秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

日本史学

2366/西尾幹二批判025b/『国民の歴史』⑦b。

 つづき。
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   これまた既に指摘したことだが、「歴史」と「神話」という語の意味がそもそも不明なので、両者の「等価値」とか、「解釈の自由」の存否を説かれても、何ら心に、あるいは知的関心に、訴えるところがない。
 また、これも既述のことだが、そもそも、漢書・魏志倭人伝=「歴史」、日本書記・古事記=「神話」という、西尾における一般的印象または通念らしきものから出発していること自体に問題がある。日本書記・古事記は、決して、全体として「神話」ではないからだ。そんなことを主張しているのは、西尾が忌み嫌う日本の日本史学者にも一人もいないだろう。
 西尾幹二は、日本書記も、古事記も、全体を読まずに執筆している。おそらくは、今日に至るまで、両文献の全体をきちんと読んでいないだろう。
 そうでありながら、あれこれと論じている傲慢さは、いったいどこから来ていたのだろうか。
 2 さて、日本書記・古事記は全体として「神話」で、それを「解釈する自由」はなく、「全体として一つであり、人間の手による分解と再生を許しません」というのだとすると、非常に面白い帰結が出てくる。
 西尾幹二は知らないのだろうか、日本書記には、「一云」(一説では)とという書き方をしている箇所がしばしばあり、断定はしてはいないが、有力な「事実」または「伝承」として採用していると解されている。
 興味深い第一は、「神功皇后」と邪馬台国女王とされる卑弥呼との関係だ。邪馬台国・卑弥呼をめぐって、有名な記載がある。1300年前の日本人による「神話」が、中国史書を利用している例でもある。
 日本書記神功皇后39年の条には、面倒くさいからそのままの引用は避けるが、「魏志」に「明帝景初3年6月」に「倭女王」が〜を派遣して「朝貢」を求めたとある、等が記述されている。
 他にも魏志に依拠しての「倭王」への言及はあるが、ここではとくに「倭女王」とされ、そしてその人物は、元の魏志倭人伝の記述と照合すると「卑弥呼」と呼ばれた女王ということになる。
 つまり、日本書記は(年次の点はここでは省略するが)、「神功皇后」=卑弥呼と理解しているようだ。
 8世紀の日本書記、西尾の言う「神話」が、中国文献上の「卑弥呼」とは日本の文献に出てくる人物の誰かについて論及している。そして、日本で最初に、<神功皇后説>を主張したのだ。
 新編日本古典文学全集・日本書記1(小学館、1994)p.450.参照。
 西尾幹二はもちろん、神功皇后の実在を否定しないだろうし、その記載も「自分が神の世界と一体となる絶え間ない研鑽にほぼ近い」という「認識」として支持するに違いない(論理的に、そうなる)。
 そうだとすると、西尾は、邪馬台国=大和説にすでに立っていることになる。日本書記は「神武東遷」以降、「大和朝廷」は大和盆地を根拠としていた、という書き方をしているからだ(今の明日香村内部・近辺で位置は変わり、のちに難波、大津への移転?はあるが)。
 第二に、今でも「箸墓」と称されている古墳があるが、日本書記によると孝霊天皇の皇女とされる倭迹迹日百襲姫の墓が「箸墓」だと、同じく日本書記は明記している。崇神天皇10年の条。これも有名な記載部分。
 「即ち箸に陰を撞きて薨ります。乃ち…。故、時人、其の墓を号けて箸墓と謂ふ。」 
 同上日本書記1(小学館、1994)p.284.参照。
 「解釈を許さない」西尾幹二によれば、現在も墓らしく存在している「箸墓」の被葬者は、紛れもなく、倭迹迹日百襲姫になるはずだ。もちろん、この人物は孝霊天皇の娘として実在していた(はずだ)。
 とすると、「卑弥呼」の墓が箸墓だとするのは誤っているか、または「卑弥呼」=倭迹迹日百襲姫だということに論理的にはなるだろう。なお、神功皇后の「陵」に関する記載は日本書記にあるが(「狭城盾列陵」)、これと「箸墓」の関係は日本書記上は明瞭でない。
 と、このように、日本書記自体が魏志を含む中国の「史書」を読んでそれを参考にして「解釈」を加えたり、現在にまで続く問題にすでに一定の回答を与えたりしている。
 しかし、西尾幹二は日本書記(・古事記)をおそらくまともには読みすらしないで、「アホな」ことを書いている。
 ①「今の日本で邪馬台国論争が果てるところを知らないのを見ても、『魏志倭人伝』がいかに信用ならない文献であるかは立証されているともいえる」。
 ②1753年の『明史日本伝』の誤った叙述からして、それよりも1500年も古い「魏志倭人伝は歴史資料に値しない」という叙述は「もう終わってもいいくらいだ…」。
 以上、全集版『国民の歴史』、p.132-3。
 まことに余計で失礼ながら、西尾幹二という人物は—さすがに<文学>畑らしく情緒・レトリックはあっても?—、「推論」能力がないのではなかろうか。
 第一に、答えが出ないのは問題を提示する文献がそもそも信用できないからだ、ということにはならない。文献自体の問題とは別に、問題提示の全体の文章自体が完全に明瞭な解答を得られるだけの要素・ヒントを与えていない、ということもありうる。そもそも、当時の「邪馬台国」付近?の人々が「女王」の所在地を外国人に明確かつ正確に語るだろうか、という問題もある。
 第二に、同じ国の、と言っても全く違う王朝なのだが、より新しい国家的文献に誤りがあるからと言って、より古い文献も誤っている、ということには絶対に(論理的に)ならない。
 日本語能力と「論理」性があれば、高校生でもこんなことは書かない。
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 佐伯啓思監修・季刊雑誌『ひらく』の編集委員でもある新潮社出版部の冨澤祥郎さん、「真の保守思想家」(西尾2020年著『歴史の真贋』(新潮社)のオビ)とは一体、どういう意味かね?

2285/西尾幹二批判011—『国民の歴史』③。

 西尾幹二・国民の歴史(1999、2009、2017)について、<歴史随筆>・<広義での歴史読み物>にすぎない、とすでに書いた。
 これの「随筆」ぶりは、第27章に該当するだろう「27・終戦の日」(全集版p.516-)が「私の父には異母弟が二人おり」から始まって、終戦直後に西尾が父親に出したという文章の<原文写し>までが掲載されていることでも容易に知られる。
 そのあとには「29・大正教養主義と戦後進歩主義」と題する戦後<進歩派>知識人批判とか、「31・現代日本における学問の危機」「32・私はいま日韓関係をどう考えているか」などの「国民の歴史」を扱う<歴史書>らしくはない主題が続き、最後の章(らしきもの)は「34・人は自由に耐えられるか」という表題だ。
 それぞれ、「随筆」または「評論」(・「時事評論」)に該当するとしても、もちろん「学術書」とか「研究書」と言われるものに該当しない。
 したがって、西尾がつぎのように2009年に書いた(ようである)のは、勘違いも甚だしい、と考えられる。
 「私の思想が思想としては読まれず、本の意図が意図どおりに理解されないのは遺憾でした」。全集第18巻p.695。
 いったいどこに、「思想」があるのだろう。いろいろな書物の何らかの複写・西尾の脳内での「編集」があるとしても、「思想」はない。
 あるとすれば、この書がもともと<新しい歴史教科書をつくる会>の運動を背景として出版された、という背景を考えると、強いていえば<日本主義>・<日本民族主義>・<愛国主義>、きわめて曖昧な(頻繁には使いたくない一定の意味での)<保守主義>ということになるのだろうが、これらの<主義>は至るところに、あるいは現在の「いわゆる保守」や日本会議という活動団体の中や周辺にはどこにでも見られるもので、一般的・抽象的・観念的に語ることはできても、詳細な研究に値する「思想」ではない。
 言い換えると、西尾幹二はもともと一つの「社会運動」のためにこの書物を書いたのであって、自分の「思想」うんぬんを語るのは、相当に<後付け>的説明だ。
 西尾の表現によるとまるで少なくとも本質的には「思想」書のごとくだが、一方で、「学術」書とか「研究」書とかは自称していない(ようである)ことは興味深い。
 「学問」よりも「思想」が、したがって「学者」よりも「思想家」の方がエラい、と考えているのかどうか。もちろん、この人は「思想家」ではなく、「評論家」または「時事評論家」、もっと明確には、一定の出版業界内部での<文章執筆請負自営業者>にすぎない、のだけれども。
 少し戻ると、第二代の「つくる会」会長だったらしい田中英道は、「月報」ではなく西尾幹二全集の中に本文と同じ活字の大きさの「追補」執筆者として登場して(このような「編集の仕方」の異様さはまた別に触れる)、西尾著のかつての批判者・永原慶二の文章をつぎのように紹介・引用している。原文を探しはしない。
 「直感と結論を何の証明もなく、無媒介に、弁舌だけで意味ありげに提示することは学者に許されることではない」。全集上掲巻p.735。
 日本共産党の党員だった、または少なくとも完全に<容日本共産党>の学者だった永原慶二を全体として支持する気持ちはさらさらない。
 しかし、「直感と結論を何の証明もなく、無媒介に、弁舌だけで意味ありげに提示」しているとの批判?は、おそらくは相当に適切だ。西尾幹二には「直感」と「弁舌」がある。
 だが、この永原の指摘が決定的に奇妙なのは、「学者に許されることではない」と批判?していることだ。
 すなわち、西尾は「学者」として『国民の歴史』を執筆したのではない。
 西尾幹二は、「学者」ではない。「学術」書・「研究」書として『国民の歴史』を刊行したのではない。
 したがって、上の表現を借用すれば、「直感と結論を何の証明もなく、無媒介に、弁舌だけで意味ありげに提示」しているという批判は、当たらない。なぜならば、西尾幹二は「学者」ではないからだ。「学者」ではない西尾には、そのようなことはもともと「許される」ことなのだ。
 西尾よりも神がかり?しているらしい田中英道が書いている永原に対する反論・批判や西尾擁護は、当然に的確ではない。
 なお、アリストテレスによる<学問分類>に孫引きで言及して、西尾幹二のしていることは<制作的学問/弁論術>に該当し、隣接させている<制作的学問/詩学>ではない、等と指摘したことがある。No.2251ー2020.07.09。
 その際アリストテレスの<学問>体系によると学問・科学は大きく三分類されるが、「制作的学問」はつぎのとおり、最も下位に位置づけられる(らしい)。
 A/理論的学問、B/実践的学問、C/制作的学問。
 「弁論術」・「弁舌」あるいは「レトリックの巧みさ」は、もともと「学問」性の低いものだ。今日の常識的な語法では、創作=詩・小説・映画・音楽・演劇等々とともに「学問」ではそもそもない。相手や読者・公衆を「説得」する、「その気にさせる」ことはできるものではあっても、<事実>・<真実>を追及するものではない。
 さらになお、アリストテレスが「詩学」に含めているとみられる詩・小説・演劇・音楽等々は人々の「こころ」を「感動」させる力が十分にあり得るが、西尾幹二が生業としてきた「弁論術」には、そのような力はないか、あっても、上記のものよりは程度が小さい、と言えるだろう。
 

2278/西尾幹二批判008—『国民の歴史』。

 西尾幹二全集第17巻(国書刊行会、2018)の西尾自身による「後記」(計14頁)の中で、西尾自身が、<国民の歴史>と<江戸のダイナミズム>のという二つの「主著」は「グローバルな文明史的視野を備えていて」、「これからの世紀に読み継がれ、受容される使命を担っている」と自賛する。
 また、その直前では、<国民の歴史>等の著作は「『つくる会』運動の継承者を末長く動かす唯一の成果」で、「この観点を措いて」この運動の「意義は他に存在しなかった」とまで言い、それだけ「歴史哲学の存在感は大きい」と記している。p.751。
 そのあとで「思想上の戦い」という言葉もあることからすると、西尾幹二は、自著の<国民の歴史>は、「歴史哲学」上、および歴史「思想」上の顕著な意義をもつらしい。あくまで2018年時点での言葉だが。
 はたして本当にそうか。
 <決定版>と銘打っていた文春文庫版を「底本」としつつ「決定版」という文字を削った同全集第18巻(2017)収載のものによって、その一部の「6 神話と歴史」に少し立ち入ってみよう。
 一 いわば<章>にあたる部分を「6 神話と歴史」とだけ記して、全体に「章」・「節」等の語が用いられていないのは何故か。著者の趣味・気分によるのではなく、<国民の歴史>を体系的・学術的に描いたものではない、という西尾の「自覚」あるいは「負い目」が表れているようにも思える。
 この書物は「歴史哲学」書などという学術書でも論文集でもなく、言ってみれば、<歴史随筆書>だ。あるいは、広い意味での<歴史読み物>だ。
 哲学だ思想だなどと、気取ってはいけない。
 第6章にあたりそうな「神話と歴史」は、さらにぎのように分けられる。各「節」とはされておらず、「数字番号」すら付いていない。
 番号を勝手に付けて順に並べると、つぎのような「体系」?を構成している。
 0 (無題、はしがき)。
 1 日本古代史学者よ、常識に還れ
 2 歴史と神話の等価値
 3 すべての歴史は神話である
 4 神話と歴史叙述について
 5 日本語の起源問題は今までの言語学では手が届かない
 6 漢字漢文における表現力の限界
 7 "沈黙する歴史"の文字へのリアクション
 8 日本固有の文明の回復に千年を要した
 9 文字は知性を辱める
 10 文字は言語に及ばない、言語は行為に及ばない
 11 神話の認識は科学の認識とは逆である
 以上
 こういう順序でつづって、筆者はこの「6 神話と歴史」でいったい何が言いたいのか。
 これはさほどに困難な問題ではなく、おそらく一つは、つぎの「節」が「7 魏志倭人伝は歴史資料に値しない」であることからしても、中国の「史書」の意義・価値を低め、日本の「神話」の意味・価値を高めることだろう。これは典型的には、上の「2 歴史と神話の等価値」、とか「3 すべての歴史は神話である」という表題でも示されている。
 二つは、上とも関連して中国の文明・文化に対する日本の文明・文化の独自性を強調することだ。
 これだけのことを、29頁も使って長々と書いている、という印象もある。
 また、明瞭に、または「論理的」にこれらを<実証>しようとする姿勢は乏しく、かなりは推論であり、こうであってほしい、こうであるはずだ、という著者の「思い込み」だ。
 この「6」でも見られる西尾の叙述の特徴は、先行する文献をかなり多く紹介したり、引用しつつ、それらを根拠にして?自分の言述を正当化しようしていることだ。以下、登場させる人名、紹介・引用する著書の人名を全て列挙しよう。前者は()で括る。
 (タイラー、フレーザー、吉田敦彦)、エルンスト・ベルトラム、(ヤーコブ・ブルクハルト、トゥキュディウス)、①吉田敦彦、(レヴィ=ストロース)、②川瀬一馬、(網野善彦)、③早田輝洋、④松本克己、⑤安本美典、⑥東野治之、⑦山尾幸久、⑧黄文雄、⑨加地伸行、⑩岡田英弘、⑪小林芳規、⑫ヤン・ブレキリア。⑬本居宣長。
 これらの名前や説に言及して西尾が言いたいのは、「小括」がないので分かりにくいようでもあるが、上記を繰り返せば、第一に、中国の「史書」の意義・価値を低め、日本の「神話」の意味・価値を高めること、第二に、中国の文明・文化に対する日本の文明・文化の独自性の強調だ。
 あえて、原文そのものから引用しておこう。
 ・「漢書」や「魏志倭人伝」の「一見合理的にみえる」記述は「合理的」で古事記や日本書記の「ばかばかしいつくり話にみえる神話は歴史ではない、と戦後簡単に決めつけられたことがはたして正しいのだろうか、と問うている」。
 ・「あえて言うが、広い意味で考えればすべての歴史は神話なのである」。
 。「繰り返すが、すべての歴史は広い意味での神話なのである。ことに古代においては歴史と神話のあいだに明確な境界は立てれない。したがって、『漢書』や『魏志倭人伝』もまた、多面では神話の一種であると言っておかねばならぬ」。以上、p105-106。
 ・「われわれの社会の言葉の感性を、古代社会へわがまま勝手に当てはめることてせ足りるとする風」がある。一見合理的な「漢書」や「魏志倭人伝」の「現代的解釈でもってして日本列島の始源を記した唯一絶対の証拠とするなどは、まさにそれである」。「儒仏到来以前の民族の原体験を象徴している記紀神話を、重要な歴史解釈の手段としようともしない戦後の知的惰性は、現代の空疎な傲慢のもうひとつの実例である」。p.128。ここには<レトリック>もある。
 二 どこかおかしい。いや、だいぶ、おかしい。元々は20年以上前の書物に関する論文を執筆するわけでも、書評を書くわけでもないので、西尾幹二に倣って?「適当に」思いつくまま、コメントしよう。
 01 「歴史」と「神話」の第一次的・暫定的な定義すらない。そして、漢書・魏志倭人伝は「歴史」書とされ、日本書紀・古事記は「神話」だとされている、ということから出発している。
 02 上の出発点に立つことなく、日本書紀・古事記も(日本の)「歴史」書だ、と主張することから始めても両者を相対化できる、または「等価値」視できるはずだが(論理的には)、そういう論理を採用していない。
 03 「神話」概念の中に、明らかに「伝説」や「伝承」を含めている(p.105、等)。「神」が登場する、または関係する「神話」と「伝説」・「伝承」は、古代ではかなり近いとかりにしても、同義ではない。一般に、西尾幹二という人物は概念に厳密ではない。
 04 西尾が非難し対決しようとする(有力・通説的)日本史学界が「漢書」や「魏志倭人伝」を(それらの「現代的解釈でもって」)「日本列島の始源を記した唯一絶対の証拠とする」ことをしていたのかどうか自体、疑わしい。秋月が中学生当時に学んだ歴史教科書の内容の記憶からしても、そう言える。
 西尾は、誤った、架空の敵と戦っている(いた)のではないか。
 なお、ついでながら、「自虐史観」者ではない出口治明は、『ゼロから学ぶ「日本史」講義・古代編』(文藝春秋、2018年)を、「地球の歴史、生命の歴史」から始めている。「ビッグバン」にも言及がある。西尾幹二の知識は、20年前にすでに時代遅れであった可能性が高い。
 <ナショナリズム>の観点から、あえて敵の姿を歪めているのではないか。
 05 問題は「歴史」か「神話」か、魏志倭人伝等も<広義の「神話」>か、ではない。漢書倭国伝・魏志倭人伝と8世紀に成立した日本書記・古事記がそれぞれ、どの程度<事実>を反映しているか、であって、二者択一の問題ではない。
 魏志倭人伝が全て事実を記しているとは秋月も考えないし、記紀がすべて事実ではない、とも考えない。魏志倭人伝の陳寿がどの程度正確に伝えたかという問題はあるし、そもそも「女王の都する」処には来ていない可能性もある。一方、日本書記、古事記が全て完全な「でっちあげ」話でもないだろう。何らかの「伝承」を伝えている、または反映している可能性はある。これらはほとんど常識ではないか。
 問題は、もっと具体的なのだ。具体的な論点がいくつもあるのだ。西尾は無知のゆえに単純化しすぎなのではないか。
 06 西尾幹二ははたして、漢書(の倭国部分)・魏志倭人伝、古事記・日本書記の全体をすべて「きちんと読んだのか」?
 おそらく間違いなく、否、だ。この人は全くかほとんど読まないで、他人が言及したり紹介したりしている部分だけを参照して、これらを「知った」気になっている。
 恥ずかしいものだ。日本書記・古事記を実際に読んでみる、ということをしないで、「神話、言語、歴史をめぐる本質論を以下展開する」(p.103)とよくぞ書けたものだ。
 07 以上で、すでに西尾幹二『国民の歴史』の「歴史哲学」的意味の存在は疑わしい。
 08 上に記した少なくない人名(・書物)への言及は、西尾の叙述にとって「都合のよい」箇所を選択したもので、なぜその人物(・書物)に言及するのかの説明はなく、その人物全体の(日本古代に限っても)歴史観や歴史叙述の中ではどう位置付けられているのかも不明なままだ。
 網野善彦や山尾幸久のように西尾とは異なる界隈の歴史学者の名もあるし、岡田英弘とて、日本書記・古事記の見方は西尾幹二とはまるで異なる(すでにこの欄で紹介したはずだ)。安本美典も。
 結局のところ、これらの人名・その叙述への言及は<衒学>だと考えられる。自分の本業は「歴史」ではないが、これだけ多数の文献に目を通したのですよと、読者に言いたい、そして自慢したいのだと思われる。1-2頁ぶん使って引用して、せっかくの紙面を無駄にしている場合もある。
 三 この『国民の歴史』が「歴史哲学」、歴史「思想」に関係する? 「グローバルな文明史的視野を備えてい」る?
 悪い冗談はやめた方がよい。

2153/明治維新考⑤-2020年の日本史学界の新著。

 小林和幸編・明治史研究の最前線(筑摩書房、2020)。
 上のうち、久住真也「第一章/維新史研究-幕末を中心に-」。
 興味深いことがいくつか書かれている。
 1989年に大学に入学した執筆者(1970~)によると、マルクス主義に関する知見がないとかつての研究は「簡単に理解できない」。その点で、彼よりも「20年ほど年配の研究者」との間には「理解の程度に大きな差がある」と実感する、という。
 久住によると、マルクス主義的明治維新観の代表は遠山茂樹・明治維新(1951)で、幕政改革派→尊皇攘夷派→倒幕派→維新官僚という政治勢力の系譜をたどるのを特徴とする。だが、「維新の政治主体」に着目した研究傾向はやがて下火になり、1989年以降の「マルクス主義の権威低下」とともに「唯物史観」による研究も低調になり、1980年代後半には「明治維新=絶対主義の成立」という見方は「効力を失」った。p.17ー18。
 日本史学=マルクス主義という<偏見>はなおあるが、安心してよいかもしれない。だがむろん、マルクス主義・「唯物史観」でなければよい、というわけでもない。
 驚くべきであるのは、幕末・維新の政治過程に関するかつての通説?が、今やそうではない、または必ずしもそうでない、といういくつかの指摘だ。例えば、以下。
 ①王政復古クーデタ(1967年12月)は、「徳川慶喜=幕府の打倒を目指したものではない」
 ②「王政復古で成立した政府」は、鳥羽・伏見戦争(1968年1月勃発)以後の政府と違って、「天皇よりも『公儀』(諸藩代表者の意見)原理が優位に立つ政府」で、「天皇親政は成立していない」。以上、p.26。
 ③坂本龍馬斡旋という薩長盟約(1966年3月)は「倒幕の軍事同盟」ではなく、同盟の打倒対象は<一会桑>だった。p.28ー29。
 その他いろいろと興味深い論点は多いが、<薩摩>は一貫して倒幕派ではなかった旨の指摘(p.25)は秋月もその通りだと感じる。第一次長州戦争で長州を敵としていたのは、薩摩だ。
 「明治の元勲」に一部はなっていった志士個人ではなく、政治主体としては「藩」(=「国家」)に着目する必要がある、とするのも、素人ながら同感する。
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 今さらながら、現に生起したことから「過去」を説明または解釈する、ということの誤謬を考える。また、戦後の「左」も「右」も、それらの単純な明治維新イメージには、共通するところがある。
 さらに、現実に起きた具体的「明治維新」は、いかほどに後期水戸学・藤田幽谷の<思想>と「つながる」のかどうか。

2100/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史09。

 現上皇の「おことば」(2016年)を契機とする退位・譲位に関する議論について、本郷和人はこう書いた。
 「じつは、いわゆる右といわれている思想家や研究者のなかには平気でウソをついている人がたくさんいます。
 歴史的な背景や前提に対して無知なためにウソをついている人もいれば、なかには知っていてわざとウソをついているのでは、という人もいます。」
 本郷和人・天皇にとって退位とは何か(イースト・プレス、2017)。
 また、小島毅は、下の書物を執筆し始めた動機を、こう書いた。
 「一部論者によって伝統的な天皇のあり方という、一見学術的・客観的な、しかしそのじつきわめて思想的・主観的な虚像が取り上げられ、『古来そうだったのだから変えてはならない』という自説の根拠に使われた。
 そうした言説に対する違和感と異論が、私が本書を執筆した動機である。」
 瞥見のかぎりで、渡部昇一(故人)は明示的に批判されている。
 小島毅・天皇と儒教思想-伝統はいかに創られたのか?-(光文社新書、2018)。 
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 1465年~1615年、150年間。応仁の乱勃発二年前~江戸時代初頭・大阪夏の陣。
 1615年~1865年、250年間。大阪夏の陣~明治改元3年前・第二次長州征討。
 1865年~1915年、50年間。明治改元3年前~第一次世界大戦2年め・対中21箇条要求。
 1865年~1945年、80年間。明治改元3年前~敗戦。
 1889年~1945年、56年。明治憲法発布~敗戦。
 1868年~2018年、150年。明治改元~2019年の前年。
 1889年~2019年、130年。明治憲法発布・旧皇室典範~2019年(令和1年)。
 1947年~2017年、70年。日本国憲法施行~2019年の前々年。
 日本の現在の「右翼」や一部「保守」は、①明治改元(1868年)~敗戦(1945年)の77年間、または②旧憲法・旧皇室典範(1889年)~敗戦(1945年)のわずか56年間、あるいは③皇位継承を男系男子だけに限定する旧皇室典範(1889年)~現皇室典範(~2019年)の130年(明治-令和の5元号にわたる)が、<日本の歴史と伝統>だと勘違いしているのではないか?
 古くから続いているのならば変えなくてよいのではないか、というウソに嵌まって<女系容認論>を遠ざけていた、かつての私に対する自戒の想いも、強くある。
 江戸幕府開設(1603年)~明治改元(1868年)は、265年。上の②56年、①77年、③130年よりもはるかに長い。この期間もまた日本(・天皇)の歴史の一部だ。
 応仁の乱勃発(1467年)~本能寺の変・天王山の闘い(1582年)、115年。この期間も長い。そして、天皇・皇室の諸儀礼等はほとんど消失していた(江戸時代になって<復古>する)「空白」の時代だったことも忘れてはならないだろう。
 あるいは、1221年の承久の乱(変)や1333年の後醍醐天皇・建武新政(中興)から数えて、江戸幕府開設までの約380年、約270年を挙げてもよいかもしれない。江戸時代を含めていないが、上の①~③よりもはるかに長い。これまた、日本の歴史の重要な一部だ。
 もちろん、1221年までにでも、おそらくは1000年ほどの<ヤマト>または<日本>の時代がある。
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 日本の現在の「右翼」や一部「保守」論者は、無知・無能者かまたは「詐話師たち」なのだろう。
 明治維新により<神武創業の往古>に戻った? 笑わせてはいけない。
 2017年初めの月刊正論編集部によると、「保守」の4つの「指標」のうちの第一は「伝統・歴史的連続性」だつた。
 月刊正論2017年3月号(産経新聞社、編集代表・菅原慎太郎)、p.59。
 上でも少しは示したが、明治維新と明治憲法体制は、それまでの日本の「伝統・歴史的連続性」を断ち切ったものではないか? 明治期以前にも、歴史の(例えば<神仏習合>の)はるかに長い「伝統・歴史的連続性」があったのではないか? 明治期に戻ることが「伝統・歴史的連続性」の確保なのか?
 2017年9月の西尾幹二著によると、「保守」の「要素」には4つほどあるが、「ひつくるめて」、「歴史」なのだそうだ。そして、「歴史の希薄化」を西尾は嘆いている。
 西尾幹二・保守の真贋(徳間書店、2017)、p.16。
 西部邁・保守の真髄(講談社現代新書、2017)に意識的に対抗するような書名や、この時点での「歴史」なるものの評価、つまり上から1年半後に2019年になってからの「可視的歴史観」に対する「神話」優越論についてはさておき、「歴史の希薄化」を行って単純化し、ほぼ明治期以降に限定しているのは、西尾がこの著で批判しているはずの、安倍晋三内閣を堅く支持する「右翼」・日本会議派ではないか。
 以上は、西尾幹二に対しても、八幡和郎に対しても向けられている。
 八幡和郎は2019年になってからも、月刊正論(産経)の新編集代表の写真を自らのブログサイト(アゴラ)に掲載したりして、月刊正論等の<いわゆる保守系>雑誌に身をすり寄せている。例えば、下の著もひどいものだ。いずれより具体的に指摘する。
 読者層のウィングを「右」へと広げたつもりなのか。下の著は「保守」派の「理論的根拠」を提供するというのだから、これまた笑ってしまった。
 八幡和郎・皇位継承と万系一世に謎はない-新皇国史観が日本を中国から守る-(扶桑社新書、2011)。

2092/佐伯智広・中世の皇位継承(2019)-女性天皇。

 西尾幹二発言・同=竹田恒泰・女系天皇問題と脱原発(飛鳥新社、2012)、p.11。
 「歴史上、女性の天皇が8人いますが、緊急避難的な"中継ぎ"であったことは、つとに知られている話です。そうしますと男系継承を疑う根拠は何もない。」
 西尾幹二発言・同=岩田温(対談)「皇室の神格と民族の歴史」歴史通/WiLL2019年11月号別冊(ワック)。
 「126代の皇位が一点の曇りもない男系継承であるから…」。
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 公然とかつ平然と歴史の大ウソが日本会議関係者等の「右翼」または「一部保守」派によって語られているので、皇位継承の仕方、女性天皇への継承の背景等に関心をもって、かなりの書物に目を通してきた。
 つぎは相当に役立つので、ほとんど引用することによって、紹介する。
 書名は<中世>を冠しているが、中身は「古代」も含んでいる。著者は1977年~、京都大学博士、帝京大学文学部講師。
 佐伯智広・中世の皇位継承-血統をめぐる政治と内乱(吉川弘文館、2019)。
 主として「女性天皇」関係部分から引用する。実質的に第一章の<古代の皇位継承>から。代数は明治期以降作成の皇統譜上、宮内庁HP上のもの。
 (なお、この第一章<古代の皇位継承>は、以下の「節」からなる。
 1/「万世一系」と女性天皇。
 2/古代の女性天皇の重要性
 3/父系と母系が同じ重みをもつ双系制社会。
 4/兄弟姉妹間での皇位継承。
 5/相次ぐ「皇太弟」。)
 ①「最初の女性天皇」の推古(33代)は欽明(29代)の娘、敏達(30代)の妻で、夫の死後、「オオキサキとして天皇とともに統治権を行使していたと考えられている」。
 「オオキサキ」は推古の頃に成立した地位で、推古は用明(31代)、崇峻(32代)にも「引き続きオオキサキとして統治に関与していた」。
 「この統治実績が」推古の天皇擁立に「重要な役割を果たしたと考えられている」。
 ②推古は「単なる中継ぎなどと評価できない、正統の皇位継承者だった」。
 ③推古に続く女性天皇の皇極=斉明(35代・37代)、持統(41代)、元明(43代)、元正(44代)も、「即位以前から統治実績を積んでおり、中継ぎという消極的な立場ではなく、正統の皇位継承者として即位している」。
 ④孝謙=称徳(46代・48代)もこれら「女性天皇の伝統の上に即位しているのであって、必ずしも、男子不在による苦し紛れの即位というわけではない」。
 ⑤光仁(49代)は聖武(45代)の実娘・井上内親王を妻とし、その子の他戸親王を皇太子としていたので、「皇統は、当初、母系を通じて受け継がれるよう設定されていたのである(実際には、<中略>廃太子され、実現せず)」。
 ⑥「天皇の外戚の地位」の重要化の「それ以前の皇位継承において女性や母系が重視されたのは、古代日本が双系制社会、すなわち父系(男系)と母系(女系)の双方の出自が同等の重みをもつ社会だったからだ」。
 ⑦7世紀後半から8世紀にかけて、「父系制社会へと緩やかに移行したと考えられている」。
 ⑧「関連して注目されている」が、「大宝令」(701年)では、「女性天皇の皇子女も、男性天皇の皇子女と同様に、親王・内親王とすることとされていた」。
  「このことは、女性天皇の皇子女も皇位継承権を有する存在だったことを意味する」。
 日本の律令は「男系主義」を採るが、「その中に残された双系制社会の名残が、この女性天皇の皇子女に関する規定であった」。
 ⑨「男系主義の浸透」で称徳以降、女性天皇は長く出現しない。
 江戸時代の明正(109代)・後桜町(117代)は、「皇位継承者たる男子不在の状況で擁立された、まさに『中継ぎ』の天皇であった」。
 ⑩その他の古代での皇位継承の特徴は、「兄弟姉妹間での皇位継承」や「皇太弟」の設立がかなりの範囲で行われたことだ。
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 以上。
 上の⑤に関する秋月の注記。
 井上(いがみ)内親王は光仁の皇后の地位を廃された。その子・他戸(おさべ)親王(聖武天皇の孫、父は光仁天皇)とともに、「殺された」とみられる。
 のちに光仁の子で高野新笠を母とする桓武天皇の同母実弟・早良(さわら)親王=「崇道天皇」も「殺されて」、崇道神社(京都市上高野・京都御所の東北方向)の唯一の祭神となった。
 井上内親王・他戸親王は、早良親王らとともに、御霊神社等での「八所御霊」の中に入っている。
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1649/天皇制はなぜ存続したか②。

 「天皇制が存続したのは、時代を超えた何か普遍的な要因によるのではなく、その時代の固有の事情による」。
  家近良樹・幕末の朝廷-若き孝明帝と鷹司関白(中公叢書、2007)。p.24。
 「天皇・皇室制度に内在する、固有の理屈・価値というものなどは存在しないのではないか。」
 「天皇・皇室制度は、飛鳥・奈良・平安・鎌倉・…・江戸・明治・…昭和…と連綿と続いているが、それぞれの時代に、天皇・皇室制度には内在しない、各『時代の価値』・各『時代の精神』があったはずなのだ。/つまり、日本の「天皇」制度は、各時代の「価値・精神」に合わせて、姿・形を変えてきたのだ、と思われる。」
 以上、この欄の執筆者。7/14付・№1644。
 天皇制が存続したのは、個々の時代の「固有の事情」による。天皇制は、各時代の「価値・精神」に合わせて、姿・形を変えてきた。
このような見方に対して、3世紀後半からだと1600年以上、6世紀からだと1300年以上、これだけ長く「天皇」制度が続いてきたことの説明にはならないのではないか、との疑問がやはり生じるだろう。
 しかし、こうした長さは、直接に考慮に入れる必要はない。
 つまり、「制度」にはいわば<慣性>というものがあり、いったん設定されてしまうと、改廃を意識しないで長々と続く可能性がある、という面がある
 例えば、戦後72年、明治維新から先の敗戦まで78年、江戸時代の250年以上、平安時代の300年以上、いったん設定された各時代の「天皇」制度はそれぞれに長く継続してきた。つまり、日々あるいは毎年のように、その存続の是非が重大な問題として問われ続けたわけではない。
 上記の、家近良樹・幕末の朝廷-若き孝明帝と鷹司関白(中公叢書、2007)。
 この本は、天皇制が廃止されても不思議ではなかった、換言すれば「天皇にとって替わってもおかしくない権力者や当該時期が幾度も出現した」として、六回または六時期を挙げている。p.18-19。秋月において整理すると、以下になる。
 ①蘇我氏の独裁権力/6世紀後半-崇峻天皇暗殺。*聖徳太子一族滅亡もこの時期。
 ②道鏡/8世紀後半-称德天皇から皇位継承? *宇佐の神言。
 ③北条氏/1221年-承久の変・後鳥羽上皇等の挙兵。土御門・順徳も。
 ④足利義満/室町時代第三代・「日本国王」。*14世紀後半。
 ⑤織田信長・豊臣秀吉/16世紀後半。
 ⑥徳川氏/第三代家光時代くらいまで。*17世紀。
 これにおそらく、⑦?/第二次大戦終結直後-1945-6年、というのを加えてよいだろう。
 長い天皇制の歴史の中で、それが危機を迎えた、あるいはその存廃が現実的な問題になりえた、というのは、さほど多くないことが分かる。
 信長と秀吉を2回に分け、漠然と平安時代の藤原氏による皇位簒奪?というのを想像して加えてみても、計9回ほどにしかならない。
 これらの「危機」、「存廃が意識され得た」時期を、天皇制は、それぞれの時期の固有の事情でもって「乗り切った」のではないか、と思われる。
 その中には、上の④のように、<天皇を目ざした?>足利義満の「死」による決着もあった。
 この④は例外だが、それぞれの時期の世俗権力者は、天皇制の廃止に関して、廃止することのコストと利益、廃止しないことのコストと利益を、つまりは要するに簡単には<費用効果分析(CBA)>を行って、敢えて廃止しようとするときのコスト・不利益も考慮して、それぞれに天皇制そのものには手をつけない、という判断をしたのではないか、と思う。むろん、天皇・朝廷を存続させておくことのコストと「利益」(や「不利益」)もまた配慮したに違いない。また、各時代の様相として、存続を前提にすれば、天皇にある程度の「権力」が少しずつは認められたとも考えられる。
 簡単に書きすぎてはいるのだが-上の各人・各氏・各時期によって事情は異なる-、要するに、そういうことではないか。
 なお、応仁の乱以降の戦国時代は、信長まで、日本は「国家」だったのか、という疑問を持っている(その限りでは天皇制もきちんとは「連続」・「継続」していないのではないか、とのシロウト思いつきにつながる)。
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 現在の日本国憲法のもとでの天皇制を支える世俗権力とは何か ?
 憲法自体が根拠になっている。したがって、憲法制定者だ。建前として、国民主権という場合の「国民」 ? それとも、実質的には戦勝諸国、とくにアメリカ?
 また、<世襲・象徴>としての天皇制を憲法改正によって廃止しようとはしていない、憲法改正権者、つまり有権者国民が支えているとも言えるし、そのような改正発議をしようとはしていない、国会もまた、そして国会内多数派政党も、これを支えている。
 だが、論理的可能性としては、国会内多数派政党の「発議」、国民投票有権者の「国民投票」によって廃止されることが全くないとはいえない。
 この場合、神社神道の「長」、または<最高祭祀者>として憲法には明記されないままで一族は存続する可能性はある。
 上の発想は別として、ともあれ、天皇制の安定性というのは絶対的ではないし、そうではあり得ない、と考えられる。
 長く続いている日本の伝統だから今後も、という考え方はある意味では自然だ。
 このことを批判したり、否定するつもりはない。
 ただ、そういう世俗国民の<気持ち>によってこそ-維持されるとすれば-維持されるのであり、天皇制の中に、それに固有の<存続力>、存続すべき「価値」が先験的に?あるわけではないように思われる。

1644/天皇制はなぜ存続したか-家近良樹著(2007)。

 「天皇制が存続したのは、時代を超えた何か普遍的な要因によるのではなく、その時代の固有の事情による」。
 「その時々の権力…が、天皇を必要だと認めたからこそ、天皇というシステムが存続したのだ」。「時代を離れた検討はありえない」。
  家近良樹・幕末の朝廷-若き孝明帝と鷹司関白(中公叢書、2007)。
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 上の家近良樹著の初めに、ずばり「天皇制はなぜ存続したのか」(第一章第一節)との表題があり、日本史学上の「支配的見解」として、上のことが書かれている。
 支持したい。思いめぐらせ、考えていたこととほとんど合致する。
 「万世一系の…」というのは勿論言葉の綾で、「万」ではない。神武天皇から数えても、120余代(とされている)だから、およそ100倍に誇張している。
 また、かりに日本書紀等の記載の多くを信頼するとして、いったいいつの頃から天皇家は継続しているかというと議論は分かれている。天照大神・神武天皇からずっと、その前からもずっと、というのは、(実際には誰かの血を承けているのは間違いないだろうが)、「お話」としてはともかく、信じ難い(「神武」天皇にあたる、かつ「天皇」にあたる人物又は集団がいただろうとは思う)。
 継体天皇以降というのは、有力だと思われる。この人はそれ以前の皇統の女性と結婚したことに日本書記上ではなっているので、継体以降は、「女系」天皇だ、とも言える。
 もっと前の天皇の実在性を肯定する学者たちもいる。崇神天皇等々。
 それにしても、5~6世紀頃以降、1000年以上も続いているとすると、貴重な、稀な家系であることに変わりはない。そしてずっと、(言葉としては7世紀からだが)「天皇」という呼称を受け継いできた。
 こう長く続いたのには、それなりの理由・根拠があったに違いないと、誰もがあるいは多くの人が考えたに違いない。 
 上の家近著が紹介する、津田左右吉説、石井良助説もそうだ。
 しかし、天皇・皇室制度に内在する、固有の理屈・価値というものなどは存在しないのではないか、と考えてきた。
 何か特殊で、日本らしい「価値」を持っていたからこそ長く続いてきた、というのは、容易に思いつきやすいが、その「価値」なるものは曖昧模糊とした、「宗教」・「信念」的なものになってしまうだろう、と感じていた。
 また、そもそも、天皇・皇室制度は、飛鳥・奈良・平安・鎌倉・…・江戸・明治・…昭和…と連綿と続いているが、それぞれの時代に、天皇・皇室制度には内在しない、各「時代の価値」・各「時代の精神」があったはずなのだ。
 つまり、日本の「天皇」制度は、各時代の「価値・精神」に合わせて、姿・形を変えてきたのだ、と思われる。
 早い話が、明治維新以降、そして明治憲法下の「天皇」と現日本国憲法のもとでの「天皇」は、類似性もあるが、そしてそのことを強調する向きもあるが(「日本会議」派歴史観)、世俗権力との関係、または自らがもつ「権力」の有無等において、異質なものだ。
 大戦前後についてすらそうなので、古代天皇制の時代と中世・近世の天皇制の時代における「天皇」の意味・位置づけは大きく異なる。古代天皇制と言っても、藤原氏の台頭の前後で、大きく異なる。
 「祭祀王」としての連続性、という主張があるのかもしれない。
 しかし、「祭祀王」として存続し続けることができたのは、「祭祀王」だったから、というのでは全くない。
 秋月瑛二は、①「民主主義対ファシズム」という虚偽の構造認識を打破し、②断固として「反共産主義」の立場に立ち、③<日本的な自由・反共産主義>の国家・社会を目指したい。
 こうした構図の中では、「天皇」は大きな意味・価値を持たない。天皇制護持か否か、「天皇を戴く国柄」を維持するか否か、これは最大の決定的な主題では、全くない。産経新聞社・桑原聡の「思い」ではダメだ。
 このようなことを主張・提唱する人々には、では<日本共産党あるいはその他の共産主義者たちが擁護し、利用する「天皇」制でもよいのか>?と、問いかけたい。
 先の国会の(たぶん)内閣委員会で、日本共産党・小池晃は自民党議員たちとともに起立して賛成し、自由党・森裕子は着席のままで反対していた。このようなことが先々でもありうるだろう。共産主義者・日本共産党は、目的のためならば、「天皇」制もまた、利用するに違いない。<情勢に応じて>それを護持しようとするかもしれない。
 日本の<天皇・愛国>主義者たちは、櫻井よしこも含めて、冷静に歴史と日本を見つめる必要がある。

1571/2017年2月末以降に読んだもの・入手したものの一部。

 2017年02月末以降の文献。
 この欄の意味について疑問をもったときにかつては「読書メモ」の意味だけでも持たせようと思ったが、昨年以降はそれも虚しいようで、できるだけ自分の文章を残すようにしてきた。
 そうなると、元来の「読書メモ」の機能は失う。
 最近にあれこれと書いていても、読んだり入手したりした書物類は、記載・言及するよりもはるかに多い。
 たまたまタイミングを逸したりして、記載し忘れのものも多い。
 二月末以降に一部でも読んだもの、入手して今後に読みたいと思っているもの(でこの欄で触れていないと記憶するもの)、を以下に掲載しておく。
 レーニン・ロシア革命に直接に関係するものは依然として増えつつあるが、一部しか載せられない。以下は、上の趣旨のものの全てではない。読み終わった記憶があるものは、/了、と記した。昨年以前のものには、触れていない。
 この欄に書くのは「作業」のようなもので、気侭に読んでいる方が、「生きていること」、「意識(脳)を働かせていること」を感じて、愉しい。しかも、意識を多少とも刺激する情報が大量に入ってくる。「作業」は、反応結果の一部をただ吐き出すだけだ。
 しかし、この欄での「作業」をしておかないと、せっかくの意識や記憶がますます消失してしまうので、「作業」もときには必要だ。
 ・天皇譲位問題
 今谷明・室町の王権(中公新書, 1990)。/了
 今谷明・象徴天皇の発見(文春新書, 1999)。
 高森明勅・天皇「生前退位」の真実(幻冬舎新書, 2016)。/了
 所功・象徴天皇「高齢譲位」の真相(ベスト新書, 2017)。
 本郷和人・人物を読む/日本中世史(講談社選書メチエ, 2006)。
 本郷和人・天皇の思想-闘う貴族北畠親房の思惑(山川出版社, 2010)。
 ・北一輝
 岡本幸治・北一輝-転換期の思想構造(ミネルヴァ, 1996)。
 ・明治維新等
 井上勲・王政復古(中公新書, 1991)。
 毛利敏彦・幕末維新と佐賀藩(中公新書, 2008)。
 原田伊織・明治維新という過ち/改訂増補版(毎日ワンズ, 2015)。
 山口輝臣・明治神宮の出現(吉川弘文館, 2005)。
 伊藤哲夫・明治憲法の真実(致知出版社, 2013)。
 ・政教分離
 杉原誠四郎・理想の政教分離規定と憲法改正(自由社, 2015)。/了
 杉原誠四郎・日本の神道・仏教と政教分離-そして宗教教育/増補版(文化書房博友社, 2001)。
 ・歴史
 安本美典・古代史論争最前線(柏書房, 2012)。
 今谷明・歴史の道を歩く(岩波新書, 1996)。
 西尾幹二全集第20巻/江戸のダイナミズム(国書刊行会, 2017)。
 山上正太郎・第一次世界大戦(講談社学術文庫, 2010. 原1985)。
 木村靖二・第一次世界大戦(ちくま新書, 2014)。
 ・保守主義
 宇野重規・保守主義とは何か-反フランス革命から現代日本まで(中公新書, 2016)。
 ・現代
 宮家邦彦・日本の敵-よみがえる民族主義に備えよ(文春新書, 2015)。/了 
 ・左翼
 中沢新一・はじまりのレーニン(岩波現代文庫, 原1994)。
 白井聡・永続敗戦論(太田出版, 2013)。
 ・外国人
 Donald Sassoon, Looking Left -Socialism in Europe after the Cold War (1997). <左を見る-冷戦後のヨーロッパ社会主義>
 Roger Scruton, Fools(あほ), Frauds(詐欺師k) and Firebands (つけ火団)-Thinkers of the New Left (2015).<新左翼の思考者>
 Tony Judt, Dem Land geht es schlecht (Fischer, 2014. 2010).
 Leszek Kolakowski, 藤田祐訳・哲学は何を問うてきたか(みすず書房, 2014)。
 Leszek Kolakowski, Metaphysical Horror (1988, Penguin 2001).
 Anna Pasternak, Lara -The untold Love Story and the Iispiration for Doctor Zhibago (2016).
 ・その他
 L・コワコフスキ「こぶ」沼野充義編・東欧怪談集(河出文庫, 1994)。/了
 原田伊織・夏が逝く瞬間(毎日ワンズ, 2016)。/了*小説
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 1.せっかくの機会だから、つぎの本のp.4からまず引用する。
 本郷和人・人物を読む/日本中世史(講談社選書メチエ, 2006)。
 「…皇国史観は、天皇が至高の存在であることを学問の大前提とし、また人物を歴史叙述の基礎単位にしていた。天皇に忠義であったか否か、忠臣か逆臣かで人物を評価し、その人物の行動をあとづけることによって歴史物語を描写したのである。こうした歴史認識が軍国主義を支える理念として機能したことは、疑いようのない事実であった。」
 戦後の日本共産党や日本の「左翼」はかくして、「軍国主義」を支えた「皇国史観」を厳しく批判した。
 その日本共産党・「左翼」に反対する良心的な、誠実な日本人は、では「皇国史観」へと立ち戻る必要があるのか??  (しかも「皇国史観」とは、維新以降の日本をずっと覆ってきたのでは全くなく、とくに昭和戦前期の<公定>史観だ。)
 本郷も言うように、そんなことは、論理的にも、決して、ないんだよね。
 2.今谷明・本郷和人というと、黒田俊雄の<権門体制>論にかかわりがある。
 素人論議だが、マルクス主義者(・日本共産党員?)の黒田は(以下、たぶん)、<国家(権力・支配者)-人民>の対立が当然にあるものとして、その前提で<国家>の構造を考え、かつその一部を「天皇・皇室」がきちんと担っていた、と考える。
 第一に、<権力-人民>は、どの時代にもきれいに二つまたは二層に分けられるのだろうか?
 第二に、<天皇>はつねに、国家権力の少なくとも一部を握っているものなのだろうか? または、そうだとしても、「中世」に関する黒田による天皇の位置づけは高すぎるのではないだろうか。
 第一は素朴かつ観念的な階級対立論、第二は素朴かつ観念的な<天皇制>批判論-そのための逆説的意味での天皇重視論(天皇が国家権力の一部かつ重要位置にいなかったはずはない)-を前提にしているような印象もある。
 本郷和人は、黒田<権門体制>論には批判的だ。専門家にお任せしますけど。 

 

1309/日本共産党は「河野談話」を全面擁護し「性奴隷制」を認定する論点スリカエで朝日新聞を応援する。

 先に(この欄の6/02で)「慰安婦」にかかる歴史関係団体声明と日本共産党・小池晃等の発言の対応関係を見たのだったが、小池晃等の発言は、当然のことながら日本共産党の公式見解の範囲内のものだ。また、歴史関係団体声明が、日本共産党の見解に添ったものであることもほとんど明らかだ、と考えられる。
 以下、志位和夫・戦争か平和か-歴史の岐路と日本共産党(新日本出版社、2014.10)を、諸資料を載せているものとして用いる。
 日本共産党幹部会委員長・志位和夫は、2014年06月02日に「日本軍『慰安婦』問題アジア連帯会議」でこう述べた。しんぶん赤旗2014.06.04掲載。
 ・河野談話「見直し」論は、①「日本軍『慰安婦』問題の一番の核心部分である『慰安所』における強制性」=「性奴隷」にされたことに「ふたをして」、「強制連行があったか否か」に「問題を矮小化」し、②「強制連行を裏付ける公文書があったかいなかに、さらに問題を二重に矮小化する」。
 ・安倍政権に以下を要求する。①「性奴隷制」の「加害の事実」を認め、謝罪すること。②軍「慰安婦」問題がなかったとする論に対して明確に反論すること。③被害者に賠償すること。④子孫に伝えるため、この問題に関する「歴史教育」を行なうこと。
 2014年03月14日に「内外記者」からの質問に答えるかたちで、志位は以下のことを述べた。しんぶん赤旗2014.03.17掲載。
 ・「日本軍『慰安婦』制度」は、「軍の統制・監督下の『性奴隷制度』」で、「性奴隷制度」の中でも「最も野蛮でむき出しの形態のもの」だった。
 ・河野談話否定論に対しては、「今日発表した見解」で反論を尽くした。
 「今日発表した見解」とは、「歴史の偽造は許されない-河野談話と日本軍『慰安婦』問題の真実-」と題する相当に長文の、志位の以下のような見解だ。しんぶん赤旗2014.03.15掲載。以下は、基本的な構造のみ。
 ・河野談話はつぎの五つの事実を認定した。①「慰安所」と「慰安婦」の存在、②「慰安所」の設置・管理への「軍の関与」、③「慰安婦」とされる過程が「本人の意思に反して」いた=「強制性があった」、④「慰安所」における「強制性」=「強制使役の下におかれた」、⑤日本人以外の「慰安婦」の多数が朝鮮半島出身で、募集・移送・管理等は「本人の意思に反して行われた」=「強制性があった」。
 ・河野談話「見直し」派は上の③のみを否定して談話全体を攻撃する。本質・最大の問題は、「本人の意思で来たにせよ、強制で連れて来られたにせよ」、軍「慰安所」に入れば「監禁拘束され強制使役の下におかれた」「性奴隷状態とされたという事実」だ。
 ・上の③の事実認定には根拠がないという批判は成り立たない。
 以上で要約的紹介を終える。
 明瞭であるのは、日本共産党が③の問題から④の問題へと、つまり<女性の人権侵害>の問題へと論点をスリカエていることだ。これはのちの日本共産党・山下芳生発言にも見られた。そして、2014年8月に朝日新聞が行なったことでもある。朝日新聞の記事をまとめた者たちは、この日本共産党・志位和夫の見解をおそらく知っていたものと思われる。そして、それを十分に参考にしたのではないか。
 ④については、「本人の意思で来たにせよ、強制で連れて来られたにせよ」と、入所自体は「自由意思」であった場合のあることを肯定していることは興味深い。、
 それはともかく、河野談話の原文に比べて日本共産党・志位の表現はより悲惨な印象を与えるものになっている。すなわち、「慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいもの」だった。→軍「慰安所」に入れば「監禁拘束され強制使役の下におかれ」、「性奴隷状態とされた」。
 また、もともと、河野談話のいう、「慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいもの」だったという簡単な一文が正確にまたは適切に「慰安所」での「慰安婦」の状態を叙述しているか、という問題があるだろう。はたして、志位のいうように「監禁拘束され強制使役の下におかれた」というものだったのか。
 つぎに、上のように日本共産党・志位は③で「慰安婦」とされる過程が「本人の意思に反して」いた=「強制性があった」とまとめているが、この部分の河野談話の原文は、「慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった」、というものだ。
ここにも見られるように、また志位も「強制性があった」とだけ述べているように、第一に、「慰安婦」とされる過程がすべて「本人の意思に反して」なされたとは河野談話は述べておらず、「本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあ」ったと言っているにすぎない。割合としての「数多く」なのか、絶対数が少なくないという意味なのかも曖昧だ。第二に、河野談話は「官憲等が直接これに加担したこともあった」と述べているだけで、「慰安婦」とされる過程の「強制性」が全体として日本軍(・国家)の行為を原因とするものだとは述べていない。また。「官憲等」と「等」を付けて、「加担」者が日本軍(・国家)だと断定しているわけでもない。
 要するに、河野談話は、1.一般的に「強制」性を認めたものとは言い難い、2.その「強制」なるものが全体として日本軍(・国家)の行為によるものだったと述べているわけでもない。
 日本共産党・志位は、「慰安婦」となる過程は<軍による強制>と明言しないでたんに<強制性があった>と述べつつ、じつはすべてが<軍による強制>があったという印象・イメージを生じさせようとしている。概念操作・論理展開において、<卑劣>なところがある。
 むろん、河野洋平もいけない。談話発表後に、朝日新聞の記者によるものだったのだろう、<強制があったと認めるのか>という質問に、<そのように理解してもらってけっこうだ>旨を答えてしまったのだから。
 この③の部分の重要な基礎だった吉田清治証言の内容を、朝日新聞は2014年08月に事実でなかったとした。ここで紹介した志位見解はこれよりも前の時期に語られている。そして、前回に記した小池晃発言は、吉田清治証言が崩れても③の事実が否定されはしないと、これまたほとんど朝日新聞と同様に、<強弁>していることになる。
 なお、「強制」=<悪>という語感でもって「強制」という概念が使われているようだが、法律にもとづく(適法な)「強制」もあれば、一般的・包括的な<自由意思での合意・契約>にもとづく個別の「強制」の受忍というものもある。このあたりは改めて記してみたい。「強制」という概念の整理も必要だ、とかねてより感じている。

1139/今谷明・天皇と戦争と歴史家(洋泉社、2012.07)から再び。

 〇先日の平泉澄とマルクス主義日本史学者・黒田俊雄への言及は、今谷明・天皇と戦争と歴史家(洋泉社、2012.07)p.125以下の「平泉澄と権門体制論」に依ったものだった。今谷著のp.40以下の「平泉澄の皇国史観とアジール論」の中でも、同旨のことが次のように、より簡潔に述べられていた。
 「戦後、黒田俊雄さんが『権門体制論』〔略〕で、平泉の説と同じことをのべています。ところが黒田さんは平泉ののことをぜんぜんいわないのです。自分が発見したように『権門体制論』を立てるわけですが。しかし…エッセンスはすでに…〔平泉の1922年の著〕のなかではっきりとのべられている…。公家・寺社・武家の鼎立、つまり『権門体制論』の萌芽をすでに平泉はいっていたわけです。/黒田さんは平泉のことを知っているはずなのに出さないのですね。論文にも著書にもまったく引用していない。ちょっとアンフェアではないかと思う。いくら平泉の思想なり人柄が気にくわんといっても、業績は業績で生きているわけだから、それを学説として紹介すべきなのにまったく無視している。平泉の業績が戦後忘却されていたことを考慮すると、ある意味で悪質な剽窃といってもいいすぎではないと思う」(p.56)。
 この今谷の論考の初出は1995年で、黒田俊雄の死後のことだ(黒田の逝去は1993年)。黒田の現役のときにまたは生前に、黒田も読めるように公にしてほしかったものだ、という感じもする。
 今谷明は1942年生まれで(今年に70歳)、実質的には中心的な活躍の時期を過ぎているだろうが、上と似たようなことは、元京都大学教授の竹内洋や、<保守派>として産経新聞によく登場している元大阪大学教授の加地伸行についても感じなくはない。
 現役の国公立大学の教授だった時代に、社会主義・マルクス主義あるいは「左翼」(・<進歩派>)の論者・学者たちを明確に(学術的に)批判してきたのだろうか、という疑問が湧くのだが、実際にどうだったかはよくは知らない。
 上の点はともあれ、「左翼」・マルクス主義学者の黒田俊雄が学説の内容よりも<人・名前>でもって引用等に「差別」を持ち込んでいたという旨の指摘は興味深いし、他の「左翼」・マルクス主義学者たちも、今日でも、かつ分野を問わず、似たような、<学問>と言われる作業をしているのだろう、ということは既に書いた。
 
〇上掲の今谷明著の最初にある樺山紘一との座談会「対話・戦後の歴史研究の潮流をふりかえる」(初出、1994年)もなかなか面白い。
 次の三点が印象に残った。
 第一。樺山が、とくにスターリン批判以降、欧米では「わりあい早くから切れて、マルクス主義に距離をおいて古典のひとつとして捉えている」にもかかわらず、「日本の場合、マルクス主義が非常に根強く残ったのはなぜなんでしょう」、「日本の場合はずっと教条として残」った、「日本だけはどうしてなんでしょう」と質問または問題提起して、今谷明が反応している。かかる疑問は、私もまたかねてより強く持ってきた。欧米では<反共>・反マルクス主義は(知識人・インテリも含めて)ほとんど<常識>であり<教養>の一つであるのに、日本だけはなぜ?、という疑問だ。
 厳密には答えになっていないようだが、今谷は次のように語っている。
 ・「経済学で講壇マルキシズムが非常に根強かった」ことと、「労働運動と連動」していて、「革命運動に影響された」ということがあった。
 ・「例えば文革の実情が明らかになるまではマルクス主義はひとつのモデルだった」。「日本の場合はスターリン批判やハンガリー事件があったにもかかわらず、日本のマルクス主義はびくともしなかった」。「日本の歴史学」は非常に不幸で、「昭和四〇年代くらいまで引きずってきた」、「ある意味では非常に遅れた」、「その間の停滞は惜しい」(p.20-21)。
 このあと、今谷は1989年のベルリンの壁の崩壊まで「気づかなかった」と述べ、樺山は「まだ気がついていないようなところもあるような気がしますけど」と反応している(p.22)。この部分は、樺山の感覚の方が当たっているのではないか。
 第二。今谷が、「アカデミズムに全共闘は残らなかったですね。民青系が大学院に残ったので、その後アカデミズムはマルキシズムが強い―特に歴史学は強い」と述べている(p.25)。
 全共闘系はすべてマルクス主義者ではなかったかのごときニュアンスの発言もあるが、全共闘系の中にはマルクス主義者もいたはずだ。従って、上の発言は、大学院に残り、その後大学教員になっていったのは、ほとんど「民青系」、つまり日本共産党系の者たちだ、というように理解できる。そして、その傾向は「特に歴史学は強い」ということになる。
 マルクス主義にも講座派・労農派、日本共産党系・社会党系等々とあったはずなのだが、日本共産党系のそれが「アカデミズム」(「特に歴史学」)を支配した、という指摘は重要だろう。
 上記の第一点、日本におけるマルクス主義の影響力の残存も、日本共産党の組織的な残存と無関係ではない、いやむしろほとんど同じことの別表現だ、と考えられるだろう。
 第三。今谷が、不思議なのは「マルクス主義歴史学がどうだったかという、マルクス主義内部での…学問的な検討・批判が歴史学で行われていない」ことだ、「歴史学の内部で例えばロシアの革命はいったいなんだったのかという再検討すらされていません」、と述べている(p.30)。
 怖ろしい実態だ。おそらく、日本共産党の歴史観を疑い、それに挑戦することは、学界、とくに日本史学界では、ほとんど<タブー>なのだろう。その点ではすでに、「学問の自由」はほとんど放棄されているわけだ。
 日本共産党はマルクス・レーニン主義のことを(正しい)「社会科学」と呼んでいるらしい。
 歴史学に限らないことだが、日本共産党の諸理論自体を対象とする<社会科学>的研究が大規模に行われるようにならないと、日本の人文・社会系の「学問」やそれを行う中心的組織らしき「大学」(の人文・社会系学部)は、それぞれの名に値しないままであり続けるのではないか。

1135/今谷明・天皇と戦争と歴史家(洋泉社、2012)に見る日本史学・「学問」。

 今谷明・天皇と戦争と歴史家(洋泉社、2012.07)p.125以下(「平泉澄と権門体制論」)の今谷による要約によると、1963年に岩波講座・日本歴史/中世2に書かれ、1975年に単著に収載されたようである、黒田俊雄(1926-1993)の、日本中世についての<権門体制>とは、例えば、次のようなものであるらしい。
 ①幕府論や武家政権論に還元された中世国家論・中世封建制論を「実体的に把握し直す」ための概念で、究極的には中世「天皇制」・「王権」の構造を究明する目的をもつ。
 ②<権門体制>論の趣旨は「人民支配の体系としての権力の構造」の究明にあり、史的唯物論にいう「上部構造」の解明を意図していて、「黒田の立論はすぐれてマルクス主義的国家論」だ。
 ③黒田の基本的認識は「公家も武家も等しく中世的な支配勢力」だということで、鎌倉幕府を「進歩的」・「革新的」と見る当時の通説(幕府論、領主制論)への疑問があり、同じくマルクス主義に立つ論者からも黒田の論は批判された(以上、p.126-128)。
 そのあと、黒田の論をめぐる石井進や佐藤進一らの議論も紹介されているが、今谷とともに、いや門外漢なので当然に、今谷以上に立ち入ることはしない。
 今谷が関心を持っているのは、黒田俊雄説の「学説史的背景」、「学説的前史」だ(p.125)。そして、この点についての叙述が、相当に興味深い。
 今谷の関心は、もう少し具体的にいうと、従来の通説は武家勢力とは異なり古代的・守旧的勢力と位置づけられる傾向にあった公家・寺社勢力を武家と同様に「中世的権門」と位置づける、という中世に関する時代・社会イメージを、黒田はいかにして獲得したのか、だ(p.133)。
 ここで平泉澄が登場してくる。今谷明は1926年の平泉の著書を読み、平泉がすでに、社寺・公家・武家の「三権門鼎立説」、国家統制(黒田のいう「人民支配」)のうえで三権門のいずれも単独では支配を貫徹できない旨を明記していたことを知る。
 そして、黒田俊雄説は「階級史観」の立場から平泉説を「換骨奪胎」し、装いを新たにして学界に公表したのではないか、という(p.137)。
 もっとも、慎重に、今谷は、黒田は平泉の著書を知らず、それに気づくことなく自ら「権門体制論」を構築したのだろうと、とりあえずは想像した。黒田俊雄は「平泉澄らのいわゆる皇国史観」、それは「国史」の「狂暴な反動的形態」などと平泉を罵倒していたからだ(p.138。黒田のこの文章は1984年)。
 しかし、さらに究明して、今谷は「平泉と黒田の言説の共通点」に「いやでも」気づいていく(p.139以下)。具体的な例がかなり詳しく紹介されているが、ここでは省く。そして、今谷が出した結論はこうだ。
 1975年の段階で黒田俊雄は平泉の1926年の著書を「熟知していたにもかかわらず、あたかも知らなかったかのように注記その他で全く平泉の名を出さなかった、ということになる」。平泉の高弟・平田俊春の論文等は随所に引用しているので、黒田は既往の研究のうち、平泉のもの「のみに関して引用を忌避した、とみてよいのではあるまいか」(p.144)。
 一般論的に、今谷は次のように述べて、この節を終えている。
 黒田批判が目的ではない。「問題は、当時の学界全体がそうした黒田の行論を看過し、黙認した、その事実」だ。「戦後歴史学界には、種々のタブーが現実に存在する。タブーの打破を標榜する歴史家にしてからが、自らタブーに手をかしているという現状は、…いささか奇妙なものに思われるが、ことは日本史学界の通弊として片付けられないものを含んでいる」。「学説を立論者個人から切り離し、学説として尊重する姿勢を拒み、立論者の存在とともに葬り去ってよしとしているならば、われわれはまだ『皇国史観』の亡霊から自由になってはいない、ということではないだろうか」(p.145)。
 以上で紹介は終えるが、最後の叙述・指摘は、学問一般、日本の学問研究風土一般にも当たっていそうで、はなはだ興味深いものがある。一つの契機にすぎなかったのかもかもしれないが、今谷がこのように述べる出発点が、マルクス主義歴史学者(とされる)黒田俊雄の著作にあったこともまた、別の意味で興味深い。
 唐突に前回紹介の<民科(法律部会)>を例に出せば、法学の世界でも、「民科」に加入している研究者の論文・著書は肯定的・好意的に紹介したり引用したりしながら、同じ内容または同程度に優れた内容の論文・著書は、論者が「民科」に入っていないことを理由として、場合によっては「民科」に敵対しているとみられることを理由として、いっさい無視する、といったことが行われていないだろうか。
 「学説を立論者個人から切り離し、学説として尊重する姿勢を拒み、立論者の存在とともに葬り去ってよしとしているならば、『日本共産党』や『マルクス主義』の亡霊から自由になってはいない、ということではないだろうか」。
 法学に限らず、教育学・社会学・政治学等々についても同様のことが言える。
 <学問>を「政治的」立場レベルでの闘いだと理解している日本共産党員は少なからず存在する、と思われる。そうでなくとも、論者の「名」によって引用等の仕方を変える程度のことは、「日本史学界の通弊」なのではなく、日本の人文・社会分野の諸学界において、<広く>行われていることではないかとも思われる。そして、そうした傾向は、学界全体が<左翼的>傾向に支配されていることが多いこともあって、<左翼的>学者が日常的に行っていることなのではあるまいか。
 それは黒田俊雄に見られるような(今谷明に従えばだが)「政治主義」・「党派主義」によることもあれば、「権威主義」というものによる場合もあるかもしれない(とりあえず、学界の権威・「大御所」に従い、例えば、引用を忘れない)。あるいは、そこにも至らないような、<趨勢寄りかかり主義>・<世すぎのための安全運転主義>といったものによるかもしれない。
 まともな「学問」は行われているのか。現在の「学問」状況はどうなっているのか。そんなことを考えさせるきっかけにもなる、今谷明の著書(の一部)だった。

0696/ヒドい「左翼」教条、荒川章二・豊かさへの渇望/日本の歴史16(小学館)。

 一 荒川章二・豊かさへの渇望/日本の歴史16・一九五五年から現在(小学館、2009.03)。最近は珍しくなった日本史通史の全集ものの最後の巻で、現在までを扱う。
 少し読んで、反吐が出そうになる。民主党内の旧社会党派、社民党、共産党、あるいはこれらの政党を支持する政治団体又は労働団体の<政治宣伝ビラ>を集めて並べたような本だ。
 「おわりに」によると、「私たちは歴史の主体として戦後社会をどのようにつくりあげてきたのか」が「本巻の問題設定」だったらしく、その結論は、「戦後日本の民衆的経験は、ある時は行政や企業に真っ向から対抗し、しだいに現実的な提案能力を高め、拒否と批判による政治への影響だけではなく、提案と創造による社会の改革・変革の能力をも蓄積してきた」(p.362-3)、ということらしい。
 この荒川章二という人は、狂っているのではないか。
 二 「おわりに」の文章は次のように続く。「現代の私たち」が「新しい時代」に選択する「選択肢」を考える「素材」として「本巻」では、「家族・労働と、そのなかにひそむ性や民族的出自による差別、諸地域・諸産業を切り分ける極端に不均衡な政策、そして沖縄に代表される戦後国家の巨大な『軍事空間』に注目して」、戦後史像を描いた、と(p.363)。この明記に見られるように、この本は要するに、①「差別」と②「不均衡」な政策、③「軍事」に着目して「戦後史」を書いた、というわけだ。
 これらが歴史叙述の重要な要素たりうることを否定はしないが、これらに(のみ)「注目」したと特記しているのだから、その偏向ぶりのヒドさを予想させる。
 「おわりに」では、さらに次のように述べる。上の①の「家族・労働にひそむ差別」に関して、「近年の新自由主義的市場原理が、…貧困・格差問題を浮かび上がらせたように、…雇用と生活の破壊はさらに進行する可能性さえあるだろう」。
 上の②に関して、「経済成長…過程で傷めつづけてきた国土」の再生が課題で、「分権と自治」が前提になるが、「ひたすらな自治体合併、統合政策の推進は、…市民的活力を削ぐことが危惧される」。
 上の③に関して、「…日米軍事同盟の行方という点に帰着」し、「東アジアにおける日本の位置」の定めという外交課題に直結する…(p.363-5)。
 三 1.日本の戦後史を考える又は叙述する場合でも、米ソ対立あるいは冷戦の成立と終焉(欧州での)という国際環境の変化を無視することはできないはずだ。
 上の荒川章二の本は、欧州での冷戦終結・「社会主義」ソ連の崩壊について、竹下~宮沢内閣の、「その間に、…冷戦崩壊・東西ドイツの統一で世界的な軍縮が急激に進み、九一年末、ソ連邦も解体した」 (p.219)としか書いていないと見られる。
 この本が扱っている米軍・自衛隊「基地反対闘争」も60年「安保反対」運動も、米ソ対立や「社会主義」国・ソ連の存在があればこそ発生し、ある人々にとってはそれが少なくとも精神的・理念的な「支え」にもなったのではないか? にもかかわらず、ソ連解体の叙述が上の程度であるのは何故か? 歴史学者らしい荒川章二は、まともに物事を見聞きし、理解する力があるのだろうか。
 2.北朝鮮への「祖国帰還」運動、北朝鮮当局による1970年代の日本人拉致については、当該時代の叙述の中には欠けている(いっさい触れていない)と見られる。その代わり、次のような<異様な>叙述が、小泉内閣時代の中に出ている。
 2002年10月に拉致被害者「五人の帰国が実現した。彼らは当初一時帰国とされたが、日本にとどめたまま家族の帰国を要求したことから北朝鮮側が硬化し、事態は膠着し、国交回復交渉も暗礁に乗り上げた。この後日本国内では…同情と真相究明の世論…北朝鮮への反発が高まった。同じころ、アメリカ…は北朝鮮を悪の枢軸の一国と名指しし、国際社会に対決を訴えた。北朝鮮は対抗的に核開発を再開し、日本政府は対米関係に配慮して、…日朝関係は一挙に暗転した。…日本政府は拉致問題の解決を働きかけるが、膠着した外交関係に制約され、…その後は事態打開への扉は開けないままである」(p.323-4)。
 上の文章によると、「北朝鮮側が硬化」して「事態」が「膠着」した原因は日本政府(・被害者家族)が「日本にとどめたまま家族の帰国を要求したこと」にあり、米政府と同一姿勢に立ったことにもよるこの「膠着した外交関係」によって、「事態打開」がなされていない、つまりは責任は全て北朝鮮ではなく日本(+「悪の枢軸の一国と名指しし」た米国)にある、とされている。北朝鮮の「核開発」の責任は米国にあるらしい。
 この荒川章二という人の頭は(他にも和田春樹とかがいたが)<ふつうではない>のではないか。
 他にも沖縄問題、教科書問題等々について、見事に「左翼教条」言説が並んでいる。ヒマがあれば別に紹介する。
 四 ブログの記述やそれこそ政党ビラならばここで取り上げようとも思わないが、日本史通史の<全集>ものの一巻というのだから、メモしておかざるをえない。日本の近現代史(学)はまだまだマルクス主義又は「左翼」が支配していると誰かがどこかで書いていたが、見事な例証を知った思いがする。
 荒川章二(1952-)は一橋大学社会学研究科出身で「専攻」は「日本近現代史」だという。青木書店から単著(『軍隊と地域』)を刊行しているので、日本共産党員か日本共産党の強いシンパである可能性が髙い。
 一橋大学にはかつて、藤原彰、中村政則、永原慶二等のマルクス主義歴史学者が巣くっていた(現在も?)。荒川章二は、これら先輩たちの薫陶よろしきを得たに違いない。そして20歳代、30歳代の若手の研究者へと強く継承されていっているのだろうから、恐ろしい。
 小学館も奇妙な書物を刊行したものだ。だが、直接の責任は小学館の編集部にではなく、この全集の編集委員、すなわち、平川南、五味文彦、倉地克直らにあると思われる。こんな本の内容が、1955年~現代の歴史叙述の日本史学界の「通説」的・「代表」的なものと理解されてよいのか。編集委員も少しは恥ずかしく思ってもらいたい。

0588/安本美典『「邪馬台国畿内説」徹底批判』を全読了。ここにも朝日新聞が。

 安本美典・「邪馬台国畿内説」徹底批判―その学説は「科学的」なのか(勉誠出版、2008.04)は数週間前に全読了している。
 「邪馬台国畿内説」が成立し難いことは安本によってすでに以前から既得の知識になっている。だが、あらためて<学問>というもの、及び朝日新聞のヒドさを考えさせる本だ。
 厳しい批判の対象になっているのは、まず、白石太一郎
 濃尾平野に古墳が出たことをもって邪馬台国の「南」(畿内説だと「東」と読み替える)にあったという狗奴国と関連づけたのは白石太一郎。この白石にも依りつつ、朝日新聞の2004年2月17日~19日の3回連載は白石らの「邪馬台国畿内説」(濃尾地方狗奴説)を大きく取り上げた、という。
 旧石器捏造事件に言及して安本はいう-「考古学とは『自浄作用のまったくない学問』の別名なのか」(p.84)。
 白石太一郎の文章を長く引用して安本はいう。
 ・「乱暴かつ粗雑きわまる議論というほかはない」(p.87)。
 ・「…などの断言も、まったく信用できない。…そもそも異論を承知の上で、『疑いない』などと断言をする権威主義的な人の議論は、信用しない方がよい」(p.91-92)。
 ・「要するに、白石太一郎氏の議論は、検証や論拠を欠いた議論のオンパレードなのである」(p.92)。
 なお、朝日新聞は、1992年11/06、2001年2/02にも「邪馬台国畿内説」に大きく傾いた記事を出している(p.93-97、後者の執筆は、編集委員・天野幸弘)。
 また別の箇所で、安本はいう-「白石氏の議論は、検証可能な方法、事実をたしかめる方法、あるいは科学的な方法によっていない。/みずからの観念、あるいは、思い込みを優先するものである。…、白石氏のような、ことばだけの議論が許されるのなら、どんな議論でも成立する」(p.147)。
 第二の大きな批判対象になっているのは、樋口隆康
 安本によると、樋口隆康は、いくつかの古墳の発掘結果を「キッカケとし、あるいは材料として、すべてを『邪馬台国畿内説』の立場から解釈し、結びつけ、マスコミを通じての大々的な宣伝をくりかえすという挙に」出ている。結果の発表内容は、「事実についての解釈の相違という範囲をはるかにこえている。無根の事実をまじえるものとなっている」(p.155)。
 また言う-「誤りが指摘されていようと、くわしい批判が行われていようと反論は行われない。一切無視し、旧説を墨守して、みずからに都合のよいと思われることは、マスコミなどで何度でもくりかえしてPRする。…樋口隆康氏は、この種の非実証的・非科学的・空想的な議論を、くりかえして」いる(p.166)。
 かかる類の文章の引用はまだ多いが避ける。だが、次の指摘は、<学問風土>にかかわって、興味を惹く。
 「京都大学は近畿に」あり、「地の利」があって、「京大勢がリーダーになりやすい。現在、京大を中心とする考古学者たちは、どんなに論理的に無理があろうと、『三角縁神獣鏡=卑弥呼の鏡説』〔=邪馬台国畿内説〕に固執してやまない。強力な刷り込みが行われると、そうなるのであろう」。
 邪馬台国北九州説=東京大学、畿内(大和)説=京都大学というバカバカしい対立がある(あった)と随分前から読んでいたが、少なくとも京都大学については現在でも続いているようだ(アホらしい)。考古学では京都大学所属の小林行雄の存在が大きかった、立命館大学にいた古代史学者(邪馬台国畿内説)・山尾幸久も京都大学出身、というのもすでに持っている知識の断片だ。
 もっとも、安本美典自体が京都大学文学部出身だが(但し、歴史・考古学専攻ではなかった)、同大学出身で伝来的アカデミズムから自由な(毎日新聞→大学教授)岡本健一は、京大国史出身の原秀三郎から「京大の連中はオウム真理教だよ。秀才…が入ってきて、そこで三角縁神獣鏡を見せられ、小林イズムを徹底的にたたき込まれれば、おのずからああいうふうになってしまう」と聞いた、という(p.186)。
 元に戻って、三角縁神獣鏡(卑弥呼が魏から貰った鏡と畿内説論者は主張している)の成分調査(結果は畿内説に有利とも解釈できた)に関して、読売新聞2005年3/25夕刊が「ずさんな成分調査」との見出しで批判的記事を書いたが、朝日新聞は「完全な誤り」説をいっさい紹介しなかった、という(p.203-204)。
 この問題でも樋口隆康は「ご都合主義」を発揮したのだったが、安本美典の批判は朝日新聞にも向けられている。
 「この種の疑問を、これまでにもしばしば指摘されている樋口隆康氏などの発表を、なんのチェック機能もはたらかせず、部数数百万部といわれる新聞の一面で報じ、その後、何のフォローもしない、『朝日新聞』の姿勢などは、どんなものであろう。/私は『季刊邪馬台国』誌上に『朝日新聞社への公開質問状』をのせたが、かえってきたのは、きわめて不まじめな、木で鼻をくくったような回答であった。/情報を売る会社は、欠陥のある情報を、製造・販売しても、なんの責任も、とらなくてよいのか」。
 一部の「学問」関係者と一部の(朝日新聞等の)マスメディア関係者との間の<結託>が、古代史・邪馬台国をめぐっても存在するようだ。
 問題は、古代史・邪馬台国に限られない。近現代史についても、朝日新聞はれっきとした独自の<歴史観>をもち、学者を<選別>していることが想起されてよい。
 いつぞやマルクス主義又は親マルクス主義ではないと、少なくとも<反・反共>でないと政治学系の大学院学生の大学への就職は困難である旨を中西輝政が月刊諸君!上で率直に語っていて印象に残ったことを書いたことがある。似たようなことは、少なくとも関西での「考古学」分野でもあるようだ。安本美典は、以下のように書く。
 「はじめに邪馬台国畿内説ありき」。何故かというと、「そのように教育されたから」。何故「そのような教育が行われたのか」というと「京都大学を中心にして、…そのような教育システムができあがっているから」。「その教育システムからはずれれば、就職も生活も出世も不利となる可能性がある」(p.330)。
 また言う-「関西を中心とする考古学関係の新聞記者なども、『邪馬台国畿内説』の立場から教育をうけており、そこから発信される情報が全国紙にのる傾向をもつ」(p.331)。
 「全国紙」に、あるいは「全国」版に載せてもらうためには、理論的・学問的にはどうであれ、近畿地方での古墳発掘結果等の報道記事は<邪馬台国>問題と関連づけて書かれる必要があり、そのためには、それに有利なコメントをしてくれる学者・調査関係者が必要になる……。
 新聞記者、ジャーナリストも<堕落>したものだ。むろん、調査の補助金等を獲得するために<政治的>に動いている面があることを否定できないと思われる学者・(国立)橿原考古学研究所関係者も<堕落>している。
 南京事件、「百人斬り」競争、慰安婦「強制」連行、住民集団自決「命令」、東京裁判等々、<学者・研究者>と<マスメディア>の関係は、ある部分ではきわめて緊密だ。
 古代史・邪馬台国問題でも似たような状況にあるようで、ここにも陰鬱な気分にさせる原因の一つがある。いちいち気にしていると、生きていけないが。

0562/安本美典・大和朝廷の起源、同・倭王卑弥呼と天照大御神伝承(勉誠出版、2005・2003)全読了。

 一 この数日間で、安本美典・大和朝廷の起源―邪馬台国の東遷と神武東征伝承(勉誠出版、2005)、安本美典・倭王卑弥呼と天照大御神伝承―神話の中に、史実の核がある(勉誠出版、2003)を、この順序で、それぞれ全読了した。
 安本美典の2000年以降の本(№はないが、「推理・邪馬台国と日本神話の謎」との統一タイトルのシリーズ扱いのようだ)は、安本がそれまでに主張してきたことの集大成プラス若干の補足的情報で、1934年生まれの安本としては、同じ形式・スタイル・造本で<ライフ・ワーク>を遺しておきたかったのだと思われる。したがって、その主張に馴染みがある者にはごく簡単に読めるし、もともとこの人の文章は(安本は文章心理学の本も出しているが)短く、読みやすく、主張が明晰だ(それと比べて、丸山真男の文章は何と読み難いのか。大江健三郎も、そしてある程度樋口陽一もそうだが)。但し、価格がやや高いのが難。
 二 上の安本・大和朝廷の起源の一部紹介。
 ・p.244-「平等」を至高の「正義」と考えれば「天皇制こそは、わが国において、平等の実現を阻害してきた最大の要因」になる。「いかに人々が平等をめざして戦ってきたか」という「人民の歴史」観は「第二次大戦後、大きく燃えあがり、マルクス主義などによってささえられ、とくに学界を席巻した」。「人民の歴史」観に立つと、「天皇制の源である大和朝廷も、本来、価値的に否定すべきものとして見ることとなる。そして、古代において大和朝廷が果たした一定の積極的役割を、評価しにくくなる」。
 ・p.247-「今日、古代においては、天皇家も、他の氏族と同じていどの権力しかもっていなかったとする議論がさかんである。しかし、私は、そのような議論は、古代における天皇の権威を、実質以上に低くみようとする一定の意図にもとづくものであると思う。/天皇家の権威は、大和朝廷の成立の当初から、他の氏族に比べ、卓越していたとみられる……」。
 ・各天皇の活躍期等/(卑弥呼=天照大御神230年頃)-神武天皇280年~290年頃-北九州から大和への「東遷」3世紀末-崇神天皇360年頃。
 ・時期の理解・主張に違いはあるが、<神武東遷>又は<邪馬台国東遷>を史実とするものに、和辻哲郎、市村其三郎、森浩一、井上光貞らがいる(安本美典が初めて主張といった珍説?では全くない)。
 三 上の安本・倭王卑弥呼と天照大御神伝承の一部紹介。
 ・247年と248年に続けて皆既日食が起きた(前年のものは大和・飛鳥の上では「皆既」にならない)。この史実(天文学的事実)の反映が<天の岩屋>(天照大御神の「隠れ」)伝承で、これは天照大御神=卑弥呼の<死>を意味するだろう(なお、卑弥呼が中国に使いを遣ったのは中国文献によると239年)。
 ・伝承では天照大御神が天の岩屋から再び地上に出てくるが、前後の天照大御神の活動の仕方には違いがある(後では補佐がつき単独では行動しない)など、再登場後の天照大御神は、中国文献で卑弥呼の「宗女」とされる<台与(豊)>のことだろう。
 ・第一代神武から第一六代仁徳まで皇位は父から子に継承されているが、これは信じられない。弟や甥への継承もあった筈。だが、第一代神武は勿論、非実在説の有力な第二代綏靖~第九代開化も(第十代が崇神)、生没年・在位年数等は別として、存在自体は否定できないだろう。
 ・直木孝次郎は(井上光貞も)、第二代綏靖~第九代開化には「事跡記事」(「旧辞」的部分)が全くないことをもって非実在の根拠とする。しかし、仁賢(24代)・武烈(25代)・安閑(27代)・宣化(28代)・欽明(29代)・敏達(30代)という存在が「ほぼ確実な」天皇にも「旧辞」的部分はなく、用明(31代)・崇峻(32代)・推古(33代)という存在が「確実な」天皇にも「旧辞」的部分はない。
 直木孝次郎は、①神武には事跡記事があっても存在を否定し、②綏靖以下八代は事跡記事を欠くことを理由に存在を否定し、③崇神や仁徳は事跡記事があって存在を肯定し、④用明・崇峻・推古には事跡記事が欠けていても存在を肯定する。こんな根拠は「主観にもとづくもので、およそ、論理や実証にたえるような議論とは思えない」(p.168、典拠は、直木・神話と歴史(吉川弘文館))。
 ・第二代綏靖~第九代開化非実在説の井上光貞(中央公論社の全集の初巻)の第二の根拠は名前(和風諡号を含む)が<後世的>だということにある(三王朝交替説の水野祐に大きく依存)。だが、記紀編纂後の桓武以降の天皇も第二代綏靖~第九代開化に似た又は同じ部分(例、ヤマトネコ)のある諡号をもつ。<後世>の記紀編纂期の天皇の名前を真似たのではなく、逆に、第二代綏靖~第九代開化の名前が<後世>に影響を与えた、と見られる。
 ・神功皇后は実在。活躍時期は400年前後。高句麗・広開土王の碑文は391年に倭が半島に侵入してきたことを示す。神功皇后はこの頃の人物。雄略天皇の活躍時期は470年頃。
 ・天皇等の代数と在位年数(10年程度で古代になればなるほど短くなる)が不自然にならない、というのが、コロンブスの卵的な安本美典説の立脚点。p.217、p.280のグラフは卑弥呼=天照大御神説にきわめて説得的。卑弥呼は神功皇后(日本書記の考え方)でも倭姫でも倭迹迹日百襲姫(箸墓被埋葬者とされる)でもない。
 四 以上の紹介はごく一部。安本美典説すべてを支持はしていないが、相当に説得的かつ刺激的だ。
 日本を<天皇を中心とする神の国>だと完全に又は多分に又は一部にせよ考えている日本国民は、日本古代史についてもっと知っておくべきと思うのだが、はたして<保守>派とされる論客たちにはどの程度の知識・見識とどの程度の一致があるのだろう。かなり心許ないのではないか、という気もする。

0502/三種の神器の一つ=八咫鏡と三角縁神獣鏡、式年遷宮と天皇陛下の「御治定」。

 「三種の神器」という言葉とそれが天皇位と関係のあることは知っていても、正確に何々であり何処に本体が所在しているのかとなると、多くの国民は、戦後教育のみを受けた国民に限ればほとんど全員が、知らないのではないか。特定の宗教にかかわる天皇家の<私事>として、学校教育の場では何ら教えられなかったからだ。それでよかったのか? 「三種の神器」に限られないが、国の肇まりに関する<物語>くらいは(「神代」の御伽話としてであれ)きちんと教えられてよかったように思う。国民(民族?)にとって、建国の「物語」があるだけでも誇らしいことだろう。そのようなものがない国家(・民族)もあるに違いないのだから。
 さて、安本美典・「邪馬台国畿内説」を撃破する!(宝島社新書、2001)は、「三種の神器」の一つ、神鏡=八咫鏡(やたのかがみ)の由来についても論及している。伊勢神宮や宮内庁はそれなりの説明をしていると思うが、さしあたり安本に依拠して紹介してみよう。
 安本によると、古事記・日本書紀は八咫鏡につきこう書いている。-天照大御神が天の岩戸に隠れたときに製作を命じたのが八咫鏡で、神武天皇東征に伴い畿内に移動し皇居(宮中)にあったが、第一〇代・崇神天皇の時代にレプリカが作られ、本体は(伊勢)神宮に祀られることになった。レプリカ作成の際の試鋳品が奈良県田原本町の鏡作坐天照御魂神社に祀られている。
 以下は、安本の推論又は主張。鏡作坐天照御魂神社にある試鋳品は三角縁神獣鏡なので、八咫鏡も三角縁神獣鏡の可能性がある。天照大御神=卑弥呼が没したとき(天照大御神が天の岩戸に隠れたとき)に三角縁神獣鏡の祖型を作ったとすれば、それは卑弥呼の功績を記念したもので、中国・魏と交流しその「冊封体制」に入ったことから魏の年号が記されていても自然だ。奈良県の「弥生時代」又は「三世紀」の遺跡からは(「四世紀」以降は別として)三角縁神獣鏡は一つも出土していない(北九州からは出土している)。
 安本の論はこうして天照大御神=卑弥呼の所在地に関する問題へとつながっていくが、ともあれ、邪馬台国問題で話題になる三角縁神獣鏡が「三種の神器」の一つ=八咫鏡と関係がある、と推測又は推論している。これはどの程度一般的な説なのかは分からないが、知的好奇心の湧く話ではある。八咫鏡なるものが歴史の深いかつ貴重なものだったことはある程度は判る。
 ところで、別のテーマになるが、八咫鏡本体が存置されている伊勢神宮の式年遷宮(次回は2013年)の準備のための今上天皇の「ご聴許」が宮内庁長官名で(伊勢)神宮あての文書で伝えられていると推察されることはすでに書いた。
 神宮司庁・神宮(2007.04、講談社編集)という写真集のような本によると、この一般的な「ご聴許」以外に、式年遷宮に至るまでに「天皇陛下に御治定を仰ぐ」とされている、以下の多くの行為がある。今年の、すでに産経新聞でも小さく報道のあった「鎮地祭」の挙行もそうだが、2005年の「山口祭」・「木本祭」・「御船代祭」、2006年の「木造始祭」が<御治定>にもとづきすでに行われている(それぞれの意味・内容の簡単な記述もあるが、省略)。あとは、2012年の「立柱祭」・「上棟祭」、2013年当年の「杵築祭」・「後鎮祭」・「遷御」・「奉幣」・「御神楽」がある。これらのうち「遷御」は「御神体を新宮に遷しまつる祭り」で、「天皇陛下が斎行の月日をお定めになる」と記されている。
 天皇陛下の「御治定」なるものの正確な意味は分からないが、これらの祭儀を特定の月日に挙行することを<許す>・<認める>という趣旨は少なくとも含まれているだろう。式年遷宮は、天皇(皇室)自身の祭祀行為として、「勅使」(天皇陛下の代理?)を主宰者として行われるものだからだ(なお、前回の実際の祭祀主宰者の氏名を特定していなかったが、1988年から「神宮祭主」をされている、昭和天皇の皇女・今上天皇の姉の池田厚子氏だったと判った)。
 しかして、天皇はいかなる権限にもとづいてこの「御治定」なるものを伊勢神宮という一宗教法人に対して行うのだろうか。伊勢神宮との間に詳細な<契約文書>でも交わされているのだろうか。
 そんな<近代的な法的観念>に馴染むものはおそらく存在しないだろう。天皇(・皇室)と(伊勢)神宮の特別に密接な関係にもとづき、歴史的・伝統的な慣行・慣例に従っているのだ、と思われる。それらは国家神道の時代を超えて、遅くとも明治維新以前の時代から形成されてきているのだろう(かかる歴史的・伝統的な長年の慣行・慣例に従った、<天皇制度>と不可分の天皇の行為が「私的」行為扱いされるとは解(げ)せないが、同旨のことは何度も書いた)。
 だが、一般的には(「鎮地祭」の挙行に関する産経新聞の記事によってもそうだが)、伊勢神宮の式年遷宮に関する諸行事に天皇(・皇室)が深くかかわっていることは知られていないのではないだろうか。式年遷宮の費用が基本的には国民の寄付金(奉賛金)による、ということ以外に、正確な実態は知られていないのではないだろうか。そして、それでよいのか、と疑問に思う。

0501/邪馬台国・三角縁神獣鏡問題と人文・社会系「学問」。

 産経新聞5/11の読書欄に安本美典・「邪馬台国畿内説」徹底批判(勉誠出版)の紹介(簡単な書評?)がある。その文の中に「最近は畿内説が有力になってきて、畿内にあったことを前提に議論がなされる傾向もみられる」とある。これは紹介者(書評者?)の自らの勉強・知識にもとづくものだろうか、安本が言っていることを真似ているのだろうか。
 安本の少なくとも安価な本(新書・文庫)はおそらく全て所持しており全て読んでいる。最も新しいのは、安本美典・「邪馬台国畿内説」を撃破する!(宝島社新書、2001)だろう。
 後半1/3は安本の従来の主張の反復及び補強だ。この本だけに限らないが、①邪馬台国所在地=北九州>現在の朝倉市甘木地区説、②卑弥呼=天照大神説、③神武天皇実在説、等はそれぞれ-素人にとってだが―説得力がある。
 ①について、甘木付近(と周囲)と奈良盆地西南部付近(と周囲)に同一又は類似の地名が同様の位置関係で存続していることの指摘は目を瞠らせた(上の本ではp.182-3)。
 ②について、天皇在位年数の統計処理を前提としてのヨコ軸=天皇の代の数、タテ軸=天皇の没年(又は退位年)のグラフ(上の本ではp.177)を延長すると初代(代数1)の神武天皇は280年~290年、その祖母とされる天照大神(代数でいうと、いわば-2)は240年頃になる、という指摘も、上の地名問題とともに安本の独自の指摘(発見?)だったと思うが、相当に説得力がある。
 中国の史書によると、卑弥呼は239年に中国に使者を派遣している。また、中国の史書によると卑弥呼の没年は247~8年らしいが、この両年に(二度)皆既日食があったのは事実のようで、安本は日本の史書による天照大神の「天の岩屋」隠れと再出現は天照大神の死亡とトヨ=台与(安本の上の本p.189はニニギの命(神武天皇の父)の母とされる「万幡豊秋津師比売命」ではないかする)の<女王>継承を意味するのではないか、とする。卑弥呼の死亡年頃に実際に皆既日食があり、天照大神の「天の岩屋」隠れの伝承が一方にある、というのは全くの偶然だろうか。
 上の③を補足すれば、現在は紀元2700年近くになるというのではなく、安本は、記紀上の在位年数や活躍年代の記載は信じられなくとも、北九州から大和盆地に「東遷」し、のちに神武天皇と称された、大和朝廷という機構の設立者にあたる人物がかつて(3世紀後半頃に)存在したこと、その後の支配者(=祭祀者?)の代数、くらいの記憶は7世紀くらいまで残っていても不思議ではない、とする。
 安本説によっても<王朝>の交替=血統の変更は否定されないが、勝手に自分の言葉(推測)で書けば、少なくとも継体天皇以降の天皇家の血統は現在まで続いているのではなかろうか(むろん、奈良時代の天武天皇系の諸天皇、南朝の諸天皇等々、現在の天皇家の直接の祖先ではない天皇も少なくない)。
 さて、安本の上の本の前半は最近の「邪馬台国畿内説」論に対する厳しい批判で、樋口隆康(この本の時点で橿原考古学研究所所長、京都大学卒)、岡村秀典(同、京都大学人文研究所助教授)らが槍玉に挙がっている。
 京都大学の小林行雄等が中国産(魏王から卑弥呼に贈られた)とした、そして京都大学系の人が同様の主張をしているらしい三角縁神獣鏡問題の詳細等には触れない。
 もともと安本美典は<マルクス主義は大ホラの壮大な体系>とか述べてマルクス主義(唯物史観・発展段階史観)歴史学を方法論次元で批判しており、津田左右吉以来の、記紀の「神代」の記述を全面否定する<文献史学>に対しても批判的だ。
 そしてまた、安本自身は京都大学出身だが(但し、日本史又は考古学専攻ではない)、樋口隆康や岡村秀典に対する舌鋒は鋭い。
 ・安本はかつてこう言ったらしい。-「京都大学の考古学の人たちは、オウム真理教といっしょ…。秀才ぞろいだけど…馬車馬のように視野が限られていた」。また、京都大学出身の原秀三郎(静岡大学)も次の旨言ったらしい。-「京大の連中はオウム真理教だよ。秀才の考古ボーイが入ってきて、そこで三角縁神獣鏡を見せられ、小林イズム〔小林行雄の説〕を徹底的にたたき込まれれば、おのずからああいうふうになってしまう」。(p.103)
 安本はこうも言う。-京都大学は近畿という地の利もあり「京大勢がリーダーになりやすい」。「どんなに論理的に無理があろうと」「三角縁神獣鏡説=卑弥呼の鏡」に「固執」する。「強力な刷り込みが行われると、そうなる」のだろうか(p.54)。
 ・安本は、岡村秀典についてこう書く。-「氏の論議の本質は、実証というよりも、空想である。科学的論証の態をなしていない。…著書で証明されているのは、およそ非実証的、空想的な内容であっても、圧倒的自信をもって発言する人たちがいるのだということだけである」(p.148)。p.102の見出しは、「カルトに近い『卑弥呼の鏡=三角縁神獣鏡説』」。 
 ・安本は、樋口隆康「ら」についてこうも書く。-「発掘の成果じたいは立派」でも、「多額の費用をかけた奈良県の…地域おこし、宣伝事業に、邪馬台国問題が利用されている面が、いまや強く出ている」(p.18)、「誤りと無根の事実とに満ちている」(p.20)、「この種の非実証的・非科学的・空想的な議論を、くりかえしておられる」、「氏の頭脳の構造は、どうなっているのであろう」、「与えられた先輩の説…を…八〇年一日のごとく、機会あるごとにくりかえす。念仏や題目を唱える宗教家と、なんら異ならない」(p.30)。
 以上は、たんに邪馬台国又は三角縁神獣鏡問題に関心をもって綴ったのではない。古代史学・考古学という<学問>にどうやら<人情>・<感情>・<情念>が入ってきているらしいということを興味深く感じるとともに、<怖ろしい>ことだとも思い、かつそうした現象・問題は古代史学・考古学に限らず、歴史学一般に、さらに少なくとも人文系・社会系の<学問>分野に広く通じるところがあるのではないか、という問題関心から書いた。
 政治学の分野で、マルクス主義又は少なくとも「左翼」程度に位置しておかないと大学院学生の就職がむつかしい(少なくとも、かつては困難だった)ということは、かつて月刊・諸君!誌上で中西輝政が語っていた。同様の事情は、歴史学、社会学、憲法学等ゝの法学(さらに教育学?、哲学?)についてもあるのではなかろうか。そして、そういうような研究者の育て方で、<まともな>学問が生まれるのだろうか。
 あたり前のことと思うが、安本美典は上の本でこうも書く。-「個人崇拝的な学説の信奉はよくない」(p.102)。
 もともと邪馬台国所在地問題については東京大学系-北九州説、京都大学系-大和説という対立があると知られており、個人レベルではなく大学レベルでの対立があるらしきことを、<非学問的な>奇妙な現象だと感じたものだった。大学レベルではなく指導教授レベルでもよいが、<非学問的な・個人崇拝>的現象は、広く人文系・社会系の<学問>分野に残っているのではないか
 若い研究者にとっては、大学での職を求めるために唯々諾々と?指導教授の学説ないし主張に盲従?していないだろうか。全面的にそうだとは推測しないが、何割かでもそういう現象があれば、その分だけはもはや<学問>ではなくなっているのではないか(「秘儀」の「伝達」の如きものだ)。
 なお、京都にあっても、同志社大学出身・同教授だった森浩一は三角縁神獣鏡問題でも安本説と同じで、かつ邪馬台国=北九州説。一方、京都大学出身の立命館大教授だった山尾幸久の同・新版魏志倭人伝(講談社現代新書、1986)は、京都大学系そのままの、邪馬台国=大和説。

0489/橋下徹大阪府知事を「叱った」直木孝次郎とは何者か?

 産経新聞4/09(ネット上のニュースの日付)に「89歳老学者、38歳橋下知事に『暴挙』と叱る」という記事があった。直木孝次郎らが「府立弥生文化博物館(和泉市)などの存続を求める署名などを再提出」し、府立諸施設の廃止を含む見直しをしている大阪府知事・橋下徹を、直木孝次郎が「秦始皇帝の焚書坑儒にも比すべき暴挙」と叱る記者会見をした、という。
 府立諸施設の見直し問題はともかく(上記博物館は埋蔵物との関係で廃止は困難なようだ)、目を惹いたのは直木孝次郎という名前であり、そして、この産経の記事が、この直木を「難波宮跡の保存運動などで知られる89歳の老学者」、「旧海軍で軍隊生活も経験し」て「歴史に学ぶ重要性を痛感し、日本の古代史研究をリードしてきた」等と、肯定的に紹介していることだ。
 産経新聞が橋下徹府政をどう評価しどう誘導しようとしているかは知らない。また、直木孝次郎がかなり著名な日本史(古代史)学者だったことも事実だろう(大阪市立大→岡山大→相愛大)。
 だが、例えば、先日言及したように、直木孝次郎は日本共産党系出版社刊行の新日本新書で藤谷俊雄=直木孝次郎・伊勢神宮(1991)という共著を出しており、同じく日本共産党系の出版社である青木書店から初期には本を出しているなど、かりに日本共産党員又は日本共産党シンパでなくとも、れっきとしたマルクス主義歴史学者であり、「左翼」だった(たぶん親日本共産党だろう)。
 戦後に活躍した日本史学者はたいていマルクス主義(史的唯物論)の影響を受けて「歴史科学」を標榜したから、直木が特異というわけではない。だが、直木が現役?時代に<左翼>的活動に関与していたことは、さしあたりは推測でしか語らないが(逐一確認する時間が惜しいし、確認のための資料の持ち合わせもない)、1970年代の大阪における社会・共産両党推薦による「革新」知事やその後に日本共産党単独推薦で当選した「革新」知事(黒田了一)の推薦母体の中に、あるいは推薦人の中に「直木孝次郎」の名があるだろうことからも明瞭だ(黒田了一と同じ大学の同僚の時期もあった)。
 何よりも、上記のように、伊勢神宮に関する直木執筆部分は近現代史ではないのでさほど<政治>色は出さず、<史料実証主義>的に書いてはいるが、日本共産党員と想定される元部落問題研究所理事長(藤谷俊雄)と同じ本の共著者になっていることでも、その<政治的・思想的>傾向は分かるだろう。政治的に無色・中立でこんな人とこんな出版社(新日本出版社)から共著を出す筈がない(もともとはやはり「左翼」の三一書房刊)。
 橋下徹は弁護士時代、日弁連の中枢にいる<活動家>弁護士や光市母子殺害事件被告人の<人権派>弁護団を遠慮なく批判していた等の、<保守的>又は<右派>の人物だった。だからこそ、府知事選投票日直前に民主党によって過去の<発言録>を載せたビラが撒かれたりした。
 そういう橋下徹を直木孝次郎が<快く>感じていないだろうことは容易に推測できる。したがってまた、直木が橋下を「叱った」心持ちの少なくとも10分の1程度は、橋下の<保守>・<右派>姿勢に対する反発だったのではないかと思われる。「府立弥生文化博物館」の存続を求める方気持ちの方がかりに強くとも、厳しい言葉による批判の一部は、直木の対橋下感情を示している、と推測できる。
 しかるに、冒頭の記事を書いた産経新聞記者は、以上のようなことは気に懸けず、政治的に中立・無色の「89歳老学者」等として直木孝次郎を描いている。60年代・70年代の時代の雰囲気と直木の当時の活動歴を知らない世代の記者だろうからやむを得ないとは思うが、もう少し勉強+資料収集をしてから記事を書いてほしいものだ(資料のうち人物辞典類自体が「左翼」的で、れっきとした日本共産党員(と見られる者)であっても<リベラルな立場の学者として行動>などと書いてあることがあるから注意が必要だが)。
 呑気にあるいは能天気に直木孝次郎を政治的に中立・無色の「89歳老学者」等と記述した記事は、10分の1程度は、<左翼>を助け、橋下徹をその分だけは不当に傷つけている。

0153/やはり「哀れ」を誘う、中村政則・戦後史(岩波新書)。

 戦後史に関する概説書はいくつか読んだ。中村政則・戦後史(岩波新書、2005)もその一つだ。
 この本は、1.「戦争」に着目した「貫戦史」との方法をとるというが、それにしては朝鮮戦争、アフガン戦争の扱いは小さく、ベトナム戦争、湾岸戦争の扱いは大きい。
 2.何よりも、周辺事態法制=有事法制を「まさに戦争目的のための」ものと躊躇なく断言し(p.260)、「いま」日本は「戦争の道」か「平和の道」かという対立・選択を迫られている、「戦後最大の岐路に立っている」と締めくくりにかかるに至っては(p.289)、ヤレヤレ40年前の本かと思ってしまう。
 さすがに岩波が起用した執筆者だ。日本人はいったい何度「戦争の道」ではなく「平和の道」を選ぶように「煽られて」きたことだろう。
 3.戦後史を語る以上、ソ連・東欧「社会主義」体制の崩壊への言及は避けられないが、十分に詳細ではなく(p.185-等)、かつ日本の戦後史の見方そのものを変更させる可能性を多分にもつ、インパクトの大きさを感じ取ることはできない。
 思うに、執筆時点で70歳くらいだったこの元一橋大学教授は、コミュニズム、マルクス主義の敗北の影響を(p.233あたりに触れられてはいるが)、大きいものとは見ていない、又はそう見たくはない、あるいは少なくとも自らの歴史学の見方・方法を変えなければならないほどのものとは見ていないのだろう。にもかかわらず、ソ連解体等に触れないわけにはいかず、筆者の筆致には率直な感想として何やら痛々しさすら感じてしまう
 「戦争の道」と「平和の道」という対立は、かつてはアメリカ等の資本主義又は「帝国主義」国とソ連等の「社会主義」国の対立を意味したはずだった。後者がほぼ消滅した現時点で、この二つの道の「選択」・「岐路」を強調する筆者は、いったいいかなる対立を想定しているのだろうか。熱意を感じさせるが如き文章がじつは空疎に感じる原因も、このあたりにあると思われる。
 悪しき日本と気の毒な「アジア」という対立図式なのか? むしろ「戦争の道」を進んでいるのは北朝鮮等と見るのが素直と思えるが、北朝鮮や中国の異常さ・危険性にほとんど言及しない中村政則老人はそうは考えておらず、日本国内にいるらしい「戦争」勢力への警戒を強調したいのだろう。
 なお、4.ソ連崩壊の90年前後で「戦後は終わった」と書きつつ(p.283)、その後も2000年までを「戦後」と位置づけているのは、子細に読めば矛盾していないかもしれないが、やや解りにくい。
 それにしても2005年にこんな本がまだ刊行されるとは。著者は表現・学問の自由を、岩波書店は出版の自由を享受すればいいが、こうした本の影響で誤った歴史観・歴史の見通しをもってしまう「純朴な」人々への責任は誰がきちんと負うのか。

0152/朝鮮戦争に関するマルクス主義歴史家の「哀れ」。

 朝鮮戦争は南北どちらが先に攻撃を仕掛けて開始したかという問題につき、松本清張・日本の黒い霧「謀略朝鮮戦争」(松本清張全集30のp.386以下、初出、1962?)は曖昧にしつつ、南による北侵説の余地を多分に残している。
 だが、中国共産党の影響を受けている可能性を否定できない、朱建栄・毛沢東の朝鮮戦争(原著1991、岩波現代文庫、2004.07)すら、p.22で、朝鮮戦争は「北朝鮮が発動したことについて、もはや疑問を挟む余地はなくなった。そして金日成が スターリンの支持を取り付けて、その軍事的援助を得て、…開戦計画を練っていたことも明らかになった」と記すに至っている。
 また、児島襄・朝鮮戦争1(文春文庫、1984。初出1977)は明瞭に「北」による「南侵」説だったが、元赤旗平壌特派員で2005年に共産党を除籍された萩原遼・朝鮮戦争(1993、文藝春秋)刊行の頃までには、この戦争が、朱建栄の言うように、米国・韓国軍の北侵によってでなくスターリンと毛沢東の了解のもとで北朝鮮軍の南侵により始まったことは関係史料から明らかになっていたと思われる。
 しかるに、第一に、マルクス主義歴史学者の井上清・昭和の50年 -新書日本史8(講談社現代新書、1976.09)p.139-140は、「米軍が、日本を基地として朝鮮戦争をおこした」、「6月25日、李承晩軍は38度線で北側を攻撃し、北は大反撃に出た。こうして朝鮮戦争がはじまった」と述べ、著者と講談社は1992.12の第9刷になってもこれをそのまま発売している(私の所持している範囲で指摘する)。
 第二に、亀井勝一郎との間で<昭和史論争>を引き起こした遠山茂樹=今井浩一=藤原彰・昭和史(新版、岩波新書、1959)の56刷は1995.05に出ているのだが、同p.276も「6月22日」アメリカは「極東において積極的行動に出ることを決定した」、「25日、北朝鮮軍が攻撃してきたという理由で、韓国軍は38度線をこえて進撃を開始した」と記述している。
 上述のように、1990年代初頭には(旧ソ連の関係史料が公開されたことにより)朝鮮戦争は<北朝鮮による侵略>により始まったことは明らかになっていたのに、上の二つの本の著者たちと講談社、岩波書店という日本有数の?出版社は、歴史の真実を歪曲した、端的には「ウソ」を書いている歴史本を90年代の前半以降も販売し続けたのだ(ひょっとして2007年の現在でも?)。執筆者は勿論だが、出版社にも「良心」又は(大多数の研究者等が承認する又は史料により疑いがなくなった)歴史的事実への「謙虚さ」が必要だろう。名誉毀損等の具体的な被害者はいないとしても、歴史の「偽造」は、長期的には、又は国家的観点からは、遙かに<罪深い>ものだ、と考えられる。
 ところで、出版元や内容から日本共産党員だろうと推測される鈴木正四・戦後日本の史的分析(青木書店、1969)を古書で持っているが、その「まえがき」は「もっとも全面的な、もっとも客観的な学問の立場であり方法であると思うから」、「労働者階級の立場、マルクス主義の方法と観点にもとづいて書かれている」と勇ましく宣言している。そして、p.114で朝鮮戦争について次のように言う。-「絶対」と言いたいところを学問的な表現で「少なくともいわば1万中の9999まで、アメリカが戦争をおこした疑いがきわめてこいという結論にたっした」。
 同じく古書で買った、藤原彰・日本帝国主義(1968、日本評論社)も結論は同じだ。
 出版された時期、当時は旧ソ連の史料を知ることは困難だったことを考慮しても、今から見るとこれらマルクス主義歴史家の叙述は、何やら<哀れ>を誘う。<取り憑かれ>とは怖ろしいものだ。

0081/日本史学界ではまだ「信仰告白」が必要なのか-原田敬一の岩波新書。

 1974年頃、東京大学社会科学研究所編で『戦後改革』全8巻の講座ものが出ていて、「占領」期に関心があるものには必読の文献かにも見えるが、その第1巻・課題と視角(東京大学出版会、1974)の巻頭論文は大内力「戦後改革と国家独占資本主義」というタイトルで、その他の所収論文も見事にマルクス主義者又はそのシンパが書いているようだ。
 従ってとても読む気にならないのだが、大内兵衛の子息のその大内力は、経済学者だが1960年代後半に中央公論社から出た日本史通史もの(焦茶色の函入。売れ行き良好だった筈だ)の24巻・ファシズムへの道(1967)を書いていた。同じシリーズの20巻・明治維新(1966)の著者はあの井上清だったのだから、全執筆者でないにせよ、この1960年代後半の通史シリーズのおおよその「傾向」はわかる。
 新しい世代の歴史研究者もそうした「マルクス主義的」歴史学者の指導を受けたのだから、「社会主義国」ソ連等の崩壊があったりしたにもかかわらず、「ふつうの」社会や分野に比べて、まだ<日本史学界>(たぶん西洋史学界も)は、総じてより「マルクス主義的」だろうとは想像はつく。
 何しろ、諸君!2007年2月号の座談会で伊藤隆は「大学の歴史・社会科学系では…共産主義系の勢力が圧倒的多数派なんですね」と言い、中西輝政は「近年、むしろ増えているのではないですか。現在は昭和二十年代以上に、広い意味での「大学の赤化」は進んでいる…」とまで反応しているのだ(p.50)
 上のような想像があたっているかどうか、また司馬遼太郎はどう扱われているかに関心をもって、原田敬一(1948-)・日清/日露戦争(岩波新書、2007.02)を入手した。全部読んでいないし、たぶんそうはならないが、いくつか驚き、面白く感じるところがある。
 1.このテーマ又は時代だと、いかに小説とはいえ、今の時点で書かれる歴史だとすれば司馬遼太郎の「坂の上の雲」への言及は不可欠だと思うが、索引に「司馬遼太郎」、「坂の上の雲」はなく、本文の中にも一切の言及がない。司馬自身はその呼称を厭がったようだが、<司馬「史観」>-日清・日露戦争は「祖国防衛戦争」だった、その後日本はおかしくなった-に対して、批判的にでも言及してもよさそうなものだが、完全無視だ。
 藤岡信勝は汚辱の近現代史(徳間書店、1996)の中の「「司馬史観」の説得力-「東京裁判=コミンテルン史観」を覆す「坂の上の雲」」で、「坂の上の雲」を読んで「戦後歴史教育の呪縛」から抜け出せた、それまでは日清・日露戦争は「まぎれもない帝国主義戦争」で当時の政治家は「帝国主義的侵略主義者」だと思っていた、と告白している(p.52-53)。
 私は藤岡とは違って不勉強だったからか、そこまでの思い込みはなく明治維新以降1945年までの日本史全体を暗黒視してはいなかった。明治維新以降の「近代」化をすべて消極的に評価することはできない、と感じていた。
 それはともかく、国民の「歴史認識」に与えた司馬の本の影響は、どんな精緻な専門的歴史書よりも極めて大きかっただろう。
 そんな本も歴史学の研究書でなく小説にすぎないとなると無視されるのだろうか。また、小説でなく研究書といえるものであっても、歴史学プロパーの、要するに日本史アカデミズムの範囲内の本でないと無視されるのだろうか。例えば、産経新聞取材班編・日露戦争(扶桑社、2004)は当然に無視され、黄文雄は日本史学者と見なされていないのか、同・偽造された日本史(日本文芸社、1997)、同・台湾は日本の植民地ではなかった(ワック、2005)等も無視されている。
 もっとも、横手慎二(1950-)・日露戦争史(中公新書、2005)は「おわりに」の中で、「日露戦争と聞くと、すぐに司馬遼太郎の『坂の上の雲』を想いだす」、学生時代に、「たんなる小説と思いつつ、そこに書かれている日本の「歴史」に惹かれて一気に読んだ」、自分が日露戦争史を書くとは考えもしていなかった、と率直に記している。
 横手も大学教授なのだが「日本史」専攻でないようであり、外務省調査員という職歴もあって、原田よりは学界=アカデミズムの<様式>から「自由」なのかもしれない。
 2.同じ時代を扱った通史ものはふつうは参考文献として挙げられている筈と思っていたら、中央公論社の2000年頃の『日本の近代』シリーズの3巻の、御厨貴・明治国家の完成1890-1905(2001)は無視されており、佐々木隆の1992年の著は挙げられながら、講談社の2000年頃の通史シリーズ・『日本の歴史』の21巻の、佐々木隆・明治人の力量(2002)は無視されている。
 本を書く場合に先行業績を全て列挙する必要はなく「参考」にした文献のみを挙げるので足りるから、上のような形式的なことを原田著の欠点と評することはできないだろう。大江志乃夫・靖国神社(岩波新書、1984)が参考文献とされながらその他の靖国神社関係文献が挙がっていないと批判しても無意味なのかもしれない。だが、かかる形式的なことは原田著の内容にもつながっているようだ。
 3.原田著の「はじめに」p.9は書く-「近代日本が欧米文化の学習で優等生だったことが、1945年の破滅を呼ぶことになる…」。この文を読んで、この人は基本的な「論理」を判っている人なのかと疑問に思った。
 「1945年の破滅」の原因の一つは「近代日本が欧米文化の学習で優等生だったこと」だ、と言うなら解らなくはない。だが、「近代日本が欧米文化の学習で優等生だったこと」が「1945年の破滅」の原因だ、と短絡的かつ単純に言い切れるのか。相当に太い(そして粗い)神経をもつ学者のようだ。
 4.計6頁の「おわりに」に限っても、奇妙な点が多い。
 ア.韓国併合条約締結の日に寺内正毅が山県有朋に送った手紙の中に併合後の「一大骨折りの仕事」は腐敗した日本人官吏の処分だ旨書いてあることを、「支配者である日本人が驕っており、自省は困難だった事実」を示す一つだという(p.239) 。なぜこう言えるのか私には解らない。原史料を使っているようだが、腐敗→驕慢、とりわけ腐敗→自省困難という論理の正しさはどうして実証されているのか、不思議だ。
 イ.台湾、朝鮮という「植民地」経営の実際をこの著者は文献上でもいかほど知っているのか。欧米の如き極悪な支配をしてはいないという「言い訳」はこの人によると「一笑に付される低い水準のものでしかないらしい(p.238)。だが、そのための根拠・資料は示されていない。言いっ放しだ。
 ウ.「韓国併合は、腐敗していた朝鮮王朝に責任がある、と…積極的に植民地化へ動いたことを隠蔽して、…正当化する意見を批判している(p.239)。だが、「腐敗していた朝鮮王朝」に「韓国併合」に至った「責任」の一片もないのだろうか。「ない」と考えていそうに理解できる文章だ。本当にそう考えているなら、この人にはこの時期の朝鮮・韓国史を語る資格はない。(なお「植民地」概念が簡単に使われるのも気になるが、ここでは省略しておこう)。
 エ.日本が「1945年の敗戦」という「外圧」により「植民地問題」を「解決した」という「歴史的経緯」の「出発点が「日清戦争から日露戦争へ」の時期にあった」と、最後にまとめ的な文章がある(p.240)。
 この本は「近代日本が欧米文化の学習で優等生だったこと」→「1945年の破滅」という論理を採用していることに上に触れたが、ここでも「日清戦争から日露戦争へ」の時期から「1945年の敗戦」までを一直線の歴史として捉えているのが明瞭だ。日清戦争前の「欧米文化の学習」の時期まで含めると明治維新から昭和の敗戦までが、ひと続きの不可避的な歴史の流れと理解されている如くだ。
 そうだとすれば、まさしく、明治になって以降敗戦までずっと「日本は帝国主義国化して悪いことをしてきました」という史観であり、昭和になって以降に限っての「東京裁判史観」を超えた、「コミンテルン史観」的なものに著者が浸かっていることがほぼ明らかになる。
 歴史研究者ではない素人が何をほざくかと思われるかもしれないが、歴史はそう簡単又は単純に語れるものではないだろう。
 じっくりと本体を読んで印象が変われば改めることを厭わないが、新しい文献・史料を使いつつも、またマルクス・レーニン主義的概念の使用を注意深く避けつつも結局は、明治以降敗戦までの日本を「悪」又は「非」と見る伝統的なマルクス主義史観に依っているのではないだろうか。ちなみに、p.240は、マルクス亜流の、あるいはマルクス主義者が正面から同主義を語れなくなった場合に逃げ込むとも言われることがある、サルトルに肯定的に言及してもいる。
 某書籍ネット販売サイトにこの本についての「レビュー」が2つ載っている。記入者名(ハンドル名)は省略するが、1つは、「なかなか面白いし、読ませてくれます」と肯定的なタイトルをつけつつ、「司馬史観に代表される「輝かしい明治」というテーゼを学術的に壊しておこう、という明確な意図が感じられます」。この点に賛成かは不明だが、この指摘どおりだろう。
 2つは、こう書く。「日清・日露戦争というのは、司馬遼太郎に代表される素朴保守的な近代史観や、保守・右派的な史観では、日本の安全保障上の脅威からの自存自衛戦争であり、「輝かしい」「近代の成功」を象徴するものであり、時には「アジア諸国民の独立運動を勇気づけた」などと肯定的に語られることが多い。/しかし本書ではこのような観点はとらず、一連の対外戦争を通じて、日本が植民地を獲得し、これらの地域・国民を統合し、いかに「大日本帝国」への道をたどっていったかを示していく。また、近年の「台湾・朝鮮に『極悪な植民地支配』をしたわけではない」という「言い訳」は、近年の研究によると「一笑に付される低い水準」のものだとしている。/新書という形式上、十分掘り下げた議論は難しいが、当然これらの見方に対しては猛烈な反発が予想される。いずれにしても、「岩波的」「進歩的」なこの時期の研究の成果が凝縮された一冊であるといえよう」。なかなか適確に要約・論評している。
 ところで、原田著の「あとがき」に説明や根拠素材提示不十分の断片的で「言いっ放し」の奇妙な叙述があると上に書いたが、上の4のとくにイ.とウ.は、この著者の「信仰告白」のようなものではないか、と、自信はないが、ふと感じた。
 つまり、本文で十分に扱っているわけではないが、自分はこういう「立場」の人間ですよ(だから安心して下さいよ)、ということを、読者にというよりも、同業者たちに、とりわけ「仲間」の同業者たちに確認的に明示しているわけだ。
 もしそうならば、そういうことをしなければならない「日本史学界」とは、かなり窮屈な、「学問の自由」ではなく「政治」が横溢している世界のように思えてしまうのだが…。

0015/網野善彦・歴史としての戦後史学(洋泉社新書、2007.03)を少し読む。

 網野善彦・歴史としての戦後史学(洋泉社新書、2007.03)は一部読んだが、相当に面白い。網野(1928-2004)の本は持っているがまともに読んでおらず、主として中世について仕事をした人でマルクス主義的でなさそうだ位の印象しかなかった。
 この本の初めの方によると、網野は東京大学史学科学生となった1947年の「後半には左翼の学生運動の渦中」に入り、48年に民青同盟の前身ともいえる民主主義学生同盟の組織部長・副委員長をし、49年以降歴史学研究会等で学習・研究しつつも、1953年夏頃、「戦後歴史学の流れから完全に落ちこぼれた」(p.51)。明記はないが、諸々の叙述からみて47年後半に日本共産党員になったことはほぼ明らかで、かつ53年に共産党の主流又は積極的活動家ではなくなったようだ(たぶん離党したのだろう)。それは、院に進学せず、失業ののち高校教諭として長らく過ごした経歴でも解る(たぶん党員でなくなり、党員なら得られる社会的「特権」を享受できなかったのだろう)。
 興味深い第一は、戦後の少なくとも1950年代後半までの日本史学界は日本共産党の動向と密着して揺れ動いたことだ。学問と政治の一般的関係からすると信じ難いが、例えば1.「1950年から52年にかけて…日本共産党は…民族の独立という旗印を掲げ、非合法活動を含む政治活動を開始していました。その影響は歴史学界に強烈に及び、殊に歴史学研究会や民主主義科学者協会、日本史研究会は、まともにこの影響」を受けた(p.42-43)。52年の歴研の大会の余興では「山村工作隊の紙芝居」まであったという。2.日本共産党内の国際派(宮本顕治・志賀義雄ら)・所感派(徳田球一・野坂参三ら)の対立は学者にも及んで、前者が井上清・鈴木正四ら、後者は石母田正・藤間正大らだった(p.44)。すごい話だが、学者たちが同時に日本共産党員であれば不思議でも何でもない。
 第二は、網野がおそらくは共産党員だった時期の自分を、「戦争犯罪人そのものであった」と明瞭に反省していることだ。網野は「序にかえて」で書く-「自らは真に危険な場所に身を置くことなく、…口先だけは「革命的」に語り、「封建革命」、「封建制度とはなにか」などについて、愚劣な恥ずべき文章を得意然と書いていた」その頃の私は「自らの功名のために、人を病や死に追いやった「戦争犯罪人」そのものであった」、1953年夏にそうした「許し難い自らの姿をはっきりと自覚した」。この文は2000年に書かれたようだが、網野のその後の人生は「二度とそうした誤りはくり返すまいという一念に支えられてきた」、という(p.12)。こうまでの自己批判をする必要がある具体的理由は定かでないが、おそらくはマルクス主義又はそれを体現化した日本共産党という組織や党員に、教条性・傲慢性・場合によっては暴力も厭わない残虐性等々を感じたのだろう。大学の後輩や若い人を火炎瓶闘争等の暴力行為へ煽って官憲による逮捕等により肉体的・精神的苦痛を受けさせたことへの罪悪感もあったかもしれない。
 第三に、網野は、マルクス主義史学が主流だった「戦後歴史学の50年」を振り返って、人が努力すれば「歴史は進歩する」という近代以降の自明の前提が「現在にいたっては」、「根本から崩れつつある」、との認識を示している(p.23-24)。私もまた感じているのだが、奴隷制→農奴制→封建制→資本主義→社会主義→共産主義という「段階的発展」史観は明らかに誤謬だし、その他の「進歩し続ける」との史観は願望・信念あるいは宗教にすぎないだろう。上のように総括できるということは、網野は戦後日本史学のマルクス主義による「呪縛」からかなり自由だったことを意味するだろう。
 なお、羽仁五郎・井上清らの歴研「乗っ取り」事件のことや永原慶二、黒田俊雄らのマルクス主義歴史学者の名も出てきて関心をそそる。また、「乗っ取り」クーデター後に井上清らが会長にすべく津田左右吉と平泉で会見したのち、たぶんそれを契機に津田は反マルクス主義の論文を書いた、それで掲載予定の岩波・世界の編集者が「手直し」をお願いした、というエピソード(p.34-35)は面白い。戦前に日本書記等の信憑性を疑った津田左右吉は戦後にマルクス主義学者によって祭り上げられたが、彼自身はマルクス主義者ではなかった。
 なお、網野の本は、マルクス主義に批判的というだけで(たぶん共産党員学者は彼を「落伍者」と見ていただろう)、例えば岩波書店からは絶対に刊行されないと思われる。もともとこの本は、日本エディタースクール出版部刊のものが洋泉社新書になったものだ。洋泉社は、失礼ながら、大手の又は著名出版社ではないだろう(但し、洋泉社新書にはいいものも多い)。学問・文化・思想と出版社の関係における「政治」又は「党派」というテーマで、誰か書いていないだろうか。出版業界の「裏」を暴くような出版物は出にくいには違いない。

-0052/「学界」外の者の発言でも正しいものはある-井沢元彦・安本美典ら。

 ○ 大学で「哲学」を講じている人の殆どは西欧の誰かの「哲学」の研究者(学者)で、「哲学学」者であっても「哲学者」ではなく自らの「哲学」を語ってはいないという印象があったが、少なくとも鷲田小彌太という人は違うようだ。
 鷲田小彌太・学者の値打ちをさらに80頁読み進む。
 西田(幾太郎)哲学は複数の異なる外国哲学の何でもありの受容(「借用」・「受け売り」)だ旨の指摘(p.23)にド胆を抜かれたが、その他、色々と考えさせられて刺激的だ。
 彼によれば、彼は25歳半ばからマルクス研究を始め40歳台でマルクス主義を「克服した」らしく、丸山真男政治学は「マルクス主義政治学の亜種」で、彼の弟子たちが学会から消えるに従い丸山の「名声」は弱まる(p.108)、等々。
 大学教授は「知識人」ではなく特定分野の「専門家」にすぎない、と思ったことがあった。
 ここでは「知識人」は社会のほとんどの諸問題に広い「教養と知識」を背景にしてマスメディアに発言する能力のある人とのイメージだった。
 これに関連して鷲田の上の本p.180は「大学教授の大半は、知識人とさえいえない」、「競争原理」が全く働かず、その「知識や技術」の「水準は問われない」からだ、と言う。つまりは私のいう「専門家」かどうかも「大半」は疑わしいというわけで、厳しい。
 アカデミズムとジャーナリズムの関係等の話も面白い(但し、立花隆の肯定的評価は承服できない。鷲田も立花・滅びゆく国家を読めば評価を変えるはず)。
 「かつてアカデミズムの権威が有効な時代があった。大新聞の論説が世論形成に与った時代があった。しかし、パソコンを媒介にしたこの社会では、個人発であるか、大学発であるか、大新聞発であるかで、情報価値に根本的差違はない」との指摘は全くそのとおり。
 知識・情報を大学・マスコミが独占しているはずがない。
 ○ しかし、妙なアカデミズムは残っているように見える。
 鷲田の本から離れるが、例えば、井沢元彦の研究・諸指摘(学界の「方法」的欠点も含む)を日本史学界はたぶん完全無視だろう。
 また、安本美典の古代史論、邪馬台国論は説得的な部分があると思うが、安本が日本史(古代史)プロパーではない(もともとは言語学、次いで心理学も)ことを理由に古代史学界はこれまた完全無視でないか。
 出自が何であれ、誰が述べようとも、正しいものは正しい。誰の問題提起でも適切ならば、適切なはずなのだ。鷲田によって「学界」の傲慢さも思い起こした。

-0049/故郷も親も完全に憎むことはできない、自分の一部だ。九条の会賛同関西歴史研究者。

 西尾幹二が何かの本で(多すぎてそのときに何かにメモしないと憶えられないが、いちいちメモしていると読めない)西洋史学者(研究者)の八割はまだマルキストだ旨を書いていた。
 世間相場と大きく違うが、日本史中心の「『9条の会』に賛同する関西歴史研究者の会」についても西洋史と同様のことがたぶん言える。
 その呼びかけ人は、以下のとおり。
 赤澤史朗(立命館大)、猪飼隆明(大阪大)、井上浩一(大阪市大)、上野輝将(神戸女学院大)、梅村喬(大阪大)、大山喬平(立命館大)、奥村弘(神戸大)、長志珠絵(神戸市外国語大)、小西瑞恵(大阪樟蔭女子大)、小林啓治(大阪府立大)、小山靖憲(元和歌山大、2005年没)、末川清(愛知学院大・元立命館大)、鈴木良(元立命館大)、曽根ひろみ(神戸大)、高久嶺之介(同志社大)、武田佐知子(大阪外国語大)、塚田孝(大阪市大)、広川禎秀(大阪市大)、薮田貫(関西大)、山尾幸久(元立命館大)、横田冬彦(京都橘大)、渡辺信一郎だ。
 京都大を除く主だった大学は全て含んでいる。これらの人々の仲間や「弟子」はきっと多いだろう。
 烏賀陽弘道・「朝日」ともあろうものが。(徳間書店、2005.10)のまえがきの中にいい文があった―「故郷も、親も、完全に愛することも、完全に憎むこともできない。それは、切り捨てることのできない「自分の一部」になってしまうのだ」。
 思い出す10/06付朝日新聞社説の一部はこうだ。
 ―「時代の制約から離れて、民主主義や人権という今の価値を踏まえるからこそ、歴史上の恐怖や抑圧の悲劇から教訓を学べるのである。ナチズムやスターリニズムの非人間性を語るのと同じ視線で、日本の植民地支配や侵略のおぞましい側面を見つめることもできる」。
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