秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

映画

0500/昭和30年代末・東京五輪の年の映画「愛と死をみつめて」と関川夏央等。

 吉永小百合・浜田光夫主演映画「愛と死をみつめて」は池田勇人首相時代、昭和三〇年代の末、東京五輪の前月の1964年9月に上映された。私は観なかったが、1964年末の紅白歌合戦でも歌われた「マコ、甘えてばかりで…」とのはやり歌の影響か、1965年に原本の書簡集を読んで、当時の少年らしい感動を受けた。
 のちに上記の映画を観ることがあったが、私の好みの文筆家・関川夏央・昭和が明るかった頃(文春文庫、2004)は、「女性の結婚への希望と家庭への願望の方に重心を大きく傾けた」のが映画ヒットの主因の一つとする(p.376)。
 これは間違いだろう。原作もそうだが、「結婚への希望と家庭への願望」は付随的テーマにすぎない。むしろ、青山和子の歌った上記の歌や吉永小百合歌唱の映画主題歌としての「愛と死のテーマ」こそが、フェミニストから見れば許されない程に?、「弱い女」・「慕う女」のイメージで歌詞が作られていて、大島みち子氏の強さと逆に河野実氏の(実在の方に申し訳ないが)弱さを感じさせる原作から見れば違和感がある。
 関川はまた言う。大島が死ぬ前に下さいといっている三日のうち、恋人といたいというのはたった一日にすぎない、と。二人の「愛」も、女性の気持ちもそんなものだと言いたげだが、これも間違っている。かりに自由な(そして健康な)三日間が与えられたとすれば、一日を父母・兄妹と過ごし、一日を一人で「思い出と遊ぶ」というのは至極当たり前の気持ちではないか。関川は恋愛至上主義者でもあるまいし、三日間とも恋人と一緒にいたいと書いてほしかったのか。いや、大切な三日のうち一日を「あなた」と過ごしたいと思うだけでも、素晴らしい恋愛であり、河野青年への「愛」だった、と私は思う。この物語、そして映画の主題は20~21歳の男女に実際に成立した恋愛そのものであったからこそヒットしたのであり、「結婚への希望と家庭への願望」に重きを置いたからでは全くないと私は思っている。
 一方、関川の、「男性側の『子供っぽさ』『成熟への拒絶』と、期せずして母親の役割を果たさざるを得なかったオトナの女性の『みごとな覚悟』といったすぐれて戦後的な対比をあえて排除」という指摘はほぼ同感で、映画上の浜田は原作の青年の苦しみと弱さをうまく演じてはいないが、これは浜田の責任というより脚本のなせる技だろう。
 なお、読書中の浅羽通明・昭和三十年代主義(幻冬舎、2008)には「愛と死をみつめて」は二回しか登場せず(索引による)、しかも「純愛」ものというだけの言及で、本格的な分析・論及は何もない。この本のアヤシゲさの一つの現れでなれればよいのだが。

0491/大月隆寛が山田洋次批判-「インテリ左翼の御用監督?」。

 山田洋次は映画人九条の会の呼びかけ人ということで、吉永小百合様は九条擁護の岩波ブックレットに登場して「私たちには言葉というものが…」とか等の朝日新聞とよく似たことを仰って(おっしゃって)いることで、さらに二人が監督・主演の映画「母ぺぇ」についても単純素朴な<反戦>観の吐露らしきことを、それぞれ批判的にコメントしたことがある。
 この二人は紛れもない(一見「政治」とは関係がなさそうな)著名人なので(山田は直ちに「寅さん」に結びつくだろう)、この人たち(のしていること)を消極的に評価するのは勇気がいるし、山田洋次についてのまとまった批判文は見たことがない(吉永小百合様だってそうだろう。例外的に何となく「様」を付けたくらいだから。もっとも、少しは皮肉を込めている)。
 月刊・正論6月号(産経)の大月隆寛の山田洋次批判あるいは山田洋次への皮肉はすごいし、たかがブログの一文ではないので、勇気もある。タイトルの一部に何と「今やインテリ左翼の御用監督?」!。また、本文の中には吉永小百合(様)につき、「『戦後』『サヨク/リベラル』のトーテムにおさまっちゃってる、実存なき団塊還暦越えバアさまじゃないのよ」(p.272)だと!
 大月の文章はクセがあることや私が山田洋次について大月ほどの知識がない(寅さん映画以外のものを殆ど知らない)こともあって、内容に逐一共感はできないし理解不能な点もあるが、雰囲気だけは分かる。
 以下、大月から離れるが、寅さん映画のいずれかで義弟の「博」の部屋の本棚に岩波の雑誌「世界」の背表紙が見えたと言っていた知人がいたことはいつぞや書いた。
 映画人・映画関係者の中には、マスコミ人と同等かそれ以上に<左翼>的な者が多いというのは、その途を目指すこと自体が標準的・平均的ではなく<変わっており>、商売のためという側面を持ちつつも<文化・芸術>に関与しているというプライドから<一般大衆とは違う>との自意識が生じるからではないか、とかなり適当ではあるが、推測する。また、映画製作に携わるのは監督・助監督と主演者だけではなく多数の人々から成る組織・グループなので<団結>が必要であり、<労働組合>の力も(「左翼的」に)強くなる、という傾向が少なくともかつてはあったように推測される。
 芦川いづみは1970年代前半には日本共産党選挙パンフに支持者として名前を出していた。山田洋次も同様だった(私は忘れていない)。吉永小百合はそのような<色づけ>をしていなかったが、1960年代の日活労組の影響を受けていただろう。むろん時代的に見て1945年3月東京生まれという世代は「左翼的」になりやすいかもしれない。同じことを再度書くのは気が引けるが、吉永小百合(様)は、広島・長崎に原爆が落とされた(落とした)責任は<ポツダム宣言受諾を遅らせた日本政府にある>とだけ述べ、アメリカを批判することを一切していない。自分が生まれる確か前日の東京大空襲についても情緒的に<戦争反対>・<戦争はイヤだ>の脈絡で語るだけで、一般住民もターゲットにしたアメリカに対する批判的視点はまるでない。<日本(の国家又は当時の政府)が悪いことをしたのだからやむをえない>という、純朴な?歴史観をお持ちのようだ。
 駄文と自覚しつつ続ければ、山田洋次監督の<寅さん>映画は興行的に成功して有名な、歴史に残るシリーズものになったのだが、よく考えると?、不思議な映画のようでもある。映画評論は趣味ではないが、書いてみよう。
 ヒットの原因は、①毎回の如く変わる美女と渥美清という組み合わせの面白さ、②毎回異なる日本各地の街・自然のロケが<ディスカバー・ジャパン>の社会的ムード・雰囲気にも乗ったこと(山口百恵の「いい日旅立ち」はたぶん1970年代半ばだった)、③渥美を含めた出演者の芝居の巧さ、等にある(あまり「大衆」映画を観ない「左翼」系の人々も安心して観れたことも?)。
 だが、けっこういいかげんな映画でもあった。偉大なるマンネリと言われもしたが、シリーズに一貫したストーリーがあったわけではない。40数作めからは吉岡某と後藤久美子の「恋」物語がメーン風になったりして、もっと続けていたら、支離滅裂になっていたのではなかろうか(晩年の渥美はさすがに苦しく、浅丘ルリ子の演技が辛うじて作品を支えていた)。
 ミヤコ蝶々が母親として登場して、いつの間にか消えてしまったのも<けっこういいかげんな>ストーリー作りの顕著な例だった。
 と母親に言及して思うのだが、<寅さん>映画はじつは「家族」を持たない者を主人公とする映画だった。父母は亡くなっている扱いのようであり(ミヤコ蝶々のその後はフォローされていないだろう)、寅次郎は配偶者を持たない(子どももいない)。妹・甥や叔父さん・叔母さんという<近親>との交流は描かれ、<人情>が失われつつあることが却って魅力的にしたと<人情映画>の側面が肯定的に語られているかもしれない。だが、基本は、配偶者なし、子どもなし、両親も(基本的に)なしの、中年独身男の寂しくも<自由な>行動の物語だった。しかも一時的に出てきていた母親(ミヤコ蝶々)は同情的にではなく子を捨てた残忍な女性として描かれていた(と記憶する)。決して<人情映画>ではない、と思う。むしろ主人公の<孤独>(精神的・観念的な自立?)こそが隠されたテーマかも、と感じないでもない。
 香具師としてあれだけ複雑で長いセリフを流暢に語れる能力のある者が書く年賀状の字と文章の下手さの矛盾も指摘できるし、旅道中の屋台・香具師商売で果たしてまともに生活できるのかについてもリアルさはない、といった点もメモ的に指摘はできる。
 ともあれ、実在はしないだろう、独身中年男の<風来坊的>生活が何らかの共感又は関心を惹起して、上記の点が相俟って、多数の観客数を維持し続けた。
 山田洋次は、商売と自らの<信条>の折り合いをつけるのに苦労したのかもしれない。最も近い家族はいない、という主人公像は、何らかの意味をもっていたのだろうか。それとも、ヒットさえし続ければ自分の地位も安定しかつ高まり、結果としては<左派>に寄与できる、と考えていたのだろうか。
 米倉斉加年演じるT大助教授の描き方は<庶民派>=<反権力・反権威>的だったと言えるだろうし、この映画に出てくる背広・ネクタイ姿の者は(一部のタコ社長を除き)、志村喬登場の作品が典型的だったが、「世間」摺れした、むしろ悪いイメージで描かれていた。寅次郎の生き方が<まとも>に見えるかのような、このような<倒錯>は、このシリーズ映画の特徴の一つだっただろう。
 いずれにせよ、<昭和戦後>の何らかの気分を反映したシリーズ映画だったに違いない。後世、どのように評価されるのか。たんに長く続いた(48作まで)、という以上の文化的・映画芸術的意味はあるのかどうか。大月隆寛の文からだいぶ離れた。

0483/映画「靖国」と稲田朋美・朝日新聞・産経新聞・山田洋次ら。

 映画「靖国・Yasukuni」問題は、論点がほとんど明らかになった。
 第一は、この映画製作に対して文科省所管の日本芸術振興会(独立行政法人)から2006年度助成金として750万円が支出されているが、この支出が「公金」支出として、あるいは上記振興会の「助成金」交付基準に照らして適切(妥当)かどうか、だ。
 これについて週刊新潮昨年12/20号が批判的な記事を載せていたので、私は12/26に書いたことは、今でも主張できることだと思っている。
  「日本在住の中国人・李某が映画『靖国』というのを作ったが、この映画、「反日メッセージ」が「露骨なまでに強烈」らしい。しかるに、この映画製作に対して、文科省所管の日本芸術振興会(独立行政法人)から2006年度助成金として750万円が出ているらしい。p.147。
 同振興会は「専門委員会で、助成対象作品として採択され、完成確認でも疑義があったわけではない」等と釈明、又は<開き直り>とのこと。同頁による。
 所謂<審議会の先生方>(専門委員会)にかなりの程度は責任を預けて、振興会職員自身は<逃げて>いる感がする。
 本当に上のような類の映画だったのだとしたら、「助成対象作品として採択」した「専門委員会」のメンバー・委員は誰々だったのかを、きちんと明らかにすべきだし、明らかにしてほしい。/週刊新潮編集部は、この点をさらに<追っかける>つもりはないか?」<引用終わり>
 その後、国会議員等への<試写>、助成対象としたことへの疑問、上映中止<騒ぎ>、国会議員による<表現の自由への圧力>との一部マスコミによる批判、上映中止の取り止め(一部?)等の動きがあった。
 上の<「専門委員会」のメンバー・委員は誰々だったのか>を明らかにした報道はその後あったのだろうか。また、上に書いてはいないが、「専門委員会」のメンバー・委員は、それなりの専門家ならば、助成対象にした理由・根拠を(内部基準の具体的適用のそれも含めて)自ら積極的に語るべきだと思われるが、そのようなことは、あるいはマスコミが積極的に彼らを取材する(そして上のことを質問する)ことはあったのだろうか。文科省や上記振興会だけの取材は楽だろうが、それらだけで十分とは思えない。
 さて、
上にいう国会議員とは主として稲田朋美(自民党)。この人を批判した一部マスコミ(の代表?)はむろん朝日新聞
 月刊WiLL6月号(ワック)には相変わらず言及・紹介したい論稿が多くあるが、稲田朋美「映画『靖国』騒動/朝日新聞のダブル・スタンダード」(p.102~)をまず話題にしてみる。
 これの全体を紹介はしない。とくに印象に残ったのは(全てが初めて知ることでもないが)次の二点だ。
 ① 朝日新聞の石川智也(記者)が書いたと見られる3/09及び3/29の記事の一部には「虚報」=「捏造」があると思われるが(その根拠は稲田朋美の方を信頼して間違いないだろうと思っているから)、朝日新聞は4/11に稲田あて書面で「記事内容に訂正すべき誤りはないと判断しております」と返答した、ということ。
 朝日新聞の厚顔・腐敗ぶりを示す一例がまた増えた、と考えられる。稲田朋美(弁護士でもある)は、時間的余裕があるなら、朝日新聞に名誉毀損・損害賠償請求訴訟を起こしたらどうだろう。
 ② 朝日新聞の記事をきっかけに、稲田の表現によれば「萬犬虚にほえる」状態になったこと。稲田によれば、朝日新聞(等?)の「歪曲」報道・論調を信じての?稲田を「名指しした」抗議文・声明等が多数送られてきた。列挙されている、悪い意味で錚錚たる団体名の多さに驚いた(()は委員長名)。以下のとおりだが、一つだけ省略している。
 映画演劇労働組合連合会(高橋邦夫)、映画人九条の会、日本マスコミ文化情報労働会議、日本ジャーナリスト会議、日本新聞労働組合連合(嵯峨仁朗)、日本民間放送労働組合連合会(碓氷和哉)、日本出版労働組合連合会(津田清)、日本共産党福井県委員会
 これだけの団体から抗議文・声明を送られると、当然に心理的<圧力>になる。「表現の自由の名をかりて、私の政治活動の自由、言論活動の自由を制約しようとしているとしか思えない」と稲田が書くのもよく解る。
 それにしても、<映画演劇・映画人・マスコミ・ジャーナリスト・新聞・民間放送・出版>という名をそれぞれ冠した労働組合(連合会)等は、朝日新聞の記事のあとおそらくはすみやかに朝日新聞の記事を鵜呑みにしておそらくは類似の内容の抗議文を送ってきたのだろう。これら<表現・マスコミ>等の労働組合等が完全に「左翼」に牛耳られてしまっていることが、この列挙でもよく判る。そして、何とも怖ろしい状況だと思う。こうした組織に属している者たちが、映画・テレビ番組・新聞等を作成・製作しているのだ。唖然とし、恐怖に駆られる。
 なお、「映画人九条の会」は労働組合ではない。九条護持論者はこういう問題にも口を出してきているのだ、と教えられた。この会については、昨年6/12の以下を参照→ http://akiz-e.iza.ne.jp/blog/entry/194586/  
 呼びかけ人のうち私の知っている(又はたぶん聞いたことのある)名前は、山田洋次、小山内美江子、黒木和雄、山内久ら。
 映画「靖国・Yasukuni」問題の第二の論点は、この映画自体の作品としての評価だ。産経新聞4/25の上坂冬子「正論」欄や月刊WiLL6月号の水島総「映画『靖国』の巧妙なマスメディア利用」(p.134~9)等々によっておおよそのことは(自分が)観なくても分かる。製作過程・作り方自体にも看過できない問題があったようだが、評価は主観的でありうるので、この問題にはとりあえず立ち入らないでおこう。
 なお、稲田朋美自身の産経「正論」欄への寄稿、産経のこの問題の社説等々、産経新聞によってこの映画問題のおおよそはフォローしている(逐一この欄で取り上げては来なかったが)。もっとも、中国人も絡んで、精神衛生に悪い、溜め息をつきたくなる、本当は触れたくない話題だ。また、月刊WiLL6月号の本郷美則「今月の朝日新聞」によると、上に登場してきた日本新聞労働組合連合(「新聞労連」)は、朝日新聞の「新聞と戦争」シリーズと沖縄タイムス・琉球新報の「集団自決」関係「教科書報道」に<ジャーナリスト大賞>を贈った、とか(p.143)。上記の水島総の論稿の中に写真掲載されている朝日新聞紙上の映画「靖国」の全面広告(p.137)とともに、全くうんざりするね。

0399/福田和也における映画「ラスト、コーション」。

 福田和也週刊新潮2/14号で、映画「ラスト、コーション」を、この邦題のつけ方を除いて、<絶賛>している。
 麻雀のシーンはたしかに感心したが、それほどの映画かと思う。史実を福田ほど知らないためかもしれないが、日本軍や日本人の描き方はやはり大陸中国人のものだと思うし、「良質な政治サスペンスとして見るべき」というにしては性的シーンが多すぎ、<政治と性>をテーマとした、というとすると、福田と違って、女性主人公「タン・ウェイの魅力」はそれほどでもないと感じた。この女性には役柄に応じた若さ・瑞々しさが足りない、と思えるが、この最後の点は、個人的・主観的レベルの感想の相違かもしれない。
 福田コラムは、半分をストーリーの紹介に費やしている。他の連載ものを多くかかえた福田が、適当に(あるいはエネルギーの程度を落として)書いたものでなければいいが。

0393/映画「母べぇ」の製作意図は?

 山田洋次監督・吉永小百合主演の映画「母べぇ」というのが上映されている(らしい)。
 読売新聞1/24の全面広告欄で、原作者・野上照代はこう語る(一部)。
 <今も世界には「暴力による支配」に苦しむ多数の人々がいる。日本で「も」、「戦争の怖さ、悲惨さ、残酷さを語り継ぐ体験者」が減り、「戦争を知らない世代がほとんど」。戦争の時代は「すっかり過去の遺物」となりつつある。「しかし、…ああいう時代がいつまた来るかわかりません」。「暴力」は「本当に恐ろしく、私の父のように戦争反対を唱える人はまれで、…。だから、ひたひたと恐ろしい時代が忍び寄っていたとしても気付かず悲惨な歴史がまた繰り返されるのではないかという不安があるのです」。>
 かかる発言は一体何だろう。どこかで何回も聞いたことがある、<二度と繰り返すな、警戒しないとまたあの時代が>という<狼少年>的な教条「迷い言」そのままではないか。
 「ああいう時代がいつまた来るかわかりません」などと言っているが、「ああいう時代」は絶対に二度とやって来ない、と私は考えている。まるで現在が「ひたひたと恐ろしい時代が忍び寄っていたとしても気付かず…」という時代であるかの如き発言もしているが、じつに幼稚な、日教組等がかつてよく言っていたような、情緒的な<戦後左翼>の言葉そっくりではないか。
 吉永小百合も「ひとりの日本人として『母べぇ』の時代のことは忘れてはならないとの思いを胸に、心を込めて」演じた、と語る。
 山田洋次もいわく、「軍国主義の時代…」、「表現の自由が認められない、辛く厳しく、重苦しい時代でした…」、「こうした時代の記憶…作品として次世代に残していくのが使命…」等々。
 戦時中に「思想犯」として投獄されていた者の家族(吉永小百合ら)をその妻(子の母)を中心に描く、表向きは、またたぶんかなりの程度は<ヒューマニズム溢れた>映画なのだろうが、しかし、上の言葉等からすると、<戦争反対>の「思想犯」を英雄視し、又は英雄とまではいかなくとも真っ当な立派な人物として描き、日本「軍国主義」を批判する<反戦>映画であることは間違いないだろう。
 逮捕・投獄されるほどの当時の「思想犯」とは、コミュニスト(マルクス主義者)あるいは親コミュニズム者(親マルクス主義者)である可能性も高い。少なくとも、日本の戦勝を喜びはしなかったと思われる「国民」で、戦後初期、例えば占領中の人物評価基準と同じ価値基準を今日でも用いるのは適切ではないだろう。
 また、言うまでもなく、山田洋次も吉永小百合も「九条の会」(現憲法九条の改正に反対するグループ)の有力な賛同者であって、たんなる監督・女優あるいは文化人ではない。
 <ヒューマニズム溢れた>映画に反対するつもりはないが、しかし、野上照代が「暴力による支配に苦しめられている人々がたくさんいます」などと言うのならば、山田洋次監督・吉永小百合主演で、例えば、北朝鮮、中国、チベット、かつてのカンボジア、ソ連等々の「表現の自由」のない人々と関係のある日本人を主人公とする映画を作ってほしいものだ。北朝鮮については、その「暴力」のれっきとした被害者が現に日本にいるではないか。
 なぜ山田洋次は、<めぐみさん>又はその両親を描く映画を作ろうとしないのか?
 現・旧の<社会主義国>の「暴力」や「弾圧」には目が向かず、日本「軍国主義」を結局は(間接的にせよ)糾弾する映画作りには熱心になるという山田洋次は、そして吉永小百合も、やはり、私に言わせれば、<ふつうじゃない>。
 なお、産経新聞1/30は、広告記事ではなく一般のインタビュー記事として野上照代に語らせている。この映画の上映収益の増大に一役買っていることになる。読売の広告欄のような言葉を野上は(あからさまには)述べていないが、これが野上の<自粛>なのか、記者の判断による取捨選択の結果なのかは分からない。
 ともあれ、映画もまた、<時代の空気>のようなものを作っていく。1970年代には、「容共的」作家・五味川純平原作の、日本の財界人を「悪徳」者視し、中国共産党員をヒロイックに描いていた、山本薩夫監督の『戦争と人間』全三部という大作映画もあった(吉永小百合も山本学・圭らとともに出演)。「母べぇ」を観る気はないが、<政治>的匂いのある映画には(良かれ悪しかれ)関心を向けておくべきだろう。

0218/映画人九条の会というのもある。山田洋次は呼びかけ人。

 映画人九条の会というのもある。2004年10月20日に発せられた「結成と参加」の呼びかけ人は、次の11人だった(あいうえお順)。
 大澤豊(映画監督)、小山内美江子(脚本家)、黒木和雄(映画監督)、神山征二郎(映画監督)、高畑勲(アニメーション映画監督)、高村倉太郎(日本映画撮影監督協会名誉会長)、羽田澄子(記録映画作家)、降旗康男(映画監督)、掘北昌子(日本映画・テレビスクリプター協会理事長)、山内久(脚本家・日本シナリオ作家協会理事長)、山田和夫(日本映画復興会議代表委員)、山田洋次(映画監督)。
 山田洋次とは言わずと知れた男はつらいよ(寅さん)シリーズの監督だ。一般には知られていないかもしれないが、1970年代から日本共産党の支持者として選挙パンフ等に名前を出していた。党員である可能性もある、と私は思っている。
 妹・さくらの夫の博の本棚に雑誌・世界(岩波)が挟まっていたことを目敏く見つけた知人もいた。
 映画自体は私は嫌いではなく、日本的家族関係や「地方」の風景は残すに値するものがある。
 しかし、監督が日本共産党支持者だということを知って観ると、本当は「寅さん」がまともで、スーツ姿の世俗的にはふつうの筈の人びとが異常だとして嘲笑・冷笑又は皮肉の対象としているかのごとき部分が少なくとも一部にはあるのは間違いなく、その限りではある種の<倒錯>のあることは否定できない、と感じる。
 角川から出ている世界シネマ全集(映画DVD枚つき)のうち12巻・山田洋次監督セルフセレクションだけは購入しなかったのは、同監督に対する不信があるからだ。
 男はつらいよ(寅さん)にしても他の作品にしてもその人気は俳優(役者)の個性によるところが大きいだろう。加えて、「左翼」シンパの人達が大衆的に動員した可能性も否定できない。
 映画人九条の会のサイトには多数の賛同者の氏名も掲載されている(俳優等の映画出演者はたぶんおらず、ここではコピーしない)。
 詳しくは知らないが、もともと、映画人という<表現人>・<文化人>そして自己認識としての<自由人>は、杉村春子・滝沢修らの演劇運動等と同様に、「左翼」的で<反権力的>な体質をもってはいるのだろう。

 
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