秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

日本戦後史

2565/柳原滋雄・日本共産党の100年(2020)。

 柳原滋雄・ガラパゴス政党.日本共産党の100年(論創社、2020)
  この書物(計250頁ほど)の各章の表題は、つぎのとおり(一部に割愛あり)。プロローグ・エピローグは省略。
 第一部/朝鮮戦争と五〇年問題。
  第1章・日本共産党が「テロ」を行った時代。
  第2章・組織的に二人の警官を殺害。
  第3章・殺害関与を隠蔽し、国民を欺き続ける。
  第4章・日本三大都市で起こした騒擾事件。
  第5章・共産党の鬼門「五〇年問題」とは何か。
  第6章・白鳥事件—最後の当事者に聞く。
 第二部/社会主義への幻想と挫折。
  第7章・「歴史の遺物」コミンテルンから生まれた政党。
  第8章・ウソとごまかしの二つの記念日。
  第9章・クルクルと変化した「猫の目」綱領。
  第10章・原発翼賛から原発ゼロへの転換。
  第11章・核兵器「絶対悪」を否定した過去。
  第12章・北朝鮮帰国事業の責任。
  第13章・沖縄共産党の真実。
 第三部/日本共産党"政権入り”の可能性。
  第14章・「スパイ」を最高指導者に君臨させた政党。
  第15章・日本国憲法「制定」に唯一反対する。
  第16章・テロと内ゲバの「母胎」となった政党。
  第17章・「被災地」での共産党の活動。
  第18章・「日本共産党は"横糸“が欠けていた」。
  第19章・京都の教訓—庇を貸して母屋を取られる。
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  著者(1965-)は元「社会新報」記者。
 少し捲っただけで、まともには読んでいない。奇妙な「マルクス・レーニン主義」理解を披歴したり、「暴力革命」を捨てていないと言いつつ最後に公安調査庁の文書によってそれを正当化するような、程度の低い共産党批判書よりは、「事実」が書かれているようで、マシではないか。
 巻末に「付論」の中に、つぎの四綱領文書が掲載されているのは、役に立つだろう(但し、一部省略あり)。カッコ内はこの著者。
 ①1951年綱領(徳田綱領)。
 ②1961年綱領(宮本綱領)。
 ③2004年綱領(不破綱領)。
 ④2020年改定綱領(志位綱領)。
 ③は中国・ベトナムを「市場経済を通じて」社会主義をめざしている国家と位置づけた綱領だ(第23回党大会。④でまた変わる)。
 しかし、第20回党大会が採択した1994年綱領もまた、きわめて重要だと考えられる。これによって、<ソヴィエトはスターリン時代に社会主義国ではなくなっていた>旨が明記された。1991年12月〜1994年7月まで、少なくとも1992-93年の二年間は、日本共産党は公式にはこの問題には口をつぐんでいた。不破哲三は、「大国主義」・「覇権主義」と闘ってきたと、ソ連共産党という政党とソ連という国家自体の区別を曖昧にしたまま、何やら吠え立てていたけれども。
 なお、この年、この綱領後は、形式的にも宮本顕治の影響力はなくなった。1992-93年は宮本と不破の間の、ソ連認識も含めての「闘争」があったに違いない。
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2468/西尾幹二批判043—根本的間違い(続1)。

  狂人にも、器質的に異常な精神障害者=病者の他に、正常な=正気の人格障害者とがあると思われる。いずれでもないとして真面目に受け取るが、西尾幹二の述べる日本をめぐる国際的政治情勢の把握には、根本的間違いがある、と考える。
 この<根本的間違い>にはすでに何度か、触れてはいる。批判024、同031(No.2348、No.2417)など。より本格的に論及しよう。
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  西尾幹二・国民の歴史(1999年)は最後の章で、現代人は自由でありすぎる、という理解を示す。そして、「自由であるというだけでは、人間は自由になれない」等と述べ、空虚と退屈さに向かう、とする。
 それこそ空虚な物語的作文またはレトリックだとして一瞥しておけばよいのだが、「私たちは否定すべきいかなる対象さえもはや持たない」(全集第18巻、p.633)と断じられると、さすがに首を傾げたくなる。
 そして、その直前に、<根本的間違い>を示す一文がある。
 私たちは「共産主義体制と張り合っていた時代を、なつかしく思い出すときが来るかもしれない」。
 何と、西尾においては「共産主義体制と張り合っていた時代」は、もうとっくに終わっているのだ。この書物は当初は「新しい歴史教科書をつくる会」の編著でもあったが、のちの2017年に西尾幹二当人は、この会は「反共」のみならず初めて「反米」を明確に打ち出したと豪語?した。
 「反共」とはいったい何のことだったのか。
 ともあれ、アメリカに対して厳しく中国に対しては甘い、あるいはアメリカと中国が同盟してアメリカまたは中国が日本を襲ってきそうだ、という国際情勢の認識を示している。最初から、<根本的に間違って>いるのだ。
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  ①2006年12月、当時の安倍首相の変貌の背景を西尾はこう予想し、アメリカと中国にこう言及していた。 
 「第三が…アメリカの存在です。…これがもっとも厄介な問題になってくると考えています。
 中国はそれほど大きな問題ではない
 つまり、中国に対抗するためにはアメリカに依存するほかないけれど、あまりに依存を続けていくと今度はアメリカに呑み込まれてしまうという新しい危機。
 これからはこっちの方が大きい。」
 月刊諸君!2006年12月号、75頁。
 ちなみに西尾は、2007年8月に、既発表文章を集めた、同・日本人はアメリカを許していない(ワック)を刊行している。中国や北朝鮮ではなく、アメリカが「敵」として設定されている。さらに、個人全集第16巻(2016年)に収載。
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 ②2008年12月、『皇太子さまへの御忠言』を刊行した直後だが、西尾はこんなことを書いていた。
 「日本という平和ボケした国家」でも「一つだけナショナリズムの本気で目覚める契機があると思います。
 それは、…アメリカが、尖閣諸島や竹島、北方領土などをめぐって、中国、韓国そしてロシアの味方をする悪代官になって日本を押さえ込もうとしたときです。」
 しかし、アメリカの国力喪失、軍事的後退によって、その「暇もないうちに日本を置き去りにしてハワイ以東に勢力を急速に縮小するという事態が訪れるかもしれません。
 つまり、このまま放っておいても、日本はアメリカから解放されるのです。」
 撃論ムック2008年11月号西尾・日本をここまで壊したのは誰か(草思社、2010)所収、p.149-150。
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 ③2009年8月、麻生首相の時代に、こう回顧していた。
 安倍氏が村山・河野両談話を認めたのは「敗戦国」だと言い続けないと国が持たないと「勝手に怯えたからでしょう」。
 「そういう轍のような構造に、おそらく中国とアメリカの話し合いで押し込められたのだろうと思う」。
 中国訪問、八月以前の靖国参拝、「あれは話し合いが全部ついていたのだと思う」。
 「日本と中国のナショナリズムを鎮めたい日米中経済界の話し合いだと思います」。
 月刊正論2009年8月号、232頁。
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 上の直前の2009年6月には、こう予想していた。
 「中国の経済的協力を得るためには、日本の安全でも何でも見境なく売り渡すのが今のアメリカです」。
 「今は地域の覇権を脅かしている中国、かつての反米国家が米国の最大の同盟国になっているほどに権力構造に変化が生じていることを見落としてはなりません」。
 「中南米から手を引き始めたアメリカは、韓国、台湾、そして最後に日本からも手を引くでしょう
 しかし、その前に静かにゆっくりと敵になるのです。」
 また、つぎのように回顧し、かつ現状を認識していた。
 1991年のソ連崩壊により「世界中に…民族主義の炎が燃え広がったわけですから、日本の保守政権もこれからアメリカは当てにならないと考え、軍事的、政治的、外交的に自立への道を歩みだすチャンスであったのに、実際にはまるで逆の方向、隷属の方向に進んでしまいました」。
 「日米安保は、北朝鮮や中国やアセアン諸国に対して日本に勝手な行動をさせないための拘束の罠になりつつあります
 加えて、ある段階から北朝鮮を泳がせ、日本へのその脅威を、日本を封じ込むための道具として利用するようにさえなってきているのです。」
 以上、月刊正論2009年6月号、p.98、p.104-5。
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 ⑤2013年、すでに個人全集の刊行を始めていたが、つぎのように西尾は書いた。
 「時代は大きく変わった。『親米反共』が愛国に通じ、日本の国益を守ることと同じだった情勢はとうの昔に変質した。
 私たちは、アメリカにも中国にも、ともに警戒心と対決意識を等しく持たなくてはやっていけない時代に入った。
 どちらか片方に傾くことは、いまや危ない。

 「親米反共」論者は「政治権力の中枢がアメリカにある前提に甘えすぎているのであり、やがて権力が牙を剥き、従属国の国民を襲撃する事態に直面し、後悔してももう間に合うまい。
 わが国の十年後の悲劇的破局の光景である。」
 西尾・憂国のリアリズム(ビジネス社、2013年)同・保守の真贋(徳間書店、2017年9月)所収、p.164、p,166。
 ⑥2018年10月、その前に渡部昇一と対談していた西尾は、つぎの点で渡部と一致し、二人で強く訴えた、という。
 「共産主義が潰れて『諸君!』の役割が終わっても、対立軸は決してなくなっておらず、東京裁判史観にどう立ち向かうという課題は依然として残っている」。
 月刊正論2018年10月号(花田紀凱との対談)、p.271。渡部との対談書は所持していない。
 なお、ここでいう「共産主義が潰れた」の中には、少なくとも渡部昇一においては、中国も含められている。
 渡部は2016年の韓国との慰安婦「最終決着文書」を安倍内閣の見事な外交文書だとし、併せて、かつての「対立軸」は<共産主義か反共産主義か>だったが、1991年のソ連解体により対立軸が「鮮明ではなくなり」、中国も「改革開放」によって「共産主義の理想」体現者でなくなり、「共産主義の夢は瓦解した」と明記していたからだ。月刊WiLL2016年4月号(ワック)、p.32以下。No.1413で、既述。
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 四 1 以上は一部であり、探索すればもっと他にもあるだろう。また、個人全集収録の有無等も、一部を除き確認していない。
 それでも、以上のかぎりで、西尾幹二の<根本的間違い>は、私には明瞭だ。
 2006年—アメリカが厄介で、「中国はそれほど大きな問題ではない」。
 「アメリカに依存する」ほかないが、「今度はアメリカに呑み込まれてしまうという新しい危機」があり、「これからはこっちの方が大きい」。
 2013年—「私たちは、アメリカにも中国にも、ともに警戒心と対決意識を等しく持たなくてはやっていけない時代に入った。
 どちらか片方に傾くことは、いまや危ない。
 アメリカと中国を等距離に置く。これは、韓国大統領・文在寅の米中間の「バランサー」役の旨の発言すら思い出させる。
 上の前提になっているのは、<共産主義はすでに崩壊した(冷戦は共産主義の敗北で終焉した)>という理解だ。
 ここに<根本的間違い>とその原因がある。
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 ここで区切って、四の2から、次回につづける。
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2451/西尾幹二批判036—「つくる会」運動。

 一 自らが初代会長だった「新しい歴史教科書をつくる会」の運動について、西尾幹二はこう語ったことがある。
 ①月刊諸君!2009年6月号(文藝春秋)。p.204-5。この雑誌の最終号の8名による座談会で、宮崎哲弥が「つくる会」は戦後保守の最初で「おそらく最後の」「大衆運動」だろうと見ていたと発言すると、西尾はすぐあとにこう発言した。
 「いや、運動はしましたよ。それはさかんに動いたけれども、結局、大勢我に利あらずして、現実を動かしえなかった…、私はそう総括しています。
 保守言論の無力というものを露呈したわけです。
 あのときの中韓との戦い<中略>、日本は負けてしまって…いまだに負けつづけているのです。」
 ②月刊WiLL2011年12月号(ワック)。これを現時点で散逸しているので正確な引用はできない。記憶による。
 西尾が自分が書いたものは全て「自己物語」で「私小説的自我の表現」だった旨を言い、対談者の遠藤浩一が、<そうすると、つくる会という組織の運営は大変だったでしょう>という旨を質問気味に発言すると、西尾は、こう反応した。
 <そうなんです。だから、失敗したのです。>
 (この部分は現物を見て後日修正するかもしれない。)
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  2009年、2011年の時点では、このように「無力」や「失敗」という言葉を用いていた。
 しかし、西尾個人編集の独特な<全集>の2018年の「歴史教科書問題」の巻(第17巻)になると、「つくる会」運動は全くまるで異なったものだったように描かれている(そのように個人編集されている)。
 この2018年刊行本の中に、前年2017年の「つくる会」20周年記念集会用の挨拶原稿が収載されている。その中につぎの文章があることは。すでに何回か触れた。もう少し範囲を拡大して。以下に(再)引用・紹介する。p.711-2。
 「“ジャパン・ファースト”の起点——歴史教科書運動」〔冒頭見出し—秋月〕。
 「ジャパン・ファーストで行こうと声をあげたのは、『新しい歴史教科書をつくる会』にほかなりません。」
 私は機関誌創刊号で「これを『自己本位主義』の名で呼びました」。
 「採択の結果は乏しかったのですが、…流れ出したジャパン・ファーストの精神運動はさまざまな方面の人々に引き継がれました」。保守言論界の雑誌に「集結した人々の文章のみが、今では唯一の国論をリードするパワーです」。
 「グローバリズム」は「国際化」とのスローガンで彩られていましたが、会はそのような「美辞麗句」を嫌い、「反共だけでなく反米の思想も『自己本位主義』のためには必要だと考え、初めてはっきり打ち出しました」。
 「私たちの前の世代の保守思想家、たとえば竹山道雄や福田恆存に反米の思想はありません。
 反共はあっても反米を唱える段階ではありませんでした。」
 三島由紀夫と江藤淳が「先鞭をつけました」が、「しかし、はっきりした自覚をもって反共と反米とを一体化して新しい歴史観を打ち樹てようとしたのは『つくる会』です。」
 「われわれの運動が曲がり角になりました。
 反共だけではなく反米の思想も日本の自立のために必要だということを、われわれが初めて言い出したのですが、単に戦後の克服、敗戦史観からの脱却だけが目的ではなく、これがわれわれ本来の目的だったということを、今確認しておきたいと思います。」
 以上。
 これが、西尾幹二が2017年時点で確認または総括する「つくる会」運動の積極的意義だ。失敗でも無力さもなかった、そうではなく、格調高い?意義を持っていたのだ。
 もっとも、西尾は「精神運動」、「反米思想」、「歴史観」といった言葉を使っているので、「精神」・「思想」運動のレベルでの意義を語っているのかもしれない。つまり、「教科書採択の成果は乏しかったのですが」とだけ触れつつ、その<現実>の背景・原因・理由には、最初の会長でありながら、いっさい触れず、何の総括も述べていないのだ。たぶん、その点を概括した文章も当時に書かなかったのだろう。
 良い面だけを取り上げる、そして全くかほとんど、「精神」・「思想」面に関心を示す(触れたくない「現実」は無視する)、という、この人物の(特にこの全集・巻の編集に際しての)特徴がよく表れている。
 上に「良い面」と書いたが、西尾にとってのそれで、詳論しないが、根本的間違い、誤った国際情勢把握を、ここでも示している。
 <アメリカからも中国からも自立・独立せよ>、とこの人物は別の論考で明言しているが、妄想・空想の類だ。軍事、食糧、エネルギー、デジタル商品、労働力等々、完全に一国だけで「自立」している国家など、どこにあるのか。西尾幹二のグローバリズム批判と「日本本位主義」は異常の域に入っているように思われる。
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  ついでに。
 上に紹介した2017年の文章をあらためて読んでいると、つぎの印象が生じる。
 この人は、竹山道雄、福田恆存、三島由紀夫、江藤淳に並ぶレベルの「思想家」とでも自らを勘違いしているのではないか。
 竹山と江藤についてはよく知らない。だが、西尾幹二が後世に福田恆存や三島由紀夫と並んで言及されるような、この二人と同列の人物だとは全く思われない。またおそらく、竹山よりも江藤よりも、劣った仕事しかしていないのではないか。
 要するに基本的には、読者をレトリックで煙に巻くことに長けた、かつやたら〈顕名〉=自己顕示を気にする「物書き」=文章執筆請負業者にすぎないだろう。この点は、これからも、この欄で(ニーチェの影響も含めて)述べていこう。
 また、西尾幹二が独特の「個性的」人物であるようであることの一例は、個人編集全集第17巻に即して、次回に書く。
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2355/広島の折鶴とロシアの「つる」(Zhuravli)—英語版Wiki による。

 前回にロシアの「Zhuravli」という歌は広島の原爆被害者の折り鶴と関係があるようだと再確認しないまま書いた。気になっていたので、「再確認」してみた。
 出所は英語版のWikipdia の「Zhuravli」の項目。日本語版のものにはたぶん出ておらず、そもそも「Zhuravli」の項目自体がなく、「(the) Cranes 」で日本語版を検索しても直接には出てこない。
 日本の広島と関係があるのは、以下の<Inspiration>の項だけだが、もっと試訳しておく。
 なお、その項目にしても、英語版Wikiの記述に信頼が100%が措けるかというと、私にはそう断言する資格はない。
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 <Zhuravli>
 1969年に最初に演奏された、第二次世界大戦に関するロシアの最も有名な歌の一つ。
 ○Inspiration.
 ダゲスタン(Dagestan)の詩人、Rasul Gamzatov が広島を訪れたとき、広島平和記念公園と、その市の放射能汚染の結果として白血病に罹ったSadako Sasaki(佐々木禎子)に捧げられた像に印象を受けた(impressed)。
 彼女は日本の伝統に従って、生命が救われるという(空しい)望みをもって、千羽の紙の鶴を折った。
 この少女—今日まで無垢の戦争犠牲者を象徴する一人となっている—が織った紙の鶴の記憶はGamzatov から数ヶ月間離れず(haunted)、今では有名な〔つぎの〕数行から始まる詩を書くよう彼をinspire した。
 「私はときどき感じる。兵士たちは、
  血生臭い平原から帰らず、
  地上に横たわっていないが、
  しかし、白いつるに変わったのだ、と。」
 ○翻訳。
 この詩は元々はGamzatov の母語で書かれ、最初の言葉遣いに近い多様な訳がある。
 有名な1968年のロシア語訳は、傑れたロシア詩人かつ翻訳者のNaum Grebnev によってすみやかに行われ、1969年には歌になった。そして、世界じゅうに最も良く知られたロシア語での第二次大戦のバラード(ballad)の一つになった。
 Gamzatov の詩の最良の英語訳の一つは、アメリカの詩人のLeo Schwarzenberg による2018年のものだ。
 <その英語訳文、省略>
 ○音楽化。
 この詩が雑誌<Novy Mir>に発表されると有名な俳優かつ歌手(crooner)のMark Bernes の注目を惹き、彼は詩を修正し、Yan Frenkel に曲を作るよう依頼した。
 Frenkel がその新しい歌を最初に歌ったとき、Bernes(そのときまでに肺ガンに罹っていた)は、この歌は自分自身の運命だと感じ、泣いた。
 「つるの列には小さな隙き間がある。たぶん、そこは私のためにreserve されている。いつか私はその列に加わるだろう、そして天空から、地上に私が残した人々に呼びかけるだろう。
 歌は1969年の7月9日から録音され、Bernes は、歌の録音後約5週間後の、8月16日に死亡した。その録音は、彼の葬礼の際に流された。
 それ以降、「Zhuravli」は、Joseph Kobzon によって最も頻繁に演奏されることになる。 
 Frenkel によると、「つる」はBernes の最後の録音曲であり、彼の「真の白鳥(swan)歌」だ。
 ○遺産(Legacy)。
 「つる」は、第二次大戦の戦死兵士の象徴になった。
 その影響は広く世界中に及んだので、旧ソヴィエト連邦の記念行事は、飛ぶつるのイメージを特に取り上げた(feature)。いくつかの国家官署には、例えばSt. Petersburg のつる記念館(the Crane Memorial)には、詩碑すらがある。
 今日、「つる」はロシアでは、なおも最も有名な戦争歌の一つだ。
 1986年以降の毎年10月22日、Rasul Gamzatov の生誕地のダゲスタン(Dagestan)・ロシア共和国は、「白鶴〔白いつる〕祭り(Festival)」を開催している。
 1995年、ナツィス敗北後50年の年、ロシアは、第二次大戦戦死者追悼の切手を発行した。その切手は、クレムリンの無名兵士戦争記念館を背景にして飛ぶつるを描いていた。
 2005年、あるロシアの退役兵士が、三羽のつるとロシア語と英語で四行のつるの詩を刻んだ記念碑を、米国カリフォルニア州のロサンゼルス、西ハリウッドのPlummer 公園に建立した。
 9トンの記念碑の費用は、ロサンゼルス第二次大戦退役軍人会のロシア語を話す退役兵士たちの出捐によるものだった。
 第二次大戦終了を記念する地方行事は、五月の勝利の日に定期的に催されている。
 ○ カバーと他メディアでの利用。
 <以下を除いて、全て省略>
 2000年、ロシアのオペラ歌手のDmitry Khvorostovsky が、ソヴィエトの勝利55周年記念式典で、自分自身の翻訳歌詞での歌(his own version)を発表した。
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 その他の記載、省略。
 以上。
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  ①上で省略した英語訳で「最良のものの一つ」(「定訳」ではない)と、②先日にこの欄で依拠した英語訳(動画字幕)とは同じではない。
 例えば、まず冒頭が、①「I feel sometimes」に対し、②では「Sometimes it seemd to me」だ。ここは①の方が短いが、意味はほとんど同じで、「私はときに思う」と前回に試訳したのは、少なくとも間違いではないだろう。
 他に、全部を挙げないが、①の方が総じて長い。つまり、言葉数が多い。詩の訳文としてはあり得るだろうが、先日の「私訳」でも歌の旋律にはなかなか乗らないので、少なくともHvorostovskyが歌っていた旋律には、言葉数が多すぎるだろう。
 例えば、第一に、②で「haven't layed our land.」で「横たわっていない」と私訳した部分は、①「 have not been buried to decay and molder」と長く、そのように意味は理解したがあえて「埋められて」という訳語は避けて試訳したところ、直訳すると<土に埋葬されて腐り朽ちていない>と明瞭に(あるいは露骨に)書いている。
 第二に、印象的な「その列の中に、小さな隙き間がある。たぶん、あの隙き間は、私のために空いている」、の部分。
 ②では、たんに「It is a small gap in this order, Perhaps this place is for me.」だった。
 これに対して①では、「In their formation I can see a small gap, It might be so, that space is meant for me.」と長くなっている。
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  こんな詮索をしているとキリがない。
 もっとはるかに重要なことは、日本語でたどり着ける情報世界と、英語を用いて利用できる情報世界には、格段の差がありそうだ、ということだ。
 こんなことは、日本語の世界での<レシェク・コワコフスキ>に関する情報の限界について、とっくにしみじみと感じたことだったが。
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2113/日本共産党・2019年10大ニュース。

 しばしば閲覧して、Recent Comments まで全て目を通しているサイトに、以下がある。
 <日本共産党・民青同盟悪魔の辞典+キンピー問題笑える査問録音公開中>。
 これの「2019.12.26/20:46」の投稿に、以下が掲載されている。日本共産党の「専門用語」は、解りやすいように、ごく一部追記した。また、執筆者の説明は、勝手にかなり省略している(紹介している部分はそのままある)。
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 「恒例今年の10大ニュース。
 1/赤旗日刊紙、日曜版合計で100万部割れ。
  やっぱりトップはこれでしょう。赤旗が売れなければ党財政は破綻必至。
 2/参議院選、ちょい負け。
  思ってたより善戦。次はこうは行かないだろう。
 3/共産党、再び東京大学学生自治会掌握に動く。
  教養学部自治会を取りに来る可能性はなきにしもあらずだったが、日共民青を隠してFREEとかいうフロント団体を作ってやるなんざ、恥でしょう。
 4/宮本岳志先生、大阪12区出馬、供託金没収!
  今年一番驚愕したニュース(笑)。しかも近年まれに見る惨敗で終わった。
 5/新潟県委員会元副委員長が妻を殺す。
  今年2番目に驚いたニュース。
 6/第6回中央委員会総会。
  今回の6中総は、拡大しようにも、もう中央委員会はどうしていいのかわからない、お手上げ状態なのを自ら認めた中央委員会総会であった。
 7/共産党の広告が上手になる。
  数少ない共産党関係の朗報。
 8/地方議員団の党機関離れが一部で発生。
  共産党地方議員が党に反旗を翻すことはこれまでにもあった。しかし今年の福島県いわき市、埼玉県草加市など、議員団が丸ごと党の意向に反対するなど、少なくとも私はこれまで聞いたことがない。
 9/愛媛県議選で、候補者翌日離党宣言!
 10/菊池桃子結婚に逆ギレ(笑)。
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 筆坂秀世(元日本共産党幹部)のブログものも全て読んできている。上のサイトも、今後も「健闘」してほしい。

2057/池田信夫のブログ015-高坂正堯。

 池田信夫ブログマガジン2018年10月29日号「高坂正堯の孤独な現実主義」。
 高坂正堯が書いたものを熱心に読んだ記憶はないが、ごく常識的なことを書いたり語ったりしていた記憶はある。
 池田信夫はいう。高坂が「論壇」で孤独だったのは京都大学出身と関係がある。東京大学(法学部)を中心とする「論壇の主流は非武装・非同盟の理想主義」だったからだ。
 「非武装・非同盟の理想主義」とは日本共産党ではなくかつての日本社会党の主張だろうか。そして、池田によると、「論壇はなくなったが、今もマスコミの主流は彼の批判した一国平和主義である」。
 2018年時点での「マスコミの主流」はどうなのかはよく分からないが、朝日新聞・東京新聞および系列のテレビ局等は、アメリカ(と日本?)の「好戦」気分に反発する「平和かつ護憲」路線なのかもしれない。
 そういうことよりも、池田信夫が高坂正堯を好意的・肯定的に取り上げていることの方が興味深い。
 池田によると、高坂は「民社党に近いリベラルだった」。
 そして、「こういう中道右派が育てば、日本の政策論争も少しは健全なものになったかもしれないが、彼の早すぎた死で、日本には安全保障に関する論争がなくなってしまった」。
 おそらく確かなのだろう。高坂は「自民党には投票したことがない」と言っていたらしい。
 高坂を<保守反動>の国際政治学者とみていた<容共・左翼>も多かっただろうから、上の指摘はすこぶる関心を惹く。
 そして再び思い出すのだが、かつて自由社の社長だった石原萌記は、もともとは日本社会党右派の人脈の中から出発した。そして、「社会党」というと<左翼>のイメージではあるが、しかし<反共産主義>の明確な人物だった。だからこそ江田三郎・江田五月を応援し、またかつての民社党関係者や財界を含む<保守>的人々との交流も深かった。
 高坂正堯、1934年5月生~1996年5月。満62歳。
 確かに、早すぎた。
 石原萌記、1924年11月生~2017年2月。満92歳。
 石原は長寿だったが、石原萠記・戦後日本知識人の発言軌跡(自由社、1999)を刊行してその人生の一区切りをつけたと見られる。この本には 高坂の論考類による主張の紹介も何箇所かで行われている。そして、この年は、高坂の死の3年後。
 この時期、つまりソ連解体1991年12月の後の10年足らずの間は、重要な時代だったとともに、日本に明確な<反共・自由主義者>が消失していった、または数少なくなっていった大きな画期だったようにも思われる。
 いや、実質的には<反共・自由主義者>は多くいたに違いない。
 しかし、重要なのは、多くいたし、現にいるのだろう<反共・自由主義者>たちが、かつての福田恆存等々と違って、「保守」とは自称しなくなった、そう標榜しなくなった、ということだ。
 なぜか。1997年設立の日本会議、「愛国」・「日本」・「天皇」の右翼団体が<保守>を標榜し、産経新聞社等のマスコミ・メディアがこの団体とその背後の情報・読書<需要>を商業的に利用しようとしたからだ、と思われる。これに巻き込まれた、または進んでこの界隈に入っていった<もの書き>=文章作成非正規雇用者たち、もいた。
 これは、この頃にはイメージがよくなってきたとされる「保守」という言葉の、誤用であり、簒奪だった。
 石原萠記やその著書については、さらに触れなければならない。間接的にせよ、L・コワコフスキらが1970年代前半に組織したシンポジウムと関係があったことは、この欄ですでに触れた。
 雑誌・自由に寄稿していた、日本文化フォーラム(1956年~)や日本文化会議(1968年~1994年、初代理事長・田中美知太郎)のメンバーたちの論調や人脈は、この1990年代の半ばから後半にほとんど途切れたのではなかろうか。
 日本会議の活動家たちは石原萠記の「左翼」性を強調し、日本文化フォーラム・日本文化会議の歴史を決して高く評価しないのだろうが、日本会議には全く欠如している感のある「知性」・「理性」があり、また<反共産主義>の明確さにおいて、立派な<保守>だったと思われる。
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 1991年/ソ連解体。
 1991~93年/宮沢喜一内閣。
 1993~94年/細川護熙内閣。
 1994年/日本共産党第20回党大会-「ソ連は社会主義国でなかった」。宮本顕治・中央委員会議長。不破哲三・幹部会委員長。
 1994年/日本文化会議解散。村山富市内閣発足。
 1994年/福田恆存、逝去。
 1995年/戦後50年・村山内閣談話。新進党結成。
 1996年/新しい歴史教科書をつくる会発足。
 1996年/高坂正堯、逝去。
 1997年/日本会議発足。
 1997年/日本共産党第21回党大会。書記局長・志位和夫。宮本顕治は退任。
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2018/池田信夫のブログ011-identity①。

 池田信夫のブログ検索欄で「アイデンティティ」を探して見ると、数十件も出てきたので驚いた。 
 NHKについて、「公共放送なのか有料放送なのかというアイデンティティをはっきりしないまま…」(2008年8月8日)。
 最も新しいのは、「ユダヤ人というアイデンティティ…」(2019年2月17日)。
 日本語としてのこれに言及してこうある。2019年1月17日付より。
 -「2010年代の政治の特徴はidentity が前面に出てきたことだが、これは日本人にはわかりにくい。
 そもそも日本語には、これに対応する言葉さえない。
 1万年以上前から、地理的にも文化的にも自然なアイデンティティをもつ日本人は『私たちは何者か』と問う必要もないからだ。」
 この指摘にもあるように、identity をどう「訳す」か自体が、日本語を用いる日本人にはむつかしいところがある。
  「1万年以上前から、地理的にも文化的にも自然なアイデンティティをもつ日本人は『私たちは何者か』と問う必要もない」という一文自体もきわめて興味深く、含蓄が多いと思われる。素朴な(そして健全な範囲にある)民族意識、ナショナリズムを日本人はふつうに有している(と思われる)ので、日本会議という政治運動団体のように、これを「皇室を戴く」という点を結合させたうえで狂熱的に煽るのはむしろ異常だと感じる。だが、今回はこの点に触れない。
 identity はこの欄での試訳作業でもよく出てくる。最近も多いが、かつてS・フィツパトリクはその<ロシア革命史>叙述の中で、レーニン時代の人たちの「アイデンティティ」は職業だったか出身階層だったかとかいう問題に関心を示していた(この欄に既出)。
 さらに論理的に遡ると、対応する・該当する言葉自体がない、という意味では、レーニンがボルシェヴィキ党の中で占める地位の名称(中央委員会「委員長」?)や1917年新設のソヴナルコム(人民委員会議)で占める地位の名称(首相?、議長?)がはっきりしない、ということも興味深かった。
 「トップ」であることが当然視されていると、特別の言葉は必要なかったのだろう。
 人民委員会議の構成委員だった最初の外務人民委員のトロツキーには、外務人民委員あるいは「外務大臣」という呼称があった。
 元に戻ると、identity とは一体性、同一性、自己帰属性、自己認識等と種々に訳出することが可能で、identification という名詞もある。。
 一方、identify という動詞は当然に上にかかわる意味も持つが、<見分ける>、<見極める>、と訳出することのできる場合がある。
 (ときには主体自身も含めて)対象物は何であるかを明瞭に認識する、という意味だが、その場合にはその対象物の他者の何かとの同一性あるいは同一視可能性を肯定することによって対象物を明瞭に認識する(見分ける、見極める)という認識の過程?の意味が包含されているので、上のようなidentity の訳と矛盾しているわけではない。
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 さて、我々は、あるいは現在の日本人は、どのようなidentity をもつのだろうか。
 上に出てきた、「日本人」は除く。ヒトとしては最も基礎的なidentity かと思われる<男か女か、オスかメスか>も除く。また、他の生物、すなわち脊椎動物、哺乳類等々と区別されるヒト、というidentity (これもあり得るだろう)も、論外とする。
 前近代と近代を分かつ標語的なものとして、かつて<身分から契約へ>を語った人がいた。
 各人間がしぱしば世襲の<身分(・地位)>に束縛されていた、またはそれによって予め決定されていた時代から、本人自身の「意思」または<契約>、つまり自分の「自由意思」または原理的には対等当事者相互の「自由意思」の合致でもって自分自身の行動を決定することができる時代への大きな変化だ。
 いつから日本は「近代」に入ったのか。こう思弁的に?議論してもたいした意味はない。いわゆる「明治維新」後の時代に一気に「近代」になってしまったのでもなさそうだ。
 「日本」よりも(いやその「日本国民」意識は大いに形成されていったのだが)、薩摩、長州、土佐、会津、等々の「旧藩」ないし新しい地域の<出自>意識は各人において相当にまだ強かったのではないだろうか。
 大正時代になっても、当時の皇太子(昭和天皇)の婚約・婚姻をめぐって旧「薩摩」への対抗意識から「宮中某重大事件」が生じたとの風聞(と強調しておく)があったくらいだから、政権中枢?の中ですら、薩長の対抗意識はたぶんまだあったわけだ。
 それに戦前にはまだ、士族・平民等の区別が公式にあった。
 華族も含めて、まだ「身分」意識はある程度は残っていただろう。
 戦後の日本国憲法施行や改正新民法(但し、民法典のうち<家族法(親族法・相続法)>部分)によって、皇族以外の国民はみな「平等」となり、ほとんど<身分>意識は喪失したように思われる。
 自分はどの<身分>にあるのかは、旧皇族または旧士族の人々には「かつての」ことの記憶・意識としてまだ残ってはいそうだが、政治的・社会的にこれによる差違が生じるわけではない。
 日本国憲法14条は、「社会的身分又は門地によ」る「政治的、経済的又は社会的関係にお」ける「差別」を禁じている。これと符合して、戦後の「家族」法制は存続してきた。
 ところで、いつか書こうと思っていたので脱線するが、日本国憲法「無効」論者の無知・論理的一貫性の欠如は、上のことにも関係する。
 すなわち、昭和天皇はGHQにダマされたのだ(渡部昇一)等々の種々の理由で日本国憲法は「無効」だとする、あるいは<原理的には否定されるべきものだ>とする者たちは、現憲法と同時に、現憲法と一体のものとして制定・改正され施行された多数の法律もまた「無効」(原理的否定)と主張しないと、まったく一貫性がないのだ。
 多くの人が、戦前と戦後の大きな違いは「家族」(・相続)制度にあるという意識を持っているだろう。もはや「戸主」はなく成年男女の婚姻に親の「同意」は不要だ。
 日本国憲法は「無効」だ(少なくともいったん大日本帝国憲法を復活させるべきだ)と喚いていた(いる)人々には、では民法・家族法部分も戦前体制に(いったん)戻すのか?と問い糾さなければならないだろう。
 民法の中の「家族」法制だけではない。
 国会法、内閣法、裁判所法、地方自治法、(学校教育制度の基本である)学校教育法や地方教育行政の組織及び運営に関する法律、等々の多数の諸<法律>が新憲法と同時に施行されて、戦後の日本を形成してきた。
 上に挙げた諸法律だけでも、戦後日本にとってきわめて根幹的なものだ。
 要するに、「憲法」だけを問題にするのは一貫していないし、かつほとんど無意味なのだ。
 <美しい日本の憲法>に憲法改正したいらしい田久保忠衛らは、上に書いた意味が理解できるだろうか?
 元に戻る。では、戦後の日本人は、<身分>ではなく、どのような自らのアイデンティティ感覚を有しているのだろうか。
 つまり、自己認識規準、自己が帰属する集団意識、他者との同一性・類似性を意識する要素、といったものを、無意識にせよ、自覚的にせよ、どう考えているのだろうか。
 この点にもすこぶる「戦後日本」的な、または「日本人」的なものがあるのではないかと思っている。つづける。

1991/石原萌記・戦後日本知識人の発言軌跡(自由社、1999)①。

 石原萌記・戦後日本知識人の発言軌跡(自由社、1999)。
 計1260頁、別に人名索引計12頁。石原萌記、1924~2017。
 前回の№1990/L・コワコフスキら編著1975年編著③で、L・コワコフスキの序文の一部を紹介して、こう書いた。
 「1972年4月に東京で開催された『変化する社会における社会主義』と題する国際セミナーで報告された。
 これは、文化的自由のための国際協会〔International Association for Cultural Freedom〕および二つの日本の雑誌と連携した日本文化フォーラム〔Japan Cultural Forum〕によって、後援(財政支援)された。」
 この「国際セミナー」について、ネット上の簡便な情報よりも、この石原著の方がはるかに詳しく、正確だろう。
 会合の後援者というよりも実質的な主催者は日本文化フォーラム(英語名のJapan Cultural Forumも上掲書にある)で、1956年2月18日発足。会長・高柳賢三、副会長・尾高朝雄-急逝により木村健康、事務局長・石原萌記。以上、p.908。
 この団体の「国際的母胎」は1955年6月に西ベルリンで設立された国際文化自由会議だった。p.905。先に<文化的自由のための国際協会>と訳出したものと同じだろう。石原萌記はこの団体の「日本駐在員」だったらしい。
 厳密には日本文化フォーラムの機関誌ではなかったようだが、別組織で雑誌「自由」を発行し、4号目からは「自由社」出版になった。p.911。石原萌記は、初代社長。
 日本の少なくとも一つの「雑誌」は、この自由社発行<自由>だろう。
 これらの内容・性格等は次回以降回しとして、1972年4月の「国際セミナー」についても4頁余りの記述がある。
 このセミナーの主題は前回の訳とは少し異なり、<変貌する社会と社会主義>だった。p.1127。
 Richard Lownthal (独)およびGilles Martinet (仏)の報告があったことも記されている(但し後者はコメンテイターのようだ)。
 しかし、E・ライシャワー(米国駐日大使)等のほか中山伊知郎、高橋正雄、林健太郎、大来佐武郎が議長団を構成するなど、最初に想像したものよりもはるかに大がかりな会合だ。
 日本人報告者は、以下だったとされる。p.1128。
 イデオロギー/関嘉彦。
 政治/芳賀綏。
 経済/力石定一。
 文化/武藤光朗。
 発展途上国/喜多村浩。
 日本側の「討論参加者」は以下だったとされる。p.1128。
 石川忠雄、江田三郎、岡野加穂留、霧生和夫、公文俊平、香山健一、佐瀬昌盛、重枝琢己、清水慎三、志水速雄、曽弥益、宝樹文彦、富永健一、正村公宏、松本七郎、山本登、和田春生、他。
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 つづく。

1737/英語版Wikipedia によるL・コワコフスキ①。

 2017年夏の江崎道朗著で「参考」にされている、又は「下敷き」にされている数少ない外国文献(の邦訳書)の執筆外国人についてネット上で少し調べていた。本来の目的とは別に、当たり前のことだったのだろうが、日本語版Wikipediaと英語版(おそらくアメリカ人が主対象だろうが、他国の者もこの私のようにある程度は読める)のそれとでは、記載項目や記述内容が同じではないことに気づいた。
 <レシェク・コワコフスキ>についての日本語版・ウィキの内容はひどいものだ。
 英語版Wikipediaの方が、はるかに詳しい。日本語版・ウィキの一部はこの英語版と共通しているので、日本語版の書き手は、あえて英語版の内容のかなり多くを削除していると見られる。あえてとは、意識的に、だ。
 なぜか。先に書いてしまうが、日本人から、レシェク・コワコフスキの存在や正確な人物・業績内容等に関する知識を遠ざけたかったのだと思われる。そういうことをする人物は、日本の「左翼」活動家や日本共産党員である可能性が高いと思われる。
 英語版Wikipedia によるL・コワコフスキ(1927.10.23~2009.07.17)を、以下に、冒頭を除き、日本語に試訳しておく。
 Wikipedia の記述が完全には信用できないものであることは、むろん承知している。また、今後に追記や修正もあるだろう。
 しかし、L・コワコフスキの名前自体がほとんど知られていない日本では、以下のような記述(しかも参照文献の注記つき)の紹介は無意味ではないと考える。
 なお、①ポーランドの1980年前後以降の「連帯」労働者運動(代表はワレサ/ヴァレンザ、のち大統領)に、L・コワコフスキが具体的な支援活動をしていたことを、初めて知った。
 ②末尾に、最近にこの欄で名前を出したRoger Scruton による追悼文(記事)のことがあり、興味深い。
 引用の趣旨の全体の「」は省略する。< >はイタリック体。ここでは、一文ごとに改行する。//は本来の改行箇所。注または参照文献はほとんど氏名・出所だけなので、挙げられる氏名のみを記す。
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 彼〔レシェク・コワコフスキ〕は、そのマルクス主義思想の批判的分析で、とくにその三巻本の歴史書、<マルクス主義の主要潮流>(1976)で最もよく知られている。
 その後の仕事では、コワコフスキは徐々に宗教問題に焦点を当てた。
 1986年のジェファーソン講演で、彼は『我々が歴史を学ぶのは、いかに行動しいかに成功するかを知るためではなく、我々は何ものであるかを知るためだ』と主張した。(3)//
 彼のマルクス主義および共産主義に対する批判を理由として、コワコフスキは1968年に事実上(effectively)ポーランドから追放された。
 彼はその経歴の残りのほとんどを、オクスフォードのオール・ソウルズ・カレッジで過ごした。
 この国外追放にもかかわらず、彼は、1980年代にポーランドで花咲いた連帯(solidarity)運動に対する、大きな激励者だった。そして、ソヴェト同盟〔連邦〕の崩壊をもたらすのを助けた。彼の存在は『人間の希望を呼び醒ます人物(awakener of human hope)』と表現されるにまで至る。(4)// 
 経歴(biography)。
 コワコフスキは、ポーランド、ラドムで生まれた。
 第二次大戦中のポーランドに対するドイツの占領(1939-1945)の間、彼は公式の学校教育を享受しなかった。しかし、書物を読み、ときどきの私的な教育を受け、地下にあった学校制度で、外部の学生の一人として、学校卒業諸試験に合格した。
 戦争の後、彼はロズ(Lodz)大学で哲学を研究した。
 1940年代の後半までに、彼がその世代の最も輝かしいポーランドの知性の一人であることが明確だった(5)。そして、1953年<26歳の年>には、バルシュ・スピノザに関する研究論文で、ワルシャワ大学から博士号を得た。その研究では、マルクス主義の観点からスピノザを分析していた。(6)
 彼は1959年から1968年まで〔32歳の年から41歳の年まで〕、ワルシャワ大学の哲学史部門の教授および講座職者として勤務した。//
 青年時代に、コワコフスキは共産主義者〔共産党員〕になった。
 1947年から1966年まで〔20歳の年から39歳の年まで〕、彼はポーランド統一労働者党の党員だった。
 彼の知性の有望さによって、1950年〔23歳の年〕にモスクワへの旅行を獲得した(7)。そこで彼は、実際の共産主義を見て、共産主義は気味が悪い(repulsive)ものだと知った。
 彼はスターリン主義(スターリニズム)と決別し、マルクスの人間主義(humanist)解釈を支持する『修正主義マルクス主義者』となった。
 ポーランドの10月である1956年の一年後〔30歳の年〕に、コワコフスキは、歴史的決定論を含むソヴィエト・マルクス主義に関する四部からなる批判を、ポーランドの定期刊行誌・<新文化(Nowa Kultura)>に発表した。(8) 
ポーランドの10月十周年記念のワルシャワ大学での公開講演によって、ポーランド統一労働者党から除名された。
 1968年〔41歳、「プラハの春」の年)のポーランドの政治的危機の経緯の中で、ワルシャワ大学での職を失い、別のいかなる学術関係ポストに就くことも妨げられた。(9)//
 彼は、スターリン主義の全体主義的残虐性はマルクス主義からの逸脱(aberration)ではなく、むしろマルクス主義の論理的な最終の所産だ、との結論に到達した。そのマルクス主義の系譜を、彼は、その記念碑的(monumental)な<マルクス主義の主要潮流>で検証した。この著は彼の主要著作で、1976-1978年に公刊された。(10)//
 コワコフスキは次第に、神学上の諸前提が西側の思想、とくに現代の思想に対して与えた貢献(contribution)に魅惑されるようになった。
 例えば、彼は<マルクス主義の主要潮流>を、中世の多様な形態のプラトン主義が一世紀後にヘーゲル主義者の歴史観に与えた貢献を分析することから始める。
 彼はこの著作で、弁証法的唯物論の法則は根本的に欠陥があるものだと批判した-そのいくつかは『マルクス主義に特有の内容をもたない自明のこと(truisms)』だ、別のものは『科学的方法では証明され得ない哲学上のドグマ』だ、そして残りは『無意味なもの(nonsense)』だ、と。(11)//
 コワコフスキは、超越的なものへの人間の探求において自由が果たす役割を擁護した。//
 彼の<無限豊穣(the Infinite Cornucopia)の法則>は究明の状態(status quaestions)の原理を主張するもので、その原理とは、人が信じたいと欲するいかなる所与の原理についても、人がそれを支持することのできる論拠に不足することは決してない、というものだ。(12)
 にもかかわらず、人間が誤りやすいことは我々は無謬性への要求を懐疑心をもってとり扱うべきだということを示唆するけれども、我々のより高きもの(例えば、真実や善)への追求心は気高いもの(ennobling)だ。//
 1968年〔41歳の年〕に彼は、モントリオールのマクギル(McGill)大学で哲学部門の客員教授になり、1969年にカリフォルニア大学バークリー校に移った。
 1970年〔43歳の年〕に彼は、オクスフォードのオール・ソウルズ・カレッジで上級研究員となった。
 1974年の一部をイェイル大学ですごし、1984年から1994年までシカゴ大学の社会思想委員会および哲学部門で非常勤の教授だったけれども、彼はほとんどをオクスフォードにとどまった。//
 ポーランドの共産主義当局はポーランドで彼の諸著作を発禁にしたが、それらの地下複写物はポーランド知識人の抵抗者の見解に影響を与えた。
 彼の1971年の小論<希望と絶望に関するテーゼ>(<中略>)は(13)(14)、自立して組織された社会諸集団は徐々に全体主義国家で市民社会の領域を拡張することができると示唆するもので、1970年代の反体制運動を喚起させるのに役立ち、それは連帯(Solidarity)へとつながった。そして、結局は、1989年〔62歳の年〕の欧州での共産主義の崩壊に至った。
 1980年代にコワコフスキは、インタビューに応じ、寄稿をし、かつ基金を募って、連帯(Solidarity)を支援した。(4)//
 ポーランドでは、コワコフスキは哲学者および思想に関する歴史学者として畏敬されているのみならず、共産主義(コミュニズム)の対抗者のための聖像(icon)としても崇敬されている。
 アダム・ミクニク(A. Michnik)は、コワコフスキを『今日のポーランド文化の最も傑出した創造者の一人』と呼んだ。(15)(16)//
 コワコフスキは、2009年7月17日に81歳で、オクスフォードで逝去した。(17)
 彼の追悼文(-記事)で、哲学者のロジャー・スクルートン(Roger Scruton)は、こう語った。
 コワコフスキは、『我々の時代のための思想家だった』。また、彼の知識人反対者との論議に関して、『かりに<中略>破壊的な正統派たちには何も残っていなかったとしてすら、誰も自分たちのエゴが傷つけられたとは感じなかったし、あるいは誰も彼らの人生計画に敗北があったとは感じなかった。他の別の根拠からであれば最大級の憤慨を呼び起こしただろう、そういう議論の仕方によって』、と。(18)//
 (3) Leszek Kolakowski. (4) Jason Steinhauer. (5) Alister McGrath. (6) Leszek Kolakowski.(7) Leszek Kolakowski.(8) -Forein News. (9) Clive James. (10) Gareth Jones. (11)Leszek Kolakowski. (12) Leszek Kolakowski. (13) Leszek Kolakowski. (14) Leszek Kolakowski. (15) Adam Michnik. (16) Norman Davis. (17) Leszek Kolakowski.(18) Roger Scruton.
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 以上。

1729/戦後の「現実」と江崎道朗・コミンテルン…(2017)④。

 2018年は「明治150年」とされ、これは明治改元の1868年から丁度150年経つことを意味するようだ。明治への改元は1868年の途中で溯ってなされたもので、実質的な変革・維新の時期を月次元で把握しようとした場合に正確なものではない。改元はかなり形式的なものだ。「明治維新」といっても、その意味や始期・終期については諸説あるはずだ。
 実質的に「明治」、「明治新政権」あるいは「明治国家」がいつの何を区切りとして始まったのかは、一つの興味の湧く問題でもある。
 1967年末の「大政奉還」ではないはずだ。奉還した「大政」が徳川慶喜を含む(旧)幕府人材を含む新しい(江戸幕府を実質的にはかなり継承するような)政権に再び「委任」されることは十分にありえた。それを恐れての、同日の「倒幕の密勅」発布だったとの説も有力で、この密勅自体がニセだったとの説もある。
 では、神・先祖に明治天皇が誓ったという五箇条の御誓文奏上の日が始期なのか。
 このあたりは、微妙だ。
 また立ち入ることにして、いずれにせよ、「明治150年」だ。
 この数字から連想して、各時期の年数を単純な引き算で計算してみると、つぎのようになる。
 A①明治(改元・五箇条の御誓文)から終戦まで、77年。
  ②明治(改元・五箇条の御誓文)から対米戦争開始まで、73年。
  ③明治(改元・五箇条の御誓文)から南太平洋からの日本軍撤退まで、75年。
 B④大日本帝国憲法発布から終戦まで、56年。<あと4年または2年減らすと上の②・③に対応>
 C⑤終戦から2018年まで、73年。
  ⑥対米戦争開始から2018年まで、77年。
  ⑦南太平洋からの日本軍撤退から2018年まで、75年。
 D⑧日本国憲法施行から2018年まで、71年。
 以上の今年2018年を昨年の1917年に変えて、1年ずつ下加減すると、上の①~⑧の数字も簡単に分かる。
 上のAとCを比べて容易に判明するのは、明治-終戦の年月と、終戦-現在の年数は、数年の違いはあるがほとんど同じ、ということだ。
 つまり、明治国家は長く存在したように感じている日本国民は多いのかもしれないが、じつは戦後は、つまり戦後昭和と平成を合わせた年数は、「明治国家」(かりに大正と戦前昭和も加える)と同じほどにすでに達している、ということだ。
 また、Bの明治憲法のもとでの日本よりもはるかに長い、「日本国憲法」下での日本が経緯しようとしている。
 江崎道朗・コミンテルンの陰謀と日本の敗戦((PHP新書、2017)。 
 再び言及する。p.410。
 「日本の政治的伝統、つまり聖徳太子から五箇条の御誓文、大日本帝国憲法に至る『保守自由主義』」。
 本文でもっく詳しく叙述しているのだろうが、この部分は誤りだと江崎道朗が主張するはずはないものと思われる。
 江崎道朗に尋ねたいものだ。
 戦後73-74年(これは五箇条の御誓文から対米戦争開始までとほぼ同じ)の日本の「政治的伝統」はどうだったのか、どうなったのか。
 戦後を含まないそれ以前の「政治的伝統」だけを見て、日本の「政治的伝統」を理解できるのか。
 頭の中では、戦後の長き「現実」は吹っ飛んでしまっているのではないか。
 江崎道朗のいささか単純な<保守自由主義>と<左右>全体主義の対比というものが1917年・ロシア革命、1918年・ボルシェヴィキの「ロシア共産党」への改称、1919年・コミンテルン(共産主義者インターンショナルも第三インターナショナル)以降の敗戦までの日本の歴史叙述に万が一役立つとして、そのような図式・対比は、いったい戦後、そして今日ではどうなっているのか?
 「戦後」に日本は新しい「政治的伝統」を作ったのか? それとも江崎のいう「保守自由主義」は再びよみがえったのか?
 歴史から現代への教訓を得ようとすれば、とくにアカデミズムの世界にはいない評論家としての江崎道朗としては、現実の日本、今日の日本の政治状況を、そのいう「日本の政治的伝統」に関する見方からも論及しないと完結しないだろう。
 誰も江崎道朗を専門的な歴史学者などとは考えていない。゜
 聖徳太子の第十七条の憲法や五箇条の御誓文への高い評価は櫻井よしこや伊藤哲夫らと同じだが、江崎道朗はいったい「日本会議」という政治運動団体のことをどう評価しているのか、知りたいものだ。
 しかし、少なくとも広い意味では「産経文化人」の一人の江崎道朗には、「日本会議」を論じてほしいと言っても、所詮は無理な願望になるかもしれない。
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 平成30年。昭和も、遠くなりにけり。
 ・昭和枯れすすき-1974年=昭和49年/作詞・山田孝雄、歌唱・さくらと一郎
 「貧しさに負けた いえ、世間に負けた
  この街を追われた いっそ きれいに 死のうか
  力の限り生きたから 未練などないわ
  花さえも咲かぬ 二人は枯れすすき」
 ・昭和ブルース-1969年=昭和44年/歌詞・山上路夫、歌唱・ブルーベルシンガーズ
   「生まれたときが悪いのか それとも俺が悪いのか
  何もしないで生きていくなら それはたやすいことだけど
  この世に生んだお母さん あなたの愛に包まれて
  何も知らずに生きていくなら それはやさしいことだけど
  見えない鎖が重いけど 行かねばならぬ俺なのさ
  誰も探しにいかないものを 俺は求めて一人行く」

1715/日本会議の20年②と丘みどり「佐渡の夕笛」。

 横田めぐみさんが北朝鮮当局によって拉致(人さらい・人身の自由の侵害)から、今年10月で40年が経った。
 父の滋氏は日本銀行行員として新潟に赴任したはずで、転勤があったのだと思われる。あの転勤がなかったらとか転勤を固持してたいればとか等々の思いを、こ両親は何度も反芻されただろう。
 新潟でめぐみさんが特定されて狙われていたわけではなく、たまたま特定の地区・地域を彼女が通りかかったことで被害にあったのだろう。とすると、あの日に何とかしてあの地域・地区へ行かさないようにすればよかった、といった想いもまた、何度も想起されただろう。
 人生は、運命は、苛酷なものだ。もとより原始コミュニズム国家、実兄を公然と殺戮した首領がいる国家に責任はある。
 日本共産党は今は北朝鮮を<社会主義を目指している国>から除外しているが、かつては「友党」で、拉致についても疑惑の程度に応じた交渉をとか主張して拉致犯行者が北朝鮮国家であることを認めたがらなかったこと、北朝鮮はレーニン・スターリンのコミンテルンまたはロシア(ソ連)共産党の指導と援助で建設されたこと、金日成の指名も彼らによってなされたことは否定できないだろう。
 日本会議の20周年記念大会案内パンフの最終欄に、この20年間に<日本会議が取り組んだ主な国民運動」と題する26項が総括的に列挙されている。
 それらの中には、「北朝鮮拉致被害者救援国民運動」といったものは掲げられていない。
 西岡力等の日本会議関係者がこれに強く関与してはいるが、日本会議自体は、これを自らの団体の運動の実績の一つに挙げることをしない、あるいは、そうできないのだ。
 実績・成果がなかった・乏しかったことが理由にならないことは、選定・列挙されている26項を見ても分かる。
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 ところで最近にたまたま聴いた歌謡曲、丘みどり「佐渡の夕笛」の一番の歌詞は、横田めぐみさんの家族、とりわけご両親の滋・早紀江のお二人には、涙なくした聴けるものではないようにも思える。
 丘みどり「佐渡の夕笛」(2017)-作詞・仁井谷俊也/作曲・弦哲也。
 (一番)
  「荒海にあの人の船が消えて
  二とせ三とせと過ぎていく
  今年も浜辺に島桔梗
  咲いても迎えの文(恋文)はない
  待ちわびる切なさを
  佐渡の 佐渡の夕笛 届けてほしい」
もともとは船で他所に出かけた男を待つ女性の気持ちを歌った歌詞と曲だと思われるのだが、一番の歌詞だけは拉致被害者を、そして横田めぐみさんを連想させうる。
 佐渡島は、拉致されていく橫田めぐみさんを見ていたに違いない。
 「あの人の船が消えて」、「二年三年と過ぎていく」、「迎えの文はない」、「待ちわびる切なさ」、これらの言葉を、家族、とくにご両親はどういう想いで聴くだろう。
 丘みどり、1984年生まれ、2017年NHK紅白歌合戦初出場予定。

1711/「日本会議」20周年。

 日本会議(事務総長・椛島有三)の設立は1997年で、昨11月25日に20周年記念集会とやらを行ったらしい。
 何を記念し、何を「祝う」のか。政党でもないこの民間団体の元来の目標は何で、その目標はどの程度達成されたのか。もともと設立の「趣旨」自体に疑問をもっているので、この点はさて措く。
 もっとも、この団体の機関誌は、この20年間に行ってきた活動実績を20ほど列挙して、<実績>としている。
 その一覧表を見ていて、少なくともつぎの大きな二つの疑問が湧く。
 第一、この20項目の列挙は、誰が決めたものなのか。同じ機関誌に代表・田久保忠衛と追随宣伝者・櫻井よしこの対談があるが、この二人は20項ほどの<実績>に何も触れていない。
 おそらく間違いないこととして推定されるのは、この実績一覧表は、「日本会議」内部のおそらくは正式の決定手続を経ないで、椛島有三を長とする事務局(事務総局)によって選定されている、ということだ。
 「日本会議」の諸役員先生方は、それでよしとするのか?
 民間団体の意思決定手続・20年の総括文書(・活動実績一覧表つくりを含む)決定手続に容喙するつもりはないが、この団体の内部には、<万機公論に決すべし>という櫻井よしこが誤っていう「民主主義そのもの」は存在していないようだ。
 20年間も事務局長(総長)が同じ人物であるというのは、西尾幹二もどこかで複数回指摘していたように、異常であり、気味が悪い。
 類似のものに気づくとすれば、ロシア・ソ連共産党のトップ在任期間の長さ(とくにスターリン)、中国共産党のトップの在任期間の長さ、そして日本共産党のトップの在任期間の長さだ。
 これらの党では、いまは日本共産党は少し違うが、共産主義政党はトップのことを書記長・総書記・第一書記・書記局長とか称してきた。「事務総長」とよく似ている。
 日本共産党のトップは、1961年以降、宮本顕治・不破哲三・志位和夫の三人しかついていない。56年間でわずか3人だが、平均すると20年に満たず、何と椛島有三の方が長い。
 いや、「日本会議」には代表がいて、という反論・釈明は成り立ちえない。
 そのことは、上記対談で代表・田久保忠衛が「あらためて設立趣旨を読んでみますと…」などとのんびりした発言をしていることでも分かる。
 やや唐突かもしれないが、現在の中国で、上海市長と共産党上海市委員長(正確な職名を知らない。共産党上海市総書記)とどちらが「偉い」のか。上海大学の学長と、上海大学内の共産党のトップ、いわば党「事務総長」の、どちらが「偉い」のか。
 椛島有三一人で事務局長・事務総長を20年。「日本会議」の役員先生方は、これをどう感じているのか。
 長谷川三千子は?、潮匡人は?、等々。
 元に戻れば、この20年の活動実績の選定は、公表されている項目で、役員先生方は、本当によろしいのか?
 第二。20年の活動実績の選定を見ていて、容易に気づくことがある。
 一つ、北朝鮮による拉致被害者救出・支援活動に全く触れていない。この団体は、活動実績の中にこれを含めることができないのだ。
 二つ、教科書・とくに歴史教科書の改善運動に全く触れていない。私見では、「つくる会」を分裂させたのは椛島有三や伊藤哲夫ら「日本会議」幹部そのものだ。そしてまた、この団体は、歴史教科書に関する運動を、20年間の活動実績として挙げることができない。
 三つ、椛島有三の2005年の著にいう「大東亜戦争」にかかる通俗的な、そして1995年村山談話・2015年安倍談話に見られるような、<歴史認識>を糺す、少なくとも疑問視するという、この団体にとっては出発の根本的立脚点だったかもしれない、<先の戦争にかかる歴史認識>をめぐる運動に、全く触れていない。
 靖国神社や戦没者に関するこの団体の運動を全否定するつもりはない。しかし、根本は、<先の戦争に関する歴史認識>にあるだろう。そうでないと、戦没者は、その遺族は、浮かばれない。
 にもかかわらず、「日本会議」は2015年安倍談話を批判せず、一部でも疑問視せず、代表・田久保忠衛はすぐさま肯定的に評価するコメントをしたらしい(櫻井よしこによる)。
 笑うべきだ。嗤うべきだ。そして、悲しむべきだ。
 日本の現状を悪くしている重要な原因の一つは、「保守」の本砦のようなつもりでいるらしい、「日本会議」の運動にある。20年間、この運動団体に所属する人たちは(そして、産経新聞社は、月刊正論は、等々ということになるが、立ち入らない)、いったい何をしてきたのか。
 悲痛だ。 

1642/日本共産党・不破哲三の大ウソ35-「自主独立」?。

 久しぶりに、<日本共産党・大ウソ>シリーズ。
 不破哲三・古典教室第1巻(新日本出版社、2013)。
 この著の一番最後の章のそのまた最後を一瞥していて、さすがに日本共産党、不破哲三さん、自分の党に有利に言いますねぇ、と感じ入る部分があった。
 産経新聞の人々も、「日本会議」の人々も、きっとこんな本に目を通すことはないだろう。それどころか、所持もしていない。いやそれどころか、存在を知りもしない。
 不破哲三は、欧州の、正確には(かつて「ユーロ・コミュニズム」の牙城だった)イタリアとフランスの共産党についてこう言う。
 1960年に日本の共産党が「衆議院で一議席しか」なかったときに、「イタリアでは一〇〇を超える議席」をもち、フランス共産党は「野党第一党の地位」を持っていた。
 「いまではイタリアでは共産党がただの民主党に右転落してしまい、フランスでは共産党がいろんな理由があってかなり大きく落ち込んでい」る。p.282。
 以上は事実だから、最後のフランスの「いろいろな理由」は知りたいが、よろしい。
 問題は、これを日本共産党の自慢話に変えていることだ。
 イタリアやフランスの共産党は「ソ連崩壊の大波に、自主性を持っていなかった」ために「呑まれて」しまった。「ソ連流『マルクス・レーニン主義』以外に理論を持っていなかった」。そのなかで日本共産党は…。「そういう党は、いま資本主義の共産党のなかで日本にしかありません」。p.282-3。
 こういう状況の理由、背景は種々ある。日本共産党がよく頑張ったから、立派だったからだけでは少なくともない。
 <日本共産党がよく頑張ったから、立派だったから>というのも、きわめておかしい。
 第一に、この欄でかなり詳しく記したが、日本共産党・不破哲三がソヴィエト連邦を「社会主義国」ではなかった、すでにスターリン時代に道を踏み外して「社会主義国」ではなくなっていた、と言ったのは、1994年7月の党大会のことだ
 それまで、1991年のソ連共産党解散とソ連邦自体の解体があっても、その当時、一言も、ソ連は「社会主義国」でなかった、などと主張していない。
 スターリンを批判しソ連共産党も批判していたが、それまではあくまで、ソ連は<建設途上の>または<現存する>「社会主義国」だという前提のもとで、「社会主義国」あるいは「国際共産主義運動」内部で生じた、又は生じている問題として、スターリンやソ連共産党指導部を批判していたのだ。
 したがってまた第二に、この時点では、『マルクス・レーニン主義』を、日本共産党も掲げていた。
 文献資料的な根拠をすぐに見つけられないが、レーニン自体に遡ってソ連の「過ち」を指摘していたのでは全くなかった。
 <マルクス・レーニン主義>と言わないで<科学的社会主義>と言うべき、まだ<マルクス主義>は許せる、と不破哲三が言ったのは、この1994年よりも後のことでだ。
 「ソ連流『マルクス・レーニン主義』以外に理論を持って」いた、という言い方は、ほとんどマヤカシだ。
 日本共産党もまた、ずっと一貫して長らく「マルクス・レーニン主義」の党だったはずだ。
 また、かりに「ソ連流『マルクス・レーニン主義』」以外の理論を持っていたとして、「ソ連流」のそれを批判的に扱うのであれば、その中にレーニンそのものは入るのか入らないのかを明確にすべきだろう。
 ところが、日本共産党・不破哲三は、「ソ連流」の中にレーニンが入るとは、現綱領上も、絶対に言えない。
 レーニンは、基本的には、正しく「社会主義への」道を歩んでいた、とされているのだ(その論脈の中で<ネップ>も位置づけている)。
 不破哲三は言う。「科学的社会主義の理論を自主的に発展させ」た、「どんな大国主義の理論にも打ち勝」ってきた。p.282-3。
 ここに現在の日本共産党・不破哲三の、喝破されたくはないだろう、本質的な欺瞞がある。
 つまり、共産党相互間の問題、あるいは共産党の問題と、一方での「国家」の問題とを、意識的に、(党員向けにもワザと)混同させているのだ。
 <自主独立>とか<大国主義批判>とかは、1991年・ソ連解体までは明らかに、ソ連共産党との関係での、ソ連共産党(・その指導部)を批判するスローガンだった
 それを、1991年・ソ連解体後は、<ソ連型「社会主義」国家>自体を批判してきたのだ、と言い繕い始めた。
 <自主独立>とか<大国主義批判>は(ソ連(・中国)共産党ではなく)、<ソ連型「社会主義」国>を批判するスローガンだったかのごとく、変質させている
 これは大ウソであり、大ペテンだ。
 不破哲三は、平然とウソをつく。党内の研修講義の場でも、平然とウソをつく。 
 その証拠資料の一つが、この2013年9月刊行の書物だ。
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 自民党の田村重信らの書物に、日本共産党についての知識・認識不足があるのは、この欄ですでに記した。
 田村重信=筆坂秀世(対談)・日本共産党/本当に変わるのか?(世界日報社、2016)の田村発言の一部について。
 山村明義・劣化左翼と共産党(青林堂、2016.03)。
 これも、ひどい。
 この著で山村は、しきりと「マルクス・レーニン主義」という言葉を(最後まで)使っている。「左翼」はともかくも、日本共産党がこの概念・語を避けていること、むしろ禁止していると見られることを、この人は知らないままで、表記の本を出している。
 恥ずかしいことだ。<劣化保守>、あるいは<劣化・反共産主義>だと言いたい。
 しかも、山村自身が自分は<マルクス・レーニン主義>に詳しいのだと言っているのだから(しきりと匂わせているのだから)、苦笑してしまった。
 また、<劣化左翼>と<共産党>の区別を何らつけないで叙述していることも、致命的な欠陥だ。
 この本のオビには、<保守原理主義者>としてこの欄で取り上げた、「憲法改正」に大反対している、倉山満の<激賛>の言葉が付いている。
 倉山満が激賞・激賛するようでは、この本の内容もまた、すでに示唆されているのかもしれない。

1512/リチャード・パイプス-対ソ連冷戦勝利の貢献者②。

 2008年1月13日付米紙『ワシントン・タイムズ(The Washington Times)』のある記事について、この欄の4/16、№1502は、「NSDD-75」=国家安全保障会議防衛指令75号(1983年1月17日)の「真の執筆者はR・パイプス」だった、という部分までで終えている。
 同記事中で、リチャード・パイプス(Richard Pipes)の発言は、続けて、つぎのように紹介されている。
 R・パイプスは「NSDD-75」を「過去〔の政策〕からの明確な決別』と定義し、この新しい外交政策の目標は「ソヴィエト同盟〔ソ連〕との共存」ではなく「ソヴィエト体制を変更させること」で、それは、「外部からの圧力を通じてソヴィエト体制を変更させることのできる力が我々にはあるという信念」に根ざしていた、と語った。
 このあと当時に国務長官だったシュルツ(George Shultz)や再びビル(=ウィリアム)・クラークの言葉を紹介した後、「NSDD-75」の冒頭の文章を引用する。以下は、抜粋。
『米国のソ連との関係』。米国の任務は第一に、『ソヴィエトの膨張』を方向転換させることで、これは『米国軍の主要な対象〔focus〕をソ連に向かって維持し続ける』ことだ。第二に、我々が使える限られた範囲内で、ソ連が、特権支配エリートの権力を徐々に減少させて、より多元主義的な政治、経済制度へと変化するプロセスを促進する』ことだ。
 そして、再びR・パイプスに戻る。
 R・パイプスは、「文書がソ連の改変(reform)を中心的狙いとするように強く主張して、この文章を維持しようと闘った」。
 彼はつぎのように思い出す。『国務省はこれに猛烈に反対した。彼らはこの文章は、ソ連の内部事情への余計な干渉だとし、絶対に危険で無益だと考えていた。我々は固執し、そして勝ち得た(got that in)』。
 「歴史的意義を看過することはできない、すぐには不可能だが予言的な異様なこの文章は、国務省によってほとんど削除」されかけたと記事は書いたのち、R・パイプスの言葉に戻る。
 R・パイプスは、「ビル・クラークの支持とともに、この文章を主張(insist)するロナルド・レーガンの支援〔があったこと、backing〕、を指摘する」。
 記事はさらに進めて、「NSDD-75」の中の東欧、アフガニスタン等々に関する部分に入っているが、割愛する。
 この記事のとおりだとすると、リチャード・パイプスの果たした役割は、むろんR・レーガンがいたからだろうが、かなり大きかった。
 それはまた、現時点で振り返れば、ということにはなるが、R・パイプスの予見や主張は、ソ連のその後の歩みと大きくと変わらなかった、又はその基本的方向へと影響を与えるものだった、と思われる。
 これについては、別の例証となる資料・文献がある。例えば、ゴルバチョフのような人物(上記文書の時点で、特定のこの人物の出現は予見されていない)が登場しなければ、ソ連が大変化することはない、という見通しも、リチャード・パイプスは語っていた。

1502/リチャード・パイプス-対ソ連冷戦勝利の貢献者/レーガン政権。

 ○ 米紙『ワシントン・タイムズ(The Washington Times)』の2008年1月13日付のある記事がネット上で読める。このように書く。
 「25年前の1983年1月17日に、大統領ロナルド・レーガン(Ronald Reagan)は冷戦勝利の青写真を静かに定式化した」。それは「NSDD-75」=国家安全保障会議防衛指令75号と呼ばれる、「レーガン施政下でのおそらく最も重要な外交政策文書」で、「ソヴィエト共産主義帝国を根本から揺るがそうとする大統領の意図」を具体化するものだった。
 この文書作成を監督したのは「国家安全保障補佐官のビル・クラーク(Bill Clark)」[Bill=William]で、国家安全保障会議でのクラークの副補佐官の一人に、ノーム・ベイリー(Norm Bailey)がいた。ベイリーによれば、「NSDD-75」は「冷戦勝利の戦略計画」だった。
 別の同会議スタッフだったトム・リード(Tom Reed)によると、それは「ゲーム終結の青写真」、「経済的・政治的戦争の秘密宣言文書」だった。
 ”Secret”(秘密)とスタンプされているこの文書の存在・内容を何らかの方法で知ったソヴィエトは、「歴史を脅迫する…新しい指令」と称して警戒感を示した、という。
 ロナルド・レーガン(共和党、元民主党)、1981年1月~1989年1月・米国第40代大統領。すでイギリス・サッチャーは首相になっていて、1981年にフランス・ミッテラン、ドイツ・コールが続き、やや遅れて、日本・中曽根康弘が登場する。
 ソ連では、1985年3月にゴルバチョフがソ連共産党書記長になる。
 そして、レーガン(と特にサッチャー)はゴルバチョフといく度か会談、対ソ連(・東欧)冷戦終結とソ連解体(・東欧諸国「自由」化)への重要な足慣らしをした。
 ○ 2016年は、対ソ連冷戦終結後25年めだった。
 日本もいちおう冷戦「勝利者」だったのだが、祝えるほどの大きな尽力をしたのか否か、米英の指導者やドイツ統一を導いたヘルムート・コール(Helmut Kohl、キリスト教民主同盟=CDU)に比べると、少しは肩身が狭いように感じる。
 それにそもそも、ソ連解体前後を通じて、「反共産主義」の意識・認識がどの程度あったのかは、もちろん米英独各国にも<左翼>または<対共産主義国穏健派>はいたのだが、これら諸国以上に怪しいのではないだろうか。
 日本と日本国民、「保守」を含む学者・研究者や<論壇>は、対ソ連冷戦終結とソ連解体・東欧諸国「自由化」の歴史的意味を、きちんと議論し総括するということをまだしていない、と考える。
 ○ 上にも名の出てきたノーム・ベイリー(Norm Bailey)が2016年発刊の書物の中で一部を担当して書くところによると、「NSDD-75」は同「32」、同「45」、同「54」、同「66」を基礎にしており、各省から集められたグループ(IG, Interdepartmental Group)によって国家安全保障会議の政策文書「米国の対ソ連外交」として原案が1982年8月21日に用意された。
 IGの委員長(議長)は国務副長官のウォルター・ストーセル(Walter Stoessel)。IGの会議でいずれも国務・財務・農務三省の反対でわずか2文だけ削除されたが、あとは一致しての賛成で原案ができた。
 この原案の、従ってさらに「NSDD-75」の「真の執筆者」はリチャード・パイプスだった。
 パイプスは、ハーバード大学を離れて2年間をワシントン(ホワイト・ハウス)で過ごした、「ソヴィエト連邦と東欧問題に責任のあるスタッフだった」
 以上は、Norman A. Bailey, Definig the Sterategy - NSDD75, in : Norman A. Bailey, Francis H. Mario, ed, William P. Clark, foreword, The Grand Strategy That Won the Cold War: Architecture of Triumph <冷戦に勝利した大戦略>(2016/1/14)p.67-68
 ○ リチャード・パイプスの側では、自伝書である、Richard Pipes, VIXI - Memoirs of a Non - Belonger <私は生きたーある非帰属者の回想> (2003)が、上のワシントン時代のことも書いている。「第三部・ワシントン」p.126 - p.211.だ。そのうち、「NSDD-75」に関するのは、p.188 - p.202。
 リチャード・パイプスは、ソ連・東欧問題専門家として、ドナルド・レーガン時代の対ソ連外交方針の形成に大きく関わった。
 R・ニクソン(共和党)は職に就いてから政治の技術・方法として反共産主義を選択したが、R・レーガンは<大統領になる前からの根っからの反共産主義者だった>、ともされる。
 この大統領とともにリチャード・パイプスは、共存でも「デタント」でもない、対ソ圧迫政策を進めるが、究極的にはソ連の瓦解をすら意図していたとされる。
 リチャード・パイプスはロシア専門の学者・研究者(大学教授)だが、その学識からも生成された自身の「反共産主義」性およびソ連の歴史や現状に関する知見でもって、<ソ連解体>の方へと「現実」を変えていく活動を政府の一員としてしたわけだ。
 上の本には、1981-82年頃の、ロナルド・レーガンと二人だけの写真、副大統領だったジョージ・ブッシュ(父ブッシュ)との二人だけの写真も掲載されている。
 ソ連は自分たちだけで自主的にソ連をなくすように追い込んでいったわけではない。「現実」を変えるべく、アメリカでも種々の議論があり「政策」策定もあったわけだ。後者は「見通し」、「計画」であってまだ「観念」ではあるが、それに従えば「現実」も動く、という「観念」もある。それは多くの場合は、おそらく、体系だった、概念も比較的に明確にした、長い文章から成っているのだろう。

1496/日本の保守-歴史認識の愚弄・櫻井よしこ③03。

 ○ 櫻井よしこ的「保守」にはいいかげんうんざりしていると、既にいく度か書いた。
 本当は読みたくもないし、それについて何か書きたくもない。精神衛生によくない。
 しかし、自分自身が始めてしまったから、誰にも強いられない立場ながら、やむをえない。櫻井による米大統領トランプ批判(ケチつけ)や、その「天皇」・「宗教」観について、ある程度すでに、書き記す用意ができてしまった。
 ○ 前回に2015年戦後70年安倍内閣談話についての、週刊新潮(同年8/27)誌上での高い評価を見た。
 ところが、櫻井よしこは、この週刊誌の連載ものをまとめた書物では、何と微妙に、あるいはほとんど逆方向にすら、論評内容を変える「追記」を付加している。
 櫻井よしこ・日本の未来(新潮社、2016.05)、p.192。
 毎週の週刊誌読者に対して失礼だろう。また、櫻井よしこにとっての「歴史認識」とは何か、櫻井にとっていったん活字にした自分自身の論評とは何か、を強く疑わざるをえない。要するに、この人にとっては、歴史認識も安倍談話も、じつはどうでもよいのではないか。そのときそのときで適当に書いて原稿を渡せればよいのではないか。
 上の本の8カ月ほど前に櫻井は書いて、活字にした。
 例えば、談話は「安倍晋三首相の真髄」、「大方の予想をはるかに超える深い思索に支えられた歴史観」を示す。/談話は、有識者会議「21世紀構想懇談会」の「歴史観を拒絶した」
 ○ それが何と、上掲書では変質してしまう。これを読んだとき、秋月は、すぐさま、<保守論壇の「八方美人」>と感じて、その旨を一行、一言だけだが、この欄に書いた。
 この変化は、戦後70年安倍談話に対して、(私には当然のことだが)厳しい批判が明言されたことにあるようだ。
 櫻井よしこは、中西輝政と伊藤隆の二人を明示しつつ、「少なからぬ専門家から厳しい批判が寄せられた」と書く。上記、p.192。
 このような反応に櫻井よしこは困ったようで、かつまた、中西輝政らの批判の正当性に(ようやく?)気づいたようで、何とか綻びを繕おうとしている。
 櫻井は何と、つぎのようにここでは言い切っている。
 「両氏の主張、つまり談話批判は全くそのとおりであると認める」。
 中西輝政の批判の中には当然ながら、有識者「21世紀構想懇談会」の報告書によって国家の歴史解釈を規定すべきでない、ということがあった。
 にもかかわらず、週刊新潮の段階では櫻井は、有識者会議「21世紀構想懇談会」の「歴史観を拒絶した」ことを、安倍談話を高く評価する根拠の一つにしていた。
 中西・伊藤らの主張・談話批判を「全くそのとおりであると認める」ということは、有識者会議「21世紀構想懇談会」の「歴史観を拒絶した」というかつての自分の読み方が、完璧に誤りだったと正面から認めているのに他ならない
 しかし、ここが櫻井よしこのしぶとい( ?)ところで、中西輝政が一部で「政治文書」という言葉を使っていることに着目して、つぎのように書く。
 両氏の談話批判は「全くそのとおり」だが、私(櫻井)が安倍首相談話を「評価する理由はそれが政治文書であるという点だ」
 唖然とするとしか、言いようがない。
 中西輝政が「政治文書」と語ったのはおそらく、十分に皮肉を込めてだろう。安倍晋三氏よ、日本国家の歴史認識を「政治」的に操作してよいのか、という意味だろう。ついでに記すと、西尾幹二も「政治的文書」という語を用いて表向き褒めるような導入をしつつ、そのあとで、談話の歴史認識を実質的に批判している(西尾幹二・日本/この決然たる孤独(徳間書店、2016)-原論考・月刊正論2015年11月号「安倍総理へ『戦後75年談話』を要望します」)。
 中西の「政治文書として賞賛措く能わざるほど素晴らしいできだ」という文章が、そのまま安倍談話を「政治文書」として高く評価するものと理解するのは、幼稚すぎる。批判をこめた皮肉だろう。
 すなわち、これまた、日本語文章の意味を全文の中で、種々のレトリックをくぐり抜け、行間も推察しつつ理解する、ということを櫻井よしこができないことを示しているだろう。
 さらに、櫻井は、やや意味不明だが、つぎのようにも書く。
 「政治文書」として高く評価できるが、「歴史理念としては村山談話を超えるものではなかった」。上記、同頁。
 この部分は、週刊新潮誌上での、安倍首相談話は「大方の予想をはるかに超える深い思索に支えられた歴史観」を示した、という無限定の高評価と真反対だ。
 平然とこのように書けるのが櫻井よしこであることを、多くの国民は、とりわけ「左翼」ではない人々は、知らなければならない。「歴史理念としては村山談話を超えるものではなかった」というニュアンスなど、2015年夏の時点では何も語っていない。
 本来はかつての文章を全面的に取消し、単行本に収載するに際してはこれを含めない、削除する、というのが、良心的なかつ正義感のある、自己懐疑心のある、立派な「ジャーナリスト」・評論家だろう。
 では、後から持ち出した「政治文書」として評価する、という論じ方は適切なのか。
 中西輝政らの指摘を知ったあとでの後出しジャンケンのごとき論法を持ち出すな、と言いたいが、まともに取り上げてみよう。
 簡単に、論駁できる。
 首相、内閣、大臣等々の談話は、すべてが<政治的>だ。
 彼らが発表する談話、声明等々は、すべて「政治文書」だ。もともと学者の研究論文ではない。
 その「政治文書」の中に、日本国と日本人の<歴史認識>に大きく関係する内容を、しかも根幹的内容として含めてしまってよいのか、というのがそもそもの問題だったのだ。
 櫻井よしこの論法でいえば、村山富市談話も、慰安婦にかかる河野談話も、「政治文書」だからという理由で、免罪されてしまうことになりかねない。
 櫻井よしこは、村山談話や河野談話に対して、「政治文書」か「歴史認識」・「歴史理念」を示す文書かの区別をしたうえで批判してきたのか。
 そんな区別をしていないだろう。
 しかるになぜ、安倍首相2015年談話については、2016年になって「歴史理念」は「村山談話を超えるものではなかった」が、「政治文書」であるという理由で「評価する」と、ヌケヌケと語れるのか。
 ○ 2009年にはすでに、櫻井よしこは信用できない、と感じてきた。
 このような人物を「保守」的「研究」団体の理事長にまつり上げる、又はかつぎ上げることをしなければならない<日本の保守>というものは、本当に絶望的なのではないかと、本当に危ういのではないかと、むろん櫻井のような人物だけなのではないが、強く感じている。
 櫻井よしこ「研究」を、さらにつづける。


1492/日本の保守-歴史認識の欺瞞・櫻井よしこ③。

 ○ 「歴史認識」という日本の保守にとって譲れないはずの基本的な問題領域で、日本の保守は、大きく崩れてしまっている。正確にいえば、読売新聞系ではない産経新聞系「保守」あるいは自国の歴史について鋭敏なはずの<ナショナル・保守>の保守「論壇」人についてだ。
 おそらく、「観念保守」の人々の歴史認識は、ほとんど全ての人々において、狂っているだろう。あるいはそもそも、きちんと正確に日本の歴史を見つめる勇気がない。あるいは語る勇気がない。あるいは、関心自体がない。
 以上のことを、2015年8月の安倍内閣・戦後70年談話に対する論評の仕方で、残酷にも知ってしまった。
 秋月瑛二自身も、これによって、産経新聞や一部の<保守>をきわめて強く疑うようになった。そして、「観念保守」という概念も見出した。
 ○ もちろん、正気の、まともな<保守>の人たちもいる。
 水島総が月刊正論(産経)誌上の連載を中止しているのは、産経新聞や月刊正論編集部の基本的な<歴史認識>(日韓慰安婦最終決着文書も含む)に従えないという理由でかは、私は知らない。
 だが、安倍晋三とその内閣の<歴史認識>の表明内容を、水島総はきちんと批判している。
 但し、この人の発言等を全部信頼しているのではもちろんない。この人の天皇・皇室への崇敬の情は、私には及びもつかない。
 中西輝政は、歴史通(ワック)2016年5月号で、上記談話への反応に関して、つぎのように書いた。
 「保身、迎合、付和雷同という現代日本を覆う心象風景は、保守陣営にも確実に及んでいる」。p.97。
 「この半年間、私が最も大きな衝撃を受けたのは、心ある日本の保守派とりわけ、そのオピニオン・リーダーたる人々」が「安倍政権の歴史認識をめぐる問題に対し、ひたすら沈黙を守るか、逆に称賛までして、全く意味のある批判や反論の挙に出ないことだった」。p.109。
 西尾幹二は、この欄に既に引用していることを上に続けてさらに掲載するが、月刊正論2016年3月号で、つぎのように書いた。
 「私は本誌『月刊正論』を含む日本の保守言論界は、安倍首相にさんざん利用されっぱなしできているのではないか、という認識を次第に強く持ち始めている。言論界内部においてそうした自己懐疑や自己批判がないのを非常に遺憾に思っている」。
 西尾幹二と中西輝政の二人が、今年に入ってから読んだ雑誌で対談していたが、すぐには見当たらないので、関係する部分があるかもしれないが、省く。
 記憶に頼れば、戦後70年安倍談話を正面から批判したのは、われわれ二人だけだった、という旨を西尾が語っていた。
 二人だけではない。雑誌上でも、伊藤隆は批判派だったし、藤岡信勝や江崎道朗もおそらくそうだろう。他にも、渡部昇一、櫻井よしこ、田久保忠衛らの迎合的反応を苦々しく感じている人々が多数いると思われる(国家基本問題研究所の役員の中にも。しかし、全てではない。「アホ」もいるからだ)。
 小川榮太郎の見解は、知らない。
 ○ ふと気づいたが、櫻井よしこは、週刊新潮2016年12/8号で、朝日新聞社説を批判して、つぎのように言った。
 「朝日社説子は歴史認識について」某を批判した。「噴飯物である。如何なる人も、朝日にだけは歴史認識批判はされたくないだろう。慰安婦問題で朝日がどれだけの許されざる過ちを犯したか。その結果、日本のみならず、韓国、中国の世論がどれだけ負の影響を受け、日韓、日中関係がどれだけ損われたか。事は慰安婦問題に限らない。歴史となればおよそ全て、日本を悪と位置づけるかのような報道姿勢を、朝日は未だに反省しているとは思えない。」
 櫻井よしこは、2015年末日韓慰安婦最終決着を、2015年夏の戦後70年安倍内閣談話を、どう論評したのか。「噴飯物である」。
 歴史認識について、朝日新聞を、上のように批判する資格が、この人にあるのだろうか。
 ひどいものだ。日本語の文章の趣旨を理解できない人物が、「研究」所理事長になっており、田久保忠衛という同じく日本語の文章を素直にではなく自分に?都合良く解釈できる人物が、その研究所の<副理事長>におさまっている。
 いずれこの「研究」所の役員たちには言及するとして、櫻井よしこが戦後70年安倍内閣談話をどう読んだか等について、さらに回を重ねる。
 ○ ついでに、先走るが、櫻井よしこによる米大統領・トランプ批判の底にある、単純な<観念>的なものにも気づいた。
 櫻井よしこは、天皇や日本の歴史にかかわってのみ「狂信者」になるのではない。いや、正確には、「狂信」とまではいかないが、この人は、詳しい知識があるような印象を与えつつ、じつは単純・素朴な<観念>に支えられた、要領よく情報を収集・整理して、まるで自分のうちから出てきたかのように語ることのできる、賢い(狡猾な)「ジャーナリスト」だ。
 心ある、冷静な判断のできる人々は、例えば「国家基本問題研究所」の役員であることを、恥ずかしく思う必要があるだろう。

1419/D・トランプとR・パイプス。

 D・トランプはキューバ・カストロについて、「自国民を抑圧した独裁者」だと断定し、キューバは「全体主義」国だと適切にも言い放っている。
 トランプはアメリカの共和党員として、同じく共和党のR・パイプスの<共産主義>に関する書物を読んでおり、反共産主義はトランプにとっての常識または皮膚感覚になっているのではないか。選挙戦中に中国やソ連について何と言ったかしらないが、種々の外交的駆け引きを別にすれば、中国やロシアに<甘い>ことはないだろう。
 R・パイプスの共産主義やロシア革命等にかんする本には、知識人、とりわけ「左翼知識人」に対する皮肉っぽい言辞がしばしば見られる。
 西側の知識人はこの点はあまり認めようとはしないが…、とか、知識人の多くは強調しているが、実際にはこうだった、とかの文章が見られる。例えば、彼はかなり一般的な歴史叙述と違って、<10月革命>後の<干渉戦争>なるものの実際の圧力の大きさをさほどのものとは見ていない。すでにこの欄で用いた表現を再び用いると、ボルシェヴィキは「干渉戦争」とではなく、ロシア国民との間の「内戦」をこそ戦っていた。それは、ドイツとの講和後も、一次大戦終了後も続いた。
 トランプの勝利はアメリカの<左翼的>知識人とメディア関係者の敗北で、ナショナリストの勝利だ。
 反共産主義のナショナリスト。なかなかけっこうではないか。
 イギリスのEU離脱を予想しないでおいて一斉に批判する(あるいは懸念する)、クリントンの勝利を疑わずトランプが当選するはずはないと予想する、そういう日本のメディアのいいかげんさ、ほとんど一致して同じことをいうという<全体主義的気味の悪さ>を感じていたので、トランプ当選は驚きではなく、精神衛生によかった。
 偽善・タテマエの議論は排して、各国が反共産主義(自由主義経済)とナショナリズムで切磋琢磨すればよい。
 日本人はいかほど意識しているのか。R・パイプスによれば、中国も北朝鮮もベトナムも、そしてキューバも、「共産主義」国だ。
 アメリカや欧州ではとくに1989/91年以降に<ソ連・社会主義>が解体した歴史的意味を真剣に考えて、議論した。
 日本では、真摯な議論はまるでなかった、と断じたい。日本共産党が゚1994年にソ連は社会主義国でなかったと新しく「規定」するまでの間、日本の政治は、日本の<反共・保守>論壇は、いったい何をしていたのか。
 1990年代の前半、政治改革とやらに集中し細川護熙政権を生み、自社さ・村山連立政権を生み、1995年の戦後50年村山談話を生み出した。
 あの時代-まだ20年あまり前だが-、<反共・保守>は結束して、日本共産党および「共産主義」を徹底的に潰しておくべきだったのだ。
 政治家の中での最大の責任者は、小沢一郎。その後に幹事長として民主党政権を誕生させたことも含めて、小沢一郎こそが、日本の政治を攪乱し、適切な方向に向かわせなかった最大の犯罪者だろう。
 今や小沢は、<左翼・容共>の政治家に堕している。
 1989/91年を、おそらくは公になっていない「権力」闘争・内部議論を経て、日本共産党は生き延びてしまった。日本の政治家たちは、そして<保守>の論者たちはいったいこの当時に何をしていたのかと、厳しく糾弾したい思いだ。

1402/日本共産党の大ペテン・大ウソ27-不破哲三・マルクス…(平凡社新書)01。

 前回に引用した日本共産党綱領の部分と同じ旨を不破哲三・マルクスは生きている(平凡社新書、2009)が述べている(p.196末尾~)ので、それも紹介しておこうと思った。
 だが、この欄で既述の第一の論点に関係するが、不破哲三の上の本は自分たちの過去についてつぎのように不正確なことを述べていることに気がついたので、批判的にコメントしておく。
 不破・上掲p.197は、こう書く。
 「…、日本共産党としても、私個人としても、ソ連への認識は大きく発展し、そのことが1991年のソ連解体のときには、『覇権主義という歴史的巨悪』の崩壊としてこれを歓迎するという声明となり、さらに3年後の94年の党大会での、ソ連社会は、覇権主義と専制主義を特質とする、社会主義とは無縁な人民抑圧型の社会であった、とする結論的な評価となって表明されたのでした。」
 日本共産党や不破哲三は、このように自分たちの1989/91~94年の言動をまとめておきたいのかもしれない。
 しかし、つぎの点で正確ではない。つまり、完全な誤りを含んでいる。
 第一。ソ連共産党の解体とソ連邦の解体とを、意図的にか混同させている。あるいは、この違いを、意図的にか、ごまかしている。
 不破は1991年に「『覇権主義という歴史的巨悪』の崩壊としてこれを歓迎するという声明」を出したとするが、日本共産党中央委員会常任幹部会が1991年9月1日付で出した声明は正確には「大国主義・覇権主義の歴史的巨悪の党の終焉を歓迎する-ソ連共産党の解体にさいして」と題するもので、この表題でも明らかなようにソ連共産党の解体(解散)の際のものだ。したがって、上掲のように「1991年のソ連解体のとき」とするのは、大ウソ・大ゴマカシ。
 資料的に再度一部引用すれば、つぎのとおり。-「ソ連共産党の解体」、「長期にわたって…に巨大な害悪を流しつづけてきた大国主義、覇権主義の党が終焉をむかえたこと」は、「これと30年にわたって党の生死をかけてたたかってきた日本共産党として、もろ手をあげて歓迎すべき歴史的出来事である」。
 もちろんこの時点では、ソ連は社会主義国ではなかったとは一言も述べていない。
 第二。1991年12月末のソ連邦の解体(崩壊)の際の、同年12月23日付日本共産党中央委員会常任幹部会声明「ソ連邦の解体にあたって」は、「これを歓迎する」(上掲不破)という言葉をまったく用いていない
 不破哲三の上掲書は、上の二つのことを、おそらくは意図的にゴマカすものだ。つまり、こっそりと「大ウソ」をついて(そして「大ペテン」を仕掛けて)いる。
 なお、この時点でもソ連は社会主義国ではなかったとは一言も述べていない。「ソ連邦とともに解体したのは、科学的社会主義からの逸脱を特質としたゆがんだ体制であって、…いかなる意味でも、科学的社会主義の破綻をしめすものではない」と述べるにとどまる。ソ連は社会主義国ではなかったと明言したのは、上に不破も書くように、2年半ほどあとの1994年7月の党大会での綱領改正によってだ。
 第三。つぎの宮本賢治発言の趣旨を不破は無視している。
 すなわち、1991年12月21日のソ連崩壊をほとんど予想できたとみられる、つまり「党の崩壊につづいてソ連邦が崩壊しつつある」、崩壊直前の12月17日にインタビューを受けた同党中央委員会議長・宮本賢治はつぎのように語っていた。
 「レーニンのいった自由な同盟の、自由な結合がソ連邦になかったんだから、たちとしてはもろ手をあげて歓迎とはいいませんが、これはこれとして悲しむべきことでもないし、また喜ぶべきでもない、きたるものがきたという、冷静な受け止めなのです」(日本共産党国際問題重要論文集24(1993)p.182)。
 以上につき、この欄の本年6/11~7/11の「日本共産党の大ムペテン・大ウソ」18-21回を参照。
 当時、日本共産党指導部が<混乱>していたと見られることは、すでに書いた。党員たちは動揺していたに違いない。そして、不破哲三自身も含めて、幹部たちが手分けして、ほとんど同党党員が聴衆だったと推察される全国の<講演会>に出ていたのだ。
 ソ連共産党は解体してもソ連邦が崩壊しても、ソ連(・同共産党)の「覇権主義」等に原因があり、それ(当時は「大国主義」ともよく言っていた)と闘ってきた日本共産党は決して誤っていないと、-ソ連自体の「社会主義国家」性には触れることなく-同党の党員たちが党から離反しないように、必死の ?説得と強弁を続けていたのだ。
 不破哲三・上掲書の叙述は、このような過去をまつたく感じさせない。そして、なぜ1994年7月まで<ソ連のスターリン期の途中以降の「社会主義国」性否定>が遅れたのか、という理由にも触れていない。
 日本共産党・不破哲三は平然とウソをつき、語りたくない事実は平然と無視する。

1371/日本共産党(不破哲三)の大ペテン・大ウソ22。

 不破哲三・対話/科学的社会主義のすすめ(新日本新書、1995.07)という本がある。
 興味深いのは、「赤旗」日曜版の1月号に掲載されたそれぞれ三人の若い共産党員との<対話>が二つ収載されていて、かつその1月号というのが1994年の1月(正確には1/02=09、1/16連載)と1995年の1月(1/01=08、1/15連載)であること、つまり、1994年7月の日本共産党第20回大会でソ連は<社会主義国ではなかった、社会主義国ではない国家として崩壊した>と新しく規定し直した時期の前と後に発行されていることだ。
 やはり不破哲三は、ソ連やスターリン等について、この二つの<対話>で微妙に異なることを喋っている。
 まず(おそらくは1993年12月に実際には語られた)1994年1月号では、林紀子(民青同盟愛媛県委員長)・森実一広(民青同盟京都府委員長)・金谷あゆみ(民青同盟石川県委員長)を前にして、不破哲三はこう語っている。
 ・マルクスは、イギリス、フランス、ドイツなど「資本主義の発達がもっとも進んだ国ぐに」で「社会主義革命」が起きると「予想」していた。
 ・レーニンも同じで、民主主義革命はともかく社会主義革命は西欧で先に起こるのが「当然の道筋」で、ロシアはそれと手を携えて社会主義へ前進すると「見通して」いた。
 ・しかし歴史は複雑で「社会主義をめざす国としては、おくれたロシアだけが残る」という「だれも予想しなかった」状況になった。
 ・レーニンは、おくれたロシアを社会主義へと前進させる困難さを「よく心得ていた」し、「いろいろ試行錯誤も」して、「ロシアが生き残って、国内の団結をかためながら、社会主義にむかって着実に進んでゆくというレールを苦労して敷いた」。
 ・ところが、後継者のスターリンは、レーニンが敷いたレールを「乱暴にはずし」、「外に向かってはツァーリ時代の領土拡張欲を復活させた覇権主義、国内では上からの命令で政治や経済を動かす官僚主義の国づくり」というレールに切り替えた。そして、「せっかく実現した革命が、社会主義という社会をつくるにいたらないまま」解体した。
 ・ソ連を見るとき、一つは、「非常におくれた条件」で革命が起きたこと、二つは、社会主義への道を進もうとしてレーニンが健全なレールを敷いた時代」と、「スターリンがそのレールをくつがえして、覇権主義、官僚主義の道に突き進んだ時代」を区別すること、が大切だ。
 ・レーニン時代は「民族自決権の尊重」を世界で初めて宣言して諸外国との領土紛争を「模範的に解決」し、国内でも「社会保障制度をはじめてつくり、男女平等を実現する」等の社会改革を行なって、この点でも「世界の模範」になった。
 ・日本共産党は「ソ連の覇権主義者たちと」闘ってきたので、「ソ連共産党が崩壊しても」影響を受けず、逆に「覇権主義の害悪の解体」として歓迎する声明」を出した。それだけの「力と成果をもった運動」を展開してきている。
 以上、p.143-5、p.154。
 以上の不破哲三の発言のうち重要なのは、この時点ではソ連は「社会主義国」ではなくなっていた、という認定を行なっていないことだ。
 すなわち、「せっかく実現した革命が、社会主義という社会をつくるにいたらないまま」解体した、と言うだけで、社会主義国家建設が完了していないことは(1991年以前と同じく)認めているが、<社会主義という社会をつくる>過程で解体したのか、とっくにそのような過程は終わっていたのか、については曖昧なままにしている。
 上のことを言い換えると、スターリン時代に「覇権主義、官僚主義の道に突き進んだ」こととソ連の「社会主義(国)」性との関係は、明確には語られていない、ということだ。
 また、この時点では、スターリンに対する批判は、上に引用・紹介した部分・内容だけにとどまる、ということも興味深い。スターリンへの悪罵よりも、レーニンに対する褒め(?)言葉の方が、分量は多い。 
 つぎに、(おそらくは1994年12月に実際には語られた)1995年1月号では、川上弘郁(党山梨県郡内地区委員会機関紙部長)・水谷一恵(党埼玉県委員会組織部副部長)・加藤靖(党京都府北地区委員会機関紙部員)を前にして、不破哲三はこう語っている。
 ・「民族自決にせよ、女性の平等にせよ、…、ロシアの十月革命は、世界の推進力として、衝撃的とも言える役割をはたし」た。
 ・「レーニンは、世界の進歩に貢献する仕事とともに、社会主義の『夜明け』に近づく仕事をいろいろとしたが、スターリンによってそれが投げ捨てられちゃった」。
 ・「旧ソ連をどう見るかという問題」があるが、「スターリンからゴルバチョフに至るソ連は、社会主義の『実験』どころか、社会主義を裏切ったものでしかなかった。そこをしっかりつかむことが、本当に大事」だ。
 ・日本共産党は「旧ソ連の覇権主義」に対して「三十年にわたってたたかい、これは社会主義とは縁もゆかりもない、反社会主義だと徹底的に批判してきました。//
 昨年〔1994年〕の第二十回党大会では、さらにすすんで、旧ソ連の社会体制そのものが、反社会主義の体制だったことを、歴史的な事実を基礎に明らかにしたんです」。
 ・「だいたい対外政策であれだけ帝国主義的な行動をやるものが、国内ではまともだというはずはないんです」。
 ・「ソ連では、…経済の土台はともかく『社会主義』だ、『腐っても社会主義』(笑)なんていう議論もありました。でも、…。『国有化』だから社会主義という理屈にはならないんです」。
 ・旧ソ連では、「工業でも農業でも、はたらく人民の無権利状態がひろがり、経済への発言権もうばわれた。生産手段が人民の手に移されるどころか、人民を経済の管理からしめだした専制主義の体制でした。こんなものは、社会の体制としても社会主義の反対物ですよ」。
 ・「おまけに大量弾圧による囚人労働が、何百万人という規模に広がって、ソ連経済の柱の一つになっていました。これはもう、資本主義以前の野蛮な制度ですよ」。
 以上、p.182-184。
 同じ書物に収載された二つの<対話>だが、第20回党大会を間に挟んで、微妙に、のつもりであるかもしれないが、しかし、明確に、ソ連に対する見地を変更していることが分かる。
 上で不破哲三は、旧ソ連は「反社会主義の体制」だったと明言し、「社会主義の反対物」、囚人労働を前提とする「資本主義以前の野蛮な制度」とまで言い切っている。
 このような強い批判は、わずか1年前の2014年1月には全く見られなかったものだ。
 もしも1994年の初めにこのように不破哲三が考えていたとすれば、1994年1月「赤旗」日曜版で語った内容は実際とは大きく変わっていなければならなかったはずだ。党幹部として、というよりむしろ、ソ連に対する見を明確に変更する綱領改定を指導していたはずの不破哲三であっても、党常任幹部会等の了解がないままに、ひょっとすれば個人的には考えていたかもしれないソ連の見方の変更を「赤旗」紙上で明らかにすることはまだできなかった、ということだろう。
 また、不破哲三は上で明かなウソをついていることも指摘しておく必要がある。
 不破は、「旧ソ連の覇権主義」と「三十年にわたってたたかい」、それは「社会主義とは縁もゆかりもない、反社会主義だと徹底的に批判してき」た、とヌケヌケと語っている。
 しかし、ソ連(・ソ連共産党)の<覇権主義・大国主義>を「社会主義」から逸脱した明確に「反社会主義」、「社会主義とは縁もゆかりない」などの言い方で批判してきたわけではまったくない。
 なるほど(前回に引用・紹介したように)覇権主義等を「社会主義の原則に反する誤り」と評する部分はあるが、第一に、これ自体について言えば「社会主義の原則」違反であって<反社会主義>だと明言しているわけではない。また第二に、全体の文章は、「ソ連などの大国主義、覇権主義をはじめ、社会主義の原則に反する誤りとその蓄積が、社会主義の事業が本来もっている…威信と優越性をはてしなく傷つけている」、「大国主義克服のための闘争は、世界と日本の社会主義の事業にとって、決定的といってよい重み」をもっている、「いっさいの大国主義、覇権主義、ヘゲモニー主義を国際共産主義運動…から根絶することをめざす」、といったものであり、旧ソ連がすでに「社会主義(国)」ではなかったことを前提とする意味には全くなっていない。
 にもかかわらず、不破が「覇権主義」と「三十年にわたってたたかい」、「反社会主義だと徹底的に批判してきた」と語っているのは、1994年7月以降に新たに吐きだした大ウソであり、大ペテンに他ならない。
 後で一部再引用しておく不破哲三・現代前衛党論(新日本出版社、1980)によれば、不破哲三は1979年に、ソ連の大国主義・覇権主義等の「誤り」について「わが党」は「それを社会主義の国におこった誤りとしてとらえる」と明言している。
 不破は、自分の本をもう一度見てみるがよい(なお、この後は、中国共産党はソ連は「社会主義国」から「ブルジョア独裁国家に変質してしまった」という見方をとった、…と続く)。
 よくも平気で言えるなと思うのだが、不破哲三は厚かましくも、少なくとももう一つ、重要なウソをついている。
 すなわち、経済的土台はまだ「社会主義」だとする議論が旧ソ連にあったなどと言って笑いとばしているが、じつは不破哲三こそが、ソ連共産党・ソ連の崩壊以前のある時期には、上部構造はともかく土台(下部構造)はまだ変質しているとは言えないので、ソ連を<社会主義(国)ではなくなった>と理解してはいけない、という旨主張していたのだ。
 息を吐くようにウソをつくとは、日本共産党、とりわけ不破哲三にあてはまる。
 一部は再度の引用になるが、不破哲三は現代前衛党論(新日本出版社、1980)に1979年に行なった報告/のち「前衛」1979.09号掲載)を収載していた。この著のp.74-76によれば、不破哲三はこう語っていた。
 ・「レーニンは、上部構造での民主主義の徹底的な確立と実行という条件を提起している」。
 ・スターリンは「大国排外主義の民族抑圧傾向をもっとも強くあらわした」。レーニンは死の直前にこうした「傾向との闘争」を行なった、その際、レーニンは「社会主義国無謬論」に立たず、「社会主義の土台のうえでも、誤りの如何によっては他民族の抑圧という社会主義の大義に反する事態までおこりうることを理論的に予見」していた。
 ・しかし、「社会主義国の党や政府」に「あれこれの重大な誤り」があるからといって「その国が社会主義でなくなったなどの結論」を簡単に出す「社会主義変質論」も日本共産党のとるところではない。
 ・上のことは、「レーニンの使った言葉を採用すれば、国家の上部構造のうえで誤りがおきたからといって、ただちに社会主義の土台がなくなったとみるわけにはゆかない、ということです」。
 1979年に以上で不破が述べたことは、当時にソ連の性格づけに関して中国共産党と日本共産党が対立していたという文脈の中で読んでも、(当時の)ソ連は「上部構造のうえで誤りがおき」ているかもしれないが、「ただちに社会主義の土台がなくなったとみるわけにはゆかない」、つまりソ連はなおも「社会主義(をめざしている)国」だ、という見解の表明に他ならない、と解される。
 にもかかわらず、1995年1月には不破哲三は、旧ソ連には、「経済の土台」はまだ「社会主義」だ、「腐っても社会主義」だなんていう「議論」があった、と笑い飛ばしている(前掲・対話/科学的社会主義p.184)。
 笑い飛ばされなければならないのは、間違いなく、不破哲三自身だろう。

1369/日本共産党の大ペテン・大ウソ21ー不破哲三・新日本新書(2007)。

 不破哲三・スターリンと大国主義(新日本新書、1982.03)は、1982年1-2月に「赤旗」に連載されたものを注を付してまとめたものだとされる。ソ連共産党およびソ連の解体前の書だ。
 新装版/不破哲三・スターリンと大国主義(新日本出版社、2007.05)というものもあり、これには不破の18頁にわたる「新装版の刊行にあたって」が目次前の冒頭に付いている。そして、この新装版はソ連共産党・ソ連解体後のものだが、上記の1982年の新書版と内容は変わっていない、らしい。逐一の確認はしていないが、どうやらそのとおりのようだ。
 興味深く、かつ厚かましいと感じ、かつまた不破哲三の面の皮はよほど厚いに違いないと思うのは、2007年の本のまえがきで、①「ソ連大国主義をめぐる歴史的追跡において、根本的な訂正が必要だと思われる点が見あたらない」、②「この二十五年の間に」新しい事実も明らかになったが、「ソ連覇権主義への告発に訂正をせまるものではない」等と不破は述べているが、元となった1982年の新書では、ソ連を「社会主義」国の一つと見なしたうえで、その大国主義等を批判していることだ。重大な変化を無視して、表面的な不変性(訂正・修正の不要性)を語っていることだ。  
 そしてその重大と思われる点については、2007年の本のまえがきで、1994年の第20回党大会でソ連は社会主義ではなくなっていたと明確にした、「ソ連で崩壊したのは、社会主義ではありません」、と釈明しかつ強弁している(p.17)。
 以下で紹介しておくように1982年にはソ連を「社会主義」国の一つと見なし、「国際共産主義運動内部」での「大国主義、覇権主義」と明記しながら、2007年には「根本的訂正」は必要なかったとしつつ、1994年に日本共産党はソ連は社会主義国でなかったという見地に立った、とまえがき部分でこっそりと?、いや公然と「訂正・修正」 しているのだ。
 どういう神経をもっているのだろう。どれほどに面の皮は厚いのだろうか。これを「知的傲慢」と言わずして何と言うのだろうか。
 ともあれ、1982年には不破哲三はこう書いていた。2007年の上の①や②と対比していただきたい。1982年新書版、p.240-242。
 ・「今日の社会主義」はまだ「生成期」にあるという「歴史的制約以上に重大なことは、ソ連などの大国主義、覇権主義をはじめ、社会主義の原則に反する誤りとその蓄積が、社会主義の事業が本来もっている…威信と優越性をはてしなく傷つけていることです」。
 ・「この大国主義」は、「社会主義の道にふみだした国ぐにの経済的政治的困難の最大の要因ともなってき」ており、「大国主義克服のための闘争は、世界と日本の社会主義の事業にとって、決定的といってよい重みをもっています」。
 ・「いっさいの大国主義、覇権主義、ヘゲモニー主義を国際共産主義運動と世界政治から根絶することをめざす」闘いはレーニンの継承発展という歴史的意義をもつ。
 ・日本共産党は1981年にソ連共産党中央委員会あて書簡で、「ソ連の現在の…大国主義、覇権主義のあらわれの一つひとつを事実に即して具体的に指摘し、きびしく批判するとともに、これを国際共産主義運動内部から一掃するために最後までたたかう」意思を表明した。
 ・ すなわち、「アメリカ帝国主義」や「日本の反動支配層」とたたかうと同時に「国際共産主義運動の内部における大国主義、覇権主義のいかなるあらわれにも反対して、その是正を求め、…奮闘するでしょう」、と書き送った。
 以上は、2007年の単行本のp.266-8頁にも、同文でそのまま掲載されている。
 このように「ソ連などの大国主義、覇権主義をはじめ、社会主義の原則に反する誤り」だとか、「国際共産主義運動の内部における大国主義、覇権主義」と闘うとか書いておきながら、2007のはしがき・序文では、何と、<訂正・修正>する必要はなかった、と不破哲三は<開き直って>いるわけだ。
 ここまで傲慢になられると、そしてソ連共産党・ソ連自体の解体の意味を全くかほとんど無視されると、巨大なカラクリに眩惑されてしまいそうだ。
 日本共産党は、ソ連と三〇年以上にわたって闘ってきたと、さも自慢そうに言い、そのついでに?、崩壊したのはソ連であって社会主義ではない、とも1994年以降は明確に言い始めたのだった。しかし、日本共産党は、「社会主義」国ソ連の「社会主義の原則」に反する「大国主義、覇権主義」を、「国際共産主義運動内部」の誤りとして三〇年以上闘ってきたのだった。もはや社会主義国ではないとしてソ連(の大国主義・覇権主義)と闘ってきたわけでは全くない。
 ソ連(・ソ連共産党)は誤ったが、日本共産党は「正しい」。落胆することなく、確信をもって前進しよう。-こう党員やシンパ(・同調者たち)を説得し、煽動するために、日本共産党幹部たちは<(わが党は)ソ連の(誤った)大国主義・覇権主義と三〇年にわたって闘ってきた>ということを持ち出す。これは<大ペテン>だ。
 追記-いったんレーニンとスターリンの異同の問題に立ちいって、稲子恒夫著にも言及した。それは、産経新聞政治部・日本共産党研究( 産経新聞出版、2016.05)が発売される予定であることがその当時分かっていたので、その前に稲子恒夫著を資料として用いていることを明らかにしておく意味が個人的にはあった。この産経新聞の本には結果としては稲子恒夫著への言及がなかったので、急ぐ必要はまったくなかったことになる(産経本には、「研究」と称しつつ、参考文献の参照頁の詳しい摘示が全くない)。

1352/日本共産党の大ペテン・大ウソ19。

 一 前回(18)での叙述には、ソ連共産党の解体を1991年8月ではなく1990年8月と、日本共産党常任幹部会の<ソ連共産党解体歓迎>声明を1991年9月ではなく1990年9月と理解していた誤りがあった。したがって、これらと宮本顕治の1991年元旦の発言との関係を問題にする叙述は、すべて取り消す。<すでに6/15に必要な修正・削除をおこなった。>
 但し、宮本顕治(中央委員会議長)が1991年元旦に「赤旗」上で「われわれはソ連の失敗は希望しないし、なんとかソ連も立ち直ってほしいと思う」と公言していたことは、事実だ。
 したがってまた、その時点で宮本顕治はソ連共産党の解体もソ連邦の解体も見通せていなかったのであり、前回の元来の指摘と同じ程度ではないが、「日本共産党の指導者の、科学的な?予見・予測能力の完璧な欠如」も示すものだった、旨の指摘は基本的には当たっているだろう。
 つぎに、前回(18)、「しかし、『ソ連解体にさいして』日本共産党常任幹部会等が、上の宮本発言の論理的帰結であるような〔=残念だ旨の〕声明は出していないはずだし、また、逆に<(歴史的巨悪の?)ソ連邦の解体を歓迎する>という声明を出した痕跡もない」と書いた。
ソ連共産党解体とは別にソ連邦解体について、残念と感じるか歓迎するかのいずれの明確な反応もなかったようだ、との趣旨であり、誤っているわけではない。
 但し、日本共産党による反応が全くなかったわけではない。
 日本共産党の七十年/下(新日本出版社、1994)p.422-3にも言及されているように、1991年12月23日付(翌日「赤旗」掲載)で、日本共産党中央委員会常任幹部会「ソ連邦の解体にあたって」が発せられている。以下、日本共産党国際関係重要論文集24(同党中央委員会出版局、1993)による(p.203-5)。趣旨の理解について上記党史/七十年をも参考にすれば、次のように言う。
 ・ソ連共産党と国家としてのソ連邦の解体とは「次元を異にする問題」だが、「『歴史的巨悪』としての覇権主義」が「決定的要因となったことでは、共通の歴史的な状況がある」。(p.203)
 ・ソ連邦の解体の「最大の根源は、スターリンいらいの覇権主義および、その害悪に対するゴルバチョフ指導部の無自覚と無反省にあった」。(p.204)
 ・「大局的にいって、ソ連邦とともに解体したのは、科学的社会主義からの逸脱を特質としたゆがんだ体制であって、…いかなる意味でも、科学的社会主義の破綻をしめすものではない」。(p.204)
 ・「世界平和にとって重要な問題は、ソ連がもっていた核兵器がどうなるか」だ。「ソ連邦の解体とともに生まれた新しい情勢を、核兵器廃絶にすすむ積極的な転機とするために、あらゆる努力をかたむけることを、よびかける」。(p.205)
 以上、引用終わり。
 以上について特徴的なのは、<残念と感じるか歓迎するか>は明瞭ではないが、党の解体と同様に<スターリン以降の覇権主義>に原因があった、と淡々と分析?していることだろう。その意味では、前回紹介の宮本顕治発言よりも、<ソ連共産党解体歓迎>声明に近いかもしれない。
 ともあれ、ソ連共産党解体のときのような、<歓迎>声明そのままではない。したがって、ソ連共産党の場合と同様にソ連邦解体の場合も対応したとその後のまたは現在の日本共産党(・の幹部たち)が説明・主張しているとすれば、それは必ずしも正確な日本共産党の歴史ではない、と見られる。
 また、この時期には、ソ連共産党やソ連邦の解体の最大の原因を、日本共産党は<(大国主義・)覇権主義>に求めていた、ということを確認しておくべきだろう。レーニンの<市場経済から社会主義へ>の道をスターリン以降が覆したことに原因がある、あるいはこの道に対する態度がレーニンとスターリンの大きな違いだ、などという分析・説明は全くなされていない、ということだ。
 二 宮本顕治が、概念や論理の一貫性をもって思考している人物ではまったくないことは、上に言及の1991年元旦発言と、ソ連邦解体等のあとの翌年の1992年元旦付の「赤旗」上の発言を比べても分かる。前回と同様に宮本顕治・日本共産党の立場5(新日本文庫、1997)p.53-によるが、日本共産党国際問題重要論文集24(1993)にも収載されている。宮本は語る。
 ・「ソ連の崩壊は社会主義の崩壊ではなくて、社会帝国主義、覇権主義の破たんです。ソ連がスターリン・ブレジネフ型の、官僚主義・命令主義の体制となった結果、第二次大戦後の米ソ関係、東西関係は、資本主義体制対社会主義体制という対立から、一定の時期を経て、事実上は帝国主義と社会帝国主義の対立に転化した面があります」。(p.54)
 ・「ソ連、東欧の体制は崩壊したが、自分の誤りによって自壊したのであって、体制としての資本主義が社会主義にたいして最終的な勝利をおさめたわけではありません」。(p.55)
 以上は一部だが、誤っているとはいえなお<社会主義>国の一つと見ていたかのごとき1年前とは違って、解体したソ連等を突き放した、評論家ふう?の叙述になっている。自らと日本共産党に火の粉が降りかかるのを懸命に避けているようだ。
 また、上の発言の基本は1994年の日本共産党綱領改定にも継承されているようで、この時期の日本共産党の指導者たちの考え方が示されているだろう。
 しかし、宮本顕治が好んだかもしれない「社会帝国主義」というソ連に対する論難の仕方は、1994年およびその後の日本共産党の見解または語法としては採用されなかった、と見られる。
 また、資本主義が「最終的な勝利をおさめた」わけではない、という言い方をしているのは、<中間的には>資本主義が勝利していることを認めているようでもあり、興味深い。
 ところで、宮本顕治の発言等を追っていくと、この時期の日本共産党の最長老の現存の「教祖」らしい、<未来への確信をもって頑張れ>との宗教家的煽動の言葉が目につくが、ソ連について、つぎのようにも述べたようだ。1994年5月、すなわち同年7月の第20回党大会直前の中央委員会総会での一文だ。第19回党大会/日本共産党中央委員会総会決定集/下(同党中央委員会出版局、1994.08)による。
 「総会では、最後に宮本議長が閉会のあいさつ」を述べ、「…われわれの闘争いかんにかかっているのであり、甘い期待をもつのではなく、心をひきしめてたたかうべきことを指摘。//
 ソ連崩壊によって覇権主義の害悪とたたかう苦労から解放されたことはすばらしいことで、最後には真理は勝利することをしめしている、…、…とのべた」(p.463)。
 //は原文では改行でない。
 宮本顕治は1961年に正式に日本共産党の最高幹部になったとき、(すでにスターリンは死亡し、スターリン批判もあったが)ソ連邦をどのように理解していたのだろうか。解体してみれば、「ソ連崩壊によって覇権主義の害悪とたたかう苦労から解放されたことはすばらしい」と言ってのける神経の太さは並大抵ではない。
 なお、ここでは立ちいらないが、この時期の宮本顕治は<スターリン(指導下のソ連)にも良い面があった>、すべてを<精算主義>的に理解してはならない旨も強調している。そしてそれは、1994年改定綱領にも採用されたと見られる。第二次大戦時でのソ連邦のはたした役割等についてだ。
 しかし、2004年の綱領全面改定によって、スターリン(指導下のソ連)の<よい面>に関する記述は削除された。不破哲三体制の誕生を示していたのかどうか、この点にはいずれまた触れるだろう。
 <つづく>

1343/日本共産党の大ペテン・大ウソ15。

 一 ネップ(新経済政策)の問題は、現在の日本共産党綱領の正当性にもかかわるじつに微妙な?問題だ。
 現2004年(23回党大会)綱領はつぎのように書く。
 ・「今日、重要なことは、資本主義から離脱したいくつかの国ぐにで、…、『市場経済を通じて社会主義へ』という取り組みなど、社会主義をめざす新しい探究が開始され、…、二一世紀の世界史の重要な流れの一つとなろうとしていることである。」 
 ・「市場経済を通じて社会主義に進むことは、日本の条件にかなった社会主義の法則的な発展方向である。」
 上の第一の観点から、現在の中国(シナ)とベトナムの両「社会主義」国の歩みは日本共産党によって正当化され、また第二点のように、日本共産党自身も「市場経済を通じて社会主義に進む」と明言している。
 しかして、この「市場経済を通じて社会主義へ」論は1994年(20回党大会)綱領では語られていないし、その際の不破哲三報告にも、-「ネップ(新経済政策)」への言及はあるが-このような定式化は見られない。
 そして重要なのは、レーニンによる「ネップ(新経済政策)」導入の肯定的評価と「市場経済を通じて社会主義へ」論が結合していること、いや端的には、レーニンこそが(「ネップ(新経済政策)」導入を通じて)「市場経済を通じて社会主義へ」という<新>路線を明確にした(この「正しい」路線をスターリンが覆した)、と日本共産党は理解していることだ。
 志位和夫・綱領教室第2巻(2013、新日本出版社)によれば、こうだ。
 1921年10月のレーニン報告は、「市場経済を正面から認めよう」、「市場経済を活用しながら社会主義への前進に向かう方向性を確保しよう」という路線を打ち立てていくもので、「『市場経済=敵』論と本格的に手を切る」ものだった。「そこで本格的な『ネップ』の路線が確立」した。レーニンの主張には反対もあったが、「市場経済を認めることが絶対に必要不可欠であることを明らかに」した。
 「レーニンがこの時期に確立した『市場経済を通じて社会主義へ』という考え方は、…、画期的な新しい領域への理論的発展」で、「レーニンが、…、情勢と格闘し、模索しながらつくった」ものだ。(以上、p.178-9)
 志位はこの考え方を「マルクス、エンゲルスの理論にもなかった新しい考え方」だとしている(p.179)。不破哲三の文献で確認しないが、志位和夫は「不破さんの研究に依拠しつつ」説明すると明記しているので(p.176)、不破哲三においても同じ理解がされているのだろう。
 そうだとすると、「マルクス、エンゲルスの理論」の「画期的な新しい領域への理論的発展」であるよりむしろ、マルクス主義からの<逸脱>ではないか、という気がしないでもない。<マルクス・レーニン主義>とは言うが、レーニンはマルクス主義から逸脱していたのではないのか。とすれば(マルクスを基準にすれば)、レーニンがすでに「誤って」いたのではないいか(とすれば、日本共産党1922年創立自体も、正しい科学的社会主義理論?からの逸脱の所産ではないか)。
 だが、そこまで問題にするのは避けて、レーニンは<正しく、ネップ路線を導入した>のかに焦点をあてよう。これが日本共産党の主張するようなものでなければ、それは現日本共産党の綱領の正当性、および同党の現在の存在意義そのものにかかわることは、変わりはない。
 二 ネップについてはすでに言及してきており、稲子恒夫の認識も、その一部は紹介している。
 上記の志位和夫の著はE・H・カーのロシア革命-レーニンからスターリンへ、1917~1929年〔塩川伸明訳〕(岩波現代新書、1979)に肯定的に言及しているが、同じカーの書物のレーニンとネップとの関係についての部分は、次のようなものだ。
 ・「戦時共産主義」の評価の差異は「ネップ」の評価にも反映し始めた。1921年3月の危機的状況の中で「戦時共産主義のより極端な政策からネップへの転換」が満場一致で受け入れられたときでも「分岐は棚上げされた」のであり、全面的「和解」はなかった。//
 ・「戦時共産主義が社会主義に向かう前進としてではなく、軍事的必要に迫られた逸脱、内戦の非常事態に対するやむをえざる対応として考えられる限り、ネップは強要されたものではあるが遺憾な脱線からの撤退であり、…より安全でより慎重な道への回帰であった」。//
 ・「戦時共産主義が社会主義のより高度な点への過度に熱狂的な突進-確かに時期尚早ではあったが、それ以外の点では正しかった-として扱われる限り、ネップは、当面保持するのが不可能だとわかった地歩からの一時的撤退であり、その地歩は早晩奪還されるべきものであった。レーニンが-彼の立場は必ずしも一貫してはいなかったが-、ネップを『敗北』、『新たな攻撃のための撤退』と呼んだのは、この意味においてであった。」//
 ・「第10回党協議会においてレーニンが、ネップは『真剣かつ長期にわたって』意図されていると言ったとき(だが、質問に答えて、25年という見積りは『あまりに悲観的』であると付けたした)、ネップは戦時共産主義という過誤の望ましくかつ必要な修正であるとの見解と、ネップ自身が将来修正され、とって代わられるべきものであるとの見解の両方に言質を与えたのである。」//
 ・「第一の見解の言外の前提は、後進的農民経済と農民心理を勘案することが実際に必要であるという点であった。第二の見解のそれは、工業を建設し、革命の主要な拠点をなしている工業労働者の地位をこれ以上悪化させないことが必要だということであった。」//
 ・1920-21年の難局の解消への感謝で当面は覆われていた「分岐は、2年後の更なる経済危機と党内危機の中で再び現れるのである。」/
 以上、p.52-53。//は原文では改行ではない。
 E・H・カーの1979年の本ではまだ見逃されたままの資料・史料があったかもしれない。だが、それにもかかわらず、上の叙述を読んだだけでも(他にもネップ言及部分はある)、主として農業・対農民政策をとってみるだけでも、レーニン時代とスターリン時代とに大別する発想をすることは、複雑な歴史を(都合のよいように?)単純化するものではないだろうか、という疑問が生じる。
 <つづく>
 

1329/日本共産党(不破哲三ら)の大ペテン・大ウソ05。

 不破哲三、そして日本共産党は、「ソ連は社会主義でも、それへの過渡期でもなかった、…、人間抑圧型の体制だった」と、1994年7月の第20回党大会以降になって、主張し始めた。すでに<完全変質>していた、と認めるに至ったわけだ。
 しかし、不破哲三は、<いかにスターリンに問題・欠点があっても、ソ連はもはや社会主義国ではなくなった、などと言ってはいけない>という旨を、かつて明確に主張していた。いわば<完全変質否定論>だ。 
 <さざ波通信>36号(2004)は③不破哲三・講座/日本共産党の綱領路線(1984、新日本出版社)を典拠として挙げているが、秋月が知りえたかぎりで、他に、①不破・現代前衛党論(1979、新日本出版社)にも同旨の文章がある。また、②日本共産党第16回大会で中央委員会書記局長として行なった報告「第16回党大会にたいする中央委員会の報告」(前衛484号、1982.10)も同旨の部分を含んでいる。これらの中では、②が日本共産党の最も公的な見解を示していたものだろう。
 1. まず、この1982年16回大会・不破「報告」から引用・紹介する。
 「社会主義諸大国の大国主義、覇権主義の誤りを問題にする場合、…、科学的社会主義者として、つぎの二つの見地を原則的な誤りとしてしりぞけるものです。
 一つは、社会主義大国が…などの誤りをおかすことはありえないとする『社会主義無謬論』です。<以下、中略>」
 「もう一つは、あれこれの社会主義大国が覇権主義の重大な誤りをおかしているということで、その国はもはや社会主義国ではなくなったとか、その存在は世界史のうえでいかなる積極的役割も果たさなくなったとかの結論をひきだす、いわゆる『社会主義完全変質論』です
 /一六年前、宮本委員長を団長とするわが党代表団が、中国で毛沢東その他と会談したさい、ソ連の評価をめぐって、もっともするどい論争点にの一つとなったのが、この問題でした。
 /わが党は、社会主義大国の覇権主義にたいして、…もっともきびしく批判し、…たたかっている党の一つですが、その誤りがどんなに重大なものであっても、指導部の対外政策上などの誤りを理由に、その国家や社会が社会主義でなくなったとするのは、『社会主義無謬論』を裏返しにした、根本的な誤りです
 <中略> …過程は単純なものではなく、長期の複雑な経過をたどるでしょうが、社会主義の大義と道理に反する大国主義、覇権主義の誤りが、かりに現時点ではきわめて根深い支配力をもっているようにみえようとも、将来にわたって永続的な生命をもちえないことは確実であります。<中略-抜粋、中国の文化大革命が同共産党によって断罪され転換がすすめられていること>は、社会主義の事業と共産主義運動の復元力をしめした一例とみることができるでしょう。<以下、中略>」
 「社会主義のこの復元力は、自然現象のように、自動的に作用するものではなく、誤りや逸脱にたいする理論的・政治的な闘争をつうじて、はじめて力を発揮するものです。<以下、略>」
 以上、紹介終わり。/の部分は、原文では改行ではない。
 2.つぎに、不破・現代前衛党論(1979)p.70以降から引用・紹介する。
 「日本共産党の国際路線について」と題する論考の中の「社会主義の『生成期』とその前途について」で、全国地区委員長学習会議での講演をもとに整理して前衛1979.09号に掲載されたもの。
 ・レーニンは1916年の論文の一つで「社会主義政党が民族自決権の要求をかかげることに反対する議論」を批判した。レーニンは「社会主義になったら民族的抑圧が自動的になくなるかという根本問題を正面から提起して」、これを否定する結論を出していた。「レーニンは、上部構造での民主主義の徹底した確立と実行という条件を提起し」た。レーニンによれば、『民族的抑圧を排除するためには、土台-社会主義的生産-が必要であるが、しかし、この土台のうえで、さらに民主主義的な国家組織、民主主義的軍隊、その他が必要である』。」
 ・レーニンは1922-23年にスターリンの「大国排外主義の民族抑圧的傾向」と「闘争」したが、レーニンは「社会主義無謬論にけっしてたたず、社会主義の土台のうえでも、誤りの如何によっては他民族への抑圧という社会主義の大義に反する事態までおこりうることを理論的に予見し、実践的にも、…闘争に大きな精力をそそいだ」。
 ・「レーニンのこうした分析とも関連して、もう一つの重要な点は、社会主義国の党や政府の指導のうえで、あれこれの重要な誤りがあるからといって、その国が社会主義国でなくなったとするなどの結論を簡単にひきだす、いわゆる社会主義変質論も、われわれがとるところではないし、科学的な見地でもないということです。これは、レーニンの使った言葉を採用すれば、国家の上部構造のうえで誤りがおきたからといって、ただちに社会主義の土台がなくなったとみるわけにはゆかない、ということです。」<改行>
 ・「この問題は」、かつても中国共産党と「根本的に対立した問題の一つでした」。「…では、一定の共通点はありましたが、わが党が、それを社会主義の国におこった誤りとしてとらえるのにたいして、中国側が、…、ソ連は社会主義国から資本主義国家-ブルジョア独裁の国家に変質してしまったという立場をとり、それによって『反米反ソ統一戦線論』を根拠づけようとしました。わが党は、…、…この主張に明確な理論的批判をくわえて、その誤りを明らかにしています。」<改行>
 ・「中国のこの非科学的なソ連変質論はその後さらに奇怪な発展をとげています」。<中略> 「毛沢東やその追従者たちの非科学的な社会主義変質論は、中国を、…アメリカ帝国主義の同盟者の立場までに転落させた理論的な根拠の一つになったのです。」<改行>
 ・「中国の大国主義、覇権主義の問題でも、ことがらの性質は同じことです。わが党は、…中国の誤った路線について、社会帝国主義への二重の転落と特徴づけて批判しましたが、これは、中国が社会主義国家から帝国主義国家に変質したという、中国流の非難を中国にあびせかけたわけではありません」。<以下、略>
 以上、紹介終わり。
 <つづく>

1328/日本共産党(不破哲三ら)の大ペテン・大ウソ04。

 そこそこ大きい書斎につながっている、近所からは図書館と呼ばれている広大な書庫から(冗談だ)、ソ連解体後の初の党大会資料である日本共産党第20回大会決定集(1994)等々々をとり出してきた。
 日本共産党や幹部自体の諸文献を読んでチェックする速さと、この欄に関係部分を引用しつつコメント等をしていく作業の面倒くささが全く一致しない。
 最近の保守派の諸雑誌の日本共産党特集も含めて、これまでの保守派の日本共産党に関する知識や諸媒体の情報発信力は相当に不十分だ、とあらためて感じる。
 宮本顕治体制を確立した1961年綱領の採択が今日までの日本共産党の実質的出発点あるいは基盤だとは思うが(従って、それ以前の日本共産党の歴史を取り上げることは現在の同党に対する有効な批判になるとは必ずしも思えないが)、1985年綱領(17回大会)、1994年綱領(20回大会)、そして現在まで続く2004年綱領(23回大会)によってかなりの<修正・変更・変質?>が加えられていることも分かる。前二者の間にはソ連解体があるのである意味では当然だが、現在の綱領も、ある程度は(第二次大戦での役割など)ソ連を評価していた1994年綱領の一部を大幅に削除したりしている。
 こうしたことを調べて?いくと、いくつかコメント、論評したくなることも出てくるが、当初のイメージにほぼ従って、とりあえず書き進めよう。
 さて、ソ連共産党解体直前の1991年、ソ連自体の解体後の1994年(上記の20回大会の前)の日本共産党文献がソ連についてまだ「社会主義国の一部」とか書いているのだから、1989-91年以前のそれがソ連について「社会主義社会でないことはもちろん、それへの過渡期の社会などでもありえないことは、まったく明白」だ(1994、不破哲三・20回党大会「綱領一部改定についての報告」)、などと書いているはずはない。
 1961年綱領や宮本顕治の文章、そして1980年代後半に至るまでの諸文献からソ連を依然として「社会主義」国と見なしていた例証をいくつかここで挙げようと考えていたが、ほとんど自明だろうと思われるので、省略する。
 つぎに、不破哲三が<ソ連はもはや社会主義国ではなくなった、などと言ってはいけない>、という旨を明確に語っていた(「ソ連完全変質論批判」)、1980年頃の文章をそのまま転記するつもりだった。
 これは、予定どおり紹介はするが、すでに日本共産党の党員(個人名不明)によって、2004年1月13-17日の第23回党大会での不破哲三報告の「ソ連社会論をめぐる歴史の偽造」と題する部分が批判されていることを、ネット上で知った。
 おそらくよく知られているように、<さざ波通信>とは日本共産党の党員グループがネット上で発信しているもので、党中央は関与を禁止しているはずだ。だが、今日まで閉鎖はされていないようで、2004年のものもネット上にある。同上36号だ。 
 以下、「」を省略して転載する。**と**の間が不破哲三の報告からの引用。最後の一文はほとんど無意味なので省略した。
 ---------
 不破報告は、多数者革命に関するいつもの話を繰り返した後に、最後に第5章に話を移している。その中で不破はまずソ連社会論について議論を展開している。その中で、またしても不破は歴史の事実を大きく歪め、平然と嘘をついている
 **「……スターリン以後のソ連社会の評価という問題は、わが党が、64年に、ソ連から覇権主義的な干渉を受け、それを打ち破る闘争に立って以来、取り組んできた問題でした。
 この闘争のなかで、私たちはつぎの点の認識を早くから確立してきました。
 (1)日本共産党への干渉・攻撃にとどまらず、68年のチェコスロバキア侵略、79年のアフガニスタン侵略と、覇権主義の干渉・侵略を平然とおこなう体制は、社会主義の体制ではありえない。
 (2)社会の主人公であるべき国民への大量弾圧が日常化している恐怖政治は、社会主義とは両立しえない。
 私たちは、早くからこの認識をもっていましたが、ソ連の体制崩壊のあと、その考察をさらに深め、94年の第20回党大会において、ソ連社会は何であったかの全面的な再検討をおこないました。その結論は、ソ連社会は経済体制においても、社会主義とは無縁の体制であったというものでした。」**
 これは、表現をきわめて大雑把にすることで、あるいは、問題や表現をずらしたりスリかえたりすることによって、読者を意図的にミスリーディングし、歴史を歪め偽造するいつもの手法である。
 実際には、90年代以前のわが党は、覇権主義や対外侵略は社会主義とは無縁であるとは言ってきたが、「覇権主義の干渉・侵略を平然とおこなう体制は、社会主義の体制ではありえない」というような言い方は一度もしたことがない。これは、ソ連の体制そのものが社会主義ではないという認識につながりかねないものであり、わが党は慎重にこのような言い方を避けてきたのである。
 それどころか逆に、1980年代にはソ連社会主義の完全変質論を厳しく批判し、「社会主義の復元力」論を『赤旗』を通じて大キャンペーンを展開したのである。
 ※注/あくまでも、1994年の第20回党大会ではじめてソ連の体制そのものが社会主義の体制ではない、と明言されたのである。
 ※注 +ちなみに、ここでの不破の発言には、ソ連社会の現実についても著しい誇張がある。不破は、「社会の主人公であるべき国民への大量弾圧が日常化している恐怖政治」とか、あるいは、その少し先で「ソ連には、長期にわたって、最初は農村から追放された数百万の農民、つづいて大量弾圧の犠牲者が絶え間ない人的供給源となって、大規模な囚人労働が存在していました。実際、毎年数百万の規模をもつ強制収容所の囚人労働が、ソ連経済、とくに巨大建設の基盤となり、また、社会全体を恐怖でしめつけて、専制支配を支えるという役割を果たしてきました」などと述べているが、これはスターリン時代の、とりわけ大粛清期の現象をそれ以降の全時代に不当に拡張したものである。
 フルシチョフ時代にはいわゆる「恐怖政治」的なものはなかったし(もちろん、反対派は厳しく抑圧されていたが)、逆に強制収容所は基本的にすべて解放されて、そこにいた数十万の政治犯はほぼ全員が家族のもとに帰った。スターリン時代に粛清されたほとんどの共産党員は名誉回復された。数百万の囚人労働が「社会主義」建設を支えるという事態は基本的にこのときに終わったのである。ブレジネフ時代には締めつけが強まったが、スターリン時代のような恐怖政治は再現されなかったし、数百万の囚人労働が工業化を支えることもなかった。その後のチェルネンコ、アンドロポフ、ゴルバチョフ時代のいずれも、ブレジネフ時代よりも締めつけは緩和したし、とくにゴルバチョフ時代にはフルシチョフ時代以上に自由化が進んだ。これはソ連史の常識であるが、不破はどうやらスターリン時代の恐怖政治と囚人労働がそのままソ連崩壊までずっと続いたと思っているらしい。+
 すでに過去の『さざ波通信』などで、第16回大会における不破の報告を何度か取り上げたが、ここでは、もう一つの材料として1984年に出版された不破の『講座 日本共産党の綱領路線』(新日本出版社)を取り上げよう。1994年の第ソ連完全変質論のわずか10年前に出版された本書で不破は、1960年代における中国のソ連社会主義完全変質論に対して当時のわが党が反対して闘った事実を誇らしげに紹介しつつ、次のように述べている。
 **「そのときの論争は、『日中両党会談始末記』(1980年、新日本出版社刊)に詳しく紹介されていますが、この論争の決着はすでに明確だといってよいでしょう。中国自身、完全変質論を事実上捨ててしまい、現在では、ソ連の大国主義を批判するが、社会主義国でないとはいわなくなっていますから」(115頁)。**
 1984年の時点ですでに決着がついていたはずなのに、その10年後には日本共産党は、かつての中国とまったく同じソ連社会主義完全変質論に転向したのである。とすれば、当然、当時の論争において正しかったのは中国で、当時の日本共産党指導部は不破を筆頭に先見の明のない愚か者であったことを自己批判しなければならないはずだが、もちろん、ただの一度も不破指導部はそのような自己批判を行なっていない。
 いずれにせよ、こうした歴史的経過は、少なくとも1990年代以前に入党した共産党員にとって常識である。つまり、不破がここで言っていることは、まったく見え透いた嘘なのである。不破哲三ほど、平然とさまざまな嘘をついてきた共産党指導者はおそらくいないだろう。<一文、略>
 --------------
 以上で、紹介終わり
「1990年代以前に入党した共産党員」にとっては、日本共産党最高幹部たち(とくに不破哲三)の言うことの「ウソつき」ぶり、一貫性のなさ、無反省ぶりが明らかだ、というわけだ。
 上では全文が正確には紹介されていないので、不破哲三等が1989年以前に何と書いていたかを、<社会主義の復元力>部分も含めて、別にこの欄でそのまま引用・紹介する。
 なお、上の文章の書き手または当該サイトの設置者は、日本共産党中央に対しては批判的なようだが、少なくとも形式的にはまだ党員なのだろうし、上以外の書きぶりを見ると、なおも「左翼」の立場にはいるようだ。
 <つづく>

1324/日本共産党(不破哲三ら)の大ペテン・大ウソ01。

 日本共産党ウォッチャーではないので、少なくとも継続的な日本共産党ウォッチャーではないので、同党関係文献を多数所持しているわけではない。もちろん、日本共産党を研究する学者・研究者でもない。
 日本共産党特集をしている最近の諸雑誌を一瞥して不満だと思う、つまりはそれらを見ても疑問を払拭できない、いくつかの基本的と思われる論点・問題に、以下しばらく言及する。
 すでに日本共産党の外部で議論や指摘がなされているものかもしれないが、残念ながら、秋月瑛二はきちんと読んだことがない。
 現在の日本共産党を観察・評価する場合に基本的と(秋月が現在)思っている論点・問題とは、次のようなものだ。「暴力」革命問題でも(1950年頃の歴史問題でも)、憲法問題でも天皇問題でもない。
 第一。日本共産党は、かつてのソ連=ソヴィエト「社会主義」共和国連邦は「社会主義」国ではなかった、と1991年以降は言っているようだが、1989-91年以前はどのように理解・主張していたのか。
 これ以前に(生成途上であれ)「社会主義」国と理解していたとすれば、そのように理解していたことを自己批判し、反省し、国民に、少なくとも一般党員に詫びるべきだろう。
 関連して第二。日本共産党は、レーニンまでは正しく、つまりレーニン時代は「社会主義」の方向に向かっていたが、<大国主義・覇権主義>のスターリンによって誤った、と言っているようだ。
 このような、レーニン時期とスターリン時期の大きな(質的に異なると言っているような)区分論は歴史把握として適切なのか。あるいはまた、この対比は、レーニン=「社会主義」、スターリン=<それ>からの逸脱、と単純化してよいのかどうか。
 これにかかわって重要なのは、上の<それ>を現在の日本共産党は「社会主義」それ自体と認識・主張しているようだが、逸脱には<社会主義内部>あるいは<国際共産主義運動内部>でのそれまたは誤りもある、ということだ。現在の認識・理解のように、1989-91年以前の日本共産党も認識・理解していたのかどうか。
 兵本達吉・日本共産党戦後秘史(2005、産経新聞出版)にはこれらについての言及はない。
 雑誌・幻想と批評1~9号(はる書房、2004-2009)はすべて所持している。一瞥のかぎりで、黒坂真のいくつかの論考が関係している。のちに触れるかもしれない。
 それでも、黒坂が言及する不破哲三の前衛所収論考を見なくとも、ある程度丁寧に日本共産党の文献を見ていけば、上についてのいちおうの答は出てくる。
 <つづく>

1310/資料・史料/2015.04.29安倍首相アメリカ議会演説。

 2015.04.29/安倍晋三首相アメリカ議会演説(全文)
   2015年04月29日(アメリカ東部時間)
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 ■はじめに
 議長、副大統領、上院議員、下院議員の皆様、ゲストと、すべての皆様、1957年6月、日本の首相としてこの演台に立った私の祖父、岸信介は、次のように述べて演説を始めました。
 「日本が、世界の自由主義国と提携しているのも、民主主義の原則と理想を確信しているからであります」。以来58年、このたびは上下両院合同会議に日本国首相として初めてお話する機会を与えられましたことを、光栄に存じます。お招きに、感謝申し上げます。
 申し上げたいことはたくさんあります。でも「フィリバスター」(長時間演説による議事妨害)をする意図、能力ともに、ありません。皆様を前にして胸中を去来しますのは、日本が大使としてお迎えした偉大な議会人のお名前です。
 マイク・マンスフィールド、ウォルター・モンデール、トム・フォーリー、そしてハワード・ベーカー。民主主義の輝くチャンピオンを大使として送って下さいましたことを、日本国民を代表して、感謝申し上げます。
 キャロライン・ケネディ大使も、米国民主主義の伝統を体現する方です。大使の活躍に、感謝申し上げます。私ども、残念に思いますのは、ダニエル・イノウエ上院議員がこの場においでにならないことです。日系アメリカ人の栄誉とその達成を、一身に象徴された方でした。
 ■アメリカと私
 私個人とアメリカとの出会いは、カリフォルニアで過ごした学生時代にさかのぼります。家に住まわせてくれたのは、キャサリン・デル・フランシア夫人。寡婦でした。亡くした夫のことを、いつもこう言いました、「ゲイリー・クーパーより男前だったのよ」と。心から信じていたようです。
 ギャラリーに、私の妻、昭恵がいます。彼女が日ごろ、私のことをどう言っているのかはあえて聞かないことにします。デル・フランシア夫人のイタリア料理は、世界一。彼女の明るさと親切は、たくさんの人をひきつけました。その人たちがなんと多様なこと。「アメリカは、すごい国だ」。驚いたものです。
 のち、鉄鋼メーカーに就職した私は、ニューヨーク勤務の機会を与えられました。
 上下関係にとらわれない実力主義。地位や長幼の差に関わりなく意見を戦わせ、正しい見方ならちゅうちょなく採用する。
 この文化に毒されたのか、やがて政治家になったら、先輩大物議員たちに、アベは生意気だと随分言われました。
 ■アメリカ民主主義と日本
 私の名字ですが、「エイブ」ではありません。アメリカの方に時たまそう呼ばれると、悪い気はしません。民主政治の基礎を、日本人は、近代化を始めてこのかた、ゲティズバーグ演説の有名な一節に求めてきたからです。
 農民大工の息子が大統領になれる――、そういう国があることは、19世紀後半の日本を、民主主義に開眼させました。日本にとって、アメリカとの出会いとは、すなわち民主主義との遭遇でした。出会いは150年以上前にさかのぼり、年季を経ています。
 ■第2次大戦メモリアル
 先刻私は、第2次大戦メモリアルを訪れました。神殿を思わせる、静謐(せいひつ)な場所でした。耳朶(じだ)を打つのは、噴水の、水の砕ける音ばかり。一角にフリーダム・ウォールというものがあって、壁面には金色の、4000個を超す星が埋め込まれている。その星一つ、ひとつが、斃(たお)れた兵士100人分の命を表すと聞いたとき、私を戦慄が襲いました。
 金色(こんじき)の星は、自由を守った代償として、誇りのシンボルに違いありません。しかしそこには、さもなければ幸福な人生を送っただろうアメリカの若者の、痛み、悲しみが宿っている。家族への愛も。
 真珠湾、バターン・コレヒドール、珊瑚海……、メモリアルに刻まれた戦場の名が心をよぎり、私はアメリカの若者の、失われた夢、未来を思いました。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。私は深い悔悟を胸に、しばしその場に立って、黙とうをささげました。
 親愛なる、友人の皆さん、日本国と、日本国民を代表し、先の戦争に斃れた米国の人々の魂に、深い一礼をささげます。とこしえの、哀悼をささげます。
 ■かつての敵、今日の友
 みなさま、いまギャラリーに、ローレンス・スノーデン海兵隊中将がお座りです。70年前の2月、23歳の海兵隊大尉として中隊を率い、硫黄島に上陸した方です。近年、中将は、硫黄島で開く日米合同の慰霊祭にしばしば参加してこられました。こう、おっしゃっています。
 「硫黄島には、勝利を祝うため行ったのではない、行っているのでもない。その厳かなる目的は、双方の戦死者を追悼し、栄誉をたたえることだ」
 もうおひとかた、中将の隣にいるのは、新藤義孝国会議員。かつて私の内閣で閣僚を務めた方ですが、この方のおじいさんこそ、勇猛がいまに伝わる栗林忠道大将・硫黄島守備隊司令官でした。これを歴史の奇跡と呼ばずして、何をそう呼ぶべきでしょう。
 熾烈(しれつ)に戦い合った敵は、心の紐帯(ちゅうたい)が結ぶ友になりました。スノーデン中将、和解の努力を尊く思います。ほんとうに、ありがとうございました。
 ■アメリカと戦後日本
 戦後の日本は、先の大戦に対する痛切な反省を胸に、歩みを刻みました。自らの行いが、アジア諸国民に苦しみを与えた事実から目をそむけてはならない。これらの点についての思いは、歴代首相と全く変わるものではありません。
 アジアの発展にどこまでも寄与し、地域の平和と、繁栄のため、力を惜しんではならない。自らに言い聞かせ、歩んできました。この歩みを、私は、誇りに思います。焦土と化した日本に、子ども達の飲むミルク、身につけるセーターが、毎月毎月、米国の市民から届きました。山羊も、2036頭、やってきました。
 米国が自らの市場を開け放ち、世界経済に自由を求めて育てた戦後経済システムによって、最も早くから、最大の便益を得たのは、日本です。下って1980年代以降、韓国が、台湾が、東南アジア諸国連合(ASEAN)諸国が、やがて中国が勃興します。今度は日本も、資本と、技術を献身的に注ぎ、彼らの成長を支えました。一方米国で、日本は外国勢として2位、英国に次ぐ数の雇用を作り出しました。
 ■環太平洋経済連携協定(TPP)
 こうして米国が、次いで日本が育てたものは、繁栄です。そして繁栄こそは、平和の苗床です。日本と米国がリードし、生い立ちの異なるアジア太平洋諸国に、いかなる国の恣意的な思惑にも左右されない、フェアで、ダイナミックで、持続可能な市場をつくりあげなければなりません。
 太平洋の市場では、知的財産がフリーライドされてはなりません。過酷な労働や、環境への負荷も見逃すわけにはいかない。許さずしてこそ、自由、民主主義、法の支配、私たちが奉じる共通の価値を、世界に広め、根づかせていくことができます。
 その営為こそが、TPPにほかなりません。しかもTPPには、単なる経済的利益を超えた、長期的な、安全保障上の大きな意義があることを、忘れてはなりません。
 経済規模で、世界の4割、貿易量で、世界の3分の1を占める一円に、私たちの子や、孫のために、永続的な「平和と繁栄の地域」をつくりあげていかなければなりません。日米間の交渉は、出口がすぐそこに見えています。米国と、日本のリーダーシップで、TPPを一緒に成し遂げましょう。
 ■強い日本へ、改革あるのみ
 実は……、いまだから言えることがあります。20年以上前、関税貿易一般協定(GATT)農業分野交渉の頃です。血気盛んな若手議員だった私は、農業の開放に反対の立場をとり、農家の代表と一緒に、国会前で抗議活動をしました。
 ところがこの20年、日本の農業は衰えました。農民の平均年齢は10歳上がり、いまや66歳を超えました。
 日本の農業は、岐路にある。生き残るには、いま、変わらなければなりません。私たちは、長年続いた農業政策の大改革に立ち向かっています。60年も変わらずにきた農業協同組合の仕組みを、抜本的に改めます。
 世界標準にのっとって、コーポレート・ガバナンスを強めました。医療・エネルギーなどの分野で、岩盤のように固い規制を、私自身が槍(やり)の穂先となりこじあけてきました。人口減少を反転させるには、何でもやるつもりです。女性に力をつけ、もっと活躍してもらうため、古くからの慣習を改めようとしています。
 日本はいま、「クォンタム・リープ(量子的飛躍)」のさなかにあります。親愛なる、上院、下院議員の皆様、どうぞ、日本へ来て、改革の精神と速度を取り戻した新しい日本を見てください。日本は、どんな改革からも逃げません。ただ前だけを見て構造改革を進める。この道のほか、道なし。確信しています。
 ■戦後世界の平和と、日本の選択
 親愛なる、同僚の皆様、戦後世界の平和と安全は、アメリカのリーダーシップなくして、ありえませんでした。省みて私が心から良かったと思うのは、かつての日本が、明確な道を選んだことです。その道こそは、冒頭、祖父の言葉にあったとおり、米国と組み、西側世界の一員となる選択にほかなりませんでした。
 日本は、米国、そして志を共にする民主主義諸国とともに、最後には冷戦に勝利しました。この道が、日本を成長させ、繁栄させました。そして今も、この道しかありません。
 ■地域における同盟のミッション
 私たちは、アジア太平洋地域の平和と安全のため、米国の「リバランス」(再均衡)を支持します。徹頭徹尾支持するということを、ここに明言します。
 日本はオーストラリア、インドと、戦略的な関係を深めました。ASEANの国々や韓国と、多面にわたる協力を深めていきます。日米同盟を基軸とし、これらの仲間が加わると、私たちの地域は格段に安定します。日本は、将来における戦略的拠点の一つとして期待されるグアム基地整備事業に、28億ドルまで資金協力を実施します。
 アジアの海について、私がいう3つの原則をここで強調させてください。第1に、国家が何か主張をするときは、国際法にもとづいてなすこと。第2に、武力や威嚇は、自己の主張のため用いないこと。そして第3に、紛争の解決は、あくまで平和的手段によること。
 太平洋から、インド洋にかけての広い海を、自由で、法の支配が貫徹する平和の海にしなければなりません。そのためにこそ、日米同盟を強くしなくてはなりません。私たちには、その責任があります。
 日本はいま、安保法制の充実に取り組んでいます。実現のあかつき、日本は、危機の程度に応じ、切れ目のない対応が、はるかによくできるようになります。この法整備によって、自衛隊と米軍の協力関係は強化され、日米同盟は、より一層堅固になります。それは地域の平和のため、確かな抑止力をもたらすでしょう。
 戦後、初めての大改革です。この夏までに、成就させます。ここで皆様にご報告したいことがあります。一昨日、ケリー国務長官、カーター国防長官は、私たちの岸田外相、中谷防衛相と会って、協議をしました。いま申し上げた法整備を前提として、日米がそのもてる力をよく合わせられるようにする仕組みができました。一層確実な平和を築くのに必要な枠組みです。
 それこそが、日米防衛協力の新しいガイドラインにほかなりません。昨日、オバマ大統領と私は、その意義について、互いに認め合いました。皆様、私たちは、真に歴史的な文書に、合意をしたのです。
 ■日本が掲げる新しい旗
 1990年代初め、日本の自衛隊は、ペルシャ湾で機雷の掃海に当たりました。後、インド洋では、テロリストや武器の流れを断つ洋上作戦を、10年にわたって支援しました。その間、5万人にのぼる自衛隊員が、人道支援や平和維持活動に従事しました。カンボジア、ゴラン高原、イラク、ハイチや南スーダンといった国や、地域においてです。
 これら実績をもとに、日本は、世界の平和と安定のため、これまで以上に責任を果たしていく。そう決意しています。そのために必要な法案の成立を、この夏までに、必ず実現します。
 国家安全保障に加え、人間の安全保障を確かにしなくてはならないというのが、日本の不動の信念です。人間一人ひとりに、教育の機会を保障し、医療を提供し、自立する機会を与えなければなりません。紛争下、常に傷ついたのは、女性でした。わたしたちの時代にこそ、女性の人権が侵されない世の中を実現しなくてはいけません。
 自衛隊員が積み重ねてきた実績と、援助関係者たちがたゆまず続けた努力と、その両方の蓄積は、いまやわたしたちに、新しい自己像を与えてくれました。いまや私たちが掲げるバナーは、「国際協調主義にもとづく、積極的平和主義」という旗です。繰り返しましょう、「国際協調主義にもとづく、積極的平和主義」こそは、日本の将来を導く旗印となります。
 テロリズム、感染症、自然災害や、気候変動――。日米同盟は、これら新たな問題に対し、ともに立ち向かう時代を迎えました。日米同盟は、米国史全体の、4分の1以上に及ぶ期間続いた堅牢(けんろう)さを備え、深い信頼と、友情に結ばれた同盟です。自由世界第一、第二の民主主義大国を結ぶ同盟に、この先とも、新たな理由付けは全く無用です。それは常に、法の支配、人権、そして自由を尊ぶ、価値観を共にする結びつきです。
 ■未来への希望
 まだ高校生だったとき、ラジオから流れてきたキャロル・キングの曲に、私は心を揺さぶられました。
 「落ち込んだ時、困った時、……目を閉じて、私を思って。私は行く。あなたのもとに。たとえそれが、あなたにとっていちばん暗い、そんな夜でも、明るくするために」
 2011年3月11日、日本に、いちばん暗い夜がきました。日本の東北地方を、地震と津波、原発の事故が襲ったのです。そして、そのときでした。米軍は、未曽有の規模で救難作戦を展開してくれました。本当にたくさんの米国人の皆さんが、東北の子供たちに、支援の手を差し伸べてくれました。
 私たちには、トモダチがいました。被災した人々と、一緒に涙を流してくれた。そしてなにものにもかえられない、大切なものを与えてくれた。希望、です。米国が世界に与える最良の資産、それは、昔も、今も、将来も、希望であった、希望である、希望でなくてはなりません。
 米国国民を代表する皆様。私たちの同盟を、「希望の同盟」と呼びましょう。アメリカと日本、力を合わせ、世界をもっとはるかに良い場所にしていこうではありませんか。希望の同盟――。一緒でなら、きっとできます。ありがとうございました。
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1290/戦後70年よりも2016年末のソ連崩壊25周年-2

 西岡力=島田洋一=江崎道朗「歴史の大転換『戦後70年』から『100年冷戦』へ」月刊正論2015年5月号(産経新聞社)の諸指摘のうち重要な第二は、<2015年は戦後70年>ということのみを周年・区切り年として語るべきではない、ということだろう。
 <戦後70年>ということ自体、平和条約=講和条約によって正式に戦争が終了するのだとすると、サ講和条約発効の1952年を起点として、今年は<戦後64年>であるはずだ。
 それはともかくとしても、1945年の8-9月以降も日本や世界にとって重要な画期はいくつもあった。
 1947年の日本国憲法の施行、1952年のサ講和条約発効もそうだが、1950年の朝鮮戦争もそうだった。
 この戦争勃発によって、日本の歴史も変化している。警察予備隊・保安隊、そして1954年に自衛隊発足となる。そしてまた、この戦争に正規の中国軍も北朝鮮側に立って参加し、実質的にはアメリカ軍だとも言えた国連軍と戦火を交えた。すでに成立していた中華人民共和国の軍隊は、国連軍、そしてアメリカ軍の「敵」だったのだ。
 中国はまた、ソ連とともに<東側陣営>に属して、西欧やアメリカにとってのソ連ほどではなかったとしても、<冷戦>の相手方だった。アメリカとは基本的に異質の国家・社会のしくみをもつ国家だった。
 中国は、2015年を<反ファシズム戦争勝利70周年>として祝うらしい。そして、アメリカに対しても、同じく<反ファシズム戦争>を戦った仲間・友人ではないかとのメッセージを発しているらしい。GHQ史観・東京裁判史観に立たざるをえないアメリカがこれになびいている観もなくはなく、このような行事を批判・峻拒していないのは嘆かわしいことだ。
 しかし、第一に、上述のように、<反ファシズム戦争>なるものの時期よりもあとに、中国はアメリカと対決してきている。仲間・友人だった時代よりも、対戦相手・「敵」だった時期の方が新しく、かつ長い。
 第二に、先の大戦を<反ファシズム戦争>と性格づけるのは、日本共産党はぜひともそういう性格づけを維持したいだろうが、正しくはない。つまり、ソ連はそもそも<反ファシズム>国家だったのか、という根幹的な問題がある。
 上の鼎談で島田洋一は言う-「ソ連は一党独裁で、しかもスターリンは二十世紀でも指折りの人権弾圧者」、「経済は市場メカニズムを排除する点でファシズム以上に抑圧的」、「政治的な自由度も当時の日独伊を遙かに下回って」いる(p.88)。
 このようなソ連を<反ファシズム>の「民主主義」国家だとはとても言えないはずだ。
 アメリカがソ連と「組んだ」こと、そして当時の中国よりも日本を警戒・敵視したこと、結果として<共産中国>を生み出してしまったことについては、当時のアメリカの大きな判断ミスを指摘できるとともに、なぜそのような「誤った」判断ミスに至ったかに関係するアメリカ内部の共産主義者の動向をさらに把握しておく必要がある。だが、この点は、ここでのテーマではない。
 第三に、<反ファシズム戦争>なるものの当事者では中国共産党はなかった。実際に日本と戦争したのは中国国民党で、毛沢東らの中国共産党ではない(p.88の西岡力発言も同旨)。
 さらに、毛沢東らの中国共産党によって建国された中国が<反ファシズム>の戦いを祝える資格がそもそもあるのか、という問題もある。
 上の鼎談で再び島田は言う-中国は「政治・経済体制として典型的なファシズム」で、少数民族弾圧の点では「ナチズムの要素」もある。一言では「帝国主義的ファシズム」国家ではないか(p.89)。
 <ファシズム>についての厳密な定義が語られているわけではないが、ハンナ・アーレントがナチズムや社会主義(・少なくともスターリニズム)を<左翼全体主義>と性格付けていることを知っていたりするので、中国を「ファシズム」国家とすることに違和感はまったくない。
 そのような現在の中国がアメリカやフランス・英国等とともに<反ファシズム戦争勝利>70年を祝おうとするのは狂気の沙汰だと感じる必要がある。島田洋一によれば、「ファシズムに加えて、ナチズムの要素を持ち、ヒトラリズムの傾向をも見せている中国が、反ファシズム戦争の勝利を祝うのは倒錯の極み」だ、ということになる(p.89)。
 もともと戦前・戦中の日本が「(天皇制?)ファシズム」国家だったのかという問題もあるのだが、さて措く。
 さて、いわゆる戦後の忘れてはならない重要な画期は、1989年11月のベルリンの壁の「崩壊」(物理的には「開放」だが)等につづく、ソ連邦の崩壊であり、「独立国家共同体」の成立をその日と理解すれば、それは1991年12月21日のことだった。
 この1991年末をもって、少なくともソ連-さらには東欧旧「社会主義」諸国-との関係での<冷戦>は終わったのであり、かりにソ連等に限るにせよ、ソ連のかつての力の大きさを考慮すれば、<自由主義(資本主義)の社会主義に対する勝利>が明瞭になった、じつに重要な画期だった。
 20世紀を地球上での<社会主義>の誕生とそれを奉じた重要な国家の崩壊による消滅過程の明瞭化の時代と理解するならば、この1991年という年を忘れてはいけない。そして、時期的な近さから見ても、1945年よりも(1989年や)1991年の方が重要だという見方をすることは十分に可能だと思われる。
 「冷戦」に敗北したのはソ連だったとしても、同じ<社会主義>(を目指す)国家である中国もまた、<冷戦>の敗戦国と言うべきだろう。また、日本はドイツ等とともにアメリカと協力して<冷戦勝利>の側にいたのだ。
 まさしくこの点を、上の鼎談で江崎道朗は次のように言う。
 「日本は戦後、自由主義陣営の一員であることを選択し、アメリカと共にソ連と戦い、勝利した戦勝国であることを誇るべきであった」(p.92)。
 さらに、日本国内でかつて全面講和を主張したり、日米安保条約改訂に反対したりしてソ連(や中国)の味方をした「左翼」論者・マスコミ等は、日本社会党等とともに、現実の歴史では<敗北した>のだ(p.92の西岡発言参照)。日本共産党も<敗北>の側にいたと思うが、この点は、日本共産党が、ソ連は「社会主義」国ではなかった、崩壊を歓迎するなどと<大がかりな詐言>を言い始めたことにかかわって、別に扱う(この点に、この欄ですでに批判的に論及したことはある)。
 1991年末から2016年末で25年が経つ。戦後70年における反省とか謝罪を話題にするよりも、<冷戦勝利>25周年の祝賀をこそ祝い、なお残る<社会主義>国の廃絶に向けた誓いの年にすべきだろう。
 西岡力は、次のように言っている。至言だと考えられる。
 「今年から来年にかけ、一九九一年の冷戦勝利二十五周年を記念する行事を日米が中心となって開催すべき」だ(p.91)。
 

1254/朝日新聞社説8/29が示す朝日の戦後史観。

 朝日新聞今年-2014年-8/29の社説はつぎのようなものだ。
 「「私人としてのメッセージ」で済む話ではないだろう。/安倍首相が今年4月、A級、BC級戦犯として処刑された元日本軍人の追悼法要に、自民党総裁名で哀悼メッセージを書面で送っていた。
 「今日の平和と繁栄のため、自らの魂を賭して祖国の礎となられた昭和殉職者の御霊に謹んで哀悼の誠を捧げる」
 送付先は、高野山真言宗の奥の院(和歌山県)にある「昭和殉難者法務死追悼碑」の法要。碑は、連合国による戦犯処罰を「歴史上世界に例を見ない過酷で報復的裁判」とし、戦犯の名誉回復と追悼を目的に20年前に建立された。名前を刻まれている人の中には、東条英機元首相らA級戦犯14人が含まれている。首相は昨年と04年の年次法要にも、自民党総裁、幹事長の役職名で書面を送付していた。
 菅官房長官は会見で、内閣総理大臣としてではなく、私人としての行為との認識を示した。その上で、「A級戦犯については、極東国際軍事裁判所(東京裁判)において、被告人が平和に対する罪を犯したとして有罪判決を受けたことは事実」 「我が国はサンフランシスコ平和(講和)条約で同裁判所の裁判を受諾している」と述べた。
 戦後69年。このような端的な歴史的事実を、いまだに繰り返し国内外に向けて表明しなければならないとは情けない。
 日本は、東京裁判の判決を受け入れることによって主権を回復し、国際社会に復帰した。同時に、国内的には、戦争責任を戦争指導者たるA級戦犯に負わせる形で戦後の歩みを始めた。
 連合国による裁判を「報復」と位置づけ、戦犯として処刑された全員を「昭和殉難者」とする法要にメッセージを送る首相の行為は、国際社会との約束をないがしろにしようとしていると受け取られても仕方ない。いや、何よりも、戦争指導者を「殉難者」とすることは、日本人として受け入れがたい。戦後日本が地道に積み上げてきたものを、いかに深く傷つけているか。自覚すべきである。
 首相の口からぜひ聞きたい。/多大なる犠牲を生み出し、日本を破滅へと導いた戦争指導者が「祖国の礎」であるとは、いったいいかなる意味なのか。あの戦争の責任は、誰がどう取るべきだったと考えているのか。
「英霊」「御霊」などの言葉遣いでものごとをあいまいにするのはやめ、「私人」といった使い分けを排して、「魂を賭して」堂々と、自らの歴史観を語ってほしい。/首相には、その責任がある。」

 8月初旬の慰安婦記事検証記事と9月初旬の原発記事(を第一義とする)社長謝罪会見の間にこんな社説を掲載しているのだから、朝日新聞が決してその<左翼・反日>性を捨てることがないことは明らかだろう。
 安倍晋三憎し=安倍の葬式はウチで出す、という気分の表れでもあるだろう。
 加えて、上の文章における単純な歴史認識・歴史観には呆然とせざるをえない。
 よく読めば、たんにいわゆる「A級戦犯」とされた者のみを念頭に置いているのではない。「A級、BC級戦犯として処刑された元日本軍人の追悼法要」への安倍晋三の哀悼文送付を批判しているのであり、丁寧でも三審制にもとづいてでもなく戦地近くの「裁判」で死刑判決を受け、処刑されたいわゆる「BC級戦犯」者に対する哀惜の念の欠片もない、じつに冷酷な文章だ。
 この社説の執筆者は、藤田まこと主演の映画「明日への遺言」(2007)を観たのだろうか、もっと前のフランキー堺主演のドラマ「私は貝になりたい」の物語を知っているのだろうか。
 この社説は「日本は、東京裁判の判決を受け入れることによって主権を回復し、国際社会に復帰した。同時に、国内的には、戦争責任を戦争指導者たるA級戦犯に負わせる形で戦後の歩みを始めた」と書く。
 日本国家が「戦争責任を戦争指導者たるA級戦犯に負わせる形で」戦後を出発した、とは誤認だろう。日本又は日本人が積極的にそうしたのではない。死刑者以外の「戦犯」の刑の執行するという意味で東京裁判の「遵守」をサ条約でもって約束しなければならなかったのは事実だが、主権回復のためのやむをえざる判断だったと考えられるし、むろん広田弘毅を含む死刑者を選別したのは日本・日本人ではない。
 朝日新聞の社説のように言うならば、死刑者と終身刑者とではもともと微妙な差異しかなかったと見られるところ、サ条約にもとづく関係諸国と同意を得て死刑者(無念ながら元には戻せない)以外の受刑者を解放し、終身刑者の中には賀屋興宣というのちの法務大臣もいたことはどのように説明するのか。
 いわゆる東京裁判史観に立ちそれを絶対視するならば、それによって有罪とされた者の釈放など認めてはならなかったはずだが、朝日新聞は当時それに反対したのか?
 さらに、周知のように1953年には国会で受刑者を犯罪者とは扱わない旨の決議がなされているが、当時、朝日新聞はこれに反対したのか。
 朝日新聞社説は、戦後の歴史の一部、一端だけを取り出して、安倍晋三の<歴史認識>批判という目的のために使っているにすぎない。朝日新聞のような単純素朴な歴史観でもって実際の歴史を認識したり総括することはできない。
 何がクォリティ・ペイパーだ。戦後当初にGHQが植え付けようとした単純な<日本が悪かった>史観をいまだに引き継いでいるだけではないか。むろん、朝日新聞の慰安婦問題捏造記事の根源もここにある。日本軍・日本国家は悪いことをしたはずなのであり、していなければならなかったのだ、朝日新聞にとっては。客観的な報道をするつもりでも、そのような「思い込み」があると、記事は歪み、えてして<捏造>記事になってしまう。このようなおそれが今後の朝日新聞にあるのは、8/29の社説でも明らかだ。

1251/NHK・大越健介いわく「人間のすることではない」。

 8/21のニュース9で大越健介は冒頭に「人間のすることではない」と言った。そののち家族(遺族)の映像の箇所では「人間の所業ではない」というテロップが下部に出た。「イスラム国」戦闘員によるアメリカ人殺害のニュースに関してだ。
 このように報道することを批判しないが、しかし、気になることがある。
 北朝鮮の有力者だった趙成沢は、「粛清」された。裁判などいう手続を経たに値しない、思想又は政策又は些細な都合による「処刑」として殺害されたのだが、複数の処刑者(軍人)による銃殺で、かつ身体のどの部分か分からなくなるほどの<肉体をバラバラにする>殺害だったとされる。
 この趙成沢「粛清」=殺害の仕方からは、「人間の所業ではない」という感覚が生じる。しかも、「イスラム国」とは異なり国連に加盟しているれっきとした一国家の首脳者=金正恩による、おばの配偶者の<殺害>だ。北朝鮮という国家および独裁者は、「人間のすることではない」ことをしているのではないか。
 大越健介は、あるいはNHKは、趙成沢「処刑」をどう報道したのか。冒頭のアメリカ人殺害が「人間のすることではない」とすれば、趙成沢「処刑」(の仕方)もまた「人間のすることではない」と感じるのが、まともな「人間」の感覚ではないのか。大越健介およびニュース9制作者に問いたい。貴方たちは、まともな「人間」の(公平な)感覚をもっているのか。
 北朝鮮に限らず、中国でも「人間の所業ではない」ことが行われていることは明らかだ。中国や北朝鮮に「優しい」のはいいかげんにしろ、と大越健介やNHKには言いたい。

1244/鳥居民評論集・昭和史を読み解く(2013.11)の一部。

 鳥居民評論集・昭和史を読み解く(草思社、2013.11)は著者の逝去後に編まれたようで、未公開だったものも含んでいる。
 その一部、p.110以下のうち、さらに一部のみをメモしておきたい。
 ・矢部貞治・近衛文磨は近衛の時代の不可欠の文献だが、「都留、ノーマンの記述は一行もない」。この本の刊行時、「ノーマンが近衛を戦争犯罪人だと告発した意見書」をGHQに「提出していたという事実は明らかにされていなかったから」だ。そして「ノーマンの協力者が都留であったという事実にも目は向けられることがなかった」。
 ・工藤美代子・われ巣鴨に出頭せずは「ノーマンと都留重人の役割を指摘していて画期的」だ。
 ・私(鳥居)は著書・近衛文磨黙して死すで、「近衛の死は都留重人とノーマンを利用して木戸が仕掛けたものだと論じた」。
 ・吉田茂は知っていたにもかかわらず、近衛を擁護しなかった。その理由は「天皇が近衛を嫌ったからだ」。「なぜ、天皇は近衛を嫌ったのか、内大臣の木戸が近衛を悪く言ったからだ」。/以上
 終戦・敗戦前のことに大きな関心は持たないのだが、共産主義勢力・コミンテルンが日本を戦争に巻き込み、拡大させた、アメリカ政府内にもコミュニストが根を張っていた等の話は当然に関心を持っている。上にいう「木戸」とは、当然に木戸孝允の孫・木戸幸一。
 鳥居民の所論も、今のところ得心している。
 そして、戦前にアメリカに留学してコミュニズム、アメリカ共産党の影響を受けた都留重人が、戦後は一橋大学の学長にまでなり、1960-70年代の論壇を代表する<進歩的文化人>であったこと、そして、日本国憲法を含む「戦後体制」の確立・維持を図った重要な人物であったことに、今さらながら戦慄を覚えざるをえない。

1236/安倍晋三内閣総理大臣靖国神社参拝。

 12/26の正午すぎに安倍首相の靖国参拝のテレビ報道があり、予期していなかったので驚くとともに、安倍首相の参拝後のインタビュ-回答を聞いていて、思わず涙がこぼれた。
 当然のことが当然のように行われ、当然のことが語られている。
 欺瞞と偽善に満ちた報道、発言や声明類に接することが多いだけに、久しぶりに清々しい気分になった。
 日本共産党・志位和夫は「侵略戦争を肯定、美化する立場に自らを置くことを、世界に宣言することにほかならない。第二次世界大戦後の国際秩序に対する挑戦であり、断じて許すわけにはいかない」とコメントしたらしい。①誰が先の戦争を「侵略」戦争だったと決めたのか、②万が一そうだったとして戦没者を慰霊することが、なぜそれを「肯定、美化する」ことになるのか、③いわゆるA級戦犯が合祀されていることを問題にしているとすれば、そのいわゆるA級戦犯とはいったい誰が決めたのか、いわゆるA級戦犯合祀が問題ならばB級戦犯、C級戦犯であればよいのか、④「第二次世界大戦後の国際秩序に対する挑戦」とは最近中国政府・中国共産党幹部が日本についてよく使う表現で(かつての仲間ではないかと米国をゆさぶる発言でもある)、日本共産党の親中国信情を示している、⑤戦没者への尊崇・慰霊行為が「戦後の国際秩序に対する挑戦」とは、何を血迷っているのだろう。神道式の参拝だが、もともと「死者」の追悼なるものに重きを置かない唯物論者に、「死者への尊崇」とか「慰霊」とかの意味が理解できるはずがない。日本の「カミ」ではなく、インタ-ナショナルな?<共産主義>を崇拝し続ければよいだろう。
 社民党・福島瑞穂は「アジアの国々との関係を極めて悪化させる。国益に明確に反している。強く抗議したい」とコメントしたらしい。NHKもさっそく中国・韓国政府の反応を丁寧に報道していたが、「アジアの国々」というのは大ウソ。タイ、カンボジア、マレ-シア、インド等々、西部のトルコまで含めなくとも、アジア諸国の中で内政干渉的または信仰の自由侵害的にいちゃもんをつけているのは中国、韓国(・北朝鮮)といういわゆる「特定アジア諸国」だけ。ウソをついてはいけない。あるいはひょっとして、福島にとっては、アジアとは中国・韓国(・北朝鮮)と日本だけから成り立っているのだうろか。
 ところで、特定秘密保護法に反対した大学教授たち、ジャ-ナリスト、映画人等々の多くは、例えばかつての有事立法反対運動にも参画していた人々で、先の戦争は「侵略戦争」で、日本は「悪いことをした」と、信じ込み、思い込んでいる人たちだろう。そして、かつての「悪」を繰り返させるな、<戦争をしたい保守・反動勢力>が「軍靴の音」を響かせつつあるので、戦後<平和主義>を守るためにも、保守・反動の先頭にいる安倍晋三(・自民党)をできるだけ早く首相の座から下ろさなければならない、と考えているのだろう。
 このような<基本設定・初期設定>自体が間違っている。
 先の戦争は民主主義対ファシズムの戦争で、日本は後者の側に立って「侵略戦争」をした、という歴史の認識は、戦後・とくに占領下において勝者の側・とくに米国(・GHQ)が報道規制・特定の報道の「奨励」、あるいは間接的に日本人教師が行う学校教育等を通じて日本人に事実上「押しつけた」ものであり、正しい「歴史」認識または把握であったかは大いに問題になる。ソ連や米国の戦時中の資料がまだすべて公開されていないので、今後により詳細な事実・真実が明らかになっていく可能性があるだろう。
 先の戦争はソ連共産党・コミンテルンと米国内にいたコミュニストたち(コミンテルンのスパイを含む)により影響を受けたル-ズベルト大統領がまともに国内を支配できていなかった(分裂していた)中国よりも日本を攻撃して潰しておくことがそれぞれ(ソ連・アメリカ)の国益に合致していると判断しての<日本攻撃・日本いじめ>だった可能性は十分にある。ソ連は日本敗戦後の日本での「共産革命」(コミュニスト・共産党中心の政権樹立。それが民主主義(ブルジョア)革命か社会主義革命かの理論的問題よりもコミュニストに権力を奪取させることが重要だった)を画策していたに違いない。
 毛沢東の中国共産党の拡大と1949年の政権奪取(中国人民共和国の成立)を予想できなかったアメリカにも大きな判断ミスがあった。こともあろうに日本よりもスタ-リンの「共産」ソ連と一時期は手を結んだのだから大きな歴史的誤りを冒したことは間違いない。ようやく対ソ連措置の必要を感じて、ソ連参戦の前にアメリカ主導で日本を敗戦させたかったのだと思うが、それは原爆製造とその「実験」成功によって対ソ連で戦後も優位に立つことが前提でなければならなかった(吉永小百合のように日本の二都市への原爆投下は終戦を遅らせた日本政府に第一次的責任があるかのごとき文章を書いている者もあるが、間違っている)。
 先の戦争について連合国側に全面的に「正義」があったなどと日本人まで考えてしまうのは-戦後の「洗脳」教育のためにやむをえないところはあるが-じつに尾かなことだ。
 大学教授、ジャ-ナリスト、映画人といえば、平均的な日本国民よりは少しは「賢い」のではなかろうか。そうだとすれば、自らの歴史の把握の仕方の基本設定・初期設定自体を疑ってみる必要がある。少なくとも、異なる考え方も十分に成り立つ、という程度のことは「賢い」人ならば理解できるはずだと思われる(但し、例えば50歳以上の日本共産党員または強い日本共産党シンパは、気の毒ながら今からではもう遅いかもしれない)。
 先の戦争についての(付随的に南京「大虐殺」問題、「百人斬り競争」問題、朝鮮「植民地支配」諸問題等々についての)理解が、今日まで、首相の靖国参拝問題を含む諸問題についての国内の議論の基本的な対立を生んできた、と考えられる。靖国参拝問題は戦後の「中国共産党王朝」成立以来一貫して問題されてきたわけではなく1980代になってからなのだが、しかし、日本や韓国(・北朝鮮)がかつての日本の「戦争責任」、という<歴史カ-ト゜>を使っているので、先の戦争についての正しい理解はやはり不可欠になる。
 繰り返すが、民主主義対ファシズム(・軍国主義)という単純二項対立、暗黒だった戦前と<平和と民主主義>国に再生した戦後という単純二項対立等による理解や思考は間違っている。戦前はいわれるほどに暗黒ではなかったし、戦後はいわれるほどに立派な国歌・社会になったわけではない。むしろ、<腐った個人主義>や日本の伝統無視の<政教分離>等々による弊害ははなはだしい、ともいえる。例えば、親の「個人尊重」のゆえの「子殺し」も少なからず見られ、珍しいことではなくなった。こうした各論に今後もつぶやいていこう。

1210/江崎道朗・コミンテルンとルーズヴェルトの時限爆弾(展転社、2012)の第一章・第一節の1。

 江崎道朗・コミンテルンとルーズヴェルトの時限爆弾/迫り来る反日包囲網の正体を暴く(展転社、2012)の「第一章・知られざる反日国際ネットワークの実態」の「第一節・中国共産党と国際反日ネットワーク」(p.14-47)を要約的に紹介する。この本は先月末か今月初めに読了している。

 アメリカでの慰安婦問題を利用した「反日」運動については、古森義久が産経新聞8/31付の「緯度経度」欄で、「米国にいる日本攻撃の主役」と題して、基本的なことは明らかにしている。
 古森の文章によると、「韓国ロビー」→「カリフォルニア州韓国系米国人フォーラム(KAFC)」のような新参団体が表面に出るだけだったが、「真の主役」は、「中国系在米反日組織の『世界抗日戦争史実維護連合会』(抗日連合会)」だった。米国各地での「慰安婦像」設置を「今後も推進する」と宣言しているらしい。また、「抗日連合会の創設者で現副会長のイグナシアス・ディン氏」は、「慰安婦像に関する中国共産党直轄の英字紙『チャイナ・デーリー』の長文記事で、設置運動の最高責任者のように描かれていた」。「米国下院の2007年の慰安婦決議も抗日連合会が最初から最後まで最大の推進役だった」、等々。

 上記団体は中国共産党と親近的な関係にあるらしいことが重要だろう。

 さて、江崎道朗著の上記部分は月刊正論2005年7月号掲載論考の改題・大幅加筆修正らしいが、古森のものよりも詳しい。

 「日本の戦争責任」をむし返し、「日本に謝罪と補償を求める」在米中国人グループは1987年に「対日索賠中華同胞会」準備会を結成し、1991年3月に正式結成した。主目的は「対日賠償請求運動」の盛り上げだったが、同月に「南京大虐殺」に絞った政治団体・「紀念南京大屠殺受難同胞連合会」も結成した。

 上はニューヨークを中心にしていたが、中国系が多いカリフォルニアにも飛び火し、1992年5月に(古森義久が上記記事で言及していた)「抗日戦争史実維護会」が結成された。その目的は江崎が「」付きで引用しているところによると、つぎのとおり。

 「大戦中の近隣諸国に対する日本の残酷な暴行の事実を日本政府に認めさせ、中国人民に謝罪し、その犠牲者と家族にふさわしい補償を実施させる。更にまた、日本が再び不当な侵略行動を開始することを阻止するために、アメリカ、中国、日本その他の諸国で、過去の日本の侵略に対する批判が高まるよう国際世論を喚起すること」。

 この「抗日戦争史実維護会」は1994年6月に他7団体とともに「全米華人の天皇への抗議と賠償請求公開書簡」を発表した(内容はここでは省略)。江崎の表現によると、彼らの「日中友好」とは、「日本が一方的に譲歩して賠償」をし、「日本の侵略を伝える歴史資料館を建て、今後、永久に中国の属国であり続けることを、日本が中国に誓う」ことを意味する。

 上の公開書簡以来中国系反日団体は統一行動をとるようになり、1994年9月にはワシントン・スミソニアン博物館の原爆展計画に対して、日本が被害者であることだけが強調されているとして、「日本侵略史観に基づく原爆投下容認論」を議会請願し、「抗日戦争史実維護会」のメンバーの一人は元米国軍人の力も借りて、上記博物館の「企画展示委員」に選ばれた。

 香港でも1988年に「香港紀念抗日受難同胞連会」が結成され、近年のそのHPは「日本軍国主義による尖閣侵略」を非難している。この団体を母体に2003年、尖閣問題に特化した「保釣行動委員会」が設立され、2012年6月には「世界華人保釣連盟」を結成した。2012年8月に尖閣に上陸を強行した中国人はこの団体の中心的活動家。

 カナダでも中国系カナダ人を中心に「第二次大戦史実教育擁護協会」が結成された。この団体は1997年6月、韓国系・フィリピン系等のカナダ在住者団体とともに、「日本政府による歴史歪曲と検閲に対抗して戦っている家永教科書裁判に対する支援キャンペーン」を実施した。

 世界の30ほどの中国系・韓国系・日系団体が結集して1994年12月に(古森義久が上記記事で「主役」とした)「世界抗日戦争史実維護連合会」が結成された。この団体は、カリフォルニアでの1994年12月の「『南京大虐殺』五十七周年世界記念会議」を後援した。この会議には「活動家」である大学教授・ジャーナリスト・作家なと300人が参加した。そして、「日本人および日本政府への宣言」を採択した。その要求内容は少なくとも次の5項目。
 ①中国人民への公式謝罪の声明と(中国共産党・台湾両政府への)文書提出、②日本の歴史教科書の誤りを正す、③中国・日本に慰霊の記念碑を建て、事実を刻む、④全被害者への合理的補償、⑤関連公文書公開・「過去の日本軍閥の罪行を天下に明らかにする」。

 ようやく第一節の約半分に達した。こういう団体が、在米韓国人団体が表面には出るかもしれない「慰安婦像」設置運動を支持すること、実質的に「主役」になってしまうことは論を俟たないだろう。
 なお、たしか青山繁晴がテレビで述べていたと思うが、カリフォルニア州のサンフランシスコ市長とオークランド市長は、いずれも中国系らしい。
 後半についてはなおも続ける。<歴史をめぐる情報戦争>の真っ最中だという自覚・意識が日本人には必要だ(もちろん日本政府にも)。

1194/8月15日と靖国神社参拝と戦争と。

 〇田母神俊雄と都内某所でたまたま遭遇して、わずかの会話までしてしまってから、二年が経った。そのときと違って、民主党「左翼」政権下のもとで生きてはいないのは、元に戻ったに、異常から普通に戻ったにすぎないが、とりあえず慶ばしいことだ。
 〇朝日放送の8/15の朝番組で、浦川泰幸というキャスタ-が、首相靖国参拝問題で面妖な「偏った」ことを述べていた。
 ・局が用意したフリップに、「中曽根首相、初の公式参拝」(たぶん1983年か1985年)とあった。はて、中曽根が公式参拝を初めてした? 吉田茂をはじめとして歴代の首相は小泉純一郎まで靖国神社を参拝してきた。三木武夫が質問に対して「私人として」などと答えたためにややこしくなったようだが、それ以前の首相参拝は公式か否かすら問題とされない、しかし「公式」のものだったはずだ。テレビ朝日は歴史を捏造しているのではないか。
 ・浦川泰幸は、首相参拝問題を「世界が注目」していると述べたが、実際に挙げた国名は中国・韓国・米国だけだった。テレビ朝日が「世界」というとき、この三国のみを指す、というので一貫させるならば、テレビ朝日はその旨をきちんと公告し、どの番組でも一貫させてほしいものだ。
 ・浦川泰幸は、「A級戦犯合祀」を明らかに問題視し、合祀時点(1978年のようだ)の靖国神社宮司は旧陸軍出身者だと明言し、だからこそ合祀に踏み切ったということを含意させた。はて1978年時点の宮司の経歴についてはほとんど報道されていないようだが、浦川の発言内容は正しいのか、どなたか確かめてほしい。またそもそも、だからどうなのだ、と浦川とテレビ朝日には言わねばならない。
 ・「A級戦犯」は戦争「指導者」だから戦争に動員されただけの者と区別するのは当然である旨を前提とする発言をしていた(だからこそ中国等が問題視している旨を言っていた)。
 浦川泰幸朝日放送に問い質したい。「指導者」か否かはどういう基準で決めるのか? 「A級戦犯」と決めたのは日本人でも日本政府でもなく東京裁判法廷だが、GHQの広義の指揮下の裁判官たちの選別が正しいとする根拠は何か?

 「A級戦犯」ではない「B・C級戦犯」のうちの刑死者の中には「指導者」はいなかったのか?

 そもそも合祀されているのは「戦死者(いわゆる法務死を含む)」に限られている。「A級戦犯」の責任を追及したいならば、死刑にならなかった「A級戦犯」者の責任も問題とすべきだが、テレビ朝日は、そして親会社の朝日新聞社は、賀屋興宣等の禁固刑者でのちに犯罪者扱いされなくなった者たちの責任を一貫して問題にしてきたのか。
 また、「A級戦犯」という分類は罪名による区別であり「指導者」か否かとは本来は関係がない。浦川泰幸らしき男は、このことくらいわきまえて発言しているのか。
 ・浦川泰幸は、戦争被害者は、軍人だけではなく一般国民もそうだ、後者も含めて慰霊されるべきと、一瞬はまともらしき感じもする見解を述べた。だが、一般国民と、公務・職務の結果として又は遂行中に「戦死」した者とは、やはり区別されてしかるべきだ。あるいは、区別して慰霊するだけの十分な根拠がある。このことくらいを理解できないほどに浦川泰幸は、およびそれを使っている朝日放送は、バカなのだろう。

 〇先月のいつかに(7/17かもしれない)、NHKの9時からのニュ-スで大越健介は、「風立ちぬ」の作者・宮崎駿に対して、「戦争美化という印象(・声)もありますが、そうではないですよね」とわざわざ質問した。
 そのときに感じたのは、次のようなことだった。
 大越健介は、日本には「戦争を賛美・美化」する人々や勢力がある、という理解を(単純・幼稚に)前提としている。ひょっとすれば現安倍晋三首相もその傍らにいると思っているのかもしれない。

 だが、「戦争を賛美(・美化)」とはいったいどう意味なのか? 一般論として、戦争一般を「望ましい」・「美化されるべき」ものと思っている者は全くかほとんど存在しないだろう。そうすると、大越のいう「戦争」とは先の戦争、太平洋戦争とか大東亜戦争とか言われるものを指しているのだろうが、はたしてそれを(日本の行動を)100%「美化」している人々はどれほどいるのだろうか。コミンテルンとそのスパイたちによって誘導された、引きこまれた戦争だったという見方もある。
 大越はもはや古びた「戦争美化」という言葉を今日もなお使っているとしか思えない。彼の歴史意識・歴史認識およびこれをめぐる議論についての知識はNHKに入局したときからほとんど進化していないのではないか。このような人物が9時からのニュ-スのメイン・キャスタ-だ。NHKの<底の浅い>、「何となく左翼ぶり」を十分に感じさせる配置になっている。

  *8/15時点で<テレビ朝日直樹>と記していたが、のちに<朝日放送の浦川泰幸>が正しいことが分かったので、異例だが、あとで改めた(8/29記)。

1182/敗戦国日本・日本人の歴史観・歴史認識は勝者が作った、という当たり前。

 〇橋下徹のいわゆる慰安婦発言に対するデーブ・スベクターの悪罵、広島等への原爆投下に対して罪悪感を何ら持っていないケヴィン・メアの発言等をテレビで観て、あらためて日本は「敗戦」国なのだと思う。
 戦争に負けただけならまだよいが、<道義的に間違ったことをした国家>というレッテルが付いたままなのだ。一方で連合国側、とくにアメリカは<正義はわれにあった>と考えているに違いない。
 そのような敗戦国日本に対してみれば、アメリカと中国は<反軍国主義日本>では共通する「歴史認識」をもつこととなり、中国共産党(戦後・1949年後の中国)は日本と戦ったわけではないにもかかわらず、中国はカイロ宣言・ボツダム宣言等より構想された<戦後秩序>をともに維持しようなどとアメリカに対して提言することとなっている。
 何とも奇妙で、苛立たしい構図だ。当然のことながら、<戦後レジームからの脱却>は戦後秩序の克服という基本的な方向性をもつもので、アメリカに対する自立、一種の<反米>構想でもある。「法の支配と民主主義」等の共通の価値観をもつというのは中国との関係では有効かもしれないが、かりに「法の支配と民主主義」等と言っても、日本と欧米とでまったく同じであるわけがない。
 おそらくは安倍晋三も、この辺りに存する微妙な部分を理解しているだろう。
 アメリカをむしろ「利用」しつつ中国(中国社会主義)と対峙し、自国の自立と強化(対アメリカ依存性を弱めること)を目指す必要がある。微妙な舵取りが必要な状況だ。今年になってはじめて生じた、などという問題・課題ではないが。
 〇「戦後秩序」と戦後日本人の「歴史認識」を形成したのはいったい何だったのか。後者については占領期の連合国軍総司令部(GHQ)の諸政策に起因することはよく知られている。基本的なことは知っていることだが、竹田恒泰の月刊ボイス5月号(PHP)からの連載「『日本が好き』といえる時代」はあらためて占領期のことを思い起こさせる。6月号の第二回めのタイトルは「百年殺しの刑にかけられた日本」。戦後まだ67年ともいえる。あと30数年、日本は「百年殺しの刑」にかけられたままなのか。そういう時代に生まれ、生きてきたことを、宿命的なことながら、何という不運なことだったのかと、うんざりとする感慨を持たざるをえない。
 だが、歴史観・歴史認識は変わりうるものでもある。江戸時代において関ヶ原の敵将・石田三成は奸賊の代表者として蔑視されたが、近親者は秘密裏にその墓を守り、供養し続けてきた、という。そして、石田三成の再評価もなされている、という。

 前の時代の歴史(歴史観・歴史認識)は勝者が作る、とよく言われる。いまの日本では、まだ勝者・とくにアメリカの歴史観・歴史認識が支配しているが(かつそれに迎合した「左翼」歴史学界もあるわけだが)、永遠につづくわけではなく、日本がみずからの「歴史」を取り戻す時代がきっとやってくるだろう。早いにこしたことはない。

1167/佐伯啓思の議論はどのようなもので、どのように評価されるべきか-一部。

 佐伯啓思・日本の宿命(新潮新書)は2013年1月発行で、2012年12月17日付の筆者「あとがき」がある。そのわりには、前日12月16日の衆議院議員選挙の結果にも言及がある(p.3、p.13、p.37等)。

 それはともかく、昨年末総選挙の結果が判明していたと思われる2012年12月17日付で佐伯啓思はこう書いている。
 <自分の大きな関心は「制度論」や「事実論」ではなく「精神のあり方」や「ものの考え方」にある。>(p.222)。

 このように書いてはいるが、佐伯啓思は「構造改革」を中心とする「制度改革」を含む「改革」路線・「改革」ブ-ムを、佐伯のいう「橋下現象」とともに批判視・問題視してきた。また、産経新聞2/15の記事によると「大阪正論懇話会」では<構造改革では米国的な要素を持ち込んで市場競争を強化させてしまったことで、社会的な安定性に関わる部分が崩れてしまった。この過去を整理して、われわれがめざす経済の姿を考えなければならない。国がやるべき仕事は、公共工事や復興支援など安定性の部分をもう一度、立て直すことだ>等々と語った、というのだから、専門分野に包含されるはずの「経済政策」に関する発言も行ってきている。

 したがって、佐伯が「制度論」や「事実論」に関心がないはずはないのであり、あくまで(さらには上の書物でのそれに限られるかもしれないが)「大きな関心」ではない、ということに留意すべきなのだろう。

 ともあれ、佐伯啓思という学者・評論家が「精神のあり方」や「ものの考え方」に大きな関心を持ち、それによって種々の論述をしている、ということは佐伯の著書や文章を評価・分析するための一つのポイントだろう。
 しかして、佐伯自身の「精神のあり方」や「ものの考え方」とはいかなるものか。種々の現象や議論を、それらに潜む「ものの考え方」のレベルで分析し、あるいは批判的に論じることに、むろん意味がないわけではない。
 ただ、もちろんここで簡単に言ってしまうのは不可能だし乱暴でもあるのだが、佐伯自身の「見方」はさほどわかりやすいものではないし、あえて言えば<斜に構えた>視点から、あるいは通常のまたは大勢的な論調とは異なる、ある意味では「意表をついた」視点から、またはそのような論点を提出することによって論述するのが、佐伯啓思の特徴であると言ってよいだろう。少なくとも私は、そのような「印象」を持っている。
 だが、と再び次元の異なる論点を持ち出せば、「精神のあり方」や「ものの考え方」と「事実」や現実の「制度」はそもそもどういう関係に立つのか、という問題もある。
 つまりは、佐伯啓思のいう、または佐伯自身の、「精神のあり方」や「ものの考え方」が、戦後日本の「現実」の中で、それに影響を受けて形成されてきたものではないか、ということだ。
 「現実」の中には-さしあたり佐伯啓思のそれに限れば-佐伯が受けてきた戦後日本の学校教育も、佐伯がその中にいた学界や論壇の風潮も含まれる。そしてまた、東京大学を卒業し京都大学の現役教授であるという佐伯啓思の経歴や所属もまた、佐伯の種々の書物や文章の内容や「書きぶり」と無関係ではないだう。
 佐伯自身も否定はしないだろうように、佐伯自身の「精神のあり方」や「ものの考え方」は佐伯の内部のみから、外部から自由に生成されたものではない、はずだ。
 そして再びやや唐突に書くのだが、佐伯啓思の、<斜に構えた>視点からの、あるいは通常のまたは大勢的な論調とは異なる、ある意味では「意表をついた」論点提出による論述方法は、決して「大衆」が行いうるものではなく、東京大学卒の京都大学教授だからこそなしえているのではないだろうか。書き方を変えれば、無意識にせよ、自らの「位置」についてのそういう自覚を持っているからこそ、佐伯啓思のような諸仕事を佐伯はできているのではないだろうか。それは、あえて単純化はしているのだが、善し悪しは別として、「高踏的」、あるいは場合によっては「第三者的」・「評論家的」になっている。丸山真男ほどではないとしても。

 佐伯啓思が特定の「党派」的、政治実践的な主張を少なくともあからさまにはしていないのは、上のこととと無関係とは思われない。
 この点は、同じ大学・大学院研究科に所属していた中西輝政とは大いに異なる。これは、中西輝政の最近著・賢国への道(致知出版社、2013.01)の「まえがき」等を一瞥するだけでも瞭然としている。
 そして、今日においてわが日本が必要としているのは、佐伯啓思タイプの評論家・論者ではなく、中西輝政タイプのそれではないか、と感じている。
 あれこれと、あるいは「ああでもない、こうでもない」と分析的に論じること、あるいは細かいもしくは「意表をつくような」もしくは「独自の」・「ユニ-ク」な<解釈>をし、あるいは「見方」を提示することは、かりに意義があるとしても、現実的にいかほどの影響力をもつかは疑問だ。
 同じく新潮45(新潮社)の連載をもとにした佐伯啓思・反・幸福論(新潮新書)は「予想以上に」売れたらしく、結構なことだが、数万部では、また数十万部ですら、新聞の影響力にはかなわないし、ましてやテレビ報道の論調に抗することは客観的には不可能だろう。
 もちろん佐伯啓思の本に限らないが、巨視的には、川の流れに小さなさざ波を立てるだけの書物がほとんどだろう。それでも好ましいさざ波ならよいのだが、悪質なものも少なくはなさそうだ。
 佐伯啓思の著書はすべて好ましいさざ波であるのかは疑問で、少なくとも一部には、日本と日本人のためにはよろしくない、またはほとんど無意味だ、と少なくとも私は感じる部分があることは否定できない。

 以上、佐伯啓思の文章のごく一部から発展させて。

1162/男女平等(対等)主義は絶対的に正しいのか。

 妊娠中絶のための処置・手術が、ある種の医院・診療所にとっての重要な収入源になっている、という話がある(その数も含めてかつて読んだが、確認できない)。多くの寺院に見られる「水子地蔵」なるものの存在や一つの寺院の中でも見られることのあるその数の多さは、いったい何を意味しているのだろうか。
 不幸な流産等もむろんあるだろうが、親たち、とくに母親女性の意図による妊娠中絶の多さは、戦後日本の「公然たる秘密」なのではないか。そもそも妊娠しても出産にまで至らないのだとしたら、出産後の育児のための保育園の数的増大や男性社員・従業員の育児休暇の取得の容易化等の政策の実現にいくら努力しても、根本的なところでの問題解決にはならないだろう。
 生まれる前の将来の子ども(・人間)の「抹殺」の多さはマスメディアによって報じられたり、検討されたりする様子はまるでないが、これは(マスコミを含む)戦後日本の偽善と欺瞞の大きな一つではないかと思われる。
 望まない妊娠の原因の一つは、妊娠に至る行為を若い男女が安易にしてしまうという「性道徳」にもあるのだろう。もちろん、そのような若い男女の「個人主義」と「自由主義」をはぐくんできた戦後日本の、家庭や学校での教育にも問題があるに違いない。
 また、妊娠し(受胎し)出産することは、男と女の中で女性にしかできない、子孫をつないでいくための不可欠の高貴な行為にほかならないだろうが、そのような妊娠・出産を、男性とは異なる女性のハンディキャップであり、男性にはない女性の労苦であると若い女性に意識させてしまうような雰囲気が戦後日本には少なからず形成されてきたかにみえる。
 家庭において、学校において、そのような女性にしかなしえない貴重な営為について、その尊さについて、十分に教えてきただろうか。教えているだろうか。そのような教育を受けない若い女性が、とりわけ「少しだけは賢い」と思っている女性が、そのような労苦を<男女差別>的に理解しはじめたとしても不思議ではない。なぜ女だけが、男はしない<面倒な>ことをしなければならないのかと、とりわけ学校教育の過程で男子と対等にまたはそれ以上に「よい成績」をあげてきた(上野千鶴子のような?)女性が感じるようになっても不思議ではない。
 晩婚・非婚の背景には種々のものがあるだろうが、戦後の<男女平等(対等)主義>が背景にはあり、そして、それこそが、今日みられる<少子化>の背景でもある、と考えられる。
 まるで疑いもなく<善>とされているかに見える<男女平等(対等)主義>は、その理解の仕方・応用の仕方によっては、社会全体にとって致命的な<害毒>を撒き散らすことがありうることを、知るべきだろう。
 こんなことを感じ、考えているのは私だけではないはずで、確かめないが、林道義・フェミニズムの害悪(草思社、1999)に書かれていたかもしれないし、タイトルを思い出せないが中川八洋の本の叙述の中にもあったように記憶する。
 日本の国家と社会にとって<少子化>が問題であり、それが日本の「衰退」の重要な原因になるだろうというのは、かなり常識化しているようでもある。そうだとすれば、その解決策は表面的な(ポストの数ほどの保育所を、といった)対応だけでは無理で、より基本的な論点に立ち戻るべきだろう。
 妊娠と出産は女性にしかできない。その点で、男女は決して対等でも平等でもない。そしてそのような違いはまさに人間の本質・本性による自然なもので、善悪の問題ではまったくない。むろん「差別」でも、非難されるべき「不平等」でもない。
 このあたりまえの(と私には思われる)ことの認識に欠けている人々や、こうした認識を妨げる言論・風潮があること自体が、戦後日本社会を奇妙なものにしてきた一因だと私には思われる。

1122/西尾幹二全集第2巻(2012.04)のごく一部。

 西尾幹二が福田恆存を追悼して書いた文章の中に以下の部分がある。
 「マルクス主義を一種の身分証明のように利用して、反米・反政府を自明のよう語りながら、しかも日本共産党の過ちをも批判するという当時のどっちつかずの知識人の姿勢は、恐らく今なおリベラルの名で語られる政治潮流とどこかでつながっている。/福田氏が闘った相手はまさにこれである」。
 「現実を動かした強靱な精神―福田恆存氏を悼む」西尾幹二全集第2巻(第三回配本)所収p.299(国書刊行会、2012.04。初出は1994.11)。
 福田恆存の初期の評論「一匹と九十九匹と」に言及して「当時」と言っている。福田のこの評論は1946年(昭和21年)11月に書かれ、翌年3月刊の雑誌に発表されている(福田恆存評論集第一巻所収p.316以下、麗澤大学出版会・2009.09)。
 いつぞや、反自民・非共産で、後者よりの「左翼」が現在の日本の学者・知識人にとってもっとも安全な立ち位置だ、という旨を書いたことがある。
 さすがに現在では「マルクス主義を一種の身分証明のように利用して…」とは言い難く、<反自民・「左翼」ぶりを身分証明のように利用して、かつ日本共産党そのものとも一体化せす(同党に批判的な眼も向けつつ)…>とかに、少しは表現を変える必要があるだろうが、「リベラルの名で語られる政治潮流」の姿は、西尾幹二が上のように書いてから20年近く経っても、さらには福田恆存の「当時」から60年以上経っても、本質的には変わっていないようだ。その点が興味深く、ここに引用する気になった。
 西尾幹二が初めて読んだ福田恆存の評論は「芸術とは何か」で1950年のもの、60年安保騒擾の際に西尾の救いとなったのは福田の「常識に環れ」らしく、これは1960年のものだ(それぞれ、福田恆存評論集第一巻、第七巻に所収)。
 他にも有名な「平和論の進め方についての疑問」(福田恆存評論集第三巻)などに、西尾は言及している。
 読んだことがあるものもある。あらためて、多くの福田恆存論考をじっくりと読みたいものだ。そう思わせる「評論」が今日では少なくなっていると思われる。西尾幹二の書くものもまた、私には一部の内容・主張に不満があるが、数少ない「評論家」であることは間違いないだろう。 

1089/渡辺淳一は「南京大虐殺の記念館」について「とくに騒ぎ立てることもない」と言う。

 〇本当の狂人は自らを狂人だとは自覚しないだろう。従って、自らが狂人であるということを意識するがゆえに自らを悲嘆して自殺するということもない。
 自殺する人は、精神的に<弱い人間>と見られがちでもあるが、人間が本来もつ生存本能に克って自らの生命を奪うのだから、ある意味では<強い人間>でもあろう。別にも触れる機会をもちたいが、45歳で自死した三島由紀夫を<弱い人間>とはおそらく多くの人が考えないだろう。三島は、動物的な生存本能にまさしく打ち勝って、意識的に自らの死を達成したのだ。
 〇1970年の日本がすでに「狂って」いたとすれば、あるいは「狂いはじめて」いたとすれば、そのような日本の「狂人」状態を告発しようとした三島由紀夫は、むしろ<正常な>感覚を持っていた、という評価も十分に成り立つ。三島の「狂気」についての少なくない言及にもかかわらず。
 さて、外国軍の占領下に自らの自由意志に完全にもとづくことなく、かつまた自由意志によると装って日本国憲法を制定した(制定させられた)日本は、異常な、あるいは狂った状態にあった、とも言える。
 主権回復(再独立)後にすみやかに自主憲法を制定していればよかったのだが、それをしないまま60年もやり過ごし、「自衛戦争」とそのための「戦力」の保持を否定する憲法を持ち続けている日本という国家は、そうすると、ずっと異常で、または「狂って」いたままだった、と言える。
 そのような「狂人」国家はしかし、自死・自壊しつつあるという指摘が(古くは三島由紀夫をはじめとして)近年も多いとはいえ、生身の人間のように自殺するわけにはいかない。
 だが、そもそも「狂った」国家だという自覚がないがゆえに、人間と同様に自殺することがなく、ずるずると生き続けているのかもしれない。
 〇週刊誌、例えば週刊新潮を購入して私がまずすることは(自宅または出張中のホテルの一室で)、広告頁をはじめとして、読むつもりがない頁が裏表にある場合はそれらを破いて捨て去ることだ。
 そうしておかないと、後からするのでは面倒だし、読むに値しない無駄な記事等を読んでしまうという時間の浪費が生じる。また、全部を捨てるのではなく保存しておくためには、少しでも薄く、軽い方が、保存スペース等との関係でもよいのだ。
 そのような、まず破り捨ててしまう頁の代表が、週刊新潮の場合、渡辺淳一の連載コラム(の裏表)だった。この人の戦後「平和と民主主義」万々歳の立場の随筆は気味が悪いことが明らかだったので、ある時から、いっさい目も通さないようにしてきた(破棄の対象にしてきた)。
 だが、「南京虐殺」を見出しにしている週刊新潮3/15号(新潮社)のコラムはさすがに無視することができず、一読してしまった。
 そして、この1933年(昭和一桁後半)生まれという、私のいう「特殊な世代」に属する渡辺淳一は、やはり異様だという思いを強くした。
 朝日新聞を購読し、ときには日刊か週刊の赤旗(日本共産党機関紙)を読んでいたりするのだろう。いろいろな議論・研究があることをまるで知らないかのごとく、河村たかし名古屋市長の発言に触れて、「加害者側の日本人」は、「数字が正しいか否かより、まず、そういうことは断じてするべきではない。してはいけない…」と断言し、「南京大虐殺の記念館は、そのため〔意味省略〕の教訓だと思えば、とくに騒ぎ立てることもないと思うのだが」、と結んでいる(いずれもp.65)。
 この世代の人間、かつ竹内洋のいう「革新幻想」をそのままなおも有し続けていると見える人間の特徴の一つは、いつかも書いたが、自らは戦争の詳細・実態を知らないにもかかわらず、戦後生まれのより若い世代の者に対して、戦争の悲惨さ等を、自分は戦争を体験したふうに語って、説教することだ。
 渡辺淳一が<南京虐殺>について上のように書く根拠も、あらためて読むと、①「親戚の叔父さんにきいた話」では野蛮な日本軍は南京で「それに近いことはやっていた、とのこと」、②「かつての軍隊や兵士の横暴さと身勝手さを見て、子供心に呆れていた」、ということにすぎず、「少なからず」南京「虐殺」が「あったろうと思う」と、これらから類推または想像しているにすぎない。
 大江健三郎と同様に小説家の「想像」または「創作」としては何を語ってもよいかもしれないが、重要な歴史の事実の有無・内容について、一介の小説家・随筆家が上のような程度を根拠にしていいかげんなことを言ってはいけない。
 この<不倫小説家>が歴史についてこうまで勝手に書ける日本は「自由」な国だが、週刊新潮編集部は、どの程度に
新潮社が渡辺作品によって儲けているのかは知らないが、(いつかも書いたように)いいかげんに渡辺淳一を執筆者から「外して」欲しいものだ。そして(これまた既述だが)宮崎哲哉あたりに代えてほしい。
 上の①・②だけで渡辺淳一が推論しているわけではない、とじつは考えられる。容易に推測のつくことだが、<日本軍国主義は悪いことをした>という占領期の教育を、この人は受けてきたのだ。1945年に12歳、1951年に18歳。この人はもろに、「民主主義」・「平和憲法」万々歳の教育を青春前期に受けている。
 その影響が現在でも続いていることは容易に推測されるところで(大江健三郎もまったく同じ)、そういう人たちはたいてい、数字(人数)の正確さはともあれ、「少なからず」、「南京虐殺」はあったに違いない、と考えがちだ。
 こんなことを渡辺淳一個人に対して言っても、ほとんど無意味だろうが、<教育はおそろしい>ものだ。
 だが、そういう占領期の教育(とプロパガンダ)によって、日本国民が「狂って」しまい、そういう教育を受けた教師や新聞記者・テレビ放送局員等々によって「狂った」時代認識が生まれてしまい(なお、「南京大虐殺」は蒋介石も毛沢東も言及しておらず、復活?したのは1980年以降のはずだ)、依然として「狂った」ままであるのは、国家としてはまことに由々しき状態にある。「狂った」人間が多数派であれば、とりわけ政権担当者がその中に含まれていれば、国家が「狂って」いることを、国民は意識しておらず、まるで「正常」だ、と感じ続けていることになる。
 狂人は狂人であることを自覚できない。怖ろしいことだ。

1078/西部邁=佐伯啓思ら編・「文明」の宿命(2012)の富岡幸一郎「はじめに」。

 西部邁=佐伯啓思=富岡幸一郎編・「文明」の宿命(NTT出版、2012.01)の、富岡幸一郎による「はじめに」だけを読了。
 中身についてものちに触れるかもしれないが、著者9人の一人は「雑菌」の中島岳志なので、読者はこの本がまともな「保守」主義による議論・論考をまとめたものだと誤解しない方がよい、と思われる。
 富岡による「はじめに」の前半は、素直に納得しながら読める。
 すでに一九世紀末・第一次大戦前に「西洋の没落」(シュペングラー)は語られていたのであり、「西洋近代を形成してきた進歩史観への警鐘」も発せられていた(はじめにp.2)。
 以下は私の言葉だが、しかるに、日本国憲法は<欧州近代>所産の法思想を疑問がないものとして、アメリカ独立宣言・フランス人権宣言等に遡及可能なものとして、継受してしまった。日本国憲法97条はつぎのように定めるのだが、私はこのような「お説教」を読んで、いつも苦笑を禁じ得ない。日本の今の憲法学者はどうなのかは知らないが。
 「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」

 富岡の文章に戻ると、こう述べられている。
 現代の「文明」社会を深く覆うのは「ニヒリズム」で、すでに一九世紀末にニーチェが語ったものだ。それによると、「人々が生きる意味と目標を失い、よるべない虚無の淵に立たされる危機」のことで、あるいは、<宗教・道徳・理性・精神といった価値が無意味なものと化してしまったあとに出現する「最も気味のわるいもの」>だ(はじめにp.3-4)。
 このあたりまではよいのだが、その後の富岡の叙述には大きな疑問を持たざるをえない。
 富岡は、そのような「最も気味のわるいもの」が二〇世紀以降に生みだしたものを、あれこれと列挙している。まず単語だけを取り出しておこう。
 ・第一次大戦という「全面戦争」、科学技術による大量殺戮兵器、欧州の「血の地獄」化、世界恐慌から第二次大戦へ、核エネルギーの使用(はじめにp.5)
 続いて次のように所産または結果を述べている。
 ・「一九八〇年代後半からの冷戦崩壊によって社会主義体制はついえ去り、資本主義はそのまま生き延び」、九〇年代以降はアメリカ中心の「強欲ともカジノ的ともいわれる金融資本主義へと展開された」(はじめにp.6)。
 ・ニーチェのリヒリズムは二〇世紀には「大量殺戮の悲劇」を生み、二一世紀の今日では「…資本主義のテーモンに体現されている」(p.6)。
 このような時代または「文明」史の叙述には―一瞬はすらっと読んでしまいそうだが―、疑問を禁じ得ない。
 細かなことを言えば、二つの大戦の「外的要因」は「帝国主義の政策による衝突」で「内的要因」は「世界恐慌という経済的危機」だったという叙述(上では省略。はじめにp.6)は教科書的・通俗的で、はたしてこんな理解でよいのか、と感じさせる。これは、「左翼」の描く歴史とまったく同じなのではないか。それに、第二次大戦の前のロシア革命・社会主義ソビエトの成立とその影響にはまったく!言及がないのだ。
 「社会主義」の無視・軽視、これこそが富岡の文章の致命的な欠陥だと思われる。
 富岡は八〇年代後半以降に「社会主義体制はついえ去り」と平気で書き、その前に「冷戦崩壊によって」と簡単に書いてしまっている。だが、冷戦は終わっていない、あるいは新しい冷戦にとって代わっている。また、そもそも、「社会主義体制はついえ去」っていないどころか、この東アジアにおいて、中国、北朝鮮等というれっきとした「社会主義」国家はあるではないか(両国の共産党・労働党の大会において誰の肖像画・写真が大きく掲げられているかを思い出すがよい)。

 また、この日本の現実の中に「社会主義」の(「体制」ではなくとも)<思想>は脈々と残存し続けている。
 富岡幸一郎の書いてきた文章をいっさい否定するつもりはないが、上の点はあまりにヒドい、と思われる。いったい、この人は何を考えているのか?
 さらには、上にも関連するが、富岡によると、現下の最大の「文明」問題は、「資本主義のデーモン」であるようだ。しかし、現在の資本主義に問題がないとは言わないが、アメリカ中心の「強欲ともカジノ的ともいわれる金融資本主義」を批判すること、そのようなものを「現代文明の全般的危機」として把握することともに、あるいはそれ以上に、覇権主義・軍国主義を伴う「社会主義」国家が現存し、かつ「社会主義」イデオロギーが(日本においてこそ顕著に)残存し続けていることを、きちんと、そして深刻に「現代文明」の重要な問題と把握すべきだ。
 このような「社会主義」に対する<甘さ>は、「大量殺戮(の悲劇)」に関する富岡の理解の仕方にも表れている。富岡は明らかに、これを近現代の「科学技術」の所産として(第一次大戦との関係で)語っている。
 しかし、富岡は知らないのだろうか。両大戦の死者(大量殺戮の被害者)の数よりも、ソビエト連邦や共産主義・中国等々における革命・内戦・「粛清」の犠牲者の数の方が多いのだ。
 「大量殺戮(の悲劇)」という語を使いながら、コミュニズムの犠牲者(大量殺戮被害者)をまったく思い浮かべていないようであるのは、少なくとも<保守>派の論者としては、致命的な欠陥がある、と考えざるをえない。
 佐伯啓思や西部邁について、<反米・自立>を説くのはよいが、<反共>または「反中国」の姿勢・文章をもっと示して欲しい旨を書いたことが何回かある。
 西部邁・佐伯啓思グループの一人のようである富岡幸一郎にも、同じような弊があるようだ。

1071/岡崎久彦・真の保守とは何か(PHP新書、2010)の一部。

 「保守とは何か」に関する文章・議論を昨今にもいくつか目にした。以下もこれに関係する。
 岡崎久彦・真の保守とは何か(PHP新書、2010.09)は岡崎の2007~2010年のほぼ三年余の間の論考をまとめたもので、最後から二つめの「真の保守とは何か」(初出2010.05.18、新潮45)を読んでいただいても「本書を発刊した目的の半ばは達成された」と思っている、とされる(p.4-5)。
 書名にも採用されたこの論考で、まず注目を惹いた文章は、あえて引用すれば、つぎの二つだ。
 ①「どの程度政府の統制が望ましいか、民営化と政府の統制のどちらがいいかなどということは、どちらが民主主義の正統路線か、あるいは保守の本流であるかというような大きな問題ではない」(p.213-4)。
 ②「真の保守主義は、経済問題ではなく、外交、安保、教育などの面でその真価が発揮されるべきものである」(p.215)。
 これらは適切であるように思われる。基幹産業の全面的国有化を別にすれば、経済政策、あるいは「経済」への国家(政府)関与の程度・形態は、<保守か左翼か>という対立軸で決定されるものではないだろう。「保守」(主義)から見て、郵政民営化の是非が決定されるわけではないし、「規制緩和」の是非も同様だ。

 昨今問題にされているTPP参加問題にしても同様だろう。また、原発政策(推進・維持か廃止・脱か)についても言えるように思われる。現に、これらについて(自称)「保守」論者の中でも対立がある。そしてそれは当然であって、「保守」か否かによって、あるいはいずれが「真の保守」かによって決定される政策問題ではない、と言うべきだろう。
 岡崎の文章の中には、自民党の綱領や主張にも関係する、以下のようなものもある。
 ・小泉・竹中改革には「規制廃止、自由競争原理〔の重視〕」こそ「真の民主主義、保守政党」という主張があるようだが、「特に、郵政民営化」を考えると、日本の従来型制度をバークが批判した「人間の理性、あるいは浅知恵で急速に」変えようとし「すぎたきらい」はなかったか(p.213)。
 ・「経済の自由化」を謳うから「真に保守的」で、「規制を強化」すればただちに「社会主義的」とするのは日本政治では「ほとんど意味がない」(p.215)。
 「しすぎたきらいはなかったか」という郵政民営化に関する抑制的なコメントも含めて、基本的に同感だ。
 全面的な国家計画経済さえ選択しなければ、広義の「自由主義〔市場主義)」の範囲内で経済に対する規制強化も規制緩和もありうる。どの程度が具体的に妥当かどうかは国家によって、時代によって、あるいは経済(産業)分野ごとに異なるもので、一概にに断定できるものではない。そして、これらの問題についての解答選択は、何が「真の保守か」とは関係がない。無理やり、「思想」または「主義」の問題に還元させるのは、無意味な思考作業だろう。
 その他、以下のような岡崎久彦の文章も、読むに値するものだ。
 ・「岸、佐藤、福田の安保優先政策、親韓、親台湾政策に対抗する、経済優先、親中政策」が「保守本流」だとするのは、「高度経済成長の功を全部池田内閣に帰」そうとする、「フィクション」だ。

 ・「自称の保守本流」は「安全保障重視のタカ派保守」に対して自分たちは「経済優先のハト派保守だ」と言いたいのだろうが、もともと「安全保障と経済は対立概念ではない」。これを対立概念のごとく扱ったことから「一九七〇代以降の日本の政治思想の頽廃が起きた」(p.219-220)。
 <経済優先のハト派>が「保守本流」だとの意識・議論が(自民党内に)あったとは十分には知らなかったが(むしろ逆ではないか)、趣旨はよく分かる(つもりだ)。
 では、岡崎にとって「真の保守」とは何か。引用は少なくするが、以下のごとくだ。
 ・「国家、民族と家族を守るのが保守主義である」(p.224)。自民党は、明確な国家意識と家族尊重の姿勢を示し、「外交政策、安保政策、教育政策」をはっきり表明することが、「再生の王道」だ(p.225)。
 ・かかる「真の保守に立ち戻る」のでは「国民の広い支持を得られないという危惧」はあるが、「中間層はいずれにしても大きく揺れる」のであり、「固定層からの確固たる支持票を得ている政党」は強い(p.225)。

 ・「志半ばで病に倒れた安倍政権」の「戦後レジームからの脱却」こそが「保守主義」だ(p.229)。
 岡崎久彦のこの本は菅直人政権発足後、かつ3・11以前に刊行されている。そして、人柄なのかどうか、民主党、あるいは菅政権に対する見方が「甘い」と感じられるところや日本の将来をなおも?楽観視しすぎていると感じられる部分もある。
 だが、基本的には賛同できる内容が多い。
 この欄に書いてきたように、基本的には、「保守」主義とは「反共(反容共)」主義だと思っている。後者は「保守主義」概念のコアではないとの議論がありかつ有力なのだとすれば、「保守」という言葉にこだわるつもりはない。
 この点はともあれ、「保守」=「反共」という理解の仕方と、岡崎久彦の文章は矛盾しているわけではないと考えてよいだろう。

1064/渡部昇一の日本史年表には北朝鮮「拉致」がない。

 〇11/15は横田めぐみさんが北朝鮮当局に「拉致」された日だった。
 政府が認定しているかぎりでも、北朝鮮による「拉致」は1977年と1978年あたりに集中している。
 これらの「拉致」は、とりわけ最初のそれや重要なそれは、昭和史年表とか戦後史年表とかに、重要な歴史的事実として、きちんと記載されるべきだろう。
 渡部昇一は「保守」派らしく、かつあえて中川八洋によらずとも、<民族系保守>派のはずだ。
 しかし、書店で手にしてめくってみたかぎりでは、渡部昇一・読む年表/日本の歴史(ワック)には、北朝鮮による「拉致」実行の年月についてはいかなる記載もない。これが(かりに民族系でなくとも)<保守派>を自認しているはずの者の編む日本史年表なのだろうか。失望するし、やはり渡部昇一は信頼できないと感じる。
 信頼度が低いと思っているために、渡部昇一の日本歴史の全集もの(ワック)は一冊も、古書でも、購入していない。

 渡部昇一は月刊WiLL誌上に(立花隆ではなく)<渡部昇一はこんなものを読んできた>ふうの連載をしている(「書物ある人生」)。西尾幹二の少年時代の自叙伝ふうの本とは違い、<こんな本を読んでエラくなりました>という感じの、「保守」思想とはまるで関係のなさそうな内容なので、これまたまともに読む気にはなれない。

 〇信頼度の高い人の文章は、納得・同意するところが多いために、却って、この欄ではとり上げないこともある。
 遠藤浩一稲田朋美はそれらのうちに入り、この一年以内の産経新聞上での、衆議院解散要求や(民主党との)大連立反対などの文章は、その通りだと思って読み終えた。
 ジャパニズム第4号(青林堂、2011.10)の、稲田朋美=城内実(対談)「『詐術と裏切り』亡国の野田内閣」も、とくに大きな違和感なく読めてしまう。
 城内実の本はたぶん読んだことはないが、どのような人物かは経歴も含めて知っている。
 「頭」だけでっかちの、書くこと(語ること)だけは一人前の?<保守>派評論家・大学教授等よりは、石原慎太郎もそうだが、現実に「政治(・行政)」に直接関与している者の言葉の方に聞くに値するものが多いかもしれない。遠藤浩一はいちおう「評論家・大学教授」の肩書のようだが、経歴によるとふつうの「アカデミズム」の世界のみから生まれた人物ではなさそうだ。 

1060/猪木武徳・戦後世界経済史(中公新書)を一部読む。

 猪木武徳・戦後世界経済史―自由と平等の観点から(中公新書、2009)p.372以下の要約的紹介。
 ・近代化の一側面は「平等化」で、万人の「法の前の平等」は、「近代社会」の「偉大な成果」だった。しかし、そこに「奇妙な論理のすり替え」が起こる可能性を看過すべきではない。人は法の前で「平等であるべき」なのであり、「事実として人間の有様が同じ」なのではない。しかし、「『真』の理想に燃える『社会哲学』」は、人は「平等であってしかるべきだという考えを押し広め」た。
 「平等」への情熱は「自由」のそれよりも「はるかに強い」もので、既得の「自由の価値」は容易には理解されないが、「平等の利益」は簡単に感得される。「自由の擁護」と異なり、「平等の利益の享受」には努力は不要だ。「平等を味わう」には「ただ生きていさえすればよい」(トクヴィル)。
 ・だが、「平等は自由の犠牲において」実現することが多い。すべての人が「自由かつ平等な社会」は「夢想でありフィクション」にすぎない。平等をめざして自由が失われ、自由に溢れた社会では平等保障がないことは「過去二〇〇年の世界の歴史」が明らかにした。
 ・「デモクラシーの社会」には多様で複雑な課題があり、新しい価値選択を迫られるが、それには「高度の専門性」が必要であるにもかかわらず、一般国民、そして政治家に十分な知識があるというのは「フィクションに近い」。このフィクションを「メディアや一部の啓蒙家」が補正するのは限界がある。したがって、「問題に対する理解」が不十分ならば、「最終的判断のベース自体があやしい」ものになる。
 民主国家に重要な、国民による「倫理的に善い選択」には「十分な知識と情報が必要」だ。難問を処理する「倫理」を確かなものにするには「知性と情報が不可欠」なのだ。
 ・トクヴィルのアポリア(難問)=「平等化の進展は自由の浸蝕を生む」は「人的資本の低い国に起こる可能性が大きい」。この「人的資本」の重要な構成要素は「市民道徳を中心とした『知徳』」だ。かかる意味で、「人的資本の蓄積の不十分な」=「知徳の水準が不十分な」国でのデモクラシーは「全体による全体の支配」を生み出しやすい。
 これは経済的後進国のみを指しているのではなく、「日本のような経済の先進国でも、市民文化や国民の教育内容が劣化してゆけば、経済のパフォーマンス自体も瞬く間に貧弱になる危険性を示唆して」いる。
 以上。なかなか示唆に富む。
 最後の部分を表現し直すと、「人的資本」、すなわち市民道徳・倫理(「知徳」)の水準が低下していくと、民主主義国も「全体による全体の支配」を生み出す傾向があり、日本についても例外ではない、ということでもあろう。
 そうであるとして、日本においてそのような<全体主義>へと近づく「人的資本」の劣化をもたらしているのは、いったい何なのか?
 教育であり家庭であり…、ということになろうが、「一億総白痴化」を実際にもたらした<テレビ>を含む、大衆に媚びる、「知徳」の欠乏した、戦後の<マスコミ>も重要な一つに違いない。
 石原慎太郎・新堕落論(新潮新書、2011)も読み終えているが、日本人の「堕落」の原因をしっかりと剔抉する必要がある。
 なお、石原慎太郎によれば、例えば、戦後の日本人の心性の基軸は「あてがい扶持の平和に培われた平和の毒、物欲、金銭欲」で、日本人が追求し政治も迎合している「価値、目的」とは国民各自の「我欲」で、我欲とは「金銭欲、物欲、性欲」だ(p.40-41)。
 こうした「我欲」に満ちた、「市民道徳」を失いつつある日本国民に、<全体主義>化を抑止するだけの「知徳」をもつことを期待できるだろうか。「テレビ局」をはじめとする大手マスコミは、逆に、日本人の「我欲」追求を助長している大犯罪者なのではないか。

1042/昭和ヒトケタ世代・「少国民」世代ー再論。

 井沢元彦・日本史再検討(世界文化社、1995)p.110は、こう書いていた。
 「実は、私は日本のある世代に『偏見』を持っている。それは『昭和ヒトケタ』世代である。(昭和一〇年から一二年あたりの生まれの人々もこれに含む)この人たちは戦前の『超国家主義教育』の最大の犠牲者である。『お国のため』『天皇陛下のため』『死ぬのが正義』だと、年端もいかない頃に叩き込まれ、その気持ちが固まった頃に敗戦となり、今までの教育は一切まちがいだったと言われた。……お気の毒だとは思う。/しかし、この人たちのいう『歴史』や『民主主義』には、私はうなづけない点が多い。小さい頃に受けた『心の傷』が、一種の『ゆがみ』になってていて、本物ではない気がするのだ。……」。
 小林よしのりの近年の論調は奇妙なところがあり、日本の歴代の天皇の大多数が男性だったのは、中国(・儒教)の影響を受けた「女性蔑視」思想による、などという叙述には、大いに笑い、かつ悲しい気分にもなった(だいぶ前に読んだので、文献を特定できないが)。いわゆる「男系絶対」論者に対する侮蔑的言葉による罵倒にも従いていけない。本当に「ゴーマン」なところのある人物だとも思う。但し、<英霊の言之葉>を読んで涙した(同編・国民の遺書)という心情には共感できるところがある。
 また、月刊WiLL10月号(ワック、2011.08)のp.186あたりの以下の叙述に限って、同感する。朝日新聞へのある投書を紹介したあと、こう書く。
 「この投書は、まさに『少国民世代』の典型である。ここまで空気がこわばり、直立不動で君が代を歌わされた時代は、小学校が『国民学校』、児童が『少国民』と改称されていた昭和16年から20年までの間にほぼ限られる。日本の歴史上、例外的な現象なのである。……/しかも、自分の異常な体験を普遍化させてしまった『少国民』世代がマスコミや教育を通し、国旗・国歌・天皇は危険なものだとあまりに長きにわたって唱え続けたため、その認識は、正しいか否かに関係なく、『一般常識』として世代を越えて受け継がれてしまっている。……」。
 これらと同趣旨のことはこれまでに何度かこの欄に書いた。
 井沢のいう「昭和ヒトケタ」+昭和12年までは、1925年~1937年生まれで、終戦時に8歳~20歳。 
 小林のいう、昭和16年から20年までの間に小学生(国民学校生=「少国民」)だった者は、国民学校を6年制だとみなして少しだけ複雑な計算をすると、昭和4年(1929)~昭和13年(1938)生まれになる。井沢のいう、「1925年~1937年生まれ」と、大きくは異なっていない。
 むろん例外はあるが、傾向的にはこの世代は、良くなく苦しかった戦時中から戦後は明るく豊かになり、良い時代に変わった、自民党の一部に残る古い・軍国主義的雰囲気の復活を許してはならないと、これは戦後「進歩的文化人」が説いたのとほとんど同じなのだが、漠然と考えていて、そう考えていた者のほとんどは、民主党による(自民党政治から離反した)「新しい」政治を期待して、2009年には、民主党に投票したのではなかろうか。
 自らが特殊な世代だという自己認識はなく、自分たちが新しく戦後に形成した(と思っているがなおも伝統的な部分も基底には残している)「意識・道徳観」を後続の世代も共有しているはずだ、などというとんでもない誤解をしている可能性がある。
 この世代が人数の多い(鳩山由紀夫や菅直人を含む)
いわゆる「団塊」世代の兄貴分的または若い父親的役割を果たして、後者を指導・教育し「煽動」したことを忘れてはならない。

1037/「戦後」は終わった(御厨貴)のか?

 再述になるが、新保祐司の産経7/05「正論」欄は、「戦後体制」または「戦後民主主義」を「A」と略記して簡潔にいえば、大震災を機に①Aは終わった、②Aはまだ続いている、③Aは終わるだろう(終わるのは「間違いない」)、④Aを終わらせるべきだ、ということを同時に書いている。レトリックの問題だなどと釈明することはできない、「論理」・「論旨」の破綻を看取すべきだ(私は看取する)。
 上の点はともあれ、東日本大震災発生によって「戦後」は終わり、「災後」が始まった、ということを最初に述べたのは、菅直人に嫌われてはいない、東京大学教授・御厨貴だったようだ(月刊文藝春秋?)。
 たしかに「災後」ではあるが、「戦後」はまだ終わってはいない、というのが私の認識だ。
 井上寿一は産経8/03の「正論」欄の中で、「『8月15日』から始まった戦後日本の歴史のサイクルは『3月11日』に終わった」という一文を挿入している。「戦後日本の歴史のサイクル」という表現の意味が必ずしもよく判らないので断定できないが、3/11を戦後日本の最大の画期の如く(御厨貴と同様に?)理解しているとすれば、支持することはできない。
 今年の3/11を語るならば、1993年の細川護煕を首相とする非自民連立内閣の成立も、その翌年94年の村山富市を首相とする自社さ連立政権の成立も、大きな歴史の画期だった。これらよりも重要な画期は、2009年総選挙後の民主党「左翼・売国」政権の誕生だったかもしれない。これらの内閣の変遷から視野を外しても、1995年のオウム事件・サリン事件は、戦後「民主主義と自由主義(個人主義)」の行き着いたところを示した、とも言いうる(当時にそんな論評はたくさんあったのではないか)。
 誰でも自分が経験した目下の事象を(たんなる個人的にではない)社会的・歴史的に重要に意味を持つものと理解したがる傾向にあるかもしれないが、今年の3/11をもって「戦後」が終わったなどと論じるのは(あるいはそういう時代認識を示すのは)、「戦後」はまだ続いている、ということを糊塗・隠蔽する機能をもつ、犯罪的な言論だと考える。
 1947年日本国憲法はまだ存続している。自衛隊の憲法上の位置づけに関する議論に画期的な変化が生じたわけではない。日米安全保障条約もそのままだ。なぜ、「戦後の終焉」を語ることができるのか。
 3/11を機会に、「戦後レジーム」の終焉へと、あるいは憲法改正へとさらに奮闘すべきだ、という議論ならば分かる。
 だが、「なすべき」次元の目標と客観的な現実とを混同してはならない。
 根拠論考が(今の時点で)定かでないので引用し難いが、佐伯啓思は、この度の大震災を「戦後」の終わりを超えた、<近代>または(原発に象徴される)<近代文明>の終焉を示すもの(それの限界・欠陥を示すもの)と理解しているように見える(とりあえずは関係文献を参照要求できないが)。
 かりに上のことがあたっているとすれば、反論は可能だ。
 専門家ではないが、ニーチェ、キェルケゴールらは「近代」の限界・欠陥を強く意識したとされる。それは19世紀末だ。グスタフ・クリムトらの<世紀末>芸術運動も時期的には重なっている。何よりも、その後の第一次「世界」大戦こそがすでに、「近代」の終わりの象徴だったのではないか。第二次大戦の勃発も同様かもしれないが、その戦争の最後に「核兵器」が使われて十万人以上が一瞬にして生命を剥奪された、ということはまさしく「近代」(文明)の終わりそのものではなかったのだろうか。もう少し後にずらしても、1989年以降のソビエト解体・東欧「社会主義」諸国の終焉もまた、「近代」の終焉の徴表と理解することが不可能ではない。
 「近代(文明)」の終わりなるものは、もう100年にわたって続いているのではないか? ついでながら、アンドロイド・スマートフォンとやらを含む近年のIT技術の深化・変容は、どのように歴史的に(文明史的に)位置づけられるのだろうか。
 といったわけで、佐伯啓思のいくつかの文章をまじめに(?)読んではいるが(産経新聞、月刊正論、雑誌「表現者」内のものであれば必ず読む。ウェッジを買ったときまたは東海道新幹線のグリーン・カーを利用したときも読む(但し、連載は最終回を迎えた))、全面的に賛同しているわけではない。
 余計ながら、最近のサピオ(小学館)で小林よしのりが、佐伯啓思の産経新聞6/20の佐伯「日の蔭りの中で/原発事故の意味するもの」を、佐伯啓思が<反原発>に立つものとして「さすが」と高く評価している。そのように<反原発>論者に理解されて、佐伯は不満を感じないのだろうか。

1032/新保祐司の産経7/05「正論」-文芸評論家は文章に「厳密」か?

 産経新聞7/05の「正論」欄の、新保祐司の論考。「文芸批評家」等の肩書きで、文学部畑だろう。少なくとも、法学部出身者ではないだろう。
 「決起」と天皇との関係に関する三島由紀夫と福田恆存の対談内容の一部についても感じたことだが、「法的」思考の残る三島と<勝ってしまえば法的理屈など後からどうにでもつく>旨を語っていた福田とを較べれば、やはり法学部出身者でもあった三島由紀夫の思考方法になじみがある。三島由紀夫は<法的連続性>あるいは<法的正当性>というものを意識していたと思われる。
 以上は以下に書くことと直接の関係はない。ただ、「文芸」評論家なるものにあまり信頼を置いていない、という日頃の感想を記しただけだ。さらに贅言すれば、石原慎太郎は小説も書き文芸評論のようなこともしているが、法学部出身で、かつ国会議員でもあったし、さらには東京都知事という<行政実務>すら経験し、熟知している。たんなる文芸評論家や大学教授の言よりは、総じていって、石原慎太郎の発言の方に信を寄せたい(と書きつつも、あまりこの欄で取り上げていないが)。
 さて、上記の新保祐司論考についてだが、違和感があるし、また文章・「論理」も相当に奇妙なのではないか。
 ①新保によると、3月大震災以降の「今日」・「現在」において、日本人の生き方の根本的見直しが必要になっているが、それは、「戦後的な国家観や人間観は、破綻したからである」。
 また、新保によると、「東日本大震災は、まさに時代を画するものであり、『戦後民主主義』の息の根を止める威力を持つものであった」。
 以上は、(自らが客観的な事実だとするところの)客観的な「認識」の叙述のはずだ。つまり、新保において、「戦後的な国家観や人間観」は「破綻」し、「戦後民主主義」は「息の根を止め」られた、と認識されているのだ(直接引用のとおりで、そう理解して誤っていないはずだ)。
 ②しかるに、新保はこうも書く。「戦後民主主義」に対する批判あったし、「戦後レジームからの脱却」を唱えた政治家もいたが、「『戦後民主主義』というものはなかなかしぶとく、結局、今日まで慣性の法則で惰性的に続いている」。
 あれれ? 「戦後的な国家観」等は「破綻」し、「戦後民主主義」は息の根を止められたのではなかったのか? ①とは矛盾する「認識」が叙述されている。
 ③さらに、新保はこういう書き方もする-大震災が「結果として『戦後民主主義』を終わらせることになるのは間違いない」。
 これは、主観的要素を含まざるをえないと通常は考えられる、<将来予測>だ。
 ④つぎを読んで、ますます(少なくとも私は)混乱する。新保はこうも書く-「この非常時には、それを支えてきた現行憲法や戦後的な諸制度が虚妄であることが暴露された……。だから、『戦後民主主義』はできる限り早急に退場すべきである」。
 これは<将来予測>でもなく、現時点での<べき>論を語っている。新保の主観において、「戦後民主主義」を「退場」させるべく、彼や読者(国民)は努力あるいは運動す「べき」なのだ(そう理解して、大きく誤っているとは思えない)。
 何となく感じられる言いたいだろうことの当否は別として、上のような、「論理」の次元の異なる、率直に言って<矛盾した>文章を読まされると、とてもついていけない。
 「文芸評論家」だから許される、というものではないはずだ。むしろ「評論家」を名乗るからには、一体何を言っているのかを、曖昧にして言外に覚らせるようなことをすることなく(これにも失敗しているが)、明確にすべきだ。
 A客観的な現在の事実・事態の「認識」と、B将来の事実の「予測」とC現在から将来にかけてこう「あるべき」・「すべき」という論とは、それぞれ別のものであり、明確に区別すべきだ。
 これらの混淆した文章を一流の?新聞で読まされたのでは、たまったものではない。
 かつて習ったものだ。Sein (存在)と Sollen(当為) の区別を知らなければならない。二つのいずれを語っているかを理解しなければならず、自ら語る(叙述する)場合には、二つのいずれの次元の問題を扱っているかを明瞭にしておかねばならない。
 「戦後体制」・「戦後民主主義」は終焉しておらず、なおも続いている。その点では、大震災自体が画期になるものではない。かかる「認識」にかかわって他に言及したいこともあったが、長くなったのでやめる。
  

1029/水間政憲・中・高生にもわかる東大教授のバカ言論(2005)と大江健三郎。

 一 水間政憲・世界の金言・日本人の妄言/中・高生にもわかる東大教授のバカ言論(日新報道、2005)によると、まず、「占領下に大量発生した進歩的文化人の第一号」は、宮田繁雄(画家、1945.10.14朝日新聞紙上で藤田嗣治(のちにフランスに帰化)を批判、p.33・p.39)。
 つぎに、「日本弱体化計画を推進した東大三教授」は、横田喜三郎、大内兵衛、丸山真男(p.41~)。
 法学・経済学・政治学のそれぞれ代表者が一人ずつだ。丸山真男は今日の政治学界にもなお影響力をもっているようだ。いつか、元日本共産党員・名古屋大学名誉教授(法学部、のち立命館大学政策学部教授)の田口富久治の本に言及する。
 第三に、「日本弱体化計画に貢献した言論人」として、以下が挙げられる。
 向坂逸郎、大塚久雄、久野収、竹内好、加藤周一、鶴見俊輔、坂本義和、安江良介(岩波「世界」編集長)、浅田彰
 存命の者もいる、「左翼」の代表者たち。浅田彰は読んだことがない、「ニュー・アカ」とやら。
 第四に、「進歩的文化人」を「代表する小説家」として、以下の二名のみがが挙げられる。その「代表」性は著しいようだ。
 大江健三郎、井上ひさし
 二 水間の上の本は、孫引きしても直接の引用にもなるように、出典等を明確にして、「」つきで叙述・発言を紹介してくれている。以下の、大江健三郎の言葉はよく言及されるが、出典等がついた直接引用なので、役立ちそうだ。
 ・大江健三郎・毎日新聞1958.06.25夕刊「女優と防衛大生」
 「ぼくは、防衛大学生をぼくらの世代の若い日本人の一つの弱み、一つの恥辱だと思っている。そして、ぼくは、防衛大学の志願者がすっかりなくなる方向へ働きかけたいと考えている」。
 ・大江健三郎・週刊朝日1959.01.04号~02.22号
 「皇太子よ、考えていただきたい。若い日本人はつねに微笑しているわけではない。若い日本人は、すべてのものがあなたを支持しているわけではない。そして天皇制という、いくぶんなりとも抽象化された問題についてみれば、多くの日本人がそれに反対の意見をもっているのである」。
 ・大江健三郎・群像1961.03号「わがテレビ体験」〔…は原文ママ〕
 「結婚式をあげて深夜に戻ってきた、そしてテレビ装置をなにげなく気にとめた、スウィッチを入れる、画像があらわれる。そして三十分後、ぼくは新婦をほうっておいて、感動のあまり涙を流していた。それは東山千栄子氏の主演する北鮮送還のものがたりだった、ある日ふいに老いた美しい朝鮮の婦人が白い朝鮮服にみをかためてしまう、そして息子の家族に自分だけ朝鮮にかえることを申し出る……。このときぼくは、ああ、なんと酷い話だ、と思ったり、自分には帰るべき朝鮮がない、なぜなら日本人だから、というようなとりとめのないことを考えるうちに感情の平衡をうしなったのであった」。
 ・大江健三郎・厳粛な綱渡り(文藝春秋、1965)「二十歳の日本人」〔…は原文ママ〕
 「北朝鮮に帰国した青年が金日成首相と握手している写真があった。……それにしてもあの写真は感動的であり、ぼくはそこに希望にみちて自分および自分の民族の未来にかかわった生きかたを始めようとしている青年をはっきり見た」。
 ・大江健三郎・産経新聞1995.04.30「ワシントンでの講演録」〔…は原文ママ〕
 「日本のいまの自衛隊は軍隊であり、憲法に違反しているから、全廃しなければならない。私たち日本人は憲法順守という方向へ向けての新たな国づくりをしま始めなければならず、その過程で自衛隊を完全になくさねばならない……。日本の保守派にはこの憲法が米国から押しつけられたものだから改正する必要があるという意見があるが、米国の民主主義を愛する人たちが作った憲法なのだからあくまで擁護すべきだ」。
 かつて小林よしのりが大江健三郎をこう評したことがあった-「もはや日本人ではないところの何ものかになっている…」。
 

0985/「民主主義」と「自由」の関係についての続き②。

 〇既に言及・紹介したのだったが、いずれも東京大学の教授だった宮沢俊義や横田喜三郎は、戦後当初の1950年代初めに、「自由」も「平等」も「民主主義」から、または「民主主義」と関連させて説明するような叙述をしていた。

 反復になるが、ある程度を再引用する。
 宮沢俊義(深瀬忠一補訂)・新版補訂憲法入門(勁草書房、1950年第1版、1954年改訂版、1973年新版)は結論的にこう書く。

 ・「自由主義も民主主義も、その狙いは同じ」。「いずれも一人一人の人間すべての価値の根底であるという立場に立って、できるだけ各個人の自由と幸福を確保することを理想とする主義」だ。

 これでは両者の差異がまるで分からないが、その前にはこうある。以下のごとく、「自由」保障のために「民主主義」が必要だ、と説明している。

 ・「自由主義」とは「個人の尊厳をみとめ、できるだけ各個人の自由、独立を尊重しようとする主義」あるいは「特に国家の権力が不当に個人の自由を侵すことを抑えようとする主義」のことだが、国家権力による個人の自由の不当な侵害を防止するには、「権力分立主義」のほか、「すべての国民みずからが直接または間接に、国の政治に参加すること」、「国家の権力が直接または間接に、国民の意思にもとづいて運用されること」が必要だ。このように国家が「運用されなければならないという原理」を、「特に、民主主義」という。
 横田喜三郎・民主主義の広い理解のために(河出書房・市民文庫、1951第一版)は、こう書いていた。

 ・「民主主義」とは、「社会的な」面では「すべての人に平等な機会を与え、平等なものとして扱う社会制度を、すべての人に広い言論や思想の自由を認める社会組織を」意味し、「政治的な」分野では、「人民主権」や「人民参政」の政治形態を意味する。もっとも、「人民主権」・「人民参政」は「結局においては、すべての人が平等だという思想」にもとづく。

 ここでは、上の宮沢俊義の叙述以上に、平等・自由・民主主義は(循環論証のごとく)分かち難く結びつけられている(こんな幼稚な?ことを書いていた横田喜三郎は、のちに最高裁判所長官になった)。

 今日までの社会科系教科書がどのように叙述しているかの確認・検討はしないが、日本において、「民主主義」は必ずしも正確または厳密には理解されないで、何らかの「よい価値」を含むようなイメージで使われてきたきらいがあると思われる。一流の(?)<保守派>(とされる)評論家にもそれは表れているわけだ。

 〇何回か(原注も含めて)言及・紹介したハイエクの「民主主義」・「自由主義」に関する叙述は、ハイエク・自由の条件(1960)の第一部・自由の価値の第7章「多数決の原則」の「1.自由主義と民主主義」、「2.民主主義は手段であって目的ではない」の中にある。

 これらに続くのは「3.人民主権」だ。

 余滴として記しておくが、この部分は、「教条的な民主主義者にとって決定的な概念は人民主権の概念」だと述べつつ(p.107)、「教条的民主主義者」の議論を批判している。

 ハイエクによると、例えば、この「人民主権」論によって、民主主義は「新しい恣意的権力を正当化するものになる」(p.107)、「もはや権力は人民の手中にあるのだからこれ以上その権力を制限する必要はない」と主張しはじめたときに「民主主義は煽動主義に堕落する」(p.151)。

 このような叙述は、原注には関係文献は示されていないが、フランス革命時の、辻村みよ子が今日でも選好する「プープル(人民)主権」論や、現実に生じていた<社会主義>国における(つまりレーニンらの)「民主主義」論を批判していると理解することが十分に可能だ。

 また、菅直人が言ったらしい言葉として伝えられている、<いったん議会でもって首相が選任されれば、(多数国民を「民主主義」的に代表する)議会の存続中は首相(→内閣)の<独裁>が保障される>という趣旨の<議院内閣制>の理解をも批判していることになるだろう(菅直人の「民主主義」理解については典拠も明確にしていつか言及したい)。

 ところで、横田喜三郎の書を紹介した上のエントリー(2009年)は、長尾龍一・憲法問題入門(ちくま新書、1997)のp.39~p.41の、こんな文章を紹介していた。

 ・民主主義=正義、非民主制=悪となったのは一九世紀以降の「価値観」で、そうすると「民主主義」というスローガンの奪い合いになる。この混乱を、(とくにロシア革命後の)マルクス主義は助長した。マルクス主義によれば、「封建的・ブルジョア的」意識をもつ民衆の教育・支配・強制が「真の民主主義」だ。未来世代の幸福のための、現在世代を犠牲にする「支配」だ。しかし、「未来社会」が「幻想」ならば、その支配は「幻想を信じる狂信者」による「抑圧」であり、これが「人民民主主義」と称されたものの「正体」だ。
 ・民主主義が「民衆による支配」(demo-cratia)だとすると、「支配」からの自由と対立する。「民衆」が全てを決定すると「自由な余地」はなくなる。レーニンやムッソリーニは、「民衆代表」と称する者による「徹底的な自由抑圧」を「徹底した民主主義」として正当化した。
 反復(再録)になったが、なかなか鋭い指摘ではないか。

 以上で、「民主主義」と「自由」の関係についての論及は終わり。

0977/西部邁「『平成の開国』は日本民族の集団自殺だ!」(月刊WiLL3月号)を読む。

 月刊WiLL3月号(ワック)の西部邁「『平成の開国』は日本民族の集団自殺だ!」(p.226~)は、最近の西部邁のものの中では共感するところが多く、興味を惹く部分もある。

 例のごとく(?)、タイトルと内容は必ずしもきちんと対応していないし、小沢一郎論にもとりあえずは大きな関心はない。

 佐藤栄作首相の後が田中角栄ではなく福田赳夫であったなら、日本の政治・政界も現実とはかなり異なる歩みを持ったのではないか、①程度の違いかもしれないが、親中か反共かの考え方の違いが二人にはあった、②日本の国家財政の<借金>づけ体質の始まりは田中角栄内閣にあるのではないか、といった関心から、その田中角栄の系譜の小沢一郎を問題にすることはできる。

 また、1993年の小沢の自民党離党(「新生党」結成)こそが細川非自民内閣の誕生の機縁になり、反小沢か否かで自社さ連立(村山)政権もできたのだったから、今日までに至る政界の混乱(?)はそもそもが、小沢一郎という政治家の言動に起因する、と言える、と思われる。
 そのような意味では、たんに<政治とカネ>や現在の民主党の内紛といった小さな(?)問題の中に小沢一郎を位置づけてはいけないだろう。

 以上は余計な文章で、西部邁批判ではない。別に本格的に小沢一郎には触れたい(あまり気乗りのするテーマではないが)。

 上掲西部邁論考は小沢一郎への言及から始まる。その部分は省略して、以下は、共感するまたは興味を惹く西部の文章の引用または要約だ。
 ・民主党政権は、「一言で表せば」「マスコミ政権」だ。メディアと「それに踊らされた世論」の責任は大きい。小沢の「化けの皮すら見抜けない」経済界の責任も大きい(p.228-9)。

 -本来なら「国民」と「メディア」に責任をとらせて「彼らを残らず始末」すべし、とまで西部は言う。また、メディアの責任に関して、「朝日新聞系」のほか、「あろうことか、産経新聞や『文藝春秋』まで」流れに追随、と産経新聞等も批判している。民主党政権(2009総選挙、鳩山由紀夫首相)の発足に関して、産経新聞や「文藝春秋」がどういう論調だったのか定かな記憶はないが、ともあれ、この両者もメディアの一部として批判されていることも目を惹いた。
 ・市場における「競争と政府による保護」は「両方とも必要」で、問題はをどのようにして両者の「絶妙なバランスを取るか」だ。民主党は「自由競争」・「弱者保護」とはそれぞれ何かという「原則的な問題」を見極められずに混乱している。だが、民主党のみならず、「財界」、「お役人、学者、その他のインテリ」といった「昨日まで自由競争バンザイを唱えていた連中までもが、今日になってパタッと口を噤んでしまい、誰も言わなくる」という、社会全体の混乱だ(p.231)。

 -「小泉構造改革」は保守派においてどう評価され総括されているのか、という疑問は最近に述べたばかりだ。小泉首相によって自民党が300議席以上を獲得したこともあって、当時は、保守派の多数部分は「構造改革」を肯定または支持したのではなかったのか? 当時に、八木秀次中西輝政等々は何と言っていたのだろうと、何人かの当時の主張・理解を振り返ってみたい、と思っている。ともあれ、西部邁が指摘するように、「昨日まで自由競争バンザイを唱えていた連中までもが、今日になってパタッと口を噤んでしま」う、という現象はあるのではないか。「貧困」・「格差」拡大キャンペーンに負けている、と言えなくなくもないこの問題は、もう少し関心をもち続けたい。

 ・TPPの「関税撤廃への歩み」は「市場競争を至上命題とする弱肉強食も厭わぬ新自由主義が、まだ延命している証左」だ。「新自由主義」を語る「日本のインテリの連中」は自由主義の「新旧の区別」をつけていない。「日本では新自由主義が小泉改革時代に最高潮に達し、様々な社会問題を噴出させ」た。それを民主党が批判したのなら、「旧自由主義」を振り返るべきで、そうすれば、「子ども手当や、その他の福祉ばら撒き政策など」が出てくるはずはない。だが、「自由主義」を拾っては捨て、「またゴミ箱から拾ってくる」のが民主党政権の醜態だ(p.232)。

 -西部邁のこの部分を支持して引用したわけではない。西部意見として興味深い。もともと「新自由主義」批判は「旧自由主義」に戻れとの主張ではなく、<親社会主義>からの資本主義(社会)自体への批判であるような気がする。にもかかわらず、民主党政権が直接に「社会主義」政策を採ることはできず依然として資本主義(いずれにせよ「自由主義」)の枠内で経済政策を決定せざるをえないために、その諸政策は場当たり的で首尾一貫していないのだ、とも思われる。なお、「子ども手当て」は中川八洋らも指摘しているように、特定の<親社会主義「思想」>による(またはそれが加味された)ものだろう。

 このくらいにして、時間的余裕があれば、さらに続ける。

0973/長尾龍一・”アメリカの世紀”の落日(1992)の「あとがき」。

 長尾龍一・”アメリカの世紀”の落日―「極東文明化」の夢と挫折(PHP、1992)の「あとがき」は1991.12に書かれていて、こんな言葉を含んでいる。p.192。
 ・「国際政治に対する一般的立場からすれば、私は戦後一貫して、共産圏の拡大を阻止するというアメリカの政策を支持し続けてきた」。
 ・六〇年「反安保闘争の動機に疑念を提出し続けていた」。当時の反安保キャンペインの月刊誌など「汚らわしくて手続も触れないというくらいのもの」だ。
 ・「それとともに私は、マッカーサーの占領の成果に寄生しながら、共産圏に関する幻想をふりまき、西側世界を共産圏に向かって武装解除しようとしてきた左翼知識人たちに対して、いうにいえないいかがわしさを感じてきた」。「米軍を追い返し、日本を非武装化しようとする人々の意図がどこにあるのか」、彼らの「純粋な平和への願望」を「信じたことがない」。

 -このようにアメリカの基本政策に賛成しつつ、様々な観点から様々な感想をもってアメリカを観察した。その成果がこの本だ、とされている。
 長尾龍一、1938~、元東京大学教養学部教授(法思想史・法哲学)。
 上のように書く人が東京大学教養学部にいたとは、心強いことではある。
 だが、ソ連・東欧(共産党)の崩壊・解体が明瞭になっていた時点になってからの上のような言明をそのまま鵜呑みにして<称賛?>することはできず、上の本のほか、それまでのこの人の研究内容・文献をも参照する必要があるだろう。
 

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