秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

読書メモ

ブレジンスキー: Out of Control(1993)の一部を読む02。

 一 スターリン時代の戦争捕虜の処遇についての「恐るべき記録」にも、言及がある。
 スターリン時代のソ連のドイツ人戦争捕虜は35万7000人が死亡した、日本、ルーマニア、フィンランド、イタリアの戦争捕虜「数万人」の生命も奪われた。ボーランド人戦争捕虜のうち14万人が生きて帰れなかった。全部で「100万人近くの捕虜が死亡した」(p.22)。
 ミンスクの近くにある埋葬場所から1980年代後半に「20万体」の骨が掘り起こされた。よく知られるようになつたのは、1939年にソ連がポ-ランドを占領したあとのポーランド人捕虜についてだ。
ポーランド人将校14,736名が三つの収容所におり、同政治犯10,685名が刑務所にいたが、処理案の文書を示されたスターリンは「書記長」のサインをして了解した。文書(1940.03.05)には、「出頭は求めず、起訴状を見せることなく終わらせる。/「特別な措置によって解決することとし、最高刑を適用する。銃殺。」等と記されていた。ポーランド人は元将校・官吏・工場所有者・憲兵等々で、帰国後にはポーランドの再建にとって重要な人物たちも含まれていた(p.23-24)。
 約2万5000人の被殺戮者の遺体は埋められて、のちに発掘された場所が<カティンの森>だったことから、<カティンの森虐殺事件>と呼ばれるようになった、上に出てくるのは、それにかかわる指令文書のことかもしれない。しかし、ブレジンスキーは「カティン」と明記していないので、はっきりしない。
<カティン事件>についていうと、当初はスターリン・ソ連政府はドイツ・ヒトラー軍によるものとして否定し続け、第二次大戦後になって初めてソ連政府・軍が関与したことを認めた。
 将来の国家(ポーランド)の幹部になる可能性があるものを2万人以上殺害してその芽を<あらかじめ>摘み取っておくとは、想像し難い発想だ。
二 岩波講座・世界歴史23-アジアとヨーロッパ(岩波、1999)はロシア・ソ連に関する独立の論考を含んでいないが、概論である山内昌之「アジアとヨーロッパ-日本からの視覚-」(p.3~)は、冒頭で上に見たブレジンスキー: OUT OF CONTROLを注記しつつ、つぎのように言う。
 「…、革命の残忍さとテロルの普及、ファシズムと共産主義が生み出した人間無視などは、…20世紀につきまとった。ソビエト社会主義のもとにおける厳しい飢饉や大量テロル、ナチズムのユダヤ人ホロコーストなどに象徴されるように、人間の生命が鴻毛のように軽く扱われたのは驚くほかない。…『大量死(メガデス)』というコンセプトで計算するなら、今世紀の大量死者数は1億8700万人ということになる」。
 この数字は、ブレジンスキーが挙げていた数度と同じ。山内はこれにもとづき、つぎのように書く。
 「それは1900年の世界人口の10人あたり1人以上に相当する」。
 1914年-1945年までの戦争、共産主義国内・ファシズム国内およびその後の東欧(東独を含む)・中国・北朝鮮等々によって、20世紀は人口の10分の1を失った。これはまた、彼らが将来に生む可能性のあった人間が生まれなかったことも意味する。
 これらに愕然とする「感性」をもたなければならない。
 歴史に関する学者・研究者でも、<怒るべきときは怒る>、<涙すべときは涙する>という人間的「感性」を率直に示して、何ら問題がないはずだ。

「二項対立」思考や「言葉・観念」思考。

 読書メモと関連つぶやき。
 1.仲正昌樹・知識だけのあるバカになるな!(大和書房、2008)のp.77-142、第2章「今の日本で大勢を占めている『二項対立』思考の愚について」。
 現在の月刊正論編集部と渡部昇一はいちど読んでみた方がよいと思う。この「二項対立」思考は、2.で言及している「言葉・観念依存」思考とも関係があるだろう。
 日本共産党や日本の「左翼」は当面敵視する対象を安倍晋三内閣に置いているようであり、何があっても安倍晋三の言動を褒め称えることはない。閣議決定された安倍70年談話が村山談話を継承するものであっても、その点を褒めることはなく、付随する別の部分の文章にケチをつける。
 最近はさらに、安倍内閣の背後にある悪の巣窟を「日本会議」に見ているようだ。青木理の本も読んだが、ワッハッハ、という感じ。彼らが畏怖し恐れるような「保守」団体が本当に現存するとすれば、何と頼もしく、愉快なことだろう。
 日本会議、青木理等の本や、日本会議の代表、社会民主主義者に対する好感をも述べていた田久保忠衛について、いずれ書かなければならない。のんびりと神社参拝について書いたりしているように見えるかもしれないが、秋月瑛二は神社組織や神社本庁、あるいは「神道」・神社の現状について、知らないわけではない。
 元に戻る。敵を「保守」または「右翼」勢力、あるいは「ファシズム」・「軍国主義」に見て「たたかう」つもりの二項対立的な「左翼」に対して、彼らとは逆に「保守」政権だとする安倍政権を「味方」だとして擁護するだけでは、同じ土俵に立って<二項対立>思考の愚を冒しているだけだろう(安倍政権、現在の自民党は「保守」かという問題も厳密にはあるが立ち入らない)。
 彼ら「左翼」よりは、冷静で多面的な思考をしなければならない。
 いや、ある意味では、彼らは表向きは「冷静で多面的な」、そして「客観的な」論述をしていると見える場合がある。とりわけ、現在の人文社会系<アカデミズム>を基本的には牛耳っているかもしれない「左翼」学者・論者たちは、少なくとも渡部昇一やその他の一部の<観念的・原理主義的な保守派>学者・論者よりは、表向きは概念・論理がしっかりしていて<知的刺激>には溢れていることがある。もちろん、一読してすぐに、あるいは容易に、観念的・教条的な「左翼」学者・論者だと分かる場合もあるが。
 このブログサイトは「反日本共産党・反共産主義」を掲げており(8/08頃に「反朝日新聞・反日本共産党」から改めた)、日本の「保守」派を論難するのが主目的のものでは全くない。にもかかわらず「(自称・表向き)保守」を批判したい気になることがあるのは、そんな文章・論理、こんな雑誌であれば、ほとんど<左翼>に勝てないだろう、<左翼>にバカにされるだろうと、と警告し、嘆きたいからだ。
 2.三宅正樹・スターリンの対日情報工作(平凡社新書、2010)のp.7-55、はじめにと第1章「クリヴィツキーの諜報活動」。
 レーニン関係文献は(可能な範囲で)ほぼ入手し、一読はした(しかし記憶にすべて残しているわけではない)と思っているので、ようやく、気になっていたこの本を読み始めることができた。よくよく考えれば、レーニンやソ連・共産主義と相当に関係がある本なのだった。共産主義とファシズム(とくにヒトラー・ナツィズム)の「近接」の現実にも関係がある。すなわち、1939年8月の独ソ不可侵条約。
 キーロフも、クリヴィツキーも、スターリンの指示によって「暗殺」された、との説がある。
 独ソ関係や「暗殺」から離れて、すさまじいと感じるのは共産主義者による諜報活動、そしてデマゴギー、プロパガンダだ。
 1945年にソ連が日本に参戦するまで、対米交渉の「あっせん(・協力)」を日本政府はソ連に求めていたというのだから、そのソ連「無知」、諜報戦の敗北ぶりは、何とも嘆かわしい。嘆かわしいというより、日本の悲痛な過去だ。そうしたこともまた、ゾルゲや尾崎秀実らの跳梁を許した共産主義またはソ連「幻想」の強さと強い関係があるのだろう。
 さらに離れて、<プロパガンダ>に関連して、「言葉」というものについて考える。あたりまえのことを、改めて確認したくなる。
 言葉・概念またはそれらを使った論理(・命題)には大きくは二種あるだろう。すなわち、事実・現実を意味・叙述するものと、こうだろう又はこうあるべきだということを意味させ、叙述するもの。
 要するにsein とsollen の区別なのかもしれないが、最低限度、この区別・違いくらいは知って文章を読み、言葉を理解・解釈しなければならない。
 日本共産党綱領が現在の状況を変えようとして書いてある諸基本政策や将来展望は、言うまでもなく上の後者の世界のもので、実際にそうなるかは(将来展望については実際にそうなる「はず」だ、と日本共産党は「主張」するのかもしれないが)分からない。この党の当面の諸政策も、「自由と民主主義」の宣言も、実際にそれらの内容が実現されるかは、さらにはこの政党が実際に実現するように努力するかは、彼らが実際に「権力」を掌握してみなければ、分からない。
 かつての歴史的宣言文書類にも、そのようなものが多くある。<十七条の憲法>や<五箇条の御誓文>を見て、それらの内容が当時の現実を表現するの、その内容が現実に存在したと理解する日本人はおそらくいないだろう。
 フランス革命時の<人権宣言>も同じ。また、制定して施行されれば少しは法規範としての意味をもち現実に対して作用した(つまり現実化した)といえるかもしれないが、制定されても施行されなかった<フランス1793年憲法>も同じ。
 これらがまるで現実化されたかのごとく理解するのはもちろん誤りだが、また、表面の言葉・文章だけで<理念・理想が素晴らしい>と感激してしまうのは、井沢元彦のいう「言霊主義」あるいは言葉・概念・(言葉による)命題によって歴史を評価してしまう、致命的な、認識の誤りに陥ってしまう可能性がある。
 ロシア10月革命後、1918年の「勤労被搾取人民の権利宣言」も同じ。また、その直後の憲法上の文言をもってロシア・ソ連は<男女平等>や<生存権(保障)> の方向に向かう世界史上の大きな役割を果たした、とか日本共産党・不破哲三や党員又は「左翼」の学者がほざいていることがあるが、これまたロシア・旧ソ連の「事実」を無視し、「言葉」にだけほとんど着目した空論にすぎない。
 憲法と現実の乖離は日本についても言われることがある。しかし、社会主義・共産主義国の「憲法」がほとんど<建前>または表向き・外国向けのフロパガンダ文書にすぎないことは、典型的には現在の北朝鮮に、相当程度に中国(共産チャイナ)についてあてはまることを見ても明らかだ。
 日本人のかなりは<言葉>というものに弱い。<ふつうの人はウソをつかない、又はウソつきは悪いことだ> という感覚を相当にもった<お人好し>の傾向がある。
 たしかに個別の国民間等の契約文書は、将来の行為の約束にすぎないが、国家・裁判所によって履行が(暴力=実力的にでも)強制されている、とふつうは言える。
 しかし、現在でも、国家間の約束事(条約等)には暴力・実力による担保は、建前はともあれ、実質的にはほとんど存在していない。現在についてすらそうなのだから、過去の、歴史上の「宣言」・「条約」類が実態をおよび「真意」を示しているわけでは全くないわけだ。第一次大戦後の多数の条約・協定・宣言類についても、注意深く、拘束力の程度や各国の「真意」を見定める必要がある。表向きの<美辞麗句>に騙されてはいけない(<民主主義対ファシズム>という図式も、この時期の「言葉」に由来した、幻惑させるものである可能性が高い)。
 少し戻ると、言葉・観念を弄ぶ、一見深遠で優れていそうにみえるが、じつは訳の分からない空虚な議論は、やはり「左翼」に多いようだ。
 「民主主義」とか「人権」とか「平和」とか(あるいは「戦後民主主義」とか)、そのような言葉それ自体が何か価値があり実態を伴っているかのごとき<感覚>・<幻想>に嵌まって、観念の上だけでの議論・主張をしている文章をたくさん見てきた。
 本当の「保守」派は、その「保守」という言葉自体は別の語でもよいが、観念の上だけでの、または相当にそれに傾斜した、議論・主張をしてはならない、と思っている。 言葉・概念の必要性・有用性を、むろん一般に否定しているわけではない。それらの作成・使用はある程度不可避なのではあるが。

共産主義・全体主義…、トラヴェルソ・平凡社新書。

 日本共産党関係の文献は100冊近く、同党と無関係ではないがレーニン、ロシア革命、共産主義等々に関する文献は間違いなく100冊以上、この一年間に入手した。
 かつては購入・入手図書のリストをパソコン内に記録していたのだが-二重購入の回避のためにも-、その習慣を失ったので、上の大きな二分野だけでも、所持文献リストをこの欄に残しておこうかとも思っていた。但し、これも入力の手間が大変だ。
 このようにとりあえずの大関心であるレーニン/スターリン関係文献だけでも多数にのぼり、スターリンから過ったという日本共産党の大ウソ、可哀想なほどに貧弱で皮相的な謬論という結論はとっくにはっきりしていても、日本・外国の文献にこれまでいちいちこの欄で言及しているわけではない。
 フュレとノルテの本を和訳したりしているのも、リチャード・パイプスに言及したりしているのも、もともとは<共産主義>への関心にもとづく付随的なものだ。
 したがって、以下の叙述もたまたま新たに手にとってみた本に興味を惹いたというだけのことで、このレベルの本は(日本共産党・レーニン関連でも早く紹介・言及したいのだが)他にも少なからずある。
 9/06に初めて、エンツォ・トラヴェルソ(柱本元彦訳)・全体主義(平凡社新書、2010/原著2002)を一瞥した。
 平凡社新書というだけで少しは抵抗があったのだろう。また、このイタリア人歴史家は、感覚的な印象では「左翼」的だ。
 だが、そのような学者ですら、「共産主義」をいかなる意味でも擁護しようとはしていない。反・反共主義者ではない。これが第一点。
 最後の方に目を通しただけだが、この書の結論は「全体主義」概念を安易に用いるな、ボルシェヴィズム・共産主義とファシズム・ナチズムの違いをわきまえよ、ということだろう。
 これはこれでよく分かる。重要なことは、「全体主義」という、この著者が強調するように、曖昧な概念で括られることがあるような、上の両者の共通性・類似性を、この著者もまた否定はしていないことだ。これが第二点め。
 なお、「ボルシェヴィズム」と「共産主義」、「ファシズム」と「ナチズム」は、それぞれ厳密に区別されていない、と見られる。前者について「スターリニズム」という概念も用いられているが、それが(日本共産党・不破哲三らが期待するように ?)レーニンを排除するものではないことは読んでいて明らかだ。
 なお、上の著から離れるが、ハンナ・アレントの著において「全体主義」とはほとんどナチズムと「スターリニズム」の両者を意味させている、と見られる(すでに一読しているし、原著もドイツ語版と英語版の二つ持っている。確認しないが、communism ではなくstalinismという語が使われているはずだ)。だが、彼女にとって現実的だったのはヒトラー・ナチズムと「スターリン」だったからだと見られ、レーニンを「スターリニズム」と無縁なものと理解しているわけではないはずだ。 
 第三に、フュレとノルテに論及がある。
 フランソワ・フュレは「自由主義の大歴史家」とされ(p.160)、その大著「幻想の過去(終わり)」への言及と一部引用等がある。
 エルンスト・ノルテは「ドイツの保守的歴史家」とされ、「1917年のロシア革命にはじまる圧政の時代の内に全体主義を位置づける「歴史的・発生学的」解釈」を提案する、とされる(p.177)。
 立ち入った紹介は避けるが、著者はこの二人に全面的に同意しているわけでは、むろんない。フュレとノルテに見解の差違があることも述べている。
 それよりも、フュレとノルテについての欧米( ?)歴史家内での評価が参考にはなる。この秋月の感覚は誤ってはいない、ということだろう。この二人は「共産主義」を正面から論じていることからも明らかなことだが。
 第四に、「左翼的」かもしれないが、トラヴェルソというイタリア人は日本の「左翼」歴史学者に比べれば、はるかに普通の学者だろう。印象に残る文章もある。
 オーウェルの著は「記憶の空虚」を発掘する特殊な機械で「歴史を書き換えようとする全体主義体制が、懸命になって過去を管理する姿」を描いた。
 「歴史学の目的は、閉じた知識の蓄積ではなく、-、現在の指針となるような過去を構築することだ」。以上、p.188-9。
 全体主義、自由主義・リベラリズム、共産主義、民主主義等の観念・概念の利用には慎重でなければならないところは確かにある。ついでながら、不破哲三は「市場経済を通じて社会主義へ」というとき、「市場経済」という語で何を意味させているだろう。
 それはともかく、「記憶の空虚」を無理やり作られ、「過去を管理」されてはたまらない。それぞれの国民は、みずから「過去を構築」できなければならないだろう。
 日本の歴史に関して、2015年の8月に安倍晋三は、いずれ禍根と災厄が明らかになるだろう「犯罪」的談話を発した、と思っている。それを渡部昇一は「戦後体制を脱却」する名宰相の談話だと評するのだから、ほとんど発狂している。

1136/西尾幹二「私の保守主義観」と中島岳志。

 一 西尾幹二全集第3巻(国書刊行会、2012.07)所収の、「私の保守主義観」(p.45~、初出・1964)を読む。以下は、私なりの要約。
 ・「保守的な生き方というものはあっても、保守主義という特定の理論体系は存在しないし、また存在すべきではない」。
 ・「革新派」の「進歩主義」のごとき、特定の「主義」を、「保守派」は掲げるべきではない。ドグマを奉じた集団形成、イデオロギーによる現実裁断は「保守主義」と言えない。
 ・「未来への明確な見通し」により「世界や歴史を理路整然と説明」するのは「革新派の身上」で、「保守派は革新側に規定されてはじめて、自分が保守派であることを意識する」。
 ・E・バーク以来、「保守主義とはつねにそういうもの」で、彼はフランス革命に「急進的な自由主義の暴走」を見て批判・抵抗した。「革新思想」は「社会主義に衣装をかえていった」が、「保守主義」の本質的あり方に変化はなかった。「保守主義とは、一個の抽象的理論なのではなく、革新側が主張する特定のドグマや世界観に対し、そのつど具体的な状況に応じて提出される懐疑であり、批判であり、警告のことば」なのだ。
 ・「保守と革新」、「反動と進歩」という対立概念は「革新側」が過去の裁断のために作った標語で、「保守派」は関知しない。対立図式により規定するには現実は手に余るものであることを、「保守派」は知っている。
 ・「保守的な生き方・考え方とは、自己についても、世界についても、割り切れないものを割り切ろうとはしない態度、理論より理論の網目からもれたものを尊重する態度」、「楽観的な合理主義に虚偽をかぎつける本能」だ。
 ・「保守派」は「進歩を否定しているのではない」。ただ、「進歩」を最高の価値・究極の目的とする「観念的な未来崇拝」に与しないだけだ。
 ・「保守主義は進歩や改革を否定しているのでは決してない。むしろその逆である」。日本では、「もっとも自覚的であるべきはずの革新主義がもっとも無自覚な偶像崇拝のとりことなり、もっとも近代的であるべきはずの知識階級の意識が、実業の世界に生きる人々にくらべてはるかに遅れているのが現状」だ。
 ・「自由な、現実的な姿勢」で対処することが必要で、それを「保守的」と呼びたい者は呼ぶがよい。肝要なのは「呼称ではなく態度、理論ではなく理論をあつかう主体の姿勢」だ。
 以上、1960年安保騒擾時に見られたような「革新勢力」・知識人の「固定観念と集団陶酔」等への批判等は割愛したが、基本的な内容はこのようなものだ。
 私は「保守」について、思考方法ないし態度ではなく一定の「価値」の選択・選好だと書き、それは今日の日本では<反コミュニズム=反共>だ、という旨を記したことがある。
 かかる考え方は西尾幹二のそれとは異なるようでもある。しかし、西尾は「革新思想」は「急進的自由主義」から「社会主義に衣装をかえていった」という叙述もしているように、「革新派(左翼)」に規定されて意識される、<反革新(反左翼)>としての「保守派」の主張内容は、今日では(今日でも)基本的には<反社会主義=反共>だろう、と思われる。それは(反マルクス主義と当然に同義であるとともに)、反日本共産党でもあり、反中国・反北朝鮮でもある。あるいは、「革新派(左翼)」によって、歴史認識や政策を含む「そのつど具体的な状況に応じて提出される」種々の論点について、「自由な、現実的な姿勢」でもって対決、あるいは反論していくことでもある。
 したがって、西尾の考え方と私のそれが全く乖離している、矛盾しているとは、感じていない。
 二 ところで、中島岳志は某雑誌(表現者)上で「私の保守主義」なるものを語って、中島なりの「保守主義」理解を<理論的・体系的に>提示しようとしているようだ。また、中島岳志は、橋下徹を「保守」ではないと断じるとともに、「保守主義」の立場から演繹した<反原発>の主張も(同じ雑誌上で)しているように理解できる。
 中島岳志は、何らかの「保守主義という特定の理論体系」を前提としているように解される。そして、そのような前提的発想は、そもそも西尾幹二のいう「保守的な考え方」ではないのではないか。
 中島岳志は、月刊・論座2008年10月号(朝日新聞社)で、つぎのように語ってもいる(p.33)。
 ①「保守とは、人間の理性によって社会を進歩させることは不可能だという立場」だ。
 ②「保守主義本来の発想」は、「伝統や慣習、常識、共同性、といった人智を超えた所与のものに依拠する方が、世の中の秩序は安定し、よりましな社会が漸進的に続いていくんだ」、というものだ。
 三 「保守主義」と言わなくとも「保守的な考え方」は「態度」・「姿勢」にある旨を強調する西尾幹二の上の叙述にもいくばくかの疑問はあり、西尾幹二が参照していると見られ、類似点のある福田恆存「私の保守主義観」同・評論集第5巻(麗澤大学出版会、2008、初出・1959)p.126以下に、岩田温・政治とはなにか(総和社、2012)は従わず、一定の内容・価値を「保守」概念に意味させている(とりあえずは詳しくは紹介しない)。
 四 上の点はともあれ、中島岳志の述べる上の①は、<理性による社会の進歩は不可能>とするのが「保守」だ、というもので、これは西尾幹二の理解とも(そして福田恆存の理解とも)異なっている、と思われる。
 西尾幹二において(但し、1964年)、「保守主義は進歩や改革を否定しているのでは決してない。むしろその逆」なのだ。その「進歩や改革」に「人間の理性」は不要だとは言えないだろう。
 中島岳志は、「保守」という「主義」を想定している点で西尾幹二・福田恆存と異なっていると考えられ、また、「保守」の理解が(その態度・心性に着目するとしても)あまりに単純すぎるか、過度に一定の面を強調しすぎている。
 また、中島岳志は上の月刊・論座の座談会の中で「保守」への不満を述べ、(<中国や韓国への感情的反発>に偏った)日本の「保守」を変えようとしたいらしき発言をしてもいるのだが(なお、中島岳志は憲法現九条改正に反対する-p.37)、そのような日本の「保守派」の現状批判と変革について、彼自身がその「理性」を働かせているはずなのだ。
 また、中島岳志は日本の「保守」は「設計主義的」すぎるとも批判しているが、「保守主義」という主義・理論に立って日本の「保守派」や原発問題等についてあれこれと論じること自体も、ある意味では<設計主義的>だと思われる。
 要するに、まともな?「保守派」・「保守主義者」らしく振る舞っているようである中島岳志は、じつは本質的に「保守派」ではない、のではないか。
 こうした疑問または結論は、すでに何度か述べたことがある。

1133/西尾幹二全集第3巻(2012.07)・「進歩的文化人」。

  一 1 西尾幹二全集第3巻・懐疑の精神(国書刊行会、2012.07)のうち、この全集企画がなかったら「永遠に闇の中に消えて」いただろう(p.601)二篇のうちの一つ、「大江健三郎の幻想的な自我」(初出、1969)、のほか、若干を読む。この大江健三郎分析は二段組み計16頁で、決して短くはないし、引用・紹介したくなる同感点も多いが、これ以上の言及は省略する(1969年という時期にも感心する)。
 月報に、「先覚者としての西尾幹二」と題する三浦朱門の文章が載っていて、「今や進歩的文化人という言葉すら、死語になろうとしている。彼らを『殺した』犯人の一人は間違いなく西尾幹二なのである」、と結んでいる。
 やや釈然としない。西尾幹二が「進歩的知識人」と対決してきた(している)論者の一人であることは間違いないだろう。しかし、「進歩的文化人という言葉」はたしかに消滅しつつあるかもしれないが(完全に死語になったとは思えない)、言葉・用語法・概念はどうであれ、これに該当する者たちは、今日でも歴然と生き続けているのではないか。
 「今や…言葉すら、死語になろうとしている」という表現は、「言葉」とともに実体も当然に死につつある、という趣旨に読めるが、かかる認識・判断は、甘すぎるものと思われる。
 コミュニスト・親コミュニズム者、マルクス主義者・親マルクス主義者、そして「左翼」は、執拗に(かつてのマルクス・レーニン主義的用語は用いなくとも)生き続けているだろう。その影響力は、かつてよりも増した、という見方すらできるのではないか
 具体的には例えば、民主党政権、菅直人内閣総理大臣の誕生自体が、「左翼」の体制化、「左翼」の支配を意味していた(意味している)と言いうる。かつての「進歩的文化人」の主張・思想あるいは思考方法は、きちんと継承されていると思われる。
 2 産経新聞8/11の「昭和正論座」は1980年の林三郎論考を掲載しているが、コメント者の「湯」(湯浅博かと思われる)は、「ポーランドがいかに祖国の歴史を否定する勢力と闘ってきたかをみれば、日本の一部新聞や進歩派を名乗る知識人の偽善、欺瞞(ぎまん)を感じるだろう」と述べ、「進歩派を名乗る知識人」を語っている。これは1980年頃の状況に限られた叙述ではないように思われる。
 3 産経新聞7/28の「昭和正論座」は、1982年の、「崩壊した左翼的知識人の論理」を最大見出しとする辻村明論考を掲載している。コメント者の「石」(石井聡かと思われる)は、「朝日新聞の論壇時評を執筆する『進歩的文化人』にも向けられた」、「革命に同調しないものの、革命を志向する左翼学生らには理解を示す、ぬえ的な学者・文化人の“化けの皮”がはがれ始めたころの正論である」と述べている。ここでの「進歩的文化人」・「ぬえ的な学者・文化人」は、1982年当時のそれらだろう。
 二 ところで、上の最後に言及した辻村論考には、気になることもある。
 辻村明は月刊・諸君!(文藝春秋)誌上で当時、「戦後三十五年間にわたって、朝日〔新聞〕の『論壇時評』で活躍した錚々たる進歩的文化人たちを取りあげ、相当に遠慮のない批判を加えた」らしいのだが、それに対して、「論壇時評」を担当していた高畠通敏は、朝日新聞紙上で、辻村は「進歩的文化人」・「左翼的知識人」を批判しているが、「これまでのような社会主義革命を理想と考える文化人の集団などというものは、すでにはるかな昔から存在していないのである」と反論し、その例として、当時の都留重人論考を挙げた、のだという。
 以上は、それはそれで興味深い話だが、高畠の反論?に対する辻村明の再反論は適切ではないように感じられる。
 辻村は都留重人論文そのものを読んでおらず、高畠による紹介によって内容を理解しているようだ。そして、「社会主義革命に夢を託していた時代の都留氏は、確かにそこにはいないが、どうしてそのように変わったのか」、「私が批判したいことは『進歩的文化人』たちが『変わった』ということではなく、『変わった』ことについての論理的な説明がないということ」だ、と指摘して、叙述を終えている。
 都留重人論文そのものを私も読んでいないから確言はできないが、容共・「左翼」の(マルクス主義の影響を戦前のアメリカで受け、戦後当初は木戸幸一らとともにGHQに協力した等々といわれる)都留重人は本当に「変わった」のだっただろうか。まだソビエト連邦が存在していた時期に、「日本の伝統の再評価を求め」る「保守」的知識人に変わったとは、とても想像し難い。
 したがって、批判は、<変わったことについての説明の欠如>にではなく、都留重人らの「進歩的文化人」が、いかに論点を変え、いかに用語法を変えても、あるいはいかに部分的な修正を
加えようとも、本質的には<変わっていなかったこと>に向けられなければならなかったのではないか。あくまで<直感的>な感想にすぎないが。
 三 些細な問題かもしれない。が、ともあれ、上の一と二は関連し合ってはいるだろう。

1125/西尾幹二が「『気分左翼』による『間接的な言論統制』」を語る。

 西尾幹二全集第2巻(国書刊行会、2012)に所収の「『素心』の思想家・福田恆存の哲学」は2004年の福田恆存没後10年記念シンポでの講演が元になっているようで、月刊諸君!2005年2月号(文藝春秋)に発表されている。全集の二段組みで48頁もあるので(p.359-406)、本当に月刊雑誌一回に掲載されたのかと疑いたくなるような長さ・大作だ。
 内容はもちろん福田恆存に関係しているが、西尾幹二の当時の世相の見方等を示していて相当に興味深い。講演からは8年ほど経っているが、今日でもほとんど変わっていないのではないか。
 6頁め(p.364)にある「『気分左翼』による『間接的な言論統制』」という節見出しが、目につく。「間接的な言論統制」には「ソフト・ファシズム」というルビが振られている。「気分左翼」も「間接的な言論統制」も、福田恆存かかつて使った語のようだ。
 なぜ目を惹いたかというと、私は「何となく左翼」という語をこの欄でも使ったことがあるし、田母神俊雄の「日本は侵略国家ではない」論文に対する政府(当時は自民党政権)や<保守>論壇の一部にすらよる冷たい仕打ちに対して<左翼ファシズム>の成立を感じ、この欄でもその旨を書いたからだ。
 「何となく左翼」(意識・自覚はしなくとも「左翼」気分のメディアや人々)による「左翼」的全体主義がかなり形成されているのは間違いないと思われる。
 メディア・世間一般ではなく、特定の学界・学問研究分野では、より牢固たる「ファシズム」、<特定のイデオロギーによる支配>がほぼ成立しているのではないかとすら思われる(日本近現代史学、社会学、教育学、憲法学等)。
 さて、西尾幹二の叙述(福田恆存ではなく西尾自身の文章)を以下に要約的に紹介しておく。
 ・昭和40年の福田恆存「知識人の政治的言動」は「現在ただいまの日本を論じているに等しい」。「今の日本を覆っているのはまさに思想以前の気分左翼、感傷派左翼、左翼リベラリズムと称するもののソフトファシズムのムード」だ。「政府、官公庁、地方自治体、NHK、朝日、毎日、日経、共同通信、民放テレビ等を覆い尽くしているもの」がある。福田恆存にいう「間接的な言論統制」だ(p.366)。
 ・「真綿で首を絞められるような怪しげなマスコミの状況に今われわれ」はいる。それは「平和というタブー」に由来し、「最初はアメリカが日本全土に懸けた呪いであり、やがて革新派が親米的政権に同じ呪いをかけて身動きできなく」なった。これが「今の日本の姿」で、「呪いは全国を覆い尽くして」いる(同上)。
 ・2004年には経済界の一部が首相に靖国参拝中止を言いだし、「共産国家の言いなりになるように資本家が圧力をかけている」。NHKは1992年頃まで「政治的撃論の可能なメディア」だったが、今や「衛生無害」の「間接的な言論統制」機関になっている。文部省はかつては「保守の牙城」だったが、いつしか「次官以下の人事配置においても日教組系に占められ、”薄められたマルクス主義”の牙城」になっている(同上)。
 ・「男女に性差はないなどという非科学的奇論、ジェンダーフリーの妄想が…官僚機構の中枢に潜りこ」み、地方自治体に指令が飛び、「あちこちの地方自治体で、同性愛者、両性具有者を基準に正常な一般市民の権利を制限する」という「椿事」が、「従順な地方自治体の役人の手で次々と条例化されて」いる。「全国的な児童生徒の学力の急速な低落は、過激な性教育と無関係だとはとうてい言えない」だろう(同上)。
 ・「官庁の中心が左翼革命勢力に占領」されるという事態を福田恆存は予言しており、福田が新聞批判を開始した頃から「日本は恐らくだんだんおかしくなり」、福田の予言の「最も不吉な告知が、今日正鵠を射て当たり始めているのではないか」(p.367)。
 以上。もう少し、次回に続けよう。 

1122/西尾幹二全集第2巻(2012.04)のごく一部。

 西尾幹二が福田恆存を追悼して書いた文章の中に以下の部分がある。
 「マルクス主義を一種の身分証明のように利用して、反米・反政府を自明のよう語りながら、しかも日本共産党の過ちをも批判するという当時のどっちつかずの知識人の姿勢は、恐らく今なおリベラルの名で語られる政治潮流とどこかでつながっている。/福田氏が闘った相手はまさにこれである」。
 「現実を動かした強靱な精神―福田恆存氏を悼む」西尾幹二全集第2巻(第三回配本)所収p.299(国書刊行会、2012.04。初出は1994.11)。
 福田恆存の初期の評論「一匹と九十九匹と」に言及して「当時」と言っている。福田のこの評論は1946年(昭和21年)11月に書かれ、翌年3月刊の雑誌に発表されている(福田恆存評論集第一巻所収p.316以下、麗澤大学出版会・2009.09)。
 いつぞや、反自民・非共産で、後者よりの「左翼」が現在の日本の学者・知識人にとってもっとも安全な立ち位置だ、という旨を書いたことがある。
 さすがに現在では「マルクス主義を一種の身分証明のように利用して…」とは言い難く、<反自民・「左翼」ぶりを身分証明のように利用して、かつ日本共産党そのものとも一体化せす(同党に批判的な眼も向けつつ)…>とかに、少しは表現を変える必要があるだろうが、「リベラルの名で語られる政治潮流」の姿は、西尾幹二が上のように書いてから20年近く経っても、さらには福田恆存の「当時」から60年以上経っても、本質的には変わっていないようだ。その点が興味深く、ここに引用する気になった。
 西尾幹二が初めて読んだ福田恆存の評論は「芸術とは何か」で1950年のもの、60年安保騒擾の際に西尾の救いとなったのは福田の「常識に環れ」らしく、これは1960年のものだ(それぞれ、福田恆存評論集第一巻、第七巻に所収)。
 他にも有名な「平和論の進め方についての疑問」(福田恆存評論集第三巻)などに、西尾は言及している。
 読んだことがあるものもある。あらためて、多くの福田恆存論考をじっくりと読みたいものだ。そう思わせる「評論」が今日では少なくなっていると思われる。西尾幹二の書くものもまた、私には一部の内容・主張に不満があるが、数少ない「評論家」であることは間違いないだろう。 

1114/未読の多数の書物に囲まれてBSフジで西部邁を観る。

 〇机・椅子の周囲に現在積まれている書物。順不同。
 ①竹内洋・革新幻想の戦後史(中央公論新社) ②西尾幹二・壁の向うの狂気―東ヨーロッパから北朝鮮へ(恒文社21) ③産経新聞取材班・親と子の日本史 ④船橋洋一・同盟漂流(岩波)、⑤内田樹ほか・橋下主義〔ハシズム〕を許すな!(ビジネス社)、⑥古谷ツネヒラ・フジテレビデモに行ってみた!(青林堂)、⑥b/ケストラー・真昼の闇黒(岩波文庫)、⑦産経新聞論説委員室・社説の大研究(扶桑社)、⑧宮野澄・最後の海軍大将・井上成美、⑨水田洋・社会科学の考え方(講談社現代新書)、⑨佐伯啓思・反・幸福論(新潮新書)、⑩不破哲三・現代前衛党論(新日本出版社)、⑪中島義道・人生に生きる価値はない(新潮文庫)、⑫小林よしのり編・国民の遺書(産経新聞出版)、⑬田母神俊雄=中西輝政・日本国家再建論(日本文芸社)、⑭田母神俊雄・ほんとうは強い日本(PHP新書)、⑮高橋たか子・高橋和巳の思い出(構想社)、⑯月刊正論5月号、⑰月刊WiLL6月号、⑱Japanism第6号、⑲月刊ヴォイス5月号、⑳撃論第4号、21林敏彦・大災害の経済学(PHP新書)、22池田信夫・原発「危険神話」の崩壊(PHP新書)、23佐藤優・はじめての宗教論〔右巻〕(NHK出版)、24ダワー・容赦なき戦争(平凡社)、25中島義道・ヒトラーのウィーン(新潮社)、26秦郁彦・靖国神社の祭神たち(新潮選書)、27杉原誠四郎・日本の神道・仏教と政教分離/増補版(文化書房博文社)、28石平・中国人大虐殺史(ビジネス社)、29坂本多加雄・象徴天皇制度と日本の来歴(都市出版)、30上杉隆・新聞・テレビはなぜ平気で「ウソ」をつくのか(PHP新書)、31石光勝・テレビ局削減論(新潮新書)、32不破哲三・「資本主義の全般的危機」論の系譜と決算(新日本出版社)、等々等々。
 整理し忘れのものもあれば、読むつもりで放っていたものもある。また、多少とも読んで、何がしかの感想・コメントくらいは書けたのに、書けないままになってしまっているものがすこぶる多い(言及しても不十分なままのものも含む)ことにあらためて気づく。
 〇西部邁がBSフジ(プライムニュース)の憲法特集の中で喋って(喚いて?)いた。年齢にしては頭の回転は速そうだし、間違ったことを語っているわけでもないように見えた。
 橋下徹をどう思うか旨の問いに、大した関心はないとしてまともに答えていなかったのが、興味深かった。西部邁は週刊現代3/17号(講談社)でも、橋下徹の政策論に批判的に言及してはいるが、<西部邁・佐伯啓思グループ>の総帥?のわりには、中島岳志、藤井聡、東口暁、佐伯啓思のような、「決めつけ」的な警戒論・批判論を展開してはいない。
 そのことともに、上の週刊誌の末尾には「あの世のほうがよほどに真っ当そうだ」との老人?の言葉があるが、自分の言いたいことをいうが、自分の言うようにはならないだろう、自分の主張を大勢は理解できないだろう、という日本の現実についての<諦念>または<ニヒル>な気分が濃厚であることも印象的だった。
 そのような末世的気分からは、自らの発言の優先順位に関する思考、現在の日本の状況(政治・論壇・国民意識等)を動かすことのできる重要なテーマは何で、些細な論点は何か、という戦略的な?判断は抜け落ちてしまうのではなかろうか。
 視聴者大衆への具体的な影響への配慮よりも、とにかく自分が正しい(または適切だ)と考えることを喋りまくるのでは、却って、何が言いたいのかが不鮮明になるおそれなきにしもあらずだ。
 西部邁とともに、私もまた、多分に、ニヒリスティックな気分なのだが、私とは異なり著名な<自称保守派>論客には、戦略・戦術も配慮した発言や論考を期待したいものだ。

1081/2012年になって一部読んだ書物等。

 感想等をすべて文章にする時間的余裕がないが、今年に入ってから入手(・購入)して全部または一部を読んだものは、この欄にすでに記載のほか、以下のとおり。
 論考類を除いて、全読了の単行本はない。しかし、手にした書物は少なくとも数ページは読んでしまうものなので、以下には、ぞれらも含まれる。かりに一瞥しても印象に残っていないものもあるが、以下には含めない。
 西尾幹二・個人全集第一巻(第二回配本)・ヨーロッパの個人主義(国書刊行会、2012)…第一回配本も既購入…、西尾幹二・壁の向うの狂気―東ヨーロッパから北朝鮮(2003、恒文社21)、西尾幹二「女性宮家と雅子妃問題」月刊WiLL3月号(ワック)、山際澄夫「金正日死去を”悼む”懲りないマスコミ」同上、竹内洋・革新幻想の戦後史(中央公論社、2011)…ようやく本格的に読み始めて第一章は済み…、秦郁彦・靖国神社の祭神たち(新潮選書、2010)…「B・C級戦犯」処刑死者の多くも靖国神社に祭祀されていることを確認…、ペマ・ギャルポ・最終目標は天皇の処刑―中国「日本解放工作」の恐るべき全貌(飛鳥新社、2012)…「中国」ものはたいていは想像しうる中身なので敢えて入手しないがこれだけは…、大阪の地方自治を考える会・「仮面の騎士」橋下徹(講談社!、2011)、政教分離を正す会(大原康男)・新実例に学ぶ「政教分離」―こんなことまで憲法違反?(展転社、2011)、石平・中国大虐殺史―なぜ中国人は人殺しが好きなのか(ビジネス社、2007)、ウッダード・天皇と神道―GHQの宗教政策(サイマル出版会、1988)、シャピロ・民主主義論の現在(慶應大学出版会、2010)、佐伯啓思・反・幸福論(新潮新書、2011)、西部邁=佐伯啓思編・危機の思想(NT化出版、2011.08)、山村明義・神道と日本人(新潮社、2011)、佐藤優・はじめての宗教論・右巻(NHKの出版、2009)、佐伯啓思「開国と維新の精神」新潮45/2月号、林俊彦・大災害の経済学(PHP新書、2011)、井上寛司・神道の虚像と実像(講談社現代新書、2011)。
 他にもありそうだが、探す手間を省く。月刊正論(産経)の最新号も所持しているが、残念ながら又は申し訳なくも、きちんと読んでいない。これ、という重要論考がない。但し、所功の論考はきちんと読んでおく必要があるだろう。

1001/読書メモ-2011年3月。

 〇先月下旬に竹田恒泰・日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか(PHP新書、2011)を読み了えているが、第一に、それぞれの「人気がある」理由を近年の(あるいは戦後の)日本は失ってきているのではないか、との旨の指摘の方をむしろ深刻に受けとめる必要があるかもしれない。

 第二に、最後(巻末対談)の北野武との対談で、北野武は、テレビではあまり感じないが、明確に<反左翼>・<ナショナリスト>であることが分かる。
 〇池田信夫・ハイエク―知識社会の自由主義(PHP新書、2008)を、今月中の、これに言及した日以降のいずれかに、全読了。一冊の新書でこれだけの内容を書けるというのは、池田はかなりの知識・素養と能力をもつ人だと感じる。ハイエク「自由主義」とインターネット社会を関連づけて論じているのも興味深い。本文最後の文章は-「われわれはハイエクほど素朴に自生的秩序の勝利を信じることはできないが、おそらくそれが成立するよう努力する以外に選択肢はないだろう」(p.200)。

 また、池田によると、例えば、ハイエクは英国の労働党よりは保守党に「近い」が、既得権擁護傾向の強い保守党に「必ずしも賛成していない」。むしろ保守党の「ナショナリズム的なバイアス」には批判的だった、という(かなり簡潔化。p.103)。こういった関心を惹く指摘は随所にある。

 〇中川八洋・国が亡びる―教育・家族・国家の自壊(徳間書店、1997)を先日に全読了。220頁余のこの本は、日本の亡国を憂う<保守派>の必読文献ではないか。

 「男女対等(…共同参画)」とか「地方分権」とか、一見反対しづらいようなスローガン・主張の中に、<左翼>あるいは<共産主義(・社会主義)>イデオロギーは紛れ込んでいる、そして日本の(自称)<保守派>のすべてがこのことを認識しているわけではない、という旨の指摘は重要だろう。

 思想・精神・徳性の堕落・劣化・弱体化もさることながら、「想定を超える」大震災に遭遇すると、日本は<物理的・自然的>にも<自壊>してしまうのではないか、とすら感じて恐れてしまうのだが…。
 〇高山正之・日本人の目を覚ます痛快35章(テーミス、2010)をかなり読む。月刊テーミスでの連載をテーマ別に再構成してまとめたもの。

 第一章・日本を貶める朝日新聞の報道姿勢
 第二章・大江健三郎朝日新聞の奇妙な連携
 第三章・卑屈で浅薄な大学教授を叩き出せ
 第四章・米国には仁義も友情もないと知れ
 第三章の中の一文章(節)のタイトルは「朝日新聞のウケを狙う亡国学者&政治家の罪」(p.109)。
 この部分から列挙されるものに限っての「卑屈で浅薄な大学教授」らは次のとおり。倉石武四郎(東京大学)、船橋洋一(朝日新聞)、後藤乾一(早稲田大学)、青木正児、園部逸夫(元成蹊大学・最高裁判事)、門奈直樹(立教大学)、大江志乃夫、倉沢愛子(慶應大学)、家永三郎、染谷芳秀(慶應大学)、小島朋之(慶應大学)、明日香寿川(東北大学)。

 真否をすべて確認してはいないが、ご存知の教授たちもいる。それはともかく、この章の最後の文章(節)のタイトルは「文科省が任命し続ける『中国擁護』の大学教授―『日本は加害者だ』と朝日新聞のような主張をする外人教授たち」だ。

 この中に「問題は元中国人がそんな名で教授になることを許した文科省にもある」との一文もある。
 少し誤解があるようだ。大学教授の任命権は文科省(・文科大臣)にあるのではない。旧国立大学については最終的・形式的には文科大臣(文部大臣)が任用・昇任の発令をしていたが、それは各大学の、実質的には関係学部の教授会の「決定」にもとづくもので、実際上、文科大臣・文部大臣(文科省・文部省)に任命権があるわけではない。実質的にもそれを認めれば(例えば「内申」を拒否することを文科省側に認めれば)、<大学の自治>(・<学問の自由>)の侵害として大騒ぎになるだろう。

 旧国立大学においてすらそうなのだから(国立大学法人である現国立大学では学長に発令権が移っているはずだ)、私立大学や公立大学の人事(教授採用・昇格等々)について文科省(同大臣)は個別的にはいかなる権限もない。残念ながら?、文科省を批難することはできず、各大学、そして実質的には問題の?教授等が所属する学部(研究科)の教授会(その多数派構成員)をこそが批難されるべきなのだ。

 〇久しぶりに、小林よしのりの本、小林よしのり・本家ゴーマニズム宣言(ワック、2010)を入手して、少し読む。五木寛之・人間の覚悟(新潮新書、2008)も少し読む。いずれについても書いてみたいことはあるが、すでに長くなったので、今回は省略。

0997/中川八洋・国が滅びる(徳間書店、1997)の「教育」篇。

 一 たしか西尾幹二が書いていたところによると、日本の「社会学」は圧倒的にマルクス主義の影響下にあるらしい。歴史学(とくに日本近現代史)も同様と見られるが、「教育学」もまた<左翼>・マルクス主義によって強く支配されていることは、月刊諸君!、月刊正論に<革新幻想の…>を連載している竹内洋によっても指摘されている。戦後当初の東京大学教育学部の「赤い」3Mとかにも論及があったが振りかえらない。狭義の「文学畑」ではない<文学部>分野および<教育学部>分野には(にも?)、広くマルクス主義(とその亜流)は浸透しているわけだ。
 二 中川八洋・国が滅びる―教育・家族・国家の自壊(徳間書店、1997)p.48-によると、日本の「狂った学校教育」は、①「反日」教育、②「人権」教育(「人間の高貴性や道徳」の否定)、③「平等」教育(「勤勉や努力」の否定・「卑しい嫉妬心」の正当化)、を意味する。

 生存・労働権を中核とする「人権」のドグマは人間を「動物視」・「奴隷視」する考えを基底にもち、ロシア革命後にも人間の「ロボット」改造化が処刑の恐怖(テロル)のもとで進められた。さらに、「人権」のドグマは、①地球上の人間を平等に扱うがゆえに「民族固有の歴史・伝統・祖先」をもつことを否定し、②「善悪(正邪)の峻別を原点とする道徳律や自生的な社会規範」を否定する(p.50-52)。

 ①の魔毒は「反日キャンペーン」となり、日本国民ではなく「地球人」・「地球市民」に子供たちを改造しようとする。②の魔毒は「生存」の絶対視を前提として「どんな悪逆な殺人者に対する死刑の制度」も許さず、殺された被害者は「すでに生存していない」ので「人権」の対象から除外される。「人権」派弁護士とは生存する犯罪者に動物的「生存」を享受させようとする「人格破綻者」だ(p.52-53)。

 かかる「教育」論に影響を与えている第一はルソーの、とくに『エミール』だ。日本の教育学部で50年以上もこれを必読文献としている狂気は「日本共産化革命」を目的としている。ルソーは、『社会契約論』により目指した全体主義体制を支える人間を改造人間=ロボットにせんとするマニュアルを示すためにこれを執筆した。ルソーは『人間不平等起源論』に見られるように「動物や未開人」を人間の理想とするので、『エミール』を学んだ教師は生徒を精神の「高貴性」・高い「道徳観」をもたない「動物並み」に降下させる(p.55-59)。

 第二はスペンサーで、その著『教育論』は「人間と動物に共通する」普遍の教育原理を追求し、人間を野生化させる「自然主義・放任主義」を是とし、「道徳律の鍛錬」や「倫理的人間のへ陶冶」を徹底的に排除した(p.59-60)。

 第三は戦後日本教育を攪乱したデューイで、スペンサーの熱烈な継承者、実際の実験者だった。

 これら三大「悪の教育論」を排斥しないと、日本の教育は健全化しない(p.60)。

 以上は、中川八洋の上掲書の「Ⅰ・教育」のごく一部。
 三 八木秀次「骨抜きにされる教育基本法改正」(月刊正論3月号(産経)p.40-41)は安倍内閣時の教育基本法改正にもかかわらず、教育実態は変わらないか却って悪くなっていると嘆いているが、教育「再生」のためには、多数の教師が学んできた戦後日本の「教育学」・「教育」理論そのもの、そしてそれを支えた(中川八洋の指摘が正しいとすれば)ルソー、デューイらの教育「理論」にさかのぼって、批判的に検討する必要もあると強く感じられる。教育基本法という法律の改正程度で「左翼」・「反日」(<「国際」化)教育が死に絶えることはありえない。 

0996/池田信夫・ハイエク-知識社会の自由主義(PHP新書、2008)ほか。

 〇「はじめに」・「はしがき」類だけを読んで読み終わった気になってはいけないのだが、池田信夫・ハイエク-知識社会の自由主義(PHP新書、2008)の「はじめに」にはこうある。

 ハイエクは生涯を通じて、社会主義・新古典派経済学に共通の前提(「合理主義」と「完全な知識」)を攻撃しつづけた。それゆえにハイエクは主流派経済学から「徹底して無視」され、「進歩的知識人」から「反共」・「保守反動」の代名詞として嘲笑されてきた。しかし、死後一五年以上経って、経済学は彼を「再発見」し始めている。……
 ハイエクに関する書物はけっこうたくさん持っていて、全集の一部も所持している。日本の憲法学者のうちでおそらくただ一人「ハイエキアン」と自称する阪本昌成の本を読んだこともある。

 この池田の文章も読んで、あらためてハイエクをしっかりと読んで、その「自由」主義(リベラリズム)・「反共」主義を自らのものにもしたいような気がする。

 池田信夫は、経済学部出身で「文学畑」とは異なる。NHK15年という経歴が玉に傷だが、大学生時代にNHKの本質や現在のヒドさを認識・予想せよというというのも無理で、知識人または評論家としては(つまりは政治的戦略等々に長けた文筆家としてではなく)相対的に信頼が措けそうな気がする。
 〇先日、井沢元彦・逆説の日本史17/江戸成熟編(小学館、2011)を購入、少しは読む。このシリーズは単行本ですべて買い、読んでおり、その他の井沢元彦の本もかなり読んでいる。<隠れ井沢元彦ファン>だ。

 〇だいぶ前に、小田中聡樹・希望としての憲法(花伝社、2004)と同じ著者の裁判員制度批判の本を購入し、少しだけ読む。
 日本共産党員とほぼ見られる刑事法学者(元東北大学)で、「左翼」性のあからさまで単純・幼稚な護憲(九条護持)論と裁判員制度論についてこの欄で論及しようと思っていたが、果たしていない。

0986/中川八洋・民主党大不況(2010)の「附記」を読む③。

 中川八洋・民主党大不況(清流出版、2010)p.351-「附記/たった一人の(日本人)保守主義者として」の引用・抜粋-その3、p.359~p.365-。
 ・「民族系」論者には「自由社会の存立」に必要な「反共」・「反社会主義」の知識が全く欠落している。「民族系」は南京事件・沖縄集団自決・従軍慰安婦強制連行・百人斬りなど、「左翼」の歴史捏造問題には反撃論陣を張る。これは正しいが、石井731部隊人体実験・シナでの毒ガス作戦などの他の歴史捏造には口を噤む。
 ・「民族系」には歴史の「真実」への関心がない。彼らは観客相手の「売文業者」で、観客のいない問題には関心がなく、知識もない。「観客」とは「旧軍の将兵(退役軍人)たち」だ。「民族系」論者の東京裁判批判は「意味不明な論旨」で、東京裁判史観の拡大宣伝をする日本共産党系学者の「狂説」を目に入れていない。「観客」=退役軍人たちは南京事件・従軍慰安婦等の問題は体験からすぐ分かるので、これらの捏造を糾弾すればすぐに反応がある。「民族系」論者は「花代」欲しさに、捏造歴史問題を一部に限定して声を大にしている。①ソ連軍の蛮行(満州でのレイプ・殺人・財産奪取)、②シベリア拉致日本人の悲惨さ、③南方作戦(餓死から奇跡的な一部が生還)には「何一つ語ろうとはしない」。その理由は、これらの被害はあまりに悲惨で「観客」が思い出したくない、つまり「民族系」の「金にならない」からだ。

 ・「民族系」は「保守主義者」ではなく「保守」か否かも疑問だ。「真正保守」ならば、反「極左イデオロギー」闘争を優先し、「国家の永続」を最重視する。「保守」は昭和天皇や吉田茂のように必ず「親米」だ。「反米」は「左翼」・「極左」の特性で、「日の丸」・「天皇」を戴くだけで彼らを「保守」と見なすのは不正確で「危険」だ。「真正保守」の再建には、彼等を「再教育」して「一部を選別するほかない」。

 ・「民族系」は過去20年間、「第二共産党」・民主党の政権奪取に貢献してきた。彼らは日本の国を挙げての「左傾化」を阻止しようとはせず、助長した。「民族系」は、「ソ連の脅威の一時的な凍結」を好機として、「反米→大東亜戦争美化論→東京裁判批判→A級戦犯靖国合祀の無謬」を「絶叫する狂愚」に酔い痴れてきた。「大東亜戦争美化論」は日本廃絶論・日本「亡国」待望論で、林房雄、保田與重郎・福田和也の系譜だ。
 ・民主党は「国家解体」に直結する「地方分権」、民族消滅に直結する「日本女性の売春婦化である性道徳の破壊」など、「日本滅亡の革命を嫡流的に後継する政党」だ。だが、「民族系」は、民主党が支持される「土壌づくり」に協力した。
 ・「民族系」が「正気に目覚める」のは「外国人参政権」と「夫婦別姓」の二つに限られ、これ以外では無知で無気力だ。「深刻な出生率低下をさらに低下させる法制度や日本の経済発展を阻む諸制度」に反対せず、関心もない。「財政破綻状態にも、日本人の能力の深刻な劣化問題にも」憂慮しない。「民族系」論客・団体の「知的水準」は低く、民主党批判を展開する「学的教養を完全に欠如」する。
 ・だが、「あきらめるのは、まだ早い」。「十八世紀のバークやハミルトン、二十世紀のレプケやハイエクなど、多くの碩学から」学んで、「日本国の永続」方策を探り、「悠久の日本」のための「国民の義務」に生きる道を「歩み続けるしかない」。

 以上で、終わり。

 若干のコメントは次に回したい。

0972/佐伯啓思・日本という「価値」(2010)第9章を読む⑤。

 佐伯啓思・日本という「価値」(2010)第9章「今、保守は何を考えるべきなのか」-メモ⑤

--------------------  「国」には「ステイト」と「ネーション」の二つの側面がある。戦後日本の前者の基軸は主として日米安保による在日米軍に委ねられ、後者をまとめる「共通の価値」は、「公式的にいえば、憲法に規定された個人の自由、基本的人権、平和主義」で、「占領下においGHQによって」与えられた。サ条約を「起点」とする「戦後」において、「平和憲法と日米安全保障体制は相互補完的」で「不可分の関係」にある。サ条約によって「主権回復」したというが、日本は「事実上、主権国家といえる」のか。  サ条約とともに締結された日米安保条約の基本的考えは以下。憲法により日本は「固有の自衛権を行使する手段」がない。だが軍国主義が世界からなくなっていないので日本には「危険」がある。一方、国連憲章により日本は「個別的および集団的自衛権」をもつ。この権利の「暫定的行使」として、日本は国内・付近に米軍が配備されることを希望する。  1951年安保条約は「あくまで暫定的措置」だった。アメリカも日本は「いずれは憲法改正を断行して軍事力を保持するものと想定」していた。  1960年安保改定にかかる岸首相の意図は「双方の義務を明確化」すること=「米軍による日本防衛と、日本の基地提供」の明瞭化によって、条約を「より対等なものに近づけ」ることだった。一説によると、岸は条約の双務的対等化により国民の支持を得た勢いによる憲法改正の実現を企図した。岸の選択は革新派の「アンポハンタイ」よりも「正しかった」が、世論の読み間違いがあり、皮肉にも、安保反対運動が憲法改正への道筋を阻止し、「日米安保体制」の強化により「戦後体制」が固定化された。  日米安保体制は変化していった。1996年の「共同宣言」、1997年の「新ガイドライン」で再定義された。この体制は「日本および極東」ではなく「アジア太平洋地域」の安全のための枠組みへと転化した。この背景には、「冷戦以降」の国際環境の中で、国際主義よりも「同盟国との関係を重視」する米国の方針転換があった。この延長線上に2005年の合意があり、これにより端的に「日米同盟」と定義された。日米は「世界の安全保障」という「共通の目標を達成するために同盟関係を活用する」こととなった。この合意は、対テロ戦争・対「ならず者国家」等のアメリカの世界戦略の中に日本を位置づけるものだった。これは「深化」ともいわれるが、「変質」だ。平和憲法による防衛能力の欠如の米軍による補填ではなく、「世界の安全保障」との「共通の戦略目標」のためのものへと変形したのだ。  かかる変化は、「戦後体制」を固定化し「いっそう先に推し進める」ものだ。  以上、p.191-195。 上の後半のような「安保体制」の変容の叙述または分析は、しかし、日本共産党等の<左翼>も行っている、と見られる。対米従属性、アメリカの(自分勝手な)戦争に日本が巻き込まれる危険、というのは日米安保条約締結以降の<左翼>の主張でもある。だからどうだ、というのでは、とりあえずは、ない。 --------------------------------------------  安保体制から同盟への変質は戦後体制をさらに固定化する。
 そこには「もはや憲法改正によって日本独自の防衛力を保持することが事実上不可能であるという」認識がある。「平和憲法のもとで」世界の安全保障のために協力するということは、アメリカの軍事行動に「平和憲法を前提にしつつ」後方支援等で日本が関与するとの方向を目指す。集団自衛権の保持と行使可能との憲法解釈をとることで、事実上「九条の平和主義の解釈を変更」しようとするものと推測される。「平和憲法」の成文はそのままにして「集団的自衛権」を行使する「普通の国家」に接近させる、ということだろう。これが「深化」の意味だ。
 だが、かかる関係は決して「対等な同盟」ではない。「従属的同盟」だ。本格的同盟にするためには日本は独自の軍事力と軍事戦略をもち、主体的な世界観をもって情報活動・外交をする必要がある。それはまず憲法改正を要請し、サ条約の時代に立ち返るわけで、日米安保体制のあり方そのものを遡って論じる必要がある。
 対等・共同の「同盟」は「集団的自衛権の行使を含む十全な軍事協力」が可能でなければならない。そのためには憲法改正が必要で、かつ九条の「非武装平和主義」を放棄するとすれば、当初の「安保条約」の意味の根本的再検討が可能になる。

 変則的「同盟」において、「日米共通の価値」の存在が強調されている。「自由・民主主義、…市場経済体制の絶対性」を承認し世界化することだが、「ネオコンの論理」はその価値観を端的に表明したものだった。
 日本が「自由・民主主義の世界秩序の受益者」であることは否定できない。しかし、<力による自由・民主主義の世界化>・<敵対者に対する力の対決>という価値観まで共有しているとは思えない。

 以上。17.5/26頁。

0969/中川八洋、撃論ムック・反日マスコミの真実2011、櫻井よしこ、産経、表現者。

 〇中川八洋・近衛文麿の戦争責任―大東亜戦争のたった一つの真実(PHP、2010.08。原書1995)の半分余、p.131まで読了。
 これはなかなか衝撃的な書だ。「悪の反省にあらず、失敗の反省なり」とは適確だと最近書いたが、この書によると「悪の反省」が必要だ。但し、日本軍国主義(あるいは軍部・戦争指導者等)の「悪」ではなく、近衛文麿、尾崎秀実や軍部の中枢に巣くった「共産主義」という「悪」に対する「反省」だ。共産主義(コミュニズム)との関係を抜きにして先の大戦の経緯・結果等を語れないのはもはや常識だろうが、ここまでの(中川の)指摘があるとは知らなかった。
 なお、オビに「『幻の奇書』待望の復刊!」とある。「奇書」なのか? あるいは「奇書」とはいかなる意味か。

 〇撃論ムック30号(西村幸祐責任編集)・反日マスコミの真実2011(オークラ出版、2011)のp.47まで読了。

 朝日新聞やNHKに幻想をもっている人(「反日マスコミの真実」に気づいていない人)には必読と言いたいところだが、そうした人のほとんどは、この本(雑誌?)を手にとらないのかもしれない。

 〇櫻井よしこは、産経新聞1/03の対談で、①「憲法、教育、皇室の3つの価値観を標榜(ひょうぼう)する政党はどこにも存在しません。民主党は最初からそういう考えがありませんし、自民党も谷垣禎一総裁の下ではむしろ3つの論点から遠ざかる傾向にあります。同質性が高い」。②「今の自民党は55年体制以降の自民党の延長線上にありますので変わる見込みはないでしょう。おのずと第三の道に行かざるを得ないのではないでしょうか」、と発言している。

 民主党政権(菅政権?)と「谷垣自民党」は「同根同類」とつい最近書いていたのだが、ここでは「同質性が高い」になっている。これは変化(言い直し)なのか? いずれにせよ、「同質性が高い」とは、厳密にはいかなる意味なのだろう。

 また、「今の」自民党は「変わる見込みはない」ので「おのずと第三の道に行かざるを得ない」だろうと言っているが、ここでの「第三の道」とは、具体的には何なのか。おそらくはまるで違った意味でだが、菅直人ですら「第三の道」と言っている。
 櫻井は「憲法、教育、皇室の3つの価値観を標榜する政党はどこにも存在しません」と直前に語っている。

 では、「憲法、教育、皇室の3つの価値観を標榜する」、政党ではない政治家・政治グループはどのような人々なのか、明言してもらいたいものだ。

 それに、そのような(期待できる政党は今はどこにもないという)「第三の道」に期待する時間的余裕はあるのだろうか。

 対談相手の渡辺利夫は「政界が再編成されて、本物の第三極ができるかどうか。保守の新しい軸をつくっていく努力はかなり長い時間を要すると思います」などと語っているが、櫻井よしこらのいう「第三の道」・「本物の第三極」への道が明確になり、かつ勝利するまでに、外国人参政権付与(公選法改正)法、夫婦別姓(民法改正)法、人権擁護法等が成立し、施行されたら、いったいどうするのか??。

 ずいぶんとのんびりとした議論だ。

 気のついたことをあと二点。櫻井よしこは、①解散・総選挙の必要性に一言も触れていない。②中国につき、「帝国主義」・「植民地主義」という言葉は使うが、なぜか、「社会主義(・共産主義)」という語を使っていない。

 〇やや古いが、櫻井よしこと親和性(?)の高そうな産経新聞について、隔月刊・表現者33号(ジョルダン、2010.11)の巻頭コラムは次のように書いていた。無署名だが、編集委員代表の富岡幸一郎の文章だろうか(雑誌自体は西部邁グループ(?)のもの)。
 <民主党代表選で朝日新聞と全く同じく小沢一郎批判を繰り返した産経新聞は「日米同盟」保持・重視のために小沢ではなく菅を選択したのだろうが、これが「現在の日本の”保守”と呼ばれるマスコミの醜悪で貧しい実態」だ。日米「同盟」こそ日本の命綱だとする者に「保守思想など語る資格もない」。アメリカによるイラク平定を素晴らしい成果だと堂々と主張する「こんな新聞は、はっきり言ってリベラル左翼派よりも低レベル」だ。これが「今日の日本の思想レベルを象徴している」。>(p.8)

 どうやら、(主観的・自称)<保守>にも産経新聞派と非(・反)産経新聞派があるようだ。  

0959/佐伯啓思・日本という「価値」(2010)第9章を読む③

 佐伯啓思・日本という「価値」(2010)第9章「今、保守は何を考えるべきなのか」-メモ③

 ・保守の精神とは何か。「保守の思想」は、英国の歴史や思想風土と「深く結びついて」いる。エドマンド・バークが抽出した英国の「国民性に根付いた歴史的精神もしくは暗黙の合意」を表現したもの。もともとはバークによるフランス革命への強い警戒心から発し、「保守」はまず「進歩主義」批判を意図する。「近代」社会は「進歩」を掲げるが、「近代主義とはほとんど進歩主義と同義」だ。とすると、「保守」は時代の「先を読む」・「潮流に乗る」等の甘言に飛びついてはならず、「徹底して反時代的」である必要がある(p.184-5)。
 ・「進歩主義(近代主義)の精神」として次の4つは無視できない。①合理主義・科学主義・技術主義の精神、②抽象的・普遍的理念の愛好、③自由・平等な個人の無条件の想定、④「急激な社会変化への期待」。

 ・「保守の精神」は、上との対比でこうなる。①「理性万能主義への強い懐疑」と「歴史的知恵」の重視、②「具体的で歴史的に生成したものへの愛好」、③「個人」よりも「個人を結び付ける多様なレベルの社会的共同体の重視」、④「急激な社会変化を避け、漸進的改革をよわしとする精神」と「大衆的なもの」への懐疑。「大衆的なもの」とは「無責任で情緒的な行動」で「ムードによって相互に同調的で画一的」になり「自らを主役であると見なす自己中心主義的な心情」。この「大衆的なもの」による「急激な社会変革」を「保守」は「ことさら警戒する」(p.185-7)。

 ・四つの各特質の第一点について。親社会主義=「革新」、親「アメリカ的」「自由民主主義・市場経済」=「保守」とされた。これは、アメリカに比べてソ連社会主義は「左」だったので「冷戦時代」には「一定の政治的有効性」があった。しかし、「冷戦以降」は異なる。

 ・「いくつかの例外を除いて、基本的に社会主義は崩壊したし、もはやイデオロギー的力はもっていない」。今日の最も「進歩主義的国家」はアメリカだ。「保守の精神」からは、アメリカ流「進歩主義」こそが最も警戒すべきものだ(p.187-8)。

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 このあたりから佐伯啓思らしさが出てくるともいえるが、コメント・感想を挟む。上の部分のうち、前半には賛同できない。
 「いくつかの例外」として何を意味させているのかは正確には分からないが、まだ<冷戦>は終わっておらず、「基本的に社会主義は崩壊したし、もはやイデオロギー的力はもっていない」と論定することはできない、と考える。

 中国(シナ)や北朝鮮を日本にとっての「例外」などと評価することはできない。そしてまた、中国・北朝鮮等という「社会主義」国家が近隣に現存するとともに、「社会主義」イデオロギーは日本国内においてすらなお強く現存している。
 現菅直人政権のかなりの閣僚は、「社会主義」イデオロギーの影響を受けていると想定される。少なくとも「社会主義幻想」を持ったことのある者たちがいる。だからこそ、民主党政権を「左翼・売国政権」(鳩山)とか「本格的左翼政権」(菅)と称してきた。

 他にも、日本共産党はもちろん社会民主党も、れっきとした、「社会主義」の「イデオロギー的力」の影響を受けている政党だ。

 さらにいえば、岩波書店、朝日新聞等、出版社やマスメディアの中には、「社会主義」の「イデオロギー的力」の影響の強い、「左翼」または親「社会主義」的と称してよい有力な部分が巣くっている。

 この論考だけではないが、佐伯啓思はなぜ、「左翼」または親「社会主義」勢力の現存・残存についての認識が<甘い>のだろう。職場・同僚・学界に、「左翼」(例えば親日本共産党学者と評せる者)はいないのだろうか。信じ難いことだ。

 脇道にそれたが、再び佐伯論考に戻ってつづける。

--------  ・「保守の精神」が「冷戦以降」の今日の「もっとも警戒すべき」は「アメリカ流」「進歩主義」だが、「強くて自由な個人、民主主義、個人の能力主義と競争原理などの価値」という「アメリカ建国の精神」へと「復帰する」ことはアメリカでは「保守主義」だ。だが、これは「イギリス流の保守主義」とはかなり異なる。アメリカ独立・建国はイギリスからの分離独立・イギリスに対しての「自由な革新的運動」だったので、建国の精神に立ち戻るという「アメリカ流保守主義」は「いささか倒錯的なことに」すでに「進歩主義」で刻印されている。この「倒錯」は、「ネオコン」=「新保守主義」が、「自由」・「平等」を普遍的価値とみなして「イラク戦争や対テロ戦争」を立案したとされることに、典型的に示されている(p.188-9)。
 ・「戦後日本」はアメリカ的価値観の圧倒的影響下にあったため、「アメリカ流保守主義」を「保守」と見なした。しかも冷戦下でアメリカ側につくことが「保守」の役割とされた。イギリス的「保守」とアメリカ的それとの区別が、決定的に重要なのに、看過された(p.189)。
 ・「日本とは何か」を問題にする際、「日本の保守」を「アメリカ流保守主義」と「自己同一化」してはならない。日本の「国体」はアメリカのそれと大きく異なり、むしろイギリスの方に近い。いずれにせよ、日本の「保守」にとって、「日本の歴史的伝統を踏まえた価値とは何か」という問いが決定的に重要だ(p.190)。
 ・いっとき勝利したかに見えた「保守」は今や退潮している。「この二〇年」で「保守」は「失敗した」。その原因は、日本の「保守派」が「保守」を「アメリカ流保守主義」によって理解していたからだ。日本は、①「経済構造改革」路線の選択、②外交・軍事上の「日米同盟」という、「二重の意味で、かつてなくアメリカと緊密な関係に立つという判断をした」(p.190-1)。
 ・かかる政策の当否を論じはしない。「保守」の立場からは何を意味するのかを明らかにしたい。ここでは以下、「日米同盟」につき論じる(p.191)。

 以上で、13/26頁。

0958/佐伯啓思・日本という「価値」(2010)第9章を読む②

 佐伯啓思・日本という「価値」(2010)第9章「今、保守は何を考えるべきなのか」-メモ②

 ・「保守」の立場の困難さの第二は、日本の「近代化」が一方で伝統的日本(と見られるもの)への回帰、他方では「西欧列強の制度や価値」の導入、によって遂行されたことだ。近代化は「外発的」で、「憧憬することで近代化を遂げた」。この事情は戦後はさらに「緊張感を欠いた漫然たる」ものになり、ほとんど「無自覚、無反省」のままで「アメリカ的なもの」への「傾斜、追従」がなされた(p.181)。

 ・決してアメリカ化などしていないとの反論はありうるが、「戦後日本人が、ほとんど無意識のうちにではあれ、『アメリカ的なもの』、すなわち、個人的自由、民主主義、物的豊かさと経済成長、人権思想、市場経済、合理的で科学的・技術的な思考、市民社会などに寄りかかった」のは間違いない。他方で、これらと対立するとされた「日本的なもの」、たとえば「家族的紐帯、地域共同体、社会を構成する権威、そして、日本的自然観、美意識、仏教的・儒教的・神道的なものを背景にした宗教意識」は、すべて否定的に理解された。ここに「戦後日本における大きな精神的空洞が出来した」(p.182)。

 ・「保守」が「その国の歴史的分脈や文化的価値をとりわけ重視する」ものだとすれば、上の事態は「由々しき」ものだ。「倒錯した価値をしごく当然のごとく受け入れてきた戦後日本という空間には、公式的にいえば、『保守』の居場所はない」。「日のあたる場所」は「アメリカ的」「戦後思想」が占拠したのだから。したがって、「保守」は、「戦後日本が公式的に重要な価値とみなしているものをまず疑うところから始めなければならない」(p.182)。

 ・「軍事力」のない「戦前に戻ればよい」という単純な話ではなく「日本の近代化」自体が孕む問題だが、「戦後」に限っても、「戦後日本の…ありように、根源的な違和感をもつ」、この前提がないと「『保守』という精神的態度は成立しえない」。したがって、「少なくとも戦後憲法の精神は保持したままで『保守の原点に戻る』などと言っても意味はない」。「戻るべき原点」とは何かも問題だ。

 ・しかし、「戦後」への「大きな違和感」をもつと同時に、「どうあがき悶えても」、「戦後日本」に生きてきているのであり、戦後憲法と下位法体系のもとで「生活を守られ、言論活動をしている」のも事実で、「今日、われわれは決して『戦後日本』の外へ出ることはできない」(p.182-3)。
 ・典型的「進歩主義」に覆われた「戦後日本の公式的価値空間」で「保守」を唱えること自体が「矛盾をはらんでいるのではないか」との疑問すら生じる。「実際その通り」なのだ。「保守」自体の矛盾に自称「保守主義者」たちは「どこまで自覚的」なのだろうか。まずは、「自らの置かれた立場についての引き裂かれた自覚」があるべきだ。この自覚がないと、戦後日本の「大方の」「保守主義者」のように、「社会主義に反対して日米同盟を守ることが保守の役割」だといった「倒錯した保守の論理」が出現する(p.183-4)。

 ・「戦後体制」、つまり「平和憲法と日米安保体制」という構造の中で生き、身を守られているとすれば、「日米同盟」を破棄できない。この状況自体が、「日本を日本でなくする危険に満ちている」。そのこともまた「今受け入れるほか」はない。とすれば、「この種の苦渋に満ちた矛盾と亀裂の只中にいるという自覚」だけが「保守」に「道を開く」のであり、この点に無頓着な「保守」は、「親米であれ、反米であれ、『真の保守』たりえない」と思われる(p.184)。

 以上で2回め、終わり。まだ7/26頁。

0957/佐伯啓思・日本という「価値」(2010)第9章「今、保守は何を考えるべきなのか」。

 一 佐伯啓思・日本という「価値」(NTT出版、2010.08)の第9章「今、保守は何を考えるべきなのか」は、月刊正論2010年6月号(産経新聞社)の「『保守』が『戦後』を超克するすべはあるのか」に「多少の加筆修正」をしたもの。

 月刊正論の原論考ついては、この欄の5/07、5/17、5/18の三回ですでに紹介・言及している。不十分なコメントしかできていないが、単行本の一部となって読み直しても、<保守派>志向の者にとって、無視できない、重要な論点・問題を提起しているようだ。

 日本の「国民精神」は「西欧的なもの」と「日本的なもの」の間の、「もはや深刻なディレンマとして受け止めることができなくなってしまった」ディレンマとして表象されてきた。この「葛藤を引きうけること」によるしか「精神の活力もバランスもえることはできない」ので、「保守の立場とは、まずはこのディレンマを自覚的に引き受けるということから始めるほかない」(p.202-3)。

 日本の保守派(志向者)ははたして、「このディレンマを自覚的に引き受けるということから始める」ことをしているのだろうか? そしてまた、なぜ、この佐伯啓思論考を手がかりにしたような議論や論争が<保守論壇>で起きないのか?

 二 あらためて、この論考を最初から、メモをしながら読み直す。なお、今年2010年の4月頃に初出論文は執筆されたと見られることは留意されてよいかもしれない(まだ鳩山由紀夫首相で、まだ2010参院選民主党敗北も明らかでなかった。むろん尖閣問題も起きていない)。

 ・鳩山政権の支持率は下がっているが、自民党への期待が高まってもいない。その理由は「この政党の依って立つ軸のありかが全くもって不明な点」にある。但し、民主党も「同じ」で、「経済政策や外交政策の基本的な立場が見えない」(p.178)。

 ・民主党=リベラル、自民党=保守との図式ぱありうるが、「リベラル」・「保守」の意味自体が明快ではない。福祉重視=リベラル、市場競争重視=保守という「何とも大ざっぱで、しかも誤った通念」が流通した。これによると、「構造改革」をした自民党は保守、民主党は「その反動でリベラル」ということになる。だが、「構造改革」という「急進的改革」者を保守と称するのは奇妙で、それに「抑制をかける」ものこそを「保守」というべきだ。また、「過度にならない福祉」は「保守」の理念に含まれているはずだ(p.179-180)。

 ・下野した自民党の一部で「保守の原点」、「保守の再定義」、「真正の保守」等が語られているのは結構なことだ。では、「保守の原点に立ち戻る」とはどういうことなのか?(p.180)

 ・「保守」の立場の困難さの一つは、「改革」・「チェインジ」の風潮と現実のもとにあることだ。だが、現在の「変化が望ましい方向のものだという理由はどこにもない」。「変化」の意味を見極め、「変転著しい」「変化」に「振り回されない軸を設定する」ことこそが今日の政治の課題=「保守」という立場、だ(p.180-1)。

 とりあえず、以上(つづく)。

0944/「戦後」とは何か⑤-佐伯啓思・日本という「価値」(2010)より。

 佐伯啓思・日本という「価値」(2010.08、NTT出版)という「論文集」(p.309)は三部で構成されているが、あえて言えば第一部は経済、第二部は政治、第三部は思想をテーマとするものを収載している。タイトルに示された「日本という『価値』」は価値を失い、または価値追求を失った日本人に何がしかの(日本としての、日本に特有の)「価値」発見・追求を求める趣旨なのだろうが、基本的趣旨は理解できるとしても、その「価値」の具体的内容は、残念ながら明瞭ではない。
 重要と思われる論考の一つは第8章「保守政治の崩壊から再生へ」。これは、西田昌司=佐伯啓思=西部邁・保守誕生(2010、ジョルダン)の中の独立の論考で2010年3月初出。自民党と民主党に言及しつつ、「戦後日本的なもの」を論じている。以下の頁数は冒頭に掲記の単独著。

 佐伯啓思によると、自民党とは何だったかを問うことは「戦後日本」を振り返ることでもあり、「戦後日本的なもの」は、「顕教としての普遍的価値」と「密教としての日本的習慣」の結合または「二重構造」だった(p.164)。じつに(?)大胆な主張または仮説だ。

 「顕教としての普遍的価値」とは、「誤った」戦前から「正しい」日本を再生させるとされた諸理念で、以下のものがとくに列記される-「個人の自由、民主主義、合理主義、科学や技術の尊重、平和主義、人権尊重、国際主義(国連中心主義)」。これらを「普遍的正義」としての<近代国家>の実現が戦後の「公式的価値」となった、戦後憲法は「この理想を表明」するものだった。

 「密教としての日本的習慣」とは、かの戦争にかかる「一方的な日本断罪(たとえば東京裁判)への不満、日本的な宗教精神(儒教的・仏教的・神道的・古代的自然観など)を基盤にした日本的価値観への愛好、社会の中に根付いた習慣や習俗、地域に残る共同体的なもの、家族や親子、あるいは教師と学生、上司と部下などの人間関係についての『日本的』観念」といったものを指す。

 上の後者は合理的・科学的では必ずしもないために「戦後的価値」(公式的価値)とは「表面上は齟齬」をきたし、顕教の「近代主義」から見れば「前近代的」で、ときに「封建的」とされる。しかし、「人間関係を差配」する「非合理的な慣行」・ルールという「目に見えない文化」を捨て去ることはできず、「声高に公式的に」表現されなくとも「非公式の価値」となってきた(p.164-5)。

 この「二重性」が戦後日本を特徴づけた。かつ、両者は「容易に調停」しがたく、差異を意識すれば「亀裂」は大きくなる。「日本人の自己像は分裂してゆく」。

 そこで、戦後日本人は「あえて思考停止を選んだ」。表面的には「近代主義的」「普遍的価値」を称揚し、表面下では「日本的慣行」に従って行動した。言説空間では「近代主義者」として、具体的生活空間では「前近代的」日本人として振る舞った。

 かかる「戦後日本の二重性を見事に表現した政治政党」、「この二重性を利用しつつ巧みに覆い隠した」政党が、自民党だった。日本人自身が「二重構造がもたらす自己分裂もしくは自己喪失を直視したくなかった」のであり、自民党は、「面倒なことから目をそらしたい」という「戦後日本人の心理に巧みに寄り添った」(p.166)。

 <戦後>とは何だったかを考えるためにも、きわめて興味深い叙述ではないか。上のいわばテーゼ的なものは、自民党のみならず、「吉田ドクトリン」や民主党政権の誕生にも関連させられる。次回に続ける。

0926/佐伯啓思・日本という「価値」(2010)を全読了。

 佐伯啓思・日本という「価値」(2010.08、NTT出版)を11/02夜に全読了。全311頁。

 最初から順に読み通したのだから(但し、佐伯の発表論考をまとめたもの)、感想は当然にある。
 既に初出論文について書いたかもしれない、<保守>にとって重たいまたは刺激的な論述もあるし、その他、佐伯らしい鋭い指摘・分析もある。全体として挑発的・論争誘発的(ポレーミッシュ、polemisch)な本なのに、この著をめぐって論争・議論が発展・展開したようでもないのは、<保守>論壇の貧困さの表れでもないだろうか。

 佐伯啓思に全面的に賛同しているわけではない。この9-11月という時期に読んでいると、<中国>への言及が、アメリカや<欧州近代>等に比べてはるかに少ないことに、驚きすら覚える。また、「マルクス主義」は「一九九〇年代には、さすがに腐臭をはなち、どう廃棄処分にするかが関心事であった」(p.45、2008年)とか、1930年代とは異なり「もはやファシズムも社会主義もありえない」(p.99、2009年)とかいう認識は、佐伯の頭の中や佐伯の<仲間たち>や純経済理論にとってはそうなのかもしれないが、「マルクス主義」や「社会主義」(の危険性・脅威)に対して<甘すぎる>、と感じる。

 具体的な紹介等をしていない遠藤浩一・福田恆存と三島由紀夫(上下、2010.04、麗澤大学出版会)への言及とともに、より詳しい感想等は、他日を期したい。

0899/平川祐弘・日本語は生き延びるか(河出ブックス、2010)の冒頭の問題設定。

 6/11に「平川祐弘・日本語は生き延びるか(河出ブックス、2010)の冒頭にある、戦慄を伴う問題設定」とだけ言及した。
 もう少しは詳しく引用しておく。
 平川祐弘・上掲著は、「はじめに」で、「二十二世紀に日本列島に住む人々は、はたして何語を話しているだろうか」と問題設定する。そして、「可能性として五つの場合が想定される」という。
 五つのうち、人類の消滅と優秀な翻訳機器の開発による言語問題の解消という二つの想定(第一・第四)は別として、第五も愉しい想定ではないが、とくに次の、第二、第三の「想定」は、可能性を否定しきれないところに「戦慄」が伴う。
 「二、他文化の強力な影響下、日本人の大部分はバイリンガル(日本語と英語、あるいは日本語と中国語)になって、外では世界の標準語を、内では日本語という地方語を使い分けて話している」。
 「三、日本人の多くは非日本人ないしは非日本語系日本人と結婚して(あるいは結婚を余儀なされて)しまっており、その二世以下の子孫はもはや日本語を話さない。元は日本語人だった一世も、周囲の社会の言葉を使って生活するようになっている。そこで新しい言語を使いこなせない日本語系日本人の多くは落伍者、いわゆる文化的な『もてない男』となっており、その劣等的状況むに憤懣を抱く者の中にはテロリストとなって暴発する者も出る」。
 「二十二世紀」とされているところが、まだしも微かな救いだろうか。 

0850/2009年秋~2010年03月の本。

 本・雑誌・新聞を読んでの「備忘録」(覚え書・メモ)というのが、元来の、いや途中から明確にしたこのブログ欄の利用目的のはずだった。しかし、残念ながらそのようにはなっておらず、全部または一部を読んでもこの欄では(まだ)言及していない書物等が多数ある。
 新聞記事(論文調のものも含む)はたぶんもう遅いが、また雑誌も逐一挙げるのは面倒だが、昨年の秋(9~10月頃)から今年3月末までに購入して(「はしがき」であれ「あとがき」であれ)一部は読んだ記憶があるものを、年度末でもあるので、以下にメモしておく。
 購入したが少しも目を通していないものもあるようだが、これはいちおう除く。また、大雑把に昨年の秋(9~10月頃)以降のものに限るので、それ以前に購入して全部または一部を読んだもの(かつこの欄では取り上げなかったもの)は含まない。但し、上の二点のいずれも、曖昧なところがある。(全読了のものを除き、順不同。本の体裁の大きい順をむしろいちおうの基準にしている。)
 ・小林よしのり・昭和天皇論(幻冬舎、2010.03)<5晩ほどかけて全読了>
 ・小林正啓・こんな日弁連に誰がした?(平凡社新書、2010.02)<購入日に全読了>
 ・西尾幹二=平田文昭・保守の怒り(草思社、2009.12)<忘れかけていたが全読了の痕跡があった>
 ・水島総原作・1937南京の真実(飛鳥新社、2009.01第二刷)<たぶん全読了>
 ・西村幸祐編・激論ムック/迷走日本の行方(オークラ出版、2009.11)<かなり読んだ>
 ・西村幸祐編・激論ムック/外国人参政権の真実(オークラ出版、2010.04)
 ・田中健之編・別冊宝島/「靖国」に祀られざる人々(宝島社、2007.08)
 ・新潮45別冊/櫻井よしこ編集長・「小沢一郎」研究(新潮社、2010.04)
 ・藤井厳喜・NHK捏造事件と無制限戦争の時代(総和社、2009.11)
 ・三橋貴明・民主党政権で日本経済が危ない!本当の理由(アスコム、2009.12)
 ・櫻井よしこ編・日本よ、「戦闘力」を高めよ(文藝春秋、2009.10)
 ・西尾幹二・三島由紀夫の死と私(PHP、2008.12)
 ・竹内修司・創られた「東京裁判」(新潮選書、2009.08)
 ・田母神俊雄・真・国防論(宝島社、2009.05)
 ・竹内洋・立身出世主義〔増補版〕(世界思想社、2005.03)
 ・福田恆存評論集第一巻(麗澤大学出版会、2009.09)
 ・安本美典・真説・邪馬台国/天照大御神は卑弥呼である(心交社、2009.12)
 ・富山太佳夫編・現代批評のプラクシス3/フェミニズム(研究社出版、1995.12)
 ・不二龍彦・天皇・皇室ファイル(学研、2010.02)
 ・宮崎正弘・朝日新聞がなくなる日(ワック、2009.11)
 ・遠藤浩一・小澤征爾-日本人と西洋音楽(PHP新書、2004.10)
 ・三橋健・神道の常識がわかる小辞典(PHP新書、2007.05)
 ・日暮吉延・東京裁判(講談社現代新書、2008.01)
 ・根井雅弘・市場主義のたそがれ-新自由主義の光と影(中公新書、2009.06)
 ・武光誠・一冊でつかむ天皇と古代信仰(平凡社新書、2009.05)
 ・鈴木貞美・戦後思想は日本を読みそこねてきた(平凡社新書、2009.12)
 ・鈴木貞美・日本の文化ナショナリズム(平凡社新書、2005.12)
 ・西尾幹二・決定版/国民の歴史/上・下(文春文庫、2009.10)<単行本で既読のものの「決定版」の再読>
 ・W・ゾンバルト(金森誠也訳)・恋愛と贅沢と資本主義(講談社学術文庫、2008.12第七刷)
 まだ他に買って読みたいもののそれに至っていないものが多いにもかかわらず、こうして書き並べて見ると、とても全部は読み切れない(他に週刊誌・雑誌・新聞もある)とあらためて感じて、げんなりした。 

0823/読書メモ2009.09~-週刊朝日・小林よしのり・渡部昇一。

 〇「左翼ファシズム」への先導者・デマゴーグである朝日新聞(社)は、鳩山「左翼(容共)・売国政権」を支持し、批判者から擁護しようとする、あるいは批判者を逆に攻撃しようとの志向を持っている。
 精神衛生によくないので逐一読む気はしないが、最近の週刊朝日の表紙の言葉だけでも、上のことはかなり明らかになる。
 10/02号-「誕生・鳩山内閣全データ/高速無料化が日本を変える」
 10/09号-「今こそ、幕末・維新に学べ!/鳩山・民主党は官僚に『大政奉還』をさせられるか」
 10/16号-「八ツ場ダム/隠された真実」〔この欄で既に言及〕
 10/23号-「景気割れ回避・民主政権の秘策/小沢が仕掛ける『自民党壊滅作戦』/…」
 10/30号-「民主党革命・日本はこうなる/甘えるな経団連」
 〇九月中に、小林よしのり・ゴマニズム宣言NEO2-日本のタブー(小学館)は、まだ未読と思われるものと書き下ろし等の文章部分を読んでいる。
 「左翼の本質そのものが全体主義だから、左翼は無意識のうちに全体主義の言動をとってしまう! これがソ連の粛清を生み、収容所群島を生み、中国の文革を生み、ナチスのホロコーストを生んだのだ! 左翼の本質をなめてはいけない! 彼らは言論の自由が大っ嫌いなのだ!」(p.162)
 たまたま再度めくっていると、上の文章があった。
 〇サピオ11/11号(小学館)の小林よしのり「新・台湾論」・「天皇論・追撃篇」
 前者に、「着々と左翼全体主義の時代へと向かっている日本…」との語がある(p.62欄外)。
 後者は、小谷野敦への反論。小谷野敦の本を読んだことはあるが、信頼できないこと、はなはだしい。小谷野はいろんな分野に首を突っ込んでいるようだが、東京大学文学部(大学院)出身という以外に、何か誇れるものがあるのか? それだけで種々の問題に口出しできる資格があると傲慢な錯覚をしているのではないか? 小谷野に原稿を依頼する編集者たちもまた、表面的学歴等に騙されているのではないか。
 自称文学評論家らしい山崎某とともに、小林よしのりは小谷野敦も無視してもいいのでは。それにしても、歴史学者の協力でもあったのか、小林は江戸時代の庶民の「天皇」観等をよく調べて書いている。
 なお、小林よしのりの『天皇論』が20万部以上売れているというのは、出版界の話としては
特筆すべき現象なのかもしれない。けっこうなことだ。しかし、20数万程度ではまだ<大衆的>な大きな力にはならない、と嘆息せざるをえない。小林よしのり批判ではなく、日本には数千万人の有権者がいる、ということだ。
 〇かなり前に読んだが、月刊ボイス10月号(PHP)の渡部昇一「東アジア共同体は永遠の幻」は、基本的論調に全く異論はない。
 朝日新聞および若宮啓文は「東アジア共同体」構想を支持しているようだ。では朝日新聞・若宮啓文にとって、<大東亜共栄圏>構想はどう評価されるのか。
 <大東亜共栄圏>構想は日本が主導権をもつ「共栄圏」で、<東アジア共同体>構想は現実的には日本ではなく中国が中心になりそうだ、というのが、朝日新聞と若宮啓文が前者を論難し、後者を支持する根本的理由ではないか。無国籍または実質中国国籍の<左翼・反日>新聞、朝日。
 渡部昇一の文章には気になる点もある。
 第一。渡部昇一に限らないが、「保守」言論人は日本が中国と異なる「文明」圏に属することを言う場合、米国のハンチントンの本の言説に触れることが多い。「ハンチントンが(も)言うように…」という具合に。渡部昇一も同様(p.73)。
 だが、ハンチントンの見解が何故正しいと言えるのかに触れないで、ただ外国人の名前を出して自己の主張を正当化しよう、補強しよう、というのならば、欧米思想等にそのまま屈従してきたかの如き従来の日本の思想界・言論界のままではないか。
 ハンチントンがどう主張していてもよい。ハンチントンが中国・日本は同じ文明圏だと改説すれば、彼ら「保守」言論人も改説するのか? そうでないならば、やたらと外国人の名前を出すのは止めた方がよいと思う。
 かつての戦争が侵略戦争でなかったことを、マッカーサーもまたのちに「…主として自衛」と証言した、と触れて正当化しようとする「保守」言論人も多い。渡部昇一も同様のニュアンス(p.77)。
 だが、たんに補強するための一材料としてのみ使うのならよいが、マッカーサーの証言だけで結論が左右されるかのごとき書き方は、論理的にも誤っているだろう(これは渡部昇一の上記の文章の直接的批判ではない)。
 それこそご都合主義的に、「都合」のよい主張の外国の論者の名前だけを並べて…、ということを慎む必要があるのは、「保守」であれ「左翼」であれ、変わりはない。もっとも、事実自体の捏造と歪曲という、論理・方法以前のレベルでの<ウソ>をしばしばつくのが「左翼」のお家芸ではある。

 第二点めは、別の機会に。

0773/ルソー・人間不平等起原論(1755)を邦訳(中公クラシックス)で読了。

 先週7/16(木)夜、ルソー・人間不平等起原論(1755)を、中公クラシックスのルソー・人間不平等起原論/社会契約論〔小林善彦・井上幸治訳〕(中央公論新社、2005)を読み終える。前者・人間不平等起原論の訳者は小林善彦。
 1 引用してのコメントはしない。社会契約論とともにルソーの二大著作とされることもあるが、平等「狂」、あるいは少なくとも「平等教」教組の戯言(たわごと)という印象を拭えない。
 現在の時点に立っての論評は不適切で、18世紀の文献として評価すべきだとしても、人間の「不平等」の「起原」についての論考・思考として、あまりにも説得力がなさすぎ、ほとんど「空想」・「妄想」だ。
 ルソーは今でいうと、「文学評論家」的又は「文学者」的「思想家」のようで、文章自体はおそらく、レトリックを多用した、美文又は(平均人は書けない)複雑な構成の文章なのだろう(邦訳なので、感じるだけだが)。そしてまた、倒置、仮定、二重否定、反語等々によって、意味の理解が困難な箇所も多い。
 2 すでに忘れかけているが、コメントをほとんど省略して、印象に残る(決して肯定・同意の趣旨ではない)文章をピック・アップしておこう。
 序文・「人間は一般に認められているように、本来お互いに平等である」(p.23)。
 ・「人間の魂の最初の、そして最も単純な働き」には「理性」に先立つつぎの「二つの原理」がある。①「われわれの安楽と自己保存」に関心を与えるもの、②「感性的存在、主としてほれほれの同胞が、滅び、または苦しむのを見ることに対して、自然の嫌悪を…起こさせるもの」(p.28)。②はのちにいう「同情心」(pitie)だろう。
 本論・人類に「二種類の不平等」がある。①「自然的または肉体的不平等」、②「道徳的または政治的不平等」。前者の源泉は問えない。これら二種の不平等との間の「本質的な関係」を求めることも不可能(p.33-34)。
 ・この論文では、「事物の進歩のなかで、暴力のあとに権利がおこり、自然が法に屈服させられた時を指摘」する等をする(p.34)。
 ・ここでの「探求は、歴史的な真理ではなくて、単に仮説的で条件的な推理」だ(p.36)。
 第一部・「未開人の身体」は彼の唯一の道具で、「生活技術」(<「文明」)は未開人の「力と敏捷さ」を奪う。
 ・ホッブズは「人間は本来大胆で、攻撃し、戦うことしか求めない」と言ったが、誤っている(p.41-42)。
 ・人間が身を守る手段がないのは「生まれながらの病弱と幼少と老衰とあらゆる種類の病気」だ。「はじめの二つ」は「すべての動物」に関係し、「最後のもの」は「主として社会生活をする人間に属する」(p.43)。未開人は「怪我と老衰のほかにほとんど病気を知らない」。未開人には「薬」は不要で、「医者」はなおさら(p.45)。
 ・「われわれの不幸の大部分はわれわれ自身で作ったもの」で、「自然によって命じられた簡素で一様で孤独な生活様式」を守れば避け得た。「思索」は「自然に反し」、「瞑想する人間は堕落」している(p.45)。
 ・「社交的になり、奴隷になると、人間は弱く臆病で卑屈になる」。「女性化した生活様式は、…力と勇気とをすっかり無力」にする(p.47)。
 ・「裸」のままでおらず「衣服と住居」を作ったことは「あまり必要ではない」ことだった(p.47)。
 とっくに、この<狂人>の「仮説的で条件的な推理」には付(従)いていけないのだが、つづけてみよう。
 

0741/北康利・吉田茂-ポピュリズムに背を向けて(講談社、2009)の「あとがき」。

 北康利・吉田茂-ポピュリズムに背を向けて(講談社、2009.05)の「あとがき」の次の文章は、まことに適切だと思う。
 「『民主主義は多数決だ』という教育が戦後の不幸を招いた。
 数にまかせて力をふるおうとする世論は、かつての反民主主義勢力よりもはるかに暴力的でかつ強欲である。『自分たちが主役の政治』を欲しながら、同時にまた強力なリーダーシップを持った政治家を求めている。こうした贅沢で矛盾した要求を恥ずかしげもなく堂々とできるのが世論なのだ。
 国民の政治を見る目は極端に幼稚になり、『嫉妬』という人間の最も卑しい感情が社会を支配しつつある。
 議員の財産開示などという愚にもつかぬことが行われているが、国民はここからいったい何を読み取ろうとしているのか。蓄財をしておらず、浮いた話などなく、老朽化した官舎に住んで国会に電車で通う政治家が本当にこの国を幸せにしてくれるのか。重箱の隅をつついて政治家批判をする前に、国民は政策判断できる能力を身につけるべきであろう。」(p.377)
 <国民が主人公>、<生活が第一>などの国民に「媚びる」スローガンを掲げ、「国民の皆さまに…させていただく」などというような言葉遣いをする代表がいる政党(民主党)が政権をとろうとしているのだから、うんざりするし、日本はダメになる、とも思う。
 「ポピュリズム」の形成にマスメディアは重要な役割を果たしている。産経新聞社にだって、かつて<ミンイ、ミンイ>、<ミンイ(空気)を読め>としか語れない若い記者がいたのだから。
 北康利、1960~。まだ若いので、今後にも期待したい。

0740/読書メモ-小林よしのり・天皇論、西村幸祐責任編集・世界を愛した日本(オークラ出版)+辻村みよ子。

 〇今月6/05(金)~6/07(日)に、小林よしのり・天皇論(小学館、2009)を全読了。為備忘。
 〇辻村みよ子・フランス革命の憲法原理―近代憲法とジャコバン主義日本評論社、1989.07)はずっと以前に入手しているが、読むに至っていない。副題に見られるように「ジャコバン主義」=「モンターニュ派」・ロベスピエールの「主義」を中心とする研究書のはずで、(未施行の)フランス1793年憲法=「ジャコバン」憲法を主対象とする。
 出版年月の1989.07というのは微妙な年月だ。翌年のドイツ再統一(「社会主義」東独の消滅)、翌々年の「社会主義」ソ連解体のあとであれば、こんな副題をもつ研究書を<恥ずかしげもなく>刊行できたかどうか。いわゆる<フランス革命>の過程中の「ジャコバン主義」時代こそ、「人民主権」=「人民民主主義」=「プロレタリア独裁」の実験時で、<早すぎた>がゆえに失敗した、という説明もある(マルクス主義に立つ河野健二ほか)からだ。
 巻末の「主要参考文献一覧」を見て気づくことはルソーやロベスピエールの著作の原典を直接には読んでいないようであることだ。そもそもロベスピエールには知られた著書はないのかもしれないが、ルソーについても、桑原武夫他訳の岩波文庫「社会契約論」が挙げられているだけで、ルソー「人間不平等起源論」は邦訳書であっても上の「一覧」にはない。素人ながら、「ジャコバン主義」の理解に当たって、マルクスの<原始共産制>の叙述を想起させるような(「自然」=「未開」状態の叙述・理解がルソーとマルクスとで全く同様だとの趣旨ではない)「人間不平等起源論」の内容の理解は重要だと思われるのだが。
 また、「反共」主義であっても、ハイエクの著作が挙げられていないことは仕方がないとしても、ハンナ・アレントの著作が何ら挙げられていないことは気になる。
 ハンナ・アレントは「革命について」、「全体主義の起源」といった著作をすでに刊行していて、邦訳書もあった。前者に限れば、1968年(合同出版)、1975年(中央公論社)に邦訳書が出ている。
 そして、上の後者を基礎にしたアレント・革命について(ちくま学芸文庫、1995。志水速雄訳)の「解説」者・川崎修によると、この本は「アメリカ独立革命とフランス革命との比較史的研究」であり、アレントはマルクス主義によるフランス革命解釈(「逆算」)から「解放」したのではなく、マルクス主義によるフランス革命解釈=後からの「逆算」的解釈を「転倒」させただけの、「かなりの程度マルクス主義的に理解されたフランス革命への批判」をした、とある程度は批判的なコメントもある。
 アレントのフランス革命論又は川崎修のその「解釈」の当否はともあれ、フランス革命理解にとって、ハンナ・アレントの著作は1980年以前においてすでに看過できないものになっていたのではないのだろうか。
 「修正主義」への言及も冒頭にはあり、F・フュレの原著も参考文献に挙げられてはいるが、辻村みよ子の上の著は、所詮は<主流派>=マルクス主義的解釈によるフランス革命・「ジャコバン主義」論を土台にし、かつそれを支持したうえでのもののような気がしてならない。
 〇西村幸祐責任編集・世界を愛した日本(オークラ出版・撃論ムック、2009)も、「中学歴史教科書2009年度版徹底比較」(全読了)を含めてすでにある程度は読了。
 表紙に「『諸君!』さらばと言おう。」と大きくあるが、中身には、雑誌「諸君!」に関する記事・論考が一つもないのはどういうわけか。あまり遊んでもらっても困る。

0739/佐伯啓思・大転換(NTT出版、2009)におけるハイエク。

 すでに多少は触れたが、佐伯啓思・大転換(NTT出版)における、日本の「構造改革」とハイエクとの関係等についての叙述。
 ・「ハイエクの基本的考え方と、シカゴ学派のアメリカ経済学の間には、実は大きな開きがある」。
 ・たしかに「ハイエクは市場競争の重要性を説いた」。その理由は「市場は資源配分上効率的」、「消費者の満足を高める」、ではない。
 ・理由の第一は、「市場制度は…自然発生的に生成し、自生的に成長していく…。だからそれを政府が無理にコントロールしたり、造り替えたりすることはできない」ということ。市場は「自生的に成長する」ために「耐久力をもち、安全性を備えている」。この点で「市場は優れている」というのがハイエクの一つの論点だった。
 ・市場はただ人々の自己利益追求の交換場所ではなく「法や慣習といったルールに守られた制度」で、「人々が信頼できるだけの安定性」をもつ。「公正価格」・「適正価格」という「社会的・慣行的」なものも「制度」に含まれる。従って政府が市場を「意のままにコントロール」したり「急激に改変」しようとすれば背後の「制度や慣行」にまで手をつけざるをえない。それは「市場経済を不安定化」する。政府は市場への「無理な介入」をすべきではない。
 ・要するにハイエクの「市場経済擁護論」は「市場経済は長持ちのする信頼に足る制度」だとの主張で、それを「自生的秩序」と呼んだ。ハイエクのいう「市場」とは「市場競争システム」ではなく「市場秩序」だった。
 ・第二の理由は、「市場秩序」は「社会全体についての情報を必要としない」ことだ。人々は本質的に限られた情報しか持てず「社会全体や経済全体」の情報を持たないし関心もない。従っていかに「合理的」に行動しても「合理性」の程度には限界がある。
 ・市場は「自分にしか」関心がない者が集まっても「何とかうまくゆくようにできている」。「ルールや制度も含めて」「慣性的な安定性」をもち、特定の人間・グループが「市場を大きく動かす」ことはない。
 ・人々は「自分にかかわる」知識・情報をもち「非合理的に行動」してよい。「システム全体についての合理的な知識」は不要で、「多少誤ってもよい」「局所的知識」で十分だ。
 ・要するに、市場は「いささか非合理的で誤りうる人間」が活動しても「決してゆらぎはしない」。それは、「人々の情報や知識が限定」され「間違うかもしれない」との前提に立つ。これも「市場秩序」が優れている理由だ。
 ・以上がハイエクの「市場擁護論」で、フリードマンらの論と「かなり違っている」。
 ・経済学者は通常、「資源配分上、効率的」、「消費者の効用を最大限」化する、その場合人々は「合理的に行動し」「システム全体についての合理的な知識」すら持つに至る、と「市場を擁護する」。ハイエクはそうは言わない。彼にとって「市場秩序が優れている」のは信頼できる「自生的秩序」として「安定している」からだ。「自生的秩序」としての市場は、人々の誤りや非合理性からの「ゆらぎ」を「うまく吸収」してしまう「安定性」を持つ、とするのだ。
 ・だからハイエクは、「自然に歴史的に生成してきた秩序」を破壊し「新たにシステムを設計」できるとの「設計主義」(constructivism)を「痛烈に批判する」。その際にハイエクは「社会主義のような計画経済」を想定したが、「構造改革」も、ハイエクからすれば「一種の設計主義」だろう。
 ・「経済的利益追求」の背後には「広い意味でのルールの体系、…制度や法や慣行」があり、人々はじつはそれを「頼りに行動」している。これこそがハイエクにとっての「重要な点」だ。従って、既成の「制度や慣行をいきなり変更する」ことは「自生的秩序」を破壊することで、システムの合理的設計という「設計主義」と同じだ。それは「市場秩序への人々の信頼感を損なう」と、かかる「理性万能主義」をハイエクは攻撃した。
 ・とすると、「ある国の経済制度や慣行を一気に破壊して、合理的な経済システムに変更」すべきとの「構造改革」は「ハイエクの精神」と対立している。かかる「合理的な設計的態度こそ」ハイエクが嫌悪したものだ。
 ・シカゴ学派経済学とハイエクは「基本的なところでまったく違っている」。「フリードマンとハイエクを同列に置くことはできない」。
 以上、p.185-8。
 「意のままにコントロール」、「急激に改変」、「いきなり変更」、「一気に破壊」という場合の「意のままに」、「急激に」、「いきなり」又は「一気に」か否かは容易に判別できるのか、という疑問も生じるが、とりあえず、趣旨は理解できる。

0723/カール・ポランニー「ファシズムの本質」等、佐伯啓思。

 〇 週刊エコノミスト5/5・12合併号(毎日新聞社)で、佐伯啓思がインタビューに答えて、同・大転換-脱成長社会へ(NTT出版)の要旨のようなことを述べている。最近に言及した読売新聞の記事より詳しい。
 全く余計だが、同誌同号の巻頭の斉藤貴男のコラムは東京都の五輪誘致活動につき石原都政が「切り捨てた福祉や教育、小児医療等」の予算を財源とする「許されざるカネ儲けの典型」と批判。さらに、石原慎太郎は「何かと言えば戦争だ戦争だと喚き立て、女性や在日外国人や障害者や、社会的弱者に罵詈雑言を浴びせては居直った」等とそれこそ<罵詈雑言>を浴びせている。九条2項護持派・「左翼」は石原慎太郎のやることはみんな憎いのだろう。毎日新聞は朝日新聞の亜流、第二朝日新聞なのかもしれないが、その発行する雑誌の巻頭には、もう少しはまともな神経の持ち主の、上品な文章を掲載してほしいものだ。
 〇 佐伯啓思・大転換(NTT出版)の書名が、カール・ポランニー(1886~1964)の『大転換』に倣っている又はヒントを得ていることは、佐伯も記している。
 その『大転換』ではなくカール・ポランニー・経済の文明史(ちくま学芸文庫、2003。初出単行本は1975)の訳者・平野健一郎「あとがき」によると、ポランニーは「社会主義者」だっともされるが大学卒業後にハンガリー急進党書記長を務めたほかは「非政治的」だった(p.416)。但し、ソ連のフシチョフに「人間的社会主義」を見い出して「平和共存」のための理論誌の創刊を複数の者とともに企図した(没後刊行)とされる(p.418)。『大転換』の刊行は在米中の1944年。
 上掲書の解説者・佐藤光「解説/ポランニー思想の今日的意義」によると、ポランニーは「社会主義者であった」ともされるが(p.432)、彼へのマルクスの影響は「元来限定的なもので」、『大転換』における資本主義批判は「マルクス主義的」というよりも「ユダヤ=キリスト教的」なものだった(p.434)。また、晩年の著作には、「人間的自由の全面的な実現を過激に求めて失敗したロシアのボルシェビズムをはじめとする思想や運動への、そして、それを支持したかつての自分自身への、苦い反省の思いが込められている」、という(p.440)。そして、上掲書所収の一論文は、「キリスト教にまで行き着く」、「西欧世界に伝統的な個人主義
」を基調として、ファシズムはそれを「踏みにじり」、「社会主義こそがその理想を…実現する」と強調するが、晩年にはそのような「個人主義的理想の事実上の放棄」を説くはずだった、しかし、「愚かさ」を自他に語りつつ「近代的個人主義の理想」は「理想」であり続けたのではないか、とされる(p.440-1)。
 単純ではないポランニーの「思想」が、ある程度は、何となく、わかるような気もする。
 〇 上の上掲書所収の一論文とは「ファシズムの本質」(1935)で、少なくともその一部には、興味深い叙述がある。以下は、翻訳を通じてだが、ポランニーの一部の文章のかなり思い切った(従って厳密さを欠く)要旨又は抜粋。
 ファシズムの「哲学大系」をウィーンのオトマール・シュパンはある程度は作りだしており、その体系の基礎には「反個人主義の観念」がある。「普遍主義」を採るシュパンによると、ボルシェヴィズム(共産主義)は「個人主義」の理念を政治から経済領域へと拡張したもので、マルクスは「完全に個人主義者」・「無政府主義的ユートピアニズムとさえいえるまでに、個人主義的」だ。「歴史的にみれば、民主主義と自由主義を経過して、個人主義はボルシェヴィズムへと到達する」(p.172-3)。
 エルンスト・クリークも、「社会主義」への諸力は「個人主義」的性格をもつとしつつ、一八世紀の個人主義と「社会主義に具現される」個人主義の二段階を語る。クリークによると、社会主義においては個人主義にかかる「重点の移動」が生じるだけだ。そして、「社会主義」は「民主主義」の中で用意されており、「個人主義にほかならない」(p.174-5)。
 ヒトラーも、「西欧民主主義はマルクス主義の先駆」
で、前者なくして後者はない、と言った。ローゼンベルクによっても、「民主主義運動もマルクス主義運動」も「個人の幸福」に立脚する(p.176)。
 ボルシェヴィズムは個人主義の封殺、「個性の終末」とするのがこれまでの社会主義(・共産主義)に対する批判の仕方だったが、ファシズムはかかる「単純な批判派」との連合を拒否し、「社会主義は個人主義を継ぐもの」、「個人主義の実質を保存しうる唯一の経済体制」だと主張して批判する(p.176)。
 「社会主義と資本主義」はいずれも「個人主義の共通の所産」だと非難して、ファシズムはこれら二つの「不倶戴天の敵の姿を装う」(p.179)。
 だが、「社会主義」が拠り所とする「個人主義」と、シュパンが実際に議論の対象とした「個人主義」は全く異なったものだ。そしてたまたま、彼のおかげで、「社会主義とキリスト教が共通にもつ個人主義の意味」が明晰になってくる(p.180)。
 シュパンが主観的には批判しようとするのは「社会主義の内容としての個人主義」で、これは「本質的にキリスト教的」だ。だが、彼が実際に批判しているのは「無神論的な個人主義」だ。「絶対者」との関係を前者は肯定し、後者は否定する。これらを混同すると「有効な」結論には達しない(p.181)。
 「キリスト教的個人主義」と「無神論的個人主義」はまったく反対だ。前者は「神」の存在のゆえに「個々の人格は無限の価値」をもつ、「人間みな同胞」という考え方で、「共同体」の外では「個人の人格」は現実化しない、とする。これ(キリスト教的個人主義)は<社会主義(・共産主義)>と親和的であるのに対して、ファシズムが闘っているのは「人間と社会に関するキリスト教の観念全体」で、「キリスト教とファシズムはまったく両立しない」(p.183-4)。
 以上の程度にしておく。
 ドイツ・ファシズム(ナチス)がまだ敗北していない(そしてソ連「社会主義」は現存した)時代の論文だけに、理解し難い面もある。
 だが、骨格だけを抜き出せば、①ファシズム(ファシスト)は、より一般的な批判の仕方とは違って、「社会主義」は「個人主義」の発展型だと批判する、②たしかに「社会主義」は「個人主義」と親和的だ。③しかし、その場合の「個人主義」は「キリスト教的個人主義」であって、その反対の、ファシズムに親和的な「無神論的個人主義」ではない、ということになろう。
 上記の解説等によるとポランニーは親社会主義的で、ここではファシズムによる批判から社会主義(「ボルシェヴィズム」)を守ろうとしているようだ。その際の決め手は「キリスト教的個人主義」であり、ファシズムはこれに敵対的だとみている。
 さてさて、種々の議論があったものだと、人間の知的営為の蓄積にあらためて感心する。
 そして、まだソ連「社会主義」の実態が明らかになっていない段階で、反資本主義意識のあったポランニーはその「理想」を「社会主義」に求めたかにも見える。だが実際の「社会主義」はキリスト教を含む「宗教」に対して苛酷な態度をとり、かつ実質的には「個人主義」あるいは「個人の尊重」の理念を無視するものだったのではないか。
 また、ファシズムの側が、「近代」への幻滅・批判を前提としてだが、「社会主義」を「近代」個人主義・民主主義を継承するものとして捉えた(そして批判した)という点も、マルクスやレーニンによるルソーやロベスピエールへの肯定的評価を併せ
観ると、一面では的確な見方をしていると考えられ(じつはさらに奥底ではルソー・ロベスピエールの「全体主義」性を継承し発展させたのが「社会主義」だと捉えていたとも理解できる)、この点も興味深いところがある。ポランニー自身も、この1935年の論文では、「社会主義」は近代の「(キリスト教的)個人主義」を継承するものと見ていたのだ。
 「キリスト教」が理解できていないと、欧米の、こうした(社会・政治・経済の)文献は理解し難い面があることもあらためて感じる。

0722/<どっちつかず>で<大勢・体制順応>・<勝ち馬乗り>だった月刊諸君!(文藝春秋)。

 〇佐伯啓思・大転換-脱成長社会へ(NTT出版、2009)を全て読了。この本の出版に気づくのが遅れて、初版第二刷のものだった。
 読売新聞5/18朝刊に、この本の一部(ケインズ等)の内容を佐伯啓思が語る部分を含む記者構成記事が出ている。
 内容と重要度の現代性からいって、注目されてよいし、多くの人々に読まれるのがよい。日本の「構造改革」の背景・内容の批判的分析だけでも(それも「グローバリズム」と無縁ではないが)、現代的かつ<日本的>だ。それにしては、題名が少し<軽い>気もするが…。
 いずれそのうち、一部に言及する。但し、佐伯啓思・日本の愛国心(NTT出版、2008)や同・現代日本のリベラリズム(講談社)等についてそうだったように、全体を紹介・コメントし切れないままで次の本・雑誌・テーマに移ってしまう可能性も高い。
 なお、前回、前々回の名越の中公新書についてもそうだが、この欄に書いて閲覧者の参考に供することを第一次的目的とはしていない。それならば、直接に関係文献を読んでいただく方が早い。
 産経新聞200万、月刊正論6.8万は少ないとか書いたことがあるが、イザ!のこのブログの読者の数は、月6.8万と比べてもはるかに少ない、微々たるもので、何らかの影響力を期待してはいない。
 最低限度、自分の読書録、考えたことのメモ書きとして残しておくことで満足する他はない。
 そうとでも考えておかないと、コスト・パフォーマンスからいってもCBA分析からいっても、「パフォーマンス」はほとんどなく、経済的「ベネフィット(Benefit)」はゼロなのだから、ブログを続けることはできない。所詮は自己満足と割り切る他はないのだ。プラス・アルファがあれば、望外の慶び、というところ。
 〇田母神俊雄・田母神塾-これが誇りある日本の教科書だ(双葉社、2009.03。これも第二刷だ)を2/3ほど読了。内容は新鮮なことばかり、というわけではない。だが、村山談話・河野談話等の全文を(たぶん)正確に掲載している資料欄(左側頁)が役立ちそうだ。資料確認的価値のゆえに座右に置いておいてもよい。
 〇田母神俊雄論文問題に関係するが、あらためて、月刊諸君!(文藝春秋)という雑誌について書く。
 田母神俊雄はその論文の内容ゆえに2008年10月末で事実上の解任・解職を受けた。
 時期的に言って、総合誌・論壇誌が取り上げるとすれば、今年の1月号(原稿締め切りは11月半ばか?)、2月号あたりになる。
 月刊WiLL(ワック)の1月号・2月号の背表紙の大きなタイトルはそれぞれ「総力特集・田母神論文のどこが悪い!」、「総力特集・田母神論文を殺すな!」。前者には田母神の原論文のほか、田母神の「独占手記」、中西輝政・渡部昇一・西村真悟・荒木和博・西尾幹二の各関係論考が並び、後者には田母神と小林よしのりの対談、櫻井よしこ・渡部昇一・潮匡人等の論考がある(秦郁彦の一文も)。
 月刊正論(産経)の1月号は「総力特集・誰も語らぬ田母神問題の本質」と背表紙・表表紙で謳い、やはり田母神の原論文とともに、日下公人・佐藤守・花岡信昭・百地章ら計6人の論考を掲載。同・2月号は背表紙からは外しているが、「続・誰も語らぬ田母神問題の本質」との特集を組んでいて、別宮暖朗・石平・花岡信昭・高森明勅の論考を掲載。
 以上はすべて、結論的には田母神俊雄を擁護する趣旨又はその効果をもつものだ。
 これに対して、月刊諸君!(文藝春秋、編集人・内田博人)はどう対応したか。かつてすでに<傍観者の立場を採った>と書いたような気がする。
 同誌の1月号は「防衛省大研究」と目次中に大きな文字を打ちつつ、塩田潮「自衛隊は『暴走』する」と佐瀬昌盛「田母神論文には、秘められた『救い』がある」の二つの、田母神論文を契機に自衛隊を問題視・疑問視する論考とどちらかといえば擁護する論考の二つを並べた。
 同誌2月号は、保阪正康と黒野耐の「暴発の論理-田母神論文と二・二六事件」と題する対談を用意した。
 同誌4月号では秦郁彦と西尾幹二に対談させているが(その題は「『田母神俊雄=真贋論争』を決着する/重鎮・直接対決!」)、「捨て身の問題提起か、ただの目立ちたがりか」とのキャッチ・コピー文を付けている。
 かくのごとく、月刊WiLL(ワック)・月刊正論(産経)と月刊諸君!(文藝春秋)とでは、田母神問題に関する立場・スタンスが全く異なっていた、と言ってよい。
 月刊諸君!(文藝春秋)のよく言えばジャーナリスティックな、悪く言えば<やじ馬根性>ぶりは、田母神俊雄について「ただの目立ちたがりか」と書いて、そうである可能性を否定していないことでも明らかだ。
 要するに、月刊諸君!(文藝春秋)は<どっちつかず>の立場を採ったのだ。文藝春秋本誌を確認しないが、月刊諸君!ほどにも、問題自体をとりあげなかっただろう。
 なお、月刊現代(講談社)今年1月号は最終号で、石原慎太郎批判(佐野眞一)を巻頭に置き、立花隆・保阪正康・斉藤貴男等々の文章を載せつつも、田母神俊雄論文に触れる論考は一つもない。
 月刊諸君!(文藝春秋)の最終号で、<保守派>雑誌の一つの消滅を惜しむ文章が多数並んでいた。(株)文藝春秋からの原稿料・印税による、あるいは顕名化(著書発行等による有名人化)による利得者たちは、(株)文藝春秋発行の雑誌を無碍に批判することはできなかったのだろう。
 だが、少なくとも近年の月刊諸君!(文藝春秋)はまともな<保守派>の雑誌だったのか
 <保守>か否か(「左翼」か)の基準にはいくつかの考え方があるだろうが、<東京裁判史観>に批判的であるか、そうでないか、との対立軸を少なくともその一つとして立てるという考え方・整理の仕方はひどく乱暴なわけではないだろう。
 上の基準からすると、そもそも近年の月刊諸君!(文藝春秋)は<保守>ではなかった。(皇室問題とともに)テーマとして取り上げることだけはして読者の興味を惹く、「ただの目立ちたがり」ではなかったのか。
 だが、結果的には「村山談話」=東京裁判史観に対する疑問を公にしてはならない、とのスタンスに、浜田靖一防衛相・麻生太郎首相をはじめ自民党の国会議員のかなりの部分が立っていたと見られるのは、何度も書くが、<左翼ファシズム>の成立を思わせ、気味が悪く、怖さを感じるものだった。
 上掲の田母神俊雄・田母神塾(双葉社)でも触れられているが、石原伸晃もまた田母神批判者だった(p.98)。
 録画していないが、ほとんど観ていない夜の某テレビ番組で(たぶん12月)、石原伸晃は田母神俊雄論文問題発覚の際に、<自衛隊の(言論)クーデター>を連想した旨を述べた。山本一太とかのテレビによく登場する若手議員も平沢勝栄も、同席していた民主党議員に比べて、口数は少なく、更迭・(実質的)解職に対する批判的な言葉は一つもなかった(唯一、擁護的な発言をしたのは、読売出身の評論家・三宅久之だった)。
 田母神俊雄が上掲書で言うように、「自民党はもはや保守政党とは言えない」(見出し、p.96)のだろう(といって、他により「保守的な」政党があるわけではない。いや、国民新党は?
)。
 石原伸晃の「クーデター」という感覚はヒドいものだと思うが(私もそうではあるが、二・二六事件等を現実に知らない世代の者が、簡単にこんな概念を使うべきではない)、その感覚は、月刊諸君!(文藝春秋)の、上記のような、この雑誌の編集者が選択したと思われる、「暴発」・「暴走」という言葉にも通底していると考えられる。
 <文民>に従わない軍部(・自衛隊)の「暴発」・「暴走」を許すな>との、「戦後民主主義」的な、暗黙の考え方・意識に、自民党国会議員の大勢や月刊諸君!(文藝春秋)もまた陥ったままであるかに見える。自民党国会議員の「大勢」というのが適切だとすれば、月刊諸君!(文藝春秋)は、結局は、少数派になることを恐れる、ただの<大勢・体制順応>・<勝ち馬乗り>の雑誌ではなかったか、(株)文藝春秋も結局は、そういう出版社ではないか、と感じている。
 もっとも産経新聞は最近、半藤一利雨宮処凜という明確な「左翼」(九条護持派)を登場させたりしているので、(株)文藝春秋だけを批判してもほとんど意味がない。怖ろしい時代だ。佐伯啓思の本を読んでいるのは、知的刺激もあり、<イデオロギー>過剰では全くないので、なかなかの楽しい時間だが。

0689/中谷巌、野口悠紀夫の最近の論述の一部-週刊ダイアモンド・週刊東洋経済。

 〇中谷巌は、同・資本主義はなぜ自壊したのか(集英社)で、「新自由主義」は「間違っていた」と自己批判して注目されているらしい(未読)。
 まだ「自壊した」とは言えないと思うが、それはともあれ、週刊ダイアモンド3/21号(ダイアモンド社、2009)で中谷はこんなことを語っている。p.65。
 ・「非正規」も含めて人材は切るべきでない。貧困層を切り捨てるのが「欧米型」で、「みんなで痛みを分けて乗り切ろう」というのが日本型。
 ・「明治維新以降、日本は必要以上に自国を卑下し、西洋を追いかけてきたが、そろそろ間違いに気づくべきだ」。
 「談」らしいので厳密には語っていないことを割り引いても、前者のような対比は単純過ぎるような気がする。何よりも、後者の言い分には驚いた。「必要以上に自国を卑下し、西洋を追いかけてきた」という「間違いに気づくべきだ」と言う。明示的ではないが、ひょっとして、「必要以上に自国を卑下し、西洋を追いかけてきた」意識を持っていたのは中谷巌本人なのではないか。「そろそろ…気づくべきだ」という文からは多くの他人はまだ気づいていないかの如きだが、はたしてそうなのだろうか。
 中谷巌が属している経済学を含む大学、あるいは(戦後)日本のアカデミズムの世界こそ、「必要以上に自国を卑下し、西洋を追いかけてきた」という「間違い」を継続してきたのではなかろうか。
 〇同じ週刊ダイアモンド3/21号の連載欄では、野口悠紀夫が以下のようなことを語る。p.140-1。
 日本で行われた「半国有状態での銀行への資本注入」も、「…金融システムを防止」したと肯定的に評価されているが、(アメリカの近時のそれと同じく)「レモン社会主義」で、問題にされるべきだった。戦後日本の金融行政(護送船団方式)自体も「弱い銀行を守るという建前に隠れて、強い銀行が利益を得る」という意味で「レモン社会主義」だった。
 ここで「レモン」とは、<腐っていても外からは見えない>の意で、本当に救済できるか判らないままの企業(銀行)の経営実態を指すものと思われる。そして、アメリカでは、国有化と半国有化は納税者から見ると、失敗したときに負担をかぶる点では共通するが、成功したときには「現在の株主」のみが利益を得る、という点で異なる、そこで銀行への公的資金投入に対して共和党は「納税者負担」の観点から反対し、「リベラル」も「株主〔のみ〕が再建の利益を得る可能性がある」から反対している、と野口は言う。
 以上のあとで、野口はこう述べる。
 ・「今から考えれば、日本の議論は(私のも含めて)底が浅かった」。「銀行が破綻すると混乱が起こるから…救済する必要」ありとの議論と、「納税者の負担になるから望ましくない」との議論しかなかった。
 ・「リベラル」自任者は、「国有化しない銀行に対する資本注入は、資本家に不当に有利」という議論をすべきだった。
 ・「アメリカ型資本主義はダメ」という議論では、「浅さは変わらない」。
 ・アメリカは日本がしたこと(半国有化方式)をするだろうが、「レモン」であることを認識している点で、日本とは異なる。
 ・昔から日米の違いは「政治と大学」だと思ってきた。「今金融危機をめぐる議論を見て、その観を強くする。これは深い敗北感である」。
 以上、野口が「私のも含めて」日本の議論は「浅かった」とし、アメリカと比べての「深い敗北感」を覚える、と明言しているのは、興味深いし、メモしておくに値するだろう。
 〇野口悠紀夫は、週刊東洋経済3/21号(東洋経済新報社、2009)ではこんなことを書く。連載ものの大きなタイトルは「変貌をとげた世界経済/変われなかったニッポン」で、「世界」に比べて「変化」又は「改革」が日本には足りないとの旨が含まれていそうだ。この回(第22回)のタイトルは「サッチャーとレーガンの経済改革が世界を変えた」。
 ・サッチャー改革は、抽象的には「大きな政府」・「福祉国家」・「ケインズ主義」の「見直し、ないしは否定」。評価は異なっても、この改革が「現実を大きく変えた」ことは否定できない。
 ・「今、その行き過ぎに対する批判が生じている」。ではサッチャー以前に戻ろうとするのか? 結論的には、イギリス、アメリカ、アイルランドは「進みすぎ」、日本、ドイツは「変わらなさすぎた」。問題はどちらにもあった。
 ・「小泉郵政改革」は「サッチャー、レーガンの延長線上のもの」とは「私には…思われない」。小泉以前に郵政は公社化されていて、公社を会社形態にしただけ。財政投融資制度にかかわる「カネ」の流れの変化も「小泉改革」の以前から。
 このあと英米の「改革」に関する叙述があるが、日本の、とくに「小泉改革」又は「構造改革」の分析等?はたぶん次号以降になりそうだ。
 さて、朝日新聞、産経新聞等のマスメディア、とくに民主党・社民党といった野党政党、そして評論家(論壇人?)たちは、小泉純一郎首相時代(その前の森・小渕・橋本まで遡ってもよいが)、むろん個別論点ごとでよいのだが、政府の<経済(・金融)政策>に―財政が絡むと<福祉>を含む政策全般になる―どのような主張をしてきたのだったのだろうか。当時にしていない主張を今になってしている、当時主張していたことと真逆のことを今は主張している、ということはないだろうか。

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