秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

吉永小百合

1276/田久保忠衛・憲法改正最後のチャンス(並木)を読む-4。

 〇 現憲法九条について、その1項と2項とを分けて論じることは、決して「左翼」憲法学者の解釈ではない。彼らはむしろ、1項によって自衛(防衛)戦争を含むすべての戦争が「放棄」されていると読みたいかもしれない。学者ではなく、吉永小百合を含む「左翼」一般国民は、九条1項ですべての戦争が放棄され、2項はそれを前提にして確認的に具体化した規定であると漠然と理解している可能性が高い。
 <保守派>憲法学者である百地章は、2013年参院選直前の産経新聞7/19の「正論」欄で「『憲法改正』託せる人物を選ぼう」と題して、次のように述べていた(この欄の2013.07.20で既述)。
 「9条2項の改正だが、新聞やテレビのほとんどの世論調査では、『9条の改正』に賛成か反対かを尋ねており、『9条1項の平和主義は維持したうえで2項を改正し軍隊を保持すること』の是非を聞こうとはしない。なぜこれを問わないのか。」 
 このとおり、<9条1項の平和主義は維持したうえで2項を改正し軍隊を保持すること>を提言することは、<保守>派の者であっても何ら奇異なことではない。産経新聞社案「国民の憲法」とその解説は、むしろ異質で少数派に属するかもしれない。
 ここで再び不思議なことに気づく。百地章は田久保忠衛とともに産経新聞案「国民の憲法」の起草委員の一人なのだが、何と前回に言及した「美しい日本の憲法をつくる国民の会」の<幹事長>でもあるのだ(ウェブサイト、本日現在で同じ)。
 ということは、「美しい日本の憲法をつくる国民の会」の共同代表の一人と幹事長は、産経新聞社案起草の際は現九条1項を含めて九条を全面的に改めることに同意していたが、「美しい日本の憲法をつくる国民の会」の共同代表と幹事長としては、九条1項の「平和主義」は堅持する考えであることになる。きわめて奇妙で不思議だ。
 合理的に考えられるのは、産経新聞社案起草の際と上記の「国民の会」設立の際とでは考え方を変えた、ということだろうが、憲法改正論上の重要な論点についてこのように簡単に?基本的考え方を変えてよいのか、そして、そのような方々を信頼してよいのか、とすら感じてしまう。田久保忠衛は2014年10月30日刊行(奥付による)の本でも産経新聞社案と同じ考え方であることをその理由も挙げて積極的に記している。「美しい日本の憲法をつくる国民の会」の設立は、2014年10月01日だ。はて??
 なお、憲法学者の西修(駒沢大名誉教授)も、5人の産経新聞案「国民の憲法」の起草委員の一人であるとともに、上記「国民の会」の<代表発起人>だ。
 〇 上の問題はこのくらいにして、「前文」に移る。既述のように、田久保忠衛はその著で憲法の具体的内容については、前文・天皇条項・九条にしか触れていない。国会についても、衆議院と内閣の関係についての衆議院「解散権」の所在・要件についても、「地方自治」等々々についても、むろん「人権」または国民の権利・義務条項についても論じられるべき点は多いにもかかわらず、上の三論点あたりに関心を集中させてきたのが<保守派>の憲法改正論の特徴だ。田久保が触れていない問題については、別のテーマとして扱ってみたい。
 さて、田久保は縷々述べたのちに、現在の前文を産経新聞社案「国民の憲法」のそれに「一日も早く…差し替えたい」としている(p.107)。
 感想の第一は、そもそも憲法の前文とはいかなる法的性質をもつのか、に関する議論が必要だ、ということだ。産経新聞社・国民の憲法(産経)を見ないままで書くが、現日本国憲法のような長い前文をもつ憲法は世界でもむしろ少ないように思われる。あっても、制定の経緯のほかは基本的原理・理念をごく簡単に述べているにとどまるようだ。
 現憲法前文が日本の「国柄」に合わないこと、これを改めてしっかりと日本の「国柄」を書き込みたいという気持ちは理解できるし、あえて反対はしない。しかし、もともと前文とは本文(の個々の条文)のような法規範的意味は持たず、個々の条項の解釈に際して「参照」または「(間接的に)援用」されるものにすぎないと考えられる。
 したがって、過大なエネルギーを割くほどのものではないし、文章内容について激しい議論・対立が生じるようであれば、いっそ現在のものを削除して、新しい前文は改正(「新」憲法の制定でもよい)の経緯を記録として残す程度にして、内容的なものはいっさい省略する、というのも一つの考えだと思われる。
 むろん、日本の「国柄」を示す10ほどの文からなる文章について、容易に合意が成立し、過半数国民も理解し、納得できるならばそれでもよい。あえて反対はしないし、する必要もない。
 第二の感想は、田久保が「差し替えたい」と望んでいる新前文の内容について、上のような合意・納得が得られるのだろうかという疑問が生じる、ということだ。
 例えば、「国家の目標として独立自存の道義国家を目指す」というが、「道義国家」とは何か。ほとんど聴いた又は読んだことがない「国家」概念だ。むろん、「道義」をもつ国家であろうとすることに反対はしないが、「国家の目標」として憲法前文に書き込むほどのことなのだろうか。
 上のことよりも、より疑問をもち、問題を感じたのは、「道義国家」文の一つ前の「日本国は自由主義、民主主義に立脚して基本的人権を尊重し…」というくだりだ。
 櫻井よしこの週刊新潮1/29号の連載コラムには最後に、「自由、民主主義、法治という人類普遍の価値観」を肯定的に語っている文章がある。
 安倍晋三首相も同じまたは類似の発言をしばしばし行っていて、本心で又は心底からそう思ってなのか、対中国(・北朝鮮等)を意識して欧米(かつての西側)むけに<戦略的に>言っているのか、と訝しく思っている。
 「日本国は自由主義、民主主に義に立脚」するという場合の「自由主義、民主主義」とはいったい何を意味しているのだろうか。櫻井よしこが言うように「人類普遍の価値観」なのだろうか。アフリカ・イスラム圏を含む「人類普遍の価値観」だとは到底思えない。これらは近代西欧に由来する<イデオロギー>で、日本ではそのままでは採用できず、そのままでは定着することはない、と考えている。こんなに簡単に前文の中に取り込むためには、その意味等々について相当の議論が必要だと思われる。
 とくに「民主主義」は、日本共産党を含む「左翼」の標語であり、そのうちに(人民民主主義・プロレタリア民主主義という「独裁」の一形態を経ての)「社会主義」・「共産主義」というイデオロギーを胚胎している、と私は理解している。
 私どころか、有力な<保守派>論客も、「民主主義」の危険性を説いてきた。
 長谷川三千子・民主主義とは何なのか(文春新書、2001)のある長谷川は、最近の長谷川=倉山満・本当は怖ろしい日本国憲法(ビジネス社、2013)の中でも、民主主義・「国民主権」の<怖ろしさ>を語っており(p.34-48など)、倉山満は、「長谷川先生は『平和主義』『人権主義』『民主主義』というのは、そもそも怖いものだということを力説しています」とまとめてもいる(p.155)。
 長谷川三千子は産経新聞社憲法案とは無関係のようだが、上記、「美しい日本の憲法をつくる国民の会」の「代表発起人」の一人ではある。長谷川が上記の「日本国は自由主義、民主主義に立脚して基本的人権を尊重し…」という部分に容易に賛同するとは考え難い。
 自民党憲法改正草案はいわゆる<天賦人権論>に立つと言ってよい現憲法97条を削除することとしており、産経新聞社案も同様のはずなのだが、そこでなおも語られる「人権」・「権利」ではない<基本的人権>とは何のことなのか、近代西欧的<天賦人権論>が付着した、それと無関係に語ることはできないものなのではないか、という問題もある。
 田久保忠衛の推奨する産経新聞社案の前文が<保守派>のそれだとすれば、私はきっと<超保守的>であるに違いない。<戦略的に>?「自由主義、民主主義」等を語ることも考えられるが、真意ではない文章を掲げるくらいならば、いっさい省略してしまう方がよい、と思う。
 というようなわけで、田久保のせっかくの長い叙述にかかわらず、「国柄」を書く文章はむつかしい、と感じざるをえない。
 フランスのように自由・平等・博愛(友愛)をなおも理念として前文に書いたり(1958年第五共和国憲法)、ドイツ憲法(ボン基本法)のように「ドイツ連邦共和国は民主主義的かつ社会的な連邦国家である」という明文条項をもつ国家はうらやましいものだ。「国柄」をどう表現するかについて、過半の日本国民に一致はあるのだろうか、合意は得られるのだろうか。

1196/浦川泰幸(朝日放送)と日本共産党系活動家・吉永小百合。

 〇8/15の朝番組について、同日のこの欄で、テレビ朝日の坪井直樹らしきキャスターの発言を批判的に取りあげたが、正しくは朝日放送の浦川泰幸の「おはよう朝日です」内での発言だった。坪井直樹氏にはお詫び申し上げる。ほとんど見たことのない番組だったので(朝日系は原則として観ない)、キャスターの氏名になじみがなかった。異例だが、8/15の書き込みの名前をこのあとで「浦川泰幸」に改める。
 しかし、もちろん、発言内容に関する批判的コメントを改めるつもりはない。

 浦川泰幸、1971年5月生まれ、立命館大学経済学部卒。出身大学・学部と先日の発言とに直接の関係はないだろうが、立命館大学とは「リベラルな」末川博のもとで戦後、容日本共産党の「左翼」教授たちを集めてきた大学。1970年前後の学生「紛争」時代、すべての学生自治会の主導権・執行部を「全共闘」系ではなく、日本共産党・民青同盟系学生が握っていたことでも知られる。少なくともかつては、同大学経済学部は日本共産党系マルクス主義経済学者でほとんどを占めていたものと推測される。

 現在でも上記のような雰囲気は残っているはずなので、浦川泰幸は「何となく」その影響を受けた可能性がある。そうでなくとも、朝日放送に入社以来、おそらくは毎朝・毎夕に朝日新聞を読んで、「朝日」的感覚と「朝日」的歴史認識を身につけたのだろう。そうでないと、原稿を読むでもない、先だって記したような発言を早口で一気に喋ることができるはずがないと思われる。

 〇やや古いが、今年5/03付朝日新聞朝刊に「女性は戦争への道を許さず、憲法9条を守ります」と大書した、一面全体を使った「意見広告」が掲載されている。
 この意見広告の呼びかけ人は、雨宮処凜、澤地久枝、湯川れい子、田中優子(法政大学教授)ら。
 目を惹いたのは、「第一次賛同人」として氏名が小さく書かれている102人の中に、「吉永小百合(俳優)」とあることだ。
 岩波書店の護憲派のブックレット類に文章を寄せている吉永小百合だから「左翼」的だろうと思っていたが、この意見広告の「事務局団体」の列挙を観ていると、呼びかけ人や賛同者は日本共産党系または日本共産党とは対立していない、(立命館大学教員と同様に?)<容日本共産党>の女性たちであることが分かる。
 事務局団体のうち「自由法曹団女性部」、「新日本婦人の会」が日本共産党系(幹部は党員だろう)であることは知っていた。その他を少し調べてみると、「全国労働組合総連合(女性部)」とは民主党系のいわゆる<連合>とは異なる日本共産党系の<全労連>のこと、「日本婦人団体連合会」とは新日本婦人の会などが加入しているやはり日本共産党系とみられる全国的連合団体。その他は省略するが、「左翼」の中には非または反・日本共産党系の者たちも存在するところ、この意見広告は日本共産党系の女性たちのものであり、その中に吉永小百合も明記されている。俳優または女優と注記があるのは10名もいないにもかかわらずだ。

 将来に現憲法9条2項の改正が現実的な政治的・国民的争点になるとき、「国民的女優」・吉永小百合は積極的にか利用されてか、改憲反対(護憲)の主張者として、ある程度の影響力を持ってしまう可能性がある。「国民的女優」ぶりはJR東日本の宣伝キャラクターとして活躍し?、ある程度大きな同区域の駅の構内には吉永小百合の顔のポスターが目に付くことでも示されている。
 いざとなれば「国民的映画監督」・山田洋次も、同様の役割を果たす可能性がある。NHKは<山田洋次監督が選んだ…日本映画>とやらを連続放映していたが、わざわざ「山田洋次監督が選んだ」と題するところに、NHKらしさがあるとも言える。
 改憲派、憲法九条2項改正派は、吉永小百合や山田洋次等に対抗できる「国民的」俳優・映画監督を自分たちの仲間に含めているのかどうか、気になる。
 日本共産党系発言者としての吉永小百合の活動を封じる必要がある。

0393/映画「母べぇ」の製作意図は?

 山田洋次監督・吉永小百合主演の映画「母べぇ」というのが上映されている(らしい)。
 読売新聞1/24の全面広告欄で、原作者・野上照代はこう語る(一部)。
 <今も世界には「暴力による支配」に苦しむ多数の人々がいる。日本で「も」、「戦争の怖さ、悲惨さ、残酷さを語り継ぐ体験者」が減り、「戦争を知らない世代がほとんど」。戦争の時代は「すっかり過去の遺物」となりつつある。「しかし、…ああいう時代がいつまた来るかわかりません」。「暴力」は「本当に恐ろしく、私の父のように戦争反対を唱える人はまれで、…。だから、ひたひたと恐ろしい時代が忍び寄っていたとしても気付かず悲惨な歴史がまた繰り返されるのではないかという不安があるのです」。>
 かかる発言は一体何だろう。どこかで何回も聞いたことがある、<二度と繰り返すな、警戒しないとまたあの時代が>という<狼少年>的な教条「迷い言」そのままではないか。
 「ああいう時代がいつまた来るかわかりません」などと言っているが、「ああいう時代」は絶対に二度とやって来ない、と私は考えている。まるで現在が「ひたひたと恐ろしい時代が忍び寄っていたとしても気付かず…」という時代であるかの如き発言もしているが、じつに幼稚な、日教組等がかつてよく言っていたような、情緒的な<戦後左翼>の言葉そっくりではないか。
 吉永小百合も「ひとりの日本人として『母べぇ』の時代のことは忘れてはならないとの思いを胸に、心を込めて」演じた、と語る。
 山田洋次もいわく、「軍国主義の時代…」、「表現の自由が認められない、辛く厳しく、重苦しい時代でした…」、「こうした時代の記憶…作品として次世代に残していくのが使命…」等々。
 戦時中に「思想犯」として投獄されていた者の家族(吉永小百合ら)をその妻(子の母)を中心に描く、表向きは、またたぶんかなりの程度は<ヒューマニズム溢れた>映画なのだろうが、しかし、上の言葉等からすると、<戦争反対>の「思想犯」を英雄視し、又は英雄とまではいかなくとも真っ当な立派な人物として描き、日本「軍国主義」を批判する<反戦>映画であることは間違いないだろう。
 逮捕・投獄されるほどの当時の「思想犯」とは、コミュニスト(マルクス主義者)あるいは親コミュニズム者(親マルクス主義者)である可能性も高い。少なくとも、日本の戦勝を喜びはしなかったと思われる「国民」で、戦後初期、例えば占領中の人物評価基準と同じ価値基準を今日でも用いるのは適切ではないだろう。
 また、言うまでもなく、山田洋次も吉永小百合も「九条の会」(現憲法九条の改正に反対するグループ)の有力な賛同者であって、たんなる監督・女優あるいは文化人ではない。
 <ヒューマニズム溢れた>映画に反対するつもりはないが、しかし、野上照代が「暴力による支配に苦しめられている人々がたくさんいます」などと言うのならば、山田洋次監督・吉永小百合主演で、例えば、北朝鮮、中国、チベット、かつてのカンボジア、ソ連等々の「表現の自由」のない人々と関係のある日本人を主人公とする映画を作ってほしいものだ。北朝鮮については、その「暴力」のれっきとした被害者が現に日本にいるではないか。
 なぜ山田洋次は、<めぐみさん>又はその両親を描く映画を作ろうとしないのか?
 現・旧の<社会主義国>の「暴力」や「弾圧」には目が向かず、日本「軍国主義」を結局は(間接的にせよ)糾弾する映画作りには熱心になるという山田洋次は、そして吉永小百合も、やはり、私に言わせれば、<ふつうじゃない>。
 なお、産経新聞1/30は、広告記事ではなく一般のインタビュー記事として野上照代に語らせている。この映画の上映収益の増大に一役買っていることになる。読売の広告欄のような言葉を野上は(あからさまには)述べていないが、これが野上の<自粛>なのか、記者の判断による取捨選択の結果なのかは分からない。
 ともあれ、映画もまた、<時代の空気>のようなものを作っていく。1970年代には、「容共的」作家・五味川純平原作の、日本の財界人を「悪徳」者視し、中国共産党員をヒロイックに描いていた、山本薩夫監督の『戦争と人間』全三部という大作映画もあった(吉永小百合も山本学・圭らとともに出演)。「母べぇ」を観る気はないが、<政治>的匂いのある映画には(良かれ悪しかれ)関心を向けておくべきだろう。

0108/<平和の語り部>吉永小百合はいかなる「政治的」役割を果たすか。

 憲法を変えて戦争へ行こうという世の中にしないための18人の提言(岩波、2005.08)という小冊子の中の吉永小百合様の一文については、すでに3/30午前0:00で批判させていただき、また、潮匡人・憲法九条が諸悪の根源(PHP)による同じ一文に対する批判も、3/30の19時台のエントリーで紹介した。
 ネットを散策していると、静岡新聞の2005年1月のコラムに、吉永小百合に言及するこんなのがあった。
 「人物像をたどると、この時代の風俗の変遷がよく分かります。戦後の荒廃から東洋の奇跡といわれる繁栄の道を歩んだ日本と、ほぼ同時代を生きた団塊の世代あたりには、懐かしい顔ぶれのはずです。女優像の中でも特に印象深いのは、さしづめ吉永小百合でしょう。戦後還暦と称される05年に、彼女がやはり還暦を迎える。こじつけでなく、エポックメーキングに思えるに違いない。/彼女が演じる純愛のヒロインに胸ときめかせた階層にとって、社会派作品で質量感の凝縮した美しさ、演技者として重厚さを増してゆく 『昭和の少女』は、同時代感を抱かせる存在ではなかったでしょうか。『サユリスト』たちにとって、一種の信仰の対象となったのでした。少女は円熟の域へと成長しています。いま彼女は、『平和の語り部』として各地を巡り、日本人の言葉を紡いでいます。それが自らに課した使命であるかのようです。
 ここで「平和の語り部」というのは、<反原爆>の詩を朗読する活動を意味することは、吉永小百合評論家を自称したい私には(半分冗談だが)、すぐわかる。
 記憶にのみよるが、小百合様は2002年頃の日経新聞のインタビュー記事に登場し、原爆に関心を持ったきっかけは「夢千代日記」の他に、(時期的にはその前に) 映画「愛と死の記録」に出演したことにある旨を述べていた。いずれも主な登場人物の一人が原爆病(白血病?)で死亡する<物語>だ。
 吉永小百合様は毎日新聞2006.06.26付にも登場している。
 「原爆」を意識したのは21歳のときの映画「愛と死の記録」によると述べたあと、「戦争と平和」については、山本薩夫監督の映画「戦争と人間」(の第2部と第3部、1971年6月と1973年8月)に出たことで「自然に平和学習をさせてもらった」と語っている。
 上の後者は、少なくとも日本共産党シンパだったと思える五味川純平(1916-95)の小説が原作の、日本共産党員だった可能性すらある監督によるもので、同じく日本共産党員だった可能性がある山本学・山本圭も出演していた(滝沢修もだが)。そして、私の記憶では、上映当時は日本共産党・民青同盟またはそれらの系列の団体が割引券を「一般」学生・市民に売っていた、つまりは観るように運動していた。そうした映画の影響があることを、今日においても語っているわけだ。もともと映画会社・日活の労組は強かったという話を読んだことがあるので、すでに彼女が(多数の映画に夢中で出演していた)10歳代の頃から「左翼」的風潮の影響を受けていたのではないか、とも想像する。
 また、憲法9条を「守る」ことについて、「世界中が9条みたいな憲法を持ったら、結局は戦争はなくなるわけですから。」とヌケヌケ?と根拠づけている。このあたりの非現実的な甘さは某朝日新聞にも似て変わり得ないのかもしれないが、3/30に記したように、単身で中国・北朝鮮に乗り込んで、両国の主席・将軍様に「9条みたいな憲法」を作ってくださいと「美しいコトバ」で「説得」してほしいものだ。
 さらに、「過去に何があったかというのを見つめようとしない国民性というか、そのあたりが問題だと思う」と(たぶん自分は「見つめ」ているつもりで)おっしゃる。
 このような言い方は他の「サヨク」本でも読んだように思うが、吉永小百合様はここの「過去」の中に、南京「大虐殺」、「百人斬り競争」、沖縄「集団自決命令」等々まで含めているのかどうか。
 「過去に何があったか」を知ることが重要なのはそのとおりだが、「過去になかった」ことまで<事実>だと認識する必要はないのも当然なことだ。
 吉永小百合様が「過去に何があったかというのを見つめ」るべきと言うときの「過去」とは存外に、70年代頃の映画「戦争と人間」が代表していたような、日本は悪いこと・ヒドいことをしたという、漠然とした(どちらかといえば古い)<風潮的>・<印象的>認識・知識にすぎないのではなかろうか。
 <平和の語り部>としてのサユリ様の活動を一般に批判するつもりはない。ただ、特定の政治的勢力・団体に彼女の名が「利用」されないことを再び望むところだ。

0028/潮匡人・憲法九条は諸悪の根源(2007.04)のごく一部を読む。

 昨夜、潮匡人の呉智英批判に触れているうちに潮の近著に言及し、さらにその中で吉永小百合様に関する記述があるらしいことからの連想で、吉永小百合様うんぬん、の別の文章を書いてしまった。
 潮匡人・憲法九条は諸悪の根源(PHP、2007.04)を購入して、さっそく一部を読んだ。
 まず、吉永小百合様の一文を含む井筒和幸ほか・憲法を変えて戦争へ行こうという世の中にしないための18人の提言(岩波、2005.08)という冊子につき、別の本を引用しつつ、次の旨を言う。(この冊子は私も無論持っていて計64頁、定価500円なのだが、)この薄い本(冊子)のために岩波は、2005年8/04に朝日、毎日、読売、東京、翌8/05に日経、産経に、いずれも一面全体を使った広告、いや広告というよりも「九条を守ろう」との意見広告、を出した。一面全面広告には「億単位の広告料がかかるら。…護憲派は潤沢な資金源に恵まれているようだ」。
 引用されているのは私も所持している自民党政務調査会主席専門員の田村重信・新憲法はこうなる(講談社、2006.11)で、該当頁のp.164-5にはたしかに上の前半の事実が書かれている。その上で田村は言っている-18人は「左派系の学者や文化人」で、「背後には、2004年6月に発足した「九条の会」の存在があり、それを陰で操っているのは共産党です」。
 九条の会の呼びかけ人自体は井上ひさし・奥平康弘を除いて必ずしも日本共産党直系とは言えないが、各地域・各職域等に今や5000あるらしい「九条の会」の実権を握っているのは日本共産党のようだと諸情報から判断していたが、上の田村は、あっさりとそのことを「操っている」という言葉を使って認めている。私の推測は誤っていないだろう。
 つぎに、吉永小百合様批判の部分のみを紹介しておく。彼女は「もう一人の女優、渡辺えり子さん」とともに「女優の虚言や戯言はともかく…」とまともに扱われていないふうなのだが、潮は具体的には次の如く反論又は説明している(p.165以下)。-1.吉永は憲法九条は「コスタリカを始めとして、多くの国の人たちから賞賛されています」と書くが、コスタリカ以外のどの国が賞賛しているのか。外国の人は憲法九条の存在すら知らず、かりに知れば最新鋭の戦闘機やイージス艦を(「自衛隊」が)保有しているのを疑問に感じるだろう。また、「コスタリカ憲法は常備軍を廃止しただけで、有事には徴兵し軍隊を編成できる」し、「武装した国家警備隊」も持ち、米国との間に「集団自衛権行使」を含む軍事同盟関係にある。さらに、反共産主義を貫いていて中国と国交を結んでいない。
 コスタリカは護憲論者がよく引き合いに出す国だが、このような状況だとは知らなかった。
 2.吉永は「人間は、『言葉』という素晴らしい道具を持っています」と書き、「武器ではなく、憲法九条こそが、私たちを守ってくれます」とも書くが、後者は「いくら何でも言い過ぎではないか」、「あまりに低レベルな反論だが、相手の土俵に乗ろう。彼女は、自宅の門に憲法九条を掲げ、鍵も掛けずに眠るのであろう」。
 この潮匡人の本は「護憲派」の主張・言い分にも触れつつ多様な論点を扱っている。いずれまた、憲法九条論や憲法改正論に関連して言及したい。

0026/吉永小百合様、美しい「言葉」の力で金正日と「粘り強く話し合い」して下さい。

 「団塊」世代のマドンナと称されているかもしれない、あの吉永小百合様が岩波ブックレット・憲法を変えて戦争に行こうという世の中にしないための18人の発言(2005.08)の中で、次のように書いておられる。-「人間は『言葉』という素晴らしい道具を持っています。その道具で粘り強く話し合い、根っこの部分の相違点を解決していく――報復ではなく、半歩でも一歩でも歩み寄ることが「言葉」を持つ私たちの使命だと思います」(p.18)。
 「言葉」という「道具で粘り強く話し合い、根っこの部分の相違点を解決していく」ことができれば、それに越したことはない。「粘り強く話し合」っても何ら誠意をもって対応せず、言葉と矛盾する行動を平気で行う人や国家が存在するからこそ問題なのであり、経済的・軍事的「圧力」も必要になるのだ。吉永小百合には是非、朝鮮半島の北半分にいる将軍様(ウンサンニム)に「『言葉』という素晴らしい道具」で話しかけ、「粘り強く話し合」っていただきたいものだ。
 美しい心の小百合様には、国民を餓死させ、開発凍結と言っておいて平気で核実験実施をする国家の存在を想像すらできないのだろう。
 彼女はまた、「命を大切にすることは、憲法9条を大切にすること。国際紛争を解決する手段として、武力行使は永久にしないと定めた憲法は、人間の命を尊ぶ、素晴らしいものです」と憲法九条を讃える。
 だが、残念ながら小百合様には憲法に関する基礎的素養がなさそうだ。9条1項が規定している「国際紛争を解決する手段」としての武力行使の禁止は、少なくとも憲法学説上の多数見解および政府見解によれば、「侵略」戦争の放棄の意味だ。9条1項は「防衛」又は「自衛」戦争をも放棄(禁止)してはいない。そしてこのことは日本国憲法に限らず、今日の世界においては当然のことなのだ。
 憲法改正に際しての焦点は、「戦力」不保持、「交戦権」否認の9条2項をどうするかにある。1項によって「自衛」戦争が禁止されていないとしても、2項で「戦力」保持・「交戦権」が否定されているために、結果として「自衛」のための「戦争」もできなくなる、というのが多数見解による9条の条文の読み方なのだ。ここで「戦争」や「戦力」・「交戦権」の厳密な意味が問題になるが、そこに立ち入らないとしても、「戦力」不保持・「交戦権」否認の憲法9条2項があるがゆえにこそ外国からの攻撃によって日本国民の生命が奪われることを有効に防止できないとすれば、「憲法9条を大切にすること」は日本国民の「命を大切に」しないこと、を意味することになる。
 かくの如く、小百合様の文章は美しいが、<戦争反対という情緒>(これ自体を悪いとか誤っているとかは言わない)が書かせたものにすぎない。
 朝日新聞社が<私たちは「言葉」の力を信じます>とかのコピーで宣伝していたが、小百合様の上の文章にヒントを得たのではなかろうか。それはともかく、朝日は、事実を否定し又は存在しない事実を作り出す(「捏造」)ために「言葉」を用いた、あるいは「言葉」の力によって虚報をさも真実のごとく装ったことがある。当然ながら「言葉」の力は良い方向にも逆の方向にも働きうる。それが明確でないコピーは「言葉」の力でウソを真実に変えますと言っているようで、じつに気持ちが悪い。
 続けて記せば、吉永小百合様は、昨年の毎日か日経のインタビュー記事中で、広島・長崎に原爆を投下されたのは、当時の日本政府の<ポツダム宣言受諾が遅れたためだ>ということのみを語り、あたかも責任はすべて日本政府にあったかの如き旨を語っていた。表現・記述不足ということも考えられるが、当時の国際法上も違法だった可能性が高い非戦闘員・一般市民の大量殺戮を行った米国に対する批判的視点が全くないとすれば、由々しき「歴史認識」をお持ちだ。小百合様にとっては、広島・平和公園内の「過ちは繰り返しませんから」との碑の主語は、おそらく間違いなく日本、あるいは日本政府・日本軍なのだろう。ということは、彼女が生まれる直前の東京大空襲による非戦闘員・一般市民の大量殺戮も、決して米国に責任はなく、そのような反撃を招くような戦争に至らしめた日本政府・日本軍に責任があると考えておられる可能性もある。そのような「歴史認識」でおよろしいのかどうか。
 「九条を考える会」のアピールに賛同しておられる(賛同人名簿に載っている)吉永小百合様の個人的な「歴史認識」はもうお変わりにならないかもしれない。だが、実質的には日本共産党が実働部隊となり主導権を握って運動していく可能性が高い「九条の会」に政治的に利用なされることないよう願っている。

-0058/中沢新一は憲法の素人-憲法九条1項-と建築規制行政。

 憲法九条を世界遺産に(集英社新書、2006)を入手して中沢進一のあとがき的部分を見た。
 この中沢新一も、吉永小百合と同じく九条条1項を日本文としてしか読んでおらず、誤った理解に基づく間違った叙述をしている。
 異説もなくはないが、同項の「国際紛争を解決する手段として」の戦争とは国際法上の用語法の歴史的沿革から見て「侵略」戦争を意味する、と政府や学界多数説は解釈してきていることは間違いないのだ。
 1項で自衛権が放棄されていないことを前提として、2項による「戦力」不保持・「交戦権」否認のために「自衛戦力」は持てず「自衛戦争」もできない、しかし「自衛のための必要最小限度の実力」の保持まで禁止されてはおらず、現在の自衛隊はその範囲を超えていないため違憲ではない、というのが(最後の部分などは相当に苦しいが)政府の憲法解釈なのだ。
 この程度の基礎的知識もない二人の対談は、どのように新鮮・珍奇な表現・論法が言葉の上だけで用いられているとしても、建設的なものではありえず、当分読むつもりはないが、たんなる情緒・気分の発露にすぎないだろう。このような本がベストセラーになるとは、まともな国民的議論のためにはマイナスだ。
 イーホームズの藤田東吾社長の言動が話題になっている。
 建築規制行政において建築業界と自治体や国(国土交通省)の「癒着」あるいは前者の不正の「隠蔽」があれば当然に問題で(そのような可能性を私は否定しない)、また安全性を欠いたままのマンション住戸(「…大師駅前」)が販売されているとすれば由々しきことは無論で、マスコミは少なくとも同氏によって「告発」されている川崎市・国交省建築指導課等々を取材すべきだ。
 私は彼が積極的に嘘をついているとは感じないが、告発文等が「推測」の部分を含んでいることは否定できないのではないか。また彼の意図と離れて、アパ・グループが「安晋会」会員であることからこの問題を安倍や自民党と強引に?結びつけようとするのは「政治的」すぎるだろう。
 もう少し一般的にいうと、建築規制部署のみならず旧建設省でいうと旧建設経済局にあたる部署の業界との限度を超えた「癒着」も十分に考えられる。
 同様のことは都道府県の建設業法や宅建業法所管部局についてもいえる。
 適正な規制・監督を効果的にしないことにより、業界を「甘やかして」はいないか。
 マスコミ記者等は専門的知識が乏しい。したがって、彼らに任せるのはまことに心もとないが。

-0051/吉永小百合様へのラブ・レター。ついでに朝日の「言葉」とは?

 「団塊」世代のマドンナ・吉永小百合様が岩波ブックレット・憲法を変えて戦争に行こうという世の中にしないための18人の発言(2005.08)の中で、こう書いている。
 「人間は『言葉』という素晴らしい道具を持っています。その道具で粘り強く話し合い、根っこの部分の相違点を解決していく――報復ではなく、半歩でも一歩でも歩み寄ることが『言葉』を持つ私たちの使命だと思います」(p.18)。
 「言葉」という「道具で粘り強く話し合い、根っこの部分の相違点を解決していく」ことができれば、それに越したことはない。「粘り強く話し合」っても何ら誠意をもって対応せず、言葉と矛盾する行動を平気で行う人や国家が存在するからこそ問題なのであり、経済的・軍事的「圧力」も必要になるのだ。
 美しい心の小百合様には、国民を餓死させ、開発凍結と言っておいて平気で核実験実施をする国家の存在を想像すらできないのだろう。
 彼女はまた、「命を大切にすることは、憲法9条を大切にすること。国際紛争を解決する手段として、武力行使は永久にしないと定めた憲法は、人間の命を尊ぶ、素晴らしいものです」と憲法九条を讃える。
 しかし、残念ながら小百合様には基礎的素養がなさそうだ。「国際紛争を解決する手段」としての武力行使の禁止は「侵略」戦争の放棄の意味であり9条1項が規定している。そしてこれは日本国憲法に限らず今日の世界においては当然のことなのだ。憲法改正に際しての焦点は、「戦力」不保持、「交戦権」否認の9条2項をどうするかにある。「戦力」不保持・「交戦権」否認の憲法があるがゆえにこそ外国からの攻撃によって日本国民の生命が奪われることを有効に防止できないとすれば、「憲法9条を大切にすること」は日本国民の「命を大切に」しないこと、を意味することになる。
 このように、小百合様の文章は美しいが、戦争反対という情緒(これ自体を悪いとか誤っているとかは言わない)が書かせたものにすぎない。
 朝日新聞社が<私たちは「言葉」の力を信じます>とかのコピーで宣伝しているが、小百合様の上の文章にヒントを得たのではなかろうか。
 それはともかく、朝日は、事実を否定し又は存在しない事実を作り出す(「捏造」)ために「言葉」を用いた、あるいは「言葉」の力によって虚報をさも真実のごとく装ったことがある。当然ながら「言葉」の力は良い方向にも逆の方向にも働きうる。それが明確でないコピーは「言葉」の力でウソを真実に変えますと言っているようで気持ちが悪い。


ギャラリー
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
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  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
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  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
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  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
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  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
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  • 2302/加地伸行・妄言録−月刊WiLL2016年6月号(再掲)。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
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  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
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  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
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  • 2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
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  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
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  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
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  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
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