秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

評論家

2701/加地伸行の妄言と西尾幹二。

  「本人編集」の西尾幹二全集(国書刊行会)が刊行され始めたのは、2011年の秋だった。
 出版元は当時、宣伝用の冊子またはパンフを作成したのだろう。
 その内容を、現在でもネット上で読める。
 爆笑?気味にでも面白く読めるのは、加地伸行の「推薦の言葉」だ。加地のこのときの肩書は、「大阪大学名誉教授/立命館大学白川静記念東洋文字文化研究所長」。
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  全文の引用も能がない?ので、一部は省略・要約して、加地伸行の西尾幹二全集への「推薦の言葉」を紹介する。ほんの少しは<歴史的>意味があるかもれない。一行ずつ改行する。
 「西尾幹二氏は多作である。
 全集全二十二巻もの刊行が可能な著述家は、現在、ほとんどいない。」
 多方面に常に発言する「コメンテイターなる評論家」はいる。/
 同じように見えても、西尾は「決定的に異なる」。
 コメンテイターは「依頼者の意向やその場の雰囲気に合わせ」るので、「以前の発言と矛盾した発言をしても平気だ。世に迎合する者の常」だ。/
 「西尾氏は異なる。
 すぐれた学問的業績があり、それに基づいた確乎とした保守思想を有し、その一定の立場から発言するので、いかなる方面に対しても的確な見解を出し得、かつその内容に矛盾がない。
 不動にして一貫した姿勢、これは思想家であればこそなしうることである。」/
 「言わば、西尾氏は太陽である。
 太陽として輝いている。

  〔以下、二文略〕
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  すさまじく面白いのは、反復になるが、こうだ。
 西尾幹二は、「すぐれた学問的業績があり、それに基づいた確乎とした保守思想を有し、その一定の立場から発言するので、いかなる方面に対しても的確な見解を出し得、かつその内容に矛盾がない」。
 加地伸行は、本当にこう考えていたのだろうか。いやきっと、そう思い込んでいたのだろう。
 だが、2011年時点にせよ、「すぐれた学問的業績」があったとは到底思えない。加地はいったい西尾のどの著作を思い描いていたのか。
 「確乎とした保守思想を有し、その一定の立場から発言するので、いかなる方面に対しても的確な見解を出し得、かつその内容に矛盾がない」。
 これは全く事実に反する。例えば日本会議・椛島有三に対する西尾幹二の態度は揺れ動いた。
 「的確な見解を出し得、かつその内容に矛盾がない」。
 こんなことはない。西尾幹二が平気で前言と矛盾することを書いてきたことは、この欄で再三触れた。政治に屈服することがあり得ることも、西尾は早い段階で自分自身で書いていた。
 「依頼者の意向やその場の雰囲気に合わせ」るので、「以前の発言と矛盾した発言をしても平気だ。世に迎合する者の常」だ。
 こういう世のコメンテイター類に対する加地伸行の批判は、そのまま西尾幹二に当てはまる、と言って間違いではない。
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  西尾幹二全集全22巻は、2024年当初の時点で未刊のようだと、最近に知った。
 それに加えて、加地伸行がどうやら今でも月刊誌の巻頭に毎号に短文を掲載しているらしいことも、興味深いことだ(最近号で確認してはいない)。
 加地伸行の「教養・知識」、そして人生は、いったい何のために役立ってきたのか。
 老齢の妄言家の文章をしきりと掲載する出版社・雑誌があるとは、日本はなんと<贅沢な>国のことだろう。苦しんでいる人、困っている人はいくらでもいるというのに。
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2667/西尾幹二批判070—全集第8巻①。

 西尾幹二全集(国書刊行会)について、「グロテスク」とか「複雑怪奇」と評したことがある。以下の巻に即して、これを見てみよう。
 西尾幹二全集第8巻・教育文明論(国書刊行会、2013。全804頁)。
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  目次を概観し、さっそくに「後記」を見てみる。
 冒頭に、こうある。p.787。
 「『教育文明論』という題で編成した本全集第8巻は、私の45歳から55歳にかけての10年間、…私が情熱を注いだ教育改革をめぐる論考の集大成である」。
 『教育文明論』という単著がすでにあるのではないことが、分かる。
 しかし、上の文章にはすでに、「大間違い」または「ウソ」がある。
 西尾は1935年生まれなので、「私の45歳から55歳にかけての10年間」とは、ほぼ1980年から1990年の10年間を意味しているはずだ。
 しかし、この巻に収載された個々の論考類には、上の範囲を逸脱しているものがある。決して、ごく一部ではない。
 「I 」の中にまとめられている6つの小論考の発表年月は、順に、1974年3月、1976年8月、1978年4月、1978年6月、1979年3月、1979年5月。
 「VI」の中に収められている3つの論考の発表年月は、順に、1991年1月、1993年3月、1995年5月。
 全てが1980年〜1990年の範囲を超えている。なお、「I 」の表題が「…を書く前に…考えていたこと」であることでもって釈明することはできないだろう。「I 」もまた、この「巻」の一部だからだ。
 さらに、上の「後記」冒頭の文章には、驚くべき「大ウソ」がある。
 計16頁ある「後記」の最後の方の15頁めになってようやく、各個別論考、最初に収載した単行本、そしてこの全集との関係についての記述が出てくるのだが—後述のとおり、この点こそ「異様」なのだが—、そこで初めにこう書かれている。
 「…以外の文章を収録した単行本名と各作品名を記すと次の通りである」。
 「…」で記載された文章(単著)は、そのままこの巻に収載した、との趣旨なのだろう。
 「…」の部分に記された単著の名、本巻での符号、当初の発行年月は、つぎのとおりだ。発行年月は「後記」には記載がなく、この巻での最終頁に記されている。
 ①『日本の教育 ドイツの教育』、「II」、1982年3月。
 ②『教育と自由』、「V」、1992年3月
 何と、かつての単行本を単独の「II」・「V」との数字番号を当ててそのまま収録したらしき二つの単行本のうち一つは、「私の45歳から55歳にかけての10年間」に刊行されたものではない。
 また、以下で「C」と略記するものについて、上二つに似た紹介をすれば、こうなる。
 C=『教育を掴む』、「III」の一部と「IV」、1995年9月
 この1995年9月は刊行年でそれに収録した個別論考類の発表年ではない。しかし、これに収録されたと各論考類の末尾に記載された①〜⑤のうち、②〜⑤の発表年は、それぞれ1991年1月、1991年4月、1991年4月、1991年5月だ。
 いずれにせよ、これらも1990年よりも後に書かれている。
 ——
 西尾は、かつての自分自身の書物や文章がいつ書かれて発表されたかをきちんと確認しないままで、「後記」を書いているのだ。「大まかには」、「おおよそ」といった副詞を付けることもなく。
 以上は、西尾幹二の文章は「信頼することができない」ことの、まだ些少な一例だ。
 ——
  西尾は「後記」で、こう書いている。
 「本巻は10年余に及ぶ体験的文章であり、一つの精神のドラマでもあるので、時間の流れに沿ってそのまま読んでいただければ有難く、余計な解説をあまり必要としないだろう。ひとつながりの長編物語になっている」。p.787。
 くどくも、同じ趣旨の文章がもう一回出てくる。
 「前にも述べた通り、本巻は一冊まるごと長編物語であり、いわば10年間にわたる一つの精神のドラマでもあるので、ここからの展開は素直に順を追って読んでいただければそれで十分であり、本意である」。p.794。
 しかし、第一に、こうした趣旨を西尾自身が破っており、「余計な解説」以上のことを彼自身が「後記」で書いている。この点は、別の回で扱う。
 第二に、「そのまま」「素直に」読んで、とか、「いわば10年間にわたる一つの精神のドラマ」だといった文章自体が、2013年時点での、自分のかつての書物や論考についての読者に対する「読み方ガイド」であり、2013年時点での「誘導」になっている。
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  上のことも西尾の自己「全集」観を示していて、重要だろう。 
 だが、全集の読者・利用者が「編集者」に期待するのは、上のような<贅言>をくどくどと記すことではなく、最初に発表した論考、それらを収載してまとめたかつての単行本、この全集の巻での掲載の仕方の関係を、きちんと、丁寧に明らかにしておくことだろう、と思われる。全集の「緒言」・「まえがき」または「後記」・「あとがき」類は、そのためにこそあるべきだろう。
 だが、西尾の「全集」観は、自分の「全集」については、明らかにそうではない。
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 計16頁の「後記」の15頁めを見てようやく分かるのは、この巻に収められている主要部分は上記の二つの単行本であることのほか、ほとんどの文章(「作品」)は三つの単行本にかつて収録されていた、3つだけはこの全集が初めて収録した、ということだ。
 しかし、第一に、これら三著(上記の二著以外)に収録されていたものは全てこの巻にあるのか、それとも別の巻に入っているものもあるのかは、明記されていない。
 かつまた、第二に、これら三著に収録されていたものが、全集のこの巻でどのように配置されているのかは、「後記」のこの箇所では全く記されていない。
 したがって、この巻の読者は、目次と「後記」のこの箇所(p.803-4)を自ら照合させて、かつての収録関係を理解するしかない。
 ①最初に発表した雑誌や新聞等々の特定、②それらをかつて刊行したどの単行本にすでに収録したのかの特定は、一覧表的に明らかにされておくべきだと思うが(それが「全集」の第一の役割だと思うが)、西尾「全集」のこの巻では、なされていない。かつての一冊の著書をそのまま全集の一巻とした例外的場合を除いて、その他の各巻と同様に、<複雑怪奇>な「構造」になっている。この巻での個々の論考等の末尾には、①しか記載されていないのだ。
 ——
 秋月において、この「複雑さ」を解消する作業を行なってみよう。一部についてに限られる。
 「I」、「III」、「IV」はこの巻での番号、「A」、「B」、「C」はかつての単行本(各々、1981年、1985年、1995年刊)、①・②・…はこの巻の「I」等の中の順の番号(この巻にはこれらの数字は目次にもない)。この巻に「初出」のものもある。
 「I 」①〜③→全集に初出。④・⑤→「A」、⑥→「B」。
 「III」①〜⑯→「B」。⑰〜⑳→「C」。
 「IV」①〜⑤→「C」
 以上。
 なお、つぎのコメントが「後記」に付されているものがある。
 「III」③—「(『…』に改題して収録)」。
 これはどういう意味だろうか。「…」の部分はこの巻にはないからだ。
 おそらく、この巻では元に戻したが、「B」に収録したときは「…」と改題した、という意味なのだろう。表題自体が、最初の発表時、過去の単行本時、全集収録時で異なり、「B」でだけ異なる、というわけだ。
 一方、個々の論考類の出典について、全集のこの巻に、それらを掲載した末尾に「改題」と明記しているものがある。
 例、「III」④、同⑤、同⑥、同⑨、同⑬、同⑰。
 これらはおそらく、全集収録時ではなく、上の④〜⑬はかつての単著「B」に収録する際に、上の⑰はかつての単著「C」に収録する際に、「改題」した、という意味なのだろう。
 「改筆」と明記されている場合もある。「III」⑮。
 おや?と感じさせるが、おそらく、全集収録時ではなく、かつての単著「B」に収録する際に「改筆」した、という意味なのだろう。
 全集に収載するときに、かつての「B」で示した出典や「改筆」の旨を、全集時点でも何ら変更なく<そのまま>使って示しているわけだ。
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  以上は、読者・利用者に対する「編集者」としての「親切さ」または「丁寧さ」の欠如だ、と論評できるだろう。「複雑」であり、「紛らわしい」ことの原因になっている。
 しかし、それ以上に<いいかげんさ>を感じさせるところが、「後記」にはある。
 第一に、上に言及した、各論考等とかつての単行本との収録関係に関する箇所(p.803-4)には、<「IV」①〜⑤→「C」>という旨の記載が、いっさい存在しない。
 第二に、この巻の「III」の内容の紹介の一部として、「後記」に、「臨教審の答申が出るたびに『毎日新聞』がそのつどつききりで私の批判的所見を掲載した。四度に及ぶ同紙の答申直後の私の記事を全部収めて、記録としておく」と書いている。p.791。
 これは相当に恣意的だ。なぜなら、まず、「III」の中にはもう一つ(5つめ)の「毎日新聞」寄稿文がある(⑳)。ついで、「III」の中には、「日本経済新聞」と「サンケイ新聞」への寄稿文も一つずつある。さらに、「IV」のなかには、「産経新聞」、「読売新聞」、「朝日新聞」への寄稿文が一つずつある(「IV」③〜⑤)。
 西尾はおそらく、当時に「毎日新聞」に多数寄稿したことを、2013年に振り返って思い出したのだろう。その結果として、他の新聞については「後記」に書かなかったわけだ。
 また、「文藝春秋」と「月刊正論」の名だけ出しているようだが(p.791)、実際には「諸君!」、「中央公論」、「週刊文春」等もあるので、決して網羅的に言及してはいない(言及するか否かは読者・利用者には分からない「恣意」によるのだろう)。
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 ところで、ここでの主題から逸脱することを承知のうえで書くが、この当時に西尾幹二が寄稿した(執筆を依頼された)新聞や雑誌等の名を見ていると、興味深いことに気づく。
 すなわち、政府関係の「臨教審」や「中教審」の答申に批判的だった西尾幹二は、幅広く、多様な情報媒体に登場していた。「毎日新聞」や「朝日新聞」は当時にどういう基本的性格の新聞だったかを詳しく正確には知らないけれども、やはりどちらかと言えば「左翼的」だっただろう。
 このような状況は、1996-97年のいわゆる「つくる会」設立と西尾の初代会長就任後から全集のこの巻発行の2013年頃のあいだにこの人が寄稿した新聞や雑誌等とは、大きく異なっていた、と思われる。
 言い換えると、およそ1980年前後から1990年代の初頭まで、西尾幹二は決して「保守」を謳う評論家ではなかったように推察される。
 「反共産主義」者またはマルクス主義に無知でそれに影響を受けなかった「非共産主義」者だったかもしれないが、この時期の西尾はまだ今日的に言う「保守」を標榜していなかった、と思われる。
 のちの2020年刊の同・歴史の真贋(新潮社)のオビに言う「真の保守思想家」というものとは大きくかけ離れていた、と言ってよいだろう。
 1990年代後半には「保守」の立場を明確にし、「つくる会」会長として協力団体の「日本会議」ともいっときは良好な関係を築いた。
 「私の45歳から55歳にかけての10年間」(「後記」冒頭)を2013年に振り返って、西尾幹二は以上のようなことを全く想起しなかったようであることも、じつに興味深い。
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 つづく。

2661/西尾幹二批判068—四つの特質。

 西尾幹二について、掲載し忘れのないように、いつか総括的な論評をしておこうと思っていた。私の長期的な生存自体の可能性が曖昧なので、書き忘れたままになるのは避けたい。もう一つ、<日本共産党の大ウソ>シリーズも完了していない。こちらの方も、別に急ぐことにしたい。
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 西尾幹二とは何か。この人が「やってきた作業」、「全仕事」の本質的性格は何か。総括的に論評すればどうなるか。
 2の2乗の4とか3乗の8という数字が好きだから(1000よりも1024の方を「美しく」感じるたぶん少数派の人間だから)、上の点を四つにまとめてみたい。
 第一は、すでに書いた。→「2646/批判66」
 多数の人々に「えらい」、「すごい」と認めさせ、自分に屈服させること。これがこの人の作業の、最大かつ最終の目的だったと思われる。
 単純に「えらい」、「すごい」ではなく、西尾幹二がとくに意識した「ライバル」たちがあって、その者たちよりも「優れている」とできるだけ多数の人々に承認されたい、というのが正確かもしれない。
 この点には立ち入らず、つぎの点に進む。
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 誰でも、自分自身についての何らかの自己イメージ、自己評価、自画像を描いているだろう。そのイメージが他者による自己の評価または「客観的」評価と一致しないことは、よくあることだろう。
 だが、西尾幹二の場合、第二に、<西尾自身による自己イメージと第三者多数によるまたは「客観的な」評価との乖離がきわめて大きい>、と考えられる。これが、西尾幹二の全作業の評価にかかわる基本的特質だ。西尾は「客観的」評価などは存在せず本人の強い主張によって「評価」自体が変動するのだ、と考えているのかもしれないが、この問題にはここでは触れない。
 詳細は省くが、この人は自分は「思想家」だと明言している(正確には対象の一定の限定が付く「思想家」)。西尾幹二本人と、「思想家」だと宣伝して西尾本を売りたい出版社、その編集担当者を除いて、<表向きであっても>西尾幹二は「思想家」だと評価している者は皆無だと思われる。
 むろん「思想家」なる言葉の意味、外延にもかかわる。しかし、西尾幹二自身は、相当に限定された、「優れた」人間にのみ与えられる呼称だと思っているはずだ。
 また、例えばつぎの、この人が書いた2018年の次の文章を引用するだけでも、西尾幹二が関係した「運動」や書物についての自己イメージ・自己評価が、<誇大妄想>という以上の「異様」なイメージであることは明らかだと思われる。なお、以下での「つくる会」運動は、西尾が会長であった時期のものに限られている。そして、①はその時期の著作物は「歴史哲学」上の成果物だと主張しているとみられる。②は、まさに自分の著作『国民の歴史』に関するものだ。
 ①・②ともに、全集第17巻・歴史教科書問題(2018年)「後記」所収751頁。秋月による下傍線の意味については後述。
 ①『国民の歴史』等の「著作群は、同運動の継承者を末長く動かす唯一の成果であろう。はっきり言ってこの観点〔おそらく「日本人の歴史意識を覚醒させる」こと—秋月〕を措いて『つくる会』運動の意義は他に存在しなかった、と言ったら運動の具体的関与者は大いに不満だろうが、歴史哲学の存在感覚は大きい」。
 ②古代から江戸時代まで「中国を先進文明と見なす指標で歴史を組み立てる」という観念をもつ歴史学の「病理」を「克服しようとしている『国民の歴史』はグローバルな文明史的視野を備えていて、…、これからの世紀に読み継がれ、受容される使命を担っている」。
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 第三に、<意味不明・無知>と表現しておく。この人の作業あるいは仕事は、要するにほとんどは「文章書き」だ。その「文章」はいったい何をしようとしていたのか、じつははなはだ不明だ。また、幼稚な「誤り」も、しばしば看取される。
 性格について言うと、小説や詩等の「創作物」・「フィクション」ではない。では、何かを解明しようとする「学問研究」なのかと問うと、ほとんどが学問研究ではないと考えられる。
 「評論」という名のもとで行なってきたこの人のほとんどの作業の性格は、いったい何だったのだろう。
 別により具体的には言及したい。
 一例だけ上げると、安倍晋三首相退陣直前の西尾「安倍晋三と国家の命運」月刊正論2020年7月号37頁以下は、いったい何を目的とし、何を論じているのだろうか。また、西尾幹二は<保守の立場から安倍政権を批判する」と表紙に明記する書物を刊行したことがあるが(『保守の真贋』2017年)、この2020年7月号の文章では、最後にやや唐突に「安倍政権は民主党政治の混乱から日本を救い出し、長期の安定をもたらしたが」という、そのかぎりでは好意的に評価する言葉が出てくる。そもそもの「一貫性」自体が、この人には脆いのだ。安倍政権について、民主党政権から日本を救い、「長期の安定」をもたらしたとの趣旨は、2017年著のどこに出てくるのか。
 「無知」は、すでに「根本的間違い」と題するなどをしてこの欄で何回も取り上げた、西尾幹二の「国際情勢」の認識・判断において顕著だ。再度は立ち入らないが、アメリカより中国はまだましだ、アメリカは中国・韓国の支持を得て日本を攻めてくるだろう旨を、何回も述べていた。<反米>を強調するあまり、アメリカが第一の<敵」であるかのごとき主張を繰り返していた。なお、憲法改正を含む日本の対米自立、自衛・自存を説きながら、<日米安保の解消>をひとことも主張しないという、大きな矛盾すら抱えていた。
 <哲学・歴史・文学>を統一すること、いずれにも偏らないことを理想としてきたと、西尾は述懐したことがある(全集「後記」。—正しくは、同・歴史の真贋(2020、新潮社)「あとがき」後日に訂正した)。これは、いずれも専門にすることができないという「性格」の不明さとともに、いずれの観点からも「無知」であり得ることを、自己告白しているようなものだ。
 以上のことは、西尾幹二がすでに50歳になる頃には、<アカデミズム>の中で生きていくことを諦めたことと、密接な関係があるだろう。
 なお、<意味不明・無知>は迷った末の表現だ。
 <たんなるヒラメキ・思いつきを堂々と活字にしていること>も、第二点とも関連するが、「意味不明」の原因になっていること(実証・論証がなされていないこと)として、ここに含めておきたい。
 また、西尾幹二には「言葉」・「観念」と「現実」の関係について、私から観るとやや<倒錯>している考え方があるように見える。哲学的・認識論的問題に立ち入ることを得ないが、「言葉」・「観念」が生み出されて存在すれば、「現実」自体も変動する、というような考え方だ。「客観」性・「真実」性・「合理」性の存否ではなく、ともかくも「言葉」で強く主張する者が「力」をもつ、といった考え方に傾斜しやすい人ではないか、と思われる。
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 第四は、<大衆蔑視>意識、「ふつうの人々を馬鹿にする心情」を基礎にしていることだ。
 西尾幹二がどれほど十分かつ正確にF・ニーチェの文献を読んでいるかは、疑わしい。
 しかし、「大衆」=「愚民」=「愚衆」と区別される<エリート>、たぶん「超人」あるいは「力への意思」をもつ者、の一人だと、西尾幹二が自分のことを強烈に意識していた(いる)ことは疑いないだろう。
 「この観点を措いて『つくる会』運動の意義は他に存在しなかった、と言ったら運動の具体的関与者は大いに不満だろうが、歴史哲学の存在感覚は大きい」との文章は不思議な文章だ。
 まるで「運動の具体的関与者」は「歴史哲学」とは関係がないかのごとくだ。「歴史哲学」という高尚な?価値とは無関係な「運動の具体的関与者」とは会議資料をコピ—して用意したり、理事等に諸連絡を行ったりする「会」の事務職員を含んでいるだろう。
 そして、西尾幹二は、そのような事務職員を「蔑視」または「見下して」いることを、上の文章の中で思わず吐露してしまった、と読めなくはない。
 こういう「大衆蔑視」意識・心情を形成した一つは、東京大学文学部独文学科出身(かつ大学院修士課程修了)という「学歴」にあるのだろう。だが、戦後日本の「教育」や「学歴主義」の問題点が西尾幹二にも現れているようだ。
 たしかに、西尾の世代からするとかなり少数の「高学歴」のもち主かもしれない。しかし、そのことは、自分はきわめて「えらい」、「すごい」<人間>だと認められる(はずだ、べきだ)ということの何も根拠にもならない。
 また、この人は、文章執筆請負を長らく業とした(しかし、国立大学教員という「職」・「地位」を「定年」まで放棄しなかったことも西尾幹二を観察する際に無視できない)。そういう西尾幹二にとって、「先生々々」と呼んで「持ち上げて」くれる戦後日本の出版業・その編集担当者の存在が身近にあったことも、意外に大きいかもしれない。
 この第四は第一の特質とかなり重なっている。また、第二のそれの背景になっている、と考えられる。
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 以上は、秋月瑛二が西尾幹二について描く総括的「イメージ」だ。相互に関連し合っており、今回に詳しく論じたわけでもない。とりあえず、こういう全体像を示しておくと、今回以降のより具体的な、「例証」にもなる文章を書きやすいだろう。
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2646/西尾幹二批判067。

  1965年に三国連太郎主演で映画化された『飢餓海峡』の原作者は、水上勉だ。この原作は、1962年に新聞で連載され、1963年に加筆されて単著化、1969年に文庫化されたようだ。だが水上勉はこの小説への「思い入れ」が深かったようで、のちに<改訂決定版>を書き、没後の2005年に刊行された。
 新聞または週刊誌に連載された当初の発表原稿が単著になったり文庫化されたりするときに加筆修正されることは、珍しくはないのだろう。 
 水上勉『飢餓海峡』の場合、単著になるときに加筆修正されていることは明記されていたはずだし、のちの<改訂決定版>も、このように明記されて出版された(所持している)。
 松本清張全集や司馬遼太郎全集(文藝春秋)に収録された諸小説類は、これらの全集は生前から逐次刊行されていたこともあって、新聞・週刊誌での発表原稿か、すみやかに単行本化された場合はその単著を「底本」としていたと思われる。三島由紀夫全集(新潮社)の場合は、全集刊行の事前に本人の「加筆修正」があったはずもない。
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  当初の発表原稿が単著化される、または単著の一部とされて出版される場合に「加筆修正」があるならば、その旨が明記されることが必要であって、通常の著者や出版社はそうしているだろう。
 さらに厳密に、「加筆修正」の箇所や内容もきちんと記載されることがあるかもしれない。
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 雑誌に発表した文章をその他の文章とともに単著化するに際して、<加筆修正した>旨を明記することなく、実際には「加筆修正」している例が、西尾幹二にはある。
 たまたま気づいたのだが、『保守の真贋—保守の立場から安倍政権を批判する』(徳間書店、2017)と、その一部として採用されている「安倍首相への直言—なぜ危機を隠すのか」(月刊WiLL2016号9月号)
 上の前者は6部に分けられて「書き下ろし」と既に発表したものの計18の文章で成っているようだ(18なのか、例えば20を18にまとめているのかをきちんと確認はしない)。
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 こういう場合、「初出一覧」を示す一つの頁を設けて、どの雑誌・新聞の何月(何日)号に当初の原稿は発表した旨を一覧的に示すものだが、西尾幹二『保守の真贋—保守の立場から安倍政権を批判する』には、そういう頁はない。
 そうではなく、本文と「あとがき」の間に小さい活字で、「オリジナル」以外の「初出雑誌、並びに収載本は各論考末にあります」とだけ書かれている。すでに別の単行本になっているものの一部も転載されているようだ。
 それはともあれ、「各論考」の末尾をいちいち見ないと、その文章が最初はいつどこに発表されたかが、分からないようになっている。
 少なくとも、親切な「編集」の仕方ではない。
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  「安倍首相への直言—なぜ危機を隠すのか」(月刊WiLL2016号9月号)は、は「II」の「五」に収録され、その末尾にカッコ書きで「(『WiLL』2016年9月号、ワック)」と記載されている(p.110)。
 但し、A・雑誌発表文章とB・上の単著収録文章には、若干の差異がある
 第一。タイトル・副題自体が同じでない。Aは「安倍首相への直言・なぜ危機を隠すのか—中国の脅威を説かずして何が憲法改正か、首相の気迫欠如が心配だ」。
 Bでは、「安倍首相、なぜ危機を隠すのか—中国軍機の挑発に対して」。
 第二。小見出しの使い方が同じではない。
 Aには「中国の非を訴えるべきだ」と「米中からの独立」が二つめと最後にあるが、Bにはこれら二つがない。
 第三。全文を丁寧に比較したのではないが(そこまでのヒマはない)、明らかに文章が変わっている。「修正」されている。
 「軍事的知能が落ちた」という小見出しの位置を変更した辺り、Aでは「…いかに現実のものとなっているかがお分かりいただけると思います」(雑誌p.60)、Bでは「今やいかに現実のものとなっているかは、考えるヒントになろうかと思います」(書籍p.108)。
 第三の二。全文を丁寧に比較したのではないが(そこまでのヒマはない)、単著化の際に明らかに付け加えられた文章がある。「加筆」だ。
 Aの「安倍首相への直言、…」は、「…。アメリカと中国の両国から独立しようとする日本の軍事的意志です」で終わっている(雑誌、p.61)。
 これに対してBの「安倍首相、なぜ…」は、上のあとで改行して、つぎの二段落を加えている。
 「中国軍機の挑発をいたずらにこと荒立てまいと隠し続ける日本政府の首脳は、国民啓発において立ち遅れてしまいました。…〔一文略—秋月〕。
 意識を変えなければなりません。やるべきことはそれだけで、ある意味で簡単なことなのです。」
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  このような不一致、および「加筆修正」を問題視しなくてよい、そうする必要はない、実質的に同じだ、趣旨を強化しているだけだ、と擁護する向きもあるだろう。
 しかし、決定的に問題なのは、上のようなことが(他にもあるかもしれないが)「ひとことの断わりもなく」、「加筆修正した」と明記することもなく、単著化の段階で行なわれている、ということだ。
 何の「断わり」も「注記」もないのだから、単著『保守の真贋』の読者は、各文章の末尾に付された雑誌類と同じそのままの文章が掲載されていると思って読むだろう。
 これは一種の「ウソ」で、「詐欺」だ。一部であっても全体の一部なのだから、ある文章の全体を単著化の時点で黙ったままで「書き直した」に等しい。
 そして、このような「加筆修正」等が<全集>への収載の時点で行なわれていない、という保証は全くない。
 著者・編集者が、西尾幹二だからだ。
 元の文章を明示的に修正しなくても、西尾自身の「後記」によって後から趣旨の変更を図るくらいのことは、「知的に不誠実な」西尾幹二ならば行ないかねないし、行なっていると見られる。
 当初の(雑誌・新聞等への)発表文章、単著化したときの文章、全集に収録された文章、これらの「異同」等に、読者は、あるいは全く存在しないかもしれないが、西尾幹二文献に「書誌学」的関心をもつ者は、注意しなければならない。
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2644/西尾幹二批判066。

  西尾幹二全集は完結したのだろうか。最後の方は購入をしなくなったので知らない。また、全ての単著および発表論考を、そのまま、全集に収載したのだろうか。
 日本会議批判を含む『国家と謝罪』(2007)・『保守の怒り』(2009)等や『皇太子様への御忠言』(2008)は全集にそのまま忠実に収録されているのだろうか。
 いかほど売れているのだろうか。しばしば自著の販売部数に触れてきた西尾幹二は、<全集>の売れ行きも気になるに違いなく、概数を知っているだろう。人文社会系書籍でも大学等の研究機関や公立図書館が購入してくれるので最小限のある程度の部数は捌けると聞いたことがある。これ以外に、西尾幹二全集を「個人で」金を払って購入している人はいったい何人いるのだろうか。
 真剣に思うのだが、100人もいるのだろうか。
 多くの読者、いや所持者は、西尾幹二から「無償で」送付されているのではなかろうか(そして、ろくに読んではいない)。
 <西尾幹二批判>を書き続けつつ、こんな人物を論評しても意味がないという虚しさも感じる。本人が思っているのとは異なり(あるいは本人も深いところでは悟っているかもしれないように)、西尾幹二とは「まともに相手にする必要のない」、またはごく少数のマニアからを除いて、本当は「まともに相手にされていない」人物なのだ。
 だが、いっとき渡部昇一や八木秀次等々に比べて西尾幹二は「ましな保守」論客だと勘違いしていた「恥ずかしい」経験が私にはあるので、その「負い目」をなおも意識せざるを得ない。
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  より本格的な分析・検討は別に行ないたいが、<西尾幹二全集>は、日本の「全集」出版史上、稀に見るグロテスクなものになっていると思われる。実質的な編集者の西尾幹二本人のもとで小間使いをさせられている(いた)国書刊行会の「編集」担当者は気の毒だ。
 三島由紀夫全集(新潮社)には評論類や私的「手紙」まで収載され、じつに詳細な索引まで付いている。
 三島由紀夫全集と比較すること自体が無謀あるいは愚昧なのかもしれない。
 西尾幹二は、自らの詳細な「年譜」とともに、「公にした」文章(①新聞・雑誌論考、②それらを中心にまとめた単著、③収載した(はずの)<全集>)の「差異」を、自ら詳細かつ明確に記しておくことができているのだろうか。「索引」(可能ならば人名と事項の二種)を付す「誠実さ」はあるのだろうか。
 とりあえず分類した上の①・②・③は基本的には同じはずであり、少なくとも③の段階では「加筆修正」はもはや存在しないだろうと理解するのが常識的だと見られる。常識的な読者はそう理解して読むだろう。しかし、全集の各巻発行の時点で西尾は「加筆修正」しているのではないか、との疑いを拭うことができない。
 具体的指摘は別にするが、西尾は、かつての二つの文章(講演記録だったかもしれない)を、<全集>の段階で一つの文章に「合成」していたことがある。実質的には同じだという釈明をすることはできない。<全集>の段階で元の文章を書き直しているのと同じだ。
 個々の文章の「加筆修正」ならば全体には直接には波及しないかもしれない。
 しかし、編集者・西尾幹二にとって「好ましい」ように各巻が配置され、現在の西尾にとって「好ましい」ようにかつての文章が選ばれている。そして、かつては同じ一つの単著の中の文章だったものが、全集段階で別の巻に分散して収められていることもある。上の②の時点での「あとがき」やその当時の第三者による「書評」が収載されていることもある。したがって、いつ書かれたのかという基本的な点も含めて、きわめて分かりにくく、複雑怪奇なものになっている。なお、同じ文章が全集の別々の巻に収められていたことがあった(それを詫びていた記事があった)。
 これを解消するには、上に触れたように、諸文章、各著書、「全集」段階での収録の各関係等々を詳細かつ丁寧に説明する、全集段階での一覧表的記述をしておくことが必須だ。だが、西尾幹二にそのような「知的誠実さ」を求めること自体が無理なのかもしれない。
 西尾幹二全集の最大の特徴は、各巻末尾の西尾自身の「後記」の存在だろう。
 この「後記」の内容の異様さを見ると、全集「月報」上以外に、西尾幹二以外の第三者のかつてのまたは全集刊行時点での文章が(「追補」等として)堂々と掲載されていることの異様さもかすんでしまう。
 西尾幹二は「後記」で、自らのかつての文章を論評し(多くはその積極的意義を述べ)、かつまた読者に対して、かつての自らの文章の「読み方」をガイドまでしようとしている。その中には、かつてとは異なる、全集刊行時点での自分自身の評価(意義の理解の変更を含む)をも紛れ込ませている。
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  結局のところ、西尾幹二の文章執筆(そしてこの人の人生そのもの)の最大の目的は、西尾幹二の「偉さ」を多数の人々に認めさせること、多くの人々に「えらい」、「すごい」と称賛されることにあった。この人にとって、「自分の存在意義」こそが全てだ。
 全てはそのための「手段」にすぎない。自分の文章作りとともに、ときには他人の存在までもが。
 真実、良心、誠実、…。こうした「美徳」は、西尾自身の「顕名」に比べれば、何の価値もない。。
 現天皇即位の際に月刊正論に寄稿した文章を冒頭に置く西尾『日本の希望』(徳間書店、2021)の表紙にこうある。
 「私は、日本のあり方をずっと考えてきた!」
 大笑いだ。そして、ウソをつくな、と言いたい。書いたものは全て「自己物語」で、「私が主題」だった、「私小説的自我のあり方で生きてきた」と、2011年の全集刊行開始頃に遠藤浩一との対談で語っていたではないか。
 「日本」もまた、この人にとっては「手段」だった。あるいは、ヒト・人間、人類、地球・世界ではなく、「日本」としか語れないところに、西尾幹二の本質と致命的な限界があるのかもしれない。
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  多くの人々が西尾幹二に「だまされてきた」。この人の文章をきちんと読み、きちんと分析・検討することなく、「だまされてきた」。
 なぜそうなったのか。例えば、なぜ、西尾幹二はいわゆる「つくる会」の初代会長に「まつり上げ」られたのか。日本の戦後の、少しは限定して言えば日本の戦後の<保守>界隈の、一つの興味深い現象だ。
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2633/西尾幹二批判065-01。

  前回No.2631の最後に、西尾幹二に「ドイツ思想」または「歴史哲学」に関するどの専門書が「一冊でも」あるのだろうか旨を書いたが、さっそくに「専門的論文が一本でも」あるのか、に訂正しなければならないだろう。月刊正論(産経新聞)、月刊WiLL(ワック)等への寄稿文章は「(専門的)論文」ではない。
 書籍・単行本に限っても、西尾幹二は自分自身で「私の主著」は『国民の歴史』(1999、2009、2018)と『江戸のダイナミズム』(2007)のふたつであるを旨を2018年に明記している。つぎの、自己賛美が呆れ返るほどの一文の中でだが。
 「『国民の歴史』はグローバルな文明史的視野を備えて、もうひとつの私の主著『江戸のダイナイズム』と共に、これからの世紀に読み継がれ、受容される運命を担っている」(全集第17巻「後記」、p.751)。
 こらら二つに『ニーチェ』(1977)を加えて三著とするとしても、「ドイツ思想」に関する専門書ではないことは明瞭だ。また、いずれも何らかの意味で「歴史」を扱っているとしても、日本の歴史に関する断片的随筆・評論、ニーチェの一部の「文学的」歴史研究であって、「歴史哲学」書ではない。なお、西尾幹二にとっては「歴史」に関する何らかの一般的なあるいは抽象的な思考を表明すれば「歴史哲学」になるのかもしれないが、それならば秋月瑛二もまた「歴史哲学」者と自称し得る。「歴史哲学」と言いつつ西尾のそれはほとんどが「思いつき」、「ひらめき」から成るものだ。
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  西尾幹二が「ドイツ思想」の専門家とされることは、ドイツの思想に関係した仕事をしてきた日本の研究者は、たぶんそんなことは無視しているだろうが、知ったならば、論難、罵倒あるいは冷笑の対象にするに違いない。
 L・コワコフスキは「マルクスはドイツの哲学者だ」と叙述することの意味に大著のある章の冒頭で触れているが、マルクスもまた「ドイツ思想」の系譜上にあると言っても誤りではないだろう。そして、谷沢永一(1929-2011)はレーニン・国家と革命(1917年)を明らかに読んでいる叙述をかつてしていたが、西尾幹二は、「反共」を叫び「マルクス主義」という語も用いながら、マルクス、レーニン等の著作の内容に言及していたことは一度もない。
 仲正昌樹ほか・現代思想入門(PHP、2007)の最初の章の仲正「『現代思想』の変遷」はマルクス主義から論述を始めているのだが、その前のカント・ヘーゲルについて、西尾幹二が何か論及していとのを読んだことは一度もない。
 仲正昌樹・現代ドイツ思想講義(作品社、2012)は、ハイデガーから叙述を始めて、「フランクフルト学派」、その第二世代のハーバーマス、フランス・ポストモダン等のドイツへの影響で終えているのだが、これらのうち西尾幹二が記したことがあるのはハイデガーだけだ。しかもハイデガー研究ではなく、その「退屈」論を要約的に引用・紹介しただけだ(『国民の歴史』の最後の章、現代人は自由があり過ぎて「退屈」して「自由の悲劇」に立ち向かわざるを得なる、という秋月には理解不能の論脈の中でだ)。西尾の諸文章は、ニーチェとハイデガーの関係にもおそらく全く触れたことがない。
 仲正昌樹・上掲書のそのほぼ半分はアドルノ=ホルクマイヤー・啓蒙の弁証法を「読む」で占められているが、西尾幹二はそもそも「フランクフルト学派」に言及したことがないのだから、この著(1947年)に触れているはずもない。日本の<保守>派で、「フランクフルト学派」を戦後「左翼」の重要な源泉と位置づけていた者に、田中英道、八木秀次がいる。
 なお、L・コワコフスキの大著でマルクス主義の戦後の諸潮流の一つと位置づけられた「フランクフルト学派」の叙述を読んで、つぎの二点でこの「学派」は西尾幹二と共通性・類似性がある、と感じたことがある。
 ①反現代文明性(反科学技術性)、②大衆蔑視性。
 「フランクフルト学派」は単純な「左翼」ではなく、西尾幹二は単純な「反左翼」ではない。
 参照→近代啓蒙・西尾幹二/No.2130・池田信夫のブログ016(2021/01/24)、同→西尾幹二批判041/No.2465(2022/01/07)。
 「四人の偉大な思索者」を扱った現代思想の源流/シリーズ・現代思想の冒険者たち(講談社、2003)で「ニーチェ」を執筆していたのは三島憲一で、その内容の一部は西尾幹二とも関連させてこの欄で取り上げたことがある。
 三島憲一・戦後ドイツ(岩波新書、1991)は「思想」よりも広く副題にあるように(政治史と併行させて)戦後ドイツの「知的歴史」を論述対象としたものだ。
 この書では、ハイデガー、「フランクフルト学派」、ハーバーマス、マルクーゼらに関して多くの叙述がなされているようだ。そして最後に1986年からの<歴史家論争>にも論及がある。
 この書を概観しただけでも、西尾幹二がとても「ドイツ思想」の専門家と言えないことは明瞭だ。上のいずれについても、西尾幹二は論述の対象にしたことがないからだ(せいぜいハイデガーの「退屈」論のみの、かつ要約的紹介だ)。
 フランクフルト学派に何ら触れることができていないのでは「ドイツ思想」を知っているとすら言えないだろう。また、「歴史哲学」を含めても、主としてドイツ国内の<歴史家論争>をまるで知らないごとくであるのは、致命的だ。
 では「戦後」ではなく「戦前」ならば詳しく知った「専門家」なのかというと、そうでも全くないのは既述のとおり。
 いくつか上に挙げた「ドイツ思想」関係の書物はあくまで入手しやすい例示で、他に専門的研究書や論文はあり、かつ西尾幹二はその研究書等を読んですらいないだろう。
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  西尾幹二が自ら記した自分の活動史からしても、この人が「ドイツ思想」全体にはまるで関心のなかったこと、「専門」を「ドイツ思想と歴史哲学」にしようとは考えていなかったことが明らかだ。
 西尾幹二・日本の根本問題(新潮社、2003)所収の2000年の論考でこう書いている。
 私は1970年の三島事件のあと、「三島について論じることをやめ、政治論からも離れました。そして、 ニーチェとショーペンハウアーの研究に打ち込むことになります」。このとき、35歳。
 そして1977年(42歳)に前述の『ニーチェ』出版、1979年に博士号を得る。その頃、「文学者」として(日本文芸家協会の当時のソ連との交流の一つとして)ソ連への「遊覧視察旅行」(足・アゴつき大名旅行)、文芸雑誌で「文芸評論」・「書評」をしたりしたあと、1990年を迎える(1990年は45歳の年)。
 とても「ドイツ思想」の研究者ではない。そして、1996年12月-1997年1月に<新しい歴史教科書をつくる会>の初代会長就任(満61歳)
 その後を見ても「ドイツ思想」の専門的研究を行う隙間はなく、むろん(当時の「皇太子さまにご忠言」する書籍を2006年に刊行しても)その分野の専門的研究論文や研究書はない。
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  それにもかかわらず、「専門はドイツ思想、歴史哲学」と紹介され、それに抵抗する特段の意思を表明していないのは、「ふつうの神経」をもつ常識的人間には考えられないことだろう。また、そのように紹介する出版社、雑誌、雑誌編集者も「異常」なのだ。
 雑誌への執筆者のいわば「品質」表示が読者・消費者に対する雑誌編集部の「執筆者紹介」だ。その紹介を見て雑誌を購入したり、個別論考を閲読する読者もいるはずだ。
 そうだとすれば、刑事告発等をする気はないが、原産国・原産府県、成分表示、JISやJASとの適合等について厳格な「正しい」表示義務のある生活用品や食品の場合と同様に、少なくとも倫理的に、「正しい」表記・成分表示、「不当表示の排除」が求められるべきだ。
 全てではないにせよ、雑誌の一部には、西尾幹二の例に見られるような「不当表示」、間違った「執筆者紹介」がある。
 もっとも、「執筆者紹介」の具体的内容は、執筆者自身が申告して、雑誌編集部が原則としてそのまま掲載するのかもしれない。
 というようなことを思い巡らせると、書籍のオビの惹句は書籍編集担当者がきっと苦労して考えるのだろうと推測していたが、じつは西尾幹二本人が原案を書いたのではないか、と感じてきた。 
 西尾幹二・国家の行方(産経新聞出版、2019)のオビの一部。
(表)「日本はどう生きるのか。/民族の哲学・決定版。
 不確定の時代を切り拓く洞察と予言、西尾評論の集大成。」
(裏)「自由、平等、平和、民主主義の正義の仮面を剥ぐ。
 今も力を失わない警句。」
 西尾幹二ならば、編集者を助けて?、「不確定の時代を切り拓く洞察と予言」、「今も力を失わない警句」と自ら書いても不思議ではないような気がする。
 なお、西尾幹二・歴史の真贋(新潮社、2020)のオビの一部。
 (表)「崖っぷちの日本に必要なものは何かを今こそ問う。
 真の保守思想家の集大成的論考」。
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 最後の五へとつづく。

2631/西尾幹二批判064。

  西尾幹二の雑誌論考での肩書は「評論家」が最も多いだろう。現在に所属する大学の教授や「〜名誉教授」を肩書とする人も少なくないが、西尾幹二は「電気通信大学教授」または「電気通信大学名誉教授」とはあまり名乗りたくなかったようだ。 
 「評論家」というのもじつは曖昧で、西尾幹二はいったい何に関する評論家だったのだろうか。
 政治、国際政治、文学といったものが想定されるが、「歴史」に関する文章も少なくない(一時期に月刊正論に連載されていて未完だと思われる「戦争史観の転換」は「評論家」の肩書で書かれている)。
 その他に、皇室、原発を問題にすることがあり、かつては一夜漬けで?証券取引法を「調べた」ような文章を書いたこともあった(堀江貴文の逮捕の頃)。
 正しくは「時事評論家」だろうか。いやそれでは狭すぎ、本人は「何でも屋」の「総合評論家」だと自称したいかもしれない。
 だが、このような曖昧さ、良く言えば「広さ」は、同時に、例えば各事象、各問題に関する<専門家>や、「学界」でも第一人者と評価される「アカデミカー(学問研究者)とは比肩できない、「浅さ」・「浅薄さ」の別表現でもある。
 西尾幹二は、同・歴史の真贋(新潮社、2020)の「あとがき」で、「『哲・史・文』という全体」で外の世界を見るのが「若い日以来の私の理想」だった旨記している(p.359)。これは、反面では、ある時期以降のこの人の作業は「哲・史・文」のいずれとも理解し難い、これら三分野を折衷・混合した「ごった煮」に、いずれの分野でも先端をいくことのない、専門家を超えることのできない「浅薄な」ものにならざるを得なかったことを、自認しているように考えられる。
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  西尾幹二の雑誌論考の中途または末尾に、執筆者紹介として「東京大学文学部独文学科卒業。文学博士。ニーチェ、ショーペンハウアーを研究。…」と記されていることがある(例、月刊正論2014年5月号、p,147)。
 これは誤解を招く、読者を誤導する紹介の仕方だ。これではまるで、西尾幹二は「ニーチェ、ショーペンハウアー」の哲学または思想を研究したことがあるかのごときだ。この二人は通常、哲学者(・思想家)だと理解されているだろうからだ。
 上の紹介は全く誤っている。すでにこの欄で言及したように(→西尾幹二批判042、2022/01/08、No.2466)、第一に、西尾『ニーチェ』(中央公論社、1977。二巻本)を対象とする文学博士号授与の審査委員の専門分野はドイツ文学3名、フランス文学1名、哲学1名の計5名で(西尾幹二全集第4巻「後記」p.770)であり、もともとニーチェの哲学・思想を研究したものとは考えられていなかった。
 第二に、上の著は「未完の作品」(上掲p.763)と自ら明記しているもので、ニーチェの『悲劇の誕生』(1872)の成立までを扱った(一種の「文献学」・「書誌学」的)研究書であって、ニーチェを包括的に研究したものではない。
 第三に、西尾幹二は同・上掲書への斎藤忍隋による「オビ」上の推薦の言葉を自ら引用しているが(全集4巻、p.778。西尾幹二の全集に頻繁に見られる「自己讃美」の仕方だ)、これをさらに抜粋すると、以下のようだ。
 「評伝文学の魅力/…ニーチェがギリシア古典の研究者としてスタートを切った事実は…完全に無視されてきた。…西尾氏の文章は、初めてこの事実を解明を試みた綿密な研究であるとともに、『評伝文学』の魅力に溢れており、…傑作である。」
 ここに示されているように、西尾・上掲書はニーチェの初期の「文献学」・「書誌学」的研究書であり、ニーチェの「伝記」の一部であり、「評伝文学」と位置づけられ得るものだ。到底、ニーチェの哲学(・思想)を、一部であれ、研究したものではない。
 なお、西尾幹二は上の書以外にもニーチェに論及する文章を書いており(同全集第5巻を参照)、ニーチェ著の一部の「翻訳」をしているが、ニーチェの、とくにその哲学・思想全体の「本格的」な研究者では少なくともない。ショーペンハウアーに至っては、翻訳の文章があるほかは、ニーチェとの関連で言及するだけで、まともに「研究」していたとは思えない。
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  西尾幹二の雑誌論考の中途または末尾に、こう書いてあるものまで出現している。
 「東京大学文学部独文学科卒。専門はドイツ思想と歴史哲学。近著に…」(月刊正論2020年6月号、p.25)。
 何と、西尾幹二の「専門はドイツ思想と歴史哲学」だと明記されている。
 大笑いだ。「歴史哲学」に「ドイツ」が係るのか不明だが、いずれにしても。
 西尾幹二に「ドイツ思想」または「歴史哲学」に関するどのような専門書があるのだろうか。一冊でもあるのか?。

2525/西尾幹二批判062。

 (つづき)
  西尾幹二は上記の引用文の中で、「人間の認識力には限界があって、我々が事実を知ることは不可能」だ、「事実そのものは、把握できない」と書いた。
 こう2020年に書いたことと、「明白に」矛盾することを、西尾幹二は主張していたことがある。
 すなわち、西尾自身が「あれほど明白になっている」「現実」に、「新しい時代の自由」をいう「平和主義的、現状維持的イデオロギー」と「旧習墨守」をいう「古風な、がちがちに硬直した、皇室至上主義的なイデオロギー」に立つ論者は、いずれも「目を閉ざして」いる、と厳しく非難したことがある。
 月刊諸君!2008年12月号、p.36-37。
 西尾幹二は「あれほど明白になっている東宮家の危機」を上の両派ともに「いっさい考慮にいれ」ず、「目を閉ざして」いると論じる。
 そして、こうも書く。
 「現実はいっさい見ない、現実はどうでもいいのです。
 自分たちの観念や信条の方が大切なのです。」
 そして上の危機、「東宮家の異常事態」、の中心にある「現実」だと西尾が「認識」しているらしきものは、つぎだ。
 「雅子妃には、宮中祭祀をなさるご意思がまったくない」、「明瞭に拒否されて、すでに五年がたっている」。
 この危機・異常事態を西尾は「日本に迫る最大の危機」とも表現するのだが、その点はともかく、「雅子妃には、宮中祭祀をなさるご意思がまったくない」、「明瞭に拒否されて」いるという「事実」は、どうやって認定、あるいは認識されたのだろうか。 
 テレビ番組での西尾発言を加えると、<病気ではないのにそれを装って(「仮病」を使って)>雅子妃は宮中祭祀を「明確に拒否」している、との「現実」認識を、西尾はどうして「あれほど明白になっている」とする危機の根拠にすることができたのだろうか。
 こういう「認識」の仕方は、西尾自身が2008年に非難していた、「現実はいっさい見ない、現実はどうでもいいのです。自分たちの観念や信条の方が大切なのです」とか、「イデオロギーに頼って…日本に迫る最大の危機すら曖昧にしてしまう」とかにむしろ該当するのではないか。
 さらに西尾が2020年著で批判する、「…をつい疎かにして、ひとつの情報を『事実』として観念的に決めてしまうというようなこと」を自分自身が行っていたことになるのではないか。
 首尾一貫性がない、と評すれば、それまでだ。西尾幹二という人物は、いいかげんだ、で済ませてもよい。 
 「事実を知ることは不可能」だ、「事実そのものは、把握できない」と言いつつ、これと矛盾して、「あれほど明白になっている」現実を無視していると、多くの論者を糾弾することのできる<神経>が、この人にはあるのだ。
 なお、「過去の事実」と「現実」(=「現在の事実」?)は異なる、と言うことはできない。西尾は「五年」前からの「現実」を問題視しているのであり、一般論としても、「現在の事実」は瞬時に、あっという間に「過去の事実」(=「歴史」?)になってしまうからだ。「事実」という点において、本質は異ならない。
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 2020年著の冒頭頁の「事実を知ることは不可能」だ、「事実そのものは、把握できない」という表現は、<事実それ自体は存在しない>というF・ニーチェの有名な一節を想起させる。そして、西尾は、単純に、アフォリズム的に、これの影響を受けているのではないか、とも推察することができる。
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 その部分は、現在は実妹のElisabeth が編集した「偽書」 の一部だとされていると思われる、『権力への意志(意思)』の一部だった。だが、この書自体は存在していなくとも、上の旨を含む一節・短文は現実に存在した、と一般に考えられていると思われる。 
 M・ガブリエル(Markus Gabriel)は、そのいう「構築主義」を批判する中で、ニーチェのつぎの文章を引用している。
 Markus Gabriel, Warum es die Welt nicht gibt (Taschenbuch), S.186,
 =清水一浩訳/なぜ世界は存在しないのか(講談社、2018年)p.61。
 (0) 「いや、まさに事実は存在せず、解釈だけが存在するのだ。
 我々は事実『それ自体』を確認することができない
 そのようなことを望むのは、おそらく無意味である。
 『そのような意見はどれも主観的だ』と君たちは言うだろう。
 しかし、それがすでに解釈なのだ。
 『主観』は所与のものではなく、捏造して付け加えられたもの、背後に挿し込まれたものである。」
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 上の前後を含む短文全体の邦訳を、以下に二つ示しておく。この欄でのみ便宜的に前者にだけ、対応する原語・ドイツ語を付す。//は本来の改行箇所。
 (1) 三島憲一訳/ニーチェ全集第九巻(第II期)・遺された断想(白水社、1984年)、397頁。
 「『存在するのは事実(Tatsachen)だけだ』として現象(Phänomenen)のところで立ちどまってしまう実証主義(Positivismus)に対してわたしは言いたい。
 違う、まさにこの事実なるものこそ存在しないのであり、存在するのは解釈(Interpretation)だけなのだ、と。
 われわれは事実(Faktum)『それ自体』は認識(feststellen)できないのだ。
 おそらくは、そんなことを望むのは、愚行であろう。
 『すべては主観的(subjektiv)だ』とお前たちは言う。
 だがすでにそれからして解釈(Auslegung)なのだ。
 『主観』(Subjekt)ははじめから与えられているものではない。
 捏造して添加されたもの、裏側に入れ込まれたものなのだ。
 とどのつまりは、解釈(Interpretation)の裏に解釈者を設定して考える必要があるのだろうか?
 すでにこれからして虚構(Dichtung)であり、仮説(Hypothese)である。//
 『認識』(Erkenntniß)という言葉に意味がある程度に応じて、世界は認識しうる(erkennbar)ものとなる。
 だが世界は他にも解釈しうる(anders deutbar)のだ。
 世界は背後にひとつの意味(Sinn)を携えているのではなく、無数の意味を従えているのだ。
 『遠近法主義』(Perspektivismus)。//
 世界を解釈(die Welt auslegen)するのは、われわれの持っているもろもろの欲求(Bedürfnisse)なのである。
 われわれの衝動(Triebe)と、それによる肯定と否定なのである。
 いっさいの衝動はそのどれもが一種の支配欲であり、それぞれの遠近法を持っていて、他のすべての衝動にそれを押しつけようとしているのだ。」
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 (2) 原佑訳/ニーチェ・権力への意志(下)(ちくま学芸文庫・ニーチェ全集13、1993年)、27頁。
 「現象に立ちどまって『あるのはただ事実のみ』と主張する実証主義に反対して、私は言うであろう、
 否、まさしく事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみと。
 私たちはいかなる事実『自体』をも確かめることはできない
 おそらく、そのようなことを欲するのは背理であろう。//
 『すべてのものは主観的である』と君たちは言う。
 しかし、このことがすでに解釈なのである。
 『主観』は、なんらあたえられたものではなく、何か仮構し加えられたもの、背後へと挿入されたものである。
 —解釈の背後になお解釈者を立てることが、結局は必要なのであろうか?
 すでにこのことが、仮構であり、仮説である。//
 総じて『認識』という言葉が意味をもつかぎり、世界は認識されうるものである。
 しかし、世界は別様にも解釈されうるのであり、それはおのれの背後にいかなる意味をももっておらず、かえって無数の意味をもっている
 —『遠近法主義』。//
 世界を解釈するもの、それは私たちの欲求である、私たちの衝動とこのものの賛否である。
 いずれの衝動も一種の支配欲であり、いずれもがその遠近法をもっており、このおのれの遠近法を規範としてその他すべての衝動に強制したがっているのである。」
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 注記—上に出てくる「遠近法主義」とは、M・ガブリエル=清水一浩によると、「現実(Wirklichkeit)についてはさまざまな見方(Perspektiven)があるというテーゼ」とされ〔一部修正した〕、邦訳者・清水は「遠近法主義」ではなく、そのまま「パースペクティヴィズム」としている。
 このような言葉・概念の意味は、Nietzscheにおけるそれでもある(少なくとも、大きく異なるものではない)と見られる。
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2524/西尾幹二批判061。

  さて、No.2523で引用した西尾幹二の文章は、いったい何を、あるいは何について叙述して、あるいは論じて、いるのだろうか。
 このように課題設定する前に、西尾幹二の<真意>を探ろうとする前に、そもそもこの人はつねに真面目にその「真意」を表現しようとしているのか、という問題があることを指摘しておかなければならない。
 ①「事実」または「真実」を明らかにする。②付与された紙数の範囲内で「作品」(文芸評論的、政治評論的な、等々)を仕上げて提出する。③世間的「知名」度を維持または形成する。④その他。
 付加すると、こうした西尾の<動機>自体の問題もある。西尾自身が、自分が書いてきたものは全て「私小説的自我」の表現だったと明言したことがあることも、想起されてよい。
 元に戻ると、西尾幹二は、明らかに自分自身を含むものについて、こう叙述したことがある。
 (1) 月刊正論2002年6月号=同・歴史と常識(扶桑社、2002)p.65-p.66。
 「日本の運命に関わる政治の重大な局面で思想家は最高度に政治的でなくてはいけない」。
 「いよいよの場面で、国益のために、日本は外国の前で土下座しなければならないかもしれない。そしてそれを、われわれ思想家が思想的に支持しなければならないのかもしれない。正しい『思想』も、正しい『論理』も、そのときにはかなぐり捨てる、そういう瞬間が日本に訪れるでしょう、否、すでに何度も訪れているでしょう。」
 (2) 月刊諸君!2009年2月号、p.213。
 「思想家や言論人も百パーセントの真実を語れるものではありません。世には書けることと書けないことがあります。」
 「公論に携わる思想家や言論人も私的な心の暗部を抱えていて、それを全部ぶちまけてしまえば狂人と見なされるでしょう」。
 以上。
 このように書いたことがある西尾幹二の文章ついては、上の(1)に該当していないのか、上の(2)が述べるように100パーセント「全部ぶちまけている」のか否か、をつねに問題にしなければならない。
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  上は気にしなくてよいという仮の前提つきで、あらためて真面目に問題にしよう。
 No.2522で引用した西尾幹二の文章は、いったい何を、あるいは何について、叙述しあるいは論じているのか。
 「歴史」に関するもののようだ。次のように言う。
 「歴史」は、「過去の事実を知ること」ではなく、「事実について、過去の人がどう考えていたかを知ること」だ。
 「歴史」とは「『事実について、過去の人がどう考えていたかを知ること』」であって、かつまた「『異なる過去の時代の人がそれぞれどう感じ、どう信じ、どう伝えたかの総和』」なのではないか。
 歴史学者ではなく、一冊の歴史叙述書も執筆したことがない西尾の「歴史」論議を真面目に相手にする必要はない、と書けば、それで済む。
 秋月瑛二という素人でも、おそらく上の文章の100倍の長さを超える文章で、疑問を提起することができる。
 ここでの「歴史」はかなり限られた意味だ、そして「歴史」との区別も不明瞭だが「歴史」書も古事記、神皇正統記、大日本史、本居・古事記伝といった次元のものに限られている気配がある、過去の人が「考えていた」ものだけでなく遺跡・遺構・遺物や公家等の日常的な日記類(広く古文書類)も歴史の重要・貴重な「史料」だ、一時間前も一日前も一年前も10年前も「過去」であって「歴史」に属する、例えば秋月瑛二にも<個人史>または<自分史>があって、それも「歴史」の一つだ。
 『異なる過去の時代の人がそれぞれどう感じ、どう信じ、どう伝えたかの総和』が「歴史」だとも書くが、過去の人々が「どう信じ」たかも含めているのは気にならなくもないし、「総和」と言っても、過去の人々が「どう感じ、どう信じ、どう伝えたか」は各人によって相違する、矛盾することがあるのであり、「総和」などど簡単に語ることはできない。等々、等々。
 要するに、真剣な検討に値しない。「歴史」概念自体がすでに不明瞭だ。
 何を、どういうレベル、どういう単位で叙述する、または論じるのか。
 西尾は、上の文章に限られないが、おそらく、きちんと叙述しておくべき、自らだけは分かっているつもりなのかもしれない<暗黙の前提>を明記することを怠っている。
 ところで、「対象」とは日本語文でよく使われる言葉だが、哲学者のマルクス・ガブリエル(Markus Gabriel)は、「対象」(Gegenstnd)を<「真偽に関わり得る思考」(wahrheitfähige Gedanken)によって「考える」(nachdenken)ことのできるもの>と定義し、対象の全てが「時間的・空間的拡がりをもつ物」(raumzeitliche Dinge)であるとは限らない、「夢」の中の事象や「数字」も「形式的意味」での「対象」だ、とコメントする。また、「対象領域」(Gegenstandsberich)という造語?も使い、これを「特定の種類の諸対象を包摂する領域」と定義し、それら諸対象を「関係づける」「規則」(Regeln)が必要だとコメントする。
 M,Gabriel, Warum es die Welt nichi gibt (Taschenbuch/2015, S.264. 清水一浩の邦訳を参照した)。
 西尾においては、論述「対象」が何か自体が明瞭ではなく、「対象領域」を構成する別の対象との「関係づけ」も曖昧なままだ、と考えられる。「歴史」に関係する諸対象を「関係づける」「規則」を「歴史」(・「哲学」)の専門家ではない素人の西尾が知っているはずもない。
 よくぞ、『歴史の真贋』と題する書物を刊行できるものだと、(編集者の冨澤祥郎も含めて)つくづく感心してしまう。もっとも、「歴史」を表題の一部とする西尾の書は多い。
 専門の歴史家、歴史研究者、井沢元彦や中村彰彦のような歴史叙述者(後者は小説の方が多いが)は、かりに西尾の論述を知ったとして、どういう感想を持ち、どう評価するだろうか。
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  ついで、「事実」の把握または認識に関する叙述であるようだ。
 そして、以下のように語られている。「過去の事実」=「歴史」だとすると(こう理解させる文がある)、「歴史」と無関係ではない。
 「歴史」は、「過去の事実」について「過去の人がどう考えていたかを知ること」だ。「過去の事実を直(じか)に知ることはできない」。
 「人間の認識力には限界があって、我々が事実を知ることは不可能であり、過去の人が事実をどう考え、どう信じ、そしてどう伝えていたかをわれわれは確かめ、手に入れようと努力し得るのみである」。
 「なぜなら、事実そのものは、把握できないからです。
 事実に関する数多くの言葉や思想が残っているだけなのです。」
 以上。
 この辺りに、西尾幹二に独特の(そう言ってよければ)「哲学」または<認識論・存在論>が示されていそうだ。
 「人間の認識力には限界があ」るのはそのとおりかもしれないが、そのことから、「事実を知ることは不可能」だとか、「事実そのものは、把握できない」ことになるのか?
 きっと、「事実」という言葉の意味の問題なのなのだろう。全知全能では全くない秋月瑛二でも、つぎのような「事実」を「認識」している。
 ・いま、体内で私の心臓が拍動している。・「呼吸」というものをしている。・ヘッドフォンから美麗な音楽が流れている。
 これらは、私の感覚器官・知覚器官、広くは「認識器官」を通じて「私」が「認識」していることだ。最後の点を含めて、近年の「私」に関する「過去の事実」でもある。
 「私」が介在していなくともよい。「私」が存在した一定の年月日に日本で〜大地震や〜事件、等々が起きたことは、「私」の感覚器官が直に(じかに)認知していなくとも、「過去の事実」として把握または認識することができる。
 私の生前に、一定の戦争に日本が勝利したり、敗北した(降伏文書の署名をし、外国によって「占領」された)ことも、「過去の事実」のようだ。
 そんなことを言いたいのではない、と西尾幹二は反応するかもしれないが、西尾の上の文章は、以上のようなことも否定することになる。そうでないとすれば、文章内容の十分な限定、条件づけを西尾という人は、行うことのできない人物なのだ。
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 (つづく)

2523/西尾幹二批判060。

  西尾幹二の近年、2020年の著に、つぎがある。編集担当は、冨澤祥郎。
 西尾幹二・歴史の真贋(新潮社、2020)。85歳になる年の著。
 第一部冒頭の章の表題は「神の視座と歴史—『神話』か『科学』の問いかけでいいのか」で、2019年5月の研修会での報告文(?)だとされる。
 『歴史の真贋』と題する著の冒頭に置くのだから、それなりに重要視しているのだろう。
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  その冒頭の章のさらに冒頭で引用しているのは、つぎの1997年著の「あとがき」の冒頭だ。
 西尾幹二・歴史を裁く愚かさ(PHP研究所、1997)。62歳のとき、編集担当者は当時PHP研究所出版部の真部栄一。
 引用される文章は、以下。「(中略)」も2020年著の原文どおり。
 「歴史は、過去の事実を知ることではない。
 事実について、過去の人がどう考えていたかを知ることである。
 過去の事実を直(じか)に知ることはできない。
 われわれは、過去に関して間接的情報以外のいかなる知識も得られない。(中略)//
 ところが、どういうわけか、現代の知識人は過去の事実を正確に把握できると信じている。
 事実が歴史だと思いこんでいる。
 そして、その事実について過去の人がどう考えていたかは捨象して、自分が事実ときめこんだ事実を以て、現在の自らの必要な欲求を満たす。//
 それは事実の架空化による事実への侵害である。」//
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  この引用のあとに続けて、西尾は2020年に(正確には2019年。但し、例のごとく単行本に収載するに際しての「大幅な改稿、加筆」がある、という(p.360))、趣旨・意図をこう説明する。
 「人間の認識力には限界があって、我々が事実を知ることは不可能であり、過去の人が事実をどう考え、どう信じ、そしてどう伝えていたかをわれわれは確かめ、手に入れようと努力し得るのみである、ということが言いたかったのです。
 それも現在の制限された条件の下で、最大の知力と想像をもってもわずかに推察し得るのみであります。
 もう一度言います。
 『事実について、過去の人がどう考えていたかを知ること』が歴史であって、しかも『異なる過去の時代の人がそれぞれどう感じ、どう信じ、どう伝えたかの総和』が歴史なのではないか。
 それは事実を確かめる手段であるだけではなく、時には目的そのものですらあります。
 なぜなら、事実そのものは、把握できないからです。
 事実に関する数多くの言葉や残っているだけなのです。
 ところが実際には、手続や手段として情報を精査することなく、それをつい疎かにして、結果として知られたひとつの情報を『事実』として観念的に決めてしまうことが、まま行われてはいないでしょうか。」
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  歴史学者ではない西尾が、よくぞ「歴史」を表題の一部とする書物を多数執筆できたものだ、という気が、ふつうは生じるだろう。
 これも、<新しい歴史をつくる会>という(政治)運動団体の初代会長になってしまったという何らかの偶然によることなのか。自分には「歴史」または「歴史学」について語り論じる資格があり、かつ初代会長として語り、論じなければならない(上の1997年著は会長時代のもの)と「思い込んだ」からなのだろうか。
 こんなことは些細なことだ。ただし、25年近く前の文章をそのまま引用するとは、よほど自信があるか、よほど進歩・変化していないのだろう、という感想は記しておいてよいかもしれない。
 上にこの欄で引用した文章には、「歴史」のみならず、「事実」、「過去」、「把握」・「認識」等(・「言葉」等)に関する西尾幹二の基本<哲学>のようなものが表現されている、と考えられる。
 そこで、2020年という近年の著の冒頭に置かれてもいるので、かなり拘泥して、以下に取り上げてみる。
 (つづく)

2522/西尾幹二批判059。

 櫻井よしこや江崎道朗は、本当に気の毒だと思う。
 毎週のように、またはしばしば、取るに足らない、ならよいが、陳腐で、かつ悪いことに、間違いを含む、あるいはかつての自分の主張や事実の叙述と異なる文章を平然と書いて、それぞれの「個人名」で執筆して、将来に、半永久的に残しているからだ。
 恥ずかしい文章・書物が、執筆者「個人名」付きで、将来に半永久的に残る。これはとても「恥ずかしい」ことで、そういうことになるのは、本当に気の毒だと思う。
 西尾幹二も、多数の著者があり、個人全集まで刊行して(完了した?)、「どうだ、すごいだろ」と得意がっているかもしれないが、櫻井よしこや江崎道朗と比べて覆い隠す文章技巧に長けているためにすぐには暴露されないかもしれないが、本質的にはこれら二人と変わらないだろう。
 種々の意味や次元での「間違い」、自己矛盾に、西尾幹二の文章・書物も充ちている。
 気の毒だと思う。櫻井よしこと江崎道朗の二人に比べればという限定付きで、この時代に西尾幹二は目立っているので、または「よりましな」著述者だと見られていると思われるので、それだけ将来に「恥ずかしい」文章が「西尾幹二」という個人名付きで残るのは「恥ずかしい」ことに違いなく、本当に気の毒なことだ。
 1935年に生まれて、85歳以上まで生きた「真の保守思想家」(新潮社・2020年著のオビ)とも言われた人物の本質は、少し立ち入れば容易に暴露される。ああ、恥ずかしい。気の毒だ。1990年前後以降の実際には書いた文章を、この人は書かなかった方が良かった、幸せだった、と秋月瑛二は思う。

2495/西尾幹二批判055—思想家?③。

 つづき
 三 1 西尾幹二は、2009年に、「思想家や言論人」について、こう告白?している。政治家の言葉には、誰もが知るように嘘がある、としたあと、こう書く。
 「同じように言葉の仕事をする思想家や言論人も百パーセントの真実を語れるものではありません。
 世には書けることと書けないことがあります。
 制約は社会生活の条件です。
 公論に携わる思想家や言論人も私的な心の暗部を抱えていて、それを全部ぶちまけてしまえば狂人と見なされるでしょう。」
 月刊諸君!2009年2月号、p.213。
 相当に興味深い文章だ。
 「公論に携わる思想家や言論人」の一人だと西尾が自分を見ていることは間違いなく、その点ですでに関心は惹く(ただの「文筆業者」ではないのか?)。
  それはともかくとしても、上が一般論というより、確実に自分自身についての、少なくとも自分を含めての叙述であることが注目される。
 ・「百パーセントの真実を語れる」わけではない。
 ・「書けることと書けないことがあ」る。
 これらですでに、西尾幹二が書いたこと、書いていることの「真実」性、「信憑性」、「誠実さ」を疑問視することができる。
 さらに、つぎもなかなか新鮮で刺激的な?叙述だ。
 ・「私的な心の暗部を抱えてい」る。
 ・「それを全部ぶちまけてしまえば狂人と見なされる」だろう。
 これが書かれた2009年2月、「つくる会」は2006年に分裂して、西尾は名誉会長でもなくなっていた。従来の「つくる会」教科書出版会社だった扶桑社(産経新聞社関連会社)は八木秀次らの分かれたグループ作成の教科書を発行しつづけることになった。
 種々の思いがあったに違いないが、2006-7年に西尾は、「つくる会」分裂の経緯・関係人物に対する鬱憤を吐き出すかのごとく、分裂の経緯や関係人物批判等を相当に詳しく、かつ頻繁に書いた。
 それらを含めてまとめたのが西尾・国家と謝罪(徳間書店、2007)で、後記の表題は「あとがき—保守論壇は二つに割れた」。その中で、こう書きもした。
 「保守への期待が保守を殺す。
 私は自分の身が経験したこの逆説のドラマを包み隠さず正直に叙述した。
 なかに個人攻撃の文章があるなどと志の低いことを言わないでいただきたい。個人の名を挙げて厳しく批判している例は一人や二人ではない
 そういう『事件』が起こったのである。
 歴史の曲り角には必ずユダが登場する。」
  首相は、安倍晋三に代わっていた。安倍は、産経新聞・扶桑社とともに<非・西尾幹二派>を支持したとされる。
 西尾は「保守への期待が保守を殺す」と書き、「保守論壇は二つに割れた」という重要な認識を示した。
 かつ同時に、多数の(氏名だけは私も知る)論者たちを「ユダ」として名前を出して批判・攻撃した。10名を超えており、皮肉の対象も含めると、旧「生長の家」活動家とされた者たちのほか、八木秀次はもちろん、岡崎久彦・中西輝政・櫻井よしこ・伊藤隆、小田村四郎等々の多岐にわたる。「産経新聞の渡辺記者」というのも出てくる。
 この「事件」を振り返るのが目的ではない。
 西尾は2009年に、「書けることと書けないことがあ」ると言ったが、2006-7年頃には十分に書いていただろう、書きたいが書くのを躊躇してやめたという部分があるのだろうか、という疑問をここでは書いている。
 西尾・国家と謝罪(徳間書店、2007)の中ではとくにつぎの表題の項が、分裂の経緯(あくまで西尾から見た)や関係の多数の個人名を知るうえで、資料・史料的価値があるだろう。p.77〜p.173。
 「八木秀次君には『戦う保守』の気概がない」、「小さな意見の違いは決定的違い」、「何者かにコントロールされだした愛国心」、「言論人は政治評論家になるな」。
  2009年の前年の2008年は、西尾幹二が当時の皇太子妃批判を月刊WiLL上で継続し、西尾『皇太子さまへの御忠言』(ワック、2008)で単行本化した年だった。
 不確実な情報ならば「書けない」だろうが、西尾は「おそらく」という言葉を使っての推測の連鎖も含めて、相当に「書きすぎた」のではないだろうか。
 2006年に西尾は「保守論壇は二つに割れた」と認識したのだったが、「つくる会」の分裂以降、八木秀次は月刊正論(産経)上の重要な執筆者の位置を獲得する。八木は冒頭の随筆欄に、明らかに西尾幹二に対する<皮肉・当てこすり>を書いたりしていた。
 西尾が月刊正論から一切排除はされなかったようだ。それまでの実績と「誌面を埋める文章力」は評価されていたのだろう。それに、西尾自身が月刊正論では安倍内閣批判も許容してくれた、と何かに書いていた。
 それはともかく、2008年の西尾幹二による当時の皇太子妃批判は、ある程度は月刊WiLL編集部の花田紀凱との共同作業のようだが、2006年以降の西尾幹二の心理的「鬱屈」状態も背景にあったのではなかろうか。つまり、継続的に(従来どおりに?、その言う「保守論壇」の中で)「目立ち」たかった、というのが、重要な心理的背景の一つだったのではないか。 
 そして、2009年時点での「百パーセントの真実を語れる」わけではなく、「書けることと書けないことがあ」る、という言い分と、この人が2008年に実際にしたことの間には、大きな齟齬がある、と考えられる。 
 『皇太子さまへの御忠言』(ワック、2008)の刊行自体もまた、「思想家」のすることではなかっただろう。個人全集になぜ収載しないのだろう。自信がないのか、西尾でも恥ずかしく感じているのか。
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   2009年に「書けない」ことがある、と西尾が言った、その「書けない」こととは、いったい何だったのだろうか。
 むろん、文章執筆の「注文主」(雑誌編集者等)の意向とは正反対の、あるいはそれと大きく矛盾する文章を書けはしないだろう。
 西尾は上に引用した部分のあとで、書けなくする「最大の制約」は「自分の心」だなどという綺麗ごと?を書いているが、それは現実には、文章執筆「注文主」の意向を<忖度>する西尾の「心」ではないかと思われる。
 そして、そのような100パーセント「自由に」執筆することができない者を、おそらく「思想家」とは呼ばない。
  さらに、西尾幹二によると、西尾自身を少なくとも含むことが明瞭な「思想家や言論人」は、「私的な心の暗部を抱えてい」て、「それを全部ぶちまけてしまえば狂人と見なされる」だろう。
 あきらさまに書いてしまえば「狂人と見なされる」だろうような、「私的な心の暗部」—。
 これが西尾幹二においてはどういうものか、きわめて興味深い。
 そして、この「心の暗部」、あるいは偏執症的な、独特の「優越感と劣等感」(後者は<ルサンチマン>と言えるだろう)をも見出して、指摘しておくことは、この西尾幹二批判連載の目的の中に入っている。
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2494/西尾幹二批判054—思想家?②。

 (つづき)
  西尾幹二の個々の論述は信用できないこと、それを信頼してはいけないことは、「思想家」という語を用いるつぎの文章からも、明瞭だ。
 2002年、アメリカの具体的政策方針を批判しないという論脈だが、一般論ふうに、西尾はこう書いた。
 ①「日本の運命に関わる政治の重大な局面で思想家は最高度に政治的でなくてはいけないというのが私の考えです」。
 ②「いよいよの場面で、国益のために、日本は外国の前で土下座しなければならないかもしれない。そしてそれを、われわれ思想家が思想的に支持しなければならないのかもしれない。/正しい『思想』も、正しい『論理』も、そのときにはかなぐり捨てる、そういう瞬間が日本に訪れるでしょう、否、すでに何度も訪れているでしょう。」
 西尾幹二・歴史と常識(扶桑社、2002年5月)、p.65-p.66(原文は月刊正論2002年6月号)。
 これは、すさまじい言葉だ
 思想家は「最高度に政治的でなくてはいけない」
 どういう場合にかというと、「日本の運命に関わる政治の重大な局面」でだ。
 思想家は日本が「外国の前で土下座」するのを「思想的に支持しなければならない」ときもあり得る。
 どういう場合にかというと、「いよいよの場面で、国益のために」だ。
 まず第一に、結論自体に驚かされる。
 本来の「思想」を「政治」に屈従させることを正面から肯定し、「思想的に支持」すべき可能性も肯定する。
 思想家が「正しい『思想』も、正しい『論理』も、そのときにはかなぐり捨てる」、そういうときがある、または既にあったかもしれないと、公言しているのだ。
 第二に、どういう例外的な?場合にかの要件は、きわめて抽象的で、曖昧なままだ。 
 「日本の運命に関わる政治の重大な局面」で、「いよいよの場面で、国益のために」。
 「国益」も含めて、こういう場合に該当するか否かを、誰が判断するのか。
 もちろん、西尾幹二自身だろう。
 「政治」を優先することを一定の場合には正面から肯定する、こういう「思想家」の言明、発言を、われわれは「信用」、「信頼」することができるだろうか?
 この人は、自分の生命はもちろん、自分の「名誉」あるいは「世俗的顕名」を守るためには、容易に「政治」権力に譲歩し、屈従するのではないか、と感じられる。このような「政治」権力は今の日本にはないだろうが、かつての日本や外国にはあった。西尾幹二にとって、「安全」と「世俗的体裁」だけは、絶対に守らなければならないのであり、「正しい『思想』も、正しい『論理』もそのときにはかなぐり捨てる」心づもりがあると感じられる。
 そのような人物は「思想家」か?
 上の文章は、昨年末か、今年2022年に入って、小林よしのりの本を通じて知り、所在を西尾幹二の書物の現物で確認した。
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 つづく。

2493/西尾幹二批判053—思想家?①。

  そもそも現在、2022年の時点で、「思想家」とは何か、は問題にはりうる。
 英語でthinker、独語でDenker というらしいから、think、denken すれば誰でも「思想家」になれそうだが、きっと両語でも、独特な意味合いがあるのだろう。
 ともあれ、今日では「思想家」と自称する人はほとんどいないに違いない。
 西尾幹二は、その稀有な人物だ。
 <文春オンライン>2019年1月26日付のインタビュー記事で、西尾は冒頭では殊勝にこう語る。
 「私はドイツ文学者を名乗り、文芸評論家でもあって、『歴史家』と言われると少し困るのですが、…」。
 しかし、2006-7年の「つくる会」<分裂騒動>に話題が移って、まず、こう言う。 
 「日本会議の事務総長をしていた椛島(有三)さんとは何度か会ったこともあり、理解者でもあった。だから、この紛争が起きてすぐに私が椛島さんのところへ行って握手をして、「つくる会」事務局長更迭を撤回していれば、問題は回避できたかもしれない。それをしなかったのはもちろん私の失敗ですよ。」
 そして、こう続ける。
 「しかしですね、私は『つくる会』に対して日本人に誇りを”や“自虐史観に打ち勝つ”だけが目的の組織ではないという思い、もっと大きな課題、『日本から見た世界史の中におかれた日本史』の記述を目指し、明治以来の日本史の革新を目ざす思想家としての思いがある。だから、ずるく立ち回って妥協することができなかった。」
 「思想家」としての思いがあるから、椛島有三と「握手」して譲歩するような「ずるく立ち回って妥協すること」できなかった、というわけだ。
 この辺りの述懐はきわめて興味深いが、そもそもの関心を惹くのはのは、西尾は(少なくとも当時の2019年)自分を「思想家」と自認していた、ということだ。
 はて、<西尾幹二思想>とはいったい何だろう。ある書物はこう終わっているのだが、いかなる「思想」が表明されているのか。西尾幹二は「思想家」なのか?
 西尾・自由の悲劇(講談社現代新書、1990)、最も末尾の一段落。
 「光はいま私自身をも包んでいる。なぜなら、私は自由だからである。しかし、光の先には何もなく、光さえないことが私には見える。なぜなら、自由というだけでは、人間は自由になれない存在だからである。
 もう一度書く。上の文章は、いかなる「思想」を表現しているのか?
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 つづく。

2489/西尾幹二批判049—根本的間違い(4-3)。

 六 3 00 <反共よりもむしろ反米を>という、政治状況または国際情勢についての西尾幹二の「根本的間違い」の原因・背景を述べてきている。
 この人の、より本質的な部分には論及していない。先走りはするが、この人にとって、「反米」でも「親米」でも、本質的にはどうでもよかったのではないか。
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 01 とは言え、叙述の流れというものがある。
 既述の誤りの指摘の追記でもあるが、西尾幹二の政治状況・国際情勢にかかる認識の間違いは、つぎの文章でも明瞭だ。
 2005年/月刊諸君!2月号、p.222。
 「米ソの対立が激化していた時代はある意味で安定し、日本の国家権力は堅実で、戦前からの伝統的な生活意識も社会の中に守られつづけました。
 おかしくなったのは、西側諸国で革命の恐怖が去って、余裕が生じたからで、さらに一段とおかしくなったのは西側が最終的に勝利を収め、反共ではもう国家目標を維持できなくなって以来です。
 日本が壊れ始めたのは冷戦の終結以降です。」
 西尾が1999年『国民の歴史』で、私たちは「共産主義体制と張り合っていた時代を、なつかしく思い出すときが来るかもしれない」、「否定すべきいかなる対象さえもはや持たない」と書いた線上に、上の文章もある。そして、現在まで、この基本的認識・主張は継続しているようだ。
 これは、グローバリズムからナショナリズムへという、〈日本会議〉公認の、日本の「保守」(の主流派:多数派)を覆った考え方でもあった。
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 02 その点はここではもう論及しないこととして、上の文章には若干の基本的な疑問がある。
 第一に、西尾のいう「冷戦の終結」以前の日本の「国家目標」は「反共」だったのか?
 「全面講和」ではなく単独(または多数)講和を選択してアメリカ・西欧陣営に入った(1951年)こと自体が「反共」だった、とは言える。継続的な「国家目標」性はうたがわしいとしても。
 かりにそうだとしても、関連して第二に、つぎの認識は適確か?
 「米ソの対立が激化していた時代はある意味で安定し、日本の国家権力は堅実で、戦前からの伝統的な生活意識も社会の中に守られつづけました」。
 「反共」という国家目標のもとで、日本は「ある意味で安定し」、「国家権力は堅実」だったのか。
 秋月瑛二は、全くそう思わない。
 例えば、ベトナム戦争があり沖縄の基地から米軍機は飛び立っていった。カンボジアに中国に援助された数年間の「共産主義」的支配があった(ポル・ポト、赤いクメール)。後年に明らかになったが、1977年に「めぐみ」ちゃんは北朝鮮の国家的「人さらい」の犠牲者となった(他にも多数いる)。国内では社会党・共産党が「統一」して推す候補が京都に続いて東京や大阪でも知事になった(横浜市でも。その他省略)。また、日本共産党も国会での議席を増やして<70年代の遅くないうちに民主連合政府を!>とか呼号していた。田中角栄元首相の収賄事件もあった。ソ連空軍兵士が函館空港に着陸して亡命したのは、1976年だった。ソ連軍機による「大韓航空機撃墜事件」が日本近海で起きたのは、1983年だった。小中学校での<学級崩壊>は1980年頃には語られ始めていた。以上は、例。
 いったいどこに、日本は「ある意味で安定し」ていたとする根拠があるのか。
 じつは西尾幹二の「主観的」状況は「安定」していたのかもしれない。西尾は2000年にこう言っている。
 1970年の<三島事件>の後、私は「三島について論じることをやめ、政治論からも離れました。そして、 ニーチェとショーペンハウアーの研究に打ち込むことになります」。
 三島没後30周年記念講演、西尾・日本の根本問題(新潮社(編集担当は冨澤祥郎)、2003)、p.285。
 根拠文献をいちいち記さないが、以下も参照。
 1966年、ニーチェ『悲劇の誕生』翻訳書(中央公論社)。
 1969年、「文芸評論」を書き始める。
 1977年、ニーチェの(よく言って前半期だけの「評伝文学」の)『ニーチェ』(第一部・第二部)刊行。北朝鮮による「拉致」が始まった年。
 1979年、上記書により文学博士号(審査委員の一人は、同学年で当時は東京大学助教授だった柴田翔)。
 1987年、ニーチェ『この人を見よ』・『偶像の黄昏』・『反キリスト』翻訳書(白水社)。
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 03 1990年近くまでこんな調子だと、文芸評論や、政治評論家ではない「文芸評論家」としての遊覧視察旅行にもとづくソ連関係本や「古巣」の感覚に依拠したドイツ関係本の刊行をしていても、日本の政治状況や国際情勢、日米関係に強い関心が向かわなかったとしても、やむをえないだろう。
 主観的・心理的・精神的に、西尾幹二個人は1989-91年以降よりも「安定」していたのだ。
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 04 「安定」したままでなく、状況が変化した(と西尾は感じた)のは、1996.12/1997.01の〈新しい歴史教科書をつくる会〉発足と会長就任だっただろう。それまでよりも「著名人」となり、社会・政治に関する発言も求められるようになった。
 そして、橋本龍太郎(1996-98)、小渕恵三(1998-2000)、森喜郎(2000)の各首相時代には特段の政治的発言をしていないようだが(自社さ連立での村山富市首相と同内閣(1994-96)・戦後50年談話についても同じ)、小泉純一郎内閣が誕生して(2001年)以降、突如として?<政治評論家>をも兼ねるようになる。小泉を「狂人」、「左翼ファシスト」と称し、いわゆる郵政解散選挙では反対(元)自民党候補を応援するという「政治的実践活動」まで行なった
 政治状況、国際情勢の把握も必要だから、大急ぎで、付け焼き刃的に?「勉強」したのだろう。ニーチェやドイツに関する素養、観念的「自由の悲劇」論では足りない。
 そして、今回の冒頭で言及したのは、1999年と2005年の文章だ(「つくる会」設立後、分裂前)。
 --------
 05 さて、日本の政治状況、国際的状況を把握しようとした際、容易に参照し得たのは、〈日本会議〉史観だっただろう。つまり、グローバリズムからナショナリズムへ、「反共」だけでなく「日本」重視と「反米」がむしろ重要だ、という時代感覚だ。
 その際に、どの程度強くかは不明だが、西尾幹二が潜在的に意識したのは、ニーチェが生きた時代、そして従来の価値観はもはや通じず、「新しい」価値・哲学等が必要だ、というニーチェの基本的主張だったと思われる。
 西尾幹二は、自分をある程度は、ニーチェに擬(なぞら)えていたのだ。
 ニーチェの一部しか知らないままで、ニーチェを「ドイツ文学」的にではなく、構造的・歴史的・「哲学」的に理解することのないままで。
 誰でも、あるいは多くのとくに政治活動家や政治評論家たちは、自分の生きている時代は将来にとってきわめて重要な、分岐点にある時代だ、と思いたがるものだ。
 ニーチェにもおそらく、そういう意識・感覚があっただろう。
 西尾幹二にとっても、1989-1991年の前と後は、質的に異ならなければならなかった。「新しい」時代なのだ、「反共」だけを唱えてはいけないのだ。
 2010年に、こう書いた。
 1990年頃の「冷戦の終焉」までの「日本の保守の概念」は日本の「歴史や伝統に根差したものではなく、『共産主義の防波堤』にすぎなかった」
 月刊正論2010年10月号「左翼ファシズムに奪われた日本」、p.45。
 --------
 06 これで、政治・国際情勢に関する西尾幹二の「根本的間違い」の原因・背景の叙述を終える。今回書いたのが、その第三点だ。
 その他、西尾幹二に関して指摘ておきたいことは、ニーチェに関係することも含めて、「山ほど」ある。
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2479/高森明勅のブログ②—2021年11月12日。

  内親王だった女性と某民間人の結婚をめぐるマスコミの報道姿勢についてこう書く(もともとはテレビ放送予定の発言内容だったようだ)。
 ①「その人物は早い段階で弁護士に相談したが、法的に勝ち目がないと言われていたことを、自ら語っている。にも拘らず、…ご婚約が内定した後に、にわかに“金銭トラブル”として週刊誌で取り沙汰されるようになった。この間の経緯は、不明朗な印象を拭えない」。
 ②「一次情報にアクセスできず、又しようともせずに、真偽不明のまま無責任なコメントを垂れ流して来たメディアの責任は大きい」。
 ③「『週刊現代』の記者が当該人物の代理人めいた役割を果たしていたことは、ジャーナリズムにとってスキャンダルと言ってよい事実だが、その記者に直撃取材をしたメディアはあるのか」。
 ④「上皇后陛下の半年間に及ぶ失声症、皇后陛下の今もご療養が続く適応障害に続いて、眞子さまも複雑性PTSDという診断結果が公表された。名誉毀損罪、侮辱罪で相手を訴えることも事実上できず、言論による反論の自由すらない皇室の方々に対して、いつまで一方的な誹謗中傷を続けるのか」。
 上のうちほとんど無条件で共感するのは、③だ。
 この『週刊現代』の人物は、母親の元婚約者とかに「食い込んで」いたようで、要所要所で感想を聞いたりして、『週刊現代』(講談社)に掲載したようだ。但し、法職資格はなく、「法的」解決のために動いた様子はない。
 この記者(講談社の社員?)の氏名を同業者たち、つまりいくつかの週刊誌関係者、同発行会社、そしてテレビ局や新聞社は知っていたか、容易に知り得る立場にあったと思われる。
 一方の側の弁護士は氏名も明らかにしていたように思うが、この記者の個人名を出さなかったのは、本人が「困る」とそれを固辞したことの他、広い意味での同業者をマスメディア関係者は「守った」のではないか
 そう感じているので、「その記者に直撃取材をしたメディアはあるのか」(上記)との疑問につながるのはよく分かる。
 (『週刊現代』の記事は個人名のあるいわゆる署名記事だったとすると上の多くは適切ではなくなるかもしれないが、その他のメディアがその氏名情報を一般的視聴者・読者に提供しなかったことの不思議さ、「その記者に直撃取材をしたメディアはあるのか」という疑問の正当性に変わりはないだろう。)
 マスメディアは一般に、大臣等の政治家の名前を出しても、各省庁の幹部の名を出さない(情報公開法の運用では、たしか本省「課長」級以上の職員の氏名は「個人情報」であっても隠してはならないはずだが。公開することの「公益」性を優先するのだ)。
 個人情報の極め付けかもしれない氏名を掲載または公表すべきか、掲載・公表してよいか否かの基準は、今の日本のマスメディアにおいて曖昧だ、またはきわめていいかげんだ、と思っている。
 立ち入らないが、例えば災害や刑事事件での「死者」の氏名も個人情報であり、警察等の姿勢どおりに安直に掲載・公表したりしなかったりでは、いけないはずなのだが。
 災害や刑事事件には関係のない『週刊現代』の記者の氏名の場合も、その掲載・公表には<本人の同意>が必要だ、という単純なものではない筈だ。
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  高森の上の④も気になる。「誉毀損罪、侮辱罪で相手を訴えることも事実上できず、言論による反論の自由すらない皇室の方々…」というあたりだ。
 天皇は民事裁判権に服さない(被告にも原告にもなれない)という最高裁判決はあったと思う。但し、皇族についてはどうかとなると、どいう議論になっているかをよく知らない。
 しかし、かりに告発する権利が認められても、いわゆる親告罪である名誉毀損罪や侮辱罪について告訴することは「事実上できず」、反論したくとも、執筆すれば掲載してくれる、または反論文執筆を依頼するマスメディアは今の日本には「事実上」存在しないだろう。
 そういう実態を背景として、相当にヒドい言論活動があるのは確かだ。
  「上皇后陛下の半年間に及ぶ失声症」の原因(の一つ)は、高森によると、花田紀凱だ。
 「皇后陛下の…適応障害」が少なくとも継続している原因の一つは、おそらく間違いなく西尾幹二だ。
 「仮病」ではないのに「仮病」の旨を公的なテレビ番組で発言して、「仮病」なのに病気を理由として「宮中祭祀」を拒否している、または消極的だとするのは、立派に「名誉毀損罪」、「侮辱罪」の構成要件を充たしている。
 告訴がないために免れているだけで、西尾幹二は客観的にはかなり悪質な「犯罪者」だ(これが名誉毀損だと思えば秋月を告訴するとよい)。
 『皇太子さまへの御忠言』刊行とテレビ発言は2008年だった。その後10年以上、西尾幹二が大きな顔をして「評論家」を名乗る文章書きでおれるのだから、日本の出版業界の少なくとも一部は、相当におかしい。この中には、西尾の書物刊行の編集担当者である、湯原法史(筑摩書房)、冨澤祥郎(新潮社)、瀬尾友子(産経新聞出版)らも含まれている。
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2477/西尾幹二批判048—根本的間違い(4-2-2)。

 西尾幹二の思考はじつは単純なので、思い込みまたは「固定観念」がある。
 その大きな一つは「共産主義=グローバリズム」で<悪>、というものだ。
 典型的には、まだ比較的近年の以下。この書の書き下ろし部分だ。引用等はしない。
 西尾・保守の真贋(徳間書店、2017)、p.16。
 そして、その反対の「ナショナリズム」は<善>ということになる。日本会議(1997年設立)と根本的には差異はないことになる。
 この点を重視すると、西尾の「反米」主張も当然の帰結だ(「反中国」主張とも矛盾しない)。
 さらに、EU(欧州同盟)も「グローバリズム」の一種とされ、批判の対象となる(英国の離脱は単純に正当視される)。
 ①2010年/月刊正論4月号。同・日本をここまで壊したのは誰か(草思社、2010年)所収。
 項の見出しは「EUとアメリカとソ連が手を結んだ『歴史の終わり』の祝祭劇」。
 「フクヤマの『歴史の終わり』…。これをそのままそっくり受けてEUの理念が生まれ、1992年に…EUが発足します」。
 ②2017年/月刊Hanada2月号。同・保守の真贋(上掲)、所収。
 「EUは失敗でした。
 共産主義の代替わり、コミンテルン主導のインターナショナリズムが名前を変えてグローバリズムとなりました。
 それがEUで、国家や国境の観念を薄くし、ナショナリズムを敵視することでした。」
 何と、西尾幹二によると(ほとんど)、「コミンテルン主導のインターナショナリズム」=「グローバリズム」=「EU」なのだ。
 それに、1992年のEU発足以前に、EEC(欧州経済共同体)とかEC(欧州共同体)とか称されたものが既にあったことを、西尾は知って上のように書いているのだろうか。
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 前回にいう後者Bについて。
 さて、「反共」とともに、またはそれ以上に、「反米」を主張すべきだ、という西尾幹二の基本的論調の間違いの原因・背景の第二の二つ目(B)と考えられるのは、こうだ。
 独特な、または奇抜な主張をして、または論調を張って、「保守」の評論者世界の中での<差別化>を図っていた(いる)と見られる、ということ。
 既出の言葉を使うと、文章執筆請負業の個人経営者として、「目立つ」・「特徴」を出す・「角を立てる」必要があった、ということだ。
 ソ連圏の崩壊は「第三次世界大戦」の終結だったとか、EUの理念はコミンテルン以来のものだ旨(今回の上記)の叙述とか、すでに「特色のある」、あるいは「奇抜な」叙述に何度か触れてきている。
 西尾幹二は<保守派内部での野党>的な立場を採りたかった、あるいはそれを「売り」=セールスポイントにしたかったようで、古くは小泉純一郎首相を「狂気の首相」、「左翼ファシスト」と称した。
 前者は書名にも使われた。2005年/西尾・狂気の首相で日本は大丈夫か(PHP研究所)。
 後者は、以下に出てくる。個別の表題(タイトル)は、その下。
 2010年/月刊正論4月号。同・日本をここまで壊したのは誰か(上掲)、所収。
 「左翼ファシスト小泉純一郎と小沢一郎による日本政治の終わり」。
 また、安倍晋三首相に対しても厳しい立場をとった。
 同・保守の真贋(2017年)の表紙にある、これの副題はこうだ。書物全体で安倍晋三批判を意図している、と評してもよいだろう。
 『保守の立場から安倍政権を批判する』
 さらに、つぎの点でも多くの、または普通の「保守」とは一線を画していた。<反原発>。この点では、竹田恒泰と一致したようだ。
 (もっとも、ついでながら、天皇位の男系男子限定継承論だけは、頑固に守ろうとしている。
 何度かこの欄で言及した岩田温との対談で、西尾はこう発言している。月刊WiLL2019年4月号=歴史通同年11月号。
 「びっくりしたのは、長谷川三千子さんがあなたとの対談で女系を容認するような発言をしたことです。あんなことを、長谷川さんが言うべきではない。」)
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 上のような調子だから、西尾の「反米」論が多くのまたは普通の「保守」派と異なる、「奇抜」なものになるのもやむを得ないかもしれない。
 既に引用・紹介したうち、「奇抜」・「珍妙」ではないかと秋月は思う部分は、例えば、つぎのとおり。
 ①2008年12月/日本が「一つだけナショナリズムの本気で目覚める契機」になるのは、「アメリカが、尖閣諸島や竹島、北方領土などをめぐって、中国、韓国そしてロシアの味方」をして「日本を押さえ込もうとしたとき」だ。
 ②2009年6月/「中国の経済的協力を得るためには、日本の安全でも何でも見境なく売り渡すのが今のアメリカ」だ。中国が「米国の最大の同盟国になっている」。アメリカは韓国・台湾・日本から「手を引くでしょう」が、「その前に静かにゆっくりと敵になるのです」。
 ③同/「日米安保は、北朝鮮や中国やアセアン諸国の対して日本に勝手な行動をさせないための拘束の罠になりつつあ」る。「ある段階から北朝鮮を泳がせ、日本へのその脅威を、日本を封じ込むための道具として利用するようにさえなってきている」。
 ④2009年8月/安倍首相がかつて村山・河野両談話を認めたのは「敗戦国」だと言い続けないと国が持たないと「勝手に怯えたから」で、「そういう轍のような構造に、おそらく中国とアメリカの話し合いで押し込められたのだろう」。
 ⑤2013年/やがてアメリカが「牙を剥き、従属国の国民を襲撃する事態に直面し、後悔してももう間に合うまい。わが国の十年後の悲劇的破局の光景である。」
 以上、かなり、ふつうではない、のではなかろうか。上の⑤によると、今年か来年あたりにはアメリカが「襲撃」してきて、日本には「悲劇的破局の光景」がある
 どれほど「正気」なのか、レトリックなのか、極端なことを言って「特色」を出したいという気分だけなのか、不思議ではある。
 しかし、2020年のつぎの書物のオビには、こうある。
 西尾・国家の行方(産経新聞出版、編集責任者は瀬尾友子)
 「不確定の時代を切り拓く洞察と予言、西尾評論の集大成」。
 上に一部示したような「洞察」が適正で、「予言」が的中するとなると(皮肉だが)大変なことだ。
 上の2020年書の緒言は、国家「意志」を固めないとして日本および日本人を散々に罵倒し、最後にこう言う。どこまで「正気」で、レトリックで、どこまでが<文筆業者>としての商売の文章なのだろうか
 「一番恐れているのは…」だ。「加えて、米中露に囲まれた朝鮮半島と日本列島が一括して『非核地帯』と決せられ」、「敗北平和主義に侵されている日本の保守政権が批准し、調印の上、国会で承認してしまうこと」だ。
 「しかし、事はそれだけでは決して終わるまい。そのうえ万が一半島に核が残れば、日本だけが永遠の無力国家になる」。「いったん決まれば国際社会の見方は固定化し、民族国家としての日本はどんなに努力しても消滅と衰亡への道をひた走ることになる」だろう。
 「憲法九条にこだわったたった一つの日本人の認識上の誤ち、国際社会を感傷的に美化することを道徳の一種と見なした余りにも愚かで閉ざされた日本型平和主義の行き着くところは、生きんとする意志を捨てた単純な自殺行為にすぎなかったことをついに証拠立てている」。
 以上。
 「生きる意志」を持ち出したり「感傷」的美化を嫌悪している点は、今回の最初の方にある「祝祭劇」という語とともに、ニーチェ的だ。これは第三点に関係するのでさて措く。
 さて、西尾の「洞察と予言」が適切だとすると、将来の日本は真っ暗だ。というよりも、「民族国家」としては存在していないことになりそうだ。
 どんなに努力しても「消滅と衰亡への道をひた走る」のであり、「余りにも愚かで閉ざされた日本型平和主義」は「単純な自殺行為」に行き着くのだ。
 日本が「消滅と衰亡への道」を進んで「自殺」をすれば、さすがに西尾幹二は「洞察と予言」がスゴい人物だったと、将来の日本人(いるのかな?)は振り返ることになるのだろう。これはむろん皮肉だ、念のため。
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 第三点へとつづける。

2474/西尾幹二批判047—根本的間違い(続4-2)。

 (つづき)
 六 2 ソ連崩壊=「冷戦終了」により時代状況は変化したのであって、「反共」とともに、またはそれ以上に、「反米」を主張すべきだ、という西尾幹二の基本的論調の間違いの原因・背景の第二と考えられるものは、こうだ。
 西尾がA「文芸評論家」あがりで国際情勢や国際政治にまで「口を出す」評論者となったこと自体、そしてBいわゆる<保守論壇>の中で何らかの意味で「目立つ」、すなわち「特徴のある」・「角の立つ」文章執筆者であろうとしたこと。
 前者Aについて
 2017年の「つくる会」20周年会合への挨拶文にある<「反共」だけでなく最初に「反米」も掲げた>という部分に着目して叙述してきてはいるが、既述のように2002年頃の西部邁や小林よしのりとの関係では「反米」という<思想>自体の真摯さは疑わしい。
 だが、その後、引用はしないが自ら「親米でも反米でもない」と一方では明記しつつも、「反米」的主張を強く述べ続けているのも確かであり、その反面で「反共」性は弱くなっている。
 また、国際政治や中国に対する見方も、もともとは一介の「素人」だったらしく、懸命に「学習」したのかもしれないが、ブレがある。あるいは一貫していないところがある。
 例えば、2007年のつぎの文章は、どう理解されるべきなのだろうか。
 「ソ連の崩壊は第三次世界大戦の終焉であり、本来なら国際軍事法廷が開かれ、ソ連や中国の首脳の絞首刑が判決されるべき事件であった。…。
 かくて、ソ連と中国は『全体戦争』の敗北国家でありながら、ドイツや日本のような扱いを受けないで無罪放免となり、大きな顔をしてのうのうとしている。」
 月刊諸君!2007年7月号。
 明らかに、ソ連と中国を「敗北国家」として一括している。
 ソ連が崩壊し諸国に分解して、東欧諸国とともに「社会主義」国でなくなったとして、中国も「敗北」して「社会主義」でなくなったのか??
 日本共産党は<後出しジャンケン>をして1994年にスターリン施政下(たぶん1931-32年頃)以降のソ連は(じつは)<社会主義国でなかった>と認識を変更したが(何とソ連の期間全体の9/10!)、中国もそうだったとは言わなかった。1990年代末には友好関係を回復して「市場経済をつうじて社会主義へ」進んでいると認定した(現在では、「社会主義を目ざす国」性自体を否定している)。
 おそらく西尾幹二は、当時は「文学」・「文芸」か別のことに熱中していて、つぎのことにも無知なのだろう。上記と同様に時期等を確認しないままで書く。
 ソ連と中国は国境で「戦闘」をするなど、対立していた。米ソではなく米ソ中の三角関係があった時期があった(日本の対中外交にも当然に影響を与えた)。中国はソ連を「社会帝国主義国」と称し、「社会主義」国ではないと非難していた(日本共産党が間に入って宥めていた)。中国の首脳が、日米安保条約を容認すると明言したこともあった(対ソ連を考えてのことだ)。
 もっとも、同じ2007年に、つぎのようにも書いた。
 「今後日本人はアメリカに依頼心をもたないだけでなく、共産主義の枠組みの中にある中国に対してはより自由で、…一段と大きい距離を持っていなければならない。」
 月刊諸君!2007年11月号
 ここでは、「共産主義の枠組み」はなおも存在しており、中国はその中にある、とされている。
 また例えば、近年の2020年の書物の緒言の中に、一読しただけでは理解することのできない、つぎの一文がある(実際の執筆は2019年11月のようだ)。
 西尾・国家の行方(産経新聞出版、2020)、p.21-22。
 「1989年の『ベルリンの壁』の崩壊以来、なぜ東アジアに共産主義の清算というこの同じドラマが起こらないのか、アジアには主義思想の『壁』は存在しないせいなのか、と世界中の人が疑問の声を挙げてきたが、共産主義と資本主義を合体させて能率の良さを発揮した中国という国家資本主義政体の出現そのものが『ベルリンの壁』のアジア版だった、と、今にしてようやく得心の行く回答が得られた思いがする」。
 よく読むと、1989年の『ベルリンの壁』崩壊=「中国という国家資本主義政体の出現そのもの」と、ようやく納得した、ということのようだ。
 そもそも欧州とアジアは同じではないのだから、前者と「同じドラマ」が後者で起きると考えること自体が、西尾の本来の「思想」と矛盾しているだろう(「世界中の人が疑問の声を挙げてきた」かは全く疑わしい)。秋月はまだ「起きて」いない、と思っているけれども。 
 問題は「共産主義と資本主義を合体させて能率の良さを発揮した国家資本主義政体」(の出現)という理解の仕方だ。
 この部分の参照または依拠文献は何なのだろうか。
 中華人民共和国という国家の性格または本質について疑問が生じ、議論があることは分かる。だが、こんなふうに単純化し、かつそれで「得心」してもらっては困る。
 上の「出現」の時期について西尾がもう少し具体的にどこかで書いていたが、所在を失念した。
 だが、いずれにせよ特定のある年とすることはできないだろう。「社会主義(的)市場経済」の出現時期も私には特定できないが、鄧小平がいた1992-3年頃だろうか。そうだとすると、2019-20年になってようやく納得した、というのはあまりに遅すぎる。それとも、GDPが日本を追い抜いた頃なのか。しかし、そうなる前に、「政体」自体は出現しているはずだろう。
 西尾幹二の中国を含む国際政治・国際情勢に関する「評論家」としてのいいかげんさ・幼稚さを指摘している文脈なので、上の議論には立ち入らない。
 但し、つぎの諸点を簡単に記しておく。
 ①「国家資本主義」というタームの意味に、どれほどの一致があるのだろうか。
 レーニンのNEP政策のことを「国家資本主義」と称した時期や人物もあった。1949年の建国時にすでに「国家資本主義」という規定の仕方も中国自体にあった。そうであるとすると、今にしてようやく気づくことではない。
 ②西尾幹二によると、現在の中国は資本主義国でも社会主義国でもない、両者を「合体させて能率の良さを発揮した」国家らしいが、これは現在の中国を美化しすぎているだろう。
 ③上のような国家「政体」の出現が、なぜ「ベルリンの壁」崩壊と同じドラマであるのか、さっぱり分からない。「ベルリンの壁」崩壊→旧ソ連圏での「社会主義」諸国の消失だとすると、西尾によっても中国の半分は今でも「社会主義」国なのであって「同じ」ではない。
 ④1921年に中国共産党は設立されたとされ、昨2021年、現在もある中国共産党は創立100周年記念祝典を行った。
 ⑤結党の指導者で、かつ1949年に中華人民共和国を建国し国家主席となった毛沢東は現在もなお、「否定」されていない。
 共産党の歴史、戦後の中国の歴史は現在まで(法的にも)連続して続いている(この点、人々の感情や意識の次元は別として、旧ソ連を「否定」して現在のロシアは成立しており、両者の間に全体的な法的連続性はない)。
 ⑥テレビで見聞きした記憶によると、昨年の中国共産党100年記念式典で「共産主義実現に邁進する」旨が宣言され、同日に共産党に加入した一青年は「人生を共産主義に捧げる」、インタビューに答えて語った。
 以上。西尾幹二に見られる旧ソ連または「共産主義」に対する<甘さ>には、別に言及するだろう。
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 後者Bから次回はつづける。

2471/西尾幹二批判045—根本的間違い(続3)。

 (つづき)
  いくつか留保を付しておく必要がある。
 第一に、<根本的間違い>と言っても、それは西尾幹二における日米関係、外交、国際情勢の把握についての<根本的間違い>だ、ということだ。
 そして、西尾はこれらに関する専門家ではなく、おそらくは「頼まれ仕事」として、つまり依頼・発注・注文を受けて執筆した、「請負の」文章としてすでに引用した文章を書いたのだろうから、その点は割り引いた上で論評する必要がある。
 したがって、第二に、西尾が「商売」として執筆した文章に他ならないことに留意しておく必要があろう。
 第三に、西尾幹二について注意を要するのは、「事実」・「現実」や「歴史」についての把握の仕方には独特なものがあり、レトリックによって読者は気づかされずにいることがあっても、多くの(「文学」者以外の)健全な?読者の「事実」(・「現実」)・「歴史」に関する基本的な感覚・意識とは異なるところがある、ということだ。
 この点に関連して興味深いのは、個人全集刊行開始を記念した遠藤浩一との対談で、西尾自身がこれまでの自分の仕事は全て「私小説的自我の表現」だったと明言していることだ。
 月刊WiLL2011年12月号、p.242〜。(ワック)。目次上の表題は「私の書くものは全て自己物語」
 第四に、より本質的なこととして、西尾幹二は自らを「思想家」と主張し、またそう思われたいようで、また『国民の歴史』(1999)の前半は「歴史哲学」を示すものと2018年に自分で明記しているが(全集第17巻・後記)、そこでの「思想」・「哲学」は西尾においていかほど真摯なものかは、厳密には疑わしい、ということだ。
 西尾幹二における<反共・反米>性のうち、<反共>の他に<反米>性にも疑問符が付くことは、予定を変更して、別に扱う。
 但し、簡単にだけ触れると、西尾が「つくる会」会長時代に西部邁や小林よしのりが「つくる会」を退会したのは、西部・小林がより<反米>の立場を採ったのに対して、西尾幹二は明確に、より<親米>的立場を主張するという意見対立が生じたからだった(と思われる)
 その際に西尾は小林よしのりが「人格攻撃」と理解してやむを得ないと(秋月には)思われる文章を書いた。これには、今回は立ち入らない。
 興味深く、また注目されるのは、2001年9月11日事件後のアメリカの「対テロ戦争」を批判しない理由を、西尾がこう明記していることだ。
 以下は、すでにいくつか紹介・引用したように、さんざんにアメリカを歴史の悪役化し、その「陰謀」国家性を指摘している西尾幹二自身の、2002年時点での文章だ。全集に収載されているのか、その予定であるのかは分からない。西尾が会長時代の、かつ「つくる会」関連文章だが、少なくとも第17巻・歴史教科書問題(2018年)には収録されていない。
 ①「日本の運命に関わる政治の重大な局面で思想家は最高度に政治的でなくてはいけないというのが私の考えです」。
 ②「いよいよの場面で、国益のために、日本は外国の前で土下座しなければならないかもしれない。そしてそれを、われわれ思想家が思想的に支持しなければならないのかもしれない
 正しい『思想』も、正しい『論理』も、そのときにはかなぐり捨てる、そういう瞬間が日本に訪れるでしょう、否、すでに何度も訪れているでしょう。」
 西尾幹二・歴史と常識(扶桑社、2002年5月)、p.65-p.66(原文は月刊正論2002年6月号)。
 (小林よしのり・新ゴーマニズム宣言12/誰がためにポチは鳴く(小学館、2002年12月)、p.75 参照)
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 さて、先に紹介引用したように、西尾幹二はアメリカや中国、日米安保条約についてこう書いた。
 ①2006年—アメリカが厄介で、「中国はそれほど大きな問題ではない」。「アメリカに依存する」ほかないが、「今度はアメリカの呑み込まれてしまうという新しい危機」があり、「これからはこっちの方が大きい」。
 ②2009年—「日米安保は、北朝鮮や中国やアセアン諸国に対して日本に勝手な行動をさせないための拘束の罠になりつつあります。加えて、ある段階から北朝鮮を泳がせ、日本へのその脅威を、日本を封じ込むための道具として利用するようにさえなってきているのです。
 ③2013年—「私たちは、アメリカにも中国にも、ともに警戒心と対決意識を等しく持たなくてはやっていけない時代に入った。どちらか片方に傾くことは、いまや危ない。」
 また、2013年に、10年後(2022-23年)の日本をこう「予測」した。
 ④「やがて権力〔アメリカ〕が牙を剥き、従属国の国民を襲撃する事態に直面し、後悔してももう間に合うまい。わが国の十年後の悲劇的破局の光景である。」
 上の④は確言的にせよ「予見」だろうから省くとして、例えば①〜③はどうか。
 論評は簡単だ。上掲の2002年の文章を知ると、萎縮してしまうけれども。
 間違いである。
 かつまた、西尾が2017年に放った(つくる会は)「反共に加えて反米も初めて明確に打ち出した」という豪語の関係では、こうだ。
 矛盾している。 どこに「反共」があるのか。
 したがって、問題は、こうした結論的論評ではなく、西尾幹二はなぜ間違った、あるいは矛盾する言辞を綴るのか、ということになる。
 自らの本来の「正しい」「思想」を例外的に放棄することを正面から肯定する2002年の文章を照合するとかなり虚しくなりもするが、それはさて措いて、以降でこの問題を続けよう。
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 五1を五に、五2を六に変更(1/16)。

2469/西尾幹二批判044—根本的間違い(続2)。

 (つづき)
 四 2 西尾幹二・国民の歴史(1999年)のあと、2001年に同が会長の「つくる会」教科書が検定に合格する(どの程度学校で使用されるかは別の問題)。
 この最初の版を現在見ることはできないが、当時に全体を読んで、大々的に批判した、<保守派>のつぎの書があった。
 谷沢永一・「新しい歴史教科書」の絶版を勧告する(ビジネス社、2001年6月)。
 谷沢の批判は、「絶版を勧告する」ほどに多岐にわたる。
 そのうち、秋月瑛二が絶対に無視できないのは、谷沢が引用する、原教科書にあったつぎの叙述だ。
 ①これまでは資本主義・共産主義の時代だったが「21世紀を迎えた今、これらの対立もとりあえず終わった」。
 ②「ソ連が消滅したことで資本主義と共産主義の対決は清算された」。
 先には1999年と2006年以降の西尾幹二の<根本的間違い>部分を列挙したが、2001年時点での西尾が会長の「つくる会」自体の教科書も、根本的に間違っていた。
 谷沢永一(1929〜2011)は、上の①を、こう批判した。
 「間違いである。中華人民共和国や朝鮮民主主義人民共和国など、れっきとした社会主義国はまだ残っていて、異常な軍拡を続ける中国、何をするかわからない北朝鮮は、日本にとっても大きな脅威になっている。
 また、上の②を引用したあと、こう書いた。
 「これも同じ理由で間違いである。間違いどころかデマである。
 以上、谷沢著の p.281-2、
 秋月瑛二は、谷沢の指摘は完全に正当だった、と考える。西尾幹二の基本的状況認識と比べて、谷沢は明らかに「正常」だ、と考える。
 谷沢は上のあと、中嶋嶺雄が「中国…に旧ソ連の共産党勢力、北朝鮮、ベトナムなどが連なりはじめ、ラオス、モンゴル、ビルマ、ミャンマーなどの旧社会主義圏も、その戦列に加わりはじめている」と指摘している、と追記している。
 さて、ソ連(および東欧社会主義諸国)の崩壊・解体で終わったのは<対ソ連(・東欧)との冷戦>であって、資本主義対共産主義(・社会主義)の対立はまだ終わっていない、国内でも、レーニン主義政党で「社会主義・共産主義」を目指すと綱領に明記する日本共産党はまだ国会に議席を持っているではないか、とこの欄でいく度か書いてきた。
 西尾幹二らと谷沢永一らと、どちらが「正常な状況認識」を示している(いた)のか。
 なぜ、西尾幹二らは「間違った」のか。むろん、一部は、本質は文章執筆請負業者にすぎないことに理由はあるが。
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 根本的間違いの原因、<物書き>としての西尾幹二の生き方とその限界、「反共」に加えた「反米」の意味合い、などに以降で言及する。
 最後の点では、2002年頃の小林よしのりにも登場していただかなければならない。
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2449/ニーチェ研究者・適菜収の奇矯①。

  適菜収は「反橋下徹」で目立つ風変わりな物書きで、橋下徹(・日本維新の会)と組んだ憲法改正には断固反対すると安倍晋三政権のときに書いていたし、同じく「反橋下徹」で、工学部教授でありながらH・アレントに依拠してと虚言を吐いて「ファシズム」に関する本を出版した、やはり風変わりな藤井聡(京都大学)と対談などもしていた。
 その(私から見ての)奇矯さが強く印象に残っていたが、最近、適菜収は「ニーチェ研究者」だとか「ニーチェを専攻」だとかを自書等に自ら記していることを思い出した。または、それに気づいた。
 但し、ニーチェに関する新書類を複数出しながら、学界・アカデミズム内で「ニーチェ研究者」と認知されているわけでは、間違いなくない。大学文学部卒とだけ経歴にあるので、せいぜい卒業論文の主題をニーチェにした程度で、大学院に進学してニーチェに関する研究論文を執筆したのでは全くないと推察される。取得していればすすんで明記するだろう、「文学博士」との記載もない。
 一般的に学界・アカデミズムの優先・優越を前提としているのでは全くないが、上のことは、適菜収の理解や主張を少なくとも「うのみ」にしてはならないことの理由にはなるだろう。
 下にも出ているが、私の知る限りでは、月刊雑誌(のしかも実質的巻頭)に初めて登場したのは、桑原聡・代表、川瀬弘至・編集部員時代の月刊正論(産経新聞社)2012年5月号だった。
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  月刊正論や産経新聞の本紙自体に適菜収が登場したことを契機としてだろう、産経新聞社に対して、愛読者から、つぎのような助言または警告が発せられた。
 それは「産経新聞愛読者倶楽部」というサイトに投稿されたもののようで、実際の執筆者の氏名等は不明だ。但し、無署名であることが内容の虚偽や不誠実性の根拠にただちになるわけではない。
 適切だと感じる点も多く、また初めて知ることもあった。以下に出てくるベンジャミン・フルフォードという人物は、カナダ生まれだが日本の大学を卒業し、のちに日本に帰化した。外国人だから世界的な権威がある程度はあるのだろうと感じる人がいないとも限らないので、あえて記しておいた。
 以下のは、引用符を付けないが。投稿文のほぼ全文で(もともと本欄による一部省略あり〉、この欄にすでに2012年4月に掲載していたものの再掲だ。改行箇所を増やす等の変更だけは行なっている。
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 産経新聞社発行の月刊『正論』5月号(3月31日発売)は『【徹底検証】大阪維新の会は本物か/理念なきB層政治家/橋下徹は『保守』ではない!』と題した論文をメーン記事として掲載しました。
 筆者は適菜収という37歳の聞いたことのない哲学者です。この中で適菜は『B層』について『近代的理念を盲信する馬鹿』と定義して、橋下市長を『アナーキスト』『デマゴーグ』などと非難しています。
 巻末の編集長コラム『操舵室から』でも桑原聡編集長が『編集長個人の見解だが、橋下氏はきわめて危険な政治家だと思う』と表明しています。//

 雑誌を売るためにインパクトのある記事を載せているのなら仕方ないなと思っていたら、なんときのう(6日)の産経新聞1面左上(東京本社版)にも適菜収が登場して<【賢者に学ぶ】哲学者・適菜収/「B層」グルメに群がる人>というコラムを書いていました。B級グルメをもじって「B層グルメ」という言葉を紹介しています。
 『≪B層≫とは、平成17年の郵政選挙の際、内閣府から依頼された広告会社が作った概念で『マスメディアに踊らされやすい知的弱者』を指す。彼らがこよなく愛し、行列をつくる店が≪B層グルメ≫だ』そうです。
 締めくくりは『こうした社会では素人が暴走する。≪B層グルメ≫に行列をつくるような人々が『行列ができるタレント弁護士』を政界に送り込んだのもその一例ではないか』です。橋下叩きを書くために、延々と食い物と『B層』の話をしているだけの駄文です。//

 われわれ保守派としては、橋下徹氏が今後どのような方向に進んでいくかはもちろん分かりません。
 しかし、職員組合に牛耳られた役所、教職員組合に支配された教育現場を正常化する試みは橋下氏が登場しなければできませんでした。自民党は組合との癒着構造に加わってきたのです。私は少なくとも現段階では橋下氏を圧倒的に支持します。//
 そもそも『B層』という言葉には非常に嫌な響きがあります。適菜がいみじくも『馬鹿』と書いているように、いろいろな連想をさせる言葉です。//

 ちなみに適菜収はサイモン・ウィーゼンタール・センターから抗議を受けたこともあります。
 読売新聞平成19年2月22日付夕刊「徳間書店新刊書の販売中止を要請/米人権団体『反ユダヤ的』/【ロサンゼルス=古沢由紀子】ユダヤ人人権団体の「サイモン・ウィーゼンタール・センター」(本部・米ロサンゼルス)は21日、徳間書店の新刊書『ユダヤ・キリスト教『世界支配』のカラクリ』について、『反ユダヤ主義をあおる内容だ』として、同書の販売を取りやめるよう要請したことを明らかにした。同書の広告を掲載した朝日新聞社に対しても、『広告掲載の経緯を調査してほしい』と求めたという。
 同書は、米誌フォーブスの元アジア太平洋支局長ベンジャミン・フルフォード氏と、ニーチェ研究家の適菜収氏の共著で、今月発刊された。サイモン・ウィーゼンタール・センターは反ユダヤ的な著作物などの監視活動で知られている。
 徳間書店は、『現段階では、コメントできない。申し入れの内容を確認したうえで、対応を検討することになるだろう』と話している。//

 産経新聞平成19年2月23日付朝刊「米人権団体『反ユダヤ的陰謀論あおる』本出版、徳間に抗議/【サンフランシスコ=松尾理也】米ユダヤ系人権団体のサイモン・ウィーゼンタール・センター(ロサンゼルス)は21日、日本で発売中の書籍ニーチェは見抜いていた—ユダヤ・キリスト教『世界支配』のカラクリ』(徳間書店)について、『反ユダヤ的な陰謀論の新しい流行を示すもの』と批判する声明を発表した。同センターは同時に、同書の広告を掲載した朝日新聞社に対しても、掲載の理由を調査するよう求めている。
 問題となった書籍は、米誌フォーブスの元アジア太平洋支局長、ベンジャミン・フルフォード氏と、ニーチェ研究家、適菜収氏の共著。2月の新刊で、朝日新聞はこの本の広告を18日付朝刊に掲載した。
 同センターは、同書の中に『米軍は実はイスラエル軍だ』『ユダヤ系マフィアは反ユダヤ主義がタブーとなっている現実を利用してマスコミを操縦している』などとする内容の記載があり、米国人とイスラエル人が共同で世界を支配しているという陰謀論をあおっているとしている。」//
 産経新聞1面左上のコラム(東京本社版)は約30人の『有識者』が日替わりで執筆しています。適菜収がここに登場したのは初めてです。
 つまり適菜は執筆メンバーになったわけですが、いったい誰が登用したのでしょうか。
 産経新聞は適菜を今後も使うかどうか、よく身体検査したほうがいいでしょう
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 以上。

2445/西尾幹二批判034。

  西尾幹二「雑誌ジャーナリスムよ、衰退の根源を直視せよ」諸君!(文藝春秋)2008年12月号
 西尾はこの論考で、何やら<上から目線>で、「現在の論壇誌がかかえる問題点」を四点指摘しているようだ。p.28-p.35。
 ①政治論が「思想・政策論と政局論を混同している」。
 ②一部経済論客のようにではなく、「経済、政治、歴史を総合的に論じる」必要がある。
 ③「国際政治と国内政治を、まったく無関係のものとして論じる傾向がある」。
 ④以上は「枕」。
 本質的には「イデオロギー」、「なんらかのぬきがたい先入観」を含んでいる。経済論客には「経済価値観イデオロギー」がある。最近さかんな「保守イデオロギー」も「時流に乗る」ようなもので、「日教組流と構造が同じなのではないですか」。
 この論脈でと見られる叙述は概括しづらい。アメリカか中国かと迷っている日本人が多く「自分自身」がない、日本が中心となる「心の準備」をすべきだ、旨の叙述の後、次の文章がある。
 「イデオロギーは、自分の好むひとつの小さな現実を見て、他のすべての現実に目を閉ざそうとする怠惰な心の傾きです。
 反米も反中も、新米も親中も、みんなイデオロギーにすぎません
 そういう状態を脱して、現実—リアリティを回復するのが日本再生 への道であり、論壇誌はその過程にこそ貢献すべきなのです」。
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  本当に指摘しておきたいことは別にあるが(次回とする)、以上で区切って、批判的にコメントしよう。
 第一。西尾はどういう資格があって、「雑誌ジャーナリズム」または「論壇誌」を上のように批判し、または注文をつけることができたのか。西尾自身は上のような欠点や弊害なくして執筆してきたとはいっさい書いていない。また、一方で、自分はできていないが、期待・希望するとの謙虚な?言葉もない。
 この人は2020年に<哲学・歴史・文学>の総合的把握が理想だった旨書いたが(歴史の真贋・新潮社〉、それも覚束ない人物が<経済・政治・歴史>の総合的論述が必要だと、2008年によくぞ書けたものだ。
 第二。立ち入らないが、国際情勢・国際政治について、根本的間違いをしているだろう叙述もある。
 第三。上によると、反米・親米や反中・親中は「イデオロギー」にすぎず、現実・リアリティを回復しなければならない。
 ?? 2017年には同じ人物が、福田恆存らには「反共」だけあって「反米」がなかったが、自分と「つくる会」は最初に「反米」を打ち出した、と書いたのだったが、すでに同会は発足し、運動継続中の時点の2008年の末には、このように書いていたのだ。
 「イデオロギー」の意味の理解を変えている等々、西尾幹二は釈明するのかもしれない。
 だが、要するに、この人は、執筆・発言の時期ごとに、異なる、矛盾すると指摘されても不思議でないことを、平然と執筆・発言できる人だ、と断言して、ほぼ間違いはない。
 簡単に言えば、一定の時点の西尾幹二の主張内容をそのまま信じたり、信頼したりしてはいけない、ということだ。
 第四。「現実・リアリティ」を西尾自身が全く理解できていないことは、上のあとに最後に続く、「日本に迫る最大の危機」という中見出しまである、皇室に関する文章で、明確だ。
 2008年に西尾は皇太子妃批判論を継続し、秋に『皇太子さまへの御忠言』を出版していた。その高揚の気分が残っていたのだろうか、この諸君!12月号では、「あれほど明白になっている東宮家の危機」等々と書いている。
 次の機会に回す。
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2421/中西輝政—2008年7月の明言。

  諸君!(文藝春秋)2008年7月号は表紙でも<平成皇室ー二十年の光と影>と謳い、その一環として、56人の「われらの天皇家、かくあれかし」を主題とする文章を掲載している。
 その56のうち、表向きは(この号の文章では)西尾幹二よりも明確で断定的な主張・提言を行なっていたのは、中西輝政だ。こう書いている。p.239-240。
 「あえて臣下としての慎みを超えて直言申し上げたいことがある。
言わずと知れた『皇太子妃問題』である。」
 「ただ一点、揺るがせにできない重大問題は、同妃が宮中祭祀のお務めに全く耐え得ない事情があるかに伝えられることである。
 もし万々一、このことが真実であるなら、ことは誠に重大であり、天皇制度の根幹に関わる由々しき問題であると言わざるを得ない。」
 「しかし万一、事態がこのまま推移するなら、事は更に重大な局面に至る憂いなしとしない。
 皇太子妃におかせられては、このことを是非共深く御自覚頂き、特段の御決意をなされるようお願い申し上げたい。」
 「もし万一、皇太子妃をめぐる右のごとき問題が今後も永続的に続くのであれば、今上陛下の御高齢を慮り皇室の永続を願う立場から敢えて臣下の分を超えて申し上げたい。
 同妃の皇后位継承は再考の対象とされなければならない、と。」
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  中西輝政がこんなことをかつて言っていたとは、知らなかったか、記憶を失くしていた。
 2019年5月、当時の皇太子妃は皇后となられた。
 中西輝政はこの2019年前後、上のかつての発言にどう触れていたのか。
 触れていたとかりにして、想定できるのは、さしあたりつぎだ。
 ①「宮中祭祀に全く耐え得ない事情がある」ということがなくなったので問題はない。
 ②上の「事情」に基本的な変化はなく、よって皇后位就位には反対であり、残念だ。
 ③上の2008年時点での自分の主張は誤っていた。詫びるとともに、皇后位継承を容認(歓迎)する。
 2021年になっても諸雑誌に「論考」を発表している中西が、平成・令和の代変わり時に、雑誌類に何らかの文章を発表する機会が与えられなかった、とは想定し難い。
 中西輝政は、上のいずれ(またはいずれに最も近い見解)を選択したのだったのだろうか。
 全く触れなかった? そんなことは、よほど卑劣な文章作成請負自営業者でなければ、あり得ないだろう。
 「万が一〜であれば」という仮定条件を付けつつ、当時の皇太子妃の「皇后位継承は再考の対象とされなければならない」と、著名だったと思われる当時の公の雑誌上で、明言していたのだから。
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2417/西尾幹二批判031。

  西尾幹二は2017年に「つくる会」10周年記念集会にあてて、かつての福田恆存らには「反共」だけがあり「反米」はなかったが、前者に加えて「反米の思想」も掲げたのは<われわれが最初だった>旨を書き送った。全集第17巻712頁(2018年)で読める。この欄でもすでに「根本的間違い」に簡単に言及して引用・掲載した。
 「つくる会」のこととして西尾は書いていたが、「われわれ」の初代会長だった西尾幹二自身も含めている、と理解して差し支えないだろう。
 ここでの論点はいくつかある。
 根本的には、第一に、「新しい歴史教科書をつくる会」という運動団体かつ歴史教科書作成団体は本当に明確に<反共かつ反米>を掲げていたのか、だ。
 私は胡散くさいと思っている。設立当時の文書や『史』という機関誌等を丁寧に読めば、西尾の10年後の「うそ・ハッタリ」は明確になるのではなかろうか。
 第二に、西尾幹二自身が、本当に「反共」かつ「反米」という思想的立場に立っていたのか、だ。
 とくに気になるのは、西尾における「反共」性、「反共産主義」性だ。
 この点は、別途検証するに値する。ここでは、西尾の文章の中には、マルクス、レーニン、スターリンの文章の引用はもちろん多少とも内容のある紹介や論評は全くないと見られる、とだけ記しておく。「反共」と言いつつ、この人は、「共産主義」とはどういうものかをまるで知っていないままだと見られる。この人がまだ若い頃の、ソ連「遊覧」旅行の記録でもそうだ。
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  秋月の語法では「反共」性と称してよいと考えるが、その点は措くとしても、西尾幹二においては「反中国」性が弱いということはこれまでも数回は触れた。
 この人は「反米」的主張をかなり明確に行なってきた。この点を知りつつも、私自身もまた素朴な愛国主義者であり、素朴なナショナリストであり(以上、小林よしのりと同じ)、日本が欧米と同じになる必要はなく、同じになることがある筈もないと思っているので、西尾の「反米」主張も、その限りで諒としてきた経緯はある。
 中川八洋が西尾を<民族派>の中に含めるのも奇妙だと感じてきた。単純な<民族派>ではないものが西尾にはある、と理解していたからだ。
 それに、少なくとも2010年前後には<保守>が「親米(保守)」と「反米(保守)」に分類されることがあったのはすこぶる奇妙なことだったが、西尾自身が自分は<反米でも親米でもない>と書いているのを読んだ記憶がある。
 また、いずれかの雑誌上で岩田温が<保守>論者を「親米」か「反米」かを二つのうちの一つの対立軸として分類整理する図表を載せていたが、そこでは西尾幹二の名は、「親米」と「反米」を区切るまさにその線上に置かれていた(この記憶に間違いはない)。
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  前置きが長くなった。
 二で記した経緯からするとやや驚きでもあるのだが、「下掲」の2006年末の雑誌上で、西尾幹二は明確に、「反中国」よりも「反米」を優先し、強調する発言を行なっている。
 これは、やはり、西尾の<根本的間違い>を示している。これでは<民族派>と一括されてもやむを得ない。また、「反米(保守)」派の主張でもあっただろう。
 ついでに。「反米」も「対米自立」も、日本共産党の基本的主張だ。アメリカ帝国主義に「従属」している(未だ「独立」していない)、というのが、この党の状況認識だ(現綱領上の表現を確認はしていない)。
 西尾にはきっと不本意だろうが、これで「反共」性がないか乏しいとなると、「民族主義」政党でもある日本共産党とどこがどの程度違うのか、という根本的疑問も出てくる。
 もっとも、これは西尾幹二についてだけ当てはまるのではない。1997年の設立時にソ連崩壊により「マルクシズムの誤謬は余す所なく暴露された」と書いて、もはや共産主義・マルクス主義との闘い、これらの分析・研究は必要がないと宣言したがごとき日本会議についても言える。
 西尾と日本会議が結局は同質・同根であるようであるのも、不思議ではない、と言うべきか。
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 2006年の安倍晋三内閣発足1月後の座談会で、西尾は、「『真正保守』を看板に掲げた安倍氏」の不安材料、期待できそうにない理由を計4点挙げているが、最後の点として、こう明言している。
 「同盟国としてのアメリカの存在です。
 私は、安倍さんが日本の保守再生に取り組む際に、実はこれがもっとも厄介な問題になってくると考えています。
 中国はそれほど大きな問題ではない。
 つまり、中国に対抗するためにはアメリカに依存するほかないけれど、あまりに依存を続けていくと今度はアメリカに呑み込まれてしまうという新しい危機。
 これからはこっちのほうが大きい。
 座談会「保守を勘違いしていないか」諸君!2006年12月号(文藝春秋)75頁。
 ソ連解体をもって「冷戦」は終わった、これからは各国の各「国益」追求の対抗・競争の時代だ、と考えてしまった、日本の「保守」の主流かもしれない部分の悲劇が、ここにも示されている。
 地理的・地域的に近接した欧州諸国やそれらと文化的共通性のあるアメリカの論壇が、そういう論調だったのは、理解できなくもない(しかし、共産主義・マルクス主義の研究者・専門家たちは、L・コワコフスキも含めて、中国等の存在になお注目していた)。
 本来、常識的なことのはずだが、ソ連解体で終了したのは<対ソ連(・東欧)との関係での冷戦>だった。
 中国、北朝鮮、ベトナム等の存在を、東アジアに位置する日本の論者が無視または軽視してよい筈はなかった。
 そして今や、<いわゆる保守>は、中国・韓国に「民族」意識で対抗し、男系天皇制度の維持を最大目標として結集しているようだ。悲惨、無惨。
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2415/西尾幹二批判030。

  西尾幹二が2005年初めに、面白いことを書いていた。
 このとき、首相は小泉純一郎、「つくる会」はまだ分裂していなかった。
 同「行動家・福田恆存の精神を今に生かす」諸君!2005年2月号(文藝春秋)196頁以下。
 2004年11月の講演「福田恆存の哲学」(福田没後10年記念講演)を「大幅に加筆した」ものらしい。
 2017年になって西尾が福田恆存には「反共」だけがあって「反米」がなかった、と語ったこととの関係等には今回は立ち入らない。関連部分はあるが、この2004-5年時点では、この旨の明記はいっさい存在しない。福田の晩年から西尾は福田から<離れた>、という旨は書いている。
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  興味深いのは、「知識人」論だ。
 1 福田恆存の「知識人」批判を肯定的に評価し、かつ西尾自身の言葉で敷衍しているのだが、福田の「知識人」批判を、ーある論考からーこう簡単にまとめる。
 福田は、「日本の知識階級の政治的権力から外された精神主義の歪み、政治の悪を自ら犯せない立場にある教養人の卑屈な自尊の心のなかに潜む反体制、反政府心理に、弱者の宗教の見果てぬ夢と同じものを見届けました」。
 2 上も福田の引用ではなく西尾の文章だが、直後に、西尾自身の見解のごとく、つぎのように書いている。一文ごとに改行する。
 「知識人は日本の社会のなかで選ばれた民ー選民でありました。
 文士や学者は自己表現という欲望を満たす特権を与えられて来ました。
 これは大事なポイントになりますからよく聞いてください。
 自己表現とは権力欲の一面です。
 その自己表現にそこはかとなく漂う自己英雄視に『知識人』は気がついているのか。
 実行よりも芸術を、政治よりも文学を主張する、閉ざされた精神をつくって、大衆を見下し、政治権力にひたすら悪の烙印を押して、自らを中間に置いて純潔と見る一種の自己神聖化。
 日本の純文学意識や学者知識人の教養主義は、このような精神に毒されていなかったでしょうか。」
 3 そして、このような「知識人」の時代は「今もなおそう」だが、「完全に終わったと」福田は「告げ知らせている」ようだ、とする。
 「『知識人』の社会的関心とは要するに日本の現状をいつもシニカルに批判することと同義であり、自らが国家を担おうとする昂然たる気概、責任感情を持っていません。
 『知識人』はつねに弱者のねじくれた卑屈な復讐心理につき動かされてきています。
 そして閉ざされた自己英雄視の内部で鬱屈し、健全な一般社会に毒ある言葉を偉そうに上からまき散らしてきましたし、今もなおそうです。
 もうその時代は完全に終わった、と福田氏の批判は告げ知らせているように思います。」
 4 このあと、「今の日本」について語られるが、まとめて引用したり要約的叙述を見出すのは困難だ。「保守」への言及もある長い文章から、気のつく断片を抜粋しよう。
 「ふと気がつくと、今の日本において、福田氏が指弾した知識人の自己欺瞞は、もはやすでに、知識人の自己欺瞞ではなくて、国民一般大衆の自己欺瞞となってしまいました」。
 福田が「知識人に当てはめた思考の枠は、もはや存在しません。なぜなら特権を持った知識人など今どこにも存在しないからです」。
 福田の予言は当たった。「誰もが氏と同じ現実戦略を気楽に語るようになりました。同じような保守的思想が世に溢れ、言葉だけ気やすく語って、現実を変えようとする激しい意思がない点においても、あの当時と何にも変わっておりません」。
 「昭和35年の当時、福田氏が」「嘲った進歩的知識人とは、たしかに違った世界観を今の多くの学者知識人、読書階級は言葉にしている」。しかし、「気休めの希望の見取り図を作成して、現実を改変しようとする意思のないこと、…ことにおいて、今日の保守的言論人の言葉もまた『お呪い』か『呪文』めいたものであって、言葉のための言葉、その無意味さ、ナンセンスさ、無力さ、これはあの当時の進歩的知識人と何も変わっていないのであります」。
 「…、保守的言論は世を風靡しておりますが、それでいて平和、民主主義、平等、自由への安易な信仰が政治や教育を現実に歪めている程度は、福田氏の生きていた時代よりもはるかに悪化しているということが起こっている」。
 以上、p.217-p.220.
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  さて、西尾幹二は福田恆存が批判した「特権を持った知識人」は「今どこにも存在しない」、と明記している。
 しかし、西尾自身の言葉として、「今の多くの学者知識人、読書階級」とか、「保守的言論人」とかを用いている。
 言葉の用い方の問題ではあるが、西尾自身が「学者知識人」、「言論人」、少なくとも<知識人の末裔>という「階層」にいることを、かりに潜在的にせよ自覚し意識していることは、明白だと思われる。
 西尾の多数の文章にみられるニーチェ的?<反大衆>性には今回も触れない。上の文章の中には、「弱者の宗教の見果てぬ夢」、「弱者のねじくれた復讐心理」という言葉はある。
 すこぶる興味深く、面白いのは、かつての?「知識人」を叙述するその内容、形容は、西尾幹二自身に、そのまま当てはまると考えられる、ということだ。以下、列挙する。なお、西尾は小泉純一郎を「狂気の宰相」と称し、安倍晋三首相も批判した(例えば、その改憲案は安倍が出したからいけないんです旨を書いた)〈反政権〉的評論家でもあった。
 ①「(日本の知識階級の)政治的権力から外された精神主義の歪み」。
 ②「政治の悪を自ら犯せない立場にある教養人の卑屈な自尊の心のなかに潜む反体制、反政府心理」。
 ③「権力欲の一面」である「その自己表現にそこはかとなく漂う自己英雄視」。
 ④「実行よりも芸術を、政治よりも文学を主張する、閉ざされた精神をつくって、大衆を見下し、政治権力にひたすら悪の烙印を押して、自らを中間に置いて純潔と見る一種の自己神聖化」。
 ⑤そのような「精神に毒され」た、「日本の純文学意識や学者知識人の教養主義」。
 ⑥「社会的関心」は「要するに日本の現状をいつもシニカルに批判することと同義であり、自らが国家を担おうとする昂然たる気概、責任感情を持ってい」ない。
 ⑦「閉ざされた自己英雄視の内部で鬱屈し、健全な一般社会に毒ある言葉を偉そうに上からまき散らしてき」ている。
 ⑧「気休めの希望の見取り図を作成して、現実を改変しようとする意思のない」点で、(今日の保守的言論人の言葉も)「『お呪い』か『呪文』めいたものであって、言葉のための言葉、その無意味さ、ナンセンスさ、無力さ、これはあの当時の進歩的知識人と何も変わっていない」。
 以上、西尾幹二自身それ自体に(も〉、きわめてよくあてはまっているのではないか。
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  今回の最初に記したように、福田恆存には「反米」がなかったが、自分には「反共」に加えて「反米」もある、という2017年になって初めて?述べた旨は書かれていない。
 但し、つぎの文章は、関連性のある西尾の<時代認識>を示しているので、今後のためにメモしておく。中国も、北朝鮮もここには出てこない。p.222.
 「米ソの対立が激化していた時代はある意味で安定し、日本の国家権力は堅実で、戦前からの伝統的な生活意識も社会の中に守られつづけられました
 おかしくなったのは、西側諸国で革命の恐怖が去って、余裕が生じたからで、さらに一段とおかしくなったのは西側が最終的にソ連に勝利を収め、反共ではもう国家目標を維持できなくなって以来です。
 日本が毀れ始めたのは冷戦の終結以降です。」
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2402/西尾幹二批判029—ドイツに詳しいか②。

  西尾幹二・国民の歴史(1999)の第33章<ホロコーストと戦争犯罪>(全集版p.605-)は、ドイツ1980年代後半のErnst NolteやJürgen Herbermas らによる、ホロコーストに対するものを含むドイツ「人」・「民族」・「国家」の<責任>に関係する<ドイツ・歴史家論争>に一切触れていないこと、ノルテの名もハーバマスの名も出すことができていないことは、前回に触れた。
 あらためてこの章を読み返して、すぐに気づくのは、上の点を容易に確認することができることのほか、西尾幹二における法的素養、ドイツの歴史に関する素養の欠如だ。
 前回からの本来の論脈からずれるし、立ち入ると長くなるので、簡単にまず前者から簡単に触れよう。
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  西尾はJaspers による「良心的」責罪論を批判する中で、「責任」に該当する語をドイツ語のVerantwortung ではなく、「法律用語」としては「損害賠償責任」に適用されるHaftung を「用いているのも気になる」とする。全集版、p.613。
 この部分はじつは、西尾自身による、朝日新聞記者による注記を西尾が疑問視しないでそのまま紹介している箇所と矛盾している。
 同記者はヴァイツゼッカーの<政治的な責任>とはドイツ語でHaftung で、<道徳的な責任>とはVerantwortung だと両語の区別を明記している、とする。全集版、p.614。
 西尾はHaftung は法律用語として「損害賠償責任」に適用されると前者では書き、後者では平然と「政治的な責任」だと紹介している。
 この<法的>と<政治的>の区別は、西尾のこの章では重要なはずなのだが、ここでは無視してしまっている。
 いいかげんだ。
 なお、法律用語として「損害賠償」に最も該当するドイツ語はSchadenersatz(またはs を間に入れてSchadensersatz)で、「損害賠償をすること」という名詞としては、Ersatzleistung という語もある。
 有限会社のことをドイツではGmbH と略すが、これはG(会社) mit geschränkter Haftung(有限責任会社)のことで、この「責任」は損害賠償責任に限られはせず、もう少し広い意味だ。
 このあたりのドイツの諸概念の分析だけで、一つ、二つの研究論文はかけるし、現にある。
 立ち入りたいがほとんど省略すると、損害倍賞責任のみならず、土地収用のような意図的かつ適法な権利侵害(収用は権利剥奪)に対する「補填」=損失補償もまた、国家のHaftung の一種とされることがある。
 もちろん、西尾幹二は素人だから、そんなことは知らないし、知らなくてもよい。問題は、シロウトだという自覚があるか、だ。
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  西尾の論調の前提は、①ヒトラー・ナツィスはホロコーストという「大犯罪」を冒した(この点で揺るぎがないのは、世界の通念らしきもの、かつ日本共産党等と全く同じ)。②戦後ドイツは「国家として」、<集団的>かつ<法的責任>がある、というものだ(これも日本共産党らとほぼ同じ)。
 これを前提として、「集団的」責任を認めようとしないワイツゼッカー1985年演説を姑息とし、ドイツの「戦後補償」は「法的」ではなく「政治的」なものにすぎない、とする。
 日本とドイツの<戦後補償>の異同について、種々の専門的文献がある。西尾が書いているのは、そのうちの簡単な一説にすぎないだろう〔何といっても、西尾はこの問題についての法学者・歴史学者ではなく、ただのシロウトにすぎないのだから)。
 このあたりで感じる法的な基礎的素養のなさは、<国家の(法的、とくに賠償)責任>というものの理解についてだ。
 日本ではしばしば国を被告とする損害賠償請求訴訟が提起され、原告国民の側が勝訴することも少なくないから、そういう<国家の責任>は当然にありうる、と一般に理解されているのかもしれない。
 しかし、第二次大戦終了まで(つまりいわゆる戦前までは)、<君主に責任なし>とか<国家無答責>という原則らしきものがあって、損害賠償責任にせよ、国家が「直接に」その責任を負うことはない、と考えられてくきた。
 したがって、民法上の不法行為責任を問う場合でも、公務員にある不法行為責任を「使用者」としての国(・公共団体)が「肩代わり」=代位する、という構成をとらざるをえない。そして、民法の特別法とされる国家賠償法という法律の第一条(国家の公権力責任)も、少なくとも文理上は「代位」責任説で成り立っているような条文になっている。これに対して、直接の加害者として「直接に」責任を負うのだ(国家賠償法一条もそう「解釈」すべきだ)という論もあるが立ち入らない。
 ドイツで、「集団的」=国家的、「個人的」かという区別が重視されるのはおそらく日本以上であり、いまだに国(連邦、州等)の賠償責任は民法+憲法(基本法)に依っている。つまり、官吏(公務員)個人の職務上の義務違反(違法・不法行為)の存在が少なくとも論理的、抽象的には必要なのだ。
 責任はまず(国家ではなく)「個人」(公務員であっても)、という考え方は欧米では(「個人」主義だから?)今も強いように推察される。
 ドイツ「国家」・「民族」の<責任>に関する議論も、大統領演説の理解も、こうしたことをふまえておく必要があるだろう。
 むろん、シロウトの西尾は知らない。この人は、日本での常識的理解から出発している。
  もう一点、法的素養についてとは関係なく感じるのは、この章の文章作成過程のいいかげんさだ。
 長くは立ち入らない。要するに、のちの櫻井よしこにも江崎道朗にもよく似て、要領よく関係文献を探し、引用・紹介しつつ(そして文字数を稼いで)、自説を挿入し結論らしきものを述べる、というスタイルだ。
 この章で引用・紹介されているのは(つまり文章執筆の際の素材になっているのは)、①Sebastian Haffner というジャーナリストでもある者の一著、②ランダムハウス英和大辞典、③<共産主義黒書>、④ブリタニカ国際大百科事典、⑤Karl Jaspers の本のたぶん一部、⑥ Weizsecker 大統領演説、⑦朝日新聞1995年1月3日記事(同大統領Interview)、⑧朝日新聞1995年1月1日付特集(図表を含む記事の写真まで載せている)。
 これらによって、西尾幹二が自らの生涯の主著の二つのうちの一つと自称しているものの一つの章が執筆されているわけだ。ああ恐ろしい。
 熟読して、いかほどに参考になるのかは、主張らしきものは単純だが、きわめて心もとない。
 なお、ついでに。つづく最後の第34章<人は自由に耐えられるか>について、この章の「骨格」をすでに分析している。
 →2307/『国民の歴史』⑥(2021.03.05)。
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  本筋に戻ると、西尾幹二はヒトラー・ナツィス時代についてもだが、ドイツの歴史に関する基礎的な素養に欠けている、と見られる。
  したがって、ナツィスの「犯罪」に触れても、これと別個にソ連・ボルシェヴィキ体制による「大量虐殺」に論及することはあっても、ヒトラーと共産主義、ヒトラーとレーニン・ロシア革命、ナツィとボルシェヴィズムの関係、異同を問うという姿勢とそれにもとづく分析は、全くと言ってよいほど存在しない。
 西尾はナツィのホロコーストは「大犯罪」だと当然視するが、「歴史」家らしく装いたいならば、いったいなぜそのような事象が起きたのかを、とくに先行したロシア革命やボルシェヴィキ体制の確立との関係にも目を向けて、もっと関心を持って追及すべきではなかったのだろうかか。
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  さて、<歴史家論争>の有力な当事者だったErnst Nolte には、この論争に関係する、さしあたりつぎの二著がある。邦訳書はないが、刊行年で明確なように、西尾幹二が1999年著で<ホロコーストと戦争犯罪>を書いたときよりも前に出版されている。
 ① Ernst Nolte, Das Vergehen der Vergangenheit -Antwort an meine Kritiker im sogenannten Historikerstreit (Ulstein, 1987). 計493頁。
 (直訳—<過去の経緯・いわゆる歴史家論争での私の批判者たちへの回答>)
 ② Ernst Nolte, Streitpunkte -Heutige und künftige Kontroversen um den Nationalsozialismus (Propyläen, 1993). 計191頁。
 (直訳—<争点・国家社会主義をめぐる今日と将来の論議>)
 上の二つと違って所持はしていないが、この論争の個別論考等を一巻の書の中にまとめている資料的文献として、つぎがあるようだ(正確には知らない)。
 ③Piper Verlag(Hrsg.=編), Historikerstreit: Die Dokumentation der Kontroverse um Einzigartigkeit der nationalsozialistischen Judenvernichtung, 3.Aufl. 1987.
 西尾の1999年の文章よりも前。「国家社会主義によるユダヤ人絶滅の
Einzigartigkeit(唯一性、独自性、特別性)」に関する論争だったとこの書の編集者は理解しているようだ。
 なお、表題からすると、どちらかというとErnst Nolte の支持者によるようだが、つぎの書物(冊子)も、のちに刊行されている。
 ④ Vincent Sboron, Die Rezeption der Thesen Ernst Nolte über Nationalsozialismus und Holocaust seit 1980(Grin, 2015). 計16頁。
 これには、Ernst Nolte とJürgen Herbermas の主張の「要旨」または「要約」が掲載されている。
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  西尾幹二がドイツの新聞や雑誌に日常的に接していれば、この<歴史家論争>に気づかなかったはずはない。実際には彼は、1980年代〜1990年代のドイツ国内での議論に全くかほんど関心を持っていなかった、と推測できる。
 戦後直後のK. Jaspers の本(1946年)に比較的長く言及しているくらいだから、主題に関する資料的・文献的素材の限定性・貧困性ははっきりしている。
 なお、すこぶる興味深いのは、西尾の基本的論調は、ドイツの中ではErnst Nolte(保守)ではなくJürgen Herbermas〔左・中)により親近的・調和的だ、ということだ。
 上の点はさておき、本来の副題は「ドイツに詳しいか」だった。
 西尾幹二は、ドイツに全く詳しくない。ついでに、これは、川口マーン恵美についても同様。
 西尾という「ハダカの王様」に対しては、「ハダカ」だ、と正確に、きちんと指摘しなければならない。<いわゆる保守>にもあるに違いない「権威主義」らしきものを無くさなければならない。「知的に誠実」であろうとするかぎりは。
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  Ernst Nolte はホロコーストの存在自体を否定しているのではない。
 例えば、1917年・ロシア革命の「成功」、1923年・ヒトラーのミュンヘン一揆の「失敗」という時系列的な関係がある。そしてノルテは、ドイツ(・ナツィス)に対するソ連(レーニン・スターリン)の影響を、より多く問題視したいのだ(少なくとも一つはこれだと)と勝手に推察している(ある程度は読んでいるが)。
 第三帝国とロシア革命・ソ連の間には、1917年4月のレーニンのスイスからのドイツ縦貫「封印列車」によるロシア帰還を含む財政援助等から始まる長い歴史がある。また、ロシア革命前後に、国際的ユダヤ人組織の陰謀についての「偽書」がドイツでも流布され、現実的影響をもった、ともされる(<シオン賢者の議定書>)。さらに、コミンテルン指揮下のドイツ共産党が社会民主党<主敵>論をとって共闘・統一行動しなかったことは、ヒトラーの政権掌握を「助けた」。
 むろん、西尾幹二にはこの時代の歴史に関する基礎的素養はない。
 少しでも記しておこうかと、すでに試訳しているR・Pipes の書物の一部(ボルシェヴィキの「戦術」をヒトラー・ナツィスは「学んだ」という旨の叙述を含む)を見ていたりしていたが、長くなるので、ロシア革命とその後のロシア・ソ連全体を振り返る場合のために、残しておこう。
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2390/西尾幹二批判027・同2019年著②。

  西尾幹二・国家の行方(産経新聞出版、2019)。
 冒頭に、刊行に際して新たに執筆されたようである、緒言的な24-25頁の文章がある。収録した産経新聞上の「正論」の内容を反復したり概述したりしたものではなく、刊行時点での西尾幹二の<述懐>を記述しているのだろう(2019年末〜2020年冒頭に執筆)。
 西尾幹二らしい特徴がここにも見られるので、上の文章に限ってコメントする。その一回め。
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  全体からいくつかの基本的感想が生じる。
 関係し合っているが、第一は、<アメリカ>へのこだわりだ。北朝鮮や中国・韓国も出てくるが、この人の意識(・頭)を占めているのは圧倒的に「アメリカ」(と日本)だ。
 第二、上の反映として、中国や北朝鮮への強い非難・批判の調子はないか弱い。
 これは、西尾幹二における<反共産主義>の欠如か脆弱性を示している。
 第三に、やや次元が異なるが、アメリカ(・トランプ大統領)の良心的な?示唆・誘導を受けても動こうとしない日本、ということを何度もくどくどと書いて、立派ないわば「反日」論、日本国家・日本人批判論になっている。
 上の第三点から触れよう。
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  西尾幹二の図式はこうだ。アメリカ・トランプ大統領の<日米安保不公平論>(p.4-5「彼の心の中ではすでに安保条約は破棄されている」)等→日本の自立を促す→日本国家と日本人は何もせず、「国家意志」がない。
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  日本国家・日本人に対する痛罵の言葉が多いのは、つぎのとおり。
 ①「日本人よ、今こそ本気で考えよ、と言ってくれたのは、親切心の表れであって、脅かしでも何でもない。それなのに日本人は今度も反応しない。居眠りをし続けている」。p.5。
 ②江戸時代の「鎖国」状態だ。幕末前のように、「眠ったままなのか、眠ったふりをしているのか、…仮睡(うたたね)は日本人の習性」だろうか。p.6。
 しかしもちろん、西尾幹二だけは違う(と思っている)。
 「ほぞを噬む思いで溜息をを漏らしつつ事態の動きを深刻に見つづけているのである」。p.6。なお、<ほぞを噬む思いで溜息をを漏らしつつ>とは文芸畑の人らしい形容副詞句。こういうのを頻繁に行うと、字数は多くなり、文章は長くなる。
 日本人・「日本民族」への罵倒はつづく。
 ③「たった一度の敗戦が…次の世代の生きんとする本能まで狂わせてしまった、というのが実態かもしれない」。p.6。
 ④「たった一度の敗戦で立ち竦んでしまうほど日本民族は生命力の希薄な国民だったのだろうか」。p.7。
 若干の?中断ののち、罵倒あるいは厳しい批判がつづく。
 ⑤アメリカ政府にあり日本政府にないのは「地域全体を見ている統治者の意識」だ。「日本人は幕末より以前の時代感覚に戻ってしまっている」。p.18。
 つぎの二つもなかなかすごい。
 ⑥韓国と「同じ種類の国家観念の喪失症を患っているのが日本人」でないか。
 ⑦「深く軍事的知能と結びつい」た「最悪の事態を考える能力」を失っていることは「人間失格だということさえもまったく分からないほどに何かがまるきり見えなくなっている」。p.18。
 そして、決定的には、あるいは最終的には、つぎの結論へと至る。将来予測か現状認識かがやや意味不分明だが、日本は「消滅と衰亡」の道を進むことになり、「生きんとする意志を捨てた単純な自殺行為」をしている、ということのようだ。
 ⑧「民族国家としての日本はどんなに努力しても消滅と衰亡への道をひた走ることになるであろう」。
 ⑨「憲法9条にこだわったたった一つの日本人の認識上の誤ち、国際社会を感傷的に美化することを道徳の一種と見なした余りにも愚かで閉ざされた日本型平和主義の行き着くところは、生きんとする意志を捨てた単純な自殺行為にすぎなかったことをついに証拠立てている」。
 この⑨が追記部分以外の元来の文章の結び。
 ++++
  何故こんなに悲憤慷慨しているのか? なんでこんなに日本国家と日本人を責めるのか?
 もちろん、その言う「日本人」の中に西尾幹二本人は含まれない。自分だけは別で、自分はきちんと正しく気づいているのに、その他一般の大衆?「日本人」が悪い、とうわけだ。
 何に悲憤慷慨しているかというと、日本国家と日本人には「国家意志」がない、ということに尽きる
 ①「テーマはどこまでも日本人の国家意志の自覚の問題である」。p.17。
 ②「問われているのは常に日本人の『意志』なのである」。p.21。
 そして、この文章(緒言)全体の表題は、「問われている日本人の意志」、ということになっている。p.1。
 ++++
  では、いかなる「意志」、「国家意志」を持てばよいのか。
 人文社会系の多少とも学術的論文または小論だと、「問われている日本人の意志」を主題とすると明記したからには、その「意志」、「国家意志」の内容を整理して、箇条書きにでもして明記しておくものだが、西尾幹二は、そんな下品な?ことをしない。
 親切にも?、読者の判断と解釈に委ねている。
 そして、なるほど、ある程度は理解することができる。
 抽象的には、<対米自立>だ。
 しかし、<(対米)自立>の「意志」と言ったところで、それだけでは具体性を欠く寝言にすぎない。西尾幹二が想定していると見て間違いないのは、おそらくつぎだ。
 ①日本国憲法の改正、とくに9条2項を改めて、「軍隊」保持を明確にすること。
 ②この「軍隊」は当然に、北朝鮮有事で「戦争」を仕掛けられれば「戦争」をする(p.19-p.20参照)。「敵基地」先制「攻撃」もすることができる(p.7)。
 ③この「軍隊」は核兵器も持つ(p.5参照)。
 しかし、この程度のことなら、西尾幹二に限らず、主張している論者はいくらでもいるだろう。少なくとも西尾幹二だけに特有なのではない。憲法改正も含めて、国家・日本人全体の「意志」にまで高まってはいないとしても。
 したがって、大仰に嘆き悲しみ、自分だけは気づいていると<上から目線で>、日本人・日本民族と日本国家を罵倒することができるほどのものなのか、という大きな疑問が生じる。
 ついでながら、第一にレトリックの問題。西尾において憲法9条を改正できない「日本型平和主義」の行き着き先が「単純な自殺行為」なのだが、この「日本型平和主義」には、「国際社会を感傷的に美化することを道徳の一種と見なした余りにも愚かで閉ざされた…」という形容詞が付いている。
 「国際社会を感傷的に美化することを道徳の一種と見なした余りにも愚かで閉ざされた」という言葉上の長ったらしい表現で、具体的に何かが明瞭になるわけではない。
 第二に、不思議なのだが、西尾はしきりと北朝鮮関係の「有事」に触れるが、<尖閣有事>も<台湾有事>も念頭に置いていないような書き振りだ。
 ++++
 4 さて、西尾幹二は明記していないが、その言う「国家意志」の中には、日米安保条約の廃棄まで入っているのか?
 対米従属を脱して<自立>しようと言うなら、自国は自分たちだけで「防衛」する、集団的安全保障体制には組み込まれない、という考え方もあり得る。しかし、西尾は何ら触れていない。
 何ら触れていないということは、そこまでの主張はしていない、ということだろう。
 このあたりで既に、西尾幹二における安全保障および軍事に関する基礎知識・素養のなさが表れていると見られる。
 西尾は国際政治、日米関係、軍事・軍事技術等の専門家では全くない。そのことを意識・自覚しているのだろうか?
 日米安保条約の廃棄、韓国軍等との「協力」体制の廃棄までにいたっていない主張は、上記のとおり、珍しくも何ともない。わざわざ、「国家意志」を持て、と執拗に指摘するほどの主張ではない。
 西尾幹二は、いったいなぜ、いったい何を、喚いているのか?
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  つぎに記したいことを先取りして、資料・史料として先ずいくつか引用しておこう。
 ①西尾幹二の2019年著の上と同じ緒言。
 1989年の「ベルリンの壁」の崩壊以降、「なぜ東アジアに共産主義の清算というこの同じドラマが起こらないのか」。
 「…中国という国家資本主義政体の出現そのものが『ベルリンの壁』のアジア版であった、と、今にしてようやく得心の行く解答が得られた思いがする」。p.21-p.22。
 ②1997年に設立された<日本会議>の「設立宣言」の一部。
 「冷戦構造の崩壊によってマルクシズムの誤謬は余すところなく暴露されたが、その一方で、世界は各国が露骨に国益を追求し合う新たなる混沌の時 代に突入している」。
 ③西尾幹二・2017年1月29日付<つくる会>「創立二十周年記念集会での挨拶」
 「私たちの前の世代の保守思想家、たとえば…に反米の思想はありません。/反共はあっても反米を唱える段階ではありませんでした」。
 「はっきりした自覚をもって反共と反米とを一体化して新しい歴史観を打ち樹てようとしたのは『つくる会』です」。「反共だけでなく反米の思想も日本の自立のために必要だということを、われわれが初めて言い出したのです」。
 同全集第17巻・歴史教科書問題(国書刊行会、2018)712頁。
 今回は立ち入らないが、このような総括には、2017年段階での西尾幹二による「つくる会」に関する<歴史の捏造>・<歴史の偽造>がある、と見られる。
 ④西尾幹二・国民の歴史(1999年)第34章の一部。
 「われわれを直接的に拘束するものは、今はない。…
 これからのわれわれの未来には輝かしきことはなにも起こるまい。
 共産主義体制と張り合っていた時代を、懐かしく思い出すときが来るかもしれない。私たちは否定すべきいかなる対象さえもはや持たない。
 同全集第18巻・国民の歴史(国書刊行会、2017)633頁。
 ——

2384/L・コワコフスキ「退屈について」(1999)①。

 レシェク・コワコフスキ/Leszek Kolakowski・自由・名声・ 嘘つき・背信—日常生活に関するエッセイ(1999)。
 =Freedom, Fame, Lying and Betrayal -Essays on Everyday Life-(Westview Press, 1999).
 第12章へと進む。原書、p.85〜。この書に邦訳書はない。
 —— 
 第12章・退屈について(On Boredom)①。
 (1)退屈について語って、退屈させようとしているのではない。
 換言すると、私は簡潔でなければならない。
 退屈の問題それ自体は、退屈なものでも瑣末なものでもない。我々みんなが経験している感覚(sensation)に関係するからだ。
 極端な場合(例えば、感覚喪失を伴う心理実験)を除いて、退屈は楽しい感覚ではない。だが、それを苦痛と呼ぶこともできない。//
 (2)退屈は、美学上の性質に似て、経験し得るものと、経験した事物に帰属するものとの、両方であり得る。すなわち、私はある小説に退屈し得るが、その小説自体がまた退屈なものであり得る。
 ゆえに、ある人々が何のために「現象論理学」研究と称するのを好むかは、適切な主題だ。//
 (3)この言葉の日常的な用法を考えるとき、まず最初に気づくことは、我々がそのうちに経験する事物についてのみこの語を使っていることだ。
 かくして、演劇、演奏会、歴史論文や仕事は、全て退屈であり得る。
 我々はしかし、絵を描くことは退屈だと通常は言わないだろう。絵を描くのは、我々が一瞥すれば理解することだからだ。
 風景は、長い間それを見ていると、退屈なものになり得る。列車の窓から見える雪で覆われた平原は、その単調さと目立つものの欠如のために退屈なものになり得る。
 我々が経験する事物は、繰り返しが多いか、または混沌、無意味、支離滅裂かのどちらかの理由で、退屈であり得る(混乱や支離滅裂を描写する小説または戯曲は必ずしも退屈ではないけれども。Beckett やJoyce は好例だ)。
 そして、こうした事物に関する我々の経験が不変で連続していて、新しさの見込みがないために、その結果として何も新しいことが生じるのを期待できない、かつかりにそうであっても何ら気にしない、つまり我々に関しては期待することが全く起きないと思う、そういう世界にいると感じるときに、我々は退屈する。//
 (4)それ自体で退屈なものは何もない、と人は論じることができる。なぜなら、人々は世界の些少な違いにかなり異なって反応するのであり、退屈かどうかは、人々の過去の経験や現在の環境条件によるのだ、と。
 かつて面白いと感じた映画は、のちにすぐにもう一度観ると退屈になる。その映画の中で起きることはもうすでに我々に発生したからだ。
 音楽についてほとんど知らない人は、ブラームスの一定の交響曲に退屈するかもしれないだろう。だが、例えば、チャイコフスキーやパガニーニのバイオリン協奏曲、あるいはショパンのピアノ協奏曲には退屈しないかもしれない。一方で、音楽の知識が多い人は、そのような人の反応に同意せず、その人を無知だと非難するだろう。
 他者には魅力的な歴史論文であっても、その主題に習熟しておらず、関係もないために、私には退屈かもしれない。そうして、違いを感知して、今までになかった重要さや独自性を見極めることができなくなる。
 長期間にわたって決まりきった事として行ってきた人には退屈だと感じる仕事も、初めての人にとっては必ずも退屈でない。
 あるアガサ・クリスティの殺人事件小説は、我々が知らない言語で読もうとすれば、極端に退屈だろう。等々。//
 (5)退屈というものは相当の程度は我々の経験や世界に対する個人的な反応いかんによっている、というのは明瞭だと思える。また、これについては全員一致というものはない、ということも。
 ゆえに、ある何かはそれ自体で退屈であり得るか否かと問うことは、美学的特性はつねに我々の個人的反応の反射にすぎないのか、それとも、何らかのかたちで我々の知覚の対象、つまり「物それ自体」、の中に内在しているのか、と問うことにむしろ似ている。
 確かに、上の両者のいずれについても、同意も不同意もある。
 また、いずれの場合も、議論の性格は文化依存的(culture-dependent)だ。
 しかし、問題はたんに答えられないということかもしれない。つまり、こうした退屈の性格を知覚するときに心(mind)と客体(object)は相互に働き合っており、我々の知覚と知覚される客体の間の相互影響関係は、どちらが最初なのかを語ることを、いやそれを問うことすら、不可能にしているのかもしれない。//
 (6)我々は退屈について、普遍的な人間の現象であるのみならず—我々みんなにむしろ、例えばBaudelaire やChateaubriand〔いずれもワインの銘柄—試訳者〕に限定されるような、特権を与えてくれる感情—、人間に独特なものだとも考えている。
 我々は動物について、退屈を感じる生物だとは考えない。
 危険がなく、肉体的な欲求が充たされれば、彼らは何もしないで横たわり、活力をたくわえる。そして、彼らが退屈していると考える根拠はない。
 (我々がときどき想像するように、犬が退屈しているとすれば、それはたぶん、我々から退屈を学んだからだ。)
 いつ、我々人間は退屈という経験を最初に明確に語り始めたのかも、明瞭でない。
 この言葉それ自体は存在していたとしても、19世紀より以前の文学上や哲学上の文章の主題ではなかったように見える。
 伝統的な原始的村落で、農民たちは、生存し続けるために明け方から夕暮れまで同じ場所にいてこつこつと働いた。そのような毎日繰り返す仕事の同じさに、彼らは退屈していただろうか?
 我々はこれへの答え方を知らない。だが、ほとんど時間を超えた、変化する見込みがないその農民たちのような運命ですら、退屈という恒常的な感情を誘発することがなかった。
 日常から生まれて継続するものがあった。子どもたちが生まれ、死んでいき、隣人たちは姦通し合い、干魃や激しい雷雨があり、火事や洪水があった。予期できない、神秘的な物事全ては、危険なものも慈悲あるものも、彼らの存在の単調さを救い、自分たちの生活は予測し難い運命の気まぐれに掴まれている、と感じさせたに違いない。//
 ——
 ②へとつづく。

2380/古田博司「歴史に必然なんかない」(歴史通2012年7月号)。

  古田博司「時代の触覚11/歴史に必然なんかない」歴史通2012年7月号(ワック出版、2012年)。
 この頃の<歴史通>には古田博司と宮脇淳子がよく書いている。季刊雑誌のほぼ毎号ではないか。
 また、推測だが、この<歴史通>という雑誌名は、産経新聞社および月刊正論らが始めた(そしていつか、何故か、たち消えになっている)「歴史戦」というキャンペーンと関係があったのではないだろうか。そして、今や<歴史通>と<月刊WiLL>は融合、統合?したような様子であるのは(私の印象では)何故なのだろう。
 この当時の編集長は立林昭彦。のち、花田紀凱のあとの月刊WiLL(ワック)編集長。この立林と花田はともに、櫻井よしこを理事長とする国家基本問題研究所の評議員。
 2000年前後、そして民主党政権だった2009-2012年頃は、月刊正論らには、現在と比べるといろいろな人が幅広く執筆していた。
 所収も堂々と?書いていたし、小林よしのりも書いていた(確認しないので今思い出すのはこの二人だが、現在は絶対にまたはほとんど執筆者になっていない人が他にもいる筈だ)。
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  さて、「歴史に必然なんかない」という表題に興味を持ったのでは全くない。
 「学者」批判、とくに「歴史」、「哲学」の学者への皮肉っぶりもよろしいのだが、目を惹いたのは、つぎの部分だ。
 古田は、ドイツやフランスではなく経験主義?のイギリスだというようなことを書いた直後にこう記す。以下、引用。
 「お手本はドイツ人やフランス人ではない。アングロサクソンになる。
 彼らに一度くらい敗けたからといって、いつまでもすねていると、敗け甲斐がない。ちゃんと真似ようではないか。//
 前にそう書いたら、編集部に削られたことがあった。」
 戦勝国にはフランスも入っている、などと瑣末なことを言いたいのではない。
 注目は、上の最後の部分、「編集部に削られた」だ。
 「すねている」とか「敗け甲斐」という表現の仕方が原因ではないだろう。
 アングロサクソン、つまりアメリカやイギリスを「ちゃんと真似よう」、英米をモデルにしよう、少なくとも(独仏よりも)支持しようという、多分に諧謔も込めた主張が、「編集部」のお気に召さなかったのだろうと思われる。
 どの雑誌の「編集部」か明記されていない。親英米の主張を許さないとは、どの雑誌(または新聞)だったのだろうか。
 また、「削られた」というのは必ずしも正確ではなく、「削ってほしい」、「表現を変えてほしい」という<要請>に古田が「しぶしぶ、いやいや」従ったのを「削られた」と表現した(そのように彼は感じた)可能性はある。
 しかし、確認すべきは、雑誌「編集部」なるものの<力の強さ>、表現・出版活動に関係する(むろん国家の一部ではないが)「権力」の大きさだ。
 対外的には個人名をあまり知られない、雑誌等の編集者、とりわけ編集長(・編集代表)、またついでに記せば、同じく個人名は知られることが一般には少ない、テレビ番組、とくに報道関連番組のディレクター類。
 この人たちかどんな本を読み、どんな人間関係の中にあり、どんな「歴史観」・「世界観」をもっているかは、現実には今の日本を相当程度に維持したり、変えたりしている。つまり、影響力が相対的に大きいように見える。
 原稿を提出した執筆者のその原稿の一部を「削る」(と少なくとも感じられる)ことをする権限を、「編集部」は有しているのだ。
 ついでに言えば、テレビの上記のディレクター類は、番組の基本方向や雰囲気を決定し、コメンテイターらを選別する「大きな権力」をもっているか、それを分有していると見られる。
 新潮社の冨澤祥郎とか、筑摩書房の湯原法史(西尾の新書<あなたは自由か>を担当)とかの個人名を、組織に埋没させることなくもっと公にすべきだ(なぜこんな本を編集して出版するのか問うべきだ)と、近年はとくに感じている。
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  2017年6月、西尾幹二はつぎのことを自らのウェブサイトで明らかにした。
 産経新聞6月1日付「正論」欄に掲載された文章は、一部についてつぎのような「変更・修正」を求められて、西尾も従ったものだ、という。
 元々の原稿—「櫻井よしこ氏は五月二十五日付『週刊新潮』で、『現実』という言葉を何度も用い、こう述べている。」
 変更後の実際に掲載された文章—「現実主義を標榜する保守論壇の一人は『週刊新潮』(5月25日号)の連載コラムで「現実」という言葉を何度も用いて、こう述べている。」
 このような変更・修正を求めるに際して同新聞「正論」欄担当者は、つぎの旨を西尾に語った、という。
 ①「櫻井氏の名前は出さないで欲しい」。②「同じ正論執筆メンバー同志の仲間割れのようなイメージは望ましくないから」。
 この件については、むしろ西尾幹二を擁護したい気分で、すでにこの欄に記した。→No.1607(2017年6月28日)
 西尾よりも、櫻井よしこの方が、産経新聞グループには貢献度が高いのだろう。
 あるいは産経新聞編集部にとっては少なくとも、「同じ正論執筆メンバー同志の仲間割れのようなイメージ」を抱かれないことの方が、「自由な」言論よりも、と大げさに書かなくても、たんなる個人名の明記よりも、大切なのだ。
 この件もまた、「編集部」の力強さ・「権力」の大きさを示している。
 そして、西尾幹二もまた自分の文章の大半が産経新聞に掲載されることを、かつまた継続して「正論」欄への寄稿の依頼(文章執筆の発注)を受けることを優先した。そして、あとで<ぐじゃぐじゃと>と不満を書きつつも、そのときはやむをえず?従ったのだろう。
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  月刊正論(産経新聞社)の編集について編集代表の力が大きそうであることは(かつ適切とは思えないことは)、つぎの人物がその立場にいたときに何度かこの欄に記したことがある。
 桑原聡。とくに、桑原聡①・No.1226〔2013.11.15) 桑原聡②・No.1225(2013,11.14)
 適菜収という訳の分からない文章書きを雑誌デビューさせたのは、この人物だと見られる。
 さらに恐ろしいことを書いていたのは、桑原聡編集長時代の月刊正論内の読者投稿欄を担当していた、川瀬弘至だった。この人物は、<読者への回答>の一部でこう明記した。 
 「日本と日本人を間違った方向に導くと判断した時には、我々は異見を潰しにかかります」。
 ナツィスは「民族」を理由に、ソヴィエト(・共産主義)は「思想」を理由に、少なくとも「体制・指導者への従順さ」の欠如を理由として、大量殺戮を行った。
 さいわい、川瀬弘至は産経新聞の一社員にすぎない。
 しかし、「我々」の「判断」した「異見」は「潰しにかかる」という言い方は、ナツィスや共産主義者、要するに「全体主義」者の意識・考え方を、十分に彷彿させるところがある。
 だから、今の日本で巧妙に生きていくためには、<文章書き>は、左であれ右であれ、上であれ下であれ、新聞・雑誌、出版社の「編集部」に従順でなければならず、反抗してはならない。
 むしろ某のように、自分のブログにその人物の写真まで掲載して褒めて、編集代表に媚び、原稿執筆の注文をできるだけ多く受けなければならない。
 一定の活字産業が(地上波テレビとともに)衰退気味であるらしいのは、けっこうなことだ。
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2376/西尾幹二批判026—同2019年著①。

 一 岡本裕一郎・いま世界の哲学者が考えていること(ダイアモンド社、2016)にいつかまた触れたいが、「はじめに」では、①「IT(情報通信)革命」、②「 BT(生命科学)革命」が社会や人間を根本的に変えようとしている、③「資本主義や、宗教からの離脱過程」が方向変換しつつある、④「環境問題」もある、なんていうことが書いてある。
 そして、<哲学は今、何を問うているのか>と問い、目次・構成にそった形で、序章の最後にこの書で扱う対象をこう要約している〔ここではさらに要約)。
 ①哲学は今、何を解明しているか、②IT は何をもたらすか、③BT・バイオテクノロジーは何を…、④資本主義にどう向き合うべきか、⑤宗教は今の私たちにどんな影響をもつか、⑥私たちの「環境」はどうなっているのか。
 こういう、哲学と「現代」の問題・世界に関心をもつと、つぎの西尾著は<別世界>の中にあるようだ。国家、民族、自由と民主主義、「共産主義」等々への関心を私が失った、というのでは、全くないけれども。
 --------
  西尾幹二・国家の行方(産経新聞出版、2019)を、だいぶ遅れて入手した。
 上の書よりも後に編まれたものだが、対象は<旧態依然>としている。だが、産経新聞や雑誌・月刊正論、その他の<いわゆる保守>派にはお馴染みの、あるいは得意な?主題かもしれない。私にだって、十分に馴染みはある。
 それにしても、書物の「オビ」の宣伝文句・惹句というのは面白い。
 この西尾著のオビは、こう書いている。なかなかすごいのではないか。
 「日本はどう生きるのか。
 民族の哲学・決定版
 不確定の時代を切り拓く洞察と予言、西尾評論の集大成。」<以上、表>
 「自由、平等、平和、民主主義の正義の仮面を剥ぐ。
  <中略>
 今も力を失わない警句。」<以上、裏>
 誰が発案したのか知らないが、産経新聞出版の担当者はなかなかゴマすりが(依然として?)、あるいは宣伝が(L・コワコフスキによると「嘘つき」だが非難に値しない?)、なかなか上手い。
 さて、産経新聞上の「正論」欄101篇(1985-2019)を収録して、「国家の行方」という表題にしている。
 1989-91年以降の90年代の日本の新聞や「論壇」の状況に興味はあるが、なかなか辿れないので、少しは役立つような気がする。
 この1985-2019年の34年間ほどの西尾幹二が寄稿した「正論」を全て収載しているような書き方をしている。しかし、この点は怪しいのではないか。つまり、2019年時点での加筆・修正は行っていないとしても、割愛して収載対象から除外した個別の「正論」欄文章はあるのではないか。
 こんなことを書くのも、西尾幹二全集を西尾は実質的には個人・自主編集しているようで(むろん出版社の国書刊行会に事務的な「手伝い」編集者・担当者はいる)、各巻の出版の時点で、かつての文章二つ以上を併せて一つにしたり、また、刊行・出版の時点で「加筆・修正」したと明記してあるものまであるからた。
 西尾幹二全集は、決して主題ごとに、この人物の「過去の」、「歴史となっている」文章を〔主題ごとに可能な限り時代・時期順に)そのまま掲載・収載している「全集」ではない。各巻の「しおり」にではなく、本体そのものに西尾以外の人物による「ヨイショ」文章が同じ(またはそれ以上の活字の)大きさで付いているのも、目を剥くことだが。
 かつまたついでに書けば、①最初の新聞・雑誌投稿時点、②それらを単行書としてまとめた時点(の加筆・修正)、かつその時点での概括、③「全集」出版時点での西尾による概括・論評(ほぼ「自賛」)等の種別が少なくともあって、この「全集」は、はなはだ読みにくい。三島由紀夫全集のように(第三者による)詳細な<索引(可能ならば人物・事項別)>を付けるつもりなどはきっとないのだろう。全集収載の諸文章の初出・加筆の年次別の詳細な一覧をまとめるだけの「誠実さ」をこの人は持っているのかどうか。<全巻完結>とだけ大々的に?宣伝させるのだろう。
 元に戻ると、このような西尾の自分の「過去の」文章に対する対応をその「全集」編集の仕方で少しは知っているために、上の書でも、きっと今の時点で<まずい>とあるいは表向き主題に合わないと西尾が判断する「正論」欄文章は、その旨を明記することなく(この点が重要だ)、除外しているのではないかと、天の邪鬼に、あるいは疑心暗鬼に想像してしまうわけだ。
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  ここまで一気に書いたら、もう長くなった。
 冒頭の「はしがき」にあたるものと、2019.03.01付産経新聞に掲載した文章で成る「おわりに」だけを読み終えた。
 全体としてのこのような書自体と、上の二つの論考?について、すでに言いたいこと、書きたいことが山ほど?ある。
 この人が書いていることは、しょっちゅう(少なくとも主要主張または重点レベルで)変わり、決して一貫していない。かつまた、政治(・国際政治)・外交、日本政府の政策について、元来はこれらに「ただの」シロウトの、文学部卒・文芸評論家が、これほどに偉そうに、<上から目線>で、国際政治(アメリカ政治・外交を含む)・日本の政治や政策について、何やら長々と?語っていること、そしてまとめてこういう書物を刊行できること自体に、西尾がこの著の冒頭では論難している「日本国家」と日本社会の退廃を十分に感じとることもできる。
 さらには、元来の学者・研究者から離れて、新聞・雑誌出版業界に「こき使われて」、こんな文章を書くための準備に日々を費やして、もっと重要で基礎的なことの「入力」を忘れてしまった、つまりは<文章執筆請負自営業者>になり果てて、思想・哲学も、そして元来は研究対象だったはずのドイツの「哲学」・「歴史学」等の状況を平行して把握しておくことも忘れてしまった人物の<悲哀>を、あるいは西尾の好きな言葉では「悲劇」を、十分に感じさせる書物だ。
 その意味では、時代的・歴史的意義をやはりもつ(決して好意的・肯定的評価ではないが)。
 回を改めて、つづけよう。
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2365/西尾幹二批判025a—『国民の歴史』⑦a。

  西尾幹二・国民の歴史(1999年)を手にしたのは発刊直後ではなく、2000年代半ばから後半で、このブログサイトを始める前だった。
 その頃は今から思えば単純に<反朝日新聞>・<反日本共産党>・<反共産主義>だったから、そのような自分の立場?と同じ陣営?にいる人の書物として入手した。
 そして、そのような基本的立場にだけ満足して、少しはじっくり見てさすがに「日本的」だと感じたのは挿入されている仏像の写真だけで、本文にはほとんど目を通さなかった。
 それが近年までつづいたのだが、最近に少しは熟読してみようと捲ってみると、10数年の時の経過もあってか、<粗さ>が目につき、ひどい。
 10数年前にじっくりと読んでいたら、この奇妙さ、単純に<つくる会>は立派なことをした(している)とは言えないことに、気づいただろうか。
 年寄りになっても、間違いを冒すものだ。
 自分もまた、二者択一的、二項対立的な思考、いや「思い込み」をしていたものだと、きわめて恥ずかしくなるし、貴重な日々と時間を西尾幹二らの文章を読んで無駄にしてきた、とも思う。
 しかし、責任はあげて自分自身にある。全てを自分が「引き受け」なければならない。
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  朝日新聞・日本共産党・共産主義に最も積極的に反対し、「闘って」いそうだ(そうに違いない)といわゆる<保守>について思い込んだのが、そもそも間違いだった。
 <保守>=反共というのは大いなる「錯覚」だった。この点が不満で、「反共」意識、「反共」性が乏しいか曖昧だと、この欄にしきりと書いていた時期があった。
 しかし、日本の<保守>の中枢点は決して「反共」、その意味での(江崎道朗の造語とは異なる意味での)「自由主義」ではないようだ。
 そのあたりを表現するために「観念保守」とか「原理保守」という言葉を作ってみたりもした。最近では「いわゆる保守」という語を用いている。
 「いわゆる保守」の結節点は「反共」・「自由主義」ではない。「日本」であり、「愛国」、そして「日本民族主義」だ。かつてのイメージの「右翼」に近い。
 「天皇」も挙げてよいかもしれないが、この点では「いわゆる保守」は、男系天皇制度死守で一致している。櫻井よしこも、西尾幹二も同じ。
 「保守」派といっても、「女性」・「女系」天皇容認派とは、かなり思考の仕方が異なる。
 かつて「生長の家」活動家によって、あるいは「つくる会」を追いかけるように設立された日本会議の活動家によって、例えば八木秀次を引っこ抜かれたりして?、「つくる会」が撹乱されて分裂に至った責任の重要な一つは、初代会長・西尾幹二にある。
 ある程度は推測になるが、そのような活動家の事務局や理事の中への浸透に気づかなかった西尾幹二の「政治的音痴」ぶりは甚だしいものがあるように思える。
 しかも、今日ではこちらの方が重要だが、そのような「痛い目」にあったにもかかわらず、日本会議主流派、櫻井よしこ、八木秀次等と同じく「男系」天皇は日本の伝統とうそぶいて、彼らと歩調をともにしているのが西尾幹二という「知識人」あるいは「売文業者」(=文章執筆請負自営業者)のなれの果てだ。
 かつて八木秀次等や日本会議に対して激しい批判をしたにもかかわらず、また櫻井よしこついても皮肉っぼい言辞を吐きながら、なぜ「仲間」でいるのか。それは、「正論」欄に原稿発表の場を設けてくれる(そして全てをまつめて一冊の本にしてくれたりする)産経新聞社に恩義を感じているからだろう。
 「恩義」というより、「寄生して拠り所としたい」という気分だろうか。
 西尾幹二は<産経文化人>にとどまることを選び、そこに最後の「身の置き所」を見出しているのだ。文章執筆を依頼してくれるところがあり、文章「発表」の場をもつというのは、経歴からしても<骨身に染み込んだ最低限の希求>であるに違いない。
 秋月瑛二には想像し難いことだが、誰からも、どの新聞社からも、どの雑誌編集部からも「お呼びがかからない」という状態には、この種の「知識人」・「売文業者」にはきっと耐えられないのだろう。
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  西尾幹二『国民の歴史』(1999、2009、2017)の最初あたりで、西尾はしきりと「神話」と「歴史」の関係等に関心をむもって叙述しているが、疑問も多いこと、のちの叙述と矛盾もあることはすでに触れた。
  すでに、一定の「矛盾」もこの欄で指摘してきた。
 ①1999年『国民の歴史』第6章にはこんな見出しがある。
 ・「歴史と神話の等価値」。・「すべての歴史は神話である」。
 文章を引用すると、例えばこうある。
 ・「古事記」や「日本書記」の「ばかばかしいつくり話に見える神話は歴史ではない」と決めつけてよいのか。
 ・「あえて言うが、広い意味で考えればすべての歴史は神話なのである」。
 ・漢書や魏志倭人伝も「広い意味での歴史解釈の材料の一つとして、少なくとも神話と等価値に扱われるべき性格のものである」。
 以上、全集版(16巻)、p.105-6。
 ②しかし、2017年の「つくる会」20周年集会への挨拶文にはこうある。全集第17巻、p.715。
 「歴史の根っこ」の把握のためいきなり「古事記」に立ち還ろうとする人がいるが、「そのまま信じられるでしょうか」。
 「神話と歴史は別であります。
 神話は解釈を拒む世界です。
 歴史は諸事実のなかからの選択を前提とし、事実を選ぶ人間の曖昧さ、解釈の自由をどうしても避けられませんが、神話を前にしてわれわれにはそういう自由はありません」。
  ついでに記すと、上の前者には、こんな文もある。「歴史」に対してというより、「科学」と対比しているようでもある。
 ①「神話を知ることは対象認識ではない。どこまでも科学とは逆の認識の仕方であらねばならぬ」。
 「認識とは、この場合、自分が神の世界と一体となる絶え間ない研鑽にほぼ近い。」。
 上の後者も「神話を前にして」「解釈の自由」はないと述べて、神話の「対象認識」性を否定しているようにも見えるが、以下のようにも語る。約20年を隔てて、共通性がないとは言えない。
 ②「神話は不可知な根源世界で、全体として一つであり、人間の手による分解と再生を許しません」。
 このあたりの論述の趣旨はよく分からない。というのは、西尾が100パーセント自分の頭から生み出した考えではなく、誰か別の者の著書を参照しているに違いないと思われるが、詳細な議論はなく、「認識」や「解釈」等の語についての立ち入った意味説明は全くないからだ。
 <歴史>に対しては「解釈の自由」があるが、<神話>に対してはない、というのが西尾の主張の骨子のようだ。しかし、その根拠・論拠は不明だ。
 なお、ニーチェがかつてもったこの人への影響力から思い切って推測・憶測だけすると、「悲劇」→「ギリシア悲劇」→「ギリシア神話」という連想が生まれる。
 西尾は、<ギリシア神話>に関するヨーロッパ(の誰か)の議論を、日本の「神話」へと単純に当てはめているのではないだろうか。もちろん、「日本の神話」に関する日本人文筆家に許されることでは全くないが。 
 さて、さらに言うと、1999年の文章の一つで、漢書や魏志倭人伝も「広い意味での歴史解釈の材料の一つとして、少なくとも神話と等価値に扱われるべき性格のものである」と述べるとき、この文のかぎりでは、「神話」も「広い意味での歴史解釈の材料」であることを前提にしているようだ。そうだとすると、「解釈」の対象にならないという言明と、矛盾している。
  どうせ<書きなぐっている>文章だとして、あまり詮索しない方がよいかもしれない。
 ただ、さらについでに、指摘しておくべき価値のあることがある。
 上の1の②の後半は、月刊Will2019年4月号の対談(11月号別冊・歴史通)でもそのまま使われている。
 西尾幹二は、同じ文章を<使い回している>。
 「神話と歴史は別であります。
 神話は解釈を拒む世界です。
 歴史は諸事実のなかからの選択を前提とし、事実を選ぶ人間の曖昧さ、解釈の自由をどうしても避けられませんが、神話を前にしてわれわれにはそういう自由はありません」。

 月刊WiLL2019年11月号別冊・歴史通、p.219。(=全集第17巻、p.715。)
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 (この項、つづく)
 季刊雑誌・佐伯啓思監修『ひらく』の編集委員でもある新潮社出版部の冨澤祥郎さん、「真の保守思想家」(西尾2020年著『歴史の真贋』(新潮社)のオビ)とは一体、どういう意味かね?

2316/西尾幹二批判021—「哲学・思想」②。

 哲学関係もそのようだが、歴史学や法学など、人文社会系学問分野での<講座もの>または<体系もの>を岩波書店が刊行することが多いようだ。自然科学系は違うと期待したいが、<人文・社会>系での<岩波>には権威がかなりあるらしい(とくにアカデミズムの分野では)。
 そして、<岩波>は明確な「反共産主義」の書物を刊行しておらず、ロシア革命を扱っても明確なレーニン主義批判(そして現日本共産党批判)にまでは至らない、というのがこの出版社の特色だ。
 こんなことも知らず?、執筆当時はれっきとしたイギリス共産党の党員が書いたレーニン関係の邦訳書である岩波新書(下の①)をもっぱら参考にして、「レーニンの生い立ち」を叙述していた、江崎道朗というお人好し?の、いや「悲惨な」自称「保守自由主義」者もいた(下の②参照)。 
 ①クリストファー・ヒル〔岡稔訳〕・レーニンとロシア革命(岩波新書、1955)。
 ②江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017)。
 →No.1819/2018.06.24
 →No.1826/2018.07.09
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  岩波書店の書物を参照するとき、秋月瑛二でも、多少の警戒はする。岩波刊行書だと、意識しておく必要がある。
 しかし、岩波書店刊行の書物をいっさい読んではならない、などと偏狭な?考え方をしてはいない。
 不破哲三から櫻井よしこ・椛島有三まで(三番目の人には書物はごく少ないが)、一部ではあれ、目を通してきている。櫻井よしこはもういいが、不破哲三が書いたものはまだ検証しておくべき余地が残っている。
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  岩波講座/哲学〔全15巻〕(2008-2009年)、というのもある。
 西尾幹二の1999年『国民の歴史』よりも後の出版だが、西尾・自由とは何か(ちくま新書、2018)より前で、西尾が自分の1999年著には「歴史哲学」があると書いた同全集第17巻全体の「後記」(2018)よりも前だ。
 全15巻の各巻の表題は、以下のとおりだった。「」を付けず、改行もしない。
 01—いま哲学することへ、02—形而上学の現在、03—言語/思考の哲学、04/知識/情報の哲学、05—心/脳の哲学、06—モラル/行為の哲学、07—芸術/創造性の哲学、08—生命/環境の科学、09—科学/技術の哲学、10—社会/公共性の哲学、11—歴史/物語の哲学、12—性/愛の哲学、13—宗教/超越の哲学、14/哲学史の哲学、15—変貌する哲学。
 西尾幹二の心や脳内には存在しないかもしれない「心/脳の哲学」も表題の一つだ。また、西尾の心・脳を占めているのかもしれない「歴史/物語の哲学」というのも巻の一つとなっている。西尾自身は1999 年の自著を「歴史哲学」を示すものとし、かつまた「歴史」と「物語」・「神話」の差異や関係にしきりと関心を示してはいた。
 しかし、岩波書店刊行の著書内の論考などには、いっさい興味がないのかもしれない。2020年著も含めて、こうした各主題に迫ろうという姿勢はまるでない。「歴史学者」でも「哲学者」でもないのだから、やむを得ないのだろう。
 「精神」・「こころ」、そして「言葉」の重要性を表向きは語りながら、西尾幹二の文章の中には、例えば、Wittgenstein は全く出てこないだろう。安本美典は一回だけだが(私の記憶で)、この学者に言及していた。
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  2008-09年刊行の上の<哲学講座>を1985-86年刊行の岩波<新哲学講座>と比較すると、各巻の主題の異同もあるが、編集委員(計12名、井上達夫、野家啓一、村田純一ら)の「はしがき」(各巻全ての冒頭に掲載)が興味深い。
 学界所属者たちがいかほどに「はしがき」の内容と同じ意識・認識だったかは疑わしいとしても、1991年のソ連解体を経ての学界の「雰囲気」らしきものは知ることができる。
 つぎの四点の「現状認識」がある(四点への要約は秋月)。
 第一は、「大哲学者の不在」を含む「中心の喪失」だ。少し引用的に抜粋すると、つぎのようになる。-「20世紀の前半、少なくとも1960年代まで」は、「実存主義・マルクス主義・論理実証主義」の「三派対立の図式」が「イデオロギー的対立も含めて成り立っていた」。20世紀後半にこの図式が崩壊したのちも、「現象学・解釈学・フランクフルト学派、構造主義・ポスト構造主義など大陸哲学の潮流」と「英米圏を中心とする分析哲学やネオ・プラグマティズムの潮流」との間に、「方法論上の対立を孕んだ緊張関係が存在していた」。
 だが現在、「既成の学派や思想潮流の対立図式はすでにその効力を失っている」。
 第二に、「先端医療の進歩や地球環境の危機」によって促進されて、諸問題が顕在化した。
 第四に、「政治や経済の領域におけるグローバル化の奔流」が諸問題を発生させている。
 上でいったん飛ばした第三点が興味深い。全文を引用し、一文ごとに改行する。
 「哲学のアイデンティティをより根底で揺るがしているのは、20世紀後半に飛躍的発展を遂げた生命科学、脳科学、情報科学、認知科学などによってもたらされた科学的知見の深まりである
 かつて『心』や『精神』の領域は、哲学のみが接近を許された聖域であった。
 ところが、現在ではデカルト以来の内省的方法はすでにその耐用期限を過ぎ、最新の脳科学や認知科学の成果を抜きにしては、もはや心や意識の問題を論ずることはできない
 また、道徳規範や文化現象の解明にまで、進化論や行動生物学の知見が援用されていることは周知の通りであろう。
 そうした趨勢に対応して、…、哲学と科学の境界が不分明になるとともに、『哲学の終焉』さえ声高に語られるにまでになっている。」
 以上。
 西尾幹二における「哲学」のはるかな先まで、「哲学」学界は進んでいるのだ。いや、「進んで」いないかもしれず、「終焉」しつつあるのかもしれない。だが、少なくとも西尾が知らない、または意識すらしていない可能性がきわめて高い諸問題を、「はるかに広く」問題にしているのだ。
 西尾はいったいどういう自覚に立って、自分の「歴史哲学」を語り、1999年著での自分の「思想」が理解されなかったのは遺憾だった、などと安易かつ幼稚に書けるのだろうか。
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  不思議なことはいっぱいある。<あってはならない(はずの)こと>が、現実(ここでは言葉で外部に「現に」表現されている想念・意識等を含める)にはある。西尾幹二の文章だけでは、もちろんない。

2308/西尾幹二批判020ー「哲学・思想」。

  1999年(『国民の歴史』出版)の10年以上前に、つぎの<講座もの>が出版されていた。 
 新・岩波講座/哲学〔全16巻〕〔岩波書店、1985-1986)。
 各巻の表題はつつぎのとおり。「」を付けず、改行もしない。
 1/いま哲学とは、2/経験・言語・認識、3/記号・論理・メタファー、4/世界と意味、5/自然とコスモス、6/物質・生命・人間、7/トポス・空間・時間、8/技術・魔術・科学、9/身体・感覚・精神、10/行為・他我・自由、11/社会と歴史、12/文化のダイナミックス、13/超越と創造。14/哲学の原理と発展ー哲学の歴史1、15/哲学の展開ー哲学の歴史2、16/哲学的諸問題の現在ー哲学の歴史3。
 当然のことだろうが、「自由」を扱う巻はあり、論考もある。
 この時期はまだソ連・東欧社会主義諸国が存在し、「マルクス主義」哲学者も(日本では)多かったと見られる。
 これらの点は別として、この講座の編集委員(11名。中村雄二郎、加藤尚武、木田元、村上陽一郎ら)による<まえがき>を一瞥すると、つぎのことが興味深い。
 一つは、「哲学の終焉」の危機感などは全く感じさせない、つぎのような叙述をしている。「学問分野としての哲学は、…、研究者の層が厚い。また、前回…が出版された後、研究動向の多彩な展開がみられると共に若いすぐれた担い手たちも育っている」。
 二つに、つぎのような叙述が冒頭にあることが注目されてよいだろう。一文ごとに改行する。
 「…今日、私たち人類はこれまで経験したことのない状況に直面している。
 エレクトロニクスや分子生物学に代表される科学・技術の発達が人間の生存条件を一片させつつある
 と同時に、文化人類学、精神医学、動物行動学の成果からも、人間とはなにかということ自体が改めて問い直されるに至っている。」
 ここで興味深いのは、30年以上前すでに、「文化人類学、精神医学、動物行動学」の成果を参照しなければならないことが(たぶん)意識されていた、ということだ。
 この講座(全集)の第6巻の表題は上記のように、<物質・生命・人間>、第9巻のそれは<身体・感覚・精神>だった。
  西尾幹二が、「哲学」や「思想」にかかわるものとして、「物質・生命・人間」や「身体・感覚・精神」という主題を1999年に意識していたか、その後に何らかの関心を持ってきたかは、相当に疑わしい。
 また、西尾が、「哲学」や「思想」に、「エレクトロニクスや分子生物学に代表される科学・技術の発達」が関係してくるだろうことを、あるいは「文化人類学、精神医学、動物行動学の成果からも、人間とはなにかということ自体が改めて問い直されるに至っている」ということを、どの程度意識してきたかも、相当に疑わしい。このような問題意識は、1999年時点では、ゼロだったのではないか。
 というのは、例えば2018年の西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書)p.36-p.37でも、こんな間違いおよび幼稚なことを書いているからだ。忠実な引用はしない。何回かこの欄で触れてきたからだ。
 ①教育・居住条件の整備(Libertyに対応)と②教育の内容・生活の質(Freedomに対応)は異なる。後者の②は「経済学のような条件づくりの学問、一般に社会科学的知性では扱うことのできない領域」だ。その扱えない問題というのは、「各自における、ひとつひとつの瞬間の心の自由という問題」だ。
 この部分の文章は、<知の巨人>、<思想家>であるらしい、そして1999年著(のとくに前半)は「グローバルな文明史的視野を備えていて」、「これからの世紀に読み継がれ、受容される使命を担っている」と自賛している西尾幹二の、記念碑的な、後世へも(かりにこの人への関心が続くならば)伝えられるべき貴重なものだろう。
 ここにおける「各自における、ひとつひとつの瞬間の心の自由」という表現の奥底にるのは、弱者・愚者を含む「各自」ではない、強者・賢者である「自分(西尾幹二本人)の、ひとつひとつの瞬間の心の自由」を尊重し、高く評価せよ、という強い主張ではないか、と想像している。
 この点はともかく、上の哲学講座の構成やその編集委員の「まえがき」からしても、「ひとつひとつの瞬間の心の自由」が「精神医学、動物行動学」あるいは「分子生物学」と無関係ではないことがとっくに示唆されている。
 現在の脳科学は、「意思の自由」・「自由な意思」の存否またはあるとすればどこ・どの点に、を議論している。
 この欄で言及したように、臨床脳外科医・脳科学者の浅野孝雄も、人間の「こころ」に迫っていて、当然に「自由」性を視野に入れている。
 西尾は、「自由」に関する「哲学」はもちろん、彼には当たり前だが<理系>とされる学問分野における「ひとつひとつの瞬間の心の自由」の研究を全く知らず、関心すらないのだ、と思われる。
  西尾幹二が、「哲学」・「思想」に自分は関係していて、「自由」を論じる資格があるなどと考えること自体が奇妙で、不思議なのではないか。
 同旨を、たぶんもう一回書く。

2302/加地伸行・妄言録−月刊WiLL2016年6月号(再掲)。

 No.1650/2017/07/06の「妄言」とそれへのコメント部分のそのままの再掲。
 記していないが、この発言を聞いている対談相手は、西尾幹二
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 <あほの5人組>の一人、加地伸行。月刊WiLL2016年6月号p.38~より引用。
 「雅子妃は国民や皇室の祭祀よりもご自分のご家族に興味があるようです。公務よりも『わたくし』優先で、自分は病気なのだからそれを治すことのどこが悪い、という発想が感じられます。新しい打開案を採るべきでしょう。」p.38-39。
 *コメント-皇太子妃の「公務」とは何か。それは、どこに定められているのか。
 「皇太子殿下は摂政におなりになって、国事行為の大半をなさればよい。ただし、皇太子はやめるということです。皇太子には現秋篠宮殿下がおなりになればよいと思います。摂政は事実上の天皇です。しかも仕事はご夫妻ではなく一人でなさるわけですから、雅子妃は病気治療に専念できる。秋篠宮殿下が皇太子になれば秋篠宮家が空くので、そこにお入りになるのがよろしいのでは。」p.39。
 *コメント-究極のアホ。この人は本当に「アホ」だろう。
 ①「皇太子殿下は摂政におなりにな」る-現皇室典範の「摂政」就任要件のいずれによるのか。
 ②「国事行為の大半をなさればよい」-国事行為をどのように<折半>するのか。そもそも「大半」とその余を区別すること自体が可能なのか。可能ならば、なぜ。
 ③ 「皇太子はやめるということです。皇太子には現秋篠宮殿下がおなりになればよい」-意味が完全に不明。摂政と皇太子位は両立しうる。なぜ、やめる? その根拠は? 皇太子とは直近の皇嗣を意味するはずだが、「皇太子には現秋篠宮殿下」となれば、次期天皇予定者は誰?
 ④「仕事はご夫妻ではなく一人でなさる」-摂政は一人で、皇太子はなぜ一人ではないのか?? 雅子妃にとって夫・皇太子が<摂政-治療専念、皇太子-治療専念不可>、何だ、これは?
 ⑤雅子妃は「秋篠宮家が空くので、そこにお入りになるのがよろしい」-意味不明。今上陛下・現皇太子のもとで秋篠宮殿下が皇太子にはなりえないが、かりになったとして「空く」とは何を妄想しているのか。「秋篠宮家」なるものがあったとして、弟宮・文仁親王と紀子妃の婚姻によるもの。埋まっていたり、ときには「空いたり」するものではない。
 「雅子妃には皇太子妃という公人らしさがありません。ルールをわきまえているならば、あそこまで自己を突出できませんよ。」 p.41。
 「雅子妃は外にお出ましになるのではなくて、皇居で一心に祭祀をなさっていただきたい。それが皇室の在りかたなのです。」p.42。
 *コメント-アホ。これが一人で行うものとして、皇太子妃が行う「祭祀」とは、「皇居」のどこで行う具体的にどのようなものか。天皇による「祭祀」があるとして、同席して又は近傍にいて見守ることも「祭祀」なのか。 
 「これだけ雅子妃の公務欠席が多いと、皇室行事や祭祀に雅子妃が出席したかどうかを問われない状況にすべきでしょう。そのためには、…皇太子殿下が摂政になることです。摂政は天皇の代理としての立場だから、お一人で一所懸命なさればいい。摂政ならば、その夫人の出欠を問う必要はまったくありません。」
 *コメント-いやはや。雅子妃にとって夫・皇太子が<摂政-「お一人で一所懸命」、皇太子-「出欠を問う必要」がある>、何だ、これは? 出欠をやたらと問題視しているのは加地伸行らだろう。なお、たしかに「国事行為」は一人でできる。しかし、<公的・象徴的行為>も(憲法・法律が要求していなくとも)「摂政」が代理する場合は、ご夫婦二人でということは、現在そうであるように、十分にありうる。
 以下、p.47とp.49にもあるが、割愛。
 この加地伸行とは、いったい何が専門なのか。素人が、アホなことを発言すると、ますます<保守はアホ>・<やはりアホ>と思われる。日本の<左翼>を喜ばせるだけだ。
 **
 ——
 2021年1月某日、JR九州・長崎駅東側。本文とは全く関係がない。

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2299/西尾幹二批判018—『国民の歴史』⑤。

  西尾幹二・国民の歴史(全集版、2017)の最後の章にあたるのは「34/人は自由に耐えられるか」だ。その最後の節にあたるものの表題は、数字番号を勝手に付せば、「04/ハイデッガーの三つの『退屈』」だ。
 前の節の最後には、西尾らしい、つぎの文章がある。全集18巻p.633。
 「自由というだけでは、人間は自由にはなれない存在だからである。
 言い換えれば、われわれは深く底抜けに『退屈』しているのである。」
 さすがだ。<自由だけでは、自由になれない>、<自由でも自由になれない>、<自由でも自由ではない>。これらにはきっと深遠な意味があるのに違いない。
 もっとも、西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)での「自由」概念や「自由」論からしても、ここでの、または章の表題にすら使われている西尾における「自由」という語・観念の意味は、さっぱり分からないのだが。
 上の点はともかく、表題のとおり、ハイデッガーに言及がある(ハイデッガーを使っている)。そして、この哲学者は「退屈」には三種類あると述べているとし、西尾は三番目のそれに着目しながら、「自由に耐えられない」「人間の悲劇」の前で立ち尽くしてるという「自覚」を記して、この節、この章、そしてこの書物の本文全体を終えている。
  この最終節でのハイデッガーの扱いを見て、ただちにつぎの疑問が生じる。
 ハイデッガーは、「退屈」について叙述した、論述しただけの哲学者なのか? なぜこの部分についてだけハイデッガーを取り上げるのか?
 『国民の歴史』全体を通じて、西尾はほかにハイデッガーには言及していないはずだ。
 上のことが示唆しているのは、西尾幹二はほとんどハイデッガーを読んでいない、ということだ。そして、「退屈」論だけを利用した、ということだ。
 L・コワコフスキの大著等々におけるハイデッガーに関する叙述やナツィスとの関連が問題とされることのあることを知ってはいるが、この欄での紹介等に再度言及はしない。池田信夫もブログで「反啓蒙」主義者として言及していたことがある(→No.2130/2020/01/24参照)。なお、この欄でこれまで言及していないものに、L・コワコフスキ=藤田祐訳・哲学は何を問うてきたか(みすず書房、2014 )p.217〜p.226の10頁にわたる、難解な内容の論述がある。
 ただ、英国の政治思想学者のジョン・グレイ〔John Gray〕は(反キリスト教・反啓蒙では共通性があるようにも思えるが)よほどハイデッガーをお気に召さないようで、こんなことを書いているので、再度紹介しておく。
 ハイデガーのごとく「哲学者がかくまで自己を主張し、妄想に取り憑かれることはきわめて稀である」。 →No.2077/2019/11/16参照。
 ついでに、グレイによる悪罵は(キリスト教的啓蒙批判ではやはり共通性もあると見られるが)ニーチェに対する方がより強いようで、例えばこう書いている。 
 ニーチェは「人類の歴史」の無意味を「知っていながら承服できなかった」。「最後まで信仰に囚われて」いたので「動物である人間もどうかなるという迷妄を断ち切れず」、「笑止千万な超人の思想を生み出した」。彼は「支離滅裂な人類の夢に、…悪夢を加えるだけで終わった」。同上、参照。
 回り道をしたが、指摘しておきたいのは、西尾幹二における<哲学>の欠如または希薄さだ。
 L・コワコフスキが<…のような意味での哲学者ではない>とニーチェを断じていたことと関係するだろうが、既述のように、西尾は、西欧哲学における、①<認識論>(epistemology, Erkenntnisstheorie) 、②<存在論>(ontology, Ontologie)に関する知識・素養がないのだと思われる。
 そうでなければ、最近にその2020年著の「あとがき」について紹介したような、<哲・史・文>全体によって初めて「外部の全体を見る」ことができる(No.2295/2021/02/19参照)、というような安易な文章は出てこないものと考えられる。
 すなわち、ヒト・人間という<主体>が「外部を見る」、<認識>する、ということの意味を哲学者たちは<思考>してきたのであり、「外部」現象や人間・「個人」・「私」が「ある」・「存在」するということの意味をあれこれと論じてきたのだ。カント、ヘーゲル、そしてマルクスも。
 ハイデッガーもこれらに否定的だとしても、例外ではないだろう。主著に『存在と時間』(1927)がある。
 (ついでながら、茂木健一郎・生きて死ぬ私(ちくま文庫、2006/原書1998第二章「存在と時間」の方が、西尾の文章内容よりもはるかに興味深く、刺激的だ)。)
  以上、多くはかつて指摘したことの反復だ。西尾『国民の歴史』がまるで(その挙げる書の全体を読んで理解したかのごとくして)<ハイデッガーの「退屈」論>だけを取り上げていることの異様さ(・大胆さ?)に刺激されて、記した。

2295/西尾幹二批判015。

 
 つぎの書の存在にようやく?気づき、古書で入手したので、少しばかりコメントをする。
 西尾幹二・歴史の真贋(新潮社、2020)。
  全体を熟読するつもりは、今のところ全くない。賢明な読者は、本棚の端に飾ることはあっても、そんな無駄な作業をしない方がよいだろう。
 書物の体裁(オビを含む)に目を取られて、さぞや立派な内容をもつ本だろうなどと誤魔化されてはいけない。
 新潮社編集部の冨澤祥郎の作文だろうか、それとも西尾と富澤が話しあって決めたのだろうか、いずれにせよ、西尾も了解していると見られるオビの文にこうある。
 「…、崖っぷちの日本に 必要なものは何かを 今こそ問う。
 真の保守思想家の集大成的論考
 <保守>とか<真の保守>という形容も気にならなくはないが(保守とは?、「真の保守」とは?)、それらよりも「思想家」と謳っていることが目を惹く。
 1999年の『国民の歴史』について、西尾が2009年に「私の思想が思想としては読まれず、本の意図が意図どおりに理解されないのは遺憾でした」等と書いていたことを知って、最近の02/14=No.2285でこう書いた。
 「もちろん、この人〔西尾幹二〕は「思想家」ではなく、<評論家または時事評論家、端的には、一定の出版業界内部での『文章執筆請負自営業者』>にすぎない」。
 但し、「文章執筆」の対象には何「評論」の他に「随筆」も挙げておくのがより正確かもしれない。
 あるいはまた、2011年に西尾が自ら語った自己認識を付け加えれば、以下のようになる。
 「『私』が主題」である「私小説的な自我のあり方で生きてきた」、そのような「評論家」または「随筆家」であり、端的に言えばそのような<一定の出版業界内部での文章執筆請負自営業者>だ。
 他者から「思想家」と(かつ可能ならば「優れた、偉大な思想家」と)見なしてほしいというのは西尾幹二の最大の?宿願かもしれない(特定の一部少数者からを除いて、叶うことがないのは気の毒ではあるが)。
 その他、いろいろと自分自身について<私はこうだ(であるはずだ、と言われている)>と西尾が思っているその他の様々の属性・形容は、A・ダマシオが論述していると浅野孝雄が紹介・検討する<自伝的自己>に該当するだろう。
 この<自伝的自己>について、ダマシオ・浅野によるつぎの文を参考資料として掲げておこう。やはり、ダマシオ・浅野による。
 「人間の栄光と惨めさ、喜劇と悲劇は、フィクションである自伝的自己への固執から生じる」
 西尾幹二における<栄光と惨めさ、喜劇と悲劇>、<自伝的自己への固執>。さて、この人自身は、どう感じているだろう。
  あらためてつくづく感じるのだが、戦後日本の「文学部」出身者が、「文学部」に帰属した過去に拘泥・執着することを続ければどうなるかを、西尾幹二自身が(そしておそらくこの書物も)示しているだろう。
 こうあらためて感じるのも、上の書の「あとがき」にある文章からによる。
 「あとがき」は文学部は「哲・史・文」だとかつて(高校生時代に?)教えられた、から始まり、つぎの文章で結ばれている。
 「『哲・史・文』という全体によって初めて外の世界の全体が見えるという若い日以来の私の理想とその主張に、あらためて活路を拓きたい」と念じ、この書を上梓する。p.359。
 さて、つぎの二つの感想が生じる。つつしんで?指摘させていただく。
 第一。「哲・史・文」だけでは、決して「外の世界の全体」を見ることはできない。社会、自然、人間(・人体)等に関する教養・知識をふまえてこそ、「外の世界」を全体として、総体として、総合的に「見る」ことができる(秋月はそうできている、という意味ではない。むしろそうした教養・知識の乏しさを私は大いに恥じている)。
 この点は、これまでも書いたし、これからも指摘するだろう。
 第二。「哲・史・文」のいずれについても、西尾幹二は中途半端にしか知らない。まるでこれら全体を知っているか、または少なくともそう努めきた、という書きぶりになっているが、とんでもない<思い上がり>だ、という他はない。
 この点は、これまでも書いたし、これからも指摘するだろう。
 途中に、自分は「ニーチェ研究家」とされているが「正しくない」、こう言うのは「専門家でありたくない、あってはならないという私の原則が働いている」からだ、とある(p.356)。この部分は、西尾自身が何の専門家でもないことを自認しているということを示していて、当然の自認ではあるが一つの意味はあるだろう。
 それよりも、特定の専門領域を持たない「哲・史・文」全体の通暁者?だという<自負>を表現していると見られることの方が重要だろう。そして、その自負は間違いであり、とんでもない<思い上がり>だ。
 そして、何の専門家でないとすれば、「哲・史・文」のいずれの分野・世界についても、西尾幹二はただの<しろうと>(に少し毛が生えた者?)であるはずだ。
 **

2289/西尾幹二批判013。

 前回に取り上げた遠藤浩一を聞き手とする西尾幹二の発言をあらためて読んでいると、面白い(=興味深い)箇所がある。
 月刊WiLL2011年12月号(ワック)、p.247。
 西尾幹二の他の人物論評の仕方として、別の点も、とり上げてみよう。
  西尾は上で言う。大江健三郎の「文学の根源的なところ」には「私小説的自我の幻想肥大かある」、と33歳のときに書いた、と。
 興味深いのは、つぎだ。
 「幻想的な自我は石原慎太郎氏も同じ」と書いた。
 石原慎太郎はどちらかと言うと<保守>派とされるが、こういう批判・揶揄?は、西尾幹二において<保守>派に対しても向けられていたわけだ。
 ついでの記載ということになるが、「幻想的な自我」をもつという石原慎太郎は、西尾幹二よりもはるかに、注目されるべきで、将来もまた注目されつづけるだろう、と秋月瑛二は評価している。
 石原慎太郎=曽野綾子・死という最後の未来(幻冬社、2020)。
 昨年秋には、この欄で言及していないが、上の曽野綾子との対談書を購入して読んだ。
 石原慎太郎(1932〜)。国会議員、複数の大臣、東京都知事、政党(日本維新の会)代表。
 これだけで西尾幹二とは全く異なる。政治的・社会的「実践」の質・程度は、<つくる会>会長程度の西尾の比ではない。
 さらに加えて、作家・小説家、芥川賞受賞者。これまた、西尾幹二が及びもつかない分野だ。
 さらに、量・数だけではあるいは西尾の方が多いかもしれないが、石原慎太郎には、政治・社会評論もある(全7巻の全集もある)。
 加えて、<宗教>への傾斜を隠しておらず、<法華経>に関する書物まである。読んでいるが、いちいち記さない。
 異なるのは、出身大学・学部のほか、石原慎太郎には、産経新聞・月刊正論グループへの「擦り寄り」など全くない、ということだろう。
 アメリカで西尾は無名だが、石原慎太郎はある程度は知られているだろう。かりに同じ反米自立派だとしても、西尾とは比較にならない。
 石原慎太郎は、全ての広い活動分野について、<左派>側からも含めて、その人物が総合的に研究・論評されるべきだろう。
 ところで、「私小説的自我の幻想肥大」は、西尾幹二に(も?)見られはしないか? 既に見たように、2011年に西尾自ら「私小説的自我のあり方で生きてきた」と明言し、遠藤浩一は「私小説的な自我の表現こそ、西尾幹二という表現者の本質ではないか」、と語ったのだ。
  出典をいちいち探さないので正確な引用はできないが、西尾幹二は、古い順に、明らかに以下の旨を書いた。記憶に間違いはない。
 ①<(この時代は)左翼でないと知識人にはなれなかった、と言われますが、…>。
 ②<保守派のN氏(原文ママ—秋月)は、左翼でないと知識人とは言われなかったのです、と言っていた(言っていましたが、…)。>
 ③<西部邁氏は、左翼でないと知識人とは見なされなかったのです、と言ったことがある
 ③は西部邁の死後に追想を求められて、発言(執筆)したもの。 
 「左翼でないと知識人にはなれなかった」とは西部邁が大学入学直後に日本共産党(当時)に入党し、<左翼>全学連活動家となったことについて西部自身が言っていたことのようだが、西尾幹二に個人的・私的に言ったかどうかは別として(その点も気にはなるが)、のちに<保守>派に転じた?西部邁にとって、少なくともどちらかと言えば、触れられたくはない点だったように推察される。
 そして、彼の生前にはせいぜい「N氏」でとどめていたのを、西尾はその死後に、この発言主の名を明瞭にした、暴露したわけだ。
 これはいったい、西尾の、どのような<心境>・<心もち>のゆえにだろうか。
 西尾は、西部邁、渡部昇三らに対するライバル心を、<左派>論者に対する以上に持っていた、と推測できる。端的に言って、<同じような読者市場>の競争相手になったからだ。そして、その<ライバル心>を、ときに明らかにしているのだ。
 なお、櫻井よしこに対してすら、その<ライバル心>を示していることがある。櫻井よしこ批判には的確なところがあることも否定はできないけれども。
  2019年6月〜7月にこの欄で「西尾幹二著2007年著—『つくる会』問題」と題して何回か「西尾幹二著2007年著」=『国家と謝罪』(徳間書店、2007年)の一部を紹介したのは、明記しなかったが、つぎの理由があつた。
 それはすでに刊行されていた『西尾幹二全集17・歴史教科書問題』(2018年)が、西尾が「つくる会」結成後の会長時代の文章に限って収載していることを奇妙に(批判的に)感じたからで、実質的な分裂やその理由・背景に関するこの人の文章を、とくに『国家と謝罪』の中にまとめられている文章の一部を、この欄に掲載して残しておこうと感じたからだ。
 <個人>全集であるにもかかわらず、設立前から「会長」時代のものに限る、という、西尾個人の<個人編集>の奇妙奇天烈さには、つまり『国家と謝罪』等に収録したものは無視し、実質的分裂の背景・原因にかかる歴史的記録にとなり得るものは除外する、という<個人編集>方針に見られる異常さには、別にまとめて触れなければならない。
 <つくる会>運動については、きちんとした総括が必要であって、西尾は立派なことだけをしました、という『全集』編集方針は、「歴史」関係者の(そのつもりならば)姿勢としても、間違っているだろう。現在の<運動>関係者(とくに実務補助者の方)は気の毒に思っているが、割愛する。
 上のことはともあれ、今回指摘しておきたいのは、八木秀次に対する批判の「仕方」だ。八木秀次の側に立つわけでも、彼を擁護したいわけでもない。
 西尾は、No.1994で引用・紹介のとおり、こう八木を批判する。 
 ①「現代は礼節ある紳士面の悖徳漢が罷り通る時代」だ。「高学歴でもあり、専門職において能力もある人々が」社会的善悪の「区別の基本」を知らない。「自分が自分でなくなるようなことをして、…その自覚がまるでない性格障害者がむしろ増えている」。「直観が言葉に乖離している」。「体験と表現が剥離している」。「直観、ものを正しく見ることと無関係に、言葉だけが勝手にふくれ上って増殖している」。「私が性格障害者と呼ぶのはこうした言葉に支配されて、言葉は達者だが、言葉を失っている人々」だ。
 ・「私は八木秀次氏にも一つの典型を見る」。
 この①は、「性格障害者」という言葉と<レッテル貼り>がひどいが、まだマシかもしれない。では、つぎはどうか。
 ②「他人に対しまだ平生の挨拶がきちんと出来ない幼さ、カッコ良がっているだけで真の意味の『言論力の不在』、表現力は一見してあるように見えるが、心眼が欠けている。
 言葉の向こうから語り掛けてくるもの、言葉を超えて、そこにいる人間がしかと何かを伝えている確かな存在感、この人にはそれがまるでない。
 ・「そういう人だから簡単に怪文書、怪メールに手を出す」。
 以上の②のような人物批判「方法」は、特定の人物についての本質分析論かつ本質還元論と言ってもよいもので、<本質的に〜だ>、そして<本質的に〜の人間だから、〜という過ちをおかしている>という批判の「論法」・「方法」だ。
 これではいけないし、八木秀次は、のちの人生を通じて、西尾と「和解」する気には決してならなかっただろう。
 今回に書いたのは、西尾幹二という人間の「本質」、「個性」、「人柄」に垣間見える<異常さ>・<歪み>と言ってもよいものだ。
 そうだから、という論証の仕方を、あるいは<人間本質分析論>かつ<本質還元論>的叙述を一般的にする気はない。但し、一回だけ参考材料とてして紹介しておくことにした。
 ——
 追記しておくと、<右翼的・保守的>だから「敵」(味方)だ、逆に<左派的・リベラル的>だから「敵」(味方)だ、というのは、上に記したよりもはるかに単純または純粋に、徹底して、<本質>あるいは基本的立場(・立ち位置)を理由として(それを見究めたつもりになって)、脊髄反射的に、論評・評価(敵か味方か)・結論を決めてしまうようなもので、アホらしいことだ。
 このような発想・推論しかできない人々が、なぜある程度は生じるのか?
 それは、<自分で考えて立ち入って判断するのは面倒くさい>、<簡単に回答を得たい>、<楽をしたい>という、「脳細胞の劣化」・「自分の脳に負担をかけたくない」という、それなりに合理的な?理由があるものと思われる。
 人間には、少なくともある程度の範囲の人々にとっては、問題・論点にもよるが、<簡単なほどよい>、<少しでも自分自身の判断過程を省略したい>という「本能」が備わっている。

2280/西尾幹二批判010・『国民の歴史』②。

  前回(批判009)の補足。
 西尾が書いているとおり、『国民の歴史』の「14」は表題自体が「『世界史』はモンゴル帝国から始まった」となっていて、最初から19頁め(全集18巻版)に、こうある(p.289)。
 「以上、『モンゴルと中国の関係略史』(一)(二)は岡田英弘氏から直かにご教示いただいて記述したが、文責は私にある」。
 「文責」、つまり文章化・要約・作文は西尾にあるが、計5頁ほどの「内容」は岡田英弘に依っていることを認めている。長々とした一連の文章群の内容は西尾幹二自身によるものではない。
 二 『国民の歴史』の「6 神話と歴史」から、気になる点をさらにいくつか挙げておこう。まず、第一。
 その11「神話の認識は科学の認識とは逆である」p.128(全集版)にこうある。
 「すでに神を感じない社会」に生きる我々が「神々によって宇宙が支えられていると感じる古代社会の言葉と感性と同じはずはない」。
 何となく読み過ごしてしまいそうな文章だが、このような「古代」の人々の「感性」の理解・認識は適切なのだろうか。
 つまり、彼らはほんとうに「神々によって宇宙が支えられていると感じ」ていたのだろうか? 西尾の一見「深遠な」言明は、じつは「適当に」発せられていることが少なくないのではないか。
 古代の人々はどういう「感性」で生きたのだろうと想像することは、私には楽しい。しかし、「神々」の意識・感覚はかなり高度なもので、なかなか発生しないのではないか、と考える。
 生きていること、そのための呼吸と心臓の鼓動を意識し、死とそれが訪れるとやがて身体は腐敗していくことを知っていたに違いない(なお、もっとのちの日本の文献によく出てくる「もがり」は再生・蘇生しないことを確認するための儀式だったように思われる)。
 また毎日昇って消えていく太陽、およそ(今でいう)一月ごとに形の満ち欠けを変えながら「この地」を回っている月、日の出・日の入りの太陽の位置が寒暖の季節ごとに異なりおよそ(今でいう)一年ごとに同じになることを、早くから知っていただろう。
 さらに、むろん、生きていくために「水」・「食料」が必要であることも。「空気」(中の酸素)はひょっとすれば所与のものとして意識しなかったかもしれないが、海中や高山では生き難いことは知っていたはずだ。
 これはヒト・人間をとり巻く「自然」にかかわることであって、いつの時点から「神」なるものを意識したのかは、よく分からないことだ。
 だが少なくともヒト・人間は、縄文時代の人々も、「神々によって宇宙が支えられていると感じ」てはいなかっただろう。「宇宙」=地球全体の感覚はまだないはずだ。「宇宙」=「自然」という意味では「宇宙」を感じていただろうとしても。
 繰り返すが、「神」という意識・感覚の発生はかなり高度の精神作用を必要とするのであって、古代の人々が何となく自然に身につけるようなものではないのではないか。むろん、「必然」ないし「規則・法則」的なことと「偶然」・「事故」的なことの区別くらいのことは当然に意識し、知っていただろうが。
 第二。西尾はもっぱら「言葉」と「文字」の関係一般に着目して、日本文明(縄文原語)と中国文明(漢字)を記述しているように見えるが、私の関心は他にもある。
 日本書記における「年」の表記の仕方には十干十二支を利用したもの、「天皇」の在位年数を利用したもの、年号(大化等)を利用したものの三種あるとされる。最初の<十干十二支>は、令和日本の現在でもなお用いられることがあるが、どのようにして、いつ頃から、日本列島の人々は利用し始めたのだろう。中国からの「輸入」以後でないとすると、それまではいったいどのようにして「年数」を数え、記憶・記録していたのだろうか。
 西尾の著書には、これに関する叙述はないのではないか。のちのちの、<陰陽五行説>についても。これらは、「仏教」・仏教典の一部にあるのではないはずだ 。
 より重要な第三は、以下。
 既述のとおり、「6」章の節名を利用すれば、この章での西尾幹二の出張したいことの重要な一つは、章名とともに以下にあると理解しても決して誤りではない。 
 ・「歴史と神話の等価値」。・「すべての歴史は神話である」
 しかし、この書物(全集版)が刊行された2017年とまさに同じ年に、西尾幹二は、つぎのように明言している。そして、翌年2018年刊行の全集の別の巻(17巻)に収載している。一文ずつ改行する。
 「歴史の根っこをつかまえるのだとして、いきなり『古事記』に立ち還り、その精神を強調する方が最近は目立ちますが、…そのまま信じられるでしょうか。
 神話と歴史は別であります。
 神話は解釈を拒む世界です。
 歴史は諸事実のなかからの選択を前提とし、事実を選ぶ人間の曖昧さ、解釈の自由をどうしても避けられませんが、神話を前にしてわれわれにはそういう自由はありません。
 神話は不可知な根源世界で、全体として一つであり、人間の手による分解と再生を許しません
」。
 西尾幹二全集第17巻・歴史教科書問題(国書刊行会、2018年)p.715、「『新しい歴史教科書をつくる会』創立20周年記念集会(2017年1月29日)での挨拶文」の一部(原出、月刊正論2017年4月号)。
 西尾幹二に真面目に訊ねたいものだ。『国民と歴史』のうちの6章「神話と歴史」に関する叙述と上の「挨拶文」の内容は、矛盾しているのではないか。少なくとも、どういう関係に立っているのか。
 つづけて、第四
 西尾幹二のために、「助け船」を出すことはできる。すなわち、歴史と神話の関係・異同に関する言明は真反対のように見えてもいわば<レトリック>であって、主眼はそれぞれの「解釈」の方法の違いの指摘にあるのだ、と。
 たしかに『国民の歴史』には、こういう文章もある。18巻、p.129。
 「神話を知ることは対象認識ではない。どこまでも科学とは逆の認識の仕方であらねばならぬ」。
 「認識とは、この場合、自分が神の世界と一体となる絶え間ない研鑽にほぼ近い。」
 後者の「自分が神の世界と一体となる」は、前者の「神話」を前にしては<解釈の自由はない>という指摘と似ているとは言える。
 しかし、前者は(西尾によくあることだが)突然に「科学」という言葉・概念を持ち出し、「歴史」=「科学」(の一部)という前提に立っているようだが、「歴史」、「科学」等の概念の丁寧な説明はない。そして「逆の認識の仕方」とだけ述べて、<解釈・選択の自由がある>という旨を明確に語ってもいない。
 少なくとも、同じ2017年の発言と刊行書の内容の間の齟齬・矛盾を指摘しても、何ら厳しすぎることはないだろう。
 なお、<「神話」は解釈を許さない>という言明がなぜ、どのように根拠づけらるのか?
 これは、バカバカしいので、省略する。「神々」の時代も含めて、それ以降についても、日本書記、古事記の種々の「解釈」がなされており、議論があることは、高校生でも知っていることだろう。西尾幹二の「解釈」にはこの人に独自の(ほとんど誰も理解できない我流の)意味があるのだろうか。
 第五。そもそも、日本書記、古事記は、全体として「神話」なのか。
 西尾幹二は上の二つとも「神話」だという前提に立って、中国の「歴史」書との「等価値」性を指摘し、後者も広義では「神話」だとする。
 しかし、そもそも論として、日本書記、古事記のいずれも、全体として「神話」だ、という認識は決定的に誤っているだろう。
 よく知られるように、日本書記は計30巻から成るが、そのうち巻第一は「神代上」、巻第二は「神代下」とされ、巻第三以降・巻三十までが「天皇」を中心とする叙述になっている(神武〜持統)。   
 今日の目で見て、「史実」とは感じられないような叙述があるのだとしても、作者・編纂者は、巻第三以下は真面目に?日本国家の「歴史」書だとして記述したと考えられる。そして、彼らが「神」の時代の「話」=「神話」だと明瞭に意識して記述したのは、巻第一・第二の「神代」だけだ。
 これに関連して、日本書記の今日の「解説」者は、こう記す。
 「巻三以下巻三十まで、すべて天皇名で標題とすることは、明らかに中国史書の『帝紀』に相当するわけで、『日本書記』という書名は『日本書の帝紀』の意であることも首肯できる」。「ただ異なるのは、巻一・二が『神代』となっている点である。中国の史書は『神代』を語ることはないからである」。
 この文は巻第三以下を「人皇代」と称してもいる。
 日本書記・上(小学館日本古典文学全集、1994)「解説」の西宮一民担当部分
 一方、古事記は上つ巻・中つ巻・下つ巻の三部に分かれるが、中つ巻が神武〜応神、下つ巻が仁徳〜推古の各天皇の時代を叙述しており、上つ巻が日本書記の用語では「神代」に当たる。
 こう区別されているところを見ると、また内容から見ても、上つ巻だけは「神たちの時代」と意識されているとしても、それ以下は、作成者の「主観」においては古代の日本「歴史」だった可能性が高いものと思われる。
 このような日本書記、古事記を、例えば仁徳天皇以下も含めて、西尾幹二はすべて「神話」だ、ということから出発しているわけだ。
 全てが「史実」を記述しているとは秋月も考えないが(なお、安本美典は熱心な応神天皇実在論者だ)、「史実」であって、またはそれをかなり反映していて、決して簡単に「神話」だと認定できない部分をいずれも含んでいる、と考えられる。これは、常識ではないか。
 しかるに、西尾幹二は最初からこれらが「神話」だとしている。それから出発している。
 日本書記も古事記も実際には、全くまたはほとんど「読んだことがない」西尾の面目躍如というところだろう。
 西尾幹二はこれらの「歴史」書性をできるだけ否定しようとしする戦後「進歩的」歴史学に、最初から屈服している、とも言える。
  ついでに、ということになるが、上に二の第三で引用した2017年の「挨拶文」の一部は、一部を除き(古事記うんぬんの部分)全く同文で、対談中の発言であるはずの以下でも用いられている。
 実際の対談後の「原稿化」の過程で追加されたように思われる。
 西尾幹二は、一つながりの文章群を<使い回し>ているのだ。一粒で二度おいしい。<古事記>への言及は欠落しており、元来は別の論脈の中での文章だ。
 「神話は歴史と異なります。
 「歴史は…、諸事実の中から事実の選択を前提とし、事実を選ぶ人間の曖昧さ、解釈の自由を許しますが、神話を前にしてはわれわれはそういう自由はありません。
 神話は不可知の根源世界で、全体として一つであり、人間の手による分解と再生を許しません
」。 
 西尾幹二=岩田温「皇室の神格と民族の歴史」月刊WiLL2019年4月号(ワック)
 西尾幹二という人物は、こういう<文章の使い回し>を(こっそりと)平気で行う人物だ、と知らなければならない。言いたいことがたまたま?同じだから、という釈明は成立しない。

2262/池田信夫ブログ020。

 池田信夫ブログマガジン2020年12月7日号の<名著再読/資本論の哲学>の中に、つぎの文章がある。
 池田信夫が扱っている主題のうち、こんな点にだけ注目しているのでは全くないが、興味をそそる。
 「価値自体を否定するポスモダンは、社会に何の影響ももたない文芸評論的なおしゃべりにすぎない。問題は、根拠のないはずの価値がなぜ信じられ、特定のイデオロギーが多くの人々に共有されるのかである」。
 とくに面白いのは、「…は、社会に何の影響ももたない文芸評論的なおしゃべりにすぎない」という表現部分だ。
 「社会に何の影響ももたない文芸評論的なおしゃべり」の何と多いことか。文芸評論の意味・価値を認めないのではなく、人間の精神活動の一つとして、音楽や絵画とともにある詩・戯曲・小説を含む文学活動に付随した、あるいはその一部としての「文芸評論」を評価しないわけではない。
 問題は、文学や文芸評論と銘打つことなく、例えば「創作」としての小説だと明言することもなく、政治評論・社会評論を行う者たちがいて、もともとは<自己>(の名誉・顕名)のための表現活動であるにもかかわらず、社会や国家等について真摯に?思索したもののごとく文章や「作品」を発表していることだ。とりわけ世間的には明確に「文芸評論」家として出発したはずの者たちの文章・書物に著しい(古くは西尾幹二から新しくは小川榮太郎まで?)。
 <歴史>もの、<日本>ものの書物の中には、結局は「社会に何の影響ももたない文芸評論的なおしゃべり」にすぎないようなものも多い。

2245/西尾幹二批判001。

 小分けすると面倒くさいので、まとめる。
 
 西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018.10)は比較的最近の西尾の<哲学・思想>畑の本だ。
 この書名は編集者(湯原法史)の発案によるらしいとしても、この書名から「自由」が種々に論じられているという期待または幻想は、はかなくも瞬時に破れる。
 既述のように、A・スミスは「経済学者」だから、そこでの「自由」はfreedom ではなくliberty だ、などというとんでもない叙述が最初の方にある。「経済学とはそういう学問です」(p.36)という珍句?まであるのだが、A・スミスもF・ハイエクも(フリードマンも)、「たんなる経済学者」ではなく「哲学者」、少なくとも「経済哲学(思想)」、「社会哲学(思想)」、「歴史哲学(思想)」等にまたがる人物だったことは、むしろ常識に属するだろう。
 西尾幹二が『自由』を問題にしながら、古今東西の「自由」に関する多数の哲学者・思想家・歴史家等々の文献を渉猟して執筆しているわけではないことは、すぐ分かる。
 世に「哲学者」として知られている者の著書のうち、参照しているのはほとんどF・ニーチェだけだろう。後半にルター、エラスムスが出てきているが、「自由」論とのかかわりは未読なのでよく分からない。
 きりがないが、ロックも、ホッブズも、ルソーも、カントもヘーゲルもマルクスも、ベルクソンもフッサールもサルトルも、ハーバマス等々々も、ついでにトニー・ジャットもジョン・グレイもL・コワコフスキも、西尾幹二の頭の中にはない。きっとまともに読書したことがないのだ。また、日本で現在もよく使われる<リベラリズム>も、liberal 系とはいえ、「自由主義」とも訳されて、当然に「自由」に関係するが、この言葉自体が西尾著にはたぶん全く出てこない。
 そんなだからこそ「深み」はまるでなく、「自由」と「平等」との関係をけっこう長々と叙述したあと、こんなふうに締めくくられる(p.154)。
 オバマは「平等」にこだわり、トランプは「自由」にこだわり続けるだろう。二人のページェントが「これから先、何処に赴くかは今のところ誰にも分かりません」。
 ?? 何だ、これは。
 
 西尾幹二は若いときはニーチェ研究者だったようで、おそらくは、ドイツ語・ドイツ文学・ドイツ哲学あたりの<アカデミズム>をこれで通り抜け、あとは<アカデミズム(学界)>にとどまってはいない。
 この<アカデミズム(学界)>からの離脱は多少の痛みは伴いつつも、彼にとっては<自慢>だったかにも見える。自分は狭いアカデミズムの世界の中にいる人間ではない、広く<世間>、<社会>を相手にしているのだ。
 「論壇」に登場する「評論家」というのは、たんなる「~(助)教授」よりは魅力的で<えらい>存在だと彼には思えたのではないか。
 余計な方向に滑りかけたが、ともかく、西尾幹二はニーチェ研究者だった。
 そして、ニーチェを良く知っていること、反面ではそれ以外の哲学者についてはろくに知らないことは、のちのちにまで影響を与えているようだ。
 その証拠資料たる文章があるので、以下に書き写す。表題がむしろ重要だが、次回以降に言及する。
 西尾幹二(聞き手・遠藤浩一)「私の書くものは全て自己物語です」月刊WiLL2011年12月号(ワック、編集長・花田紀凱)p.242以下。
 ・遠藤「先生のニーチェ論を読んでいると、ご自身の自画像をなぞっておられるのでは、との印象を受けることがあるのですが」。
 西尾「実は私を知るある校正者からも『これは先生自身のことを書いているのではないですか』と告げられました(笑)」。
 ・遠藤「『江戸〔のダイナミズム〕』がニーチェの続篇?」
 西尾「私の心のなかではそうです」。
 西尾「『神は死んだ』とニーチェは言いましたが、日本の儒学、シナの清朝考証学は、まさに神の廃絶と神の復権という壮絶なことを試みた学問であると『江戸のダイナミズム』で論じたのです」。
 この直後に「明治以後の日本の思想は貧弱で、ニーチェの問いに対応できる思想家はいません」という一文が続く。なんというニーチェ傾倒だろうか。
 おそらくは現在にまで続くニーチェの影響の大きさと、その反面として、その他の種々の「哲学・思想」に、「日本の思想」も含めて取り組んだことがこの人はなかった、ということも、この一文は示していそうだ。
 なお、遠藤浩一はこの欄で論及したこともあったが、故人となった。1958~2014。

2244/宇都宮健児と八幡和郎-2016年。

 2016年の東京都知事選に宇都宮健児はいったん立候補表明をしたが、鳥越俊太郎が民進党・日本共産党・社民党等に推される共同候補となって、宇都宮は立候補しなかった。
 選挙後に、宇都宮は鳥越を応援しなかった理由を明らかにした、という。
 4年前のいきさつや今回(2020年)の選挙のことに触れたいのではない。
 八幡和郎が4年前に<アゴラ>欄に登載した文章が印象に残っており(2016年8月2日付)、そこに垣間見える八幡和郎という人物の<意識・気分>に関心をもつので、以下を書く。また、八幡の文章のタイトルは「宇都宮氏の応援拒絶真相と女性議員の不甲斐なさ」で、私が関心をもつのは、主題全体でもない。
 さて、2016年の選挙(投票)後に宇都宮が明らかにした鳥越を応援しなかった理由は、「女性問題」にあったという。
 その中身や真否に立ち入らない。
 八幡和郎は、その理由をおそらくそのまま詳しく紹介している。ここでは引用しない。
 興味を惹くのは、八幡のつぎの文章だ。
 「まことに法律家として筋の通った論旨である。私も10年余りあとに同じ大学の同じ学部で学んだ者として、我々が学んだ法の精神はこういうものだったと気分が良かった。法学を学ぶと言うことは、法務知識を駆使し正義を無視して自己の利益を図る技術を獲得することではないと教えられたものだ。
 これを見て、この宇都宮氏にこそ知事になって欲しかったという声も高まっているくらいだが、いくら立派な人でもめざす政策が正しいか、経済的な裏付けがあるかなど別の問題だから飛躍は困るが、宇都宮氏のこの意見表明が、こんどの都知事選挙を締めくくる一服の清涼剤となったことは間違いない。」
 上の後段は、宇都宮が知事になって欲しかった、と書いているわけではない。
 しかし、前段に、八幡和郎の<意識・気分>が現れているだろう。
 いわく、「法律家として筋の通った論旨」だ、「私も10年余りあとに同じ大学の同じ学部で学んだ者として、我々が学んだ法の精神はこういうものだったと気分が良かった」、「法学を学ぶということは、」…うんぬん。
 果たして、この部分で、八幡和郎は何を言いたいのか。言いたいというよりも、基礎にある<意識・気分>は何か。
 それは、大雑把には、宇都宮健児は自分が卒業した大学・学部の「先輩」であり、その彼の今回の(2016年の)発言は「気分が良かった」、というものだ。
 宇都宮健児は2020年都知事選挙に立憲民主党・共産党・社民党等に推されて候補者になっている者で、2012年以前にも(いわば「野党」統一候補として)立候補したことがある。
 そのような<政治信条>を無視するわけではないが、しかし、八幡和郎は、宇都宮は自分の「先輩」で「法学」を学んだ者だ(日弁連会長経験者だから当たり前のことだ)、とわざわざ記したかったのだろう。
 些細なことに言及していると感じられるかもしれない。
 「知(知識)」習得の結果としての大学または「学歴」というもののうさん臭さに近年は関心がある。「知」それ自体では、何ものも保障しないし、判断できない。
 また、「自己帰属意識」ないし戦後日本人の<アイデンティティ>というものにも以前から強い関心がある。出身大学・「学部」等々は、いかほどの「自己意識」を形成しており、かつまたその<機能>はどう評価されるべきか。
 あくまで推測になるが、八幡和郎は、場合によっては、自分以外の者の出身大学を他の何らかの要素よりも優先して考慮・配慮するのだろう。そうでないと、上のような文章を書かない。
 また、ここでは立ち入らないが、八幡和郎の「自己意識」を形成していると見られるのは<経済産業省官僚出身者>(かつフランス・ENA留学組)ということだろうと推察される。しかし、これはあくまで<過去>に関するものなので、現在と論理的には直接の関係はない(はずだ。この点、弁護士資格という国家「資格」は永続するのと異なる)。
 国家公務員(かつての)上級職試験合格者という「資格」があるのではない。あっても、数年間だけのはずだ。(特定の?)大学入学試験合格も卒業も、それだけでは、それ自体では、何の意味もないはずだ。何らかの「知識」の学習・修得が証されたとしても、それだけでは、つまりその「知識」を保持するだけでは、利用しなければ、人間社会・現実の社会にって、何の「役にも立たない」。その辺りが、きわめて曖昧になり、かつ異様な方向へと転じている<雰囲気>がある。これは戦後日本がたどり着いた現在の一つの特徴だろう。だが、何らかの「秩序づけ」と「安定」に役立っているかもしれない。しかし、何となくの緩やかな秩序化は、種々の意味と段階でのく既得権者>をも生み、必要な変化と変革を遅らせるだろう。
 余計ながら、何か勘違いをしているのではないか、なぜそんなに大胆かつ傲慢なことを単純に書けるのか、と感じる文筆家業者は多い。八幡和郎だけでは、もちろんない。

2187/西尾幹二の境地-歴史通・WiLL2019年11月号別冊⑤。

  言葉・概念というのは不思議なもので、それなくして一定時期以降の人間の生活は成り立ってこなかっただろう。というよりも、人間の何らかの現実的必要性が「言葉・概念」を生み出した。
 しかし、自然科学や医学上の全世界的に一定しているだろう言葉・概念とは違って(例えば、「脳」の部位の名称、病気の種類等の名称のかなりの部分)、社会・政治・人文系の抽象的な言葉・概念は論者によって使用法・意味させているものが必ず一定しているとは限らないので、注意を要する。
  面白く思っている例えば一つは、(マルクスについてはよく知らないが)レーニンにおける「民主主義」の使い方だ。
 レーニンの「民主主義」概念は多義的、あるいは時期や目的によって多様だと思われる。つまり、「良い」評価を与えている場合とそうでない場合がある。
 素人の印象に過ぎないが、もともとは「民主主義」は「ブルジョア民主主義」と同義のもので、批判的に用いられたかに見える。
 しかし、レーニンとて、-ここが優れた?政治運動家・「革命」家であったところで-「民主主義」が世界的に多くの場合は「良い」意味で用いられていること、あるいはそのような場合が少なくともあること、を十分に意識したに違いない。
 そこで彼または後継者たちが思いついた、または考案したのは、「ブルジョア(市民的)民主主義」と対比される「人民民主主義」あるいは「プロレタリア民主主義」という言葉・概念で、自分たちは前者を目ざす又はそれにとどまるのではなく、後者を追求する、という言い方をした。
 「民主主義」はブルジョア的欺瞞・幻想のはずだったが、「人民民主主義」・「プロレタリア民主主義」(あるいは「ソヴェト型民主主義」)は<進歩的>で<良い>ものになった。
 第二次大戦後には「~民主共和国」と称する<社会主義をめざす>国家が生まれたし、恐ろしくも現在でも「~民主主義人民共和国」と名乗っているらしい国家が存続している。
 似たようなことは「議会主義」という言葉・概念についても言える。
 マルクスやレーニンについては知らない(スターリンについても)。
 しかし、日本共産党の今でも最高幹部の不破哲三は、<人民的議会主義>と言い始めた。
 最近ではなくて、ずいぶん前に以下の著がある。
 不破哲三・人民的議会主義(新日本出版社、1970/新日本新書・1974)。
 「議会」または「議会主義」はブルジョア的欺瞞・幻想として用いられていたかにも思われるが(マルクス主義「伝統」では)、日本共産党が目ざすのは欺瞞的議会主義ではなく「人民的議会主義」だ、ということになった。現在も同党の基本路線のはずだ。
 <民主主義革命・社会主義革命>の区分とか<連続二段階革命>論には立ち入らないし、その十分な資格もない。
 ともあれしかし、そうだ、「たんなる議会主義」ではなく「人民的議会主義」なのだ、と納得した日本共産党員や同党支持者も(今では当たり前?になっているかもしれないが)、1970年頃にはきっといたに違いない。
  しかし、元に戻って感じるのだが、これらは「民主主義」や「議会主義」という言葉・概念を、適当に(政治情勢や目的に合わせて)、あるいは戦術的に使っているだけではないだろうか。
 <反民主主義>とか<議会軽視=暴力>という批判を避けるためには、「人民民主主義」・「人民的議会主義」という言葉・概念が必要なのだ。
 たんに言葉だけの問題ではないことは承知しているが、言葉・概念がもつ<イメージ>あるいは<印象>も、大切だ。
 人間は、それぞれの国や地域で用いられる<言葉・概念>によって操作されることがある。いやむしろ、常時、そういう状態に置かれているかもしれない。
 自明のことを書いているようで、気がひける。
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 四 西尾幹二=岩田温「皇室の神格と民族の歴史」歴史通・月刊WiLL11月号別冊(ワック)。
 p.222で、西尾幹二はこう発言する。
 ・「女系天皇を否定し、あくまで男系だという一見不合理な思想が、日本的な科学の精神」だ。「自然科学ではない科学」を蘇生させる必要がある。
 ・日本人が持つ「神話思想」は、「自然科学が絶対に及び届くことのない自然」だ。
 ここで西尾は、「自然科学」(または「科学」)と「日本的な科学(の精神)」を対比させている。
 これは、レーニンとて「民主主義」という語が~と上に記したように、西尾幹二とて?、「科学」という言葉・概念が<良い>印象をもつことを前提として、ふつうの?「自然科学」ではない「日本的な科学」が大切だと主張しているのだろう。
 民主主義または欧米民主主義とは異なる「日本的民主主義」というのならば少しは理解できなくはない。しかし、「自然科学」またはふつうの?「科学」と区別される「日本的な科学」とはいったい何のことか?
 これはどうやら日本の「神話(思想)」を指す、又はそれを含むようなのだが、しかし、このような使用法は、「科学」概念の濫用・悪用または<すり替え>だろう。
 ふつうの民主主義ではない「人民民主主義」、ふつうの議会主義ではない「人民的議会主義」という語の使い方と、同一とは言わないが、相当に類似している。
 五 西尾幹二・決定版国民の歴史/上(文春文庫、2009/原著・1999)。
 これのp.169に、つぎの文章がある。この部分は節の表題になってもいる(p.168)。
 「広い意味で考えればすべての歴史は神話なのである」。
 つまり、「神話」は、<狭義の歴史>ではなくとも<広義の歴史>には含まれる、というわけだ。
 「神話、言語、歴史をめぐる本質論を以下展開する」(p.166)中で語られているのだから、西尾としては重要な主張なのだろう。
 あれこれと論述されていて、単純な議論をしているのではないことはよく分かる。
 しかし、上の部分には典型的に、「神話」と「歴史」の両概念をあえて相対化するという気分が表れていると感じられる。
 つまり、「歴史」概念を曖昧にし、その意味を<ずらして>いるのだ。
 こうした概念論法を意識的に用いる文章を書くことができる人の数は、多いとは思えない。
 言葉・概念・文章で<生業>を立ててきた、西尾幹二らしい文章だ。
 相当に単純化していることを自覚しつつ書いているが、このような言い方を明瞭な形ではなくこっそりと何度でもするとすると、こうなる。
 ああ言えばこういう、何とでも言える、という世界だ。
  <文学>系の人々の文章で、フィクション・「小説」・<物語>と明記されて、あるいはそれを当然の前提として書かれているものならばよい。
 そして、いかに読者が「感動」するか、いかほどに読者の「心を打つか」が、そうした文章または「作品」を評価する<規準>となる、ということも、フィクション・「小説」・<物語>の世界についてならば理解できなくはない。
 しかし、そうではなくノン・フィクションの「学問」的文章であるならば、読者が受けた「感動」の質や量とか、どれだけの読者を獲得したか(売れ行き)の「多寡」が評価の規準になるのではないだろう。
 何となしの<情感>・<情緒>を伝えるのが「学問」的文章であるのではない。
 <文学>系の人々の文章も様々だが、言葉の配列の美しさとか思わぬ論理展開とかがあっても、それらはある程度は文章の「書き手」の巧拙によるのであって、「学問」的著作として評価される理由にはならない。
 これはフィクション・「小説」・<物語>ではない、「文学」つまり「文に関する学」または「文学に関する学」でも同じことだろう。
 何となく<よく出来ている>、<よくまとまっている>、<何となく基本的な趣旨が印象に残る>という程度では、小説・「物語」とどこが異なるのだろうか。
 <文学系>の人々が社会・政治・歴史あるいはヒトとしての人間そのものについて発言する場合の、評価の規準はいったい何なのか。
 長い文章を巧く、「文学的に」?書くか否かが規準ではないはずだろう。
 長谷川三千子もきっとそうだが、西尾幹二もまた、日本の社会・政治、あるいは「人間学」そのものにとっていかほどの貢献をしてきたかは、全く疑わしい、と思っている。今後も、なお書く。
 江崎道朗、倉山満ら、上の二人のレベルにすら達していない者たちが杜撰な本をいくつか出版して(日本の新書類の一部またはある程度は「くず」の山だ)、論理的にも概念的にも訳の分からない文章をまとめ、「その他著書多数」と人物紹介されているのに比べれば、西尾幹二や長谷川三千子はマシかもしれない。
 しかし、学者・「学術」ふうであるだけ、却ってタチが悪い、ということもある。
 <進歩的文化人>ではない<保守的文化人>と自認しているかも知れない論者たちの少なくとも一部のいい加減さ・低劣さも、いまの時代の歴史の特徴の一つとして記録される必要があるだろう。

2165/<売文業者か思想家か>。

 竹内洋・メディアと知識人-清水幾太郎の覇権と忘却(中央公論新社、2012)。
 これの中身も、全部かつて読んだはずだ。清水幾太郎の言論活動を批判的にたどっているのだろう。
 読売・吉野作造賞受賞第一作。
 単行本に付いている上の紹介よりも興味深いのは、オビ上のつぎの言葉だ。
 <売文業者か思想家か>(オモテ)。
 <この私にしても、まあ、一種の芸人なのです。まあ、笑わないで下さい>(ウラ)。
 後者は、確認しないが、清水幾太郎が書いたか発した言葉なのだろう。
 しかし、竹内洋自身は、<売文業者か思想家か>。そのどちらでもない、大学教授なのか。少なくとも「思想家」だとは思えない。大学教授だとしても、江崎道朗の本のいい加減さを指摘できないようでは、頼まれ仕事を良心的に行っているとは思えない。
 故西部邁は、<売文業者か思想家か>。自分自身はきっと<思想家>だと思っていたのだろうが、しかし同時に<売文業者>でもあっただろう。
 西尾幹二は、<売文業者か思想家か>。自分自身はきっと<思想家>のつもりでいるだろう。そう自称はしなくても、そう思われていたい、と思っているに違いない。西部邁も江藤淳も、西尾幹二にとっては、「気になる」<保守派知識人>のライバルで、西尾の文章の中にはこの二人に対する<皮肉・嫌み>もある。そして、いかんせん、読者の反応や売れ行きを気にする<売文業者>でもある。
 江崎道朗、櫻井よしこ。明らかに「思想家」ではない。そして政治目的のための<売文業者>にすぎない。
 八幡和郎? 「思想家」ではないのはもちろん、「知識人」ですらない。
 ***
 なぜ<売文業>が成り立つか? 文章・知識・情報に関する「出版・情報産業」が「業」として成立し得るだけの<市場>が、日本にはあるからだ。
 そのような社会または国家は、世界のどこにでもあるのではない。
 たまたま人口や地域の規模、そしてほとんど「日本語」だけによる情報交換が成り立っている、日本は、そのような社会・国家だからだ。決して、世界に一般的でも、普遍的でもない。
 少なくとも江戸時代・幕末までの日本の「知識人」は、自分または所属団体(藩等)の「功名」のために文章を書き本を出版したかもしれないが、金儲け=生業としての「功利」のためには<思索・思想作業>をほとんど行わなかったように見える。相対的には純粋に、自分は<正しい>と考えていることを書いただろう。偽書、売らんがための面白物語の例が全くなかったとは言わないが。
 現在の日本の<評論・思想>界の低迷または堕落は、それがほぼ完全に「商業」の世界に組み込まれてしまっていることにあるだろう。
 その中でうごめいているのが、雑誌や書籍の「編集者」・「編集担当者」という、あまり広くは名前を知られていない、「情報・出版産業」の有力な従事者だ。
 テレビ番組を含めれば、(とくに報道・情報)番組製作の「ディレクター」類になる。
 雑誌・書籍の「編集者」・「編集担当者」(あるいはテレビ番組の「ディレクター」)。これらによって発注され、請け負っているのが、日本の現在の自営・文筆業者あるいは「評論家」たちだ。大学・研究所に所属して、それからいちおうの安定した収入があるか、江崎道朗、小川榮太郎等のように「独立」・「自営」しているかによっても、「売文」の程度とその中身は異なるに違いない。

2045/西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)①。

 「自由」について最近に最も考えるのは、「意思は自由か」または「自由な意思はあるか」だ。この問題はもちろん、「意思」とは何で、その他の精神的行為または精神的態様とどう区別されるものなのか、に関係する。
 ヒト・人間の脳内の諸作業・態様の中に、「こころ」あるいは「感情」はどこにあるのか、どうやって成立しているのか、と類似の問題だ。
 「自由」か否かを論じること自体がヒト・人間として<生きている>ことの証左であり、さらに、たんなる覚醒状態・意識の存在だけではなく、より高次の「思考」を必要とするものだ。
 というわけで、たんなる覚醒状態・意識の存在とは次元が質的に異なるが、「自由」か否かを論じること自体が、<生きている>ことを前提にしていることは変わらない。
 上のことはつまり、<死者>には「意識」はなく、自分は「自由」か否かを考えたり、思い巡らしたりすることはできない、ということだ。
 「自由」か否かを論じるのは、<生者>の贅沢な遊びだ、ということにもなる。
 上に述べていることは、ヒト・人間には、<死から逃れる自由>=<死からの自由>は存在しない、という冷厳たる事実を前提にしている。
 さらに言おう。ヒト・人間は、生まれ落ちるときまでに自己の体内に宿していた<遺伝子>から自由なのか。直接には両親から受け継いだ、個性がある程度はある<生物体>としての存在から、ヒト・人間は「自由」なのか。否。
 さらに言えば、ヒト・人間は、生後の社会・環境から<無意識にでも>与えられる影響から、完全に「自由」でおれるのか? 否。
 「あなたは自由か」とずいぶんと<上から目線>の発問をして、書物の表題にまでしている西尾幹二には、まず上のようなことから論じ始めて欲しかったものだ。
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 西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)。
 この本の、筑摩書房の出版・編集担当者は湯原法史
 上の書は、空気中の酸素を取り込んで炭水化物等を分解してエネルギーにしなければならない人間、酸素を多分に含む血液を脳を含む全身に送る心臓というポンプを必要とする人間、酸素を含む空気を体内に吸い込むための肺臓の存在を必要とする人間、といったものを全く意識させない、<文学的>、<精神主義的>ないし<教養主義的>自由論のようだ。人文(ないし人文・歴史)関係評論家の、典型的な作品かもしれない。
 もっとも、いちおうは精読したのは、全380頁以上のうちの57頁まで(第一章だけ)。
 しかし、上の範囲に限っても、注文を付けたい、または誤りを指摘しておきたい点がある。
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 その前に、さらに私の「自由」論の序説らしきものを、上記に加えて綴ってみよう。
 組織(・団体)や国家の「自由」(これらを主体とする「自由」)は度外視する。
 第一。①何からの「自由」か。英語ではしばしば、free from ~という二語が併せて用いられる。<from ~>の~は重要なことだ。
 ②何についての自由か。
 ア/内心・政治信条・宗教(信仰)・思想等。
 イ/行動。この行動の「自由」を剥奪または制限するのが、刑法上の<自由刑>だ。
 ウ/経済活動。つまり、商品の生産・販売・取引等々。商品には物品のみならず「サービス」を含む。
 これらは、帰属する共同社会または国家により、法的・制度的な<制約>が異なる。
 第二。冒頭に「自由な意思」の存否の問題に言及したが、<身分から契約へ>を標語としたかもしれない「近代」国家・社会は、「個人の自由」について語るときに「個人の自由な意思」の存在を前提としている(正確には、あくまで原則または理念として)。
 <個人の自由意思>の存在を想定することなくして、法秩序は、そして社会秩序は、成立しない(またはきわめて成立し難い)ことになっている。
 以下は、典型的な法条だ。説明は省略する。あくまで一部だ。
 A/刑法38条「①罪を犯す意思がない行為は、罰しない。ただし、法律に特別の規定がある場合は、この限りでない。
 ②重い罪に当たるべき行為をしたのに、行為の時にその重い罪に当たることとなる事実を知らなかった者は、その重い罪によって処断することはできない。
 ③法律を知らなかったとしても、そのことによって、罪を犯す意思がなかったとすることはできない。ただし、情状により、その刑を減軽することができる。」
 同39条「①心神喪失者の行為は、罰しない。
 ②心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。」
 B/民法91条「法律行為の当事者が法令中の公の秩序に関しない規定と異なる意思を表示したときは、その意思に従う」。
 同93条「意思表示は、表意者がその真意ではないことを知ってしたときであっても、そのためにその効力を妨げられない。ただし、相手方が表意者の真意を知り、又は知ることができたときは、その意思表示は、無効とする。
 同95条「意思表示は、法律行為の要素に錯誤があったときは、無効とする。ただし、表意者に重大な過失があったときは、表意者は、自らその無効を主張することができない」。
 こうした基本的な?法条に、西尾幹二の上掲著は言及していないようだ。きっと関心もないのだろう。
 茂木健一郎・脳とクオリア(日経サイエンス社、1997)、p.282。
 茂木は上の箇所で、「自由意思」の存在が「犯罪者を処罰する」根拠になっている、等と述べて、「自由意志」論(第10章<私は「自由」なのか?>)への導入文章の一つにしている。
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 さて、西尾幹二・上掲書の短い読了部分(第一章)には、大きく二つの論点がある。
 紹介・引用しつつ、感想・コメントを記す。
 全体としてもそうなのだろうが、部分的な論及はあるとしても、そもそも「自由」をどう理解するのか、「自由」をどう定義しておくのか、が叙述されていない。
 たんなる身辺雑記以上の「随筆」でもない、少なくとも人文・歴史関係評論家の作品?としては、これは困ったことだ。基本的概念の意味がほとんど分からないまま、<賢い>西尾幹二が読んだ多数の文献が挿入されながら、あれこれと、あちこちに論点を少しは変えながら記述される長い文章を読んでいくのは、なかなかの苦痛でもある。
 それはともかく、先ずは、<いわゆる保守>評論家には見たことがない指摘または「怖れ」が(第一章)前半に叙述されているのが、気を惹いた。
 その最初は、カー・ナビやサイバー・テロに触れたあとのつぎの文章だ。p.10。
 ・「生活はほとんど便利になりますが、なんだか背筋の寒くなる、不気味な時代が始まりつつあるように思えました」。
 アメリカのエシュロンや「情報戦争」に触れたあとでは、こう書く。p.19。
 ・「私たちは今、これまでに知られていない、新しい不気味な一つの大きな檻の中に閉じ籠められているような異様な生活感覚の中で生き始めているように思えてなりません」。
 こうした部分はどうやら、この著の基本的なテーマらしい。
 つまり、そういうふうに変わってきているのに<あなたはあなたが自由でないことに気がついているか>(オレは気づいているぞ)ということが、書名も含めて、主張したいことらしい。同様のことは、「あとがき」でも述べられている。
 西尾が「不気味」だと感じるのは、「敵の正体が見えない」ことだ。「サイバーテロ」は誰がいつ襲うか、分からない。
 ここで西尾は旧東独の「秘密警察」(STASI)へと話題を広げる。
 「敵」が誰か分からず、スパイは家族や友人たちの中にもいた、という「かつての全体主義社会」の実例は、「いつ襲ってくるのか分からない敵の正体の見えにくさ、自由の不透明さ」において、現代へのヒントになる、と言う。p.20。
 それはそれとして参考になるかもしれないが、つぎの文章に刮目すべきだろう。このように「展開」させていくのだ。p.24。
 ・「旧共産主義体制のことを私はことさらに論(あげつら)っているのではありません。
 西側のコンピュータ社会が旧東側の、"少年少女スパイ育成社会"にある面では似てきているという新しい発見に、私が戦いているということを申し上げておきたい」。
 同じ趣旨は、つぎの文章ではさらに明確になり、強調されている。p.26。
 ・「世界の先端を行くアメリカのコンピュータ社会は、全体主義体制にある面で似てきているということの現れではないでしょうか」。
 ・「…倒錯心理、常識の喪失において、両者はどことなく共通し始めております」。 
 アメリカの<コンピュータ社会>は、「ある面では」、「どことなく」、共産主義諸国と「似てきて」いるのだ。
 この点が、西尾がこの辺りで指摘して強調したい点に他ならないと思われる。
 そして、日本社会もまた同じだと明記されている。
 端的には、こう書かれる。p.28。
 ・「新旧の共産主義体制にも、現代のアメリカ社会にも、そして日本の社会にもどことなく共通している秩序の喪失、異常の出現」がある。
 最後の締めくくりの文章はこうだ。p.28。
 ・「私たちの生きている今の世界は、どこか今までとは異なった異質な歪みを時間とともにますます肥大化させているように思えてなりません」。
 ***
 こうした西尾幹二のこの部分での叙述の特質は、以下の二点の指摘・表明だろう。
 ①<科学技術>の進展に対する不信感や恐怖。
 ②「現代」社会の欠陥・問題は<共産主義諸国>でもアメリカ・日本でも共通している。
 西尾の用いる「ある面では」とか「どことなく」という表現の意味こそが決定的に重要だと思われるが、そこにこの人は立ち入らない。
 あくまで<文学的>、<感覚的>だ。
 翻って西尾のこうした叙述を読むと、つぎの感想が生じる。
 第一に、<いわゆる保守>か「容共・左翼」かという対立には関係がなさそうだ、ということだ。<現代>批判では「左翼」的かもしれないし、アメリカを先頭に立つ「敵」と見立てているようであるのは「ナショナリズム・右翼」的かもしれないが。
 第二に、<科学技術>の進展に対する疑問や恐怖は、外国も含めてすでに多数の哲学者・歴史研究者等が議論してきたことだと思われる。
 ある者たちはそれを「資本主義」の行き着く先と見なし、(疎外労働によって?)「人間」を「非人間」に変えていく、と考えた。フランスの戦後の哲学者には、こんな主張もあっただろう。
 だが、<科学技術>の進展それ自体に<諸悪>の根源を見る、ということはできない。
 <科学技術の進展と人間の「自由」>というのは、より論じられるべき問題だ。
 結局は一つに収斂するかもしれないが、一方にはIT・AI(人工知能)等の言葉で示されるコンピュータ関連技術の発展があり、一方には脳科学・脳神経生理学等の発展が明らかにしつつあるヒト・人間の「本性」の研究がある。
 これらと社会・国家・人間の関係をもっと論じるべきなのだろう。
 しかし、西尾幹二は<怯えて><憂いて>いるだけで、処方箋を提示しない。それは<文学>系の自分の仕事ではない、と考えているのかもしれない。
 L・コワコフスキがフランクフルト学派の一人に放った厳しい一言を思い出す。記憶にだけ頼り、少しは修正する。
 <現代的科学技術の進化に戦き、かつて「知識人」としての特権を味わうことができた古い時代へのノスタルジー(郷愁)を表明しているだけ>だ。
 第三に、アメリカ・日本が「共産主義」・「全体主義」体制と「似て」きた、「共通して」きた、という指摘にも、十分な根拠が提示されていない。そもそもが、西尾幹二は「共産主義」をどう理解しているのだろう。
 このようにして東西陣営の「共通」性・「類似」性を指摘するのは、ソ連解体時に「容共・左翼」論者も行ったことだった(ソ連にもアメリカにも「現代」特有の病弊がある、と)。
 西尾において特段に意識的ではないのかもしれないが、アメリカを中心ないし先頭とする「現代」文明を批判するのは、中国・北朝鮮等の現代「共産主義」諸国を免罪することとなる可能性がある。
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 一回では済まなくなった。もともとは、<茂木著②>の前書きのつもりだったのだが。

2006/「文学」的観念論ノート。

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 古都保存法という法律がある。これは略称または通称で、正確には<古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法>(昭和40年法律1号)という。
 この法律2条1項はこう定める。「この法律において『古都』とは、わが国往時の政治、文化の中心等として歴史上重要な地位を有する京都市、奈良市、鎌倉市及び政令で定めるその他の市町村をいう」。
 京都、奈良、鎌倉各市およびその他の「政令で定める」市町村が、「古都」とされる。
 この政令である<古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法第二条第一項の市町村を定める政令>(昭和41年政令232号)によると、 政令で定める「古都」とはつぎの市町村だとされる。
 「天理市、橿原市、桜井市、奈良県生駒郡斑鳩町、同県高市郡明日香村、逗子市及び大津市」。
 さて、鎌倉のほか天理、逗子各市および斑鳩町にはたぶん、かつて天皇・朝廷の所在地はなかった筈だ。それに、かつて「都」があったはずの大阪市が列挙される中に入っていない。
 とこんなことを議論しても無意味だ。「都」の一種だと概念論理的にはいえる「古都」について、「都」それ自体の意味とは無関係に、上の法律は「わが国往時の政治、文化の中心等として歴史上重要な地位を有する」特定の市町村だと定義しているのだから。
 ***
 <大阪都>構想に関して、竹田恒泰や西尾幹二らは、「都」は一つだけだ、東京とは別に大阪「都」というのは本来?おかしいと、歴史学的に?または文学的に?主張し、または感想を述べているらしい。
 言葉・概念をすぐに<文学的>に解してしまう文学(部)系「知識人」・「評論家」あるいは「物書き」(文章執筆請負業者)の弊害が顕著だ(もっとも竹田は法学部卒のはずだが)。
 現行の地方自治法(昭和22年法律67号)は「普通地方公共団体」の中に都道府県(・市町村)が、「特別地方公共団体」の中に「特別区」等があることを定めているが、都道府県の各意味、いずれが都道府県にあたるのかの特定を行っていない。
 そして、3条1項で「地方公共団体の名称は、従来の名称による」とだけ定める。
 したがって、明治憲法公布時の「府県制」(・「市制」・「町村制」)のほか1943年の東京「都制」という名称の各法律によるものをそのまま継承することとしている。
 特別区というのは戦後・地方自治法上の制度で、同法281条1項は「都の区は、これを特別区という」と定める。
 今日まで「都」の名称を継承したのは(昭和18年以降の)東京だけで、上の「特別区」の区域は実質的には東京都だけにあり、また旧東京市(昭和18年まで)の区域に該当するものだった。
 しかし、どこにも「都」の定義はなく、「都」とは将来的にも「東京都」に限る、という旨の規定はない。
 2012年(平成24年)に、略称<大都市地域特別区設置法>、正式名称<大都市地域における特別区の設置に関する法律>(平成24年法律80号)が公布された。
 この法律によると一定大都市地域での「特別区」の最終設置権限機関は「総務大臣」だ(3条)。住民投票(選挙人の投票)等を経ての関係自治体の<合意>で決定されるのではない。
 また、「特別区の設置」とは、「関係市町村を廃止し、当該関係市町村の区域の全部を分けて定める区域をその区域として、特別区を設けることをいう」(2条3項)。
 そして、「都」という語・制度との関係について、こう定める。第10条。
 「特別区を包括する道府県は、地方自治法その他の法令の規定の適用については、法律又はこれに基づく政令に特別の定めがあるものを除くほか、都とみなす。」
 現在「都」ではない「道府県」も、これにより、法制上は「都」となる(そうみなされる)。
 また、確認しないが、例えば大阪府を大阪都と名称変更することについては、すぐ上の厳密な規定ぶりからして、上掲の地方自治法3条1項「地方公共団体の名称は、従来の名称による」との抵触を回避するために、別の特別法(法律)が総務大臣の最終決定と同時か一定期間経過後に必要になるのかもしれない。
 いずれにせよ、「都」は東京に限られるのではない。
 天皇陛下がおられる、皇居のある東京に限るべきだ、と主張するのも自由勝手だが、そんな議論は現実の政治・行政上は、とっくに否認されている。
 ところで、大阪府下に「特別区」をおくといういわゆる<大阪都構想>が橋下徹・大阪維新の会で唱えられたとき、そんなことは法律を改正するか新法律を制定しないと、つまりは国・中央の立法機関の国会がそれを認めなければ、実質的には政府・与党がそれを了解していなければ実現する可能性はゼロであることは分かっていたので、政策的議論、行政政策・地方制度(とくに大都市制度)としての優劣の議論はさておき、そもそもその現実的な実現可能性について疑問をもったものだ。
 ところが何と、2012年(平成24年)というのは年末に安倍晋三第二次内閣が誕生した年だが、自民党等の賛成を得て、上記の法律が成立してしまったので、驚いてしまった。
 これはたんなる「理論的」、「政策論的」優劣の問題ではない。
 上記のとおり法律成立がただちに<大阪都>容認を意味するのではないが中央政界、とくに自民党の同意を取り付ける、という橋下徹らの<政治力>または<人間力>によるところもすこぶる大きかっただろう。
 現行の、「生きている法制度」を変更する・改正するというだけでも大変なことなのだ。むろん、その新しい法制を利用して、元来の「理念」を現実化するのも大変なことはその後の経緯が示している。
 橋下徹はしばしば、学者先生の<空理空論>を批判し揶揄しているが、その気分はよく分かる。
 東京にだけ「都」という語は使うべきだ、「都」は一つに決まっている、などとのんきに?書いたり、発言しているだけでは、世の中は変わらない。
 ***
 天皇・皇室に関する日本国憲法を含む現行法制を全く無視して、あるいは無視していることも意識しないで、奇妙なことを、例えば加地伸行(1936-)は語りつづける。
 加地伸行「宮中にて祈りの御生活を-新しい天皇陛下にお伝えしたいこと」月刊正論2019年6月号p.255.は、かつての現天皇・現皇后に対する自らの罵詈雑言にはむろん?少なくとも明示的には触れることなく、つぎのように書く。
 「伝統を墨守する」方法は「ただ一つ」、「皇居の中で静かに日々をお暮らしになり、可能なかぎり外部と接触されないこと」。「庶民や世俗を離れ、可能なかぎり皇居奥深く在されること」。「宮中におかれて、専一、祈りの御生活」を。
「国事行為の場合には他者との面会もやむをえないが…」とも書いているが、またもや加地の幼稚な天皇観が表れているだろう。
 「祈り」とは何か。幼稚な彼は「祭祀王」という語を用いず、「祈り」と宗教・神道との関係にも触れることができない。
 加地伸行は一度、「内閣の助言と承認」を必要とする、上にいう「国事行為」の列挙を日本国憲法7条で確認しておく必要がある。
 そして、「可能なかぎり」「外部と接触」せずに「皇居奥深く在され」て「祈って」いただきたい、というのは日本の天皇の歴史全体を通じても現憲法に照らしても、特殊な天皇観だということを知らなければなない。
 さらに書けば、この人物はかつての自らの皇室関係発言を「恥ずかしく」感じてはいないのだろうか。
 なぜ、「新天皇」への言葉の原稿執筆依頼を平然と引き受けることができるのだろうか。何についても語る資格があると思っているらしき「古典的知識人」のつもりらしい「名誉教授さま」の神経は、凡人たる私にはさっぱり分からない。

2002/石原萠記・戦後日本知識人の発言軌跡(自由社、1999)②。

 A/石原萠記・戦後日本知識人の発言軌跡(自由社、1999)。
 B/石原萠記・続・戦後日本知識人の発言軌跡(自由社、2009)。
 石原萠記、1924-2017。前者は75歳の年、後者は85歳の年の出版。
 この項①で紹介した1972年4月に東京で開催された「国際セミナー/変貌する社会と社会主義」(後援者・日本文化フォーラム(会長・高柳賢三、事務局長・石原萌記))は最終日に①「会議ステートメント」と②「各分科会の総会報告(要旨のみ)」を発表して終了した。
 これらは、いずれ、そのままこの欄に書き写して別に記録しておきたい。両者で、本文2頁余-Aのp.1129-1131。
 既述のように、この東京での会合でRichard Lownthal (独)およびGilles Martinet (仏)と行った以下の題の報告と副報告(またはコメント)が、のちにL・コワコフスキら編の著書の一部となった。
 Richard Lowenthal <独>「先進民主主義諸国での将来の社会主義」。
 Gilles Martinet.<仏>「社会主義の理論とイデオロギー」。
 L・コワコフスキ=S. Hampshire 編・社会主義思想-再評価(New York、1974)。
 Leszek Kolakowski & Stuart Hampshire, ed, The Socialist Idea - A Reappraisal.(New York, 1974).
 この「東京国際セミナー」については、今回冒頭掲記のでも、つぎのように「記録」されている。B、p.285。タイトルはここでは<変貌する社会における社会主義>となっている。
 これによると、「このセミナーは、フジTVが毎夜放送したほか、NHK教育TV、各マスコミが大きく話題視した。各国メンバーは終了後、東京で歌舞伎などを観劇し、関西へ行き、大学・経済人と交流した。」
 正確な期日等は、1972年4月10日~14日、大手町・日経ホール。
 日本経済新聞社が「後援」している。
 外国からの参加者の中に、Aでは「アラン・ブロック(オクスフォード大副総長)」、Bでは「アロン・バロック(オクスフォード大総長)」と記載されている人がいる。
 この人物は、のちにつぎの書物を出版したのと同一人だろう。
 Allan Bullock〔アラン・ブロック〕=鈴木主悦訳・対比列伝/ヒトラーとスターリン(全三巻-草思社、2003/原書1993年)。
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 石原萠記は、どういう人物だったのか。
 75歳の年の上のAには、第11章<生き甲斐を与えてくれた人びと-忘れ難き学者・文化人に学ぶ->と題して、外国人を含む20人以上の人との身近な交流と人物評(・感謝)をつづっている。たんに知っているとか、尊敬しているとかではない、人間的な<接触・交流>のあったことが分かる。p.1155~p.1216(以下の没年記載もこれによる)。
 対象人物は、以下のとおり。肩書き・所属等を簡単に記述することはできないし、原書でもそうしていないが、何もないと分かりづらいかもしれないので、あえて秋月が記した。
 (01)三輪寿壮(日本社会党)、~1956。
 (02)高柳賢三(英米法、成蹊大学総長、憲法調査会会長、日本文化フォーラム会長)、~1967。
 (03)平林たい子(作家)、~1972。
 (04)河上丈太郎(日本社会党右派)。
 (05)中村菊男(政治学、慶応大学、民主社会主義)。
 (06)張俊河<韓国>。
 (07)松前重義(東海大学総長、日本社会党)、~1991。
 (08)江田三郎(日本社会党右派、社会市民連合)、~1977。
 (09)竹山道雄(哲学者、「自由主義」)、~1984。
 (10)福沢一郎(画家)、~1992。
 (11)小島利雄(弁護士)。
 (12)安倍能成(哲学者、学習院総長)。小泉信三(哲学者、慶応大学)。
 (13)中谷宇吉郎(自然科学)。尾高朝雄(法学、日本文化フォーラム初回会合招聘文執筆者・同副会長予定)、~1956。
 (14)福田恆存(評論家)、~1994。村松剛(評論家)。
 (15)木川田一隆(東京電力、経済同友会)。平岩外四(経団連)。
 (16)関嘉彦(東京都立大、民社党国会議員)。
 (17)高橋正雄(日本社会党右派)、~1995。
 (18)金俊燁<韓国>。
 (19)モクタール・ルービス<インドネシア>。
 (20)ハーバート・パッシン<アメリカ、国際文化自由会議>
 (21)E・サイデンステッカー<アメリカ>
 (22)林健太郎(西洋史、東京大学総長)。
 (23)遠山景久(ラジオ日本)。
 (24)松井政吉(日本社会党右派)、~1993。
 以上。

1999/池田信夫のブログ009-朝日・鈴木規雄。

 池田信夫ブログマガジン2019年7月8日号「慰安婦問題の知られざる主役」。
 鈴木規雄(~2006)という名も含めて、知らなかったことが多いので、要約的紹介。
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 1990年まで慰安婦問題はほとんど知られていなかったが、これを日韓の外交問題にしたのは朝日新聞だ。第一報を書いた植村隆は当時33歳の駆け出しで、キャンペーンの責任者は当時大阪社会部デスクの「鈴木規雄」だった。
 1988年、鈴木は千葉支局デスク時代に初めて「日本人慰安婦」証言を記事にしたあと、1991年8月に大阪社会部デスクで「慰安婦の記事を書かせた」。
 1992年1月、宮沢喜一訪韓直前に「軍関与示す資料」トップ記事が出たときの東京社会部デスクは、鈴木規雄だった。
 1997年3月に、信憑性が怪しくなった吉田清治証言の「真偽は確認できない」との曖昧な総括記事取材班の人選をしたのは、当時名古屋社会部長の鈴木規雄だった。
 上の時期の朝日新聞・外報部長は吉田清治を「世に出した」清田治史だった。この人物は「勤務していた大学を辞職し、その後は姿を消している」。
 鈴木規雄が慰安婦問題で力をもったのは社会部「本流」だったからだろう。大阪社会部で頭角を現し、京都・蜷川虎三府政を応援する記事を書いた。
 鈴木規雄は「共産党員(もしくはそのシンパ)だったとみられ」、朝日新聞は「革新」府政の原動力となった。
 大阪のマスコミは営業的にも「在日」・「同和」の読者が重要で、「慰安婦キャンペーン」は「大阪ジャーナリズム」の総集編ともいうべきものだった。
 鈴木規雄が「自分の書かせた特ダネに事実関係に致命的な誤りがあったことに気づかなかった」とは思えず、遅くとも1997年には気づいたはずだ。
 なぜ2014年まで隠蔽されたのか。「朝日新聞は、まだ大きな問題を隠している」。
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 若干の感想・コメント。
 第一。保守・右派や革新・左派の「論壇・評論家・知識人」たちと同様に、あるいはそれら以上に、現実の「知的」雰囲気を作ったのはジャーナリズムで、新聞、テレビ局を含み、さらに広くは<情報産業>全体を、もっと広くは<情報・エンターテイメント産業>を含む。「産業」・「企業体」だ。
 そして、そうした「産業」界の面々は組織・企業の一員として働くので、「論壇・評論家・知識人」たちと違って(「個人営業」をしないので)、個人の固有名詞が世間一般には出てくる頻度がはるかに少ない。
 上の鈴木規雄、清田治史もそうだが、大手新聞社(+共同通信等)の要職者・社説執筆者、最終的構成・校正担当者はもちろん、テレビ番組の制作責任者(・ディレクター)や月刊雑誌・週刊誌等の「編集」担当者、さらに大手出版社の単行本発行に関与する「編集」担当者もそうだ。
 こういう<業界人>たちは、どのような人物なのか。どのような教育を受け、どのような一般的知識をもち、かつどのような<政治的>感覚を基礎的に身につけているのか。
 そのレベルや内容は、社会にも、「政治」にも、そして「投票行動」にも、全体としては無視できない影響を与えることになっているだろう。
 第二。全てを「個人」に還元させることはできない。例えば、朝日新聞社、読売新聞社、産経新聞社のいずれに入社するかで、ある人物の人生は大きく変わるに違いない。組織内で「出世」しようと思えば思うほど、当該新聞社の「主流的」論調に合わせようとするだろうと思われる。
 産経新聞社の主流論調は、<天皇を戴く国のありようを何よりも尊い>と感じることなのだろうか(例、桑原聡)。
 この産経新聞社内にいると、九州・中国地方の、平安期以降に新たに生まれた<神武天皇東遷>の伝承記録も、<神武…は実際にあった>の証拠になるのかもしれない。
 なお、「個人」が直接に特定の<政党>の影響下にあることはもちろんあるだろう。
 朝日新聞社や岩波書店のみならず、新潮社にも講談社にも平凡社にも、れっきとした日本共産党員はいると思われる。
 少なくとも、自分の会社から日本共産党・不破哲三の本を出版させようと考える「容共産党」の編集者はいる(新潮社・平凡社)。提案して、社内での編集会議ないし出版会議を通過させれば、大手出版社の名で出版することは可能だ。
 第三。しかしまた、個々の組織人で成り立つ新聞社等の情報産業界に、政党直接でなくとも、「評論家・知識人」たちが<空気>の有力な一つとして影響を与えていることも確かだろう。もっとも、相対的には後者の力は落ちているようにも思われる。
 <論壇>とか、<言論思想界>なるものは、ごく一部の者がその「存在」を信じているにすぎない「夢想郷」なのではないか。あるいは、存在しても、その現実的影響力は、当事者たちが想定しているよりも遙かに弱く、100分の1、1000分の1ほどなのではないか。
 第四。朝日新聞批判、朝日新聞拒絶は、この欄の発足時で立脚点だったことで(当初のサブ・タイトルは「反朝日新聞・反日本共産党」だった)、近年になってようやく<えせリベラル>などと指摘して批判的立場を明確にするようでは遅すぎる(例、八幡和郎)。そういう意味では、今回紹介の池田信夫の文章も、無意識に想定していた範囲内に十分にある。

1983/池田信夫のブログ006。

 池田信夫ブログマガジン6月17日号「『ブログ経済学』が政治を変えた」。
 池田のおそらく意図ではない箇所で、あるいは意図していない態様で、その文章に「引っかかる」ことが多い。「引っかかる」というのは刺激される、連想を生じさせるという意味なので、ここでは消極的で悪い意味ではない。
 「物理学では学界で認められることがすべてだが、経済理論は政策を実行する政治家や官僚に認められないと意味がないのだ」。
 十分に引っかかる、または面白い。
 後の方には、こんな文章もある。
 「主流経済学者が…といった警告を繰り返しても、政権にとって痛くもかゆくもない。そういう批判を理解できる国民は1%もいないからだ。」
 学校教育の場では各「科目」の性質の差違、学術分野では各「学問・科学」の性質の差違は間違いなくあるだろう。
 理系・文系の区別はいかほどに役立つのか。自然科学・社会科学・人文科学といった三分類はいかほどに有効なのか。
 文系学部廃止とか人文社会系学部・学問の閉塞ぶりの指摘は、何を意味しているのか。
 経済学(・-理論、-政策)に特化しないでいうと、近年に感じるのは、<現実>と<理論・記述>の区別が明確な、または当然のものとして前提とされている学問分野と、<現実>と<理論・記述>のうち前者は遠のいて、<理論・記述>に該当する叙述が「文学」または「物語」化していく学問?分野だ。
 文学部に配置されている諸科目・分野でいうと、地理学・心理学は最初から別論としたい。ついで、歴史学は理系ないし自然科学に関する知見も本来は!必要な、総合的学問分野だろう。<歴史的事実>と<歴史叙述>が一致しないことがある、ということは古文献にせよ、今日の学者・研究者が執筆する文章にせよ、当然のことだろう。
 法学というのは「法規範」と「現実」は合致するわけではないことを当然の前提にしている。規範の意味内容の「解釈」を論じてひいては何がしかの「現実」に影響を与えようとする分野と、法史学とか法社会学とかの、直接には「法解釈」の議論・作業を行うのではない分野の違いはあるけれども。
 池田信夫もおそらく前提とするように、「経済」に関する「理論」とそれが現実に「政策」として政権・国家によって採用されるかは別の問題だ。さらには、特定の「理論」が「経済政策」として採用されても、それが「現実に」社会または国民生活にどういう影響を与えるかは、さらに別の話、別に検証を要する主題だろう。
 なお、日本では法学部内に置かれていることが多い政治学は、少なくとも<法解釈学>よりは経済学に近いような気がする。もちろん、「政治」と「経済」で対象は異なるけれども。よって、「政経学部」という学部があるようであるのも十分に理解できる。
 上に言及したような文学部内の科目・分野を除くと、<現実>と<物語化する記述>が曖昧になってくる傾向があるのは、狭義での「文学」や「哲学(・思想)」の分野だろう。
 そして、こうした分野で学部や大学院で勉強して、大学教授・「名誉教授」として、または種々の評論家として文章を書いたり発言をしたりしている者たちが、戦後日本を「悪く」してきた、というのが、近年の私の持論だ。
 なぜそうなるのだろうか。「事実」ないし「経験」によって論証するという姿勢、「事実」・「現実」にどう関係しているかという問題意識が、もちろん総体的・相対的にかもしれないが、希薄で、<よくできた>、<よくまとまった>、<読者に何らかの感動を与える>まとまりのある文章を作成することを仕事としている人々の基礎的な学修・研究の対象が「文学」だったり哲学者の「哲学書」だったり、本居宣長等々の「作品」だったりして、そしてそれら<著作物>の意味内容の理解や内在的分析(むろん書き手・読み手両方についての「他者」との比較を含む)だったりして、直接には<事実>・<歴史的現実>を問題にしなくとも、あるいはこれらを意識しなくとも仕事ができ(報酬が貰え)、評価もされる、ということにあるだろう。
 適切な例かどうかは怪しいが、「狭義」の文学とはいったいいかなる意味で「学問」なのだろう。
 ある外国(語)の「文学」に関する論考が大学の紀要類に掲載されていて、それを読んだとき、これは「学問」か?と強く感じたことがある。
 その論考は要するに、ある外国(語)の「文学」作品を原外国語で読んで、邦訳し(日本語化し)、そのあとでコメントないし「感想」を記したものだった。
 こんな作業は、中学生・高校生が日本語の「文学」作品について行う「読書感想文」の記述と、本質的にいったいどこが違うのか。
 外国語を日本語に訳すること自体が容易でないことは分かるが、翻訳それだけでは一種の「技術」であり、あるいはせいぜい「知識」であって、とても「学問」とは言い難いのではないか。
 唐突だが、小川榮太郎が産経新聞社系のオピニオン・サイトに昨2018年9月28日に、書いていたことが印象に残った。表題は、「私を非難した新潮社とリベラル諸氏へ」。
 毎日新聞に求められて原稿を書いたが、掲載されなかった。その内容は、以下だった、という。以下、引用。一文ずつ改行。
 「署名原稿に出版社が独断で陳謝コメントを出すなど言語道断。
 マイノリティーなるイデオロギー的立場に拝跪するなど文学でも何でもない。
 …に個の立場で立ち向かい人間の悪、業を忌憚なく検討する事も文学の機能だ。
 新潮社よ、『同調圧力に乾杯、全体主義よこんにちは』などという墓碑銘を自ら書くなかれ」。

 この文章は昨年夏の新潮45(新潮社)上の杉田水脈論考をきっかけとし生じた「事件」の当事者によるものだ。
 きわめて違和感をもつのは、どうやら小川榮太郎は自分の「文学」の仕事として、杉田水脈を応援し?、防衛?しようとしたようであることだ。
 杉田水脈論考は国会議員の文章で、「政治的・行政的」なものだ。
 そして、小川榮太郎がこれを支持する、少なくともリベラル派の批判に全面的には賛同しない、という立場を明らかにすることもまた、「政治的」な行動だ。
 執筆して雑誌に掲載されるよりも前にすでに、新潮45編集部からの(一定の意味合いの)執筆依頼を受諾したということ自体が、「政治的」行動だ。
 小川榮太郎は「文学」と「政治」の二つの「論壇」で自分は活動していると思っているらしく、これもまたきわめて怪しい。
 主題がやや別なのだが、「論壇」人とは要するに、少なくとも現在の日本にとくに注目すれば、いくつかの何らかの雑誌類への執筆という注文を受けて、文章という「生産物」を販売し、原稿料というかたちで対価を受け取っている、「文章執筆自営業者」にすぎない。
 大学・研究所その他ら所属していれば、副業かもしれないが、小川榮太郎のような者にとっては、「本業」としての「文章(執筆)請負・販売業」なのだ。
 企業である出版業者が<経営>を考慮するのは当然のことで、新潮社の社長の権限や内部手続の点はよく知らないのでともあれ、小川榮太郎が<表現の自由>の剥奪とか新潮社の<全体主義>化とかと騒いでいるのは、根本的に倒錯している
 元に戻ると、小川榮太郎が新潮45に掲載した論考が彼の「文学」だとは、ほとんど誰も考えなかったのではないか。
 今回に書きたかったことは、強いていえばここにある。つまり、「文学」と「政治」の混同・混淆で、自分の文章を「文学的」に理解しようとしないとは怪しからん、自分の「文学亅を理解していない、などという開き直りの仕方の異様さだ。
 もともと小川榮太郎は「文芸」評論の延長で「政治」評論もしているつもりなのだろう。
だから、文学・政治の両「論壇」で、などと書くにいたっている。
 そして、安倍晋三に関するこの人の「作品」は「文芸」評論の延長で「政治」にも関係した典型のもので、ある種の感動・関心を惹いたのだとしても、その内容は「物語」だ。
 現実・事実を最初から「物語」化してはいけない。あるいは「文学」化してはいけない。
 それらの基礎にある、何らかの「思い込み」、「妄想体系」の<優劣>でもって勝負あるいは<美しさ>、<作品の評価>が決まってしまう、というようなことをしてはいけない。
 それは狭い「文学」の世界では大切なことなのかも知れないが、事実・現実に関係する世界に安易に、あるいは幼稚に持ち込んではならないだろう。
 というわけで、ひいては、「文学」の<学問>性や他人の文章ばかり読んでいる「哲学研究者」なるものの「哲学」性を、ひどく疑っているわけだ。
 池田信夫の文章に関連して、さらに書きたくなること、連想の湧くことは数多いが、今回はここまで。

1896/小川榮太郎の「文学」・杉田水脈の「コミンテルン」②。

 まず、前回の余録。 
 杉田水脈は語る-「子供を家庭から引き離し、保育所などの施設で洗脳する」という「旧ソ連が共産主義体制の中で取り組み、失敗したモデル」。
 たしかに、たぶんレーニンではなくスターリンのもとで、子どもに両親(二人またはいずれか)の「ブルジョア」的言動を学校の教師とか党少年団の幹部とかに<告げ口>させるというようなことがあったようだ。
 どの程度徹底されたのかは知らない。しかし、東ドイツでも第二次大戦後に、夫婦のいずれかが片方の言動を国家保安省=シュタージに「報告」=「密告」していることも少なくなかったというのだから、現在日本では<想像を超える>。
 しかし、「ブルジョア」的言動か否かを判断できるのは日本でいうと小学生くらい以上だろうから、「保育所」の児童ではまだそこまでの能力はないのではないか。
 これはそもそも、産まれたヒト・人間を「社会」・「環境」がどの程度「変化」させうるのか、という基本問題にかかわる。だが、ともあれ、「保育所」の児童の「洗脳」を語る場合に、杉田水脈は具体的にどういうことを想定したのだろうか。
 さる大阪府豊中市内の保育園か幼稚園で、子どもたちにそのときの総理大臣に感謝する言葉を一斉に連呼させていた例も平成日本であったようだから、スターリン(様?)に対してか共産党体制に対してか、感謝を捧げ、スターリン・ソ連万歳!と言わせるくらいの「洗脳」はできるだろうが、杉田水脈はそれ以上に、何を想定していたのだろう。
 保育所児童がマルクス=レーニン主義を理解するのはまだ無理で、<歴史的唯物論>はむつかしすぎるのではないか?
 そうだとすると、ソ連が日本でいう小学生程度未満の「子供を家庭から引き離し」た目的は、その母親を労働力として利用するために「家庭」に置かない、「育児」のために「家庭で子どもにかかりきりにさせる」のではなく「外」=社会に出て、男性(子どもにとっての父親を含む)と同様に「労働」力として使うことにあったのではないか、と思われる。
 1917年末の立憲会議選挙(ボルシェヴィキ獲得票24%、招集後に議論なく解散)は男女を含むいわゆる普通選挙で、かつ比例代表制的な「理想」に近いほどの?方式の選挙だったともいわれる。
 したがってもともと、「社会主義」には男女平等の主張は強かったのかもしれないが、その重要な帰結の一つは、「(社会的)労働」も男女が対等に行う、ということだったと考えられる。
 かつまた、当時のソ連の経済状態からして、男性を中心とする「労働」だけでは決定的に足りなかった。囚人たちも「捕虜」たちも、労働に動員しなければならなかった。
 そのような状況では、子どもを生んだ女性たちの力を「家庭内で育児にほとんど費やさせる」余裕など、ソ連にはなかった、と思われる。
 100人の女性が多く見積もって200人の幼児・児童の「子育て」に各家庭で関与するよりも、20人の「保育士」が200人の幼児・児童を世話をする方が、5倍ほども「効率」がよい。-各家庭または母親等の「個性的」子育て・しつけはできないとしても。
 以上のようなことから、「子供を家庭から引き離し、保育所などの施設」で受け入れる必要がまずあったのであって、「洗脳」は、幼児や保育園児童については二次的、三次的なものでなかっただろうか。
 私はソ連史、ヒトの乳幼児時期や育児論、に詳しくはないし、上の数字も適当なものだ。
 しかし、女性の「労働」環境がソ連と現在の日本とでは出発点から異なることを無視してはいけないように思われる。
 多数の女性が「社会」に進出して?「工場」等で「労働」するようになると、それなりの(女性の特有性に配慮した)「女性福祉」の必要が、ソ連においてすら?必要になる。
 一般的にソ連または社会主義体制は「福祉に厚い(厚かった)」という宣伝を、資本主義諸国の状況と単純に比較して、前者を「讃美」・「称揚」することはできないのだ。-このトリックをいまだに語る日本人は少なくない。
 ともあれ、杉田水脈の「思考」はまだ不足しているのではないか、ということだ。
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 かつて、つぎの本があり、上下二巻を私は面白く読んだ。
 遠藤浩一・福田恆存と三島由紀夫 1945-1970/上・下(麗澤大学出版会、2010)。
 文学または文芸分野の著作かにも感じられるが、しかし、著者は法学部出身で政党活動にも関係していたからでもあろう、タイトルの二人の言説の比較、経緯等をときどきの「政治」の世界とその歴史の中で位置づけ、論述していたのが興味深くて、かなり一挙に読み終えた。当時の自分の関心にも適合していたのだろう。
 だが翻って感じるのは、この遠藤浩一(故人)の仕事・著作は、いったいいかなる性格の知的営為であって、無理やり分けるとしていかなる<ジャンル>のものなのだろう、ということだ。
 日本戦後史の一部の「歴史研究」という意図があるいはあったかにも見える。「文芸」も「文芸評論」も作家の「小説」類も、歴史的叙述の対象に、それらを対象に限ったとしても、なりうる。しかし、著者は正面からその旨を謳ってはいなかった。
 むしろ、記憶に残る印象は、二人の文芸・文学「知識人」を素材にした、戦後の「政治」とその歴史の一端についての、遠藤による<物語>または<作品>だった、ということだ。
 最近までも含めて、「歴史」に関する書き物での、いったいいかなるレベルの叙述なのかが曖昧なものがきわめて多いように見える。
 単純に二分すると、歴史「研究」書又は歴史「研究」を基礎にした一般向け書物なのか、それとも歴史に関する「お話」、個人的に思いつきや思い込みを含めて書いた「物語」、あるいは後者を含む意味での、要するに歴史叙述に名を借りた「作品」か。(これらとは、最初から歴史「小説」と明言されているものはー「時代小説」も含めてー、史料を踏まえていても、もちろん区別され、別論だ。)
 むろん、このように単純化はできない。前者を歴史「学界」または「アカデミズム」の一員によるものに限るのもおそらくやや狭すぎる。
 井沢元彦の<歴史研究>をアカデミズムは無視するかもしれないが、単なるマニア、歴史好きのしろうと(私のような)では、この井沢はないだろう。
 しろうとよりは多数の知識をもっていて「専門家」とすら自己認識している可能性すらあるようにも見える八幡和郎は、しかし、日本史の「専門家」では全くないだろう。歴史好きの平均的なしろうと(私のような)よりは「かなりよく知っている」程度にとどまると思われる。
 長々と余計なことを書いているようでもあるが、「歴史」に関する話題に収斂させたいのではない。
 小川榮太郎の文章を読んでいて興味深く思うのは、「文論壇」とか「文・論壇」とかのあまり見たことがない言葉が用いられていて、どうやら「文壇と論壇」を合わせたものを意味させているようであることだ。
 小川はどうも主観的には、「文壇」と「論壇」の両方で活躍??しているつもりらしい。
 先に遠藤浩一の著について感じた、これはいかなる性質の、どの分野の言述なのか、が小川榮太郎についても問題になりうる。
 いかほどに深く、この点を小川榮太郎が思考しているかは、疑わしい。
 <文学的に政治を語る>のは、より正確には<文学・文芸評論家の感覚で政治そのものを論じようとする>のは、そもそも間違っているのではないか。
 いや、小林秀雄も、福田恆存も、あるいは三島由紀夫も、とか小川は言い出すかもしれない。しかし、あくまで現時点での個人的な印象・感覚だが、これら三人は、<文学・文芸>の分限とでもいうべきものを弁えており、<政治そのもの>に没入はしなかった。
 むろん三島由紀夫の自衛隊・市ヶ谷での1970年の行動は、<政治そのもの>であって、<文学・文芸>の分限を超えるものであることを三島自身は深く自覚・意識していたに違いない。このような意味で、同じ人間が時機や特定の言動について、二つの異なる世界を生きることはあるが、同じ人間が同じ時機と同じ言動によって異なる二つの世界を生きることを(三島由紀夫はかりに別論としても)、小林秀雄も福田恆存も慎重に避けていたのではないだろうか。
 小川榮太郎が<文学的に政治を語る>のは、より正確には<文学・文芸評論家の感覚で政治そのものを論じようとする>のは、間違っているのではないか。
 むろん、「文学・文芸評論家」ではなく、「政治評論家」あるいはさらに「政治活動家」として自分は言動している、と言うのであれぱ、それでよい。それで一貫はしている。
 (つづく)

1895/小川榮太郎の「文学」・杉田水脈の「コミンテルン」①。

 2018年9月の新潮45<騒動>の出発点となったのは杉田水脈の文章で、それを大きくして決着をつけた?のは、小川榮太郎の文章。
 2年近く前の小林よしのり、ちょうど1年前の篠田英朗。タイミングを失して、この欄に書こうと思いつつ果たしていないテーマがある。
 新潮45問題に関して気になっていたことを、ようやく書く。時機に後れていることは、当欄の性格からして、何ら問題ではない。
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 原書・原紙で読んだわけではないが、杉田水脈はこう書いている。ネット上で今でも読める。
 産経新聞2016年7月4日付、杉田・なでしこリポート(8)。
 「保育所を義務化すべきだ」との主張の「背後に潜む大きな危険に誰も気づいていない」。
 「子供を家庭から引き離し、保育所などの施設で洗脳する。旧ソ連が共産主義体制の中で取り組み、失敗したモデルを21世紀の日本で実践しようとしている」。
 一部かと思っていたら「数年でここまで一般的な思想に変わってしまう」とは驚きだ。
 「旧ソ連崩壊後、弱体化したと思われていたコミンテルンは息を吹き返しつつあります。その活動の温床になっているのが日本であり、彼らの一番のターゲットが日本なのです」。
 「これまでも、夫婦別姓、ジェンダーフリー、LGBT支援-などの考えを広め、…『家族』を崩壊させようと仕掛けてきました。…保育所問題もその一環ではないでしょうか」。
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 2018年の「生産性」うんぬんの議論の芽は、ここにすでに見えている。
 この言葉とこれに直接に関係する論脈自体は別として、秋月瑛二は上のような議論の趣旨が分からなくはない。また、一方で、「保守」派はすぐに伝統的「家族」の擁護、<左翼>によるその破壊と言い出す、という<左>の側からの反発がすぐに出るだろうことも知っている。
 戦後日本の男女「対等」等の<平等>観念の肥大を、私は懸念はしている。
 しかし、上のようなかたちでしか国会議員が論述することができないということ自体ですでに、「知的」劣化を感じざるをえない。
 第一に、現在日本での「保育所」問題あるいはとくに女性の労働問題と「子供を家庭から引き離し、保育所などの施設で洗脳する。旧ソ連が共産主義体制の中で取り組み、失敗したモデル」とを、あまりに短絡に結びつけているだろう。
 百歩譲ってこの「直感」が当たっているとしても、その感覚の正当性をもっと論証するためには、幾十倍化の論述が必要だ。旧ソ連の「子育て」・労働法制(または仕組み・イデオロギー)と日本の現下の保育所を含む児童福祉・労働法制等の比較・検討が必要だ。
 そのかぎりで、杉田水脈は一定の「観念」にもとづいて、「思いつき」でこの文章を書いている。
 第二に、唐突に「コミンテルン」が出てくる。これはいったい何のことか。
 杉田水脈が「旧ソ連崩壊後、弱体化したと思われていたコミンテルンは息を吹き返しつつあります。その活動の温床になっているのが日本であり、彼らの一番のターゲットが日本なのです」と明記するには、それなりの根拠あるいは参照文献があるに違いない。
 いったい何を読んでいるのだろうか。また、その際の「コミンテルン」とはいかなる意味か。
 「コミンテルン」を表題に使う新書本に、この欄でまだ論及するつもりの、以下があった。
 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)。
 この本で江崎は戦争中の「コミンテルンの謀略」を描きたかったようだが、そして中西輝政が本当に読んだのかが決定的に疑われるほどに(オビで)絶賛しているが、江崎自身が中で明記しているように、「コミンテルンの謀略」とはつまるところ「共産主義(・マルクス主義)の影響」の意味でしかない。タイトルは不当・不正な表示だ。
 「謀略」としてはせいぜいスパイ・ゾルゲや尾崎秀実の「工作」が挙げられる程度で、江崎自身が、無意識にせよ、客観的にはソ連・共産党を助けることとなった言論等々を含むときちんと?明記している。
 上の本は正式には<共産主義と日本の敗戦>という程度のものだ。しかも、延々と明治期からの叙述、聖徳太子に関する叙述等々があって、コミンテルンを含むソ連の「共産主義者」に関する叙述は三分の一すらない。
 さて、杉田水脈における「コミンテルン」も、何を表示したいのだろうか。
 しかも、これは「弱体化したと思われていた」が「息を吹き返しつつあ」るもので、しかも、「一番のターゲットが日本」なのだとすると、本拠?は日本以外にあり、かつ日本以外にも攻撃対象になっている国はある、ということのようだ。本部は中国・ペキンか、それともロシア・モスクワか。ひょっとしてアメリカ・ニューヨークにあるのか。
 これは、「コミンテルン」=共産主義インターナショナルという言葉に限ると、<デマ>宣伝にすぎない。この人の「頭の中」には存在するのだろう。
 左にも右にもよくある、<陰謀>論もどきだ。
 ロシア革命が「原因」でヒトラー・ナツィスの政権奪取があったとする説がある。なお、レーニン・十月革命(10月蜂起成功)ー1917年、ヒトラー・ミュンヘン蜂起失敗ー1923年。
 両者の<因果関係>は、間違いなくある。ほんの少し立ち入ると、両者をつなぐものとしてリチャード・パイプス(Richard Pipes)もかなり言及していたのは<シオン賢人の議定書>だ。記憶に頼って大まかにしか書けないが、これは当時に刊行のもので、ロシア・十月革命の原因・主導力を「ユダヤの陰謀」に求める。又はそのような解釈を積極的に許す。かつ、その影響を受けたドイツを含む欧州人は「反ユダヤ人」意識を従来以上に強くもつに至り、ヒトラーもこれを利用した、また実践した、とされる(なお、いつぞや目にした中川八洋ブログも、この議定書(プロトコル)に言及していた)。
 理屈・理性ではない感情・情念の力を無視することはできないのであり、中世の<魔女狩り>もまた、理性・理屈を超えた「情念」あるいは「思い込み」の恐ろしさの表れかもしれない。
 現在の日本の悪弊または消極的に評価する点の全てまたは基本的な原因を、存在してはいない「コミンテルン」なるものに求めてはいけない。もっときちんと、背景・原因を、そして戦後日本の政治史と社会史等々を論述すべきだ。
 <左翼>は右翼・ファシスト・軍国主義者の策謀(ときにはアメリカ・CIAも出てくる)を怖れて警戒の言葉を発し、<右翼・保守>は左翼の「陰謀」に原因を求めて警戒と非難の言葉を繰り返す。
 要するに、そういう<保守と左翼>の二項対立的な発想の中で、左翼またはその中の社会主義・共産主義「思想」を代言するものとして、おそらく杉田水脈は(まだ好意的に解釈したとしてだが)、「コミンテルン」が息を吹き返しつつある、などと書いたのだろう。
 産経新聞編集部もまた、これを簡単にスルーしたと思われる。産経新聞社もまた、江崎道朗と同様に?、「コミンテルンの陰謀」史観に立っているとするならば、当然のことだ。
 共産主義あるいはマルクス主義・社会主義に関心を寄せるのは結構なことだが、簡単にこれらを「観念」化、「符号」化してはならない。
 歴史と政治は多様で、その因果関係もまた複雑多岐で、「程度・範囲・濃度」が様々にある。
 幼稚な戦後および現在の「知的」議論の実態を、杉田水脈の文章も、示しているように思われる。
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