秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

軍事・防衛

1316/憲法学者の安保法案「違憲」論は正しくない-4。

 一 つまみ食いになるが、西尾幹二・同全集第11巻-自由の悲劇(国書刊行会、2015.06)の「後記」で、西尾は「立花隆、加藤典洋、姜尚中、内田樹、藤原帰一、中島岳志、加藤陽子、保阪正康、香山リカ」の名を挙げ、「いわゆる『リベラル派』と称せられる一群の勢力」の者たちについて、つぎのように語っている(p.747)。
 「彼らは専門知に長け、世界を詳しく知っているが、現実の判断となるとウラ目に出る」。
 「彼らには学問上の知識はあるが、判断力はなく、知能は高いが、知性のない人たちなのだ」。
 もともとは外国人移民問題に関する西尾の論敵およびその「後続部隊」の者たちについての文章なのだが、<リベラル派>憲法学者・長谷部恭男に対する指摘としても読めなくはない。
 戦後教育の優等生としての長谷部恭男は、「専門知に長け」、「学問上の知識はあるが」、「現実の判断」・「判断力」はじつに乏しいのではないだろうか。安倍内閣による憲法解釈の変更の背後にある「現実」=安全保障環境の変化については別に扱う。
 二 日本共産党機関誌・前衛2015年7月号に、安保法案を批判する日本共産党・志位和夫の最近のテレビ発言類が資料として掲載されている。それによると、志位はいわゆる新三要件の第一の<存立危機事態>の認定について、こう述べて批判している。
 「明白な危険」かどうかを「判断するのは政府なんです」、「政府の一存で広がっていくわけですね」(p.54)。
 これがなぜ批判となるのか、さっぱり分からない。<存立危機事態>に該当するかを認定するのは「政府」であってなぜいけないのだろうか。最高裁(長官)であれば、あるいは国会(・両院議長?)であればよいとでも日本共産党は主張しているのだろうか。まずは「政府」が判断・認定せざるをえないのは当たり前のことだろう。
 にもかかわらず日本共産党が問題視しているのは、「政府」として安倍政権のような自民党中心内閣を想定しているからに他ならないだろう。そして、安倍政権は適切にこの具体的「判断」を行なわず、濫用するに違いない、という予断と偏見を持っているのだ。このような、思い込み・予断を前提にしているかぎり、まともな批判になるはずがない。もっとも、日本共産党からすれば、安倍晋三を首班とする内閣は、アメリカとともに「二つの敵」である日本の大企業(独占資本)の利益に奉仕する内閣なので、日本共産党の基本方針(綱領)自体が歪んでおり、まともなものではないことに由来することではあるが。
 このような、「時の政府」の恣意的判断によることとなるという批判は、日弁連会長・村越進の昨年の抗議声明にも見られる。いわく-「…等の文言で集団的自衛権の行使を限定するものとされているが、これらの文言は極めて幅の広い不確定概念であり、時の政府の判断によって恣意的な解釈がされる危険性が極めて大きい」。
 そしてまた、前回に述べたように、長谷部恭男の批判の仕方とも同じだと言える。長谷部が読売オンライン上の一文で最も強く表明していたのは、「現在の政府」あるいは「時々の政府」に対する不信だった。
 日本共産党(・党員憲法学者)のような教条的議論はせず、共産党中央からの<指示>とも無関係だろう長谷部恭男の<非共産党・リベラル>意識は尊敬しなければならないかもしれないが(?)、しかし、一見アカデミックな装いをもって語られる内容は、上のように日本共産党の<政治的>主張と同一だ。民主党や共産党の「政府」ならば信じられるかと問いたくなるような感情的な批判の仕方は「学問」とは言い難いだろう。
 なお、この欄に掲載しているが、2015.06.09政府見解は、新三要件は「いかなる事態においても、我が国と国民を守ることができるように備えておくとの要請に応えるという事柄の性質上、ある程度抽象的な表現が用いられることは避けられないところである」と述べたうえで、具体的「判断」について、さらにつぎのように述べている。
 「ある事態が新三要件に該当するか否かについては、実際に他国に対する武力攻撃が発生した場合において、事態の個別具体的な状況に即して、主に、攻撃国の意思・能力、事態の発生場所、その規模、態様、推移などの要素を総合的に考慮し、我が国に戦禍が及ぶ蓋然性、国民が被ることとなる犠牲の深刻性、重大性などから客観的、合理的に判断する必要があり、あらかじめ具体的、詳細に示すことは困難であって、このことは、従来の自衛権行使の三要件の第一要件である「我が国に対する武力攻撃」に当たる事例について、『あらかじめ定型的、類型的にお答えすることは困難である』とお答えしてきたところと同じである」。
 三 長谷部恭男は憲法審査会で参考人として、今次の安保法案が拠る憲法解釈は①従来のそれとの<論理的整合性を欠く>、②<立憲主義を害する>、と述べたらしい。
 この①についてはすでに触れた。1972年政府答弁書が示した「基本的な論理」は維持されており、批判はあたらない。
 上の②は、長谷部が述べたという<法的安定性を害する>という批判と、まったくかほとんど同じだと見られる。
 結局のところ、長谷部恭男の頭の中では<集団的自衛権行使否認>=憲法九条の規範的意味、という観念がこびりついてしまっているので、<集団的自衛権行使容認>の解釈に変更することは憲法違反=立憲主義違反であり、したがって<法的安定性を欠く>ということになる、というだけのことだ。
 長谷部恭男が1972年以降の数多くの政府答弁・内閣法制局見解を丁寧に読んで堅く信じてきた(?)憲法九条の規範的意味、自衛権にかかる憲法適合的解釈、が崩されたがゆえに立腹し、長谷部の内心での「法的安定性」が揺らいでいる、のだと思われる。
 すでに書いたようなことだが、<よい子の僕ちゃんは政府が40年以上も集団的自衛権行使は違憲と言ってきたのでギリギリそうだろうと信頼しそう解釈してきたにもかかわらず、急にそれを変更してよい子の僕ちゃんの『憲法』の意味を変えるなんて、勝手なルール破りで、よい子の僕ちゃんの内心の(精神的)安定性をひどく害する>と喚いているようなものだ、と表現できる。<信じた私が悪いのよ>という類ではないか。
 政府の憲法解釈は変更しうる。産経新聞記者の中では信頼度の高い阿比留瑠比は産経新聞6/18付の紙面で、民主党・枝野幸男は2010年6月に朝日新聞のインタビューに答えて「行政における憲法の解釈は恣意的に変わってはいけないが、間違った解釈を是正することはあり得る」と語った、と記している。また、菅直人内閣官房長官・仙谷由人は当時に「憲法解釈は政治性を帯びざるを得ない。その時点で内閣が責任を持った憲法解釈を国民、国会に提示することが最も妥当な道だ」と語ったらしい。憲法解釈が一般に「政治性」を帯びるとは断じ難いだろうが、枝野、仙谷発言の基本的趣旨は、妥当なところだ。こうした<憲法解釈観>が奇妙であるならば、民主党内閣時代に憲法学者たちは批判の声を大きく上げるべきだった(そこで阿比留瑠比の文章のタイトルは「民主政権に甘かった憲法学者」となっている)。
 ところが、朝日新聞6/12によると、憲法学者・駒村圭吾(慶応大学)は、「1972年の政府見解はすでに『憲法の重み』を持っている」と発言している(聞き手・二階堂友紀)。これには驚いてしまった。こうまでただの政府見解の法的意味が高められては、その政府見解にとっては有難迷惑だろう。
 この駒村という憲法学者はおそらく、今次の法案を批判するために政治的・戦略的に1972年政府見解は「憲法の重み」をもつと言っているのだろう。そして、この政府見解を変更するためには、何と「憲法改正」が必要だとまで述べているのだ。
 一般論として、古い政府見解は新しい政府見解にもとづく法律の制定・変更によって、当然に変更される。政府見解よりも国会の憲法解釈の方が優位する。憲法改正を待つまでもない。
 朝日新聞に登場するのだから(朝日新聞が登場させるのだから)当然なのかもしれないが、この駒村圭吾がまともな憲法学者だとはとても思えない。かつての内閣の憲法解釈がなぜ「憲法の重み」を持つのだ。馬鹿馬鹿しいほどだ。 
 さらに続ける。  

1311/資料・史料/2015.06.09<安保法案と憲法>政府見解(1)。

 新三要件の従前の憲法解釈との論理的整合性等について
                         平成27年6月9日
                         内 閣 官 房
                         内 閣 法 制 局
 (従前の解釈との論理的整合性等について)
  1 「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」(平成26年7月1日閣議決定)でお示しした「武力行使」の三要件(以下「新三要件」という。)は、その文言からすると国際関係において一切の実力の行使を禁じているかのように見える憲法第9条の下でも、例外的に自衛のための武力の行使が許される場合があるという昭和47年10月14日に参議院決算委員会に対し政府が提出した資料「集団的自衛権と憲法との関係」で示された政府見解(以下「昭和47年の政府見解」という。)の基本的な論理を維持したものである。この昭和47年の政府見解においては、
 (1)まず、「憲法は、第9条において、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているが、前文に置いて「全世界の国民が...平和のうちに生存する権利を有する」ことを確認し、また、第13条において「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、...国政の上で、最大の尊重を必要とする」旨を定めていることからも、わが国がみずからの存立を全うし国民が平和のうちに生存することまでも放棄していないことは明らであつて、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない。」としている。この部分は、昭和34年12月16日の砂川事件最高裁大法廷判決の「わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとりうることは、国家固有の機能の行使として当然のことといわなければならない。」という判示と軌を一にするものである。
  (2)次に、「しかしながら、だからといつて、平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであつて、それは、あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれからの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきものである。」として、このような場合に限って、例外的に自衛のための武力の行使が許されるという基本的な論理を示している。
  (3)その上で、結論として、「そうだとすれば、わが憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであつて、したがつて、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。」として、(1)及び(2)の基本的な論理に当てはまる例外的な場合としては、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるという限界が述べられている。
  2 一方、パワーバランスの変化や技術革新の急速な進展、大量破壊兵器などの脅威等により我が国を取り巻く安全保障環境が根本的に変容し、変化し続けている状況を踏まえれば、今後他国に対して発生する武力攻撃であったとしてもその目的、規模、態様等によっては、我が国の存立を脅かすことも現実に起こり得る。新三要件は、こうした問題意識の下に、現在の安全保障環境に照らして慎重に検討した結果、このような昭和47年の政府見解(1)及び(2)の基本的な論理を維持し、この考え方を前提として、これに当てはまれる例外的な場合として、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるとしてきたこれまでの認識を改め、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」場合もこれに当てはまるとしたものである。すなわち、国際法上集団的自衛権の行使として認められる他国を防衛するための武力の行使それ自体を認めるものではなく、あくまでも我が国の存立を全うし、国民を守るため、すなわち我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置として、一部、限定された場合において他国に対する武力攻撃が発生した場合を契機とする武力の行使を認めるにとどめるものである。したがって、これまでの政府の憲法解釈との論理的整合性及び法的安定性は保たれている。
 3 新三要件の下で認められる武力の行使のうち、国際法上は集団的自衛権として違法性が阻却されるものは、他国を防衛するための武力の行使ではなく、あくまでも我が国を防衛するためのやむを得ない必要最小限度の自衛の措置にとどまるものである。
 (明確性について)
  4 憲法の解釈が明確でなければならないことは当然である。もっとも、新三要件においては、国際情勢の変化等によって将来実際に何が起こるかを具体的に予測することが一層困難となっている中で、憲法の平和主義や第9条の規範性を損なうことなく、いかなる事態においても、我が国と国民を守ることができるように備えておくとの要請に応えるという事柄の性質上、ある程度抽象的な表現が用いられることは避けられないところである。
 その上で、第一要件においては、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること」とし、他国に対する武力攻撃が発生したということだけではなく、そのままでは、すなわち、その状況の下、武力を用いた対処をしなければ、国民に我が国が武力攻撃を受けた場合と同様な深刻、重大な被害が及ぶことが明らかであるということが必要であることを明かにするとともに、第二要件においては、「これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと」とし、他国に対する武力攻撃の発生を契機とする「武力の行使」についても、あくまでも我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置に限られ、当該他国に対する武力攻撃の排除それ自体を目的とするものでないことを明かにし、第三要件においては、これまで通り、我が国を防衛するための「必要最小限度の実力の行使にとどまるべきこと」としている。
 このように、新三要件は、憲法第9条の下で許される「武力の行使」について、国際法上集団的自衛権の行使として認められる他国を防衛するための武力の行使それ自体ではなく、あくまでも我が国の存立を全うし、国民を守るため、すなわち我が国を防衛するためのやむを得ない必要最小限度の自衛の措置に限られることを明かにしており、憲法の解釈として規範性を有する十分に明確なものである。
 なお、ある事態が新三要件に該当するか否かについては、実際に他国に対する武力攻撃が発生した場合において、事態の個別具体的な状況に即して、主に、攻撃国の意思・能力、事態の発生場所、その規模、態様、推移などの要素を総合的に考慮し、我が国に戦禍が及ぶ蓋然性、国民が被ることとなる犠牲の深刻性、重大性などから客観的、合理的に判断する必要があり、あらかじめ具体的、詳細に示すことは困難であって、このことは、従来の自衛権行使の三要件の第一要件である「我が国に対する武力攻撃」に当たる事例について、「あらかじめ定型的、類型的にお答えすることは困難である」とお答えしてきたところと同じである。
 (結論)
 5 以上のとおり、新三要件は、従前の憲法解釈との論理的整合性等が十分に保たれている。
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1305/長谷部恭男は九条改正反対論者、「人選ミス」では済まない。

 「人選ミス」では済まないだろう。
 6/04の衆院憲法審査会で、与党等(自民党・公明党・次世代の党)の推薦で参考人となった長谷部恭男は、安保法制整備法案について、「憲法違反」だと言い切った。
 産経新聞社のネット情報によると長谷部を選んだのはまずは衆院法制局のようだが、もちろん自民党等の委員、船田元や北側一雄(公明党)らが了解しないと参考人になれるはずがない。
 長谷部恭男はひっょとして、依頼を受けて驚くとともにほくそ笑んだのではなかろうか。
 長谷部は特定秘密保護法案には反対を明言しなかったようだが、憲法九条の改正については、<志は低い>とはいえ、明確な<護憲>つまり改憲反対論者だ。このことは、この欄でも紹介してきた。
 また、2005年の<NHKに対する安倍晋三ら政治家による圧力>という朝日新聞の記事が問題視されたあとの第三者的検証委員会のメンバーとして朝日新聞には<優しい>報告書作成に関与し、今年2015年4月にはNHK「クローズアップ現代」の<やらせ>問題でも調査委員会の一員となってNHKには<優しい>報告書をまとめた。もともとは、民主党が推薦したらしい小林節の方が<より保守的>であり、長谷部は小林節よりも<左>の人物なのだ(東京大学→早稲田大法という履歴でもすでにある程度は分かってしまう)。
 このような人物が、今次の安保法案は合憲ですと発言してくれると思っていたのだろうか。信じ難い。
 長谷部恭男は昨2014年夏の、日本共産党系「左翼」憲法学者たちの集団的自衛権行使容認閣議決定に対する反対声明に参加してはいない。純粋な日本共産党的な(教条的な?)「左翼」ではない。だが、そのような「左翼」学者もまた多いのであって、この声明に加わっていないことが集団的自衛権行使容認解釈は合憲と理解していることの保障には全くならないことは自明のことだろう。木村草太(首都大学)もまた、非共産党系「左翼」憲法学者のようだ。
 船田元は「ちょっと予想を超えた」と言ったらしいが、マヌケにもほどがある。憲法学者の中にまともな人物が少ないのは残念なことだが、それでも、自民党内で憲法改正を扱う中心的な人物の一人であるならば、憲法学界の状況、どういう学者・大学関係者が憲法改正、とくに九条2項改正に明確に賛成しているのかぐらい、きちんと把握しておくべきだろう。
 維新の党が安保法制についてどういう立場なのかは知らないし、同党の人選結果についての反応も知らない。だが、同党が推薦したらしい笹田栄司(現早稲田大)についても、長谷部恭男についてとほぼ同様なことが言えそうだ。
 どうやら、国会議員の方が、現実の憲法学界の動向・雰囲気を知らないという<浮き世離れ>した世界に生きているようだ。それはひょっとすれば、<保守>派・<改憲>派の人々にもあてはまるのではないか。

1303/日本共産党の安全保障(防衛)政策は?

 一 日本共産党は同党の安全保障(防衛)政策として、2014年の党大会以降、「北東アジア規模」の「友好協力条約」締結などから成る「北東アジア平和協力構想」という提唱しているらしい。
 この条約はアセアンに現在あるものを真似ようというものらしいが、その具体的内容は明らかではない。北東アジアの国家・地域には日本、韓国、北朝鮮、中国、台湾それにモンゴルがあるが、現状を前提にすれば、これらの国々等が「友好協力条約」を締結することは夢想にすぎない。可能性があるすれば、北朝鮮と中国共産党支配の中国の崩壊があってからだろう。あるいは、親中国・親社会主義の方向で朝鮮半島が統一され、日本にも日本共産党を政権与党とする政府が誕生していれば、不可能ではないかもしれない。だが、そのような朝鮮統一や日本政府の変化を想定することはほとんどできず、したがってこれまたほとんど「夢想」になってしまう。
 要するに、<お互いよく話し合って、仲良くしましょう>という程度の、吉永小百合さまならば思い浮かべるかもしれないような、幼稚な「政策」しか日本共産党は持ち合わせていない、と考えられる。
 そもそもこの政党は、日本の国土と国民の安全を守る、という気概を持っているかどうかが疑わしい。日本共産党の綱領上、「敵」はアメリカと日本の<アメリカ追随>勢力なので、日本の国土と国民の安全を危険なものにしているのはアメリカと日本(内部の一部勢力)だと見なされることになる。したがって、これら以外の諸国からの危険の発生などは想定していないし、多少の知識はあったとしても<見て見ないフリ>をしている、といって過言ではないだろう。
 したがって、この政党が国会論戦等で何を質問し何を主張したところで、<客観的な安全保障環境>の認識、だれが「敵」であるのかの認識が全く異なるのだから、噛み合った、生産的な議論になるはずはない。
 日本共産党と社民党は民主党らが最終的には賛成した場合であっても、これまでのいわゆる有事法制法案等々について、つねに反対投票をしてきた。今次の安保法制の整備についても、いかに丁寧に議論し回答したところで、彼らはすでに結論を用意しているので、ほとんど無意味なことになるだろう。
 二 1970年代に日本共産党は「民主連合政府」なるものを構想していたが、その政権構想の一部として「真に日本の平和と安全の道」、「非同盟・中立」を語っていた。
 その際、日本に対する「侵略」があった場合の「自衛」の方策について、日本共産党もまた何らかのことを語らざるを得なかったようだ。1975年の12回党大会で不破哲三の実兄・上田耕一郎(この時点での政策委員長)は、つぎのように述べた。
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 「万一、中立日本の国際的保障をも無視して侵略があった場合はどうするかという問題が提出されえます。仮定の問題ですが、そうしたさい、すべての民族、国家がもっている自衛権にもとづいて、民主連合政府は、日本の中立をを保障している諸国民と政治的に連帯し、国民とともに侵略者に断固抵抗するでしょう。/このような事態は、現行憲法があまり予定しない事態ではありますが、自衛権が、国家が自国の主権または自国民にたいする急迫不正の侵略をとりのぞくためにやむをえず行動する正当防衛の権利であり、主権国家の基本権の一つとして自衛権が憲法第九条によっても否定されていないことは、すべての憲法学者や国際法学者もみとめているところです。このような急迫不正の侵略にたいして、国民の自発的抵抗はもちろん、政府が国民を結集し、あるいは警察力を動員するなどして、その侵略をうちやぶることも、自衛権の発動として当然であり、それは憲法第九条が放棄した戦争や武力行使でもなく、同条で否認した交戦権の行使や戦力保持ともまったくことなるものです。/憲法第九条をふくむ現行憲法全体の大前提である国家の主権と独立、国民の生活と生存があやうくされたとき、可能なあらゆる手段を動員してたたかうことは、主権国家として当然のことであります。この立場は自民党の解釈改憲の立場とはまったく無縁のものです」。(/は改行)
 以上、吉岡吉典・有事立法とガイドライン(新日本出版社、1979)p.286-7による。
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 自衛隊設立時の政府解釈の言明ともよく似て、最後の一文を除いて、日本共産党もなかなか立派なことを述べているではないか。「憲法第九条をふくむ現行憲法全体の大前提である国家の主権と独立、国民の生活と生存があやうくされたとき、可能なあらゆる手段を動員してたたかうことは、主権国家として当然のこと」なのだ。「自衛権」は、「国家が自国の主権または自国民にたいする急迫不正の侵略をとりのぞくためにやむをえず行動する正当防衛の権利であり、主権国家の基本権の一つとして…憲法第九条によっても否定されていない」のだ。
 もっとも、国民のゲリラ的活動に任せるという無責任なことは言っていないのはよいが、「警察力を動員するなどして」とか「可能なあらゆる手段を動員して」とか述べるだけで、どのような組織・手段を国家があらかじめ用意しておくかについては具体的に述べているわけではない。九条2項にいう「戦力」ではない実力組織の保持の明確な容認まであと一歩まで近づいているが、そこまで立ち入っていない。
 これらのことよりも興味を惹くのは、上のような見解においても、合憲的な「自衛権」の行使か、憲法上許されない実力の行使かという問題が当然に生じうる、ということだ。
 日本共産党は近年、「海外で戦争できる国家」うんぬんと安倍政権が進める安保法制の整備に反対し、そして一般国民からすれば細かいあれこれを政府に糺して批判したりしている。しかし、かりに日本共産党が今日でも上の上田耕一郎(当時の政策委員長)の見解を維持しているとすれば、日本共産党の考え方においても、つねに<自衛権の行使>かそれを超える実力の行使(あるいは「戦闘」行為)かという問題は生じるのであり、この問題についての詳細な回答を、日本共産党自身は用意しているのだろうか。これは同党に対する基本的な疑問だ。
 安倍政権が進める安保法制整備に反対するのならば、「国家の主権と独立、国民の生活と生存」を守るための対案が必要なのではないか。自民党中心政権、安倍晋三内閣がしていることだから反対する、では合理的で正当な理由にならないのではないか。
 それとも、「戦争・武力行使・武力による威嚇と軍事力を根底から否認する」立場(日本共産党・森英樹)、あるいは「徹底した恒久平和主義」の堅持(日弁連会長・村越進)とは、「自衛権」の行使という<実力の行使>をもいっさい否認するものなのだろうか。そうだとすれば、上田耕一郎の上の叙述は今日の日本共産党には継承されていないことになる。日本共産党や日弁連会長には答えていただきたいものだ。

1299/日本共産党「海外で戦争できる国…」は2005年に。

 一 日本共産党の「海外で戦争できる国づくり」反対のポスターは、昨年末の総選挙時に初めて見かけたように思う。では「日本国領域内での戦争」ならばよいのか、と皮肉りたくなったものだったが。
 もっとも、このような決めつけ、レッテル貼りを、日本共産党は遅くとも2005年には行なっている。
 志位和夫・日本共産党はどんな党か(新日本出版社、2007)は、小泉純一郎首相時代の2005年に自民党第一次憲法改正草案が現九条2項の削除と「自衛軍」保持の明記を掲げたことに論及して、「憲法九条をかえる」、「とくに九条二項」の「戦力」不保持条項を変えて「自衛軍がもてる」ようにする「憲法改定の…ねらい」は、「海外での武力の行使」を可能にすること、「海外で戦争する国」にすることだ、という旨を明記している(p.57)。志位によれば、小泉首相はこの狙いを「ひた隠しに隠」しており、それは「一番知られたくないこと」なのだそうだ(同上)。
 また、上の書p.62は、志位和夫が2005年05月の時点で、<九条2項削除・自衛軍保持>の憲法改正は日本を「海外で戦争をする国」に「つくりかえることに道を開くもの」だと述べたことも記している。この「からくり」を「しっかり見破る」ことが大切なのだ、という(同上)。
 憲法改正(九条2項削除等)ではなく集団的自衛権行使容認等の憲法解釈をふまえた安保法制の整備に反対してであるが、日本共産党は遅くとも10年前には、現在と同じことを言っている。
 「戦争反対」について言えば、厳密には、自衛目的の正当な戦争もあると考えるので、「戦争」一般をすべて<悪>として否認する考え方は採らない。おそらくは日本共産党も、社会主義国の核は善、資本主義国の核は悪と見なしてきた時代もあったくらいだから、厳密には「戦争」一般を<悪>だとは考えていないはずだ。
 にもかかわらず「戦争」一般が<悪>であるかのごとく主張しているのは、第一に、日本国民に根強い<反戦・平和>の感情に媚び、それを取り込んで自分たちの勢力を少しでも拡大したいからだろう。
 あるいは第二に、自分たちとは異なる勢力が起こす「戦争」はつねに<悪>だ、と見なしているからだろう。自分たちとは異なる勢力とは、より正確には、日本共産党が綱領上「敵」と見なすアメリカ(帝国主義)とそれに従属した日本の「反動」勢力(>日本独占資本)だ。
 このような<堅い>考え方をしている政党の党首等と議論・討議しても、本当は時間が無駄なだけだ。建設的・生産的な議論になるはずがない。安倍首相らには、適当に(あるいは適切に?)<お相手をしてあげて>、とだけ申し上げたい。
 二 2015年05月28日の衆院平和安全法制特別委員会で、民主党の辻元清美は「日本が戦争に踏み切る基準の変更について議論しているのか」と質問の冒頭で述べたらしい。また、同党の後藤祐一は、「この法案は石油を求めて戦争を可能にする法案なのか」と述べたらしい。
 「戦争」という語を平気で用いて、国民の不安を煽っているのだろうこの二人のメンタリティもまた、日本共産党のそれとほとんど異ならないようだ。まともに議論しても、回答しても、おそらく意味がない。
 三 質疑の内容については、古森義久産経新聞5/30の「緯度経度」欄で「安保法制、日本の敵は日本か」と題して語っていることに、ほとんど異論はない。
 もっとも、古森の上のような適切な分析と批判を行なっても、日本共産党には何ら意味がないようだ。
 日本共産党は1998年に中国共産党と関係を修復して<社会主義をめざす>友好党になっている。中国共産党が率いる中国を正面から批判するはずがない。「日本を軍事的に威嚇し、侵略しようとする勢力」への「歯止め」(古森)をこの政党が問題にするはずがない。この政党にとってのリスク、いや「敵」は、上記のとおりアメリカと日本の安倍晋三たちなのだ。民主党の中にも、同党に移ってもよいような議員がいるのだろう。 

1296/月刊WiLL7月号(ワック)-読書メモ。

 月刊WiLL7月号(ワック)を入手して、読んだもの。
 2013年、2014年と、かつてと比べれば投稿が大きく減ったが、かつてと同様に読書録・備忘録としても、この欄を利用していく。但し、ターゲット、対象、素材、要するにテーマをもう少し絞る方向で考えた方がよいかもしれない。さて…。
 ・田村重信「『安保法制』一問一答35」。全部、読了。時宜を得ている。体系的に現下の諸問題の位置づけが分かるようではないのが、残念といえば、残念。
 ・特集<戦後70年、私はこう考える>のうち、中西輝政「安倍演説で『歴史問題』は終わった」、稲田朋美「あの戦争を総括し歴史を取り戻せ」、平川祐弘「『マルクスが間違うはずはありません』」。
 安倍晋三グループ(?)の稲田朋美が-日本共産党・不破が言うような-単純な「戦争礼賛」派ではないことは、すべきことは「東京裁判の歴史認識をそのまま受け入れて思考停止するのではなく、自分たちの手で客観的事実に基づく不戦条約以降敗戦に至るまでの日本の歩みを総括し、歴史を取り戻す」ことと最後に述べている(p.63)ことでも分かる。もっとも、どう総括するかは、<保守>派において一致がないと見られるのだが…。
 平川の文章のタイトルになっているのは、東京大学学生だった19歳の不破哲三の言葉。
 中西輝政も触れている安倍米国議会演説について、金美麗、田久保忠衛の二つの論考があるが、読んでいない。おそらく少しは異なる内容で、私の理解の仕方をこの欄にいずれ書く。
 ・筆者インタビュー/池田信夫「戦後リベラルの終焉」。池田信夫は<保守派>とされていないと思うが、なかなか鋭く面白いことを発言する論客だと感じてきた。それに、いわゆる<保守派>ではないとしても、決して<容共>・親コミュニズムの人物でもない。
 このPHP新書はしかし、購入済みのままで未読だ。他にも、櫻井よしこ=花田紀凱・「正義」の嘘(産経)など、所持したまま未読のものは多い。<西尾幹二・再発見>も、試みてみたいし。池田著を読みおえてから、何かコメントしよう。/以上。

1295/安保法制の議論-リスクある公務をするのは自衛隊員だけか。

 〇前回の補足または追加。
 ・2015.05.23閉会の「太平洋・島サミット」でパラオ等々の首脳たちは安倍内閣の<積極的平和主義>による平和・安全保障政策を肯定的に評価したとされる。
 安倍晋三らが「ネオナチ」ならば、このサミット参加首脳たちも「ネオナチ」なのだろうか。日本共産党は答えてほしい。
 ・満州事変発生は1931.08、日独伊三国同盟締結は1940.09。日本共産党・不破哲三が「戦争」という場合の戦争とは<15年戦争>を指しているのだとすると、ドイツ・ナチスと「腕を組んだ」とは言い難い期間も含まれている。
 日本共産党・不破は、もう少しは丁寧に論じなければならないのではないか。
 ・「ネオナチ」とは要するに「ヒトラーの戦争は正しかった」と考える者のことらしいが、「ヒトラーの戦争」の意味・範囲を明確にしておらず、<ヒトラー=安倍ら>というイメージだけを作りたいようだ。安倍首相も含めて、あるいは「日本会議」や「神道政治連盟」の役員や会員を含めて、「ヒトラーの戦争は正しかった」と考えている者はどの程度いるのだろうか。いわゆるホロコーストまでも含むのだとすれば、「正しかった」と明言できる者はむしろ少ないように思われる。
 いずれにせよ、デマゴギーというものは、概念の意味が明確ではなく、論理もいいかげんだ。前回に取り上げた、デマゴーグ・不破哲三の議論もその一つだろう。
 〇安保法制の整備にかかわって、自衛隊員に対する<リスク>の高まりを問題にする「左翼」論調が少なくない。民主党・岡田克也もそれに加担しているようだ。
 自衛隊員が「殺し、殺される」可能性が高くなる、というような表現がなされることもあある。確認しないが、朝日新聞はさっそくこのような言い方をしているに違いない。名うての「左翼」活動家になってしまっている山口二郎も、奥平康弘=山口二郎編・集団的自衛権の何が問題か(2014、岩波書店)の中の「安倍政治の戦後史的位相」と題する文章の中で、つぎのような表現を用いている。
 憲法九条は「戦争に動員された個人が生命を失うという事態を永久に起こさない」という意味をもった。安倍晋三らは憲法九条によって「欠陥国家」になっているのを改めて日本を「まともな」「近代国家」にしようとしている。そのために、「国民に死ねといえる国家を作るという本当の狙い」を隠して、「積極的平和主義」という「新語法」を「取り巻きの学者たち」に使わせている(p.3-4)。
 何ともオドロオドロしい言い方だ。とりあえず自衛隊員が「死ぬ」または「殺される」リスクに言及されることが少なくないことについて、以下のような感想をもつ。山口は「戦争にに動員された個人」という言い方をしているので、一般国民ではなく、やはり自衛隊員を主としては念頭において上のようなことを述べているのだろう。
 第一に.自衛隊員の危険性に焦点があてられているということは、反面では、今次の安保法制の整備による一般国民に対する危険性、リスクの高まりを野党又は「左翼」もさほど意識してはいないことを意味しているだろう。これは興味深いことだ。
 と同時に、-個別的自衛権の問題ではあるが-中国や北朝鮮による日本の国土・国民に対する直接攻撃の可能性もまた意識しておかなければならない。危険があるのは、自衛隊員だけではない。一般国民もリスクに直面しているのであり、自分たちだけは「安全だ」、危険な仕事をする自衛隊員たちは<可哀想だ>などという意識で安全保障の問題を議論してはいけない。
 第二に、自衛官に特化してそのリスクを論じるのは、ある意味では自衛官・自衛隊員に対して失礼だとも言える。
 産経新聞5/20の「正論」欄で、西原正は、「確かにこれまでより危険度は高くなる」としつつ、次のように言う。
 自衛官は「事に臨んでは危険を顧みず、身ををもって責務の完遂に務め…」と服務宣誓しており、「自衛官の防人としての誇り」を精神的支柱としている。「危険なところに送るな」というのは「自衛官を侮辱しているとさえ言える」。
 第三に、「公共」、すなわち国家・地域や国民・住民のために生命に対するものも含む危険性のある中で仕事しているのは、自衛官・自衛隊員に限らない。
 警察官も消防官・消防隊員も、朝日新聞の社員やほとんど文章だけを書いているような学者・評論家の類よりは、はるかに危険な任務についており、職務上・公務上の理由で生命を落とす可能性は一般国民よりは高い。
 警察官や消防官・消防隊員に限らず、台風、地滑り、地震等々を原因とする自然災害から国土や国民の<安全>を守るために、河川等々の土木関係公務員や、場合によっては一般公務員ですら、生命・身体の危険を顧みず仕事をすることがある。そのような例は、生命を落とした町村役場職員があることも含めて、東日本大震災時に見られたことだ。
 しかるに、自衛官・自衛隊員に対するリスクのみを今次の安保法制にかかわって論じるのは、より日常的に、一般国民よりは高いリスクの中で仕事をしている行政公務員に対して失礼だろう。
 自衛官・自衛隊員に限らず、法律(および条例)にもとづいて危険な職務を遂行することを地方公共団体を含む「国家」によって要求されている公務員はいくらでもある。
 そのような、国家・法律による(またはそれにもとづく上司の個別の命令による)リスクある職務に就いている公務員の存在をまったく無視するようなかたちで、自衛官・自衛隊員のリスクのみが語られるのは、やはり何らかの<政治的>狙いがあるように思われる。
 自衛隊員が「殺し、殺される」可能性が高まるとか語っている野党あるいは「左翼」の人士たちは、朝日新聞の記者も含めて、本当に心から自衛隊員とその家族のことを心配して、発言したり、文章を書いているのだろうか。<偏頗>と<偽善>の匂いが、なきにしもあらずだ、と感じる。

1293/資料・史料-防衛省サイトより「憲法と自衛権」等。

 防衛省・自衛隊のHPトップから、>防衛省の取組>防衛省の政策>防衛政策>防衛の基本的考え方>憲法と自衛権と下がって、現在の「憲法と自衛権」等に関する考え方が説明されている。資料・史料の一つとしておくが、現在誰でも閲覧できる、かつ現用の考え方または「解釈」で、2014年7月閣議決定による新しい解釈も組み込まれ、「武力の行使」(「戦争」ではない)の「新三要件」への言及もある。
 現在の後半国会で、政府側はここで示されている理解・解釈を基礎にして答弁等をするはずだ(矛盾していると指弾されることになろう)。
 以下の内容は、自衛「戦争」は認められず、自衛目的のものであれ「戦力」保持も許されないという憲法九条解釈を前提にしている。
 なお、より正確な政府解釈の内容は、個々の文書・答弁に即して、通常の理解力さえあれば、正確に確認することができる。いずれ、より詳細で正確なものを掲載しつつ、コメントをしておく予定だ。
 「前項の目的」とは<侵略戦争等否定・自衛戦争等容認>という趣旨・目的のことだと理解しつつ、そのような前提に政府解釈は立っておらず、この文言に政府解釈は意味を認めていない、という説明の仕方をしてきた。但し、「前項の目的」自体に厳密には二つ(又は三つ)の解釈がありえ、政府解釈は上のような(侵略戦争等と自衛戦争等の区別という)前提には立っていないが、「前項の目的」について別の理解をしているようであることも、その際に述べる。
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 1.憲法と自衛権
 わが国は、第二次世界大戦後、再び戦争の惨禍を繰り返すことのないよう決意し、平和国家の建設を目指して努力を重ねてきました。恒久の平和は、日本国民の念願です。この平和主義の理想を掲げる日本国憲法は、第9条に戦争放棄、戦力不保持、交戦権の否認に関する規定を置いています。もとより、わが国が独立国である以上、この規定は、主権国家としての固有の自衛権を否定するものではありません。政府は、このようにわが国の自衛権が否定されない以上、その行使を裏づける自衛のための必要最小限度の実力を保持することは、憲法上認められると解しています。このような考えに立ち、わが国は、憲法のもと、専守防衛をわが国の防衛の基本的な方針として実力組織としての自衛隊を保持し、その整備を推進し、運用を図ってきています。
 2.憲法第9条の趣旨についての政府見解
 (1)保持できる自衛力
 わが国が憲法上保持できる自衛力は、自衛のための必要最小限度のものでなければならないと考えています。その具体的な限度は、その時々の国際情勢、軍事技術の水準その他の諸条件により変わり得る相対的な面があり、毎年度の予算などの審議を通じて国民の代表者である国会において判断されます。憲法第9条第2項で保持が禁止されている「戦力」にあたるか否かは、わが国が保持する全体の実力についての問題であって、自衛隊の個々の兵器の保有の可否は、それを保有することで、わが国の保持する実力の全体がこの限度を超えることとなるか否かにより決められます。
 しかし、個々の兵器のうちでも、性能上専ら相手国国土の壊滅的な破壊のためにのみ用いられる、いわゆる攻撃的兵器を保有することは、直ちに自衛のための必要最小限度の範囲を超えることとなるため、いかなる場合にも許されません。たとえば、大陸間弾道ミサイル(ICBM:Intercontinental Ballistic Missile)、長距離戦略爆撃機、攻撃型空母の保有は許されないと考えています。
 (2)憲法第9条のもとで許容される自衛の措置
 今般、2014(平成26)年7月1日の閣議決定において、憲法第9条のもとで許容される自衛の措置について、次のとおりとされました。
 憲法第9条はその文言からすると、国際関係における「武力の行使」を一切禁じているように見えますが、憲法前文で確認している「国民の平和的生存権」や憲法第13条が「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」は国政の上で最大の尊重を必要とする旨定めている趣旨を踏まえて考えると、憲法第9条が、わが国が自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置を採ることを禁じているとは到底解されません。一方、この自衛の措置は、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として初めて容認されるものであり、そのための必要最小限度の「武力の行使」は許容されます。これが、憲法第9条のもとで例外的に許容される「武力の行使」について、従来から政府が一貫して表明してきた見解の根幹、いわば基本的な論理であり、1972(昭和47)年10月14日に参議院決算委員会に対し政府から提出された資料「集団的自衛権と憲法との関係」に明確に示されているところです。
 この基本的な論理は、憲法第9条のもとでは今後とも維持されなければなりません。
 これまで政府は、この基本的な論理のもと、「武力の行使」が許容されるのは、わが国に対する武力攻撃が発生した場合に限られると考えてきました。しかし、パワーバランスの変化や技術革新の急速な進展、大量破壊兵器などの脅威などによりわが国を取り巻く安全保障環境が根本的に変容し、変化し続けている状況を踏まえれば、今後他国に対して発生する武力攻撃であったとしても、その目的、規模、態様などによっては、わが国の存立を脅かすことも現実に起こり得ます。
 わが国としては、紛争が生じた場合にはこれを平和的に解決するために最大限の外交努力を尽くすとともに、これまでの憲法解釈に基づいて整備されてきた既存の国内法令による対応や当該憲法解釈の枠内で可能な法整備などあらゆる必要な対応を採ることは当然ですが、それでもなおわが国の存立を全うし、国民を守るために万全を期す必要があります。
 こうした問題意識のもとに、現在の安全保障環境に照らして慎重に検討した結果、わが国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において、これを排除し、わが国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、必要最小限度の実力を行使することは、従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置として、憲法上許容されると考えるべきであると判断するに至りました。
 わが国による「武力の行使」が国際法を遵守して行われることは当然ですが、国際法上の根拠と憲法解釈は区別して理解する必要があります。憲法上許容される上記の「武力の行使」は、国際法上は、集団的自衛権が根拠となる場合があります。この「武力の行使」には、他国に対する武力攻撃が発生した場合を契機とするものが含まれますが、憲法上は、あくまでもわが国の存立を全うし、国民を守るため、すなわち、わが国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置として初めて許容されるものです。
 ■憲法第9条のもとで許容される自衛の措置としての「武力の行使」の新三要件
 ◯ わが国に対する武力攻撃が発生したこと、またはわが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること
 ◯ これを排除し、わが国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと
 ◯ 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと
 (3)自衛権を行使できる地理的範囲
 わが国が自衛権の行使としてわが国を防衛するため必要最小限度の実力を行使できる地理的範囲は、必ずしもわが国の領土、領海、領空に限られませんが、それが具体的にどこまで及ぶかは個々の状況に応じて異なるので、一概には言えません。
 しかし、武力行使の目的をもって武装した部隊を他国の領土、領海、領空に派遣するいわゆる海外派兵は、一般に自衛のための必要最小限度を超えるものであり、憲法上許されないと考えています。
 (4)交戦権
 憲法第9条第2項では、「国の交戦権は、これを認めない。」と規定していますが、ここでいう交戦権とは、戦いを交える権利という意味ではなく、交戦国が国際法上有する種々の権利の総称であって、相手国兵力の殺傷と破壊、相手国の領土の占領などの権能を含むものです。一方、自衛権の行使にあたっては、わが国を防衛するため必要最小限度の実力を行使することは当然のこととして認められており、たとえば、わが国が自衛権の行使として相手国兵力の殺傷と破壊を行う場合、外見上は同じ殺傷と破壊であっても、それは交戦権の行使とは別の観念のものです。ただし、相手国の領土の占領などは、自衛のための必要最小限度を超えるものと考えられるので、認められません。
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 2015年05月21日現在

1250/資料・史料/安全保障法制整備・閣議決定-2014.07.01。

 資料・史料
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 国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について

 平成26年07月01日 国家安全保障会議決定 閣議決定


 我が国は、戦後一貫して日本国憲法の下で平和国家として歩んできた。専守防衛に徹し、他国に脅威を与えるような軍事大国とはならず、非核三原則を守るとの基本方針を堅持しつつ、国民の営々とした努力により経済大国として栄え、安定して豊かな国民生活を築いてきた。また、我が国は、平和国家としての立場から、国際連合憲章を遵守しながら、国際社会や国際連合を始めとする国際機関と連携し、それらの活動に積極的に寄与している。こうした我が国の平和国家としての歩みは、国際社会において高い評価と尊敬を勝ち得てきており、これをより確固たるものにしなければならない。
 一方、日本国憲法の施行から67年となる今日までの間に、我が国を取り巻く安全保障環境は根本的に変容するとともに、更に変化し続け、我が国は複雑かつ重大な国家安全保障上の課題に直面している。国際連合憲章が理想として掲げたいわゆる正規の「国連軍」は実現のめどが立っていないことに加え、冷戦終結後の四半世紀だけをとっても、グローバルなパワーバランスの変化、技術革新の急速な進展、大量破壊兵器や弾道ミサイルの開発及び拡散、国際テロなどの脅威により、アジア太平洋地域において問題や緊張が生み出されるとともに、脅威が世界のどの地域において発生しても、我が国の安全保障に直接的な影響を及ぼし得る状況になっている。さらに、近年では、海洋、宇宙空間、サイバー空間に対する自由なアクセス及びその活用を妨げるリスクが拡散し深刻化している。もはや、どの国も一国のみで平和を守ることはできず、国際社会もまた、我が国がその国力にふさわしい形で一層積極的な役割を果たすことを期待している。
 政府の最も重要な責務は、我が国の平和と安全を維持し、その存立を全うするとともに、国民の命を守ることである。我が国を取り巻く安全保障環境の変化に対応し、政府としての責務を果たすためには、まず、十分な体制をもって力強い外交を推進することにより、安定しかつ見通しがつきやすい国際環境を創出し、脅威の出現を未然に防ぐとともに、国際法にのっとって行動し、法の支配を重視することにより、紛争の平和的な解決を図らなければならない。
 さらに、我が国自身の防衛力を適切に整備、維持、運用し、同盟国である米国との相互協力を強化するとともに、域内外のパートナーとの信頼及び協力関係を深めることが重要である。特に、我が国の安全及びアジア太平洋地域の平和と安定のために、日米安全保障体制の実効性を一層高め、日米同盟の抑止力を向上させることにより、武力紛争を未然に回避し、我が国に脅威が及ぶことを防止することが必要不可欠である。その上で、いかなる事態においても国民の命と平和な暮らしを断固として守り抜くとともに、国際協調主義に基づく「積極的平和主義」の下、国際社会の平和と安定にこれまで以上に積極的に貢献するためには、切れ目のない対応を可能とする国内法制を整備しなければならない。
 5月15日に「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」から報告書が提出され、同日に安倍内閣総理大臣が記者会見で表明した基本的方向性に基づき、これまで与党において協議を重ね、政府としても検討を進めてきた。今般、与党協議の結果に基づき、政府として、以下の基本方針に従って、国民の命と平和な暮らしを守り抜くために必要な国内法制を速やかに整備することとする。
 1.武力攻撃に至らない侵害への対処
 (1)我が国を取り巻く安全保障環境が厳しさを増していることを考慮すれば、純然たる平時でも有事でもない事態が生じやすく、これにより更に重大な事態に至りかねないリスクを有している。こうした武力攻撃に至らない侵害に際し、警察機関と自衛隊を含む関係機関が基本的な役割分担を前提として、より緊密に協力し、いかなる不法行為に対しても切れ目のない十分な対応を確保するための態勢を整備することが一層重要な課題となっている。
 (2)具体的には、こうした様々な不法行為に対処するため、警察や海上保安庁などの関係機関が、それぞれの任務と権限に応じて緊密に協力して対応するとの基本方針の下、各々の対応能力を向上させ、情報共有を含む連携を強化し、具体的な対応要領の検討や整備を行い、命令発出手続を迅速化するとともに、各種の演習や訓練を充実させるなど、各般の分野における必要な取組を一層強化することとする。
 (3)このうち、手続の迅速化については、離島の周辺地域等において外部から武力攻撃に至らない侵害が発生し、近傍に警察力が存在しない場合や警察機関が直ちに対応できない場合(武装集団の所持する武器等のために対応できない場合を含む。)の対応において、治安出動や海上における警備行動を発令するための関連規定の適用関係についてあらかじめ十分に検討し、関係機関において共通の認識を確立しておくとともに、手続を経ている間に、不法行為による被害が拡大することがないよう、状況に応じた早期の下令や手続の迅速化のための方策について具体的に検討することとする。
 (4)さらに、我が国の防衛に資する活動に現に従事する米軍部隊に対して攻撃が発生し、それが状況によっては武力攻撃にまで拡大していくような事態においても、自衛隊と米軍が緊密に連携して切れ目のない対応をすることが、我が国の安全の確保にとっても重要である。自衛隊と米軍部隊が連携して行う平素からの各種活動に際して、米軍部隊に対して武力攻撃に至らない侵害が発生した場合を想定し、自衛隊法第95条による武器等防護のための「武器の使用」の考え方を参考にしつつ、自衛隊と連携して我が国の防衛に資する活動(共同訓練を含む。)に現に従事している米軍部隊の武器等であれば、米国の要請又は同意があることを前提に、当該武器等を防護するための自衛隊法第95条によるものと同様の極めて受動的かつ限定的な必要最小限の「武器の使用」を自衛隊が行うことができるよう、法整備をすることとする。

 2.国際社会の平和と安定への一層の貢献
 (1)いわゆる後方支援と「武力の行使との一体化」
 ア いわゆる後方支援と言われる支援活動それ自体は、「武力の行使」に当たらない活動である。例えば、国際の平和及び安全が脅かされ、国際社会が国際連合安全保障理事会決議に基づいて一致団結して対応するようなときに、我が国が当該決議に基づき正当な「武力の行使」を行う他国軍隊に対してこうした支援活動を行うことが必要な場合がある。一方、憲法第9条との関係で、我が国による支援活動については、他国の「武力の行使と一体化」することにより、我が国自身が憲法の下で認められない「武力の行使」を行ったとの法的評価を受けることがないよう、これまでの法律においては、活動の地域を「後方地域」や、いわゆる「非戦闘地域」に限定するなどの法律上の枠組みを設定し、「武力の行使との一体化」の問題が生じないようにしてきた。
 イ こうした法律上の枠組みの下でも、自衛隊は、各種の支援活動を着実に積み重ね、我が国に対する期待と信頼は高まっている。安全保障環境が更に大きく変化する中で、国際協調主義に基づく「積極的平和主義」の立場から、国際社会の平和と安定のために、自衛隊が幅広い支援活動で十分に役割を果たすことができるようにすることが必要である。また、このような活動をこれまで以上に支障なくできるようにすることは、我が国の平和及び安全の確保の観点からも極めて重要である。
 ウ 政府としては、いわゆる「武力の行使との一体化」論それ自体は前提とした上で、その議論の積み重ねを踏まえつつ、これまでの自衛隊の活動の実経験、国際連合の集団安全保障措置の実態等を勘案して、従来の「後方地域」あるいはいわゆる「非戦闘地域」といった自衛隊が活動する範囲をおよそ一体化の問題が生じない地域に一律に区切る枠組みではなく、他国が「現に戦闘行為を行っている現場」ではない場所で実施する補給、輸送などの我が国の支援活動については、当該他国の「武力の行使と一体化」するものではないという認識を基本とした以下の考え方に立って、我が国の安全の確保や国際社会の平和と安定のために活動する他国軍隊に対して、必要な支援活動を実施できるようにするための法整備を進めることとする。
 (ア)我が国の支援対象となる他国軍隊が「現に戦闘行為を行っている現場」では、支援活動は実施しない。
 (イ)仮に、状況変化により、我が国が支援活動を実施している場所が「現に戦闘行為を行っている現場」となる場合には、直ちにそこで実施している支援活動を休止又は中断する。
 (2)国際的な平和協力活動に伴う武器使用
 ア 我が国は、これまで必要な法整備を行い、過去20年以上にわたり、国際的な平和協力活動を実施してきた。その中で、いわゆる「駆け付け警護」に伴う武器使用や「任務遂行のための武器使用」については、これを「国家又は国家に準ずる組織」に対して行った場合には、憲法第9条が禁ずる「武力の行使」に該当するおそれがあることから、国際的な平和協力活動に従事する自衛官の武器使用権限はいわゆる自己保存型と武器等防護に限定してきた。
 イ 我が国としては、国際協調主義に基づく「積極的平和主義」の立場から、国際社会の平和と安定のために一層取り組んでいく必要があり、そのために、国際連合平和維持活動(PKO)などの国際的な平和協力活動に十分かつ積極的に参加できることが重要である。また、自国領域内に所在する外国人の保護は、国際法上、当該領域国の義務であるが、多くの日本人が海外で活躍し、テロなどの緊急事態に巻き込まれる可能性がある中で、当該領域国の受入れ同意がある場合には、武器使用を伴う在外邦人の救出についても対応できるようにする必要がある。
 ウ 以上を踏まえ、我が国として、「国家又は国家に準ずる組織」が敵対するものとして登場しないことを確保した上で、国際連合平和維持活動などの「武力の行使」を伴わない国際的な平和協力活動におけるいわゆる「駆け付け警護」に伴う武器使用及び「任務遂行のための武器使用」のほか、領域国の同意に基づく邦人救出などの「武力の行使」を伴わない警察的な活動ができるよう、以下の考え方を基本として、法整備を進めることとする。
 (ア)国際連合平和維持活動等については、PKO参加5原則の枠組みの下で、「当該活動が行われる地域の属する国の同意」及び「紛争当事者の当該活動が行われることについての同意」が必要とされており、受入れ同意をしている紛争当事者以外の「国家に準ずる組織」が敵対するものとして登場することは基本的にないと考えられる。このことは、過去20年以上にわたる我が国の国際連合平和維持活動等の経験からも裏付けられる。近年の国際連合平和維持活動において重要な任務と位置付けられている住民保護などの治安の維持を任務とする場合を含め、任務の遂行に際して、自己保存及び武器等防護を超える武器使用が見込まれる場合には、特に、その活動の性格上、紛争当事者の受入れ同意が安定的に維持されていることが必要である。
 (イ)自衛隊の部隊が、領域国政府の同意に基づき、当該領域国における邦人救出などの「武力の行使」を伴わない警察的な活動を行う場合には、領域国政府の同意が及ぶ範囲、すなわち、その領域において権力が維持されている範囲で活動することは当然であり、これは、その範囲においては「国家に準ずる組織」は存在していないということを意味する。
 (ウ)受入れ同意が安定的に維持されているかや領域国政府の同意が及ぶ範囲等については、国家安全保障会議における審議等に基づき、内閣として判断する。
 (エ)なお、これらの活動における武器使用については、警察比例の原則に類似した厳格な比例原則が働くという内在的制約がある。

 3.憲法第9条の下で許容される自衛の措置
 (1)我が国を取り巻く安全保障環境の変化に対応し、いかなる事態においても国民の命と平和な暮らしを守り抜くためには、これまでの憲法解釈のままでは必ずしも十分な対応ができないおそれがあることから、いかなる解釈が適切か検討してきた。その際、政府の憲法解釈には論理的整合性と法的安定性が求められる。したがって、従来の政府見解における憲法第9条の解釈の基本的な論理の枠内で、国民の命と平和な暮らしを守り抜くための論理的な帰結を導く必要がある。
 (2)憲法第9条はその文言からすると、国際関係における「武力の行使」を一切禁じているように見えるが、憲法前文で確認している「国民の平和的生存権」や憲法第13条が「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」は国政の上で最大の尊重を必要とする旨定めている趣旨を踏まえて考えると、憲法第9条が、我が国が自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置を採ることを禁じているとは到底解されない。一方、この自衛の措置は、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として初めて容認されるものであり、そのための必要最小限度の「武力の行使」は許容される。これが、憲法第9条の下で例外的に許容される「武力の行使」について、従来から政府が一貫して表明してきた見解の根幹、いわば基本的な論理であり、昭和47年10月14日に参議院決算委員会に対し政府から提出された資料「集団的自衛権と憲法との関係」に明確に示されているところである。この基本的な論理は、憲法第9条の下では今後とも維持されなければならない。
 (3)これまで政府は、この基本的な論理の下、「武力の行使」が許容されるのは、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られると考えてきた。しかし、冒頭で述べたように、パワーバランスの変化や技術革新の急速な進展、大量破壊兵器などの脅威等により我が国を取り巻く安全保障環境が根本的に変容し、変化し続けている状況を踏まえれば、今後他国に対して発生する武力攻撃であったとしても、その目的、規模、態様等によっては、我が国の存立を脅かすことも現実に起こり得る。我が国としては、紛争が生じた場合にはこれを平和的に解決するために最大限の外交努力を尽くすとともに、これまでの憲法解釈に基づいて整備されてきた既存の国内法令による対応や当該憲法解釈の枠内で可能な法整備などあらゆる必要な対応を採ることは当然であるが、それでもなお我が国の存立を全うし、国民を守るために万全を期す必要がある。こうした問題意識の下に、現在の安全保障環境に照らして慎重に検討した結果、我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において、これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、必要最小限度の実力を行使することは、従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置として、憲法上許容されると考えるべきであると判断するに至った。
 (4)我が国による「武力の行使」が国際法を遵守して行われることは当然であるが、国際法上の根拠と憲法解釈は区別して理解する必要がある。憲法上許容される上記の「武力の行使」は、国際法上は、集団的自衛権が根拠となる場合がある。この「武力の行使」には、他国に対する武力攻撃が発生した場合を契機とするものが含まれるが、憲法上は、あくまでも我が国の存立を全うし、国民を守るため、すなわち、我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置として初めて許容されるものである。
 (5)また、憲法上「武力の行使」が許容されるとしても、それが国民の命と平和な暮らしを守るためのものである以上、民主的統制の確保が求められることは当然である。政府としては、我が国ではなく他国に対して武力攻撃が発生した場合に、憲法上許容される「武力の行使」を行うために自衛隊に出動を命ずるに際しては、現行法令に規定する防衛出動に関する手続と同様、原則として事前に国会の承認を求めることを法案に明記することとする。

 4.今後の国内法整備の進め方
 これらの活動を自衛隊が実施するに当たっては、国家安全保障会議における審議等に基づき、内閣として決定を行うこととする。こうした手続を含めて、実際に自衛隊が活動を実施できるようにするためには、根拠となる国内法が必要となる。政府として、以上述べた基本方針の下、国民の命と平和な暮らしを守り抜くために、あらゆる事態に切れ目のない対応を可能とする法案の作成作業を開始することとし、十分な検討を行い、準備ができ次第、国会に提出し、国会における御審議を頂くこととする。

1233/池田信夫の特定秘密保護法論の一端。

 池田信夫は、原発問題も含めて、相当に信頼のおける、穏当・妥当な(中立・中庸という意味ではない)主張・議論をする人物だと思っている。
 正確な月日を特定できないが、某メルマガ上での、特定秘密保護法に関する池田の文章を見つけたので、この欄の執筆者なりに要約して紹介しておくことにする。
 何事が起こったのかと驚くようなキャンペーンをはっていた朝日新聞等の社説子・記者や朝日新聞等に煽られたか又は逆に朝日新聞等を煽ったかの特定秘密保護法「反対」学者たちは、冷静に読むがよい。単独(多数)講和反対論、60年安保反対論と同様の(それらよりもアホらしいほど程度レベルだが)、すでに正否・適否の結論の出ている空想的・観念的・妄想的「反対」論であったことを知らなければならない。自分たちが恥ずかしいことをしたことを知らなければならない。
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 池田信夫「秘密保護法についてのまとめ」
 <マスコミが大騒ぎする割に何が問題かさっぱりわからないようなので、常識的な事項を簡単にまとめる。「特定秘密」は安全保障に関する情報で、「普通の人が軍事・外交機密に接触する機会はまずない」。この法律が「むしろ軍事・外交機密に範囲をせばめたことで、機密の対象は明確になった」。「『特定有害活動』とか『テロリズム』が拡大解釈されるおそれはある」としても、「普通の人にはまず関係ない」。「その種の人々に対する情報収集は今でも行なわれて」おり、「この法律で広がるわけではない」。この法律による変化の「最大のポイントは、今まで機密漏洩の罰則は国家公務員法と自衛隊法しかなかったのが、公務員の家族や友人、あるいは出入り業者など民間人にも処罰対象が広がることだ」。但し、「運用には注意が必要」だとしても、「これは当然で、国家公務員という身分より軍事機密という情報の属性で分類するのが正しい」。「特定秘密の基準が曖昧で民間人を巻き込むリスクはある」が、それは「主として運用の問題」で、「問題の本質」は「日本の安全保障にどういう影響を及ぼすか」だ。「最大の目的は米軍のもっている軍事機密の提供」で、在日米軍の将来の撤退に備えて、「自衛隊も『自立』して」ほしいというのがアメリカ政府の企図だろう。「臨時国会で成立させるほどの緊急性があるとは思わない」が、「法案が提出された以上は、成立させるしかない」。必要以上にもめれば、「中国に誤ったシグナルを送る結果になる」。「防空識別圏」は小さな問題のようにみえるが、戦争は小さなきっかけでも起こりうる。「日本人もそろそろ平和ボケから覚めるときだ」。>
 池田信夫「秘密保護法の本当の欠陥」
 <「空騒ぎもようやく終わった」。問題は秘密保護法だけでは「機密を守る役に立たないこと」だ。「中国の諜報機関」、中国の「1万人のサイバー攻撃部隊」による「攻撃が、世界の諜報機関を悩ませている」。特定秘密保護法の「大部分は『特定秘密の取扱者』の規制とその適性評価」にさかれおり、「古典的なHUMINTを想定しているので、サイバー攻撃には役に立たない」。安倍首相発言のごとく、、現在「『特別管理秘密』に指定されている42万件の情報の9割は衛星写真」で、「残りは暗号や潜水艦の位置情報などの軍事機密」であり、「マスコミとは関係のない、安全保障の問題」だ。「今の無防備な日本には、アメリカは戦略情報や軍事機密を出さない。だから国家公務員だけでなく、三菱重工のような防衛関連企業にも守秘義務を課してセキュリティを管理する秘密保護法は必要だが、不十分」。新聞などという業界の既得権より、「ハイテク諜報戦争の防護のほうがはるかに重要」だ。>
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. こんな池田の文章を読んでいると、すでに紹介したような、憲法の「平和主義」を持ち出したりしての、「反対」声明・意見の<空理・空論>さを強く感じる。立命館大学有志意見はこの法律は「一般的な秘密の保全というよりは、軍事的な防諜法の側面が強いものになってい」ると言い、「刑事法研究者の声明」は「この法案は、端的に言えば、軍事立法としての性格を色濃く有して」いると言うが、そそもなぜ、そのことがいけないのだろうか。
 この人たちは、「軍事」一般を「悪」と見ており、かつ「戦争」を起こす(又は起こしたい)のは日本かアメリカ(又はアメリカに追随しての日本)だと思い込んでいるようだ。従って、東アジアの現実をリアルに見ることができていない。日本よりも「軍事」を重視し、「軍国主義」化しており、日本に対して戦争を起こす(日本領土を「侵略」する)可能性・危険性を切実に意識しておくべきなのは、共産中国または北朝鮮ではないか。簡単に述べても理解できないのだろうが、今日でも、社会主義(国)=善、自由(資本)主義(国)=悪と見るという、そして危険なのは日本(の「保守・反動」派)だという、50年以上前にすでにあった古色蒼然たる観念を、愚かにも現在まで持ち続けている。こんな意識からは、日本と日本国民の「安全」を守るためには<防諜>や<インテリジェンス>が必要などという考え方はまるで出てこないか、まるで理解できないのだと思われる。そして、日本と日本国民の「安全」を本当にまたは現実に守らなければならないという意識・考え方がじつはきわめて薄いのだと思われる。日本と日本人から<距離を置く>ことが<ナショナリズム>に陥らない良いことだ、と考えているのかもしれない。
 何やら良心的・進歩的な言説を吐いているつもりかもしれないが、<空理・空論・妄想>に嵌まったままの、気の毒な人たちだ。そして、大学教授たちの中に少なからずそういう人たちがいるのだから、日本の大学教育(法学教育)の現在と将来には悲観的にならざるをえない。むろん、冷静で、正常で、まともな教授たちもいるに違いないが。

1195/西尾幹二=竹田恒泰と小川榮太郎の本、全読了。

 8月中に読了した書物に、少なくとも次の二つがある。いつ読み始めたかは憶えていない。感想、伴う意見等を逐一記しておく余裕はない。以下は、断片的な紹介またはコメントにすぎない。
 第一、西尾幹二=竹田恒泰・女系天皇問題と脱原発(飛鳥新社、2012)。

 1.第三部は「雅子妃問題の核心」。かつて対談者の二人はこの問題に関して対立していて、私は西尾幹二の議論に反対していた(ということはたぶん竹田と同様の見方をしていた)。この本では、正面からの喧嘩にならずに平和的にそれぞれが言いたいことを言っている。
 離れるが、①皇太子妃に「公務」などはありえない。皇后についても同様だ。②美智子皇后が立派すぎるのであり、皇后陛下を標準として考えてはいけない。かつての時代を広く見れば、模範的な皇族を基準とすれば、異様な皇族など、いくらでもいたはずだ、皇太子妃であっても。また、おおっぴらに語られることはなくとも、異様な天皇もいたであろう。それでも皇統は続いてきた。皇族が「尊い」理由は各人の人格・人柄等にあるのではなく「血統」にある。皇太子妃は皇太子の配偶者であるというだけで、「尊い」と感じられるべきだろう。

 2.本件当時に「怒り」のような感情を抱いたものだが、2012年4月に羽毛田宮内庁長官は今上天皇・皇后の薨去後の方法についての希望ごを記者会見で発表したことがあった。
 今上天皇が何らかの意見をお持ちになることはありうるだろうが、天皇の「死」を前提にする具体的なことを平気で宮内庁長官がマスコミに対して話題にすること自体に大きな違和感を覚えた。

 よろしくない場合もあるが、日本と日本人は井沢元彦の言うように「言霊」の国なのではないか。一般人についてすらその将来の「死」に触れることが憚られる場合もある。ましてや天皇や皇族についてをや。

 また、この本p.148によると、羽毛田は皇后陛下のご本意と異なることを発表したらしい。ひどいものだ。竹田は宮内庁ではなく皇居域内に建物はあっても「宮外庁」だと言っていたが、その通りのようだ。羽毛田は元厚生労働省の官僚。憲法改正の必要はないとしても、皇室に関係する組織のあり方は行政機関も含めて、検討の必要がある。
 3.第四部の「原発問題」では二人の意見は基本的に一致しているようだが、私は賛同していない。竹田の最初の論考に原発労働者の実態が詳しく書いてあった記憶があるが、それを読んだとき(この欄には何も書かなかったはずだが)、それなら労働環境を改善すればいいだけのことで、原発自体に反対する理由にはならない、と感じたことがある。その他、二人の<反原発>文献は読んでいない。

 第二、小川榮太郎・国家の命運-安倍政権・奇跡のドキュメント(幻冬舎、2013)。
 1.p.143-4、昨年末の総選挙についてのマスコミ報道-マスコミは二大政党からの選択という「文脈を敢えて無視するかのように、『第三極』をクローズアップした。民主党三年三カ月の検証番組はなかった。自民党に政権復帰能力があるかどうかの検証もなされなかった。第三極や多党化という泡沫的な現象を追うばかりだった」。「日本のマスコミのこの二十年に及ぶ、度重なる浅薄な選挙誘導の罪、日本を毀損する深刻度において民主党政権と同格だ」。以上、基本的に同感。
 朝日新聞等の「左翼」マスコミは民主党政権に対して何と「甘く」、優しかったことだろうか。批判するにしても<叱咤激励>にあたるものがほとんどだっただろう。そして思う、いかに「政治的」新聞社・報道機関であっても<報道>業者であると自称しているかぎり、「事実」についてはさすがに真っ赤なウソは書けない。あれこれの論評でもって庇おうとしたところで、「事実」自体を変更することは(あくまで通常はだが)朝日新聞であってもできない。民主党政権にかかわる「事実」こそが、同党政権を敗北に導き、同党の解党の可能性を生じさせている。

 2.つぎの文章は、しっかりと噛みしめて読まれるべきだろう。-安倍晋三の「微妙な戦いは、我々国民一人一人が、安倍政治の軌道を絶えず正し、強い追い風で安倍の背中を押し続けない限り、不発に終わる。そして、もしそれが不発に終われば、日本は、中国の属国となってその前に這いつくばり、歴史と伝統を失い、日本人ではなく単に日本列島に生息する匿名の黄色人種になり下がるであろう。/その危機への戦慄なきあらゆる政策論は、どんな立場のものであれ、所詮平和呆けに過ぎない」(p.203)。

 3.知らなかった(大きくは報道されなかった)ので戦慄すべきことが書かれている。p.234以下。

 「事実上の発射準備」である「射撃管制用レーダーの照射」を中国海軍艦艇が行ったのは1/30で、翌月に小野寺防衛相が明らかにし抗議した。「最早挑発ではない。歴とした武力による威嚇」であることに注目すべきことは言うまでもない。問題は、以下だ。
 「
民主党政権時代にも、レーダーの照射は少なくとも二回あったが、中国を刺激するとの理由で公表しなかった」。

 小川が書くように(p.235以下)、民主党政権が続いて「その極端な対中譲歩が続いて」いれば、尖閣諸島はすでに「実効支配されていた可能性が高いのではないか」。

 小川はその理由を言う。-中国が「軍事」衝突なく施政権を奪えば、尖閣に日米安保は適用されない。「もし民主党政権が『中国を刺激するな』を合い言葉に、軍事行動なしに中国に施政権を譲ってしまえば。その段階でアメリカには防衛義務はなくなる」。
 ここでの「施政権」とは、「事実上の支配」とおそらくほぼ同義だろう。民主党政権が中国による何らかの形での尖閣上陸と実力・武力・軍事力による「実効支配」を、日本の実力組織(さしあたり、海上保安庁、自衛隊)を使って妨げようとしなかったら、かかる事態は生じていたかと思われる。小川はさらに、次のように書いている(p.237)。

 「勿論、民主党政権は口先で抗議を続けただろう。型通りの抗議を続けながら泣き寝入りを…。しかし現在の国力の差では、中国に実効支配を許したものを日本が取り返すことは至難だ」、日本は「世界の笑い者になる」。この点だけでも、「安倍政権の誕生は、間一髪だった」。

 さて、中国が強い意思をもって尖閣に上陸し「支配」しようとする状況であることが明らかになったとき、朝日新聞は、あるいは吉永小百合を含む「左翼」文化人は何と言い出すだろうか。<戦争絶対反対。上陸と一時支配を許しても、その後で中国政府に強く抗議し原状回復を求めるとともに、中国の不当性を国際世論に広く(言葉を使って)訴えればよい。ともかく、日本は武力を用いるな>、という大合唱をし始めるのではないか。かかる「売国奴」が「左翼」という輩たちでもある。

 4.この本は安倍晋三支持の立場からのもので、そうでない者には異論もあるかもしれない。だが、悲観的、絶望的気分が生じることの多い昨今では(今年に入っても程度は質的に異なるが、似たようなことはある)、奇妙に安心・楽観的気分・希望を生じさせる本だ。  

1165/2013.03.17安倍晋三内閣総理大臣・防衛大学校卒業式訓示。

資料・史料
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 安倍晋三内閣総理大臣・防衛大学校卒業式訓示
           2013年03月17日

 本日、伝統ある防衛大学校の卒業式にあたり、これからのわが国の防衛を担うことになる諸君に、心からお祝いを申し上げます。卒業、おめでとう。諸君の規律正しく、りりしい雄姿に接し、自衛隊の最高指揮官として、心強く、頼もしく思います。

 また、学生の教育に尽力されてこられた、国分良成大学校長をはじめとする教職員の方々に敬意を表します。日ごろから防衛大学校にご理解とご協力をいただいているご来賓、ご家族の皆様には、心より感謝申し上げます。

 本日は卒業生諸君が、ここ防衛大学校から巣立ち、新たな任務に就く良い機会ですので、内閣総理大臣、そして、自衛隊の最高指揮官として、一言申し上げさせていただきます。

 4年前の1月15日、ニューヨークを飛び立った旅客機が、離陸直後のエンジン停止という最悪の事態に直面し、ハドソン川に緊急着水しました。当時、「ハドソン川の奇跡」とも呼ばれたこのニュースを覚えている人も多いと思います。

 最後まで機内に残り、乗客・乗員155人全員の命を守りきったサレンバーガー機長は、高まる称賛の声に対して、このように語ったそうです。

 「私たちは日ごろの訓練通りに行動しただけだ」

 そこには功名心はありません。あるのは、ただ、乗客・乗員を断固として守りぬくという、機長としての使命感と責任感です。かつて空軍のパイロットでもあったサレンバーガー機長は、こうも語っています。

 「すべての人生は、このときに備えるためにあったように思う」

 「ハドソン川の奇跡」は、「偶然」の結果ではありません。サレンバーガー機長の、強い使命感と責任感に裏打ちされた、努力と訓練の積み重ねがもたらした「必然」の結果であったと思います。

 一生に一度あるかないかの「そのとき」に、完璧に任務を全うする。これは並大抵のことではありません。しかし、これから幹部自衛官となる諸君には、その心構えを常に持って、鍛錬を積み重ねてほしいと思います。

 何よりも、「そのとき」が訪れないようにすることが、日本にとって最善であることは言うまでもありません。しかし、万が一の「そのとき」には、国民の生命と財産、わが国の領土、領海、領空を断固として守りぬく。その責任感を胸に刻み、諸君には、いかなる厳しい訓練や任務にも、耐えていってもらいたいと思います。

 日本を取り巻く安全保障環境は厳しさを増しています。諸君が防衛大学校の門をたたいた4年前とは異なり、わが国の領土、領海、領空に対する挑発が続いています。諸君が、これから臨む現場で起きていることは、冷厳な「現実」であり、「今、そこにある危機」であります。

 今、この瞬間も、諸君の先輩方は、荒波を恐れず、乱気流を乗り越え、泥にまみれながらも、極度の緊張感に耐え、強い誇りを持って、任務を立派に果たしています。

 私はその先頭に立って、国民の生命、財産、わが国の領土、領海、領空を守りぬく決意であります。11年ぶりに防衛関係費を増加します。今後、防衛大綱を見直し、南西地域を含め、自衛隊の対応能力の向上を進めます。

 先般のオバマ大統領との会談により、緊密な日米同盟も完全に復活しました。そのうえで、日米安保体制のもとでの抑止力を高めるためにも、わが国は諸君とともに、さらなる役割を果たしていかねばなりません。

 私と日本国民は、常に諸君とともにあります。その自信と誇りを胸に、諸君には、それぞれの現場で活躍してもらいたいと思います。

 この場には、カンボジア、インドネシア、モンゴル、大韓民国、タイ、そしてベトナムからの留学生諸君もいます。諸君は、国の守りを担う、それぞれの母国の宝であることは間違いありません。

 同時に、わが国にとっても諸君の母国とわが国とをつなぐ、大切な友情の架け橋であります。ぜひとも、ここでの学びの日々で育まれた深い絆を、今後とも発展させてほしいと思います。そして、愛する母国に戻り、それぞれの現場で大いに活躍されることを、心より祈念します。

 今日、この場所から、それぞれの現場に踏み出す諸君に、最後に、この言葉を贈りたいと思います。

 「批評するだけの人間に価値はありません」

 「真に称賛しなければならないのは、泥と汗と血で顔を汚し、実際に現場に立つ者です。勇敢に努力する者であり、努力の結果としての過ちや、至らなさをも持ち合わせた者です」

 米西戦争において、自ら募った義勇兵を率いて、祖国のため戦場に飛び込んでいった経験もあるセオドア・ルーズベルト元米国大統領は、こう語りました。

 卒業生諸君。諸君には、それぞれの現場で、自信と誇りを持って、全力を尽くしてほしいと願います。諸君は、国民と国家を守るという、崇高な現場での任務に、ひたすら没頭してください。

 ご家族の皆さん、大切なお子さまを、現場に送り出してくださることに、最高指揮官として感謝の念で一杯です。お預かりする以上、しっかりと任務が遂行できるよう万全を期し、皆さんが誇れるような自衛官に育てあげることをお約束いたします。

 最後となりましたが、日ごろから防衛大学校にご理解とご支援をいただいているご来賓の方々に感謝申し上げるとともに、本日、栄えある門出に際し、諸君に幸多からんことを祈念し、私の訓示といたします。
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1083/憲法九条の解釈と産経新聞と軍隊と法ニヒリズム。

 自衛隊の憲法上の根拠に関する国会質疑についての報道ぶりをこの欄で疑問視したのは2/05の未明だった。
 その後、産経新聞社説が2/09に、読売新聞社説が2/10にこの問題を取り上げ、産経新聞紙上の「正論」欄では2/09に坂元一哉が「芦田修正が自衛隊合憲根拠なら」と題してこの問題に言及している。他紙の状況は確認していないが、少なくとも社説では取り上げていないようだ。
 上の3つに共通するのは、①いわゆる芦田修正は政府の解釈する自衛隊の合憲性の根拠ではない、②「やはり」憲法改正(軍としての明記)が必要だ、ということだ。
 そもそも自衛隊担当大臣が憲法上の根拠をまともに答弁できないのは異常なのであり、坂元の言うように「昔だったら国会が止まりかねない失態」だ。このことに関する感覚が麻痺しているのではないかと先日は言いたかったのだが、産経社説の冒頭は「自衛隊と憲法の関係があまりに複雑すぎて、ほとんどの国民は理解できないだろう」から始まっている。別の機会に言及する点も含めて、大?新聞の産経新聞の社説子がこう書き始めるとは、(「国民」に代えてはいるが)情けないことだ。田中某大臣の勉強不足のみに焦点を当て、質問者・石破茂の憲法解釈の適否について触れなかった自社の記事への「釈明」のように読めなくもない(官房長官が芦田修正は政府解釈とは異なると述べたらしいが、少なくとも同じ記事の中に書いてはいない)。
 さて、自衛隊が憲法九条2項でいう「戦力」ではないということは、九条2項が「陸海空軍その他の戦力」と表現しているように、自衛隊は「陸海空軍」ではないこと、「軍(隊)」ではないとされていることを意味する。「戦力」というとやや曖昧になってしまうが、現在ある自衛隊は「軍隊」ではないと日本政府は解釈し続けていること(そして司法審査の対象ではないとする最高裁の姿勢・判決によって、このような解釈は肯定されていないが、否定されてもいないこと)をきちんと確認しておく必要がある。
 私の見るところ、このような解釈の長年にわたる「通用」は、少なくとも次の二つの弊害をもたらしているようだ。
 一つは、戦車が「特車」と言い換えられるといった例をよく耳にするが、自衛隊は「軍隊」ではないとされているために、まともな軍隊ならば有しうる(与えられる)はずの種々の権限が制約されている。
 詳細に立ち入る余裕も能力もないが、田母神俊雄はこの点を、軍隊ならばネガティブ・リスト以外のことを全てできるが、自衛隊はポジティブ・リストに明記されていることしかできない、と説明していた。
 かつての幕僚長の言うことだから、結論的にはおそらく的確な説明なのだろう。「軍隊」ではないがゆえの、法律との関係での制約があるのだ。
 もっとも、<軍隊ならばネガティブ・リスト以外のことを全てできる>という説明は、結論的・感覚的には誤ってはいないのかもしれないが、結局のところ、法律による抽象的かつ包括的な権限・権能の付与が「軍隊」の場合は通常(どの国でも)憲法または法律によって行われている、ということであり、軍隊であるがゆえの「国際法」上の権能だという説明ではないように見える。なぜなら、ある国の、ある武力・実力組織が「軍隊」であるか否かを決定することができるいかなる国際機関も存在しないと思われるからだ。
 したがって、違いは要するに国内法(憲法上の存在ではない日本では法律)上の扱いの違いなのであり、自衛隊を「軍隊」とは理解してこなかった日本の法律は、<抽象的かつ包括的な権限・権能の付与>をしてこなかった、ということなのだろうと思われる。このあたりは、軍事・防衛法専門家(いるとすれば)のきちんとした説明を聞きたいものだ。
 二つは、一種の「法ニヒリズム」の根拠・背景になってきた、ということだ。軍隊(・自衛隊)の存否、その法的な根拠は国家にとって最重要事項のはずだが、日本政府自体の憲法解釈が大まかに言って朝鮮戦争勃発の前後によって変わってきたことによって、<憲法解釈などどのようにでもなる>という印象を多くの国民に与えたことは否定できないように思われる。また、世界で第何位の実力があるというようなかたちで紹介されることもある自衛隊の装備・能力が(上に触れたような制約があるとはいえ)、常識的な用語としての「軍その他の戦力」ではない、とするのは、必ずしも容易に理解できるものではない。
 憲法と自衛隊に関する説明・授業を聞く小学生・中学生たちは、何と感じるだろうか。<(日本の)大人たちはゴマかしている>と感じないだろうか。
 もともと欧米的な「法・権利」意識が日本(国民)にそのまま根付くものなのかという問題はあるのだが、そうした基本問題以前のところで、憲法をはじめとする法(法令等)に対する「不信」のようなもの、それを伝統的・歴史的な意識に支えられた自然の「法」意識へと育てず、憲法等の「法」を(どのようにでも解釈・運用できる)<技術的な道具>視してしまうような意識・心理の重要な背景の一つは(最高裁の姿勢もその一つだが)九条・自衛隊に関する政府の解釈でもあったように考えられる。
 さらに論及したいことがあったが、長くなったので別の回に委ねる。

1080/自衛隊の合憲性の根拠は芦田修正?

 2/02衆議院予算委員会で自民党・石破茂が田中某防衛大臣に自衛隊の合憲性についての憲法(九条)上の根拠を糾し、田中某が「しどろもどろ」の答弁をしたので、石破茂は、次を「模範解答」として教示した、とされる。
 ・九条二項冒頭のいわゆる「芦田修正」(「前項の目的を達成するため」の挿入)。他に「文民条項」も挙げたらしいが、これをも追加した意味は不明なので、以下では後者については省略しておく。
 誰かがどこかですでに書いているだろう。石破の憲法「解釈」は成り立ちうるものではあるが、これまでの政府見解とはまったく異なる。
 元防衛大臣の石破も、そして自民党も、上の問題についての「政府見解」を知らないとは、まったく呆れてしまう。それをご説ごもっともと?聞いていたらしい田中某も民主党政府全体も、そしてマス・メディアもどうかしている。この点を問題視していた全国紙はあったのだろうか。
 憲法9条の法解釈論を少しでも勉強したことがある者であれば誰でも知っているようなことだ。
 なるほど芦田修正を形式的に文言どおりに生かせば、前項(9条1項)による<侵略戦争の禁止(放棄)>のためにのみ「戦力の保持」が2項によって禁止されていることになる。換言すれば、<自衛(戦争)>のための「戦力」保持は禁止されておらず、自衛のための(堂々たる)「戦力」として自衛隊は認知されていることになる。
 しかし、政府の解釈も変遷してきたという曖昧さ・いいかげんさはあるのだが、昭和29年・自衛隊法制定時の鳩山一郎内閣時代の林修三法制局長官国会答弁(1954.12.21)は、次のようなものだった。
 ・「国家が自衛権を持っておる以上…〔自衛のための〕実力を…持つことは当然のこと」、「憲法が…、今の自衛隊のごとき…自衛力を禁止しておるということは…考えられない。すなわち第2項…その他の戦力は保持しないという意味の戦力にはこれは当たらない」。
 また、同時期の大村清一防衛庁長官国会答弁(1954.12.22)は、次のようなものだった。
 憲法は自衛権・「自衛のための抗争」を否定していない。「…従って自衛隊のような自衛…目的のため必要相当な範囲の実力部隊を設けることは、何ら憲法に違反するものではない」。
 要するに、芦田修正などは何ら根拠とされず、そもそも自衛隊は九条2項が保持を禁止する「戦力」ではなく<自衛のための実力部隊>にすぎない、とされたのだ。
 その後、佐藤栄作内閣時の吉国一郎法制局長官国会答弁(1972.11.13)は、「9条2項の戦力の定義」は「自衛のための必要最小限度を超えるもの」だと述べ、自衛隊は「超えるもの」ではないがゆえに「戦力」ではなく、従って憲法9条に抵触しない、とした。
 「戦力」の意義を明瞭にしているが、基本的な趣旨は、昭和29年の時期と同じだと解してよい。
 このような解釈については、常識的にみて自衛隊が「戦力」に当たらないとするのはこじつけだとか、「必要最小限度」とはどの程度かあいまいだ等の批判は当然にありうる。
 しかし、ともあれ、これが現在も生きている日本政府の(自衛隊に関する)憲法解釈のはずなのであり、石破が「芦田修正」を持ち出すのは、芦田に自衛隊(自衛軍)保持の余地を残したいという意図がかりにあったとしても、<公的な・公定の>解釈ではなく、一国会議員の解釈にすぎない。石破は1970年代以降に大学で憲法を学んだはずだが、よほど奇妙な(主観的な個人の解釈だけを示す)教師の講義を受けたのだろうか。
 こんな、自衛隊の存立基礎にかかわる問題について、与党も野党も、そしてマスコミも、国会における奇妙なやりとりを問題意識をもって聞いていないとは、まことに奇妙な、あるいは異様な事態だと思われる。ますますもって嘆かわしい世の中になってきている。

1072/米中冷戦時代への突入-中西輝政論考。

 〇大した数を読んではいないが、昨年末に読んだ論壇誌類中の論考の白眉は、月刊WiLL2月号(ワック)の中西輝政「二〇二〇年は日本の時代」(p.30-47)だろう。実質的に巻頭論文であり、表紙でもこのタイトルが最右翼に掲示されている。もっとも、産経新聞を含む大手メディアは無視または軽視するかもしれない。
 「二〇二〇年は日本の時代」は文末の(条件つきの)楽観的予測から取ったものだろうが、内容的には、中西輝政が類似のことも指摘・主張している、月刊正論2月号(産経)中の、「米中対峙最前線という決断」(p.86-)というタイトルの方がよいかもしれない。
 以下は、月刊WiLLの方の要約的紹介。
 ・「非常に優れた保守の論客」との会話で中国の脅威を軽視しているのに驚き、日本の「保守の分岐点」はここにある、と感じた。「中国の脅威をどう考えるか」で保守の立ち位置も極北・極南ほどに離れる(p.30)。
 ・アメリカが日本に及ぼす害悪は日本「文明」に対するものである一方、中国のそれは、日本「国家」の存立を劇的に脅かしている。また、深刻度は同じでも切迫度に大きな差がある。日本の「保守」は「国家の危機」にこそ敏感になるべきだ(p.31)。
 ・近年の中国の軍事・外交動向に欧米諸国は「あらたな国家モデル」の提示と「世界覇権」への意図を感じ取った。多くの途上国は前者に影響を受けている。リビアも「中国モデル」継承者だったが、この国に介入した英米軍等にはそのモデルは「許さない」との意志があった。これは<米中新冷戦>構図の北アフリカ版で、「世界秩序」は歴史的に重大なとば口に立っている。この「中国の脅威」に「世界中で一番鈍感なのは、日本人」だ(p.32-33)。

 ・尖閣事件等々は中国の本質を分からせるに十分だった。「軍部による中国の国家支配がはじまっている」。アメリカ・オバマ大統領の2011.11.16演説は東シナ海・インド洋へと広がる「中国の動きを軍事的に牽制するため」のもの。かかる変化は遅すぎるものだが、「アメリカが中国との対峙を明言」したことは、それだけ「中国の脅威が増した」ことを意味する。「米中は間違いなく、冷戦時代に突入した」(p.34-35)。

 ・日本の政治家・官僚・国民はかかる「歴史の転換」を「正しく感じ取って」いるか。与野党もマスコミも「自らの生活が第一」と、「現状にしがみついて」いるのではないか(p.35-36)。
 ・日本が現状のままで2015年まで推移すれば、日本「国家」の存立自体が「非常に困難な状況に陥る」=「破局が到来する」可能性が大きい。理由はつぎの三つ。  ①財政・経済問題。経済力、世界競争力は凋落したまま。  ②安保・外交。遅くとも2020年代頃に尖閣は中国に奪われているだろう。現状を客観的に見れば、すでに尖閣の実効的支配権は中国が持っているとも言える。現状はすでに「平時」ではないが、日本政府の動きは鈍い。中国を囲むロシアも韓国もアジア諸国も軍備増強させている中で、「中国包囲網」の「もっとも弱い環」は日本だ。中国は当然に日本をターゲットにして包囲網打破を図るが、それは「軍事だけではなく、政治工作や世論工作など、あらゆる手段」を使ったものになろう。  ③「政党構造が融解し、国内政治がまったく機能していないこと」。これの最大の原因は政治家を含む国民全体が「生活が第一」と、「腐敗した個人主義の暴走に身を委ね、民主主義がまったく機能していない」ことだ。
 これで2/3くらいまで。

 〇反米=自立の主張はあってよいが、対中国を含む「反共」を無視・軽視してはならず、むしろ後者をこそ優先すべき旨は、これまで何度も書いてきた。  佐伯啓思の冴えた分析に感心しながらも(最近も読んではいるがこの欄で言及するのは少なくなっている)、なぜこの人は(アメリカまたは近代欧米思想を批判的に語るのに)コミュニズム・共産主義批判または(現存する社会主義国である)中国に対する批判的叙述が乏しいのだろうとも感じてきた。
 反米・自立が達成されたとしても、同時に別の国(中国)に従属した形式的「自立」に変わったのでは元も子もなくなる、とも最近に書いた。
 アメリカは防衛線を東南方向へと移し、朝鮮半島と日本は中国に任せる、従って日米安保条約は廃止される(日本が対中国防衛をするためには自主軍備によることが必要になる)との情報または予測も語られている。
 日々の生活に、それなりの既得権益の維持に、それぞれの国民やマスコミを含む会社・団体が汲々としている間に、日本「国家」自体が消滅する(これは日本の中国の一州・自治州化か北朝鮮の如き中国傀儡政権の日本における誕生を意味する)危機にあるのではないか。
 そのような中国「共産主義」国家の脅威を、中西輝政のように語る論者がもっと増えなければならない。親中・媚中・屈中の朝日新聞や同新聞御用達の大学教授・評論家等に期待できないことだけははっきりしているが。
 中国は「社会主義的市場経済」の国で共産主義国家でもそれを目指す国家でもない、という認識があるとすれば、それは根本的に間違っている。日本共産党・不破哲三が中国を「現存する社会主義国」と見なして中国の今後に期待していること(この欄でいつか触れた)は一つの例証ではあるだろう。
 上の続きの紹介は別の回で試みる。

0950/NHK日曜午後7時米軍関係ニュースの「狙い」は何か。

 周知のとおり、NHKは、自己を被告とする、原告多数の訴訟について、製作番組(プロジェクトJAPAN)の内容にかかわるからだろう、いっさい報道していない。NHKの製作番組の中には「左翼=容共」性の強いものがあることは間違いないことだ。

 12月12日(日)の午後7時からのニュースの一部も<異様>だった。

 米軍(海軍)の軍楽隊が宮古島で演奏会を挙行したとの報道だったが、NHK(の担当記者・ニュース責任者)は何と、<宮古島で演奏会・米軍の狙いは>との横一列の見出しを掲げた(「狙い」は漢字を使っていた)。

 これには驚いた。「狙い」などと表現するのは、NHKは(少なくとも原稿執筆記者と見出し作成者かつこのニュース番組製作責任者は)米海軍音楽隊のこの行動を好ましくない又は気にくわないものと感じていることを、間違いなく示しているだろう。

 同じ意味の言葉に、他に「意図」も「目的」もある。これらですら、あえて<米軍の目的は>との見出しを打つことは「目的」を警戒するかのごときニュアンスを伴うのだが、これらよりもキツい響きをもつ「狙い」という語を、NHKはあえて使った。

 歓迎しているか、または少なくとも公正・中立さを意識しているならば、「米軍の狙いは」などという見出しを掲げる筈がない。NHKの少なくとも一部は、完全に「左翼」に乗っ取られているのではないか。
 本文および映像にも異様さはあった。アナウンサーは「今回の演奏会について、一部の住民からは『軍事利用につながる』などとして強い反発の声も上がっており、12日も会場の周囲では抗議活動が行われていました」と語り、<宮古島空港の軍事利用を許すな>とか書いた垂れ幕か横断幕をもった数十人か十数人の(空港前の)抗議行動らしきものを数秒以上にわたって放映した。

 だが、常識的に見て、宮古島空港の管理者はどの機関かは知らないが、国・沖縄県・現地自治体のいずれかの(もしくはすべての)同意・了解を得た上で米軍音楽隊の訪問はなされているはずで、当然ながら、<了解>し<歓迎>していた人々もいたはずなのだ。

 しかるに、NHKは上のような「抗議」をする一部住民(「…職労」とか書いてあった)のみについて報道し、その他の住民や市・県当局の対応・反応についてはいっさい報道しなかった。異常だ。

 全体としての放送時間の短さは理由にならない。以上のような報道の仕方は一面的・一方的で(公正・中立ではなく)、放送法にも違反している。

 この報道がいう米軍の「狙い」は次のとおりだ(アナウンサーが読んだ)-「こうした活動の背景には、有事などの際に迅速に対処できるよう、港湾や空港の状況をあらかじめ把握するとともに、この地域との関係を築いておくというねらいもあるものとみられています」。

 ここでなぜ「ねらい」という語が使われるのか。このような、「有事などの際に迅速に対処できるよう、港湾や空港の状況をあらかじめ把握するとともに、この地域との関係を築いておく」ということは、日本国と多数の日本国民が警戒しておくべき<意図>なのか。<狙い>とあえて形容すべきものなのか。

 NHKの中には紛れもなく<狂った>記者たちがいるようだ。日曜は平日とは別の者が担当しているかどうかなどという仔細は知らない。<米軍>といえば、あるいは<軍隊>といえば(音楽隊であれ)警戒視・危険視しなければならないと単細胞的に考えている(思い込んでいる)<狂人>がいるようだ(但し、中国や北朝鮮の「軍」の行動だと別異に判断する可能性もある。そうだとするとますますもって狂っている)。

 加えて、なぜ、わずか数十人(または十数人かもしれない)の「抗議」行動をあえて映像化して放映したのだろうか。市・県当局の担当者や他の住民の映像はまったくなかった。

 NHK(渋谷)の近くでも、最近に数回は、数千人規模のデモ行進が行われたはずだ。大阪でも行われたらしい(いずれも尖閣諸島問題が契機)。これらの数度にわたる、宮古島ではない大都市部の、かつはるかに大規模な集会・デモの様子を、NHKはすべてについて数秒でも放映したのか??

 こうなると、12日・日曜日の担当者・関係者だけの問題ではなく、NHKという団体全体の問題になるだろう。数千人の規模の集会・デモの無視・軽視と12日の宮古島の「抗議」行動の様子の放映とは、明らかに均衡・公平を失している。少なくとも平等・公正な取扱いがなされていないことは明々白々だ。これでよく、契約締結義務を定める放送法を根拠にして、受信料を徴収し、かつ受信料支払い請求の訴訟を起こすことができるものだ。
 12/12の午後7時台NHKニュースの責任者は、何らかの形で、以上のような感想・疑問・意見に対して答えよ。

0913/中西輝政・ウェッジ2010年10月号を読む②。

 中西輝政・ウェッジ2010年10月号論稿は「危機が現実化し本当の破局に立ち至」ってようやく国民が気づいて「政治が大転換する」、という「破局シナリオ」を語る。

 中西によると「教育やモラル、社会の劣化」は国家の「全面崩壊」の状況を「はっきりと見せる」ものではなく、「安全保障問題の破局が先に来る」とする。そして、最も可能性があるのは、「中国に実質的な外交権を委ねて生きるしかないという、いわば『日本族自治区』のごとき状況を招くという破局」だ、という(p.31)。
 日本が、中華人民共和国日本省または中華人民共和国日本族自治区(あるいは日本の東西でそれらに二分)になる可能性(=危険性)が語られてきているが、中西輝政もまたそれを明示しているのが注目される(見出しにも使っている。p.31)。

 だが、中西も言うように、上の可能性(=危険性)はないとは「誰にも言えない」にもかかわらず、日本国民の多くは、そのように(危険性はないと)「信じている」。ここに本当の恐ろしさがあるだろう。マスメディアの主流によって、そのような可能性(=危険性)はあっても極小なものだとのデマ的空気が撒き散らされている。何も積極的には知ろうとはせず、情報ソースを一般新聞とテレビだけに頼っている多くの国民は、相変わらず、能天気のままで、(本当は)<朦朧としながら>生活している。

 中国の<覇権>はまずは台湾に及び、続いて尖閣諸島から始まって沖縄全体に及ぶと見るのが常識的だろうが、<日本は沖縄を「侵略」して併合した>などという歴史認識をもっている「何となく左翼」も沖縄県民も含めて少なくはないようなので、沖縄の日本からの自立・独立を中国はさしあたり狙うかもしれない。

 先日言及した関口宏司会の番組で、中国人船長(ではなくおそらく兵士又は工作員)釈放について何人かの日本人の街角コメントを紹介したあと、関口宏は「冷静な見方もあるようですが」と述べて、中国(と弱腰の日本政府側)に憤慨するのではなく<冷静な>対応が望ましいかのごとき反応を示した。

 中国・共産党独裁国家と闘わないと日本は生きていけない(日本列島は残っても「日本」は消滅する)ことは明らかだと思われるのだが、ナショナリズムを刺激しそれを発揚することを回避・抑制しようとするマスメディアの姿勢は、必ずや日本の「亡国」に導くように思われる。<左翼>人士・メディアは、<戦争をしたがっている保守・反動・右翼が騒いでいる>との合唱をし始めるだろうから、バカは死ななきゃ直らない、と言う他はないだろう。

 中西が上に書くような「破局」がいったん起これば、立ち戻ることはもうできないのではないか。「もはや中国の脅威に抗しえない」という状況(p.31)の発生自体を阻止する必要がある。今の民主党政権にそのような力は、意思自体すら、ないことは明らかなのだが。

0845/渡部昇一の「裁判」・「判決」区別論は適切なのか?③。

 一 既述のように、渡部昇一は、月刊ボイス10月号・「東アジア共同体は永遠の幻」(PHP、2009)で「判決の受諾か、裁判の受諾か。これをどう考えるかで、じつは恐ろしい違いがある。『裁判を受諾する』といった場合には、東京裁判の誤った事実認定に基づく不正確な決め付け――南京大虐殺二十数万人や日本のソ連侵略というものまで――に日本が縛られつづけるということになるからだ」と書き、別冊正論エクストラ第10号・「東京裁判史観からの脱却なくして自立なし」では、「裁判の『内容』を受諾するか、『判決』を受諾するかは、絶対に混同してはいけない」と書く(p.5)。
 はたして、<裁判>と<判決>の区別で、このような「おそろしい」違いが出てくるものなのか??
 1951年9月締結(翌年4月発効)のいわゆるサンフランシスコ講和条約は日本国は「裁判(または諸判決)」を「遵守し、…」とする部分を含み、この「裁判(または諸判決)」の原語は<
judgments>なのだが、これを「裁判」ではなく「(諸)判決」と訳しかつその意味で理解するとして、そもそも<judgment>とは何を意味するのか。渡部のいうような帰結を本当にもたらすのか?

 二 A/高柳賢三=末延三次・英米法辞典(有斐閣、初版1952.10,16刷1978.07)、B/田中英夫編集代表・英米法辞典(初版1991.05、3刷1994.08)、C/田中英夫編集代表・BACIC英米法辞典(東京大学出版会、初版1993.09、5刷1997.07)のそれぞれにおいて、<judgment>がどう翻訳され、説明されているかを、以下にほとんどそのまま引用して記載する。
 なお、第一に、時期的に東京「裁判」と講和条約(「日本国との平和条約」)に最も近いのはAだ。第二に、CはBの簡略版のようなもので(編者も同じ)、いずれも1990代以降のもの。二種あるからといって、多数決でB・Cの記述の方がAよりも信頼できる、という保障があるわけではない。
 A・「判決」-「(イ)裁判所の判決。…〔略〕。(ロ)判決の理由。判決にあたつて述べた各裁判官の意見をjudgmentということもある」(p.251)。
 B・「判決」-「当事者間の権利義務について判断し解決する裁判所の最終判断。…〔略〕。Judgmentとは、裁判所が事件の解決について出した結論のことで、例えばFederal Rules of Civil Procedure(連邦民事訴訟規則)Form31&32の示すように、日本の判決の主文にほぼ相当し、この結論に達するまでの根拠を述べた部分はopinion(意見)とよばれる。ただし、俗語的には、この意見の部分も含めてjudgmentということがある」(p.480)。
 〔なお、Bは第一の訳語として上記の「判決」を挙げ、第二の訳語として「判断・評価」を示す。後者は日常的用語としてのjudgmentの意味だと思われ、特段の説明はない。〕
 C・「判決」-上のBと(「略」部分の二文のうちの一文が削除されているが、その他は)まったく同じ。
 三 AとB(・C)のいずれも「判決」と訳す点では共通している。「裁判」よりは適切な訳語であるわけだ。
 だが、Aは「裁判所の判決」とは異なる第二の訳語・意味として「判決の理由」と記すのに対して、B(・C)は「日本の判決の主文にほぼ相当」する、と説明していて、この部分に関するかぎり、二種(・三種)の英米法辞典は異なる、矛盾する説明をしている。
 四 渡部昇一の議論が成立しうるのは、1990代に入って以降のB(・C)に「ほぼ」従って、Judgmentを「判決の主文」と理解する場合に限られる。この場合であっても、まったく<理由>(による拘束?)から自由ではないことは、のちに述べる。
 逆に、1952年初版のAの狭義の説明に従って「判決の理由」と理解するならば、渡部昇一の主張・理解はまったく見当はずれ、ということになるだろう。「判決の理由」の中にこそ、渡部のいう「東京裁判の誤った事実認定に基づく不正確な決め付け――南京大虐殺二十数万人や日本のソ連侵略というものまで――」が書かれていた(はずだ)からだ。
 問題は、1951年9月の時点で条約締結国、とくにアメリカと日本の担当者たちが「judgment(s)」をどういう意味で用い、どういう意味だと理解したかだ。とりわけ、「判決の主文」のみか、むしろ「判決の理由」を含むかだ。しかし、参照した二種(・三種)の英米法辞典によっては、決定的な手がかりを得ることはできない。1951年に近いAが当時の一般的または相対的多数の理解だったと言えそうにも見える。しかし、B(・C)はその後の研究の成果をふまえて、より正確な叙述をしている、という評価が成り立たないわけでもなかろう。但し、1952年以降のアメリカ・連邦民事訴訟規則の上掲部分の制定または改正がB(・C)の叙述につながっているとすると、新しいからといって、1951年の条約中の文言の解釈の決め手には少なくともならない。
 また、そもそも、いわゆる<東京裁判>にかかわって、通常の裁判・訴訟を念頭に置いた諸概念が条約中で用いられたのか、という基本的な問題もあると思われるのだ。
 ともあれ、「judgment(s)」を「裁判」ではなく「(諸)判決」と訳さないと「東京裁判の誤った事実認定に基づく不正確な決め付け―南京大虐殺二十数万人や日本のソ連侵略というものまで―に日本が縛られつづけるということになるからだ」という渡部昇一の主張は、十分なまたは決定的な根拠はないと思われる。「裁判」と理解すれば上のように「縛られ」、「(諸)判決」と訳せば上のようには「縛られ」ない、というのは、何らかの誤解にもとづく、不適切な主張だと考えられる。
 既に言及したことだが、渡部は「判決」とは「判決主文」のことだと単純に思い込んでいるのではないか? 「判決」の中には「主文」の他に「事実」と「理由」又は「事実及び理由」も含まれる。
 英文学者の渡部昇一が書いているからといって、裁判(・法律)関係の英米語についてまで正確な知識が示されている
とは限らない。
 また、かりにB(・C)に従って「日本の判決の主文にほぼ相当」する、と理解するとしても、日本の<東京裁判>遵守義務を主張・強調したい者たちは、次のように主張するすることが可能だと思われる。
 すなわち-「judgment(s)」とは厳密には(各)「判決主文」のことだとしても、結論たる「主文」にはそれなりの何らかの「理由(根拠)」(事実認定とその評価・法的判断)があるはずだ、従って、両者を無関係のものとして扱うことは不当で、「判決主文」を遵守するということは、当該(各)判決で書かれた「理由」をも実質的には尊重することにつながるはずだ…、と。
 このように、「judgment(s)」をかりに厳密に(各)「判決主文」と理解するとしても、日本が「縛られ」ることを期待し、主張する者たちには「南京大虐殺二十数万人や日本のソ連侵略というものまで」等を<事実>の記載として尊重すべきだとする余地がなおも残されている、と見られる。
 以上のことからすると、「裁判」と「(諸)判決」の区別論は、後者の方が適訳だとしても、渡部昇一が望むような効果を(残念ながら)もたらさない、と考えられる。
 問題・課題は、「裁判(諸判決)を遵守」するという条約中の文章の意味を、それが置かれたテキスト・条文(関係他条項を含む)の中で的確に(関係的に)把握することであって、「judgment(s)」の訳語に渡部昇一のごとく拘泥することは、決して生産的・建設的意味をもたない、と思われる。
 保守論者たちの中に渡部昇一の議論がどの程度の影響を与えているのかは知らないが、遵守の対象は「裁判」ではなく「(諸)判決」だと(条約中の「遵守」義務を持ち出す)<左翼>に対して反論(?)しても、決定的な力を持たないし、たいして有効なものにもならない、と思われる。これまた傍流的(?)な意見かもしれないとは思いつつ。
 なお、このテーマをこれで終えておくが、12月以降の中断は、自分が想定していたことの誤謬等に気付いたためでは全くない。叙上のことはすでに12月の時点で分かっていたことだ。遅れは、東京裁判関係の本をいくつか捲って、<「裁判」・「(諸)判決」論争>はたいして重要な争点ではなく、他に考えるべきもっと重要な点がいくつもあると思い至ったこと、ついでに半分は冗句として書くと、多少は専門的な(ふつうの人々は見ないだろうような英米法辞典を使っての)叙述を、一円の利益を得ることもなく、かかるブログに書いてしまうことが多少は馬鹿馬鹿しくなった、ということによる。

0839/渡部昇一の「裁判」・「判決」区別論は正しいのか?②。

 渡部昇一の「裁判」・「判決」区別論は正しいのか?②
 一 岩波書店・広辞苑を避けて、最も平易な国語辞典の一つと思われる新明解国語辞典(第六版)(三省堂、2004)は、「判決」と「裁判」を次のように説明している。以下、それぞれ、ほぼ全文(下線は引用者)。なお、有斐閣・法律用語辞典の各説明はすでに引用・紹介した。
 「判決」=「裁判所が、決定した結果〔=無罪か有罪か〕を、判断の根拠を示しながら言い渡すこと。また、その内容」。
 「裁判」=「訴訟を審理して、罪となるかならないかどちらに非があるかなどを法律を適用して定めること」。
 刑事事件に限っているような説明はかなり杜撰だが、少なくとも日本語の常識的または通常の語法としては、上の二つは明瞭に区別できないことは、上の二つに示された説明または定義からも明らかであるように思える。
 二 以下では、英米法辞典等によるjudgement 等の説明に立ち入る。   1 渡部昇一は、①月刊正論11月号・「社会党なき社会党の時代」(産経新聞社、2009)、②同ら・日本を讒する人々(PHP、2009)、③月刊ボイス10月号・「東アジア共同体は永遠の幻」(PHP、2009)のほか、④別冊正論エクストラ第10号・「東京裁判史観からの脱却なくして自立なし」p.5-6でも、<裁判>と<判決>区別論を強調している。
 ④では、「東京裁判の『内容』」と「(諸)判決」は違うとし、「裁判の『内容』を受諾するか、『判決』を受諾するかは、絶対に混同してはいけない」と書く(p.5)。
 かかる理解・主張の現実的な意味は、すでに引用した、上の③の中のつぎの文章の中にあると考えられる。
 「判決の受諾か、裁判の受諾か。これをどう考えるかで、じつは恐ろしい違いがある。『裁判を受諾する』といった場合には、東京裁判の誤った事実認定に基づく不正確な決め付け――南京大虐殺二十数万人や日本のソ連侵略というものまで――に日本が縛られつづけるということになるからだ」。
 はたして、<裁判>と<判決>の区別で、このような「おそろしい」違いが出てくるものなのか??
 渡部昇一の英語の法律用語(英米法)の知識はかなり怪しいのではないか、どこまで厳密に概念の考証をしているかは疑問だ、というのが感想めいた一つの結論にはなる。
 但し、以下の数回の叙述(メモ)は渡部昇一の全体の仕事を貶める意図はないし、ましてや<東京裁判>なるものが前提とする事実認定とその評価に、日本国と日本国民は法的にまたは事実上・道義上、永久に<拘束>される、などと主張するつもりでもない。
 むしろ、上のように主張するために<裁判>・<判決>区別論はいかほどに有効であるのか、(「左翼」・いわゆる<東京裁判史観>論者に対する)さほどの効き目はないことを<保守>の側も知っておくへきではないか、ということを<保守>論壇のためにも(趣味的に?)コメントしておくことに、問題関心はある。
 2 手元に、A/高柳賢三=末延三次・英米法辞典(有斐閣、
初版1952.10,16刷1978.07)、B/田中英夫編集代表・英米法辞典(初版1991.05、3刷1994.08)、C/田中英夫編集代表・BACIC英米法辞典(東京大学出版会、初版1993.09、5刷1997.07)、の三種の英米法辞典がある。CはBの簡略版と理解してよいかもしれない。そのBは詳しいが、1993年初版で、東京<裁判>時点に一番近く刊行されているのは、Aだ。
 いずれも東京大学法学部系かまたは編集者(代表)が東京大学所属者の本であることは共通している。この点に、<東京裁判>関係の英語の説明に「政治的」な修正・変更が加えられているという懸念の根拠を求めることがまったく不可能とは思えないが、これを問題にし始めるとメモも若干の感想を述べることもできなくなるので、いちおう信頼できる日本の代表的な<英米法辞典>だ、と見なしておくことにする。
 3 「judgments」の訳は、<裁判>よりは<(諸)判決>の方が適切だと思われる。このことは既述。
 一方、渡部昇一が日本語で「裁判」と書いて(訳して)いるものの原語は何なのだろう。遠回りだが、この点にまず触れる。
 上の渡部の①~④で確認できず、別の彼の論考による(または①~④の中にあり、私の見落とし)と思われるが、たしか渡部は、「裁判」と訳すならばtrial かtribunal でなければならない、と記していたように思われる(渡部昇一でなくとも、このように書いていた人物がいたことは間違いない)。
 じつはこの点にもすでに脆うさがある。
 安易に<ウィキ>に頼って記すと<ニュルンベルク裁判>の英語表記は、最初の主なものが「Trial of the Major War Criminals Before the International Military Tribunal」で、続く12のものが「Nuernberg Military Tribunals」であったらしい。
 <東京裁判>と云われるものはより正式には「極東国際軍事裁判」と言われ、その英語表記は、「The International Military Tribunal for the Far East」だ。
 <裁判>とはtrial かtribunalだという理解・主張は、かかる<東京(やニュルンベルク)裁判>と言われるものの原語に影響を受けすぎているのではないか。
 上の三種の英米法辞典にはそれぞれ末尾に付録又は索引が付いていて和英辞典的な利用ができるが、それぞれ「裁判」にどういう英語をあてはめているかを以下に記しておこう。
 A-adjudictation、B-judicial proceedings, justice, adjudictation, determination、C-adjudictation, justice.
 trial も tribunalも出てきてはいない。
 では、これらは厳密には(あるいはより適切には)何を意味するのか。
 引用をかなり省略するが、tribunalは、端的には、「法廷」のことだ。「法廷」で何をするかというと、それは「裁判」で、Cは<tribunal>に、第一に「法廷、裁判」という語をあてている(第二は「(行政)審判所」)。1951年に最も近いAには、この概念の項目がない。
 つぎに、trialとは、端的には、(裁判所の法廷で行われる)「審理」のことだ。1951年に最も近いAは、「裁判所における事実上の又は(及び)法律上の争点についての審理」とまず説明し、「原則として公開」で、<事実審>のみを指すこともあるという。少しニュアンスが異なり、Cは「正式事実審理、公判」という日本語をあてている。
 以上、要するに、trial も tribunalも、むろん「裁判」に関係はあるが、いずれも「裁判」という日本語が最適の英語ではなさそうだ。大まかには、前者は、(主として)「裁判」で行われる「審理」を指し、後者は「裁判」が行われる「法廷」(courtという語もある)を意味するものと思われる(したがって、後者は「裁判」よりも「裁判所」の方が適切だ)。
 このように厳格さを欠きつつも、ニュルンベルク<裁判>とか東京<裁判>とかと慣用的に、日本では呼ばれてきた、ということの認識がまずは必要だろう。
 東京<裁判>というのは、より正式には<極東(に関する)国際軍事法廷>と訳されてもよいものだった。それを分かりやすく?(その法廷で行われた「裁判」という意味に少しズラして?)、<極東軍事裁判>とか<東京裁判>と訳し、または通称してきたのだ。
 したがって、「裁判」ならば、trial かtribunalだ(judgment ではない)という主張は(()内を除いて)、厳密には正しくはない。「裁判」という語のためには、より適切な英語が他にある(上記参照)。(つづく)  

0808/資料・史料-1929.07戦争放棄に関する条約(<不戦条約>・<パリ条約>)。

 資料・史料-1929.07戦争放棄に関する条約(<不戦条約>・<パリ条約>)

 //戦争抛棄ニ関スル条約(昭和4・7・25条1)
 発効 昭和4年7月24日(昭和4外告64)

 独逸国大統領、亜米利加合衆国大統領、白耳義国皇帝陛下、仏蘭西共和国大統領、「グレート、ブリテン」「アイルランド」及「グレート、ブリテン」海外領土皇帝印度皇帝陛下、伊太利国皇帝陛下、日本国皇帝陛下、波蘭共和国大統領、「チェッコスロヴァキア」共和国大統領ハ
 人類ノ福祉ヲ増進スベキ其ノ厳粛ナル責務ヲ深ク感銘シ
 其ノ人民間ニ現存スル平和及友好ノ関係ヲ永久ナラシメンガ為国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ヲ卒直ニ抛棄スベキ時機ノ到来セルコトヲ確信シ
 其ノ相互関係ニ於ケル一切ノ変更ハ平和的手段ニ依リテノミ之ヲ求ムベク又平和的ニシテ秩序アル手続ノ結果タルベキコト及今後戦争ニ訴ヘテ国家ノ利益ヲ増進セントスル署名国ハ本条約ノ供与スル利益ヲ拒否セラルベキモノナルコトヲ確信シ
 其ノ範例ニ促サレ世界ノ他ノ一切ノ国ガ此ノ人道的努力ニ参加シ且本条約ノ実施後速ニ之ニ加入スルコトニ依リテ其ノ人民ヲシテ本条約ノ規定スル恩沢ニ浴セシメ、以テ国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ノ共同抛棄ニ世界ノ文明諸国ヲ結合センコトヲ希望シ
□ニ条約ヲ締結スルコトニ決シ之ガ為左ノ如ク其ノ全権委員ヲ任命セリ
 <全権委員名、省略>
 因テ各全権委員ハ互ニ其ノ全権委任状ヲ示シ之ガ良好妥当ナルヲ認メタル後左ノ諸条ヲ協定セリ
 第1条
 締約国ハ国際紛争解決ノ為戦争ニ訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互関係ニ於テ国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ヲ抛棄スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ厳粛ニ宣言ス
 第2条
 締約国ハ相互間ニ起ルコトアルベキ一切ノ紛争又ハ紛議ハ其ノ性質又ハ起因ノ如何ヲ問ハズ平和的手段ニ依ルノ外之ガ処理又ハ解決ヲ求メザルコトヲ約ス
 第3条
 本条約ハ前文ニ掲ゲラルル締約国ニ依リ其ノ各自ノ憲法上ノ要件ニ従ヒ批准セラルベク且各国ノ批准書ガ総テ「ワシントン」ニ於テ寄託セラレタル後直ニ締約国間ニ実施セラルベシ
 本条約ハ前項ニ定ムル所ニ依リ実施セラレタルトキハ世界ノ他ノ一切ノ国ノ加入ノ為必要ナル間開キ置カルベシ一国ノ加入ヲ証スル各文書ハ「ワシントン」ニ於テ寄託セラルベク本条約ハ右寄託ノ時ヨリ直ニ該加入国ト本条約ノ他ノ当事国トノ間ニ実施セラルベシ
 亜米利加合衆国政府ハ前文ニ掲ゲラルル各国政府及爾後本条約ニ加入スル各国政府ニ対シ本条約及一切ノ批准書又ハ加入書ノ認証謄本ヲ交付スルノ義務ヲ有ス亜米利加合衆国政府ハ各批准書又ハ加入書ガ同国政府ニ寄託アリタルトキハ直ニ右諸国政府ニ電報ヲ以テ通告スルノ義務ヲ有ス
 右証拠トシテ各全権委員ハ仏蘭西語及英吉利語ヲ以テ作成セラレ両本文共ニ同等ノ効力ヲ有スル本条約ニ署名調印セリ
千九百二十八年八月二十七日巴里ニ於テ作成ス
 (署名略)

  
宣 言(昭和四・六・二七)
 帝国政府ハ千九百二十八年八月二十七日巴里ニ於テ署名セラレタル戦争抛棄ニ関スル条約第一条中ノ「其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ」ナル字句ハ帝国憲法ノ条章ヨリ観テ日本国ニ限リ適用ナキモノト了解スルコトヲ宣言ス//

0807/資料・史料-2009.04.05米オバマ大統領プラハ演説。

 資料・史料-2009.04.05米オバマ大統領プラハ演説
 平成21年4月5日
 <在日アメリカ大使館ウェブサイトによる。「正文は英文」で、「参考のための仮翻訳」だと注記されている。>

 //バラク・オバマ大統領のフラチャニ広場(プラハ)での演説
 2009年4月5日、チェコ共和国プラハ

 温かい歓迎をありがとうございます。プラハの皆さん、ありがとうございます。そしてチェコ共和国の皆さん、ありがとうございます。本日私は、ヨーロッパの中心にあるこの素晴らしい都市の中心部に皆さんと共に立つことを誇りに思います。また、私の前任者の1人の表現を借りれば、ミシェル・オバマをプラハに連れてきた男であることを誇りに思います。
 クラウス大統領、トポラーネク首相をはじめとする、ご臨席の政府要人の皆さん、温かいおもてなしに感謝します。そしてチェコ共和国民の皆さんの米国への友情に、お礼の言葉を申し上げます。
 私は、シカゴで長年暮らす間に、チェコの人たちが陽気な、楽しい友人であることを知るようになりました。私の後ろには、チェコ国民の英雄トーマス・マサリク大統領の銅像があります。1918年に、米国がチェコの独立を支援することを誓約した後、マサリク大統領はシカゴで、10万人以上と推定される聴衆を前に演説をしました。私はマサリク大統領の記録に到達することはできないと思いますが、シカゴからプラハへ、彼の足跡をたどることを光栄に思います。
 1000年以上にわたり、プラハは、世界のいかなる都市とも異なる、独自の道を歩んできました。皆さんは、戦争も平和も体験してきました。いくつもの帝国の盛衰を目の当たりにしてきました。そして、芸術と科学、政治と文学の世界で、革命の先頭に立ってきました。そうした中で、プラハの人々は、一貫して自らの道を追求し、自らの運命を切り開くことを主張してきました。そして、この古い歴史と若さを合わせ持つ「黄金の都」は、皆さんの不屈の精神を表す生きた記念碑となっています。
 私が生まれたころ、世界は分裂しており、私たちの国は今とは大きく異なる状況に直面していました。当時、私のような人間がいつの日か米国大統領になると予想する人は、ほとんどいませんでした。米国大統領がいつの日かこのようにプラハの聴衆を前に話をすることができるようになると予想する人は、ほとんどいませんでした。そして、チェコ共和国が自由な国となり、北大西洋条約機構(NATO)の一員となり、統一されたヨーロッパを指導する立場になると予想する人はほとんどいませんでした。そのような考えは、夢のような話として片付けられたでしょう。
 私たちが今日ここにいるのは、世界は変わることができないという声を意に介さなかった大勢の人々のおかげです。
 私たちが今日ここにいるのは、壁のどちら側に住んでいようとも、またどのような外見であろうとも、すべての人間に自由という権利があると主張し、そのために危険を冒した人々の勇気のおかげです。
 私たちが今日ここにいるのは、プラハの春のおかげです。信念に基づき、ひたすら自由と機会を追求する行動が、戦車と武器の力で国民の意思を弾圧しようとする人々を恥じ入らせてくれたおかげです。
 私たちが今日ここにいるのは、今から20年前に、約束された新しい日の到来と、あまりに長い間与えられないままだった基本的人権を求めて、街頭デモを行ったプラハの市民のおかげです。「Sametová revoluce」、すなわち「ビロード革命」は、私たちに多くのことを教えてくれました。平和的な抗議が帝国の基礎を揺るがし、イデオロギーの空虚さを明るみに出すことができること、小国が世界の出来事に極めて重要な役割を果たせること、若者が先頭に立って旧来の対立を克服することができること、そして精神的なリーダーシップはいかなる武器よりも強力であるということを教えてくれたのです。
 平和で統一された自由なヨーロッパの中心で、今、私が皆さんにお話しすることができるのはそのためです。指導者たちが信じなかったときでさえも、普通の人々が、分裂を克服できると信じたからです。壁を取り壊すことができると信じ、平和を達成できると信じたからです。
 私たちが今日ここにいるのは、あらゆる困難にもかかわらず、米国民とチェコ国民が、この日が必ず来ると信じたからです。
 私たちは、こうした歴史を共有しています。しかし今、この世代、私たちの世代が、何もせずにいることはできません。私たちも選択を迫られています。世界が統合に向かうにつれ、相互のつながりが増しています。そして、世界的な経済危機、気候変動、旧来の対立という根強い脅威、新たな脅威、壊滅的な効果を持つ兵器の拡散といった問題が、とても制御できないほどのスピードで進んできました。
 いずれの課題も、すぐに、あるいは容易に解決できるものではありません。いずれも、解決するには、私たちが相互の意見に耳を傾けて協力すること、時に生じる意見の相違ではなく、共通の利害に重点を置くこと、そして私たちを分裂させ得るいかなる力よりも強い、共通の価値観を再確認することが必要な課題ばかりです。これこそ、私たちが続けていかなければならない取り組みです。私がヨーロッパへ来たのは、その取り組みを始めるためです。
 私たちが再び繁栄するためには、国境を越えて協調した行動を取ることが必要です。そうした行動とは、新たな雇用をつくり出すために投資することであり、成長を阻む保護主義の壁に抵抗することです。また、金融システムを改革し、乱用や今後の危機を防ぐための新たな規則を定めることです。
 そして私たちには、共通の繁栄と共通の人間性に対する義務を負っており、新興市場や、おそらく金融危機とはほとんど関係がなかったにもかかわらず、そのために最も苦しんでいる貧しい人々に手を差し伸べなければなりません。それ故、私たちは、誰もが一定の援助を受けることができるように、今週、国際通貨基金に1兆ドルを超える資金を拠出する決定を下しました。
 地球を守るために、私たちのエネルギー消費の仕方を変えるのは今です。私たちは共に気候変動に対処するため、化石燃料への世界的な依存に終止符を打ち、風力や太陽光などの新たなエネルギー源を利用し、すべての国が責任を果たすことを要求しなければなりません。皆さんに誓って申し上げますが、米国は、こうした世界的な努力で先頭に立つ準備ができています。
 私たちは、共通の安全保障を提供するために、同盟を強化しなければなりません。NATOが設立されたのは今から60年前、共産主義がチェコスロバキアを支配した後でした。この時、自由主義世界は、遅ればせながら、自由主義世界が分裂している場合ではないことを知ったのです。そこで私たちは団結して、史上最強の同盟を構築しました。そしてその後何年間も、何十年も協力を続けた結果、ついに鉄のカーテンが開かれ、自由が流れる水のように広がっていきました。
 今年は、チェコ共和国はNATO加盟10周年を迎えます。20世紀には、チェコ共和国が参加することなく決断が下されたことが何度もありました。大国が皆さんを失望させ、あるいは皆さんの意見を聞かずに皆さんの運命を決めることもありました。私はここで約束します。米国は決してチェコ国民に背を向けることはない、と。私たちは、共通の価値観、共通の歴史によって…私たちは、共通の価値観、共通の歴史、そして永続的な同盟の約束によって結ばれています。北大西洋条約第5条には、一締約国に対する武力攻撃は全締約国に対する攻撃とみなす、と明記されています。これは、今の時代にも、いつの時代にも適用される約束です。
 米国が攻撃を受けたとき、チェコ共和国の国民はこの約束を守りました。何千もの人々が米国の国土で殺害されたとき、NATOはそれに呼応しました。アフガニスタンにおけるNATOの任務は、大西洋の両側の人々の安全にとって不可欠なものです。私たちは、ニューヨークからロンドンまで各地を攻撃してきた、まさにそのアルカイダ・テロリストを標的とし、アフガニスタン国民が自らの将来に責任を負えるよう支援しています。私たちは、自由主義諸国が、共通の安全保障のために提携できることを実証しています。そして私は、米国民が、この努力に際してチェコ国民が払った犠牲に敬意を表し、犠牲となった方々を追悼していることをお伝えしたいと思います。
 いかなる同盟も、手をこまねいている場合ではありません。私たちは、新しい脅威がどこで発生しようとも、それに対処するための危機管理計画を備えておくために、NATO加盟国として協力しなければなりません。国境を越えた危険に対処するために、相互の協力関係を強化し、世界各地の国家や機関との関係を強化しなければなりません。そして、共通の懸念事項に関して、ロシアと建設的な関係を構築すべく努力しなければなりません。
 今日私が重点を置いてお話しする課題のひとつは、この両国の安全保障にとって、また世界の平和にとって根本的な課題、すなわち21世紀における核兵器の未来、という問題です。
 何千発もの核兵器の存在は、冷戦が残した最も危険な遺産です。米国とソ連の間に核戦争が起きることはありませんでしたが、何世代にもわたり人々は、この世界が一瞬の閃光(せんこう)の下に消失してしまうこともあり得ると承知の上で生活していました。プラハのように何世紀にもわたって存在し、人類の美しさと才能を体現した都市が消え去ってしまう可能性がありました。
 今日、冷戦はなくなりましたが、何千発もの核兵器はまだ存在しています。歴史の奇妙な展開により、世界規模の核戦争の脅威が少なくなる一方で、核攻撃の危険性は高まっています。核兵器を保有する国家が増えています。核実験が続けられています。闇市場では核の機密と核物質が大量に取引されています。核爆弾の製造技術が拡散しています。テロリストは、核爆弾を購入、製造、あるいは盗む決意を固めています。こうした危険を封じ込めるための私たちの努力は、全世界的な不拡散体制を軸としていますが、規則を破る人々や国家が増えるに従い、この軸が持ちこたえられなくなる時期が来る可能性があります。
 これは、世界中のあらゆる人々に影響を及ぼします。ひとつの都市で1発の核兵器が爆発すれば、それがニューヨークであろうとモスクワであろうと、イスラマバードあるいはムンバイであろうと、東京、テルアビブ、パリ、プラハのどの都市であろうと、何十万もの人々が犠牲となる可能性があります。そして、それがどこで発生しようとも、世界の安全、安全保障、社会、経済、そして究極的には私たちの生存など、その影響には際限がありません。
 こうした兵器の拡散を抑えることはできない、私たちは究極の破壊手段を保有する国家や人々がますます増加する世界に生きる運命にある、と主張する人もいます。このような運命論は、極めて危険な敵です。なぜなら、核兵器の拡散が不可避であると考えることは、ある意味、核兵器の使用が不可避であると認めることになるからです。
 私たちは、20世紀に自由のために戦ったように、21世紀には、世界中の人々が恐怖のない生活を送る権利を求めて共に戦わなければなりません。そして、核保有国として、核兵器を使用したことがある唯一の核保有国として、米国には行動する道義的責任があります。米国だけではこの活動で成功を収めることはできませんが、その先頭に立つことはできます。その活動を始めることはできます。
 従って本日、私は、米国が核兵器のない世界の平和と安全を追求する決意であることを、信念を持って明言いたします。私は甘い考えは持っていません。この目標は、すぐに達成されるものではありません。おそらく私の生きているうちには達成されないでしょう。この目標を達成するには、忍耐と粘り強さが必要です。しかし今、私たちは、世界は変わることができないという声を取り合ってはいけません。「イエス・ウィ・キャン」と主張しなければならないのです。
 では、私たちが取らなければならない道筋を説明しましょう。まず、米国は、核兵器のない世界に向けて、具体的な措置を取ります。冷戦時代の考え方に終止符を打つために、米国は国家安全保障戦略における核兵器の役割を縮小し、他国にも同様の措置を取ることを求めます。もちろん、核兵器が存在する限り、わが国は、いかなる敵であろうとこれを抑止し、チェコ共和国を含む同盟諸国に対する防衛を保証するために、安全かつ効果的な兵器を維持します。しかし、私たちは、兵器の保有量を削減する努力を始めます。
 米国は今年、弾頭と備蓄量を削減するために、ロシアと、新たな戦略兵器削減条約の交渉を行います。メドベージェフ大統領と私は、ロンドンでこの作業を開始しました。そして今年末までには、法的拘束力を持ち、十分に大胆な新しい合意を目指す予定です。これは、さらなる削減に向けた準備段階となるものであり、この努力にすべての核兵器保有国を参加させることを目指します。
 全世界的な核実験の禁止を実現するために、私の政権は、米国による包括的核実験禁止条約の批准を直ちに、積極的に推し進めます。この問題については50年以上にわたって交渉が続けられていますが、今こそ、核兵器実験を禁止する時です。
 そして、核爆弾の製造に必要な物質の供給を断つために、米国は、国家による核兵器製造に使用することを目的とする核分裂性物質の生産を、検証可能な形で禁止する新たな条約の締結に努めます。核兵器の拡散阻止に本気で取り組むのであれば、核兵器の製造に使われる兵器級物質の製造を停止すべきです。これが初めの1歩です。
 第2に、私たちは共に、協力の基盤として、核不拡散条約を強化します。
 条約の基本的な内容は、理にかなったものです。核保有国は軍縮へ向かって進み、核兵器を保有しない国は今後も核兵器を入手せず、すべての国々に対し原子力エネルギーの平和利用を可能にする、という内容です。不拡散条約を強化するために私たちが受け入れるべき原則がいくつかあります。国際的な査察を強化するための資源と権限の増強が必要です。規則に違反していることが発覚した国や、理由なしに条約を脱退しようとする国が、即座に実質的な報いを受けるような制度が必要です。
 そして、私たちは、各国が、拡散の危険を高めることなく、平和的に原子力エネルギーを利用できるようにするために、国際燃料バンクなど、原子力の民生利用での協力に関する新たな枠組みを構築すべきです。これは、核兵器を放棄するすべての国、特に原子力の平和利用計画に着手しつつある開発途上国の権利でなければなりません。規則に従う国家の権利を拒否することを前提とする手法は、決して成功することはありません。私たちは、気候変動と戦い、すべての人々にとって平和の機会を推進するために、原子力エネルギーを利用しなければなりません。
 しかし、私たちは前進するに当たり、幻想を抱いてはいません。規則を破る国も出てくると思われます。いかなる国であろうとも規則を破れば、必ずその報いを受けるような制度を整備する必要があるのは、そのためです。
 今朝、私たちは、こうした脅威に対処するための新しい、より厳格な手段が必要であることを、改めて実感させられました。北朝鮮が再び規則を破り、長距離ミサイル用にも使うことが可能なロケットの発射実験を行ったのです。この挑発行為は、行動を取ることの必要性を浮き彫りにしています。それは、本日午後の国連安全保障理事会での行動だけでなく、核兵器の拡散を阻止するという決意の下に取る行動です。
 規則は、拘束力を持たなければなりません。違反は、罰せられなければなりません。言葉は、実際に意味を持たなければなりません。世界は結束して、核兵器の拡散を防がなければなりません。今こそ、国際社会が断固とした対応を取る時です。北朝鮮は、脅威と違法な兵器によって安全保障と尊敬を勝ち取る道を切り開くことは決してできない、ということを理解しなければなりません。すべての国家が、より強力な国際体制を築くために協力しなければなりません。私たちが協力して北朝鮮に圧力をかけ、方針を変更するよう迫らなければならないのはそのためです。
 イランは、まだ核兵器を製造していません。私の政権は、イランとの相互の利益と尊敬に基づき、イランとの関与を求めていきます。私たちは対話を信じています。しかし、対話の中で明確な選択肢を提示していきます。私たちは、イランが政治的にも経済的にも、国際社会の中で正当な位置を占めることを望んでいます。私たちは、厳しい査察の下で原子力エネルギーを平和的に利用するイランの権利を支持します。これこそ、イラン・イスラム共和国が取ることができる道です。一方で、イラン政府は、さらなる孤立と、国際的な圧力と、すべての国々にとって危険を高めることになる、中東地域における核軍拡競争の道を選ぶこともできます。
 はっきり言いましょう。イランの核開発・弾道ミサイル開発活動は、米国だけでなく、イランの近隣諸国および米国の同盟国にも真の脅威を及ぼします。チェコ共和国とポーランドは勇敢にも、こうしたミサイルに対する防衛システムの配備に同意してくれました。イランからの脅威が続く限り、私たちは、費用対効果の高い、実績のあるミサイル防衛システムの導入を続けていきます。イランの脅威がなくなれば、私たちの安全保障の基盤が強化され、ヨーロッパにミサイル防衛システムを配備する動機がなくなります。
 最後に、私たちは、テロリストが決して核兵器を入手することがないようにしなければなりません。これは、世界の安全保障に対する、最も差し迫った、かつ最大の脅威です。1人のテロリストが核兵器を持てば、膨大な破壊力を発揮することができます。アルカイダは、核爆弾の入手を目指す、そしてためらうことなくそれを使う、と言っています。そして、管理が不十分な核物質が世界各地に存在することが分かっています。国民を守るためには、直ちに、目的意識を持って行動しなければなりません。
 本日、私は、世界中の脆弱(ぜいじゃく)な核物質を4年以内に保護管理することを目的とした、新たな国際活動を発表します。私たちは、新しい基準を設定し、ロシアとの協力を拡大し、こうした機微物質を管理するための新たなパートナーシップの構築に努めます。
 また私たちは、闇市場を解体し、物質の輸送を発見してこれを阻止し、金融手段を使ってこの危険な取引を停止させる活動を拡充しなければなりません。この脅威は長期的なものとなるため、私たちは、「拡散に対する安全保障構想」や「核テロリズムに対抗するためのグローバル・イニシアチブ」などの活動を、持続的な国際制度に転換するために協力すべきです。そして、手始めとして、米国の主催による核安全保障に関する国際サミットを今後1年以内に開催します。
 私たちが、このように幅広い課題について行動を起こせるのかと疑問を持つ人もいると思います。国家間には避けられない立場の相違があるため、真の国際協力が可能であるかどうか疑問を持つ人もいます。そして、核兵器のない世界の話を聞き、実現不可能と思える目標を設定することに価値があるのかという疑問を持つ人もいます。
 しかし間違ってはいけません。そうした考え方の行き着く先は分かっています。国家や国民が、相違点によって特徴付けられることを良しとするとき、相互の溝は深まります。私たちが平和の追求を怠るときには、永久に平和をつかむことができません。希望ではなく恐怖を選んだときにどうなるかは分かっています。協力を求める声を非難し、あるいは無視することは、容易であると同時に、卑劣なことでもあります。戦争はそのようにして始まります。人間の進歩はそこで止まってしまうのです。
 この世界には暴力と不正があり、私たちはそれに立ち向かわなければなりません。その際に、私たちは、分裂するのではなく、自由な国家、自由な国民として結束しなければなりません。武器を捨てることを呼びかけるより、武器を取ることを呼びかける方が、人々の感情をかき立てるものです。だからこそ、私たちは団結して、平和と進歩を求める声を上げなければなりません。
 それは、今もプラハの街にこだまする声です。1968年の亡霊です。ビロード革命のときに聞こえた歓喜に満ちた声です。一度も発砲することなく、核を保有する帝国の打倒に貢献したチェコの人々の声です。
 人間の運命は、私たちが自ら切り開くものです。ここプラハで、より良い未来を求めることによって、私たちの過去に敬意を示そうではありませんか。私たちの間にある溝に橋を架け、希望を基にさらに前進し、これまでより大きな繁栄と平和をこの世界にもたらす責任を引き受けようではありませんか。共に手を携えれば、それを実現することができます。
 ありがとうございました。プラハの皆さん、ありがとうございました。//

0795/「正しい戦争」があるならば「不戦の誓い」は行えない。

 〇佐々木類という記者?による8/16発の「まさか日本共産党までブレているとは思いませんが…」と題する長い文章がイザ・ニュース欄にある。そしてなかなか皮肉が効いている。 日本共産党の<二段階革命>論において、当面の第一段階の革命が成就するまでは、第二段階の革命(社会主義革命)においては主張したいことを主張するはずがない。将来について同党が考え想定していることからすれば、日本共産党が現在主張していることは<すべてウソだ>と理解しておいた方がよい。
 〇8/15の戦没者追悼式での麻生太郎首相式辞いわく-「わが国は、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛と与えております。国民を代表して、深い反省とともに…。/私たちは、過去を謙虚に振り返り、悲惨な戦争の教訓を風化させることなく、…。/本日、ここに、わが国は、不戦の誓いを新たにし…」。
 これまでの同式辞や外交文書・談話と基本的には同じなのだろうが、いわゆる<村山談話>に通じる基幹的部分を、麻生太郎首相もまた継承しているように見える。
 「アジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛と与え」た「過去を謙虚に振り返り」、「反省」し、「非戦の誓いを新たに」する、と言うのだ。
 いわゆる田母神俊雄論文とは異なると思われるかかる認識は、麻生太郎・自民党議員のほとんどを含めて、とっくに<体制化>している、と理解しておいた方がよいのだろう。政府の中でも外務省は、戦後一貫して、かかる認識と立場でいたものと思われる。
 だが、少数派だろう?とはいえ、上の式辞内容には疑問をもつ。
 過去ではなく近未来についても、そもそも「非戦の誓い」とは何なのか。
 1929年のパリ不戦条約(「戦争抛棄ニ関スル条約」)の締結国が「放棄」を宣言した「戦争」は<すべての>それではなく、「国際紛争解決ノ為戦争」または「国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争」であり、かつ、特定の「戦争」がこれらに該当するか否かの認定権が当時の国際連盟(又はその下部機構)にあるとされていたわけでもない。
 日本国憲法九条1項が放棄しているのも、「国際紛争解決の手段として」の「国権の発動たる戦争」にすぎない。これは基本的に<侵略戦争>に限られる。
 なるほど九条2項は「国の交戦権は、これを認めない」と定めているため、結果として<すべての>「交戦」が否認されていることにはなる(通説的解釈)。ここに日本国憲法の世界に独特の特殊性がある。この条項まで意識して、現憲法の(通説的)解釈をふまえて、麻生太郎首相は「非戦の誓い」を語ったのだろうか。
 だが、2項がすぐ前で「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と定めているかぎり、「戦力」なくして「交戦」がありうる筈はなく、「国の交戦権は、これを認めない」という文の意味・存在意義はもともと疑わしいのだ。
 「左翼」新聞社刊行の、元東京大学教授による、筒井若水・違法の戦争、合法の戦争(朝日新聞社・朝日選書、2005)p.224-5あたりでも、「交戦権」=right of belligerency の意味が「国際法上論じられた形跡はない」、「その内容を国際法上確認できない以上、その国際法的意味を求めても詮ないことである」と書いてある。
 法的議論から離れても、「非戦」=<すべての戦争の否定>を誓ってよいのだろうか。
 北朝鮮または中国から<侵略戦争>攻撃を受けた場合の日本の(国家としての)自衛行動は、常識的には<自衛戦争>に他ならない。「戦争」という語をあえて避ければ、憲法も否認はしていない(通説)国家の「自衛権」にもとづく<自衛>のための<武力行使>ということになるが、実質的には<自衛戦争>と称しても何ら誤りではないだろう。
 <予防的先制攻撃>すら理論的には「自衛権」の行使として可能だとされている。
 そういう議論と日本をめぐる環境の中で、なぜわざわざ「非戦の誓い」を語らなければならないのだろう。毎年こんな言葉を聞いて安心し、喜んでいるのは、共産党(・労働党)独裁の中国と北朝鮮(・アメリカ?)なのではないか。謙虚さと自虐とは、行き過ぎると卑屈と莫迦になる。その弊に陥っているのが現在の日本なのではないか。
 宮崎哲弥はかつて、「正しい」戦争はある、と断言したことがある。その宮崎哲弥が産経新聞8/08「米士官学校教科書の『原爆批判』」と題する文章を載せている。
 それによると、米士官学校で使われている教科書の一つ、マイケル・ウォルツァー『正しい戦争と不正な戦争』という本は、ドイツの場合と異なりかつての日本がしたのは「一般的な軍事拡張」で、「無条件降伏などという完膚なきまでの体制打倒は不要だった」としつつ、「必須ではない目的達成のために、非戦闘員の無差別殺戮を遂行することはまったく不当だった」、つまり「原爆投下は不正な戦争行為だった」と明記している、という。
 原爆投下問題はさておき、この本もまた、「正しい」戦争と「不正な(=正しくない)」戦争とがある、ということを前提としていることは疑いえない(なお、この本は4200円もするので素人が購入するにはいささか高価すぎる)。
 情緒的な「戦争反対」を語らない方がよい。無条件に、「戦争は二度としてはいけない」などと語らない方がよい。八月になると日本のテレビ等はそんな(とくに老人の)声・思い出話で溢れるが、では、日清戦争も日ロ戦争も<してはいけなかった戦争>だったのか? 敗戦と被害の甚大さを体験した、1930年代以降の日中戦争+太平洋戦争の経験のみにもとづいて、一般的な「(すべての)戦争反対」論を導いてはいけない。
 こうした誘導を(策略をもって)行っているマスコミ(テレビ、新聞、出版社)を警戒しなくてはならない。
 一般的な「(すべての)戦争反対」論は、政党の中ではおそらく福島瑞穂の社民党の主張に最も近いだろうが、<軍事>に関する議論の忌避、<軍事>問題の検討の回避に結びついてゆく。社民党ほどではないとしても、そうした罠に、(民主党はむろんだが)自民党のかなりの部分も陥っているのではないだろうか。
 「正しい戦争」=やむをえない自衛自存のための国家「防衛戦争」はありうる。こうした考えが少しでもあれば、簡単に「不戦の誓い」などを語れないのではないか。
 〇戦争の記憶を風化させないために、NHK等は、生存者のいるかぎりでその<証言>をできるだけ得て、残していく方針らしい。上記の麻生太郎首相式辞の中にも、「悲惨な戦争の教訓を風化させることなく、次の世代に継承していかなければなりません」とある。
 しかし、注意しなければならないと思われるのは、<証言>は、つねにその証言の時点での情報や知識によってある意味では歪曲されて行われる、ということだ。<証言>の対象である戦闘行為・戦争被害等々のまさにその時点における発言ではなく、60年ほども過ぎて、従って<戦後民主主義>の風潮と現在の<体制的・大勢的>ムードの影響を受けて、過去の事実が、現代的<解釈>や<評価>を交えて語られる可能性も十分にある、ということだ。
 事実そのものは発掘し、記録・記憶されなければならないものが多いだろう。しかし、それと、その事実の<解釈>・<評価>とは別のものだ。
 <証言>の収集によって現代的<評価>を伴う何らかの「価値」観をNHK等が主張したいとするならば、それは真の歴史探究ではなく、特定の<政治活動>だ。NHKによる<証言>収集とその報道を、そのかぎりで、十分に警戒しておく必要があると思われる。 

0768/小池百合子と山崎拓の対立、NHK6/22の「反日捏造番組」。

 〇サピオ7/22号(小学館)p.14に、小池百合子「私が『基地対策特別委員会』を抗議の辞任した理由/防衛大綱・『敵基地攻撃能力の保有』はこうして骨抜きにされた」がある。
 これによると、自民党「防衛計画の大綱」案の提言の柱は固まっていたところ、山崎拓が6/09に「敵基地攻撃能力の保有」という柱に「予防的先制攻撃は行わない」との文言を追加するよう主張し、これが最終的にもとおってしまったため、小池は上記の辞任をした。
 日経ビジネス7/13号(日経BP社)p.112は、山崎拓「船舶検査で核開発阻止を急げ」を載せる。その中で山崎はこう書く(構成・鈴木裕美)。-自民党小委員会は「敵基地攻撃能力の保有」を提言しているが、これを実施すると「膨大な防衛費が必要なるうえ、防衛政策を大転換」する必要が出てくる「専守防衛」・「非軍事大国」・「非核三原則厳守」の「国防3大方針」を全て変える必要があり、「これは『戦争放棄』をやめたというメッセージと取られかねない」
 時期の関係か、山崎は上では「予防的先制攻撃は行わない」との追記の主張は書いていない。
 詳細に触れないが、「敵基地攻撃能力の保有」を謳いながら「でも使いませんよ」=「予防的先制攻撃は行わない」と明記するのでは「意味も抑止力もない」とする小池百合子の方がまともな見解・主張だろう。
 山崎拓は、日本国憲法9条護持論者なのだろうか。そうだとすると、自民党の党是に反するのではないか。あるいは、<現憲法のもとでは>という限定・条件つきの主張をしているのだろうか。そうだとしても、現憲法の解釈として山崎の主張=「解釈」が正しいものではないことは明らかだ。九条1項の「戦争放棄」条項のもとでも、自衛のためにならば正当な「実力行使」をする意思くらい十分にありますよ、とのメッセージを伝えた方が、日本の国家と国民は安全なのではないか。
 そもそも、「…というメッセージと取られかねない」と懸念する相手方は、中国・北朝鮮なのではないか。なぜ、そこまで、中国・北朝鮮に<配慮する>のだろう。
 山崎は<反麻生>グループとしてテレビにはほとんど顔を出さないようでもあるが、加藤紘一・武部勤・中川秀直・塩崎恭久・後藤田正純・河野太郎、ついでに鳩山邦夫あたりと一緒に、自民党とは別の党を作ってご活躍いただきたい。残る自民党を無条件に支持しているわけでは全くないが。

 〇観なかったが、上掲のサピオ7/22(小学館)p.55以下の小林よしのり「ゴーマニズム宣言/『集団自決』NHK捏造番組」によると、NHKは6/22に、「『集団自決』戦後64年の告白」という、「またも反日捏造番組」を放送したらしい。
 日本の台湾「統治」もそうだが、沖縄や沖縄戦の歴史や詳細に詳しくない視聴者は多い。そのいわば(私もかなりそうだが)<無知>に乗じて「公共放送」からデマ・ウソを垂れ流されたのではたまったものではない。
 小林よしのりによると、渡嘉敷島で「集団自決が日本軍の責任」と主張しているのは、NHKが上記番組の「主人公」とした金城重栄・重明兄弟ら「ごくわずか」しかいない(p.57)。また、その金城重栄さえも「軍命令があった」とまでは明言しなかったため、NHK上記番組は、「生きて虜囚の辱めを受けず、鬼畜米英、そして手榴弾の音、金城さんにとってそれは自決命令でした」とのナレーションを挿入した、という(p.62)。
 NHKの社会・歴史系ドキュメンタリー類の<左翼偏向>は疑いえないようだ
 高校までの学校教育における少なくとも<何となく左翼>教育、大学の社会・人文系学部における<左翼>的教育を受けたうえで、マスコミや官界や法曹界等に入っていく…。NHK内でも、そういう者が相対的には多数なのだろう。
 従って、というとかなり飛躍するが、数年来中西輝政が期待を込めて語っている<政界(政党)再編>があっても、鳩山由紀夫おぼっちゃまを典型・代表とする(と私は感じている)<何となく左翼(・進歩)>派が多数を占め、中西輝政が支持するグループはおそらく間違いなく多数派にはならないだろう。そう願っているのではなく、客観的と主観的には思われる<予測>を語っている。 

0747/田母神俊雄・自衛隊風雲録(飛鳥新社、2009.05)より-2。

 (つづき)
 ② 以上の顛末(ここでは一部省略)につき、田母神俊雄はこうまとめる。
 「私が辞めるに至る顛末は、一切の弁明の機会を許さないという、完璧な言論封じであり、40年以上国のために汗を流してきた。三軍の一方の将に対する礼儀も作法も欠いた、極めて卑劣な策謀だったといえる」(p.254)。
 空幕長(航空幕僚長)というのは「5万」人航空自衛隊のトップだ(p.245)。
 顛末記の冒頭に次のようにも田母神俊雄は書いていた。
 「あの更迭劇は、増田好平防衛省事務次官の、私への私憤で始まったと認識している」(p.240)
 二 ほとんど感想を書く気もなくなるが心を奮い立たせて書くと…。
 「私憤」で航空自衛隊のトップ人事が左右されるとは、また上のごとき防衛大臣では、現在の防衛省・自衛隊は、<日本の安全>を守れる組織なのか、との深刻な疑問が湧く。
 増田好平は、かつてはいたはずの<サムライ>意識をもった、<武士道精神>らしきものをもった、目立たなくとも国家・国民のために奉じるような<官僚>ではなさそうだ。いじましい、小人物のようだ。そして、そのような官僚として、日本の歴史に小さな名をとどめるのだろう。
 再び、田母神俊雄いわく-増田好平は「守屋前次官と小池百合子大臣の喧嘩両成敗で、警察出身の官房長に内定していた防衛省次官の座を”棚牡丹”式に手に入れた人間だ。それに守屋前次官の”茶坊主”のような存在だったから省内の評判は決して良いとは言えない。…」
 田母神の立場からして多少は割り引いて読むとしても、こんな人物に<日本の防衛>のための枢要な事務を任せられるのか。防衛官僚(内局)すら<劣化>している。
 防衛省の事務方も(増田好平の意向を汲んでだろうが)、<記者が大勢きている、混乱するから来ないでくれ>とは何事だ。ひどいものだ。「記者」への情報提供くらい必要に応じて(利用するつもりで?)いくらでもやっているはずなのに。「混乱」=大勢の記者の参集を喜んでいる場合もあるはずなのに。何という小心者の集まりだろう。
 浜田靖一もひどく、結果として追認した麻生太郎もひどい。
 ますます、日本の将来に悲観的になる。
 以上、田母神俊雄・自衛隊風雲録(飛鳥新社、2009.05)より。

0746/田母神俊雄・自衛隊風雲録(飛鳥新社、2009.05)より-1。


 一 田母神俊雄 1.1948.07、福島県郡山市田村町大字糠塚に農家の長男として生まれる。
 1961.03、田母神小学校卒
 1964.03、二瀬中学卒。二年生のときに一度2番に落ちたが、以降は卒業するまで成績は首位。
 1967.03、県立安積高校卒。500名中60番で入学。卒業時、理系で「3番」の成績。東京大学理Ⅰ合格確率5割くらいと言われ、東京工業大学か東北大学理工学部を志望。しかし、父親に防衛大学校を薦められる。
 1967.04、防衛大学校入学。
 2.① 2008.10.31午後1時30分頃、日経新聞記者が論文最優秀賞のお祝いの言葉。15:00定例記者会見、論文関係質問なし。
 受賞・賞金300万円につき報告をと浜田靖一防衛大臣室を訪れるが不在。岸信夫防衛政務官(安倍晋三の弟)が「すごいですね。おめでとう」と祝意。
 増田好平次官を訪れて「空気が一変」。
 増田「これは届け出をしていましたか?」
 田母神「職務に関係しないし誰でも書けることだからしていない」〔要旨〕
 増田「いや、そうは言えないかもしれません」。
 自室に戻り、増田の態度に「少し引っ掛かるものを感じたが」書類の片付け等。
 30分後、斎藤隆統合幕僚長を訪れる。
 斎藤「タモちゃん、これは問題になるかもしれないぞ」
 田母神「今まで何年もずっと同じことを言っていますよ」
 再び自室に。1時間ほどして増田好平から電話。
 増田「読ませてもらいましたけど、…集団的自衛権には触れているし、憲法の話はしてるし、立派に職務に関する論文ですよ」。
 田母神「こんなこと一般的に誰でも言っていることじゃないですか。私が何か踏み込んだ発言をしていますか? もう普通に言われていることですよ」
 増田「いや、これはちょっと問題になるかもしれない」 と繰り返す。
 これが、ほぼ16:30過ぎ。記者たちが論文問題で騒いでいる空気なし。
 帰宅(官舎)し、招待客と酒肴に興じていると19:00頃に増田好平から電話。
 増田「官〔空?〕幕長、これは今夜中に決着をつけなきゃいけないかもしれません」。
 田母神「決着をつけるとはどういう意味ですか?」
 増田「辞表を書いてもらいたい!」 
 田母神「何で辞表書くの? こんなことで私は辞表なんか書きませんよ!」 電話を切ると再び増田から電話。
 増田「やはり辞表を書いてもらうことになるようだ」。
 「そうこうするうち」斎藤隆統合幕僚長から電話。
 斎藤「タモちゃん、これはもう辞表を書かないと収まらないぞ。記者たちも騒ぎ出している」。
 田母神「いや、私は辞表は書かないですよ。私は国家に対して悪事を働いたとは思っていないし、国家、国民のために、こうあらねばならないということを書いただけです。ましてや自衛隊の秘密を漏らした訳でもない。こんなことで辞表を書けといわれたら、自衛官はもう何も発言できなくなりますよ!」
 斎藤「何! お前! こんなに問題になっているのに、何言ってるんだ! バカやろう!」
 田母神「バカやろうとは何だ! たまには制服組の代表らしい行動を取ってみたらどうだ! バカやろう」。
 その後増田から2度電話。「辞表を書いてくれ」、「いや、書かない」 の反復。4回めの電話で以下。
 田母神「浜田防衛大臣も辞表を書けと言っているのか?」
 増田「大臣も書けと言っている」。「空幕長、信じられないなら大臣に直接電話して確認して下さい」。
 すぐに千葉にいる浜田靖一に電話。大臣も「婉曲に辞表を書いてもらわねばならないというような言い方」をした。田母神「いやぁ大臣もそういう意向ですか」 。
 どうせ自分をクビにする権限が最終的には増田側にあると思い、「辞表を書くのはやめようと決断」した。その旨を以下のとおり増田に伝える。
 田母神「大臣の意向も理解した〔要旨〕。しかし私は辞表を書く意思がない。従って、そちらで(勝手に)クビを切って欲しい」。
 増田、<懲戒免職>を話題にする。「辞表を書かないと懲戒免職になる可能性もある。そうなると退職金は出ない」。
 田母神「それで結構だ」。
 (おそらく増田から何度か電話がさらにあったと思われる-秋月)
 懲戒免職には「懲戒審議会」の審理手続が事前に必要。「私は懲戒審議会でも何でも開いて、私の論文が職務に関するものだったかどうか、審議してくれといった」。そうすると<言い分>を公表できるし、「時間も1カ月以上はかかる」。
 増田「懲戒審議会の審理を辞退して欲しい」(と「虫のいい」要望
 田母神「いや、それは出来ない。むしろ徹底的に審理して欲しい」。
 浜田大臣が防衛省に戻ると聞き、そこへ行こうと車に乗る。車中で「防衛省が空幕を通じて」携帯に電話。
 「記者たちが大勢集まって大変な騒ぎになっている。空幕長に来られると現場が一層混乱するので来ないで欲しい」。
 その場から浜田大臣に直接に電話すると、
 浜田「空幕長、ちょっと熱くなっているしれないけれど、一晩ゆっくり寝て考えてくれないか」。
 「少しも熱くなどなっていなかった」が、田母神「分かりました」。
 自宅(官舎)でテレビを見ていると<浜田防衛大臣が私を更迭した>とのニュース。ついさっきの「一晩ゆっくり寝て考えてくれないか」は何だったのか、「たんなる方便」かと、「正直唖然」。
 官舎に記者たちが押し掛け始めたので、23:.30頃、都内のホテルに移動。
 2008.11.01午前01:30、岩崎航空幕僚副長より携帯メール。
 岩崎「田母神空幕長は10.31付で空幕付きに。代わって私が空幕長職務代理に〔要旨〕」。
 「小さな服務事故」の報告でも1週間は要するのに「私に関しての処理はこれほど素早いのか」と「怒るよりは半ば呆然」。
 明けてのちの午前中、「空幕」とのやりとりの中で、「11月4日に定年になるそう」との情報が入る。
 ホテルに籠もり、4日に予定だろう離任式での「離任の辞」の原稿を書き進める。大臣、増田、斎藤からは「一切連絡はなかった」。
 2008.11.03の17:00、「空幕」を通しての電話に驚く。
 空幕「本日、3日付で定年退官となりました」。
 「一瞬で」、「私に離任式をやらせないための策謀だ」と理解した。
 祝日の11/03の翌日11/04かと思っていたが、退官日が11/03というのは「最初から想定されていたに違いない」。「当初、4日としていたのは、私が何らかの対応策をとるのを恐れた」からで「3日の夕方ぎりぎりになって正式の連絡をするというのはあらかじめ決められていたのだろう」。
 すでに民間人だったわけだが「退官したその日は制服を着てよい」ので「制服を着て防衛省に行こう」、「定年退職を自らの自らの口で発表する記者会見を開こう」と思って「これから登省する」と電話すると、以下。
 「今日も記者が大勢集まっている。混乱するから申し訳ないがもう来ないでくれ」。
 (つづく)

0734/田母神俊雄・田母神塾(双葉社)を全読了-日本の「防衛」。

 田母神俊雄・田母神塾-これが誇りある日本の教科書だ(双葉社、2009)をようやく全読了。
 日本の政治家・国民の<軍事・防衛>に関する知識は乏しい。
 ・「専守防衛」・非核三原則・武器輸出(禁止)三原則は改めるべきだ。
 ・ニュークリア・シェアリング・システムを日本も導入すべき。以上、田母神の主張に納得。
 ・自衛隊を「軍隊」と認めないでおいて(「軍人」はいない筈なのに)<文民統制>を語るとは、そもそも笑止千万の旨の指摘も面白い(p.217)。
 かりに朝日新聞的「左翼」の見解を歴代内閣の見解に反して公にした行政公務員(とくに事務次官等の上級官僚)や自衛官がいたとし、かつそのことで<更迭>等の意に反する実質的制裁を受けたすれば、朝日新聞は、公務員にも「一市民」としての「内心の自由」・「思想・信条の自由」そして「表現の自由」があるとして、その公務員を擁護し、政府の側を徹底的に批判するのではないか。
 いわゆる田母神俊雄論文の執筆・公表は「一私人」としての行為だと昨秋に政府は認めていた(その上で、その地位にふさわしくないとした)。
 人権派(公務員の「人権」についても)のはずの朝日新聞はなぜ、公務員たる田母神俊雄については、公務員も「一市民」としては持つ「内心の自由」・「思想・信条の自由」そして「表現の自由」(それぞれ歴史認識を含む)を持ち出して、政府・防衛相を批判しなかったのだろうか。
 国歌伴奏拒否音楽教員(公務員)の方を朝日新聞は擁護し、東京都教委・校長の側の<強制>を批判したのではなかったか?
 言うまでもなく、自分たちに都合のよい<言論>しか実質的には許容しないという、都合の悪い<言論>は<言論>自体を許容しないという、<全体主義>的意識を(それは<ご都合主義にもつながる)朝日新聞が持っていることによる。
 ・①周辺に中国・北朝鮮のような危険な国のない英国・フランス・ドイツにおいて、日本と比較しての軍事費の多さは次のとおり(p.239の資料による。1ドル=129円=約0.9ユーロで計算。英・仏は核保有国でもある)。
 人口一人当たり「国防費」-日本293、英779、独318、仏603(ドル)。
 対GDP「国防費」-日本0.944、英2.4、独1.1、仏1.9(%)。
 ②A「現役総兵力」数(万人。p.238)-中国225.5、北朝鮮110.6、そして日本24.0。
 ②B「海兵力」=海兵隊・海上自衛隊員数(万人、p.239)-中国160、北朝鮮100、韓国54、台湾20、そして日本14.9。
 むろん在日米軍の存在も考慮する必要はあるが(在欧米軍もある)、日本の<安全>は心もとないのではないか。
 ・「防衛出動」には、武力攻撃事態国民安全確保法(略称。いわゆる有事立法の一つ)9条により事前に国会の承認が必要とされる。真の<有事>・<非常事態>において、これでは間に合わないだろう。またそもそも、<反戦平和>の気分の国会議員が過半数が占めていれば「承認」がなされないこともありうる。「防衛出動へのハードルをもっと下げるべき」との主張(p.212)に同感。
 ・日本へのミサイル攻撃があった、又は明白に予測されるときにその「基地をたたく」ことは「法理的には自衛の範囲に含まれ、可能」との首相答弁(1956.2.29)はまだ生きているとされる。しかし、現実には、今の自衛隊の情報等の能力では、外国の「基地をたたく」のは不可能らしい(p.215-220)。
 例えば、日本には北朝鮮の精細な地図(地下の状態等立体面を含む)等(建物の高さ・強度等の情報)がないようだ。日本の<安全>は心もとないと思われる。

0677/憲法九条第一項・第二項の「解釈」・その2。坂元一哉は大丈夫か。

 西修編(横手逸男・松浦一夫・山中倫太郎・大越康夫・浜谷英博共著)・エレメンタリ憲法〔新訂版〕(成文堂、1998)における、憲法九条解釈の叙述を簡単に見てみよう。九条関係の「第4章・戦争の放棄」の執筆者は松浦一夫・防衛大学校教授。
 九条第一項で否認(禁止・放棄)される対象につき、まず「侵略戦争限定放棄説(A説)」と「全戦争放棄説(B説)」とがあるとされる。どちらが通説又は多数説かの明確な叙述はないが、執筆者は「A説」のようにみえる(p.49-50)。少なくとも、まず最初に「侵略戦争限定放棄説(A説)」が取り上げられているように、「自衛」戦争を含む「全戦争」が九条第一項によって否認されているとほぼ一致して「解釈」されている、のではないことは、明らかだ。
 なお、前回に同じ意味で「A説」・「B説」という呼称を用いたが、前回執筆の際には上記の本は見ておらず、偶然の一致。
 ところで、上の本で松浦一夫は第三の説も説明しており、これを「戦争違憲・自衛行動合憲説(C説)」と称している。
 説明によると、この説は、九条第一項の「国際紛争を解決する手段としては」は「…戦争」にはかからず、「武力による威嚇又は武力行使」にのみかかると解する。従ってこの条項により「自衛」のための「戦争」は放棄されているが(違憲だが)、「自衛」のための<武力威嚇・行使>は許される(合憲だ)、との解釈がなされる。
 戦争と<武力威嚇・行使>を明確に区別することなく主として前者に焦点を当てて書いたため前回には十分に正確には言及していない。だが、この説は、松浦一夫による明示的な氏名・著書の掲記はないものの、明らかに、前回に触れた佐藤幸治(元京都大学教授)説だ。
 仔細に立ち入らないが、この説は当初のGHQ案や日本国憲法の英文テキストを論拠とする(上記の本・松浦p.50、佐藤幸治・憲法〔新版〕(青林書院、1990)p.567-7)。たしかに、英文テキストによると「国権の発動たる」は「戦争」のみを形容し、「国際紛争を解決する手段として」は「武力による威嚇又は武力の行使」(としての)にのみかかるようだ(佐藤幸治p.567)。佐藤によると、「総司令部案によれば、この点は一層明確」だ、という(同上)。
 だが、最終的な九条第一項は次のとおり。
 九条第一項「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」。
 佐藤幸治説=「戦争違憲・自衛行動合憲説(C説)」には、「自衛」目的の<武力威嚇・行使>を憲法上容認し正当化するという機能もあって、俄に無視することもできないだろう。だが、上の条文の文理からすると、常識的な日本語の文章の読み方として、「国際紛争を解決する手段としては」は、その対象として「武力による威嚇又は武力の行使」も含んでいると理解せざるをえないものと思われる。つまり、制定経緯やGHQの意向はどうであれ、C説は最終条文の文理からあまりに離れすぎている(=矛盾している)という大きな(致命的な?)難点があるように思われる。
 つぎに、西修編・上掲書(松浦)は、九条第二項の「前項の目的を達するため」(芦田修正)の解釈の違いにより、上でいう「侵略戦争限定放棄説(A説)」も次の二つに分かれる、と説明する。
 「不保持目的規定説(①説)」-前項の目的をその「精神」=「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」と理解し、第一項は「自衛戦争」を否定しないとしつつ、<自衛・制裁>目的であっても「軍その他の戦力」は保持できない、と解釈する。「自衛」目的であれ「戦力」保持が禁止されるため、全ての「戦争」が結果的には遂行できなくなる。この説は前回主として言及した本にいう、b説=「遂行不能説」だ。
 「不保持目的限定説(②説)」-前項の目的を「侵略的な戦争・武力使用の禁止」と理解し、「自衛」戦争のための「戦力」保持は否認されていない(合憲だ)、と解釈する。これは前回に紹介したa説=「限定放棄」説だ。
 この後者の説に立つと、<自衛隊>は「陸海空軍その他の戦力」であっても、「自衛」目的の組織であれば、違憲ではないことになる。但し、日本政府はそのような説明をしてきていないので(「戦力」ではないとの説明をしているので)、政府はこの「限定放棄」説(上の本にいう②説)を採用していないことは明らかだ。
 再度書いておくが、ごく簡単に以上を紹介しても明かなように、「第二項は…第一項の規定をより確実なものにするための条項である」(坂元一哉)などと簡単・素朴には言えない。
 通説ないし多数説と見られる解釈によると、第一項では「自衛戦争」は否認されていないが、第二項によって全ての目的のための「戦力」保持(・「交戦権」)が否認されているがゆえにこそ、結果として自衛目的であれ「戦争」を遂行できない、ということになっているのだ。それだけ第二項のもつ意味は大きいものと理解されていることになる。
 そして、「侵略的な戦争・武力使用の禁止」こそが「前項の目的」だと解釈するのが最も自然だとすると、芦田修正(追加)文言は実質的には「無視」されていることになる。この「前項の目的を達するため」に関する「最も自然」な解釈を採ったからこそGHQは<文民条項>の追加を要求したのだったが、この点には今回は立ち入らない。
 「戦力」概念やそれの実際の自衛隊との関係等についての学説・政府解釈にも、別の機会に触れるかもしれない。

0676/憲法九条第一項・第二項の「解釈」。坂元一哉のそれは大勢の反映か。

 先日、坂元一哉の憲法九条の解釈―正確には憲法九条に関する解釈論についての現況認識かもしれない―は怪しい旨を書いた。
 学説等の状況については比較的に客観的な叙述をしていると見られる、芦部信喜監修・注釈憲法(1)(有斐閣、2000)を参照して、簡単に整理しておこう。憲法九条部分の執筆者は高見勝利。
 九条解釈といっても、第一項につき例えば4つの論点と対立があり、第二項についても4つの論点の対立があるとすれば、論理的には16とおりの解釈に分岐する。仔細に立ち入る意味はさして大きくないので、坂元一哉の叙述を意識しつつ、とくに第一項の「国際紛争を解決する手段として」の(戦争等)、第二項の芦田修正(「前項の目的を達するため」)に留意して、以下要約的に紹介する。
 第一項中の「国際紛争を解決する手段として」の戦争・武力行使とは「侵略」戦争又は「侵略的な」武力行使を意味し、パリ不戦条約で違法とされた戦争・武力行使にあたる、従って、正当防衛行為とされる「自衛戦争ないし自衛行動」はこれに含まれない(また、「非当事国や国連などが」行う制裁戦争・制裁措置も含まれない)。「これが通説」である(p.400)。この欄で便宜的に「通説」又はA説と称しておく。
 一方、「侵略戦争」のみならず「自衛・制裁戦争」も「国際紛争」の「解決」のためのものとして、上に含める学説もある。B説と称しておく。。
 A説は「従来の国際法上の通常の用語例」に従うのに対して、B説は九条の「世界にさきがけ」た「画期的な意義」を強調する(p.401)。
 第二項の「前項の目的を達するため」の解釈いかんによって、九条全体の意味、とくに「すべての戦争ないし武力行使を放棄するものか否か」、の解釈も変わってくる。全体としていえば、<大別>して次の三説がある。a、b、cの呼称は原文のまま。
 a説=「限定放棄説」-第一項につきA説に立ち、第二項の「前項の目的を達するため」とは「侵略戦争」放棄という目的を意味し、そのための「戦力」や「交戦権」を第二項は否定していると解する。従って、この説によると、「自衛」等(+制裁)のための「戦力」保持・「自衛戦争」の際の国際法上の「交戦権」は、九条によって否定(放棄)されていない。百里基地訴訟第一審判決(水戸地裁1977.02.17判決)はこのa説を採った(p.402-3)。
 b説=「遂行不能説」-第一項につきA説に立ちつつ、第二項の「前項の目的」を第一項中の「国際平和を誠実に希求し」を指す、又は第一項全体の<国際平和の誠実な希求>目的だと解し(「達成するため」とは前項の定めの経緯・動機を意味すると解し)、第二項により「戦力」保持・「交戦権」は「無条件に」否定され、従って「自衛戦争」(+制裁戦争)を遂行することは結果として不可能となる、と解釈する。「事実上、すべての戦争が放棄されていると解するもの」で、「多数説を形成する」。長沼事件第一審判決(札幌地裁1973.09.07判決)がこの説を採った。
 c説=「峻別不能説」-第一項につきB説をとり、第二項をまつまでもなく第一項により「一切の戦争が放棄されているとする」。その主な論拠は、「国際紛争を解決する手段として」の戦争か否か、侵略戦争か自衛戦争かの区別の困難さにある(p.404)。
 著者の高見勝利は、「基本的にb説を妥当とし、b説的に理解してもc説との間にさほど径庭はないものと考える」とする(p.408)。
 高見説がどうであれ、日本政府の現在の解釈も(新憲法当初は第一項に関するB説的答弁もあったが)、上の三説の中ではb説だと思われる。自衛「戦争」はできないが「自衛権」行使まで憲法上は否定されておらず、「自衛権」行使のための自衛隊は第二項でいう「…軍その他の戦力」に該当しない、だから違憲の存在ではない、と「解釈」してきているのだ(今回扱っている論点に関する最高裁判決はない。今後も出ない可能性が高い)。
 すでに簡単には一部を紹介したが、坂元一哉は憲法九条につき、こう説明する。-「国際紛争を解決する手段としての武力の行使(又は威嚇)を永久に放棄し(第一項)、…戦力を保持しない(第二項)ことをうたっている。この第一項は…戦前の失敗を反省し、平和国家に生まれ変わることを誓った条項である。戦前の…失敗は…中国大陸における…国際紛争を解決するため、武力の行使に訴えたことに起因している。第一項は…そうしたことは二度としないという誓いである。/第二項は…『前項の目的を達するため』との文言が付いていることからも分かるように、第一項の規定をより確実なものにするための条項である」(月刊正論3月号(産経新聞社)p.216-7)。
 上の坂元において、「侵略」戦争か「自衛」戦争かという問題意識は見られない。また、「前項の目的」とは(パリ条約の文言とは別にほとんど日常用語として理解されている)<国際紛争解決のための>「武力の行使」等の放棄という目的だと無自覚的に理解されているようだ。上の学説分類に当てはめると、これはc説であって、決して「多数説」又は「通説」ではない。
 なぜ坂元がこのような杜撰と評してもよい叙述を何気なく行っているのかの理由はむろんよく分からない。だが、京都大学法学部出身の坂元が学習した可能性が高い、元京都大学憲法学教授による、佐藤幸治・憲法〔新版〕(青林書院、1990)の影響があるかにも思われる。というのは、佐藤は、この本で、通説又は多数説とは異なる九条の文言解釈を示しているからだ(とくにp.567-)。
 佐藤幸治によると、「戦争」と<武力威嚇・行使>は区別され、第一項の「国際紛争を解決する手段としては」は(「武力行使」等にはかかるが)「戦争」にはかからず、「戦争」に限定はつかない、従って上記のB説が結果として採られ、「自衛戦争を含めてすべての戦争が放棄されて」おり、「そのような戦争を遂行するための…『戦力』をもたないことを明らかにしたのが二項前段」だ、と述べられる(p.572)。
 この佐藤説は細かな分岐点を省略して大別すれば上のc説であり、かつ坂元一哉の叙述にも親和的だ。
 この佐藤説(的「読み方」)は「多数説」又は「通説」ではない。佐藤説との関係は別としても、坂元一哉は、自らの九条に関する叙述・説明が決して「多数説」・「通説」のそれではないことくらいは意識しておいてもよいだろう。
 些末な問題に触れたようでもある。だが、憲法九条・「戦争放棄」条項について坂元一哉的な単純素朴な読み方・理解をする人がけっこう多いようであるのは、困ったことだ。
 ついでに書くと、自民党の憲法改正案は現九条第一項はそのまま残し、第二項を全面削除して別の条項に改めるものだ(「九条の二」の新設)。かりに九条第一項が「すべての」戦争を、従って「自衛」戦争をも否認しているとすれば、自民党の改正案どおりに正規の「自衛軍」が設けられたとしても、その「自衛軍」は九条第一項〔改正後はたんに九条〕により「自衛戦争」を行うことができないことになる。九条第一項につき(資料で確認しないが)上のA説=「侵略」戦争限定放棄説に立っているがゆえにこそ、自民党改憲案は現九条第一項をそのまま維持しているのだ、と考えられる。このくらいのことは、国民一般の<常識>になっていた方がよいと思う。

0533/堀田力「戦争だけはいけない」文藝春秋スペシャル・2008季刊夏号は「いけない」。

 1 報道によると、北朝鮮は5/30に、黄海南道沖の黄海で、短距離ミサイル1発を発射した。これは中国と朝鮮半島の間の海域だが、対日本に照準を合わせたミサイル基地があり、日本海で、また日本列島を越える、ミサイル発射(実験)を行ったことがあることは衆知のこと。
 報道によると、中国は5月下旬、最新鋭潜水艦に搭載予定の弾道ミサイル(SLBM)の発射実験を朝鮮半島西方の黄海で行ったらしい。この国も日本に向けたミサイル発射台を設置している。また、朝鮮半島、ベトナム、インドで実際に「戦争」をしたことがあるのは衆知のこと。チベット、ウィグル等の支配はかりに「戦争」の結果ではないとしても<武力>行使によることは明らかだろう。
 2 ところで、日本語には、英語の定冠詞・不定冠詞にあたるものがない。また英語には名詞に冠詞をつけない場合もある。
 日本で、<戦争だけはいけない>、<戦争はしてはならない>、<戦争を繰り返してはいけない>等々の言葉をしばしば読んだり聴いたりするが、この場合の「戦争」とは、the のついた<特定の>戦争なのだろうか、a の付いた漠然とした一つの(結局はすべての)戦争なのだろうか、冠詞のない一般的に戦争そのものを指しているのだろうか。
 戦争体験者が<二度とごめんだ>、<もう繰り返したくない>とか発言している場合の他に<戦争反対>の旨をより一般的な形で述べていることは多いのだが、厳密には、その場合の「戦争」とは<あのような>戦争、つまり昭和20年までの昭和時代に行われた特定の戦争のことを指しており、絶対的な反戦感情の吐露ではなく、一般的な<戦争反対>論を述べているのではない、ということが多いのではないか、と感じてきた。
 そのような<特定の(自分たちがかつて経験したような戦争>(の反復)に反対という意思や感情を、一般的な反戦感情として報道してきたのが戦後のマスメディアであり、利用してきたのが<反戦>を主張する<左翼たち>ではなかっただろうか。
 <反戦>それ自体は殆どの人が合意できるかもしれない。誰も戦争勃発、戦争として攻撃されることを望んではいない。
 だが、戦争を仕掛けられたら、つまり日本列島が何らかの軍事力によって攻撃されたら(又はされようとしたら)どうするのか? 国土・人命・財産に対する莫大な損失の発生を座視して茫然と見ているだけなのか。国家としての任務はそれでは果たされ得ないのではないか。
 3 文藝春秋スペシャル・2008季刊夏号(2008.07)の<大特集・日本への遺言>の中にある堀田力「戦争だけはいけない」(p.139~140)は、基本的に誤っている。
 タイトルや第一文の「絶対に、戦争はしないでほしい」は、何となく肯定的に読んでしまいそうだが、上記のとおり、ここで堀田のいう「戦争」とはいったいいかなる意味のそれなのか、という問題がある。
 堀田はまた最初の方で、第二次大戦敗戦のとき「もう日本人は二度と戦争をしようとは思うはずがないと確信した」と書いていている。元検察官・現弁護士の堀田ならば、「第二次大戦」の際の日本の「戦争」のような「戦争」のことなのか、「戦争」一般のことなのかを明確にしておいてほしいものだが、どうやら<特定の>戦争から出発して、「戦争」一般、つまりすべての「戦争」へと拡げているようだ。
 上のことの根拠を、堀田は「世界に、もう戦争は要らない」ことに求めているようだ。堀田は言う。
 ①「体制の優劣を決する冷戦は、共産主義体制の敗北が決まり、もはや体制間の戦いを暴力で決着する必要性は消滅した」。
 また、こうも書く-②「独裁国であっても、その経済発展がある段階に達すれば、体制は必然的に民主主義、自由主義体制に移行するという、歴史によって証明された法則がある」。
 この二つの認識又は理解・主張はいずれも間違っている。又は、何ら論証されていない。
 ①について-欧州における「共産主義体制の敗北が決ま」ったとかりにしても、アジアではまだ決着がついていない。専門家・中西輝政も書いているし、私も何度も書いた。冷戦終了こそは、まさに中国の(陰謀的)主張でもあることを知っておく必要がある。第二次大戦後も実際に「侵略」戦争をし、また軍事費を膨張させながら、60年以上の過去の日本の「軍国主義」の咎をなおも政略的に言い立てているのが、中国だ。
 ②について-ソ連・東欧のことを指しているのかもしれないが、それが何故「歴史によって証明された法則」なのか。北朝鮮も中国も、「経済発展がある段階に達すれば、体制は必然的に民主主義、自由主義体制に移行する」というのか? その根拠はいったいどこにあるのか。細かく言うと、「経済発展がある段階に達すれば」という「ある段階」とはどのような段階なのか。そして、中国はその段階なに達しているのか、いないのか。北朝鮮がその段階に達していないとすれば「民主主義、自由主義体制に移行する」筈がないのではないか。等々の疑問ただちに噴出してくる。
 堀田はもう少し冷静に、客観的に世界をみつめ、かつ元検察官・現弁護士ならば、論理的に文章を綴ってもらいたい。
 「絶対に、戦争はしないでほしい」という言葉を<遺言>にしたい、ということは、おそらく日本又は日本人の中に「戦争」をする危険性にあると感じているからだろう。この点についてもまた、その根拠は?と問い糾さなくてはならない。
 私は上述のように<戦争を仕掛けられる>=<日本列島が何らかの軍事力によって攻撃される>危険性の方が圧倒的に(絶対的に)大きいと考えている。その場合、<正しい>戦争=<自衛>戦争はありうる、国土・人命・財産の保全のためにはやむを得ない戦争というものはありうる、と考えている。
 アジアでは冷戦は終わっておらず、現に、中国・北朝鮮という<共産主義体制>又は<共産(労働)党一党独裁の国>は残っていて(ベトナム、ラオスも。ネパールが最近これに加わろうとしている可能性が高い-中国の影響がない筈がない)、日本に対する軍事的攻撃力を有している。
 堀田力は刑事法を中心とする国内法や基本的な国際法の知識はあっても(また福祉問題には詳しくても)、国際情勢を客観的に把握する能力は不十分なのではないか。また、弁護士・裁判官等の専門法曹のほとんどがそうであるように、<共産主義の怖ろしさ>というものを知らない、のではないか
 堀田力の、このような文章がたくさん出ることこそが、コミュニスト、中国や北朝鮮が望んでいることだ。共産主義の策略(それは戦後日本の中に空気のごとく蔓延してきているものだが)、その中に堀田もいる。
 堀田力、1934年生まれ。樋口陽一も1934年生まれ。大江健三郎は1935年生まれだが、いわゆる早生まれなので、小・中の学年は樋口や堀田と同じ。すでに書いたことがあるが(人名もリストアップした)、1930年代前半生まれは<独特の世代>、つまり最も感受性の豊かな頃に<占領下の教育>を受けた世代だ。感受性が豊かで賢いほど、戦前日本=悪、戦後の「民主主義」=正、という<洗脳>をうけやすい傾向があると思われる(あくまで相対的<傾向>としてだが)。

0436/月刊WiLL5月号(ワック)に見る最近の朝日新聞。

 月刊WiLL5月号(ワック)には、朝日新聞を主対象とする記事(論稿)が三つもある。
 1.海上自衛隊イージス艦漁船衝突事故について、さぞや朝日新聞は大きくかつ自衛隊に厳しく報道しているだろうと思っていたが、山際澄夫「イージス艦事故があぶりだす朝日と福田は似たもの同士」(p.208)によると、想像以上だ。
 すなわち、事故発生を伝えた2/19夕刊から27日頃まで「数日を除いて連日のように朝夕刊トップという、それこそ洪水のような」報道を続けた、という(p.210)。もとより初めから自衛隊側を「悪者」扱いで、日本共産党・志位和夫と同じく「自衛隊を悪魔視して国民と対立」させようとしている(p.212)。
 想像以上だが、朝日新聞のことだから分からなくはない。よく分からないのは、紹介・引用されている2/22社説の一部だ-「海上自衛隊が目の前の漁船すらよけられないのなら、どうやって日本を守るのか」(p.211)。
 朝日新聞(社)は本当に自衛隊に「日本を守る」ことを期待しているのだろうか(このことを前提として上の文がある筈だが)。それにしては、山際によると、自衛隊に対する「敬意」がない文章表現で、むしろ「嘲弄」の感がある(p.211-212)。

 こんな文章を綴っていると精神衛生に悪い。朝日新聞のような新聞のない地域・国へ行きたくなる。
 2.本郷美則「今月の朝日新聞・第14回」(p.140-)は、若宮啓文論説主幹が4/01付で退任、同社コラムニストになるということから、若宮の社内での<出世街道>?の経緯を中心に書いている。
 「朝日新聞社コラムニスト」とは何のことやらよくは解らないが、定年後も朝日の紙面に登場し、朝日新聞社から金を貰い続けるわけだ。本郷は若宮の<有名な>記事をいくつか取り上げている。本欄でいく度か言及した、<ジャーナリズムはナショナリズムの道具じゃないんだ>(コラム・風考計)もけっこう重要な名?文なので、紹介してほしかった。
 ところで、本郷によると、キャノン・御手洗富士夫と朝日新聞が1年半”冷戦”状態で、キャノンは朝日新聞への広告出稿を絞ったらしい(全面広告が2006年は36本、2007年は7本、2008年は若宮退任報道後に最初の1本)。
 恥ずかしくも、”冷戦”の原因も含めて知らなかったのだが、キャノンは勇気がある。立派だ(関係ないが、わがプリンタは歴代、キャノンだ)。「1本数千万円」の広告減収をもたらすのだから、朝日新聞を気嫌う経営者たちは、朝日新聞に広告を出すな、と呼びかけたいものだ。同じことは、朝日新聞系のテレビ放送局や(毎日系の)TBSへの広告フィルム(CF)の掲出についても言える。
 テレビ朝日にせよTBSにせよ、あれだけヒドい報道ぶりをしたり、ときどきは目立った<事件>も起こしているのに、何故に所謂コマーシャルが減らないのだろうか、と不思議に思っている。言葉による精神的・理念的な批判よりも、経営基盤自体にかかわる広告取り止めの方を(広告収入に大きく依存している)マスメディアは実際には懼れているはずなのだが…。
 3.創刊号から連載の勝谷誠彦「あっぱれ!築地をどり」(p.130-)は、イージス艦事故によって朝日新聞が「盆と正月が一度に来たような大騒ぎ」、「築地をどり」は「大臨時興行」、「いやもうはしゃぐことはしゃぐこと」と皮肉っている。
 また、勝谷によると、朝日新聞内の「天声人語」子と「素粒子」子は「宿命のライバル」で、上の事故に関して俳人<所作>や「駄洒落の所作」を競い合っているらしい。
 勝谷誠彦は、この程度の短い文章(2頁程度)だと、なかなか冴える。
 再度いうが、朝日新聞に関して何か書くのは、なぜか鬱陶しい。しかし、ときどきは触れないわけにはいかない。

0419/イージス艦衝突事故、毒入り餃子事件。

 最近の<事件>の一つはイージス艦と漁船の衝突事故。マスメディアのほとんどは、3/13のNHKの「クローズアップ」(午後7時30分~)も含めて、海上自衛隊の側に<責任>があるとの姿勢で一貫して報道している。
 強く大きい船体と組織対弱く小さい漁船で、しかも漁船(民間側)にのみ被害者が出たとあっては、防衛省・海上自衛隊を批判する格好の材料になるのだろう。
 しかし、冷静に考えれば、<事故>の責任の所在、過失の割合・程度については<権威ある>又は<(とりあえず)正式の>決定又は報告は殆どなされておらず。今のところはほとんどが推測にすぎないのではないのだろうか。
 上の旨を産経新聞3/05湯浅博の「世界読解」は述べており、その隣には、「海上自衛隊は、理性的に評価されるべきだ。原因が完全にはまだ分からないのだから」で終える米国元軍人(ジム・アワー)の寄稿が載っている。
 むろん自衛隊側に100%の責任(・過失)があった可能性はあるのだろうが、早々の<防衛省・海上自衛隊バッシング>は戦後日本を-マスメディアも重要部分として-覆う<反国家主義>・<反軍事主義>を背景としているように思われる。
 産経新聞2/29の「正論」欄で西尾幹二は「軍艦側の横暴だときめつけ、非難のことばを浴びせかけるのは、悪いのは何ごともすべて軍だという戦後マスコミの体質がまたまた露呈しただけのこと」と言い切っている。この指摘には共感を覚える。
 それにしても、西尾も言及しているように海上自衛隊のイージス艦(西尾は「軍艦」と明記)が法的には-海上衝突予防法等だと思われる-「一般の船舶」と同じ扱いを受けるというのは、<有事>の場合は別の法制がおそらく適用されるのだとしても-確認していない-、奇妙なことだ。日本防衛の重要な役割を与えるのだとすれば、<有事>の場合に限らず、その役割にふさわしい法的処遇を与えるべきではないのか。
 前後するが、<福田首相が行方不明者の家族を訪問するのが遅すぎた>とか騒いで報道していたテレビ放送局は、まともな報道機関なのか。
 毒入りギョーザ事件については、月刊WiLL4月号(ワック)の山際澄夫「毒餃子、朝日は中国メディアか」が有益だった。朝日新聞の定期購読者でないので、この問題(事件)についても朝日新聞が徹底的に<親中国>であることがよく分かる。
 いちいち書くほどのことではないし、この欄でも殆ど具体的には触れていないが、中国と北朝鮮はまともな理屈や常識が通用するような国ではない。
 産経新聞3/13櫻井よしこ「福田首相に申す」(月一連載)は、中国を「実に言葉の正しい意味で、異形の国家」と形容している。<異形>・<異常>・<異様>・…、他にも同旨の言葉はあるだろう。
 その中国は昨年5月に米国に対して、太平洋の東西をハワイを基点に米中で「分割管理」することを打診したとか(産経新聞3/13)。日本周辺の海域は当然に中国の<管理>とする案だ。
 最近書いたように、東アジアではいわゆる<自由主義国>といわゆる<社会主義国>の<冷戦>は続いている、と認識しておくべきだ。この冷戦に米国がどの程度コミットするか、できるかも日本の将来とむろん無関係ではない。
 佐伯啓思や樋口陽一等の本のみを読んで、現実の<世相>を知らないわけでは全くない。いちいち言及するのが煩わしいし時間的余裕の問題もある。だが、むろん、今後もできるだけ論及して、自分自身による記録ともしておきたい。

0377/マスコミは小沢の新テロ法違憲論・民主党論にどう対応したか。

 新テロ対策特措法に民主党は反対したのだったが、その反対の理由は、少なくとも小沢一郎代表によるかぎり、その法案の内容が<憲法違反(違憲)>だから、というものだった。
 小沢の何かの本又はどこかの新聞又は雑誌の発言中に詳しく語られているのかもしれないが、新テロ対策特措法(案)のどういう部分が憲法(前文も含めてもよい)のどの条項のどの部分に違反する、あるいはそうした条項に示されているどのような基本理念又は基本原則に違反するのか、私はきちんと報道した新聞を読んだことがなく、NHKを含む放送局で聞いたこともない。
 法律案をめぐる対立はしばしばあるだろうが、また、あって当然だろうが、ある法案への反対理由が<憲法違反(違憲)>だからだと野党第一党の党首が主張する場合が頻繁にあるとは思えない。通常は政策の合理性・明確性・(特定の層にとっての)利益性・不利益性等が争点になるのであり、<違憲>だからと言ってしまえば、そうした議論は全て不要になる、<切り札>的な反対理由なのだ。
 そうした重大な反対理由を主張したにもかかわらず、その具体的な趣旨・内容が広く知られなかった、ということはきわめて異様だった、と思われる。
 テレビを含むマスメディアは、上の点をきちんと報道しなかったし、詮索しようともしなかったかに見える。
 小沢の<違憲論>が憲法解釈として真っ当又は適切なものかどうかについて、<専門の>憲法学者が議論したり、コメントを加えても何ら不思議ではないとも考えるが、そのような例は、マスメディア上では全く又はほとんどなかったのではないか(一面では、憲法学者の感覚の<鈍さ>も感じるが)。
 マスメディアにおける憲法に関する議論のこのような<軽さ>あるいは<いいかげんな>扱い方は、本当はきわめて異様なのではないだろうか。野党第一党の党首たる政治家の<違憲論>が、<軽く>聞き流す程度に扱われたように見える。
 小沢の<違憲論>に賛成して書いているわけではない(そもそもその具体的内容がよく分からない)。重大・重要であるはずの意見、よく言えば<問題提起>、をきちんと受けとめる感覚がはたして日本のマスメディアにあったのか、ということを疑問視したいのだ。
 以下は、やや別のテーマになるが、マスメディアの問題に関する点では同じだ。
 小沢といえば、自党の役員たちが<大連立>構想に反対して代表を辞めると言い出したとき、昨年の参院選挙の際には<政権交替への1ステップに>とか言っていたはずなのに、<民主党にはまだ政権担当能力がない>と批判してみせた。しかるに、翻意して代表の座にとどまるや、次期衆議院選挙で<政権交替を>と訴えているようだ。この<変心ぶり>・<言い分の変化>は彼の政治家としての資質を問題にしうるものでありうるが、しかし、マスメディアが厳しく批判した、という印象はない。朝日新聞も、少なくとも、安倍前首相の発言等に比較すれば、はるかに寛大に、はるかに優しく、報道しているだろう。
 野党第一党の代表という政治家の「発言」の移ろい=一貫性のなさに対する、このマスメディアの感覚の<鈍さ>あるいは<いいかげんさ>はいったい、どこから来ているのだろう。
 マスコミについては、不思議に思うことが最近もたくさんある。理論も理屈も、国益も公益も、将来の「日本」も関係がない、ただ当面の<政局>・<政争>にのみ関心をもっている政治記者が多すぎるのではないか。

0214/「戦後体制からの脱却」とは何か-産経6/09森本敏コラムに寄せて。

 産経6/09の正論コラム欄の森本敏「真の「戦後体制からの脱却」とは何か」には、全くと言っていいほど異論がない。軍事・防衛の観点からの「戦後体制からの脱却」の意味は、長い文章ではないが、殆どここに書かれていることに尽きるのでないか。そして、「戦後体制からの脱却」とは軍事・防衛の面の問題に限られないとしてもそれが中心になるだろうと考えられるかぎりで、「…からの脱却」の意味の重要部分が指摘されていると思われる。
 要するに、「戦後半世紀、ぬるま湯の中に漬かって米国に国家の生存を依存して一人の自衛官の戦死者も出さないことを自慢にして生存してきた。こうした幼児のような平和概念から脱却する事こそ、求められている」のだ。
 あるいは、「ぬるま湯の中でほろ酔い加減になって自分をごまかすことはやめよう。湯の外は寒くて厳しい」のだ、「現実政治の中で、国家として当然の試練を受け入れることこそ戦後体制からの脱却と言える」のだ。
 軍隊を保持すれば戦死者が生じるかもしれない。しかし、国家が偽善者のままでいるよりは、-単純に死者の数によって優劣を判断するつもりはないが-失われた尊い兵士の生命に真摯に哀悼を捧げる(シャキッとした、骨格のある)社会になって、親子間の殺害、少年男女のいじめによるものも含めた自殺等の死者が激減すれば、その方が遙かによいではないか。
 「一人の自衛官の戦死者も出さ」なかった代わりに、戦後の日本社会は無駄な又は無為な死者をむしろ多数生んできたのではないだろうか(親子間の殺害の犠牲者、いじめによる自殺者等の他に少年による集団リンチの犠牲者となったホームレスの人もいた筈だ)。
 だが、上に語られているような<覚悟>を日本人の多くがすでにしているとは考えられない。私も同旨のことを書いたことがあるが、森本も「現時点でこうした〔自衛軍を設置する〕憲法改正案が国民投票によって否定される可能性は高いと思わざるを得ない」と書く。
 朝日新聞の論陣の張り方や朝日の読者の多さ等々を考慮すると、九条二項改正による軍隊の正規容認が容易になされるとは思われない。朝日新聞等の他に、日本共産党、社会民主党は必死の抵抗を試みるだろう。
 しかるに、九条二項改憲の側の運動が活発になされているという印象は私にはない。
 むろんまだ三年はあり、いずれは日本の進むべき方途が明確になるだろう。それまで、国論の大分裂のままで、緊張した月日が続くだろう(かかる観点からは、日本と同一状況にあるのではないが、フランス大統領選の53%対47%という数字は興味深かった。勝者は敗者の1.13倍しか得票していない。私には大接戦に思える)。
 それにしても、九条二項改正に反対の人びとはいったい日本をどのような国家にしたいのか、日本社会をどのようにしたいのか、よく分からない。
 日本共産党や社民党の党員たちは論外だが、客観的には彼らと「共闘」して九条の会に集ったり、安倍首相をヒドい言葉で批判し罵倒し続けている人びとは、いったい何を目指しているのだろうか。よく分からない。
 あえて想像し、かつあえて挑発的に書いておけば、戦争や軍隊のことを考えもせず(客観的には米国の核兵器の付いた日米安保体制のもとで)、ぬくぬくと、ある程度の豊かさと安全と個人的趣味に当てられる時間を確保しながら、適当に為政者の悪口を自由に言うこともできる生活を<保守>したいだけではないのか
 国家・公共についての理想など持っておらず、ただ、個人的な小さな幸福をめざした、それなりに安逸で気侭な日々を失いたくないだけではないのか
 朝日新聞となると、それ以外の目的も加わる。権力を批判し弱者の立場に立って<正義づら>をするという、格好のよい、インテリ的立場(もちろん彼らは高収入でもある)というものを守りたいだけではないのか。口先だけで空想的な偽善的言葉を吐いて、そういうスタンスのままでやはりヌクヌクと生きていきたいのだろう(「口舌の徒」という語がぴったりだ)。
 私の推測では、九条二項改正反対派の者たちの方が改憲派の人びとよりも高い収入や地位など「守りたい」ものを多く持っていそうな気がする。彼らは戦後の歴史の中で獲得してきたそれらを<保守>したいのだ。自分自身の個人的な利益のために、将来の予想がし難い<変化>を怖れているのだ
 九条二項改正反対派の人たちは、かかる推測に(もっと上で書いたことを含む)どう反論するだろうか。
 ここで<保守主義>とは何かが、私には気になる問題として登場してくる。
 すなわち、<戦後民主主義>・上で簡単に触れられている<戦後的平和>・<戦後的個人主義>はすでにある程度は、日本の伝統・歴史・精神にしっかりとなってしまっているのではないのか
 そして<保守主義>を説くことは、これらを<保守する>ことに反対することにはならないのではないか。
 結局、<戦後体制>の意味や<保守>の対象の問題に帰一する。
 <戦後的価値>という言葉を使っておくと、もはやこれを100%否定することはできないだろう。安倍首相もそこまでは考えていないはずだ。ただ、<戦後的価値>を今後もずっと維持したいという立場と<戦後的価値>の中には問題・欠点が明らかになってきたものもあるのでそれを是正する(その意味で<戦後的価値>を修正する、又は「戦後体制からの脱却」をする)必要があるとする立場が対立しうる。現在見られる対立は、このように説明又は表現できるかもしれない。
 だが、ここでも、<戦後的価値>とは何か、是正・修正すべき<戦後的価値>とは何かという問題がつきまとう。
 表面的な非難・批判合戦に終わらせるのではなく、本当は、上に抽象的に述べた問題について、言葉の意味を明確にさせながら、かつ具体的な論点に即して、対話あるいは対論がきちんとなされるべきだろう。
 だが、どうやら大分裂したままで最後の<勝負>の場に直面してしまうような気もする。日本人は、日本民族は、本当はもう少し<叡智>を持っている筈なのだが…。

0148/産経5/15・志方俊之「護憲派の不思議な論理を笑う」。

 産経5/15の志方俊之「正論/護憲派の不思議な論理を笑う」は、ほとんど異論なく読める。
 「護憲派」の奇妙な意識につき、例えば、こう指摘している。
 1.「護憲派の多くは日米防衛協力に反対で、米国離れの自主的な日本をと主張しているのだが、自主憲法を唱えることだけは御法度だというのだから笑止千万」だ。
 2.「護憲派の多くは、自主を標榜しながら、米国の核の傘を万全と信ずる不思議な思考の持ち主」だ。
 3.「護憲派の多くは核の問題となると核廃絶を唱えて現実から逃避するのが常である」。
 要するに、「護憲派の多く」は自分たちを含む日本国民の「安全」と東アジアの「平和」が、米国の<核の傘>付きの日米同盟によって辛うじて守られているという現実を知らないか、知ろうとしていないのだ。
 そして、志方の言うとおり、「米国の核の傘を否定するならば、残る選択肢は(1)核には目を瞑(つむ)って国民を無防備の危険に曝(さら)しておく(2)中国かロシアの核の傘に入る(3)独自の核を持つ-の3つで、いずれも非現実的だ」、ということになるものと思われる。
 志方はこれまでの自民党も批判しており、正当だ。
 「与党だった自民党も怠慢に過ぎた。自民党は改憲の遅れを説明するのに、まず「時機が熟さない」といい、次に「解釈で実は得ている」といい、党を挙げて憲法改正の機を熟させる努力をしてこなかった」。「自民党は憲法には交戦権を有しないとしてあるから「自衛隊は軍隊ではない」と言ってきた」。
 そして、つぎの言葉は、憲法(九条二項)改正の必要性をずばり衝くものだ。-「国民の目にも近隣諸国民の目にも、誰が見ても自衛隊は軍隊そのものではないのか。軍隊が軍隊であることが悪いのではない。悪いのは軍隊を軍隊ではないと言いくるめることであって、国際社会はそんな変な国を国連安保理の常任理事国に推すとは到底思えない」。
 志方は米国を無条件に信頼することの不可、日本の自主的な防衛努力の必要性も指摘している。
 「日米同盟は「かけがえがない」といっても、米国が自国の国益を最優先に考えて幾つかの戦略的・戦術的な対応を取ることは、当然で何の不思議もない。/
わが国が米国の国益を守るために諸肌を脱がないのと同じだ。国益がほぼ合致したときにのみ同盟は力を発揮するのであって、それが同盟の限界であり国際政治の現実だ」。
 「わが国は…自らは何ら核に対する備えを行ってこなかった。非核三原則を堅持し、敵地攻撃能力の整備も進めず、最近ようやくミサイル防衛の配備と集団的自衛権行使の再検討に着手したに過ぎない。
核の傘があっても、直ちに核によって反撃されることの実効性が不確かな場合もあり、信頼度を高めるため多方面での努力を惜しむべきではない。非核三原則を二原則にするとともに、早急に弾道ミサイル早期警戒能力や敵地攻撃能力の整備は急ぐべきだ」。
 分解しての紹介だけになったが、「まっとう」な主張だと思う。


0143/日本に「軍隊」があれば、北朝鮮の日本人「拉致」はどうなっていたか。

 月刊雑誌・正論6月号(産経)の荒木和博「なぜ拉致被害者救出に自衛隊を投入しない!」(p.144-)を読んで、この中には書かれていないが、こんなことをふと考えた。
 憲法九条の存在によって日本の平和は守られたなどとの愚劣な言を吐く人がいる。しかし、真の事態は逆であり、憲法九条二項によって、日本が正規の「軍隊」をもちえなかったからこそ、北朝鮮当局による日本人拉致という<侵略>を許してしまったのではないか
 荒木は上の一文の中で「北朝鮮による拉致は戦争である」を見出しの一つにしている。そのとおり、北朝鮮にとっては日本人の拉致はかりに散発的であっても軍事行動の一つであり、<侵略>であり、対日<戦争>そのものの一部なのではなかろうか。
 しかるに、政府も拉致をテロとか主権侵害とか言っているが、日本国内から容易に日本国民が実力行使によって<さらわれる>という事態を、日本の防衛問題、安全保障問題の一つと考える思考が些か弱いのではなかろうか。
 北朝鮮の工作員たちが一様に言うのは、日本ほど<侵入>しやすい国はない、ということらしい(むろん不法入国である)。
 荒木は、日本の海岸に突如外国の軍隊が上陸してその地域一を占領し、住民を殺傷し又は拘束して人質にした仮定した場合、「まず敵を制圧して、国民の生命財産と領土を保全」しなければならないが、「警察には許されない」、「軍隊であればこそ許される」と書いている(このあたりは「日本国憲法2.0開発部」とやらの人々に読んでほしいものだ)。
 実際の北朝鮮による日本人拉致は上のような軍事行動よりは小規模だが、不法上陸・日本国民の人身略奪であることに変わりはない。いつぞや北朝鮮の「不審船」が日本の領海内で逃走しつつ自爆して沈下したのち引き揚げたら、相当の重装備の船だった筈だ。拉致被害者を運んだ船も当然に何らかの「武器」で装備されていただろう。
 日本人の拉致に対して、自衛隊が何をしてきたのか、何をできるのか、に関する詳細な知識はない。自衛隊ではなく正式に憲法上も認知された<海軍>・<陸軍>・<空軍>があれば何ができたのかを詳細・正確に述べる能力もない。
 しかし、正規に「軍隊」を持っていれば、あれほど簡単に侵入を許し、女子中学生を含む日本国民が<略奪>されることはなかったのでないか。
 むろん、「軍隊」の行動規範は基本的には法律によって定められるだろうから、「軍隊」という呼称のみから具体的な結論を導くことはできない。
 上のことは承知で再び言うのだが、九条二項によって正規の「軍隊」扱いされない自衛隊があり、<専守防衛>という(相手が明確に攻撃するまで何もするなという)安保政策をとっていたからこそ、北朝鮮の日本人拉致が生じ、少なくとも、被害者の数は増えたのではなかろうか。
 継続的に「軍隊」が領海上を監視し、場合によっては領海内の「不審船」を堂々と攻撃できるような法制であれば、北朝鮮当局も日本人拉致にはより警戒的、より消極的になったのではなかろうか。
 憲法九条二項があるがゆえに、つまりは50年代又は60年代に憲法が改正されて「国軍」・「防衛軍」が正規に誕生するということが無かったがゆえに、北朝鮮による日本人拉致が起きた、と単純化するつもりはない。
 だが、とっくに日本が正規の「軍隊」を持ち、安全保障(「拉致」阻止を当然に含む)に関する政治家や国民の意識が実際とは異なっていれば、70年代以降の日本人「拉致」もまた、その様相は実際に起きたのとは異なっていた、と間違いなく言えるのではないか、と思う。

0073/幼稚かつ論理矛盾を含む「軍備放棄徹底化」憲法改正案と遊んでみた。

 「夢想」で終わればいいのだが、仮の話として、日本がつぎのような状態になったら、どういう事態が起きるだろうか。
 第一に、「軍隊、自衛隊またはこれらに類する武力保持部隊」を保有しなくなる。これは現実的には、現在の自衛隊、および防衛省がなくなることを意味する。なお、すでに上のことの意味に含有されることだが、「軍隊、自衛隊」等が「民間または外国民」によって構成されることもありえなくなる。すなわち、「民間または外国民による軍事力の保持」や「民間、外国民または無国籍者への軍事の委託」もできない。
 第二に、「国連により決議され構成された国連軍」を除いて、「外国の軍隊、軍事設備および武器弾薬の、領海、領空を含む日本国内への移動および設置」が禁止される。これは現実的には、現在の日米安保条約が廃棄され、米軍の日本国内(領海・領空を含む)への駐留がなくなることを意味する。米国による日本の「安全保障」の義務などはいかなる意味であれ、一切なくなる。
 じつは、以上のことは「日本国憲法2.0開発部」なるものが構想している日本国憲法改正案の一部が本当に憲法の一部になってしまえば生じることだ。
 現憲法のもとで、自衛隊や米軍という軍隊の日本駐留が9条2項に違反しないか、という解釈問題があり、一部にはいずれも違憲とする下級審判決もあるようなのだが、上による「新」憲法のもとでは、解釈の問題は生じない。憲法条項の明文に違反して、明らかに違憲だ。かりにこのように改正されれば、すみやかに自衛隊・防衛省を解体させ、日米安保条約(および付随の協定等)を廃棄し、在日米軍を「追い出す」必要がある。
 それでは、現憲法でも理念的には否定されていないと解釈されている「自衛権」、日本という国家と日本国民を外国(の軍隊)からの攻撃あるいは「侵略」から守るための、国家に固有の権利とされる権利とその行使はどうなるのだろうか。
 上の第一点ですでに明らかではある。「軍隊、自衛隊またはこれらに類する武力保持部隊」を保持しないのだから、少なくとも「武力保持部隊」による「自衛」又は「防衛」はありえない。
 念のためにか、意味が重複している部分があるとは思うが、上の「2.0」は、「日本は、戦争およびテロを、理由と形態にかかわらず行ってはならない」と書き、さらに次のようにも明瞭に書く。「たとえ、自衛、集団自衛、共同防衛、先制攻撃、先制防御、外国への協力、外国からの協力要請、外国の治安維持、多国籍軍、国連平和維持活動、国連平和維持軍、抑止、報復、対抗、懲罰、局所的事態、緊急事態または人道支援等という名分をもっても、次の各号を直接または間接に行ってはならない。/1 戦争またはテロとしての武力行使/2 武力による威嚇/3 戦争のための役務/物資、武器、資材、弾薬、燃料、食料、飲料、日用品または医薬品の提供、補給または運搬/4 戦争のための情報処理および通信/5 その他戦争の後方支援に属する活動」。
 要するに、「自衛」のためであっても一切禁止されるのだ(「戦争」のためなら日用品等の運搬も後方支援も一切禁止される」)。
 ということは、外国(の軍隊)による攻撃あるいは「侵略」から守るための日本国家の措置は全て禁止されることになる、と言ってよい。残るのは、国家によるとはいえない、国民個人個人による「自衛」又は「防衛」のみが許されることになりそうだ。だが、原則として銃砲刀剣類の所持すら禁止されている国民が(この点を法律改正すれば多少は異なるかもしれないが)、はたして自分や家族の生命を守るためにどれだけの「自衛」措置を採れるだろうか。
 もっとも、「武力保持部隊」の中に、あるいは「武力行使」の中に、<警察>組織あるいは同組織の実力行使は含まれないと解釈できれば、<警察>組織にある程度は頼ることができそうでもある。
 そして、上の「2.0」もこう書く-「外国からの武力攻撃またはテロが生じたとき、国民を守る専管機構は、警察である。警察は、領空、領海を含む国内でのみ、犯罪者または攻撃勢力を鎮圧することができる」。
 「鎮圧する」するためには何らかの実力行使が必要だと通常は(常識的には)考えられる。しかし、「2.0」によれば「武力保持部隊」・「武力行使」はいかなる目的でも一切禁止されるのだから、「鎮圧する」するための組織と実力行使は「武力保持部隊」・「武力行使」ではない、と<解釈>されることになるのだろう(このあたりにすでに「2.0」の頭の中の破綻が表れているのだが、次に進む)。
 そして、「2.0」は念を入れて、「警察を、憲法の禁止している軍隊にしてはならない」とする(ここで、「軍隊」のみが記載されているのは「軍隊、自衛隊またはこれらに類する武力保持部隊」の保持の禁止と齟齬しており、本当は、「警察を、憲法の禁止している軍隊、自衛隊またはこれらに類する武力保持部隊にしてはならない」と書いてこそ論理一貫するはずなのだが、こう書かない点にも、「2.0」の頭の中の曖昧さと綻びが見られる)。さらには、「警察は、領空、領海を含む国内でのみ、犯罪者または攻撃勢力を鎮圧することができる」とされる。つまり「鎮圧する」するための実力行使も国内でのみ許され、日本「国民が外国において犯罪、テロまたは戦争により危険な状態になった場合の救助」も「当事国または国連と協力して」行うのであり、かつ「外国軍隊、外国警察」等々のための「護身用武器を使用することは禁止」される。言ってみれば、外国滞在の日本国民の保護のために実力行使が必要であっても外国の軍隊・警察任せであり、その外国の組織員が危険になっても自らのための「護身用武器」使用して助けてすらもいけない、というわけだ。
 この「2.0」については過日すでに触れて、「単純・素朴・幼稚かつ狂気の教条的平和主義」とのみ簡単に評したのだが、改めてそのときよりはじっくりと条文を読んで見ても、「狂気」に充ち満ちている。
 それはともかく、冒頭に書いたことに戻って、かかる「新」憲法になって上述のような状態になり、「警察」の役割も上述のとおりだとすると、どういう事態が起きるだろうか。
 端的にいえば、外国(どことは書かないが、二又は三国を現実的に想定できる)による日本の軍事占領であり(その直前の政権は解体・崩壊する)、その後の、当該外国の「軍事力」の脅しを受けての所謂「傀儡」日本政権の誕生か、日本の当該外国の一部化(「併合」と称するのかもしれない)。後者の二つが日本の地域によって分かれて、一部は直接に某外国の領土の一部に、残り一部は「日本」国という名だけは残した某外国の事実上の属国に、ということも考えられる。
 日本国内に「軍隊、自衛隊またはこれらに類する武力保持部隊」が友好的外国のそれも含めて一切なくなって、このような事態が生じるだろうということを想定できないというのは、すでにそれ自体が「狂っている」と思う。丸裸・丸腰になった、こんな豊かな、インフラの整備された、秀れた工場等も沢山ある国をどの外国も「狙う」ことなどありえない、と本当に考えているとすれば、あるいは、日本(と米国)だけが「軍国主義」化の危険があり、近辺の諸外国は「平和愛好」国で軍事力を日本に対して行使するはずはないと考えているとすれば-戦後教育の、又は従来の「社会主義」宣伝の成果かもしれないが-、幼稚で、莫迦、としか言い様がない。
 手元に情報資料はないが、中川昭一・自民党政調会長は現に、将来某外国の属国又は属州になってしまう可能性に言及している。そしてそれは決して荒唐無稽なことではない、と考えられる。ときどき日本の「軍国主義」化を非難している某外国は、戦後の建国後に、ソ連ともベトナムともインドとも「戦争」を実際に行った(チベット「侵略」、フィリピンとも関係する南沙諸島の「軍事力」による「実効支配」化という事実もある)。別の某国は、もう50年以上前だが、「統一」を目指して別の国家に先に「侵入」して「戦争」を始めた。両国ともに日本より遙かに「軍事」を重視している国家だ。
 現実を直視できず、外国の「脅威」を言い立てたら本当に「脅威」になってしまうと考えるが如き平和教「言霊」主義者かもしれない人々は、もう少し現実的・建設的な方向に頭のエネルギーを使った方がよろしいだろう。
 という程度で、「絵空事」の案に付き合って「頭の体操」を少しして、もう無意味なおつきあいはやめようと思ったのだが、もう一度「2.0」のサイトに入って見ると、こんな文章があった。
 「近隣諸国が攻撃してくる可能性があるのに国が無防備でいるわけにもいかないでしょう、という意見があります。/まあ警察や海上保安庁があるのですから、領土侵犯、テロ、武力攻撃を国内で鎮圧したり、飛来するミサイルやテロ予防の対策をとる位は憲法に書かなくても任務のうちでしょう」。
 本当に狂っているか、本当の莫迦ではないか。「2.0」の改正案は、「軍隊、自衛隊またはこれらに類する武力保持部隊」に含まれない警察(・海上保安庁)の、「武力行使」とはいえない国内での実力行使のみを許容している。「自衛」のためでもこれ以外は許していないのだ。
 しかるに、「領土侵犯、テロ、武力攻撃」や「飛来するミサイルやテロ予防」のための実力行使は一切、上の例外的な実力行使に含まれない「武力行使」になることはあり得ない、とでも言うつもりだろうか。言葉の常識的な使い方だと、「飛来するミサイル」への対処、例えば迎撃は、「軍隊」又は少なくとも「武力保持部隊」がすることであり、自衛のためとはいえ「武力行使」だ。それでも、「軍隊」等の「武力保持部隊」による「武力行使」にならないと言い張るなら、それは要するに、(正式の)「軍隊」等の「言葉」・「概念」を絶対に使いたくないだけのことで、実質・本質に変わりはない。
 (この「軍隊」等の概念に関係する問題は、現憲法9条2項に即していえば、同項で目的を問わず保持が禁止される(と所謂芦田修正語句に限定的な法的意味を与えない多数説や政府が採っている「戦力」に「自衛隊」は含まれず、「自衛隊」の存在は合憲だ、との憲法解釈の微妙さ・苦しさ、人によれば、「大ウソ」(だから改正すべき、につながる)に似ている。ここでは、現憲法の解釈の問題にはこれ以上は立ち入らない)。
 「まあ警察や海上保安庁があるのですから、領土侵犯、テロ、武力攻撃を国内で鎮圧したり、飛来するミサイルやテロ予防の対策をとる位は憲法に書かなくても…」と書いた時点で、「2.0」の案は完璧に破綻している。「飛来するミサイル」の迎撃は「軍隊」等の「武力保持部隊」による「武力行使」に該当するのでそれも禁止する(着弾し被害が出るままにする)、というのでないと、「教条的平和」憲法としてすら、一貫していないのだ。お解りかな?
 「北朝鮮の特殊部隊が壱岐や対馬を占領するというケースが考えられます。/その場合現地警察だけでは防衛は無理で、空軍力、海軍力による敵補給の阻止、そして制海権を保持し、地上軍による奪回作戦が必要になります。/それを警察でやることができますか?/それだけの軍事力を警察に持たせるということでしょうか」との質問に対して、肯定の回答をし、「軍拡論よりよいのは、他国を攻めるような余計な軍備や軍人をもたないことです」なんて書いているようではダメだ。目的を問わず禁止しているはずの「軍事力」あるいは「武力行使」を警察が持つことを認めてしまっている
 また、細かすぎる憲法案を作っておいて、かかる重要なことを「まあ…をとる位は憲法に書かなくても…」とのたまうとは、呆れてしまう。
 他にも、ボロボロと妙なことを書いている。全てを挙げないが、例えば、「軍拡憲法によって軍隊が過度に強化されてしまう方が、国中に軍備や軍人が溢れかえることになり、それが国民に向かってこないかむしろ心配です」。このグループは日本の軍事力が日本「国民」に向けられることを懸念している。「軍隊は(市民の)敵だ」との、もう消失したかと思っていた考え方が心底には残っているようだ。
 また、「宗教、宗派、人種、国籍などによる偏見を排除した公明正大な活動を日本が行えば、日本が狙われることはより減る」、「日本は国として「良心的兵役拒否」をし、国連に守ってもらう」なんていうのは、少なくとも現時点では、幼稚な願望で、現実的ではない。
 長くなったが、最後に、この「2.0」グループはどういう人たちなのだろう。
 「(平和・)無防備地域条例」制定運動をしている非・又は反・日本共産党の(と思われる)「左翼」の人たちがいるが、この国連憲章上の「地域」に何ら言及していないことからすると、この運動とは無関係のようだ。
 また、日本共産党党員又は少なくとも同党系の日本史学者・大江志乃夫の本を推薦しているところからすると、日本共産党員又はそのシンパで法学部出身の、かつ「ヒマ」な人々かもしれない。さらに、学生時代に「平和憲法」教育に熱心だった法学部の憲法学教授(又は大学によっては「平和学」教授)の元ゼミ生たちが、その教授の指導・示唆を受けて「趣味的」に作業しているのかもしれない(日本共産党系というのと矛盾はしない)。
 改正案の内容はもういいが、背景にだけは関心をまだ持っておこう。

0045/集団自衛権行使ー憲法九条にかかわる内閣見解こそ変更すべきではないのか。

 潮匡人・憲法九条は諸悪の根源(PHP)は集団自衛権行使否認の不都合な例を先日紹介した以外にいくつか挙げている。
 一つは、テロ対策特別措置法による活動の場合だ。  この法律にもとづき海上自衛隊はインド洋に補給艦・護衛艦を派遣し、多国籍軍の何百という艦船に燃料を補給していて、飛行しながらの高い技量を要する補給活動は諸外国から高い評価を受けているらしいのだが、インド洋上で「戦闘行為」が発生した場合、日本の海上自衛隊は補給活動はむろん直ちに中止し、避難する等をして「危険を回避」することになっている、という。「戦闘行為」になり<味方の>多国籍軍のいずれかが攻撃を受けても援助攻撃をすることはできず、戦闘する多国籍軍を尻目に「逃げて帰るのは日の丸を掲げた海上自衛隊だけである」(p.81-83)。これはテロ対策特別措置法がイラク特別措置法と同様に自衛隊の活動を「武力による威嚇又は武力の行使に当たるものではあってはならない」と定めているからであり、その背景には、自国を守るためだけの最小限の武力行使しか許されないとの憲法九条の解釈がある。
 安倍内閣は現在、集団自衛権行使に関する個別事例の検討をする予定で(4/06読売にも出ている)、先日触れた1.同盟国を攻撃する弾道ミサイル、上に記したような2.海上自衛隊と並走する艦船が攻撃された場合、等が含まれる。但し、これらの場合に正面から集団自衛権行使を認めるのではなく、「警察権」の行使とか、海上での同盟国の「戦闘行為」が正当防衛的な場合は海上自衛隊の反撃も「本格的な自衛権」の行使とまではいえず、従って集団自衛権に該当しない、とかの解釈又は理屈を考えているようだ(上の読売の記事による。イザ記事にはこの点は明確には書かれていない)。
 潮匡人は月刊正論5月号(産経)で、安倍首相の本・美しい国へ(文春新書、2006)の中で、安倍が上の2.のような事例には集団自衛権が行使できないので「自衛隊はその場から立ち去らなければならない」と書いて集団自衛権の問題と捉えていることを示して、<集団自衛権の行使ではなく~に該当するので反撃可能>というような解釈又は理屈を採用することを予め批判している。
 憲法九条二項の改正によって自衛隊が正規の軍隊になれば恐らく、米国との関係でも多国籍軍との関係でも対等な軍隊となり集団自衛権行使も当然に可能なのだろう。問題は憲法改正前に、米国や多国籍軍のいずれかが攻撃を受けた場合に「拱手傍観」して放置又は逃げ去るべきなのか、だ。
 潮匡人の方に説得力があると思うが、内閣・行政権としての連続性というのは、実務上いかほどに重たいものなのか、よく判らない。

0040/PAC3・SM3の配備とマスコミ報道・集団自衛権行使不能問題。

 日本人の軍事オンチぶり、軍事知識の少なさは、私も含めてきっと著しいだろう。何の教育も受けていないのだ。
 読売3/23の「核の脅威」連載記事中に航空自衛隊入間基地のPAC2の写真が出ていて、「PAC2では弾頭ミサイルの迎撃は困難だ」とコメントされていたが、産経3/30によると、同基地にPAC3が日本で初めて、2基配備された。これは首都圏防衛用で1基に最大16発のミサイル搭載可能で北朝鮮から日本に発射されたミサイルを迎撃できる(100%の確度ではないと思うが)。2010年までに滋賀県・饗庭野、三重県・白山等(埼玉県・入間以外に)全国で10カ所に計30基配備の予定だという。また、それまでに海上自衛隊が既に保有するイージス艦4隻に、SM3(海上配備型迎撃ミサイル)が配備されるらしい。
 一つ感じるのは、このPAC3(地対空誘導パトリオット)が日本に初めて配備され、日本の「ミサイル防衛」態勢が漸くスタートし始めたことについて、重要なニュースだと思うが、マスコミはどれだけ大きく報道したかだ。とくにテレビは、NHKも含めて、映像を流してきちんと報道したのだろうか(放送局が撮影し放映できる範囲のことくらいは中国・北朝鮮も知っている筈で、国家機密を暴露するわけではないだろう)。
 もう一つ感じるのは、次に記すこととやや強引に関係させるが、これらPAC3やSM3は米国に向けて発射されたミサイルを迎撃できるかどうかだ。
 この問題は、法的・政治的には、所謂「集団的自衛権」行使の是非の問題になる。安倍首相は再検討の方向を示しているが、これまでの内閣は、国連憲章上も「集団的自衛権」は有していても(自国の最小限度の防衛力のみを許容しているとの解釈を前提として)憲法九条の趣旨に反し、行使できない、という立場を採ってきた。米国からすれば、日本が「同盟」国だとすれば何とcrazyな、ということになっても不思議ではない。 
 潮匡人・憲法九条は諸悪の根源(PHP、2007.04)p.16以下は、この「集団的自衛権」行使不可能論、その前提の憲法九条解釈を批判して、刑法上の「正当防衛」は他人に対する急迫不正の危険の場合でも認められるのに、米国や台湾のために日本の防衛力を行使できないのは自分勝手で、反倫理的・反道徳的等々と述べている。
 なお、同書から、集団的自衛権行使不能との政府見解を引用しておく。-「我が国が国際法上、国連憲章第51条による個別的自衛権及び集団的自衛権を有していることは疑いないが、我が憲法の下で認められる自衛権の行使は、我が国に対する急迫不正な侵害に対しこれを排除するためとられる必要最小限の範囲のものであるから、個別的自衛権の行使に限られる。すなわち、集団的自衛権の行使は憲法上許されない」。
 ところが、北朝鮮による場合を想定すると(中国の場合でも同様だろうが)、対日本ミサイルと対米国ミサイルとでは発射角度・飛行高度が異なり、現在予定されているSM3では「高高度まで届かず、撃墜できない」のだという。法的又は政治的に集団自衛権行使可能の立場に変えても、現時点では(対台湾は別として)対米国については軍事技術的に行使不可能なのだ。こんな事実または情報を、マスコミはきちんと国民に報道しているのだろうか。
 集団的自衛権行使否認は憲法上書かれているわけではなく、憲法の「趣旨」をどう解釈するかによるのだから、内閣は随時、基礎となっている内閣法制局見解を変更できることは言うまでもない。この集団的自衛権行使問題にも、また言及することがあるだろう。

0025/潮匡人、産経上で「現実的平和」を支えたのは日米同盟と呉智英を正しく批判。

 3/21に憲法九条が経済的繁栄を支えた等々の呉智英の謬見を批判した。産経新聞3/28の同じ「断」というコラムで、今回は潮匡人が呉智英をきちんと簡潔に批判している。
 いわく-「『現実的平和』を支えてきたのは九条ではなく日米同盟である。『間違いなく』自衛隊と米軍の抑止力である」。かかる「功利的」観点からも「断固、九条は擁護できない」。
 このとおりだ。九条があったおかげで戦争に巻き込まれなくて済んだとか、軍事費に金をかけなかったおかげで経済活動に集中できた、とかの耳に入りやすい俗論はきっぱりと排斥する必要がある。
 潮匡人の本はじつは読んだことがない(たぶん。雑誌中ならある)。彼が最近、憲法九条は諸悪の根源(PHP)との本を出したらしいので、是非読んでみよう。新聞広告によると、吉永小百合批判も含まれているようで、その内容にも興味がある。

0014/一面で大きく-PAC3の配備。

 この記事は、産経新聞では朝刊11面の右上に出ている。埼玉県の入間基地に3/29にPAC3が配備されること、SM3(海上配備型迎撃ミサイル)なるものの配備も進めて2010年までに(北朝鮮等からのミサイル攻撃への)迎撃態勢を整える予定であること、といったことも含めて、国防の基本にかかわることで、第一面に配置してもいいのではないか。軍事に関する知識について威張れる私ではないが、軍事技術の詳細はともかく、「自衛隊」や米軍の基本的な動きくらいは、多くの国民が一般的知識として共有すべきものと思う。
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