秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

産経新聞

保守とは何か-月刊正論編集部(産経)の<欺瞞>。

 一 何となく現在の日本の基本思潮・政治思想の4分類を思い浮かべていたときだったことにもよるが、月刊正論3月号(産経)によるたった一頁のマップを素材に、いろいろなことが書けるものだ。
 本当はもはや広義での<保守>(反共産主義)内部での分類や対立・論争に、あまり興味はない。昨年2016年4月のこの欄で書いたように、日本の<保守>というものに、うんざり・げんなりしているからだ(だからといって勿論、<反共産主義(・「自由」)>の考え方を捨てているわけではない)。
 とはいえ、あらためて記しておきたいことがあるので、前回からさらに続ける。
 既に、月刊正論編集部のマップについて「笑わせる」、と書いたことにかかわる。
 二 反共産主義こそ保守だ、という見地に立って保守(反共産主義)か否かを分ければ、<保守>はかなり広く理解されることになる。そのかぎりで、<保守には、いろいろ(諸種・諸派が)あってよい>、ということになる。
 かなり緩やかな理解なのかもしれないが、総じてこの程度に理解しておかないと、<保守・ナショナル>だけでは、例えば憲法改正もおぼつかない。また、<保守・ナショナル>だけが、産経新聞・月刊正論の好きな自民党・安倍内閣を支えているわけではない(同内閣をより支えているのは、産経新聞のではなく、より読売新聞の読者たちだろう)。
 だが、かりに<日本の国益と日本人の名誉>を守るか守らないか、これに利するか反するか、という基準によって<保守>か<左翼>かを分けた場合、産経新聞主流派と月刊正論編集部は、間違いなく<左翼>だ
 すでに、月刊正論編集部が<自虐>に対する<自尊>派だと産経新聞を位置づけていることについて「笑わせる」と書いた。
 産経新聞主流派(阿比留某も)や月刊正論編集部の基調は、戦後70年安倍談話を基本的に支持・擁護しているからだ。
 例えば阿比留瑠比は最近(ネットで見たが)、2016年安倍談話・日韓最終合意文書に対する「感情的な反発」が理解できない、とか書いている。そのような主張こそが、私には理解できない。
 子細に立ち入るのは面倒だから、この欄ではそのまま全文(と英訳文)を掲載しておくにとどめたが、上記安倍談話の例えば以下は、村山談話・菅直人談話と同じ趣旨で、1931年~1945年の日本国家の行動を<悪いことをした>と反省し、謝罪するものではないか ? そして、従来の内閣の見解を今後も揺るぎないものとして継承する、と明言しているのではないのか ?。
 渡部昇一や櫻井よしこもそうだが、産経新聞社には、ふつうに日本語文の意味を理解できる者はいないのか。
 ①第一次大戦後の人々は「国際連盟を創設し、不戦条約を生み出し」、「戦争自体を違法化する、新たな国際社会の潮流が生まれ」た。/「当初は、日本も足並みを揃え」たが、……「その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試み」た。「こうして、日本は、世界の大勢を見失ってい」った。
 ②「満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした『新しい国際秩序』への『挑戦者』となってい」った。「進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行」った。
 ③「戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはな」らない。
 ④「事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない」。「植民地支配から永遠に訣別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない」。/「先の大戦への深い悔悟の念と共に、我が国は、そう誓」った。
 ⑤「我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してき」た。…。/「こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないもの」だ。
 いちいち立ち入らないが、④は、「事変、侵略、戦争」(・武力の威嚇や行使)、「植民地支配」は「もう二度と」しない、ということであり、つまりは、かつて、不当な「事変、侵略、戦争」や「植民地支配」をした、ということの自認ではないか。
 ⑤は、「先の大戦」の日本国家の行為について「痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明」することは、安倍晋三内閣の立場でもある、ということの明言ではないのか。
 「痛切な反省と心からのお詫び」とは、常識的に理解して<謝罪>を含むものではないのか。<悪いことをしました。強く反省して、詫びます>と安倍首相率いる安倍内閣は、日本社会党員の村山富市らと同様に明言したのだ。
 この言葉を、例えばいわゆるA級戦犯者や「英霊」は(かりに「霊魂」が存在するとすれば)、どういう気持ちで聞くと、阿比留某ら産経新聞社の幹部たちは想像するのか、ぜひ答えていただきたい。また、このようなかたちで国家・日本と国民・日本人の「歴史」観を公式に(内閣として)表明してよいのか、ぜひ答えていただきたい。これは、現在および将来の、日本国家・国民についての<歴史教育>や「国民精神」形成の内容にもかかわる、根本的な問題だ。
 レトリック的なものに救いを求めてはいけない。
 上記安倍談話は本体Aと飾りBから成るが、朝日新聞らはBの部分を批判して、Aの部分も真意か否か疑わしい、という書き方をした。
 産経新聞や月刊正論は、朝日新聞とは反対に、Bの部分を擁護し、かつAの部分を堂々と批判すべきだったのだ。 
上の二つの違いは、容易にわかるだろう。批判したからといって、朝日新聞と同じ主張をするわけではない。また、産経新聞がそうしたからといって、安倍内閣が倒れたとも思わない。
 安倍内閣をとにかく支持・擁護しなければならないという<政治的判断>を先行させたのが、産経新聞であり、月刊正論編集部だ。渡部昇一、櫻井よしこらも同じ。朝日新聞について「政治活動家団体・集団」と論難したことがあったが、かなりの程度、産経新聞もまた<政治活動家団体>だろう(当然に、読者数と売り上げを気にする「商業新聞」・「商業雑誌」でもある)。
 何が<自尊>派だ。「笑わせる」。そのような美しいものではない。
 短期的にも長期的にも、同安倍談話は、<日本の国益と日本人の名誉>を損ねた、と思われる。ついでにいえば、上の③のとくに女性への言及は、同年末の<日本軍の関与による慰安婦問題>について謝罪する、という趣旨の日韓合意の先取り的意味を持ったに違いない(そのように受け止められても仕方がない)ものだつた。
 これを批判できない産経新聞・月刊正論編集部がなぜ、上の限定的な意味での<保守>なのか。上に述べたかぎりでの論点では、明らかに、朝日新聞と同じく<左翼>だ。
 三 というわけで、月刊正論編集部によるマップの右上の記載は、全くの<欺瞞>だ。つまり<大ウソ>だ。
 マップの上に「保守の指標」として「反共」のほかに3つを書いているが、産経新聞・月刊正論編集部は、第三にいう「戦没者への慰霊」にならない安倍内閣談話を支持した。したがって、自らのいう「保守」ではない。
 また、第一の「伝統・歴史的連続性」とは何か。
 例えば、明治維新を支持・擁護する前提に立っているような<保守>論者が多く、櫻井よしこのごとくとくに「五箇条の御誓文」なるものの支持・擁護を明言する者もいるが、明治維新とは、「伝統・歴史的連続性」を保ったものと言えるのだろうか ? 江戸幕藩体制から見て<非連続>だからこそ「新しい」もので、教科書的には「五箇条の御誓文」はその新理念を宣明したものではなかったのだろうか ?  要するに、「歴史的連続性」とは何を意味させているつもりなのか。なお、日本の歴史は、明治維新から始まるのでは全くない。
 第二の「国家と共同体と家族」の意味も、詳細な説明がないと、厳密には不明瞭だ。
 例えば、渡部昇一や櫻井よしこにも尋ねたいものだが、「保守」だという産経新聞主流派や月刊正論編集部は、明治憲法期の、旧民法上の「家族」制度を復活させたいのだろうか。
 いやそのままではなく、基本的精神においてだというならば、「基本的精神」も不分明な言葉だが、簡単に「家族」と、編集部名で軽々しく記載しない方がよいと思われる。
 現憲法の婚姻関係条項をどのように改めるのか、さらに正確には、現民法の婚姻・家族条項(いわゆる「親族法」部分)をどのように改めるつもりなのかの草案またはイメージくらいは用意して、「家族」について語るべきだろう。このことは、たんに現憲法に「家族」という言葉がないこと等を批判しているだけだとも思われる、<保守>派にも、つまり渡部昇一や櫻井よしこらにもいえる。<精神論>・<観念論>だけでは役に立たない、ということを知るべきだ。
 四 無駄なことを書いてしまった、という気もする。だが、何かを表現しておかないと、生きている徴(しるし)にならない。

「保守」とは何か-月刊正論編集部の愚昧②。

 月刊正論編集部作成の四分けマップと新聞社等の位置づけは、自己中心的なものだ。
 かりにこれによる二つの大きな基準によってすら、産経そして月刊正論は、前回でも触れたように、「歴史認識」問題では決して<自尊>派ではなく、大きく<自虐>派へと移行している。それは、2015年8月安倍談話以降、ぴたりと<歴史戦>と呼号( ?)しなくなったことでも分かるし、月刊正論の背表紙の文字のこの時点前後を比べれば一目瞭然だ。月刊正論編集部・菅原慎太郎らは、ごまかさない方がよい。
 また、自民党はこのマップではやはりどちらかというと「自尊派」に傾斜して位置づけられているが、実態は、少なくとも上の談話以降、読売新聞と同様の<リベラル保守>、月刊正論編集部による<自虐(保守)>派であることを明らかにしている。稲田朋美も下村博文も、おそらく誰も、自民党内では戦後70年談話に異議を挿まなかった。
 ほかにも難点はある。例えば、朝日新聞・毎日新聞が<対米不信>派に分類されているが、アメリカのメディアや同民主党政権の意向・考え方を利用して、いわば対米追随的に、日本の<自尊>派、または私のいう<保守・ナショナル>派を批判してきたことは周知のことだ。日本共産党と朝日新聞らをごっちゃにする月刊正論編集部の見方は、そもそも<対米協調>か<対米不信>かを大きな基準にすること自体が適切ではないことを示している。
 また、月刊正論編集部によれば、第4象限の<対米不信・自尊>派にはほとんど何も分類されなくなる。政党では辛うじて「日本のこころ」がこれに近いことが示されているにとどまる。
 だが、「保守」論壇人を見ると、「自由と民主主義はもうやめる」と書いた佐伯啓思や西部邁らの<表現者>グループは、月刊正論編集部のいう<対米不信・自尊>派だろう。
 そして、広義での「保守」が1・2・4の三象限を占めてしまい。いわゆる「左翼」は第3象限にしか位置づけられなくなる。
 現実は、保守対「左翼」が3対1ということはない。
 秋月瑛二の分類では、西部邁・佐伯啓思・西田昌司らの<表現者>グループは、<保守・ナショナル>派(第一象限)に位置づけられる。
 <自尊・自虐>という情緒的なものを大きな基準として採用していることのほか、<対米協調>か<対米不信>かを大きな基準として採用していることに、月刊正論編集部マップの致命的な欠陥がある。
 よほど月刊正論編集部と産経新聞は<対米協調>派であることを強調したいのだろう。
 月刊正論編集部の4つの分け方によれば、上が「対米協調」で下が「対米不信」。右が「自尊」で左は「自虐」。これで反時計回りに、象限に位置づければ、つぎのとおり。
 B/自虐・対米協調派 A/自尊・対米協調派
 C/自虐・対米不信派 D/自尊・対米不信派
 秋月瑛二の分類(前回のA~D)はたんに右から左へと並べたものではなく、上のような4象限化をすることも可能だし、そのように意図している。反時計回りに、第1~4象限。以下のとおり。もちろん、反共か容共かは大きな基準とされなければならない。
 B/リベラル・保守 A/ナショナル・保守
 C/リベラル・容共 D/共産主義(=ナショナル・容共)
 上半分はいわゆる保守、下半分はいわゆる「左翼」。
 左半分は<(欧米淵源の)自由・民主主義>派、右半分は、リベラル・デモクラシーをそのままは支持せず日本の特殊性を強調する、またはそれを(日本共産党のように)乗り越えようとする立場だ。
 D/共産主義に日本共産党だけが入るのではない。反日本共産党の日本の「共産主義」者たちがいることを知っている。但し、日本共産党に少なくとも限れば、この党は「アメリカ帝国主義」を大きな「敵」と見なす<民族=ナショナル>派的性格をもっていること、「民主主義」社会を超えた「社会主義・共産主義」社会を展望していること(単純なリベラル派ではないこと)を忘れてはいけない。

「保守」とは何か-月刊正論編集部の愚昧。

 一 「愚昧」とは挑発的だが、直接には、月刊正論3月号のp.58の、「保守」にかかわる論壇・政党のチャート(マップ)図表に異を唱えたい。
 また、<保守とは何か> も惹句であり、これを以下で正面から論じるつもりはない。
 月刊正論「編集部作成」という上記のマップは、一つは対アメリカ観に着目して「対米協調」と「対米不信」に分け、もう一つは「自尊」と「自虐」に分け、併せて四つの象限を描いている。
 月刊正論編集部の頭の中を覗きみる観がある。しかし、この二つの対立軸を合成して思想・論壇・政治家等を見るのでは、適切に現在の思想・政治状況を把握できないと思われる。
 まず、対アメリカの見方を重視すること自体、月刊正論編集部が「アメリカ」に拘泥していることを示している。例えばなぜ、「対中国」であってはダメなのか ?(対中国を基軸にせよとの趣旨ではない。)
 つぎに、「自尊」・「自虐」という基準は、適切な基準にはならず、正確には、これを基準とすべきではない、と思われる。
 同編集部によれば、産経新聞は第一象限の<対米協調・自尊>に属するらしい(朝日新聞は<対米不信・自虐>)。同編集部もまた、この立場をとりたいのだろう。
 とすると、「自尊」は疑いもなく肯定的評価が与えられ、「自虐」には疑いもなく消極的評価が与えられると<信じて>いるかに見える。しかし、そのように断定することはできない、と考える。
 長くなるので結論だけ書くが、「自尊」も程度による。いくつかの民族・文明を劣ったものと罵倒して、日本民族(日本人)の<優秀性、すばらしさ>だけを言い募ってはいけない。
 合理的・理性的なものならばよいが、実証性の欠く叙述・主張をして、自己満足をしてはいけない。<日本の歴史・伝統>を語ることは私も好きだが、できるだけ事実に即した冷静さも必要だ。
 産経新聞社の安本寿久らは、本当に日本書記の「神代」の記述、神武天皇の聖跡・東遷のルート上の言い伝えをほとんどそのまま「真実」だと思っているのだろうか。左はついでに。今年は皇紀2600+年だと「信じ」ないと<保守>派ではないのだろうか。左もついで。
 二 上のマップに興味をもったのは、秋月自身が、思想・思潮(とくに政治・論壇における)の4分類というものを思い描いており、この欄に提示して遺しておきたく考えていたからだ。
 それによると、共産主義に対する考え方、<自由と民主主義>に対する考え方の二つを基準として、現代日本の思想・思潮は以下のように分類できる。
<自由と民主主義>とは<欧州近代>思想と言ってもよく、liberal and democratic 又は Liberal Democracy を意味する。表向きは、日本国憲法の思想又は理念でもある。以下では、たんに「リベラル」と略記する。中島岳志のいう<保守リベラル>等と、以下の類似の言葉は同じではない。中島は<保守>界の紛れ込もうとした<容共・リベラル>だろう。
 説明・コメントは、のちにも行う。
 A/保守・ナショナル (産経新聞 →B ?)
 B/保守・リベラル  読売新聞
 C/容共・リベラル  朝日新聞・毎日新聞
 D/共産主義     「赤旗」
 ・人文・社会系の学界・大学の教授たちは、ほとんどがCかDに属する。憲法学界は、95パーセント程度か。
 ・自民党はAからBに広く及ぶが、Bの方が多そうだ。かつて(今も ?)、Cに属する議員もいた可能性がある。
 ・<保守>イコール<反共産主義>だと、秋月は考えてきた。D/共産主義の重視しすぎだとの感想を与えるかもしれないが、きちんと残しておくべきだ。このD/共産主義が(日本には)まだあるがゆえにこそ、Cも存在しうる。
 ・産経新聞は、もともとは<保守・ナショナル(愛国・反反日)>の新聞だったようだ。しかし、安倍戦後70年談話を支持して以降は、先の<戦争>の理解については、読売新聞と基本的には同じになっていると見える。昭和の戦争にかかわる<歴史認識>では産経も読売も変わらなくなったのではないか。上のマップでは産経新聞は<自尊>派とされているが、何が<自尊>だ。笑わせる。また、<対米協調>とは、<歴史認識>では<対米屈服>・<対米追従>なのではないか。笑わせる。
 ・欧米と日本を比べると、AとDを殊更に挙げておく必要があるのが日本で、欧米の圧倒的大勢は「近代市民革命」の肯定と<自由と民主主義>支持で覆われているようだ。民族問題はその基本的理念・理想のもとでの対立だと考えられているように見える。具体的には、日本におけるような<靖国問題>も、大きな対立がある<改憲問題>も、欧米には存在しないように見える。アメリカ・トランプ大統領はBからAへの離脱までしようとしているかは、まだはっきりしない。かりにそうだとすれば、欧米的<自由と民主主義>理念の放棄まで目指しているとすれば、根本的に新しい時代に入っている、と思われる(但し、これまでの<リベラル・保守>の範囲内のものである可能性も高い)。
 ・A/ナショナル保守も、さらに分岐する。親米か反米かという基準は、あまり役に立たないと考えるべきだ。むしろ、「観念保守/ナショナル」と「合理的保守/ナショナル」を重要なものと考えるべきだ、と最近は思っている。また、反共産主義という場合の「反共」の程度で、この内部を分けることができると思われる。
 ・月刊正論上記号の櫻井よしこ論考は、「観念保守/ナショナル」丸出し。櫻井よしこが保守論壇の(オピニオン・)リーダーだとされることがあるのは、恥ずかしく、情けない。かつまた、恐ろしい。
 月刊正論編集部もまた、俺たちこそが<真正保守>派だとの思いは(あるとすれば)、捨て去るがよいだろう。「真正保守」の認定権がこの編集部にあるわけがない。
 さらに続ける。

日本の「保守」-奇書・月刊正論11月号(産経)02。

 一 あくまでかつての月刊正論(産経)の主論調・特集設定を示す例だが、二年前2014年7月号の背表紙には「歴史・外交・安保/中国・韓国への反転大攻勢」とあり、同年8月号のそれには、「日本を貶めて満足か! 朝日新聞へのレッドカード」とあった。他の「保守」系雑誌と同じく「中国」や「韓国」がしばしばでてくるのはいかがかという気もしていたが、(朝日新聞が「虚報」の一部を認めたこともあり)論調自体はかなり明確だった。
 2016年11月号の背表紙は「昭恵・蓮舫・クリントン」
 これはいったい何が言いたいのか、何の特集なのか ? ? 女性政治家特集なのか。いや安倍昭恵は政治家ではないはずだが。
 と思ったりして目次を見て少し捲ってみると、三人について計4論考があるだけで、統一したテーマがあるのでもなさそうだ。
 しかも表表紙と目次冒頭には「特集/安倍政権の敵か味方か」とある。
 この特集名に即した論考は、熟読していないので断言はできないが、何と渡部昇一のもの一つだけのようだ。
 なるほど客観的には、安倍昭恵インタビューも八木秀次・潮匡人の蓮舫ものも、ヒラリー・クリントンについての三浦瑠麗論考も、安倍政権を支持していることになるのかもしれない(熟読していないので確言しかねる)。
だが、少なくとも、これらは「安倍政権の敵か味方か」という問題設定のもとで、これを主テーマとして、執筆または構成された文章ではない、と見られる。
 このような編集部(代表・菅原慎太郎)設定の「特集」名そのものが、じつはかなり政治的で、読者を(そして日本国民を)幻惑させるものになっている。それは、この「特集」に最も近い問題関心のもとで書かれたとみられる渡部昇一の文章の「意図」と同様に、<卑劣な>ものだという印象を拭えない。
 二 前回にかなり引用した水島総は、連載ものの執筆者ということもあり、月刊正論編集部の意図におそらく反して、「正論」を書いている。
 当該編集部と渡部昇一が主張し、意図しているのは、<日本の「保守」派のみなさん、安倍政権を支持しないのですか ?、みなさんは安倍政権の「敵か味方か」どちらなのですか ?>という問いかけを発することだろう。
 これは問題のスリカエだ。
 西尾幹二、伊藤隆らが理解し主張しており(秋月瑛二も同様)、また中西輝政が「さらば、…」とする契機となった理解は、<安倍晋三戦後70年談話は、戦後体制の基本的歴史観を維持している>、<…、(当の月刊正論や産経新聞も批判してきたはずの)村山富市戦後50年談話を踏襲している>、<…、東京裁判史観を継承している>ということなのであり、安倍晋三・自民党内閣を全体として支持しない、安倍政権は「敵」だということではない。
 中西輝政の言いたいことの中心もまた、当面の<安倍内閣の当否>ではない、と思われる。なるほど中西は安倍晋三を「敵」とするような表現の仕方をしているが、中西輝政の敵は言うまでもなく、「戦後レジーム(体制)」であり日本国民が自主的な歴史観を育めない根因にある「東京裁判史観」にある、と考えられる。水島総が驚くほど明瞭に語っているように、「東京裁判史観」にまだ拘束されざるをえない、現在の日本国総理大臣の<宿命>・<哀しさ>を感じなければならない(むろん、アメリカというものの存在にかかわる)。
 問題は安倍晋三個人にあるのではなく、談話に誰も反対しなかった内閣の閣僚にもあり、自民党そのものにあり、あのような内容の安倍談話を許してしまった(阻止できなかった)月刊正論や産経新聞を含む「保守」系メディア・論壇にもある。
 問題を、<安倍政権を支持しますか ?>、<安倍政権の敵と味方のどちらですか ?>に歪曲してはならない。これは、卑劣な問題設定、主題設定だ。
 渡部昇一にも、月刊正論編集部(代表・菅原慎太郎)にも念のために言っておきたいが、<安倍談話は東京裁判史観(と言われるもの)を維持しているか否か>という問題には、比較的容易に答えることができる。
 いろいろな装飾・アクセサリーやレトリックが安倍談話には介在しているので幼稚な者には見抜けないのかもしれないが(その装飾・レトリック部分を朝日新聞等の「左翼」は批判し、一方でそれらを産経新聞は好意的に論評する根拠にした)、素直に読めば、東京裁判史観や村山談話等の「これまでの内閣」の立場との関係での基本的趣旨は明らかだ。
 しかし、<安倍政権を支持するか否か(安倍政権は味方か敵か)>という問題には、単純には答えられない。それは、貴方は<自民党を支持するか ?>、<自民党は味方か敵か>という質問に簡単には、つまり二者択一的には答えられないのと同じだ。
 月刊正論編集部や渡部昇一は、上の質問に<支持>・<味方>と答えるのかもしれない。
 だが、問題は、政治・政策の当否は、そのように二者択一的に判断できるとは限らない。選挙の投票に際して、いずれかの政党を一つだけ選択するのともさらに異なる、多様な評価がありうることを知らなければならない。
 つまり安倍政権であれ、自民・公明連立政権であれ、自民党という政党であれ、例えば100点満点の評価から、80、60、…20点、といった多様な評価がありうるのだ。
 上に月刊正論編集部や渡部昇一は、安倍政権を<支持>し<味方>するのかもしれないと書いたが、自民党・安倍政権が進めようとしているようでもある配偶者関連税制の「改正」も、<消費税>関連政策・方針も、種々の労働政策も、<女性を含む一億総活躍>方針も-あくまでまったくの例示にすぎないが-、<すべて>支持するのか ? 自民党が、したがって安倍政権もまた継承している<男女共同参画>行政もすべて支持するのか ? 自民党の文教政策あるいは例えば安倍政権・文科省が行っている<大学再編>政策もすべて支持するのか ?
 渡部昇一や月刊正論編集部にとって、安倍政権は「100点満点」の政権なのか ? ?
 真面目に又は厳密に考慮すれば、<分からない>とか<支持しかねる>という政治方針・政策もあるはずだ。
 渡部昇一や月刊正論編集部に訊きたいものだ。
 安倍政権はかりに<保守>政権だとして、そして自分たちをかりに<保守>派だと考えているとして、安倍首相や安倍政権の言動・政策・行政を<すべて>支持しなければならないのか ? つねに、あらゆる論点について、安倍政権の「味方」でないといけないのか ?
 農業・水産業等々の国民、タクシー事業従事者、「非正規」労働の人、コンビニの経営者あるいは個々の従業員、…、それぞれの利害は多様だ。高齢者と若者という違いもある。
 そのような多様な国民が、あるいは雑誌読者が、「保守」系と自らを感じている者が多いかもしれないとしても、いったいなぜ、渡部昇一や雑誌編集部によって、「安倍政権の敵か味方か」と問われなければならないのだ ? ?
 渡部昇一は卑劣にも、自らが1年前に<安倍談話は100点満点>、<戦後体制を脱却した談話>、<大宰相の談話>とか「手放しで」褒め称えたことについては全く触れないままで、「安倍政権の敵か味方か」という特集名のもとで、安倍晋三首相を支持し<信頼する(信頼し続ける)>ということを長々と述べているだけだ。
 しかも、最後の方を捲ると、例えばつぎのような一文の末尾は、いかなる(実証的 ?)論拠にもとづくものなのだろう。笑わせるではないか。
 94頁-「安倍さんはそういう可能性を感じているかもしれません」。
 95頁-「彼はそう考えを変えたのだと思っています」。
 同-「安倍さんは…を手にすべく精を出しているのだと考えています」。
 同-「彼は機をうかがっているのだと思います」。
 同-「…かもしれません。そうした兆候は…、明白に表れていると思います」。
 同-「…時、粛々と変えるべく安倍氏は動くものと信じています」。
 渡部昇一は、可能であるならば、自らが1年前に<安倍談話は100点満点>等々ときわめて高く評したことの論拠を、再度詳細に述べるべきだ。渡部昇一をめぐる争点・問題は、まさに1年余り前の自らの文章の適否にある。<安倍政権は敵か味方か>などと問題をスリカエて、逃げてはいけない。
  三 同じ雑誌の同じ号にほとんど真反対の方向の理解・主張の文章が別の論者によって書かれていること、「特集」名にかかわらず、それに対応していると思えるのは渡部昇一の文章一つにすぎないこと、背表紙の「昭恵・蓮舫・クリントン」という意味不分明の文字の羅列、そして「特集」名設定から推察される編集部の意図…。
 月刊正論11月号(産経)が「奇書」だという理由が、判っていただけただろうか。
 このような雑誌に、あるいは渡部昇一も登場する号にだけでも(一緒には)、論考を執筆したくない、という「先生」方が現れることを期待したい。
 四 このような投稿に時間を費すのは、本当は愚かなことだ。
 渡部昇一は、かつて、その清水幾太郎の<右>旋回に関する発言で、福田恒存によって「売文業者」と称されて批判されたことがある。
 福田恒存評論集・第12巻(麗澤大学出版会、2008)の中の107頁以下の「問い質したき事ども」の半ば辺り以降を参照(原文は1981)。
 このことを、私と同じく渡部昇一の安倍談話支持を厳しく批判する、千葉展正・「売文業者」渡部昇一の嘘八百を斬る(kindle版、2016)によって知った。
 この電子書物( ?)は渡部昇一による安倍談話支持を、この秋月の欄よりもはるかに詳細に「斬って」、批判している。千葉展正には、反フェミニズムの本もある。

日本の「保守」-奇書・月刊正論11月号(産経)01。

 水島総は、月刊正論2016年11月号(産経)p.286-でつぎのように書く。
よく分かるし、少しは感覚が異なるところはあるが、2015年安倍晋三戦後70年談話に関する部分は圧倒的に<正しい>。以下、「」は直接の引用。
 「戦後日本」と異なる「日本」の生起・露出・噴出という「異変」が起きている。「戦後レジームに安住する戦後左翼や戦後保守」は理解していないが、「米国と中国など外国政府の情報機関」は「異変」の「本質を見抜いている」。第一次安倍政権誕生も第二次のそれも「彼ら」からすれば「危険な」「異変」だった。
 「政治的ナショナリズムの復活だけなら、米国政府は戦後保守勢力を巧みに動かして『憲法改正運動』にそのエネルギーを集約させることもできた」。
 「異変」は上のことから「はみ出た」もので、「だからこそ、米国オバマ政権は、…第二次安倍政権を歴史修正主義として疑い、危険視し、中国、韓国の反日歴史キャンペーンを容認し、それを利用しながら、安倍政権に強力な圧力をかけ続けた」。
 「靖国神社への総理参拝に対する…米国政府の本気で強力な圧力」と「中国の尖閣侵略、北朝鮮の核開発等の安全保障問題の連動圧力」を受けて、「安倍総理は自身が『異変』たることを『中断』した」。
 安倍総理は、「戦後体制との妥協の道を選んだのである」。
 「総理は安倍談話で、我が国が大東亜戦争という『間違った道』を歩んだという東京裁判史観を受け入れ、その踏襲を米国に誓った」。
 「危険な歴史修正主義者として国際的圧力で葬られる前に、総理は戦後日本体制への『回帰』と服従を内外に宣言し、その長期政権への道を切り開いた」。
 「これが面従腹背、急がば回れの臥薪嘗胆行為なのか、あるいは政治的延命のための戦後体制への屈服なのか、おそらく両方なのだろうが、左翼からは『化け物』呼ばわりされる安倍総理の実体は、東京オリンピックの頃まで、知ることは出来ないだろう」。
 総理自身の「戦後体制遵守」表明以降、「自称保守政治家たち」も「戦後レジームの脱却」とは一切口にしなくなり、自民党のスローガン「日本を取り戻す」も「雲散霧消」した。親中派とされる「二階俊博幹事長」誕生は「その象徴的出来事」ともいえる。
 「政治の世界では、確かに戦後体制の巻き返しが成功した」。
 以上で引用おわり。以下の「異変」についての叙述は省略。
 このような安倍戦後70年談話(+日韓「慰安婦」最終決着合意文書)の理解・評価・論評こそ、事態を「正視」するものだ。
 しかし、同じ月刊正論11月号(産経)に、相も変わらず「ほとんど発狂」していると思われる、談話の問題と安倍内閣一般の問題とを(厳密には区別できるが)あえて混同させて、<僕ちゃんやっぱり安倍内閣を「信じる」>という渡部昇一の文章が載っている。
 重要な論点についてほとんど真反対の方向の論考・文章を掲載できる月刊正論編集部は<奇怪>というほかはない。
 渡部昇一をなおも採用する月刊正論編集部、そして産経新聞社の主流派は、水島総が上でいう「自称保守政治家たち」と同じ態度をとり、<戦後体制に屈服>しているのだ。
 もはやこの雑誌や(とっくに定期購読を中止している)産経新聞には、「歴史戦」はない。そして月刊正論は、個々には優れた論考も少なくないにもかかわらず、特集の組み方など全体としては<わけの分からない>月刊雑誌に堕してしまった。
 いかに月刊正論11月号(編集長・菅原慎太郎)が錯乱しているかについて、もう一回書く。

月刊正論8月号(産経)・江崎道朗から西岡力/中西輝政へと。

 一 月刊正論8月号(産経)で、江崎道朗が与えられた4頁の紙面のうち1頁を使って、中西輝政「さらば安倍晋三、もはやこれまで」(歴史通5月号(ワック)に言及し、中西の分析に「ほぼ同意する」、と書いている(p.241)。
 江崎道朗自身の最後の文章は、こうだ。
 「歴史戦の勝利を望むすべての人々にこの中西論文は読んでいただきたい。//
 厳しい現実から目を背けていては、勝利を手にすることはできない。」
 江崎道朗と中西輝政に「通じる」または「共感しあう」ところがあるだろうことは、中西輝政=西岡力・なぜニッポンは歴史戦に負け続けるのか(日本実業出版、2016)の西岡力による「まえがきにかえて」からもある程度は分かる。
 西岡力によると、産経新聞2015.02.24付「正論」で「冷戦の勝利者は誰かを問いたい」を書いたところ、中西輝政から「見方に賛成だ」との「連絡」があり、それを機縁として、月刊正論2015年5月号の西岡力=島田洋一=江崎道朗の鼎談ができた、という。
 産経新聞紙上のものを読んだ記憶ははっきりしないが、その内容は上の「まえがきにかえて」の中におそらくかなり引用されており、ほとんどか全くか賛同できる。
 というよりも、中西輝政=西岡力の上掲著を読み始めて最後まで了えた(たぶん2016年3月)こと自体、この西岡力の「まえがきにかえて」に引きつけられたことによる可能性が高い。
 その西岡力らの西岡力=島田洋一=江崎道朗鼎談「歴史の大転換『戦後70年』から『100年冷戦』へ」月刊正論2015年5月号p.86以下については、かなり印象に残ったに違いない、秋月はこの欄で2015年5/18から2回に分けて「戦後70年よりも2016末のソ連崩壊25周年」と題し、「面白いし、かつすこぶる重要な指摘をする発言に充ちている」と書き始めて紹介・引用している。
 やや遠回りだが、江崎道朗と中西輝政というとこんな些末なことも思い浮かぶ。
 元に戻って、江崎道朗の文章のうち、「歴史戦」をめぐる「厳しい現実」という言葉が心を打つ。「厳しい現実から目を背けていては、勝利を手にすることはできない」。
 厳しい現実を理解せず、また理解しようとせず、従来の<保守の小社会>で安逸に生きていきたい言論人も多いのだ。
 二 西尾幹二の刺激的な言葉を再引用。月刊正論2016年3月号p.77。
 「本誌『正論』も含む日本の保守言論界は、安倍首相にさんざん利用されっぱなしできているのではないか」、「言論界内部においてそうした自己懐疑や自己批判がない」のは「非常に遺憾」だ。
 三 江崎道朗が読んでほしいという中西輝政論文の最後に、以下の叙述がある(初めて見たのではない)。歴史通5月号p.117-8。
 ・日本政府・日本人が「自前の歴史観」を世界に臆することなく自己主張するには「あと三十年はかかる」。このための条件の整えるのに「それだけの年数」がかかると思うからだ。
 ・条件の一つは、国内または日本国民内で「歴史観」での闘いが、「たとえば東京裁判史観をめぐって、せめて四対六くらいに改善していること」
 ・「現在は一対九にも及ばない」だろう。「とくに、マスコミや歴史学界においては、この一対九にもはるかに及ばない」。
 なんとも厳しい現実認識なのだが、冷静に日本を俯瞰すると、こんなものかもしれない。中西輝政のそれは悲観的すぎる、とは言えないかもしれない、と感じる。
 中西輝政が感じていることは、日本国民の中で<東京裁判史観>に(明確に)反対する者は10%に及ばず、「マスコミや歴史学界」では10%に「はるかに及ばない」、ということだ。
 さて、と思うのだが、<保守>派とは<東京裁判史観>反対派のはずであり(と思っており)、とすれば例えば産経新聞「正論」や月刊正論(産経)に登場する論壇人・言論人のほとんどは<東京裁判史観>維持に反対の者たちだということになりそうだが、最近、これを強く疑うようになってきている。
 また、産経新聞や月刊正論(産経)のような新聞・雑誌ばかりを読んでいる(幸福な?)人々は、安倍晋三「保守」政権ということもあって、何となく国民の過半数が、少なくとも三分の一程度は<保守的>な「歴史観」を持っていると感じているのかもしれないが、大きな勘違いだろう、と思われる。
 冷厳な現実は、中西輝政の指摘するものに近いのではないか。
 四 ついでに。平川祐弘「『安倍談話』と昭和の時代」月刊WiLL2016年1月号(ワック)p.32以下は昨年夏の「安倍談話」を支持する立場からのものだが、こんな悪罵を投げつけている。誰に対してかの固有名詞はないが、中西輝政や西尾幹二を含んでいるかに見える。
 ・「どこの国にも、自国のしたことはすべて正しいと言い張る『愛国者』はいる」。
 ・とくに日本では「反動としてお国自慢的な見方がとかく繰り返されがちになる」。
 ・「おかしな左翼が多いからおかしな右翼も増えるので、こんな悪循環は避けたい」。
 ・「不幸なことに、祖国を弁護する人にはいささか頭が単純な人が多い」。以上、p.35-36。
 「東京裁判史観」を基本的に批判する立場の者は、私も含めて「自国のしたことはすべて正しいと言い張」っているわけではない筈だ。
 「おかしな右翼」、「いささか頭が単純な人」とはいったいどのような人々なのか、平川祐弘は言論人ならば明瞭にすべきだろう。
 平川うんぬんが主テーマではない。このような内容を含む論考を巻頭に掲載する、花田紀凱編集・月刊WiLLが(今は編集長が替わったので、花田紀凱編集長の新雑誌や月刊WiLLという名の雑誌が)<保守>派を代表する論壇誌(の一つ)として扱われている、という悲惨な現実がある、ということをしみじみ感じている。今なお、渡部昇一の文章を掲載する非「左翼」系のはずの雑誌がある(月刊Will8月号「それでも、やっぱり安倍晋三!」!。産経・月刊正論8月号もその一つ)、という現実も。
 「厳しい現実」を直視して、鱓(ゴマメ)の歯軋りの如く呟きつづけても、「あと三十年はかかる」。

日本共産党の「影響力工作」-江崎道朗・月刊正論5月号論考。

 月刊正論5月号(2016、産経新聞社)の江崎道朗「『反戦平和』の本質と『戦争法反対』『民共合作』の怖さ-共産主義の『影響力工作』は甘くない-」(p.100-105)は、最近の雑誌の日本共産党・共産主義特集の中では、おそらく最も優れたものだ。
 優れているか否かやその程度の基準は、<現在の>日本共産党を批判する、またはその活動を警戒する、<有効な>内容を(どの程度)もっているか、だ。
 江崎道朗論考の優れているところはまた、日本共産党と日本の「左翼」との関係、前者の後者に対する「影響力」を意識して書かれていることだ。
 日本共産党と朝日新聞の関係、あるいは日本共産党の主張と朝日新聞社説の論調との関係、日本共産党の主張と岩波・世界の論調との関係等々は、保守派側によってもっときちんと分析される必要がある、と考える。
 江崎論考はまた、佐々木太郎の新著を紹介するかたちで(本欄は、E・フーバー→佐々木太郎→江崎道朗というひ孫引きになるのだが)、「共産主義運動に関与する」人間類型の5種を示していることだ。「日本共産党」の活動との距離別人間類型でもあるだろう。すなわち、①公然党員、②非公然党員、③同伴者、④機会主義者、⑤デュープス(Dupes)。
 興味深いのは上の⑤で、これはもともとは「間抜け、騙されやすい人々」を意味するが、共産主義(共産党)との関係では「明確な意思をもって共産党のために活動する人々ではなく、ソ連やコミンテルンによって運営される政党やフロント組織が訴える普遍的な『正義』に対して情緒的な共感を抱き、知らず知らずのうちに共産党に利用されている人々」のことを指す(p.102)。
 この欄で<何となく左翼>という語を使ったことがあるが、これにかなり近く、かつ上の定義はまさに表現したい内容を伝えてくれている。日本共産党との関係に即して書き直すと、
 <明確な意思をもって日本共産党のために活動しているわけではないが、日本共産党や同党系の大衆団体が掲げる普遍的な『正義』に対して情緒的な共感を抱き、知らず知らずのうちに日本共産党に利用されている人々>だ。
 このような人々が、諸学界、大学、マスメディア、官公庁の世界等々にいかに多いことか。これこそが、日本を危殆に瀕せしめかねない<ふわっとした左翼的雰囲気>の原因になっている、と思える。
 主観的には人間・個人の尊厳と「自由」あるいは「平和」と「民主主義」のために言論し行動しているが(それが何故か反安倍内閣・反自民党になっているのだが)、客観的には日本共産党のいう日本の「民主主義」化のために、長期的には同党のいう「社会主義・共産主義の社会」実現に寄与する役割を果たしている人が、うようよといる。そのような人々は、何となく産経新聞を全く読まなかったり、保守系雑誌には目もくれなかったりする。
 長谷部恭男は上の②ではなくとも、⑤にとどまらず、上の③か④だろう。
 江崎道朗は吉永小百合と山田洋次は上の③「かもしれない」としているが、私は山田洋次については②ではないかという疑いをもっている。
 なお、上の理解の仕方にいう「日本共産党系の大衆団体」とは、例えば、民主主義科学者協会法律部会(民科・みんか)が典型的だ。この学会の会員の中には、これが日本共産党系であることも知らず(代々の理事長は日本共産党の(公然?、非公然?)党員であることも知らず)、日本共産党に客観的には利用されているという意識もない法学者・研究者もいるに違いない。
 ともかく、上の①~⑤のいずれに該当するか、という観点から、<左翼的な(リベラルな?)>人々(・団体)を理解し分析することは、有意味だと思われる。
 日本共産党のまわりでウロウロしている者たちを、気の毒だが、暴き出す必要がある。
 ところで、月刊正論5月号の背表紙(総力特集)には「共産主義者は眠らせない」で日本共産党という文字はなく、4本の論考のタイトルのうち「共産党」が一部にあるのは筆坂秀世のもののみで、実質的にはほとんど日本共産党を扱っていると思える江崎道朗のものにもない。
 産経新聞や月刊正論は、中国(・同共産党)をしばしば批判対象として取り上げているにもかかわらず、正面から「日本共産党」と対決することを怖れているのではないか 、という印象がある。
 上で書き忘れたが、日本共産党と日本国内「左翼」との関係のほかに、日本共産党と中国共産党との関係も重要な認識・理解の対象だ。この後者の点については(も)、産経新聞を読んでも、月刊正論を読んでもほとんど分からないだろう。
 日本共産党と日本国内「左翼」との関係、日本共産党と中国共産党との関係についても、今週後半に発売されるらしい、産経新聞政治部・日本共産党研究(産経新聞社)は十分に又は適切に論及しているだろうか?
 産経新聞社の書物は、<現在の>日本共産党を批判する、またはその活動を警戒する、<有効な>内容をもっているだろうか? 期待は大なのだが。

1277/山際澄夫が産経新聞に注文-月刊WiLL3月号。

 〇 山際澄夫が産経新聞を批判している、または産経新聞に注文をつけている。月刊WiLL3月号(ワック)の山際「朝日と産経"角度"のつけ方」だ(p.98-)。第一次的には朝日批判の文章の中で、山際は次のように産経にも論及する。
 ・「産経新聞にも朝日新聞に劣らず角度のついた記事が多い」。産経新聞のOBで産経を購読していない者が言うには、「読まなくても何を書いているのか分かる」、「民主党を叩くのはいいのだが、記者の思いが前面に出過ぎてニュースなのか、記者の主張なのかが分からないこともある」。
 ・産経新聞を称賛して余りあるが、「報道が単色」との批判もある。例えば、「安倍政権について批判的なニュースはほとんどない」。
 ・自民党は選挙公約から竹島の日式典政府主催等を削り、安倍首相は一昨年末以降靖国参拝をせず、村山談話・河野談話を継承するとしている。これらに自民「党内や支持層に動揺や批判はないのだろうか。批判がないとしたらそれはなぜなのか」。産経新聞にはこうした疑問に答える記事がほとんどない。
 ・「安倍政権を支持することとキチンと批判することは、別なはずだ」。
 ・産経新聞の経営体質は「古くて弱い」。フジテレビの支援が不可欠らしいし、幹部が政治部出身者で固められているのも「どうかと思う」。誤報についての責任のとり方も、威張れたものではないことがある。
 山際澄夫のような<保守派>論客が<保守派>産経新聞について上のように書くのは、けっこう勇気のいることだと推察される。但し、その内容には同感する点が多い。私自身、2007年参議院選挙前に朝日新聞等による内閣打倒・安倍バッシングのキャンペーンが始まるまでは、アメリカでの「慰安婦」決議等々に対する第一次安倍内閣の姿勢・不作為について、この欄で疑問を書いたことがある。
 私も安倍政権を支持し、久しぶりに宰相らしい首相が日本にも出てきたと感じているが、山際の言うように「安倍政権を支持することとキチンと批判することは、別なはずだ」。安倍政権のしていることを100%支持し賛同しないと<保守派>ではない、とでもいうような<教条主義>に陥ってはいけない。<反共>は当然に「自由」を尊重する。個々の「自由」を圧殺するような雰囲気を作ることは<反共>(=「自由封殺」の<共産主義>に断固として反対すること)の考え方とは相容れないものだ。
 〇 上に指摘されているような、「安倍政権について批判的」な記事がほとんどないこと、安倍政権擁護ぶりは、産経新聞社刊の月刊正論にもあると見られる。例えば、月刊正論1月号(産経)の末尾には、次のような読者の「編集者へ」の意見と編集部の「編集者から」と題する回答?(コメント)がある(p.366-7)。
 ・読者の意見-産経新聞を読んで安倍政権が河野談話を撤回しないのはアメリカに遠慮しているためだと分かった。米国への遠慮は「歴史修正主義」と受け止められることを怖れてのことらしい。それでも、疑問が残る。撤回はなぜ「歴史修正」なのか。さらに、「歴史修正主義」と見られないように取り繕うことは正しい姿勢か。「歴史修正主義」でないように装うことは「戦後レジームからの脱却」の大義を放擲することで、安倍政権の自己否定ではないか。
 これは編集部に回答を求める性質のものではないとも思われるが、編集部はあえて次のように書いて「説得」?している。編集部の誰が書いているかは不明だが、編集長・小島新一は了承しているのだろう。
 ・編集部の見解-歴史観の修正の必要はそのとおりだが、欧米各国から「歴史修正主義者」と見なされることは「避けなければならないということは強調させて下さい」。「歴史修正主義者」とはたんに歴史の修正意図者ではなく「ナチスやその種の思想や行動を肯定しようとする者という語感を持つ言葉だそうです」。日本の指導者がそのような者だと受取れられれば日本は国際社会から敵視され孤立する。「国際社会が欧米中心の秩序で成り立っている限り」、その中でどう誤解を解くのかを考えざるを得ない。以上。
 あらためて書けば、上の読者の意見はもっともだ。これに対して、まるで安倍内閣を代表して、いや「代わって」回答しているかのごとき編集部の文章の方に疑問が多い。
 まず、「歴史修正主義」なるものの意味について、読者-「先の大戦を『ファシズムと民主主義の戦い』ととらえ、大戦の責任を全て日本に負わせ、日韓合邦も朝鮮への不当な支配とみなす歴史認識」、編集部-「ナチスやその種の思想や行動を肯定しようとする者という語感を持つ言葉」、という違いがある。この語の意味をまともに考えたことはないが、編集部が「だそうです」などと曖昧に述べているかなり狭い意味での捉え方よりも、読者の理解の方が的確だと思われる。後者<前者、という関係になるだろう。また、フランス革命を従来のように美化せず、問題も多かったことを認める考え方がそのフランスでも出てきていて「歴史修正主義」というらしいと何かで読んだが、そこでの「歴史修正主義」はナチスとはむろん関係がない。基本的に言って、これまでの通説的または支配的な<欧米近代>を起点・中心とする歴史観を疑うのが「歴史修正主義」で、どちらが適切かは今後数十年後か100年後には変化している可能性がある、と思う。月刊正論編集部は、安倍政権を擁護したいあまり、不正確な、又は狭すぎる「歴史修正主義」の理解を持ち出しているのではないか。
 編集部の最後の文章は、その卑屈さに驚く。「国際社会が欧米中心の秩序で成り立っている」ので、じっと我慢せよ、と言いたいかの如くだ。
 争点は、河野談話を撤回すべきか否かだ。産経新聞をきちんと読んではいないが、上記のようなやりとりがあることからすると、産経新聞は河野談話を撤回せよ、と主張してはいないようだ。月刊正論編集部によれば、それは安倍内閣が「歴史修正主義」に立っていないことを示すためのようだが、さほどに大袈裟な問題ではないだろう。言うまでもなく「慰安婦」問題に関する談話なのであり、先の大戦全体の認識・評価に直接は関係がない。すなわち、「歴史修正主義」に立たなくとも、河野談話を否定・撤回することができる(そうはいかず、深刻なのは村山談話だ)。
 具体的な問題は、とくにアメリカとの関係で(韓国や中国とも関係はするが)どのような<外交>戦術をとるべきか、だ。ここで、中西輝政の言う<保守原理主義>か<戦略的現実主義>のいずれを、この案件について、とるべきか、の問題が生じるのかもしれない。この観点から、後者に立って安倍政権を擁護するならばまだよいが、「歴史修正主義」や「欧米中心の秩序」を持ち出して擁護するのは、安倍晋三首相の本意ともおそらくは違っているように考えられる。
 <保守派>の代表らしき月刊雑誌の編集者が(いや、代表は月刊WiLLに変わっただろうか)上のようなことを書いて、それ自体はまともだと考えられる読者の意見を<切り捨て>、<説教>しているのは、多少は情けなく感じてしまう。

1272/「憲法改正」の事項的「単位」と産経新聞社案「国民の憲法」。

 1/06に、次のように書いた。-「憲法改正とは、現憲法の全体を一挙に廃棄・廃止して、新しい憲法を一括して創出する、というものではない」。「憶測にはなるが、ひょっとすれば産経新聞『国民の憲法』案は、渡部昇一らの現憲法『無効』論や石原慎太郎の現憲法『破棄』論の影響も受けて、現憲法の全体に新しい『自主』憲法がとって代わる、というイメージで作成されたのではないか、という疑問が生じなくはない」。「現憲法と『新』憲法案のどちらがよいと思うか、というかたちで一括して憲法改正の発議と国民投票が行われるはずがない。確認しないが、憲法改正手続法もまた、そのようなことを想定していないはずだ」。
 この問題は、「憲法改正」の発議および「国民投票」の仕方、より正確には、発議や賛否投票の<対象>または<単位>の問題だ。先には憲法改正手続法と書いたが、この問題、とくに発議の<対象>・<単位>についての関係既定は、(改正された)国会法にある。以下、憲法制度研究会・ポイント解説Q&A/憲法改正手続法-憲法改正手続と統治構造改革ガイド(ぎょうせい、2008)に依って説明しておく、なお、憲法制度研究会が編者だが編集代表は川崎政司だ。この人は地方自治法・行政法の書物もあり、慶応大学法科大学院の客員教授だが、もともとは参議院法制局の職員・官僚(いわば立法・法制官僚)である人、またはそうだった人で、<とんでもない左翼>の人物ではない。叙述内容も、できるだけ客観的になるように努められている、という印象がある。
 上の本はやや古いが、言及されている関係条項は現在でも変わっていない(総務省・現行法令データベースによる)。国会法6章の2の表題は「日本国憲法の改正の発議」。その中の、現行規定でもある、国会法68条の3は次のように定める。
 「第六十八条の三  前条の憲法改正原案の発議に当たつては、内容において関連する事項ごとに区分して行うものとする。
 上掲書は、つぎのように「解説」する(p.30-31)。
 ・例えば九条改正と環境権の創設という別々の事項が一括して投票に付されると、一方には賛成だが別の一方には反対である、という国民はその意思を適切に投票に反映できない、そこで、「内容において関連する事項ごとに区分して」発議することとされた。
 ・問題は、何が「内容において関連する事項」に当たるか、だ。憲法改正手続法の国会審議では上の例の場合に一括発議・一括国民投票は「好ましくない」という点で一致したが、自衛軍の設置とその海外活動は一括できるか、自衛軍と軍事裁判所の設置は一括できるか、などについては「明確な判断は示されてい」ない。
 ・結局、個別の案ごとに国民の意思を問う要請と「相互に矛盾のない憲法体系を構築する」要請から決定されるべきもので、「個別具体的事例については、国会が発議するに当たって、しかるべき判断を行うことにならざるを得ない」ようだ。
 ・この点について、参議院では「発議に当たり、内容に関する関連性の判断は、その判断事項を明らかにするととともに、外部有識者の意見も踏まえ、適切かつ慎重に行うこと」との付帯決議がなされた。
 ・この条文により「全部改正」が不可能になったのかも問題になったが、「すべて相互に密接不可分である、つまり内容の上で分かち難いというものであれば一括して発議がなされるという場合も論理的にないことはない」とのむ答弁が提案者からなされている。
 ・国民投票のイメージとしては、個別の事項の案ごとに投票用紙を受け取り、投票(投函)を済ませてから次のブースに移り、そこで次の別の事項に関する投票をする形が間違いないという見解、その場合10も20もブースを作ることは困難で、3~5問程度が限度だとの見解も提案者から示されていた。
 以上のとおりだが、はたして、産経新聞社「国民の憲法」案は、このような国会法等の規定も十分に意識して作成されたのだろうか。
 なるほど、「すべて相互に密接不可分である、つまり内容の上で分かち難いというものであれば一括して発議がなされるという場合も論理的にないことはない」ということに「論理的には」なるのだろう。しかし、同社案は「すべて相互に密接不可分である」ものとして作成されたのだろうか。そのように主張する起草委員および産経新聞関係者も存在する可能性はある。だが、「基本的人権」または「国民の権利義務」の章の個別の条項の書きぶりはさらにいくつかに区分することが可能であると見られるし、いかに「産経憲法観」?によっているとしても、例えば「財政」や「地方自治」の章の具体的内容までが前文や「国防」の章(の案)と「密接不可分である」とまでは言えないように考えられる。
 ともあれ、産経新聞社「国民の憲法」案が、「憲法改正」運動のためには、形式面において「使いづらい」ところがあることは否定できない、と思われる。
 「憲法改正」発議の仕方、発議の対象となる<単位>には少なくともある程度の、「内容において関連する事項ごとに」、という限定があることもふまえて、「憲法改正」は議論されなければならない。そして、だからこそ、どの条項から優先して「改正」していくか、という問題があり、その問題に関する議論もしなければならないわけである。

1265/産経新聞社案「国民の憲法」について2-天皇条項の一部。

 現憲法一条は「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」、と定める。
 「象徴」ではなく「元首」化をという議論についてはさておき、後段は、とくに「主権の存する」は、いわゆる「国民主権」(昔風には主権在民)を憲法上明記するために、やや無理して挿入された、とも説明されてきた。この条文以外に、<国民主権>を規定する明文は現憲法にはない。
 この「象徴」天皇制度の規定をふまえて、現憲法二条が「皇位は、世襲のものであ」ると明記していることは、占領期の憲法という特殊性を考慮すれば、刮目すべき重要なことだったと言える。なぜなら、日本の敗戦という結果にもかかわらず、日本の長い伝統に近い<世襲天皇>制度を明記して容認しているからだ。竹田恒泰がどこかで言っていたように、天皇制度が廃止されて<共和制>になっていたことを想像すると、それよりは優れた選択を現憲法はしている(GHQもそれを認めた)ことになる。連合国のうちかつてのソビエト連邦が戦後日本の憲法を企図したとすれば、あるいは原案作成に強く関与していれば、このような条項は採用されなかっただろう。
 さて、<世襲による象徴天皇制度>は憲法上のものであり、かつそれは「主権の存する日本国民の総意に基く」ととくに規定されているのだから、制定時の理解・解釈はさておき、それとは独自に成立しうる憲法解釈として、現一条(+二条)は現憲法上の重要な<原理>として、憲法改正の限界を画す、つまり、憲法改正によっても変更・削除することはできない、と理解することも不可能ではないと考えられる。このように解釈すれば、憲法改正によって、<世襲による象徴天皇制度>を廃止することはできない。もし廃止しようとすれば、それは法的には非連続の一種の<革命>になる。
 だが、以上は成り立ちうる解釈だとは思うが、戦後の憲法解釈学において、現一条(+二条)は憲法改正の対象にできない、という議論はまったくなかったように見える。それよりも、逆に、天皇の地位は「主権の存する日本国民の総意に基く」のだから、「主権の存する日本国民の総意」によって変更する、そして廃止することもできる、と解釈されてきた。この点を意識または強調して、将来の天皇制度廃止を展望する論者は、明言しないにせよ、現在の憲法学界には多いのではないか、と推測される。
 しかし、そのような解釈しか成り立たないのではないことは上記のとおりだ。<憲法制定権者である憲法制定時の国民の総意>にもとづくと明記されているのだから、将来の国民もこれに拘束される(改正・廃止はできない)と解釈することが、さほど荒唐無稽なものだとは思われない。一条の上記部分の通例のまたは多数の解釈は、<政治的>色彩をやはり帯びているように考えられる。
 ところで、産経新聞社・国民の憲法(2013)のうち、同社案「国民の憲法」と自民党改正案の違いを記した部分には、天皇条項について、つぎのような叙述がある(p.139)。
 自民党案には「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」という部分が残ったままで、これは「あたかも国会の議決で天皇の地位を自在に改変できるかのような誤解を招きかねない」。そして、この条文を使って「天皇制廃止」を「堂々と主張する憲法学者もいる」ので、「このような誤解を生み出す記述は削除し」た。以上、抜粋引用。
 この文章・論理は奇妙だ。少なくとも二人の憲法学者が起草委員会には加わっていたはずなのだが、このような叙述をお二人とも了解しているのだろうか。
 根本的に言って、「主権の存する日本国民の総意」=「国会の議決」ではありえない、ということはほとんど自明なことで、ほとんど誤解を生じさせない、と考えられる。誤解する一部の者には誤解だと説明すれば足りる。それに、この条文を使っての「天皇制廃止」論は憲法改正によるそれを展望していると容易に想定できるのであり、国会の議決=(ほとんどが)法律、による「天皇制廃止」を主張する憲法学者など皆無なのではないか。そのような議論・主張を読んだことは一度もない。
 以上のとおりで、憲法(改正)レベルの問題と法律(改正)レベルの問題の混淆が、上の叙述にはある、と見られる。
 ひょっとすれば、明言はしていないが、「主権の存する日本国民」という理解に対する反発・懸念が産経新聞社「国民の憲法」立案者にはあるのかもしれない。たしかに「主権」概念の法的意味と効用は議論されてよいものの、そのまま残しておいてさしたる弊害は生じないものと私は考える。むしろ、これを残すことによって、<世襲による天皇制度>は憲法改正の対象にはできないという解釈を導くことが不可能ではないことは、上述のとおりだ。なお、読売試案2004年は「その地位は、国民の総意に基づく」、として「主権の存する」との部分を削除しているが、産経新聞社案に比べれば、はるかに現行の上記条文を残す自民党案に近い。この点でも、産経新聞社案は異質だ。
 さらにいうと、産経新聞社案「国民の憲法」によれば、「天皇制廃止」の主張は排撃され、、「天皇制廃止」は不可能になるのだろうか。そんなことはない。同案によれば(117条)、各議院の過半数議員の賛成による国民への提案にもとづく国民投票での国民の過半数の賛成でもって憲法改正が可能である。産経新聞社案「国民の憲法」上の天皇条項は、なんと現憲法によるよりも容易に改正される(廃止される)ことになっている(「憲法改正の限界」に関する明文はないようだ)。「天皇制廃止」を「堂々と主張する憲法学者もいる」ので上記部分を削除したというが、削除したところで、憲法改正による「天皇制廃止」を「堂々と主張する」ことを封じることはできないのだ。
 以上、二回めの、産経新聞社案「国民の憲法」についての感想とする。
 なお、産経新聞社・国民の憲法(2013)の奥付の前の頁には、産経新聞社の名のもとに小さく、「近藤豊和、石川水穂、湯浅博、石井聡、安藤慶太、榊原智、小島新一、溝上健良、田中靖人、内藤慎二」と記載されている。この人たちが(おそらくは起草委員会メンバーではなく)この本を執筆・編集しているのだろう。したがって、完全に産経新聞社の名のもとに隠されているわけではない。だが、今回に言及した部分も含めて、個々の部分の文章作成の(内部的な)責任者の個人名は明らかでない。

1264/産経新聞社案「国民の憲法」について。

 田久保忠衛の名も出しつつ、<憲法を改正しよう>と主張するだけでは意味がない、と前回に書いた。
 これに対して、田久保忠衛は、改正の優先順位も政治的な戦略・戦術にも触れていないが、産経新聞社の「国民の憲法」起草委員会の委員長として、改正の具体的内容は検討・議論して、公表している、と反論するかもしれない。
 そのとおりで、産経新聞は「国民の憲法」(憲法改正要綱)を公表している。そして、産経新聞社・国民の憲法(2013.07、産経新聞社)の中には、自民党改正草案との違いを(わずか3頁だが)叙述している部分もある(p.138-140)。従って、かりにその部分を田久保が執筆しているか、または了解しているのだとすると、田久保が産経新聞社案と自民党案との違いをまったく説明していないというわけではない。
 以上のかぎりで田久保に対する批判的コメントは一部取消させていただく。もっとも、上記書物は「国民の憲法」の個々の条項に即して自民党案を採用しなかった理由を述べてはいない。上の3頁の中で触れられているのは、のちに触れる基本的スタンスの他は、天皇条項・現九条・前文のみだ。
 それに、あらためて上記書物を手がかりに産経新聞「国民の憲法」要綱を見てみると、基本的なよく分からない点があり、また奇妙に感じる点もある。
 まず第一に、この産経新聞「国民の憲法」案の発表主体はいったい誰なのか。どうやら、上記委員会ではなく、産経新聞社という会社法人(新聞会社)そのもののようだ。上記書物の「はじめに」の執筆者(署名)は「産経新聞社」になっている。そして、この書物は「起草委員会の議論をもとに…編集」したものだとされているが、「国民の憲法」案を最終的に完結的に作成したのは田久保を委員長とする起草委員会なのか、それとも起草委員会の議論の過程に産経新聞社の社員・記者たちがすでに関与したのか、も分かりにくい。起草委員会なるものの性格・位置づけにかかわるが、おそらくは上の後者で、起草委員会の「事務局」としての社員・記者たちがすでにかなり関与したように推測される。そして、その産経新聞の社員・記者たちの固有名詞・人名が「産経新聞社」の名の中に隠されていることも特徴の一つだろう。
 このような曖昧さは、読売新聞社の<読売試案2004年>の作成過程とはかなり異なっている。
 読売新聞社編・憲法改正-読売試案2004(2004.08、中央公論社)によると、この試案が読売新聞社の名によるものであることが明らかだが、この書物の「はじめに」は同社の「調査研究本部長」が執筆し、「おわりに」は同社「調査研究本部」員が執筆して、それぞれ固有名詞(個人名)まで明らかにしている。また、読売試案の作成には(社外の専門家の助言等を得たかもしれないが)「起草委員会」なるものがかかわっているわけではない。
 つぎに第二に、時期的に私が産経新聞を定期購読しなくなって以降のことだったことに原因がある勉強不足のためかもしれないが(もっともネット上で改正案作成の動きや結論の公表があったことは知っていた)、あらためて産経新聞「国民の憲法」案を見て、大きな違和感を抱いたことがある。
 それは、自民党案との違いとして記述されていることでもあるが、「現行憲法をゼロベースで見直して」いて、自民党案や、さらに読売試案とも違って、現憲法の条項との関係がはなはだ分かりにくいことだ。現憲法の△条を改めて「…」とする、という書き方をしておらず、現憲法の「構成」や各条項とは無関係に、一体として、「新」憲法案が提示されていることだ。
 この点について、上記書物p.138は、自民党案は現憲法を「下敷き」にしているので「現行憲法の抱えるさまざまな欠陥をそのまま引き継い」でいる、と述べている。論理的に見て、「下敷き」にしていれば必ず「欠陥を引き継ぐ」ことにはならないとは思うが、それは別としても、現実の憲法改正(の発議と国民投票)のためには、産経新聞「国民の憲法」案ははなはだ使いづらい。
 なぜならば、憲法改正とは、現憲法の全体を一挙に廃棄・廃止して、新しい憲法を一括して創出する、というものではないからだ。
 ここで、憶測にはなるが、ひょっとすれば産経新聞「国民の憲法」案は、渡部昇一らの現憲法「無効」論や石原慎太郎の現憲法「破棄」論の影響も受けて、現憲法の全体に新しい「自主」憲法がとって代わる、というイメージで作成されたのではないか、という疑問が生じなくはない。
 総選挙における<次世代の党>の衰退とも関連させて、現憲法「無効」論・現憲法「破棄」論についてはあらためて触れる予定だ。ともあれ、現憲法と「新」憲法案のどちらがよいと思うか、というかたちで一括して憲法改正の発議と国民投票が行われるはずがない。確認しないが、憲法改正手続法もまた、そのようなことを想定していないはずだ。
 より具体的に、あるいは個々の条項に即して、例えば(自民党案によれば)現九条2項を削除して九条の二(国防軍の設置)を新設することに賛成か反対かで、あるいは(読売試案2004年によれば)①現九条1項を一部修正する、②現九条2項を削除して、別内容の条文に代える、③新たに別の条を追加して「自衛のための軍隊」保持可能等を明記する、のそれぞれについて、またはこれらだけを一括して賛成か反対かで、国民投票は行われるはずだ。
 産経新聞「国民の憲法」案の個々の条項を見て、かつ優先順位さえ決定すれば、上のような技術的?問題は解消できる、というのが産経新聞社案の意図なのかもしれない。しかし、現憲法との比較対照表を作れない(作っていない)案は、かなり分かりにくいし、上記のような(革命的?な一挙の)一括的「改正」をイメージしているのではないか、との疑問が生じなくはない(そうした気分がまったく理解できないわけではないが、非現実的で、却って「改正」を遅らせる)。
 さらに第三に、ここで書いてしまっておけば、産経新聞社の上記書物における現憲法九条1項の理解はいぜんとして奇妙だ。すなわち、p.140は、現九条1項は「主権の行使に制限を課している」、「不徹底で不完全」なものだ、と記している。
 しかし、自民党改正案も読売試案2004年も、基本的には現在の現九条1項の条文をそのまま残すこととしている。
 歴史的由来のある「国権の発動たる戦争」等の意味が理解しやすいものではなく、大きな誤解も招くことになっているのは確かで、<侵略戦争>の否定の趣旨を書き直すことは考えられてもよい(そうした趣旨の規定に対する、<侵略戦争>否定は「主権の行使に制限を課す」不適切なものだ、との批判はあたらないだろう)。
 しかし、産経新聞「国民の憲法」案よりもより長い時間と議論を経て作成されたとみられる自民党の最新改正案や読売試案2004年が現九条1項を基本的にはそのまま維持しているのと比較すると、同じく<保守派>の中では異質な案になっていることを、田久保忠衛や産経新聞関係者は意識・自覚しておいてよいと思われる。
 なお、産経新聞社の上記書物は、自民党案は「戦争放棄の規定(9条)をほぼ踏襲している」と書いて疑問視している(p.139)。しかし、(侵略)戦争放棄の規定は「9条」ではなく、同条1項だ。法学者ではない北岡伸一でもしているような理解を、どうやら産経新聞関係者および上記起草委員会は採用していないようだ。不思議で仕方がない。
 とりあえず、憲法改正の仕方・内容に関して若干のことを述べた。最優先されるべきは、現九条2項の廃止(削除)と実質的に自衛隊を正規の「軍」と認めることとなる条項の新設だ(法律改正により名称等々の変更が必要だが)、と考えている。「自衛軍」でも「国軍」でもよいが、「国防軍」で差し支えないのではないか。
 憲法の専門家ではない者が書いていることだが、憲法改正にむけての議論に小さな渦でも生じさせることがあれば、幸い。

1261/月刊正論1月号・柳本卓治論考を読む。

 月刊正論(産経新聞社)2015年1月号に柳本卓治「世界最古の『憲法の国』日本の使命」がある(p.168-)。
 自民党議員で参議院の憲法審査会会長に就任したという人物が書いているもので、共感するところもむろんあるが、大いに気になることもある。
 この論考は大きく五つの柱を立てているが、その二は「国家や国民という歴史と文化・伝統を縦軸に、国民主権・基本的人権・平和主義の三大原理を横軸に据えた憲法を」だ。「国民主権・基本的人権・平和主義の三大原理」を基軸の一つにする、と言うのだが、より詳しくは次のように語られている(p.170)。
 「現行の日本国憲法は、占領下の翻訳憲法ではあるが、その根幹には、国民主権、基本的人権、そして平和主義(戦争の放棄)という三大原理が謳われてい」る。「国民主権(主権在民)も基本的人権も、自由と民主主義に立脚する近代国家には、普遍的な原理」だ。「また、戦争放棄と平和主義も、人類国家として実現していかなければならない理想でもあ」る。
 これはいけない。第一。すでにこの欄で述べたことがあるが、まず、現憲法が「国民主権・基本的人権・平和主義」を「三大原理」とするというのは、多くの高校までの教科書には採用されている説明かもしれないが、<左翼>憲法学者たちが説いてる一つの解釈または理解の仕方にすぎない。阪本昌成のように七つの<後日訂正-六つの>原理を挙げる憲法学者もあり、大学レベルでの憲法教科書類が一致して説いているわけでは全くない。少なくとも、権力分立原理と「象徴」天皇制度の維持・採用も、現憲法の重要な原理だろう。前者には、司法権により立憲主義を維持・確保しようとしていること(立法を含む国家行為の憲法適合性の審査)も含めてよい。
 ともあれ、素朴で、幼稚ともいえる「三大原理」の持ち出し方は、適切であるとは思えない。
 つぎに、その「三大原理」を「自由と民主主義に立脚する近代国家」に「普遍的な原理」だと語るのは、まさに<左翼>的な戦後教育の影響を受けすぎており、とても<保守>派の政党・論者が語るものとは思えない。そもそも、日本において、アメリカの独立革命やフランス革命とそれらが生んだ憲法をモデルとして「近代憲法」を語ることの意味が問われなければならないだろう。西欧+アメリカの「近代」原理を日本も現憲法で採用し、それは「普遍的原理」だ、というのは、典型的な<左翼>の主張であり、理解である、と考えられる。
 欧米を「普遍的」原理を提供しているモデルと見るのではなく、日本的な国政あるいは国家統治の原理を創出しなければならず、「自由と民主主義」といっても、それは日本的な「自由と民主主義」でなければならない。
 柳本のような論調だと、欧米的「近代」・「普遍的な原理」によって、「国家や国民という歴史と文化・伝統」は害され、決して両者は調整・調和されないことになるのではないか。
 柳本の教養・素養の基礎は経歴によると経済学にあるようだが、上のようなことを書く人が参議院憲法審査会会長であるというのは、かなり怖ろしい。
 さらにいえば、柳本・参議院憲法審査会会長は、「戦争の放棄」とか「平和主義」をどのような意味で用いているのだろうか。いっさいの「戦争の放棄」をしてはならず、正しい又は正義の戦争=自衛戦争はある、と私は考える。
 また、<左翼>が「平和憲法」などと称して主張する場合の「平和主義」とは、決して戦後および現在の世界諸国において一般的・普遍的なものではなく、「戦力の保持」をしないで他国を信頼して「平和」を確保しようとする、きわめて非常識かつ異常な「平和主義」に他ならない。
 にもかかわらず、柳本は次のように書く-「いま最も大切なことは、この憲法9条の精神を今後も高々と掲げると共に、同時に、…独立国としての自衛権と、自衛のための自衛軍の整備をきちんと明文化すること」だ。
 ここには現9条の1項と2項の規範内容の違いへの言及がまるでないし、「憲法9条の精神を今後も高々と掲げる」という部分は、実質的に日本共産党の別働団体になっている「九条の会」の主張と何ら異ならない。せめて、9条1項の精神、とでも書いてほしいところだ。
 柳本は「憲法9条とは、先の大戦を通して、国民が流し続けた血と涙の池に咲いた、大輪のハスの花である」とまで言い切る。憲法9条は、その2項も含めて全体として、このように美化されるべきものでは全くない、と私は考える。このような言い方も「九条の会」と何ら異ならない。
 繰り返すが、現憲法の文言から素直に読み取れる「平和主義」とは、「軍その他の戦力」の不保持・「交戦権」の否認を前提とする、それを重要な構成要素とする<世界でも稀な、異様な>「平和主義」だ。その点を強調しないままで、現9条は「大輪のハスの花」だとか、「戦争放棄と平和主義」は「人類国家として実現していかなければならない理想」だ、などと自民党かつ参議院の要職者に語られたのでは、げんなりするし、憲法改正・自主憲法制定への熱意も薄れそうだ。
 第二。五つめの柱の「日本人は世界初の『憲法の民』」も、そのまま同感はしかねるし、また議論のために不可欠の論点だとは思われない。
 柳本は、聖徳太子の「十七条の憲法」を持ち出して、「近代国家の憲法とは、一律には比較でき」ないと断りつつも、「日本人は、世界初の『憲法の民』なの」だ、という(p.175)。
 日本と日本人が<世界初>・<世界で一つ>のものを有することを否定はしない。しかし、日本の明治期に欧米の近代「憲法」の原語(Constitution, Verfassung)がなぜ「憲法」と訳されたのかという歴史問題にもかかわるが、柳本も留保を付けているように、日本が世界初の「憲法」を持った、というのはいささか牽強付会の感を否めない。これはむろん「憲法」という概念・用語をどう理解するかによる。今後の憲法改正にあたっては、この点の指摘または強調はほとんど不要だろう。
 憲法改正に向けての多少の戦術的な議論の仕方を一切否定しようとするつもりはないが、柳本の基本的論調はあまりに<左翼>の影響を受けた、あるいは、表現を変えると<左翼>に媚びたものではないか。稲田朋美ならば、このような文章にならないのではないか。
 問題は、現憲法の諸条項を、どのように、どのような順序で改正するか(新設も含む)、そのための勢力を国会両議院内および国民・有権者内でどのように構築していくか、にある。

1226/月刊正論・桑原聡編集長等に対する批判的コメント一覧。

 桑原聡が月刊正論編集長になって半年も経っていないとき、民主党政権下の月刊正論2011年3月号で、桑原はこう書いていた。-「かりに解散総選挙となって、自民党が返り咲いたとしても、賞味期限の過ぎたこの政党にも多くを期待できない」。

 ということは現在の自民党も「多くを期待できない」のか。桑原聡という人は「政治感覚」がどこかおかしかったように感じる。
 上のことを以下で記した。

 ①2011.04.06

 「月刊正論(産経新聞社)編集長・桑原聡の政治感覚とは。」

 ほかに、月刊正論の編集方針等について書いたものに以下がある。存外にたくさん、非生産的なことに時間を費やしてきた想いが生じ、あまり楽しくはないが。再度同旨のことを繰り返すのはやめにし、リストアップにとどめておくことにする。

 ②2012.04.06 「月刊正論(産経)編集長・桑原聡が橋下徹を『危険な政治家』と明言1。」

 ③2012.04.09 「月刊正論(産経)編集長・桑原聡が橋下徹を『危険な政治家』と明言2。」 

 ③2012.04.10 「月刊正論(産経)編集長・桑原聡が橋下徹を『危険な政治家』と明言3。」

 ④2012.04.11 「月刊正論(産経)編集長・桑原聡が橋下徹を『危険な政治家』と明言4。」 

 ⑤2012.04.13 「『B層』エセ哲学者・適菜収を重用する月刊正論(産経)。」

 ⑥2012.04.15  「『保守』は橋下徹に『喝采を浴びせ』たか?」

 ⑦2012.05.17  「月刊正論の愚-石原慎太郎を支持し、片や石原が支持する橋下徹を批判する。」

 ⑧2012.06.06 「月刊正論編集部の異常-監督・コ-チではなく『選手』としても登場する等。」

 ⑨2012.08.06 「憲法改正にむけて橋下徹は大切にしておくべきだ。」

 ⑩2012.08.21 「月刊正論(産経、桑原聡編集長)の編集方針は適切か?①」

 ⑪2012.08.29 「月刊正論(産経、桑原聡編集長)の編集方針は適切か?②」

 ⑫2012.09.03 「月刊正論(産経、桑原聡編集長)の編集方針は適切か?③」

 ⑬2013.09.08 「適菜収が『大阪のアレ』と書くのを許す月刊正論(産経新聞社)」

 ⑭2013.10.04 「月刊正論(産経)・桑原聡は適菜収のいったい何を評価しているのか。」

 ⑮2013.10.13 「錯乱した適菜収は自民+維新による憲法改正に反対を明言し、『護憲』を主張する。」

1225/月刊正論(産経)の編集長が交代-桑原聡は退任。

 〇桑原聡が月刊正論(産経)の編集長になったのは、2010年12月号からだった。それから3年、古本で求めた月刊正論の11月号の末尾を見て、思わず心中で快哉を叫んだ。編集長執筆欄によると、桑原は「この号をもって編集長を退任」する。後任が川瀬弘至でなければ、安心して月刊正論の新刊本を毎月初めに購入できそうだ。

 この交代は桑原の何らかの「責任」が社内で問われたのではなく、定期の人事異動のようなものと思われる。だが、この3年間で、同じ保守派月刊雑誌・月刊WiLL(ワック)との比較において、月刊正論が販売部数=読者数で完全に負けるに至った。完全に、決定的に引き離されてしまった。正確な時期の記憶はないが、以下に紹介しておくようなコメントを書く前にすでに月刊正論の内容が何となく(違和感を感じる方向へと)変わったと感じたことがあった。その印象と桑原聡の「編集方針」は無関係ではないのではないか。

 〇桑原聡は同欄で、「保守のみなさん、…、内ゲバのような貶し合いは左翼にまかせ、おおらかに共闘していきましょうよ」、と書いている。

 この文章には甚だしい違和感を持つ。よくぞ言えたものだ、自分こそが「おおらかに共闘しよう」という姿勢でもって編集してきたのかどうかを、厳しく総括し、反省すべきだ、と感じる。
 この点の詳細は別の機会にもう一度書くだろう。きちんとした再確認を必要としない以下のことだけを、とりあえず書いておく。

 第一。私によれば、「反共」は「保守」であるための不可欠・重要な要素だ。八木秀次は橋下徹を「素朴な保守主義者」と評し、「保守」派であることをほとんど誰も疑わないだろう(但し天皇観を疑問視する者もいる)石原慎太郎は橋下徹とともに同じ政党の共同代表になっている。私の見るところでも、橋下徹は明白な「反共」主義者であり、明確に反日本共産党の立場でいる。だからこそ、二年前の大阪市長選において、日本共産党(大阪府委員会)は自党の候補を降ろしてまで、民主党・自民党(大阪市議団)等が推した当時の現役市長・平松某を支持し、その幹部は<反ファシズム統一戦線>だ、とまで言ったのだった。

 しかるに、桑原聡編集長の月刊正論は適菜収に「橋下徹は保守ではない」との巻頭論文を書かせ、自らは橋下徹を「きわめて危険な政治家」だと思うと明言し、「日本を解体しよう」としているとまで明記した。かりに適菜収も桑原も「保守」だとして、このような編集方針および編集長自身の考え方自体が橋下徹との間での<保守の中での内ゲバ>そのものであり、あるいは少なくともそれを誘発したものであることは明らかだろう。何が「保守のみなさん、おおらかに共闘しましょうよ」だと言いたい。大笑いだ。

 しかも、適菜収は別の雑誌上で、安倍晋三を「バカ」呼ばわりしたうえで(橋下徹憎さのあまり?)自民党が日本維新の会と共闘するくらいなら憲法改正に反対すると明記したのだから、少なくとも憲法改正問題に関するかぎり、適菜収は日本共産党や朝日新聞と同じく「左翼」だ。桑原聡は自らは「保守」だと意識しているようだが、そのような適菜収を重用し続けたかぎりにおいて「左翼」に加担したことになるのではないか。

 桑原聡は「自信をもって」「天皇陛下を戴くわが国の在りようを何よりも尊いと感じ、これを守り続けていきたいという気持ちにブレはない」と言える、とも同欄で書いている。瑣末な揚げ足取りのようだが、<天皇のもとでの共産制>を夢想し、構想した者は戦前にもいた。

 第二。正確な確認をしないまま記憶に頼って書き続けるが、桑原聡編集長時代の月刊正論は、「保守」であると考えてよいと思われる田中卓に対して罵詈雑言を浴びせる(と評してよい)論文を掲載している。そしてそれ以来、田中卓の弟子筋だとされている所功に対しても冷たく、所功を末尾近くの「読者欄」または「投稿欄」の書き手として(素っ気なく?)遇したことがあるが、所功の論文を掲載したことはないはずだ。
 所功は「左翼」だと位置づけているのならば理解できなくはない。だが、所功を「左翼」と評することはおそらく間違いなくできない。そうだとすれば、桑原聡編集長時代の月刊正論は、「保守」の中の対立の一方に立ち、まさしく<保守の中での内ゲバ>を展開したのではないか。

 編集部員の川瀬弘至は自らを「真正保守」と考えているようだが、読者への回答欄で「日本と日本人を間違った方向に導くと判断した時には、我々は異見を潰しにかかります」と書いたことがあった。かかる姿勢は傲慢であるとともに、<保守のおおらかな共闘>の精神とは真逆のものだと思われる。すなわち、いかに「保守」派の者の意見でも一定の場合には「潰しにかかる」という意味を含む意気込みを示しており、<保守のおおらかな共闘>などは考えていない書きぶりだ、と感じる。そして、桑原聡編集長はこの川瀬の文章を何ら修正することなく掲載させたと見られる。

 何が「保守のみなさん、おおらかに共闘しましょうよ」だ。自らの編集方針・編集意図を冷静に振り返っていただきたい。

 〇「保守」の「おおらかな共闘」は私も強く望むところだ。しかし、桑原聡編集長時代の月刊正論こそが、これに反する編集方針・記事の構成をしていたことは、以上の二点の他にもあったと感じている。再確認のうえで、別に機会をもちたい。

1204/適菜収が「大阪のアレ」と書くのを許す月刊正論(産経新聞社)。

 〇適菜収をいつぞや「C層哲学者」と書いた。それは、適菜がよく使う「B層」よりも下、低劣という趣旨だったのだが、週刊新潮8/15・22号(新潮社)の適菜の文章によると、「B層」とは近代的価値に肯定的(構造改革に肯定的)・IQは低い、「C層」とは近代的価値に否定的(構造改革に否定的)でIQは高い、のだそうだ。そして、「C層」とは簡単には「真っ当な保守」である。という(p.47)。
 こういう意味であるとすれば、適菜収を「C層」哲学者と称するわけにはいかない。

 ところで適菜は、自らは上の意味での「C層」と自認している様子なのだが、「最近の保守系論壇誌は面白くない」と強調し、また、参院選自民党勝利を「保守」の勝利と称することを疑問視している。

 何が「真っ当な保守」なのか、むろん適菜は詳細に論じているわけではないし、そもそも適菜の理解が正しい保障はまったくない。

 はっきりしているのは、上の週刊新潮によるかぎり、現在の日本で<保守>といわれている論壇や人々とは適菜は距離を置いている、ということだ。

 〇だが、しかし、定期購読していないので真面目に読んでいないのだが、月刊正論(産経新聞社)の今年4月号あたりから、適菜収は、「正論壁新聞」という比較的に冒頭の欄で、田母神俊雄らとともに常連の執筆者になっている。

 適菜の議論の基調はだいたい決まっている。<大衆はバカだ>、<大衆迎合の政治家は危険だ>、…。

 最近の月刊正論10月号では適菜は「生理的に受け付けない」、「紋切り型」の文章やその書き手を批判する退屈な文章を書いているが、某評論家(おそらく屋山太郎)や「紋切り型ライター」を批判したあと、最後に次のように書く。

 「大阪のアレに倣って言えば、一度彼らを『グレートリセット』をしたらどうか?」(p.53)。

 「大阪のアレ」とは橋下徹のことだとは容易に分かる。
 〇さて、日本の代表的な、とは言わなくとも、<保守>系論壇誌としては著名な産経新聞社発行の月刊正論が、「大阪市長」または「日本維新の会代表」という名前を冠することもなく、それらがなくとも橋下徹という固有名詞を明示することもなく、「大阪のアレ」という表現で橋下徹を意味させる文章を掲載するのは、橋下に対してきわめて失礼であり、また読者に対しても品性を欠く印象を与えるものではないか。

 字数の制限によって「大阪のアレ」とせざるをえなかったわけではない(橋下徹の三文字の方が短い)。
 月刊正論の編集部の誰かはこの適菜の文章を事前に見たはずだが、「大阪のアレ」という言葉遣いに違和感を感じず、修正を求めることはしなかったと見える。
 雑誌原稿の文章ははむろん依頼した執筆者の言葉遣いが優先はされるだろうが、問題があると考える場合には編集者(編集部)として「要望」くらいのことはできるはずだ。

 もともと適菜収の文章は「生理的に受け付けない」ところがあり、<気味が悪い>のだが、上のような月刊正論編集部の対応も「気味が悪い」。<~のアレ>で済ますような言葉遣いを含む文章を、新聞でも週刊誌でもその他の雑誌でも見たことがない。

 〇もともと、月刊正論が適菜収をまるで自らの雑誌に親近的な論者として使っていること自体が異様だ(田母神俊雄らに失礼でもあろう)。だが、昨年に同誌・桑原聡編集長が適菜に「橋下徹は保守ではない」と大きく宣伝したタイトルの文章を書かせ、橋下徹は「きわめて危険な政治家」と編集長自体が編集後記の中で明記した。そのような考え方を、桑原聡と同誌編集部(産経新聞社員)は現在でも維持している、ということだろう

 最近に産経新聞内にあるように見られる、橋下徹に対するアレルギー・嫌悪感にこの欄で触れたが、その潜在的な背景の一つは、昨年の<橋下徹は保守ではない>という表紙上および雑誌の新聞広告の大きな見出しにあるのではないか

 このような効果を適菜論考がもたらしたとすれば、犯罪的にも、日本維新の会を妨害し、そして憲法改正を妨害している。

 〇適菜についていえば、彼は上記週刊誌上で「毎号同じような見出しが並び、同じような論者が同じようなテーマについて執筆」、「基本的には、中国や韓国、北朝鮮、朝日新聞はケシカランみたいな話」等と「最近の保守系論壇誌」を批判しているが、これによくあてはまるのは、月刊正論そのものだろう。

 月刊正論の特徴の一つは、<憲法改正>に関する特集をしないこと、少なくとも表紙の見出しを見るかぎりは、憲法改正を重視してはいないことだ。
 月刊正論編集部または桑原聡に尋ねたいものだ。
橋下徹を批判することと、憲法改正に向けて世論を活性化することと、いったいどちらが重要なのか。

 適菜収が週刊新潮に書いていることを全面的に支持するわけではむろんないが、月刊正論という雑誌は、少なくとも<保守>派の国民ならば誰でも読みたいと感じる「保守系論壇誌」になっているだろうか。

 金美齢が産経新聞について言った「深刻な『質の低下』」は月刊正論にも、そして同誌編集部にも言えそうに見える。

1203/日本共産党ちょうちん記事一面の産経新聞は<保守>派の新聞か?

 〇月刊WiLL10月号(ワック)で金美齢が言及しているので(p.235)、確認してみると、産経新聞8/05の記事に以下がある。ウェブ上では紙面構成が分からないが、金美齢によると、これが当日朝刊の「一面トップ」だったらしい。

 タイトルは「『時代は共産」本当? ネット戦略、若返り奏功」で、日本共産党をもってきている。批判的にか? いやいや、そうではなく、産経新聞らしさはどこにあるのか、と感じる。

 本文は「共産党が俄然、活気づいている。7月の参院選では12年ぶりに選挙区で議席を獲得し、総崩れの状態の野党で唯一気を吐いた」から始まる。そして「自民、公明はイヤで民主もコリゴリ。日本維新の会もダメ。こうなりゃ共産に入れるしかない-。こんな心理が有権者に働いた可能性がある」で終えている。

 「保守」とは私の理解では、まず「反共・反共産主義」・「反コミュニズム」だ。そういう観点からすると「保守」派新聞は、日本共産党に対して、批判的・警戒的な見方をする、客観的事実もふまえた記事を載せる必要がある。参議院選挙の分析の一つのつもりかもしれないが、上の記事は誇張すれば、日本共産党の<ちょうちん記事>だ。

 参議院選挙の分析としても間違っている。「総崩れの状態の野党で唯一気を吐いた」と評価しているのは、朝日新聞、毎日新聞らと何ら異なるところはないようだ。本当にそうか?

 〇今年7月の参院議員選挙での、①獲得議席数は、日本共産党8だが、日本維新の会も8、みんなの党もまた8だった。あとの二つがもっと多い議席獲得の予想もあっがゆえに、また日本共産党が近年はあらゆる選挙を通じて低減傾向を示していただめに、当初の予想に反して意外に日本共産党が健闘したという印象はあるが、客観的な数字は、日本維新の会、みんなの党、日本共産党は同じだ。

 ②非改選を含む公示前議席数数との当選者数+非改選者数を比べてみると、日本共産党は6→11と確かに増やしたが、維新の会は3→9で、増加数は共産党の5を上回る6だ。みんなの党も13→18で共産党と同じく5を増やした。
 いったいどこを見て、産経新聞記者(高木桂一・楠城泰介の署名あり)、日本共産党が「総崩れの状態の野党で唯一気を吐いた」と言えるのか。とても正常な判断能力をもつマスコミ人間とは思えない。

 「総崩れ」した野党は民主党(86→59、新規は17)、生活が第一(8→2、新規は0)、みどり(4→0)、社民党(4→3)等であり、「野党」すべてではない。

 〇反日本共産党、反コミュニズムの意識がないか弱いテレビ局の中には「躍進」した日本共産党に着目して、志井委員長や党本部を紹介する番組中の一コーナーを作ったものもあった。産経新聞の感覚は、そのようなテレビ局と何ら異ならないようだ。

 繰り返しておく。増加数では日本維新の会の方が上。現在の議席数はみんなの党18に対して日本共産党は11。明らかにみんなの党の方が上だ(日本維新の会は元来今の数が少ないことがあり、9)。

 またくり返す、高木桂一、楠城泰介よ、日本共産党が「総崩れの状態の野党で唯一気を吐いた」とは不真実の報道、捏造報道ではないか

 〇日本共産党も、志井和夫をはじめ、「勝利」した、と総括したらしい。これもバカな話だ。

 両院の一つにすぎないことは別としても、参議院の総定員242名中の11(改選に限ると総数121名のうち8)を獲得した程度で、いったいどこが「勝利」なのか、総定員の5%弱を獲得して本当に喜んでいるとすれば、無邪気なものだ。いや、アホだ。

 日本共産党は1922年に国際共産党(コミンテルン)日本支部として設立されてから、何と100年以上の歴史を持つ。現在の路線の基礎になった綱領を採択したのが1961年だったから、そこから起算しても50年を超える。それほどの長い歴史をもつ、従って長々と日本国民にその政策・主張を訴え続けてきた政党だ。
 しかるに、数年前にできたみんなの党や昨年末に結成されたばかりの日本維新の会と同数の当選者8名しか出せなかったのは恥ずかしいことであり、嘆かわしいことではないのか。

 いったいいつ、日本共産党が目指す「民主主義革命」とそれが連続的に発展する「社会主義革命」が日本に起こるのだろうか。日本共産党は共産主義社会を志向する「革命」政党ではないのか。

 この程度で「勝利」したと喜んでいるとはちゃんちゃらおかしい。それに乗っかって、日本共産党は「総崩れの状態の野党で唯一気を吐いた」などと書いてしまう、産経新聞記者も、そして産経新聞もどうかしている。

1202/小林よしのりと橋下徹慰安婦発言と安倍首相・自民党。

 〇久しぶりに、小林よしのりの言説をとり挙げよう。

 ①5/16に「ゴー宣道場」のブログでこう書いた。

 「橋下徹の慰安婦問題に対する認識は基本的に正しい。/微妙に間違ってる点もあるが、一歩も引かぬ態度は支持するから、頑張ってほしい。
 安倍晋三や、稲田朋美や、産経新聞は、慰安婦に対する見解を180度変えてしまっている。/『女性の尊厳損ね許されぬ』には呆れてしまった。
 まったく唾棄すべき奴ら、軽蔑すべき奴らだ!
 安倍政権も産経新聞も、結局、アメリカの顔色を見て怯え、慰安婦問題でもどんどん自虐史観に戻ってしまったのだ。/卑怯者とは、こういう奴らのことを言う。」

 これは産経新聞5/15社説も読んだ後のものに違いない。

 ②また、産経新聞5/26の「花田紀凱の週刊誌ウォッチング」によると、小林よしのりは週刊ポスト(小学館)5/31号で次のように語った、という。

 「橋下徹は、まるで『王様は裸だ』と叫んでしまった子供のようである。どんな反応が起きるのかまったく考えず、愚直に“本当の話”をし始めている」。「橋下発言は、何ら間違っていない」。「強制連行」・「従軍」に関しては「議論はとっくに決着している」。

 ③小林の舌鋒の矛先は、自民党・安倍晋三政権に強く向けられている。6/04発行となっているメールマガジン「小林よしのりライジング」40回では、次のように言う。

 「『河野談話』を修正か破棄し、「慰安婦制度は、当時は必要だった』と唱えたら、どんな目に合うか橋下徹が身をもって示し、安倍自民党はそれを傍観して震え上がったわけだ。

 誰も国のために戦った祖父たちの名誉を守ろうとしない。/日本は「性奴隷」を使用したレイプ国家にされてしまっているのに、安倍政権は何のアクションも起こさない

 橋下徹と一線をひいて、『村山談話』、『河野談話』を引き継ぐ歴代政権と何ら変わりがないことを、国際会議の場で必死で強調し、『戦後レジーム』の洞穴に引き籠って出て来なくなった」。

 〇小林よしのりの上の③は当たっているかもしれない。

 安倍首相は5/15、参院予算委員会で、「過去の政権の姿勢を全体として受け継いでいく。歴代内閣(の談話)を安倍内閣としても引き継ぐ立場だ」と述べた。これは翌5/16の産経新聞の記事による。同時に、「日本が侵略しなかったと言ったことは一度もない」と述べたようだ。

 これは<村山談話>を引き継ぐ、という趣旨だろう。
 産経の同記事が書くように、安倍首相は4/22に<村山談話>について「安倍内閣として、そのまま継承しているわけではない」と述べ、翌4/23には「侵略の定義は定まっていない。国と国との関係で、どちらから見るかで違う」と述べていたにもかかわらず、である。

 いったい何があったのか。
 5/13が橋下徹慰安婦発言、橋下徹発言ほぼ全面批判の産経新聞社説は5/15だった。
 安倍首相は、橋下徹発言に対する反響に驚き、かつ産経新聞までが橋下発言を厳しく批判していることを知ったからこそ「軌道修正」(5/16産経記事)をしたのではなかっただろうか

 参院選挙まであと二月余という時期も関係していたかもしれない。
 だが、産経新聞5/15社説が<橋下徹発言は舌足らずだが、また一部に問題はあるが、おおむね(基本的には)正しい。河野談話の見直しを急ぐべきだ」という基本的な論調で書かれていたらどうなっていただろうか
 社説は場合によっては瞬時に基本的な主張内容を判断して数時間以内に文章化しなければならない場合もあるだろう。そういう場合にこそ、書き手のまたは論説委員グループの<政治的感覚>が問われ、試される。

 結果として、基本的には朝日新聞のそれと似たようなものになった産経新聞5/15社説は、安倍首相の感覚・判断をも狂わせた可能性がある、と感じられる。「女性の尊厳損ね許されぬ」を優先し、問題の「本質」、「より重要な問題」の指摘を数日あとに遅らせた5/15産経新聞社説は、基本的には<犯罪的な>役割を果たしたのではないか。怖ろしいことだ。

 最近にこの欄で<村山談話>の見直しはどうなっているのかと書いたばかりだが、安倍首相が国会で(少なくとも当面は、だろうが)「引き継ぐ」と明言しているとは、ガックリした。選挙対策、あるいは日本維新の会との差別化の意図によるとしたら、馬鹿馬鹿しいことだ。

1201/橋下徹発言と産経新聞のとくに5/15社説。

 〇産経新聞5/18付「一筆多論」欄での、論説委員・鹿間孝一の叙述によれば、いわゆる橋下徹慰安婦発言は、今年5/13午前の<ぶら下がり>会見で(朝日新聞記者から)「安倍晋三首相の『侵略の定義は定まっていない』との発言に対する見解を問われて、『首相が言われている通りだ』と述べた後、唐突に」出されたようだ。

 いつか述べたように、マスコミの中には「失言」・「妄言」なるものを引き出して中国や韓国に<ご注進>し、批判的コメントを貰ったうえで日本国内で<騒ぐ>輩がいるから気をつける必要がある。

 上の点はともあれ、橋下徹発言はあらかじめ準備され、用意されてのものではなく偶発的なものと思われる。従って、産経6/03付「正論」欄で桜田淳が、「橋下市長の一連の発言において批判されるべきは、その発言の中身というよりも、それを語る『必然性』が誠に薄弱だということにある」等と批判しているのは、的確ではないか、または橋下徹に対してやや厳しすぎるだろう。

 〇さて、産経新聞5/16付で阿比留瑠比は、「橋下発言検証『大筋正しいものの舌足らず』」と題して、<大筋は正しいが、舌足らずだ>という印象を与える(内容もそのような)記事を書いていたが、その前日5/15の産経社説(同新聞では「主張」欄)は、<大筋は正しいが、舌足らずだ>という内容のものだったのか。

 そうではなく、「橋下市長発言/女性の尊厳損ね許されぬ」というタイトルどおり、橋下発言を全体として厳しく批判した。

 やや立ち入れば、この社説は、第一に、橋下徹発言を、①「慰安婦制度は当時は必要だった」など、②米軍幹部に「海兵隊員に風俗業を活用してほしい」、と述べた、と紹介したうえで、「女性の尊厳を損なうものと言わざるを得ない。許されない発言である」とまず断定し、切って捨てている。この対象の中には、上の①の、「慰安婦制度は当時は必要だった」という、「当時は」という限定つきの発言も含めている。
 第二に、安倍首相は公権力による強制があったという「偽り」を含む河野談話を「再検討」しようしているのに、橋下徹が「『必要な制度』などと唱えるのは事実に基づく再検討とは無関係だ。国際社会にも誤解を与えかねない」と書いて、これまた橋下を批判している。但し、趣旨は不明瞭だ。<当時は必要な制度だった>という発言趣旨を誤解している可能性があるし、また、安倍内閣による再検討作業を橋下徹発言が邪魔をしているかの如き批判の仕方になっている(のちにこの旨を明記。第四点)。

 第三に、橋下が「当時の慰安婦の必要性を肯定した」ことについて、とここでは「当時の」と限定しつつも、自民党の稲田朋美下村博文両大臣の簡単な言葉を紹介し、「稲田、下村両氏は自民党内の保守派として河野談話の問題点を厳しく指摘したこともあるが、橋下氏の考えとは相いれないことを示すものといえる」と書いた。ここでは、橋下徹発言は自民党内「保守派」のそれとも異質だ、と指摘したいようだ。

 第四に、安倍政権の河野談話見直し作業を、「いわれなき批判を払拭すべきだという点は妥当としても、…見直しの努力を否定しかねない」と切って捨てて、疑問視している。

 第五に、「風俗業活用」発言について、「もってのほか」、「人権を含む普遍的価値を拡大する『価値観外交』を進める日本で、およそ有力政治家が口にする言葉ではなかろう」と断定的に批判した。

 この部分は橋下徹自身がのちに撤回しているが、橋下自身も言うように、売買春を勧めたわけではなく法律上合法的な(沖縄以外の本土にもあるような)「風俗業」の利用に言及したものだった。「もってのほか」と産経新聞社説が主張するならば、理屈の上では全国にある「風俗業の活用」はすべて「もってのほか」になるはずだ。

 以上、要するに、橋下発言に理解を示しているのは「いわれなき批判を払拭すべきだという点は妥当としても」という部分だけで、あとはすべて橋下発言を批判・否定する内容になっている。

 産経新聞がこうなのだから、朝日新聞や毎日新聞の社説がいかほどに厳しい批判だったのかは、容易に想像がつく。

 この「偽善」も一部に含むと考えられる産経新聞社説はいったい何なのだろう。参議院選挙前に、自民党と日本維新の会との差別化を図り、自民党を有利にしたい、という思惑を感じなくもない。もっとも、産経新聞自体が、自民党・稲田朋美が、慰安婦営業は「当時は」合法だった旨を発言したと報道してもいた。橋下発言と「自民党内の保守派」には(あるいは日本維新の会と後者には)この産経新聞社説が指摘するほどの違いがあるのか疑わしい。

 あるいは、朝日新聞等からの批判を予測して、「左」からの攻撃から自らをあらかじめ守っておこうという気分があったのかもしれない。一種の<横並び意識>でもある。少なくとも、一部でも橋下徹を守ろう、庇おう、という意識が感じられない社説だ。上記5/16付阿比留瑠比記事とトーンがまるで異なることは言うまでもないだろう。

 この5/15社説だけが社論ではない、と産経新聞関係者(とくに社説執筆者)は言うかもしれない。

 なるほど、5/17付で憲法96条改正の必要性を強調した産経新聞社説は、5/18付では、みんなの党の日本維新の会との選挙協力解消決定をうけて「橋下氏発言/避けたい改憲勢力の亀裂」というタイトルのもとで、両党の連携への期待を述べている。そして、次のようにも書く。

 「より根本的な問題は、根拠なしに慰安婦の強制連行を認めた平成5年の河野洋平官房長官談話が今も、日韓関係などを損ねている事実だ。/政府や国会がすべきことは河野談話の検証である。慰安婦問題の本質を見失ってはならない」。

 この部分を読んで不思議に思う。「慰安婦問題の本質を見失ってはならない」、「根本的な問題」の原因が河野談話にある、というならば、その旨を、なぜ、5/15の段階で強調しなかったのか。5/15社説の基調は橋下徹発言批判であって、「慰安婦問題の本質」を見失うな、河野談話にこそ「根本的な問題」の原因がある、というものではまったくなかった。なぜ、こうした旨を数日前の5/15に書けなかったのか。
 橋下徹発言に対する批判の高まりを考慮して多少は抑制しようと考えたのかもしれないが、そうであるとすれば、時機を失している。朝日新聞等々ともにさっそく足並みをそろえて橋下徹発言批判を始めたのは、5/15社説だったのだ。

 産経新聞5/28社説では橋下徹発言批判はさらにトーンダウンしている。日本外国特派員協会での橋下徹会見に関するものだが、橋下会見での発言につき、こう書いている。

 「橋下氏は『国家の意思として組織的に女性を拉致したことを裏付ける証拠はない』とも述べ、慰安婦問題に関する平成5年の河野洋平官房長官談話について『否定しないが、肝心な論点が曖昧だ』と指摘した。/河野談話は、根拠なしに慰安婦の強制連行を認めたものだ。橋下氏は以前、『河野談話は証拠に基づかない内容で、日韓関係をこじらせる最大の元凶だ』と主張していた。これこそまさしく正論だ。後退させる必要はない」。

 5/15段階での威勢の良い橋下徹批判はどこへ行ったのか? そして、「安倍政権はいわれなき日本非難には、きちんと反論すべきだ」と、橋下にではなく安倍政権に向けての注文を書いて、締めくくっている。

 こうして見ると、産経新聞の論調の中でも、むしろ5/15社説こそが異様だったような気もしてくる。 

 もっとも、冒頭の5/18鹿間孝一の叙述は「橋下流は『賞味期限切れ』か」と題するもので、上記5/15社説にさらに追い打ちをかけるように、橋下徹が「自身『あと数年たてば、賞味期限切れになる』と語っていたが、現実になるのは意外に早いかもしれない」と締めくくっている。

 こうして見ると、他の例は省略するが、産経新聞社の中には、間違いなく橋下徹に対する一種のアレルギー、嫌悪感のようなものが、少なくとも一部にはあるのは否定できないろう。それが5/15社説で噴出し、諸々の事情を配慮して橋下徹批判の論調を抑制する方向に変化したのだ、と思われる。

 〇今年8/08に別の文献を参照して書いたことだが、産経新聞も他紙と同じく「当時は」という限定を付けることなく、橋下発言について「慰安婦制度は必要」と見出しを付けて報道したようだ。また、その同じ書き込みの中で紹介したように、産経新聞の5/15付社説の論調は、櫻井よしこの週刊新潮5/30号での、橋下徹発言は「日本の国益を大きく損ないかねない…」という明記等と共通するところがある。

 〇その後、産経新聞は5/27付で、<橋下氏の慰安婦発言「不適切」75%/維新支持も急落>、日本維新の会支持率20・7%から10・7%へほぼ半減、という世論調査結果を発表するなど、<維新失速>という「客観」報道をし続けた。
 世論調査はマスメディアが自分たちの国民の意見に対する誘導の効果を立証し、確認するための道具くらいに思っているが、上のような結果の少なくとも原因の一つは、あるいはとりわけ<保守層>の中での維新の会支持率減少の原因の大きなものは、産経新聞自体の社説・社論にあるのではないか。
 日本維新の会代表の発言をそっけなく冷たく批判しておいて、<維新支持も急落>とあとで報道しているわけだ。そうした点では、朝日新聞も産経新聞もほとんど変わりはしない。
 経緯・理由は私と異なるが、月刊WiLL10月号(ワック)で、金美齢は今年7月末をもって産経新聞の定期購読者たることをやめた、ということを明らかにしている(p.230以下)。

 産経新聞は決して<保守派>国民全員が信頼し支持できる新聞ではない。相対的にはまだマシなのだろうが、奇妙な点、歪つな点もある。あたり前のことだが、読者は、「教条的信仰」に陥らず、産経新聞もまた批判的に読まなくてはいけない。

1200/橋下徹慰安婦発言と産経新聞。

 橋下徹慰安婦発言に関連する産経新聞の記事をウェブ上で探してみた。

 〇5/28に、<「河野談話」の撤廃を求める緊急国民集会>が開かれた。先輩同胞が「女性を性奴隷にした、などという罪を着せられていることはもっとも屈辱的なこと」等の佐波優子発言はもっともなことだが、他にも興味深い発言がなされている。以下はごく一部。

 ・一色正春-「橋下さんの陰に隠れているが、正直な発言をして日本維新の会を除名された西村真悟代議士を救わねば、正直者がバカをみることになってしまう」。

 ・黄文雄-「橋下市長の発言には100%賛成。西村真悟先生の発言に関しては120%賛成だ」、慰安婦問題に関して「マスコミも政治家も偽善的だ」。

 〇5/23付の「直球&曲球」欄で宮嶋茂樹はこう書いている(もちろんかなり省略している)。

 「国会のセンセイ方。半年前の総選挙のときは、…、橋下徹・大阪市長にすり寄っとったのに、“落ち目”と見るや、韓国人や“ジェンダーフリー原理主義者”に、くみしてまで手のヒラ返すか」。「そもそも“従軍慰安婦”なるもんは、頼まれもせんのにどっかの新聞が、どこぞで見つけてきて作り上げた『強制連行された慰安婦』を日本まで連れてきたんや」。

 「日本の大新聞もこの問題、批判するんやったら、傘下に置くスポーツ紙はフーゾクの記事や広告を一切、載せたらアカンで」。

 産経新聞には「傘下に置くスポーツ紙」はなかっただろうか。いや産経は「大新聞」ではないか?

 〇政治部編集委員の阿比留瑠比は、5/16付で、秦郁彦の助けも借りながら、「橋下発言検証『大筋正しいものの舌足らず』」と題して、論点をつぎの4つに整理し、つぎのようにまとめている。

 ①強制連行-1997年3月に「当時の平林博内閣外政審議室長」が国会・委員会で「強制連行を直接示す政府資料は発見されていない」と答弁。第一次安倍内閣は2007年3月に「軍や官憲による強制連行を直接示す記述も見当たらなかった」とする答弁書を閣議決定。「橋下氏は政府の公式見解を述べたに等しい」。

 ②各国の慰安所-GHQ下の東京、ベトナム戦争時の米軍や韓国の慰安所の利用や管理からして、「橋下氏の『なぜ日本の慰安婦制度だけが取り上げられるのか』との問題意識はもっともだ」。

 ③侵略の定義-橋下は「学術上、定義がないのは安倍晋三首相が言われている通り」と発言したが、「第一次安倍内閣は平成18年10月、『『侵略戦争』について国際法上確立されたものとして定義されていない』とする答弁書を閣議決定」。

 ④風俗業の利用・慰安婦の「当時の」必要性-「真意はともかく、秦氏は『政治家なら内外情勢を勘案し、何か主張する際には裏付けとなる証拠を示すなどもっときめ細かな配慮をすべきだった』と指摘」。
 以上のように見ると、①~④のうち、橋下徹発言に問題がある(=批判されてしかるべき)可能性があったのは、④だけであることになる。

 しかして、産経新聞は、橋下徹発言について、肝心の「社説」上ではいかなる主張をしたのか。次回に扱う予定だ。

1192/憲法改正の主張ではなく、いかにして憲法改正するかの「戦略」的主張を。

 民主党政権下の2010年11月3日、産経新聞社説は民主党は「政権与党として、憲法改正への主体的な取り組みを求めたい」等と主張した。これに対して、同11月6日付のこの欄で、「現在の民主党政権のもとで、あるいは現在の議席配分状況からして、『戦後の絶対平和主義』から脱した、自主・自立の国家を成り立たせるための憲法改正(の発議)が不可能なことは、常識的にみてほぼ明らか…」、「産経社説は、寝惚けたことを書く前に、現内閣<打倒>をこそ正面から訴えるべきだ」、と批判した。

 同様の批判を同じ欄で、産経新聞同日の田久保忠衛の「正論」に対しても行っていた。以下のとおり。
 「『憲法改正の狼煙上げる秋がきた』(タイトル)と叫ぶ?のはいいのだが、どのようにして憲法改正を実現するか、という道筋には全く言及していない。『狼煙』を上げて、そのあとどうするのか? 『憲法第9条を片手に平和を説いても日本を守れないことは護憲派にも分かっただろう』くらいのことは、誰にでも(?)書ける。
 問題は、いかにして、望ましい憲法改正を実現できる勢力をまずは国会内に作るかだ。産経新聞社説子もそうだが、そもそも両院の2/3以上の賛成がないと国民への憲法改正「発議」ができないことくらい、知っているだろう。
 いかにして2/3以上の<改憲>勢力を作るか。この問題に触れないで、ただ憲法改正を!とだけ訴えても、空しいだけだ
 国会に2/3以上の<改憲>勢力を作るためには、まずは衆議院の民主党の圧倒的多数の現況を変えること、つまりは総選挙を早急に実施して<改憲>派議員を増やすべきではないのか?
 <保守>派の議論・主張の中には、<正しいことは言いました・書きました、しかし、残念ながら現実化しませんでした>になりそうなものも少なくないような気がする。いつかも書いたように、それでは、日本共産党が各選挙後にいつも言っていることと何ら違いはないのではないか。」 以上。
 政治状況は当時とは違っているが、衆議院はともかく、参議院では憲法改正に必要な2/3の議員が存在せず、いくら憲法改正を(9条2項廃棄を)と「正しく」主張したところで、国会は憲法改正を発議できず、従って憲法改正が実現されないことは当時と基本的には変わりはない。
 また、昨年12月総選挙も今年7月参議院議員選挙も、「憲法改正」は少なくとも主要な争点にはなっていない。したがって、民主党政権下とは異なりいかに自民党等の改憲勢力がかなりの議席数を有しているとしても、議席配分または各党の議席占有率がただちに国民の憲法改正に関する意向を反映しているとは断じ難い。
 衆議院では自民党・日本維新の会の2党で2/3以上をはるかに超える、参議院では維新の会・みんなの会と民主党内「保守派」を加えて、あるいは<野党再編>によって何とか2/3超になりはしないか、と「皮算用」している者もいるかもしれないが、やや早計、早とちりだろう、と思われる。
 というのは、軍の保持を認めて自衛隊を「国防軍」にするか否か、そのための憲法改正に賛成か否かを主要な争点として選挙が行われたとした場合の議席獲得数・率が昨年の総選挙、今般の参議院選挙と同じ結果になった、という保障は何もない。有権者の関心のうち「憲法改正」は、主要な諸課題・争点の最下位近くにあったと報道されたりもしていた筈だ。
 しかし、とはいえ、憲法改正を!という主張だけでは<むなしい>ことは、少なくともそれに賛同している者たちに対する呼びかけとしてはほとんど無意味であることは明らかだ。
 上の点からして、遠藤浩一の、撃論シリ-ズ・大手メディアが報じない参議院選挙の真相(2013.08、オ-クラ出版)の中のつぎの発言は、私のかつての記述内容と同趣旨で、適確だと思われる。

 「多くの人が憲法改正(ないし自主憲法制定)の大事さを説きますが、現実の政治プロセスの中でそれを実現するにはどうすればいいのか、どうすべきかについてはあまり語りません。多数派の形成なくして戦後体制を打ち破ることはできないという冷厳なる事実を直視すること、そして現実の前で身を竦ませるのではなく、それを乗り越える戦略が必要だと思います」(p.26)。
 ここに述べられているとおり、「現実の政治プロセスの中でそれを実現するにはどうすればいいのか」についての「戦略」を語る必要がある。

 <保守>派らしいタテマエや綺麗事を語っているだけではタメだ。私はこの欄で遅くとも2020年までには、と書き、2019年の参議院選挙が重要になるかもしれないと思ったりしたのだが、それでは本来は遅すぎるのだろう。だが、しっかりと基礎を固め、朝日新聞等の影響力を削ぎ、「着々と」憲法改正実現へと向かうには、そのくらいの期間がかかりそうな気もやはりする。むろん何らかの突発的な事態の発生や周辺環境の変化によって、2016年の参議院選挙、その辺りの時期の総選挙を経て、2017年くらいには実現することがあるかもしれない。
 このように憲法改正の展望を語ることができるのは昨年末までに比べるとまだよい。民主党等が国会の多数派を形成している間は、永遠に自主憲法制定は叶わないのではないかとの悲観的・絶望的思いすらあった。「ぎりぎりのところで日本は救われた」(中西輝政「中国は『革命と戦争』の世紀に入る」月刊ボイス8月号p.81)のかもしれない。

1141/月刊正論(産経、桑原聡編集長)の編集方針は適切なのか③。

 月刊正論9月号(産経)の「編集者から」(p.327)の文章で驚いたのはつぎの言葉だ。
 一読者が「いたずらに異見を責めるのではなくて、国民の落着点を求め」る姿勢が大切ではないかと(前回に紹介にしたことを書いて)「編集者へ」述べたことに答えて、それが「必要な場合もあるでしょうが…」と述べているのは一般論としては誤っていないだろうが、問題は、それに続くつぎの文章だ。
 「それ〔異なる意見〕が日本と日本人を間違った方向に導くと判断した時には、我々は異見を潰しにかかります」。
 月刊正論編集部は「日本と日本人を間違った方向に導くと判断し時には」「潰しにかかる」、そういう編集方針を明らかにしたわけだ。
 善意に解釈して、その気分ないし意気込み?は理解できなくもないが、ただちに、次のような疑問が生じる。
 第一。「日本と日本人を間違った方向に導く」意見かどうかを判断するのは、明らかに月刊正論編集部(「我々」)だとされている。
 しかして、そもそも月刊正論編集部に、諸意見・考え方等々のいずれが「日本と日本人を間違った方向に導く」か否かを適切に判断する資格または能力があるのだろうか。
 主観的に、そのような気概?を持って何らかの「判断」をするのは結構だし、妨げることもできないだろうが、そもそもその「判断」が正しいまたは適切か否かの客観性は何ら保障されていない。
 奥付?によると月刊正論「編集部」には、「編集人」の桑原聡のほかに「小島新一・永井優子・川瀬弘至・上島嘉郎」の4名しかいない。政治・社会系の研究者・学者としても、政治・社会系評論家としても何らその地位を確立しているとは思えない、長の桑原を含めてこれら5名に、「日本と日本人を間違った方向に導く」か否かの判断を、読者は委ねることができるだろうか。一般論として、とても不可能だ、と考えられる。
 「我々」が「日本と日本人を間違った方向に導くと判断した時には」、という書き方は、まるで「我々」がその判断を客観的ないし的確に行うことができるということを前提にしているごとくで、誤っている可能性がきわめて高く、ひどく<傲慢>だ。
 読者は、「日本と日本人を間違った方向に導く」意見・考え方か否かの判断を、上の5名が客観的にかつ適切になしうるとは考えていないし、期待もしていないだろう。
 そもそも月間
発行部数2万程度の雑誌の、たった5名の「編集者」にそのようなことができるわけがない、と考える方が常識的だ。
 百歩譲って、編集者としての気分・気概を宣明しただけだ、と理解するとしても、そのような気分・気概は、ある意味では、すべての政治・社会系雑誌の編集者が持っていても不思議ではないもので、わざわざ文章にし、活字にしておくような類のものではない。
 あえて上のようなことを活字にしていること自体が、やはりどこかおかしい、と感じざるをえない。
 第二。「日本と日本人を間違った方向に導く」意見・考え方を「我々」は「潰しにかか」る、という。
 その前提的判断の客観性・適切性に疑問がありうることは上に記したが、そのような前提的判断に立っての、上のような「異見」は「潰しにかかります」、という表現は尋常ではない。
 具体的には、そのような「異見」は掲載せず(執筆を依頼せず)、それを批判・攻撃する論考のみを掲載していく、という編集方針を宣言していることになるのだろう。
 一般論として、何らかの編集方針を持つことはありえ、それに基づいて具体的な雑誌編集を行うことはむろんあるだろう。どの雑誌もそうしている、とも言える。
 だが、上のような「異見」は「潰しにかかります」、という表現は、穏やかではない。
 客観的にまたは結果的にそのような機能を持つことがあっても、あるいは持つことを意図していたとしても、ふつうは、上のように「潰しにかかります」とまでは、文章化しない、活字にはしない、のではないか。
 この点でも、現在の月刊正論編集部は、やはり、どこかおかしい。
 それにまず、自分(たち)の気にくわない意見は「潰しにかかる」という姿勢・態度を明らかにすることは、多分に気味が悪いものだ。月刊正論編集部は、政治・社会問題にかんする諸意見についての<思想警察>のつもりなのだろうか。そういう立場に立つつもりなのだろうか。右向きか左向きか知らないが、どこか<ファシスト>的匂いを感じる表現であることに、実際の書き手は注意した方がよいと思われる。
 つぎに、そもそも、月刊正論という雑誌の力で、「日本と日本人を間違った方向に導く」意見を同誌編集部が「潰しにかかる」ことができると本当に考えているのだろうか。
 そうだとすれば、尋常ではないし、やはりひどく<傲慢>だ。
 月間発行部数2万程度の雑誌に、朝日新聞の数分の1しか読者のない産経新聞のさらに100分の1程度の読者数の雑誌に、その雑誌編集部の「判断」と異なる意見を<潰す>ことができるとはとても思えない。<潰せる>と考えているとすれば、その自信過剰さは、尋常な感覚ではないだろう。
 実際問題として、月刊正論(編集部)が「日本と日本人を間違った方向に導く」意見だと判断するかもしれない諸意見は種々の、別の雑誌に溢れているし、今日ではブログやツイッター等の表現手段もある。
 月間発行部数2万程度の雑誌の「編集者」が、気にくわない「異見」を「潰しにかかります」などと、かりに内部でそう考えていたとしても、正規に、雑誌上に文章とし、活字にするようなことはしない方がよいだろう。
 ごく常識的な感想を書いたつもりだ。内容的にも疑問があり、「潰しにかかる」という言葉には<思想警察>的な気味悪さを感じる。と同時に、そのような文章を平気で活字にし、正規に残しておく、という姿勢・態度・感覚に、尋常ではない、戦慄すべき<怖ろしさ>を感じる。
 余計ながら、ひょっとして具体的には皇位継承問題(女系天皇の是非)を念頭に置いて「編集者」の上の文章は書かれたのかもしれない。しかし、そのような特定・限定はなく、一般的な宣明のかたちで、上の文章は書かれている。
 さらに余計ながら、「日本と日本人を間違った方向に導く」、日本国内のマルクス主義者・親マルクス主義者あるいは「左翼」の諸意見・考え方を「潰しにかかる」という編集方針を、月刊正論編集部は採っているのだろうか?、かりに採っているとしても、それは十分なものだろうか?、という疑問がある。
 「保守」派内の「内ゲバ」に主要な関心を向けたり、その一方に加担することに熱心な月刊雑誌は、少なくとも「保守」派一般の、またはその代表的な雑誌になることすらできないだろう。ましてや、憲法改正に必要な国民・有権者の過半数に支持される、あるいは関心をもたれる雑誌に成長することは決してないだろうと思われる。
 月刊正論の親会社の発行する産経新聞8/14加地伸行と竹内洋の対談中に、こんな部分があった。
 「加地 今の保守系は論壇というよりも、悪口を言うことで終わってしまっている。……
  竹内 それと内ゲバ。左翼…が、保守論壇も。仲間内でやるのが一番見苦しい」。
 この秋月の文章も一種の「内ゲバ」かもしれないが、秋月瑛二のブログにそのようなものの一方当事者となる資格(・読者数)はないものと自覚している。

1140/月刊正論(産経、桑原聡編集長)の編集方針は適切なのか② 。

 〇8/21に月刊正論による自民党批判を今年8月号と書いたのは誤りで、正しくは7月号。
 6月号以降は月初めに購入せず、のちに古書で手に入れることにしており、かつ従来のように月刊正論を手元に置いておく癖をなくしたまま、確認しないで書いたがゆえの誤りだ。
 月刊正論7月号は<徹底検証/誰が殺した自民党>という特集を組んでいる。10本もの論考から成っていて、編集部が設定したはずのこのテーマは、自民党を「殺した」者がいること、つまり自民党は「殺されている」=「死んでいる」ことを前提として、犯人を探索させる、という趣旨になっている。自民党は「死んだ」という前提に月刊正論編集部は立っているわけだ(ちなみに、このテーマと必ずしも正面からは一致しない論考もあるが、執筆者と犯人とされた者は誰かは、田久保忠衛→谷垣禎一、田母神俊雄→麻生太郎、適菜収→小沢一郎、佐伯啓思→小泉純一郞、上念司→竹下登、倉山満→三木武夫、西尾幹二→中曽根康弘、阿比留瑠比→野中広務、中宮崇→河野洋平、潮匡人→安倍晋三)。
 このような前提的認識自体に疑問がある。少なくとも、疑問を差し挟む余地がある。このような認識をもつとすれば、自民党ではなく現在の民主党こそが、とっくに自壊・分裂して?「死んでいる」という認識・見解も、月刊正論編集部は示さなければならないのではないか。
 民主党政権の三年間の批判的総括の特集がないのは先日に書いたとおり。6月号に<特集/左翼諸君よ、反省しなさい!>があって4本の論考を載せているが、このテーマに即しているのは佐々淳行「進歩主義者の知的退嬰を糾す」くらいで、河添恵子らの「女3人言いたい放題/保守の男と革新のオトコを比べてみれば」という、<遊び>の企画も含んでいる。そして、この特集も、「左翼」・民主党政権の具体的批判とはまるで関係がない。
 「保守派」らしき月刊雑誌が、「保守」・「右」の立場から自民党批判の特集を組むことはありうるだろうが、より熱心でなければならないのは、現実に政権=権力を持っている「左翼」・民主党に対する批判でなければならないのではないか。
 〇月刊正論9月号の「編集者へ/編集者から」の中には、目を剝く「編集者」の文章がある。
 目を剝いた、驚きかつ戦慄を覚えた部分は後回しにして、読者と編集部のやりとりを簡単に要約しておこう。
 ある80歳を超えている読者が、月刊正論には「時々、違和感のある内容の文章も散見されるので、あえて苦言と希望を併せて述べる」という観点から、月刊正論8月号の伊藤悠司「田中卓先生、それを詭弁と言うのです」(p.256-)を読んで「貴誌の姿勢というか、見解を疑いました」と書き始め、「悪意と誹謗に満ちた書きぶり」に「甚だしい違和感を覚えた」、「名のある他人に対する非礼な書きぶり」を掲載している月刊正論に「失望を禁じえない」と続けている。内容的にも「いたずらに異見を責めるのではなくて、国民のための落着点を求めようとする姿勢」が月刊正論のような「日本護持の気持ちの強い月刊誌」には「大切」ではないか、と書き送っている(9月号p.325-6)。
 これに対する「編集者」の応答は、素っ気なく、冷たいものだ。
 「悪意と誹謗に満ちた書きぶり」という「指摘はどうでしょう」、「編集者は冷静で落ち着いた筆の運びと感じました」。
 一毫も一読者の感想・意見を容認・受容することなく、バッサリと切り捨てている。せっかく投稿してくれた読者に対して、こんな姿勢・態度でよいのだろうか、という感想がまず湧く。
 ここで問題になっているのは、女系天皇容認論者らしき田中卓(元皇學館大学教授・学長)に対する伊藤悠司の「書きぶり」だ。
 論争の中身にはさしあたり立ち入らずに、「書きぶり」ははたして「編集者」が言うように「冷静で落ち着いた」ものかどうか、という観点から、8月号の伊藤論考を見てみた。
 結論的には、月刊正論「編集者」が言うように全面的に「冷静で落ち着いた」ものとはいえず、感情的な文章を含み、読者によっては(とくに田中卓に同調したり、彼に敬意を感じている読者には)、「悪意と誹謗に満ちた…」と感じてもやむをえない文章もある、ということだ。
 例を引用しておく。
 ・「…というのは…無頼漢のサカシラゴトである」(p.259)。
 ・「…とは恐れ入る。ラーメンでも寿司でも昼飯は何でもいいというような口ふりで皇室を語っていることに〔田中卓は〕気がつかないのだ」(同上)。
 ・「これほど理を非に言い曲げるこじつけが上手な人もそうはいない。田中氏のは一級品である」(同上)。
 ・「こんな人物が皇學館大学の学長をつとめていたとは驚かざるをえない。神宮の神域に立ち入ることを禁じたらどうか」(p.260)。
 ・「この人はよく皇室を言祝ぐ」が、そうしながら「皇室を貶めるのに成功している文章に接してあきれてしまう。民族的信仰心とでもいうべき精神性からは遠い。傲慢な手つきしか見えない」(p.261)。
 ・「この人〔田中卓〕が眺めている日本の将来像や風景には、ふつうの神経の人が正視できないものが映っているのかもしれない」(p.266)。
 これらの文章を含む論考を月刊正論「編集者」は、「冷静で落ち着いた筆の運びと感じました」と評している。
 月刊正論「編集者」の感覚は、やはり少しおかしいのではないか。とくに上のp.266は対象者を(「かもしれない」としつつも)<狂人>扱いしているごとくであり、かなりの、「悪意と誹謗に満ちた書きぶり」と称しても、差し支えないように感じる。
 月刊正論編集長・桑原聡、編集部員・川瀬弘至らは、やはり、どこかおかしい。まともな、月刊雑誌編集者と言えるのだろうか。
 驚きかつ戦慄を覚えた部分については、さらに後回しにする。
 なお、この文章は女系天皇容認論を支持する立場からのものではまったくない。

1138/月刊正論(産経、桑原聡編集長)の編集方針は適切なのか?①

 〇「Weekly 雑誌ニュース」というサイトによると、各雑誌の月間発行部数は、文藝春秋約60万、潮約40万、WEDGE-約16万、サピオ約12万、月刊WiLL-11万、エコノミスト8万、月刊ボイス-約3万、らしい。
 月刊正論、新潮45、世界等については「調査中」とある。
 但し、この欄で既述のように、雑誌・撃論3号(2011.11)の編集部による文章によると、<月刊WiLLの販売部数は月平均約10万部、産経新聞社の月刊正論は実売2万部以下>らしい。
 月刊WiLLについての上の両者の数字が11万・10万とほぼ同数であることからすると、月刊正論についての数字も、信頼してよさそうに見える。
 歴史があり、新聞社に支えられている(はずの)月刊正論(産経)よりも、後発の、同じく一般には
<保守>派とされていると思われる月刊WiLL(ワック)や月刊ボイス(PHP)の方が、よく売れているわけだ。
 とくに、月刊正論は月刊WiLLの5ないし6分の1程度しか読まれていない(売れていない)、ということは興味深い。
 以上のことは、以下に述べることと直接の関係はない。但し、現在の編集方針だと(つまりは現在の編集長・編集部員だと)、販売部数は増えそうにない、という気はする。
 〇月刊正論やその個々の論考については言及したいことは多い。さしあたり、月刊正論全体ないしその編集方針について、まず、いくつかをごく簡単にコメントする。
 ①「近いうち」の衆議院解散・総選挙という時期なので、あるいはずっと前から今年(2012年中)の解散・総選挙の可能性は高いと言われてきたので、政治・社会系総合雑誌がすべきことは、私見では、<(2009年誕生の)民主党政権とは何であったか・民主党政権はいったい何をしてきたか>という総括だろう。
 これが月刊正論にはほとんど見られないようだ。少なくとも「特集」は組まれていない。
 この点では、月刊文藝春秋8月号が「政権交代は何をもたらしたのか―民主解体『失敗の本質』」という特集を組んでいることの方が(p.116-)が、決して「保守派」雑誌でないにせよ、時代的・時期的センスが(月刊正論編集部よりも)優っている。

 また、月刊WiLL9月号は「総力大特集/醜悪なり民主政権」と銘打つ特集を組んで、4本以上の論考を載せている。山際澄夫「朝日新聞は土下座して読者に詫びよ」(p.84-)などは、反民主党、反朝日新聞の読者を少しは痛快な気分にさせるだろう。
 ②朝日新聞や岩波・雑誌「世界」らは、2009年の民主党政権樹立へとムード・空気を煽ってきた。2009年の投票日に並んでいた月刊世界の表紙のタイトルは「政権選択選挙へ」だったと記憶する。さすがに「政権交代選挙へ」とは打てなかったのだろう。だが、総選挙とはつねに「政権選択選挙」たる性格をもつことからすると、月刊世界のタイトルの含意は明瞭だった。
 政権交代を朝日新聞等は「歴史的」と表現して歓迎した。自分たちの世論誘導は見事に効を奏したのだった。
 従って成立した民主党政権を罵倒するはずはないのだが、残念ながら民主党内閣の「失点」は相次ぎ、叱咤激励はするものの、政権交代の現実的なプラスの成果を、朝日新聞らは提示できなかった、と思われる。
 だが、朝日新聞らが意図したことは、<民主党政権は批判されるべきだが、自民党政権に戻してもダメだ>という世論形成だった。民主党がダメだとしても、自民党が良いわけではない、というのが彼らの<矜持>あるいは<面子>からする主張だった、と思われる。そして、これまた、そのような世論形成は、相当に成功したように見える。
 「保守派」のはずの月刊正論(産経)も、そのような雰囲気に対抗することはせず、むしろ、その編集長は、2011年4月号に、次のように書いていた。あの3.11の起こった時点の、編集長・桑原聡の文章だ。 
 「…民主党内閣が、憲政史上最低最悪の内閣であることは多くの国民が感じているところだろうが、かりに解散総選挙が行われ、自民党が政権を奪回したとしても、賞味期限の過ぎたこの政党にも、わが国を元気にする知恵も力もないように思える」(p.326)。
 解散・総選挙の現実的可能性が高まった現在でも、桑原聡はこう考えているのだろうか。このような見解は、<民主党はもちろん、自民党にも投票するな>と言っているに等しい。
 どちらがよりマシか、どちらがより「保守的」か、どちらが現憲法改正草案を持っているか(九条2項削除を明確な方針としているか)、どちらに靖国神社参拝をする議員が多いか、などを考えれば、編集長・桑原聡の上の文章は、ほとんど、朝日新聞らの「左翼」と同じだ。
 自民党よりも「保守的」な有力政党の結成・誕生を見ていない現在では、多少は異なる見解に至っていることを期待したい。だが、月刊正論の(2012年)8月号は、<自民党批判>の特集を組んでいる。解散・総選挙が近づいていることは客観的に明瞭だった時期に、月刊正論は、<民主党政権の総括的批判>ではなく<自民党批判>の特集を打ったのだ。
 この雑誌は、あるいはこの雑誌の編集長、その編集方針は、やはりどこかおかしい。とても<保守派>の雑誌とは思えない。
 ③今年2012年は、日本共産党創立90周年の年だ。産経新聞でもまともにこれを採り上げた記事は少なかった(あっても大きな紙面を用いたものではなかった)が、きちんと日本の「共産主義」政党の過去と現在を分析し、批判的に総括しておくことは、新聞ではなくむしろ「保守派」雑誌の役割だっただろう。
 しかるに、月刊正論は、これを怠っている、と見られる。月刊正論(編集部)は、いったい何と闘っているのか? いったい日本をどうしたいのか?
 編集長・桑原聡が早々に(今年初めの時点で)、橋下徹を「きわめて危険な政治家」、日本「解体」を意図している、と論定してしまったように、まるで政治的センスに乏しく、<いったい日本をどうしたいのか>について多少とも錯乱しているのではないだろうか?
 憲法改正は重要なテーマだが、この問題についての(大きな論点ごとでもよいが)特集は組まれていない。
 従来の、「固い」読者層を掴んでいれば大丈夫だという感覚なのだろうか。そのような感覚では、国民・有権者の過半数の支持が必要な憲法改正のために情報発信するメディアの中の中心に位置することはとてもできないだろう。
 以上のほか、9月号をごく最近に見ていて、月刊正論の「編集方針」に、あるいは編集部自身の文章に、<戦慄すべき>怖ろしさを感じた。
 長くなったので、次回に譲る。 
 

1130/適菜収・世界(岩波)・月刊正論(産経)と変説?した川瀬弘至。

 〇月刊正論5月号(産経、2012.04)の適菜収論考は「理念なきB層政治家」を副題として橋下徹を批判・罵倒している。
 冒頭の一文は、「橋下徹大阪市長は文明社会の敵です」。この一文だけで改行させて次の段落に移り、「アナーキスト」、「国家解体」論者、「天性のデマゴーグ」等々と、十分な理由づけ・論拠を示さないままで<レッテル貼り(ラベリング)>をしていることはすでに触れた。
 この論考では「B層」という概念が重要な役割を果たしているはずだが、これの意味について必ずしも明確で詳細な説明はない。いくつか「B層」概念の使い方を拾ってみると―。
 ・「B層」=「近代的理念を妄信する馬鹿」(p.51)。
 ・橋下徹は「天性のデマゴーグ」なので「B層の感情を動かす手法をよく知っている」(p.52)。
 ・橋下徹の「底の浅さ」は「B層の『連想の質』を計算した上で演出されている」(p.53)。
 ・橋下徹・維新の会をめぐる言説は「B層、不注意な人、未熟な人の間で現在拡大再生産されている」(p.53)。
 ・「B層は歴史から切り離されているので、同じような詐欺に何度でも引っかかります」(p.54)。
 ・「マスメディアがデマゴーグを生みだし、行列があればとりあえず並びたくなるB層…」(p.54)。
 ・「小泉郵政選挙に熱狂し、騙されたと憤慨して民主党に投票し、再び騙されたと喚きながら、橋下のケツを追いかけているのがB層です」(p.55)。
 このくらいだが、要するに適菜のいう「B層」とは<馬鹿な大衆>を意味していると理解して、ほとんど間違っていないだろう。
 産経新聞5/04の「賢者〔何と!―秋月〕に学ぶ」欄でも適菜収は、「B層」とは、「マスメディアに踊らされやすい知的弱者」、ひいては「近代的諸価値を妄信する層」を指す、と明確に述べている。「知的弱者」、つまりは「馬鹿」のことなのだ。
 またニーチェのいう「畜群人間」はまさに「B層」だとし、この「B層」人間は「真っ当な価値判断ができない人々」で、「圧倒的な自信の下、自分たちの浅薄な価値観を社会に押し付けようとする。そして、無知であることに恥じらいをもたず、素人であることに誇りをもつ」、そして、「プロの領域、職人の領域」を浸食し、「素人が社会を導こうと決心する」、「これこそがニーチェが警鐘を鳴らした近代大衆社会の最終的な姿だ」、とも書いている。
 適菜において「B層」とは「知的弱者」=「馬鹿」で、「畜群」と同義語なのだ。
 そして、こうした「B層」を騙し、かつこうした「B層」に支持されているのが橋下徹だ、というのが、適菜の主張・見解の基調だ。前回に少し述べたが、決して、「伝統」か「理性」かを対置させて後者の側(「理性の暴走」)に橋下を置いているのではない。
 さて、月刊世界7月号(岩波)は「橋下維新―自治なき『改革』の内実」という特集を組んでいるが、その中の松谷満「誰が橋下を支持しているのか」(p.103-)は興味深い。
 松谷は、多段無作為抽出にもとづく有効回答数772のデータを基礎にして、次のように述べている(逐一のデータ紹介は省略する)。
 ①一部の論者が「社会経済的に不安定な人びと」が橋下を支持している、「弱い立場にいる人びと」が「その不安や不満の解消を図るべくポピュリズムを支えている」という<弱者仮説>を提示しているが、「少なくとも調査結果をみる限り、妥当性は低い」。
 ②橋下徹に対する支持は「若年層」で高いというわけではなく、「強い支持」は「六〇代がもっとも多い」。
 ③六〇才以下の男性について雇用形態・職業から5つに分類すると、「管理者職層、正規雇用者で支持率が高く、自営層、非正規雇用、無職層」で支持率が低い。
 ④自身の「階層的位置づけ」意識との関係では、「上・中上」、「中下」、「下」の順で「強い支持」が高い=前者ほど<強く支持>している。(以上、p.106)
 これらにより松谷は、「マスコミや知識人の『空論』は、ポピュリズムを支持する安定的な社会層を不問に付し、その責任を『弱者』に押しつけているのではないか」と問題提起している(p.107)。
 その他、次のような結果も示している。
 ⑤「高い地位や高い収入を重視する者のほうが、それらを重視しない者に比べて、橋下を支持している」(p.109)。
 適菜収のいう「知的弱者」と松谷のいう「弱者」は同じではないし、無作為抽出とはいえ772の母数でいかほどの厳密な結論が導出できるのかはよく分からないが、それにしても、上のとくに③・④・⑤あたりは、橋下徹は(先に述べたような意味での)「B層」を騙し、かつ「B層」に支持されているとの、「仮説」とも「推測」とも断っていない適菜収の「決め付け」的断定が、松谷のいう「知識人の空論」である可能性を強くするものだ、と考えられる。そのような意味で、興味深い。
 隔週刊サピオ5/09・16号の中の小林よしのり・中野剛志の対談とともに、月刊正論の適菜収論考は、橋下徹に対する悪罵・罵倒の投げつけにおいて、最悪・最低の橋下徹分析だったと思われる(立ち入らないが、小林よしのりは研究者ではないからある程度はやむをえないとしても、中野剛志の、学者とは思えない断定ぶり・決めつけ方には唖然とするものがあった―下に言及の新保祐司の発言も同様―。橋下徹がツイッターで中野剛志に対して激しく反応したのも―ある程度は―理解できる)。
 この機会に記しておけば、佐藤優はいろいろな媒体で橋下徹に対する見解・感想等々をたくさん書いていて、批判的・辛口と見えるものもあるが、週刊文春5/17号の特集「橋下徹総理を支持しますか?」の中の、つぎの文章は、多数の論者の文章の中で、私には最もしっくりくるものだった。
 「国政への影響を強める過程で……外交、安全保障政策について勉強する。その過程で…確実に国際水準で政治ゲームを行うことができる政治家に変貌する。…府知事、市長のときと本質的に異なる安定した政治家になると私は見ている。言い換えると橋下氏の変貌を支援するのが有権者の責務と思う」(p.48)。
 中西輝政とは異なり、橋下徹・維新の会の政策に「殆ど賛成」とは言い難い私も、このような姿勢・期待は持ちたいと考えている。
 〇だが、橋下徹を暖かく見守り、「変貌を支援する」どころか、早々と「きわめて危険な政治家」、橋下徹の「目的は日本そのものの解体にある」と(理由・論拠も提示することなく)断定したのが、産経新聞社発行・<保守>系と言われている月刊正論の編集長桑原聡だった。
 また、同編集部員の川瀬弘至は、上記の適菜収論考を「とってもいい論文です」と明記し、自民党の石破茂に読むことを勧めるまでした(月刊正論オフィシャルブログ4/04)。  ところが、何とその同じ川瀬弘至は、同ブログの5/29では、橋下徹の憲法関係発言を知って
、「橋下市長、お見逸れいたしました。これまで国家観がみえないだとか歴史観があやふやだとか批判してきましたが、自主憲法制定に意欲を示してくれるんなら全面的に応援しますぞ。どうか頑張っていただきたい」と書いている。
 この契機となった発言よりも前の2月中に橋下徹は現憲法九条を問題視する発言をしているし、3月には震災がれきの引きうけをしないという意識の根源には憲法九条がある旨を発言している。月刊正論4月号の編集期間中には、橋下徹は今回に近い発言をすでにしていたのだ。月刊正論5月号の山田宏論考は、橋下徹による改革の先に「憲法改正」が「はっきり見えている」と明言してもいる(p.58)。
 今頃になって、川瀬弘至は何を喚いているのだろう。それに、「全面的に応援しますぞ。どうか頑張っていただきたい」と書くのは結構だが、それが本心?だとしたら、橋下徹に対する悪罵を尽くした論考だったも言える適菜収論考を「とってもいい論文です」と評価していたことをまずは反省し、この言葉を取消し又は撤回して、読者に詫びるのが先にすべきことだと思われる。
 だが、しかし、この川瀬の言葉とは別に、月刊正論6月号(産経、2012.05.01)は、依然として、橋下徹を批判し罵倒する、遠藤浩一と「文芸評論家」新保祐司の対談を掲載している。<反橋下徹>という編集方針を月刊正論(産経)は変えていないと見られる。
 この対談、とくに遠藤浩一については書きたいこともある。同号の「編集者へ/編集者から」欄への言及も含めて、再びあと回しにしよう。

1129/月刊正論編集部の「異常」-監督・コーチではなく「選手」としても登場する等。

 月刊正論(産経)は、発売日(毎月1日)から二週間経てば、送料を含めても150-200円安く、一ヵ月も過ぎれば約半額で購入することができることが分かった。
 そのようにして入手した月刊正論6月号(産経)を見て、驚き、あるいは唖然とした点がいくつかある。とりわけ「編集者へ/編集者から」という読者・編集部間のやりとりは、注目に値する。
 月刊正論5月号の適菜収論考には読者からの疑問・反論も多かったようで、そのうちの一つを紹介し(p.324-5)、「編集者」が簡単に答えて(コメントして?)いる。適菜は自らの考える「保守の理想形」を提示していないという疑問(の一つ)に関して、「編集者」は以下のように書いている(p.325)。
 「おそらく適菜さんは、人間の理性には限界があり、その暴走を食い止めるために伝統を拠り所としようという態度こそが保守であると考えているのだと思います。その立場から見ると、橋下氏には理性暴走の傾向が感じられませんか。」
 これには驚き、かつ唖然とした。
 第一。「…が感じられませんか」という質問形・反問形での文章にしているのもイヤらしい。それはさておくとしても、この読者はもっと多くの疑問・批判を適菜収論考に対して投げかけている。
 それらを無視して、ただ一点についてだけ答える(コメントする)というのは、紙面の限界等もあるのかもしれないが、到底誠実な「編集者」の態度だとは言えないように思われる。紙面の関係で一点だけに限らせていただく、といった断わりも何もないのだ。
 第二。月刊正論編集部は橋下徹に「理性の暴走の傾向」を感じているようだが、その根拠・理由は全く示されていない。編集長・桑原聡の前月号の末尾の文章と同じく、理由・根拠をいっさい述べないままの、結論のみの提示だ。こんな回答(コメント)でまともで誠実な対応になると思っているのだろうか。
 なるほど適菜収論考の中に、橋下徹には「理性暴走の傾向」がある旨が書かれていたのかもしれない。そのように解釈できる部分が(あらためて見てみたが)ないではない。
 だが、「伝統を拠り所」にするか「理性の暴走」かという対置を適菜は採っていない。従って、上の短い文章は「編集者」自身が新たに作ったもので、適菜論考の簡潔な要約ではない。
 あらためて適菜「橋下徹は『保守』ではない!」の橋下徹に対する罵倒ぶりを見てみたが、適菜は橋下徹を「文明社会の敵」、「アナーキスト」、「国家解体」論者、「天性のデマゴーグ」等と断じている。
 明らかな敵意・害意を感じるほどに異常な文章であり、「決めつけ」だ。何段階かの推論(・憶測)を積み重ねて初めて導き出せるような結論を、適菜はいとも簡単に述べてしまっている。
 ともあれ、「伝統を拠り所」にするか「理性の暴走」か、という対立軸を立てて、適菜は書いているのではない。とりわけ、「伝統を拠り所」に、という部分は適菜の文章の中にはない。
 第三。読者の(省略するが)これらの疑問に対しては、本来、適菜本人が答えるか、別の新しい論考の中で実質的に回答するのが、正常なあり方だと思われる。
 しかるに、これが最も唖然としたことなのだが、月刊正論「編集者」は、「おそらく」という副詞を使いつつ、適菜収に代わって、適菜の「保守」観を述べ、読者に回答(コメント)しているのだ。適菜論考から容易に出てくる文章ではないことは上の第二で述べた。
 雑誌、とくに月刊正論のような論壇誌の編集部というのは、「監督」または「コーチ」であって、自らが「プレイヤー(選手)」も兼ねてはいけないのではないだろうか。にもかかわらず、月刊正論「編集者」はプレイヤー(執筆者)に代わって、自らブレイヤーとして登場として、自らの見解を述べてしまっている。
 雑誌編集者のありようについての詳細な知見はないが、これは編集者としては<異様>な行動ではないだろうか。しかも、「執筆者」の考え方を代弁して自ら回答(コメント)するという形をとりながら、上に述べたように、結論らしきものを語っているだけで、いっさいの理由づけ、論拠の提示を割愛させてしまっているのだ。
 「編集者」・「編集長」に用意された短い文章の中で、特集を組んでいるような重要なテーマについての編集者・編集長自らの(特定の)「結論」を、執筆者に代わって、理由づけをすることもなく明らかにしてよいのか??
 雑誌出版・編集関係者のご意見を伺いたいところだ。
 第四。適菜は(おそらく)「伝統を拠り所」にする態度を「保守」と考えており、橋下徹にはこれとは異なる「理性の暴走の傾向」があるのではないか、というのが月刊正論(産経)「編集者」の見解のようだ。
 このような対置が「保守」と「左翼」の間にはある、という議論・説明があることは承知している。
 だが、少しでも立ち入って思考すれば容易に分かるだろう。いっさいの<変化>やいっさいの<理性>を否定しようとしないかぎり、維持すべき「伝統」とそうでない「伝統」、必要な「理性」と危険視すべき「理性の暴走」の区別こそが重要であり、かつ困難で微妙な問題でもあるのだ。
 もちろん、月刊正論「編集者」の文章(p.325)はこの点に触れていない。全ての<変化>・<理性>を否定しないで、かつ「伝統を拠り所」とする態度と「理性暴走の傾向」とを明確に区別するメルクマール・基準・素材等々を、何らかの機会に、月刊正論編集部(編集長・桑原聡)は明らかにしていただきたい。
 第五。月刊正論「編集者」の文章に乗っかるとして、そもそも橋下徹に「理性暴走の傾向」はあるのだろうか。
 むろん「理性暴走」の正確な意味、それと断じる基準等が問題なのだが、それはさておくとしても、例えば橋下徹における次の二例は、「理性暴走」というよりもむしろ日本の「伝統」を重視している(少なくとも軽視していない)ことの証左ではないか、と考えられる。
 ①橋下徹は5/08に、公務員が国歌(・君が代)を斉唱するのは「当たり前」のこと、「ふつうの感覚」、「理屈じゃない」と発言している。
 ②橋下徹は大阪府知事時代の最後の時期、昨年秋の、大阪護国神社秋季例大祭の日に(知事として)同神社に参拝している。
 推測にはなるが、上の②は、大阪府出身の、「国家のために」死んだ(そして同神社の祭祀の対象になっている)人々を「慰霊する」(とさしあたり表現しておく)のは大阪府知事としての仕事・「責務」でもあると橋下は考えたのではないかと思われる。
 これらのどこに「理性暴走の傾向」が
あるのだろうか。月刊正論編集部(編集長・桑原聡)は、何らかの機会に回答してほしいものだ。
 なお、この欄で既述のとおり、産経新聞や月刊正論でもお馴染みの八木秀次は、隔週刊サピオ5/09・16号の中で、橋下徹は「間違いなく素朴な保守主義者、健全なナショナリスト」だ等と述べている(p.16)。
 八木秀次のあらゆる議論を支持するのではないが、上の指摘は、適菜収や月刊正論編集部とはまるで異なり、素直で的確な感覚を示していると思われる。
 第六。そもそも、「保守」か否かの基準として、「伝統」重視か「理性」重視(「理性暴走」)かをまず提示する、という(適菜ではなく)月刊正論「編集者」の考え方自体が正しくはない、と考えられる。
 上でも少し触れたように、この基準は明確で具体的なものになりえない。
 「保守主義の父」とか言われるE・バークもこうした旨を説いたようだが、私の理解では、上のような<態度>・<姿勢>という一種の<思考方法>ではなく、バークは、その結果としての<価値>に着目している。つまり、フランス革命によって生じた「価値」(の変化)の中身にバークは嫌悪感を持ったのであり、たんに「ラディカルさ」・「急激な変化」を批判したのではない、と言うべきだと思っている。
 「保守」か否かは、第一義的には、「伝統」か「理性」かといった<思考方法>のレベルでの対立ではないだろう、と思われる。
 E・バークの時代には、まだ「共産主義」思想は確立していなかった(マルクスらの「共産党宣言」は1848年)。従って、余計ながら、いくらバークを「勉強」しても、今日における「保守」主義の意味・存在意義を十分には明らかにすることはできないだろう。
 この問題は、「保守」という概念の理解にかかわる。月刊正論編集部がいかなる「保守主義」観をもっているのかきわめて疑わしいと感じているのだが、この問題には、何度でも今後言及するだろう。
 なお、関連して触れておくが、月刊正論編集部が「保守」の論客だと間違いなく認定していると思われる中西輝政は、月刊文藝春秋6月号(文藝春秋)の中の橋下への「公開質問状」特集の中で、「私は橋下徹氏の率いる『大阪維新の会』が唱える政策の殆どに賛成である」と明記し、橋下の「中国観」についてのみ質問する文章を書いている(p.106-7)。
 どう読んでも中西輝政が橋下徹を「保守ではない」と見なしているとは思えないのだが、中西の橋下徹観が誤っており、橋下は「保守ではない!」「きわめて危険な政治家」だと言うのならば、月刊正論編集長・桑原聡は、末尾の編集長コラム頁に書くなりして、中西輝政を「たしなめる」ことをしてみたらどうか。 
 いずれにせよ、上に六つ並べたように、月刊正論編集部はどこか<異常>なのではないか。今回言及した以外にもある。月刊正論6月号の上記冒頭の欄についてはもう一度言及する。

1126/産経新聞「論壇時評」欄における橋下徹に対する<冷たさ>。

 〇月刊文藝春秋6月号(文藝春秋)が橋下徹特集を組み12人に橋下への「公開質問状」を書かせたり、週刊文春5/17号が14頁の特集をして13人の対橋下見解を載せたり、週刊現代6/02号(講談社)が「橋下徹とこの時代」と題する20頁の特集を組んで8名の意見を紹介する等々と、相変わらず、橋下徹へのマスコミの関心は高い。
 マスメディアまたはそこに登場する識者たち?はしばしば「ポピュリズム」を問題視するが、「ポピュリズム」の主体であり中心にいるのは、むしろマスコミ自体ではないかと思われる。それは、橋下徹ものを載せれば、販売部数が増える(または維持される)といった(とりあえず儲かればよいとの)経営者感覚ともつながっているのかもしれない。
 〇比較的最近に目を通した上記のものではなく、もう少し前の橋下徹特集類に言及しておこう。
 月刊宝島6月号(宝島社)の背表紙は「特集・虚構の橋下徹旋風」で、この言葉にも示されているように基本的に橋下徹批判の立場に立つ。それは巻頭1頁の編集長・富樫生の言葉にも表れていて、「宝島社は、橋下徹という人物について懐疑的です。…などでもその欺瞞を追及しており、今後も続けてまいります」と明言している。
 面白いのは、例えば、「橋下徹『5人の外敵』」として、①「大阪市役所」、②「共産党」、③「部落解放同盟」、④「在京メディア」、⑤「日教組」を堂々と?明記していることだ(p.28-)。
 ①と④をとりあえず別にしておけば、月刊宝島編集部は、日本共産党・部落解放同盟・日教組を「外敵」とする橋下徹に対して「懐疑的」だということになる。ということは、日本共産党・部落解放同盟・日教組を、「懐疑」されるべき橋下徹から擁護するという機能を果たしたい、と言っていることに客観的にはなるだろう。
 日本共産党・部落解放同盟・日教組はふつうは「左翼」と称される組織・団体なので、宝島社編集部は「左翼」の立場に立っている、と言ってよい。
 このことは、「現職・共産党大阪府議団長」宮原威への2頁にわたるインタビュー記事を掲載して、橋下徹を批判させていることでも分かる。
 なお、宝島社の別の出版物の執筆者・編者である一ノ宮美成とは日本共産党員か日本共産党系の人物ではないかと思われる。
 このように「左翼」の立場を明確にして(日本共産党や日教組と同様の立場から)橋下徹を批判するのは、何ら奇妙でも、不思議でもない。月刊宝島編集長名で橋下徹への「懐疑」を示しているのは、明確で、潔いとすら言える。
 〇問題は、<保守派>メディアのはずの、産経新聞や月刊正論(産経新聞社)だ。
 社説で明確にしてはいないが、どうやら、産経新聞もまた、社論として、橋下徹に対して<懐疑的>で<冷たい>ように思われる。
 産経新聞の今年になってからの「論壇時評」を読んでいて、そう感じた。
 産経新聞は(正確にはMSN産経ニュースは)5月になってからの産経新聞・FNN世論調査で、12人の政治家のうち「評価する」の第1位は橋下徹(63.1%)、第2位は石原慎太郎(62.0%)だったと報道している(5/21、ワースト3は、鳩山由紀夫、菅直人、小沢一郎)。
 このような結果であるにもかかわらず、産経新聞は、「大衆迎合」はよろしくないと、さすがに立派な新聞社らしく?考えたのだろうか、月刊正論編集長・桑原聡が「評価する」とは正反対の評価を明言している他、「論壇時評」での扱いも、私には異様に感じられるほどに、橋下徹に対して「冷たい」、または批判的だ。
 朝日新聞等々も同様だろうが、書物・論文等の書評や紹介欄(の採り上げ方、内容)は、その新聞の性格(・主張)を問わずして答えていることが多いとみられる。産経新聞「論壇時評」については、以下のとおり。
 産経新聞3/18の、4月号についての「論壇時評」では、私がこの欄で「アホ丸出しの…」と批判した、月刊WiLL4月号(ワック)の藤井聡論考を採り上げ、「思想的あるいは政策的吟味を十分に経ていない橋下流改革案(船中八策、維新八策)の欠陥をつく。地方分権も中央集権もそれ自体が善あるいは悪なのではない。両者のバランスの欠如が悪なのだ。現在、通貨、国防・安全保障、国際経済などの諸分野で緊要なのは何より国家としてのまとまりであって、それを弱体化する試みは、地方分権を含め避けなければならない。それに橋下らの地方分権論で念頭に置かれるのは大都市であって、地方は一層の格差に沈むという。そのことを税、地方債などの財源移譲の面から裏付ける」と、多くはない字数の欄にしては多くの文字を使ってわざわざ紹介している。
 月刊WiLL4月号の数多い論考の中で言及しているのはこれだけだ。藤井聡論考の稚拙さには、もはや触れない(「地方分権も中央集権もそれ自体が善あるいは悪なのではない。両者のバランスの欠如が悪なのだ」なんていうくらいは誰でも書ける。とくに引用することの方が恥ずかしい)。その稚拙さに気づかないとは、産経新聞の「論壇時評」者・稲垣真澄の識見・能力自体も疑われる。
 産経新聞4/22の、5月号についての「論壇時評」(石井聡)は、月刊ヴォイス5月号(PHP)の特集は「基本的に橋下を支援、擁護する立場から」のものだと述べつつ、その「支援、擁護」の内容にはいっさい言及せず、橋下徹を基本的にはむしろ支持・擁護する立場からの山田宏の論考の中から、あえて橋下徹への「危惧」を記した部分のみを抜き出して、紹介している。大前研一論考についても同様で、橋下徹を基本的に支持する大前の文章の中の、原発問題についての意見の相違部分のみを取り出して紹介している。かなり偏頗な、何らかの意図すら感じられる紹介の仕方だ。
 月刊ヴォイス5月号の現物を見ながら書いている。山田宏の文章の最後の一文は次のとおり-「日本の再生には大阪維新の会の力が必ず必要となってくる。今後、必ず国の運命を左右する存在になることだろう」(p.63)。
 大前研一の最後は次のとおり-「私はハシズム批判には与しない。橋下イズムは健全な国家ビジョンであり、まさに必要な方向性であり、手段でもある。それだけに国民が期待しているいま、みなが大阪の成功を祝福するかたちをつくることが、日本変革の近道であり、この国にとって最後に残されたチャンスなのである」。
 こうした山田宏、大前研一の文章が、石井聡にかかると、まるで逆の趣旨のごとく印象づけられる。恣意的な、(橋下徹を危惧・批判する部分のみの)抽出は、果たしてまともな「時評」なのかという疑問が生じるが、産経新聞(社)の意図、または社論に即して書かれているのだとすると、(朝日新聞等についてと同様に)そのような取り上げ方自体を批判することはできないのかもしれない(むしろ問題になるのは、産経新聞の意図・社論なのだろう)。
 石井聡はまた、月刊正論5月号の特集の中の佐藤孝弘論考のみを採り上げ、橋下徹批判になりそうな部分のみを紹介しているが、立ち入らない(実際の佐藤論考は全体としては、石井が描いているよりも、より中立的だ)。
 産経新聞5/20の、6月号についての「論壇時評」(稲垣真澄)は、月刊WiLL月号の中の多くの論考・記事のうち、久保紘之・堤堯の対談〔雑談〕―見出しは「橋下のやってるのは単なる“維新ごっこ”」―のみを採り上げ、「『維新の会』の掲げる脱中央、地方主権がいかに幕末維新の精神から遠いものかを説く」等と紹介する。上記のような産経「論壇時評」の姿勢・方向性・方針からすると、この部分がお気に召した、ということだろう。
 わずか3号分にすぎないが、橋下徹への支持・期待の論考類を紹介・引用したものは一つもない。言及・紹介があるのはすべて、橋下徹批判・懐疑だ。
 追記すれば、隔週刊サピオ5/09・16号には、産経新聞や月刊正論でもお馴染みの遠藤浩一、八木秀次らが、「橋下首相なら日本をこう変える」という文章を各論点ごとに書いている。遠藤浩一は憲法改正について、八木秀次は靖国参拝について書いている。
 前者は条件・前提を種々に加えてはいるが、橋下徹自身を批判してはいない。後者は、橋下徹は「間違いなく素朴な保守主義者、健全なナショナリスト」だ等と述べている(p.16)。
 これらも<論壇>での見解の一部だろう。しかるに、産経新聞社にとって身近な?人物の文章であるにもかかわらず、産経「論壇時評」はいっさい無視している。 
 おそらくは、以上に紹介したようなことの中に、少なくとも現在の産経新聞の橋下徹に対する姿勢が明らかに示されているのだろう。
 日本共産党・志位和夫(委員長)は大阪での集会で、橋下徹・維新の会について「独裁にも通じる恐怖政治…」、「維新に反撃ののろしを…」とか演説したと伝えられる(5/20)。
 このように日本共産党や日教組その他の民主党・共産党系労組が敵視している橋下徹を擁護・応援するどころか、「冷たく」批判をし続ける産経新聞というのは、いったいいかなる政治的傾向・政治的感覚の新聞なのだろう、という基本的な疑問すら湧いてくる。
 少なくとも、素直でまっとうな<保守>ではないのではないか? 本紙と
月刊正論の購読中止は正解だった、と思っている。<資料>として読むことは、今後もむろんあるだろう。

1121/月刊正論の愚―石原慎太郎を支持し、片や石原が支持する橋下徹を批判する。

 〇月刊正論(産経新聞社)編集部の川瀬弘至は、既述のように、自らを「保守主義者」と称し、「今後は『真正保守』を名乗らせていただきます」とまで明言していた(イザ・ブログ4/04)。
 その川瀬弘至は同じ文章の中で月刊正論5月号の、橋下徹を批判する適菜収論考を「とってもいい論文」と紹介してもいたのだが、産経新聞4/03の月刊正論の紹介(宣伝広告)記事の中で、次のように書いていた。
 「橋下市長は、自分に対する批判にツイッターなどでいつも手厳しく反論する。今回の適菜氏による『保守』の視点からの批判には、どんな反応を示すだろう…」。
 その答えは、無視だった。4月初めの数日間の橋下ツイートは空白になっているので、何か事情があったのかもしれない。
 だが、月刊正論5月号とほぼ同じ頃に出た、「橋下首相なら日本をこう変える」と表紙に大きく銘打ったサピオ5/09・16号(小学館)の中の(特集・諸論考の中では少数派の辛口の)小林よしのり中野剛志の対談(p.20-)については、橋下徹は反応して、小林よしのり・中野剛志への批判・反論をツイッターで書いているので、橋下徹は月刊正論の方は(おそらくは知ったうえで)<無視>したのではないか、と思われる。
 小林よしのり・中野剛志と適菜収では、まるでネーム・バリュー(・影響力)が違う。加えて、適菜の主張内容は、小林よしのりらのそれと比較して、まるで話にならない、相手にするのも馬鹿馬鹿しい、というのが、無視したと仮定したとしての私の推測だが、その理由でなかったかと思われる。橋下徹は自ら「しつこい」とも書いているので、気に食わず、反論しておくべきと感じたとすれば、月刊正論5月剛の適菜論考にも触れただろう。
 しかし、何の反応もしなかった。それだけ、適菜収論考の内容はひどい(と橋下は判断したのだろう)。
 〇この適菜収については、これまた既述のように、「産経新聞愛読者倶楽部」という名のウェブサイトが、適菜の前歴も指摘しつつ、「産経新聞は適菜を今後も使うかどうか、よく身体検査したほうがいいでしょう」と助言?していた。
 しかし、産経新聞は―何ヶ月か一年かの約束でもしたのかどうか―適菜収を使うのをやめていない。
 産経新聞4/04に続いて5/04の「賢者に学ぶ」欄に適菜は再び登場して、橋下徹の名こそ出さないものの、「閣僚から地方首長にいたるまで政治家の劣化が急速に進んだ背景には、《偽装した神=近代イデオロギー》による価値の錯乱という問題が潜んでいる」を最後の一文とする文章を書いている。
 批判されている「地方首長」の中に橋下徹・大阪市長を含意させていることは明らかだろう。
 ところで、執筆者名は不明(明記なし)だが、産経新聞5/14の月刊正論紹介記事は「尖閣・石原発言を支持する!」 という特集が組まれていることに触れていて、一色正春の主張をかなり紹介している。その前にある次の文章は、月刊正論編集部の見解だろうと思われる。 
 「自分の国は自分で守る―。この当たり前の意識が、戦後70年近くも置き去りにされてきた。それが諸悪の根源だ。もしも石原発言に何かリスクがあるとしても、喜んで引き受けよう。私達は石原発言を断固支持する」。
 一色正春の主張内容との区別がつきにくいところが大きな難点だが、以下の文章は、月刊正論編集部の言葉のようにも読める。
 「繰り返す。私たちは今、スタートラインに立った。石原都知事が号砲を鳴らした。さあ、胸を張って走り出そう。続きは正論6月号でお読みください」(途中に改行はない)。 
 (なお、産経新聞本紙は購読しておらず、もっぱら電子版(無料)に依っている。この部分以外も同様)。
 このように石原慎太郎発言・行動を支持するのは結構なことだが、月刊正論編集部は、石原慎太郎産経新聞5/14の連載「日本よ」で書いている内容は支持するのだろうか??。
 石原のこの文章は大きな見出しが「中央集権の打破こそが」で、「……東の首都圏、大阪を芯にした関西圏そして中京圏と、この三大都市圏が連帯して行おうとしているのは中央集権の打破、国家の官僚の独善による国家支配の改善に他ならない」、から始まっている。
 また、「志のある地方の首長たちが地方の事情に鑑みた新規の教育方針を立てようとしても、教育の指針はあくまで文部科学省がきめるので余計なことをするなと規制してかかるが、その自分たちがやったことといえば現今の教育水準の低下を無視した『ゆとり教育』などという馬鹿げた方針で…」とか、「日本の政治の健全化のためには多少の意見の相違はあっても、地方が強い連帯を組むことからしか日本の改革は始まりはしない」とかの文章もある。
 「地方」の中に大阪市(・大阪市長/橋下徹)も含めていることは、石原慎太郎は橋下徹を支持して選挙の際には応援演説までしたこと等々からも疑いえないことだ。
 適菜収は月刊正論5月号で「地方分権や道州制は一番わかりやすい国家解体の原理ですと書いていた(p.51)。
 一般論・超時代的感覚での適菜の<中央集権>志向と、具体的・現実的な現在の状況をふまえての石原の<地方の連帯>等の主張は嚙み合ってはいないだろうが、ともあれ、ほぼ真反対の議論・主張であることは間違いない。
 これら石原と適菜の、矛盾する二つの文章を掲載する産経新聞というのは、はたして、いったい何を考えているのだろうか。何らかの一致した編集方針はあるのだろうか。
 適菜の言葉を借用すれば、「価値の錯乱」は、産経新聞においても見られるのではなかろうか。
 「価値の錯乱」は産経新聞社の一部の、月刊正論編集部においても見られる
 一方で橋下徹を批判・攻撃しておいて、一方で、その橋下徹を支持し、連携しようとしている石原慎太郎の(別の点での)発言を大々的に支持する特集を組むとは、少しは矛盾していると感じないのだろうか。
 橋下徹を批判する適菜収論考を(も)掲載するくらいならばまだよい。月刊正論の編集長・桑原聡自身が、自分の言葉として、橋下徹について、「きわめて危険な政治家」だ、「目的は日本そのものの解体にある」と明言したのだ。
 こんな単純で粗っぽい疑問・批判を加えることにより、産経新聞や月刊正論の購読者を一人でも失うとすれば、それは、産経新聞・月刊正論の<価値の錯乱>、いいかげんな編集方針に原因があるのではないかと思われる。
 私のような者の支持・支援を大きく失うようでは、<保守>メディアとしては立ちゆかないだろう、少なくとも日本の「体制派」・「多数派」になることはありえないだろう、と私は秘かに自負している。
 〇「保守」・「右派」、「左翼」・「共産主義」といった言葉は使わなくともよい。
 橋下徹は毎日放送・斉加尚代ディレクターの質問に対して、公立学校の教職員が入学式等で日本(国家)の国歌である君が代を歌うのは、<国歌だから。式典だから。君が代を歌うときに、起立斉唱するのは当たり前のこと。感覚で、「理屈じゃない」。>等と答えている。
 こうした橋下の答えが虚偽の、あるいはパフォーマンス的なものではないことは、<囲み取材>の雰囲気等々からも明らかだろう。
 しかるに、月刊正論編集長・桑原聡は―繰り返すが―橋下の「目的は日本そのものの解体にある」と思うと明記した(月刊正論5月号)。
 上のような<国歌・君が代観>の持ち主が、<日本そのものの解体>を目的として行動しているのだろうか??
 何度でも書いておきたい。何の、誰の影響を受けたのか知らないが、月刊正論編集長・桑原聡の<感覚>は異常なのではないか

1112/日本国憲法「無効・破棄」論について③。

 月刊正論(産経)6月号が発行されている筈だが、産経新聞の購読を辞めて広告も見ず、新刊雑誌として購入することも、編集長が桑原聡である間は、差し控える。
 一ヵ月前の月刊正論5月号が、わざわざ2頁余を使って、「ハイ/正論調査室」という欄の中で、<憲法
破棄>を可能とする二人の読者の回答を紹介している(p.330-332)。
 二人(A氏、B氏)とも60歳代の元公務員で共通し、日本国憲法(1947施行)は「無効」とする点でも共通している。
 異なるのは、まず、「破棄」または「廃棄決議」・「無効宣言(決議)」をする主体だ。
 A氏は「国会」と考えていて、「過半数の議決」があればよい、とする。
 B氏は「国会で決議」するか「最高裁で『無効』判決」を出せばよいとする。
 これらの回答を生じさせた契機となった石原慎太郎の発言・考え方を、最近の産経新聞3/05の連載「日本よ」から引用すると、次のようだ。 
 「憲法改正などという迂遠な策ではなしに、しっかりした内閣が憲法の破棄を宣言して即座に新しい憲法を作成したらいいのだ。憲法の改正にはいろいろ繁雑な手続きがいるが、破棄は指導者の決断で決まる。それを阻害する法的根拠はどこにもない」。
 このように三者三様で一致がないが、石原慎太郎のいう「しっかりした内閣」とはいかなる意味かは厳密にはよく分からない。但し、「内閣」に「破棄を宣言」する権限があると考えているのだろう。
 いかほどに厳密な法的思索を経ているのかは疑わしいが、天皇や「最高裁」も想定される中で「内閣」を権限主体として想定するのは、<無効>論者の中でもおそらく少数派だろう(主流派?は「国会」だと思われる)。
 そして、「内閣」が日本国憲法のもとでの内閣であり、日本国憲法下の公職選挙法にもとづき選出された衆議院議員・参議院議員から成る国会により選出された内閣総理大臣とそれが任命したその他の国務大臣からなる合議体を意味するかぎり(但し、婦人参政権を認めた等の公職選挙法改正は現憲法公布後・施行前。憲法施行後に頻繁に改正されて憲法とともに「国会」議員等を選出する根拠になっている)、石原説は成立しえない、と思われる。「内閣」を生んだ法規である日本国憲法を内閣が「無効」とし「破棄」するのは、子どもが親を殺すようなものだ。
 親あるいは血を継承した祖先の一人でも殺してしまえば自分自身(子ども)はこの世に存在していない筈なのであり、過去に生じた憲法を、憲法所産の「内閣」が現時点で「破棄」するなどというのは、明らかに背理だ。
 基本的に全く同じことはA氏やB氏のいう「国会」や「最高裁」についても言える。
 旧憲法下では「国会」はなく「帝国議会」だった。参議院はなく、貴族院が所謂第二院として存在した。
 両氏のいう「国会」が日本国憲法のいうそれであり、衆議院・参議院で構成されるものであるかぎり、「国会」なるもの自体が、日本国憲法(とそれに違反していない国会法等の法律)によって生み出されたものであり、「国会」による日本国憲法の「無効宣言」・「破棄」とは、親殺しであり、かつ完全に瞬間的に同時の<自分殺し>に他ならない。日本国憲法を「破棄」したあとまで、日本国憲法下での「国会」が存続するはずがない。
 この議論が現憲法41条が国会を「国権の最高機関」と称していることを根拠(の一つ)にしているとすれば、明らかな矛盾がある。「無効」であるはずの日本国憲法(の一条項)を根拠とする、という<背理>に陥らざるをえない。
 「最高裁判所」となるとますます日本国憲法所産のもので、「最高裁」が自分の親である日本国憲法を「無効」とする判決を出せるはずがない。
 戦前は「大審院」(と「行政裁判所」)で、憲法上の位置づけは大きく異なる。
 というわけで、第一に、いったい誰が(どの機関が)日本国憲法を「無効」宣言=「破棄」できるのか、という問題で、現時点での日本国憲法「無効」論は躓かざるをえない。
 「無効」視したいというセンティメント(気分・情緒)は理解できるが、もはや現時点では「無効」宣言・「破棄」は不可能だ。ありうるとすれば、国民または有権者の少なくとも過半数がそのような認識に立ち、何らかの方法で(数千万の署名を集めて?)意思表明することだろうが、どのような手続および意思表明の方法を採用するのかになると、途方に暮れる(「無効」論者で<国民投票>という手続・方法を提言する者はいないようだ)。
 A氏が述べるように(p.331)、1952年の「主権回復」後ただちに(または「すみやかに」)「無効」・「失効」宣言をして(旧憲法に戻すか)新しい・自主憲法を制定すべきだっただろう。
 その場合の「無効」宣言の主体の問題はやはりある。その場合に、天皇陛下(昭和天皇)の意思・認識も「無効」論を支持するものでなければならないのは不可欠の前提だったと思われる(日本国憲法は、昭和天皇の名において公布されているのだ)。
 主体・手続の問題はかつてもあっただろうが、60年後の現在と比べると、クリアできる可能性はまだ十分にあったと思われる。

 第二に、万が一上記の機関が権限主体たりうるとしても、「無効」宣言・「破棄」をする現実的可能性はあるか、という問題に、日本国憲法「無効」論はぶつからざるをえない。 
 A氏は正当にも次のように述べる-「現実問題として現憲法の廃棄なり無効宣言をするには、現憲法は正統性を有せず無効とする考えを持つ国会議員が衆参両院においてそれぞれ過半数いることが必要です」(p.331)。
 この必要性が充足される可能性に言及してはいないが、B氏がたんに<可能だ>という旨を回答しているにとどまるのに比べると大きな(第二の)違いで、より現実的に考えておられるようだ。
 しかし、上の「必要」性が充足されるとは、到底考えられない。
 現在、いくつかの政党が憲法改正案を発表しているが、<すべて>が、現憲法=日本国憲法は憲法として有効なものであることを前提としている。そしておそらくは、現在の国会議員の全員が(または少なくとも99%)が、日本国憲法を「無効」と考えてはいないものと思われる。
 つまり、「無効」論に立って国会議員を送り出している政党はゼロであり、「無効」と考えている国会議員はゼロか、存在しても1~2名だろう。
 このような状況において、各院の国会議員の「過半数」が日本国憲法「無効」論に与する可能性は皆無(ゼロ)だと言い切ってもよい、と考えられる。
 最高裁判所の裁判官についても同じことが言えるだろう。
 石原慎太郎のいう「内閣」説に立てば、現実的可能性はもう少し高くなりそうではある。しかし、それは法的には一種の<革命>か<クーデター>で、失敗する後者ではなく成功する前者になるためには、少なくとも国民の「過半数」(現実的には最低でも2/3以上)の賛同に支えられていないといけないだろう。
 しかして、国民の意識はどうだろうか。日本国憲法「無効」論の存在自体を知っている国民すら、おそらくは10%以下だろう。
 そのような現実が誤っており、正しい教育、正しい情報提供・言論活動をしていけば、必ず過半数のまたは2/3以上の国民が現憲法は「無効」のものだと認識するはずだ、と考え、主張するのも、論理的には誤っているわけではない。
 しかし、そのような状況に達することを目指して活動するよりも、<憲法改正>というかたちで、実質的に<自主憲法>を制定することの方が、はるかにてっとり早く、現実的可能性もはるかに高い。
 なお、一時期、<維新政党・新風>という政党がこのブログサイトにも登場していて、2007年参議院選挙に候補者を立てたりしていたが、この政党?が、明言してはいないものの、日本国憲法「無効」論に親和的であるようにも感じられた。だが、この政党は一人の当選者(国会議員)も出してはいない。
 ここまで書いてネット上で調べてみると、この政党?も、現憲法を「国際法違反の占領基本法」と(渡部昇一と同様に)称しつつ、憲法「改正」を志向しているようだ。→ 
http://seisaku.sblo.jp/article/3621051.html
 このような状況ではますます、国民の多数が「無効」論を支持し、国会議員の過半数でもって「無効宣言(・決議)」が行われる可能性はほとんどゼロであり、「夢想」にすぎない、というべきだ。
 月刊正論編集部は、こんな問題に2頁余を割くよりも、そんなスペースがあるならば、憲法改正の具体的内容に関する議論を掲載したらどうか。
 石原慎太郎を尊敬してはいるが、「しっかりした内閣」による現憲法「破棄」論だけは、気分・情緒は理解できても、支持することができないものだ(都民により「直接に選出」された東京都知事という地位もまた、日本国憲法の一条項にもとづく)。  

1110/橋下徹の「手順」・「情報公開」感覚と「役立たず知識人」や月刊正論。

 〇橋下徹のツイッターについて松井一郎が「今日もストレスがたまっているんやな、という感じで見てます。早く寝ればいいのに」と語ったそうだが(産経新聞4/18の記事「一日平均11ツイート/つぶやきすぎの橋下市長に松井知事『ストレスたまってるんやな』」)、たしかに「ストレス」もあるだろう。但し、内容の当否について議論の余地はあるとしても、並々ならぬ文章力、論理構成力、熱意等々によるところも大きいだろう。
 宮崎哲弥月刊ヴォイス5月号(PHP)で、橋下徹は「他方で非常に手続き的政正当性にこだわる側面があって、府政にせよ、市政にせよ、つぶさにみればプロシージャー(手続き)に重きが置かれているのが特徴的です。…やはり弁護士出ということでしょう」と発言している(p.66)。
 さすがに宮崎は長年にわたって橋下徹を観察して、よく理解しているようだ。上は原発再稼働問題に関連したものではないが、ブログを読んでいると、橋下徹は、原発の危険性を過度に強く認識しているというよりも、民主党政府が進めている再稼働に向けての「手順」を問題視し、批判している、と理解できる。
 消費税問題について小沢一郎の言い分の方が正しいと橋下徹が言って小沢グループは喜んだと伝えられているが、これまた、民主党は選挙マニフェストで逆のことを書いていた、それとの矛盾を指摘する小沢の方が「論理的」に正しい、というだけのことで、全体として小沢一郎という政治家への信頼を語っているのでは全くないと思われる。
 朝日新聞が消費増税に賛成していることも橋下徹は批判している。また、橋下徹が市長選で「公約」していなかった教育関係条例の制定を朝日新聞の(大阪の?)記事が批判したこと等々に対して、その記事の記者を名指ししてツイッターで、ではなぜマニフェストに書いたのと真逆のことをしている民主党を批判しないのかと、正しい「論理」でもって反論・批判したりしている。異なるテーマも含むが、例えば、以下。
 「朝日新聞は本当にご都合主義。原発の是非を決める住民投票について大阪市議会は否決をしたけど、朝日新聞はそれにご不満。僕は署名した5万5000人の熱い思いをしっかりと受け止めて関西電力に対して新しい電力供給体制に向けての株主提案をします。しかし朝日新聞は住民投票をやりたい模様。」

 「朝日新聞はいつも僕に言ってるじゃない。物事を二者択一に単純化するな!もっと議論を尽くせ!中身を説明しろ!議論が拙速だ!白か黒かで決めるな!…だから今回は朝日新聞のご意見に従ったのですが。原発を是か非かで決めちゃいけないと。」(3/28)。 

 「君が代起立斉唱条例の採決の際には強行採決だ!と朝日新聞や毎日新聞は批判し続けた。マニフェストにも載っていなかった!と。消費税増税に関する今回の民主党内での決定についてはどう考えるんだ?国政は議院内閣制なので法案を出す前に過半数を獲る攻防がある。まさに今の状況。」

 「しかし朝日も毎日も消費税増税だから民主党には決めろ決めろの大プレシャーをかける。民主党のマニフェストにも増税のぞの字もなかった。むしろ消費税は上げないと明言していた。ほんと朝日も毎日も都合が良いよ。自分たちの好きなことは決めろ!自分たちの嫌いなことは決めるな!赤ん坊だね。」(同上)
 原発再稼働問題については、例えば以下。 

 「定期検査後の再稼働に原子力安全委員会の安全コメントは現行法上不要だ。ただそれは福島の原発事故が発生する前の平時の手続き。定期検査が目的だから定期検査だけで良い。民主党政権は完全に統治を誤った。今大飯に求められているのは定期検査ではない。安全性なのだ。定期検査と安全性は全く異なる」

 「民主党政権は、大飯の原発を定期検査の手続きで再稼働している。政権(保安院)が確認したのは定期検査を確認したまでだ。定期検査については、安全委員会はコメントしなくても良い。ところが定期検査の手続きを踏んだだけなのに、民主党政権は安全宣言をした。完全に国民を騙した。」

 「安全委員会は法令上、定期検査についてコメントをする立場にはない。ということは民主党政権は、大飯の定期検査をやっただけだ。これが今回の安全委員会のコメントではっきりとした。にもかかわらず政権は安全宣言。危険だ。これはもはや統治ではない。」

 イデオロギー的に「反原発」ではないことはもちろん、原発の危険性・安全性に関する特定の立場・考え方に立っているわけでもないように見える。
 橋下徹にとっては、決定の「手続」・「手順」、「統治」のシステム・プロセス(・仕方)に基本的な関心があるように見える。
 そのかぎりで、産経新聞4/20の社説「原発と橋下市長/電力確保の責任はどうした」は、気分は分かるが、必ずしも橋下徹に対する正面からの批判になっていない面があることを否めないだろう。
 〇橋下徹は、「手順」を重視するほか、(プロシージャーではなく)ディスクロージャーにも相当に熱心な政治家(地方自治体首長)だ。
 4/16~4/19の、大阪市改革プロジェクトチームと各部局の施策・事業(改革)担当者との間の「オープン議論」が、出席者全員の顔と発言内容(声)も含めて、すべて、大阪市のホームページを通じて、ユーストリームでビデオ(動画)として、(事後的にだろうが?)「公開」されていることをごく最近になって知り、一部を実際に見て驚いた。橋下徹はもちろん、大阪市職員の顔も発言もすべて、おおっぴらだ(なお、その会議に配布された資料は上記ウェブサイトから入手することもできる)。
 〇「ワンフレーズ・ポリティクス」とかいう言葉があり、小泉純一郞の手法はそれだと言われもしたが、橋下徹のツイッターや上記動画を見ると、橋下徹は「ワン・フレーズ」どころではない。
 テレビ等では数語で何かを断定するかのごときコメントを発しているような印象もあるが、それはテレビ局の「編集」による「ぶった切り」によるところも大きいようだ(橋下徹がテレビ用に意識して短くしている側面もあるだろう)。
 〇橋下徹のツイッターの内容や動画上での会議での発言の仕方等を見聞きしていると、いったいどこに「ファシスト」、「アナーキスト」、「デマゴーグ」がいるのかと、そのように断定的に書いた者たちの<神経>を疑いたくなる。
 上掲の宮崎哲弥発言が載っている座談会で、萱野稔人は橋下徹について「彼や彼の政策を現段階で『〇〇主義』と表現するのは、過大評価でもあるし、見くびっていることにもなる気がします」と言っている(月刊ヴォイス5月号p.73)。
 萱野稔人とはどういう人物か知らないが(宮崎に「萱野さんは本当に左翼だったの?」と言われている。p.71)、上の発言は、的確だろう。
 同じ座談会の中で宮崎哲弥は橋下徹について「彼のうちにナショナリスティックな意気が宿っていることは疑いえません」と、また「文化左翼の嫌いな体育会的な気風も多分にもっている」と、語っている(p.66)。
 なぜ「左翼」は橋下徹を嫌うのかについては書いたこともあるが、宮崎哲弥も言及しているように、簡単には、「保守」的または「右派」的な心性をもつ人物だからこそ、「左翼」はこぞって批判した(している)に違いないと考えられる。そして逆に、石原慎太郎は自らに近い「心性」・「感性」を橋下徹のうちに見出したのだろう。
 日本共産党は誰が「敵」かを、さすがに鋭く掴んでいるように思われる。
 民主党・自民党推薦だった前市長平松某よりも、自分たち・日本共産党にとってのはるかに強い脅威を、橋下徹に見出したからこそ、あえて民主党・自民党が推したのと同じ候補を支持したのだ(自党独自の候補を降ろしてまで。<反・反共統一戦線>)。
 そうした中で、自称<保守>派の佐伯啓思・中島岳志・藤井聡・東口暁という<西部邁・佐伯啓思グループ>が種々の観点から橋下徹を批判し、<保守>派らしき、「真正保守」を名乗る編集部員もいる産経新聞社発行の月刊正論5月号の巻頭で適菜収は橋下徹を「全体主義」者扱いし、国家解体を狙う「アナーキスト」だ、「デマゴーグ」だと断じた。
 月刊正論編集長・桑原聡までが-くどいが繰り返しておく―橋下徹を「きわめて危険な政治家」、「目的は日本そのものの解体にある」と明言した。
 こういう構図は、どこかきわめて奇妙なのではないか。倒錯が見られるのではないか。
 中国共産党の「工作」は、日本の<保守>系論壇・雑誌(評論家・編集者等々)にすら及んでいるのではないかとすら考えたくなる。
 小泉純一郞・民主党・橋下徹をすべて「(構造)改革」派と一括して理解して批判する佐伯啓思も、あまりに単純かつ短絡的だ。小泉「改革」と民主党(の意図した)「改革」と橋下徹(の意図している)「改革」とは、一括できるほどに同じなのか(=共通性が大きいのか)? 佐伯啓思にしてすら、学者らしき抽象化・単純化、概念・言葉の操作(・遊び)があると思えてならない。
 上記の萱野稔人の言葉を再び引用したいところだ。
 別の、中央公論5月号の<官僚覆面座談会>から、最後の二つを、一部省略して紹介して、今回は終えておこう。
 B「…期待しすぎてもいけないけれど、彼のような政治家を殺してはいけないと思う」。
 A「…ここでした批判や意見についても徹底的に勉強して、対抗するために研鑽を積む」だろう、「批判をすべて養分にしてしまう。そういう希有な人物であることは間違いない」。(以上、中央公論5月号p.133)。

1107/橋下徹は佐々淳行・「正論」にツイッターで答えていた。

 一 佐々淳行産経新聞2/24の「正論」欄で橋下徹・「維新八策」に論及していることはすでに触れた。
 月刊ボイス5月号(PHP)の中に佐々淳行「日米安保条約改定を『八策』に加えよ」があることを知り、「正論」欄と似たようなことを書いているのかと思ったら、何と、上の佐々淳行「正論」に対して、同じ2/24に橋下徹はトゥイッターでコメントしたらしい。
 佐々淳行の文章によると、産経新聞2/24で「国政を担うには外交、安全保障分野への認識が著しく欠けている、と厳しい論調で批判したのだ。そのうえで、『天皇制の護持』や『憲法九条改正』などが必要だと指摘した。/すると同日午後一時過ぎに、橋下氏はツイッターで私に対するコメントを発表した」。
 1カ月以上前のことであり、また、橋下徹ツイッターのフォロヤーには無意味かもしれないが、以下、橋下徹の対佐々淳行コメントの全文をそのまま掲載(転載)しておく。
 二 「佐々さんのご意見も厳しいご意見ではあるが、役立たずの学者意見とは全く異なり、国家の安全を取り仕切ってこられた実務者の視点で迫力あるご意見です。」(posted at 13:09:54、以下省略)

 「佐々さんのご主張はまさに正論。内容自体に反論はありません。ただし、今の日本が動くようにするためにはどうすべきかの観点から、僕は次のように考えています。まだ維新の案として確定したものではありません。佐々さんの言われるように、日本は国家安全保障が弱い。これは全てに響いてきています。」
 「世界では自らの命を落としてでも難題に立ち向かわなければならない事態が多数ある。しかし、日本では、震災直後にあれだけ「頑張ろう日本」「頑張ろう東北」「絆」と叫ばれていたのに、がれき処理になったら一斉に拒絶。全ては憲法9条が原因だと思っています。」
 「この憲法9条について、国民的議論をして結着を付けない限り、国家安全保障についての政策議論をしても何も決まりません。国家の大きな方針が固まっていないのですから。しかし憲法9条議論や国家安全保障議論をしても結局憲法改正は非現実ということで何も動かない。学者議論に終始。」

 「だから僕は仕組みを考えます。決定でき、責任を負う民主主義の観点から。憲法96条の改正はしっかりとやり、憲法9条については国民投票を考えています。2年間の議論期間を設けて国民投票。この2年の間に徹底した国民議論をやる。」
 「これまでの議論は決定が前提となっていないから、役立たず学者議論で終わってしまう。その議論でかれこれ何十年経つのか。決定できる民主主義の議論は決定が前提の議論。そして期限も切る。2年の期間で、最後は国民投票。この仕組みを作って、そして国民的に議論をする。」

 「朝日新聞、毎日新聞、弁護士会や反維新の会の役立たず自称インテリは9条を守る大キャンペーンを張れば良い。産経新聞、読売新聞は9条改正大キャンペーンを張れば良い。2年後の国民投票に向かって。そして国民投票で結果が出れば、国民はその方向で進む。」

 「自分の意見と異なる結果が出ても、それでも国民投票の結果に従う。これが決定できる民主主義だと思う。9条問題はいくら議論しても国民全員で一致はあり得ない。だから国民投票で国のあり方を国民が決める。そのために2年間は徹底して議論をし尽くす。意見のある者は徹底して政治活動をする。」
 「その上で国民投票の結果が出たら、国民はそれに従う。そんな流れを僕は考えているのです。佐々さん、そう言うことで、今維新の八策にあえて安全保障については入れていません。憲法9条についての国民の意思が固まっていない以上、ここで安全保障政策について論じても画餅に帰するかなと。」

 「憲法9条について国民意思が確定していない日本において、それを確定するというのが僕の考えです。あくまでもシステム論です。まずはその決定できる仕組みを作る。仕組みができれば、次に実体論に入る。実体論から先に入ると、その賛否によって決定できる仕組みすら作ることができません。」

 「まずは憲法9条について国民意思を固める仕組み作りが先決だと思います。佐々さん、またご意見下さい。」
 翌日の2/25にもある。

 「政治は学者や論説委員の議論と違う。決定しなければならない。実行しなければならない。自民党が憲法改正案を出すらしいが、本当にこのようなやり方で憲法問題が結着すると考えているのであろうか?憲法改正案を選挙の公約に掲げて、仮に自民党が勝ったとしても、選挙が全てでないと言われる。」(posted at 09:35:36、以下、省略)

 「自民党に投票したけど、憲法問題は違うと必ず言われる。政策等であれば、選挙結果に従って欲しいと言えるだろうが、憲法の本質的価値に触れるところまでそれを言えるだろうか?首相公選、参議院の廃止は、分かりやすいので選挙になじむ。しかし憲法9条はどうだろう?これは選挙になじまないと思う。」 
 「政治には自分の価値観を前面に出すことと、国民の価値を束ねることの2つの側面があると思う。これは領域、状況によって使い分けるものであり、その使い分けもまた政治と言える。自称インテリは後者ばかりを言う。それでは現実の課題は解決しない。議論ばかり。」

 「しかし憲法9条問題こそは、国民の価値を束ねて行くことが政治の役割だと思う。自らの価値を前面に出すのではなく、国民に潜在化している価値を顕在化していく作業。単なる議論で終わるのではなく一定の結論を出す。そういう意味では、憲法9条問題は選挙で決するのではなく、国民投票にかけるべきだ。」

 「選挙の争点には、憲法9条の中身・実体面・改正案を掲げるのではなく、憲法9条問題に結着を付けるプロセス、仕組み、手法、手続きを掲げるべきだと思う。この点は、今後維新の会で議論していきます。」

 「簡単に言えば、憲法9条は色々な政治公約の一つとして選挙で決めるのではなく、憲法9条だけを取り上げる国民投票で決めましょうということです。この問題はある種の白紙委任で政治家に委ねるわけにはいかないと思う。」 

 「一定期間を定めて国民的大議論。そして国民投票の結果には皆で従う。反対の結果が出た国民も国民投票の結果に従う。だからこそ自分の主義主張がある人は一定期間内に徹底して国民に訴えかける。その上で結果が出たなら潔くその結果に従う。これが決定できる民主主義だと思う。」

 「憲法9条については国民的大議論を巻き起こす裏方役が政治家の役割だ。政治家が憲法9条について自分の価値観を前面に出せば出すほど、憲法9条問題は決着しない。政治家は学者と違う。自分の考えを控えることが決定のための必要条件なら自分の考えを押し殺す。決定こそ政治だ。」

 「佐々さん、幕末の世は民主主義ではありませんでした。ですから坂本竜馬は船中八策で国家安全保障のことを一人で決しました。しかし、今の世は国民主権です。国家安全保障を決するのも国民です。憲法9条問題は、国民全員が坂本竜馬です。その裏方を引き受けるのが政治だと思います。」

 以上。
 三 ・内容は、憲法9条改正問題が中心になっている。この問題についての橋下徹の考えについて、私はこの欄で「世論の趨勢を測りかねていて、個人的見解を明確にする時期ではまだないと判断しているように…推察している」と書いたことがある(4/11エントリー)が、少し異なるようだ。別の機会にコメントしたい。
 ・佐々淳行は、この橋下徹コメントを読んだうえで、「私は彼を『百年に一度の政治家』とみている。強い正義感と信念をもち、現代においてこれほど政策提言に命を懸ける人物はいないと思うからである」(ボイス5月号p.76)、「この戦闘機」=橋下氏の「敵・味方識別装置」は「有効に機能している」(p.82)等と、高く評価している。
 橋下徹は憲法9条改正に賛成と明言しているわけではなく、厳密には憲法9条改正問題について国民投票で決着をつけたいと考えている、と読めるが、この点も含めて、別にコメントする。
 ・しかしともあれ、一日平均11通(?)というツイッターで発信された橋下徹の文章を眺めていて、大阪市長という公職や維新の会代表を務めながら、よくもこれだけ書けるものだと本当に(それだけでも)、橋下徹に感心する。若い、まだ頭脳明晰、文章作成能力旺盛、むろん政策・行政に対する熱意十分、の証左だ。
 ・ボイス5月号の橋下徹特集(大阪府知事・松井一郎のものを除いて計4本、1つが佐々淳行のもの)のほか、中央公論5月号(中央公論新社)の橋下徹特集(計5本)も、すべて今日(4/16)読んだ。必要に応じて、別の機会に言及したい。
 四 PHP研究所と中央公論新社の上の二つと比べて、産経新聞社の月刊正論5月号の橋下徹特集の「貧弱さ」が目立つ
 上の二特集の計9本の論考(座談も含む)はいずれも面白く読める。観念的で現実感覚に欠けた論考がないからだ(中央公論5月号の北岡伸一論考には少し感じるが)。これらと比べて、月刊正論5月号の適菜収論考は「最低」・「最悪」だ、と言ってよい。すでに言及した、別の雑誌での中島岳志藤井聡の<反橋下>論考と優るとも劣らない「劣悪」さだ。
 中島岳志や藤井聡の論考は各雑誌のメインと位置づけられてはいなかったが、月刊正論5月号は適菜収論考のタイトルを表紙最右翼に大きく印字し、巻頭にもってくる、「売り」の論考と位置づけていたのだから、機能的には最もヒドく、「最悪」だ。
 あまつさえ、月刊正論の編集長自体が、自分自身は何ら詳論することもなく、橋下徹を「きわめて危険な政治家」、「目的は日本そのものを解体することにある」と明記したのだから、始末に負えない。バランスを取るために山田宏の(インタビュー)記事を載せたのだろうが、橋下徹を「デマゴーグ」等と断じる適菜収論考をメインにする編集・広告方針のうえでのものであり、かつまた編集長個人が山田宏とは異なる見解を明示するとは、山田宏に対して非礼でもあろう。
 上記の月刊ボイスや中央公論には、編集長(個人)の特定の考え方などはどこにも書かれていない。産経新聞社の月刊正論が、最も異様なのだ。産経新聞社の人々は、恥ずかしい、あるいは情けないと思わないのだろうか。

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