都の三大祭の論述の前提として書かれているが、上の著の冒頭部分は京都の神社の種々の体系化・分類に役立つ。幕末での天皇の行幸先とか祈祷・神祭を命じる神社についていろいろな神社の名が出てきたりするので、主立った神社を特定して整理したいと思っていたのだが、この書の始めの部分が役立つことに気づいた(すでに傍線まで引いてあった。そして忘れていた)。
 神社本庁とかによる書でどう書かれているのかを調べるのは億劫だ。
 以下、序章(p.13~p.42)から、まとめる。
  延喜式(927年)・神名式にその名が登載されている神社を「式内社」という。全国で3232座・2861所。これ以外を「式外社」という。
 式内社には、神祇官から幣帛を受ける「官幣社」と国司から売ける「国幣社」がある。 官幣社は、京・山城では161座・約100神社、現在の京都市域では88座になる。
 「式外社」のうち、<六国史>に記載のある神社を「国史見在社」といい、山城地域に10数社ほどある。
  平安遷都以前のおおきくは2種の「古い」神々・神社。
  A/「当地にいた人々による」。
  ・左京区岩倉の石座神社・山住神社(のち式外社)の巨岩。
  ・松尾大社・稲荷大社の社殿背後の山、神山(上賀茂神社)・御蔭山(下鴨神社)。
  ・北野「天神」(のちに北野天満宮か)。
  B/渡来氏族による。
  ・月読神社(今は松尾大社の摂社)。
  ・平野神社ー百済出身「今来」の奉斎神。
  ・木島坐天照御魂神社(蚕の社)。
  ・秦河勝による「蜂岡寺」。
  ・秦都理や秦伊侶巨人による松尾大社・稲荷大社の神殿建立。
  ・宮中内の「園韓神社」-内裏造営の際に移転せず。
  ・高麗人後裔による八坂法観寺、新羅から「牛頭天王」の招来。
  平安初期の新しい神社。
  ①平野神社(桓武天皇外戚(高野新笠の父)神で奈良から遷祀)。
  ②梅宮神社(仁明天皇外戚神)。
  延喜式前後。
  A/官幣大社のうち「名神祭」と「祈雨神祭」が重なって、重視。 
  ①上賀茂神社・下鴨神社、②松尾神社、③貴布禰(貴船)神社。
 B/その他、式内社以外。
  ①大原野神社、②吉田神社、③石清水八幡宮、④八坂祇園社、10世紀に⑤北野天満宮。
  平安中期-畿内と近辺の「二十二社制」/朝廷から特別の奉幣。
  うち、京・山城はつぎの11。A「式内古社」・B「式内新社」に分ける。
  A/①賀茂(上・下)、②松尾大社、③平野神社、④伏見稲荷大社、⑤梅宮大社、⑥貴布禰(貴船)神社。山城でないが、近江の⑦日吉社も近い。
  B/①石清水、②大原野、③吉田、④祇園、⑤北野。
  上のうち、「天皇行幸」等慣例化は、つぎの八社。
  ①賀茂、②松尾、③平野、④稲荷、⑤石清水、⑥大原野、⑦祇園、⑧北野。
  室町時代-八社(・六社)への実質的限定。
  ①伊勢、②春日(奈良)/。③石清水、④賀茂、⑤平野、⑥松尾、⑦稲荷、⑧北野。
 歴代足利将軍は、①石清水、②北野に各何十回も参詣。前者は源氏由緒の八幡神(応神天皇)。
 応仁の乱以後、①吉田神社が、②賀茂、③松尾、④稲荷と並ぶ地位を築く。
  明治維新・A/神仏分離。
  1. 石清水「八幡大菩薩」→「八幡大神」。
  2. 愛宕山「大権現」→愛宕神社(へと純化)。
  3. 北野天満宮-境内の観音堂・毘沙門堂・多宝塔等を仏像・教典とともに全て撤去。
  4. 伏見稲荷-境内の文殊堂・大師堂や領内の浄安寺等を撤去。
  B/1872年。
  ・全国社寺「上知令」-境内以外の領地・境内付属地の収公。
  〔*秋月-現在の円山公園は長楽寺の境内地だつた、とされる。〕
  ・世襲社家の一斉解職。陰暦廃止・陽暦(西洋暦)の採用。
  新社格制度(1872年)。
  A/官幣大社-①上賀茂と下鴨、②石清水八幡宮、③松尾神社、④平野神社、⑤稲荷神社、⑥八坂神社(、のち⑦吉田神社)。
  B/官幣中社-①梅宮神社、②貴船神社、③大原野神社、④吉田神社、⑤北野神社。
  C/別格官幣社(官幣小社と同格)-①豊国神社(1874、豊臣秀吉)、②護王神社(1873、和気清麻呂)、③建勲神社(1875、織田信長)、④梨木神社(1885、三条実万)。
  のちの天皇神霊社。
  ①白峯神宮(1873年・官幣中社列格、崇徳天皇。のち1940年・官幣大社)。
  ②平安神宮(1895年・官幣大社列格、桓武天皇。のち1940年、孝明天皇を合祀)。
  戦後。
  すべて、一宗教法人。京都市内の宗教法人神社は300社余り。
 以上。
 ***
 これらの神社のうち、岩や山は別として、愛宕山登山に近いらしい愛宕神社を除き、全て訪問・参詣したことがある。今宮神社が出てこないのは残念だし、不思議。「蚕の社」の三柱鳥居も見た。ー3鳥居が三角形になって向かい合う。建勲神社は船岡山にあるが、眺望は期待できない。
 一般の京都旅行者に、最も知られていない、馴染みがないのは、勝手な推測だが、梅宮大社(四条大宮と松尾大社の間)、ついで御所のすぐ近くだが、護王神社、ではないだろうか。
 下は、木島坐天照御魂神社(蚕の社)の三柱鳥居。ネット上より。


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2133/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史14②。

 八幡和郎・皇位継承と万世一系に謎はない~新皇国史観が中国から日本を守る~(扶桑社新書、2011)。
 八幡和郎のこの書の問題性・不備を、聖武から孝謙への移行に関するつぎの一文も、明瞭に示していると思われる。p.93。
 「孝謙天皇の即位自体は予定されていましたが、749年に即位したのは、聖武天皇が出家され、神である天皇が僧であり『三宝の奴』であるというややこしいことになっていたことも譲位を急ぐ理由だったようです」。
 八幡は「…ようです」と書いて、自らの主観的推測でしかないことを活字にしているわけだ。こういう程度の推測・憶測を読まされたのでは、「おもに保守的な読者」も我慢できないのではないか。
 いろいろと問題はある。
 第一に、「ややこしいことになっていた」とあるが、天皇の<出家>(=少なくとも仏教徒だと宣言・宣告すること)が「ややこしい」ことだったのは、はたして聖武天皇に限られるのか。
 この時代、以下の書物のタイトルが「仏都」の語を用いるように、「仏教」の天皇・皇族への影響は相当のものがあった。
 吉川真司・聖武天皇と仏都平城京/天皇の歴史02(講談社、2011)。
 八幡はまるで聖武が出家した最初の天皇だと理解しているのかもしれないが、日本書記によるとだが、天武天皇もまた天皇就位以前に「出家」していた、と明記されている。<壬申の乱>直前の有名な話の中にある。病臥中の天智天皇の言葉から始まる。
 「天皇は東宮〔大海人皇子=天武〕に勅して、皇位を授けようと仰せられた。東宮は辞退して、『不運にも、私はもともと多くの病をすかかえております。どうして国家を保つことができましょうか。<中略> 私は今日出家して、陛下のために功徳を修めたいと存じます』と申し上げられた」。
 「天皇は、これをお許しになった。その日に、東宮は出家して法衣を着られた。そうして私有の兵器を残らず宮司に納められた」。
 このあと、のちの天武は「吉野宮」に入る。
 以上、新編日本古典文学全集04/日本書記3(小学館、1998)、p.301-3。
 「出家」が出てくる原文は、「臣今日出家、為陛下欲修功徳」、「即日、出家法服」。この書には原漢字文(返り文字付き)のほかに訓み下し文もあるが、上の引用は、読み下しではなく<現代文訳>による。
 つぎも参照。「天武は一度出家した経歴をもち、…」と明記している。p.65。
 勝浦令子「仏教と教典」列島の古代史07/信仰と世界観(岩波書店、2006)
 勝浦は、<偽装>の仏教重視ではなく、仏教との関係での天武天皇の重要性について、こうも書いている。同頁。
 「神祇祭祀を基盤…だけでなく、…一切経を網羅具備し、これを含む三宝に帰依することで補完する信仰体制を構築したことは、8世紀以降の国家と仏教、天皇と仏教との関係に大きな影響を与えたといえる」。
 具体的には685年3月の詔に言及があるので(p.66)、上掲書から日本書記の記述を引用しておこう。天武天皇14年(685年)のことだ。
 「壬申〔3月〕に、詔して、『諸々の国の家ごとに、仏舎を造り、仏像と経とを置いて、礼拝し供養せよ』と仰せられた」。p.445
 勝浦によると、「地方への仏教普及」を目的としたもので、実際にも「急速に諸国に寺院が建立されたことは考古学的にもよく知られている」(p.66)。
 というわけで、仏教の影響は「出家」に至るかはともかく、この時代では特段に「ややこしい」ことではないだろう。
 第二に、八幡和郎の「神である天皇が…」という表現も、いささか不用意だろう。「大君は神にしませば」等という万葉集内での詩・句の表現が記憶にあったのだろうか。
 しかし、立ち入らないが、天皇と「神」の関係、例えば天皇は「神」かそれとも「祭祀者」かは、時代の観念によっても異なるだろうが、かく言うほどに簡単ではないだろう。
 第三に、仏教との関係では、聖武天皇はたんに出家しただけ、というのではない。
 東大寺(・盧舎那大仏)建立、死後の光明皇后による財宝類・史資料の同寺・正倉院への寄託の程度の知識はあった。だが、上掲の吉川真司著(天皇の歴史02)は、シロウトには驚くばかりの仏教信者ぶりだったことを叙述している。以下、この吉川著による。
 ①726年、元正太上天皇の病気平癒を願って、興福寺東金堂を建てた。なお、光明皇后も730年に、興福寺五重塔を建てた。この二つは、現在地に残る(15世紀前半の再建にせよ)。
 ②737年、全国(諸国)に、釈迦三尊像の造顕、大般若経一部600巻の書写を命令。
 ③741年、「国分寺建立の詔」を発した。「国分寺(跡)」は全国に現在に残り、地名となっていることも少なくない。この詔は言う-凶作・疫病は「みな朕の政治が悪い」からだが、「神仏の加護を祈ったところ、たしかに霊験があった。そこで、全国に最勝王経・法華経を根本教典とする国分寺・国分尼寺を創建し、国分寺には七重塔を造立して、金字の金光明最勝王経を安置せよ」。
 ④743年、紫香楽宮で盧舎那大仏建立の詔を発した。詔書に言う-「仏法によって天下に幸いをもたらしたく、朕は菩薩の大願を発して、盧舎那仏の金銅像を造りたてまつる」。
 ⑤ 746年、元正太上天皇・光明皇后と3名で行幸して、盧舎那仏「燃灯供養」。747年、大仏建立開始、官大寺である東大寺と名称変更。
 ⑥748年、諸国に「夏安居」=寺院での勉学修行、「最勝王経」講説を命じる。
 ⑦749年、全国諸寺での法会=「悔過会」を発願して、命じる。
 ⑧同年4月、光明皇后・阿倍内親王(=孝謙)とともに東大寺・大仏鋳造現場で、大仏に「北面」し、「三宝の奴」と称して陸奥での黄金産出を報告。/改元
 ⑨同年閏5月、大安寺・薬師寺・元興寺・興福寺・東大寺等12大寺に資財・墾田を施す(一切経講説等の財源)。(/出家。)
 ⑩上のとき、各寺院あて詔書で、「太上天皇沙弥勝満」と自称〔下記参照〕。/5月23日、都を離れて薬師寺に移る。7月、譲位・孝謙即位。
 以上のとおり。
 最後の⑩部分の「沙弥勝満」は聖武自身のことで、「勝満」は固有名。「沙弥」とは大まかには正式の(「授戒」された)僧ではなく「見習い」・「修行」中の僧を言う。このように書いた文書の一つ(「勅」だけが自筆)が現在でも残っているらしい(吉川著p.200-1に写真がある)。
 このとおりで、仏教への「帰依」は、八幡が想定するよりはおそらく、著しい。
 第四に、八幡は「聖武天皇が出家され、神である天皇が僧であり『三宝の奴』であるというややこしいことになっていたことも譲位を急ぐ理由だったようです」と記述するが、このあたりの吉川著の叙述ぶりからすると、聖武は「出家」・譲位を覚悟のうえで大仏鋳造現場に向かい、正式の譲位の前に「太上天皇」号をすでに文書中で使った頃には「出家」していて、その後にすみやかに正式に譲位=孝謙即位となったようだ。
 つまり、期間の重なりが厳密にはあったかもしれないとしても、「出家」と天皇位は両立し得ない、「出家」した人間は天皇位に就けない、というおそらくは伝統的でかつのちにも一貫した考え方・観念が存在したのだろう。
 八幡の記述するように「出家」していたからそれを理由として「譲位を急いだ」、というのではなく、聖武にとって「出家」と「譲位」は一セットで、同じことだっただろうと考えられる。
 天武が壬申の乱前に「出家」したとされるのは、「皇位」への意図・執着はない、という意思表示のつもりだったのだろう。また、後世にも、天皇が退位して「出家」する、あるいはこれをほとんど同期日に行う、逆に、「出家」した者が「還俗」して天皇となる(またはほとんど同期日に行う)、ということは行われた(例を確認することはしない)。
 「出家する」とか「出家させる」というのは(あるいはその逆の「還俗」)は、少なくとも宗教的意味をもつばかりではなく、重要な<政治的>判断だったし、その後の日本史・天皇史上もそうなった、と見られる。。
 なお、「三宝」=仏法僧とは、ふつうは、仏=ブッダ(・釈迦)、法=法経・教典・仏典、僧=僧侶(僧尼)だとされる。「三宝の奴」とは、かなり強烈な言葉だ。
 上の⑩のあと、吉川著p.201-2によると、こういうことがあった。。
 752年、聖武太上天皇・光明皇太后・孝謙天皇が行幸して、東大寺で「大仏開眼」の法要。1万人の僧侶が参列(名簿が残存と近年に判明)。この年は、552年の「仏教伝来」公伝からちょうど200年、その日は釈迦生誕とされる4月8日。大仏の「鍍金」終了は762年前後。使用した黄金総量は「1万446両」だつた。
 同著p.200によると、文武天皇が果たせなかった「譲位を決行させた原動力は、聖武の篤い仏教信仰であったが、それを後押ししたのが『陸奥黄金のインパクト』だった」。
 ***
 黄金産出はともかく、「篤い仏教信仰」にかかわって、考えさせられることもある。
 八幡は天皇(家)=「神道」というイメージで叙述して「ややこしい」という語を使ったのかもしれないが、天皇または皇室・皇族の、明らかに<天神地祇>に対するのとは異なる、<仏教>との関係だ。それは聖武に限らず、基本的には明治維新期直前まで続いたのではないかと推察される。
 決して「神道」・「仏教」、と並列させることはできないものがある、と感じられる。
 むろん、これは<天神地祇>信仰や「神道」概念の意味にかかわる。
 ***
 聖武天皇に戻る。「仏教」の意義と役割にも関係するが、この天皇の仏教への執着(?)、より具体的には東大寺大仏建立等の<仏教・寺院>支援と出家は、有力な?<俗説>によると、<長屋王殺害>事件による長屋王の「怨霊(・御霊)」からの離脱、「怨霊」の鎮魂にある。この点は、八幡は言及していないが、別に扱うだけの価値があるだろう。

2131/津田左右吉・日本の神道(1948)-第1章④。

 津田左右吉・日本の神道(1948)/同全集第9巻(1964)。
 第1章・神道の語の種々の意義。紹介のつづき。
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  「神」の語が形容詞として用いられることもある。なお、古典的シナ語では品詞の区別が語形に現れない。
 道家の「神人」の「神」は「道を得た人」の形容であり、シナを「神州」、天下・帝位を「神器」とするのも同じ。いずれも「宗教的意義での神」から転化したものだろう。
 後世でも同様だが、「道教」で「人の形を備えた」「神」への崇拝が始まったように、変化もある。これは「仏または仏教に伴って伝えられたインドの神に関する知識」が誘った趣もある。「仏そのものが神と称せられてもいた」のだから。そして、「仏を宗教的祭祀の対象」と見たからで、「シナにもとからあった神」との区別のために「胡神戎神」という語も作られた。六朝時代の仏教徒が主張した「神不滅」論では、「神」は「形」に対するものだが、現代的意味での「霊魂」の性質をも付与されていたようだ。
  以上のとおりだから、「神道」に種々の意義があるのは当然だ。
 「神」の語は「宗教的意義」をもって、「とくに祭祀の対象」として用いられたから、「祭祀祈祷」または広く「宗教」が自然に「神道」と称せられることとなる例は多く、「仏教もまた神道と言われてきた」。
 「神道」の語は「神を祭る道」、「神についての道」の意味だろうが、「神」を形容詞と見てもよいようだ。そして、形容詞として使われつつ、「宗教的意義」のない「神道」という呼称もある。「道家の道が神道と呼ばれたことがある」のもその例だ。道家が「虚静無為の境地にあるもの」を「神」と称したとすれば、「神道」は「神を説く道」かとも思われるが、「道家の道」=「神道」というのはむしろ、晋代に「易」と道家が結びついたことによるのだろう。
 呪術・その他の方術を「神道」と称するのは、「神」を「不可思議な働き」の意味で用いてその「術」を形容したものだ。
  日本書記で「日本の民族的宗教としての神の崇拝が神道と称せられている」のは、「宗教的意義での神道の名を日本に適用してもの」だ。「ただ、仏が神と言われ、仏教が神道と称されていた実例がシナには多く、日本でも仏が神と呼ばれたことがあるから、仏教に対立するものとしての従来の民族的宗教に神道の名を負わせたことは、この点から見て少しく異様の感があるようでもある」。
 だが、「久しい前からカミの語には神の字があてられていたのと、書記編述のころには、仏を神と呼ぶ習慣もすたれていたようであるのと、この二つの事情から、こういうことが行われたのであろう」。
  こうして「神道」との名称が用いられはじめたが、後世には日本語化して、「神の道」と言うようにもなった。もとの日本語に「神の道」という語があったのではない。「道」という語をこういう趣旨で使うのはシナに限られる。
 人が歩行する道の意味が転じて、「人の行為の規範」、「事物に対する理法」、そしてこれらに関する一定の「教説」、現代語での「主張」の如きもの、または「特殊の知識技術」を指すに至ったのであって、「神道」の「道」もそういう転化しての意味だ。
 日本でも後に、慈遍が「皇道」を、真淵が「神代の道、皇神の道」、宣長が「神の道、日の大神の道、日のみこのうけつたへます道」、「神のみ国」等を言うのは、シナの用例に倣ったものだ。真淵や宣長が「特に」こういう言い方をするのは、「道」を日本語で表現しようとしたからだろう。
 たんに「神道」でも大きな支障はないにもかかわらずこうした語を作った点に「彼らの国学者的態度がある」けれども、「そのじつ、こういう意義で道ということを言うのは、シナ思想を受け継いだものである」。彼らがこうした語を作ったのは「旧来の神道」を非として自分たちの主張は「違う」と示そうとしたのだろうが、「道の語を用いた」ことは、以上のように「考えねばならぬ」。
  「神ながらの道」という語は〔平田〕篤胤に由来するのかさらに〔本居〕宣長に由来するのかは不明だが、「宣長の門下のもの」が使い始めたようだ。
 「神ながら」の語は続紀上での宣明や万葉の歌にもしばしば出るが、これは「道の名でもなく道とすべきことでもない」。古典には「神ながらなる道」は決して見えない。
 篤胤は「惟神」、「神随」を「カミナガラ」に当てた。書記・孝徳天皇大化3年「惟神」の訓読みとその条の注記があるために、「カミナガラ」と「神道」に何らかの関係がある、またはこの語が「神道の中心観念」の表現であると憶測され、「神なからの道」の語が思い浮かばれたのだろう。そして、いったんこの語が出現すると「神道」と同じ昔から、いや「それよりも古く」からあったと世間で「錯認」され、「神なからの道」の語も用いられるようになった。明治初年の大教宣布の詔にも公式に、「惟神之大道」という語がある。
 しかし、「惟神」の二字は「カミナガラ」の語を写しておらず、独立した概念ではなくて、文章の主語はあくまで「神」で、「惟」は発語にすぎない。誤った訓み方が定着し、「後の学者もこれらのことに気づかず」、そうして「神ながらの道」という語が作られ、かつ「古い語」のように思われてきたのだ。
  ①「神道の名に種々の意義」があること、②それが元々は「シナの成語を適用した」ものであること、③それが「いかにしていかなる意義で日本に用い初められるようになった」かは、上記で「ほぼ明らかにせられたと思う」。
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 以上で、第1章は終わり。

2129/津田左右吉・日本の神道(1948)-第1章③。

 津田左右吉・日本の神道(1948)/同全集第9巻(1964」。
 第1章・神道の語の種々の意義。つづき。
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 「神道」という語はもともとは「シナの成語」なので、シナ語としての「神」の意味を補説する。まずは、「名詞」として使われる場合だ。
 第一に、「宗教的呪術的意義」でのみのがある。おおよそ「人力以上の力もしくは働きをもっていて、何らかの仕方で人の生活を動かす或るもの」で、動物・木石・血・骨とか、またはこれらに「内在する」もしくは別に「遊離して存在する」、「種々の精霊の類」だ。
 呪力あるもの、呪術・祭祀の対象となるもの、もある。
 ふつうは「鬼」と言われたらしい「人の死後に存在する霊魂(現代の用語例での)」も、「祖先崇拝の宗教的儀礼において祭祀の対象」となる場合は「神」と称されている。
 より文化が進むと、「農業神としての稷」を例とする「人文神」とでもいうべき「神」もあり、「稷」のほか「社」を「古人」と見るように「神の或るもの」を「古人」として解する考え方も生じた。
 また、「知識社会」の「説話」では、「ある種の神が人の形態をとったもの」、「人格を有する神」も全くなくはない。
 第二に、「宇宙の、あるいは宇宙そのものの、玄妙な力もしくは働き」を「神」と称する場合がある。「陰陽不測之謂神」も例かもしれない。老子の「神得一以霊」もこれだろう。
 これは第一の「神」を転化させて、それから「宗教的意義を除き去り、その代わりに一種の形而上学的意義を付与したもの」と見ることができ、「知識社会の思惟」による形成物だ。
 第三は、「人に存在するものとしての神」だ。今日の「精神」という語の由来になる。
 「形」・「形と気」または「形と心」に対して用いられ、「心者形之主也、而神者心之実也」等によく示されている。
  「形」とは「肉体」、「気」とは「生理的意義において肉体に生命あらしめるもの」、「心」とは「心理的働き」をするものだ。一方、「神」は、「心の奥にあって心を主宰し生命ある肉体を主宰する霊妙なる存在」として考えられたと見られる。
 ときには「神」と「心」は同じものと扱われていることもある。だが、「神の本義ではあるまい」。
 ここでの「神」にも「宗教的意義」はない。しかし、第二の宇宙の「霊妙な力もしくは働き」を「神」と称したのと同じく、第一の意義から転化したものと推察される。
 「礼記の祭義篇」に「気也者神之盛也」・「魄也者鬼之盛也」とあるのは「宗教的意義」での「鬼と神」を説いていて、「生命ある肉体の内」にあるものとして「神」を語るが、上記とは趣意が違う。「気」は「魄」に対する意味での「魂」を指すのか、混同しているかのいずれからしい。きっと「神」も「気」と同じ意味で、全体として「鬼と神の対立」を「魄と魂」のそれとして説いたのだろうが、「むりな付会」だ。
 上記の「形や気に対する神」は「宗教的意義においての魂」を意味するのではない」。
 もっとも、ここでの「神」は「宗教的意義」がない代わりに「道徳的意義」が付与されることがあり、「形と神」を対立させ、一方が片方を「制する」とか論じられるのは、「肉体的欲求を制御」する点に「神」の重要な働きがあるとの考えからだろう。
 他方では、「神」を「肉体に付いたもの」とする考えもあり、「養形」・「養生」の方法として「養神」が語られる。
 「道家」ではここでの「神」を、「虚静無為の境地」にあるものとして用いることが多い。例えば、「荘子」・「刻意篇」の、「純素之道、惟神是守、守而勿失、与神為一、…」。
 つぎに、形容詞として用いられる場合がある。
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 つづける。

2128/津田左右吉・日本の神道(1948)-第1章②。

 津田左右吉・日本の神道(1948)/同全集第9巻(1964)。
 第1章・神道の語の種々の意義。紹介のつづき。
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  付言すべきなのは、①「近ごろ」になって、「第一の意義での神道に国家的権威の表徴たる意義を付与しようとする主張」が生じたことだ。
 このような主張は「思想」として第三~第五の意義の「神道」に含まれ、由来もあることなので第三~第五と「離して」取り扱う必要はない。しかし、「現実の国家的施設または政策に関連させようとする」点に、「この主張の特異性」があることに注意しなければならない。
 この主張は「国家的権威を神道の基礎の上に置いて」、国家に「宗教的意義を持たせよう」とするものの如くだが、そのためには「神道に国家的意義を与える」ことがまず要求されたのだろう。
 この場合に「神道」という呼称を使うのは、かりに「公式のこと」ではないかも知れないとしても、この語を「第一の意義」として用いることが許容されるならば、「一つの主張」ではある。
 しかし、これは「民族的宗教としての神道に本から具わっていることではない」。
 ②「現実に行われている民族的風習としての神の崇拝」や「神社における神の崇拝」を「神道」と称しつつ、その神道から「宗教的性質を排除し、道徳的政治的意義においての典礼」と見ようとする主張もあるようだ。
 これまた歴史的には「第五の意義での神道」に淵源があるとともに、かりに「現実の風習としての神の崇拝と神社における神の祭祀とに宗教的性質がない」とするものならば、「明白なる現在の事実を無視」するものだ。
 ③なお、「日本の民族精神というような観念を神道の名によって表現しようとする傾向」もあるようだ。これはしかし、「神道という語の濫用とすべき」だろう
  さらに付言する。①「原始神道」という語で「上代の」第一の意義の神道を呼ぶ人がいるようだ。しかし、その語で想定されるはずの「発達した神道」が第三~第五の意義の「神道」を指すのならば、その名称は「その実」に即していない。
 ②本居「宣長などの国学者」が説いた「神の道」が、「復古神道」とも称されているようだ。
 しかし、その「古の状態」が上代の第一の意義の神道を指すとすれば、その名もまた「妥当ではない」。宣長らの説示が「神道」と言い得るのは第五の意義のものであり、「上代の民族的風習としての宗教的信仰とは全く違った」ものだからだ。 
 但し、第一の意義の神道も種々の変化が生じて、後世には第三~第五の意義から影響を受け、後者が前者と「ある関連」をもって説かれている場合もある。
 しかし、「民族的風習としての神道は、とくに民間信仰」は、「表面的」にはともあれ「内面的」・「本質的」には後世でも「なお昔のままに」継承されている点が多いのであって、「学者が説くような神道は、それとは関係がはなはだ少ない」。
 また、「学者」の「考説」は民間信仰をもとに「思想的に深めたり体系づけ理論づけたりするする」のではない。「その仕事は、主として古典、とくに神代の巻などの記載に何らかの解釈を加えること」だが、「その神代巻には、…、宗教的要素が甚だ少なく、その少ないものでも民間信仰がそそのままに現れているのではない」。
 のみならず、「その解釈」は「古典そのものに内在する思想を明らかにする」のではなく「古典の記載とは全く別」の、「それとは関係のない思想をそれに付会する」ことにあり、そこに「シナ思想(またはインド思想)の働く理由がある」。
 従って、第三~第五の意義の神道が「現実の民族的宗教としての神道と深い交渉のないものであることは、当然である」。
 この論考の目的の一半はこれらを明らかにすることで、以上を予め述べておくのは、「神道」にも多義のものことが知られていないために、「原始神道」や「復古神道」という呼称が生じるのだろうからだ。
  「上代の民族的宗教がほとんどそのままに後世まで存続しているのは、珍しい」。
 これには種々の理由があろうが、知性の発達と文化の進展時代となって「学者が種々の神道学説を構成した」のも、各時代の学者が「そうしなければ知性の満足ができなかったから」でもある。最近に「民族的風習としての神道」に「強いて種々の思想を付会し、又はむりに」本来の性質と異なる意義の如く「解釈」して「宣伝」されるのも、理由はこの点にあるだろう。
 「宣伝」にはそれなりの意図があるのだろうが、「民族的宗教としての神道が、そのままの姿においては、現代人の知性の欲求とあまりに隔たっていること」も考慮すべきだろう。
 本稿では「主として」第三~第五の意義の「神道」を扱う。第一の意義のものは、第三~第五の意義のそれが「学者の思惟によって形成せられた何らかの教説であるのとは全く性質が違い」、後者こそが「シナ思想の要素を含む」。
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 つづける。

2127/津田左右吉・日本の神道(1948)-第1章①。

 一 津田左右吉全集第9巻(岩波書店、1964)の全体を、津田・<日本の神道>が占める。
 津田による1948年2月記の「まへ書き」によると、1937~39年(昭和12~14年)に雑誌に掲載した「日本の神道に於けるシナ思想の要素」と題する論考を「補訂したもの」。
 そして、たんに「日本の神道」としたのは「呼称としての便宜」で、神道には「仏教」の要素があったり「仏教」に「もとづいてくみたてられた」ものもあるので当たっていないようでもあるが、「主としてシナ思想との交渉の面」でだが「仏教との関連」も考察しているから、こう称しても「著しい僭称とはなるまい」、と述べている。
 二 第一章の表題は<神道の語の種々の意義>。この部分を要約・抜粋する。旧漢字・旧かな遣いは、新体・新遣いに改める。全集第9巻本文1頁以下。
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 「神道」はいろいろな意義で用いられているので、言葉のもつ意義を明らかにしておく必要がある。
 第一に、「古くから伝えられてきた日本の民族的風習としての宗教(呪述を含めていう)的信仰」を意味する。「最古の文献」上の用例はこの意味だ。日本書記の用明天皇紀・孝徳天皇紀での「仏法」に対する「神道」がこれ。
 「民族的風習としての宗教的信仰」には呼称がなかったが、「仏教」の外来・伝搬以降の区別・対抗のためにこの語が新たに作られたた(元来は「シナの成語」)。
 「儒教」は宗教ではなく「道徳・政治の道」を教えるものであっても、「礼」は学ばれず、書物から「その思想」が知られたにすぎない。
 「宗教としての道教」は入ってこなかった。
 「在来の民族的宗教」に対して宗教としての力あるのは「仏教」のみだったので、これに対する「神道」という語が必要だったのだろう。ある程度は前者が「力のあるもの」になって以降に。仏教伝来の最初の頃は、「仏が神といわれていた」ことも考えておく必要がある。
 「仏教」興隆に関する記載の多い推古天皇紀15年に「神祇拝祭」の記事を設けた書記編者に、「仏教に対立するものとしての神道を存在させようとする意図」があったと推測しても大きな間違いではないだろう。用明天皇紀・孝徳天皇紀の記事も、その「精神の現れ」ではないか。
 「いわゆる十七条の憲法」は「在来の民族的宗教を問題とせず、仏教のみを重んじ」、「仏教興隆」の趨勢下にあるが、この趨勢は一方で「民族的宗教を明らかにしようとする態度」を生んだと思われ、それが書記編纂者に継承されたのだろう。
 この意味は以下の諸「神道」概念の「根源」となった。
 第二に、「神の権威、力、はたらき、しわざ、神としての地位、神であること、もしくは神そのもの、などを指していう場合」がある。
 続紀延暦元年「神道難誣」、類聚三代格延暦17年「神道益世」等々。
「第一の意義から転化した」ものと推測される。
 「神代記の記載のごとき神代の説話を宗教的意義のものと見て、そこに語られている神、または神と称せられている人物の行動などを神道と称することもあ」り、釈紀が引用する私記等にもあるが、それも「ここに述べた意義での神道の一例」だと考えるべきだろう。
 第三は、「両部神道」、「唯一神道」、「垂加神道」等という場合のように、「第一の意義での神道に、あるいはむしろ第二に付言したような意義に解せられた神代の説話に、何らかの思想的解釈を加えた、その思想」を意味する。
 これは一種の「神学」、「教説」であって、その思想の違いから「種々の神道」が生じ、各々の「伝承」をもつに至っている。
 但し、「両部神道」のように「特異なる崇拝の儀礼」を行う場合もある。しかし、その「儀礼的側面」を離れても「たんに思想」と見ることが可能な点に、この意味での「神道」という語の存在意義がある。
 第四は、「何れかの神社を中心として宣伝せられているところに特異性があるもの」で、「伊勢神道とか山王神道とか」いうのを例とする。
 「思想的側面」としての「神学」や「教説」があるので、その点の限りでは第三の意義と同じで、「ただその神学なり教説がその神社との特殊の関係において組み立てられているのみ」だけれども、他の側面として「種々の方面に対するその神社の権威が…称揚せられることになる」ので、ここにこの意義での「神道」の「対世間的意義」がある。
 第五は、「日本の神の教え又は定めた、従って日本に特殊な、政治もしくは道徳の規範というような意義」で用いられた「神道」だ。
 「主として儒教の影響を受け、それに対抗するものとしての神道」、すなわち「儒者のいう聖人の道とか先王の道とかに対する意義で『神の道』というものを立てようとするところから生じた」ものだ。
 「徳川時代の学者に最も多く行われた神道の語の用い方」で、「いわゆる国学者が神の道とか皇神の道とか言っているもの」も、これに属する。
 第三・第四の「神道」は第一のそれを継承するもので、「神道」とい文字は「神を祭る道」、最も広義には「神に関する道」とでも解すべきものであって、「神の定め又は教えた道」を意味しない。この第五の意義での「神道」は、これらとは異なる。
 この第五の意義での「神道」は「思想として存在するのみ」で、「本質的には、現実の民族的風習としての神の崇拝とは、ほとんど関係がないと言ってもよいほどであり、また古典の記載からも離れている」。しかし、「いろいろな点でそれらに付会して説かれている」。よって、第三の意義と「はっきりと区別することはできぬ」。
 第六は、「いわゆる宗派神道のそれ」だ。
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 つづける。

2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。

 廬山寺・慶光天皇陵で見た(写真で撮っていた)石製の墓碑・墓基のかたちが気になっていたが、一つは、「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」と呼ばれる種類のものであることが分かった。もう一つは未だに分からない。
 仏教そのものにも、仏像にも仏塔等にも詳しくないから(というよりも無知だから)やむを得ないが、もともとは仏舎利(釈迦の骨)を納める多様な塔(ストゥーパ)に由来するもので、日本では、五輪塔とともに、宝篋印塔は墓基・墓碑または供養塔としてよく用いられてきた様式らしい。五輪塔の方がより一般的で、宝篋印塔はより「貴人」のために用いられたという。五輪塔の大きなものは高野山・奥の院への参道に並んでいるから、何となく知っていた。しかし、「宝篋印塔」なるものには意識も関心も向かわなかった。もちろん、一般的庶民はこんな形の墓基の下に葬られることはなかったし、「墓」というものがなかった死者も一般には多かったのだろう。
 宝篋印塔なる石塔のうちまず目を惹いたのは、中央に立つ円形で重なる九重の石だが、これは「相輪」と呼ぶ部分らしい。そして三重塔・五重塔の先端の「相輪」もやはり九重らしい。三重塔・五重塔を何度見ても、上の方にあるし、数えたことがなかった。
「相輪」部分の下の「笠」のような部分の四隅にあるのは、「耳」・「隅飾り」といい、年代が新しいほど反りが強いとも言われる。「相輪」と「笠」のごとき部分の間にもにもいろいろパーツがあるようだが、省略する。
 なぜ「九重」かというと、「五智如来」と「四菩薩」を全て集めるという意味だったようだが、仏教宗派によってどの如来・菩薩かは異なるらしい。また、三重塔・五重塔でもそうかもしれないが、宝篋印塔の九重の「相輪」製作者・参拝者がそのような意味を逐一意識したかは疑わしいようにも思える。
 九重という点では同じだが、泉涌寺直近の月輪陵・後月輪陵にある多数の陵墓脇の「九重石塔」は、明らかに宝篋印塔ではない。
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 浅井長政は浅井氏三代めで、織田信長の妹の「お市の方」と結婚し、茶々〔淀君〕・初・督(ごう)三姉妹の父となった。
 その浅井氏三代の菩提寺は長浜市にある徳勝寺で、もともとは同市の北方の小谷城跡近くにあったらしい。
 その徳勝寺に三代(亮政・久政・長政)の墓基が並んで残っており、その様式は明確に「宝篋印塔」だ。左が長政。下の写真2枚を参照。
 そんなことを意識しながら他の寺院をめぐっていると、または昔に撮った写真を見ていると、明らかに「宝篋印塔」の供養塔または墓碑らしきものがある。実際には、全国に多数残っているだろう。写真下段の左は、同じ長浜市・総持寺内、右は神戸市・無動寺(福地)内。
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 ところで、泉涌寺直近の月輪陵・後月輪陵に見られる「九重石塔」は石塔としては珍しい種類ではないかと思える。というのは、既に記して、一部は写真も掲載したが、「十三重石塔」が実際にはよりしばしば見られるからだ。
 宇治市・宇治川の中島内の石塔は「十三重石塔」だけで通用するらしい。この十三重の石塔のような建造物を見たがゆえに談山神社(奈良県桜井市。中臣鎌足と中大兄皇子が「談」じた場所とされ、鎌足が主祭神)は寺院なのか神社なのかと拝礼時に一瞬迷ったのだったが(歴史的には神仏習合そのものだったのだ)談山神社の<十三重塔>は木造で日本(・世界)唯一のものらしい。
 談山神社を訪れたとき、そんなことを読んで知ったかもしれないが、忘れてしまうものだ。奈良県室生寺の五重塔は可愛く小さいので、この木製の十三重塔を幅を2-3倍にして、13を5に減らして塔身の「階層」部分を見せれば、小さな五重塔になるのではないかと、幼稚なことを考える。
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2110/大和(おおやまと)神社。

  №2108/2019/12/24 で、本筋にはなくても差し支えない文だったが、「大和神社」にこう触れた。
 日本書記の崇神天皇の項には「倭大国魂神」という神の名も出て来る。「現在にも奈良盆地内ある大和神社(やまと-)は、北にある石上神宮や南にある大神神社ほどには全国的には知られていないが、この『倭大国魂神』を祀っている、とされている」。
 7-8世紀編纂の書の記載とはいえ日本書記の崇神天皇時代に遡るというのだから、大和神社の「歴史」・由緒は古い。
 大和神社の名は「おおやまと・じんじゃ」が正しいので、さっそくに改める。
 この神社で入手できる<由緒略史>には、日本書記の記載と同じまたはほとんど同じことも書かれている。
 三祭神の「中央」に座すのは、「日本大国魂大神」。最初は天照大御神とともに宮中で「同殿共床」で祀られていたが、崇神天皇が「神威」を怖れてこの地に「遷御」させた、その土地にある。この主祭神は「大地主大神」ともいう。
 東京・府中市に(武蔵)大國魂神社がある(拝殿・北向き)。主祭神は同じで、この大和神社の方がおそらく(由来は)古い(拝殿・東向き)。天照大神-大国主命、伊勢-出雲、卑弥呼-男弟、といったことも連想するが、触れない。
  先に戦艦大和の模型を中心に置く小建物があるとだけ記したが、大和神社の<由緒略史>によると、「末社」の一つに「祖霊社」があり、戦艦大和「戦没英霊」2736柱を祀り、1972年9月以降は戦闘巡洋艦矢矧外〔やはぎ〕駆逐艦8隻の戦没将士英霊も合祀して、計3721柱を祀っている。
 戦没者は、全国に(専用朱印帳の記載のみで)53ある護国神社や靖国神社だけに「英霊」として祀られているわけではない。供養塔・紀年碑に当たるようなものが仏教寺院の中に建てられていることがあるし、当該地域出身の兵士たちの墓地が、寺院境内に区画されて存在していることもある。墓なのか供養塔なのか、3基だけの、第二次大戦出征者・戦死者用の仏塔がある小さな寺院を見たこともある。
 上記の大和神社境内には、近傍地区出身者の多数の戦没者氏名を裏面に刻んだ、大きな石碑がある。
 早々に日本会議を連想するのも楽しくはないが、同団体は戦没者慰霊も重要な運動対象にしているはずだ。
 靖国神社公式参拝を、とかを唱える前に、戦没者を祭神として祀ったり、供養している全国の神社・寺院に関する情報を全て把握しているのだろうか。
 <いわゆる保守>=「右翼」系三雑誌、つまり月刊正論(産経)、月刊WiLL(ワック)、月刊Hanada(飛鳥新社)には靖国神社は出てくるが、「護国神社」に関する情報を(少なくともしばしば読んでいた頃は)見出すことはできなかった。ましてや、その他の、戦没者の墓地や慰霊施設(その他の神社や寺院)に関する情報はおそらく全く掲載されていない。
 いつかも書いたが、沖縄・摩文仁の戦没者祈念碑のすぐ近くに、多少は宗教(=仏教)的な要素も入っているかと感じたが、沖縄戦での戦没者の出身県ごとのかなり立派な慰霊施設についても、当地を訪れるまでは知らなかった。
 「英霊」=戦死者を、現在での<政治>運動のために利用してはいけない。
 「慰霊」、「霊魂」の(とくに生者にとっての)意味には、立ち入らない。
  北の石上神宮、南の大神神社(おおみわ-)と比べると、大和神社への参拝者・訪問者は少ないだろう。
 ひっそりとしていて、そのぶん古さも十分に感じさせて、なかなか魅力的な神社だ。
 観光寺院・神社化している京都・奈良のいくつかの神社仏閣よりは、はるかに、何度も訪れてみたい気分になる。最寄りのバス停・鉄道駅からの田園・住宅地も、上の二神社と同等にあるいはそれ以上に、<大和(やまと)>的だ。

2031/物質と意識・観念と「霊」-例えば刑法190条。

 M・マシミーニ=G・トノーニ/花本知子訳・意識はいつ生まれるのか-脳の謎に挑む統合情報理論(亜紀書房、2015/原著・イタリア2013)、数日前に、全読了。計292頁。
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 上は読書記録で、以下と直接の関係はない。
 マルクスが「科学」と対比させて「宗教は(民衆の)アヘンだ」と書いたらしいことがどの程度の影響を与えているのか知らないが、「科学」または「学問研究」は「宗教」とは異質だ、「宗教」それ自体の内容は<迷妄>だとの印象が、ないではないだろう。
 西欧ではキリスト教・神学と近代以降の「科学」は全くまたは基本的に異質なものだつたのかもしれない。
 しかし、日本とその歴史を念頭におくと、例えば、奈良時代あたり(正確ではきっとない)以降の「仏教」は一定の学問体系そのものだったと思われる(もちろん宗派・教典はすでに多様だったとしても)。陰陽道は日本的仏教の一派に「神道」がすでに一部は混淆していたものだろうが、陰陽師・安倍晴明は「学者」で、朝廷の「官僚」だったらしい(「物語」の真否は別として、該当の人物は存在したのだろう)。
 従って、とつなげるのは些か早すぎるが、現在の日本の人文社会分野の研究者・評論家・もの書き人類にもまた、日本の多様な「宗教」の内容そのものを無視または蔑視しないでいちおうは<理解>しておこうという姿勢が必要かと思われる。
 「神」・「仏」等が自己の<外界>のどこかに存在するとは全く信じていない私でも、また戦後教育・戦後社会の悪しき<宗教軽視>風潮に染まってきたとはいえ、そのハンディを取り戻そうと少しは努力している。
 だが、ここですでに、「科学」・「学問」や「宗教」という諸概念・諸観念自体の問題がある。
 「宗教」概念の核・不可欠の要素はいったい何なのだろうか。
 日本国憲法上の「信教」、宗教法人法上の「宗教」概念に立ち入らない(どちらも何らかの定義をしているわけではない)。
 だが、現実には(現世、俗(ぞく)世間には)または通常は(原則的には)存在しそうにない(存在していないと感じられる)何か、「霊」的なもの、を想定すること、はおそらく、中心要素だろう。日本の古代の「カミ」が<神道>でいう「神」なのか否かは別として。
 科学・文化が発達したとされる21世紀の日本でも、マルクスの上記の教訓に反して?、そのような「宗教」にかかわる行為を多くの人が行っている。
 神社または寺院に出向いての「初詣で」もそうだが、各地・各種の「お祭り」行事も(かりに実施主体は特定の社寺ではなく「~実行委員会」であっても)「宗教」の要素を完全に欠けているわけではない。「入山料」・「拝観料」そしてご朱印代金の支払い・受領も「宗教活動」上のものとされ、宗教法人・神社仏閣による「所得税」支払いの対象にはなっていない(はずだ)。
 戦没者慰霊をもっぱら靖国神社による祭礼にだけ極限しているかのごとき政治運動団体がある(<日本会議>/事務総長・椛島有三)。月刊正論(産経)も同様だが、この団体は戦没者追悼の重要性を強調しつつ、不思議なことに、沖縄・摩文仁の丘の戦没者慰霊施設に言及しない。その直近にある、沖縄戦での戦没者の出身県関係者がそれぞれに設置している各県ごとの慰霊・顕彰施設にも言及しない(「仏教」的要素があるものもあったように記憶する)。また、静岡県・熱海(伊豆山)の興亜観音の慰霊?施設にも言及しない(松井石根大将、<七人の戦犯>関連。私は二度訪れている)。
 今年も8月15日に戦没者慰霊式典が行われた。
 天皇陛下、首相等々が向かって言葉を発した前には「戦没者の霊」と明記した、白木造りのような、四角形の柱が立っていた。
 ということは、天皇陛下、首相等々の直接に言葉を発した人々だけにかぎらず、(立憲民主党・枝野幸男も国民民主党・玉木雄一郎も出席していたはずだが)その式典に出席した人たちはみな、「霊」の存在を前提にしている、それを当然視している、ということになるだろう。
 「霊」と記した物体・角柱に向かって、頭を下げていたのだ。
 ではどのような、あるいはどの宗教・宗派の「宗教」行事だったのか?
 もちろん、<無宗教>行為だとされる(はずだ)。日本国憲法のもとで、国家が「宗教」行為を行ったり(主催したり)、関与してはいけないと原理的に考えられてきている。
 しかし、「霊」の存在を前提視・当然視する儀礼というのは、「宗教」行為そのものなのではないか?
 むろん、そのような式典の実施に反対しているわけではないし、特定の神社でこそ施行せよ、と主張しているわけでもない。
 「霊」あるいは「宗教」に関する日本人の感覚の不思議さを、あるいは日本での「宗教」という言葉の不思議さを、興味深く感じている、というだけだ。
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 前天皇・皇后両陛下の「退位」関連行事の中に、神武天皇陵または橿原神宮での「ご退位のご報告」というのがあったと記憶する(確認しない。また、京都・泉涌寺直近の孝明天皇陵での「ご報告」もあった)。
 これはおそらく(これまた正確さを確認しないで書くが)、皇室の「私的」行為として行われたのではなく、「国事行為」でもない「公的行為」として行われたのだろう。
 「神武天皇」関係は特定の神社のまたは「神道」を含む特定の「宗教」に関係していそうでもあるが(従って、反天皇・「左翼」は危険視・問題視する可能性があるが)、憲法上正規に位置づけられている天皇の交替(・譲位)にかかわる、という点に「公的」性格が認められたのだろうと解される(この点で、伊勢神宮の遷宮関係行事への天皇陛下等の関与が「私的」行為とされるのと大きな違いがあるのだと思われる。なお、この区別は、財政処理の区分にかかわる)。
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 「霊」というのは死者の「霊魂」のことだろう。「霊魂」と表現しなくとも、<死者の~>と表現することには異論はないだろう。
 古く生命の誕生以来、かねてから、生者は死者となってきた。無-生-死(無)という変化が個体ごとに、全ての人間に、生じてきた。
 その際に、初期の日本人は、あるいは日本列島にいた人間たちも、不思議さ・奇妙さを感じ、「遺体」に対しても、たんなる「物」とは感じることができなかったに違いない。
 といっても、時代や人々の集団によって、その様相・態様は違っていたのかもしれない。
 全ての死者に対してかどうかは分からないが、いつの頃からか、一定の様式の「墓」、「墳墓」、「墓陵」が作られるようになる。火葬にするだけの燃料がなかったか、あるいは「火」を作ることができなかったのが理由かもしれないが、甕や柩に入れる場合も含めて、当初は全て「土葬」だったのだろう。
 全ての死者に対してかどうかは分からない。また、いつの時代からほぼ全ての死者について、遺体・遺骨の「埋蔵」ということが行われることになったのかはよく知らない(私は「葬礼」の仕方の歴史にも関心をもつ)。
 だが、ある程度またはかなりの程度、「死」をふつうの現象とは感じず、死者やその遺体・遺骨を特別扱いする慣習が、いつの頃からか発生したに違いない。
 そうした慣習が形成される過程に、当然ながら、これまた全ての死者についてか否かはよく知らないが、「死者」は、あるいはその「霊」は死後にどうなるのか、どこへ行くのか、という疑問、「宗教」的思考もまた発生していたに違いない。<神道>はこの問題をどう処理してきたかはよく分からない。
 かくして現在、死者の「遺体」または「墳墓」に対する<宗教的感情>は法的に保護されるべき利益(法益)だと、いちおうは決定されている。
 現行の日本の刑法は、つぎのように定める。
  刑法(明治40年法律45号/最新改正公布平成30年)第二編(罪)。
 第24章・礼拝所及び墳墓に関する罪。
 第188条(礼拝所不敬及び説教等妨害)第1項「神祠、仏堂、墓所その他の礼拝所に対し、公然と不敬な行為をした者は、…に処する」。
 第2項「説教、礼拝又は葬式を妨害した者は、…に処する」。
 第189条(墳墓発掘)「墳墓を発掘した者は、二年以下の懲役に処する」。
 第190条(死体損壊等)「死体、遺骨、遺髪又は棺に納めてある物を損壊し、遺棄し、又は領得した者は、三年以下の懲役に処する」。
 第191条(墳墓発掘死体損壊等)「第189条の罪を犯して、死体、遺骨、遺髪又は棺に納めてある物を損壊し、遺棄し、又は領得した者は、三月以上五年以下の懲役に処する」。
 死体・遺体や「墳墓」は、ふつうの「物」または「場所」・「施設」ではない、という旨を前提として、これらが定められているわけだ。
 ***
 日本の古代から全ての死者に対してかどうかは分からないと書いたのは、天皇・皇族またはいわゆる貴族・豪族あるいは武家一族の者と<庶民>との間には違いがあっただろう、と想像しているからだ。
 なお、天皇等の皇族についての葬礼の仕方、および「墳墓」=「陵墓」の様式が、果たして<神道式>だったかどうかは、相当に疑わしい。
 「神道」概念の理解の仕方にもよるが、古代の神武天皇以降少なくとも武家政権になるまでは全ての天皇・皇族について「神道」式だった(そして孝明天皇について以降に「復活した」のだ)とは、さすがに櫻井よしこら日本会議諸氏も主張しないだろうし、そう主張できないだろう。
 この点はともかく、全ての死者が平穏かつ平等に?埋葬され、葬礼が行われたのではないことは、日本史上の幾多の戦乱のとくに「敗者」側の死者について言えるだろう。
 坂本龍馬が中岡慎太郎とともにほとんど「暗殺」されたあと、龍馬の遺体は、現在もある墓地辺り(京都・霊山神社東)に運ばれて、埋葬されたようだ。
 では、新撰組の隊士たちで、同組内の制裁として切腹・斬首の形を受けた者たちの「死体」はどう処理されたのか。
 隊長・近藤勇の墓地は東京・三鷹市の龍源寺にあるが、「首」は官軍による処刑?後に京都で晒されたので、そこにあるのは首を含まない彼の遺骨なのではないか、とも言われている。
 新撰組といえば壬生浪人(みぶろ)と言われ、浅田次郎「壬生義士伝」という小説もあり、京都市(中京区)の壬生寺は新撰組ゆかりであるとされている。しかし、同寺には「供養塔」はあっても途中で制裁された者も含めて隊士たちの「墓」はなく、一部だけが同市(下京区)の光縁寺にある、という(同寺山門付近ににその旨の表示もある)。
 この寺の住職らしき人の「雑談」を信頼して書くと、幕末時、その寺付近に新撰組隊士たちの遺体が棄てておかれるようになった、現在の嵐山電鉄の電車路が大宮駅を西へと出発してすぐの所あたり、現在の同寺の北にすぐに接するあたりに死体が積み重ねられているのを知った先代か先々代かが、遺体・遺骨類を拾い集めてきちんと埋葬して同寺内に墓碑もいくつか作った、という。
 なお、沖田総司は京都で死んだのではないように思うが、そうした墓碑の一つの側面には、たしか「沖田家縁女」と書かれていた(記憶によるので厳格に正確ではたぶんない)。
 幕末期の「いちおう武士」とされた隊士たちですらそうした扱いだったとすると、兵士・武士たちですら、その全ての死者が今日でも明らかな墓地・埋葬地をもっているわけでは全くないだろう(京都・金戒光明寺には、幕末の京都で死んだと見られる会津藩士たちの墓地(「会津墓地」と言われる)はある)。
 ということから、ましてや「庶民」一般が、ということを書いたわけだ。
 京都・化野念仏寺(嵯峨野)には、多数の小さい地蔵仏が身を寄せて集められている。その形の大きさからすると、亡くなった幼児・小児の形見・守り仏のような気もするが、おそらくはふつうの成人の墓碑代わりなのではないか、と全くの素人は想像している。
 奈良・平城京、春日山の東の谷間もそうだったらしいのだが、京都・嵯峨野北方や紫野辺りは昔は<死体投棄場>だったと読んだか、聞いたことがある。
 すでに京都・鴨川の東側の六波羅蜜寺あたりが、平清盛の時代よりももっと昔は、そういう<死体投棄場>だったと読んだか、聞いたこともある。
 多くの人は、死ねば、きちんとした墓も埋葬場所もなく、遺体のままで(運び得る)遠方で投げ棄てられていたのではないか。そして、腐食して、骨になっていたのではないか。芥川龍之介「羅生門」も参照。
 そういう時代に比べると、ほとんどの人の遺体や遺骨がきちんと?処理されることとなり、「墳墓」や「死体、遺骨、遺髪」等がふつうの「物」とは(少なくとも現在日本の刑法典上は)観念されていないのは、進んだものだと、よくなったものだと、思われる。
 だがしかし、一方では、<宗教的感情の保護>という言い分は、ふつうの「物」ではない「霊」・「霊魂」なるものの存在を前提としていることに論理的にはおそらくなるだろう。ふつうの「物」ではないものに対してこそ、<宗教的感情>は発生する。

1950/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史02。

 「保守」と「右翼」はきちんと区別しておいた方がよい。
  都市計画法(昭和43年法律第100号)が言うところの「都市計画事業」のうち「市街地開発事業」には「収用」型と「権利変換」型の二種があって、前者は用地取得に関して土地収用法の適用を受け得る。概念論理的にはおそらく逆に、土地収用法の手続等による「収用」等のいわば<特権>的地位を受け得る事業を「収用」型と称するのだろう。
 そのような「市街地開発事業」の一つに、これまた都市計画法に言う「新住宅市街地開発事業」というものがあり新住宅市街地開発法(昭和38年法律第134号)という法律を基礎的実施法律とする。
 これは大まかには一定規模以上の区域にいわゆる大規模「ニュータウン」を造成・形成するものだが、取得した土地は最終的には道路・公園・学校等の公共施設のほかに住宅地として私人・民間人に譲渡され、私的な利用に供されることから、土地収用法を適用するに値するだけの「公共性」はどこにあるのかが問題になる。
 これは新住宅市街地開発法の制定時の一つの法的論点だったが、実質的には大都市圏域のある程度広い範囲の地域での健全で良好な「街づくり」に寄与するということで全体としての、あるいは総合的な「公共性」が肯定された、とされている。
 この新住宅市街地開発事業は原則とし都道府県が事業主体であり、都道府県の税が投入されるが、むろん、個別の事業ごとに国から事業主体としての都道府県に対して「補助金」も-その基礎は国の税収だが-も交付される。
 「補助金」類は、直接に国民・市民ないし私企業に対するものばかりではなく、都道府県・市町村等の「行政」に対しても交付され、どの程度に国民・市民の知識・素養になっているのかはいらないが、重要な政治的・行政的意味をもつ。
 今はきっとほとんど実施されていないかもしれない「ニュータウン」建設・整備事業は、少なくともかつて「大手民間ディベロッパー」によっても行われていて、完了しているものもある。但し、上に言及した諸法律の適用はない。都市計画法上の「開発許可」制度等々(急傾斜地建築規制等)による制約はあっただろう。
  行政が主体のものを公的事業、私企業が主体のものを民間事業と言っておくことにすると、完了して多数の住民が生活している「ニュータウン」を実際に見ていて、ふと気づいたことがあった。
 公的事業地にはむろん道路・公園・学校等があり(これらの一定のものを都市計画法等は「公共施設」と称する)、それはむろん予め事業計画図面の中に定められているからでもある。
 しかし、民間事業地の場合は、それら以外に、全ての場合ではないが、「宗教施設」が存在していることがある。公的事業は「宗教」とは無関係のもので、事業区域内に神社や寺院の建設を予定するとか、これらを「誘致」する土地をあらかじめ設定しておくというようなことはない(はずだ)。
可能なかぎり「宗教」との距離を置く、むしろ「宗教」はないものとして扱うというのが、基本的には戦後の「行政法制」と「行政」のかつてとは異なる姿になったものの一つかと思われる(もちろん、宗教法人法によるある程度の規制や「宗教」活動であるための収益に対する税法上の優遇といったものはある)。
 民間事業地の場合も「新しく」神主・仏僧も住む神社仏閣を設けることはほとんどないかもしれないが、しかし、一戸の住宅ほどではないほどの敷地に神道ふうの祠らしきもの(小さな本殿?)が設置され、「明神」だったか「権現」だったかの名を記した旗・のぼりがその敷地の周囲にかなりの数でたなびいていたのを実際に見たことがある。
 このようなことはおそらく、公的事業地の場合は想定し難い。
 民間事業には、計画する地域内にそうした施設のための土地をあらかじめ用意しておくことも、「宗教の自由」を前提としての「事業活動の自由」、「営業の自由」に含まれるのだろう。そのような施設が地域内にまたはすぐ近くにあることを嫌悪する者には、その<民間ディベロッパー>が開発して売り出す土地や家屋を買わない自由が当然にある。
  公的であれ私的であれ、伝来的な神社や寺院が全く存在しないか、「祠」的なものはあっても神官は居住せず社務所もないといった「ニュータウン」というものは、戦後の所産であるがゆえに(戦前にも同種のものはあっただろうが、別論とする)、いくつかの問題を発生させ得るし、現実に発生させているだろう。
 思いつく第一は、地区内の住民が死亡した場合の葬儀の問題がある。公的事業地でも「公民館」・「集会場」で葬儀が行われうるかもしれない。だが、「ニュータウン」の中に寺院がないとすると、仏僧による読経という便宜?は、伝統的または在来的な「タウン」・集落よりも提供され難い可能性がある。死者が出ることを想定して、近くのどこに葬儀場や葬祭業者があるかまで考慮して少なくとも公的事業の計画は策定されないのではないか。
 なお、似たような問題は、地震・津波等の自然災害によって多数の死者が出た場合にも生じる。
 神道墓地もあれば神道による葬礼があることも知っているが、多くの国民にはまだ、仏教式での「葬儀」あるいは死者への供養等が馴染み深いだろう。
 思いつく第二は、青少年の心理・意識・精神に対する影響、広くいえば<教育>の問題だ。つまり、神社・仏閣といった宗教施設が自分が生まれ育っている地域に何もなく、かつまた神社等の周囲にあることが多い叢林や森もない、という環境でほとんど青少年期を過ごした者と、我々の前世代の者ならば多いように思われる、神社・仏閣やそれを取り巻く自然環境の中で育った青少年と、全くの違いはないのだろうか。
 神社・寺院あるいは「宗教」の存在を(旅行によってではなく)日常生活の中で自然に知ることができず、学校や(若い両親が増えている)家庭では<戦後体制下らしく>「宗教」をについて教えられることが全くかほとんどない、というのは果たして<教育>にとってよいことなのだろうか。学校等では教えてくれない<不思議な世界>、<理性・理屈だけでは把握できない問題や現象がある」という認識や感覚は、やはり必要なものではないだろうか。
 神社・仏閣といった宗教施設が広い地域に全くかほとんどない「ニュータウン」育ちの子どもと、これらが適度にまたは多数存在する「街」・「集落」の子どもとで、違いは出てこないのだろうか。
 専門家でもなく、実証的な資料・文献を知っているわけでもない。
 こんなことを思いついたきっかけの一つはたぶん、某ニュータウン育ちの中学生がより下の世代の子どもを残虐な方法で連続して殺害したことで、加害者少年の「心理・精神」と<宗教的環境>の関係を考えてしまったことだ。むろん子細に調査してもおらず、特段の結論に達しているわけてもない。
 三 元に戻ると、生後に義務教育学校へと通学しつつ、途中にまたは近くに神社か寺院があった者は、現在でもだが多いだろう。だが、公的事業による「ニョュータウン」造成地の中にはそのようなものはなく、中学卒業まで当該「ニョュータウン」で通学等をしていれば、ほとんど神社・寺院に接することはない。これは、日本の歴史的伝統からは「離反」した現象だろう。そして、戦後の行政と教育における「宗教」の扱いの消極さ、あるいはでくきるだけ関わらない方がよい(「特定の宗教」のみの優遇や区別はできないから)という意識がそれを明確には問題視しない方向へと働いている。
  このような問題だけではない。
 「日本の歴史的伝統」とはそもそも何かが問題だが、戦後体制のもとで実質に失われつつあるような「歴史的伝統」、あるいは明治維新によって明治期に捨て去ってしまったような日本の(それまでの)「歴史的伝統」もあるだろう。宗教的施設の存在の近さを、あるいは日本的な自然の美しさと厳しさを、体感できないような大都会内だけでの生活では、日本に独特の歴史や精神を十分にまたは適切に感得できないだろうと思われる。
 継続している「天皇家」だけが、日本の「歴史的伝統」ではない。
 真摯に日本の「歴史的伝統」の保持が政治信条としての「保守」だと言うならば、<天皇>だけにそれをほとんど集中させるよう考え方や「運動」は、本当の保守派ではないだろう。
 日本会議が「運動」の対象としている論点以外にいくらでも、「日本の歴史的伝統」に関係する問題はある。他の点ではどっぷりと「戦後」体制に屈服し、どっぷりとそれに付着した世俗的生活をしつつ、特定の論点だけを肥大化させているのが、日本会議の「精神運動」であり、いずれあらためて書きたいが「精神的<癒やし>を感じていたい」運動だろう。

1859/井沢元彦・逆説の日本史23-廃仏毀釈。

 井沢元彦・逆説の日本史23/琉球処分と廃仏毀釈の謎(小学館、2017)。
 上の本の、とくにp.251以下。
 ***
 日本本土で先の大戦中に空襲を受けて被災した都市では、原子爆弾を投下された広島・長崎ではもちろん、その被災区域にあった神社・寺院はおそらく全てまたはほとんどが、火災・燃焼等によって破壊されたのではないかと思われる。もちろん、住職や神職者が存在しないような小さな祠や地蔵仏も同様だ。
 かつて福山市内の芦田川の堤防上の道を歩いていて、右岸(上流から見て左か右を分ける)のすぐ下に「地神」と大きく彫った石柱がたぶん三つほどほぼ同間隔で連続して並んで立っているのに気づいた。
 「地神」というのは珍しいと思ったのだが、神道系で、かつ戦災にも遭うことなく、かつてのまま立って残っていたのだろう。
 神社や仏閣あるいは上に触れたような小さな鳥居と祠・地蔵仏などで現在に残っていないのは戦争による被害がほとんどで、再建されたのは戦後だろうと考えてきた。もう70年以上経つので、戦前からのものか戦後の再建なのかは(しろうとには)不分明になっているものもあるに違いない。
 ところが、上の井沢元彦の本を読んで、明治期当初の「廃仏毀釈」による仏教寺院の破壊や消滅も相当にあることを(そういえばという感じで)想起することができた。
 井沢によると、いわゆる「廃仏毀釈」による影響は、つぎのとおりだ。
 ①鹿児島県には、国宝等クラスの寺院・仏像が残っていない。p.273。
 ②薩摩藩島津家の菩提寺だった「福昌寺」は「今は跡形も無い」。p.273-4。
 ③安徳天皇を葬って祀った下関阿弥陀寺は廃寺となり、新たに赤間神宮が建立された。p.272。
 ④奈良県天理市にあった「内山永久寺」は比叡山延暦寺・東叡山寛永寺とともに元号を名とする大寺院だったし、近くの石上神宮の神宮寺でもあったが、「今は跡形も無い」。「現在は本体の破片すら残っていない。徹底的に破壊されたに違いない」。幸いというべきか、現在の石上神宮の摂社の一つ建物は、かつてこの永久寺の鎮守社(寺院境内の神社)のものだった。p.277-8。
 ⑤現在の奈良公園のほとんどは興福寺の境内だった。(井沢は明記していないが、いわゆる明治維新期当初に新政府が「接収」または補償金のない「収用・収奪」をして奈良県庁・裁判所・師範学校等にしたものと見える。最近に再興・再建された「中金堂」の区画は、かつては県庁舎の一部の敷地だったようだ。西国観音札所の納経は「南円堂」)。p.279以下。
 他にもあるが、割愛する。
 (上の③については、この欄で櫻井よしこの「無知」を指摘する中で触れたことがある。②に対して、萩藩の毛利氏の菩提寺二つは現在もきちんと残っている。)
 井沢はまた、この政策の背景にある新政府の<宗教政策>およびその前提としての各「宗教」の内容や実態についても説き及んでいるが、逐一の紹介は避ける。
 ともあれ、考えさせられるのは、明治維新(あるいは一般的には「政治変革」)による宗教政策の変化とそれによる「現実の宗教施設・宗教運動」への影響の大きさ、というものだ。
 神道・神社と仏教・寺院および神道政治連盟(<日本会議)と全日本仏教会の違いというのも(後者は首相靖国公式参拝に組織として反対している)、少なくとも明治維新とその「廃仏毀釈」政策にまで遡らないと、理解することが困難であることも判明してくる。
 追記すれば、井沢元彦は、のちに「明治維新」の主役となった者たちの宗教は<神道+朱子学>であって、<神仏混淆>を否定して神道の純粋性を守るために仏教と切り離すことを意図した、とする(正確な引用ではない)。
 池田信夫によると福沢諭吉は「儒学」を捨てて「洋学」に向かった、というのだが、福沢諭吉は「明治維新の元勲たち」ではなく、明治維新より後の時代での彼に関する叙述だから、少なくとも明らかに矛盾しているとはいえないようだ。
 

1832/美しい日本-山岳・山稜②ー伊吹山。

 西国三十三カ所霊場の通称「よしみね寺」、いや正式にもたぶん「善峯寺」の北に、別に洛西三十三観音霊場の札所の一つがある。その理由だけで一度参拝したのだが(そして御朱印をいただいたのだが)、その寺院の本堂はたぶん東向きで、その前のテラス部分から、京都市内(盆地)の一部と山稜がよく見える。
 京都市街地からはどの程度よく見えるのかは知らないが、ここからは京都市街東方すぐの山稜で、目立ってすぐに分かるのが、比叡山だ。歴史の知識からすると無骨な印象もあるが、西方からのこの山の姿は、優美だ。頂上部が丸っこくどっしりとではなく、凜として、すっきりしている。
 ところがその左に頂上部に冠雪がまだはっきりと残っている独立峰があって、この山はいったい何なのかがよく分からなかった。比良山系の比叡山に連なる北側にある山だろうというのが、そのときの推測だった。
 ご朱印をいただく際に尋ねてもみたが、面倒くさく感じられたのか?、よく存じませんと言われた。
 そこでのちに地元の人に尋ねてみると、回答はすぐだった。
 伊吹山
 何と、京都市の西郊、長岡京市の北方辺りから、京都市街、京都・滋賀府県境の比良山系、さらに琵琶湖までをも越えて、伊吹山がはっきりと見えたのだった。
 もっと前のある年、JRと名鉄の共用の駅舎のある尾張一宮駅の西口から西方の山並みを眺めていると、穏やかな養老山系の右側(北)に遠く、白い雪が目立つ高い山らしきものが見えた。
 伊吹山だった。
 濃尾平野の西北端よりもさらに西部だと思うが(関ヶ原よりも西)、濃尾平野の中にある尾張一宮の市街からも、伊吹山がはっきりと見えるのだった。
 この地域の人々は、伊吹山の冠雪の程度によって季節の状態や変わり目を知るのだ、という(これは滋賀県等の地域でも同様かもしれない)。
 前回の「1727/美しい日本-山岳・山稜①」(2018/02/11)では、東海道新幹線の乗客を想定して、日本で最もよく近くで見られている幸福な山ではないかと伊吹山のことに触れた。
 しかし、この山は京都盆地の西郊の高台や濃尾平野の少なくともかなりの部分からも、明確に見分けて、眺められている。
 繰り返しになるが、熟達した登山家くらいしか近くで見ることのできない(ほとんど誰からも見られることのない)山岳は日本に多数あるだろう。やはり、伊吹山は特別だ。

1562/神は幸せか?②-2006年のL・コワコフスキ。

 前回のつづき。
 Is God happy ? (2006), in : Leszek Kolakowski, Selected Essays (2012).
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 神は幸せなのか?//
 この疑問は馬鹿げてはいない。
 我々の伝統的な考え方からすると、幸せとは心の感情の状態の一つだ。
 しかし、神には感情があるのか?
 確かに、神は我々被造物を愛すると言われている。そして、愛とは、少なくとも世俗人間世界では、一つの感情だ。
 しかし、愛とはそれが報いられたときの幸せの源の一つであり、神の愛は、その客体の誰かにのみ報われるのであって決して全員によってではない。
 ある者は神は実在するとは信じないし、ある者は神が存在するかどうかを気にしないし、あるいは神を憎悪して、人間の苦痛や悲惨を前にして無関心だと責め立てる。
 神が無関心ではなくて我々のような感情をもっているならば、神は人間の苦しみを目撃して、つねに悲しみの状態で生きているに違いない。
 神は、その苦しみの原因になったわけでもないし、望んだわけでもない。だが、全ての悲惨、恐怖および自然が人々にもたらす又は人々がお互いに加え合う残忍さを前にして、無力なのだ。//
 一方で、神は完全に不変であるとすれば、我々の悲惨に動揺したりすることはありえず、したがって神は無関心であるに違いない。
 しかし、神が無関心だとすれば、いかにして神は慈愛の父であることができのか?
 そしてもし不変ではないとすれば、神は我々の苦しみに共感し、悲しみを感じる。
 いずれの場合でも、我々の理解できる全ての意味において、神は幸せではない。//
 我々は、聖なる存在を理解することはできないことを認めざるをえない。-全能の、神自身においてかつ神の外部にある何かとしてではなく自身を通じて全てを知る全智の、そして苦痛や悪魔に影響を受けない、聖なる存在のことを。//
 キリスト教の本当の神、イェズス・キリストは、認識可能な全ての意味において、幸せではなかった。
 キリストは、痛みを現実化されて苦しんだ。キリストは仲間の者たちの苦しみを分け持った。そして、十字架の上で死んだ。//
 つまりは、<幸せ>という言葉が聖なる存在にあてはまるとは思えない。
 しかし、人間にもそれはあてはまらない。
 我々が苦しみを経験しているのだけが理由ではない。
 あるときに苦しんではいないとしても、肉体的および精神的な愉楽や『永遠に続く』愛を超える瞬間を体験することができるとしてすら、我々は、悪魔の存在と人間の状態の悲惨さを決して忘れることができない。
 我々は他人の苦しみに同情はするが、死の予感や生きていることの悲しみを排除することはできない。//
 そうして、全ての愉しい感情は純粋に消極的なものだ、つまり苦痛がないことだ、というショーペンハウエル(Schopenhauer)の陰鬱な考え方を、我々は受容しなければならないのか?
 必ずしもそうではない。
 我々が善(good)だと経験するもの-美的な歓喜、性的な恍惚、あらゆる種類の肉体的精神的愉楽、豊かにしてくれる会話と友人の情愛-は全てたんなる消極物だと考える必要はない。
 このような経験は我々を強くし、精神的により健康にさせる。
 しかし、悪魔についても苦しみについても-malum culpae あるいは malum ponae -、これらは、何もすることができない。//
 もちろん、自分は成功しているとの理由で幸せだと感している人々はいる-健康面であれ豊かさ面であれ、隣人たちから尊敬(または畏怖)されている。
 このような人々は、人生は幸せそのものだったと信じるのかもしれない。
 しかし、これはたんなる自己欺瞞だ。時が経つにつれて、その人たちは真実を認識するのだとしても。
 真実は、その人たちは残りの我々のように失敗者だ、ということだ。//
 ここで異論が生起しうる。
 我々が高い種類の真の知識を学んだとすれば、アレクサンダー・ポープ(Alexsander Pope)のように何であれあるものは正しい(right)と、あるいはライプニッツ(Leipniz)のように我々は論理的に可能な全ての世界の最善の中に住んでいると、信じるかもしれない。
 こうしたものを精神的に受容することに加えて、つまり神にいつも導かれているので世界の全ての物事は正しい(right)と単純に信じることに加えて、我々の心の中でそのとおりだと感じ、壮麗さや、日常生活にある普遍的なものの善性(goodness)や美しさを経験するならば、我々は幸せだとは言っていけないのだろうか?
 答えは、否、だ。
 我々は、そうできない。//
 幸せとは我々が思い抱くもので、経験ではない。
 地獄や煉獄がもはや機能しておらず、全ての人間が、ただ一人の例外もなく神によって救済され、何も不足なく、完璧に充足して、苦痛や死もなく、いま天上界の至福を享有しているのだと思い浮かべると、彼らの幸せは現実にあり、過去の悲しみや苦しみは忘れ去られてしまったと、思い描くことができる。
 このような状態を思い抱くことはできる。しかし、それはかつて決して経験されてきていない。それを見た者は、これまでにいない。//
 2006年
 ---
 終わり。

1559/神は幸せか?①-2006年のL・コワコフスキ。

 L・コワコフスキ(1927~2009)は、「神学」者でもあったらしい。
 そしてキリスト教関係の諸概念・「教義」・故事来歴・歴史をきっと(欧米知識人にしばしばあることだが)をよく「知っている」のだろう。
 しかし、頭の「鋭い」、探求好きのこの人は、「神」の存在を「信じて」いただろうか?
 信じてなどいないのではないか。そうでなければ、「神は幸せか?」という奇妙な問いを発したりはしないのではないか。「神」について<幸せ>かどうかという発問をするのは、敬虔な信者にとってはありえないことではないか ?
 いや、この人は「神」の存在を信じていたようにも見える。但しそれは、「悪魔」と一体として、または同時に存在するものとしてだ。
 自分の周囲に、またはその「東方」に、かつてL・コワコフスキは「悪魔」が具現化したものを、あるいは「悪魔」のさんざんの所業を見てしまったのではないか。
 こんなことを思ったのは、以下の小論考(エッセイ)を読む前のことだ。
 L・コワコフスキ、79歳のときの文章。
 Is God Happy ? (2006), in : Leszek Kolakowski, Selected Essays (2012).
 ---
 神は幸せか? ①。
 シッダールタ、のちのブッダの初期の伝記から明らかになるのは、人間の状態の悲惨さに全く気づかなかった、ということだ。
 王族の子息として、音楽や世俗的な快楽に囲まれて、愉楽と贅沢の中で青年時代を過ごした。
 シッダールタは、神が彼を啓発しようと決定するまでに、結婚していた。
 ある日彼は、哀れな老人を、そしてひどい病気の人の苦しみを、そして死体を、見た。
 老化、苦痛、死というものの存在--彼が気づいていなかった人間の全ての痛ましい様相--が彼の身近になったのは、ようやくそのときだった。
 これを見てシッダールタは、世俗世界から離れて僧になり、ニルヴァナ(Nirvana)への途を探求しようと決意した。//
 我々はそして、人間の残酷な現実を知らない間は彼は幸せだった、と想像するかもしれない。
 彼の人生の最後に、長くて苦難の旅のあとで、地上の状態を超えるところにある本当の幸せをかち得た、と想像するかもしれない。//
 ニルヴァナを、幸せの国のごとく叙述することができるのか?
 この執筆者〔私〕のように、初期仏教の教義を原典で読めない者には、これは確かでありえない。< happiness (幸せ) > という語は、翻訳文には出てこない。
 < conciousness (意識) >、< self (自己) >のような言葉の意味が今日の言語の元々の意味に対応しているのは確かだ、というのは困難だ。
 ニルヴァナは自己の断念を要求すると、我々は語られている
 これは、ポーランドの哲学者、エルツェンベルク(Elzenberg)が主張するように、誰かが幸せであるということとは関係がない、つまり主体はなく、ただ幸せだけがありうる、ということを示唆していると理解してよいのかもしれない。
 これは馬鹿げているように思える。
 しかし、我々の言語は、絶対的な現実を叙述するために決して適切なものではない。//
 ある神学者は、我々は、神は神ではないと言って、否定によってのみ神を語ることができる、と論じた。
 我々はおそらく同じように、ニルヴァナとは何であるかを知ることができないし、ニルヴァナはニルヴァナでない、としか言えない。
 だが、たんなる否定で満足するのはむつかしい。もう少し何かを語りたい。
 そして、ニルヴァナの国ではどうなのかについて語るのは許されると想定しても、最も困難な疑問は、これだ。この国の人は、周りの世界に気づいているのか?
 そうでなければ、かりにその人は地上の生活から完全に離れているのだとすれば、その人はいかなる種類の現実の一部なのか?
 そして、その人が我々が経験している世界に気づいているのだとすれば、その人はまた、悪魔にも、苦しみにも気づいているに違いない。
 しかし、悪魔や苦しみに気づいていながら、なおも完全に幸せである、ということはありうるのか?//
 同じ疑問は、キリスト教の天国の、幸せな住人に関しても生じる。
 彼らは、我々の世俗世界から完全に離れて、生きているのか?
 そうでないなら、地上の存在の悲惨さに気づいているなら、世界に生起する恐ろしい物事、世界の極悪非道な一面、悪魔と痛みと苦しみとを知っているなら、言葉のいかなる認識可能な意味においても、彼らは幸せではありえない、のではないか?
 (<幸せ>という言葉をここでは、<航空機内のこの座席で happyですか>とか、<このサンドイッチで全くhappyですか> とか言うような、<十分な(content)>や<満足した(satisfied)>という以上のことを意味しないものとして使っている、ということを明確にしておくべきだろう。
 幸せに対応する言葉は、英語では広い射程の意味をもつ。他のヨーロッパの諸言語では、もっと制限的だ。したがってドイツ語では言う、<幸せだ(happy)、でも、ぼくは幸運(gluecklich)ではない>。)//
 仏教とキリスト教のいずれも、魂の究極的な解放は、完全な静穏、精神の完全な平穏だ、と示唆している。
 そして、完全な静穏とは完璧な不変と同じ意味だ。
 しかし、私の精神が不変の状態にあるとすれば、そして何からも影響を与えられないとすれば、私の幸せは、一個の石の幸せのごときものだろう。
 一個の石は悪魔からの救いを完全に具現化したものでニルヴァナだと、我々は本当に言いたいのか?//
 真に人間的であるということは、同情を感じる、他人の苦痛や愉楽に共感する、という能力をもつことを含んでいるので、若きシッダールタは、幸せだったに違いない。あるいは、ただ彼が無知だった結果として、幸せだという幻想を味わったに違いない。
 我々の世界では、この種の幸せは、子どもたちにだけ、一定の子どもたちにだけある。
 五歳以下の子どもたちと言っておこうか、愛する家族の中にいて、彼に身近な者の大きな苦しみや死を経験したことがない。
 おそらくこのような子どもは、私がいま考えている意味において、幸せでありうる。
 五歳を超えると、我々はたぶん、幸せであるには年を取りすぎている。
 もちろん、我々は、刹那的な愉楽、不思議と大幻惑の瞬間、そして神や宇宙と一体となる恍惚感すらも、体験することができる。我々は、愛や歓びを知っている。
 しかし、不変の状態としての幸せは、我々には到達できそうにない。本当の秘儀の世界でのきわめて稀な場合をおそらく除いては。//
 これが、人間の状態というものだ。
 しかし、我々は幸せは聖なる存在のおかげだと推論できるのだろうか?
 神は幸せなのか?
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 あと1回、つづく。

1531/日本の保守-「宗教と神道」・櫻井よしこ批判④07。

 櫻井よしこは、天皇・皇族と「仏教」・仏教寺院との長い関係を無視してはいけない。
 この点を、とくに「陵墓」との関係で述べる(続き)。神社にもときに触れる。
 ○ 仏教寺院と天皇陵墓との密接な関係を感じ知ったのは、泉涌寺に少し遅れて、崇徳天皇の陵墓を参拝したときだった。 
 目的はむしろ四国八八カ所の札所・白峯寺にあったが、近くに御陵があるという知識はあった。寺院を一めぐりしたあとで寺務所で尋ねると簡単に陵墓の場所を教えてくれ、簡単にそこまで行けた。
 陵墓の前の礼拝場所は、寺務所がある場所の高さとほとんど変わらず、ほとんど直線で行けて、間に金網製の門のようなものだけがあった(夜間には閉めるのだと思われる)。
 そのときに思ったことだった。現在はともかく、つまり今は国・宮内庁が管理していても、かつては、少なくとも幕末までは白峯寺自体が御陵を管理し、各種の回向、法要類をしていたに違いない、と。
 そうでないと、白峯寺と崇徳天皇陵墓の間の近接さ、かつ標高のほぼ同じさは理解できない。明治改元の直前だったか、京都市には、崇徳天皇の神霊を祀る「白峯神宮」という神社までできた。「白峯寺」と「白峯神宮」、偶然であるはずがない。陵墓自体の名称も、「白峯陵(しらみねのみささぎ)」という。
 崇徳とその陵墓等について竹田恒泰に一冊の本があること、上田秋成・雨月物語の最初の話は崇徳・西行の「白峯」であることは既に触れた。
 なお、崇徳天皇陵墓へは、そこに上がる一本の長い石段が下方から続いている。だが、かなり近くまで車が入る寺院(白峯寺)に寄ってから御陵へ行く方が(ほぼ同じ高さなので)、下から昇るよりは(年配者には)相当に楽そうに見える。
 つぎに、寺院ではなく神社だが、すぐ近くに陵墓があり、それを予めは知っていなかったので驚き、また感心したことがあった。
 薩摩川内市・新田神社。古くて由緒ありそうな神社だが、参拝を終わって右の方へ抜ける道があったので進んでみると、神社の本殿とほぼ同じ高さ、かつ本殿の裏側辺りの位置に(但し、向きは正反してはいないと感じた)、陵墓があった。途中に小さな小屋があって宮内庁との文字があったので、宮内庁管理の陵墓だと分かった。 
 天皇ではなく、何と<ニニギノミコト/瓊瓊杵尊>の墓だった。天照大神の孫で高天原に「天下った」とされ、此花咲耶(このはなさくや)姫が妻だった、とされる。
 神武天皇ですらその陵墓(橿原神宮近く)の真否については疑われているので(文久か明治に「治定」した)、三代前(神武の曾祖父とされる)の人 ?・神 ?の本当の陵墓なのかはもちろん怪しい(しかも鹿児島県ということもある。但し、「降臨」があったという日向・宮崎県には近い)。
 ともあれ同じ山(全体として可愛(えの)山陵とも)に接近して神社と皇族ゆかりの陵墓があり、①陵墓の<宗教>関連性と②現在の形式的な ?国家と「宗教」の分離の二つを感じ取れる。かつては、この神社自体がその一部として管理していたに違いない(現在でもこの神社の重要な祭神の一つだ)。
 若い巫女さん(社務所のアルバイト ?)は「あちらは関係がありません」とあっさり言っていたが。
 ○ 関門海峡に沈んだ安徳天皇にも、陵墓がある。かつて管理していたのは阿弥陀寺という寺院だったが、これが明治の神仏混淆禁止によって赤間神宮になったらしい。戦前はこの神社の管理だったと思われる。
 この神社の境内かそれに接してか、平家武士何人かの墓碑もある。この地は怪談・耳なし芳一の話の舞台で、芳一が耳以外に書かれるのは、神道ではなく、仏教の呪文・文字のはずだ。また、赤く目立つ楼門は<竜宮造り>というふつうは仏教寺院の山門にときどき見られるもので、神仏習俗時代の名残りを残している。
 阿弥陀寺という寺はなくなったが地名としては残っており、安徳天皇陵墓所在地は下関市「阿弥陀寺町」という。
 安徳天皇の母親は平清盛の娘・徳子で、平家滅亡後に殺されることなく、京都・大原に(たぶん実質的に)幽閉され、建礼門院と称した。その後にあるのが、仏教寺院・寂光院だ。そして、天皇の母親だと皇族のようで、現在もすぐ右隣(東)に、建礼門院の陵墓がある。かつては寂光院という寺が、管理等々をしていたはずだ。
 寺院との間を直接に同じ高さで行き来できるように思うが、現在は遮断されていて、寂光院の前の道にまで降りなければならない。かつ原則的には一般に公開していない、と思われる。
 ○ 実経験や本から得て知っていることをこうして書いていると、キリがない。
 天皇(・皇族)陵墓のうちかつて仏教寺院が管理しかつ法要類をしていたものの資料・史料は手元にない。江戸幕末以前のことなので、全体の一覧は簡単に見出せそうにない。また、管理等々の厳密な意味も問題になりうる。
 さらに陵墓とは正確には、当該天皇等の遺骨が存置され、守られている場所をいう。
 この点で、上記の安德天皇陵は、厳密では「墓」ではない。幼くして亡くなったこの天皇の遺体自体が見つかっていない(ついでに言うと、生きている間に京都で別の天皇が三種の神器なく即位する(それ以降は安德は偽扱いされる)という「悲劇」に遭っている)。
 山田邦和「天皇陵への招待」下掲②所収のp.181によると、元明から安德までの奈良時代から平安時代末までの38天皇(重祚は1とする)の天皇陵にかぎっても、上の点で信頼が置けるのは、わずか9陵にすぎない(◎、これに崇德陵は含まれる)。それ以前の天皇陵についてはもっと割合は低くなるはずだ。
 また、現地又は付近地である可能性が高い(但し、決め手がない)ものと山田が記号化しているものを秋月が計算すると、15陵が増える(○。◎との合計は24陵。安德は別カウント。それ以外は△)。
 さらに、陵墓を管理する寺院というのはその直近に(泉涌寺のように)位置しているとは限らず、ある程度の「付近」というのはありうると思われる。
 これらの点も考慮しつつ、宮内庁HPでの陵墓一覧表の所在地から、仏教寺院管理陵墓だった推察できるものは、以下のとおりだ。なお、これまでと同様に、以下も参照している。
 ①藤井利章・天皇と御陵を知る事典(日本文芸社、1990)。
 ②別冊歴史読本・図説天皇陵-天皇陵を空から訪ねる(新人物往来社、2003)。
 数字は即位年。高倉天皇以前の陵名後の◎○△は上記参照。*は火葬地。所在地は宮内庁HP記載のとおり。関係寺院はあくまで秋月の「推測」で、厳密な「研究」によるのではない。
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 聖武天皇0724・東大寺/佐保山南陵◎-奈良市法蓮町。
 嵯峨天皇0809・大覚寺/嵯峨山上陵○-右京区北嵯峨朝原山町。
 陽成天皇0876・真正極楽寺(真如堂)/神楽岡東陵○-左京区浄土寺真如町。
 光孝天皇0884・仁和寺/後田邑陵△-右京区宇多野馬場町。
 宇多天皇0887・仁和寺/後田邑陵○-右京区鳴滝宇多野谷。
 醍醐天皇0897・醍醐寺/後山科陵◎-伏見区醍醐古道町。
 朱雀天皇0930・醍醐寺/醍醐陵△-伏見区醍醐御陵東裏町。
 冷泉天皇0967・霊鑑寺/桜本陵○-左京区鹿ヶ谷西寺ノ前町等。
 円融天皇0969・仁和寺/後村上陵○-右京区宇多野福王子町。
 花山天皇0984・法音寺/紙屋川上陵○-北区衣笠北高橋町。
 一条天皇0986・龍安寺/円融寺北陵○-右京区龍安寺朱山龍安寺内。
 後一条天皇1016・真正極楽寺(真如堂)/菩提樹院陵○-左京区吉田神楽岡町。
 後朱雀天皇1045・龍安寺/円乗寺陵△-右京区龍安寺朱山龍安寺内。
 後冷泉天皇1045・龍安寺/円教寺陵△-右京区龍安寺朱山龍安寺内。
 堀河天皇1086・龍安寺/後円教寺陵○-右京区龍安寺朱山龍安寺内。
 鳥羽天皇1107・安楽寿院/安楽寿院陵◎-伏見区竹田内畑町。
 崇徳天皇1123・白峯寺/白峯陵◎-坂出市青海町。
 近衛天皇1141・安楽寿院/安楽寿院南陵◎-伏見区竹田内畑町。
 後白河天皇1155・法住寺/法住寺陵◎-東山区三十三間堂廻り町。
 六条天皇1165・清閑寺/清閑寺陵◎-東山区清閑寺歌ノ中山町。
 高倉天皇1168・清閑寺/後清閑寺陵◎-東山区清閑寺歌ノ中山町。
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 後鳥羽天皇1183・勝林院(三千院内)/大原陵-左京区大原勝林院町。*隠岐
 順徳天皇1210・勝林院(三千院内)/大原陵-左京区大原勝林院町。*佐渡
 土御門天皇1198・金原寺/金原陵-長岡京市金ケ原金原寺。*鳴門市
 後堀河天皇1221・今熊野観音寺/観音寺陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 四条天皇1232・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 後嵯峨天皇1242・天竜寺/嵯峨南陵-右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町天竜寺内。
 亀山天皇1259・天竜寺/亀山陵-右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町天竜寺内。
 後宇多天皇1274・大覚寺/蓮華峯寺陵-右京区北嵯峨浅原山町。
 後醍醐天皇1318・如意輪寺/塔尾陵-奈良県吉野町吉野山塔ノ尾如意輪寺内。
 後村上天皇1339・観心寺/檜尾陵-河内長野市元観心寺内。
 長慶天皇1368・天竜寺/嵯峨東陵-右京区嵯峨天龍寺角倉町。
 後花園天皇1428・常照皇寺/後山国陵-右京区京北井戸町丸山常照皇寺内。
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 後水尾天皇1611・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 明正天皇1629・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 後光明天皇1643・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 後西天皇1654・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 霊元天皇1663・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 東山天皇1687・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 中御門天皇1709・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 櫻町天皇1735・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 桃園天皇1747・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 後櫻町天皇1762・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 後桃園天皇1770・泉涌寺/月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 光格天皇1779・泉涌寺/後月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 仁孝天皇1817・泉涌寺/後月輪陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
 孝明天皇1846-1866・泉涌寺/後月輪東山陵-東山区今熊野泉山町泉涌寺内。
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 以上。かなり厳しく「墓陵」性があるものに限ったが、より古い時代も含めて、本当の「墓陵」だと信じて、またはそのはずだと考えて、寺院や神社が管理等に関与したことはあっただろう。
 陵墓に関する前回に、次の著から、1870年(明治3年)の「御陵御改正案写」の内容に触れた。
 外池昇・幕末・明治期の陵墓(吉川弘文館、1997)。
 その中に、「僧徒」が陵墓に「九重石御塔或ハ…」をそのままにしているのは「混淆之一端」だとして批判している部分があった(p.333)。
 上掲①の藤井利章著が各陵墓について掲載している写真又は説明によると、後水尾天皇~仁孝天皇までの御陵には「九重」の「石塔」がある(16世紀即位の後陽成天皇陵についても、陵墓の所在地は違うが、同じ)。
 この「九重」の「石塔」が<仏教>的なのだとすると(上の1870年文書はそう読める)、この石塔は明治時代も昭和戦前もずっと、撤去されないままで存置されたままだったように解される。いったん撤去されたが、戦後に再び設置されたとは考え難いからだ。
 それだけ<神仏分離>は徹底されなかったこと、天皇陵墓についてすら、江戸期までの、「仏教」のまたは神仏混淆・習合の長い「伝統的歴史」は変わらなかった、と言えるものと思われる。
 ○ 櫻井よしこは、仏教を無視して、日本の宗教を神道に<純化>させるがごとき危険な主張をしない方がよい。秋月瑛二はあえてどちらかというと、神道の方に好みがあったが、この点とは別に、こう批判しなければならない。
 そんなことは明言していないと、釈明・反論したいだろう。
 しかし、明治天皇を中心にしたという「五箇条の御誓文」を出発点とする日本国家形成や、明治天皇と「明治の元勲」たちによる旧皇室典範の制定をほぼ全面的に賛美する姿勢、「神道は日本の宗教です」という思い詰めたがごとき言葉、聖徳太子に言及する際に神道の寛容性を示すものとしてか「仏教」に言及しないこと、等々からして、櫻井の最近の主張の背景にあるものはほとんど明らかなのだ。
 国家基本問題研究所の役員たちは、櫻井よしこをいつまで「理事長」にまつり上げておくつもりなのだろうか。
 月刊正論、月刊WiLL、月刊Hanadaのそれぞれの編集長・編集部が「営業」のためにこの人物を利用しているのだろうことは、いずれまた述べる。

1523/日本の保守-「宗教と神道」・櫻井よしこ批判④05。

 ○ 櫻井よしこは、日本の一般国民の日常的な神仏の感覚を侮蔑してはいけない。
 神仏の区別の曖昧さ、または神仏混淆・習合、についてつづける。
 一回だけ、本堂か本殿かの前に立って、手を合わせ始めて、一瞬か数秒か、ここは神社だったか寺院だったかが分からなくなっていたことがあった。両掌で叩いてしまっては、仏教寺院ではたぶんいけない。
 それは奈良県桜井市の「談山神社」(中大兄皇子・中臣鎌足の「談」の地とされ、後者を神として祀る)で、こう書くと神道「神社」であることが明らかだが、山の斜面の広い境内や一三重の塔などには、仏教寺院であっても不思議ではない雰囲気がある。
 この神社の建築物もきっと、仏教の影響を受けているか、かつては仏教寺院そのものだったのだろう。
 神道神社の本殿・正殿であっても、千木や鰹木類は全くない、寺院の本堂だと言われても納得してしまうようなものは数多くあるのではないか。拝殿も同様だ。
 神仏の分かち難さは、いわゆる<七福神>信仰でも分かる。
 この七福神は、それぞれの一つずつについても、神と仏の区別が明確にはなされていないように見える。「えびす(恵比寿)」だけはどうやら神道上の神のような気がする。
 しかし、江ノ島神社について、江島「弁財天」と言ったりするが、「弁財天」は神道の神なのか。 
 また、混淆しているわけではないが、新しく10年ほど前から関西には寺院90・神社60の計150寺社からなる<神仏霊場会>なるものがあり、専用の朱印帳も販売している。神道神社と仏教寺院が同じ一列に並んでいる。
 <神道は日本の宗教です>と意を決したように( ?)語る櫻井よしこには、このような現実は見えているのだろうか。
 ○ ついでに言うと、仏教もさまざまだ。ほとんど表面的な外観のみでいうと、長崎市の崇福寺・興福寺は赤色が目立って異国の中国ふうに感じ、宇治市の万福寺(隠元・黄檗宗)もまた日本的でない厳しさと古さを感じる。
 これらの<異国>を感じる仏教寺院に比べれば、他の日本の寺院はすっかり日本化しているようだ。例えば、東京・浅草寺、成田・新勝寺や京都・清水寺は、あるいは奈良・興福寺は、すっかり日本の景色になってしまっているだろう。
 おそらく宗教・仏教の経典解釈も、昔のインドまたは中国のそれとは異なってきているに違いない。
 もっとも、巨大な仏像(東大寺、鎌倉・高徳院等)や大きな石仏は、少なくともかつての日本人には異国を感じさせたものではなかったかと想像する。
 また例えば、奈良県高取町・南法華寺(壺坂寺)の本尊仏の正面に向けた「眼」の大きさは、インドかまたはそれよりも西方の地域を想像させもする。日本の仏像のかなり多くは、正面向きであれ、斜め下向きであれ、眼は細長いように見えるからだ。
 そしてまた、仏教建築・仏教美術も、とっくに日本のものに、日本の「伝統」になっているだろう。鎌倉時代以降だっただろうか、運慶・快慶ら制作の仏像・金剛力士像等々の存在、その他今に残る仏教「絵画」等々、さらには<禅庭>、を抜きにして、日本の「文化」を語ることはできないだろう。
 神道・神社よりも仏教・寺院の方が大切だなどとは、一言も主張していない。
 櫻井よしこは、国民・一般庶民でも感知できる日本の歴史や文化にとっての仏教や寺院の存在の大きさを、いかほど認識しているのか、きわめて疑わしい、と指摘している。
 櫻井よしこは、国民一般の庶民感覚を侮蔑しているのではないか。
 ○ 天皇や皇族の<陵墓>のテーマに移る(戻る)。
 櫻井よしこは、聖徳太子に論及する際に、神道によって「寛容に」導入された、という意味でしか「仏教」に触れなかった。
 しかし、櫻井よしこは知っているだろうか。聖徳太子とその母親・(最後の)妻は、少なくとも明治期に入るまで、<仏教>式で祭事が行われ、その陵墓は仏教寺院によって管理されてきた。
 根拠文献は手元に一つもないが、大阪府・叡福寺の現地を訪れてみれば、すぐに分かる。
 石段を上がってこの寺の山門をくぐると、真正面の北方向に、聖徳太子らの陵墓はある。本堂や多宝塔はこの南北の中心線よりも西側にあり、寺務所は東側にある。陵墓へ直線で進めるように中心線部分は空いている。感覚としては、寺の境内の中、少なくとも中央の奥に、陵墓がある。
 現在の管理の仕方はのちに言及するが、江戸時代末期まで、法形式にはともあれ、この寺が聖徳太子のいわば菩提寺であり、法要や墓の維持・管理がこの寺によって行われてきたことはほとんど間違いがないだろう。
 それにまた、この寺のある町は、大阪府南河内郡「太子(たいし)町」という。
 なお、同じ町内には敏達天皇(即位572-)、父親の用明天皇(同585-)、孝徳天皇(同645-)の陵墓(とされるもの)もある。
 今回は以下を参照している。即位年は後者による(争いはあるのかもしれない)。
 藤井利章・天皇の御陵を知る辞典(日本文芸社、1990)。
 別冊歴史読本/図説天皇陵-天皇陵を空から訪ねる(新人物往来社、2003)。
 
聖徳太子については非実在説もあるし、(歴史教科書中への)厩戸皇子への名称変更説もあるらしいが、伝統的な理解によると、日本の初の仏教寺院だとされる大阪市・四天王寺は聖徳太子ゆかりだった。また、世界遺産・法隆寺(奈良・斑鳩町)もまた聖徳太子に最も関係がある。その西方にあって法隆寺とも縁があるかに思える古墳は、暗殺された、母方の叔父にあたる崇峻天皇の(本当の)墓ではないかとの説もある。
 梅原猛は以下の本で、法隆寺は聖徳太子の「怨霊」を封じ込めるための仏教施設ではないか、とした。たしかに、南大門の柱の本数は奇数で、真ん中は(中から外へも)出にくくなっている。
 梅原猛・隠された十字架-法隆寺論(新潮社、1972/新潮文庫1981)。
 ともあれ、聖徳太子といえば、すぐに<仏教>を連想させるほどの、仏教または寺院と関係の深い、日本最初の人物だ。
 櫻井よしこは、この点を、完全に無視しようとしている。
 「無知」であるか、何らかの<政治的動機>があるかのどちらかだろう。
 ○ R・パイプスと櫻井よしこを比べてしまって、恥ずかしいことをした。
 L・コラコフスキーと関連づけてしまうのは、狂気の沙汰だ。
 歴史と思想に関する豊かな知見、それらへの深い思索と洞察、かつ鋭く適確な政治的感覚をもった人物またはリーダーは、日本の<保守>界の中には、いないのだろうか。
 日本会議会長・田久保忠衛、国家基本問題研究所理事長・櫻井よしこ。
 
こう書いて、ぞっと戦慄が走る。

1519/日本の保守-「宗教と神道」・櫻井よしこ批判④04。

 ○ 櫻井よしこが日本文明や日本の宗教について語るときに、神仏混淆、神仏習合の歴史に言及しないでただ「神道は日本の宗教です」と言うのは、日本人一般の庶民感覚をも侮蔑している。
 神道と仏教の違いを不明確にしか了解していないままでか、かなり意識して両方ともか、は人によって異なるだろうが、日本人の多くは、神道と仏教のいわば<混在>を何となく感じて生きているのだと思われる。
 街角の小さな神か仏に自転車で近づいて、前で手を合わせて戻っていったまだ若い男性をいつぞや見かけた。あれは、神道の小さな祠だったのか、小さな石仏の地蔵だったのか。
 日本文明とか日本の宗教とか語りつつ、櫻井よしこはいかほどに、日本人の平均的な<宗教>観を知っているのか。神・仏の違いや関係がどう意識されているのかを知っているのか。
 櫻井よしこは、日本国民一般を侮蔑しているのではないか。
 以下では、神仏混淆について<感じ知っている>ことを書く。
 ○ いつの頃か、おそらく平安時代には生じていたのだろう神仏混淆・習合の痕跡は、現在でもあちこちで、つまり普遍的に認めることができる。
 毎日をただ忙しく過ごしている櫻井よしこは、例えば、浅草寺には行かないのかもしれない。また、かりにこの浅草の寺を訪れても、つぎのことに気づかないだろう。
 浅草寺(せんそう-)の本堂から東へと抜ける道(境内の道状の通路)に面して、浅草神社(あさくさ-)という神社がある。ときには仏教寺院の一塔頭のごとき位置づけで神社ふうの建物があることがあるかもしれないが、この神社は建前的にも寺院とは別で、別の独立の宗教法人だろうと思われる。寺とは別に「認証」を受けているだろうが、申請の場合に神道・仏教の別くらいを記載しないことはありえないだろう。寺とは別に、ご朱印もいただける。
 実質的にいえば、仏教寺院の境内の中に神社があるように見える。おそらくかつてから、寺と神社はほぼ一体のものとして、すぐ側で並立しながら、あの浅草の地に存在してきたものと思われる。それが今でも残っているわけだ。
 仏教寺院でありながら、神道的雰囲気を感じることもある。
 本堂の前で手を合わせるとき、すぐ上か、少しだけ後ろに「鳥居」が立っていることがある。ほとんどではないが、決してほんの一部というわけでもない。「聖天」との通称がある寺院に多いようだ。鳥居だけ「神道」というのではなく、かつての混淆・習合の痕跡が明らかに残っているのだと思われる。
 寺院敷地内の傾斜緑地(丘陵)に接して鳥居が立っていることがあった。たまたま通りかかった寺務所の方に尋ねると、「結界」(の印)だと答えてくれたが、質問の趣旨は、なぜ神道様式の鳥居が(「結界」表示のためであれ)使われているのか、だったのだが。
 前回あたりで神社神道の中の「稲荷」系というものに触れたが、仏教寺院としての「稲荷」もある。
 愛知県豊川市の「豊川稲荷」がそれで、仏教寺院(曹洞宗、妙厳寺)だ。
 ご朱印をいただくときに、「あれ?、稲荷って仏教ですか」という無邪気な驚きの言葉を発してしまった。「ここは、仏教です」(多くは神道ですという趣旨)で、少しは安心した。
 少しは雰囲気を思い出すと、神社建築物でも不思議ではないものとは別に、仏教的な(曹洞宗的な)建物もあった。
 しろうとの推測なのだが、おそらくは、かつては神社(稲荷)と寺院が隣り合わせで存在していたが、明治期に入ってどちらか一つへの選択(神仏分離)が要求されて、どちらかを廃止することなく、仏教の方を選んで、かつての「稲荷」を祀る施設もそちらの方に取り込んだのだろう。
 不動明王系なのか修験道・役行者系なのか、はっきり記憶しないが、境内にやはり鳥居が立っている仏教寺院があることがある。尋ねてみると、形が違って神社のものではないという答えだったのだが、日枝神社(東京、首相官邸近く)にある鳥居とよく似ていた。つまり、笠木の上に山の形をしたものがさらに付いていた。
 ○ こういうことを書いていると、半分は「美しい日本」の連載を続けるような、続けたいような気持ちがしてくる。
 明らかに日本的な、たぶんより正確には日本化した、または日本で初めて生まれた仏教の寺院というのも存在しているようだ。
 それらは、インドや中国にも、朝鮮半島にも見られないように思われる。
 かつてはインド・中国等にあったが、日本にだけ残った、というものでもないように思われる。
 つまり、伝来の仏教ではないが、日本のふつうの神社神道でもないような日本的宗教が(仏教と神道を混合させるような形で発生していて)、それらは無理やり、明治期以降に仏教の方に編別されたのではないか、と思われる種類の宗教や行事がある。
 ある仏教寺院で、本尊はないと言われて驚いたことがある。不動明王が本尊の場合には、崇拝対象の仏像はなく、紙に描かれているのを貼ってあるだけ、ということがある。
 修験道とは、そもそもいかなる宗教なのか。仏教の方に分類されているけれども。
 これとたぶん関係があるものに「役行者」信仰というのがある。
 「役行者(えんのぎょうじゃ)」とは実在した人物・修行「僧」らしいが、その生誕地(奈良県御所市)だという寺(吉祥草寺)の本堂らしき建物に入って見ると、ふつうの寺院様式とはまるで違う。大きな仏像、仏壇というものの記憶ははなく、平たい台の上に仏具が置かれていて、むしろ素朴な神道神社の内部に似ているような気がした。
 こういうことを書いていくとキリがないだろう。
 ○ 櫻井よしこはいかほど知っているのか知らないが、おそらくは神道の影響も受けて、または日本の多様な自然によって育まれてきた、日本にしかないような<仏教>信仰もある、と考えられる。
 これらを無視して、日本の文明を、日本の歴史を語れるとは思えない。
 東照宮や豊国神社は神道形式だが、東照大権現、豊国大明神という場合の「権現」や「明神」は、仏教との関係を抜きにして説明することはできない。
 仏教宗派によって同じではないのだろうが、仏教の側の本地垂迹説による仏教と神道の一種の<統合>があった、という歴史事実を無視して、日本の神道をすら語ることはできないのではないか。
 ○ 櫻井よしこは、日本国民の日常的な神・仏の感覚を馬鹿にしてはいけない。そのような人物は、決して日本国家と日本国民を適切な方向に導かないだろう。
 国家基本問題研究所の役員たちは(一部のアホを除いて)、「長」の櫻井よしこの文章や発言をいちど「研究」してみたらどうか。その薄さ・浅さに驚くのではないだろうか。
 以上は専門書を見ないで、全くの<しろうと>の立場で<感じ知っている>ことを書いている。

1514/日本の保守-「宗教と神道」・櫻井よしこ批判④03。

 ○ 桜の季節なので、ふと西行の作だとされる歌を思い出す。
 「願わくば、花の下にて春死なん、その如月の望月のころ」。
 西行とされる歌にはこんなのもあった。
 「何ごとの、おわしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる」。
 これは伊勢神宮に関する歌だとされる。
 西行は(今の分け方でいうと)仏僧で、大阪・河南町の弘川寺(ひろかわ-)で没したとされ、そこに墓もある。訪れたことがあるので、知っている。
 弘川寺といえばむろん仏教寺院で、仏僧・西行は…、と考えると、伊勢神宮にかかわる歌というのが奇妙に思えてもくる。
 櫻井よしこ批判に、すでに入っているかもしれない。
 伊勢神宮は(たぶん当時も、仏教ではない)神道施設だったはずだが、神道は日本人にとって仏教の上に立つ、上位の包括的宗教なのだろうか。
 いや、神も仏も当時は明確に区別されておらず、それぞれが並立して、それぞれの役割を同時にともに果たしていたのではないだろうか。
 日本文明を「神道」に純化させようとするのは、はなはだ危険なことではないか。
 ○ 櫻井よしこの書いたものや語ったものを読むと、以下多少は誇張するが、まず、この人物自身の認識・見解・論評はどこまでなのか、どこが第三者・他人のそれらなのかが明確ではない、ということに気づく。
 週刊新潮や同ダイヤモンドとかの連載ものが典型だ。
 光格天皇に関する話題は、産経新聞にこの天皇の記事が載る-少し調べて藤田覚の書にも<皇威>高揚の旨が書いてあったのでこれをテーマとして選ぶ-さっそく藤田著にしたがって長々と紹介して、立派な天皇だった、と結ぶ。
 いささか簡潔化しすぎたかもしれないが、要するに、内容のほとんどは、藤田覚の(しかも一冊の)本に依存している。
 その本を見ていて、その孫の孝明天皇の存在にも気づいたに違いない。
 そこで、つぎの回に孝明天皇を取り上げたが、この天皇は<皇威>はともかくも、旧幕府側の天皇だったことを知って、単純には美化できない、と分かる。かくして、藤田著とは別の本も参照して、<譲位は最後の武器>という話にまとめ、現今に譲位問題があるので考えさせられる、と締め括る。孝明天皇は脅かし ?つつも、結局は譲位などしていないのだが。
 ざっと、こんな思考経路だろう。二回目も、ほとんど二つの本のみに拠っている。
 「」付き引用だと第三者の文章だと読者も分かるが、そうではなく抜粋的に要約すると(「パラフレイズ」すると)、第三者・他人の文献を参照していながらも、読者にはまるで著者自身が生み出した文章のように思えてしまう。
 これは「ジャーナリスト」が得意なトリックだ。情報を収集し(input)、要領よくまとめて発表する(output)。情報量の多寡とともに<要領よくまとめる>ことが彼ら・彼女らにとって重要で、決してその人たち自身が作り出した新鮮な情報(事実・思考・評価等々)では全くない。  
 週刊新潮の3/09の聖徳太子に関する文章もほぼ似たようなものだろう。
 聖徳太子といえば強く「仏教」に関連づけても不思議でないが、そうはしない、という結論めいたものが櫻井よしこにはある。あくまで神道の寛容性との関係でのみ仏教に言及する。
 そう決めれば、あとはほとんど、教科書的な説明と、情報として知った文部省の言い分や、「山田氏が語った」で始まる、国会議員・山田宏の言葉の長々とした引用または要約だ。
 簡単に5行程度で済ませることのできる主題を、オープンになっている情報によってあれこれと加工し、つなぎ合わせて、二頁ぶんにしているにすきないだろう。
 櫻井よしこの独創性はどこにあるのか。たんに「ジャーナリスト」ならばそれでよいのかもしれない。なぜならば、ジャーナリストの「心髄」は、上のような<技能>にあるからだ。
 ジャーナリストとはその程度のものだと思っている。筑紫哲也も、若宮啓文も、鳥越俊太郎も同じく「ジャーナリスト」だった。
 しかし、「研究」所理事長となると、そうはいかないだろう。
 櫻井よしこについて論及するたびに、<国家基本問題研究所>の(うちの「アホ」の先生方以外の)役員たちに対して、この人物を長とする団体の役員でいて「恥ずかしくないのですか」と問い質したく思っている。
 ○ もう一つ櫻井よしこの文章を読んで感じるのは、この人は、専門的研究者を侮蔑しているのではないか、多少は知識・教養のある読者を侮蔑しているのではないか、そして日本人一般の庶民感覚を侮蔑しているのではないか、ということだ。
 前後するが、昨年11月の天皇関連会議での櫻井よしこの発言内容は、あらためて読んでも<悲痛>だ。
 つまり、悲しくて、痛々しいほどだ。自分自身で情けないと感じないのだろうか。上記研究所の平川祐弘・加地伸行ら「アホ」以外の役員先生、いや「研究」者の方々は、自分たちの長として<恥ずかしい>とは感じないのだろうか。
 戻る。つまり、櫻井よしこは、重要なことであっても、少しは厳密に語らなければならない主題であっても、あっけらかんと単純かつ観念的に書いたり、語ったりしている、と感じる。
 ○ 櫻井よしこ「これからの保守に求められること」月刊正論2017年3月号(産経)p.84-。
 この論考について、1/30のこの欄で、すでにこう書いた。
 「『観念保守/ナショナル』丸出し。櫻井よしこが保守論壇の(オピニオン・)リーダーだとされることがあるのは、恥ずかしく、情けない。かつまた、恐ろしい」。
 したがって無視してしまいたいが、この人物を<保守>の代表格と見ている者が<右にも左にも>多いような気もするので、あえて(本来は精神衛生上避けたいが)関与する。
 計6頁と短いからと釈明することはできない。日本文明について(あるいは「保守の真骨頂」について)語りながら、「仏教」にはいっさい言及しない。そして、古事記は「日本が独特の文明を有することや、日本の宗教である神道の特徴を明確に示して」いる、「神道は紛れもなく日本人の宗教です」と書く(p.85)。
 恐るべき単純化だろう。
 もともとは天皇陵墓と関連させて天皇家と「仏教」との間の、明治維新時以降現在までの年月よりも長い関係について、叙述する予定だった。これは先に回す。
 それよりも、そもそも櫻井よしこは「神道」をどう、何と理解しているのか、という問題もあるのだった。
 上の文章や、読んだことのある櫻井のものからは、神道または日本の宗教に関する深い蘊蓄 ?、「研究」成果を感じたことはまるでない。
 ひょっとして櫻井よしこは、神道を、<単色・一定>のものと理解しているのではないか
 そうでなければ、<神道は日本の宗教です>という簡単な一文になぜなってしまうのだろうか。
 ここにも、櫻井よしこに対する、強い疑いがある。
 余計なことでなければよいが、秋月瑛二が「感じて知って」いることを以下に書いておこう。
 ○ 神道と言ってもさまざまだ。「八百万(やおろず)の神」とかいうが、全ての神社が無数の神々を祀っているわけではない。
 常識的に、神社本庁を包括法人とするいわゆる神社神道と、<教派神道>に分けられる。
 但し、前者に入るか否かはときによって異なりうる。靖国神社も梨木神社(京都、三条実美)もそうだ。
 前者のいわゆる<神社>としては、「八幡」(応神天皇)、「天神(天満)」(菅原道真)、「稲荷」系などが有名かつ多数で、決して、櫻井よしこが想定しているかもしれないような、天照大神(-天皇・皇室)系だけではない。これはむしろ、数の上では少数派だ。
 天皇・皇室系に、明治神宮、平安神宮、近江神宮(大津市、天智天皇)などがあって規模の大きいものもあるが、上に挙げたのは(古そうでも)全て、明治期以降に設置されている。
 意外に知られていないと思えるのは、一つは、素戔嗚尊-大国主命系の神社だ。
 この系列の神社が現存しているのは、日本国家または「大和朝廷」の成立にかかわる、古くかつ強い伝承が残ってきたからだと思われる。出雲大社が代表だが、祭神を多少とも気にして参拝しているかぎりでは、他にも少なくとも数十はあると思われる。この系列の神々は、日本書紀・古事記の上でも現在の天皇・皇室につながっていない(はずだ)。
 もう一つは、いわゆる<南朝>系、後醍醐天皇・楠木正成らを祭神とする神社だ。
 湊川神社(神戸市)がよく知られるかもしれないが、吉野神宮(奈良県)その他の吉野地域にある神社、その他いくつかある。
 ともかく、究極的にはすべて(菅原道真も含めて)天皇・皇室につながるのだ、と櫻井よしこは理解しているのかもしれないが、強引すぎるし、実態は決してそうではないと思われる。
 天照系でない神々や、徳川家康、豊臣秀吉を神として祀る神社もある。決して、これらは<教派神道>系ではない。
 櫻井よしこは、<教派神道>を除くとしても、それ以外の神道・神社を<単色>で見ているのではないだろうか。
 また、追記すれば、教義がないように一見感じるが(櫻井よしこもそんなことを書いていた)、しかし、<吉田神道(吉田神社、京都)>などのいくつかの<~神道>があり、理論 ?的にも、いくつかの分かれがあるように、<しろうと>には感じられる。
 ○ それにもう少し学問研究的な ?話をすれば、いわゆる<国家神道>の時代、神社神道は、制度的・行政的には「宗教」として取り扱われなかった、という、「宗教」概念にかかわる、根本問題がある。
 戦前の文部省は、神社神道以外の<教派神道、仏教、キリスト教>等を管轄していたとされる。そして、神社神道の「宗教」性はむしろ曖昧にされた、あるいは明治期又は明治憲法のもとでは、神社神道は「宗教」ではなかった、ないし少なくとも、上記のような平凡かつ世俗的な ?宗教とは区別される、それだけ「聖なる」ものだった、という指摘や研究もある。
 櫻井よしこは、平気でかつ単純に<神道は宗教だ>と語る。しかし、例えば、現憲法上の<国家と宗教>関係条項から見ると、神社神道(靖国神社も今は神社本庁下にある)は「宗教」ではないと理解・解釈した方が、天皇陛下ら皇族も内閣総理大臣も、安心して、靖国神社に参拝することができるのではないか ? なぜなら、靖国神社には「宗教」性はないことになるからだ
 論理的・概念的にはこのように帰結されることを知ったうえで、櫻井よしこは、<神道は宗教>だと書いているのだろうか。
 以上、①神道は、かりに神社神道に限っても多様、多彩であって<単色>ではない、②神道(神社神道)の「宗教」性自体について、日本のかつての歴史も含めての考察が必要だ。
 櫻井よしこは、前者をどう理解しているのか。上の後者の作業をしているのか、してきたのか ? きわめて疑わしい。
 櫻井よしこを念頭に置いてではなく、一般論として書いておくが、賢明な日本国民は、<狂信的扇動家>にダマされてはいけない。
 冷静な<理論的指導者(たち)>が必要だ。
 国家基本問題研究所の自称<研究>者たちは、本当に「国家基本問題」を<研究>しているのだろうか。理事長を見ていると、すこぶる疑わしい。

1510/日本の保守-宗教・神道と櫻井よしこの無知④02。

 ○ 櫻井よしこ「これからの保守に求められること」月刊正論2017年3月号(産経)p.84-89。
 この櫻井よしこの論考は、月刊正論3月号の<ポスト安倍・論壇は誰か ?>を主題とする、<保守>に関する特集の中にある。そして、この月刊正論3月号は、10人以上の論者に「保守」を語らせながら(その中にこの欄で紹介した小川榮太郎のものもあった)、前に八木秀次「保守とは何か」、最後に櫻井よしこ「これからの保守…」をもってきてそれらを挟むという編集スタイルをとっている。
 このように八木秀次と櫻井よしこを<保守>論者として重視するという編集姿勢そのものにすでに、産経新聞的または月刊正論的、または月刊正論編集部・菅原慎太郎的な<保守>の現況の悲惨さ、惨憺さが現れているだろう。
 上の櫻井論考は6頁あるが、神道・古事記等々は出てきても、「仏教」という語は一回も出てこない。
 櫻井よしこは「保守の特徴」の第一は「日本文明の価値観を基本とする地平に軸足を置」くことだとしている(そして「世界に広く心を開き続ける」ことだとする)。
 この程度のことは誰でも語ることができるし、場合によってはナショナル左翼もまた、この文章自体に反対することはないかもしれないレベルのものだ。
 問題はもちろん、「日本文明の価値観」として何を想定するかにさしあたりはなる。
 櫻井よしこが一切「仏教」に触れていないことは既に記した。櫻井が頻繁に言及しているのは、「十七条の憲法」と「五箇条のご誓文」で、後者は「ご誓文」だけの場合も含めて、(6頁に)7箇所も出てくる。
 「日本文明の価値観」を示したものとして櫻井が最初に挙げるのが「十七条の憲法」で、これと「五箇条のご誓文」は重なるとか似ているとかしきりに言っている。
 そして、聖徳太子・十七条の憲法-天武天皇・古事記-神道-天皇・皇室という流れの中で、「神道」を位置づける。
 明記はないが、「五箇条のご誓文」は(神道・)天皇・皇室中心の<明治>国家の最初の宣言文書という扱いだと理解して、まず間違いないだろう。
 ○ 「十七条の憲法」といえば聖徳太子だが、この人物名の問題は別として、聖徳太子は、仏教を日本で容認してよいかどうかの蘇我氏と物部氏の間の紛議・対立に際して前者を支持して仏教容認派勝利を決定的にした。これは、中学生の教科書にもあるだろう。
 櫻井は上の論考でも最近の別の文章でも聖徳太子を高く評価しているが、「仏教」とのかかわりはどう見ているのだろうか。週刊新潮2017年3/09号にこうある。
 「神道の神々のおられるわが国に、異教の仏教を受け入れるか否かで半世紀も続いた争いに決着をつけ、受け入れを決定したのが聖徳太子である。キリスト教やイスラム教などの一神教の国ではおよそあり得ない寛容な決定である」。
 この部分以外に「仏教」は出てこない。
 しかも、「異教」のそれを受容したことに日本文明または神道の「寛容」性を見る、という文脈の中で位置づけている。
 この頃からおよそ1400年経った。しかも150年ほど前にすぎない1800年代の後半までは、<神仏混淆>・<神仏習合>と言われる時代が長く続いた。かりに600年~1850年として、1250年も続いた。
 この歴史を、櫻井よしこは無視、または少なくとも軽視しているのではないか。
 天皇譲位問題に関するこの人の主張の基礎と同じく、ほとんど明治期以降にしか目を向けていないのではないか。あるいは、<明治日本>を最良・最高の日本だったと観念しているのではないか。
 別の観点から批判的にいえば、日本文明は「異教の仏教」を受け容れたが、基本的にいえば、キリスト教やイスラム教を受容しなかった。
 キリスト教・イスラム教と仏教は、日本人と日本国家にとって、明らかに違うだろう。
 しかし、櫻井よしこの文章には、そこに立ち入っていく姿勢・雰囲気はまるでない。
 聖徳太子以前の時代にだけ「日本文明」を限れば別だが、今や、あるいは飛鳥・奈良・平安等々という時代を通じてずっと、ある程度は日本化した、また日本で新登場した(新解釈された)と見てよい「仏教」を無視または軽視して、日本の伝統的な「文明」も「文化」も語ることはできない、と考えられる。
 櫻井よしこの視野は、偏狭だ。
 ○ 西尾幹二は「仏教に篤い心を持つ天皇も歴史上少なくありませんでした」と述べた(前回参照)。
 そのとおりだ。諸天皇・皇族は、<信教>のことなどを考える物質的・精神的余裕がなかった時代は別だが、おおむね神仏をともに崇敬していて、中には「仏教」により強く傾斜した天皇も少なくなかった、と思われる(逆に神道の方を重んじた時代・天皇もあったかもしれない)。
 キリがないだろうが、例えば西国三十三カ所巡拝(観音菩薩信仰)は平安時代の花山天皇に由来するともされる。
 また例えば、京都市には今でも無数に(正確には数多く)「門跡」寺院というのが残っていて、これは天皇・皇族が出家して法主等を務めた「仏教」寺院を意味する。
 北白川の曼殊院には秋篠宮殿下家族がご訪問の際の写真が掲示されている。有名寺院の中でも、他に、青蓮院、聖護院、三千院、仁和寺、大覚寺等々、数多く「門跡」である仏教寺院はある。
 櫻井よしこの蒙を啓くためにも、天皇・皇族の<墓陵/陵墓>について、以下に述べる。
 なお、秋月瑛二はこの問題についても<専門家>ではない。そうでなくとも、櫻井よしこがきっと知らないことを知っているし、櫻井よしこが関心を持たないことにも興味をもつのだ。
 ○ 櫻井よしこは、光格天皇を、天皇・皇室の<皇威>を高めた天皇として高く評価していたようだ。
 しかし、光格天皇は、櫻井よしこが本当は反対だったはずの<生前退位>を行なった天皇(最後の)であり、「院政」を敷いたかはこの概念の理解にもよるだろうが、現在のところ最後の<上皇>だった。
 天皇・皇室問題に関連して櫻井よしこがこの天皇に触れたとき(週刊新潮で取り上げたとき)、上のことはどの程度意識されていたのだろう。
 かつまた、光格天皇の死後どのように天皇の「墓陵」は造営されて管理された(管理されている)のか。
 いつぞや「美しい日本」との連載ものの中で下り参道の珍しい例として泉涌寺(京都)を挙げ、ほんの少し「御寺(みてら)」と呼ばれて天皇陵も周辺にあることを記した。
 明治天皇の曾祖父にあたる光格天皇の墓陵は「後月輪陵」といって、泉涌寺の周辺にある。以下、地図も付いて分かりやすいので、つぎの書物を参照する。
 藤井利章・天皇と御陵を知る辞典(日本文芸社、1990年)。
 祖父の仁孝天皇も同じ「後月輪陵」、父親の孝明天皇はその東の「後月輪東山陵」で、-現地で確認したことはないが-泉涌寺の近くでいわば寄り添っている。
 さらに、17世紀最初の皇位継承者だった後水尾天皇から、明生、後光明、後西、霊元、東山、中御門、桜町、桃園、後桜町、そして1770年即位の後桃園天皇まで、200年近くの各天皇の墓陵・御陵は全て「月輪陵」であり、泉涌寺の周辺に集中している。
 何となく「御寺(みてら)」という語を印象的に記憶していたが、こうして見ると、泉涌寺と天皇(家)の関係は、少なくとも日本近世ではきわめて密接だった。
 いや、場所的に近いだけで、寺院と墓陵は別だろう、という人が必ず出てくるので、さらに立ちいる。とりあえずは、上掲書の後水尾天皇の項にこうあるとだけ紹介する。
 「…崩御され、…泉涌寺において陵地を決定し、…夜入棺して、泉涌寺の僧徒がこれを手伝った」。p.243。
 つづける。

1508/日本の保守-「宗教観念」・櫻井よしこ批判④。

 ○ 西尾幹二・維新の源流としての水戸学/GHQ焚書図書開封第11巻(徳間書店、2015)に、つぎの旨の叙述がある。p.41-70、p.78-、p.95-101、p.167など。(以下、必ずしも厳密でない再述がありうる。但し、大きくは誤っていない)
 水戸光圀・大日本史の編纂にあたって論争点になった三つの「難問」があった。
 ①南朝(後醍醐)は正統か-楠木正成は逆賊でないのか、のほか、
 ②大友皇子(天智の子)は天皇としてよいか、②神功皇后を皇統の一代に数えるべきか。
 これらは、明治維新後の新政府の「歴史」理解の問題ともなり、「水戸学」・大日本史と同じ結論が維持された。
 ①南北朝のうち南朝が正統、②大友皇子は天皇に即位していた(弘文天皇と追号)、③神功皇后(=応神天皇の母)は天皇と同様には扱わない(天皇のように一代とは数えない)。
 以下は、内容も秋月の文になる。
 日本書紀は天武天皇とそれ以降の天武系の天皇のもとで編纂されたので、天智の子・大友皇子(母は伊賀采女)を天皇扱いにしているはずがない(当然だと思うので、確認しない)。大友が天皇に即位していたことを認めてしまえば、<壬申の乱>で天武は天皇を弑逆したことになるからだ。天皇から皇位を奪い取ったことになるからだ。
 大友が即位していなければ、辛うじて、天智天皇の死のあとの弟と子(天武からいうと甥)の間の<皇位継承の争い>という説明ができる。
 明治になって公式に大友皇子=弘文天皇とされたので、当然だが、その一代だけとっても(天智より後は)、日本書紀と今日の理解での各天皇の代数は、少なくとも一つずつ異なる
 <保守>の人々はときに、例えば櫻井よしこも、平気で<~代までつづく>と今日までの代数を示すが、これは明治期以降に「確定」 ?したものだ。
 ○ 同じく、西尾幹二・維新の源流としての水戸学/GHQ焚書図書開封第11巻(徳間書店、2015)は、西尾自身の言葉として、つぎのことを主張している。同旨は多々あるようだが、つぎの一箇所に限る。p.40。
 明治新政府の「廃仏毀釈というのは善い意味でも悪い意味でも非常に影響の大きい運動」でした。「『国家神道』が唱道され、仏教を廃し神道を重んじる」ことになった。「それが天皇家の復活に寄与したという一面がある」。
 「しかし長い目で見ると、仏教を否定したのは精神史上マイナスであったといわざるをえません。仏教に篤い心を持つ天皇も歴史上少なくありませんでした」。
 神道の重視は「天皇家の復活には役立った」。「しかし、その結果、日本人の宗教を痩せ衰えさせてしまったという面があるのです」。
 秋月瑛二も、この辺りの理解に賛同したい。私は、神社も寺院もたいていは好きで(レーニンやロシア革命にだけ関心があるのではない)、全国のかなり各地を回っているが、神社・神道と寺院・仏教の違いや類似性、日本化した(おそらく神道の影響を受けた、強いて今日的に分類すれば)仏教・寺院の存在を、肌感覚で感知することがある。
 ○ 櫻井よしこの、以下の論考は、その<保守(主義)宣言>と理解して、今後も複数回とり挙げる。
 櫻井よしこ「これからの保守に求められること」月刊正論2017年3月号(産経)p.84-。
 この中に、つぎの一節がある。
 「古事記は」、「日本が独特の文明を有することや、日本の宗教である神道の特徴を明確に示して」いる。
 「神道は紛れもなく日本人の宗教です」。p.85。
 このあと段落すら変えないで(改行することなく)、櫻井は古事記の話に入り、「自然が神々であり、それらはやがて人間になり、天皇と皇室が生まれたわけです」と、段落を結ぶ。p.85-86。 
 先に最後の部分に触れると、櫻井よしこは竹田恒泰の著を参照文献のごとく括弧内で挙げている。しかし、竹田恒泰もさすがに自然・神々・人間・天皇の関係を(永遠の自然史の流れとしてはともあれ)「事実」として主張しているのではなく、あくまで古事記に記述された<物語>の内容を説明しているだけだと思われる。
 しかるに、この櫻井よしこの書き方では、まるで天皇とは「現人神」だ。
 そのように「観念」するのはまだよいが、「神」と「天皇」・人間を同一視するかの叙述を「事実」のごとく叙述すべきではないだろう。
 そもそもはこのあたりにすでに、<観念・意識・精神>と<現実・事実>の境界の不分明な櫻井よしこの叙述の特徴が出ている。
 ○ 本来言及したいのは、上の点ではない。
 神道は日本の宗教である、というとき、二つの基本的な論点がある。
 一つは、そもそも「宗教」とは何かだ。明治期には、むしろ特定の<宗教>もどきのものとは神道は扱われなかったという逆説的な理解も可能だ。
 つまり、日本の神道は「宗教」ではなく、「伝統的習俗」類であって、例えば現在の憲法がいう「宗教」とは異なる、という理解も不可能ではないのだ。
 二つは、では、「仏教」は、日本の宗教ではないのか、という問題だ。
 上の引用部分では明らかではないが、櫻井よしこは明らかに、仏教よりも神道を重視している。一つだけとすれば、間違いなく、躊躇することなく、神道を挙げるに違いない。
 一つだけ取り上げる、又は最重視する「宗教」を敢えて名指しする、という考え方は、日本の<保守>あるいは日本国家や日本人にとって、望ましいことなのだろうか。
 ここで再び、冒頭近くに紹介した西尾幹二の主張・叙述に、目を向けるべきではないだろうか。
 櫻井よしこの「頭」は、観念的・単純で、偏狭なのだ。もともと関心があるテーマなので、つづける。

1423/美しい日本05ー高く登る神社の石参道。

 陸奥一宮・塩竃神社(+志波彦神社)へは二度訪れた。一度目は仙石線の本塩釜駅からタクシーで、東の方から志波彦神社の近くにまで運んでもらい、帰路は塩竃神社・社務所の南につづく石段を降りた。
 この石段降りは雨模様で石が少し濡れていたため、一歩ずつ緊張した。降りてから再び本塩釜駅までは歩き、鉄道で松島が見える方に向かった。そのとき、行きは簡単にタクシーに頼ってしまったことで完全な参拝ではなかったような気がし、つぎのときは、きちんと石の参道を上がって参拝しようと思った。
 今度は東北線の塩釜駅から歩いて、塩竃神社の森の下にくると、頂の最終部分が何とか判断できる程度に、まっすぐに上に登っていく、石の参道が見える。鬱蒼とした木々に囲まれて、左右平行の石段がまっすぐに登っていく姿は、美しい。
 司馬遼太郎・ワイド版街道をゆく26巻(朝日新聞社、2005)p.247には、「ふもとの町から一直線に石段がきずかれている。/『高いですなあ』と、多少はひるんだ」、とある。
 極端に長いことはないが、老輩には、そこそこに厳しい。200段くらいだっただろうか。
 なお、志波彦神社という神社が社殿の向きを変えて隣の敷地内にあるのだが、なぜこの別の神社と併せて実質的には一つになっているのか、その複雑な背景・理由は、きっと何かで読んだはずだが、分からない(憶えていない)。
 但し、一つではなく二つの神社のご朱印をいただくことになるので、一社ぶんの300円ではなく400円か500円のご志納金だったことはなぜか( ?)憶えている。
 山の途中まで一直線に石の階段が参道として上がっている景色としては、千葉県/安房の国の洲崎神社のそれも印象に残った。専門の宮司さんはいないようで、電話をするとご朱印のために事業用の小型車で、社務所までやってきてくれた。その間に、石段登りをしてその上にある小さな社殿で参拝したのだが、石段は塩竃神社のそれよりも幅狭いが、高さはたかい(したがって段数も多い)。
 降りようとして前方を見ると-下方は傾斜のある、持つところが何もない石段だ-、東京湾かその付近を、タンカーがゆっくりと移動していた。天気もよく、青い空のもとでの古びた社務所、県道、そして船のうかぶ海が一望に見えて、清々しく美しかった。
 このとき、神社の多くのように、社殿も石段も南を向いているのだろうと思っていた。
 ところがその日のうちにでも分かったが、社殿は西向きで、石段は東から西へと下っていた。神奈川県と向かい合っていたことになる。見たタンカーは外洋を悠々と航行していたのではなく、東京湾に入る準備をしていたのかもしれない。
 なお、各旧国の「一宮」がどれかについては争いが残っているようで、安房については、洲崎神社の前に訪れた安房神社の方が大規模だし、名前からしても一宮らしい。
 しかし、源頼朝が挙兵してまず向かいの安房の国に上陸したとき、上に書いた洲崎神社で戦勝を祈り、<この宮こそ安房の一宮だ>とか言ったらしい。そんな由緒があって、全国一宮会は安房神社と洲崎神社の二つを安房の国の一宮としているらしい。
 神社の由緒書、案内文などは読んでも忘れることが多い。熱心な頃は、毎週のように出かけたのだから当然だろう。それでも、上の洲崎神社についての上のようなことは、由緒書をもらったそのときか、館山駅に近いホテルで読んでか、記憶として定着してしまった。
 思いを外国に馳せると、欧州の教会は、中小の街であれば、街の中心の広場にあることが多いだろう。鉄道で教会の尖塔が見えれば、そこは市街地の中心であることが想定できる。
 ドイツのゲッティンゲンでもフライブルクでも、フランスのシュトラスブールでも同じ。
 パリのセーヌ川の中島・シテ島の東にノートルダム寺院はある。マドレーヌ教会もコンコルド広場の北方近くなので中心部といえる。ウィーンのシュテファン大聖堂は同市の中心にある、と言ってよいだろう(ベルリンは ?と考えてみたがはっきりしない)。
 なぜこんなふうに話を広げたかというと、日本には街の中心部の広場そばに神社がある、ということはまずない。高く登っていく石段の先に社殿があるという神社の位置は、欧州の=キリスト教の宗教施設とは、大きく異なるのではないかと感じる、からだ。
 日本の「神」は人々の暮らしに気を遣って、あるいは遠慮して、人里から少し離れた、多くは少し高い場所を選んだ、ということなのかどうか。

1422/美しい日本04-神社等の位置03。

 山門をくぐって、さらに何段か下った、日射しの少ない暗い参道をまっすぐ歩いたことがあった。四国八八所巡礼の82番、高松市にある根香(ねごろ)寺だ。
 もう一つ、宮崎・日南市の鵜戸神宮も、下っていくように作られている。
 バス停から少し登った所を(トンネルの方にいかないで)さらに登ると、海の方向へと下っているやや古くはなっている参道がある。
平地まで下ると神社の雰囲気が漂っているが、この神社の特徴は、さらにそのあとにあった。つまり、海に面した岩壁に作られたハシゴのような人工の石段を何度か曲がりながら行き着いたところが、岩壁中に30~40度ほど口が開いた洞窟になっていて、その中に、拝殿と本殿が収まっている。最初はぎょっとして、のちに不思議なかつ神々しいものに思えてくる。
 こんな社殿は、おそらく他にはないのではないか。
 この神社はふつうの参道自体も下向きだ。但し、波が吹き込んでくるかもしれないほどの岸壁中に貝の蓋のように開いた空間内の社殿の位置は、参道の上がり・下がりの違いという論点からはすでに離れている、独特のものだ。
 海に対して切り立った岩の中の隙間に、昔の人々はきっと、不思議さ、異様さを感じるとともに、「神」の存在を感じていたのだろう。
 例の如く余計なことを書くと、四国82番の根香寺の前の81番の札所は白峯寺で、それぞれ高松・坂出両市にまたがる五色台という丘陵の東部と西部にある(従って今では、平地から歩いて登るのはかなり厳しいようだ)。
さて、この白峯寺のすぐ近くには崇徳上皇の墓陵があり、当該墓陵独自の参道もあるが、白峯寺から簡単に行ける。墓陵の前に立つと(又はしゃがむと)石製の墓碑以外には、緑の木々しか見えない。
 竹田恒泰がひざまづいている写真を扉とする、崇徳上皇に関する本を彼が出版している。同・怨霊になった天皇(小学館、2009)。また、僧・西行も一度は実際に訪れたようで(12世紀だろう)、江戸時代に入ってからの上田秋成による雨月物語の最初の話は「白峯(しらみね)」という題。そこでは、崇徳(の霊)と西行が会話を、あるいは議論をしている。
 この会話・議論は実際のものに近いのかどうか、西行がこれについての何かの記録を残しているのかは知らない。物語では、保元の乱あたりの崇徳上皇の行動とその後の朝廷側の彼に対する措置について、崇徳と西行の間で、一種の「歴史認識」論あるいは「正義」論が交わされる。江戸時代にまで、そして雨月物語を通じて今日まで、崇徳と西行にかかわる話が残っているのは興味深いことだ。
 麓にも、崇徳が実際に流刑され隔離されて生活していた辺りに、「天皇寺」という寺があり、79番の札所だ(これを神宮寺としていたはずの神社も同じ境内かとすら思うほどに近接して存在している)。崇徳上皇と無関係なはずはない。
 京都市・今出川通り堀川東入るに、明治改元の直前に、「白峯神宮」が設置され、崇徳上皇はこの神社の祭神になった。この神社へ明治天皇や昭和天皇は、とか書き出すと、テーマから離れてしまうし、長くなりすぎる。この白峯と冠する神社自体は、楼門も拝殿・本殿も同じ平地上にあるはずだ。

1390/美しい日本02-神社の建築と位置01。

 なぜかは不明だが、神社というと京都の平安神宮を思い浮かべる時期があり、建築物はかつての平安宮(・紫宸殿 ?)をやや小さく模したもののようだが、その派手な朱色やその青緑色との対照などは、どぎつく感じて、私の好みではなかった。日光東照宮の楼門等も、昔の人は(江戸時代初期の人は)細かく優れた技術を持っていたことに感心はするが、その壮麗さによって却って、好みにはなれなかった。
 仏教寺院の建築物の方に、むしろ日本の古い美しさを感じていた時期があったはずだ。典型的には、大和・斑鳩の法隆寺。
 だが、遅れて伊勢神宮を知るに至って、印象は変わる。
 参拝者には全体を見ることすらできない正殿は、小さくかつ素朴で、稲倉を想起させもする、簡明な美しさがある。-はずだ。全体は写真でしか見たことがなく、斜めの位置から上部を撮影したにとどまる。北側に回れば-出雲大社のように-全体を後ろから見られるのだろうか。
 ここの正殿を見ることはできなくとも、伊勢神宮の仲間(「別宮」)である同じ三重県(・旧志摩国)にある伊雑(いざわ)宮の正殿は伊勢神宮のそれと全く同じ形をしているはずであり(神明造)、1メートル程度の間近で参拝でき、もちろん全体をしっかりと見ることができる。市街地から離れた(しかし近鉄の無人駅から簡単に歩ける)、こんもりとした叢林の中の静寂と相俟って(参拝者・観光客も少ない)、日本の原点的な美しさを感じることができる。
 神明造の建物自体は、伊勢神宮(内宮)の中にある風日祈宮(かざひのみのみや)できちんと見ることができる。いつの頃からか分からないほどの古代の頃から、日本人は、このような形の建物(にいる又は到来する=憑りつくとされる神々)に向かって「祈り」つづけてきたのだと考えると、日本人しての感慨も湧こうというものだ。
 神明造の神社建築物は、全国的には多くはない。京都府の(天橋立の北にある)籠(この)神社の正殿は、数少ない例だろう(伊勢神宮と祭神が同じ)。
 神明造ではなくとも、古い、由緒ある神社の正殿・本殿は、当たり前だが仏教くさくなく、それぞれに美しい。奉賛会の会員ではあるものの、率直にいって靖国神社の拝殿には建築美は感じないが、本殿はどうなっているのだろう(いわゆる昇殿参拝というのをしたことがない)。
 子細に立ち入ると長くなるので省略せざるをえないが、宇佐神宮・鶴岡八幡宮(鎌倉)等の八幡造も、その謂われとともに好きで、美しい、といえる。福山市の素戔嗚神社の正殿は、ふつうの本殿が二つ中心で直角にクロスした十字型をしていて、珍しい。他に類例はあるのだろうか。
 香椎宮(福岡市)の本殿も、じっと眺めてしまったほどに魅力的だ。神官によると全国でここだけで、香椎造とかいうらしい。
 住吉造の複数の本殿の並び方も面白いが(大阪・住吉神社など)、これは「美しさ」とは別の話かもしれない。
 そもそもかつての私のように、拝殿建築物を神社の最も重要なそれと何となく思っている人が多いかにも見える。いっとき以降、私は参拝のあと必ず、左右両方に動いて拝殿の奥にある正殿・本殿を見ようとしている(もっとも、大和・大神神社のように本殿がなく、三輪山自体がそれにあたるとされる場合もある)。
 多くの人は意識していないのかもしれないが、鳥居の形・作り方にも種々ある(例えば、伊勢神宮・明治神宮・靖国神社で異なる)。だが、基本的な形は同じなので、なぜ遙か昔の日本人はこのようなかたちを選んだ、又は考え出したのだろうと思ってしまうことがある。そして、決して嫌いな造形ではない。
 正殿における千木・枕木、千木の縦切りと水平切りの違いなどに触れていくとキリがないが、これらも(むろん神道という宗教の問題であるとともに)「建築美」の問題でもあろう。但し、正殿・本殿に千木・枕木類がまったくない神社も少なくない。これは<神仏混淆>の長い時代と無関係ではないと、以上のすべてと同じく「素人」の考え・印象だが、思っている。つまり、寺院の本堂が変化した、またはそれを借用した神社・本殿も少なくないのだろう。
 以上に名を出した神社は、すべて訪れた。もちろん、名前を出していない、訪れた神社の数の方が、はるかに多い。
 

1368/歴史・政治・個人04-01ー「滝口までの生」。

 一 関川夏央・人間晩年図鑑1995-99年(岩波、2016)を一瞥していて江藤淳(-1999)の項に達したとき、「ナイアガラの瀑布が落下する一歩寸前の水の上で、小舟を漕いでいるようなもの」という表現に出くわした。江藤の妻が数ヶ月後に亡くなるらしいことを江藤が知った時点でのその妻と江藤自身の状況を表現している。江藤淳自身のたぶん1999年刊行の書からの引用部分の一部だ。
 なぜ印象に残ったかというと、鋭いアフォリズムに溢れた西尾幹二・人生について(新潮文庫、2015/原書2005・同全集第14巻にも所収)の「死について」の中に、かなり似た表現があるからだ。どちらが先かという話をしているのではない。
 西尾幹二は1989年逝去の詩人・上田三四二の書(この世この生、新潮社・1984)を参照・引用しながら、(川の下流の)「滝口までの線分の生」という生あるいは人生の本質を捉えた見方に共感を示す(p.205-6)。
 もう少し上田の文章を要約的にでも引用しないと分かりづらい。直接に見てみると、上掲の上田の書はこう述べている(もちろん一部)。
 ・残された人生の時間を「滝口までの河の流れのようなもの」と想像した。「滝口」とは「死の瞬間における死」だ。滝口までが「生の持時間」で「水流となって刻一刻、滝口に向かっている」。
 ・「滝口にちかい思い」も「あくまで予感」で、「私の死」は「いつ来るか予測のつかない曖昧なものとして目の前に」にあるが、「実際にやって来たとき、それを体験しようとしても私はその瞬間において死んでおり」、「その到来を知ることができない」。
 ・「私自身の死は、私自身にとって…、ないのである」。そこに、「死後なき死というおそろしい認識〔=恐怖〕に耐えるせめてもの慰藉を見い出してきた」。
 ・「死はある。しかし死後はない。死の滝口は、…水流をどっと瀑下に引き落とすとみえたところで、神隠しにでもあったように水の量は消え」る。
 ・「死後はすでに考慮外」だ。「死を避けることはできないが、死後はないと思い定め、…、滝口までの線分の生をどう生きるかに思いをひそめればよい」。以上、上田p.10-11。
 江藤のいう「ナイアガラの瀑布が落下」し始める地点が上田=西尾のいう「滝口」のことだ。
 その地点・時点以降(=死後)は「ない」=認識・意識不可能だ、という深遠な?洞察がここにある。
 自己(または肉親)の近づく「死」を意識した際に、人というのは同じようなことを考えるものだと思う(むろん、江藤が上田の上記のような比喩?を知っていた可能性はある)。
 二 だが、と揚げ足取りをすれば、「滝口」はまだ「死」ではないだろう。
 「滝口」から水瀑とともに落ちる途中か、滝壺の水に衝突してか、あるいは滝壺の中に深く沈んで溺れることによって、ようやく「死」に至るのではないだろうか。漕いでいた「小舟」もろとも落下し始めることだけでは、おそらくまだ「死」に至ってはないのではないか。
 江藤淳や西尾幹二(・上田三四二)を貶めようという気はさらさらないし、あくまでの喩え話に「理屈」でもって容喙しても意味がない。
 厳密には、と考えてしまうのも、どのような「死に方」が楽だろうか、不可避の、切迫した自らの「死」を意識して「自分が消滅するという恐怖」(西尾幹二・上掲書p.202)が発生したときから、実際の「死」までの、<恐怖>が継続する時間、または<苦しみ>の程度は、自分の場合はどうなるのだろう、とときどき想像してしまうからだ。
 「滝口」とは、「死」の意識が、つまりは「自分が消滅するという恐怖」が現実的・具体的に発生する地点だと思われる。理屈を言えば、じつは、落ちたと思った(「滝口」だと意識した)としても滝の高さが2メートルほどで、ずぶ濡れになっても平気でまだ生きている可能性はある。
 三 死刑囚が処刑される(刑を執行される)までどのような心理でいるのだろうと想像すると、なかなか恐ろしい。
 そしてまた、そもそもが江藤のいう「瀑布が落下する一歩寸前の水の上」の心理から書き始めたくなったのは、いわゆるA級戦犯のうち松井石根ら7名は東京裁判法廷の判決日から処刑される=刑を執行されるまで、どういう意識・心理だったのか、Death by hanging というが、厳密にはいつの時点で彼らは「死」に至ったのかその直前に何を一瞬にでも感じたのか・想ったのか、ということに思いを馳せることがあるからだ。
 どうやら最後まで書けそうにない。
 <つづく>

1365/日本は美しい-01。

 日本47都道府県すべてに宿泊したことがある。10年ほど前は、列車・電車で通過したことすらない県が三つあった。
 但し、県庁所在都市には宿泊したことがない県が、今のところ三つある。
 山口(山口県)、徳島(徳島県)、青森(青森県)の各市だ。30歳のとき以降を旅行に関する記録のすべての基準にしているので、乳幼児時代や学生時代に宿泊したことがあるようであっても、記憶が不鮮明であることもあり除外する。
 山口県には防府市・下関市、徳島県では鳴門市、青森県では弘前市に泊まったことがある。
 全都道府県をこのようなかたちでも「知って」いる日本人は、それほど多くはないのではないだろうか。四分の三以上は、まったく<私的に>訪問している。つまり(私的)旅行中に、ということだ。
 小中学生時代に日本地図・各県地図を見たりして(また旧国鉄全国時刻表を眺めたりして)空想・想像していた都市を実際に訪れる、中心駅に降り立つ、というのは、じつにワクワクする、かつ感慨深い体験だ。
 一部地域は「知っている」とは言えないが、日本は美しい国だ、と思う。
 海、海岸、丘陵、山岳、湖、渓谷、河川、島々。なんと変化に充ちた、多様な自然環境をもつ国だろう、と思う。初めての地方の車窓の風景は、少年のときに珍しく鉄道に乗ったときと同じように、飽きさせない。
 上に、海、海岸、丘陵、山岳、湖、渓谷、河川、島々と並べて書いたが、一つの鉄道路線ですべてを眺め入ることができる地域も、日本にはある。フランスやドイツでは、信じられないことではないかと思われる。<今は山中(やまなか)、今は浜>、というのは、フランスやドイツでは(海がない国ではもちろん)生まれない唱歌だろう。
 北海道・根室市の中心部から納沙布岬を往復したとき、途中でバス道路の北方に鳥居を二、三見つけた。神社がある、ということだ(寺院の所在は必ずしもよく分からない)。
 きっと明治初期以降なのだろう、こんな東北端地域にもけっこうな密度で神社が建立されている、ということに、何やら感じ入った。
 追想を逆の南の方に持っていけば、鹿児島市の南洲神社というのも印象に残る。正確には、その神社に接した、西郷隆盛らの西南戦争「薩摩軍」兵士の墓地(南洲墓地)だ。
 西郷の最も大きい墓石柱の左右に桐野利秋(中村半次郎)と篠原国幹のほぼ同じ大きさの墓石柱があり、それらの左右と後方に、100ほどの墓石がすべて、同じく海(・桜島)に向かって立っている。それらの大きな石は磨かれず粗々しいままで、西南戦争後ほどなくして墓碑用に使われたかのように見える。
 これらの下に、それぞれの遺骨が本当に納められているのかどうかは知らない。
 しかし、じっとたたずむことができず、逃げるように立ち去りたくなる「霊的な」雰囲気が漂っている。(日本最後の)内戦・闘いに敗れた者たちの「無念さ」を感じてしまうのかどうか。
 振り返れば見える海峡のような海(錦江湾)は美しい。噴火さえしていなければ、穏やかな白い煙とともにある桜島の特徴ある姿も。
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 読書メモ-7/02-03で、福井義高・日本人が知らない最先端の世界史(祥伝社、2006)を全て読了。感想は、疑問(といってもほとんどは文献上の根拠)も部分的に含めて多いので、しばらくスルーする。

1337/2008年4月に「日本共産教」・「科学的社会主義教」と言っていた(再掲)。

 2007/03/23付けで、次のように、日本共産党を「日本共産教」・「科学的社会主義教」という宗教団体と皮肉っていた。同じことを、つい最近も感じたわけだ。再掲する。最後の一段落は無関係なので、以下では省略。 
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 日本共産党ではなく「日本共産教」・「科学的社会主義教」という宗教団体。
 安い古本だからこそ店頭で買ったのだが、日本民青同盟中央委・なんによって青春は輝くか(初版1982.04)という本がある。中身は青年・若年層向けの宮本顕治・不破哲三等の講演を収めたもの。
 宮本顕治のものは四本ある。宮本は逝去まで日本共産党中央から非難されなかった珍しい人物なので、この本で宮本が語っていることを日本共産党は批判できず、「生きている」日本共産党の見解・主張と理解してよいだろう。
 全部を読んでいないし、その気もない。p.14を見ていて、こんな内容が少しだけ興味を惹いた。以下、宮本の講演録(1982年2月に民青新聞に掲載)の一部。
 <「社会主義」とは第一に「搾取をなくし、特権的な資本家をなくして、労働者の生活を守る」、第二に、「広範な働く人の民主主義を保障する」、第三に「民族独立を擁護する」。ポーランド問題で社会主義自体がダメだとの批判が起きているが、そうではない。社会主義そして「将来の共産主義社会」は「どんな暴力も強制も不要な」「すべての人びとの才能が花ひらく、才能が保障される社会」で「マルクス、エンゲルス、レーニンたちが一貫して主張してきた方向」だ。>
 ここまででも「搾取」・「特権的な資本家」といった概念がすでに気になるし、またこの党が「民族独立」=反米を強調していることも面白い(社会主義の三本柱の一つに宮本は挙げている。はたして、「社会主義」理論にとって「民族独立」はこれほどの比重を占めるものなのか)。
 だが、面白いと思い、さすがに日本共産党だと感じたのは、上に続く次の文だ-マルクスらの説は「ただ希望するからではなく、人類の歴史、いろんな発展が、そうならざるを得ない」。
 このあとの、マルクスらの説は「人類のつくったすべての学説のすぐれたものを集めたもの」だということが「共産主義、科学的社会主義のほんとうの立場」だ、という一文のあとに「(拍手)」とある。
 いろいろな事実認識、予測をするのは自由勝手だが、上の「いろんな発展が、そうならざるを得ない」とはいったい何だろうか。「そうならざるを得ない」ということの根拠は何も示されていない。共産党のいう<歴史的必然性>とやらのことなのだろうが、それはどのようにして、論証されているのか??
 たんなる「希望」であり、そして要するに「確信」・「信念」の類であり、<科学的>根拠などどこにもない。
 上のような内容を含む講演というのは、信者または信者候補者を前にした<教主さま>の<説教>・<おことば>に違いない。その宗教の名前は、<日本共産教>または<科学的社会主義教>が適切だろう。
 現在も、こんな(将来の確実な<救済>=仏教的には「浄土」の到来?を説く点で)基本的には新興宗教を含む「宗教」と異ならない「教え」を信じて信者になっていく青年たちもいるのだろう。1960年代後半から1970年前半頃までは、今よりももっと多かったはずだ。
 こんな民青同盟又は日本共産党の組織員になって「青春」が「輝く」はずもない。一度しかない人生なのに、日本共産党(・民青同盟)に囚われる若い人々がいるのは(この組織だけでもないが)本当に可哀想なことだ。
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 以上。

1306/2016年<伊勢・志摩サミット>と伊勢神宮。

 安倍晋三首相が6/05、2016年サミットの開催地を<伊勢・志摩>と決定したことを発表した。
 候補地がいくつかあることを知って、伊勢志摩がベストだと個人的には感じてきた。それは、<神宮(伊勢神宮)>が開催地域に属しているか、少なくとも近いからだ。
 志摩市に決定とのニュースを知ってただちに、首脳たちは神宮を訪問することになるのかが気になった。
 のちの報道によると、安倍首相は決定理由として、①「悠久の歴史をつむいできた」伊勢神宮を訪れて(主要国のリーダーたちに)「日本の精神性に触れていただく」ためによい場所であること、②「日本の原風景といえる美しい自然」、「日本のふるさとの情景」を感じてほしいことを挙げた。
 上の②よりも①が先にあることに、安倍首相が<日本の>首相であることを感じる。剛速球のストレート勝負といったところか。
 この決定に三重県選出の岡田克也、維新の党の柿沢未途はそれぞれの理由で歓迎しているようだが、「左翼」の日本共産党、社民党(+生活の党ナニヤラ)の反応は今のところ明らかではない。
 神宮(伊勢神宮)は自民党総裁・谷垣禎一が言うように「日本の」「歴史と伝統」がつまったところで、日本の「聖地」といってもよいところだ。
 しかし、言うまでもなく、伊勢神宮は「神道」という宗教の施設でもある。むろん私は気にしないし、むしろこの点こそが開催地域になることを望んだ理由でもあるが、この点に着目して、気に懸け、さらには反対したり、抗議したりする「一部」勢力があるのではないか、と考えられる。
 どういう理屈が考えられるだろうか。
 ①国際的会議のために特定の「宗教」を利用してはいけない。あるいは、その機会に、特定の「宗教」に有利になるようなことをしてはいけない。これは日本国憲法上の政教分離、あるいは国家の宗教にかかる中立性に関係がある。
 ②「神道」はかつて、<国家神道>として、かつての戦争の精神的支柱になってきた。そのような神道の施設である神社の中でも伊勢神宮は実質的に最高位だ(だからこそ正式名称はたんに「神宮」だ)。日本政府が先の戦争への反省をすることなくそのような施設を訪れることを外国首脳が訪れることを求めるのは、日本による戦争の被害者である<アジア諸国・諸国民>が許さないし、また、先の戦争で日本と戦った国々の首脳は、そのような「悪」の歴史と結びついた伊勢神宮を訪れるべきではない。このような批判は、中国共産党の中国および韓国であれば、行なう可能性がある、と思われる。
 こういうクレームあるいは「いちゃもん付け」はありうるので、志摩市開催であっても伊勢神宮訪問にはただちには言及されない可能性もあると想定していたが、上記のとおり、安倍首相は真っ先に、伊勢神宮=「日本の精神性」に論及した。剛速球のストレート勝負という感想をもったのも、そういう事情がある。
 ここで、この欄でいく度か述べてきたこと、すなわち、毎年一月初旬に内閣総理大臣がおそらくは公式に(個人的・私的にではなく)参拝するという慣例がほぼできあがっていると見られるところ、朝日新聞をはじめとする「左翼」マスメディアはこれを<政教分離>違反だとか言って問題視することはしていないとみられること、は意味をもってくる、と考えられる。
 最近に確認したことだが、日本共産党は首相の靖国神社参拝に反対する理由として、①A級戦犯合祀、②政教分離違反の二つを挙げている。社民党・福島瑞穂も同じことを言っていたのをテレビで見聞きしたことがある。
 そうすると、靖国神社と同じ「神道」の伊勢神宮参拝もまた上の②の理由から問題視されなければならないはずだが、この二つの党が伊勢神宮参拝をどう判断しているのかの知識は今のところない。
 しかしともあれ、朝日新聞を含む大手マスメディアが首相の伊勢神宮参拝を問題視して騒いだことはないはずだ。また、この欄に書いたことがあるが、民主党・菅直人は、首相時代に、地元の神社の祭りに参加して、神輿を担いだりしたことがある。
 上のことは「神道」・「神社」やその行事が<特定の>宗教とはほとんど意識されないようにもなっている場合があることを示している。京都市の葵祭り、時代祭り、祇園祭りはいずれも本来は(かりに実行委員会催行であっても)三つ又は計四つの神社の宗教行事だ。あるいはまた、安倍晋三首相は昨年、伊勢神宮の式年遷宮の最後の行事に「臨席」したと伝えられた。これも内閣総理大臣としての参席だったはずだが、しかし、朝日新聞・NHKも含めて、政教分離の観点から問題視するようなことはなかったはずだ。
 こうした流れ、または雰囲気の中で、サミットにおける外国首脳らの伊勢神宮訪問(参拝ではない)が平穏に行われれば、まだ来年のことだが、けっこうなことだ。
 しかし、中国政府、同じことだが中国共産党、あるいは韓国政府は、上に想像?したような批判をしてくる可能性があるようにも思われる。少しばかりは懸念することだ。これらの批判があれば、当然に、朝日新聞等は<騒ぎ出す>。
 欧米に行ってキリスト教の教会等を見ても、各国の国民等がそれぞれの宗教・信仰を持っていることを何ら不思議に思ったことはない。日本もまた、あるいは日本人の多くもまた、「神道」という宗教を許容し大切にしてきていることを、何ら奇妙に感じることなく、外国首脳らが伊勢神宮を訪れてくれるとよいのだが。

1266/神社・仏閣めぐり-護国神社巡拝はいかが?

 神社仏閣・社寺(寺社)と一括りにいうが、寺院については四国遍路88をはじめ西国33・坂東33・秩父34の札所めぐり(四国遍路以外はいずれも観世音菩薩=観音信仰による観音菩薩を本尊とする寺院巡拝だ)等々があるのに対して、神社についてはきわめて少ない。
 もともとは「ご朱印」というのは納経の証明書のごときもので仏教に由来するものだと思われ、神道・神社にはなじみがなかったものかもしれない。それでも、いつ頃からなのだろう、神社でも、たいていは、「ご朱印」がいただけるようになっている。なお、神社も寺院も全国一律に300円の「ご志納」が代金になっていることは興味深く、これは安いだろう(あらかじめ印刷されていて捺印と参拝日付だけの記入にとどまる場合は200円であることもある)。500円出しておつりは要らないつもりでも必ず返金があることも興味深い(但し、例外はあるし、賽銭の追加のつもりでと言えば受領してもらえることもある)。
 寺院については上記の観音霊場めぐりの他に、薬師霊場巡拝、不動尊聖跡巡礼等々が各地方(おおむねプロック単位)でかなり多く存在している。北海道についてはよく知らない。
 神社についても、例えば「東京十社めぐり」という元准勅祭社巡拝もあり、専用の御朱印帳もある。個人的なことを書くと、亀戸天神社の一つだけを除いて、あとの九社はお参りをして、ご朱印もいただいている。他に、京都市内に限っての、京都五社、京都八社などもある。他にも、比較的狭い地域での神社めぐりがセット(?)されていることはあるものと思われる。
 四国、関西、関東といった広い地域での神社めぐりのコースはないようなのだが、より広く「全国一の宮めぐり」というものがある。これにはB5版の比較的大きい専用の御朱印帳が用意されており(購入でき)、「新一の宮」を加えて、沖縄・那覇、対馬、壱岐、隠岐、佐渡、会津から札幌まで、地域は日本全国に広がる。これだけの広さのある仏教寺院めぐりはないだろう。「新一の宮」を含む「全国一の宮」の数は長野県の諏訪大社四社や京都の下鴨・上賀茂の二社をどう数えるか、若狭姫神社を含めるか等の問題がありむつかしいが、御朱印帳の一頁に別々に記載されている神社数は108のはずだ(薩摩国には二、紀伊国には三、安房国には二など複数ある場合が少なくないので、旧国数や現在の都道府県数よりも多い)。
 神社についてはこれくらいのもので、あとは個人的に全国の護国神社めぐりをすることが考えられ、ガイドブックも近年になって発売されている。それによると、全国に52の護国神社がある(靖国神社は含まない)。原則として各府県に一つあるが、北海道には三つ(札幌・旭川・函館)、兵庫県には二つ(神戸・姫路)、広島県にも二つ(広島・福山)あり、なぜか神奈川県には(靖国のある東京都にも)ない。但し、残念ながら、専用の御朱印帳は発売・販売されていない。ついでに書くと、釧路護国神社があることも知っているが(但し、ご朱印はいただけなかった)、公式には?ガイドブックに掲載されていない。
 したがって、唯一専用の朱印帳がある、広い地域での神社巡拝セットは「全国一の宮めぐり」だけなのかもしれない。集客?のためといっては失礼だが、いろいろなアイデアが工夫されてよいかもしれない。
 なお、関西(三重県を除く)には神仏霊場巡拝といって、90の寺院・60の神社、計150の社寺がそれぞれの(札所のごとき)番号をもち、ぶ厚い専用の御朱印帳もあるものがある。これは寺院と神社の両方を巡るもので、かなりユニークな(そして私にはよいと感じられる)ものだ。
 ここで思い出したが、神社についても、後醍醐天皇ゆかりの神社(吉野神社、神戸の湊川神社など)については専用の御朱印帳がある。また、氷川神社、津島神社、各地の八坂神社などの素戔嗚尊を祭神とする神社は「全国清々会」という団体を作っているようで、専用の御朱印帳(但し、個別の神社名の記載はない)もある。
 以上のようなことを書いてるのも、ロクに仕事をしないで、全国の寺院・神社を、ふつうの?人に比べればたくさん訪れていると思っているからだ。その経験から、日本の宗教や日本の歴史や日本人の心情・精神等々について、いろいろと感じることが少なくない。いずれ、おりにふれて、より具体的なことをこの欄に記していってみよう。

1243/資料・史料ー<国有境内地処分法>。

 資料・史料 <国有境内地処分法>(社寺等に無償で貸し付けてある国有財産の処分に関する法律)

 伊勢神宮等の敷地等が戦前の国有地から戦後当初に宗教法人に無償譲渡されたことはよく知られている。
 その経緯(・神社側の苦労・奮闘等)を伊勢神宮について叙述した伊勢神宮崇敬会叢書の一つも所持しているのだが、仔細は省略して、まだ生きているようである根拠法律・同施行令を、やや長いがそのまま掲載しておく(附則は省略)。いずれも、現憲法施行直前に制定されたが、その後に若干の改正を受けた現行のものである。
 
 「昭和二十二年法律第五十三号(社寺等に無償で貸し付けてある国有財産の処分に関する法律
  昭和十四年法律第七十八号を次のように改正する。
 第一条  社寺上地、地租改正、寄附(地方公共団体からの寄附については、これに実質上負担を生ぜしめなかつたものに限る。)又は寄附金による購入(地方公共団体からの寄附金については、これに実質上負担を生ぜしめなかつたものに限る。)によつて国有となつた国有財産で、この法律施行の際、現に神社、寺院又は教会(以下社寺等という。)に対し、国有財産法によつて無償で貸し付けてあるもの、又は国有林野法によつて保管させてあるもののうち、その社寺等の宗教活動を行うのに必要なものは、その社寺等において、この法律施行後一年内に申請をしたときは、主務大臣が、これをその社寺等に譲与することができる。
 第二条  この法律施行の際、現に国有財産法によつて社寺等に無償で貸し付けてある国有財産で、前条の規定による譲与をしないもののうち、その社寺等の宗教活動を行うのに必要なものは、同条の申請をしたものについては、譲与をしないことの決定通知を受けた日から、六箇月内に、その他のものについては、この法律施行の日から、一年内に、申請をしたときは、主務大臣は、時価の半額で、随意契約によつて、これをその社寺等に売り払うことができる。
 2  前条に規定する行政処分について、行政不服審査法(昭和三十七年法律第百六十号)による不服申立てをした者は、前項の期間満了後も、その不服申立てに対する決定書又は裁決書を受領した日から、なお三箇月内に、前項の売払の申請をすることができる。
 第三条  第一条又は前条第一項の規定によつて、譲与又は売払をする国有財産の範囲は、勅令でこれを定める。
 第四条  第一条又は第二条第一項の規定によつて、譲与又は売払をすることができる国有財産(以下従前の土地という。)が、その譲与又は売払前に、土地改良法による土地改良事業又は土地区画整理法による土地区画整理事業の施行地区に編入せられた場合において、その従前の土地に係る換地処分に関して、国が清算金の交付又は補償金の支払を受ける場合は、主務大臣は、従前の土地にあつた社寺等が、換地処分の告示のあつた時から、一年内に、申請をしたときは、第一条に規定する従前の土地に係る清算金又は補償金については、その金額に相当する債権を、第二条第一項に規定する従前の土地に係る清算金又は補償金については、その金額の半額に相当する債権をその社寺等に譲渡することができる。
○2  国が土地改良法又は土地区画整理法の規定によつて、費用を負担せしめられる場合又は従前の土地に係る換地処分に関して、国が清算金を徴収せられる場合は、第一条に規定する従前の土地に係る負担金又は清算金については、その金額に相当する債務を、第二条第一項に規定する従前の土地に係る負担金又は清算金については、その金額の半額に相当する債務をその社寺等に負担せしめる。
 第五条  従前の土地が、その譲与又は売払前に、土地改良法による土地改良事業又は土地区画整理法による土地区画整理事業の施行地区に編入せられた場合において、従前の土地にあつた社寺等が、その交付せられた換地以外の土地に移転する必要のあるときは、主務大臣は、その社寺等が、換地処分の告示のあつた時から、一年内に、申請をしたときは、その社寺等に対し、第一条に規定する従前の土地の換地及び従前の土地に定著する国有物件については、譲与を、第二条第一項に規定する従前の土地の換地及び従前の土地に定著する国有物件については、時価の半額で、売払をすることができる。
 第六条  削除
 第七条  第二条第一項及び第五条の規定による売払代金については、命令の定めるところによつて、十年内の年賦延納又は土地による代物弁済を認めることができる。」

 「社寺等に無償で貸し付けてある国有財産の処分に関する法律施行令
(昭和二十二年五月一日勅令第百九十号)
 最終改正:昭和二八年八月一日政令第一四七号
 第一条  社寺等に無償で貸し付けてある国有財産の処分に関する法律 (昭和二十二年法律第五十三号。以下「法」という。)第一条 又は第二条第一項 の規定によつて、社寺等に譲与又は売払をする国有財産は、左の各号の一に該当するものとする。
 一  本殿、拝殿、社務所、本堂、くり、会堂その他社寺等に必要な建物又は工作物の敷地に供する土地
 二  宗教上の儀式又は行事を行うため必要な土地
 三  参道として必要な土地
 四  庭園として必要な土地
 五  社寺等の尊厳を保持するため必要な土地
 六  社寺等の災害を防止するため直接必要な土地
 七  歴史又は古記等によつて社寺等に特別の由緒ある土地
 八  その社寺等において現に公益事業のため使用する土地
 九  前各号の土地における立木竹その他の定著物
 2  その社寺等の所属教派若しくは宗派、その社寺等の主管者又はその社寺等が主宰する財団法人の経営する公益事業がその社寺等の経営に準ずるものと認められるときは、その事業のため現に使用する土地及びその定著物は、これを社寺等に譲与又は売払をすることができる。
 第二条  法第一条 及び法第二条第一項 に規定する国有財産で、国土保安その他公益上又は森林経営上国において特に必要があると認めるものは、国有として存置し、前条の規定にかかわらず、譲与又は売払をしない。
 第三条  法第七条 の規定による年賦延納は、売払代金の全額を一時に納付することが困難な場合に限り、これを認める。
 2  年賦延納を認める場合には国債で延納金額に相当する担保を提供した場合を除いては、民法第三百二十五条第三号 に規定する先取特権の登記をしなければならない。
 第四条  法第七条 の規定による代物弁済は、売払代金が十万円以上で、現金で納付することが著しく困難な場合に限り、これを認める。
 2  代物弁済に充てようとする土地は、価額五万円以上で、担保権の設定なく、且つ管理又は処分上適当なものでなければならない。
 3  代物弁済を認めた場合は、その土地について、所有権移転の登記が完了したときに、弁済があつたものとみなす。
 第五条  法第十三条 の規定による補償は、神社又は寺院が、この勅令施行の日から、一年内に、申請をしたとき、左の各号の定めるところにより、これを行う。
 一  神社又は寺院の植栽した森林で、法第十二条 の規定によつて部分林としないものについては、主務大臣の定めるところによつて、この勅令施行の日におけるその森林の立木竹の価額の十分の八の額を立木竹又は林産物で、その神社又は寺院に交付する。但し、その十分の八の額が植林又は植林上必要な施設のため、神社又は寺院が支出した金額に年五分の複利計算による利息の額を合算した額に達しないときは、その合算額を立木竹又は林産物で交付する。
 二  神社又は寺院の植栽した森林以外の森林について、神社又は寺院が、林道又は砂防、防火その他の施設の新設改良したものについては、主務大臣の定めるところにより、その新設した施設の価値又は改良した部分の価値の現存するものに限り、この勅令施行の日におけるその評価額を立木竹又は林産物で、その神社又は寺院に交付する。但し、その評価額が、施設の新設改良費に年五分の複利計算による利息の額を合算した額を超えるときは、その合算額を限度とする。」

1238/安倍首相が靖国神社を参拝してなぜいけないのか。

 〇朝日新聞12/27朝刊は「狂い咲き」をしていた。
 安倍首相靖国参拝をうけて「参拝制止を一蹴」が最大の活字での一面橫見出しになるのだから、奇怪な新聞だ。
 毎日新聞も一瞥してみたが、かなり似ている。
 〇日本の首相の靖国神社参拝には種々の論点があることを、あらためて考えさせられる。
 安倍首相が堂々とむろん疚しい心理など一切示さずに発言していたのには感動したが、同首相の同日の「談話」の内容を全面的に支持しはしない。わざわざ談話など出し、また外国語訳して各国に伝えることをしなければならないのは、本来は異常なことだ。
 それよりも、<不戦の誓い>をすることは構わないが、「日本は、戦後68年間にわたり、自由で民主的な国をつくり、ひたすらに平和の道を…」等と述べて戦後日本を全体として肯定的に評価しているようであるのは、安倍本来の<戦後レジームからの脱却>という思想とは少なくとも完全には合致していない、と感じる。ともあれ、それは政治的判断の混じった「談話」だとして、ここではこれ以上は触れない。
 アメリカは自国の都合と利益のために「失望」という声明を出した。これを、朝日や毎日は「援軍」のごとく理解して喜んでいるようだ。このアメリカの立場にも触れないが、靖国神社の祭神となっている(合祀されている)いわゆるA級戦犯を作り出したのは他ならぬアメリカ主導の「東京裁判」であったのだから、<A級戦犯認定=東京裁判>批判との印象が生じる可能性のある靖国神社参拝を、いかに現在の「同盟国」の首相の行為であろうとも、少なくとも素直には支持・応援できないだろうことは不思議ではない。靖国神社参拝は、従って当然に、「反米」的性格または側面をもつに至っている、とも言える。
 〇日本の首相の靖国神社参拝についての種々の論点については、この欄で断片的にせよ何回も言及してきた。論点の所在と簡単なコメントを記しておく。
 第一に、憲法上の「政教分離」に反しないか。12/26朝刊では朝日新聞よりも毎日新聞がこの論点の所在に触れて批判的な記事を書いている。そして、平野武(龍谷大名誉教授)の<首相在任中は避けるべき>との旨のコメントを紹介している。この点にやや立ち入れば、月刊WiLL2014年1月号で加地伸行が、「平野武という人物」が伊勢神宮「遷御の儀」に安倍首相が臨席したことを「政教分離に反し、違憲性があると言う」と紹介したうえで、「平野某は政教分離ということの初歩的な意味も分かっていない」等と批判している(p.18)。平野武にとってみれば、一貫した主張なのかもしれない。なお、社民党・福島瑞穂も今回の靖国参拝を「政教分離」違反だと主張したらしい。
 だが、この欄でも述べたことがあるが、「政教分離」違反であるならば、A級戦犯合祀問題以前の憲法問題であり、吉田茂も佐藤栄作も中曽根康弘も小泉純一郎も憲法違反の行為をしてきたことになる。
 毎日新聞はこれまでの首相靖国参拝のそのつど、「政教分離」違反または疑いという報道・主張をし続けてきたのだろうか。今回に限って、またはA級戦犯合祀以降に限って「政教分離」違反という論点を持ち出すのは、論理的には成り立ちえないことだ。
 それに何より、毎年正月の4日あたりに首相が伊勢神宮に参拝することはほとんど「恒例」になっているが、伊勢神宮もまた戦後は神道という宗教の一施設であるところ、毎日新聞は(朝日新聞も)何ら問題にしてきていないのではないか。そのくせ、靖国神社についてだけ「政教分離」違反問題を持ち出すのは論理的に完全に破綻している。なお第一に、社民党が民主党と連立政権を組んで福島瑞穂が大臣だったときもあったかと思うが、民主党の鳩山由紀夫も菅直人も野田佳彦も首相として伊勢神宮参拝をしたはずだ。民主党・社民党連立政権時代、福島瑞穂は、伊勢神宮正月参拝に反対する旨を大々的に主張したのか? 第二に、上記の加地伸行の文章によれば、平野武は首相の伊勢神宮正月参拝は(少なくとも明示的には)問題にしていないらしい(p.19)。学問的に一貫させるつもりならば、首相の伊勢神宮正月参拝を「違憲」視する大?論文を書くべきだろう。
 大きな第二に、靖国神社は首相が参拝すべきではない「死者」が祭神として祀られているか。これが最大の問題だが、いくつかの基本的論点やさらに細かな論点に分岐していく。
 朝日新聞の東岡徹は12/27朝刊で「侵略された中国や、植民地支配を受けた韓国の人々には、靖国神社への嫌悪感が強い」とあっさりと書いている。先の戦争は中国「侵略」戦争で、当時は韓国を「植民地支配」していたということを当然のごとく前提にしている。そのような<悪業>をした指導者たちは断罪されるべきであり(だからこそ「A級戦犯」であり)、彼らを合祀する靖国神社参拝はすべきではない、という理屈のようだ。
 上の前提自体に、少なくとも論じられるべき余地がなおある。1+1=2のごとき当然の前提にしてはならない。前者にも大きな疑問があるが、後者の「植民地支配」という概念の使用にも私は疑問をもっている。ドイツ(・ナチス)の侵攻によるチェコ、ポーランド、バルト三国等の支配は「植民地支配」だったのか。同様に朝鮮(大韓帝国)についても「合邦」か少なくとも日本の事実上の施政権の地域的対象の拡大であって、決して「植民地」として支配したわけではないのではないか。この問題はこの欄でまだ言及したことがない、かねてより有してはいた関心事項だ。
 さてここでの基本的な第一の論点だが、かりに日本がかつて「侵略」や「植民地支配」をしていたとして、その当時の(といっても時期により異なるが)日本の政治指導者たちの「責任」はどのように問われるべきなのか。
 上の「政治指導者たち」という言葉の範囲は不明確だ。「東京裁判」法廷は「平和に対する罪」という新奇の犯罪概念を作り出し、<A級>戦犯という犯罪者として刑罰を下した(ということになっている)。
 ここでむろん、「東京裁判」なるものの合法性・正当性、そして具体的な<A級>戦犯者の範囲の特定の正確さ・合理性・適切さ、という別の第二の論点も出てくる。そしてまた、なぜ特定の25名が<A級>戦犯被告として判決をうけ、なぜそのうち7名は「死刑」だったのか?も論点になりうる。 <A級戦犯合祀の神社参拝はけしからん>と主張する者は、「死刑」ではなくのちに死亡した者も含む被合祀者14名(のようだ)のそれぞれの「罪状」をきちんと語り、説明できなければならない。
 「東京裁判」あるいは実質的にはアメリカまたはGHQ任せで「侵略」・「植民地支配」の指導者の範囲を画定してしまうのは、他人・他国任せのじつに無責任なことではないのか。
 なお、7名の死刑が執行されたのは、1948年12/23で今上天皇(当時、皇太子)の誕生日で、むろん偶然ではない(起訴は4/29で昭和天皇の誕生日)。
 基本的な第三に、絞首刑にあった者は生き返らないが、それ以外の者は「終身(無期)刑」を受けた者も日本の再独立後(主権回復後)には関係各国の同意を得て解放され、政治家として活躍した者もいる。そしてその前提として、もはや「犯罪者」扱いはしない旨の国会決議までなされている。そのうえで、「B・C級戦犯」としての刑死者の遺族に対しても遺族年金が給付されている。「A級戦犯」だった者も、犯罪者扱いしてはいけない、と言うことができる。死刑と終身刑の区別が正確にまたは厳格になされたとはとても思われず、終身刑だった賀屋興宣がのちに大臣になったことを考えると、「A級戦犯」としての刑死者(法務死者、昭和殉難者といいうらしい)は、死刑判決でさえなければ、政治家等としてのちの人生を全うできたかもしれない。
 要するに、日本人は「A級戦犯」者をもはや犯罪者として扱ってはいけないのではないか、という論点がある。朝日や毎日は「A級戦犯」合祀を問題にはしても、そしてこれにかかわる昭和天皇の発言らしきものを「政治利用」しつつも、上記の国会決議等のその後の法律レベルの問題にはまったく言及していない。不正確で、不当な記事づくりではないか。
 これに関連して第四に、サンフランシスコ講和条約で主権回復に際して日本が東京裁判の「諸判決を受け容れ」た、ということの意味が論点になりうる。この欄で触れたことがせあるが、民主党の岡田克也が国会・委員会で条約と法律とはどちらが上位かと質問して、サ講和条約(の理解)に日本はその後ずっと拘束されるのではないか旨を主張した論点だ。
 「裁判」と訳そうと「諸判決」と訳そうと本質的な違いはない(渡部昇一の言説は的を射ていない)。この点は、この欄で紹介したが、稲田朋美は私と同旨のことを記していた。
 この問題は、あるいはサ講和条約の当該条文の意味は、終身刑判決を受けた者や期限のきていない有期刑者は、「諸判決」どおりにきちんと執行する(そうしない場合は関係各国と協議し同意を得て解放する、という趣旨を含む)、という趣旨だ、と解釈して差し支えないと考えている。つまり、日本を当事者とする先の戦争が「侵略」戦争だった等の「東京裁判」の基礎にある考え方または歴史認識まで受容したわけではない、と私は理解している。
 とりあえず思い浮かぶのが、以上のような大きな論点、基本的な論点だ。
 A級戦犯も合祀されている靖国神社を日本の首相は参拝すべきではない、という主張の前提にある、A級戦犯=「犯罪者」=「悪い」政治指導者=「侵略」・「植民地支配」をした「悪者=犯罪者」、という理解は、それぞれの等号=同一視の段階で、きちんと吟味すべきではないのか、とりわけ日本の報道機関は。中華人民共和国や大韓民国の「御用新聞」(・ご注進機関)でないかぎりは。
 その他、「村山談話」などというややこしいが大きな論点もあったが、今回はこれくらいで。

1236/安倍晋三内閣総理大臣靖国神社参拝。

 12/26の正午すぎに安倍首相の靖国参拝のテレビ報道があり、予期していなかったので驚くとともに、安倍首相の参拝後のインタビュ-回答を聞いていて、思わず涙がこぼれた。
 当然のことが当然のように行われ、当然のことが語られている。
 欺瞞と偽善に満ちた報道、発言や声明類に接することが多いだけに、久しぶりに清々しい気分になった。
 日本共産党・志位和夫は「侵略戦争を肯定、美化する立場に自らを置くことを、世界に宣言することにほかならない。第二次世界大戦後の国際秩序に対する挑戦であり、断じて許すわけにはいかない」とコメントしたらしい。①誰が先の戦争を「侵略」戦争だったと決めたのか、②万が一そうだったとして戦没者を慰霊することが、なぜそれを「肯定、美化する」ことになるのか、③いわゆるA級戦犯が合祀されていることを問題にしているとすれば、そのいわゆるA級戦犯とはいったい誰が決めたのか、いわゆるA級戦犯合祀が問題ならばB級戦犯、C級戦犯であればよいのか、④「第二次世界大戦後の国際秩序に対する挑戦」とは最近中国政府・中国共産党幹部が日本についてよく使う表現で(かつての仲間ではないかと米国をゆさぶる発言でもある)、日本共産党の親中国信情を示している、⑤戦没者への尊崇・慰霊行為が「戦後の国際秩序に対する挑戦」とは、何を血迷っているのだろう。神道式の参拝だが、もともと「死者」の追悼なるものに重きを置かない唯物論者に、「死者への尊崇」とか「慰霊」とかの意味が理解できるはずがない。日本の「カミ」ではなく、インタ-ナショナルな?<共産主義>を崇拝し続ければよいだろう。
 社民党・福島瑞穂は「アジアの国々との関係を極めて悪化させる。国益に明確に反している。強く抗議したい」とコメントしたらしい。NHKもさっそく中国・韓国政府の反応を丁寧に報道していたが、「アジアの国々」というのは大ウソ。タイ、カンボジア、マレ-シア、インド等々、西部のトルコまで含めなくとも、アジア諸国の中で内政干渉的または信仰の自由侵害的にいちゃもんをつけているのは中国、韓国(・北朝鮮)といういわゆる「特定アジア諸国」だけ。ウソをついてはいけない。あるいはひょっとして、福島にとっては、アジアとは中国・韓国(・北朝鮮)と日本だけから成り立っているのだうろか。
 ところで、特定秘密保護法に反対した大学教授たち、ジャ-ナリスト、映画人等々の多くは、例えばかつての有事立法反対運動にも参画していた人々で、先の戦争は「侵略戦争」で、日本は「悪いことをした」と、信じ込み、思い込んでいる人たちだろう。そして、かつての「悪」を繰り返させるな、<戦争をしたい保守・反動勢力>が「軍靴の音」を響かせつつあるので、戦後<平和主義>を守るためにも、保守・反動の先頭にいる安倍晋三(・自民党)をできるだけ早く首相の座から下ろさなければならない、と考えているのだろう。
 このような<基本設定・初期設定>自体が間違っている。
 先の戦争は民主主義対ファシズムの戦争で、日本は後者の側に立って「侵略戦争」をした、という歴史の認識は、戦後・とくに占領下において勝者の側・とくに米国(・GHQ)が報道規制・特定の報道の「奨励」、あるいは間接的に日本人教師が行う学校教育等を通じて日本人に事実上「押しつけた」ものであり、正しい「歴史」認識または把握であったかは大いに問題になる。ソ連や米国の戦時中の資料がまだすべて公開されていないので、今後により詳細な事実・真実が明らかになっていく可能性があるだろう。
 先の戦争はソ連共産党・コミンテルンと米国内にいたコミュニストたち(コミンテルンのスパイを含む)により影響を受けたル-ズベルト大統領がまともに国内を支配できていなかった(分裂していた)中国よりも日本を攻撃して潰しておくことがそれぞれ(ソ連・アメリカ)の国益に合致していると判断しての<日本攻撃・日本いじめ>だった可能性は十分にある。ソ連は日本敗戦後の日本での「共産革命」(コミュニスト・共産党中心の政権樹立。それが民主主義(ブルジョア)革命か社会主義革命かの理論的問題よりもコミュニストに権力を奪取させることが重要だった)を画策していたに違いない。
 毛沢東の中国共産党の拡大と1949年の政権奪取(中国人民共和国の成立)を予想できなかったアメリカにも大きな判断ミスがあった。こともあろうに日本よりもスタ-リンの「共産」ソ連と一時期は手を結んだのだから大きな歴史的誤りを冒したことは間違いない。ようやく対ソ連措置の必要を感じて、ソ連参戦の前にアメリカ主導で日本を敗戦させたかったのだと思うが、それは原爆製造とその「実験」成功によって対ソ連で戦後も優位に立つことが前提でなければならなかった(吉永小百合のように日本の二都市への原爆投下は終戦を遅らせた日本政府に第一次的責任があるかのごとき文章を書いている者もあるが、間違っている)。
 先の戦争について連合国側に全面的に「正義」があったなどと日本人まで考えてしまうのは-戦後の「洗脳」教育のためにやむをえないところはあるが-じつに尾かなことだ。
 大学教授、ジャ-ナリスト、映画人といえば、平均的な日本国民よりは少しは「賢い」のではなかろうか。そうだとすれば、自らの歴史の把握の仕方の基本設定・初期設定自体を疑ってみる必要がある。少なくとも、異なる考え方も十分に成り立つ、という程度のことは「賢い」人ならば理解できるはずだと思われる(但し、例えば50歳以上の日本共産党員または強い日本共産党シンパは、気の毒ながら今からではもう遅いかもしれない)。
 先の戦争についての(付随的に南京「大虐殺」問題、「百人斬り競争」問題、朝鮮「植民地支配」諸問題等々についての)理解が、今日まで、首相の靖国参拝問題を含む諸問題についての国内の議論の基本的な対立を生んできた、と考えられる。靖国参拝問題は戦後の「中国共産党王朝」成立以来一貫して問題されてきたわけではなく1980代になってからなのだが、しかし、日本や韓国(・北朝鮮)がかつての日本の「戦争責任」、という<歴史カ-ト゜>を使っているので、先の戦争についての正しい理解はやはり不可欠になる。
 繰り返すが、民主主義対ファシズム(・軍国主義)という単純二項対立、暗黒だった戦前と<平和と民主主義>国に再生した戦後という単純二項対立等による理解や思考は間違っている。戦前はいわれるほどに暗黒ではなかったし、戦後はいわれるほどに立派な国歌・社会になったわけではない。むしろ、<腐った個人主義>や日本の伝統無視の<政教分離>等々による弊害ははなはだしい、ともいえる。例えば、親の「個人尊重」のゆえの「子殺し」も少なからず見られ、珍しいことではなくなった。こうした各論に今後もつぶやいていこう。

1223/西尾幹二・憂国のリアリズム(2013)を全読了。

 西尾幹二・憂国のリアリズム(ビジネス社、2013)を、10/12~10/13に、数回に分けながら、すべて読んだ。

 〇最終章(第五章「実存と永遠」)の最後の節のタイトルは「宗教とは何か」。

 その中で自然科学者や社会科学者は「実在」を対象としていて、「自己」をとくに問題にしない、一方、人文科学はそうはいかない、と書いているのは興味深い。たしかに、経済・政治・法等を対象とする学部・学科に所属するまたは出身の「評論家」・論者に較べて、西尾幹二の文章には「自己」というものが相対的には色濃く現れているように感じるからだ。
 西尾は続けて、歴史学に言及し、歴史研究の認識対象たる「実在」は「過去」だが、「歴史は記述されて初めて歴史になる」、記述には過去の「特定の事実の選択」が先行し、この選択には記述者の「評価」が伴う、歴史研究の対象たる「客観世界」は「自己」が動くことによって「そのつど違って見える」、というようなことを書いている(p.321)。
 そのとおりだろう、と思われる。但し、瑣末で余計なことだが、歴史学は現在の大学での学部・学科編成とは異なり、元来は「社会」系の学問分野ではないか、と感じている。そして、おそらくは西尾の論述の仕方とは逆に、「社会科学」なるものも厳密には「自己」なるものの立場を抜きにしては語られえないのではないか、とも感じている。

 さて、西尾幹二は「宗教」を、「過去」なる具体的・有限の「実在」を前提としたりするのではなく、「何もない世界、死と虚無を『実在』とする心の働き」だと、ひとまず定義している。ここに学問と宗教の違いがある、ということだろうか。そしてまた、「何もない世界、死と虚無を『実在』とする」のは「途方もないこと」で、「死ではなく永遠の生、虚無ではなく永遠の実存を信じ」る多くの宗教組織・教団類があるが、「どれか一つの宗派の選択だけが正道である」とする強靱さを自分は持てない、「特定の宗教に心を追い込むことがどうしてもできない」と西尾が告白?しているのも(p.322-4)、興味深い。

 最も最後の段落の文章は、なかなか難解だ。-学問と宗教は相反概念だが、明治以来日本人は欧州から「近代の学問の観念を受け入れ、死と虚無を『実在』として生きているのが現実であるにもかかわらず、このニヒリズムの自覚に背を向け、誤魔化しつづけて生きている。そのため宗教とは何かを問われたり問うたりしたりして平然と『自己』を疑わないでいるのである」(p.325)。

 〇ところで、この著書は西尾幹二の2010年~2013年6月に諸雑誌に発表した論考をまとめたものだ。五つの章に分類されてはいるが、数えてみると全部で26本の論考から成り立っている。
 どの雑誌に発表されたものかを「初出一覧」(p.330-)で見てみると。月刊WiLLまたは歴史通(いずれも、ワック)が計7で最も多く、ついで、言志(これは知らなかったのでネットで調べてみると、ブクログが発行所、編集長・水島総、編集者・井上敏治・小川寛大・古谷経衡)が5。第三位なのが月刊正論(産経新聞社)で3、続いてサピオ(小学館)と週刊新潮(新潮社)が各2ジャパニズム・週刊ポスト・テーミス等が各1、になっている。

 言志なる雑誌(メールマガジン?)に関心をもった。同時に、西尾幹二は現在は月刊正論(産経)に連載しているようだが、月刊WiLL+歴史通と言志で12/26を占めており、月刊正論掲載は3論考しかないので、とても<産経文化人>とはいえない、ということが明確になってもいる。産経新聞の「正論」執筆グループの一人でもないはずだ。些細なことかもしれないが、こんなことも興味深くはある。

 「産経」を批判または皮肉っている部分も数カ所あった。この本の内容についてはさらに言及する(今回に上で言及したのは最も非政治的な論考かもしれない)。

1219/遷宮と天皇と政教分離と。

 10月初旬の「遷宮」について、テレビは当初の予想よりは丁寧に報道していた。しかし、神宮(伊勢神宮)と天皇(家)との関係に触れたのは全くかほとんどなかったようだ。臨時祭主の黒田清子さんとの語りかテロップが入っても不思議ではないシーンにも、そのようなものはなく、映像だけが彼女を映し出していた。

 また、内宮の遷御の儀に内閣総理大臣・安倍晋三が「出席」したことを知り、そのような事前の知識がなかったので驚いた。かつまた神道という特定の宗教の祭事への出席であるので、憲法上の<政教分離>原則との関係を問題にする者がいても不思議ではないのに、そのような論調はまったく出てこなかったようであることも印象に残った。

 さて、古くなるが、2008年の春頃にこの欄で何度か、伊勢神宮・天皇(家)・政教分離について言及している。

 ・日本の起源・天皇と「神道」(3/25)   ・伊勢神宮「式年遷宮」と天皇(家)(3/27) 

 ・天皇制度と「宗教」-伊勢神宮式年遷宮費用問題から発展させて(4/04)

 ・天皇(家)と神道・神社の関係、そして政教分離(4/15)

 ・天皇(家)と神道・神社の関係、そして政教分離-つづき(4/16)

 ・天皇(家)と神道・神社の関係、そして政教分離-つづき2(4/18)

 ・1945-1947年の神社と昭和天皇(4/19)

 ・天皇(家)と神道・神社の関係、そして政教分離-つづき3(4/20)

 ・天皇(家)と神道・神社の関係、そして政教分離-つづき4(4/21)

 ・日本共産党系の藤谷俊雄=直木孝次郎・伊勢神宮(新日本新書)-1(4/24)

 ・日本共産党系の藤谷俊雄=直木孝次郎・伊勢神宮(新日本新書)-2(4/24) 

 ・天皇・神道・政教分離-つづき4(4/26)

 ほかに、この時期には、つぎのようなものも書いていた。
 ・戦後日本を支える「大ウソ」-非武装・政教分離(4/05)

 ・長部日出雄の「神道」論(諸君!5月号)と石原慎太郎「伊勢の永遠性」(4/28)

 神道関係者、とくに伊勢神宮や神社本庁関係者には自明のことを多く書いているとは思うが、5年以上前によく勉強(?)したものだという個人的な感慨も湧くので、関係者や専門家以外の方々には参照していただきたい。なお、別の時期にも同様のテーマを集中的に書いたかもしれないが、たまたまこの辺りの時期の古い書き込みを見る機会があったので、2008年3月下旬~同4月の書き込みに限っている。

1206/山村明義・本当はすごい神道(2013)と伊勢の式年遷宮ほか。

 〇山村明義・本当はすごい神道(宝島社新書、2013)を、たぶん先週初めに読了。同・神道と日本人(新潮社、2011)も所持していて、より重要なようだが、重たい感じで、冒頭掲記のものを先に読んだ。
 最初の方で、知らなかったことをいくつか知り、宗教(・神道)に関する現在の日本のマスメディアの異様さも感じる。以下は、知らなかったこと(~p.61)。

 ・2011-12年サッカー・ワールドカップの直前、日本代表チームは男女ともに「熊野三山」に参拝した。選手・関係者でかなりの人数になる。なぜ熊野かは省略する。私も熊野三山(本宮・新宮・那智)を二回は巡拝している。
 ・トヨタ自動車のある豊田市には「トヨタ神社」ともいわれる豊興神社があり、毎年年頭、トヨタグループの幹部たちは参詣する。三菱グループの「守護」神社は大阪市西区にある土佐稲荷神社、三井グループのそれは東京都墨田区の三囲神社、等々。いわば「企業神社」は多数ある。

 ・出光興産のそれは、出光佐三の郷里近くの宗像大社

 ・海上自衛隊護衛艦「いせ」には伊勢神宮の祠があり、同「ひえい」には東京・日枝神社の神札が貼られいる、等。

 ・朝日新聞社にすら、東京・中央区築地に波除稲荷神社という「氏神神社」がある。社の新車にはこの神社で「新車祓い」をする。関連会社の朝日浜離宮ホールは、歳末の舞台挨拶の日に波除稲荷神社の神職者が神事を行っている。

 政教分離とかの問題では小うるさい朝日新聞にも特定の「守護」神社があるとは愉快ではないか。

 〇東京巨人軍が宮崎神宮に、阪神タイガースが(西宮神社ではなく)広田神社(西宮市街地の北)に、シーズン開始前に必勝または優勝祈願をすることは、毎年のようにテレビのスポーツ番組で報道されている。

 上の点では、特定の、といえなくもない宗教、すなわち神道に対しておおらかとも見えるマスコミも、他の点ではほとんど宗教・神道関係の報道を避けている。

 最初に記したサッカー団体によるこぞっての熊野参拝は知らなかった。サッカー関係者にとっては大行事のはずだが、マスコミは取りあげていないのではないか。

 今年は出雲大社の60年ぶりの遷宮、伊勢神宮の式年遷宮の年だ。前者はすでに終わったはずだが、テレビではおそらく全く報道していない(地元・島根県は別かもしれない)。
 伊勢神宮の式年遷宮に関する報道もおそらくまったくなされていない。週刊誌や雑誌が取りあげ、それだけでの特集をする雑誌・ムック類も多数出版されているが、テレビや一般新聞はおそらく何も
報道していない。遷宮ですらこうなのだから、外宮境内に「遷宮館」が完成していることなどは全国ニュースとしてテレビ・一般新聞で報道されたことはないだろう。

 どこか異常ではないか。むろん、様々の信仰をもつ視聴者・読者がいるから<特定の>宗教に関する報道はできない、という理屈によるのだろう。

 しかし、かつてこの欄で伊勢神宮や神道、それらと皇室との関係についてかなり熱心に言及したことがあるのだが、宗教といわれるものの中で、少なくとも「神道」だけは別扱いがされてよい、されるべきだ、と考えている。
 法的理屈がまったくなくはない。世襲の天皇制度を現日本国憲法も認めているが、天皇家の宗教はいうまでもなく「神道」だ。神宮の式年遷宮の祭主代理は現皇太子殿下の妹の黒田清子さん(祭主は今上天皇の姉の池田厚子さん)であることにも示されているように、また遷宮の細かな準備日程は今上天皇の「許可」(正式用語ではない)にもとづいているように、伊勢神宮の式年遷宮とは実質的または本質的には天皇家の行事に他ならない

 この式年遷宮に対しても天皇・皇室はもちろん何らかの費用を負担しているが、それが「内廷費」といういわばポケットマネー、「お手持ち金」として支出されるのも奇妙なことだ。テレビや家具あるいは皇居内用の自動車を購入する費用と、法律上はまったく同質のものと扱われているのだ。

 そもそもは1945年の「神道指令」にもとづき、また現憲法の「政教分離」原則によってこうなっている。しかし、憲法上の存在である「天皇」の宗教が一貫して神道であることは占領期にも、日本国憲法制定時にも公知のことだったはずだ。天皇制度を維持するかぎり、何らかの配慮または特別の考慮が払われてしかるべきだったはずなのだが、何もなされなかった。
 その結果として、現在のテレビや一般新聞の神道に対する「冷たさ」がある。むろん一般国民はそんなマスコミの態度にかかわりなく、初詣をし、七五三行事をし、パワースポット巡りをしているのだが…。

 富士山が世界遺産とされたのは「自然遺産」ではなく、「文化遺産」としてだったことの意味を、テレビ局・一般新聞の関係者はしっかりと考えるべきだろう。「文化」には宗教も含まれている。富士山という山岳のみが世界遺産指定をされたのではなく、<富士山信仰>のあることを前提として、富士宮浅間神社を含む種々の宗教施設も含めて世界遺産とされたのだ。

 思うに、世界遺産指定関係者、ユネスコの方が、日本のマスコミよりもはるかに宗教に対して大らかだ。どういう国の者が指定メンバーなのかは知らないが、彼らは日本には日本独自の宗教がある、ということを、ごく自然な、ごく当たり前のこととして、神社等を含む「富士山」を世界遺産の中の「文化遺産」として指定したのだと思われる。

 日本には日本独自の文化があり、日本独自の宗教がある。当たり前のことではないか。日本のとくに「左翼」マスコミは、「日本独自の」ものが嫌いなのに違いない。NHKも含めて、伊勢神宮の10月初旬の遷宮行事がどう報道されるのか、注目しておきたい。

ギャラリー
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
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  • 2385/L・コワコフスキ「退屈について」(1999)②。
  • 2354/音・音楽・音響⑤—ロシアの歌「つる(Zhuravli)」。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
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  • 2320/レフとスヴェトラーナ27—第7章③。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
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  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
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  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
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  • 2302/加地伸行・妄言録−月刊WiLL2016年6月号(再掲)。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
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  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
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  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
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  • 2277/「わたし」とは何か(10)。
  • 2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
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  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
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  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
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  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
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  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
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  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
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  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
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  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
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  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
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