秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

マスコミ

1247/日本評論社・法律時報という「容共」・「護憲」雑誌。

 現物を手にしていないが、別の某雑誌に載っている広告によると、日本評論社という出版社発行の専門分野の雑誌らしき「法律時報」の編集部は、法律時報編集部編・「憲法改正論」を論じる(法律時報増刊)という書物(又は雑誌の特別号)を刊行している。そして、広告に謳われた惹き文章は次のとおりだ。
 安倍政権下で進行している『憲法改正』論に警鐘を鳴らし、理論的な対抗軸を示す。憲法学はもとより、隣接領域や諸外国からの知見をも盛り込む」。
 この日本評論社がかつて1970年代に<マルクス主義法学講座>という講座もの、たぶん全8巻程度、を刊行していたことはこの欄ですでに何度か触れた。その際に触れたかどうかは忘れたが、そのときの同講座の編集担当者だった林克行は、のちに同社の社長になった。「左翼」性の明らかな浦部法穂および辻村みよ子の憲法(学)教科書は日本評論社から発行されている。上記の法律時報編集部編・「憲法改正論」を論じるを含む広告欄の隣に掲載されている同社刊行の書物のタイトルは、家永三郎生誕一〇〇年で、誕生100年記念実行委員会編だから、家永三郎に批判的な本であるはずはない。
 日本評論社には、少なくともかつて、家永三郎の子息も勤務していた。
 家永三郎に関する書物の隣で広告されているのは、樋口陽一・森英樹・辻村みよ子ら編の国家・自由・再論、だ。
 したがって、この出版社発行の雑誌編集部が「『憲法改正』論に警鐘を鳴らし、理論的な対抗軸を示す」ことを図ることは当然かもしれないし、そのことをここで批判するつもりもない。改憲派の雑誌もあるし、護憲(又は憲法改悪阻止)派の雑誌もある。
 だが、朝日新聞社や岩波書店以外に、明確に憲法改正反対の方針をもつ法学関係の雑誌、そして出版社があることは広く知られておいてよいと思われる。いつか触れたが、日本共産党系又は親日本共産党の(当然に日本共産党員学者を含む)「民主主義科学協会法律部会」(民科・みんか)という学会の機関誌を発行しているのも、この日本評論社だ。
 関西系のテレビで夕方に「反安倍」の立場でコメントしていて今春頃に降りた(その理由は知らない)森田実は東京大学学生時代に日本共産党→ブントの活動家だったはずだ。
 森田実は、ネット情報によると2007年5月の自著出版記念会で、こう挨拶している。「来る7月22日の参院選を、日本国民が過去を反省し、国民の多数が誤った政治を支持してきたという過去の過ちを正し、再出発する日にしたい」、「そのためには、日本国民が安倍自公連立政権の側に立つ政治家を拒否すること、安倍自公連立政権の対極に立つ野党(民主党、社民党、国民新党)の候補者を当選させることが必要である」。
 そして、この会に出版社社長の中でただ一人メッセージを寄せたのは、日本評論社社長・林克行だった。
 どうやら、森田実は、少なくとも一時期、日本評論社で働いていたようだ。
 このような「政治的」立場の明確な出版社であることを知ってこの社から本を出している者もいるだろうし、また法学界には、日本評論社的な<親共、反・反共>の者が多いのかもしれない。
 だがもちろん、このような立場・考え方が<親中国・親北朝鮮>のそれでもあることを、とくに定見もなくこの出版社から本を出したり、この社の雑誌に執筆している(脳天気な)者たちは知らなければならない。

1235/「左翼」メディアと特定秘密保護法-月刊WiLL2月号。

 〇別冊正論Exttra20(2013.12、産経新聞社)が「NHKよ、そんなに日本が憎いのか」と題する一冊丸ごとNHK批判の雑誌を出し、月刊WiLL2月号(ワック)も櫻井よしこと高池勝彦の対談「NHK偏向報道判決と秘密保護法」などを掲載している。
 上の対談の中で櫻井は、「NHKや朝日新聞」ととくに名指ししたうえで、秘密保護法反対の煽り方は「もはや報道機関ではなく運動体であり、新聞はプロパガンダ・ペーパーと化している」と述べ、高池は「秘密保護法反対派は『言論の自由』や『知る権利』が制限されると言いますが、では報道機関は本当に国民の権利に応えてきたのか」と、正当な疑問を示している。
 〇NHK固有の問題は別にまた触れるとして、秘密保護法とNHKを含むメディアとの問題については、月刊WiLL2月号の表表紙には記載されていない、つぎの二つの小稿が興味深かった。
 西村幸祐の連載コラムの今回の「加速する報道テロの防止策」は、「鳩山政権で九回、菅政権で八回、野田政権で四回の強行採決があった」し、2010年の公務員国籍条項削除の国家公務員法改正案の強行採決の際には「三宅雪子の転倒演技に」報道を集中させ、法案の危険性や強行採決の問題性もが当時のメディアは問題にしなかった、しかるに……、と説く。朝日新聞等の「左翼」メディアが民主党政権時と自民党等の安倍政権時ではまるで異なる報道姿勢をとっていることを気づかせてくれる。<審議が十分でない。なぜ急ぐのか>というキャンペーンはある程度は効を奏したようで、これを肯定する世論調査結果もあったと思われる。しかし、上の民主党政権時の「強行採決」の回数は知らなかった。朝日新聞等のメディアは、その当時、強行採決を「多数の暴挙」等々と厳しく批判したのか。
 <ご都合主義>、<ダブル・スタンダード>の、朝日新聞を中心とする「左翼」メディア。「プロパガンダ」団体であり、政治団体であることはますます明確になってきている。
 上の一文と同じことをまた書かなければならないが、門田隆将の連載コラムの今回の「『秘密保護法』と『人権擁護法』どちらが怖い」は、(国会に上程までされたかは確認していないが)2012年9月に野田内閣が人権擁護法案(人権委員会設置案)を閣議決定したとき、強大な権限をもつ「人権委員会」が「人権擁護」の名のもとに「裁判所の令状なしでジャーナリストたちに『出頭命令』や『家宅捜索』、『押収』等をできることにメディアは反対しなかった、しかるに……、と書く。
 鳥越俊太郎、金平茂紀らは昨年に人権擁護法案に反対する運動をし、記者会見等をしたのか。現役の放送会社員・TBSの金平茂紀も含めて<政治活動家>であることははっきりしているから、もはや驚きはしないのだが。
 <ご都合主義>、<ダブル・スタンダード>の意識の一片もなく、真面目に(安倍内閣提出の)特定秘密保護法案には反対したのだとすれば、これらのメディアの人々の「神経」を疑うし、そのような人々が平然とテレビ画面に出てくる現実に恐怖を覚える。
 なお、上の西村幸祐のものを読んで、前回に記した「朝日新聞」の<犯罪>の中に、2005年1-2月の、安倍晋三・中川昭一の政治的生命を奪おうとする、<女性戦犯法廷放映政治家圧力>事件も加えておくべきだった、と思い出した。朝日新聞の本田雅和らNHKの長井暁らが「共犯」の事件だった。

1234/朝日新聞はますますおかしくなってきた。

 一 随分と久しぶりに、いつのまにか隔週刊から月刊に変わっていたサピオ2014年1月号を買ったのは、「朝日新聞がますますおかしくなってきた」との特集を読みたかったためだ。
 その特集には慰安婦問題にかかる朝日新聞の責任を衝く西岡力、親中・親北朝鮮の問題性を指摘する井沢元彦の論考がまずあり、他に青山昌史が特定秘密保護法に対する朝日新聞の反対には「とにかく政府が何かを秘密にすることは許せない」という「一種の原理主義のような前提」があるなど等と指摘している。たしかに、朝日新聞は問題を<政府が国民に対する秘密をもつことが是か非か>という、「秘密」=悪というイメ-ジを利用しての、単純で抽象的なレベルに矮小化してしまっていた、ともいえる。但し、それは自民党・安倍内閣批判のためであって、同じ又は類似の内容の法案を民主党が提出してきたのだとしたら、間違いなく朝日新聞の対応は変わっていただろう。
 二 上掲誌には「本誌編集部」作成の「朝日新聞誤報』『虚報』ベスト10」が掲載されている(p.101)。以下のとおりで、より詳細な内容や朝日新聞の事後措置に関するコメントの部分は省略して紹介しておく。
 殿堂①1991.08.11大阪朝刊-「思い出すと今も涙/元朝鮮人慰安婦を韓国団体聞き取り、同②1992.01.11朝刊-「慰安所への軍関与示す資料/防衛庁図書館に旧日本軍の通達・日誌」ほか、1位1989.04.20-「サンゴ汚したK・Yってだれだ」、2位1950.09.27朝刊-「宝塚山中に伊藤律氏/不精ヒゲ、鋭い眼光”潜入の目的は言えぬ”」、3位2005.08.21朝刊・同22朝刊-「郵政反対派『第2新党』が浮上」「追跡/政界流動『郵便局守れだけでは』」、4位1959.12~1960.01-北朝鮮帰還事業に関する一連の報道、5位1984.08.05朝刊-「南京虐殺も現場の心情つづる/元従軍兵の日記、宮崎で発見」、6位1984.10.31朝刊-「『これが毒ガス作戦』と元将校/当時の日本軍内写真を公表」、7位1982.06.26朝刊-「教科書さらに『戦前』復権へ/文部省高校社会中心に検定強化『侵略』表現薄める」、8位2002.06.05朝刊-「ヒデ『最後のW杯』チームに献身」、9位1995.03.29栃木版-「地方分権の時代に逆行/石原前官房副長官に首長や県職員が選別」、10位2009.05.26朝刊-「核拡散北朝鮮の影、常に」記事中、「核兵器をめぐる現状」と題した世界地図〔台湾を中国の一部として色塗り〕、番外編①2012.11.21朝刊-「白川総裁、ゼロ回答/安倍構想『やってはいけない最上位』」、番外編②2013.09.08午前4時5分頃-2020年夏季五輪で「東京落選」。
 『誤報』又は『虚報』ではないのかもしれないが、特定の政治的立場に立った一定期間継続するキャンペーン報道についても、きちんと記録・年表に残しておいてほしいものだ。例えば、①2007年参院選前の反安倍内閣報道(消えた年金、政治事務所経費等)、②2009年総選挙前の「政権交代」煽動、③今次の特定秘密補保護法案反対報道・記事作成。
 三 朝日新聞の読者数を、その影響力を相当に落とさないと、安心して憲法改正、とくに現九条二項削除を、国民投票に委ねることはできないと、関係機関、関係者は心しておくべきだろう。

1196/浦川泰幸(朝日放送)と日本共産党系活動家・吉永小百合。

 〇8/15の朝番組について、同日のこの欄で、テレビ朝日の坪井直樹らしきキャスターの発言を批判的に取りあげたが、正しくは朝日放送の浦川泰幸の「おはよう朝日です」内での発言だった。坪井直樹氏にはお詫び申し上げる。ほとんど見たことのない番組だったので(朝日系は原則として観ない)、キャスターの氏名になじみがなかった。異例だが、8/15の書き込みの名前をこのあとで「浦川泰幸」に改める。
 しかし、もちろん、発言内容に関する批判的コメントを改めるつもりはない。

 浦川泰幸、1971年5月生まれ、立命館大学経済学部卒。出身大学・学部と先日の発言とに直接の関係はないだろうが、立命館大学とは「リベラルな」末川博のもとで戦後、容日本共産党の「左翼」教授たちを集めてきた大学。1970年前後の学生「紛争」時代、すべての学生自治会の主導権・執行部を「全共闘」系ではなく、日本共産党・民青同盟系学生が握っていたことでも知られる。少なくともかつては、同大学経済学部は日本共産党系マルクス主義経済学者でほとんどを占めていたものと推測される。

 現在でも上記のような雰囲気は残っているはずなので、浦川泰幸は「何となく」その影響を受けた可能性がある。そうでなくとも、朝日放送に入社以来、おそらくは毎朝・毎夕に朝日新聞を読んで、「朝日」的感覚と「朝日」的歴史認識を身につけたのだろう。そうでないと、原稿を読むでもない、先だって記したような発言を早口で一気に喋ることができるはずがないと思われる。

 〇やや古いが、今年5/03付朝日新聞朝刊に「女性は戦争への道を許さず、憲法9条を守ります」と大書した、一面全体を使った「意見広告」が掲載されている。
 この意見広告の呼びかけ人は、雨宮処凜、澤地久枝、湯川れい子、田中優子(法政大学教授)ら。
 目を惹いたのは、「第一次賛同人」として氏名が小さく書かれている102人の中に、「吉永小百合(俳優)」とあることだ。
 岩波書店の護憲派のブックレット類に文章を寄せている吉永小百合だから「左翼」的だろうと思っていたが、この意見広告の「事務局団体」の列挙を観ていると、呼びかけ人や賛同者は日本共産党系または日本共産党とは対立していない、(立命館大学教員と同様に?)<容日本共産党>の女性たちであることが分かる。
 事務局団体のうち「自由法曹団女性部」、「新日本婦人の会」が日本共産党系(幹部は党員だろう)であることは知っていた。その他を少し調べてみると、「全国労働組合総連合(女性部)」とは民主党系のいわゆる<連合>とは異なる日本共産党系の<全労連>のこと、「日本婦人団体連合会」とは新日本婦人の会などが加入しているやはり日本共産党系とみられる全国的連合団体。その他は省略するが、「左翼」の中には非または反・日本共産党系の者たちも存在するところ、この意見広告は日本共産党系の女性たちのものであり、その中に吉永小百合も明記されている。俳優または女優と注記があるのは10名もいないにもかかわらずだ。

 将来に現憲法9条2項の改正が現実的な政治的・国民的争点になるとき、「国民的女優」・吉永小百合は積極的にか利用されてか、改憲反対(護憲)の主張者として、ある程度の影響力を持ってしまう可能性がある。「国民的女優」ぶりはJR東日本の宣伝キャラクターとして活躍し?、ある程度大きな同区域の駅の構内には吉永小百合の顔のポスターが目に付くことでも示されている。
 いざとなれば「国民的映画監督」・山田洋次も、同様の役割を果たす可能性がある。NHKは<山田洋次監督が選んだ…日本映画>とやらを連続放映していたが、わざわざ「山田洋次監督が選んだ」と題するところに、NHKらしさがあるとも言える。
 改憲派、憲法九条2項改正派は、吉永小百合や山田洋次等に対抗できる「国民的」俳優・映画監督を自分たちの仲間に含めているのかどうか、気になる。
 日本共産党系発言者としての吉永小百合の活動を封じる必要がある。

1194/8月15日と靖国神社参拝と戦争と。

 〇田母神俊雄と都内某所でたまたま遭遇して、わずかの会話までしてしまってから、二年が経った。そのときと違って、民主党「左翼」政権下のもとで生きてはいないのは、元に戻ったに、異常から普通に戻ったにすぎないが、とりあえず慶ばしいことだ。
 〇朝日放送の8/15の朝番組で、浦川泰幸というキャスタ-が、首相靖国参拝問題で面妖な「偏った」ことを述べていた。
 ・局が用意したフリップに、「中曽根首相、初の公式参拝」(たぶん1983年か1985年)とあった。はて、中曽根が公式参拝を初めてした? 吉田茂をはじめとして歴代の首相は小泉純一郎まで靖国神社を参拝してきた。三木武夫が質問に対して「私人として」などと答えたためにややこしくなったようだが、それ以前の首相参拝は公式か否かすら問題とされない、しかし「公式」のものだったはずだ。テレビ朝日は歴史を捏造しているのではないか。
 ・浦川泰幸は、首相参拝問題を「世界が注目」していると述べたが、実際に挙げた国名は中国・韓国・米国だけだった。テレビ朝日が「世界」というとき、この三国のみを指す、というので一貫させるならば、テレビ朝日はその旨をきちんと公告し、どの番組でも一貫させてほしいものだ。
 ・浦川泰幸は、「A級戦犯合祀」を明らかに問題視し、合祀時点(1978年のようだ)の靖国神社宮司は旧陸軍出身者だと明言し、だからこそ合祀に踏み切ったということを含意させた。はて1978年時点の宮司の経歴についてはほとんど報道されていないようだが、浦川の発言内容は正しいのか、どなたか確かめてほしい。またそもそも、だからどうなのだ、と浦川とテレビ朝日には言わねばならない。
 ・「A級戦犯」は戦争「指導者」だから戦争に動員されただけの者と区別するのは当然である旨を前提とする発言をしていた(だからこそ中国等が問題視している旨を言っていた)。
 浦川泰幸朝日放送に問い質したい。「指導者」か否かはどういう基準で決めるのか? 「A級戦犯」と決めたのは日本人でも日本政府でもなく東京裁判法廷だが、GHQの広義の指揮下の裁判官たちの選別が正しいとする根拠は何か?

 「A級戦犯」ではない「B・C級戦犯」のうちの刑死者の中には「指導者」はいなかったのか?

 そもそも合祀されているのは「戦死者(いわゆる法務死を含む)」に限られている。「A級戦犯」の責任を追及したいならば、死刑にならなかった「A級戦犯」者の責任も問題とすべきだが、テレビ朝日は、そして親会社の朝日新聞社は、賀屋興宣等の禁固刑者でのちに犯罪者扱いされなくなった者たちの責任を一貫して問題にしてきたのか。
 また、「A級戦犯」という分類は罪名による区別であり「指導者」か否かとは本来は関係がない。浦川泰幸らしき男は、このことくらいわきまえて発言しているのか。
 ・浦川泰幸は、戦争被害者は、軍人だけではなく一般国民もそうだ、後者も含めて慰霊されるべきと、一瞬はまともらしき感じもする見解を述べた。だが、一般国民と、公務・職務の結果として又は遂行中に「戦死」した者とは、やはり区別されてしかるべきだ。あるいは、区別して慰霊するだけの十分な根拠がある。このことくらいを理解できないほどに浦川泰幸は、およびそれを使っている朝日放送は、バカなのだろう。

 〇先月のいつかに(7/17かもしれない)、NHKの9時からのニュ-スで大越健介は、「風立ちぬ」の作者・宮崎駿に対して、「戦争美化という印象(・声)もありますが、そうではないですよね」とわざわざ質問した。
 そのときに感じたのは、次のようなことだった。
 大越健介は、日本には「戦争を賛美・美化」する人々や勢力がある、という理解を(単純・幼稚に)前提としている。ひょっとすれば現安倍晋三首相もその傍らにいると思っているのかもしれない。

 だが、「戦争を賛美(・美化)」とはいったいどう意味なのか? 一般論として、戦争一般を「望ましい」・「美化されるべき」ものと思っている者は全くかほとんど存在しないだろう。そうすると、大越のいう「戦争」とは先の戦争、太平洋戦争とか大東亜戦争とか言われるものを指しているのだろうが、はたしてそれを(日本の行動を)100%「美化」している人々はどれほどいるのだろうか。コミンテルンとそのスパイたちによって誘導された、引きこまれた戦争だったという見方もある。
 大越はもはや古びた「戦争美化」という言葉を今日もなお使っているとしか思えない。彼の歴史意識・歴史認識およびこれをめぐる議論についての知識はNHKに入局したときからほとんど進化していないのではないか。このような人物が9時からのニュ-スのメイン・キャスタ-だ。NHKの<底の浅い>、「何となく左翼ぶり」を十分に感じさせる配置になっている。

  *8/15時点で<テレビ朝日直樹>と記していたが、のちに<朝日放送の浦川泰幸>が正しいことが分かったので、異例だが、あとで改めた(8/29記)。

1186/2013参院選挙前のいくつかの新聞社説等。

 1.朝日新聞7/17社説は「参院の意義―『ねじれ』は問題か」をタイトルにしている。内容を読むと参議院の存在意義に触れてはいるのだが、<ねじれは問題か>と問い、「衆院とは違う角度から政権の行き過ぎに歯止めをかけたり、再考を促したりするのが、そもそも参院の大きな役割のはずだ。その意味では、ねじれ自体が悪いわけではない」と答えているのは、いかにも陳腐で、<ねじれ解消>を訴える自民党や公明党に反対したい気分からだけのもののようにも見える。

 一般論として「ねじれ」の是非を論じるのが困難であることはほとんど論を俟たないと思われる。問題は、「ねじれ」によって何が実現しないのか、にあるのであり、その「何」かを実現したいものにとっては「ねじれ」は消極的に評価されるが、その「何」かを阻止したい者にとっては「ねじれ」のあることは歓迎されるだろう。朝日社説はこの当たり前のことを言っているだけのことで、かつ現在において「ねじれ」は「悪いわけではない」と指摘しているのは、実践的には、衆参両院における自公両党の多数派化に反対したいという政治的主張を、朝日新聞だから当たり前のことだが、含むことになっている。

 2.毎日新聞7/20社説、論説委員・小泉敬太の「参院選/憲法と人権」はかなりヒドい。現憲法と自民党改憲案の人権条項(諸人権の内在的制約の根拠の表現)における「公共の福祉」と「公益及び公の秩序」を比較して、前者は「一般に、他人に迷惑をかけるなど私人対私人の権利がぶつかった際に考慮すべき概念」とされるが、後者は「公権力によって人権が制約される場合があることを明確にしたのだ」と明記している。

 「公共の福祉」とは「他人に迷惑をかけるなど私人対私人の権利がぶつかった際」の考慮要素だとは、いったい誰が、どの文献が書いていることなのだろう。「公共」という語が使われていることからも明らかであるだろうように-<多数の他人>の利益が排除されないとしても-「社会公共」一般の利益または「国家」的利益との間の調整を考慮すへきとする概念であることは明らかではあるまいか。

 自民党改憲草案にいう「公益及び公の秩序」を批判したいがために毎日新聞社説は上のように書いているのだが、この欄でかつて自民党案の表現は「公共の福祉」を多少言い換えたものにすぎないだろうと書いたことがある。
 この点には私の知識および勉強不足があり、最初は 
宮崎哲弥のテレビ発言で気づいたことだったが、産経新聞7/09の「正論」欄で八木秀次がきちんと次のように書いていた。
 改憲反対派は「基本的人権の制約原理として現行憲法が『公共の福祉』と呼んでいるものを、自民党の憲法改正草案が『公益及び公の秩序』と言い換えたことについても、戦時下の国家統制を持ち出して、言論の自由を含む基本的人権が大幅に制約されると危険性を強調する。自民党案は、わが国も批准している国連の国際人権規約(A規約・B規約)の人権制約原理(「国の安全、公の秩序又は公衆の健康若しくは道徳の保護」)を踏まえ、一部を採ったささやかなものに過ぎないのに、である」。 
 「公益及び公の秩序」とは国際人権規約が明示する人権制約原理の一部にすぎないのだ。
 「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」に変えることによって、現憲法以上に「公権力によって人権が制約される場合があることを明確にしたのだ」と自民党改憲案を批判している毎日新聞は、ほとんどデマ・捏造報道をしているに等しいだろう。問題・論点によっては「左翼」が必要以上にその内容を好意的・肯定的に援用することのある「国際人権規約」の基本的な内容くらい知ったうえで社説が書かれないようでは、ますます毎日新聞の<二流・左翼>新聞ぶりが明らかになる。

 毎日新聞の上の社説の部分は、最近に、<憲法は国民が国家(権力)をしばるもの、法律は国家(権力)が国民をしばるもの>と書いた朝日新聞社説とともに、見事に幼稚な<迷言>・<妄論>として、両社にとっての恥ずかしい歴史の一部になるに違いない。
 3.ついでに(?)、産経新聞7/19の「正論」欄の百地章「『憲法改正』託せる人物を選ぼう」にも触れておこう。

 樋口陽一が代表になった(9条の会ならぬ)「96条の会」というのが設立され、96条の改正要件の緩和に反対する樋口陽一らの講演活動等がなされている、という。いくつかの大学等でのその講演集会をかなり詳しく報道し続けているのが朝日新聞で、さすがに朝日新聞は自らの社論に添った運動・集会等には注目して記事にするという政治的な性癖をもつ政治団体だと思わせる。かつての、松井やよりや西野瑠美子らの、いわゆる「天皇断罪戦犯法廷」(NHKへの安倍晋三らの圧力うんぬんという<事件>のきっかけになった)について事前にも朝日新聞記者の本田雅和らが熱心に記事で紹介していたことを想起させる。
 上の一段落は百地論考と無関係だが、百地によると、憲法96条改正反対論に対する反対論・疑問論を提起する者として、大石眞(京都大学教授-憲法学)、北岡伸一(東京大学名誉教授)がある。また、96条先行改正には反対の小林節(慶応大学教授-憲法学)も、「9条などの改憲がなされた後なら、96条の改正をしてもいい」と発言している、という。
 大石眞の読売新聞上のコメントは読んでいるが、上の程度に紹介しておくだけで、ここではこれ以上立ち入らない。立憲主義なるものと憲法改正要件とは論理的な関係がないのは自明のこと。現役の京都大学教授の読売上での発言は、失礼ながら百地章の産経上の文章よりも影響力は大きいのではないか。
 百地章は以下の重要なことを指摘しており、まったく同感だ。 
 「9条2項の改正だが、新聞やテレビのほとんどの世論調査では、『9条の改正』に賛成か反対かを尋ねており、『9条1項の平和主義は維持したうえで2項を改正し軍隊を保持すること』の是非を聞こうとはしない。なぜこれを問わないのか

 この欄で、自民党改憲案も現9条1項はそのまま維持している、「9条の会」という名称は9条全体の改正を改憲派は意図しているという誤解を与えるもので(意識的なのかもしれない)、正確に「9条2項の(改正に反対する)会」と名乗るべきだ等、と書いたことがある。
 百地章も少なくとも最近は漠然と「9条」ではなく「9条2項(または論旨によって1項)」と明記するようになっているようで、まことに適切でけっこうなことだ。また、上のような「新聞やテレビ」の世論調査の質問の仕方は今の日本の「新聞やテレビ」の低能ぶりまたは「左翼」性を明らかにしている証左の一つだろう。  

1163/日本の中にいる「反日」・「左翼」団体・個人をこそ徹底的に批判すべき。

 一 産経新聞や月刊正論(産経)等々の(少なくとも自称)保守派(的な)メディア・雑誌類が、月刊WiLL(ワック)も含めて、中国や韓国(・北朝鮮)に対する、警戒的または批判的な論調でいたり、そのような特集を組むことに反対はしないが(但し、中国と韓国は同じではない。後者については歴史認識や竹島問題にほぼ限られるだろう)、たび重なる類似の特集類の中には、少なくとも私には、もう読むまでもない、またかと思わせるものも少なくない。
 両国に共通するところもある歴史認識等の問題についての正確な情報・見解を発信し続けていくことも重要だが、第三の(または北朝鮮を含めると第四の)「反日」国家とも言われているのは日本そのものであり、日本の中にいる(ある)「反日」勢力・「反日」マスメディア、「反日」人士の言動を読者ができるだけ正確に把握できるできるように報道し、また執拗にと言ってもよいほどに的確かつ迅速に批判または反論していくこともまた(少なくとも自称)保守派(的な)メディア・雑誌類の重要な役割だろう。少なくとも、広い意味での(例えば現憲法九条2項削除・軍の保持の明記に賛成するような)「保守」派の中に分裂・対立を持ち込むような、あるいはそのような対立を過大に重視して、主観的には「真の」保守派であるつもりで「真正保守」ではないと見なす論者・政治家等を批判・攻撃することに情熱を傾注するような編集方針は、<広く>保守派(例えば憲法改正賛成派)を結集させたいならば、採用すべきではないだう。

 二 月刊WiLL2月号(ワック)には、重要なまたは興味を惹く論考類が含まれているが、上のような観点からすると、西村幸祐の新連載らしい「メディア・スクランブル」の中の次の二つの指摘は、あえてここにも記しておきたい。これによると、次のようだ(p.29)。

 ①東京新聞は、「十月に実施した憲法九条の世論調査で、改憲派が護憲派を一〇%以上、上回っていたことをできるだけ隠していた」。韓国・朝鮮日報の「慌てふため」いた報道によって多くの日本人が自国の有力紙の世論調査結果を知った。

 ②テレビ朝日が番組「モニングバ-ド」で、「安倍総裁の経済政策を批判するように経済学者に強要していた」。これを当の学者飯田泰之がBSフジの生放送の連携動画で明らかにした。

 これらをいずれも私は(読むまで)知らなかった。東京新聞(親会社の中日新聞)やテレビ朝日の、たんに政治的立場の違いにすぎないとは言えない<偏向ぶり>、マスコミとしての<異常さ>を、できるだけ多くの国民が(ますます)気づいていくようにしなければいけない。

 そして、別の機会に(も)書きたいが、朝日新聞も含めて、そんな媒体に広告を出していれば、その企業自体が「まっとうな」企業ではないという印象を読者・視聴者に与えるに至るまでに、同業?か同業に近い報道機関・マスメディアであっても、まっとうな人々やマスコミ・雑誌等は(産経新聞社も含めて)、勇気をもって<偏向ぶり>や<異常さ>を指弾し続けるべきだ。
 前後するが、同じことは指弾されるべき者が評論家・学者という「個人」であっても言える。日本人らしい、または日本的でもあるのだろうか、個人名を出しての(とくに現役の者に対する)批判は遠慮しがちなのが、日本の論者、評論家等の傾向ではないだろうか。主張・見解に対する批判と人物・人格全体の批判・攻撃とは同じではないはずなのだが。

 三 撃論プラス第4号(オ-クラ出版、2013)の中には、大室久志「朝日新聞の偏向報道を暴く/紙面徹底検証!朝日が殺そうとした安倍晋三」もある(p.52-)。
 新しい、最近についての有益な具体的な指摘はじつはあまりないのだが、一般論として、「仮に、朝日新聞の意向に従わない政権が存在した場合、あらゆる手段を用いてその政権を潰そうとするのが朝日新聞なのだ。全く事実に基づかない印象操作、誹謗中傷、有識者を騙る似非知識人によるプロパガンダ、『声』欄を利用した読者投稿による印象操作…」(p.56)、ということは、広く国民多数の「常識」にしなければならない。そして、そのような卑劣な新聞は広告出稿企業を失い、読者も失う(経営的・財政的に朝日新聞的メディアを消失させる)ようにしなければならないだろう。「朝日新聞とは、報道機関ではない。政治結社なのである」(p.63)。

 同誌の小川榮太郎「すでに始まっている安倍バッシング」(p.81-)の方が、昨秋以降の<安倍たたき>のマスコミの実際についてはるかに具体的で詳しい。つぎに触れる無署名「…報道分析」の方が詳細だが、フジテレビ系の小倉智弘の安倍からかい発言と安倍による批判と小倉の謝罪についても触れている(こういうのは、よほど熱心な視聴者でないと知らないままだろう)。また、とくに、週刊朝日10/16号の経済関係記事の(安倍を批判したいがための)杜撰さの指摘は長くて具体的だ。

 同誌編集部によるのか、無署名の「2012年度/テレビメディアの報道分析」(p.87-)には、「偏向」発言者等の具体的氏名が記載されている。以下、これに依拠して列挙しておく。

 まず、TBS系番組の中での、みのもんた、金井辰樹、北川正恭、テレビ朝日系番組の中での、愛川欽也、川村晃司、早野透(元朝日新聞)、前北美弥子、テレビ朝日番組等の中での、青木理。
 また、「異様なまでに安倍氏に対して『敵視政策』を続けるTBSは今も健在である」、らしい。先に少し言及したフジテレビ系番組内での小倉智弘、田中雅子。見ていないが、安倍晋三は橋下徹と同様に?、自身の「フェイスブック」10/23付で「痛烈に批判した」らしい。

 日本テレビ番組の中での、テリ-伊藤、加藤浩次。テレビ朝日系ケ-ブル局番組の中での、辛淑玉、永六輔、中山千夏、石坂啓、福島瑞穂(この5名は堂々たる「左翼」だ)。TBSラジオの中での、永六輔、外山恵理、久米宏、大橋巨泉、田中均、青木理、宮台真司。NHK深夜双方向番組の、津田大介、速見健朗、古市憲寿。この古市は、上野千鶴子の「教え子」らしい(p.96)。

 四 朝日新聞の、今年になってからの安倍晋三関係社説の「異様さ」、そもそも民間テレビ放送局は「報道機関」といえるような存在では本質的になく、戦後日本を腐らせた元凶とすらいえること(まさに大宅壮一の言葉どおり、「一億総白痴化」をもたらす最大の道具になったこと)、同じことだが民間テレビ放送局の番組制作関係者が「ジャ-ナリスト」であるなどとは大笑いの戯言であること、佐伯啓思の乱調ぶり、等々、書きたいことは他にも多いが、時間の余裕がないのは残念だ。

1142/「広島型平和熱」→「自虐史観症候群」。

 短いコラムのごときものだが、ジャパニズム08号(2012.08、青林堂)の、中書島亘の文章(p.174-5)には同感する。
 「主に8月になると日本に限局して流行し、NHKやTBSあたりが感染源になることで知られる」感染症を「広島型平和熱」と呼んでいる。そして、この病気が慢性化すると「自虐史観症候群」という「根治不能な重病」に移行するので、この危険性を厚労省や国立感染症研究所は一刻も早く国民に周知徹底させるべきだ、と結んでいる。
 「広島型平和熱」とか「自虐史観症候群」とかの造語が面白い。
 今年はロンドン五輪のおかげで、例年ほどには感じなかったが、毎年8月が近づき、あるいは8月になると、NHKは「戦争」ものや「原爆」もののドキュメンタリーを多く放送するので、うんざりしてきた。もちろん、これらを扱っていることが理由ではなく、<扱い方>に理由がある。上の言葉を借用すれば、<自虐史観症候群>に陥るような番組作りがされているからだ。
 「平和」それ自体にむろん反対しないが、あの戦争について、<日本が悪かった>、<日本は(道徳的・道義的にも)間違ったことをした>という「史観」を基礎にして、国家系放送機関が、特定のイメージを撒き散らしてほしくないものだ。
 見ないようにしているから具体的な疑問を示せないが、戦争を体験した現在の老人(旧軍人を含む)の記憶を映像・録音に残そうとしても、現在のまたは<戦後の>戦争観(特定の、あの戦争についての見方)に影響されて、事実についての記憶やその評価は語られることになるのであり、戦争の経験者が語っているから、その評価も含めて、すべて<真実だ>ということには全くならない。
 NHKの中には、長井暁のような「極左過激派」もいたし、現在もいて、「広島型平和熱」を発症させ、蔓延させようとしているようだ。NHKはましな番組も作っているが、とくに、こと「戦争」がテーマになると、公正・中立ではなくなる。
 だからといって、民間テレビ局の方がマシというわけでもない。NHKのように金をかけて同種の番組を作り難いだけのことで、別の面では、NHKよりもはるかにタチが悪い。
 ところで、「広島型平和熱」でも、文章を読めば意味はわかるが、とくに説明を施さなくとも、8月を中心にNHKが放送している「反戦・反原爆」ドキュメンタリー類の悪弊を表現できる、もっと的確な用語はないものだろうか。

1120/斉加尚代(毎日放送)・橋下徹(大阪市長)の質疑全文③完-2012.05.08。

 斉加尚代(毎日放送)・橋下徹(大阪市長)の質疑全文③完
 2012.05.08 
<資料・史料>


 〇斉加 じゃ、最後にお訊きします。市長が中原校長だったら、中原校長と同じことをしますか?
 〇橋下 当たり前ですよ。職務命令で起立・斉唱というのが出てるんじゃないですか。子どもたちに、音楽の課題を与えて、歌いなさいと言ったときに、唇をチェックしない音楽の先生がいますか。それがダメなんだったら、教育委員会が、起立をするだけという命令に切り替えたらいいんですよ。君が代を歌うときには起立だけでいい、という命令にしたらいいじゃないですか、教育委員会が。
 〇斉加 もう一つ、じゃあ、何のために歌うのか、教えていただけますか。これは一般論として。
 〇橋下 われわれが答えるべき問題じゃない。あなたが、何も取材もしていないしね、勉強不足なのにね、それは、取材する側としてはちょと失礼ですよ。あまりにも、勉強不足。あなた、この方はどこの記者の方なんですか? <他記者の発言あり> で、市政担当でも何でもないでしょ。まったく、だって、それが事実から何にも知らないんだもん。
 〇同僚?記者 条例上問題ないのはよく…。
 〇橋下 そしたら、おたくの方から、記者の方から、ちゃんと知ってる方から訊いて下さいよ。
 〇同上同僚?記者 いや、取材はよくしてて、分かってるんですが、ちょっと、訊き方にちょっと問題があったのかもしれませんけど…。
 〇橋下 だって、何にも分かっていないだもん。
 〇同上同僚?記者 条例上問題がないのは分かってるんですが、…。
 〇斉加 それは私も分かってます。
 〇同上同僚?記者 アンケートの結果でね、やはり口元チェックについては、…過半数がですね、ちょっとやり過ぎだと思うと、だから条例上問題がなくとも口元チェックはやり過ぎだと思うというのが、やはり校長の、過半数の校長のご意見で、実際、問題ない、当然だというのはわずか3人しかいらっしゃらなかったんで、やはり一般論的には問題だなとお考えても、いいんじゃないですか、ということをお訊きしたいんです。
 〇橋下 全然、問題はないと思いますよ。それは世間一般に確認してもらったらいいんじゃないですか。問題があるんだったら、教育委員会が命令の内容を変えないと。起立・斉唱命令を出したんですもん。全教員に対して。じゃあ、われわれ命令出してね、何でもいいですよ、市民のみなさんに命令出しますよ、うー、例えばタバコ・ポイ捨て禁止の条例でも何でもいいです、そのときに、タバコのポイ捨てをしたときにね、ポイ捨て禁止の条例になってるのに、いやそれは、ふつうに捨てるのならいいですよ、そこまではやり過ぎです、そんなこと取り締まったらダメですよなんて言えますかね。
 〇同上同僚?記者 まぁ、例えば、陰に隠れてこそっと見てて、捨てるの待って言わなくても、捨てるかもしれなかったら先に注意するとか、いろんなやり方があるというような、そんな裁量の範囲内の話かな、と。
 〇橋下 法の適用に裁量を求めていいんですか?
 〇同上同僚?記者 でも、この…斉唱に対して校長のマネージメントの範囲というのがあるじゃないですか。
 〇橋下 そしたらね、範囲の中だったら、それぞれの個人の主観といいますか、その裁量の範囲内でしょ。やり過ぎかどうかなんていうことを、コメント出すこと自体が失礼ですよ、それは。裁量の範囲内じゃないですか。
 〇同上同僚?記者 だから、明らかにダメですと、こっちが断言しているんじゃなくて…。
 〇橋下 いや、ダメだ、ダメだ、と訳の分からないことばかり言ってるじゃない。範囲内だったら、何にも問題ないでしょ。
 〇斉加 私も範囲内…<不明>。
 〇橋下 だから、それだったら、教育委員会が、しっかりそういうことをね、言ったらいいじゃないですか。口元のチェックまでしたらダメですよ、とか。
 〇同上同僚?記者 ダメですよとまではもちろん言えないと思うんです…。
 〇橋下 それじゃ、やってもいいわけじゃないですか。
 〇同上同僚?記者 そうです。やっても別にいいんです。
 〇橋下 じゃあ、あとはやり過ぎかどうかなんてのは、それぞれの校長の判断なわけでしょ。
 〇同上同僚?記者 そうなんです。で、そこの判断のところを、やはり過半数の人がやり過ぎだと思うというふうに答えているので、それについていかがですか、と…。
 〇橋下 それは、人数、関係ないじゃない。裁量の範囲だったら。そういうふうに思う人もいれば、そういうふうに思わない人もいる。それぞれ尊重しましょうというのが裁量の範囲内でしょ。そんなところでアンケート取ったって、意味ないじゃないですか。裁量の範囲内なんですから。裁量の捉え方なんですから。そんなところでアンケートで40何人がやり過ぎだと思うということ言って何の意味があるんですか。裁量の範囲内なんでしょ。
 〇斉加 ですから…。
 〇橋下 だから、やる校長もいれば、やらない校長もいるわけだから、どっちがいい悪いなんてことを評価してはいけないでしょ、それは。ダメなんだったら、ダメって言っておくべきなんであってね。裁量の範囲内なんだったら、やる校長もいれば、やらない校長もいる。中原校長だってね、あなた、取材も何もしていないと思うけれども、あの校長だって教育委員会とやりとりをやって、そのやり方を、ほんとに創意工夫というか、頭を悩ましたんですよ。3秒間、式を乱さないように、後方からパッと各校長〔ママ〕の口元を見た、その場で指摘はしない、式を乱すから。別室に行って、あなた歌ったか歌ってないかということを、確認した。そこで歌ってましたよと言った人は、別にお咎めなしですよ。そこまで追及しない、彼は。歌っていないと認めた人を教育委員会に報告したんですよ。何が悪いんですか、それの。歌っていないことを、ちゃんと管理、マネージメントしてるわけじゃないですか。あなたの質問の趣旨は、一貫して…。最後はもうブレ始めている。じゃあ何のために質問してるのか、言ってくださいよ。質問の意図がわからない。
 〇斉加 わかりました。
 〇橋下 まず、事実関係も勉強していない。
 〇斉加 じゃあ、中原校長のやってらっしゃることを、私は何も評価はしていません。ただですね、中原校長が私はこれを裁量権でやりましたとおっしゃったんだったら、私は納得します。けれども、教育委員会から命じられてとおっしゃって、教育委員会が口元チェックまで命じていないと思うんですね。
 〇橋下 何を言ってるんですか。裁量を誰が与えたんですか。中原校長に、最初に、始源的に、オリジナルに権限があるんですか? 誰がその裁量を与えたんですか、そしたら。中原校長が、そのマネージメントをする権限を与えたのは、誰ですか? 言って下さい。法の授権の話です、これは。もう、原理・原則の当たり前の話も分かっていない。教育委員会が、口元のチェックをしてもいいし、やらなくてもいいし、やることも、その権限を与えたのは教育委員会の職務命令ですよ。職務命令に従ってやったというふうに言って、何の問題があるんですか。
 〇斉加 まったく問題はない。まったく問題ないです。
 〇橋下 じゃあ、何を訊いてるんですか?
 〇斉加 何…。どういうことですか。
 〇橋下 何の質問なんですか。何の問題もないんだったら、何を質問してるんですか、そしたら。
 〇斉加 でも、アンケートの結果は、それについて、市長のおっしゃったように素晴らしいマネージメントとの結果にはなってませんので、そこをお訊きしたいんです。
 〇橋下 全然それは、校長がそれぞれそういうふうに判断してるだけじゃないですか。素晴らしいマネージメントでいいじゃないですか。その範囲内できちっとチェックをした。歌ってないと言う人をちゃんと報告してるじゃないですか。それマネージメントですよ。条例作って、歌ってない人を放置してたら、全然法の意味がないじゃないですか。起立・斉唱という条例を作った。歌ってない人をきちんと報告した。その報告の仕方は、式を乱さずに、本人の思想良心を害することなく、本人に歌っていませんということを認めさせて、報告させたんですよ。こんな完璧なマネージメント、どこにあるんですか。言って下さい。じゃあ、あなたのところの社内のルールはありますか? 社内のルールはあるのか、まず訊いてます。社内のルールはある?
 〇斉加 それはあるに決まってるじゃ…。
 〇橋下 チェックはしないの? そしたら。ねぇ、MBSへ行ったら、トイレに入ったら、ここでタバコ吸うなとか禁煙とかいろいろありますけど、それはチェックはしないの?
 〇斉加 時間の無駄ですので…。
 〇橋下 無駄じゃない。それは重要なの。ルールは作って、チェックはしないの、MBSは?
 〇斉加 チェックはしますけれども、チェックの仕方はいろいろ…。
 〇橋下 チェックの仕方はいろいろあるけれども、教育委員会の裁量の範囲内でしょ。中原校長は、教育委員会が口元のチェックはしてもいいし、しなくてもいいし、そのあたりのことは教育委員会が裁量を与えたんでしょ。その範囲内でやっていることを、何が問題があるんですか。完璧なマネージメントじゃないですか。思想良心を害したわけでもなく、本人に強制させたわけでもなく、本人に認めさせた。式典と違うところに出させて、そして式典でのチェックは3秒間だけの、パッとした一律の、目視というか、目で視ただけ。そして別室に寄せて、連れてきて、歌ってますか、歌いませんでしたか。最初何人か呼んできたらしいですよ。歌いましたという人に対して、それを否定するようなことを彼はしなかった。歌ったと本人が言ったんだったら、それでいい。口元が動いていようが、動いていなくとも、心の中で歌っていたんだったらそれでいいと彼は判断した。完璧なマネジメント。他の40何人の校長というのは、そういう法律のね、そういう知識がないから、強制しちゃいけないとか、一律にやっちゃいけないとか、四の五の言ってますけれども、彼は、緻密に緻密に論理を構成して。こんなの、裁判所に行ったって、あなたのように勉強不足の記者がいくら質問したって、こんな論理は崩せませんよ。僕らは、これは緻密に緻密に、誰からも、どの法学者に言われても、破綻しないような論理を組み立ててきている。組み立ててきたんだから。そんな勉強不足のね、そんなのが、何を言ったって、無理なの。もしそれを言うんだったら、教育委員会の方に、どういう命令を出したのか、各校長に与えた権限はどの範囲内なのか、しっかり勉強してからやらないと。
 〇斉加 あの、最後の質問なんですけど…。
 〇橋下 いやいや、もっとね、報道がね、誤った情報を伝えるから、中原校長は、社会的に、非常にね、大変な状況になっている。
 〇斉加 あ、そうなんですか。
 〇橋下 当たり前じゃないですか。ネットでも見て下さいよ。あなたみたいな、そんな頓珍漢な記者がね、いろんなことを報道するから。ネット見て下さいよ。
 〇斉加 でも、メールを見て公表してもいいとおっしゃって下さったのは…。
 〇橋下 彼の覚悟ですよ。
 〇斉加 それは橋下さんがお勧めになられたんですよね。
 〇橋下 勧めじゃないです。二人で考えて、この馬鹿げた、このような状況を何とか正さなければならないということで、僕がお願いをして、それで彼も合意をしてくれて出した。どういう状況になるかというと、案の定、あなたみたいな頓珍漢な記者が、事実関係も知らずに、ワンワカワンワカ吠えまくって…。こうやって話したら、あなたの論理、もう無茶苦茶じゃないの。何も、質問していることが何も伝わって来ない。誰が聞いても頓珍漢です。あのー、ホームページにまた出すから、いいけれども。自分で、頓珍漢さ加減、分かってないの? じゃあ結局、質問を整理して、一から質問して、もう一回。何が訊きたかったんですか、僕、さっぱり分からない。
 〇斉加 じゃあ、一番訊きたかったことを最後にお訊きします。あの、子どもたちにですね、卒業式・入学式で君が代を歌うということは何の目的ですかと訊かれた場合、どういうふうにお答えになれますか?、
 〇橋下 子どもたちに、われわれ、義務課してませんよ。
 〇斉加 いえいえ…。
 〇橋下 教員に課しているんです。
 〇斉加 じゃあ、教員、先生が歌わなければいけないのはどういう理由かっていうことを、子どもたちに分かるようにお伝えいただけますか。
 〇橋下 国歌だからですよ。式典だからですよ。君が代、歌うときに、起立斉唱するのは当たり前のことじゃないですか。国歌斉唱、式典で国歌斉唱って言ってるんですよ。何で、卒業式や入学式で、国歌斉唱という儀式があるんですか。まず、そこ、答えて下さい。それをまず言って下さい。
 〇斉加 今の、子どもたちにはちょっと分かりにくいと思うんですけれども、どういう理由かを教えて…。
 〇橋下 じゃあ、入学式や卒業式で、国歌斉唱という、そういう儀式は要らないんですね。それこそ、大相撲でも、ワールドカップのサッカーの試合でも、国歌斉唱ということは要らないんですね。
 〇斉加 あの、公立学校で国歌を歌ってるというのは、それほど世界的に見ても多くはないと聞いてますけれども…。
 〇橋下 公立学校で、世界的に見てとか、そうではなくて。でも歌っているところもある。ある国によっては、ある国というか、ある地域によっては、映画を見終わった後に、そこに国歌が流れる場合もある。いろんな式典で国歌が歌われることもある。公立学校とか、式典とか、そこはさまざまじゃないですか。
 〇斉加 市長の今のご説明だと、それは、当たり前のことですね、というご説明だと思うんですが、子どもたちに分かるようにもっとご説明いただけないですか。
 〇橋下 それは各学校で親に訊くべきじゃないですか。そんなのは常識です。じゃあ入学式や卒業式で国歌斉唱しなくていいのか。そんなふうに考えられるかどうかってことですよ。それはもうふつうの感覚。理屈じゃないんです。
 〇斉加 それじゃ、親に訊けと言った子どもは市長に訊いてるんですってなりますよねぇ。
 〇橋下 いや、そしたら親が、国民として親が言ったらいいじゃないですか。もう、卒業式や入学式で、もう国歌は歌わなくていいよっていうふうに親が言われるんだったら、子どもたちは歌わなくていいですよ。僕たちが言ってるのは、教員に対して言ってるんですよ、公務員に対して。公務員なんだから。彼らは、公務員で、日本のために、日本の国家から税金をもらって、国家のために仕事しているんだから、キッショキッショ〔?〕の式典で、国歌を歌うの、当たり前じゃないですか。そんなこと言い出したら、日本の国歌斉唱の儀式、全部、理由を問うことになりますよ。国民に対しては義務は課しません。歌うかどうかは自由です。子どもたちも自由。親がどうしても歌いたくない、いろんな考え方がある。うちの子どもは歌わなくていい、着席しろと言うんだったら、それも自由です。公務員に対して言ってるんだから、子どもたちに対して、という話とは違うでしょ。われわれが言ってるのは、条例で決めてるのは、公務員に対してルール化してるんですよ。話が無茶苦茶。国民に対する義務じゃないわけ。
 〇斉加 いや、そうじゃなくて、先生に無理やり歌わせることについて、子どもたちにどうご説明されるか、ということを…。
 〇橋下 公務員だから。当たり前です。公務員だからですよ。大阪市の職員も、採用の任命式のときに歌わせましたよ。公務員ですから。きちんと日本国家のために働いてもらわなきゃ困るんですから。憲法、条例、法令にもとづいて…。国民とは違うんです。憲法、法令、条例にもとづいてしっかりと職務をまっとうする、それが公務員なんです。公務員の歌は何ですか、社歌は何なのか。国歌じゃないですか。
 〔一部省略〕        
 〇斉加 もうこれで最後にしますけれど、13年前、野中広務さんが、一律強制はしないとあれほどくどく言ったのにと、大阪は大きなマイナスの一歩を踏み出したと、つい先日おっしゃったんですよ。
 〇橋下 強制は国民にはしていません。
 〇斉加 公務員も…。
 〇橋下 公務員は、だって、社歌なんだから。それは自由じゃないですか。社歌を歌う、大阪市の市歌というのもありますよ。どういう歌をきちんと歌うのか、僕の組織の感覚では、公務員だから国歌を歌ってよ。当たり前じゃないですか。
 〇斉加 じゃあ、歌えない方は退場すればいいと…。
 〇橋下 そうです。公務員を辞めればいいんです。そういう、歌いたくないんだというんだったら、公務員じゃなく、民間の企業に行ったらいいじゃないですか。MBSなんか行ったらいいですよ。社歌も何もないんだし。〔省略〕
 〇斉加 フフフフフ…。まぁ、あの、このくらいにしておきますけど…。
 〇橋下 このくらいにしておきますけどって、失礼な言い方は何ですか。吉本の新喜劇でもですね、もうちょっと丁寧な対応をしますよ。
 〇斉加 どうも、ありがとうございました。
 〇橋下 これ、ちょっとどうですか、みなさん。この質問の仕方。これくらいにしときますけどもって。
 〇斉加 いや、噛み合わないなというふうに、私もちょっと感じましたので。
 〇橋下 だって、勉強していないんだもの。
 〇斉加 いや、市長が、私が答えていただきたいことに、お答えいただけないこともありましたので。
 〇橋下 だって、事実関係、何も勉強していないんだもの。答えようがないじゃない。命令の主体も、命令の対象者も分かってないし、一律に強制してどうなんですかって、教育委員会が決定してるんじゃない。全教員に対して、歌いなさいよって職務命令を出したんじゃない。そんなことも知らないで、一律に強制が、一律に強制がって、一律に強制したのは教育委員会じゃないの。
 〇斉加 それは知ってますよ、だから…。
 〇橋下 だからそんなの、知ってるも何も、それを質問でね…。知ってますよって、今、後づけで言ってるのはみんな分かってる。
 〇斉加 後づけじゃなくってですね…。
 〇橋下 結局、だからもう全部ね、おたくが考えていた論理というのはおかしいというのは分かっている。まぁ、本人はね、納得されないけれども、ここでもう明らかになったから、いいです。こういう場でね。もう、MBSも、おたくみたいな頓珍漢な質問が出て、何がおかしいのかよく分かったんで。
 〇斉加 ありがとうございました。
 〇橋下 はい。
 <おわり。青太字は掲載者。忠実な再現に努めたが、聴き誤っている可能性か全くないとはいえない。>

1117/斉加尚代・毎日放送の5/11国歌斉唱問題特集の<偏向>。

 大阪のキー局の一つ・毎日放送(MBS)5/11の夕方、君が代斉唱条例・職務命令と「口元チェック」(とりわけ最後の職務命令順守の確認のための方法)について、<特集>が放送された。
 いくつかの点で、<政治的偏向>を感じざるをえない。
 第一。<口元チェックはやりすぎとする校長が26人で過半数にのぼった>との語り(ナレーション)があり、円グラフの赤色部分で「過半数」ぶりが紹介されている。
 もともと「府下の学校長の声を特集」との前振りで始まっていたのだが、「口元チェック」という方法について府下学校長(高校長かと思われる)164名に対してアンケートを取ったところ、44名から回答を得たのだ、という。
 そうすると、回答率は44/164で、約27%(弱)。このようなアンケート回収結果でもって、校長の「揺れ動く声」(女性アナの言葉)について、何がしかのことを語れるのだろうか??
 回答しなかった120名の中には、この問題に関して何も感じていない校長の他、毎日放送によるアンケート調査の意図そのものを疑問視した校長もいたかと思われる。
 そのような<声なき>校長(73%)を無視して、いったいいかほどのことを語りうるのか。この点がそもそも疑問だ。
 「26人で過半数にのぼった」と明瞭に述べていたが、総数の164名に対する割合は約16%(弱)にすぎない。
 おおよそ6人に1人なので、それでも多いかなという印象はあるが、少なくとも、「過半数(の校長)が」チェック方法を「やり過ぎ」だと考えている、と報道するのは、3/4ほどが回答していないことからすれば、強引すぎるし、すでに何がしかの<意図>を感じても不思議ではないだろう。
 第二。学校での日の丸・君が代問題の<歴史>について、次のような説明が(昔の映像とともに)ナレーションで語られた。
 「…軍国教育を反省する気運が教師たちの間で高まった。…〔文部省学習指導要領による国歌化等のあとも〕多くの教員が戦争の記憶を刻む君が代・日の丸が再び教育現場に持ち込まれることに抵抗感を示してきた。…」。
 現在の日本の中学校や高校の教科書には、戦後史の一部について、このように書かれているのだろうか。
 こうした説明・叙述は、歴史の一つの見方にすぎないと思われる。にもかかわらず、まるで客観的な事実のごとく紹介されている。
 いずれにせよ、「…気運が教師たちの間で高まった」、「多くの教員が…抵抗感を示してきた」ことに共感する立場で、この特集が作られたことが明確になっている。
 言うまでもなく、製作担当者の、毎日放送労働組合書記次長・斉加尚代の<歴史認識>、そして<(先の)戦争観>が示されているに他ならないだろう。
 第三。今年1月に出た最高裁判決(東京都での君が代斉唱職務命令合憲、制裁としての懲戒処分の程度は一定程度に制限)のうち、一裁判官の、次の意見の部分を取り出して、語りととともに、画面上に文章を大書した。
 「憲法学などの学説及び日本弁護士連合会等の法律家団体においては,君が代を起立して斉唱することを職務命令により強制することは憲法19条等に違反するという見解が大多数を占めていると思われる。確かに,この点に関して最高裁は異なる判断を示したが,こうした議論状況は一朝には変化しないであろう」。
 このMBSの特集は、そして斉加尚代は、この意見に共感ないし賛成し、あるいは勇気づけられて、この部分をとくに紹介したのだろう。
 上の部分は一部省略されていて、原文の当該箇所全体ではない。それはともかくとしても、番組では何ら紹介されなかったが、上の部分は、そもそも職務命令自体も違憲だとして5名中1名だけの反対意見を書いた、弁護士出身の裁判官・宮川光治のものだ。
 「君が代を起立して斉唱することを職務命令により強制することは憲法19条等に違反するという見解が大多数を占めている」のか否か、「こうした議論状況は一朝には変化しない」のかどうか、私には即断できない。
 だが、少なくとも、上のような見方は宮川光治という一裁判官の見方にすぎないのであり、これがまるで正しいもしくは適切だという保障は何もない。
 番組では「ある裁判官はむつかしさを指摘」しているとして上の部分を紹介したが、「むつかしさを指摘」しているのではなく、<国歌斉唱職務命令の強制は憲法19条等違反だとするのが法学界等では大多数だ>という認識が述べられており、それが法学界等では常識(大多数の見解)だとの印象を与えるものになっている。
 このあたりには、おそらくは斉加尚代の、巧妙なゴマカシがある。五名中四名は、つまり最高裁の裁判官という<法律の世界>の重要な人物たちは、国歌斉唱職務命令を合憲だとしたという重要な事実を、まるで忘れさせようとするかのごときものになっている。 
 巧妙な、そしてじつにいやらしい、偏向した番組作りだと思われる。
 さらに、(あらためて録画を見てみると)宮川裁判官の意見は「反対意見」であるにもかかわらず、画面には「補足意見」と書かれていた。明らかな間違いだ。この二つは、まるで意味が違う。
 5/08朝に橋下徹に質問されても国歌起立斉唱職務命令の発布機関を答えることができず、「教員委員長」などという、存在しない行政機関名まで出していた斉加尚代は、肝心の判決すらきちんと読んでおらず、誰かの紹介した要約的なものをそのまま安直に使ったのだろう。
 なお、上のように「反対意見」中に書いた、おそらくは日弁連推薦によると思われる最高裁裁判官、元弁護士の宮川光治は、名古屋大学法学部出身で、経歴からして、学生時代に憲法学を長谷川正安に学んでいる。そして、長谷川正安(現在は故人)は日本共産党員学者だったと見られ、マルクシズム法学入門(理論社、1952年)、憲法とマルクス主義法学(日本評論社、1985年)といった著書もあった。
 宮川光治は政治的活動団体でもある日弁連のほか、もともと長谷川正安等の日本共産党またはマルクス主義的学者の影響を受けていたのではないか、とも想定される。
 そのような宮川の「反対意見」の一部を、特集では、宮川の個人名も出さず、少数の(一名だけの)「反対意見」中のものだとも明瞭にしないまま放映したのだ。杜撰であるとともに、意図して<偏向させた>ものになっているようだ。
 第四。大阪府教育委員会が、某一校長の口元チェックを同委員会の職務命令の範囲内、または校長が行いうる職務命令順守のチェック方法として許容される範囲内であることを確認する場面が映し出された。この私の文章も不鮮明であるように、いったい何を教育委員会が許容したのだったのか、分かりづらい、曖昧な放送(放映)内容になっていた。
 このあたりにも、何らかの意図が働いている可能性がないとは言えないだろう。
 第五。橋下徹は教員の(上司による)職務命令順守の問題に焦点を当てようとしており、<思想良心の自由とは別々だ>と主張している、と司会者たちは紹介した。
 私は、斉加尚代との間の5/08朝のやりとりの映像も見たが、橋下徹は<思想良心の自由とは別だ>とか<思想良心の自由とは無関係だ>とは一言も明言していない。
 そのように解釈できるのかもしれないが、それはあくまで<解釈>にすぎず、橋下徹が明確にそう言ったかのごとき印象を与えており、虚偽の報道ぶりではないだろうか。ここにも、何らかの意図をもった<政治的偏向>が感じられる。
 第六。上の前に、口元チェックを当然とする校長一人と批判視する校長二人の発言または文章を紹介した。前者は文章も短く、後者は長い。明らかに後者に好意的に、後者に重点を置いて、番組作りがなされていた。
 第七。上(第五で言及した部分)の後に、職務命令と内心の自由または思想良心の自由とは切り離すことはできない旨の、高橋和之(明治大学。前東京大学)、山西義明(大阪弁護士会副会長)の発言をインタビュー画面とともに放映した。
 橋下徹は切り離そうとしている、という紹介のあとだから、当然に、二人は橋下徹の主張を批判した、という構成になっている。
 そのような構成になることに高橋らが事前に知っていたかも疑わしいが、その点はともかくとしても、高橋和之、山西美明とは異なる見解の持ち主も登場させないと、公平さを欠いているだろう。知るかぎりでは、国歌斉唱職務命令と「内心の自由」の関係について、百地章はこの二人とは異なる旨を産経新聞紙上に書いていた
 もともと、橋下徹が、斉唱職務命令と憲法19条等とが無関係(完全に別々のもの)と主張している、という番組の前提自体がおかしいとも言えるのだが。橋下徹は、斉加尚代との間の5/08朝のやりとりでは、憲法との関係は府教育委員会に訊いてほしい、と応答していたと記憶する。
 以上。
 斉加尚代と毎日放送は、橋下徹批判を意図して番組(特集)を作ろうとしたが、最後の本人のコメント取材のところで、斉加尚代の勉強不足・知識不足が露呈したものの、そして、何とか橋下徹との(同僚らとの間での)事前確認事項をぎりぎり守ろうとししつつも、その結果としてある程度は抑えつつも、基本的な部分では当初の企図どおりの番組にしたのではないか、と思われる。
 5/08の橋下徹への質問の前にすでに描いていたストーリーと取材・作成済みの映像等をおそらくは基本的には利用できたのではないか、と想像される。
 女性アナ(髙井美紀)が最後に「…今一度立ち戻ってみなさんと考える機会になればと思いとり上げた」とか述べたのは、白々しい。偽善丸出しのマスコミの現在を象徴している、とも言える。
 斉加尚代、およびこのような政治活動家を「飼っている」毎日放送(MBS)については、なお別に言及する機会を持ちたい。

 斉加尚代も有名になったものだ。朝日新聞の本多勝、松井やより(故人)、本田雅和、NHKの長井暁らに次ぐ、大阪から出たマスコミ界のスターになるだろうか。

1096/西村幸祐・「反日」の構造(文芸社文庫)と大手メディア。

 西村幸祐・「反日」の構造(文芸社文庫、2012.02)は同名の単行本(PHP)の文庫版だ。
 この人の書いていることには、<「反日」主義>なる概念がどの程度厳密なものとして通用するだろうか等の疑問はあるが(p.6-「反日というシステム」、p.25-「反日メカニズム」)、ほとんど違和感を覚えたことがない。
 文庫版のまえがき中の、「岩波書店、朝日新聞という戦後サヨクの牙城」、「NHKの偏向番組は非常に巧妙に作られて…」などの表現は、真似して使ってみたい。
 新たな「書き下ろし」とされる第一章中の、「共産主義」という「ヨーロッパの妖怪は完全に絶滅ししたわけではなく、まだ余命があったアジアの妖怪に転生し、乗り移っ」た、「アジアの妖怪たちは変異し獰猛に生き続け、北東アジアだけが二十世紀の遺物である冷戦構造に捉われることになってしまった」(p.21-22)、という文章は、まさに正しい認識を示すもので、多くの人々に共有されなければならない、と思われる。イデオロギーを軸にした保守対革新、左翼対右翼の時代ではもはやなくなったと、さかしらに言う者が少なくないが
(当然に、相対的には「左翼」の側に多い)、完璧に誤っている。
 自民党の森喜朗なども、冷戦終結・今や新時代という認識を持っているような感じだ。日本社会党に政権担当を期待できず、自民党が社会民主主義的政策をも採用せざるをえなかった、という日本特有の事情はあるが、本来の自民党等の<保守>=「反共」勢力は、1981-1991年の後に、徹底して「反共」攻撃をして、日本に執拗に残存していた、コミュニズム(共産主義)・および親コミュニズム(=「容共」)を潰しておくべきだったと思われる。にもかかわらず、もはや共産主義の敗北は誰にも明白だとでもいうふうに安心したのか、逆に油断してしまったかに見える。
 書いたことがあるように、また誰かも指摘していたように、共産主義・「容共」勢力<「左翼」が、昔ながらの公式的・教条的なマルクス主義またはマルクス・レーニン主義の用語を使って活動しているわけではない。もともと日本共産党自体が、「自由と民主主義」あるいは「平和と人権」を表向きは肯定し、その中に本来のコミュニズムを隠してきた(およそ1955年、1961年以降)。
 今日では、フェミニズム(「男女共同参画」)や<環境保護>派等々にかたちをかえ、さらに<反核>を継承した、大江健三郎らの<反原発>運動などへと「転生」している。
 そしてなるほど、彼ら「左翼」に共通しているのは、かつて日本はとくに(現在の)北東アジア諸国に道義的に悪いことをした、彼らの「反日」を非難するのは、<歴史を直視しようとしない>、偏狭なナショナリズムだ、とかの「反日迎合」主義かもしれない。
 西村幸祐はGHQ史観からの離脱をさせまいとする「オートマティカルな自己検閲機能」・「自己検閲」システムが日本のメディアに存在してきたことを指摘しつつ、次のように書く。基本的に同感だ。
 「六十年以上継続する検閲システムは、七〇年代までマルクス主義に補強され、八〇年代から新たな反日主義によってバージョンアップしたものだった」(p.32)。
 そして、「本来の<リベラル>な言論、思想をなりふりかまわず組織的に抑圧し、弾圧する<反日ファシズム>」が「左翼勢力によって形成されてきた」、とする(p.33)。
 そんなに大げさにあるいは深刻に考えなくとも、という能天気の人々も多いのだろうが、この指摘も(概念の厳密さは別として)正しいと思われる。
 能天気な人々は、基本的に<反日ファシズム>に支配された大手マスメディアによって「マインド・コントロール」をされているにすぎないだろう。
 前回に言及した、撃論+(プラス)の中の水島総の論考(「なぜチベット尼僧焼身抗議は報じられなかったのか)」は、そのタイトル通り、35歳のチベット尼僧の焼身抗議自殺を日本のメディアはほとんど報道しなかった(大きく取り上げたのは皆無だった)ということから書き始めている。
 NHKは最近、PAC3沖縄配備に反対する「百余名」の沖縄でのデモをニュースで取り上げたようだし、少し前には、アメリカでの「格差」反対デモを大きく紹介していた。しかし、自らを被告とする台湾人等の訴訟がらみの大規模なデモ行進を報道しないのはひょっとすれば当然かもしれないとしても、渋谷近辺で行われた日本国民等<数千名>による、尖閣問題・事件を契機とする<反中国>の集会・デモについては一回めはいっさい報道せず、二回目のそれは7時台ではなく9時台のそれで簡単に触れたにすぎなかった(2010年秋)。
 NHK自体が、すでに腐っている。ましてや民間テレビ局をや、だろう。さらに言えば、地方テレビ局は中央キー局が作った番組を垂れ流しているだけだ(ごく一部のローカルニュースを除いて)。
 西村幸祐の指摘の紹介も民間テレビ放送局批判もさらに続けたいが、今回はとりあえず、ここまで。

1082/宮脇淳子と西尾幹二全集と岡田英弘と。

 〇隔月刊・歴史通3月号(ワック)の巻頭随筆の最後に、「東洋史家」・宮脇淳子いわく、「…震災後、国家の指導的立場にある日本人の無能力と無責任さが暴露され続けているが、じつはNHKを筆頭とする大マスコミ、大学・学界も同じなのである」(p.3)。
 これはまったくそのとおりで、「大マスコミ」の中には民間放送局(テレビ局)のキー局(TBS等々)のみならず、それらの系列下にある各道府県の「地方」テレビ局も含むだろう。また、大手全国紙のみならず、産経新聞社が関係書物を出版していたが、通信社の配信情報に多くを(場合によっては社説まで)依存している「地方」新聞(社)についても言えるだろう。さらに、大手出版社も含めてよい。
 政治家や官僚の「無能力と無責任さ」を指弾しつつ、自分たちは「そこそこに」安住した現状に満足しているのではないか。「大学・学界」も含めて、「無能力と無責任さ」においては変わるところはないのではないか。一億総白痴・一億総無責任時代だ。それを忠実に反映しているのが現在の多くの政治家や官僚たちだ。
 新聞社や出版社はさておき、放送局(放送会社)は、「免許」制度に守られ、どんな不祥事を起こしても、いかほどに利潤が減少しても、「倒産」することはない(京都の近畿放送(ラジオ局)が戦後唯一の例外だっただろう)。この身分の安定さの点で、民放社員たちは公務員と何ら異ならない。
 NHK職員の「高給」ぶりが先立っての国会で話題になっていたが、公務員の給与の「高給」さをマスコミが批判しようとするならば、自らのテレビ局(上記のとおり中央・地方を含む)の会社員の平均年収(・基準年齢)をきちんと<情報公開>してからにしたらどうか。公務員(・その給与制度)に問題がないとは言わないが、民間テレビ局社員は「高給」取りではないのだろうか?? 自らの実態を語らずして、<官僚バッシング>をして大衆うけ?を狙うのは不誠実で卑劣な作法だ。
 民間放送(テレビ局)の実態については、まだ書きたいことが多いが、今回はこの程度に。
 〇「東洋史家」とは歴史学者の一種だろうから、日本史、とくに日本近現代史の研究者ほどではないにしても、マルクス主義または日本共産党の史観に影響を受けてきたと思われる。にもかかわらず、まだその著を読んだことはないものの、ワックが刊行の歴史雑誌に登場するとは珍しい、と感じてきた。
 その理由・背景が少しは理解できたのは、西尾幹二全集第1巻(第二回配本)(国書刊行会、2012)の「月報」を見ることによってだった。その中に岡田英弘が西尾に関する一文を寄せていて、「私の妻の宮脇淳子」という表現がある。岡田英弘の本もまた読んだことがないのだが(これは昨日にちらりと記したように、少なくとも共産党・中国のひどさは何となく想像可能だからだ)、産経新聞の「正論」欄にときどき執筆している岡田と宮脇淳子は夫婦なのだ。
 些細なことだが、宮脇はおそらく、学部を卒業してすぐに大学院生になったのではないのではないか。ひょっとすれば「東洋史」は別なのかもしれないし、大学や指導教師にもよるのかもしれないが、大まかにいって、日本の歴史学界(アカデミズム)には、入ってしまうと内部にいては分からないような「偏向」があると思われる。これは「歴史学」に限らない、日本の人文・社会科学分野の特徴でもあると思われるが、それはともかく、宮脇は必ずしもオーソドクスなキャリアを経てきているのではないだろうと推測される。
 ワックの出版物などに執筆していては、<白い羊の中の黒い羊>として仲間はずれにしてしまうのが日本の歴史学界なのではなかろうか(東洋史学は例外ならばけっこうなことだ)。
 そういえば、宮脇は「東洋史家」という肩書きだけで所属大学はないようだ。これが学界または大学の「思想(傾向)」差別によるものではなければよいのだが。個人的・家庭的な事情を詮索する意図はまったくない。
 しばしばあることだが、この欄に書き出すと、当初にイメージした内容と異なるものになってしまう。今回も同様だ。

1070/花田紀凱・橋下徹・東谷暁・西部邁(「表現者」)。

 〇前回に続いて花田紀凱の産経新聞連載「週刊誌ウォッチング」に触れると、12/17付(341回)は2011年前半の各月平均雑誌販売部数を紹介している。それによると、以下(100以下四捨五入)。
 ①週刊文春47.7万、②週刊現代38.4万、③週刊新潮38.4万、④週刊ポスト30.3万。
 私は週刊文春よりも同新潮派だったし、週刊現代よりも同ポスト派だったので、世間相場からすると<少数派>であることをあらためて(?)実感する。
 その他では、⑦週刊朝日15.1万、⑨アエラ9.5万、⑩サンデー毎日7.7万。
 これらの中間で経済誌が奮闘?していて、①日経ビジネス23.5万、②プレジデント17.5万、③週刊ダイヤモンド10.5万、④週刊東洋経済7.5万、らしい。
 月刊誌では月刊文藝春秋が42.1万とされる。
 なお、この欄の10/26で触れたが、撃論3号は、月刊WiLLは19万、月刊正論(産経)は実売2万以下、としている。

 〇人口あたりの読者数でいうと、大阪府や大阪市では週刊文春や週刊新潮は全国平均よりは多く読まれたとは思うが、これら二誌の橋下徹批判は選挙結果(当選者)に影響を与えなかった。

 だが、例えば大阪市長選での対立候補は前回よりも絶対得票数は増加させたらしいので、これら二誌の記事や日本共産党を筆頭とする「独裁」批判(あるいは自・民・共の共闘)は、ある程度は効を奏したというべきだろう。換言すれば、これらがなければ、橋下徹と平松某の得票数との間には、もっと差がついていたことになる。
 阿比留瑠比の最近の11/27の
文章(新聞記事に世論・社会を誘導する力はなく、逆に世論・社会の動向が新聞記事に反映されるとかの旨)にもかかわらず、マス・メディアの力を無視・軽視してはいけないと考えられる。書店・キオスク等で並ぶ週刊誌・新聞の表紙・一面等の見出しだけでも<雰囲気>・<イメージ>はある程度は変わる、と言うべきだ。
 〇橋下徹・大阪維新の会の主張・政策を無条件に支持しているわけでは、むろんない。
 <大阪都>構想自体曖昧なところがあるし、また曖昧ではなかったとしても議論・検討の余地は十分にあるものと思われる。<大阪都構想>という語自体にミス・リーディングを生むところがあり、より正確には<新大阪府・市関係構想>(全国一般論でいうと<新都道府県・政令市関係構想>)とでも言うべきなのだろうと思われる。
 また、すでに指摘があるように、大阪都構想は現在の都道府県制度を一つの前提にしているはずなのだが、橋下徹が次の総選挙の争点は<道州制>だ、というのも趣旨がはっきりしない。広域自治体としての都道府県制度を道州制に変えることを目指しているのだとすれば、<大阪都構想>とは矛盾していることになるだろう。
 もっとも、<大阪都構想>を実現したあとで<道州制>を、という時系列的な差異がイメージされているのだとすると、両立しないわけではない。
 だが、ともあれ、橋下徹を公務員労働組合や日教組・全教(教員の職員団体)がそろって攻撃し、労組(・連合)の支持を受けた民主党幹部(の例えば平野博文や輿石東)の橋下対応が他の政党幹部に比べて冷たかった、と報じられているように、橋下徹が反「左翼」の人物・政治家であることは疑いえない。そのことは、訪問先に社民党や日本共産党を選択していないことでも明らかだ。
 また、<地方主権>を謳っていた民主党支持を表明したことがあったり、民主党・小沢一郎と親しそうに?対談をするなど、教条的な<反左翼>主義者でもない柔軟さを持ち合わせていることも肯定的に評価されてよいものだろう(最後の点は無節操・融通無碍と批判する者もいるかもしれないが)。
 〇東谷暁は産経新聞12/14付で「地域独裁がもたらす脅威」と題して、実質的に橋下徹を批判している。あるいは、橋下徹を危険視して警戒すべき旨を書いている。
 東谷暁は、文藝春秋の「坂の上の雲」関係の臨時増刊号で年表作りを「監修」しているなど、器用?な人物だ。
 だが、そのことよりも興味深いのは、東谷暁とは、中島岳志と同じく、西部邁らを顧問とし、西部邁事務所が編集している隔月刊・表現者(ジョルダン)にしばしば登場して執筆している、「西部邁グループ」の一人だと目される、ということだ。
 中島岳志が(一面では朝日新聞・週刊金曜日と関係をもちつつ、「保守」の立場からとして)橋下徹を批判していたことはすでに言及した。
 この中島岳志という得体の知れない人物と同じく、東谷暁もまた橋下徹を(少なくとも)支持・歓迎できないことを明瞭に述べているわけだ。
 雑誌「表現者」または「西部邁グループ」は<保守か?>と題した文章を書いたことがたぶん数回あるだろう。
 あらためて思わざるをえない。雑誌「表現者」グループは(佐伯啓思も一員のようだが)はたして<保守なのか?>、と。
 西部邁はかつて共産党宣言を読むこともなく、東京大学入学後にすみやかに日本共産党入党を申込みに行ったらしい。
 そんなことは関係がないとしても、一般論として言うのだが、「保守主義」に関する知識を十分にもち、「保守」思想を上手に語れる<左翼>もいる、と考えておかねばならない。
 かつてコミンテルンのスパイだった者、あるいは二重スパイと言われたような者たちは、コミュニズムを信奉しつつも、その他の種々の思想・主義・考え方にも通暁していたものと思われる。
 だからこそ、相手にコミュニスト(共産主義者)だと微塵も気づかれることなく接近し、信頼を獲得でき、情報を入手・収集できたのだ。
 似たようなことは、現代の日本でも生じている、行われているはずだ。西部邁グループについて断定するつもりはないが、警戒・用心しておくにこしたことはない。

1069/花田紀凱・三重博一(新潮45)と大阪市長選・橋下徹

 〇週刊新潮(新潮社)と週刊文春(文藝春秋)がともに二週続けて、橋下徹の個人攻撃記事を載せたのは、10月下旬・11月上旬だった(11/03号、11/10号)。
 この連載を疑問視したのは、産経新聞紙上での花田紀凱「週刊誌ウォッチング」の連載で、花田の正当な感覚はきちんと記録され、記憶されてよいと思われる。
 花田紀凱は産経10/29付で「なぜ今?橋下徹大阪府知事の出問題特集」と題して、こう書いた。
 「『週刊文春』と『週刊新潮』(ともに11月3日号)が揃(そろ)って橋下徹大阪府知事の出自の問題を特集している。…/両誌ともほとんど同じ内容で、…というもの。/これまで書かれなかった出自のことが、なぜ今? なぜこのタイミングで?/府知事辞任、市長選出馬表明というこの時期を考えると、明らかにネガティブキャンペーンの一環としか見えないだいたい橋下知事の出自を問題にすることに何の意味があるのか。/しかも、この件は両誌に先行して『新潮45』11月号で、…ノンフィクション作家、上原善広氏がレポートしているのだ。/月刊誌署名記事の後追いという形でしか記事にできなかったところに週刊誌ジャーナリズムの衰弱を感じる。『文春』が上原レポートに一切触れていないのはフェアじゃない。…/両誌とも後味が極めてよくない。」

 花田は11/12付でもとくに週刊新潮を疑問視し、選挙後の12/03付でも、「未練がましく」橋下徹批判を続ける週刊新潮(12/08号)を皮肉っている。
 産経新聞その他の活字メディアは両週刊誌の(選挙直前の)報道ぶり・記事作りを明示的には何ら問題視せず、産経新聞ですら、対橋下「反独裁」キャンペーンに影響を受けた見出し・記事作りをしていたのだから、花田紀凱のジャーナリストとしての感覚は相当に鋭く、かつ、まっとうだ。マスコミにあった特定の雰囲気(空気)の中で、勇気があった、とも言える。
 〇情けなく、そしてヒドいのはとくに週刊新潮と新潮45(新潮社)だ。

 なかでも新潮45の12月号の「記者匿名座談会」(p.239-)は、いつか言及したマスコミ関係者の「うけねらい」意識を露骨に示している。「匿名」の内輪話?として、以下のようなことが活字にされている。
 ①新潮45の11月号は「増刷」になったので「乾杯」。②橋下徹伝は読ませた。③週刊新潮と週刊文春は「大特集ですぐに続いた」、「週刊誌らしい熱狂を久々に見た」、④だが、テレビのワイドショーは続かず、新聞も似たようなもの。⑤「橋下特集で『45』が増刷になったことを取り上げた新聞・テレビさえ、ほとんどなかった」。
 ①は「雑誌」記者らしいので、月刊新潮45の記者または編集長そのものの言葉だろう。「増刷」を他愛なく喜んでいるのだ。また、③・④のような<恨み節>を語らせて活字にしているのも、異様な感覚だろうと思われる。
 こんなことを語るか、語らせている新潮45の「編集兼発行者」・三重博一という人物は、(正義とか善とかにまるで関係なく)<売れればよい>・「うければよい」と考えていることを恥じも外聞もなく吐露している。新潮社にこんなことを明言してしまう編集者がいることは怖ろしいことだ。

 このような雑誌作りをしても、次号以降が従来よりも売れなかったら、一年・二年と長期的に見るとマイナスになるだろう。一冊の(一時的な?)「増刷」によって、「乾杯」と活字に残すほど喜んでいるとは驚いた。
 明確な政治的信条をもって、断固として橋下徹の市長選当選を阻止する方向で誌面作りをするのも一つの立場ではあろう。
 だが、上の座談会では、橋下が負けた場合は「半生記」を出せばよい、当選したら「ザ・ラストメイヤー(市長)」を書いてもらえる、などという無責任な発言を掲載しているくらいだから(p.240-241)、朝日新聞や岩波書店(の編集者)ほどの<信条>にもとづく橋下徹批判特集連載でもなかったようだ。
 要するに、<うけて>・<話題になる>、そして売れればよかったのだ。
 こんないいかげんな雑誌・出版社は「後味が悪い」(花田)し、気持ちが悪い。
 〇東谷暁は産経12/14付に、橋下徹批判(・警戒)と明確に読める一文を載せている。同日の遠藤浩一の「正論」は大阪市長選にも言及しているが、こちらはほとんど違和感なく読める。

 なお、櫻井よしこは週刊新潮誌上での連載や産経新聞紙上の「首相にもの申す」欄等で橋下徹(または大阪、「維新の会」)に論及する機会が最近にいくらでもあったと思われるにもかかわらず、いっさい触れていない。
 櫻井よしこは「日和見」していて、橋下徹に対する評価・判断をまだ下していないのだろう。この人の政治的感覚は、残念ながら(惜しいことに)信頼できない場合がある。
 以上の三点(三人)については、機会があれば、再び言及する。

1068/新潮社(新潮45)・野田正彰・三重博一と2011大阪市長選。

 一地方自治体の首長選挙であるにもかかわらず、月刊・新潮45(新潮社)は、特定の候補(またはその予定者)の批判(・攻撃)を特集として二号続けた。このこと自体がすでにいぶかしげに感じさせるものだが、内容もヒドかった。
 橋下徹が当選したからよかったものの、同候補が僅差ででも敗れて、その原因が新潮45や週刊新潮(新潮社)等(・「バカ文春」)の記事にあった可能性があるという総括または分析が出ていたとすると、今回の新潮社(の一部?)の編集方針は、マスコミ史に残る<大スキャンダル>として記憶され続けることになったのではなかろうか。<出自>を問題にしたマスメディアが選挙結果に与えたことになってしまっていた可能性があるのだ(これはじつに深刻な問題で、マスコミ関係者はもっと議論・総括すべきだ)。
 週刊文春よりは週刊新潮を(そして週刊現代よりは週刊ポストを)しばしば読んできたが、また、佐伯啓思の連載が始まった以降に新潮45にも目を通すようになったが、本来は文芸中心のはずのこの出版社に対する態度・評価は改めなければならないと思っている。
 以下は、断片的な覚え書きの一つ。
 月刊・新潮45の12月号(2011.11)には、野田正彰「前大阪府知事はやっぱり『病気』である」が掲載されている(p.26-)。
 野田正彰によると、橋下徹は「演技性人格障害」という病気に罹患しているらしい。そして、野田は言う。
 「演技性人格障害者だからといって、個人として非難ざれべきだ」とは言わない。だが、「この様な人が大阪府や大阪市の政治をもてあそび、独裁宣言までして破壊しようとしている」。このような人格(障害者)が「政治や司法の場で活動してはならない」。私たちはそれに気づく必要があるから、「あえて書いている」のだ(p.30)。

 野田は「司法」まで持ち出している。橋下徹の弁護士としての活動資格についても疑問視(または否定)しているようだが、この点は、さて措く。
 上の文章で呆れてしまうのは、長々と橋下の「人格」分析をして病名を「発見」したあとで、橋下徹について、「大阪府や大阪市の政治をもてあそび、独裁宣言までして破壊しようとしている」という短い一文だけでまとめてしまっていることだ。
 「…の政治をもてあそび」とは具体的に何を言うのか、もっと具体的かつ詳細な叙述がないと、まるで説得力はない。
 また、「独裁宣言までして」と書いているが、橋下の<独裁>宣言なるものの全文を正確に読んだ(聞いた)上でこう書いているのか、きわめて疑わしい。
 特定の政治的な判断(投票・選挙)がなされる前に、かつそのような政治的行動に関係し、影響を与える可能性のある文章を、いや正確に言えば影響を与えることを意図した文章を、日本全国で販売される月刊誌の一つに執筆することは、相当に「勇気」の要ることだ。
 そのような「勇気」をもって書かれた文章が、要するに人格障害者が「大阪府や大阪市の政治をもてあそび、独裁宣言までして破壊しようとしている」、というだけの内容であるとは情けない。
 上のような政治的意図をもつ上のような程度の文章を月刊雑誌にあえて執筆して、読者の政治的判断を特定方向に誘導しようとしてすることは、専門家ではないから正確な病名は分からないが、まさに精神的・人格的「病気」だ、というにふさわしい。
 上掲雑誌に記載されていないが、ネット情報によると、野田正彰は関西学院大学教授で、国歌(君が代)斉唱にかかわる東京都教員が原告の訴訟で原告側に立って、原告らは「君が代症候群」といえる精神的苦痛を受けていると証言したらしい。
 また、野田正彰は、<念仏者九条の会>(「本願寺九条の会」の改称)の呼びかけ人の一人で、「自衛隊はインド洋やイラクに派兵され、すでに解釈『改憲』によって憲法は死に体に近い状態です。……憲法第九条の改悪に反対の声を上げます」なとという文章を発表している。
 <医療九条の会>や<山形県九条連>などで講演したりもしている。
 一部にすぎないだろうが、野田正彰とは、かくのごとくれっきとした「左翼」(かつ少なくとも親日本共産党)の立場の人物なのだ。
 専門家ぶって人格分析などと<工夫>してはいるが、野田正彰の橋下攻撃の根っこには、<反・反共>主義(という一種の「思想の病気」)があることが透けてみえる。
 このような人物の文章を掲載する新潮45の編集者(編集兼発行者は三重博一)の愚かさについては、また書くことがあるだろう。

1060/猪木武徳・戦後世界経済史(中公新書)を一部読む。

 猪木武徳・戦後世界経済史―自由と平等の観点から(中公新書、2009)p.372以下の要約的紹介。
 ・近代化の一側面は「平等化」で、万人の「法の前の平等」は、「近代社会」の「偉大な成果」だった。しかし、そこに「奇妙な論理のすり替え」が起こる可能性を看過すべきではない。人は法の前で「平等であるべき」なのであり、「事実として人間の有様が同じ」なのではない。しかし、「『真』の理想に燃える『社会哲学』」は、人は「平等であってしかるべきだという考えを押し広め」た。
 「平等」への情熱は「自由」のそれよりも「はるかに強い」もので、既得の「自由の価値」は容易には理解されないが、「平等の利益」は簡単に感得される。「自由の擁護」と異なり、「平等の利益の享受」には努力は不要だ。「平等を味わう」には「ただ生きていさえすればよい」(トクヴィル)。
 ・だが、「平等は自由の犠牲において」実現することが多い。すべての人が「自由かつ平等な社会」は「夢想でありフィクション」にすぎない。平等をめざして自由が失われ、自由に溢れた社会では平等保障がないことは「過去二〇〇年の世界の歴史」が明らかにした。
 ・「デモクラシーの社会」には多様で複雑な課題があり、新しい価値選択を迫られるが、それには「高度の専門性」が必要であるにもかかわらず、一般国民、そして政治家に十分な知識があるというのは「フィクションに近い」。このフィクションを「メディアや一部の啓蒙家」が補正するのは限界がある。したがって、「問題に対する理解」が不十分ならば、「最終的判断のベース自体があやしい」ものになる。
 民主国家に重要な、国民による「倫理的に善い選択」には「十分な知識と情報が必要」だ。難問を処理する「倫理」を確かなものにするには「知性と情報が不可欠」なのだ。
 ・トクヴィルのアポリア(難問)=「平等化の進展は自由の浸蝕を生む」は「人的資本の低い国に起こる可能性が大きい」。この「人的資本」の重要な構成要素は「市民道徳を中心とした『知徳』」だ。かかる意味で、「人的資本の蓄積の不十分な」=「知徳の水準が不十分な」国でのデモクラシーは「全体による全体の支配」を生み出しやすい。
 これは経済的後進国のみを指しているのではなく、「日本のような経済の先進国でも、市民文化や国民の教育内容が劣化してゆけば、経済のパフォーマンス自体も瞬く間に貧弱になる危険性を示唆して」いる。
 以上。なかなか示唆に富む。
 最後の部分を表現し直すと、「人的資本」、すなわち市民道徳・倫理(「知徳」)の水準が低下していくと、民主主義国も「全体による全体の支配」を生み出す傾向があり、日本についても例外ではない、ということでもあろう。
 そうであるとして、日本においてそのような<全体主義>へと近づく「人的資本」の劣化をもたらしているのは、いったい何なのか?
 教育であり家庭であり…、ということになろうが、「一億総白痴化」を実際にもたらした<テレビ>を含む、大衆に媚びる、「知徳」の欠乏した、戦後の<マスコミ>も重要な一つに違いない。
 石原慎太郎・新堕落論(新潮新書、2011)も読み終えているが、日本人の「堕落」の原因をしっかりと剔抉する必要がある。
 なお、石原慎太郎によれば、例えば、戦後の日本人の心性の基軸は「あてがい扶持の平和に培われた平和の毒、物欲、金銭欲」で、日本人が追求し政治も迎合している「価値、目的」とは国民各自の「我欲」で、我欲とは「金銭欲、物欲、性欲」だ(p.40-41)。
 こうした「我欲」に満ちた、「市民道徳」を失いつつある日本国民に、<全体主義>化を抑止するだけの「知徳」をもつことを期待できるだろうか。「テレビ局」をはじめとする大手マスコミは、逆に、日本人の「我欲」追求を助長している大犯罪者なのではないか。

1054/三橋貴明・大マスコミ/疑惑の報道(2011.09)より。

 何らかの雑誌論考・新聞記事・単行本等の内容を素材にして何らかのコメントを書いてきているが、読書録的な利用を意図すると言いつつも、コメントの内容がある程度はイメージできてからでないと、この欄に書き込もうとはしなかった。
 コメントの文章化にはある程度の時間とエネルギーを要するので、コメントがいっさいない、紹介だけのエントリーもすることにした。
 コメントしたくなるのは、多くは批判的・消極的な感想を持った場合なので、コメントを全くしないのは、多くの場合、肯定的・積極的に評価している文章等だ、ということになるだろう。
 〇三橋貴明・大マスコミ/疑惑の報道(飛鳥新社、2011.09)より。
 ・田母神俊雄が会長の…は、昨年9月7日の尖閣衝突事件への抗議行動として「一〇月一六日に東京都内で反中国の大規模デモを実施した」。主催者発表で3000人超の国民が参加したが、「読売新聞、毎日新聞、日経新聞は一切報じなかった」。
 上の三紙は、この集会・デモに対する「『中国外務省の懸念』のみを報じた」。
 「国内の報道機関が『国内の事件』についてまともに報じず、それを『外国人』の発言により知る。これは、報道統制が行われていた、かつてのソ連や東欧の状況そのままである」。

 「かつての共産独裁国家と同じ状況が、……日本で生まれてしまった。……政府に命じられたためではない。マスコミ自ら、共産独裁国家と同様の報道統制を行ったわけだ」。(以上、p.23-26)。
 ・「日本の新聞各社は『新聞特殊指定』という政府の規制により守られている。…マスコミ式『護送船団方式』というわけである」。金融機関のそれを散々に批判していたが、「そういう自らも政府におんぶ抱っこで生き残りを図っているわけである」。
 だが、「護送船団方式という意味では、新聞産業よりもテレビ産業の方が凄まじい」。放送免許という「規制」により保護され「既得権の電波を利用して収益を上げているテレビ局」が報道番組で、日本は市場競争不足、政治家の既得権つぶせ等と論じているのだから、「もはや笑うしかない」。「日本国内で最も『国家の保護』を受けている産業は、間違いなくマスコミなのである」。(以上、p.43-44)。

1051/月刊WiLLと屋山太郎は「保守」か?

 〇先の日曜日(10/23)に手に入れた撃論第3号(オークラ出版、発行日付は2011.11.18)は、背表紙に「月刊誌『WiLL』は日本の国益に合致するか」とあって、凄まじい。
 但し、この背表紙に明らかに即した論考は、月刊WiLL誌上等で「脱原発」を主張する西尾幹二を批判する中川八洋のものくらい(p.86-)で、「月刊誌『WiLL』は、日本の国益に合致するか」と題する二頁の「編集部」の文章が最も即している(p.74-75)。この雑誌の編集人は「三田浩生」となっている(奥付p.184)。
 この文章によると、①月刊WiLLが「国益」を度外視した「商売至上主義の雑誌だとすれば」、「保守」でない。②月刊WiLLは「民族系の読者層をターゲットに絞っているだけ」でないか。③月刊WiLLは、菅直人・孫正義らの「脱原発」路線に編集方針をシフトさせ、「悪魔の脱原発」を批難しない。例として、西尾幹二・小林よしのりの論考・漫画の掲載、「マルキスト武田邦彦」の議論の「絶賛」、太陽光発電の欠陥を理解しない「超バカ」辛坊治郎の「もちあげ」等。④月刊WiLLは「反左翼イデオロギー」を持たない「日本の民族系」の欠陥に着目して(国家解体・亡国の)「アナーキズム」へと「巧みに誘導」している(p.74-75)。
 この文章の基本的主張およびこの雑誌の編集方針は「原発の推進」による「安定的で潤沢な電力供給」(→日本経済の発展・成長)のようだ。そしてこの観点から、菅直人・武田邦彦らを批判している高田純の論考(p.76-)も、<反月刊WiLL>特集?の一環と位置づけられているらしい。
 原発問題は私には「分からない」としか言いようがなく、従って脱原発=非保守とはただちに断じ難い。また、月刊WiLLが全体として「反左翼」性のない、非「保守」の雑誌だとは感じていない。
 だが、月刊WiLLに何やらいかがわしい部分、あるいは「非保守=左翼」的部分を感じてきたことはある。
 月刊WiLLだけではないが、反雅子皇太子妃の西尾幹二らの文章を掲載して大きく宣伝したのは月刊WiLLだった。小林よしのりを近年登場させているが、彼の最近の主張内容は「保守」か否か以前のレベルにあるように思える。
 何よりも、2009年に民主党支持を明確にしていた屋山太郎の文章を依然として巻頭コラムの一つとして使い続けているのは、きわめて疑問だ。月刊WiLL誌上で相も変わらず「天下り根絶」と叫び続けている屋山太郎は、もはや客観的状況の全体を見ることのできない、「非・保守」の論?者だと思われる。
 また、勝谷誠彦もそうなのだが、元文藝春秋グループの一人・花田紀凱(月刊WiLL編集長)は、「ジャーナリスティックな」勘は鋭いが、主義と商売とどちらを大切にするのだろうと不安にさせるところがある。商売上手、話題作りの巧さは「保守」派にも必要だが、商売上手・話題作りの巧さが「保守」性を証明するわけではむろんない。
 ところで、撃論「編集部」の上の文章によると、月刊WiLLの販売部数は月平均約10万部、産経新聞社の月刊正論は実売2万部以下、らしい。「保守」派雑誌の代表らしき月刊正論よりも5倍も売れているとは驚いた(事実とすればだが)。産経新聞社・月刊正論は、執筆者の選考等を再検討してみる必要があるのではないか。
 むろん、前回に書いたように40万部ですら有権者の1%程度にしか読まれていないのだから、10万や2万程度で、社会・政治全体が大きく変わることはありえない(これらの雑誌の全国紙への見出し等の大きな宣伝広告の方が影響力があるかもしれないとすら思う)。
 これは月刊WiLLについても同じだが、月刊正論の常連の執筆者だからといって、「保守」の世界での有名人だなどと威張っている者がいるとすれば、バカだ。
 〇櫻井よしこ代表の国家基本問題研究所は、依然として屋山太郎を「理事」として遇し続けている。この人物を「つまみ出す」ことができないような団体は、もはや<保守>派とは言えないのではないか。
 産経新聞は代表・櫻井よしこを重用し、「正論」執筆者グループの中に田久保忠衛(副理事長)や屋山太郎も加えている。産経新聞自体、その「保守」性は完全なものではない。広く「保守」を結集する(させる)のはよいが(西尾幹二も産経にときどき書いている)、屋山太郎の起用だけは大いに疑問だ。遅くとも2009年以降、自民党よりも(「左翼・反日」の)民主党を支持し続けている人物が「保守」と言えるのか?
 3/11以降の「正論」欄に憲法改正の必要性を(たぶん非常事態対処との関連で)主張する文章が載っていたが、いかほどの「現実」感覚があるのか、疑わしい。憲法改正の必要性は百も承知だが、それが可能な「現実」的政治状態(要するに国会内の状況)であるのか、そしてまた、憲法改正の必要性を論じるのではなく、重要なのは、いかにして国会内に2/3以上の憲法改正賛同勢力を創り出すか、だろう。その課題・戦略に触れない憲法改正必要論など、ほとんど無意味だと思われる。

 ところで、中山成彬を会長とする「国想う在野議員の会」のウェブサイトを見ていると、「文化人及び有識者の応援団」((2010年4月20日現在)として、青山繁晴、潮匡人、田母神俊雄、百地章、国家基本問題研究所の理事を辞めている中西輝政ら28人の名があった。
 屋山太郎が除かれているのは結構なことだ。但し、田久保忠衛と花田紀凱の名もある。とくに後者にやや驚く。花田紀凱とは、さほどに政治的・実践的な関与のできる人物なのか、と。花田が28名の中で違和感なく存在しているとすれば、月刊WiLLは「基本的には」、「保守」派の雑誌だと思うのだが、これは(撃論編集部に非難される)買いかぶりだろうか。
 八木秀次・渡部昇一の名もあり、やや気になるが、この二人については今回は省略する。 

1050/岩波書店・丸谷才一とNHK・坂の上の雲。

 〇<三角地帯>のうち論壇とマスコミに深く関係し、ひいては教育にも影響を与えている「左翼」の司令塔・参謀(戦略)塔の重要な一つは、朝日新聞とともに、岩波「書店」という組織だ。
 その岩波が出している宣伝用小冊子(但し、いちおう定価は付いている)に、『図書』というのがある。その『図書』の2011年10月号で、丸谷才一は次のようなことを書いている(連載の一部らしい)。
 ・「明治政府が、東アジアに領土を拡張しようとする方針」からして天皇の神格化・軍事の重視をしたとき、「軟弱な平安時代」よりも「飛鳥時代と奈良時代」に規範を求めた。これが、正岡子規による「万葉集」の礼賛(文学)、岡倉天心による飛鳥・奈良美術の「発見」(美術)へと作用した。
 ・「もともと、病身なのに従軍記者になって戦地におもむくような子規の軍国主義好きが、親友夏目漱石の徴兵忌避と好対照をなす……」(以上、p.32)。
 最終的には正岡子規による(当時までの日本の)歌・和歌の評価は適切ではない、ということを書きたいようだ。この点と上の前段全体の明治政府の文化政策と子規等との関係については、知識もないので、さておく。
 気になるのは、第一に明治政府は「東アジアに領土を拡張しようとする方針」を持っていたとだけサラリと書いて、そのように断定してしまっていることだ。西洋列強・ロシアとの関係や当時の東アジア諸国の状況などはこの人物の頭の中にないのかもしれない。
 第二に、「もともと、病身なのに従軍記者になって戦地におもむくような子規の軍国主義好き」という、正岡子規についての形容だ。
 日清・日露戦争の時代、「軍国主義」とか「軍国主義好き」などという概念は成立していたのだろうか。また、言葉・概念には厳密であってしかるべき文芸評論家が、こんなふうに簡単に子規の人物評価をしてしまってよいのだろうか。さらに、日清・日露戦争の日本の勝利(少なくとも敗戦回避)を、丸谷は「悪」だったと理解しているように読めるが(「軍国主義好き」という言葉の使い方)、それは、講座派マルクス主義または日本共産党の歴史観そのものではないか。
 ちょうどNHKで「坂の上の雲」の第三回め(三年め)の放映も近づいているようで、丸谷才一は、この時期に正岡子規にケチを付けておきたかったのかもしれない。
 正岡子規自体の正確な評価・論評に関心があるのではない。「…子規の軍国主義好き」という丸谷才一の表現に、単純な「軍国主義嫌い」を感じて、素朴な(かつ骨身に染みこんでいるのだろう)「左翼」情緒の吐露を読んだ気がしたのだ。
 丸谷才一について詳しくは知らない(評論家だが小説を書いたらしく、一度店頭で読みかけたが、読み続ける気にならなかった)。だが、
パージまたは(人物・論考等の内容の)事前チェックの厳しい「左翼」司令塔・参謀塔の岩波の冊子に連載しているのだから、歴然たる「左翼」評論家なのだろう。たまたまだろうが、『図書』の上掲号には大江健三郎の文章も載っている。
 数十頁の冊子においてすら、岩波は「左翼」活動をしているのだ。
 ついでに。夏目漱石の「徴兵忌避」を好意的に書いているが、従軍記者どころか軍人そのものだった森鴎外の小説・文学作品は、丸谷才一によると、「軍国主義」的そのものなのだろう。丸谷による子規についての論述の仕方からすると、そのような「文学」評価になるはずだ。そうではないか?
 〇司馬遼太郎や「坂の上の雲」は商売になりやすい(売れる)らしく、朝日新聞社もよくこれらを扱うが、文藝春秋も再び文藝春秋12月臨時増刊号『「坂の上の雲」・日本人の勇気』を出している(2011.10)。
 個々の論考・記事にいちいち言及しない(カラーページに櫻井よしこが姿を登場させ一文を載せている)。以下の叙述を読んで驚いた。
 ロシアの「外交」の学者か学生(博士課程)らしいS・フルツカヤの一文(タイトル省略)の中にこうある。
 「NHKはこのドラマに込めた主要なメッセージをプレスリリースで発表している。『我々は広大無限な人間ドラマを描き、…日本人の特性の本質を表そうとした。しかし同時に私たちは戦争には否定的である点を決して忘れず強調している。反『軍国主義』こそ、このドラマの主要な思想である』」(p.89)。
 NHKのプレスリリースなるものをネット上で現在確認できるのかどうかは知らず、上を事実として以下を述べる。
 このNHKの上掲作品・ドラマ造りの意図は、少なくとも原作者・司馬遼太郎のそれとは合致していない。司馬は左・右双方から批判されているが、「坂の上の雲」を「反・軍国主義」を「主要な思想」として書いたのではないことは明らかだろう。全体として、軍国主義・反軍国主義などという「イデオロギー」(?)とは別の、より高い次元でこの作品は書かれていると思われる。
 NHKは「右」からの批判に対しては無視するか軽視するが、「軍国主義的だ」、「軍国主義称揚だ」などの「左」からの批判には神経質で、気にしているのだろう(なぜか。NHK自体が「左翼」陣営に属している、あるいは「左傾」化しているからだ)。
 司馬遼太郎は「坂の上の雲」のドラマ化・映画化を「軍国主義(肯定)的」と理解されるのを嫌って、それを許さなかったとも言われる。
 しかし、それはむろん、司馬遼太郎が「反・軍国主義」思想をもってこの作品を書いたことの証左になるわけではない。
 NHKは、あるいはNHKのこのドラマ制作者たちは、原作者の意図から離れた、原著作とは異なる「思想」を持ち込もうとしている、としか思えない。
 これまでのドラマを丁寧に見ていないので再述できないが、月刊正論か月刊WiLLあたりで、原作にはない場面を「捏造」した、「反(・非)戦」思想を肯定するような場面があるという指摘を読んだことがある。
 何と「左」に弱いNHKだろうか。「反(・非)戦」的な部分をあえて挿入して「左翼」陣営からの批判を弱めたいのだろうと推察される。むろん、NHK自体の体質が「左傾化」しており、ドラマ制作者もまたその体質の中にいる(同じ体質をもっている)からに他ならないだろう。
 「マスコミ」に対する「左翼」の支配は、単純で見やすい形ではなく、巧妙な方法・過程をとって、わが「公共」放送局にまで及んでいる。
 なお、「反軍国主義」なるものが当然に正しいまたは善であるかのごとき考え方が蔓延しており、NHKの上の文章もその一つかもしれない。しかし、一般的にこのように言ってしまってはいけない。
 <防衛(自衛)戦争>は「悪」・「邪」なのか?? 「反・軍国主義」を是とし、「反戦」、「反戦がどうして悪い」と簡単に言う者は、上の??にまずきちんと答えなければならない。 

1048/「保守」派の言論活動の意味?

 〇中西輝政は、<教育・マスコミ・論壇>という「日本左派」の「鉄の三角地帯」について語っている(同・強い日本をめざす道p.173(PHP、2011))。
 この教育・マスコミ・論壇という<三角地帯>のいずれにおいても、「左翼」が強固であり、「保守」は敗北している旨を語っている。
 おそらくそのとおりで、「保守」派を自認する者は、まずは上の事実のしっかりとした自覚をする必要があるだろう。中西の表現によると、「日本の保守は、自分たちが敗者であることを『徹底的に』認め…」なければならない(同上p.173-4)。
 「左翼」の中にもいるが、「保守」の中にも、(保守の場合は保守的な)マスコミ・論壇の中である程度の位置を占め、ある程度の「名声?」を獲得し、あるいは「そこそこに」経済的利益を得て、それでとりあえず満足してしまっている者も少なくないのではあるまいか。
 現状をいかほどに深刻に憂えて言論活動を行っているのだろうか。高年齢の人もいるのだが、晩年の「名前?」の維持、小遣い稼ぎの程度の感覚で文章を執筆している者もいるのではないか(ちなみに、産経新聞の「正論」欄は、執筆者の平均年齢が高すぎる)。
 「保守」派とされる産経新聞だが、そしてそれだけで朝日新聞や毎日新聞よりはマシなのだが、しかし、産経新聞社も企業体として利潤を得る必要がある。そこから、「そこそこに」利益を上げればいい、勝利・敗北などは直接の関係がない、世の中がどうなろうが「そこそこに」売れて、儲かればよい、という感覚が、論説委員・編集者や記者たちに生じてはいないだろうか。
 〇中西輝政は、「正直いって個人的には耐え難いほどの無力感を感じている」と書いてもいる(同上p.4)。これは正直で率直な感覚だと思う。
 一方で中西は、「個人的な感慨を乗り越えて、人々の奮起を促すことも、…大切な責務だと自らに言い聞かせている」とも書く(同)。
 この後者は考えさせるところがある。つまり、<政治的>要素を含む言論活動とは、いったいいかなる種類・性格の営為なのか、ということを考えさせる。
 中西輝政は「個人的な感慨を乗り越えて」と書くが、後者の意味するところは、個人的には感じる客観的な想定・予測よりも、読者の「奮起を促す」ための(客観性がより乏しい)「煽動」文書を書く必要もある、ということではないか。是非・善悪を問題にしているのではなく、むしろそのような言論活動も当然にありうるものと承知したい。
 いろいろな論者があれこれの言論を行っているが、いったいそれはいかなる種類・性格のものなのか。
 「客観的」事実を叙述して、積極的または消極的に、あるいは期待的または警告的にコメントするなどして、自らの(実践的な)立場・見解を述べる、というのが相場だろう。こうした作業は重要ではあるが、しかし、論点によっては、あるいは媒体メディア(雑誌を含む)によっては、また言っている、という「保守」派の世界では当然視される、つまりは批判を受けずに安心しておられる、安全な作業である場合もあるだろう。
 「客観的」で詳細な事実の叙述が長くて、そのこと自体が重要な価値を持つこともあれば、執筆者の主張・見解がいま一つはっきりしない、という論考もときにはある。
 唐突にやや離れるが、「保守」派とも言われる(但し、中川八洋は厳しく論難している)福田和也の毎週または毎月の多数の連載は、いったい何を目的にしているのだろう、何を主張したいのだろう、と感じさせるところがある(一冊の本にまとめられて初めてそれが分かるのかもしれないが)。
 〇すでにいつか言及したはずだが、西尾幹二が、何かの彼の本の中で<言論の無力さ>を痛感する旨を書いていた。中西輝政の上記の本の中にも同旨は見られる。西尾幹二や中西輝政ですらそうなのだから、秋月瑛二が無力感を感じても当然だ。一銭にもならない、所詮は自己満足の作業なのだが、無償でもときに無性に(?)何か書きたくなることはあるので、この欄を閉じてしまうのはやめておこう。

1013/竹内洋の「テレビ支配社会」と渡辺えり子・6/23NHKニュース。

 一 月刊正論7月号(産経)の竹内洋「(続)革新幻想の戦後史」は最終回。その最後の前の段落のタイトルは「幻想としての大衆とテレビクラシー」だ。そして、「エリート」・「知識人」は溶解しこれらの対概念の「大衆」も実体を喪失しているが、「想像された」・「幻想」としての大衆が猛威をふるっている、そのような大衆は「テレビカメラ」そのもので(「現代の大衆や知識人は…大衆幻想に媒介されたメディア大衆であり、メディア知識人」で)、「メタ大衆」を表象し代表する「テレビ文化人」によって「大衆的正当化」=「テレビ的正統性」の強化がなされ、「デレビクラシー」(テレビ支配)社会になる、等々と述べている。「滅びへの道」と題する最後の段落の最後の文章は、「幻想としての大衆にひきずられ劣化する大衆社会」によって日本は滅ぼうとしているのではないか、という旨だ。
 二 かつて大宅壮一はテレビによる<一億総白痴化>を予想したが、それを超えて、(日本のテレビ局は総体として日本の)社会と国家を解体しようとしている。
 戦後の悪弊の最大のものは、コマーシャル料で経営する民間放送会社かもしれない。この民放問題は別の機会にまた触れる。
 NHKも含めたテレビの影響力の大きさは、有権者の政治(・投票)行動への誘導力を見ても明らかで、それはほとんどのテレビ局が大手新聞社と(資本的・経営的にも)密接な関係にある、ということによって拡幅されている。
 NHK・全国的民間放送会社・大手全国紙の<政治>関係番組・記事に関与しているのはいったいどのような(政治的)素養・見識をもった者たちなのか。よくも悪くも、日本のこれまでの戦後・現在・将来はこの点にかかっているとすら感じる。
 むろん新聞社と結びついたテレビ局の違いは多少ともある。大まかにいって、テレビ朝日・朝日新聞やTBS・毎日新聞と、フジ・産経、日テレ・読売とでは傾向が同じでないことは、少しは見比べて(読み比べて)いると、分かってしまう。
 出てくる「テレビ文化人」にも違いかある。例えば、TBS系の日曜夜10時頃の報道系番組には、現在でも、渡辺えり子という女優(・劇作家?)が出ている。
 この渡辺えり子は、まだ鳩山由紀夫内閣の頃、<民主党政権は「国民」が作ったのだから、「国民」は暖かく見守り、育てていくようにしなければならないのではないか>とか(正確には記憶していないが)の旨を単純に(浅はかにも?)堂々と語っていた。

 なぜこんな人物を数人しかいないコメンテイター・「テレビ文化人」の一人にしたのかと訝ったものだが、のちに知ったところでは、渡辺えり子とは、吉永小百合等とともに、岩波ブックレット・憲法を変えて…という世の中にしないための18人の発言(岩波、2005)に出ている18人の一人(吉永小百合の他に、姜尚中・井上ひさし・井筒和幸・香山リカ等々)で、「憲法が最後の砦」、「戦争をしないという憲法を守れなかったら、もう世界共倒れです」ということを、浅はかにも?「反戦活動家じゃなくたって誰でも思う普通のこと」と付記しつつ書いているような人物だった(上掲ブックレットp.55)。日本共産党系の<九条の会>呼びかけ賛同者だろう。
 このような<思想(ないし信条)あるいは憲法観>を持っている人物だからこそ、おそらくはTBSの担当者はコメンテイターに起用したのだろう。
 最近はメインが北野たけしに代わったようで、「渡辺」色は強くは出ていないようにも見えるが(毎回観るヒマはない)、上のような人物を平気であえて起用するという<政治傾向>を持っているのがTBSだ、という印象に間違いはないと思われる(いちいち触れないが、土曜6時からの金平茂紀もじつはかなり露骨な(じっくりとニュアンスを感知しないと分かりにくいが)「左翼」信条の持ち主(政治活動家)だ)。
 あらためて述べるのも新鮮味はないが、このように、GHQ史観に基本的に立つ<日本国憲法体制>の擁護者、戦後<平和と民主主義>イデオロギーの信奉者、そして親中国・親「社会主義」・反国家・「反日」心情者が支配する放送局・新聞社が強い力をもって<体制化>し、多数派を形成していると見られることを、深刻かつ悲痛な思いで、<戦後レジーム>解体派=<保守>は認識しておく必要があろう。
 三 こと歴史認識に関するかぎり、あるいは「戦争」に関連するかぎり、NHKもまた、明瞭に「左翼」だ。田母神俊雄論文事件の際に<左翼ファシズム>の形成・存在を感じたが、NHKも、その一角を担っている。
 6/23の夜9時からのNHKニュースもひどかった。
 かつての沖縄での戦争(地上戦)による被害・戦没者問題と、現在の米軍基地の存在とをつなげて、まるで米軍基地の存在が「平和」=善ではなく「戦争」=悪に接近するものだということを前提とするような報道ぶりだった。それは、かつて1945年に姉を失い、戦後は米軍基地によって苦労させられたという話を、特定の同じ一人の人物に長々と語らせていた(または紹介していた)ことでも明瞭だ。NHKがあえて取材対象として一人だけ選択したその人物は、姉を殺した(米軍との)戦争を憎み、引き続いて、沖縄に駐留し続けている米軍をも嫌悪している。NHKはその人に<共感>を寄せて紹介し、そうした姿勢を前提として報道していたのが明らかだ。
 だが、言うまでもなく、現在の沖縄の米軍基地については多様な見方がある。「戦力」不保持の現憲法のもとでは、米軍基地がなかったら、沖縄はすでに中華人民共和国の一部になっていて(沖縄への侵攻を日本政府はオタオタして何もできなかったために)、現在よりも<悲惨な>状況に置かれていた可能性が高い、などということは、NHKのこの番組制作者の頭の中にはないのだろう。
 米軍基地を使ってアメリカが(アメリカのための)戦争をする、あるいは米軍基地の存在のゆえに<日本が戦争に巻き込まれる>というのは「左翼」の主張であり、デマだ。あるいは少なくともそういう批判的な見解・認識は成り立ちうるものだ。米軍基地の存在は沖縄、ひいては日本全体の「平和」のために寄与している、という見方は、少なくとも成り立ちうるものだ。
 NHKは(じつは菅内閣・日本政府の公式的見解でもある)そのような後者の見方をあえて排除し、それとは異なる考え方の持ち主一人だけを、意見表明者として長々と紹介した。NHKはとても、公正・客観的な報道機関ではない。
 原発問題についても、NHKだけを見ていたのでは、あるいは他のテレビ局を見てもそうだが、基本的・本質的なことはまるで分からない。NHKとの間の強制的な受信契約締結義務の規定(放送法)は削除し、民間放送(とくにその収益の方法)のあり方も含めて、抜本的な再検討をしないと、「テレビクラシー」によって本当に日本「国」は滅亡するに違いない。

1012/菅直人と一部マスコミの謀略?-6/02退陣(辞意)表明。

 民主党最高顧問・渡部恒三が菅直人につき「本当にひでえのにやらせちゃったな」と述べたそうだ(産経6/20二面)。
 菅直人の心理・性格の分析は専門家の研究対象に十分になるだろう。それはともかく、6/02の午前の民主党議員総会での菅直人自身の発言は、それ自体は明確には<辞意>表明ではなかったように聞こえなくはない(例えば、辛坊治郎はそう言っている)。だからこそ、鳩山由紀夫は、一定のメド等を条件としての退陣という趣旨だ旨を直後にその場で発言したのだろう。
 だが、菅直人は明確には辞意を述べていないとの逃げ道を残していたのも確かで、そのかぎりでは、マスメディアが<退陣(辞意)表明>と報じたことは、結果としては、菅直人を助けたことになる(そして今にしてもなお、菅直人首相はいつ頃に辞任するかを明確にしないままで<延命>している)。
 さらに言えば、菅直人が議員総会で<退陣(辞意)表明>を行うつもりだという情報はいくつかのメディアの記者には事前に流されており、だからこそすみやかに、号外が出るほどに、その旨の報道がいったんは行き渡ったのではないか。
 辞意表明し、退陣予定だから、不信任案に賛成はしない、という理屈は、本当は奇妙なものだ。しかし、実際問題としては、不信任案に賛成しようとしていた民主党議員たちは、菅直人の言葉を<退陣(辞意)表明>と理解して、不信任案に反対するか欠席に回ったのだと思われる(賛成して除名された2名を除く)。そして、そういう理解を助けたのは、鳩山由紀夫の発言とともに、事前にメディアの一部から流されていた菅直人<退陣(辞意)表明>という情報ではなかったのだろうか。
 推測なのだが、産経新聞を含むすべてのマスメディアだったとは思われない。その情報は、朝日新聞+テレビ朝日系(星浩ら)、毎日新聞+TBS系(金平茂紀ら)の一部に確定的情報として流されたのではないか。
 そして、一部のマスメディアは菅直人(ら?)の情報策略に、少なくとも結果としては、利用されたのではないか。あるいは、何とか不信任案可決を阻止したいという思惑から、<退陣(辞意)表明>すれば不信任案賛成票は大幅に減るとの見通しをもって、一部のメディアは、菅直人(ら?)の情報策略に協力したのではないか。
 確証はないが、それくらいのことは菅直人らの政治家や、一部マスコミの一部に棲息する政治活動家たちはするだろうと思われる。
 週刊ポスト7/01号p.32(上杉隆・長谷川幸洋の対談記事)によると、朝日新聞6/02朝刊の一面トップは「首相、可決なら解散意向」だった。解散を忌避したい議員たちに不信任案に賛成することを躊躇させるような見出しだ。だが、同記事によると、菅直人は実際には「解散」につき語っていないという。朝日新聞は(ほかの新聞・テレビも?)「官邸の情報操作」(同上記事)に利用されたか、協力した、と理解して何ら差し支えないだろう。
 かくのごとく、マスメディアを、とりわけ朝日新聞・毎日新聞系を信頼してはいけない。

1006/菅直人・岡田克也のレーニン・スターリンに似たウソと詭弁?

 一 不思議なことがあるものだ。
 各新聞6/02夕刊によると、菅直人は6/02の民主党代議士会で「辞任」(朝日)、「退陣」(読売、日経、産経)の意向を表明したとされる。
 ところが、夜の日本テレビ系番組に出てきた岡田民主党幹事長は、「退陣」表明とかの形容・表現は適切ではない、と言う。後に区切りがあることを述べたままでのことだとの旨まで言い、辞める時期ではなく菅首相にこれから何をやってもらうかが重要だなどとも言う。

 菅直人も、なかなか巧妙な言い方をしている。
 6/02の午後10時頃からの会見で(以下、産経ニュースによる)、「工程表で言いますと、ステップ2が完了して放射性物質の放出がほぼなくなり、冷温停止という状態になる。そのことが私はこの原子力事故のまさに一定のめどだ」と述べた。これが「メド」だとすると、冷温停止状態実現の目標は来年1月頃とされているらしいので、「退陣」時期は来年以降になるが、これは、鳩山由紀夫が6月末または7月初めという、あと1カ月くらいの時期を想定していると明言しているのと、まるで異なる。
 当然に記者から質問が出ているが、鳩山との間の「確認書」の存在(鳩山側が作成したようだ)を否定せず、①<原発の収束>も含むのかとの問いに菅は「鳩山前首相が作られたあの確認書に書かれた通りであります」とだけ答える。
 また、②「鳩山由紀夫前首相との合意の内容は、確認書にある通りだと。何を確認した文章なのか」との問いに、「鳩山前首相」との間では「あの合意事項という文書に書かれた」もの以外にない、「あそこに書かれた通り」だとだけ答える。

 ③さらに、「確認書」の三の①と②の時点で辞任していただくという鳩山の発言は間違いか、との問いに、「鳩山さんとの合意というのは、あの文書に書かれた通り」と再び繰り返している。そして、それ以上は「控えた方がいい」とも言う。
 これらで記者たちは、丸めこまれてしまったのか? 情けないことだ。

 菅直人が存在とともに内容も否定していない「確認書」の中に、<原発の冷温停止>などという文言はまったくなく、三には①と②(第2次補正予算の編成にめど)しかないのはなぜか、と何故執拗に突っ込まなかったのだろう。

 菅直人や岡田克也が「確認書」の三の①・②は菅辞任(退陣)の時期を意味しない(退陣の「条件」ではない)と言い張り続けるとすれば、各紙夕刊も、民主党国会議員のほとんども、とりわけ不信任案に賛成しようとしていた鳩山由紀夫や小沢一郎も、菅直人に、見事に<騙された>ことになる。

 鳩山由紀夫は、退陣の「条件」ではないと夕方に発言したらしい岡田克也について、「ウソをついてはいけない」旨を批判的に明言した。

 菅直人・岡田克也か鳩山由紀夫のいずれかがウソをついていることになるが、前者の側だとすると(その可能性がむろん高いと思われる)、菅や岡田は公然とメディア・国民の前でウソをついているわけで、その強心臓ぶりには唖然とし、戦慄すら覚える。

 菅直人は答えるべきだし、メディア・記者たちは質問すべきだ。これからでも遅くはない。

 <確認書の三に①と②があり、かつこれらしかないのは、何故なのか?、そしてこのことは何を意味するのか??>
 「文書のとおり」、「書いてあるとおり」では答えになっていない。<それでは答えにならない>と勇気を持って憤然と(?)反問できる記者は日本の政治記者の中にはいないのか。

 それにしても、戦慄を覚えるし、恐怖すら覚える。旧ソ連や現在の中国・北朝鮮等では、政府当局あるいは共産党(労働党)幹部(書記長等)が公然・平然と<ウソ>をついていたし、ついているだろう。

 現在の日本で、そのようなことが罷り通っていそうなのだ。

 目的のためならば<ウソをつく>ことも許される。これは、レーニン、スターリンらの固い信条だっただろう。菅直人は、レーニンやスターリンに似ているのではないか。内閣総理大臣によって公然と「ウソ」がつかれ、あるいは「詭弁」が弄される事態は、まことに尋常ではない。<狂って>いる。

 二 「詭弁」といえば、先日の、福島第一原発にかかる、菅直人首相の「私は(注水を)止めよとは言っていない」(その旨を命令も指示もしてはいない)との旨の言葉も、ほとんど詭弁に近かったように感じられる。

 谷垣自民党総裁は、上の発言に対して、「わかった。では、東京電力がいったん止めないといけないと感じるような言葉をいっさい発しませんでしたか?(あるいは、そのように感じられる行動をいっさいしませんでしたか?)」とさらに質問し追及すべきだっただろう。

 明確な「命令」・「指示」でなくとも、東京電力とすれば、首相の<気分・雰囲気>を何となくであれ気遣っているものだ、との推測くらいは、私にすらできる。そのような<気分・雰囲気>を感じて、東京電力は形式的には自発的にいったん停止を命じたのではなかったのだろうか(但し、現場の所長が本社側の指示に従わなかった)。
 要するに、菅直人は、「命令・指示はしていない」という(形式的には誤りではない)表現を使うことによって、真の事態を曖昧にして<逃げた>のではないか、と思っている。
 菅直人の言葉の魔術?は、6/02にも発揮されたように見える。

 三 再び「確認書」なるものに戻ると、その「二」で(たしか)「自民党政権に逆戻りさせないこと」とあったのは、興味深いし、かつ怖ろしい。

 つまり、彼ら民主党、とくに菅直人と鳩山由紀夫は、一般論として<政権交代>をもはや否定しようとしているのだ。

 <政権交代>を主張してきたのは彼らだが、いったん政権を獲得すれば、二度と離さない、という強い意向・意思が感じられる。
 だが、政権交代可能な二大政党制うんぬんという議論は、A→B→A(→B)…という交代を当然に予定し、ありうるものと想定しているのではないか。とすれば、自党の政策の失敗等々によって与党から再び野党になることも一般論としては、また可能性としては肯定しなければならないはずだ。

 しかるに、「確認書」の「二」はこれを何としてでも拒否する想いを明らかにしている。
 過去のそれを含む社会主義国は、いったん共産党(労働党)が権力(政権)を獲得すれば、それを他政党に譲ろうとはしなかった(ソ連末期を除く)。そもそもが他の政党の存在すら実質的には認めないという方向へと推移させた。

 菅直人ら民主党の一部からは、そのようなコミュニスト・共産党的匂いすら感じる。

 四 日本の政治・行政をぐちゃぐちゃ・ぐしゃぐしゃ・めちゃくちゃにしている民主党政権が続くかぎり、日本「国家」はますます壊れていく。民主党の一部には、意識的に<(日本)国家解体>を企図している者がいる、とすら感じてしまう。

 2009年の夏・初秋に、そのような民主党政権の成立を許したのは、あるいはそれを歓迎したのは、いったいどのような人々だったのか?? 評論家、学者も含めて、あらためて指弾したい者(名のある者)がいるが、今回は立ち入らない。

0995/月刊正論(産経新聞社)編集長・桑原聡の政治感覚とは。

 月刊正論4月号(産経新聞社)で編集長・桑原聡いわく-「…民主党内閣が、憲政史上最低最悪の内閣であることは多くの国民が感じているところだろうが、かりに解散総選挙が行われ、自民党が政権を奪回したとしても、賞味期限の過ぎたこの政党にも、わが国を元気にする知恵も力もないように思える」(p.326)。
 同誌の宣伝紹介記事(産経3/01付)で同じく桑原聡いわく-「国民の大半が期待しているのは、この党〔民主党〕が一日も早く政権の座から降りてくれることだけだ。しかし、かりに解散総選挙となって、自民党が返り咲いたとしても、賞味期限の過ぎたこの政党にも多くを期待できない」。
 産経新聞社内の出世コースを歩んでいるのかもしれないこの桑原聡のこのような<政治的>判断を基準にして、産経新聞全体は別としても、当面の月刊正論は編集されていくものと見られる。

 はたして、かかる立場を編集長が明記することはよいことなのかどうか。それよりも、その<政治的>判断は適切なものなのかどうか。

 2009年総選挙前に、自民党はダメだ、(よくは分からないが、新しい)民主党は期待できそうだ、というムードを煽ったのは朝日新聞を含む大手メディアだった。櫻井よしこすら、自民党に対して冷たかった(民主党内閣成立後も<期待と不安が相半ばする>旨を書いていた)。

 現時点で、自民党を「賞味期限の過ぎた政党」と断定して叙述するこの桑原聡のような、大(?)雑誌、しかも<保守系>とされる雑誌の姿勢は、どのような政治的効果をもたらすだけだろうか。

 2009年に自民党離れが生じ、かりに民主党に投票しなくとも<保守派>国民の中に<棄権(無投票)>行動がある程度は生じたと推測されるように、上のような断定は、反民主党(同党政権)の見解をもった国民に対して、自民党にも投票せず、<棄権(無投票)>するという行動を誘発する方向に機能するだろう。そしてそれは、民主党に有利に働くだろう。

 かりに現在のような政党状況のままで解散・総選挙が行われた場合、そのような投票行動は、日本を<良い>方向に導くのだろうか? 民主党の延命を助けるだけではないのか。
 それに、上のような断定は、<右>からの自民党は「第二民主党」、「民主党と同根同類のリベラル」という批判と共鳴しているとももに、<左>からの、例えば日本共産党(・社民党)のいう、民主党(内閣)は<第二自民党(内閣)>だ、という批判とも共振している。

 桑原聡は、上のように、その主張は、日本共産党(・社民党)のそれとも共通することを、いかほど意識しているのだろうか。代表的<保守系>雑誌が、こんな感覚の編集長に率いられているのだから、内容に奇妙な部分が出てくるのもやむをえないだろう。

 月刊正論4月号のウリは「保守論客50人が提言~これが日本再生の救国内閣だ!」で、屋山太郎のような「保主論客」とは思えぬ者を含む人々に、それぞれが構想する内閣の布陣(構成)を語らせている。

 まじめによく考えられており、かつ現実味がなくはないと感じられる「構想」もあるが、雑誌の全体としていえば、<お遊び>の類だ。保守的論者による保守派政治家・評論家類の「人気投票」のような観もある(一部には文章を書かせているが、じっくりと読みたいものがあるものの、1.5頁~2頁に過ぎず、短か過ぎる)。

 八木秀次は「公務員制度改革担当相」に屋山太郎をあてる。筆坂秀世は法務大臣に長谷部恭男(東京大学教授)、「領土問題担当相」に志位和夫(日本共産党委員長)をあてる。野口健は外務大臣に岡本行夫、防衛大臣に前原誠司、環境大臣にC・W・ニコルをあてる。河添恵子は首相に出井伸行、官房長官に辛坊治郎をあてる。……。

 重ねて桑原聡はこの雑誌の最後でこう書く-「筆坂秀世氏が領土問題担当大臣に志位和夫氏を指名しているが、現在の国難は、これぐらいの大胆さがないと乗り越えられないのではないか。いかがだろうか」(p.326)。「賞味期限の過ぎた」自民党(中心)内閣よりも、志位和夫を閣僚の一人とする<救国>内閣の方が、桑原には「よりまし」であるらしい。

 現実的実現可能性はさておくとしても、この桑原聡は正気で、「いかがだろうか」などと暢気に訊いているのだろうか。

 (少なくとも日本の)ジャーナリズム・ジャーナリストの類は(マスメディア一般がそうだが)、総じては、または基本的には、国家・社会・国民を「正」・「善」・「美徳」の方向に導こうなどという気構えはなく、そもそもが何が「正」・「善」・「美徳」かなどという思考をめぐらしもせず(価値相対主義・一種のニヒリズムに陥るとこうなる)、何が<話題になるか>、何が<面白いか(興味を惹くか)>、そして何が<相対的によく(多く)売れるか(儲かるか)>を基準にして雑誌等を編集しているように見える。

 例えば「適切さ」はもちろん現実の実現可能性よりも、<面白い>かどうか、<話題になる>かどうか、が基準になっているように見える。

 産経新聞社の新(?)編集長のもとでの月刊正論も(いい論考も少なくないのに)、そのような弊を免れていないようだ。

0991/古田博司「時代の触角/親中メディアの生理的イライラ」(歴史通3月号)。

 歴史通3月号(ワック)の古田博司「時代の触角③/親中メディアの生理的イライラ」(p.200-)によると、日本の全国紙のうち朝日・毎日・日経は1960年代に「黙って」・「素知らぬ顔で」反米・親中へと変化した、読売は2006年に「鋭角的に」そう変化し、産経は非親中のまま、らしい。これにNHKの親中ぶりを合わせると、大手メディアの<親中>体制は強固だ。

 NHKは在日エジプト人の200人ほどの集会を丁寧に放送し、別の某民放局(忘れた)は在日リビア人のそれよりも少ない数の活動を追っていたが、昨秋の尖閣事件を契機とする他ならぬ日本人の東京での数回にわたる数千人規模のデモ・集会をほとんど無視した。だが、菅直人内閣の支持率の急落の最大の原因は私にはこの尖閣問題への対処のヒドさ(国民に生じた基本的な平和・安全自体への危惧)にあったと思える。大手メディアの報道ぶりと庶民的<世論>の感覚はかなりズレているのではないか。

 古田論考には他にも興味を惹く叙述がある。詳しく反復しないが、親中べったり派の毎日新聞の元・現の記者として、石川昌、中野謙二、辻康吾、金子秀敏という固有名詞を挙げている。そして、「尖閣事件以来、毎日の『スター』はずっとイライラし続けている」のだそうだ。

 古田によると日中友愛の<理想・幻想・空想>は「ウソの団子三兄弟」または「想兄弟」。これに該当する兄弟たちは、東京新聞の清水美和、慶應大学の国分良成、みずほ総研の細川美穂子、東京大学の苅部直(「事後のピエロ」)、慶應大学の添谷芳秀

 「わが日本国ではリベラルと親中が六〇年代に進歩的文化人らにより接着されてから、ずっと剥がせないまま、インテリのマジョリティを作り上げて今日まで来てしまった」のだが、古田は、自分たちで剥がせなければ「際限なくウソ」をつき続ける他はないとして、若干の例も挙げている。
 この古田論考をとり上げたくなったのは、次の最後の一文にある。「東アジア情勢の変動が国内政治にどう反映するか、いよいよ楽しみになってきた今日この頃である」。

 「いよいよ楽しみになってきた今日この頃である」。日本の将来を悲観し、悲痛に思い詰める必要はない。菅直人政権の右往左往ぶり、支持率急落(最新の某調査で20%以下!)、衆議院解散を求める世論の増大(事態の改善方向の第一位意見)に対して、朝日新聞はこれからどう菅・民主党政権を擁護し、自らのかつての主張との齟齬を取り繕うだろうか、「いよいよ楽しみになってきた今日この頃である」、という気分で日々を過ごすことにしよう。

0987/反日マスコミの真実2011(撃論ムック)による「何となく左翼」芸能人・ワイドショー番組等。

 撃論ムック30(西村幸祐責任編集)・反日マスコミの真実2011(オークラ出版、2011)中の江藤剛「なんとなく左翼芸能人の群れ」(p.76-)で名指しされている<何となく「左翼」芸能人>のマスメディア発言リスト。<何となく左翼>とは、戦後教育(とくに戦後憲法教育)を受けていると少なくとも<何となく左翼>にはなる、といった具合にこの欄で使ったことのある表現だ。以下は紹介で、すべてを確認しているわけではない。

 ・品川格-外国人参政権につき「別にあげてもいいんじゃない」

 ・東ちづる-「自衛隊も米軍もいらない」
 ・黒田福美-韓国への思い入れは常軌を逸する。

 ・吉永小百合-確定申告手続中に大蔵大臣に「この税金は戦闘機をを買う費用に使ったりせず、もっと国民のためになることに使って欲しい」
 ・愛川欽也+うつみ宮土里-「近隣諸国…のお爺さんやお婆さんは日本を嫌っている。私たちの先祖が悪いことをした」
 ・小山力也 ・阿川佐知子 ・桂南光-「竹島は韓国にあげたらよい」 ・坂本龍一 ・桜井和寿
 以上のうち吉永小百合は、「なんとなく芸能人」の域を超えた人だと思われる。かなり前に、岩波ブックレットに登場して文章を寄せるかなり<確信的な左翼>の人物であることを書いたことがある。

 若杉大「情報操作の尖兵となったワイドショー―尖閣事件を曲解する珍発言の数々」(p.96-)も、TBS「ひるおび」、テレビ朝日「ワイドスクランブル」、NHK「ニュースウォッチ9」の偏向ぶり、一面ぶり、不正確ぶりを記録している(人名等省略)。

 毎日放送「ちちんぶいぶい」の角淳一の発言も採り上げている。角淳一は過去に「外国人参政権は無条件に与えるべき」と述べたらしい。近時の尖閣問題でも海保職員のビデオ公開について「海保職員が面白がってユーチューブに流した」と繰り返して発言したようだ。
 角淳一は、2009総選挙の前に、明言はしなかったのだが、自民党ではなく民主党に投票するのは自明・当然のことというニュアンスで発言・会話をしていた。

 この角淳一を見ていると、大学を特段の専門的勉強をすることなく卒業してテレビ局に入り、特段の専門的勉強もすることなく、「何となく」マスメディアの表面的報道によって得た情報・知識や<業界>内部での同僚たちとのやりとりで得た情報・知識だけでもって<ある程度は十分な知識と識見をもった大人・日本人になった>と勘違いして自覚している、典型的なマスコミ人を想起させる。自分は決して左にも右にも偏っていない常識人だと勘違いして自認しており、そうでない可能性をおそらくは微塵も考えていないだろうから、始末が悪い。それでいて、一般視聴者からちょっとだけ上の目線でしか語っていない(「国民」・「市民」目線)という<庶民性>で人気があるらしいのだからさらに始末が悪い。この程度のレベルの人物たちによって、ワイドショー<世論>は作られていくのだ。

0967/<偏っている>と言う一般新聞・一般テレビだけを見聞きしている<バカ>。

 一般新聞(全国紙)とテレビの報道(ワイドショーも含む)だけでを見聞きして世の中が解ると(ほぼ正しく認識できると)勘違いしている日本人は多すぎるのではないか。全国紙ではなく、各県紙といわれる新聞を含めてもよい。その読んでいる新聞が朝日新聞だったり、特定の「傾向」を持った地方紙であれば、「ほぼ正しく」どころか、<歪んで>日本と世界の動向を「理解」してしまうだろう(以下、とりあえず現在に限るが、<歴史認識>についてもまったく同じ)。

 上のことはもはや常識的で、何らかの雑誌・専門誌紙やネット情報を加味しないと、もはや「世の中を解る」ことはできなくなっている。一般新聞(全国紙)とテレビの報道(ワイドショーも含む)だけでも誤った「理解」をもってしまう(一定の認識へと誘導される)可能性が大なので、そのかぎりですでにマイナスだが、読んでいるのが朝日新聞だったり、ましてや日本共産党・社民党の機関紙・新聞や両党系の雑誌・冊子類だったら絶望的で、決定的で大きなマイナスになる。
 かかる大きなマイナスを受けるよりは、きちんと一般新聞を読まずほとんどテレビの報道を観ない日本人の方が、むしろ素朴でかつ本能的に適切な感覚を、日本の政治・社会の動向について抱くのではないか。

 さて、一般新聞(全国紙または地方紙)とワイドショーも含むテレビの報道だけを見聞きして世の中を理解したつもりになっている者が、この欄で書いているような内容を見聞きすると、<偏っている>と感じるらしい。

 今日の日本の一般新聞(全国紙または地方紙)とテレビの報道(ワイドショーも含む)の影響力は怖ろしいほどだ。ほとんど努力することなく一般新聞・テレビからだけ情報を入手し、専門書も論壇誌等々も読まない人々は、何となく<身につけさせられた>意識・認識が日本の中正または中庸あたりの理解・認識だと勘違いしてしまうから、じつは少なからず存在するが一般新聞のほとんどやテレビのほとんどでは表に出てきていない意見・理解・認識を示されると、違和感をもち、<偏っている>と感じてしまうのだ。

 率直にいって、一般新聞(全国紙または地方紙)とワイドショーも含むテレビの報道からしか日本・世界の情報を入手しない者は<バカ>になっているのだが、その人たちはそのことに気づいていない。<バカ>ならまだよいのかもしれないが、NHKの一部番組も朝日新聞等々も特定の傾向をもつから、<アブナい>人間になってしまっている可能性もある。

 そうなるよりは、上記のように、一般新聞(全国紙または地方紙)やワイドショーも含むテレビの報道をろくに見聴きしない方がまだましだ。

 この欄の閲覧者の大部分にとっては、全く余計なことを書いたかもしれない。

 但し、例えば<保守>論壇の中にいて、身近に<保守>的な人々ばかりがいて、日常的に<保守>的会話を交わしているような人々は、<保守>は決して多数派ではないこと、日本人の多くは一般新聞(全国紙または地方紙)やワイドショーも含むテレビの報道だけを見聞きして、一昨年8月末には多くが民主党に投票したり、昨年参院選の東京選挙区では唖然とするような票数を民主党・蓮舫に投じたりするのであることを、しかと認識しておく必要があるだろう。

 仲間うちだけの議論で満足してはいけない。「左翼」政権のもとにあること、自分たちは<少数派>であることを、本当は悲痛な思いでつねに自覚しておくべきだ。

0941/「戦後」とは何か③-遠藤浩一著の3。

 1963年(昭和38年)に、「文学座」分裂事件が起こり、これには三島由紀夫福田恆存も関係している。この事件は、<親中・媚中>の「左翼」で、のちに大江健三郎のそれの次の年に日本の文化勲章受賞を拒否した杉村春子が主人公のようで、「政治」と文芸(・新劇)との関係あるいは<進歩的文化人>なるものの所為を知る上でも興味深い。1963年とは、東京五輪の前年になる。
 遠藤浩一・福田恆存と三島由紀夫(下)(2010、麗澤大学出版会)p.214-によると、福田恆存はこの1963年から翌年にかけて、「日本近代史論」を月刊文藝春秋に連載したらしい。この論考は現在刊行中の福田恆存評論集(麗澤大学出版会)には収載されていないようだ。

 遠藤によると、福田論考の内容は、次のようだ(「」はもともとの福田恆存の文章の引用部分)。

 明治以降の「近代化」は「壁なし社会」形成という成果はあるが、「大壁、小壁が存在しなくなったのではなく」、「透明な部分が多く」なりかつ「在り場所が不規則に」なっただけのこと。悪法も無視することで「存在を透明に」して「あたかも無きがごとき錯覚」を与えうる。特に戦後の日本は一九四六年製の胡乱な憲法によって拘束されているが、その歪みに対する疑念は拭われていない(「悪法は法に非ず」が安直に実現され日常化されている)。

 また、日本の国際化は国際的視野が広がったのでは必ずしもなく、「国家という大城壁が崩れ去」り「透明になり見えにくくなったという意味」にすぎない。

 さらに、大衆化現象の進展・マイメディアの発達による都市化の急速化で大都市・農村を問わず「彼等の欲望を強烈に刺激し、その欲求不満を掻立てる」ようになった。そして自然科学の進歩や技術革新により、日本人は「悪夢の中」に「他方では限り無く美しい薔薇色の夢の中」に包まれて、「自由を束縛する壁」や「危険を守ってくれる壁」の存在が「全く解らなくなっている」。

 以上だが、なかなかに含意に富む。

 <透明化>とは近年ではよい意味で使うことが多いが、ここでは存在するのに見えなくすること(見えなくなること)の意味だ。

 ①日本国憲法制定過程・手続に大げさには「悪」があったとしても、見ても見ぬふりをする(気づいていても知らないふりをする)心性にほとんどの日本人が陥っていたのではないだろうか。また、過程・手続にのみならず内容自体にも奇妙なところがあることを意識していた者も少なくなかっただろうが、あえて言挙げする者の方が少なかったのだろう(だからこそ憲法改正は現実化しなかった)

 ②1963-64年の時点にすでに福田恆存はマスメディア等が日本人の「欲望を強烈に刺激し、その欲求不満を掻立てる」現象を指摘している。大宅壮一がテレビによる<一億総白痴化>を語ったのは1957年くらいらしい。だが、経済成長に伴う、とくにマスメディアを通じた<消費「欲望」肥大化>・<「物質的」豊かさの追求>に対する批判的なコメントとしては、1963年頃でも早いと言えるだろう。

 ③「壁」が見えなくなっているとの指摘は、「国家」意識の減退・縮小や規律・秩序の弱体化・崩壊を意味しているようだ。

 そして驚くべきことに、上の①~③のような、福田恆存が1963年頃に含意させていたような事柄は、今日、2010年でも、基本的には何ら変わっていないのではないか。

 遠藤浩一も言うとおり、<「戦後」はまだ続いている>。

 「悪法を改めることもせず、その解釈拡大(無視)によってしのぎ続ける日本人。『国家という大城壁』を崩壊に任せたままの日本人。欲望の充足だけが政治の課題だと信じ込んでいる日本人。自らを守るものを見失ったままの日本人。何も変わっていない」(p.216)。

0917/西村幸祐・メディア症候群―なぜ日本人は騙されているのか?(2010、総和社)を一部読む。

 1.西村幸祐・メディア症候群―なぜ日本人は騙されているのか?(2010.08、総和社)における「メディア症候群(メディア・シンドローム)」とは、西村によると、「外国の手先と堕すメディアとその報道に翻弄される日本人の姿を、すなわち、私たちが<現実>を直視できないその症状」を意味する(p.3)。
 「外国の手先と堕す」という形容に納得しない者もいるだろうが、さて措く。

 2.西村は、民主党に期待して投票した「国民の大半」には裏切られた想いが強く、「閉塞感と虚脱感」をもち、「いったい、いつからこうなったのか」と途方に暮れているのが「多くの人の本音」ではないか、とまず書いている(p.1)。

 上の点はまぁよい。しかし、次の認識には疑問がある。-「恐らくほとんどの日本人は、テレビや新聞の報道に疑いを持っているはずである。既存メディアが偏向報道や『報道しない自由』を駆使し情報操作を行っていることも、政治や社会の動きに少しでも関心がある人ならインターネットで情報を収集して知っている」(p.1-2)。

 「恐らく」という留保は付いているが、「ほとんどの日本人は、テレビや新聞の報道に疑いを持っているはずである」とは希望的観測にすぎないか、西村幸祐が日常的に接している日本人にのみ当てはまるように思われる。すなわち、まだ過半の、やや大袈裟にいうと<大半の>日本人は、「テレビや新聞の報道に疑い」など持ってはいない。メディアによって多少の論調の差異があることくらいは知っているだろうが、基本的にまだ<信じて>いる。

 そうでないと、2005年総選挙、2007年参院選挙、2009年総選挙、2010年参院選挙が各々示した結果にはなっていない、と思われる。

 また、政治・社会に関して「インターネットで情報を収集して」いる国民はいったい何%いるのだろうか。西村幸祐の周辺では過半数または圧倒的多数なのかもしれないが、一般国民だとまだ半数に満たないはずだ。インターネット利用者と、それを使った政治・社会情報収集者の数は、もちろん同じではない。

 3.…と些細な表現の一部に楯突いてみたが、全体としては、有意義な書物だろう。

 すでに知っていて思い出したことだが、小泉首相の靖国参拝の是非が日本で(アメリカでも?)話題になっていた2006年、6/29のTBS「NEWS23」は、ハイド米国下院議員の「首相が靖国に行くべきではないと強く感じているわけではない」(I don't  feel strongly that …)との発言に、「…行くべきではないと強く思う」との字幕をつけた(p.317)。これを「誤訳」としてのちにTBSは「詫び」たのだったが、「誤訳」ではなく、意図的な趣旨の改竄(捏造)で、ハイド氏の英語発言が聞き取れなかったら発覚しなかった可能性があっただろう。

 この辺りの詳細は忘れているが、ハイド氏は首相靖国参拝に消極的ではあり、ハイド氏の下院議長宛書簡を、日本の「靖国参拝反対派」、とくに朝日新聞(・若宮啓文論説主幹)は大きくとり上げていたらしい。この朝日新聞の記事・社説等をじかに読みたかったものだ。

 たぶん知らなかったが、同年8/15のNHKによるリアルタイム携帯調査で、首相靖国参拝につき「賛成63%、反対37%」という、番組制作者を慌てさせる数字が出た、という。面白いのは、その数字も、賛成63.5%を63%に切り下げ、反対36.5%を37%に切り上げたものだった、ということだ(p.318)。また、「慰霊」場所として靖国神社は「ふさわしいか」との設問に対するイエスの画面上の「46.0%」を別に「41%」と表示し、ノーの画面上の「25.1%」を「29%」と「言い放った」らしい(p.318)。

 TBS「NEWS23」と筑紫哲也の<捏造>体質については中宮崇・天晴れ!筑紫哲也NEWS23(文春新書、2006)が実証的かつ詳細に明らかにしており、愉快に読める(そして慄然として恐怖を感じる)。NHKも似たようなものであることは、プロジェクトJAPANシリーズの内容と、その一つに対する台湾人等の多数原告の訴訟の被告になりながら、その訴訟については一秒も報道したことがないこと、にも示されているだろう。

 司馬遼太郎原作の「坂の上の雲」の作り方にも、関川夏央が内容のチェック役の一人の筈であるにもかかわらず、原作者の意図に忠実ではない、制作者の<政治的・思想的>思惑が出ている箇所がある。

 4.離れかけたが、西村幸祐の本には、できるだけ月日と(可能なかぎりでの正確な引用をした)内容が明記されていることを期待したい。いつか書いたことがあるが、週刊新潮高山正之の連載コラム(とそれをまとめた書物)には、データのソース・月日等が(紙数の制約のためだろうが)ほとんど明記されておらず、第一次史料・資料をフォローできないのが残念なところなのだ。

0916/「テレビメディア」と政治-佐伯啓思・日本という「価値」(2010.08)の中の一文。

 佐伯啓思・日本という「価値」(2010.08、NTT出版)に、安倍首相のもとでの2007参院選のあとで書かれた文章が収載されている。この本でのタイトルは原題と同じく「<無・意味化な政治>をもたらすテレビメディア」で、初出は隔月刊・表現者2008年1月号(ジョルダン)。かくも厳しいテレビメディア批判をしていたとは知らなかった。

 2007年夏の参院選前の朝日新聞等のマスメディアの報道ぶりはいま思い出してもヒドかった。異様だった。そのことの自覚のない多くの国民の中に、産経新聞の記者の一人もいたのだったが。

 佐伯啓思は述べる。・「テレビは本質的に『無・意味』なメディアである。…テレビは本質的に世界を断片化し、統一体を解体し、真理性を担保せず、視聴者に対して、感覚的で情緒的で単純化された印象を与えるものだからだ。それはテレビメディアの構造的な本質」だ。

 ・我々は「この種の『無・意味化』へ向かう大きな構造の中に…投げ込まれていることを知」る必要がある。「政治に関心をもつということは、いやおうもなくこの『無・意味化』へと落とし込まれる」ことだ。

 ・とすれば、「政治への関心の高さ」を生命線とする「民主政治」とは、現代日本では「『無・意味化』の中での政治意識の溶解を称揚する」ことを意味する。かかる現代文明の構造からの脱出は困難だが、「そうだとしても、そのことを自覚する必要はある」。これは世界的傾向でもあるが、「欧米の民主政」が「同様の構造をもった視角メディアにさらされながらも…かろうじて健全性を保っているように見えるのは、この自覚の有無と、政治に対して意味を与えようとする意思にある」のではないか(p.137-8)。

 上にいう「無・意味化」とは、佐伯によると、「ある価値の体系にもとづいてある程度の統一と真理性をめざした言説や行動の秩序の喪失」のことをいう(p.136)。

 佐伯はテレビメディアと「民主政」は相俟って「無・意味化」へと「急激に転がり落ちている」旨をも述べる(p.136-7)。

 とりわけ小泉内閣のもとでの2005年総選挙以来、「劇場型政治」とか「ワイドショー政治」とかとの論評が多くなった。「大衆民主主義」のもとでのマスメディアの役割・影響力に関する、上の佐伯啓思のような指摘もとくに珍しくはないのだろうが、しかし、2009年総選挙も含めて、上にいう「テレビメディアの構造的な本質」による政治の「無・意味化」が続いていることは疑いなく、また、そのような「自覚」を国民は持つべきだが、必ずしもそうなってはいない、という状況は今日でも何ら変わっていない、と考えられる。

 中国での数十人の「反日デモ・集会」を大きく報道しながら、日本での中国を批判・糾弾する数千人の集会・デモ(今月)を全く報道しない日本のマスメディアには、佐伯啓思は上の一文では触れていないが、NHKも含めて、欧米のテレビメディアとは異なる、独特の問題点もあるのではないか。

 NHK以外の民間放送会社の資本は20%までは外国人(法人を含む)が保持できるらしい。また、民間放送が<広告料>収入に決定的に依存している経営体であるかぎり、中国を市場として想定する、総じての<企業群>の意向を無視できないのではないか。別の面から言うと、テレビメディアとは、その「広告」(CF等)によって消費者の「欲望」(購入欲)を煽り立てる(企業のための)装置でもあるのだ。公平・中立な報道というよりも、<視聴率が取れる、面白い政治関係ニュース>の方が重要なのだろう。

 まともな教育をうけ、まともな「思想」を持った、まともな人たちが作っているのではない、退屈しのぎの道具くらいの感覚でテレビメディアに接しないと、日本にまともな「民主政」は生まれないだろう。あるいは、「民主政」=「デモ(大衆・愚民)による政治(支配=クラツィア)」とは元来その程度のものだ、とあらためて心しておく必要がある。

ギャラリー
  • 1181/ベルリン・シュタージ博物館。
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  • 1180/プラハ市民は日本共産党のようにレーニンとスターリンを区別しているか。
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  • 0840/有権者と朝日新聞が中川昭一を「殺し」、石川知裕を…。
  • 0801/鳩山由紀夫は祖父やクーデカホフ・カレルギーの如く「左の」全体主義とも闘うのか。
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  • 0800/朝日新聞社説の「東京裁判」観と日本会議国際広報委員会編・再審「南京大虐殺」(明成社、2000)。
  • 0799/民主党・鳩山由紀夫、社民党・福島瑞穂は<アメリカの核の傘>の現実を直視しているか。
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