秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

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法律・司法

2611/審査請求認容答申(・裁決)の一例③。

 行政不服審査法による審査請求にかかる認容答申(・裁決)の実例。つづき。太字化は掲載者。
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 第五 審査会の判断
 2 判断とその理由
 ((1)のつづき) 
 (2)本件処分の内容とそれに至る判断過程について
  本件弁明書は、上記のとおり本件診断書「⑱日常生活における動作の障害程度」の記載から第一に、「屋外での生活制限はあるが屋内ではほぼ日常生活ができる状態と考えられる」とし、また、審査請求人の主張に対して「日常生活が著しい制限を受ける」とまでは言えない、第二に、「一人では全くできないとする項目もあるが、年齢が○歳ということで年齢的にできない可能性もあり判断できない」と記述し、よって施行令別表が定める二級の要件に該当しない、と結論づけている。
 以下、これら二点の判断の適否について、まず検討する。
 第一に、本件診断書⑱の記載から「屋外での生活制限はあるが屋内ではほぼ日常生活ができる状態と考えられる」と判断するのは、つぎの理由により、合理的なものであるかは疑わしい。同じことは結果として、「日常生活が著しい制限を受ける、とまでは言えない」という判断についても言える。
 項目⑱は「日常生活における動作」の計17項目について、状態が良い場合の「一人でもうまくできる場合には○と記載する」から状態が悪い場合の「一人では全くできない場合には×と記載する」までの4段階評価で診断結果を記載している。
 そのうち、本件児童については、最も状態が悪い「×」(「一人では全くできない場合」)と診断された項目が、半数を超える10項目もある(右・左の肢体部分に分けて記載されている場合は両者ともに×である場合に限る)。17項目のうちほとんどが「屋内」でも行われる動作であることをも考慮すれば(明確に「屋外」の動作は第17項のみである)、「屋外での生活制限はあるが屋内ではほぼ日常生活ができる状態と考えられる」とするのは、合理的な判断であるとは言い難い。
 第二に、「一人では全くできないとする項目もあるが、年齢が<省略>歳ということで年齢的にできない可能性もあり判断できない」とするのも、つぎの理由により、本件処分を正当化する理由にはならない、と言うべきである。
 すなわち、これは障害によるのか年齢によるのかいずれであるのかが判断できない、という趣旨だと解されるが、障害による可能性があることを全く否定しているわけではない。したがって、項目⑱における診断結果について年齢による影響がある可能性を全く無視することがかりにできないとしても、法令が定める2級の要件に該当しないとする理由にはなり得ない。
 なお、平成30年7月19日付の処分庁回答書第二(本答申の後掲参照)は、前記第二として引用した部分が、平成28年8月23日に判定医から行った「聴取」の結果を反映したものだとするが、かりにそのとおりだとしても、上述のとおり、前記の弁明書記載の部分では、本件処分を正当視する理由にはなり得ない。

  (ⅰ)審理員意見書が本件児童の症状について示していると判断することのできる「解釈」は、つぎの理由により、採用できない
 処分庁が作成して提出した本件別紙は判定医からの処分庁による「聴取」内容について、障害によるのか年齢によるのか「現時点では判別できないことから非該当とした」、と最終的にまとめている。さらに、審理員意見書は、この部分について、「症状が固定したとは言えない、ということを述べていると解釈される」と記している。
 まず、上の前者の叙述は処分庁が平成28年8月23日に判定医から行った「聴取」の内容を、保存されている聞き取りメモおよび担当市への連絡メモとともに担当者の記憶をもとに作成されたものであり、しかも処分庁の担当者は聞き取りから一年半も経過した平成30年2月9日に文書化してまとめて審理員に提出したものである。したがって、この文書の記載内容がはたして本件判定医自身が診断書作成時に説明した内容をそのままに反映しているか否かが疑わしく、当該部分の正確さをそのままに信頼することはにわかにはできない。
 また、その正確さを相当に信頼するとしても、その意味するところは十分に明確なものではない。
 すなわち、障害によるのか年齢によるのか「現時点では判別できないことから非該当とした」ということは「判別」できなければ「非該当」にすることができるということを論理的な前提にしているが、判定医自身が作成した文章であればともかく、当該判定医が本当にそのような前提に立って「聴取」に応じたのかについては、なお疑問が残る。
 したがって、審理員意見書がこの部分について行っている、判定医は「症状が固定したとは言えない、ということを述べている」という「解釈」もまた、ただちに採用することができるものではない、と言うべきである。
 また、審理員意見書は、このような「解釈」を前提として、本件児童が法2条1項にいう「障害の状態にある者」に該当しない、又はその症状が別紙認定要領の2(1)にいう「障害が固定した」とは言えない、と推論しているように解される(必ずしも明白ではないところはある)。しかし、かりにそうだとしても、そのようにただちに結論づけることもできない。
 むしろ、その他の多くの資料は、本件児童には「障害」があることを前提として記述され、作成されていることは、つぎに述べるとおりである。
 例えば、第一に、本件処分も、本件弁明書も、審理員意見書とは異なり、前提として上のような「解釈」、すなわち「症状が固定したとは言えない」とする「解釈」を採用していない。
 第二に、小児神経科の専門医師である診断医が本件原診断書において、本件児童につき、項目①「障害の原因となった傷病名」として「<省略>」という旨を手書により記載等をしており、判定医もこれを前提としているごとくである。
 第三に、判定医は、処分庁作成・提出の「本件別紙」において、「聴取」された内容として、「2級の基準に該当すると考えられる」とも述べており、この部分は、本件児童は「障害」の状態にあることを前提としている。
 第四に、審査請求人が審査請求時に提出した平成28年10月○○日付の別件診断書において、当該文書の作成者・記載者である専門医師は、本件児童の障害名について「<省略>」、その「原因となった疾病・外傷名」について「<省略>」と手書で明記している。
 (ⅱ)なお、審理員意見書は、上のように「解釈される」と記しつつ、そのあとで、本件児童が認定基準第二の(3)が定める2級の基準に該当しないこと、および認定基準第一が確認的に記している、施行令別表の「二級/十五号」が定める2級該当の要件を充足していない旨を、何らの条件や留保をつけることなく、つづけて述べている。
 しかしながら、対象児童の症状が別紙認定要領の2(1)にいう「障害が固定した」ものではなく法2条1項にいう「障害の状態にある者」に該当しないのであれば、そもそも障害の程度が2級に該当するか否かを問題にする必要はないのであり、審理員意見書が「障害」であること自体を否定すると解される「解釈」に言及しながら、同時にいわば並列的に、障害の程度、すなわち2級該当性を問題にしているのは、論理的に矛盾している。
 また、審理員意見書がその判断理由の中で「認定基準第二」の(3)に言及しながら、また、「本件にかかる法令等の規定」の中に「認定基準第二」の(2)を含めているにもかかわらず、その具体的な認定に直接に関係する同(4)や(5)にまったく論及していないのは、きわめて奇妙である

  本件弁明書が述べる本件処分の理由では本件処分、つまり2級に該当しないという根拠を説明することができない、ということはアで述べた。
 さらに進んで、2級に該当するか否か(2級該当性)について、本件弁明書または審理員意見書が言及しておらず、考慮していない要素等がなかったのかどうか、また、考慮すべき要素または事情または資料があったとすれば、それらはどのように考慮することが少なくとも可能であったか、について検討する。
 まず、つぎの二つの専門医師による本件児童にかかる診断書類がある。
 第一に、本件診断書における診断医師による診断の項目「⑱日常生活における動作の障害程度」において、すでに言及したように、計17項目の動作のうち10項目が最も状態が悪い、「一人では全くできない場合」に該当する「×」と診断されている。
 また、同本件診断書「㉒現症時の日常生活活動能力」の項においては、「日常生活の一部において同年令の児より、やや多く介助、援助を要す」と記載され、同「㉓予後」において、「今後も麻痺は残存し、継続的なリハビリ、介助を要す」と記載されている。
 第二に、別件診断書は、「3/動作・活動」において「自立―○」、「半介助―△」、「全介助又は不能―×」までの3段階評価で、計18項目に関する診断結果を示しているが、計18項目のうち「自立―○」は3、左右で「自立―○」と「半介助―△」が分かれているのは1、「半介助―△」が3、左右で「半介助―△」と「全介助又は不能―×」が分かれているのは4、「全介助又は不能―×」が7であって、障害の程度は決して軽いものではないことがうかがえる。
 しかも、この「診断書・意見書」は対象児童が○歳8か月に当たる平成28年10月○○日に作成されており、対象児童が○歳4か月に当たる同年6月○○日に作成された本件診断書から約4か月後のものである。それにもかかわらず、「自立―○」と診断された項目が3項目、(左)が「自立―○」、(右)が「半介助―△」と診断された項目が1項目に留まっている。
 また、後掲の対比表のとおり、本件診断書とこれを詳細に比較対照させてみると、同一のまたはほぼ同一の項目について、「寛解」が2項目、「差なし」が3項目であるのに対して、「差なしまたは悪化」が2項目、「悪化」が4項目存在している。このように児童が成長とともに可能な動作が増える時期であると考えられる4か月間においても、本件児童について上記障害が寛解したとみられる事項が増えていないことが明らかである。 
  本件診断書と別件診断書の対比表
   <省略>
 なお、この別件診断書は本件処分時に処分庁が知り得たものではないが、本件診断書の内容にもとづいてつぎに言及する認定基準第二の定めを十分に考慮するならば、本件児童の症状が客観的にはこのようなものであることをより正確に判断することができ、異なる内容の処分に至った可能性が十分にあった、と言うことができる。

  つぎに、本件に関係する定めが、認定基準第二の(2)~(5)にある。既述のとおり、本件弁明書はこれに全く言及しておらず、審理員意見書は判断理由中で同(3)を、それが定める要件に該当しないとする結論だけを示すために言及し、本件関係法令等の記載の中で同(2)の規定内容だけを記している。
 認定基準第二の(3)は「一部例示すると」として、つぎのものは2級に該当するとする。
 ①一上肢及び一下肢の機能に相当程度の障害を残すもの」、②「四肢に機能障害を残すもの」。
 同(5)は「身体機能の障害の程度と日常生活における動作の障害との関係」を「参考として示すと」として、その「イ」で「機能に相当程度の障害を残すもの」とは、「日常生活における動作の多くが『1人で全くできない場合』又は日常生活における動作のほとんどが『1人でできるが非常に不自由な場合』をいう」と記述する。また、「ウ」で 「機能障害を残すもの」とは、「日常生活における動作の一部が『1人で全くできない場合』又はほとんどが『1人でできてもやや不自由な場合』をいう」と記述する。
 また、(4)は、「日常生活における動作と身体機能との関連」は厳密に区別できないとしつつ「おおむね」として、その関連性を判断する際の考慮要素を大きく三分しつつ計16項目列挙している。
 これらは(同(2)も含めて)、本件児童が2級の要件を充足するか否か(2級該当性)に明らかに関係する定めであるが、処分庁弁明書はいっさい言及しておらず、審理員意見書も、上記のとおりの趣旨で(2)と(3)に言及するにすぎない。
 そして、さらに立ち入れば、(4)で列挙される16項目について本件診断書の⑱項で用いられている4段階の診断基準を適用すれば、ほぼ類似の結果に至るのであって、かつ、(5)で定義されているような(2)が定める一般的な要件を充たしている可能性が十分にあることを否定することはできない。
 もちろん、これらの定めは、(施行令別表の一部を確認的に再述していると見られる認定基準第一とも異なり)法令上の定めではなく、かつ(2)は「~を総合的に認定するとし」、それ以降も「一部例示」、「参考」、「おおむね」等と明記されているように、これらを形式的、機械的に適用することが想定され、また要求されているものではない。
 しかし、処分庁の本件弁明書はこれらにいっさい言及してはいないこと(なお、審理員意見書も同じであること)からすると、本件処分にあたってもいっさい又はほとんど考慮されていない、と判断することができる。もとより本件弁明書や審理員意見書が認定基準第二の法的性格に鑑みて、これらをいっさい無視することができると主張することがまったく不可能ではないとしても、処分庁は(審理員意見書も)「関係法令等」の中に認定基準第二等を明確に含めている。
 そして、そのような認定基準第二等への考慮を欠いて行われた、とりわけ認定基準第二の(2)・(3)の具体的適用の仕方や(4)・(5)の具体的定めの意味内容への考慮を欠く本件処分は、意味内容やそれらの適用を考慮すべき条項の一部を考慮していないものとして、その判断過程には大きな瑕疵があったというべきである

 (3)結論
 以上により、(1)の理由付記の不備という違法性が本件処分の取消し事由になるかという検討をするまでもなく、(2)のイで言及した審理員意見書の一つの「解釈」は採用し難いことを前提としたうえで、とりわけ同(2)のアとエで述べた点において、本件処分の判断過程は適正かつ合理的なものではなく、その結論もまたそのような判断にもとづく点において違法である。そして、この違法性は、ただちに本件処分の取消し事由になる。

 (4)付言
 本件処分の違法性または不当性に直接に関係するものではないが、審理員意見書作成にいたるまでの、本件審査請求にかかる審理過程には、少なくともつぎの二点について明瞭な瑕疵がある、と判断することができるので、併せて、付記する。
 第一に、処分庁弁明書は、審査請求書添付の「身体障害者診断書・意見書」を、申請時に添付していなかったことを理由にして(審査請求にかかる審理の)「対象ではない」として無視しているが、この文書のこうした扱いは違法である
 審査請求人は、行政不服審査法30条1項にいう処分庁の弁明書に対する「反論書」とは別に同法32条1項が認めるように「証拠書類又は証拠物」を提出できるのであり、これは審査請求にかかる処分の申請時に提出されていたかどうかに関係はない。
 第二に、審理員が処分庁提出の本件別紙について審査請求人に閲覧等の機会を与えず(従ってそれに対する反論・反証の機会を与えないままで)審理対象・審理資料としていることは、違法である
 行政不服審査法32条2項および同38条1項以下によれば、32条2項により処分庁から提出された「当該処分の理由となる事実を証する書類その他の物件」について審査請求人は閲覧又は交付を求めることができ、この求めがあれば原則としてこれを拒むことができない、とされている。
 そして、この証拠書類等閲覧・交付を求める手続上の権利を行使することができるためには、処分庁から証拠書類等が提出されたことを先ず審査請求人は通知される必要があると解されるところ、本件における審理過程 では、この通知は何らなされず、したがって審査請求人には本件別紙に対する反論等の機会は与えられなかった、と認定することができる。
 さらに、関連して追記すれば、上記32条2項による処分庁から審理員に対する証拠書類等の提出は審理にかかわる重要な行為であるにもかかわらず、本件別紙については提出と受領の日を本件処分庁も本件審理員もそれぞれ明確に記録していないことがうかがえる(部会長からの回答要請に対する回答書第一)。
 このような本件別紙に関する文書管理等はじつに杜撰であって、そもそも、本件別紙の提出がもつ法的意味を、両者ともに全く認識していなかった可能性が十分にあると推測される。

 付・調査審議の経過
 平成30年 6月11日  諮問書の受領
 平成30年 6月13日  審査関係人に対する主張書面等の提出期限通知
  主張書面等の提出期限:6月27日
   (口頭意見陳述申立期限:6月27日)
 平成30年 6月28日 第1回審議
 平成30年 7月 2日 審査会(部会長)から審査庁に対し回答の求め
 平成30年 7月 5日 審査庁が審査会に対して回答書(子家第1899号)を提出(回答書第一。)
 平成30年 7月18日 審査会(部会長)から審査庁に対し回答の求め
 平成30年 7月19日 審査庁が審査会に対して回答書(子家第2007)を提出(回答書第二。)
 平成30年 7月27日 第2回審議
 平成30年 8月28日 第3回審議
 平成30年 9月28日 第4回審議
 平成30年 DD月 FF日 第5回審議、答申内容決定
  以上

 平成30年 GG月 HH日
 大阪府行政不服審査会第○部会
  委員(部会長)XX
  委員     YY
  委員     ZZ
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 以上。
 この事案につき、処分庁の弁明書、審理員意見書、審査庁の意見にほとんど添った(請求棄却の)審査会答申案を作成し、審査会の審議以前に全委員に配布していたのは、審査会の事務の担当者の一人の近藤富美子、これを指示し、かつ容認・事前了解していたのは、法規課長の松下祥子(いずれも当時)。
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2610/審査請求認容答申(・裁決)の一例②。

 行政不服審査法による審査請求にかかる認容答申(・裁決)の実例。つづき。
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 第五 審査会の判断
 1 法令等の規定
 本件処分庁および審理員において、本件に関係する法令等の定めの摘示は十全のものではないと判断されるので、あらためて全てを列挙し、正確に引用する。
 (1)特別児童扶養手当等の支給に関する法律(昭和39年法律第134号)(以下、「法」という。)
 第2条第1項「この法律において『障害児』とは、二十歳未満であつて、第五項に規定する障害等級に該当する程度の障害の状態にある者をいう。」
 同条第5項「障害等級は、障害の程度に応じて重度のものから一級及び二級とし、各級の障害の状態は、政令で定める。」
 第3条第1項「国は、障害児の父若しくは母がその障害児を監護するとき、又は父母がないか若しくは父母が監護しない場合において、当該障害児の父母以外の者がその障害児を養育する(その障害児と同居して、これを監護し、かつ、その生計を維持することをいう。以下同じ。)ときは、その父若しくは母又はその養育者に対し、特別児童扶養手当(以下この章において「手当」という。)を支給する。」
 (2)ア 特別児童扶養手当等の支給に関する法律施行令(昭和50年政令第207号)(以下、「法施行令」という。)
 第1条第3項「法第二条第五項に規定する障害等級の各級の障害の状態は、別表第三に定めるとおりとする。」
 イ 法施行令・別表第三(第一条関係)(以下、「施行令別表」とい う。)
   <省略>
 (3)特別児童扶養手当等の支給に関する法律施行令別表第三における障害の認定について(昭和50年9月5日付け児発第576号厚生省児童家庭局長通知)
 同・別紙/特別児童扶養手当等の支給に関する法律施行令別表第三における障害の認定要領(つぎに記載部分にかぎり、以下、「別紙認定要領」という。)
 「1 この要領は、特別児童扶養手当等の支給に関する法律施行令(昭和五十年七月四日政令第二百七号。以下「令」という。)別表第三に該当する程度の障害の認定基準を定めたものであること。
 2 障害の認定については、次によること。
 (1)法第二条第一項にいう「障害の状態」とは、精神又は身体に令別表第三に該当する程度の障害があり、障害の原因となった傷病がなおった状態又は症状が固定した状態をいうものであること。なお、「傷病がなおった」については、器質的欠損若しくは変形又後遺症を残していても、医学的にその傷病がなおれば、そのときをもって「なおった」ものとし、「症状が固定した」については、症状が安定するか若しくは回復する可能性が少なくなったとき又は傷病にかかわりなく障害の状態が固定したときをいうものであり、慢性疾患等で障害の原因となった傷病がなおらないものについては、その症状が安静を必要とし、当該医療効果が少なくなったときをいうものであること。
 (6)各傷病についての障害の認定は、別添1「障害程度認定基準」により行うこと。
 3 障害の状態を審査する医師について
 (1)都道府県又は指定都市においては、児童の障害の状態を審査するために必要な医師を置くこと。」
 (4)別紙認定要領・別添1/特別児童扶養手当/障害程度認定基準
 第6節/肢体の障害
 第4/肢体の機能の障害
 1/認定基準(この1を以下、「認定基準第一」という。)
 肢体の機能の障害については、次のとおりである。
  <省略>
 2/認定要領(この2を以下、「認定基準第二」という。)
 (1)(本答申において、省略)
 (2)肢体の機能の障害の程度は、関節可動域、筋力、巧緻性、速さ、耐久性を考慮し、日常生活における動作の状態から身体機能を総合的に認定する。
 なお、他動可動域による評価が適切でないもの(例えば、末梢神経損傷を原因として関節を可動させる筋が弛緩性の麻痺となっているもの)については、筋力、巧緻性、速さ、耐久性を考慮し、日常生活における動作の状態から身体機能を総合的に認定する。
  (3)各等級に相当すると認められるものを一部例示すると次のとおりである。<省略>
      (注)<略>
 (4)日常生活における動作と身体機能との関連は、厳密に区別することができないが、おおむね次のとおりである。
 ア 手指の機能
 (ア)つまむ(新聞紙が引き抜けない程度)
 (イ)握る(丸めた週刊誌が引き抜けない程度)
 (ウ)タオルを絞る(水をきれる程度)
 (エ)ひもを結ぶ
 イ 上肢の機能
 (ア)さじで食事をする
 (イ)顔を洗う(顔に手のひらをつける)
 (ウ)用便の処理をする(ズボンの前のところに手をやる)
 (エ)用便の処理をする(尻のところに手をやる)
 (オ)上衣の着脱(かぶりシャツを着て脱ぐ)
 (カ)上衣の着脱(ワイシャツを着てボタンをとめる)
  ウ 下肢の機能
 (ア)片足で立つ
 (イ)歩く(屋内)
 (ウ)歩く(屋外)
 (エ)立ち上がる
 (オ)階段を上る
 (カ)階段を下りる
 なお、手指の機能と上肢の機能とは、切り離して評価することなく、手指の機能は、上肢の機能の一部として取り扱う。
 (5)身体機能の障害の程度と日常生活における動作の障害との関係を参考として示すと、次のとおりである。
 ア (本答申において、省略)
 イ 「機能に相当程度の障害を残すもの」とは、日常生活における動作の多くが「1人で全くできない場合」又は日常生活における動作のほとんどが「1人でできるが非常に不自由な場合」をいう。
 ウ 「機能障害を残すもの」とは、日常生活における動作の部が「1人で全くできない場合」又ほとんどが「1人でできてもやや不自由な場合」をいう。
 (5)行政手続法(平成5年法律第88号)
 第8条第1項「行政庁は、申請により求められた許認可等を拒否する処分をする場合は、申請者に対し、同時に、当該処分の理由を示さなければならない。ただし、法令に定められた許認可等の要件又は公にされた審査基準が数量的指標その他の客観的指標により明確に定められている場合であって、当該申請がこれらに適合しないことが申請書の記載又は添付書類その他の申請の内容から明らかであるときは、申請者の求めがあったときにこれを示せば足りる。」
 同条第2項「前項本文に規定する処分を書面でするときは、同項の理由は、書面により示さなければならない。」

 2 判断とその理由
 (1)理由付記について
 ア 本法にもとづく処分には国の法律である行政手続法が適用され、同法8条第1項が定める処分の際の理由の提示、同第2項が定める書面による処分の場合の理由付記の要求も、適用される。
 行政手続法も明示的に要求する理由付記の趣旨は、行政庁の判断の慎重・合理性を担保してその恣意を抑制するとともに、申請者に処分の理由を知らせて不服の申立てに便宜を与えることにあり、その趣旨からして、単に根拠規定を示すだけでは足りず、いかなる事実関係に基づきいかなる法規を適用して処分を行ったかを、申請者において、その記載自体から了知し得るものでなければならないと解されている(最高裁昭和60年1月22日判決・民集39巻1号1頁等)。
 イ 本件処分にかかる通知書の理由の欄には、「本件児童の障害の程度が、特別児童扶養手当等の支給に関する法律第2条第5項(同法施行令第1条第3項別表第3)に定める障害の程度に該当しないため」との記載しかなく、児童の障害の程度が、施行令別表のうちのいずれに該当していないと判断したのかが明記されていない。もとより、認定基準第二の(1)~(5)の定めをどのように考慮し、検討したのかについても、全く明記されていない。
 このような理由付記では、理由付記がなされていないのにほとんど等しく、行政手続法8条に違反し、違法である
 このような程度の理由付記では、処分庁の判断が慎重かつ合理的になされたのか自体を疑わせるし、また、申請者の不服の申立てに便宜を与えるという機能をほとんど果たしていない、と言わざるを得ない。
 ウ なお、本件弁明書は、本件処分の理由を、本件診断書の「⑱日常生活における動作の障害程度」の内容から、「屋外での生活制限はあるが屋内ではほぼ日常生活ができる状態と考えられる」、また、「一人では全くできないとする項目もあるが、年齢が○歳ということで年齢的にできない可能性もあり判断できない」ので、認定基準第一が定める「2級」の「認定基準に達していない」と記述している。
 もともと、審査請求の審理過程における処分庁弁明書の記載によって処分にあった理由付記の欠如または不備が治癒されるものではない。
 また、上のような理由の記述においても、本件診断書によって「屋外での生活制限はあるが屋内ではほぼ日常生活ができる状態」だと判断した十分な説明がなく、認定基準第二の(1)~(5)はどのように考慮され、適用されたのかについての記載が全くない。
 なお、この弁明書が言及する認定基準第一の「2級」の「認定基準」は、「前各号に掲げるもののほか、」という語句を省いている以外は、施行令別表の「二級」に関する「十五号」の定めと同一である。
 エ このように、本件理由付記は行政手続法に違反して違法である。そして、理由付記義務違反という瑕疵は手続または形式の瑕疵であって、処分の効力にただちには影響しないと考えられなくはないが、その瑕疵が処分の効果・内容にどのような影響を与えたかとは無関係に、理由付記の瑕疵があれば処分自体を違法とし、理由付記の瑕疵は直接に取消し事由となるとするのが最高裁判例でもある(上記最高裁判決等参照)。
 したがって、この点を理由とすることにのみによって、本件処分は違法として取り消されるべきものとなる可能性が高い。
 但し、最高裁判例の射程範囲にはなお議論の余地が全くないわけではないであろうこと等に鑑み、本件処分の実際の過程または内容等に照らして、本件処分が取り消されるべきものであるかは総合的に判断することとする。
 よって、本件処分は理由付記について違法ではあるが、それをただちに取り消し原因とするかどうかは結論を留保して、本件処分の過程・内容の論点へと立ち入る。
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 つづく。
 この事案につき、処分庁の弁明書、審理員意見書、審査庁の意見にほとんど添った(請求棄却の)審査会答申案を作成し、審査会の審議以前に全委員に配布していたのは、審査会の事務の担当者の一人の近藤富美子、これを指示し、かつ容認・事前了解していたのは、法規課長の松下祥子(いずれも当時)。

2609/審査請求認容答申(・裁決)の一例①。

 行政不服審査法による審査請求にかかる認容答申(・裁決)の実例。
 以下、実際の答申の文書のまま。但し、元来省略されてネット上に公表されている部分がある。また、今回のこの欄への掲載に際して省略または記号化した部分がある。
 認容の旨(審査請求人の請求を肯定し、被申立て人・処分庁の言い分を排斥する趣旨)の審査庁に対する答申である。
 このほか、①「本件処分庁および審理員において、本件に関係する法令等の定めの摘示は十全のものではない」と断言されており、②「本件処分の違法性または不当性に直接に関係するものではないが、審理員意見書作成にいたるまでの、本件審査請求にかかる審理過程には、少なくともつぎの二点について明瞭な瑕疵がある、と判断することができる」と明言され、「併せて、付記」がなされている。
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 諮問番号:平成30年度諮問第A号
 答申番号:平成30年度答申第B号

  答 申 書
 第一 審査会の結論
 大阪府知事(以下「処分庁」という。)が審査請求人に対して平成28年8月30日付けで行った特別児童扶養手当等の支給に関する法律(昭和39年法律第134号)にもとづく特別児童扶養手当認定請求却下処分(以下「本件処分」という。)の取消を求める審査請求(以下「本件審査請求」という。)は、認容すべきである。

 第二 事案の概要
 事案の概要は、おおむね次のとおりである。
 1 平成28年8月30日、処分庁は審査請求人に対して本件処分を行った。
 2 平成28年10月10日、審査請求人はこの日付けで、大阪府知事(以下、「審査庁」ともいう。)に対して本件審査請求を行った。その際に審査請求人は、身体障害者福祉法(昭和24年法律第283号)にもとづいて「身体障害者手帳の申請」のために利用した、平成28年10月CC日付「身体障害者診断書・意見書(<省略>」を添付した(以下、これを「別件診断書」という。なお、この別件診断書を作成した医師は、本件にかかる後掲の「診断医」または「判定医」ではない)。
 3 平成29年8月14日、処分庁は、審理員に弁明書(以下、「本件弁明書」という。)を提出した。その際、本件弁明書に「別紙認定要領」(本答申の後掲参照)3(1)により都道府県に置くこととされている医師が平成28年8月23日に記載し最終的に作成して本件処分庁に手交した本件にかかる「特別児童扶養手当認定診断書」を添付した(以下、当該医師を「判定医」、この「診断書」を判定医の記載・捺印等の部分も含めて「本件診断書」といい、そのうち判定医の記載・捺印等の部分以外を「本件原診断書」、本件原診断書に診断結果等の記入等を行った医師を「診断医」という。)。
 4 平成29年8月15日、審理員は審査請求人による反論書の提出期限を同年9月4日とし、本件弁明書を審査請求人に送付した。
 5 平成30年1月31日、審理員は審査請求人が反論書の提出意向がない旨を電話で確認した。
 6 平成30年2月9日、処分庁は「診断書判定について」と表記する文書を作成し、「数日後」に審理員に提出した。
 7 平成30年2月27日、審理員は審査請求人及び処分庁にあてて審理手続終結の旨を通知した。
 8 平成30年3月6日、審理員は審理員意見書(以下、「審理員意見書」という。)及び事件記録を審査庁に提出した。その審理員意見書には、処分庁が提出した上記の「診断書判定について」と表記する文書を「別紙1」として添付した(以下、この添付文書を「本件別紙」という。)。
 9 平成30年6月6日、審査庁は同日付けの諮問書を大阪府行政不服審査会に提出した(同年6月11日、同審査会事務局が受領した)。

 第三 審査関係人の主張の要旨
 1 審査請求人
 電話で「屋外での活動は難しいが屋内では十分生活ができる」と言われたが、「屋内でも階段の登降、着がえなどは介助が必要」である。また、「○○○市療育センターに親子通園をしているため母親が仕事をする事ができず、生活が厳しい」。
  以上により、本件処分の取消しを求める。
 2 審査庁
 本件審査請求は、棄却すべきである。

 第四 審理員意見書の要旨
 1 審理員意見書の結論
  本件審査請求は棄却が妥当である。

 2 審理員意見書の理由
 (1)本件原診断書には「⑱日常生活における動作の障害程度」には、「一人では全くできない場合」に該当する項目が複数あり、「㉒現症時の日常生活活動能力」では「日常生活の一部において同年令の児より、やや多く介助・援助を要す」と診断されているが、本件別紙によれば判定医は「対象児童は○歳であり年齢的なものでできないのか、障害が原因でできないのか現時点では判別できないことから非該当とした。」とのことである。
 「別紙認定要領」(後掲参照)の2(1)が「法第2条第1項にいう『障害の状態』とは、精神又は身体に令別表第3に該当する程度の障害があり、障害の原因となった傷病がなおった状態又は症状が固定した状態をいうものであること」、「『症状が固定した』については、症状が安定するか若しくは回復する可能性が少なくなったとき又は傷病に関わりなく障害の状態が固定したときをいうもの』」と定めていることからすると、この判定医の本件別紙上に記述された見解は、「症状が固定したとは言えない、ということを述べているものと解釈される」。
 (2)対象児童が「2級相当」の①「一上肢及び一下肢の機能に相当程度の障害を残すもの」、②「四肢に機能障害を残すもの」に並ぶ障害状態とは言えず、認定基準第一(本答申の後掲参照)が定める要件を充足しない、また、「2級基準」として法施行令別表第三 十五号が定める要件に該当しない、とした処分庁の主張は正当である。
 (3)審査請求人は「本件児童の日常生活状態に加えて、生活が厳しい旨を述べているが、手当の支給要件には関係がない」。
 (4)よって、「本件児童の障害の状態が施行令別表第3に定める障害等級の2級に該当しないとして行った本件処分は、違法又は不当なものであるということはできない」。
 ----
 つづく。
 この事案につき、処分庁の弁明書、審理員意見書、審査庁の意見にほとんど添った(請求棄却の)審査会答申案を作成し、審査会の審議以前に全委員に配布していたのは、審査会の事務の担当者の一人の近藤富美子、これを指示し、かつ容認・事前了解していたのは、法規課長の松下祥子(いずれも当時)。

2545/池田信夫ブログ028—泊原発地裁判決。

 すでに誰かが池田信夫に「助言」しているだろうが、気になるのでこの欄でも記しておく。
 札幌地裁805号法廷2022年5月31日判決について、池田は「泊原発の判決に欠けている『根拠法』」と題して、判決を「どんな法律を根拠とし、誰が北電の原子炉運転を止めるのだろうか」等と批判している。Agora 2022.05.31
 万人が、池田信夫ですら、あらゆる分野に通暁しているわけではないから、とくに非難する意図はない。ただ、少しは誤解を溶かしておきたい。
  これは一定範囲の近隣住民と私企業の間の(よくある)広義での「環境」訴訟で、民事訴訟だ。
 仔細を知らないまま、民事法の専門家でもないのに書くのだが、争点は北電の原子炉運転(継続?)が原告住民の「人格権」を侵害するか否かまたは「侵害するおそれ」があるか否かだ。
 ここでの「人格権」は民事上の差止請求の根拠とされている民事法上の権利で、池田が記す憲法13条を根拠とするものではない。強いて言えば、明文はなくとも、民法に根拠はあると思われる。
 差止請求の根拠として、①所有権等の物権、②人格権、③「環境権」が語られ得る。
 大阪国際空港訴訟で原告団が考案?したのが③だったが、当該事件の最高裁も含めて判例は認めず、①により難い(多くの)場合は、勝敗は別として、②による請求を許容するのが判例一般だと思われる。
  私人間の民事訴訟であるがゆえに、国や規制委員会が当事者として直接に登場していないのは当然だ(「参加」はあり得るが、していないのだろう)。
 また、人格権侵害(のおそれ)の存否が争点なのであり、原子炉規制法または原子炉規制委員会が作成している「基準」類に問題の原子炉(運転)が適合しているか否かは、<直接には>または<法的には>関係がない。
 このあたりは法科大学院の学生でも、初期には理解が容易でないかもしれない。
 この地裁判決は委員会の安全「基準」に言及しているが、これとの不適合性の認定から直接に結論を導いているわけではない(ということに法的にはなる)し、判決の「骨子・要旨」からもそのようには読めない。
 これは、隣人または周辺住民がある私人による建築物の建築工事の差止めを請求した民事訴訟で、建築基準法または同法の解釈等に関する国土交通省(・大臣)の「通達」類との適合性はどういう「法的」意味をもつか、と同じ問題だ。
 より一般的には、民事法と行政法の関係、さらに伝統的にはまたは少なくとも戦前的には、「私法と公法」の区別・関係、それぞれの役割分担の問題であり、簡単には説明し尽くせない。
 この地裁の裁判官たちは、委員会の安全「基準」類を、結論へと至る、または心証形成のための重要な<参考資料>として「利用」している気配はある(実質的な(!)「立証責任」の問題、または被告の「立証」しようとする姿勢がより大きい影響を与えている可能性はある)。だが、上記のとおり、<直接に>または<法的に>連結させているわけではない、はずだ。
 この「参考」または「利用」の仕方が、裁判官にとっても、微妙なところだろう。
  池田は「誰が北電の原子炉運転を止めるのだろうか」という疑問をもっていて、規制委員会以外にはない、との趣旨のようだ(たぶん)。
 事実行為としては、運転を停止するのは被告・北電で、被告にそれを命じたのが今回の判決だ(但し、第一審)。
 訴訟によって原告はそれを請求する権利があり、訴訟要件に問題がないかぎり(例えば、沖縄県民は本件訴訟の原告になり得るか?)、裁判所はその請求権の存否について判断する義務と権利がある。
 以上、リンクされている判決「骨子・要旨」もロクに読まないで急いで書いた。この地裁判決の結論への賛否は、ひとことも述べていない。
 ——

2463/H. マウラーら・ドイツ行政法総論(2020)目次④。

 H. Maurer =C. Waldhoff, Allgemeines Verwaltungsrcht, 20. überarbeitete & ergänzte Auflage(C.H.Beck, 2020)。総計872頁(緒言・目次等を除く)。
 目次の④。
 ——
 第四部/行政作用:その他の行為形式
  第13章・法的命令(Rechtsverornung〔法規命令〕)
   第一節・法規範および行政の手段としての法的命令
    1/法規範
    2/行政の手段
    3/画定
   第二節・法的命令の法的前提条件
    1/授権根拠
    2/形式的適法性要件
    3/実質的適法性要件
    4/裁量
   第三節・法的命令の違法と権利保護
    1/違法性
    2/権利保護
  --------
  第14章・公法上の契約
   第一節・法的根拠
    1/行政手続法の規律
    2/社会給付法および公租公課法の規律
    3/都市建築上の契約
    4/その他の適用領域
   第二節・公法上の契約の概念と画定
    1/概念
    2/私法上の契約との区別
    3/公法上の契約の種類
    4/行政行為と公法上の契約の関係
   第三節・国家と国民の間の契約の展開と意義
    1/展開
    2/公法上の契約の意義と問題性
   第四節・公法上の契約の法的前提条件
    1/契約形式の許容性
    2/公法上の契約の形式的適法性
    3/公法上の契約の実質的適法性
   第五節・公法上の契約の違法の法的帰結
    1/行政手続法59条の規律に関する概述
    2/行政手続法59条第2項の無効事由
    3/行政手続法59条第1項の無効事由
    4/欧州同盟法違反
    5/公法上の契約の無効の帰結
    6/行政手続法59条の規律の欠缺の問題性
   第六節・契約関係の処理
    1/履行と給付中断
    2/特別の場合の適応と告知
    3/契約上の請求権の強制執行
   第七節・諸事案の問題解決への言及
  ---------
  第15章・単純(schlicht)行政活動
   第一節・事実行為
    1/概念
    2/法的整序
   第二節・公的警告その他の国家による情報提供活動
    1/概念の明確化
    2/法的許容性
    3/国家の犯罪者情報
   第三節・非公式の行政活動
    1/画定と意義
    2/法的判断
  --------
  第16章・計画と計画策定
   第一節・概説と意義
    1/概説
    2/意義
   第二節・法的整序
    1/計画は法的概念か?
    2/計画の拘束力
    3/計画の法的性質
   第三節・計画保障
    1/計画の存続を求める請求権?
    2/計画の遵守を求める請求権?
    3/過渡的規律や適応への援助を求める請求権?
    4/補償を求める請求権?
  --------
  第17章・行政私法上の行為.資金助成、公的任務の委託
   第一節・行政私法上の行為
   第二節・資金助成
    1/資金助成(Subvention)の概念
    2/資金助成のメルクマール
    3/資金助成の委託
   第三節・資金貸付
    1/二段階理論
    2/選択肢
    3/(我々の)見解
    4/私的銀行の介在
   第四節・その他の資金助成
    1/紛失資金
    2/保証金
    3/物的奨励
   第五節・公的任務の委託
    1/法的根拠
    2/膨大閾値を超えた委託
    3/膨大閾値以下の委託
   第六節・同盟法上の補助金
 ——
 第18章を除き、第四部は終わり。

2462/H. マウラーら・ドイツ行政法総論(2020)目次③。

 H. Maurer =C. Waldhoff, Allgemeines Verwaltungsrcht, 20,überarbeitete & ergänzte Auflage(C.H.Beck, 2020)。索引を含めて、総計872頁(緒言・目次等を除く)
 目次の③。
 —— 
 第三部/行政作用:行政行為
  第9章・行政行為の概念、意義および種類
   第一節・発展と一般的定義
   第二節・行政行為概念のメルクマール
    1/規律
    2/権力性(hoheitlich)
    3/個別事案の規律
    4/官庁
    5/外部に対する直接の法的効果
   第三節・一般処分
    1/概念
    2/規準となる法
    3/特殊例—交通信号
   第四節・行政行為の意義
    1/法的整序
    2/行政行為の法的特性
    3/行政行為の機能
    4/行政行為と裁判所の判決
   第五節・行政行為の種類
    1/命令的、形成的、確認的行政行為
    2/授益的、負荷的行政行為
    3/審査容認と例外の承認
    4/物的行政行為
    5/受理、確言、内示、予備決定、部分的許可、暫定的行政行為および予防的行政行為
    6/事実的行政行為
    7/州相互の、および国を超えた行政行為
   第六節・行政行為の通知
    1/一般的意味
    2/通知の前提条件
    3/公式の配達
    4/公示
  --------    
  第10章・行政行為の適法性と有効性
   第一節・適法性、有効性、および確定力の区別
    1/適法性
    2/有効性
    3/確定力
   第二節・行政行為の適法性の条件
    1/授権根拠と行政権能
    2/形式的適法性
    3/実質的適法性
   第三節・手続の瑕疵の治癒と重要性
    1/問題性
    2/手続の瑕疵の治癒
    3/手続の瑕疵の重要性(行政手続法46条)
   第四節・違法性の帰結:抗告可能性と取消し可能性
    1/抗告可能性と取消し可能性の根拠
    2/審査請求〔不服申立て〕
    3/取消訴訟
    4/義務づけ訴訟
    5/仮の権利保護
   第五節・例外としての無効
    1/無効の条件
    2/無効の帰結
   第六節・転換と修正
    1/条件
    2/行政手続法47条の法的効果
    3/明らかに修正不可能であるものの修正の限界
   第七節・部分的違法
   第八節・排除
 --------
 第11章・行政行為の取消しと撤回
  第一節・総説
   1/法的根拠
   2/概念と画定
   3/取消しと撤回の対象
   4/部分的取消し
   5/関係者に対する法的効果による取消しと撤回の差異
   6/取消しと撤回の区別
   7/取消しと撤回の法的性質
  第二節・授益的行政行為の取消し
   1/効果と問題性
   2/行政手続法48条による取消しの規律に関する概述
   3/行政手続法48条第1項第2文、第2項、第3項による権利保護
   4/取消し期限
   5/許容と補償
   6/同盟法に違反する行政行為の取消し
  第三節・授益的行政行為の撤回
   1/総説
   2/行政手続法49条第2項と第3項による個別の撤回の根拠
   3/権利保護、補償および許容性
  第四節・負荷的行政行為の取消しと撤回
   1/負荷的行政行為の取消し
   2/負荷的行政行為の撤回
  第五節・手続の再開
   1/問題性
   2/制度
   3/狭義の手続再開(行政手続法51条第1項)
   4/広義の手続再開
  第六節・第三者効をもつ授益的行政行為の取消し可能性
   1/抗告
   2/取消しと撤回
   3/行政手続法50条による特別の規律
 --------
 第12章・行政行為の付款
  第一節・総説
   1/付款の意味
   2/内容本体と付款の区別
  第二節・付款の種類
   1/期限と条件
   2/撤回の留保
   3/負担
   4/負担の留保
  第三節・区別と解釈
   1/修正された評価
   2/解釈:実務での付款の種類
  第四節・付款の許容性
   1/特別の諸規定
   2/行政手続法36条の規律
   3/一般的な適法性要件
  第五節・付款に対する権利保護
   1/判例と学説の対立
   2/連邦行政裁判所の判例
 ——
 以上。第三部、終わり。

2461/H. マウラーら・ドイツ行政法総論(2020)目次②。

 H. Maurer =C. Waldhoff, Allgemeines Verwaltungsrcht, 20. überarbeitete & ergänzte Auflage(C.H.Beck, 2020)。索引を含めて、総計872頁(緒言・目次等を除く)
 現在のドイツで、大学法学部で用いられている、行政法に関する代表的教科書の一つと見られる。2020年版。目次の②。
 ——
 第二部/行政法の基本概念
  第6章・行政の法律適合性の原則
   第一節・法律の優位の原則
   第二節・法律の留保の原則
    1/概念の明確化
    2/根拠
    3/法律の留保の射程範囲と規律密度
    4/個別領域
 --------
  第7章・裁量と不確定概念
   第一節・前記
    1/行政による法律の適用
    2/行政裁判所による統制
    3/法律による拘束の緩和
   第二節・行政の裁量
    1/概念
    2/裁量の前提条件
    3/裁量の意義
    4/裁量に対する拘束
    5/裁量の瑕疵
    6/裁量の収縮
   第三節・不確定法概念と判断余地
    1/不確定法概念
    2/判断余地説
    3/判例上の判断余地
    4/事実上取消し得ない場合の行政裁判所による統制の限界
   第四節・制約と解決
    1/競合規定
    2/不確定法概念と裁量の交換可能性
    3/裁量の授権に際しての反対傾向と不確定法概念
    4/〔我々の〕見解
   第五節・計画策定における形成自由性
   第六節・調整裁量
 --------
  第8章・公権と行政法関係
   第一節・公法上の権利
    1/公権の概念
    2/公権の意義
    3/公権の前提条件
    4/権利と基本権〔基本的人権〕
    5/瑕疵なき裁量決定を求める請求権
    6 同盟法および国際法における権利
   第二節・行政法関係
    1/概念
    2/意義
    3/行政法関係の種類
    4/行政法関係は行政法学〔法解釈学〕の基礎か指針か?
   第三節・特別権力関係
    1/概念と由来
    2/特別権力関係の解体
 ——

2446/H.マウラーら・ドイツ行政法総論(2020)目次①。

  H. Maurer =C. Waldhoff, Allgemeines Verwaltungsrcht, 20.überarbeitete & ergänzte Auflage(C.H.Beck, 2020)
 目次(Inhaltsverzeichnis)の試訳。
 ——

 目次
 第一部/行政と行政法
  第1章・行政
   第一節・行政の概念
    1 多様な行政概念
    2 実質的意味における行政
    3 行政の典型的標識
   第二節・行政の多形成性
    1 行政の対象
    2 行政の任務または目的設定
    3 行政手段の国民に対する法的効果
    4 行政の法形式
    5 法律による拘束(Gesetzesbindung)の程度
    6 行政組織の種別化
  ---------
  第2章・行政と行政法の歴史について。憲法と行政法。欧州統合。
   第一節・行政の憲法依存性
   第二節・行政の歴史の諸時代
    1 17-18世紀の絶対国家における行政
    2 19世紀のリベラルな法治国家における行政
    3 20世紀の社会的法治国家における行政
   第三節・行政法の発展
   第四節・基本法のもとでの行政法
    1 法律による拘束の包括性
    2 議会と裁判所による統制の間での行政の独自性
    3 給付行政および嚮導行政の任務
    4 行政客体ではない人としての国民
    5 行政法に対する憲法上の帰結
    6 近年の改革の議論
    7 行政の現実(Verwaltungswirklichkeit)
   第五節・従来のドイツ民主共和国における、および再統一の際の行政法
    1 ドイツ民主共和国における行政法
    2 再統一の前およびその間の行政法
   第六節・欧州統合
    1 同盟法のドイツ行政法への影響
    2 同盟法の執行
  ----------
  第3章・行政の法
   第一節・行政法
    1 行政法総論と行政法各論
    2 外部法と内部法
   第二節・公法の一部としての行政法およびその私法との区別
    1 公法と私法の区別
    2 区別の諸理論
    3 区別と帰属
   第三節・私法および行政私法による行政作用
    1 需要に対応する行政
    2 行政の企業経済的活動
    3 私法の形式での行政の任務の遂行
    4 基本権による拘束
   第四節・法律により十分に規律されていない事案の検討
    1 事実行為
    2 法的行為
   第五節・行政法における私法上の諸規定の補助的適用
    1 問題性と適用領域
    2 理由
    3 債権法改革、とくに消滅時効に関するそれ、の影響
    4 行政私法への遡及効
 ——
  第4章・行政法の法源
   第一節・法源論と階層論
   第二節・現行の階層関係の概観
    1 法領域と法条(Rechtsätze)
    2 階層
    3 手続の側面
   第三節・ドイツ法の成文法源。憲法、形式的法律、法的命令および条例
    1 憲法
    2 形式的法律
    3 法的命令
    4 条例(Satzung)
   第四節・慣習法
    1 概念と条件
    2 通用領域
   第五節・行政法の一般原則と判例法
    1 行政法の一般原則
    2 判例法(Richterrecht)
   第六節・行政規程(Verwaltungsvorschriften〉
   第七節・連邦法と州法
    1 形式的法律
    2 法的命令
    3 条例
    4 慣習法
    5 行政法の一般原則
   第八節・法源の階層秩序の個別的問題
    1 規範の衝突
    2 慣習法の組入れ
    3 審査と評価の権能
   第九節・同盟法
    1 一次法と二次法
    2 階層、審査と評価の権能
    3 同盟法の優先適用の根拠と限界
   第一〇節・国際法
  --------
  第5章・行政手続法(VwVfG)
   第一節・行政手続法の成立と発展
    1 前史
    2 草案
    3 関連法律
    4 行政手続法の改正
   第二節・行政手続法の意義
   第三節・行政手続法の適用範囲
    1 公法上の行政活動
    2 連邦官庁
    3 特定の行政手続への限定
    4 適用排除条項
    5 補充条項
   第四節・諸州の行政手続法
    1 概観
    2 適用可能性
    3 行政手続法の適用可能性の拡大
   第五節・欧州法の次元 
  ——
  第一部、終わり。細目次②、第二部へとつづく。

2444/H. マウラーら・ドイツ行政法総論(2020年)大目次。

 H. Maurer =C. Waldhoff, Allgemeines Verwaltungsrcht, 20,überarbeitete & ergänzte Auflage(C.H.Beck, 2020)。索引を含めて、総計872頁(緒言・目次等を除く)
 =H. マウラー =C. ヴァルトホフ・行政法総論/修正・補充版(C.H.Beck、München、2020年)。
 現在のドイツで、法学部教授(・法学部学生)が用いている、行政法に関する代表的教科書の一つと見られる。2020年版。
 ——
 大目次(Inhaltübersicht=「内容概要」)
 第一部/行政と行政法
  第1章・行政
  第2章・行政と行政法の歴史について。憲法と行政法。欧州統合。
  第3章・行政の法
  第4章・行政法の法源
  第5章・行政手続法(VwVfG)
 第二部/行政法の基本概念
  第6章・行政の法律適合性の原則
  第7章・裁量と不確定概念
  第8章・公権と行政法関係
 第三部/行政作用—行政行為
  第9章・行政行為の概念、意義および種類
  第10章・行政行為の適法性と有効性
  第11章・行政行為の取消しと撤回
  第12章・行政行為の附款
 第四部/行政作用—その他の行為形式
  第13章・法的命令(Rechtsverornung)
  第14章・公法上の契約
  第15章・単純行政活動
  第16章・計画と計画策定
  第17章・行政私法上の行為、資金助成。公法上の負担の負課。
  第18章・電子政府(E-Government)
 第五部/行政手続と行政上の強制執行
  第19章・行政手続
  第20章・行政上の強制執行と行政上の制裁(Verwaltungssanktionen)
 第六部/行政組織
  第21章・行政組織法の基本構造
  第22章・直接的国家行政
  第23章・間接的国家行政
  第24章・行政規程(Verwaltungsvorchriften)
 第七部/ 国家の義務(補填)
  第25章・基礎
  第26章・基本法34条/民法典839条による職の責任(Amtshaftung)
  第27条・財産権侵害に対する補償
  第28章・犠牲補償請求権
  第29条・その他の請求権の根拠
  第30条・結果除去請求権
  第31章・欧州法違反に対する責任(Haftung)
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 以上。ふつうの目次(大目次に対しては細目次)は、別に紹介する。

2423/法の支配②。

  <法の支配、民主主義、人権>または<法の支配、自由と民主主義、基本的人権>を挙げて、「共通する価値観」が語られ、「価値観外交」なるものの維持・推進が日本の近年の政権指導者により主張されることがある。
 安倍晋三内閣からだったかははっきりしないが、大まかには中国(・北朝鮮)に対して厳しい態度をとる諸国の連携の意味のようだ。
 インドを含む。ロシアがどう位置づけられているのかは、明確にされていないように私には感じられる。
 これを語る者たちがどう意識しているかは厳密には不明確だが、岸信介を祖父とする安倍晋三においては、おそらく間違いなく、<反共産主義>陣営を指していた、と思われる。
 とすると、いわゆる資本主義国・「自由主義」諸国に共通する価値観として上の三つ(人により同一でないかもしれない)が挙げれていることになる。少なくとも秋月瑛二は、そう理解してきた。西尾幹二は異なるかもしれない。
 なお「民主主義」国とか上でも使った「自由主義」国という一語で最も簡潔に表現または形容する者もいるようだ。
 立ち入らないが、上の後者はまだ適切だが、中国や北朝鮮は自国を「(人民)民主主義」国と理解または自称している可能性があるので、「真の」民主主義とは何かが発生しそうな前者を対比語としては使いたくない、というのが、秋月の個人的嗜好?だ。
 また、欧米的<自由と民主主義>を日本は採用すべきではない、と主張しそうな佐伯啓思の論への対応にも立ち入らない。日本と欧米は同じではないが(正確にはアメリカと欧州も、欧州内の英、仏、独等々も同じではない)、また日本の独自性・自主性を決して無視するつもりはないが、中国等や少なくともかつてのロシアとの対比では、欧米と日本は<共通する価値観>を持っているし、持っているべきだろう。
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  ともあれ、「法の支配」は、上記のような脈絡で、少なくとも日本では重要な意味を持たされてきた、と言えるだろう。
 結論的に言って、<自由主義>国と日本共産党のいうような<社会主義・共産主義>国とを分ける基本的徴標が「法の支配」という理念の有無だ、ということに、厳密なこれの意味を別とすれば、賛成はする。①「法」の意味合い・位置づけが決定的に異なることと、②<権力分立>の存否または議会・裁判所制度の機能の差異とが、これに関係する。
 上の点も、きわめて重要な考察・叙述対象なのだが、立ち入る余裕は今回の主題からすると、ない。
 ここで論及しておきたいのは、「法の支配」またはRule of Law というものは、歴史的にも現在でも、ドイツやフランスで用いられた観念・概念ではないし、さらにイギリスやアメリカにおいてすら、いわゆる社会主義・共産主義国と区別する基礎的<価値観>を表現する観念・概念として用いられてはいないのではないか、ということだ。
 ということは、日本に独特の概念用法であるのかもしれない。つまり、Rule of Law (法の支配)の理念のもとで我々は結束して…、と日本の政権首脳がイギリスやアメリカの首相・大統領等に向かって言ったとして、彼らはその意味をすぐにかつ容易に理解するのだろうか、という疑問を、非専門家ながら、もつに至った。
 その疑問の根拠・理由を一気に書いてしまうつもりだったが、例によって?前書き的文章が長くなりすぎた。次回以降にまわす。
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2411/法の支配①。

  一義的でない概念はたくさんあるもので、「法治行政」もその一つだろう。これの意味は、大略つぎの二つに分けられそうだ。
 第一に、ドイツ行政法(学)上、Gesetsmässige Verwaltung の「原理」または「原則」というのが語られてきた。現在のドイツはともあれ、日本では、①法律の優位、②法律の留保、③法律の「法規」創造力の三原理・原則の総称として現在でも(教科書類では)使われているだろう。
 この場合の上のドイツ語は直訳すると「法律による行政」原理または「法律適合的行政」の原理ということになる。
 但し、ドイツ法上の「法治国(国家)」概念の影響を受けて、または関連させて、あるいは簡略化を意図して?、「法律による行政」・「法律適合的行政」ではなく、「法治行政」の原理・原則と称する者または書物があるかもしれない。
 この場合は、「法治」と言っても、「法」は実質的には「法律」を意味する。
 なお、日本では「法」と「法律」の二つの語の混用・共用があることが問題の理解をさらに妨げている原因になっていると見られるが、先だって言及した池田信夫の文章も書いていたように、「法律」とは議会(日本では国会)が制定した(その意味で国家機関の一つによる人為的な)法・法規範を意味する。「法」とはこれを含む法・法規範一般のことだ(道徳・宗教規範と区別される)。
 ドイツ憲法が「執行権」は「法律(Gesetz)および法(Recht)に拘束される」と明記するとき(第20条3項)、上の区別を前提にしているのであり、同じことを「法律」と「法」と重ねて言っているのではない。
 第二に、「法治行政」をむしろ字義どおりに、<法(と法律)による行政〉の意味で用いる。
 日本での「法」と「法律」の二つの語の混用・共用状況に加えて、「法治行政」という概念にはもともとこのような、二種の理解を生むような不明瞭さがある。したがって、用いられることは少なくなっているかもしれない。
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  敗戦し、憲法が新しくなり(改正?、新制定?)、とくに行政関係諸法律が改正・新制定された時点で、憲法・行政法、政治・行政を対象とする学者・研究者の関心を惹いたのは、いや関心を持たざるを得なかったのは、アメリカ的、またはその基礎にあると考えられたイギリス的 Rule of Law (法の支配)とは何か、戦前は慣れ親しんだ?ドイツ的考え方とどう違うのか、だったと思われる。
  1952年に、アメリカに詳しいと推察される行政学者と、ドイツに詳しいと推察される行政法学者の間で、雑誌上、つぎの論争がなされた、とされる。
 ①辻清明「法治行政と法の支配」思想337号(1952〉。
 ②柳瀬良幹「法治行政と法の支配—辻教授の所説について」法律時報24巻9号(1952年〉。
 つぎの日本公法学会での議論と同様に、内容には立ち入らない。
 なお、池田信夫が参照していた百科辞典類での「法治主義」の叙述は、この頃の、上ではとくに前者の、理解に近いかもしれない。
  1958年の日本公法学会総会では「法の支配」がテーマとされた(当時の理事長は宮沢俊義)。
 翌1959年刊行の『公法研究』第20号によると、当時の英米法・憲法の教授(東京大学)と行政法の教授(京都大学)がそれぞれ「法の支配」、「法の支配と行政法」と題する総括的報告を行い、当時の若手行政法研究者が「法の支配」と「法治国」の各理論を比較検討する研究報告を行っている。その後の「シンポジウム」での議論の概要も掲載されている。
 2021年から見て、60年以上前。
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  上の報告や議論の内容に(今回は全く)立ち入らないのは、細かなそれを要領よく概括するのは困難であることのほか、前回にも示唆したように、「法の支配」の意味内容、それと「法治国」または「法治主義」の異同を今日において明らかにすることの現実的意味の希薄さにある。
 それでも、イギリス法に関する若干の書物をみると、興味深くなくもない叙述もあるので、もう一回この主題に触れる。
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2407/池田信夫ブログ024—「法の支配」。

  池田信夫ブログマガジン2021年7月26日号にある〈法の支配とその敵〉は、「西村大臣の騒動は、日本にまだ法の支配がないことを痛感する事件だった」から書き出す。
 〈法の支配〉の意味次第とも言えるが、これは間違っているか、大きな勘違いまたは大きな曖昧さがある。
 また、某世界大百科辞典の、「法の支配は法治主義とは異なる」以降の文章を引用したりしている。
 前者については、全ての行政法(学)の概説書類に必ず専門用語として出てくる〈行政指導〉に関する知識が残念ながら欠けている。
 もっとも、西村発言について「法(法律?)」に基づく必要があるのに怪しからんとテレビで喚いていたれっきとした弁護士もいたから、池田だけを問題にしてもほとんど意味がないだろう。
 いつでも執筆できる、〈組織管轄上の法的根拠〉と〈作用・活動上の法的根拠〉の違いとか、後者にも関係して日本の行政部も「法律」のみならず「憲法」や「法の一般原理」に拘束される、とかのタテマエ的なことは、ここでは書かない。なお、上の<根拠>概念は専門述語ではない。
 〈行政指導〉一般論でいうと、〈組織管轄上の法的根拠〉があれば十分、但し、明文の〈作用・活動上の法的根拠〉をもつものもある、というだけで十分だろう。
 私が西村康稔経済再生担当大臣の発言で興味深く感じたのは、この人は官僚の経験もあるからだろう、金融・銀行業界ならば要請に従ってくれるだろう、と思って発言したに違いない、ということだ。たとえば、食堂・レストラン業界、パチンコ店業界ならば、あんなことを直接には言わないし、言えないだろう(行政的・政治的に)。
 余計ながら、かつて<バブル崩壊>のきっかけになったのは、1990年3月の大蔵省銀行局長による、外部への、正確には同省所管のつまり農水省所管のものを除く金融機関に対する「通達」形式の<行政指導>だった。
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  ファーガソンの論述や百科辞典の叙述が正しいまたは適切とは限らない。発展させて、書きたいことを書いてみよう。
 「法の支配」と「法治主義」はどう違うか。なるほど、調べてみたい主題かもしれない。
 前者には対応する英語があるが、後者にはないようだ。
 しかし、ドイツで(現在でも使われる)「法治国原理」が最も近いだろう。
 ここですでに「法治」を訳語的に用いるのは日本的で、原語は、Rechtsstaatprinzip で、「法治国」にあたるのはRechtsstaat だから、前半は、直訳としては、「法国家」または「法的国家」の方が適切だろう。
 しかし、確認したことは私自身はないのだが、明治時代にすでに「治国」という漢語が日本に知られていて、ドイツ、プロイセン辺りからRechtsstaat という概念に接した当時の日本人が、「法」+「治国」という意味にこれを理解して、Rechtsstaat を「法治国」と訳し、かつ利用した、という話がある。
 ここから当然に「法治国原理」も出てくる。
 そして、断定できる自信はないものの、言葉は発展?するもので、この「法治国原理」が「法治主義」へも変化したものと推測される。
 Law-ism もRecht-ismus もない。日本の「法治主義」は、戦前は英米法よりも日本に影響力をもったドイツ法のRechtsstaat に起源がある、と言ってよいのではないか、と考えられる。
 とすると、「法の支配」と「法治主義」の違いはイギリス法または英米法とドイツ法の違い、ということになりそうだ。
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  しかし、池田が参照する辞典の記載内容は、決定的に古くさいようだ。
 戦前からの英米法と戦前、とくに第二帝国時代の、明治憲法が範としたプロイセン・ドイツの違い、あるいは、少なくともタテマエとしての今の日本と大日本帝国憲法下の日本の違い、を説明しているようだ。
 ドイツのことはよく知らないが、法律にさえ違反しなければよい、という国政観は、法律の合憲性審査の仕組みの不存在とも相まって、戦前の日本には、たしかにあった。なお、こういう大きな弱点は、戦後憲法を批判して明治憲法に郷愁を感じているかもしれない<保守>派が指摘することは少ない。
 だが、池田の紹介する二つの語・概念の違いは、日本の他、現在のドイツにも当然ながら当てはまらない。
 ドイツ憲法(基本法、Grundgesetz)には、行政権は「法と法律に拘束される」という明文の条項がある。「法と法律」と二つに分けている。なお、「法治国家」=Rechtsstaat も憲法が明記して謳う国家規定の概念。
 それに、ドイツが「法の支配」的考え方を自ら発展させるか、受容しない限り、(イギリスが離れてしまったが)欧州共同体なるものが設立できるはずがない(EUには議会も執行機関もある)。
 ドイツ法かイギリス法か、大陸法か英米法かを問題にしても、あまり意味はない。
 但し、日本に、かつてのドイツにも共通したのかもしれない日本の<遅れ>を指摘する論者がいるかもしれない。
 だがその遅れは、あるとすれば、「法の支配」も「法治主義」もきちんと理解しておらず、身につけていないことによるだろう。
 それにまた、法的に厳密な思考の仕方に欧米諸国の人々とはおそらくある程度は異なる様相があることを秋月も承認するとしても、それは正邪、善悪の問題ではないかもしれない。
 脱線しそうだが、日本法は、典型的にはまさに「行政指導」のようなinformal な活動の容認とその多さは、pre-modern かpost-modern かが話題になった頃があったし、今後もなりうるかもしれない。
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  そもそも、「法の支配」とは何なのか?
 興味だけはあるので、池田から離れても、もう少しつづけよう。

2347/E. Forsthoff・ドイツ行政法I·総論(1973)—目次④。

 Ernst Forsthoff, Lehrbuch des Verwaltungsrechts,Erster Band, Allgemeiner Teil, 10., neubearbeitete Auflage(C.H.Beck, München, 1973)。
 上のドイツ語著、エルンスト·フォルストホフ・行政法教科書第一巻・総論、第10版・改訂版の、目次部分の試訳のつづき。丸数字は試訳者が挿入。
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 第四部/国家補償の制度。
  前記。①ありうる事案、②国庫作用と権力的作用、③適法な侵害と違法な侵害、④些細な侵害、⑤損害賠償と損失補償、⑥責任なき違法、⑦特別権力関係、⑧体系、⑨国家の財産秩序との基本関係、⑩憲法裁判所の画期。
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  第一七章・国家責任。
   ①19世紀の法状態、②国家責任法〔法律〕、③ヴァイマル憲法131条、④GG34条、⑤立法事実、⑥拡大解釈、⑦理由、⑧官吏概念、⑨委託された公的職務、⑩職務義務、⑪過失、⑫職務責任と犠牲、⑬賠償義務のある行政主体、⑭法政策的評価。
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  第一八章・収用と犠牲。
   第一節—①公法上の補償—②物的および人的財産の侵害、③成文法、④近年の理論、⑤歴史的発展、⑥ius eminens、⑦ius quaesitum、⑧プロイセン一般ラント法、⑨1831年12月4日の内閣令、⑩土地所有権の剥奪としての収用。
   第二節—①ヴァイマル憲法153条、②解釈の変遷、③ライヒ裁判所の判例、④ヴァイマル憲法153条の存続、⑤GG14条、⑥収用概念の限定、⑦社会階層、⑧剥奪、⑨没収、⑩転換、⑪徴発、⑫財産調達過程としての収用、⑬犠牲収用、⑭収用の諸条件、⑮ 財産権の保護、⑯publici iuris、⑰財産権の本質的内容、⑱財産権の制限、⑲限定理論、⑳個別行為理論の批判、㉑財産権の社会的被拘束性、㉒目的疎外と機能に即した使用、㉓公法上の財産権制限、㉔相隣関係法上の効果、㉕たんなる利益の侵害、㉖管理義務と補償、㉗包括条項、㉘前憲法的権利、㉙補償、㉚法的争訟。
   第三節—①違法な侵害、②収用に等しい侵害、③包括条項の回避、④犠牲、⑤人体被害、⑥違法な侵害の拡張。
   第四節—①違法な侵害の責任と職務責任、②連邦通常裁判所の判例、③考察。
   第五節—補償の種類と程度。
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  第一九章・危険責任と公法上の利益調整。
   第一節—危険責任。①典型的な事例、②フランスの判例、③危険責任の法政策的正当化、④その限界、⑤法制度としての危険責任、⑥成文法上の根拠の不存在。
   第二節—公法上の利益調整。①解決の事例、②侵害の欠如、③授益の不可避の反射としての負担、④関係者の補償を求める権利、⑤関係者の出訴負担を軽減する官庁の義務。
 ——
 第五部へとつづく。

2097/松下祥子・阿児和成・近藤富美子④。

 奇妙で不思議なことはあるものだ。「桜を見る会」問題から
  ①「内閣総理大臣・安倍晋三」の名で招待状を発送しておきながら、<最終的なとりまとめには関与していません>という釈明が可能であるはずはないだろう。
 安倍晋三なのか内閣府か等の問題は、いわば「内部」問題で、主催者・招待者が内閣総理大臣・安倍晋三であるかぎり、安倍に全面的な「責任」の所在があることは当たり前のことだろう。組織・機関・個人(政治家個人)の意識的な混同でもって逃げているのだろう。
 ②野党議員または国会による招待者名簿の公開または提出要求に対する、<個人情報>だからという理由づけは、むちゃくちゃで、一体誰が考えだしたのか。
 <個人情報>該当性を理由にして提出・公開ができないとすれば、<春・秋の叙勲>者たちの氏名は、どうして新聞にも細かく出て報道されるのだろうか。内閣府褒賞局が、データ(名簿一覧)を積極的にマスコミに提供しているからだろう。
 しかも、現在の<叙勲>は「数字による等級づけ」はしなくなっているのかもしれないが(未確認)、何がしかの分類・評価づけはしているだろう。そのような情報提供によって他者と比べての不満・不快感を中には感じる人もいるだろうが、全員から、新聞発表についての個別の「同意」を得ているのか。
 ③さらによく分からないのは、行政機関情報公開法を引き合いに出して、一方では開示請求の対象となる「行政文書」性がないとかの議論をしながら、同情報公開法には<個人情報であれば全て開示しないことができる(開示してはならない)> という旨の規定など、どこにもないということだ。開示することによる「公益」と比較考量をすることを前提としている。要するに、<個人情報>だからというだけでは、公開しない<天下の御旗>には全くならない。
 一方で法律を細かく解釈するようなことをしながら、一方ではズルズルだ。このアンバランスは不思議でしようがない。
 <現用組織共用文書>ではない旨の、法律上は唱え得る主張も、苦しい。存在しているかぎりは、実際上アクセス可能者が限られるとしても、<現用組織共用文書>ではあって、「行政文書」だろう。もっとも、「存在しない」となると、かつそれが事実だとすると、どうしようもないかもしれない。
 存在してはじめて、開示請求の対象になる。しかし、「存在する」ことの立証・証明は申し立て側に、強制的立入・調査権でも認めないと、ほぼ困難だ。
 ④ついでに書くと、国会・野党議員の<提出・公開>要求への応じ方を、行政機関情報公開法の条項を手がかりとして論じる、というのにも違和感が残る。
 国民による法的請求に対する対応の仕方と国会に対する政治的・行政的対応の仕方は、同じである必要はないのでないか。つまり、例えば、「個人情報」の観点から問題があるというならば、一部については国会議員は自分たちだけの「秘密」にして、マスコミには氏名等々は発表しないということもあり得るだろう。

 安倍晋三首相が早々に来年度の「桜を見る会」中止を決定し、選考基準等の「見直し」・「改革」をすると発表した。
 面白いと思うのは、<今後、改革する>と強調することによって、現に発生している、または発生した問題の「責任」の所在・問題点を可能なかぎり不問にしようとしていることだ。
 こういう対応の仕方は、消費者から正当なクレームを受けた民間企業でもあるだろうが、国や地方公共団体(地方自治体)の通常の行政の過程でもある。
 問題の所在が指摘されたとき、いったい誰のどういう言動に問題があったかを特定して説明することなく、ともかくも「詫びて」、場合によっては「深く頭を下げる挙措」を芝居がかってすることによって「詫びて」、それで過去の問題はなくなったことにする。
 あとは「今後の問題」で、ときには、改革する、改善するとすでにたくさん言ったではないか、それ以上の何の文句があるのか!と<逆ギレ>して、問題提起者とケンカしようとする。
 繰り返せば、いったい誰のどういう言動に問題があったかを曖昧にし、そのような関係関係公務員にはどういう<責任>を取らせるのかを全く曖昧にしたままでだ。
 このようなことが、今回の安倍晋三首相・内閣府関係でも行われているようで、すこぶる興味深い。

  「桜を見る会」問題に関連して、JBpress のサイト上で、伊東乾は厳しい立場に立つ。
 2019.11.22付「民主主義を知らない『桜を見る会』擁護者」-「現在の内閣が本件を契機に終焉を告げる可能性が高いと思います」。
 2019.12.03付「ついに疑獄へ発展『桜を見る会』」-「実際、進んでも退いてもこの政権はもたないことが、いまやまともにものを見る大人の目には明らかで、…事態はいまや『桜を見る会』疑獄事件と呼ぶべき段階に到達してしまいました」。
 2019.12.05付「なぜ官僚は嘘の見え透いた言い訳に終始するのか?」。
 郷原信郎によると、安倍首相は<もう詰んだ>らしい→2019.11.28 付/HUFFPOST。
 こうした意見が公にされるのはよいことだ。
 それにしても、伊東乾は物理学と音楽が専門とは。パリのノートルダム寺院の構造が音響・音楽に関係していたとかのかなり前の話題提供には驚き、感心した。また別の機会に。

2088/遠藤博也・<法の多元性>(1987年)。

 法律に違反すれば罰せられる(刑罰として)、というのが最もよくある「法」または「法律」のイメージかもしれない。
 また、<憲法は国民が国家を縛るもの、法律は国家が国民を縛るもの。ベクトルが違う>という奇妙なことを真面目に書いていた某新聞もあった(朝日新聞社説、2017年頃)。
 法の多様性、ということに関して。つぎの著を紹介しよう。
 遠藤博也・行政法スケッチ(有斐閣、1987)。
 遠藤博也、1936~1992年、享年55歳。1970年~(1992年)、北海道大学法学部教授。
 上の書は、1985-86年の雑誌連載をまとめたもの。
 この書の章の表題の中に、<二つの法・裁判-裁判と強制・公法と私法>、<三つの法根拠>、<五つの法過程>といったものがある。
 すでに一部見られるが、この書は「数字」にひっかけて?構成されている。すなわち、第18章まであるが、各章が1~18という数字に関係・関連する話題を取り上げている。
 といっても、書名から感じられるかもしれないような<行政法随筆>ではなく、専門性は相当に高いので、平川祐弘、江崎道朗、伊藤哲夫等々が読んでもほとんど理解することができないだろう。
 と書いているうちに、各章の表題を書き写しておきたくなった。
 第 7章の「七(7)」は意外にむつかしかったようで、下記のとおりになっている。
 第16章も苦しく、16=4×4で、むしろ「44」から出発している。
 第14章は表題にはないが日本国憲法14条(法の下の平等)に関係させている。
 第17章は日本国憲法17条に入っていき、現実の国家へと及ぶ。但し、冒頭に、江崎道朗や櫻井よしこらが詳しいはずの聖徳太子・十七条の憲法への論及が計6~8頁もある。
 第18章は苦しい<お遊び>ではなく、「数字」に関する優れた哲学的考察?も語られている。
 なお、<行政法(学)>分野に特有な話題だけではなく、以下でも言及するように、「法」・「法学」・「法律」一般に共通する論点も少なくない。
 **
 第 1章/一つの行政-統一的法と内部・外部の法。
 第 2章/二つの法・裁判-裁判と強制・公法と私法。
 第 3章/三つの法根拠-制定法・法の一般原則・当事者自治。
 第 4章/四つの基本原則-公共性・権限分配・権利尊重・公正手続。
 第 5章/五つの法過程-行政先攻の基本構造。
 第 6章/六つの法局面-適法・違法概念の相対性。
 第 7章/なぜか行政行為の諸分類-行政行為の分類に関する代表的学説。
 第 8章/八つの行政委員会-行政委員会による準司法手続。
 第 9章/民法709条と憲法29条。
 第10章/時効一〇年-安全配慮義務と守備ミス型の不作為の違法。
 第11章/11時間めに来た男-「特別の犠牲」の基準と適用。
 第12章/一二の法律-公共施設周辺(地域)整備法。
 第13章/行訴13条・請求と訴え-取消訴訟の訴訟要件と実体的請求要件。
 第14章/武器平等の原則-行政争訟手続における当事者間の公平の確保。
 第15章/取消判決の効力-取消判決の形成力と拘束力。
 第16章/行訴44条・仮の救済-行政に関する訴訟における仮の救済制度。
 第17章/一七条の憲法-憲法構造と現代行政国家の現実。
 第18章/一八番(おはこ)・本書のまとめ-分類と体系における数の不思議
 **
 <法の多元性>に関係する部分は多数あるが、最も直接に関係するのは、第6章・六つの法局面(p.117~)だ。
 遠藤博也著のこれによると、-特別に新奇なことが書かれているのではないが-つまりは3×2の計6種の「法」が語られている。
 冒頭部分に、こんな一般論が記述される。
 「法はなかなか複雑なものだから、あちらこちらから多面的、多極的に観察しなければならないわけである。ひとくちに行政が違法だとか、適法だとかいっても、それが具体的にいみするものが、場合によって違っている。」
 具体的に遠藤は、つぎの各種「法」を挙げる。
 A/「内部の法」と「外部の法」
 B/「主観的法」と「客観的法」
 C/「適法性に関する法」と「責任に関する法」
 三つの観点から二つずつに区別されているので、3×2で、計6の「法」あるいは「法局面」が語られているわけだ。
 以下、遠藤著に依拠しないで、自由勝手に書いてみよう。
 上のうちAの二つは、かなり<行政法(学)>的だ。その他の法(学)分野にはない公務員法(国家公務員法という法律等々)や行政組織法(内閣法、国家行政組織法という法律等々)にかかわるからだ。前者は一般の<労働法>の一分野かもしれないが、公務員が行政機関の担当者(たる人間)である点で、なお特有性がある。
 これに対して、BやCの各二つは、かなりの法(学)分野にも関係する。
 Bの二つは、現日本国憲法上の「司法」権概念に直接に関係する。
 つまり、思い切り簡略化せざるを得ないが、憲法上固有の意味での「司法」とは、私人ないし国民の「権利義務に関する」(それらの存否や内容等に関する)具体的紛争を裁断する(そして権利を保護する)作用(・機構)と、圧倒的に解釈・理解されていて(むろん個々の事案での争いはある)、たんに「法」または「法律」等に違反するか否かという「客観的」問題についてのみ判断する作用(・機構)ではない、とされているからだ。この点で、異なる基本法制を採る国もある(例、ドイツ)。
 この区別が分からないことには、<ふるさと納税>制度をめぐって泉大津市が国・総務省(地方自治・地方税所管)に対して訴訟を提起したということの意味等も、<辺野古・公有水面埋立>をめぐって沖縄県(・知事)と国(国土交通省等)が長い間争っていることの意味等も、正確には理解できない。国地方係争処理委員会なる行政機関の法的位置づけも。
 民法上の法的紛争で訴訟の対象となるものも、当然ながら私人の<権利義務に関する>(それらの存否や内容等に関する)具体的紛争だ。たいていはこの制約をクリアするが、なかには「司法」権の対象性自体が否定されることもある。
 <権利義務に関する>はしばしば<主観的>と表現される。「主観性」ともいう。ドイツ法から継承したものかもしれない。但し、<~に関する>という表現自体には、なお曖昧なところがあるだろう。
 Cの二つはむしろ、民法や刑法(民事法や刑事法)の分野でとくに語られるものだ。
 各「法典」との関係での適合性または「違法」性なるものと<責任>の負わせ方はどう関係するのか。後者は、<民事法上の責任>や<刑事法上の責任>のことだ。<民事上の責任>の中で主要なものはおそらく「不法行為による損害倍賞」責任であり、<刑事法上の責任>とは主として「刑罰」(を受けて「責任」を果たすこと)だ。
 藤原かずえ(kazue fgeewara)がこれらの「法的」責任に関する議論を全く知らないままで麻生太郎・財務大臣等の「責任」を-何やら知ったふりをして<造語>までして-「論じて」いたことは、この欄ですでに触れた。
 かりに<責任をとる>=<辞任する>と理解していたとすれば、呆れるほどの「無知」だ。
 行政・公務員の分野でも、政治的・行政的なものではない「法的」責任と言いうるものがある。不法行為責任の一種が民法・不法行為法の特別法だと一般には解されている国家賠償法という法律による「損害賠償責任」だ。また、公務員個人が公務員であるがゆえに刑事法上の特別の犯罪の「責任」を課されることもあるがあるし(収賄罪、暴行陵虐罪等)、公務員法制にもとづく「懲戒責任」、いわば「懲戒罰」(こんな専門用語はないだろうが)を受ける責任、正確には各種<懲戒処分>を受け得ることも、公務員としての一種の「責任」だろう。同様の懲戒は私企業でもあるが、公務員法制上に根拠があることや争訟の手続・方法が民間企業の場合とは異なる。
 といったわけで、「法」は単色・単様ではない(上の記述や遠藤著がこれを全て説明しているわけでもない)。
 「法学士」たちには以上はかなり常識的なことだろうが、とくに「文学」畑の知識人または「知識人らしく勿体ぶっている人」たちにとっては難解かもしれない。
 平川祐弘にもそうだろう。西尾幹二も、2018年の著<あなたは自由か>(ちくま新書)で、「自由」を論じながら、あるいは「自由」に関する随筆らしき文章を書きながら、現行法制にもとづく国民・私人の「自由」の実態・現実、法制・法学・法哲学・法思想、そして政治哲学・思想上の「自由」論には全く、またはほとんど立ち入っていない。
 それでもって「自由」論を扱えるのが奇妙で、不思議だ。それでも、日本の現在の情報産業界では通用するらしい。
 A・スミスも当時のイギリス等の取引や貿易に関する具体的法制または制度や慣行をふまえていたように思えるし、F・ハイエクも「法」について頻繁に言及している。知られるように、書名からして、Law やLegislation を用いるものがある。マルクスも、レーニンも、「法学」をいちおう修業しているのだから、「法学士」にも様々な人物がいるのはむろん承知しているけれども。
 なお、遠藤博也の個別論文に、同「行政法における法の多元的構造について」田中二郎先生追悼論文集・公法の課題(有斐閣、1985)がある(あった)。こちらの方が、さらに専門性が高い。上掲書にも出てくるが、「既判力」とか「権限の重複・競合」とか書かれていても、上に名を挙げた人々には、何のことかさっぱり分からないに違いない。

2043/松下祥子・阿児和成・近藤富美子②。

 恐るべき「行政」、行政担当者、の実態がある。
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 行政機関情報公開法(平成11年法律42号。略称)は「行政文書」をこう定義している。
 第2条第2項本文「この法律において『行政文書』とは、行政機関の職員が職務上作成し、又は取得した文書、図画及び電磁的記録(電子的方式、磁気的方式その他人の知覚によっては認識することができない方式で作られた記録をいう。以下同じ。)であって、当該行政機関の職員が組織的に用いるものとして、当該行政機関が保有しているものをいう。ただし、次に掲げるものを除く。」
 「行政文書」なるものには地図・写真や「電磁的記録」も含む、というのがこの定義の仕方のミソだ。その際、「電磁的記録」も必ずしも一般的用語でないかもしれないが、それを「…その他人の知覚によっては認識することができない方式で作られた記録」と定義して、「知覚」・「認識」をいわば法律用語または法的概念として用いている。
 しかして、「知覚」や「認識」という行為が厳密に何を意味するかのさらに厳密な定義はない。
 ここでの「知覚」や「認識」という語法は私の何となくのこれらの語の理解の仕方に近いので、違和感はない。しかし、哲学的には?、あるいは脳神経生理学的には?、当然にこれらの正確な意味が問題になるはずだ。類似語に、「意識」、「感知」、「認知」、「理解」などがある。
 しかし、そのような言葉の厳密化を循環させるとキリがないので、法律用語としては、または「電磁的記録」をさらに定義する際に使う言葉としては、ギリギリ「知覚」と「認識」でとどめた、ということだろう。法律の適用・運用としては、この程度でおそらく十分なのだ。あとは健全で適切な<社会的感覚>または<社会的常識>に委ねている、ということだろう。
 ついでに、上の法律が「開示」を義務づけられない情報類型の一つとして定めるいわゆる「個人情報」(にかかる行政文書)の原則的・一般的な定義はつぎのとおりだ。
 第5条本文<略>
 同条第1号本文「個人に関する情報(<中略>を除く。)であって、当該情報に含まれる氏名、生年月日その他の記述等(文書、図画若しくは電磁的記録に記載され、若しくは記録され、又は音声、動作その他の方法を用いて表された一切の事項をいう。<以下略>)により特定の個人を識別することができるもの(他の情報と照合することにより、特定の個人を識別することができることとなるものを含む。)又は特定の個人を識別することはできないが、公にすることにより、なお個人の権利利益を害するおそれがあるもの。ただし、次に掲げる情報を除く。」
 ここでは「記述等」が原則的には「…に記載され、若しくは記録され、又は音声、動作その他の方法を用いて表された一切の事項」とされ、「等」が曖昧なまま「一切の事項」に包み込まれているとともに、「記載」・「記録」・「音声、動作その他の方法を用いて表された」もの、というこれら自体がなおも曖昧さを残した規定の仕方をしている。
 「記述」、「記載」、「記録」、「表された…」。これらは一体どう違うのか?
 文学的には(または文学趣味的には)、あるいは人間の「表現」にかかわる行為態様の分類という関心からは、さらに厳密な議論をすることが可能であるのかもしれない。
 しかし、<個人情報>を限定するための条文上の書きぶりとしては、上の程度で十分だろう、という判断を立法者は(そして法律案作成者は)したのだろう。
 あとは、健全で適切な<社会的感覚>または<社会的常識>に委ねているわけだ。
 同じことは、上の定めの中に出てくる、「照合」と「識別」についても言えるだろう。
 「識別」とは特定の個人の「識別」(英訳すると動詞はきっとidentify)を指しているのだから、きわめて重要な概念ではある。しかし、これをさらに詳細に記述することができない、またはそうしても実際上の意味がない、ということなのだろう。
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 <要旨>という言葉、概念がある。
 これは、法律用語、法的概念(または法学上の専門用語)ではないだろう。その意味では、一般的な、または日常的な用語であり、言葉、概念だ。
 もっとも、種々の判決例(を掲載した雑誌類)を見ていると、判決文自体の上下に<判旨>との注記があって、傍線(下線)と連動させていたり、判決文紹介の最初に、「判旨」とか「要旨」とか「判決要旨」とかと題されて、当該判決の<要旨>が記述されていることがある。
 また、例えば「原審判決の要旨」とか「この最高裁判決の要旨」とかは、裁判実務にかかわる情報の流通に際して、法学系論考の執筆や法学教育の場を含めて、かなりよく用いられるようでもある。
 しかし、ある判決の作成者(裁判官たち)が自らその判決の<要旨>なる文書をまとめることはないものと推測される。少なくとも、最高裁判所の判決については。
 下級審の判決であっても、その内容をメディア等に発表する場合に、その内容・「要旨」の作成は裁判官ではなく、裁判所の書記官が行っているのではなかろうか。
 よく知らないことが多いが、そうした文書を作成したり、注記を施すのは、当該判決の作成の過程にかかわった(最高裁の場合には)最高裁判所調査官であり、判決例を掲載する雑誌の編集者だったりするものと思われる(公的とされる雑誌・裁判例集の場合は、調査官・書記官が関与しているかもしれないが、民間の雑誌・裁判例集での判決例の「要旨」作成にまで携わっていないはずだ)。
 ともあれ、「要旨」は一般的・日常的な用語ではあるが、裁判や法的実務にかかわって、ある程度はよく使われている言葉かもしれない。
 だが、「要旨」とは、いったいどういう意味なのか。
 これは結局は、健全で適切な<社会的感覚>または<社会的常識>で判断するしかないと思われる。そして、各種「国語」辞典での意味記述・解説が、最も安直かもしれないが最も有力な手がかりになるだろう。
 とくに出典を明記しないが、<要旨>という語は様々に、しかし核心部分は一定して、その意味が説明されている。つぎのとおりだ。
 ①「主要な内容。あらまし。大要、サマリー。
 ②「述べられていることの主要な点。また、内容のあらまし。
 ③「講演・研究発表・論文などに述べられる(述べられた)事の、大事な部分を短くまとめたもの。
 ④「肝要な趣旨。大体の内容。
 ⑤「内容のあらまし、述べられているものの内容の主要な点を短くまとめたもの。
 国語辞典類に見られるこのような<要旨>という日本語の意味の説明のされ方からすると、健全で適切な<社会的感覚>または<社会的常識>と言ってよいものを前提とすれば、物理的・算術的な意味で、原文よりも<長く>なっている文章は、原文の<要旨>では、-あくまで通常はと丁寧に留保を付けておくが-あり得ない。
 だが、行政担当者の中に、しかも「法務」ないし「法規」関係の行政実務を担当している行政公務員の中に、上の意味で「あり得ない」言葉の用い方をする者、または そのような「あり得ない」言葉の用い方を擁護する者、あるいは少なくとも明示的にはそのような言葉遣いを何ら問題視しない者、がいるとなると、そもそも日本語の用い方に根本的な間違いがある点で、恐るべき「行政」、恐るべき行政担当者、の実態が存在する、と言えるだろう。さしあたりは、あくまで通常は、と丁寧に留保を付けておくが。
 憂うべきであるのは、決裁文書の<改竄>にとどまらない。
 (つづく)

2007/松下祥子・阿児和成・近藤富美子①。

 佐川宣寿(元財務省理財局長)に対する衆議院・参議院各予算委員会の「証人喚問」があったのは2018年(昨平成30年)3月末で、いわゆる決裁文書の改竄・書換えについて検察(大阪地検)が不起訴としたのは同年5月だった。まだ1年余しか経っていないが、この問題は(も?)今やすっかり忘れられているかもしれない。
 不起訴の報を受けて野村修也(弁護士・中央大学法科大学院教授)は、日本テレビ系番組の中で、つぎの旨を言った。正確な引用ではないが、趣旨は間違いない。
 <違法でない(違法だと断じがたい)というのは、道義的に問題がなかったということを意味しないのだから、その点は注意していただきたい。>
野村修也は会社法(・商法)専門だと紹介されている。また基本的諸法律しか勉強していなくとも弁護士になれるのだから、弁護士一般にもしばしば見られることだが、上の発言内容には大きな問題がある。
 上の一般論はそのとおりだろうが、これを公務員による<決裁文書改竄・書換え>に当てはめるのは間違っている。
 野村修也も知っているように、刑法上の犯罪の構成要件と民事法上の不法行為の成立要件は異なり、それらにおける「違法」の意味も同一ではない。
 書くのが恥ずかしいほどの常識だろう(もっとも麻生太郎が担当する財務大臣が「国」という行政執行団体(法人だ)の「機関」だという認識がなく、政治家としての麻生太郎とごっちゃにしている藤原かずえ(kazue fgeewara)は知らないかもしれない)。
 さらにまた、刑法・民法との関係以外でも「違法」を語ることはできる(憲法との関係での「違憲」もその一種だろうが、ここでは別に措く)。
 つまり、国の行政省庁・地方自治体の職員の大多数を規律し拘束する<公務員法>(国家公務員法・地方公務員法という法律)に、<決裁文書改竄・書換え>は間違いなく違反しており、道義的には問題があるというのみならず、明確に「違法」な行為だ。
 いったん成立した決裁文書を、それに誤記等のごく軽微な瑕疵があるという場合ではなく、内容的にも変更するために遡って取消し、別途新しい決裁をする(新しい決裁文書を作成する)というのは通常よくあることではないだろうが、法的には可能であるし、何ら違法ではない。
 しかし、いったん成立した決裁文書を決裁そのものがなかったかのごとく「抹消」して、おそらくは時期・期日も同じにして内容的には別の文書に「差し替える」というのは、条項名の逐一の確認を避けるが、明らかに違法だ。公務員としてしてはならないことになっている、禁止されているに決まっている。
 いったん成立した決裁文書を「改竄・書換え」してはならないことは、かりに明文規定がなくとも、公務員としての根本規範だろう。
 だからこそ、佐川宣寿らは国家公務員法にもとづく正規の「懲戒処分」を受けているのであり、これは刑法上の「違法」にかりに至らなくとも、公務員法上「違法」であることを前提にしている(なお、法令ではない行政内部基準に従わないことも、後者が上司の職務命令にあたるかぎりは、公務員担当職員の「違法」な行為だ(国家公務員法の関係条項参照))。
 ところで、こう書きつつ思い出した。
 第一に、決裁裁文書等の「行政文書」の保存期間は「三ヶ月」だ等の佐川答弁等を鵜呑みにして、これをそのまま肯定的に叙述していたのが、小川榮太郎だった。
 小川榮太郎は自らが代表を務める研究所らしきものの、光熱水費にかかる請求書も領収書も、三ヶ月経過しないうちに廃棄してしまう(のを許す)のだろうか。
 小川は、「文学」的に、<政治文書>と<行政文書>を勝手に?区別して、後者は重要でない文書だと思い込んだのだろうか? 「行政文書」とは正規の法制上の概念だ。
 しかしそれでも、佐川宣寿らが関係した文書の保存期間が「三ヶ月」とは短かすぎると思わなかったのか。いや、そう感じた可能性はある。但し、制度上そうなっているから問題はない、という趣旨も書いて、財務省側を擁護していた。
 要するに、この小川榮太郎という、どの分野が中心かよく分からない「評論家」には、<社会常識>が決定的に足りないのだ。
 <政治的に>判断して、合理性・正常性・社会常識に関係なく、財務省(ひいては安倍晋三・安倍内閣)を擁護し、杉田水脈も擁護する。
 一定の<政治グループ>の(締め切りを守って文章を書いてくれる)「お抱え文章書き」に堕していることに気づく必要がある。
 第二。この欄に書かなかったが、冒頭の国会答弁(証人喚問)で佐川宣寿(元財務省理財局長)は、籠池泰典・森友学園側への土地売却価額につき、<専門家による第三者的鑑定を経ている>から問題がない(安すぎることはない)と何度か答弁していた。
 国会議員(および政界・行政関係マスメディア担当記者)の無知・無能さは限りなく知っているので別に驚くほどのことではないが、上の答弁を疑問視した、質問者・国会議員は、与野党ともに一人もいなかった。
 正確な引用ではないが、<専門家による第三者的鑑定>とは不動産鑑定士によるものを意味するのだろうが、(かりに複数の鑑定意見があってそれの平均をとったのだとしても)それで<問題がない>ことの証拠には全くならない。
 不動産鑑定士による鑑定価格はそれなりの「権威」をもつのは知っているが、決して「正しい」ものではなく、<考慮要素>をどう見るかによって相当程度に可変的なことは、ほとんど常識だろう。とくに問題の土地には、通常の土地価格鑑定の方法・基準・技術はあてはまらなかったように見える。
 それでも佐川宣寿の答弁をそのままやり過ごして、「それでなぜ問題がない(正当な)ことの根拠になるのか」と突っ込む国会議員がいなかったのだから、呆れ返った。
 <議会・国会による行政に対する統制>。これは相当に幻影になっている。
 ***
 もともと書き記す予定の内容にまで、前書きを書いていて、到達しなかった。
 恐るべき「行政」の実態、「国と地方」の関係の実態。
 こうしたことに(も)、政治評論家でも行政評論家でも全くないが、言及していくことにする。

1685/憲法規範というもの-非専門の<素人>が陥るワナ。

 秋月瑛二とは何者かについて、できるだけ示唆を与えないようにして、気軽に書いてきた。
 多少は専門家ふうに書かせていただく。
 ①憲法典上に言葉・概念が「存在しない」から、憲法上「認められていない」、のでは全くない。
 例、「営業の自由」という言葉・概念は、現日本国憲法上のどこにも、基本的人権保障条項のどこにもない。
 では、日本国憲法は、「営業の自由」を<自由権的>人権の一つとして<保障>していないのか?
 そんなことは、ない。
 例、「知る権利」・「プライバシー」という言葉・概念は、現日本国憲法上のどこにも、基本的人権保障条項のどこにもない。
 では、日本国憲法は「知る権利」・「プライバシー」の権利性または保護法益性を、いっさい認めていないのか?
 そんなことはない。
 情報<公開>に関する法律や条例の多くは「知る権利」という言葉・用いないが、これは「知る権利」なるもののいっさいを否定する趣旨ではない。一方で、「知る権利」という言葉・概念を使っている条例もあるが、だからといって、「知る権利」の保障に厚い、というわけでも全くない。法律や条例上のより具体的な制度内容や適用・執行の仕方にむしろ大きく関係する。
 *「自衛隊」という語・概念がないからといって、法律以下による「自衛隊」の設置・編成およびそれにもとづく組織と活動を憲法が<認めていない>のでは、全くない。
 ②憲法典上の言葉・概念そのままの意味で、法律以下の法制がその言葉・概念を使っている、のでは全くない。
 例、<地方公共団体>。憲法上の「地方公共団体」と地方自治法(法律)上の「地方公共団体」の意味・範囲は、憲法の通説および最高裁判所の判例によると、明らかに異なっている。
 東京都の新宿区という<行政団体>は、憲法92条以下の「地方公共団体」なのか。法律上はそれであることは明らかなのだが(「特別地方公共団体」の一種としての「特別区」)。
 例、<条例>。憲法94条でいう「条例」と地方自治法(法律)上の「条例」の意味・範囲については、いくつかの説がある。立ち入らない。
 *憲法上に「自衛隊」という語・概念が(その存在を肯定する意味で)使われたとしても、自動的に、その意味内容、組織・公務員・活動の範囲、あるいはその国の機構の中の位置づけが、明らかになるわけでは、全くない。
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 潮匡人、伊藤哲夫らは、少しは理解できるだろうか。
 <自衛隊の存在>を<憲法に明記する>とは、どういう精神的活動だと考えているのか?
 さらに論じてみたい。

1647/高森明勅・天皇「生前退位」の真実(幻冬舎新書、2016)。

 高森明勅・天皇「生前退位」の真実(幻冬舎新書、2016)。
 天皇譲位問題に論及することはしない。
 上の高森著を読んで、最も興味深かったのは、じつは、<天皇就位を拒否する>自由が「皇嗣」にはある、という指摘および叙述だった。p.84-86。
 生まれながらにして一定のことを義務づけられるのは出自・血統による<差別>で<平等原則>違反だとの議論もあるので、上のことは重要だ。そしておそらく、高森の言うとおりなのだろう。
 つまり、天皇位に就くことを望まない「皇嗣」が践祚も即位の礼も拒否し、憲法上の国事行為を行うことをいっさい拒んだらとすれば、どういうことになるか?
 おそらく、憲法に根拠がありかつその形式によるとされる皇室典範の定めによって、「皇嗣」は特定され、その方には皇位就任義務がいちおうは生じるのではないか、と思われる。
 しかし、<義務不履行>は世俗の世界ではよくあることで、私自身、友人に貸したはずの50万円が4年近く経っても20万円しか返却されていない、ということが現にある。その人物は、何と!たぶん熱心な<保守>派気分の男だ。
 さてさて、<義務不履行>があれば、裁判手続を経ての<強制執行>の世界、つまり権利義務の<意識>・<観念>の世界を<現実>に変える手続に、ふつうは入っていく。そこまでに至らなくとも、そういう制度は(いちおう)用意されている。
 しかし、<皇位就任義務>の履行の拒否があった場合には、いったいどうなるのか?
 即位の礼、その他皇室行事あるいは国事行為、これらは元来ほとんどが、当該「人物」が出席する等をするしかないもので代替性を大きく欠くとみられる。また代替可能な国事行為にしても、手続を踏んで別途委任するか「摂政」を置くしかない。
 そしてそもそも、そういう代替が検討される前に、就位自体がスムーズにいかなければどうなるのか?
 高森によると、皇室典範三条が定める「皇位継承の順序」の変更の要件のうちの「皇嗣に…重大な事故あるとき」に該当し、皇室会議の「議により」、変更を行うしかない
 理屈を言うと、その次位の「皇嗣」も拒めば、延々と?、同じことを繰り返すしかないだろう。
 そして今上陛下は、その「自由」を行使しないで、粛々と天皇になられる「宿命」を甘受されたのだ、ということになる。深刻な混乱にならなかったこと自体が、今上陛下の「お心」による、ということになる。
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 何となく基礎的には安定的に世の中、あるいは政治は推移しているようにほとんどの国民は思っている。無意識に、そう思いつつ生活している。
 実際にはなかったことだが、……。
 新しい首相(内閣総理大臣)が国会で指名されたとき、公式にはさらに天皇の国事行為としての「任命」が必要であり、これにはさらに「内閣の助言と承認」を要する。
 民主党内閣から第二次安倍内閣に変わったとき、安倍晋三が首相に「任命」されたが、このとき民主党内閣の「助言と承認」があったからこそ、安倍晋三は首相になれた。
 きっと映像が放映されたはずだ。今上陛下が安倍晋三に「任命状」?を手渡す際に、民主党・野田佳彦は(安倍晋三が正式に首相になるまでは、なおも首相)陪席していて、あらかじめ天皇陛下にその書状を手渡していたはずだ。
 さて、日本共産党が国会で多数を占め、または日本共産党らの連合諸政党が国会で過半数を占めて、日本共産党の代表者が国会で首相に指名された、とかりにしよう。
 (実質的な)前の内閣の首班が、熱烈な反共産主義の某安倍康弘という人物だったとして、閣議も開かず、前「内閣」は何もせず、天皇に対して、(国会の意思に反して)新首相の任命に関して「助言と承認」をしないままにいたら、どうなるだろうか。
 憲法違反ということで、マスコミを含めて大騒ぎになるに違いない。
 しかし、それでもなお、共産党政権の発足は認めない、断固として手続に進ませないと安倍康弘ら前内閣が意地を張れば、この憲法上想定されているとみられる「義務」は、いったいどうやって「強制執行」すればいいのだろうか。
 また、実質的な前内閣の「助言と承認」はあって、新首相の<任命状>も用意されたが、ある時代のある天皇が、新首相個人やその所属政党が意に沿わないとして、任命式?そのものにご出席なされない、そして例えば皇居内で行方不明になる、あるいは皇居外に外出されてしまって長期日にわたってお帰りにならない、という場合、いったいどうなるのか?
 もちろん、この場合も(皇室典範の別の条項での)天皇に「重大な事故あるとき」に該当するとして、法的な回復の措置を取らざるをえなくなる可能性が高い。
 それでもなお、1か月ないし数カ月~半年程度の「国政の空白」が生じることが想定される。
 法的連続性のある状態と「無法」あるいは<革命的状態>とは決して大きく離れているわけではない。上の例は一部だろう。突然に<法的混乱>が生じうることは、想定しておいて決して悪くない(こんなことを考えている人はきっといるので、その人たちには、この文章もまだ手ぬるいだろう)。
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 上の高森明勅著については、もう少し書きたいことがある。


1530/櫻井よしこ・憲法とはなにか(2000)批判のつづき。

 ○ 櫻井よしこは、前回に言及した2000年刊行の本で、日本の「憲法」の最初は聖徳太子の「十七条の憲法」だとし、その二条についてつぎのように述べる。
 原文は「二曰。篤敬三寳。三寳者仏法僧也。則四生之終帰。萬国之極宗。何世何人非貴是法。人鮮尤悪。能教従之。其不帰三寳。何以直枉。」で、<二に日す、篤く三宝を敬え。三宝とは、仏、法、僧なり。…>という現代語訳になる。
 櫻井いわく。これを仏教だけのことしか書いていないと批判する神道等他宗教の人もいるようだが、長谷川三千子の指摘等によると「仏法」とは「もっと普遍的な価値観」だったのかもしれない。/「太子自身も仏道に励み、斑鳩寺を私寺として建てたことや、天皇をも仏法に導いたことは、恐らく読者の皆さんも高校や中学の歴史で学んだことでしょう」。p.191-2。
 仏法の普遍的意味に立ちいらなくとも、なんと、ここでは櫻井は、聖徳太子と「仏教(仏法)」の密接な関係を認め、「高校や中学の歴史で学んだ」だろう、とまで言う。
 今年2017年に週刊新潮で聖徳太子に言及した場合の、櫻井よしことは大違いだ。
 一貫性のなさ。櫻井よしこはこれで一貫している。また、考え方、理解の仕方が変わったのならば、きちんと説明すべきだろう。
 ○ ところで、井沢元彦の逆説の日本史シリーズ(週刊ポスト連載)の内容は相当に「血肉」のようになっていて、だいぶ前に読んだのと該当巻・頁を特定するのが面倒で却ってこの欄で明記することが少ない。
 聖徳太子等に関する第二巻ではなく、第一巻に、興味深いことが書いてある。
 井沢元彦・逆説の日本史/古代黎明編・封印された「倭」の謎(小学館、1993/のち文庫化)
 <雲太、和二、京三>というのは平安時代にできた言葉(p.144)だ。
 そして、第一位・出雲(出雲大社)、第二位・大和(東大寺)、第三位・京(御所)と、建物の規模の大きいもの順の意味らしい(そのように理解するのが通常らしい)。
 井沢元彦p.149. によると、これはまた、聖徳太子・十七条の憲法の第一・第二・第三という各条の重要性の順序に合致する、という。
 これは、少しは意表を衝くのではないだろうか。(出雲大社がかつて本当に現在の二~三倍ほどの高さを持っていた、との考古学資料も出たことについては割愛)。
 第一・「和の精神」/出雲の平和的な「国譲り」伝説-跡地での出雲大社。
 第二・仏教/東大寺(大仏ではなく、それを包含する建物・大仏殿のとくに高さ)。
 第三・天皇/御所。「承詔必謹。君則天之。臣則地之。天覆地載。」-<天皇の命令を受ければ必ず謹んで従いなさい。君はすなわち天であり、臣はすなわち地である。> 
 そして井沢は、「和」の精神こそ、天皇よりも仏教よりも大切な「日本」の精神だと強調する。その是非はともかく、聖徳太子は「和」のつぎの第二として「仏教・仏法」を挙げていた、ということに注目せざるをえない。
 これは、櫻井の現在の感覚とは相当に異なるだろう。
 ○ 櫻井よしこの本に戻る。
 櫻井は明治憲法制定過程に言及する中で長谷川正安の本を使い(p.197-8)、それに間違いなく従って、「憲法思想」は「政府的立場」と「民間的立場」、憲法論議は「神勅にもとづいた神権国家説」と「天皇もまた法の下の支配者であるという法治国家説」の二つの大きな流れに収斂された、と書く(p.198)。
 憲法制定史を概観し整理しておくには、重要な二分であるような印象がある。しかし、櫻井よしこはこの二つの立場・国家観の対立がその後にどうなったかにいっさい言及しない。
 たぶんこの辺りの文章を書いていたときは長谷川正安の本を手元において見ていたが、そのうちに忘れたか、読みやすい又は理解しやすい別の文献を見つけて、そちらに関心が移ってしまったのだ。
 週刊誌二頁くらいだと分からないが、それをまとめて一冊にしたような場合には(櫻井・憲法とはなにか(小学館)も似たようなものだ)、そういった仕掛け・楽屋裏がバレてしまう。
 さらに、櫻井よしこは何のこだわりもなくいったん引用、言及したようだが、長谷川正安とは、憲法に関して岩波新書をいく冊も出版していた、著名な、日本共産党の党員学者だった(当時/名古屋大学)。
 日本共産党・同党員の本だからいっさい引用・言及してはいけない、とは言っていない。
 しかし、上のような<二分>自体にじつは、単純な<権力・民衆>や<神権・民権>の各対立という共産党学者的な見方がすでに出ている、ということに気づくべきだろう。
 櫻井よしこの「無知」は、たとえばこういった点にも見られる。
 また、いったん言及した根拠文献がいつのまにか消失してしまっている、ということもあるわけだ。
 国家基本問題研究所の役員たちは、こんな櫻井よしこが「所長」でいることを、恥ずかしいとは感じないのだろうか。

1246/稲田朋美が語る日本の法曹界の「左翼」性。

 稲田朋美が、伝統と革新(たちばな出版)という雑誌の2013年秋号(9号)で、「自主憲法制定の大切さ」と題して、この雑誌の編集責任者である四宮正貴によるインタビューに答えている。この中で、わが国の法曹界について語っている部分には全面的に同意したい気分なので、以下引用しておく。
 ・<大学の法学部での憲法教育には>「非常に問題がある」、「現行憲法の…根本的な問題点、つまり押し付けられたものであるとか、主権が制限されているときにできたものであって正統性に疑義があるというようなことは、まったく教えないです」。
 ・「しかも、憲法は絶対に正しいものとして、…、また絶対に守らなくてはいけないものだというところから出発して学びます。法曹界が非常に左派なのは、”憲法教”という新興宗教が蔓延っているからだ…。法曹界は一般社会以上に、非常に左派、左翼的な人が多いようにも思います。それは、そうした憲法を大学時代に一所懸命に勉強して、正しいと思い込んで、そうして難しいと言われている司法試験に合格した人の集まりだから…」(p.54)
 日本共産党・社会民主党等の支持を得て今年の東京都知事選挙に立候補した宇都宮健児は、何と正式に日本の弁護士たちによって選挙で選出された日本弁護士連合会(日弁連)の元会長であったことは、記憶に新しい。個別弁護士会や日弁連の執行部にいる「活動家」の中には日本共産党員もいると思われるが、そうでなくとも親日本共産党であること、または少なくとも反日本共産党(反共)ではないこと、は容易に推測できる。
 現在の司法試験に合格するためには、日本になぜ<天皇制度>が長く続いてきたか等の日本に固有の歴史問題や日本を他国から防衛するためにはどうすればよいか等の国防・安全保障問題などに関する知識はゼロであってもかまわない。従って、象徴天皇制度についてすら、「世襲」制は平等原則と矛盾して合理的でないと潜在的には意識しているような暗黙の<共和制>支持者の方が、法曹界には多いように見える。
 なぜ、そうなったのか。稲田朋美も指摘しているように、大学における憲法教育に大きな原因があるのだろう。その憲法教育は大学の憲法担当の教授たち(憲法学者)が担っていて、かつ彼らが例えば高校の日本国憲法に関する記述を含む現代社会や政治経済の教科書を書いているのだから、日本国憲法を真面目に学べば学ぶほど高校生も大学生(法学部生)も<左傾>していくことになっている。あまり真面目に勉強しない方がよいかもしれないとすら思える。司法試験に合格するような優等生こそが、真面目に勉強して<左翼>として巣立っていくのだ。
 そうした影響は、じつは法曹界に限らず、外務省を含む上級国家公務員についてもある程度は言えるかもしれない。マスコミに入社する法学部生たちは、彼らほど法学を勉強していないが(官僚バッシングはある程度は<コンプレックス>によるのではないかと思っている)、日本国憲法についての、稲田朋美が上に簡単に述べているような程度のイメージは持っているはずだ。朝日新聞社説は何と<憲法は国家を縛り、法律は国民を縛る、ベクトルが違う>という珍論を吐いたのだったが、単純素朴な(立憲主義なるものについての)憲法観・法律観も、法学部出身者であるならば、大学における憲法・法学教育の(日本国憲法の制定経緯・背景をまるで教えないような)影響を受けているのだろう。
 憲法改正をめぐって護憲派として登場して有力な論者の一人になっている、司法試験予備校?も経営している弁護士・伊藤真もいる。護憲・「左翼」の憲法学者には、青井三帆や木村草太などの社会的にも名前を出してきた若手もいる。。法曹界が<まとも>になるのは、いつになるのだろう。憂うべきことの一つだ。

1239/朝日新聞による「倒閣」運動としての特定秘密保護法反対キャンペーン。

 〇「政治結社」朝日新聞のヒドさは何度も書いたことで、それは、そもそもこのブログサイト開設の動機の重要な一つだった。
 月刊WiLL2月号(ワック)の山際澄夫「『秘密保護法反対』朝日のデマ報道」は近時の朝日新聞(正確には朝日新聞「等」)の「デマ報道」ぶりを社説等(大野博人の論説を含む)を引用しつつ具体的に指摘しており、資料的価値も高い。いくつか、紹介またはコメントする。
 ・山際も書くように、「一般人が特定秘密であることを知らないで情報を受け取っても処罰されることはない。暴行、脅迫。不法侵入、有線傍受などによって特定秘密を不正に取得した場合に限り、罪になる」(p.248)。しかるに、山際に依拠しておけば、朝日新聞10/26社説は「国民の知る権利」・「報道の自由」を制約し「その影響は市民社会にも広く及ぶ」と、同11/08社説は米軍基地・原発等の情報を得ようと「誰かと話し合っただけでも、一般市民が処罰されかねない」と書いた。
 処罰対象に「特定秘密」を知る(政府から業務委託を受けた会社従業員等の)民間人や上記のような態様でそれを不正に取得した民間人が含まれるのは確かだが、朝日新聞が書くように「影響は市民社会にも広く及ぶ」ことはないし、特定秘密に関心をもった「一般市民」がそれだけで刑罰を課されることはない。
 上のような朝日新聞社説は、意見・主張ではなく「デマ」の撒き散らしに他ならない。
 ・この欄でも既に書いたが、民主党政権時代の尖閣中国船衝突事件のビデオの「公開」に関する意見・姿勢と今次の朝日新聞のそれはまるっきり違う。山際が見出しとするように、「朝日、いつもの二重基準(ダブルスタンダード)」なのだ(p.248)。
 ・朝日新聞12/07社説は(私もデータ保存している可能性があるが山際に従って書くと)、12/06に成立した特定秘密保護法をかつてのドイツの全権委任法や日本の国家総動員法になぞらえ、この法律によって日本が「戦前」に戻るかのごとき主張をしている。
 また、朝日12/08の「天声人語」いわく-「国の行く末がどうなるか、考えるよすがもないまま戦争に駆り立てられる。何の心当たりもないまま罪をでっち上げられる。戦前の日本に逆戻りすることはないか」。これまた、「デマ」の撒き散らしだ。そして、悪質の<被害妄想>症に罹患している。あるいは、このような<被害妄想>をかりに一部でも本当に持っているとすれば、それだけの<やましさ>を朝日新聞が感じているのではないか、と推測することもできる。
 朝日新聞は日本の防衛・安全保障等に関する情報(特定秘密)を取得して、日本のそれらを害するように報道して「公開」したい、そして積極的にか結果としてか、「共産党」中国や北朝鮮に知らせたいのではなかろうか。いちおう疑問形で書いたが、<反日・売国>の政治結社・朝日新聞ならば、これらの疑いは肯定される可能性が十分にある。
 ・上のコラムはまた、この法律は日本版NSC設置と併せ、「その先」の武器輸出三原則の見直し・集団的自衛権行使容認という「安倍政権の野望」が成就すれば、「平和国家という戦後体制(レジーム)は終わる」と書いたようだ。
 「平和国家」なるものの厳密な意味を知りたいところだが、それはともかく、このような基本的な「思想・思考フレーム」は、戦前は悪、日本国憲法九条二項等をもつ「平和と民主主義」の戦後は善、その好ましい「戦後体制」を<保守・反動・好戦>勢力が終わらせ(そして悪しき戦前に逆戻りさせ)ようとしており、その先頭に安倍内閣・安倍晋三首相がいる、という、最近に紹介した刑事法学者・憲法学者等の声明等も抱いている、共通のものだろうと考えられる。
 いいかげんに覚醒せよ、と言いたい。そして、そのような「思想・思考フレーム」の種は元来はアメリカが作ったものであり、今日では客観的には「共産主義」中国の利益になる、あるいは中国共産党が喜ぶものであることを、知らなければならない。日本共産党(員)や朝日新聞社説子のごとき確信者または「嵌まった人々」以外のまだまっとうな「思想フレーム」に立ち戻ることのできる可能性がある人々はじっくりと、自らの現在の基礎的な<思想・思考フレーム>が適切なものであるかを疑ってみてほしいものだ。
 〇月刊WiLL同号の青山繁晴「『秘密保護法』全否定論に欺されるな」(p.76-)にも言及する予定だったが、割愛する。
 なお、青山繁晴が生出演してコメント等をする水曜日夕方の番組は毎回録画している。青山は、今年(2013年)の8月末にはその番組で、特定秘密保護法案の概要を紹介し、コメントしていた。8月末にすでに少なくとも自民党内において原案がほぼ確定していたのだとすると、10月末または11月初めに発売される月刊雑誌12月号において、スパイ防止法の機能もある程度はもちうるこの法律(案)の重要性・必要性について特集を組むか、そうでなくとも詳細な論考を掲載できたのではないか、と思われる。
 しかるに、10月末・11月初めに発売の月刊WiLLや月刊正論(産経新聞社)12月号は(そして翌月の1月号も)秘密保護法についてほとんど何も掲載しなかったのではないか。朝日新聞等による<大騒ぎ>を許し、安倍内閣の支持率を一時にせよ10%ほども減らした原因の一つは、<保守>メディア(および<保守>論者)のだらしなさにもある、と言ったら、言いすぎだろうか。

1230/特定秘密保護法反対の朝日新聞社説10-11月のいくつか。

 朝日新聞は特定秘密保護法の成立まで、ほとんど毎日のように法案に反対する社説を掲載し続け、同法案の問題点等を示唆・指摘する、いったい何事が起きたかと思わせるような「狂った」紙面づくりをしてきた。
 衆院通過後の朝日11/27社説は「国の安全が重要なのは間違いないが、知る権利の基盤があってこそ民主主義が成り立つことへの理解が、全く欠けている」とほざいている。この新聞はそもそも、はたして「国民の知る権利」に奉仕してきたのか?
 必要な情報をきちんと報道しないどころか、種々の「捏造」記事を書いて、日本の国家と国民を欺し、名誉も傷つけてきた。<従軍慰安婦>問題のニセ記事もそうだし、教科書の<近隣諸国条項>誕生のきっかけとなった、<侵略→進出書換え>という捏造報道もそうだった。2005年には本田雅和らが<NHKへの政治家の圧力>報道問題を起こした。尖閣・中国船衝突事件ではビデオを隠す政府側を擁護したことは先日に触れた。
 朝日11/12社説は「何が秘密かの判断を事実上、官僚の手に委ねるのが、法案の特徴だ。そこに恣意的な判断の入り込む余地はないか」と、奇妙なことをほざいている。第一次的には行政「官僚」が判断しないで、いったい誰が、どの機関がそれをするのか? 国会か、裁判所か、それとも朝日新聞社か。首相・内閣の指揮監督・調整をうけつつ関係行政機関の長が補助機関たる「官僚たち」の専門的知見を参照しつつ指定せざるをえないものと思われる。また、「恣意的な判断」についていえば、法律が行政権・行政機関に何らかの「権限」を授権する場合に、その権限の「恣意的」行使あるいは濫用のおそれはつねにあることで、この法律に限ったことではない。
 実質的に行政官僚が判断に相当に支えられつつ政治家でもある担当大臣等が「規制」権限を行使することとしている法律はおそらく千本以上ある。朝日新聞は、上の主張を貫くならば、そうしたすべての法律に反対すべきだ。幼稚なことは書かない方がよい。
 朝日11/26社説は地方公聴会での、「緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)の情報が適切に公開」されなかった問題を指摘した意見を法案と関係があると擁護している。だが、この問題は、この社説のいうような、「危急の時にあっても行政機関は情報を公開せず、住民の被曝につながった」ということではないだろう。
 「SPEEDIの情報」の「公開」とは何を意味しているのか。朝日新聞が擁護し応援した民主党政権が、政府が<知り得たはずの情報を有効に利用(活用)できなかったことにこそ問題があったのであり、法案とはやはり無関係だったと考えられる。公開・非公開、秘密にするか否かではなく、政府内部で「非公開」でも「秘密」でもなかった情報を民主党政権が適切に利用できなかった、というのというのが問題の本質だっただろう。朝日社説は民主党政権の「責任」につながるような論点であることを回避し、強引に一般国民との関係の問題にスリカエている。
 朝日新聞がまともな新聞ではないことは、今次の報道ぶりでもよく分かる。結局のところ、あれこれの改正・改善がなされたとしても、いわゆる四分野、①防衛、②外交、③スパイ等の「特定有害活動」の防止、④テロ防止、について「特定秘密」を設ける法律は許さない、いかに個々の論点・問題点を指摘して、それらが解明または改善されれば問題がなくなったとしても賛成するつもりは全くない、というのが朝日新聞の最初からの立場だったと思われる。
 国会上程時の10/26朝日社説は「特定秘密保護―この法案に反対する」という見出しになっている。それ以降、報道機関ではなく、政治的運動団体として、その機関紙を毎日(地域によっては毎朝と毎夕)政治ビラのごとく配布してきたわけだ。朝日新聞(会社・記者)はおそらく、自分たちが<スパイ等の「特定有害活動」>という「反日」活動ができにくくなることを本音では怖れているのだろう。
 「反日」と共産主義に反対する政治家たちは、もっと勇気をもって、堂々と朝日新聞と対決し、同新聞を批判してもらいたい。

1216/井上薫は婚外子「差別」違憲判決を厳しく批判する-月刊WiLL11月号。

 月刊WiLL11月号(ワック)に、井上薫「婚外子違憲判決/八つの誤り」があり、井上薫はこの判決(正確には決定。最高裁大法廷平成25年9月4日決定)を結論自体も含めて批判している。
 この最高裁決定についてはすでに9/12に言及した。

 そこで「世界的な状況の推移の中で,我が国における…法制等も変化してきた」という理由しか書かれていないと疑問視したが、井上薫は理由不明で、日本で「社会環境の変化」があったとは言えないと中身も批判しつつ、この決定を「世の中が変わったから身を任せた」という「風見鶏の真似」、「風見鶏ごっこ裁判」だと酷評している(p.230-1)。

 ほぼ同旨の批判だと言ってよい。

 また、「子にとっては自ら選択ないし修正する余地のない事柄を理由としてその子に不利益を及ぼすことは許されず,子を個人として尊重し,その権利を保障すべきであるという考えが確立されてきている」と格調高く?述べている部分を「偽善的な美辞麗句にすぎない」と批判しもしたが、井上薫も「一般的に誤りであることを強調したい」と述べる(p.232)。

 子ども間の平等の是非とともに、よりその母親(法的な正規の妻と事実上の妻)間の平等の是非の問題であることも井上は指摘している(p.236。但し、法律上の妻との間がつねに「愛情溢れた」夫婦関係とは限らず、形骸化していて「愛人」との間の方が夫婦らしい場合もありうるので一概にはいえないという旨を、先日のこの欄では書いた)。

 大まかにいって、最高裁のウェブサイトから全文を一度概読しただけで書いた9/12の一文は、大きくは的を外していないようだ。

 但し、概読したときには意識しなかったまたは気づかなかった論点だが、井上は本来裁判所が持たない「抽象的違憲審査権」を行使したものとし、三権分立等に違反する、と述べている(p.235-)。この部分は専門家でなければ分かりにくいだろう。また、専門家の間でも議論がありそうにみえる(同様のことは、「司法のしゃべりすぎ」や<傍論>に関する井上薫の主張についてもいえそうだ、という旨は書いたことがある)。
 冒頭掲記雑誌の同じ号の最初の方に門田隆将「…偽善に満ちた最高裁判決」もある(p.26-)。門田は一四人の裁判官一致であることに驚いたとし、内容的にも「日本人の長年の英知を否定」するものだとし、この決定は日本で「事実婚」が促進される契機となる「歴史的」なものだ、とする。また、「なんでも『平等』を訴えて権利ばかり主張する風潮」=「偽善」への違和感を示してもいる。

 明確に「反対」とは書かなかったが、私もまたほぼ同様の感想をもつ。
 ところで、門田は、「大手新聞が一紙の例外もなく」この最高裁決定を支持したことにも驚いたとし、「偽善」に「最高裁も大新聞も」毒されている、とする。

 この大手新聞、大新聞の中には当然に天下の産経新聞も含まれている。

 この件は、最高裁判決(・決定)を新聞社が批判することの困難さを示してもいる。最高裁とはそれだけの「権威」を今の日本社会では持っているのだ。

 井上薫も論及しているが、法律上は何の基準も定められていない、内閣による最高裁裁判官の任命(憲法79条)の仕方、それについての現在までの戦後の「慣行」を問題にし、きちんと再検討しておく必要があるだろう。

 この「慣行」についての新聞記事は(雑誌記事もだが)見たことがない。一種の「ブラック・ボックス」になっていて、既得権が生じている分野・「業界」があるはずだ。「大手新聞」・「大新聞」はまずは、最高裁裁判官の任命(方法・基準)の実態についての取材と報道から始めたらどうだろうか。

 最高裁は私の見るところ、これまでは致命的な失態を冒してはいないようでもある。だが、ぎりぎりの過半数であれ、「左翼」的判決の確定が続いたのちでは、もはや取り返しがつかない、という事態が生じないとも限らない(今回の婚外子差別違憲判決がそのような「左翼」的判決の連続の始まりにならなければよいのだが)。

 最高裁裁判官といっても「人の子」であり、無謬ではありえないし、「政治的」・「社会的」的状況あるいは「時代の空気」の影響を十分に受けうる、と見ておく必要がある。

 最高裁の判決・決定を正しく分析し批判できるだけの力量を、天下の各「新聞社」は持つ必要があるのだが、これは一朝一夕には無理かもしれない、産経新聞社も含めて。

1207/最高裁の婚外子相続「差別」違憲判決をめぐって。

 〇最高裁大法廷平成25年9月4日判決の特徴は、婚外子(非嫡出子)に対する民法上の相続「差別」を憲法違反とした理由が明確ではないことだ。
 全文を大まかに読んで見ても、そこに書かれているのは、一文だけをとり出すと、「前記イ及びウのような世界的な状況の推移の中で,我が国における嫡出子と嫡出でない子の区別に関わる法制等も変化してきた」、ということにすぎない。この問題をめぐる環境の変化に言及しているだけで、直接になぜ「平等原則」違反になるのかは述べていないのではないか。述べているらしき部分はのちに言及する。
 上の前者の世界的状況とは、国連の自由権規約委員会が「包括的に嫡出でない子に関する差別的規定の削除を勧告」したこと、加えて児童の権利委員会も日本の民法改正を促す勧告や当該規定の存在を「懸念する旨の見解」を改めて出したことをいう。

 上の後者のわが国の法制等の変化とは、「住民基本台帳事務処理要領の一部改正」、「戸籍法施行規則の一部改正」等をいう。

 この判決は一方で、日本ではまだ「法律婚を尊重する意識が幅広く浸透している」こと、婚外子の割合は増えても2%台にすぎないことを指摘しつつも、これらは合憲・違憲という「法的問題の結論に直ちに結び付くものとはいえない」とわざわざ述べていることも、興味深い

 〇この判決の結論自体については、産経新聞社説も含めて反対の論評はないようだ。
 ここでも反対意見は書かないが、最高裁裁判官中に一つの反対意見もなく、14名全員一致だというのは、ある程度は気味が悪い。最高裁判決は「正しい」または「最も合理的」なのではなく、権威をもって世俗的に通用する、というにすぎないことは確認されておくべきだ。

 最高裁判決が触れていない論点を指摘しておこう。

 第一。同じ父親から生まれた子が母親または両親の婚姻形態の違いによってその父親の資産相続につき同等に扱われないのは、たしかに、子どもの立場からすると「不平等」・「不公平」ではある。
 しかし、母親のレベルから見ると、法律上の妻と事実上の妻とが同等に扱われる結果になることは、法律上の妻との婚姻関係が基本的には正常・円滑に継続しており、事実上の妻あるいは「愛人」・「二号さん」とは同居もしておらず、事実上の夫婦関係が一時的または断続的である場合には、法律上のまともな配偶者(とその子ども)を不当に差別することになりはしないだろうか。
 むろん男女関係はさまざまで、法律婚の方がまったく形骸化し、事実婚の方が愛情に溢れたものになっている場合もあるだろうので、上のように一概にはいえない。しかし、上のような場合もあるはずなので、今回の最高裁判決および近い将来の民法改正によって、不当な取り扱いを受けることとなる法律上の妻や婚内子(嫡出子)もあるのではないかと思われる。しかるに、最高裁が裁判官全員一致で今回のような一般的な判断をしてしまってよかったのだろうか。

 むろん民法の相続関係規定は強行法規ではないので、被相続人の遺言による意思の方が優先する。もともと国連の関係委員会等の「権威」を信頼していないことにもよるのだが、個々のケースに応じた弾力的運用がまずは関係者私人の間で必要かと思われる。

 第二。本最高裁判決は、「子にとっては自ら選択ないし修正する余地のない事柄を理由としてその子に不利益を及ぼすことは許されず,子を個人として尊重し,その権利を保障すべきであるという考えが確立されてきている」と格調高く?述べて、実質的な理由らしきものにしている。

 しかしかかる理由でもって子どもすべてを同一・同等に扱うべきだという結論を導くことはできない、と考えられる。この点は、産経9/12「正論」欄で長谷川三千子もつぎのように、簡単に触れている。

 「自ら選択の余地のない事情によって不利益をこうむっているのは嫡出子も同様なのです。その一方だけの不利益を解消したら他方はどうなるか、そのことが全く忘れ去られています。またそれ以前に、そもそも人間を『個人』としてとらえたとき、(自らの労働によるのではない)親の財産を相続するのが、はたして当然の権利と言えるのでしょうか? その原理的矛盾にも気付いていない。」

 前半の趣旨は必ずしもよく分からない。だが、親が誰であるかによって実際にはとても「平等」ではないのが人間というものの本質だ。例えば、資産が大きく相続税を払ってもかなりの相続財産を得られる子どもと、親には資産らしきものはなく相続できるプラス財産は何もない子どももいる。これは平等原則には違反しないのか。あるいは例えば、頭が賢く、運動能力も優れた子どもがいる一方で、いずれもそうではない子どもも実際には存在する。この現象に「親」の違いは全く無関係なのだろうか。

 「子にとっては自ら選択ないし修正する余地のない事柄を理由としてその子に不利益を及ぼすことは許され」ないなどと言うのは、偽善的な美辞麗句にすぎない、と断じることができる。「親」が異なれば「子」も異なるのだ。嫡出・非嫡出などよりも、こちらの方がより本質的な問題だろう。

 さらに、長谷川が上に後半で指摘していることは正しい。
 今回の最高裁判決を「個人」主義・「平等」主義大賛成の「左翼」法学者・評論家等は大いに支持するに違いない。しかし、上に少し触れたように、例えば親の資産の有無・多寡が相続を通じて子どもの経済生活に「格差」を生じさせるのは、「個人」主義・「平等」主義に反するのではないか。
 つまり、「左翼」論者が本当に「個人」主義・
「平等」主義を貫きたいのならば、<相続制度>自体に反対し、死者の財産はすべて国庫に算入する、つまり国家が没収すべし、と主張すべきだと考えられる。

 「子ども」は親とは全く別の「個人」であり、親の財産を相続することを認めるのは、子ども「個人」の努力や才覚とはまったく関係のない、たまたまの(非合理的な)「血」縁を肯定することに他ならない。「個人主義」者は、これに反対すべきではないのか。また、そのような相続を認めることが親の違いを理由とする相続財産の有無・多寡という「格差」=「平等原則」違反につながるのだとすれば、「平等」主義者はますますもって反対すべきではないのか。
 本最高裁判決を肯定的に評価しているらしき棚村政行(早稲田大学」、二宮周平(立命館大学)らは、上の論点についてもぜひ回答していただきたいものだ。

1169/朝日新聞4/11天声人語の「法的」素養の欠如。

 朝日新聞4/11朝刊の天声人語がエラそうに、じつはアホなことを書いている。
 自民党の憲法改正案を皮肉り、それとの比較で橋下徹の見解を「常識的な見解」と持ち上げる過程で、次のような馬鹿な言辞を吐いている。
 「憲法は国民が国家を縛るもの、法律は国家が国民を縛るもの。向きが逆さになる。」

 このあとこの旨を「憲法99条が象徴的に示している」と続けているのだが、憲法99条のどこに「法律は国家が国民を縛るもの」という趣旨が含まれているのか。
 そもそも「法律は国家が国民を縛るもの」という理解が間違いであり、戯けた言辞だ。
 法律は議会(立法権)が制定し、国家の中の行政権と司法権を拘束する(「縛る」)もので、第一次的機能は「国民を縛る」ものではない。行政権の諸活動や司法権(裁判所)の判決を拘束する(「縛る」)ことこそが、憲法に違反していないかぎりでの法律の本質的な機能だ。行政は「法律を誠実に執行」しなければならず、司法(を担当する裁判官)は憲法と良心のほか「法律」にのみ拘束される。

 天声人語執筆者はそのお好きな日本国憲法の73条1号と76条3項を読んでみたらどうか。

 なるほど法律は直接に特定の又は一定範囲の国民を拘束する(「縛る」)ことがあるが、それはその他のもしくは別の一定範囲の国民の利益を、又は社会公共の利益を守るためのものだ。
 「法律は国家が国民を縛るもの」と書いてしまう天声人語執筆者は、いったい何のために縛っているのか考えたことがあるのか。

 刑法は(特定の、又は特定行為をする)国民を縛っていると言えるかもしれないが、どの刑法入門書にもそれは「個人的」・「社会的」または「国家的」法益を守るためのものだと書いているはずだ。また、罪刑法定主義によって、法律の定めによらない(国家=裁判所による)刑罰の賦課を阻止しようとしている点をとらえれば、刑法という法律は当然に国民を守る重要な機能を持っている。

 民法はどのように、いかなる意味で「国民を縛るもの」なのか。朝日新聞・天声人語執筆者は具体的例を挙げてみるがよい。きっとできないだろう。基本的には、民法は国民相互の権利義務に関する紛争を解決するための、司法権(裁判所)を拘束する裁判規範として機能するものだ。決して単純に「国民を縛るもの」ではない。
 個々の行政法規は、直接に(民法とは違って国民が出訴しなくとも)行政権・行政機関を拘束するものだ。国民を拘束する命令等を行政機関に授権することもあるが、法律がないかぎりで国民を拘束する命令を出せないという意味では、国民を守っている。またそもそも例えば生活保護法という法律のように、国民に「権利」を付与するもので、決して「国民を縛るもの」という性格づけをできない法律も少なくない。
 議会(立法権)は他の二権と違って国民により選出された議員により構成されているので、むしろ議会制定法=法律は、国民代表が司法権と行政権を「縛る」ものだ、と言える。お分かりかな? 朝日新聞、天声人語殿。
 天声人語が「憲法は国民が国家を縛るもの、法律は国家が国民を縛るもの。向きが逆さになる。」などというバカげたことを書いているのは、日本のマスメディアの知識レベルの低劣さを示す典型でもあろう。
 憲法改正に関する議論でも、日本のマスコミが産経新聞も含めて、いかほどに適切な記事や論評を書いたり、議論を展開させることができるのか、はなはだ疑わしいと思っている。何しろ、<よりよい・よりマシな憲法を>という問題意識を欠落させたまま、長い間眠り続けてきた日本人を作りだし、その
先頭に立ってきたのは、朝日新聞を筆頭とする日本のマスメディア(に従事する天声人語子等)に他ならない。
 産経新聞ですら、改憲の必要はしばしば訴えてはいるものの、具体的な諸論点についての「法的」な理解は心もとないところがある。護憲派の朝日新聞・毎日新聞となるとなおさらだ。「法的」素養の欠如は、4/11朝日新聞・天声人語が見事に示してくれている。そもそも朝日新聞・天声人語に、憲法や法律に関する(以上では言及を省略したが)「そもそも」論を述べる資格はない、というべきだろう。

1124/首相の伊勢神宮参拝は「政教分離」違反か。

 中西輝政が最近に読んだ何かの本の中で、情報=インテリジェンスの重要性に触れ、朝日新聞も重要な情報源として読んで(分析して)おく必要がある旨を述べていた。
 そのとおりではあるのだが、一私人にすぎない者にとって、資料として用いるために朝日新聞を定期購読する気にはなれない。無料で配達してくれるのならば、喜んで頂戴するのだが。
 従って、ネット上でこまめにフォローしていないと朝日新聞の重要な(面白い)社説すら見逃してしまう。産経新聞論説委員室編・社説の大研究(扶桑社文庫、2004)によると、朝日新聞は2001年に5度にわたって、小泉首相(当時)の靖国参拝に反対する社説を公にしたようだ。
 そのうちの二つめ(2001.07.05)は「総理、憲法を読んで下さい」と題し、近隣諸国への配慮「以上に心を砕くべきは」憲法20条との関係だとして、条文を引用し、「この認識が決定的に欠けているのではないか」とまで言っている。
 四つめ(2001.08.14)は「首相の靖国参拝はそもそも、憲法20条の政教分離原則に照らして疑義がある」と、ズバリ書いている(以上、p.305-6)。
 朝日新聞社発行のかつての月刊「論座」の編集長で、ときどきテレビ朝日の「サンデー・プロジェクト」に出ていた薬師寺克行も、朝日新聞社員だったから当然だろうが、「論座」編集部編・渡辺恒雄・若宮啓文(対談)/「靖国」と小泉首相(朝日新聞社、2006)の「あとがき」の中で、首相の靖国参拝は「政教分離」や「信教の自由」という「憲法問題も絡んで」いる、と書いている(p.109)。
 靖国神社との関係でのこのような憲法20条解釈論は、憲法学界の通説ではおそらくないだろう。
 しかし、このような議論は一定の影響力を持っているようで、おそらく合憲・違憲の結論は朝日新聞とは異なるだろうが、自民党の稲田朋美産経新聞4/17の「正論」欄で、次のように書いていた。
 「首相の靖国参拝は、対外(対中韓)的には、いわゆるA級戦犯の問題に、対内的には、憲法20条3項の政教分離問題に帰着する」。
 弁護士資格をもつ稲田にして、と言いたいところで、憲法20条・「政教分離」問題とは無関係だ、と<保守>派の論者は断言しておくべきだろう。
 なぜなら、歴代の内閣総理大臣は、民主党内閣のそれらも含めて、毎年1/04あたりに伊勢神宮に参拝しているが、朝日新聞も含めて、どのメディアもこれを批判的には報道していないし、批判する国民の声というのも読んだり、聞いたりしたことはない。
 それだけ、「定着した」、憲法上の問題は何もない慣例として受けとめられているわけだ。
 しかして、伊勢神宮(正式にはたんに「神宮」)は、戦前は別だが、神道という特定の宗教のいわば総本山に他ならない(但し、「教派神道」という神社本庁に属さない神道系神社もある)。
 靖国神社もその宗教は「神道」なのであり、伊勢神宮はよくて靖国神社はいけない、という議論は、その「宗教」性・神道系宗教施設であることを理由としては全く成り立たないものだ。
 余計ながら、最近、民主党の小沢一郎が、大阪・住吉大社、奈良・大神神社、伊勢神宮の三社を続けて参拝したとされる。
 一政治家の行為だからもともと憲法問題を生じさせないが、小沢と「宗教」(ここでは「神道」)との関係について疑念を表明するメディア(報道・記事)は全くなかったはずだ。
 靖国神社についてだけ「宗教」(「神道」)との関係を問題にするのは異様だ。
 もちろん別に理由があるからこそ、朝日新聞らは首相の靖国参拝に反対しているのだ。余計な憲法論議を靖国問題にくっつけるな、と言いたい。関連させるならば、毎年の伊勢神宮参拝についても憲法上疑義があると主張すべきだ。何という<ご都合主義>なのだろうと、あらためて指摘しておきたい。

1115/福島みずほ(社民党・弁護士)の暗愚と憲法改正。

 〇福島みずほ(社民党)は東京大学法学部出身でかつ弁護士(旧司法試験合格者)でもあるはずだが、政治活動をしているうちに、憲法や人権に関する基礎的なことも忘れてしまっているのではないか。
 憲法9条に関する、(アメリカとともに)「戦争をできる国」にするための改正反対という議論は、妄想のごときものなので、ここでは触れない(なお、「防衛戦争」もしてはいけないのか、というのが、「戦争」という語を使えば、基本的な論点になろう)。
 福島みずほは、月刊一個人6月号(KKベストセラーズ)の憲法特集の中で、「国家権力に対して『勝手に個人の権利を制限するな』と縛るのが憲法の本来の目的だった」と、いちおうは適切に書いている。G・イェリネックのいう国民の国家に対する「消極的地位」だ。
 これは国家に対する国民の「自由」(国家からの自由)の保障のことだが、福島はつづけて、「だからこそ」「『国家はしっかり我々の生存権を守りなさい』とも言える」と続けている(p.93)。
 生存権保障は自由権とは異なる社会権保障とも言われるように、国家に対して作為・給付を要求する権利の保障で、G・イェリネックは国民の国家に対する「積極的地位」と言っているように、「自由」(消極的地位)とは異なる。
 「だからこそ」などとの簡単な接続詞でつないでもらっては困る。
 それにまた、福島は東日本大震災で、憲法一三条の「幸福追及権」や憲法二五条の「生存権」が「著しく侵害されている状態」だというが(p.93)、第一に、憲法の人権条項は何よりも国家との関係で意味をもつはずなのに(これを福島も否定できないはずだろうが)、国家(日本政府等)のいかなる作為・不作為によって上記の「著しい」人権侵害状態が生じているのかを、ひとことも述べていない。困った状態=「国家による人権侵害」ではない。
 第二に、生存権にも「自由権」的側面があり、「幸福追求権」は自由権的性格を基礎にしつつ「給付(国務)請求権」性格ももちうることがありうるものだと思われるが(この二つを同種のものとし単純に並べてはいけない)、そのような自由権と給付請求権の区分けを何もしていない。
 ほとんど法学的議論・論述になっていないのだ。
 ついでにいえば、「生存権」にせよ「幸福追求権」にせよ、憲法上の人権であることの法的意味、正確には、それらの<具体的権利性>について議論があり疑問があり、最高裁判決もあることを、よもや弁護士資格取得者が知らないわけはないだろう。
 憲法に素人の読者に対して、震災は憲法上の「幸福追求権」や「生存権」と関係があるのよ、とだけ言いたいのだとすれば、ほとんどバカだ。
 〇阿比留瑠比ブログ5/04によると、福島みずほは、この月刊一個人6月号の文章とかなり似たことを、5/03にJR上野駅前で喋ったようだ。
 こちらを先に引用すると、上のようなことの他に、福島はこうも言っている(阿比留ブログより引用)。
 「先日発表された自民党の憲法改正案は、逆です。国民のみなさんの基本的人権をどのように、どのようにも剥奪できる中身になっています。国民は公益、公共の福祉に常にしたがわなければならない。そうなっています。」
 上記雑誌ではこう書いている。
 「自民党の憲法改正草案には、『この憲法が国民に保障する権利を乱用してはならない。常に公益及び公の秩序に反しない範囲で自由を享受せよ』と書かれています。つまり権力者が国民に対して自由や人権を制限するという意味で、ベクトルが完全に反対になってしまっています。これは、ある意味もう憲法ではないとさえわたしは思います」(p.93)。
 福島みずほの頭自体が「逆に」または「ベクトルが完全に反対に」できているからこそ、このような罵倒になるのだろう。
 自民党改正草案の当該条文は、以下のとおり。
 11条「国民は、全ての基本的人権を享有する。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利である」。
 12条「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民はこれを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。」
 現憲法の条文は、次のとおり。
 11条「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる」。
 12条「
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」。
 このように、第一に、「常に公益及び公の秩序に反してはならない」等の制約も、前条による基本的人権の保障を前提としたものだ。
 第二に、福島らが護持しようとする現憲法においてすら、
「…濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」と明記されている。
 いったい本質的にどこが違うのか。福島が自民党案を「逆」だ、国家権力による人権制限容認案だとののしるのならば、現憲法についても同様のことが言えるはずなのだ。現憲法においても基本的人権を「濫用してはならない」し、「常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」のだ。
 福島みずほの改憲案憎し、自民党憎しは、この人物の頭の中の「ベクトルを完全に反対に」してしまっているようだ。
 この人物に客観さとか冷静さを求めても無駄なのだろう。あらためて、呆れる。
 〇なお、自民党草案は、上に見られるように現憲法の微修正で、マッカーサー憲法ないしGHQ憲法の抜本的な見直しになってはいない。
 九条改正・新九条の二設定はこれらでとりあえずはよいとしても、全体としてはもっと本格的な改正案(新憲法制定と言えるもの)が出されることが本来は望ましいだろう(改正の現実的可能性・戦略等々にもよる)。
 そして、私は上のような二カ条は、とくに(現11条の後半と)12条は、なくともよいと考えている。自民党、立案担当者は、もっと思い切った改憲案をさらに検討してもよいのではないか。
 このあたりは、憲法改正手続法の内容にも関係し、現憲法の条文名(数)を基本的には変えない(加える場合には九条の二のような枝番号つきの新条文にする)という出発点に立っていることによるようだ。
 あらためて調べてみたいが、番号(条文名)も抜本的に並び替える、という抜本的・全面的な改正は全く不可能なのだろうか。このあたりの問題は、産経新聞社の新憲法起草委員たちはどう考えているのだろうか。

1045/北朝鮮による人権侵害への対処に関する法律。

 「拉致問題その他北朝鮮当局による人権侵害問題への対処に関する法律」という名前の法律が(生きている現行法として)ある。平成18年法律96号。
 民主党であっても松原仁はたぶん知っているだろうが、山岡某担当大臣は内容まで含めて知っているだろうか。
 多くの人は知らないと思うので、またさして長い法律ではないので、以下に、全文を紹介しておく。

 「第一条(目的)   この法律は、二千五年十二月十六日の国際連合総会において採択された北朝鮮の人権状況に関する決議を踏まえ、我が国の喫緊の国民的な課題である拉致問題の解決をはじめとする北朝鮮当局による人権侵害問題への対処が国際社会を挙げて取り組むべき課題であることにかんがみ、北朝鮮当局による人権侵害問題に関する国民の認識を深めるとともに、国際社会と連携しつつ北朝鮮当局による人権侵害問題の実態を解明し、及びその抑止を図ることを目的とする。 
 第二条(国の責務)   国は、北朝鮮当局による国家的犯罪行為である日本国民の拉致の問題(以下「拉致問題」という。)を解決するため、最大限の努力をするものとする。
   政府は、北朝鮮当局によって拉致され、又は拉致されたことが疑われる日本国民の安否等について国民に対し広く情報の提供を求めるとともに自ら徹底した調査を行い、その帰国の実現に最大限の努力をするものとする。
   政府は、拉致問題その他北朝鮮当局による人権侵害問題に関し、国民世論の啓発を図るとともに、その実態の解明に努めるものとする。
 第三条(地方公共団体の責務)  地方公共団体は、国と連携を図りつつ、拉致問題その他北朝鮮当局による人権侵害問題に関する国民世論の啓発を図るよう努めるものとする。
 第四条(北朝鮮人権侵害問題啓発週間)  国民の間に広く拉致問題その他北朝鮮当局による人権侵害問題についての関心と認識を深めるため、北朝鮮人権侵害問題啓発週間を設ける。
 2  北朝鮮人権侵害問題啓発週間は、十二月十日から同月十六日までとする。
   国及び地方公共団体は、北朝鮮人権侵害問題啓発週間の趣旨にふさわしい事業が実施されるよう努めるものとする。
 第五条(年次報告)  政府は、毎年、国会に、拉致問題の解決その他北朝鮮当局による人権侵害問題への対処に関する政府の取組についての報告を提出するとともに、これを公表しなければならない。
 第六条(国際的な連携の強化等)  政府は、北朝鮮当局によって拉致され、又は拉致されたことが疑われる日本国民、脱北者(北朝鮮を脱出した者であって、人道的見地から保護及び支援が必要であると認められるものをいう。次項において同じ。)その他北朝鮮当局による人権侵害の被害者に対する適切な施策を講ずるため、外国政府又は国際機関との情報の交換、国際捜査共助その他国際的な連携の強化に努めるとともに、これらの者に対する支援等の活動を行う国内外の民間団体との密接な連携の確保に努めるものとする。
 2  政府は、脱北者の保護及び支援に関し、施策を講ずるよう努めるものとする。
   政府は、第一項に定める民間団体に対し、必要に応じ、情報の提供、財政上の配慮その他の支援を行うよう努めるものとする。 
 第七条(施策における留意等)  政府は、その施策を行うに当たっては、拉致問題の解決その他北朝鮮当局による人権侵害状況の改善に資するものとなるよう、十分に留意するとともに、外国政府及び国際連合(国際連合の人権理事会、安全保障理事会等を含む。)、国際開発金融機関等の国際機関に対する適切な働きかけを行わなければならない。
 第八条(北朝鮮当局による人権侵害状況が改善されない場合の措置)  政府は、拉致問題その他北朝鮮当局による日本国民に対する重大な人権侵害状況について改善が図られていないと認めるときは、北朝鮮当局による人権侵害問題への対処に関する国際的動向等を総合的に勘案し、特定船舶の入港の禁止に関する特別措置法(平成十六年法律第百二十五号)第三条第一項 の規定による措置、外国為替及び外国貿易法 (昭和二十四年法律第二百二十八号)第十条第一項の規定による措置その他の北朝鮮当局による日本国民に対する人権侵害の抑止のため必要な措置を講ずるものとする。」
 以上。
 北朝鮮系の朝鮮学校への補助(学費無償化)の問題も、上の法律の趣旨と関連させて論じられてよいのではないか。
  なお、すべてとはいわないが、北朝鮮の現況の重要な起源・原因・背景がコミュニズム・共産主義・マルクス主義にあること、マルクス→レーニン→スターリン→毛沢東・金日成という系譜の果てに現在の北朝鮮があることを、とりわけ日本の「左翼」は―むろん朝日新聞を含む―しっかりと認める必要がある。

1030/原子力損害賠償法・エネルギー政策基本法と菅直人・マスメディア。

 〇原子力損害賠償法〔原子力損害の賠償に関する法律〕3条第一項は、次のように定める。
 
「原子炉の運転等の際、当該原子炉の運転等により原子力損害を与えたときは、当該原子炉の運転等に係る原子力事業者がその損害を賠償する責めに任ずる。ただし、その損害が異常に巨大な天災地変又は社会的動乱によつて生じたものであるときは、この限りでない」。
 ここでいう「原子力事業者」とは原子炉等規制法〔核原料物質、核燃料物質及び原子炉の規制に関する法律〕23条・23条の2・13条第一項・43条の4第一項・44条第一項・51条の2第一項・52条第一項のいずれかの「許可」を受けた者をいうので(同法2条第三項)、福島第一原発等の事故にかかる事業者は東京電力となる。
 さて、この規定は、損害賠償につき一般的・原則的な過失責任主義を採っていない(=無過失責任主義を採る)ことを明らかにしている、とされる。但し、完全な無過失・結果責任を要求しているわけでもなく、上記のとおり、「異常に巨大な天災地変又は社会的動乱によつて生じたものであるとき」は免責されるものと定めている。
 かねて不思議に思ってきたのは、この規定の解釈が政治・行政界でまともに議論されたことはなく、マスメディアにおいて話題にされたこともほとんどないと見られることだ。
 むしろ、おそらくは上にいう免責される場合にはあたらないことを当然に前提として、早々に、原子力損害賠償法自体にもとづく「原子力損害賠償紛争審査会」が発足し、議論を始めている。
 上の免責規定には該当しない、すなわち、「異常に巨大な天災地変又は社会的動乱によつて生じたもの」ではない、ということを内閣も各政党も、そしてマスメディアも十分に納得したうえで、損害賠償に関する細かな議論は進めてほしかったものだ。
 たぶん4月中の毎日新聞だっただろう、与謝野馨が上の免責条項に該当するので東電は免責される旨を言ったら、枝野幸男がそんな解釈には法律改正が必要ですよ(=今の法律のままだと東電は免責されない)と反論した、というような記事を読んだ。見出しになってもおらず、記事本文中の一部だったが、じつに基本的・根本的な問題に触れていたのだ。
 結論としてはどちらでもよい、と言えば語弊はあるし、最終的な決定権者は裁判所なのだが、政府として、上の法律の重要な関係条項をどのように解釈して損害賠償関係事務を遂行していくかは、きちんと明確にして国民(・マスコミ)に対して公表しておくべきだっただろう。
 ひょっとすれば、それはなされていたのかもしれない。そうだとすると、この点について重要な報道対象としなかった日本のマスメディアは、いったいいかなる「法的」感覚をもっているのかと、恐怖に近いほどの感想をもたざるをえない。
 東京電力を擁護する意図はないが、「異常に巨大な天災地変
」による損害か否かは、議論するに足りる論点だったと思われる。
 また、この法律の裏付けをもって被害者が権利として要求(請求)できる損害賠償(金銭による償いの一つ)と、東電や国等が<見舞金>的に行う、被災者=弱者救済という目的も含めての、政策的な金銭給付とは、論理的にはきちんと区別されなければならない。
 これらは、「法的」議論のイロハなのではないか?
 こうしたことが曖昧にされたまま?何となく事態が進行するのは、<法的秩序感覚>を不快な方向に動揺させる。
 〇産経新聞7/30付社説は、以下のことを述べている。
 菅直人内閣の「エネルギー・環境会議」が「原発への依存度を下げていく」ことを目指し、2050年までに原発を減らす工程表を作る方針を打ち出したが、「そもそも、首相は本来あるべき手続きを無視している。エネルギー政策は『エネルギー政策基本法』に基づき策定され、変更する場合、エネルギー基本計画を変えなければならない。策定者は経済産業相と決まっている。だが、首相は原発を推進してきた経産省の影響力排除を狙い、国家戦略室による見直しにこだわっている。その結果が今回の中間整理である」。
 菅直人とその内閣が<法律を誠実に執行>しているのか疑問を呈したところだが、阿比留瑠比の産経新聞7/30付「日曜日に書く/順法精神見あたらぬ菅首相」とともに、産経新聞だけは(?)、「本来あるべき手続」等の表現でもって、菅直人・同内閣の政治・行政スタイルの異様さを指摘し始めた(?)ようだ。
 上の産経社説が指摘している例は、<法律を誠実に執行>していないどころか、明らかに<違法な法令執行>をしているのではないか。左であれ右であれ、(現行の)法律に従っていない内閣・行政権は、それだけで厳しく糾弾・指弾されるべきではないのか??
 阿比留瑠比の文章の中に出てくる片山虎之助(たちあがれ日本)の発言を探してみたりしたのだが、長くなったので、次回以降に委ねる。

0910/井上薫・ここがおかしい外国人参政権(2010)読了。

 10/09に、井上薫・ここがおかしい外国人参政権(2010、文春新書)を一気に全読了。
 大きな注意を惹いておきたいことが一点、基本的な疑問点が一点ある。

 第一。傍論でいわゆる「許容説」を採ったと(ふつうは)理解されている最高裁1995年(平成07年)02.28判決につき、百地章らの保守派らしき論者の中には、<傍論にすぎず>、全体として「許容説」ではなく「禁止説」に立っていると理解すべき旨の主張がある。櫻井よしこも百地章らの影響を受けている。

 井上薫の上の本は、ごく常識的に、素直な日本語文の読み方として、上の最高裁判決は「許容説」=法律によって一定の外国人に地方参政権を付与することは憲法上許容されている(付与しないことも許容される=違憲ではない)という説に立つものと理解している(そしてそれを批判し、井上は「禁止説」に立つ)。
 憲法ではなく上記最高裁判決の「解釈」のレベルでの議論として、百地章の読み方(判決の「解釈」)や櫻井よしこの「読み」方にしばしば疑問を呈してきた。

 自らの憲法解釈に添うように憲法に関する最高裁判決を「解釈」したいという気持ちは分からなくはないが、そして上記最高裁判決が<推進派>の「錦の御旗」(井上p.67)になることを阻止したいという気持ちも理解できるが、法的議論としては、無理をしてはいけない。

 井上薫は書く。例えば、①上記最高裁判決の「中核」は「『定住外国人の地方参政権が憲法上禁止されていない』という点にあります」(p.80)。②上記最高裁判決は三段落からなり、「第二段落」は「外国人のうち…〔中略〕に対し、法律により選挙権を付与することは憲法上禁止されていない」という意味だ。「推進派の錦の御旗」は「憲法理論における『許容説』を採用した、第二段落の部分です」(p.89-90)(『』部分も判決の直接引用ではなく、井上による要約)。

 百地章らは(井上のいう)第一段落と第二段落とは「矛盾」しているとし、かつ第二段落は「傍論」として、全体としては、第一段落を重視して<禁止説>に立つ、と最高裁判決を「解釈」するが、同旨をこの欄ですでに述べているとおり、井上の読み方(理解・「解釈」)の方が素直で、常識的だ。

 従って、最高裁判決も<禁止説>だ、と(無理をして)主張するよりも、上記最高裁判決自体を批判すべきだ、ということになる。

 また、上記判決の「第二段落」=いわゆる「傍論」部分を主導したとされる園部逸夫裁判官(当時)の退官後の「証言(?)」を引き合いに出して上記判決の権威を事実上貶めようとすることも政治運動的には結構なことだが、何を当時の裁判官が喋ったところで、かつての最高裁判決の法的意味が消滅したり変化するわけでもない(このこともいつか書いた)。

 第二。井上薫は憲法解釈として「禁止説」を採り、上記最高裁判決を批判する。その結論自体に賛同はするが、論旨・議論の過程には疑問もある。

 井上は、他のこの人の本にすでに書いていることだが、判決理由中の(判決の)「主文を導く関係にない部分」を(関係のある「要部」に対して)「蛇足」と呼び、そのような蛇足を含む判決を「蛇足判決」と称する(p.103)。そして、これこそが重要だが、「蛇足」(を付けること)は「実は違法」で、「蛇足判決は先例にも判例にもならない」、という「蛇足判決理論」なるものを主張する(p.119)。

 そのうえで、上記最高裁判決の「第二段落は蛇足だ」(p.126の小見出し)とし、第二段落は「裁判所の違法行為の産物」で、「後世の人が先例と見なしたり、判例として尊重するということは、許されない」と断じる(p.130)。

 上の結論的部分に全面的には賛同できないのだが、それはさて措くとかりにしても、例えば次の一文は自己の「理論」に対する<買いかぶり>ではないだろうか?

 「こうして〔外国人地方参政権付与〕推進派の根拠は、蛇足判決理論によって完膚なきまでに破壊されました」(p.137)。

 外国人参政権付与法案の上程かという切羽詰まった時期になって、あらためて関係最高裁判決の「読み方」に関する議論やその最高裁判決も一つとする憲法「解釈」論の展開があったりして、外国人地方参政権付与推進派が勢いを減じていることは確かだろうが、推進派の「根拠」が「完膚なきまでに破壊され」ているとはとても思えない。

 また、かりに勢いが大きく減じているとしても、そのことが井上の「蛇足判決理論」による、とはとても思われない。

 以上が、読後に感じた、重要な二点だ。

 「蛇足」をさらに二点。第一に、井上は上記最高裁判決の「第二段落」を「裁判史上永遠に残る大失敗」と断じ、「園部裁判官の空しい弁解」との見出しも付ける(p.129、p.130)。

 すでに述べたことだが、客観的には、園部逸夫は<晩節を汚した>と言ってよいだろう。「韓国や朝鮮から強制連行してきた人たち」を「なだめる意味」、「政治的配慮があった」、日韓関係についての「思い入れ」があった、等と述べたようだが(p.133-4)、判決後にこんなことを(いくら内心で思っていても)口外してしまうこと自体が異様・異常だ。なお、1929年生まれで、私のいう<特殊な世代(1930~1935年生)>(最も強く占領期の「平和・民主主義」・「反日〔>反日本軍国主義〕・自虐」教育を受けた世代)にもほとんど近い。
 第二。判決理由中の「蛇足」部分は(あるいはそれを付けることは)「違法」で、「先例、判例」として無意味だ、と言い切れるのか?

 井上はいくつかの例を挙げており、その趣旨はかなりよく分かるが、しかし、例えば、議員選挙の無効訴訟における請求棄却判決が、理由中で定数配分規定をいったん違憲=憲法14条違反だと述べることは(請求棄却という結論とは無関係だから)「違法」で、<判例>としての意味はないのだろうか?

 「蛇足判決理論」についての、井上以外の他の専門家の意見も知りたいものだ。

0887/西部邁には「現実遊離」傾向はないか②。

 いかなる理由だったのか、中島岳志=西部邁・パール判決を問い直す(講談社現代新書、2008.07)をきちんと読まなかったし、この欄でコメントしたこともおそらくない。
 と思っていたが、記憶違いで、概読して、中島岳志の法的無知等について批判的
コメントすら書いていた。  その後、所謂東京裁判法廷のパ-ル判事の<真意>をめぐる東谷暁等と小林よしのりの月刊正論(産経)等での論争を知り、ケルゼン(・「法実証主義」)の理解はパ-ル判事の意見書(所謂パール判決)の理解や評価と関係はない等と書いて、このときは小林よしのりを応援したのだった。
 西部邁が書く上掲の本の「おわりに」(p.197-、計10頁)をあらためて読んで、この人の「法」等に関する考え方、「法律観」はかなり奇妙だと感じざるをえない。
 要約的に紹介しつつ、コメントする。
 ①「近代の社会秩序を方向づけている法哲学は法実証主義だといってさしつかえない」。
 ②「実証主義」は観察・計量可能な社会の規範体系を重視し、それをできめるだけ「(形式的)に合理的に構築」しようとする。規範体系は「慣習法」も含むが、「法実証主義」の「主たる対象」は「いわゆる制定法」になる。(p.198)
 →「法実証主義」が近代「法哲学」を「方向づけ」る、との理解は適切なものか、確信はもてないが、それが、のちにも西部邁が(極端なかたちを想定して)理解するものを意味するとすれば、すでに誤謬または偏見が含まれているだろう。
 ③上のことが「過剰なほどに明確」なのはケルゼン。ケルゼンは、1.「価値相対主義」に立ち、2.「根本規範」が採用する「価値観」は「民主主義的な」「多数決」によって決定されると説き、3.「根本規範」から「合理的に導出され制定され」るのが「実定法の体系」だとする(4.略)(p.199)
 ④ケルゼンの法哲学は「ハイエックの批判した」「設計主義(…)の法哲学」であることは「論を俟たない」。
 ⑤「いささかならず奇怪」なのは、「自称保守派の少なからぬ部分が、社会秩序の維持に拘泥するのあまり、こうした(制定)法至上主義に与している」ことだ。
 →鳩山由紀夫はもともとは「最低でも県外」と言っていたのに、「できるだけ県外」との約束を履行できなくて…と謝罪した。「最低でも」と「できるだけ」では、まったく意味が違う。ごまかしがある。西部邁もまた、「法実証主義」、「主な対象」は「制定法」、という前言を、この⑤では「(制定)法至上主義」と言い換えている。批判したい対象を批判しやすいように(こっそりと)歪めることは論争においてしばしば見られることだが、西部邁も対象の歪曲をすでに行っているのではないか。
 ⑥東京裁判にもかかわる「自称保守派」の「罪刑法定主義の言説」はケルゼンの「もっとも狭い近代主義にすぎない」。<罪刑法定主義>によって「見過ごしにされている」のは、次の二つ。第一に、「制定法はつねに何ほどか抽象的に規定されるほかない」ということ。そして、「法定」 の「実相」は「権力(…)による決定」だということ。第二に、制定法の「解釈と運用」は「根本規範」に「従い切れる」ものではなく、「制定法を基礎づけたり枠づけたりしている法律以外のルール、つまり徳律(モーラル)」やその苗床たる「国民の習俗」やそれが促す「国民の士気」等を参照せざるをえない。(p.200-1)
 →この⑥には、<罪刑法定主義>への偏見と無知がある。
 <罪刑法定主義>といっても「制定法」が「何ほどか抽象的に規定されるほかない」ことは、法学または刑法学の入門書を読んだ学生においてすら常識的なことだ。また、「徳律」・「習俗」・「士気」などとは表現しないが、とくに裁判官が、法律上に明記された文言では不明な部分を何らかの方法によって<補充>して解釈していることも常識的なことだ。
 <罪刑法定主義>は上の二点を「見過ごし」にしている、などという大言壮語は吐かない方がよい。
 ⑦欧州の「慣習法の法哲学」をD・ヒュームも語り、E・バークは、「啓蒙的な自然法」とは区別される「歴史的自然法」が基礎に胚胎する「慣習法体系」を語った。「歴史的自然法」とは「歴史の英知」ともいうべき「国民の規範意識」で、憲法についての国民意識も「政治的に設計され」ず、「歴史的に醸成される」。(p.202-3)
 ⑧「保守思想」は「歴史的自然法の考え方」に「賛意を表する」。
 →「保守」=「歴史的自然法の考え方」、「左翼」または反・非「保守」(「自称保守」の多く)=「法実証主義」と言いたいのであれば、あまりも単純な整理の仕方ではないか?
 ⑨「歴史的自然法」の理解者は多少とも「法実証主義」を批判する。後者は「民主主義の多数決によって何らかの特定の直観を採用する」との見解だ。その「直観の妥当性」を「歴史的英知」、「いいかえると伝統精神」に求めるのが「保守思想における法哲学の基本」だ。
 ⑩「保守思想における法哲学」は「罪刑法定主義」に「もっとも強い疑義」をもつ。「法実証主義」の目標である「精緻な制定法」の「設計」をすれば、社会秩序は「リーガル・アルゴリズム(法律的計算法)」に任されることとなり、「法律的計算法」の支配する社会は「(民主主義という名の)牢獄」にすぎない。(p.203)
 →じつに幼稚な思考だ。たしかに、法律(制定法)の精緻さを高める必要がある場合のほかに、あまりに詳細で厳密な法律(制定法)作りを避けるべき場合もあるだろう。だが、「精緻な制定法」作りによって社会は「(民主主義という名の)牢獄」になるなどと簡単に論定すべきではないだろう。
 また、ここにはほとんど明らかに「制定法(法律)」ニヒリズムとでも言うべきものが看取できる。さらに、現代国家・現代社会につき「法律」によって国民(人民)を監視し管理する「牢獄」に見立てているらしきM・フーコーの言説を想起できさえする(M・フーコーの議論をあらためて確認はしない)。西部邁とは存外に―少なくとも「法律(実定法)」に関する限りでは―「左翼」的心情の持ち主なのではないか。

 ⑪「制定法」中心になるのは「文明の逃れ難い宿命」だろうが、「歴史的自然法」を「考慮」すべしとするのが「保守的な裁判観」だ。

 ⑫所謂東京裁判の「法実証主義・罪刑法定主義」違反に対する批判に終始して当時の「国際慣習や国際歴史(の自然法)に一顧だにしない」のは「法匪のにおいがつきまとう」。
 ⑬「左翼(近代主義)的な法律観」を排すべき。「左翼的」「裁判観」を受容したうえでの「東京裁判批判などは屁のつっぱり程度にしか」ならない
 →所謂東京裁判に関連させてだが、「法実証主義・罪刑法定主義」に立つ者を「法匪のにおいがつきまとう」との表現で罵り、「左翼的」裁判観だと断定している。
 かかる単純な議論には従いていけない。東京裁判を離れてより一般的に言えば、前回に書いたこととほとんど同様になる。つまり、西部邁がこの文章で言っている「歴史的自然法」・「慣習法の法哲学」あるいは「歴史的英知」・「伝統精神」に従った<制定法(法律)>の「解釈運用」や、新しい<制定法(法律)>案の具体例を示していただきたい。
 現実に多数ある政策課題(そして、どのような内容の法律にするかという諸問題)を前にしてみれば、「歴史的自然法」を考慮せよ、と言ってみたところで、ほとんど<寝言に等しい>
 西部邁は自分が毎年払っているだろう(原稿料・印税等の)所得税の計算方法にしても、自分が利用していると思われる公共交通・エネルギー供給事業等々にしても、どのような関係法令があり、どのような具体的定めがあるかをほとんど知ってはいないし、ひょっとすれば関心もないのかもしれない。<現実遊離>を感じる所以だ。
 ついでに。現憲法76条3項は「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」と定めている。裁判官が依拠すべきなのは「法律」だけではない。「憲法」も含まれるし、何よりも「良心に従」うべきとされている。
 西部邁が嫌いな現憲法すら、<制定法(法律)至上主義>を採用していない。

0886/西部邁には「現実遊離」傾向はないか①。

 1970年の三島由紀夫の自決の際の<檄文>が憲法と自衛隊に触れていることから、隔月刊・表現者29号(ジョルダン、2010.03)の「憂国忌・記念シンポジウム/現代に蘇る三島由紀夫」によると、西部邁は憲法や法律について、つぎのように発言している(p.272)。<檄文>への言及部分は省く。
 ①憲法と自衛隊は本来は「二者択一」。
 ②「元来、憲法なんてアメリカ人が書いた草案」で、日本側が拙速で翻訳して日本の「帝国議会」で「認められただけの存在」だ。
 ③「成文憲法」を書き「その憲法の条文に従って」行動するというのは「変な」のだ。「憲法に合うように自分の存在を変える」、これ自体を「歴史感覚をもった国民ならば」「とんでもないと思うべき」。「特定の人物」の「適当な興味による文章ごとき」に「国家のあり方とか人格のあり方まで左右される」こと自体が「非常に近代主義的な誤謬」だ。「あんな成文憲法は…あってもいいけれども」、「本来ならば自分たちの歴史の…良識なり常識として」「国防なり軍隊」をどう「作るかが決定的に大事だ」。
 ④「法律は大事」だが、その前に「常識」がある。それをもたらすのは「日本の歴史その他」で、この方が「遙かに大事」だ。
 ⑤「今の日本人」は「尚かつ憲法というものに依存」しているが、「そんなもの日本の歴史と無関係」。「歴史」の方が「人間精神、意識として決定的に大事」。「どんな憲法の条文」があろうが、「そんなことは二の次三の次」ということを「今の日本人は全く分からずにいる」。
 さて、西部邁はいったい何を言いたいのか?
 上の①・②はよい。あとは「憲法」の部分を1947年施行の<日本国憲法>ときちんと読み替えると趣旨・気分は理解できそうだ。
 だが、いかに現憲法に対する嫌悪感・拒否感情が強くとも(私も多分に同感だ)、現憲法やその下位の法律よりも「日本の歴史」の方が重要だ、という旨の部分は、一種の<憲法・法ニヒリズム>につながるところがあるようで、脆いところがあると感じる。
 上の③のように、「憲法の条文に従って」行動するというのは「変な」のだ、「憲法に合うように自分の存在を変える」、これ自体を「歴史感覚をもった国民ならば」「とんでもないと思うべき」だ、と西部邁が言ってみたところで、現実の日本の政治・社会(・人々の行動)は現憲法によって方向づけられ、制約されてきたことは疑いえない。
 いかに現憲法の生誕の奇異さを指摘し、その内容の日本の歴史と無関係の「近代主義」性を強調しても、現憲法施行後は現憲法の定めにのっとり、加えて国会法等の法律に従って両議院の議決によって「法律」は制定されてきた。同じく加えて公職選挙法等の法律に従って両議院の議員は選出されてきた。そして現憲法に従って、小泉内閣も鳩山由紀夫内閣も生まれてきた、という現実を否定することはできない。
 そのような意味で、西部邁が渡部昇一のように現憲法「無効」論を主張しているのかどうかは知らないが、西部邁にはいくぶんは<現実遊離>の趨きがある。
 西部邁自身が憲法改正に関する提言類を執筆しているように、現実的に力を持ちうるのは、<憲法よりも歴史が大事、憲法は「二の次三の次」>といった主張ではなく、「日本の歴史」を組み込んだ新憲法を作ること=憲法を改正すること、そのための主張・提言・議論をすることに他ならないだろう。
 西部邁は「法律」にも言及して「日本の歴史その他」がもたらす「常識」の方が「遙かに大事」だとも語る。気分は分かるが、しかし、例えば―あくまで一例だが―、「法律」が定めるべき、両議院議員の選出方法(定数配分等を含む)、消費税率、社会的福祉的給付の具体的内容は、「日本の歴史その他」がもたらす「常識」によってどのように明らかになるのか、具体的な例を示していただきたい。
 国有財産の管理方法、道路管理の仕方や道路交通の諸規制、あるいは各種「公共」事業の実施を国・地方公共団体・独立行政法人・その他の<外郭団体>・「公益法人」・<ほとんど純粋な民間セクター>にどう配分するのか等々は、「日本の歴史その他」がもたらす「常識」によって、どのように、どの程度、明らかになるのか?
 現実に多数ある政策課題(そして、どのような内容の法律にするかという諸問題)を前にしてみれば、「法律」よりも「日本の歴史その他」がもたらす「常識」の方が「遙かに大事」だ、という見解を述べたところで、ほとんど<寝言に等しい>
 実際にも、憲法改正をめぐって、あるいは諸法律案をめぐって(公務員制度改革、高速道路の料金の決め方、外国人選挙権、夫婦別姓等々々)<政治的>闘いが繰り広げられているようだ。
 そのような「憲法」や「法律」の具体的内容に関する諸運動に対して、西部邁の上のような発言は、<水をぶっかける>こととなる可能性が全くないとは思われない。
 もともと「憲法」(一般)・「法律」と道徳(規範)や歴史とは決して無関係ではない。あえてこれらの違いを強調することの意図はいったい奈辺にあるのだろう。
 このシンポジウムの司会者・富岡幸一郎は三島由紀夫の<檄文>が提起した一つは「憲法改正の問題」だと明確にかつ正当に述べている(p.270)。
 したがって、「憲法改正」の具体的内容・戦術が語られてもよかったのだが、西部邁は「成文憲法」・日本国憲法なんて「二の次三の次」だ、「大事」なのは「日本の歴史」だなどと発言して、論点をズラしてしまっている。こんな西部の議論を、憲法(とくに現9条2項)護持論者はきっと喜ぶだろう。

0864/外国人(地方)参政権問題-あらためて、その1。

 1 外国人参政権に関する最高裁平成7年2月28日判決に関与した元最高裁裁判官の園部逸夫、および園部を批判している百地章の議論については、すでに一度だけ触れた(3月14日エントリー)。

 このときは日本会議・月刊「日本の息吹」3月号というマイナーな(?)雑誌又は冊子に載っていた百地章の文章を手がかりに、産経新聞2/19の記事と絡めて書いた。

 月刊WiLL3月号(ワック)に、百地章「外国人参政権・園部元最高裁判事の俗論」がある(p.203)。こちらの方が、長く、より正確な百地の論考のようだ。
 月刊「日本の息吹」3月号では園部見解の典拠の一つは「日本自治体法務研究」とされていたが、正確には、「自治体法務研究」という雑誌(9号、2007夏)。
 2 あらためての感想の第一は、やはり園部逸夫という人物の<いかがわしさ>になる。裁判官時代は優れた、まともな人だったのかもしれない。だが、あくまで百地章による紹介・引用を信頼して感じるのだが、少なくとも自分が関与した上記最高裁判決に関するその後の園部の発言ぶりは、異様だ。

 前回(3/14)、百地が紹介しているとおりならば、「そのような『法の世界から離れた俗論』にすぎないとされる『傍論』を含む判決理由の作成に参画し合意したのは園部自身ではないか、という奇怪なことになる」と書いた。かつての自分を批判することになることを元最高裁裁判官が言うのだろうか、という思いが、<奇怪なこと>という表現になっていて、まさか…という気分が全くないではなかった。

 しかし、今回の百地章の文章を読んで、まさにその<奇怪なこと>を園部逸夫はしている、と断定してよいものと思われる。

 関心の高い人にはすでに無意味・無駄かもしれないが、整理・確認の意味を含めて、百地の文章から、園部逸夫発言を抜き出す。

 ①朝日新聞1999年6月24日-上記最高裁判決で「傍論を述べて立法に期待した」。

 ②自治体法務研究2007夏号-所謂傍論部分を「傍論…としたり、重視したりするのは、主観的な批評に過ぎず、判例の評価という点では、法の世界から離れた俗論である」。
 ③A・産経新聞2010年2月19日-所謂傍論部分には「政治的配慮があった」。

  B・阿比留瑠比ブログ2010年2月19日-所謂傍論部分は「確かに本筋の意見ではないですよね。つけなくても良かったかもしれません」、「なくてもいいんだ」。

 筆者(秋月)が直接に確認できるのは③A・Bだけだが、とりわけ、①と②の間には、私の理解ではより正確には、最高裁判決そのものと②の間には、異常な懸隔、この上もない奇怪さがある。自分が関与した(しかも「主導した」とすら言われる)判決部分について、「傍論…としたり、重視」するのは「法の世界から離れた俗論である」と言ってしまえる感覚・神経は尋常のものではない。

 3 私は上記最高裁判決の論理は成り立ちうるもので、「矛盾」しているとまでは言えない、と理解している。この点につき、百地章は「論理的に矛盾」している旨を詳論している。

 同趣旨のことは別冊宝島・緊急出版/外国人参政権で日本がなくなる日(宝島社、2010.04)の「百地章先生に聞く! いちからわかる憲法違反の外国人参政権」でも、「…傍論だし、しかも本論と傍論は矛盾している」(p.72)と述べられている。

 潮匡人に対する批判的コメントをしたりもしたが(その前には渡部昇一をとり挙げた)、広くは<仲間>だと主観的・個人的には考えている者の述べていることに(<仲間うちの喧嘩>のごとく)逐一反論しない方がよいのかもしれない。しかし、私のような理解(判例解釈)も成り立つとなお考えているので、簡単に述べておく。

 上記最高裁判決の、百地のいう「本論」(理由づけ)は、そのままに全文を引用すると次のとおり。①・②…は秋月による挿入。

 <〔①〕憲法第三章の諸規定による基本的人権の保障は、権利の性質上日本国民のみをその対象としていると解されるものを除き、我が国に在留する外国人に対しても等しく及ぶものである。そこで、憲法一五条一項にいう公務員を選定罷免する権利の保障が我が国に在留する外国人に対しても及ぶものと解すべきか否かについて考えると、憲法の右規定は、国民主権の原理に基づき、公務員の終局的任免権が国民に存することを表明したものにほかならないところ、主権が「日本国民」に存するものとする憲法前文及び一条の規定に照らせば、憲法の国民主権の原理における国民とは、日本国民すなわち我が国の国籍を有する者を意味することは明らかである。そうとすれば、公務員を選定罷免する権利を保障した憲法一五条一項の規定は、権利の性質上日本国民のみをその対象とし、右規定による権利の保障は、我が国に在留する外国人には及ばないものと解するのが相当である。〔②〕そして、地方自治について定める憲法第八章は、九三条二項において、地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が直接これを選挙するものと規定しているのであるが、前記の国民主権の原理及びこれに基づく憲法一五条一項の規定の趣旨に鑑み、地方公共団体が我が国の統治機構の不可欠の要素を成すものであることをも併せ考えると、憲法九三条二項にいう「住民」とは、地方公共団体の区域内に住所を有する日本国民を意味するものと解するのが相当であり、右規定は、我が国に在留する外国人に対して、地方公共団体の長、その議会の議員等の選挙の権利を保障したものということはできない。以上のように解すべきことは、当裁判所大法廷判決(最高裁昭和三五年(オ)第五七九号同年一二月一四日判決・民集一四巻一四号三〇三七頁、最高裁昭和五〇年(行ツ)第一二〇号同五三年一〇月四日判決・民集三二巻七号一二二三頁)の趣旨に徴して明らかである。」
 そしてこのあと、「〔③〕このように、憲法九三条二項は、我が国に在留する外国人に対して地方公共団体における選挙の権利を保障したものとはいえないが、…」と冒頭でまとめたあとで、所謂<傍論>へとつなげている。

 百地章も認めているように(月刊WiLL5月号p.205)、上のとくに②・③は、「外国人への参政権付与は、たとえ地方選挙権であっても認められない(禁止される)」とは「明言していない」。

 それを百地は、上の前段の「」内のように最高裁判決(本論)を<解釈>しているのだ。百地がp.210で「」付きでまとめている「本論」は、判決文そのものの引用ではなく、百地の<解釈>を経たものにすぎない。そして、これは成り立つかもしれない一つの(最高裁判決の)<解釈>なのかもしれない。

 しかしながら、少なくとも、絶対的にそのような内容の解釈しか出てこない、という文章ではない、と私は読んで(解釈して)いる。

 最高裁の上の文章で明確に述べられているのは、憲法93条2項は「我が国に在留する外国人に対して、地方公共団体の長、その議会の議員等の選挙の権利を保障したものということはできない」(②)、同じことだが、「我が国に在留する外国人に対して地方公共団体における選挙の権利を保障したものとはいえない」(③)ということだけだ。

 これを、憲法(93条2項)は積極的に(地方参政権を)付与していない、とだけ<解釈>し、法律でもって付与することは憲法上「禁止されているものではない」(許容されている)〔所謂<傍論>中〕とつなげることは、決して<論理矛盾>ではない、と思われる。
 つまり百地章はすでに特定の解釈を加えて<本論>を理解し、そのうえで<傍論>と「論理的に矛盾」している、と主張しているわけだ。

 上のような<特定の解釈>を採用すれば、たしかに「矛盾」している。しかし、そもそもそのような前提に立たなければ、「矛盾」しているとは言えないだろう。

 本来は些細な問題かもしれない。あるいは、<政治的には>百地見解に従っておけばよいのかもしれない。だが、日本文の読み方として、いずれが適切な、または自然なものなのか、百地先生の教えをあらためて乞いたいものだ。 

0842/最高裁判決の「傍論」だから「法的拘束力はない」?-外国人地方参政権問題の一つ。

 外国人(地方)参政権(選挙権)付与法案に関して論議がなされている。その際に、保守系論者・評論家の中から、<外国人地方参政権付与を許容したかのような最高裁判決(平成07.02.28)は傍論でそれを述べたのであり、法的拘束力はない>旨が発言または論述されることがある。
 かかる保守系論者・評論家の発言・叙述には(私は上記の案に反対だが)「ひとこと言っておきたいことがある」(「さだまさし」ふう)。ひとことではなく二言以上になるかもしれない。
 第一。そもそも、最高裁判決の理由中の一文(「傍論」だろうとなかろうと)が「法的拘束力」をもつとはどういう意味をもち、「法的拘束力」をもたないとはどういう意味をもつのか、きちんとわきまえて発言等をしているのだろうか。
 いわゆる東京裁判の「拘束」力についてもかなり近いことが言えるが、そもそも「法的拘束力」をもつ・もたないがいかなる法的意味をもつかを説明できない議論は無意味だ。
 専門的な詳細は知らないが、判決主文の「拘束」力、あるいは判決理由中の(とくに直接に主文に関係する)<争点>に関する記述の「拘束」力の有無や「拘束」を受ける者の範囲等々について、議論があるはずなのだ。
 もともと訴訟および判決は原則としては訴訟当事者の権利義務に関する紛争について提起され、出されるもので、厳密にいえば直接には、訴訟当事者にしか<効力>を及ぼさない。
 <法的拘束力>の有無をうんぬんする論者は<判例としての法的意味>を言っているつもりなのかもしれないが、それにしても判決理由中の叙述がいかなる<判例(理論)としての意味>をもつかは一概に答えられるものではなかろう。
 そして、<判例(理論)としての法的意味>だとしても、<傍論には法的意味(法的拘束力)はない>などと簡単に言い切れない、と考えられる。
 とりあえず<傍論>を主文=結論とは直接には関係のないつぶやき、某のいう「司法のしゃべりすぎ」のようなもの、と理解するとしても、<傍論>は全く無意味というわけではない。ある紛争の発生・訴訟の提起に応じて、結論とは直接に関係なくとも、判決を出す機会に最高裁としての法的見解をついでに述べておくという運用は頻繁ではないが(とくに最高裁では)行われているようだ。対立している下級審判決の統一、行政・立法への警告等の意味をもつこともあるのだろう。 
 某のいう「司法のしゃべりすぎ」は、主文=結論とは直接には関係のない<つぶやき>のすべてを指しているわけでもなかろう。
 傍論中の判示ではあっても<最高裁判例>(最高裁の考え方)として重要な意味をもたされている例もあることを私は知っている。
 第二に、上記の最高裁判決は憲法は外国人に(地方公共団体レベルでも)選挙権を保障していない、憲法上の権利として憲法上付与されるものではない、と言っている。原文はつぎのとおり(下線部は引用者)。
 憲法第三章による基本的人権の保障は、権利の性質上日本国民のみをその対象とするものを除き在留外国人に対しても等しく及ぶが、「憲法一五条一項にいう公務員を選定罷免する権利の保障が我が国に在留する外国人に対しても及ぶものと解すべきか否かについて考えると、憲法の右規定は、国民主権の原理に基づき、公務員の終局的任免権が国民に存することを表明したものにほかならないところ、主権が『日本国民』に存するものとする憲法前文及び一条の規定に照らせば、憲法の国民主権の原理における国民とは、日本国民すなわち我が国の国籍を有する者を意味することは明らかである。そうとすれば、公務員を選定罷免する権利を保障した憲法一五条一項の規定は、権利の性質上日本国民のみをその対象とし、右規定による権利の保障は、我が国に在留する外国人には及ばないものと解するのが相当である。そして、地方自治について定める憲法第八章は、九三条二項において、地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が直接これを選挙するものと規定しているのであるが、前記の国民主権の原理及びこれに基づく憲法一五条一項の規定の趣旨に鑑み、地方公共団体が我が国の統治機構の不可欠の要素を成すものであることをも併せ考えると、憲法九三条二項にいう『住民』とは、地方公共団体の区域内に住所を有する日本国民を意味するものと解するのが相当であり、右規定は、我が国に在留する外国人に対して、地方公共団体の長、その議会の議員等の選挙の権利を保障したものということはできない」。
 上の部分は外国人(地方)参政権(選挙権)付与に反対する保守系論者・評論家において、要旨的にでも言及されることが多い。
 だが、あくまで、憲法上は外国人(地方)参政権(選挙権)を保障していない、と述べているにすぎず、憲法は外国人(地方)参政権(選挙権)を<法律によって>付与することを禁止している、とまでは述べていない。
 憲法上付与されてはいないとしつつ、法律で付与することは憲法違反(違憲)になる、とも明言していないのだ。
 上のことを、上のような違いを、保守系論者・評論家はきちんと理解しているだろうか。
 そして、<法律で付与することまで憲法が禁止しているわけではない>旨を明言したのが、いわゆる「傍論」部分だ。原文はつぎのとおり(下線は引用者)。
 「憲法九三条二項は、我が国に在留する外国人に対して地方公共団体における選挙の権利を保障したものとはいえないが、憲法第八章の地方自治に関する規定は、民主主義社会における地方自治の重要性に鑑み、住民の日常生活に密接な関連を有する公共的事務は、その地方の住民の意思に基づきその区域の地方公共団体が処理するという政治形態を憲法上の制度として保障しようとする趣旨に出たものと解されるから、我が国に在留する外国人のうちでも永住者等であってその居住する区域の地方公共団体と特段に緊密な関係を持つに至ったと認められるものについて、その意思を日常生活に密接な関連を有する地方公共団体の公共的事務の処理に反映させるべく、法律をもって、地方公共団体の長、その議会の議員等に対する選挙権を付与する措置を講ずることは、憲法上禁止されているものではないと解するのが相当である。しかしながら、右のような措置を講ずるか否かは、専ら国の立法政策にかかわる事柄であって、このような措置を講じないからといって違憲の問題を生ずるものではない」。
 保守系論者・評論家は、憲法レベルと法律レベルでの問題をきちんと分けて論じているだろうか。
 この最高裁判決は小法廷判決だが、裁判官全員一致による文章として、上のように書かれたことの意味は(その当否・評価は別論として)小さくない、と思われる。<傍論だから法的拘束力はない>などと言って切り捨てて無視しようとすることはできないものと思われる。
 むろん、この部分を、特定外国人への(地方)参政権(選挙権)付与賛成論者が、最高裁が積極的に認めているとして援用するのも間違いだ。
 最高裁は法律レベルで、つまり国会による立法政策によって、<特定範囲の>外国人について(「国」政ではなく)<地方公共団体>レベルでの参政権(被選挙権を含めていないと解される)を付与するかどうかを判断できる、と言っている、と理解するのが、日本語文の素直な読み方だろう(繰り返すが、法律で付与しても、逆に法律で付与しなくても、どちらでも違憲ではない、と言っているのだ)。
 以上のようなやや複雑な(といって、さほど理解困難でもない)最高裁判決の論理構造(?)を、外国人(地方)参政権(選挙権)付与に反対する保守系論者・評論家はきちんと理解しているだろうか?
 第三。最高裁判決とは、最高裁判決の「理由」とは(「傍論」かどうかはともあれ)、いったいいかなる機能をもつものなのか。最高裁判決はその「理由」も含めて(少なくとも「傍論」でないかぎりは)、日本国民は金科玉条、高貴で権威あるものとして絶対視しなればならないものなのか?
 そんなことはない。確定したとされる最高裁の判例(理論)ですら、国民は批判することが可能だ。最高裁「判例」を最高裁自身が大法廷によって「変更」することも可能なのだ(追記すれば、最高裁の裁判官というのは、「戦後」の「平和と民主主義」教育―日本国憲法等にもとづく憲法等の教育を含む―のトップ・エリート的「優等生」たちであることを忘れてはいけない)。
 なぜこんなことを書くかというと、外国人(地方)参政権(選挙権)付与に反対する保守系論者・評論家の最高裁判決への言及の仕方には一種の<ご都合主義>が紛れ込んでいないか、という疑問がある。
 つまり、最高裁判決がいわゆる<傍論>において<保守派>にとって都合のよいことを書いていれば、彼ら<保守派>(といって私も広くは<保守派>のつもりなのだが)の多くは、<最高裁も傍論において(傍論ではあれ)述べているように……>などという言い方をして、自己の主張を正当化するために、最高裁判決の「傍論」を援用し、利用しようとするのではないか? かりにそういうことがあるとすれば、それは<ご都合主義>であり、最高裁判決に対する<ダブル・スタンダード>だ。
 こんな思考方法、議論の仕方としては朝日新聞的な「左翼」が採用するようなことを、まともでまっとうな<保守派>はしてはいけない。
 <傍論だから法的拘束力はない>とのフレーズが気になって書いておこうと思っていたが、思いの外、長くなってしまった。
 八木秀次はもちろん、百地章も、上のようなことをきちんとは書いてくれていないのではないか? だが私としては、上記最高裁判決の読み方も含めて、しごくまともなことを書いたつもりだ。
 上の最高裁判決を前提にしても、法律レベル、つまり立法政策レベルでの議論をきちんとすれはそれで足りる。この次元の問題についてはあえて書くまでもないだろう。

0834/渡部昇一の「裁判」・「判決」区別論は正しいのか?

 1952年4月発効の日本国との平和条約、いわゆるサンフランシスコ講和条約の11条第一文前段につき、「受諾」=accept したのは「裁判」ではなく「(諸)判決」(judgements)だとの旨を、渡部昇一は強調し続けている。
 月刊正論11月号(産経新聞社、2009)の巻頭、渡部「社会党なき社会党の時代」p.42は、田母神俊雄更迭←村山談話←東京裁判史観と系譜をたどった上で、日本の外務省は平和条約11条の「判決」を「裁判」と混同したため、日本政府・自民党は「卑屈」になった、外務省・小和田恒の国会答弁には「裁判と判決をごっちゃにした致命的な誤り」がある、等と説く。
 渡部昇一ら・日本を讒する人々(PHP、2009)p.149でも同旨を語り、11条の「…の受諾」という「部分の解釈をしっかりしておくことが、日本が独立として起つために不可欠の『知』だと思います」とも述べる。
 月刊ボイス10月号(PHP、2009)の渡部「東アジア共同体は永遠の幻」p.77では、次のようにすら述べる。
 「判決の受諾か、裁判の受諾か。これをどう考えるかで、じつは恐ろしい違いがある。『裁判を受諾する』といった場合には、東京裁判の誤った事実認定に基づく不正確な決め付け――南京大虐殺二十数万人や日本のソ連侵略というものまで――に日本が縛られつづけるということになるからだ。/げんに、『東京裁判を受諾した』ということが強調されるようになる一九八〇年前後から日本の外交は全部ダメになっていく。…」。
 講和(平和)条約11条第一文前段につき、「判決の受諾か、裁判の受諾か」を問題にする渡部昇一の問題意識とその結論的叙述は適切なのか?
 なるほど「裁判」ではなく「諸判決」の方がより適切な訳語であるように思われる。だが、そのことで、いったい何が変わるというのか?
 かねて、かかる疑問を持ってきた。だが、櫻井よしこも-渡部昇一の影響を受けてだろう-、とくに「左翼」による日本国・東京裁判「肯定」説に対して、「裁判」ではなく「判決」にすぎない旨を言って反論しているのを読んだことがある。
 また、法学者であるはずの八木秀次も、上のPHPの鼎談本の中で、渡部昇一の言い分をそのまま聞いていて、疑問を発しようともしていない。
 渡部昇一は①いかに「裁判」と「判決」を定義しているのだろう? いちおう別だが、重なり合うところの多い概念ではないか? あるいは、渡部昇一は②「判決」を判決「主文」のことだと誤解しているのではないか? 「判決」は「主文」と「理由」(・「事実」)から成り立っていることを知ったうえで語っているのだろうか?(かつては「主文」・「事実」・「理由」の三分だったが、後二者は「事実及び理由」に括られるようになっている-正確な叙述は別の機会に行ってみよう)。
 上の②の疑問からして、「裁判」と理解すれば、「東京裁判の誤った事実認定に基づく不正確な決め付け――南京大虐殺二十数万人や日本のソ連侵略というものまで――に日本が縛られつづける」が、「(諸)判決」と理解すれば「誤った事実認定に基づく不正確な決め付け」から免れる、などと簡単に言えるはずはない、と考えられる。
 また、上の①の疑問を基礎づけうるある法律用語辞典による「裁判」と「判決」の説明も、紹介したことがある(この欄の10/19)。再掲する。
 以下、有斐閣・法律用語辞典(第三版)による。それぞれ全文。
 「裁判」=「通常は、司法機関である裁判所又は裁判官が具体的事件についてする公権的な判断。訴訟事件の本案に関する判断はもとより、訴訟に付随しこれから派生する事項についての判断も含まれる。判決、決定及び命令の三種類がある。なお、両議院がその議員の資格に関する争訟について判断する場合及び弾劾裁判所が判断する場合にも、裁判という語が用いられる。」
 「判決」=「(1)民事訴訟法上、原則として口頭弁論に基づき裁判所がする裁判で、特別の場合を除き法定の事項を記載する文書(判決書)に基づく言渡しによって効力を生ずるもの。①確認判決、給付判決、形成判決、②終局判決、中間判決、③本案判決、訴訟判決、④全部判決、一部判決、追加判決等と講学上分類される。(2)刑事訴訟法上は、特別の場合を除き口頭弁論に基づいて裁判所がする裁判で、公判廷で宣告によって告知されるもの。すべて終局裁判である。」
 再度いうが、「裁判」ではなく「(諸)判決」と理解して(訳して)、いったいどういう違いが出てくるのか??
 <保守>の代表的論客の指摘だからといってつねに適切だとは限らない。上の問題を疑問視する<保守>知識人がいないようであることこそ奇妙というべきだ。
 渡部昇一は「裁判」(trial、tribunal)と「判決」(judgement)の違いに関する<英文学者>としての何らかの根拠をもっているのかもしれない。だが、その根拠自体がすでに危うい可能性がある。英米語(とくにアメリカ語)でも、「裁判」と「判決」は上の日本の辞典のようにやはり解されている可能性が高い。また、より適切に議論するためには<英米法>学者の知識も必要だろう。「裁判」・「判決」区別論には、あらためて論及する。   

0683/奇妙な東京地裁2009.03.12判決と朝日新聞、東京弁護士会・岩井重一、山田洋次・斉藤貴男。

 一 奇妙な判決が3/12に東京地裁で出たようだ(東京地裁2009.03.12判決)。
 産経新聞3/14社説によると、東京都日野市の都立七生養護学校で「性器の付いた男女の人形やコンドームの装着を教えるための男性器の模型などの教材」を使っていたことを視察して知った(確認した?)東京都議会議員が都議会で批判し、視察に立ち会った都教委が上記のような教材を没収した。
 「これに対し当時の教員ら31人が性教育の内容を批判され、教材を没収したのは不当として都と都議のほか、この視察を報じた産経新聞を相手取り計3000万円の賠償を求めた。判決は産経新聞への訴えは棄却し、都教委による教材没収などについても却下した」。だがこの判決は、「都議が教員を威圧的に批判した」などとして「旧教育基本法が定めた『不当な支配』にあたる」との判断を示し、一部訴えを認めた」。つまり、関係都議は原告らに対し、何がしかの損害賠償金を支払え、というわけだ。
 上記の教材につき、読売新聞3/16社説は「性器の付いた人形」としか書いていない。朝日新聞3/14社説もほぼ同様で、「性器がついた人形などの教材」としか書いていない。
 この判決の評価は、上の三紙でいうと、判決を批判する読売・産経と支持する朝日に分かれる。
 朝日新聞社説は、教育は「不当な支配」に服してはならないと教育基本法(改正前)が定めたのは「『忠君愛国』でゆがめられた戦前の教育への反省からだ。その意味を改めてかみしめる司法判断が示された」と大上段から振りかぶって書き始め、(判決の紹介か社説子の見解か不明だが、同じなのだろう)都議が「高圧的な態度で…難じた」、「これは穏当な視察ではない」、「不当な支配」にあたる、と断定する。そして「きわめて妥当な判断」と東京地裁判決を持ち上げている。その中で、「都議らは『政治的な主義、信条』にもとづいて学校教育に介入、干渉しようとした」と明記していることも注目しておきたい。また、「外部の不当な介入から教育の現場を守るべき教育委員会が、逆に介入の共犯だと指摘されたに等しい」とも書いている。
 朝日新聞社説の、歴史に残る大弁舌の一つとして長く記録されてよいだろう。
 養護学校という特有性があるとしても、小学校・中学校で、上記のような教材を使う「性教育」行うことが適切であるかは当然に問題にされてよい。
 読売新聞社説は「当時は、『男らしさ』や『女らしさ』を否定するジェンダー・フリーの運動とも連携した過激な性教育が、全国の小中高校にも広がっていた」と書いている。あえて指摘しておく必要はないかもしれないが、上のような性教育は<ジェンダー・フリー>論・運動を背景にしている。読売社説は続ける-「小学校2年生の授業で絵を使って性交が教えられるなどした。/性器の付いた人形が、都内80の小学校で使われていたことも明らかになり、国会でも取り上げられた。文部科学省が全国調査し、自治体も是正に取り組んだ。/都議の養護学校視察は、こうした過激な性教育を見直す動きの一環として行われたものだ」。
 読売社説も産経社説も指摘又は示唆しているように、かかる(性)「教育」方法を批判することが「不当な支配」にあたるとされ、視察時の都議発言が名誉毀損とされて不法行為責任(損害賠償責任)を負わされるようでは、地方公共団体の議会議員がその職責の一つとして「教育行政」を監視することは不可能になる。
 読売はいう-「政治家が教育現場の問題点を取り上げて議論し、是正していくこと自体は、当然のことと言えるだろう」。産経はいう-「同校の当時の性教育には保護者の一部からも批判が寄せられていた。保護者の同意、発達段階に応じた教育内容など性教育で留意すべき内容から逸脱したものだ。/これを是正しようとした都議らの行動を「不当」とするなら議員の調査活動を阻害しかねない」。
 朝日は、「都議らは『政治的な主義、信条』にもとづいて学校教育に介入、干渉しようとした」と書いた。これを読んで、思わず、「笑っちゃう」という気分になった。特定の「政治的な主義、信条」にもとづいて「性教育」をしていたのは、原告ら教員たちそのものではないか。
 朝日新聞社説子という常識・良識とは異なる基準を持っている者にとっては、自己の見解、主義・主張と異なるそれらだけが「政治的な主義、主張」となり、そのような「主義」にもとづくものだけが「不当な支配」になるのだろう。原告ら又はその教育方法(教材選択等)と「外部」又は「上部」の組織(日教組・自治労・市民団体等)との関係は定かでないが、原告らは、「外部」又は「上部」の組織によってこそ「不当な」支配・介入を受けていたのではないか。そうだとすれば、朝日新聞社説の主張とは逆に、都教委は「不当な支配」から教育を守ったことになる。
 どのような主張のやりとりがなされたかはほとんど知らない。だが、一部にせよ(つまり原告らが請求した額より少ない)「損害賠償請求」を認容した東京地裁の裁判官たちはいったいどういう感覚・良識の持ち主なのだろう。裁判官たちもまた「戦後民主主義」教育・「男女対等」教育の子であり(しかもその中での優等生であり)、放っておけば自然に<左傾化>していることを、この判決も示していると思われる。この判決の裁判長の氏名は矢尾渉
 二 怖ろしいと思うのは、原告団長は日暮かをるという元教諭であるらしい、こうした原告らの訴訟を弁護士団体が応援していたようであることだ。
 「2005年1月24日」に東京弁護士会は東京都教委・同教育長あてにつぎのような文章を冒頭におく文書を発している。
 「東京弁護士会 会長 岩井重一
  警 告 書
 東京都教育委員会(以下「教育委員会」ともいう。)は、2003年9月11日東京都立七生養護学校(以下「七生養護学校」という。)の教員に対して行った厳重注意は、『不適切な性教育』を理由にするものであって、このことは子どもの学習権およびこれを保障するための教師の教育の自由を侵害した重大な違法があるので、これらを撤回せよ。
 教育委員会は、同委員会に保管されている七生養護学校から提出された性教育に関する教材一式を、従来保管されていた七生養護学校の保管場所へ返還し、同校における性教育の内容および方法について、2003年7月3日以前の状態への原状回復をせよ。
 教育委員会は、養護学校における性教育が、養護学校の教職員と保護者の意見に基づきなされるべき教育であることの本質に鑑み、不当な介入をしてはならない。」
 裁判官以上に弁護士たちは<左傾化>していることは、「人権派弁護士」なる呼称がかなり一般化していることでもわかる。
 法的な専門職集団の一つが、「子どもの学習権およびこれを保障するための教師の教育の自由」を侵害するとして、都教委の側のみを一方的に批判しているのだから、この国(日本)はすでにかなり危うくなっている。この文書の責任者、「東京弁護士会 会長 岩井重一」の名前も永く記憶されてよいだろう。
 なお、東京弁護士会の2004年度の副会長・橋本佳子はその一年を振り返って、「とても楽しく充実した1年でした。イラク自衛隊派遣反対の会長声明、……、都の国旗国家〔ママ-正しくは「国歌」だろう〕強制や七生擁護〔ママ-「養護」〕学校性教育処分問題その他いくつもの意見書や警告書などなど、委員や職員の皆様と取り組んだ思い出がいっぱいです」と書いている。
 さらに、東京都議・都教委と原告らの対立に関しては、後者の側に立った<運動>もあった、ということも指摘しておく必要があるだろう。
 詳細には知らないが、上の東京弁護士会の「警告書」は、「当会が受理した2004年1月7日付申立人山田洋次、小山内美江子、斉藤貴男、川田悦子、堀尾輝久、蔦森樹、朴慶南ほか総数8125名にかかる『子どもの人権救済申立』」をきっかけにして発せられている。
 誰かが又は何かの組織・団体が、8125名の氏名を「集めた」又はそれだけの人数を「組織」したのだ。
 「山田洋次、小山内美江子、斉藤貴男、川田悦子、堀尾輝久」は<左翼>の有名人だから明示されているのだろうか(蔦森樹、朴慶南の二人は私は知らない)。山田洋次は日本共産党員又は積極的支持者と見られるご存知の映画監督、元日本共産党員とも言われる川田悦子は薬害エイズ訴訟原告だった国会議員・川田龍平の母親、堀尾輝久は「著名な」左翼・教育学者(岩波新書あり)。
 こうしてみると、この訴訟は石原慎太郎東京都知事を先頭とする?東京都の教育行政とそれに抵抗する「左翼」の闘いの一つで、根っこは、君が代斉唱拒否・不起立問題、それらを理由とする教員に対する懲戒処分に関する訴訟等と共通するところがあることが判る。
 そうだとすると、当然に、そうした<闘い>・<運動>を知って、あるいは背景にして、上記の朝日新聞の社説も書かれていることになる。
 あらためて書いておく。朝日新聞は「ふつうの」新聞ではない。朝日新聞(社)とは、「新聞」の名を騙る<政治(運動)団体>だ。

0486/曽野綾子と沖縄集団自決にかかる大阪地裁2008.03.28判決。

 曽野綾子は、数年前に司法制度改革審議会かその部会の委員をしていて、欠席がちであり、また頓珍漢な発言をしていたとの話がある(厳密さ=正確さの保障はないが)。「司法」制度に関する専門的概念・議論の仕方に疎かったためだろう、きっと。
 月刊WiLL6月号(ワック)の曽野綾子の連載エッセイも、危なかしいところがある。対大江・岩波名誉毀損損害賠償請求訴訟(沖縄集団自決「命令」訴訟)は民事訴訟だが、刑事事件についての「疑わしきは罰せず」は「裁判」一般に通じるものだと誤解しているようだ(p.123)。また、上の訴訟にかかる先日の大阪地裁判決(2008.03.28、裁判長・深見敏正)によって〔元隊長につき〕「疑わしくても状況と心証によっては、黒とみなしていいのだという判例ができた」、「容疑者」を「犯人」と言い切ってよい、ということになった(p.125。p.126にも同旨がある)、と書くが必ずしも正確ではない。
 被告は元隊長等ではなく大江健三郎と岩波書店で、元隊長等の行為が直接に裁かれているわけではない。大江や岩波が元隊長等の特定の行為=自決「命令」があったと信頼し、かつ反証もでてきたのにその後訂正しなかったことに<不法行為>性はあるか(ないか)が争点だ。
 と書きつつ、曽野綾子を誹り批判するのが、この稿の意図ではない。
 曽野は判決が「自決命令…を直ちに真実であると断定できないとしても、…真実であると信じるについて相当の理由があった」と述べた部分に注目しており(p.122-3)、これは的確だ(だが、かかる論法・理屈づけは一般論としては法的にはありうるものと思われる)。
 問題は、「真実であると信じるについて相当の理由があった」と認定したことについての裁判所(裁判官)の証拠資料の採択・心証形成の具体的過程の適正さで、今後の上級審でもこの点が問われるだろう。
 また、私も大江健三郎・沖縄ノート(岩波新書)から大江による元隊長の「内心」の創作=捏造部分をこの欄で引用したことがあるが、曽野も「心理」の「推測」部分を引用し、こう書く。
 「裁判官はこれは個人攻撃ではないというが、全くつきあいのない他人に、心理のひだのようなものを推測され、断定され、その憎悪を膨らまされ、世間に公表され、アイヒマンだとさえ言われたら、たまったものではない。それは個人攻撃以外のなにものでもないと私は思う」。
 曽野がこう書くのもよく分かる(大江に勝手なことを書かれた当人又は遺族の憤りはいかばかりだろうとも思う)。そして、先日の大阪地裁の裁判官には元隊長等の人間の<感情>・<名誉>をきちんと忖度できる<人間性>があるのだろうか、とすら感じる(大江にはもはやない)。また、大江・岩波という<名声>にある程度<屈服>してしまっているのではないか、と疑いたくもなる。
 だが、大江の創作=捏造も(「命令」のあったことが)「真実であると信じるについて相当の理由があった」のだとすると、それを前提としての(判決のいう)「意見ないし論評の域」の範囲内のものになってしまうのだ。
 すでに私は「法的にはやむをえないのかもしれないが」とか書いた。私とて特定の個人名を挙げてこの欄で批判したりしており、中には、「バカ」とかの言葉を使ったこともあっただろう。こうした批判・論評が許されないと(程度問題ではあるが)意見・論評・表現の「自由」があることにはならない。したがって、ギリギリの所で大阪地裁判決の言うことも理解できないことはない。
 しかし、それはあくまで「真実であると信じるについて相当の理由があった」ことを前提としてのことで、この前提が崩れると、大江健三郎等による名誉毀損の程度(→賠償責任の程度)は上に言及の創作=捏造部分の存在によって決定的に大きくなるだろう。
 ともあれ、当面は控訴審のまともな裁判官による判断に期待するほかはない。
 なお、曽野綾子・…「集団自決」の真実(ワック)は所持しており、随分前に(発刊直後?)少なくとも概略は読んでいる。

0475/社会の<犠牲者>への「死刑」制度適用を日本共産党員等は阻止しようとする。

 死刑(制度)廃止論・維持論(反対論・賛成論)には、一方に人命尊重・冤罪可能性等、一方に予防効果・応報感情等の論拠があることで、以下では、一般論としてもこれを論じない。また、光市母子殺害少年事件判決が昨日4/22に広島高裁で出たことをきっかけにして以下を書くが、この事件にも直接には言及しない。
 いつか書こうと想っていたのは、<人権派弁護士>とやらに(も)多いらしい、死刑廃止論又は死刑判決阻止論の<基礎的・精神的な>背景だ。
 死刑廃止論又は死刑判決回避論に一般的・絶対的に反対というわけでは必ずしもなく、こうした論が<人権派弁護士>又は<左派(左翼)>に傾向的には多いようであることの理由を推測するのが、以下の文だ(左派・右派の区別が死刑(制度)反対論・賛成論の区別に綺麗に対応しているとは論理的には思えないが、相対的・傾向的には上のようなことが言えるような印象がある)。あくまで推測・憶測で実証的又は理論的な根拠があるわけではない。
 前置きが長くなった。
 <人権派弁護士>又は<左派(左翼)>の中には当然に、日本共産党員若しくはそのシンパ又は非・反日本共産党系のマルクス主義者・親社会主義者が含まれる。日本共産党員・同シンパ等(=マルクス主義者・親マルクス主義者)は<資本主義社会>又は<自由経済主義(経済的自由主義)>に批判的で、日本のような「自由主義」社会を「革命」によって究極的には「社会主義社会」→「共産主義社会」にすることを意図している。
 彼らにとって、現実の日本社会は資本主義社会の一つとして克服・転覆の対象であり、その社会は多くの(資本主義社会ならではの)多くの欠陥・問題点を含んでいる。
 その欠陥・問題点の現れは<犯罪>の発生とその多さで、とりわけ<異常な犯罪>の発生はその徴表となる。
 とすれば、<犯罪>を冒した者にその<責任>が問われるべきであり、<刑罰>が科せられるべきであることにいちおうは反対しないとしても、彼らにとって、本当に悪いのは、本当に責任を負うべきなのは、犯罪者(加害者)個人ではなく、資本主義社会という社会そのものなのだ。
 彼らにとって、資本主義社会は<うまく・スムーズに・秩序だって>機能する筈のない社会であり、犯罪者(加害者)が現れてもそれはむしろ<自然・当然>のことで、犯罪者(加害者)は見方によれば、社会の問題性を暴露してくれる<英雄>ですらあるのだ。
 したがってまた、犯罪者は形式的・表面的には「加害者」であるとしても、じつはそのような犯罪・加害を生む原因は資本主義社会という社会、日本でいうと、日本の現在の社会にあるのであり、犯罪者(加害者)は、より本質的には<悪い>社会の<犠牲者>であり、<被害者>なのだ。
 彼ら「親共産主義者」(=マルクス主義者・親マルクス主義者)はまた、資本主義「国家」(社会主義に至っていない「近代国家」)にも批判的であり、「国家」を悪玉視しており、事あるごとに「国家」(・「行政」)の粗探しをし、社会を混乱させることを意図する(紛争・紛議・混乱が生じないと<革命>の契機が生じず、そのための雰囲気を醸成できない)。
 「刑罰」とは、そのような「国家」が科すもので、最終的には国家機関としての裁判所が、その事前過程においては「国家の手先」としての警察・検察(官)が、罰則適用に向けての仕事に従事する。
 「悪」の元凶そのものである「国家」が、社会(・国家)の<犠牲者>であり、社会(・国家)の欠陥・問題性を暴露してくれた犯罪者(加害者)に対して「刑罰」を科すとは、ましてや生命を奪う「死刑」判決を出してそれを執行するとは、絶対に許すことができないことなのだ、彼らにとっては。
 以上やや書き足らないが、①独特の「国家」観と②独特の「犯罪(者)」観を持っているのが、<人権派弁護士>等の中にもいると思われる日本共産党員等のマルクス主義者又は親マルクス主義者だ。それらからして、「国家」による「犯罪(者)」の<殺人>などは絶対に認めることはできない。反復すれば、加害者とされている者は、より正しくは、<汚い>社会(・国家)の<犠牲者>であり、<被害者>なのだ(そして、犯罪被害者よりも加害者の「人権」を重視するかのような<人権派弁護士>等の言動も、無論このような考え方と無関係ではない)。
 <犯罪社会学>でも取り上げないかもしれない、いささか単純で素朴すぎる推測を述べたようだが、基本的にはこのような考え方で、「犯罪」や「死刑(制度)」を観ている人は<人権派弁護士>等の中には間違いなく存在している、と思っている。
 こうした人々と表面的な議論をしても噛み合わないに違いない。「国家」観(そして「刑罰」観)・「犯罪(者)」観が本質的部分で異なるからだ。
 この人たちは死刑制度に反対するとともに、勿論、現在は存在する「死刑」制度の適用を何とか阻止しようともする。そうした目的のためには手段・理屈を選ばないかもしれない(つまりどんな手段・どんな法的理屈でも使うかもしれない)。
 上の「この人たち」のような者が、光市母子殺害少年事件の被告人側弁護団(安田好弘ら)の中にいなかった、とは言い切れないだろう。

0444/朝日新聞3/29の社説執筆者は「全くの無能者」か「狂人」。

 朝日新聞3/29の社説執筆者は全くの無能者か「狂って」いるのではないか。
 朝日新聞が沖縄集団自決「命令」訴訟にかかる前日3/28の大阪地裁判決について結論を支持する社説を書くだろうことは予測できたことだが、あまりのヒドさに驚いた。
 こういう社説は司法(裁判)担当の社説担当者が書くのが通常だろうが、政治(+歴史認識)担当の執筆者が書いたかに見える。
 精神衛生にも悪いので、できるだけ簡単におさえる。
 1.冒頭の第一文-「慶良間諸島」で「起きた『集団自決』は日本軍の命令によるものだ。/そう指摘した岩波新書『沖縄ノート』は誤りだとして、…元守備隊長らが慰謝料などを求めた裁判…」。
 さっそく間違いがある。大江健三郎は抽象的に「日本軍の命令による」と書いたわけではない。「日本軍の…」ではなく<特定され得る元軍人の命令>なのだ。
 2.関連して、第七段の第一文-「『沖縄ノート』には座間味島で起きた集団自決の具体的な記述はほとんどなく、元隊長が自決命令を出したとは書かれていない」。
 後段は、よくもまぁ社説で、という感想だ。氏名を明示していなくたって、簡単に他の情報と結合して特定できれば同じこと。こんな単純な常識もこの執筆者は持ち合わせていないらしい。
 また、前段は、だからどうなのだ、と言いたい。大江健三郎は、「元守備隊長ら」が「命令」を発した<悪人>だ、ということを前提として、沖縄を再訪する当該元軍人の「心理」を小説家らしく勝手に捏造した(創作した)のだ。「集団自決の具体的な記述はほとんどなく」て、何ら不思議ではない。
 3.最後の段の二文-「教科書検定は最終的には『軍の関与』を認めた。そこへ今回の判決である。集団自決に日本軍が深くかかわったという事実はもはや動かしようがない。」
 これで社説を締め括るとは<狂気の沙汰>だ。
 既に書いたが「軍の関与」の有無はこの訴訟の争点ではない。にもかかわらず「集団自決に日本軍が深くかかわったという事実はもはや動かしようがない」とまとめて、安心し、判決によっても裏付けられた、と思っているなら、アホとしか言いようがない。
 「集団自決に日本軍が深くかかわった」か否かという問題設定ならば、私とて、何らかの意味での、何らかの程度での、「集団自決」と「日本軍」の関係を否定はできない。すなわち、端的にいって、戦争中のこと、<敵軍>が眼前に上陸してきたときのこと、なのであって、「集団自決」が戦争・戦時中のことであれば、日本軍と全く無関係だ、とは言えないだろうからだ。
 だが、そのことと、特定の旧日本軍人が特定の住民(島民)に対して集団自決「命令」を発したかどうかは全く別の問題だ。
 上のことを朝日新聞の社説執筆者は理解できていない。全くの無能者に思える。あるいは理解できてもそのことを記したくないのだとすれば、何らかの<怨念>に囚われた<狂人>ではないだろうか。
 もちろん、そのような<無能者>か<狂人>の執筆者は、判決が「自決命令それ自体まで認定することには躊躇を禁じ得ない」、「自決命令を発したことを直ちに真実であると断定できない(としても…)」と述べていることに、全く言及していない。判決理由文(<要旨>であっても)を読めない(理解できない)馬鹿=<無能者>であるか、読んでいても意識的に(自分たちに都合の悪いことは)無視してしまうという、<倒錯した変人>であるに違いない。
 4.第八段-提訴の「背景には、著名な大江さんを標的に据えることで、日本軍が集団自決を強いたという従来の見方をひっくり返したいという狙いがあったのだろう。一部の学者らが原告の支援に回ったのも、この提訴を機に集団自決についての歴史認識を変えようという思惑があったからに違いない。」
 もっともらしいこの文章に、朝日新聞の<体質>も表れているだろう。社説にこんな<推測>を書くこと自体いかがかと思うが、法的問題あるいは歴史的事実の問題を<政治的>にしか捉えることができないのだ。最も<うす気味悪く>感じたのは、この部分だった。むろん、<正しい>「歴史認識」の確認(<誤った>「歴史認識」の是正)を「一部の学者ら」が追求するのは、一般論としても何ら非難されるべきことではない。
 こんな社説が数千万人に読まれ、何がしかの<空気>を作っていることを想像すると、日本の現状と将来に諦念にも似た<空恐ろしさ>を感じる。
 なお、この判決に関する読売新聞の社説はしごく「まっとう」だった。読売は、社説だけはまだしっかりしている。

0439/再び沖縄集団自決「命令」訴訟・大阪地裁判決について。

 産経新聞に沖縄集団自決「命令」にかかる大阪地裁3月28日判決「要旨」が載っている(裁判長は深見敏正)。新聞記者(司法記者)が<判決の要旨>をまとめる能力をもつ筈がないので、最年少の担当裁判官が原文でも書いて裁判所・法廷(三名の合議体)の名で配布したものと思われる。以下の感想をもった。
 1.「要旨」文だけでは、証拠の取捨選択の具体的な理由は不明だ。①「自決命令」説を捏造とは判断できない理由として援護法制定の前からの文献があることを述べているが、そのことは理由になるのか。古ければ古いほど信憑性は高いとでも言うのか。むろん一般論としても、そうとは言えない。
 ②また、<新事実>(照屋昇雄発言、宮村幸延書面、母親の発言の記録書)は不採用、又は捏造の根拠にならない、としているようだが、それらの根拠はほとんど解らない。「その経歴に照らし…」とか「戦時中在村していなかったことや作成経緯に照らして…」とか書かれてはいる。
 かりにその辺りを不採用の理由としているというなら、沖縄タイムズ・鉄の暴風や米軍報告書の「作成経緯」や執筆者の「経歴」を(そしてこれら二文献が出された<時代の雰囲気>を)も同等に考慮しなければならないのではないか。
 本件訴訟の裁判官による証拠の採用・不採用に、裁判官の<心性>の歪み・偏向がないのかどうか、気になる。
 2.①「要旨」文は「集団自決については日本軍が深くかかわったものと認められ」ると結論し、その理由を長々と書いている。だが、前回記したように、この部分は、本件訴訟とは直接には関係がない。原告の一人及びその父親が「集団自決<命令>」を発した事実があったか否かが争点であり、軍の<関与>(あるいは広義の?「強制」性)の有無は争点ではない。せいぜい、当時(米軍沖縄上陸頃)の<空気>・雰囲気に関する問題で、相当に間接的な<状況証拠>的なものにすぎないだろう。
 にもかかわらず、何故こんなに長々と書いているのか。被告たちの論法に影響されているのではないか。被告らにとっては、<命令>の存否から<軍の関与(広義の「強制」性)>へと争点をずらした方が有利な(=負けにくい)のだ。
 ②<要旨>文は、上のことと、関係各島では原告らを「頂点とする上意下達の組織」だったことを結びつけて、原告らが「集団自決」に「関与したことは十分に推認できる」と書いている。
 上記と同じく、これも争点とは直接には関係のない点に触れている。「関与」と「命令」は全く異なる。「関与」が「推認」できることは「命令」を原告(とその父親)が発した根拠には全くならない。こんなことは、素人にも分かる常識的なことではないか。裁判官はいったい何故、いったい何のために、こんなことを判断し、書いているのか。
 この訴訟は、当時(米軍沖縄上陸頃)の<時代>あるいは<日本軍>を裁く事件ではない。岩波書店と大江健三郎が刊行・執筆した本が原告らの名誉を侵害して不法行為となるか(+出版差止めされるべきか)が争点となっている、その意味では主観的(個人的)な事件なのだ(むろん「公益」と無関係と主張しているわけではなく、<要旨>文が大江本は「公益を図る目的」をもつと認定していることにまで-「法的」問題としては-異を唱えるつもりはない)。
 3.「要旨」文は「自決命令それ自体まで認定することには躊躇を禁じ得ない」と明記している。また別の箇所では「自決命令を発したことを直ちに真実であると断定できない(としても…)」と明記している。
 この部分は今回の判決の中で特に注意・注目されてよいところだろう。つまり、裁判所もまた、<自決命令が発せられた>=原告らが「命令」を発した、とは全く認定していないのだ。
 にもかかわらず被告が負けなかったのは、「命令」の存在という事実の「信用性」が争点になっているからだ(このこと自体はやむを得ないだろう)。また、「命令」が存在した事実が認定されないと岩波・大江側が負けてしまう、そういう性格の訴訟ではなかったからだ。つまり、立証責任が原告側にあったからこそ、岩波・大江側は「救われた」、と言える。
 訴訟法的にはこのように言えるだろうが、裁判所(大阪地裁)が<自決命令が発せられた>=原告らが「命令」を発した、と認定しなかった、ということの<政治的>意味は小さくない、と思われる。
 すなわち、岩波・大江健三郎が従来どおり出版を続けていくとするなら、それは、裁判所も「認定することには躊躇を禁じ得ない」、「自決命令を発したことを直ちに真実であると断定できない(としても…)」と明記したような<事実>を前提にした個人罵倒本を今後も継続して発行していく、ということを意味する。岩波と大江健三郎の「良心」がまさしく問われるべきだ。そんなあやふやな<事実>を前提にして、特定個人を<悪人>扱いしてよいのか、ナチスドイツのアイヒマンと同一視するような文章を残したままでよいのか。
 岩波と大江健三郎には「良心」はないのか、誓って疚(やま)しいところはない、と自信をもって言えるのか、と問いたい
 4.「要旨」文のかぎりでは、上の3で触れた部分に比べて、被告らが事実だったと「信じるについても相当の理由があった」と述べている部分は短く、かつ「相当の理由があった」と認定する根拠はよく分からない。たんに「その事実については合理的資料若しくは根拠があると評価できるから…」と書いているにすぎない。
 問題は、なぜ、いかなる理由・根拠で、「その事実については合理的資料若しくは根拠があると評価できる」のか、にある。
 この辺りが裁判官の心証形成の中核部分にかかわる。なぜ、上のように言えるのか。それは良識・常識・「理性」に照らして、「合理的」な結論(「評価」)なのだろうか。
 裁判官たちが特定の歴史観・何らかの予断をもっていれば、上のような「評価」は簡単に生じるだろう(逆のことも言える)。そのような推測をさせないためにも、判決理由の全文の中にはより詳細な理由づけ(心証形成の過程)が明らかにされているのを期待したいが、正確な全文を読んでも殆ど変わらないだろうような気もする。
 ともあれ、結論が先にあったのではないか、との邪推が出てきても不思議ではない判決だ(そう断言しているわけではない)。「要旨」文には、重要な点の根拠・理由が詳細・十分には(説得的には)書かれていない。原告側が不満をもつのは当然だろう。控訴して、なお争うべきだ。
 重要とも思われる点に言及し忘れたので追記する。「要旨」文は最後に、大江本には「赤松大尉に関するかなり強い表現」があるとしつつ、「『沖縄ノート』の主題等に照らして」、「意見」・「論評の域を逸脱」したものとは認められない、と書いている。
 結論的には(法的には)このとおりなのかもしれないが、「『沖縄ノート』の主題等に照らして」とあるのは気になる。この法廷の裁判官たちは『沖縄ノート』という書物の存在意義を肯定的に評価することから出発してしまっているのではないか。かりにそうだとすれば、判決を出す裁判官の「まっとうな」道からは逸脱しているように思える。被告の一人・大江健三郎がノーベル賞受賞者であることに無意識にせよ影響されているとすれば、ますます同じことが言える。
 なお、産経新聞の別の面によると、大江側弁護団はこの訴訟を「『集団自決が日本軍の強制ではない』と歴史を塗り替える目的で起こされた裁判」だとして原告側を非難した、という。
 『集団自決が日本軍の(広義にせよ)強制ではない』か否かは本件訴訟の争点ではない。上のような言い方自体の中にすでに<論点のスリカエ>がある。上記のように。本件訴訟は本来は<主観的(個人的)>なものだ、それをあえて「日本軍」の問題という<歴史問題>化し、「政治」問題化しているのは、原告らよりもむしろ、(「真実」が暴露されてしまうのを戦々恐々と懼れている)被告側なのではないか。

0438/「自決命令があったと信じる相当の理由」がどこにあるのか。

 対岩波・対大江沖縄集団自決命令損害賠償等請求訴訟は大阪地裁で原告全面敗訴判決(裁判長は深見敏正)。
 イザ!ニュースによると、判決は、第一に、「集団自決には軍が深くかかわり、原告らの関与も十分推認できる」と述べたらしい。軍の何らかの意味での「関与」の有無は本件訴訟とは無関係だ。そして、原告やその親族が軍人だったからだけの理由で「原告らの関与も十分推認できる」と述べているとすれば、この「推認」には無理がある。ある会社・組織が犯罪を犯せば、社員・構成員全員も犯罪者になるのか。
 判決は第二に、「書籍に記載された通りの自決命令自体まで認定することは躊躇を禁じ得ない」と述べつつも、「自決命令があったと信じる相当の理由があり、原告らへの名誉棄損は成立しない」と結論したらしい。
 大江健三郎・沖縄ノート(岩波新書)の執筆・初版発行時点のことならば解らなくはないが、今日(正確には発刊後の一定時期以降)において、「自決命令があったと信じる相当の理由」があった(ある)のか? 原告らは、次々と新事実が出てきているのに出版停止も訂正もしていないことを問題にしているのだ。
 この判決の裁判官はきちんと証拠を調べ(読み)、「良心」にもとづいてこのような心証を形成したのだろうか。
 私は大江・沖縄ノートの関係箇所を読み、事実を前提にしていないならば<これはヒドい!>と素朴に感じた。憎々しげに元隊長らの心理を想像して叙述(創作)する様(さま)を思い浮かべると、大江という人間を気味悪く感じた。
 しかして、事実だったのか。事実と信じた「相当の理由」が現在でもあるのか。判決(理由)全文を読んで、なぜこう結論づけたのか、詳細な説明・理由づけを知りたいものだ。
 いく度か書いたとおり、裁判官は戦後(民主主義)教育の(最)優等生で、放っておいても、知らず知らずに<進歩的>または<なんとなく自虐的(=日本軍「悪玉」視)>になる心性傾向をもっていると推測している。そんな心性でもって、何らかの予断をもった上での心証形成がなされていなければよいのだが。
 まだ、高裁・最高裁がある。
 だが、ひょっとして、司法部(裁判所・裁判官)も<溶けて>いってしまっているのか…。憂いは深い。

0429/週刊新潮の<新・「裁判官」がおかしい!>に感じる。

 週刊新潮が2/21号から<新・「裁判官」がおかしい!>との短期集中連載をしている。
 3/06号では「百人斬り」名誉毀損訴訟での東京高裁の裁判官・石川善則の<「言論封じ」の訴訟指揮>の異様さを、3/13号では住民基本台帳法上の「住所」が都市公園内にあることを認めた大阪地裁2006.01.27判決(裁判長・西川知一郎)の異様さ(但し、大阪高裁2007.01.23判決で逆転。「ホームレス」のテント生活者が敗訴)を問題にしている。
 これらに逐一コメントする能力も余裕もないが、今の日本の裁判官の資質・感性については、感じるところがある。
 すなわち、彼らは戦後教育・「戦後民主主義」の(最)優等生で、通常の又は細かな法律知識・法的論議は十分に持ちかつ可能なのかもしれないが、その<育ち>ゆえにある種の<偏向>を避けられていないのではないか、という<仮説>を抱いている。
 具体的には、彼らはおそらく日本の「歴史」を十分に知らず、司法試験の対象には実質的にはならないと言われているために日本の「天皇」制度に関する(憲法典に規定があること以外の)十分に正確な知見も持たず、信仰の自由・「政教分離」に関する条文解釈や関係判例を知っていても「神道」に関する関心も知識も十分になく、昭和に入っての「戦争」についても(日本史の、高校までの)歴史教科書に書いてあること以上の知識・知見は持っていない、と推測している。なぜなら、これらに関心を持って深く勉強しようとするなどしていれば、激烈な司法試験に合格することができなかった筈だからだ。そして、合格して裁判官になってからも、上に書いたようなこと(あくまで例示だが)について<教養>を身に付けるような勉強をする時間は殆どなかっただろう。
 このような平均的日本人(またはそれ以下の)レベルの知識・「教養」しかない裁判官は通常の、多数の事件に対応することはできても、次のような事件には何らかの<偏向>・<異様さ>が生じうる、というのが<仮説>だ。
 つまり、例えば、戦没者追悼・靖国神社関係等の宗教あるいは政教分離にかかわる事件、中国人・韓国人等が原告となるかつての<戦争被害(補償)>にかかわる事件だ。後者に関して、裁判官の中には、戦後教育が教えてきた<(昭和)戦争観>にもとづき、中国人・韓国人等の<「日本軍国主義」の被害者・犠牲者>に「甘く」なるような傾向に陥る者はいないだろうか。
 後者に類似しているのは、<沖縄問題>かもしれない。戦後教育の(最)優等生の裁判官たちは、高校までの歴史教科書の「知識」にもとづき、(最も「犠牲」となった)<沖縄>県民の感情といわれるものを不必要に配慮した(感情、そして客観的には「政治」に流れた)判決を書いてしまわないだろうか。
 思いは、沖縄住民集団自決にかかわる対岩波・対大江健三郎訴訟へとつながる(ちなみに、昨日言及した岩波ブックレット(2005.11)の後扉裏には、大江健三郎・沖縄ノート(岩波新書)の広告が堂々と載っている)。ふつうに考えれば、名誉毀損・不法行為責任の発生要件は十分に充たしていると思うが、裁判官たちが<沖縄>関係のために余計な<配慮>をしてしまわないか、と心配する。
 これは必ずしも杞憂ではなかろう。原告側代理人・弁護士(衆院議員)の稲田朋美が何度も書いており新書も刊行しているが(同・百人斬り裁判から南京へ(文春新書、2007))、対中国「戦争」にかかわる<百人斬り名誉毀損>訴訟で原告たちは勝てなかった。そして、判決理由にはかなり無理なところがある(と感じる)。また、原告外国人たちの「戦後左翼」と同様の歴史観(「占領史観」=「GHQ史観」にほぼ近いと言えるだろう)をそのままなぞったような長い文章を「理由」中に書いていた判決も現実にあったのだ。
 司法部・裁判官<批判>はなかなかむつかしいが(行政官僚に比べれば、なおも高い「権威」を持っているだろう)、全面的に信頼することはできない、そういう部分があることは間違いないと考える。

0265/2/27君が代伴奏命令拒否懲戒処分取消訴訟最高裁判決。

 やや旧聞だが今年2/27、君が代伴奏命令拒否懲戒処分取消訴訟で東京都側の勝訴が確定した。最高裁判決を支持したい。この判決に関しても、関心を惹くことはある。
 1.原告音楽教諭は「君が代は、過去の日本のアジア侵略と密接に結びついて」いると考えているらしい。簡単に「過去の日本のアジア侵略」と理解してよいのか、いつから「侵略」になったのか既に満州事変からかさらに日清・日露戦争もそうだったのか、原告はきちんと理解しているのだろうか。始まりの時点に誤りがあれば、またそもそも全体として「アジア侵略」と称し得ないものであれば、原告が前提とする理解・歴史認識自体が誤りであることになる。
 2.かりに1.の前提が正しいと仮定して、そのことと君が代とがどういう関係があるのか。君が代が「アジア侵略」と「密接に結びついている」という感覚は、前者が後者の象徴として用いられたということなのだろうが、理解し難い。読売の要旨によると藤田宙靖裁判官は「君が代に対する評価に関し、国民の中に大きな分かれが存在する」と書いたらしいが、かかる認識は妥当だろうか。かりにそうだとしても、国民代表議会制定の法律によって国歌を君が代と明定していることとの関係はどうなるのか。擬制でも、国民の多数は君が代を国歌と見なしていると理解すべきではないのか。過去の歴史を持ち出せばとても現在の国歌たりえないものは外国にもいくらでもありそうだ。
 ともあれ、原告は戦後の悪しき歴史教育の、あるいは「一部の教師集団が政治運動として反「国旗・国歌」思想を教員現場に持ち込んできたこと」(読売社説)の犠牲者・被害者だともいえる。その意味では実名は出ていないが気の毒な気もする(尤も、仲間に反「国旗・国歌」思想を吹き込む積極的な活動家だったかもしれないが)。
 3.判決は学習指導要領を根拠にしており、従って私立学校についても今回の判決はあてはまりそうだが、公務員であることを理由とする部分は私立学校教員にはそうではない。懲戒処分取消訴訟という行政訴訟の形もとらないはずで、私立の場合はどうなるのかは気になる。但し、学校長の命令が特定の歴史観・世界観を否定したり強要するものではないとする部分は私立学校の場合でも同じはずで、命令拒否を理由とする何らかの懲戒は私学でも許されることになるように思われる。尤も、これも採用又は雇用時点での契約にどう書かれるのかによるのかもしれない。
 60年以上前のことで多大のエネルギーを司法界も使っている。南京事件も「慰安婦」問題も一体何年前の出来事なのか。今だに引き摺っているとは情けないし、痛憤の思いもする。

0238/教育再生関連三法が成立-革マル・中核派の「健在」。

 教育再生関連3法が成立した。その内容要旨は読売よりも産経(6/21)の方が詳しい。
 3法というが、学校教育法、地方教育行政法(略称)、教員免許制度関係の教員免許法と教育公務員特例法の、正確には4法だ。
 これらのうち、いつぞや言及したことのある地方教育行政法改正よりも、副校長・主幹教諭・指導教諭等の設置を認める(義務づけるではない)学校教育法改正と教員免許制度にに有効期間・更新等を導入する教員免許法改正の影響は大きそうだ。
 教員も人間なので、校長・教頭以外は20歳代でも50歳代でも同じ「教諭」で年功序列的な給与の差しかないとなれば、年配の「教諭」のままで熱心に組合(職員団体)活動にいそしむ者が出てきても不思議でない。教員内部での「職階」?の数の増大は<競争>的意識を持たせるに違いない。何をもって、教員の勤務成績を評価するかは問題だが、明らかに劣った、教員として不適格な者(組合活動には向いている者もいるかもしれぬ)の排除には役立つのではなかろうか。
 こうやって法律が改正されたり新しく制定されたりして、少しずつ世の中は、社会は、変わっていくのだなぁ、と当たり前のような感慨が湧く。
 ところで、産経・阿比留瑠比のブログによると、教育関係法案反対のために革マルや中核派と日教組は「共闘」しているかのようだ。少なくとも、中核派等のビラには日教組との連帯・共闘が書かれているようだ。
 とりとめのない感想だが、革マルや中核派はいわゆる「新左翼」と呼ばれ、<既成左翼>(旧左翼)を否定・批判してきた筈だった。70年代であれば彼らは、日本共産党系はもちろん、日本社会党系の労組と「共闘」したのかどうか。
 もともと日本共産党系だけ特別で、日本社会党系とは対立状況になかったのかもしれない。それとも、状況の変化で民主党系・日教組とは対立しなくなったか、あるいは日教組それ自体の中にある程度は革マルや中核派の勢力が浸透してきているからか、と想ってしまう。
 それにしても革マルや中核派が<健在>だとは一般新聞では分からないことで、阿比留瑠比のブログの写真に、思わず懐かしく?見入るのだった。

0225/サピオ6/27号の橋下徹・稲田朋美各弁護士の文を読む。

 弁護士・橋下徹が語るのは聞いたことがあるが、文章を読んだことはなかった。「「日本の裁判」亡国論」と表紙に大書してあるサピオ6/27号(小学館)で法曹改革・弁護士会等について書いているのを読んだ。
 ロースクール(法科大学院)制度につき、次のように言う。-この制度創設の趣旨は、旧来の司法試験では「マニュアル的法律家」、「特に人間的教養の身に付いていない受験技術だけを持った法律家」しか生まれないことを危惧して「素晴らしい人間的素養に溢れる法律家」を養成することだった。
 こういう面もあるだろうが、「人間的教養(素養)」の涵養のみがこの制度の趣旨ではないと想像している。例えば、法学部の大学教員に空理空論を研究し講義することを許さず、日本の司法実務や判例に即した研究・講義を促すとか、専門法曹の養成に法学部の大学教員を従来よりもはるかに関与させるとかの意味もあるだろう。
 しかし、次の言葉は適切だろうと推測する。-「ロースクールごときで、人間的素養など身に付くはずがない。ロースクールの教授を見れば一目瞭然。人間的に魅力のある教授など皆無。…ロースクールで、人間の幅が広がると考えているのは、自分たちは教養に溢れていると勘違いをしている傲慢な法学関係者のみ」(p.22-23)。
 日弁連の元会長・土屋公献弁護士が朝鮮総連の代理人になり、まずは日朝の国交回復などと公言していることもたぶん一つの証左だろうが、個々の弁護士会や日弁連の幹部又は役員はどうも「左翼的」臭い、という印象はあった。橋下徹も、日弁連のHPに<憲法改正手続法の抜本的見直し>・<共謀罪反対>等の「政治的主張が堂々と掲げられている」と、批判している。法律にもとづき設置される、いわば強制加入制の弁護士会とその連合体に許容される活動範囲についての法的定めは知らないが、たぶん、形式的には「民主主義」的に、<間接>が複数回続いて形成された<多数派>が特定の政治的主張をしているのだろう。
 裁判官も含む専門法曹は戦後教育の「優等生」だといつか書いたことがある。戦後教育の「優等生」だということは、歴史・政治そして例えば日本国憲法や国家・個人観について、高校までの教科書や大学教員の書いた本によって<戦後>的価値観を平均的日本人以上に、ふんだんに身に付けていることを意味する。少なくともある程度は<警戒>が必要な人たちでもあるのだ、たぶん。
 そうした懸念にも関係することを述べているのが、同じサピオ6/27号稲田朋美「「戦後補償裁判」で次々濫訴する市民団体・弁護団の「負けて勝つ」法廷戦術に躍らされるな」だ(p.15-20)。
 私自身が3/25に一審・土肥章大、田中寿生、古市文孝、二審・石川善則、井上繁規、河野泰義各裁判官による百人斬り虚偽報道謝罪広告請求事件判決に簡単に言及し、また、3/25と6/08に伊藤剛、本多知成、林潤の三裁判官による「南京大虐殺はあった」と判決理由中で明言した東京地裁平成11.09.22判決(南京事件被害者中国人による日本国相手の損害賠償請求訴訟)にやや詳しく論及したので(また、6/07には稲田氏の別の一文に言及した)、よく分かる。
 稲田が強調している一つは次のことで、同感だ。すなわち、一連の<戦後補償裁判>での国(法務省)の方針は誤っている。彼女は書く-「戦後補償裁判で事実関係を争わない国の訴訟方針は、国益を大きく損ねている」。「大竹たかし法務省大臣官房訴訟総括審議官」は「事実関係を確定するまでもなく請求が棄却されるべきもの」であり「国は事実関係については認否、主張、反対尋問をしない」と「答弁した」が、これは「法律家だけに通じる議論」だ。
 「国は事実関係については認否」もしないとは、原告の一定の事実(戦時中の被害の原因・背景を含む)の主張に対して肯定も否定もせず「知らない」と答え、誤った事実の主張に対して反論するための証人採用等の活動を一切していない、ということだろうか。
 これは肌が寒くなる方針だ。法務省官僚に一般に「政治的」になれとは言わない。しかし、<戦後補償裁判>では原告中国人・韓国人、そして支援する弁護士を含む日本人は、稲田の表現では
「負けて勝つ」法廷戦術を、すなわち、本案の結論では請求棄却でもよく、判決理由中の事実認定の中で国の加害行為によって被害が生じた等を明文で書かせること、さらにはそれを「違法」と評価させることを目的とする「政治的」戦術をとっていると見られる。そして、上のような訴訟方針だと、事実についてはほとんど原告側の言いっ放しによって認定されることになり兼ねない。戦時中の日本国家の行為がかりに誤って事実認定されるということは、歴史の改竄と国益の損失に司法判決が加担するということでもあり、国・法務省官僚は「政治的」意識を持って断固として反論し、判決による誤った事実認定を阻止すべきだ。
 稲田が強調しているいま一つは、かなり知られてきた、所謂<司法のしゃべりすぎ>だ。稲田はp.17で、「「余計なこと」をいいたがる裁判官がいる…」と表現している。
 上の法務省官僚の答弁の如く「事実関係を確定するまでもなく請求が棄却されるべきもの」だとしても、事実関係に立ち入り、原告に有利な事実認定と「違法」との評価を(上のような国の訴訟方針もあって)してしまう裁判所・裁判官がいるわけだ。
 すでに書いたことの反復になってきているが、戦後教育の「優等生」である裁判官がどのような<歴史認識>を持っているか、形成してきたかは、興味深い問題だ(明瞭になる資料もデータもないだろうが…)。大きな対立があることを知らないまま、又は知っていても贖罪的な、<日本は悪いことをした>史観に立つことが<良心的だ>と判断してしまう、無邪気な「良心的」裁判官が、余計な<おしゃべり>をしているかにも見える。
 なお、稲田のこの一文によると、尾山宏という弁護士は、百人斬り虚偽報道謝罪広告請求事件での元朝日新聞・本多勝一被告の弁護人で、かつ、日本に損害賠償を請求した「南京虐殺」被害者の一人・某の弁護人で、かつ<戦後補償裁判>の一つの「毒ガス訴訟」の原告側弁護士団長だった。そして、中国の中央電視台から2003年度の「中国を感激させた10人」の1人に選ばれた、という(p.17)。中国(の国営放送局)に褒められる奇特な?日本人弁護士がいるわけだ。

0205/小説は歴史的事実の、さらには裁判上の事実認定の根拠資料になるか。

 請求は棄却しつつも<しゃべりすぎ>で南京虐殺を事実と認めた東京地裁平成11年09月22日判決については、3/25に「伊藤剛、本多知成、林潤の三裁判官は、良心に疾しくはないか」というタイトルで2回に分けて、その事実認定の仕方を批判・疑問視した。
 さらにもう一点追記する。
 この判決は、判決理由中の「第三・当裁判所の判断」の最初の「一・本件に関する基本的な事実関係について」の中で、こう書いている。
 1.「上海から南京までは約三〇〇キロメートルあり、蒋介石が徹底抗戦を指令したため、日本軍の上海攻略は一九三七年一一月五日の杭州湾上陸(火野葦平の「土と兵隊」はその際の従軍記である。)によりようやく一段落し、…」。
 2.「「南京虐殺」というべき行為があったことはほぼ間違いのないところというべきであり、原告Aがその被害者であることも明らかである。…なお、一九三八年一月五日に南京に着いた石川達三が描いた「生きている兵隊」は、反軍反戦小説というわけではないのに、南京の右当時における日本軍兵士の様子をよく示している(もとより、殺害等の量まで推測させるものではない。)と考えられ、それが虚構であるとは到底考えられないところである(なお、右は、同年二月一七日に配本された「中央公論」三月号に多くの伏字付きで掲載されたものであるが、翌日発売禁止とされ、石川は「新聞紙法違反」で起訴され、禁固四月、執行猶予三年の判決を受けた。中央公論新社の中公文庫「生きている兵隊」末尾の半藤一利解説参照)」。
 この二箇所は要するに、作家の書いた小説をもとに、又は参考にして事実認定又は「基本的な事実関係」をしたことを明記している。
 だが、常識的に考えて、小説が歴史の叙述のための史料として用いられるのは、さらには訴訟における事実認定の資料として用いられるのは、極めて奇妙であり、杜撰ではないだろうか。
 小説はあくまで創作物・捏造物であり、いかに本当らしく又は真実・事実らしく描写がされていても、それは作家の筆力によるのであり、事実を探究するノンフィクションとは決定的に性格が異なる、と考える。
 むろん、ノンフィクションに近い、事実を素材又は背景にして叙述する小説もあるだろうが、あくまで小説(=創作物・捏造物)であって又は事実の描写に変わるわけではない。
 裁判官たちが小説を読んで「心証形成」のための参考にすることは実際にはありうるだろう。しかし、そのことを上のように公然と判決理由中で書いてしまってはいけないのではないか。
 日本の裁判官たちの全員に尋ねてみたいが、一般論として、「虚構であるとは到底考えられない」小説であれば、事実認定のための証拠資料として使えるのか。
 次に、具体的に例えば石川達三の小説が「虚構であるとは到底考えられない」か否かに、そもそも論及するのは<異様>なのではないか。
 私は石川達三の小説は「虚構である」に決まっている、と考える。なぜなら、ルポでもノンフィクションもなく「小説」として発表されているからだ。
 日本の裁判官たちへの質問はもうやめる。
伊藤剛、本多知成、林潤の三裁判官が石川達三の小説が「虚構であるとは到底考えられない」とまで書いたのは、殆ど狂気じみている。余程この作品に「感化」されたのか。
 
翌日発売禁止…「新聞紙法違反」で起訴…、禁固四月、執行猶予三年の判決を受けた」ともわざわざ書いている。こうした措置を受けたことを、石川達三の小説が「虚構」ではない理由として語っているようでもある。しかし、<真実らしく>読まれることの可能性を怖れても当時の当局の措置は採られ得たのであり、こうした経緯があったからといって、それが石川達三の小説が「虚構」ではないことを保証することになるわけでは全くない。
 改めて「一・本件に関する基本的な事実関係について」を読み直しても、この裁判官たちは、歴史について得た知識を、とりわけ原告たちのを配慮して歴史を学んだ成果を長々と<ご披露>している印象だ。その中に、上の引用の部分もある。
 小説を裁判における事実認定の資料としてまでなされる歴史叙述とは一体何なのか。
 この判決は「帝国主義的、植民地主義的意図に基づく侵略行為」と断言し、日本は「真摯に中国国民に対して謝罪すべきである」と贖罪意識も明言し、そして「相互の国民感情ないし民族感情の宥和を図る」必要性まで明言した。
 司法権の担い手のかかる基本的な<政治・外交>的姿勢から、小説まで援用されて、過去の事実が認定されたのではたまったものではない。
 もう一度書いておこう。「伊藤剛、本多知成、林潤の三裁判官は、良心に疾しくはないか」。

0204/井上薫・司法は腐り人権滅ぶ(講談社現代新書)の愛媛県玉串料最高裁判決批判は妥当か。

 愛媛県玉串料訴訟最高裁平成9年4月2日判決は、愛媛県知事白石某の靖国神社・愛媛県護国神社への玉串料等の公金支出を憲法違反(政教分離違反)とした判決として著名だ。
 井上薫・司法は腐り人権滅ぶ(講談社現代新書、2007.05)は、この判決について面白いことを書いている。
 被告の一人だった白石某は判決言い渡し直前の3月30日に死亡した。井上は、白石某を被告とする訴訟は同氏の死亡により終了し、同氏関係の訴えは却下すべきだったとする。
 その根拠は、この訴訟は住民訴訟という地方自治法が認めた特別の訴訟で、被告は公金支出した「職員」に限られるところ、相続人はこの「職員」に該当しない、ということにあるようだ(とくにp.136)。
 私は最高裁の憲法違反(政教分離違反)という結論には納得がいかない部分があるので、そのかぎりでは、井上の、(白石関係では)最高裁は本案判断せず、却下すべきだったという意見に<政治的>には魅力を感じる。
 だが、法的議論としてはどうなのだろうか。かりに、井上の法的見解が妥当だとすれば、最高裁大法廷の15人の裁判官全員、そして井上と同旨の意見を判決後に述べた法律専門家全員本案判断可能を前提にしているので(p.146)、井上のこの本での主張はただ一人の、画期的なものであることになる。
 私見はこうだ。たしかに住民訴訟は特別な訴訟で、地方自治法において訴訟の相続人への承継に関する条項などは何らないようだ。
 しかし、そのことをもって、地方自治法に書いていないから損害賠償義務は相続されない、とは言えないだろう。
 住民訴訟は地方自治体がもつ損害賠償請求権を住民が代位行使するという特別な訴訟なので(但し、現行法は少し変えているようだ)、地方自治法に明記されている者のみが被告や原告になれる、と井上は考察しているのだろう。
 だが、実体法的には、紛争の争点は、地方自治体が問題の「職員」に対して損害賠償請求権を具体的に有するか否かで、通常の(不法行為)損害賠償請求訴訟と変わらない。そして、損害賠償義務者が死亡すれば、その義務は相続人に承継されるのであり、かつ住民訴訟という訴訟形態であっても、これを前提として判断してよいのではなかろうか(p.136の論旨が妥当か否かに帰する)。
 井上はあまりに住民訴訟を特別扱いしすぎており、本体は損害賠償請求権の有無という「主観的」なもの(=「法律上の争訟」たりうるもの)だという側面を軽視しているのではなかろうか。
 元裁判官の井上に主張にあえて楯突く意図はないのだが、最高裁の裁判官全員、最高裁の担当調査官、そして住民訴訟に詳しい者もいる筈の学界等の全員が、基本的な問題点を看過していたとは容易には想定できないのだ(かりにそうだとすると井上氏は謬見を公にしていることになる。私は近年、講談社の出版・編集姿勢に疑問を感じているが、同社の現代新書の信頼性をさらに下げることになろう)。
 政教分離の憲法問題自体には、別の機会に触れたい。

0202/稲田朋美・百人斬りから南京へ(文春新書)は未読だが。

 稲田朋美・百人斬りから南京へ(文春新書、2007.04)は出版されるとすみやかに購入したが、きちんとは読んではいない。というのは、きちんと読まなくとも、<百人斬り問題>・<南京事件>については殆ど知識がある、と思っているからだ。所謂<百人斬り報道名誉毀損訴訟>については櫻井よしこ・週刊新潮5/17号も扱っており、原告側訴訟代理人・稲田朋美にも触れている。
 月刊・正論7月号(産経新聞社)の目次にはテーマも氏名も出ていないが、<Book Lesson>というコーナーで、著者・稲田が4頁ほど喋っている。昨年12月に<百人斬り名誉毀損訴訟>の最高裁判決が出て原告敗訴で法的には確定したが、これについては3月中に言及した。

 また、驚くべきことに<南京虐殺はあった>旨の事実認定をしつつ損害賠償請求権なしとして棄却した判決について、たしか同じ日に、その裁判官名を挙げて批判・疑問視する長い文も書いたところだ。
 上の月刊・正論7月号の稲田氏の言葉で関心を惹いたのは、「戦後補償裁判では、請求が棄却される。それは当然ですが、判決理由のなかで個別の事実認定は全部認定されてしまっている。…これは訟務検事が法理論による請求棄却だけを求めて個別の事実認定を全く争わないからです」という部分だ。
 今年4月27日の最高裁判決(西松建設強制労働事件等)もそうだと思うのだが、事実認定は基本的に高裁までで終わりなので、高裁までの事実認定に最高裁すら依拠せざるをえない。そこで、まるで最高裁が積極的に「強制連行」等の事実を認定したかの如き印象を少なくとも一部には与えているようだ。今回は省略するが、高裁(原審)の事実認定によりかかって、井上薫・元裁判官のいう「司法のしゃべりすぎ」を最高裁すら行っているのではないか、と思える最高裁判決もある。
 稲田の指摘のとおり、由々しき自体だ。「この国には国家や日本人の名誉を守るという考えが欠落している」。
 私よりも若い、かつ早稲田大学法学部出身のわりにはよくも<単純平和左翼>の弁護士にならなかったものだと感心する稲田朋美だが、弁護士として、自民党衆議院議員としてますますの活躍を期待しておきたい。

0180/朝日新聞社に3.56億円の追徴課税(更正処分)。

 読売5/30夕刊によると、朝日新聞社は2006年3月期までの三年間で計約8億3000万円の申告所得洩れを東京国税から指摘され、重加算税も含めて法人税等計約3億5600万円の更正処分(追徴課税)を受けた、という。
 「申告漏れ」とは「所得隠し」で、重加算税賦課処分まで受けているのだから、納税者として明らかに「違法」な行為を行ったことになる(「見解の相違」と言いつつ、朝日は法的に争うつもりはないようだ)。
 3.5億円以上の結果的には<脱税>を意図していたと認定された、そういう会社であるのに、<どの面下げて、故松岡勝利前農水相の事務所経費の使途の不透明さを追及していたのか。
 故松岡氏の光熱水費の使途にその金額から見て不分明さ・不自然があったのはおそらく確かだろう。
 だが、現行政治資金規正法が光熱水費については領収書の添付を義務づけていない以上、「違法」な記載ではなかったし、現に警察等によって取り調べられたりはしていない。かつ、その金額は数年間合計しても1億円を大きく下回る筈だ。
 松岡氏の<自殺>問題についてはいずれ何か書くが、3.5億円以上の法律上の納税義務を履行しないでおいて、<政治(家)とカネ>を論じる資格が朝日新聞にあるのか。
 かりにまともな新聞社ならば(そうは思っていないが)、まずは、<新聞社とカネ>、例えば、地方総局設置の自動販売機の販売手数料収入は「所得」でないのか、グループ企業出向社員の給与の本社負担分の一部のグループ企業からの戻し入れの減免は朝日本社の所得とどう関連するのか、講読者からの中途解約された場合の手数料は販売店から払い戻しを受けるべきではないのか、といった諸点をきちんと検討し、解決してからにしていただきたい。

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  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
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  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
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  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
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  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
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  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
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  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
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