秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

憲法九条

資料・史料-2015.06.05安保関連法案反対憲法研究者声明

 日本の歴史の特定一時期における「憲法研究者」なるものの異常な実態を記録にとどめておく必要がある。
 なお、「法案の内容が憲法9条その他に反する〕と言いつつ、法案における「憲法9条違反の疑いがとりわけ強い主要な3点について示す」という表現を使って縷々述べていることは興味深い。
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 安保関連法案に反対し、そのすみやかな廃案を求める憲法研究者の声明
   2015.06.05

 安倍晋三内閣は、2015年5月14日、多くの人々の反対の声を押し切って、自衛隊法など既存10法を一括して改正する「平和安全法制整備法案」と新設の「国際平和支援法案」を閣議決定し、15日に国会に提出した。
 この二つの法案は、これまで政府が憲法9条の下では違憲としてきた集団的自衛権の行使を可能とし、米国などの軍隊による様々な場合での武力行使に、自衛隊が地理的限定なく緊密に協力するなど、憲法9条が定めた戦争放棄・戦力不保持・交戦権否認の体制を根底からくつがえすものである。巷間でこれが「戦争法案」と呼ばれていることには、十分な根拠がある。
 私たち憲法研究者は、以下の理由から、現在、国会で審議が進められているこの法案に反対し、そのすみやかな廃案を求めるものである。
 1.法案策定までの手続が立憲主義、国民主権、議会制民主主義に反すること
 昨年7月1日の閣議決定は、「集団的自衛権の行使は憲法違反」という60年以上にわたって積み重ねられてきた政府解釈を、国会での審議にもかけずに、また国民的議論にも付さずに、一内閣の判断でくつがえしてしまう暴挙であった。日米両政府は、本年4月27日に、現行安保条約の枠組みさえも超える「グローバルな日米同盟」をうたうものへと「日米防衛協力のための指針」(ガイドライン)を改定し、さらに4月29日には、安倍首相が、米国上下両院議員の前での演説の中で、法案の「この夏までの成立」に言及した。こうした一連の政治手法は、国民主権を踏みにじり、「国権の最高機関」たる国会の審議をないがしろにするものであり、憲法に基づく政治、立憲主義の意義をわきまえないものと言わざるを得ない。
 2.法案の内容が憲法9条その他に反すること 以下では、法案における憲法9条違反の疑いがとりわけ強い主要な3点について示す。
 (1)歯止めのない「存立危機事態」における集団的自衛権行使
 自衛隊法と武力攻撃事態法の改正は、「存立危機事態」において自衛隊による武力の行使を規定するが、そのなかでの「我が国と密接な関係にある他国」、「存立危機武力攻撃」、この攻撃を「排除するために必要な自衛隊が実施する武力の行使」などの概念は極めて漠然としておりその範囲は不明確である。この点は、従来の「自衛権発動の3要件」と比較すると明白である。法案における「存立危機事態」対処は、歯止めのない集団的自衛権行使につながりかねず、憲法9条に反するものである。
その際の対処措置を、国だけでなく地方公共団体や指定公共機関にも行わせることも重大な問題をはらんでいる。
 (2)地球のどこででも米軍等に対し「後方支援」で一体的に戦争協力
 重要影響事態法案における「後方支援活動」と国際平和支援法案における「協力支援活動」は、いずれも他国軍隊に対する自衛隊の支援活動であるが、これらは、活動領域について地理的な限定がなく、「現に戦闘行為が行われている現場」以外のどこでも行われ、従来の周辺事態法やテロ特措法、イラク特措法などでは禁じられていた「弾薬の提供」も可能にするなど、自衛隊が戦闘現場近くで外国の軍隊に緊密に協力して支援活動を行うことが想定されている。これは、もはや「外国の武力行使とは一体化しない」といういわゆる「一体化」論がおよそ成立しないことを意味するものであり、そこでの自衛隊の支援活動は「武力の行使」に該当し憲法9条1項に違反する。このような違憲かつ危険な活動に自衛隊を送り出すことは、政治の責任の放棄のそしりを免れない。
国際平和支援法案の支援活動は、与党協議の結果、「例外なき国会事前承認」が求められることとなったが、その歯止めとしての実効性は、国会での審議期間の短さなどから大いに疑問である。また、重要影響事態法案は、「日本の平和と安全に重要な影響を与える事態」というきわめてあいまいな要件で国連決議等の有無に関わりなく米軍等への支援活動が可能となることから国際法上違法な武力行使に加担する危険性をはらみ、かつ国会による事後承認も許されるという点で大きな問題がある。
 (3)「武器等防護」で平時から米軍等と「同盟軍」的関係を構築
 自衛隊法改正案は、「自衛隊と連携して我が国の防衛に資する活動に現に従事している」米軍等の武器等防護のために自衛隊に武器の使用を認める規定を盛り込んでいるが、こうした規定は、自衛隊が米軍等と警戒監視活動や軍事演習などで平時から事実上の「同盟軍」的な行動をとることを想定していると言わざるを得ない。このような活動は、周辺諸国との軍事的緊張を高め、偶発的な武力紛争を誘発しかねず、武力の行使にまでエスカレートする危険をはらむものである。そこでの武器の使用を現場の判断に任せることもまた、政治の責任の放棄といわざるをえない。
領域をめぐる紛争や海洋の安全の確保は、本来平和的な外交交渉や警察的活動で対応すべきものである。それこそが、憲法9条の平和主義の志向と合致するものである。
 以上のような憲法上多くの問題点をはらむ安保関連法案を、国会はすみやかに廃案にするべきである。政府は、この法案の前提となっている昨年7月1日の閣議決定と、日米ガイドラインをただちに撤回すべきである。そして、憲法に基づく政治を担う国家機関としての最低限の責務として、国会にはこのような重大な問題をはらむ法案の拙速な審議と採決を断じて行わぬよう求める。
 2015年6月3日

 呼びかけ人
 愛敬浩二(名古屋大学大学院法学研究科教授) 青井未帆(学習院大学大学院法務研究科教授) 麻生多聞(鳴門教育大学大学院学校教育研究科准教授) 飯島滋明(名古屋学院大学准教授) *石川裕一郎(聖学院大学教授) 石村修(専修大学教授) 植野妙実子(中央大学教授) 植松健一(立命館大学教授) 浦田一郎(明治大学教授) 大久保史郎(立命館大学名誉教授) 大津浩(成城大学教授) 奥野恒久(龍谷大学教授) *小沢隆一(東京慈恵医科大学教授) 上脇博之(神戸学院大学教授) 河上暁弘(広島市立大学平和研究所准教授) 君島東彦(立命館大学教授) 清末愛砂(室蘭工業大学准教授) 小林武(沖縄大学客員教授) 小松浩(立命館大学教授) 小山剛(慶應大学教授) 斉藤小百合(恵泉女学園大学) *清水雅彦(日本体育大学教授) 隅野隆徳(専修大学名誉教授) 高良鉄美(琉球大学教授) 只野雅人(一橋大学教授) 常岡(乗本)せつ子(フェリス女学院大学) *徳永貴志(和光大学准教授) 仲地博(沖縄大学教授) 長峯信彦(愛知大学法学部教授) *永山茂樹(東海大学教授) 西原博史(早稲田大学教授) 水島朝穂(早稲田大学教授) 三宅裕一郎(三重短期大学教授) 本秀紀(名古屋大学教授) 森英樹(名古屋大学名誉教授) 山内敏弘(一橋大学名誉教授) 和田進(神戸大学名誉教授) 渡辺治(一橋大学名誉教授) 以上38名  *は事務局
 賛同人
 鮎京正訓(名古屋大学名誉教授)  青木宏治(関東学院大学法科大学院教授)  青野篤(大分大学経済学部准教授) 赤坂正浩(立教大学法学部教授) 穐山守夫(明治大学)  阿久戸光晴(聖学院大学教授)  浅川千尋(天理大学人間学部教授)  浅野宜之(関西大学政策創造学部教授)  足立英郎(大阪電気通信大学教授)  阿部純子(宮崎産業経営大学准教授)  新井信之(香川大学教授) 淡路智典(東北文化学園大学講師)  飯尾滋明(松山東雲短期大学教授) 飯野賢一 (愛知学院大学法学部教授)  井口秀作(愛媛大学法文学部総合政策学科) 池田哲之(鹿児島女子短期大学教授) 池端忠司(神奈川大学法学部教授)  石川多加子(金沢大学) 石埼学(龍谷大学)  石塚迅(山梨大学)  石村善治(福岡大学名誉教授) 井田洋子(長崎大学)  市川正人(立命館大学教授) 伊藤雅康(札幌学院大学教授)  稲正樹(国際基督教大学客員教授)  稲葉実香(金沢大学法務研究科) 猪股弘貴(明治大学教授) 井端正幸(沖縄国際大学教授)  今関源成(早稲田大学法学部教授)  岩井和由(鳥取短期大学教授)  岩本一郎(北星学園大学経済学部教授)  植木淳(北九州市立大学) 上田勝美(龍谷大学名誉教授)  植村勝慶(國學院大学法学部教授)  右崎正博(獨協大学教授)  浦田賢治(早稲田大学名誉教授) 浦部法穂(神戸大学名誉教授) 江藤英樹(明治大学准教授)  榎澤幸広(名古屋学院大学准教授) 榎透(専修大学教授)  榎本弘行(東京農工大学教員)  江原勝行(岩手大学准教授)  蛯原健介(明治学院大学教授) 遠藤美奈(早稲田大学教授)  大内憲昭(関東学院大学国際文化学部)  大河内美紀(名古屋大学大学院法学研究科教授)  大田肇(津山工業高等専門学校教授)  大野拓哉(弘前学院大学社会福祉学部教授) 大野友也(鹿児島大学准教授)  大藤紀子(獨協大学) 小笠原正(環太平洋大学名誉教授)  岡田健一郎(高知大学准教授) 岡田信弘(北海道大学特任教授)  緒方章宏(日本体育大学名誉教授)  岡本篤尚(神戸学院大学法学部教授)  岡本寛(島根県立大学講師)  奥田喜道(跡見学園女子大学助教)  小栗実(鹿児島大学法科大学院教員)  押久保倫夫(東海大学)  片山等(国士舘大学法学部教授) 加藤一彦(東京経済大学教授)  金井光生(福島大学行政政策学類准教授)  金子勝(立正大学名誉教授)  柏﨑敏義(東京理科大学教授) 彼谷環(富山国際大学) 河合正雄(弘前大学講師)  川内劦(広島修道大学教授)  川岸令和(早稲田大学)  川崎和代(大阪夕陽丘学園短期大学教授)  川畑博昭(愛知県立大学准教授)  菊地洋(岩手大学准教授)  北川善英(横浜国立大学名誉教授)  木下智史(関西大学教授)  清田雄治(愛知教育大学教育学部地域社会システム講座教授)  久保田穣(東京農工大学名誉教授)  倉田原志(立命館大教授) 倉田玲(立命館大学法学部教授)  倉持孝司(南山大学教授)  小竹聡(拓殖大学教授) 後藤光男(早稲田大学) 木幡洋子(愛知県立大学名誉教授)  小林直樹(姫路獨協大学法学部) 小林直三(高知県立大学文化学部教授)  小原清信(久留米大学)  近藤敦(名城大学)  今野健一(山形大学)  齋藤和夫(明星大学)  斉藤一久(東京学芸大学) 齊藤芳浩(西南学院大学教授) 榊原秀訓(南山大学教授) 阪口正二郎(一橋大学大学院法学研究科教授) 佐々木弘通(東北大学) 笹沼弘志(静岡大学教授)  佐藤修一郞(東洋大学)佐藤信行(中央大学)  佐藤潤一(大阪産業大学教養部教授)  澤野義一(大阪経済法科大学教授) 志田陽子(武蔵野美術大学造形学部教授)  實原隆志(長崎県立大学准教授)  嶋崎健太郎(青山学院大学教授)  神陽子(九州国際大学)  菅原真(南山大学法学部)  杉原泰雄(一橋大学名誉教授) 鈴木眞澄(龍谷大学教授) 鈴田渉(憲法学者) 妹尾克敏(松山大学法学部教授) 芹沢斉(憲法研究者) 高佐智美(青山学院大学) 高作正博(関西大学法学部)  高橋利安(広島修道大学教授) 高橋洋(愛知学院大学教授)  高橋雅人(拓殖大学准教授) 高良沙哉(沖縄大学人文学部准教授)  瀧澤信彦(北九州市立大学名誉教授)  竹内俊子(広島修道大学教授) 武川眞固(南山大学)  武永淳(滋賀大学准教授) 竹森正孝(岐阜大学名誉教授)  田島泰彦(上智大学教授)  多田一路(立命館大学教授) 建石真公子(法政大学教授) 館田晶子(北海学園大学法学部)  玉蟲由樹(日本大学教授)  田村理(専修大学法学部教授) 千國亮介(岩手県立大学講師) 長利一(東邦大学教授) 塚田哲之(神戸学院大学教授)  寺川史朗(龍谷大学教授)  徳永達哉(熊本大学大学院法曹養成研究所准教授) 内藤光博(専修大学教授)  仲哲生(愛知学院大学法学部)  長岡徹(関西学院大学法学部教授)  中川律(埼玉大学教育学部准教授) 中里見博(徳島大学准教授)  中島茂樹(立命館大学教授)  中島徹(早稲田大学)  中島宏(山形大学准教授) 中谷実(南山大学名誉教授) 永井憲一(法政大学名誉教授) 永田秀樹(関西学院大学教授) 中富公一(岡山大学教授) 中村安菜(日本女子体育大学)  中村英樹(北九州市立大学法学部法律学科准教授)  成澤孝人(信州大学教授)  成嶋隆(獨協大学) 西土彰一郞(成城大学教授)  西嶋法友(久留米大学) 丹羽徹(龍谷大学教授)  二瓶由美子(聖母学園大学教授) 糠塚康江(東北大学)  根本猛(静岡大学教授)  根森健(埼玉大学名誉教授)  畑尻剛(中央大学法学部教授)  濵口晶子(龍谷大学法学部)  樋口陽一(憲法学者)  廣田全男(横浜市立大学教授)  福岡英明(國學院大学教授) 福嶋敏明(神戸学院大学法学部准教授)  藤井正希(群馬大学社会情報学部准教授)  藤井康博(大東文化大学准教授) 藤田達朗(島根大学) 藤野美都子(福島県立医科大学教員) 船木正文(大東文化大学教員)  古川純(専修大学名誉教授)  前田聡(流通経済大学法学部准教授)  前原清隆(日本福祉大学教授)  牧本公明(松山大学法学部准教授)  又坂常人(信州大学特任教授) 松井幸夫(関西学院大学教授) 松田浩(成城大学教授)  松原幸恵(山口大学准教授)  宮井清暢(富山大学) 宮地基(明治学院大学法学部教授)  宮本栄三(宇都宮大学名誉教授) 村上博(広島修道大学教授) 村田尚紀 (関西大学教授)  毛利透 (京都大学教授)  元山健(龍谷大学名誉教授) 守谷賢輔(福岡大学法学部准教授)  諸根貞夫(龍谷大学教授)  門田孝(広島大学大学院法務研究科) 柳井健一(関西学院大学法学部教授)  山崎栄一(関西大学社会安全学部教授)  山崎英寿(都留文科大学)  山田健吾(広島修道大学法務研究科教授)  結城洋一郎(小樽商科大学名誉教授) 横尾日出雄(中京大学)  横田力(都留文科大学)  横田守弘(西南学院大学教授) 横藤田誠(広島大学教授)  吉川和宏(東海大学)  吉田栄司(関西大学法学部教授)  吉田仁美(関東学院大学法学部教授)  吉田稔(姫路獨協大学法学部特別教授) 若尾典子 佛教大学教授)  脇田吉隆(神戸学院大学総合リハビリテーション学部准教授)  渡邊弘(活水女子大学文学部准教授)  渡辺洋(神戸学院大学教授)
  以上197名 (2015年6月29日15時現在) 

憲法学者の安保法案「違憲」論は正しくない-3。

 一 何とも奇妙で異様な事態が生じているようだ。池田信夫によると「空気の読めない」人物・長谷部恭男の安保法案「違憲」発言によって法案審議が原点に戻ったと言う者もいる。
 前々回に書いたように、今次の法案やその基礎となった憲法解釈(の変更)が合憲か否かという問題に、簡単に明確な結論など出せるはずがない。6/15に長谷部恭男は外国特派員協会の記者会見であらためて「明らかに違憲」だと述べたようだが、このように断定的に述べていること自体にすでに信用できないところがある。今後もこの問題について断定的に又は明確に述べる憲法学者や弁護士が登場してくるかもしれないが、すべて信用し難いと感じなければならない。
 そもそも集団的自衛権行使容認(や今次法案)が憲法違反、憲法九条に抵触するものと断定できるならば、昨年2014.07.01の閣議決定に対する反対・抗議の声明において、その旨を最初から述べておくべきだっただろう。まず冒頭に集団的自衛権行使容認の解釈は<憲法違反>と断じておくべきだっただろう。
 しかるに、この欄で紹介・言及した昨年の日本共産党系憲法学者たちの声明は、「憲法解釈変更の閣議決定」は従来の政府解釈を「国会での審議にもかけずに、また国民的議論にも付さずに、一内閣の判断で覆してしまう暴挙であり、断じて容認できない」という一文から始めている。同様にこの欄で触れた日本共産党員憲法学者・森英樹の前衛6月号の文章も、憲法九条違反だと断定することから始めているわけではない。
 長谷部恭男は上の声明に関与しておらず日本共産党員でもないので、この違いは当然だと反論?するむきもあるかもしれないが、そうであるとすれば、上の声明参加者や日本共産党は、今さら長谷部と同様に<違憲>だなどと騒ぎ立てない方がよい。その方が論旨一貫している。
 なお、上の声明は途中で「徹底した平和外交の推進を政府に求めている憲法9条の根本的変質」だと批判し、森英樹は途中で「壊憲」という言葉を用いて批判してもいるが、憲法九条の解釈に明確に違反する解釈を安倍内閣が採用しているのだとすれば、その旨を冒頭に明確に述べれば、簡単なかつ明確な政府解釈批判、政府解釈の法案化阻止のための論理・理屈を示したことになったはずなのだ。そうは述べなかったこと自体に、長谷部恭男とは違って、じつはかなり多くの憲法学者は、明確に違憲と断じることを躊躇していたかに思える。
 にもかかわらず、長谷部恭男発言が報じられるや、違憲だと明言し始める学者が増えているように見えるのは奇妙なことだ。恥ずかしいのは民主党の岡田克也や辻元清美らで、「学者発言」を政治的に利用して違憲だと言い始めている。代表・岡田克也は、この法案にかかる最初の党首討論で、一言でもこの法案自体が憲法違反だと断言・明言したのか?
 もともと、政府解釈よりも国会・法律制定者による憲法の解釈の方が上位にある。内閣提出の法律案の成立を、違憲性を理由として国会は拒否することができる。そのような国会の構成員であるならば、学者の意見うんぬんを利用したりすることなく、自分たちの(安倍内閣とは異なる)詳細な憲法解釈を示すべきだろう。
 正確な知識はないが、自衛隊の設置法や周辺事態法等々のこれまでの安全保障立法がすでに違憲だ(だった)と主張しているのならば、日本共産党等は、これらの諸法律の廃止をまずは主張すべきなのだ。
 そうではなく、個別的自衛権行使は合憲で、限定つきの今次の集団的自衛権行使が違憲だと言うのならば、憲法の文言・条文等の総合解釈(?)に照らして、なぜ限定つき集団的自衛権行使からは違憲となるのかという憲法解釈論を詳細に示すべきだろう。
 二 前回に、今回の法案がその行使を認めようとする集団的自衛権は国際法または国連憲章上のそれではなく、いわゆる新三要件の第一によって限定されたものだとの記した。<外国に対する武力攻撃>の発生が<同時に>、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」であることが要求されている。<同時に>というのは、ここで挿入した字句だ。
 この点を捉えて、今次の法案が認めようとしているのは集団的自衛権ではなく個別的自衛権の範疇に入る、と理解する論者もいるらしい(なお、森英樹・前衛6月号p.48あたりも参照)。最終的には面白い(?)議論をして違憲論に立つ木村草太(首都大学。上の声明に加わっていない)は、個別的自衛権説のようだ。
 しかし、「自国が直接攻撃されていない」場合の自衛権の行使なのだから、いかに上のような限定が付いても、個別的自衛権の行使ではない、と理解するほかはないと思われる。この理解を変えるためには、<個別的自衛権>概念とその意味自体に関する議論が必要だろう。
 三 さて、長谷部恭男は、読売オンライン上で、集団的自衛権行使に「条件」が付いているから合憲だとする説明があるとしてこれを厳しく(?)批判している。
 「必要最小限のものであること等」等は当然のことで「条件」に値しない、という主張はいちおう是認できる。
 しかし、第一に、「違憲であるはずのものを合憲にする論拠にはなりません」という批判は、集団的自衛権行使否定こそが合憲解釈だという強い<思い込み>を前提にするもので、つまり行使容認は「違憲であるはずのもの」という前提的認識そのものが正しくないもので、到底賛同できない。
 第二に、「集団的自衛権の行使に日本独自の条件を付けるとしても、それは憲法が要求する歯止めにはなりません」とも言っている。ここにいう「日本独自の条件」が、又は少なくともその重要要素が、いわゆる新三要件の第一のものだと解される。そして、次のように説明している。
 「条件」とされるものは「現在の政府の政策的判断に基づく条件にすぎず、政府の判断で簡単に外すことができるということになります。これで歯止めになるはずがありません」。憲法解釈を「その時々の政府の判断で変えられるという人たち」に、「国民の生死にかかわる問題についての判断を無限定なまま委ねてよいのか、そこまでこの人たちを信用できるのか。それが問われています」。
 ここで述べられていることは、法律家の、あるいは憲法学者の「学問」的作業の結果ではない。いわゆる新三要件該当性の判断は「現在の政府の政策的判断」、「その時々の政府の判断」に委ねられる、そして従来の憲法解釈を変更するような「人たち」の判断は「信用」できない、と語っているが、これは法律論・法学専門家の緻密な議論ではまったくない。いかに厳しそうな限定又は条件があっても、それに該当するかどうかを個別に判断する「現在の政府」の「人たち」は「信用」できない、と述べているだけのことだ。これは<政治論・政策論>であって憲法学者の「学問的」議論ではない。
 長谷部恭男に問いたいものだ。では「時々の政府」が現在とは違って、民主党内閣であればよいのか?、日本共産党も閣僚に入っている政権ならば「信用」できるのか?
 憲法解釈というのは、あるいは一定の憲法解釈にもとづく合憲論・違憲論というのは、問題になっている当該解釈のの主張者が誰であろうと、同じ内容で成り立つ、また同じように論評されるものでなければならないのではないか。これは<法律学のイロハ>ではないのか。
 四 長谷部恭男の発言がどの程度の影響を与えているのかは知らないが、最近の世論調査で安倍内閣支持率は数%下がり、不支持率は数%上がって、場合によっては両者が拮抗しているとの数字を発表している調査媒体もある。それが少しでも、「憲法学者」の<専門的知見>にもとづく綿密な見解(?)を知って、安倍内閣に対する不信感が増したということの表れであるとすれば、怖ろしいことだ。
 もともと専門家であっても明確に断定できるような問題ではないと上述してきたところだが、長谷部恭男の主張・議論は、じつはきわめて<政治的>なもので、とても「学者」が行なった「学問」の結果ではない。
 長谷部恭男らがいう、<立憲主義>違反という主張等々については、さらに別に扱う。
 安倍晋三首相は、今次の法案の「正当性、合法性については完全に確信を持っている」(6/17の対民主党・党首討論)と、堂々と主張し続けてよい。堂々と主張し続けなければならない。

安保法案「違憲」論は憲法学者の「学問」か-2。

 一 今次の平和安保法案は<集団的自衛権の行使>を容認する憲法解釈に立つものだとされる。
 その場合に前提とされる<集団的自衛権>とは何か。そこでいかなるものが想定されているのか。
 産経新聞6/10の「正論」欄の中西輝政「安保法案は日本存立の切り札だ」は「護憲派」長谷部恭男にも言及のあるタイミングのよい論考だが、そこには1960年「3月に当時の岸信介首相が…答弁しているように」、「一切の集団的自衛権を(憲法上)持たないというのは言い過ぎ」で、「現憲法の枠内での限定的な集団的自衛権の成立する余地」を(日本政府は)認めてきた、という一文がある。
 この岸首相答弁を私は確認することができなかった。但し、1960年3月に当時の林修三内閣法制局長官は、憲法と<集団的自衛権>について、以下のことを述べている。すなわち、①「…外国が武力攻撃を受けた場合に、それを守るために、たとえば外国へまで行ってそれを防衛する」こと、これが「集団的自衛権の内容として特に強く理解されている」が、これは憲法は認めていない。②「現在の安保条約」で「米国に対して施設区域を提供…」、あるいは米国が他国から侵略された場合の「経済的な援助」、こういうことを「集団的自衛権」という言葉で理解すれば、これを憲法が「否定しておるとは考えません」。いずれも、1960.03.31参議院予算委員会答弁。
 また、3月ではなく4月の20日に、岸首相は衆議院安保委員会で、上の①と②と同旨のことを述べている。
 ①「自分の締約国…友好国であるという国が侵略された場合に、そこに出かけていって、そこを防衛する」、これは憲法は認めていない。②「ただ、集団的自衛権というようなことが、そういうことだけに限るのか」。「基地を貸すとか、あるいは経済的な援助をするとか」、それらを内容とするものは、「日本の憲法の上から」いってできる、「それを集団的自衛権という言葉で説明するならばしてもよい」。
 但し、今次に問題になっている<集団的自衛権(の行使)>とは、1960年の時点で政府(岸信介首相ら)が憲法も容認しているとも語っていた基地提供や経済的援助の類を含むものではなく、やはり何らかの<実力の行使>を意味すると考えられる。
 二 近時の国会等での議論では必ずしも表立っては言及されていないように見えるが、<政府解釈>は、以下のような意味での<集団的自衛権(の行使)>は憲法上容認されていないとしてきており、かつそのような解釈は今次の安保法案、およびそれの前提の重要な一つになっている「集団的自衛権行使容認」解釈によっても変更されていない、と解される。否定されていることに変わらない<集団的自衛権(の行使)>とは、次のようなものだ。そして、昨年の閣議決定により<政府解釈>を変更して、容認することとなったそれは、以下のものに<限定>を加えたもので、同一ではない、と解される。
 1.「国際法上、国家は、集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利を有しているものとされている」。しかし、「集団的自衛権を行使することは、…憲法上許されない」(1981.05.29政府答弁)。
 2.「集団的自衛権とは、国際法上、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止することが正当化される権利と解されて」いる。「これは、我が国に対する武力攻撃」への対処ではなく「他国に加えられた武力攻撃を実力でもって阻止することを内容とする」ので、「その行使は憲法上許されないと解してきた」(2004.06.18政府答弁書)。
 自国に対する(直接の)武力攻撃に対処するのが「個別的自衛権」の行使、密接な関係にある外国に対する武力攻撃に対処するのが「集団的自衛権」の行使、と相当に単純にまたは簡単に理解されてきた、と見られる。
 このような理解を前提として、いわゆる<新三要件>にもいっさい論及することなく、<集団的自衛権行使容認>に対する反対声明を出したのが、何と、日弁連会長・村越進だった。
 三 また、今回、政府が「論理的整合性」があるとし、<政府解釈>変更に際して前提にしている1972.10.14の参議院決算委員会提出文書のうち、行使が否定されるとする<集団的自衛権>について語っている部分は、以下のとおりだ。
 ①憲法九条は一定の場合に「自衛の措置」をとること禁じてはいない。②「しかしながら、…無制限に認めているとは解されない」。「あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認される」のだから、「その措置は、右の事態を排除するためにとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきものである」。③そうだとすれば、「わが憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」。④「したがつて、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない」。
 結論的に言って、2014.07.01閣議決定による<政府解釈>の変更は、上の①・②・③の「基本的な論理」は維持していると見られる。この閣議決定が、(①はもう省略するが)上の②・③についての次の部分は「従来から政府が一貫して表明してきた見解の根幹、いわば基本的な論理」であると、述べているとおりだ。すなわち、「この自衛の措置は、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として初めて容認されるものであり、そのための必要最小限度の『武力の行使』は許容される」。
 だが、閣議決定および今次の法案は、上の④の具体的な適用または結論を<限定または修正>したものと解される。どのように「変更」したのか。2014.07.01閣議決定文書は、次のように述べている。
 「これまで政府は、…『武力の行使』が許容されるのは、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られると考えてきた。しかし、…わが国を取り巻く安全保障環境が根本的に変容し、変化し続けている状況を踏まえれば、今後他国に対して発生する武力攻撃であったとしても、その目的、規模、態様等によっては、我が国の存立を脅かすことも現実に起こり得る。…。こうした問題意識の下に、現在の安全保障環境に照らして慎重に検討した結果、我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において、これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、必要最小限度の実力を行使することは、従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置として、憲法上許容されると考えるべきであると判断するに至った」。
 つまり、1.「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」に<自衛>権行使を限っていたのを、この場合に限らず、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」にも認める、というわけだ。かつ、2.その場合でも実際の行使は「我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないとき」に限るとされ、3.その態様は「必要最小限度の実力」だとされた。この2.3.は従来の解釈で語られてきたのとほとんど同旨であるので、重要なのは1.ということになる。
 四 上に二で言及したような意味での<集団的自衛権>の行使が容認されたわけではないことは明らかだ、と考えられる。<外国に対する武力攻撃>の発生という要件だけではなく、「これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」という要件(新三要件の第一)もまた加えられている。その意味で、国際法上のまたは国連憲章が想定する<集団的自衛権>そのものの行使ではないことに注意しなければならない。
 五 長谷部恭男は憲法審査会で、今次の法案(<解釈変更>)は(従来の政府解釈と)「論理的整合性を欠く」と発言したらしい。
 結論が同じではないのだから、まったく「整合性」がとれているわけではないことは当たり前のことだ。この批判は、要するに、<解釈変更は許されない>、<解釈変更自体が違憲だ>と主張していることに究極的にはなるのかもしれない。しかし、そのような批判は成り立たない。
 また、政府側は「自衛措置」をとることの合憲性・違憲性について最も詳しく語っていると見られる1972年の答弁文書をふまえて、そこでの「自衛」権の行使に関する基本的な考え方・論理を維持しようとしている、とは言えるだろう。この点について、安倍内閣を、あるいは自民党中心政府を、批判したい者たち、あるいはアメリカとともに安倍内閣・自民党中心政権を「敵」と見なしている者たちは、何とでも言うだろう。疑うつもりならば、批判したいならば、最初からそういう立場に立てば、何とでも言える。
 もっとも、長谷部恭男は、前回に触れた読売オンライン上の論考では、「論理的整合性」の問題には明示的には触れていない。むしろ、1972年政府答弁文書等々による<集団的自衛権行使否認>解釈を変更すること自体への嫌悪、あるいは安倍内閣に対する不信・悪罵の感情の表明が目立つようだ。さらに続ける。
 

安保法案「違憲」論は憲法学者の「学問」か-1。

 しばらく、安保法制整備法案に対する<違憲論>について、それに対する批判的コメントを続けてみよう。
 池田信夫がいうように非専門家または一般国民からすれば「神学」的な、魑魅魍魎の?議論かもしれないが、一部憲法学者さまたちの「違憲」論が一種の<政局>的現象を生じさせているとあっては、無視するわけにはいかない。
 一 まず、そもそも現憲法九条の条文・文言と現在提出されている、「集団的自衛権行使容認憲法解釈」を前提とするという今次の安保法制整備法案とを比較対照させて、簡単にあるいは断定的に<違憲>だと言えるのだろうか、という疑問がわく。一般国民的感覚からすれば、そのことこそが奇妙に感じられる。憲法学者というのは、条文・文言の背後にある規範的意味内容をさほどに明確に取り出せる魔術を持ち、トリックを使える者なのか。
 現憲法は「自衛(権)」という語を用いず、そのための実力行使・それを行なう組織についての言及もしていない。そのことから、いかなる(日本の主権、国土と国民の安全を守るための)「自衛」措置も、「自衛」組織の設立も違憲だと断じるのならば、問題は簡単だ。今次の法案は「自衛」権、そして「自衛隊」の存在を前提としているがゆえに、ただちに違憲となる。
 しかし、言うまでもなく、長谷部恭男たちや昨年07月の「集団的自衛権行使容認閣議決定」への抗議声明に参加した(そして今次の法案にも反対している)憲法学者たちは、上のような立論をしているわけではない。
 とすれば、そしてこの学者たちが憲法解釈上も日本国家に固有の(自然の)「自衛権」を否認していないとすれば、その「自衛権」の行使の程度・範囲・態様等々について、どこまでが合憲で、どこからが違憲なのか、という線引きをしていなければならなくなる。
 長谷部恭男、小林節、笹田榮司および森英樹、樋口陽一らの憲法学者たちは、上の問題についての自らの憲法解釈およびその適用の具体例を、憲法学者ならば積極的に示すべきだろう。そのことをしていないとすれば、学者の怠慢なのではないか。
 二 もちろん、憲法学者のかなり多くが、もともとは自衛隊設置(法律)から始まって、いわゆる有事立法・周辺事態法、自衛隊イラク派遣法等々に反対してきており、その際に当然ながら憲法九条との抵触を指摘してきたことを知っている。つまり自分たちの上の点についての憲法解釈・適用を積極的に示すというよりも、自民党を中心とする(自衛隊設置はそれ以前の<保守>諸政党だが)政権側の諸法律案に反対する・制定に抵抗することに力を注いできたことは分かる。その際に、今次にも見られるように、いわば防戦的に、言葉・概念にかかわる細かな指摘・主張をするとともに、<時の政権の恣意的な解釈を許す>、<「戦争」に巻き込まれるおそれがある>等々と憲法学者たちも述べてきたのだった。
 自衛隊も、有事立法等々も、もちもと「左翼」憲法学者たちにとっては違憲だったのではないか? また、これらの諸法律は、何らかの内閣による<憲法解釈>=「政府解釈」を前提として、その「政府解釈」を立法府・国会による<憲法解釈>にしてきたものだった。もはやたんなる「政府解釈」ではなくなっている。国会も行なったいわば「国会解釈」になっている(これを覆すことができるのは裁判所、とくに最高裁判所だけだ)。
 上の二点はとりあえずさておき、再び論及するだろう。
 三 北側一雄(公明党副代表)が6/11の衆院憲法審査会で語ったらしいように、自衛隊そのものや安保条約ではなく「憲法9条と自衛措置の限界について突き詰めた議論」が憲法学界・憲法学者たちの間でなされてきた、とはとても思えない。上述のように、<「自衛権」の行使の程度・範囲・態様等々について、どこまでが合憲で、どこからが違憲なのか>という問題に積極的に回答することを憲法学者たちはしてこなかった、と思われる。そして、たんに自民党・政府側の動き・法案は憲法九条(・その精神)に反して違憲だとか、違憲の疑いがある、とか言ってきたわけだ。
 この機会に、この欄に引用・掲載している日本共産党系憲法学者たちの2014.07声明にも言及するが、この声明をあらためて読むと、「集団的自衛権行使容認」は憲法九条違反だとは明確には、または断定的には述べていないことに気づく。
 長年にわたって継続した政府解釈を変更するのは「国民的議論」を欠いた「暴挙」だとか、「従来の政府見解から明白に逸脱」だとか言って批判しているが、とくに後者について言えば、政府解釈を<変更>すると安倍内閣は明言しているのだから、従来の政府解釈から「逸脱」するところがあるのは当然で、何ら批判になっていない(原文作成者は頭が悪いのではないか)。
 そして、「憲法9条の根本的変質」に他ならないとも言っている。ここで憲法九条が登場するが、この表現は、現憲法九条に違反する、と明言するものではなく、それよりも弱い表現だ。要するに、この声明ですら、集団的自衛権行使容認は憲法九条違反とは明言・断定していないとも解される。
 では、長谷部恭男らは、今次の、上の解釈にのっとった(そして従前から予定されていた)安保法案は<違憲だ>となぜ、明言・断定できるのか。
 ここで、いわゆる個別的自衛権と集団的自衛権の区別の問題が出てくる。
 四 長谷部恭男は6/04の憲法審査会での発言ののち、6/09の<読売オンライン>上の「国民の生死”をこの政権に委ねるのか?/集団的自衛権―憲法解釈変更の問題点」で、自らの見解を記している。
 かかる論考を掲載する読売新聞はさすがに太っ腹で(?)、例えば「憲法学者が見た審査会」という小特集で、長谷部を擁護する憲法学者のみを二人登場させて、そのインタビュー内容を掲載している6/12の朝日新聞とは大違いだ。
 上のことはさておき、長谷部恭男は上の中で「タバコ」吸引のことを例に挙げたあとで、集団的自衛権行使否認という従来の憲法解釈の変更は「立憲主義を覆す」ものだ、とまで述べている。こういう批判の仕方は上記の日本共産党系学者たちの声明の中には明記されていないようだが、しばしば見られる。また、長谷部恭男は、憲法審査会で、<法的安定性を害する>とも語ったようだ。
 「タバコ」吸引のことを例にとれば、長谷部恭男の言っていることは、次のような、「僕ちゃんよい子」のダダッ子の言葉のようだ。
 <長い間、タバコ喫煙は20歳にならないと許されないと執拗にかつ厳しく言われて、そのとおりだと納得してじっと我慢してきたのに、急に18歳から喫煙可能だと言うなんて、僕が従ってきたルールを勝手に破るもので、僕の内心の(精神的)安定性をひどく害するものだ。
 もちろん、もっと説明が必要だ。次回に行なう。

 
 

資料・史料/2015.06.09<安保法案と憲法>政府見解(2)

 他国の武力の行使との一体化の回避について
                         平成27年6月9日
                         内 閣 官 房
                         内 閣 法 制 局
 1 いわゆる「他国の武力の行使との一体化」の考え方は、我が国が行う他国の軍隊に対する補給、輸送等、それ自体は直接武力の行使を行う活動ではないが、他の者の行う武力の行使への関与の密接性等から、我が国も武力の行使をしたとの法的評価を受ける場合があり得るというものであり、そのような武力の行使と評価される活動を我が国が行うことは、憲法第9条により許されないという考え方であるが、これは、いわば憲法上の判断に関する当然の事理を述べたものである。
  2 我が国の活動が、他国の武力の行使と一体化するかの判断については、従来から、①戦闘活動が行われている、又は行われるようとしている地点と当該行動がなされる場所との地理的関係、②当該行動等の具体的内容、③他国の武力の行使の任に当たる者との関係の密接性、④協力しようとする相手の活動の現況等の諸般の事情を総合的に勘案して、個々的に判断するとしている。
 3 今般の法整備は、従来の「非戦闘地域」や「後方地域」といった枠組みを見直し、
  (1) 我が国の支援対象となる他国軍隊が「現に戦闘行為を行っている現場」では、支援活動は実施しない。
  (2) 仮に、状況変化により、我が国が支援活動を実施している場所が「現に戦闘行為を行っている現場」となる場合には、直ちにそこで実施している支援活動を休止又は中断する。
 という、「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」(平成26年7月1日閣議決定)で示された考え方に立ったものであるが、これまでの「一体化」についての考え方自体を変えるものではなく、これによって、これまでと同様に、「一体化」の回避という憲法上の要請は満たすものと考えている。
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資料・史料/2015.06.09<安保法案と憲法>政府見解(1)

 新三要件の従前の憲法解釈との論理的整合性等について
                         平成27年6月9日
                         内 閣 官 房
                         内 閣 法 制 局
 (従前の解釈との論理的整合性等について)
  1 「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」(平成26年7月1日閣議決定)でお示しした「武力行使」の三要件(以下「新三要件」という。)は、その文言からすると国際関係において一切の実力の行使を禁じているかのように見える憲法第9条の下でも、例外的に自衛のための武力の行使が許される場合があるという昭和47年10月14日に参議院決算委員会に対し政府が提出した資料「集団的自衛権と憲法との関係」で示された政府見解(以下「昭和47年の政府見解」という。)の基本的な論理を維持したものである。この昭和47年の政府見解においては、
 (1)まず、「憲法は、第9条において、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているが、前文に置いて「全世界の国民が...平和のうちに生存する権利を有する」ことを確認し、また、第13条において「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、...国政の上で、最大の尊重を必要とする」旨を定めていることからも、わが国がみずからの存立を全うし国民が平和のうちに生存することまでも放棄していないことは明らであつて、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない。」としている。この部分は、昭和34年12月16日の砂川事件最高裁大法廷判決の「わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとりうることは、国家固有の機能の行使として当然のことといわなければならない。」という判示と軌を一にするものである。
  (2)次に、「しかしながら、だからといつて、平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであつて、それは、あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれからの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきものである。」として、このような場合に限って、例外的に自衛のための武力の行使が許されるという基本的な論理を示している。
  (3)その上で、結論として、「そうだとすれば、わが憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであつて、したがつて、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。」として、(1)及び(2)の基本的な論理に当てはまる例外的な場合としては、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるという限界が述べられている。
  2 一方、パワーバランスの変化や技術革新の急速な進展、大量破壊兵器などの脅威等により我が国を取り巻く安全保障環境が根本的に変容し、変化し続けている状況を踏まえれば、今後他国に対して発生する武力攻撃であったとしてもその目的、規模、態様等によっては、我が国の存立を脅かすことも現実に起こり得る。新三要件は、こうした問題意識の下に、現在の安全保障環境に照らして慎重に検討した結果、このような昭和47年の政府見解(1)及び(2)の基本的な論理を維持し、この考え方を前提として、これに当てはまれる例外的な場合として、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるとしてきたこれまでの認識を改め、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」場合もこれに当てはまるとしたものである。すなわち、国際法上集団的自衛権の行使として認められる他国を防衛するための武力の行使それ自体を認めるものではなく、あくまでも我が国の存立を全うし、国民を守るため、すなわち我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置として、一部、限定された場合において他国に対する武力攻撃が発生した場合を契機とする武力の行使を認めるにとどめるものである。したがって、これまでの政府の憲法解釈との論理的整合性及び法的安定性は保たれている。
 3 新三要件の下で認められる武力の行使のうち、国際法上は集団的自衛権として違法性が阻却されるものは、他国を防衛するための武力の行使ではなく、あくまでも我が国を防衛するためのやむを得ない必要最小限度の自衛の措置にとどまるものである。
 (明確性について)
  4 憲法の解釈が明確でなければならないことは当然である。もっとも、新三要件においては、国際情勢の変化等によって将来実際に何が起こるかを具体的に予測することが一層困難となっている中で、憲法の平和主義や第9条の規範性を損なうことなく、いかなる事態においても、我が国と国民を守ることができるように備えておくとの要請に応えるという事柄の性質上、ある程度抽象的な表現が用いられることは避けられないところである。
 その上で、第一要件においては、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること」とし、他国に対する武力攻撃が発生したということだけではなく、そのままでは、すなわち、その状況の下、武力を用いた対処をしなければ、国民に我が国が武力攻撃を受けた場合と同様な深刻、重大な被害が及ぶことが明らかであるということが必要であることを明かにするとともに、第二要件においては、「これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと」とし、他国に対する武力攻撃の発生を契機とする「武力の行使」についても、あくまでも我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置に限られ、当該他国に対する武力攻撃の排除それ自体を目的とするものでないことを明かにし、第三要件においては、これまで通り、我が国を防衛するための「必要最小限度の実力の行使にとどまるべきこと」としている。
 このように、新三要件は、憲法第9条の下で許される「武力の行使」について、国際法上集団的自衛権の行使として認められる他国を防衛するための武力の行使それ自体ではなく、あくまでも我が国の存立を全うし、国民を守るため、すなわち我が国を防衛するためのやむを得ない必要最小限度の自衛の措置に限られることを明かにしており、憲法の解釈として規範性を有する十分に明確なものである。
 なお、ある事態が新三要件に該当するか否かについては、実際に他国に対する武力攻撃が発生した場合において、事態の個別具体的な状況に即して、主に、攻撃国の意思・能力、事態の発生場所、その規模、態様、推移などの要素を総合的に考慮し、我が国に戦禍が及ぶ蓋然性、国民が被ることとなる犠牲の深刻性、重大性などから客観的、合理的に判断する必要があり、あらかじめ具体的、詳細に示すことは困難であって、このことは、従来の自衛権行使の三要件の第一要件である「我が国に対する武力攻撃」に当たる事例について、「あらかじめ定型的、類型的にお答えすることは困難である」とお答えしてきたところと同じである。
 (結論)
 5 以上のとおり、新三要件は、従前の憲法解釈との論理的整合性等が十分に保たれている。
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中西輝政の憲法<改正>論。

 中西輝政・中国外交の大失敗 (PHP新書、2014.12) の最終の第八章のタイトルは「憲法改正が日中に真の安定をもたらす」であり、その最終節の見出しは「九条改正にはもはや一刻の猶予もならない」だ。そして、「九条改正という大事の前では、集団的自衛権の容認など、取るに足らない小事」で憲法九条を改正すれば「集団的自衛権の是非などそもそも問題にはなりえない」等ののち、「日本人はいまこそ一つの覚悟を固めて」、「日本国憲法の改正、とりわけ第九条の改正」にむけて「立ち上がらなければならない」等と述べて締めくくられている。
 このように中西輝政は憲法「改正」論者であり、<改正というべきではない、廃棄だ>とか<明治憲法に立ち戻ってその改正を>とか主張している<保守原理主義>者あるいは<保守観念主義(観念的保守主義)>者ではない。
 ではどのような憲法改正、とくに九条改正を、中西は構想または展望しているのだろうか。中西輝政編・憲法改正(中央公論新社、2000)の中の中西輝政「『自己決定』の回復」の中に、ある程度具体的な内容が示されている。
 すなわち、「九条の二項を削除し代わりに、自衛のための軍隊の保有と交戦権の明示、シビリアン・コントロールの原則と国際秩序への積極的関与に、それぞれ一項を立てる、というのが私の提案である。そして慎ましい『私の夢』である」(p.98)。
 そして、このような「九条二項の逐条改正を『最小限目標』とすべきである」ともされている(p.96)。
 この中西の案はいわば九条1項存置型で、同2項削除後の追加条項も含めて、基本的には、自民党改正案(第二次)や読売新聞社案とまったくか又はほとんど同じもののようだ。
 注目されてよいのはまた、「一括改憲」か「逐条改憲」かという問題にも言及があることで、「戦略」的な「現実の改憲」の容易性(入りやすさ)が意識されている。
 中西によれば、私学助成、環境権、プライバシー権など(の追加による逐条改憲)は「入りやすく」とも「『自己決定』の回復」とは到底いえず、一方、一括改憲は「改憲陣営の分裂を生じさせる」可能性があり、「何よりも時間がかかる」(p.96)。
 昨年末に田久保忠衛の論考(月刊正論(産経)所収)を読んで、ただ憲法改正を叫ぶだけではダメで、どの条項から、どういう具体的内容へと改正するのかを論じる必要がある、<保守派の怠惰>だと書いたのだった。しかし、中西輝政はさすがによく考えていると言うべきで、上のような議論を知ると、中西輝政を含めた<保守派>全体にあてはまる指摘ではなかったようだ(この中西編の著も読んだ形跡があるのだが、少なくともこの欄で取り上げたことはなく、-よくあることだが-中西論考の内容も忘れていた)。
 なお、上の2000年の中西論考は、中西輝政・いま本当の危機が始まった(集英社、2001)p.214以下、およびその文庫版(文春文庫、2004)p.196以下にも収載されている。
 とくに中西輝政と西尾幹二の諸文献、諸論文を、読む又はあらためて読み直すことをするように努めている。この稿はその過程でしたためることになった。

1304/西修・…よくわかる!憲法9条を読む-4。

 西修・いちばんよくわかる!憲法9条(海竜社、2015)を読んでの感想は、最後に、改憲派あるいは憲法九条改正を主張する論者においても、その改正の具体的内容についてはおそらくは基本的な点についてすら一致が必ずしもない、ということだ。これは西修の責任ではない。但し、読売新聞社案、産経新聞社案の作成に関与し、「美しい日本の憲法をつくる会」の代表発起人の一人であることから、もう少し何とかならなかったのか、という気もする。
 最大の論点は、現九条1項を基本的にそのまま残し、2項のみを削除・改正ないし追加するかだ。西修自身は、全体をかなり分解した改正案を考えているが(上掲p.115-)、現1項の趣旨をより明確化した文章に変えたうえで現2項を全面的に改めるもので、基本的趣旨・構造自体は現1項存置型に近いもののように解される。西修案は、同・憲法改正の論点(文春新書、2013)p.186でも示されている。
 明確に1項存置型の読売新聞社案と産経新聞社案とは基本的に同じだという西修の説明もあるが、産経新聞社案「起草委員会委員長」だった田久保忠衛は「第一項も含めて全面的に改める」こととしたと明記していることはすでに何度か記した(田久保忠衛・憲法改正/最後のチャンスを逃すな!p.172-5(並木書房、2014))。また一方では、既述のとおり、田久保忠衛は「美しい日本の憲法をつくる会」の共同代表の一人だが、同会による「改正案骨子」は現九条について「9条1項の平和主義を堅持するとともに、9条2項を改正して、自衛隊の軍隊としての位置づけを明確にします」と述べて、現1項は存置する考え方であるような主張をしている。
 櫻井よしこ=民間憲法臨調・日本人のための憲法改正Q&A(産経新聞出版、2015)はこの点についてどう書いているだろうか(なお、西修は民間憲法臨調の「副代表・運営委員長」のようだ)。
 まず、「例えば、第9条2項だけを改正し、1項は残す」としているのが目につき(上掲、p.36)、「例えば」とあるところからすると、この考え方も一案にすぎないものと理解されているように読めなくはない。
 しかし、改憲諸案で現1項の<侵略戦争>放棄の趣旨部分を提案するものはないと書き、1項を存置しても「平和主義の原則」は変わらない旨も記している(p.35)。
 また、<第9条を改正すると、「平和主義の理想」を捨てることになりませんか?>という質問を設定しつつ、「第9条2項を改正して軍隊を持っても、第9条1項に掲げられた『平和主義の理想』を捨てることにはなりません」という回答を述べ、その説明をしている(p.54-55)。
 こうしてみると、この本の考え方は、現九条1項は基本的に残したうえで2項を改正又は削除して「軍隊」保持を明記する、というもののようだ。
 とすると、田久保委員長ら「起草」の産経新聞社案はやはり最も異質な改正案の文言になっている。 
 奥村文男は産経新聞5/17の「憲法講座」94回で自民党案と産経新聞社案を比較して、「両者の基本的視点は共通ですが、自民党草案は、現9条1項を踏襲した上で、自衛権の発動を認めるとする点で、回りくどい表現が気になります。この点では、産経案の方がより簡明です」と述べて、産経新聞社案が最良であるかのごときコメントをしている。しかし、各改正案を見てみれば、このような評価は、「簡明」さの問題はさておき、決して多数に支持されているわけではないと思われる。
 このように諸改正案を見てみると、西修案にも見られる「簡明」さは魅力的ではあるが、結局のところ、現に政党の中で唯一九条改正案を提示し、今後も改憲運動の中心になるだろう自民党の案を基本として九条改正を議論する、あるいはそれに向けて運動するのが妥当だろうと考えられる。
 政権政党でもある自民党の案は、たんなる「私」企業である新聞社の案や学者等の「私案」とは異なるレベルのものと理解されるべきで、同列に並べて比較するのはもともと適切ではない。
 細かな文言等々について種々の議論が-おそらくは「美しい日本の憲法をつくる会」の役員の内部でも-あるのだろうが、私的団体間や個人間の議論ではなく、九条に関する自民党改正草案を支持するか、あるいはどのようにそれをよりましに修正するか、という議論をした方が生産的だと思われる。また、かりに九条にかかる自民党改正草案が支持されてよいのだとすれば、それを採用して各団体や論者の主張・意見としてもよいのではないか、と考えられる。
 九条の改正の具体的内容について些細なあるいは細かな、字句をめぐるような、不毛な・非生産的な議論は避けるべきだろう。 

1298/「左翼」団体・日弁連の会長・村越進の2014.07.01声明の異様。

 宇都宮健児が会長だったことでも示されているように、まるで公正・中立でかつ法律関係については専門家の集団であるかのように見えなくもない日本弁護士連合会は、むろん弁護士の全員がそうではないにせよ、幹部あるいは役員たちは明確な「左翼」であり、「左翼」活動家弁護士たちが牛耳っている「左翼」団体に堕している。
 2014年の集団的自衛権行使容認の閣議決定後に発せられた日弁連会長・村越進の「集団的自衛権の行使等を容認する閣議決定に抗議し撤回を求める会長声明」を読んでも上のことは明らかだ。
 さらに、この声明の内容は、弁護士が、しかもその自主団体・個別弁護士会の連合団体・日弁連のトップである弁護士が発したものとして、信じがたいほどに異様で、ずさんでもある。
 以下にそのまま引用して掲載する。
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 <集団的自衛権の行使等を容認する閣議決定に抗議し撤回を求める会長声明>
 本日、政府は、集団的自衛権の行使等を容認する閣議決定を行った。
 集団的自衛権の行使容認は、日本が武力攻撃をされていないにもかかわらず、他国のために戦争をすることを意味し、戦争をしない平和国家としての日本の国の在り方を根本から変えるものである。
集団的自衛権の行使は、憲法第9条の許容するところではなく、そのことはこれまでの政府の憲法解釈においても長年にわたって繰り返し確認されてきたことである。
 このような憲法の基本原理に関わる重大な変更、すなわち憲法第9条の実質的な改変を、国民の中で十分に議論することすらなく、憲法に拘束されるはずの政府が閣議決定で行うということは背理であり、立憲主義に根本から違反している。
 本閣議決定は「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」等の文言で集団的自衛権の行使を限定するものとされているが、これらの文言は極めて幅の広い不確定概念であり、時の政府の判断によって恣意的な解釈がされる危険性が極めて大きい。
 さらに、本閣議決定は、集団的自衛権の行使容認ばかりでなく、国際協力活動の名の下に自衛隊の武器使用と後方支援の権限を拡大することまで含めようとしている点等も看過できない。
 日本が過去の侵略戦争への反省の下に徹底した恒久平和主義を堅持することは、日本の侵略により悲惨な体験を受けたアジア諸国の人々との信頼関係を構築し、武力によらずに紛争を解決し、平和な社会を創り上げる礎になるものである。
 日本が集団的自衛権を行使すると、日本が他国間の戦争において中立国から交戦国になるとともに、国際法上、日本国内全ての自衛隊の基地や施設が軍事目標となり、軍事目標に対する攻撃に伴う民間への被害も生じうる。
 集団的自衛権の行使等を容認する本閣議決定は、立憲主義と恒久平和主義に反し、違憲である。かかる閣議決定に基づいた自衛隊法等の法改正も許されるものではない。
 当連合会は、集団的自衛権の行使等を容認する本閣議決定に対し、強く抗議し、その撤回を求めるとともに、今後の関係法律の改正等が許されないことを明らかにし、反対するものである。
 2014年(平成26年)7月1日
  日本弁護士連合会/  会長 村越  進
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 異様さ・杜撰さ-これらは「左翼」であるがゆえの政治的偏向の結果に他ならないだろうが-は、以下に認められる。
 第一に、安倍晋三内閣による閣議決定の正確な内容に言及することなく、「集団的自衛権の行使容認」は、「日本が武力攻撃をされていないにもかかわらず、他国のために戦争をすること」を意味する、と何とも安直に理解してしまっている。この文章が日弁連会長のものであるとは、その地位・職からすると-通常の感覚では-ほとんど想像もし難いほどだ。
 国際法上はまたは国連憲章の理解としては、集団的自衛権の行使とは、大雑把には、同盟国・友好国に対して第三国から武力攻撃があった場合に、自国は直接の武力攻撃の対象になっていなくとも、その友好国を助けてその第三国の攻撃に共同で対処することのようだ。しかし、集団的にせよ<自衛権>の行使であることに変わりはない。これをただちに「他国のために戦争をすること」と言い切ってしまえる神経は、-何度も使うが-<ほとんど信じがたい>。
 また、昨年の閣議決定を正確に読めば-きちんと理解しようとすれば-簡単に分かるように、閣議決定が容認した集団的自衛権の行使とは、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し」た場合に、①「これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」において、②「これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないとき」に、かつ③「必要最小限度の実力を行使すること」という、いわゆる新三要件の充足のもとで容認されるものであり、国際法上のまたは国連憲章の理解としての集団的自衛権の行使の意味よりも相当に厳格に限定されたものだ。
 このような容易に知り得ることに目を瞑り、日本共産党と同様に<戦争>に道を拓くものという、レッテル貼りをしているか、悪罵を投げつけているにほとんど等しい。これでも日弁連の会長の声明なのか。
 第二に、専門法曹あるいは法律家ならば、もう少しは丁寧に概念の意味を明確にして諸概念を用いるべきだろう。
 すでに「戦争」という言葉が特段の定義なく使われているが、「戦争をしない平和国家」とか「徹底した恒久平和主義」などという言葉・概念がほとんど情緒的に使われている。
 日弁連は、あるいは日弁連会長・村越進は、現憲法九条のもとで、「戦争をしない平和国家」・「徹底した恒久平和主義」のゆえに、現在の自衛隊の存在そのものが違憲だと解釈(・適用)しているのだろうか。かりにそうであるならば、その旨を明確に記して、違憲の組織の行動範囲・要件を論じること自体が憲法違反だと断じるべきだろう。そうではなく、自衛権・自衛力を行使する実力組織としての(「戦力」ではない)自衛隊は合憲的に存在していると解釈(・適用)するのならば、自衛権の行使としての武力行使を簡単には「戦争」と称することはできないはずであり、簡単に「徹底した恒久平和主義」に反するなどと断じることはできないのではないか。
 第三に、「憲法に拘束されるはずの政府が閣議決定で行うということは背理であり、立憲主義に根本から違反している」と述べるが、「憲法に拘束される」という場合のその憲法の規範的意味内容が問題になっているのだから、憲法違反という前提を先に置くのは背理であって、何の意味も持たない。法律家ならば、このくらいのことは分かるだろう。「立憲主義」違反という点も同じだ。
 また、内閣が憲法解釈の変更を行うことを捉えて「立憲主義」違反と言っているようだが、最近にもこの欄で述べたように、裁判所・司法部による確定した憲法解釈が存在しない論点については、内閣は憲法解釈を行なって当然だし、また戦後何度か見られたように、その変更も実際には行われてきた。
 さらに、昨年の閣議決定時にも語られていたが、限定された集団的自衛権の行使を実際に容認するためには法律の制定・改正が必要だ。そして、かりに内閣提出の法案が国会で成立したとすれば、集団的自衛権行使は現憲法下で許容されるという憲法解釈は、もはや内閣どまりのものではなく、国民代表議会である国会の解釈になることを意味する。あくまでかりの話だが、その場合でも、すなわち国会が内閣・閣議決定の解釈を支持して、その解釈にもとづく法律案を成立させた=法律を制定・改正したとしても、日弁連は、あるいは同会長・村越進は、なお「立憲主義に根本から違反」すると主張するのだろうか。かりにそうだとすれば、それこそが国会軽視・(議会制)民主主義の軽視であって、<立憲主義>を逸脱するものだろう。
 第四に、新三要件の一部に触れつつ「これらの文言は極めて幅の広い不確定概念であり、時の政府の判断によって恣意的な解釈がされる危険性が極めて大きい」と述べるが、これはしばしば見受けられる陳腐な批判の仕方だ。
 国会により指名された内閣総理大臣等により構成される内閣を信頼していない書きぶりだ(日本共産党・社民党の連立内閣ならば信頼するのだろうか?)。その点はともかくとしても、とくに安全保障の領域では、ことの性質上、あらかじめ詳細で具体的な定めをしておくことの困難性の程度は高いものと思われる。「恣意的」な解釈というが、だからこそ、しっかりとした(例えば鳩山由紀夫や菅直人ではない首班を戴く)内閣を作っておかなければならない、とも言える、また、この部分の批判は、国会による(昨年の段階では「原則」として)事前の承認が必要とされていることを無視している。具体的認定については国会による事前チェックがかかるのだ。自民党等が与党だからそれは無意味だ、とか日弁連が言い始めたら、きっときわめて恥ずかしいことになるだろう。
 まだあるが、長くなったので、この程度にする。
 この声明は会長名だが、中身では「当連合会は、集団的自衛権の行使等を容認する本閣議決定に対し、強く抗議し、その撤回を求めるとともに、今後の関係法律の改正等が許されないことを明らかにし、反対するものである」と、日弁連を主体とする表現で終えている。
 弁護士たちが、安全保障・軍事に関する知見をいかほど有するかは、もともときわめて疑わしい(ついでに言えば、日本の歴史における<天皇制度>の伝統についての関心も知識もおそらくほとんどないのだろう)。そして、日本弁護士連合会とは、現実を直視することのできない<幻想と妄想>をもって、そして狭く固定した<観念>に縛られて活動している「左翼」団体に他ならないようだ。むろん、このような言い方に反発を覚える弁護士たちも少なくないだろうが、しかし、会を代表する会長の声明を読むかぎり、そのように判断せざるをえない。

1297/西修・…よくわかる!憲法9条を読む-3。

 西修・いちばんよくわかる憲法9条(海竜社、2015)を読んでコメントしておきたい第三は、以下のことだ。
 西修は現九条をどう改正するかについて①自民党案(2012)、②読売新聞社案(2004)、③産経新聞社案(2013)を挙げ(もう一つ旧民社党議員たちの「創憲会議」案(2005)も挙げているが、ここでは省略する)、1.現九条1項の「基本的な踏襲」、2.自衛戦力(軍隊)保持の明記、等で共通している、とするが(p.112)、この1.は、はたしてそうなのだろうか。
 現九条1項-「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」。
 これに対応する各改正案の条文は次のとおりだ。
 ①自民党案-「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動としての戦争を放棄し、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない」。
 ②読売新聞社案-「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを認めない」。
 ③産経新聞社案-「日本国は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国が締結した条約および確立した国際法規に従って、国際紛争の平和的解決に努める」。
 西修は各改正案が1.現九条1項の「基本的な踏襲」で共通している理由として、①を除く各案の「作成に関し、かかわりをもっているから」だとしている(p.116)。この著によると西は、②については読売新聞社内の1992年設置の憲法問題調査会に1委員として参画し、2004年案作成にも関係した。また、この欄でも既述のように、③については、産経新聞社内「国民の憲法」起草委員会5委員の一人だった。だから各案には「私の考えが大なり小なり反映されて」いる、というのだが、上記のとおり、ほとんど明らかに、産経新聞社案だけは異なっている。
 他の案は現九条1項の条文をほとんどそのまま維持している。「…は、国際紛争を解決する手段としては、」の部分をそのまま生かしており、そのあとが①「用いない」、②「永久にこれを認めない」。と少し変えているだけだ。
 これに対して、③産経新聞社案には、「…は、国際紛争を解決する手段としては」否認する、という、パリ不戦条約以来の歴史のある、<侵略戦争の放棄>の趣旨を、少なくとも明文では残していない。「…、国際紛争の平和的解決に努める」という部分でその旨を表現した、と主張されるのかもしれないが、その旨は明確ではない、と理解するのが自然だと考えられる。
 それに、この欄ですでに触れたことだが、産経新聞社案にかかる「国民の憲法」起草委員会の委員長だった田久保忠衛自身が、その著で次のように述べている。以下、田久保・憲法改正、最後のチャンスを逃すな!(並木書房、2014)による。
 「第一項は…そのまま残し」、第二項を「全面的に改める」説に「じつは私も…賛成だった」が、現第一項に「問題はないだろうか」。「国際紛争」の理解によっては「支障が出てくる」。第一項があると「国連決議にもとづく国際紛争にかかわる集団的安全保障に参加できないことになる」、また「米国が多国籍軍に入っている」ときに米国に対する武力攻撃を日本が「自国が攻撃されていないにもかかわらず」実力で阻止しようとすると「動きがとれなくなってしまう」=「集団的自衛権の行使に踏み切ることができなくなる」。そこで現第一項を含めて全面的に改める」こととした(p.172-5)。
 上にいう「国連決議にもとづく国際紛争にかかわる集団的安全保障」への参加については現一項は何も定めて(語って)いないのではないかとすでに書いたが、そうでない場合の米国との関係での「集団的自衛権の行使」については、現一項のもとでも一定の要件のもとに認められると閣議決定で解釈され、それにもとづく法案が(現一項のもとで!)国会に提出されている(2015.05)。
 この実際の動きはさしあたり別論としても、③産経新聞社案が他の、現一項をほとんどそのまま残す①や②とは異なることは、田久保忠衛が明言するようにほとんど明瞭なことではないか、と思われる。
 この産経新聞社案が絶対的に拙劣で<悪い>案だと言うさもりはない。だが、①や②には、現九条の全体に問題があるのではなく(<侵略戦争>放棄の第一項に問題はなく)、現九条二項こそが問題であってこの項こそが改正すべきなのだ、という主張・見解を国民に対して明確にアピールできる効用はあるだろう。
 自らが関係した二つの案が基本的に同じ趣旨だと主張したい気分は理解できるが、やはり、産経新聞社案だけは異質なのではないだろうか。
 全体の趣旨・論調からすると些細なことかもしれないが、気になった点であることは間違いない。
 なお、西修の改正私案は「…他国に対する侵略の手段として、国権の発動たる戦争、武力による威嚇または武力の行使を永久に放棄する」というもので(p.115-6)、「侵略」という語の使用によって趣旨をより明確にしつつ、③産経新聞社案よりも①自民党案・②読売新聞社案に近いものだ。 

1295/安保法制の議論-リスクある公務をするのは自衛隊員だけか。

 〇前回の補足または追加。
 ・2015.05.23閉会の「太平洋・島サミット」でパラオ等々の首脳たちは安倍内閣の<積極的平和主義>による平和・安全保障政策を肯定的に評価したとされる。
 安倍晋三らが「ネオナチ」ならば、このサミット参加首脳たちも「ネオナチ」なのだろうか。日本共産党は答えてほしい。
 ・満州事変発生は1931.08、日独伊三国同盟締結は1940.09。日本共産党・不破哲三が「戦争」という場合の戦争とは<15年戦争>を指しているのだとすると、ドイツ・ナチスと「腕を組んだ」とは言い難い期間も含まれている。
 日本共産党・不破は、もう少しは丁寧に論じなければならないのではないか。
 ・「ネオナチ」とは要するに「ヒトラーの戦争は正しかった」と考える者のことらしいが、「ヒトラーの戦争」の意味・範囲を明確にしておらず、<ヒトラー=安倍ら>というイメージだけを作りたいようだ。安倍首相も含めて、あるいは「日本会議」や「神道政治連盟」の役員や会員を含めて、「ヒトラーの戦争は正しかった」と考えている者はどの程度いるのだろうか。いわゆるホロコーストまでも含むのだとすれば、「正しかった」と明言できる者はむしろ少ないように思われる。
 いずれにせよ、デマゴギーというものは、概念の意味が明確ではなく、論理もいいかげんだ。前回に取り上げた、デマゴーグ・不破哲三の議論もその一つだろう。
 〇安保法制の整備にかかわって、自衛隊員に対する<リスク>の高まりを問題にする「左翼」論調が少なくない。民主党・岡田克也もそれに加担しているようだ。
 自衛隊員が「殺し、殺される」可能性が高くなる、というような表現がなされることもあある。確認しないが、朝日新聞はさっそくこのような言い方をしているに違いない。名うての「左翼」活動家になってしまっている山口二郎も、奥平康弘=山口二郎編・集団的自衛権の何が問題か(2014、岩波書店)の中の「安倍政治の戦後史的位相」と題する文章の中で、つぎのような表現を用いている。
 憲法九条は「戦争に動員された個人が生命を失うという事態を永久に起こさない」という意味をもった。安倍晋三らは憲法九条によって「欠陥国家」になっているのを改めて日本を「まともな」「近代国家」にしようとしている。そのために、「国民に死ねといえる国家を作るという本当の狙い」を隠して、「積極的平和主義」という「新語法」を「取り巻きの学者たち」に使わせている(p.3-4)。
 何ともオドロオドロしい言い方だ。とりあえず自衛隊員が「死ぬ」または「殺される」リスクに言及されることが少なくないことについて、以下のような感想をもつ。山口は「戦争にに動員された個人」という言い方をしているので、一般国民ではなく、やはり自衛隊員を主としては念頭において上のようなことを述べているのだろう。
 第一に.自衛隊員の危険性に焦点があてられているということは、反面では、今次の安保法制の整備による一般国民に対する危険性、リスクの高まりを野党又は「左翼」もさほど意識してはいないことを意味しているだろう。これは興味深いことだ。
 と同時に、-個別的自衛権の問題ではあるが-中国や北朝鮮による日本の国土・国民に対する直接攻撃の可能性もまた意識しておかなければならない。危険があるのは、自衛隊員だけではない。一般国民もリスクに直面しているのであり、自分たちだけは「安全だ」、危険な仕事をする自衛隊員たちは<可哀想だ>などという意識で安全保障の問題を議論してはいけない。
 第二に、自衛官に特化してそのリスクを論じるのは、ある意味では自衛官・自衛隊員に対して失礼だとも言える。
 産経新聞5/20の「正論」欄で、西原正は、「確かにこれまでより危険度は高くなる」としつつ、次のように言う。
 自衛官は「事に臨んでは危険を顧みず、身ををもって責務の完遂に務め…」と服務宣誓しており、「自衛官の防人としての誇り」を精神的支柱としている。「危険なところに送るな」というのは「自衛官を侮辱しているとさえ言える」。
 第三に、「公共」、すなわち国家・地域や国民・住民のために生命に対するものも含む危険性のある中で仕事しているのは、自衛官・自衛隊員に限らない。
 警察官も消防官・消防隊員も、朝日新聞の社員やほとんど文章だけを書いているような学者・評論家の類よりは、はるかに危険な任務についており、職務上・公務上の理由で生命を落とす可能性は一般国民よりは高い。
 警察官や消防官・消防隊員に限らず、台風、地滑り、地震等々を原因とする自然災害から国土や国民の<安全>を守るために、河川等々の土木関係公務員や、場合によっては一般公務員ですら、生命・身体の危険を顧みず仕事をすることがある。そのような例は、生命を落とした町村役場職員があることも含めて、東日本大震災時に見られたことだ。
 しかるに、自衛官・自衛隊員に対するリスクのみを今次の安保法制にかかわって論じるのは、より日常的に、一般国民よりは高いリスクの中で仕事をしている行政公務員に対して失礼だろう。
 自衛官・自衛隊員に限らず、法律(および条例)にもとづいて危険な職務を遂行することを地方公共団体を含む「国家」によって要求されている公務員はいくらでもある。
 そのような、国家・法律による(またはそれにもとづく上司の個別の命令による)リスクある職務に就いている公務員の存在をまったく無視するようなかたちで、自衛官・自衛隊員のリスクのみが語られるのは、やはり何らかの<政治的>狙いがあるように思われる。
 自衛隊員が「殺し、殺される」可能性が高まるとか語っている野党あるいは「左翼」の人士たちは、朝日新聞の記者も含めて、本当に心から自衛隊員とその家族のことを心配して、発言したり、文章を書いているのだろうか。<偏頗>と<偽善>の匂いが、なきにしもあらずだ、と感じる。

1292/西修・…よくわかる!憲法9条を読む-2。

 西修・いちばんよくわかる憲法9条(海竜社、2015)にかかわってコメントしたい第二は、保守派または改憲派、あるいは正確には現九条改正論者において、現在「公」的に通用している(例えば、自衛隊を法的に支えている)、政府の九条解釈の理解は一致しているのか、という疑問がある、ということだ。
 西修の理解については、すでに触れた。もう少し言及すれば、政府解釈は①「憲法は戦争を放棄した」とするものであり(上掲p.15)、「自衛戦争」も「認めていない」(p.17)、また、②憲法は自衛目的の「戦力」=「自衛戦力」も認めていない、とするものだ(p.19)。そして、③自衛隊は、禁止されている「戦力」ではない「必要最小限度の実力」として合憲である(p.16、p.21)。
 政府解釈を、このように私も理解してきた。①については、A/すでに1項からか、B/2項からかという解釈の分かれがあるが、とりあえず省略する。
 産経新聞の5/03と5/10に「中高生のための国民の憲法講座」として、奥村文男が憲法九条について解説している(なお、失礼ながらこの人の名は見聞きしたことがなかった)。
 この解説の最大の問題は、自説、つまり自らの解釈を述べることに重点を置いており、政府の解釈はいかなるものかについての丁寧な説明がないことだ。これでは、なぜ現九条を改正しなければならないのかが殆ど分からないままだと思われる。
 奥村は自らの解釈としては西修と同じ解釈を主張している。つまり、1項は「国際紛争を解決する手段として」の戦争(侵略戦争)のみを禁止(放棄)しており自衛戦争等は認めている、そのような(2項にいう)「前項の目的」のために、「自衛戦争」(や制裁戦争)・自衛目的の「戦力」保持は許容される、と解釈する。
 かかる解釈を主張するのはむろん自由だが、すでに述べたように、この解釈に立てば、現九条、とくにその2項を改正しなくとも、自衛隊を自衛「軍」と性格変更する法律制定、換言すると<自衛軍>あるいは<国防軍>設置法(法律)を制定することによって「陸海空軍その他の戦力」を保持することができ、「自衛戦争」も行なうことができる。
 なぜ現九条、とくにその2項を改正しなければならないかの理由が、かかる解釈の披瀝だけでは全くかほとんど分からない。
 また、政府解釈に言及する部分もあるが、奥村文男の理解は正確ではないと見られる。
 2項の「戦力」の意味についての、「戦力の保持は認められないが、自衛のための必要最小限度の実力の保持は認められるとする」のが「何度か変更」はあったが「政府解釈」だ(丙2説)と説明する部分は(5/03)、誤っていないだろう。
 しかし、2項の「前項の目的」についての、「国際紛争を解決する手段として」の戦争等を放棄するものだと限定的に解し、「自衛戦争や制裁戦争は禁止していないとする」のが「現在の政府見解」だとする説明は(5/03)、政府解釈の理解としては、誤っている。
 このように解釈すると、<自衛戦力>は保持できないにもかかわらず<自衛戦争>は認められている(!!)、というじつに奇妙な結果になってしまう。奥村は、そして読者はお判りだろうか。
 したがってまた、奥村が示す甲説から丙2説までの解釈の分かれの分類とそれらの説明も、適切なものではない、と考えられる。
 奥村文男の個人的な見解が自らの著書等に書かれているのならばまだよい。しかし、代表的な?<保守派>・改憲派の新聞に、このような現九条に関する説明が掲載されているのは由々しきことだと感じる。九条の解釈問題は複雑だ、ややこしいという印象が生じるだけならばまだよい。誤った理解・情報が提供されるのは問題だろう。
 田久保忠衛の書物にも櫻井よしこら編の書物にもアヤしい部分があることは、すでに触れた。
 こんなことで大丈夫なのだろうか。自民党の改正草案をまとめた人たちはさすがに政府解釈をきちんと押さえていると思われるので、憲法改正、九条改正運動のためには、田村重信らの自民党関係者または防衛省関係者の解説書を読む方が安心できるようだ。

1286/西修・いちばんよくわかる憲法9条(2015)を読む。

 西修・いちばんよくわかる憲法9条(海竜社、2015)を、当面関心をもつ部分のみに限って読む。
 最近読んだ憲法改正ものの本の中で、田村重信著につづいて非常によく分かる。さすがに憲法学者の書物だ。いかに志は高く、同じであっても(?)、非専門家の叙述には、奇妙だと感じたり、趣旨が分からないものもあった。
 きちんとフォローしておこうと思っていた政府解釈の内容(・変遷)も、残念ながら原文どおりではないかもしれないが(p.15-17)、基本的なところは紹介されているので、役に立つ。
 西修が紹介している政府解釈のポイント(p.17-23)も、私も同様の理解であるので、目くじらを立てる(?)ところはない。
 というわけで上だけの言及で十分とも言えるのだが、いくつかの感想・コメントを記しておく。
 第一。西は憲法九条(とくに二項)についての自らの解釈を(も)示している。それは、いわゆる芦田修正を文理どおりに生かし、九条二項により保持が禁止されているのは「侵略戦争を目的とする」戦力であり、認められないのは「自衛権」の範囲を超える「交戦権」だ、というものだ(p.40)。
 むろんこのような解釈は成り立つし、また文理に即していえば最も素直な解釈だ。ゼロ・ベースで考えると、私もこう解釈したい。さらに、芦田が挿入した意図もこのような解釈を可能にすることだったかとも思われる。
 しかし、西修もよく理解しているように、かかる解釈を一貫して日本政府は採用してこなかった、ということが重要だ。西説もいわば私的な、成立しうる解釈の一つにすぎず、自衛隊の現在までの存立を法的に支えているのは政府解釈という「公的」解釈だ(そしてこれを最高裁も少なくとも否定したことはない)、ということが重要だ。
 この区別が明確に意識されているとは思われない叙述も、改憲派の文献の中に見られる。
 櫻井よしこ=民間憲法臨調・日本人のための憲法改正Q&A(産経新聞出版、2015)p.39以下はいわゆる芦田修正の文言の意味を解説しているが、この部分の執筆者の憲法解釈を示しているのか、それとも(現実には通用している)政府解釈の説明をしているのかが明確ではない。そして、「自衛のためであれば、軍隊や戦力を保持できることを明確にすべく」「前項の目的を達成するため」との文言を入れた、と書いており、これは上の西修の解釈と同じだ。
 しかし、このように政府は解釈していないことが重要なのであり、その旨をきちんと記しておくべきだろう。
 上の櫻井ら著が記すように、この著が示す解釈が採用されているならば、つまり「文意にそって解釈していけば」、「自衛のための組織である自衛隊は、憲法に何ら違反していない」ことになる。
 さらに重要なのは、そうだととすれば、九条2項はあえて<改正>する必要がないことになる、ということだろう。
 もちろん種々の疑義を晴らしておくための条文改正もありうるところだが、芦田修正文言が文字通りに解釈され、政府・国会議員・国民等々の間に疑問が生じていなければ、自衛隊は名実ともに憲法適合的な存在であったはずなのであり、その点については憲法改正は不要であるのだ。
 この辺りを上の櫻井ら著は理解しているのかはっきりしない。例えば、この著は「…自衛隊は、憲法に何ら違反しない」に続けて、「また、政府見解も『自衛力』としての自衛隊を合憲としています」と書いているが、この続け方は意味不明だ。自衛隊が自衛力の行使のための(必要最小限度の)実力組織であって合憲であるということと、九条2項にいう「軍隊その他の戦力」であって合憲(上述の文理解釈)であるというこことはまったく意味が異なる。
 西修は理解していると思うが、西修解釈そして櫻井ら著の解釈(p.40)を強調すると、じつは九条2項の改正という、改憲派が最重要視しているかもしれない課題の達成は不要になってしまう、という逆説的状態が生じる、ということにも留意が必要だ。
 さらにいえば、西修解釈・櫻井ら著の解釈が占領期、遅くとも1950年段階で採用されていれば、「自衛隊」ではなく「国軍」・「国防軍」等の名称の正規の?軍隊を(現九条2項のもとで)設置することも憲法上可能であったわけだ。だが、現実の歴史はそうは動かなかった。
 なお、コメントの最後にまで至っていない、田久保忠衛・憲法改正/最後のチャンスを逃すな!(並木書房、2014)のp.112は「芦田解釈」で「何ら不都合はなかったはずだ」、しかし「芦田修正案は政府の見解ではない」と、上の櫻井ら著よりも正しく明確に記述している。但し、「芦田解釈」を「政府解釈にしていれば、日本は自衛隊を改め、…軍隊を持って」よかった、と語っている(p.112)。揚げ足取りのようだが、上記のとおり、「自衛隊を改め、…軍隊」に、という必要はなく、当初からあるいは主権回復時から(自衛隊という中間項?を経ることなくただちに)「軍隊を持って」よかったことになる、と解される。
 第二点以降は、さらに続ける。

1275/田久保忠衛・憲法改正最後のチャンス(並木)を読む-3。

 田久保忠衛・憲法改正、最後のチャンスを逃すな!(並木書房、2014.10)は、筆者の、「体系的」憲法論ではなく、「体感的な」憲法論だとされているので(p.252)、国際政治が専門らしい田久保に専門的な憲法論を期待するのは無理かもしれない。しかし、表紙裏の経歴には「産経新聞『国民の憲法』起草委員会委員長」と明記されているのだから、産経新聞案「国民の憲法」に関する(委員長個人としてであれ)、産経新聞社の本にはない説明または解説がある程度詳しくはあるものと期待しても不思議ではないだろう。
 また、今年に入って気づいたことだが、田久保忠衛は「美しい日本の憲法をつくる国民の会」の共同代表の一人(あとの二人は櫻井よしこ、三好達)だ。この団体は2014.10.01に設立されたようで、同日に設立宣言を発表している(同会のウェブサイトによる)。そして、たんにこういう名称の会の設立だけだと、さっそく「美しい日本の憲法」の具体的内容は何かと問いたくなるが、同会はQ&Aのかたちで、条文案ではないものの、目指す憲法の骨子を7点に整理しまとめたものを公表している。
 そうすると、時期的には田久保の上掲書は上の会の設立前に書かれてはいるが、一年も前ではない直前の時期に書かれていると推測されるので、同著は「美しい日本の憲法をつくる国民の会」の代表(の一人)が書いたものだ、という<権威>をもってしかるべきことになるだろう。
 だが、期待しもした産経新聞社案「国民の憲法」のより詳しい説明はほとんどないし、「美しい日本の憲法をつくる国民の会」が公表している7つの骨子の過半についてはまったく触れるところがない。
 しかも、一方では起草委員会の委員長を、片方では共同代表を努めながら、両者が提言する憲法案の具体的内容には<一致していない>、<矛盾する>部分がある。これはきわめて奇異なことだ。
 矛盾しているとほぼ明らかに言えそうなのは、九条についてだ。産経新聞案「国民の憲法」と田久保の上掲書は矛盾してはいないが、田久保の上掲書の九条(およびその改正案)に関する叙述と「美しい日本の憲法をつくる国民の会」公表の改正案骨子は矛盾している。
 先に「美しい日本の憲法」案の方から紹介すると、第三の柱として「九条…平和条項とともに自衛隊の規定を明記しよう」との見出しが掲げられ、その第三文では、こう書かれている(ウェブサイトのそれとまったく同一文ではない同会のパンフレットによる。ウェブ上では以下の「軍隊」は「国軍」になっている)。
 9条1項の平和主義を堅持するとともに、9条2項を改正して、自衛隊の軍隊としての位置づけを明確にします」。
 すでに書いたことだが、このような文章の考え方にもとづく改正案づくりと憲法改正(おそらくは1項の基本的な維持と現2項の削除、そして自衛隊を正規に「軍隊」と位置づける条項の新設)に私は賛同する。
 だが、田久保忠衛が起草委員会委員長だった産経新聞社案「国民の憲法」は、このような考え方に立っていないことはすでに記したとおりだ。
 自民党草案も読売新聞社試案も現9条1項は基本的に維持することとしているのだが(また、北岡伸一も、1項の平和主義は維持し2項の戦力不保持は改正しようとする意見を無視して、朝日新聞は一括して改憲論>九条改正論=「平和」主義・「平和憲法」否定というデマを撒き散らしている旨を述べて朝日新聞を批判していたが)、くり返せば、産経新聞社・国民の憲法(産経、2013)は、自民党草案について、つぎのように書いていた。
 <自民党草案は1項に「自衛権の発動を妨げるものではない」を追記して「工夫を重ねている」が、「主権の行使に制限を課している条文をそのままにしている意味では不徹底で不完全だ」>(p.140)。
 そして、現9条1項の断片のみを残した「平和」希求と国際紛争の「平和的解決」を志向する新たな条文を作り、別の条文で、「軍を保持する」ことを明記することとしている(同案15条・16条)。
 「美しい日本の憲法」案が「9条1項の平和主義を堅持する」と記しているのは現1項の条文を基本的に維持するとの趣旨ではなく、この産経新聞案「国民の憲法」のような書きぶりでも「平和主義」の堅持にあたる、という可能性がないではない。
 しかし、「美しい日本の憲法」案の文章が続けて「9条2項を改正して、自衛隊の軍隊としての位置づけを明確にします」と書いていることからすると、9条1項は(基本的に)改正しないという趣旨だと解釈するのが自然で、やはり、、「美しい日本の憲法」案と産経新聞社案「国民の憲法」は異なる、と理解することができるものと思われる。
 そして、田久保忠衛の上掲書は、現9条1項は基本的にであれ維持することはしないという考え方を明確に語っている。つぎのとおりだ(p.172-5)。
 <当初は九条1項はそのまま残す説に賛成だったが、森本敏の次の指摘(森本ら・国防軍とは何か(幻冬舎ネネッサンス新書)に「まったく同感」して、産経新聞社案では「現行憲法第九条第一項を含めて全面的に改める」ことした。>
 森本の指摘とは、①第一項があると、「国連決議にもとづく集団安全保障に参加できなくなる」、②第一項があると、「多国籍軍」に入っているアメリカ軍が攻撃された場合に「集団的自衛権の行使」ができなくなる、をいう。
 要約したし、もとの森本の発言内容を読んではいない。また、私自身の知識と勉強の不足かもしれないが、これらの理由が当たっているのかは理解困難だ。だが、<集団的自衛権>の行使は現憲法のままでも行使可能と閣議決定されたところであるし、「国連決議にもとづく集団安全保障」措置への参加の許容性については現憲法は何も語ってはいないのではないのだろうか。また、正規に認知された軍ができたとすれぱ直ちに「国連決議にもとづく集団安全保障」措置に参加できるというものではなく、法律(+条約?)による正当化が必要だろう。
 この問題には立ち入らない。ともかくも、現九条1項も「改め」る見解である旨を田久保忠衛は上掲書で明確に述べている。しかるに、共同代表を務める会の「美しい日本の憲法」案はどうも現九条1項は「堅持」するつもりのようだ。
 これは明らかに矛盾で、田久保は上掲書の考え方に立つのであれば、「美しい日本の憲法」案の内容に反対するのが論理的な筋のはずだ。にもかかわらず、「美しい日本の憲法をつくる国民の会」による公表後に、それと異なる見解を明らかにしている書物を公にしているのは、奇異・奇妙だと言う他はない。
 もともと、p.110以下の叙述を読んでいても、現九条に関する田久保の理解の仕方には疑問が生じるところである。例えば、「芦田修正案は政府の見解ではない」という理解はそのとおりだが、「戦力」ではない「必要最小限度の実力の行使」による相手国兵力の殺傷及び破壊等を行うことは「交戦権の行使」としてのそれとは「別の観念」という政府答弁は「何を意味するのかよくわからない」と書いている(p.113-4)。しかし、私にはよく分かる。現憲法の政府解釈によるかぎりは、自衛権はあり、そのための実力行使は「交戦」ではない(実力行使組織=自衛隊は「軍その他の戦力」ではない)、ということになる。
 憲法学上の「多数説」に従って私は記してきているのだが(最近にあらためて憲法学文献で確かめておいた)、諸説が成り立つものの、1項は自衛権を否定するものではなく<自衛のための軍>設置・「自衛戦争」を否定するものでもない。しかし、2項が一般に「軍その他の戦力」の保持等を否認している結果として、「自衛」目的であれ「軍」は保持できず「戦争」もできない。但し、「自衛」のための「必要最小限度の実力の行使」は可能であり、そのための組織の保持も許容される。このような、政府解釈も基本的に拠っていると思われる(むろん、但し以降は相当に苦しい)論理構造くらいは、民間団体とはいえ、憲法改正案起草委員会の委員長や新憲法制定運動団体の共同代表の方には、理解しておいていただきたいものだ。

1267/丸山真男と現憲法九条・「軍事的国防力を持たない国家」論。

 〇 竹内洋・丸山真男の時代(中公新書、2005)は丸山真男に対して批判的であり、竹内・革新幻想の戦後史(中央公論社、2011)も同様だ。竹内の上の前者によると、1996年8月に丸山真男が逝去したのち朝日新聞はある一面のすべてを「丸山の業績と人をしのぶ」座談会で埋めたが、産経新聞は元慶応大学・中村勝範の「丸山政治学は思想的に日本人を混乱させた元凶でした。過去の分析も戦後の状況判断も完全に誤っていた」とのコメントも掲載した。
 水谷三公・丸山真男-ある時代の肖像(ちくま新書、2004)を、私は丸山真男(の思想)に対する訣別の書として読んだ。だが、長谷川宏・丸山真男をどう読むか(講談社現代新書、2001)のような、丸山真男を称揚する書物は今日でも新たに刊行され続けている。
 戦後「左翼」のなお強固な残存の源流の一つは、丸山真男にあるだろう。
 〇 ジャパニズム21号(青林堂、2014.10)によって気づかされたのだが、丸山真男は、亡くなる一年前以内の雑誌・世界(岩波)の1995年11月号に、「サンフランシスコ講和・朝鮮戦争・60年安保」と題する回顧談的文章を載せている。その中に、つぎの文章がある。丸山真男全集第15巻(岩波、1996)から直接に引用する(p.326)。
 平和問題談話会の法政部会で憲法第九条の問題を論じたときは、民法専攻の磯田〔進〕君のような左派は、『軍備のない国家はない。軍備がないというのはおかしい』と批判しました。正統左派ではない大内〔兵衛〕先生も、『国家である以上は、完全非武装というのはありえない』というのが、このときのお考えでした。そこで僕は、こうなったら国家観念自体を変革する以外にない、今日の言葉でいえば、…『普通の国家』論でいえば、軍備のない国家はないんだけれども、憲法第九条というものが契機の一つになって一つの新しい国家概念、つまり軍事的国防力を持たない国家ができた、ということも考え得るんじゃないかといって、磯田君と議論した。(ジャパニズム上掲p.118と引用の部分・仕方が少しだけ異なる)。
 ジャパニズム上掲号の「左翼アカデミズムを研究する会」という実質的には無署名の書き手は、上の文章から、大内兵衛ですら武装肯定の時代にすでに<非武装中立>を信念としていた、というまとめ方をしているが、私には、丸山真男が現憲法九条を「国家観念自体」の「変革」、「新しい国家概念」提示の契機と理解しようとしていた、ということが興味深い。
 いずれにしても、「丸山という知の権威がつくりあげた憲法九条イデオロギーは、さまざまな形で、今日の左翼アカデミズムに大きな影響を及ぼしている」(同上p.118)のはおそらく間違いない。ここにいう「憲法九条イデオロギー」は、たんに<反戦・平和>の気分に支えられているのではなく、「左翼」が夢想したい「新しい国家概念」の展望によっても基礎づけられているかに見える。
 憲法九条2項改正(・削除)論・論者に対する強固で執拗な、あるいは脊髄反射的な反発は、現実的・具体的な議論によって成り立つているというよりも、まさに「イデオロギー」に依拠するものだろうと考えられる。
 そうだとすると、やはり、それを打ち砕いておくために、憲法九条2項の改正(・削除)は日本にとって絶対になすべき課題だ、と感じられる。
 池田信夫はそのブログ2014.12.25付で「憲法改正は『大改革』ではない」と題して、憲法>「第九条を改正しても、自衛隊の名前を『国防軍』と変える以外の変化はほとんどない。大事なのは一院制にするとか衆議院の優越を明確化するなどの国会改革だが、自民党の改正案は参議院にまったく手をつけない。これでは改正する意味がない」
等と書いている。
 後段の指摘には賛同したい部分があるが、九条改正による「変化はほとんどない」、したがってその改正に大きな意味はないというかのごとき主張には、賛同し難い。九条2項を「改正(・削除)」しなくとも、すでに自民党中心の政権による憲法解釈によれば合憲とされている自衛隊によって、かなりのことが可能になっていることは確かであり、改憲反対派・憲法九条2項護持派によるデマ宣伝が言うほどには実態は大きくは変わらず、これまでの変化・実態の蓄積の延長線上にあるものにすぎないかもしれない。その意味では「質的」・「革命的」変化を生じさせるものではないかもしれない。
 しかし、「軍その他の戦力」の保持が明確に禁止されているにもかかわらず自衛隊を合憲視するのは相当に苦しい解釈ではあり、その「おとなのウソ」を解消する必要はやはりある、正規に「軍」と認知することによって日本の安全保障に一層寄与する、という点をかりにさしおいても、丸山真男のいう「軍事的国防力を持たない国家」という「新しい国家」観を、そして「憲法九条イデオロギー」を、きちんと打ち砕いておく課題と必要はある、と考えられる。問題は安全保障に関する現実だけではなく、<精神>・<国家観>にもあるのだ。
 〇 なお、丸山真男の、上の1995年の文章は「平和問題談話会から憲法問題研究会へ」という副題をもっている。
 前者の「平和問題談話会」については戦後<進歩的文化人>生成の重要な場であるという関心からそのメンバーの探索・確定や、安倍能成らの「オールド・リベラリスト」の排除による<純化>の過程の叙述を、たぶん竹内洋等々の文献を手がかりに、この欄でメモしていったことがある。そこでも触れたことがあるような経緯・構成員の一端を当事者の一人だった丸山も語っていて興味深い。また、後者についても、宮沢俊義(憲法学者)、我妻榮(民法学者)が政府系の憲法調査会ではなく、「憲法問題研究会」に入会したことは社会的に、また東京大学法学部内部でも大きな話題になった、等が語られていて興味深い。機会(・余裕)があれば、また言及しよう。

1263/具体的・建設的で戦略も意識した議論を-憲法改正をめぐる保守派の怠惰。

 月刊正論1月号(産経新聞社)に、田久保忠衛「衆院選で忘れてはならぬ/憲法改正のラスト・チャンス」がある(p.158-)。産経新聞の憲法改正案起草委員会の一員だった人物(かつ国家基本問題研究所の幹部)が憲法改正の必要性を説き、衆院選の重要な争点とすべき旨を主張してるのだが、これを概読して、2010年11月03日の産経新聞「正論」に掲載された、やはり田久保忠衛の「憲法改正の狼煙上げる秋がきた」を読んで感じたのと似たようなことを感じた。
 当時感じたことは、この欄の2013.08.12投稿でも繰り返されている-「問題は、いかにして、望ましい憲法改正を実現できる勢力をまずは国会内に作るかだ。/この問題に触れないで、ただ憲法改正を!とだけ訴えても、空しいだけだ」。
 当時は民主党政権下だったので現在とはやや状況は異なるが、発議自体に各議院議員の2/3以上の賛成が必要であることに変わりはなく、これが達成されている状況にあるとは、衆議院に限っても明確には言い難い。
 また、国会議員の構成は民主党政権下に比べれば改憲のためにより有利にはなっているだろうが、そもそも憲法「改正」の具体的内容は改憲派(あるいは「保守派」)において明確になっているのか、という根本的問題がある。
 田久保は月刊正論1月号で現前文・現九条の改正と緊急事態対処条項の三つに少なくとも触れているようだが、田久保には尋ねてみたいことがある。
 まず、産経新聞社「国民の憲法」草案起草委員の一人として、すでに公表されていた自民党の憲法改正案を知っていたはずだが、産経「国民の憲法」案・要綱と自民党改憲案はまったく同じではないはずのところ、なぜ両者には違いがあるのか?、自民党の改憲案をそのまま採用しなかった具体的理由は何なのか?
 これくらいのことを明らかにしてくれていないと憲法改正のための具体的な議論はできないのではないか。
 また、憲法改正は-いずれまた触れるだろうように、明治憲法を全体としてそのまま復活させるという主張を採用しないかぎり-現憲法全体に対して改正案全体を提示して、全体について一括して支持するか否かを国民投票によって決する、というのではない。一箇条(の改正または新設)のみについて一回の記載か、複数の条項についての改正案(新設を含む)に即して複数回の(賛否の)記載を国民に問うのか、というやや技術的な(とはいえ現実には重要な)問題もあるが、いずれにせよ、改正が優先されるべき個々の条項について改正(・新設)の賛否を国民に問うことになるはずだ。
 しかして、田久保はいったい現憲法のどの条項から改正を始めるべきだと考えているのか。この点も明らかにしてくれていないと、憲法改正についての具体的な議論はできない。
 田久保忠衛に限らない。月刊正論2月号(産経新聞社)に、八木秀次「見え始める憲法改正への道筋」という魅力的なタイトルの論考があるが(p.58-)、総選挙結果の政治評論家的分析が3/4を占め、憲法改正に関する、上のような疑問に答えるところはない。ただ一つ、「憲法改正を政治日程に載せるためには1年半後の参議院選挙で改憲派の議席を確保しなければならない」等の、率直に言って改憲派ならば誰でも書けるようなことを書いているにすぎない。
 たまたま田久保忠衛と八木秀次の名を出したが、①両議院に2/3の改憲派を生み出し、国民投票でも国民・有権者の過半数の支持を得るための戦略・戦術、②すでにある改正案もふまえて、具体的にどのような内容の条文にするかのより突っ込んだ検討(ちなみに、櫻井よしこは「国防軍」ではなく「国軍」でよいと、どこかに書いていた)、③そもそもどういう順番で、改正案を国民に提示していくのか、についてのきちんとした検討、はいずれも、改憲派(「保守派))において、決定的に遅れているか、まったくなされていない。
 実に悲観的(・悲惨的)で危機的な状況にある、とすら言える。改憲派の論者たちは、本当に、真剣に、現憲法を変えたい、「自主憲法」を制定したい、と考えているのだろうか。
 このような状況では、安倍晋三首相が、憲法改正について具体的なことを語ることができないのも、当然だ。適当に何かを論じ、書いていれば済む立場に、安倍首相はいるわけではない。発議に必要な要件を彼は痛いほど理解しているだろうし(96条改正問題にもかかわる)、また、具体的な改憲条文を示した上で国民投票にかける必要があることも、どの条項から始めるべきかという問題があることも、当然に強く意識しているはずだ。
 にもかかわらず、安倍首相の問題意識・問題関心に応え、具体的にサポートする議論を改憲派(「保守派))が行ってきているとは思えない。
 優先順位にしても、公明党の「加憲」論に配慮して、安倍首相は緊急事態対処条項から始めたいのでは、という憶測記事を新聞で読んだことがあるが(何新聞だったかは忘れた)、かかる程度の<優先順位>論すら、改憲派(「保守派))は何もしていないのではないか。現九条か、前文か、緊急事態条項か、それとも「環境権」か?
 改憲派(「保守派」)の怠惰だ。
 もともと自民党は安倍晋三が言うとおり、「自主憲法の制定」を悲願としてきたのだから、改憲派(「保守派」)が、たんに、<憲法を改正しよう>と主張しても、訴えても、ほとんど意味はない。いいかげんに、それだけの主張や議論はやめるべきだ。
 ついでに言うと、周知のとおり、憲法改正反対(とくに現九条2項護持)の政党・運動団体があり、憲法学者の大半は<護憲派>とみられるところ、現96条改正や現九条改正に反対する憲法学者等の主張・議論に、改憲派(「保守派」)は適確に反駁してきているだろうか。
 例えば、昨2014年に、東京大学の現役教授・石川健治は朝日新聞に「乾坤一擲」の長い文章を載せ、京都大学の現役教授・毛利透は読売新聞紙上で護憲の立場で論考(・インタビュー回答)を載せていたが、これらに、迅速に改憲派(「保守派」)は反応し、これらを批判したのだろうか。
 <憲法改正を>だけ叫ぶのはいいかげんにしてほしい。具体的かつ建設的で戦略も意識した議論が、そして<護憲派>に対する執拗といってよいほどの批判が、必要だ。

1158/毎日新聞12月09日社説と橋下徹の反論-集団的自衛権。

 毎日新聞の2012年12月09日社説は、集団自衛権行使を可能とする自民党や日本維新の会の主張に反対している。
 だが、以下に橋下徹の反論ツイッターのやや長い全文を紹介するように、その趣旨・論理は不明瞭だ。
 憲法解釈として集団自衛権の行使不可能や行使の際の限界が疑いもなく出てくるのであれば、すでに、同社説のタイトルのいう「社説:集団的自衛権/憲法の歯止めが必要だ」は、満たされている。憲法上の限界がすでにあるのだ。
 だが、憲法の意味内容の解釈が一義的に明確ではないからこそ、複数の解釈が生じうるのであり、従来の政府解釈の変更に対して「憲法の歯止め」とか「憲法上の制約」とかを語っても、まったく無意味だ。その「憲法」の歯止め・制約の内容自体が明らかではないのだから。
 さらに突っ込んだ、適確とみられる鋭い指摘を、橋下徹はしている。
 憲法と法律の関係、憲法「解釈」というものの性格・位置づけについての基礎的な素養が必要なので、橋下徹の文章の意味は、 毎日新聞社の社説氏とともに、一般の読者には分かりづらいかもしれない(それでも全国紙の社説の書き手がこの程度のことは理解しておけよ、くらいのことはいえる)。
 以下、毎日新聞社説と橋下徹の反論ツイッターのそれぞれ全文のそのままの引用。なお、橋下徹の文章は10回余りに分けて書かれたものを連続化したものだ(10分以内で一気に書かれていることも、ある種、驚くべきところがある)。
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社説/集団的自衛権 憲法の歯止めが必要だ
毎日新聞 2012年12月09日
 「自民党が衆院選の政権公約で、集団的自衛権の行使を可能とし、これを盛り込んだ「国家安全保障基本法」を制定すると主張している。日本維新の会も同様の公約を掲げた。
 これに対し、共産、社民両党は反対を明確にし、公明党も慎重姿勢である。民主党公約には言及がない。
 政府は従来、憲法9条が許容する自衛権行使は日本を防衛する必要最小限度にとどめるべきもので、集団的自衛権行使はその範囲を超え、憲法上許されないとしてきた。自民党の主張は、改憲しなくても集団的自衛権を行使できるよう、憲法解釈を変更しようというものだ。
 日米同盟は日本の安全保障政策の基盤であり、東アジアの安保環境は厳しさを増している。今後、日米の共同対処が求められる場面も想定されよう。日米同盟の効果的な運営に集団的自衛権行使が必要だとする政治的要請が強くなっている。具体的には、共同行動している米艦防護、米国に向かうミサイルの迎撃が議論となることが多い。これらは集団的自衛権行使の限定されたケースにとどまっているとも言える。
 しかし、自民党の憲法解釈によると、集団的自衛権の行使について憲法上の制約はない。歯止めを設けるとすれば、法律(国家安全保障基本法)によるとの考えのようだ。
 これでは、憲法が他国の領土における武力行使も容認していることになってしまうのではないか。北大西洋条約機構(NATO)加盟の英国は集団的自衛権の行使としてアフガニスタン戦争に参加したが、憲法上は日本も参戦が可能となる。
 現憲法が他国の領土、領海での戦争参加を認めているとは到底考えられない。集団的自衛権行使を容認するよう憲法解釈を変更するとしても憲法による歯止めは必須である。
 集団的自衛権をめぐる議論の中には、現憲法の下でも、「日本の実体的権利が侵害されている」と認定される場合には、その行使が容認される余地が生まれるとの解釈もある。その場合は「日本の防衛との緊密性、一体性」が要件となる。たとえば、いわゆる「周辺事態」において共同行動している米艦防護はこれにあたろう。この議論では、「緊密性、一体性」なしには集団的自衛権は行使できない。これは憲法上の制約である。
 現在の政府の憲法解釈は長年の論議の積み重ねの結果であり、法体系の根幹である憲法の解釈変更には慎重な検討が必要だ。日米同盟の重要性や安保環境の変化といった「政治論」だけ で「憲法論」を乗り越えるという手法には違和感が残る。」
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 橋下徹 2012年12月10日 ツイッター
 「12月9日毎日新聞社説。集団的自衛権。憲法の歯止めが必要だ。この社説は酷過ぎる。もう少し法の専門家の話を聞いた方が良い。もうロジックがぐちゃぐちゃ。結局、集団的自衛権が嫌な
もんだから、結論先にありきなので、ロジックがぐちゃぐちゃ。何を言っているか分からない。
 集団的自衛権の権利は認めるが、行使を認めないと言うのは政府の憲法解釈。毎日の社説は、憲法解釈を変更するとしても憲法の歯止めが必須である。えーーーっ?それをやるなら憲法改正しかないですよ。憲法が一義的でないから、解釈の余地が生まれる。ゆえに解釈に憲法自体は歯止めにはならない。
 だから憲法解釈に歯止めをかけるのは、憲法改正か立法しかない。そもそもこのような重大な憲法解釈を行政・内閣法制局に許していることの方が問題。憲法を改正するか、法律で明確化するか。この解釈を今の憲法で歯止めをかけろって・・・・歯止めにならないあいまいなものだから解釈が生まれるのに。
 毎日のこの社説は、大手新聞社の社説では見られないほどのロジック破綻。憲法解釈に歯止めがかからなくなるのは危険だ。そこは毎日に賛同。そこでその実践論。まさに毎日も政策の実現プロセスの認識が全くない。今の憲法は歯止めにならない。ゆえに方法は2つ。憲法改正か法律の制定か。
 毎日は、憲法改正は嫌だし、国家安全保障基本法も嫌。それが絶対条件だから、ロジックがむちゃくちゃになった。憲法解釈に歯止めをかけるのは憲法改正か法律の制定しかない。毎日は憲法改正反対だから、そうなると法律の制定しかない。法律で解釈に制限をかければ良いだけだ。
 僕はもっと自衛権の範囲を広げるべきという立場。毎日はそれを危険視しているのであろう。だからこそ、法律で明確化すれば良い。内閣法制局が憲法の最終解釈者ではない。毎日はそこも分かっていない。立法府も憲法解釈はでき、少なくても内閣よりも建前上は上だ。憲法の最終解釈者は司法だ。
 毎日は中学の公民の教科書をもう一度勉強すべき。なぜ政府の内閣法制局の憲法解釈を絶対視するのか。毎日の社説の最後の文章は致命的。「政治論」だけで「憲法論」を乗り越えるという手法には違和感がある。もう世も末だ。まさに政策の実現プロセスを全く認識していない。
 この毎日の社説は、内閣法制局の「憲法論」を、国会の「憲法論」が超えてはならないというロジック。日本の憲法上は逆だ。国会の憲法論を、内閣の憲法論が超えてはならない。だから法律

制定こそが健常なのだ。毎日は何故内閣法制局の憲法解釈を絶対視する?国会が超えてはならないのは、司法の憲法論だ。
 憲法論と言っても、誰が解釈するかでその意義は全く異なる。日本において憲法の最終解釈者は裁判所。だから憲法解釈においては国会=政治は裁判所に従わなければならない。しかし、国会は内閣法制局の憲法解釈に従わなくても良い。内閣法制局と国会の見解が異なるなら、国会は法律を作れば良いだけだ。
 12月9日の毎日新聞の社説は、毎日の哲学が端的に表れている。政府・内閣至上主義。国会はぼんくら集団。まあそう思われるような国会にも責任があるが。しかし日本の統治機構上は、毎日の考えは絶対に間違いだ。政治論が憲法論を超えてはならない・・・・すごいフレーズ。
 毎日新聞は、国会議員の憲法論は、内閣法制局の憲法論を超えてはならないということ。政治論とは国会議員の議論との意味だろう。しかしそこでの議論の対象は、まさに憲法論。だから国会議員と内閣法制局の憲法論同士のぶつかり合いに過ぎない。そして毎日は内閣法制局至上主義。今の憲法に反しますよ!」
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 毎日新聞の社説執筆者は「中学の公民の教科書をもう一度勉強すべき」とまで、書かれているのだが、はたして上の橋下の文意をきちんと理解できるのかどうか。
 こうしたレベルの憲法(とくに9条)にかかわる論述が大手マスメディアによって堂々と平気で書かれているのだから、憲法にかかわる議論が一般有権者にわかりにくいものになっているのも当然だ。
 いつかすでに書いたように、現9条一項で禁止されているのは戦争一般ではなく「侵略戦争」のみである、ということすらわきまえていないような(産経新聞の)論述もあった。
 現9条の問題には、今後も何度か言及しておく必要がありそうだ。

1113/憲法改正・現憲法九条と長谷部恭男・岡崎久彦。

 一 自由民主党が日本国憲法改正草案を4/27に発表した。この案については別途、何回かメモ的なコメントをしたい。
 翌4/28の朝日新聞で、東京大学の憲法学教授・長谷部恭男は、<強すぎる参議院>が日本国憲法の「最大の問題」だとして、この問題(二院制・両院の関係・参議院の権能)に触れていない自民党改正草案を疑問視している。
 長谷部恭男はやはり不思議な感覚の持ち主のようだ。現憲法の「最大の問題」は、現九条2項なのではないか。
 潮匡人・憲法九条は諸悪の根源(PHP、2007)という本もある。橋下徹も最近、趣旨はかなり不明確ながら、日本の諸問題または「諸悪」の根源には憲法9条がある旨を述べていた(ツイッターにもあった)。
 忖度するに、長谷部恭男にとっては、自衛隊は憲法「解釈」によって合憲的なものとしてすでに認知され、実質的に<軍隊>的機能を果たしているので、わざわざ多大なエネルギーを使って、九条改正(九条2項削除と「国防軍」設置明記)を主目的とする憲法改正をする必要はない、ということなのかもしれない。
 「護憲論の最後の砦」が長谷部恭男だと何かで読んだことがあるが、上のようなことが理由だとすると、何と<志の低い>現憲法護持論だろう(この旨はすでに書いたことがある)。
 二 外務官僚として政治・行政の実務の経験もある岡崎久彦はかなりの思想家・評論家・論客で、他の<保守>派たちと<群れて>いないように見えることも、好感がもてる。
 月刊正論5月号に岡崎久彦「21世紀の世界はどうなるか」の連載の最終回が載っている。
 「占領の影響と、そして冷戦時代の左翼思想の影響がその本家本元は崩壊したにもかかわらず、まだ払拭されていないという意味では、日本の二十世紀は、ベルリンの壁の崩壊でもまだ終わっていないのかもしれない」(p.261)という叙述は、まことに的確だと思われる。多くの(決して少数派ではない)評論家・知識人らしき者たちが平気で「冷戦終結後」とか「冷戦後」と現在の日本の環境を理解し表現しているのは、親中国等の<左翼>の策略による面があるとすら思われる、大きな錯覚だ。中国、北朝鮮という「社会主義」国が、すぐ近隣にあることを忘れてしまうとは、頭がどうかしている。北朝鮮の金「王朝」世襲交替に際して、金正恩は、「先軍政治」等と並んで、「社会主義の栄華」(の維持・発展)という言葉を使って演説をしたことを銘記しておくべきだ。
 上の点も重要だが、岡崎久彦の論述で関心を惹いたのは、以下にある。岡崎は次のように言う(p.262)。
 婦人参政権農地解放は戦後の日本政府の方針で、GHQも追認した。日本の意思を無視した改革に公職追放財閥解体があったが占領中に徐々に撤廃され、今は残っていない。
 「押しつけられた改革」のうち残ったのは憲法教育関連三法だったが、教育三法は安倍晋三内閣のもとで改正され、実施を待つだけだ。「今や残るのは憲法だけになっている」。
 しかし、軍隊保持禁止の憲法九条は、日本にも「固有の自衛権」があるとの裁判所の判決によって「実質的に解決されている」。自衛隊を国家に固有の「自然権」によって肯定したのだから、「自衛隊に関する限り憲法の改正はもう行われていることとなる」。
 「実質問題として残っているのは集団的自衛権の問題だけ」だ。政府の「頓珍漢な解釈を撤回」して集団的自衛権を認めれば「戦後レジームからの脱却はほぼ完成することになっている」。
 以上。
 きわめて興味深いし、柔軟で現実的な思考が表明されているとも言えるかもしれないが、はたして上のように理解すべきなのだろうか。「集団的自衛権」に関する(それを否認する)政府の<憲法解釈>を変えれば、条文上の憲法改正は必要はない、というのが、上の岡崎久彦の議論の帰結に近いと思われるが、はたしてそうだろうか。
 趣旨はかなり理解できるものの、全面的には賛同できない。「戦車にウィンカー」といった軍事的・技術的レベルの問題にとどまらず、「陸海空軍その他の戦力」の不保持条項(九条2項)は、戦後日本人の心性・メンタリティーあるいは深層意識にも多大な影響を与えてきたように思われる。
 集団的自衛権にかかる問題の解決もなされるべきだろうが、やはり九条2項削除・国防軍保持の明記も憲法典上できちんとなされるべきだろう。

1093/産経新聞と現憲法九条1項-「侵略」戦争のみを放棄。

 一 あらためて現憲法九条の解釈問題に触れる。
 というのは、産経新聞社の憲法九条関係の「専門」記者または論説委員の知識・勉強不足を、再び感じることがあったからだ。
 先月の2/05と2/20の二回、<芦田修正>にかかる石破茂と田中某防衛大臣のやりとりに関連したコメントを記した。
 そのときはあえて立ち入らなかったのだが、産経新聞の2/09社説「芦田修正/やはり9条改正が必要だ」には、九条1項と2項の関係についての、不思議な文章もあった。
 すなわち、「歴代内閣は自衛隊は『戦力』ではなく必要最小限度の『実力』とみなしてきたが、極めて分かりにくい解釈である。/芦田解釈を認めないまでも、このような考え方を政府は一部受け入れており、安全保障の専門家ですら合憲の根拠が奈辺にあるかを把握するのは容易でない。/戦後日本はこうした解釈により、『武力による威嚇又は武力の行使』の放棄と『陸海空軍その他の戦力』の不保持を規定する9条の下で自衛隊の存在について無理やりつじつまを合わせてきた」。
 「…政府は一部受け入れており」も、意味が不明だ。とくに
奇妙なのは最後の一文で、自衛隊に関して、1項の「武力による威嚇又は武力の行使」の放棄と2項の「陸海空軍その他の戦力」の不保持を「無理やりつじつまを合わせてきた」という説明の仕方は、私には趣旨が理解できない。自衛隊の存在は、九条1項とは関係がない、あるいはそれと抵触しておらず、もっぱら九条2項の「軍その他戦力」概念との関係が問題になるにすぎないからだ。
 1項は「戦争」放棄条項と称されることが多い。この社説の言うような、「武力による威嚇又は武力の行使」の放棄を少なくとも第一義的な目的としたものではない。そして、これと2項の矛盾?を「無理やりつじつまを合わせてきた」とはいったいいかなる意味なのだろうか、社説執筆者は憲法九条(1項と2項の関係も含む)の「政府解釈」をきちんと理解しているのだろうか、という疑問をもった。
 この点では、翌日の読売新聞社説の方がはるかにマシで、簡潔ながら要点をおさえていた。すなわち、「原案は9条1項で侵略戦争を放棄し、2項で戦力不保持を明記していた。2項の冒頭に「前項の目的を達するため」を挿入した。/これにより、自衛の目的であるならば、陸海空軍の戦力を持ち得るとする解釈論が後年、生まれることになる。/だが、政府解釈は、芦田修正を自衛隊合憲の根拠としてこなかった」。詳細にここで立ち入らないし、ある程度はのちに述べるが、この読売社説の文章は奇妙ではない。
 問題はおそらく、端的に言って、現憲法九条1項の理解にある。読売社説はすでに原案で「侵略戦争を放棄し」と書いているが、産経新聞においては、この点自体があやしい。すなわち、九条1項は「すべての」戦争を放棄していると、とりあえずは読んで(解釈して)しまっているのではないか。あるいは、表面的な字面に惑わされて、九条1項にいう「武力」概念と自衛隊の存在との間に問題がある、とでも安直に読んで(解釈して)いるのではないか。
 二 九条1項は自衛目的の戦争を含むいっさいの戦争(等)を放棄している、という理解(解釈)は憲法学者の中にもあるし、吉永小百合もまた、これを前提とする文章を、岩波書店刊行のブックレットに書いている。
 月刊WiLL4月号(ワック)の雑談話中の久保紘之も、ある意味では通俗的解釈については正確に、「前項の『戦争放棄』を補強して、そのために『戦力放棄』をすると読まれた」、芦田修正の含意は一部の者の「密教」となり、「民衆レベルでは『戦争も戦力も放棄』が顕教となっ」た、と語っている(p.100)。九条1項の意味や政府解釈等をどの程度正確に理解しているかは疑わしいが。
 また、産経新聞3/14付の投書欄には、「民衆」の一人の次のような主張が掲載された。じつは、この投書の内容を読んで、この文章を書きたくなった。
 投書者は、次のように言う。―自民党の憲法改正原案が「『国権の発動としての戦争を放棄する』との現行憲法第9条を維持している」のは残念だ、これを残すと「自衛のための戦争さえも」否定する根拠になりはしないか。現9条の「戦争放棄条項」を破棄すべきだ。
 こういう主張の投書を産経新聞が掲載したということはおそらく、投書欄担当者は<一理ある>と考えたからだろう。
 この投書者も(産経新聞の担当者も?)、9条の「戦争放棄条項」によって「すべての」・「いっさいの」(自衛戦争を含む)戦争が放棄されている、またはそのように解釈される可能性がある、ということを前提にしている。
 三 この欄にすでにいく度か書いてきたことなのだが、憲法学界の「通説」らしきもの、及び「政府解釈」をいちおうはきちんと知っておく必要があるだろう。
 現在の東京大学の憲法学教授・長谷部恭男の教科書はつぎのように叙述している。-9条1項について「通説は主として国際法上の慣用に基づいて、『国際紛争を解決する手段として』の戦争、〔…武力威嚇・武力行使〕の放棄は、侵略目的による戦争〔等〕の放棄を意味するにとどまるとする」(第4版、p.61)。
 ここにいう「国際法上の慣用」を含めて、現役教授4名による現憲法注釈書である別の本は次のように書いている。-「通説によれば、九条一項が『国際紛争を解決する手段としては』永久に放棄するとした戦争は、一九二八年の不戦条約が『国際紛争解決ノ為戦争に訴フルコトヲ非トシ』て放棄した『…戦争』を意味する」、従って「少なくとも」「自衛戦争・自衛行動や軍事的制裁措置までは放棄していないということになる」(高見勝利執筆、同ら・憲法Ⅰ第4版(有斐閣、2006)p.165)。
 これらにいう「通説」と(憲法制定時は別としても)警察予備隊や自衛隊設置等のあった一九五〇年代以降の「政府解釈」とは同じだ、と理解して差し支えない。なお、かつての宮澤俊義や現在の樋口陽一は「すべての」戦争放棄と解釈した、または解釈したがっているので、「通説」と同じではない。
 以上のように、九条1項におけるキーワードは「国権の発動としての戦争」ではなく(これは「戦争」と同義かほとんど等しい)、「国際紛争を解決する手段としては」にある。そして、この語句による<限定>があるがゆえに、自衛戦争(自衛のための戦争)を九条1項は放棄(否認)していない、とするのが学界の「通説」であり(といっても厳密には諸説があるのだが、上の二著はあえて「通説」と言い切っているので従っておく)、「政府解釈」でもある。
 ではなぜ「自衛(目的の)戦争」も否定されるかというと、それは九条2項の存在による。すなわち、1項のみでは「自衛戦争」は否定されていないが、2項によって「…軍その他の戦力」の不保持が明記されているために、自衛目的であれ「戦争」を行うための「戦力」を保持できず、従って「自衛戦争」を行うことが実際には不可能だ(否定されている)、ということにになっているのだ。

 <芦田修正>の語句は、結果としてはまたは実質的には無視されて解釈されている、と言ってよいと思われる(この点は詳論を要するが、省略する)。そして最近に書いたことを繰り返せば、「自衛」のための「戦力」も保持できないが、自衛権はあり、「自衛」のための最小限度の<実力行使>はできる、そのための組織が(「戦力」ではない)自衛隊だ、ということに、「政府解釈」によれば、なっている。
 国民・「民衆」レベルで、「国際紛争を解決する手段としては」という語句に着目することを期待するのは無理かもしれない。しかし、天下の大新聞?・産経新聞の社説等の執筆者あたりだと、上の程度くらいの知識を持っておくべきだろう。アホ丸出しとまでは書かないが、産経新聞2/09社説は、上のような趣旨を理解して書かれたのだろうか。また、3/14の投書欄担当者は、上のようなことを理解したうえで、一読者の投書を掲載しているのだろうか。
 四 数年前に桝添要一が責任者またはまとめ役となって作成された自由民主党の改憲案においても、現憲法九条1項はそのまま残されていた。現九条2項は削除され、現在の九条1項が「九条」全体に変わり、そのうえで、新たに「九条の二」が設けられて「自衛軍」の保持が明記されていた。今回の自民党の憲法改正原案もまた、これを継承していると考えられる。
 すなわち、<侵略戦争>はしない(放棄する)、という意味で、(自民党においてすら?)現九条1項はそのまま残されるのだ。
 この点を正確に理解したうえで、改憲案に関する報道もなされるべきだろう。
 すでにこう書いたことがある―「九条を考える会」という呼称はゴマカシだ、正確に<九条2項を考える(護持する)会>と名乗るべきだ、と。岩波書店あたりを実質的に事務局としていると推察される「九条を考える会」は(むろん奥平康弘という憲法学者を含む呼びかけ人たちは)、上のような「通説」や「政府見解(解釈)」を知っているにもかかわらず、九条1項の意味をあえて曖昧にし、九条1項がすでに「すべての」戦争を放棄し、そのための具体的な手段として九条2項がある、という(九条1項だけですでに「戦争」一般が放棄されているという)通俗的な、「民衆」レベルでの<美しい?誤解>によりかかって、会の名称とし、運動をしているのだ。
 改憲政党の自民党ですら、現九条全体の破棄・削除を主張しているのではない。改憲政党の自民党ですら?「侵略戦争」を是としているのではない。自民党が主張しているのは、現九条の全体ではなく、後半・2項の削除(と「自衛戦争」可能な自衛軍保持の明記)だ。少なくとも大手新聞社の憲法担当の関係者は、この程度のことは<常識として>知っておくべきだろう。
 産経新聞には、古森義久、黒田勝弘、湯浅博等々の、「正論」欄メンバー以上に博学でかつ現実的な議論のできそうな人物が少なからずいることを知っている。それにしては、憲法あるいは憲法九条関係の記事は、どうもあやしく、お粗末であるような気がする。
 投書者に責任はないだろう。だが、上のような投書を投書欄の最右翼に掲げる感覚は、必ずしも適切ではないように思われる。現憲法九条の解釈論議をまき起こしたいという趣旨ならば理解できなくはないが、自民党の改憲原案への疑問としては正鵠を射ていない。産経新聞社には、憲法九条を含む憲法諸条項の「政府解釈」(多くは内閣法制局見解)をまとめた本(刊行されている)や少しは分厚い憲法の注釈書・教科書のいく冊かも置かれていないのだろうか。そうであるとすれば、まことに空怖ろしい。
 お分かりかな? 産経新聞社の関係者のみなさん。一ブロガーにこんな書き方をされるとは、少しは恥ずかしいのではないか?

1083/憲法九条の解釈と産経新聞と軍隊と法ニヒリズム。

 自衛隊の憲法上の根拠に関する国会質疑についての報道ぶりをこの欄で疑問視したのは2/05の未明だった。
 その後、産経新聞社説が2/09に、読売新聞社説が2/10にこの問題を取り上げ、産経新聞紙上の「正論」欄では2/09に坂元一哉が「芦田修正が自衛隊合憲根拠なら」と題してこの問題に言及している。他紙の状況は確認していないが、少なくとも社説では取り上げていないようだ。
 上の3つに共通するのは、①いわゆる芦田修正は政府の解釈する自衛隊の合憲性の根拠ではない、②「やはり」憲法改正(軍としての明記)が必要だ、ということだ。
 そもそも自衛隊担当大臣が憲法上の根拠をまともに答弁できないのは異常なのであり、坂元の言うように「昔だったら国会が止まりかねない失態」だ。このことに関する感覚が麻痺しているのではないかと先日は言いたかったのだが、産経社説の冒頭は「自衛隊と憲法の関係があまりに複雑すぎて、ほとんどの国民は理解できないだろう」から始まっている。別の機会に言及する点も含めて、大?新聞の産経新聞の社説子がこう書き始めるとは、(「国民」に代えてはいるが)情けないことだ。田中某大臣の勉強不足のみに焦点を当て、質問者・石破茂の憲法解釈の適否について触れなかった自社の記事への「釈明」のように読めなくもない(官房長官が芦田修正は政府解釈とは異なると述べたらしいが、少なくとも同じ記事の中に書いてはいない)。
 さて、自衛隊が憲法九条2項でいう「戦力」ではないということは、九条2項が「陸海空軍その他の戦力」と表現しているように、自衛隊は「陸海空軍」ではないこと、「軍(隊)」ではないとされていることを意味する。「戦力」というとやや曖昧になってしまうが、現在ある自衛隊は「軍隊」ではないと日本政府は解釈し続けていること(そして司法審査の対象ではないとする最高裁の姿勢・判決によって、このような解釈は肯定されていないが、否定されてもいないこと)をきちんと確認しておく必要がある。
 私の見るところ、このような解釈の長年にわたる「通用」は、少なくとも次の二つの弊害をもたらしているようだ。
 一つは、戦車が「特車」と言い換えられるといった例をよく耳にするが、自衛隊は「軍隊」ではないとされているために、まともな軍隊ならば有しうる(与えられる)はずの種々の権限が制約されている。
 詳細に立ち入る余裕も能力もないが、田母神俊雄はこの点を、軍隊ならばネガティブ・リスト以外のことを全てできるが、自衛隊はポジティブ・リストに明記されていることしかできない、と説明していた。
 かつての幕僚長の言うことだから、結論的にはおそらく的確な説明なのだろう。「軍隊」ではないがゆえの、法律との関係での制約があるのだ。
 もっとも、<軍隊ならばネガティブ・リスト以外のことを全てできる>という説明は、結論的・感覚的には誤ってはいないのかもしれないが、結局のところ、法律による抽象的かつ包括的な権限・権能の付与が「軍隊」の場合は通常(どの国でも)憲法または法律によって行われている、ということであり、軍隊であるがゆえの「国際法」上の権能だという説明ではないように見える。なぜなら、ある国の、ある武力・実力組織が「軍隊」であるか否かを決定することができるいかなる国際機関も存在しないと思われるからだ。
 したがって、違いは要するに国内法(憲法上の存在ではない日本では法律)上の扱いの違いなのであり、自衛隊を「軍隊」とは理解してこなかった日本の法律は、<抽象的かつ包括的な権限・権能の付与>をしてこなかった、ということなのだろうと思われる。このあたりは、軍事・防衛法専門家(いるとすれば)のきちんとした説明を聞きたいものだ。
 二つは、一種の「法ニヒリズム」の根拠・背景になってきた、ということだ。軍隊(・自衛隊)の存否、その法的な根拠は国家にとって最重要事項のはずだが、日本政府自体の憲法解釈が大まかに言って朝鮮戦争勃発の前後によって変わってきたことによって、<憲法解釈などどのようにでもなる>という印象を多くの国民に与えたことは否定できないように思われる。また、世界で第何位の実力があるというようなかたちで紹介されることもある自衛隊の装備・能力が(上に触れたような制約があるとはいえ)、常識的な用語としての「軍その他の戦力」ではない、とするのは、必ずしも容易に理解できるものではない。
 憲法と自衛隊に関する説明・授業を聞く小学生・中学生たちは、何と感じるだろうか。<(日本の)大人たちはゴマかしている>と感じないだろうか。
 もともと欧米的な「法・権利」意識が日本(国民)にそのまま根付くものなのかという問題はあるのだが、そうした基本問題以前のところで、憲法をはじめとする法(法令等)に対する「不信」のようなもの、それを伝統的・歴史的な意識に支えられた自然の「法」意識へと育てず、憲法等の「法」を(どのようにでも解釈・運用できる)<技術的な道具>視してしまうような意識・心理の重要な背景の一つは(最高裁の姿勢もその一つだが)九条・自衛隊に関する政府の解釈でもあったように考えられる。
 さらに論及したいことがあったが、長くなったので別の回に委ねる。

1080/自衛隊の合憲性の根拠は芦田修正?

 2/02衆議院予算委員会で自民党・石破茂が田中某防衛大臣に自衛隊の合憲性についての憲法(九条)上の根拠を糾し、田中某が「しどろもどろ」の答弁をしたので、石破茂は、次を「模範解答」として教示した、とされる。
 ・九条二項冒頭のいわゆる「芦田修正」(「前項の目的を達成するため」の挿入)。他に「文民条項」も挙げたらしいが、これをも追加した意味は不明なので、以下では後者については省略しておく。
 誰かがどこかですでに書いているだろう。石破の憲法「解釈」は成り立ちうるものではあるが、これまでの政府見解とはまったく異なる。
 元防衛大臣の石破も、そして自民党も、上の問題についての「政府見解」を知らないとは、まったく呆れてしまう。それをご説ごもっともと?聞いていたらしい田中某も民主党政府全体も、そしてマス・メディアもどうかしている。この点を問題視していた全国紙はあったのだろうか。
 憲法9条の法解釈論を少しでも勉強したことがある者であれば誰でも知っているようなことだ。
 なるほど芦田修正を形式的に文言どおりに生かせば、前項(9条1項)による<侵略戦争の禁止(放棄)>のためにのみ「戦力の保持」が2項によって禁止されていることになる。換言すれば、<自衛(戦争)>のための「戦力」保持は禁止されておらず、自衛のための(堂々たる)「戦力」として自衛隊は認知されていることになる。
 しかし、政府の解釈も変遷してきたという曖昧さ・いいかげんさはあるのだが、昭和29年・自衛隊法制定時の鳩山一郎内閣時代の林修三法制局長官国会答弁(1954.12.21)は、次のようなものだった。
 ・「国家が自衛権を持っておる以上…〔自衛のための〕実力を…持つことは当然のこと」、「憲法が…、今の自衛隊のごとき…自衛力を禁止しておるということは…考えられない。すなわち第2項…その他の戦力は保持しないという意味の戦力にはこれは当たらない」。
 また、同時期の大村清一防衛庁長官国会答弁(1954.12.22)は、次のようなものだった。
 憲法は自衛権・「自衛のための抗争」を否定していない。「…従って自衛隊のような自衛…目的のため必要相当な範囲の実力部隊を設けることは、何ら憲法に違反するものではない」。
 要するに、芦田修正などは何ら根拠とされず、そもそも自衛隊は九条2項が保持を禁止する「戦力」ではなく<自衛のための実力部隊>にすぎない、とされたのだ。
 その後、佐藤栄作内閣時の吉国一郎法制局長官国会答弁(1972.11.13)は、「9条2項の戦力の定義」は「自衛のための必要最小限度を超えるもの」だと述べ、自衛隊は「超えるもの」ではないがゆえに「戦力」ではなく、従って憲法9条に抵触しない、とした。
 「戦力」の意義を明瞭にしているが、基本的な趣旨は、昭和29年の時期と同じだと解してよい。
 このような解釈については、常識的にみて自衛隊が「戦力」に当たらないとするのはこじつけだとか、「必要最小限度」とはどの程度かあいまいだ等の批判は当然にありうる。
 しかし、ともあれ、これが現在も生きている日本政府の(自衛隊に関する)憲法解釈のはずなのであり、石破が「芦田修正」を持ち出すのは、芦田に自衛隊(自衛軍)保持の余地を残したいという意図がかりにあったとしても、<公的な・公定の>解釈ではなく、一国会議員の解釈にすぎない。石破は1970年代以降に大学で憲法を学んだはずだが、よほど奇妙な(主観的な個人の解釈だけを示す)教師の講義を受けたのだろうか。
 こんな、自衛隊の存立基礎にかかわる問題について、与党も野党も、そしてマスコミも、国会における奇妙なやりとりを問題意識をもって聞いていないとは、まことに奇妙な、あるいは異様な事態だと思われる。ますますもって嘆かわしい世の中になってきている。

0947/仙石由人「暴力装置」発言は「平和憲法」に反する?

 仙石由人「健忘・左翼」官房長官が自衛隊を「暴力装置」と称したそのとき、質問者の自民党・世耕弘成は<自衛隊に失礼だ>と批判しただけだったが、たしか同日の後の質問者だった自民党参議院議員・丸川珠代(1971年1月生)は、「われわれの平和憲法を否定」するものだ、として仙石を批判した。
 また、誰が原文を執筆したのかは知らないが、自民党・みんなの党の幹部の了解を得ただろう、参議院での仙石由人問責決議の「理由」文は、上記発言についてだけではないが、次のように書いている。

 「第3に、日本国憲法に抵触する発言を繰り返し、憲法順守の義務に違反している」。「平和憲法に基づき国家の根幹である国防を担い、国際貢献や災害救助に汗をかく自衛隊を『暴力装置』と侮辱したことは、決して許されるものではないし、自衛隊を『暴力装置』と表現することは、憲法9条をはじめとする日本国憲法の精神を全く理解していないということである」。
 丸川は仙石発言を「平和憲法」否定だとし、問責決議は仙石は「憲法9条をはじめとする日本国憲法の精神を全く理解していない」と指弾している。

 上の二つは基本的には同じ趣旨だが、これはきわめて奇妙な批判の仕方だ。つまり、現憲法のもとでの「自衛隊」の位置づけがどうなっているのか、丸川や多くの自民党国会議員等はきちんと理解しているのだろうか。「暴力装置」発言の適否よりも、こちらの方がむしろ気になる。

 日本国憲法九条2項第一文は、「…、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と明記する。こんな条文のもとで、現在の自衛隊は、上の「理由」中に書かれているように、「平和憲法に基づき国家の根幹である国防を担」っていると断じられるのか?

 また、この規定との関係で、自衛隊の合憲性が問題となった(なっている)ことくらいは、国会議員ならば知っているはずだろう。

 「戦力」の保持が憲法によって禁止されているにもかかわらず、<自衛隊>という「実力」組織は法律制度上存在している。<自衛隊>は憲法で保持が禁止されている「戦力」にあたらないのか、という問題が生じることは常識的なことだろう。

 そして、現在までの日本の憲法学界では、自衛隊は「戦力」で、違憲の存在だ、との説の方が有力だと思われる。

 例えば、東京大学法学部の現役教授による、長谷部恭男・憲法(第4版)(2008、新世社)は次のように叙述する。

 多数説は「侵略」目的のもののみならず「あらゆる戦力」の保持が禁止されていると解する。これによると、「現在の自衛隊は、上述の意味における憲法によって禁止された戦力にあたることとなろう」(p.62-63)。

 このようなわが憲法学界によれば、仙石発言ではなく、むしろ自衛隊こそが「われわれの平和憲法を否定」しているのだ。自衛隊の方が、「憲法9条をはじめとする日本国憲法の精神」(平和主義?)に反しているのだ。

 こういう緊張関係が日本国憲法(とくに九条2項)と自衛隊(という「軍隊・戦力」まがい?)との間にはあることを全く知らないまま、上記のような論評が出てきているとすれば、まことに驚きという他はない。

 自衛隊違憲論をここで主張したいのではない。これまでの政府見解(憲法解釈)は<戦力に至らない程度の、自衛のための最小限度の実力の保持>は九条2項でいう「戦力」にあたらない、現存の自衛隊もこれに該当しない>、というものであることも知っている。

 だが、(「警察予備隊」レベルならばともかく)相当に苦しい解釈であることは確かで(政府解釈によると、核兵器も保持が可能だ)、自衛隊は正規の「自衛軍」ではなく、「軍隊・戦力」まがい?のものとして、いわば<憲法嫡出子>、憲法上に堂々たる正当な根拠をもつもの、とは見なされてこなかったのだ。

 ここに「戦後」日本の、憲法にかかわる<大ウソ>を指摘することもできる。<欺瞞>と<偽善>がここにある、と見ることもできる。こんな<大ウソ>または<欺瞞>・<偽善>を罷り通らせる大人たちを、子どもたちは信頼するだろうか。国民全体が<憲法ニヒリズム>に陥らないだろうか。

 再び1970年の三島由紀夫の「檄」を見てみよう。

 「法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によってごまかされ、軍の名を用いない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因」になってきた。「自衛隊は敗戦後の国家の不明確な十字架を負いつづけて来た。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与えられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与えられず、その忠誠の対象も明確にされなかった」。

 そして、三島は次のようにまで言っていた。政府は自衛隊によらずとも治安保持できることを示して、「左派勢力には憲法護持の飴玉をしゃぶらせつづけ名を捨てて実をとる方策を固め、自ら、護憲を標榜することの利点を得た」。

 こうした三島由紀夫の「懊悩」を、丸川珠代や現在の自民党等の幹部はまるで知らないか、理解していないごとくだ。

 必要なのは、仙石発言を「憲法違反」と論評することではなく、むしろ、自衛隊を明確に憲法適合的なものにするように、憲法改正(とくに九条2項削除と自衛軍・防衛軍・国軍設置の明記)をすることだろう。

 現憲法と現実の自衛隊や現実の軍事情勢との間には不適合あるいは矛盾・緊張関係がある、ということを意識しておかなければならない。その意味で、上に記したような仙石発言に対する批判の仕方には、寒気を覚えるところがある。

 なお、「日本国憲法に抵触する発言を繰り返し、憲法順守の義務に違反している」という一般的な批判の仕方も慎重であるべきだ。なぜなら、現憲法の不備や憲法改正を指摘または示唆・主張するかつての首相等の閣僚に対しては、民主党内閣以前の野党は、憲法99条の「国務大臣」等の<憲法尊重・擁護義務>に反すると批判してきたからだ。丸川珠代や自民党・みんなの党が現憲法を100%容認し、不備も感じず、改正の必要も意識していないのならば、話は別だが。

0896/大江健三郎は何を喚くか-朝日新聞6/15。

 朝日新聞6/15大江健三郎の「<これからも沖縄で続くこと>/侮辱への正当な怒りと抵抗」と題する文章(コラム)が掲載されている。朝日新聞は定期的に大江に執筆させているようで、さすがに<九条護持・親中・左翼>新聞だ。
 沖縄に駐留していた日本軍人を平然と「屠殺者」と書けた大江健三郎だから、この人の文章は警戒心を持って読む必要がある。
 相変わらず要領を得ない文章だが、結局、憲法九条の護持の主張のようだ。その前に、自然(水)保護という地球環境論の展開や安藤昌益(ルソー的思想家と肯定的に評価するばか者がいる)への肯定的言及も見られる。井上ひさしや加藤周一という「仲間」への言及もあり、加藤周一は、日本の「米軍基地を段階的に縮小し、安保条約の解消をめざす」べきことを14年前の朝日新聞に書き、それが「九条の会」にもつながっている、らしい。
 文章の最後に大江は、辺野古等の怒りと抵抗が「鎮まるとすれば、この国の根本的な方向転換が実際に見えて来る時です」(下線は実際には傍点部分)と書いているので、より具体的には何を意味するのかと読み直すと、どうやら、「九条の会」運動にもつながる「憲法の平和主義に徹底すること」か、それによって達成される何かであるらしい。
 寝惚けたご老人がまだおり、「作家」らしいその人が書いた文章を大切なものの如く掲載する新聞社がまだあるのだ。
 「平和主義」は言葉としては結構だが、中華人民共和国の軍備拡張等々や北朝鮮の核保有問題等々を抜きにして、それらにいっさい触れないままで、「憲法の平和主義に徹底すること」などとお題目のようによくぞ書けるものだと思う。しかもそれが、「この国の根本的な方向転換」と同一視されているか、そのための手段として書かれているのだから、いったい何を考えているのか、と言いたくなる。
 大江健三郎のような者たちがいなくならないと、日本国家の「根本的な方向転換が実際に見えて来る時」にはならないようだ。

0874/「九条を考える」、「九条実現」運動の欺瞞。

 憲法記念日、読売新聞5/3に、「市民意見広告運動事務局」による、「9条・25条実現」、「基地はいらない」、「核の傘もいらない」等と大書した一面広告が掲載されている。7613の氏名・団体名も小さく載っているらしい。
 その団体名の中には「〇〇9条を考える会」という、実質的には日本共産党系の運動になっている地域グループの名もある。
 「9条を考える」会運動が文字通りの「考える」ではなく「護持する」(憲法改正により削除させない)運動であることは疑いえない。
 上のことを前提にいうと、「九条を考える」、「九条実現」運動には大きな欺瞞がある。
 上に言及の新聞広告には日本国憲法現9条の1項と2項の全文も掲載されているが、いわゆる<改憲>論者のほとんどが主張している9条の改正の対象の中には、9条1項は含まれていない。
 代表的には自民党の憲法改正案があるが、その案では現憲法9条のうちその1項はそのまま維持することとしている。そして、2項を削除し、新たに「9条の2」を挿入して「自衛軍」の設立等を定めることとしている。
 上のことは、現憲法9条1項にいう「国際紛争を解決する手段として」の「国権の発動たる戦争」等は所謂<侵略>戦争等のことを意味し、9条1項(だけ)では<自衛(防衛)>「戦争」等は「放棄」されていない、という現在の憲法学界の通説および政府解釈でも採用されている理解の仕方を前提としている。
 私もそうだが、9条を改正しようとする主張・運動は、決して9条1項(の少なくとも基本的趣旨)までをも削除・否定しようとはしていないのだ。
 しかるに、「国際紛争を解決する手段として」の「国権の発動たる戦争」等は所謂<侵略>のためのそれ(のみ)を意味する、という知識をもたず、ごく通俗的に9条1項の文言を読んで、すべての「戦争」がこの条項によって「放棄」・否定されていると理解している国民が多すぎるのではないか。だいぶ以前に触れたが、「左翼」のアイドル(?)吉永小百合もこのような誤解をしたままで、岩波ブックレットに一文を書いている。

 ちなみに、上のことを意識してだろう、西田昌司=佐伯啓思=西部邁・保守誕生(ジョルダン、2010.03)の巻末の西部邁起草「自由民主党への建白書(要項)」(p.197~)の中の「D・憲法改正の要項」には、「第9条第一項」につき、「①『国際紛争を解決する手段として』の戦争とは『侵略戦争のことである』と明記する必要があることに加えて、……」との文章がある(p.229-230)。
 これにも見られるように、西部邁もまた現9条1項の削除を主張しておらず、意味の明確化と追加(「国民の国防義務」等。今回はこれ以上言及しない)を主張しているのであり、要するに、現9条の全体を削除すること=9条の(1項・2項の)全面改正を主張しているのではない。

 だが、なぜか、「九条の会」呼びかけ人の中には憲法学者・奥平康弘もいるにもかかわらず、9条全体ではなく、そのうちの現9条2項の維持か改正(削除を含む)かが決定的に重要な争点であることが曖昧にされている。
 彼らの運動のスローガンは「九条を考える」、「九条実現」ではなく、「九条2項を考える」、「九条2項実現」でなければならない筈なのだ。
 このように明瞭にすることなく、現九条1項(の基本的趣旨)もまた改正・否定されようとしていると理解して(または理解させて)運動をするのは、その名前またはスローガン自体のうちに欺瞞が含まれている。

 <ウソ、ウソ、ウソ>-「左翼」の中に隠れているコミュニスト(日本共産党々員たちが代表)は、目的のためならばいかなる策謀も瞞着も厭わない者たちであることを、肝に銘じておく必要がある。

0759/山室信一・憲法九条の思想水脈(朝日新聞社、2007)の欺瞞-なぜ「司馬遼太郎賞」。

 山室信一・憲法九条の思想水脈(朝日新聞社、2007)という本がある。まず問題になるのは、この著において「思想水脈」が追求される「憲法九条」とはいかなる意味・内容の「思想」又は「理念」なのか、だ。
 通説的解釈又は政府解釈を前提にすると、常識的に考えて、「憲法九条」の独特の意味、あるいは独特の「思想」・「理念」は、その第二項にある、つまり、第一項による<侵略戦争>の否認・放棄の明示的宣言のみならず、「自衛」のためにでも「軍隊その他の戦力」を持たず、「交戦権」を否認する、ということにある。「軍隊その他の戦力」による「戦争」を否定しているのだ(反面では、少なくとも<自衛>のための、「軍隊その他の戦力」によるのではない、国家間の「戦争」ではない武力行使(武力衝突)は否認されていない、ということになる)。
 したがって、<憲法九条の思想水脈>とは、上のような反面の余地を残した、自衛「軍(その他の戦力)」否認および自衛「戦争」の否定、という「思想」・「理念」の「水脈」を意味する、と理解されて当然だろう。
 しかるに、山室の上の本は、この点がまず曖昧だ。
 山室によると、憲法九条の<基軸>にあるのは、まず①「戦争放棄・軍備撤廃」、②「国際協調」、③「国民主権」、④「平和的生存権」の4つだ。その上で「根底にあって平和主義の基軸となるこれらの理念や思想を生み出し、実現する駆動力となってきたのは、…戦争に反対し平和を希求する信条であり運動」だとして、簡単には⑤「非戦」、多少表現を変えると、「戦争や軍備の縮小・廃絶とそれによる平和の実現をめざして展開されてきた非戦や反戦の信条」等を、「四つの基軸を貫いて一つのものに」する、「基底的な貫通軸」・「思想水脈の底流」になっているものとして挙げる(p.18-35)。
 憲法九条の解釈問題に触れる中では多少は言及してるが、上における「戦争」や「軍備」等は、いかなる目的・実態のものなのか等についての厳密な定義がなされることなく使われている。そして、憲法九条の「思想水脈の底流」には「非戦や反戦」の信条・運動があるというのだから、結局のところ、山室において、「憲法九条の思想水脈」という場合の「憲法九条」とは、きわめて漠然とした意味での「非戦や反戦」信条のことなのだ。あるいは少なくとも、これを含むものなのだ。
 従って、そののちに紹介・検討される諸「思想水脈」は、九条二項にみられる、「自衛」のためにでも「軍隊その他の戦力」を持たず、「交戦権」を否認する、という考え方の「水脈」ではなく、むしろ、漠然とした又は抽象的・一般的な「非戦や反戦」(・反軍)信条のそれになっている。
 ここまで広げると、多くのものが入ってくる。あるいは、何とでも言える。諸論者の「非戦や反戦」(・反軍)言説を抜き出していけば、「水脈」をたどることになり、例えば、日本の横井小楠・小野梓・中村正直・植木枝盛・西周・中江兆民の言説の一部が紹介される。
 山室信一の本にはタイトルからしてすでに欺瞞がある。この本は、<非戦(反戦)の思想水脈>と題しても不思議ではないし、その方が内容に即している。ことさらに「憲法九条」を表に出す点に「政治的」意図すら感じられる。改憲論者のおそらくほとんどが削除しようとはしていない憲法九条一項もまた十分に「非戦や反戦」信条の表明だ。問題は同条二項の是非であるにもかかわらず、この区別を曖昧にしたまま、人類の「思想」の先端的到達点が(二項を含む)憲法九条だと主張しているのだ。
 「憲法9条」とだけ表現し「憲法9条2項」と明記しないこと、明記できないことにこそ、この本の欺瞞がある。
 この本は「第11回司馬遼太郎賞」を受賞したらしい。朝日新聞社が発行するのはよく分かるが、なぜこんな本が「司馬遼太郎賞」に値するのか。日本(の学界・論壇等)は狂っているとしか思えない。

0678/佐伯啓思・現代日本のリベラリズム(講談社、1996)を読む-その3・現憲法の「正当性」。

 佐伯啓思・現代日本のリベラリズム(講談社、1996)には、佐伯にしては珍しく、日本国憲法の制定過程にかかわる叙述もある。
 ・日本国憲法は形式的には「明治憲法の改正」という手続をとった。これは、イタリア・ドイツと異なる。イタリアでは君主制廃止に関する国民投票がまず行われ、その廃止・共和制採用が多数で支持されたあとで、「憲法会議」のもとの委員会により新憲法が作成された(1947年)。ドイツでは西側諸国占領11州の代表者からなる「憲法会議」により「基本法」が策定された(1949年)。
 ・日本国憲法の特徴は、内容以前に「正当性の形式」に、さらに言えば「正当性という問題が回避され、いわばごまかされた」点にある。明治憲法の「改正」形式をとることにより、「正当性」を「正面から議論する余地はなくなってしまった」。
 ・むろん、新憲法の「出生の暗部」、つまり「事実上GHQによって設定された」ことと関係する。さらに言えば、日本が独自に憲法を作る力をもちえなかった、ということで、これは戦後日本国家・社会のあり方そのものの問題でもある。
 ・「護憲派」は、「仮にGHQによって設定されたものであっても、それは日本国民の一般的感情を表現したものであるから十分に国民に受容されたもの」だ、と弁護する。かかる議論は「二重の意味で正しくない」。
 ・第一に、「受容される」ことと「十分な正当性をもつ」ことは「別のこと」だ。新憲法は形式的な正当性はあるが実質的なそれにはGHQによる「押しつけ」論等の疑問がつきまとっている。「問題は内容」だとの論拠も、問題が「正当性の根拠」であるので、無意味だ。「GHQによって起草」されかつ趣旨において「明治憲法と大きな断想」がある新憲法を明治憲法「改正による継続性」確保によって「正当性を与え」ることができるか、はやはり問題として残る。
 <たとえ押しつけでも、国民感情を表現しているからよい>との弁護自体が、「正当性に疑義があることを暗黙のうちに認めている」。
 ・第二に、「国民感情が実際にどのようなものであったかは、実際にはわからない」。それが「わからないような形で正当性を与えられた」ことこそ、新憲法の特徴だ。少なくともマッカーサー・メモ(三原則)は日本側を呆然とさせるものであったし、「一言で言えば、西洋的な民主化が、決してこの当時の日本人の一般的感情だなどとはいえないだろう」。「もし仮に、この〔GHQの〕憲法案が国民投票に付されたとしても、まず成立したとは考えにくい」。
 以上、p.147-p.151。
 現憲法の制定過程(手続)については何度も触れており、結果として国民に支持(受容)されたから「正当性」をもつかの如き「護憲派」の議論は論理自体が奇妙であること等は書いたことがある。
 1945年秋の段階では、美濃部達吉や宮沢俊義は明治憲法の「民主的」運用で足り、改正は不要だとの論だったことも触れた。
 さらには、結果として憲法「改正」案を審議することになった新衆議院議員を選出した新公職選挙法にもとづく衆議院選挙において、憲法草案の正確な内容は公表されておらず、候補者も有権者もその内容を知らないまま運動し、投票した、という事実もある(岡崎久彦・吉田茂とその時代(PHP、2002)に依って紹介したことがある)。従って、新憲法の内容には、国民(有権者)一般の意向は全くかほとんど(少なくとも十分には)反映されていない、と見るのが正しい。
 ついでに付加すれば、衆議院等での審議内容は逐一、正確に国民に報道されていたわけでもない。<占領>下であり、憲法(草案作成過程等々)に関してGHQを批判する、又は「刺激」するような報道を当時のマスコミはできなかった(そもそもマスコミが知らないこともあった)。制定過程の詳細が一般国民に知られるようになるのは、1952年の主権回復以降。
 「押しつけられた」のではなく、国民主権原理等は鈴木安蔵等の民間研究会(憲法研究会)の案が採用されたとか、九条は幣原喜重郎らの日本側から提案したとか、反論する「護憲派」もいる。のちには日本共産党系活動家となった鈴木安蔵は、「日本の青(い)空」とかの映画が作られたりして、「九条の会」等の<左翼>の英雄に最近ではなっているようだ。立花隆は月刊現代(講談社)誌上の連載で、しつこく九条等日本人発案説を(決して要領よくはなく)書き連ねていた。
 だが、かりに(万が一)上のことを肯定するとしても、日本の憲法でありながら、その策定(改正)過程に、他国(アメリカ)が「関与」したことは、「護憲派」も事実として認めざるを得ないだろう。彼らのお得意の言葉遣いを借用すれば、かりに「強制」されなくとも、「関与」は厳としてあったのだ。最初の「改正」への動きそのものがGHQの<示唆>から始まったことは歴然たる事実だ。そして、日本の憲法制定にGHQ又は米国が「関与」したということ自体がじつに異様なものだったことを、「護憲派」も認めるべきだ。
 ところで、長谷部恭男(東京大学)は、一般論として<憲法の正当性>自体を問うべきではない旨のわかりにくい論文を書いている。
 この点や本当に新憲法は国民に「受容」されたのか等々を、佐伯啓思の上では紹介していない部分に言及しつつ、なおも扱ってみる。

0677/憲法九条第一項・第二項の「解釈」・その2。坂元一哉は大丈夫か。

 西修編(横手逸男・松浦一夫・山中倫太郎・大越康夫・浜谷英博共著)・エレメンタリ憲法〔新訂版〕(成文堂、1998)における、憲法九条解釈の叙述を簡単に見てみよう。九条関係の「第4章・戦争の放棄」の執筆者は松浦一夫・防衛大学校教授。
 九条第一項で否認(禁止・放棄)される対象につき、まず「侵略戦争限定放棄説(A説)」と「全戦争放棄説(B説)」とがあるとされる。どちらが通説又は多数説かの明確な叙述はないが、執筆者は「A説」のようにみえる(p.49-50)。少なくとも、まず最初に「侵略戦争限定放棄説(A説)」が取り上げられているように、「自衛」戦争を含む「全戦争」が九条第一項によって否認されているとほぼ一致して「解釈」されている、のではないことは、明らかだ。
 なお、前回に同じ意味で「A説」・「B説」という呼称を用いたが、前回執筆の際には上記の本は見ておらず、偶然の一致。
 ところで、上の本で松浦一夫は第三の説も説明しており、これを「戦争違憲・自衛行動合憲説(C説)」と称している。
 説明によると、この説は、九条第一項の「国際紛争を解決する手段としては」は「…戦争」にはかからず、「武力による威嚇又は武力行使」にのみかかると解する。従ってこの条項により「自衛」のための「戦争」は放棄されているが(違憲だが)、「自衛」のための<武力威嚇・行使>は許される(合憲だ)、との解釈がなされる。
 戦争と<武力威嚇・行使>を明確に区別することなく主として前者に焦点を当てて書いたため前回には十分に正確には言及していない。だが、この説は、松浦一夫による明示的な氏名・著書の掲記はないものの、明らかに、前回に触れた佐藤幸治(元京都大学教授)説だ。
 仔細に立ち入らないが、この説は当初のGHQ案や日本国憲法の英文テキストを論拠とする(上記の本・松浦p.50、佐藤幸治・憲法〔新版〕(青林書院、1990)p.567-7)。たしかに、英文テキストによると「国権の発動たる」は「戦争」のみを形容し、「国際紛争を解決する手段として」は「武力による威嚇又は武力の行使」(としての)にのみかかるようだ(佐藤幸治p.567)。佐藤によると、「総司令部案によれば、この点は一層明確」だ、という(同上)。
 だが、最終的な九条第一項は次のとおり。
 九条第一項「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」。
 佐藤幸治説=「戦争違憲・自衛行動合憲説(C説)」には、「自衛」目的の<武力威嚇・行使>を憲法上容認し正当化するという機能もあって、俄に無視することもできないだろう。だが、上の条文の文理からすると、常識的な日本語の文章の読み方として、「国際紛争を解決する手段としては」は、その対象として「武力による威嚇又は武力の行使」も含んでいると理解せざるをえないものと思われる。つまり、制定経緯やGHQの意向はどうであれ、C説は最終条文の文理からあまりに離れすぎている(=矛盾している)という大きな(致命的な?)難点があるように思われる。
 つぎに、西修編・上掲書(松浦)は、九条第二項の「前項の目的を達するため」(芦田修正)の解釈の違いにより、上でいう「侵略戦争限定放棄説(A説)」も次の二つに分かれる、と説明する。
 「不保持目的規定説(①説)」-前項の目的をその「精神」=「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」と理解し、第一項は「自衛戦争」を否定しないとしつつ、<自衛・制裁>目的であっても「軍その他の戦力」は保持できない、と解釈する。「自衛」目的であれ「戦力」保持が禁止されるため、全ての「戦争」が結果的には遂行できなくなる。この説は前回主として言及した本にいう、b説=「遂行不能説」だ。
 「不保持目的限定説(②説)」-前項の目的を「侵略的な戦争・武力使用の禁止」と理解し、「自衛」戦争のための「戦力」保持は否認されていない(合憲だ)、と解釈する。これは前回に紹介したa説=「限定放棄」説だ。
 この後者の説に立つと、<自衛隊>は「陸海空軍その他の戦力」であっても、「自衛」目的の組織であれば、違憲ではないことになる。但し、日本政府はそのような説明をしてきていないので(「戦力」ではないとの説明をしているので)、政府はこの「限定放棄」説(上の本にいう②説)を採用していないことは明らかだ。
 再度書いておくが、ごく簡単に以上を紹介しても明かなように、「第二項は…第一項の規定をより確実なものにするための条項である」(坂元一哉)などと簡単・素朴には言えない。
 通説ないし多数説と見られる解釈によると、第一項では「自衛戦争」は否認されていないが、第二項によって全ての目的のための「戦力」保持(・「交戦権」)が否認されているがゆえにこそ、結果として自衛目的であれ「戦争」を遂行できない、ということになっているのだ。それだけ第二項のもつ意味は大きいものと理解されていることになる。
 そして、「侵略的な戦争・武力使用の禁止」こそが「前項の目的」だと解釈するのが最も自然だとすると、芦田修正(追加)文言は実質的には「無視」されていることになる。この「前項の目的を達するため」に関する「最も自然」な解釈を採ったからこそGHQは<文民条項>の追加を要求したのだったが、この点には今回は立ち入らない。
 「戦力」概念やそれの実際の自衛隊との関係等についての学説・政府解釈にも、別の機会に触れるかもしれない。

0676/憲法九条第一項・第二項の「解釈」。坂元一哉のそれは大勢の反映か。

 先日、坂元一哉の憲法九条の解釈―正確には憲法九条に関する解釈論についての現況認識かもしれない―は怪しい旨を書いた。
 学説等の状況については比較的に客観的な叙述をしていると見られる、芦部信喜監修・注釈憲法(1)(有斐閣、2000)を参照して、簡単に整理しておこう。憲法九条部分の執筆者は高見勝利。
 九条解釈といっても、第一項につき例えば4つの論点と対立があり、第二項についても4つの論点の対立があるとすれば、論理的には16とおりの解釈に分岐する。仔細に立ち入る意味はさして大きくないので、坂元一哉の叙述を意識しつつ、とくに第一項の「国際紛争を解決する手段として」の(戦争等)、第二項の芦田修正(「前項の目的を達するため」)に留意して、以下要約的に紹介する。
 第一項中の「国際紛争を解決する手段として」の戦争・武力行使とは「侵略」戦争又は「侵略的な」武力行使を意味し、パリ不戦条約で違法とされた戦争・武力行使にあたる、従って、正当防衛行為とされる「自衛戦争ないし自衛行動」はこれに含まれない(また、「非当事国や国連などが」行う制裁戦争・制裁措置も含まれない)。「これが通説」である(p.400)。この欄で便宜的に「通説」又はA説と称しておく。
 一方、「侵略戦争」のみならず「自衛・制裁戦争」も「国際紛争」の「解決」のためのものとして、上に含める学説もある。B説と称しておく。。
 A説は「従来の国際法上の通常の用語例」に従うのに対して、B説は九条の「世界にさきがけ」た「画期的な意義」を強調する(p.401)。
 第二項の「前項の目的を達するため」の解釈いかんによって、九条全体の意味、とくに「すべての戦争ないし武力行使を放棄するものか否か」、の解釈も変わってくる。全体としていえば、<大別>して次の三説がある。a、b、cの呼称は原文のまま。
 a説=「限定放棄説」-第一項につきA説に立ち、第二項の「前項の目的を達するため」とは「侵略戦争」放棄という目的を意味し、そのための「戦力」や「交戦権」を第二項は否定していると解する。従って、この説によると、「自衛」等(+制裁)のための「戦力」保持・「自衛戦争」の際の国際法上の「交戦権」は、九条によって否定(放棄)されていない。百里基地訴訟第一審判決(水戸地裁1977.02.17判決)はこのa説を採った(p.402-3)。
 b説=「遂行不能説」-第一項につきA説に立ちつつ、第二項の「前項の目的」を第一項中の「国際平和を誠実に希求し」を指す、又は第一項全体の<国際平和の誠実な希求>目的だと解し(「達成するため」とは前項の定めの経緯・動機を意味すると解し)、第二項により「戦力」保持・「交戦権」は「無条件に」否定され、従って「自衛戦争」(+制裁戦争)を遂行することは結果として不可能となる、と解釈する。「事実上、すべての戦争が放棄されていると解するもの」で、「多数説を形成する」。長沼事件第一審判決(札幌地裁1973.09.07判決)がこの説を採った。
 c説=「峻別不能説」-第一項につきB説をとり、第二項をまつまでもなく第一項により「一切の戦争が放棄されているとする」。その主な論拠は、「国際紛争を解決する手段として」の戦争か否か、侵略戦争か自衛戦争かの区別の困難さにある(p.404)。
 著者の高見勝利は、「基本的にb説を妥当とし、b説的に理解してもc説との間にさほど径庭はないものと考える」とする(p.408)。
 高見説がどうであれ、日本政府の現在の解釈も(新憲法当初は第一項に関するB説的答弁もあったが)、上の三説の中ではb説だと思われる。自衛「戦争」はできないが「自衛権」行使まで憲法上は否定されておらず、「自衛権」行使のための自衛隊は第二項でいう「…軍その他の戦力」に該当しない、だから違憲の存在ではない、と「解釈」してきているのだ(今回扱っている論点に関する最高裁判決はない。今後も出ない可能性が高い)。
 すでに簡単には一部を紹介したが、坂元一哉は憲法九条につき、こう説明する。-「国際紛争を解決する手段としての武力の行使(又は威嚇)を永久に放棄し(第一項)、…戦力を保持しない(第二項)ことをうたっている。この第一項は…戦前の失敗を反省し、平和国家に生まれ変わることを誓った条項である。戦前の…失敗は…中国大陸における…国際紛争を解決するため、武力の行使に訴えたことに起因している。第一項は…そうしたことは二度としないという誓いである。/第二項は…『前項の目的を達するため』との文言が付いていることからも分かるように、第一項の規定をより確実なものにするための条項である」(月刊正論3月号(産経新聞社)p.216-7)。
 上の坂元において、「侵略」戦争か「自衛」戦争かという問題意識は見られない。また、「前項の目的」とは(パリ条約の文言とは別にほとんど日常用語として理解されている)<国際紛争解決のための>「武力の行使」等の放棄という目的だと無自覚的に理解されているようだ。上の学説分類に当てはめると、これはc説であって、決して「多数説」又は「通説」ではない。
 なぜ坂元がこのような杜撰と評してもよい叙述を何気なく行っているのかの理由はむろんよく分からない。だが、京都大学法学部出身の坂元が学習した可能性が高い、元京都大学憲法学教授による、佐藤幸治・憲法〔新版〕(青林書院、1990)の影響があるかにも思われる。というのは、佐藤は、この本で、通説又は多数説とは異なる九条の文言解釈を示しているからだ(とくにp.567-)。
 佐藤幸治によると、「戦争」と<武力威嚇・行使>は区別され、第一項の「国際紛争を解決する手段としては」は(「武力行使」等にはかかるが)「戦争」にはかからず、「戦争」に限定はつかない、従って上記のB説が結果として採られ、「自衛戦争を含めてすべての戦争が放棄されて」おり、「そのような戦争を遂行するための…『戦力』をもたないことを明らかにしたのが二項前段」だ、と述べられる(p.572)。
 この佐藤説は細かな分岐点を省略して大別すれば上のc説であり、かつ坂元一哉の叙述にも親和的だ。
 この佐藤説(的「読み方」)は「多数説」又は「通説」ではない。佐藤説との関係は別としても、坂元一哉は、自らの九条に関する叙述・説明が決して「多数説」・「通説」のそれではないことくらいは意識しておいてもよいだろう。
 些末な問題に触れたようでもある。だが、憲法九条・「戦争放棄」条項について坂元一哉的な単純素朴な読み方・理解をする人がけっこう多いようであるのは、困ったことだ。
 ついでに書くと、自民党の憲法改正案は現九条第一項はそのまま残し、第二項を全面削除して別の条項に改めるものだ(「九条の二」の新設)。かりに九条第一項が「すべての」戦争を、従って「自衛」戦争をも否認しているとすれば、自民党の改正案どおりに正規の「自衛軍」が設けられたとしても、その「自衛軍」は九条第一項〔改正後はたんに九条〕により「自衛戦争」を行うことができないことになる。九条第一項につき(資料で確認しないが)上のA説=「侵略」戦争限定放棄説に立っているがゆえにこそ、自民党改憲案は現九条第一項をそのまま維持しているのだ、と考えられる。このくらいのことは、国民一般の<常識>になっていた方がよいと思う。

0669/2009年2/15(日)午後の某テレビ番組における小牧薫と高嶋伸欣。

 2/22ではなく2/15(日)午後の読売系「そこまで言って委員会」。沖縄住民集団自決問題で、田嶋陽子が相変わらずバカを晒していたが、珍しいと思われる「左翼」団体の事務局長と「左翼」大学関係者が登場していた。
 事実を知りたいだけ、とか、イデオロギーとは無関係、とかぬけぬけと言っていた。嘘をつくな、恥を知れ、と言いたい。以下の「」は録画を見ながらの引用。
 まず、小牧薫。大江・岩波沖縄戦裁判支援連絡会事務局長。
 ・「過去の日本軍のことを考えても、軍隊は住民を守らない、国民を守らない。国民を守るのは警察であり、消防だ」。
 「過去の日本軍」のことが現在の「軍隊(・自衛隊)」に一般的にあてはまるような、論理的にも間違った主張だ(「過去の日本軍」の諸問題を肯定しているわけではない)。警察・消防で外国軍の武力侵入・武力攻撃から国民を守れるかどうかを論じること自体愚かなことだ(だから、こんな点には立ち入らない)。かかる<反軍隊>意識は、事実にもとづかない、<イデオロギー>以外の何物でもない。「自衛隊」は他国から国民を守るのではなく、外国に戦争を仕掛けにいく組織だ、という先入観・偏見も、ためらいなく述べていた。
 ・戦後日本が「直接外国から侵略を受けたことがなかったのは、まさしく憲法九条があったからだ」。
 こうした考え方の持ち主を、たしか井沢元彦によると<憲法真理教>信者とでもいうのだろうか。
 テレビに出てきて以上のようなことを躊躇せずに発言できるというのは、ほとんど内輪・仲間うちの見解や議論だけを詳しく知っていて、異なる主張・見解もあるということを観念的には知っていても具体的にはそうした異論と接したことのない、子供のように無垢な<左翼>なのかもしれない。明らかに60歳を超えていて、上のような理解に凝り固まっているとはなかなか珍しい、ある意味では「幸福な」お方だ。
 ついで、高嶋伸欣。琉球大学名誉教授。別の教授の本(岩波だ!)を援用しつつ、戦後・講和時の日米安保条約を対等なものから従属的なものにしたのは昭和天皇の意見・示唆による、とその本を信じたらしく語った。なぜ昭和天皇はそういう意見だったのかにつき、高嶋はこう言った。
 ・「朝鮮半島まで共産勢力が出てきた」ことを考えると、沖縄も含めて米軍は自由な立場で動いてもらわないと日本は「共産勢力の脅威にさらされつづける」、「天皇にとっては天皇制を存続させることが最大の使命ですから」、その脅威が重くのしかかっていた。
 事実関係も問題だとしても、気になったのは、この人は、「天皇にとっては天皇制を存続させることが最大の使命ですから」と言い切ったことだ(「陛下」との敬称は当然にない)。つまり、日本国家・国民ではなく自分を中心とする「天皇制」維持のみが、あるいは少なくともそれが最大の、昭和天皇の関心事だった、と言ったわけだ。
 ここには昭和天皇に対する畏敬の念などがある筈もなく、昭和天皇は<天皇制>維持を最優先したエゴイスティックな人間だった、という心象の表明があるように感じられる(なお、そもそも、この高嶋伸欣個人は、かつての「共産勢力の脅威」と米国との安保条約をどう考え、どう評価しているのか??)。
 あえて他人の本をとり上げて昭和天皇批判(と言ってよいだろう)をテレビでするのもどうかと思うが、それはかりによいとしても、<昭和天皇に対する(何らかの)怨嗟>を背景にして、この高嶋は上のような発言をした、と感じられる-このような意識の教授が琉球大学(国立)にはほとんどだったのかもしれない(いや、今でも?)。自分たちに都合のよい本・研究書だけはちゃんと利用し、宣伝することも含めて-。
 <反軍隊>心性とともに<反天皇>心情もまた、古典的・典型的な「左翼」意識の証左だ。
 以上のことは、沖縄住民「集団自決命令」問題とは直接には無関係に語られている。この問題については、上の二人ともに「(日本)軍の強制あり」という理解・主張だ。上のような基本的な心性・心情・意識の者は、簡単にこの説に飛びつくだろう。何が「事実を知りたいだけ」、「イデオロギーとは無関係」だ。嗤ってしまう。

0667/「秋月映二」ではなく「秋月瑛二」。撃論ムック・沖縄とアイヌの真実(2009.02)を一部読む。

 一 西村幸祐責任編集/撃論ムック・沖縄とアイヌの真実(オークラ出版、2009.02)は10日ほど前に入手し、気を惹いたものはすでに読んだ。
 民族問題の特集のようだが、佐藤優批判がいくつか揃っている。若杉大のもの(p.114-)は小林よしのり対「言論封殺魔」佐藤優論争の紹介・整理だが、櫻井よしこ「『国家の罠』における事実誤認」、高森明勅「佐藤優『護憲論』のトリック」(各々p.118-、p.126-)は明らかに佐藤批判だ。
 櫻井よしこによると(初出は2005)、佐藤優の上の本が新潮社・ドキュメント賞の候補作になったとき、事実誤認を理由としてゼロ採点した、という。むしろ興味深いのは高森論考で、佐藤優は、天皇制度擁護のための護憲派なのだ、という。つまり現憲法1~8条改悪(削除)阻止のために「護憲の立場」を採るのが「真の保守」だ、と佐藤優は言っているらしい。
 高森明勅はあれこれと1~8条死守と9条改正は矛盾しない旨等を述べているが、なかなか面白い、聴くべき<護憲論>だ。天皇制度の歴史に無知・無関心の圧倒的多数の国民(主権者)は、皇室に何か大きな不肖事でもあると、もともとひそかに天皇・皇室制度解体を目論んでいる朝日新聞等のマスメディアの煽動しだいでは、天皇は多忙でお気の毒、天皇・皇族にも人権を、皇室に対する国費支出額が大きすぎる、皇居を国民公園に、等々の理屈に納得して天皇制度廃止(憲法1~8条削除)の提案があれば、過半数の賛成票を与えてしまいかねないのではないか、という不安を私はもつ。そのような国会議員の構成にならなければよいのだが…。
 そのような憲法改正に対して私は反対の<護憲>派になるだろう。
 上のように、当たり前のことだが、何をどう変えるかが問題で、一般的な改憲論・護憲論の対立などは存在しない。現在<護憲論>とふつうの場合には言われているものは、憲法9条改正(とくに2項削除)に反対して9条を護持する、という意味での護憲論なわけだ。
 憲法9条改正と憲法1条以下改正と、どちらが先に国会で発議されるか、といった心配をしなければならないことになるとは、情けない。中国(共産党)は究極的には、天皇制度解体を望んでおり、神社神道も邪魔物と感じているだろうということは間違いないと思われる。日本国内には今でも、そのような中国(共産党)に迎合する<売国奴>団体・個人が絶対にいる。
 三浦小太郎「ハーバーマスとその誤読」(p.140-)も、短いが興味深く読んだ。
 二 ところで、「匿名コラム/天気晴朗」(p.179)を読んでいて最後の三段めに入って驚いてしまった。
 「秋月映二というブロガー」が「闘わない八木秀次の蒙昧さと日本共産党・若宮啓文との類似性」というエントリーで八木を「こき下ろしている」、「まさに秋月の言うの通り…」。
 これはこの欄での私の文章のことであるに違いない。私は秋月瑛二で「映二」ではないのだが。上のエントリーは今年1/08のものだ。
 さらにところで、「秋月瑛二」で検索すると-検索サイトによって違い、異様と思える並べ方をするものもあるが-、中身を読まず、冒頭又はタイトルを見ただけだが、①「秋月瑛二」を産経新聞記者と誤解している人がいる。私は産経新聞社とはいっさいの組織的関係がない。②私を「媚東宮派」と呼んでいる者がいる。皇室問題での西尾幹二批判がそのような呼称になっているのだろう。何と呼ぼうと勝手だが、「媚東宮派」という語を使うからには、それとは異なる「派」の存在を想定しているに違いない。それは「反東宮派」だろうか、「親秋篠宮派」だろうか。どちらにせよ、そういう対立を持ち込み、拡大しようとすること自体が、天皇制度の解体につながっていく可能性・危険性を孕んでおり、朝日新聞等の「左翼」が喜んでいそうなことだ、ということくらいは感じてほしいものだ。

ギャラリー
  • 1181/ベルリン・シュタージ博物館。
  • 1181/ベルリン・シュタージ博物館。
  • 1180/プラハ市民は日本共産党のようにレーニンとスターリンを区別しているか。
  • 1180/プラハ市民は日本共産党のようにレーニンとスターリンを区別しているか。
  • 0840/有権者と朝日新聞が中川昭一を「殺し」、石川知裕を…。
  • 0801/鳩山由紀夫は祖父やクーデカホフ・カレルギーの如く「左の」全体主義とも闘うのか。
  • 0801/鳩山由紀夫は祖父やクーデカホフ・カレルギーの如く「左の」全体主義とも闘うのか。
  • 0800/朝日新聞社説の「東京裁判」観と日本会議国際広報委員会編・再審「南京大虐殺」(明成社、2000)。
  • 0799/民主党・鳩山由紀夫、社民党・福島瑞穂は<アメリカの核の傘>の現実を直視しているか。
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