秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

思想

1522/レシェク・コラコフスキーという反マルクス主義哲学者。

 L・コラコフスキーのつぎの小論選集(Selected Essays)も、当然に ?、邦訳されていない。
 Leszek Kolakowski, Is God Happy ? -Selected Essays (2012).
 前回にこの人物について紹介したのはかなり古い情報だったので、この著によって上書きする。
 多数の書物を刊行し(略)、欧米諸国の学士院類の会員であり、多数の「賞」を受けている人物・哲学者が、なぜ日本ではほとんど知られていないのか。なぜ邦訳書が前回紹介のもの以外にはおそらく全くないのか。
 一部を読んだだけなので確言はしかねるが、つぎのことを推測できる。
 日本の「左翼」、とりわけ熱心な容共のそれ、そして日本の共産主義者(トロツキー派を含む)、とくに日本共産党にとって、<きわめて危険>だからだ。
 この人の著作を知っている哲学またはマルクス主義関係の「学者・研究者」はいるだろう。しかし、例えば岩波書店・朝日新聞社に、この人物の書物(『マルクス主義の主要な潮流』もそうだが)の邦訳書を刊行するようには助言や推薦を全くしないだろうと思われる。
 一方、日本の「保守」派は、いちおうは「反共」・反共産主義を謳いながら、共産主義理論・哲学に「無知」であり、欧米の共産主義をめぐる議論動向についてほとんど完全に「無関心」だからだ。
 じつに奇妙な知的雰囲気がある。
 この欄の№1500・4/14に書いた。-「冷静で理性的な批判的感覚の矛先を、日本共産党・共産主義には向けないように、別の方向へと(別の方向とは正反対の方向を意味しない)流し込もうとする、巨大なかつ手の込んだ仕掛けが存在する、又は形成されつつある、と秋月瑛二は感じている」。
 L・コラコフスキーの日本での扱いも、他の人物についてもすでに何人か感じているが、この「仕掛け」の一つなのではないか。
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 A-経歴。
 無署名の冒頭注記および縁戚者(実娘か。Agnieszka Kolakowski)執筆の「Introduction」(vii-xiii)から、L・コラコフスキーのつぎのような履歴が分かる。年齢は、単純に生年を引いたもの。
 1927年、ポーランド・ラドム生まれ。
 ロズ(Lodz)大学、ワルシャワ大学で哲学を学ぶ。
 (第二次大戦後、ソ連・モスクワ大学留学。)
 1953年/26歳、ワルシャワ大学で博士号取得。助教授に。
 1955年以降の研究著作の重要主題は、「マルクス主義」という「イデオロギーの危険性、欺瞞と虚偽および全体主義の本質」だった(Agnieszka による、vii)。
 1956年までに、「修正主義者」扱いされ、国家当局から睨まれる重要人物になる。
 1956年/29歳、『神々の死』<上掲書所収、新訳>を執筆。
 これは、「共産主義のイデオロギーと実際を極めて強く攻撃し、体制の偽った合理化やそれの虚偽情報宣伝の神話を強く批判する。当時としては驚くべきほど明快で、理解し易さや力強さに息を呑む」(Agnieszka による、viii)。
 この論考は「検閲」されて、「共産主義崩壊までのポーランドでは刊行されないまま」だった。「地下では、手書きの模写物が回覧された」(同)。
 1956年/29歳、『社会主義とは何か ?』<上掲書所収>を執筆。初期のもう一つの重要論考。「検閲」されて、これを掲載した雑誌は廃刊となる。ポーランドで非刊行、地下での回覧は、上と同じ。
 (1956-57年、オランダ、フランス・パリの大学に留学。)
 1959年/32歳、現代哲学史の講座職(the Chair)=教授に任命される。
 数年にわたり、ポーランド学術学士院(Academy)哲学研究所でも勤務。
 1966年/39歳、ワルシャワ大学で<ポーランドの10月>10周年記念の講演。
 「1956年10月以降の好機を逸し、希望を実現しなかった」として(Agnieszka による、ix)、党(ポーランド統一労働者党=共産党)と共産主義政府を、激しく批判する。
 これを理由に、党から除名される。
 1968年3月/41歳、政府により、大学の講座職(the Chair)=教授資格が剥奪され、教育と出版が禁止される。
 1968年の遅く/41歳、モントリオール・マギル(McGill)大学-カナダ-からの招聘を受けて、客員教授に。
 1969年-70年/42-43歳、カリフォルニア大学バークレー校-アメリカ-の客員教授。
 1970年/43歳~1995年/68歳、オクスフォード大学-イギリス-に移り、哲学学部の上級研究員。
 1975年/48歳、イェール大学-アメリカ-客員教授を兼任。
 1981年/54歳~1994年/67歳、シカゴ大学-アメリカ-社会思想研究所教授を兼任。
 (2009年/82歳、逝去。)
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 B。かつて、英国学士院(Academy)会員、アメリカ学士院外国人会員。ポーランド学士院、欧州学士院(Academia Europea)、バイエルン(独)人文学士院、世界文化アカデミー(Akademie Universelle des Cultures)の各メンバー。
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 C-受賞、とりわけ以下。
 Jurzykowski 賞(1969)、ドイツ出版協会平和賞(1977)、欧州エッセイ賞(仏, 1981)、エラスムス賞(1982)、ジェファーソン賞(1986)、トクヴィル賞(1993)、ノニーノ(Nonino)特別賞、イェルザレム賞(2007)。
 多数の大学から、名誉博士号。
 生涯にわたる人間性についての業績に対して、連邦議会図書館W・クルーゲ賞の第一回受賞者(2003)。
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 D-書物。30冊以上。17冊の英語著・英訳書を含む<略>。
 E-上掲書のIs God Happy ? -Selected Essays (2012).
 つぎの小論から成る。タイトルの仮の訳と発表年、およびこの本で初めて英語文で刊行されたか否か(<新訳>と記す)を記載する。また、Agnieszka Kolakowskiによる<改訳>もある。既に公刊されているものは、文献を省略して、()で刊行年のみ記す。p.324-7の「第一刊行の詳細」による。
 第一部/社会主義、イデオロギーおよび左翼。
 「神々の死」1956年<新訳>。
 「社会主義とは何か ?」1956年(英語1957年)。
 「文化の力としての共産主義」1985年(講演1985、英語<改訳>2005年)。
 「左翼の遺産」1994年(1994年)。
 「全体主義と嘘の美徳」1983年(1984年)。
 「社会主義の左翼とは何か ?」1995年(英語2002年)。
 「ジェノサイドとイデオロギー」1977年(英語1983年)。
 「スターリニズムのマルクス主義根源」1975年(英語1977年)。
 「全てに関する私の適正な見方」1974年(1974年)。
 第二部/宗教、神および悪魔の問題。
 「イェス・キリスト-予言者と改革者」1956年(英語<改訳>2005年)。
 「ライプニッツと仕事」2002年(英語2003)。
 「エラスムスとその神」1965年<新訳>。
 「外見上の神なき時代の神に関する不安」1981年(<改訳>, 2003年)。
 「神からの祝宴への招待」2002年<新訳>。
 「なぜ仔牛 ? 偶像崇拝と神の死」1998年<改訳>(講演)。 
 「神は幸せか ?」2006年<英語・新訳>(講演, オランダ語で初刊)。
 第三部/現代性、真実、過去およびその他。
 「無期日性を称賛して」1961年<新訳>。
 「俗物根性を称賛して」1960年<新訳>。
 「罪と罰」1991年(英語1991年)。
 「自然法について」2001年(講演, 英語2003)。
 「集団的同一性について」1994年(2003年)。
 「歴史的人間の終焉」1989年(1991年)。
 「我々の相対的な相対主義について」1996年(1996年, ハーバマス(Habermas)やロルティ(Rorty)との討議の中で)。
 「真実への未来はあるか ?」2001年<新訳>。
 「理性について(およびその他)」2003年<新訳>。
 「ロトの妻」1957年(<改訳>, 1972年, 1989年)。
 「我々の楽しいヨハネ黙示録」1997年<新訳>。
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 以上。

1489/「左」と「右」の観念論-日本共産党・不破哲三と「研究」所理事長・櫻井よしこ。

 ある種の「左」の人々は、夢の社会又は理想の時代を「未来」に見る。
 ある種の「右」の人々は、夢の社会又は理想の時代を「過去」に見る。
 「未来」のことは当然にまだ分からないので、文字通りに夢・理想・ユートピアであって、その内容も、達成方法も、将来についての<観念>でしかない。
 「過去」のことは過ぎ去ったことであり、今ある現実からは遠ざかっているので、その内容は、不可避的に抽象的な<観念>にならざるをえず、過去に一足飛びに戻れるわけではないので、その夢・理想・ユートピアの実現方法も<観念>的に語るしかない。
 今ある<現実>を唾棄すべきものとして正視せず、遠い未来か過去に理想社会・理想の時代を夢見るのは、いずれも<観念>論に陥る危険性がある。
 観念とは、脳内で作られる、かつ外部に表現されることもある、言葉、意識、考え(希望・反希望いずれであれ)、あるいはこれらの組み合せ又は体系だ。
 将来についての言葉・意識・考えは不可避的に、「観念」であるしかない。
 しかし、過去については膨大な歴史的事実が知られているはずであって、それを冷静に見つめれば「観念」論やその体系に嵌まるはずはない。
 しかし、今ある現実を忌避しすぎて、ある特定の時代・時期を単純に理想化して、その時代の過去に戻りたいという熱望が極端に大きくなりすぎると、歴史的現実(過ぎ去った現実)を冷静に、多様かつ総合的に視ることができなくなり、単純な「観念」的把握しかできなくなる。
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 ある種の「左」の人々の典型は、日本共産党だ。
 ある種の「右」の人々の典型は、さしあたり言えば、櫻井よしこだ。また、渡部昇一だ。
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 今年1月末頃に以下の象限表のようなものを提示した。番号を反時計廻りにに見る。
 ②リベラル保守 ①ナショナル保守
 ③リベラル左翼 ④ナショナル左翼
 上と下は、保守(反共産主義)と左翼(容共産主義)の対立。
 左と右は、近代普遍的(とされる、欧米的な)<自由・民主主義>とこれに懐疑的又は批判的なナショナリズムの対立。むろん、諸概念について種々の説明を要し、議論がありうることは承知している。
 それらを割愛していえば、ここでの(今回記しているテーマでの)要点は、①と④は、決して両極に離れたものではなく、すぐ上と下にあるように、存外に?近いものである、ということだ。
 ①が究極化して、ファシズム・ナチズムになったのかもしれない。
 ④が究極化して、レーニン・スターリンのコミュニズム(共産主義)になったのかもしれない。
 そしてまた、これらは<全体主義>として括られることがかなり多い。①の一部と④の一部は共通性がある。
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 日本の現在に即していうと、つぎのような印象がある。
 ④の中には、共産主義、そして日本共産党が入る。
 ①の中には、<観念保守>、日本にのみある「天皇」を至高の価値・存在と考え、「天皇」中心時代への復古を求める、現実(例、アメリカのトランプ)も、過去(例えば、明治維新)もまるで正視できない、冷静にかつ総合的に把握することのできない、一部の<保守>の人々又は団体・組織が入る。
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 日本共産党の不破哲三は、(かつて)<日本の共産主義者は…!>と党大会等で呼びかけて、煽動していた。
 某「研究」所理事長・櫻井よしこは、(日本の)「保守の気概」、「保守の真骨頂」なるものの保持・発揮を、<保守>系雑誌(この言葉は産経・月刊正論3月号上)で呼びかけ、あたかも読者を煽動しているふうだ。
 両者の「思い込み」ぶり、「観念」主義は、どこか似ていないか。

1483/ムッソリーニとレーニン⑤-R・パイプス別著5章2節。

 ムッソリーニの『レーニン主義者』という根源⑤。
 
前回のつづき。
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 ムッソリーニは、ファシスト政党を設立した1919年には、自分自身を社会主義者だとなおも思っていた。
 イタリアは、多数の退役者が仕事を見つけられず、インフレに苦しみ、深刻な社会不安を抱えていた。巨大な数の労働者が、ストライキに入っていた。
 このような不穏状態は、ムッソリーニを元気づけた。
 1919年1月に彼は、郵便従業員の違法な怠業を煽動し、労働者には工場を確保するように訴えた。
 ある権威者によれば、社会的混乱が頂点に達していた1919年の夏に、ムッソリーニは、工場労働者による暴力活動を訴えて無能の社会党や全国労働者連盟(General Federation of -)に高い値で自分を売り込むことすらした。彼の新聞<イタリア人民>は、<不当利得者は街路灯上の麻薬中毒者だ>と述べていた。(32)
 ファシスト党の中核になった< fasci di combattimento >の1919年6月綱領は、社会党のそれとほとんど異ならなかった。すなわち、憲法制定会議〔立憲議会、Constituent Assembly〕、一日八時間労働制、工場管理への労働者参加、国民予備軍、『資本への重税』による富裕層からの部分的剥奪、および教会財産の没収。
 労働者は、『革命的な戦争』を始めることが奨励された。(33)
 社会党の専門家はムッソリーニを、『<革命的な社会主義者>』だと見なした。(34)//
 戦争に対する立場によって信用を落としはしたが、こうした活動によってかつて社会主義者の指導者だったムッソリーニは、イタリア社会党の役職をもう一度得るのを望んだ。
 しかしながら、社会党は、彼を許そうとしなかった。社会党はファシスト党との選挙連立ブロックの形成を意図していたが、それは、ムッソリーニが排除されるという条件つきだった。(35)
 ムッソリーニは、政治的に孤立し、主に社会主義干渉主義者によって支援され、そして右翼へと振れた。
 二つの大戦間の彼の歩みを見て示唆されるのは、彼が社会党を拒絶したのではなく、社会党が彼を拒絶したこと、彼は旧宅、つまり社会党では達成できなかった政治的野心を満たすための道具として、ファシスト運動を始めた、ということだ。
 ムッソリーニの社会主義との決裂は、言い換えると、イデオロギー上のものではなく、人間的なものだ。//
 1920年遅くに始まったが、武装したファシスト騒団が、不法居住農民を打ち砕くべく農村地帯へと行進した。
 彼らは翌年早くに、北部イタリアの小都市を脅かす『懲罰遠征隊』を組織した。
 彼らは、ボルシェヴィキが実際にしたことを想起させるやり方で、物理的な暴力と脅迫を用いて、社会主義諸党や労働組合を解体させた。
 イタリアの社会主義者たちは、ロシアでの対応者〔ロシア社会民主党〕がそうだったように、このような剛腕による方法に受動的にしか対応せず、支持者たちを混乱させ、意気消沈したままに放置した。。
 ムッソリーニの行動は、工場経営者や土地保有者の支援を獲得した。
 彼はまた、休戦協定に対するイタリア人の憤懣も利用した。イタリアは勝利した連合国側で戦ったが、領土の要求を全く満足させるものではなかったからだ。
 ムッソリーニはイタリアを『プロレタリアの国』と描写して、民衆の怒りをもとに活動した。この戦術によって、不快感をもつ軍退役者の間での支持をかち得た。
 ファシスト党は、1921年11月までに15万2000人の党員を有した。そのうち24%は農業従事者で、15%は工場労働者だった。(36)//
 ムッソリーニは、ファシスト指導者になってすら、共産主義に対する共感と敬意を隠さなかった。レーニンの『残虐な力強さ』を高く評価し、ボルシェヴィキによる人質殺戮に反対しなかった。(37)
 彼は誇らしげに、イタリアの共産主義はまだ子どもだと言った。
 国会下院での1921年6月21日の最初の演説で、つぎのように自慢した。
 『私は、共産主義者をよく知っている。何人かは、私が育てたからだ。
 皮肉に見えるかもしれないが真面目に認めよう、私は、多数のブランキ(Blanqui)が弱体化した小さなベルクソン(Bergson)をイタリアの社会主義に持ち込み、イタリアの民衆を社会主義に感染させた、最初の人間だ。』(38)
 ムッソリーニは1921年2月に、ボルシェヴィズムについてこう言った。
 『あらゆる形態のボルシェヴィズムを拒否する。しかし、かりにどれか一つを選ばなければならないとすれば、モスクワやレーニンのボルシェヴィズムを選ぶだろう。それは、その総体が巨大で、野蛮で、かつ普遍的であるのだけが理由だ。』(39)
 ムッソリーニは1926年11月に、自立した政党、団体、組織を禁止する布令を発した。そのときでも、彼は共産党の存続を許した、ということを見過ごしできないだろう。(40)
 彼は1932年には、ファシズムの共産主義との親近性(affinities)を承認した。
 『全ての消極的な面で、われわれは似ている。
 われわれとロシア人は、リベラルたち〔自由主義者〕に反対で、民主主義者に反対で、議会制度に反対だ。』(41)
 (ヒトラーはのちに、ナチスはボルシェヴィキと分かたれているのではなく結びついている、と語って、これに同意することになる。(42))
 ムッソリーニは1933年に、スターリンに対して、ファシズムのモデルに従うように公然と強く迫った。
 また、ソヴェト独裁者が歴史上最もおぞましい大虐殺を完遂し終わった1938年には、最高級の賞賛をしてスターリンを褒め称えた。
 『スターリンは、レーニン体制の全体的崩壊を前にして、秘密のファシストになった。』
 ロシア人、『すなわち半野蛮な種族』のスターリンは、刑務所の囚人を懲らしめるために、香料油を強いて注ぐというファシストのやり方を見習わなかった、という違いはあるけれども。(43)//
 まずムッソリーニが、次いでヒトラーが自分たちの政治技術を真似る(copy)のを、ロシアの共産主義者は不安げに見守った。
 こんな比較がまだ可能だったのかと思う第12回党大会(1923年)で、ブハーリンは、つぎのように観察していた。//
 『ファシストの方法と闘いの特徴は、他のどの党よりも多く、ロシア革命の経験を採用し、実践へと適用したことだ。
 <形式的>観点から、つまり政治方法の技術の観点から見れば、ファシストたちがボルシェヴィキの戦術を、とくにロシアのボルシェヴィズムの戦術を完全に適用しているのが分かる。それは、権力の速やかな中央集中化、緊密に構成された軍事組織の力強い活動、また、人の力を関与させる独特な制度、Uchraspredy、総動員など、そして、必要で情勢が求めるときはいつでも敵を容赦なく破滅させること、という意味でだ。』(*)//
 歴史の証拠は、以下を示す。
 ムッソリーニのファシズムは、自分の政治的利益を促進するためにこの二つ〔社会主義と共産主義〕を攻撃するのを躊躇しなかったとしても、社会主義または共産主義に対する右翼の反応として出現したのではない。(+)
 もしも機会があれば、ムッソリーニは1920-21年頃には、強い親近性を感じていたイタリア共産党を自分の党派のもとに、喜んで抱え込んでいただろう。
 その親近性は、確実に、民主主義的社会主義者、リベラルたち〔自由主義者〕および保守主義者に対するものよりも強かった。
 ファシズムは、総括的に言うが、イタリア社会主義の『ボルシェヴィキ』派から生まれたのであり、保守的なイデオロギーまたは活動から生まれたのでは決してない。
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  (32) ロッシ, 成立, p.19。
  (33) ディ・フェリーチェ, ムッソリーニ, p.742-745。   (34) 同上、p. 730。
  (35) ロッシ, 成立, p.39。   (36) 同上、p. 163。
  (37) ノルテ, 理論, p.231。
  (38) ロッシ, 成立, p.134-5。  (39) 同上、p.138。
  (40) Eevin von Beckerath, ファシスト国家の本質と生成 (1927), p.109-110。
  (41) Yvon de Begnac, ヴェネツィアの宮殿 :ある体制の歴史 (1950), p.361。
  (42) ヘルマン・ラウシュニンク(Hermann Rauschning), ヒトラー語る (1939), p.134。
  (43) ムッソリーニ, オペラ・オムニア, XXIX (1959), P.63-64。Gregor, ファシスト信条, p.184-5 参照。
  (*) ロシア共産党(ボ)編集のXIIS" :Stenograficheskii otchet (1968), p.273-4。
 < Uchraspredy >とは、党活動家の任命に責任をもつ[共産党の]中央委員会の機関だ。
  第12回大会の議事原案の編集者は、ブハーリンが『馬鹿げた』、『根拠なき』、『非科学的』といった比喩を用いている部分を削除した。同上、p.865。
 さらに、Leonid Luks, 共産主義的ファシズム理論の生成 (1984), p.47 を見よ。
  (+) Renzo de Felice は、運動としてのファシズムと体制としてのファシズムを明確に区別し、前者は革命的なままだったと主張する。Michael Ladeen, in :国際的ファシズム, p.126-7。
 同じことは、権力を掌握するやその権力を維持するために保守的(conservative)になったボルシェヴィズムについても言えるかもしれない。
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第2節、終わり。

1480/ムッソリーニとレーニン④-R・パイプス別著5章2節。

 前回のつづき。[第5章第2節は、p.245-p.253。]
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 第2節・ムッソリーニの『レーニン主義者』という根源④。
 ムッソリーニが社会党から除名される原因になったこの転回について、さまざまな説明が提示されてきた。
 最も好意的でない見方によると、ムッソリーニは賄賂で動かされた。-彼は、その新聞< Il Popolo d'Italia >〔イタリア人民〕を発行するための資金を提供してくれたフランスの社会主義者から強い圧力をかけられていた。
 これが示唆するのは、実際に、ムッソリーニは破産状態にあったことだ。
 しかしながら、ムッソリーニの動機は政治的なものだったというのが、もっとありえそうだ。
 ほとんど全てのヨーロッパの社会主義政党が平和主義の公約を破って政府の参戦を支援したのちに、ムッソリーニは、ナショナリズムは社会主義よりも力強いと結論したように見える。
 1914年12月に、彼はつぎのように書いた。
 『国家は消失しなかった。われわれは、国家は絶滅すると思ってきた。
 そうではなく、われわれは目の前で、国家が立ち、生き、躍動しているのを見た。
 当たり前だが、そうなのだ。
 新しい現実は、真実を抑え込みはしない。すなわち、階級は国家を破壊できない。
 階級は利益の集合体であるが、国家は、情緒、伝統、言語、血統の歴史だ。
 国家の中に階級を挿入することはできるが、それらが互いに破壊し合うことはない。』(29)
 このことの帰結は、社会党はプロレタリアートだけではなくネイション全体(the entire nation)を指導しなければならない、ということだ。すなわち、『<ナショナルな社会主義(un socialismo nazionale)>』を生み出さなければならない。
 たしかに、世界的(インターナショナルな)社会主義から国家の(ナショナルな)社会主義への移行は、野心ある西側ヨーロッパのデマゴーグについてよく理解させる。(30)
 ムッソリーニは、一つのエリート政党が指導する暴力革命という考え方に忠実なままだった。しかし彼はこれ以降は、ナショナルな革命を目指すことになった。//
 ムッソリーニの転回はまた、戦略的な思考だったと説明することもできる。すなわち、革命には国際的な〔international=国家間の〕戦争が必要だとする確信からだ。
 こういう見解はイタリアの社会党創設者たちの間では共通していた。それは、極左のセルジオ・パヌンシオ(のちファシズムの主要な理論家)が戦争開始の二ヶ月後に新聞<前へ!>で書いた、つぎの考察文にも見られる。
 『<私は、現在の戦争だけが-かつより激しくて長引く戦争が-ヨーロッパ社会主義を革命的行動へと解き放つだろうと確信する。>(中略)
 国外での戦争には、国内での戦争が続かなければならない。前者は後者を準備しなければならない。そして、その二つが一緒になって、社会主義の偉大で輝かしい日を用意しなければなならない。(中略)
 われわれ全てが、社会主義の実現は<求められ>なければならないと確信している。
 今が、<求めて> そして<獲得する>ときだ。
 社会主義が緩慢でかつ…<中立的>であれば、明日には、歴史的状況は現在の状態と類似の情勢を再確認するだけにとどまるかもしれない。しかし、客観的には、社会主義からはより離れた、しかしかつ逆の意味での転換点でありうる。(中略)
 われわれは、われわれの全てが、<全ての>諸国家が-<いかなる程度>にブルジョア国家であろうと-勝者と敗者のいずれであろうと、戦争の<あと>では、粉砕された骨とともに衰弱して横たわっているだろう、と確信する。(中略)
 資本主義は深い損傷を受けるので、最後の一撃(< coup de grace >)には十分だろう。(中略)
 平和の教条を支持する者は、無意識に、資本主義を維持する教条を支持しているのだ。』(*)//
 戦争へのこのような肯定的態度は、ロシアの社会主義者たちに、とくに極左の立場の者たちに、もう少しは率直さを抑えて語られたが、知られていなかったわけではない。
 レーニンが第一次大戦の勃発を歓迎し、それが長く続いて、破滅的になることを望んだ、という証拠資料がある。
 世界の『ブルジョアジー』を大量殺戮者と攻撃する一方で、レーニンは個人的には、その自己破壊を称賛していた。
 バルカン危機の間の1913年1月に、レーニンはゴールキにあてて、つぎのように書いた。
 『オーストリアとロシアの戦争は、(東ヨーロッパ全体の)革命にとってきわめて有用だ。しかし、フランツ・ヨゼフとニコラシュカ(ニコライ二世)は、われわれにこの愉しみを与えてくれそうにない。』(31)
 レーニンは、大戦中ずっと、ロシアおよびインターの社会主義運動で、平和主義に関するいかなる宣明をすることも拒否した。社会主義者の使命は戦争を止めることではなく、戦争を内乱へと、つまり革命へと転化することだと主張しつつ。//
 ゆえに、つぎの旨のドメニーコ・セッテンブリーニ(Domenico Settenbrini)の叙述には賛同しなければならない。すなわち、ムッソリーニとレーニンの戦争への態度には、一方は自国の参戦に賛成し、他方はともかくも表向きは反対しているとしても、強い類似性がある。彼はこう書く。//
 『(レーニンとムッソリーニの二人は)以下のことを悟っていた。党は大衆を革命化し、その反応を形成するための道具ではありうる。しかし、党はそれ自身によっては、革命の根本的な前提条件-資本主義的社会秩序の崩壊-を生み出すことはできない。
 プロレタリアートの自己啓発によって自動的に出現する革命精神、その結果として弱体化する市場に資本主義者が商品を売れなくなること、についてマルクスがいったい何を語っていようが、プロレタリアートはますます貧窮化し、革命精神は欠如していることが判り、資本主義秩序は破滅に向かうどころか拡張している、というのが事実だ。
 したがって、マルクスによって自動的に起動すると想定されたメカニズムには、それを補完するものがなければならない。補完するものとは、-戦争だ。』(**)
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  (29) ムッソリーニ, オペラ・オムニエ, Ⅶ (1951), p.101。また、Gregor, ファシスト信条, p.171 も見よ。
  (30) ムッソリーニ, 同上。Gregor, ファシスト信条, p.168-171。
  (*) フェリーチェ, ムッソリーニ, p.245-6 から引用。この論考の正確な著者はムッソリーニ自身である可能性が指摘されてきた。
 1919年にムッソリーニは、イタリアの参戦に関して、『革命とその始まりの最初のエピソードだ。革命は戦争の名のもとで40ヶ月続いた』と語った。これは、A. Rossi, イタリアファシズムの成立, 1918-1922 (1938), Ⅱ に引用されている。
  (31) レーニン, PSS, 第48巻, P.155。
  (**) G. R. Urban 編, ユーロ・コミュニズム (1978), p.151。
 セッテンブリーニ(Settenbrini)は、つぎの興味深い疑問を提出している。
 『かりに1914年のイタリア政府のようにロシア帝制(ツァーリ)が中立のままにとどまっていたとすれば、レーニンはいったい何をしただろうか。レーニンが熱心な干渉主義者(Interventioist)にならなかったとは、確実に言えるのではないか?』
 Settenbrini, in : George L. Mosse 編, 国際的ファシズム (1979), p.107。
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 ⑤につづく。

1477/ムッソリーニとレーニン②-R・パイプス別著5章2節。

 前回のつづき。
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 第2節・ムッソリーニの『レーニン主義者』という根源②。
 ムッソリーニは、レーニンのように、政治の特性は闘いだと考えた。
 『階級闘争』は彼にとっては、言葉の字義のとおりの意味で、戦争だった。どの支配階級もかつてその富や力を平和的に放棄したことはないのだから、それは暴力的な形態をとるはずだった。
 彼はマルクスを尊敬し、経済学や社会学のゆえではなく、『労働者暴力に関する大哲学者』であるために、『父親であり教師』だと称した。(17)
 ムッソリーニは、議会制という策謀でもって教条を進化させているつもりの『法廷社会主義者』を軽蔑した。
 また、労働組合主義も信用しなかった。それは労働者を階級闘争から逸脱させるものだと考えていた。
 1912年に彼は、レーニンのペンで書かれているかのような、つぎの文章を書いた。
 『たんに組織されているだけの労働者は、利益という暴力にのみ服従するプチ・ブルジョアに変わる。
 理想を訴えても、何も聴かれないままだ。』(18)
 社会主義を放棄したあとですらこのような見方に忠実であり続けた。1921年にファシスト指導者として、彼は、労働者を『生まれながらに、…信心深くて根本的に平和主義的だ』と描写した。(19)
 こうして、レーニンから独立して、社会主義者とファシストの両方の精神性を具現化したものになって、ムッソリーニは、ロシア過激派のいう『随意性』を拒絶した。自分が考えたことだが、労働者は革命を起こさず、資本主義者と取り引きをする。これは、レーニンの社会理論の神髄だったのだが。(*)//
 このように考えて、ムッソリーニはレーニンが直面したのと同じ問題に向かい合った。生まれながらに反革命的だと言われる階級と一緒に、どうやって革命を起こすのか。
 ムッソリーニは、レーニンがしたように解決した。労働者の中に革命的暴力の精神を注入する、エリート党の結成を主張することによって。
 レーニンの前衛政党という考えは人民の意思の経験にもとづいていたが、ムッソリーニのそれは、ガエターノ・モスカとヴィルフレド・パレートの書物によって塑形された。この二人は、1890年代と1900年代の初めに、エリート集団の間の権力闘争という政治観を広めていた。
 モスカとパレートは、同時代の哲学理論、とくにアンリ・ベルクソン(Henri Bergson)のそれの影響を受けていた。ベルクソンは、主意主義を主張して『客観的』要因が社会行動にとって決定的だとの実証主義哲学者の考えを拒否した。
 しかし、このエリート理論を主に起動させたのは、民主制は作動していないという19世紀末に向かう民主制の実際の姿を観察したことだ。
 大陸〔ヨーロッパ〕の民主制が次々に起こる議会制の危機と醜聞に悩まされたというだけではない-イタリアでは1890年代の10年間に6回も内閣の交代があった-。そうではなく、集まる証拠資料によれば、民主主義的諸制度は、寡頭的少数者の隠された支配のための外被(facade)として役立っていた。
 このように観察して、モスカとパレートは、第一次大戦後のヨーロッパ政治に深い影響を与えた理論を定式化した。
 政治における『エリート主義』との観念は、平凡だと思われるほどに十分に西側の思想界に吸収された。カール・フリートリヒによれば、エリート理論は『西側思想史の最近三世代にわたる重要な主題になった。』(20)
 しかし、世紀の変わり目には、ひどく新奇な考えだった。<支配階級>の中でモスカは、少数者が多数者を支配することを認めるのは、多数者が少数者を支配するのを認めることよりもむつかしいことを受容していた。//
 『組織された少数者の組織されない多数者に対する支配は、ただ一つの衝動に従うことにより、避けることができない。
 いかなる少数者の権力も、組織された少数者の全体(totality)の前に独りで立つ多数派の個々人にとっては諍い難いものだ。
 同時に、まさに少数派であるというその理由で、少数者は組織される。
 共通の理解のもとで均一にかつ一致して行動する100人の人間は、協力しない、ゆえに一人一人が取り引きされうる1000人に対して勝利するだろう。』(**)//
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  (17) ムッソリーニ, オペラ・オムニエ Ⅱ(1951), p.31, Ⅳ(1952), p.153。
  (18) 同上、Ⅳ, p.156。
  (19) A. Rossi, イタリアのファシズムの成立 1918-1922 (1938), p.134。
  (*) イタリアの社会主義者世界では、階級意識は階級上の地位の自然の産物ではないという考え方は、1900年とそれ以降の多様な社会主義理論家によって拒否されていた。
 とりわけ、Antonio Labriola, A. O. Olivetti, Sergio Panunzio 。A. James Gregor, ファシストの政治信条 (1974), p.107。
  (20) カール・J・フリートリヒ, 常識人の新しい姿 (1950), p.246。
  (**) ガエターノ・モスカ(Gaetano Mosca), 支配階級 (1939), p.53。
 この理論は、全体主義体制が対抗政党だけでなく例外なく全ての組織を破壊して奪い取ることを強く主張した理由を説明している。社会の原子化は、少数者が多数者をはるかに効率的に支配することを許してしまう。
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 ③につづく。

1475/ムッソリーニとレーニン①-R・パイプス別著5章2節。

 前回のつづき。
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 第2節・ムッソリーニの『レーニン主義者』という根源①。
 第一次大戦前の著名な社会主義者の中で、ムッソリーニほどレーニンに似ている人物はいない。
 レーニンのように、ムッソリーニは、自国の社会主義政党の反修正主義派を率いた。
 レーニンのように彼は、労働者は生まれながらに革命的なのではなく、知識人エリートによって革命的行動へと突つかれなければならない、と考えた。
 しかし、ムッソリーニの考えにはより適した環境の中で仕事をした間、添え木となる党を形成する必要が彼にはなかった。
 少数党派の指導者だったレーニンは分離しなければならなかったが、一方のムッソリーニは、イタリア社会党(PSI)の多数派を獲得して、改良主義者を排除した。
 1914年にムッソリーニの戦争に関する考え方の転回が起こらなかったならば、彼は十分に、イタリアのレーニンになっているかもしれなかった。彼は、連合国側へのイタリアの参戦に賛成することを明らかにして、イタリア社会党から除名されたのだった。
 社会主義歴史家は、ムッソリーニの初期の伝記にあるこのような事実を恥ずかしく感じて、それらを抑えて公表しなかったか、社会主義との一時的な戯れとして叙述した。その戯れをした人物の知性の師は、マルクスではなく、ニーチェとソレルだとされた。(*)
 しかしながら、このような主張は、つぎの事実と一致させることが困難だ。すなわち、イタリアの社会主義者たちは、十分に将来のファシズム指導者について考慮して、1912年に党機関である新聞 <前へ!(Avanti !)>の編集長に指名した、ということだ。(14)
 社会主義との一時的なロマンスとは全く違って、ムッソリーニは熱烈に社会主義に傾倒していた。
 1914年の10月まで、いくつかの点では初期の1920年まで、労働者階級の性質、党の構造と活動、社会主義革命の戦略に関する彼の考え方は、レーニンのそれに著しく似ていた。//
 ムッソリーニは、無政府主義的サンディカリストとマルクス主義者の信条をもつ、貧しい伝統工芸家の息子として、イタリアの最も過激な地方であるロマーニャ地方で生まれた。
 父親は彼に、人間は二つの階級に、被搾取者と搾取者とに分けられる、と教えた。(これは社会主義指導者としてムッソリーニが用いた定式だった。『世界には二つの祖国がある。被搾取者の国と搾取者の国だ』。-sfruttatiと sfruttatori。)(15)
 ムッソリーニはボルシェヴィズムの創設者と比べれば低層の出自で、その過激主義はより多くプロレタリアの性質を帯びていた。
 彼は理論家ではなく、戦術家だった。暴力の重要視とともに無政府主義とマルクス主義の混合物である彼の知識人エリート主義は、ロシアの社会主義革命党のイデオロギーと似ていた。
 19歳のときの1902年に、ムッソリーニはスイスに移り、一時雇い労働者として働き、余暇には勉強して、きわめて貧乏な二年間をすごした。(*)
 彼はこの期間に、過激派知識人と交際した。
 確実ではないけれども、ムッソリーニがレーニンと会った、ということはありうる。(++)
 この期間に頻繁にムッソリーニを見たアンジェリカ・バラバノッフによれば、彼は虚栄心をもち自己中心的で、異様な興奮をしがちだった。また、その過激主義は、貧困と金持ちへの憎悪に根ざしていた。(16)
 この時期にムッソリーニは、長く続く改良主義者や進化論的社会主義に対する敵意を形成していった。
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  (+) ソレル(Sorel)はムッソリーニに対して大きな影響を与えたというのは、反ファシスト文献上の長く続く神話だ。彼の影響は小さく一時的なものであることを、証拠資料は示す。以下を見よ。Gaudens Megaro, 生成期のムッソリーニ (1938), p.228. ;エルンスト・ノルテ(Ernst Nolte), ファシズムとその時代 (1963), p.203。
 ムッソリーニの暴力カルトは、ソレルではなくて、マルクスに由来する。ソレルはたまたま、1919年9月に、レーニンへの賛辞を書いた(「レーニンのために」in :暴力に関する考察, 10版, (1946), p.437-54.〔仏語〕)。
 ソレルはそこで、「マルクス以後の社会主義の偉大な理論家であるとともにその天才ぶりはピエール大帝のそれを想起させる」ムッソリーニの知的発展に自分が寄与した、というのが、噂になっているように本当であれば、きわめて誇らしい、と書いた。
  (14) ムッソリーニの初期の社会主義やレーニンのボルシェヴィズムへの親近感についてきちんと取り扱った書物の中に、以下がある。Renzo de Felice, ムッソリーニと革命 1883-1920 (1965) ;Gaudens Megaro, 生成期のムッソリーニ (1938)。A. James Gregor のつぎの二つ, 若きムッソリーニとファシズムの知的淵源 (1979), ファシストの政治信念 (1974)。および、Domenico Settenbrini の二つの論文, 「ムッソリーニとレーニン」in :George R. Urban 編, ユーロ・コミュニズム (1978), p.146-178, 「ムッソリーニと革命的社会主義の遺産」in :George L. Mosse 編, 国際的ファシズム (1979), p.91-123。
  (15) ベニート・ムッソリーニ, オペラ・オムニア (1952), p.137。   
  (*) この移動は、徴兵を避けたい気持ちからだったと、ふつうは説明されている。しかし、James Gregor は、ムッソリーニは1904年にイタリアに戻ってきて翌二年間を軍役ですごしたので、原因とはなりえなかった、と指摘した。James Gregor, 若きムッソリーニとファシズムの知的起源 (1979), p.37。
  (++) Benzo de Felice, ムッソリーニと革命 1883-1920 (1965), p.35n は、この遭遇はあった、と考えている。
 ムッソリーニはレーニン(「ロシア移民は絶えず名前を変えていた」)と会ったか否かの質問に決して明確には答えなかったが、一度、謎めかしてつぎのように語った。『私が彼〔レーニン〕を知っているのより遙かに多く、彼は私について知っていた』、と。
 彼はいずれにせよ、この期間に、翻訳されたレーニンの著作物のいくつかを読んだ。そして、『レーニンに捕まった』と言った。Palazzo Venezia, ある体制の歴史 (1950), p.360。
  (16) アンジェリカ・バラバノッフ(Angelica Balabanoff), 反逆者としてのわが人生 (1938), p.44-52。
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 ②につづく。

1474/全体主義の概念②-R・パイプス別著5章1節。

 前回のつづき。
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 第5章・共産主義、ファシズムおよび国家社会主義。
  第1節・『全体主義』の観念②。
 ココミンテルンが定式化した、左翼には優勢の見方によれば、『ファシズム』は共産主義の正反対物で、この二つを『全体主義』という傘の下に置く試みは、冷戦の産物だとして却下される。
 この見方によれば、『ファシズム』は、最終的な消滅へと進む資本主義における帝国主義段階の一様相だ。
 包囲されかつ驚いて、『独占資本主義』は、労働者階級の支配を維持しようと絶望的な努力をして、『ファシスト独裁制』に頼っているのだ。
 共産主義インターナショナル〔コミンテルン〕執行委員会は1933年に、ファシズムを『金融資本主義の、最も反動的で狂信愛国主義的なかつ帝国主義的な要素をもつ、公然たるテロリスト独裁制』と定義した。(9)
 傾倒したマルクス主義者にとっては、議会制民主主義と『ファシズム』の間に何の違いもない。ただ、ブルジョアジーが労働者大衆の要求に対抗して自らを守る方法が違うだけだ。
 『ファシズム』は、財産関係を維持し続けるがゆえに保守的だ。『社会主義社会への自然の発展を妨げようとする点において、革命的ではなく、反動的であり、または反革命的ですらある。』(10)
 ムッソリーニやヒトラーの体制にある革命的な要素は、現代人には驚くべきことに、欺瞞的な策略(deceptive maneuvers)だと叙述される。//
 『全体主義』観念やボルシェヴィズムは『ファシズム』に影響を与えたという示唆に反対する論拠には、二つの範型がある。
 低い議論の次元では、人身攻撃(ad hominem)の方法が用いられる。
 『全体主義』の観念(concept、コンセプト)は、冷戦を闘うための武器として考案されたと言われる。共産主義をナツィズムと接合させることは、世論が反ソヴェト同盟へと向かうのを助ける、というのだ。
 この観念は実際には、冷戦の優に20年前には存在していた。
 『全体的(total)』政治権力や『全体主義』の観念は、1923年に、ムッソリーニの反対者だった(のちにファシストに殺害された)ジョヴァンニ・アメンドーラによって定式化された。彼はムッソリーニによる国家制度の体系的な破壊を観察して、ムッソリーニ体制は伝統的に言う独裁制とは根本的に異なっている、と結論した。
 ムッソリーニは1925年に、『全体主義』という用語を採用し、肯定的な意味を与えた。
 彼は、『精神的なものも人間的なものも』全てを、『国家の外にある全てではなく、国家に反抗する全てではなく、国家の内部にある全てのもの』を政治化する、という意味で『全体的な』ものだと、ファシズムを定義した。(*)
 ヒトラーの勃興とそれと同時に起こったスターリンのテロルがあった1930年代に、この用語は、学者世界で受容されていた。
 これら全ては、冷戦のとっくに前に生じていたのだ。//
 『全体主義』との語を拒絶する、より真剣な理論家は、その論拠をつぎのように述べる。
 第一に、いかなる体制も完全な政治化や国家統制を実施することができなかった。第二に、いわゆる『全体的』体制に帰属する特質は、それに独特なものではない。
 『言葉の厳格な意味で全体的という呼称を使える制度は存在しない』。
 さらに論述は続く、『なぜなら、どこにでも多かれ少なかれ多元主義的な屑滓は残っているのだから。』、と。
 換言すると、明確に特徴的だとされる『単一体』を実現することなどできない。(11)
 これに対しては、つぎのように答えることができる。
 『厳格な』意味づけという標識でもってつねに判定されるならば、社会科学の学術用語は、全てが考査に合格しないだろう。
 何人も、『資本主義』について語ることはできないだろう。なぜならば、レッセ・フェール(laissez-faire)経済の全盛期においてすら、政府は規制していたし、そうでなくとも市場の活動に介入していたのだから。
 また、このような規準によるならば、何人も『共産主義経済』を語ることができないだろう。なぜならば、ソヴェト同盟では理論上は99%が国有で国家管理のもとにあったとしてすら、つねに『第二の』自由経済部門(sector)の存在を黙認しなければならなかったからだ。
 民主主義は、民衆による統治を意味する。しかし、政策に影響を与える特定の利益集団がどの最も民主主義的な国家でも存在していることを、政治理論は何の困難もなく承認している。
 このような諸概念は、所与の体制が欲するものは何か、得るものは何かを伝達するがゆえに、有用なのだ。-自然科学ではなされるような、辞書上の用語の意味での『厳格に』語ってではなく、人間世界で最大限に一致していることを大まかに語って伝えるのだ。
 実際に、全ての政治的、経済的および社会的な制度は『混合』したもので、どれ一つ純粋なものではない。
 学者の仕事は、総体として所与の制度を際立たせて他者と分離させる、その総体を識別することだ。
 より厳格な規準を『全体主義』概念に適用する、いかなる合理的で知的な根拠も存在しない。
 じつに、全体的な熱望はきわめて高いので、ハンス・ブーフハイムによれば、まさにその本性のゆえにそれを認識することができない。ブーフハイムは、つぎのように述べる。//
 『全体的支配は不可能なことを-人の人格と運命を完全に統御することを-追求するので、部分的にしか認識され得ない。
 目標は決して到達できないもので現実になることもなく、力への一つの勢い、一つの<要求>にとどまり続けなければならない、というのが、全体主義の本質だ。
 全体的支配は単一的に推論できる装置ではなく、各部分が同等に働いている。
 これは望ましい状態で、ある分野では現実にも理想に接近しているのかもしれない。しかし、全体(whole)として見ると、力への全体的な要求は、変転する強さ、異なる時間、多様な生活領域が伴う、拡散した方法でのみ、認識される。-そして、全体的な特質はつねに、非全体的なものとの混合物なのだ。
 しかし、力への全体的要求の結果は危険で暴虐的だというのは、まさにこの理由からだ。この要求は不明瞭で予見不能で、存在を証明するのが困難だ。(中略)
 全体的な総体に関するほとんどどの考察にも、ある事項については誇張し、別の事項については過小に評価するという、致命的な特徴がある。
 この逆説は、認識できない統御への要求から生じている。それは全体的な統治のもとでの生活に特徴的なものであり、全ての外部者が把握することをきわめて困難なものにしている。』(12)//
 全体主義の(イデオロギーへの傾倒、大衆への訴え、カリスマ的指導者のような)属性はどの政治体制にも存在している、という主張に対しても、同様の答えをすることができる。
 『いかなる構成物にも歴史上の独特さがあるという論拠は、「全体として(wholly)」独特だということを意味してはいない。そんなものは何一つないからだ。
 全ての歴史事象は、…分析対象を幅広く分類したもののうちのいずれかに属している。
 歴史はまずは、人間であれ物であれ、また事件であれ、個別的なものにかかわる。そして、歴史上の独特さは、特徴的な要素を十分に多様な図柄にしたもので成り立っているのだ。』(13) //
 イタリアのファシズムとドイツの国家社会主義について研究するためには、ロシア革命を理解することがきわめて重要だ。その少なくとも三つの理由は、つぎのとおりだ。
 第一に、ムッソリーニとヒトラーは、民衆を脅かして独裁権力に屈服させるために、共産主義という妖怪を利用した。
 第二に、二人とも、個人的に彼らに忠実な政党を造り上げ、権力を奪取して一党独裁体制を樹立する技術について、きわめて多くのことをボルシェヴィキから学んだ。
 これら二つの点で、共産主義は、社会主義や労働者運動に対してよりも大きい影響を、『ファシズム』に対して与えた。
 そして第三に、ファシズムや国家社会主義に関する研究文献は共産主義に関するそれよりも、多くかつより精細だ。それらに慣れ親しむことは、ロシア革命が出現させた体制に対して、多くの光をあてる。//
 影響は大きいので、歴史家は危うい地形に嵌まるかもしれない。なぜならば、前後関係のゆえに因果関係あり(post foc ergo propter hoc)という、その後で生じたからそれが原因だとの謬論に陥る危険性があるからだ。
 共産主義はファシズムと国家社会主義の『原因』になった、と言うことはできない。これらの源泉は生まれた地にあったのだから。
 しかし、つぎのことは言うことができる。すなわち、大戦後のイタリアとドイツでひとたび反民主主義的勢力が十分な強さを獲得したとき、その指導者たちの手には、従うことができるモデルが用意されていた。
 全体主義の全ての属性の先行形は、レーニン・ロシアのうちにあった。つまり、公式の包括的なイデオロギー、『指導者』を長として国家を支配する単一のエリート政党、警察のテロル、通信手段と軍隊に対する支配党の統制、経済への中央からの指令。(**)
 これらの制度と過程は、ムッソリーニがその政府をヒトラーがその党を設立した1920年代早くに、他のいかなる国でも見出せなかったが、すでにソヴェト同盟にはあった。
 したがって、『ファシズム』と共産主義の間には何の連結関係もないということの立証責任は、そのような見解の持ち主の側にある。//
  (*) 1950年代と1960年代のガーナの独裁者で、ソヴェトとの同盟者だったクワメ・クルマーは、自分の碑につぎの言葉を彫りこんだ。『まずは政治王国を探求せよ。そうすれば全ての他事は君の上に加わるはずだ。』
  (9) レオニード・ルークス, 共産主義者のファシズム理論の生成 (1984) p.177。
  (10) アクセル・クーン, ファシストの支配体制と現代社会 (1973) p.22。
  (11) ザイデル=イェンカー, 途 p.26。同じ反論は以下からも述べられている。クーン in, ファシスト的支配体制, p.87。
  (12) ブーフハイム, 全体的支配, p.38-39。
  (13) フリートリヒ, 全体主義, p.49。
  (**) これらの標識は、カール・J・フリートリヒとズビグニュー・K・ブレジンスキーによって、彼らの<全体的独裁と専制>(1964) p.9-10 で確立された。
 経済計画は1927年のロシアで最初に実現されるが、その基礎作業は、レーニンのもとで、1917年遅くの国家経済最高会議(VSNKh)の設立によって行なわれていた。R・パイプス『ロシア革命』第15章を見よ。
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 第2節へつづく。 

1473/全体主義の概念①-R・パイプス別著5章1節。

 Richard Pipes, Russia under Bolshevik Regime (1994)=リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア(1994)の訳を試みる。さしあたり、第5章のみ。
 原則として一文ごとに改行する。本来の改行箇所には「//」を付した。<『 』>は、原著では<" ">だ。
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 第5章・共産主義、ファシズムおよび国家社会主義
 「ファシズムとは何か。それは民主主義から解放された社会主義だ。」- Charles Maurras (1)
  第1節・『全体主義』の観念
 国内および国外での共産主義者の活動の意味は、世界的革命を解き放つことではなく、逆説的ではあるが、彼らの精神性に類似した運動を生起させ、共産主義を闘う彼らの方法を模写することだ。
 この理由によって、第一次大戦後にヨーロッパに出現した、いわゆる右翼過激派の、または『ファシスト』の運動はしばしば、共産主義の正反対物だと見られている。
 しかし、宗教上のであれ世俗上のであれ相互に激烈に闘うイデオロギーにはよくあるように、それらは異なる原理や熱望をもつがゆえにではなく、同じ構成物を目指して競争するがゆえに、相互に激しく闘うのだ。//
 共産主義と『ファシズム』の関係は長らく、論争の対象だった。
 共産主義歴史家には義務的な、西側の社会主義者やリベラルたちには好まれた解釈によれば、この二つは決して一致しない現象体だ。
 保守的な理論家の側は、両者を『全体主義』という観念のもとに包括する。
 問題はきわめて微妙だ。『ファシズム』、とくにその最も悪性の表現であるナツィズムは、マルクス・レーニン主義と、したがって究極的には社会主義と、縁戚関係があるのか、それともそうではなく、『資本主義』から生まれてくるのか、という問題が生じるからだ。//
 以下の論述は、直接にはこの論争にかかわらない。この問題については、すでに多数の文献が存在する。(2)
 その代わりに、共産主義が、見習うべき模範かつ利用すべき脅威のいずれもとして西側の政治に与えた影響に、光を当てるつもりだ。
 大戦間のヨーロッパでの右翼過激派運動の起源を例にとれば、その運動はレーニンとスターリンという先行者なくして理解できないだろうことが、すぐに明らかになる。
 この問題は、不思議にも、ヨーロッパの全体主義独裁制がまるで自分で生まれてきたかのように扱う歴史家や政治学者によって無視されている。権力へのヒトラーの蜂起に関する標準的な説明をするカール・ブラヒャーですら、ほとんどレーニンに言及していない。ブラヒャーのあらゆる段階についての叙述は、この二人が採用した方法との類似性を明らかにしているにもかかわらず。(3)//
 なぜ、ソヴェトの実験は、ファシズムや全体主義に関する文献で大きく無視されているのか ?。
 左翼の歴史家にとっては、ソヴェト共産主義と『ファシズム』の親近性という問題を持ち出すことですら、両者間の因果関係を肯定するのと同じことなのだ。
 彼らにとって『ファシズム』とは、その定義上、社会主義と共産主義の正反対物であるために、このような親近性は承認されえないもので、『ファシズム』の根源は、もっぱら保守的思想と資本主義の実践の中に求められなければならないのだ。
 ソヴェト同盟ではこの傾向は進んで、レーニン、スターリンおよび彼らの直接の後継者たちのもとでは、『国家社会主義』という用語を使うことが禁じられた。//
 つぎに、『全体主義』および『ファシズム』という概念が現代性を獲得した1920年代には、西側の学者はボルシェヴィキとそれが生んだ一党独裁体制についてほとんど何も知らなかった。
 すでに記したように (4)、1917-18年、ヨーロッパが第一次大戦の最後の年にあり、ロシア内部の展開によりも注意を払うべき緊急の問題がたくさんあったときに、あの体制は、設定された。
 共産主義体制の真の本性は、その背後に独占的な党が立つ、新奇な民主主義紛いの諸制度によって、外国人の目からは長い間、隠されていたのだ。
 今日からすれば奇妙に思えるかもしれないことだが、『ファシスト運動が発展した1920年代には、共産主義はまだ全体主義的体制の一つであるとは分かっておらず…、制限のない自由の擁護者のように見えていた…。』(5)
 二つの大戦の間には、共産主義体制の起源を問題にするいかなる研究も、真剣な歴史的で理論的な分析を行わなかった。
 ほとんどが1930年代に、ソヴェト・ロシアに関する若干の研究書が出版され、スターリンが支配する国家について叙述した。それら研究書はしかし、一党国家体制の父祖であるのはレーニンではなくスターリンだという偽りの印象を生み出した。
 1951年になって、ハンナ・アレントは、レーニンが最初に権力をソヴェトに集中させることを企図し、内戦が勃発して『大敗北』を喫したのちに、『至高の権力を…党官僚の手へと移した』という衝撃的な主張をすることができた。(6)//
 全体主義現象に関する初期の分析は、彼ら自身の民族的体験にもとづいて、ほとんどもっぱらドイツの学者によって行われた。(7)
 ハンナ・アレントが全体主義の属性の一つであるとして反ユダヤ主義に与えた、誇張された重要性は、ドイツ人による多数の研究を説明するものだ。(*1)
 初期の別の(ジグムント・ノイマンのような)研究者は、ヨゼフ・スターリン、ベニート・ムッソリーニおよびアドルフ・ヒトラーの諸体制の類似性に注目した。しかし彼らですら、共産主義政治体制の作動に関してほとんど何も知らないという単純な理由で、ロシアが右翼過激派運動に与えた影響を無視した。
 1956年にカール・フリートリヒとズビグニュー・ブレジンスキーが発表した、左翼と右翼の独裁制の最初の体系的な比較もまた、歴史的分析というよりも静態的な分析を提示するものだった。(8)
 ファシズムと国家社会主義に対するボルシェヴィズムの影響について研究することには、第三の要素が内在していた。それは、全ての反共産主義の運動と体制を描写する『ファシスト』の利益になるように『全体主義的』という形容句を『進歩的』思想の語彙群から除外しようとする、モスクワの強固な主張だった。
 この問題に関する党の方針は1920年代に定められ、コミンテルンの決定で定式化されていた。
 ムッソリーニ・イタリアやヒトラー・ドイツを曖昧に包括する『ファシズム』は、ポルトガルのアントニオ・サラザールやポーランドのピルズドスキーのような比較的に穏健な反共産主義独裁制とともに、『金融資本主義』の所産であり、ブルジョアジーの道具だと宣告された。
 1920年代に、ソヴェトの公式原理は、全ての『資本主義』国家は共産主義(社会主義)にひざまづく前に『ファシスト』段階を通過することを余儀なくされている、と決定した。
 モスクワが『人民戦線』政策を採った1930年代半ばには、ソヴェトのこの問題に関する見地はいくぶんかは柔らかくなり、定義上は『ファシスト』の範囲内にある政府や運動との協力を許した。
 しかし、反共産主義をファシズムと同一視する考え方は、ミハイル・ゴルバチョフによる<グラスノスチ>が登場するまで、共産主義による検閲に服している諸国では拘束的なものであり続けた。
 この考え方は、外国の『進歩的』なサークルでも広く行き渡っていた。
 いかなる方法によっても無謀にもムッソリーニまたはヒトラーを共産主義と結びつける、あるいは共産主義体制を紛れもない大衆運動だと叙述する学者には、言葉によるまたはその他の形態による嫌がらせを受けるリスクがあった。(*2)//
  (2) 例えば、カール・J・フリートリヒ, 全体主義 (1954); エルンスト・ノルテ 編, ファシズムに関する諸理論 (1967); レンツォ・ディ・フェリーチェ, ファシズムの解釈 (1972); ブルーノ・ザイデル=ジークフリート・イェンカー 編, 全体主義研究の途 (1968); エルンスト・A・ミェンツェ 編, 全体主義再検討 (1981)。
  (3) カール・ブラヒャー, ドイツの独裁者, 2版 (1969)。
  (4) リチャード・パイプス, ロシア革命, 12章。
  (5) ハンス・ブーフハイム, 全体的支配 (1968), p.25。
  (6) ハンナ・アレント, 全体主義の起源 (1958), p.319。
  (7) ペーター・クリスツィアン・ルドツ, in :ザイデル=ジークフリート・イェンカー 編, 途, p.536。エルンスト・フレンケル, 二重国家 (1942), フランツ・ナウマン, ビヒモス (1943) といったパイオニア研究を見よ。最初の大戦間10年間には、全体主義に関する多数の研究がドイツ移民によっても、とくに、アレント, 起源 やフリートリヒ, 全体主義, によってなされた。
  (*1) 〔略〕
  (8) カール・J・フリートリヒ=ズビグニュー・K・ブレジンスキー, 全体的独裁〔Dictatorship〕と専制〔Autocracy〕 (1956)。
  (*2) 例えば、ファシズムの有名な非『ブルジョア』的根源を強調するイタリアの知識人界がレンツォ・ディ・フェリーチェ(Renzo de Felice) に対してとった処遇を見よ。マイケル・レディーン(Michael Ledeen), in: George Mosse 編, 国際的ファシズム (1979) , p. 125-40。
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 ②へとつづく。

1449/幻滅の社会民主主義②-R・パイプス著9章4節。

前回のつづき。
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 流刑の期間が終わろうとする頃、レーニンは郷里から穏やかならざるニュースを受け取った。収監中に成功を続けていた運動が危機の苦衷にあり、それは1870年代の革命家たちが経験したものに似ている、という。
 労働者が政治化することをレーニンが期待した煽動戦術は、大きな変化を遂げていた。労働者の政治意識を刺激する手段として役立つことが意図された経済的不安は、終わり始めていた。 
 労働者は、政治に関与することなく経済的利益のために闘争した。そして、『煽動」に従事した知識人は、自分たちが労働組合運動の始まりの添え物になっていることに気づいた。
 レーニンは1899年夏に、エカテリーナ・クスコワが書いた『クリード(Credo、信条)』と呼ばれる文書を受け取った。それは、社会主義者に対して、専制体制に対する闘争をやめてブルジョアジーに向かい、ロシア労働者が代わりにその経済的、社会的条件を改良するのを助けることを要求していた。
 クスコワは十分な経験がある社会民主主義者ではなかったが、彼女の小論は社会民主主義者の中に現れた傾向を反映していた。
 この新しい異説に、レーニンは経済主義というラベルを貼った。
 社会主義者の運動を、その性質からして『資本主義』に順応することを追求する労働組合の小間使いにしてしまうことほど、レーニンの気持ちから離れたものはなかった。
 ロシアから届いたその情報は、労働者運動が社会民主主義知識人から独立して成熟し、政治闘争-すなわち革命-から遠ざかっていることを示していた。//
 レーニンの不安は、運動上にまた別の異説、修正主義、が登場したことによって増大した。
 1899年早くに、エドゥアルト・ベルンシュタインに従う何人かのロシア社会民主主義の指導者たちは、近年の論拠に照らしたマルクスの社会理論の修正を要求した。
 ストルーヴェはその年に、一貫性の欠如を指摘する、マルクスの社会理論の分析書を発行した。マルクス自身の前提は、社会主義は革命(revolution)ではなく進化(evolution)の結果としてのみ実現される、ということを示唆するのだ。(49)
 ストルーヴェはそのうえで、マルクスの経済的かつ社会的原理の中心観念である価値理論の体系的批判へと進んだ。そして、『価値』とは科学的な観念ではなく形而上のそれだという結論に至った。(50)
 修正主義は経済主義ほどにはレーニンを困惑させなかった。というのは、修正主義には同じ実践上の影響力はなかったので。しかし、何かがひどく悪くなっているという恐怖が高まった。    
 クルプスカヤによると、レーニンは1899年の夏に、取り乱すようになり、痩せて、不眠症に罹った。
 彼は今や、ロシア社会民主主義の危機の原因を分析し、それを克服する手段を考案することにエネルギーを傾注した。//
 レーニンの直接の実践的な解決方法は、正統派マルクス主義に忠実なままの仲間たちとともに、運動上の逸脱、とくに経済主義と闘うために、ドイツの<社会民主主義者>を模範にした出版物を刊行することだった。  
 これが、<イスクラ>の起源だった。
 レーニンの思考はしかし、さらに深くなって、社会民主主義を人民の意思を範型とする結束した陰謀家エリートとして再組織すべきではないのかどうかを考え始めた。(51)
 このように思考するのは精神の危機の始まりだった。それは、1年あとで、彼自身の党を結成するという決断によって解消されることになる。//
 1900年早くに流刑から解き放たれた後のペテルスブルクでの短い期間、レーニンは、名義上はまだ社会民主主義者だがリベラルな見地へと移っていたストルーヴェをはじめとする同僚と、交渉して過ごした。
 ストルーヴェは、<イスクラ>と協力し、その財政のかなりの部分を支援することとされた。その年の遅く、レーニンはミュンヒェンに移り、そこで、ポトレゾフやユリウス・マルトフと一緒に、『正統な』-つまり、反経済主義かつ反修正主義の-マルクス主義の機関として<イスクラ>を設立した。//
 ロシア内外の労働者の行動を観察すればするほど、マルクス主義の根本的な前提とは全く違って、労働者(『プロレタリアート』)は決して革命的階級ではない、という結論がますます抑えられなくなった。労働者は放っておかれれば、資本主義を放逐することよりも資本主義者の利益の分け前をより多く取ることを選ぶだろう。
 ズバトフが警察組合主義 (*)という考えをまさにこの時に抱いたのは、同じ理由からだった。
 1900年に発表した影響力ある論文で、レーニンは考え難いことを主張した。『社会民主主義から離れた労働者運動は、…不可避的にブルジョア的になる。』 (52)
 この驚くべき論述が意味するのは、社会主義政党によって労働者の外からそして労働者とは独自に指導されないかぎり、労働者はその階級の利益を裏切るだろう、ということだ。
 非・労働者-つまり、知識人-だけが、この利益が何であるかを知っている。
 政治的エリートの理論が当時に流行していたモスカとパレートのように考えて、レーニンは、プロレタリアートは自分たち自身のために、選ばれた少数者に指導されなければならない、と主張した。// 
 『歴史上のいかなる階級も、政治的指導者、運動を組織して指導する能力のある指導的代表者…を持たないかぎりは、決して勝利しなかった。
 自由な夕方だけではなく、生活の全てを革命に捧げる人間を用意することが必要だ。』(+)
 労働者は生活の糧を稼がなければならないので、『彼らの生活の全て』を革命運動に捧げることができない。これは、労働者の教条のための指導権は社会主義知識人の肩で担われる、というレーニンの考え方から生じたものであることを意味する。 
 この考え方は、民主主義原理そのものを弱体化させる。人々の意思は生きている人々が欲するものではなく、上級者によって明確にされる彼らの『真の』利益がそれだとされることになる。//
 労働者の問題に関する社会民主主義から逸脱したので、レーニンがそれとの関係を断ってブルジョアジーの問題へと向かうのに、大した努力は必要なかった。 
 活発で独立したリベラルの運動が出現し、すみやかに自由化同盟(the Union of Liberation)へと統合していくのを見て、レーニンは、『ブルジョアジー』との同盟に対する『主導権』を行使するには影響力が貧相で少ない社会主義者の能力に、信頼を置かなくなった。 
 1900年12月に、<イスクラ>とのリベラルの協力関係の条件について、彼はストルーヴェと怒りに満ちた話し合いを行った。 
 レーニンは、リベラルたちが専制体制に対抗する闘争での社会主義者の指導性を承認するのを期待するのは無駄だと結論づけた。彼らリベラルたちは、自分たちのために、自分たちの非革命的目的のために、革命家を利用して闘うだろう。(53)
 『リベラル・ブルジョアジー』は君主制に対する虚偽の闘争を遂行しており、そして、だからこそ、『反革命』階級だ。(54)
 ブルジョアジーの進歩的役割を否認することによってレーニンは、以前の人民の意思の見地へと先祖返りすることを示し、社会民主主義と完全に絶縁した。//
  (*) 第1章を参照。
  (+) 10年後に、レーニンよりも10歳若い、指導的なイタリア社会主義者であったベニート・ムッソリーニは、これと無関係に、同じ結論に到達した。1912年にムッソリーニはつぎのように書いた。『組織されただけの労働者は利益の誘惑にのみ従うプチ・ブルジョアになった。いかなる理想への訴えも聴かれなかった。』 B. Mussolini, Opera omnia, Ⅳ, (1952), p.156。別の箇所でムッソリーニは、労働者は生まれながらに『平和的』だと語った。A. Rossi, イタリア・ファシズムの成立, 1918-1922 (1938), p.134。
  (53) この交渉の背景については私のつぎの著で叙述した。R. Pipes, Struve: Liberal on the Left, p.260-70。
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第5節につづく。

1440/レーニンと社会民主主義①-R・パイプス著9章2節。

 前回のつづき。
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 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源
  第2節・レーニンと社会民主主義 〔p.345-p.348〕
 1920代に定式化されたレーニンの公式の<経歴>(vita)は、その本質的特徴において、キリストの一生をモデルにしている。
 キリスト学のように、変わらずまた変わりえないものとして、その宿命は生誕の日にあらかじめ決定されていたものとして、主人公を叙述している。
 レーニンの公式の伝記作者は、レーニンがその考えを一度でも変えたということを認めることを拒否する。 
 レーニンは政治に関与するようになった瞬間から、確固たる正統派マルキスト(マルクス主義者)だったとされる。
 このような主張は誤っていることは、容易に示すことができる。//
 まず、『マルクス主義者』という語は、レーニンが若いときには一義ではなく、少なくとも二つの異なる意味をもった。
 古典的マルクス主義原理は、成熟した資本主義経済の諸国家に適用された。 
 マルクスは、このような国のために、発展の科学的理論、つまり崩壊と革命という不可避的な結末、を提供すると称した。
 この原理は、それが科学的客観性をもつとされたこと、およびその予見の不可避性の二つの理由で、ロシアの過激な知識人に対して莫大な訴える力をもった。
 マルクスは、ロシアの社会民主主義運動が始まる前に、広く知られていた。すなわち、1880年にマルクスは、『資本論』は他のどの国でよりもロシアで多くの読者と崇拝者を獲得した、と誇ったほどだ。(10)
 しかし、ロシアは当時ほとんど資本主義が進展していなかったので、言葉を緩やかに定義することにはなるが、ロシアの初期のマルクス支持者は、マルクスの理論をロシアの地域的状況に適合するように再解釈した。  
 彼らは1870年代に、『分離した途』という原理を定式化した。それによると、ロシアは、農村共同体を基盤とする社会主義の独自の形態を発展させ、資本主義の段階を回避して、社会主義へと直接に飛躍するだろう、ということになる。(11)
 レーニンの兄は人民の意思組織の綱領にあるこの種のイデオロギーを採用したが、それは1880年代のロシアの過激派サークルではふつうのことだった。//
 レーニンが成長した知的な環境がもつ知識は、彼がイデオロギーを進展させるのに役立った。   
 マルクス主義の変種はロシアでまだ知られていなかったので、レーニンは1887-91年には、社会民主主義という意味でのマルクス主義者ではなかったし、またそうであるはずはなかった。
 実証的文書は、レーニンは1887年からおよそ1891年までの間、人民の意思の典型的な支持者だったことを示唆している。
 レーニンは、最初はカザンで、そしてサマラで、この組織の構成員と親密な交際をしていたと述べた。 
 彼は積極的に、その多くが刑務所や流刑から解放されたのちにヴォルガ地域に住みついた、人民の意思の老練活動家を探し出して、その運動の歴史ととくにその組織実務を学んだ。
 この知識を、レーニンは深く吸収した。ロシア社会民主党の指導者の一人になった後ですら、彼は、厳しく訓練された、策略を好みかつ職業的な革命党への信頼、および資本主義という長い中間段階を主張する綱領に対する苛立ちのために、同志たちから離れることがあった。 
 人民の意思(Narodnaia Volia)のように、レーニンは資本主義と『ブルジョアジー』を侮蔑した。それらに彼は、社会主義の同盟者ではなく、公然たる敵を見ていたのだ。
 注目する価値があるが、1880年代の遅くにレーニンは、『ドイツ』の-つまり社会民主主義の-精神でのマルクスとエンゲルスに接近し始めていた地域のグループ活動に加わらなかった。(12) //
 1890年6月にようやく、当局はレーニンが形式上の学生として法曹試験を受けることを許した。
 彼は1891年11月にそれに合格したが、法曹実務には就かず、経済文献の研究、とくに Zemstva が刊行した農業の統計調査のそれに没頭した。 
 レーニンの妹のアンナの語るところによれば、彼の目的は『ロシアにおける社会民主主義の実現可能性』を決定することだった。(13)//
 ときは、熟していた。
 ドイツでは、1890年に合法化された社会民主党が、選挙で驚くべき成功を収めていた。
 ドイツ社会民主党の優れた組織と労働者への政策主張を広汎なリベラル綱領に結びつける能力によって、いずれの連続する選挙でもより多くの議席数を獲得してきていた。
 ヨーロッパの最大の産業国家で暴力によってではなく民主主義手続を通じて社会主義が勝利することができることが、突如として想定できるように見えはじめた。
 エンゲルスはこのような展開に感動して、死ぬ少し前の1895年に、彼とマルクスが1948年に予言した革命的変革は決して起こらないかもしれない、だが社会主義はバリケードによってではなく投票箱でうまく勝利することができる、と認めた。(14)
 ドイツ社会民主党の例は、ロシアの社会主義者たちに強い影響力をもち、『分離した途』や革命的クー・デターという昔の理論は不評を招いた。// 
 このような考えの広がりと同時期に、ロシアは1890-1900年の10年間に産業労働者の数が二倍になり、経済成長率が他諸国よりも上回るという、劇的な産業発展の大波を体験していた。 
 示唆されたのはしたがって、ロシアはマルクスもありうると想定していた資本主義を回避して進む機会を見失い、西側の経験を繰り返す運命にある、ということだった。//
 このように雰囲気が変化し、社会民主主義の理論はロシアで支持者を獲得した。 
 ジュネーヴでゲオルク・プレハーノフやパウル・アクセルロッドが、ペテルスブルクでペーター・ストルーヴェが定式化したように、ロシアは二つの段階を経て社会主義に到達すべきだった。
 最初に、十分に成長した資本主義を通過しなければならない、それはプロレタリアートの地位を拡大し、かつ同時に、そのもとでドイツ人のようにロシアの社会主義者たちが政治的影響力を獲得できる、議会制度を含めた『ブルジョア的』自由という利益をもたらすだろう。 
 『ブルジョアジー』がひとたび専政政治とその『封建的』経済基盤を拭い去ってしまえば、段階はつぎの歴史発展の局面、社会主義への前進、へとセットされるだろう。
 1890年代の半ばには、このような考え方は多くの知識人(intelligentsia)の想像力を捉え、『分離した途』という昔のイデオロギーはほとんど見られなくなった。この旧式の考えのために、今やストルーヴェは『人民主義(Populism)』という新しい軽蔑語を使った。(15)//   
  (11) この主題は私の<ストルーヴェ>で長く扱われている。R. Pipes, Struve: Liberal on the Left, 1870-1905 (1970), p.28-51.
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 ②につづく。

1400/「二項対立」思考や「言葉・観念」思考ー仲正昌樹から。

 読書メモと関連つぶやき。
 1.仲正昌樹・知識だけのあるバカになるな!(大和書房、2008)のp.77-142、第2章「今の日本で大勢を占めている『二項対立』思考の愚について」。
 現在の月刊正論編集部と渡部昇一はいちど読んでみた方がよいと思う。この「二項対立」思考は、2.で言及している「言葉・観念依存」思考とも関係があるだろう。
 日本共産党や日本の「左翼」は当面敵視する対象を安倍晋三内閣に置いているようであり、何があっても安倍晋三の言動を褒め称えることはない。閣議決定された安倍70年談話が村山談話を継承するものであっても、その点を褒めることはなく、付随する別の部分の文章にケチをつける。
 最近はさらに、安倍内閣の背後にある悪の巣窟を「日本会議」に見ているようだ。青木理の本も読んだが、ワッハッハ、という感じ。彼らが畏怖し恐れるような「保守」団体が本当に現存するとすれば、何と頼もしく、愉快なことだろう。
 日本会議、青木理等の本や、日本会議の代表、社会民主主義者に対する好感をも述べていた田久保忠衛について、いずれ書かなければならない。のんびりと神社参拝について書いたりしているように見えるかもしれないが、秋月瑛二は神社組織や神社本庁、あるいは「神道」・神社の現状について、知らないわけではない。
 元に戻る。敵を「保守」または「右翼」勢力、あるいは「ファシズム」・「軍国主義」に見て「たたかう」つもりの二項対立的な「左翼」に対して、彼らとは逆に「保守」政権だとする安倍政権を「味方」だとして擁護するだけでは、同じ土俵に立って<二項対立>思考の愚を冒しているだけだろう(安倍政権、現在の自民党は「保守」かという問題も厳密にはあるが立ち入らない)。
 彼ら「左翼」よりは、冷静で多面的な思考をしなければならない。
 いや、ある意味では、彼らは表向きは「冷静で多面的な」、そして「客観的な」論述をしていると見える場合がある。とりわけ、現在の人文社会系<アカデミズム>を基本的には牛耳っているかもしれない「左翼」学者・論者たちは、少なくとも渡部昇一やその他の一部の<観念的・原理主義的な保守派>学者・論者よりは、表向きは概念・論理がしっかりしていて<知的刺激>には溢れていることがある。もちろん、一読してすぐに、あるいは容易に、観念的・教条的な「左翼」学者・論者だと分かる場合もあるが。
 このブログサイトは「反日本共産党・反共産主義」を掲げており(8/08頃に「反朝日新聞・反日本共産党」から改めた)、日本の「保守」派を論難するのが主目的のものでは全くない。にもかかわらず「(自称・表向き)保守」を批判したい気になることがあるのは、そんな文章・論理、こんな雑誌であれば、ほとんど<左翼>に勝てないだろう、<左翼>にバカにされるだろうと、と警告し、嘆きたいからだ。
 2.三宅正樹・スターリンの対日情報工作(平凡社新書、2010)のp.7-55、はじめにと第1章「クリヴィツキーの諜報活動」。
 レーニン関係文献は(可能な範囲で)ほぼ入手し、一読はした(しかし記憶にすべて残しているわけではない)と思っているので、ようやく、気になっていたこの本を読み始めることができた。よくよく考えれば、レーニンやソ連・共産主義と相当に関係がある本なのだった。共産主義とファシズム(とくにヒトラー・ナツィズム)の「近接」の現実にも関係がある。すなわち、1939年8月の独ソ不可侵条約。
 キーロフも、クリヴィツキーも、スターリンの指示によって「暗殺」された、との説がある。
 独ソ関係や「暗殺」から離れて、すさまじいと感じるのは共産主義者による諜報活動、そしてデマゴギー、プロパガンダだ。
 1945年にソ連が日本に参戦するまで、対米交渉の「あっせん(・協力)」を日本政府はソ連に求めていたというのだから、そのソ連「無知」、諜報戦の敗北ぶりは、何とも嘆かわしい。嘆かわしいというより、日本の悲痛な過去だ。そうしたこともまた、ゾルゲや尾崎秀実らの跳梁を許した共産主義またはソ連「幻想」の強さと強い関係があるのだろう。
 さらに離れて、<プロパガンダ>に関連して、「言葉」というものについて考える。あたりまえのことを、改めて確認したくなる。
 言葉・概念またはそれらを使った論理(・命題)には大きくは二種あるだろう。すなわち、事実・現実を意味・叙述するものと、こうだろう又はこうあるべきだということを意味させ、叙述するもの。
 要するにsein とsollen の区別なのかもしれないが、最低限度、この区別・違いくらいは知って文章を読み、言葉を理解・解釈しなければならない。
 日本共産党綱領が現在の状況を変えようとして書いてある諸基本政策や将来展望は、言うまでもなく上の後者の世界のもので、実際にそうなるかは(将来展望については実際にそうなる「はず」だ、と日本共産党は「主張」するのかもしれないが)分からない。この党の当面の諸政策も、「自由と民主主義」の宣言も、実際にそれらの内容が実現されるかは、さらにはこの政党が実際に実現するように努力するかは、彼らが実際に「権力」を掌握してみなければ、分からない。
 かつての歴史的宣言文書類にも、そのようなものが多くある。<十七条の憲法>や<五箇条の御誓文>を見て、それらの内容が当時の現実を表現するの、その内容が現実に存在したと理解する日本人はおそらくいないだろう。
 フランス革命時の<人権宣言>も同じ。また、制定して施行されれば少しは法規範としての意味をもち現実に対して作用した(つまり現実化した)といえるかもしれないが、制定されても施行されなかった<フランス1793年憲法>も同じ。
 これらがまるで現実化されたかのごとく理解するのはもちろん誤りだが、また、表面の言葉・文章だけで<理念・理想が素晴らしい>と感激してしまうのは、井沢元彦のいう「言霊主義」あるいは言葉・概念・(言葉による)命題によって歴史を評価してしまう、致命的な、認識の誤りに陥ってしまう可能性がある。
 ロシア10月革命後、1918年の「勤労被搾取人民の権利宣言」も同じ。また、その直後の憲法上の文言をもってロシア・ソ連は<男女平等>や<生存権(保障)> の方向に向かう世界史上の大きな役割を果たした、とか日本共産党・不破哲三や党員又は「左翼」の学者がほざいていることがあるが、これまたロシア・旧ソ連の「事実」を無視し、「言葉」にだけほとんど着目した空論にすぎない。
 憲法と現実の乖離は日本についても言われることがある。しかし、社会主義・共産主義国の「憲法」がほとんど<建前>または表向き・外国向けのフロパガンダ文書にすぎないことは、典型的には現在の北朝鮮に、相当程度に中国(共産チャイナ)についてあてはまることを見ても明らかだ。
 日本人のかなりは<言葉>というものに弱い。<ふつうの人はウソをつかない、又はウソつきは悪いことだ> という感覚を相当にもった<お人好し>の傾向がある。
 たしかに個別の国民間等の契約文書は、将来の行為の約束にすぎないが、国家・裁判所によって履行が(暴力=実力的にでも)強制されている、とふつうは言える。
 しかし、現在でも、国家間の約束事(条約等)には暴力・実力による担保は、建前はともあれ、実質的にはほとんど存在していない。現在についてすらそうなのだから、過去の、歴史上の「宣言」・「条約」類が実態をおよび「真意」を示しているわけでは全くないわけだ。第一次大戦後の多数の条約・協定・宣言類についても、注意深く、拘束力の程度や各国の「真意」を見定める必要がある。表向きの<美辞麗句>に騙されてはいけない(<民主主義対ファシズム>という図式も、この時期の「言葉」に由来した、幻惑させるものである可能性が高い)。
 少し戻ると、言葉・観念を弄ぶ、一見深遠で優れていそうにみえるが、じつは訳の分からない空虚な議論は、やはり「左翼」に多いようだ。
 「民主主義」とか「人権」とか「平和」とか(あるいは「戦後民主主義」とか)、そのような言葉それ自体が何か価値があり実態を伴っているかのごとき<感覚>・<幻想>に嵌まって、観念の上だけでの議論・主張をしている文章をたくさん見てきた。
 本当の「保守」派は、その「保守」という言葉自体は別の語でもよいが、観念の上だけでの、または相当にそれに傾斜した、議論・主張をしてはならない、と思っている。 言葉・概念の必要性・有用性を、むろん一般に否定しているわけではない。それらの作成・使用はある程度不可避なのではあるが。

1396/日本の「保守」と「左翼」ー小林よしのりと仲正昌樹を機縁に。

 日本の「保守」とか「左翼」とか書いているが、保守・左翼という概念にはしっくりきていない。保守・革新(進歩)も右翼・左翼も同じ。
門田隆将が昨年2015年春頃に月刊WiLLで書いていた「R・現実」派・「D・夢想」派も面白いとは思うが、最近では「正視派」・「幻想派」が気に入ってきた。「左翼」とは、少なくともソ連型の社会主義の失敗(過ち)という「事実」を「正視」することができない者、すなわちいまだに「幻想」をもつ者という印象が強いからだ。また、諸歴史認識問題についても、「事実」を「正視」する姿勢を続ければ、いずれ「現実」だったか「幻想」(・捏造)だったかは明らかになるはずだ、という思いもある。
 ちなみに、<自称保守派>にだって「幻想派」・「夢想派」はある。
 もっとも、日本の又はどの国にもいそうな「左翼」は自らを「幻想」派だとは自認せず、右派あるいは「保守」派こそが「幻想」をもっていると思い込んでいそうでもあるので、この用語法の採用は結局は水掛け論になってしまうかもしれない。
問題はまた、保守・革新(進歩)とか右翼・左翼という「二項対立」または「二元論」の思考方法にあると思われる。
 これらは、すぐに「保守中道」とか(保守リベラルとか)、右でも左でもない「中間・中庸」派という観念を生んでしまい、多くの人は(少なくとも半数くらいの日本人は ?)えてして、(極端ではない)「中道」・「中庸」の立場に自らはいると思いたがっているようにも見える。
 この欄で「保守」とか「左翼」とか使っているが、一種のイメージとして、特定の考え方・主張や特定の事実理解について語っている。人間・人格または全知識・全感覚がいずれか二つに画然と分けられるわけではないことは当然のこととして了解しており、個別の問題・論点によって評価が分かれることはありうる。また、特定の個別問題・論点についても各立場にグラディエーション的な差違はありうるだろう。
 もっとも、基本的または重要な問題・論点があるのも確かで、これに対する考え方・立場によって(何らかの概念を使って)大きく二分することはできる。<基本・重要>性の判断もまた人によって異なるのだろうが、この欄では秋月瑛二なりの選択と判断によるほかはない。
 「保守」(又は保守主義)とは何かについては、諸文献を参照にしてこの欄でもたびたび触れてきた。保守とは「反共」だ、と書いたこともあるし、「保守」とは「イズム」・イデオロギーではなく姿勢・ものの見方だという説明に納得感を覚えたこともある。
 自分が「左翼」ではないとするときっと「保守」なのだろうが、実態としては、「正視」派と言いたいところだ。
 もっとも、世界中に(正確には欧米世界には)conservative(conservativ) とかleft(link) とかの概念・観念は確固として又は広く用いられているようなので、しっくりこないが、用いざるをえないのかもしれない。
 いずれまた、秋月瑛二の「保守」としての考え方・理解を整理してまとめておく必要がある、と考えている。
 とこんなことを書きたくなったのも、とりわけ、小林よしのり・ゴーマニズム戦歴(ベスト新書、2016)と、仲正昌樹・精神論ぬきの保守主義(新潮選書、2014)という、珍しいとりあわせの ?(秋月瑛二はできるだけ特定範囲の文献だけを読むことをしないつもりなのだ)二著をたぶんこの一ヶ月の間に少しは読んだからだ。

1395/R・パイプス・共産主義の歴史-池田信夫著による。

 池田信夫・使える経済書100冊-『資本論』から『ブラック・スワン』まで(NHK出版、2010)は、一冊として、R・パイプスの Communism - A History(2001)を取り上げている。但し、原著ではなく、飯嶋貴子訳の<共産主義が見た夢>というタイトルに化けさせられている ?邦訳書だ(ランダムハウス講談社、2007)。
 わずか2頁余りでの言及で、しかも、紹介と池田自身の論評の部分との境界がはっきりしない。
 冒頭にある以下の二文は、明らかに紹介の部分。
 「本書の共産主義の評価は全面否定だ」。
 「特にロシア革命について、『レーニンは正しかったが、スターリンは悪い』とか『トロツキーが後継者になっていたら……』という類の議論を一蹴する」。
 この上の文について池田はとくにコメントしていない。だが、日本共産党流の『レーニンは正しかったが、スターリンは悪い』とか、かつての「新左翼」流の『トロツキーが後継者になっていたら……』とかの議論が日本にあることを知ったうえでの紹介ではないか。
 つぎの文は、明確ではないが、(パイプスの主張の)紹介のようだ。
 「一部の陰謀家によって革命を組織し、その支配を守るために暴力の行使をためらわなかったレーニンの残虐さは、スターリンよりもはるかに上であり、ソ連の運命はレーニンの前衛党路線によって決まったのだ」。
 R・パイプスの上掲著の内容の詳細な記憶はないが、ここにも、日本共産党のレーニンをめぐる歴史理解とは全く異なる理解が示されている。しかも(池田の読み方が混じっているかもしれないが)、レーニンによる前衛党論・共産党組織原理(分派の禁止等)に(も)根源がある、という理解が示されている。
 つい最近、いかなる事情を背景にして「分派禁止」の方針が出された(決してレーニンの頭の中からのみ生じたのではない-したがってソヴィエト・ロシアに特有の事情があったのであり一般化できない)のかをある本で(いま書名を忘れた)読んだばかりだ。立ち入らない。
 つぎの文あたりから、パイプスの主張・理解に刺激をうけての、池田信夫自身の見解・コメントが述べられてくる。
 なぜ共産主義は広い支持を受けたか。「筆者も認めるように、財産や所有欲を恥ずべきとする考え方は、仏教にもキリスト教にもプラトンにも広くみられる」。
 以下は、池田信夫の<世界>に入っている。
 「ハイエク流によると、…〔遺伝子に組み込まれた〕部族感情のせいだろう。つまり人間は個体保有のために利己的に行動する本能をもつ一方、それが集団を破壊しないように過度な利己心を抑制する感情が埋め込まれているのだ」。/マルクスは「人間が利己的に行動するのは、近代市民社会において人類の本質が疎外され、人々が原子的個人として分断されているためであって、その矛盾を止揚して『社会的生産』を実現すれば、個人と社会の分裂は克服され、エゴイズムは消滅すると考えていた。人間は社会的諸関係のアンサンブルなので、下部構造が変われば人間も変わるはずだった。/しかし現実には、利他的な理想よりも利己的な欲望のほうがはるかに強く、下部構造が変わっても欲望は変わらないことを、社会主義の歴史は実証した」。
 そのあと、人間の利己心中心で利他心が全くないと想定する「新古典派」も実証科学としては検証に耐えない、「市場の効率を支えているのは、実は利他的な部族感情によるソーシャル・キャピタルなのである」、という池田<節(ぶし)>が続く。
 R・パイプスには、Property and Freedom(財産(所有権)と自由)(1999)という本もある。
 関心を持たざるをえないのは、ホッブズやルソーについてもそうなのだが、マルクスやレーニンにおける「人間像」だろう。彼らは「人間」をどのような本性・本質を持つものと見ていたのか。
 財産欲・所有欲を持つのは資本主義社会特有の「人間」で「社会主義」化によって変わる、と考えていた(との観念を抱いていた)のだとすれば、つぎのような連想も出てくる。
 スターリンに顕著な党員の「粛清」も党員・抵抗者に対する「テロル」(大量殺人=肉体的抹殺)も、利他的な「真の」社会主義的「人間」に改造されていない(社会主義・共産主義にとっては邪魔な)人間は殺戮しても構わない、なぜなら、いずれ消失すべきブルジョア資本主義に汚染された「利己的」人間は「真の」人間ではないのだから、という<人間観>によるものではないか。
 数百万人、数千万人の単位で「強制労働収容所」に送り込み、また「処刑」(肉体的抹殺)をできた人間とそれを中心とする共産党組織のもつ<人間観>とは、おそらくは現在の日本人のほとんどの、想像を絶するものに違いないだろう、と思われる。
 日本共産党の真面目な党員ならば、反日本共産党で知られた人物がその党員の者しか知らない状況で死に瀕していることに気づいたとき、誰にも気づかれないと確信すれば、放置してそのまま死なせてしまうのではないか、とかつてこの欄で書いたことがある(だいぶ前だ)。
 「敵」から生命を奪ってもよいと究極的には考えているはずの日本共産党員だから、明確な反共産主義者に対する<不利益扱い>や<いやがらせ>・<いじめ>など、いかほどの疚(やま)しさも伴わないに違いない。ひょっとすれば、不当な(不平等な)不利益扱い、いやがらせ・いじめとすら意識しない可能性もある。

1385/共産主義・全体主義…、トラヴェルソ・平凡社新書。

 日本共産党関係の文献は100冊近く、同党と無関係ではないがレーニン、ロシア革命、共産主義等々に関する文献は間違いなく100冊以上、この一年間に入手した。
 かつては購入・入手図書のリストをパソコン内に記録していたのだが-二重購入の回避のためにも-、その習慣を失ったので、上の大きな二分野だけでも、所持文献リストをこの欄に残しておこうかとも思っていた。但し、これも入力の手間が大変だ。
 このようにとりあえずの大関心であるレーニン/スターリン関係文献だけでも多数にのぼり、スターリンから過ったという日本共産党の大ウソ、可哀想なほどに貧弱で皮相的な謬論という結論はとっくにはっきりしていても、日本・外国の文献にこれまでいちいちこの欄で言及しているわけではない。
 フュレとノルテの本を和訳したりしているのも、リチャード・パイプスに言及したりしているのも、もともとは<共産主義>への関心にもとづく付随的なものだ。
 したがって、以下の叙述もたまたま新たに手にとってみた本に興味を惹いたというだけのことで、このレベルの本は(日本共産党・レーニン関連でも早く紹介・言及したいのだが)他にも少なからずある。
 9/06に初めて、エンツォ・トラヴェルソ(柱本元彦訳)・全体主義(平凡社新書、2010/原著2002)を一瞥した。
 平凡社新書というだけで少しは抵抗があったのだろう。また、このイタリア人歴史家は、感覚的な印象では「左翼」的だ。
 だが、そのような学者ですら、「共産主義」をいかなる意味でも擁護しようとはしていない。反・反共主義者ではない。これが第一点。
 最後の方に目を通しただけだが、この書の結論は「全体主義」概念を安易に用いるな、ボルシェヴィズム・共産主義とファシズム・ナチズムの違いをわきまえよ、ということだろう。
 これはこれでよく分かる。重要なことは、「全体主義」という、この著者が強調するように、曖昧な概念で括られることがあるような、上の両者の共通性・類似性を、この著者もまた否定はしていないことだ。これが第二点め。
 なお、「ボルシェヴィズム」と「共産主義」、「ファシズム」と「ナチズム」は、それぞれ厳密に区別されていない、と見られる。前者について「スターリニズム」という概念も用いられているが、それが(日本共産党・不破哲三らが期待するように ?)レーニンを排除するものではないことは読んでいて明らかだ。
 なお、上の著から離れるが、ハンナ・アレントの著において「全体主義」とはほとんどナチズムと「スターリニズム」の両者を意味させている、と見られる(すでに一読しているし、原著もドイツ語版と英語版の二つ持っている。確認しないが、communism ではなくstalinismという語が使われているはずだ)。だが、彼女にとって現実的だったのはヒトラー・ナチズムと「スターリン」だったからだと見られ、レーニンを「スターリニズム」と無縁なものと理解しているわけではないはずだ。 
 第三に、フュレとノルテに論及がある。
 フランソワ・フュレは「自由主義の大歴史家」とされ(p.160)、その大著「幻想の過去(終わり)」への言及と一部引用等がある。
 エルンスト・ノルテは「ドイツの保守的歴史家」とされ、「1917年のロシア革命にはじまる圧政の時代の内に全体主義を位置づける「歴史的・発生学的」解釈」を提案する、とされる(p.177)。
 立ち入った紹介は避けるが、著者はこの二人に全面的に同意しているわけでは、むろんない。フュレとノルテに見解の差違があることも述べている。
 それよりも、フュレとノルテについての欧米( ?)歴史家内での評価が参考にはなる。この秋月の感覚は誤ってはいない、ということだろう。この二人は「共産主義」を正面から論じていることからも明らかなことだが。
 第四に、「左翼的」かもしれないが、トラヴェルソというイタリア人は日本の「左翼」歴史学者に比べれば、はるかに普通の学者だろう。印象に残る文章もある。
 オーウェルの著は「記憶の空虚」を発掘する特殊な機械で「歴史を書き換えようとする全体主義体制が、懸命になって過去を管理する姿」を描いた。
 「歴史学の目的は、閉じた知識の蓄積ではなく、-、現在の指針となるような過去を構築することだ」。以上、p.188-9。
 全体主義、自由主義・リベラリズム、共産主義、民主主義等の観念・概念の利用には慎重でなければならないところは確かにある。ついでながら、不破哲三は「市場経済を通じて社会主義へ」というとき、「市場経済」という語で何を意味させているだろう。
 それはともかく、「記憶の空虚」を無理やり作られ、「過去を管理」されてはたまらない。それぞれの国民は、みずから「過去を構築」できなければならないだろう。
 日本の歴史に関して、2015年の8月に安倍晋三は、いずれ禍根と災厄が明らかになるだろう「犯罪」的談話を発した、と思っている。それを渡部昇一は「戦後体制を脱却」する名宰相の談話だと評するのだから、ほとんど発狂している。

1373/F・フュレ・幻想の終わり(1995)等-その2。

 一 フランソワ・フュレ(楠瀬正浩訳)幻想の過去-20世紀の全体主義(バジリコ、2007)を読んでも、フュレ=ノルテの"Feindliche Naehe" Kommunismus und Faschismus im 20. Jahrhundert〔敵対的近接-20世紀のコミュニズムとファシズム〕を読んでも、まずは感じることが二つある(「近似」は「近接」へと少し訳し変えておく)。
 第一は、異論はむろん国内や国外にあれ、フランスとドイツの歴史学の大家がいずれも「コミュニズム」(共産主義)という言葉を平気で用い、これにかかわる諸論点を正面から叙述したり議論したりしていることだ。
 このような知的雰囲気は、残念ながら日本にはほとんどないように見える。ましてや、「日本共産党」を俎上に載せての批判的な学問的研究は、皆無なのではないか。
 実質的に日本共産党の現在の見地を批判しているような場合であっても、「一部には」とか「という説」とか、あるいは共産主義者一般の話として、直接には日本共産党を名指ししていないことも少なくないようだ。
 第二に、フュレのぶ厚い本の題について、幻想の「終わり(終焉)」と「過去」のいずれが適訳かという話題を前回に出したが(英語版のタイトルは、The Passing of an Illusion , The Idea of Communism in the Twentieth Century だった)、共産主義という幻想が日本において「終焉」しているとは、まったく思っていない。
 つまり、もともとフュレの大著は叙述対象を「欧州」に限定しているのだが、フランスやドイツという欧州の学者・知識人にとって(おそらくは一般公衆にとっても)、ソ連の崩壊は同時に「冷戦の終わり」であり欧州人にとっての「コミュニズムの終焉」なのだろう、ということがよく分かる。
 彼らにとっては、中国(・北朝鮮)におけるコミュニズム(共産主義)などは知的関心の対象ではなく、日本にまだあることを知っているのかどうかすら分からない、日本のコミュニズム政党(日本共産党)の存在とその主張(あるいはなぜ今だに存続しているのか)もまた知的興味の対象ではないように見える。
 欧米の文献だけを読んで、日本のことを論じてはならない。
 日本共産党も含めて、日本のことは日本人こそが議論し、研究しなければならない。
 二 福井義高・日本人が知らない最先端の世界史(祥伝社、2016)p.131は、「民主主義=反・反共主義=反ファシズム」という「現代リベラルの公式」は、ソ連崩壊以降に「むしろ純化された」、と書く。
 日本人のほとんどにとって、先の戦争で日本(・日本軍国主義)は<悪い>ことをした、少なくとも<過ち>をした。ほとんどの日本人の意識にとってこの出発点はきわめて強固だと見られ、これが日本に対する勝利者の中にソ連も加わっていた、という紛れもない歴史的事実が結びついて、1990年までは大づかみに言って<反民主主義>の日本・ドイツ等と<民主主義>のアメリカ・ソ連等という対置を基本とする<歴史認識>が(少なくとも「左翼」・日本共産党には)形成されていた。
 この「日本軍国主義」は「ファシズム」に少なくとも近似のものと理解されたので、上の公式・図式は、「民主主義=反ファシズム=反日本軍国主義=反・反共主義=ソ連擁護」ということにつながった。この「ソ連擁護」を「社会主義」に置換すると、「民主主義=反ファシズム=反日本軍国主義=反・反共主義=社会主義」ということになり、「民主主義」者は「反・反共」で親「社会主義」者であるはずだ、あるいは「民主主義」と「社会主義」は対立物ではないはずだ、という倒錯が生まれた。
 朝日新聞岩波書店も、青木理斉藤貴男も、大江健三郎も、鳥越俊太郎も、日本の<左翼>は、<何となく左翼>も含めて、かつての、この大きくて単純な<図式>の意識構造のもとで、かかる観念世界の中で、生きている。
 かくして、ファシズムも日本軍国主義もすでに存在しないのだが、つねにそれらの<再来>を警戒し、<戦後が戦前にならないように>とか<再びきな臭くなってきた>などとじつに教条的な批判・攻撃をし始めるのが、日本共産党を中核とする日本の「左翼」だ。そして、安倍晋三は攻撃しやすい「ネオ・ファシスト」となる
 三 上の後半で述べたのた似た事情が、欧州にもあったことを、フュレの大著は述べている。邦訳書(楠瀬正浩訳)のp.244-5は、「コミュニズムとファシズム」と題する第6章のはじめに、つぎのように書く。
 ・歴史家は19世紀の眼鏡を通して20世紀を見たため、「民主主義対反民主主義」という図式を繰り返し、「ファシズム対反ファシズムという対立に固執した」。この傾向は第二次大戦後「殆ど神聖にして犯すべからざる思想上の観点」とさえ見なされるようになった。
 ・この「精神的束縛」はきわめて強く、フランスとイタリアでは「コミュニズムと反ファシズムは同一の立場を示す」ものと考えられて、「コミュニズムに対する分析はすべて妨げられる」ことになり、かつまた「ファシズムの歴史を語る」ことも困難になった。
 ・「反ファシズム思想が20世紀の歴史に充溢するためには<ファシズム>が敗北や消滅の後にもなお生き続けている必要があったのだ!」
 ・「ファシズム以上にわかりやすい攻撃目標を見つけることのできなかったヨーロッパの政治世界は、定期的にファシズムの亡霊を蘇らせ、反ファシズムの人々の結集を図ってきた」。
 以上。ここでの「ファシズム」をそのままか又は「日本軍国主義」または「軍国(好戦)主義者」に置き換えて、ほとんど同じことが、日本でも起きてきたし、起きていることが分かる。
 共産主義という「幻想」が生み出した別の「幻想」・「妄想」の図式からまずは脱出し、別の図式を打ち立てる必要がある。
 それはどのようなもので、どのようにして達成されるのか? 長い闘いが知的・意識のうえでも必要であり、この欄も、少しはこれに役立つことを願って記しつづける。

1291/幻想・妄想と正気-門田隆将・西尾幹二。

 一 もう1カ月以上前になったが、産経新聞4/19付の門田隆将「新聞に喝!/本当に『右傾化』か、いまだ左右対立をいう朝日」はほとんどそのとおりだと感じさせ、かつ示唆に富むものだった。
 統一地方選の結果を受けての朝日新聞4/13社説を素材にしているが、今日(現在・現代)についての一般論的叙述でもある。
 門田によれば、もはや「左右対立」の時代ではない、対立しているのは「空想と現実」だ。あるいは、「空想家、夢想家(dreamer)」と「現実主義者(realist)」の対立だ。
 したがって朝日新聞がいまだに「右傾化」という論評の仕方をするのは、「時代の変化に取り残され」ている、という趣旨でまとめられている。
 門田が「1989年のベルリンの壁崩壊以降、左右の対立は、世界史的にも、また日本でも、とっくに決着がついている」とか、自社両党による「55年体制」的思考の時代ではもはやない(旨)とか書いているのは、とくに前者はそのままでは支持できないことは何度も書いた。
 しかし、対立は<左右>あるいは<左翼と保守>といった「思想」または「イデオロギー」にあるのではない、という基本的な趣旨は、最近はとくに共感するところがある。
 門田が「空想家、夢想家」と「現実主義者」の対立を“DR戦争”とも言えるとしているのは、熟していない概念・用語だ。それはともかく、現在の日本での議論の基本的な対立は、かなりの部分、<考え方によっていろいろ>、と割り切れる又は理解してよいものではなく、「空想・夢想」と「現実(直視)」の違いが表れているものだ、と理解して差し支えないように思われる。
 「空想・夢想」は、ここでは<幻想・妄想>と表現したい。一方、「現実(直視)」あるいは「現実主義」は、他に適切な語はないだろうかと感じられる。最終決定?ではないが、とりあえず、<正気>とでも表現しておこう。となると、<幻想と妄想>=<狂気>と<正気>の対立になってしまい、陳腐な用語法ではある。しかし、<狂気>と<正気>の違いという把握の仕方は、存外、本質を衝いているようにも思われる。
 集団的自衛権行使容認の政府解釈に反対する憲法学者たちの声明を読んで、私は<幻想と妄想>に陥ったままである、と感じる。学者さまたちだからより丁寧に言えば、<正しさが論証されていない観念に嵌まったまま>だ、と感じる。そして、言葉はきついが、<幻想と妄想>を抱いたままの人たちは、<狂気>の持ち主である、と表現することができる。すでにこの声明はこの欄で紹介しているが、批判的コメントは別に記述する予定だ。
 二 <左右>あるいは<左翼と保守>といった「思想」または「イデオロギー」の問題ではない、というイメージを形成したきっかけは、どうやら、西尾幹二全集第14巻(2014、国書刊行会)を一瞥したことにあるようだ。
 <保守>の論客としての政治的・文化的な書物や論考に接してきたのだったが、上の本の内容におそらく明確に示されているように、西尾幹二は<左右>・<左翼と保守>とかの「イデオロギー」を<超えた>人物だ。そのことに初めて気づいたような気がした。西尾幹二のものはかなり読んできたようにも思っていたのだが、そして全集もすべて購入はしてきたのだが、全集の中を丁寧に読んでみる時間的余裕がなかった。
 上の著の全体は簡単に「人生論集」と題されているが、そこで種々に語られている、人生や人間についての洞察は、(あくまで凡人による論評ではあるが)深く、鋭い。その内容は直接には政治にも<左右対立>にも関係しておらず、基礎的でかなり普遍的だ。
 これまでこの欄に記してきたようなこととは性格をかなり異にするので、西尾幹二「人生論」の内容への言及はこの程度にする。
 西尾幹二の名前を知っている「左翼」は、すぐに「右派」、あるいは「右翼」の評論家というイメージと評価をしてしまうのかもしれない。だが、上に言及した「左翼」憲法学者たちも含めて、「左翼」論者たちは(但し、教条的日本共産党員を除く)、自らの考え方に自信を持っているならば、西尾幹二の上の著も読んで自らの感覚と思考方法の適切さを試してみよ、と言いたい。
 念のために付記しておくと、かつての<雅子皇太子妃問題>をめぐる議論でも示したように、西尾幹二の諸主張・見解のすべてに同意してきたわけではない。この問題については、西尾幹二を批判し、竹田恒泰に基本的には同調していた(「東宮擁護派」というレッテルを貼られたこともあった)。原発問題も、率直にいってよくは分からない。とはいえ、上に記した西尾著についての感想等を変えるつもりはない。
  

1279/<左翼>愛好の「国家のゆらぎ」論を萱野稔人が批判。

 Think global, Act local というスローガンかモットーのようなものを読んだことがある。<グローバルに考え、ローカルに行動せよ(しよう)>ということだ。
 この二つにあえて反対する必要はないようにも見えるが、当然ながら、重大なことに気づく。
 グローバル・「世界」・「国際」・「地球」とローカル・「地域」との間の、<国家>がすっぱりと抜け落ちているのだ。
 上記は、ナショナルに考え、行動することは絶対にしたくないという、<左翼>の標語なのだろう。
 「国家」、そして「ナショナルなもの」をできるだけ無視したい、想起しないようにしたいというのは、遠い将来の<国家の死滅>を予言し最終目標とするコミュニズム・「共産主義」に親近的な者たちの考え方でもある。
 エンゲルスの著-家族・私有財産および国家の起源-は、コミュニストたちが廃棄したい三つのものを明確に記していた(この著の前にルソーは「家族」について実践していたが)。
 そういう人々は近年、<国家のゆらぎ>ということを語りたがる。それは一つは、単一の近代国家が統合へと向かう兆しによって生じており、EU(欧州連合)はその好例だとされる。日本近辺については、<東アジア共同体>なるものを目指すことを肯定的に語る者もいる。
 いま一つは、単一の国家内部で、「国家」と社会または民間の境が曖昧になりつつある現象として表れているとされる。国家の事務の範囲・役割が不明確になっていることを前提とする、公共事務の<民営化>も、そうした傾向の重要な一つだとされる。
 だが、<国家のゆらぎ>を積極的・肯定的に語りたがる者は、「国家」・「ナショナルなもの」をできるだけ無視したい、想起しないようにしたい、<左翼>の学者や評論家たちだと思われる。
 萱野稔人は<保守派>だとは見なされていないようだが、「日本のリベラル派の言論人は国家のゆらぎということをすぐに論じたがるが…」という一文を含む文章を朝日新聞の2015.01.18朝刊に書いていて、その内容は納得できるものだ。
 萱野稔人は、「国家のゆらぎ? ゆらいでいるのは米の覇権」と題し、昨年のクリミヤ半島ロシア編入、「イスラム国」、スコットランド独立住民投票に言及したあと、「これまでの国家の枠組みをゆるがすようなできごとが相次いだ」が、「これらの動きを主権国家そのものの衰退ととらえることには無理がある」と断じる。そして、ウクライナ・イスラム世界での出来事は「国家そのもののゆらぎではなくて、米国の覇権のゆらぎである」とする。
 そのあと、さらに次のように述べる。
 「国家のゆらぎについてはこれまでも、グローバリゼーションによって国境の壁は低くなり、国家は衰退していくのではないか、ということがとりわけ日本では盛んにいわれた」。しかし、サッセンの近著はそうした見方を「表面的で稚拙な見方だと批判」し、「グローバリゼーションによって国家の主権は消滅するのではなく、新たな役割を担うだけだ」としており、ドゥルーズ=ガタリの近著も「資本主義と国家の関係を理論的に考察」しつつ「(資本が国家を)超えるとは、国家なしですませるという意味では決してない」ととしている。
 最後に、つぎの一文でまとめられる。
 「日本のリベラル派の言論人は国家のゆらぎということをすぐに論じたがるが、国家を正面から考えるためには、そもそもそういった発想自体が問い直されなくてはならない」。
 <国家のゆらぎ>を語りたがる日本の<左翼>学者等は、「表面的で稚拙な見方」を改め、その「発想自体」を問い直す必要がある。
 ところで、「日本のリベラル派の言論人」の言説を多数掲載してきたのは朝日新聞で、そのような者の書物を多く刊行しているのも朝日新聞出版だ。上の萱野の文章における批判的指摘は、朝日新聞に対しても向けられていると見るべきだろう。だが、朝日新聞は<事前検閲>をして掲載中止を求めることはしなかった(又はできなかった)。この寄稿の担当者は、どういう気分で読んだのだろうか。

1271/コミュニストにより作られたハル・ノート-櫻井よしこ・週刊誌連載。に関連して2。

 櫻井よしこ週刊新潮1/22号(新潮社)で、アメリカ・ルーズベルト政権は日本が呑めないことを見越して「日本に事実上の最後通牒であるハルノートを突きつけ」、開戦に追い込んだ、という旨を記していたが、中川八洋の理解は大きく異なるようだ。
 中川八洋・近衛文麿とルーズヴェルト-大東亜戦争の真実(PHP、1995)p.39によれば、「米国側からの最後通牒『ハル・ノート』の故に、日本は敗戦を覚悟してやむなく窮鼠猫をかむ決断を強いられた、という俗説」が是正されなく今も通用しているのは「歴史の歪曲」、少なくとも「歴史の真実に対する怠慢」だ。
 中川八洋は「大東亜戦争…とは、…東アジア全体の共産化のための戦争であった」(p.34)、「大東亜戦争=日本とアジアの社会主義化」というのが「歴史の真実」だ(p.276)と捉えているので、出発点あるいは逆の結論自体が櫻井よしこらとは基本的に異なっているように見える。
 そして、同書の第二章「『ハル・ノート』とロシアの『積極工作』-財務次官補H・D・ホワイトとルーズヴェルト」でも、上のような「俗説」なるものとは異なる叙述を行っている(p.36-57)。以下、ハル・ノートやそれと日本の関係に限っての要約・抜粋的紹介。
 ・1941.07.28の日本軍の南部仏領進駐(ベトナム・サイゴン入場)は日本の英米蘭に対する実質的な開戦で、ハル・ノートが日米戦争の引き金ではない。同09.06の午前会議で10月上旬の開戦の想定(帝国国策遂行要領)が決定され、さらに11.05には12月上旬に定め直され、11.26午前には南雲中将らの機動部隊は真珠湾に出撃していた。ハル・ノート(のちに述べる最終案)が手交されたのは11.26午後で、日本の真珠湾攻撃はハル・ノートに対する反発によるものではない。日本の対米開戦は同年7月以降の既定路線だった。
 ・といって、ハル・ノートに重大性がないわけではない。ハル・ノートにはハルがまとめた「ハル試案」=暫定案と、時期的にはのちのホワイトが執筆してハルの名で手交されたより強硬な「ホワイト試案」=最終案とがあった。前者であれば日米講和の可能性があり、これによって敗戦・降伏していれば、ソ連の対日開戦はなく、満州の悲劇も千島の領土喪失もなかった。「強硬姿勢一本槍」の「ホワイト試案」=最終的なハル・ノートは日本の関係者すべてを憤激させ、日本を徹底抗戦へと誘導した。そして戦後には、ハル・ノートは日本国民の対米怨念形成の劇薬になり、戦後の日米関係に対して致命的悪影響をもたらした。なお、<最終案>・「最終的なハル・ノート」という語は、秋月が作った。 
 ・「ホワイト試案」=最終的なハル・ノートは、アメリカ内部で、どのようにして採択されたのか。暫定案→最終案への変化は1941.11.17-11.25の間に生じた。財務次官補・ホワイトは試案を11.17に財務長官・モーゲンソーに渡し、その翌日にモーゲンソーはルーズヴェルト大統領とハル国務長官に送付した。ハルは自らの暫定案に固執し続けたが、ルーズヴェルトはホワイト試案を気に入ったようで、11.25にそれの採用をハルに命じた。
 ・ルーズヴェルトが「ホワイト試案」を支持したのは、ソ連擁護のために対ドイツ開戦をしたくて、ドイツと同盟関係にある日本に対米開戦を決行させることにあっただろう。日本の対米開戦はドイツの対米開戦と見なしてよかった。ルーズヴェルトは「100%の確率で受諾拒否となる」「最後通牒」をどうしても日本に手交したかった。
 ・H・D・ホワイトとは何者か。彼の「別の顔」はKGBの前身組織の在米責任者バイコフ大佐指揮下の「ソ連工作員の一人」。のち1953年にブラウネル司法長官は、ホワイトを名指しして「ソ連のスパイであり、米国の機密文書を…他の秘密工作員に渡していた」と言明した。1948年にバイコフ機関に関する証言のために召喚されたホワイトは、喚問三日後の08.16に心臓麻痺で死亡し、ハル・ノートをめぐる歴史の謎は闇の奥にしまわれた。しかし、ハル・ノート(最終案)が「共産主義者」である「ソ連のスパイ」により執筆された、という事実は等閑視できない。「共産主義の心底には破壊主義」が強く潜み、ホワイトはソ連防衛のみならず、日米戦争による「日本の破壊」の目標も秘めていたただろう。
 以上に続いてルーズヴェルト政権内のホワイト以外の「共産主義者」である「ソ連のスパイ」についての叙述があるが省略する。
 中川八洋は「最後通牒」性を否定しているが、かりにハル・ノートが日本に対する「最後通牒」との<俗説>が正しいものであったとしても、そのハル・ノートを実質的に作成したのはソ連・コミンテルンのスバイだった、という指摘はすこぶる大きな意味があるはずだ。
 櫻井よしこはどの程度の知見を持っているのかは知らないが、少なくとも週刊誌上の簡単な叙述だけでは不十分であることは明らかだろう。
 それにしても、先の戦争、大東亜戦争、八年戦争、昭和の戦争(の時代)についての歴史「認識」は同じ<保守派>であっても決して一様ではないことに驚かされるところがある。中川八洋を<保守派>論者でない、と評する者はいないだろう。近く田久保忠衛の戦争(の時代)についての歴史「認識」にも触れる予定だが、<真正保守>の歴史観というものがあるのかは疑わしい。また、自ら<真正保守>と任じている者の歴史把握が<真正>なものである保障は決してない、ということも心得ておいてよいと感じられる。

1267/丸山真男と現憲法九条・「軍事的国防力を持たない国家」論。

 〇 竹内洋・丸山真男の時代(中公新書、2005)は丸山真男に対して批判的であり、竹内・革新幻想の戦後史(中央公論社、2011)も同様だ。竹内の上の前者によると、1996年8月に丸山真男が逝去したのち朝日新聞はある一面のすべてを「丸山の業績と人をしのぶ」座談会で埋めたが、産経新聞は元慶応大学・中村勝範の「丸山政治学は思想的に日本人を混乱させた元凶でした。過去の分析も戦後の状況判断も完全に誤っていた」とのコメントも掲載した。
 水谷三公・丸山真男-ある時代の肖像(ちくま新書、2004)を、私は丸山真男(の思想)に対する訣別の書として読んだ。だが、長谷川宏・丸山真男をどう読むか(講談社現代新書、2001)のような、丸山真男を称揚する書物は今日でも新たに刊行され続けている。
 戦後「左翼」のなお強固な残存の源流の一つは、丸山真男にあるだろう。
 〇 ジャパニズム21号(青林堂、2014.10)によって気づかされたのだが、丸山真男は、亡くなる一年前以内の雑誌・世界(岩波)の1995年11月号に、「サンフランシスコ講和・朝鮮戦争・60年安保」と題する回顧談的文章を載せている。その中に、つぎの文章がある。丸山真男全集第15巻(岩波、1996)から直接に引用する(p.326)。
 平和問題談話会の法政部会で憲法第九条の問題を論じたときは、民法専攻の磯田〔進〕君のような左派は、『軍備のない国家はない。軍備がないというのはおかしい』と批判しました。正統左派ではない大内〔兵衛〕先生も、『国家である以上は、完全非武装というのはありえない』というのが、このときのお考えでした。そこで僕は、こうなったら国家観念自体を変革する以外にない、今日の言葉でいえば、…『普通の国家』論でいえば、軍備のない国家はないんだけれども、憲法第九条というものが契機の一つになって一つの新しい国家概念、つまり軍事的国防力を持たない国家ができた、ということも考え得るんじゃないかといって、磯田君と議論した。(ジャパニズム上掲p.118と引用の部分・仕方が少しだけ異なる)。
 ジャパニズム上掲号の「左翼アカデミズムを研究する会」という実質的には無署名の書き手は、上の文章から、大内兵衛ですら武装肯定の時代にすでに<非武装中立>を信念としていた、というまとめ方をしているが、私には、丸山真男が現憲法九条を「国家観念自体」の「変革」、「新しい国家概念」提示の契機と理解しようとしていた、ということが興味深い。
 いずれにしても、「丸山という知の権威がつくりあげた憲法九条イデオロギーは、さまざまな形で、今日の左翼アカデミズムに大きな影響を及ぼしている」(同上p.118)のはおそらく間違いない。ここにいう「憲法九条イデオロギー」は、たんに<反戦・平和>の気分に支えられているのではなく、「左翼」が夢想したい「新しい国家概念」の展望によっても基礎づけられているかに見える。
 憲法九条2項改正(・削除)論・論者に対する強固で執拗な、あるいは脊髄反射的な反発は、現実的・具体的な議論によって成り立つているというよりも、まさに「イデオロギー」に依拠するものだろうと考えられる。
 そうだとすると、やはり、それを打ち砕いておくために、憲法九条2項の改正(・削除)は日本にとって絶対になすべき課題だ、と感じられる。
 池田信夫はそのブログ2014.12.25付で「憲法改正は『大改革』ではない」と題して、憲法>「第九条を改正しても、自衛隊の名前を『国防軍』と変える以外の変化はほとんどない。大事なのは一院制にするとか衆議院の優越を明確化するなどの国会改革だが、自民党の改正案は参議院にまったく手をつけない。これでは改正する意味がない」
等と書いている。
 後段の指摘には賛同したい部分があるが、九条改正による「変化はほとんどない」、したがってその改正に大きな意味はないというかのごとき主張には、賛同し難い。九条2項を「改正(・削除)」しなくとも、すでに自民党中心の政権による憲法解釈によれば合憲とされている自衛隊によって、かなりのことが可能になっていることは確かであり、改憲反対派・憲法九条2項護持派によるデマ宣伝が言うほどには実態は大きくは変わらず、これまでの変化・実態の蓄積の延長線上にあるものにすぎないかもしれない。その意味では「質的」・「革命的」変化を生じさせるものではないかもしれない。
 しかし、「軍その他の戦力」の保持が明確に禁止されているにもかかわらず自衛隊を合憲視するのは相当に苦しい解釈ではあり、その「おとなのウソ」を解消する必要はやはりある、正規に「軍」と認知することによって日本の安全保障に一層寄与する、という点をかりにさしおいても、丸山真男のいう「軍事的国防力を持たない国家」という「新しい国家」観を、そして「憲法九条イデオロギー」を、きちんと打ち砕いておく課題と必要はある、と考えられる。問題は安全保障に関する現実だけではなく、<精神>・<国家観>にもあるのだ。
 〇 なお、丸山真男の、上の1995年の文章は「平和問題談話会から憲法問題研究会へ」という副題をもっている。
 前者の「平和問題談話会」については戦後<進歩的文化人>生成の重要な場であるという関心からそのメンバーの探索・確定や、安倍能成らの「オールド・リベラリスト」の排除による<純化>の過程の叙述を、たぶん竹内洋等々の文献を手がかりに、この欄でメモしていったことがある。そこでも触れたことがあるような経緯・構成員の一端を当事者の一人だった丸山も語っていて興味深い。また、後者についても、宮沢俊義(憲法学者)、我妻榮(民法学者)が政府系の憲法調査会ではなく、「憲法問題研究会」に入会したことは社会的に、また東京大学法学部内部でも大きな話題になった、等が語られていて興味深い。機会(・余裕)があれば、また言及しよう。

1259/「危険な思想家」発想がなお残る今日の知的世界。

 ・前回言及の竹山道雄の文章は、朝日新聞が日本の継続性肯定の<明治100年>か敗戦による新たな<戦後20年か>という対立があるとして両側の諸論者の文章を掲載したものの一つで、前者の論者は平川祐弘によると竹山道雄・林健太郎・江藤淳・林房雄、後者のそれは野間宏・遠山繁樹・小田実・加藤周一、のそれぞれ4名だ。作家・野間宏は少なくとも戦後の一時期は日本共産党員だった者、日本史学者・遠山茂樹は日本共産党だったと推測される者、あとの後者の二人は非日本共産党「左翼」だろう。そして、平川の言に俟つまでもなく、朝日新聞は後者の立場を支持することをを少なくとも示唆した特集だったと思われる。
 ところで、平川祐弘によると、同じ1965年に山田宗睦が「危険な思想家」というタイトルのカッパ・ブックスを出していて、上の前者の4名は山田のいう「危険な思想家」だったらしい。平川によればほかに安倍能成が明記されているが、三島由紀夫や石原慎太郎もまた当然に?「危険な思想家」だったようだ。平川によると、この山田の著に朝日新聞が「飛びつい」て、上に言及の特集になったらしい。
 この論争に立ち入るつもりはないが、上の両派?のいずれの立場が日本国家と日本国民にとって本当は「危険な」ものだったかは、今日ではほとんど明らかだと思われる。
 だが、60-80年代くらいまでかなり広く<保守・反動>という言葉でレッテリ貼りされた考え方・歴史の見方を今日でもやはり「危険」と感じている者は今日でも少なくないし、憲法学界では前回に言及した某憲法学者も含めて圧倒的多数派を占めているという印象がある。
 「危険な」の反対は「安全な」だが、いわゆる<進歩>派あるいは「左翼」こそが、憲法学界では「安全な」立場・立ち位置なのだ。したがって、学界や各大学・各学部の多数派=「安全な」立場に属していることが、就職・昇格やその他の人間関係上<有利>であると感覚的に判断する者は、深く考えることなく、無自覚に「左翼」になってしまう憲法学者も出てくることになる(別に憲法分野に限りはしないが)。あるいはまた、<右・左>、<保守・左翼>のいずれかの立場を鮮明にしない方が「安全」だと感じる大学や学部にいる間は<温和しく>しているが、「左翼」性を明確にしても「安全」だと感じる大学・学部に移れば、例えば平気で「九条(2項)を考える会」に属して報告をしたり、特定秘密保護法や集団的自衛権容認に反対する声明に堂々と名を連ねたりすることになる。
 ・憲法学界を例にしての以上のことが決して的外れではないことは、月刊WiLL1月号(ワック)冒頭の座談会で、政治学の中西輝政が語っていることでも明らかだろう。<保守派>であることは大学院生がどこかの大学に就職する(採用される)ために不利だったことは指導教師だった高坂正堯の言葉を紹介しながら中西輝政がすでに述べていた(この欄でも触れた)。
 上の座談会の中で中西輝政は、「いまでも特殊な知識人の世界」では「朝日的であること」が「知的権威そのもの」だ、「朝日に対する信仰」は「いまでもテレビ界の報道関係では、NHKも含め…根強く残っていて、一般の社会と大きくズレている」と述べたりしつつ(p.37)、つぎのようにも語っている。
 「学会ではいままでずっと地雷原を歩いているようなものでした(笑)」。大学では「最も大変な時期は、校門をくぐった瞬間から一瞬たりとも警戒心を解くことができ」なかった。メディアで「靖国参拝に賛成」と言ったら「授業を暴力で潰しに来かねない状況で、教員たちも露骨に反発して私一人、全く孤立無援」だった。大学の校門を出た方が安全で、「むしろ大学に入ると『学問の自由』は保障されてい」なかった。
 学生の反応はともかくとしても、「教員仲間」から「そもそも中西さんの言動に問題がある」として「取り合ってもらえなかった」(以上、p.40)という、学部または教員たちの雰囲気に関する発言の方が重要だし、興味深い。
 もっとも、具体的にいかなる時期のどの大学(京都大学?)のことを述べているのかは明確ではない。余計ながら、中西輝政が退職した大学・学部には佐伯啓思も同僚としていたはずだ。
 上の最後の些細な点は別として、「学問の自由」といいながら、人文・社会系の大学に所属する研究者たちは、テーマ設定や研究内容について、本当に自分の頭で「自由」に考え、結論を出しているのだろうか、という疑問をあらためてもたざるをえない。それは「靖国参拝」や「慰安婦」についての彼らの意見や認識についても言える。それぞれの学界・学会の<空気>を読みながら、「黒い羊」と目されないように、多数派に属するように、あるいは「安全」であるように、取捨選択しているのではあるまいか。無意識にそのように行動させるシステムができ上がっているとすれば、もはや大学でも「学問」でも「自由な」研究者でもないだろう。ややテーマがそれたかもしれない。

1258/月刊正論を最近は毎号きちんと読んでいる。

 ・前編集長時代とは異なり、交替後の月刊正論(産経新聞社)は「メディア裏通信簿」も含めて、なかなか面白い。何よりも、くだらない、又は反発を覚えるような論考や記事がほとんどなくなった。
 とは言っても、なぜか、日本共産党、社民党、生活の党(小澤一郎は見事に?変身した)という「左翼」政党、とりわけ日本共産党の現状の紹介や批判的検討が全くと言ってよいほどないことは相変わらずで、中国(中国共産党)を熱心にかつ批判的に分析しても、なぜ日本の月刊雑誌は日本の「共産党」を、あるいは日本のコミュニズムを正面から扱わないのだろうというもどかしさは依然として残る。
 ・月刊正論1月号もおそらく90%以上読み終えた。最近と同様に、かつてほどに逐一言及する余裕はない。
 門田隆将の文章も小浜逸郎(この人は一時期は信用していなかったのだが)の文章も、印象に残ったが、平川祐弘が紹介している、竹山道雄の、朝日新聞1965.04.05号の文章の一部が目を惹いた。
 「私には戦後の進歩主義がほんものの平和と民主主義であるとは思われない。それはむしろ、人々の平和と民主主義をねがう気持ちにつけこんで、別なものが進歩主義を利用して浸透する手段としたのだった」。(p.347)
 ビルマの竪琴という小説の作家としてしかほとんど知らない竹山道雄だが(もっとも、同・昭和の精神史は所持していていずれ読みたいと思っているし、著作集も半分以上所持している)、60歳をすぎた時期に朝日新聞紙上でこんな文章等でもって論争しているとは、相当な人物だったに違いない。
 「人々の平和と民主主義をねがう気持ちにつけこんで、…進歩主義を利用して浸透する手段」としている「別なもの」は現在も厳然として存在するし、「別なもの」に「平和と民主主義をねがう気持ちにつけこ」まれていることを知らずに、戦争と<全体主義・ファシズム>の復活?を許さず「平和と民主主義」の理想を追求していると自らを評価しているものも厳然として多数存在している。
 すでに「別なもの」になっているのかどうかは知らないが、個人的に知る某憲法研究者は、<日本の自衛隊(軍事組織)は信用できない。正式に軍として認知すれば何をしでかすか分からない>という旨を<公言>していた。
 日本軍国主義=日本のかつての軍部は<悪>でありかつ<拙劣>であったので、そのDNAを継承している自衛隊、そして日本人そのものが<正規の軍として位置づけられるものを保持するとアブない>というわけだ。
 かかる戦後・占領期の<時代精神>を、日本の憲法学者の多くはなおも有し続けているのだろう。
 開いた口がふさがらないし、そのような感覚を平然と語るれっきとした<おとな>らしき人物などとは、もはやとっくに、「口をきく気にもなれなくなっている」のだが。
 

1185/「絆」と「縁」の区別、そして「血縁」ー民主党・菅直人と自民党。

 菅直人が首相の頃、自民党の記者発表の場の背景にも「絆(きずな)」という言葉が書かれてあったのでこの欄に記す気を失ったのだったが、当時、菅直人は好きな、または大切な言葉として「絆」をよく口に出していたように思う。あるいはテレビ等でも、大震災の後でもあり、人間の「絆」ということの大切さがしばしば喧伝されていたように思う。
 だが、少なくとも菅直人が使う「絆」については、次のような疑問を持っていた。すなわち、彼がいう「絆」とは主としては自らの意思で選びとった人間関係を指しており、市民団体やNPO内における人間関係や、これらと例えば被災者との間の「絆」のことを主としては意味させようとしているのではないか、と。
 そして、「絆」とは異なる別の貴重な日本語があることも意識していた。それは、「縁」だ。「縁」とはおそらく(辞典類を参照したことはないが)、個人の「意思」とは無関係に、宿命的なまたは偶然に生じた人間関係のことで、例えば、<地縁>、<血縁>などという言葉になって使われる。これらは菅直人が好みそうな「絆」とは違うものではないか。「縁」による人間関係も広義には「絆」なのかもしれないが、後者を狭く、個人の意思による選択の要素が入るものとして用いれば、「絆」と「縁」は別のものなのではないか。
 そして、かなり大胆に言えば、「左翼」はどちらかというと個人の意思の介在した「絆」を好み、血や居住地域による、非合理的な「縁」という人間関係は好まないのではないか、「保守」の人々ははむしろその逆に感じる傾向があるのではないか、と思ってきた。
 さて、被災地において「地縁」関係が重要な意味を持ったし、今後も持つだろうということは明らかだが、戦後日本で一般に「血縁」というものが戦前ほどには重要視されなくなったことは明らかだろう。
 戦前の「家族」制度に対する否定的評価は-それは「悪しき」戦前日本を生んだ温床の一つとされた-「個人の(尊厳の)尊重」と称揚と対比されるものとして幅広く浸透したし、現にしている、と思われる。
 「個人の尊重」は書くが「家族」にはいっさい言及しない日本国憲法のもとで-樋口陽一は現憲法の中で最重要なのは13条の「個人の尊重」だとしばしば書いている-、「血縁」に重要な意味・位置を戦後日本と日本人は与えてこなかったのではないか、広義での「絆」の中に含まれる基礎的なものであるにもかかわらず。
 もちろん、親(父または母)と子の間や「家族」の中の<美しい>人間関係に関する実話も物語も少なくなく紹介されたり、作られたりしている。
 だが、本来、基本的な方向性として言えば、樋口陽一ら<左翼>が最重要視する「個人の(尊厳の)尊重」と「血縁」関係の重要性を説くことは矛盾するものだ。親子・家族の<美しい>人間関係を語ることには、どこかに上の前者と整合しない要素、または<きれいごと>も含まれているのではないか。こんな関心から、さらに何がしかを追記していこう。

1167/佐伯啓思の議論はどのようなもので、どのように評価されるべきか-一部。

 佐伯啓思・日本の宿命(新潮新書)は2013年1月発行で、2012年12月17日付の筆者「あとがき」がある。そのわりには、前日12月16日の衆議院議員選挙の結果にも言及がある(p.3、p.13、p.37等)。

 それはともかく、昨年末総選挙の結果が判明していたと思われる2012年12月17日付で佐伯啓思はこう書いている。
 <自分の大きな関心は「制度論」や「事実論」ではなく「精神のあり方」や「ものの考え方」にある。>(p.222)。

 このように書いてはいるが、佐伯啓思は「構造改革」を中心とする「制度改革」を含む「改革」路線・「改革」ブ-ムを、佐伯のいう「橋下現象」とともに批判視・問題視してきた。また、産経新聞2/15の記事によると「大阪正論懇話会」では<構造改革では米国的な要素を持ち込んで市場競争を強化させてしまったことで、社会的な安定性に関わる部分が崩れてしまった。この過去を整理して、われわれがめざす経済の姿を考えなければならない。国がやるべき仕事は、公共工事や復興支援など安定性の部分をもう一度、立て直すことだ>等々と語った、というのだから、専門分野に包含されるはずの「経済政策」に関する発言も行ってきている。

 したがって、佐伯が「制度論」や「事実論」に関心がないはずはないのであり、あくまで(さらには上の書物でのそれに限られるかもしれないが)「大きな関心」ではない、ということに留意すべきなのだろう。

 ともあれ、佐伯啓思という学者・評論家が「精神のあり方」や「ものの考え方」に大きな関心を持ち、それによって種々の論述をしている、ということは佐伯の著書や文章を評価・分析するための一つのポイントだろう。
 しかして、佐伯自身の「精神のあり方」や「ものの考え方」とはいかなるものか。種々の現象や議論を、それらに潜む「ものの考え方」のレベルで分析し、あるいは批判的に論じることに、むろん意味がないわけではない。
 ただ、もちろんここで簡単に言ってしまうのは不可能だし乱暴でもあるのだが、佐伯自身の「見方」はさほどわかりやすいものではないし、あえて言えば<斜に構えた>視点から、あるいは通常のまたは大勢的な論調とは異なる、ある意味では「意表をついた」視点から、またはそのような論点を提出することによって論述するのが、佐伯啓思の特徴であると言ってよいだろう。少なくとも私は、そのような「印象」を持っている。
 だが、と再び次元の異なる論点を持ち出せば、「精神のあり方」や「ものの考え方」と「事実」や現実の「制度」はそもそもどういう関係に立つのか、という問題もある。
 つまりは、佐伯啓思のいう、または佐伯自身の、「精神のあり方」や「ものの考え方」が、戦後日本の「現実」の中で、それに影響を受けて形成されてきたものではないか、ということだ。
 「現実」の中には-さしあたり佐伯啓思のそれに限れば-佐伯が受けてきた戦後日本の学校教育も、佐伯がその中にいた学界や論壇の風潮も含まれる。そしてまた、東京大学を卒業し京都大学の現役教授であるという佐伯啓思の経歴や所属もまた、佐伯の種々の書物や文章の内容や「書きぶり」と無関係ではないだう。
 佐伯自身も否定はしないだろうように、佐伯自身の「精神のあり方」や「ものの考え方」は佐伯の内部のみから、外部から自由に生成されたものではない、はずだ。
 そして再びやや唐突に書くのだが、佐伯啓思の、<斜に構えた>視点からの、あるいは通常のまたは大勢的な論調とは異なる、ある意味では「意表をついた」論点提出による論述方法は、決して「大衆」が行いうるものではなく、東京大学卒の京都大学教授だからこそなしえているのではないだろうか。書き方を変えれば、無意識にせよ、自らの「位置」についてのそういう自覚を持っているからこそ、佐伯啓思のような諸仕事を佐伯はできているのではないだろうか。それは、あえて単純化はしているのだが、善し悪しは別として、「高踏的」、あるいは場合によっては「第三者的」・「評論家的」になっている。丸山真男ほどではないとしても。

 佐伯啓思が特定の「党派」的、政治実践的な主張を少なくともあからさまにはしていないのは、上のこととと無関係とは思われない。
 この点は、同じ大学・大学院研究科に所属していた中西輝政とは大いに異なる。これは、中西輝政の最近著・賢国への道(致知出版社、2013.01)の「まえがき」等を一瞥するだけでも瞭然としている。
 そして、今日においてわが日本が必要としているのは、佐伯啓思タイプの評論家・論者ではなく、中西輝政タイプのそれではないか、と感じている。
 あれこれと、あるいは「ああでもない、こうでもない」と分析的に論じること、あるいは細かいもしくは「意表をつくような」もしくは「独自の」・「ユニ-ク」な<解釈>をし、あるいは「見方」を提示することは、かりに意義があるとしても、現実的にいかほどの影響力をもつかは疑問だ。
 同じく新潮45(新潮社)の連載をもとにした佐伯啓思・反・幸福論(新潮新書)は「予想以上に」売れたらしく、結構なことだが、数万部では、また数十万部ですら、新聞の影響力にはかなわないし、ましてやテレビ報道の論調に抗することは客観的には不可能だろう。
 もちろん佐伯啓思の本に限らないが、巨視的には、川の流れに小さなさざ波を立てるだけの書物がほとんどだろう。それでも好ましいさざ波ならよいのだが、悪質なものも少なくはなさそうだ。
 佐伯啓思の著書はすべて好ましいさざ波であるのかは疑問で、少なくとも一部には、日本と日本人のためにはよろしくない、またはほとんど無意味だ、と少なくとも私は感じる部分があることは否定できない。

 以上、佐伯啓思の文章のごく一部から発展させて。

1150/日本は西欧と中国のどちらにより近いのか-佐伯啓思と中西輝政。

 新潮45(新潮社)の今年8月号の佐伯啓思「反・幸福論/20回・空気の支配」の末尾で、佐伯啓思はこう書いている。

 「『日本的なるもの』と『近代民主主義』の結合には何か基本的な難点がある」(p.334)。
 西欧近代(またはヨーロッパ近代)に対する懐疑または批判的分析は佐伯の文章の随所に見られるところで、この人の最も得意とする論点かもしれない。戦後日本の「空気」を支配する基本的な正義となっているとする「民主主義」・「平和主義」、その延長上にあるとする「国際化」・「個人の自由」・「基本的人権」等(p.331-2)の欧米所産の諸原理は「日本的なるもの」と必ずしも容易には結合しないという基本的な趣旨には反対しない(但し、この論考の基本的なテーマは「空気の支配」で、この論点に関する叙述内容にはいくつかの疑問を提示することもできるが、立ち入らない)。
 上の佐伯啓思の一文に興味をひかれたのは、ほぼ同時期に中西輝政・日本人としてこれだけは知っておきたいこと(PHP新書、2011)をもう一度読み直していて、つぎの文章に出くわしたからだ。

 「法律」・「約束」等に対する「感覚は、日本と西欧がほぼ同じなのに、中国はまったく異なる…。『同じアジア人』という意識を持ってはいけない」
 テーマも文脈も異なる中で単純に対比してはいけないが、面白い論点が示されているように思われる。
 かりに欧米・日本・中国という三つの「文明」があるとして(むろん他にもあるのだが、省略する)、(歴史的にまたは現在において)日本は欧米と中国のいずれの「文明」に<より近い>のか。
 佐伯啓思は欧米「文明」と「日本的なもの」との不整合をあちこちで書いてきている。中国(・共産党)または中華文明に触れていないわけではないが、これらに関する論及は欧米所産の原理・「価値」へのそれと比べて格段に少ないように見える。

 佐伯啓思・反幸福論(PHP新書、2012)の中には「某国のように市民的自由さえ認められない全体主義では困りますが…」という文章があったりするので、「某国」の中に少なくとも現在の中国を含んでいるとすると、-上は一例にすぎないが-中国を好意的・肯定的に評価しているわけではないことは確かだろう。
 それに佐伯啓思は必ずしも明確にまたは強調して叙述しているわけではないが、ナチズムもコミュニズム(共産主義)も、そして「全体主義」も<西欧近代>から産まれたもので、あるいは<西欧近代>の矛盾・限界を解決するために発展的に生じてきたもので、いずれの根っこも<西欧近代>にあると言って過言ではないだろう。
 この点を佐伯は必ずしも明瞭には述べていないように見える。<西欧近代への懐疑>は、同時に、あるいはより強くコミュニズム(共産主義)に対して向けられるべきではないのだろうか。
 <西欧近代>への懐疑、<西欧近代>を基本的に継承した「アメリカニズム」に対する疑問・批判は鋭いし、傾聴すべきだろうが、中国または共産主義に対する疑問・批判が弱いのはいったい何故なのだろうと感じることがある。
 比べて中西輝政は、中国についても共産主義(コミンテルン等々)についても、とりわけ近年、多くのことを(批判的に)語ってきている。中身に言及しないが、読了している中西・迫りくる日中冷戦の時代-日本は大義の旗を掲げよ(PHP新書、2012)もその一つだ。
 もっとも、上で紹介したのは「法律」・「約束」等に対する「感覚」の相違についての文章なので一般化すると誤りになる可能性はあるが、日本文明は「西欧」文明により近く、「中国」文明とはより大きく異なる、と言えるのかどうかは、私自身はよく分からない。
 とりわけ、一般的に「日本と西欧がほぼ同じ」だとは断言できないと思われる。
 但し、明確なのは、現在において、アメリカと中国のどちらを選択すべきかと問われれば、躊躇いなく米国を選ぶべきだろう、ということだ。そのかぎりでは、基本的には反中・親米でなければならない。
 さらに言えば、日米の二国間の問題のみを視野に入れるとすれば、米国依存・米国従属をなくし日本の「自立」性を高めるべきで、そのかぎりでは、ある程度は<反米>でもなければならないことになろう。
 かりに明言していないとしても、現在において実質的にはアメリカに対するよりも中国に親近感を持っている人々・政党や、両国と<等距離>に接すべきと考えている人々・政党は、マスメディアも含めて、早く消滅してほしいものだ。

 文明論と現在の政策論とは同一であってはならないだろうが、混在を自認しつつ、駄文として書いておいた。 

1131/阪本昌成・憲法理論Ⅰ(成文堂)を少し読む。

 〇「ハイエキアン」と自称し、「マルクス主義憲法学者」は反省すべきだ、と指摘したことのある稀有の(現役の)憲法学者が、阪本昌成(1945-)だ。
 政治的・現実的な運動に関与することに積極的ではない人物なのだろうが、このような人を取り込み、論者の一人のできないところに、現在のわが国の<保守>論壇の非力・限界を見る思いがする。
 阪本の憲法理論Ⅰ・Ⅱ(前者の第二版は1997、後者は1993が各第一刷)は、多くの憲法学概説書と異なっているので司法試験受験者は読まないのだろうが、憲法学・法学を超えて、広く読まれてよい文献だろう。
 Ⅰ(第一版)の「序」で阪本昌成は次のようにも書く-「なかでも、H・ハートの法体系理論、F・ハイエクの自由と法の見方、L・ウィトゲンシュタインのルールの見方は、わたしに決定的な知的影響を与えた。本書の知的基盤となっているのは、彼らの思考である」。
 Ⅱの「序」では、こうも書いている-「F・ハイエクは、人びとの嫉妬心を『社会的正義』の名のもとで正当化し、かきたてる学問を嫌ったという。本書の執筆にあたっての基本姿勢は、ハイエクに学んだつもりである」。
 阪本昌成・憲法理論Ⅰ〔第二版〕(成文堂、1997)の特徴の一つは、ふつうの憲法学者・研究者がどのように考え、説明しているのかが明瞭ではないと思われる「国家」そのものへの言及が見られることだ。
 この書の第一部は「国家と憲法の基礎理論」で、その第一章は「国家とその法的把握」、第二章は「国家と法の理論」だ。こういう部分は、ほとんどの憲法学者による書物において見られないものだと思われる。
 〇上の第一章のうち、「第四節・国家の正当化論(なにゆえ各人が国家を承認し、国家に服従するのか)」(p.21-)から、さらに、「国家の正当化を問う理論」に関する部分のみを、要約的に紹介しておく(p.23-26)。
 歴史上、「国家正当化論」として、以下の諸説があった。  ①「宗教的・神学的基礎づけ」 (典型的には王権神授説)。  ②「実力説」。近くは国家を「本質的に被抑圧階級、被搾取階級を抑圧するための機関」と見るマルクスやエンゲルスの論に典型が見られ、G・イェリネックは、この説の実際的帰結は国家の基礎づけではなく、国家の破壊だと批判的に言及した。  ③「家父長説」。G・ヘーゲルが理想とした「人倫国家」論はこれにあたるが、絶対君主制を正当化する特殊な目的をもつものだった。
 ④「契約説」。国家形成への各人の「合意」のゆえに「その国家は正当」だとする「意思中心の理論」。ブラトンにも見られ、ホッブズははじめて「原子論的個人」を「国家」と対峙させた。これ以降の契約論は、「個々人の自由意思による合理的国家の成立」を説明すべく登場した。
 J・ロックは「意思の一致」→契約は遵守されるべき(規範)→「正当な服従義務」という公式を援用したが、曖昧さがあった。
 J・ルソーの「社会契約論」は、「政治的統一体の一般意思に各人の意思が含まれるがゆえに正当であり、各人は自己を強制するだけ」、「一般意思を脅威と感じる必要もない」、とする「楽観論」でもあり、「集団意思中心主義の理論」でもある。
 ルソーの議論は「正当な国家の成立」・「自由保障の必然性」を見事に説いたかのごとくだが、この「社会契約」は「服従契約」でもあった、すなわち市民(個人)は、「契約によって、共同体意思に参加するものの、同時に、臣民として共同体意思に服従する」。ルソーはこれをディレンマとは考えなかった。現実の統治は「一般意思」にではなく「多数」者によって決せられるが、彼は、個々の個人のそれと異なる見解の勝利につき、「わたしが一般意思と思っていたものが、実はそうではなかった、ということを、証明しているにすぎない」と答えるだけ(p.25)。実体のない「集団的意思」・「集団精神」の類の概念の使用は避けるべきなのだ。
 以上の諸説のうち今日まで影響力を持つのは「社会契約論」。この論は「合理的な国家のあり方」を説いた。  しかし、「一度の同意でなぜ人々を恒久的に拘束できるのか、という決定的な疑問が残されている」。  といった欠陥・疑問はあるが、「契約の主体が、主体であることをやめないで、さらに自らを客体となる、と説く」一見、見事な論理で、法思想史上の大きな貢献をした。「契約説は、新しい国民主権論と密接に結合することによって、国家存在の正当化理由、統治権限の淵源、その統治権限を制約する自然権等を、一つの仮説体系のなかで明らかにした」(p.26)。  これはノージックやロールズにも深い影響を与えている。「社会契約論」的思考は、「方法的個人主義」に依りつつ「個々人の意思を超えるルールや秩序」の生成淵源を解明しようとする。
 但し、これまでの「国家正当化論」は「抽象的形而上学的思索の産物」で、これによってしては「現実に存在する、または歴史的に存在してきた国家を全面的に正当化することは不可能である」。現実の国家が果たす「目的」によってのみ国家の存在は正当化される。かくして、「国家目的論」へと考察対象は移行する(p.26)。
 以下の叙述には機会があれば言及する。ともあれ、ルソー(らの)「社会契約論」によって(のみでは)「国家」成立・形成・存在を正当化しようとしていないことは間違いない。
 〇翻って考えるに、日本「国家」は、何ゆえに、何を根拠として、そもそもいつの時点で、形成されたのか?
 かりに大戦後に新しい日本「国家」が形成されたとして(いわゆる「非連続説」に立つとして)、そこにいかなる「社会契約」があったのか? この問題に1947年日本国憲法はどう関係してくるのか?
 外国(とくに欧米)産の種々の「理論」のみを参照して、日本に固有の問題の解決または説明を行うことはできないだろう、という至極当然と思われる感慨に再びたどり着く。

1128/丸山真男の1950年論考と現在の「左翼」・「保守」。

 丸山真男は「自由主義者への手紙」の中で、興味深くかつ重要なことを書いている。これは月刊・世界(岩波)の1950年9月号に発表された。アメリカ、GHQが日本の敗戦後当初と異なり、反共(反ソ)へと政策転換をした後の時期だ。丸山真男全集第4巻(1995)所収、p.313以下。
 丸山がいう「君」とは誰か判然としないが、一定の思想・評論の潮流なのだろう。その「君」は自分=丸山真男に対して次のような不満・批判を吐露・提出している、とまず丸山は述べる。
 「君や僕のようなリベラルな知識人」は「思想を否定する暴力に対して左右いずれを問わず積極的に闘うことが必要」で、そのためには「ファッショに対してと同様、左の全体主義たる共産主義に対しても画然たる一線をひいて」自分の主体的立場を堅持する必要がある。にもかかわらず、「僕みたいな…マルクス主義者ではなく、性格的にはむしろコチコチの『個人主義者』」が「現代の典型的な全体主義たる共産主義に対してもっと決然と闘わない」のは何故か(p.316)。
 同旨の疑問・批判は、より簡単には、次のようにも書かれている。
 「左右いかなる狂熱主義にも本能的に反発する」はずの僕=丸山が、「共産党に対して不当に寛容であるのはおかしい」(p.333)。
 これに対する丸山真男の回答・釈明・反論はこうだ。
 「日本のような社会の、現在の情況において、共産党が社会党と並んで、民主化…に果す役割を認めるから、これを権力で弾圧し、弱体化する方向こそ実質的に全体主義化の危険を包蔵することを強く指摘したい」(p.333)。
 共産党の日本社会の「民主化」への役割を認め、それに<寛容>であることによって、共産党を「弱体化」することによる「全体主義化の危険」を防止したい、と言うのだ。
 同趣旨のことは、「政治的プラグマティズムの立場に立てばこそ」として、次のようにも語られている。
 ①「下からの集団的暴力の危険性」と②「支配層が偽善的自己欺瞞から似非民主主義による実質的抑圧機構を強化する危険性」、および①「大衆の民主的解放が『過剰になって氾濫する』危険性」と②「それが月足らずで流産する危険性」とをそれぞれ比較して、「前者よりも後者を重しとする判断を下す」(p.333)。
 つまり、上の①よりも②の危険性の方を重視して、②の危険性の方を抑止したい(そのためには日本共産党に対して<寛容>であることが必要だ)というわけだ。
 この論考の発表当時、日本共産党は衆議院に35議席を有するなど勢力を拡張していたが、1950年1月にコミンフォルムによるその「平和革命」論批判(のちに分裂につながる)や同年6月のGHQによる共産党員等の公職追放(レッド・パージ)があった。
 のちの主流派による武力闘争まで丸山真男が支持したかどうかは確認しないが、日本共産党勢力が拡大し、かつ抑圧?を受けつつあったときに、この丸山真男論考は書かれている。
 そういう時代的背景はふまえておく必要があるが、興味深いのは、丸山真男のような<進歩的文化人>のかかる<容共>姿勢というのは、少なくとも日本共産党が「平和」路線(「人民的議会主義」路線)を明確に採って以降の、日本の<左翼>に特徴的な考え方または気分だ、ということだ。
 丸山真男は「民主化」に「しかり西欧的意味での民主化」という注記を施しているが、それはともあれ、丸山は「民主主義」(民主化)対「全体主義」という対立軸を設定している。「共産主義」が「左の全体主義」・「現代の典型的な全体主義」であることを否定していないようであることも目を惹くが、これとは区別されたものとして、日本社会の「全体主義化の危険」・「支配層が偽善的自己欺瞞から似非民主主義による実質的抑圧機構を強化する危険性」を語っている。
 「民主主義」対「全体主義」という軸設定は今日ではそのままではあまりなされてはいないかもしれない。しかし、後者に代わって、「(日本)軍国主義」とか「戦前のような日本」ということが言われ(ときには「偏狭な(排他的な)ナショナリズム」)、戦前のような社会を復活させるな、「民主主義」を守り、拡充させよう、という論調はしばしば見られる。
 それが「左翼」の主張であり、「何となく左翼(サヨク)」の気分だ。
 このような主張・気分は、丸山真男の上の文章に明確に示されているように、共産主義・日本共産党に対する「寛容」さを内包している。 
 共産主義・日本共産党に完全に同調しないとしても、それよりも「軍国主義」勢力・「保守反動」勢力の拡大による<戦前のような日本>の復活・「戦争ができる」国家の復活の危険を重視し、そのためには日本共産党と闘うどころか「共闘」することすら容認するのが「左翼」・「何となく左翼」だ。
 「左翼」の中核に日本共産党はいる。その周辺に、自覚的・意識ではないにしても、幅広く厚い<容共>層がいるのが、日本の「左翼」陣営の特徴だ。
 かつて自民党政権時代に、『家父長制と資本制―マルクス主義フェミニズム』(1990)というおそらく唯一の研究書を刊行した上野千鶴子は、マルクス主義者または親マルクス主義の立場の者だから当然だろうが、日本共産党を含む野党の対自民党統一戦線の結成を主張していた。
 上野千鶴子ほど明確にではないにしても、岩波や朝日新聞系の知識人・論壇人の中には、日本共産党よりも<保守>政党(従来だと自民党)を嫌う、共産党の力を借りてでも自民党政権を倒したいと考えていた者が多かった、と思われる。
 むろん、マスコミ従事者や一般国民においても<民主主義対全体主場(=保守反動)>という何となくのイメージを持っている者が多いから(それはかつての戦争の性格を含む歴史認識・それに関する教育に深く関係するがここでは触れない)、<反自民党>気分は一気に2009年の民主党内閣の成立に結びついた。
 日本共産党を批判したこともあり、そのゆえに日本共産党から攻撃されたこともある丸山真男だが、上のように、日本共産党を「民主主義」の側に位置づけ、<全体主義・軍国主義>傾向にむしろ重要な危険性を感じるという意識・気分(論者によってはイデオロギー)は、今日でもなお強く残存している。
 丸山真男とはまさに戦後進歩的知識人の代表者であり、「戦後左翼の祖」の一人と言ってよいだろう。
 上のような対立軸をかりに設定するとしても、共産主義・日本共産党を「民主主義」の側に位置づける、という馬鹿なことをやめ(させ)なければならない。
 むしろ、共産主義・日本共産党の「反民主性」・「反自由主義性」こそを強く、いや最大の対立軸として、主張し続けなければならない。
 そのような<反共>を最大・最重要の旗印として掲げるのが、私の理解する言葉の意味での<保守>だ
 こういう意味で<保守>概念が使われないとすれば、別に言葉ごときに拘泥はせず、「平等」教・「共産」教に対する<自由>主義と表現してもよい。
 ともかく、<容共か反共か>、これが今日の最大・最重要の対立軸だ、と考えられる。この対立軸の設定は、決して時代遅れ、あるいは決着済みのものでは全くない。
 この点が明瞭ではない論者、評論家、月刊雑誌等の論壇類は、「保守」概念をめぐっても含めて、混乱するか(あるいは混乱を持ち込むか)、少なくとも現在の日本と日本国民にとって適切な方向・指針を示すことができないだろう。
 

1092/佐伯啓思は「的確な処方箋を提示」しているか。

 隔月刊・表現者39号(ジョルダン、2011.11)に、佐伯啓思・現代文明論講義(ちくま新書)の書評が載っている。
 この本を概読したかもしれないが、きちんと憶えていない(憶えられるはずがない)。それはともかく、先崎彰容という1975年生まれの人物は書評の冒頭で、佐伯啓思の「作品の魅力」を次の二つにまとめている。
 一つに「『近代文明』が抱える問題を、その根本にまで遡り解明しようとすること」、二つに「その原理的・根本的な問題意識を携え、現代日本の政治・経済・文化にたいして的確な処方箋を提示しようとする姿勢」(p.175)。
 上の第一点にはほとんど異論はない。そのとおりで、「近代(文明)」を懐疑して、批判的に分析した諸業績(「反西洋」かつ「反左翼」の主張を含んでいるはずだ)は大いに参考になると思われる。
 だが、上の第二は「仲間褒め」の類で、いかに年配者への敬老?精神によるとしても、とても納得できない。
 なるほど「提示しようとする姿勢」が全くないとは言えないが、「現代日本の政治・経済・文化にたいして的確な処方箋を提示」してきたとはとても思えない。
 佐伯啓思は所詮は(といっても侮蔑しているわけではない)「思想家」なのであり、多様な「現代日本の政治・経済・文化」の諸問題を論じているわけではないし、ごく一部を除いて、「的確な処方箋を提示」などはしていない、と思われる。
 憲法改正の方向を論じたことはないだろうし、そもそもが現在の改憲論議に言及することさえほとんどないだろう。<少子化問題>への処方箋を示してはいないし、これと無関係とは思われない<フェミニズム>に論及したことも、ほとんどなかったと思われる。
 「現代日本の政治・経済・文化にたいして的確な処方箋を提示しようとする姿勢」がそもそもあるのかどうか自体を、私は疑問視している。そして、お得意の経済(政策・思想)問題を除けば、佐伯啓思が「現代」について「的確な処方箋を提示」しているとは言えないのではなかろうか。橋下徹警戒論もその一つだ。
 一人の人間にできることには限界がある。怜悧な「思想家」に多様な現代問題を的確に論じることは期待しない方がよいだろう。
 但し、「思想家」としての佐伯啓思に完全に満足し、その主張内容にすべて納得しているわけではない。別の回に、いずれ書くだろう。

1091/西部邁・佐伯啓思グループとは何者たちか?

 前回に、<西部邁・佐伯啓思グループ>または<(隔月刊)表現者グループ>について、「民族的左翼」、もしくは「合理主義的(近代主義的)保守」とでもいうような(同人誌的)カッコつき「思想家集団」であって…という疑念を捨て切れない、と書いた。
 分かりにくい、矛盾もしていそうな形容表現だが、示唆を得た叙述は、西部邁や佐伯啓思らを念頭に置いたものでは全くないものの、竹内洋・革新幻想の戦後史(中央公論新社、2011)の中にあった。一度は雑誌連載で読んでいたはずのものを、単行本で先月末あたりに読み終えていたのだ。
 竹内洋はおおむね1970年代(ないし1960年代半ば)以降の思想潮流に論及して、「左翼」側の<構造改革>論(江田三郎ら)、「保守」側の「モダニズム保守」または「ニューライト」の登場を語る。そして、後者に関して「マルクス主義と切断された進歩の思想である近代化論」の台頭が背景にあるとする。
 面白く感じたのは、上のことに触れつつ、「保守と革新の変容」と題する<図>(チャート)を示している、その内容だ(p.502)。
 それによると、思想潮流は「左派」対「右派」というかたちで(ヨコ軸で)示される対立のほかに、「近代主義」対「伝統主義」というタテ軸で示される対立もある。二つの軸によって四つの象限ができるが、竹内は左上の「左派・近代主義」を<構造改革派>にあて、右下の「右派・伝統主義」を「オールドライト」と総称する。さらに、以下が興味深いのだが、左下の「左派・伝統主義」を「土着主義左翼」とし、右上の「右派・近代主義」に<ニューライト>をあてている。
 西部邁・佐伯啓思グループとはいったいいかなる性格の、あるいはいかに位置づけられるべきグループなのかという関心をもっていたときに上の図・表を見たために、はたして西部邁・佐伯啓思らはどこに位置するのだろうと考えてしまった。
 反復するが、竹内洋は戦後「進歩的文化人」や近年の「幻想としての大衆」について語ることを主眼としていて、西部邁らに言及しているのではまったくない。
 だが、西部邁や佐伯啓思らは<強いていうと>、竹内のいう後二者の「土着主義左翼」か「ニューライト」に該当するのではないかと感じたのだった。
 「左派」と「右派」はそれぞれ、伝統的にいう「革新」または「左翼」と「保守」または「右翼」に相応するものと理解してよいだろう。この対立に加えて、竹内は<近代主義X伝統主義>という対立軸を加味して理解しようしているのだ。
 さて、西部邁・佐伯啓思グループは、反米を強調し、そのかぎりで「日本的なもの」または「民族性」を強調することになっている点では竹内のいう「伝統主義」の側に立っている、とも言える。
 佐伯啓思は「日本の愛国心」や「日本という価値」を論じており、かつ欧米流「近代」主義をかなり厳しく批判(または批判的に分析)してもいるのだ。竹内は「土着主義左翼」と称しているが、これを少し表現し直したのが、前回に使った、私の「民族的左翼」という言葉だった。<反米>は「保守」のようでもあるが、「左翼」でもありうる。
 日本共産党ら「左翼」も、ある意味では、むろん<反米>だ。
 それに、西部邁らの論考や発言には「左翼」臭を感じることがある。二つだけ、例を挙げておこう。
 ①西部邁=佐伯啓思=富岡幸一郎編・「文明」の宿命(NTT出版、2012)の富岡の「はじめに」が、共産主義・コミュニズム批判を見事に欠落させて「現代文明」を語っていることはすでにこの欄で触れた。
 それとともに、中島岳志や藤井聡も執筆しているこの本では、「現代文明の全般的危機」が一つのキーワードになっていて、西部邁の論考はこれを一節のタイトル(見出し)にまでしている(p.25)。しかして、「…の全般的危機」とは、どこかで聞いたことがあるような、「左翼」またはマルクス主義用語なのだ。
 詳細は知らないが、マルクスらは「資本主義の全般的危機」という用語または概念を使ってきた。現在の日本共産党はこれをそのままでは採用していないようだが、ともあれ「資本主義の全般的危機」とは<左翼>用語だ(った)。
 西部邁らが好んで?用いている「現代文明の全般的危機」とはマルクス主義的な「資本主義の全般的危機」概念・論の影響を受けたものであり、かつ少なくとも部分的には、マルクス主義によるこれに関する議論を参照し、または取り込んだものではないだろうか。
 ②西部邁=佐伯啓思編・危機の思想(NTT出版、2011)の中の西部邁の序論には、「反左翼メディア」あるいは「反左翼人士たち」を批判または揶揄する部分がある(例、p.27、p.36)。その内容には立ち入らないが、「反左翼」を批判・揶揄するということは、常識的または通常の理解からすれば、自らは「反左翼」の立場にいることを表明または示唆しているとも理解できる。
 むろん、西部邁は「私どもの保守思想」とも言っていて(はじめにp.4)、上の意味するところは、その他大勢のエセ「反左翼」=「保守」とは違って、自分たちこそが「真の(本来の)保守」だ、ということなのではあろう。
 だが、その他大勢の?多数派的「保守」とは自分たちは違うのだ、と自分たちを位置づけていることはほとんど間違いはない。
 このことは、多数派的?「保守」からすれば、西部邁らを自分たちとは異なる「左翼」(の少なくとも一派)だと論定しても一概に批判されることではないと、第三者的読み手からすれば、なるだろう。
 要するに、「保守」だとかりにしても、じつに奇妙な、不思議な「保守」であるのだ。
 とりあえず二点挙げただけだが、この西部邁・佐伯啓思グループが、反共・反中国・反北朝鮮の主張を全くかほとんどしていない、コミュニズムや中国等に対して「甘い」、ということは、これまでに何度か指摘してきた。
 さらに叙述し続け、「ニューライト」または私の使った「合理主義的(近代主義的)保守」とも位置づけられるのではないか、という点に及ぶつもりだったが、長くなったので、ここで切る。後者は、「理性主義的=反情緒的保守」、と称してもよいかもしれない。西部邁・佐伯啓思グループには、こうした面もあるようだ。別の回に述べる。

1078/西部邁=佐伯啓思ら編・「文明」の宿命(2012)の富岡幸一郎「はじめに」。

 西部邁=佐伯啓思=富岡幸一郎編・「文明」の宿命(NTT出版、2012.01)の、富岡幸一郎による「はじめに」だけを読了。
 中身についてものちに触れるかもしれないが、著者9人の一人は「雑菌」の中島岳志なので、読者はこの本がまともな「保守」主義による議論・論考をまとめたものだと誤解しない方がよい、と思われる。
 富岡による「はじめに」の前半は、素直に納得しながら読める。
 すでに一九世紀末・第一次大戦前に「西洋の没落」(シュペングラー)は語られていたのであり、「西洋近代を形成してきた進歩史観への警鐘」も発せられていた(はじめにp.2)。
 以下は私の言葉だが、しかるに、日本国憲法は<欧州近代>所産の法思想を疑問がないものとして、アメリカ独立宣言・フランス人権宣言等に遡及可能なものとして、継受してしまった。日本国憲法97条はつぎのように定めるのだが、私はこのような「お説教」を読んで、いつも苦笑を禁じ得ない。日本の今の憲法学者はどうなのかは知らないが。
 「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」

 富岡の文章に戻ると、こう述べられている。
 現代の「文明」社会を深く覆うのは「ニヒリズム」で、すでに一九世紀末にニーチェが語ったものだ。それによると、「人々が生きる意味と目標を失い、よるべない虚無の淵に立たされる危機」のことで、あるいは、<宗教・道徳・理性・精神といった価値が無意味なものと化してしまったあとに出現する「最も気味のわるいもの」>だ(はじめにp.3-4)。
 このあたりまではよいのだが、その後の富岡の叙述には大きな疑問を持たざるをえない。
 富岡は、そのような「最も気味のわるいもの」が二〇世紀以降に生みだしたものを、あれこれと列挙している。まず単語だけを取り出しておこう。
 ・第一次大戦という「全面戦争」、科学技術による大量殺戮兵器、欧州の「血の地獄」化、世界恐慌から第二次大戦へ、核エネルギーの使用(はじめにp.5)
 続いて次のように所産または結果を述べている。
 ・「一九八〇年代後半からの冷戦崩壊によって社会主義体制はついえ去り、資本主義はそのまま生き延び」、九〇年代以降はアメリカ中心の「強欲ともカジノ的ともいわれる金融資本主義へと展開された」(はじめにp.6)。
 ・ニーチェのリヒリズムは二〇世紀には「大量殺戮の悲劇」を生み、二一世紀の今日では「…資本主義のテーモンに体現されている」(p.6)。
 このような時代または「文明」史の叙述には―一瞬はすらっと読んでしまいそうだが―、疑問を禁じ得ない。
 細かなことを言えば、二つの大戦の「外的要因」は「帝国主義の政策による衝突」で「内的要因」は「世界恐慌という経済的危機」だったという叙述(上では省略。はじめにp.6)は教科書的・通俗的で、はたしてこんな理解でよいのか、と感じさせる。これは、「左翼」の描く歴史とまったく同じなのではないか。それに、第二次大戦の前のロシア革命・社会主義ソビエトの成立とその影響にはまったく!言及がないのだ。
 「社会主義」の無視・軽視、これこそが富岡の文章の致命的な欠陥だと思われる。
 富岡は八〇年代後半以降に「社会主義体制はついえ去り」と平気で書き、その前に「冷戦崩壊によって」と簡単に書いてしまっている。だが、冷戦は終わっていない、あるいは新しい冷戦にとって代わっている。また、そもそも、「社会主義体制はついえ去」っていないどころか、この東アジアにおいて、中国、北朝鮮等というれっきとした「社会主義」国家はあるではないか(両国の共産党・労働党の大会において誰の肖像画・写真が大きく掲げられているかを思い出すがよい)。

 また、この日本の現実の中に「社会主義」の(「体制」ではなくとも)<思想>は脈々と残存し続けている。
 富岡幸一郎の書いてきた文章をいっさい否定するつもりはないが、上の点はあまりにヒドい、と思われる。いったい、この人は何を考えているのか?
 さらには、上にも関連するが、富岡によると、現下の最大の「文明」問題は、「資本主義のデーモン」であるようだ。しかし、現在の資本主義に問題がないとは言わないが、アメリカ中心の「強欲ともカジノ的ともいわれる金融資本主義」を批判すること、そのようなものを「現代文明の全般的危機」として把握することともに、あるいはそれ以上に、覇権主義・軍国主義を伴う「社会主義」国家が現存し、かつ「社会主義」イデオロギーが(日本においてこそ顕著に)残存し続けていることを、きちんと、そして深刻に「現代文明」の重要な問題と把握すべきだ。
 このような「社会主義」に対する<甘さ>は、「大量殺戮(の悲劇)」に関する富岡の理解の仕方にも表れている。富岡は明らかに、これを近現代の「科学技術」の所産として(第一次大戦との関係で)語っている。
 しかし、富岡は知らないのだろうか。両大戦の死者(大量殺戮の被害者)の数よりも、ソビエト連邦や共産主義・中国等々における革命・内戦・「粛清」の犠牲者の数の方が多いのだ。
 「大量殺戮(の悲劇)」という語を使いながら、コミュニズムの犠牲者(大量殺戮被害者)をまったく思い浮かべていないようであるのは、少なくとも<保守>派の論者としては、致命的な欠陥がある、と考えざるをえない。
 佐伯啓思や西部邁について、<反米・自立>を説くのはよいが、<反共>または「反中国」の姿勢・文章をもっと示して欲しい旨を書いたことが何回かある。
 西部邁・佐伯啓思グループの一人のようである富岡幸一郎にも、同じような弊があるようだ。

1075/東谷暁・南木隆治・遠藤浩一と橋下徹。

 〇東谷暁は月刊正論2月号(産経)の連載「論壇時評」で、2頁を使って、橋下徹を批判している、または、警戒視している(p.196-)。後半は産経新聞に書いていたのと同じ内容で、<一粒で二度おいしい>(同じことを書いて2回原稿料を稼ぐ)とはこのことを言うのだろう。
 橋下徹を無条件に支持はしないし、彼の勝利はある程度は一種の「ポピュリズム」の結果だとも思うが(なお、対立候補も民放のローカルニュース・キャスターの経歴を持っていた)、有権者は、当選者が一人の場合、候補者が2人の場合は<どちらがよりましか>で、3人以上の場合は<いずれが最もましか>で判断せざるをえない。
 当選者を批判するのはよいが、では対立候補(大阪市の場合は平松某)が当選した方がよかったのか、対立候補だった者(平松某)についてはどう評価し、論評するのか、と東谷暁には問いたいものだ。

 〇同じ月刊正論2月号の南木隆治「橋下前知事が教育改革で見せた凄み」の中に、―この論考全般への言及は省略する―興味深い記述がある。
 ほとんど報道されていないと思うが、これによると、橋下徹は知事辞任直前の2011年10月20日に、「大阪護国神社秋季例大祭」に「公式参拝」している(p.77)。
 福岡政行は隔週刊・サピオ1/11・18号で「次の次の」総選挙に橋下徹は出馬して「橋下政権」が「誕生する可能性さえある」という(p.34)。こんな予測のが当たるかどうかは全く不明だが、万が一(?)橋下徹が首相になったとすれば、この人物は靖国神社「公式参拝」をするのではないか。
 〇再び月刊正論2月号に戻ると、遠藤浩一「維新前夜―英雄の条件」は、次のように橋下徹に言及している。
 「口が達者らしいことを除いて橋下氏について判断材料を持ち合わせていない小生としては、英雄に大化けするかの判断は留保」する(p.55)。
 <英雄に大化け>するかどうかは「英雄」の意味も含めてこの欄の筆者にも分からないが、橋下徹について「口が達者らしいこと」しか知らないとは、(政治)評論家としてはお粗末だろう。但し、おそらくはそれ以上の知識は持ちつつも、(櫻井よしこと同様に?)評価を「逃げて」いる、という方が正確だろう。

 判断材料が乏しいのはこれまでの橋下の経歴からしても仕方がなく、従って確定的な評価をし難いのはやむをえない、とは言える。天皇・憲法(九条)・防衛(・中国)等について、橋下徹は明言したことがないのは確かだ。
 だが、かなりの程度の想像はできる。例えば、朝鮮学校無償化に反対する動きを迅速に見せたのも自治体首長の中では橋下徹だった。上の「護国神社」参拝も一つの材料にはなるだろう。

1019/西尾幹二による樋口陽一批判②。

 前回のつづき。西尾幹二は、「ルソー=ジャコバン型モデルの意義を、そのもたらす痛みとともに追体験することの方が重要」という部分を含む樋口陽一の文章を20行近く引用したあと次のように批判する。
 ・「まずフランスを上位に据えて、ドイツ、日本の順に上から序列づける図式的思考の典型例」が認められる。「後進国」ドイツ・日本の「劣等感」に根拠があるかのようだった「革命待望の時代にだけ有効な立論」だ。革命は社会の進歩に逆行するという実例は、ロシア・中国で繰り返されたのだ(p.73-74)。
 ・中間団体・共同体を破壊して「個人を…裸の無防備の状態」にしたのが革命の成果だと樋口陽一は考えているが、中間団体・共同体の中には教会も含まれる。そして、王制だけではなく「カトリック教会」をも敵視した「ルソー=ジャコバン型」国家は西欧での「一般的な歴史展開」ではなく、フランスに「独自の展開、一つの特殊で、例外的な現象」だ。イエ・家族を中間団体として敵視するフランス的近代立憲主義は「日本の伝統文化と…不一致」だ(p.74-75)。
 ・日本では「現に樋口陽一氏のようなフランス一辺倒の硬直した頭脳が、国の大元をなす憲法学の中心に座を占め、若い人を動かしつづけている」。「樋口氏の弟子たちが裁判官になり、法制局に入り、…などなどと考えると、…背筋が寒くなる思いがする」(p.75)。
 ・オウム真理教の出現した戦後50年めの椿事は、「『個人』だの『自由』だのに対し無警戒だった戦後文化の行き着いた到達点」で、「解放」を過激に求めつづけた「進歩的憲法学者に煽動の責任がまったくなかったとは言いきれまい」。「解放と自由」は異なる。何ものかへの「帰依」なくして「自我」は成立せず、「信従」なくして「個性」も芽生えない。「共同体」をいっさい壊せば、人間は「贋物の共同体に支配される」(p.75)。
 ・「樋口氏の著作」を読んでいると、「社会を徹底的に『個人』に分解し、アトム化し、その意志をどこまでも追求していく結果、従来の価値規範や秩序と矛盾対立の関係が生じた場合に、『個人』の意志に抑制を求めるのではなく、逆に従来の価値規範や秩序の側に変革を求めるという方向性」が明確だ。「分解され、アトムと化した『個人』の意志をどこまでも絶対視する」結果、「『個人』はさらに分解され、ばらばらのエゴの不毛な集積体と化する」(p.75-76)。
 ・「『個人』の無限の解放は一転して全体主義に変わりかねない。それが現代である。ロベスピエールは現代ではスターリンになる可能性の方が高い」。実際とは異なり「概念操作だけはフランス的で…『個人』を無理やり演出させられていく」ならば、東北アジア人としての「実際の生き方の後ろめたさが陰にこもり、実際が正しければ正しいほど矛盾が大きくなる」、というのが日本の現実のようだ(p.76)。
 以上。法学部出身者または法学者ではない<保守>論客が、特定の「進歩的」憲法学者の議論(の一部)を正面から批判した、珍しいと思われる例として、紹介した。  樋口陽一らの説く「個人主義」こそが、個々の日本人を「ばらばらのエゴの不毛な集積体」にしつつある(またはほんどそうなっている)のではないか。
 本来は、このような批判的分析・検討は、樋口陽一に対してのみならず、古くは宮沢俊義や、新しくは辻村みよ子・浦部法穂や長谷部恭男らの憲法学者の議論・主張に対して、八木秀次・西修・百地章らの憲法学者によってこそ詳細になされるべきものだ。「国の大元をなす憲法学の中心」が<左翼>によって占められ続けているという現実を(そしてむろんその影響はたんに憲法アカデミズム内に限られはしないことを)、そして有効かつ適切な対抗が十分にはできていないことを、少数派に属する<保守>は深刻に受けとめなければならない。

1018/西尾幹二による樋口陽一批判①。

 一 フランス革命やフランス1793年憲法(・ロベスピエール)、さらにはルソーについてはすでに何度か触れた。また、フランスの「ルソー=ジャコバン主義」を称揚して「一九八九年の日本社会にとっては、二世紀前に、中間団体をしつこいまでに敵視しながらいわば力ずくで『個人』をつかみ出したルソー=ジャコバン型個人主義の意義を、そのもたらす痛みとともに追体験することの方が、重要なのではないだろうか」(自由と国家p.170)とまで主張する樋口陽一(前東京大学・憲法学)の著書を複数読んで、2008年に、この欄で批判的にとり上げたこともある。以下は、その一部だ。
 ・「憲法学者・樋口陽一はデマゴーグ・たぶんその1」
 ・「樋口陽一のデマ2+……」

 ・「憲法デマゴーグ・樋口陽一-その3・個人主義と『家族解体』論」
 ・「樋口陽一のデマ4-『社会主義』は『必要不可欠の貢献』をした」
 ・「憲法学者・樋口陽一の究極のデマ-その6・思想としての『個人』・『個人主義』・『個人の自由』」
 二 西尾幹二全集が今秋から刊行されるらしい。たぶん全巻購入するだろう。
 西尾『皇太子さまへのご忠言』以外はできるだけ西尾の本を購入していたが、西尾幹二『自由の恐怖―宗教から全体主義へ』(文藝春秋、1995)は今年になってから入手した。
 上の本のⅠの二つ目の論考(初出、諸君!1995年10月号)の中に、ほぼ7頁にわたって、樋口陽一批判があることに気づいた(既読だったとすれば、思い出した)。西尾は樋口陽一の『自由と国家』・『憲法』・『近代国民国家の憲法構造』を明記したうえで、以下のように批判している。ほとんど全く異論のないものだ。以下、要約的引用。
 ・「善かれ悪しかれ日本は西欧化されていて、国の基本をきめる憲法は…西欧産、というより西欧のなにかの模造品」だ。法学部学生は「西欧の法学を理想として学んだ教授に学んで、…日本人の生き方の西欧に照らしての不足や欠陥を今でもしきりに教えこまれている。……西欧人に比べて日本人の『個』はまだ不十分で…たち遅れている、といった三十年前に死滅したはずの進歩派の童話を繰り返し、繰り返しリフレインのように耳に注ぎこまれている」(p.70)。
 ・「例えば憲法学者樋口陽一氏にみられる…偏光レンズが『信教の自由』の憲法解釈…などに影響を及ぼすことなしとしないと予想し、私は憂慮する」(同上)。
 ・「樋口氏の文章は難解で読みにくく…符丁や隠語を散りばめた閉鎖的世界で、いくつかの未証明の独断のうえに成り立っている。それでも私は……など〔上記3著-秋月〕、氏の著作を理解しよう」とし、「いくつかの独断の存在に気がついた」(p.71)。
 ・「『日本はまだ市民革命が済んでいない』がその一つ」だ。樋口によると、「日本では『個人』がまだ十分に析出されていない」。「近代立憲主義を確立していくうえで、日本は『個人』の成立を阻むイエとか小家族とか会社とか…があって、今日でもまだ立ち遅れの著しい第一段階にある」。一方、「フランス革命が切り拓いたジャコバン主義的観念は『個人』の成立を妨げるあらゆる中間団体・共同体を否定して、個人と国家の二極のみから成る『ルソー=ジャコバン型』国家を生み出す基礎となった」。近代立憲主義の前提にはかかる「徹底した個人主義」があり、それを革命が示した点に「近代史における『フランスの典型性』」がある。―というようなことを大筋で述べているが、「もとよりこれも未証明の独断である。というより、マルクス主義の退潮以後すっかり信憑性を失った革命観の一つだと思う」(同上)。
 ・フランス本国で「ルソー=ジャコバン型」国家なる概念をどの程度フランス人が理想としているか、「私にははなはだ疑わしい」。「ジャコバン党は敬愛されていない。ロベスピエールの子孫の一族が一族の名を隠して生きたという国だ」。ロベスピエールはスターリンの「先駆」だとする歴史学説も「あると聞く」。それに「市民革命」経ずして「個人」析出不能だとすれば、「革命」を経た数カ国以外に永遠に「個人」が析出される国は出ないだろう。「樋口氏の期待するような革命は二度と起こらないからである」。「市民革命を夢みる時代は終わったのだ」(p.71-72)。
 ・樋口陽一の専門的議論に付き合うつもりはない。だが、「どんな専門的文章にも素人が読んで直覚的に分ることがある。氏の立論は…今述べた二、三の独断のうえに成り立っていて」、その前提を信頼しないで取り払ってしまえば、「立論全体が総崩れになるような性格のもの」だ(p.72)。
 ・樋口陽一「氏を支えているのは学問ではなく、フランス革命に対する単なる信仰である」(同上)。
 まだあるが、長くなったので、別の回に続ける。  

1011/佐伯啓思のリスボン大地震・カント・「近代」への言及を受けて。

 佐伯啓思が1775年にリスボンで大地震があり、カントが影響を受けて著書まで書いた〔『美と崇高の感情の観察』→『判断力批判』)、ということを初めて記したのはおそらく新潮45(新潮社)5月号だ(p.231-)。最近の表現者37号(ジョルダン、2011.07)の座談会「文明内部の危機」でも、同旨のことが語られている(p.39-)。
 佐伯によると、ヴォルテールはアウグスティヌスやライプニッツの<神の創造した世界は最善>とかの「神学的」世界観を疑う契機とした。また、カントは、壮大な自然現象の恐怖・脅威を人間は理性と構想力で克服しようとし、そのような人間は「人格性」をもち、かつ「崇高」だ、と論じた。これは「近代的な理性中心の発想」に連なるもので、「ちょっと極端にいえば」、「リスボン大地震を一つのきっかけ」にして「自然を人間がコントロールできる」、そこに人間の「素晴らしさ、崇高さがある、という近代的なヒューマニズムのようなものが力を得てくる」。要するに、リスボン大地震はそういう(「近代」に向けての)「大きな価値観の転換をもたらした」。そして、佐伯啓思によると、今回の日本の大震災は、かかる「近代的な考え方」が限界を迎えたことを意味する、という(表現者37号p.40)。また、新潮45の5月号では、カントのような欧州近代(またはそれを用意した欧州啓蒙主義)の自然観とは異なるものとして、宮沢賢治の詩に見られる(日本の)自然観・死生観に言及している(p.234-)。
 なかなか興味深いし、別のどこかで誰かが、ルソーの人間不平等起源論の「自然に帰れ」との反文明観の吐露もリスボン大地震の影響があったと書いていたこともついでに思い出す。
 だがむろん、完全に釈然としているわけではない。ヴォルテールとカントだけを持ち出して、「欧州近代」へのリスボン大地震の影響は論証できるのだろうか、という疑問がある。「一つのきっかけ」程度で、リスボン大地震の影響を過大評価してはいけないとの議論もできそうだ。
 また、自然災害を前にして自然と闘おうとする欧米(西洋)「近代」思想と、自然と「共生」しようとする日本的自然観・死生観との対比も上の佐伯啓思の論調には見られるようだが、そもそも「自然」環境そのものが、欧州と日本では異なる、ということが出発点なのではないか、という気もする。すなわち、自然観・死生観が異なるから大地震等々の「自然」現象への対処・対応が異なるのではなく、逆に「自然」環境が異質だからこそ、欧州と日本では自然観・死生観も異なるに至ったのではないだろうか。
 1775年といえば明治維新から100年近く前の江戸時代・安永年間。その頃以降も日本ではいくたびも大地震・津波を経験したのだが、欧州については1775年の大地震まで遡らなければならないということ自体に、自然<大災害>の多寡が示されているようにも見える。
 地域によって違うだろうが、土地の肥沃度では日本の方が総じて豊かなような気もする。しかし、地震、津波、台風といった自然現象による災禍は、古代からして欧州よりも日本の方がはるかに多く、そこから、日本(・日本人)には欧州とは異なる独自の自然観・死生観が育まれてきたのではないだろうか。
 というようなことを考えていると、なかなかに面白い。

0999/アメリカ建国の理念とは-佐々木類(産経新聞)・佐伯啓思・中川八洋における。

 一 A 産経新聞アメリカ支局長・佐々木類は産経1/16付紙面で、「同盟深化に米建国の理念理解を」と題して、米国での銃規制の困難さにも関連させて、こう書いていた。

 「書生っぽいことをいえば、ロックが1676年に『統治二論』で著した社会契約説が、100年後に米国建国という形で具体的な姿を現した。ロックは、人間が自分を守る権利と労働の結果生まれた私有財産は人民の契約に基づいて国家が作られる前からあった『自然権』だとし、国家権力がこれに干渉してはならないと定義した。/この精神を引き継いだ英国の植民地人、つまり、米国人らが、自分たちの意向を無視して証書や新聞などに印紙を貼らす印紙税や茶に課税する英国に対し、『代表なくして課税なし』と立ち上がり、独立戦争に突き進んだのである」。
 B 佐伯啓思・日本という「価値」(NTT出版、2010)は、「アメリカの建国の精神」について、こう書く。

 ・「ジェファーソンの『独立宣言』に見られるように、「生命」「自由」「幸福の追求」を万人に平等に与えられた普遍的価値とみなしている」。
 ・「このアメリカ建国の精神である、強くて自由な個人、民主主義、個人の能力主義と競争原理などの価値へと『復帰』することは、アメリカにおいては『保守主義』ということになる」。
 ・「これは本来のイギリス流の保守主義とかなり異なっている。……アメリカ独立が…イギリスの伝統的国家体制への反逆であり、王権からの分離独立であることに留意すれば、アメリカの建国それ自体が、イギリスからすれば自由主義的な革新的運動であった」。アメリカ建国には「進歩主義」の理念が色濃く、「アメリカ流保守主義」は「いささか倒錯的なことに」すでに「『進歩主義』に染め上げられている」(p.188-9)。
 C 中川八洋・民主党大不況(清流出版、2010)は、「米国の建国」について、つぎのように言及する。

 ・「サッチャー保守主義の原点」にはバークがあるが、その基底で「ヴィクトリア女王時代の栄光の大英帝国」を崇敬していた。これは、「ジョージ・ワシントンやアレクザンダー・ハミルトンが米国の建国に当たって、エリザベス女王時代の…あとの頃一六〇〇年代初頭の…古き英国をイメージして、理想の新生国家・米国を建設したのと似ている」(p.233)。
 二 さて、米国建設の理念・イメージがかくも異なって叙述されることにまずは止目されるべきだろう。

 中川八洋はアメリカの対英「独立」の理念と一三州統合しての「建国」の理念とは区別すべしと別の著で説いており、上で挙げるハミルトンらは英国「保守主義」と基本的に異ならない「建国」の理念提示者として叙述されていると見られる。

 これに対して佐伯啓思はジェファーソンの名を挙げて対英「独立」の理念に着目しているようだ。

 かかる違いはあるとはいえ、基本的に英国「保守主義」を継承したと捉える中川と、米国の「保守主義」は英国のそれから見ると「進歩主義」だとの見解を示す佐伯啓思とは、やはり同じことを述べているとは、同様に理解されているとは、理解できない。

 アメリカ「建国」の理念も、論者により、あるいは論じられる脈絡との関係により、異なって語られうることは、知的関心を惹く、興味深いことだ。これは、アメリカを理解するうえで、そして<日米同盟>を語る場合の、決して「知的」関心の対象にとどまらない問題でもあろう。

 これに対して、佐々木類の「書生っぽい」叙述は、上の二人の学者とはやはり異なり、通俗的だ。要するに、<欧米近代>を一色で見ている。英米の違いはもちろんのこと、英・仏間にある大きな違いを見ることもしていない。ロックの「社会契約説」を挙げていることからすると、米国独立戦争前のルソーの『社会契約論』(1762)も、米国の国家理念と矛盾していないと理解されているのだろう。

 怖ろしいのは、「書生っぽい」、あるいは高校の社会科教科書を真面目に勉強したような<欧州近代>の理解でもって、欧米諸国(の建国理念・歴史等)を単純に捉えてしまうことだと思われる。

 そこには、今日ではすでに自国ですら疑念が提起されている、かつての通説的な「フランス革命」の(美化的)理解を疑いもしない、かつての「書生っぽい」認識も含まれる。ルソーもフランス革命も、さらには<欧州近代>(ロックを含む)そのものも、日本の<保守派>ならば「懐疑」の対象にしなければならないのではないか。
 ちなみに、中川八洋に全面的に賛同するつもりはないし、評価する資格もないが、中川によるとロックはホッブズ(中川のいう有害な思想家)の影響を強く受けており、ハイエクは英国名誉革命に関するヒュームとロックの議論を対比してヒューム(中川のいう有益な思想家)に軍配を上げた、という。またヒュームは(中川も)ロック、ルソーの「社会契約説」に批判的だ(下掲書p.320-1)。但し、全体としては、中川八洋は、ロックを、モンテスキュー、パスカル、ショーペンハウエル、カントとともに(いずれかに傾斜しているとしつつも)「有益」、「有害」それぞれ31名の思想家リスト(p.384-5)の中には含めず、「双方の中間」と位置づけている(中川八洋・保守主義の哲学(PHP、2004)p.388)。

0998/民主党・長妻昭の「無能」さと中川八洋による「子ども手当」批判。

 〇桝添要一は半年ほど前のテレビ番組で、長妻昭(民主党・前厚労大臣)を「無能です」と一口で切って捨てていた。

 長妻昭が大臣時代に、年金切替忘れの専業主婦を「救済」する方針が決定され、課長「通達(通知)」でもって今年から実施された。

 近日において、民主党内閣(細川厚労大臣)はこれを「違法」ではないが「不適切」だったとし、当該課長を官房付に「更迭」したと伝えられる。

 長妻昭は課長「通達」で済ますことの問題性を何ら認識していなかったようだ。ほとんど誰もその点を問題にしなかった旨を他人事のように述べていた。当該課長が「更迭」されるという<行政>的責任をとったとすれば、大臣だった長妻はどう<政治的>責任をとるつもりか?

 日本経済新聞の政治・行政担当の記者の経験もあるらしい長妻昭は、やはり「無能」なのではないか。かつて政治・行政担当の新聞記者であっても、法律によるべきかかそれとも「通達」によってもよいか、という問題意識すらなかったようなのだから、行政担当の政治家としては「無能」と断言してよい。長妻に期待を寄せていた者もいるのだろうが、そのような人々も「無能」なのだろう。かつての新聞記者というのはこの程度だ(という者も多い)、ということもよく分かる。
 「違法」か「不適切」かはじつは重大な違いがある。特定範囲の在日外国人に対しても日本国民(国籍保持者)と同様の生活保護措置が執られることは、関係公務員(自治体も当然に含む)なら誰でも知っているだろうが、自民党内閣時代からの、古い、<生活保護法を……に準用する>旨の一片の「通達(通知)」にもとづいているにすぎない。このような例も含めて、国会では、法律によるべきかかそれとも「通達」によってもよいかを論議してほしいものだ。

 〇上の「救済」策は、忘却した直接の当事者に対しては、一種の「バラまき」にあたる。

 民主党は少子化対策とか景気浮揚の経済政策とか言っているようだが、<子ども手当>施策には「バラまき」との批判も強い。

 だが、「バラまき」福祉という批判だけではこの施策の本質を見抜いていない、という重要な指摘を中川八洋はしている(中川に限らないだろうが、ここでは中川の文章をとり挙げる)。中川八洋・民主党大不況(清流出版、2010)によると、以下のとおり。

 ・「子ども手当」等の「子育て」支援はマルクス=エンゲルス『共産党宣言』(1848)を教典とするカルト信仰からの思いつきで、「日本人から家族をとりあげ『家族のない社会』に改造する」ためのステップだ。共産党宣言にはこうある-「家族の廃止!……我々は両親の小児に対する搾取を廃止しようとする。〔親による教育の禁止は〕……〔子どもの〕教育を支配階級の影響からひき離すにすぎない」(p.14)。

 ・「子育て支援」とは<国家こそが子育ての主体>、<親は産んだ瞬間に役割を終える>等の狂気のイデオロギーによる共産党の造語だ。かかる施策が立法・行政に闖入したのは「自由社会では日本のたった一カ国」。類似の政策は①レーニンによる家族解体の狂策(但し1936年頃廃止)、②金日成・北朝鮮の「子供の国家管理」の制度化(p.16)。

 ・「子育て支援」施策の異様さは「扶養控除」の廃止と連結していることで分かる。「扶養控除」は<親が子供を育てる>を大前提として、親に対して国家が減税により若干の協力をしようとするもの。一方の「子育て支援」思想は「家族=孤児院」とするイデオロギーだ。子供=孤児、親=孤児院の経営者に見立てている(p.17)。

 ・「子育て支援」の狂気は、ルソー(重度精神分裂症者・孤児)の『人間不平等起源論』・『エミール』を教典とし、それを盗作的に要約したマルクスら『共産党宣言』にもとづき、レーニンが実行したおぞましい歴史を21世紀の日本で再現しようとするもの。民主党のマニフェストの「子ども手当」の背後思想は日本共産党により大量出版された「子育て支援」文献を援用しており、民主党は「共産党のクローン」になっている(p.17-18)。

 まだまだ続くが、ここで止めておく。

 民主党の元来の「子ども手当」の思想は<所得制限>といったものに馴染まない(だからこそ結果としては一貫して所得制限は導入されていない)。両親の収入の多寡に応じた「社会福祉」という国家の<援助>とは異なる。「国家」こそが「子育て」の主体(子どもを家族・両親から早期に切り離す)というイデオロギーに支えられたワン・ステップ(一里塚)と位置づけられている、と考えられる。中川八洋の指摘は決して大げさなものとは思えない。

0994/日本の「保守」は生き延びられるか-中川八洋・民主党大不況へのコメント2。

 中川八洋は刺激的な書物を多数刊行しているが、さすがに、全面的または基本的に支持する、とも言い難い。

 細かな紹介は省くが、中川八洋・民主党大不況(清流出版、2010)の、例えばp.287の安倍晋三、大前研一、江口克彦、平山郁夫、山内昌之、川勝平太、中西輝政に対する罵倒または特定の党派性の決めつけは、詳しく具体的な根拠が示されているならばともかく、私がこれらの人々を基本的に信頼しているわけでは全くないにしても、にわかには信じ難い。

 つづくp.288には、安倍晋三が「マルキスト中西輝政をブレーンにしたのは、安部の思想軸に、(無意識にであれ)マルクス主義が根強く浸透しているから」だとの叙述もあるが、これに同感できるのはきわめて少数の者に限られるのではないか。もっとも、例えば、戦後<左翼>的「個人主義」・「自由主義」等々が(渡部昇一を含む)いわゆる<保守派>の面々に「無意識にであれ」浸透していないかどうかは、つねに自省・自己批判的克服が必要かと思われるが。

 より基本的な疑問は、中川の「保守主義」観にある。中川の、反共主義(・反極左・反フェミニズム等)、共産主義と闘争することこそ「保守」だとする議論には全面的と言っていいほど賛同する。そして、この点で曖昧さや弱さが日本の現在の<保守>にあるという指摘にも共感を覚えるところがある。この点は、のちにも具体的に論及していきたい。

 しかし、中川八洋の「保守主義」は、マルクス主義が外国産の思想(・イデオロギー)であるように、「英米」のバークやハミルトン等々を範とするやはり外国産のそれをモデルとしている。それを基準として日本の「保守」を論じるまたは批判するのは、自由ではあるものの、唯一の正しいまたは適切な立脚点だとはなおも思えない。

 日本には日本的な「保守主義」があってもよいのではないか。

 中川八洋によると、「保守主義の四哲人」はコーク→ハミルトン・バーク・ハイエクだ(p.310の図)。そして、レーガンはハミルトンとバークの、サッチャーはバークとハイエクの系譜上にある(同)。また、「八名の偉大な哲人や政治家」についても語り、コーク、バーク、ハミルトン、マンネルハイム、チャーチル、昭和天皇、レーガン、サッチャーの八人を挙げる(p.351)。

 昭和天皇は別として、中川の思考・思想の淵源が外国(英米)にあることは明らかであり、なぜ<英米の保守主義>を基礎または基準にしなければならないのかはじつは(私には)よく分からない。学ぶ必要はあるのは確かだろう。だが、中川のいう<英米の保守主義>をモデルにして日本で議論すべきことの不可避性は絶対的なものなのだろうか。

 外国人の名前を挙げてそれらに依拠することなく、中川八洋自身の独自の思想・考え方を展開することで十分ではないのか。その意味では明治期以来の<西洋かぶれ>の弊は中川にもあるように感じられる。

 また、以上と無関係でないだろうが、中川八洋が「保守」はつねに(必ず)「親米」で、「反米」は「(極左・)左翼」の特性だ、と断じる(p.361-2)のも、釈然としない。「親米」の意味の理解にもよるのかもしれないが、<保守>としても(論者によっては<保守>だからこそ?)「反米」的主張をせざるをえないこともあるのではあるまいか。

 このあたりは小泉構造改革の評価にも関連して、じつは現在のいわゆる<保守派>でも曖昧なところがある。また、「反米」よりも<反共>をこそ優先させるべきことは、中川八洋の主張のとおりだが。

 以上のような疑問はあるが、しかし、日本の<保守派>とされる論客、<保守派>とされる新聞や雑誌等は、中川八洋の議論・指摘をもう少しきちんととり上げて、批判を含む議論の俎上に乗せるべきだろう。さもないと、似たようなことをステレオタイプ的に言う、あるいはこう言っておけば(閉鎖的な日本の)<保守>論壇では安心だ、との風潮が、いっそう蔓延しそうに見える(かかる雰囲気があると私には感じられる)。

 中川八洋の主張・指摘の中には貴重な「玉」も多く含まれていて、「石」ばかりではないと思われる。<保守>派だと自認する者たちは、中川八洋とも真摯に向かい合うべきだろう。

0989/「リベラル=寛容=容共」という日本独特?の用法。

 〇欧米を旅していて感じることの一つは、日本ほどに<共産主義>勢力が強くない、ということだ。そのことで、日本にいるときとは違う安堵感、少なくともその点にかぎってはよりまともな環境の中にいるという感覚を味わえる。

 米国、英国、ドイツには共産党または「共産主義者」政党はない(確認しないがカナダ等々にも)。イタリアにはあったが党名変更し、実質も変わった。フランス共産党はかつて社会党とともにミッテラン大統領を誕生させた時代のような力をもたない(当時は、かかる社共共闘を日本の目標だと感じる者もいた)。世界でレーニン型組織原理をもつ共産党で残存しているのは、現存社会主義国家の共産党(労働党等)を除けば、日本とポルトガルだけだと言われている。

 いかに当面の目標は「民主主義」革命、「民主主義」の徹底であってもその先に明確に「社会主義(・共産主義)」を目指すことを謳う政党(日本共産党)が日本にあり、選挙で数百万の票を獲得して国会にも議席を有することは、<欧米基準>からするときわめて異常、異例であることを、日本人はどれほど知っているのだろうか。漠然とした意味であれ<欧米>をモデルにしたい人々は、皮肉っぽくいえば、(日本)共産党の廃絶も目指すべき方向の一つであることを自覚すべきだろう。

 歴史通3月号(ワック)の森口朗=桜井裕子「日教組をゾンビにした真犯人」(p.87-)での森口朗の諸発言は、全面的に賛同・納得はしないが、鋭い指摘を多く含んでいる。以下のような発言だ。

 ・(自民党は「日本型リベラル」だが)民主党・社民党・共産党は「もっと左」で、「座標軸がひどく左に偏っている」。民主党より「左」は、「世界標準からするとすでに破綻したものを信奉している」(p.93)。
 ・自民党よりもっと「右」の<保守政党>があり、それとリベラルな自民党による「二大政党」ならば世界標準に近い。

 ・日本に「共産主義」幻想がまだ残るのは、支える「利権」があるからだ。「知的といわれる学界やメディアが守旧化しているからだ」。「共産主義の間違い」を研究すれば「存在すら」できなくなる(p.94)。

 ・一方、残存する「共産主義」者・容共主義者は対外的に「共産主義者」だと公言できないので「共産主義に極めて寛容なリベラリズムを標榜せざるを得ない」。「共産主義に寛容であることがリベラルだ」という「日本独特のスタンス」が生じている(p.94)。

 この程度にしておく。現在の自民党=「リベラル」論には、「リベラル」の意味も含めて同感しているわけではない。

 「リベラル」には、米国流の主に「社会民主主義」志向という(米国民主党に近い)意味と、「自由主義」志向を強調する欧州的な意味があるともいわれる。英・独だと保守党やキリスト教民主同盟(CDU)の方が労働党や社民党よりも「リベラル」だということになるらしい。

 それはともかく、日本にはアメリカ流「リベラル」概念を輸入し、かつそれに<寛容>(思想の左右にこだわらない)という意味を与える傾向が強いように思われることはたしかだ。そして、自分は「リベラル」だということに誇りを持っているアカデミカー(学者・研究者)やマスメディア人(出版人・編集者を含む)も多いはずだが、その場合の「寛容」は「共産主義」・共産党に対しても「寛容」であること、つまりは結果としては<容共>になっていることを、自覚しておくべきだ。また、周囲の者は、「リベラル」を良い意味で使いたがる人々は「共産主義」者か「容共主義」者であることをきちんと見抜く必要があるだろう。森口の「共産主義に寛容であることがリベラルだ」という「日本独特のスタンス」がある、という指摘はまさにそのとおりだと感じる。

 何度か自己確認したように、読書備忘録という基本的スタンスで、まだしばらくは続けてみよう。

 西尾幹二・西尾幹二のブログ論壇(総和社、2010)を今月に入ってかなり読んだ。渡部昇一・知的余生の方法(新潮新書、2010)は先日に夜と翌朝で全読了。いずれもコメントしたいことはあるが、ここに記入する時間的余裕がない。但し、前者にだけは、いつか言及したい。佐伯啓思、中川八洋の本についての言及が中途であることは意識している。

0988/日本の「保守」は生き延びられるか-中川八洋・民主党大不況へのコメント1。

 中川八洋・正統の哲学/異端の思想(徳間書店、1996)、中川八洋・保守主義の哲学(PHP、2004)はいずれも読んでいる。とりわけフランス革命やルソーについては、これらの本の影響を受けているかもしれない。

 これらの本についても感じることは、中川八洋は学術的な研究論文にして詳論すればそれぞれ数十本は書けるだろう、そしてその方が読者にはより説得的によく理解できるような内容を、きわめて簡潔に一冊の本にまとめてしまっている、ということだ。この人は、海外・国内のいずれの文献についても、(外国人の著についてはおそらくは英語のまたは英訳された原書で)すさまじいスピードで読み、理解できる能力をもつ人だと思われる。

 中川八洋・民主党大不況(清流出版、2010)についても、ほぼ同様のことはいえるだろう。中川八洋のすべての本を読んできているならば少しは別かもしれないが、そうでないと、簡潔に言い切られている多数のことが、ふつうの?読者には容易には理解できないように思われる。それは、むろん、すでに紹介したように、「民族派(系)」の江藤淳・渡部昇一・西尾幹二等々は「保守」ではない、控えめに言っても「真正保守」ではない、という、中川ら(?)以外の者にとっては一般的ではない、独特の?見解・立場に立っていることにもよる。

 中川の上の著は「ハイパー・インフレと大増税」という副題をもち、「大不況」というメイン・タイトルをもつことから民主党の経済・財政政策批判の本との印象も生じるが、まるで異なる。「大不況」には「カタストロフィ」というフリガナがついていることからすると、<民主党による日本大崩壊(大破綻)>というのが基本的趣旨で、同時にそのような民主党政権誕生を許した自民党や<民族系>論者を批判することを目的としているように感じられる。その意味では<「民族派」(保守)大批判>というタイトルでも決して内容と大きく矛盾していないと思われる。

 にもかかわらず、実際のタイトルになっているのは、<「民族派」(保守)大批判>では売れない、<民主党批判>本なら売れる、という出版社・編集者の判断に従っているかにも見える。

 上のことはこの本の感想の第一ではまったくないが、中川八洋とて、<出版>そして<売文>業界という世俗と完全に無縁ではいられない、ということを示してもいるだろう。

 さて、中川八洋・民主党大不況(2010)への簡単なコメントはむつかしい。ここで触れられていることは、この欄であれこれと書いてきた多くのことに、あるいはマスメディアや多数の論者が議論してきた多くのことに関係している。

 とりあえずは二点だけ述べる。

 秋月瑛二の私見あるいはこの欄の基本的立場は昨年の7月に「あらためて基本的なこと」と題して書いたとおりだ。
 以下は一部のそのままの引用。 

 ・左右の対立あるいは<左翼>と<保守>の違いは、<容共>か<反共>かにある。<容共>とは、コミュニズムを信奉するか、あるいはそれを容認して、それと闘う気概を持たないことを意味する。<容共>と対立するのがもちろん<反共>で、<保守>とは<反共主義>に立つものでなければならない。コミュニズムを容認または放置してしまうのではなく、積極的に闘う気概をもつ立場こそが<保守>だ。
 ・米国との関係で、自立を説くことは誤ってはいない。<自主>憲法の制定も急がれる。その意味では<反米>ではある。だが、現在の最大の<溝>・<矛盾>は、コミュニズム(共産主義・社会主義)と<自由主義>(・資本主義)との間にある。<反共>をきちんと前提とするあるいは優先した<反米>でなければならない。<反共>を優先すべきであり、そのためには、米国や欧州諸国のほか韓国等の<反共>(・自由主義)諸国とも<手を組む>必要がある。以上のかぎりでは、つまり<反共>の立場を貫くためには、<親米>でもなければならない。
 ・日本と日本人は<反共>のかぎりで<親米>でありつつ、欧米とは異なる日本の独自性も意識しての<反米>(反欧米、反欧米近代)でもなければならない。そのような二重の基本的課題に直面していると現代日本は理解すべきものだ。

 こうした考え方からする中川八洋著に対する第一の感想は、<反共>主義の立場であること、<保守=反共>と完璧に理解すること、が鮮明で、他の多くの<保守>派とふつうは言われている人々の論調に比べて、共感するところ大だ、ということだ。

 述べたことがあるように、佐伯啓思の本は刺激的で思考誘発的で、かつ<西欧近代>への懐疑の必要性について教えられることが多い。だが、佐伯はコミュニズム(・共産主義)との対立は終わった、<社会主義対資本主義>という議論の立て方はもはや古い、というニュアンスが強く、結果として、現実の中国・北朝鮮に対する見方が甘くなっているのではないかという疑問も生じる。上記のような<親米>でも<反米>でもあるという立場は佐伯啓思の論じ方にも影響を受けているが、<反共>と<反米>のどちらをより優先させるべきか、と二者択一を迫られた場合、やはり<反共>(現実には反中国・反北朝鮮等)を選択すべきで、そのためには米国をも利用する(その限りでは<親米>になる)必要があると考えられる。そういう根本的な発想のレベルでは、佐伯啓思にはやや物足りなさも感じている。昨秋の尖閣問題の発生以降の佐伯の産経新聞紙上の論調は何となく元気がないと感じるのは、気のせいだろうか。

 櫻井よしこ渡部昇一がとの程度マルクス(・レーニン)主義を理解しているのかはかなり疑わしい。櫻井よしこはしきりと<反中国>の主張を書いていて、そのかぎりで<反共>だと言えると反論されそうだが、しかし、そのとおりではあるとしても、桜井の文章の中には、見事に、「共産主義」や「社会主義」という言葉が欠落している。

 櫻井よしこに限らず、中国について<中華思想>の国(・地域)だとか、日本と違う<王朝交代>の国(・地域)だとか、その<民族>性自体に対する批判は多く、桜井も含めて中国の帝国主義的(?)、覇権主義的(?)、領土拡張主義的(?)軍事力増大に対する懸念・批判は多く語られてきている。だが、中国の元紙幣には現在でも毛沢東の顔が印刷されているように、中国は毛沢東が初代の指導者であった中国共産党が支配する国家であり続けている。

 そして毛沢東・中国共産党はまぎれもなく、マルクス・レーニン(・スターリン)の思想的系譜をもっていること、中国は<現存する社会主義>国家であることを決して忘れてはいけない。その領土拡張主義的政策に大昔からの<中華思想>等をもって説明するのは本質を却って没却させるおそれなきにしもあらずだ。<中国的>な発展または変容を遂げていることを否定しないが、現在の中国は基本的にはなおもマルクス・レーニン(・スターリン)主義に依拠している国家だからこそ、日本にとっても害悪となる種々の問題を生じさせているのではないか。

 このマルクス主義(・共産主義・社会主義)自体の危険性への洞察・認識が櫻井よしこらにどの程度あるのかは疑わしいと感じている。田久保忠衛についても同じ。

 述べきれないが、以上のようなかぎりで、中川八洋の<民族系>批判は当たっている、と感じられるところがある。

 くり返すが、<ナショナリズム>を、あるいは<よき日本への回帰>を主張し称揚することだけでは<保守>とはいえないだろう。ナショナリスムに対する国際主義(グローバリズム、ボーダーレスの主張)に反対するだけでは<保守>とは言えないだろう。「グローバリズム」、朝日新聞の若宮啓文の好きな「ボーダー・レス」の主張の中に、ひっそりとかつ執拗に「共産主義」思想は生きていることをこそ、しっかりと見抜く必要がある。

 <万国の労働者団結せよ!>とのマルクスらの共産党宣言の末尾は、国家・国境・国籍を超えて<万国>のプロレタリアートは団結せよ、という主張であり、脱国家・ボーダーレスの主張をマルクス主義はもともと内包している。外国人参政権付与論も、上面は美しいかもしれない<多文化(・民族)共生>論もマルクス主義の延長線上にある。

 やや離れかけたが、<反共産主義>の鮮明さ、この点に中川八洋の特徴があり、この点は多くの論者が(ミクロな論点に過度にかかわることなく)共有すべきものだ、と考える。

 といって、中川八洋の主張を全面的に納得して読んだわけでもない。別の機会に書く。

0985/「民主主義」と「自由」の関係についての続き②。

 〇既に言及・紹介したのだったが、いずれも東京大学の教授だった宮沢俊義や横田喜三郎は、戦後当初の1950年代初めに、「自由」も「平等」も「民主主義」から、または「民主主義」と関連させて説明するような叙述をしていた。

 反復になるが、ある程度を再引用する。
 宮沢俊義(深瀬忠一補訂)・新版補訂憲法入門(勁草書房、1950年第1版、1954年改訂版、1973年新版)は結論的にこう書く。

 ・「自由主義も民主主義も、その狙いは同じ」。「いずれも一人一人の人間すべての価値の根底であるという立場に立って、できるだけ各個人の自由と幸福を確保することを理想とする主義」だ。

 これでは両者の差異がまるで分からないが、その前にはこうある。以下のごとく、「自由」保障のために「民主主義」が必要だ、と説明している。

 ・「自由主義」とは「個人の尊厳をみとめ、できるだけ各個人の自由、独立を尊重しようとする主義」あるいは「特に国家の権力が不当に個人の自由を侵すことを抑えようとする主義」のことだが、国家権力による個人の自由の不当な侵害を防止するには、「権力分立主義」のほか、「すべての国民みずからが直接または間接に、国の政治に参加すること」、「国家の権力が直接または間接に、国民の意思にもとづいて運用されること」が必要だ。このように国家が「運用されなければならないという原理」を、「特に、民主主義」という。
 横田喜三郎・民主主義の広い理解のために(河出書房・市民文庫、1951第一版)は、こう書いていた。

 ・「民主主義」とは、「社会的な」面では「すべての人に平等な機会を与え、平等なものとして扱う社会制度を、すべての人に広い言論や思想の自由を認める社会組織を」意味し、「政治的な」分野では、「人民主権」や「人民参政」の政治形態を意味する。もっとも、「人民主権」・「人民参政」は「結局においては、すべての人が平等だという思想」にもとづく。

 ここでは、上の宮沢俊義の叙述以上に、平等・自由・民主主義は(循環論証のごとく)分かち難く結びつけられている(こんな幼稚な?ことを書いていた横田喜三郎は、のちに最高裁判所長官になった)。

 今日までの社会科系教科書がどのように叙述しているかの確認・検討はしないが、日本において、「民主主義」は必ずしも正確または厳密には理解されないで、何らかの「よい価値」を含むようなイメージで使われてきたきらいがあると思われる。一流の(?)<保守派>(とされる)評論家にもそれは表れているわけだ。

 〇何回か(原注も含めて)言及・紹介したハイエクの「民主主義」・「自由主義」に関する叙述は、ハイエク・自由の条件(1960)の第一部・自由の価値の第7章「多数決の原則」の「1.自由主義と民主主義」、「2.民主主義は手段であって目的ではない」の中にある。

 これらに続くのは「3.人民主権」だ。

 余滴として記しておくが、この部分は、「教条的な民主主義者にとって決定的な概念は人民主権の概念」だと述べつつ(p.107)、「教条的民主主義者」の議論を批判している。

 ハイエクによると、例えば、この「人民主権」論によって、民主主義は「新しい恣意的権力を正当化するものになる」(p.107)、「もはや権力は人民の手中にあるのだからこれ以上その権力を制限する必要はない」と主張しはじめたときに「民主主義は煽動主義に堕落する」(p.151)。

 このような叙述は、原注には関係文献は示されていないが、フランス革命時の、辻村みよ子が今日でも選好する「プープル(人民)主権」論や、現実に生じていた<社会主義>国における(つまりレーニンらの)「民主主義」論を批判していると理解することが十分に可能だ。

 また、菅直人が言ったらしい言葉として伝えられている、<いったん議会でもって首相が選任されれば、(多数国民を「民主主義」的に代表する)議会の存続中は首相(→内閣)の<独裁>が保障される>という趣旨の<議院内閣制>の理解をも批判していることになるだろう(菅直人の「民主主義」理解については典拠も明確にしていつか言及したい)。

 ところで、横田喜三郎の書を紹介した上のエントリー(2009年)は、長尾龍一・憲法問題入門(ちくま新書、1997)のp.39~p.41の、こんな文章を紹介していた。

 ・民主主義=正義、非民主制=悪となったのは一九世紀以降の「価値観」で、そうすると「民主主義」というスローガンの奪い合いになる。この混乱を、(とくにロシア革命後の)マルクス主義は助長した。マルクス主義によれば、「封建的・ブルジョア的」意識をもつ民衆の教育・支配・強制が「真の民主主義」だ。未来世代の幸福のための、現在世代を犠牲にする「支配」だ。しかし、「未来社会」が「幻想」ならば、その支配は「幻想を信じる狂信者」による「抑圧」であり、これが「人民民主主義」と称されたものの「正体」だ。
 ・民主主義が「民衆による支配」(demo-cratia)だとすると、「支配」からの自由と対立する。「民衆」が全てを決定すると「自由な余地」はなくなる。レーニンやムッソリーニは、「民衆代表」と称する者による「徹底的な自由抑圧」を「徹底した民主主義」として正当化した。
 反復(再録)になったが、なかなか鋭い指摘ではないか。

 以上で、「民主主義」と「自由」の関係についての論及は終わり。

0984/ハイエク著による「民主主義」と「自由」の続き。

 〇ハイエク・自由の条件(The Constitution of Liberty)の原著初版は1960年に刊行されている。その時点でハイエクは、(この欄の前回に紹介したような)自由主義と民主主義の相違については「広く一致が見られる」と書いている(新版ハイエク全集第5巻p.104)。
 そこでの注(原注)でハイエクはオルテガの著(1937年。有名な、大衆の反逆(1932)ではない)を挙げ、オルテガの次を含む文章を引用している。

 ・「民主主義と自由主義は全く異なった二つの問題に対する二つの解答」だ。民主主義は「誰が公権力を行使すべきか」という問題に対する、自由主義は「公権力の範囲はどうあるべきか」あるいは「公権力…の限界はどうあるべきか」という問題に対する解答だ(p.227-8)。
 ハイエクは前回に引用した文章以外に、次のようにも書いている(p.106)。

 ・「民主主義の一般的擁護論がどれほど強くとも、民主主義は究極的あるいは絶対的価値ではなく、それが何を成し遂げるかによって判断されるべきものである。おそらくそれはある種の目的を達成するには最善の方法ではあろうが、目的それ自体ではない」。

 ここでの注(原注)には、次の二つの文章が引用されている。

 ・メイトランド(1911年)-「民主主義への道を自由への道と考えた人びとは、一時的な手段を究極の目的と誤解した」のだ。
 ・シュンペーター(1942年)-「民主主義は…決定に到達するためのある型の制度的装置であって、…一定の歴史的条件の下でそれが生み出すどんな決定にも関係なく、それ自体では目的となりえないもの」だ。

 民主主義にせよ「自由」にせよ、それら自体の意味についてハイエクを含めての種々の概念理解や議論があるだろうが、少なくとも前者は後者を「基本」とする、というような単純なものではないだろう。

 以上に挙げたのはすべて外国人の文章で、日本には日本的な「民主主義」や「自由」に関する議論や概念用法があってよいことを否定しないが、櫻井よしこのように簡単に記述して済むものではなかろう。
 〇注意を要するのは、戦後日本の当初において、「自由」も「平等」も「民主主義」から、または「民主主義」と関連させて説明するような、分かり易い(?)、一般国民を対象とする本が宮沢俊義や横田喜三郎によって書かれていたことだ。これらについては、すでに言及・紹介したことがある。
 (つづく)

0983/「自由」は「民主主義」の根本か-櫻井よしこ・月刊正論3月号。

 屋山太郎の名も表紙に掲げる月刊正論3月号(産経新聞社)は、第26回正論大賞受賞記念論文と銘打って、櫻井よしこ「国家としての大戦略を確立せよ」を掲載する。

 内容に大きなまたは基本的な異論はないが、インドも同じ立場に立つ「価値観外交」をせよ、そのための「憲法、法制度の改正」を急げ、というのが確立すべき「国家としての大戦略」だとの基本的趣旨のようで、新味はない。

 また、気になる部分もある。以下はその例。

 第一に、「日本人として、中国や韓国では勿論のこと、米国においてさえも時に感じる歴史認識の相違は、インドには存在しない」とある(p.61)。
 インドうんぬんを問題にしたいのではない。「米国においてさえも時に感じる歴史認識の相違」とは、アメリカに対して相当に甘い見方ではなかろうか。

 同じ月刊正論3月号の書評欄にアーミテージ=ナイ・日米同盟vs.中国・北朝鮮(文春新書)が採り上げられているが(この新書は未読)、紹介(・書評)者の島田洋一はこの本の中で、J・S・ナイ(クリントン政権CIA国家情報会議議長・国防次官補、ハーバード大学教授)は「2010年は民主党政権の閣僚は1人も靖国参拝をしていませんね。それはとても良いステップであり、重要だと思います」と述べていると紹介して「余計な」「アドバイス」だ(アーミテージは賢明にも沈黙を保っている)とコメントしている。

 これは一例だと思うが、かの戦争や東京裁判、首相靖国参拝等にかかわる米国と日本の間の「歴史認識の相違」は、少なくとも日本の<ナショリスト派保守>(と中川八洋の「民族派」との語を意識して呼んでおく)にとっては、「米国においてさえも時に感じる」というようなものではなく、より根本的なものがあるのではなかろうか。

 櫻井よしこは民主党閣僚が誰一人として靖国参拝をしなかったことを諒とし、「良いステップ」だと評価する評論家だったのだろうか。アメリカを含む(非中国・反中国の)<価値観外交>の重要性を説きたいがために、ここではアメリカの主流派的「歴史認識」への批判・警戒を薄めすぎているように見える。

 第二に、「民主主義の根本は人間の自由である。言論、思想信条の自由、信教の自由を含む基本的人権の確立である」とある(p.52)。

 中国の「民主主義」の観点からの「異質さ」を語る中で述べられている文章だが、この簡単な叙述には、率直に言って、非常に驚いた。

 「基本的」がつく「基本的人権」という語は欧米にはない日本的なもので同じ<価値観>の欧米諸国に普遍的なものではない(「人権」や「基本権」はある)、田母神俊雄が事実上免職された際に櫻井よしこ(や国家基本問題研究所)は「言論、思想信条の自由」のためにいかなる論陣を張ったのか、「シビリアン・コントロール」という概念の使い方に文句をつけていたが田母神俊雄を擁護しはしなかったのではないか、といった点は細かなこととして、今回はさて措くこととしよう。

 驚いたのは、「民主主義」と「自由」の関係に関する簡単な叙述だ。<「民主主義」の根本は「自由」だ>というように簡単に両者を関係づけるのは、「民主主義」や「自由」というものに対する深い洞察・知見のないことを暴露していると思われる。

 この両概念をどのような意味で用いようと自由勝手だとも言えるが、この両者は別次元のもので、どちらかがどちらかの「根本」にある、というような関係にはないのではないか。正論大賞受賞者ならばいま少し慎重な用語法をもってしてもよかったのではないか。

 より詳しくは(といってもこの欄に書く程度の長さだろうが)、別の機会に述べる。

0981/中川八洋・民主党大不況(2010)の「附記」①真正保守と「民族系」。

 中川八洋・民主党大不況(清流出版、2010)p.351-「附記/たった一人の(日本人)保守主義者として」の引用・抜粋。
 ここで中川が書いていることが適切ならば、日本は「ほとんど絶望的」どころか、「絶望的」だ。

 かの戦争の理解についても多くの<保守>論者のそれとは異なる<中川史観>が日本の多数派になることはないだろう。<日本は(侵略戦争という)悪いことした>のではない、という多数派<保守>の歴史観(歴史認識)が日本全体での多数派になることすら疑わしい、と予測しているのだから。かつての歴史理解の差異はさておいても、将来の自主的(自立・武装の)憲法制定くらいでは多数派を形成できないだろうかとささやかに期待している程度にすぎないのだから。

 さっそく脱線しかかったが、中川八洋の主張・見解を基本的なところで支持するにはなお躊躇する。あれこれと苦言を呈してもいるが、多数派<保守>の影響下になおある、つまり中川から見れば誤った<思い込み>があるのかもしれない。しかし、少なくとも部分的には、中川の主張や指摘には首肯できるところがある。

 以下、コメントをできるだけ省く。

 最後の方の図表(p.363)は以下のとおり。

 中川はタテ軸を上の<反共or国家永続主義>と下の<共産革命or国家廃絶(亡国)主義>で分け、ヨコ軸を左の<アジア主義(反英米)/倫理道徳の破壊>と右の<反アジア主義(親英米・脱亜)/倫理道徳重視>に分ける。

 四つの象限ができるが、左・かつ下の<共産革命or国家廃絶(亡国)主義+アジア主義(反英米)/倫理道徳の破壊>が中川のいう「Ⅱ・極左」だ。中心に近いか端に近いかの差はあるが、文章化しにくいので割愛し、そこで挙げられている人名(固有名詞)は、①林房雄、②福田和也、③保田與重郎、④共産党、⑤近衛文麿、⑥白鳥敏夫、⑦河野洋平、⑧松本健一、⑨村山富市、⑩宮沢喜一〔番号はこの欄の紹介者〕。①~③は、ふつうは<保守派>と理解されているのではなかろうか。

 右・かつ上(反共or国家永続主義+反アジア主義(親英米・脱亜)が中川のいう「Ⅰ・真正保守」で、次の8人のみ(?)が挙げられている。①昭和天皇、②吉田茂、③中川八洋、④殖田俊吉、⑤福田恆存、⑥竹山道雄、⑦林健太郎、⑧磯田光一

 右・かつ下はなく、左・かつ上の<反共or国家永続主義+アジア主義(反英米)>が中川のいう「Ⅲ・民族系」だ。自民党のある議員集団について中川が「容共・ナショナリスト」と断じていた、その一群にあたるだろう。そして、①渡部昇一、②松平永芳、③小堀桂一郎、④江藤淳、⑤西尾幹二、が明示されている。

 このグループはふつう <保守派>とされており、上のごとく(たぶん②を除いて)その「大御所」ばかりだが、中川八洋によれば、「真正保守」ではない。図表によると「反英米」か「親英米」のうち、前者を中川は「真正保守」に反対するものと位置づけていることになる。

 西尾幹二と江藤淳は対立したこともあるが広くは同じグループ。櫻井よしこも、渡部昇一と現在ケンカしている小林よしのりも、おそらくはこの一群の中に位置づけられるのだろう。

 西部邁や佐伯啓思はどう扱われるのだろうか。この二人の<反米>ぶりからして、「真正保守」とは評価されないのだろう。

 佐伯啓思は保田與重郎らの「日本浪漫派(?)」に好意的に言及していたように記憶するので、ひょっとすれば、中川からすると「極左」かもしれない。佐伯は親共産主義をむろん明言してはいないが、「反共」主張の弱いことはたしかだ。その反米性・ナショナリズムは「左翼」と通底するところもある旨をこの欄に書いたこともある(佐伯啓思が自らを「親米」でもある旨を書いていることは紹介している)。

 以上は、冒頭に記したように、中川の整理を支持して紹介したものではない。だが、少なくとも、思考訓練の刺激または素材にはなりそうだ。

 一回で終えるつもりだったが、ある頁の表への論及だけでここまでになった。余裕があれば、さらに続ける。

0980/自民党は「民族系・容共ナショナリズム」-中川八洋・民主党大不況(2010)から③。

 中川八洋・民主党大不況(清流出版、2010)p.300以下の適宜の紹介。逐一のコメントは省く。

 ・細川・村山「左翼」政権は二年半にすぎず、自民党が「保守への回帰」をしておけば「自由社会・日本」の正常路線に戻ることは可能だった。だが、自民党は村山「左翼」路線を継承し、「日本の左傾化・左翼化」は不可逆点を超えた。2009年8月の自民党転落(民主党政権誕生)は、自民党が主導した「日本国民の左傾化」による、同党を支える「保守基盤」の溶解による。「マスメディアの煽動や情報操作も大きい」が、橋本以降の自民党政権自体こそが決定的だった(p.300-1)
 ・自民党内の「真・保守政策研究会」(2007.12設立)には①~⑦〔前回のこの欄に紹介〕の知識がない。①の「マルクス・レーニン主義」すら「非マルクス用語に転換」しているので、知識がなければ見抜けず、民主党が「革命イデオロギーの革命政党」であることの認識すらない(p.312)。
 ・彼ら(同上)が理解できるのは、①外国人参政権、②人権保護法、③夫婦別姓がやっとで、1.①「男女共同参画社会」、②「少子化社会対策」、③「次世代育成」、④「子育て支援」が共産主義(「共産党」)用語であることを知らない。2.「貧困」・「派遣村」キャンペーンの自民党つぶしの「革命」運動性を理解できず、3.過剰なCO2削減規制が、日本の大企業つぶし・その「国有化」狙いであることも理解できず、4.「地方分権」が「日本解体・日本廃絶の革命運動」であることも理解できない(p.312-3)。

 ・彼ら、「民族系自民党議員」は正確には「容共ナショナリスト」で、チャーチル、レーガンらの「反共愛国者」・「保守主義者」とは「一五〇度ほど相違」する。自民党が英国のサッチャー保守党のごとき「真正の保守政党になる日は決してこない」。それは自民党ではなく「日本の悲劇」だ(p.313)。

 今回は以上。西部邁の言葉を借りれば、日本について「ほとんど絶望的になる」。

 中川八洋によれば、安倍晋三の「極左係数」は「98%」で(p.295)、明言はないが、平沼赳夫も「真正保守」ではなく「民族系」に分類されるはずだ。安倍晋三についての評価は厳しすぎるように感じるが、平沼赳夫の-そして「たちあがれ日本」の-主張・見解がけっこう<リベラル>で、<反共>が鮮明でないことを、最近に若干の文献を読んで感じてもいる。

 ナショナリズム(あるいは「ナショナル」なものの強調)だけでは「保守」とは言えない。反共産主義(=反コミュニズム)こそが「保守」主義の神髄であり、第一の基軸だ、という点では中川八洋に共感する。
 さらに、機会をみて、中川八洋の本の紹介等は、続ける。

0979/「透明な共産主義」の蔓延-中川八洋・民主党大不況(2010)による②。

 中川八洋・民主党大不況(清流出版、2010)は1週間ほど前に全読了。
 第八章の自民党批判(または批判的分析)の中の同党や同党幹部の「極左」扱いにはさすがに首を傾げる。櫻井よしこの「谷垣自民党」と民主党の「同根同類」論または<同質性が高い>論をはるかに超えて、自民党を「リベラル」以上に「左翼」政党視している。だが、同質論を強調しているわけではなく、中川によると、民主党はすっぽり全体が<極左>そのものなのだろう。

 中川八洋によると、「保守主義」とは「全体主義とアナーキズムの極左思想を祖国から排除すべく、剣を抜く戦闘的イデオロギー」だ(p.308)。あるいはまた、具体的には「反マルクス・レーニン主義」・「反ルーマン(社会学)」・「反フェミニズム」・「反ポスト・モダン主義」・「反ポスト・コロニアリズム」だ(p.311)。

 中川の論調にはついて行けないところがあるとはいえ、かかる反共主義・反コミュニズムという立場の鮮明さが、中国やアメリカとの関係での<ナショナリズム>の強調をむしろ主眼としているように読めなくはない<保守派>論者たちと比較しての中川の特長だ。その点は、「共産革命の脅威は、ソ連崩壊とともに日本から消えた」(p.304)と錯覚して、その旨を主張し、誤った幻想をふり撒いているかにも見える論者たちよりも明確に支持されるべきだ。

 中川が言うように、「日本の共産革命勢力」は、ソ連崩壊の頃(1991年末)より、「言葉を変え、まとう衣装を変え、従来のマクロな革命手法を、ミクロ的作戦を多く乱立させる戦術に変えた」のだろうと思われる。中川はこれを「透明な共産主義」と称している(p.304)

 日本共産党の国会獲得議席はたしかに減少し続けている(ついでに社民党もそうだ)。しかし、そのことをもって、「左翼」は弱体化していると見るのは大間違いだ。コミュニズム、マルクス主義あるいは「左翼」は、民主党等に影響を与え、あるいは浸透しているのであり(自民党もその影響の例外ではない)、戦後日本の主流的思潮の<平和と民主主義・合理主義・進歩主義>の中で、執拗かつ強靱にコミュニズム、マルクス主義(共産主義・社会主義)イデオロギーが根を張っている、ということを知っておく必要がある。その点でも、やや大げさに感じなくはなくとも、中川八洋の指摘・主張は基本的には正当と思われ、耳を傾けるべきだ。

 中川は、1992年以降の「共産革命の戦術」を大きく四つに分け、それぞれの具体的政策も挙げている。以下のとおり(p.304-6)。これらは「日本共産党」系のものとされ、他に大きくは二つあるが、今回は省略。

 A・マルクス/エンゲルス/レーニンの家族解体を実践する革命>①夫婦別姓→民法改悪・②子育て支援→少子化対策基本法・次世代育成支援対策推進法・子ども手当の支給・保育園の聖性化など。
 B・子どもの人格を「共産主義的な人間」に改造する革命>①ジェンダー・フリー教育・②性教育。

 C・共産革命にとって最大の障害である日本の伝統と慣習を全面的に破壊する革命>①男女共同参画社会基本法・②女系天皇への皇室典範の改悪。

 D・自由社会の生命で根幹たる「法の支配」を破壊する革命>①裁判員法〔ここは①のみ〕。

 また、中川八洋は、「主要な極左イデオロギー」に次の七つがあるとし、すべてに対して思想闘争をするのが「保守主義」だとする。心ある<保守派>は、けっして次の①のみではないことをしっかりと意識しておく必要がある、と考えられる。なお、→は分化または派生関係を示している。

 ①マルクス・レーニン主義→②ラディカル・フェミニズム、①→③性差破壊のフェミニズム、①→④フランクフルト学派社会学+知識社会学+ルーマン、①→⑤ポスト・モダン思想、⑤→⑥生殖放棄のセックス・サイボーグ化フェミニズム、⑤→⑦ポスト・コロニアリズム
 別の機会に、あらためて、このあたりについては紹介・言及する。
 不思議に思うのは、中川八洋が自らを「たった一人の(日本人)保守主義者」と理解している(p.351~)ことの当否は別としても、産経新聞や月刊正論、月刊WiLL等々の書評欄または新刊書紹介欄等で、中川八洋の本はほとんど無視されているように思われることだ。かりに中川八洋に論考執筆を求めることはしなくとも、この人の本(他にもある)を紹介し、書評くらいしたらどうなのか。

 なるほど、産経新聞やワックの基本的な論調とは異なるところはあるのだろう。しかし、産経新聞的(?)保守、あるいは中川のいう「民族系」論者に対する中川の批判を無視することなく、疑問だと思えばきちんと反論したらどうなのだろうか。

 中川の本からは、間接的に<保守>論壇の奇妙なところも感じさせられる。<保守>論壇が、そこそこの収益をもたらす、自己満足の<売文業界>に堕してはならないだろう。

0963/近代(ブルジョア)民主主義よりも「進歩的」な(はずの)「社会主義国」の民主主義。

 ある程度は知識のあることだが、レーニンの書いたもの(の一部)を読んでいると、マルクス・レーニン主義における「民主主義」論にあらためて関心をもたされる。ギリシャ・ローマ時代の「民主主義」ではない。近代国家(ブルジョア民主主義国家)やレーニンらにおける「革命」との間の、「民主主義」なるものの意味だ。

 レーニン「国家と革命」(1917)の目次からすると、「民主主義」に関するまとまった叙述は以下に限られるようだ(レーニン10巻選集第8巻p.77-80による)。
 ・マルクス「ゴータ綱領批判」(1875)でマルクスは、資本主義社会と社会主義社会の間の「政治上の過渡期」である「プロレタリアートの革命的独裁」について語った。この「独裁」と「民主主義」との関係はいかなるものか? マルクス=エンゲルス「共産党宣言」では、プロレタリアートの支配階級化と「民主主義をたたかいとること」は二つの概念として並置されていたにとどまる。

 ・最も順調に発展した資本主義社会では「民主的共和制」という「多少とも完全な民主主義」があるが、これは、実質的には少数者・「有産階級」・「金持ち」のためだけの「民主主義」だ。「窮乏と貧困」にある住民の多数者は「民主主義どころではなく」、「公共生活、政治生活への参加」から排除されている。

 ・「資本主義的民主主義」・「骨の髄まで偽善的で、いつわりの民主主義」から「ますます広い民主主義」へと単純に発展するわけではない。「プロレタリアートの独裁」を通じてのみ共産主義社会へと発展する。

 ・「プロレタリアートの独裁」は「民主主義の拡大」をもたらすだけではない。それは「金持ちのための民主主義」ではない「人民のための」・「貧乏人のための民主主義」にならせるが、同時に、「抑圧者、搾取者、資本家に対して一連の自由の例外を設ける」。われわれは彼らを「抑圧しなければならず、彼らの反抗を暴力によって打ち砕かなければならない」。
 ・「人民の大多数のための民主主義と、人民の搾取者、抑圧者にたいする暴力による抑圧、すなわち民主主義からのその排除――これが、資本主義から共産主義への過渡にさいして民主主義がこうむる形態変化である」。
 ・資本主義社会にあるのは「制限された、かたわな、にせものの民主主義」・「金持ちだけのため、少数者のためだけの民主主義」だが、「プロレタリアートの独裁」がはじめて、「少数者、搾取者にたいする抑圧」とともに、「人民のため、多数者のための民主主義をもたらすであろう」。「ただひとつ共産主義だけが、ほんとうに完全な民主主義をもたらすことができる」。
 以上、マルクス主義についての知識のある者には常識的なことだが、実際の社会主義国(ソ連、中国、北朝鮮)における民主主義の「実態」は別として、マルクス・レーニン「主義」における「民主主義」は資本主義国家のそれよりも<広い・進んだ・完全な>ものなのだ。

 平野義太郎編・レーニン/国家・法律と革命(大月書店、1967)によると、マルクス・レーニズムにおける「民主主義」論が上よりもより豊富に、多様な概念をともなって語られている。以下、適当に抜粋する。

 ・「ブルジョア民主主義革命」は「プロレタリア的、すなわち社会主義的な革命」へと「成長転化」する。「ソヴェト体制」は一革命が他革命に転化するのを確証するものであり、「労働者と農民のための民主主義の極致である」。同時にそれは、「ブルジョア民主主義との断絶」を意味し、「プロレタリア民主主義、あるいは、プロレタリアートの独裁の発生を意味する」(p.400、1921)。
 ・「権力をソヴェトへ」とは「旧国家機構全体」・「民主主義的なものを、いっさい阻止するこの官僚機構」を、「徹底的に改造する」ことであり、この機構を除去して、「新しい、人民的に真に民主主義的なソヴェト機構に代える」ということだ(p.164、1917)。

 ・こんにちのロシアでは二つの異なる社会戦争が行われている。一つは「民主主義のための」・「人民専制のための全人民的闘争」で、もう一つは「社会主義的社会組織のための、ブルジョアジーにたいするプロレタリアートの階級闘争」だ。社会主義者は、これら二つを同時に行う。「プロレタリアートが民主主義革命に参加する…任務を蔑視して」。「プロレタリアートと農民の革命的民主的独裁というスローガンを避ける」のは「愚か」であり「反動的」だ(p.80、1905)。

 他にもあるが、これくらいにしておく。
 ロシア革命の展開時期によって重点や用語は同一ではないが、大まかにいってつぎのような「理論」または概念用法のあることは明らかだろう。

 コミュニズム(マルクス・レーニン主義)において「民主主義」には二種がある。「ブルジョア民主主義」と「新しい、人民的に真」の「民主主義」または「プロレタリア民主主義」だ。後者こそが「完全な」民主主義だとされる(そして共産主義社会の完成=国家の消滅とともに民主主義も死滅するとされる)。但し、労働者大衆(プロレタリアート)は「ブルジョア民主主義」を目指す「民主主義革命」にも参加し、「革命的民主主義的独裁」=「プロレタリア独裁」を経て「完全な」・「プロレタリア民主主義」をもつ共産主義へと発展する。

 日本共産党が「自由と民主主義」の徹底を主張し、「真の民主主義」という言葉を使うことがあるのは元来のマルクス・レーニン主義と何ら矛盾していない。講座派マルクス主義によれば、日本はまだ「(真の)民主主義革命」を経験しておらず、「民主主義革命」と「社会主義革命」の二つの段階の「革命」を今後経なければならない(なお、「ブロレタリア独裁」は「人民の執権(ディクタトゥーア)」とかに訳語(?)変更しているはずだ)。

 また、旧東ドイツの正式名称、旧北ベトナムの正式名称が<ドイツ民主共和国>、<ベトナム民主共和国>であったのも、北朝鮮の正式名称が<朝鮮民主主義人民共和国>であるのも、不思議ではない。

 「実態」ではなく「理論」・「理念」のレベルでは、社会主義国の「民主主義」は資本主義国の(ブルジョア)民主主義よりも「進んだ」(進歩的な)ものだとされていることに注意しておく必要がある。

 いささか単純化しすぎかもしれないが、辻村みよ子が対比させる「国民(ナシオン)主権」と「人民(プープル)主権」は、<ブルジョア民主主義>と<プープル=人民の民主主義>の対比とほぼ同じなのではないか。辻村みよ子に看取できる<プープル主権>への憧憬は、<社会主義への憧憬>でもあるのではないか?

 さて、最近に紹介したように(12/22エントリー参照)、佐伯啓思・日本という「価値」(NTT出版)は、「冷戦以降」(ソ連崩壊後)の「最も進歩主義的な」国はアメリカ(合衆国)になった、と論定している。これは適切だろうか。

 「社会主義」国がまだ残存しているとすれば、資本主義国・アメリカよりも、あくまでマルクス・レーニン主義によるとだが、その現存「社会主義」国の方が、<より進んだ>・<より進歩的な>国なのではないか。この点でも、佐伯啓思の論定にはにわかに賛同することができない。

 だが、それをアメリカだとしたうえでの佐伯啓思の論述自体は日本の「保守(主義)」にとって興味深いものなので、紹介・コメントはつづける。

0951/日本の社会系学者・研究者を覆う「欧米的進歩主義(・合理主義)」・「社会主義幻想」。

 一 隔月刊の歴史通1月号(ワック)で、北村稔(立命大)がこう発言している。

 「不思議なのは、中国近現代の研究者の多くが、中国を批判的に研究しようとしないこと…。社会主義の中国が好きで中国研究者になったものだから、なんでも好意的に解釈をするし、いまだに社会主義は資本主義より一段高いと思い込んでいるふしがある。そういう社会主義幻想にとり憑かれたスタンスを変えて、…共産党独裁の凄まじい現実を見据えた客観的・批判的な研究をするべきだと思う…が、そういう人が少ない」(p.67)。

 これによると、「中国近現代」の専門的研究者はいるらしいが、「多くは」いまだに「社会主義幻想」に取り憑かれていて客観的・批判的研究をしていない。

 おそるべき「中国近現代(史)」学界の現実だ。

 これでは、中国の<社会主義的市場経済>なるものの、きちんとした経済学的、社会科学的(?)分析はおそらくほとんどないのだろう。

 極論すれば、日本共産党員研究者に、日本共産党それ自体(の歴史)についての、彼等のいう「社会科学」的研究を求めるようなものかもしれない。いつか、日本共産党自体の<科学的社会主義>の観点からする自己分析をせよ、と日本共産党員学者には言ってみたいものだ。いや、そんなものはなされている、各回の党大会報告、中央委員会報告がそれに当たる、と反論されるのだろうか。

 日本の「社会科学」的、歴史的、近現代史研究の対象の大きな欠損は、日本共産党それ自体だ。

 二 なぜか、佐伯啓思西部邁西尾幹二も、日本共産党についての具体的・詳細な批判はしていないようでもある。ついでに、櫻井よしこも。当たり前のことで指摘する必要はないということかもしれないが、日本「共産」党は、日本ではまだ立派な<公党>であり、党員のみならず知的職業者(大学教員等)に対して、なお隠然たる影響力を持っている。

 佐伯啓思は上の隔月刊歴史通1月号(ワック)の書評中で、こう書いている。

 自分のように「社会科学を専攻しており、しかも、その入口でマルクス主義だの戦後進歩主義だのという六〇年代末の思潮的風潮の洗礼を受けたとなると、なかなかひとつの思い込みから脱することは難しい。それは、西欧近代は、中世・封建制を打倒して、人間の普遍的な自由を打ち出したという歴史観…。そして、日本は、…明治に西欧的近代を導入し、…戦後に改めて自由と民主主義を確立した、あるいはアメリカから『配給』された、というものだ」(p.164)。

 佐伯啓思ですらこう書いているのだから、「マルクス主義だの戦後民主主義だのという」思潮の洗礼を受けた「社会科学」専攻者の中には、上にいう「思い込みから脱する」ことができていない者が<いまだに>相当の数にのぼるほどにいることが想定される。

 佐伯は「マルクス主義」・「戦後進歩主義」という語を使っているが、これらは北村のいう(私も使っている)「社会主義幻想」(にとり憑かれること)とほぼ同じか近い意味のはずだ。

 ソ連崩壊後ほぼ20年。日本共産党が後づけでソ連は「真の社会主義国」ではなかったと主張したことが影響しているのかどうか、欧州における冷戦終了・社会主義の敗北の明瞭化のあとでもなお、日本の社会系「学界」はこの有り様なのだ。

 佐伯啓思自身が、上のあとでこう続けている。

 今日ではかかる単純な図式を描いている者は「ほとんどいまい」が、「それでも、大半の研究者は、仮に意識しないとしても、漠然とこのような見取り図を脳裏に隠し持っている」(p.164)。

 こうした、<社会>系研究者を覆っている空気のような意識が(教科書等を通じて)高校・中学の社会系教師たちに影響を与えないはずはなく、彼らの講義を聴いて単位を取って卒業して公務員やマスコミ社員(・出版社員)等々になっていく学生たちに何らかの影響を与えていないはずもなく、かくして、「マルクス主義」・「戦後進歩主義」(→欧米的「自由と民主主義」)・「社会主義幻想」に何となくであれ覆われた日本は、ますます<衰亡していく>。

0928/黒宮一太の「国民」と辻村みよ子の「市民」(外国人参政権付与論)。

 「法的側面からみれば」と限定して言っているが、<ふつうは>、黒宮一太の言うとおり、「国民」とは「国籍保持者」のことを指す。黒宮がより厳密に示す、「国民」とは「近代国家の統治に参与して主権を構成する集団、または主権者によって統治される集団」という説明も、下記の辻村みよ子からすれば「主権」概念の厳密さが問われうる(なぜなら上の説明では「国民」は「主権者」であるとともに「主権者」による被統治者でもあることになる。おかしくはないか? もう少し説明が要るのではないか?)が、大まかにはそのとおりだろう。以上、佐伯啓思=柴山桂太編・現代社会論のキーワード(ナカニシヤ出版、2009)p.91。

 上のことよりも、黒宮の以下の叙述は、よく分かる。

 ・「誰に国籍が付与されるか」を考えると、「多くの場合、諸国家の歴史的・文化的条件が加味されている」。「国民」を「純粋に法的・政治的側面からのみ規定することはできない」。それは「歴史性や文化的特質をともなった共属意識をもつもの」と考えておくべきだ。(上掲書p.91)

 「多くの場合」との限定つきだが、このような「国民」概念に付着しているはずの「諸国家の歴史的・文化的条件」や意識の「歴史性や文化的特質」を無視して、あるいは正確にはそのゆえにこそそれを嫌って、「市民」概念を使い、「国民主権」ではない「市民主権」の可能性を探り、主張しているのが、辻村みよ子・市民主権の可能性―21世紀の憲法・デモクラシー・ジェンダー(有信堂、2002。索引等を除き全295頁)だ。

 東北大学教授の辻村は、上の著のかなりの部分を<外国人参政権>問題にあて、いわゆる「許容」説をも超えた「要請」説を主張する。そして、外国人への地方(この人にとっては国もだが)参政権付与の憲法解釈論的根拠をかなり詳細に述べている。

 民主党あるいは社民党の中に多数いると思われる<付与>積極論者の理論的支柱になっているのではないかと思われる。福島みずほや千葉景子等の女性弁護士たち等々の、とくに<女性活動家>たちは、おそらくはこの本を所持して、おそらくは熟読しているだろう。

 辻村みよ子の論旨の特徴は、一口でいって、「国家」という概念が使われていても、<日本>の「歴史的・文化的条件」はまったく無視されていることだ。見事に欠落している。怖ろしいほどだ。

 「日本」の特性あるいはその「歴史的・文化的条件」を考慮することは<ナショナリズム>に傾斜することで、回避しなければならない、という強い<思い込み>(一種の<信仰>に他ならない)があるとしか思えない。

 辻村の憲法解釈によると、日本国憲法15条の「国民」は<国籍保持者>を意味しない。これは一例だが、外国人参政権付与に反対の論者たちは、この辻村みよ子の「理論」または「憲法解釈論」をも、<理屈>の上であるいは「説得の仕方」のレベルで、克服しなければならないだろう。少なくともこの本の議論を凌がないと、外国人参政権付与論は消失しないだろうと思われる。十分に止目しておくべき(危険な)書物だ。

 なお、先だって遠藤浩一の2001の本に依拠して紹介した菅直人の(「国家」観および)「市民」観と辻村みよ子のそれはかなり親近性・近似性がある。

 菅直人は「天皇」は尊敬はするが「ぼくのイメージの中の国家とはまったく別だ」と言い放っていた。「天皇」を無視して日本の歴史・文化を、そして日本「国家」を語りうるのだろうか? また、いわば自然発生的(土着的?)な「日本」への帰属意識とは離れた「思考タイプ」を持つものこそが「市民」だとも言っていた(10/26のエントリー参照)。

 政治学者・松下圭一に限らず、コミュニズムに親近的な、または結局はそれを容認することにつながる「左翼」論者は、しっかりと学界の中に多数いて、社民党や民主党内「左翼」を支え、指導していることを忘れてはならない。

0918/佐伯啓思・日本という「価値」(2010)は民主党の「日本を外国に売り渡す」政策も語る。

 一 民主党政権になった一年余前、<左翼(=容共)・売国>政権だとこの欄で位置づけた。朝日新聞が嫌いなはずの、鳩山・小沢・輿石三人の「談合」の結果としての菅直人への(総選挙を経ない)政権「たらい回し」ののちには、この欄で<本格的「左翼」政権>誕生、と書いた。

 菅・民主党政権の具体的なことに言及するのは精神衛生に悪いので、極力書かないようにはしている。

 仙石由人官房長官はかつて日韓基本条約(1965年)締結に対する反対運動をしていた社会党系活動家で、のちに社会党から国会議員になった筈だから、社会党の党是、すなわち「社会主義への道」を少なくともかつては信奉していたはずだ。現に(おぞましき)「社会主義」の道を共産党・労働党指導のもとで歩んでいるらしい中華人民共和国や北朝鮮に、仙石が<甘く・優しく>ならないわけがない。

 拘禁後の中国人(船長?)釈放は、菅→仙石(または仙石→菅→仙石)→某法相→最高検総長→那覇地検という<事実上の>上意下達の結果であることはほぼ明らかだ。地検の<自主的な>判断という大嘘は当然に<卑怯だ>(検察一体の原則からして、もともと最高検が諒解していたかその指示によるかのどちらかであることは法制度上少なくとも明確で、那覇地検かぎりでの判断などはありえない)。

 田嶋陽子(かつて国会議員)らと「従軍慰安婦」個人補償法案を提案し、ソウルで韓国人運動家たちとともに日本大使館に向かって拳を突き上げた岡崎トミ子が国家公安委員会委員長(国務大臣)なのだから、呆れて大笑いしたくなるほどの、ブラック・ジョークのような現菅直人内閣だ。

 かかる「左翼・反日」政権とそのもとでの生活への<嫌悪に耐えて>、生きていかねばならないとは…。

 二 佐伯啓思・日本という「価値」(2010、NTT出版)は、民主党政権の<売国(・反日)>性をこの人にしては明瞭に語っている(以下の初出は2010年1月)。

 佐伯いわく-民主党の基本政策は「対米依存からの脱却」、「市場原理主義的な経済自由主義の見直し」、「土建型公共事業による経済成長」から「福祉に軸足を置いた生活中心社会への転換」で、これらに「特に異論はない」。だが一方でこの政権は①「二酸化炭素」25%削減を国際公約にし、②「外国人参政権」を認めようとし、③「夫婦別姓」も打ち出している。/「こうなるとよくわからなくなる」。「対米依存からの脱却」・「新自由主義路線の修正」は「国家の自立性を高める」という意図をもつ筈だが、他方で、「外国人参政権」を唱え、「聞こえのよい国際公約」を行って、「小々大げさにいえば」、「日本を外国に売り渡す」類の政策を促進する。「一体これらがどのような関係にあるのか」、マスメディアを含めて誰も問題にしていない(p.146-7)。

 佐伯は続ける-この「支離滅裂」は「国家や国民の捉え方の曖昧さ」が生んでいる。叙上のような基本政策は結構だが、その種のことを唱えるには、①「日本という国家の防衛をいかに行うのか」、②「経済成長に代わる価値観をどうするのか」、③「日本社会の将来像をどのように描くのか」、という「国家像がなければならない」。しかも、「相当な国民的な結束」が不可欠だ。「国家像」を描き、それを実現するためには「国民の道徳的な力」が必要なのだ。なぜ、「そのことを言わないのか」。言わないがために「政策に厚みがなく、他方で、『日本を外国に売り渡す』類の政策が平然と」行われる。民主党の政策は「ご都合主義的でファッショナブルなものへの追従かその羅列に過ぎない」ように見える。政策の背景にあるのは「幾分のサヨク・リベラル路線」をとっての「世論の流れと時代状況への追従」の「終始」ではないか(p.147-8)。

 佐伯啓思は私よりも民主党の具体的政策をよく知っていそうだから、あえて異は唱えない。おそらくは昨年末に書かれた文章にしては、民主党の<脆うさ>を、適確に指摘していると思われる。

 但し、民主党全体を評価するにしても、「サヨク・リベラル」と性格づけるのは(p.118も)、「リベラル」の意味が問題にはなるが、やや甘いかもしれない。

 にもかかわらず、「新自由主義路線」が<対米依存>でその「見直し」は「国家の自立性を高める」ことを意味するはずだということも含意しての、佐伯啓思による明確な、民主党政権の<売国性>の指摘は重要だろう。佐伯は8月の<菅談話>も一例として挙げるだろうか。

 なお、菅直人内閣についても、櫻井よしこ等の保守論者は「国家観なき…」とか「国家観のない」と(お題目のように?)言って批判することが多いが、彼ら民主党の要人たちにも何らかの「国家観」はあるのであり、ないのは、佐伯が上に指摘するような、具体的な「国家像」だ、と考えられる。

 仙石や菅らは(そして、その他の仲間たち諸々は)、<国家なんて本当はなくてよいのだ>、<国家意識を過分にもつことは危険だ>、等々の「国家観」を持っているように思われる。対立は、<国家観>の有無・存否ではなく、<どのような国家観をもつか(そしてどのように日本の将来像を描くか)、というその内容にある、のではないか。

0914/ルソーの民主主義・「人民主権」と佐伯啓思・表現者32号。

 一 佐伯啓思「『民主党革命』はあったのか」隔月刊・表現者32号(2010.09、ジョルダン)はかなり前にすでに読んだ。

 民主主義・国民主権そしてルソーにつき、関心を惹いた叙述がある。佐伯啓思は、以下のように述べる(p.62-63)。

 ・戦後日本には「民主主義」の誤解、「民主主義」=「国民主権」=「国民の意思が政治に直接反映するもの」という「思い込み」がある。
 ・かかる「おそらくはルソーの人民主権論に由来すると思われる民主主義理解は、実はルソー自身さえも決して支持するものではなく」、ルソーは「主権者」=人民と、政治的意思決定を下す「統治者」を区別しており、後者は「人民そのもの」ではない。
 ・「主権者」と「統治者」を一致させようとすれば「民主制は全体主義へと転化する」。「国民の意思」=「すべての国民に共有された意思」=ルソーにいう「一般意思」なので、「国民主権」のもとで決定されて明示された「国民の意思」に「誰も逆らうことはできない」し、「逆らう者がいるはずがない」からだ。いるとすれば、それは「国民」ではない。

 ・「民主主義」が「政治的たりうる」には「国民主権」との「一定の距離」が必要で、「政治」と「世論」の間の「適切な距離感こそが政治感覚」だ。民主党はこの「距離感を見失った」。いやむしろ、「距離感」を放棄して「政治」を「国民主権」に「寄り添う」ようにさせた。「主権者」と「統治者」をできるだけ一致させようとした。

 このあとの民主党分析・批判も興味深いが、さて措く。

 二 ルソーの真意だったか否かはともかく、ルソーの「プープル(人民)主権」論は社会主義あるいは「全体主義」と親和的だとの批判または分析はこれまでもあった。

 一例がかつてこの欄で言及したことのある、中川八洋・正統の哲学・異端の思想―「人権」・「平等」・「民主」の禍毒(1996、徳間書店)だ。

 中川の叙述を大幅に簡潔化すると、中川によれば、ルソー→<フランス革命>(ロベスピエール)→ヘーゲル→マルクス→レーニン→<ロシア革命>という系譜が語られうる。また、ロベスピエールらのジャコバン党の教義が「マルクス・レーニン主義」の「原型」、ルソーらの思想こそが「フランス革命の暴力/破壊/独裁の源泉」で、「マルクス・レーニン主義」とは「ルソー・ロベスピエール主義」の「二番煎じの模倣」とされる。

 ルソー・社会契約論で示されたらしきいわゆる「プープル(人民)主権」論は、どこかに「全体主義」と通底させる<トリック>を潜ませている、と想定している。上の佐伯啓思論稿は吟味が必要であることを示唆してはいるが。

 抜粋になるが、中川のルソーの文章の一部を使った叙述によると、①「人民主権の政治」とは「人民すべての意思」=「一般意思」と「合致した政治」、②「人民」がすべての権利・自由を「共同体に譲渡する」「社会契約」により個々の「人民の意思」は一致して「一般意思」となる。③「人民の一般意思」を体得した「立法者」はそれを個々の「人民」に「強制する」、④自らの意思=「一般意思」に強制され服従することによってこそ個々の「人民」は<自由>になる(例、中川p.233-237)。
 理解しやすいものではないが、「人民の意思」=「一般意思」にもとづいていると僭称する<独裁者>が出現すれば、ここにいう「人民主権」論は容易に<全体主義(・社会主義)>容認論になるだろう。

 三 日本の憲法学者の中には間接または半代表制の「国民(ナシオン)主権」よりも直接民主制的な「人民(プープル)主権」論を支持する者がいて(例、東北大学現役教授・辻村みよ子)、なぜか「間接民主主義」よりも「直接民主主義」の方が<より進んでいる・より進歩的>と考えているようだ。むろん、ルソーやフランス革命期のジャコバン憲法・ロベスピエールを高く評価する立場でもある。

 こうした議論からすると、民主党あるいは菅直人・鳩山由紀夫等の「民主主義」理解は従来の自民党的なそれよりも肯定的に評価されるのだろう。

 だが、佐伯も指摘するように、彼らの「民主主義」あるいは「国民主権」の理解は皮相すぎる。また、立法・行政の<権力分立>も正しくは理解していない、と考えられる。別の機会で、また触れる。

0912/中西輝政・ウェッジ2010年10月号を読む①。

 WEDGE(ウェッジ)2010年10月号。佐伯啓思の連載の他に、中西輝政「保守結集で政党の宿痾と決別せよ」がある。なかなか<豪華>だ。

 中西輝政はタイトルに即しては、「自立した安全保障政策、経済成長戦略を前面に掲げた保守勢力」による「政界の大再編、保守新党の結成」に「賭ける」しか日本に残された可能性はない、と述べる(p.31)。政界再編への期待は数年前からとくに中西において目立った主張だが、その「再編」への道筋や戦略についての具体的な提言や展望は、この論稿でも示されていない、というのが残念なところだ。中西輝政が期待?しているようには、民主党も自民党も分裂する気配がない…。

 私の印象に残った中西の叙述に以下がある。-「平成日本のように、……にもかかわらず、モラル、責任感、国家意識が大きく劣化した国は、世界の歴史でも珍しい」。その大きな「背景には」、①政治家や官僚のみならず、「物質的な豊かさにのみ国民の価値観が固定されてしまったこと」、②「団塊の世代以降の、学校教育に起因するアナーキーな『民主主義』意識」がある(p.30)。

 それぞれに深い意味があり、諸問題と連関していると思われる。大意に異論はない。

 別の機会でも触れたいが、三島由紀夫が1970年に剔抉していたように、<昭和元禄>などと称して浮かれていた頃からすでに、日本は<腐って>いっていた、のだと考えている。上の表現を借りれば、むろん<大勢として>はとか<基本的には>とかの限定を付すべきだろうが、「物質的な豊かさにのみ国民の価値観が固定されてしまった」のだ。反面としての「精神的な豊かさ」を日本国民は追求しなかったし、むしろそのようなものを蔑視したのではないのではないか、とすら思われる。

 自分と自分の家族(しかも兄弟姉妹・両親とは無関係の、自分・配偶者と子どもだけ)が物質的な面で快適に生活してゆけさえすれば、日本国家(・その将来)も東アジアの軍事情勢等も<関係がない>、というのが大方の国民の意識だったのではないか。

 そこにはむろん、日本国憲法が標榜する<個人主義>(とそれに付随した男女対等主義)が伴っており、「国家」・「公共」への関心や意識はまっとうには形成されなかった。むろん直接には日本列島が「戦場」にならず、これまた日本国憲法が標榜する<平和主義>をおおまかに信じておればよかった、という事情も加わる(<平和ボケ>だ)。

 上は中西のいう①からの連想だが、②にも関連する。日本国憲法の標榜する<自由主義>のもとで、見事に<価値相対主義>が日本で花開いた、と思われる。つまり、絶対的な「価値」、あるいは相対的にでもましな「価値」を否定し、何をしようと、何を考えようと<個人の自由だ、勝手だ>という意識が蔓延した、それは現在も強いままで継続している、と思われる。ちなみに、支持はしないが安易に共産主義政党=日本共産党の存在・存続を<寛大に>認めてしまっていることもまた、<何でもアリ>の戦後の国民意識と無関係ではない。

 中西のいう<アナーキーな民主主義>とはむつかしい概念だが、佐伯啓思も近年の本で論及しているらしい、<ニヒリズム>にも近いだろう。日本人は、<信じることができる>何ものかを喪失しまっているのだ。

 憲法学者・樋口陽一が大好きな、現憲法の最大のツボ(最も重要な条項)らしい<個人の尊重>(個人の尊厳。13条)を利用して何をするか、どのように諸個人が生きるかは<個人の尊重>からは何も解らない。諸<自由>が保障されても、その<自由>を使って何をするか、どのように生きるかは<自由主義>からは何も分からない。同じく、<民主主義>も手段にすぎず、追求すべき実体的「価値」を民主主義が示している筈がないのだ。そしてまた重要なことは、<民主主義>的に決定されたことが(いかに「真の民主主義」などと呼号しようと)最も<正しい・適切な・合理的な>ものである保障は何一つないのだ。

 かくして日本国民とその<世論>は浮遊している。

 この辺りについては、今後も何度も書くだろう。

 中西輝政は言う-「日本の世論の問題点」の背景には「日本人全体に関わる問題があり」、それは「現在の政治」の「これほどの惨状」と「全く無関係ではない」(p.30)。
 このような文章を読んでも何も感じず、能天気に、<まだ1年少し経っただけだ、民主党に任せておけば、「古い」自民党とは違う「新しい」政治をしてくれるだろう>と漫然と夢想している国民がまだ過半ほどはいるのだろう。「国民を超える政治はない」(p.30)。大新聞とテレビだけでしか世の中・政治・国際環境を知らない、知ろうとしない国民が、国家を<溶解>させていっている。

ギャラリー
  • 1181/ベルリン・シュタージ博物館。
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  • 1180/プラハ市民は日本共産党のようにレーニンとスターリンを区別しているか。
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  • 0801/鳩山由紀夫は祖父やクーデカホフ・カレルギーの如く「左の」全体主義とも闘うのか。
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  • 0800/朝日新聞社説の「東京裁判」観と日本会議国際広報委員会編・再審「南京大虐殺」(明成社、2000)。
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