秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

思想

1600/『自由と反共産主義』考⑦。

 1) 「民主主義対ファシズム」という虚偽宣伝(デマ)。
 2) 反「共産主義(communism)」-強いていえば、「自由主義」。
 3) 反 Liberal Democracy-強いていえば「日本主義」または「日本的自由主義」。 
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 反共産主義というだけでは~に反対しているというだけで、それに代わる内実または価値がない。
 そこで従来から、「自由」というものを考えてきた。
 社会主義経済に対する「自由主義」経済という言葉は、よく使われるのではないか。
 あるいは社会主義国に対する「自由主義」国。
 藤岡信勝が、かつて「自由主義史観研究会」とかを組織していた。これがマルクス主義(・共産主義)史観に対抗するものとしての表現だったとすれば、適切だったと思われる。
 かつて現実に影響を与えた(与えている)「思想」類のうちで最も非人間的で人を殺戮するのを正当化するそれは、マルクス主義・共産主義だった(である)。
 これに対抗する内実、価値というのは、むろん「自由」ということなのだが、これだけでは分かりにくい。
 人間の本性に即した、人間らしい<価値観>でなければならない。
 その際の人間の本性・本質とはいったい何だろうか。こうしたことから、そもそもは発想されなければならないのだと思われる。
 「これまでの人類の歴史は全て、階級闘争の歴史だった」などということから出発して発想したのでは、ろくなことにならない。
 人間の本性・本質とは、まずは当たり前だが、生まれて死ぬ、生物の個体だということだ。個々の人間は永遠には生きられない、存続できない、というが前提になる。
 しかし人間は、生きているかぎりは、何とか生きていこうとする。
 個々の人間の生存本能、これはどの生物にもあるのだろうが、人間もまた同じだ。
 人間の個体というものは、その細胞も神経も、本能的に何とか「生きよう」としている。これはじつに不思議なことだ。
 高尚な?論壇者も評論家も、秋月瑛二のような凡人でも、変わりはない。
 意識しなくても、正常であれば、健康であれば、自然に呼吸し、自然に心臓は拍動していて、血液は流れている。空腹になれば、自然に食を欲する。
 この個々の人間が誰でももつ、最低限の生存本能を外部から意図的に剥奪することを許すような「思想」があってはならないし、そのような考え方は断固として排せられなければならない。
 人間には親があり、かなり多くの場合は子もいる。
 親と子、その子と孫、言うまでもなく生物・人間としての「血」の関係だ。
 これらの間に自然に何らかの内実ある関係がただちに生じるのではないかもしれない。
 だが、一時期であれ、また二世代なのか三世代なのかさまざまであれ、<ともに生活>することによって、何らかの<一体性>が生じるはずだ。
 生まれてからある程度大きくなるまで、子にとっての養育者の力は甚大だ。また、養育者は、自分たちを不可欠とする生き物としての子らを守ろうとする。養育者は「親」であることが多い。
 子の親に対する、親の子に対する心情というものが、どの程度自然で「本能的」であるかについて、詳細な研究結果については知らない。
 このあたりですでに社会制度や社会の設計論にかかわってくるのだろうが、父・母・子(兄弟姉妹)という「核」は、たいていの人間たちにとって、あるいはたいていの時代において、基礎的単位として措定してもよいように思える。
 まずは「自分」を中心とするのが生存本能だが、自分と自分以外の「家族」のどちらの「生存」を優先するかというギリギリの選択に迫られることもある。
 歴史上は、自分が「食」するための子棄て・親棄てもかなりあった。大飢饉になれば、自分だけでも生きたいとするのが本能で、子棄て・親棄てを<責める>ことのできない場合もありうる。
 そういう悲劇的な事態にならないかぎりはしかし、「家族」を核とする「自分たち」という観念は比較的自然に発生したものと思われる。それを広げれば、一族・血統という、より社会的広がりになってくる。さらには、居住地または耕作地・狩猟地の近さから、<村落>あるいはマチ・ムラの観念もかなり古くからできただろう。
 「自分」や「自分たち」は<食べて>いかないと生存できない、というのが根本の出発点だ。
 そのあたりの部分はどっぷりと現実の体制や政治世界あるいは経済システムの中でそれらを実にうまく利用してながら、頭・観念の中だけで<綺麗事>を述べている人は多い。いや、論壇者・評論家類の全員がそうかもしれない。
 さらには、小賢しく<綺麗事>を述べることを生業にして、それで金を得て<食べて生きて>いる人も多い。いや、論壇者・評論家類の全員がそうかもしれない。
 そしてまた、よりよく<食べて生きて>いくために、<綺麗事>の内容を需要者に合わせて、場合によっては巧妙に変遷させている、かつ自らはそれに気づいていないかもしれない者も多い。
 <綺麗事>の内容、つまりは精神世界のことと、そうではないドロドロとした<食べて生きて>いく世界のことと、いったいどちらを優先しているのか、と疑問に思う論壇者・評論家類もいる。
 ドロドロとした<食べて生きて>いく世界の方を優先するのが人間の本性なのかもしれない。それは、それでよい。そのことを自分で意識していれば、なおよい。
 しかし、そうであるならば当然に、<綺麗事>の内容だけでその人の主張・議論を評価しては決していけない、ということになるはずだ。
 ともあれ、人間の本性・本質から出発する。マルクス主義(・共産主義)は人間の本性・本質に即しておらず、そのゆえにこそ現実化すれば危険な「思想」なのだ、ということを見抜く必要がある。
 安本美典はたしか正当にも、<体系的なホラ話>という形容をマルクス主義(歴史観)に対して行っていた。
 見かけ上の<美麗さ・壮麗さ・論旨一貫性・簡素明快さ>などは、付随的な、第二次・第三次的な事柄だ。人間性と現実に即していなければ、何にもならない。宗教も含めて、<砂上の楼閣>はいっぱいある。
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 上の話はさらに別途続ける。
 反共産主義者は何を、どういう内実・価値を追求すべきか。
 レシェク・コワコフスキの考え方を、詳しく正確に知っているわけではない。
 ただこの人が、この欄ではあえて「左翼の君へ」と題して試訳を紹介した、実在の「新左翼」学者・評論家に対する批判的論評の中で、あっさりと、おそらくは以下の価値を維持すべき又は追求すべき価値だと語っていたように思う。
 「平等、自由および効率性」、の三つだ。さらにこう続けている。
 これらの「諸価値は相互に制限し合い、それらは妥協を通じてのみ充たされうる」。
 「全ての諸制度の変更は、全体としてこれら三つの価値に奉仕する手段だと見なさなければならず、それら自体に目的があると考えてはいけない」。
 以上、この欄の今年の5/13付・№1540=「左翼の君へ⑧完」。原論考、1974年。
 Leszek Kolakowski, My Correct View on Everything (1974), in : Is God Happy ? -Selected Essays (2012).
 もちろん、欧米系の学者・哲学者のいっていることだ。何と陳腐かとも思われるかもしれない。当然に、「平等」・「自由」・「効率性」の意味、相互関連は問題になる。
 だがしかし、ソヴィエト・スターリン時代をソ連とポーランドで実体験したうえでマルクス主義に関する長い研究書を書いた人物の発言として、何気なく書かれているが、注意されてよい。
 ろくに読んでいないが、リチャード・パイプスには、つぎの書物もある。
 Richard Pipes, Rroperty and Freedom (1999).〔私的所有(財産)と自由、およそ330頁〕
 断固たる反共産主義者だと知っているからこそ推測していうのだが、R・パイプスは「私的所有(財産)と自由」を、かけがえない価値だと、そして最大限にこれを侵犯するものが共産主義だと考えているのではないだろうか。
 L・コワコフスキもR・パイプスもじつは「自由」を重要な<価値>としている。
 この場合の自由は、Liberty ではなく Feedom だと見られる。
 そしてこの自由の根源は、自分を自分自身にしてもらう自由、自分の領域に介入されないという意味での自由、そしてまた<自分のもの>=私的所有・財産に対する(消極的・積極的の両義での)自由ではないか、と考えられる。
 自分(・自分たち)が「食べて」生きていくためには、最低限度、自分の肉体と肉体を支える「もの」、食べ物とそれを獲得するための手段(例えば、土地)を「自由」にしてもらえること、「自由」にできること、は不可欠だろう。
 <私的所有とその私的所有への自由>、これが断固として維持されるべきまたは追求されるべき価値だ。
 共産主義は、これを認めない「思想」だ。だからこそ、人間の本性に合致せず、つねに「失敗する」運命にある。
 日本共産党は最小限度の<私的財産権>は認めると言っているが、原理的には、マルクス主義・共産主義は全ての「私有財産」を廃止しようとする。また、<最小限度の小さな私的財産権>の範囲内か否かは、じつは理論上明確になるわけではない。個人所有の小さな土地の上での工場の経営(、販売・取引--)という「私的財産」の「自由」を想定しても分かる。かりに個人的居住だけに限られる土地所有なのだとすれば、それが土地所有の「権利」あるいは「自由」と言えるのかどうか、原理的に疑問だ。
 当たり前のことを述べているようでもある。
 当たり前のようなことを、つぎのように語る、日本の経済学者もいる。 
 猪木武徳・自由と秩序-競争社会の二つの顔(中央公論新社・中公文庫、2015。原書・中公叢書、2001)、p.269。
 「求められるのは、この市場や民主制のもつ欠陥や難点を補正したり、補強作業を行ったりすることによって、なんとか使いこなしていくこと」だ。
 この書の解説者・宇野重規は、「市場と民主主義を何とか使いこなす」という小見出しをつけている。p.288。市場とは当然に「自由」を前提にする。ほとんど同義で、「自由な経済(取引)」こそが「市場」だ。
 佐伯啓思の『さらば、民主主義』(朝日新書)でも、同『反民主主義論』(新潮新書)、同『自由と民主主義をもうやめる』(幻冬舎新書)でもない。
 「民主主義」の価値性については(上記の猪木とも違って)、疑問がある。これと「自由」をごった混ぜにしてはいけないだろう。
 反共産主義を鮮明にしないままで「自由と民主主義をもうやめる」と主張するのは、<ブルジョア>的「自由・民主主義」に対するマルクスやレーニンの批判と、これらの欺瞞性・形式性を暴露しようとするマルクス主義・共産主義者による批判と、変わらない、と敢えて言うべきだ。
 市場(market)にも「自由」にも(あるいは「民主主義」にも)当然に問題はある。
 「民主主義」は左翼の標語だとこの欄に書いたこともある。
 これはあくまで<手段>の態様を示す概念で、追求すべき「価値」とは異なる次元の概念だと考えている。
 これはさしあたり措いても、近代的(欧米的)「自由」はなおも、日本でも、日本人にとっても、追求・維持すべき価値だろう。
 そこに「日本的自由」が加わると、なおよい。
 できるだけ自分の言葉で書く。重要なので、このテーマでさらに続ける。
 問題は、<私的所有・自由>と権力または「国家」との関係にこそある。
 共産主義者または「左翼」ではない者(=<保守>)こそが、こういう基本設定をしておくべきなのだ。
 こういう基本的な問題設定が曖昧な議論、文章というのは、どうも本質的に理解しづらい。

1598/党と運動⑥-L・コワコフスキ著16章2節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第16章・レーニン主義の成立。
 前回のつづき。
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 第2節・党と労働者運動-意識性と自然発生性⑥。
 ローザ・ルクセンブルクのように、メンシェヴィキはレーニンを、ブランキ主義だ、<クー・デタ>による既存秩序の破壊を企図している、トカチョフ(Tkachov)の陰謀のイデオロギーを奉じている、そして『客観的』条件を無視して権力を追求している、と決まって批判した。
 レーニンは、自分の理論はブランキ主義と関係がない、真のプロレタリアの支持のある党の建設を望んでいる、一握りの陰謀家により遂行される革命という考えを持っていない、と反論した。
 メンシェヴィキは、レーニンは『主観的要因』、すなわち革命の意思力(will-power)の決定的な役割について反マルクス主義の信条をもつ、と主張した。
 史的唯物論の教えによれば、革命的意識を党の努力によって人工的に創出することはできず、それは社会状勢の成熟に依存している。
 革命的状況をもたらす経済的事象を待たずして革命を引き起こそうとするのは、社会の発展法則に違背することになる。//
 このような批判は、誇張はされているが、根拠がないわけではない。
 レーニンは、もちろん、小さな陰謀集団が適切に準備すればいつでも実行できる<クー・デタ>を心に描く、という意味での『ブランキ主義者』ではなかった。
 彼は、意のままに計画するまたは生み出すことはできない根本的な事象だと革命を認識していた。
 レーニンの見地は、ロシアでの革命は不可避であり、それが勃発したときに党はそれを指揮するよう用意し、歴史の波に乗り、そして権力を奪取しなければならない、その権力は最初は革命的農民たちと分かちあう、というものだった。
 彼は革命を惹起させることを計画していたのではなく、革命意識の成長を促進して、やがては大衆運動を支配することを計画していた。
 党が革命の過程での『主観的要因』であるならば、--そしてこれが、レーニンとその対抗者たちのいずれもがどのように問題を理解していたかなのだが--彼は、労働者階級の自然発生的な蜂起は、党が存在してそれを塑形し指揮しないかぎりは、何ものにもならないだろうと、まさしく考えていた。
 これは、党の役割は社会主義の意識の唯一の可能な運び手だという考え方の、一つの明確な推論結果(corollary)だった。
 プロレタリアートそれ自身は、この意識を発展させることができない、したがって革命への意思はたんに経済的事象によって発生するのではなく、計画的に作り出されなければならない。
 『経済主義者』、メンシェヴィキおよび左派ドイツ社会民主党、経済の法則が社会主義革命を自動的にもたらすと期待したこれらは全ては、悲惨な政策に従っていた。これは、決して起こらないのだから。
 その政策は、この問題についてマルクスに十分に訴えるものではなかった(レーニンによると、ローザ・ルクセンブルクはマルクスの教理を『世俗化して卑しくさせた』)。
 マルクスは、社会主義の意識または他のいかなる意識も社会条件から自動的に掻き立てられるとは言わなかった。その条件が意識の発展を可能にする、とだけ言ったのだ。
 現実になる可能性をもつためには、革命的な観念(idea)と意思が、組織された党の形態で存在していなければならなかった。//
 この論争でのどちらの側がマルクスをより正確に理解しているのかに関して、確定的な回答は存在しない。
 マルクスは、社会的条件は、やがてその条件を変容させる意識を発生させる、しかし、実際にそうなるためには、まずは明確に表現された形態をとらなければならない、と考えた。
 意識は現実の状勢を反映するものに『すぎない』という見方を支えるために、マルクスの多くのテクストを引用することができる。
 これは、正統派の見地の<待機主義(attentisme)>を正当化するものであるように見える。
 しかし他方で、マルクスは自分が書いたことを潜在的な意識の明確化または明示化だと見なした。
 マルクスがプロレタリアートの歴史的使命に言及する最初のテクストで、マルクスは語る。
 『我々は、この石のように固まった関係を、それら自身の旋律をそれらに演奏して踊るようにさせなければならない。』
 誰かが、この旋律を演奏しなければならない。--その『関係』は、自発的にそうすることはできない。
 社会的意識が変わらないままに『神秘化された』形態をとり、プロレタリアートが出現するときに勢いを止める、そういう過去の歴史についてのみ『社会的存在が意識を決定する』という原理が適用されるのだとすれば、前衛は意識を喚起するために必要だという教理は、マルクスの教えに合致している。
 問題はかくしてたんに、喚起することが可能となる地点まで条件が成熟した、ということを、我々が決定する規準(標識, criteria)を見分けることだ。
 マルクス主義は、この規準がどういうものなのかを示していない。
 レーニンはしばしば、プロレタリアートは(sc. 『物事の本質において』)革命的階級だと述べた。
 しかしながら、これは、プロレタリアートは革命的意識を自分で発展させるということではなく、その意識を党から受け取ることがことができる、ということのみを意味した。
 ゆえに、レーニンは『ブランキ主義者』ではないが、彼は、党だけが革命的意識の首唱者であり淵源だと考えた。
 『主観的要因』は、社会主義へと前進するためのたんに必要な条件である(メンシェヴィキも含めて全てのマルクス主義者が認めるように)のではなく、プロレタリアートからの助けなくしては革命を開始することはできないけれども、革命的意識を真に創り出すものなのだ。
 マルクス自身は決してこのような表現方法では問題を設定しなかったけれども、この点に関するレーニンの見解はマルクス主義の『歪曲』だと判断する根拠が、十分にあるのではない。// 
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 第3節・民族問題へとつづく。

1596/党と運動⑤-L・コワコフスキ著16章2節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第16章・レーニン主義の成立。
 前回のつづき。
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 第2節・党と労働者運動-意識性と自然発生性⑤。
 党員条項をめぐる論争は、実際に、党組織に関する二つの対立する考え方(ideas)を反映していた。これについてレーニンは、大会およびのちの諸論考で多くのことを語った。
 彼の見解では、マルトフ、アクセルロート(Akselrod)およびアキモフ(Akimov)が提案した『緩い』条項は、党を助ける教授にも中学生にも、あるいはストライキから出てきた労働者にも、全てに党員だと自称することを認めることになる。
 これが意味するのは、党が結合力と紀律および自分の党員たちへの統制を失う、ということだ。党は、上からではなく下から建設された大衆組織に、中央集中的な行動には適さない、自律的な単位の集合体に、なってしまうだろう。
 レーニンの考えは、正反対のものだった。すなわち、党員資格の厳しく定義された条件、厳格な紀律、その諸組織に対する党機関の絶対的な統制、党と労働者階級の間の明確な区別。
 メンシェヴィキはレーニンを、党生活への官僚主義的な態度を採用する、労働者階級を侮蔑する、独裁する野望をもつ、そして党全体を一握りの指導者に従属させる望みをもつ、と批判した。
 レーニンの側では、彼は大会のあとで書いた(<一歩前進二歩後退>、1904年。全集7巻p.405の注.〔=日本語版全集7巻435頁注(1)〕)。
 『マルトフ同志の基本的な考え-党への自主登録-は、まさしく偽りの「民主主義」で、下から上へと党を建設するという考えだ。
 一方、私の考えは、党は上から下へと、党大会から個々の党組織へと建設されるべきだという意味で、「官僚主義的」だ。』(+)//
 レーニンは、この論争の基本的な重要性を、最初から適切に感知していた。のちにはいくつかの場合に、この論争をジャコバン派とジロンド派の争論になぞらえた。
 これは、ベルンシュタインの支持者とドイツ正統派の間の論争よりは、適切な比較だった。というのは、メンシェヴィキの位置はドイツ社会民主党の中央にほとんど近かったからだ。
 メンシェヴィキは、より中央集中的でない、より『軍事的』でない組織を支持し、党は名前やイデオロギーについてのみならず、可能なかぎり多くの労働者を包含し、たんなる職業的革命家の一団ではないことによってこそ労働者階級の党だ、と考えた。
 彼らは、党は個々の諸組織に相当程度の自律を認めるべきで、もっぱら指令の方法によって諸組織との関係をもつべきではない、と考えた。
 彼らはレーニンを、外部から注入されるべき意識という教理を受容はするけれども、労働者階級を信頼していないと批判した。
 メンシェヴィキが他の問題についても異なる解決方法を採用する傾向にあることは、すみやかに明白になった。規約のただ一つの条項に関する論争が、党を実際に、戦略上および戦術上の諸問題にいわば本能的に異なって反応する二つの陣営へと分裂させた。
 メンシェヴィキはあらゆる事案について、リベラル派との同盟の方向へと引き寄せられた。
 一方でレーニンは、農民の革命と農民との革命的な同盟を強く主張した。
 メンシェヴィキは、合法的な行動形態や、可能になるならば、議会制度上の方法によって闘うことに重きを置いた。
 レーニンは長い間、ドゥーマ〔帝国議会下院〕に社会民主党が参加するという考えに反対し、その後もそれをたんなる情報宣伝の場所だと見なして、ドゥーマが定めるいかなる改革をも信頼しなかった。
 メンシェヴィキは、労働組合の活動を強く主張し、法令制定またはストライキ行動によって労働者階級が確保しうる全ての改良がもつ、固有の価値を強調した。
 レーニンにとっては、全てのそのような活動は、最終的な闘いを準備するのを助けるかぎりでのみ有意味だった。
 メンシェヴィキは、民主主義的自由をそれ自体で価値があるものと見なしたが、一方でレーニンにとってそれは、特殊な事情で党のために役立ちうる武器にすぎなかった。
 この最後の点で、レーニンは、ポサドフスキー(Posadovskii)が大会で行った特徴的な言明に賛成して、引用する。
 『我々は将来の政策を一定の基本的な民主主義原理(principles)に従属させて、それに絶対的な価値があると見なすべきか?
 それとも、全ての民主主義原理はもっぱら我々の党の利益に従属しているものであるべきか?
 私は断固として、後者の立場に賛同する。』
 (全集7巻p.227.)(++)
 プレハノフも、この見地を支持した。このことは、党が代表すると想定される階級の直接的利益を含めて種々の考察をする中で、『党の利益』をまさに最初から、いかに最も貴重なものとしているかを例証するものだ。
 レーニンの他の著作も、彼が『自由(freedom)』それ自体にはいかなる価値も与えていないことについて、疑問とする余地を残していない。演説や小冊子は、『自由への闘い』への言及で充ち溢れているているけれども。
 『この自由をプロレタリアが利用するという独自の運動(cause)に役立つことのない、この自由を社会主義へのプロレタリアの闘争のために使う運動に役立つことのない、一般論としての自由の運動のために役立つものは、分析をし尽くせば、平易かつ単純に、ブルジョアジーの利益のための闘士なのだ。』(+)
 (雑誌<プロレタリア>内の論考『新しい革命的労働者同盟』、1905年6月。全集8巻p.502.〔=日本語版全集8巻507頁〕)//
 このようにして、レーニンは、のちに共産党となるものの基礎を築いた。-すなわち、こう特徴づけられる党。観念大系の一体性、有能性、階層的かつ中央集中的構造、そして、プロレタリアート自身は何を考えていようとその利益を代表するという確信。
 戦術上の目的がある場合は別として、それが代表すると自認する人民の実際の欲求や熱望を無視することのできる、そういう『科学的知見』を持つがゆえに、その利益が自動的に労働者階級の利益、および普遍的な進歩の利益となることを宿命づけられている党。//
 (+秋月注記) 日本語版全集を参考にして、ある程度は変更した。
 (++) 日本語版全集7巻で、この文章は確認できなかった(2017.06.21)。
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 ⑥へとつづく。

1592/党と運動④-L・コワコフスキ著16章2節。

 第16章・レーニン主義の成立。
 前回のつづき。
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 第2節・党と労働者運動-意識性と自然発生性④。
 党に関するレーニンの教理が『エリート主義』ではないということが分かるだろう。
 あるいは、社会主義の意識は外部から自然発生的な労働者運動に導入されるという理論は、レーニンの党を中央集中的で教条的で頭を使っていないがきわめて効率的な機械にするようになり、とくに革命後にそうなった。
 この機械の理論上の淵源は、というよりもそれを正当化するものは、党は社会に関する科学的な知識をもつために政治的主導性の唯一の正統な淵源だ、とするレーニンの確信だった。
 これはのちに、ソヴィエト国家の原理(principle)になった。そこでは、同じイデオロギーが、社会生活の全ての分野での主導性を党が独占することを、そして党の位置を社会に関する知識の唯一の源泉だと見なし、したがって社会の唯一の所有者だと見なすことを、正当化するのに役立つ。
 全体主義的(totalitarian)国家の全体系が、意識的に目論まれて、1902年に表明されたレーニンの教理の中で述べられていた、と主張するのは、むろん困難だろう。
 しかし、権力奪取の前と後での彼の党の進化は、ある程度は、マルクス主義者の、あるいはむしろヘーゲル主義者の、不完全だが歴史的秩序に具現化される『物事の論理的整序』という信念を確証するものだ。
 レーニンの諸命題は、社会的階級、つまりプロレタリアートの利益と目標は、その問題についてその階級は一言も発することなくして決定されることができるし、またそうされなければならない、と信じることを、我々に要求する。
 同じことは、そのうえさらに、いったんその階級に支配され、そのゆえにおそらくその階級の目標を共有した社会全体について、また全体の任務、目的およびイデオロギーがいったん党の主導性によって支配されてその統制のもとに置かれた社会全体について、当てはまる。
 党の主導権に関するレーニンの考え(idea)は、自然に、社会主義社会における党の『指導的役割』という考えへと発展した。--すなわち、党はつねに社会それ自体よりも社会の利益、必要、そして欲求すらをよく知っている、民衆自身は遅れていてこれらを理解できず、党だけがその科学的知識を使ってこれらを見抜くことができる、という教理にもとづく専政体制(独裁, despotism)へと。
 このようにして、一方では夢想主義(utopianism)に対抗し、他方では自然発生的な労働者運動に対抗する、『科学的社会主義』という想念(notion)が、労働者階級と社会全体を支配する一党独裁のイデオロギー上の基盤になった。//
 レーニンは、党に関するその理論を決して放棄しなかった。
 彼は、第二回党大会のとき、<何をなすべきか>で僅かばかり誇張した、と認めた。しかし、どの点に関してであるのかを語らなかった。
 『我々は今ではみな、「経済主義者」が棒を一方に曲げたことを知っている。
 物事をまっすぐに伸ばすためには、誰かが棒を他の側に曲げ返さなければならなかった。それが私のしたことだ。
 私は、いかなる種類の日和見主義であってもそれによって捻られたものを何でも、ロシア社会民主党がつねに力強くまっすぐに伸ばすだろうと、そしてそのゆえに、我々の棒はつねに最もまっすぐであり、最も適任だろうと、確信している。』(+)
 (党綱領に関する演説、1902年8月4日。全集6巻p.491〔=日本語版全集6巻506頁〕.)//
 <何をなすべきか>はどの程度において単一性的な党の理論を具体化したものかを考察して、さらなる明確化がなされなければならない。
 このときそしてのちにも、レーニンは、党の内部で異なる見解が表明されることを、そして特殊な集団が形成されることを、当然のことだと考えていた。
 彼は、これは自然だが不健全だと考えた。原理的には(in principle)、唯一つの集団だけが、所与の時点での真実を把握できるはずだからだ。
 『科学を前進させたと本当に確信している者は、古い見解のそばに並んで新しい見解を主張し続ける自由をではなく、古い見解を新しい見解で置き換えることを、要求するだろう。』(+)(全集5巻p.355〔=日本語版全集5巻371頁〕.)
 『悪名の高い批判の自由なるものは、あるものを別のものに置き換えることを意味しておらず、全ての統括的で熟考された理論からの自由を意味している。
 それは、折衷主義および教理の欠如を意味する。』(+)(同上, p.369〔=日本語版全集5巻388頁〕.)
 レーニンが、重要な問題についての分派(fractionalism)や意見の差違は党の病気または弱さだとつねに見なしていた、ということに疑いはあり得ない。
 全ての異見表明は過激な手段によって、直接の分裂によってか党からの除名によって、治癒されるべきだとレーニンが述べるかなり前のことではあったが。
 正式に分派が禁止されたのは、ようやく革命後にだった。
 しかしながら、レーニンは、重要な問題をめぐって同僚たちと喧嘩別れすることをためらわなかった。
 大きな教理上のおよび戦略上の問題のみならず組織の問題についても、全ての見解の相違は結局のところは階級対立を『反映』しているとレーニンは考えて、彼は自然に、党内での彼への反抗者たちを、何らかの種類のブルジョア的逸脱の『媒介者』だと、またはプロレタリアートに対するブルジョアの圧力の予兆だと、見なした。
 彼自身がいつでもプロレタリアートの真のそして最もよく理解された利益を代表しているということに関しては、レーニンは、微少なりとも疑いを抱かなかった。//
 <何をなすべきか>で説かれた党に関する理論は、第二回党大会でのレーニンの組織に関する提案で補完された。
 第二回党大会は長い準備ののちにブルッセルで1903年7月30日に開かれ、のちにロンドンへと移されて8月23日まで続いた。
 レーニンは、春から住んでいたジュネーヴから出席した。
 最初のかつ先鋭的な意見の相違点は、党規約の有名な第1条に関するものだった。
 レーニンは、一つまたは別の党組織で積極的に活動する者に党員資格を限定することを望んだ。
 マルトフ(Martov)は、一方で、党組織の『指導と指揮のもとで活動する』者の全てを受け入れるより緩やかな条項を提案した。
 この一見すれば些細な論争は、分裂に似たもの、二つの集団の形成につながった。この二つは、すぐに明確になったが、組織上の問題のみならず他の多くの問題について、分かれた。
 レーニンの定式は、プレハノフ(Plekhanov)に支持されたが、少しの多数でもって却下された。
 しかし、大会の残り期間の間に、二つの集団、すなわちブント(the Bund、ユダヤ人労働者総同盟)と定期刊行物の < Rabocheye Delo >を代表する『経済主義者』が退席したおかげで、レーニンの支持者たちは、僅かな優勢を獲得した。
 こうして、レーニンの集団が中央委員会や党会議の選挙で達成した少しばかりの多数派は、有名な『ボルシェヴィキ』と『メンシェヴィキ』、ロシア語では『多数派』と『少数派』、という言葉を生み出した。
 この二つはこのように、もともとは偶然のものだった。しかし、レーニンとその支持者たちは、『ボルシェヴィキ(多数派)』という名称を掴み取り、数十年の間それに執着した。その後の党の推移全般にわたって、ボルシェヴィキが多数派集団だと示唆し続けた。
 他方で、大会の歴史を知らない多くの人々は、この言葉を『最大限綱領主義者(Maximalist)』の意味で理解した。
 ボルシェヴィキたち自身は、このような解釈を示唆することは決してなかった。//
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 (+秋月注記) 日本語版全集の訳を参考にして、ある程度は変更した。
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 ⑤へとつづく。

1591/党と運動③-L・コワコフスキ著16章2節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976)。
 第16章・レーニン主義の成立。
 前回のつづき。
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 第2節・党と労働者運動-意識性と自然発生性③。
 レーニンの新しさは、第一に、自然発生的な労働者階級運動は、それが社会主義の意識を発展させることができず、別の種類の意識も存在しないために、ブルジョア意識をもつに違いない、という言明のうちにある。
 この考えは、レーニンが引用するカウツキーの議論のいずれにも、マルクス主義の諸命題のいずれにも、従っていない。
 レーニンによれば、全ての社会運動は、明確な階級的性格をもつ。
 自然発生的な労働者運動は社会主義の意識を、すなわち言葉の適切な理論的および歴史的意味でのプロレタリアの意識を生み出すことができないので、奇妙に思えるのだが、社会主義政党に従属しなければ労働者運動はブルジョアの運動だ、ということになる。
 これは、第二の推論によって補充される。
 言葉の真の意味での労働者階級運動、すなわち政治的革命運動は、労働者の運動であることによってではなく、正しい(right)観念大系を、つまり定義上『プロレタリア』的であるマルクス主義の観念大系(ideology)を持っていることによって、明確になる。
 言い換えれば、革命党の階級構成は、その階級的性格を決定するに際して重要な意味を持たない。
 レーニンは一貫して、この見地を主張した。そして例えば、イギリス労働党はその党員は労働者であるがブルジョア政党だと考える。一方で、労働者階級に根源を有しない小集団も、マルクス主義観念大系への信条を告白しているかぎりで、プロレタリアートの唯一つの代表だと、プロレタリアの意識の唯一つの具現体だと自己宣告する資格がある、と考える。
 これは、レーニン主義の諸政党が、現実の労働者の間では最小限度の支持すら得なかった政党を含めて、かつてから考えてきたことだ。//
 以上のことは勿論、レーニンは自分の党の構成に無関心だったことを意味していないし、レーニンが知識人たちのみから成る革命組織を設立しようと意図したことを意味していない。
 他方でレーニンは、党における労働者の割合は可能なかぎり高くあるべきだと、しばしば主張した。また彼は、知識階層を極度の侮蔑でもって処遇した。
 『知性的』との言葉はレーニンの語彙の中の蔑称であり、決まって、『優柔不断な、頼りにならない、紀律のない、個人主義にとらわれた、移り気な、空想的な』等々を意味するものとして使われた。
 (レーニンが最も信頼した党活動家たちは、労働者階級の出自だった。スターリンやマリノフスキー(Malionovsky)のように。
 後者は、のちに判るようにオフラーナ(Okhrana、ロシア帝国政治秘密警察部局)の工作員でレーニンの最も近い協力者としてきわめて貴重な奉仕をその主人のためにしたのだったが、党の全ての秘密を自由に使えた。)
 レーニンが労働者を知識人で『置き換える』のを意図したこと、あるいはたんに知識人だという理由で知識人を社会主義の意識の体現者だと見なしたこと、についての疑問は存在し得ない。
 その具現体とは<党>であり、述べたように、知識人と労働者の間の区別が消失する、特殊な種類の一体だった。
 知識人たちは知識人であることをやめ、労働者たちは労働者であることをやめた。
 いずれも、厳格に中央集中化した、よく訓練された革命組織の構成分子だった。//
 かくして、レーニンによると、党は『正しい(correct)』理論上の意識を持って、現実の経験上のプロレタリアートが自分たち自身または党に関して考えているかもしれないこととは無関係に、プロレタリアの意識を体現化する。
 党はプロレタリアートの『歴史的』利益がどこにあるかを知っており、いかなる瞬間においてもプロレタリアートの真の意識がどこにあるべきかを知っている。その経験上の意識は、一般的には遅れていると分かるだろうとしても。
 党は、そうすべきだとプロレタリアートが合意しているがゆえにではなくて、社会の発展法則を知り、マルクス主義に従う労働者階級の歴史的使命を理解しているがゆえに、プロレタリアートの意識を代表する。
 この図式では、労働者階級の経験上の意識は、鼓舞させる源としてではなく、障害物として、克服されるべき未熟な状態として現われる。
 党は、現実の労働者階級から、それが実践において党の支援を必要としている場合を除いて、完全に自立したものだ。
 こうした意味で、党の主導性に関するレーニンの教理は、政治上は、労働者階級は『置き換えられ』ることができるし、そうされなければならない。--しかしながら、知識人によってではなく、党によって。
 党は、プロレタリアの支援なくして有効に活動することはできない。しかし、政治的な主導権を握り、プロレタリアートの目標は何であるはずかを決定するのは、唯一つ、党だけだ。
 プロレタリアートには、自分の階級の目標を定式化する能力がない。そう努力したところで、その目標は、資本主義の制限の範囲内に限定された、ブルジョアのそれになるだろう。//
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 秋月注記/ロマン・マリノフスキー(Roman Malinovsky)について、リチャード・パイプス著・ ロシア革命(1990)の第9章第4節に論及がある。
 すでに試訳して紹介した、「レーニンと警察の二重工作員①・②=マリノフスキーの逸話①・②-R・パイプス著」、この欄の№1463・№1464=1917年3/22付と同年3/23付を参照。
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 ④へとつづく。

1588/マルクス主義・共産主義・全体主義-Tony Judt、Leszek Kolakowski、François Furet。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)、フランソワ・フュレ(François Furet)はいずれも1927年(昭和2年)の生まれだ。前者は10月、後者は3月。
 フランソワ・フュレは1997年の7月12日に、満70歳で突然に亡くなった。
 その報せを、ドイツにいたエルンスト・ノルテ(Ernst Nolte)は電話で知り、同時に追悼文執筆を依頼されてもいたようだ。
 トニー・ジャット(Tony Judt)は、1997年12月6日付の書評誌(New York Review of Books)に「フランソワ・フュレ」と題する追悼を込めた文章を書いた。
 その文章はのちに、妻のJeniffer Homans が序文を記した、トニー・ジャットを著者名とする最後と思われるつぎの本の中に収められた。
 Tony Judt, When the Fact Changes, Essays 1995-2010 (2015).
 この本の第5部 In the Long Run We are ALL Dead 〔直訳だと、「長く走って、我々はみんな死んでいる」〕は、追悼を含めた送辞、人生と仕事の概括的評価の文章が三つあり、一つはこのF・フュレに関するもの、二つめは Amos Elon (1926-2009)に関するもので、最後の三つめは、 レシェク・コワコフスキに関するものだ。
 L・コワコフスキは、2009年7月17日に亡くなった。満81歳。
 トニー・ジャットが追悼を込めた文章を書いたのは、2009年9月24日付の書評誌(New York Review of Books)でだ。かなり早い。
 前回のこの欄で記したように、トニー・ジャットはL・コワコフスキの<マルクス主義の主要潮流>の再刊行を喜んで、2006年9月21日付の同じ雑誌に、より長い文章を書いていた。それから三年後、ジャットはおそらくはL・コワコフスキの再刊行の新著(合冊本)を手にしたあとで、L・コワコフスキの死を知ったのだろう。
 トニー・ジャット(Tony Judt)自身がしかし、それほど長くは生きられなかった。
 L・コワコフスキに対する懐旧と個人的尊敬と中欧文化への敬意を滲ませて2009年9月に追悼文章を発表したあと、1年経たない翌年の8月に、T・ジャットも死ぬ。満62歳。
 死因は筋萎縮性側索硬化症(ルー・ゲーリック病)とされる。
 トニー・ジャットの最後の精神的・知的活動を支えたのは妻の Jeniffer Homans で、硬直した身体のままでの「精神」活動の一端を彼女がたしか序文で書いているが、痛ましくて、訳す気には全くならない。
 フランソワ・フュレの死も突然だった。上記のとおり、トニー・ジャットは1997年12月に追悼を込めた、暖かい文章を書いた。、  
 エルンスト・ノルテがF・フュレに対する公開書簡の中で「フランスの共産主義者(communist)だった貴方」とか書いていて、ここでの「共産主義者(communist)」の意味は昨秋の私には明瞭ではなかったのだが、のちに明確に「共産党員」を意味することが分かった。下掲の2012年の本によると、F・フュレは1949年に入党、1956年のハンガリー蜂起へのソ連の弾圧を期に離れている。
 つまり、L・コワコフスキは明確にポーランド共産党(統一労働者党)党員だったが、F・フュレも明確にフランス共産党の党員だったことがある。しかし、二人とも、のちに完全に共産主義から離れる。理論的な面・原因もあるだろうが、しかしまた、<党員としての実際>を肌感覚で知っていたことも大きかったのではないかと思われる。
 なぜ共産党に入ったのか、という問題・経緯は、体制自体が共産主義体制だった(そしてスターリン時代のモスクワへ留学すらした)L・コワコフスキと、いわゆる西側諸国の一つだったフランスのF・フュレとでは、かなり異なるだろう。
 しかし、<身近にまたは内部にいた者ほど、本体のおぞましさを知る>、ということは十分にありうる。
 F・フュレが通説的またはフランス共産党的なフランス革命観を打ち破った重要なフランス人歴史家だったことは、日本でもよく知られているかもしれない。T・ジャットもむろん、その点にある程度長く触れている。
 しかし、T・ジャットが同じく重要視しているF・フュレの大著<幻想の終わり-20世紀の共産主義>の意義は、日本ではほとんど全く、少なくとも適切には、知られていない、と思われる。原フランス語の、英訳名と独訳名は、つぎのとおり。
 The Passing of an Illusion - The Idea of Communism in the Twentithe Century (1999).
 Das Ende der Illusion - Der Kommunismus im 20. Jahrhubdert (1996).
 これらはいずれも、ふつうにまたは素直に訳せば、「幻想の終わり-20世紀における共産主義」になるだろう。「幻想」が「共産主義」を意味させていることもほとんど明らかになる。
 この欄で既述のことだが、日本人が容易に読める邦訳書のイタトルは以下で、どうも怪しい。
 <幻想の過去-20世紀の全体主義>(バシリコ, 2007、楠瀬正浩訳)。
 「終わり」→「過去」、「共産主義」→「全体主義」という、敢えて言えば、「書き換え」または「誤導」が行われている。
 日本人(とくに「左翼」およびその傾向の出版社)には、率直な反共産主義の書物は、<きわめて危険>なのだ
 フランスでの評価の一端について、T・ジャットの文章を訳してみよう。
 『この本は、大成功だった。フランスでベストセラーになり、ヨーロッパじゅうで広く読まれた。/
 死体がまだ温かい政治文化の中にあるレーニン主義の棺(ひつぎ)へと、過去二世紀の西側に広く撒かれた革命思想に依存する夢想家の幻想を剥ぎ取って、最後の釘を打ったものと多くの論評家は見た。』
 後掲する2012年の書物によると、1995年1月刊行のこの本は、1ヶ月半で7万部が売れた。6ヶ月後もベストセラーの上位にあり、1996年6月に10万部が売れた。そして、すみやかに18の外国語に翻訳されることになった(序, xi)。(時期の点でも邦訳書の2007年は遅い)。
 やや迂回したが、フランソワ・フュレ自身は満70歳での自分の死を全く想定していなかったように思える。
 ドイツ人のエルンスト・ノルテとの間で書簡を交換したりしたのち、1997年6月、突然の死の1月前には、イタリアのナポリで、E・ノルテと逢っているのだ。
 また、1996年から翌1997年にかけて、アメリカ・シカゴ大学で、同大学の研究者または関係者と会話したり、インタビューを受けたりしている(この辺りの事情については正確には読んでいない)。
 そして、おそらくはテープに記録されたフランソワ・フュレの発言をテキスト化して、編者がいくつかのテーマに分けて刊行したのが、2012年のつぎの本だ。邦訳書はない。
 François Furet, Lies, Passions & Illusions - The Democratic Imagination in the Twentirth Century (Chicago Uni., 2014. 原仏語, 2012).〔欺瞞、熱情および幻想〕
 この中に、「全体主義の批判(Critique of Totaritarianism)」と題する章がある。
 ハンナ・アレント(Hannah Arendt)の大著について、「歴史書」としては評価しない、「彼女の何が素晴らしい(magnificent)かというと、それは、悲劇、強制収容所に関する、彼女の感受性(perception)だ」(p.60)と語っていることなど関心を惹く箇所が多い。
 ハンナ・アレントに関する研究者は多い。フランソワ・フュレもまた「全体主義」に関する歴史家・研究者だ。 
 エルンスト・ノルテについても、ある面では同意して讃え、ある面では厳しく批判する。
 <最近に電話で話した>とも語っているが、現存の同学研究者に対する、このような強い明確な批判の仕方は、日本ではまず見られない。欧米の学者・知識人界の、ある種の徹底さ・公明正大さを感じとれるようにも思える。
 内容がもちろん重要で、以下のような言葉・文章は印象的だ。
 <民主主義対ファシズム>という幻想・虚偽観念にはまったままの日本人が多いことを考えると、是非とも邦訳してみたいが、余裕があるかどうか。
 <共産主義者は、ナチズムの最大の犠牲者だと見なされるのを望んだ。/
 共産主義者は、犠牲者たる地位を独占しようと追求した。
そして彼らは、犠牲者になるという驚異的な活動を戦後に組織化した。」p.69。
 <共産主義者は実際には、ファシズムによって迫害されてはいない。/
 1939-41年に生じたように共産主義者は順次に衰亡してきていたので、共産主義者は、それだけ多く、反ファシスト闘争を利用したのだ」。p.69。
 日本の共産主義者(日本共産党)は、日本共産党がのちにかつ現在も言うように、「反戦」・「反軍国主義」の闘争をいかほどにしたのか?
 最大の勇敢な抵抗者であり最大の「犠牲者」だったなどという、ホラを吹いてはいけない。
 以上、Tony Judt、Leszek Kolakowski、François Furet 等に関する、いいろいろな話題。

1587/党と運動②・レーニン-L・コワコフスキ著16章2節。

 前回のつづき。
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 第2節・党と労働者運動-意識性と自然発生性②。
 党がたんなる労働者の自然発生的な運動の機関または下僕であるなら、党は、社会主義革命の用具には決してなることができない。
 党は、それなくしては労働者がブルジョア社会の地平を超えて前進することができない、あるいはその基礎を掘り崩すことができない、前衛、組織者、指導者そして思想提供者(ideologist)でなければならない。
 しかしながら、レーニンはここで、決定的な重要性のある見解を追加する。//
 『労働者大衆が自分たちで彼らの運動の推移の中で独立したイデオロギーをもつか否かという問題は想定し難いので、唯一の選択はこうだ-ブルジョアのイデオロギーか、それとも社会主義のイデオロギーか。
 中間の行き方は、存在しない--なぜなら、人類は『第三の』イデオロギーを生み出さなかったし、階級対立によって引き裂かれている社会には非階級のまたは超階級のイデオロギーは決して存在し得ないからだ。<中略>
 しかし、労働者階級運動の自然発生的な発展は、ブルジョアのイデオロギーに従属させる方向へと進む。<中略>
 労働組合主義は、労働者がブルジョアジーによってイデオロギー的に隷従させられることを意味する。
 そのゆえにこそ、我々の任務、社会民主党の任務は、<自然発生性と闘うこと>だ。』
 (全集5巻p.384〔=日本語版全集(大月書店, 1954)5巻406頁〕。)(+)//
 『自然発生性への屈従』という教理、または khvostizm (tailism, 『追従主義』)は、経済主義者-マルティノフ(Martynov)、クスコワ(Kuskova)その他-に対する、レーニンの主要な攻撃対象だった。
 労働者はよりよい条件で自分たちの労働力を売却できるように闘うかもしれないが、しかし、社会民主党の任務は、賃労働それ自体をすっかり廃棄してしまうために闘うことだ。
 労働者階級と全体としての資本主義経済制度の間の対立は、科学的な思想(thought)よってのみ理解することができ、それが理解されるまでは、ブルジョア制度に対するいかなる一般的な政治闘争も存在することができない。//
 レーニンは、続ける。このことから、労働者階級と党との間の関係に関して、一定の結論が生じる。
 経済主義者の見地によれば、革命的組織は労働者組織以上の何ものでもなければそれ以下の何ものでもない。
 しかし、ある労働者組織が有効であるためには、広い基礎をもち、その手段について可能なかぎり秘密をなくしたものでなければならず、そして労働組合の性格を持たなければならない。
 党はそのようなものとしての運動とは同一視できないものであり、労働組合と同一視できるような党は、世界に存在していない。
 他方で、『革命家の組織は、先ずはかつたいていは、革命活動をその職業とする者たちによって構成されなければならない。<中略>
 このような組織の構成員に関する共通する特徴という見地によれば、労働者と知識人の間の全ての明確な差違が消失するに違いない。<中略>』 (+)
 (同上、p.452〔=日本語版全集5巻485-6頁〕)。
 このような職業的革命家の党は、労働者階級の確信を獲得して自然発生的運動を覆わなければならないのみならず、その原因または代表する利益が何であるかを考慮することなく、専政に対して向けられた全ての活力を集中させて、社会的抑圧に対する全ての形態の異議申し立ての中枢部に、自らをしなければならない。
 社会民主党はプロレタリアートの党だということは、特権階層からのであれ、その他の集団からの搾取や抑圧には無関心であるべきだ、ということを意味しはしない。
 民主主義革命は、そのうちにブルジョアジ革命を含むが、プロレタリアートによって導かれなければならないので、専制政治を打倒する意図をもつ全ての勢力を結集させるのは、後者〔プロレタリアート〕の義務だ。
 党は、暴露するための一大宣伝運動を組織しなければならない。
 党は、政治的自由を求めるブルジョアジーを支援し、宗教聖職者たちへの迫害と闘い、学生や知識人に対する残虐な措置を非難し、農民たちの要求を支持しなければならない。そして、全ての公共生活の領域で自らの存在を感知させ、分離している憤激と抗議の潮流を、単一の力強い奔流へと統合しなければならない。これは、ツァーリ体制を一掃してしまうだろう。//
 党は、このような必要性に対応するために、主としては職業的な活動家によって、労働者または知識人ではなくて自分をたんに革命家だと考え、その全時間を党活動に捧げる男女によって、構成されなければならない。
 党は、1870年代のZemlya i Voila の主張に沿う、小さい、中央集中型の、紀律ある組織でなければならない。
 陰謀のある状態では、公然の組織では自然のことかもしれないが、党内部に民主主義的諸原理を適用することは不可能だ。//
 党に関するレーニンの考え方(idea)は、横暴(専制的)だとかなり批判された。今日の歴史家のいく人かも、その考え方は、社会主義体制がのちに具現化した階層的で全体主義的(totaritarian)構造をうちに胚胎していたと主張する。
 しかしながら、レーニンの考え方はどの点で当時に一般的に受容されていたものと異なるのかを、考察する必要がある。
 レーニンは、エリート主義であるとか、労働者階級を革命組織に取り替えようと望んだとか非難された。
 レーニンの教理は知識階層または知識人たちの利益を反映している、そして、レーニンは政治権力が全体としてプロレタリアートの手にではなく知識人の手にあるのを見たいと望んでいる、とすら主張された。//
 党を前衛と見なすという、主張されるエリート主義に関して言うと、レーニンの立場は社会主義者の間で一般的に受容されていたものと異ならない、ということを指摘すべきだ。
 前衛という考えは<共産党宣言>にやはり出てくるのであり、その著者たちは、共産党を、全体としての階級の利益以外に関心を持たない、プロレタリアートの最も意識的な部分だと叙述した。
 労働者運動は自然に革命的な社会主義意識へと進化するのではなく、教養のある知識階層からそれを受け取らなければならない、という見方は、レーニンが、カウツキー(Kautsky)、ヴィクトル・アドラー(Viktor Adler)およびこの点でサンディカ主義者と異なると強調するたいていの社会民主党の指導者たちと、分かち持つものだった。
 レーニンが表明した考え(thought)は、基本的には、じつに自明のことだった。どの執筆者も、<資本論>も<反デューリング論>も、そして<何をなすべきか>をすら著述できなかっただろうほどに、明白だったからだ。    
 工場労働者ではなく知識人たちが社会主義の理論上の創設をしなければならないことは、誰も争うことのできないことだった。『意識を外部から注入する』ということでこの全てが意味されているとのだとすれば、議論すべきものは何もなかった。
 党は労働者階級全体とは異なるものだという前提命題もまた、一般的に受容されていた。
 マルクスは党とは何かを厳密には定義しなかったというのは本当だけれども、マルクスは党をプロレタリアートと同一視した、ということを示すことはできない。
 レーニンの考えで新しいのは、労働者階級を指導し、労働者階級に社会主義の意識を吹き込む、前衛としての党という考えではなかった。
 レーニンの新しさは、…。
  (秋月注記+) 日本語版全集による訳を参考にして、ある程度変更している。
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 改行箇所ではないが、ここで区切る。③へとつづく。
 

1584/日本の「特定保守」とT・ジャットやL・コワコフスキ。

 「私がこの序文(Introduction)を書く方法はただ、人間をその考え(思想, the ideas)と分かつことだ。そうでなければ、私は、愛して1993年から2010年の彼の死まで結婚していた人に、その人間に、引き込まれてしまう。進んでその考えに引き込まれるのではなく。」
 Jennifer Homans.
 =Tony Judt, When the Fact Changes, Essays 1995-2010 (2015) の序文。
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 トニー・ジャット(Tony Judt, 1948-2010)は、1978年の三巻の英訳本があった Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976) がアメリカの Norton 社によって新たに一巻本(三巻合冊)として再刊することが決まったとき、それを称賛して、あるいは「前宣伝」のつもりもあったのだろうか、2006年9月の書評誌に、L・コワコフスキとこの書物に関する長い文章を書いた。これは、邦訳書になっている、以下に収載された。
 Tony Judt, Reapraisal -Reflections on the Fogotten Twentieth Century (Penguin, 2008).
 =河野真太郎=生駒久美ほか訳・失われた二〇世紀/上・下 (NTT出版, 2011.12).
 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)に関するものは以下。
 Chapter VIII/Goodbye to All That ? -Leszek Kolakowski and the Marxist Legacy.
 =上掲邦訳書上巻第8章「さらば古きものよ?-レシェク・コワコフスキとマルクス主義の遺産」。
 書評誌の性格として、執筆者がやたら褒めまくる書評記事もあるのかもしれない。しかし、瞥見のかぎりで、その前の章の、エリック・ホブズボーム(Eric Hobsbaum)の自伝書に関するジャットの書評および「人生」論評は、日本では想像もできないほどに辛辣で厳しい。
 秋月の感想が混じるが、組織あるまでは最後までイギリス共産党員で決して遡ってマルクス主義そのものを批判することがなかったというホブズボーム的な欧米の「容共・左翼」に対するジャットの批判的な目があるだろう。この欄でいつぞやホブズボームを「少なくとも左翼」と書いたが、それ以上だ。だからこそ、一部の<日本の左翼>読者のためにも、この人の邦訳書は多い(それに対して、L・コワコフスキのものは?)。
 トニー・ジャットのL・コワコフスキに関する文章は、邦訳書で計21頁になる。週刊誌1頁ほどの書評記事では全くない。L・コワコフスキ(+アルファ)に関する堂々とした論考だ。
 日本での紹介状況もふまえて私なりにいうと、優れているのは、第一に、L・コワコフスキの人と業績、とくにこの<マルクス主義の主要潮流>に関する欧米の評価を端的に(むろんジャットなりに)示してくれている。
 第二に、L・コワコフスキ<マルクス主義の主要潮流>の、大判合冊で1200頁を超える文字通りの大著の、内容の要点・特徴を概括してくれている。私はろくに目を通していないが、かなりよく(むろんジャットなりに)まとめてくれていて、きわめて参考になる。
 この部分だけでも邦訳しようかともふと思ったが、日本語訳書を見て、書物全体に比べれば勿論ましだが、写すだけでも相当に長い文章が必要だと分かって、諦めた。
 第三に、L・コワコフスキのこの著に関連して、トニー・ジャットの、この論考執筆時点での「マルクス主義」に関する見方がある程度まとまって述べられており、関心を惹く。
 マルクス主義に関する考え方というのは、マルクス主義又は「共産主義」(両者の関連もL・コワコフスキにかかわって問題ではあるが)そのものをどう理解し、是か非かという単純なことを指しているのでは全くない。
 世界、または少なくともトニー・ジャットにとっての主要な「知的関心」の対象である欧米の社会と政治と歴史(社会思想・政治思想・歴史思想)にとって、まさに現在、「マルクス主義」はどういう意味をもつのか(持っていないのか)、そのことをどう評価すればよいのか、という問題についての考え方をいう(この人はユダヤ人系イギリス出自で、イギリスで育ち研究者になり、のちにアメリカの大学へと移った。ちなみに、ホブズボームもユダヤ人出自だという。L・コワコフスキについてはそういう紹介はない)。
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 日本にある<日本会議>の設立宣言こうは書く。1997年5月。
 「冷戦構造の崩壊によってマルクシズムの誤謬は余すところなく暴露されたが、その一方で、世界は各国が露骨に国益を追求し合う新たなる混沌の時代に突入している。にもかかわらず、今日の日本には、この激動の国際社会を生き抜くための確固とした理念や国家目標もない。このまま無為にして過ごせば、 亡国の危機が間近に忍び寄ってくるのは避けがたい」。
 かかる<時代認識>自体に大きな欠陥がある。後半については別にも触れる。「各国が露骨に国益を追求し合う新たなる混沌の時代に突入」という認識で救われている「各国」が、間違いなくある。
 既述のとおり、「マルクシズムの誤謬は余すところなく暴露された」とするのは、マルクス主義・共産主義に対する闘いをもはやする必要がない、ということを言っているのと同じだ。日本の<保守>全体に、マルクス主義研究・マルクス主義への関心がきわめて弱いのは、ここにも原因がある。
 また、そもそも、こう宣言した者たちが、「マルクシズム」をどのようなものと理解して「誤謬は余すところなく暴露された」と言うことができているのかはなはだ疑わしい
 <冷戦構造の崩壊>という理解自体、少なくとも東アジアでは現実に反しているが、そそもそも<冷戦構造の崩壊>→「マルクシズムの誤謬は余すところなく暴露された」という理解は、どういう論理関係になっていると関係者が説明できるのかも、はなはだ疑わしい。
 現実の政治、日本の国家のためにも-マルクス主義=「科学的社会主義」を謳う政党が厳然とあるではないか?-「マルクス主義」の研究・分析、日本共産党のいう「科学的社会主義」・綱領等の批判的分析は、「反共産主義」者こそが、きちんと行わなければならない。
 これを正面から掲げていない「日本会議」は決して「反共産主義」者の団体・運動体ではない、と断固として判断できる。
 「日本会議」または一部保守系三雑誌(うち二つの編集長は櫻井よしこを長とする「研究所」の評議員、残り一つは月刊正論(産経))の基調、および産経新聞の基調または「主流派」を、この欄ではこれから<特定保守>と呼ぶかもしれない。
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 トニー・ジャットは「ネオ」との形容句も「変種」との語尾もつけないで、「マルクス主義」という概念をそのまま使って、以下のように述べている。「日本会議」発足後の2006年9月に公刊の文章だ。邦訳書に依拠する。
 ・新世紀の冒頭に「二つの対立する、しかし奇妙に似かよった幻想」があるが、「二つめの幻想は、マルクス主義には知的・政治的未来があるという信念である」。p.196。
 ・「今までのところ国際的な『辺境』や、学問の世界の周縁でのみ見られるが、このマルクス主義、つまり政治的予言としてでないとしても、少なくとも分析ツールとしてのマルクス主義に対する新しい信念は、主として競争相手がないという理由で、今やふたたび国際的な抵抗運動の共通手段となっている」。p.196。
 ・「わたしたちが不平等、不正、不公平、搾取について耳にすることは増えこそ減りはしないだろう。/それゆえ、…刷新されたマルクス主義の道徳的魅力が高まる可能性がある」。p.194。
 最後に一つ、L・コワコフスキ著の紹介の中で語られている以下の文章にも、注目されてよい。
 ・「コワコフスキのテーゼ」は「率直であり曖昧なところはない」。/マルクス主義を「真剣に考える」必要があるのは、「階級闘争に関するその主張」や「資本主義の不可避の崩壊」・「社会主義への移行」を約束したからではなくて、「マルクス主義が①独創的なロマン主義的幻想と②断固とした歴史的決定論」の、「真にオリジナルな混合物を提示した」からだ。①・②は秋月が挿入。p.182。
 「階級」とか「搾取」とか「プロレタリアート」とかを今日のマルクス主義者がそのまま露骨に使うことはほとんどない。
 注意すべきなのは、私なりにさらに簡潔化すれば、①「幻想」を夢み、かつ②「運命主義」(歴史的不可避主義?、歴史決定論?)に陥るという、そのものだ。
 この二点において、すでに不破哲三と櫻井よしこの類似性・共通性に言及したことがあるのだが、「日本の左翼」と「日本の特定保守」の間にないのかどうか、関心がある。
 ②は将来のことについてとは限らない。例えば、現実を変えた(勝利した)がゆえに<明治維新>は素晴らしかった(やむをえない不可避のものだった)、と観念的・抽象的に考えてしまうのも、一種の「運命」主義だろう。
 「特定保守」には、破綻したという「左翼」・マルクシズムと発想それ自体に類似性がある、と感じている。
 <理念>・<観念>・<狂熱>・<精神論(だけ)>というものほど、じつは恐ろしいものはない。日本の、世界の歴史から見ても分かる、と思う。<観念・イデオロギー>による運動によって、多数の人々が人為的に殺戮された。
 <思考方法>は、政治思想・社会思想上も重要な論点だ。平板に、「右」か「左」か、「保守」か「左翼」かを問題にしてはいけない。

1581/党と運動・意識性と自然発生性①-L・コワコフスキ著16章「レーニン」2節。

 第16章・レーニン主義の成立
 前回のつづき。
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 第2節・党と労働者運動-意識性と自然発生性①。
 独自の政治的一体としてのレーニン主義の基本的教理は、1901年~1903年に定式化された。
 この数年間にロシアでは、主な政治集団が創立され、それらは絶えずお互いで争いながら帝制に対する闘いを十月革命まで遂行した。すなわち、社会民主党のボルシェヴィキ派とメンシェヴィキ派、社会革命党(エスエル)および立憲民主党(<カデット>)。//
 レーニンが考え(ideas)を徐々に見える形にした主要な機関は、<イスクラ(Iskra)>だった。
 1903年の第二回党大会まで、レーニンと他の編集局員との間の差違は、大して重要ではなかった。そして、実際に新聞の基本論調を作ったのはレーニンだった。
 レーニンは最初はミュンヒェンで、のち1902年の春に移動したロンドンで、その編集に携わった。
 <イスクラ>は、ロシア社会民主党の修正主義や経済主義と闘うことのみならず、党が公式には存在しているにもかかわらず、思想(ideology)と組織のいずれに関してもまだ統合されていない集団との間の結節点として活動することをも、意図していた。
 レーニンが、つぎのように書いたように。『一つの新聞は集合的な情報宣伝者や集合的な扇動者であるばかりではなく、集合的な組織者でもある。』(<何から始めるべきか>、全集5巻p.22〔=日本語版全集5巻3頁以下「なにからはじめるべきか?」〕)。
 <イスクラ>は実際に、大会を準備するうえで決定的な役割を果たした。この大会は、開催されたときに、ロシアの社会民主主義者を単一の政党へと統合した。その党はすぐに、二つの反目しあう集団へと分裂した。//
 レーニンは、党の役割という鍵となる問題を、経済主義と闘うボルシェヴィキの考え方(ideology)を生み出す基礎に据えた。その経済主義とは、影響力は衰えているとしてもきわめて危険だと彼が見なしたものだった。
 経済主義者は史的唯物論を、(ともかくも近い将来にロシアのブルジョアジーの主とした仕事になる)政治的目的と比べて、プロレタリアートの経済的闘争を優先させる理論だと解釈した。
 そして経済主義者は、労働者階級の運動を、一体としての労働者による自然発生的な運動の意味での『労働者の運動』と同一視した。
 プロレタリアート自身の綱領の厳密な階級性を強調し、<イスクラ>集団を、知識人層やリベラルたちに倣って主張している、理論や思想の重要性を高く評価しすぎている、専政体制に対する全ての階級の共通する敵対関係に重きを置きすぎている、と攻撃した。
 経済主義は、一種のロシアのプルードン主義(Proudhonism)で、または< ouvrierisme >と称されるものだ。
 これを支持する者によると、社会民主党とは、真の労働者運動の、指導者ではなくて、機関であるべきだ。//
 レーニンは、いくつかの論文で、とくに<何をなすべきか>(1902年)で、前衛としての党の役割を否定しているとして経済主義者を攻撃し、一般的な語法を用いて、社会民主主義運動における理論の重要性に関する自分の見地を表明した。
 彼は、つぎのように主張した。革命の展望にとってのきわめて重大な問題は、革命運動に関する理論上の意識(conciousness)であり、これは労働者の自然発生的(spontaneous)な運動によっては決して進化させられないものだ。
 『革命的理論のない革命運動は、存在し得ない』。
 これは、他のどこよりもロシアにおいて、より本当(true)だった。なぜなら、社会民主主義がその揺籃期にあり、また、プロレタリアートが直面する任務がヨーロッパ的かつアジア的な反動の稜堡を打倒することだったからだ。
 このことが意味したのは、世界プロレタリアートの前衛であることを運命づけられていること、およびこの任務を適切な理論の装備なくして履行することはできないこと、だった。
 経済主義者は、社会発展における『客観的な』経済環境の重要性について語った。
 その際に、政治的意識を経済的要因の自動的な帰結の一つと見なし、それは社会の進化を開始させ活性化させることができない、とする。
 しかし、経済的利益が決定的だという事実は、プロレタリアートの根本的な階級利益は政治的革命とプロレタリアート独裁によってのみ充足されうるのだから、労働者の経済闘争は最終的な勝利を確実にすることはできない、ということを意味しなかった。
 労働者は、自分たちだけにされたのでは、全体としての階級と現存する社会制度の間には根本的な対立があるという意識を獲得することができなかった。//
 『我々は、労働者の間に社会民主主義的意識がありえるはずはなかった、と言った。
 この意識は、外部からしか労働者へともたらされることのできないものだった。
 全ての国の歴史は、労働者階級がまったく自分の力だけでは、組合主義的意識、すなわち、組合に団結し、雇い主と闘い、政府に労働者に必要なあれこれの法律の発布をさせるように励むなどのことが必要だという確信しか形成できないことを、示している。』(+)
 (全集5巻p.375=〔日本語版全集5巻「なにをなすべきか」395頁〕)//
 このことは、西側でそうだった(『マルクスとエンゲルス自身もブルジョア・インテリゲンツィアに属していた。』++)。そして、ロシアでもそうなることになる。
 レーニンは、この点で、カウツキーに魅惑されて支持した。彼は、プロレタリアートの階級闘争はそれ自体では社会主義の意識を生み出すことができない、階級闘争と社会主義は別々の現象だ、そして、社会主義の意識を自然発生的な運動の中に植え込むことが社会民主党の任務だ、と書いていた。//
  (+秋月注) 日本語版全集5巻を参考にして、訳出し直している。
  (++同注) この前後を含めると、つぎのとおり。日本語版全集5巻395頁による。-「近代の科学的社会主義の創始者であるマルクスとエンゲルス自身も、その社会的地位からすれば、ブルジョア・インテリゲンツィアに属していた」。
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 ②へとつづく。

1579/レーニン主義②-L・コワコフスキ著<マルクス主義>16章1節。

 試訳のつづき。
 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (Norton, 三巻合冊 2008)では、第16章第1節は、p.661-4。第二分冊(第二巻)の以下は、p.382-。
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 第1節・レーニン主義をめぐる論争②。
 レーニンは『修正主義者』だったかという問題は、レーニンの著作物とマルクスの著作物とを比較することによって、あるいはこの問題または別の問題についてマルクスならば何をしただろうかまたは何と語っただろうかという回答不能の問題を設定することによってのみ決定することができる。
 明白に、マルクスの理論は多くの箇所で不完全で曖昧だ。そして、マルクスの理論は、その教理をはっきりと侵犯することなくして、多くの矛盾する方法で『適用』されうるだろう。
 にもかかわらず、マルクス主義とレーニン主義の間の継承性に関する問題は、完全に意味がないわけではない。
 しかしながら、この問題は、『忠実性』に関してではなくて、理論の分野でマルクス主義の遺産を『適用』するまたは補足するレーニンの企てにある一般的な傾向を吟味することによって、むしろよりよく考察することができる。//
 述べたとおり、レーニンにとっては、全ての理論上の問題は、唯一の目的、革命のためのたんなる道具だった。そして、全ての人間の行い、観念、制度の意味および価値は、もっぱらこれらがもつ階級闘争との関係にあった。
 このような志向性を支持するものを、多くの理論上の文章の中で、ある階級社会における生活の全側面のうち一時性や関係性を強調したマルクスやエンゲルスの著作物に見出すのは困難ではない。
 にもかかわらず、この二人の特有の分析は、このような『還元主義』定式が示唆すると思える以上に、一般論としてより異なっており、より単純化できないものだ。
 マルクスとエンゲルスはともに、『これは革命にとって良いものか悪いものか?』という発問によって意味されている以上の、利益についての相当に広い視野を持っていた。
 他方、この発問は、レーニンにとっては、問題がそもそも重要かどうか、そうであればそれはどのように決定されるべきかに関する、全てを充足する規準だった。
 マルクスとエンゲルスには、文明の継続性に関する感覚があった。そして、彼らは、科学、芸術、道徳、および社会的諸制度の全ては階級の利益のための道具『以外の何物でもない』、とは考えなかった。
 にもかかわらず、彼らが史的唯物論を明確にする一般的定式は、レーニンが用いるのに十分だった。
 レーニンにとって、哲学的問題はそれ自体では意味をもたず、政治的闘争のためのたんなる武器だった。芸術、文学、法と制度、民主主義諸価値および宗教上の観念も、同様だった。
 この点で、レーニンは、マルクス主義から逸脱していると非難することができないだけではなく、史的唯物論の教理をマルクス以上に完全に適用した、ということができる。
 例えば、かりに法は階級闘争のための武器『以外の何物でもない』とすれば、当然に、法の支配と専横的独裁制の間に本質的な差違はない、ということになる。
 かりに政治的自由はブルジョアジーがその階級的利益のために使う道具『以外の何物でもない』とすれば、共産主義者は権力に到達したときにその価値を維持するよう強いられていると感じる必要はない、と論じるのは完全に適正だ。
 科学、哲学および芸術は階級闘争のための器官にすぎないので、哲学論文を書くことと砲火器を使うことの間には『質的な』差違はない、と理解してよいことになる。-この二つのことは、異なる場合に応じた異なる武器であるにすぎず、味方によって使われるのかそれても敵によってか、に照らして考察されるべきものだ。
 このようなレーニンの教理の見方は、ボルシェヴィキによる権力奪取以降に劇的に明確になった。しかし、こういう見方は、レーニンの初期の著作物において表明されている。
 レーニンは、見解がやや異なる別のマルクス主義者たちとの議論で、共通する教理を適用する変わらない簡潔さと一貫性で優っていた。
 レーニンの論敵たちがレーニンはマルクスが実際に言った何かと矛盾していると-例えば、『独裁』は法による拘束をうけない専制を意味しないと-指摘することができたとき、彼らは、レーニンの非正統性というよりもむしろ、マルクス自身のうちにある首尾一貫性の欠如を証明していた。//
 しかし、それでもなお、レーニンがロシアの革命運動に導入した一つまたは二つのきわめて重要な点に関する新しい発想は、マルクス主義の伝統に対する忠実性がなり疑問であることを示唆する。
 第一に、レーニンは初期の段階で、『ブルジョア革命』のための根本戦略として、プロレタリアートと農民との間の同盟を擁護した。一方で、レーニンに対する反対者たちは、ブルジョアジーとの同盟の方がこの場合の教理とより一致しているはずだ、と主張した。
 第二に、レーニンは、民族問題を、たんなる厄介な邪魔者のではなくて、その教理を社会民主主義者が発展させるべく用いることができかつそうすべき活動源の、強力な蓄蔵庫であると見た最初の人物だった。
 第三に、レーニンは、自分自身の組織上の規範と、労働者による自然発生的な突発に向けて党が採用すべき態度に関する彼自身の範型とを、定式化した。
 これら全ての点について、レーニンは改良主義者やメンシェヴィキからのみならず、ローザ・ルクセンブルク(Rosa Luxemburg)のような正統派の中心人物によっても批判された。
 また、これら全ての点について、レーニンの教理は極度に実践的なものであることが判明した。そして、上記の三点の全てについて、レーニンの政策が、ボルシェヴィキ革命を成功させるために必要なものだった、とレーニンの教理に関して、安全には言うことができる。
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 第2節・党と労働者運動-意識性と随意性、へとつづく。

1577/レーニン主義①-L・コワコフスキ著<マルクス主義>16章1節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976, 英訳1978, 三巻合冊 2008)<=レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要な潮流>には、邦訳書がない。
 その第2巻(部)にある、第16章~第18章のタイトル(章名)および第16章の各節名は、つぎのとおり。
 第16章・レーニン主義の成立。
  第1節・レーニン主義をめぐる論争。
  第2節・党と労働者運動、意識性と随意性。
  第3節・民族の問題。
  第4節・民主主義革命でのプロレタリアートとブルジョアジー、トロツキーと『永久革命』。
 第17章・ボルシェヴィキ運動における哲学と政治。
 第18章・レーニン主義の運命、国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 以下、試訳。分冊版の Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism, 2 -The Golden Age (Oxford, 1978), p.381~を用いる。一文ごとに改行する。本来の改行箇所には文末に//を記す。
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 第16章・レーニン主義の成立
 第1節・レーニン主義をめぐる論争①。
 マルクス主義の教理の一変種としてのレーニン主義の性格づけは、長らく論争の主題だった。
 問題は、とくに、レーニン主義はマルクス主義の伝統との関係で『修正主義』思想であるのか、それとも逆に、マルクス主義の一般的原理を新しい政治状況へと忠実に適用したものであるのか、だ。
 この論争が政治的性格を帯びていることは、明瞭だ。
 この点ではなおも共産主義運動の範囲内の勢力であるスターリン主義正統派は、当然に後者の見地を採用する。
 スターリンは、レーニンは承継した教理に何も付加せず、その教理から何も離れず、その教理を適確に、ロシアの状態にのみならず、きわめて重要なことだが、世界の全ての状況へと適用した、と主張した。
 この見地では、レーニン主義はマルクス主義を特殊にロシアに適用したものではなく、あるいはロシアの状態に限定して適用したものではなく、社会発展の<新しい時代>のための、つまり帝国主義とプロレタリア革命の時代のための戦略や戦術の、普遍的に有効なシステムだ。
 他方、一定のボルシェヴィキは、レーニン主義はより個別的にロシア革命のための装置であるとし、非レーニン主義のマルクス主義者は、レーニンは多くの重要な点で、マルクスの教理に対する偽り(false)だったと主張した。//
 このように観念大系的に定式化されるが、この問題は、根源への忠実性を強く生来的に必要とする政治運動や宗教的教派の歴史にある全てのそのような問題のように、実際には、解決できない。
 運動の創立者の後の世代が既存の経典には明示的には表現されていない問題や実際的決定に直面して、その教理を自分たちの行為を正当化するように解釈する、というのは自然で、不可避のことだ。
 この点では、マルクス主義の歴史はキリスト教のそれに似ている。
 結果は一般的には、教理と実際の必要との間にある多様な種類の妥協を生み出すことになる。
 分割の新しい方針や対立する政治的形成物は、事態の即時的な圧力のもとで形作られる。そしてそのいずれも、必要な支持を、完璧には統合しておらず首尾一貫もしていない伝統のうちに見出すことができる。
 ベルンシュタインは、マルクス主義社会哲学の一定の特質を公然と拒否し、全ての点についてのマルクスの遺産を確固として守護するとは告白しなかった、という意味において、じつに、一人の修正主義者だった。
 他方でレーニンは、自分の全ての行動と理論が現存の観念大系(ideology)を唯一つそして適正に適用したものだと提示しようと努力した。
 しかしながら、レーニンは、自分が指揮する運動への実践的な効用よりも、マルクスの文言(text)への忠実性の方を選好する、という意味での教理主義者(doctrinaire)ではなかった。
 逆に、レーニンは、理論であれ戦術であれ、全ての問題を、ロシアでのそして世界での革命という唯一の目的のために従属させる、莫大な政治的な感覚と能力とを持っていた。
 彼の見地からすれば、一般理論上の全ての問題はマルクス主義によってすでに解決されており、知性でもってこの一体の教理のうえに、個別の状況のための正しい(right)解決を見出すべく抽出することだけが必要だった。
 ここでは、レーニンは自らをマルクス主義者の教書の忠誠心ある実施者だと見なしていないだけではなく、自分は、個別にはドイツの党により例証される、欧州の社会民主主義者の実践と戦術に従っていると信じていた。
 1914年になるまで、レーニンは、ドイツ社会民主党を一つの典型だと、カウツキーを理論上の問題に関する最も偉大な生きている権威だと、見なしていた。
 レーニンは、理論上の問題のみならず、第二ドゥーマ〔国会〕のボイコットのような自分自身がより多数のことを知っている、ロシアの戦術上の問題についても、カウツキーに依拠した。
 彼は、1905年に、<民主主義革命における社会民主党の二つの戦術>で、つぎのように書いた。//
 『いつどこで、私が、国際社会民主主義のうちに、ベーベル(Bebel)やカウツキー(Kautsky)の傾向と<同一でない>、何か特別な流派を作り出そうと、かつて強く主張したのか?
 いつどこに、一方の私と他方のベーベルやカウツキーの間に、重要な意見の違いが-例えばブレスラウで農業問題に関してベーベルやカウツキーとの間で生じた違いにほんの少しでも匹敵するような意見の違いが-、現われたのか?』
 (全集9巻p.66n)=<日本語版全集9巻57頁注(1)>//
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 秋月注記-全集からの引用部分は、日本語版全集の邦訳を参考にして、あらためて訳出。<>記載(大月書店, 1955. 第30刷, 1984)の上掲頁を参照。< >部分は、Leszek Kolakowski の原著ではイタリック体で、「レーニンによるイタリック体」との語句の挿入がある。日本語版では、この部分には、右傍点がある。余計ながら、この時点ではレーニンは<Bebel や Kautsky の傾向>と同じだったと、L・コワコフスキは意味させたい。
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 ②につづく。


1566/『自由と反共産主義』者の三つの闘い⑥-共産主義とリベラル民主主義。。

 「池よりも、湖よりも海よりも、深い涙を知るために。/
  月よりも、太陽よりも星よりも、遠くはるかな旅をして。」
 小椋佳・ほんの二つで死んでゆく(1973)より。作詞・小椋佳。
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 1) 「民主主義対ファシズム」という虚偽宣伝(デマ)
 2) 反「共産主義(communism)」-強いていえば、「自由主義」
 3) 反Liberal Democracy-強いていえば「日本主義」または「日本的自由主義」。
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 すみやかに正しておこうか。
 前回に 1) 2) は勝利できる可能性はあるが(つまりは極端にいえば<全面対決>の問題だが( -1)はデマとの闘い)、3) はこれと違って、どう<切り分ける>かの問題だというようなことを書いた。
 次元の違いを意識したつもりだったが、どうも考え不足だ。
 つまり、Liberal Democracy の中に、「共産主義(communism)」は含まれるのか、という問題だ。
 言葉ないし概念の問題として、含まれているとすれば、Communism をまずはLiberal Democracy から除去する闘いを先にして勝利したうえで、Liberal Democracy のうちから「日本」と矛盾しない、又は積極的に採用すべきものを<切り分けて>取り出すことになる。
 含まれていないとすれば、それはそれで、前回のとおりの説明でよい。
 しかし、欧米的 Liberal Democracy は、Communism と異質なものだろうか。
 これは言葉・概念の問題として処理してもよいが、歴史的・思想史的な考察も必要だ。
 既存の知識によれば、二つの理解がありうる。
 一つは、ズビグニュー・ブレジンスキーが語っていたことで、欧米的なフランス革命以降の「自由・民主主義」は「共産主義」とは無縁で、後者は前者の正常な進行から「逸脱」したものだとする。
 一方で、読んできたものの中では、フランス革命-ロシア革命を一つの線上に、つまり前者の不可避的な(あくまで一つだが)結果と考えるものが多いようだ。
 ルソー/フランス革命-マルクス・レーニン/ロシア革命、という系譜になる。
 フランソワ・フュレもその一人で、この人は、フランス人だからだろうか、マルクスの諸叙述の中のルソーやフランス革命への言及の仕方を追跡しようとすらしている。下記。
 マルクスとフランス革命=今村仁司他訳(法政大出版局、2008)。
 ルソー・「市民革命」にマルクス主義やロシア革命の淵源の確かな一つを見る。
 また、マルクスも、<ブルジョア民主主義革命>の担い手たちへの敬意を隠さなかったし、一度だいぶ前に、レーニン『国家と革命』に関する平野義太郎の分析・注釈書を通じて、レーニンもまたフランス革命を大いに参照していたことを記したこともある。
 前回に書いたときの感覚とは違って、やはり、欧米的 Liberal Democracy とCommunism は無関係ではない。そもそも、後者は、日本とは無縁に、ヨーロッパで(ドイツ人により)生まれた異質な思想であるとともに、欧米的 Liberal Democracy がなくしては、誕生していないだろう。
 「奇胎」・「鬼子」かそうでないかは、一種の価値判断を含む。
 「奇胎」・「鬼子」か正嫡子かのどちらかであれ、あるいは「逸脱」か「発展(の一つ)」のいずれであれ、欧米的 Liberal Democracy の基礎のうえに「共産主義」もある、という理解がおそらく適切だろう。
 そうだとすると、2) の闘いは、当然に、3) の中にも持ち込まれ、やはり結局のところ、三つの闘いは相互に分かち難く、相互に関連しあっていることになる。
 しかし、どうもこの 3) の論点が最終の基本的課題にはなりそうだ。ずるずると他の論点を引き摺りながら、この論点を意識した論争もまた必要であることになる。
 あえて文献を提示しないのだが(それをすると途方もない時間がかかる)、中川八洋には、2) に関するきわめて旺盛な問題意識がある。彼の目からすると、反共産主義の姿勢が明確でない者は、全て<日本共産党員>であると-ここでは極端に概括しているかもしれないが-見なされる可能性がある。西尾幹二も、櫻井よしこも変わりはない。
 しかし、中川八洋の問題性は(反共産主義の点で全く問題がないとは思わないが、それはさて措き)、3) の問題意識がないか希薄なことだろう。
 一方、佐伯啓思には、3) に関する問題意識が強くある。しかし、佐伯啓思には、2) の問題関心がないかきわめて乏しい。「日本会議」宣言書のご託宣のごとく、「マルクス主義」との闘いはもう必要がないがごとくだ。
 また、せっかく反 Liberal Democracy の趣旨を詳しく説きながら、佐伯啓思における「日本」は曖昧なままだ。西田幾多郎等々に少し遡っただけでは、たどり着けないのではないだろうか。
 「日本」とか「愛国心」とかを語りつつ、佐伯啓思における日本の将来像はクリアではない。
 誰も完璧ではないし、誰かに完璧さを期待してもいない。
 それぞれに限界はあるものだと、思わざるをえない。
 佐伯啓思は「日本会議」派に比べるとはるかに理性的・合理的だが、しかし、例えば日本の現実政治についての「感覚」は、どこかおかしい。橋下徹について<ロベスピエールの再来の危険>などを指摘し始めてから、私は佐伯から離れてしまった。たかが大阪府知事・大阪市長にこのような大仰なことを言うのは、<ファシスト(ハシスト)>扱いと、どこが違うのだろうか。
 もとより、日本に関する中川八洋の個々の政治的「感覚」が適切である保障もない。
 個々の政治的選択・判断を問題にしようとは考えていない。
 日本の論者は、月刊誌や週刊誌に書きすぎる。書きすぎるから、本来の得意分野以外にまで手を出して、つい<識者>らしきことを書いてしまう。
 これは、産経新聞社を含む日本のメディア、出版業界の問題でもある。多くの「評論家」・大学教授類の一部は、出版業に雇われる「使い走り」・「文章作成係」になっている。
 きちんとした評論書・時代分析書・将来展望書は、2年くらいの期間をかけないときちんとは執筆できないのではないか。
 月刊誌(または櫻井よしこのごとく週刊誌)に書いたものをあとでまとめて、ハイ一冊、という本の作り方では、いかほどに真摯な思考が、体系的にまとめられているかは疑問だ(もちろん、人によるが)。櫻井よしこは、自分は毎年少なくとも二冊を刊行している大?「評論家」・「ジャーナリスト」などと妄想しない方がよいだろう。既述のとおり、自分の言葉は10%以下、他人・第三者からの紹介・引用が半分程度、あとは公開事実の<要領のよいまとめ>だ。また、この人には、平気で<剽窃>のできる、希有の才能がある。
 じっと深く思考することが必要だが、その際に重要なのは、基本的な<論争点についての位置の自覚>だ。
 いったい何のための、いったいどういう次元の、いったい誰を相手(「敵」)にした議論をしているのか?
 日本の<保守>派の混迷は、基本的に、これに無自覚なところにあると思われる。
 櫻井よしこ又は「日本会議」派は、いったい何を追求しているのか?
 訳が分からなくなって、精神的頽廃に落ち込んでいる者もいる。ただ毎日を忙しく過ごして、自分の「名誉」又は「顕名欲」さえ守れればよいと思っている人もいる。
 西尾幹二にも、中西輝政にも、十分な満足は感じていない。相対的にまだマシだと思っているだけだ。
 誰も完璧ではないし、誰かに完璧さを求めるつもりはない。
 上のように並べても、西尾幹二と中西輝政が同じであるはずはない。
 こんなことを書いていても、<大海の底の小さな貝の一呼吸>が生むほんの小さな水の揺るぎにすぎないだろう。
 それでよい。つまらないことを書きなぐって、後世に恥をさらす櫻井よしこよりは、まだ生きている価値がある。
 それにしても、櫻井よしこの<悲しいほどに痛々しい>ことの理由、背景は、いずれにあるのか。

1562/神は幸せか?②-2006年のL・コワコフスキ。

 前回のつづき。
 Is God happy ? (2006), in : Leszek Kolakowski, Selected Essays (2012).
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 神は幸せなのか?//
 この疑問は馬鹿げてはいない。
 我々の伝統的な考え方からすると、幸せとは心の感情の状態の一つだ。
 しかし、神には感情があるのか?
 確かに、神は我々被造物を愛すると言われている。そして、愛とは、少なくとも世俗人間世界では、一つの感情だ。
 しかし、愛とはそれが報いられたときの幸せの源の一つであり、神の愛は、その客体の誰かにのみ報われるのであって決して全員によってではない。
 ある者は神は実在するとは信じないし、ある者は神が存在するかどうかを気にしないし、あるいは神を憎悪して、人間の苦痛や悲惨を前にして無関心だと責め立てる。
 神が無関心ではなくて我々のような感情をもっているならば、神は人間の苦しみを目撃して、つねに悲しみの状態で生きているに違いない。
 神は、その苦しみの原因になったわけでもないし、望んだわけでもない。だが、全ての悲惨、恐怖および自然が人々にもたらす又は人々がお互いに加え合う残忍さを前にして、無力なのだ。//
 一方で、神は完全に不変であるとすれば、我々の悲惨に動揺したりすることはありえず、したがって神は無関心であるに違いない。
 しかし、神が無関心だとすれば、いかにして神は慈愛の父であることができのか?
 そしてもし不変ではないとすれば、神は我々の苦しみに共感し、悲しみを感じる。
 いずれの場合でも、我々の理解できる全ての意味において、神は幸せではない。//
 我々は、聖なる存在を理解することはできないことを認めざるをえない。-全能の、神自身においてかつ神の外部にある何かとしてではなく自身を通じて全てを知る全智の、そして苦痛や悪魔に影響を受けない、聖なる存在のことを。//
 キリスト教の本当の神、イェズス・キリストは、認識可能な全ての意味において、幸せではなかった。
 キリストは、痛みを現実化されて苦しんだ。キリストは仲間の者たちの苦しみを分け持った。そして、十字架の上で死んだ。//
 つまりは、<幸せ>という言葉が聖なる存在にあてはまるとは思えない。
 しかし、人間にもそれはあてはまらない。
 我々が苦しみを経験しているのだけが理由ではない。
 あるときに苦しんではいないとしても、肉体的および精神的な愉楽や『永遠に続く』愛を超える瞬間を体験することができるとしてすら、我々は、悪魔の存在と人間の状態の悲惨さを決して忘れることができない。
 我々は他人の苦しみに同情はするが、死の予感や生きていることの悲しみを排除することはできない。//
 そうして、全ての愉しい感情は純粋に消極的なものだ、つまり苦痛がないことだ、というショーペンハウエル(Schopenhauer)の陰鬱な考え方を、我々は受容しなければならないのか?
 必ずしもそうではない。
 我々が善(good)だと経験するもの-美的な歓喜、性的な恍惚、あらゆる種類の肉体的精神的愉楽、豊かにしてくれる会話と友人の情愛-は全てたんなる消極物だと考える必要はない。
 このような経験は我々を強くし、精神的により健康にさせる。
 しかし、悪魔についても苦しみについても-malum culpae あるいは malum ponae -、これらは、何もすることができない。//
 もちろん、自分は成功しているとの理由で幸せだと感している人々はいる-健康面であれ豊かさ面であれ、隣人たちから尊敬(または畏怖)されている。
 このような人々は、人生は幸せそのものだったと信じるのかもしれない。
 しかし、これはたんなる自己欺瞞だ。時が経つにつれて、その人たちは真実を認識するのだとしても。
 真実は、その人たちは残りの我々のように失敗者だ、ということだ。//
 ここで異論が生起しうる。
 我々が高い種類の真の知識を学んだとすれば、アレクサンダー・ポープ(Alexsander Pope)のように何であれあるものは正しい(right)と、あるいはライプニッツ(Leipniz)のように我々は論理的に可能な全ての世界の最善の中に住んでいると、信じるかもしれない。
 こうしたものを精神的に受容することに加えて、つまり神にいつも導かれているので世界の全ての物事は正しい(right)と単純に信じることに加えて、我々の心の中でそのとおりだと感じ、壮麗さや、日常生活にある普遍的なものの善性(goodness)や美しさを経験するならば、我々は幸せだとは言っていけないのだろうか?
 答えは、否、だ。
 我々は、そうできない。//
 幸せとは我々が思い抱くもので、経験ではない。
 地獄や煉獄がもはや機能しておらず、全ての人間が、ただ一人の例外もなく神によって救済され、何も不足なく、完璧に充足して、苦痛や死もなく、いま天上界の至福を享有しているのだと思い浮かべると、彼らの幸せは現実にあり、過去の悲しみや苦しみは忘れ去られてしまったと、思い描くことができる。
 このような状態を思い抱くことはできる。しかし、それはかつて決して経験されてきていない。それを見た者は、これまでにいない。//
 2006年
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 終わり。

1561/『自由と反共産主義』者の三層等の闘い⑤ー「日本会議」とは何か。

 1) 「民主主義対ファシズム」という虚偽宣伝(デマ)。
 2) 反「共産主義(communism)」-強いていえば、「自由主義」
 3) 反 Liberal Democracy-強いていえば「日本主義」または「日本的自由主義」。
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 1) の点にしか関心を持たない人々はまだ多い。
 <民主主義対ファシズム>は、<民主主義対日本軍国主義(の再来)>でもよいし、<ふつうの人対右翼・反動>でもよい。
 こう二項対立的にだけ捉えて、上の文字対比もそうだが、<右側>にさえ進行させなければ日本は助かる、と思っている人々だ。
 <右翼>にだけは進ませてはならない、それを代表するのは安倍晋三であり、橋下徹であり、自民党の背後にいる「日本会議」ら<極右>団体だ、と警戒する。
 <左側>には誰がいるのか ? 日本共産党という「左翼」もいるが、この政党は温和しくて「平和的」そうだし、われわれの戦いの力強い味方になってもくれそうだ、とまるで警戒しない。
 そういう、<真ん中ふうの>、良心派・良識派だと自分を位置づけている人は、少なくはないだろう。
 <保守>の側からすれば、<民主主義対ファシズム>という定式自体が、誤謬へと導くもので、悪質な虚偽宣伝図式だ。なぜならば、ファシズムといってもそれと同じ又はきわめて類似した「コミュニズム(共産主義)」もあるのであり、「民主主義」と対抗させるならば、ファシズムと共産主義とを合わせた「全体主義( the totalitarianism, die totale Herrschaft)」を挙げるべきだ。
 そして、元来の<民主主義対ファシズム>とは、第二次大戦での対独伊(・日)での対立軸とされ、<民主主義>の中にソヴィエト連邦も含んでいたという欺瞞があると、まともな<保守>は考える。
 英米仏・ソ連-対ー日独伊、という対立図式を語るのは、<連合国史観>だ。
 今日に「民主主義対ファシズム」という対立図式を維持しようとする無邪気な人々は、この決定的に重要なことを忘れている。
 ソ連は、いかなる意味で「民主主義」国だったのか ?
 戦後の東欧諸国等も含めて、「人民民主主義」あるいは「プロレタリア民主主義」の国だったのか。英米仏の(ふつうの ?)民主主義とどう違うのか。
 ここまですら立ち入らないで、<民主主義対ファシズム>という図式で思考したい無邪気な人々はまだ多いかもしれない。
 この対立図式を喜ぶのは、かつて日独伊を敵にして戦った(とされる)国の一つ、ソ連の公式イデオロギーだったマルクス主義・共産主義をなおも支持し、基礎にしている、国家(例えば共産中国)や政党だ(例えば日本共産党)だ。
 巧妙に、自分たちを「民主主義」陣営の中に隠してしまう。
 だがそれはじつは、例えば日本共産党にとっての「革命戦術」でもある。つまり、「民主主義革命」-「社会主義革命」という<二段階革命>論を採ることを明記・明言する日本共産党にとって、当面は「民主主義(の徹底)」を擁護し、周囲に「民主主義」を警戒しない国民たちを引きつけるのは、重要な戦略であり、当面の目標ですらある。
 <保守>の側には、「東京裁判史観」の拒否を主張する、唱道する人々が多いようだ。
 しかし、「東京裁判史観」という語は必ずしも適切ではない。
 つまり、アメリカの単独軍事占領途上のこの「東京裁判」の主体はアメリカだった、正確にはアメリカのみだった、という印象を与えかねない。
 時期的にもむしろ、アメリカの対戦争観は日本占領時に形成されたのではなく、戦時中からあったと見るべきで、それはとっくに<戦後処理>のための諸会談等に現れていた。
 したがって、<連合国史観>とでも呼ぶべきだろう。
 <東京裁判史観>という語は、戦後直後のある一時期にのみ焦点、関心を集めてしまう、そして「敵」をアメリカにのみ求めがちになりやすい、という難点があるだろう。
 間に「東京裁判」の語について挿んだが、元に戻ると、<民主主義対ファシズム>という幻想・虚偽宣伝を打破するためには、やはり2)の<反共産主義>の意識化、明確化が同時に必要だ。単層、一面だけの思考をしてはいけない。
 すでに述べた<民主主義対ファシズム>意識者は、一面・一相・一層でしか物事の基本的事項を理解できない人たちだ。これに反対する<保守>は、多面的・多構造・多様相の、総合的・立体的な思考をしなければならない。
 時代的かつ論理的には 1)の基本論点が先行するようにも思えるが、1) と2) は厳密に分けることができない。
 したがってまた、「反共産主義」を明確にできない、正面から掲げない<保守>は、決して、<民主主義対ファシズム>という幻想・虚偽宣伝を打倒することはできないだろう。
 そのような<保守>は、逆に、<ファシズム>の側に追いやられて、相変わらずの ?「右翼だけはダメだ」という単純な思考に負けてしまう可能性が高い。最終的に勝利することは、おそらくないだろう。
 <反共産主義>を主張しない、あるいはそもそもコミュニズムという思想とそれがもたらした(もたらしている)凄絶な現実に対する関心・興味を示していないと見える櫻井よしこや、あるいは椛島有三ら「日本会議」派は、この基本的な論争点・軸の視点について、大きな欠陥を抱えている。欠陥というよりも、欠如しているごとくで、話にならないのだ。例えば、「日本会議」ウェブサイトで「マルクス主義」や「冷戦」がどう語られているかを見てみたまえ。
 もっとも、そのような、つまり<反共産主義>を具体的・明確に説かない<保守>論者は、櫻井よしこ等々または「日本会議」系以外にも多い。これが、日本のじつに憂うべき点だ。例えば、佐伯啓思には<反共産主義>が全くかほとんどない。「自由と民主主義はもうやめる」だけではダメだ。西尾幹二においても不足している。
 1) と2) は、論理的に不可分だが、勝利すればよいし、それは不可能とはいえない。
 しかし、3) は、そうではない。つまり、近代的または欧米的 Liberal Democracy は、われわれ日本と日本人の一部にすでになってしまっている。
 明治以降の歴史の現実によって、そうなってしまっている。戦後に特有な現象ではない。むしろ戦前・戦中の方が、日本<独自>性の意識は強かったかもしれない。
 したがって、<切り分け>が必要だ。
 近代的または欧米的 Liberal Democracy とは、現日本国憲法の「思想・理念」でもある。今の日本は、<1947年憲法>体制の時代だ。
 3) をくぐり抜けるには、この憲法との大きな戦いが必要でありかつ、擁護すべき所は擁護する必要がある。
 自衛隊にかかる九条問題や緊急事態条項などは、理論的・歴史的には、じつは些細な問題で、九条に特化したような<護憲対改憲>の対立が大きな根本的対立軸になっているのは、一種の<幻影>だろう。あるいは、そのように、<平和・軍事>問題に関心を集中させたい勢力があるのだろう。
 現九条二項は、近代的・欧米的 Liberal Democracy と何の関係もない。
 現九条二項護持論者は、じつは全くの<日本独自>論者で、偏狭なナショナリズムの持ち主だ。あるいは、「社会主義(共産主義)」国に対する武力を日本に持たせたくない、又は自分たち「共産主義」者に武力が向けられるのを怖れている「共産主義」者たち、つまり日本共産党等だ。
 近代的・欧米的 Liberal Democracy との闘いという意識は、西尾幹二や佐伯啓思らにはきっとあるだろう。
 しかし、この点でも決定的な欠陥をもつのは、櫻井よしこらおよび椛島有三ら「日本会議」系の<保守>だ。
 <天皇・皇室>は、これだけでは「価値」にならない。
 <日本>を語るのはよいが、その具体像に踏み込まなければいけない。日本の<歴史と伝統>だけではほとんど全く意味がない。
 この人たちは、何を追求しているのか、「訳が分からない」人々だ。
 現憲法のどれを基本的には残してどの部分は「改正」するのか、という議論が本当は必要だ。
 明治憲法にいったん戻って、そのあとどうするのか? まさかそのままでいくわけにはいかないのでは?
 三権分立-最高裁判所等は維持するのか? 「国家」と「国民」との基本的な関係をどう築くのか(いわゆる<公共>と<人権>の問題)?
 じつは重要な将来の課題はいっぱいあるのだ。
 中央国家(この場合は国会と裁判所機構を含む)-都道府県-市町村という(東京都区部を除く)三層構造は憲法の問題か法律の問題か?
 最高裁判所とは別に「憲法裁判所」を、ドイツや韓国のように、設置するという議論はどうなのか? 今のような「参議院」でよいのか? そもそも現在のような国会-内閣の基本的関係を維持するのか(議院内閣制か大統領制か。これは上の三権分立に関係する話でもある)。
 真面目に思考する人はほとんどいない。
 <保守>を商売にしている人が多すぎる。<左翼>を生業としている人々は、さらにもっと多い。いいかげんにして死んでしまわないと、精神の健康さを保てないようにすら思える。

1559/神は幸せか?①-2006年のL・コワコフスキ。

 L・コワコフスキ(1927~2009)は、「神学」者でもあったらしい。
 そしてキリスト教関係の諸概念・「教義」・故事来歴・歴史をきっと(欧米知識人にしばしばあることだが)をよく「知っている」のだろう。
 しかし、頭の「鋭い」、探求好きのこの人は、「神」の存在を「信じて」いただろうか?
 信じてなどいないのではないか。そうでなければ、「神は幸せか?」という奇妙な問いを発したりはしないのではないか。「神」について<幸せ>かどうかという発問をするのは、敬虔な信者にとってはありえないことではないか ?
 いや、この人は「神」の存在を信じていたようにも見える。但しそれは、「悪魔」と一体として、または同時に存在するものとしてだ。
 自分の周囲に、またはその「東方」に、かつてL・コワコフスキは「悪魔」が具現化したものを、あるいは「悪魔」のさんざんの所業を見てしまったのではないか。
 こんなことを思ったのは、以下の小論考(エッセイ)を読む前のことだ。
 L・コワコフスキ、79歳のときの文章。
 Is God Happy ? (2006), in : Leszek Kolakowski, Selected Essays (2012).
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 神は幸せか? ①。
 シッダールタ、のちのブッダの初期の伝記から明らかになるのは、人間の状態の悲惨さに全く気づかなかった、ということだ。
 王族の子息として、音楽や世俗的な快楽に囲まれて、愉楽と贅沢の中で青年時代を過ごした。
 シッダールタは、神が彼を啓発しようと決定するまでに、結婚していた。
 ある日彼は、哀れな老人を、そしてひどい病気の人の苦しみを、そして死体を、見た。
 老化、苦痛、死というものの存在--彼が気づいていなかった人間の全ての痛ましい様相--が彼の身近になったのは、ようやくそのときだった。
 これを見てシッダールタは、世俗世界から離れて僧になり、ニルヴァナ(Nirvana)への途を探求しようと決意した。//
 我々はそして、人間の残酷な現実を知らない間は彼は幸せだった、と想像するかもしれない。
 彼の人生の最後に、長くて苦難の旅のあとで、地上の状態を超えるところにある本当の幸せをかち得た、と想像するかもしれない。//
 ニルヴァナを、幸せの国のごとく叙述することができるのか?
 この執筆者〔私〕のように、初期仏教の教義を原典で読めない者には、これは確かでありえない。< happiness (幸せ) > という語は、翻訳文には出てこない。
 < conciousness (意識) >、< self (自己) >のような言葉の意味が今日の言語の元々の意味に対応しているのは確かだ、というのは困難だ。
 ニルヴァナは自己の断念を要求すると、我々は語られている
 これは、ポーランドの哲学者、エルツェンベルク(Elzenberg)が主張するように、誰かが幸せであるということとは関係がない、つまり主体はなく、ただ幸せだけがありうる、ということを示唆していると理解してよいのかもしれない。
 これは馬鹿げているように思える。
 しかし、我々の言語は、絶対的な現実を叙述するために決して適切なものではない。//
 ある神学者は、我々は、神は神ではないと言って、否定によってのみ神を語ることができる、と論じた。
 我々はおそらく同じように、ニルヴァナとは何であるかを知ることができないし、ニルヴァナはニルヴァナでない、としか言えない。
 だが、たんなる否定で満足するのはむつかしい。もう少し何かを語りたい。
 そして、ニルヴァナの国ではどうなのかについて語るのは許されると想定しても、最も困難な疑問は、これだ。この国の人は、周りの世界に気づいているのか?
 そうでなければ、かりにその人は地上の生活から完全に離れているのだとすれば、その人はいかなる種類の現実の一部なのか?
 そして、その人が我々が経験している世界に気づいているのだとすれば、その人はまた、悪魔にも、苦しみにも気づいているに違いない。
 しかし、悪魔や苦しみに気づいていながら、なおも完全に幸せである、ということはありうるのか?//
 同じ疑問は、キリスト教の天国の、幸せな住人に関しても生じる。
 彼らは、我々の世俗世界から完全に離れて、生きているのか?
 そうでないなら、地上の存在の悲惨さに気づいているなら、世界に生起する恐ろしい物事、世界の極悪非道な一面、悪魔と痛みと苦しみとを知っているなら、言葉のいかなる認識可能な意味においても、彼らは幸せではありえない、のではないか?
 (<幸せ>という言葉をここでは、<航空機内のこの座席で happyですか>とか、<このサンドイッチで全くhappyですか> とか言うような、<十分な(content)>や<満足した(satisfied)>という以上のことを意味しないものとして使っている、ということを明確にしておくべきだろう。
 幸せに対応する言葉は、英語では広い射程の意味をもつ。他のヨーロッパの諸言語では、もっと制限的だ。したがってドイツ語では言う、<幸せだ(happy)、でも、ぼくは幸運(gluecklich)ではない>。)//
 仏教とキリスト教のいずれも、魂の究極的な解放は、完全な静穏、精神の完全な平穏だ、と示唆している。
 そして、完全な静穏とは完璧な不変と同じ意味だ。
 しかし、私の精神が不変の状態にあるとすれば、そして何からも影響を与えられないとすれば、私の幸せは、一個の石の幸せのごときものだろう。
 一個の石は悪魔からの救いを完全に具現化したものでニルヴァナだと、我々は本当に言いたいのか?//
 真に人間的であるということは、同情を感じる、他人の苦痛や愉楽に共感する、という能力をもつことを含んでいるので、若きシッダールタは、幸せだったに違いない。あるいは、ただ彼が無知だった結果として、幸せだという幻想を味わったに違いない。
 我々の世界では、この種の幸せは、子どもたちにだけ、一定の子どもたちにだけある。
 五歳以下の子どもたちと言っておこうか、愛する家族の中にいて、彼に身近な者の大きな苦しみや死を経験したことがない。
 おそらくこのような子どもは、私がいま考えている意味において、幸せでありうる。
 五歳を超えると、我々はたぶん、幸せであるには年を取りすぎている。
 もちろん、我々は、刹那的な愉楽、不思議と大幻惑の瞬間、そして神や宇宙と一体となる恍惚感すらも、体験することができる。我々は、愛や歓びを知っている。
 しかし、不変の状態としての幸せは、我々には到達できそうにない。本当の秘儀の世界でのきわめて稀な場合をおそらく除いては。//
 これが、人間の状態というものだ。
 しかし、我々は幸せは聖なる存在のおかげだと推論できるのだろうか?
 神は幸せなのか?
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 あと1回、つづく。

1555/『自由と反共産主義』者の三相・三面・三層の闘い④。

 「あいつが、死んだ。
  生きたって死んだって俺には同じ、と言いながら。
  みんなが愛したのに、幸せのはずが、どうして。
  紫陽花の花を愛した、あいつが死んだ。」
  小椋佳・あいつが死んだ(1971年/作詞・小椋佳)より
 共産主義者同盟(ブント)にも樺美智子にも親近感はないが、<人しれず微笑まん>という遺稿集のタイトルだけは、嫌いでなかった。
 そして今、<人知れず、死んでいこう>と思っている。
 誰もが平等に、死んでいく。世俗的「知名度」も「名誉」も、全く関係がない。
 <顕名欲>というのは、秋月瑛二には、とっくにない。
 「自由」であるのは、一切の組織・団体・個人と関係ないという意味で「孤独」でもある。
 以下の文章も、大海の海底に生息する小さな貝のほんの一呼吸が生じさせる、わずかな水の漂いであってよい。
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 1) 「民主主義対ファシズム」という虚偽宣伝(デマ)
 2) 反「共産主義(communism)」-強いていえば、「自由主義」
 3) 反 Liberal Democracy-強いていえば「日本主義」または「日本的自由主義」。
 ○ 一部の<保守>派の唱える「天皇中心主義」は、上の基本論点に並ぶほどの主題ではない。
 最近の週刊新潮上で、櫻井よしこはますます<神道>宗教、<天皇>教の信徒ぶりを明らかにしている。
 「日本をお創りになった神々」というのは、物語・神話として語られているのならばよいのだが、この人はひょっとすれば、事実・歴史と観念・「思い込み」との区別を知らないで語っているのではないかとも思えて、不気味だ。
 毎日を忙しく過ごしている日本人が櫻井よしこの文章を読んで、日本人としてのある種の<郷愁(ノスタルジー)>または<癒やし>を感じる程度ならよい。しかし、この人の想念が、過半はもちろんだが、数十万、数百万の日本人と完全に共有されているような日本の日本人の姿・様相は、想像したくはない。
 秋月瑛二も、神社や神道が嫌いではない。仏教よりもどちらかと言えば親しみがあると書いたほどだ。しかし、日本書記・古事記の<神代>の話を、かりに何らかの事実を反映しているところがあるだろうとしても、<天孫降臨>を含めてそのままの事実・真実だと考えたことは一度もない。
 神社本庁が関係しているらしき神社関係のテレビ番組でよく、「…と伝わります」という言葉遣いが出てきて、「伝えられている」という他動詞受動態だと<誰によって?>となるので、自動詞で「伝わる」と表現するのは適切だろうと思ったことがある。
 「…伝わっている」でよいのであって、無理やり真実か、事実か、誰が、どこにそのような<由緒>を書いているのかと、個々の神社についてあえて問い糾す必要はないだろう(個々の神社に関する専門的研究者以外は)。
 逆にまた、天皇・皇室の<神代>の歴史を「信じる」ことをしないと日本国民ではないとか、<保守>あるいはナショナリスト(<愛国派>?)ではないとかなどと言い出すと、きわめて生きづらい、というよりも、<恐怖の、全体主義的な>日本社会になってしまうだろう。
 ここで、もともと「歴史」は物語であるとか民族の想念の記述であるとか主張する者が出てくると、ややこしくなる。
 ぎりぎりのところで<感情>に支配されうることを否定はしないが、最初からこのように主張するのは、マルクスやレーニンの教条あるいはソ連の<公式的歴史叙述>教え、「信じ」させた、かつてのソ連圏諸国の共産党や党員学者と同じだろう。
 櫻井よしこは、性質・種類が異なると言ってはいけない。<発想方法・思考方法・歴史叙述の基本的観点>の類似性を指摘している。
 ○ いっとき、<神道>などの日本的宗教は、日本人がマルクス主義に感染しないための、あるいは日本共産党の影響を受けないための防波堤になるだろうと強く思っていた。
 今でも、ある程度はそうだ。神社一家の子弟が簡単に共産主義・日本共産党に「染まる」とは思えない。
 そしてまた、神道政治連盟等の組織・団体に期待するところもある。
 さらには、R・パイプスがレーニンに関連して(但し<左翼>系について)述べるような、「政治責任」を負うのを死ぬほど怖れかつ現実の「権力行使」をすることのできない口舌の徒=評論家である<(保守系)知識人>などよりも、神職者たちの方がはるかに、<共産主義>の浸透に対して抵抗するのではないか、と想像したりもした。
 具体的にいえば、日本に<(何国系であれ)共産党政権>ができるかできそうなときに、<実力>を行使してでも抵抗=武装による敵対をするのは神社関係者(または「容共」ではない仏教関係者)ではないか、と思ったりもした。
 しかし、最後の防波堤、<反共産主義>の最後の砦、というイメージは現在は持っていない。
 歴史的にみて、<宗教関係者>はけっこう、<権力への迎合>をしてきている。
 神道・神社よりも、仏教・寺院の側にむしろ<反体制>的抵抗は多かったようにも見える(一向一揆、信長等に対する本願寺等々)。
 かりに<神道・天皇中心主義>が<反共産主義>と同じ意味であるならば、上にいう 2)に関連して言及するだろう。
 しかし、そういうわけにはいかない、と考えている。
 日本の現在の宗教関係者(さしあたり神道と仏教)の中には、いざとなれば、<共産主義>政権とでも「同衾」をする者がいるのではないか?
 日本の現在の宗教関係者もまた、「権力」の動向に関心が深くて、かつ決して<反権力>ではないのではないか?
 ○ 理論的かつ歴史的( ?)に見ると、前回に言及した北一輝は、例えばその1923年・大正12年(共産主義インター日本支部=日本共産党設立の翌年)の『日本改造法案大綱』で、「社会主義」と「天皇」とを対立するものとは考えていない。
 <天皇・皇室を最高指導者(・層)に祭りあげたうえでの社会主義(・共産主義)>というのは、ありうるのだ。現に、それに惹かれたとされる若い軍人たちもいた。
 はたして、<極右>なのか、<極左>なのか ?
 その「社会主義」性は、言葉・概念うんぬんの問題ではなくして、明確だ。
 北一輝・日本改造法案大綱(1923)/同著作集第二巻(みすず書房、1959)による。カタカナをひらがなに変える。「天皇の原義。天皇は国民の総代表たり、国家の根性たるの原理を明かにす。」を冒頭に掲げつつ、「華族制廃止」、「貴族院を廃止…」等のあと、こうある。
 「私有財産限度。日本国民一家の所有し得べき財産限度を一百万円とす。/
 海外に財産を有する日本国民亦同じ。/
 此の限度を破る目的を以て財産を血族其他に贈与し又は何等かの手段によりて他に所有せしむるを得ず。/
 私有財産限度超過額の国有。私有財産限度額は凡て無償を以て国家に納付せしむ。//
 違反者の罰則は、国家の根本を紊乱する者に対する立法精神に於いて、別に法律を以て定む」。//以上、p.288-9、p.300。
 「私有地限度。日本国民一家の所有し得べき私有地限度は時価拾万円とす」。p.302//
 「私人生産業限度。私人生産業の限度を資本金一千万円とす」。p.307//
 つまり、「天皇」と<容共>は矛盾していない。
 もう一つ例証を挙げる。少しは関連するだろう。
 月刊正論2017年3月号(産経、編集代表・菅原慎太郎)は再三言及するように、<編集部>による「保守」の基本要素を4点挙げる。
 そこでの、④「反共」は、①~③とは別に位置づけられる。p.59。
 月刊正論「編集部」において、「反共産主義」とは、①「伝統・歴史的連続性」、②「国家と共同体と家族」、③「国防と戦没者への慰霊」とは別の次元にある
 月刊正論<編集部>によるアホらしい「保守」理解があるから却って戸惑うが、「伝統・歴史的連続性」の中に同編集部が含めているのかもしれない「天皇(中心)主義」とは、どういう価値を持つものなのか?
 櫻井よしこらは、いったい何を追求しているつもりなのか。
 上の①~③の程度では、独自の「価値」ではないだろう。これら全部が、<保守>派ではなくとも、日本人が日本のことを考えるならば、当然のことだとも言いうる。
 さらに続けよう。

1554/北一輝における「明治維新」等と櫻井よしこらの悲惨。

 「櫻井よしこと北一輝は、どこが違うのか」、などと、前回最後の方で恥ずかしい問いかけをしてしまった。
 1906年、明治39年、この年に北一輝は23歳。夏目漱石(1867-1916)は39歳。正岡子規は同年生まれだが、死んでいた(1867-1902)。
 北一輝・国体論及び純正社会主義は、1906年5月に、北一輝が満23歳になつた翌月に自費出版された。
 北一輝著作集第一巻(みすず書房、1959)に収載されている上掲書からただちに引用しよう。
 我々が今日にいう明治維新のことを、この本は「維新革命」と言っている。旧漢字は現在のものに改める。
 「日本今日の政体が民主的政体なることは後の歴史解釈に於て維新革命の本義が平等主義の発展なるを論じたる所を見よ」。p.233。
 「維新革命は…貴族階級のみに独占せられたる政権を否認し、政権に対する覚醒を更に大多数に拡張せしめため者にして、『万機公論に由る』と云う民主主義に到達し、茲に第三期の進化に入れるなり」。p.245。
 冒頭に北一輝と櫻井よしこを比較しようとしたのは間違いだったと書いたが、両者は比較できるレベルにないという趣旨であって、前回に北一輝について(手元に文献を置かずして)走り書きしてしまったことの内容に誤りはない。
 『万機公論に由る』とは、五箇条の御誓文の言葉だろう。そして、櫻井よしこが述べたことがあるように、北一輝もまた(!)「維新革命」に、そしてこの文書のこの部分に「民主主義」を見ている(この文書のこの部分だけ、というわけでもない)。
 上の二つめの文章を<現代語>化し、さらにその続きの部分も掲載してみよう(現代語化の責任はこの欄の執筆者にある)。
 「維新革命は、無数の百姓一揆と下級武士のいわゆる順逆論によって、貴族階級のみに独占された政権を否認し、政権に対する覚醒をさらに大多数に拡張させたものであって、『万機公論に由る』という民主主義に到達し、ここに第三期の進化に入ったのである。/
 しかして、国家対国家の競争によって覚醒する国家の人格が、攘夷論の野蛮な形式のもとでの長い間の統治の客体たる地位を脱して、『大日本帝国』と云い、『国家の為めに』として国家に目的が存在することを掲げ、国家が利益の帰属すべき権利の主体であることを表白するに至ったのである。/
 この国家を主権体とする公民国家の国体と民主的政体とは維新後23年までの間を国民の法律的信念と天皇の政治道徳とにおいて維持し、その後、帝国憲法において明白に成文法として書かれるに至って、ここに維新革命は一段落を画し、もって現今の国体と今日の政体とが法律上の認識を得たのである」。
 秋月私注/①「貴族階級」は徳川幕府・徳川家を含む。②第三期とは、古代、中世の後の「維新革命」以降のこと。③天皇「等」(!)が国家を所有した時代は終わり、天皇も国民も国家の一員になった(そのかぎりで上記にいう「平等主義」)、国家の一機関・一制度として天皇はある、というのが北一輝の考え方。
 先に今回の結論めいたことを書くと、北一輝には、国家・「国体」・天皇論等がきちんとある。
 一方、天皇の最優先の仕事は「祭祀」、ご存在だけで有り難いという櫻井よしこらには、きちんとした国家論・天皇論はない。この人たちにはいったい何があるのか。単純な観念と情緒だけか。
 僅か23歳の若者が110年余も前に自費出版して世に問うた考え・議論・論理の方が、例えば櫻井よしこが大手新聞会社が発行する月刊雑誌(月刊正論・今年3月号)にあたかも「保守」を代表するかのごとく書いた文章におけるそれらよりも、はるかに興味深いし、はるかに示唆に富む。そういった意味で、はるかに優れている。
 悲惨だ。
 上のつづきのやや離れた部分以降を、さらに紹介しておこう。//はもともとの改行。原書には/に改行はない。
 「以上の概括は、つぎのとおりである。/
 今日の国体は国家が君主の所有物としてその利益のためにあった時代の国体ではなく、国家がその実在の人格を法律上の人格として認識された公民国家という国体である。/
 天皇は、土地人民の二要素を国家として所有した時代の天皇ではなく、美濃部博士が広義の国民の中に包含するように国家の一分子として他の分子たる国民と等しく国家の機関であることにおいて大なる特権を有するという意味においての天皇である。/
 臣民とは天皇の所有権のもとに『大御宝〔おおみたから〕』として存在した経済物ではなく、国家の分子として国家に対する権利義務を有するという意味での国家の臣民である。/
 政体は特権ある一国民の政治という意味の君主政体ではなく、また平等の国民を統治者とする純然たる共和政体ではない。/
 すなわち、最高機関は特権ある国家の一分子と平等の分子とによって組織される世俗のいわゆる君民共治の政体である。/
 ゆえに、君主のみが統治者ではなく、国民のみが統治者ではなく、統治者として国家の利益のために国家の統治権を運用する者は最高機関である。/
 これは法律が示す現今の国体でありまた現今の政体である。/
 すなわち、国家に主権ありと云うをもって社会主義であり、国民(広義の)に政権ありと云うをもって民主主義である。//
 以上によって観るに、社会主義は革命主義であると云うをもって国体に抵触するという非難は理由がない。/
 その革命主義と名乗る所以は、経済的方面における家長君主国〔北のいう第二期〕を根底より打破して、国家生命の源泉である経済的資料を、国家の生存進化の目的のために、国家の権利において、国家に帰属すべき利益とするためである」。p.247。<後略>
 北一輝のいう「社会主義」、当時および二・二六事件頃までのマルクス主義文献の影響、<「右」と「左」の判別し難さ>などについて、また言及する機会があるだろう。
 タイトルに「櫻井よしこら」としたのは、櫻井よしこだけではなく、月刊正論編集部(菅原慎太郎)や月刊WiLL・月刊Hanadaの編集長を含む<取り巻き>を含める趣旨だ。

1552/R・パイプスとL・コワコフスキが隣に立つ写真から。

 ○ 世界中で、日本に限ってとしてすら、多数の人が生まれ、そして死んでいっている。
 それぞれの死は悲しいものに違いないが、世界中の、日本に限っても、全ての各人の死を嘆き悲しむことなどできるわけがない。
 一粒の涙ずつ流したとしても、一日で足りるのだろうか。
 所縁のない人々の死をいちいち考えていては、人は生きていけない。
 遺族にとっては突然の死(事故であれ自然災害であれ)もあれば、「大往生」と呼ばれる死もあるだろう。不条理な死も、きっとあるだろう。しかし、ほとんど圧倒的な場合について、<遺族>または関係者以外の人々は、いちいち考える余裕もなく、それぞれに生きている。
 こんなことを書きたくなったのも、一枚の写真を書籍の中でたまたま見た(たぶん初めて気づいた)のがきっかけだ。
 外国の、かつまた自分には私的な関係はこれっぽっちもない人々のことながら、その死を思って、涙が出た。
 Richard Pipes, VIXI - Memoirs of a Non - Belonger (2003)。
 このp.133に、つぎの4名が立って、十字のように向かい合って何か語っている写真がある。1974年、イギリス・オクスフォードでのようだ。右から。中の二人の表情が最もよく撮れている。
 アイザイアー・バーリン(Isaiah Berlin)、リチャード・パイプス(Richard Pipes)、レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)、イタリアの歴史学者のフランコ・ヴェンチュリ(Franco Venturi)。
 最後の人だけ名前も知らなかったが、R・パイプスの初期の研究対象と同じく19世紀のロシア、および1789年以前のヨーロッパについて主として研究したようだ。以下、() は写真のときの年齢。
 Isaiah Berlin、1909.06~1997.11、満88歳で死去 (65歳)。
 Leszek Kolakowski、1927.10~2009.07、満81歳で死去 (47歳)。あの、L・コワコフスキだ。
 Franco Venturi、1914.05~1994.12、満80歳で死去 (60歳)。
 そして、Richard Pipes、1923.07~ (51歳)。
 前回に2015年2月付のR・パイプス著の「序言」に言及したが、そのときすでに、満91歳なのだった。
 そして、自分には私的な関係は一切ない人物だが、この人もいずれは亡くなるのだと思うと(自分も勿論そうだが)、涙が出た。
 誰もがみんな、いずれ死んでいく。
 ○ リチャード・パイプスについて書かれている日本語文献は、多くない。
 二冊の詳しく長い方の、ロシア革命とその後のスターリン直前までの書物には邦訳書がない。
 『共産主義の歴史』と素直に邦訳されてよいこの人のコンパクトな書物は、<共産主義者が見た夢>という、誰か特定の共産党員の個人的思い出話とも誤解されそうな邦題が付けられた邦訳書になっている。
 下村満子・アメリカ人のソ連観(朝日文庫、1988)は1983年初頭のR・パイプスインタビュー記事を載せていて、珍しく、かつ興味深い。
 もう一つ、上の Richard Pipes, VIXI - Memoirs of a Non - Belonger (2003)の、詳しいわけではないが、貴重な書評記事が、以下にある。
 草野徹「気になるアメリカン・ブックス/28回」諸君!2007年11月号(文藝春秋)p.243-5。
 
草野徹はR・パイプスの書名を『私は生き延びた-自主的な思想家の回想録』と訳している。
 < a Non-Belonger >の意味がむつかしいところで、最初はどの党派にも属さない、つまりは社会主義や共産主義政党から独立した(自由な)者との意味かと思ったが、のちにはだいぶ離れて、ポーランド出自のこの人は20歳のときにアメリカに帰化してもなおも<帰属意識>をもてない、祖国ではない国に生きた、という意識からする言葉かとも思った(40歳頃に社会主義ポーランドを離れたL・コワコフスキについてもある程度はそういう問題の所在を指摘しうるのではなかろうか-多くの日本人には分かりにくい)。
草野は、同僚学者たちからも際立つほどの、つまり仲間がいないか極めて乏しい=帰属先のない学者、独立した<反共産主義・反ソ連>意識の持ち主だったことを、< a Non-Belonger >性だと理解しているようだ。たぶんこれで正しいのだろう。私はほとんど読んでいないので、判断しかねる。
 ともあれ草野徹の紹介によると、R・パイプスというのは、つぎのような考えの持ち主だ。
 「共産主義一般や特にソ連に対して否定的見解」に立つ。
 「スターリニズムはレーニニズムにその兆しがある」。
 「ソ連の残虐な独裁は、スターリンの個性の結果というより、ボルシェヴィキ革命の必然的結果である」。
 60年代の大学騒擾を「嫌悪しながら見詰め、マルクス主義の方法論を用いてソ連に共感する『修正主義者』と対立」した。
 あとは、R・レーガン大統領のもとでの安全保障会議補佐官の時代のことだ。
 R・パイプスは<対ソ連強硬派>だった。この点はこの欄でも触れている。
 草野によると、R・パイプスが嫌ったのは<対ソ連融和派>(秋月)とも言うべき「西側ジャーナリズム」で、これは「①ソ連は安定していて、外部から破壊はもちろん、体制変更はできない。②そんなことを試みれば、ソ連は硬化し、核戦争につながる危険がある」との前提で共通していた、という。
 草野は最後にまとめる-R・パイプスという「圧力行使で『悪の帝国』を倒せると考えた数少ない一人、時代におもねらない自主的な思想家」が、「歴史の歯車に油を差したと言えるかもしれない」と(さらに、「日本の学者」は ? と続けるが)。
 リチャード・パイプスの書物の試訳を行ったり、また部分的にだが(まるでポーランドのふつうの哲学者か東欧の怪談お伽話の作家のごとく日本では扱われているかもしれない)L・コワコフスキの著作を邦訳したりすることの意味は十分にある、と秋月は考えている。
 またさらに、<軟弱・融和・表向き平和>論でないR・パイプスの<強硬論>は、決して過去に関することではなく、現今の北朝鮮や中国に対する外交等の政策についてもある程度は参照されてよいと思われる(日本政府に何ができるかという問題はあるが)。
 民主党政権、オバマ大統領は、ぃったいどうだったのか ? また触れてしまうが、櫻井よしこは、大局を無視して、<トランプへのケチつけ>ばかりするのはやめた方がよい。
 ○ 日本とは違う<反共産主義>の思想・雰囲気がアメリカには大勢ではないにせよ強くある、ということは、「左翼」・対ソ連<融和>派の朝日新聞・下村満子も書いていた。
 1992年のソ連解体以前の文章だが、同・上掲書、p.614は言う。
 「アメリカ人の反共精神、対ソ不信感には、非常に根強いものがあり、これはほとんどアメリカの体臭といっていいほどのものだと私は考えている」。
 こう書きつつ、レーガンの反共・対ソ強硬姿勢はきっとうまく行きそうにないとの雰囲気で朝日新聞記者らしくまとめているのだが。
 ○ しかしともかくも、日本人は、日本とアメリカ等の違いを、共産党・共産主義に対する見方についても、本当はもっと実感しなければならないのだろうと思う。
 1992年以降、イタリア共産党はなく、フランス共産党も1980年にミッテラン大統領を社会党とともに生んだ力はまるでない。
 なぜ日本には日本共産党があって600万票を獲得し、隣国には「中国共産党」があるのか。
 北朝鮮のグロテスクな現況は、マルクス-レーニン-スターリン-コミンテルンと関係がないのか ?
 レーニン・スターリン・コミンテルン-金日成・金正日・…、ではないのか ?
 この点を、なぜ日本のメディアは明確に指摘しないのか。
 スターリン以降とは区別された、<レーニン幻想・ロシア革命幻想>が日本には「左翼」にまだ強く残ることについては、また何度も述べる。 

1549/アンジェイ・ワリツキ・マルクス主義と自由(1995)の構成。

 日本の「左翼的」すなわち「容共的」学界・論壇や出版社を含むメディアにとって危険な外国の人物やその著作は、紹介されたり翻訳されたりする傾向がきわめて少ない。
 R・パイプス(アメリカ)についても、F・フュレ(フランス)についても、エルンスト・ノルテ(ドイツ)についても、この人たちは日本で決して全くの無名ではないとしても、そのことを感じている。
 アンジェイ・ワリツキ(Andrzej Walicki)の著書についても、そうだろう。
 その書名は、マルクス主義と自由の王国への跳躍-共産主義ユートピアの成立と崩壊=Marxism and the Leap to the Kingdom of Freedom -The Rise and Fall of the Communist Utopia (1995)。
 この書物につき、この分野の専門的研究者とは見なされていないだろう竹内啓のつぎの論考があり、かなり詳細な紹介とコメントを含む。ネット上で、PDF形式で掲載されている。
 竹内啓・書評/明治学院大学国際学研究2000年3月31日号p.67-p.85。
 
しかし、見事に、この竹内啓PDFファイル以外に、日本では上の著に触れたものはないように見える(氏名の読み方すら分かりにくい。日本語のWikipedia での紹介もないのでないか)。
 以下は、この著の構成(内容)だ。<危険さ>を感じる人がいるだろう。
 しかし、竹内啓も言っているように、マルクス主義と「自由」は、あるいは現代の「自由」とは何かについて、(日本人も)きちんと議論・研究する必要がある。
 マルクス主義・「科学的社会主義」を名乗る政党に「学問の自由」も「出版の自由」も実質的に形骸化されているという、畏るべき実態が日本にはあると思われる。
 そうしてまた、「反共」をいちおうは謳いながら、マルクス主義・共産主義(あるいはレーニン主義・スターリニズム)、あるいは<亜流>マルクス主義者の思想・理論の詳細な分析・研究などにはまるで関心がない、分けが分からなくなっている、日本の<保守>の悲惨な実態もある。有り難さではなくて、その惨状に、涙こぼるる思いがする。
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 アンジェイ・ワリッキ・マルクス主義と自由の王国への跳躍(1995).
 第1章・自由に関する哲学者としてのマルクス。
  第1節・緒言。
  第2節・公民的および政治的自由-自由主義との対立。
  第3節・自己啓発の疎外という物語-概述。
  第4節・パリ<草稿>-喪失し又は獲得した人間の本質。
  第5節・<ドイツ・イデオロギー>-労働の分離と人間の自己同一性の神話。
  第6節・<綱要>-疎外された普遍主義としての世界市場。
  第7節・<資本論>での自己啓発の疎外と幼き楽観主義の放棄。
  第8節・将来の見通し-過渡期と最後の理想。
  第9節・ポスト・マルクス主義社会学伝統における資本主義と自由-マルクス対ジンメルの場合。
 第2章・エンゲルスと『科学的社会主義』。
  第1節・『エンゲルス的マルクス主義』の問題。
  第2節・汎神論から共産主義へ。
  第3節・政治経済学と共産主義ユートピア。
  第4節・諸国民の世界での『歴史的必然性』。
  第5節・『理解される必然性』としての自由。
  第6節・喪失した自由から獲得した ?自由へ。
  第7節・二つの遺産。
 第3章・『必然性』マルクス主義の諸変形。
  第1節・カール・カウツキー-共産主義の『歴史的必然性』から民主政の『歴史的必然性』へ。
  第2節・ゲオルギー・プレハーノフ-夢想家の理想としての『歴史的必然性』。
  第3節・ローザ・ルクセンブルクまたは革命的な運命愛(Amor Fati)。
 第4章・レーニン主義-『科学的社会主義』から全体主義的共産主義へ。
  第1節・レーニンの意思と運命の悲劇。
  第2節・『ブルジョア自由主義』へのレーニンの批判とロシア民衆主義の遺産。
  第3節・労働者の運動と党。
  第4節・『単一政』の破壊と暴力の正当化。
  第5節・文学と哲学におけるパルチザン原理。
  第6節・プロレタリアート独裁と国家。
  第7節・プロレタリアート独裁と法。
  第8節・プロレタリアート独裁と経済的ユートピア。
 第5章・全体主義的共産主義から共産主義的全体主義へ。
  第1節・レーニン主義とスターリン主義-継承性に関する論争。
  第2節・世界の全体観念としてのスターリン主義的マルクス主義。
  第3節・『二元意識』と全体主義の『イデオロギー支配制』。
 第6章・スターリン主義の解体-脱スターリン主義化と脱共産主義化。
  第1節・緒言。
  第2節・マルクス主義的『自由』と共産主義的全体主義。
  第3節・脱スターリン主義化と脱共産主義化の諸段階と諸要素。
  第4節・ゴルバチョフのペレストロイカと共産主義的自由の最終的な拒絶。
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 以上。

1545/『自由と反共産主義』者の三つの闘い②。

 「恋でもいい、何でもいい。他の全てを捨てられる、激しいものが欲しかった」。
 1971年/小椋佳・しおさいの詩(歌詞・小椋佳)。
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 1) 「民主主義対ファシズム」という幻想。
 2) 反「共産主義(communism)」-強いていえば、「自由主義」。
 3) 反「自由・民主主義(liberal democracy)」-強いていえば「日本主義」または「日本的自由主義」。
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 <神道・天皇主義>とは何なのか。
 平川祐弘・日本人に生まれて、まあよかった(新潮新書)、櫻井よしこ・日本人に生まれて良かった(悟空出版)、というタイトルの本があるらしい。たぶん、読んでいない。
 日本の「左翼」の<自虐>さに堪えかねて、このようなタイトルの本を書いたのかもしれない。
 しかし、私にはなぜか、しっくりこない。
 なぜかと言うと、「日本」をこのように対象化または客観化できそうにないからだ。
 あるいは、<日本に生まれてよかったか(どの程度よかったか)>などいう問いかけをしたことはおそらくないからだ。
 この二人は何と、おそろしいことをしている、本のタイトルにまでしている、と感じる。
 もう少し書けば、日本とは対象化・客観化できるものではなく、私自身の一部ですらあるからだ。日本に生まれたことがどうだったかを問うことは、他ならない自分自身の一部に問いを投げかけることに他ならない。
 自分の血肉の一部になっているものを、どうやって評価するのか ?
 あるいは、日本人として生まれたことは、自分で選択したことではなく、生まれたときからの宿命・運命だ。
 そういう運命・宿命を、どうやって、<よかった>かどうか、などと問えるのか ?
 樋口陽一(左翼・憲法学者)はかつて、人間として生まれたのは必然だが、日本人として生まれたのは偶然にすぎない、と語った(この欄で触れたことがある)。
 必然とか偶然とかを問題にすること自体が、おかしい。
 あえて言えば、日本人は、通常は、日本「国家」によって、「人」として認知されてはじめて「人」になる。出生届-戸籍-住民票作成・記載のことを意味している。
 人間が生まれて特定の「人」として認めるのは、国際連合(国連)等の国際機関ではない。地球的・世界的には自分の存在を「人」としてまたは「国民」として認めてくれて、その存在を確証してくれるのは、国連等の国際機関ではないし、むろん日本国以外の第三国でもない(外国滞在・旅行中に生まれた場合とか両親の国籍が違う場合には立ち入らない。あくまで多数ないし「通常」の場合を語っている)。 
 このような意味では、人間に生まれたかどうかではなく、「日本人」として生まれたこと自体が必然でかつ宿命的・運命的なことなのだ。
 日本という「(国民)国家」あるいはナショナリズムに対する嫌悪感をもつのだろう樋口陽一には、ではいったいどの国家が、貴方の人間としての存在を記録して、確証するのかと、問わなければならない。
 元に戻るが、日本に日本人として生まれたことを対象化できるのは、もはや「日本」とは別のところにいて自分を第三者的に眺めている天空の仙人のような人物だろう。
 櫻井よしこにも、平川祐弘にも、上のようなその「立場」自体に共感することはできない。
 秋月瑛二は日本人としてのナショナルな感覚を持っていることを、否定しない。
 延々と日本列島で生きてきた先祖たちの後裔だと自覚している。
 その場合の「日本」とは何か。
 これを簡単に表現することはできない。これまで多数の著名・無名の日本人がこれを考えてきた。感じてきた。その中にはもちろん、美しい四季、瑞々しい山河も入ってくる。
 これを「天皇・皇室」に凝縮させる人もいるのだろう。
 「2000年以上」と簡単に語るのは完璧に虚偽だが、3-4世紀頃に(まだ「日本」とは称していなかったが)「天皇・皇室」の祖を中心にした日本国家の端緒に近いまとまりができたのはおそらく間違いない。
 しかし、だからと言って、「天皇主義」と前回に称したが、日本人にとって「天皇・皇室」敬愛の気持ちが、あるいは天皇(家)の継続が最高・至高の価値と見なすことが絶対の、最善・最優先の「主義」だとは考えない。
 二つの意味がある。一つは、はるか悠久の昔から長々と続く家系の後裔者、ということにかかわる。たぶん「王朝交替説」に立ち入る必要もなく、「はるか悠久の昔から長々と」続く、歴史上も種々の重要な位置・意味をもった人々であるだろう。
 しかし、そんなことを言えば、秋月瑛二だって、家名も人名も辿れないにしても、3-4世紀、いやもっと前からおそらくは日本列島に生きて死んだ先祖たちの立派な後裔なのだ。
 涙をこぼすほどに感じる。自分と血のつながる誰かが、1000年も2000年も、そして3000年も前にちゃんといたのだ。だからこそ、自分も、いま、ある。
 「天皇・皇室」への敬愛の情は、決して本能的なまたは自然的なものではない、と思われる。「天皇」家以外にも、長々と系譜をたどれる一族があることによっても、多少はすでに相対化される。
 もう一つは、最近の櫻井よしこが示していることかもしれないが、また「天皇陛下を戴くわが国の在りようを何よりも尊いと感じ、これを守り続けていきたい」と考えるのが<保守>だ、という主張もあるのかもしれないが、そのいわば「天皇(・皇室)主義」を説くことの意味は、実際的な意義は、いったい何にあるのだろうか。
 つまり、何のために、ことさらにそういう主張をする必要があるのだろうか。
 ここまでくると、そういう「主義」の主張が現在の日本の歴史的状況、つまり「戦後日本」と関係があることが分かる。
 そうしてまた、「戦後」または現在の<天皇・皇室>の問題は、「戦後」または現在ではない、「戦前」の、あるいは明治憲法下の<天皇・皇室>との同質性や差違等をも論じないといけないことにもなる。
 しかし、「戦前」あるいは明治憲法下との比較だけをしても十分ではないことは、一目瞭然としている。
 <天皇>の存在とそれにかかわる制度は、明治維新後に新たに発生したのでは、自明のごとく、ない。それ以前に、それこそ長々とした、「悠久の歴史」がある。
 ここですでに、櫻井よしこや平川祐弘や、あるいは「皇室」敬慕こそが<保守>だとする考え方の破綻の一端が現われているだろう。
 典型的には櫻井よしこに見られるように、このような人々がいったいどの程度に、<日本の悠久の歴史>・<日本人とその精神の歴史>を、仏教や儒教のそれも含めて、知っているのか自体、相当に疑わしいからだ。
 明治維新はまだ150年ほど前の事象にすぎない。明治維新についてすら、櫻井よしこのごとくすでに観念的・抽象的にしか捉えることのできていない人がいるのだから、その他の「天皇主義」の<保守>派がどの程度にそれこそ深刻に日本の歴史・日本人の歴史を懐古して、自分のものにしているかは、相当に疑わしい。
 あらためて問う必要がある。「天皇」主義とは、およびこれに関係する「神道・天皇主義」とは、いったい何を目的として、主張されているのか。
 <民主主義対ファシズム>という幻想の打破、反「共産主義」や反「リベラル・デモクラシー」の闘いなどに言及する以前に、初歩的または基礎的な問題に、日本の、とりわけ<保守>派の<論壇>らしきものの幼稚さについて、論及せざるをえないのだ。

1542/『自由と反共産主義』者の三相・三面・三層の闘い①。

 1) 「民主主義対ファシズム」
 2) 反「共産主義(communism)」-強いていえば、「自由主義」。
 3) 反「自由・民主主義(liberal democracy)」-強いていえば「日本主義」または「日本的自由主義」。
 ○これらは強いて対立軸をつくって思考する場合の、論争点または基本論点のようなものだ。一斉に雪崩を打って勝つ場合もあれば、別のものの勝利・克服を前提にしてつぎに進めるという性格のものもあるかもしれない。だが一般的イメージとしては、これらは不可分に絡んでいて、どの面・層あるいは相についても一定の闘いの前進が別の面・層あるいは相についての闘いにもよい影響を与える、という関係にある。
 物事の、あるいは「時代思想」の理解は、複合的に、種々の相・面・層があることを知った上でおこなわれなければならない。上の三項は、たぶんまだ最小限度の<手がかり>だ。
 ○「闘い」という言葉は、本来は好みではない。 
 「闘い」と言えば、全てを「こっち」と「 あっち」の、「こちら側」と「あちら側」の「味方」と「敵」の闘いであるように世の中を描くことが好きな人たちもいる。
 日本共産党にとって、党員は「こちら」・「味方」の中核だろうが、<同伴者(fellow-traveller)>も<共感者(sympathizer)>も大切な「こちら側」の人々に違いない。
 だが、<敵か味方>かという発想は、その間にどっちつかずの「中間」があるとしても<二元的思考>・<二項対立思考>の典型的なものに他ならない。また、<自分と自分たち>中心の社会や人間の見方であって、きわめて傲慢な見方だとも言える。
 この人たちはなぜか<闘い>というのが、好きだ。日本共産党の歴史に関する文書にいや「歴史」文書という大仰なものでなくとも、いったい何度、<~と闘いました>とか<~闘ってきました>という言葉が出てくるか、誰か数えてみるとよい。
 戦争も闘いの一種だろう。
 レーニンが書いたり演説したりしている中に「闘い」というのは、やはりよく出てくる。
 そして、「橋頭堡」とか「管制高地」とかの、本来は軍事用語ではないかという言葉も出てくる。
 あくまでも一種の比喩的な用法だろうと思っていたが、凡人ないし素人とレーニンはさすがに異なる種類の人間だ。
 レーニンがメンシェヴィキとか左翼エスエルとかとの闘争について「戦争(war)」という言葉を使っていて、おののくがごとく驚いたことがある。
 なるほどレーニン・ボルシェヴィキは、政権奪取するや、旧帝制軍隊の一部から成る、あるいはそれらから成長した<白軍>・<白衛軍>等と紛れもなく<国内戦争>、つまり<内戦(civil)>を闘った。また、農民や兵士たちの反乱との闘いも「戦争」で、<内戦>の一種だっただう。
 レーニンの意識としては、白軍や反乱農民たちとの戦いは、どれほど信じていたかは分からないが、他国の帝国主義者によって支援されたロシアにも残存するブルジョアジーとの「戦争」だ。あるいは、「ブルジョアジー対プロレタリアート」の戦争だと解してこそ、正義感をもちつつ勇敢に戦うことができる。「戦う」と言葉では簡単に書けるが、要するに<殺し合い>だ。
 メンシェヴィキとかエスエルとの闘いも、これらの背後に資本主義やブルジョアジーを見るかぎりは、「闘い」は「戦い」であり、「戦争」に他ならなかった。「見せしめ」裁判とその後の公開処刑も、彼らとの「戦い」=war(戦争)だったのだ。
 1917年「10月」までもやるかやられるかの「戦争」だったかもしれないが、レーニンは終生、「戦争」をしながら生きた。彼は軍最高司令官でもあった。「戦争」において、反抗する人々はいくら殺戮しても、あるいは自然に餓死させても、何ら「良心の呵責」は生じなかったに違いない。「戦争」なのだ。「勝利」しなければ自分と自分たちの身が危ないのだ。 
 ○上に書いた中に、「天皇」とか「愛国」が出てこないのはおかしい。この人物は<左翼>だろうと、大まじめに論じる人が、日本の<保守>と言われる者たちの中に、自分たちこそ<(真の)保守>だと思っている者たちの中に、必ずいる。
 産経新聞社の桑原聡は月刊正論編集部を退くにあたって 同誌2013年11月号で「保守のみなさん、……おおらかに共闘しましょうよ」と自らの編集姿勢はどうだったかを棚に上げたうえで、つぎのように書いた。-「自信をもって」、「天皇陛下を戴くわが国の在りようを何よりも尊いと感じ、これを守り続けていきたいという気持ちにブレはない」と言える、と。
 ここで彼は、「何よりも尊い」、「天皇陛下を戴くわが国の在りよう」を護持しようとするのが<保守>だと強く意識していることを示している。
 たまたま桑原聡にまた登場してもらったが、<天皇を中心にいただく国のあり方>、これを暫定的に<天皇主義>と言うとすれば、これの賛同者はけっこう少なくないように感じる。<天皇主義>はあくまで象徴的、代表的な表現で、要するに<日本の伝統と歴史を守る>のが「保守」だとの考え方であり、<日本の伝統と歴史>を受け継ぐ、それを象徴するものこそ、悠久の長い歴史のある天皇・皇室制度だ、というわけだ。
 場合によっては「日本主義」と言ってよく、そうすると私=秋月瑛二が長期的には想定する日本主義との違いを問題にしなければならない。
 いや、そのあたりに既に実際には少しは入っているのだが、上に示した、1) 「民主主義対ファシズム」、2) 反「共産主義(communism)」、3) 反「自由・民主主義(liberal democracy)」と「天皇主義」は、どう関係するのか、しないのか。
 あるいはまた、近年の櫻井よしこの主張・議論は、いったいどの相・面・層に関係しいるのか。
 いろいろな論者がいろいろなことを言い、主張している。
 上のようなポイントの所在の指摘は、それらは一体どのあたりに位置づけられる論点についての主張や議論なのかを定位するのに、少しは役立つに違いない。
 月刊正論2017年3月号59頁に、菅原慎太郎を代表とする「月刊正論編集部」は<保守の指標>として「①伝統・歴史的連続性、②国家と共同体と家族、③国防と戦没者への慰霊、④反共」の4項を挙げている(丸数字はもともとはない)。
 もともとその「保守と自称保守マップ」がいい加減なものだから、この「保守の指標」もまるでアテにならないのだが、例えば、「④反共と①伝統・歴史的連続性(の保持)」の論理的関係は ?、「④反共と②国家と共同体と家族(の保持)」の論理的関係は ?と問われて、代表者・菅原慎太郎は適確に回答できる用意があるのだろうか。
 むしろ最近の櫻井よしこの主張に特徴的な、「神道・天皇(・皇室)」主義らしきものを取り上げてみたいのだが、上記のとおり、これら、「神道・天皇(・皇室)」は秋月瑛二の基礎的タームには入ってこない。
 それはそれで理由があることなので、別にじっくり説明する必要がある。

1540/「左翼」の君へ⑧完-レシェク・コワコフスキの手紙。

 Leszek Kolakowski, My Correct View on Everything (1974), in : Is God Happy ? -Selected Essays (2012).
 前回のつづき。⑧。
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 しばらくの間に、伝統的な社会主義の諸装置のいくぶんかが、予期しなかったやり方で資本主義社会にそっと這入り込んでいるように思える。
 最も近視眼的な政治家たちですら、全てを金で買うことができるわけではないと、大金を積んでも清浄な空気、水、広い土地その他の自然資源を買えないときがくるかもしれないと、分かっている。
 そしてそうだ、『使用価値』が徐々に経済の中に戻ってくる。
 人類が生ゴミの処理の仕方を知らないことから生じる、『社会主義』の逆説的な結論だ。
 この帰結は官僚制の増大であり、権力の中心にいる者たちの役割の増大だ。
 共産主義が考案した唯一の治療薬-国民資産に対する中央集中型の、抑制されない国家所有と一党支配-では、治癒されるべき病気はさらに悪くなる。経済的には効き目がないし、社会関係の官僚的性格を絶対的な原理にしてしまう。
 高い程度の自治権を小さな諸共同体のためにもつ、非中央集中的な社会という君の理想を、高く評価する。そして、こうした伝統への君の執着について、共感する。
 しかし、私的所有からではなくて技術の発展から生じる、中央集中的官僚制につながる力強い権力の存在を拒否するのは愚かだ。 
 この状況を見通す一つの方法でも知っているつもりなら、『平和的な革命を起こす、そうすればこの趨勢は逆転する』と言って解決策を見つけたと想うなら、君は自らを欺いているし、言葉の魔術の犠牲者になっている。
 複雑な技術的組織網に社会が依存すればするほど、それだけ多く諸問題は中央権力によって規制されければならない。国家官僚制が力強くなればなるほど、政治的な民主主義や『形式的』、『ブルジョア的』自由が支配機構を抑制する必要、個人の弱まりうる権利をそのままにして個人に保障する必要が、ますます大きくなる。
 全てを包含する、政治的な(『ブルジョア的』な)民主主義がなくして、いかなる経済民主主義も産業民主主義も、かつてなかったし、また存在することはできない。
 現代社会が課す相反する責務をどのようにして調和させるべきかを、我々は知らない。
 我々には矛盾のない安定した社会の青写真はないのだから、ただ、これら責務の間の不確定な平衡状態に到達するように努めることができるだけだ。
 どこか別の箇所で書いたことを、繰り返そう。
  『心配しないで、平穏にかつ安全に、その人生の余後を過ごせるだけの資金を一瞬で得る方法について考えている人々の心構えが、私的な生活にはある。
 そして、明日までどうやって生きようかと懸念しなければならない人々の心持ちもある。
 人間社会というのは、全体としては、かつて得た金銭のおかげで生涯にわたる保険金があったり株式配当金があったりする、年金受給者のような幸せな地位には決しておれないだろう、と私は思う。
 人間社会の地位は、翌日までの生活の仕方に困惑している日雇い職人のそれに似ているだろう。
 夢想家(ユートピアン)というのは、人類を年金生活者の地位に置こうと夢見る人々、そうした地位は素晴らしいもので、代償(とくに道徳的な代償)がそれを獲得するには大き過ぎはしないと確信している人々だ。』//
 こう書くのは、社会主義とは死滅した選択肢だと意味させてはいない。
 そうは考えていない。
 だが、この選択は、社会主義国家の経験によってのみならず、信奉者たちの自信を理由として、彼ら信奉者が行なう社会を変えようとする努力にも限界があること、および要求と信条となった価値とを両立させられないこと、の両方に直面して彼らが何もできないことを理由として、破滅した。
 簡単に言うと、社会主義を選択する意味は、完全に、そのまさしく根源から修正されなければならない。//
 『社会主義』と言うとき、私は完璧な国家を意味させず、平等、自由および効率性への要求を達成しようとする運動を想定している。どの価値のいずれにも別々に隠れている諸問題の複雑性だけではなくて、諸価値は相互に制限し合い、それらは妥協を通じてのみ充たされうるということに気づいているかぎりで、諸困惑に対処する資格があるような運動をだ。
 そう考えないなら(またはそう考えているふりをしなければ)、自分や他人を笑い物にしている。
 全ての諸制度の変更は、全体としてこれら三つの価値に奉仕する手段だと見なさなければならず、それら自体に目的があると考えてはいけない。
 そうした変更は、一つの価値を増大させるときに別の価値を犠牲にする対価を考慮に入れて、相応に判断されなければならない。
 諸価値のいずれかを絶対的なものと見なしたり、全てを犠牲にして諸価値を実現しようとする企ては、残る二つの価値を破滅させることに必然的になるだけではなく、その一つの価値をも結局は破滅させるに違いない。
 注意しなければならない(nota bene)。これは、貴重な過去から発見したことだ。
 絶対的な平等性は、特権を与えるがしかし換言すると平等性を破壊するのを意味する、独裁的な支配制度においてのみ達成されうる。
 完全な自由は、無政府状態を意味する。無政府状態は、肉体的な最強者が支配することに結果としてはなる。つまり、完全な自由は、その反対物に変わる。
 至高の価値としての効率性は、再び独裁制を呼び起す。そうして、技術が一定のレベル以上になると、独裁制は経済的には非効率だ。
 こうした古くて自明のことを繰り返すのは、彼らがまだ夢想家の思考方法に気づかないままで歩んでいるように見えるからだ。
 それはまた、ユートピアを描く以上に簡単なことは何もない、ということの理由だ。
 この点で、我々が合意できると望む。
 そうできるなら、寛容になってお互いを許し合いたい、若干の辛辣な意見を交換し合った後であっても、他の多くの点で合意できる。
 共産主義は原理的に優れた発明品だと、優れた応用について決していくぶんかも損なわれていないと、君がまだ思い続けているなら、この合意には達しそうにないだろう。
 長年にわたって君に説明してきた、と思う。
 何をって、私が何故、共産主義思想を修繕したり、刷新したり、浄化したり、是正したり〔mend, renovate, clean up, correct〕する試みに、いっさい何も期待しなくなったのか、だ。
 哀れむべき、気の毒な思想だ。私は知った、エドワード君よ。
 これは二度と微笑むことがないだろう。
  君に友情を込めて。/レシェク・コワコフスキ。
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 終わり。上掲書、p.115-140。

1538/「左翼」の君へ⑦-L・コワコフスキの手紙(1974年)。

 前回のつづき。
  Leszek Kolakowski, My Correct View on Everything (1974), in : Is God Happy ? -Selected Essays (2012).
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 君の推論の中に…がこだまとなって鳴り響いているのが、少しは嫌だね。
 しかし、それ以外に多くのことがある。
 君は社会に関して範疇でまたは世界的『体制』-資本主義か社会主義か-で考えるので、つぎのように信じる。
 1) 社会主義は、今は不完全だが、本質的に人間発展の高次の段階だ。そして、『体制』としての優越性は、人間の生活にかかわる個別の事実に示されているか否かとは関係がなく、確かなこと(valid)だ。
 2) 非社会主義世界に見られる全ての否定的事実-南アフリカの人種差別、ブラジルの拷問、ナイジェリアの飢餓、あるいは英国の不適切な健康サービス-は『体制』に原因がある。
 一方、社会主義世界内部で生じている類似の事実も、『体制』に、しかし同じ資本主義体制に責任があり(旧社会の残存、孤立化の影響等)、社会主義体制にではない。
 3) この優越性または社会主義『体制』を信じない者は、『資本主義』は原理的に立派なものだと考えるように強いられており、またその怪物性を正当化したり隠蔽したりするように強いられている。換言すれば、南アフリカの人種差別やナイジェリアの飢餓等々を正当化することをだ。
 したがって、君の絶望的な気分は、言っていない何かを私に語らせようと試みている。
 (本当に、君の考えは私には全くあてはまらないから、君は私の良心を覚醒させようとするし、例えば、西側諸国にはスパイがいたり盗聴装置があると説明する。実際に ? 君は冗談を言っているのか ?)
 言う必要もないが、こうした独特の推論方法は、全ての経験的事実を重要ではないとして無視できるので、絶対的に反駁不可能なのだ。
 (『資本主義体制』内部で起きる何かの悪事は、定義上、資本主義の産物だ。『社会主義体制』で起きる何かの悪事は、同じ定義上、同じ資本主義の産物だ。)
 社会主義は、生産手段の全体的またはほとんど全体的な国家所有という『体制思考』の範囲内に限定されている。
 君は明らかに、雇用労働の廃止という意味では社会主義を定義できない。経験上の社会主義はこの点で資本主義と違っているとしても、囚人の直接の奴隷的労働、労働者の半奴隷的な労働(働く場所を変更する自由の廃止)および中世的な農民のglibae adscriptioを復活させていることのみで違っていると君は知っているからだ。
 そう、こうした推論構造の範囲内で、全ての現実の悪魔でなくとも、悪魔の根源は、私的所有の廃止でもってこの地上から根絶される、と信じることは首尾一貫性をもつ。
 しかし、私が論及したこれら三つの叙述は、経験上は論証も反証もいずれも不可能な、イデオロギー上の傾倒を表現したものに他ならない。
 君は、『体制』という言葉を使う思考は優れた結果をもたらす、と言う。
 全くそのとおりだが、優れているだけではなくて、奇跡的な結果だ。
 それは、一撃でもって平易に、人類の全ての諸問題を解決してしまう。
 これこそが、この次元の科学的意識に(私自身のように)到達しなかった人々が何故、世界の救済のためにこの簡単な道具を使うことを知らないのかの理由だ。
 ベルリンあるいはネブラスカのどの大学二年生でも、知っていることなのに。すなわち、社会主義世界革命。//
 <〔原文、一行空白〕>
 結語反復という消滅しつつある技法の権威を復活させるがごとき、君が書いた話題を全て尽くしたわけではない。
 しかし、ほとんどの論争点には触れたと思う。
 現時点で我々を分かつ深淵には、橋が架けられそうにない。
 君は自分をまだ、見解が異なる共産主義者または一種の修正主義者だと考えているように見える。
 そうは私は自分を見ていないし、長い間そう見なかった。
 1956年からの議論の間に君はその立場を明確にしているようだが、私は違う。
 あの年は重要で、かつ幻想も大きかった。
 しかし、出現したあとですぐに、幻想は打ち砕かれた。
 君はたぶん、人民民主主義国で『修正主義』とレッテルを貼られたものはほとんど(きっとユーゴスラヴィアを例外として)消失したと分かっている。この消失は、人民民主主義諸国の若者も老人も、自分たちの状況を『真正な社会主義』、『真正なマルクス主義』等の言葉で考えるのを止めたことを意味する。
 彼らは(しばしば受動的にではなく)より大きな国家の独立、より多大な政治的かつ社会的自由、そしてより良き生活条件を望んだのであり、決してそうした要求に社会主義に特有な何かがあったからではない。
 公式の国家イデオロギーは、逆説的な状況にある。
 支配する国家機関がその権力を法的に正当化できる唯一の方法だから、それは絶対に不可欠のものだ。そして誰も、それを信じてはいない。-支配者も被支配者も(両者ともに別の者および自分たちが信じていないことを十分に気づいていた)。
 西側諸国のほとんど全ての、社会主義者だと(ときには共産主義者だとすら)自認する知識人は、私的な会話では社会主義思想は深刻な危機にあると認める。だが、ほとんど誰も、それを活字上では認めようとしない。
 ここにある楽観的な陽気さは義務的なもので、我々は『一般大衆の間に』疑念や混乱の種を撒いたり、敵に役立つ論拠を与えたりしてはいけないのだ。
 これは自己防衛策だと君が考えるかどうかは、確実ではない。そう考えていないと思いたい。//
 しばらくの間に、伝統的な社会主義の諸装置のいくぶんかが、予期しなかったやり方で資本主義社会にそっと這入り込んでいるように思える。
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 ⑧につづく。

1536/「左翼」の君へ⑥ -L・コワコフスキの手紙(1974年)。

 L・コワコフスキ=野村美紀子訳・悪魔との対話(筑摩書房、1986)の「訳者あとがき」に、以下はよる。
 ポーランド語原著は1965年刊行で、上の邦訳書は、1968年のドイツ語版の邦訳書。
 Leszek Kolakowski, Gespraech mit dem Teufel (1968).
 また、この欄で言及したL・コワコフスキ『責任と歴史』(勁草書房、1967)の原著は分からなかったが、同じく野村によると、内容は以下と一致するらしい。
 Leszek Kolakowski, Der Mensch ohne Alternative (1960).
 さらに野村美紀子によると(p.199)、1986年頃時点で、つぎの二つのL・コワコフスキの文章が日本語になっている。
 ①「『現代の共同社会』を築きあげるために」朝日ジャーナル1984年1月13日号。
 ②「全体主義の嘘の効用」『世紀末の診断』(みすず書房、1985)に所収。
 この②は、現在試訳しているものを含む、Leszek Kolakowski, Is God Happy ? -Selected Essays (2012)にも、(英語版で)収載されている。Totalitarianism and the Virtue of the Lie (1983).
 試訳・前回のつづき。My Correct View on Everything (1974).
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 君の、君(と私)を『マルクス主義の伝統』(制度に対立する、方法や遺産)の忠誠者の一人に範囲づけようという提案は、捉えどころがなくて曖昧のように思える。
 ただ『マルクス主義者』と呼ばれることが重要だと思っていないとすると-君は思っていないと言うだろう-、君がこれにこだわる意味が私にはよく分からない。
 私は『マルクス主義者』であることに少しも関心はないし、そのように呼ばれることにも少しも関心がない。
 確かに、人文科学で仕事をしている者の中には彼らのマルクスに対する負い目(debt)を認めようとしない者はほんの僅かしかいない。
 私は、その一人ではない。
 私は、マルクスがいなければ歴史に関する我々の思考は違っていただろうし、多くの点で今よりも悪くなっていただろうと、簡単に認める。
 こう言うのは、どうだってよいことだ。
 私はさらに、マルクス理論の多くの重要な教義は偽りである(false)か無意味(meaningless)だと考える。そうでなければ、極めて限定された意味でのみ本当(true)だ。
 労働価値説は、何らかの説明する力を全くもたない規範的な道具だ、と考える。
 マルクスの著作にある史的唯物論の有名な一般的定式のいずれも受け入れられず、この理論は、強く限定された意味でのみ有効だ、と考える。
 マルクスの階級意識の理論は偽りで、その予言の多くは誤り(erroneous)(これは私が感じる一般的叙述であることはその通りだが、この結論についてここできちんと議論しているのではない)だったことが証された。
 にもかかわらず私が(哲学的でなく)歴史的問題について、マルクス主義の伝説を部分的に承継している概念を使って思考していることを承認すれば、マルクス主義者の伝統への忠誠者であることを受け入れることになるのか ?
 『マルクス主義者』の代わりに『キリスト教信者』、『懐疑主義者』、『経験主義者』を使っても同じことが言えるだろうという、ただきわめて緩やかな意味でだ。
 いかなる政党やセクトにも、いかなる教会派やいかなる哲学学派にも属さないで、マルクス主義、キリスト教、懐疑主義哲学、経験主義思想に対する負い目があることを私は、否定しはしない。
 また、その他のいくつかの伝統にも負い目がある(もっと明瞭に言えば東ヨーロッパだ。君には関係がない)。
 折衷主義の反対物が(折衷主義とのレッテルを貼って我々を脅かす人の心のうちには通常あるような)哲学的または政治的偏狭さだとすると、『折衷主義』の恐怖も共有できない。
 こうした乏しい意味で、その他たくさんの中でマルクス主義者の伝統に属することを認める。
 しかし君は、もっと多くのことを意味させていそうだ。
 君は、マルクスの精神的後継者だと定義する『マルクス主義者一族(family)』の存在を示唆しているように見える。
 君は、あちこちでマルクス主義者だと自称している全ての者たちが、世界の残りとは区別されるような一族(この半世紀の間お互いに殺し合ってきているし今もそうであることは気にするな)を形成していると思っているのか ?
 また、この一族は君には(そして私にもそうあるべきらしいが)自己同一性の確認の場所だと思っているのか ?
 君が言いたいのがこういうことならば、その一族に加入するのを拒否すると言うことすらできない。そんなものは、この世界に存在しない。
 世界とは、偉大なヨハネ黙示録の天啓が二つの帝国の間の戦争を引き起こされる可能性がきっとあるような、もう一つの帝国とはともに完璧な具現物だと主張しているマルクス主義であるような、そんな世界だ。//
 <(原文、一行空白)>
 君の手紙には、私が持ち出すべきいくつかの問題がまだある。持ち出したいのは、その重要性ではなくて、君の議論の仕方が不愉快にもデマゴギー的だからだ。
 そのうち二つを取り上げよう。
 君は私の論文を引用して、私の考えは陳腐だと書いている。
 被搾取階級は精神的文化の発展に参加するのを許されなかった、とする部分だ。
 君は排除された労働者階級の報道官のごとく現れて、義憤に満ちたふうに私に、労働者階級は連帯感、忠誠心などを形成したと説く。
 言い換えると、私は、被搾取者が教育を受ける機会が与えられなかったことを称揚するのではなく嘆き悲しむべきだ、と言った、とする。そして君は、労働者階級には道徳心がないとの私の主張らしきものに嫌悪感を示す。
 これは誤読ではなく、私が議論するのを不可能にする、一種の、愚かな、こじつけた読み方(Hineinlesen)だ。
 そうして、新しい社会主義の論理または(もう一度言うが、私は自明のこと(trueism)だと思う)科学の観念は蒙昧主義者(obscurantist)だと烙印を捺したとき、君は、重要なのは論理を変えることではなく、マルクスは所有関係を変革したかったのだと説明する。
 マルクスは本当にそうしたかったのか ?
 よし、君は私の目を開いてくれた、という以外に、私は何を言えるか ?
 <新しい論理>や<新しい科学>の問題は<ブルジョアの論理>や<ブルジョアの科学>に対抗する論争点だったのではないと思っているとすれば、君は完全に間違っている(wrong)。
 そういう考え方は行き過ぎなのではなく、マルクス主義者-レーニン主義者-スターリン主義者〔マルキスト-レーニニスト-スターリニスト〕の間での標準的な思考と議論のやり方だ。
 そういう仕方は、多数のレーニンたち、トロツキーたちそしてロベスピエールたちによって、無傷に相続された。君はそれをアメリカやドイツの大学構内で見たはずだ。//
 第二点は、君が引用している、インタビューを受けた際に私が発した一文に対する君の論評だ。
 『宗教的表象(symbols)を通じる以上の十分な自己同一性の確認(self-identification)の方法はない』、『宗教意識は…人間の文化の不可欠の一部だ』と、私は言った。
 これに君は、激怒した。『何の権利があって(と君は言う)、どんな研究をその伝統と感性に関して行って、宗教的表象の魔術に頑迷に抵抗してきた…古いプロテスタントの島の中心部で、こんなことが普遍的だと決めかかってよいのか』。
 たくさん理由をつけて、釈明する。
 第一。私は古いプロテスタントの島の中心部で、ドイツの土地の上でではなく、ドイツの記者からのインタビューを受けた。
 第二。周知のことと過って思っていたためだが、君が明らかに考えたのとは逆に、『宗教的表象』は必ずしも絵画、塑像、ロザリオ等々であるとは限らない、と説明しなかった。
 人々が信じるものは何でも、超自然的なものと理解し合う方法を与えるし、またはそのエネルギーを運んでくるのだ。
 (イェズス・キリスト自身が表象で、十字架だけがそうなのではない。)
 私はこのような言葉遣いを発明したのではないが、インタビューの際に説明しなかったので、君の偶像破壊主義的なイギリスの伝統を不快にさせたわけだ。
 こうした言葉上の説明は、迷信的な超精霊主義者(Uitramontanist、超モンタノス主義者)によって傷ついた君のプロテスタント的良心をいくぶんかは宥めるか ?
 君はまた、このインタビューで宗教的現象の永続性への私の信条を証明しきれていないと非難する-それは全てに響く。
 私がこの主題でかつて書いた、私の考え方を支える本や論文の全てをこのインタビューの際に引用しなかったのは、まさに私の考えの至らなさだった。
 君には、これらのどの本でも読む義務はない(そのうち一つは800頁以上の厚さで、しかも17世紀の諸教派運動に関するものだから、退屈すぎて、君に読み通すのを求めるのは非人間的だろう)。
 少なくとも君には、この主題での私の考え方を批判しようと試みないかぎりでは、十分な根拠がない。
 したがって、君が憤激して『何の権利があって…』というのは、君に返礼するにはより適切な言葉であるようだ。//
 不運にも、君が書いたものには、私の責任に帰したい何らかの考えにもとづいて、主題を転移させ、私が言うべきだったと君が思う何かを私が言ったと君が信じようとする例が、満ち溢れている。
 きっと君は、教条的な共産主義者の思考方法につねに特徴的な独特の思考の論理に従って、無意識にそうしている。その思考方法には、真実として作動する推論とそうではない推論との違いが完全に消失している。
 だがね、AはBを包含するというのが真実(true)でも、誰かがAを信じているからといって、その人はBを信じているという結論にはならないだろう。
 むしろ正真正銘の本能からするようにこのことを意識的に否認するのは、共産主義者の出版物にはいつも許されている。そして、その読者につぎのように大雑把に作られる情報を与えるのだ。
 『米国の大統領は、平和を愛する全人類の抗議に逆らって、ベトナムで大量殺戮の戦争を継続する、と言った』。
 あるいは、『中国の指導者は、彼ら盲目的強行外交論者、反レーニン主義者の政策は、帝国主義を助けするるために社会主義者の陣地を破壊することを企図している、と明言する』。
 こうした不思議の国の論理には、首尾一貫性がある。そして、君の推論の中にそうした論理がこだまとなって鳴り響いているのが、少しは嫌だね。
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 段落の途中だが、ここで区切る。⑦につづく。

1526/「左翼」の君へ-レシェク・コワコフスキの手紙①。

 Leszek Kolakovski, Is God Happy ?(2012)のうち、「第一部/社会主義、イデオロギーおよび左翼」の中にある、My Correct Views on Everything, 1974 〔全ての物事に関する私の適正な見方〕の日本語への試訳を、以下、行ってみる。一文ごとに改行し、本来の改行箇所には、文末に//を記す。
 他にも「社会主義とは何か ?」、「左翼の遺産」、「全体主義と嘘の美徳」、「社会主義の左翼とは何か ?」、「スターリニズムのマルクス主義根源」等の関心を惹くテーマが表題になっているものも多いが、これをまずは選んだ理由は、おそらくその内容によって推測されうるだろう。
 1974年の小論。書簡の形式をとっている。
 スターリンの死、フルシチョフのスターリン批判、ハンガリー動乱、中国の文化大革命、プラハの「春」があり、日本の大学を含む「学生」運動等もほぼ終わっていた。L・コワコフスキはイギリス・オクスフォードにいて、マルクス主義哲学の研究執筆をしていたかもしれない。
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 My Correct Views on Everything, 1974 〔全ての物事に関する私の適正な見方、1974年〕
 「親愛なる、エドワード・トムソン(Edward Thompson)君へ。
 この公開書簡でなぜとても楽しくはないかというと、君の手紙は(少なくとも同じくらい)個人的な態度とともに、考え方に関係しいるからだ。
 しかし、共産主義イデオロギーについてであれ1956年についてであれ、個人的な説明をして問題を済ませはしない。とっくの前に片付いている。
 だが、一緒に始めよう、過去のことを運びあげて、署名しよう…、と言うのだったら。//
 Raymond Williams による最新号の Socialist Register の書評に、君の手紙はこの10年間で最良の左翼の著作作品の一つだと書いてあった。それは直接に、他の全ては、またはほとんど全ては、より悪いと述べているようなものだ。
 Williams はよく分かっている、私も彼の言葉に従おう。
 たまたま私がその対象になっているとしても、ある程度は、この文章を書くに至ったのを誇らしく感じる。
 そう。だから、私の反応の一つめは、感謝だ。
 二つめは、<富者の迷惑>のようなものだ。
 君の100頁もの公開書簡に対して私が答えるのに話題を適正に選択しなければならないことを、君は私に詫びるのだろう(認めると思うが、君の書簡はうまく区切りされていない)。
 最も論争点になっているものを、取り上げることにしよう。
 興味深いのだが、君の自叙伝的な部分にコメントすべきだとは思わない。
 たとえば、休日にスペインへ行かない、費用の一部を自分の懐から支払わないで社会主義者の会議に出席するということはしない、フォード財団が財源支援した会議に参加しない、権威者の前で帽子を脱ぐのを年寄りのクェーカー教徒のように拒んだのは自分だ、等々と君は書いているが、私自身の徳目一覧からして答えるべきだと、助言されるとは思わない。この徳目一覧はたぶん厳格なものではないのだろう。
 また、New Left Review 〔新左翼雑誌〕から君は離れたという話だが、私がいくつかの雑誌のいくつかの編集委員会の全てを辞めた話でもって交換するつもりはない。これらは、とても瑣末なことだ。//
 三つめは、悲しさだ、と言いたい。
 君の研究分野について十分な能力はないが、学者そして歴史家としての君の高名は知っている。
 それなのに、君の手紙の中に、話したまたは書いた多くの左翼(leftist, 左翼主義者)の決まり文句(cliche's)があるのを知るのは残念なことだ。それらは、三つの趣向からできている。   
 第一、言葉を分析するのを拒み、意図的に考え出された言葉の混合物を問題を混乱させるために使う。
 第二、ある場合には道徳的なまたは情緒的な規準を、別の類似の場合には政治的または歴史的な規準を使う。
 第三、歴史的事実をそのままに受容するのを拒む。
 言いたいことをもっと詳しく、書いてみよう。//
 君の手紙の中には個人的な不満がいくつかあり、一般的問題に関する議論もいくつかある。
 小さな個人的不満から始めよう。
 リーディング(Reading)の会議に招かれなかったことで君は攻撃されたと感じているように見えるのは、また、かりに招かれれば深刻な道徳的根拠を持ち出して絶対に出席するのを拒んでいただろうと語るのは、とても奇妙だ。
 直感的に思うのだが、結局は、かりに招かれても同様に攻撃されたと感じただろう。だから、君を傷つけない方法は、会議の組織者にはなかったのだ。
 今書こう、君が持ち出す道徳的根拠とは、君がR・Sの名を組織委員会の中に見つけたということだ。
 そしてR・Sには不運だったのは、彼がかつてイギリス外交の業務で仕事をしていたことだ。
 そう、君の高潔さは、かつてイギリス外交に従事した誰かと同じテーブルに着くのを許さない。
 ああ、無邪気さに、幸いあれ! 
 君と私は二人とも、1940年代と50年代にそれぞれの共産党の活動家だった。我々の高貴な意図や魅惑的な無知(あるいは無知から逃れるのことの拒否)が何だったとしても、われわれの穏健な手段の範囲内で、人間社会で最悪の種類の奴隷的集団労働や国家警察のテロルを基礎にしている体制を、二人ともに支えた。
 このような理由で我々と一緒に同じテーブルに着くのを拒む、多数の人々がいるとは、思わないか ?。
 いや、君は無邪気だ。しかし私は、多くの西側知識人たちがスターリニズムへと改心していた『あの年月の政治の意義』を、君が書くようには、感じない。//
 スターリニズムについての君の気軽な論評から集めてみると、『あの年月の政治の意義』は、君にとってのそれは私のよりも明らかに鋭敏で多様だ。
 第一、スターリニズムの責任の一部(一部、これを私は省略しない)は、西側の諸国家にある、と君は言う。
 第二、『歴史家にとっては、50年では新しい社会体制について判断する時間が短かすぎる』、と君は言う。
 第三、『1917年と1920年代の初めの間、およびスターリングラードの闘いから1946年までの間に共産主義(コミュニズム)体制がきわめて人間的な顔を見せた時代ののような、新しい社会体制体制が発生しているならば』、と君が言うのを我々は知っている。//
 いくつか仮定を付け加えれば、全ては正当だ(right)。
 明らかにも我々が生きる世界では、ある国で重要なことが起きれば、それは通常は別の国々で起きることの一部に影響を与える。
 ドイツ・ナチズムについての責任の一部はソヴィエト同盟にあった、ということを君はきっと否定しないだろう。
 ドイツ・ナチズムに対するソヴィエト同盟の影響を、君はどう判断しているのだろうか ?//
 君の二つめのコメントは、じつに啓発的だ。
 『歴史家にとっては』50年とは、何のことか ?
 私がこれを書いている同じ日にたまたま、1960年代(1930年代ではない)の初めにソヴィエトの監獄と強制収容所にいた体験を綴った、アナトール・マルシェンコという人の本を読んだ。
 この本は1973年に(ドイツ・)フランクフルトで、ロシア語で出版された。
 ロシア人労働者の著者は、ソヴィエトからイランへと国境を越えようとして逮捕された。
 彼は幸運なことに、J・V・スターリンの遺憾な(そう、正面から見つめよう、西側諸国に責任の一部があったとしても遺憾な)誤りが終わっていたフルシチョフの時代にこれをした。
 そして、彼はわずか6年間だけ、強制収容所で重労働をした。
 彼が物語る一つは、護送車から森の中へ逃げようとした3人のリトアニア人囚人に関してだ。
 3人のうち2人はすぐに見つけられ、何度も脚を射撃され、起ち上がるように命じられ(彼らはそうできなかった)、そして、護衛兵たちによって蹴られ、踏みつけられた。
 最後に、2人は警察の犬によって噛まれ、引き裂かれた(資本主義が存続している、娯楽映画のごとくだ)。
 そうしてようやく、銃剣で刺し殺された。
 このような事態の間、ウィットに富む役人は、次の類いのことを述べていた。『さあ、自由なリトアニア人、這え、そうすればすぐに独立をかち取れるぞ!』。
 3人めの囚人は射撃され、死んだと囁かれて、荷車の死体の下に放り込まれた。
 生きて発見されたが、彼は殺されなかった(脱スターリニズム化だよ!)。しかし、数日間は、傷が膿んでいるままで暗い小部屋に入れられて放置された。
 彼は、腕が切断されているという理由だけで、生き延びた。//
 これは、君が今でも買える多数の本で読める、数千の物語の一つだ。
 知識ある左翼エリートたちは、こうした本を、進んで読もうとはしていない。
 第一に、たいていは、重要でない。
 第二に、小さく細かい事実だけを提供する(結局のところは、何らかの誤りがあることを我々は認める)。
 第三に、それらの多くは、翻訳されていない。
 (ロシア語を学習した西欧人に君が会うとして、少なくとも95%の率で血なまぐさい反応に遭うということを、君は気づいたか ? ともあれ、彼らは賢い。)//
 そして、そうだ。歴史家にとって50年、とは何のことだ ?
 50年というのは、著名ではないロシアの労働者であるマルシェンコの人生、本を出版すらできなかったもっと無名のリトアニアの学生の人生、を覆ってしまう長さだ。
 『新しい社会制度』に関する判断を急がないことにしよう。
 チリやギリシャの新しい軍事体制の良い点を査定するのに、いったい何年が必要なのかと、確実に君に質問することができるだろう。
 だが、私には君の答えが分かる。どこにも類似性がない。-チリとギリシャは資本主義の中にとどまっており(工場は私人が所有し)、一方のロシアは新しい『もう一つの選択肢のある社会』だ(工場は国家の所有で、土地も、居住している全員も)。
 真正な歴史家であるならば、もう一世紀を待てるし、わずかばかり感傷的だが慎重に楽天的な歴史知識を維持し続けることができるだろう。//
 いや、もちろんそうではない。
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 ②につづく。

1525/L・コワコフスキ『マルクス主義-』1976年の構成②。

 トニー・ジャット(Tony Judt)の以下は、L・コワコフスキーの『マルクス主義の主要潮流』について一章を設けている(第二部/第8章)。この部分は、「称賛の価値ある」Norton社による一巻本での再発行の決定を契機に2006年9月のNew York Review of Booksに掲載したものを再収載しているようだ。
 Tony Judt, Reappraisal -Refrections on the Fogotten Twentieth Century (2008). - Part Two, Chapter VIII -Goodby to all that ? Leszek Kolakowski and the Marxist Legacy.
 =トニー・ジャット(河野真太郎ほか訳)・失われた二〇世紀/上(NTT出版, 2011)/第二部/第8章「さらば古きものよ ?-レシェク・コワコフスキとマルクス主義の遺産」。
 また、同じくトニー・ジャットは、つぎの著の一部(第5部/第18章)で L・コワコフスキーの逝去のあとで哀惜感溢れる文章でコラコフスキーの仕事と人物を振り返っている。これは、2009年9月にやはりNew York Review of Booksに掲載したものが初出だ。
 Tony Judt, When the Facts Change -Essays 1995-2010 (2015). -Part 5, Chapter 18 -Leszek Kolakowski (1927-2009).
 後者は、トニー・ジャットのいわば遺稿集で、彼はコワコフスキの死の翌年、上を書いてほぼ1年後の2010年8月に、62歳で亡くなった(1948-2010)。
 以下は構成内容の紹介のつづき。一部について、節名も記した。
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第三部・破滅。
 第1章・ソヴェト・マルクス主義の初期段階、スターリニズムの開始。
  第1節・社会主義とは何か ?。
  第2節・スターリニズムの諸段階。
  第3節・スターリンの初期と権力への到達。
  第4節・一国社会主義。
  第5節・ブハーリンとネップのイデオロギー、1920年代の経済論争。
 第2章・1920年代のソヴェト・マルクス主義の理論的諸論争。
  第1節・知的および政治的風土。
  第2節・哲学者としてのブハーリン。
  第3節・哲学論争:デボーリン対機械論者。
 第3章・ソヴェト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。
  
第1節・大粛清のイデオロギー上の意義。
  第2節・スターリンによるマルクス主義の編纂。
  第3節・コミンテルンと国際共産主義のイデオロギー上の変形。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化
 第5章・トロツキー。
 
第6章・アントニオ・グラムシ(A. Gramsci): 共産主義修正主義。
 第7章・ジョルジ・ルカーチ(Gyorgy Luka'cs):ドグマ提供の理性。
 第8章・カール・コルシュ(K. Korsch)。
 第9章・ リュシアン・ゴルトマン(Lucien Goldmann)。
 第10章・フランクフルト学派と『批判理論』。
  第1節・歴史的および伝記的なノート。
  第2節・批判理論の原理。
  第3節・消極的弁証法。
  第4節・実存主義的『真正主義』批判。
  第5節・『啓蒙主義』批判。
  第6節・エーリヒ・フロム(Erich Fromm)。
  第7節・批判理論(続き)、ユルゲン・ハーバマス(Juergen Habermas)。
  第8節・結語。
 第11章・ハーバート・マルクーゼ(H. Marcuse):新左翼の全体主義的ユートピアとしてのマルクス主義。
 第12章・エルンスト・ブロッホ(Ernst Bloch):未来派的直感としてのマルクス主義。
  第13章・スターリン死後のマルクス主義の発展。
  第1節・『脱スターリニズム』。
  第2節・東ヨーロッパでの修正主義。
  第3節・ユーゴスラビア修正主義。
  第4節・フランスにおける修正主義と正統派。
  第5節・マルクス主義と『新左翼』。
  第6節・毛沢東の農民マルクス主義。
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 以上。

1524/L・コワコフスキの大著『マルクス主義-』1976年の構成①。

 日本人と日本社会は、マルクス主義・共産主義を「克服」しているだろうか。
 いや、とても。闘っていなければ克服する(勝利する)こともありえない。
 日本人と日本社会は、1917年-1991年のソヴェト・ロシアの勃興と解体から得た「教訓を忘れて」はいないだろうか。
 いや、とてもとても。そもそも学んでいなければ、その「教訓を忘れる」ことなどありえない。
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 L・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(Main Currents of Marxism)は1976年にパリでポーランド語版で発刊され、1978年にロンドンで英訳版が刊行された。
 これらは三巻本だったが、2008年に一冊にまとめたPaperback版がアメリカのNorton 社によって出版された。以下はこれによる。
 この一巻本は、索引の最終頁がp.1283で、緒言・目次類を加えると確実に1300頁を超える大著だ。
 前回に「反マルクス主義哲学者」と紹介したが、「反マルクス主義」程度では(日本はともかく)欧米では珍しくないだろう。正確には、<マルクス主義に関する研究を(も)した哲学者>で、「反マルクス主義」の立場はその一つの帰結にすぎない。
 L・コラコフスキーはマルクス主義の理論的・哲学的分析を、始まりから「破滅」まで時代的・歴史的に、「主要な」論者を対象にしつつ、かつマルクス主義者そのものとは通常は理解されていないようにも思えるフランス「左翼」からドイツ「フランクフルト学派」等々も含めて、詳しく行っているようだ。
 ポーランドを41歳に離れる(追放される、亡命する)までは「マルクス主義者」をいちおうは自称していたが、この本の時期にはそうではないと見られる。若いときのL・コラコフスキーを知って、たんなる<反スターリニスト>と理解して、期待( ?)してはいけない。
 共産主義者や容共「左翼」にとって<きわめて危険な>書物であることは、内容構成(目次)を概観しても、想像できる。
 二回に分けて紹介する。<レーニン主義>以降は、節名も記す。邦訳はもちろん、仮の訳。「部」は直訳では「巻」。
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第一部・創始者たち。
 第1章・弁証法の起源。
 第2章・ヘーゲル左派。
 第3章・初期段階のマルクス思想。
 第4章・ヘスとフォイエルバッハ。
 第5章・初期マルクスの政治・哲学著作。
 第6章・パリ草稿、疎外労働理論、若きエンゲルス。
 第7章・聖家族。
 第8章・ドイツ・イデオロギー。
 第9章・概括。
 第10章・マルクスの社会主義と比較した19世紀前半の社会主義観念。
 第11章・1847年以後のマルクス・エンゲルスの著作と闘争。
 第12章・非人間的世界としての資本主義、搾取の本質。
 第13章・資本主義の矛盾とその廃棄、分析と実践の統合。
 第14章・歴史発展の主導力。
 第15章・自然弁証法。
 第16章・概括および哲学的論評。
第二部・黄金時代。
 第1章・マルクス主義と第二インターナショナル。
 第2章・ドイツ正統派:カール・カウツキー。
 第3章・ローザ・ルクセンブルクと革命的左派。
 第4章・ベルンシュタインと修正主義。
 第5章・ジャン・ジョレス(Jean Jaures):神学救済論としてのマルクス主義。 
 第6章・ポール・ラファルグ(Paul Lafargue):快楽主義マルクス主義。
 第7章・ジョルジュ・ソレル(Georges Sorel):ヤンセン主義マルクス主義。
 第8章・アントニオ・ラブリオラ(A. Labriola):開かれた正統派の試み。
 第9章・ルートヴィク・クシィヴィツキ(Ludwik Krzywicki):社会学の理論としてのマルクス主義。
 第10章・カジミエシュ・ケレス=クラウス(Kazimierz Kelles-Krauz):ポーランドの正統派。
 第11章・スタニスラフ・ブルジョゾフスキー(Stanislaw Brzozowski):歴史主観主義としてのマルクス主義。
 第12章・オーストリア・マルクス主義、マルクス主義運動のカント主義者、倫理的社会主義。
 第13章・ロシア・マルクス主義の始まり。
 第14章・プレハーノフとマルクス主義文献の編纂。
 第15章・ボルシェヴィキ出現以前のロシア・マルクス主義。
 第16章・レーニン主義の発生。
  第1節・レーニン主義に関する論争。
  第2節・党と労働者運動、意識性と任意性。
  第3節・民族の問題。
  第4節・民主主義革命でのプロレタリアートとブルジョアジー、トロツキーと『永久革命』。
 第17章・ボルシェヴィキ運動における哲学と政治。
  第1節・1905年革命時点での分派闘争。
  第2節・ロシアでの新しい知識人の動向。
  第3節・経験批判主義。
  第4節・ボグダーノフとロシア経験批判主義。
  第5節・プロレタリアートの哲学。
  第6節・『神の建設者』。
  第7節・レーニンの哲学への試み。
  第8節・レーニンと宗教。
  第9節・レーニンの弁証法ノート。
 第18章・レーニン主義の運命、国家の理論から国家のイデオロギーへ。
  第1節・ボルシェヴィキと戦争。
  第2節・1917年の革命。
  第3節・社会主義経済の開始。
  第4節・プロレタリアート独裁と党の独裁。
  第5節・帝国主義と革命の理論。
  第6節・社会主義とプロレタリアート独裁。
  第7節・独裁に関するトロツキー。
  第8節・全体主義イデオロギストとしてのレーニン。
  第9節・ボルシェヴィキのイデオロギーに関するマルトフ。
  第10節・論争家としてのレーニン、レーニンの天才性。
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 以上。②につづく。

1522/レシェク・コワコフスキーという反マルクス主義哲学者。

 L・コワコフスキーのつぎの小論選集(Selected Essays)も、当然に ?、邦訳されていない。
 Leszek Kolakowski, Is God Happy ? -Selected Essays (2012).
 前回にこの人物について紹介したのはかなり古い情報だったので、この著によって上書きする。
 多数の書物を刊行し(略)、欧米諸国の学士院類の会員であり、多数の「賞」を受けている人物・哲学者が、なぜ日本ではほとんど知られていないのか。なぜ邦訳書が前回紹介のもの以外にはおそらく全くないのか。
 一部を読んだだけなので確言はしかねるが、つぎのことを推測できる。
 日本の「左翼」、とりわけ熱心な容共のそれ、そして日本の共産主義者(トロツキー派を含む)、とくに日本共産党にとって、<きわめて危険>だからだ。
 この人の著作を知っている哲学またはマルクス主義関係の「学者・研究者」はいるだろう。しかし、例えば岩波書店・朝日新聞社に、この人物の書物(『マルクス主義の主要な潮流』もそうだが)の邦訳書を刊行するようには助言や推薦を全くしないだろうと思われる。
 一方、日本の「保守」派は、いちおうは「反共」・反共産主義を謳いながら、共産主義理論・哲学に「無知」であり、欧米の共産主義をめぐる議論動向についてほとんど完全に「無関心」だからだ。
 じつに奇妙な知的雰囲気がある。
 この欄の№1500・4/14に書いた。-「冷静で理性的な批判的感覚の矛先を、日本共産党・共産主義には向けないように、別の方向へと(別の方向とは正反対の方向を意味しない)流し込もうとする、巨大なかつ手の込んだ仕掛けが存在する、又は形成されつつある、と秋月瑛二は感じている」。
 L・コラコフスキーの日本での扱いも、他の人物についてもすでに何人か感じているが、この「仕掛け」の一つなのではないか。
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 A-経歴。
 無署名の冒頭注記および縁戚者(実娘か。Agnieszka Kolakowska)執筆の「Introduction」(vii-xiii)から、L・コラコフスキーのつぎのような履歴が分かる。年齢は、単純に生年を引いたもの。
 1927年、ポーランド・ラドム生まれ。
 ロズ(Lodz)大学、ワルシャワ大学で哲学を学ぶ。
 (第二次大戦後、ソ連・モスクワ大学留学。)
 1953年/26歳、ワルシャワ大学で博士号取得。助教授に。
 1955年以降の研究著作の重要主題は、「マルクス主義」という「イデオロギーの危険性、欺瞞と虚偽および全体主義の本質」だった(Agnieszka による、vii)。
 1956年までに、「修正主義者」扱いされ、国家当局から睨まれる重要人物になる。
 1956年/29歳、『神々の死』<上掲書所収、新訳>を執筆。
 これは、「共産主義のイデオロギーと実際を極めて強く攻撃し、体制の偽った合理化やそれの虚偽情報宣伝の神話を強く批判する。当時としては驚くべきほど明快で、理解し易さや力強さに息を呑む」(Agnieszka による、viii)。
 この論考は「検閲」されて、「共産主義崩壊までのポーランドでは刊行されないまま」だった。「地下では、手書きの模写物が回覧された」(同)。
 1956年/29歳、『社会主義とは何か ?』<上掲書所収>を執筆。初期のもう一つの重要論考。「検閲」されて、これを掲載した雑誌は廃刊となる。ポーランドで非刊行、地下での回覧は、上と同じ。
 (1956-57年、オランダ、フランス・パリの大学に留学。)
 1959年/32歳、現代哲学史の講座職(the Chair)=教授に任命される。
 数年にわたり、ポーランド学術学士院(Academy)哲学研究所でも勤務。
 1966年/39歳、ワルシャワ大学で<ポーランドの10月>10周年記念の講演。
 「1956年10月以降の好機を逸し、希望を実現しなかった」として(Agnieszka による、ix)、党(ポーランド統一労働者党=共産党)と共産主義政府を、激しく批判する。
 これを理由に、党から除名される。
 1968年3月/41歳、政府により、大学の講座職(the Chair)=教授資格が剥奪され、教育と出版が禁止される。
 1968年の遅く/41歳、モントリオール・マギル(McGill)大学-カナダ-からの招聘を受けて、客員教授に。
 1969年-70年/42-43歳、カリフォルニア大学バークレー校-アメリカ-の客員教授。
 1970年/43歳~1995年/68歳、オクスフォード大学-イギリス-に移り、哲学学部の上級研究員。
 1975年/48歳、イェール大学-アメリカ-客員教授を兼任。
 1981年/54歳~1994年/67歳、シカゴ大学-アメリカ-社会思想研究所教授を兼任。
 (2009年/82歳、逝去。)
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 B。かつて、英国学士院(Academy)会員、アメリカ学士院外国人会員。ポーランド学士院、欧州学士院(Academia Europea)、バイエルン(独)人文学士院、世界文化アカデミー(Akademie Universelle des Cultures)の各メンバー。
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 C-受賞、とりわけ以下。
 Jurzykowski 賞(1969)、ドイツ出版協会平和賞(1977)、欧州エッセイ賞(仏, 1981)、エラスムス賞(1982)、ジェファーソン賞(1986)、トクヴィル賞(1993)、ノニーノ(Nonino)特別賞、イェルザレム賞(2007)。
 多数の大学から、名誉博士号。
 生涯にわたる人間性についての業績に対して、連邦議会図書館W・クルーゲ賞の第一回受賞者(2003)。
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 D-書物。30冊以上。17冊の英語著・英訳書を含む<略>。
 E-上掲書のIs God Happy ? -Selected Essays (2012).
 つぎの小論から成る。タイトルの仮の訳と発表年、およびこの本で初めて英語文で刊行されたか否か(<新訳>と記す)を記載する。また、Agnieszka Kolakowskiによる<改訳>もある。既に公刊されているものは、文献を省略して、()で刊行年のみ記す。p.324-7の「第一刊行の詳細」による。
 第一部/社会主義、イデオロギーおよび左翼。
 「神々の死」1956年<新訳>。
 「社会主義とは何か ?」1956年(英語1957年)。
 「文化の力としての共産主義」1985年(講演1985、英語<改訳>2005年)。
 「左翼の遺産」1994年(1994年)。
 「全体主義と嘘の美徳」1983年(1984年)。
 「社会主義の左翼とは何か ?」1995年(英語2002年)。
 「ジェノサイドとイデオロギー」1977年(英語1983年)。
 「スターリニズムのマルクス主義根源」1975年(英語1977年)。
 「全てに関する私の適正な見方」1974年(1974年)。
 第二部/宗教、神および悪魔の問題。
 「イェス・キリスト-予言者と改革者」1956年(英語<改訳>2005年)。
 「ライプニッツと仕事」2002年(英語2003)。
 「エラスムスとその神」1965年<新訳>。
 「外見上の神なき時代の神に関する不安」1981年(<改訳>, 2003年)。
 「神からの祝宴への招待」2002年<新訳>。
 「なぜ仔牛 ? 偶像崇拝と神の死」1998年<改訳>(講演)。 
 「神は幸せか ?」2006年<英語・新訳>(講演, オランダ語で初刊)。
 第三部/現代性、真実、過去およびその他。
 「無期日性を称賛して」1961年<新訳>。
 「俗物根性を称賛して」1960年<新訳>。
 「罪と罰」1991年(英語1991年)。
 「自然法について」2001年(講演, 英語2003)。
 「集団的同一性について」1994年(2003年)。
 「歴史的人間の終焉」1989年(1991年)。
 「我々の相対的な相対主義について」1996年(1996年, ハーバマス(Habermas)やロルティ(Rorty)との討議の中で)。
 「真実への未来はあるか ?」2001年<新訳>。
 「理性について(およびその他)」2003年<新訳>。
 「ロトの妻」1957年(<改訳>, 1972年, 1989年)。
 「我々の楽しいヨハネ黙示録」1997年<新訳>。
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 以上。

1489/「左」と「右」の観念論-日本共産党・不破哲三と「研究」所理事長・櫻井よしこ。

 ある種の「左」の人々は、夢の社会又は理想の時代を「未来」に見る。
 ある種の「右」の人々は、夢の社会又は理想の時代を「過去」に見る。
 「未来」のことは当然にまだ分からないので、文字通りに夢・理想・ユートピアであって、その内容も、達成方法も、将来についての<観念>でしかない。
 「過去」のことは過ぎ去ったことであり、今ある現実からは遠ざかっているので、その内容は、不可避的に抽象的な<観念>にならざるをえず、過去に一足飛びに戻れるわけではないので、その夢・理想・ユートピアの実現方法も<観念>的に語るしかない。
 今ある<現実>を唾棄すべきものとして正視せず、遠い未来か過去に理想社会・理想の時代を夢見るのは、いずれも<観念>論に陥る危険性がある。
 観念とは、脳内で作られる、かつ外部に表現されることもある、言葉、意識、考え(希望・反希望いずれであれ)、あるいはこれらの組み合せ又は体系だ。
 将来についての言葉・意識・考えは不可避的に、「観念」であるしかない。
 しかし、過去については膨大な歴史的事実が知られているはずであって、それを冷静に見つめれば「観念」論やその体系に嵌まるはずはない。
 しかし、今ある現実を忌避しすぎて、ある特定の時代・時期を単純に理想化して、その時代の過去に戻りたいという熱望が極端に大きくなりすぎると、歴史的現実(過ぎ去った現実)を冷静に、多様かつ総合的に視ることができなくなり、単純な「観念」的把握しかできなくなる。
 --
 ある種の「左」の人々の典型は、日本共産党だ。
 ある種の「右」の人々の典型は、さしあたり言えば、櫻井よしこだ。また、渡部昇一だ。
 --
 今年1月末頃に以下の象限表のようなものを提示した。番号を反時計廻りにに見る。
 ②リベラル保守 ①ナショナル保守
 ③リベラル左翼 ④ナショナル左翼
 上と下は、保守(反共産主義)と左翼(容共産主義)の対立。
 左と右は、近代普遍的(とされる、欧米的な)<自由・民主主義>とこれに懐疑的又は批判的なナショナリズムの対立。むろん、諸概念について種々の説明を要し、議論がありうることは承知している。
 それらを割愛していえば、ここでの(今回記しているテーマでの)要点は、①と④は、決して両極に離れたものではなく、すぐ上と下にあるように、存外に?近いものである、ということだ。
 ①が究極化して、ファシズム・ナチズムになったのかもしれない。
 ④が究極化して、レーニン・スターリンのコミュニズム(共産主義)になったのかもしれない。
 そしてまた、これらは<全体主義>として括られることがかなり多い。①の一部と④の一部は共通性がある。
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 日本の現在に即していうと、つぎのような印象がある。
 ④の中には、共産主義、そして日本共産党が入る。
 ①の中には、<観念保守>、日本にのみある「天皇」を至高の価値・存在と考え、「天皇」中心時代への復古を求める、現実(例、アメリカのトランプ)も、過去(例えば、明治維新)もまるで正視できない、冷静にかつ総合的に把握することのできない、一部の<保守>の人々又は団体・組織が入る。
 --
 日本共産党の不破哲三は、(かつて)<日本の共産主義者は…!>と党大会等で呼びかけて、煽動していた。
 某「研究」所理事長・櫻井よしこは、(日本の)「保守の気概」、「保守の真骨頂」なるものの保持・発揮を、<保守>系雑誌(この言葉は産経・月刊正論3月号上)で呼びかけ、あたかも読者を煽動しているふうだ。
 両者の「思い込み」ぶり、「観念」主義は、どこか似ていないか。

1483/ムッソリーニとレーニン⑤-R・パイプス別著5章2節。

 ムッソリーニの『レーニン主義者』という根源⑤。
 
前回のつづき。
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 ムッソリーニは、ファシスト政党を設立した1919年には、自分自身を社会主義者だとなおも思っていた。
 イタリアは、多数の退役者が仕事を見つけられず、インフレに苦しみ、深刻な社会不安を抱えていた。巨大な数の労働者が、ストライキに入っていた。
 このような不穏状態は、ムッソリーニを元気づけた。
 1919年1月に彼は、郵便従業員の違法な怠業を煽動し、労働者には工場を確保するように訴えた。
 ある権威者によれば、社会的混乱が頂点に達していた1919年の夏に、ムッソリーニは、工場労働者による暴力活動を訴えて無能の社会党や全国労働者連盟(General Federation of -)に高い値で自分を売り込むことすらした。彼の新聞<イタリア人民>は、<不当利得者は街路灯上の麻薬中毒者だ>と述べていた。(32)
 ファシスト党の中核になった< fasci di combattimento >の1919年6月綱領は、社会党のそれとほとんど異ならなかった。すなわち、憲法制定会議〔立憲議会、Constituent Assembly〕、一日八時間労働制、工場管理への労働者参加、国民予備軍、『資本への重税』による富裕層からの部分的剥奪、および教会財産の没収。
 労働者は、『革命的な戦争』を始めることが奨励された。(33)
 社会党の専門家はムッソリーニを、『<革命的な社会主義者>』だと見なした。(34)//
 戦争に対する立場によって信用を落としはしたが、こうした活動によってかつて社会主義者の指導者だったムッソリーニは、イタリア社会党の役職をもう一度得るのを望んだ。
 しかしながら、社会党は、彼を許そうとしなかった。社会党はファシスト党との選挙連立ブロックの形成を意図していたが、それは、ムッソリーニが排除されるという条件つきだった。(35)
 ムッソリーニは、政治的に孤立し、主に社会主義干渉主義者によって支援され、そして右翼へと振れた。
 二つの大戦間の彼の歩みを見て示唆されるのは、彼が社会党を拒絶したのではなく、社会党が彼を拒絶したこと、彼は旧宅、つまり社会党では達成できなかった政治的野心を満たすための道具として、ファシスト運動を始めた、ということだ。
 ムッソリーニの社会主義との決裂は、言い換えると、イデオロギー上のものではなく、人間的なものだ。//
 1920年遅くに始まったが、武装したファシスト騒団が、不法居住農民を打ち砕くべく農村地帯へと行進した。
 彼らは翌年早くに、北部イタリアの小都市を脅かす『懲罰遠征隊』を組織した。
 彼らは、ボルシェヴィキが実際にしたことを想起させるやり方で、物理的な暴力と脅迫を用いて、社会主義諸党や労働組合を解体させた。
 イタリアの社会主義者たちは、ロシアでの対応者〔ロシア社会民主党〕がそうだったように、このような剛腕による方法に受動的にしか対応せず、支持者たちを混乱させ、意気消沈したままに放置した。。
 ムッソリーニの行動は、工場経営者や土地保有者の支援を獲得した。
 彼はまた、休戦協定に対するイタリア人の憤懣も利用した。イタリアは勝利した連合国側で戦ったが、領土の要求を全く満足させるものではなかったからだ。
 ムッソリーニはイタリアを『プロレタリアの国』と描写して、民衆の怒りをもとに活動した。この戦術によって、不快感をもつ軍退役者の間での支持をかち得た。
 ファシスト党は、1921年11月までに15万2000人の党員を有した。そのうち24%は農業従事者で、15%は工場労働者だった。(36)//
 ムッソリーニは、ファシスト指導者になってすら、共産主義に対する共感と敬意を隠さなかった。レーニンの『残虐な力強さ』を高く評価し、ボルシェヴィキによる人質殺戮に反対しなかった。(37)
 彼は誇らしげに、イタリアの共産主義はまだ子どもだと言った。
 国会下院での1921年6月21日の最初の演説で、つぎのように自慢した。
 『私は、共産主義者をよく知っている。何人かは、私が育てたからだ。
 皮肉に見えるかもしれないが真面目に認めよう、私は、多数のブランキ(Blanqui)が弱体化した小さなベルクソン(Bergson)をイタリアの社会主義に持ち込み、イタリアの民衆を社会主義に感染させた、最初の人間だ。』(38)
 ムッソリーニは1921年2月に、ボルシェヴィズムについてこう言った。
 『あらゆる形態のボルシェヴィズムを拒否する。しかし、かりにどれか一つを選ばなければならないとすれば、モスクワやレーニンのボルシェヴィズムを選ぶだろう。それは、その総体が巨大で、野蛮で、かつ普遍的であるのだけが理由だ。』(39)
 ムッソリーニは1926年11月に、自立した政党、団体、組織を禁止する布令を発した。そのときでも、彼は共産党の存続を許した、ということを見過ごしできないだろう。(40)
 彼は1932年には、ファシズムの共産主義との親近性(affinities)を承認した。
 『全ての消極的な面で、われわれは似ている。
 われわれとロシア人は、リベラルたち〔自由主義者〕に反対で、民主主義者に反対で、議会制度に反対だ。』(41)
 (ヒトラーはのちに、ナチスはボルシェヴィキと分かたれているのではなく結びついている、と語って、これに同意することになる。(42))
 ムッソリーニは1933年に、スターリンに対して、ファシズムのモデルに従うように公然と強く迫った。
 また、ソヴェト独裁者が歴史上最もおぞましい大虐殺を完遂し終わった1938年には、最高級の賞賛をしてスターリンを褒め称えた。
 『スターリンは、レーニン体制の全体的崩壊を前にして、秘密のファシストになった。』
 ロシア人、『すなわち半野蛮な種族』のスターリンは、刑務所の囚人を懲らしめるために、香料油を強いて注ぐというファシストのやり方を見習わなかった、という違いはあるけれども。(43)//
 まずムッソリーニが、次いでヒトラーが自分たちの政治技術を真似る(copy)のを、ロシアの共産主義者は不安げに見守った。
 こんな比較がまだ可能だったのかと思う第12回党大会(1923年)で、ブハーリンは、つぎのように観察していた。//
 『ファシストの方法と闘いの特徴は、他のどの党よりも多く、ロシア革命の経験を採用し、実践へと適用したことだ。
 <形式的>観点から、つまり政治方法の技術の観点から見れば、ファシストたちがボルシェヴィキの戦術を、とくにロシアのボルシェヴィズムの戦術を完全に適用しているのが分かる。それは、権力の速やかな中央集中化、緊密に構成された軍事組織の力強い活動、また、人の力を関与させる独特な制度、Uchraspredy、総動員など、そして、必要で情勢が求めるときはいつでも敵を容赦なく破滅させること、という意味でだ。』(*)//
 歴史の証拠は、以下を示す。
 ムッソリーニのファシズムは、自分の政治的利益を促進するためにこの二つ〔社会主義と共産主義〕を攻撃するのを躊躇しなかったとしても、社会主義または共産主義に対する右翼の反応として出現したのではない。(+)
 もしも機会があれば、ムッソリーニは1920-21年頃には、強い親近性を感じていたイタリア共産党を自分の党派のもとに、喜んで抱え込んでいただろう。
 その親近性は、確実に、民主主義的社会主義者、リベラルたち〔自由主義者〕および保守主義者に対するものよりも強かった。
 ファシズムは、総括的に言うが、イタリア社会主義の『ボルシェヴィキ』派から生まれたのであり、保守的なイデオロギーまたは活動から生まれたのでは決してない。
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  (32) ロッシ, 成立, p.19。
  (33) ディ・フェリーチェ, ムッソリーニ, p.742-745。   (34) 同上、p. 730。
  (35) ロッシ, 成立, p.39。   (36) 同上、p. 163。
  (37) ノルテ, 理論, p.231。
  (38) ロッシ, 成立, p.134-5。  (39) 同上、p.138。
  (40) Eevin von Beckerath, ファシスト国家の本質と生成 (1927), p.109-110。
  (41) Yvon de Begnac, ヴェネツィアの宮殿 :ある体制の歴史 (1950), p.361。
  (42) ヘルマン・ラウシュニンク(Hermann Rauschning), ヒトラー語る (1939), p.134。
  (43) ムッソリーニ, オペラ・オムニア, XXIX (1959), P.63-64。Gregor, ファシスト信条, p.184-5 参照。
  (*) ロシア共産党(ボ)編集のXIIS" :Stenograficheskii otchet (1968), p.273-4。
 < Uchraspredy >とは、党活動家の任命に責任をもつ[共産党の]中央委員会の機関だ。
  第12回大会の議事原案の編集者は、ブハーリンが『馬鹿げた』、『根拠なき』、『非科学的』といった比喩を用いている部分を削除した。同上、p.865。
 さらに、Leonid Luks, 共産主義的ファシズム理論の生成 (1984), p.47 を見よ。
  (+) Renzo de Felice は、運動としてのファシズムと体制としてのファシズムを明確に区別し、前者は革命的なままだったと主張する。Michael Ladeen, in :国際的ファシズム, p.126-7。
 同じことは、権力を掌握するやその権力を維持するために保守的(conservative)になったボルシェヴィズムについても言えるかもしれない。
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第2節、終わり。

1480/ムッソリーニとレーニン④-R・パイプス別著5章2節。

 前回のつづき。[第5章第2節は、p.245-p.253。]
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 第2節・ムッソリーニの『レーニン主義者』という根源④。
 ムッソリーニが社会党から除名される原因になったこの転回について、さまざまな説明が提示されてきた。
 最も好意的でない見方によると、ムッソリーニは賄賂で動かされた。-彼は、その新聞< Il Popolo d'Italia >〔イタリア人民〕を発行するための資金を提供してくれたフランスの社会主義者から強い圧力をかけられていた。
 これが示唆するのは、実際に、ムッソリーニは破産状態にあったことだ。
 しかしながら、ムッソリーニの動機は政治的なものだったというのが、もっとありえそうだ。
 ほとんど全てのヨーロッパの社会主義政党が平和主義の公約を破って政府の参戦を支援したのちに、ムッソリーニは、ナショナリズムは社会主義よりも力強いと結論したように見える。
 1914年12月に、彼はつぎのように書いた。
 『国家は消失しなかった。われわれは、国家は絶滅すると思ってきた。
 そうではなく、われわれは目の前で、国家が立ち、生き、躍動しているのを見た。
 当たり前だが、そうなのだ。
 新しい現実は、真実を抑え込みはしない。すなわち、階級は国家を破壊できない。
 階級は利益の集合体であるが、国家は、情緒、伝統、言語、血統の歴史だ。
 国家の中に階級を挿入することはできるが、それらが互いに破壊し合うことはない。』(29)
 このことの帰結は、社会党はプロレタリアートだけではなくネイション全体(the entire nation)を指導しなければならない、ということだ。すなわち、『<ナショナルな社会主義(un socialismo nazionale)>』を生み出さなければならない。
 たしかに、世界的(インターナショナルな)社会主義から国家の(ナショナルな)社会主義への移行は、野心ある西側ヨーロッパのデマゴーグについてよく理解させる。(30)
 ムッソリーニは、一つのエリート政党が指導する暴力革命という考え方に忠実なままだった。しかし彼はこれ以降は、ナショナルな革命を目指すことになった。//
 ムッソリーニの転回はまた、戦略的な思考だったと説明することもできる。すなわち、革命には国際的な〔international=国家間の〕戦争が必要だとする確信からだ。
 こういう見解はイタリアの社会党創設者たちの間では共通していた。それは、極左のセルジオ・パヌンシオ(のちファシズムの主要な理論家)が戦争開始の二ヶ月後に新聞<前へ!>で書いた、つぎの考察文にも見られる。
 『<私は、現在の戦争だけが-かつより激しくて長引く戦争が-ヨーロッパ社会主義を革命的行動へと解き放つだろうと確信する。>(中略)
 国外での戦争には、国内での戦争が続かなければならない。前者は後者を準備しなければならない。そして、その二つが一緒になって、社会主義の偉大で輝かしい日を用意しなければなならない。(中略)
 われわれ全てが、社会主義の実現は<求められ>なければならないと確信している。
 今が、<求めて> そして<獲得する>ときだ。
 社会主義が緩慢でかつ…<中立的>であれば、明日には、歴史的状況は現在の状態と類似の情勢を再確認するだけにとどまるかもしれない。しかし、客観的には、社会主義からはより離れた、しかしかつ逆の意味での転換点でありうる。(中略)
 われわれは、われわれの全てが、<全ての>諸国家が-<いかなる程度>にブルジョア国家であろうと-勝者と敗者のいずれであろうと、戦争の<あと>では、粉砕された骨とともに衰弱して横たわっているだろう、と確信する。(中略)
 資本主義は深い損傷を受けるので、最後の一撃(< coup de grace >)には十分だろう。(中略)
 平和の教条を支持する者は、無意識に、資本主義を維持する教条を支持しているのだ。』(*)//
 戦争へのこのような肯定的態度は、ロシアの社会主義者たちに、とくに極左の立場の者たちに、もう少しは率直さを抑えて語られたが、知られていなかったわけではない。
 レーニンが第一次大戦の勃発を歓迎し、それが長く続いて、破滅的になることを望んだ、という証拠資料がある。
 世界の『ブルジョアジー』を大量殺戮者と攻撃する一方で、レーニンは個人的には、その自己破壊を称賛していた。
 バルカン危機の間の1913年1月に、レーニンはゴールキにあてて、つぎのように書いた。
 『オーストリアとロシアの戦争は、(東ヨーロッパ全体の)革命にとってきわめて有用だ。しかし、フランツ・ヨゼフとニコラシュカ(ニコライ二世)は、われわれにこの愉しみを与えてくれそうにない。』(31)
 レーニンは、大戦中ずっと、ロシアおよびインターの社会主義運動で、平和主義に関するいかなる宣明をすることも拒否した。社会主義者の使命は戦争を止めることではなく、戦争を内乱へと、つまり革命へと転化することだと主張しつつ。//
 ゆえに、つぎの旨のドメニーコ・セッテンブリーニ(Domenico Settenbrini)の叙述には賛同しなければならない。すなわち、ムッソリーニとレーニンの戦争への態度には、一方は自国の参戦に賛成し、他方はともかくも表向きは反対しているとしても、強い類似性がある。彼はこう書く。//
 『(レーニンとムッソリーニの二人は)以下のことを悟っていた。党は大衆を革命化し、その反応を形成するための道具ではありうる。しかし、党はそれ自身によっては、革命の根本的な前提条件-資本主義的社会秩序の崩壊-を生み出すことはできない。
 プロレタリアートの自己啓発によって自動的に出現する革命精神、その結果として弱体化する市場に資本主義者が商品を売れなくなること、についてマルクスがいったい何を語っていようが、プロレタリアートはますます貧窮化し、革命精神は欠如していることが判り、資本主義秩序は破滅に向かうどころか拡張している、というのが事実だ。
 したがって、マルクスによって自動的に起動すると想定されたメカニズムには、それを補完するものがなければならない。補完するものとは、-戦争だ。』(**)
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  (29) ムッソリーニ, オペラ・オムニエ, Ⅶ (1951), p.101。また、Gregor, ファシスト信条, p.171 も見よ。
  (30) ムッソリーニ, 同上。Gregor, ファシスト信条, p.168-171。
  (*) フェリーチェ, ムッソリーニ, p.245-6 から引用。この論考の正確な著者はムッソリーニ自身である可能性が指摘されてきた。
 1919年にムッソリーニは、イタリアの参戦に関して、『革命とその始まりの最初のエピソードだ。革命は戦争の名のもとで40ヶ月続いた』と語った。これは、A. Rossi, イタリアファシズムの成立, 1918-1922 (1938), Ⅱ に引用されている。
  (31) レーニン, PSS, 第48巻, P.155。
  (**) G. R. Urban 編, ユーロ・コミュニズム (1978), p.151。
 セッテンブリーニ(Settenbrini)は、つぎの興味深い疑問を提出している。
 『かりに1914年のイタリア政府のようにロシア帝制(ツァーリ)が中立のままにとどまっていたとすれば、レーニンはいったい何をしただろうか。レーニンが熱心な干渉主義者(Interventioist)にならなかったとは、確実に言えるのではないか?』
 Settenbrini, in : George L. Mosse 編, 国際的ファシズム (1979), p.107。
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 ⑤につづく。

1477/ムッソリーニとレーニン②-R・パイプス別著5章2節。

 前回のつづき。
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 第2節・ムッソリーニの『レーニン主義者』という根源②。
 ムッソリーニは、レーニンのように、政治の特性は闘いだと考えた。
 『階級闘争』は彼にとっては、言葉の字義のとおりの意味で、戦争だった。どの支配階級もかつてその富や力を平和的に放棄したことはないのだから、それは暴力的な形態をとるはずだった。
 彼はマルクスを尊敬し、経済学や社会学のゆえではなく、『労働者暴力に関する大哲学者』であるために、『父親であり教師』だと称した。(17)
 ムッソリーニは、議会制という策謀でもって教条を進化させているつもりの『法廷社会主義者』を軽蔑した。
 また、労働組合主義も信用しなかった。それは労働者を階級闘争から逸脱させるものだと考えていた。
 1912年に彼は、レーニンのペンで書かれているかのような、つぎの文章を書いた。
 『たんに組織されているだけの労働者は、利益という暴力にのみ服従するプチ・ブルジョアに変わる。
 理想を訴えても、何も聴かれないままだ。』(18)
 社会主義を放棄したあとですらこのような見方に忠実であり続けた。1921年にファシスト指導者として、彼は、労働者を『生まれながらに、…信心深くて根本的に平和主義的だ』と描写した。(19)
 こうして、レーニンから独立して、社会主義者とファシストの両方の精神性を具現化したものになって、ムッソリーニは、ロシア過激派のいう『随意性』を拒絶した。自分が考えたことだが、労働者は革命を起こさず、資本主義者と取り引きをする。これは、レーニンの社会理論の神髄だったのだが。(*)//
 このように考えて、ムッソリーニはレーニンが直面したのと同じ問題に向かい合った。生まれながらに反革命的だと言われる階級と一緒に、どうやって革命を起こすのか。
 ムッソリーニは、レーニンがしたように解決した。労働者の中に革命的暴力の精神を注入する、エリート党の結成を主張することによって。
 レーニンの前衛政党という考えは人民の意思の経験にもとづいていたが、ムッソリーニのそれは、ガエターノ・モスカとヴィルフレド・パレートの書物によって塑形された。この二人は、1890年代と1900年代の初めに、エリート集団の間の権力闘争という政治観を広めていた。
 モスカとパレートは、同時代の哲学理論、とくにアンリ・ベルクソン(Henri Bergson)のそれの影響を受けていた。ベルクソンは、主意主義を主張して『客観的』要因が社会行動にとって決定的だとの実証主義哲学者の考えを拒否した。
 しかし、このエリート理論を主に起動させたのは、民主制は作動していないという19世紀末に向かう民主制の実際の姿を観察したことだ。
 大陸〔ヨーロッパ〕の民主制が次々に起こる議会制の危機と醜聞に悩まされたというだけではない-イタリアでは1890年代の10年間に6回も内閣の交代があった-。そうではなく、集まる証拠資料によれば、民主主義的諸制度は、寡頭的少数者の隠された支配のための外被(facade)として役立っていた。
 このように観察して、モスカとパレートは、第一次大戦後のヨーロッパ政治に深い影響を与えた理論を定式化した。
 政治における『エリート主義』との観念は、平凡だと思われるほどに十分に西側の思想界に吸収された。カール・フリートリヒによれば、エリート理論は『西側思想史の最近三世代にわたる重要な主題になった。』(20)
 しかし、世紀の変わり目には、ひどく新奇な考えだった。<支配階級>の中でモスカは、少数者が多数者を支配することを認めるのは、多数者が少数者を支配するのを認めることよりもむつかしいことを受容していた。//
 『組織された少数者の組織されない多数者に対する支配は、ただ一つの衝動に従うことにより、避けることができない。
 いかなる少数者の権力も、組織された少数者の全体(totality)の前に独りで立つ多数派の個々人にとっては諍い難いものだ。
 同時に、まさに少数派であるというその理由で、少数者は組織される。
 共通の理解のもとで均一にかつ一致して行動する100人の人間は、協力しない、ゆえに一人一人が取り引きされうる1000人に対して勝利するだろう。』(**)//
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  (17) ムッソリーニ, オペラ・オムニエ Ⅱ(1951), p.31, Ⅳ(1952), p.153。
  (18) 同上、Ⅳ, p.156。
  (19) A. Rossi, イタリアのファシズムの成立 1918-1922 (1938), p.134。
  (*) イタリアの社会主義者世界では、階級意識は階級上の地位の自然の産物ではないという考え方は、1900年とそれ以降の多様な社会主義理論家によって拒否されていた。
 とりわけ、Antonio Labriola, A. O. Olivetti, Sergio Panunzio 。A. James Gregor, ファシストの政治信条 (1974), p.107。
  (20) カール・J・フリートリヒ, 常識人の新しい姿 (1950), p.246。
  (**) ガエターノ・モスカ(Gaetano Mosca), 支配階級 (1939), p.53。
 この理論は、全体主義体制が対抗政党だけでなく例外なく全ての組織を破壊して奪い取ることを強く主張した理由を説明している。社会の原子化は、少数者が多数者をはるかに効率的に支配することを許してしまう。
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 ③につづく。

1475/ムッソリーニとレーニン①-R・パイプス別著5章2節。

 前回のつづき。
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 第2節・ムッソリーニの『レーニン主義者』という根源①。
 第一次大戦前の著名な社会主義者の中で、ムッソリーニほどレーニンに似ている人物はいない。
 レーニンのように、ムッソリーニは、自国の社会主義政党の反修正主義派を率いた。
 レーニンのように彼は、労働者は生まれながらに革命的なのではなく、知識人エリートによって革命的行動へと突つかれなければならない、と考えた。
 しかし、ムッソリーニの考えにはより適した環境の中で仕事をした間、添え木となる党を形成する必要が彼にはなかった。
 少数党派の指導者だったレーニンは分離しなければならなかったが、一方のムッソリーニは、イタリア社会党(PSI)の多数派を獲得して、改良主義者を排除した。
 1914年にムッソリーニの戦争に関する考え方の転回が起こらなかったならば、彼は十分に、イタリアのレーニンになっているかもしれなかった。彼は、連合国側へのイタリアの参戦に賛成することを明らかにして、イタリア社会党から除名されたのだった。
 社会主義歴史家は、ムッソリーニの初期の伝記にあるこのような事実を恥ずかしく感じて、それらを抑えて公表しなかったか、社会主義との一時的な戯れとして叙述した。その戯れをした人物の知性の師は、マルクスではなく、ニーチェとソレルだとされた。(*)
 しかしながら、このような主張は、つぎの事実と一致させることが困難だ。すなわち、イタリアの社会主義者たちは、十分に将来のファシズム指導者について考慮して、1912年に党機関である新聞 <前へ!(Avanti !)>の編集長に指名した、ということだ。(14)
 社会主義との一時的なロマンスとは全く違って、ムッソリーニは熱烈に社会主義に傾倒していた。
 1914年の10月まで、いくつかの点では初期の1920年まで、労働者階級の性質、党の構造と活動、社会主義革命の戦略に関する彼の考え方は、レーニンのそれに著しく似ていた。//
 ムッソリーニは、無政府主義的サンディカリストとマルクス主義者の信条をもつ、貧しい伝統工芸家の息子として、イタリアの最も過激な地方であるロマーニャ地方で生まれた。
 父親は彼に、人間は二つの階級に、被搾取者と搾取者とに分けられる、と教えた。(これは社会主義指導者としてムッソリーニが用いた定式だった。『世界には二つの祖国がある。被搾取者の国と搾取者の国だ』。-sfruttatiと sfruttatori。)(15)
 ムッソリーニはボルシェヴィズムの創設者と比べれば低層の出自で、その過激主義はより多くプロレタリアの性質を帯びていた。
 彼は理論家ではなく、戦術家だった。暴力の重要視とともに無政府主義とマルクス主義の混合物である彼の知識人エリート主義は、ロシアの社会主義革命党のイデオロギーと似ていた。
 19歳のときの1902年に、ムッソリーニはスイスに移り、一時雇い労働者として働き、余暇には勉強して、きわめて貧乏な二年間をすごした。(*)
 彼はこの期間に、過激派知識人と交際した。
 確実ではないけれども、ムッソリーニがレーニンと会った、ということはありうる。(++)
 この期間に頻繁にムッソリーニを見たアンジェリカ・バラバノッフによれば、彼は虚栄心をもち自己中心的で、異様な興奮をしがちだった。また、その過激主義は、貧困と金持ちへの憎悪に根ざしていた。(16)
 この時期にムッソリーニは、長く続く改良主義者や進化論的社会主義に対する敵意を形成していった。
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  (+) ソレル(Sorel)はムッソリーニに対して大きな影響を与えたというのは、反ファシスト文献上の長く続く神話だ。彼の影響は小さく一時的なものであることを、証拠資料は示す。以下を見よ。Gaudens Megaro, 生成期のムッソリーニ (1938), p.228. ;エルンスト・ノルテ(Ernst Nolte), ファシズムとその時代 (1963), p.203。
 ムッソリーニの暴力カルトは、ソレルではなくて、マルクスに由来する。ソレルはたまたま、1919年9月に、レーニンへの賛辞を書いた(「レーニンのために」in :暴力に関する考察, 10版, (1946), p.437-54.〔仏語〕)。
 ソレルはそこで、「マルクス以後の社会主義の偉大な理論家であるとともにその天才ぶりはピエール大帝のそれを想起させる」ムッソリーニの知的発展に自分が寄与した、というのが、噂になっているように本当であれば、きわめて誇らしい、と書いた。
  (14) ムッソリーニの初期の社会主義やレーニンのボルシェヴィズムへの親近感についてきちんと取り扱った書物の中に、以下がある。Renzo de Felice, ムッソリーニと革命 1883-1920 (1965) ;Gaudens Megaro, 生成期のムッソリーニ (1938)。A. James Gregor のつぎの二つ, 若きムッソリーニとファシズムの知的淵源 (1979), ファシストの政治信念 (1974)。および、Domenico Settenbrini の二つの論文, 「ムッソリーニとレーニン」in :George R. Urban 編, ユーロ・コミュニズム (1978), p.146-178, 「ムッソリーニと革命的社会主義の遺産」in :George L. Mosse 編, 国際的ファシズム (1979), p.91-123。
  (15) ベニート・ムッソリーニ, オペラ・オムニア (1952), p.137。   
  (*) この移動は、徴兵を避けたい気持ちからだったと、ふつうは説明されている。しかし、James Gregor は、ムッソリーニは1904年にイタリアに戻ってきて翌二年間を軍役ですごしたので、原因とはなりえなかった、と指摘した。James Gregor, 若きムッソリーニとファシズムの知的起源 (1979), p.37。
  (++) Benzo de Felice, ムッソリーニと革命 1883-1920 (1965), p.35n は、この遭遇はあった、と考えている。
 ムッソリーニはレーニン(「ロシア移民は絶えず名前を変えていた」)と会ったか否かの質問に決して明確には答えなかったが、一度、謎めかしてつぎのように語った。『私が彼〔レーニン〕を知っているのより遙かに多く、彼は私について知っていた』、と。
 彼はいずれにせよ、この期間に、翻訳されたレーニンの著作物のいくつかを読んだ。そして、『レーニンに捕まった』と言った。Palazzo Venezia, ある体制の歴史 (1950), p.360。
  (16) アンジェリカ・バラバノッフ(Angelica Balabanoff), 反逆者としてのわが人生 (1938), p.44-52。
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 ②につづく。

1474/全体主義の概念②-R・パイプス別著5章1節。

 前回のつづき。
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 第5章・共産主義、ファシズムおよび国家社会主義。
  第1節・『全体主義』の観念②。
 ココミンテルンが定式化した、左翼には優勢の見方によれば、『ファシズム』は共産主義の正反対物で、この二つを『全体主義』という傘の下に置く試みは、冷戦の産物だとして却下される。
 この見方によれば、『ファシズム』は、最終的な消滅へと進む資本主義における帝国主義段階の一様相だ。
 包囲されかつ驚いて、『独占資本主義』は、労働者階級の支配を維持しようと絶望的な努力をして、『ファシスト独裁制』に頼っているのだ。
 共産主義インターナショナル〔コミンテルン〕執行委員会は1933年に、ファシズムを『金融資本主義の、最も反動的で狂信愛国主義的なかつ帝国主義的な要素をもつ、公然たるテロリスト独裁制』と定義した。(9)
 傾倒したマルクス主義者にとっては、議会制民主主義と『ファシズム』の間に何の違いもない。ただ、ブルジョアジーが労働者大衆の要求に対抗して自らを守る方法が違うだけだ。
 『ファシズム』は、財産関係を維持し続けるがゆえに保守的だ。『社会主義社会への自然の発展を妨げようとする点において、革命的ではなく、反動的であり、または反革命的ですらある。』(10)
 ムッソリーニやヒトラーの体制にある革命的な要素は、現代人には驚くべきことに、欺瞞的な策略(deceptive maneuvers)だと叙述される。//
 『全体主義』観念やボルシェヴィズムは『ファシズム』に影響を与えたという示唆に反対する論拠には、二つの範型がある。
 低い議論の次元では、人身攻撃(ad hominem)の方法が用いられる。
 『全体主義』の観念(concept、コンセプト)は、冷戦を闘うための武器として考案されたと言われる。共産主義をナツィズムと接合させることは、世論が反ソヴェト同盟へと向かうのを助ける、というのだ。
 この観念は実際には、冷戦の優に20年前には存在していた。
 『全体的(total)』政治権力や『全体主義』の観念は、1923年に、ムッソリーニの反対者だった(のちにファシストに殺害された)ジョヴァンニ・アメンドーラによって定式化された。彼はムッソリーニによる国家制度の体系的な破壊を観察して、ムッソリーニ体制は伝統的に言う独裁制とは根本的に異なっている、と結論した。
 ムッソリーニは1925年に、『全体主義』という用語を採用し、肯定的な意味を与えた。
 彼は、『精神的なものも人間的なものも』全てを、『国家の外にある全てではなく、国家に反抗する全てではなく、国家の内部にある全てのもの』を政治化する、という意味で『全体的な』ものだと、ファシズムを定義した。(*)
 ヒトラーの勃興とそれと同時に起こったスターリンのテロルがあった1930年代に、この用語は、学者世界で受容されていた。
 これら全ては、冷戦のとっくに前に生じていたのだ。//
 『全体主義』との語を拒絶する、より真剣な理論家は、その論拠をつぎのように述べる。
 第一に、いかなる体制も完全な政治化や国家統制を実施することができなかった。第二に、いわゆる『全体的』体制に帰属する特質は、それに独特なものではない。
 『言葉の厳格な意味で全体的という呼称を使える制度は存在しない』。
 さらに論述は続く、『なぜなら、どこにでも多かれ少なかれ多元主義的な屑滓は残っているのだから。』、と。
 換言すると、明確に特徴的だとされる『単一体』を実現することなどできない。(11)
 これに対しては、つぎのように答えることができる。
 『厳格な』意味づけという標識でもってつねに判定されるならば、社会科学の学術用語は、全てが考査に合格しないだろう。
 何人も、『資本主義』について語ることはできないだろう。なぜならば、レッセ・フェール(laissez-faire)経済の全盛期においてすら、政府は規制していたし、そうでなくとも市場の活動に介入していたのだから。
 また、このような規準によるならば、何人も『共産主義経済』を語ることができないだろう。なぜならば、ソヴェト同盟では理論上は99%が国有で国家管理のもとにあったとしてすら、つねに『第二の』自由経済部門(sector)の存在を黙認しなければならなかったからだ。
 民主主義は、民衆による統治を意味する。しかし、政策に影響を与える特定の利益集団がどの最も民主主義的な国家でも存在していることを、政治理論は何の困難もなく承認している。
 このような諸概念は、所与の体制が欲するものは何か、得るものは何かを伝達するがゆえに、有用なのだ。-自然科学ではなされるような、辞書上の用語の意味での『厳格に』語ってではなく、人間世界で最大限に一致していることを大まかに語って伝えるのだ。
 実際に、全ての政治的、経済的および社会的な制度は『混合』したもので、どれ一つ純粋なものではない。
 学者の仕事は、総体として所与の制度を際立たせて他者と分離させる、その総体を識別することだ。
 より厳格な規準を『全体主義』概念に適用する、いかなる合理的で知的な根拠も存在しない。
 じつに、全体的な熱望はきわめて高いので、ハンス・ブーフハイムによれば、まさにその本性のゆえにそれを認識することができない。ブーフハイムは、つぎのように述べる。//
 『全体的支配は不可能なことを-人の人格と運命を完全に統御することを-追求するので、部分的にしか認識され得ない。
 目標は決して到達できないもので現実になることもなく、力への一つの勢い、一つの<要求>にとどまり続けなければならない、というのが、全体主義の本質だ。
 全体的支配は単一的に推論できる装置ではなく、各部分が同等に働いている。
 これは望ましい状態で、ある分野では現実にも理想に接近しているのかもしれない。しかし、全体(whole)として見ると、力への全体的な要求は、変転する強さ、異なる時間、多様な生活領域が伴う、拡散した方法でのみ、認識される。-そして、全体的な特質はつねに、非全体的なものとの混合物なのだ。
 しかし、力への全体的要求の結果は危険で暴虐的だというのは、まさにこの理由からだ。この要求は不明瞭で予見不能で、存在を証明するのが困難だ。(中略)
 全体的な総体に関するほとんどどの考察にも、ある事項については誇張し、別の事項については過小に評価するという、致命的な特徴がある。
 この逆説は、認識できない統御への要求から生じている。それは全体的な統治のもとでの生活に特徴的なものであり、全ての外部者が把握することをきわめて困難なものにしている。』(12)//
 全体主義の(イデオロギーへの傾倒、大衆への訴え、カリスマ的指導者のような)属性はどの政治体制にも存在している、という主張に対しても、同様の答えをすることができる。
 『いかなる構成物にも歴史上の独特さがあるという論拠は、「全体として(wholly)」独特だということを意味してはいない。そんなものは何一つないからだ。
 全ての歴史事象は、…分析対象を幅広く分類したもののうちのいずれかに属している。
 歴史はまずは、人間であれ物であれ、また事件であれ、個別的なものにかかわる。そして、歴史上の独特さは、特徴的な要素を十分に多様な図柄にしたもので成り立っているのだ。』(13) //
 イタリアのファシズムとドイツの国家社会主義について研究するためには、ロシア革命を理解することがきわめて重要だ。その少なくとも三つの理由は、つぎのとおりだ。
 第一に、ムッソリーニとヒトラーは、民衆を脅かして独裁権力に屈服させるために、共産主義という妖怪を利用した。
 第二に、二人とも、個人的に彼らに忠実な政党を造り上げ、権力を奪取して一党独裁体制を樹立する技術について、きわめて多くのことをボルシェヴィキから学んだ。
 これら二つの点で、共産主義は、社会主義や労働者運動に対してよりも大きい影響を、『ファシズム』に対して与えた。
 そして第三に、ファシズムや国家社会主義に関する研究文献は共産主義に関するそれよりも、多くかつより精細だ。それらに慣れ親しむことは、ロシア革命が出現させた体制に対して、多くの光をあてる。//
 影響は大きいので、歴史家は危うい地形に嵌まるかもしれない。なぜならば、前後関係のゆえに因果関係あり(post foc ergo propter hoc)という、その後で生じたからそれが原因だとの謬論に陥る危険性があるからだ。
 共産主義はファシズムと国家社会主義の『原因』になった、と言うことはできない。これらの源泉は生まれた地にあったのだから。
 しかし、つぎのことは言うことができる。すなわち、大戦後のイタリアとドイツでひとたび反民主主義的勢力が十分な強さを獲得したとき、その指導者たちの手には、従うことができるモデルが用意されていた。
 全体主義の全ての属性の先行形は、レーニン・ロシアのうちにあった。つまり、公式の包括的なイデオロギー、『指導者』を長として国家を支配する単一のエリート政党、警察のテロル、通信手段と軍隊に対する支配党の統制、経済への中央からの指令。(**)
 これらの制度と過程は、ムッソリーニがその政府をヒトラーがその党を設立した1920年代早くに、他のいかなる国でも見出せなかったが、すでにソヴェト同盟にはあった。
 したがって、『ファシズム』と共産主義の間には何の連結関係もないということの立証責任は、そのような見解の持ち主の側にある。//
  (*) 1950年代と1960年代のガーナの独裁者で、ソヴェトとの同盟者だったクワメ・クルマーは、自分の碑につぎの言葉を彫りこんだ。『まずは政治王国を探求せよ。そうすれば全ての他事は君の上に加わるはずだ。』
  (9) レオニード・ルークス, 共産主義者のファシズム理論の生成 (1984) p.177。
  (10) アクセル・クーン, ファシストの支配体制と現代社会 (1973) p.22。
  (11) ザイデル=イェンカー, 途 p.26。同じ反論は以下からも述べられている。クーン in, ファシスト的支配体制, p.87。
  (12) ブーフハイム, 全体的支配, p.38-39。
  (13) フリートリヒ, 全体主義, p.49。
  (**) これらの標識は、カール・J・フリートリヒとズビグニュー・K・ブレジンスキーによって、彼らの<全体的独裁と専制>(1964) p.9-10 で確立された。
 経済計画は1927年のロシアで最初に実現されるが、その基礎作業は、レーニンのもとで、1917年遅くの国家経済最高会議(VSNKh)の設立によって行なわれていた。R・パイプス『ロシア革命』第15章を見よ。
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 第2節へつづく。 

1473/全体主義の概念①-R・パイプス別著5章1節。

 Richard Pipes, Russia under Bolshevik Regime (1994)=リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア(1994)の訳を試みる。さしあたり、第5章のみ。
 原則として一文ごとに改行する。本来の改行箇所には「//」を付した。<『 』>は、原著では<" ">だ。
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 第5章・共産主義、ファシズムおよび国家社会主義
 「ファシズムとは何か。それは民主主義から解放された社会主義だ。」- Charles Maurras (1)
  第1節・『全体主義』の観念
 国内および国外での共産主義者の活動の意味は、世界的革命を解き放つことではなく、逆説的ではあるが、彼らの精神性に類似した運動を生起させ、共産主義を闘う彼らの方法を模写することだ。
 この理由によって、第一次大戦後にヨーロッパに出現した、いわゆる右翼過激派の、または『ファシスト』の運動はしばしば、共産主義の正反対物だと見られている。
 しかし、宗教上のであれ世俗上のであれ相互に激烈に闘うイデオロギーにはよくあるように、それらは異なる原理や熱望をもつがゆえにではなく、同じ構成物を目指して競争するがゆえに、相互に激しく闘うのだ。//
 共産主義と『ファシズム』の関係は長らく、論争の対象だった。
 共産主義歴史家には義務的な、西側の社会主義者やリベラルたちには好まれた解釈によれば、この二つは決して一致しない現象体だ。
 保守的な理論家の側は、両者を『全体主義』という観念のもとに包括する。
 問題はきわめて微妙だ。『ファシズム』、とくにその最も悪性の表現であるナツィズムは、マルクス・レーニン主義と、したがって究極的には社会主義と、縁戚関係があるのか、それともそうではなく、『資本主義』から生まれてくるのか、という問題が生じるからだ。//
 以下の論述は、直接にはこの論争にかかわらない。この問題については、すでに多数の文献が存在する。(2)
 その代わりに、共産主義が、見習うべき模範かつ利用すべき脅威のいずれもとして西側の政治に与えた影響に、光を当てるつもりだ。
 大戦間のヨーロッパでの右翼過激派運動の起源を例にとれば、その運動はレーニンとスターリンという先行者なくして理解できないだろうことが、すぐに明らかになる。
 この問題は、不思議にも、ヨーロッパの全体主義独裁制がまるで自分で生まれてきたかのように扱う歴史家や政治学者によって無視されている。権力へのヒトラーの蜂起に関する標準的な説明をするカール・ブラヒャーですら、ほとんどレーニンに言及していない。ブラヒャーのあらゆる段階についての叙述は、この二人が採用した方法との類似性を明らかにしているにもかかわらず。(3)//
 なぜ、ソヴェトの実験は、ファシズムや全体主義に関する文献で大きく無視されているのか ?。
 左翼の歴史家にとっては、ソヴェト共産主義と『ファシズム』の親近性という問題を持ち出すことですら、両者間の因果関係を肯定するのと同じことなのだ。
 彼らにとって『ファシズム』とは、その定義上、社会主義と共産主義の正反対物であるために、このような親近性は承認されえないもので、『ファシズム』の根源は、もっぱら保守的思想と資本主義の実践の中に求められなければならないのだ。
 ソヴェト同盟ではこの傾向は進んで、レーニン、スターリンおよび彼らの直接の後継者たちのもとでは、『国家社会主義』という用語を使うことが禁じられた。//
 つぎに、『全体主義』および『ファシズム』という概念が現代性を獲得した1920年代には、西側の学者はボルシェヴィキとそれが生んだ一党独裁体制についてほとんど何も知らなかった。
 すでに記したように (4)、1917-18年、ヨーロッパが第一次大戦の最後の年にあり、ロシア内部の展開によりも注意を払うべき緊急の問題がたくさんあったときに、あの体制は、設定された。
 共産主義体制の真の本性は、その背後に独占的な党が立つ、新奇な民主主義紛いの諸制度によって、外国人の目からは長い間、隠されていたのだ。
 今日からすれば奇妙に思えるかもしれないことだが、『ファシスト運動が発展した1920年代には、共産主義はまだ全体主義的体制の一つであるとは分かっておらず…、制限のない自由の擁護者のように見えていた…。』(5)
 二つの大戦の間には、共産主義体制の起源を問題にするいかなる研究も、真剣な歴史的で理論的な分析を行わなかった。
 ほとんどが1930年代に、ソヴェト・ロシアに関する若干の研究書が出版され、スターリンが支配する国家について叙述した。それら研究書はしかし、一党国家体制の父祖であるのはレーニンではなくスターリンだという偽りの印象を生み出した。
 1951年になって、ハンナ・アレントは、レーニンが最初に権力をソヴェトに集中させることを企図し、内戦が勃発して『大敗北』を喫したのちに、『至高の権力を…党官僚の手へと移した』という衝撃的な主張をすることができた。(6)//
 全体主義現象に関する初期の分析は、彼ら自身の民族的体験にもとづいて、ほとんどもっぱらドイツの学者によって行われた。(7)
 ハンナ・アレントが全体主義の属性の一つであるとして反ユダヤ主義に与えた、誇張された重要性は、ドイツ人による多数の研究を説明するものだ。(*1)
 初期の別の(ジグムント・ノイマンのような)研究者は、ヨゼフ・スターリン、ベニート・ムッソリーニおよびアドルフ・ヒトラーの諸体制の類似性に注目した。しかし彼らですら、共産主義政治体制の作動に関してほとんど何も知らないという単純な理由で、ロシアが右翼過激派運動に与えた影響を無視した。
 1956年にカール・フリートリヒとズビグニュー・ブレジンスキーが発表した、左翼と右翼の独裁制の最初の体系的な比較もまた、歴史的分析というよりも静態的な分析を提示するものだった。(8)
 ファシズムと国家社会主義に対するボルシェヴィズムの影響について研究することには、第三の要素が内在していた。それは、全ての反共産主義の運動と体制を描写する『ファシスト』の利益になるように『全体主義的』という形容句を『進歩的』思想の語彙群から除外しようとする、モスクワの強固な主張だった。
 この問題に関する党の方針は1920年代に定められ、コミンテルンの決定で定式化されていた。
 ムッソリーニ・イタリアやヒトラー・ドイツを曖昧に包括する『ファシズム』は、ポルトガルのアントニオ・サラザールやポーランドのピルズドスキーのような比較的に穏健な反共産主義独裁制とともに、『金融資本主義』の所産であり、ブルジョアジーの道具だと宣告された。
 1920年代に、ソヴェトの公式原理は、全ての『資本主義』国家は共産主義(社会主義)にひざまづく前に『ファシスト』段階を通過することを余儀なくされている、と決定した。
 モスクワが『人民戦線』政策を採った1930年代半ばには、ソヴェトのこの問題に関する見地はいくぶんかは柔らかくなり、定義上は『ファシスト』の範囲内にある政府や運動との協力を許した。
 しかし、反共産主義をファシズムと同一視する考え方は、ミハイル・ゴルバチョフによる<グラスノスチ>が登場するまで、共産主義による検閲に服している諸国では拘束的なものであり続けた。
 この考え方は、外国の『進歩的』なサークルでも広く行き渡っていた。
 いかなる方法によっても無謀にもムッソリーニまたはヒトラーを共産主義と結びつける、あるいは共産主義体制を紛れもない大衆運動だと叙述する学者には、言葉によるまたはその他の形態による嫌がらせを受けるリスクがあった。(*2)//
  (2) 例えば、カール・J・フリートリヒ, 全体主義 (1954); エルンスト・ノルテ 編, ファシズムに関する諸理論 (1967); レンツォ・ディ・フェリーチェ, ファシズムの解釈 (1972); ブルーノ・ザイデル=ジークフリート・イェンカー 編, 全体主義研究の途 (1968); エルンスト・A・ミェンツェ 編, 全体主義再検討 (1981)。
  (3) カール・ブラヒャー, ドイツの独裁者, 2版 (1969)。
  (4) リチャード・パイプス, ロシア革命, 12章。
  (5) ハンス・ブーフハイム, 全体的支配 (1968), p.25。
  (6) ハンナ・アレント, 全体主義の起源 (1958), p.319。
  (7) ペーター・クリスツィアン・ルドツ, in :ザイデル=ジークフリート・イェンカー 編, 途, p.536。エルンスト・フレンケル, 二重国家 (1942), フランツ・ナウマン, ビヒモス (1943) といったパイオニア研究を見よ。最初の大戦間10年間には、全体主義に関する多数の研究がドイツ移民によっても、とくに、アレント, 起源 やフリートリヒ, 全体主義, によってなされた。
  (*1) 〔略〕
  (8) カール・J・フリートリヒ=ズビグニュー・K・ブレジンスキー, 全体的独裁〔Dictatorship〕と専制〔Autocracy〕 (1956)。
  (*2) 例えば、ファシズムの有名な非『ブルジョア』的根源を強調するイタリアの知識人界がレンツォ・ディ・フェリーチェ(Renzo de Felice) に対してとった処遇を見よ。マイケル・レディーン(Michael Ledeen), in: George Mosse 編, 国際的ファシズム (1979) , p. 125-40。
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 ②へとつづく。

1449/幻滅の社会民主主義②-R・パイプス著9章4節。

前回のつづき。
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 流刑の期間が終わろうとする頃、レーニンは郷里から穏やかならざるニュースを受け取った。収監中に成功を続けていた運動が危機の苦衷にあり、それは1870年代の革命家たちが経験したものに似ている、という。
 労働者が政治化することをレーニンが期待した煽動戦術は、大きな変化を遂げていた。労働者の政治意識を刺激する手段として役立つことが意図された経済的不安は、終わり始めていた。 
 労働者は、政治に関与することなく経済的利益のために闘争した。そして、『煽動」に従事した知識人は、自分たちが労働組合運動の始まりの添え物になっていることに気づいた。
 レーニンは1899年夏に、エカテリーナ・クスコワが書いた『クリード(Credo、信条)』と呼ばれる文書を受け取った。それは、社会主義者に対して、専制体制に対する闘争をやめてブルジョアジーに向かい、ロシア労働者が代わりにその経済的、社会的条件を改良するのを助けることを要求していた。
 クスコワは十分な経験がある社会民主主義者ではなかったが、彼女の小論は社会民主主義者の中に現れた傾向を反映していた。
 この新しい異説に、レーニンは経済主義というラベルを貼った。
 社会主義者の運動を、その性質からして『資本主義』に順応することを追求する労働組合の小間使いにしてしまうことほど、レーニンの気持ちから離れたものはなかった。
 ロシアから届いたその情報は、労働者運動が社会民主主義知識人から独立して成熟し、政治闘争-すなわち革命-から遠ざかっていることを示していた。//
 レーニンの不安は、運動上にまた別の異説、修正主義、が登場したことによって増大した。
 1899年早くに、エドゥアルト・ベルンシュタインに従う何人かのロシア社会民主主義の指導者たちは、近年の論拠に照らしたマルクスの社会理論の修正を要求した。
 ストルーヴェはその年に、一貫性の欠如を指摘する、マルクスの社会理論の分析書を発行した。マルクス自身の前提は、社会主義は革命(revolution)ではなく進化(evolution)の結果としてのみ実現される、ということを示唆するのだ。(49)
 ストルーヴェはそのうえで、マルクスの経済的かつ社会的原理の中心観念である価値理論の体系的批判へと進んだ。そして、『価値』とは科学的な観念ではなく形而上のそれだという結論に至った。(50)
 修正主義は経済主義ほどにはレーニンを困惑させなかった。というのは、修正主義には同じ実践上の影響力はなかったので。しかし、何かがひどく悪くなっているという恐怖が高まった。    
 クルプスカヤによると、レーニンは1899年の夏に、取り乱すようになり、痩せて、不眠症に罹った。
 彼は今や、ロシア社会民主主義の危機の原因を分析し、それを克服する手段を考案することにエネルギーを傾注した。//
 レーニンの直接の実践的な解決方法は、正統派マルクス主義に忠実なままの仲間たちとともに、運動上の逸脱、とくに経済主義と闘うために、ドイツの<社会民主主義者>を模範にした出版物を刊行することだった。  
 これが、<イスクラ>の起源だった。
 レーニンの思考はしかし、さらに深くなって、社会民主主義を人民の意思を範型とする結束した陰謀家エリートとして再組織すべきではないのかどうかを考え始めた。(51)
 このように思考するのは精神の危機の始まりだった。それは、1年あとで、彼自身の党を結成するという決断によって解消されることになる。//
 1900年早くに流刑から解き放たれた後のペテルスブルクでの短い期間、レーニンは、名義上はまだ社会民主主義者だがリベラルな見地へと移っていたストルーヴェをはじめとする同僚と、交渉して過ごした。
 ストルーヴェは、<イスクラ>と協力し、その財政のかなりの部分を支援することとされた。その年の遅く、レーニンはミュンヒェンに移り、そこで、ポトレゾフやユリウス・マルトフと一緒に、『正統な』-つまり、反経済主義かつ反修正主義の-マルクス主義の機関として<イスクラ>を設立した。//
 ロシア内外の労働者の行動を観察すればするほど、マルクス主義の根本的な前提とは全く違って、労働者(『プロレタリアート』)は決して革命的階級ではない、という結論がますます抑えられなくなった。労働者は放っておかれれば、資本主義を放逐することよりも資本主義者の利益の分け前をより多く取ることを選ぶだろう。
 ズバトフが警察組合主義 (*)という考えをまさにこの時に抱いたのは、同じ理由からだった。
 1900年に発表した影響力ある論文で、レーニンは考え難いことを主張した。『社会民主主義から離れた労働者運動は、…不可避的にブルジョア的になる。』 (52)
 この驚くべき論述が意味するのは、社会主義政党によって労働者の外からそして労働者とは独自に指導されないかぎり、労働者はその階級の利益を裏切るだろう、ということだ。
 非・労働者-つまり、知識人-だけが、この利益が何であるかを知っている。
 政治的エリートの理論が当時に流行していたモスカとパレートのように考えて、レーニンは、プロレタリアートは自分たち自身のために、選ばれた少数者に指導されなければならない、と主張した。// 
 『歴史上のいかなる階級も、政治的指導者、運動を組織して指導する能力のある指導的代表者…を持たないかぎりは、決して勝利しなかった。
 自由な夕方だけではなく、生活の全てを革命に捧げる人間を用意することが必要だ。』(+)
 労働者は生活の糧を稼がなければならないので、『彼らの生活の全て』を革命運動に捧げることができない。これは、労働者の教条のための指導権は社会主義知識人の肩で担われる、というレーニンの考え方から生じたものであることを意味する。 
 この考え方は、民主主義原理そのものを弱体化させる。人々の意思は生きている人々が欲するものではなく、上級者によって明確にされる彼らの『真の』利益がそれだとされることになる。//
 労働者の問題に関する社会民主主義から逸脱したので、レーニンがそれとの関係を断ってブルジョアジーの問題へと向かうのに、大した努力は必要なかった。 
 活発で独立したリベラルの運動が出現し、すみやかに自由化同盟(the Union of Liberation)へと統合していくのを見て、レーニンは、『ブルジョアジー』との同盟に対する『主導権』を行使するには影響力が貧相で少ない社会主義者の能力に、信頼を置かなくなった。 
 1900年12月に、<イスクラ>とのリベラルの協力関係の条件について、彼はストルーヴェと怒りに満ちた話し合いを行った。 
 レーニンは、リベラルたちが専制体制に対抗する闘争での社会主義者の指導性を承認するのを期待するのは無駄だと結論づけた。彼らリベラルたちは、自分たちのために、自分たちの非革命的目的のために、革命家を利用して闘うだろう。(53)
 『リベラル・ブルジョアジー』は君主制に対する虚偽の闘争を遂行しており、そして、だからこそ、『反革命』階級だ。(54)
 ブルジョアジーの進歩的役割を否認することによってレーニンは、以前の人民の意思の見地へと先祖返りすることを示し、社会民主主義と完全に絶縁した。//
  (*) 第1章を参照。
  (+) 10年後に、レーニンよりも10歳若い、指導的なイタリア社会主義者であったベニート・ムッソリーニは、これと無関係に、同じ結論に到達した。1912年にムッソリーニはつぎのように書いた。『組織されただけの労働者は利益の誘惑にのみ従うプチ・ブルジョアになった。いかなる理想への訴えも聴かれなかった。』 B. Mussolini, Opera omnia, Ⅳ, (1952), p.156。別の箇所でムッソリーニは、労働者は生まれながらに『平和的』だと語った。A. Rossi, イタリア・ファシズムの成立, 1918-1922 (1938), p.134。
  (53) この交渉の背景については私のつぎの著で叙述した。R. Pipes, Struve: Liberal on the Left, p.260-70。
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第5節につづく。

1440/レーニンと社会民主主義①-R・パイプス著9章2節。

 前回のつづき。
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 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源
  第2節・レーニンと社会民主主義 〔p.345-p.348〕
 1920代に定式化されたレーニンの公式の<経歴>(vita)は、その本質的特徴において、キリストの一生をモデルにしている。
 キリスト学のように、変わらずまた変わりえないものとして、その宿命は生誕の日にあらかじめ決定されていたものとして、主人公を叙述している。
 レーニンの公式の伝記作者は、レーニンがその考えを一度でも変えたということを認めることを拒否する。 
 レーニンは政治に関与するようになった瞬間から、確固たる正統派マルキスト(マルクス主義者)だったとされる。
 このような主張は誤っていることは、容易に示すことができる。//
 まず、『マルクス主義者』という語は、レーニンが若いときには一義ではなく、少なくとも二つの異なる意味をもった。
 古典的マルクス主義原理は、成熟した資本主義経済の諸国家に適用された。 
 マルクスは、このような国のために、発展の科学的理論、つまり崩壊と革命という不可避的な結末、を提供すると称した。
 この原理は、それが科学的客観性をもつとされたこと、およびその予見の不可避性の二つの理由で、ロシアの過激な知識人に対して莫大な訴える力をもった。
 マルクスは、ロシアの社会民主主義運動が始まる前に、広く知られていた。すなわち、1880年にマルクスは、『資本論』は他のどの国でよりもロシアで多くの読者と崇拝者を獲得した、と誇ったほどだ。(10)
 しかし、ロシアは当時ほとんど資本主義が進展していなかったので、言葉を緩やかに定義することにはなるが、ロシアの初期のマルクス支持者は、マルクスの理論をロシアの地域的状況に適合するように再解釈した。  
 彼らは1870年代に、『分離した途』という原理を定式化した。それによると、ロシアは、農村共同体を基盤とする社会主義の独自の形態を発展させ、資本主義の段階を回避して、社会主義へと直接に飛躍するだろう、ということになる。(11)
 レーニンの兄は人民の意思組織の綱領にあるこの種のイデオロギーを採用したが、それは1880年代のロシアの過激派サークルではふつうのことだった。//
 レーニンが成長した知的な環境がもつ知識は、彼がイデオロギーを進展させるのに役立った。   
 マルクス主義の変種はロシアでまだ知られていなかったので、レーニンは1887-91年には、社会民主主義という意味でのマルクス主義者ではなかったし、またそうであるはずはなかった。
 実証的文書は、レーニンは1887年からおよそ1891年までの間、人民の意思の典型的な支持者だったことを示唆している。
 レーニンは、最初はカザンで、そしてサマラで、この組織の構成員と親密な交際をしていたと述べた。 
 彼は積極的に、その多くが刑務所や流刑から解放されたのちにヴォルガ地域に住みついた、人民の意思の老練活動家を探し出して、その運動の歴史ととくにその組織実務を学んだ。
 この知識を、レーニンは深く吸収した。ロシア社会民主党の指導者の一人になった後ですら、彼は、厳しく訓練された、策略を好みかつ職業的な革命党への信頼、および資本主義という長い中間段階を主張する綱領に対する苛立ちのために、同志たちから離れることがあった。 
 人民の意思(Narodnaia Volia)のように、レーニンは資本主義と『ブルジョアジー』を侮蔑した。それらに彼は、社会主義の同盟者ではなく、公然たる敵を見ていたのだ。
 注目する価値があるが、1880年代の遅くにレーニンは、『ドイツ』の-つまり社会民主主義の-精神でのマルクスとエンゲルスに接近し始めていた地域のグループ活動に加わらなかった。(12) //
 1890年6月にようやく、当局はレーニンが形式上の学生として法曹試験を受けることを許した。
 彼は1891年11月にそれに合格したが、法曹実務には就かず、経済文献の研究、とくに Zemstva が刊行した農業の統計調査のそれに没頭した。 
 レーニンの妹のアンナの語るところによれば、彼の目的は『ロシアにおける社会民主主義の実現可能性』を決定することだった。(13)//
 ときは、熟していた。
 ドイツでは、1890年に合法化された社会民主党が、選挙で驚くべき成功を収めていた。
 ドイツ社会民主党の優れた組織と労働者への政策主張を広汎なリベラル綱領に結びつける能力によって、いずれの連続する選挙でもより多くの議席数を獲得してきていた。
 ヨーロッパの最大の産業国家で暴力によってではなく民主主義手続を通じて社会主義が勝利することができることが、突如として想定できるように見えはじめた。
 エンゲルスはこのような展開に感動して、死ぬ少し前の1895年に、彼とマルクスが1948年に予言した革命的変革は決して起こらないかもしれない、だが社会主義はバリケードによってではなく投票箱でうまく勝利することができる、と認めた。(14)
 ドイツ社会民主党の例は、ロシアの社会主義者たちに強い影響力をもち、『分離した途』や革命的クー・デターという昔の理論は不評を招いた。// 
 このような考えの広がりと同時期に、ロシアは1890-1900年の10年間に産業労働者の数が二倍になり、経済成長率が他諸国よりも上回るという、劇的な産業発展の大波を体験していた。 
 示唆されたのはしたがって、ロシアはマルクスもありうると想定していた資本主義を回避して進む機会を見失い、西側の経験を繰り返す運命にある、ということだった。//
 このように雰囲気が変化し、社会民主主義の理論はロシアで支持者を獲得した。 
 ジュネーヴでゲオルク・プレハーノフやパウル・アクセルロッドが、ペテルスブルクでペーター・ストルーヴェが定式化したように、ロシアは二つの段階を経て社会主義に到達すべきだった。
 最初に、十分に成長した資本主義を通過しなければならない、それはプロレタリアートの地位を拡大し、かつ同時に、そのもとでドイツ人のようにロシアの社会主義者たちが政治的影響力を獲得できる、議会制度を含めた『ブルジョア的』自由という利益をもたらすだろう。 
 『ブルジョアジー』がひとたび専政政治とその『封建的』経済基盤を拭い去ってしまえば、段階はつぎの歴史発展の局面、社会主義への前進、へとセットされるだろう。
 1890年代の半ばには、このような考え方は多くの知識人(intelligentsia)の想像力を捉え、『分離した途』という昔のイデオロギーはほとんど見られなくなった。この旧式の考えのために、今やストルーヴェは『人民主義(Populism)』という新しい軽蔑語を使った。(15)//   
  (11) この主題は私の<ストルーヴェ>で長く扱われている。R. Pipes, Struve: Liberal on the Left, 1870-1905 (1970), p.28-51.
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 ②につづく。

1400/「二項対立」思考や「言葉・観念」思考ー仲正昌樹から。

 読書メモと関連つぶやき。
 1.仲正昌樹・知識だけのあるバカになるな!(大和書房、2008)のp.77-142、第2章「今の日本で大勢を占めている『二項対立』思考の愚について」。
 現在の月刊正論編集部と渡部昇一はいちど読んでみた方がよいと思う。この「二項対立」思考は、2.で言及している「言葉・観念依存」思考とも関係があるだろう。
 日本共産党や日本の「左翼」は当面敵視する対象を安倍晋三内閣に置いているようであり、何があっても安倍晋三の言動を褒め称えることはない。閣議決定された安倍70年談話が村山談話を継承するものであっても、その点を褒めることはなく、付随する別の部分の文章にケチをつける。
 最近はさらに、安倍内閣の背後にある悪の巣窟を「日本会議」に見ているようだ。青木理の本も読んだが、ワッハッハ、という感じ。彼らが畏怖し恐れるような「保守」団体が本当に現存するとすれば、何と頼もしく、愉快なことだろう。
 日本会議、青木理等の本や、日本会議の代表、社会民主主義者に対する好感をも述べていた田久保忠衛について、いずれ書かなければならない。のんびりと神社参拝について書いたりしているように見えるかもしれないが、秋月瑛二は神社組織や神社本庁、あるいは「神道」・神社の現状について、知らないわけではない。
 元に戻る。敵を「保守」または「右翼」勢力、あるいは「ファシズム」・「軍国主義」に見て「たたかう」つもりの二項対立的な「左翼」に対して、彼らとは逆に「保守」政権だとする安倍政権を「味方」だとして擁護するだけでは、同じ土俵に立って<二項対立>思考の愚を冒しているだけだろう(安倍政権、現在の自民党は「保守」かという問題も厳密にはあるが立ち入らない)。
 彼ら「左翼」よりは、冷静で多面的な思考をしなければならない。
 いや、ある意味では、彼らは表向きは「冷静で多面的な」、そして「客観的な」論述をしていると見える場合がある。とりわけ、現在の人文社会系<アカデミズム>を基本的には牛耳っているかもしれない「左翼」学者・論者たちは、少なくとも渡部昇一やその他の一部の<観念的・原理主義的な保守派>学者・論者よりは、表向きは概念・論理がしっかりしていて<知的刺激>には溢れていることがある。もちろん、一読してすぐに、あるいは容易に、観念的・教条的な「左翼」学者・論者だと分かる場合もあるが。
 このブログサイトは「反日本共産党・反共産主義」を掲げており(8/08頃に「反朝日新聞・反日本共産党」から改めた)、日本の「保守」派を論難するのが主目的のものでは全くない。にもかかわらず「(自称・表向き)保守」を批判したい気になることがあるのは、そんな文章・論理、こんな雑誌であれば、ほとんど<左翼>に勝てないだろう、<左翼>にバカにされるだろうと、と警告し、嘆きたいからだ。
 2.三宅正樹・スターリンの対日情報工作(平凡社新書、2010)のp.7-55、はじめにと第1章「クリヴィツキーの諜報活動」。
 レーニン関係文献は(可能な範囲で)ほぼ入手し、一読はした(しかし記憶にすべて残しているわけではない)と思っているので、ようやく、気になっていたこの本を読み始めることができた。よくよく考えれば、レーニンやソ連・共産主義と相当に関係がある本なのだった。共産主義とファシズム(とくにヒトラー・ナツィズム)の「近接」の現実にも関係がある。すなわち、1939年8月の独ソ不可侵条約。
 キーロフも、クリヴィツキーも、スターリンの指示によって「暗殺」された、との説がある。
 独ソ関係や「暗殺」から離れて、すさまじいと感じるのは共産主義者による諜報活動、そしてデマゴギー、プロパガンダだ。
 1945年にソ連が日本に参戦するまで、対米交渉の「あっせん(・協力)」を日本政府はソ連に求めていたというのだから、そのソ連「無知」、諜報戦の敗北ぶりは、何とも嘆かわしい。嘆かわしいというより、日本の悲痛な過去だ。そうしたこともまた、ゾルゲや尾崎秀実らの跳梁を許した共産主義またはソ連「幻想」の強さと強い関係があるのだろう。
 さらに離れて、<プロパガンダ>に関連して、「言葉」というものについて考える。あたりまえのことを、改めて確認したくなる。
 言葉・概念またはそれらを使った論理(・命題)には大きくは二種あるだろう。すなわち、事実・現実を意味・叙述するものと、こうだろう又はこうあるべきだということを意味させ、叙述するもの。
 要するにsein とsollen の区別なのかもしれないが、最低限度、この区別・違いくらいは知って文章を読み、言葉を理解・解釈しなければならない。
 日本共産党綱領が現在の状況を変えようとして書いてある諸基本政策や将来展望は、言うまでもなく上の後者の世界のもので、実際にそうなるかは(将来展望については実際にそうなる「はず」だ、と日本共産党は「主張」するのかもしれないが)分からない。この党の当面の諸政策も、「自由と民主主義」の宣言も、実際にそれらの内容が実現されるかは、さらにはこの政党が実際に実現するように努力するかは、彼らが実際に「権力」を掌握してみなければ、分からない。
 かつての歴史的宣言文書類にも、そのようなものが多くある。<十七条の憲法>や<五箇条の御誓文>を見て、それらの内容が当時の現実を表現するの、その内容が現実に存在したと理解する日本人はおそらくいないだろう。
 フランス革命時の<人権宣言>も同じ。また、制定して施行されれば少しは法規範としての意味をもち現実に対して作用した(つまり現実化した)といえるかもしれないが、制定されても施行されなかった<フランス1793年憲法>も同じ。
 これらがまるで現実化されたかのごとく理解するのはもちろん誤りだが、また、表面の言葉・文章だけで<理念・理想が素晴らしい>と感激してしまうのは、井沢元彦のいう「言霊主義」あるいは言葉・概念・(言葉による)命題によって歴史を評価してしまう、致命的な、認識の誤りに陥ってしまう可能性がある。
 ロシア10月革命後、1918年の「勤労被搾取人民の権利宣言」も同じ。また、その直後の憲法上の文言をもってロシア・ソ連は<男女平等>や<生存権(保障)> の方向に向かう世界史上の大きな役割を果たした、とか日本共産党・不破哲三や党員又は「左翼」の学者がほざいていることがあるが、これまたロシア・旧ソ連の「事実」を無視し、「言葉」にだけほとんど着目した空論にすぎない。
 憲法と現実の乖離は日本についても言われることがある。しかし、社会主義・共産主義国の「憲法」がほとんど<建前>または表向き・外国向けのフロパガンダ文書にすぎないことは、典型的には現在の北朝鮮に、相当程度に中国(共産チャイナ)についてあてはまることを見ても明らかだ。
 日本人のかなりは<言葉>というものに弱い。<ふつうの人はウソをつかない、又はウソつきは悪いことだ> という感覚を相当にもった<お人好し>の傾向がある。
 たしかに個別の国民間等の契約文書は、将来の行為の約束にすぎないが、国家・裁判所によって履行が(暴力=実力的にでも)強制されている、とふつうは言える。
 しかし、現在でも、国家間の約束事(条約等)には暴力・実力による担保は、建前はともあれ、実質的にはほとんど存在していない。現在についてすらそうなのだから、過去の、歴史上の「宣言」・「条約」類が実態をおよび「真意」を示しているわけでは全くないわけだ。第一次大戦後の多数の条約・協定・宣言類についても、注意深く、拘束力の程度や各国の「真意」を見定める必要がある。表向きの<美辞麗句>に騙されてはいけない(<民主主義対ファシズム>という図式も、この時期の「言葉」に由来した、幻惑させるものである可能性が高い)。
 少し戻ると、言葉・観念を弄ぶ、一見深遠で優れていそうにみえるが、じつは訳の分からない空虚な議論は、やはり「左翼」に多いようだ。
 「民主主義」とか「人権」とか「平和」とか(あるいは「戦後民主主義」とか)、そのような言葉それ自体が何か価値があり実態を伴っているかのごとき<感覚>・<幻想>に嵌まって、観念の上だけでの議論・主張をしている文章をたくさん見てきた。
 本当の「保守」派は、その「保守」という言葉自体は別の語でもよいが、観念の上だけでの、または相当にそれに傾斜した、議論・主張をしてはならない、と思っている。 言葉・概念の必要性・有用性を、むろん一般に否定しているわけではない。それらの作成・使用はある程度不可避なのではあるが。

1396/日本の「保守」と「左翼」ー小林よしのりと仲正昌樹を機縁に。

 日本の「保守」とか「左翼」とか書いているが、保守・左翼という概念にはしっくりきていない。保守・革新(進歩)も右翼・左翼も同じ。
門田隆将が昨年2015年春頃に月刊WiLLで書いていた「R・現実」派・「D・夢想」派も面白いとは思うが、最近では「正視派」・「幻想派」が気に入ってきた。「左翼」とは、少なくともソ連型の社会主義の失敗(過ち)という「事実」を「正視」することができない者、すなわちいまだに「幻想」をもつ者という印象が強いからだ。また、諸歴史認識問題についても、「事実」を「正視」する姿勢を続ければ、いずれ「現実」だったか「幻想」(・捏造)だったかは明らかになるはずだ、という思いもある。
 ちなみに、<自称保守派>にだって「幻想派」・「夢想派」はある。
 もっとも、日本の又はどの国にもいそうな「左翼」は自らを「幻想」派だとは自認せず、右派あるいは「保守」派こそが「幻想」をもっていると思い込んでいそうでもあるので、この用語法の採用は結局は水掛け論になってしまうかもしれない。
問題はまた、保守・革新(進歩)とか右翼・左翼という「二項対立」または「二元論」の思考方法にあると思われる。
 これらは、すぐに「保守中道」とか(保守リベラルとか)、右でも左でもない「中間・中庸」派という観念を生んでしまい、多くの人は(少なくとも半数くらいの日本人は ?)えてして、(極端ではない)「中道」・「中庸」の立場に自らはいると思いたがっているようにも見える。
 この欄で「保守」とか「左翼」とか使っているが、一種のイメージとして、特定の考え方・主張や特定の事実理解について語っている。人間・人格または全知識・全感覚がいずれか二つに画然と分けられるわけではないことは当然のこととして了解しており、個別の問題・論点によって評価が分かれることはありうる。また、特定の個別問題・論点についても各立場にグラディエーション的な差違はありうるだろう。
 もっとも、基本的または重要な問題・論点があるのも確かで、これに対する考え方・立場によって(何らかの概念を使って)大きく二分することはできる。<基本・重要>性の判断もまた人によって異なるのだろうが、この欄では秋月瑛二なりの選択と判断によるほかはない。
 「保守」(又は保守主義)とは何かについては、諸文献を参照にしてこの欄でもたびたび触れてきた。保守とは「反共」だ、と書いたこともあるし、「保守」とは「イズム」・イデオロギーではなく姿勢・ものの見方だという説明に納得感を覚えたこともある。
 自分が「左翼」ではないとするときっと「保守」なのだろうが、実態としては、「正視」派と言いたいところだ。
 もっとも、世界中に(正確には欧米世界には)conservative(conservativ) とかleft(link) とかの概念・観念は確固として又は広く用いられているようなので、しっくりこないが、用いざるをえないのかもしれない。
 いずれまた、秋月瑛二の「保守」としての考え方・理解を整理してまとめておく必要がある、と考えている。
 とこんなことを書きたくなったのも、とりわけ、小林よしのり・ゴーマニズム戦歴(ベスト新書、2016)と、仲正昌樹・精神論ぬきの保守主義(新潮選書、2014)という、珍しいとりあわせの ?(秋月瑛二はできるだけ特定範囲の文献だけを読むことをしないつもりなのだ)二著をたぶんこの一ヶ月の間に少しは読んだからだ。

1395/R・パイプス・共産主義の歴史-池田信夫著による。

 池田信夫・使える経済書100冊-『資本論』から『ブラック・スワン』まで(NHK出版、2010)は、一冊として、R・パイプスの Communism - A History(2001)を取り上げている。但し、原著ではなく、飯嶋貴子訳の<共産主義が見た夢>というタイトルに化けさせられている ?邦訳書だ(ランダムハウス講談社、2007)。
 わずか2頁余りでの言及で、しかも、紹介と池田自身の論評の部分との境界がはっきりしない。
 冒頭にある以下の二文は、明らかに紹介の部分。
 「本書の共産主義の評価は全面否定だ」。
 「特にロシア革命について、『レーニンは正しかったが、スターリンは悪い』とか『トロツキーが後継者になっていたら……』という類の議論を一蹴する」。
 この上の文について池田はとくにコメントしていない。だが、日本共産党流の『レーニンは正しかったが、スターリンは悪い』とか、かつての「新左翼」流の『トロツキーが後継者になっていたら……』とかの議論が日本にあることを知ったうえでの紹介ではないか。
 つぎの文は、明確ではないが、(パイプスの主張の)紹介のようだ。
 「一部の陰謀家によって革命を組織し、その支配を守るために暴力の行使をためらわなかったレーニンの残虐さは、スターリンよりもはるかに上であり、ソ連の運命はレーニンの前衛党路線によって決まったのだ」。
 R・パイプスの上掲著の内容の詳細な記憶はないが、ここにも、日本共産党のレーニンをめぐる歴史理解とは全く異なる理解が示されている。しかも(池田の読み方が混じっているかもしれないが)、レーニンによる前衛党論・共産党組織原理(分派の禁止等)に(も)根源がある、という理解が示されている。
 つい最近、いかなる事情を背景にして「分派禁止」の方針が出された(決してレーニンの頭の中からのみ生じたのではない-したがってソヴィエト・ロシアに特有の事情があったのであり一般化できない)のかをある本で(いま書名を忘れた)読んだばかりだ。立ち入らない。
 つぎの文あたりから、パイプスの主張・理解に刺激をうけての、池田信夫自身の見解・コメントが述べられてくる。
 なぜ共産主義は広い支持を受けたか。「筆者も認めるように、財産や所有欲を恥ずべきとする考え方は、仏教にもキリスト教にもプラトンにも広くみられる」。
 以下は、池田信夫の<世界>に入っている。
 「ハイエク流によると、…〔遺伝子に組み込まれた〕部族感情のせいだろう。つまり人間は個体保有のために利己的に行動する本能をもつ一方、それが集団を破壊しないように過度な利己心を抑制する感情が埋め込まれているのだ」。/マルクスは「人間が利己的に行動するのは、近代市民社会において人類の本質が疎外され、人々が原子的個人として分断されているためであって、その矛盾を止揚して『社会的生産』を実現すれば、個人と社会の分裂は克服され、エゴイズムは消滅すると考えていた。人間は社会的諸関係のアンサンブルなので、下部構造が変われば人間も変わるはずだった。/しかし現実には、利他的な理想よりも利己的な欲望のほうがはるかに強く、下部構造が変わっても欲望は変わらないことを、社会主義の歴史は実証した」。
 そのあと、人間の利己心中心で利他心が全くないと想定する「新古典派」も実証科学としては検証に耐えない、「市場の効率を支えているのは、実は利他的な部族感情によるソーシャル・キャピタルなのである」、という池田<節(ぶし)>が続く。
 R・パイプスには、Property and Freedom(財産(所有権)と自由)(1999)という本もある。
 関心を持たざるをえないのは、ホッブズやルソーについてもそうなのだが、マルクスやレーニンにおける「人間像」だろう。彼らは「人間」をどのような本性・本質を持つものと見ていたのか。
 財産欲・所有欲を持つのは資本主義社会特有の「人間」で「社会主義」化によって変わる、と考えていた(との観念を抱いていた)のだとすれば、つぎのような連想も出てくる。
 スターリンに顕著な党員の「粛清」も党員・抵抗者に対する「テロル」(大量殺人=肉体的抹殺)も、利他的な「真の」社会主義的「人間」に改造されていない(社会主義・共産主義にとっては邪魔な)人間は殺戮しても構わない、なぜなら、いずれ消失すべきブルジョア資本主義に汚染された「利己的」人間は「真の」人間ではないのだから、という<人間観>によるものではないか。
 数百万人、数千万人の単位で「強制労働収容所」に送り込み、また「処刑」(肉体的抹殺)をできた人間とそれを中心とする共産党組織のもつ<人間観>とは、おそらくは現在の日本人のほとんどの、想像を絶するものに違いないだろう、と思われる。
 日本共産党の真面目な党員ならば、反日本共産党で知られた人物がその党員の者しか知らない状況で死に瀕していることに気づいたとき、誰にも気づかれないと確信すれば、放置してそのまま死なせてしまうのではないか、とかつてこの欄で書いたことがある(だいぶ前だ)。
 「敵」から生命を奪ってもよいと究極的には考えているはずの日本共産党員だから、明確な反共産主義者に対する<不利益扱い>や<いやがらせ>・<いじめ>など、いかほどの疚(やま)しさも伴わないに違いない。ひょっとすれば、不当な(不平等な)不利益扱い、いやがらせ・いじめとすら意識しない可能性もある。

1385/共産主義・全体主義…、トラヴェルソ・平凡社新書。

 日本共産党関係の文献は100冊近く、同党と無関係ではないがレーニン、ロシア革命、共産主義等々に関する文献は間違いなく100冊以上、この一年間に入手した。
 かつては購入・入手図書のリストをパソコン内に記録していたのだが-二重購入の回避のためにも-、その習慣を失ったので、上の大きな二分野だけでも、所持文献リストをこの欄に残しておこうかとも思っていた。但し、これも入力の手間が大変だ。
 このようにとりあえずの大関心であるレーニン/スターリン関係文献だけでも多数にのぼり、スターリンから過ったという日本共産党の大ウソ、可哀想なほどに貧弱で皮相的な謬論という結論はとっくにはっきりしていても、日本・外国の文献にこれまでいちいちこの欄で言及しているわけではない。
 フュレとノルテの本を和訳したりしているのも、リチャード・パイプスに言及したりしているのも、もともとは<共産主義>への関心にもとづく付随的なものだ。
 したがって、以下の叙述もたまたま新たに手にとってみた本に興味を惹いたというだけのことで、このレベルの本は(日本共産党・レーニン関連でも早く紹介・言及したいのだが)他にも少なからずある。
 9/06に初めて、エンツォ・トラヴェルソ(柱本元彦訳)・全体主義(平凡社新書、2010/原著2002)を一瞥した。
 平凡社新書というだけで少しは抵抗があったのだろう。また、このイタリア人歴史家は、感覚的な印象では「左翼」的だ。
 だが、そのような学者ですら、「共産主義」をいかなる意味でも擁護しようとはしていない。反・反共主義者ではない。これが第一点。
 最後の方に目を通しただけだが、この書の結論は「全体主義」概念を安易に用いるな、ボルシェヴィズム・共産主義とファシズム・ナチズムの違いをわきまえよ、ということだろう。
 これはこれでよく分かる。重要なことは、「全体主義」という、この著者が強調するように、曖昧な概念で括られることがあるような、上の両者の共通性・類似性を、この著者もまた否定はしていないことだ。これが第二点め。
 なお、「ボルシェヴィズム」と「共産主義」、「ファシズム」と「ナチズム」は、それぞれ厳密に区別されていない、と見られる。前者について「スターリニズム」という概念も用いられているが、それが(日本共産党・不破哲三らが期待するように ?)レーニンを排除するものではないことは読んでいて明らかだ。
 なお、上の著から離れるが、ハンナ・アレントの著において「全体主義」とはほとんどナチズムと「スターリニズム」の両者を意味させている、と見られる(すでに一読しているし、原著もドイツ語版と英語版の二つ持っている。確認しないが、communism ではなくstalinismという語が使われているはずだ)。だが、彼女にとって現実的だったのはヒトラー・ナチズムと「スターリン」だったからだと見られ、レーニンを「スターリニズム」と無縁なものと理解しているわけではないはずだ。 
 第三に、フュレとノルテに論及がある。
 フランソワ・フュレは「自由主義の大歴史家」とされ(p.160)、その大著「幻想の過去(終わり)」への言及と一部引用等がある。
 エルンスト・ノルテは「ドイツの保守的歴史家」とされ、「1917年のロシア革命にはじまる圧政の時代の内に全体主義を位置づける「歴史的・発生学的」解釈」を提案する、とされる(p.177)。
 立ち入った紹介は避けるが、著者はこの二人に全面的に同意しているわけでは、むろんない。フュレとノルテに見解の差違があることも述べている。
 それよりも、フュレとノルテについての欧米( ?)歴史家内での評価が参考にはなる。この秋月の感覚は誤ってはいない、ということだろう。この二人は「共産主義」を正面から論じていることからも明らかなことだが。
 第四に、「左翼的」かもしれないが、トラヴェルソというイタリア人は日本の「左翼」歴史学者に比べれば、はるかに普通の学者だろう。印象に残る文章もある。
 オーウェルの著は「記憶の空虚」を発掘する特殊な機械で「歴史を書き換えようとする全体主義体制が、懸命になって過去を管理する姿」を描いた。
 「歴史学の目的は、閉じた知識の蓄積ではなく、-、現在の指針となるような過去を構築することだ」。以上、p.188-9。
 全体主義、自由主義・リベラリズム、共産主義、民主主義等の観念・概念の利用には慎重でなければならないところは確かにある。ついでながら、不破哲三は「市場経済を通じて社会主義へ」というとき、「市場経済」という語で何を意味させているだろう。
 それはともかく、「記憶の空虚」を無理やり作られ、「過去を管理」されてはたまらない。それぞれの国民は、みずから「過去を構築」できなければならないだろう。
 日本の歴史に関して、2015年の8月に安倍晋三は、いずれ禍根と災厄が明らかになるだろう「犯罪」的談話を発した、と思っている。それを渡部昇一は「戦後体制を脱却」する名宰相の談話だと評するのだから、ほとんど発狂している。

1373/F・フュレ・幻想の終わり(1995)等-その2。

 一 フランソワ・フュレ(楠瀬正浩訳)幻想の過去-20世紀の全体主義(バジリコ、2007)を読んでも、フュレ=ノルテの"Feindliche Naehe" Kommunismus und Faschismus im 20. Jahrhundert〔敵対的近接-20世紀のコミュニズムとファシズム〕を読んでも、まずは感じることが二つある(「近似」は「近接」へと少し訳し変えておく)。
 第一は、異論はむろん国内や国外にあれ、フランスとドイツの歴史学の大家がいずれも「コミュニズム」(共産主義)という言葉を平気で用い、これにかかわる諸論点を正面から叙述したり議論したりしていることだ。
 このような知的雰囲気は、残念ながら日本にはほとんどないように見える。ましてや、「日本共産党」を俎上に載せての批判的な学問的研究は、皆無なのではないか。
 実質的に日本共産党の現在の見地を批判しているような場合であっても、「一部には」とか「という説」とか、あるいは共産主義者一般の話として、直接には日本共産党を名指ししていないことも少なくないようだ。
 第二に、フュレのぶ厚い本の題について、幻想の「終わり(終焉)」と「過去」のいずれが適訳かという話題を前回に出したが(英語版のタイトルは、The Passing of an Illusion , The Idea of Communism in the Twentieth Century だった)、共産主義という幻想が日本において「終焉」しているとは、まったく思っていない。
 つまり、もともとフュレの大著は叙述対象を「欧州」に限定しているのだが、フランスやドイツという欧州の学者・知識人にとって(おそらくは一般公衆にとっても)、ソ連の崩壊は同時に「冷戦の終わり」であり欧州人にとっての「コミュニズムの終焉」なのだろう、ということがよく分かる。
 彼らにとっては、中国(・北朝鮮)におけるコミュニズム(共産主義)などは知的関心の対象ではなく、日本にまだあることを知っているのかどうかすら分からない、日本のコミュニズム政党(日本共産党)の存在とその主張(あるいはなぜ今だに存続しているのか)もまた知的興味の対象ではないように見える。
 欧米の文献だけを読んで、日本のことを論じてはならない。
 日本共産党も含めて、日本のことは日本人こそが議論し、研究しなければならない。
 二 福井義高・日本人が知らない最先端の世界史(祥伝社、2016)p.131は、「民主主義=反・反共主義=反ファシズム」という「現代リベラルの公式」は、ソ連崩壊以降に「むしろ純化された」、と書く。
 日本人のほとんどにとって、先の戦争で日本(・日本軍国主義)は<悪い>ことをした、少なくとも<過ち>をした。ほとんどの日本人の意識にとってこの出発点はきわめて強固だと見られ、これが日本に対する勝利者の中にソ連も加わっていた、という紛れもない歴史的事実が結びついて、1990年までは大づかみに言って<反民主主義>の日本・ドイツ等と<民主主義>のアメリカ・ソ連等という対置を基本とする<歴史認識>が(少なくとも「左翼」・日本共産党には)形成されていた。
 この「日本軍国主義」は「ファシズム」に少なくとも近似のものと理解されたので、上の公式・図式は、「民主主義=反ファシズム=反日本軍国主義=反・反共主義=ソ連擁護」ということにつながった。この「ソ連擁護」を「社会主義」に置換すると、「民主主義=反ファシズム=反日本軍国主義=反・反共主義=社会主義」ということになり、「民主主義」者は「反・反共」で親「社会主義」者であるはずだ、あるいは「民主主義」と「社会主義」は対立物ではないはずだ、という倒錯が生まれた。
 朝日新聞岩波書店も、青木理斉藤貴男も、大江健三郎も、鳥越俊太郎も、日本の<左翼>は、<何となく左翼>も含めて、かつての、この大きくて単純な<図式>の意識構造のもとで、かかる観念世界の中で、生きている。
 かくして、ファシズムも日本軍国主義もすでに存在しないのだが、つねにそれらの<再来>を警戒し、<戦後が戦前にならないように>とか<再びきな臭くなってきた>などとじつに教条的な批判・攻撃をし始めるのが、日本共産党を中核とする日本の「左翼」だ。そして、安倍晋三は攻撃しやすい「ネオ・ファシスト」となる
 三 上の後半で述べたのた似た事情が、欧州にもあったことを、フュレの大著は述べている。邦訳書(楠瀬正浩訳)のp.244-5は、「コミュニズムとファシズム」と題する第6章のはじめに、つぎのように書く。
 ・歴史家は19世紀の眼鏡を通して20世紀を見たため、「民主主義対反民主主義」という図式を繰り返し、「ファシズム対反ファシズムという対立に固執した」。この傾向は第二次大戦後「殆ど神聖にして犯すべからざる思想上の観点」とさえ見なされるようになった。
 ・この「精神的束縛」はきわめて強く、フランスとイタリアでは「コミュニズムと反ファシズムは同一の立場を示す」ものと考えられて、「コミュニズムに対する分析はすべて妨げられる」ことになり、かつまた「ファシズムの歴史を語る」ことも困難になった。
 ・「反ファシズム思想が20世紀の歴史に充溢するためには<ファシズム>が敗北や消滅の後にもなお生き続けている必要があったのだ!」
 ・「ファシズム以上にわかりやすい攻撃目標を見つけることのできなかったヨーロッパの政治世界は、定期的にファシズムの亡霊を蘇らせ、反ファシズムの人々の結集を図ってきた」。
 以上。ここでの「ファシズム」をそのままか又は「日本軍国主義」または「軍国(好戦)主義者」に置き換えて、ほとんど同じことが、日本でも起きてきたし、起きていることが分かる。
 共産主義という「幻想」が生み出した別の「幻想」・「妄想」の図式からまずは脱出し、別の図式を打ち立てる必要がある。
 それはどのようなもので、どのようにして達成されるのか? 長い闘いが知的・意識のうえでも必要であり、この欄も、少しはこれに役立つことを願って記しつづける。

1291/幻想・妄想と正気-門田隆将・西尾幹二。

 一 もう1カ月以上前になったが、産経新聞4/19付の門田隆将「新聞に喝!/本当に『右傾化』か、いまだ左右対立をいう朝日」はほとんどそのとおりだと感じさせ、かつ示唆に富むものだった。
 統一地方選の結果を受けての朝日新聞4/13社説を素材にしているが、今日(現在・現代)についての一般論的叙述でもある。
 門田によれば、もはや「左右対立」の時代ではない、対立しているのは「空想と現実」だ。あるいは、「空想家、夢想家(dreamer)」と「現実主義者(realist)」の対立だ。
 したがって朝日新聞がいまだに「右傾化」という論評の仕方をするのは、「時代の変化に取り残され」ている、という趣旨でまとめられている。
 門田が「1989年のベルリンの壁崩壊以降、左右の対立は、世界史的にも、また日本でも、とっくに決着がついている」とか、自社両党による「55年体制」的思考の時代ではもはやない(旨)とか書いているのは、とくに前者はそのままでは支持できないことは何度も書いた。
 しかし、対立は<左右>あるいは<左翼と保守>といった「思想」または「イデオロギー」にあるのではない、という基本的な趣旨は、最近はとくに共感するところがある。
 門田が「空想家、夢想家」と「現実主義者」の対立を“DR戦争”とも言えるとしているのは、熟していない概念・用語だ。それはともかく、現在の日本での議論の基本的な対立は、かなりの部分、<考え方によっていろいろ>、と割り切れる又は理解してよいものではなく、「空想・夢想」と「現実(直視)」の違いが表れているものだ、と理解して差し支えないように思われる。
 「空想・夢想」は、ここでは<幻想・妄想>と表現したい。一方、「現実(直視)」あるいは「現実主義」は、他に適切な語はないだろうかと感じられる。最終決定?ではないが、とりあえず、<正気>とでも表現しておこう。となると、<幻想と妄想>=<狂気>と<正気>の対立になってしまい、陳腐な用語法ではある。しかし、<狂気>と<正気>の違いという把握の仕方は、存外、本質を衝いているようにも思われる。
 集団的自衛権行使容認の政府解釈に反対する憲法学者たちの声明を読んで、私は<幻想と妄想>に陥ったままである、と感じる。学者さまたちだからより丁寧に言えば、<正しさが論証されていない観念に嵌まったまま>だ、と感じる。そして、言葉はきついが、<幻想と妄想>を抱いたままの人たちは、<狂気>の持ち主である、と表現することができる。すでにこの声明はこの欄で紹介しているが、批判的コメントは別に記述する予定だ。
 二 <左右>あるいは<左翼と保守>といった「思想」または「イデオロギー」の問題ではない、というイメージを形成したきっかけは、どうやら、西尾幹二全集第14巻(2014、国書刊行会)を一瞥したことにあるようだ。
 <保守>の論客としての政治的・文化的な書物や論考に接してきたのだったが、上の本の内容におそらく明確に示されているように、西尾幹二は<左右>・<左翼と保守>とかの「イデオロギー」を<超えた>人物だ。そのことに初めて気づいたような気がした。西尾幹二のものはかなり読んできたようにも思っていたのだが、そして全集もすべて購入はしてきたのだが、全集の中を丁寧に読んでみる時間的余裕がなかった。
 上の著の全体は簡単に「人生論集」と題されているが、そこで種々に語られている、人生や人間についての洞察は、(あくまで凡人による論評ではあるが)深く、鋭い。その内容は直接には政治にも<左右対立>にも関係しておらず、基礎的でかなり普遍的だ。
 これまでこの欄に記してきたようなこととは性格をかなり異にするので、西尾幹二「人生論」の内容への言及はこの程度にする。
 西尾幹二の名前を知っている「左翼」は、すぐに「右派」、あるいは「右翼」の評論家というイメージと評価をしてしまうのかもしれない。だが、上に言及した「左翼」憲法学者たちも含めて、「左翼」論者たちは(但し、教条的日本共産党員を除く)、自らの考え方に自信を持っているならば、西尾幹二の上の著も読んで自らの感覚と思考方法の適切さを試してみよ、と言いたい。
 念のために付記しておくと、かつての<雅子皇太子妃問題>をめぐる議論でも示したように、西尾幹二の諸主張・見解のすべてに同意してきたわけではない。この問題については、西尾幹二を批判し、竹田恒泰に基本的には同調していた(「東宮擁護派」というレッテルを貼られたこともあった)。原発問題も、率直にいってよくは分からない。とはいえ、上に記した西尾著についての感想等を変えるつもりはない。
  

1279/<左翼>愛好の「国家のゆらぎ」論を萱野稔人が批判。

 Think global, Act local というスローガンかモットーのようなものを読んだことがある。<グローバルに考え、ローカルに行動せよ(しよう)>ということだ。
 この二つにあえて反対する必要はないようにも見えるが、当然ながら、重大なことに気づく。
 グローバル・「世界」・「国際」・「地球」とローカル・「地域」との間の、<国家>がすっぱりと抜け落ちているのだ。
 上記は、ナショナルに考え、行動することは絶対にしたくないという、<左翼>の標語なのだろう。
 「国家」、そして「ナショナルなもの」をできるだけ無視したい、想起しないようにしたいというのは、遠い将来の<国家の死滅>を予言し最終目標とするコミュニズム・「共産主義」に親近的な者たちの考え方でもある。
 エンゲルスの著-家族・私有財産および国家の起源-は、コミュニストたちが廃棄したい三つのものを明確に記していた(この著の前にルソーは「家族」について実践していたが)。
 そういう人々は近年、<国家のゆらぎ>ということを語りたがる。それは一つは、単一の近代国家が統合へと向かう兆しによって生じており、EU(欧州連合)はその好例だとされる。日本近辺については、<東アジア共同体>なるものを目指すことを肯定的に語る者もいる。
 いま一つは、単一の国家内部で、「国家」と社会または民間の境が曖昧になりつつある現象として表れているとされる。国家の事務の範囲・役割が不明確になっていることを前提とする、公共事務の<民営化>も、そうした傾向の重要な一つだとされる。
 だが、<国家のゆらぎ>を積極的・肯定的に語りたがる者は、「国家」・「ナショナルなもの」をできるだけ無視したい、想起しないようにしたい、<左翼>の学者や評論家たちだと思われる。
 萱野稔人は<保守派>だとは見なされていないようだが、「日本のリベラル派の言論人は国家のゆらぎということをすぐに論じたがるが…」という一文を含む文章を朝日新聞の2015.01.18朝刊に書いていて、その内容は納得できるものだ。
 萱野稔人は、「国家のゆらぎ? ゆらいでいるのは米の覇権」と題し、昨年のクリミヤ半島ロシア編入、「イスラム国」、スコットランド独立住民投票に言及したあと、「これまでの国家の枠組みをゆるがすようなできごとが相次いだ」が、「これらの動きを主権国家そのものの衰退ととらえることには無理がある」と断じる。そして、ウクライナ・イスラム世界での出来事は「国家そのもののゆらぎではなくて、米国の覇権のゆらぎである」とする。
 そのあと、さらに次のように述べる。
 「国家のゆらぎについてはこれまでも、グローバリゼーションによって国境の壁は低くなり、国家は衰退していくのではないか、ということがとりわけ日本では盛んにいわれた」。しかし、サッセンの近著はそうした見方を「表面的で稚拙な見方だと批判」し、「グローバリゼーションによって国家の主権は消滅するのではなく、新たな役割を担うだけだ」としており、ドゥルーズ=ガタリの近著も「資本主義と国家の関係を理論的に考察」しつつ「(資本が国家を)超えるとは、国家なしですませるという意味では決してない」ととしている。
 最後に、つぎの一文でまとめられる。
 「日本のリベラル派の言論人は国家のゆらぎということをすぐに論じたがるが、国家を正面から考えるためには、そもそもそういった発想自体が問い直されなくてはならない」。
 <国家のゆらぎ>を語りたがる日本の<左翼>学者等は、「表面的で稚拙な見方」を改め、その「発想自体」を問い直す必要がある。
 ところで、「日本のリベラル派の言論人」の言説を多数掲載してきたのは朝日新聞で、そのような者の書物を多く刊行しているのも朝日新聞出版だ。上の萱野の文章における批判的指摘は、朝日新聞に対しても向けられていると見るべきだろう。だが、朝日新聞は<事前検閲>をして掲載中止を求めることはしなかった(又はできなかった)。この寄稿の担当者は、どういう気分で読んだのだろうか。

1271/コミュニストにより作られたハル・ノート-櫻井よしこ・週刊誌連載。に関連して2。

 櫻井よしこ週刊新潮1/22号(新潮社)で、アメリカ・ルーズベルト政権は日本が呑めないことを見越して「日本に事実上の最後通牒であるハルノートを突きつけ」、開戦に追い込んだ、という旨を記していたが、中川八洋の理解は大きく異なるようだ。
 中川八洋・近衛文麿とルーズヴェルト-大東亜戦争の真実(PHP、1995)p.39によれば、「米国側からの最後通牒『ハル・ノート』の故に、日本は敗戦を覚悟してやむなく窮鼠猫をかむ決断を強いられた、という俗説」が是正されなく今も通用しているのは「歴史の歪曲」、少なくとも「歴史の真実に対する怠慢」だ。
 中川八洋は「大東亜戦争…とは、…東アジア全体の共産化のための戦争であった」(p.34)、「大東亜戦争=日本とアジアの社会主義化」というのが「歴史の真実」だ(p.276)と捉えているので、出発点あるいは逆の結論自体が櫻井よしこらとは基本的に異なっているように見える。
 そして、同書の第二章「『ハル・ノート』とロシアの『積極工作』-財務次官補H・D・ホワイトとルーズヴェルト」でも、上のような「俗説」なるものとは異なる叙述を行っている(p.36-57)。以下、ハル・ノートやそれと日本の関係に限っての要約・抜粋的紹介。
 ・1941.07.28の日本軍の南部仏領進駐(ベトナム・サイゴン入場)は日本の英米蘭に対する実質的な開戦で、ハル・ノートが日米戦争の引き金ではない。同09.06の午前会議で10月上旬の開戦の想定(帝国国策遂行要領)が決定され、さらに11.05には12月上旬に定め直され、11.26午前には南雲中将らの機動部隊は真珠湾に出撃していた。ハル・ノート(のちに述べる最終案)が手交されたのは11.26午後で、日本の真珠湾攻撃はハル・ノートに対する反発によるものではない。日本の対米開戦は同年7月以降の既定路線だった。
 ・といって、ハル・ノートに重大性がないわけではない。ハル・ノートにはハルがまとめた「ハル試案」=暫定案と、時期的にはのちのホワイトが執筆してハルの名で手交されたより強硬な「ホワイト試案」=最終案とがあった。前者であれば日米講和の可能性があり、これによって敗戦・降伏していれば、ソ連の対日開戦はなく、満州の悲劇も千島の領土喪失もなかった。「強硬姿勢一本槍」の「ホワイト試案」=最終的なハル・ノートは日本の関係者すべてを憤激させ、日本を徹底抗戦へと誘導した。そして戦後には、ハル・ノートは日本国民の対米怨念形成の劇薬になり、戦後の日米関係に対して致命的悪影響をもたらした。なお、<最終案>・「最終的なハル・ノート」という語は、秋月が作った。 
 ・「ホワイト試案」=最終的なハル・ノートは、アメリカ内部で、どのようにして採択されたのか。暫定案→最終案への変化は1941.11.17-11.25の間に生じた。財務次官補・ホワイトは試案を11.17に財務長官・モーゲンソーに渡し、その翌日にモーゲンソーはルーズヴェルト大統領とハル国務長官に送付した。ハルは自らの暫定案に固執し続けたが、ルーズヴェルトはホワイト試案を気に入ったようで、11.25にそれの採用をハルに命じた。
 ・ルーズヴェルトが「ホワイト試案」を支持したのは、ソ連擁護のために対ドイツ開戦をしたくて、ドイツと同盟関係にある日本に対米開戦を決行させることにあっただろう。日本の対米開戦はドイツの対米開戦と見なしてよかった。ルーズヴェルトは「100%の確率で受諾拒否となる」「最後通牒」をどうしても日本に手交したかった。
 ・H・D・ホワイトとは何者か。彼の「別の顔」はKGBの前身組織の在米責任者バイコフ大佐指揮下の「ソ連工作員の一人」。のち1953年にブラウネル司法長官は、ホワイトを名指しして「ソ連のスパイであり、米国の機密文書を…他の秘密工作員に渡していた」と言明した。1948年にバイコフ機関に関する証言のために召喚されたホワイトは、喚問三日後の08.16に心臓麻痺で死亡し、ハル・ノートをめぐる歴史の謎は闇の奥にしまわれた。しかし、ハル・ノート(最終案)が「共産主義者」である「ソ連のスパイ」により執筆された、という事実は等閑視できない。「共産主義の心底には破壊主義」が強く潜み、ホワイトはソ連防衛のみならず、日米戦争による「日本の破壊」の目標も秘めていたただろう。
 以上に続いてルーズヴェルト政権内のホワイト以外の「共産主義者」である「ソ連のスパイ」についての叙述があるが省略する。
 中川八洋は「最後通牒」性を否定しているが、かりにハル・ノートが日本に対する「最後通牒」との<俗説>が正しいものであったとしても、そのハル・ノートを実質的に作成したのはソ連・コミンテルンのスバイだった、という指摘はすこぶる大きな意味があるはずだ。
 櫻井よしこはどの程度の知見を持っているのかは知らないが、少なくとも週刊誌上の簡単な叙述だけでは不十分であることは明らかだろう。
 それにしても、先の戦争、大東亜戦争、八年戦争、昭和の戦争(の時代)についての歴史「認識」は同じ<保守派>であっても決して一様ではないことに驚かされるところがある。中川八洋を<保守派>論者でない、と評する者はいないだろう。近く田久保忠衛の戦争(の時代)についての歴史「認識」にも触れる予定だが、<真正保守>の歴史観というものがあるのかは疑わしい。また、自ら<真正保守>と任じている者の歴史把握が<真正>なものである保障は決してない、ということも心得ておいてよいと感じられる。

1267/丸山真男と現憲法九条・「軍事的国防力を持たない国家」論。

 〇 竹内洋・丸山真男の時代(中公新書、2005)は丸山真男に対して批判的であり、竹内・革新幻想の戦後史(中央公論社、2011)も同様だ。竹内の上の前者によると、1996年8月に丸山真男が逝去したのち朝日新聞はある一面のすべてを「丸山の業績と人をしのぶ」座談会で埋めたが、産経新聞は元慶応大学・中村勝範の「丸山政治学は思想的に日本人を混乱させた元凶でした。過去の分析も戦後の状況判断も完全に誤っていた」とのコメントも掲載した。
 水谷三公・丸山真男-ある時代の肖像(ちくま新書、2004)を、私は丸山真男(の思想)に対する訣別の書として読んだ。だが、長谷川宏・丸山真男をどう読むか(講談社現代新書、2001)のような、丸山真男を称揚する書物は今日でも新たに刊行され続けている。
 戦後「左翼」のなお強固な残存の源流の一つは、丸山真男にあるだろう。
 〇 ジャパニズム21号(青林堂、2014.10)によって気づかされたのだが、丸山真男は、亡くなる一年前以内の雑誌・世界(岩波)の1995年11月号に、「サンフランシスコ講和・朝鮮戦争・60年安保」と題する回顧談的文章を載せている。その中に、つぎの文章がある。丸山真男全集第15巻(岩波、1996)から直接に引用する(p.326)。
 平和問題談話会の法政部会で憲法第九条の問題を論じたときは、民法専攻の磯田〔進〕君のような左派は、『軍備のない国家はない。軍備がないというのはおかしい』と批判しました。正統左派ではない大内〔兵衛〕先生も、『国家である以上は、完全非武装というのはありえない』というのが、このときのお考えでした。そこで僕は、こうなったら国家観念自体を変革する以外にない、今日の言葉でいえば、…『普通の国家』論でいえば、軍備のない国家はないんだけれども、憲法第九条というものが契機の一つになって一つの新しい国家概念、つまり軍事的国防力を持たない国家ができた、ということも考え得るんじゃないかといって、磯田君と議論した。(ジャパニズム上掲p.118と引用の部分・仕方が少しだけ異なる)。
 ジャパニズム上掲号の「左翼アカデミズムを研究する会」という実質的には無署名の書き手は、上の文章から、大内兵衛ですら武装肯定の時代にすでに<非武装中立>を信念としていた、というまとめ方をしているが、私には、丸山真男が現憲法九条を「国家観念自体」の「変革」、「新しい国家概念」提示の契機と理解しようとしていた、ということが興味深い。
 いずれにしても、「丸山という知の権威がつくりあげた憲法九条イデオロギーは、さまざまな形で、今日の左翼アカデミズムに大きな影響を及ぼしている」(同上p.118)のはおそらく間違いない。ここにいう「憲法九条イデオロギー」は、たんに<反戦・平和>の気分に支えられているのではなく、「左翼」が夢想したい「新しい国家概念」の展望によっても基礎づけられているかに見える。
 憲法九条2項改正(・削除)論・論者に対する強固で執拗な、あるいは脊髄反射的な反発は、現実的・具体的な議論によって成り立つているというよりも、まさに「イデオロギー」に依拠するものだろうと考えられる。
 そうだとすると、やはり、それを打ち砕いておくために、憲法九条2項の改正(・削除)は日本にとって絶対になすべき課題だ、と感じられる。
 池田信夫はそのブログ2014.12.25付で「憲法改正は『大改革』ではない」と題して、憲法>「第九条を改正しても、自衛隊の名前を『国防軍』と変える以外の変化はほとんどない。大事なのは一院制にするとか衆議院の優越を明確化するなどの国会改革だが、自民党の改正案は参議院にまったく手をつけない。これでは改正する意味がない」
等と書いている。
 後段の指摘には賛同したい部分があるが、九条改正による「変化はほとんどない」、したがってその改正に大きな意味はないというかのごとき主張には、賛同し難い。九条2項を「改正(・削除)」しなくとも、すでに自民党中心の政権による憲法解釈によれば合憲とされている自衛隊によって、かなりのことが可能になっていることは確かであり、改憲反対派・憲法九条2項護持派によるデマ宣伝が言うほどには実態は大きくは変わらず、これまでの変化・実態の蓄積の延長線上にあるものにすぎないかもしれない。その意味では「質的」・「革命的」変化を生じさせるものではないかもしれない。
 しかし、「軍その他の戦力」の保持が明確に禁止されているにもかかわらず自衛隊を合憲視するのは相当に苦しい解釈ではあり、その「おとなのウソ」を解消する必要はやはりある、正規に「軍」と認知することによって日本の安全保障に一層寄与する、という点をかりにさしおいても、丸山真男のいう「軍事的国防力を持たない国家」という「新しい国家」観を、そして「憲法九条イデオロギー」を、きちんと打ち砕いておく課題と必要はある、と考えられる。問題は安全保障に関する現実だけではなく、<精神>・<国家観>にもあるのだ。
 〇 なお、丸山真男の、上の1995年の文章は「平和問題談話会から憲法問題研究会へ」という副題をもっている。
 前者の「平和問題談話会」については戦後<進歩的文化人>生成の重要な場であるという関心からそのメンバーの探索・確定や、安倍能成らの「オールド・リベラリスト」の排除による<純化>の過程の叙述を、たぶん竹内洋等々の文献を手がかりに、この欄でメモしていったことがある。そこでも触れたことがあるような経緯・構成員の一端を当事者の一人だった丸山も語っていて興味深い。また、後者についても、宮沢俊義(憲法学者)、我妻榮(民法学者)が政府系の憲法調査会ではなく、「憲法問題研究会」に入会したことは社会的に、また東京大学法学部内部でも大きな話題になった、等が語られていて興味深い。機会(・余裕)があれば、また言及しよう。

1259/「危険な思想家」発想がなお残る今日の知的世界。

 ・前回言及の竹山道雄の文章は、朝日新聞が日本の継続性肯定の<明治100年>か敗戦による新たな<戦後20年か>という対立があるとして両側の諸論者の文章を掲載したものの一つで、前者の論者は平川祐弘によると竹山道雄・林健太郎・江藤淳・林房雄、後者のそれは野間宏・遠山繁樹・小田実・加藤周一、のそれぞれ4名だ。作家・野間宏は少なくとも戦後の一時期は日本共産党員だった者、日本史学者・遠山茂樹は日本共産党だったと推測される者、あとの後者の二人は非日本共産党「左翼」だろう。そして、平川の言に俟つまでもなく、朝日新聞は後者の立場を支持することをを少なくとも示唆した特集だったと思われる。
 ところで、平川祐弘によると、同じ1965年に山田宗睦が「危険な思想家」というタイトルのカッパ・ブックスを出していて、上の前者の4名は山田のいう「危険な思想家」だったらしい。平川によればほかに安倍能成が明記されているが、三島由紀夫や石原慎太郎もまた当然に?「危険な思想家」だったようだ。平川によると、この山田の著に朝日新聞が「飛びつい」て、上に言及の特集になったらしい。
 この論争に立ち入るつもりはないが、上の両派?のいずれの立場が日本国家と日本国民にとって本当は「危険な」ものだったかは、今日ではほとんど明らかだと思われる。
 だが、60-80年代くらいまでかなり広く<保守・反動>という言葉でレッテリ貼りされた考え方・歴史の見方を今日でもやはり「危険」と感じている者は今日でも少なくないし、憲法学界では前回に言及した某憲法学者も含めて圧倒的多数派を占めているという印象がある。
 「危険な」の反対は「安全な」だが、いわゆる<進歩>派あるいは「左翼」こそが、憲法学界では「安全な」立場・立ち位置なのだ。したがって、学界や各大学・各学部の多数派=「安全な」立場に属していることが、就職・昇格やその他の人間関係上<有利>であると感覚的に判断する者は、深く考えることなく、無自覚に「左翼」になってしまう憲法学者も出てくることになる(別に憲法分野に限りはしないが)。あるいはまた、<右・左>、<保守・左翼>のいずれかの立場を鮮明にしない方が「安全」だと感じる大学や学部にいる間は<温和しく>しているが、「左翼」性を明確にしても「安全」だと感じる大学・学部に移れば、例えば平気で「九条(2項)を考える会」に属して報告をしたり、特定秘密保護法や集団的自衛権容認に反対する声明に堂々と名を連ねたりすることになる。
 ・憲法学界を例にしての以上のことが決して的外れではないことは、月刊WiLL1月号(ワック)冒頭の座談会で、政治学の中西輝政が語っていることでも明らかだろう。<保守派>であることは大学院生がどこかの大学に就職する(採用される)ために不利だったことは指導教師だった高坂正堯の言葉を紹介しながら中西輝政がすでに述べていた(この欄でも触れた)。
 上の座談会の中で中西輝政は、「いまでも特殊な知識人の世界」では「朝日的であること」が「知的権威そのもの」だ、「朝日に対する信仰」は「いまでもテレビ界の報道関係では、NHKも含め…根強く残っていて、一般の社会と大きくズレている」と述べたりしつつ(p.37)、つぎのようにも語っている。
 「学会ではいままでずっと地雷原を歩いているようなものでした(笑)」。大学では「最も大変な時期は、校門をくぐった瞬間から一瞬たりとも警戒心を解くことができ」なかった。メディアで「靖国参拝に賛成」と言ったら「授業を暴力で潰しに来かねない状況で、教員たちも露骨に反発して私一人、全く孤立無援」だった。大学の校門を出た方が安全で、「むしろ大学に入ると『学問の自由』は保障されてい」なかった。
 学生の反応はともかくとしても、「教員仲間」から「そもそも中西さんの言動に問題がある」として「取り合ってもらえなかった」(以上、p.40)という、学部または教員たちの雰囲気に関する発言の方が重要だし、興味深い。
 もっとも、具体的にいかなる時期のどの大学(京都大学?)のことを述べているのかは明確ではない。余計ながら、中西輝政が退職した大学・学部には佐伯啓思も同僚としていたはずだ。
 上の最後の些細な点は別として、「学問の自由」といいながら、人文・社会系の大学に所属する研究者たちは、テーマ設定や研究内容について、本当に自分の頭で「自由」に考え、結論を出しているのだろうか、という疑問をあらためてもたざるをえない。それは「靖国参拝」や「慰安婦」についての彼らの意見や認識についても言える。それぞれの学界・学会の<空気>を読みながら、「黒い羊」と目されないように、多数派に属するように、あるいは「安全」であるように、取捨選択しているのではあるまいか。無意識にそのように行動させるシステムができ上がっているとすれば、もはや大学でも「学問」でも「自由な」研究者でもないだろう。ややテーマがそれたかもしれない。

1258/月刊正論を最近は毎号きちんと読んでいる。

 ・前編集長時代とは異なり、交替後の月刊正論(産経新聞社)は「メディア裏通信簿」も含めて、なかなか面白い。何よりも、くだらない、又は反発を覚えるような論考や記事がほとんどなくなった。
 とは言っても、なぜか、日本共産党、社民党、生活の党(小澤一郎は見事に?変身した)という「左翼」政党、とりわけ日本共産党の現状の紹介や批判的検討が全くと言ってよいほどないことは相変わらずで、中国(中国共産党)を熱心にかつ批判的に分析しても、なぜ日本の月刊雑誌は日本の「共産党」を、あるいは日本のコミュニズムを正面から扱わないのだろうというもどかしさは依然として残る。
 ・月刊正論1月号もおそらく90%以上読み終えた。最近と同様に、かつてほどに逐一言及する余裕はない。
 門田隆将の文章も小浜逸郎(この人は一時期は信用していなかったのだが)の文章も、印象に残ったが、平川祐弘が紹介している、竹山道雄の、朝日新聞1965.04.05号の文章の一部が目を惹いた。
 「私には戦後の進歩主義がほんものの平和と民主主義であるとは思われない。それはむしろ、人々の平和と民主主義をねがう気持ちにつけこんで、別なものが進歩主義を利用して浸透する手段としたのだった」。(p.347)
 ビルマの竪琴という小説の作家としてしかほとんど知らない竹山道雄だが(もっとも、同・昭和の精神史は所持していていずれ読みたいと思っているし、著作集も半分以上所持している)、60歳をすぎた時期に朝日新聞紙上でこんな文章等でもって論争しているとは、相当な人物だったに違いない。
 「人々の平和と民主主義をねがう気持ちにつけこんで、…進歩主義を利用して浸透する手段」としている「別なもの」は現在も厳然として存在するし、「別なもの」に「平和と民主主義をねがう気持ちにつけこ」まれていることを知らずに、戦争と<全体主義・ファシズム>の復活?を許さず「平和と民主主義」の理想を追求していると自らを評価しているものも厳然として多数存在している。
 すでに「別なもの」になっているのかどうかは知らないが、個人的に知る某憲法研究者は、<日本の自衛隊(軍事組織)は信用できない。正式に軍として認知すれば何をしでかすか分からない>という旨を<公言>していた。
 日本軍国主義=日本のかつての軍部は<悪>でありかつ<拙劣>であったので、そのDNAを継承している自衛隊、そして日本人そのものが<正規の軍として位置づけられるものを保持するとアブない>というわけだ。
 かかる戦後・占領期の<時代精神>を、日本の憲法学者の多くはなおも有し続けているのだろう。
 開いた口がふさがらないし、そのような感覚を平然と語るれっきとした<おとな>らしき人物などとは、もはやとっくに、「口をきく気にもなれなくなっている」のだが。
 

1185/「絆」と「縁」の区別、そして「血縁」ー民主党・菅直人と自民党。

 菅直人が首相の頃、自民党の記者発表の場の背景にも「絆(きずな)」という言葉が書かれてあったのでこの欄に記す気を失ったのだったが、当時、菅直人は好きな、または大切な言葉として「絆」をよく口に出していたように思う。あるいはテレビ等でも、大震災の後でもあり、人間の「絆」ということの大切さがしばしば喧伝されていたように思う。
 だが、少なくとも菅直人が使う「絆」については、次のような疑問を持っていた。すなわち、彼がいう「絆」とは主としては自らの意思で選びとった人間関係を指しており、市民団体やNPO内における人間関係や、これらと例えば被災者との間の「絆」のことを主としては意味させようとしているのではないか、と。
 そして、「絆」とは異なる別の貴重な日本語があることも意識していた。それは、「縁」だ。「縁」とはおそらく(辞典類を参照したことはないが)、個人の「意思」とは無関係に、宿命的なまたは偶然に生じた人間関係のことで、例えば、<地縁>、<血縁>などという言葉になって使われる。これらは菅直人が好みそうな「絆」とは違うものではないか。「縁」による人間関係も広義には「絆」なのかもしれないが、後者を狭く、個人の意思による選択の要素が入るものとして用いれば、「絆」と「縁」は別のものなのではないか。
 そして、かなり大胆に言えば、「左翼」はどちらかというと個人の意思の介在した「絆」を好み、血や居住地域による、非合理的な「縁」という人間関係は好まないのではないか、「保守」の人々ははむしろその逆に感じる傾向があるのではないか、と思ってきた。
 さて、被災地において「地縁」関係が重要な意味を持ったし、今後も持つだろうということは明らかだが、戦後日本で一般に「血縁」というものが戦前ほどには重要視されなくなったことは明らかだろう。
 戦前の「家族」制度に対する否定的評価は-それは「悪しき」戦前日本を生んだ温床の一つとされた-「個人の(尊厳の)尊重」と称揚と対比されるものとして幅広く浸透したし、現にしている、と思われる。
 「個人の尊重」は書くが「家族」にはいっさい言及しない日本国憲法のもとで-樋口陽一は現憲法の中で最重要なのは13条の「個人の尊重」だとしばしば書いている-、「血縁」に重要な意味・位置を戦後日本と日本人は与えてこなかったのではないか、広義での「絆」の中に含まれる基礎的なものであるにもかかわらず。
 もちろん、親(父または母)と子の間や「家族」の中の<美しい>人間関係に関する実話も物語も少なくなく紹介されたり、作られたりしている。
 だが、本来、基本的な方向性として言えば、樋口陽一ら<左翼>が最重要視する「個人の(尊厳の)尊重」と「血縁」関係の重要性を説くことは矛盾するものだ。親子・家族の<美しい>人間関係を語ることには、どこかに上の前者と整合しない要素、または<きれいごと>も含まれているのではないか。こんな関心から、さらに何がしかを追記していこう。

1167/佐伯啓思の議論はどのようなもので、どのように評価されるべきか-一部。

 佐伯啓思・日本の宿命(新潮新書)は2013年1月発行で、2012年12月17日付の筆者「あとがき」がある。そのわりには、前日12月16日の衆議院議員選挙の結果にも言及がある(p.3、p.13、p.37等)。

 それはともかく、昨年末総選挙の結果が判明していたと思われる2012年12月17日付で佐伯啓思はこう書いている。
 <自分の大きな関心は「制度論」や「事実論」ではなく「精神のあり方」や「ものの考え方」にある。>(p.222)。

 このように書いてはいるが、佐伯啓思は「構造改革」を中心とする「制度改革」を含む「改革」路線・「改革」ブ-ムを、佐伯のいう「橋下現象」とともに批判視・問題視してきた。また、産経新聞2/15の記事によると「大阪正論懇話会」では<構造改革では米国的な要素を持ち込んで市場競争を強化させてしまったことで、社会的な安定性に関わる部分が崩れてしまった。この過去を整理して、われわれがめざす経済の姿を考えなければならない。国がやるべき仕事は、公共工事や復興支援など安定性の部分をもう一度、立て直すことだ>等々と語った、というのだから、専門分野に包含されるはずの「経済政策」に関する発言も行ってきている。

 したがって、佐伯が「制度論」や「事実論」に関心がないはずはないのであり、あくまで(さらには上の書物でのそれに限られるかもしれないが)「大きな関心」ではない、ということに留意すべきなのだろう。

 ともあれ、佐伯啓思という学者・評論家が「精神のあり方」や「ものの考え方」に大きな関心を持ち、それによって種々の論述をしている、ということは佐伯の著書や文章を評価・分析するための一つのポイントだろう。
 しかして、佐伯自身の「精神のあり方」や「ものの考え方」とはいかなるものか。種々の現象や議論を、それらに潜む「ものの考え方」のレベルで分析し、あるいは批判的に論じることに、むろん意味がないわけではない。
 ただ、もちろんここで簡単に言ってしまうのは不可能だし乱暴でもあるのだが、佐伯自身の「見方」はさほどわかりやすいものではないし、あえて言えば<斜に構えた>視点から、あるいは通常のまたは大勢的な論調とは異なる、ある意味では「意表をついた」視点から、またはそのような論点を提出することによって論述するのが、佐伯啓思の特徴であると言ってよいだろう。少なくとも私は、そのような「印象」を持っている。
 だが、と再び次元の異なる論点を持ち出せば、「精神のあり方」や「ものの考え方」と「事実」や現実の「制度」はそもそもどういう関係に立つのか、という問題もある。
 つまりは、佐伯啓思のいう、または佐伯自身の、「精神のあり方」や「ものの考え方」が、戦後日本の「現実」の中で、それに影響を受けて形成されてきたものではないか、ということだ。
 「現実」の中には-さしあたり佐伯啓思のそれに限れば-佐伯が受けてきた戦後日本の学校教育も、佐伯がその中にいた学界や論壇の風潮も含まれる。そしてまた、東京大学を卒業し京都大学の現役教授であるという佐伯啓思の経歴や所属もまた、佐伯の種々の書物や文章の内容や「書きぶり」と無関係ではないだう。
 佐伯自身も否定はしないだろうように、佐伯自身の「精神のあり方」や「ものの考え方」は佐伯の内部のみから、外部から自由に生成されたものではない、はずだ。
 そして再びやや唐突に書くのだが、佐伯啓思の、<斜に構えた>視点からの、あるいは通常のまたは大勢的な論調とは異なる、ある意味では「意表をついた」論点提出による論述方法は、決して「大衆」が行いうるものではなく、東京大学卒の京都大学教授だからこそなしえているのではないだろうか。書き方を変えれば、無意識にせよ、自らの「位置」についてのそういう自覚を持っているからこそ、佐伯啓思のような諸仕事を佐伯はできているのではないだろうか。それは、あえて単純化はしているのだが、善し悪しは別として、「高踏的」、あるいは場合によっては「第三者的」・「評論家的」になっている。丸山真男ほどではないとしても。

 佐伯啓思が特定の「党派」的、政治実践的な主張を少なくともあからさまにはしていないのは、上のこととと無関係とは思われない。
 この点は、同じ大学・大学院研究科に所属していた中西輝政とは大いに異なる。これは、中西輝政の最近著・賢国への道(致知出版社、2013.01)の「まえがき」等を一瞥するだけでも瞭然としている。
 そして、今日においてわが日本が必要としているのは、佐伯啓思タイプの評論家・論者ではなく、中西輝政タイプのそれではないか、と感じている。
 あれこれと、あるいは「ああでもない、こうでもない」と分析的に論じること、あるいは細かいもしくは「意表をつくような」もしくは「独自の」・「ユニ-ク」な<解釈>をし、あるいは「見方」を提示することは、かりに意義があるとしても、現実的にいかほどの影響力をもつかは疑問だ。
 同じく新潮45(新潮社)の連載をもとにした佐伯啓思・反・幸福論(新潮新書)は「予想以上に」売れたらしく、結構なことだが、数万部では、また数十万部ですら、新聞の影響力にはかなわないし、ましてやテレビ報道の論調に抗することは客観的には不可能だろう。
 もちろん佐伯啓思の本に限らないが、巨視的には、川の流れに小さなさざ波を立てるだけの書物がほとんどだろう。それでも好ましいさざ波ならよいのだが、悪質なものも少なくはなさそうだ。
 佐伯啓思の著書はすべて好ましいさざ波であるのかは疑問で、少なくとも一部には、日本と日本人のためにはよろしくない、またはほとんど無意味だ、と少なくとも私は感じる部分があることは否定できない。

 以上、佐伯啓思の文章のごく一部から発展させて。

ギャラリー
  • 1181/ベルリン・シュタージ博物館。
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  • 1180/プラハ市民は日本共産党のようにレーニンとスターリンを区別しているか。
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  • 0801/鳩山由紀夫は祖父やクーデカホフ・カレルギーの如く「左の」全体主義とも闘うのか。
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  • 0800/朝日新聞社説の「東京裁判」観と日本会議国際広報委員会編・再審「南京大虐殺」(明成社、2000)。
  • 0799/民主党・鳩山由紀夫、社民党・福島瑞穂は<アメリカの核の傘>の現実を直視しているか。