秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

思想

2542/Turner によるNietzsche ⑪。

 Frank M. Turner, European Intellectual History -From Rousseau to Nietzsche (2014).
 〈第15章・ニーチェ〉第10節の試訳のつづきで、最終回。
 ——
 第10節③。
 (03) 生を肯定する道徳を受容することのできる生物は、〈Übermensch〉、超人(Overman)だった。
 この言葉は、今世紀の初めには「Superman」と呼ばれるようになった。
 この語はもともとは〈ツァラトゥストラはこう語った〉に出ており、明瞭な意味をほとんど持っていなかった。 
 〈Übermensch〉は生を肯定する。
 愉快で、無邪気で、本能的で、自分の本能による衝動を持っている。
 将来に存在する生物のように見える。というのは、ニーチェはある箇所で、人類を野獣と〈超人〉の間を架橋するものとして描いているからだ。
 この生物は、人類がキリスト教や近代自由主義の禁欲的理想からつき離されたときにどのようなものになるかの、ニーチェの理想の類型のように思われるだろう。//
 (04) 近年の論評者はこの概念を相当に中立化している。しかし、種々のことが語られていても、全てがおそらくは間違った接近方法をとっている。
 疑いなく、ニーチェはその言う〈超人〉としてヒトラーのような人物を想定していなかった。そして〈超人〉は、彼の心の裡でははるかにGoethe のような人物だった。
 それにもかかわらず、〈超人〉は明らかにリベラルな諸価値とは相容れないように見える。そして、ニーチェ哲学の多くとともにこの概念を擁護しようとする近年の試みは、19世紀のさらに別の大きな危機と融合しようとするブルジョア文化の試みにすぎないと、私には思える。//
 (05) この時代のヨーロッパの知的世界の考察を、本書はRousseau から始めた。
 ニーチェでもって終えるのは、偶然ではない。
 彼は、Rousseau 的見方に対する最も厳しい批判者の一人だ。
 貴族制とブルジョア社会の両方を非難したのは、Rousseau だった。だが、彼の解決策は急進的に平等主義的なものだった。
 古代世界で彼が好んだのは、古代の市民的美德であり、この美德は急進的に平等主義ではない社会に宿っていた。 
 Rousseau が将来に投影したのは、平等主義の展望だった。
 彼は、聖書が失墜した世俗的見方から帰結するものとして社会を描いた。
 そして、あけすけの意欲の力でもって、道徳的にも経済的にも他の人間に優越する地位を築いた者たちを非難した。
 彼の見方では、このような状況が近代社会の虚偽(falseness)につながった。 
 Rousseau は、急進的な平等主義にもとづいてこれを批判したかった。
 また、人間がそのために生命を捧げるべき力として一般意思と市民宗教(Civil Religion)を樹立したかった。//
 (06) ニーチェは、このような見方に関する全てを憎悪した。
 彼は、優越者たる地位を築いた古代の人物たちを尊敬した。 
 Rousseau が書いたもの全てに、プラトンとユダヤ・キリスト教の伝統の両方の香りを嗅ぎ取った。
 彼はその急進主義にもかかわらず、本当の知的勇気を持たない、とニーチェは考えた。 
 Rousseau は、確定的ではない生物という自然状態から生まれ来たるものだと、人間を描いた。そのような生物は、自分たちの基本的な性格を作り上げていく必要があるのだ。だが彼は、自分自身の見方の根本的なニヒリズムから離れていた。
 ニーチェが提示し、次の世紀のヨーロッパの知的世界の中心に持ち込んだのが、ニヒリズムだった。
 人間の本性は、彼にとって、本当に確定的ではない。
 人間は、それを確定しなければならない。そして、ニーチェは、彼の世代の者たちが主張する全てのイデオロギーはその任務を果たすには不適切だ、と考えた。//
 ——
 第10節、終わり。〈第15章・ニーチェ〉も、終わり。

2541/Turner によるニーチェ⑩。

 Frank M. Turner, European Intellectual History -From Rousseau to Nietzsche (2014).
 〈第15章・ニーチェ〉第9節の試訳のつづき。
 ——
 第9節②。
 (07) ニーチェの見方では、貴族的な価値の再検討が始まったのは、古代イスラエルでの道徳的経験によってだった。
 キリスト教が顕著に促進したこの再評価は、「道徳に関する奴隷の反乱」を引き起こした。
 この反乱の中心に位置したのは、ニーチェが〈ルサンチマン〉(Ressentiment)と称したものだった。
 高貴な者たち(the noble)が世界の上から見渡して肯定したのに対して、奴隷たちは、まさにその状況のゆえに、外部世界を否認しなければならない。
 奴隷たちは、肯定できない自分たちの無能力を正当化しなければならず、否認を正当化して称賛することによって、そうするのだ。
 このキリスト教道徳は力への意思を否定し、そうして、生を否定し、生を制限する。
 こうしたキリスト教道徳の勝利によって、奴隷の道徳がヨーロッパを奪い取った。
 奴隷の道徳は高貴さを否定し、卑しい者、弱い者、臆病な者を称賛した。
 結果として、人間の本性を否定したのだ。//
 (08) ニーチェによる批判に関して重要なのは、その重要性を説明する彼の決断だ。
 従前の哲学者たちのほとんどは、普遍的な価値の存在を前提にしていた。
 厳密にどのような価値がそうであるかに関しては異論があっただろう。しかし、普遍的な価値の存在については、一致があった。
 ニーチェは、価値それ自体の独立した存在を否定した。
 彼は強くこう主張した。キリスト教の諸価値は元々は無力の者や階層が自分たちの力を最大にする必要に由来する、と。そしてこの者たちは、自分たちの奴隷的存在の価値を高貴な者のそれよりも高位で立派だと設定することによってそうしたのだ。
 さらに加えて、奴隷たちのこの叛乱は、終わらなかった。
 19世紀における革命、自由主義(liberalism)、社会主義の波は、奴隷たちの叛乱を延命させた。
 ニーチェは、こう明言した。
 「かつてよりもさらに決定的で深遠な意味において、ユダヤ(Judea)はもう一度、フランス革命の古典的理想に対して勝利した。ヨーロッパの最後の政治貴族、フランスの17世紀と18世紀の政治貴族は、〈ルサンチマン〉—一般大衆の本能—のもとで崩壊した。かくも歓喜した、喧騒の中の狂熱の声を、これまでの世界は聞いたことがなかった!。」(注19)
 ニーチェは〈道徳の系譜学〉の別の箇所で、近代の自由主義はキリスト教が残した場所でそれをたんに継続しているにすぎない、と論じた。
 近代自由主義にもキリスト教にも、人間の本性を否定したという罪責がああった。//
 (09) ニーチェは、禁欲という理想はきわめて重要な機能を果たした、と考えた。
 禁欲は人間に、意味を、とりわけ苦難がもつ意味を提示した。
 禁欲によって人間は、存在の根本的な無意味さという荒涼たる現実に立ち向かうことができなくなった。
 だがなお、禁欲という理想はきわめて高くつくものも呼び起こした。
 「禁欲の理想によってその方向が示された意欲の全体が実際には何を表現しているかを我々が隠蔽するのは、絶対に不可能だ。表現するのは、人間的なものへの憎悪、さらに動物的なものへの憎悪、さらに物質的なものへの憎悪であり、官能や理性そのものへの恐怖、幸福や美への恐怖だ。そして、仮象、無常、成長、死、願望、そして熱望それ自体から逃れたいという熱望だ。
—これら全てが意味しているのは、あえて把握しようとするなら、〈無(nothingness)への意思〉であり、生への反感であり、生の基礎的な諸前提のほとんどに対する反抗だ。しかし、これは一つの〈意思〉であることに変わりはない。
 最初に言ったことをもう一度言って、終わりにする。人間は、意欲を何らもたないよりは〈無を意欲する〉ことをなおも望む。」(注20)//
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 第10節①。
 (01) 道徳に関する総括的な検討が最後に示すのは、生を拒否する道徳にすらある主意主義的(voluntaristic)な基盤だ。
 否定的な禁欲主義は、それ自体は禁欲的ではない。 
 否定的禁欲主義は、全ての意識ある存在の特徴だとニーチェが考える、力への意思のもう一つの様式にすぎない。//
 (02) そのゆえに、人間にとっての問題は、生を否定するのではなく肯定するのを認めることになる価値を意欲する、または想定する、そのような方法を見い出すことだった。
 ニーチェにとって、その方法には本質的にエリート主義的で貴族的な道徳が必要だった。
 高貴な人間は、畜群(herd)に打ち勝たなければならない。
 このことはキリスト教の排撃だけではなく、当時のブルジョア・イデオロギーの全ての排斥をも意味した。—自由主義、功利主義、民族主義、人種主義、菜食主義、等々の全て。
 これらは全て、結果を計算することに関心をもつ道徳的立場にあり、その定義上、全てが奴隷の道徳の態様だ。//
 ——
 第10節②へと、つづく。

2540/Turner によるニーチェ⑨。

 Frank M. Turner, European Intellectual History -From Rousseau to Nietzsche (2014).
 〈第15章・ニーチェ〉の試訳のつづき(再開)。
 ——
 第9節①。
 (01) ニーチェはある意味では、人間が本質的に美学的な見地から生に立ち向かうことを要求した。
 人間は生の現象を見つめて、そして自分たち自身の内的存在から、外部が誘導する権威にもとづかず、判断するようにならなければならない。
 (02) ニーチェは、世界は根本的に形をもたないと確信して、人間が形を作り上げなければならない、と考えた。
 世界は、我々がこうあるべきだとするものだった。
 我々がComte やDarwin が考えたような知識をいずれ獲得する、そのような客観的世界は存在しない。
 (03) ニーチェにとっては、科学は本当(genuine)の知識ではない。
 科学は、伝来的な、または有用な知識だ。
 世界で我々を成功させてくれる場合のみ、科学は真実(true)になる。
 科学は、世界を理解しようとする一つの方法にすぎない。
 科学は、最終的な知識へと帰着しなかったし、そうできなかった。
 彼はその明瞭さと有用性のゆえに科学を称賛したが、科学それ自体は、最終的叡智またはその他の価値の源泉ではあり得ない。
 〈陽気な科学(The Gay Science)〉でこう書いたとおりだ。
 「生は、論拠ではない。
 我々は生きることができるように世界を整序した。—物体、線、面、原因と効果、運動と休止、形式と内容、こうしたものを配置することによって。
 こうした信仰(faith)の対象がなければ、誰も生きることに耐えられないだろう!
 しかし、このことは信仰対象の正しさを証明しはしない。
 生は、論拠ではない。
 生の諸条件は誤りを含んでいるかもしれない。」(注17)
 実際にニーチェは、ほとんど真実は道具(instrumental)だと言うに等しい所まで来ていた。
 この点では、初期プラグマティストたちの哲学者陣営にきわめて近い立場にあった。
 彼にとっては、真実は決して永遠のものでも、無限のものでもない。
 真実は、世界に入り込み、そこを通り抜ける方法なのだ。//
 (04) ニーチェは、こうした急進的な懐疑主義を抑圧的とも悲観的とも見なさなかった。
 多数の人々はとても恐いと感じるだろうとしても、彼は、解放の基盤だとそれを見なした。
 最初の段階では、真実に関する彼の考えによって、自分をキリスト教から解放することができた。
 Ipsen やその他の同世代者のように、ニーチェは、現今の道徳を愚かなものだと考えており、その道徳は基本的にはキリスト教に由来するものと見ていた。
 今の道徳は、キリスト教であれ功利主義であれ、禁欲的で、生に対して拒否的だった。
 彼のキリスト教に対する、そしてキリスト教道徳に対する批判は、ヨーロッパでかつて道徳であり道徳的経験だと見なされたものの核心部分へと及んだ。
 彼はキリスト教道徳の起源を、プラトンとユダイズム(Judaism)へと跡づけた。
 キリスト教は2000年前に、これら両者の最悪の部分を結合させ、人類を凡庸へと向かわせたのだ。//
 (05) この主題に関する彼の完全な議論は、〈道徳の系譜〉(The Genealogy of Morals)となった。
 ニーチェはこの書物で、何が善かの判断の起源はどうだったかを問題にした。
 彼はこう主張する。「善」の判断は確実に、善が最初に示されたものを起源とはしていない。
 最初の時代の何が善であるかの決定はむしろ、強くて高貴な人々に由来した。彼らは、自分たち自身に役立つように何が善かの判断を行ってきたのだ。
 彼はこう説明する。
 「こう起源を理解する理由は、『善』という言葉は必ずしも『非利己的』な行動と結びついていなかった、ということだ。『非利己的』な行動というのは、道徳の系譜学者が伝えてきた迷信だ。
 反対に、『利己主義』と『非利己主義』の対置が人々の良心の中にますます大きくなったがゆえに、貴族的な価値判断が衰亡している。
 —そうなのだ。私の用語法によれば、そうして最終的にこの言葉を掴み取るのは、〈畜群(herd)の本能〉なのだ。」(注18)//
 (06) 善という語の貴族的な理解が衰亡したことは、ニーチェが古代ギリシャに発見した強い古代の貴族の本能に対する、畜群の本能の勝利を象徴した。
 その貴族的な価値判断は、健全で力強い、肉体的に活発でつねに戦いや強さ試験に備えている人々を想定していた。
 その価値判断は、生と力を肯定することで成立していた。
 時代の推移とともに、畜群、聖職者、そして世界を否定する者たちの道徳に、入れ替わってしまった。//
 ——
 第9節②へと、つづく。

2508/M・ガブリエル2018年著の一部②。

 Markus Gabriel, Der Sinn des Denken(2018年)。 
 ドイツ語文を試訳する。前回とは別の箇所。邦訳書はないように見える。
 ——
 第五章/現実とシミュレーション。
 第10節・両性をもつ現実(Das Zwitterwesen Wirklichkeit)
 (01) 現実には二つの面がある。
 第一に、何ものも現実には帰属せず、何らかの概念を分有しない。
 第二に、何ものも現実的でなく、我々がそれに欺かれることはありえない。
 以下に述べることは、この対比を鮮明にするだろう。
 一方には、絶対的な観念論(Idealismus)の立場があり、G. W. F. ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel)はこれを支持する。
 この立場は、著名な箇所でこう概括する(ヘーゲルの二文)。
 「理性的なものは、現実だ。
  現実的なものは、理性的だ。」
 観念論の主要イデーは、何かが現実的であるときにのみそれは情報を提示することができ、ゆえに原理的にそれは何らかのシステムにとって解釈可能なものになる、というものだ。
 我々の情報時代は、この主要イデーの上に強固に築かれている。
 デジタル革命と展望される全面的ネット化は、まさにこの観念論を技術的に転換したものだ。
 (02) だが、これでは現実の一面しか把握できない。
 観念論者は決まって、現実を把握し、それに適合して我々の諸観念を形成するように、我々の能力を限定する。
 いわゆる超人間主義(Transhuanismus)の過激な変種では、観念論は、我々の生物的本性の克服すらを追い求める。
 これに対して、観念論を人間主義と結びつける観念論のLeipzig 学派の現代哲学は(とくに、James Conant、Andrea Kern、Sebastian Rödl、Pirmin Stekeler-Weithofer)、自己意識的な人間の生を概念の概念だと見なす。(注210, Kern=Kietzmann, Stekeler-Weithofer)//
 (03) 超人間主義は、F・ニーチェ(Friedrich Nietzsche)の超人(Übermensch)という幻想を技術の進歩によって実現しようとする企てだ。
 ニーチェは、もはや生物学的情報空間に生きていない、純粋な情報空間としての人間のより高次の存在形態を追求した。
 ここで読者は、Spike Jones の映画〈彼女〉に出てくるSamantha という名前の完全に人工的な知識人、あるいは例えば〈Black Mirror〉や〈Electric Dreams〉にある何か別の未来主義的な観念を思い浮かべてよいだろう。
 観念論は、超人間主義の世界像を間接的に支えている。ヘーゲルも現代のドイツの観念論者も(パラダイム的にLeipzig とHeidelberg の大学で主張される)、超えられない普遍的な高地の一つとして現実を基盤的に人間に根づかせようと企てているのだけれども。(注211, Friedrich Koch)//
 (04) 現実のもう一方の面、すなわち、我々は自分たちを欺くことができるという側面は、絶対的な観念論の範囲では当然に、適切には把握されない。
 そのゆえに、観念論はかつても今も、実存主義(Realismus)と対立する。
 (05) 実存主義は、我々は我々の見解を現実の状況に適応させなければならない、ということが、現実の決定的な標識だと見なす。
 これに従えば、現実は全てが我々の認識装置に適応したものであるわけではない。
 現実は、我々にそう思われるのとは全く別のものであり得る。
 実存主義はそのかぎりで、現実の理解を、我々を絶えず驚愕させることのできる状況に適応させる。
 実存主義によって、たしかに、現実は認識可能であり、我々はつねに欺かれるわけではない、ということが際立つ。
 だが、これは、現実はそのゆえに我々に適応したものだ、ということを意味しない。そうでなく、我々は多くのことを認識し、その他のものは認識しない、ということをたんに意味する。
 現実は原理的に認識可能なのか、そうでないのか、という問題を、新実在主義(Neue Realismus)は克服しない。なぜなら、現実は全包括的な対象領域なので、イデーは一貫して裏切られるからだ。
 反面で現実が態様範疇(Modalkategorie)であるならば、現実は原理的には認識可能だ。//
 (06) フランスの現代哲学は、この論脈で、ハイデガー(Heidegger)の後期哲学の『Ereignis』(事象)に依拠して語っている。
 ハイデガーはそこでは、むろん区別されるのだが、H・ベルクソン(Henri Bergson)を借用していた。
 ベルクソンはドイツでは低い評価しか享けておらず、それはまさにハイデガーが彼を中傷したからだ。 
 ベルクソンは当時の目線で、Albert Einstein その他の者と闘い、とりわけ1927年のその書の高い性質にもとづいて、ノーベル文学賞を受けた。
 ベルクソンとアインシュタインは良い関係でなかった。そのことで、最終的にはベルクソンの声価が傷ついた。//
 ——
 以下、省略。

2507/M・ガブリエル2018年著の一部。

 Markus Gabriel, Der Sinn des Denken(2018年)。
 =Markus Gabriel, The Meaning of Thought (2020年)。
 久しぶりに、ドイツ語から試訳する。邦訳書はないように見える。
 ——
 第五章/現実とシミュレーション。
 第17節・きのこ(Champignons)、シャンパン(Champagner)と思考の思考との区別。
 <省略>
 (20) ここまで読んできた読者ならば、とっくに思考に関して思考することを学んだだろう。
 アリストテレスの文章に貴方たちは、ひょっとすれば多少とも直接に納得するだろう。
 そしてまた、明らかになってきているはずなのは、全ての思考が思考されなかったことを対象としているわけではなく、ゆえに全ての思考が無意識の過程を説明しているわけではない、ということだ。
 我々は、…思考の諸理論を発展させる力をもつことを認めなければならない。そうでなければ、真(echt)の認識物と知的に昇華された権力闘争を区別する規準をもはや持たないだろうから。
 (21) このことは、フーコー(Foucault)やその師匠(Meister)のニーチェ(Nietzsche)についても言える。この二人は、どのようにして力への無意識の意思や隠された専門化の方法に関する彼らの考察に立ち至ったかを、説明することができない。これらは、我々の意識的な思考の全体を組み立てるはずのものであるのだが。
 貴方たちは自分たちは例外たる地位に置かれていると不満に思う。ちなみにそれは、ニーチェが恥知らずにも奴隷状態を正当化するために用いたものだ。(注247, Nietzsche)
 (22) 我々にはゆえに、二つの選択肢がある。
 我々は、たびたび真実と事実を我々の利己的利益よりも優先する、理性的で精神的な生物(Lebenwesen)であることができるという観念から完全に決別するか、それとも、純粋な思考(reines Denken)がある、ということを受け容れるか。
 (23) むろん、純粋な思考は生物が行うことだ。
 人間は、理性または純粋な思考だけではない。そうではなく、生の営為がしばしば我々の思考過程に関する省察のかたちをとる生物だ。
 「なぜなら、純粋な思考の現実は、生であるからだ」。(注248, Aristoteles)
 ——
 第18節へ続いている。

2484/Turner によるニーチェ ⑧。

 Frank M. Turner, European Intellectual History -From Rousseau to Nietzsche (2014).
 第15章の試訳のつづき。
 ——
 第8節。
 (01) ニーチェは、ワーグナーと決別することで、ある意味ではロマン主義の継承物とも別れていた。彼の思想にはその要素の多くが維持されることになるけれども。
 彼は、より多く啓蒙思想と結びついた。
 しかし、ニーチェは、理性とその行使に対して批判する姿勢を明確に維持した。1870年代半ばまでにはワーグナー現象を批判したように。//
 (02) 1870年代半ばまでにニーチェは、後年の彼の著作の全てに影響を与えた結論に達していた。
 歴史上初めて、人間は最も過激な態様で、神なき世界に住むという事実に直面しなければならないだろう。
 これまでの文筆家は神の存在または非存在を否定し、疑問視し、あるいは公然と肯定を主張してきた。
 しかし、ニーチェは、哲学的思索の対象の一つとしてはこの疑問に接近しなかった。
 彼にとって、神なき世界という見通しは、人間の道徳史上の重大な転換点を意味した。
 人間は、高次のまたは超越した何物かとの関係をもたない価値を設定するのを余儀なくされるだろう、ということを意味した。//
 (03) 彼の見方と従来の科学的または理性的な自由思想家のそれとの違いは、年上のDavid Friedrich Strauss の書物に対するニーチェの批判に見ることができる。Strauss は、知識人たちの中にあるキリスト教信仰の解体に貢献していた。
 ニーチェは、こう書く。
 「彼は見事な率直さで、もうクリスチャンではないと公言する。だが、彼は、誰の心の平穏も乱そうとはしていない。
 一つの結社を壊すために一つの結社を設立するのは矛盾すると、彼は思っているのだろう。—これは実際にはさほどに矛盾してはいないのだが。
 確実に粗雑に満足して、彼は我々の猿の系統主義者の汚れた外套の中に身を隠し、ダーウィンを人類の最大の恩人だとして称賛する。
 しかし、彼の倫理が全体として、『何が世界についての我々の観念なのか』という疑問に依存することなく構成されていることが分かると、我々は混乱する。…/ 
 Strauss は、かつていかなる思想も人間をより善良で、より道徳的にし得ていない、ということすらまだ知らない。道徳を説くことはその根拠を見い出すのは困難であるのと同程度に易しい、ということも学んでいない。
 彼の課題の多くはむしろ、現実には存在する善良さ、思いやりの心、愛情、自己犠牲の精神を人間から取り去ることだった。そしてそれらをダーウィン主義者の仮説から導き、それで説明することだった。だが一方で、彼は命令(the imperative)に跳び込むことで〈説明〉という課題から逃げ出そうとしている。」(注15)//
 (04) Strauss の過ちは実際には、同時代のその他の著名な思想家全てのそれだった。
 どの思想家も安易に、キリスト教が存在しない中で、科学、人間性、リベラルな国家、あるいはナショナリズムのごとき他のものが、倫理の基盤を提供することができるだろう、と想定した。
 ニーチェは対照的に、安易な楽観主義のない自然主義(naturalism)を選んだ。
 ニーチェは、どの価値体系が支配すべきかを問題にしなかった。そうではなく、何が人間の社会的実在にある事実としての価値の根源なのか、を問うた。//
 (05) ニーチェの過激な道徳懐疑主義は、同様に過激な形而上学的懐疑主義に根ざしていた。
 言葉のかなり狭い定義をかりに用いるとすると、彼は適切にニヒリスト(nuhilist)だと見なされてよい。
 ニーチェの哲学的ニヒリズムは、世界には何らかの本源的な価値の何らかの形態がある、ということを否定するという形をとった。
 自然とその一部としての人間は、善や悪なくして、たんに存在している。
 世界(the universe)は、たんに、ある。
 それを超えては、またはその中には、いかなる高次の価値も存在しない。
 存在するという現象の中には、別の道徳を越える一組みの諸道徳を正当化するものはいっさい存在しない。
 彼がかつて、こう宣言したようにだ。
 「道徳的現象なるものは存在しない。現象の道徳的解釈だけがある。」(注16)//
 (06) ニーチェはこの哲学的立場によって、認識論の特定の様式へと至った。キリスト教に対する攻撃へと、当時のリベラルな政治の批判へと。
 そしてこれら全てが、彼の道徳に関する問題にかかわっていた。
 ニーチェが敢然と突きつけようとしたのは、世界の全体的に自然主義的な解釈の可能性と必要性だった。
 このことが含み得るものは、ある意味では、彼の三つの著作のタイトルに認めることができる。//
 1. 〈善悪の彼岸〉(1886)—世界と生への接近方法は、かつては道徳的または善または悪と考えられたものを超越したものでなければならない、と示唆する。
 2. 〈道徳の系譜〉(1887)—諸道徳は永遠に存在するのではなく、歴史と発展がある、と示唆する。
 3. 〈偶像の黄昏、あるいは金槌でいかに哲学するか〉(1888)—現存の偶像または哲学、道徳、宗教を、新しい出発のために破壊することの必要性を示唆する。//
 ——
 第9節へとつづく。

2483/Turner によるニーチェ ⑦。

 Frank M. Turner, European Intellectual History -From Rousseau to Nietzsche (2014).
 第15章の試訳のつづき。下線は試訳者。
 ——
 第7節。
 (01)  言うまでもなく、ワーグナーは〈悲劇の誕生〉に喜んだ。
 ある意味ではそれは、ワーグナー自身の1850年代の理論的著作を遡ってたどったものだった。
 当時の標準からすると、ワーグナーとニーチェのいずれも、非正統派であり、アカデミズムの標準を軽侮していた。
 ニーチェは、脚注をいっさい付けなかった。
 ワーグナーが把握できなかったのは、かくも立派に執筆することのできる者が、家族用のクリスマスの買い物をする子分または追従者にとどまることに満足していなかっただろう、ということだった。
 実際に、ワーグナーとの破局の理由の一部は、青年がその知的成熟期に入ったということでもあった。
 〈悲劇の誕生〉の後でさらに、もう一冊の書物をワーグナーに捧げなかったという理由でワーグナーから批判を受けるようなことになるとは、ほとんど誰も予見できなかった。
 (02)  しかしながら、ワーグナーとの決裂には、もっと根本的な別の理由があった。
 第一は、ワーグナーは、新しいドイツの中産階層エリートたちにもてはやされるにつれて彼自身の芸術的かつ文化的目標を裏切った、ということだった。
 ニーチェはまた、バイロイトでの〈The Ring of Niebelung(ニーベルングの指輪)〉の初演に深く動揺した。なぜなら、彼が期待したのはドイツ・ナショナリズムの賞賛にほとんど似たもの以上に、ヨーロッパでの悲劇の再生の瞬間だったからだ。
 その上演の年の1876年、彼は〈Richard Wagner at Bayreuth〉を出版していた。
 これは、親ワーグナーの最後の著作になった。//
 (03) 第二はワーグナーとの決裂の主な理由で、ニーチェがワーグナーの音楽や芸術の理論の多くを拒否するようになった、ということだ。
 拒絶する理由の核心にあったのは、病的なキリスト教や公然たる人種主義を伴ってのパルツィバル(Parsifal,アーサー王伝説)の登場だった。
 このときまでに彼は、初期のショーペンハウアー支持者からヴォルテール(Voltaire)や啓蒙思想の価値の支持者へと変わった。
 彼はまた、音楽の好みを変え始めて、ビゼー(Bizet)の〈カルメン〉が好きになった。その掻き立てる旋律の音楽はワーグナーに代わる救済になる、と感じた。
 1888年に彼は、最も激しいワーグナー批判書を出版した。その年にワーグナー自身は死んだが、その寡婦はワーグナー崇拝者たち(cult)を作っていた。
 〈ワーグナーへの論告〉でニーチェは、こう論述した。//
 「ワーグナーの芸術は、病んでいる。
 彼が舞台へと持ち込む問題は—全くのヒステリー患者の問題だが—、彼の感情の発作的痙攣、強すぎる感受性、より刺激的な香味を求める嗜好、原理として装っているが、英雄やヒロインを彼が選んでいるという不安定さ、だ。彼は英雄やヒロインを生理学的類型として見ている(病理学の回廊だ!)。
 まとめるならば、これらは、疑う余地のない病気の状態だ。
 〈Wagner est une névrose. 〉(ワーグナーは神経症患者だ。)」(注14)//
 ——
 第8節へとつづく。

2481/Turner によるニーチェ ⑥。

 Frank M. Turner, European Intellectual History -From Rousseau to Nietzsche (2014).
 第15章の試訳のつづき。第5節→No.2459/2021.12.23.
 ——
 第6節。
 (01)  ニーチェには、全てを破壊するソクラテスの知性主義を説明する悪役がある。
 それは、ソクラテスの声または悪霊だ。
 本能はほとんどの人々にとって、創造性の根源であり、自分たちを掻き立てる力だ。
 意識それ自体は合理的で、かつ後方にある。
 しかし、ソクラテスの場合は、全く逆だ。
 ソクラテスの内部的自己は前方にあり、つねに議論をして、本能的自己を妨害している。
 「全ての生産的人々の場合、本能はまさに創造的で肯定的な力であり、意識は批判的かつ警告的に振舞う。しかし、それとは対照的にソクラテスの場合は、本能は批判者になり、意識が創造者になる。—これこそが、〈欠陥による〉(per defectum)本当の畸形だ!」(注7)
 (02)  ソクラテスの本能が彼の知性を克服するならいつでも、彼の内的で知性的な声は働きを止める。
 この点では、ソクラテスは、行動に向かえば内部的な本能によって止められる、巨大で創造的な機械だ。
 そして、彼が死を選んだことは、ギリシャの青年たちには英雄主義の模範ではなく、哲学上の生の新しい模範となった。
 それと同時に、本来の合理性と知性への自信において、彼は、悲劇を不可能にする楽観主義の一種を人格化した。//
 (03)  芸術家は対象または問題を覆い隠して愉快になるものだが、ニーチェがソクラテスに原因を求める「理論的人間」は、覆いを剥ぎ取って対象を説明することで愉快になる。
 ニーチェがつぎのように称するものを生み出したのは、この理論的な外貌だ。
 「ソクラテスという人物のうちに初めて出現した深遠な〈妄想〉(delusion)。すなわち、思考とは、因果律がつながる糸として、存在の最も深い淵へと辿りつき、実在をたんに認識するのみならず、それを是正することすらできるという、揺るぎなき確信。」(注8)//
 (04)  この点で、ソクラテスは、将来の全ての科学の父だった。
 死ぬことを世俗世界で受容できるものにしたのは、まさに彼だ。
 これに関して、ニーチェは、「我々は、ソクラテスのうちに世界史の一つの転換点を見ざるをえない」(注9)、と書いた。
 ソクラテスにとっては全ての邪悪は過ちであり、人間の仕事で最も高貴なのは、過ちから本当の知識を切り離すことだ。//
 (05)  精神(mind)を探究し是正することは、理解して是正する新しい言葉をつねに探すことになるだろう。しかしそれは究極的には、通過することのできない境界に出くわだろう。
 その境界が、悲劇が再び出現し、回答不能のことや非論理的なものが再び自己主張をする場所だ。
 この境界線に、偉大な神、Dionysus が再び現れるだろう。//
 (06)  私はこう言いたいのではない。ニーチェがソクラテスについて言ったことの多くは、George Grote の全く単調な分析に実際に直接的に由来している、と。
 本当にニーチェがしているのは、合理性と科学の声というGrote の見解のほとんどを受容しつつ、さらに、裁きの法廷に合理性と科学を持ち込む人物像を作るために用いる、ということだ。
 Grote は、改革に導くものとして、合理性を称賛した。
 ニーチェは、生がもつ本能を抑制するものとして、合理性を嫌悪した。
 また、イギリスの功利主義も嫌悪し、Grote のソクラテスを攻撃することで、近代功利主義、近代科学、およびJ. S. Mill が支持した近代の批判的個人主義を攻撃した。
 (07)  ニーチェは誰を、合理的ソクラテス、古代の悲劇を破壊した古代の理論家に、対峙させたのか?
 ソクラテス、科学、批判的合理主義を融解させる力についての解答は、R・ワーグナーとその音楽だった。
 ニーチェはショーペンハウワーの美学を論じて、音楽は悲劇についての古代のDionysus 的世界の基礎的な鍵だったこと、音楽は新しい象徴主義が出現するのを認めたことを、強調した。
 最も重要なことは、音楽が悲劇的神話を誕生させることができた、ということだ。「この(音楽の)精神のみが、悲劇を誕生させることができる」(注10)//
 (08)  音楽は、個人主義を消滅させる愉しみを生み出すことができた。
 しかしながら、ニーチェによると、ほとんどの現代音楽ではこの目標が達成されていない。
 とくに、大歌劇は、この点で失敗した。
 ニーチェはさらに進んで、こう宣言した。
 「我々は、このソクラテス文化の内奥にある近代的内容を〈オペラ文化〉と称するならば、最もよく表現することができる」。(注11)
 これはもちろん、オペラと音楽に関するワーグナーの理論を直接に参照したものだった。
 ニーチェは、しかし、Dionysus 的経験の深さをドイツとヨーロッパで再び取り戻すことができるという希望を見た。そして、こう宣言した。
 「ドイツ精神のDionysus 的根底から、一つの力が蘇った。この力はソクラテス的文化の根本的制約とは何の共通性もない。
 むしろそのソクラテス的文化はその力を、恐ろしくて説明不可能で、威圧的で敵対的なものだ、と感じさせる。その力とは、すなわち〈ドイツ音楽〉だ。
 この音楽の、Bach からBeethoven 、Beethoven からワーグナーへと経てきた力強くて輝かしい過程を知る。」(注12)
 (09) ワーグナーの音楽によって、Dionysus 的明察の深さが再びApollon 的様式と結びつき、新しい美と道徳の時代が始まろうとしていた。
 「そのとおり。友人たちよ、私のようにDionysus 的な生と悲劇の再生を信じよ。
 ソクラテス的人間の時代は終わった。
 ツタの冠を頭に乗せ、テュルソス〔酒神バッカスの杖〕を手に取れ。
 虎やヒョウがきみたちの膝の周りでじゃれてまとわりつきながら、下に横たわっていても、驚くな。
 今こそ勇気を持って悲劇的人間にならなければならない。
 なぜなら、きみたちは解放されて救済されるだろうからだ。」(注13)
 ——
 第6節、終わり。

2459/Turner によるNietzsche ⑤。

 Frank M. Turner, European Intellectual History -From Rousseau to Nietzsche (2014).
 第15章の試訳のつづき。
 ——
 第5節。
 (01)  さて、ニーチェのソクラテスへと辿りついた。
 ニーチェが〈悲劇の誕生〉でソクラテスについて書いたとき、Hegel とGrote の著作と見解を十分に知っていた。
 ニーチェが攻撃したのは、Hegel のソクラテスとGrote のソクラテスだった(厳密には同じでなかったが、多くの点で共通性があった)。
 言い換えれば、彼は、ソクラテスを攻撃することによって、つぎの像型を攻撃していた。すなわち、半世紀前に、古代世界の科学を推進した主観的かつ批判的合理性や哲学的表象を用いる象徴になった者たち。//
 (02)  ニーチェは、19世紀の者たちの中で最も、Grote の解釈の多くを受容し、承認した。
 宣教師というソクラテスについての比喩を受容し、ソクラテスは自らの死をもたらすように積極的に協力したとの見方を受容した。
 彼はまた、ソクラテスは古代ギリシャの批判的で科学的な精神性を具現化していた、と考えた。
 だが、これらをGrote に依っているにもかかわらず、ソクラテスについてのニーチェの見方は、自分のものでなければならなかった。
 ソクラテスを近代思想の中心的人物、近代文明批判について参照されるべき中心地点にしたのは、他の誰よりも、ニーチェだった。//
 (03)  既述のように、ニーチェは、ギリシャの最大の惨禍はDionysus 的のものを排除しようとしたことだと叙述した。
 これについて罪責がある劇作者は、エウリピデスだった。しかし、ニーチェによると、エウリピデスはソクラテスの声に他ならない。
 Aeschylus やSophocles の悲劇を破壊し、ギリシャ文化を合理的頽廃への途へと歩ませたのは、これら二人の連携だった。
 ニーチェは、こう宣言した。
 「我々は、エウリピデスはApollon の基礎の上でのみ劇作をすることに全く成功しなかった、彼の非Dionysus 的な傾向は自然主義的で非芸術的なものの中に落ち込んだ、と見るに至った。
 我々はゆえに今や、その至高の法則は、大まかにはつぎの審美的ソクラテス主義の本質に接近することができる。すなわち、その本質とは『美しくあるためには、全てが合理的でなければならない』。—これは、『知る者のみが有徳である』というソクラテスの格言と並立するものとして形成された宣告だ。」(注4)//
 (04)  ソクラテスの影響を受けて、エウリピデスとその後のギリシャ文化の問題は、ニーチェが「あの徹底的な批判過程」、「あの大胆な理性の応用」(注5)と称したものになった。
 悲劇を不可能にしたのは、この合理性だった。//
 (05)  こうした解釈においては、ソクラテスはギリシャ文化におけるDionysus の大きな敵、対立者として現れる。
 しかし、ニーチェにとっては、ソクラテスが行ったことはもっとはるかに急進的だった。
 彼は、こう書いた。
 「ソクラテスは、同じ尺度でもって現存の芸術と現存の倫理を非難する。
 検討の凝視をどこに向けようとも、洞察の欠如と妄想の力を見ているのであり、現存するものには内部に間違いと不快なものがあると、その欠如から推断する。
 ソクラテスは、この一地点から出発して、自分は現存するものを是正する義務があると考えた。
 個人である彼が、完全に異なる文化、芸術および道徳性の先駆者として、我々がその套いに畏敬をもって触れるならば最高に幸福だと感じるだろう、そのような世界に、傲岸さと優越意識の面貌をもって踏み込んでいる。」
 ニーチェは、つづける。
 「Homer、Pindar、Aeschylus として、またPhidias、Pericles、Pythia、および Dionysus として、あるいは最も深い深淵または最も高い絶頂としてのいずれであれ、驚愕する崇敬対象であることが確実な、そのようなギリシャの本性を、あえて否定しようとするこの個人は、いったい誰なのか?」 (注6)//
 ——
 第5節、終わり。

2458/Turner によるNietzsche ④。

 Frank M. Turner, European Intellectual History -From Rousseau to Nietzsche (2014).
 第15章の試訳のつづき。
 ——
 第4節。
 (01)  George Grote は銀行家、政治的な急進派で、議会議員であるとともに、J. S. Mill の友人だった。
 彼は、1846年から1856年にかけて、12巻本の〈ギリシャ史〉を出版した。
 1865年には、3巻本の〈プラトンとその他のソクラテスの仲間たち〉を公刊した。
 これらの著作によって、Grote は、ヴィクトリア期のおそらく最も影響力のあるソクラテス解釈者になった。//
 (02)  Grote は、活発かつ厳格に、古代のSophists を擁護した。
 彼は、the Sophists は二つの理由で良くない評価を受けている、とした。
 第一に、「sophist」や「sophistry」〔詭弁〕という近代の侮蔑的な意味が、遡って古代のSophists を叙述する際に投影されてきた。
 第二に、より重要だが、the Sophists に関するプラトンの叙述が表面的にだけ受容され、歴史的および批判的に検証されなかった。//
 (03)  Grote は、先行する詩歌や叙事詩の教育者たちと比べて—二つの例外を除いて—the Sophists は実際にはほとんど何の基本的違いはない、と主張した。
 彼らは先行者たちよりもより良く教育し、それに値する報酬を得ていた。
 プラトンは、古代の哲学で自分が嫌悪するもの全てをthe Sophists と結びつけた。
 さらに、プラトンの対話の多くにおいてすら、the Sophists は根本的に不道徳なことを述べていない。//
 (04)  The Sophists が行ったのは、そしてこれがGrote にとっては彼らが名声と称賛を要求できることなのだが、若いアテネの人々が民主政の市民生活に参加できるように準備させたことだった。
 彼が書くように、the Sophists は、アテネの青年たちが公的にはもとより私的にも、アテネで積極的で高潔な生活をする資格を与えるのを本職としていた。//
 (05)  この点で、the Sophists は基本的に保守的で、民主政が賢明に作動するためには重要だった。
 そしてGrote は、ソクラテスの声でもって財産維持、結婚、子供の養育の急進的な再構築を主張したのはプラトンだということを、読者に思い起こさせた。
 (06)  Grote の解釈は、それを彼が最初に書いたときは気づいていなかったと私は思うのだが、Hegel の解釈にある程度は似ていた。
 二人ともに、the Sophists は個人主義を促進したと見た。
 しかし、Hegel にとっては個人主義は危険なものだった。 
 Grote にとっては、個人主義は民主政の適切な作動のための基礎的なものだった。//
 (07)  Grote が読者を最も驚かせたのは、彼がソクラテスに向かったときだった。
 彼は、Peloponnesian 戦争の半ばにアテネの人々がその都市にいる主要なSophists の名前を尋ねられたときに全員が躊躇することなくソクラテスの名前を挙げただろうと主張することによって、ソクラテスをSophists の一人だと見なした。//
 (08)  なぜソクラテスは不人気だったのか、Grote によると何が Sophists たるソクラテスの任務だったのか?
 それは、主として、アテネ市民に科学的方法と批判的で合理的な知性を持ち込むことだった。
 そして、Grote の見方では、このことが不可避的に科学と宗教のあいだの衝突をもたらした。
 アテネ文化、伝統的価値、ふつうはthe Sophists と結びついている宗教を否定的に批判することが、現実には市場で教えを説くソクラテスの主要な役割になっていた。
 ソクラテスは、アテネの一般的な世論に対する大きな批判者だった。
 とくに、ソクラテスが科学を擁護したことによって、アテネの宗教と直接に対立するに至った。//
 (09)  では、Grote はソクラテスの死をどのように説明したか?
 世論に対する個人的挑戦の不可避的な結果だったと、彼は見たのか?
 Grote は、友人のJ. S. Mill の〈自由について〉と同じく、ソクラテスは敵対する世論の犠牲者だと考えることはできなかった。
 どのようにすれば、Grote はそうできただろうか?
 結局、彼は、古代アテネの民主政を擁護するヴィクトリア期の最大の人物だった。
 素晴らしいのは、アテネの人々がソクラテスを処刑したことではなかった。そうではなく、彼らが半世紀以上、ソクラテスが小うるさい批判者の役割を果たすことを認めたことだった。//
 (10)  Grote は、著作で別の悪役を見つけた。
 それは、宗教だった。
 ソクラテスの死の原因となったのは、アテネの人々の宗教の力と信仰だった。
 Grote は、ソクラテスはデルフォイの信託(Delphic oracle)に由来する彼の信念に関して完全に真摯だった、神たちはソクラテスに仲間の市民たちを改善する使命を与えて送り込んだ、と考えた。
 ソクラテスは「たんなる哲学者ではなく、哲学の仕事をする宣教師だった」と、Grote は書いた。 
 ソクラテスは批判的哲学を普及宣伝するための、目に見える宗教的狂信者だったと、彼は考えた。
 Grote から見ると、ソクラテス自身の個人的な、宗教に根ざした狂信こそが、彼の死を惹起した。 
 Grote はソクラテスに対する非難と処刑の責任を神たち自体に負わせようとしている、と感じる者がいるかもしれない。
 別の評論家のAlexander Grant は、Grote はソクラテスを「判決による自殺」へと向かわせた、と書いた。//
 ——
 第4節、終わり。

2456/Turner によるNietzsche ③。

 Frank M. Turner, European Intellectual History -From Rousseau to Nietzsche (2014).
 第15章の試訳のつづき。
 ——
 第3節。
 (01)  Hegel のソクラテスに関する主要な解釈は、死後の1832年に出版された、彼の〈哲学史講義〉に見られる。
 彼の哲学書の多くと対照的に、ソクラテスの扱いは比較的に明瞭で率直だった。だが、それは莫大な数の反応を惹き起こした。
 (02)  Hegel にとって、ソクラテスとthe Sophists はいずれも、ギリシャ思想の大きな転回地点を代表した。 
 彼は、the Sophists は詩人や文化を組織する力としての伝統的知識の主張者に替えてギリシャにその思考を組織する新しい方法を与えた最初の集団だ、と考えた。 
 また、18世紀の哲学者たちに似ていて、その影響は一種の古代の啓蒙思想にまで昇るに至った、とも考えた。
 Hegel によると、the Sophists が獲得した報償は、悪(evil)に対する一般的に不当な評価だった。
 しかし彼は、the Sophists は本当は何も悪いことをしなかった、と考察した。
 The Sophists はギリシャ人に推論と思索(reflective)の方法を教えた。
 このような思考は不可避的に、伝統的な信念や道徳を疑問視することへと導いた。
 換言すると、彼らは懐疑主義(scepticism)を推奨したのだ。
 これは実際に、彼らの誤りではなかった。
 当時の思考や精神(mind)の発展状態の結果にすぎなかった。
 Hegel によると、the Sophists は、懐疑主義に限界はないと判断していた。//
 (03)  Hegel にとって、ソクラテスはthe Sophists が始めた運動のつぎの一歩を進めた人物だった。
 ソクラテスが行ったのは、伝統的価値と伝統的宗教を超えて発展する思索的(reflective)な道徳を生み出すことだった。
 Hegel はこう書いた。
 「精神の思索的動き、精神それ自体の転換にもとづく道徳は、まだ存在していなかった。
 その存在は、ソクラテスの時期からのみ始まる。
 しかし、思索が発生し、個人が自分自身の中へと隠退し、自分の望みに従って自分自身の生活をする確立した習慣から離反するやただちに、頽廃と矛盾が生起した。
 しかし、精神は対立の状態にとどまることができない。
 統合を探し求めるのであり、この統合のうちに、より高次の原理があるのだ。」(注3)//
 (04)  ソクラテスはこの過程を通じて、ギリシャ人が彼ら自身の主観性の中に道徳的指令を見出そうとするように導いた。
 ソクラテスとプラトンは、the Sophists とは違って、この主観的性を通じて、伝統的道徳と結びつくだろう客観的な道徳的真実を発見し得るだろう、と考えた。
 しかし、Hegel は、ソクラテスはこの移行に困惑さを与えており、彼自身に出現する主観性を彼の声または悪魔(daemon)が再現する、と考えた。
 彼の声または悪魔に語りかけることで、ソクラテスは誘導と道徳的指令を求めて、本当は自分自身に語りかけ、自分自身を見つめているのだ。
 ソクラテスが仲間のアテネの人々と対立するようになったのは、この強烈な主観性のゆえにだった。
 彼の悪魔は事実の点では新しい神だった。—主観性という神であり、これに執着すれば、4世紀の〈都市(polis)〉は解体する。//
 (05)  したがって、Hegel にとって、ソクラテスは彼に向けられる責任について実際に罪状があった。
 だが、その罪責は、ソクラテスの死の理由ではなかった。
 アテネの陪審員の決定は、必ずしも処刑を要求しなかった。
 ソクラテスが妥協を拒み、道理ある別の選択肢を提示できなかったあとではじめて、死刑判決が下された。
 彼による妥協の拒否は、集団的道徳心とアテネの伝統よりも上に彼自身の良心—彼自身の主観性—を置くということになった。
 これは、彼の基礎的な主観性への訴えの、論理的な帰結だった。//
 (06)  ゆえにHegel にとって、ソクラテスの死は、彼がこう書いたような理由で、本質的に悲劇的だった。「真に悲劇的なものには、衝突するに至った両者のいずれにも、根拠のある道徳的な力が存在しなければならない。これは、ソクラテスの場合にも言えた。」
 ソクラテスとアテネの人々には、それぞれの側の道徳性があった。だが、その道徳性は異なるものだった。
 Hegel の解釈に隠されている—但し、さほど隠されていない—のは、道徳の相対性を暗黙に承認していることだ。
 だがなお、Hegel は、ソクラテスの究極的な目的は、そしてプラトンや結局はキリスト教のそれは、安定した(settled)道徳性を見出し、the Sophists が開けた人間の心の懐疑主義に限界を付すことだった、と主張することによって、そのような相対性とは距離を置いた。//
 ——
 第3節、終わり。

2455/Turner によるNietzsche ②。

 Frank M. Turner, European Intellectual History -From Rousseau to Nietzsche (2014).
 第15章の試訳のつづき。
 ——
 第2節。
 (01)  1860年代のおよそ7年間、R・ワーグナー(Richard Wagner)とニーチェは友人だった。
 この友人関係とその解消の物語は、それ自体で興味深い。そして、この世紀の後半の知的展開を示すものだ。
 ニーチェは青年として、音楽に強い関心をもった。作曲家になろうと望んだかもしれない。
 彼はとくに、ドイツ・ロマン派時代の音楽に魅了された。
 1860年代初めに大学生のとき、ワーグナーだけではなくショーペンハウワー(Shoupenhauer)も賛美した。
 彼は、ワーグナーはショーペンハウワーが叙述したような芸術上の天才だ、と見た。
 ニーチェは1868年に、ワーグナーと初めて逢った。//
 (02)  翌年、彼はバーゼル大学で文献学の教授になった。バーゼルはスイスのTribschen のワーグナーの家から遠くはなかった。
 ニーチェがこの作曲家に多大の敬意をもつことを知らせたので、出会いはさらに続いた。
 ワーグナーは、言いなりになる若い学者を持って、喜んだ。
 対等な友人関係では全くなかったが、それは特に驚くべきことではなかった。
 だが、明らかに、友人関係ではあった。 
 Richard とCosima は、クリスマスの贈り物を買うためにニーチェを送り出したり、二人のための用足しに彼を走らせることになる。
 ニーチェは自分をワーグナーの年下の友人だと思っていた。彼は、その友人はドイツとじつにヨーロッパ全体の芸術と音楽をいずれも活気づかせている、と思っていた。
 彼は23回も、Tribschen を訪れた。そして妹のElizabeth も、ワーグナーの仲間と友人になった。
 ニーチェはまた、当初はバイロイト思想の強い支持者だった。//
 (03)  ニーチェは1872年に、〈悲劇の誕生(The Birth of Tragedy)〉、ワーグナーと共有した原稿と初期の草稿を出版した。
 その書物は、ワーグナーに捧げられた。
 実際に彼は、ワーグナーを愉快にさせるために、その本に多数の修正を加えていた。
 その書物はもともとは、悲劇の研究書だった。少なくとも、そのようなものとして書き始められた。
 しかし結局は、ギリシャ人以降はヨーロッパが知らなかったまたは経験しなかった新しい芸術の誕生だとして、ワーグナーの芸術を賛美する書物になった。
 この書物は、理性に対する神話の勝利を賞賛し、ソクラテスとエウリピデスから始まったギリシャ文化の頽廃を描いた。//
 (04)  〈悲劇の誕生〉には、最初の書物に見られる多くの痕跡がある。
 大胆に、のちに受容された著作者たちよりももっと極端な立場を、明らかにしている。
 しかし、ニーチェがのちに採る近代文明に対する批判の前兆も示している。
 ニーチェは、学歴上は古典学者であり、文献学者だった。
 総じて言って、19世紀半ばには、ギリシャ生活で最も強調されたのは、古代的な禁欲と5世紀のアテネとの均衡ある連携という理想だった。
 ギリシャ生活の非合理的な側面は知られていたが、大部分は無視された。
 アテネが文化的に達成したものは、合理的生活の出現と、Matthew Arnord とJonathan Swift の語句を使って表現した「甘美さと明るさ」の獲得だった。//
 (05)  ニーチェはこのようなギリシャ解釈に、そして西側の合理性の父祖という、長く続くソクラテスに対する尊敬の念に、闘いを挑んだ。
 (06)  ニーチェはまた、Dionysus の儀礼へとギリシャ悲劇の歴史をたどった。
 彼は、ギリシャ悲劇はDionysus 的狂気とApollon 的様式との一種の結合から出現した、と見た。
 ニーチェは決して、Dionysian—Apollonian という二元論を説いた最初の人物ではなかった。
 それは実際には、ドイツの文学や音楽の世界内部では相当程度に一致して知られていた。
 しかしながら、彼の書物は、西側ヨーロッパ人の心に拭いきれないほどに、この二元論を刻み込んだ。
 ニーチェはこう言った。「我々は、〈Apollon 的文化〉という精巧な建造物をいわば一石ごとに分解して、それが依って立つ基盤を見つけるにまでに至る必要がある」。(注1)
 Apollon 的様式の禁欲は、思想と現象的外観についてのショーペンハワー的世界と同等のものだった。
 その世界の下には、Dionysus 的狂気が横たわっていた。
 ニーチェは、こう宣言した。
 「人間と人間のあいだの紐帯がDionysus 的な魔術によって再び復活する、というだけではない。
 有害だとして遠ざけられ、従属させられた自然が、その失った息子である人類とのあいだの和解の祭典をもう一度、祝福しもするのだ。<中略>
 今や、宇宙的調和の福音を聴きながら、各人はみんな、たんに自分が隣人と結合し、和解し、融合していると感じるだけではなく、その隣人とまさに文字通りに一つであると感じるのだ。まるで、maya のベールが引きちぎられて、その切れ端だけが神秘的な始原的一体(根源的一つ(das Ur-Eine))の前ではためいているがごとくに。」(注2)//
 (07)  芸術と悲劇に関して、ニーチェは、Dionysus 的なものとApollon 的なもののいずれも必要だと考えた。
 彼の書物は、Dionysus 的なものを賞賛するだけの、無条件の著作ではない。
 そうではなく、彼が論じたのは、ギリシャの最高度の芸術が感動的であるのは、外観についてのApollon 的世界の下に横たわっているのは精神(the psyche)の内的深さであることを証明している、ということだった。//
 (08)  ニーチェはショーペンハウワーを使ったけれども、十分に彼を超えて進んでいた。
 ショーペンハウワーが悲観主義と生の否認へと駆り立てたのに対して、ニーチェは、芸術は生を肯定するものだと見た。
 劇場における悲劇を通じて、ギリシャ人はその生を見出し、その共同体を肯定した。
 芸術にとっての、とくにギリシャ悲劇にとっての問題は、Apollon 的なものが支配したときに発生した。
 Dionysus 的なものが放棄されたとき、芸術はその様式だけではなく内容も、当時の道徳性から採用した。
 ギリシャの場合にこれが意味したのは、悲劇がソクラテス的知識と分析の浅瀬に乗りあげて座礁するに至った、ということだった。//
 (09)  なぜニーチェがソクラテスに対する批判と侮蔑へと飛躍したのかを理解するためには、19世紀におけるソクラテスについて、少しばかり知らなければならない。
 ニーチェは、ソクラテスを論評する中で、19世紀の多数の関係文献を5世紀のアテネでの議論へと符号化(encode)していた。//
 (10)  19世紀の初期および半ばには、ソクラテスに関する二つの主要な解釈があった。G. W. F. ヘーゲルの解釈と、George Grote の解釈だ。//
 ——
 第2節、終わり。

2454/Rosenthal によるNietzsche ①。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Mith, New World -From Nietzsche to Stalinism(The Pennsylvania State Univ. Press, 2002).
 =B.G.ローゼンタール・新しい神話、新しい世界—ニーチェからスターリニズムへ(2002)。総計約460頁。
 No.2436に上掲書の目次を掲載している。全体がニーチェに関係しているが、表題から見て関心を惹くのは、とくに以下だ。原書での総頁数も示す。
 第一編/萌芽期・ニーチェのロシア化—1890-1917。
  第3章・ニーチェ的マルクス主義者。…計27頁。
  要約・1917年のニーチェ的課題…計4頁。
 第二編/ボルシェヴィキ革命と内戦におけるニーチェ—1917-1921。
  (前記)…計8頁。
  第5章・現在の黙示録—マルクス・エンゲルス・ニーチェのボルシェヴィキへの融合。…計25頁。
 第四編第二部/ウソとしての芸術—ニーチェと社会主義リアリズム。
  第11章・社会主義リアリズム理論に対するニーチェの寄与。…計24頁。
 第四編第三部/勝利したウソ、ニーチェとスターリン主義政治文化。
  第14章・力への意思(Will to Power)の文化的表現。…計28頁。
 第一編第3章(ニーチェアン・マルキスト)等々も興味深そうだが、長さからして試訳しやすそうな、かつ第一編全体の「要約」とされる第一編の最後の「要約」を、以下に試訳してみる。節名の番号数字はない。
 ——
 第一編/要約・1917年におけるニーチェ的課題(Nietzschean Agenda)。
 前記(見出しなし)
 1917年までに、Nietzsche はロシア化され、象徴主義、宗教哲学、「左翼」ボルシェヴィスム、および未来主義へと吸収されていた。
 これらの間で、またそれぞれの内部で重要な違いがあったにもかかわらず、これらの運動、これらによるNietzsche 的課題の「解決」、は多くの点で共通していた。取り上げてすでに論じた人物たちは全て、人間の心理におけるDionysian 要素に関心を持ち、彼ら自身の価値が浸透した新しい文化、新しい社会を創ることを望んだからだ。
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 第1節・新しい神話(Myth)。
 彼らの神話の特徴は、終末論的な(eshatological)、必然から自由への跳躍、人間や世界の改造(transfiguration)だった。
 神話創造に際しての最も重要な試み、神話的アナキズムと神の建設(God-building)、は大衆を結集させることができなかったが、彼らの定式者たちは、経験からつぎのことを学んだ。
 すなわち、新しい神話は馴染みのある用語で語られなければならない。それは明瞭に理解されなければならない(「新しい宗教統合体」または「集団的人間性」はあまりにも漠然としている)。そしてそれは、Apollonian 心象、偶像または崇拝人物像を必要とする。
 Bogdanov は、世界を変革する主要な力は技術だと考えたが、神話がもつ心理政策的(psychopolitical)な有用性を肯定的に評価した。
 Berdiaev の創造性の宗教は、新しい崇拝人物像を含んでいた。
 Florensky の神話は、教会性(ecclesiality)と(抽象的観念よりも)具体的経験を強調する、再生された正教だった。
 未来主義者の神話である太陽に対する勝利(Victory over the Sun)は、人間の創造性のための無限の地平を持っていた。
 この者たちの聖像破壊主義は、崇拝人物像の発生を許さなかった。//
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 第2節・新しい世界。
 Nietzsche の諸用語—「Apollonian」、「Dionysian」、「全ての価値の再評価」、「超人」、「権力への意思」—は、知識人界によってのみならず、大衆読者層に向けた出版物でも、引用符なしで、頻繁に用いられた。
 Nietzsche の影響を受けた知識人のほとんどは、正しい(right)言葉は意識を変革し、無意識の感情と衝動を活気づけることができる、と考えていた。
 象徴主義者たちは、潜在意識下(subliminal)の意思疎通(communication)を強調した。
 未来主義者たちは音を知性よりも重視したが、また、書いた言葉の視覚上の効果にも大きな関心を寄せた。
 Kruchenykh とKhlebnikov は、人々に衝撃を与えて古い思考様式から抜け出させようとした。
 未来主義者と象徴主義者のいずれも、言葉と神話を結びつけ、新しい言葉は新しい世界を発生させることができると信じた。
 Bogdanov は、言語は実際に現実を変化させると結論づけ、神秘的ではない態様で言葉と神話を結びつけた。//
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 第3節・新しい芸術様式。 
 象徴主義者たちは、芸術は「より高い真実」へと、「現実的なものからより現実的なもの」へと導くと信じ、美学的創造性は世界を変革(改造)する儀礼的(theurgic)活動だと見なした。
 Ivanov は、ロシア社会を再統合し、演技者と観客の分離をなくして受動的な観衆を能動的な上演者にし、そして芸術と生活を一つにする方法として、Dionysian 演劇、神話創造の崇拝演劇を提唱し、「集団的創造性」を主張した。 
 Ivanov 理論を緩和した見方は劇場監督たちに採用され、それはBriusov、Meyerhold、Sologub によって擁護された「在来的劇場」のような純粋な劇場性〈劇それ自体のための劇場)に対する対抗理論を生んだ。
 「生の創造」という、ほとんどの象徴主義者が主張するに至った大きな拝礼計画は、部分的には、自由、美と愛の新しい世界を創造するための、政治的革命の失敗(1905年の革命)に対する反応だった。
 未来主義者たちは、直接的感知の詩論についての象徴主義者のPlatonic な側面を拒絶した。
 彼らは、劇場と美術館を街頭と公共広場に取り出して芸術を民主主義化し、文化的遺産を放擲することを望んだ。そして、新しい展望をもち、例えば、世界は退化していると見た。
 Bogdanov の観点主義は、階級に基礎があった。
 心理的に解放されるためには、プロレタリアートは自分たち自身の芸術様式を創造し、文化的遺産を(放擲するのではなく)自分たちの価値と必要性に照らして再評価しなければならないだろう。
 彼は、芸術、道徳および科学の〈階級〉的性格を強調した。
 Florensky は、ルネサンス以降のヨーロッパの芸術と思想を支配している個人主義的な観点主義を拒否した。//
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 第4節・新しい男と女。
 新しい男は美しく、英雄的で、勇敢で、創造的で、努力をするということ、そして、高貴な理想のための戦士であること、は当然視されていた。
 新しい女については、合意がなかった。
 Kollontai、Bogdanov、Gorky は女性に、勇敢さ、自立性、理性のような「男性的」特質を認める一方で、女性の母性的な役割を承認し、強く主張すらした。
 象徴主義者たちは、ソフィアと「永遠の女性的なもの」を賛美し、家族や性別に関する伝統的意識を非難した。
 彼らの理想の人間、かつBerdiaev のそれは、親ではなく中性(androgyne)だった。
 Florensky は、男性と女性を存在論的かつ社会的に区別した。
 彼の〈教会儀礼(ecclesia)〉は、男性二人で構成されていた。
 未来主義者もまた、家族と性別に関する伝統的考えを批判したが、彼らの公的立場は攻撃的な男性主義だった。//
 --------
 第5節・新しい道徳。
 四つの運動全てが、感情の解放、自由な発意、熱烈な確信を擁護すべく、義務というキリスト教的・カント的・人民主義的な道徳性を、カントの命令も含めて、拒否した。
 美しさ、創造性、そして(一定の場合の)困難さは、美徳だと見なされた。
 憐れみ(pity)は弱さの兆しであり、「最も遠いものへの愛」が隣人愛や実際的改良よりも優先した。
 「Nietzsche 的」個人主義は、自己超越という精神を随伴し、犠牲と苦痛を理想とするキリスト・Dionysus の原型が表象する、「個人性」への賛美にとって代わられた。
 Berdiaev、Florensky およびほとんどの象徴主義者は、愛を法に置き換え得る、キリスト教的・ユートピア的な幻想を伴うNietzsche 的な不道徳主義と結びついた。
 政治的な最大原理主義者たちは、革命的人民主義の「英雄的」伝統(テロル)を復活させ、目的は手段を正当化するとの革命的不道徳主義を実践した。
 全ての新しい道徳から欠落したのは、日常生活の規範(ethic)だった。
 この欠落は、意図的なものだった。
 宗教的であれ世俗的であれ、終末論者たちは、ありふれた生活(〈byt〉)の諸側面は改造されるだろう、と想定していた。//
 --------
 第6節・新しい政治。
 これまでに論じた人物のほとんどは、政治を超越することを望んだ。
 彼らの理想は、自己利益や社会契約とは反対の、情熱的紐帯と共通の理想によって強固となる社会だった。
 彼らは、右側寄りのリベラリズムや議会主義的政府を侮蔑した。または、侮蔑するに至った(Frank の見解は微妙に異なる)。
 裕福さはペリシテ人(philistine)の価値だと見なされ、(貧困の廃絶とは別の)大衆の裕福さは、彼らの目標の一つではなかった。
 象徴主義者、未来主義者、および宗教哲学者は、経済を無視した。Berdiaev とFrank はマルクス主義者から出発し、Shestov の学位論文は工場法に関するもので、Frank は〈Landmarks〉で富を商品として扱ったのだったけれども。
 Gorky、Lunacharsky、Kollontai は貧困は社会主義のもとでは消滅すると想定していた。しかし、経済学そのものにはほとんど注意を払わなかった。
 Bogdanov、Bazarov、およびVolsky は、経済学に関して執筆した。しかし、彼らが公刊した大量の著作は、哲学に関するものだった。
 しかしながら、つぎのことは、記しておくに値する。
 第一に、Bogdanov は労働者向けの一般的な経済学の教科書を執筆し(1897年、初版)、その書物はソヴィエト時代に入っても用いられた。(I. I. Skvortsov とともに)〈資本論〉を再翻訳しもした。
 彼はまた、1917年までに経済学者としての声価を確立していた。
 第二に、Volsky は、Capri 学校で、農業問題を講義した。
 新しい文化的アイデンティテイを明確にしようとする試みは、新スラヴ主義または文化的ナショナリズムへと次第に変化してゆき、そして政治的ナショナリズムになった。
 Nietzsche に影響を受けたち知識人のほとんどは、第一次大戦の勃発を歓迎するか、それを終末論的用語法で見るようになるか、のいずれかだった。//
 --------
 第7節・新しい科学。
 Bogdanov だけが明示的に、新しい科学の誕生を呼びかけた。
 科学的「真実」を含む「真実」は特定の階級に奉仕するので、プロレタリアートは集団主義的方法と実践的な目標でもって、自分たちの科学を発展させなければならなかった。
 認識論をめぐるBogdanov とレーニンの間の争論には、科学にとっての示唆があった。論点は客観的真実は存在するか否か、誰がそれを明らかにするに至るのか、だったからだ(第5章を見よ)。
 Bely とFlorensky は、象徴主義が新しい非実証主義的科学を導くのを期待した。これは、Florensky が1920年代に発展させた主題だった。//
 --------
 後記(見出しなし)
 影響の「萌芽期」に文化に植え込まれたNietzsche の思想は、すでに論じた人物や新しく登場する人物によって、ボルシェヴィキ革命後に再循環し、再作動した。
 レーニン、ブハーリン、トロツキーによる革命のシナリオは、承認されていないNietzsche の思想を含んでいた。//
 ——
 以上。

2453/Turner によるNietzsche ①。

 日本語でのニーチェに関する文献は邦訳書も含めて少なくないが、いろいろなニーチェ論、ニーチェ解説を知っておこう、という趣旨で、以下の英語著の最後の章(第15章)のニーチェに関する部分を試訳してみる。
 Frank M. Turner, European Intellectual History -From Rousseau to Nietzsche (2014).
 区切りの見出しも数字もないが、一行空白の箇所がいくつかあるので、それによって便宜的に「節」の区切りとみなし、連番数字をつけた。
 一文ごとに改行し、段落の冒頭に(01)等の番号を付した。
 ——
 第15章・ニーチェ。
 第1節
 (01) ブルジョアジーは、19世紀半ばから後半のヨーロッパの知的、文芸的、芸術的文化を支配した。
 ドイツの統一の頃までに、永続すると考えられた世界を構築していた。
 鉄道は大陸に網を張り、人々は電信ケーブルを使って大陸間で通信した。新たに設計された都市が田園風景の中に点在し、大きな蒸気船が、ヨーロッパで製造された商品を世界中に運んだ。
 (02) 国民国家が、政治生活を支配した。
 科学は自然の大きな秘密を解明し、自然を人類の財産の協力者にしたように見えた。
 実際に、ヨーロッパ人は、T・H・ハクスリーが「事実の上にある科学が生んだ新しい自然」と呼んだものの中で生活していた。
 (03)  だが、このような生活様式の表面的快適さは、幻想だった。
 ヨーロッパじゅうのブルジョアジーは不安をもち、怖れすらしていた。
 Peter Gay がかつて指摘したように、「神経質病」が人々の挙措の一般的な病気と兆候として現れ始めた。
 中間階層は、社会主義者を恐れた。
 彼らはまた、貴族政体の健全な側面を維持した。 
 自分たちの国民国家の内外に、人種的な敵を探し求めた。
 中間階層の快適さを生んでいた同じ産業革命が、軍隊のための新しい破壊力をも生んでいた。
 中間階層の重要な与件だったキリスト教は、科学と歴史研究の包囲攻撃を受けていた。
 リベラルな政治家たちは、想定されたようには全く働いていなかった。
 有権者数の膨張は、社会主義者を助けたのみならず、政治的国民の保守的勢力の利益となったように見えた。
 教会、貴族層、のちには反ユダヤ主義者は、民主政体の諸制度を彼らの目的のために用いることができた。
 (04)  しかし、少なくとも後から振り返れば、おそらく最も当惑させるもので、最も印象的だったのは、世紀の後半に顕著になった、ブルジョア世界に対する知識人の批判だった。
 とくに重要なのは、半世紀前にJ・シュンペーターが指摘したように、この批判の多くがブルジョア文化それ自体から発生した、ということだ。
 西側文明は、自己批判を好む傾向をつねに示した。そして、その文化の内部では、中間階層ほどにその傾向を示した集団は存在しなかった。
 (05)  例えば、科学の方法を文学に適用せよとしばしば要求されたリアリズム小説の作家たちは、中間階層の文化を批評するために、科学に対するブルジョアの信仰を用いた。
 さらに加えて、この批判の媒介手段—文学分野では小説—は、全ての人文形態の中で、おそらく最もブルジョア的だった。
 伝統的な制度を拒むリベラルなブルジョアジーの志向は、サロンの伝統的権威を拒む芸術家たちとよく似ていたことだろう。また、そうした志向は、彼ら自身が選ぶ芸術展示会や画廊を始めることになった。—これはしばしば、裕福な中間階層を称賛し財政支援をすることとなった。
 (06)  自分たち自身に向けたブルジョアジーの文化の最も顕著な例は、世紀の後半での理性(reason)の利用であり、これは、合理的なもの(the rational)を疑うか、非合理的なものを探すかのいずれかだった。
 これらは、二つの全く異なる傾向だった。
 前者は非合理的のものの賞賛へと至るもので、おそらくは人種的思考に見ることができる。
 後者は、もっとはるかに複雑だった。
 合理的方法を用いて非合理的なものを探すことは、非合理的なものの賞賛に至るかもしれないが、至らないかもしれない。
 たんに合理的でないものの重要性を認識し、合理的なものの範囲内でそれを維持する試みに、つながり得るだろう。
 あるいは、非合理的なものの発見と合理的なものとのその併存の許容へと至り得るだろう。
 あるいは、ある場合には、合理性それ自体がほとんど無用だという考えに至り得るだろう。
 これらのいずれも、ブルジョア文化に、より特定して言えば啓蒙思想(the Enlightenment)に、挑戦するものだ。
 (07)  実証主義に対するこの反抗を主張した最も重要な人物であり、ブルジョア文化に対する過激な批判者だと考えられるに至ったのは、F・ニーチェ(Friedrich Nietzsche)だ。
 今日では、この点でニーチェほどの広汎な声価(reputation)を得ている哲学者はほとんどいない。
 このような意味で、モダニズムの主唱者や中間階層文化を批判した他の者たちと同様に、ニーチェもまた、この文化に捉われており、取り込まれている。
 (08)  ニーチェの今日での声価が得られるまでには、かなりの困難さがあった。
 彼が生きていた間、その書物は著名ではなく、広く受容されたのでもなかった。
 ニーチェが出版社を見つけるのは、しばしば困難だった。
 出版社があっても今度は、彼の本を売るという困難さがあった。
 彼の声価が高まったのは、ようやく1880年代遅くに、デンマークの評論家のGeorge Brandes がニーチェの著作を論じ始めてからだった。
 そうして、ニーチェは、多様な諸国の当時の他の文筆家に評価され始めた。
 しかし、初期のこの声価と敬意は、欠陥のある、間違って編集された、半ば捏造された(quasi-forged)彼の著作にもとづいていた。その出版物は、ニーチェの実際の思想とはまさに正反対の鋳型へとその思想の多くを入れ込んだものだった。
 (09)  Brandes は1888年にコペンハーゲンで、ニーチェについて講演した。
 その翌年早くに、ニーチェは精神障害(insanity)の時期に入った。それは1900年の彼の死まで続くことになる。
 1880年代の彼の著作に関する代理人かつ執行者は、妹の Elizabeth Förster-Nietzsche だった。
 彼女はBernard Förster の妻で、この夫は、ドイツの最も過激な人種主義者かつ反ユダヤ主義者の一人だった。
 1880年代にその夫は死亡し、兄は狂人(mad)となった。そして彼女は、夫の考え方と政策を支持して促進すべく、兄の諸著作の編集をし始めた。 
 Förster-Nietzsche 夫人は、彼女の兄の著作物に対して排他的権利を持った。そして、出版したいと思うものだけを出版した。
 (彼女は、1930年代まで生きた。)
 彼女は、完全では決してないニーチェの選集のいくつかの版を出版した。
 (10)  彼女はとくに、1908年まで、〈この人を見よ(Ecce Homo)〉の出版を遅らせた。
 これはニーチェの最後の著作の一つで、反ユダヤ主義、ナショナリズム、人種主義、菜食主義、軍国主義、および権勢政治に対する批判を述べていた。
 そして彼女は、この書物をきわめて高価にして出版した。
 それより前に出版した諸著作は、兄にとってきわめて悪意のある声価を確立する鍵になっていた。
 ニーチェの文章の中には、数百頁になる断章やアフォリズムがあった。
 彼女は、これらの一部を1901年に、その他の多くをのちに〈権力への意思(The Will to Power)〉という挑発的な表題を付けて、出版した。
 これらは、初期の諸著作のための覚え書だった。
 彼女はこれらをでたらめにつなぎ合わせ、兄の最後の体系的な作品で構成されていると示唆した。
 このような編集の操作によって、ニーチェは絶望的に理解し難く、曖昧で、非体系的で、反ユダヤ主義で、猛烈に民族主義的で、かつ親ナツィだ、という考えが広がるに至った。
 ドイツの学界にいくぶんか歪曲の少ないニーチェの見解が現れたのは、ようやく第一次大戦の後だった。また、アメリカの学者たちが系統的にニーチェを検証して教育し始めたのは、まさにようやく、第二次大戦の後だった。
 (11)  ニーチェの思想は、少なくとも二つの発展段階を通っていた。
 第一の時期には、逆のことへの多数の異論があったにもかかわらず、ニーチェは、ロマンチシズムの伝統と緊密に歩調を合わせ、非合理的なものをしばしば称賛しているように見えた。
 彼はこの時期に、ワーグナー(Wagner)と親しく交際した。
 (12)  ニーチェの思想の第二期には、批判主義、コスモポリタン主義、良きヨーロッパ人を擁護し、民族主義を批判して、啓蒙思想(the Enligtenment)に接近した。
 二つの時期を通じて、ニーチェは一般に、リベラリズムや、自分が中間階層の文化の俗物性だと見なしたものに対して、批判的だった。
 ドイツの多くの哲学者たちのように、彼は、理性を用いて、理性の領域に挑戦し、あるいはそれを限界づけた。
 ——
 第1節、終わり。

2448/F. フュレ・全体主義論⑤。

 François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012
 試訳のつづき。下線は試訳者。
 ——
 第8章/第3節。
 Renzo De Felice は、実証主義的歴史家だった。ノルテと違って、哲学を嫌い、事実こそが自分で物語ると主張した。
 彼は認識論的にはいくぶん無頓着で、歴史叙述に必要な莫大な量の予備作業を好まなかった。
 彼の人生は、私のそれに似ている。彼は1956年まで、共産党員だった。
 悲しいことに、最近逝去した。—私はイタリアの新聞のために、追悼文を書いている。
 共産党を離れるときにはよくある瞬間があった、と思う。彼はイデオロギーの眼鏡を外し、物事を違って、真実に即して見たのだ。そして、目を開いた。
 De Felice は、私より以前から共産党の反ファシズムを疑問視していて、面向きの反ファシズムは共産主義を民主主義と分かつものを覆い隠す手段だと正しく見ていた。
 彼はまたイタリアのファシズムに関する著作を書いた。それは、イタリアでは右よりも左に傾斜していた運動に政治的および知的な起源があることを精査した研究書だった。左の運動とは〈Risorgimento〉という社会主義者の極左の伝統のことだ。
 彼の著作のうち最も大きな話題となったのは、ムッソリーニの伝記の第三巻だった。そこでは、ムッソリーニはイタリア史上、かつ1929年と1936年の間はヨーロッパ史上一般で、最も有名な人物の一人だと説明されている。//
 --------
 第4節。
 (1)全体主義の定義自体に議論があるが、私は、イタリア・ファシズムはこの枠に一部だけ適合していた、と考えたい。と言うのは、君主政とカトリック教会の力は強いまま残っていて、たいていの部分でムッソリーニと宥和し、また、彼から敬意を払われていたからだ。
 その体制は、1938年まで反ユダヤ的ではなかった。
 ヒトラーからの類推でのみ、そうなった。
 1920年代や1930年代のファシスト党には、多数のユダヤ人が存在すらした。//
 (2)イタリアの歴史では、ファシズムは一つの黙示録ではなかった。体制は1943年に終末を迎え、ファシスト評議会はムッソリーニを解任したが、これはきわめて異様なことだった。
 イタリア人が決して言わず、De Felice が十分に明らかにしたのは、従前のイタリア・ファシストの多くが1943年と1945年の間に共産主義者になっていて、レジスタンス運動に現れ、サロ共和国(イタリア社会共和国〔ヒトラー・ドイツの傀儡国家とされる—試訳者〕)に敵対した、ということだ。
 これはイタリアでは公然たる秘密だ。戦後のイタリア共産党の多数の党員は、ファシズムから来ていた。
 さらに加えて、これもDe Felice がその書物で説明していることだが、戦後のイタリア民主主義の特徴の多くは、ファシズムから継承している。—労働組合や大衆政党の役割、国家の産業部門。//
 (3)De Felice は非凡な歴史家で、哲学的にはいくぶん狭量だが、素晴らしい洞察力を持っていた。
 彼が書いたムッソリーニの伝記は、権威あるものとして長く残りつづけるだろう。
 実証主義歴史家のように短く散文的に、彼は、イタリア・ファシズムの年代的歴史を提示する。
 彼はこれを、無比の公平さでもって行う。むろんそれによって、彼は20年間、誤解され、侮蔑されたのだった。
 最終的には、良い書物の全てについて言えることだが、彼は成功した人物になった。//
 --------
 第5節。
 追放されたフランスのユダヤ人たちの帰還を、私はよく憶えている。
 きわめて鮮明な記憶だ。
 私は、18歳だった。
 強制収容所の実態は、私にきわめて強い印象を与えた。
 フランスのユダヤ人はユダヤ人犠牲者としてではなく、フランス人犠牲者として帰還してきた。
 (この主題については、ちなみに挙げればAnette Wieworka のもののような、良書がある。)
 彼らはフランス・ユダヤ人社会に同化して、全く自然に、迫害されたのはフランス国民としてだった、と感じた。
 しかし、もっと重要な点は、共産主義者たちがこの時期に、自分たちがナツィズムの主要な犠牲者だ、と考えられるのを欲したということだ。
 共産主義者は、犠牲者たる地位を独占しようとした。彼らは戦争後に、犠牲者だとする恐るべき作戦に着手した。
 私はこれが全くの作り事で、共産主義者たちは実際にはファシズムによって迫害されなかった、と示唆しているのではない。
 そんなことは、馬鹿げているだろう。
 私が言いたいのは、1939年と1941年の間に断続的に覆い隠されたがゆえにそれだけ一層大がかりに、彼らは自分たちの反ファシズム闘争を利用した、ということだ。
 東ヨーロッパでは、積極的共産主義者あるいは反ファシストたる「ソヴィエト」人民が果たした役割を小さく見せないように、ユダヤ人の苦難は系統的に隠蔽された。
 今では状況は逆になり、我々と同世代の者がナツィズムの犯罪を考えるときにもっぱらユダヤ人大虐殺に焦点を当てがちであるのは、想定するのがかなり困難だ。//
 ——
 全体主義論⑤(第3節〜第5節)、終わり。次節へとつづく。

2383/L・コワコフスキ「暴力について」(1999)②。

 レシェク・コワコフスキ/Leszek Kolakowski・自由・名声・ 嘘つき・背信—日常生活に関するエッセイ(1999)。
 =Freedom, Fame, Lying and Betrayal -Essays on Everyday Life-(Westview Press, 1999).
 邦訳書はない。一行ずつ改行し、段落の区切りごとに原書にはない数字番号を付す。
 **
 <背信>の項で、著者=L・コワコフスキは自分の(国内での教育と研究発表の場を剥奪されても形式上は)「自由」意思で母国・ボーランドから離れたことをある程度は意識していると想定される(党からは一方的除名だったので、そこに「自由」はなかったと見られる)。
 この<暴力>の項の最後の部分では、自ら援助・協力したポーランドの「連帯」運動が意識されていると見られる。以上、ほとんど行なっていない、試訳者の解説・注記もどきのもの。
 —— 
 第11章・暴力について(On Violence)②。
 (7)正当化される暴力とそうでない暴力の区別は、特定の多数の事例については明確だけれども、そう簡単に見極められるものではない。
 しつけの定期的な一部である子どもへの体罰は、疑いなく不必要な暴力だ。だが、子どもたちが自分を傷つけるのを阻止するために小さな子どもに我々が課す多様な肉体的制約を、暴力だと叙述することはしない。
 洗脳(indoctrinaton)はどうなるのか?
 我々の信条を、抵抗する精神的な力をもたない我々の子どたちに課すのは暴力か?
 我々の文化について子どもたちに教えるとき、我々は洗脳をしている。
 これは避けられないことだ。
 では、洗脳には善と悪の二つの形態がある、そして後者だけが暴力だと叙述されるべきだ、と言わなければならないのか?
 しかし、我々がかりに正しい信条、原理、規範だと考えるものを基礎にして善の洗脳と悪の洗脳を区別するとすれば、我々の暴力の定義は、我々自身の世界観にもとづくことになるだろう。そしてそれは、きっと良いことではなさそうだ。//
 (8)非肉体的な強制を一般に、「道徳的暴力」だと叙述することができるか?
 脅迫は、明らかに暴力の一例だ。
 おそらくは政府に何がしかの譲歩を強いることを意図してのハンガー・ストライキは、より明瞭でない事例だ。
 それがかりに非人間的な刑務所の条件に抗議するために行われるのであれば、我々はおそらく、正当視できると考えるだろう。受刑者が行うことのできる、唯一の抗議の形態なのだから。
 しかし、民主主義的政府に政治的譲歩を強いる手段としてそれが行われるのであれば、我々はおそらく、それを暴力の一形態と呼ぶだろう。//
 (9)正当化される暴力とそうでない暴力を区別するためには、我々はそれが用いられる目的を評価することができなければならない、ということが明らかだと思われる。
 その目的が問題なく価値がある場合には、当該目的を達成する方法が他にない<とするならば>、その暴力は正当化されるものと考えることができる(つねに賢明ではないとしても)。
 例えば 専制に対しては、暴力を用いてのみ闘うことがことができる。そして、キリスト教神学者ですら、専制者を殺すのは正当化されると主張した。
 全体主義国家で、非暴力的だが成功した闘争を我々は見てきた。だが、その闘争の成功は、全体主義がすでに相当に弱体化していたときに生じた。
 全体主義が強くて、何事もなく苛酷でいることができていれば、非暴力の闘争は、成功する可能性がなかっただろう。体制側は、初期の段階での不服従の試みを鎮圧し、その試みの報せが伝搬するのを抑止する手段をもつていたのだから。//
 (10)暴力の行使を正当化することのできる目的は、明確で、十分に画定され、そして明瞭に定義されていなければならない。別の国家に従属している国の独立の獲得、暴君の殺害、犯罪者に対する制裁。 
 1960年代の青年運動の参加者たちは、「選択肢のある社会」(どのようなものかを彼らは正確には語れなかったが、彼らには関心よりも誇りの問題だった)を建設するために「革命的暴力」と称するものに訴えた。
 だが、いずこにも正当化を見出し得なかった。
 かつまた、彼らの教師たちも、とりわけサルトルやマルクーゼだが、何ら正当化されない。
 彼らはたんに、民主主義的諸制度を破壊して自分たちの専制体制を確立する、という欺瞞的な展望をもて遊んだにすぎない。
 幸いにも、彼らは成功しなかった。
 しかし、同じ時期に、共産主義諸国にいる他の者たちは、武器としての言葉だけでもって、専制体制と闘っていた。全ての暴力は、体制の側にあった。
 最後には、彼らの闘いは成功したと判った。その闘争は人々の思考方法をゆっくりと変え、人々に恐怖は克服されるということを示し、体制のウソと無法ぶりを暴露した。
 彼らの場合は、何らかの形態での暴力の行使は正当化されただろう。たぶん、効果的ではなかったけれども。//
 (11)暴力ではなく言葉を求める、と言うのは容易だ。しかし、誰もまだ、そのような世界をつくる分かり易い処方箋を見つけてはいない。
 全ての暴力を絶対的かつ無条件に非難することは、生活(life)を非難することだ。
 しかし、暴力が犯罪、隷従、侵略および専制に対してのみ向けられている世界は、これらの消失を求めるために、非合理的なものではない。そのような結末の蓋然性を疑う、多くの十分な根拠があるとしても。//
 ——
 第11章、終わり。

2382/L・コワコフスキ「暴力について」(1999)①。

 レシェク・コワコフスキ/Leszek Kolakowski・自由・名声・ 嘘つき・背信—日常生活に関するエッセイ(1999)。
 =Freedom, Fame, Lying and Betrayal -Essays on Everyday Life-(Westview Press, 1999).
 計18の章に分かれている。邦訳書はない。
 第11章へと移る。一行ずつ改行し、段落の区切りごとに原書にはない数字番号を付す。
 —— 
 第11章・暴力について(On Violence)。
 (1)暴力は文化の一部であり、自然の一部ではない。
 鳥が昆虫を飲み込むとき、あるいは狼が鹿に咬み付くとき、我々はこれらを暴力の行為だとは言わない。
 動物の権利を狂信していなければ、エビを茹でることは暴力だとも言わないだろう。
 我々は「暴力」という言葉を人間との関係でのみ用いる。
 人間だけが暴力を行使し、その被害をうける。
 暴力行為を行うことは有形力(実力、force)を行使することであり、有形力で脅かすことは人々を一定の態様で行動させたり、一定のことを阻止したり、あるいはたんにそれ自体を目的として人々を苦しめることだ。//
 (2)我々のほとんどは、有形力の正当な行使と不当な行使とを区別する。例えば、警察、裁判所、および法的制度のような国家の装置は、我々が犯罪だと考える一定の類型の行動を阻止したり制裁を課したりするために、有形力の行使が正当化される。
 しかしながら、国家による有形力行使を含む、全ての形態の暴力を非難する人々がいる。法による制裁が何もない世界を想定するのは困難だけれども。
 全ての形態の暴力は間違っていると考える人々は、イエスが悪魔に反抗しないでもう一方の頬を向けよと語った山上の垂訓を引き合いに出して、自分たちの信念を正当化しようとする。
 しかしながら、イエスは、個人について、かつ個人が他者の暴力にさらされているときの対処方法についてだけ、語っていた。彼自身の殉教と死の例で言うと、怖れることなく確信と精神的強さをもって、暴力に対して暴力で返すのを拒否することができる、そしてなお世界を克服することができる、と我々に示したのだ。
 イエスは国家の働きについて語っておらず、政治的な教義を残してもいない。
 世界の終わりは切迫していると、彼は確信していた。受容しつつも、いつそれが訪れるかは知らなかったけれども。
 しかしながら、彼自身が、神殿から金貸しを追い払うとき、暴力に訴えた。//
 (3)暴力は、まさにその最初からずっと、人間の歴史の抹消できない一部だった。
 戦争も同様で、これはたんに集団的な暴力を組織化したものだった。
 戦争と暴力は良いものと考えられるべきだ、と言いたいのではない。
 そうではなく、これらを自然であるばかりか有用な生活の一部だと考えてきた多数の人々がいた、ということだ。この人々は、多くの美徳を注ぎ込むものとこれらを考えてきた。勇気や自分の種族のための犠牲精神のような美徳。
 彼らにとって戦争は、若者の中に精神の気高さ、英雄主義、耐久力を育む最良の方法だった。
 今では、勇気は疑いなく良いものだが、かつての人々にとって、その際に役立つまさしく美徳を発展させる機会を与えてくれるがゆえに、戦争は良いものだった。
 言い換えれば、いつも戦争があったというだけではなく、将来もつねにそういうものだと、彼らは考えていた。//
 (4)多様な形態での暴力は我々の運命にある恒常的な部分でありつづけるだろう、と言うのがかなり安全であるために、戦争もまた行われつづけるだろうと言うことが可能だ。
 戦争は現実に行われつづけるだろうと考える、十分な根拠がある。
 戦争とは、かつての敵の種族の存在のみならず、例えば水や農場の利用に関する純粋な対立の進展をも含んでいる。人々の居住密度が耐え難くなり始めたときの、いろいろな種類の領土や領域の利用に関する対立も、その例だ。
 しかし、戦争それ自体を美化することは、第二次大戦とその全ての恐怖を経験した圧倒的大多数の人々には、間違いなく理解し難いことに違いない。
 Pierre Proudon は、のちにGeorges Sorel は、なおも戦争を称賛することができた。しかし、Ernst Jünger のような後の世代の人々がそうしたとき、彼らが想定していたのは、第一次大戦だつた。//
 (5)今日では、戦争それ自体が称賛されるのをほとんど聞かない。
 アフリカでの際限のない種族虐殺やボスニアの恐怖によって、戦争芸術に魅力を与える根拠はほとんどなくなっている。
 そして、第一次大戦後には世界のほとんどどの一角でも起きていた大小の無数の戦争があったが、民主主義諸国の間では一つも戦争は発生しなかった、というのは意義深いことだ。
 というのは、戦争は専制(tyranny)から生まれるものだからだ。
 世界の民主主義諸国には、疑いなく豊富な良心の呵責があつた。そして、主権の政策として有形力の行使に頼ることを熟知してきた。
 しかし、諸国は相互の間で戦争を起こすことをしなかった。
 民主主義諸国はその代わりに、紛争を交渉と妥協で解決するメカニズムを生み出した。
 そして、このメカニズムにはときに恐喝や欺瞞が含まれるが、大規模の殺戮し合いを包含するものではなかった。
 アテネとスパルタの間の対立を我々が固定観念とする(stereotype)十分な理由がある。すなわち、我々の文化は本当にアテネに由来しており、それは若者に(むろん市民で、奴隷ではない)詩、哲学、芸術を教えた。軍事技術が主要な教育科目だったスパルタに由来してはいない。—アテネでも、国家の政治を習熟させたけれども。
 暴力は我々の生活の不可避の一部かもしれず、我々はつねにそれを予期しなければならない。
 しかし、暴力を悪魔扱い(lacedaemonize)する—換言するとスパルタ市民のように考える—、あるいは暴力を不幸な必要物にすぎないと見なす、そのような理由は存在しない。//
 (6)理論上は、正当化された暴力とそうでない暴力を区別すること、あるいはこの区別の特定の例を挙げると、防衛的戦争と攻撃的戦争を区別することは、相当に単純なことのように見える。
 しかし実際には、明瞭な状況というのは少ない。
 もちろん20世紀には、「侵略の犠牲者」だけはあった。
 どの国も自らを攻撃者と呼ぶのを好まなかった。侵略の行為には、ナツィ・ドイツの場合(支配する人種のための「生命空間」の必要)やソヴィエト同盟の場合(戦争は社会主義国家が行うならばつねに正当化されるというレーニン主義の原理的考え方。そこでは社会主義国家は「進歩的階級」の具現物で、誰が戦争を開始したかは重要ではない)のように、イデオロギー上の根拠があったとしてすら。
 一定の場合には、攻撃者を識別するのは容易だ。すなわち、1939年のドイツ、1941年の日本、そして再び1956年のハンガリー、1950年の北朝鮮。
 他の場合には明瞭さはより少ない。
 「誰が開始したか」を決定することは、遊び場での子どもたちの取っ組み合いを種別化するがごとく、困難だ。
 (「彼が最初にぼくを押した!」—「でも、彼がぼくを最初に蹴った!」—「でも、彼がぼくを最初に押した!」—「それは彼がぼくをブタと呼んだからだ!」—「ウソだ。彼が最初にぼくの名を呼んだんだ」、等々。)
 ——
 ②へとつづく。

2381/L・コワコフスキ「背信について」(1999)②。

 レシェク・コワコフスキ/Leszek Kolakowski・自由・名声・ 嘘つき・背信—日常生活に関するエッセイ(1999)。
 =Freedom, Fame, Lying and Betrayal -Essays on Everyday Life-(Westview Press, 1999).
 計18の章に分かれている。邦訳書はない。
 一行ずつ改行し、段落の区切りごとに原書にはない数字番号を付す。
 —— 
 第10章・背信(裏切り)について(On Betrayal)②。
 (8)我々は、何の分類もなくして、当該の国家が正統なものでないならば背信は許される、と言うことすらできない。なぜなら、国家の正統性(legitimacy)という規準は、決して明瞭ではないからだ。
 国際法では、いわゆる国際共同体で、換言すると国際連合(the United Nations)によって承認されているならば、その国は正統だ。
 しかし、国際連合によって承認された国家の中には、最悪の専制的体制や、その国民の大量殺戮を行なっている国家もある。
 このような国家に対する背信は、非難ではなく賞賛に値するように思えるだろう。
 イデオロギーが規準であるために、そしてイデオロギーは様々であるために、何が背信となるかについての合意は存在し得ない。
 民主主義諸国に反対して共産主義専制体制のためにスパイをしたソヴィエトの工作員たちは、たいていは、少なくとも共産主義体制の初期の時代にはイデオロギー上の理由を動機としていた。
 のちになって、金銭または脅迫あるいはこれら両者がイデオロギーに取って代わった。
 さて、このような人々—例えばCambridge スパイ網—は、理由がイデオロギー上のものだという理由で正当化され得る、と我々は言うべきなのか?
 かりにそうではなく、そのイデオロギーが間違っているか、または犯罪に該当する場合にはどうか?
 困難さがあるのは、明瞭だ。
 イデオロギー的動機はしばしば感情的なものにすぎないことが判っている。
 そして感情を正当化できるならば、我々がしたことの全てが正当化されるだろう。そして、悪いものとしての背信という観念は、その意味を失う。//
 (9)だがしかし、背信という観念に含まれる曖昧さをたんに指摘するだけでは、満足できないところがある。
 我々は背信という観念をまさにその本性から生じる行為として必要としていると感じているという理由で、問題を放置することには我々は同意しない。
 そしてそれがもつ我々にとっての重要性のゆえに、明確にすることができるようにすべきだと感じる。何かの哲学や政治的イデオロギーによって相対的にではなく、絶対的に、正しいか間違いかの明瞭で簡潔な言葉を用いることによって。
 例えば、内密に語られた他人のことを、自分の個人的な利益の獲得のためであれ、娯楽のためであれ、暴露する人々は、明らかに背信であって有責だ。
 実際に我々はこのような人々について、「信頼を裏切った」と語る。
 個人を対象にしているこのような場合では、誰かが背信したか否かを決定するのはかなり容易だと我々は考える。
 背信の行為が許されても、それにもかかわらず、それは背信の行為であるままだ。St, Peter は危急の場合に非難したことを君主と救済者に許された。だがなお、その継承者と教会の設立者として指名された。  
 この事件の神学上の解釈は、しかしながら、ここでの我々の関心である必要はない。//
 (10)政治的な背信または反逆は、多くの理由で、もっと曖昧な観念だ。
 第一に、政治では正しいか間違いかを明確には区別し難いため、第二次大戦のような明瞭な状況は滅多に発生しないからだ。
 第二に、その結果として、我々はしばしば大きな悪と小さな悪とを見極めなければならないからだ。
 かくして我々は、共産主義と戦争の結果に関して全てを知っているにもかかわらず、戦争中にソヴィエトの情報機関のために働いた人々はドイツに反対して仕事をしたのだから、また当時のナツィ・ドイツは最大の悪魔で最大の脅威だったのだから、良い教義のためにに奉仕したのだと結論づけるように強いられる。
 そして第三に、人々の動機は、水をさらに汚すからだ。悪の教義であることを理由としてではなく個人的な利益を得るために悪の教義に背信する人々は、我々の尊敬には値しない。
 他方で、個人的利益のためではなくイデオロギー上の理由で悪の教義に奉仕する人々は、その教義が本当に悪だと相当に明瞭ならば、正当化されない。
 要するに、政治には絶対的に善であるようなものはなく、そのためにできることは我々にはない。
 このことはつぎには、政治には絶対的な悪のようなものはないと、推測させるかもしれない。
 しかしながら、これはより疑わしい。//
 (11)さて、人々が特定のある行為は背信かどうかに関してしばしば同意できないだろうというのは、かなり確かだ。
 しかし、背信の被害者が国、国家や教会ではなく個人である場合について論じるのは容易だと言えるとすると、それはこの場合は我々は多少とも何が重要で、何が維持されるべきかを知っているからだ。
 それを知っており、かつ維持するならば、背信の被害者が国、国家や教会である場合についてもまた、論じるのが容易になるだろう。//
 ——
 第10章、終わり。

2375/L・コワコフスキ「自由について」(1999)②。

 レシェク・コワコフスキ/Leszek Kolakowski・自由・名声・ 嘘つき・背信—日常生活に関するエッセイ(1999)。
 =Freedom, Fame, Lying and Betrayal -Essays on Everyday Life-(Westview Press, 1999).
 計18の章に分かれている。邦訳書はない。一行ずつ改行し、段落の区切りごとに原書にはない数字番号を付す。
 ——
 第13章・自由について(On Freedom)②。
 (7)この意味での自由は、これをゼロにまで減少させることができるとしても、逆に無制限ではあり得ないとということを理解するのは困難でない。
 社会理論家が言う仮定の「自然状態」、誰もがつねに相互に闘い合っている、全ての種類の法や規則が存在しない状態は、これまで決して存在してこなかった。
 しかし、かりに存在したとしても、それは無制限の自由の状態ではないだろう。
 そのような状態では全てが許される、と言うのは正しくないだろう。何かは許されることがあるのであり、またそれは法によってのみではないのだから。
 そして、法がないところには、自由はない。つまり、この言葉は単直に意味を失う。
 自由とは、我々の世界では、つねに条件づけられているものだ。
 ロビンソン・クルーソーは無制限の自由を享受しなかった。彼はじつに、あらゆる意味での自由を享有しなかった。
 自由は、大きかろうと小さかろうと、何かが許される一方で別の何かが禁じられるところでのみ存在し得る。//
 (8)第一次大戦前からあったに違いないつぎの冗談は、おそらくこのことを明瞭にすることができる。
 「オーストリアでは、禁止されていないことは、全て許される。
 ドイツでは、許されていないことは、全て禁止される。
 フランスでは、禁止されていることも含めて、全てが許される。
 そしてロシアでは、許されていることも含めて、全てが禁止される。」//
 (9)「自由」という言葉のこれら二つの意味はきわめて異なるけれども、そして一方を享受できるが他方はそうでないということもあるが、それにもかかわらず、両者のために同じ言葉を用いることのできるほどに、この二つは近接している。
 いずれも、選択の可能性に関係している。すなわち、第一の意味での自由は、人間として選択して創り出すまさに我々の力だ。この能力は現実に我々の前に開かれている選択の範囲については、何も前提条件にしていないけれども。
 第二の意味では、自由は、社会と法が我々自身が自由に選択することを認めている領域だ。//
 (10)自由について語るときにしばしば生じている二つの誤りについて知っておくべきだ。
 第一に、自由を、我々の願望や正当な要求だと考えているものの充足と混同してしならない。
 「苦痛からの自由」あるいは「飢餓からの自由」について語るのは何ら過ちではない。痛みや飢餓に苦しまないことは、じつに我々人間の最も基礎的な要求だ。
 にもかかわらず、これらの要求が実現するときに、何らかの特有な自由を享受する、と言うことはできない。
 この場合に「自由」という言葉を用いるのは、選択とは何の関係がないがゆえに、誤解を招く。
 選択する自由の範囲または選択し創出する我々の力について、語っているるのではないからだ。
 苦痛は除去されて嬉しいものだ。なくなれば、それでよい。
 苦痛が除去されるのはとても望ましい、良いことだ。
 一個のりんごを飢えた者が、睡眠を疲れた者が、何らかの全てのものを、我々はある特有のときに欲しがる。
 しかし、痛みがなくなったりりんごを食べたりすることは、自由の一種ではない。たんに望ましい物事にすぎない。
 (飢餓がない集中収容所を想像できるが、リベラル民主主義は別のものを与える一方で、収監者に一定の自由を与えていると言うだろうか?)
 我々の世紀の、そして過去の世紀の多くの人々が、言葉の適切な意味での自由のために生涯をかけて闘ってきた。そのために、誰かが欲しがるもの全てを含むまでにその意味は広がって、この観念の把握の仕方が曖昧になり、この言葉は全く意味を持たないようにまでなった。
 この観念の根底が、削り取られてしまった。
 「〜からの自由」と「〜への自由」の区別は、無用のものだ。//
 (11)自由に関して語るときに知っておくべき第二の誤りは、第二の、法的意味での自由は、我々の他の必要や欲求が達成されなければ無意味だ、と思ってしまうことだ。
 この誤りはしばしば、共産主義者たちが行う想定だ。
 彼らは問うものだ。「飢えて、失業している者に、政治的自由はどれほど重要なのか?」
 そう、重要なのだ。
 飢えは政治的自由の欠如よりも切迫していると感じられるかもしれないが、この自由が存在するならば存在しないときに比べて、飢えも失業もその状態を改善する可能性がはるかにある。この自由は権利のために闘うよう人々を組織し、彼らの利益を守る。//
 (12)「自由」の旗のもとで全ての善なる財物を欲しがるのは不適切だが、疑いなく、法的意味での自由は、それ自体が、きわめて望むに値する財物だ。
 さらに、自由はそれ自体が善なる財物であり、たんなる他の財物を獲得するための道具または条件ではない。
 しかしながら、このことは、(ここでの意味での)自由は多いほど良い、という原理的考え方を無制約に受容してよい、ということを意味しはしない。
 我々のほとんどはたぶん、魔術や同性愛のようなかつて犯罪と見なされた一定の活動が、少なくとも文明国家ではもはやそうは見なされないのは良いことだと感じている。
 しかし、まともに思考する者は誰でも、たまたま自分が好むように道路上の右側または左側を運転する権利を要求しはしないだろう。
 ますます頻繁に、またそうした国の数も増えていることだが、学校の生徒たちは自由を多く与えられ過ぎて紀律が不十分だとか、その結果として彼らの勉強だけではなく議論の教育や公民教育に悪い影響が出ているとか、言われているのを聞く。
 子どもたちは小さいときからあり得る最大限度の自由が与えられるのを望んでいるのかは、全く定かではない。
 欲求は自然に、年齢とともに増える。だが、小さな子どもたちは大人たちの権威を全く自然に受容するものであり、総じては自分たちが選択するのを認めてくれるように要求したりはしない。
 成人である我々自身も同様に、とくに自信がないときには、一定の選択を他者に委ねることができてしばしば安心する。また、専門家の助言に従って行動するのを選ぶだろう。—必ずしも全ての専門家が信頼できるのではないとしても。
 正しく選択することはしばしば正しい情報があるかどうかにかかっていることを我々は知っており、選択する場合に頼ることのできる全分野に関する知識を十分に持っているとは、誰も言うことはできない。
 我々には選択する自由がある。しかし、慣れ親しんでいない問題に無駄にかかわることを好みはしない。//
 (13)要するに、どの程度の範囲の自由が我々にとつて良いかを正確に決定するために用いることのできる一般的な規準は存在しない。
 我々はときには、自由が十分でないのではなく多すぎる、一定限度を超えた自由は有害であり得ると、正当に考えることができる。
 この点で言うと、疑いなく、多すぎることは不十分であるよりも安全だ。そして、法により授けられる自由の多さを警戒するよりもむしろ、<自由性>(liberalty)の側に立って法が逸脱することについて、より思慮深い方がよい。
 しかし、この原理的考え方もまた、無条件に受容されることはないだろう。//
 ——
 第13章、終わり。

2374/L・コワコフスキ「自由について」(1999)①。

 レシェク・コワコフスキ/Leszek Kolakowski・自由・名声・ 嘘つき・背信—日常生活に関するエッセイ(1999)
 =Freedom, Fame, Lying and Betrayal -Essays on Everyday Life-(Westview Press, 1999).
 計18の章に分かれている。邦訳書はない。
 第1章〜第4章の「権力」・「名声」・「平等」・「嘘つき」を終えて、<第13章・自由について>へと移る。
 一行ずつ改行し、段落の区切りごとに原書にはない数字番号を付す。
 ——
 第13章・自由について(On Freedom)。
 (1)自由の問題を対象とする思想には、大きな二つの分野がある。
 これら二つは、明確に別のもので、相互に論理的には独立したものだ。その程度はじつに大きいので、実際には同じことを論じていると疑っても許容されるほどだ。
 第一は、太古からある人の思想上の潮流で、人間(human beeing)としての人の自由(freedom)という問題を論じてきた。
 この潮流は、人はその人間性(humanity)だけの理由で自由(free)なのか、言い換えると、自由な意思と選択の自由をもつから自由なのか、という問題を論じてきた。
 第二は、社会の一構成員としての人の自由を対象とし、我々が<自由>(liberty)とも称する社会的な行動の自由(freedom)について論じる。//
 (2)人はまさに人間性の本性からして自由だと我々が言うとき、我々がとりわけ意味させるのは、人は選択することができる、その選択は、人の良心の及ばない力(forces)に全体として依存しておらず、またそれによって不可避的に生じたのでもない、ということだ。
 しかしながら、自由とは、すでに存在するいくつかの可能性の中から選択する力(capacity)のことだけではない。
 自由とは、全く新しい、全く予見できない状況を作り出す力でもある。//
 (3)我々の歴史の中でずっと、この意味での人の自由は、断言してよいだろうようにしばしば、否定されてきた。
 議論は、全く同一ではないけれども、一般的決定論(determinism)に関する論議にかかわる。
 かりに全ての事象がその条件の総体によって全体的に決定されているとすれば、自由な選択の可能性は発生すらしない。
 しかし、かりに普遍的な因果関係が本当に変え難いものであるなら、むしろいくぶん逆説的な結論へと至り得るだろう。
 なぜなら、もしも何かがその条件によって全体的に決定されているなら、その何かはまた、原理的には(実際には必ずというのではないが)予見することができる。
 そして、厳格な決定論が正しいとするなら、我々は、こう想像することができるだろう。我々の予知能力がいったん十分に完全なものになれば、朝の新聞を開き、つぎのような報道を読む。
 「昨夜、Twickenham で、有名な作曲家のJohn Green が生まれた。
 明日、ロンドン交響楽団は、彼が37歳のときに作曲する交響曲第三番を演奏して、この誕生を祝うだろう。」//
 (4)物理学者、そしてたいていの哲学者が、厳格な決定論を信じた時代があった。これが、科学的で理性的な思考の本質的な定式だったときがあった。
 これを支える証拠は何もなかったけれども、平易な常識の問題だと考えられ、自明の真実なので狂人だけが疑うものだとされた。
 我々の世紀では、量子力学(quantum mechanics)が、もっと最近ではカオス理論(chaos theory)が、こうした信念を打ち崩すために多くのことをなした。そして、物理学は、決定論のドグマを捨て去った。
 量子力学の発見は、もちろん、人は自由意思をもつということを必要としない。—つまり電子には自由意思がない。しかし、少なくとも物理学は、自由意思の存在への我々の信念を馬鹿げたまたは非理性的なものとは見なさなかった。
 そして本当に、このいずれでもないのだ。
 我々は自由意思を信じてよいのみならず、信じる「べき」だ。先に既に私が定義したような意味で。つまり、選択することができる力としてのみならず、新しい可能性を生み出す(create)ことのできる力として。
 この意味での自由の経験は全ての人間にとって基本的なことなので、とくに切り離して、構成する要素を分析することによって証することはできないけれども、その現実は抗い難く明確であると思われる。
 しかし、当然に明確だと見えるほどに基本的なことだということは、それが現実のものであることを疑う理由ではない。
 我々は本当に、行うことについての自由な主体(agent)なのであり、世界に存在する様々な諸力のたんなる装置にすぎないのではない。—もちろん、我々は自然の法則に服するけれども。
 また、我々は本当に、善であれ悪であれ、自分たちを目標に向かわせて、それを達成しようと懸命に努力するのだ。
 外部条件や他人が我々の努力を無駄なものにするかもしれない。—例えば、効果的に選択することができないほどに、肉体的に無力であるかもしれない。
 しかし、選択するという我々の本質的な力は依然として存在する。たとえそれを利用することができないかもしれないとしても。
 また、St. Augustine またはカントのように、善を選択するときにのみ自由であり、悪を選択するときはそうでないと主張することのできる、いかなる根拠もない。
 このような主張は、我々の自由をまさにその力によってではなく、我々の選択の内容によって定義するものだ。そして、このように自由を定義することは、自由というまさにその観念を、我々自身の道徳諸原理でもって複雑にすることになる。//
 (5)さて、自由は人間性とともに我々に与えられているものであり、その人間性の基礎となるものだ。
 自由は、我々のまさに存在そのものに稀少性(uniqueness)を与える。
 (6)自由に関する思想の二つの領域のうちの第二は、相当に異なる問題を対象とする。その主題が人間としての我々の自由ではなく、社会の構成員としてのそれだからだ。
 この意味での自由は、我々の存在の本性を源にするのではなく、我々の文化、社会および法に由来する。
 この自由は、つぎのことを意味させる。人間の活動分野については、社会的組織が禁止したり命令したりできず、制裁を怖れないで行動の態様を選択する、そのような自由を与えなければならない。
 これは、我々が<自由(liberty)>とも称する自由(freedom)だ。//
 (7)この意味での自由は、もちろん、程度でもって測り得る。より多い自由、より少ない自由があり得る。そして、我々は一般に、付与されている自由の程度によって、異なる政治体制を評価している。
 これを測る目盛りは、(スターリン主義のロシア、毛沢東主義の中国、その他のアジア共産主義諸国、または第三帝国のような)完全な全体主義体制から、禁止や命令のかたちでの政府の介入が厳格な最小限に制限されている一番端の政治体制にまで及ぶ。
 全体主義体制は、人間の活動の全分野を、個人の選択の余地が何もなくなるように規制することを意図する。
 多様な非全体主義の専制体制は、その体制に対する脅威を示している可能性のある領域で自由を抑圧することを意図するが、それ以外の問題については全体的統制をしようとはしない。
 また、専制体制は、いかなる種類の全世界的または全包括的なイデオロギーも有しない。//
 ——
 ②へとつづく。

2371/L・コワコフスキ「嘘つきについて」(1999)②。

 レシェク・コワコフスキ/Leszek Kolakowski・自由・名声・ 嘘つき・背信—日常生活に関するエッセイ(1999)
 =Freedom, Fame, Lying and Betrayal -Essays on Everyday Life-(Westview Press, 1999)
 第4章の試訳のつづき。この書物に、邦訳書はない。
 ——
 (8-2)もしも誰かが言うこと全てをもはや信じることができないとすれば、人生はじつに耐え難いものになるだろう。
 だが、相互の信頼が完全に消失するとは、想定し難い。
 我々は通常は、どのような場合に、誰かが語ることを安全に信頼することができ、反対に、どのような場合に、我々を惑わせようとしている理由が対話者自身にあるために、ある程度は疑わしいかを、知っている。
 人々は、稀にしか、何の理由もなくてウソをつきはしない。
 もちろん、悪名高いウソつきはいる。
 私はかつて一人の作家を知っていたのだが、その作家は、そのときどきの環境や聴衆に応じて、彼の人生について色彩豊かな物語を作り出すのが好きだった。その彼は、すぐれた想像力と機知でもつてそれを行ったため、苦情を言うのは無作法に感じるほどだった。
 その上に、彼の物語は聞いて楽しいものだった。しかし、誰もが真面目に受け取ってはならないことを知っていた。そのため、真実性という美徳が著しく欠如しているのは彼の性格によるという理由があるので、他人が苦しむという危険はなかった。
 さて、何事についても真実を語ることが全くできない、病的なウソつきはいる。
 その者たちは、それらしい理由が何らなくして、かつまた想像力を発揮することもなく、全てを捻じ曲げ、歪曲するのだ。
 しかし、このような人々は、誰も語ることを信じないで、彼らにふさわしい軽侮の気持ちで対応するために、人畜無害でありそうだ。//
 (9)事業、政治および戦争にウソが蔓延していることは、これらと私的な関係をもつ他者に対する我々の信頼を脅かしている。
 これらの分野で仕事をする人々は、誰がなぜ騙す可能性があるかを完全によく気づいており、警戒すべきときを知っている。
 宣伝広告で語られるウソでも、これらの分野に比べればまだ無害だ。
 全ての国々は、消費者を虚偽表示から保護しようとする法制をもっており、商品についての宣伝広告にある虚偽の主張は、法律によって罰せられることがある。
 例えば、水道水をガンに絶対的効用がある治療法だとして市場で売り出すことは違法だ。
 他方で、奇蹟石鹸(Miracle soap)またはハンブルク・ビールは世界最良だと主張することは、違法ではない。
 違いがどこにあるかと言うと、後者の場合は、広告者は奇蹟石鹸やハンブルク・ビールは本当に世界最良だと我々に信じさせようと意図してはいない。
 そうではなく、彼らの意図は、奇蹟石鹸を特徴のある包装で我々に印象づけ、つぎには一個の石鹸を買わなければならないかのように誘引することにある。我々が何度もテレビでその宣伝広告を見た後では、その商品は我々に馴染みがあるように見えてしまうのだ。
 広告者は、正しく、我々の保守性(conservatism)への自然な志向を考慮している。
 奇蹟石鹸の画像を十分に頻繁に我々に見せれば、我々はかりに実際はそうではないとしても、それに馴染みがあるように感じるはずだ、と知っているのだ。//
 (10)しかしながら、政治の分野で語られるウソに目を向けるとき、重要な区別をしておかなければならない。
 政治では、頻繁にウソがつかれている。だが、民主主義諸国では、言論と批判の自由は、我々を一定の有害な影響から守るものだ。
 真実か虚偽かの違いは、変わりなく残されている。
 かりにある大臣が完全によく知っている何かに関する知識を否認したとすれば、彼はウソをついている。
 しかし、彼が見破られるかどうかはともかく、真実と虚偽の違いは明瞭なままだ。
 同じことを、全体主義国家について言うことはできない。とくに、共産主義が絶頂期にあった、スターリン主義の時代については。
 その国家と時代では、真実と政治的な正しさの区別は、全体として曖昧なままだった。
 その結果として、人々は自分たちが口に出して言ってきた「政治的に正しい」スローガンを、全くの恐怖から、半ば信じるようになった。なぜなら、長い期間だったし、政治指導者たちですらときには自分たちのウソの犠牲者となったからだ。
 このことがまさしく正確に意図されていた。真実と政治的正しさの区別を忘れるさせるような混同を人々の意識(mind)に十分に惹き起こすことができるならば、政治的に正しいものは何であろうとそのゆえに不可避的に真実だと、人々は考えるようになるだろう。
 このようにして、国民がもつ歴史の記憶の全体が、変更され得ることとなつた。//
 (11)これは、たんなるウソつきの例ではない。言葉の正常な意味での真実というまさにその観念をすっかり抹消してしまう、という試みだった。
 この試みは全体としては成功しなかったが、とくにソヴィエト同盟で、それが惹起した精神(mental)の荒廃は巨大だった。
 全体主義体制がその完全な能力を獲得しなかったポーランドでは、影響はより穏やかだったけれども、しかし、やはり強く感じられた。
 かくして、言論と批判の自由は、政治的なウソを排除できないが、それにもかかわらず、「虚偽」、「真実」および「正直」といった言葉の正常な意味を回復し、守ることができる。//
 (12)ウソつきが許され、あるいは「良い動機」があるから望ましいと見なされ得る環境条件はある。しかし、このことは、「ウソつきはときには間違いで、ときにはそうではない」、だから放っておけ、ということを意味しない。
 これでは曖昧すぎて、原理的考え方として依拠することができない。なぜなら、これでは、ウソつきの全ての場合を正当化するために用いることができるだろうから。
 また、このような教訓に従って我々の子どもたちを育てるべきだ、ということにも全くならない。
 どんな環境条件のもとでも、ウソをつくのはつねに間違いだと、子どもたちを教育する方がよいだろう。
 このようにすれば、子どもたちは、ウソをつくときに少なくとも心地悪さを感じるだろう。
 残りは、彼らが自分で、速やかにかつ容易に、大人たちの助けなくして、学ぶことができる。//
 (13)しかし、ウソをつくことの絶対的禁止は、効果がなく、またより重要な道徳的命令と矛盾する可能性もある。ウソをつくのが許される場合を説明することのできる一般的原理をどうすれば見出せるだろうか?
 先に述べたように、答えは、そのような原理的考え方は存在しない、ということだ。どんな一般論も、全ての考え得る道徳的な環境条件を考慮することはできず、過ちがあり得ない結論を与えることはできない。
 しかしながら、この問題の考察から抽出できるかもしれない、また役立ち得ると判るかもしれない、一定の道徳を語ることができるだろう。//
 (14)第一の道徳は、自分たち自身に対してウソをつかない努力をすべきだ、ということだ。
 これが意味するのは、とりわけ、ウソをつくときに我々は事実を知っているはずだ、ということだ。
 自己欺瞞はそれ自体が別の重要な主題で、私はここで論じることができない。
 良い動機から我々がウソをつくときはつねに、ウソをついてることを知っているべきだ、と言うだけにとどめる。//
 (15)第二に、自分たち自身へのウソを正当化する方法を憶えておくべきだ。ウソをつく名目となる「良い動機」という我々の観念は、その「良い動機」が我々自身の利益と合致している場合には、つねに疑わしい。//
 (16)第三に、ウソをつくのが何か別の、より重要な道徳的善の名のもとで正当化されるときでも、ウソをつくことそれ自体は道徳的に善ではないことを、心にとどめておくべきだ。
 (17)第四、そして最後に、ウソをつくのは他人をしばしば傷つける一方で、もっとしばしば我々自身を傷つける、ということを知っておくべきだ。ウソをつくことの効果は、精神(soul)の破壊だ。//
 (18)これら四つの事項を覚えていても、我々は、あるいは我々の大多数は、聖人にはなれないし、この世界からウソを廃絶することもできない。
 しかし、ウソを武器として用いるときに、かりにそうしなければならないときであっても、我々に慎重さを教えてくれるかもしれない。//
 ——
 第四章、終わり。

2370/L・コワコフスキ「嘘つきについて」(1999)①。

 レシェク・コワコフスキ/Leszek Kolakowski・自由・名声・ 嘘つき・背信—日常生活に関するエッセイ(1999)
 =Freedom, Fame, Lying and Betrayal -Essays on Everyday Life-(Westview Press, 1999)。
 試訳のつづき。順序どおり、第四章「嘘つきついて」へと進む。
 この書に邦訳書はない。一文ごとに改行し、段落の区切りを//と原初にはない数字番号で示す。
 第8段落の中途で区切る。
 ——
 第四章・嘘つきについて(On Lying)①。
 (1)偽りの情報の意図的な伝搬は、言ってみれば、物事の自然な状態の一部だ。
 蝶々は鳥に言う。「でも、私は本当は蝶々ではなく、枯葉にすぎない」。
 ハチは巣箱を守る蜜蜂に言う。「でも、私は本当はハチではなく、蜜蜂だ。…蜜蜂くんよ、きみは自分で見て分かる。」
 ハチは学者ふうに付け加える。「嗅覚器官の助けを借りてだ」。
 (どうやら、本当にこういうことをする多種のハチがいるらしい。)
 虚偽のこれら二つの類型の間にある違いは、ただちに明らかになる。
 我々は、食ぺられてしまいそうな捕食者から枯葉のふりをすることで自分を守ろうとしているという理由で、蝶々を称賛する。
 一方で、巣箱に入って蜜蜂の懸命の労働の成果を奪うために蜜蜂のふりをしているだけだという理由で、ハチを非難する。//
 (2)人々が語るウソについて、我々は類似の道徳的判断をする。あるものには衝撃を受け、別のものは正当だと見える。
 ある哲学者たち、とくにカントとSt. Augustine は、どんな環境条件でもウソをつくのは厳格に禁止されるという極端に道徳的な立場を擁護した。
 しかし、どんな環境条件でもウソをついてはならないとする道徳的命令は、実現されそうにないというだけではない。
 一定の環境条件のもとでは、その命令は仲間に対する親切さのような別の命令と、あるいは公共の利益と矛盾し得る。
 当然に戦争が、一つのそのような環境条件として思い浮かぶ。敵を欺くことは、交戦方法の本質的部分なのだから。外交や事業でもそうだ。
 しかし、現実の生活から採った最も単純な事例は、第二次世界大戦の間の占領期間にある。もしユダヤ人があなたの家に隠れていて、SSがその人物を探してドアを叩いたとき、あなたは、あるいは良心を一片でも持つ誰でも、ウソをついてはならないという高貴な命令に従って、そのユダヤ人を確実な死へと引き渡すか?//
 (3)政府はその国民に対して、しばしばウソをつく。直接的にか、割愛することで。
 批判を回避し、過誤や非行を隠蔽するために、しばしばそうする。
 しかしながら、純粋に国民の利益となっているために、政府のウソを正当化し得る場合がある。
 秘密が保持されなければならない国家の安全保障の諸問題は別とすると、このようなウソは経済に関係しているかもしれない。例えば、政府が通貨切り下げを意図しているとき、質問されてもそのような意図を完全に否定しなければならない。そうでなければ、簡単に獲物を得ようとしてバッタのように群がる金融投資家によって、その国は多大な損失を被るだろう。//
 (4)さらに、虚偽と、適宜の判断や思慮深さという社会的美徳の間には、しばしば微妙な差しかない。しかし、ウソがなければ社会生活は実際よりもはるかに悪くなると、我々はみんな認めるだろう。真実という清潔な空気を吸うどころか、がさつで野暮な世界で窒息するだろう。
 我々は、つねに真実を、あるいは本当であれ間違いであれ真実だと考えることを語って、正しさを主張する者たちを高く評価しはしない。そういう者たちを、無骨者と呼ぶ。//
 (5)より複雑で頻繁に論議された問題は、死期に入っている病人に対処している医師の正直さに関係する。
 患者の状態に希望がないことをその両親に告げないとすれば、その医師は、直接的であろうと省略によってであろうと、ウソをついている。
 国によって習慣は異なっており、賛成や反対の論拠を見つけるのは困難ではない。
 しかし、そのような論議は総じて、人道主義(humanitarian)の原理に対する、そして、真実それ自体の価値ではなく両親や家族の利益に対する、訴えかけを含んでいる。//
 (6)要するに、良識が我々に語るのは、ウソつきが良い動機で行われる環境条件がある、ということだ。
 問題は、我々自身の利益となる全てを包含するまでに広げることなく、「良い動機」(good cause)をどのように定義するかだ。
 我々にとって有利な全てのことが、他の誰にとっても「良い動機」であるとは限らない。かつまた、想像し得る全ての動機を含むような定義を思いつくのも困難だ。//
 (7)ウソをついてはならないという厳格な道徳的命令の擁護者たちは、好ましいと感じるときはいつでも、あるいは都合が好いと思えるときはいつでも、全ての者がウソをつくとすれば、他の人々に対する我々の信頼は完全に崩壊してしまうだろう、と主張する。信頼は、秩序ある社会での我々の共存にとって不可欠の条件なのだ。
 この擁護者たちは、こう付け加える。誰も別の誰かが言ったことの全てを信じないのだから、ウソつきはつねに、自分のウソに裏切られることになる、と。//
 (8-1)これはそれ自体は不合理な議論ではないが、ウソをついてはならないという絶対的な道徳的命令を正当化するものとしては、なおも説得力に欠ける。
 ——
 ②へとつづく。

2368/L・コワコフスキ「平等について」(1999)②。

 レシェク・コワコフスキ/Leszek Kolakowski・自由、名声、 嘘つき、背信—日常生活に関するエッセイ(1999)。
 =Freedom, Fame, Lying and Betrayal -Essays on Everyday Life-(Westview Press, 1999)。
 試訳のつづき。この書に邦訳書はない。一文ごとに改行し、段落の区切りを//と原書にはない数字番号で示す。
 ——
 第三章・平等について(On Equality)②。
 (9)私が述べた意味で我々が平等だということから、法の下での不平等は人間の尊厳とはじつに反対のものだ、ということが導かれる。
 しかしながら、財物の平等な配分という意味での平等を要求する権利を我々はもつ、ということを導くことはできない。
 このような平等は、もちろんしばしば公然と主張されている。先ずは中世のある宗派によって、のちにフランス革命期のジャコバン左翼(the Jacobin left)によって。そして、19世紀以降は、社会主義運動の多様な集団によって。
 この理由づけは、簡単だ。すなわち、人間は平等だから、全員が地上の全ての財物を分かち合うのがふさわしい。
 じつに、いくつかの平等主義(egalitarianism)では、平等には最高の価値があるがゆえに、最も貧しい者も含む全員がより悪くなる場合であっても、目標地点が残りつづけなければならない、と想定されていた。
 最も貧しい者ですら以前よりもさらに貧しくなる、といったことを気にしてはならない。誰もが他の誰よりも良くなってはならないというのが、ここでの主要な関心事なのだ。
 しかし、この理由づけは、間違っている。
 このようなイデオロギーは、人間の運命を良くすることには関心がなく、たんにある者の運命が他の誰かよりも良くはならないことを確実にすることにのみ、関心がある。 
 公正という意識にではなく、嫉妬心に刺激(inspire)されているのだ。
 神がロシアの農民にこう言ったという逸話がある。「おまえが欲しい何でも与えよう。だが望んで受け取ったものが何であっても、おまえの隣人はその二倍のものを得るだろう」。
 そうすると、その農民は答える。「神よお願いだから、私の眼を一つ引き抜いて下さい」。
 ここに、本当の平等主義がある。//
 (10)しかしながら、この平等という理想は、実現するのが不可能だ。
 かりに実践に移されるとすれば、経済全体が全体主義的統制に服従しなければならないだろう。
 全てが、国家によって計画化されなければならないだろう。
 もはや誰にも、国家の命令に従う場合を除いて、いかなる種類の活動を企てることも許されないだろう。
 そしてやがて、強制されないかぎりは、自ら努力するいかなる理由もなくなってしまうだろう。
 その結果、経済全体が崩壊するだろう。だが、そこに平等がなおもあるのではない。
 我々が経験上知っているのは、全体主義体制では不平等は不可避だ、ということだ。なぜなら、統治する者たちは、かりにいかなる社会的統制にも服していないとしても、つねに物質的な財物についてのライオンの取り分を自分のものにしておくだろうから。
 彼らはまた、非物質的であって、より重要でないとしても、同等である情報への接近や統治への参加のような、その他のものの統制を行うだろう。
 これらは、大多数の民衆が到達し得ないものになるだろう。
 かくして、最終的な結末は、窮乏と抑圧の両方だ。//
 (11)もちろん、財物の配分に際しての平等を、修道院やキブツ(kibbutz)で行われているように、自発的な制度によつて達成することができないかどうかを、問題にすることはできる。
 答えは、簡単だ。そのような制度が物理学や化学のいかなる法則をも破らないという意味では、可能だろう。
 しかし、不幸なことに、そのような制度は、我々が人間の行動について、少なくともその典型的様相について知っている全てに矛盾するだろう。//
 (12)しかしながら、こう言うことは、財物の配分に際しての不平等は、とくに大規模の恐ろしい貧困があるところでは、深刻で憂慮しなければならない問題ではない、と示唆しているのではない。
 進歩的な税制はこの不平等さを緩和する最も有効な方法だとこれまでに判ってきた。しかし、ある点を超えると、その税制も、富者にとってと同様に貧者にとっても不利になって、経済に対してきわめて悪い効果をもつ。
 したがって、我々は、経済生活に関する一定のルールを安易になくしてしまうことはできない、ということを認めなければならない。
 もちろん、文化的(decent)な生活と称するものの基本的部分を我々が享受することが可能であるべきなのは、きわめて重要だ。例えば、食料、着る衣類、家、医療の利用、子どもの教育。
 文明諸国家では、こうした原理的考え方は、完全には実現されていないとしても、一般に承認されている。
 しかし、財物の配分の完全な平等を達成しようとする全ての試みは、災難を生む処方箋だ。—全ての人々にとって。
 市場は公正でないかもしれないが、それを廃棄することは、困窮と抑圧につながる。
 他方で、人間の尊厳のうちの平等は、そしてそれから生じる権利と義務の平等は、我々が野蛮状態へと堕落してはならないとすれば、本質的に重要な必要物だ。
 それがなければ、例えば、異なる人種や民族を何事もなく根絶することができると、決することができるだろう。同じく、女性に男性と同じ公民的権利を認めるのは理由がないとか、社会のために役に立たない老人や身体的弱者はさっさと殺してしまえばよいとか、等々と。
 平等に対する我々のこの考え方は、我々の文明を守るだけではない。これは、我々を人間(human being)にするものだ。
 ——
 第三章、終わり。

2367/L・コワコフスキ「平等について」(1999)①。

 レシェク・コワコフスキ/Leszek Kolakowski・自由、名声、 嘘つき、背信—日常生活に関するエッセイ(1999)。
 =Freedom, Fame, Lying and Betrayal -Essays on Everyday Life-(Westview Press, 1999)。
 試訳のつづき。順序どおり、<第三章・平等について>へと進む。
 この書に邦訳書はない。一文ごとに改行し、段落の区切りを//と原書にはない数字番号で示す。
 ——
 第三章・平等について(On Equality)①。
 (1)「全ての人間は平等だ」。このかつては革命的で、今はたんに陳腐な言明の意味を、考えてみよう。
 これは、全ての者が法のもとで平等に取り扱われる<べきだ>、という命令ではない。
 かりにそうであるなら、このような命令はそれ自体が恣意的なものだ、なぜ結局は法は全ての者を平等に取り扱う<べき>なのか、と議論をすることができるだろう。
 むしろ、この命令は、全ての人間は平等<である>という記述的な言明から導かれる。そしてこの理由でこそ、法は全ての者にとって同じであるべきだ。
 かくして、この命令は、事実から得られる事物の一定の状態に根拠がある。
 しかし、何が事物の一定の状態なのか? 我々はそれが本当に得られることをどのようにして知ることができるのか?//
 (2)ある人々は、全ての人間は平等だという言明の真実性を、つぎのことを指摘することで、否定しようとする。我々の全てはきわめて多くの点で異なっている—能力、知識、等々—、また、おそらくは平等であることはできないのでないか。
 しかし、この人々は、間違っている。
 なぜなら、我々の全てが、人々は同一ではなく、多様な面で異なっていることを知っている。
 そして、事実として、多様な相違とは別の事物の状態として、平等を主張する人々もまた、そのことを知っている。
 ゆえに、我々の中にある違いを指摘することで我々が平等であることを否定しても、無意味だ。なぜなら、この違いは、平等を力説する人々が心に抱く平等という特有の考え方とは何の関係もないからだ。//
 (3)我々の全てがみな同じ種に属し、同じ生物学的な成り立ちと同じ生物形態的かつ生理的特徴を共有しているということを根拠として、我々はみな平等だ、と主張することもできない。
 かりにそうであるなら、人は「全てのガチョウは平等だ」とか「全ての蝿は平等だ」とか「全ての刺草は平等だ」と同等に十分に言えるかもしれない。
 しかし、そのようなことを我々は言わない。じつに我々は、そう言ったときに何を意味させたいのか、分かっていないのだ。
 平等なのは人間であり、蝿ではない。//
 (4)啓蒙主義思想家は、装飾なき石板のように全ての人は生まれながらに同じで、我々の相違は全て育ちと我々の環境の影響で生じる、と考えた。
 我々は今日では、これをもう信じることができない。疑いなく、人々は異なる遺伝子因子の構成をもって生まれ、そして人間遺伝学の分野ではまだ多く研究されて説明されるべきものが残っているけれども、我々が遺伝で継承したものでそれぞれ異なっており、決して育ちによってのみ異なるのではない。
 我々は、遺伝と生育環境の両方の産物なのだ。
 ヒトラーの経歴の全てはその遺伝子で詳細に説明されるとは、あるいは
マザー・テレサの思考と行動は最初から彼女に刻まれていたとは、誰も主張することができない。
 しかしながら、—必然的ではないとしても—誰かがヒトラーよりもマザー・テレサに似るようにする、またはマザー・テレサよりもヒトラーに似るようになるのを可能にする、一定の遺伝子継承性の特徴があると、かなりの程度安全に想定してよいだろう。
 しかし、ヒトラーもマザー・テレサも、同じ種に属しているということに加えて、一定の意味で—我々が説明をしたいまさにその意味のかぎりで—同じだ。つまり、二人は、きわめて似ていないとしても、<平等>だ。//
 (5)たしかに、全ての人間は平等だという主張を正当化するために、キリスト教の—キリスト教のだけではないが—宗教的伝統を持ち出すことができる。
 人間は全て一人の父の子どもたちであり、富者であれ貧者であれ、地位や教育や階層や出生地が何であろうとも、同じ規準に従って神によって判断されるだろうと言うとき、心に描くのはこの宗教的伝統だ。
 この意味で我々は全て、道徳的主体として平等だ。その我々に対して、神は自然の法の一定の戒律を明らかにし、それらの戒律を遵守するまたは破る自由な意思を授けている。//
 (6)しかし、神の目からすると我々はみな同じだという信念とは別個に、命令としてのみならず事実として、全ての人間は平等だと宣言することができるだろうか?
 私は、できると思う。しかし、道徳的性質の一定の前提、人間それ自体の成り立ちにも関係する前提を充たすことが、必要だ。
 人間は全て平等だと我々が言うとき、我々は、我々全てがもち、誰もそれを侵害する権利をもたない、そのような人間の尊厳(human dignity)について平等なのだ、ということを意味させる。
 しかし、我々全てがもち、何人かの哲学者たちによると我々の思考能力や自由に選択する能力ではない、とくに善と悪の間の選択能力とは別のものである人間の尊厳とは、いったい何か?
 それはたしかに、我々が見ることができるものではない。そして、それが何かを叙述するよりも、それが侵害されたときについて語ることの方が容易だ。//
 (7)問題を一つの側面に限定すれば、より明瞭に我々の考え方を理解することができるかもしれない。すなわち、自分から進んで、かつ外部からの圧力や環境条件から独立して、善と悪を区別して選択することができる存在としての人間という、我々の観念に限定するならば。
 (社会参加を全くすることができず、もっぱら他者に依存する重度の障害者という特別の場合に立ち入ってはならない。)
 人々は明らかに、選択を行う能力をもち、何をするか、善と悪のいずれをするかについて、責任を負うことができる。
 人々に同等に尊厳を与えるのはまさにこの能力を有していることであり、それが用いられる態様ではない。
 全体としての人間性(humanity)は、その言葉からして、尊敬に値するものだ。そうであるがゆえに、全ての人間はそれを自分自身の権利としてもつ。
 このどこについても、とくに論争となるようなものはない。
 しかし、自由を殺戮や拷問または暴力行使のために用いて、他者の尊厳を辱め、蹂躙する者たちを我々はどう扱うべきであるのかについて、人間性は何か特有のことを示唆しているのか?
 紛れもなく、つぎのことだ。その罪のゆえに制裁を受け、収監されなければならない最悪の人間にすら、人間の尊厳が授けられている。なぜならば、この尊厳は、人々を相互に区別するもの—性、人種、国籍、学歴、職業、経歴—とは全く無関係であるからだ。//
 (8)かりに、その思考と行動が外部的な諸力や環境条件に、そして身体的世界に、全体として必然的に依存しているたんなる機械装置にすぎないと、我々が自分たちについて考えるとすれば、じつに尊厳という観念は、したがってまた平等という観念は、何ら意味をもたなくなるだろう。//
 ——
 ②へつづく。

2358/古田博司·ヨーロッパ思想を読み解く(2014)②。

 一 古田博司・ヨーロッパ思想を読み解く—何が近代科学を生んだか(ちくま新書、2014)をまた読了していないが、同・使える哲学(Discover21、2015)とともに、重要な基礎概念または範疇は、つぎだ。
 「向こう側」と「こちら側」。そして、この区別と異なる、「この世」と「異界」等。
 そして、「向こう側」と「こちら側」の区別が厳密にはつき難いことは、古田も当然に意識しているだろう。
 それにしても、何とか意味をそれなりに理解してみたいところだ。
 歴史通2016年3月号(ワック出版)に、上の後者の2015年著の紹介らしき記事がある。p.134。この記事は、こう書く。
 <西洋の「向こう側」はあくまで「この世」に属し、「五感では感じられない」が「『こちら側』の根拠になるようなもの」。
 「化学式やDNAのらせん構造がそれにあたる」。
 「イデア」こそ、まさに「向こう側」のこと。
 「イギリス哲学的思考」はこの「向こう側」へと「超え出る」もので、「近代科学を生んだ」。
 「ドイツ哲学」はこれに何ら貢献せず、「近代の終焉とともに無用になった」。>
 ---------
  ①顕微鏡(・望遠鏡)、レントゲン検査、CT とかMRI とかは、「五感」を延長したもの、ということになるのだろうか。そうだとすると「こちら側」もその範囲は可変で、広くなっている。
 だが、これらの作製にも、結果の解析・分析にも、「向こう側」の研究成果がたぶん必要なのだろう。
 ②古田のドイツ哲学批判は、上の前者でも厳しい。
 おそらく、ニーチェなどは全く評価していないだろう。ニーチェはドイツの哲学者だが、そもそもカントもヘーゲルも幾分なりとも継承しているように見えない。よく言えば<屹立>している、悪く言えば、<独りで勝手に喚いている>(ようなイメージがある)。
 したがって、ニーチェから強い影響を受けたと自認している西尾幹二(+西尾が書いたもの)を、古田博司はほとんどか全く(積極的・肯定的には〕評価していないのではないか。
 --------
  上の歴史通2016年3月号の記事は、「編集部のこの一冊」という表題が右上にあったりするので、編集部が書いたようでもある。
 だが、古田著やその基礎概念を簡単にまとめるのは容易ではないだろう。
 大胆に推測すれば、筆者である古田博司自身が、執筆している
 ところで、無署名で裁判例を理解するための解説文を判決そのものの文章より前に置くことは、民間の判決例掲載雑誌の<判例評論>や<判例タイムズ>でも見られる。いくつかのまたは重要な最高裁判決については、当該事件を担当した最高裁調査官が(アルバイトで?)執筆しているともいわれる(ほとんど同じまたは類似の文章が、のちに公式の最高裁調査官解説本に出ることもある)。
 最高裁判決ではないが、ある地裁判決の掲載時にその「解説」または「前置き」文を、無署名で執筆したことが、秋月瑛二にも一回だけある(報酬=原稿料は出た)。
 ——

2340/古田博司・ヨーロッパ思想を読み解く(2014)①。

 古田博司・ヨーロッパ思想を読み解く—何が近代科学を生んだか(ちくま新書、2014)
  古田博司が東洋思想畑の研究者らしく韓国あたりの諸問題について発言していたことは知っていたが、韓国問題についてはもうほとんど関心がなくなっていたこともあって、この人の書物を読むこともなかった(但し、何冊かは所持していた)。
 たぶん昨年あたりに入手した上掲書は、面白い(正確には、面白そうだ)。
 思い切り簡略化して(つまり一部を勝手に削除して)、目次の一部を(体系構成を)紹介すると、こうなる。
 プロローグ/「向こう側の哲学」。
 第一部/「向こう側」をめぐる西洋哲学史。
  第一章・バークリ、第二章・フッサール、第三章・ハイデッガー、第四章・ニーチェ、第五章・デリダ。
 第二部/「向こう側」と「あの世」
  第六章・時間論、第七章・「生かされる生」、第八章・「あの世」と「向こう側」。以上。
 興味深いのは、たぶん「哲学」の基本問題に関係していることだ。それも、ある前提または枠の中で「認識」や「存在」を論じる、その態様の違いではなく、認識・知覚といったものの対象という前提そのものについて、「西洋」・「東洋」・「日本」には違いがある、と指摘していることだ(これをふまえて、バークリからデリダまでの叙述がある)。
 そうだとすると、日本人(または「日本」的思考・認識方法に馴染んだ者)がこの相違に気がつかないで「西洋哲学」に接近しても、根本的なところはほとんど何も理解できないことになるだろう。
 ——
  古田によると、「思考様式」には西洋・日本・東洋の三パターンがある。
 そのまた前提に古田がしているのは、ヒト・人間の「五感」(眼耳鼻舌身・ゲンニビゼッシン)による知覚・認識、ということだろう。問題は、それらと<外界>の関係だ。
 図表らしきものが付いているが、言葉で表現するとやや面倒になる。
 ①「すべて」を「この世」として対象とするのが、日本を除く「東洋」(単細胞型)。
 「あの世」のない儒教的世界観・「この世一元論」だ。
 ②日本は「この世」と「異界」を区別する(単純型)。
 「異界」にはギリギリまで接近するしかない。異界=「向こう側」を「探求」することはできず、「地道で職人的」に「接近」するしかない。
 ③ 西洋では、日本での「異界」の一部は「向こう側」であっても「この世」に属する。この「向こう側」は「この世にありながら見えない世界、我々の五感でとらえることのできない世界」だが、「直観や超越」でもってそれを「とらえ」ようとする(複雑型)。「直観」と「超越」の違いは省略。なお、「この世」に含まれる「向こう側」の奥に?日本では「異界」の一部である「神域」がある。
 「職人芸」によって「接近」するだけか、それとも何とかして「とらえる」のか。ここに日本と西洋の違いがあるようだ。
 そして、まだきちんと読んでいないが、この「とらえ」ようとする試行錯誤が、<西洋哲学史>だ、ということになるのだろう。
 ——
  哲学は森羅万象を対象とするとか、森羅万象の「万物」とかというが、視神経等によっては「見えない」世界(宇宙の深遠から体内のウイルス、電子・光子まで)、死後の世界、生前の世界(あるいは「歴史」)まで、哲学には、あるいはヒト・人間の「思考」には、ひょっとすれば、普遍的なものはなく、あるいは普遍的なものがあっても全部についてそうではなく、大まかには西洋・東洋(・日本)といった違いがあるのかもしれない。
 インドやイスラム世界を含めると、どうなるのだろうか。
 古田の上のような基本的主張・前提も、突っ込もうとすれば、ツッコミ所は多いだろう。
 しかし、「西洋哲学」を逍遥・渉猟して少なくともある程度は理解しているらしきことも含めて、古田には理性的・知性的な(あるいは「学者」らしい)<追求>の姿勢があると見られる。
 この点は、月刊正論(産経新聞社)の執筆者だとしても、渡部昇三、櫻井よしこらとは大きく異なるように見える。
 また、明らかに、西尾幹二よりも、はるかに深いところでの「思考」をしている、と見られる。
 ——
  西尾幹二は、「『哲・史・文』という全体によって初めて外の世界の全体が見える」と書いた(同・歴史の真贋(新潮社、2020))。
 「哲・史・文」の僅か三つだけでは「見えない」し、かつ西尾における「哲・史・文」はいずれも中途半端・表面だけ、ということはすでに書いた。問題は、そんなことよりも(これらも重要だが)、「外の世界の全体を見る」と西尾が記すときに、この人はその意味するところをどの程度深く「思考」したことがあるのか、だ。
 「外界を認識する」と書くことは簡単だが、自分の「外界」の中に、自分の手・足等は入るのか、自分の脳細胞は入るのか、といった問題がある。
 「認識」(見る)主体である自分=「私」とは何か、という問題もある。
 シロウトの秋月瑛二でも知っているような問題を、西尾幹二は思考したことすらないのではなかろうか。根本原因はおそらく、西尾における「自己」の異常肥大、「私」の絶対視にある。ずいぶんと日本的に?、「真実」などよりも絶対的に「私」が重要なのだ。
 これに比べれば、古田博司はずいぶんと冷静だし、深く物事を考えている。物事を、「言葉」の問題に、あるいは「解釈」の仕方だけに、矮小化することはないように(今のところは)感じられる。

2251/アリストテレスの「学問分類」-西尾幹二批判003。

 
 Newton2020年6月号(ニュートンプレス)の特集は<哲学>で、種々の興味深いことが書かれている。
 中でも、アリストテレスによる<学問分類>を紹介しているところが秋月にはきわめて面白い。
 「アリストテレスは学問分類をつくり、『万学の祖』と呼ばれています」と本文で述べて、その「学問分類」を紹介している(p.32)。
 この特集全体の「監修」はつぎの4名。金山弥平、金山万里子、一ノ瀬正樹、伊勢田哲治。元大学教授、現教授、現准教授だが専門は分からず(私には)、執筆担当または監修責任部分も明記されていない。しかし、かなりの素養のあることは、素人の秋月のせいかもしれないが、よく分かる。
 さて、これによると、アリストテレスは、「学問」をつぎの三種に分けた。
 A/理論的学問、B/実践的学問、C/制作的学問。A~Cの符号は秋月。
 これらを総じてアリストテレスは「哲学」と呼び、「論理学」は「哲学」に含めず、後者のための「道具」と見なした、という。
 先走って筆者なりに表現すると、ここでの「哲学」はほぼ、人間の「知的」営為全体だ。「知」への関心・愛着こそが Philosophy の原意だともされてきた。
 つぎに、上の書によると、上の三種はそれぞれ、さらに次のように分けられる。単純な分類ではなく、次の段階へと発展・展開するもののようにも感じられる(この部分は秋月)
 A/理論的学問→a・数学、b・自然学、c・形而上学
 B/実践的学問→a・倫理学、b・政治学
 C/制作的学問→a・弁論術、b・詩学。a~cの符号は秋月。
 上の7つについて、簡単な説明もあるが、ここでは省略する。
 
 なぜ、上の紹介が関心を惹いたかというと、こうだ。
 第一。<理系>・<文系>の区別、あるいは<自然科学>・<人文学>・<社会科学>(・「医学」)といったよく用いられる「学問」分類は、はたして人間の「知」的営為あるいは一定の意味での「精神」活動の段階・構造あるいは対象を的確に捉えて分類しているのか、という疑問をそもそももつに至っている。
 これは、直接には学校教育制度での「教育」内容・体系や日本での「学問」分野の設定・分類にかかわる。
 しかし、この全体または根本的なところを問題にしている研究者等はいるのだろうか。あるいは、全体・根本の適正さもまた問題にしなければならないのではないか。
 そのうちにいずれ、<幼稚な>西尾幹二の学問体系の認識の仕方には触れるだろう。
 人間の「知」とは何かが、脳科学・脳生理学・生物進化学、遺伝学等々も含めて、問われなければならず、そうしないと、無駄な「知」的作業、悪弊ばかりの「知的」活動も生まれてくる。それ自体が、人間の「知的」活動の必然的成り行きなのかもしれないけれども。
 なお、説明されているように今日にいう「自然科学」に最も近いのは、上の「自然学」だ。「法学」は上の「政治学」の中にかなり入りそうだ。
 第二。上のCのa・「弁論術」について、「聴衆に対するすぐれた説得法を対象」とする、との説明がある。また、「詩学」については、「文芸や演劇を対象」とする、とされる。
 これらも(「制作的学問」とアリストテレスが言ったらしいもの)もまた「知的」活動であり、広義には「学問」であり「哲学」でもあるだろう。「知的」、「精神」活動であることに変わりはない。
 上の二つに関連して、「政治」と「文学」の<二つの論壇>で自分は活躍?しているかのごとき迷言を吐いた小川榮太郎を思い出さなくもない。
 だが、もっとも直感的に想起したのは、西尾幹二がやっていること、やってきたことはアリストテレスのいう「弁論術」に最も適確には該当するだろう、ということだ。
 西尾幹二は文芸評論家でも少なくともかつてはあって、自らを「文学者」と呼ぶことにあるいは躊躇しないかもしれない。その意味では、小川榮太郎とも共通して上の「詩学」にも親近的で、傾斜しているかもしれない。
 しかし、何よりも、西尾幹二本人が明言しているように(002参照)、「理論的」であれ「実践的」であれ、西尾は「学問」をしているとは自己認識していない。
 この「理論的」と「実践的」の区別は、「理論・原理」科学と「政策・応用」科学の区分を想起させるところがあるが、どちらであっても、西尾幹二は追求してきていないし、追求してこなかった、と思われる。論理的・理論的な「筋道」、概念の首尾一貫性等々は、この人にとっては後景に退いている。
 では何を目ざしているのかは、別途ゆっくりと「分析」することとしよう。
 前回に紹介したように、西尾自身の言葉によるとやってきたことの全ては「研究でも評論でも」ない「自己物語」であり、「私小説的な自我のあり方」を-おそらくは本質的・究極的にはという限定つきだろうが-問題にしてきたのだ。
 なお、ついでながら、「詩学」にはさらに、「音楽」・「絵画」等の<言語>によらない表現活動も含めてよいのだろう。これらもまた、人間の「知的」、「精神的」活動であることに変わりはない。これらも含めて、「知」は体系化・構造化される必要があるものと思われる。
 
 当然のこととして、アリストテレスの若干の著作(むろん邦訳書)にあたって確認してみようとしたが、どうもよく分からない。
 アリストテレス=出隆訳・形而上学(岩波文庫、1959)は明らかに「哲学」の種別を問題にしているので、この書で上のような<学問分類>が語られているのかもしれないが、簡潔にまとめてくれているような叙述はないようだ。
 したがって、上のNewton2020年6月号のアリストテレスに関する叙述・紹介の適正さを私自身は保障しかねるのだが、「監修」者たちがとんでもない間違いをしているわけではおそらくないだろう。 

2237/L・コワコフスキ著第一巻第6章④・第3節①。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流/第一巻。
 =Leszek Kolakowski, Die Hauptströmungen des Marxismus-Einleitung・Entwickliung・Zerfall. -Erster Band〔第一巻〕(P. Piper, München, Zürich, 1977).
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. -Vol. 1: The Founders(Oxford, 1978).
 第一巻第6章の試訳のつづき。
 ドイツ語訳書を第一に用い、英訳書も参照する。注記はドイツ語訳書にのみ付いている。
 第6章・1844年の草稿(=パリ草稿)・疎外労働理論・青年エンゲルス。
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 第3節・労働の疎外・非人間化される人間〔Die Entfremdung der Arbeit. Der entmenschte Mensch〕①。
 (1)マルクスは、労働の疎外過程を、資本主義的諸関係の発展形態を土台にして考察した。その資本主義的諸関係では、土地所有権も市場経済の全法則に服している。
 彼の見解によれば、私的所有権は、疎外された労働の帰結であって、その原因ではない。
 伝えられている草稿には、この疎外の始まりに関する説明は含まれていない。
 資本主義的所有の発展した諸関係では、労働者の活動もその生産物も労働者には疎遠なものだ、ということに労働の疎外が表現されている。
 労働は、どの他商品とも同じく一つの商品となった。これが意味するのは、労働者自身が商品となり、市場価格で売られるよう強いられた、ということだ。その市場価格は、生存するための最小限の費用によって決定される。
 ゆえに、労賃が最低限の水準にまで下がっていく、絶えざる傾向がある。その労賃は、一人の労働者が生命を維持し、生殖活動を保持するためにちょうど十分なものだ。
 こうして生じる生産過程では、フォイエルバハが人間の意識での神の創出過程を分析して論述したのと同様の状況が再生産される。
 労働者は富を多く生むほど、それだけ貧しくなる。
 物的世界の価値の増加に応じて、それを生産する人間の価値は下落する。
 労働の対象は、生産者から独立し、自立した、外部の物としての労働過程自体から外れている。
 労働者が自然をより多く我が物にすれば、それだけ多く、労働者は生活手段を奪われる。
 しかし、主体から疎外されるのは、<労働生産物>だけではない。
 労働自体も、疎外される。労働自体は自己確認ではなく、反対に、破壊的過程となってその主体の不幸の源泉となるからだ。
 労働者は自分の労働需要を充足するために労働するのではなく、生命を維持するために労働する。
 労働者は、労働過程にいることを本当に感知しているのではない。つまり、人間に特有な活動を遂行しているという感覚はない。そうではなく、喰い、眠り、子どもを生むというその動物的な活動をしているという感覚だけがある。
 だが、労働が人間の顕著な徴表であるならば(動物とは違って、『人間は肉体的必要から自由なときに生産をし』、『その必要から自由なときに初めて、本当の意味で(wahlhaft)生産をする』(9))、従って労働の疎外が同時に労働者の疎外であるならば、労働は人間から、人間である可能性を、すなわち人間的な態様での生産者である人間となる可能性を、奪う〔非人間化する〕。
 労働者は人間的生活を喪失し、労働はたちまちに外部的過程となり、そしてその人間的本質は、純粋に生物的な活動へと削減される。
 種としての生活(Gattungsleben, life of the species)-労働-は、これによってもっぱらその個々の動物的生活のための手段となり、人間の社会的な本性は、その個々の存在のための道具たる役割へと落ちこんでしまう。
 疎外された労働は人間から種としての生活を奪い取る。そうして生じるのは、他者たる人間がその人間には疎遠な者となり、人間的な共同性が否定され、生活が相争うエゴイズムの世界とと化してしまう、ということだ。
 疎外された労働から発生する私的所有権は、一方では疎外の増大の源泉であるが、疎外を際限なく新たに再生産しもする。//
 (2)労働者の物象化(Verdinglichung, reification)、すなわち、物に対するその人格的性質、筋肉と脳髄、活動と願望が売買と交換のために提供される商品となるという状態は、所持者がそのことによって自由と人間性を保障される、というようには決して働かない。
 その反対に、物象化の過程は、別の態様で資本主義者をも包摂し、その人格に幻影を与える。
 労働者がその動物的性質へと減退するように、資本主義者は不可避的に金銭の抽象的な力に成り果てて、金銭の人格的代表者となり、その人間的特性は金銭に内在している力の形態を帯びる。
 「金銭の力が大きければ、私の力も大きい。
 金銭の特性は、私-金銭の所持者-がもつ特性であり、私の本質的な力だ。
 ゆえに、私が何<であり>何が<できる>かは私の個人性によって決定されるのではない。
 私は醜い。しかし、<最も美しい>女性を購うことができる。
 ゆえに、私は<醜くは>ない。なぜなら、<醜さ>のもつ効果、他人を怯ませる力は、金銭によって無効となっているからだ。
 私は-私の個人性からすると-<足が不自由>だ。しかし、金銭は私に、24本の足を提供してくれる。
 ゆえに、私は<足が不自由>ではない。
 私は、性悪の、不誠実な、良心のない、愚かな人間だ。しかし、金銭は尊敬されており、ゆえにその所持者も尊敬されている。
 金銭は最高に良きものであり、ゆえにその所持者も善良なのだ。」(10)
 (3)疎外にもとづいて、人間の種としての生活と人間の共同社会は、そしてそれらによって個人的生活もまた、麻痺してしまう。
 発展した資本主義社会では、社会的な不自由の<総体>が、疎外の全ての形態が、労働者の生産に対する関係のうちに含まれている。そのゆえに、労働者の解放はたんに、細分化した利益がある一階級としての<彼らの>解放であるのみならず、全体としての社会や人類それ自体の解放なのだ。
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 (9) MEW, Ergänzungsband, 1. Teil, S. 517.
 =マルクス・エンゲルス全集第40巻/マルクス初期著作集(大月書店、1975)、437頁〔第一草稿四〕。
 (10) 同上, S.564. =同上、486-7頁〔第三草稿六〕。
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 第3節②へとつづく。

2231/L・コワコフスキ著第一巻第6章③・第2節②。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流/第一巻。
 =Leszek Kolakowski, Die Hauptströmungen des Marxismus-Einleitung・Entwickliung・Zerfall. -Erster Band〔第一巻〕(P. Piper, München, Zürich, 1977).
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. -Vol. 1: The Founders(Oxford, 1978).
 第6章の試訳をつづける。
 ドイツ語訳書を第一に用いる。英訳書も参照する。注記はドイツ語訳書にのみ付いている。
 第6章・1844年の草稿(=パリ草稿)・疎外労働理論・青年エンゲルス。
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 第2節・認識の社会的性格と実践的性格②。
 (3)カントの二元論に代わってヘーゲルの観念論が提示した解決方法の恣意性と観想性(Spekulativität)をマルクスに最初に感得させた者は、フォイエルバハだったと思われる。
 ヘーゲルは全く単直に、現実の存在は疎外された自己意識であって、外部化した自己意識のために世界を回帰させるためのものにすぎない、ということから出発する。
 しかし、自己意識は、それを疎外することでは、現実の事物ではない、それの抽象的な見せかけ以上のものを生むことができない。
 そして、人間生活でこの自己疎外の産物が人間を支配するに至って、その支配に人間が服するときには、我々人間の任務は、それを本来の場所へと立ち戻らせて、実際の姿の抽象物だとそれを見分けることだ。
 人間はそれ自体が自然の一部であり、人間が自然のうちにある自らを認識するならば、それは、人間がそのうちに、絶対的に自然に優先する自己意識の働きを再認識するという意味でではない。そうではなく、労働を通じた人間の自己創出の過程で、自然は人間<のための>対象となるという意味でのみだ。これは人間的方法で知覚された対象であり、人間の必要という規準に従って認知的に構造化されており、種の実際的な働きかけと連結してのみ生じる。
 「しかし、自然もまた、人間と切り離されて固定され、抽象的に把握されると、人間にとっては<何ものでもない(nichts, nothing)>」。(5)
 人間という種と自然との間の能動的な対話が出発点だとすれば、また我々が認識する自然も自己意識も純粋に固有の意味でではなくこの対話によってのみ生まれるのならば、人間は、我々人間が知覚する自然を人間化された自然(vermenschlichte Natur)と称することができる。同様にまた、自己意識を自然の自己意識と称することもできる。
 人間は、自然の産物および自然の一部として、自然を自らの一部に変える。自然は、人間の実践の素材(主体的事項)であり、同時に、人間の物理的身体を延長したもの(Verlängerung, prolongation)だ。
 このような観点からすると、世界の創造者に関する問題を設定するのは無意味だ。そういう問題設定は、自然と世界は存在しない(Nicht-Seins)という、人間が本当は架空の出発点としてすら設定することのできない、非現実的な状況を想定しているのだから。
 「きみが自然と人間の創造に関して問うとき、人間と自然を抽象化している。
 きみは人間と自然は<存在しない>ものと考えつつ、私がそれを存在しているときみに証明することを望んでいる。
 そうなら、こう言おう。きみは抽象化を止めよ、そうすればきみはその問題も捨て去るだろう。」(6)
 「しかし、社会主義的人間にとって<いわゆる世界史全体>は人間の労働による人間の創出に他ならず、人間のための自然の生成に他ならないがゆえに、社会主義的人間は、自分の誕生それ自体に関する、つまり自分の<発生過程>に関する、直想的で異論の余地のない証拠を有していることになる。
 人間と自然の<本質性>が、つまり人間が人間のための自然の存在としてあり、自然が人間のための人間の存在としてあることが実践的、感覚的に直観することができるようになっていれば、<外部(fremd)の本質>に関する問題設定、自然と人間を超える本質に関する問題設定は、…実践的には不可能になっている。
 この非本質性を否認する<無神論(Atheismus)>は、もはや意味を有しない。なぜなら、無神論は<神の否定>であり、その否定によって<人間の存在>を設定するものだからだ。
 しかし、社会主義は社会主義として、そのような媒介物をもはや必要としない。
 社会主義は、人間と自然は<本質>だという<理論的かつ実践的に感覚的な意識>から出発するのだ。
 社会主義は、積極的な、宗教の止揚にもはや媒介されることのない人間の自己意識だ。<現実の生活>が、積極的な、私的所有権の止揚、つまり共産主義、に媒介されることのない人間の現実であるのと同様に。」(7)
 (4)ここから見て取れるように、マルクスにとって、認識論上の問題設定は、形而上学上の問題設定とともに、正当性を失う。
 人間は、自分がまるでその外にいるように世界を見ることはできないし、人間の行為の全体性から純粋に認識行為だけを取り出すことはできない。なぜなら、認識する主体は、自然への積極的な関与者である全的な統合的主体の一面だからだ。
 自然が人間についてそうであるように、人間の係数(Koeffizient, coefficient)は自然のうちに現存する。そして、他方では、人間は世界との交渉から人間自身に固有の受動性という要素を排除することはできない。
 この点で、マルクスの思考は、伝来的な唯物論の諸範型と対立するとともに、固有の外部化として対象を構成するヘーゲルの自己意識の理論とも同等に対立している。マルクスが衝突する伝来的な唯物論では、根源にある認識行為は対象の受動的な反応であり、対象を主観的な内容へと変形させる。
 マルクスは自分の立場を、「徹底した(durchgeführt, consistent)自然主義」、あるいは人間主義(humanism)と称した。これらは、彼が言うには、「観念論とも唯物論とも同等に区別され、両者を同時に統合した真実(Wahrheit, truth)だ」。(8)
 これは人類学的な立場であり、人間化された自然のうちに実践的な人間の意図の反対項(Gegenglied, counterpart)を見ている。人間の実践が社会的な性格をもつように、その認識上の効果、つまり自然に関する像は、社会的な人間が作り出した物なのだ。
 人間の意識はたんに自然との社会的関係に関する思考に表現された物であり、共同社会的な種の活動の所産だと、把握されなければならない。
 従って、意識の変形もまた、意識自体の逸脱または不備によるものとして説明されるべきではなく、その根源はより固有の過程のうちに、とくに労働の疎外のうちに探し求められなければならない。//
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 (5) MEW, Ergänzungsband, 1. Teil, S. 587
 =マルクス・エンゲルス全集第40巻/マルクス初期著作集(大月書店、1975)、510頁。
 (6) 同上, p.545. =同上、466-7頁。
 (7) 同上, p.546. =同上、467頁。
 (8) 同上, p.577参照。=同上、500頁。
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 第2節、終わり。第3節の表題は、<労働の疎外・脱人間化される人間>。

2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流/第一巻。
 =Leszek Kolakowski, Die Hauptströmungen des Marxismus-Einleitung・Entwickliung・Zerfall. -Erster Band〔第一巻〕(P. Piper, München, Zürich, 1977).
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. -Vol. 1: The Founders(Oxford, 1978).
 第6章の試訳をつづける。
 ドイツ語訳書を第一に用いる。英訳書も参照する。
 第6章・1844年の草稿(=パリ草稿)・疎外労働理論・青年エンゲルス。
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 第2節・認識の社会的性格と実践的性格①。
 (1)マルクスにとって、人間を根本的に性格づけるのは労働だ。労働は、人間が能動的あるいは消極的に同時にかかわる、自然との接触だ。そのゆえに彼は、伝統的な認識論上の諸問題について、新しい観点からその考え方を検討しなければならなかった。
 マルクスは、デカルトやカントが設定した諸問題の正統性を承認することができない。
 自己意識という行為が対象へと移行するのがどのようにして可能であるのか、という問題を探求するのは間違っている、とマルクスは主張する。なぜなら、出発点たる行為として純粋な自己知覚を前提とすることは、自然と社会でのその主体の存在から完全に自立して自分自身を把握することができるという、主体に関するフィクションにもとづいているからだ。
 他方で、彼は、自然をすでに知られている現実だと見なすことや、人間とその人間の主体性を自然の産物だと見なすことも、同様に間違っていると考える。あたかも、人間の自然との実際的な関係を無視して、自然それ自体を考察することが可能であるかのごとくなのだから。
 正しい出発地点は、人間の自然との能動的な接触(aktiver Kontakt, active contact)にある。そして、この接触を、一つに自己意識をもつ人間、二つに自然へと分別することは、抽象化によってのみ成り立つことだ。
 世界に対する人間の関係は、元来は観想(Kontemplation, contemplation)や受動的な感知ではない。事物が主体に対して表相を伝えたり、あるいはその本来の存在を主体が感知し得るものへと変換させることによって可能となるような、観想や感知ではない。
 知覚(Wahrnehmung, perception)とは最初から、自然と人間存在の実際的な指向とが結びついた、協力の結果なのだ。人間存在は社会的意味での主体なのであり、事物を適正な対象だと、「何かのために」役立つものとして作られたものだと、見なすのだ。//
 「人間は、多面的(allseitig, many-sided)なやり方で、ゆえに全面的(total, whole)人間として、自分の多面的な存在を我が物とする(aneignen, assimilate)。
 世界に対する<人間的>関係の全ては、つまり、見る、聴く、嗅ぐ、味わう、感じる、思考する、直観する、看取する、意欲する、活動する、愛すること等々は、簡単には、人間の個性(Individualität, personality)たる全ての諸器官が、直接に共同体的器官の形態である諸器官のごとく、それらの<対象的>関係またはそれらの<対象に対する関係>において、その同一物たる対象を我が物とすることなのだ。
 <人間的>現実を我が物とすること、人間が対象と関係するということは、<人間的現実を確証すること(Bestätigung)>だ。」(2)
 「眼は、<人間的>眼になってきた。眼の対象が社会的で<人間的>で、人間によって人間のために由来する対象になってきたのにつれて。
 人間の感覚(Sinn)はゆえに、直接にその実践の中で<理論家>になってきた。
 感覚は、物事それ自体のために<物事>と関係するが、しかし、物事それ自体は、物事自体や人間に対して<対象的で人間的な>かかわり方をするのであり、また逆のことも言える。」(3)
 「対象は、眼に対しては耳に対するのとは異なるものになる。眼の対象は、耳の対象とは別のものだ。
 それぞれの本質的力がもつ特有性がまさしくその<特有の本質>(eigentümliches Wesen)であり、ゆえにまた、対象化する特有の仕方や、生き生きとした<対象的で現実的な存在>でもある。<中略>
 最も美しい音楽であっても非音楽的な耳に対しては何の意義をも有しないように、それだけでは対象にはならない。なぜなら、私の対象は私の本質的力を確証するものでのみあり得るからだ。
 また、私には、私の本質的力が主体的能力であるような場合にのみそうなのだ。なぜなら、私にとって対象がもつ意義は、私の感覚が非社会的人間の感覚とは異なる社会的人間の感覚となるような場合にこそ生じるからだ。」(4)
 (2)看取できるだろうように、マルクスは、カントおよびヘーゲルが哲学的著作で設定した認識論上の関心方向を取り上げている。すなわち、どのようにすれば、人間の意識(Bewußtsein, mind)は世界を「手元に」(bei sich, at home)再現することができるのか。
 合理的意識(rational consciousness)と、直接に非合理的な形で単直に存在している世界の間の外部性(Fremdheit)を止揚することは可能なのか、可能ならばどのようにして?
 我々がこの問題に一般的内容を与えるとすれば、マルクスはこの問題を古典的ドイツ哲学から継承した、と言うことができるだろう。
 しかし、マルクスが問う特有の問題は、詳しく立ち入れば異なり、とりわけカントが設定する問題とは区別される。
 カントの教説においては、自由で理性的な主体と向かい合う自然の外部性(Fremdheit, alienness)を克服することができない。
 認識する主体的事項の二元性、すなわち所与のものと<先験的>(a priori)形態との間の基本的な区別は、現実の条件のもとでは除去することができないし、経験的データの多様性が合理化されることもない。
 自己決定をする、そのゆえに自由な主体は、必然性によって制約される自然と向かい合う。自分とは別個のものとして、耐え忍ばなければならない非合理性と。
 同様に、理想や倫理的要請も、非合理な世界から派生することはあり得ない。このことで、理想と現実の対立は避けられないものになる。
 世界の統合は、すなわち主体と客体、人間的自由と自然の必然性、感覚と思考とを含む統合は、理性が効果的には達成することのできない限界的仮定(Grenzpostulat)だ。それは、理性が現実には決してどこにも生成させることができず、止むことなく追い求めなければならないものだ。
 かくして、現実は主体にとって、その精神的能力や倫理的理想にとって、到達することのできない限界(Grenze, limitation)だ。
 ヘーゲルの見方では、カントの二元論は合理主義の放棄を意味しており、止むなき努力では達成できない限界である統合という仮説は、反弁証法的な世界観(Weltsicht)の例だ。
 人間が帰属している二つの世界の分裂が全ての個々の認識上および道徳上の行為についてやはり同等に甚だしいものであれば、それの止揚を目指す際限なき努力は、不毛なまま無限に続くもの(Unendlichkeit, infinitude)であり、内部的分裂を自分で治癒することのできない人間を際限なく再生産するだろう。
 ゆえに、ヘーゲルは、主体が存在を漸次的に我が物とする過程を提示しようとする。主体がもつ元来は隠れている理性を、つまりその精神的本質を、連続的に再認識するものとして。
 存在しているというまさにその事実のうちに理性を発見できないならば、理性は無能だ。また、理性がそれ自体の完全さを押し包んで、同時に非理性的な世界の重荷を負うならば。
 しかし、理性がその世界に出現している理性を発見するとき、現実を自己意識の産物だと、絶対的なものが自己限定する活動の結果だと理解するとき、世界を主体のために我が物として回復することができる。
 哲学は、その作業を行う責任をもつものだ。//
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 (2) MEW, Ergänzungsband, 1. Teil, S. 539f.
 =マルクス・エンゲルス全集第40巻/マルクス初期著作集(大月書店、1975)、460頁。
 (3) 同上, S. 540. =同上、461頁。
 (4) 同上, S. 541. =同上、462頁。
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 ②へとつづく。 


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2228/L・コワコフスキ著第一巻第6章・経哲草稿①。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流/第一巻。
 =Leszek Kolakowski, Die Hauptströmungen des Marxismus-Einleitung・Entwickliung・Zerfall. -Erster Band〔第一巻〕(P. Piper, München, Zürich, 1977).
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. -Vol. 1: The Founders(Oxford, 1978).
 第6章の試訳を行う。
 上のうち、これまでのL・コワコフスキ著の試訳とは異なり、ドイツ語訳書を第一に用いる。適宜、英訳書も参照する。いずれによるかによって、文構造や表面上の訳語はかなり異なる。いずれも分冊版で、独訳書、p.151~。英訳書、p.132~。
 第6章の第1節にあたるものの前には見出しがないので、たんに「(序)」とした。
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 第6章・1844年の草稿(=パリ草稿)・疎外労働理論・青年エンゲルス。
 (序)
 (1)1844年、マルクスはパリで、論考を執筆していた。それは政治経済学を批判し、経済学上の基本概念を一般的哲学的に分析しようとするものだった。経済学上の基本概念とは、資本、地代(Grundrente, rent)、労働、所有権(Eigentum, property)、貨幣、需要(Bedürfnisse, needs)、賃金(Arbeitslohn, wages)。
 この論考は完成せず、1932年に初めて公刊され、「1844年の経済学哲学草稿」という表題で知られる。そして、マルクスがスケッチ風に叙述したものだったにもかかわらず、公刊後には、マルクス主義の進展に関する研究者が依拠する、最も重要な典拠の一つになった。
 マルクスは実際に、社会主義を一つの総体的世界観として叙述しようとしている。社会主義を社会改革の綱領としてのみならず、経済学の諸範疇を自然と人間の間の哲学的に解釈される関係へと統合しようとしている。その際、この関係は、認識論上の問題と形而上学上の問題を論述するための基礎にもなっている。//
 (2)マルクスは、ドイツの哲学者や社会主義著作者だけではなく、彼がそれらの著作の研究を開始していた、政治経済学の創設者たちも、その出発点としていた。すなわち、ケネー(François Quesnay)、A・スミス、リカルド、セイ(Jean-Baptiste Say)、ジェイムズ・ミル(James Mill)。//
 (3)自明のことだが、『草稿』から『資本』の全内容を抽出することができるというのは、完全に誤っている。
 それでもしかし、『草稿』は、マルクスが生涯の終わりまで書き続け、最終型が『資本』と称される書物の、輪郭(Umriß)だ。
 最終型は決して初めの型を否定しておらずその発展型だ、ということを支持する重要な根拠がある。
 「成熟した」形でのマルクス主義の基礎だと考えられている価値理論も剰余価値理論も、『草稿』には存在しない。
 特殊マルクス的内容をもつ価値理論は(すなわち抽象的価値と具体的価値の区別や労働力の商品性の承認と連結させたものは)、しかし、疎外労働の理論の明確な範型に他ならない。//
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 第1節・ヘーゲルへの批判・人間の基礎としての労働。
 (1)ヘーゲルの『精神現象学』は、とりわけ疎外(Entfremdung, alienation)の理論と疎外過程としての労働の理論は、マルクスにとっての消極的な準拠点(Bezugspunkte)だった。
  マルクスにとって、ヘーゲルの否定の弁証法の偉大さは、人間の自己生産の過程を疎外とその止揚(Aufheben, transcendence)の連続的段階だと把握する、という点にある。
 ヘーゲルによると、人間はその種としての本質をつぎのようにして明らかにする。まずは具象的な状態での自分に固有の諸力と関係づけ、次いで言わば外部からそれらを再び自己のものとする(=同質化する)ことによって。
 人間の本質(menschliches Wesen, essence of man)を実現するものとしての労働は、ヘーゲルにとってはそのゆえに、もっぱら積極的な意義をもつ。それ自身の外部化を通じて人間性が発展する、そのような過程なのだ。
 しかしながら、ヘーゲルによっては、人間の本質は自己意識と同一視され、労働は精神的活動と同一視される。
 したがって、その本来の形態での疎外は自己意識の疎外であり、全ての具体的実在は疎外された自己意識だ。
 ヘーゲルによると、人間が自分の本質を改めて我が物とすることは、具体的対象の止揚であり、それを人間の精神的本質へとそれを帰還させることなのだ。
 人間の自然との統合は、精神の次元で行われる。その理由で、マルクスにとっては、抽象的で表面的なものになる。//
 (2)マルクスはこれに対し、人間を考察するに際して、フォイエルバハに従って、自然との肉体的(sinnlich, phiysical)な交渉という意味での労働を、出発点に据えた。
 労働は人間の全ての精神活動の条件であり、人間は労働のうちに自己の創造力の対象である自然はもとより、自分自身を創り出す。
 人間が必要とする対象は、ゆえに人間がその本質を発見して実現する対象は、人間とは別個のものだ。すなわち換言すれば、人間は被る(leidend, passive)存在でもある。
 だが、人間はたんに自然的存在であるのではなく、人間自体のための存在(Fürsichsein, being-for-himself[対自存在])だ。したがって、事物は人間にとって、人間・対象・存在という状況を考慮しないで済む(=人間の対象であるということとは無関係の)単純なものとして、存在しているのではない。
 「ゆえに、<人間の>対象は、人間に直接に提示される自然的対象ではない。また、直接的な<人間の感覚(Sinn)>は、<人間的感覚(Sinnlichkeit)>や人間的な対象でもない。」(1)
 従って、疎外されたものとして対象を止揚することは、ヘーゲルが言うのとは反対に、対象たるものの止揚では全くあり得ない。
 人間が自然と対象を再び我が物とする可能性は、疎外労働のメカニズムを通じて明らかになる、疎外という現実の現象が発生する態様を明確にすることによって、初めて生まれる。//
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 (1) MEW, Ergänzungsband, 1. Teil, S. 579.〔マルクス=エンゲルス全集補巻第一部、579頁〕
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 「序」と第1節、終わり。

2221/J・グレイ・わらの犬(2002)⑪-第4章02。

 J・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)。
 =John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002)。=<わらの犬-人間とその他の動物に関する考察>。
 邦訳書からの要約・抜粋または一部引用のつづき。邦訳書p.136-9。
 第4章・救われざる者(The Unsaved)
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 第5節・ホメロスのハゲタカ(Homer's Vultures)。
 ・「ニーチェの超人は、人類が…奈落の底に落ちこむのを見る。絶大な意志の行使によって、超人は人間をニヒリズムから救い出す。」
 「ニヒリズム」が掲げる理念は「人間が無意味の深淵から救われる」ことだが、「キリスト教が登場する以前、世にニヒリストはいなかった」。
 ・ホメロス・イーリアスには「ニヒリズム」はない。そこでの神々は、「ハゲタカ」になっても「人間を救わない」。「もとより救うべきほどの何もない」。
 *
 第6節。死すべき運命(In Search of Mortality)
 ・「仏陀は自己の滅却(extinction of the self)に救いを求めた」が、「自己のないところ」での「救い」とは何か。
 「涅槃(Nirvana)は煩悩を離れた悟りの境地」だが、「自然に任せておけばだれもが…手にする以上のもの」を約束しない。
 「死は、生涯の苦行の後に仏陀が約束した平穏を万人にもたらす」。
 ・「動物はなぜ、煩悩から解脱する」のを願わないのか。「輪廻転生」(the round of rebirth)を知らないからか。「考えるまでもなく、生死をくり返すことはないと知っているからか」。
 ・「仏教は、死すべき運命の模索」で、仏陀は「輪廻転生の迷いから脱する悟りの道」を説く。
 「死すべき運命を知っている人間」は、仏陀が追求した道に「すぐ手の届く」ところにいる。「救いが約束されている以上、人生の快楽を否定することはない」。
 *
 第7節・死にゆく動物(Dying Animals)
 ・「自分の死を思い描ける」ことで人間は動物と異なるとされる。だが、「死んでどうなるか」を動物以上に知らない。「生命活動の停止」と理解しても、「それが何を意味するか」を知らない。
 「時の経過」を人間が恐れないのは、「いずれ死が訪れる」ことを知っているからだ。「時間に抵抗」するのは「死を恐れて」いるからだ。
 「動物が人間ほどには死を恐れない」のは、「時間に縛られていない」からだ。
 ・「自殺」は「人間の特権」だと言うのは、「人間と動物の死に方になんの違いもない」ことを理解していない。肺炎、麻酔薬、…、ほんの少し前まで人間は「進んで死に向かい合っ」て、「多くは猫が静かな場所を捜して息を引き取るのと同じ本能で死を願った」。
 ・「道徳」が生まれて、「そのような死に方は忌避される」に至った。「選択の自由が一種の信仰」である現代では「死を選ぶことは許されない」。
 人間と動物の違いは、「人間が異様なほど生に執着する」に至ったことだ。
 *
 第8節・クリシュナムルティの重荷(Krishnamurti's Burden)
 ・19世紀末以降のカルト集団が「現代の救世主」に祭り上げたクリシュナムルティは、「重荷を一身に引き受け」られないとしてその役割を否定した。彼の教えは「古来の神秘主義」と多々共通する。
 ・「人間は動物と共有している生き方を捨てきれず、また、捨てようと努めるほど賢くもない。
 不安や苦悩は、静穏や歓喜と同じ人間本来(natural)の心情である。
 自身のうちにある獣性を脱却したと確信すると、そこで人間は偏執、自己欺瞞、絶えざる動揺といった固有の特質をさらけ出す。」
 ・クリシュナムルティの生涯は「並はずれたエゴイズムの貫徹」で、他人には「無私無欲を説き」、自分は「神秘的な陶酔」を「ありきたりの癒やし」と結びつけた。
 ・彼の生き方は何ら不思議ではない。「獣性を排斥する者は人間をやめるわけではなく、ただ自分を人間の戯画に仕立てる」だけだ。
 「よくしたもので」、「大衆は聖人君子(the saints)を崇める反面、同じ程度に忌み嫌う」。
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 第9節以降につづく。

2199/L・コワコフスキ「保守リベラル社会主義者になる方法」②。

 Leszek Kolakowski, Modernity on Endless Trial (The Univerity of Chicago Press, 1990).
 第三部・リベラル・革命家・夢想家について。
 第19章・保守リベラル社会主義者になる方法
 =How to Be Conservative-Liberal-Socialist. Credo.
 (原文/1978年10月-Encounter。著者による修正あり。)
 B/、C/、は、原文にはない。
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 L・コワコフスキ「保守リベラル社会主義者になる方法」②。
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 B/あるリベラルはこう考える。
 1.国家の目的は安全確保(security)だという古代の思想は、依然として有効なままだ。
 「安全確保」という観念が法による人身や財産の保護のみならず、保険の多数の諸条項をも含むように拡張されてすら、有効なままだ。
 人々は失業しても、餓死すべきではない。貧困な人々は、医療の助けの不足で死亡しても、非難されるべきではない。子どもたちには、教育を自由に受ける機会が与えられるべきだ。-これらも全て、安全確保の問題だ。
 だが、安全確保を自由(liberty)と混同してはならない。
 国家は、積極的に行動したり生活の多様な領域を規整したりすることによってではなく、何もしないことによって、自由(freesom)を保障する。
 安全確保は実際には、自由(liberty)を犠牲にしてのみ拡張され得る。
 ともかくも、人々を幸福にするのは、国家の役割ではない。
 2.人間の共同社会は、不況によってのみ脅かされるのではない。人々が個人の主導性と創造性がなくなるまで組織されるときには、頽廃によっても脅かされる。
 人類の集団自殺は、考えられ得るものだ。しかし、我々はアリではないがゆえに、永続的な人間のアリ山は考えられ得ない。
 3.全ての形態の競争がなくなってしまう社会は、創造と進歩のために必要な刺激を持ち続けるだろう、というのは、ほとんどありそうにない。
 平等性の増大は、それ自体が目的なのではなく、手段にすぎない。
 換言すれば、かりに結果が豊かな人々の生活条件を下落させるだけで、恵まれない人々の生活向上にはならないとしても、平等性の増大を求める闘いには終わりがない。
 完璧な平等とは、自己を打ち負かす理想だ。//
 ***
 C/ある社会主義者はこう考える。
 1.利潤の追求が生産システムの唯一の調整者である社会は、利潤という動機が生産調整力から完全に排除される社会と同じく、悲しい-おそらくはより悲痛な-大災難に陥っている。
 経済活動の自由が安全確保のために制限されるべきであり、金銭が自動的により多額の金銭を生み出してはならないことには、十分な根拠がある。
 しかし、自由の制限は正確にそう称されるべきであり、より高次の形態の自由だと称されてはならない。
 2.完全な、対立なき社会は不可能であるという単純な理由で、全ての現存する形態の不平等は不可避であり、利潤獲得のための全ての方法が正当化される、と結論づけるのは、馬鹿げており、かつ偽善だ。
 進歩的所得税は非人間的で忌まわしいという驚くべき考えにいたる保守派の人間学的悲観論は、収容所列島がもとづく歴史的楽観論と全く同様に疑わしい。
 3.経済を大切な社会的統制に服せしめようとする志向は、かりに官僚機構の増大という対価を支払わなければならないとしても、奨励されるべきだ。
 しかしながら、この統制は、代表制民主主義の範囲内で加えられなければならない。
 かくして、まさにその統制の増大が自由に対する脅威を生じさせるのであるから、その脅威に対抗することのできる諸制度を構想することがきわめて重要だ。
 ****
 このように理解することができるかぎりで、制御に関するこれらの一セットの思想は、自己矛盾はしていない。
 そして、そのゆえに、保守・リベラル・社会主義者になることが可能だ。
 このことは、三つのそれぞれの主張はもはやお互いに排他的なものではない、と言うことと同じだ。//
 私が最初に言及した偉大で力強いインターナショナルについて言えば、-。
 幸福になるだろうと人々に約束することができないがゆえに、これは決して存在しないだろう。//
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 終わり。
 

2198/L・コワコフスキ「保守リベラル社会主義者になる方法」①。

 Leszek Kolakowski, Modernity on Endless Trial (The Univerity of Chicago Press, 1990).
 第三部・リベラル・革命家・夢想家について。
 第19章・「保守リベラル社会主義者になる方法-信条」。
 =How to Be Conservative-Liberal-Socialist. Credo.
 (原文/1978年10月-Encounter。著者による修正あり。)
 A/、B/、C/、は、原文にはない。
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 L・コワコフスキ「保守リベラル社会主義者になる方法」①。
 標語・「後ろの方へ前進して下さい!」。
 これは、私がワルシャワの路面電車の中でかつて聞いたお願いを、ほぼ適切に翻訳したものだ。
 決して存在しないだろう力強いインターナショナルのスローガンとして、私はこれを提案する。
 ***
 A/ある保守派(Conservative)はこう考える。
 1.人間の生活には、堕落や邪悪という対価がないような改良はなかったし、今後もないだろう。
 そうだから、改革や改善を行ういずれの企てを考察する場合にも、その対価が必ず査定されなければならない。
 別の言い方はすれば、多数の邪悪は共存できるものだ(すなわち、我々は包括的に全てにかつ同時に、これらに苦しめられることがあり得る)。
 しかし、多数の善は、お互いに制限し合い、傷つけ合う。ゆえに、我々は決して、善を完全にかつ同時に享受することはないだろう。
 全ゆる種類の平等がなく全ゆる種類の自由(liberty)もない社会は、完璧に可能だ。
 しかし、全ての平等と全ての自由(freedom)を結合させている社会秩序は、可能ではない。
 同じことは、計画化と自律という原理の両立可能性、安全確保と技術の進歩、についても当てはまる。
 また別の言い方をすれば、人間の歴史には幸福な終わり方はない。
  2.かりにある社会における生活が耐えられるもので、あるいは可能ですらあるとすれば、我々は、社会生活上の多様な伝統的形態-家族、儀礼、民族、宗教的共同体-がいかなる程度に不可欠のものであるかを分かっていない。
 これら諸形態を破壊したり非合理的だと烙印を捺すときに、我々は幸福、平和、安全、あるいは自由を得る機会を増大させる、と考えるいかなる根拠もない。
 例えば、かりに一夫一婦制家族が廃止されるとすれば、あるいは死者を埋葬する際の古き良き慣習が産業目的のための死体の合理的再利用に取って代わられるとすれば、いったいどのようなことが起きるのか、我々は確実には分かっていない。
 しかし、我々はきっと、最悪のことを予期するだろう。
 3.啓蒙主義の固定観念(idée fixe)-嫉妬、虚栄、貪欲、および攻撃心は全て社会制度の欠陥によって惹起される、また、その制度がいったん改良されればこれらもまた一掃される-は、全く信じ難い、全ての経験に反するものであるのみならず、きわめて危険なものだ。
 人間の本性に反するものであるなら、それら諸制度は、いったいどのようにして発生したのか?
 我々は友情、愛、および利他心を制度化することができる、という希望を抱くのは、専制体制への信頼できる青写真をすでに持つ、ということだ。
 ***
 B/へとつづく。

2181/J・グレイ・わらの犬(2002)⑪-第4章02。

 J・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)。
 =John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002)。=<わらの犬-人間とその他の動物に関する考察>。
 邦訳書からの要約・抜粋または一部引用のつづき。邦訳書p.127-p.133。
 第4章・救われざる者(The Unsaved)。
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 第2節・大審問官とトビウオ(The Grand Inquisitor and the Flyingfish)。
 ・ドストエフスキー・<カラマーゾフの兄弟>で、大審問官はキリストに言う。
 「人間はあまりにもひ弱で、自由の恵みには耐えられない。
 人間は自由を必要とせず、求めるのはパン、それも<中略>当たり前のこの世のパンである」。
 D. H. ローレンスによると、大審問官の発言は「決定的なキリスト教批判」で「痛烈な寸言」だ。キリスト教による「幻想」に「現実」を突きつける。
 ローレンスは正しい。科学技術は「窮乏、貧困」を絶滅し人類を「不死」として、「かつてのキリスト教と同様」、科学信仰は「奇跡の希望」を伸ばす。しかし、「科学が人類を変えると思うのは魔術を信じるに等しい」。科学は「暴政の強化と戦争拡大」に利用されるはずだ。
 ・ドストエフスキーの真意は、「人類が自由を求めた例はかつてなく、この先も考えられない」ということだ。
 現代の世俗信仰は人間は自由を望み束縛を嫌うというが、「隷属と引き替えの安逸以上に自由を尊重」するのは稀だ。
 J. J. ルソーは「元々自由に生まれたはずの人間が至るところで鎖に繋がれている」と言う。しかし、「時として自由を求める少数がいるからといって、人間がみな同じだと思うのは、トビウオを見て空を飛ぶのは魚類の習性であると断じるに等しい」。
 ・「自由社会」がいずれ出現するだろうが、「めったにないことで、それも無政府状態か、専制君主制の変形が定石」だろう。独裁者は混乱に乗じて権力を手にするが、つねに庶民に「沈滞や閉塞を打破すると暗黙の約束を掲げる」。
 ・大審問官の偽りは自分を「悲劇の主人公」視していることだ。彼がどんなに気を揉んでも人類を救えないし、人類もそれを当てにしていない。彼の「自己満足」だ。
 宗教裁判官は「気高くも悪魔じみた信念」をもつと考えるのは誤りで、「腹のうちは、恐怖、怨恨、それに弱い者いじめの快感である」。
 ・「科学は人類の知識を増進するが、真理を尊重することは教えない。
 かつてのキリスト教と同じで、科学は権力の網に搦め捕られている。
 生存競争と業績(survival and success)の達成に汲々としている科学者の世界観は、旧弊な思考の貼り混ぜである。」
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 第3節・多神教礼賛。
 第4節・キリスト教が行き着く果ての無神論。
 <この両節は全体として省略。後者に明記はないが、R・ドーキンス的「無神論」の批判・揶揄を含むだろう。>
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第5節以降へ。

2165/<売文業者か思想家か>。

 竹内洋・メディアと知識人-清水幾太郎の覇権と忘却(中央公論新社、2012)。
 これの中身も、全部かつて読んだはずだ。清水幾太郎の言論活動を批判的にたどっているのだろう。
 読売・吉野作造賞受賞第一作。
 単行本に付いている上の紹介よりも興味深いのは、オビ上のつぎの言葉だ。
 <売文業者か思想家か>(オモテ)。
 <この私にしても、まあ、一種の芸人なのです。まあ、笑わないで下さい>(ウラ)。
 後者は、確認しないが、清水幾太郎が書いたか発した言葉なのだろう。
 しかし、竹内洋自身は、<売文業者か思想家か>。そのどちらでもない、大学教授なのか。少なくとも「思想家」だとは思えない。大学教授だとしても、江崎道朗の本のいい加減さを指摘できないようでは、頼まれ仕事を良心的に行っているとは思えない。
 故西部邁は、<売文業者か思想家か>。自分自身はきっと<思想家>だと思っていたのだろうが、しかし同時に<売文業者>でもあっただろう。
 西尾幹二は、<売文業者か思想家か>。自分自身はきっと<思想家>のつもりでいるだろう。そう自称はしなくても、そう思われていたい、と思っているに違いない。西部邁も江藤淳も、西尾幹二にとっては、「気になる」<保守派知識人>のライバルで、西尾の文章の中にはこの二人に対する<皮肉・嫌み>もある。そして、いかんせん、読者の反応や売れ行きを気にする<売文業者>でもある。
 江崎道朗、櫻井よしこ。明らかに「思想家」ではない。そして政治目的のための<売文業者>にすぎない。
 八幡和郎? 「思想家」ではないのはもちろん、「知識人」ですらない。
 ***
 なぜ<売文業>が成り立つか? 文章・知識・情報に関する「出版・情報産業」が「業」として成立し得るだけの<市場>が、日本にはあるからだ。
 そのような社会または国家は、世界のどこにでもあるのではない。
 たまたま人口や地域の規模、そしてほとんど「日本語」だけによる情報交換が成り立っている、日本は、そのような社会・国家だからだ。決して、世界に一般的でも、普遍的でもない。
 少なくとも江戸時代・幕末までの日本の「知識人」は、自分または所属団体(藩等)の「功名」のために文章を書き本を出版したかもしれないが、金儲け=生業としての「功利」のためには<思索・思想作業>をほとんど行わなかったように見える。相対的には純粋に、自分は<正しい>と考えていることを書いただろう。偽書、売らんがための面白物語の例が全くなかったとは言わないが。
 現在の日本の<評論・思想>界の低迷または堕落は、それがほぼ完全に「商業」の世界に組み込まれてしまっていることにあるだろう。
 その中でうごめいているのが、雑誌や書籍の「編集者」・「編集担当者」という、あまり広くは名前を知られていない、「情報・出版産業」の有力な従事者だ。
 テレビ番組を含めれば、(とくに報道・情報)番組製作の「ディレクター」類になる。
 雑誌・書籍の「編集者」・「編集担当者」(あるいはテレビ番組の「ディレクター」)。これらによって発注され、請け負っているのが、日本の現在の自営・文筆業者あるいは「評論家」たちだ。大学・研究所に所属して、それからいちおうの安定した収入があるか、江崎道朗、小川榮太郎等のように「独立」・「自営」しているかによっても、「売文」の程度とその中身は異なるに違いない。

2160/L・コワコフスキ著第三巻第13章第6節①-毛沢東。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終第13章の試訳のつづき。分冊版、p.494~p.499。
 第13章・スターリンの死以降のマルクス主義の展開。
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 第6節・毛沢東の農民マルクス主義①。
 (1)中国革命は、争う余地なく、20世紀の歴史の最も重要な事件の一つだった。
 毛主義(Maoism)として知られるその教理は、従って、その知的な価値とは無関係に、今日の思想闘争の主要な要素になっている。
 ヨーロッパ標準で測れば、毛主義のイデオロギー文書、とくに毛自身が書いた理論的著作は、実際には原始的で不格好で、ときには子どもじみている。
 これと比べると、スターリンですら、力強い理論家だという印象を与える。
 しかしながら、このような判断は、用心して行う必要がある。
 この書の執筆者のように中国語を知らず、中国の歴史と文化について僅かでかつ表面的な知識だけしか持っていない者は、疑いなく、中国思想に習熟した読者は理解することができる文章の意味、多様な連関と示唆するところを、完全に把握することはできない。
 この点で、我々は専門家の見解に依拠しなければならない。しかしそれでも、つねに同意するのではないけれども。
 この書物の他の箇所以上に、以下の論述は二次的情報にもとづく。
 しかしながら、理論的、哲学的主張をもつにもかかわらず、毛主義は先ずはそして最も多くは実際的な訓示だ、と最初に述べておいてよいだろう。そのことが何らかの態様で、中国の状況にはきわめて有効であることが判明したのだ。//
 (2)今日に毛主義と、あるいは中国で「毛沢東思想」と称されるものは、数十年前に起源のあるイデオロギー大系だ。
 ロシア共産主義に対する意味での中国共産主義の特徴のいくつかは、1920年代遅くにはすでに見えていた。
 しかしながら、とくに毛沢東のユートピア的見方を含むそのイデオロギーが明瞭な様相をとり始めたのは、ようやく1949年の中国共産党の勝利のあとでだった。そして、1950年代遅くまたはその後でのみ、若干のきわめて重要な側面が進展した。//
 毛主義は、その最終形態では急進的な農民ユートピアだ。そこでは、マルクス主義の言葉遣いが顕著に多くあるが、その支配的な価値はマルクス主義とは完全に疎遠だと見られる。 
 このユートピアはヨーロッパの経験と思想にほとんど依拠していないのは、何ら驚くべきことではない。
 毛沢東は、すでに新国家の長になっていたときにモスクワを2度訪問した以外には、中国を離れなかった。
 そのとき彼は自分で、どの外国語もほとんど知らず、マルクスに関する知識もおそらく相当に限られている、と明瞭に語った。
 例えば、正統マルクス主義者だと主張する一方で、彼には、物事には全て善と悪という二つの側面がある、と語る習癖があった。
 マルクスはこのような弁証法形態をプチブル的馬鹿さとして嘲弄したことを知っていたとすれば、彼はおそらく、こう言わなかっただろう。
 また例えば、マルクスが「アジア的生産様式」に言及したのを知っていたならば、彼はおそらく、これを論じただろう。しかるに、彼の著作はこれに何ら論及していない。
 毛沢東の二つの論考-「実践について」と「矛盾について」-が簡明に明らかにしているのは、彼がスターリンとレーニンの著作で何を読んだか、であり、加えて、そのときどきの必要に応じたいくつかの政治的結論だ。
 穏やかに言えば、これらの文章から何らかの理論的に重要なことを感知するには、多大の善意が必要だ。//
 (3)しかしながら、以上は本質的な点ではない。
 中国共産主義の重要性は、その教条の知的な水準によるのではない。
 毛沢東は、きわめて偉大ではなくとも、偉大な人物の一人だ。20世紀の、人間たる多数大衆の操作者だった。そして、彼が目的達成のために用いたイデオロギーは、中国のみならず第三世界の他部分を含めて、その有効性のゆえに意味をもっている。//
 (4)中国の共産主義は、1912年の帝国崩壊とともに始まった革命的事件を継承したものであり、数十年前、とくに1850ー64年の太平天国の乱〔Taiping rebellion 〕(歴史上最も血なまぐさい内戦の一つ)まで遡る展開の結果だ。
 毛沢東は、革命の第二期の主要な構築者であった。その時期には、ロシアと同様に、共産主義の支援のもとではレーニンが「ブルジョア民主主義」と称しただろうもの以外には生まれなかった。すなわち、大規模土地の農民への配分、中国の帝国主義諸国からの解放、そして封建諸制度の廃棄。//
 (5)毛沢東(1893~1976)は、湖南(Hunan)地方の裕福な農民の息子だった。
 村の学校に通い、中国の文字伝統の主要部分を学び、中学校へ進学するだけの性質を得た。
 早くに孫文(Sun Yat-sen, 孫逸仙)の革命共和党、のちの国民党に加入した。
 しばらく共和党軍で戦ったのち、1917年に勉強を再開した。こうした期間、彼は詩も書いた。
 のちに彼は、北京の大学図書館で働いた。このときの彼は、ナショナリストかつ社会主義の知識をもつ民主主義者で、マルクス主義者ではなかった。//
 (6)国民党の目標は、日本、ロシアおよびイギリス帝国主義から中国を解放し、立憲主義共和国を設立し、経済改革によって農民の運命を改善することだった。
 1919年の新たな暴動のあとで、最初の毛沢東グループが北京で結成された。そして、1921年6月、コミンテルン工作員の助けで、毛沢東を含む十数人のメンバーたちは、中国共産党を創設した。
 コミンテルンの指令に従って、党は最初は国民党と緊密に連携し、中国の萌芽的プロレタリアートの支持を獲得しようとした(1926年に、都市労働者は民衆200人当たり1人だった)。
 1927年に蒋介石が共産党員を殺戮したあと、蜂起し、国民党の左派脱退者と<同盟(entente)>しようとして何度も失敗したのちに、共産党は方針を変更し、前指導者の陳独秀(Chen Tu-hsiu)に「右翼日和見主義者」の烙印を捺した。
 殺されながらも、党は、労働者に影響を及ぼす努力を集中し続けた。しかし、毛沢東は、農民へと方向転換して、農民軍を組織することを主張した。
 しかしながら、党内の両グループはともに、反帝国主義と反封建主義を強調した。
 そこには、特段に共産主義的な見解の兆しはほとんどなかった。
 毛沢東は、生まれ故郷の湖南地域で、武装農民運動を組織し始めた。そしてその地域で、農民軍勢力は大土地所有者から没収し、伝統的諸制度を廃絶させ、学校と協同組合を設立した。//
 (7)つづく20年間、毛沢東は、都市部から離れた田園地帯に住んだ。
 やがて彼は、農民ゲリラ行動の傑出した組織者になるのみならず、中国共産党の揺るぎなき指導者になった。世界で唯一の、その地位をモスクワによる認証によらない指導者になったのだ。
 注目すべき勝利と劇的な敗北が多々あった時期である20年の間、彼は、国民党と侵攻者日本に対して、前者が後者と戦っている時期を除き、極端に困難な条件のもとで闘った。
 共産党は占拠した地域に将来の国家の基盤を組織した。だが、自分たちの革命の性格は「ブルジョア民主主義的」だと強調し、また農民や労働者だけではなく中低層や「ナショナル」なブルジョアジー、つまり帝国主義者たちと同盟しない者たちを含む、「人民戦線」を呼びかけつづけた。
 党は、1949年の勝利後の最初の数年間は、この基本線を採用し続けた。//
 (8)1937年、ゲリラ戦闘が継続している間、毛沢東は、延安(Yenan)の党軍事学校で、二つの哲学的講義を行った。それらは現在、中国の民衆が得られる哲学教育のほとんど全体を構成している。
 「実践について」の講義で、彼はこう述べる。人間の知識は生産的実践と社会矛盾から湧き出てくる。階級社会では、全ての思想形態は例外なく階級によって決定される。実践は、真実を測る尺度だ。
 理論は実践にもとづいており、その隷従物だ。
 人間は、感覚で事物を感知し、見ることのできない事物の本質を理解することのできる観念を形成する。
 対象を認識するためには、それに対処する実践的行動を起こさなければならない。すなわち、我々は食べることによって梨の味を知る。また、階級闘争に参加することによってのみ、社会を理解する。
 中国人は、「表面的かつ知覚的知識」にもとづいて帝国主義との闘いを開始した。ようやくのちになって、帝国主義の内部矛盾に関する理性的な知識を得る段階に到達し、かくして有効にそれと闘うことができている。
 「マルクス主義は、理論の重要性を厳格に強調する。それは、理論が行動を誘導することができるからだ」(<哲学に関する四考>、1966年、p.14)。
 マルクス主義者は、自分たちの知識を変化する条件に適合させなければならない。そうでなければ、右翼日和見主義に陥るだろう。
 一方で、発展の段階が思考を上回り、現実についての想像力を間違ってしまえば、エセ左翼の言葉商人の生け贄になるだろう。//
 (9)「矛盾について」の講義は、レーニンとエンゲルスからの引用の助けを借りて、「反対物の統合の法則」を説明しようとするものだ。
 「形而上学」は、「事物を、分離した、静態的で一面的なものだと見る」(同上、p.25)、そして運動または変化を外部から与えられた何かだと見なす。
 しかしながら、マルクス主義は、全ての客体は内部矛盾を内包する、それは機械的な動きも含めた全ての変化の原因だ、と断定する。
 外部的原因は変化の「条件」であるにすぎず、内部的矛盾こそがその「根拠」だ。
 「それぞれのかつ全ての差異はすでに矛盾を内包しており、差異それ自体が矛盾だ」(p.33)。
 異なる現実の領域には、それらに特徴的な矛盾があり、それらは、異なる科学分野の主な事項だ。
 我々はつねに、「全体」を感知するためにも、全ての矛盾にある個別の特質を観察しなければならない。
 ある事物は、その反対物に転化する。例えば、国民党は最初は革命的だったが、やがて反動的になった。
 世界は矛盾に充ちているが、あるものは他のものよりも重要だ。そしていかなる条件のもとでも、我々は主要な矛盾を、それから発生するその他の二次的な矛盾と見分けなければならない。-例えば、資本主義社会では、ブルジョアジーとプロレタリアートの間の矛盾。
 我々は、矛盾を解明して克服する方途を理解しなければならない。
 かくして、「マルクス主義について我々が学習する始まりのときには、マルクス主義に関する我々の無知や学習の希薄さは、マルクス主義に関する知識と矛盾している状態にある。
 しかし、学習に精励すれば、無知を知識へと、希薄な知識を実質的な知識へと転化させることができる」(p.57-p.58)。
 事物は、反対物に転化する。土地所有者は剥奪され、貧者に変わる。一方、土地なき農民は土地所有者になる。
 戦争は平和に道を譲るが、平和は再び戦争に譲る。
 「生がなければ、死もないだろう。死がなければ、生もないだろう。
 『上から』がなければ『下から』はなく、…『上から』もなく、…。
 容易さがなければ、困難さはないだろう。
 困難さがなければ、容易さはないだろう」(p.61)。
 区別は敵対する階級間のような、真反対の矛盾の間に行われなければならない。正しい党方針と間違った党方針のような、真反対ではない矛盾の間にではない。
 後者は、誤りを訂正することで解消することができる。だが、それが行われなければ、真反対の矛盾に転化する可能性がある。//
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 ②へとつづく。

2145/L・コワコフスキ著第三巻第13章第4節②-フランス。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終第13章の試訳のつづき。最後の段落の前に一行の空白がある。「むすび」または「小括」のごとくだが、内容的にはこの節に限らず、<修正主義>一般に関するもののように見える。
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 第4節・フランスでの修正主義と正統派②。
 (7)パリの流行が実存主義から構築主義へと変化した1960年代の後半、関心は、マルクス主義の完全に異なる解釈に向けられた。それは、フランスのマルクス主義者、L・Althusser 〔ルイ・アルチュセール〕が提示したものだった。
 構造主義が人気を得た理由の一つは、言語学の方法として始められたからだ。言語学は多少とも正確に「法則」を進化させ得る唯一の人文系学問分野だと見なされた。
 「科学的」地位は別の人文学分野へと移るだろうとの望みは、今では抱かれている。しかし、それ以来、この点の展開は物足りないままだ。
 Lévi-Strauss 〔レヴィ-ストロース〕 は、人文学への構造主義的、非歴史的接近方法の、フランスの最初の主張者だった。そして、個人にはほとんど関心を向けず、原始社会の神話にある符号(signs)システムの分析に集中した。
 そのシステムの「構造」は、誰かによって意識的に考案されたのでも、使用者の心に現れるものでもないが、科学的観察者は発見することができる。
 Althusser は二つの連作著書で-<マルクスのために>(1965年)と<資本論を読む>(1966年、E. Balibar と共著)-、マルクス主義は、人間の主体性と歴史的継続性が意識的に排除される、構造主義的考察方法を提供することができることを、示そうとした。
 彼はその攻撃の矛先を「ヒューマニズム」、「歴史主義」および「経験主義」に向け、マルクスの知的な発展は1845年の<ドイツ・イデオロギー>で明確に中断した、と主張した。
 マルクスはそれ以前はヘーゲルとフォイエルバッハにまだ囚われていて、具体的な人間個人を想定して世界を(疎外のような)「ヒューマニズム」や「歴史主義」の範疇によって叙述した。しかしながら、のちにはこうしたイデオロギー的接近方法を放棄し、厳密に科学的な理論を進展させた。それだけが、純粋なマルクス主義だ(なぜ以前のマルクスよりものつのマルクスの方が純粋なのか、Althusser は説明しない)。
 <資本論>で最も十分に深められ、その方法が<綱要(Grundrisse)>への序文で設定されているこのマルクス主義は、歴史過程は人間主体の行動という観点から叙述することができるという考えを拒否する。
 Althusser によれば、全ての科学的著作と同じく、<資本論>の主題は現実にある実体ではなく、その全要素が全体に依存する、理論上の構築物だ。
 歴史的唯物論で最重要なのは、他者に依存する歴史的現実の諸側面を確かめることではなく、諸側面のいずれもが全体に依存している、ということだ(これは、この論脈でAlthusser は言及していない、ルカチの考えだ)。 
 しかしながら、全ての領域にはそれに固有の変化のリズムがある。全てが均等に発展するのではなく、どの時点をとっても、進展の異なる段階にある。
 Althusser は「イデオロギー」や「科学」について、実証主義者たちが言っただろうような真実の「外部的」標識に科学は拘束されないとたんに述べるだけで、定義することがない。そうではなく、自分の「理論的実践」のうちに自分自身の「科学性」を創造する。
 このようにして科学は何で成り立つかという問題を片付けたうえで、マルクスの資本主義社会の分析は人間主体にではなく生産関係と関連している、と明確に述べる。その生産関係が、それに関与する人々の活動を決定するのだ。
 (看取し得るように、<資本論> は資本の運動が決定する作用をたんに具現化したものとして個人を扱っているというのは本当だが、このことは、資本が実際には個人を富または労働力の単位に変化させるという、マルクスの初期の観察を繰り返したものにすぎない。この変化が共産主義が廃棄を約束する、「非人間化」という効果だ。)
 我々はかくして、普遍的な方法的規準ではなく、交換価値という反人間的な性質に対する批判について、論述しなければならない。//
 (8)さて、考察の対象は、(この本でしばしば用いられるが、どこにも説明がない言葉である)「構造」(structure)であり、個人的な人間の諸要素ではない。
 Althusser は、「ヒューマニズム」という語で、つぎのものを意味させているようだ。歴史的過程を個人の行為に還元する理論、多数の例を通じて複合的になる同一の種たる本性を人間個人のうちに認める理論、あるいは、歴史的変化を絶対的「法則」ではなく個人の必要性の観点から説明する理論。
 「歴史主義」(これもAlthusser は説明しない語だが)はどうやら全ての態様の文化を論じることにあると考えられている。またとくに科学は、歴史的条件の変化と相関的なものとしてグラムシのように理解されているようだ。そして、科学の特別の権威と「客観性」を矮小化している。
 しかしながら、真のマルクス主義では、科学は「上部構造」の一部ではない。
 科学はそれ自体の規準をもち、進展する。科学は、客観的な観念的全体を構成するのであり、階級意識を「表現するもの」ではない。
 こうしてレーニンは正しく、外部から労働者階級の運動に注入されなければならず、階級闘争の要素または産物として発現することはあり得ない、と言った。
 なぜならば、社会生活の異なる諸側面は不均等に発展し(これはAlthusser が毛沢東に見出せると主張する点だ)、全てが同一の<時代精神〔Zeitgeist〕>を同じように表現するわけではない、というのがきわめて重要なことなのだ。
 どの諸側面も相対的には自立しており、革命にまで至る社会的「矛盾」はつねに、この「不均衡性」から生じる対立の産物だ。
 この最後の現象に、Althusser は「超(super-)決定」という名称を与える。そしておそらくはこの語によって、個々の現象は現存する条件の複合体(例、資本主義)からのみならず、当該の生活局面の、発展しているリズムによっても決定される、ということを意味させる。
 こうして例えば、科学の状態は社会状況全体はもとよりそれまでの科学の歴史に依存しており、同じことは絵画等々についても言える。
 上に紹介したようなことは、きわめて無邪気な結論だと思われる。「上部構造の相対的な自立性」に関するエンゲルスの言明を繰り返したものだ。
 Althusser はときおり、再びエンゲルスに従って、「超決定」にもかかわらず状況はつねに「究極的には」生産関係によって支配される、と述べる。しかし、エンゲルスの曖昧な言明をより明確にする何かを付け加えることがない。
 結論は要するにこうだ。個々の文化現象は一般に多様な状況に依存する。その中には、その一部となっている生活諸側面の歴史や社会関係の現在の状態が含まれる。
 このような明確な真実の、いったいどこが「科学的」なのか、何ゆえにマルクス主義の革命的発見なのか、あるいは、将来の予言は勿論のこと、どのようにして個々の特定の事実を説明する助けになるのか、について、何も語ってくれない。
 Althusser はまた、発展段階が同一か否かを示すために、例えば彫刻と政治理論といった二つの異なる分野でどのように比較することができるのかを、説明もしない。
 彫刻の分野のいかなる条件が「生産関係」のある所与の状態に対応しているかを歴史的法則から帰結させることができる、という想定のもとでのみ、これを行うことができる。
 しかし、このような推論をする方法について、Althusser は何ら提示しない。
 (党指導者はこれを行うことができるという想念は、現在の社会的意識が生産関係よりも「遅れている」がゆえにイデオロギー的迫害が正当化されると考えられている共産主義諸国では、決まってきわめて好都合だ。
 これが意味するのは、支配者は、どのような意識が「土台」と合致するためには必要なのかを知っている、ということだ。)
 (9)のちにAlthusser は、こう考えるに至った。ヒューマニズム、歴史主義およびヘーゲル主義の遺憾な痕跡が<資本論>の中にもなお見出し得るので、1845年頃のマルクスの見方の認識論的転回点は、考えていたほどには明瞭に画することができない、と。
 <ゴータ綱領批判>として知られる二つだけのマルクスの文章と政治経済学に関するAdolph Wagner の本の縁にあった若干の記述には、イデオロギー的な歪みが全くなかった。
 我々は、この点で、マルクス主義はマルクスの時代からきちんと存在したのか、あるいはAlthusser が考案する余地がなおあったのか、と不思議に思うことから出発することができる。
 (10)とくに1960年代後半でのAlthusser の見方が著名であるのは、彼の本は何らかの政治的結論に至ってはいないので、政治の問題ではない。
 もっと重要な点は、彼はマルクス主義者たちの間にある、実存主義、現象学論、あるいはキリスト教よりも進もうとする傾向に反対した、ということだ。そうして彼らは、自分たち自身の哲学を薄弱にし、独自性をなくしている、と。
 Althusser は、イデオロギー的「統合主義」を支持し、マルクス主義は自己充足的な教理であって100パーセント科学的で、外部からの助けを何ら必要としない、と保障する立場に立った。
 (科学という「神話」は、マルクス主義者のプロパガンダですさまじい役割をつねに果たしてきた。Althusser は、自分がいかに科学的であるかを、そして他の多数のマルクス主義者も同様であると、と繰り返して宣言する。これは本当の科学者の習癖ではないし、人文学者のそれでもない。)
 いくつかの新語法は別とすれば、Althusser は、理論に対する新しい貢献を何ら行わなかった。
 彼の著作は、たんにイデオロギー的厳格性と教理上の排他性へ立ち戻る試みにすぎなかった。マルクス主義を他の思考方法による汚染から守ることができる、という信念への回帰だ。
 この観点から言えば、古い様式のマルクス主義の偏屈さへの回帰だ。だが同時に、スターリン後の「雪解け」の結果として始まった、全く反対の過程を証言するものでもある。
 第一次大戦前にはちょうど同じように、当時の知的な流行にマルクス主義が「感染」してしまって、ネオ・カント的マルクス主義、アナクロ・マルクス主義、マルクス主義的ダーウィニズム、経験批判的マルクス主義等々、のような現象が生まれた。
 同じように、この20年間のマルクス主義者たちは、絶望的にも長い間の孤立を埋め合わせようとして、既成の、または人気ある哲学に頼った。そして今、ヘーゲル主義を加減したマルクス主義、実存主義、キリスト教、あるいはAlthusser の場合に見られるように、構造主義、がある。
 構造主義が人気のある別の原因は、1950年代遅くの人文科学でそれ自体が感じたことだろうが、離れた学問対象だったことにある。ここではこの点に立ち入ることはしない。
 <一行あけ>
 (0)これまで論述してきた修正主義は、スターリン後にマルクス主義が解体していくいくつかの兆候の一つにすぎない。
 これがもった重要性は、その批判的態度でもって、共産主義諸国でのイデオロギー的忠誠が減退することに、また、公式の共産主義の道徳的貧困さはもとより知的な貧困さをも暴露することに、大きく寄与した、ということにある。
 修正主義は同時に、マルクス主義の伝統にある軽視されてきた側面に注意を惹いた。そして、歴史研究に一定の衝撃を与えた。
 通用力をそれが与えた価値や主張は決して消滅しておらず、共産主義諸国の民主主義的反対派で依然として顕著だ。だが、とくに修正主義の論脈でつねに語られているわけではない。
 言ってみれば、共産主義僭政体制に対する批判は、ますます稀にしか行われず、ますます効果が少なくなっている。その際に用いられる言葉は、「共産主義を悪用から浄化する」、「マルクス主義を改革する」、「根源へと立ち戻る」だ。
 僭政体制と闘うことは、つまるところは、それはマルクスまたはレーニンの思想と反対だと証明することでは必ずしもない(そしてレーニンの場合は、彼との矛盾をすっかり証明するのはとくに困難だ)。
 このような議論は、1950年代の特定の状況のもとでは適切だった。しかし、今ではそう論じる意味が相当になくなった。
 哲学についても同様に、「歴史的法則」または「反射の理論」に対抗しての人間の主体性の擁護は、マルクス主義の権威にもとづく必要はないし、それなくして十分に行うことができる。
 このような意味で、修正主義は、現実的な論争点ではかなりなくなってきた。
 しかし、このことによって、その思想や批判的分析のいくつかがもつ永続的な価値が、何らかの影響を受けるわけでは全くない。//
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 第4節、終わり。つづく第5節の表題は、<マルクス主義と「新左翼」>。

2134/猪木武徳・自由の思想史(2016)①。

  猪木武徳・自由の思想史-市場とデモクラシーは擁護できるか(新潮選書、2016)。
 オビに「自由は本当に『善きもの』か?/ギリシア哲学から現代の経済思想まで」等とある。
 西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)と比べて読むのも、面白いだろう。
 前者は「選書」、後者は「新書」だが、前者計p.239まで、後者計p.396で、活字の大きさも後者が小さいので、文章・文字の総量は後者がはるかに上回る。
 内容や質は? 以下に書く。
 猪木著の「まえがき」で、こんなことが書かれる。
 ***
 <太った奴隷よりも飢えて自由の方がよい>旨のイソップ寓話がある。
 しかし、「隷従し」、「拘束を受けても」、「十分食べたい」という欲望が人間にはあるのではないか。
 「精神的な欲求としての自由を、いかなる価値よりも優先させるべき理由、そして人間の本性と両立しうる原理の根拠をどこに求めればよいのだろうか」。
 自由の実現には苦痛も伴う。「人間は、自由と不自由のコストとベネフィットを考慮することがあるのではないか」。
 「精神的な欲求としてだけではなく、『制度としての自由』には、さらに本質的な問いが潜んでいる」。
 以下、省略。
 ***
 すでに、勝負あり、だ。その背景は世代・年齢差(10年)にあるのではなく、基本的には、<文学・思想>分野か<経済・思想>分野かという、素養・「教養」の由来にあるだろう。
 西尾幹二は、「精神的な自由」、「ひとつひとつの瞬間の心の決定の自由」を最重視しているかのごとくだ。人間も生物であることを完全に無視している。
 猪木武徳においては、まず「精神的自由」は最重要の価値なのかと問題設定される。
 「十分食べたい」という欲求は人間の本性(nature)に合致している。これを無視することは、少なくとも一切無視することは、絶対にしてはならないだろう。
 西尾幹二はすでに「人間」ではなくなっているのかもしれない。あるいは生物・動物であることを忘却している、そのふりをしているのかもしれない。
 猪木は第3章の冒頭(p.77)で、アダム・スミスに言及しつつ、「自殺」=「自由意思による死」の問題を彼は論じている、という。西尾はこれに論及していないはずだ。
 しかし、これも、「自由」の、しかも難解な「自由」に関する問題だ。<自殺>・<自由意思>一般の問題には立ち入らないが、ここで想起するのは、ジョン・グレイ(John Gray)が言及していた、ソ連の強制収容所体験者の回想記・<北極コルィマ物語>のことだ。紹介部分の一部を、省略しないで、そのまま引用する。
 J・グレイ/池中耿訳・わらの犬(みすず書房、2009)、p.104。
 「意味と名のつく一切を奪われた収容者に、生きつづける理由はなかった。
 しかし、多くは、時にみずからの選択で命を絶つ機会が訪れても、その機会を捉えて行動するだけの気力、体力を残していなかった
 『死ぬ気が萎えないうちに急がなければならない場合もあった』。」
 旧ソ連のでも、ナツィスのユダヤ人強制収容所でもよいのだが、被収容者の「ひとつひとつの瞬間の心の決定の自由」とはいったい何だろうか。
 「死ぬ自由」すら選択できない、その「気力、体力」すら残っていない、という人々にとっての「精神的な自由」とは、いったい何だろうか。
 安全な場所に身を置いて、優雅に「精神・こころ」の大切さを説く高慢と偽善を許してはいけない。

2090/西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書,2018)③。

 このテーマでの前回②で憲法概説書として「あくまで一例」を示したつもりだが、岩波書店刊行のものであることを気にする人がいるかもしれないので、(日本国憲法に即しての)憲法学における「自由」の分類・体系化の試みの例を、もう一つ示しておこう。
 佐藤幸治・日本国憲法論(成文堂、2011)。佐藤は英米系の憲法論に詳しいはずだが、消極・積極・能動といった分類はドイツの学者のそれを思い起こさせる。一種の「美学」・「アート」だから、「自由」の分類・体系化に絶対的なものはない。
 目次構成から見ると、つぎのとおりだ。一部につき省略や簡略化をする。
 第二編・国民の基本的人権の保障。
  第1章・基本的人権総論。
  第2章・包括的基本的人権。
   第1節/生命、自由および幸福追求権。
   第2節/法の下の平等。
  第3章・消極的権利。
   第1節/精神活動の自由。p.216~。
    1/思想・良心の自由。
    2/信教の自由。
    3/学問の自由。
    4/表現の自由。
    5/集会・結社の自由。
    6/結社・移転の自由。
    7/外国移住・国籍離脱の自由。
   第2節/経済活動の自由。p.299~。
    1/職業選択の自由
    2/財産権
   第3節/私的生活の不可侵。p.320~。
    1/通信の秘密
    2/住居などの不可侵
   第4節/人身の自由および刑事裁判手続上の保障
    1/奴隷的拘束・苦役からの自由
    2~6/<略>。
  第4章・積極的権利。〔生存権、等々〕
  第5章・能動的権利。〔参政権、等〕
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 西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)。
 この書が、「自由」として「個人の属性」・「個人的精神」にかかわる<精神的自由>に限ろうとしているようであることを、特段批判するつもりはない。<精神的自由>・<精神活動の自由>といっても、上記も示すように、決して同一内容ではないのではあるが。
 従って、猪木武徳・自由と秩序-競争社会の二つの顔(中公文庫、2015/叢書2001)のような経済学者による、<自由>を冠する書物を無視していても、問題視できないだろう。
 但し、「自由」論は、Liberty 系列かもしれないが、「リベラリズム」とか「リバタリアニズム」に関係しており、例えば以下の<新書>・<文庫>を秋月の広大な?書庫から見つけ出すことができる。
 森村進・自由はどこまで可能か-リバタリアニズム入門(講談社現代新書、2001)。
 仲正昌樹・「不自由」論-何でも「自己決定」の限界(ちくま新書、2003)。
 井上達夫・自由の秩序-リベラリズムの法哲学講義(岩波現代文庫、2017/双書2008)。
 こうした現代的?議論に西尾幹二は関心がないのかもしれない。それに、上の三つは、法学部出身者か、法学部に在職している人たちの書物だ。このことも、とくに疑問視することはしない、
 もちろん、以下の書物にも関心はないのだろう。
 ジョン・グレイ/松野弘監訳・自由主義の二つの顔-価値多元主義と共生の政治哲学(ミネルヴァ書房、2006)。
 =John Gray, Two Faces of Liberalism (2000).
 そして、巻末の計14頁に及ぶ「主な参考文献」から見ると、<歴史>、<思想・哲学>分野の文献が多い。
 但し、疑問をもつのは、<思想・哲学>での「自由」を表題の一部とする著名かもしれないものを欠落させている、ということだ。邦訳書があって所持しているものに限る。
 H・ベルクソン=中村文郎訳・時間と自由(岩波文庫、2001)。
 このベルクソンの書は、自由意思の存否を検討する中で茂木健一郎も触れていた。
 また、L・コワコフスキの大著は、このフランスの哲学者は、スターリン体制の中で「ブルジョアア」哲学者で「観念論」の代表者として扱われた、とかなり長く言及していた。
 また、L・コワコフスキがフランクフルト学派に関する叙述の中で言及していた中には、つぎの書もあった。
 エーリヒ・フロム=日高六郎訳・自由からの逃走(東京創元社、1952)。
 西尾は第2章の中で「自由が豊富に与えられることは自由をもたらしません。人間は大きな自由に耐えられない存在なのです」と書く(p.76)。L・コワコフスキは1978年(英訳)の書でこのE・フロムの著にも言及し、彼の考え方をこう簡単に叙述している。
 「我々は自由を欲するが、自由を恐れもする。なぜならば、自由とは、責任と安全不在を意味しているからだ。従って、人間は権威や閉ざされたシステムに従順になって、自由の重みから逃亡する。これは、生まれつきの性癖だ。破壊的なもので、孤立から自己諦念への、偽りの逃亡だけれども。」-本欄№2027/2019年8月16日参照。
 タイトルに用いているかだけが重要なのではないとしても、上のベルクソンとE・フロムのニ著は、「自由」に(も)関係するほとんど必須の哲学文献ではないのだろうか。   
 リベラリズムやリバタリアニズムを扱うべきだったとは思わないが、<時間と自由>、<自由からの逃亡>くらいは参照しいほしかったものだ。これは、「ないものねだり」だとは思われない。
 ともあれ、西尾幹二が挙げる「主な参考文献」が本当にきちんと吸収され、この書に利用されているのかを疑うとともに、よくは分からないが、重要な文献が参照されていないのではないかと思える。
 西尾は第1章関係文献として、H・アレント〔アーレント〕の全体主義論・全三巻の邦訳書を挙げている。西尾のこの書に関してまだ第1章にとどまって、ハンナ・アレントにも次回では言及する。

2036/外界・「認識」・主観についての雑考。

 ヒト・人間はいつ頃から、自分または「自分たち」が他の生物・物・事象・自然等を「認識」することの意味を考え始めたのだろうか。
 それは宗教の始まりとほとんど同じで、ギリシャの哲学者たちはとっくに「哲学」の対象にしていたのだろう。
 事物の「存在」が先ずあって、人間はそれを「認識」するのか。それとも、人間が「認識」するからこそ、当該事物は「存在」すると言えるのか。
 つまり、「客体」という客観物が先にあって、「主体」の主観的行為が後にくるのか。「主体」の主観的行為によってこそ「客体(客観)」を<知る>のか。
 あるいは、「外部」が先で人間の「内部」作業が論理的に後なのか。人間の知覚という(脳の)「内部」過程を前提として、「外部」の事物の存在が判明するのか。
 これは人文(社会)学・哲学上の大問題だったはずで、これまでの長きにわたる議論は、これに関連しているはずだ。きっと、単純な観念論と単純な唯物論の区別もこれに関連する。
 また、「心(知)」と「身体」の区別に関するデカルトの<心身二元論>もこれに関連する。<思考する実在>と<延長された実在>。
 この二元論は、人間の「身体」は「心(知)」・「精神」とは異なる「外部」・「客体」と把握することになるのだろう。「私」は「考える」ことのうちこそ「存在」しているのだ。そうすると、上の二つをめぐる議論は、<物質と精神>の区別や関係に関するそれとほぼ同じことになる。
 デカルトはこの二つをいちおうは?厳格に区別し、両者を連結するのが脳内の「松果体」だと考えたらしい。また、彼は「心」は心臓にあると考えた、という説明を読んだこともある。
 明確な<二元論>に立たないとすれば、上述のような<堂々めぐり>、<循環的説明>は、言葉・概念の使い方・理解の仕方にもよるが、容易に出てくる。
 しかし、つぎのような場合があるので、「外部」・「客体」・事物ないし事象の存在を不可欠の前提にすることはできないだろう(とも考えられる)。
 ①幻覚。「お化け」もこれに入りそうだ。薬剤・ドラッグの影響による場合も。「幻視」に限らず、「幻聴」等もある。
 ②浅い睡眠中に見る「夢」。
 ③全身麻酔からの覚醒後に残り得る「錯乱」。これは、①の薬による「幻覚」の一種だとも捉え得る。
 これらは「外界」の存在を前提とせず、「主体」・「内部」が勝手に<認識>している(と言えるだろう)。
 そうすると、「主体」・「内部」という主観的側面こそが第一次的なもので、「外部」の存在を前提として主観的側面が発生する、というのではない。
 しかし、上の①~③は「異常」な場合、例外的な場合であり、「主体」・「内部」という主観が正常・通常の場合は、やはり「外部」の存在が先立つ前提条件ではないのか。
 これはなるほどと思わせる。しかし、主観の「異常」性と「正常」性はどうやって区別するのか。「主体」が「外界」を「正常」に<認識>しているか否かを、どうやって判断するのか。
 こうなると、さらに論議がつづいていく。
 すでにこの欄で言及したことに触れると、つぎの問題もある。
 「主体」・「内部」の主観的過程において、<感性と理性>というもの、あるいは<情動と合理的決定>というものは、どういう違いがあり、どういう関係に立っているのか。
 以上は幼稚な叙述で、むろんもう少しは、すでに叙述し、論理展開することはできる。
 かつての「大」哲学者たちも、要するに、その<認識論>あるいは<存在論>で、こうしたことを思考し、論議してきたのだと思われる。
 過去の「大」哲学者たちの言述うんぬんは別として、<自分で>考えている。同じヒト・人間なのだから、私でも、少しは彼らに接近することができるのではないか。
 それに、ダーウィンの進化論等以降の「(自然)科学」または進化学・遺伝学・生物学(脳科学・神経生理学等々を含む)等の進展によって、もちろん「神」の存在の助けを借りることなく、彼ら「大」哲学者たちよりも、上の問題を新しく、より正確に議論することができる状態にある、と言えるかもしれない。
 デカルト、カント、フッサール、それにマルクス等々の生きた時代には、現に生存中の人間の脳内の様相(ニューロンの発火状態等)をリアルタイムで視覚的・電位的に把握することのできるfMRIなどという装置は考案されていなかったのだ。
 もっとも、日本の現在の人文社会学研究者または社会・政治系の評論家類はいかほどにヒト・人間の<本性>に関する生物学・神経生理学の進展の成果をふまえて執筆したり、議論しているかは、相当に怪しいのだけれども。

1961/L・コワコフスキ著第三巻第四章第13節④。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第三巻分冊版p.178-p.182。合冊本では、p.929-p.933.
 第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。合冊本は注記・索引等を含めて、計1284頁。
 何度も記したように、この著の邦訳書はない。ドイツでは1977-79年に、独訳書が刊行された(のちにpaperback 版となった)。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
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 第13節・スターリニズムの最終段階でのヨーロッパ・マルクス主義④。
 (22)戦争後のしばらくの間フランスで甚大な成功をかち得たサルトル(Sartre)の実存主義哲学は、この当時の態様では、マルクス主義と全く相容れないものだった。
 サルトルは、自然という決定要因に支配された異質で緩慢な世界にいる、絶対的な自由の虚無(Vacuum、真空)が人間という存在だ、と主張した。
 この自由は、人間が逃れようとしてきた耐え難い重荷だが、誠実さ(good faith)と矛盾することなしには逃れることができないものだ。
 私の自由は絶対的で無制限だという事実こそが、私が言い訳すること(alibi)を全く不可能にし、自分が行う全てについて百パーセントの責任を私に負わせる。
 私の恒常的な自己予想は、そこにこの自由が提示されているのだが、時間を発生させるものだ。それは人間存在の本当の形態であり、自由のごとく我々の全てがもつ独自の属性だ。
 サルトルにとって、協同的かつ共同体的な時間のごときものは存在せず、自然の、希望のない、かつ抑圧的な、個人が絶えることなく自分を生み出すための不可避性(necessity=必然性)以外には、いかなる自由も存在しない。-この自己の生産は、神またはその他の超越的価値、歴史的伝統や同類の人間たち、によって助けられることのない過程だ。
 私は空虚な自由と純粋な否認性によって定義されているがゆえに、私自身の外部にある全ての存在は私の自由を制限しようとしているものだ、と私には思える。
 したがって、存在というまさにその本性によって、いわば存在論的に(ontologically)、人間関係は、他の人間存在を併合しようとする、まるで他者は物であるがごとき、敵対的な形態のみをとることができる。-このことは、全ての論脈に、そして、政治的支配のように、愛(love)にあてはまる。//
 (23)いかなる形態のものであれマルクス主義と、このような基本的考え方の間には、共通する基盤が存在していないことが明瞭だ。この基本的考え方は、人間の共同体または共有される時間という観念を、全て排除する。そして、生活の全体を、自分自身の虚無性(vacuity、真空性)を非合理的に追求することへと帰一させる。
 この点によって、フランスの共産主義知識人たちは、実存主義に対して激しい非難を投げつけた。
 他方で、サルトルは初期の段階から、労働者階級と被抑圧者一般を同一視しようとした。その結果として、サルトルの共産党との関係の特徴は、逡巡と不明瞭さになった。
 彼は実際に、共産党員たちとの一体感と彼らに対する激しい敵意との間で揺れ動いた。その複雑な過程を、ここで立ち入って叙述することはできない。
 しかしながら、彼の全ての段階で、「左翼」(Leftist)としての自分自身の名声を維持しようと努めた。そして、自分自身と彼の哲学を<格段に優れた(par excellence)>「左翼主義」を具現化したものだと示そうとすらした。
 つまるところは、共産党員たちを攻撃して彼らから罵倒を浴びせられたときですら、サルトルは、反動やブルジョアジーの勢力、あるいはアメリカ合衆国政府に対して、もっとはるかに激烈な攻撃をする立場をとった。
 サルトルが一体化したプロレタリアートの諸要求を共産党が代表していると考えることで、彼は一時的に政治的共産主義と同盟したばかりではなく、解放という人間の最良の希望だとして、スターリニズムの最終段階にあったソヴィエト同盟を称賛した。
 彼の政治的活動全体の価値が減少する理由は、影響力を何ら持たないという知識人には絶えられない事態の典型的状況に陥るのを怖れる、そういう気持ちにもとづいていることにあった。
 要するに、サルトルのイデオロギーは、「内部」に存在したいという充たされない野心のうちに抱かれた、政治的<不満(manqué)>のそれだった。//
 (24)一時期はサルトルと一緒に活動したメルロ=ポンティ(Merleau-Ponty)は、マルクス主義と共産主義に関して、最初からもっと懐疑的だった。彼の自由の理論は、虚無としての自由というサルトルの考え方よりもマルクス主義に近いものだったけれども。-この理論は、自由はつねに現実の状況によって決定され、克服する障壁をつうじてのみ存在する、というものだ。
 メルロ=ポンティは<人間中心主義とテロル(Humanisme et terreur)>(1947年)で、共産主義者のテロルとその歴史的正当化の可能性を論じ、我々は自分たちの行動の完全な意味を知ることはできない、全ての帰結をまだ知らないのだから、と主張した。その帰結がまさに「意味」の一部であって、否応なく我々の責任になるものだ、と。
 そのゆえに、歴史的過程とそこでの我々の役割は、不可避的に不明瞭で、不確実だ。
 また、その究極的効果が暴力を排除することにあるならば、暴力(violence)は歴史的に正当化されるかもしれない、ということになる。
 彼はしかし、このように寛容な暴力の承認について、いかなる規準も確定しなかった。
 時が経るにつれて、メルロ=ポンティはますます共産主義に対する批判を強めるに至った。//
 (25)西側ヨーロッパ諸国でのマルクス主義著作の様式と内容は、当然に、それぞれの異なる文化的伝統を反映した。
 フランスのマルクス主義は戯曲ふうに修辞的で滑らかな人間主義の語句に耽溺しがちで、革命的雄弁さをもって語った。
それは印象主義的で、論理的には杜撰だったけれども、文語的な(literary)観点からは有効だった。
 イギリスのマルクス主義は、何がしかの経験主義の伝統を維持した。すなわち、もっと現実的(down-to-earth)で、論理的議論に関心をもち、歴史にもっと根拠をおき、哲学的「歴史主義」(historicism)への傾斜が少なかった。
 イギリスでの共産主義はきわめて弱体で、労働者階級の中での大衆的支持を一度も獲得しなかった。
 しかし、他諸国でと同様に、共産主義は純粋に知的な運動ではなく、薄弱だったかもしれないにせよ、つねに労働組合との関係を維持した。
 多くの知識人たちが1930年代に共産党を通り過ぎ、別の者たちは、戦後もそうした。
 共産党の信条をもつマルクス主義哲学者の中に、モーリス・コーンフォース(Maurice Cornforth)とジョン・ルイス(John Lewis)がいた。
 前者は、<科学対観念論>(1946年)と題する、論理的経験主義と分析哲学に対する批判書を書いた。この書物で彼は、知に関するエンゲルス・レーニン理論を擁護し、「論理的原子論」、思考の経済の原理、哲学の言語分析学への矮小化を攻撃した。
 後者は、とりわけ、プラグマティズムを批判する書物を書いた。
 ベンジャミン・ファリントン(Benjamin Farrington)は、古代ギリシャの科学に関する書物など、戦後初期の時代に歴史に対する価値ある貢献をした。彼はこの書物で、技術をもつ現代国家へと哲学的諸教理を関係づけた。//
 (26)フランス・マルクス主義が人間主義的言い回しを強調し、イギリス・マルクス主義が経験的かつ理性主義的論拠を重視したのに対して、イタリアのマルクス主義は、その伝統に忠実に、「歴史主義」への注目を強調した。
 スターリニズムの最終時期ですら、イタリアのマルクス主義哲学はレーニン主義やスターリン主義の規準から遠く離れていた。
 しかしながら、イタリア共産党は、他諸国の同志たちと同様に国際的諸問題についてはソヴィエトの方針に従順だった。この党は、ファシズム瓦解のあとで、20年間の停滞と無気力状態からきわめてすみやかに復活していた。
 のちに1956年〔試訳者注-ハンガリー事件の年〕のあとで、Parnimo Togriatti(1893-1964)は、共産党指導者たちの中で最も「心を開いた」、モスクワから最も自立している人物だという名声を獲得することになった。しかし、このことをスターリン時代にまで遡らせることのできる根拠はない。
 Togriattiはこの当時は、ソヴィエトの政策の紆余曲折に、全て忠実に適応していた。
 しかしながら、彼は特段の困難なく、(共産党専門用語で「教条的」、「左翼主義」、「党派的」と表現された)厳格な孤立主義から、ゆより融通性があって効果的な「人民戦線」政策へと方向転換した。
 文化的諸問題について、イタリア共産党は一般に他のどの共産党よりも攻撃的に口汚く罵るということはなく、マルクス主義とイタリア独自の伝統の連環を強調し、伝統的にある反動的要素ではなく「積極的」要素を重視して宣伝した。
 グラムシ (Gramsci)が1947-49年に公刊した<獄中からのノート(note)>はイタリア共産主義の歴史上の画期的なもの(milestone)で、レーニン主義の教典が許した以上にはるかに柔軟な範型のマルクス主義を党知識人が受容することを可能にした、そういう発想方法の根源だった。
 1950年代初期の傑出した著述者は、Galvano della Volpe(1896-1968)とAntonio Banfi (1886-1957)だった。彼らは人生のかなり遅くにマルクス主義者になり、かつ共産党員となって、普遍的な人間中心主義についてのイタリア的精神でもって、新しい信条を解釈した。
Della Volpe は、Eckhart に関する価値ある書物を執筆し、認識論に関する<Logica come scienza positiva>(1950年、ここでの「論理」は知に関する理論一般を意味する)と題する書物を書いた。彼はこれによって、マルクス主義を反ヘーゲルの立場および経験論者の用語法で解釈した。
 この解釈にもとづくと、マルクス主義は世界に関する科学的説明というほどのものではなく、さらに形而上学の体系以下のものだ。こうしたものではなくて、人間の自己創造の今日的段階を歴史的に表現するものであり、人間の生(life)の条件を統御しようとする実践的闘いを明瞭に叙述しようとするものだ。//
 (27)要約するとすれば、つぎのように言えるかもしれない。すなわち、西側ヨーロッパでのスターリニズムの最後の時代は、理論書および歴史書に関するかぎりで全体として無意味なものだったわけではない。しかし、何らかの価値のある数少ない書物は、組織された政治的瞞着の洪水の中で溺れ死んでいった。これについて非難されるべき責任は、何の例外もなく世界中の全ての共産主義知識人たちにある。(なお、何らかの価値のある数少ない書物も大部分は、今日ではそれ自体を目的として読む価値はない。)
 この時代に共産主義運動に加わったフランスまたはイタリアの著作者たちは、一般的に言ってソヴィエト体制や世界革命の展望にはほとんど関心がなかった。彼らが党を支持した理由の一部は、共産党が熱心に彼らの要求と利益を語ったことにあった。
 しかしながら、彼らはマルクス主義と共産主義を普遍的な教理として心に抱いていた一方で、運動が完全にモスクワによって支配されていることや、ソヴィエトの政治目的に従属していることに、十分に気づいていた。
 それにもかかわらず、無批判に、彼らは、ソヴィエトの社会体制の真の(true)性格に光を当てる全ての情報を拒絶した(そうした情報は西側の書物から、また直接に東ヨーロッパ諸国から、容易に入手可能だった)。
 彼らは、状況に応じてつねに、言葉と行為でもって、また共産党の党員であることをもって、この体制を賛美した。
 彼ら全員が、茶番劇の「平和運動」に参加した。この標語のごときオーウェル的表題は、冷戦時代のソヴィエト帝国主義の重要な道具だった。
 彼ら全員が、全く平気で、アメリカは朝鮮半島で細菌戦争を行っているという非難のごとき、狂信的な捏造事を信じ込んだ。
 ソヴィエト体制の完璧さに疑いを差し挟んだ者は誰もが、「結局は」(after all)、共産主義がファシズムに対抗する唯一の、または最も有効な防塞だ、と自分に言い聞かせた。そして、そのゆえに共産主義を百パーセント、無条件で受容しなければならない、と。
 このような自発的な自己欺瞞の心理的な動機は、さまざまだった。
 とりわけあった心理的動機は、普遍的な人間的友愛という古来からの夢を世界の誰かが具現すると信じたい、というきわめて切実な欲求だった。
 「歴史の進歩」に関する知識人たちの幻想。
 多くの西ヨーロッパ諸国では大戦間に完全に地に落ちた、民主主義的「既得権益層」(establishment)に対する侮蔑意識。
 歴史や政治を含む普遍世界(the universe)の秘密をこじ開ける、そういう万能の鍵(master key)を求める切望感。
 歴史という波の頂上に、換言すると、勝利する側に、立っていたいという野心。
 知識人たちはとくに陥りがちな、現実的影響力(force)への信仰。
 彼らが考えていたように現世界で剥奪され迫害されている人々と同じ防塞の中にいると願望しつつ、共産主義〔共産党〕知識人たちは、最も抑圧的な体制の預言者となり、そして、権力を拡張するために用いる、巨大で効率的な虚偽(lies)の装置のための、現存するかつ自発的な工作員(agents)となった。//
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 第13節、および第四章が終わり。
 次章以降の表題は、<トロツキー>、<アントニオ・グラムシ>、<ジョルジュ・ルカチ>、<カール・コルシュ>、<ルシアン・ゴルトマン>、<フランクフルト学派と「批判理論」>、……。

1879/L・コワコフスキ著・第一巻第一四章第2節①。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳。
 第一巻//第一四章・歴史発展の主導諸力。
 1978年英訳書第一巻p.338-p.342、2004年合冊版p.278-p.280。
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 第2節・社会的存在と意識①。
 (1)歴史的唯物論に対する反対論が、19世紀にしばしば喚起された。
 ① 歴史における意識的な人間の行動の意義を否定するもので、馬鹿げている。
 ② 物質的利益を理由としてのみ人間は行動すると明言するもので、全ての証拠にも反する。
 ③ 歴史を「経済的要因」へと還元し、宗教、思想、感情等々の全ての他の要素を、重要ではないものかまたは経済学により人間の自由の排除へと決定されるものだと見なす。
 (2)マルクスとエンゲルスによる教理の定式化のいくつかには、たしかに、これらの批判を生じさせ得ると思えるものがある。
 諸批判に対して、エンゲルスおよび部分的には後年のマルクス主義者たちが回答した。しかし、全ての曖昧さを除去するような態様によってではなかった。
 しかしながら、我々が歴史的唯物論はいかなる問題について解答しようと意図しておりまたは意図していなかったのかを想起するならば、諸反対論は、その力の多くを喪失する。
 (3)第一に、歴史的唯物論は、いかなる特定の歴史的事象をも解釈するための鍵(key)ではないし、そう主張してもいない。
 歴史的唯物論が主張するのは、何らかのそして決して全てではない社会生活の特質の間の諸関係を明瞭にする、ということだ。
 マルクスの「批判」への書評の中で、エンゲルスは1859年につぎのように書いた。
 『歴史はしばしば、飛躍的にかつジグザグに進む。そして、そのように進むのだとすれば、重要でない些細な多くの素材が含入されていなければならないだろうのみではなく、思考(thought)の連鎖もしばしば中断するだろう。<中略>
 取り扱うためには論理的方法だけが、ゆえに、適切なものだった。
 しかしながら、これは本質的には、それから歴史的形態や攪乱する偶然性を除去した歴史的方法と何ら異なるところがない。』
 〔=マルクス・エンゲルス八巻選集/第4巻(大月書店、1974年)p.50.〕
 言い換えると、上部構造が生産諸関係に依存するとのマルクスの説明は、大きな歴史的時代や社会の根本的な変化に当てはまる。
 技術のレベルが労働の社会的分業の詳細を全て決定する、そしてつぎに政治的および精神的生活の詳細を全て決定する、とは主張されていない。
 マルクスとエンゲルスは、広い歴史的範疇で、かつ一つのシステムから別のそれへの変化を支配する根本的な要因という趣旨で思考した。
 彼らは、所与の社会の階級構造は遅かれ早かれ根本的な制度的形態であることを明らかにするよう強いられているが、このことを生じさせる事象の行程は多数の偶然的な事情に依存している、と考えた。
マルクスがKugelmann への手紙(1871年4月17日)でつぎのように書いたごとくにだ。
 すなわち、「世界史は、<中略>かりに『偶然事』(accidents)が何も役割を果たさないとすれば、きわめて神秘的な性質のものになるでしょう。
 これらの偶然事は当然に発展の一般的な行程の中に組み込まれ、別の偶然事によって埋め合わされます。
 しかし、加速や遅延はそのような『偶然事』に大きく依存しているのであり、その中には、運動の前面に先頭に立つ人物たちの性格に関する「偶然」も含まれます。」〔=マルクス・エンゲルス八巻選集/第4巻(1974年)p.324.〕
 エンゲルスもまた、いくつかのよく知られた手紙の中で、いわゆる歴史的決定論を誇張して定式化することに対して警告を発した。
 すなわち、「実存の物質的様式は、<主要なもの(primum agens)>ですが、このことは、副次的な影響ではあるけれども、それに対する反応として生じるイデオロギー諸分野のあることを排除しはしません。」(1890年8月5日、Conrad Schmidt への手紙〔=マルクス・エンゲルス八巻選集/第8巻(1974年)p.248〕。)
 『歴史の決定的要素は、究極的には、現実の生活での生産と再生産です。
 それ以上のことを、マルクスも私もこれまで主張したことはありません。
 したがって、かりに誰かが経済的要素のみが決定的なものだとこれを歪曲するならば、その人物は、無意味の、抽象的でかつ馬鹿げた決まり文句へと変形しています。
 経済状況は、土台(basis)です。しかし、上部構造の多様な諸要素は-階級闘争の政治的形態とその帰結、勝利した階級が闘争後に確立する国制(constitutions)等、あるいは法の形態や闘争者の頭脳の中にあるこれら全ての現実的闘いの反映物ですら、あるいは政治的、法的、哲学的諸理論、宗教的諸観念およびこれらのドグマ体系への一層の発展-、これら全ては、歴史的闘争の行程に対して影響力を発揮し、多くの場合は、それらの形態を圧倒的に決定するのです。
 それはこれら全ての諸要素の相互作用であり、その相互作用の中でかつ全ての際限のない偶然事という主人たちの真っ只中で、経済活動が必要なものだとして最終的には貫徹するのです。』
 (1890年9月21日、Joseph Bloch への手紙〔=マルクス・エンゲルス八巻選集/第8巻(1974年)p.254〕。)
 (4)同様にして、歴史の進路を現実に形成したと思える偉大な個人たちは、社会が彼らを必要としたがゆえに舞台に登場した。
 Alexander、Cromwell、そしてNapoleon は、歴史の過程の道具だ。
 彼らは、その偶然的な個人的特性によって、影響を及ぼすかもしれない。しかし、彼らは、彼らが生み出したのではない偉大な非個人的な力の、無意識の代理人だ。
 彼らの行動の影響力は、それが発生した状況によって決定されている。
 (5)我々が歴史的決定論を語ることができるとすれば、大きな装置上の特質という文脈においてのみだ。
 現実にあったのが十世紀の技術レベルであれば、当時には人間の権利の宣言や<ナポレオン法典>はあり得なかっただろう。
 我々が知るように、技術レベルがほとんど同じ社会でも、実際には相当に異なる政治システムがあり得る。
 にもかかわらず、個人的な性格、伝統や事情をではなくこれら諸社会の本質的な特徴を考察するならば、全ての決定的側面についてそれらはお互いに類似しており、そのような傾向を示している、ということが歴史的唯物論の観点から明らかになるだろう。
 (6)生産様式上での上部構造の反射作用に関しては、この点についてもまた、我々は、「究極的な」性質づけを想起しなければならない。
 例えば、国家は、生産力のレベルが必要とする社会的な変化を支援することと妨害することのいずれの態様でも行動するかもしれない。
 国家の行動の有効性は、「偶然的」諸事情に応じて変化するだろう。しかし、ときが成熟している場合には、経済的要因が支配的になるだろう。
 我々が歴史を全景として(in panoramic form)考察するならば、騒乱にある混沌とした諸事象があるごとく見える。その真っ只中で分析者は、マルクスが語った根本的な相互関係を含めて、一定の支配的な傾向を感知することができる。
 例えば、法的形態は着実に、支配階級の諸利益に最大に奉仕する状況へと接近する、ということが見られるだろう。また、この諸利益は当該社会の生産、交換および所有制の様式に対応して構成される、ということも。
 哲学、宗教的信条および信奉儀式は社会的必要や政治的諸装置の変化に対応して多様化するということも、見られるだろう。
 (7)歴史過程で意識的意思が果たす役割に関しては、マルクスとエンゲルスの考え方はつぎのようなものだと思える。
 人間の全ての行為は、特有の意図-個人的感情または私的利益、宗教的諸観念または公共の福利に対する関心-によって支配されている。
 しかし、これらの雑多な全ての行為の結果は、いかなる一人の人間の意図をも反映しない。
 結果は、一種の統計的な規則性をもつ。その規則性は、大きな社会的単位の進化で後づけることができるが、個々人というその構成分肢に対して何が生起しているのかを語ることはしない。
 歴史的唯物論は、個人的な動機が頑固だとか利己的だとか、あるいはすべての性質をもつものだとかを述べるものではない。
 歴史的唯物論は、そのような動機には少しも関係がなく、個人の行動を予言しようと試みることもない。
 歴史的唯物論は、誰かが意識的に意図したのではない、規則的で物理的法則のごとく非個人的な社会的法則に従った、そういう大量の現象にのみ関係する。 
 人間存在と人間の諸関係は、にもかかわらず、歴史過程の唯一の現実だ。それは究極的には、個々人の意識的な行動から成る。
 彼らの諸行為の総体は弁証法的な歴史法則の一つの型を形成し、一つの社会システムから次のそれへの移行を、また技術、所有の諸形態、階級障壁、国家制度およびイデオロギーのような諸特質の相互関係を、描写する。
 『人間は、自分で自分の歴史をつくる。しかし、好むどおりにつくりはしない。
 自分で自由に選択した事情のもとで、歴史をつくりはしない。そうではなく、直接に見出され、与えられる、過去から受け継いだ事情のもとでつくる。』
 (<ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日>〔=マルクス・エンゲルス八巻選集/第3巻(1974年)p.153-4〕。)
 (8)厳密に言えば、歴史での多様な「諸要因」を際立たせるものだと、それらの諸要因を一つの要因に「還元」するものだと、そして他の全てのものがそれに依存するものと主張するものだと唯物論を意味させるのは、間違っている。
 このような接近方法が誤りを導くものであることは、とりわけプレハノフによって明瞭に指摘された。
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 段落の途中だが、ここで区切る。②へとつづく。

1877/L・コワコフスキ著・第一巻第一四章第1節。

 マルクス(・エンゲルス)の論述自体をL・コワコフスキはどう紹介し、分析し、論評しているかにも関心をもつに至ったので、第一巻の一部の試訳作業も、並行して行うこととする。青年マルクスとか「ヘーゲル左派」とかにまで戻ると、マルクスとレーニンとの関係・差異に言及されない予感がするので、<歴史的唯物論>(「史的唯物論」とされるものの訳語はこれを用いる)あたりから始めることにする。但し、今回部分には、論評類はほとんどない。
 マルクスが先ず使ったと思われる言語からするとドイツ語版の方が適切かもしれないが、英訳書(P. S. Falla による)に慣れてきているので、原則として英語版による。文法構造等が不明になったときにはドイツ語版を参照する(今回の以下では、一回だけあった)。なお、マルクスの諸概念に関する日本での「定訳」に通暁しているわけではないので、不思議な言葉を使って訳している場合があるかもしれないことをお断わりしておく。
 今回に出てくる、マルクス『政治経済学批判/序言』の一部の引用部分は、マルクス=エンゲルス八巻選集のうち第4巻(大月書店、1974年)p.40-41を参照した。この選集はドイツ社会主義統一党(旧東ドイツ共産党)マルクス=レーニン主義研究所編集によるものを基礎にしており、ドイツ語版の邦訳書だ。しかし、そのままを引用して紹介してはおらず、英訳書で再確認しており、かつ、やや異なる場合は英語版の方をむしろ優先しつつ若干の変更も加えている。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳。
 1978年英訳書第一巻p.335~p.338、2004年合冊版p.275~p.278。
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 第一巻//第一四章・歴史発展の主導諸力。
 第1節/生産諸力・生産諸関係・上部構造。
 (1) マルクスは<資本>の叙述の中で、技術の発展と資本の無限の拡張の間の因果関係に論及した。
 同時に、一定の技術的条件のもとでのみ、区別なき歴史のどの時期でもなくして、この傾向は発生し、普遍的になり得る、と論じた。
 資本主義の作動および膨張主義傾向は、社会生活を全ての形態で支配する諸関係(relations)の、過去および現在のより一般的なシステムの特殊な場合だ。
 このシステムに関するマルクスの論述は、歴史的唯物論または歴史の唯物論的解釈と称される。
 これは<ドイツ・イデオロギー>で最初に明瞭に述べられた。しかし、最もよく知られた定式はマルクスの<政治経済学批判への序説>(1859年)の中にある。
 その教理はまた、多様な版型でのエンゲルスの著名な著作で述べられている。
 以下は、マルクスの古典的な叙述だ。//
 (2) 『人間は、彼らの生活の社会的生産で、不可欠で彼らの意思から独立した一定の諸関係へと入る。
 これら生産諸関係は、生産にかかる物質的諸力の発展の特有の段階に対応する。
 これら生産諸関係の総体は、社会の経済的構造を構成する。-これが実在的な土台(foundation)であり、その上に一つの法的および政治的上部構造が立ち、この実在的な土台に一定の特別の諸形態の社会的諸意識が対応する。
 物質的生活の生産様式は、社会的、政治的および精神的な生活過程一般を規定する。
 人間の意識が彼らの存在を規定するのではなく、逆に、彼らの社会的存在が彼らの意識を規定する。
 社会の物質的な生産諸力は、その発展の一定の段階で、現存の生産関係と、または-同じことの法的表現にすぎないが-その中でそれまで作動していた所有関係と、矛盾するようになる。
 これら諸関係は、生産諸力の発展諸形態から、その桎梏(fetters)に変わる。
 そのとき、社会革命の時期が始まる。
 経済的土台の変化とともに、巨大な上部構造の全体が、多かれ少なかれ急速に変革される。
 このような変革(transformation)を考察するにあたっては、自然科学の精確さで決定することができる生産の経済的諸条件の物質的な変革と、人間がこの衝突を意識するようになり、それを闘い抜く、法的、政治的、宗教的芸術的または哲学的な-簡単に言うとイデオロギー的な、諸形態とをつねに区別しなければならない。  
 ある個人に関する我々の見解がその個人の自分自身に関する見解にもとづいていないのと全く同様に、我々は、そのような変革の時期をその時期自身の意識によって判断することはできない。反対に、この意識は、物質的生活の諸矛盾から、生産の社会的諸力と生産諸関係の間の現存する衝突から、説明しなければならない。
 いかなる社会秩序も、そのための余地を残す全ての生産諸力が発展しきる以前には決して消滅しない。新しい高度の生産諸関係は、古い社会自体の胎内でそれらが存在するための物質的諸条件が成熟する以前には出現しない。
 それゆえに、人類はつねに、自分で解決できる課題だけを自分に設定する。
 なぜならば、問題をより詳細に考察すると、その課題そのものは、その解決のために必要な物質的諸条件がすでに存在しているか、または少なくとも形成されつつあるときにだけ発生することが、つねに見られるだろうからだ。
 大まかに言って、我々は、アジア的、古代的、封建的および近代ブルジョア的な生産諸様式を社会の経済的構成の進歩の諸段階として挙げることができる。
 ブルジョア的生産諸関係は、生産の社会的過程の最後の敵対的な形態だ。-個人的な敵対という意味ではなく、諸個人の生活の社会的諸条件から生じてくる敵対だ。
 同時に、ブルジョア社会の胎内で発展している生産諸力は、この敵対を解消するための物質的諸条件を作り出す。
 現在の構成は、それゆえに、人間社会の前史時代の最終の章だ。』//
 (3) 人間の思想(thought)の歴史で、このテクストほどに、論争、批判および解釈の対立を生じさせたものはほとんどない。
 我々はここでは、複雑な議論の全体に立ち戻ることはできない。だが、主要な論点のいくつかを記しておこう。
 (4) エンゲルスは、<社会主義、空想と科学>(英語版への序文、1892年)で、歴史的唯物論をつぎのように定義する。「重要な全ての歴史的事象の究極の原因および変動させる大きな力を、社会の経済的発展のうちに、生産と交換の様式の変化のうちに、その結果としての異なる階級への社会の分裂のうちに、そしてこれら諸階級の他階級に対する闘争のうちに求める、歴史の発展に関する考え方」。
 (5) かくして歴史的唯物論は、つぎの問題に対する解答だ。すなわち、人間の文明に対して最も大きな影響力をもつのはいかなる事情(circumstances)なのか? -この文明という言葉は、思想の諸範疇から労働や政治装置に関する社会的組織までの、意思疎通のための全ての社会的形態を含む広い意味で理解されている。
 (6) 唯物論の観点からする人間の歴史の出発点は、自然との闘争であり、人間が自然に対して、満足するように増大するその必要のために役立たせるべく強いるところの、手段の総体だ。
 人間は、道具を作る点で他の動物と区別される。野獣生物は原始的な方法で道具を使うかもしれないが、自然それ自体のうちにそれを発見する場合に限られる。
 個人が自分で消費するよりも多くの物品を生産することができる程度にまで備品(equipment)が完全なものにいったんなれば、余剰の生産物の配分に関して対立する可能性や、ある範囲の者たちが他人の労働の果実を搾取する可能性が生じる。-すなわち、階級社会だ。
 この搾取がとり得る多様な諸形態が、政治的生活や意識を、換言すると人々が彼ら自身の社会的存在を理解する仕方を、規定する。//
 (7) かくして、我々は、以下のような図式を得る。
 歴史的変化の究極的な主導力=技術・生産諸力・社会が活用し得る備品全体+獲得した技術的能力+労働の技術的部分。
 生産諸力のレベルは、生産諸関係の基底的構造を、つまり社会的生活の基盤(foundation)を決定する。
 (マルクスは、技術それ自体を「土台(base)」の一部だとは見なさない。彼は、生産諸力と生産諸関係の対立について語っているのだから。)
 生産諸関係は、とりわけ、所有諸関係から、換言すると原資材と生産道具を、したがってまた労働の生産物を処分する、法的に保障された権能から成る。
 生産諸関係はまた、労働の社会的分割を含む。そこでは人々は、彼らが従事する生産の種類によってではなく、あるいは生産過程の特定の段階によってではなく、物質的生産に少しなりとも関与するのか、それとも管理、政治的行政または知的作業のような別の作用を行うのか、によって区別される。
 肉体的作業と精神的作業の分離は、歴史上の最大の変革の一つだった。
 この分離を可能とする前提は、ある範囲の者たちが生産過程に関与することなく他者の作業を自分のものにするのを許容すること、したがって社会的不平等だ。
 こうして生み出された余暇(leisure)の容量が、精神的作業を可能にした。そして人類の精神的文化の全体-芸術、哲学および科学-の根源は、社会的不平等にある。
 「土台」あるいは生産諸関係のもう一つの構成要素は、生産物が生産者たちの間で配分され、交換される態様だ。//
 (8) 生産諸関係はさらに、マルクスが上部構造という名称を付与した現象の全体を規定する。
 この上部構造には、全ての政治的諸装置、とくに国家、全ての組織された宗教、政治的団体、法および慣習、そして最後に、世界に関する諸観念で表現される人間の意識、宗教的信条、芸術的創造の形態および法、政治、哲学や道徳に関する諸教理、が含まれる。
 歴史的唯物論の主要な教義的主張は、特定の技術レベルが特定の生産諸関係を求め、それが生産諸関係が時代の推移に応じて歴史的に発生する原因になる、というものだ。
 生産諸関係はつぎに、相互に対立し合う異なる諸要素から成る、特定の種類の上部構造を発生させる。他者の労働の果実を搾取することにもとづく生産諸関係は、対立する利益をもつ諸階級へと社会を分裂させ、そしてその階級闘争は政治的な諸力と諸見解の間の対立としての上部構造に表現されるのだから。
 上部構造は、余剰労働の生産物に対する最大限の分け前を求めて相互に闘う諸階級が用いる武器の総体だ。
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 第1節は終わり。第2節の表題は「社会的存在と意識」。

1874/L・コワコフスキ著・第三巻第二章第3節④。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第二章/1920年代のソヴィエト・マルクス主義の論争。
 1978年英語版 p.74-p.76、2004年合冊版p.847-p.848。
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 第3節・哲学上の論争-デボリン対機械主義④完。
 (24)1931年以降、スターリンのもとでのソヴィエト哲学の歴史は大部分が、党の布令の歴史だ。
 つぎの20年間、出世主義者、情報提供者および無学者から成る若い世代が国家の哲学生活を独占した。あるいはむしろ、哲学研究の廃絶を完成させた。
 この分野で経歴を積んだ者は、一般的に、同僚を裏切るかまたはときどきの党のスローガンを鸚鵡返しに繰り返すことで、そうした。
 彼らは通常は外国語の一つも知らず、西側の哲学に関するいかなる知識もなかった。しかし彼らは、多少ともレーニンやスターリンの著作を暗記しており、彼らの外部世界に関する知識は、主としてはそれらに由来した。//
 (25)「メンシェヴィキ化する」観念論や機械主義に対する非難は、洪水のごとき論考と博士号論文を発生させた。それらの執筆者たちは、党の布令を反復し、哲学の怠業者たちの狡猾な道筋について、憤慨を表現するのをお互いに競い合った。
 (26)議論全体で、いったい何が本当の論争点だったのか?(それがあれば適切な名前は?)
 明らかに、議論は特定の哲学上の考え方とは何ら関係がなく、むろん政治的考え方とも関係がなかった。
 「機械主義」のブハーリンの政策との連関づけあるいは「メンシェヴィキ化する」観念論のトロツキーの政策との連関づけは、最も恣意的な種類の捏造だった。すなわち、非難された哲学者たちはいかなる政治的反対派にも帰属しておらず、彼らの考え方と政治的反対派のそれとの間には論理的関係が存在しなかった。
 (追及者の論拠は、機械主義者は「質的な跳躍」を否定することで「発展の継続性を絶対化し」た、というものだ。それゆえに、ブハーリンの側ではDeborin主義者は「跳躍」を強調しすぎ、そうしてトロツキー主義者の革命的冒険主義を代表する。しかし、これは議論するに値しない薄弱な類似性を根拠にしている。)
 機械主義者はたしかに科学の哲学に<向かい合った>自立性を強調することで非難を受けたが、それは実際には、無謬の党が科学理論の正確さについて発表し、科学者に対して何が探求すべき課題であるかを指示し、その結果はいかなるものであるべきかを語る、そういう権利をもつのを拒否することを意味した。
 しかしながら、このような責任追及をDeborin主義者に向けることはできなかった。彼らは、最も純粋なタイプのレーニン主義者だったように見える。すなわち、初期のDeborinは、「象形文字」に関する自分のプレハノフ的誤りを認めて撤回しており、反射の理論と矛盾するこの教理を支持しているという理由で、機械主義者たちを攻撃していた。
 Deborin主義者たちは、正当な敬意をレーニンに払っていた。したがって、党の報道官たちは、彼らを攻撃するのに役立つ引用文を発見するのに大いに困惑した。ゆえに、攻撃はほとんど全体的に曖昧で、支離滅裂の一般論から成っていた。すなわち、Deborin主義者はレーニンを「低く評価しすぎた」、プレハノフを「過大に評価しすぎた」、弁証法を「理解していない」、「カウツキー主義」、「メンシェヴィズム」へと転落している、等。
 論争点は単純に、この段階での党があれこれの哲学上の考え方か正当だ(right)とか、Deborin主義者はその考え方とは異なる見解を表明した、ということではなかった。
 係争点は、何らかの教理の実体ではなかった。すなわち、後年に採用された弁証法的唯物論の公式で経典的な範型は、事実上はDeborin のそれと区別することのできないものだった。
 責任追及が分かり易くしているように、重要なのは、「党志向性」(party-mindedness)の原理、またはむしろその適用だった。-むろん、Deborinもそれ自体は受容していたのだから。
 知的な観点からはDeborin 主義者たちの書いたものは内容の乏しいものだったが、彼らは純粋に哲学に関心があり、マルクス主義とレーニン主義の特有の原理の有効性を証明しようと最大限の努力をした。
 彼らは、哲学は社会主義建設を助けるだろう、と信じた。そしてその理由で、彼らは哲学者としての能力のかぎりで哲学を発展させた。
 しかし、スターリンのもとでの「党志向性」は、全く異なるものを意味していた。
 継続的な保障にもかかわらず、哲学にそれ自体の原理を作動させたり、政治に用いられるか適用されるかすることのできる真実を発見させたりするという思考は、まったく存在しなかった。
 党に対する哲学の奉仕は、純粋にかつ単純に、次から次に出てくる諸決定を賞賛することにあった。
 哲学は知的な過程ではなく、考えられ得るどのような形態をとっていても、国家イデオロギーを正当化し、宣伝する手段だった。
 じつにこのことは、全ての人文科学について本当のことだったが、哲学の崩落が最も悲惨だった。
 全ての哲学文化が依って立つ柱-論理と哲学の歴史-は、一掃された。すなわち、哲学は微少な技術的支援ですら得られなかった。それは、歴史科学の頽廃の程度は激しかったにもかかわらず、歴史科学にまったく適用されないやり方だった。
 哲学にとってのスターリニズムの意味は、哲学に強いられた何らかの特定の結論にあったのではなく、奴隷状態(servility)が実際にはその存在理由の全体になった、ということにある。
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 ④終わり。第3節、そして第二章が終わり。

1872/L・コワコフスキ著・第三巻第二章第3節②。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第二章/1920年代のソヴィエト・マルクス主義の論争。
 1978年英語版 p.66-p.69、2004年合冊版p.841-p.843。
 英語訳書で文章構造の読解が不可能だと感じた二カ所でのみ、独語訳書を参照した。
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 第3節・哲学上の論争-デボリン対機械主義②。
 (9)Deborin の<序論>は、マルクス主義のプレハノフ学派の典型的な産物だ。
 諸概念の分析は何もなく、マルクス以前の哲学を悩ませた全ての問題を解決するものだと想定された、支持されない一連の主張だけを含んでいる。
 しかしながら、Deborinはプレハノフのように、Bacon、Hobbs、Spinoza、Locke、KantおよびとくにHegelの意義を弁証法的唯物論への途を準備するものと称えて、マルクス主義と過去の哲学全体との連環(link)を強調する。
 彼は、エンゲルスとプレハノフが定式化した線にもとづいて、観念論、経験主義、不可知論および現象主義を批判する。以下に示す部分的抜粋によって明らかになるように。//
 『さて、形而上学は、全ては存在する、しかし何も成らない、と主張し、現象主義は、全ては成る、しかし何も存在しない、つまり、無が現実に存在する、と主張する。
 弁証法が教えるのは、存在と非存在の統合は成りつつある、ということだ。
 具体的な唯物論的用語ではこれの意味は、全ての根拠は継続的な発展の状態にある物質だ、ということだ。
 かくして、変化は現実的かつ具体的であり、他方で、現実的かつ具体的なものは変化し得る。
 この過程の主体は絶対的に現実の存在であり、現象主義的な無に反対するものとしての「実体的な全て」(substantive All)だ。<中略>
 形而上学のいう性質なき不可変の実体と、実体の現実を排除することを想定する主観的かつ可変の状態との間の矛盾は、つぎの意味での弁証法的唯物論によって解消される。すなわち、実体、物質は動きと変化の永続する状態にある、性質または状態は客観的な意味をもつ、物質は原因と根拠づけ、質的な変化と状態の「主体」だ、という意味での弁証法的唯物論によって。』
 (<弁証法的唯物論哲学序論>第4版、1925年、p.226-7.)
 (10)この文章部分は、引用した本での、および他の彼の著作で見られる、Deborin のスタイルの典型だ。
 「弁証法的唯物論が教えるのは、…」、あれこれの哲学から「弁証法的唯物論は正しい部分を継受する」。
 主観的観念論者は物質を理解しないがゆえに間違っており、客観的な観念論者は物質が第一次的で精神は第二次的なものであることを認識しないがゆえに間違っている、等々。
 全ての場合に、通常は極端に曖昧に個々の結論が述べられる。そして、それを論拠で支える試みはない。
 彼らの対敵がそうである以上に、いかにして現象主義者が間違っているかを我々が知るのかは説明されない。 
 弁証法的唯物論はそのように我々に語るのであり、それが存在する全てなのだ。
 (11)弁証法論と「形而上学」の対立は、前者は我々に全ての物は連結し合っており、孤立している物は何もない、ということを教える、ということだ。
 全ては恒常的な変化と発展の状態にある。この発展は現実それ自体に内在する現実の矛盾の結果であり、質的な「跳躍」の形態をとる。
 弁証法的唯物論が述べるのは、我々は全てを知り得る、我々の知識を超える「物それ自体」は存在しない、人は世界の上で行動することで世界を知るに至る、我々の概念は「客観的」であって「事物の本質」を包摂する。
 我々の印象も「客観的」で、すなわちそれは客体を真似ることはないけれども、「反映」する(ここでDeborinは、レーニンが非難した誤りについてプレハノフを引き継ぐ)。
 印象と客体の合致は、客体にある同一性と相違が、主観的な「反射」での同一性と相違とに、適合していることにある。
 これは、Mach およびロシアでの彼の支持者たちであるBogdanov やValentino が拒否したものだ。
 彼らによれば、精神的な(psychic)現象だけが現実であり、「我々の外」の世界は存在していない。
 しかし、その場合に、自然の法則は存在せず、したがって何も予見することはできない。
 (12)彼らの著述は教義的で単純で、かつ実質に乏しいものだったが、Deborin とその支持者たちには、歴史的研究の必要を強調し、古典的文献に関する公正な知識で一世代の哲学者たちを訓練する、という長所があった。
 さらにまた、マルクス主義の「質的な」新しさを強調しつつも、伝統にあるその根源に、とくにヘーゲルの弁証法との連環に、注意を向けた。
 Deborin によれば、弁証法的唯物論はヘーゲルの弁証法とフォイエルバハ(Feuerbach)の唯物論を統合したもの(synthesis)だった。弁証法的唯物論には、これら二つの要素が変形され、かつ「高い次元へと止揚され」ている。
 マルクス主義は「統合的な世界観」で、知識に関する一般的方法論として弁証法的唯物論を、また、別の二つの特有の見地をも、すなわち自然の弁証法と歴史の弁証法、あるいは歴史的唯物論を、構成した。
 エンゲルスが述べたように、「弁証法」という用語は三重の意味で用いることができる。
 「客観的」弁証法は、諸法則または現実の「弁証法」的形態と同じものだ。
 「弁証法」はまた、これら諸法則を叙述したものを意味する。
 あるいは第三に、普遍世界〔=宇宙〕の観察方法、すなわち広義での「論理」を意味する。
 変化は、自然と人間史のいずれにも同等に適用される一般的な規則性をもつ。そして、この規則性の研究、すなわち哲学は、したがって、全ての科学を統合したものだ。
 科学者がこの方法論的観点から正しく出発し、自分たち自身の観察の意義を理解するためには、哲学の優先性を承認しなければならない。科学者はその哲学に対して、「一般化」のための素材を提供するのだ。
 かくして、マルクス主義は、哲学と正確な科学との間の恒常的な交流を求めた。
 自然科学や社会科学により提供される「素材」なくしては、哲学は空虚なものだ。しかし、諸科学は、それらを指導する哲学なくしては盲目だ。
 (13)この二重の要件がもつ目的は、十分に明確だった。
 哲学が科学の結果を利用する意味は、粗く言って、自然科学者たちは自然の客体が質的な変化を進行させている仕方を示し、そうして「弁証法の法則」を確認する、そのような例を探し求めなければならない、ということだ。
 哲学が科学を自らの自然へと覚醒させ、盲目にならないよう保たせるのは、科学の内容を監視する、およびその内容が弁証法的唯物論に適合するのを確保する、そういう資格が哲学にはある、ということを意味する。
 後者〔弁証法的唯物論〕は党の世界観と同義語であるがゆえに、Deborin とその支持者たちは、自然科学であれ社会科学であれ、全ての科学の内容に関する党の監督を正当化する理由を提供した。
 (14)Deborin は、自然科学での全ての危機は物理学者がマルクス主義を習得しておらず、弁証法の公式を適用する仕方を知らないことによる、と主張した。
 彼は、レーニンのように、随時的にであれ継続的にであれ、科学の発展はマルクス主義哲学の出現へと至るだろう、と信じた。
 (15)このような理由で、Deborin とその支持者たちは、機械主義者たちは科学の自律性と哲学的諸前提からの自立に固執することで致命的な誤りに陥っている、と糾弾した。
 このように理解される唯物論は、他の存在論的(ontological)教理以上に経験論的中立主義と共通性があり、いかなる外界の要素も全てなくしての自然の観察に他ならないとする、唯物論の性質に関するエンゲルスの論及を想起させる。
 Deborin は、自然科学は何らかの哲学的な根拠を承認しなければならない、ゆえに哲学から誘導的役割を剥奪し、またはそれを全く無視するいかなる試みも、実際には、ブルジョア的で観念論的な教理に屈服することを意味することになる、と主張した。
 全ての哲学上の観念はブルジョア的であれプロレタリア的であれ階級に基礎があり、機械主義者は哲学を攻撃することで、社会主義と労働者階級の敵を支援しているのだ。
 「質的な跳躍」の存在が否定され、全ての発展は継続的だと主張されるとしても、そうしたことは、結局は「跳躍」の例である革命の理念を実現することを意味しはしなかったのではないか?
 要するに、機械主義者たちは、哲学的に間違っているのみならず、政治的には修正主義者でもあったのだ。//
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 ③へとつづく。

1870/L・コワコフスキ著・第三巻第二章第3節①。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第二章/1920年代のソヴィエト・マルクス主義の論争。
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 第3節・哲学上の論争-デボリン対機械主義①。
 (1)ブハーリンの意図とは別に、彼の書物は1920年代に、対立する二つの派、「弁証法論者」と「機械主義者」の間の活発な論争に貢献した。
 この論争は、定期雑誌<Pod znamenem Marksizma >(マルクス主義の旗の下で)の頁上で繰り広げられた。
 1920年創刊のこの雑誌は、ソヴィエト哲学の歴史上重要な役割を果たした。また、党の理論的機関の一つだった。
 (創刊号はトロツキーからの手紙も載せていた。しかしながら、それはたんに一般論から成るにすぎなかった。)
 発表された諸論考は全て公称マルクス主義者のものだったが、最初の数年間は、例えば、Husserl のような、ロシア外部の当時の哲学に関する情報を読者は得ることができた。そして、論述の一般的なレベルは、後年の標準的な哲学著作よりもはるかに高かった。
 (2)かりに論争の要点を一つの文章で表現してよいとすれば、機械主義者は自然科学の哲学の介入への対抗を代表し、一方で弁証法論者は科学に対する哲学の優越性を支持した、そしてソヴィエトのイデオロギー的発展の特徴的傾向を映し出した、と記し得るだろう。
 機械主義者の考え方は否定的だと称し得る一方で、弁証法論者は哲学に大きな重要性を与え、自分たちはその専門家だと考えた。
 しかしながら、科学とはどのようなものであるかに関して、機械主義者はより十分に考えていた。
 弁証法論者はこの分野については無学であり、科学を「一般化」して統合する哲学上の必要性に関して一般論的定式化をすることに限定していた。
 他方で彼らは、哲学の歴史については機械主義者よりもよく知っていた。
 (党は結局は両派をともに非難し、無知の両形態の弁証法的な統合を生み出した。)
 (3)機械主義者はマルクス主義を受容したが、哲学はたんに自然科学と社会科学の全ての総計を示すものなので、科学的世界観には哲学の必要はない、と主張した。
 雑誌の最初の諸号の一つに、O. Minin による論考が掲載されている。この人物については他に何も知られていないが、機械主義者の反哲学的偏見を示す極端な例として、しばしば引用された。
 Minin がきわめて単純な形で述べた考えは、封建領主はその階級利益を増大させるために宗教を用い、ブルジョアジーは同様に哲学を用いる、というものだった。他方で、プロレタリアートはいずれも拒否し、その力の全てを科学から引き出す。
 (4)多かれ少なかれ、このような哲学に対する嫌悪は、機械主義派の者たち全体によく見られるものだった。
 最もよく知られた支持者は Ivan I. Skvortsvov-Stepanov (1870-1928)と、著名な物理学者の子息の Arkady K. Timiryazev (1880-1955)だった。
 すでに別の箇所でその考え方に論及したA. Akselrod も自称「機械主義的世界観」を公言していた。しかし、彼女はプレハノフの弟子として、この派の別の者たちよりも穏健な立場を採った。
 (5)機械主義者たちは、エンゲルスの著作にある程度は支えられて、マルクス主義の観点からは、特定の科学を指示し、発見物の正否を判断する権利を要求する「科学の中の科学」のようなものは存在しない、と考えた。
 対立派が理解する弁証法なるものは、余計なものであるばかりか科学的考究とは矛盾している。それは科学の知らない世界観の全体や範疇を持ち込むもので、マルクス主義の科学的な革命精神と社会主義社会の利益といずれとも疎遠なヘーゲル的な継承物だ。
 科学の当然の意図は、全現象を物理的または化学的過程へと整理することで全ての現象をできるだけ正確に説明することだ、他方で質的な飛躍、内部的矛盾等があるという弁証法論者は、反対のことをしている。弁証法論者たちは、実際には現実の多様な分野の間のその言う質的な相違を、観念論者から虚偽の全体性を借用することによって確認しているのだ。
 全ての変化は最終的には質的な条件へと切り縮めることができる。そして、例えばこのことが生きている現象に適用されないという考え方は、もはや観念論的な生気論(vitalism)にすぎない。
 確かに、正反対の物の間の闘いを語ることはできるが、概念の内部的分裂というヘーゲル的意味においてではない。すなわち、その闘いは物理学や生物学で、あるいはいかなる特定の弁証法的論理に頼る必要のない社会科学で、観察され得るような矛盾する力の間のものだ。
 科学的考究は完全に経験にもとづいていなければならない。そして、全てのヘーゲル的な弁証法の「範疇」は、経験上のデータへと単純化することはできない。
 弁証法論者の立場は明らかに自然科学の進展によって掘り崩されているのであり、そのことは、宇宙での全ての現象は物理的および化学的な用語で表現することができるということを徐々にだが着実に明らかしてきている。
 切り縮めることのできない質的な相違と自然過程の非継続性を信じるのは全く反動的だ。弁証法論者が、「偶然」は主観的なもので個別の原因に関する我々の無知を示す語にすぎない、と論じているように。//
 (6)「弁証法論者」の立場は、1925年にエンゲルスの<自然の弁証法>が公刊されたことでかなり強くなった。この著作は、機械主義と哲学的ニヒリズムに対抗し、かつ科学の哲学的および弁証法的な解釈を擁護するための十分な武器を提供した。
 1929年にレーニンの<哲学ノート>が出版されて、さらに強い支援になった。この著作は、ヘーゲル弁証法の唯物論的範型の必要性を強調し、弁証法の「範疇」の長いリストを列挙し、対立物の闘争と統合の原理はマルクス主義の中心にある、と宣告した。//
 (7)二つの対立する派のうちでは弁証法論派が多数になり、科学的な諸装置をより十分に備えることになった。
 彼らの指導者で最も活動的な執筆者は、Abraham Moiseyevich Deborin (1881-1963) だった。
 彼はKovno で生まれ、若いときに社会民主主義運動に参加し、1903年以降はスイスにいた<エミグレ>だった。
 彼は最初はボルシェヴィキで、のちにメンシェヴィキ派に加わった。
 革命後には数年の間は非党員マルクス主義者だったが、1928年に再入党した。
 1907年に彼は<弁証法的唯物論哲学序論>を執筆し、1915年になって出版された。、
 この書物は何度も重版されて、1920年代でのロシアの哲学教育の主要な文献だった。
 彼は党員ではなかったけれども共産主義アカデミーや赤色教授研究所で講義をし、若干の著作を発表した。
 1926年以降は<Pod znamenem Marksizma >の編集長で、この雑誌はこのときから、機械主義者の論考を掲載するのを中止し、純粋な弁証法論者のための雑誌機関になった。
 (8)自分で執筆しはしなかったが、Deborin は哲学に精通していた。
 例えばプレハノフには見出せない考えを、彼はほとんど発していない。しかし、のちのソヴィエトの哲学者たちと比べると、彼とその支持者たちは哲学の歴史に関する公正な知識をもち、それらを論争上の目的のために巧く用いることができた。//
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 ②へとつづく。

1868/L・コワコフスキ著・第三巻第二章第2節②。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第二章/1920年代のソヴィエト・マルクス主義の論争。
 第2節・哲学者としてのブハーリン②完。合冊版、p.836~p.838。
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 (14)一般的には、弁証法全体は平衡状態(equilibrium)に対する妨害と復活の無限の過程へと簡略化されてよい。
 諸現象の「機械主義的」見方に対して「弁証法的」見方を対峙させることには、もはや何の目的もない。現代では、機械それ自体が弁証法的になっているごとく。すなわち、我々は物理学から、全てが他の全てに影響を与える、そして自然界に孤立しているものはいっさい存在しない、ということを学習しなかったのか?
 全ての社会現象は、人間の自然との闘いを原因とする、対立する力の闘争だとして説明することができる。 
 (にもかかわらす、ブハーリンは、共産主義が最終的に建設されればそれを最後に平衡状態は確立されてしまう、と考えたように見える。
 しかしながら、今のところは、技術的問題についての後退をも不可避的に含む革命的な時代に我々はいるのだ。)
 生産関係は単直に言って、「生きている機械」だと見なされた人間たちの、労働過程にかかる共同作用だ。
 この過程に従事している間に人々が考えたり感じたりしているということは、生産関係はその性質上精神的(spiritual)なものだということを意味しはしない。すなわち、精神的なものは全て、それらが存在するのは物質的な必要性があるからであり、生産と階級闘争に奉仕している。
 例えば、Cunow とTugan-Baranovski が主張するように、ブルジョア国家が全階級の利益となる働きをする、ということはあり得ない。
 ブルジョアジーはたしかに、自分たちのために、公共的業務の分野で活動することを強いられる。例えば、道路の建設、学校の維持、科学知識の普及。
 しかし、これらは全てが純粋に資本主義者の階級利益の観点から行われるのであり、そうして、国家は階級支配のための道具に他ならなくなる。//
 (15)ブハーリンは<史的唯物論>の中で、「平衡状態の法則」以外に、社会生活に関する他のいくつかの法則を定式化した。
 そのうちの一つ、「社会現象の物質化の法則」は、イデオロギーと精神生活の多様な形態は、それ自体の実存性があって一層の進化の出発地点となる、そういう物体に-書籍、図書館、美術画廊等に-具現化される、というものだ。
 (16)ブハーリンのこの書物は極端に単純なもので、ある範囲ではそれはレーニンの<経験批判論>を上回りすらする。
 レーニンの論拠は論理的に無価値のものだったが、それでも彼は少なくとも論じようとした。しかし、ブハーリンは論じようとすらしていない。
 ブハーリンの著作は、教義的にかつ無批判に、使われる概念を分析する試みをいっさいすることなく明言される「諸原理」、「根本的諸点」の連続だ。また、それらは、諸教理を定式化するとすぐに生じる、そして繰り返して批判的に進められた、史的唯物論に対する反対論を論駁しようともいっさいしないで語られている。
 彼がピアノが存在していなければ誰もピアノを弾けないということで芸術が社会条件に依存していることが証明される、と我々に述べていることは、その推論のレベルを明らかに例証している。
 思考の未熟さの例は、つぎのように幼稚に信じていることだ。すなわち、未来の科学は技術的発展の光を当てて社会革命の日付を「客観的に」予言することができるだろう。
 さらには、人々が書物を執筆する「科学的法則」、あるいは宗教の起源に関する根拠なき幻想、等々。
 この「手引き書」の特質は、のちのマルクス主義文献の多くのそれのように、「科学的」という語を絶え間なく使用していることでありり、それ自体の言明がこの性格を特別の程度に有すると執拗に主張していることだ。//
 (17)ブハーリンの書物の凡庸さを、グラムシ(Gramsci)やルカチ(Lukács)のような知的なマルクス主義批判者は見逃さなかった。彼らはとくに、ブハーリンの「機械主義」の傾向に注意を向けた。
 ブハーリンは社会を、生起する全てはそのときどきの技術の状態によって説明することのできる、結び合った全体だと考えた。、
 人々の思考や感情、人々が表現する文化、人々が作り出す社会制度、これらは全て、自然法則がもつ不変の規則性を伴う生産力によって生み出される。
 ブハーリンは、「平衡状態の法則」でもって何を明瞭には意味させたいのかを、説明しない。
 社会での平衡状態は継続的に攪乱されかつ復活されている、そして平衡状態は技術のレベルと生産関係の「合致」に依存する、と我々は語られる。
 しかし、ある所与のときにこの合致が存在するか否かを決定する際に用いる規準(criteria)に関する示唆は、いっさい存在しない。
 実際にブハーリンは、平衡状態の攪乱を革命または全ての社会転覆と同一視しているように見える。
 かくして「平衡状態の法則」が意味するのは、危機と革命は歴史上に発生した、そして疑いなくもう一度発生するだろう、ということのように見える。
 社会現象の研究はそれ自体が社会現象で、そのようなものとして歴史的な変化を発生させるのを助ける、ということをブハーリンの頭は思いつかなかった。
 ブハーリンは、天文学が惑星の運動を我々に教えるのと同じ方法で、未来に関する「プロレタリアの科学」は歴史的事象を分析して予言するだろうと信じていた。//
 (18)ブハーリンの政治的地位のおかげで、彼のマルクス主義に関する標準版は長らく、党の「世界観」を最も権威をもって言明したものと見なされた。スターリンの著作がそうなったほどには、忠誠者に対する拘束力あるものにはならなかつたけれども。
 彼の<史的唯物論>は実際、スターリンが自分自身の手引きとしたほとんど全てのものを含んでいた。
 スターリンは、「平衡状態の法則」に言及しはしなかった。
 しかし彼は、ブハーリンの「弁証法の法則」を継受して、歴史的唯物論について哲学上の唯物論の一般原理の「適用」または特殊な場合であると説明した。
 その基礎をエンゲルスに、とくにプレハノフに見出すことができるこのような接近方法は、ブハーリンによって経典的マルクス主義の本質部分だとして提示された。//
 (19)のちにブハーリンがその栄誉ある地位から転落して「機械主義」が非難されたとき、つぎのことを示すのが、党哲学者たちの仕事になった。すなわち、彼の「機械主義」的誤りとその政治上の右翼偏向は分かち難く結びついている、そしてレーニンが正当に譴責した弁証法の無知こそが彼が富農(kulak)を防衛し集団化に反対した根本原因だ。
 しかしながら、この種の哲学と政治の連関づけは全く根拠がなく、わざとらしい。
 ブハーリンの著作にある曖昧な一般論は、特定の政治的結論の根拠を何ら提供していない。
 但し、当時にまたはのちに誰も論難しなかったつぎのような前提命題は除く。例えば、プロレタリアートの社会主義革命は、最終的に世界を制覇するはずだ。宗教とは闘わなければならない。プロレタリア国家は、産業の成長を促進するはずだ。
 より厳密な結論について言えば、最も矛盾する趣旨が、同じ論理を使って同じ理論上の定式から演繹されている。教理(doctrin)は事実上、政治に従属している。
 「一方で」土台は上部構造を決定するが、「他方で」上部構造は土台へと反作用するのだとすれば、いかなる程度であっても、またいかなる手段をとるのであっても、「プロレタリア国家」は経済過程を規整するだろうし、つねに教理と合致して行動することになるだろう。
 ブハーリンは、都市と田園地帯の間の経済の均衡を混乱させるとスターリンを責め立てた。しかし、彼の「平衡状態の法則」は、いつそしてどのような条件のもとであれば現在の平衡状態が維持されるのかそれとも破壊されるのかに関する手がかりを、何ら提供しなかった。
 最終的な安定が共産主義のもとで達成されるまでは、平衡状態は攪乱されつづけるだろう、そしてスターリンの「上からの革命」(revolution from above)、換言すると農民層の強制的収奪、のごとき政策は、平衡状態へと向かう社会の一般的趨勢と完全に合致しているかもしれない。なぜならば、国有産業と私的農業の間の矛盾を除去すること、そのことで不均衡の要因を取り除くことは、政策の目標だからだ。
 Cohen はつぎのことを正しく(rightly)観察している。すなわち、ブハーリンが手引書を執筆したのは、党の言葉遣いでは極端に「主意主義的な」(voluntaristic)ものと称される経済現象に対する態度の実例を彼自身が示したときだった。ブハーリンは、経済生活の全ては行政的かつ強制的な手段によって完全に十分に規整され得る、プロレタリアートの勝利ののちには全ての経済法則が弁証法的に取り替えられるだろう、と信じた。
 ブハーリンはのちに戦時共産主義の考えを放棄し、ネップのイデオロギストになった。
 しかし彼は、<史的唯物論>の諸テーゼを変えることはなかった。
 そのゆえに、彼の著作の中に1929年の彼の政策のための着想を探し出そうというのは馬鹿げたことだ。
 ついでに言えば、戦時共産主義という観念もまた、それから演繹することはできない。
 我々は、もう一度、かかる曖昧な哲学的言明はいかなる政策を正当化するためにも用いることができる、とだけ言おう。あるいは、同じことに帰一するのだが、かかる曖昧な哲学的言明は、いかなる政策もいっさい正当化しはしない。
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 第2節終わり。

1867/L・コワコフスキ著・第三巻第二章第2節/ブハーリン①。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第二章/1920年代のソヴィエト・マルクス主義の論争。
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 第2節・哲学者としてのブハーリン①。合冊版、p.833~p.836。
 (1)共産主義の際立つ特質の一つは、政治生活における哲学の重要性についての確信だ。
 まさに最初から、換言すればプレハノフの初期の著作から、ロシア・マルクス主義は、哲学、社会学および政治学に関する諸問題の全てを包摂しそれらに回答を与える統合的「システム」へと発展する傾向を示した。
 「真の」哲学はいったい何を構成要素とするのかについて個々人で異なってはいたけれども、彼らはみな、党には明瞭に定義された哲学上の考え方(outlook)が存在しなければならないし、存在した、この考え方は反論を許すことができない、ということに合意していた。
 ロシアには事実上、ドイツ・マルクス主義には多くあった、論理的に別個の二つの提示命題の中で意見表明をする哲学的「中立主義」に対応するものがなかった。
 第一は、社会現象に関する科学的理論としてのマルクス主義は、その他の科学からの哲学上の前提はもはや必要がない、とする。
 第二は、党は政治綱領と歴史的社会的教理に拘束されるが、構成員たる党員は自由にいかなる宗教も哲学も支持することができる、とする。
 レーニンはこれらいずれの考え方も激烈に攻撃した。そうすることで彼は、完全にロシア・マルクス主義の代表者だった。
 (2)その結果として、革命後の党執行部には、哲学教育にかかわり合う時間がなかった。
 しかしながら、まだ成典化された哲学は存在していなかった。
 マルクスとエンゲルスを別にすれば、プレハノフは主要な権威だと見なされた。
 レーニンの経験批判論に関する著作は、全ての者が参照すべく義務づけられるような標準的なテクストの地位を決して得ていなかった。
 (3)ブハーリンは、レーニンの後で、党の一般的哲学および社会的教理を体系的に提示することを試みた最初の党指導者だった。
 彼には、他のたいていの者たちよりも、この仕事をする適格性があった。国外逃亡中の年月の間に彼は、Weber、Pareto、Stammler その他の者の非マルクス主義的社会学の著作を研究していたので。  
1921年に彼は、<史的唯物論 : マルクス主義社会学の一般向け手引き>(英訳書、1926年)を出版した。
 レーニンの<経験批判論>は特定の一つの異説に対する攻撃だったが、それとは違って、ブハーリンのこの著作は、マルクス主義教理に関する一般的な説明を行うことを趣旨としていた。
 長年にわたって、この著作は党幹部たちを理論的に鍛えるための基本的な教科書として用いられた。これの重要性は、これが持つ長所にあるというよりも、その用いられたという事実にある。//
 (4)ブハーリンは、マルクス主義は社会現象に関する厳格に科学的な、かつ唯一科学的で包括的な理論だ、マルクス主義はその現象を他の科学がそれぞれに固有の対象を扱うように「客観的に」取り扱う、と考える。 
 それゆえに、マルクス主義は歴史的進化を的確に予見することができる。他の何もそうすることはできない。
 マルクス主義は全ての社会理論のように階級理論でもあるのはそのとおりだが、ブルジョアジーよりも広い精神的視野をもつプロレタリアートに託された理論だ。プロレタリアートの意図は社会を変革することであり、だから彼らは将来を見通すことができる。
 かくしてプロレタリアートのみが社会現象に関する「真の(true)科学」を生み出すことができるし、実際に生み出した。
 この科学は歴史的唯物論、またはマルクス主義社会学だ。
 (「社会学」(sociology)という語はマルクス主義者によって是認されておらず、レーニンは「社会学」それ自体は-たんにあれこれの理論にすぎないのではなく-ブルジョアが考案した語だとして拒絶した。
 しかし、ブハーリンは明らかに、科学的考究の特定の分野を表示するために既に用い得る語として、これを適応させようとした。)//
 (5)ブハーリンによれば、歴史的唯物論〔=史的唯物論〕は、社会科学と自然科学との間には探求方法についても対象に対する因果関係的接近についても何ら差違はない、という前提に立つ。
 全ての歴史的進歩は、不可変の因果法則に依っている。
 Stammler のような理論家による反対論はあるにもかかわらず、人間の目的というものはこれに違いをもたらさない。意思と目的はそれら自体が、他の全ての場合と同様に条件づけられている。
 自然および社会のいずれの分野の目的的(purposive)行動の理論も全て、非決定主義理論であり、Deity の仮定へとまっすぐに至ることになる。
 人間は、自由な意思をもたない。その行動の全ては因果的に決定されている。
 いかなる「客観的」意味においても、偶然(chance)というようなものは存在しない。
 我々が偶然と称しているものは、因果関係の二つの連鎖が交差したものだ。そのうちの一つだけが我々に知られている。
 「偶然」という範疇は、我々が無知であることをたんに表現しているにすぎない。//
 (6)必然性の法則は全ての社会現象に適用されるので、歴史の方向を予言することは可能だ。
 この予言は「まだ今のところ」正確ではないので、個々の事件の日時まで予告することはできない。しかし、それは、我々の知識がまだ不完全なものであることによる。//
 (7)社会学での唯物論と観念論の対立は、根本的な哲学上の論争の特殊な例だ。
 唯物論は、人は自然の一部だ、精神(mind)は物質の作用だ、思考(thought)は物理的な脳の活動だ、と主張する。
 これら全ては、観念論によって反論されている。観念論は宗教の一形態にすぎず、科学によって効果的に論駁されている。
 この狂気の唯我論(solipsism)または人または梨のような事物は存在しないとするプラトンの考えを真剣に受け取る者にとっては、それらの「観念(ideas)」にすぎないのか?
 (8)そして社会分野では、精神(spirit)と物質のうちの優先性に関する問題が生じている。
 科学の、すなわち歴史的唯物論の観点からは、物質的な現象つまりは生産活動が、観念、宗教、芸術、法その他の精神的現象を決定する。
 しかしながら、我々は、一般的法則が社会的論脈の中で働く態様を観察するよう留意しなければならず、また、単直に自然科学の法則を社会的用語へと入れ替えてはならない。//
 (9)弁証法的唯物論が教えるのは、宇宙には永遠のものは存在しないが、全ての事物は相互に関係し合っている、ということだ。
 私有財産、資本主義および国家は永続的なものだと何とかして主張しようとしているブルジョア歴史家は、このことを否定する。
 変化は、内部的な矛盾と闘争から現実に発生している。なぜなら、他の全ての分野でのように社会では、全ての平衡状態は不安定で、いずれは克服される。そして、新しい平衡状態は新しい原理にもとづかなければならない。
 この変化は、量的な変化が蓄積したことから帰結する質的な飛躍によって生じる。
 例えば、水は熱せられると一定の瞬間に沸点に到達し、蒸気となる。-これが、質的な変化だ。
 (ちなみに、我々は、エンゲルスからこの例を繰り返したスターリンまで「古典的マルクス主義著作者」のうち誰も、水が蒸気となるには摂氏100度に到達する必要はないということを観察しなかった、ということに気づいてよい。)
 社会革命は同種の変化であり、そしてこれが、質的な飛躍による変化という弁証法の法則をブルジョアジーが拒否する理由だ。//
 (10)変化と発展のとくに社会的な形態は、人間と自然の間のエネルギー交換、すなわち労働に依存している。
 社会生活は生産によって条件づけられ、社会の進化は労働生産性の増大を条件とする。
 生産関係が思考(thought)を決定する。しかし、人間は相互に依存し合いながら品物を生産するように、社会は諸個人のたんなる集まり(collection)ではなく、その全ての単位が相互に影響し合う、真の集合体(aggregate)だ。
 技術が、社会発展を決定する。
 他の全ての要因は、二次的なものだ。
 例えば、地勢(geography)はせいぜいのところ人々が進化する程度に作用することができ、進化それ自体を説明することはできない。
 人口統計上の変化は技術に依存しており、それ以外にではない。
 進化の種族諸理論について言うと、プレハノフはそれらを明確に論難していた。//
 (11)「究極的には」、人間の文化の全側面は技術の変化によって説明することができる。
 社会の組織は、生産力という条件に従って進化する。
 国家は支配階級の道具であり、その特権の維持に奉仕する。
 例えば、宗教はいかにして発生したのか?
 きわめて簡単だ。原始社会には部族の支配者がおり、人々はその発想を自分たち自身へと転化し、肉体を支配する精神(soul)という観念へと到達した。
 そして彼らは、その精神を自然全体へと転化し、宇宙に精神的な性質を与えた。
 こうした幻想は結局は、階級の分化を正当化するために用いられた。
 再び言うと、知られざる力としての神(God)という観念は、資本主義者が自分たちで支配できない運命に依存していることを「反映」(reflect)している。
 芸術は同様に、技術発展と社会条件の産物だ。
 ブハーリンは、こう説明する。未開人はピアノを弾くことができない。なぜなら、ピアノが存在していなければそれを演奏することも、そのために楽曲を作ることもできない。
 頽廃的な現代芸術-印象主義、未来主義、表現主義-は、ブルジョアジーの衰亡を表現している。//
 (12)これら全てにかかわらず、上部構造に全く重要性がないというのではない。
 ブルジョア国家は、結局のところ、資本主義的生産の一つの条件だ。
 上部構造は土台に影響を与える。しかし、いつの時点であっても、上部構造は「究極的には」、生産力によって条件づけられている。
 (13)倫理について言えば、これは階級社会の物神崇拝主義(fetishism)の産物で、階級社会とともに消失するだろう。
 プロレタリアートには、倫理は必要がない。倫理がそのために生み出す行動の規範は、性格において技術的なものだ。
 椅子を制作する大工が一定の技術上の規則に適合させるのと全く同じく、プロレタリアートは、社会構成員の相互依存に関する知識にもとづいて、共産主義を建設する。
 しかし、このことは、倫理と何の関係もない。//
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 ②へとつづく。

1848/L・コワコフスキ・第一巻「序説」の試訳②。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流。
 第一巻/創設者たち(英/The Foundaders)・生成(独/Entstehung)。
 前回とほぼ同様に、英語版から始めてドイツ語版に最終的には依った。段落の区切りも後者がやはり一つ多いが、段落数字も後者の区切りによる。
 (注1) はドイツ語版にのみある。そこでのThomas Mann の原文引用部分は、以下では割愛した。
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 第一巻/創設者たち(英/The Foundaders)・生成(独/Entstehung)。
 序説(Introduction/英語版1-7頁、Einleitung/ドイツ語版15-21頁)
 (7) 我々がイデーの歴史研究者としてイデオロギーの外側に立つとしても、そのことは、我々がその中で生きる文化の外側にいることを意味しない。
 全く逆だ。すなわち、諸イデーの歴史、とくに影響力がありかつ最も影響力をもち続けているイデーの歴史は、一定の程度で、自分たち自身の文化を自己批判する試みだ。
 私はこの書物で、Thomas Mannがナツィズムとドイツ文化との関係に向かいあって<ファウスト博士>で採用した立脚点から、マルクス主義を研究することを提案する。
 Thomas Mann は、ナツィズムはドイツ文化とは全く関係がない、そしてナツィズムはドイツ文化を恥知らずに否定して戯画化したものだ、と述べることができただろうし、そう述べる正当な資格ももっていただろう。
 彼はそう語ってよかった。だが実際には、彼はそう語らなかった。
 Thomas Mann はその代わりに、いかにしてヒトラーの運動やナツィのイデオロギーのような現象がドイツで発生したのか、そしてドイツ文化のうちの何がそれを可能にしたのか、という問題を設定した。
 彼は、こう書いた。ドイツ人は誰でも驚愕しつつ、ナツィズムの残忍さのうちに、最良の(これが重要な点だが、最良の)代表者たちが感知することのできた、グロテスクに歪曲された文化の特質を再認識するだろう、と (注1)。
 彼はまた、ナツィズムの精神的な起源に関する問題を簡単に回避してしまうことに反対し、ナツィズムはドイツ文化が生んだ何かに正当性を求める資格がない、とする説明に満足しなかった。
 Thomas Mann は、彼自身がその一部であり共作者である文化を、率直に自己批判した。
 実際に、ナツィ・イデオロギーはNietzsche を「戯画化したもの」だとする定式を語るだけでは十分ではない。戯画(caricature)の本質は、我々が原物を理解するのを助けることにあるのだから。
 ナツィスは彼らの超人たちに、<権力への意思>を読むように命じた。そして、彼らはこの本の代わりに<実践的理性批判>をも推薦することができたかのごとく、そのことは有らずもがなの偶然だった、とは言い難い。
 自明のことだが、ここで問題になっているのは、Nietzscheの「罪責(Schuld, guilt)」ではない。彼の書物が利用されたことについて個人として責任があるか否か、という問題ではない。
 だが、それでもなお、彼の著作が利用されたことは、不穏な気持ちの理由になければならならず、Nietzsche のテキストを理解するに際して、些末な偶然だとして単純に無視してしまうことはできない。
 聖パウロは個人的には、15世紀末のローマ教会や異端審問(Inquisition)について、責任はなかった。
 しかし、キリスト教徒も非キリスト教徒も、下劣な法王や司教たちの行為によってキリスト教が堕落して歪められた、という申述に満足することはできなかった。
 審問者はむしろ、犯罪や悪行だとする根拠として役立ったものを聖パウロの書簡は一切何も含んでいなかったのか否か、そして個々に見てそれはいったい何だったのか、を問うべきだっただろう。
 マルクスとマルクス主義の問題に対する我々の態度は、これと同じでなければならない。そして、この意味で、この著作での叙述は、たんに歴史的な記述をするものだけではなく、プロメテウス的人間中心主義(Humanismus, humanism)で始まり、スターリン専制の奇怪さで最高潮に達した、一つのイデーの稀有の歴史に関する省察を試みることでもある。
 -<原著、一行あけ>-
 (8) マルクス主義の年代記的叙述は、とりわけ次の理由によって錯綜している。すなわち、今日では最も重要だと考えられているマルクスの多数の文献は今世紀の20年代又は30年代またはその後でようやく印刷され、出版された。
 (例えば、<ドイツ・イデオロギー>、学位論文の<デモクリタンとエピキュリタンの自然哲学の違い>の全文、<ヘーゲル法哲学批判>、<1844年の経済哲学草稿>、<政治哲学批判綱要>。加えて、エンゲルスの<自然弁証法>も入る。)
 これらのテキストはまた、それらが執筆された時代には影響を与えることがなかった。しかし今日では、マルクス自身の精神的伝記の記述に寄与しているだけではない。それらは歴史的意味があるのみならず、それらのテキストなくしては理解することのできない教理の本質的な構成要素だという観点から、重要なものとして分析されている。
 とりわけ<資本論>に示されているマルクスのいわゆる成熟した思考は、内容的に見て、彼の青年時代の哲学的散策が自然に進展したものだったのか否か、およびどの程度にそうだったのかは、長らく議論され続けている。
 あるいはまた、若干の批判的解釈者が考えているように、それらは精神的な激変の結果であるのか否か、よってさらに、マルクスは1850年代や60年代に、主としてはヘーゲル主義と若きヘーゲル哲学に影響を受けた従前の思考や考究の様式を放棄したのか否か。
 ある者は、<資本論>の社会哲学は初期の著作物でいわば予め塑形されており、それらを発展させたもの又は詳論したものだ、とする。
 別の者は反対の見解で、資本主義社会の分析はマルクスの初期段階の夢想家的かつ規範的な修辞技法(レトリック)からの離脱を意味する、と主張する。
 これら二つの対立する見方は、マルクスの思想全体に関する異なる解釈と相互に関連している。
 (9) 私はこの著作で、哲学的人類学は年代学的にのみならず、論理的にも、マルクス主義の出発点だ、ということを前提とする。
 同時に、マルクスの哲学的思考から哲学の内容を独自の領域として切り分けるのはほとんど不可能だ、ということも意識しておかなければならない。。
 マルクスは学術分野での著作者ではなく、ルネサンスの言葉の意味での人間中心主義者だった。そして、彼の思考は人間がかかわる事象の全体を包括するものだった。このことは、社会の自由化という彼の展望が、人間が苦闘している重要な諸問題の総体に対する相関関係の中にある、ということと同様だった。
 (10) マルクス主義を三つの思考領域に分けるのが慣例になってきている。-哲学的人類学という基礎、社会主義の教理、および経済分析だ。
 そして、これらに対応させて、マルクスの教理が由来する三つの主要な源泉が注目されている。すなわち、ドイツ哲学(弁証法)、フランス社会主義思想、イギリス政治経済学。
 しかしながら、マルクス主義をこのように重要な構成部分へと画然と区別するのはマルクス自身の意図には反している、という強い主張も、広がってきている。マルクスの意図とは、人間の行動様式とその歴史に関して包括的な解釈を提示し、かつ、全体との関係でのみ個別の諸問題が意味をもち得る、そのような人間に関する包括的な理論を再構築しようとする、というものだ。
 マルクス主義の全ての構成要素の相互関連性やその内的な論理一貫性の態様をより詳しく性格づけるのは、ただ一つの文章で解答できるような容易な問題ではない。
 しかし、あたかも歴史過程の諸性質を把握しようとマルクスは実際に努めたかのように見える。その性質に関係して、認識論および経済の諸問題も、また最後に社会的理想も、初めて共通する意義をもち得る。
 すなわち、マルクスは、人間の全現象を理解可能なものするために十分に高い程度の一般性をもつ思考上の手段または認識の諸範疇を創出しようと考究した。高い程度の一般性をもつために、人間世界の全ての現象は、その助けを借りて理解できるものになる、そのようなものとして。
 これらの範疇とマルクスの思考の叙述とを彼の範疇構造に従って再構成し、マルクスの思想をそれらに合致させて提示しようと試みるのは、しかし、思想家自身の発展を無視する、という効果をもち得るだろう。そしてさらに、彼のテキストの全体が同質の、一度だけ組み立てられたブロックとして扱われてしまう危険を胚胎している。
 したがって、マルクス主義思考の展開の主要な軸を追求し、そのあとで、どのような主題が黙示的にであれこの発展の中で残存しているかという疑問を設定するのが望ましいように思われる。
 (11) この著作でのマルクス主義の歴史に関する概観では、マルクスの自立した思考の最初から考察の中心的な位置をずっとつねに占めてきたと思われる諸問題に焦点を当てことにする。
 すなわち、夢想郷論(utopianism)と歴史的運命論のディレンマを、いかにすれば回避することができるのか?
 換言すれば、想起された観念を恣意的に宣告するのでも、人間がかかわる物事が、全員が関与しているが誰も統御できない特徴なき歴史過程に従属しているという前提を諦念にみちて受容するのでもない観点を、いかにすれば明瞭にし、防衛することができるのか?
 マルクスのいわゆる歴史的決定論に関してマルクス主義者によって表明された驚くべき多様性は、20世紀のマルクス主義の動向を精確に提示し、図式化することを可能にする一つの要因だ。
 人間の意識と意思がもつ歴史過程での位置に関する問題に対する答え方は、社会主義諸観念が本来的にもつ、かつ革命と危機の理論と直接に連結する意味を少なからず明確にしている、ということも明らかだ。
 (12) しかしながら、マルクスの思考の出発空間を規定したのは、ヘーゲルから相続した資産の中に見出される哲学上の諸問題だった。
 そして、そのヘーゲルの遺産の解体は、マルクスの思考を叙述するいかなる試みも必ずそれから始めなければならない、当然の出発地点になっている。
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 (注1) vgl. Thomas Mann, "Doktor Faustus", in: Gesamte Werke, 6. Bd., Berlin-Ost 1956, S.652.
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 以上。
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