秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

共産主義

1615/二党派と1905年革命①-L・コワコフスキ著17章1節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976, 英訳1978, 三巻合冊2008).
 この書物には、邦訳がない。三巻合冊で、計1200頁以上。
 第17章・ボルシェヴィキ運動の哲学と政治。三巻合冊本(New York, Norton)の、p.687~p.729。
 試訳をつづける。訳には、第2巻の単行本、1978年英訳本(London, Oxford)の1988年印刷版を用いる。原則として一文ごとに改行する。本来の改行箇所には、//を付す。
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 第1節・1905年革命のときの分派闘争①。
 第二回党大会の効果は、ロシアでの社会民主主義運動の生命が続いたことだと誰にも感じられた。
 レーニンが大会の後半で党への支配力を勝ち取った僅少差の多数派を、彼が望んでいたようには行使できないことが、大会の後ですぐに明らかになった。
 これは、主としてプレハノフ(Plekhanov)の『裏切り』によった。
 大会は、党機関誌のための編集部を任命した。この機関は、そのときは実際には中央委員会から独立していて実際上はしばしばもっと重要だったが、プレハノフ、レーニンおよびマルトフ(Martov)で構成された。一方で、『少数派』の残り-アクセルロート(Akselrod)、ヴェラ(Vella)およびポトレソフ(Potresov)-は、レーニンの動議にもとづいて排除された。
 しかしながら、マルトフはこうして構成された編集部で働くのを断わり、一方で、プレハノフは、数週間のちにボルシェヴィキと離れ、彼の権威の重みでもって4人の全メンシェヴィキの者と編集部を再構成するのに成功した。 
 このことで、レーニンは代わって辞任した。そのときから<イスクラ>はメンシェヴィキの機関になり、ボルシェヴィキが自分たちのそれを創設するまで一年かかった。//
 大会は、論文、小冊子、書籍およびビラが集まってくる機会で、新しく生まれた分派はそれらの中で、背信、策略、党財産の横領等々だという嘲弄と非難を投げかけ合った。
 レーニンの書物、<一歩前進二歩後退>は、この宣伝運動での大砲が炸裂した最も力強い破片だった。
 これは大会での全ての重要な表決を分析し、党の中央集権的考えを擁護し、メンシェヴィキに対して日和見主義だと烙印を捺した。
 一方で<イスクラ>では、プレハノフ、アクセルロートおよびマルトフの論考がボルシェヴィキは官僚制的中央集中主義、偏狭、ボナパルト主義だと、そして純粋な労働者階級の利益を知識階層から成る職業的革命家の利益に置き換えることを謀っていると、非難した。
 それぞれの側は、別派の政策はプロレタリアートの利益の真の表現ではないという同じ非難を、お互いに投げつけ合った。その非難は、だが、『プロレタリアート』という言葉が異なるものを意味しているという点を見逃していた。
 メンシェヴィキは、その勝利へと助けるのが党の役割である、現実の労働者による現実の運動を想定した。
 レーニンにとっては、現実の自然発生的な労働者運動は定義上ブルジョア的な現象で、本当のプロレタリア運動は、正確にはレーニン主義の解釈におけるマルクス主義である、プロレタリア・イデオロギーの至高性によって明確にされる。//
 ボルシェヴィキとメンシェヴィキは、理論上は、一つの政党の一部であり続けた。
 両派の不和は不可避的にロシアの党に影響を与えた。しかし、多くの指導者が<移民者>争論をほとんど意味がないと見なしたように、その不和はさほど明白ではなかった。
 労働者階級の社会民主党員は、それぞれの派からほとんど聞くことがなかった。
 両党派は、地下組織への影響力を持とうと争い、それぞれの側に委員会を形成した。
 一方で、レーニンとその支持者たちは、党活動を弱めている分裂を治癒するために、可能なかぎり早く新しい大会を開くように圧力をかけた。
 そうしている間に、レーニンは、ボグダノフ(Bogdanov)、ルナチャルスキ(Lunacharski)、ボンチ・ブリュェヴィチ(Bonch-Bruyevich)、ヴォロフスキー(Vorovsky)その他のような新しい指導者や理論家の助けをうけて、ボルシェヴィキ党派の組織的かつイデオロギー的基盤を創設した。//
 1905年革命は両派には突然にやって来て、いずれも最初の自然発生的勃発には関係がなかった。
 ロシアに戻ってきた<亡命者>のうち、どちらの派にも属していないトロツキーが、最も重要な役割を果たした。
 トロツキーはただちにセント・ペテルブルクに来たが、レーニンとマルトフは、1905年11月に恩赦の布告が出るまで帰らなかった。
 革命の最初の段階は、レーニンが労働者階級自身に任せれば何が起こるかを警告したのを確認するがごとく、実際には警察によって組織された労働組合をペテルブルクの労働者が作ったこととつながっていた。
 しかしながら、オフラーナ〔帝制政治警察〕のモスクワの長であるズバトフ(Zubatov)が後援していた諸組合は、組織者の観点から離れていた。
 労働者階級の指導者としての役割を真剣に考えた父ガポン(Father Gapon)は、『血の日曜日』(1905年1月9日)の結果として革命家になった。そのとき、冬宮での平和的な示威活動をしていた群衆に対して、警察が発砲していた。
 この事件は、日本との戦争の敗北、ポーランドでのストライキおよび農民反乱によってすでに頂点に達していた危機を誘発した。//
 1905年4月、レーニンは、ボルシェヴィキの大会をロンドンに召集した。この大会は党全体の大会だと宣言し、しばらくの間は分裂に蓋をし、反メンシェヴィキの諸決議を採択し、ただのボルシェヴィキの中央委員会を選出した。
 しかしながら、革命が進展するにつれて、ロシアの両派の党員たちは相互に協力し、これが和解の方向に向かうのを助けた。
 自然発生的な労働者運動は、労働者の評議会(ソヴェト)という形での新しい機関を生んだ。
 ロシア内部のボルシェヴィキは最初は、これを真の革命的意識を持たない非党機関だとして信用しなかった。
 しかしながら、レーニンは、将来の労働者の力の中核になるとすみやかに気づいて、政治的にそれら〔ソヴェト〕を支配すべく全力をつくせと支持者たちに命じた。//
 1905年10月、ツァーリは、憲法、公民的自由、言論集会の自由および選挙される議会の設置を約束する宣言を発した。
 全ての社会民主主義集団とエスエルはこの約束を欺瞞だと非難し、選挙をボイコットした。
 1905年の最後の二ヶ月に革命は頂点に達し、モスクワの労働者の反乱は12月に鎮圧された。
 血の弾圧がロシア、ポーランド、ラトヴィアの全ての革命的な中心地区で続き、一方で革命的な群団は、テロルやポグロム(pogroms、集団殺害)へと民衆を煽った。
 大規模の反乱が鎮圧された後のしばらくの間、地方での暴発や暴力活動が発生し、政府機関によって排除された。
 革命的形勢のこのような退潮にもかかわらず、レーニンは、闘争の早い段階での刷新を最初は望んだ。
 しかし、レーニンは、最後には反動的制度の範囲内で活動する必要性を受容し、1907年半ばからの第三ドゥーマ選挙に社会民主党が参加することに賛成した。
 この場合には(後述参照)、彼は自分の集団の多数派から反対され、メンシェヴィキには支持された。//
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 ②へとつづく。

1612/L・コワコフスキ著16章「レーニン主義の成立」小括。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976, 英訳1978, 三巻合冊2008).
 第16章・レーニン主義の成立。
 前回のつづき。
 この章は見出し上は第4節までしかないが、最後に一行の空白のあとに、内容的にはこの章の「小括」だと見られる文章がある。
 これを、「(小括)」との見出しで試訳する。
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 (小括)
 党、民族問題、およびプロレタリアートのブルジョアジーや農民層との関係についての理論-これら三つの問題について、1905年の革命の前にようやく、レーニン主義は、社会主義運動の内部での新しい形成物として姿を現わした。その新しさは、レーニン自身によって最初に知覚されたものではなかったけれども。
 レーニン主義は、都市ブルジョアジーではなく農民層と同盟した社会主義運動を想定した。
 プロレタリアートは、先ずは民主主義的権力を農民層と分かち持つのを望み、次いでブルジョアジーと自作農(土地所有農民)に対する社会主義とプロレタリア独裁に向かう闘いを始めるのを望んで、半封建国家での民主主義革命のために自らを組織すべきものとされた。
 これら全てにおいて、プロレタリアートは党-プロレタリアートの意識の真の保持者-の指導のもとに行動すべきものであり、党は、労働者の支持を追求しはするが、その支持があるがゆえにでは決してなく、社会を『科学的』に理解しているがゆえにこそ自らを『プロレタリア』だと考える。 
 党は職業的革命家の中核の周りに建設される、中央集中的でかつ階層的な党であるべきであり、その戦術とイデオロギーにおいて『経験上の(empirical)』プロレタリアートに依存することはない。
 党の任務は、あらゆる要因と形態の反抗者たちを利用し、-民族的、社会的、宗教的または知的のいずれであれ-全ての活力を呼び寄せて<旧体制>(アンシャン・レジーム、ancien regime )に対抗するように向けることだ。それらと一体になるのではなく、自分たちの目的のためにそれらを利用することだ。
 かくして、党は、ツァーリ体制に反対するリベラル派を支持した。それ自身の将来の意図は、リベラル主義を破壊することだったとしてすら。
 党は、封建主義の遺産に反抗する農民層を支持した。その究極的な目的は、農民層から土地所有の権利を奪うことだったけれども。
 党は、正教正統派に反抗する宗教聖職者を支持した。党は無神論を表明し、『宗教的偏見』を一掃するつもりだったけれども。
 党は、独立への民族的な運動と熱望を、ロシア帝国を崩壊させるのに役立つかぎりで、支持した。それ自身の目的は、ナショナルな国家を断固として廃棄することにあったけれども。
 簡潔に言えば、党は、現存の制度に反対している全ての破壊的な活力の利用を、開始した。一方でときには、そうした活力を具現化する全ての集団を、分離した社会勢力として、破壊しようとしたが。
 党は、一種の普遍的な機械装置で、あらゆる源泉からくる社会的活力を、一つの奔流へと統一するものとされた。
 レーニン主義とはこの機械装置の理論であり、諸情勢の異様な組み合わせに助けられて、想定を全く超えて有効であることを証明し、世界の歴史を変えた。//
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 第16章『レーニン主義の成立』、終わり。
 レーニンに関する論述が終わったわけではない。第17章は『ボルシェヴィキ運動の哲学と政治』、第18章は『レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ』だ。

1610/二つの革命・三人における②-L・コワコフスキ著16章4節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976, 英訳1978, 三巻合冊2008).
 第16章・レーニン主義の成立。
 前回のつづき。
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 第4節・民主主義革命におけるプロレタリアートとブルジョアジー、トロツキーと『永続革命』③。
 1917年4月まで、レーニンは、第一の革命がただちに第二のそれへと発展するとは考えていなかった。彼は、『第一の段階』で社会民主主義政府が権力を握るというパルヴゥスの見方に異議を唱えた。
 彼は、1905年4月に、このような政府は長続きしない、と書いた。
 なぜなら、『人民の莫大な多数派が支える革命的独裁だけが永続的なものであり得るからだ。<中略>
 しかし、ロシアのプロレタリアートは、今のところは、ロシアの大衆のうちの少数派だ。』(+)
 (『社会民主党と臨時革命政府』、全集8巻p.291。〔=日本語版全集8巻289頁。〕) 
 ゆえに、社会民主党は、専政体制の打倒をその全体として利益とする農民と権力を分かち持つことを想定すべきだ。
 他方で、レーニンは、1905年革命の前に、プロレタリアートの独裁は自作農民の階級全体に対抗しそれを覆う独裁でなければならない、と書いた。
 このことは、プレハノフによる党綱領の第二草案に関する彼の<ノート>で、明確に表明されている。
 『「独裁」の観念は、外部からのプロレタリアートへの支持を積極的に承認することと両立し得ない。
 もしもプロレタリアートがその革命を達成する際に小ブルジョアジーが自分たちを支持すると本当に積極的に知っているならば、「独裁」を語るのは無意味だろう。
 我々が圧倒的な多数派によって完全に保証されるほどであれば、独裁なくしても立派にことを進めることができるだろうからだ。<中略>
 プロレタリアートの独裁の必要性を承認することは、ただプロレタリアートだけが真に革命的な階級だとの共産党宣言の命題と最も緊密にかつ分かち難く結びついている。』//
 我々が党の綱領の実践的な部分で、小生産者(例えば農民)に対して「好意」を示せば示すほど、綱領の理論的部分では、この信頼できない二つの顔をもつ社会的要員をそれだけ、我々の立場を微塵も損なうことなく「厳格に」、扱わなければならない。
 さて今や、我々は言う。もし貴君がこのような我々の立場を採用するならば、貴君はあらゆる種類の「好意」を期待できるだろう。
 しかし、そうでないならば、我々に腹を立てないで!
 我々は独裁をしながら、貴君に言うだろう。権力の行使が要求されているときに言葉を無駄にするのは無意味だ、と。』(+)
 (全集6巻p.51、p.53注。〔=日本語版全集6巻37頁、39-40頁注(1)。〕)//
 このような見方に沿って、レーニンは1906年に『農業問題綱領の改訂』で、つぎのように書いた。
 『農民の蜂起が勝利へと近づけば近づくほど、自作農民がプロレタリアートに反対する方向へと変化するのはそれだけ近づきそうだ、また、プロレタリアートが独立の組織をもつことが、それだけ多く必要になる。<中略>
 農村プロレタリアートは、完全な社会主義革命へと闘うべく、都市プロレタリアートとともに独自に組織化しなければならない。』(+)
 (全集10巻p.191。〔=日本語版全集10巻174頁。〕)
 したがって、綱領は、つぎのことを含んでいなければならない。
 『農民の成果を強固なものにし、民主主義の勝利から社会主義への直接のプロレタリアの闘争へと移るために運動がすることができ、またそうすべきつぎの一歩を、精確に明示すること。』(+)(同上p.192。〔=日本語版全集10巻174頁。〕)
 1906年4月の『統一大会』で、レーニンはこの見方から明確に、彼があるだろうと信じる西側でのプロレタリアートの蜂起がもしもないならば、農民の抵抗は革命をうち砕くだろうと、語った。//
 『ロシアの革命は、自らの努力で達成することができる。
 しかし、自分自身の強さによるのでは、その成果を保持して強固にすることはおそらくできない。
 西側で社会主義革命がないならば、そうすることができない。
 このような条件がなければ、復古は不可避だ。土地の市有化、国有化、分割のいずれを選択しようとも。それぞれのかつ全ての領有や所有の形態において、小土地所有者はつねに復古のための堡塁になるだろうから。
 民主主義革命が完全に勝利した後では、小土地所有者は不可避的にプロレタリアートに反対する方向に変わるだろう。そして、資本家、地主、金融ブルジョアジーその他のようなプロレタリアートと小土地所有者の共通の敵が放擲されるのが速ければ速いほど、それだけ早くそのように変わるだろう。
 我々の民主主義共和国は、西側の社会主義プロレタリアート以外には、予備軍を持たない。』(+)
 (全集10巻p.280〔=日本語版全集10巻270頁。〕//
 こうしたことは、スターリンがレーニン主義と永続革命理論の間には『根本的対立』があるとのちに語ったのが、いかに大きく彼が誇張していたかを、明らかに示している。
 スターリンはトロツキーに反対して、第一に、この理論は革命的勢力である農民に対する不信の意味を含んでいる、農民は一階級として社会主義革命でのプロレタリアートの敵になると示唆している、と主張した。
 第二に、トロツキーは一国における社会主義建設の可能性を疑問視し、西側での大転覆なくしてロシアでの成功を維持できるとは考えなかった、と彼は主張した。
 スターリンによると、この二つの点で、レーニンとトロツキーは最初から全体として対立していた。
 しかし実際は、レーニンは、1917年の前に、そして決して一人だけではなく、社会主義革命は言うまでもなくロシアでの民主主義革命ですら、西側の社会主義革命なくしては維持できないと考えていた。
 レーニンは、農村プロレタリアート、つまりその利益が彼によれば都市労働者と合致し、ゆえに社会主義革命を支持するだろう土地なき農民を組織する必要を強調した。
 しかし、1917年の前に、農民全体は『第二段階』ではプロレタリアートに反対する方向に変わるだろうと認識した。
 最後には、レーニンは、『第一段階』は社会主義政府をもたらさないが、『社会主義に向かう直接の階級闘争』を開始させる、と考えた。
 永続革命の理論は、『第一段階』がただちにプロレタリアートまたはその党による支配をもたらすという点でのみ、レーニンの見方に反していた。
 レーニンが農村地帯での階級闘争に関する戦術を基礎づけ、プロレタリアートと貧農の独裁という教理へと進んだのは、ようやくのちのことだった。レーニンは、プロレタリアートと全体としての農民層の間には埋められない懸隔があるという理論にもとづく政策に対抗すべく、その教理を認めざるを得なかった。//
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 (+) 日本語版全集を参考にして、ある程度は変更した。
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 第4節終わり。第16章全体の「小括」へとつづく。


1609/二つの革命・三人における①-L・コワコフスキ著16章4節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976, 英訳1978, 三巻合冊2008).
 第16章・レーニン主義の成立。
 前回のつづき。
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 第4節・民主主義革命におけるプロレタリアートとブルジョアジー、トロツキーと『永続革命』②。
 社会民主主義者は全て、綱領の最小限と最大限の区別を当然のことと見なしていた。そして、いかにして社会民主主義者がブルジョア革命後の『次の段階』への闘いを遂行するかに関心を持っていた。
 彼らの誰も、どの程度長くロシアの資本主義時代が続くのかを敢えて予測しようとはしなかった。
 しかしながら、メンシェヴィキは一般に、西側の民主主義および議会制度を吸収する歴史的な一時代全体が必要だろうと考えた。そして、社会主義への移行は遙かに遠い期待だ、と。
 レーニンは、彼の側では、全ての戦術を将来の社会的転覆に向かって連動させなければならない、『最終目標』をつねに心に抱いて全ての党の行動を指揮しなければならない、というまったくマルクス主義の精神のうちにあるこの原理を重大視した。
 問題は、こうだった。ブルジョア革命が人民に、すなわちプロレタリアートと農民に権力を与えれば、彼らは不可避的に社会を社会主義の方向へと変形させようとするだろうか、そしてブルジョア革命は社会主義革命へと成長するだろうか?
 この問題は、1905年革命の直前の数年間に、そしてその革命後すぐのパルヴゥス(Parvus)やトロツキー(Trotsky)の著作で、前面に出てきた。//
 レオン・トロツキー(Leon Trotsky, Lyov Davidovich Bronstein)は、ロシアの亡命者集団でのマルクス主義の有能な主張者として、1902-3年に名前を知られるようになった。
 1879年11月7日(新暦)にヘルソン地方のヤノヴカ(Yanovka)で、ユダヤ人農夫(ウクライナ地域に少しはいた)の子息として生まれ、オデッサ(Odessa)とニコライエフ(Nikolayev)の小中学校に通い、18歳の年にマルクス主義者になった。
 彼は数ヶ月の間、オデッサ大学で数学を学んだ。だがすぐに政治活動に集中して、南ロシア労働者同盟(the Southern Russian Workers' Union)で働いた。この同盟は、純粋に社会民主主義ではないがマルクス主義思想の影響を多く受けていた。
 トロツキーは1898年の初頭に逮捕され、二年間を刑務所で過ごし、そして四年間のシベリア流刑の判決を宣せられた。
 収監中および流刑中に、熱心にマルクス主義を学び、シベリアでは研修講師をしたり合法的新聞に論考を発表したりした。
 トロツキーという名の偽の旅券によってシベリア流刑から逃れて、ここから彼の歴史に入っていくが、1902年の秋にロンドンでレーニンと会い、<イスクラ>の寄稿者になった。
 彼は、第二回党大会では、レーニンは労働者階級の組織ではなく閉鎖的な陰謀家集団に党を変えようとしているとして、その規約1条案に反対表決をした多数派の一人だった。
 トロツキーはしばらくはメンシェヴィキの陣営にいたが、リベラル派との同盟に向かう趨勢に同意できなくなってそれと決裂した。
 1904年にジュネーヴで、とりわけ党に関するレーニンの考えを攻撃する、<我々の政治的任務について>と題する小冊子を発行した。
 レーニンは人民と労働者階級を侮蔑しており、プロレタリアートを党に置き換えようとする、と主張した。これは時が推移すれば、中央委員会を党に置き換え、中央委員会を一人の独裁者に置き換えるだろうことを意味する、と。  
 これ以来頻繁に引用されるこの予言は、ローザ・ルクセンブルクによるレーニン批判と同じ前提にもとづくものだった。つまり、職業革命家から成る中央集中的かつ階層的な党という考えは、労働者階級は自分たち自身の努力ではじめて解放されることができるとの根本的なマルクス主義の原理に反している、という前提。//
 トロツキーは多年にわたり、主として独立の社会民主主義の主張者として活動し、党のいずれの派にも属さないで、党の統一の回復の方向へとその影響力を用いた。
 ミュンヒェンで、ロシア系ユダヤ人のパルヴゥス(Parvus、A. H. Helfand)の友人になった。パルヴゥスは、ドイツに住んでいて、ドイツ社会民主党左翼に属していた。
 このパルヴゥスは、永続革命理論の本当の(true)先駆者であり創始者だと見なされている。
 パルヴゥスの見方によると、ロシアの民主主義革命は社会民主主義政府に権力を与え、それは必然的に、社会主義に向かう革命の過程を継続するよう努めることになる。
 トロツキーはこの考えを採用し、1905年の革命に照らしてこれを解釈した。
 あの事件から一般化して、ロシアのブルジョアジーは弱いので、来たる革命はプロレタリアートによって率いられなければならず、ゆえにブルジョアの段階で停止しないだろうと、述べた。
 ロシアの経済的後進性が意味しているのは、ブルジョア革命のあとにただちに社会主義革命が続くだろう、ということだ。
 (これは、ドイツについての1948年のマルクスとエンゲルスの予測に似ていた。)
 しかし、『第一段階』でプロレタリアートは農民に支えられるが、社会主義革命の時期には農民は、それに反対する小土地所有者の大衆になるだろう。
 ロシアでは少数派なので、西側の社会主義革命によって助けられないかぎり、ロシアのプロレタリアートは権力を維持することができないだろう。
 しかし、革命の進行がロシアからヨーロッパおよび世界のその他の地域へと速やかに広がることを、期待することができる。//
 かくして、トロツキーの『永続革命』理論は、彼がその後数年間にしばしば繰り返した二つの前提条件に依拠している。
 ロシアのブルジョア革命は、継続的に社会主義革命へと進化する、ということ。
 これは、西側での大乱(conflagration)を誘発する、ということ。
 もしそうでなければ、ロシアの革命は生き残ることができない。プロレタリアートが農民大衆の圧倒的な抵抗と闘わなければならなくなるのだから。//
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 ③へとつづく。

1608/農民かブルジョアジーか-L・コワコフスキ著16章4節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976, 英訳1978, 三巻合冊2008).
 第16章・レーニン主義の成立。
 前回のつづき。
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 第4節・民主主義革命におけるプロレタリアートとブルジョアジー、トロツキーと『永続革命』①。
 全ての社会民主主義者は、ロシアはつぎのような革命の前夜にあるということで合意していた。専政体制を除去し、民主主義的自由を確立して農民に土地を与え、隷従と人的依存を廃棄する、ブルジョア革命。
 しかし、いくつかの重要な未決定の諸問題が残されており、それらはある程度は、マルクス主義の教理の理論上の根本に関わっていた。//
 ロシアのブルジョアジーは弱くて臆病すぎるので、プロレタリアートが来たる革命を導くという考えはプレハノフ(Plekhanov)に由来し、多少の程度の差はあれ、この問題に関して最初から人民主義者との論争に、のちには『経済主義者』との論争に加わった、社会民主主義者の共通の財産だった。
 しかしながら、メンシェヴィキはこの見解に一貫して従わず、専制を打倒する場合のプロレタリアートの自然の同盟者はブルジョアジーやリベラル諸党派であり、革命後に後者は権力をもち、社会民主主義者はその反対側にいると、ブルジョア革命の性格から帰結させていた。//
 この点に関して、レーニンは初期の段階で、全く異なる戦術をとることを明らかにした。
 革命がロシアの資本主義への途を敷き詰めるということは、革命後にブルジョアジーが権力を確保すること、あるいは、社会民主主義者は革命のためにリベラル派と同盟すべきだということを、意味しなかった。
 レーニンはこうした考えを、リベラル派に対する凝り固まった憎悪からのみではなく、主としては、農民問題が決定的な要素だという自分の確信から抱いた。そしてこのことは、西側の民主主義革命の経験にもとづくいかなる図式をも、ロシアについて採用するのを非難することにつながった。
 正統派マルクス主義者と違って、レーニンは、農民の充たされない要求のうちにある巨大な革命的な潜在力を感知し、伝統的な見方から離れて小土地所有者を支持するという『反動的な』綱領を含むと思われるかもしれないとしても、党はこの力を利用すべきだと強く主張した。
 (『古典的な』思考様式によると、所有権の集中化は社会主義への前進を速める、したがって、土地所有権の分散は『反動的』だ。)
 レーニンは、鋭敏に政治的で機会主義的な(opportunist)かつ非教条的な見通しをもって、マルクス主義的『正しさ(correctness)』にさほど関心はなく、主として、または専ら、提案される戦術の政治的有効性に関心をもった。
 『一般的に言えば』と、彼は、つぎのように書いた。//
 『小土地所有を支持するのは、反動的だ。なぜなら、その支持が大規模の資本主義経済に鉾先を向け、その結果として社会発展を遅らせ、階級闘争を曖昧にして回避するからだ。
 しかしながら、我々はこの事案では、資本主義に反対してではなく農奴制的所有に反対して、小土地所有を支持することを求める。<中略>
 地上のあらゆる事物には、二つの面がある。
 西側では、自作農民はその役割を民主主義運動ですでに果たし終えた。そして今や、プロレタリアートと比較しての特権的な地位を守ろうとしている。
 ロシアでは、自作農民はまだ決定的で全国的に広がる民主主義運動の前夜にいて、この運動に共感せざるをえない。<中略>
 現在のような歴史的時点では、農民を支持するのが我々の義務だ。』(+)//
 我々の重要で直接的な目標は、農村地帯での階級闘争の自由な発展へと、途を開くことだ。国際的社会民主主義運動の究極的な目標の達成へと、プロレタリアートによる政治権力の征圧および社会主義社会建設の基礎の樹立へと向かう、プロレタリアートによる階級闘争のそれへの途を、だ。
 (『ロシア社会民主党の農業問題綱領』、1902年8月< Zarya >所収。全集6巻p.134、p.148。〔=日本語版全集6巻127-8頁・143頁〕)//
 かくして、レーニンは『ブルジョアジーとの同盟』という一般的考えを受け容れるが、それをただちにかつ根本的に修正(qualify)した。君主制に順応する用意のあるリベラル・ブルジョアジーとの同盟ではなく、革命的で共和的(republican)な『ブルジョアジー』、つまり農民との同盟へと。
 これは、党規約の問題よりも重要な、レーニンとメンシェヴィキの間の主要な基本的対立点だった。
 これはまた、1905年の第三回大会後に書かれた、レーニンの『二つの戦術』の主要な主題だった。//
 しかし、これは革命の間の同盟に関する問題だけではなく、その後の権力の問題でもあった。
 レーニンは、革命が設定することになるブルジョア社会をプロレタリアートと農民が支配すると、明確に述べた。
 彼が考えるに、このブルジョア社会は階級闘争の無制限の発展と所有権の集中を認めるだろうが、政治権力は、プロレタリアートと農民によってそれらが尊敬する党を通じて行使される。
 このような見地では、社会民主党は農民の支持を培養し、適切な農業問題綱領を用意しなければならない。
 これはまた、論争の主題になった。
 レーニンは、全ての土地の国有化へと進むことを提案し、ブルジョア社会を掘り崩すことはない一方で農民の支持を獲得するだろうと強調した。
 エスエルのように、たいていのボルシェヴィキは、大土地所有者の土地と教会の土地を補償なしで没収し、そうした土地を彼らで分けることに賛成だった。
 メンシェヴィキは没収した土地の『市有化(municipation)』、つまり地方諸団体に譲渡することに賛成だった。
 レーニンは、1903年の『貧農に訴える』で、つぎのように書いた。
 『社会民主主義者は、従業者を雇用していない小農や中農から土地を取り上げるつもりは決してない。』(全集6巻p.397。〔=日本語版全集6巻407頁。〕)(+)
 しかし、同じ小冊子で、彼は、社会主義革命の後では土地を含む全ての生産手段が共有されるだろうと語った。
 いかにして『貧農』がこの二つの言明を矛盾なく甘受すると見込まれたのかは、明確でない。//
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 (+) 秋月注記/日本語版全集を参考にして、ある程度は変更した。
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 ②へとつづく。


1606/民族問題③-L・コワコフスキ著16章3節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976, 英訳1978, 三巻合冊2008).
 前回のつづき。
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 第3節・民族問題③。 
 簡潔に言えば、プロレタリアートの利益は唯一の絶対的価値で、プロレタリアートの『真の』意識の運び手だと自認する党の利益と同じだという前提命題にもとづけば、民族の自己決定権の原理は戦術上の武器以上のものではあり得なかった。
 レーニンはこのことに十分によく気づいていて、この原理はレーニンの教理のとるに足らない一部だととくに言うこともなかった。
 他方で、民族の願望は党が権力への闘争に用いることのできるかつ用いるべき活力の力強い源だとレーニンが発見したことは、彼の政治の最も重要な特質の一つであり、その成功を多く確実なものにした。それは、階級闘争に関するマルクス主義の理論は民族問題に特有の注意を払う必要がないとする正統派と反対のものだった。
 しかしながら、レーニンは、彼の理論が功を奏したという意味で『正しい(right)』だけではなかった。それは、マルクス主義と一致してもいた。
 『プロレタリアートの利益』は至高の価値をもつので、民族的な争論や願望をその利益を増大させるために利用することに反対はあり得ない。また、のちのソヴィエト国家の政策が、征圧したおよび植民地化した地域で資本主義諸国を弱体化するためにそのような願望を支持することについても、同じく反対はあり得ない。
 一方で、エンゲルスによる『歴史的』民族と『非歴史的民族』の区別およびレーニンによる大民族のナショナリズムと小民族のそれとの区別は、根本的教理から生じるようには思えない。そして、特殊な歴史的環境に関連づけられる脇道(bypath)だと、見なされてよい。//
 その『純粋な』形態での、すなわちあらゆる状況で有効な絶対的権利としての民族の自己決定権は、明らかにマルクス主義に反している。
 そしてこのマルクス主義は、ローザ・ルクセンブルクの立場から見ると、容易に守られる。階級対立は重要であり、国際的だ。そして、闘い取るに値する民族の利益は存在し得ない。
 しかし、原理をたんなる戦術の一つへと降ろしたレーニンの幅広い留保を考えると、レーニンがこれを擁護したことが確立した教理に反していると主張するのは不可能だ。
 換言すれば、この問題に関するレーニンとローザ・ルクセンブルクの間の論争は、戦術の問題で、原理の問題ではなかった。
 民族の差違や民族文化は、レーニンの目には重要な価値がなく、彼が頻繁に述べたように、本質的にはブルジョアジーの政治的な武器だった。
 彼が1908年に書いたように、『プロレタリアートはその闘いの政治的、社会的および文化的条件に、無関心であることができない。したがって、その国(country)の運命に無関心であることはできない。
 しかし、プロレタリアートが国の運命に関心をもつのは、それが階級闘争に影響を与える範囲でのみであり、社会民主党の言葉にのせるのも汚らわしい、どこかのブルジョア的「愛国主義」によるのではない。』(全集15巻p.195。)
 『我々は、「民族(national)文化」を支援するのではなく、各民族文化の一部だけを含む国際的(international)文化を支援する。-各民族文化の一貫して民主主義的かつ社会主義的な内容を含むそれだけを。<中略>
 我々は、ブルジョア的ナショナリズムのスローガンの一つとしての民族文化に反対する。
 我々は、十分に民主主義的で社会主義的なプロレタリアートの国際的文化に賛成する。』(全集19巻p.116。)
 『自己決定権は、中央集権化という我々の一般的命題に対する例外だ。
 この例外は、反動的な大ロシア・ナショナリズムを見れば絶対に必要だ。この例外を認めないのは、(ローザ・ルクセンブルクの場合のように)日和見主義だ。
 それは愚かにも、反動的な大ロシア・ナショナリズムの手中に収まることを意味する。』(同前p.501。)//
 レーニンは頻繁に、戦争前およびその間にこのような見解で自分の立場を表明した。
 彼は、労働者は祖国を持たないという有名な言葉を強調して引用した。そして、全く字義どおりに考えていた。
 同時に、彼は、無制限の自己決定権を宣言し、ツァーリ帝制の被抑圧人民へと明確に適用した、唯一の重要な社会民主党指導者だった。
 1914年の末にレーニンは、『大ロシア人の民族的誇りについて』と題する小論考を書いた。(全集21巻。〔=日本語版全集21巻93頁以下。〕)
 これは、ロシア共産主義に熱狂的愛国主義が益々染みこむようになったものとして、最も頻繁に印刷されかつ最も多く引用されたテクストの一つだった。
 あらゆる形態の『愛国主義』(つねに引用符つき)を批判して愚弄したレーニンの他の全ての論考とは違って、この小論考で彼は、ロシアの革命家はロシアの言語と国を愛する、革命的伝統を誇りに思っている、そしてそのゆえに全ての戦争での帝制の敗北を、労働者人民にとって最も害の少ないそれを、望んでいると宣言する。また、大ロシア人の利益はロシアのプロレタリアートおよびその他全諸国のそれの利益と合致していると、主張する。
 これは、レーニンの著作の、その種のものとしてのテクストにすぎず、民族文化をそれ自体に価値があり防御に値すると見なしていると思えるかぎりで、残りのものからは逸脱している。
 全体としてのレーニンの教理から見ると、当時にボルシェヴィキに対して向けられた国家叛逆という非難に反駁し、ボルシェヴィキの政策は『愛国主義的』理由でも支持する価値があると示す試みだとの印象を、この小論考は与える。
 確かに、大ロシア人の民族的誇りを擁護することと、『民族文化のスローガンの擁護者の位置はナショナリスト・小ブルジョアにあり、マルクス主義者の中ではない』との言明(『民族問題に関する批判的論評』、全集21巻p.25)とをいかにすれば一致させることができるのか、理解するのは困難だ。//
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 (秋月注) 今回部分の全集引用部分は、日本語版全集各巻で確認することができなかった(2017.06.27)。
 第3節終わり。第4節・民主主義革命におけるプロレタリアートとブルジョアジー、トロツキーと『永続革命』、へとつづく。 

1604/民族問題②-L・コワコフスキ著16章3節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976, 英訳1978, 三巻合冊2008).
 第16章・レーニン主義の成立。 その第3節は、三巻合冊本の、p.674~p.680。
 前回のつづき。
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 第3節・民族問題②。
 第一に、ポーランドは、ヨーロッパの被支配民族のうちの最大のものだった。
 第二に、ポーランドは、大陸の三つの大国の間で分割されていた。
 第三に、マルクスによると、ポーランドの独立はツァーリ専政体制および他の分割諸国、ドイツとオーストリア・ハンガリー、の形をした反動に対する決定的な一撃を加えることになる。
 しかしながら、ローザ・ルクセンブルクとレーニンは、この点に関するマルクスの見地はかつて有効だったとしても、時代遅れだと考えた。
 ローザ・ルクセンブルクは、ツァーリ帝国の経済運動に反するものとして、ポーランドの独立という復古を無視した。彼女は、自己決定なるものを、いかなる場合でも、一つ民族全体の共通の理想のふりをしてプロレタリアートを騙すために仕組まれたブルジョアの考案物だと、見なした。
 レーニンは、この点では、ポーランド社会民主党は党の利益と無関係に一つの目標として独立へと進むべきだとの考えは拒否したけれども、より柔軟だった。
 彼は、1902年のメーリング(Mehring)の若干の言明に全面的に賛同して、引用した。
 『ポーランドのプロレタリアートが、支配階級自体は耳を貸そうとしないポーランド階級国家の復活をその旗に刻み込みたいと望むなら、歴史上の笑劇を演じることになるだろう。 <中略>
 他方でかりに、この反動的なユートピアが、ある程度はなおも民族的扇動に反応する知識階層と小ブルジョア部門に対して、プロレタリアートによる扇動に好意をもたせようとするならば、そのユートピアは、安価で無価値の一時的な成功のために長期的な労働者階級の利益を犠牲にする、卑劣な日和見主義が生んだものとして、二重に根拠薄弱なものだ。』(+)
 同時に、レーニンは続けて語る。『疑いなく、資本主義の崩壊より前のポーランドの復古の蓋然性はきわめて低い。しかし、絶対に不可能だと主張することはできない。<中略>
 そして、ロシア社会民主党は、決して、自分の手を縛ろうとはしない。』(+)
 (同前、p.459-460。〔=日本語版全集6巻「我々の綱領における民族問題」474頁、475頁。〕)//
 かくして、レーニンの立場は明白だ。そして、どのようにして全人民のための政治的独立を主張する最高の闘士だと、彼はそのように著名なのだが、これまで考えられることができたのかを理解するのは、困難だ。
 彼は、民族的抑圧に対する断固たる反対者で、自己決定権を宣明した。
 しかし、それにはつねに、社会民主党が政治的分離を支持できるという例外的な事情がある場合にのみだ、という留保が付いていた。
 自己決定は、いつでも絶対的に、党の利益に従属していた。後者が人民の民族的な希望と矛盾するならば、後者の意味はなくなる。
 この留保は実際に自己決定権を無価値にし、純粋に戦術上の武器へと変えた。
 党はつねに、権力への闘争に際して、民族の希望を利用しようとし続けることになる。
 しかし、『プロレタリアートの利益』がある人民全体の願望に従属することは決してあり得ないことだった。
 レーニンが革命の後でブレスト・リトフスク(Brest-Litovsk)条約に関する<テーゼ>で書いたように、『いかなるマルクス主義者も、マルクス主義と社会主義の原理を一般に放棄することなくして、社会主義の利益は民族の自己決定権よりも優先する、ということを否定することができない。』(全集26巻p.449。〔=日本語版全集26巻「不幸な講和の問題の歴史によせて」459頁。〕)
 しかしながら、プロレタリアートの利益は定義上は党の利益と同じであり、プロレタリアートの本当の熱望は党の口からのみ発せられ得るので、党が権力へと到達すれば、党だけが独立や分離主義の問題に関して決定することができるのは明白だ。
 このことは、1919年の党綱領に書き込まれた。同綱領は、各民族の歴史的発展の高さは、独立問題に関する真の意思(real will)を表明する者は誰かに関して決定しなければならない、と述べる。
 党のイデオロギーもまた断言するように、『民族の意思』はつねに最重要の階級、つまりプロレタリアートの意思として表明され、一方でこの後者の意思は多民族国家を代表する中央集中的な党のそれとして表明される。したがって明白に、個々の民族は、その自らの運命を決定する力を持たない。
 これら全ては、レーニンのマルクス主義およびレーニンの自己決定権の解釈と完全に合致している。
 いったん『プロレタリアートの利益』がプロレタリア国家の利益に具現化されるとされれば、その国家の利益と力が全ての民族の熱望に優先することについて、疑いは存在し得ない。
 次から次へと続いた自由でありたいと求める諸民族への侵攻と武装抑圧は、レーニンの見地と全く首尾一貫していた。
 オルドホニキゼ(Ordzhonikidze)、スターリンおよびジェルジンスキー(Dzerzhinsky)がジョージアで用いた残虐な方法にレーニンが反対したのは、可能なかぎり残虐さを減らしたいとの彼の側の願望によっていたかもしれないが、しかし、彼らは隣国を従属させる『プロレタリア国家』の権利を冒さなかった。
 レーニンは、社会民主主義政府を合法的な選挙で設立したジョージア人民が赤軍による武装侵入の対象になったということに、何も過ちはない、と考えていた。
 同じように、ポーランドの独立を承認したことは、ポーランド・ソヴェトが突発するや否や、レーニンがポーランド・ソヴェト政府の中核を形成するのを妨止するものではなかった。-レーニンはほとんど信じ難い無知によって、ポーランドのプロレタリアートはソヴェト兵団の侵攻を解放者だとして歓迎するだろうと考えた、というのは本当だけれども。//
 (+) 日本語版全集を参考にして、ある程度は変更した。
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 ③へとつづく。

1602/民族問題①-L・コワコフスキ著16章3節。

  Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976,英訳1978, 三巻合冊本2008).

 第16章・レーニン主義の成立。
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 第3節・民族問題①。
 第二回党大会はまた、ツァーリ体制の政治上の重要問題だった民族問題に関する立場を明らかにする機会を与えた。
 問題は、ブント〔ユダヤ人労働者総同盟〕によって提起された。この組織はユダヤ労働者大衆の唯一の代表だと承認するように要求したが、レーニンを含む多数派によって否決された。
 カウツキーやストルーヴェ(Struve)を含むその他多数と同じく、レーニンは、ユダヤ人は共通の言語と領域的な基盤を持たないので、民族だと見なすことはできないと考えた。
 しかしまたレーニンは、民族を規準とする連邦制的政党の創立を意味しているとして、ブントの提案に反対した。
 レーニンの見地では、出自、教育および職業の違いは党において意味があるべきではなく、このことは民族についてはなおさら本当のことだった。
 党の中央集中化は党員の全ての差違を除去すべきものであり、各党員は全て、最も純粋な党の精神を具体化したものであるべきで、それ以外の何者でもなかった。//
 この問題は、ロシア帝国の臣民たちが分離主義を民族運動で表明したのでますます、レーニンの関心を惹いた。
 彼は、党が民族的抑圧を非難して、民族問題をとりわけ帝制専政を転覆させる梃子として使うことを望んだ。
 レーニンが大ロシア熱狂的愛国主義(the Great Russian chauvinism)を憎悪し、党内でのそれを根絶させるべく最善を尽くした、ということに疑いはない。
 1901年の末に、ツァーリ政府がフィンランドの穏やかな自治を侵犯した際に折良く、レーニンは書いた。
 『我々は他人民を奴隷の地位へと落とすために利用されるほどに、なおも奴隷なのだ。
 我々は、処刑人の残虐さでもってロシアでの自由への全ての志向を抑圧している政府に、なおも耐えているのだ。さらには、他人民の自由を暴力的に侵害するためにロシア軍兵を使っている政府にだ。』(+)
 (<イスクラ>、1901年11月20日。全集5巻p.310.〔日本語版全集5巻「フィンランド人民の抗議」322頁。〕)//
 社会民主主義者の間には、民族抑圧問題に関する論争はなかった。
 しかし、全ての者によって自己決定の原則(principle)、すなわち各民族全ての分離して政治的に存在する権利、が受容されていたわけでは決してない。
 オーストリアのマルクス主義者は、二重君主制のもとでの民族的自治を支持した。各民族集団は、言語、文化、教育および出版等に関する完全な自由をもつべきだとした。しかし、政治的な自立については、明確には表明されなかった。
 レンナー(Renner)、バウアー(Bauer)およびこれらの仲間たちは、党内部での民族的対立に絶えず悩まされた。
 オーストリア・ハンガリー帝国のプロレタリアートは一ダースかそれ以上の民族集団に属していて、たいていは明確に区切られた地域にはおらず、地理を超えていたので、政治的な分離主義は、境界地帯での身動きならない問題を生じさせていた。
 ロシアに関するかぎり、レーニンは、文化的自治では不十分で、自己決定は分離国家を形成する権利を含まないならば無意味だ、と考えた。
 彼はこの見地をしばしば主張し、1913年の民族問題に関する小冊子に、そのように記述するようにスターリンに勧めた。
 自己決定の問題は、この問題についてしばらくの間はロシア社会民主労働者党の外にとどまり続けたSDKPiL〔ポーランド・リトアニア社会民主党〕との論争の主題だった。
 レーニンに対する最も果敢な反対者は、すでに述べたように、ローザ・ルクセンブルクだった。この問題に関する彼女の立場は、ポーランドの特殊な事情とは関係なく、マルクスへの表現方法上の忠実さが、より高いものだった。
 レーニンの見地では、全人民が自己決定の権利を対等に持っており、科学的社会主義の創始者とは違って、彼は『歴史的な』民族と『非歴史的な』それとを区別しなかった。//
 しかしながら、理論上はともあれ、この論争は、思われるほどには激しいものではなかった。
 レーニンは、自己決定権を承認した。しかし、彼は最初から、一定の留保を付けていた。すなわち、留保付きだったことは、レーニンの定式は変わらないままで維持されたけれども、革命の後すぐに、じつに現実が示すことを余儀なくしたように、そこでの『権利』は空虚な美辞麗句にすぎなくなった、という事実が説明している。
 第一の制約は、党は自己決定権を支持する、しかし全ての分離主義者の意図に深くはかかわらない、ということだった。多くの場合、実際はほとんどの場合、党は、分離主義者たちの反対側にいた。
 これには、何の矛盾もなかった。レーニンは論じた。
 『我々、プロレタリアートの党は、暴力や不正によって外から民族の自決決定権に影響を与えるいかなる企てにも、つねにかつ無条件で反対しなければならない。
 この我々の消極的な義務(暴力に対する闘争と抗議)をいつでも履行する一方、我々は、我々の側では、諸民族人民の自己決定権よりも、各民族の全ての<プロレタリアート>の自己決定について配慮する。<中略>
 民族的自治の要求への支持に関して言えば、これは決してプロレタリアートの綱領にある永遠の拘束的な部分ではない。
 これを支持することは、稀少な例外的な場合にのみ必要になりうる。』(+)
 (『アルメニア社会民主主義者の宣言について』、<イスクラ>1903年2月1日。全集6巻p.329。〔=日本語版全集6巻338頁。〕)//
 第二の制約は、党はプロレタリアートの自己決定に関心があり、全体としての人民のそれにではない、ということから生じる。
 ポーランドの独立を無条件に要求する場合に、この党は『理論的背景や政治的活動について、いかにプロレタリアートの階級闘争との結びつきが弱いかを証明している。
 しかし、我々が民族の自己決定権の要求を従属させなければならないのは、まさにこの闘争の利益に対してだ。<中略>
 マルクス主義者は、民族の自立の要求を、条件付きでのみ認めることができる。』(+)
 (『我々の綱領における民族問題』, <イスクラ>1903年7月15日。全集6巻p.456.〔=日本語版全集6巻471頁。〕) //
 ポーランド問題は、三つの理由で、この議論のうちきわめて重要なものだった。
 第一に、…。
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 (+秋月注記) 日本語版全集を参考にして、ある程度は変更した。
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 本来の改行箇所ではないが、ここで区切る。②へとつづく。

1601/ケレンスキー首相-R・パイプス著10章12節。

 前回からのつづき。
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 第12節・蜂起鎮圧、レーニン逃亡・ケレンスキー独裁③。
 7月6日の夕方にペテログラードに帰ったケレンスキーは、ペレヴェルツェフに激しく怒って、彼を解任した。
 ケレンスキーによると、ペレヴェルツェフは、『レーニンの最高形態での国家叛逆を文書証拠が支えて確定する機会を、永遠に喪失させた』。
 この言い分は、レーニンとその支持者に対して行ったその後の日々の果敢な行動が失敗したことについて、尤もらしい釈明をしたもののように見える。
 『レーニンの最高形態での国家叛逆を確定する』努力がなされなかったとすれば、それは、レーニンの弁護へと跳びついた社会主義者たちを宥める気持ちからだった。
 それは、『すでにカデット〔立憲民主党〕の支持を失ってソヴェトを敵に回す余裕のない政府が、ソヴェトに対して行なった譲歩』だった。(*)
 このように考察すると、7月とそれ以降数ヶ月のケレンスキーの行動は、際立っていた。//
 ケレンスキーはルヴォフに代わって首相になり、陸海軍大臣職を兼任した。
 彼は独裁者のごとく行動し、自分の新しい地位を見える形で示すために、冬宮(Winter Palace)へと移った。そしてそこで、アレクサンダー三世のベッドで寝て、その机で執務した。
 7月10日、コルニロフ(Kornilov)に、軍司令官になるように求めた。
 コルニロフは、7月事件に参加した兵団の武装解除および解散を命令した。
 守備軍団は10万人へと減らされ、残りは前線へと送られた。
 プラウダその他のボルシェヴィキ出版物は、戦陣から排除された。//
 だが、このような決意の表明はあったものの、臨時政府は、ボルシェヴィキ党を破滅させるだろう段階へとあえて進むことをしなかった。公開の審問があれば、国家叛逆活動に関して所持している全ての証拠資料が、呈示されていただろう。
 新しい司法大臣のA・S・ザルドニュイ(Zarudnyi)のもとに、新しい委員会が任命された。
 その委員会は資料を集めたが-10月初めまでに80冊の厚さになった-、結局は法的手続は始まらなかった。
 この失敗の理由は、二つあった。すなわち、『反革命』への恐怖、イスパルコム〔ソヴェト執行委員会〕と対立したくないとの願望。//
 7月蜂起によってケレンスキーには、右翼がボルシェヴィキの脅迫を利用して、君主制主義者がクーを企てるのではないかとの強迫観念的な恐怖が、染みついた。
 彼は7月13日にイスパルコムで挨拶し、『反革命勢力を刺激する行動』から構成員は距離を置くように強く要求した。そして、『ロシア君主制を復古させる全ての企ては断固として、容赦なき方法で抑圧される』と約束した。
 ケレンスキーは、多くの社会主義者たちのように、7月反乱を打ち砕いた忠誠ある諸兵団の献身さを、喜んだというよりむしろ警戒した、と言われている。
 彼の目からすると、ボルシェヴィキが脅威だったのは、そのスローガンや行動が君主制主義者を助長するという範囲においてのみだった。
 ケレンスキーが7月7日に皇帝一族をシベリアに移送すると決定したのは、同じような考えにもとづくものだったと、ほとんど確実に言える。
 皇帝たちの出立は、7月31日の夜の間に、きわめて秘密裡に実行された。
 ロマノフ家の者たちは、50人の付添いや侍従たちの随行員団に同伴されて、トボルスク(Tobolsk)へと向かった。それは、鉄道が走っておらず、したがってほとんど逃亡する機会のない町だった。
 この決定の時機-ボルシェヴィキ蜂起およびケレンスキーのペテログラード帰還の三日のち-は、ニコライを皇位に復帰させる状況を右翼の者たちが利用するのを阻止することに、ケレンスキーの動機があった、ということを示している。
 このような見方は、イギリスの外交部のものだった。//
 関連して考えられるのは、ボルシェヴィキを仲間だと見なし、それへの攻撃を『反革命』の策謀だと考え続けている、イスパルコム〔ソヴェト執行委員会〕の機嫌を損ないたくないという願望だった。
 ソヴェト内のメンシェヴィキとエスエルは、政府のレーニンに対する『誹謗中傷運動』を繰り返して攻撃し、訴追を取り下げて、拘留されているボルシェヴィキたちを解放することを要求した。//
 ボルシェヴィキに対するケレンスキーの寛大な措置は、ボルシェヴィキは彼とその政府をほとんど打倒しかけたにもかかわらず、翌月にコルニロフ将軍に関して見せた素早いやり方とは著しく対照的だった。//
 政府とイスパルコムのいずれもの不作為の結果として、ペレヴェルツェフが主導して解き放とうとしたボルシェヴィキに対する憤激は、消散した。
 この両者は、右翼からの想像上の『反革命』を怖れて、左翼からの本当の『反革命』を消滅させる、願ってもない機会を失った。
 ボルシェヴィキはまもなく回復し、権力への努力を再び開始した。
 トロツキーは、1921年の第3回コミンテルン大会の際にレーニンが党は敵との取引で間違いをしたとを認めたとき、1917年の『性急な蜂起のことを頭の中に想い浮かべた』、とのちに書いた。
 トロツキーは、つぎのように付記した。『幸運にも、我々の敵には十分な論理的一貫性も、決断力もなかった』。(203)
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  (*) Richard Abraham, Alexander Kerensky (ニューヨーク, 1987), p.223-4。ペレヴェルツェフはネクラソフとテレシェンコが言い出して7月5日の早いうちに解任されたが、二日長く職務にとどまつた。
  (203)トロツキー, レーニン, p.59。 revolution
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 第10章、終わり。第11章の章名は、「十月のク-」。但し、第11章の最初から「軍事革命委員会によるクー・デタの開始」という目次上の節までに、48頁ある。

1598/党と運動⑥-L・コワコフスキ著16章2節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第16章・レーニン主義の成立。
 前回のつづき。
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 第2節・党と労働者運動-意識性と自然発生性⑥。
 ローザ・ルクセンブルクのように、メンシェヴィキはレーニンを、ブランキ主義だ、<クー・デタ>による既存秩序の破壊を企図している、トカチョフ(Tkachov)の陰謀のイデオロギーを奉じている、そして『客観的』条件を無視して権力を追求している、と決まって批判した。
 レーニンは、自分の理論はブランキ主義と関係がない、真のプロレタリアの支持のある党の建設を望んでいる、一握りの陰謀家により遂行される革命という考えを持っていない、と反論した。
 メンシェヴィキは、レーニンは『主観的要因』、すなわち革命の意思力(will-power)の決定的な役割について反マルクス主義の信条をもつ、と主張した。
 史的唯物論の教えによれば、革命的意識を党の努力によって人工的に創出することはできず、それは社会状勢の成熟に依存している。
 革命的状況をもたらす経済的事象を待たずして革命を引き起こそうとするのは、社会の発展法則に違背することになる。//
 このような批判は、誇張はされているが、根拠がないわけではない。
 レーニンは、もちろん、小さな陰謀集団が適切に準備すればいつでも実行できる<クー・デタ>を心に描く、という意味での『ブランキ主義者』ではなかった。
 彼は、意のままに計画するまたは生み出すことはできない根本的な事象だと革命を認識していた。
 レーニンの見地は、ロシアでの革命は不可避であり、それが勃発したときに党はそれを指揮するよう用意し、歴史の波に乗り、そして権力を奪取しなければならない、その権力は最初は革命的農民たちと分かちあう、というものだった。
 彼は革命を惹起させることを計画していたのではなく、革命意識の成長を促進して、やがては大衆運動を支配することを計画していた。
 党が革命の過程での『主観的要因』であるならば、--そしてこれが、レーニンとその対抗者たちのいずれもがどのように問題を理解していたかなのだが--彼は、労働者階級の自然発生的な蜂起は、党が存在してそれを塑形し指揮しないかぎりは、何ものにもならないだろうと、まさしく考えていた。
 これは、党の役割は社会主義の意識の唯一の可能な運び手だという考え方の、一つの明確な推論結果(corollary)だった。
 プロレタリアートそれ自身は、この意識を発展させることができない、したがって革命への意思はたんに経済的事象によって発生するのではなく、計画的に作り出されなければならない。
 『経済主義者』、メンシェヴィキおよび左派ドイツ社会民主党、経済の法則が社会主義革命を自動的にもたらすと期待したこれらは全ては、悲惨な政策に従っていた。これは、決して起こらないのだから。
 その政策は、この問題についてマルクスに十分に訴えるものではなかった(レーニンによると、ローザ・ルクセンブルクはマルクスの教理を『世俗化して卑しくさせた』)。
 マルクスは、社会主義の意識または他のいかなる意識も社会条件から自動的に掻き立てられるとは言わなかった。その条件が意識の発展を可能にする、とだけ言ったのだ。
 現実になる可能性をもつためには、革命的な観念(idea)と意思が、組織された党の形態で存在していなければならなかった。//
 この論争でのどちらの側がマルクスをより正確に理解しているのかに関して、確定的な回答は存在しない。
 マルクスは、社会的条件は、やがてその条件を変容させる意識を発生させる、しかし、実際にそうなるためには、まずは明確に表現された形態をとらなければならない、と考えた。
 意識は現実の状勢を反映するものに『すぎない』という見方を支えるために、マルクスの多くのテクストを引用することができる。
 これは、正統派の見地の<待機主義(attentisme)>を正当化するものであるように見える。
 しかし他方で、マルクスは自分が書いたことを潜在的な意識の明確化または明示化だと見なした。
 マルクスがプロレタリアートの歴史的使命に言及する最初のテクストで、マルクスは語る。
 『我々は、この石のように固まった関係を、それら自身の旋律をそれらに演奏して踊るようにさせなければならない。』
 誰かが、この旋律を演奏しなければならない。--その『関係』は、自発的にそうすることはできない。
 社会的意識が変わらないままに『神秘化された』形態をとり、プロレタリアートが出現するときに勢いを止める、そういう過去の歴史についてのみ『社会的存在が意識を決定する』という原理が適用されるのだとすれば、前衛は意識を喚起するために必要だという教理は、マルクスの教えに合致している。
 問題はかくしてたんに、喚起することが可能となる地点まで条件が成熟した、ということを、我々が決定する規準(標識, criteria)を見分けることだ。
 マルクス主義は、この規準がどういうものなのかを示していない。
 レーニンはしばしば、プロレタリアートは(sc. 『物事の本質において』)革命的階級だと述べた。
 しかしながら、これは、プロレタリアートは革命的意識を自分で発展させるということではなく、その意識を党から受け取ることがことができる、ということのみを意味した。
 ゆえに、レーニンは『ブランキ主義者』ではないが、彼は、党だけが革命的意識の首唱者であり淵源だと考えた。
 『主観的要因』は、社会主義へと前進するためのたんに必要な条件である(メンシェヴィキも含めて全てのマルクス主義者が認めるように)のではなく、プロレタリアートからの助けなくしては革命を開始することはできないけれども、革命的意識を真に創り出すものなのだ。
 マルクス自身は決してこのような表現方法では問題を設定しなかったけれども、この点に関するレーニンの見解はマルクス主義の『歪曲』だと判断する根拠が、十分にあるのではない。// 
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 第3節・民族問題へとつづく。

1596/党と運動⑤-L・コワコフスキ著16章2節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第16章・レーニン主義の成立。
 前回のつづき。
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 第2節・党と労働者運動-意識性と自然発生性⑤。
 党員条項をめぐる論争は、実際に、党組織に関する二つの対立する考え方(ideas)を反映していた。これについてレーニンは、大会およびのちの諸論考で多くのことを語った。
 彼の見解では、マルトフ、アクセルロート(Akselrod)およびアキモフ(Akimov)が提案した『緩い』条項は、党を助ける教授にも中学生にも、あるいはストライキから出てきた労働者にも、全てに党員だと自称することを認めることになる。
 これが意味するのは、党が結合力と紀律および自分の党員たちへの統制を失う、ということだ。党は、上からではなく下から建設された大衆組織に、中央集中的な行動には適さない、自律的な単位の集合体に、なってしまうだろう。
 レーニンの考えは、正反対のものだった。すなわち、党員資格の厳しく定義された条件、厳格な紀律、その諸組織に対する党機関の絶対的な統制、党と労働者階級の間の明確な区別。
 メンシェヴィキはレーニンを、党生活への官僚主義的な態度を採用する、労働者階級を侮蔑する、独裁する野望をもつ、そして党全体を一握りの指導者に従属させる望みをもつ、と批判した。
 レーニンの側では、彼は大会のあとで書いた(<一歩前進二歩後退>、1904年。全集7巻p.405の注.〔=日本語版全集7巻435頁注(1)〕)。
 『マルトフ同志の基本的な考え-党への自主登録-は、まさしく偽りの「民主主義」で、下から上へと党を建設するという考えだ。
 一方、私の考えは、党は上から下へと、党大会から個々の党組織へと建設されるべきだという意味で、「官僚主義的」だ。』(+)//
 レーニンは、この論争の基本的な重要性を、最初から適切に感知していた。のちにはいくつかの場合に、この論争をジャコバン派とジロンド派の争論になぞらえた。
 これは、ベルンシュタインの支持者とドイツ正統派の間の論争よりは、適切な比較だった。というのは、メンシェヴィキの位置はドイツ社会民主党の中央にほとんど近かったからだ。
 メンシェヴィキは、より中央集中的でない、より『軍事的』でない組織を支持し、党は名前やイデオロギーについてのみならず、可能なかぎり多くの労働者を包含し、たんなる職業的革命家の一団ではないことによってこそ労働者階級の党だ、と考えた。
 彼らは、党は個々の諸組織に相当程度の自律を認めるべきで、もっぱら指令の方法によって諸組織との関係をもつべきではない、と考えた。
 彼らはレーニンを、外部から注入されるべき意識という教理を受容はするけれども、労働者階級を信頼していないと批判した。
 メンシェヴィキが他の問題についても異なる解決方法を採用する傾向にあることは、すみやかに明白になった。規約のただ一つの条項に関する論争が、党を実際に、戦略上および戦術上の諸問題にいわば本能的に異なって反応する二つの陣営へと分裂させた。
 メンシェヴィキはあらゆる事案について、リベラル派との同盟の方向へと引き寄せられた。
 一方でレーニンは、農民の革命と農民との革命的な同盟を強く主張した。
 メンシェヴィキは、合法的な行動形態や、可能になるならば、議会制度上の方法によって闘うことに重きを置いた。
 レーニンは長い間、ドゥーマ〔帝国議会下院〕に社会民主党が参加するという考えに反対し、その後もそれをたんなる情報宣伝の場所だと見なして、ドゥーマが定めるいかなる改革をも信頼しなかった。
 メンシェヴィキは、労働組合の活動を強く主張し、法令制定またはストライキ行動によって労働者階級が確保しうる全ての改良がもつ、固有の価値を強調した。
 レーニンにとっては、全てのそのような活動は、最終的な闘いを準備するのを助けるかぎりでのみ有意味だった。
 メンシェヴィキは、民主主義的自由をそれ自体で価値があるものと見なしたが、一方でレーニンにとってそれは、特殊な事情で党のために役立ちうる武器にすぎなかった。
 この最後の点で、レーニンは、ポサドフスキー(Posadovskii)が大会で行った特徴的な言明に賛成して、引用する。
 『我々は将来の政策を一定の基本的な民主主義原理(principles)に従属させて、それに絶対的な価値があると見なすべきか?
 それとも、全ての民主主義原理はもっぱら我々の党の利益に従属しているものであるべきか?
 私は断固として、後者の立場に賛同する。』
 (全集7巻p.227.)(++)
 プレハノフも、この見地を支持した。このことは、党が代表すると想定される階級の直接的利益を含めて種々の考察をする中で、『党の利益』をまさに最初から、いかに最も貴重なものとしているかを例証するものだ。
 レーニンの他の著作も、彼が『自由(freedom)』それ自体にはいかなる価値も与えていないことについて、疑問とする余地を残していない。演説や小冊子は、『自由への闘い』への言及で充ち溢れているているけれども。
 『この自由をプロレタリアが利用するという独自の運動(cause)に役立つことのない、この自由を社会主義へのプロレタリアの闘争のために使う運動に役立つことのない、一般論としての自由の運動のために役立つものは、分析をし尽くせば、平易かつ単純に、ブルジョアジーの利益のための闘士なのだ。』(+)
 (雑誌<プロレタリア>内の論考『新しい革命的労働者同盟』、1905年6月。全集8巻p.502.〔=日本語版全集8巻507頁〕)//
 このようにして、レーニンは、のちに共産党となるものの基礎を築いた。-すなわち、こう特徴づけられる党。観念大系の一体性、有能性、階層的かつ中央集中的構造、そして、プロレタリアート自身は何を考えていようとその利益を代表するという確信。
 戦術上の目的がある場合は別として、それが代表すると自認する人民の実際の欲求や熱望を無視することのできる、そういう『科学的知見』を持つがゆえに、その利益が自動的に労働者階級の利益、および普遍的な進歩の利益となることを宿命づけられている党。//
 (+秋月注記) 日本語版全集を参考にして、ある程度は変更した。
 (++) 日本語版全集7巻で、この文章は確認できなかった(2017.06.21)。
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 ⑥へとつづく。

1595/犯罪逃亡者レーニン②-R・パイプス著10章12節。

 前回のつづき。
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 第12節・蜂起の鎮圧、レーニン逃亡・ケレンスキー独裁②。
 兵士たちは、7月6日から7日の夜の間に、ステクロフの住居にやって来た。彼らがステクロフの居室を壊して彼を打ちのめそうと脅かしたとき、彼は電話して救いを求めた。
 イスパルコムは、二台の装甲車で駆けつけて、彼を守った。ケレンスキーも、ステクロフの側に立って仲裁した。
 同じ夜に、兵士たちは、レーニンの妹のアンナ・エリザロワ(Anna Elizarova)のアパートに現われた。
 部屋を捜し回ったとき、クルプスカヤは彼らに向かって叫んだ。『憲兵たち! 旧体制のときとそっくりだ!』
 ボルシェヴィキ指導者たちの探索は、数日の間つづいた。
 7月9日、私有の自動車を調べていた兵団がカーメネフを逮捕した。この際には、ペテログラード軍事地区司令官のポロヴツェフの力でリンチ行為は阻止され、ポロヴツェフはカーメネフを自由にしたばかりではなく、彼を自宅に送り届ける車を用意した。
 結局は、暴乱に参加したおよそ800人が収監された。(*)
 確定的に言えるかぎりで、ボルシェヴィキは一人も、身体的には傷つけられなかった。
 しかしながら、ボルシェヴィキの所有物に対しては、相当の損傷が加えられた。
 <プラウダ>の編集部と印刷所は、7月5日に破壊された。
 クシェシンスキー邸を護衛していた海兵たちが無抵抗で武装解除されたあと、ボルシェヴィキ司令部〔クシェシンスキー邸〕もまた、占拠された。
 ペトロ・パヴロ要塞は、降伏した。//
 7月6日、ペテログラードは、前線から新たに到着した守備軍団によって取り戻された。//
 ボルシェヴィキ中央委員会は7月6に、レーニンのレベルでの叛逆嫌疑の訴追を単調に否定し、詳細な調査を要求した。
 イスパルコムは、強いられて、5人で成る陪審員団を任命した。
 偶然に、5人全員がユダヤ人だった。このことはその委員会について、レーニンに有利だという疑いを、『反革命主義者』に生じさせたかもしれない。そこで、委員会は解散され、新しくは誰も任命されなかった。//
 ソヴェトは実際、レーニンに対する訴追原因について調査しなかったが、被疑者の有利になるように断固として決定することもしなかった。
 レーニンの蜂起は、5月以来のそれと緊密に連関して、政府に対してと同程度にソヴェトに対して向けられていた。それにもかかわらず、イスパルコム〔ソヴェト執行委員会〕は、現実と向き合うことをしようとしなかった。
 カデット〔立憲民主党〕の新聞の表現によると、社会主義知識人たちはボルシェヴィキを『叛逆者』と呼んだが、『同時に、何も起こらなかったかのごとく、ボルシェヴィキの同志たちのままでいた。社会主義知識人たちは、ボルシェヴィキとともに活動し続けた。彼らは、ボルシェヴィキとともに喜んだり考えたりした。』(186)
 メンシェヴィキとエスエルは今、以前と今後もそうであるように、ボルシェヴィキをはぐれた友人のごとく見なし、彼らの敵は反革命主義者だと考えた。
 彼らは、ボルシェヴィキに向けられた追及がソヴェトや社会主義運動全体に対する攻撃をたんに偽ったものなのではないかと、怖れた。
 メンシェヴィキの< Novaia zhizn >は、つぎのように、Den' 〔新聞 ND = Novyi den' 〕から引用する。//
 『今日では、有罪だとされているのはボルシェヴィキだ。明日は、労働者代表ソヴェトに嫌疑がかかるだろう、そして、革命に対する聖なる戦争が布告されるだろう。』//
 この新聞はレーニンに対する政府の追及を冷たくあしらい、『ブルジョア新聞』は『嘆かわしい中傷』や『粗雑なわめき声』だとして非難した。
 これは、『意識的に労働者階級の重要な指導者の名誉をひどく毀損』している者たち-おそらくは臨時政府-を強く非難しようとしていた。
 レーニンに対する追及は『誹謗中傷』だとしてレーニンの弁護に飛びついた社会主義者の中には、マルトフ(Martov)がいた。(**)
 こうした主張は、事案の事実とは何も関係がなかった。イスパルコムは政府に証拠の開示を求めなかったし、自分たち自身で詳しい調査をしようともしなかった。//
 そうであっても、ボルシェヴィキを政府による制裁から守るのは多大な痛みにはなった。
 7月5日の早くに、イスパルコムの代表団がクシェシンスカヤ邸へ行き、この事件の平和的な解決に関するボルシェヴィキ側の条件を議論した。
 彼らは全員が、党に対する抑圧はもうないだろう、事件に関係して逮捕されている者はみな解放されるだろう、ということで合意した。
 イスパルコムはそして、ポロヴツェフに対して、いつ何時でもしそうに思えたので、ボルシェヴィキ司令部を攻撃しないように求めた。
 レーニンに関係がある政府文書の公表を禁止する決定も、裁可した。//
 レーニンは自分でいくつかの論考を書いて、自己弁護した。
 < Novaia zhizn >に寄せたジノヴィエフとカーメネフとの共同論文では、レーニンは、自分のためにでも党のためにでも、ガネツキーやコズロフスキーから『一コペック〔硬貨の単位〕』たりとも決して受け取っていない、と主張した。
 事態の全体は新しいドレフュス(Dreyfus)事件または新しいベイリス(Beilis)事件で、反革命の指揮をしているアレクジンスキー(Aleksinsky)によって組み立てられたものだ。
 7月7日、レーニンは、この状況では審判に出席しない、彼もジノヴィエフも、正義が行われると期待することができない、と宣言した。//
 レーニンはつねに、その対抗者の決意を大きく評価しすぎるきらいがあった。
 彼は、彼とその党は終わった、パリ・コミューンのように、たんに将来の世代を刺激するのに役立つだけの運命だ、と確信していた。
 レーニンは、党中央をもう一度外国へ、フィンランドかスウェーデンに移すことを考えた。
 彼は、その理論上の最後の意思、遺言書、『国家に関するマルクス主義』の原稿(のちに<国家と革命>の基礎として使われた)を、最後のものには殺される事態が生じれば公刊してほしいという指示をつけて、カーメネフに託した。
 カーメネフが逮捕されてほとんどリンチされかけたあとで、レーニンはもはや成算はないと決めた。
 7月9日から10日にかけての夜、レーニンは、ジノヴィエフとともに、小さな郊外鉄道駅で列車に乗り込み、田園地方へと逃れて、隠れた。//
 党が破壊される見通しに直面していた際のレーニンの逃亡は、ほとんどの社会主義者には責任放棄に見えた。
 スハノフの言葉によると、つぎのとおりだ。//
 『逮捕と審問に脅かされてレーニンが姿を消したことは、それ自体、記録しておく価値のあることだ。
 イスパルコムでは誰も、レーニンがこのようにして『状況から逃げ出す』とは想定していなかった。
 彼の逃亡は我々仲間にな巨大な衝撃を生み、あらゆる考えられる方法での熱心な議論を生じさせた。
  ボルシェヴィキの間では、ある程度はレーニンの行動を是認した。
 しかし、ソヴェトの構成員のうちの多数派の反応は、鋭い非難だった。
 軍やソヴェトの指導者たちは、正当な怒りの声を発した。
 反対派は、その意見を明らかにしないままでいた。しかし、その見解は、政治的および道徳的観点からレーニンを無条件に非難する、というものだった。<中略>
 羊飼いが逃げれば、羊たちに大きな一撃を与えざるをえないだろう。
 結局、レーニンに動員された大衆が、七月の日々に対する責任の重みの全体を負った。<中略>
 「本当の被告人(culprit)」が、軍、同志たちを捨てて、個人的な安全を求めて逃げた!』//
 スハノフは、レーニンの逃亡は、彼の人生でも個人的な自由行動でもあえて危険を冒さなかったほどの、最も非難されてしかるべきことだと見られた、と付け加える。//
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  (*) Zarudnyi, in : NZh, No. 101 (1917年8月15日), p.2。Nikitin, Rokovye gody, p.158 は、2000人以上だった、とする。
  (186) NV = Nash vek, No. 118-142 (1918年7月16日), p.1。
  (**) 8月4日に、ツェレテリが提案して、イスパルコムは、7月事件に関与した者を迫害から守るという動議を、このような迫害は『反革命』の始まりを画するという理由で、採択した。
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 ③へとつづく。

1593/犯罪逃亡者レーニン①-R・パイプス著10章12節。

 前回第11節終了からのつづき。
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 第12節・蜂起の鎮圧、レーニン逃亡・ケレンスキー独裁①。
 こうした事態が推移していたとき、ケレンスキーは戦線にいた。
 恐れおののいた大臣たちは、何もしなかった。
 タウリダ宮の前の数千人の男たちの叫び声、見知らぬ目的地へと走る兵士や海兵を乗せた車の光景、守備軍団が放棄したとの知識、これらは、大臣たちを絶望感で充たした。
 ペレヴェルツェフによると、政府は、実際には捕らえられていた。//
 『私は、資料文書を公表する前に、7月4日蜂起の指導者たちを逮捕することはしなかった。彼らの決意が彼らの犯罪の活力の十分の一でもあれば、そのときに彼らはすでに実際にはタウリダ宮の臨時政府の一部を征圧して、何の危険を冒すことなくルヴォフ公、私自身そしてケレンスキーの議員団を拘束することができた、という理由でだけだ。』//
 ペレヴェルツェフは、この絶望的な状況下で、兵士たちの間に激しい反ボルシェヴィキの反応を解き放つことを期待して、レーニンのドイツとの関係について、利用できる情報の一部を公表することに決めた。
 彼は二週間前に、この情報を公表しようと強く主張していた。しかし、内閣は、(メンシェヴィキの新聞によると)『ボルシェヴィキ党の指導者に関する事柄には、慎重さを示すことが必要だ』という理由で、彼の提案を却下していた。
 ケレンスキーはのちにレーニンに関する事実を発表したのは『赦しがたい』過ちだったとしてペレヴェルツェフを非難したけれども、ケレンスキー自身が7月4日に騒擾のことを知って、『外務大臣が持つ情報を公開するのを急ぐ』ように、ルヴォフに対して強く迫った。
 ニキーチン総督およびポロヴツェフ将軍と確認したあとで、ペレヴェルツェフは、報道関係者とともに80人以上のペテログラードおよびその周辺の駐留軍団代表者を、彼の執務室へと招いた。
 これは、午後5時頃のことだった。タウリダでの騒乱は最高度に達していて、ボルシェヴィキのクーはすぐにでも達成されるように見えた。(*)
 将来に見込まれるボルシェヴィキ指導者の裁判での最も明確な有罪証拠資料を守るために、ペレヴェルツェフは、持っている証拠の断片だけや、価値がきわめて乏しいものを公表した。
 それは、D・エルモレンコ(Ermolenko)中尉のあいまいな調書で、彼はドイツ軍の戦時捕虜だった間に、レーニンはドイツ軍のために働いていると言われた、と報告していた。
 こうした伝聞証拠は、政府関係の事件では、とくに社会主義者関係のそれでは、多大に有害なものだった。
 ペレヴェルツェフはまた、ストックホルムを経由したボルシェヴィキのベルリンとの金銭関係に関する情報も、ある程度は発表した。
 彼は愚劣にも、信用のないかつてのボルシェヴィキ・ドゥーマ〔帝制国会下院〕議員団長、G・A・アレクジンスキーに対して、エルモレンコの調書の信憑性を調べてほしいと頼んだ。//
 司法省にいる友人、カリンスキーはすぐに、ペレヴェルツェフがまさにしようとしていることをボルシェヴィキに警告した。それによってスターリンは、レーニンに関する『誹謗中傷』の情報をばらまくのを止めるようにイスパルコム〔ソヴェト執行委員会〕に求めた。
 チヘイゼとツェレテリは、ペテログラードの日刊新聞社の編集部に電話をかけ、イスパルコムの名前で、政府が発表したことを新聞で公表しないように懇請した。
 ルヴォフ公も、同じようにした。そして、テレシェンコとネクラソフ(Nekrasov)も。(**)
 全ての新聞社が、一つだけを除いて、この懇請を尊重した。
 その一つの例外は、大衆紙の < Zhivoe slovo >だった。
 この新聞の翌朝の第一面の大見出し--レーニン・ガネツキーと共謀スパイたち--のあとにはエルモレンコの調書と、ガネツキーを通してコズノフスキーとスメンソンに送られたドイツの金に関する詳細が続いていた。
 この情報を記載した新聞紙は、街中に貼られた。//
 レーニンとドイツに関するこの暴露情報は、ペレヴェルツェフの説明を受けた連隊の使者から伝わり、諸兵団に電流を通したかのような効果をもった。
 ほとんど誰も、ロシアはソヴェトと友好関係にある臨時政府によって統治されているのか、それともソヴェトのみによって統治されているのか、などとは気に懸けなかった。敵国と協力していることに関して、感情的になった。
 敵国領土を縦断した旅で生じたレーニンにつきまとう疑念によって、レーニンは兵団にはきわめて不人気になっていた。
 ツェレテリによると、レーニンは制服組から嫌われているのでイスパルコムに保護を求めなければならなかった。
 タウリダに最初に到着したのはイズマイロフスキー守備兵団で、プレオブラジェンスキーと、軍楽隊のあとで行進したセメノフスキーの各兵団が続いた。
 コサック団も、現われた。
 兵団が接近してくるのを見聞きして、タウリダ正面の群衆たちは、慌てふためいてあらゆる方向へと逃げた。何人かは、安全を求めて宮の中に入った。//
 このときタウリダ宮の内部では、イスパルコムとボルシェヴィキ・工場『代表団』との間の議論が進行中だった。
 メンシェヴィキとエスエルたちは、政府が救出してくれるのを期待して、時間を潰していた。
 政府側の兵団がタウリダ宮に入ってきた瞬間、彼らはボルシェヴィキの提案を拒否した。//
 反乱者たちがそれぞれに分散したので、ほとんど暴力行為は行われなかった。
 ラスコルニコフは海兵たちにクロンシュタットへ戻るように命令し、400人をクシャシンスカヤ邸を守るために残した。
 海兵たちは最初は離れるのを拒んだが、勢力が優る非友好的な政府側の軍団に囲まれたときに屈服した。
 深夜までには、群衆は、タウリダにいなくなった。//
 事態の予期せぬ転回によって、ボルシェヴィキは完全に混乱に陥った。
 レーニンは、カリンスキーからペレヴェルツェフの行動を知るやただちに、タウリダから逃げた。それは、兵士たちが姿を現わす、寸前のことだった。
 レーニンが逃げたあと、ボルシェヴィキは会議を開いた。その会議は、蜂起を中止するという決定を下して終わった。
 正午頃に彼らは、大臣職の書類を配布されていた。6時間後には、探索される獲物の身になった。
 レーニンは、全ては終わった、と思った。
 彼は、トロツキーに言った。『今やつらは我々を撃ち殺すつもりだ。やつらには最も都合のよいときだ』。(181)
 レーニンはつぎの夜を、ラスコルニコフの海兵たちに守られて、クシェシンスカヤ邸で過ごした。
 7月5日の朝、新聞紙< Zhinvoe slovo >の売り子の声が通りに聞こえているときに、レーニンとスヴェルドロフは抜け出して、仲間のアパートに隠れた。
 つづく5日間、レーニンは地下生活者になり、毎日二度、いる区画を変更した。
 他のボルシェヴィキ指導者たちは、ジノヴィエフを除いて、逮捕される危険を冒して公然としたままだった。ある場合には、逮捕するのを要求すらした。//
 7月6日、政府は、レーニンとその仲間たちの探索を命じた。全員で11人で、『国家叛逆(high treason)と武装蜂起の組織』で訴追するものだった。(***)
 コズロフスキーとスメンソンは、すみやかに拘引された。
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  (*) NZh = Novaia zhin', No. 68 (1917年7月7日), p.3。この事態に関するペレヴェルツェフの説明は、つぎの編集部あて書簡にある。NoV = Novoe vremia, No. 14-822 (1917年7月9日), p.4。ペレヴェルツェフは、その回想をつぎで公刊した、と言われる。PN = Poslednie novosti, 1930年10月31日。しかしこの新聞のこの号を私は利用できなかった。
  (**) Zhivoe slovo, No. 54-407 (1917年7月8日) p.1。参照、Lenin, PSS, XXXII, p.413。ルヴォフは、早すぎる公表は機密漏洩罪になるだろうと編集者たちに言った。  
  (181) Leon Trotzky, O Lenin (モスクワ, 1924), p.58。
  (***) Alexander Kerensky, The Crucifixion of Liberty (ニューヨーク, 1934), p.324。その11人とは、以下のとおり。レーニン、ジノヴィエフ、コロンタイ、コズロフスキー、スメンソン、パルヴゥス、ガネツキー、ラスコルニコフ、ロシャル、セマシュコ、およびルナチャルスキー。トロツキーはリストに載っていなかった。おそらくは、ボルシェヴィキ党の党員ではまだなかったためだ。彼は7月末にようやく加入した。トロツキーはのちに、収監される。
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 本来の改行箇所ではないが、ここで区切る。②へとつづく。

1592/党と運動④-L・コワコフスキ著16章2節。

 第16章・レーニン主義の成立。
 前回のつづき。
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 第2節・党と労働者運動-意識性と自然発生性④。
 党に関するレーニンの教理が『エリート主義』ではないということが分かるだろう。
 あるいは、社会主義の意識は外部から自然発生的な労働者運動に導入されるという理論は、レーニンの党を中央集中的で教条的で頭を使っていないがきわめて効率的な機械にするようになり、とくに革命後にそうなった。
 この機械の理論上の淵源は、というよりもそれを正当化するものは、党は社会に関する科学的な知識をもつために政治的主導性の唯一の正統な淵源だ、とするレーニンの確信だった。
 これはのちに、ソヴィエト国家の原理(principle)になった。そこでは、同じイデオロギーが、社会生活の全ての分野での主導性を党が独占することを、そして党の位置を社会に関する知識の唯一の源泉だと見なし、したがって社会の唯一の所有者だと見なすことを、正当化するのに役立つ。
 全体主義的(totalitarian)国家の全体系が、意識的に目論まれて、1902年に表明されたレーニンの教理の中で述べられていた、と主張するのは、むろん困難だろう。
 しかし、権力奪取の前と後での彼の党の進化は、ある程度は、マルクス主義者の、あるいはむしろヘーゲル主義者の、不完全だが歴史的秩序に具現化される『物事の論理的整序』という信念を確証するものだ。
 レーニンの諸命題は、社会的階級、つまりプロレタリアートの利益と目標は、その問題についてその階級は一言も発することなくして決定されることができるし、またそうされなければならない、と信じることを、我々に要求する。
 同じことは、そのうえさらに、いったんその階級に支配され、そのゆえにおそらくその階級の目標を共有した社会全体について、また全体の任務、目的およびイデオロギーがいったん党の主導性によって支配されてその統制のもとに置かれた社会全体について、当てはまる。
 党の主導権に関するレーニンの考え(idea)は、自然に、社会主義社会における党の『指導的役割』という考えへと発展した。--すなわち、党はつねに社会それ自体よりも社会の利益、必要、そして欲求すらをよく知っている、民衆自身は遅れていてこれらを理解できず、党だけがその科学的知識を使ってこれらを見抜くことができる、という教理にもとづく専政体制(独裁, despotism)へと。
 このようにして、一方では夢想主義(utopianism)に対抗し、他方では自然発生的な労働者運動に対抗する、『科学的社会主義』という想念(notion)が、労働者階級と社会全体を支配する一党独裁のイデオロギー上の基盤になった。//
 レーニンは、党に関するその理論を決して放棄しなかった。
 彼は、第二回党大会のとき、<何をなすべきか>で僅かばかり誇張した、と認めた。しかし、どの点に関してであるのかを語らなかった。
 『我々は今ではみな、「経済主義者」が棒を一方に曲げたことを知っている。
 物事をまっすぐに伸ばすためには、誰かが棒を他の側に曲げ返さなければならなかった。それが私のしたことだ。
 私は、いかなる種類の日和見主義であってもそれによって捻られたものを何でも、ロシア社会民主党がつねに力強くまっすぐに伸ばすだろうと、そしてそのゆえに、我々の棒はつねに最もまっすぐであり、最も適任だろうと、確信している。』(+)
 (党綱領に関する演説、1902年8月4日。全集6巻p.491〔=日本語版全集6巻506頁〕.)//
 <何をなすべきか>はどの程度において単一性的な党の理論を具体化したものかを考察して、さらなる明確化がなされなければならない。
 このときそしてのちにも、レーニンは、党の内部で異なる見解が表明されることを、そして特殊な集団が形成されることを、当然のことだと考えていた。
 彼は、これは自然だが不健全だと考えた。原理的には(in principle)、唯一つの集団だけが、所与の時点での真実を把握できるはずだからだ。
 『科学を前進させたと本当に確信している者は、古い見解のそばに並んで新しい見解を主張し続ける自由をではなく、古い見解を新しい見解で置き換えることを、要求するだろう。』(+)(全集5巻p.355〔=日本語版全集5巻371頁〕.)
 『悪名の高い批判の自由なるものは、あるものを別のものに置き換えることを意味しておらず、全ての統括的で熟考された理論からの自由を意味している。
 それは、折衷主義および教理の欠如を意味する。』(+)(同上, p.369〔=日本語版全集5巻388頁〕.)
 レーニンが、重要な問題についての分派(fractionalism)や意見の差違は党の病気または弱さだとつねに見なしていた、ということに疑いはあり得ない。
 全ての異見表明は過激な手段によって、直接の分裂によってか党からの除名によって、治癒されるべきだとレーニンが述べるかなり前のことではあったが。
 正式に分派が禁止されたのは、ようやく革命後にだった。
 しかしながら、レーニンは、重要な問題をめぐって同僚たちと喧嘩別れすることをためらわなかった。
 大きな教理上のおよび戦略上の問題のみならず組織の問題についても、全ての見解の相違は結局のところは階級対立を『反映』しているとレーニンは考えて、彼は自然に、党内での彼への反抗者たちを、何らかの種類のブルジョア的逸脱の『媒介者』だと、またはプロレタリアートに対するブルジョアの圧力の予兆だと、見なした。
 彼自身がいつでもプロレタリアートの真のそして最もよく理解された利益を代表しているということに関しては、レーニンは、微少なりとも疑いを抱かなかった。//
 <何をなすべきか>で説かれた党に関する理論は、第二回党大会でのレーニンの組織に関する提案で補完された。
 第二回党大会は長い準備ののちにブルッセルで1903年7月30日に開かれ、のちにロンドンへと移されて8月23日まで続いた。
 レーニンは、春から住んでいたジュネーヴから出席した。
 最初のかつ先鋭的な意見の相違点は、党規約の有名な第1条に関するものだった。
 レーニンは、一つまたは別の党組織で積極的に活動する者に党員資格を限定することを望んだ。
 マルトフ(Martov)は、一方で、党組織の『指導と指揮のもとで活動する』者の全てを受け入れるより緩やかな条項を提案した。
 この一見すれば些細な論争は、分裂に似たもの、二つの集団の形成につながった。この二つは、すぐに明確になったが、組織上の問題のみならず他の多くの問題について、分かれた。
 レーニンの定式は、プレハノフ(Plekhanov)に支持されたが、少しの多数でもって却下された。
 しかし、大会の残り期間の間に、二つの集団、すなわちブント(the Bund、ユダヤ人労働者総同盟)と定期刊行物の < Rabocheye Delo >を代表する『経済主義者』が退席したおかげで、レーニンの支持者たちは、僅かな優勢を獲得した。
 こうして、レーニンの集団が中央委員会や党会議の選挙で達成した少しばかりの多数派は、有名な『ボルシェヴィキ』と『メンシェヴィキ』、ロシア語では『多数派』と『少数派』、という言葉を生み出した。
 この二つはこのように、もともとは偶然のものだった。しかし、レーニンとその支持者たちは、『ボルシェヴィキ(多数派)』という名称を掴み取り、数十年の間それに執着した。その後の党の推移全般にわたって、ボルシェヴィキが多数派集団だと示唆し続けた。
 他方で、大会の歴史を知らない多くの人々は、この言葉を『最大限綱領主義者(Maximalist)』の意味で理解した。
 ボルシェヴィキたち自身は、このような解釈を示唆することは決してなかった。//
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 (+秋月注記) 日本語版全集の訳を参考にして、ある程度は変更した。
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 ⑤へとつづく。

1591/党と運動③-L・コワコフスキ著16章2節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976)。
 第16章・レーニン主義の成立。
 前回のつづき。
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 第2節・党と労働者運動-意識性と自然発生性③。
 レーニンの新しさは、第一に、自然発生的な労働者階級運動は、それが社会主義の意識を発展させることができず、別の種類の意識も存在しないために、ブルジョア意識をもつに違いない、という言明のうちにある。
 この考えは、レーニンが引用するカウツキーの議論のいずれにも、マルクス主義の諸命題のいずれにも、従っていない。
 レーニンによれば、全ての社会運動は、明確な階級的性格をもつ。
 自然発生的な労働者運動は社会主義の意識を、すなわち言葉の適切な理論的および歴史的意味でのプロレタリアの意識を生み出すことができないので、奇妙に思えるのだが、社会主義政党に従属しなければ労働者運動はブルジョアの運動だ、ということになる。
 これは、第二の推論によって補充される。
 言葉の真の意味での労働者階級運動、すなわち政治的革命運動は、労働者の運動であることによってではなく、正しい(right)観念大系を、つまり定義上『プロレタリア』的であるマルクス主義の観念大系(ideology)を持っていることによって、明確になる。
 言い換えれば、革命党の階級構成は、その階級的性格を決定するに際して重要な意味を持たない。
 レーニンは一貫して、この見地を主張した。そして例えば、イギリス労働党はその党員は労働者であるがブルジョア政党だと考える。一方で、労働者階級に根源を有しない小集団も、マルクス主義観念大系への信条を告白しているかぎりで、プロレタリアートの唯一つの代表だと、プロレタリアの意識の唯一つの具現体だと自己宣告する資格がある、と考える。
 これは、レーニン主義の諸政党が、現実の労働者の間では最小限度の支持すら得なかった政党を含めて、かつてから考えてきたことだ。//
 以上のことは勿論、レーニンは自分の党の構成に無関心だったことを意味していないし、レーニンが知識人たちのみから成る革命組織を設立しようと意図したことを意味していない。
 他方でレーニンは、党における労働者の割合は可能なかぎり高くあるべきだと、しばしば主張した。また彼は、知識階層を極度の侮蔑でもって処遇した。
 『知性的』との言葉はレーニンの語彙の中の蔑称であり、決まって、『優柔不断な、頼りにならない、紀律のない、個人主義にとらわれた、移り気な、空想的な』等々を意味するものとして使われた。
 (レーニンが最も信頼した党活動家たちは、労働者階級の出自だった。スターリンやマリノフスキー(Malionovsky)のように。
 後者は、のちに判るようにオフラーナ(Okhrana、ロシア帝国政治秘密警察部局)の工作員でレーニンの最も近い協力者としてきわめて貴重な奉仕をその主人のためにしたのだったが、党の全ての秘密を自由に使えた。)
 レーニンが労働者を知識人で『置き換える』のを意図したこと、あるいはたんに知識人だという理由で知識人を社会主義の意識の体現者だと見なしたこと、についての疑問は存在し得ない。
 その具現体とは<党>であり、述べたように、知識人と労働者の間の区別が消失する、特殊な種類の一体だった。
 知識人たちは知識人であることをやめ、労働者たちは労働者であることをやめた。
 いずれも、厳格に中央集中化した、よく訓練された革命組織の構成分子だった。//
 かくして、レーニンによると、党は『正しい(correct)』理論上の意識を持って、現実の経験上のプロレタリアートが自分たち自身または党に関して考えているかもしれないこととは無関係に、プロレタリアの意識を体現化する。
 党はプロレタリアートの『歴史的』利益がどこにあるかを知っており、いかなる瞬間においてもプロレタリアートの真の意識がどこにあるべきかを知っている。その経験上の意識は、一般的には遅れていると分かるだろうとしても。
 党は、そうすべきだとプロレタリアートが合意しているがゆえにではなくて、社会の発展法則を知り、マルクス主義に従う労働者階級の歴史的使命を理解しているがゆえに、プロレタリアートの意識を代表する。
 この図式では、労働者階級の経験上の意識は、鼓舞させる源としてではなく、障害物として、克服されるべき未熟な状態として現われる。
 党は、現実の労働者階級から、それが実践において党の支援を必要としている場合を除いて、完全に自立したものだ。
 こうした意味で、党の主導性に関するレーニンの教理は、政治上は、労働者階級は『置き換えられ』ることができるし、そうされなければならない。--しかしながら、知識人によってではなく、党によって。
 党は、プロレタリアの支援なくして有効に活動することはできない。しかし、政治的な主導権を握り、プロレタリアートの目標は何であるはずかを決定するのは、唯一つ、党だけだ。
 プロレタリアートには、自分の階級の目標を定式化する能力がない。そう努力したところで、その目標は、資本主義の制限の範囲内に限定された、ブルジョアのそれになるだろう。//
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 秋月注記/ロマン・マリノフスキー(Roman Malinovsky)について、リチャード・パイプス著・ ロシア革命(1990)の第9章第4節に論及がある。
 すでに試訳して紹介した、「レーニンと警察の二重工作員①・②=マリノフスキーの逸話①・②-R・パイプス著」、この欄の№1463・№1464=1917年3/22付と同年3/23付を参照。
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 ④へとつづく。

1590/七月三日-五日の事件②-R・パイプス著10章11節。

 前回のつづき。
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 第11節・七月3日-5日の出来事②。
 他の工場や軍事分団から集まって群衆は膨れ上がり、その数は数万人になった。(+)
 ミリュコフ(Miliukov)は、タウリダ宮の正面で繰り広げられた情景を-自然発生的だという見かけにもかかわらず、群衆の中に分散していたボルシェヴィキ党員によって緊密に指揮されていた情景を-、つぎのように叙述する。//
 『タウリダ宮は、言葉の完全な意味での、闘争の焦点(the focus)になった。
 全日にわたって、武装した軍団がその周辺に集まり、ソヴェトが最後には権力を奪えと主張した。<中略>
 (午後4時頃、)クロンシュタットの海兵たちが到着し、建物の中に入ろうとした。
 彼らは司法大臣のペレヴェルツェフ(Pereverzev)に対して、ジェレツニャコフ(Zhelezniakov)の海兵やアナキストがドゥルノヴォ(Durnovo)邸に拘禁されている理由を説明せよと要求した。
 ツェレテリが出てきて、反抗的な群衆に、ペレヴェルツェフは建物内にいない、すでに辞任してもはや大臣ではない、と告げた。
 前者は本当だったが、後者はそうでなかった。
 直接に釈明されることがなかったので、群衆たちはしばらくは、どうすればよいか分からなかった。
 しかし、ついで、大臣たちはお互いに連帯して責任を負っている、との叫び声が鳴り響いた。
 ツェレテリを拘束しようとする企てがなされたが、彼は宮の中へと何とか逃れた。
 チェルノフ(Chernov)が宮から姿を現わして、群衆を静かにさせた。
 群衆はすぐに彼に突進し、武器を持っていないかと探した。
 チェルノフは、こんな状態では話せない、と宣告した。
 群衆は、沈黙した。
 チェルノフは、社会主義者大臣たちの仕事ぶりについて、一般的にかつ、とくに農務大臣である彼自身について、長い演説を始めた。
 カデット〔立憲民主党〕の大臣に比べれば、まだ安全なこと(bon voyage)だった。
 群衆たちは反応して叫んだ。
 「なぜ以前に、そう言わなかったのか?
 土地は労働者に、権力はソヴェトに移されていると、すぐに宣言せよ!」
 一人の背の高い労働者が拳を大臣の面前につき突けて、怒って叫んだ。
 「おい、おまえたちにくれたら、権力を奪え!」
 群衆の中の数人がチェルノフを捕まえて、車の方向に引き摺った。他の者たちは一方で、彼を宮の方に引っ張った。
 大臣のコートは引き千切られ、クロンシュタットの海兵たちはその身体を車の中に押し込んで、ソヴェトが権力を奪うまでは解放しないと宣言した。
 何人かの労働者たちがソヴェトが会議をしている部屋に突入して、叫んだ。
 「同志たちよ、チェルノフをやっつけているぞ!」
 混乱の真っ只中で、チハイゼはチェルノフを自由にさせるべく、カーメネフ、ステクロフ(Steklov)およびマルトフを指名した。
 しかし、チェルノフはトロツキーによって解放された。トロツキーは、その場に着いたばかりだった。
 クロンシュタットの海兵たちはトロツキーに従い、彼はチェルノフを連れて会議室に戻った。』(*) //
 そうした間に、レーニンは、目立つことなくタウリダに向かっていた。そこで、現場の事態に関与することなく、事態の展開に依拠しながら、権力を握り取るか、それとも示威活動は民衆の怒りが自然発生的に暴発したものだと宣告するか、を考えた。そして、その情景から姿を消した。
 ラスコルニコフは、レーニンは満足しているようだと思った。(165) //
 全ての行動がタウリダ宮で起こったわけではなかった。
 群衆がソヴェト所在地に集まっている間に、〔ボルシェヴィキ〕軍事機構が指令した武装分遣隊員が、戦略的な諸地点を占拠した。
 ボルシェヴィキが勝利する見込みは、ペトロ・パヴロ要塞の守備軍団、8000人余りがボルシェヴィキの側へと動いたことで、かなり良くなった。
 武装車のボルシェヴィキ分団は、いくつかの反ボルシェヴィキ新聞社から機械装備を取り上げた。
 アナキストたちは、新聞社の中で最も自由な< Novoe vremia〔新時代〕>を掌握した。
 他の分遣隊は、フィンランド駅とニコライ駅で警護任務を剥奪し、ネフスキー通りとその両側の通りに機関銃の砲台を設置した。この後者は、ペテログラード軍事地区の参謀がタウリダ宮から出てくるのを阻止する効果をもった。
 ある武装分団は、レーニンのドイツとの取引に関する資料が保存されている防諜機関の建物を攻撃した。
 抵抗には遭わなかった。
 リベラルな新聞社の判断によると、その日の推移の結果、ペテログラードはボルシェヴィキの手のうちに渡された。(167)//
 かくして段階は、正規の奪取へと設定された。すなわち、表面的にはソヴェトの名前での、現実にはボルシェヴィキのための、権力の奪取。
 この最高の事態を用意して、ボルシェヴィキは、54の工場から厳選した代表団をすでに編成していた。彼らは、ソヴェトが権力を掌握することを要求する請願書を持って、タウリダ宮で呼びかけることになっていた。
 この者たちは、イスパルコム〔ソヴェト執行委員会〕が占有している部屋に強引に入っていった。
 そのうち数人が、話すのを許された。
 マルトフとスピリドノワ(Spiridonova)は、彼らの要求を支持した。マルトフは、これは歴史の意思だ、ときっぱりと述べた。
 この時点で、反乱者たちが身体を張って埋め尽くして、ソヴェト所在地を奪ってしまうことになるようにも思える。
 ソヴェトには、このような脅威に対する何の防御もなかった。ソヴェトを防衛しているのは、全体で6人の護衛だった。//
 だが、それでもなお、ボルシェヴィキは最後の一撃(coup de grace)を放つことに失敗した。
 これは組織が貧弱だったからか、決意のなさによるのか、あるいはこの双方のゆえか、を語るのは不可能だ。
 ニキーチン(Nikitin)は、つぎのように述べて、ボルシェヴィキによる権力奪取の失敗を、拙劣な計画によるとして非難した。//
 『蜂起は、即興的に行なわれた。敵方の全ての行動は、それらが準備されていなかったことを示した。
 連隊や大きな分団は、主要地域に入っても、自分たちの直接の使命を知っていなかった。
 彼らは、クシェシンスキー邸〔ボルシェヴィキ本部〕のバルコニーから、「タウリダ宮〔ソヴェト本部〕へ行け、権力を奪え」と告げられた。
 彼らが行ってつぎの命令を待っている間に、それぞれが混じり合ってしまった。
 対照的に、トラックや武装車に乗った10人から15人の分隊や車の小分遣隊は、完全に自由な行動をした。全市にわたって大きな顔をした。
 しかし彼らも、鉄道駅、電話局、食糧貯蔵所、兵器庫という重要拠点や広く開いている全ての入り口を奪い取れという具体的な命令を受け取らなかった。
 街路は血で染まった、しかし指導者がいなかった……。』(**)//
 しかし、最終的な分析をするならば、ボルシェヴィキの失敗は、不適切な戦力や拙劣な計画以外の要因で惹起されたと思われる。
 今日の研究者たちは、市〔ペテログラード〕は、求めているボルシェヴィキのものだった、ということで合意している。
 上のような要因ではなくて、最高司令官の側にある、最後の瞬間の精神力(nerve)の失敗が原因だった。
 レーニンは、たんに決心できなかったのだ。
 この数日間をレーニンの側にいて過ごしたジノヴィエフによると、今は『やる(try)』ときなのか、そのときではないのか、レーニンは声を出して迷い続けていた。そして、そのときではない、と決めた。
 何らかの理由で、レーニンは、飛躍をする勇気を呼び覚ますことができなかった。
 ドイツとの取引が政府によって暴露されるということが引っ掛かっていて、その暗雲が彼を思いとどまらせた可能性がある。
 のちに二人ともに収監されていたとき、レーニンへの隠れた批判をしていたラスコルニコフに、トロツキーは言った。
 『おそらく、我々は過ちをおかした。
 我々は、権力を奪うべきだったのだ。』//
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  (+) ボルシェヴィキはその数を、50万人またはそれ以上だと推算する。V. Vladimir in : PR =Proletarskaia revoliutiia, No. 5-17 (1923), p.40。これはひどく水増しされている。示威活動に参加した群衆は、おそらくこの数の十分の一を超えなかった。参加したと知られる守備軍の一隊による分析が示しているのは、兵団のせいぜい15-20%が関与し、またはたぶんそれよりも少なそうだ、ということだ。B. I. Kochakov, in : Uchenye Zapski Leningradskovo Gosudarstvennogo Universiteta, No. 205 (1956), p.65-66、G. L. Sobolev, in : IZ, No. 88 (1971), p.77、を見よ。
 示威活動者の数をきわめて誇張するのは、そのときものちもボルシェヴィキの政策で、その目的は、自分たちは『大衆』を指揮しているのではなく彼らの圧力に対応しているのだ、という主張を正当化することにあった。目撃者による証拠資料である、以下を見よ。A. Sobolev, in : Rec,' No. 155-3-897 (1917年7月5日), p.1。
  (*) Miliukov, Istoriia Vtoroi Russkoi Revoliutsii, Ⅰ, Pt. 1 (ソフィア, 1921), p.243-4。チェルノフ事件に関する別の説明は、Vladimirova, in : PR = Proletarskaia revoliutiia, No.5-17 (1923), p.34-35、Raskolnikov, 同上, p.69-71 にある。
  (165) Raskolnikov, in : PR = Proletarskaia revoliutiia, No.5/17 (1923), p.71、No. 8-9/67-68 (1927), p.62。
  (167) NV= Nash vek, No. 118-142 (1918年7月16日), p.1。
  (**) Nikitin, Rokovye gody, p.148。ネヴスキーは、〔ボルシェヴィキ〕軍事機構は、敗北する可能性を予期して、慎重にその戦力の半分を残したままだった、と語る。Krasnoarmeets, No. 10-15 (1919.10), p.40。
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 第12節へとつづく。

1589/七月三日-五日の事件①-R・パイプス著10章11節。

 前回のつづき。
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 第11節・七月3日-5日の出来事①。 
 臨時政府は、ボルシェヴィキがしようとしていることを7月2日に知った。
 7月3日に、ドヴィンスク(Dvinsk)の第五軍の司令部と連絡をとって、兵団出動を求めた。
 誰もが、進んで何かしようとは思わなかった。少なくともその理由の一つは、その承認が必要なソヴェトの社会主義者たちが、実力行使に訴える権限を与えるのを躊躇したからだ。
 7月4日の早い時間に、ペテログラード軍事地区の新しい司令官、P・A・ポロフツェフは、武装示威活動を禁止し、守備兵団に対して秩序維持を助けるよう『示唆する』声明を発表した。
 軍事参謀部は、街頭騒擾を抑圧するために使える軍力を調べて、ほとんどが存在していないことに気づいた。いたのは、プレオブランジェスキー守備連隊の100人、ウラジミール兵学校からの一隊、2000人のコサック兵、50人の傷病兵だった。
 守備軍団の残りは、反乱兵士たちとの対立に巻き込まれるようになるのを望まなかった。//
 7月4日は、平穏のうちに始まった。誰もいない街頭の不思議な静けさが、何かが始まるのを暗示しているようだった。
 午前11時、車に乗った赤衛軍と一緒に、機関銃連隊の兵士たちが、市の要所を占拠した。
 同時に、クロンシュタットからきた5000人から6000人の海兵が、ペテログラードに上陸した。
 彼らの指揮官のラスコルニコフはのちに、政府が地上の砲台から彼らの一つふたつの小型船を射撃して阻止しなかったことに驚いた、と語った。
 海兵たちは、ニコラエフスキー橋近くの上陸埠頭から直接にタウリダへと進むよう、命令を受けていた。
 しかし、彼らが隊列を整えたとき、ボルシェヴィキの使者が、命令は変更された、クシェシンスキー邸〔ボルシェヴィキ本部〕へと行くように、と伝えた。
 そこにいたエスエルは抗議したが、無視された。エスエルのマリア・スピリドノワは海兵たちに演説すべく来ていたが、聴衆はいないままで放っておかれた。
 軍楽隊を先頭にし、『全権力をソヴェトへ』と書く旗を掲げながら、長い一団の縦列になって、海兵たちは、ヴァシリエフ島と株式交換所橋を縦断し、アレクサンダー広場に着いた。そこから、ボルシェヴィキの司令部へと、進軍し続けた。
 そこで彼らは、バルコニーから、ヤコフ・スヴェルドロフ(Iakov Sverdlov)、ポドヴォイスキー(Podvoiskii)およびM・ラシェヴィッチ(Lashevich)の挨拶を受けた。
 クシェシンスキー邸にわずか前に到着していたレーニンは、言葉を発することについてはっきりせずにためらいを示した。
 レーニンは最初は、体調が悪いという理由で海兵たちに語るのを拒んでいたが、最後には屈して、若干の短い言葉を述べた。
 海兵たちを歓迎して、レーニンはつぎのように語った。//
 『起きていることを見て、嬉しい。二ヶ月前に打ち上げた全権力の労働者、兵士を代表するソヴェトへという主張が今や、理論的スローガンから現実へと転化しているのが分かって、嬉しい』。(163)//
 このような注意深い言葉ですら、誰の心にも、ボルシェヴィキがクー・デタを実行していることを疑う余地を残さなかっただろう。
 これは、レーニンが10月26日までに公衆の前に姿を見せた、最後のことになった。//
 海兵たちは、タウリダへと向かった。
 彼らが出立したあとでボルシェヴィキ司令部内部で起きたことについては、ルナシャルスキーに教えられたスハノフの文章によって分かる。//
 『7月3日-4日の夜、「平和的な集団示威行進」を呼びかける宣言書を<プラウダ>に送る一方で、レーニンは、心のうちにクー・デタの計画を具体化していた。
 政治的権力-実際にはこれはボルシェヴィキ中央委員会によって掌握される-は、傑出しかつ著名なボルシェヴィキ党員で構成される「ソヴェト」省によって公式に具象化される。
 この点で、三人の大臣が指名されていた。レーニン、トロツキー、そしてルナシャルスキー。
 この政府は、ただちに講和と土地に関する布令を発して、この方法で首都と地方の数百万人の共感を獲得し、それでもって政府の権威を強化する、ということとされていてた。
 レーニン、トロツキー、そしてルナシャルスキーは、クロンシュタットの海兵たちがクシェシンスキー邸を後にしてタウリダ宮へ向かったあとで、このような合意に達した。<中略>
 革命は、つぎのようにして、達成されるものとされた。
 クラスノエ・セロ(Krasnoe Selo)からの第一七六連隊-ダン(Dan)がタウリダを守護するために任されたのとまさに同じ連隊-が、〔ソヴェトの〕中央執行委員会メンバーを拘束する。
 まさにそのときに、レーニンが行動の現場に到着して、新政府の設立を宣言する。』(*)//
 海兵たちは、ラスコルニコフに率いられて、ネフスキー通りを行進した。
 彼らの隊列には、小さな分団と赤衛兵が配置されていた。
 先頭と最後尾には、武装した車が進んだ。
 男たちは、ボルシェヴィキ中央委員会が用意したスローガンを書いた旗を掲げた。
 ペテログラードの『ブルジョア』の中心部、リテイニュイに曲がって入ったとき、銃撃音が響いた。
 群衆は恐怖に囚われて、咄嗟に離れた。銃火は広く渡り、あらゆる方向に撒き打ちされた。
 一人の目撃者が窓から写真を撮り、ロシア革命の暴力に関する数少ない写真記録の一つを生んだ(図版第53〔秋月注記/本文中の写真-この書物の表紙に使われているもの〕)。
 銃撃が終わったとき、示威行進者たちは再び集まって、タウリダへの行進を再開した。
 彼らはもう秩序だった編成を維持しておらず、すぐに使えるように銃砲を持っていた。
 午後4時頃に、ソヴェト〔所在地〕に着いた。そこで、機関銃連隊の兵士たちから、大きな歓声で迎えられた。//
 ボルシェヴィキはまた、プティロフ〔企業名〕の労働者の大群団をタウリダ宮へと送り込んだ-その推算数には変わりがあり、1万1000人から2万5000人になる。(+)
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  (163) Chuganov, Revoliutionnoe dvizhenie v iiue, p.96。参照、Lenin, PSS, XXXIV, p.23-24、Flerovskii, in : PR = Proletarskaia revoliutiia, No. 7-54 (1926), p.77。
  (*) Sukhalov, Zapiski, IV, p.511-2。スハノフがこうした記憶を1920年に公刊したあとで、トロツキーは強く否定し、トロツキーに突つかれてルナシャルスキーもそうした。ルナシャルスキーはスハノフ宛ての手紙で、スハノフの記述には全く根拠がないと非難し、公刊すれば『歴史家としての不愉快な結果』になるだろうとスハノフを警告した(同上、p.514n.-p.515n.)。しかし、スハノフは撤回するのを拒否し、自分は正確にルナシャルスキーが語ったことを回想した、と主張した。
 だが、その同じ年にトロツキー自身が、あるフランスの共産主義者の出版物の中で、七月事件は権力奪取を-つまりボルシェヴィキ政府の確立を-意図していた、ということを認めた。
 『我々は、一瞬たりとも、七月の日々は勝利に至る前奏だということを疑わなかった』。Bulletin Communiste (Paris), No. 10 (1920年5月20日)。これは、以下で引用されている。Milorad M. Drachkovitch & Branko Lazitch, レーニンとコミンテルン, Ⅰ (Stanford, 1972), p.95。
  (+) Nikitin, Rokovye gody, p.133 は少ない数を、Istoriia Putilovskovo Zavoda 1801-1917 (モスクワ, 1961) は多い数を示す。トロツキーの8万という推算(ロシア革命の歴史 Ⅱ, p.29)は、全くの空想だ(fantasy)。
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 本来の改行箇所でないが、ここで区切る。②へとつづく。

1587/党と運動②・レーニン-L・コワコフスキ著16章2節。

 前回のつづき。
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 第2節・党と労働者運動-意識性と自然発生性②。
 党がたんなる労働者の自然発生的な運動の機関または下僕であるなら、党は、社会主義革命の用具には決してなることができない。
 党は、それなくしては労働者がブルジョア社会の地平を超えて前進することができない、あるいはその基礎を掘り崩すことができない、前衛、組織者、指導者そして思想提供者(ideologist)でなければならない。
 しかしながら、レーニンはここで、決定的な重要性のある見解を追加する。//
 『労働者大衆が自分たちで彼らの運動の推移の中で独立したイデオロギーをもつか否かという問題は想定し難いので、唯一の選択はこうだ-ブルジョアのイデオロギーか、それとも社会主義のイデオロギーか。
 中間の行き方は、存在しない--なぜなら、人類は『第三の』イデオロギーを生み出さなかったし、階級対立によって引き裂かれている社会には非階級のまたは超階級のイデオロギーは決して存在し得ないからだ。<中略>
 しかし、労働者階級運動の自然発生的な発展は、ブルジョアのイデオロギーに従属させる方向へと進む。<中略>
 労働組合主義は、労働者がブルジョアジーによってイデオロギー的に隷従させられることを意味する。
 そのゆえにこそ、我々の任務、社会民主党の任務は、<自然発生性と闘うこと>だ。』
 (全集5巻p.384〔=日本語版全集(大月書店, 1954)5巻406頁〕。)(+)//
 『自然発生性への屈従』という教理、または khvostizm (tailism, 『追従主義』)は、経済主義者-マルティノフ(Martynov)、クスコワ(Kuskova)その他-に対する、レーニンの主要な攻撃対象だった。
 労働者はよりよい条件で自分たちの労働力を売却できるように闘うかもしれないが、しかし、社会民主党の任務は、賃労働それ自体をすっかり廃棄してしまうために闘うことだ。
 労働者階級と全体としての資本主義経済制度の間の対立は、科学的な思想(thought)よってのみ理解することができ、それが理解されるまでは、ブルジョア制度に対するいかなる一般的な政治闘争も存在することができない。//
 レーニンは、続ける。このことから、労働者階級と党との間の関係に関して、一定の結論が生じる。
 経済主義者の見地によれば、革命的組織は労働者組織以上の何ものでもなければそれ以下の何ものでもない。
 しかし、ある労働者組織が有効であるためには、広い基礎をもち、その手段について可能なかぎり秘密をなくしたものでなければならず、そして労働組合の性格を持たなければならない。
 党はそのようなものとしての運動とは同一視できないものであり、労働組合と同一視できるような党は、世界に存在していない。
 他方で、『革命家の組織は、先ずはかつたいていは、革命活動をその職業とする者たちによって構成されなければならない。<中略>
 このような組織の構成員に関する共通する特徴という見地によれば、労働者と知識人の間の全ての明確な差違が消失するに違いない。<中略>』 (+)
 (同上、p.452〔=日本語版全集5巻485-6頁〕)。
 このような職業的革命家の党は、労働者階級の確信を獲得して自然発生的運動を覆わなければならないのみならず、その原因または代表する利益が何であるかを考慮することなく、専政に対して向けられた全ての活力を集中させて、社会的抑圧に対する全ての形態の異議申し立ての中枢部に、自らをしなければならない。
 社会民主党はプロレタリアートの党だということは、特権階層からのであれ、その他の集団からの搾取や抑圧には無関心であるべきだ、ということを意味しはしない。
 民主主義革命は、そのうちにブルジョアジ革命を含むが、プロレタリアートによって導かれなければならないので、専制政治を打倒する意図をもつ全ての勢力を結集させるのは、後者〔プロレタリアート〕の義務だ。
 党は、暴露するための一大宣伝運動を組織しなければならない。
 党は、政治的自由を求めるブルジョアジーを支援し、宗教聖職者たちへの迫害と闘い、学生や知識人に対する残虐な措置を非難し、農民たちの要求を支持しなければならない。そして、全ての公共生活の領域で自らの存在を感知させ、分離している憤激と抗議の潮流を、単一の力強い奔流へと統合しなければならない。これは、ツァーリ体制を一掃してしまうだろう。//
 党は、このような必要性に対応するために、主としては職業的な活動家によって、労働者または知識人ではなくて自分をたんに革命家だと考え、その全時間を党活動に捧げる男女によって、構成されなければならない。
 党は、1870年代のZemlya i Voila の主張に沿う、小さい、中央集中型の、紀律ある組織でなければならない。
 陰謀のある状態では、公然の組織では自然のことかもしれないが、党内部に民主主義的諸原理を適用することは不可能だ。//
 党に関するレーニンの考え方(idea)は、横暴(専制的)だとかなり批判された。今日の歴史家のいく人かも、その考え方は、社会主義体制がのちに具現化した階層的で全体主義的(totaritarian)構造をうちに胚胎していたと主張する。
 しかしながら、レーニンの考え方はどの点で当時に一般的に受容されていたものと異なるのかを、考察する必要がある。
 レーニンは、エリート主義であるとか、労働者階級を革命組織に取り替えようと望んだとか非難された。
 レーニンの教理は知識階層または知識人たちの利益を反映している、そして、レーニンは政治権力が全体としてプロレタリアートの手にではなく知識人の手にあるのを見たいと望んでいる、とすら主張された。//
 党を前衛と見なすという、主張されるエリート主義に関して言うと、レーニンの立場は社会主義者の間で一般的に受容されていたものと異ならない、ということを指摘すべきだ。
 前衛という考えは<共産党宣言>にやはり出てくるのであり、その著者たちは、共産党を、全体としての階級の利益以外に関心を持たない、プロレタリアートの最も意識的な部分だと叙述した。
 労働者運動は自然に革命的な社会主義意識へと進化するのではなく、教養のある知識階層からそれを受け取らなければならない、という見方は、レーニンが、カウツキー(Kautsky)、ヴィクトル・アドラー(Viktor Adler)およびこの点でサンディカ主義者と異なると強調するたいていの社会民主党の指導者たちと、分かち持つものだった。
 レーニンが表明した考え(thought)は、基本的には、じつに自明のことだった。どの執筆者も、<資本論>も<反デューリング論>も、そして<何をなすべきか>をすら著述できなかっただろうほどに、明白だったからだ。    
 工場労働者ではなく知識人たちが社会主義の理論上の創設をしなければならないことは、誰も争うことのできないことだった。『意識を外部から注入する』ということでこの全てが意味されているとのだとすれば、議論すべきものは何もなかった。
 党は労働者階級全体とは異なるものだという前提命題もまた、一般的に受容されていた。
 マルクスは党とは何かを厳密には定義しなかったというのは本当だけれども、マルクスは党をプロレタリアートと同一視した、ということを示すことはできない。
 レーニンの考えで新しいのは、労働者階級を指導し、労働者階級に社会主義の意識を吹き込む、前衛としての党という考えではなかった。
 レーニンの新しさは、…。
  (秋月注記+) 日本語版全集による訳を参考にして、ある程度変更している。
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 改行箇所ではないが、ここで区切る。③へとつづく。
 

1586/日本共産党員-「前衛」中央委員会理論政治誌から①。

 この欄でいつぞや、「前衛」に「東京大学名誉教授」との肩書きで書いていた宮地正人は日本共産党の党員であることに間違いないと、その文章内容にも触れつつ指摘したことがある。
 常識的に見て、あるいは合理的に推測して、日本共産党の「中央委員会理論政治誌」に文章を執筆できるのは、あるいは執筆を依頼されるのは(インタビューへの回答を含む)、ほよどの極めての例外を除いて、日本共産党に籍がある、共産党員だろう。
 そうでないと、つまり日本共産党の基本方針はもちろん、同党の公表している個別政策と矛盾する文章をかいて原稿を送ってくるような無邪気な?者に、編集部は文章を執筆させるはずがない。そんなことをすれば、校正前後を問わず<事前検閲>が大変になるし、公刊後の<事後検閲>で発見されれば、それは中央委員会自身の責任になってしまう。そして、最大の譴責を受ける者は<前衛>の編集長になるだろう。
 日本共産党という党は文書を残す習慣の多い党で(これはロシア共産党の例に倣っているのかもしれない)、昨年以来、<日本共産党中央委員会総会決議集>類はおよそ1980年代ま半ば頃まではたどって、古書で入手できた。
 1990年代の1994年の党大会前後までの、「ソ連」に関する発言・議論などは、相当に<面白い>。
 最近は同種のものを公刊しているようには思えなくて(たんに古書市場に出ないだけか?)、様子が分からなくて困る。
 月刊<前衛>も入手できるものは購入し、いま検出できないが、ある年度以降の月刊<前衛>は全て収集した。
 その目的は、政策・主張内容にもありはする。<前衛>上の不破哲三論考が自民党・安倍内閣の淵源に<保守団体・日本会議>を持ってきて安倍を<ネオ・ファシスト>とじつに粗雑な論理でレッテルを貼ったあと(これはこの欄で紹介した)、ほぼ1年後に出版されてきたのが、今や多数ある<日本会議批判本>だ。
 余計なことを書きすぎた。
 その目的は、いったい誰が、日本共産党の党員なのか、を確定することにもある。
 党国会議員等の各級議員、党の幹部・中間幹部であり「党…」と肩書きのつく<党官僚たち>、これらは党員であるのは明白なので、<前衛>上にその名があっても、とくにこの欄に記載していく意味はない。
 注目されるべきは、「大学(名誉)教授」類などだ。
 森英樹・名古屋大学名誉教授、渡辺治・一橋大学名誉教授、はもういいだろう。
 他にも、<前衛>と関係なく、その<党員性>を間違いなく推測できる者はいるが、さしあたり別とする。
 さて、月刊前衛2017年1月号。頁順に進む。
 西川勝夫/滋賀医科大学名誉教授。-戦争中の「医学犯罪」。
 多羅尾光徳/東京農工大学准教授。-現在の大学等の「軍事」研究。
 桜田照雄/阪南大学教授。-カジノ反対。
 丹羽徹/龍谷大学教授。-部落差別解消推進法。
 渡辺治/一橋大学名誉教授。不破哲三の書物に関する対談。
 以上の6名について確実、または確定。
 さらに推理が必要な人物がいる。「全国革新懇」なるものが2016年10/22に「市民と野党の共闘の発展をめざす懇談会」を開いた。6人の報告をp.121以下が掲載する。
 志位和夫(党幹部会委員長)以外の5人はいったい何者か。
 日本共産党と「共闘」するのに反対しない<市民又は大衆団体>の代表等なので、<容共・左翼>てせあることは間違いない。
 しかし、<市民又は大衆団体>の代表や幹部の中に党員を配置するのは、日本共産党の常套手段なので、別団体の関係者だからといって党員ではない、との結論にはならない。
 <共産党を支持します>というたんなる「支持者」扱いの著名文化人・大学教授等の中にれっきとした日本共産党の党員がいた(いる)ことは、はっきりしている。
 したがって、88-99%の確率で党員だと思われる。100%の可能性があり、それを知っている日本共産党内部者は、「88-99%」で、喜ぶか、笑うかするかもしれない。外部の第三者には、それこそ<党員名簿>でも見ないと、100%の断言は-良識があるので-できない。
 牧野富雄/全国革新懇代表世話人・日本大学名誉教授
 石川康宏/神戸女学院大学教授・全国革新懇代表世話人。
 小田川義和/総がかり行動実行委共同代表・全労連議長・全国革新懇代表世話人。
 中野晃一/安保法制廃止等市民連合呼びかけ人・上智大学教授
 西郷南海子/安保関連法反対ママの会発起人。
 つぎの、作家・水上勉の実子には迷う。
 窪島誠一郎/「無言館」館主。
 父の水上勉は不破哲三との交流もあり、党員だったと疑わせる。そうでなくとも、ときどきは多額の寄付を、日本共産党に対してしていたものと推察される。かつての「支持します」メンバー。
 窪島誠一郎が書いているのは父親ともからませての不破哲三の著書の感想文なので、かりに党員ではなくとも、編集部が執筆依頼することはありそうにも見える。日本共産党批判やそれに逸脱する文章になるはずはない、と。
 だが、他にも「感想文」執筆資格者はいるだろうに、なぜ窪島誠一郎が?、という疑問は残る。70-90%くらいに、少し下げておこう。
 なお、秋月瑛二は水上勉の小説を相当数読んだし、その実子と離れることを素材とするものも読んだ。水上・窪島の劇的な親子判明・対面に関する二人の文章も読んだ。じつに不思議な<人生>がある。ここではこれ以上、感想を書かない。
 以上のほかに、美術・演劇・音楽の各評論家による、各分野での紹介・論評文がある。しかし、三人とも全て、<ペンネーム>だろうと思われる。
 朽木一・水村武・小村公次
 それぞれの分野でかなり著名で(そして党員か親共産党の者だが)、かつ月刊前衛に氏名を出したくない人物なのだろう。これまた、推測だ(もしかして実名ならば、美術・演劇・音楽の各分野に秋月が詳しくないのが原因で、その人は党員だろう)。

1585/七月蜂起へ(2)③-R・パイプス著10章10節。

 前回のつづき。
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 第10節・ボルシェヴィキによる蜂起の準備③。
 ボルシェヴィキの目的は、明白だ。しかし、その戦術は、いつもと同様に、用心深く、面目を維持しつつ退却する余地を残していた。
 この事件の参加者だったミハイル・カリーニン(Mikhail Kalinin)は、かくして、党の立場をつぎのように叙述する。//
 『責任ある党活動家たちは、微妙な問題に直面した。
 「これはいったい何か-示威活動か、それともそれ以上の何かなのか?
 ひょっとすると、プロレタリア革命の始まり、権力奪取の始まりなのか?」
 これがこのとき、重要な問題として現われた。そして、彼らは(レーニンの存在を)切望した。
 レーニンならば、答えるだろう。「我々は何が起きているか、分かるだろう。だが今は何も言うことができない!」<中略>
 これはじつに、革命家の力、その数、その質、そしてその行動力を再吟味することだった。<中略>
 再吟味すれば、重大な結果に遭遇することがありえた。
 全ては、力の相関関係に、そして好機が発生する多さにかかっていた。
 いずれにせよ、不愉快な驚きを防ぐ保障のためであるかのごとく、司令官の命令は、「我々は、分かるだろう」だった。
 これは決して、力の相関関係が有利であることが判明すれば連隊を戦闘へと投入する可能性も、あるいは他方で、可能な最小限の損失で退却する可能性も、いずれも排除するものではなかった。七月に現実に起きたのは、後者だった。』 (*)//
 中央委員会は、翌日の7月4日までの予定で、ポドヴォイスキーが長である軍事機構に、作戦を指揮する責任を委ねた。
 ポドヴォイスキーとその同僚たちは、親ボルシェヴィキの軍団や工場と連絡を取り合い、行動を留保するように助言したり行進の順序を教えたりしながら、その夜を過ごした。
 クロンシュタットは、クシェシンスカヤ邸のボルシェヴィキ最高司令部から、兵団出動の要請を受けた。
 武装の集団示威活動は、午前10時に開始するものとされた。//
 7月4日、<プラウダ>は、第一面に広い白紙面をつけたままで発行された。それは、前夜にはあったカーメネフとジノヴィエフの抑制を求める論文を削除したことの、見える証拠だった。
 この判断にレーニンがどういう役割を果たしたかは、あったとしても、確定することはできない。
 ボルシェヴィキの歴史家は、レーニンは仲間たちが何をしているかを知らないままでフィンランドの片田舎の平和と静穏を味わっていた、と執拗に主張する。
 レーニンがボルシェヴィキの行動を伝言配達者(courier)にょって初めて知ったのは、7月4日の午前6時だった、と言われている。その後で彼は、すぐに首都へ出立して、クルプスカヤやボンシュ-ブリュヴィッチと一緒になった、とされる。
 このような公式見解は、レーニンの支持者は彼の個人的な是認なくしていかなる行動も決して企てなかったことを考えると、信じ難いように思える。そんな莫大な危険のある冒険をするような行動では、疑いなく、なかったのだ。
 スハロフ(Sukhanov)によって(後述参照)、レーニンは叛乱の前の夜のあいだ、当該主題に関して<プラウダ>用の論文を書いていた、ということも知られている。
 当該主題、それはほとんど間違いなく『全ての権力をソヴェトへ』で、その論文は、新聞<プラウダ>が7月5日に掲載した。(158)//
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  (*) M. Kalinin, in : Krasnaia gazeta, 1917年7月16日, p. 2。
 レーニンは現場にいなかったので、カリーニンは合理的に推測して、レーニンが次の日に語ったことを参照している。つぎの同様の評価を参照。Raskolnikov, in :PR= Proletarskaia revoliutiia, No. 5-17 (1923), p.59。
 ボルシェヴィキの戦術は、メンシェヴィキに漏れていなかったわけではなかった。ツェレテリ(Tsereteli)は、7月3日の午後にスターリンがイスパルコムに姿を見せて、ボルシェヴィキは労働者と兵士が街頭に出るのを止めるために可能なことは全てすると伝えたあとで事件が起きた、と叙述する。
 チヘイゼ(Chkheise)は微笑みながらツェレテリに対して言った、『今や状況は明らかだ』。ツェレテリは続ける、『私は彼に尋ねた。状況が明らかだというのはどういう意味か?』チヘイゼは答える、『平和的な民衆には、その平和的な意図を述べる原案など必要はない、という意味さ。我々は、指導者のいないままに大衆が放っておかれることはありえない、と言って、ボルシェヴィキが加わるつもりのいわゆる自然発生的な示威活動に関して議論しなければならないだろう、と思う』。
 Tsereteli, Vospominaniia, Ⅰ, p.267。
  (158) Lenin, PSS, XXXII, p.408-9。
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 第11節につづく。

1583/七月蜂起へ(2)②-R・パイプス著10章10節。

 前回のつづき。
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 第10節・ボルシェヴィキによる蜂起の準備②。
 適切な資料が不足しているため、こうした進展に関するボルシェヴィキの態度を決定的に語るのは困難だ。
 ボルシェヴィキ党の第六回党大会への報告として、スターリンは。7月3日の午後4時に中央委員会が武装の集団示威活動に反対する立場をとった、と主張した。
 トロツキーは、スターリンの主張を確認する。(144)
 指導するレーニンがいない中で、反乱が彼らのスローガンのもとでだが彼らの誘導なくして災難に終わってしまうのを怖れて、ボルシェヴィキの指導者たちが最初から反対した、とは想定し難い。
 しかし、この日に関する中央委員会の議事要領が利用できるならば、この判断についてもっと自信を感じるだろう。//
 提案された集団示威活動について知るや、イスパルコム〔ソヴェト執行委員会〕はただちに、兵団に対してやめるように訴えた。
 イスパルコムには、政府を打倒して、ボルシェヴィキがその手にしようと執拗に押し進んでいる権力を獲得する欲求はなかった。//
 その日の午後、クロンシュタット・ソヴェト執行委員会の前に、機関銃連隊の二人のアナキスト代議員がやって来た。粗雑で、教養が乏しいように見えた。
 彼らは、連隊は他の軍団や工場労働者と一緒に路上に出て権力のソヴェトへの移行を要求する、と伝えた。
 彼らには、武装した支援が必要だった。
 執行委員会は、海兵はペテログラード・イスパルコムが承認しない示威活動をすることはできない、と回答した。
 そのときに使者たちは、海兵たちに直接に訴える、と言った。
 言葉通りに進み、アナキストが政府を非難する演説を聞くために8000人から10000人の海兵が集まった。
 海兵たちには、ペテログラードへと出立する心づもりがあった。
 目的は不明瞭だとしても、両側にある何かを略奪してブルジョアをやっつけることは、彼らの気持ちから離れているはずはなかった。
 ラシャルとラスコルニコフは彼らを抑えようとして、しばらくの間、ボルシェヴィキの司令部に指令を求めて電話した。
 ラスコルニコフは、司令部と通信したあとで、海兵たちに、ボルシェヴィキ党は武装示威活動に参加することを決定した、と伝えた。そのときに、集まった海兵たちは、満場一致でそれに加わることを表決した。(*)//
 機関銃連隊からの代議員は、プティロフの労働者の前にも姿を現した。その労働者の多くから、彼らは自分たちの信条への支持をとりつけた。//
 午後7時頃、集団示威活動に賛成表決した機関銃連隊の兵団は、兵舎に集合した。
 先行分団は、機関銃を山積みした略奪車に乗って、すでにペテログラードの中心部へと分かれて進んでいた。
 午後8時、兵士たちはトロイツキー橋を行進し、そこで他の連隊の反乱兵団が加わった。
 午後10時、反乱者たちが橋を縦断した。
 ナボコフ(Nabokov)は、このときに彼らを見ていた。『我々が二月の日々から記憶しているのと同じ、鈍くてうつろな、野獣のような顔をしていた。』
 川を渡り終わって、兵団は二つの軍団に分かれた。うち一つはソヴェト所在地であるタウリダへ、もう一つは臨時政府所在地であるマリンスキーへと向かった。
 たいていは空中への、的がはっきりしない発砲がいくつかあった。ほんの少しの略奪も。//
 ボルシェヴィキ最高司令部-ジノヴィエフ、カーメネフおよびトロツキー-は、7月3日の正午頃に、党をこの反乱に参加させることを決定したと思われる。すなわちこのとき、機関銃連隊の兵団は集団示威活動をする決定を採択していた。
 このとき、上の三人は、タウリダ宮にいた。
 彼らの計画は、ソヴェトの労働者部会(Section)の支配権を握り、その名前で権力のソヴェトへの移行を宣言すること、そして兵士部会や幹部会とともにイスパルコムに対し、達成した事実を呈示すること、だった。
 その口実は、抗しがたい大衆の圧力にある、とされた。//
 この目的のためにボルシェヴィキは、その日おそくに、労働者部会での小蜂起を企んだ。
 ここではボルシェヴィキは、兵士部会と同じく、少数派だった。
 〔労働者部会の〕ボルシェヴィキ団はイスパルコム〔ソヴェト執行委員会〕に、午後3時に労働者部会の緊急集会を開催するというきわめて簡単な告知をすることを要請した。
 このことですぐに、この部会のエスエルとメンシェヴィキの党員たちが接触できた。
 しかしボルシェヴィキは、自分たち仲間が一団となって出席することで一時的な多数派となる、と確信していた。
 ジノヴィエフは集会を開いて、ソヴェトは政府の全権力を勝ち取ると主張した。
 出席していたメンシェヴィキとエスエル代議員はジノヴィエフに反対し、ボルシェヴィキに機関銃連隊を止めるのを助けるよう求めた。
 ボルシェヴィキがそれを拒んだとき、メンシェヴィキとエスエルは退出して、結果として彼らの好敵に全権を与えた。
 ボルシェヴィキは労働者部会の事務局(Bureau)を選出し、これは、カーメネフが提示した決定をしかるべく裁可した。その最初の文章は、つぎのとおりだった。//
 『権威の危機にかんがみ、労働者部会は、労働者・兵士および農民の代議員から成る全ロシア・ソヴェト大会は権力をその手中に収めると強く主張することが必要だと考える』。
 もちろん、このような『全ロシア大会』は、紙の上にすら、存在していない。
 言いたいことは明らかだ。すなわち、臨時政府は、打倒されなければならない。//
 これを成し遂げて、ボルシェヴィキたちは中央委員会の会議のために、クシェシンスカヤ邸へと向かった。
 午後10時、会議が始まろうとしたときに、一団の反乱兵士たちが近寄ってきた。
 共産党の資料によると、ネヴスキーとポドヴォイスキーがバルコニーから、反乱兵士は兵舎に帰るように強く迫り、それに対して兵士たちが不満の叫びを上げた。(**) //
 ボルシェヴィキは、まだ揺れ動いていた。
 彼らには、動きたい衝動があった。しかし、前線兵士たちのクーに対する反応を心配した。前線兵士たちの中で熱心に情報宣伝を行ったけれども、ボルシェヴィキは何とか、とくにラトヴィア・ライフル部隊といった若干の連隊で勝利したにすぎなかったからだ。
 戦闘部隊の大半は、臨時政府に忠実なままだった。
 ペテログラード守備軍団の雰囲気ですら、確実なものでは全くなかった。
 なおも混乱は増し、プティロフの数千人の労働者たちがタウリダの前に集まっていると妻や子どもたちから伝えられて、ボルシェヴィキの躊躇する心は負けた。
 午後11時40分、この頃までに反乱兵士たちはまでには兵舎に戻り、静穏が街に帰ってきていた。そのとき、ボルシェヴィキ中央委員会は、臨時政府の武力による打倒を呼びかける、つぎの決議を採択した。//
 『現にペテログラードで起きている事態を考慮して、中央委員会会合はつぎのように結論する。
 現在の権威の危機は、革命的プロレタリアートと守備軍団がただちに固くかつ明白に労働者・兵士および農民の代議員から成るソヴェトへの権力の移行に賛成すると宣言しなければ、人民の利益において解消されることはないだろう。
 この目的のために、労働者と兵士はただちに路上に出て、その意思を表明すべく示威行進を行うよう求める』。//
 ボルシェヴィキの目的は、明白だ。しかし、…。
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  (144) レオン・トロツキー, ロシア革命の歴史 II (ニューヨーク, 1937) p. 20。
  (*) Raskolnikov, in : PR = Proletarskaia revoliutiia, No. 5-17 (1923), p.60。ロシャルは、1917年12月に反共産主義者により射殺された。ラスコルニコフは、1910年から党員、1917年にクロンシュタット・ソヴェトの副議長、1920年代と1930年代に国外のさまざまのソヴィエトの外交職にあった。ラスコルニコフは1939年にモスクワへと召還されたが帰国するのを拒み、公開の書簡でスターリンを厳しく非難した。そのあと彼は、『人民の敵』だと宣告された。その年のあと、彼はきわめて疑わしい状況のもとで南フランスで死んだ。
  (**) Vladimirova, in : PR = Proletarskaia revoliutiia, No. 5-17 (1923), p.11-13。Ia. M. Sverdlov, in : ISSSR, No. 2 (1957), p.126。七月叛乱を調査するために任命された政府委員会の報告書は、ボルシェヴィキはより攻撃的に演説したと叙述している(p.95-96)。この報告書は、以下として再発行された。D. A. Chugaev, ed., Revoliutsionoe dvizhenie v Rossi v iiule g. (モスクワ, 1959)。
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 ③につづく。

1582/七月蜂起へ(2)①-R・パイプス著10章10節。

 前回のつづき。
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 第10節・蜂起の準備①。
 V・D・ボンシュ-ブリュヴィッチ(Bonch-Bruevich)によると、6月29日の夕方に、フィンランドのヴュイボルク市(Vyborg)近くのネイヴォラ(Neivola)の彼の別宅に、予期せぬ訪問者が現れた。ペテログラードから、小列車に少しばかり乗ってやって来ていた。
 それは、レーニンだった。
 迂回した経路を-『秘めたクセで』-旅したあとだったが、レーニンは、とても疲れた、休みが欲しい、と説明した。
 これはきわめて異様な行動で、レーニンの性格から全く外れていた。
 彼には、休暇をとるという習慣がなかった。1917年から1918年にかけての冬のような、疲労を感じた方がよかった重要な政治的事件の真っ只中ですら、そうだった。 
 レーニンの説明は、この場合について、きわめて疑わしい。レーニンが欠席したいと思っていたとは想定し難い、ペテログラード組織の大会を、ボルシェヴィキは二日のちには開くことになっていたからだ。
 レーニンの『陰謀めいた』行動はまた、当惑させるものだ。なぜなら、彼には自分の動きを隠すもっともらしい必要がなかったからだ。
 ゆえに、レーニンがペテログラードから突然に姿を消した理由は、別のところに求めなければならない。
 政府がレーニンがドイツと金銭上の取引をしている十分な証拠資料を得て、彼をまさに逮捕しようとしている、という風聞を彼が知った、というのがほとんど確実だ。//
 フランス諜報機関のピエール・ローラン(Pierre Laurent)大佐は、6月21日に、敵国〔ドイツ〕との取引を示す、ペテログラードのボルシェヴィキとストックホルムのその仲間たちとの間の14回の傍受した通信内容を、ロシアの防諜機関に渡した。すぐに、さらに15回分が増えた。
 政府はのちに、レーニンの第一のストックホルム工作員、ガネツキーを捕まえたかったのでボルシェヴィキの逮捕を遅らせた、と述べた。ガネツキーはロシアに次に来るときに有罪証拠となる文書を携帯しているはずだった、と。
 しかし、蜂起後のケレンスキーの行動を見てみると、政府が遅らせた背後には、ソヴェトを怒らせることへの恐怖があったと疑うに足る、十分な根拠がある。//
 しかし、6月末日には、訴追するための証拠は当局に十分にあり、7月1日に当局は、一週間以内に28名のボルシェヴィキ指導者党員を逮捕するように命じた。//
 政府内部の誰かが、この危険についてレーニンに察知させた。
 最も疑わしいのは、ペテログラード司法部(Sudebnaia Palata、高等裁判所)の他ならぬ長官の、N・S・カリンスキー(Karinskii)だ。ボンシュ-ブリュヴィッチによると、このカリンスキーは、レーニンはドイツ工作員だとして有罪視することを司法省が公的に発表する予定だと、7月4日にボルシェヴィキに漏らすつもりだった。
 レーニンもまた、6月29日に諜報機関員がスメンソンの尾行を始めたことを知らされて、警戒しただろう。
 何も他には、レーニンがペテログラードから突然に姿を消したことを説明していない。ロシア警察の手の届かないフィンランドに彼が逃亡したことについても、だ。(*)//
 レーニンは、6月29日からボルシェヴィキ蜂起が進行していた7月4日の早朝の時間まで、フィンランドに隠れた。
 七月の冒険(escapade)の準備へのレーニンの役割を、確定することはできない。
 しかし、現場に存在していなかったことは、彼が無関係だったと不可避的に意味させるわけではない。
 1917年の秋、レーニンはまたフィンランドに隠れていたが、なおも十月のクーへと導く諸決定に積極的な役割を果たした。//
 七月作戦は、政府が機関銃連隊を解散してその兵員を前線へと分散させようとしていることを、この連隊が知って、始まった。(**)
 ソヴェトは6月30日、軍事専門家と問題を議論するために連隊の代表者たちを招いた。
 その翌日、連隊の『活動家たち』は、自分たちの会合をもった。
 隊員たちの雰囲気は緊張していて、強熱的な焦燥の中にあった。//
 ボルシェヴィキは7月2日、人民会館(Narodnyi Dom)で、連隊との協同集会を組織した。
 外部の発言者は全てボルシェヴィキで、その中に、トロツキーとルナシャルスキー(Lunacharskii)がいた。
 ジノヴィエフとカーメネフは出席する予定だったが、おそらくはレーニンのように逮捕を怖れて、姿を見せなかった。
 トロツキーは5000人以上の聴衆を前に演説して、六月軍事攻勢について政府をなじり、権力のソヴェトへの移行を主張した。
 彼は連隊員に対して、多くの言葉を使って政府への服従を拒否するようにとは言わなかった。
 しかし、〔ボルシェヴィキ〕軍事機構は会合を開いて、つぎの趣旨の決議を採択した。その決議は『ニコライ、血の皇帝』の歩みに従うケレンスキーを非難し、全ての権力をソヴェトへと要求した。//
 連隊員たちは兵舎へ戻ったが、興奮して眠れなかった。
 彼らは徹夜で事態について議論し、その結果として、暴力行動を要求する声が挙がってきた。スローガンの一つは、『<ブルジョア>をやっつけろ(beat the burzhui)』だった。//
 集団暴行(pogrom)が行われていた。
 クシェシンスカヤ邸に集合したボルシェヴィキたちは、どう反応すればよいか分からなかった。加わるか、やめさせようとするか。
 ある者は、兵団は後退できないから、我々もあえて行動すべきだと主張し、別の者は、動くのは早すぎると考えた。
 そしてこのあと、民衆的な激しい怒りの波に乗って権力に昇るという願望と、自然発生的な暴力はナショナリストの反応を刺激してその最大の犠牲者は自分たちになるだろうという恐怖の間で、ボルシェヴィキたちは引き裂かれた。//
 ボルシェヴィキと機関銃連隊の連隊委員会は、さらに7月3日に、会議を開いた。その雰囲気は、農民反乱の前の村落集会と同じだった。
 主な発言者はアナキストで、中で最も著名なのは、『シャツを開けて胸を見せ、巻き毛を両側に飛ばしていた』I・S・ブレイクマン(Bleikhman)だった。彼は兵士たちに、武器を持って街頭に出て、武装蜂起へと進むことを、呼びかけた。
 アナキストたちは、こうした行動の客観的な目的については語らなかった。『街頭が自ら明らかにするだろう』。
 アナキストたちのあとのボルシェヴィキたちは、その問題を論じなかった。彼らはただ、行動する前にボルシェヴィキ軍事機構の指令が必要だと主張した。//
 しかし、連隊員たちは、前線での務めをやめると決意して、またアナキストに激高へと駆り立てられて、待とうとしなかった。
 彼らは満場一致で、完全武装をして路上に出動することを表決した。
 臨時革命委員会が選出されて示威活動を組織することになった。この委員会の長になったのは、ボルシェヴィキのA・Ia・セマシュコ(Semashko)中尉だった。
 以上は、午後2時と3時の間に起きた。//
 セマシュコと、何人かは軍事機構に属する仲間たちは、政府が抑圧行動をとっているかどうかを知るために、かつ自動車を取り上げるために、偵察兵を送り出した。
 彼らはまた、工場と兵舎およびクロンシュタットへ、使者を派遣した。//
 使者たちは、異なる対応を受けた。守備軍団の若干の兵団は、参加することに合意した。主としては、第一、第三、第一七六および第一八〇歩兵連隊だった。
 その他の兵団は、拒否した。
 プレオブラジェンスキー(Preobrazhenskii)、セメノフスキー(Semenovskii)およびイズマイロフスキー(Izmailovskii)の守備兵団は、『中立』を宣言した。
 機関銃連隊自体の中では、多くの隊員が、身体に暴力被害を受ける危険はあったが、線上で待ち構えることに投票した。
 結局、連隊の半分だけが、およそ5000人の連隊員が、蜂起に参加した。
 工場労働者の多くもまた、参加するのを拒んだ。//
  ------
  (*) レーニンは5月半ばにはすでに、スットックホルムとの連絡が政府によって傍受されていることに気づいていた。レーニンは5月の16日付の<プラウダ>紙上で、『ロシア・スウェーデン国境を越えた』けれども、全ての手紙や電信類は掴みそこねた『カデットの下僕』を侮蔑した。Lenin, PSS, XXXII, p.103-4。参照、Zinoviev, in : PR = Proletarskaia revoliutiia, No. 8-9 (1927), p.57。
  (**) 7月のこの連隊の役割に関する最良の叙述は、資料庫文書にもとづく、P. M. Stulov in : KL = Krasnaia letopis', No. 3-36 (1930), p.64~p.125 だ。参照、レオン・トロツキー, ロシア革命の歴史 II (ニューヨーク, 1937) p. 17。
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 ②へとつづく。 

1581/党と運動・意識性と自然発生性①-L・コワコフスキ著16章「レーニン」2節。

 第16章・レーニン主義の成立
 前回のつづき。
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 第2節・党と労働者運動-意識性と自然発生性①。
 独自の政治的一体としてのレーニン主義の基本的教理は、1901年~1903年に定式化された。
 この数年間にロシアでは、主な政治集団が創立され、それらは絶えずお互いで争いながら帝制に対する闘いを十月革命まで遂行した。すなわち、社会民主党のボルシェヴィキ派とメンシェヴィキ派、社会革命党(エスエル)および立憲民主党(<カデット>)。//
 レーニンが考え(ideas)を徐々に見える形にした主要な機関は、<イスクラ(Iskra)>だった。
 1903年の第二回党大会まで、レーニンと他の編集局員との間の差違は、大して重要ではなかった。そして、実際に新聞の基本論調を作ったのはレーニンだった。
 レーニンは最初はミュンヒェンで、のち1902年の春に移動したロンドンで、その編集に携わった。
 <イスクラ>は、ロシア社会民主党の修正主義や経済主義と闘うことのみならず、党が公式には存在しているにもかかわらず、思想(ideology)と組織のいずれに関してもまだ統合されていない集団との間の結節点として活動することをも、意図していた。
 レーニンが、つぎのように書いたように。『一つの新聞は集合的な情報宣伝者や集合的な扇動者であるばかりではなく、集合的な組織者でもある。』(<何から始めるべきか>、全集5巻p.22〔=日本語版全集5巻3頁以下「なにからはじめるべきか?」〕)。
 <イスクラ>は実際に、大会を準備するうえで決定的な役割を果たした。この大会は、開催されたときに、ロシアの社会民主主義者を単一の政党へと統合した。その党はすぐに、二つの反目しあう集団へと分裂した。//
 レーニンは、党の役割という鍵となる問題を、経済主義と闘うボルシェヴィキの考え方(ideology)を生み出す基礎に据えた。その経済主義とは、影響力は衰えているとしてもきわめて危険だと彼が見なしたものだった。
 経済主義者は史的唯物論を、(ともかくも近い将来にロシアのブルジョアジーの主とした仕事になる)政治的目的と比べて、プロレタリアートの経済的闘争を優先させる理論だと解釈した。
 そして経済主義者は、労働者階級の運動を、一体としての労働者による自然発生的な運動の意味での『労働者の運動』と同一視した。
 プロレタリアート自身の綱領の厳密な階級性を強調し、<イスクラ>集団を、知識人層やリベラルたちに倣って主張している、理論や思想の重要性を高く評価しすぎている、専政体制に対する全ての階級の共通する敵対関係に重きを置きすぎている、と攻撃した。
 経済主義は、一種のロシアのプルードン主義(Proudhonism)で、または< ouvrierisme >と称されるものだ。
 これを支持する者によると、社会民主党とは、真の労働者運動の、指導者ではなくて、機関であるべきだ。//
 レーニンは、いくつかの論文で、とくに<何をなすべきか>(1902年)で、前衛としての党の役割を否定しているとして経済主義者を攻撃し、一般的な語法を用いて、社会民主主義運動における理論の重要性に関する自分の見地を表明した。
 彼は、つぎのように主張した。革命の展望にとってのきわめて重大な問題は、革命運動に関する理論上の意識(conciousness)であり、これは労働者の自然発生的(spontaneous)な運動によっては決して進化させられないものだ。
 『革命的理論のない革命運動は、存在し得ない』。
 これは、他のどこよりもロシアにおいて、より本当(true)だった。なぜなら、社会民主主義がその揺籃期にあり、また、プロレタリアートが直面する任務がヨーロッパ的かつアジア的な反動の稜堡を打倒することだったからだ。
 このことが意味したのは、世界プロレタリアートの前衛であることを運命づけられていること、およびこの任務を適切な理論の装備なくして履行することはできないこと、だった。
 経済主義者は、社会発展における『客観的な』経済環境の重要性について語った。
 その際に、政治的意識を経済的要因の自動的な帰結の一つと見なし、それは社会の進化を開始させ活性化させることができない、とする。
 しかし、経済的利益が決定的だという事実は、プロレタリアートの根本的な階級利益は政治的革命とプロレタリアート独裁によってのみ充足されうるのだから、労働者の経済闘争は最終的な勝利を確実にすることはできない、ということを意味しなかった。
 労働者は、自分たちだけにされたのでは、全体としての階級と現存する社会制度の間には根本的な対立があるという意識を獲得することができなかった。//
 『我々は、労働者の間に社会民主主義的意識がありえるはずはなかった、と言った。
 この意識は、外部からしか労働者へともたらされることのできないものだった。
 全ての国の歴史は、労働者階級がまったく自分の力だけでは、組合主義的意識、すなわち、組合に団結し、雇い主と闘い、政府に労働者に必要なあれこれの法律の発布をさせるように励むなどのことが必要だという確信しか形成できないことを、示している。』(+)
 (全集5巻p.375=〔日本語版全集5巻「なにをなすべきか」395頁〕)//
 このことは、西側でそうだった(『マルクスとエンゲルス自身もブルジョア・インテリゲンツィアに属していた。』++)。そして、ロシアでもそうなることになる。
 レーニンは、この点で、カウツキーに魅惑されて支持した。彼は、プロレタリアートの階級闘争はそれ自体では社会主義の意識を生み出すことができない、階級闘争と社会主義は別々の現象だ、そして、社会主義の意識を自然発生的な運動の中に植え込むことが社会民主党の任務だ、と書いていた。//
  (+秋月注) 日本語版全集5巻を参考にして、訳出し直している。
  (++同注) この前後を含めると、つぎのとおり。日本語版全集5巻395頁による。-「近代の科学的社会主義の創始者であるマルクスとエンゲルス自身も、その社会的地位からすれば、ブルジョア・インテリゲンツィアに属していた」。
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 ②へとつづく。

1580/七月蜂起へ(1)-R・パイプス著10章9節。

 前回につづく。
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 第9節・ボルシェヴィキによる新しい襲撃の用意。
 ロシア革命の事件のうち、1917年の七月暴動ほど、意図的に虚偽が語られているものはない。レーニンの最悪の大失敗だった、党をほとんど破滅させる原因となる誤った判断だった、ヒトラーによる1923年のビア・ホール蜂起と同等だ、という理由でだ。
 ボルシェヴィキは、責任を免れるために、七月蜂起は自然発生的示威行動でボルシェヴィキは平和的な方向に導こうとした、と異様に長々と偽りの説明をした。
 7月3-5日の行動は、予期される敵の反攻に備えてペテログラード守備軍団を前線に派遣するという政府の決定によって、突如として発生した。
 もともとは軍事上の配慮をして、この決定には、ボルシェヴィキの虚偽情報宣伝にきわめて汚染された首都の軍団を取り除くという意味もあった。
 この移動は、権力への次の企てのために使うつもりの実力部隊を奪われるおそれがあったので、ボルシェヴィキにとって、災厄を意味した。
 ボルシェヴィキは応えて、『ブルジョア』政府を攻撃し、『帝国主義的』戦争に抗議し、そして前線に行くのを拒否しようと強く訴える、猛烈な情報宣伝活動を守備軍兵団の間で行った。
 民主主義の伝統をもつならばどの国でも、戦時中にこのような反乱の呼びかけがあるのは耐え難いものだっただろう。//
 ボルシェヴィキへの支援の主要な基盤は、第一機関銃連隊にあり、ここに1万1340名の兵士とほぼ300名の将校がいた。後者の中には、多くの左翼知識人が含まれていた。
 この隊の多くの者は、能力欠如または不服従を理由として、元々の軍団から追い出されてきたよそ者だった。
 急進的な工場群近くのヴュイボルク地区の宿舎に住んでいる、内心では怒り狂っている大衆だった。
 ボルシェヴィキの軍事機構はここに、およそ30名から成る細胞を作った。それには若い将校も含まれていて、ボルシェヴィキは彼らに定期的に煽動技術の訓練をした。
 彼らは、アナーキストはもちろんだが、連隊の前で頻繁に演説をした。//
 連隊は6月20日、500人の機関銃兵団を前線に派遣せよとの指令を受けた。
 その兵団は翌日に会合をもち、『革命戦争』を闘うためだけに、つまり、『資本家たち』が除去された、ソヴェトが全権力をもつ政府を防衛するためだけに、前線へ行くという、-内容で判断するとボルシェヴィキに由来する-決議を採択した。
 決議が言うには、政府がその兵団を解散させようとすれば、連隊は抵抗することになる。
 連隊の別の諸兵団に対して、支援を要請する密使が派遣された。//
 この反乱で最大の役割を果たすボルシェヴィキは、慌てて行動をして愛国主義的反発を刺激してしまうのを懼れた。
 彼らには、ほんの僅かの刺激を与えても襲いかかってくる用意をしている、多くの敵がいた。
 シュリャプニコフ(Shliapnikov)によると、『生命の危険を冒させるにまで至らないと、ネフスキーに我々の支持者が出現することはなかっただろう』。
 そのゆえに、ボルシェヴィキの戦術は、大胆さに慎重さを結合するものでなければならなかった。彼らは、高いレベルの緊張を維持するために兵士や労働者のあいだで激しく煽動した。しかし、把握し切れずに反ボルシェヴィキの集団殺戮(pogrom)に終わるような衝動的な行動には反対した。
 <兵士プラウダ>は6月22日、党からの明確な指令がないままで集団示威活動をしないように兵士と労働者たちに訴えた。//
 『軍事機構は、公然と市街に出現することを呼びかけてはいない。
 かりに必要が生じれば、軍事機構は、党の指導組織-中央委員会およびペテログラード委員会-との合意の上で、公然と街頭へ出現することを呼びかけるだろう。』//
 ソヴェトへの言及は、なかった。
 この抑制した立場の呼びかけは、のちに共産党歴史家がボルシェヴィキ党には七月反乱についての責任がないとする証拠として引用するものだ。しかし、このことはいかなる種類の何をも、証明していない。たんに、党は事態をしっかりと掌握し続けたいと考えていた、ということを示すだけだ。//
 連隊での最初の不穏の波は、ボルシェヴィキが示威活動を思いとどまらせて落ち着いた。ソヴェトはボルシェヴィキの決議を是認するのを拒否した。
 連隊は、諦めて、500人の機関銃兵団を前線に派遣した。//
 このとき、ソヴェトも一緒になって政府は、クロンシュタットでも、暴乱の萌芽を抑圧した。
 ペテログラード近くのこの海軍基地の守備軍団は、アナキストの強い影響のもとにあった。しかし、その政治組織は、F・F・ラスコルニコフ(Raskolnikov)とS・G・ロシャル(Roshal)が率いるボルシェヴィキの手にあった。
 海兵たちには、不満があった。政府が、二月革命のあとで彼らが奪い取って司令本部にしていた元大臣のペーター・ドゥルノヴォ(Peter Durnovo)の邸宅から、アナキストたちを実力で追い出したからだ。
 その邸宅にいたアナキストたちはきわめて乱雑に振る舞ったので、6月19日に19の兵団が、邸宅を取り戻して占有者を拘束するために派遣された。
 そのアナキストたちに扇動されて、海兵たちは6月23日に、収監者を解放するためにペテログラードで行進しようとした。
 彼らもまた、ソヴェトとボルシェヴィキの協同の努力があって、抑制された。//
 しかし、温和しくしていたときでも、機関銃兵士たちは、絶え間なく続く扇動的情報宣伝の影響下にあった。
 ボルシェヴィキは全権力のソヴェトへの移行を主張しており、それにはソヴェトの再選挙、そしてソヴェトが排他的にボルシェヴィキの手に落ちることが続くことになっていた。
 ボルシェヴィキは、このことが直接に平和をもたらすことになると約束していた。
 彼らはまた、『ブルジョアジー』の『抹殺(annihilation)』を主張した。
 アナキストたちは兵士に対して、『ミリュコフ通り-ネフスキーとリテイニュイ-での集団殺害(pogrom)』を扇動した。//
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 第10節へとつづく。

1579/レーニン主義②-L・コワコフスキ著<マルクス主義>16章1節。

 試訳のつづき。
 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (Norton, 三巻合冊 2008)では、第16章第1節は、p.661-4。第二分冊(第二巻)の以下は、p.382-。
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 第1節・レーニン主義をめぐる論争②。
 レーニンは『修正主義者』だったかという問題は、レーニンの著作物とマルクスの著作物とを比較することによって、あるいはこの問題または別の問題についてマルクスならば何をしただろうかまたは何と語っただろうかという回答不能の問題を設定することによってのみ決定することができる。
 明白に、マルクスの理論は多くの箇所で不完全で曖昧だ。そして、マルクスの理論は、その教理をはっきりと侵犯することなくして、多くの矛盾する方法で『適用』されうるだろう。
 にもかかわらず、マルクス主義とレーニン主義の間の継承性に関する問題は、完全に意味がないわけではない。
 しかしながら、この問題は、『忠実性』に関してではなくて、理論の分野でマルクス主義の遺産を『適用』するまたは補足するレーニンの企てにある一般的な傾向を吟味することによって、むしろよりよく考察することができる。//
 述べたとおり、レーニンにとっては、全ての理論上の問題は、唯一の目的、革命のためのたんなる道具だった。そして、全ての人間の行い、観念、制度の意味および価値は、もっぱらこれらがもつ階級闘争との関係にあった。
 このような志向性を支持するものを、多くの理論上の文章の中で、ある階級社会における生活の全側面のうち一時性や関係性を強調したマルクスやエンゲルスの著作物に見出すのは困難ではない。
 にもかかわらず、この二人の特有の分析は、このような『還元主義』定式が示唆すると思える以上に、一般論としてより異なっており、より単純化できないものだ。
 マルクスとエンゲルスはともに、『これは革命にとって良いものか悪いものか?』という発問によって意味されている以上の、利益についての相当に広い視野を持っていた。
 他方、この発問は、レーニンにとっては、問題がそもそも重要かどうか、そうであればそれはどのように決定されるべきかに関する、全てを充足する規準だった。
 マルクスとエンゲルスには、文明の継続性に関する感覚があった。そして、彼らは、科学、芸術、道徳、および社会的諸制度の全ては階級の利益のための道具『以外の何物でもない』、とは考えなかった。
 にもかかわらず、彼らが史的唯物論を明確にする一般的定式は、レーニンが用いるのに十分だった。
 レーニンにとって、哲学的問題はそれ自体では意味をもたず、政治的闘争のためのたんなる武器だった。芸術、文学、法と制度、民主主義諸価値および宗教上の観念も、同様だった。
 この点で、レーニンは、マルクス主義から逸脱していると非難することができないだけではなく、史的唯物論の教理をマルクス以上に完全に適用した、ということができる。
 例えば、かりに法は階級闘争のための武器『以外の何物でもない』とすれば、当然に、法の支配と専横的独裁制の間に本質的な差違はない、ということになる。
 かりに政治的自由はブルジョアジーがその階級的利益のために使う道具『以外の何物でもない』とすれば、共産主義者は権力に到達したときにその価値を維持するよう強いられていると感じる必要はない、と論じるのは完全に適正だ。
 科学、哲学および芸術は階級闘争のための器官にすぎないので、哲学論文を書くことと砲火器を使うことの間には『質的な』差違はない、と理解してよいことになる。-この二つのことは、異なる場合に応じた異なる武器であるにすぎず、味方によって使われるのかそれても敵によってか、に照らして考察されるべきものだ。
 このようなレーニンの教理の見方は、ボルシェヴィキによる権力奪取以降に劇的に明確になった。しかし、こういう見方は、レーニンの初期の著作物において表明されている。
 レーニンは、見解がやや異なる別のマルクス主義者たちとの議論で、共通する教理を適用する変わらない簡潔さと一貫性で優っていた。
 レーニンの論敵たちがレーニンはマルクスが実際に言った何かと矛盾していると-例えば、『独裁』は法による拘束をうけない専制を意味しないと-指摘することができたとき、彼らは、レーニンの非正統性というよりもむしろ、マルクス自身のうちにある首尾一貫性の欠如を証明していた。//
 しかし、それでもなお、レーニンがロシアの革命運動に導入した一つまたは二つのきわめて重要な点に関する新しい発想は、マルクス主義の伝統に対する忠実性がなり疑問であることを示唆する。
 第一に、レーニンは初期の段階で、『ブルジョア革命』のための根本戦略として、プロレタリアートと農民との間の同盟を擁護した。一方で、レーニンに対する反対者たちは、ブルジョアジーとの同盟の方がこの場合の教理とより一致しているはずだ、と主張した。
 第二に、レーニンは、民族問題を、たんなる厄介な邪魔者のではなくて、その教理を社会民主主義者が発展させるべく用いることができかつそうすべき活動源の、強力な蓄蔵庫であると見た最初の人物だった。
 第三に、レーニンは、自分自身の組織上の規範と、労働者による自然発生的な突発に向けて党が採用すべき態度に関する彼自身の範型とを、定式化した。
 これら全ての点について、レーニンは改良主義者やメンシェヴィキからのみならず、ローザ・ルクセンブルク(Rosa Luxemburg)のような正統派の中心人物によっても批判された。
 また、これら全ての点について、レーニンの教理は極度に実践的なものであることが判明した。そして、上記の三点の全てについて、レーニンの政策が、ボルシェヴィキ革命を成功させるために必要なものだった、とレーニンの教理に関して、安全には言うことができる。
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 第2節・党と労働者運動-意識性と随意性、へとつづく。

1578/六月の軍事攻勢-R・パイプス著10章8節。

 前回につづく。
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 第8節・ケレンスキーの夏期軍事攻勢。
 ロシア軍は、6月16日、連合国からの銃砲と砲弾をたっぷりと装備して、二日間の砲弾攻撃を開始し、終わって砲弾づめをした。
 ロシアの攻撃の矛先は南部戦線で、ガリシアの首都のルヴォウ(Lwow)を狙っていた。
 コルニロフ将軍が指揮する第八軍は、目立った。
 第二次の攻撃作戦は、中部および北部前線に向けられた。
 政府が望んだように、この攻勢は愛国主義の明確な兆候を呼び起こした。
 ボルシェヴィキは、このような雰囲気の中であえて軍事行動に反対はしなかった。
 6月のソヴェト大会で、レーニンもトロツキーも、支持に対する反対動議を提案はしなかった。//
 オーストリアに対するロシアの作戦は、二日間よい展開を示た。だが、十分に義務を果たしたと思った諸兵団が攻撃命令に従うのを拒否したことで、やむなく停止した。
 彼らはすぐに、大急ぎで逃げ出した。
 7月6日、追い詰められるオーストリア軍を助けに何度か来ていたドイツ軍が、反攻をはじめた。 
 ドイツの軍人たちが見ていると、ロシア軍は略奪し狼狽を広げて、逃げていた。
 6月大攻勢は、旧ロシア軍の死直前の喘ぎだった。//
 旧ロシア軍は1917年7月以降は、重要な作戦を行わなかった。
 この辺りが、第一次大戦でのロシアの人的被害について述べる、適当な場所だろう。
 ロシアの戦争に関する統計は貧相なので、人的損失を正確に決定するのは困難だ。
 標準的な情報源によれば、ロシアの死傷者数は交戦国のうちそれが最大のものと同程度だった。
 例えば、クラットウェル(Cruttwell)は、ロシア人死者数170万人、負傷者数495万人と推算する。
 これらは、ドイツの被害を僅かに上回り、ロシアよりも16ヶ月間長く戦争を続けたイギリスやフランスとほぼ相応する。
 別の外国人は、死者数は250万人に達すると概算する。(114) 
 これらの数字は、多すぎると考えられてきた。
 公式のロシアの情報源によれば、戦場での死者数は、77万5400人だ。
 もっと最近のロシア人の概算では、いくぶんか多い数字になる。
 戦場での死者数は90万人、戦闘負傷による致死者数40万人、合計で死者は130万人。
 これは、フランス軍およびオーストリア軍の死者数に並び、ドイツ軍のそれよりも三分の一少ない。//
 ロシア軍は、はるかに超える最大数の戦争捕虜を敵国に手に残した。
 ドイツとオーストリアの戦時捕虜収容所(POW camps)には390万人のロシア人捕虜がいた。これは、イギリス、フランスおよびドイツ各軍の戦争捕虜の合計数(130万人)の3倍に達した。
 オーストリア=ハンガリー軍だけは220万人の捕虜を出し、接近した。
 戦闘に投じられた100人のロシア人ごとに、300人が降伏した。
 比較してみると、イギリス軍ではこの数字は20、フランス軍では24、ドイツ軍では26だった。
 言い換えると、ロシア人兵士たちは、西側の諸軍の兵士よりも12倍から15倍の高い確率で降伏した。//
 六月軍事攻勢の失敗は、分断された国家を彼と政府の周りに再結集させようとしたケレンスキーにとって、個人的な惨事だった。
 大きな賭けをして負けて、彼は狼狽し、立腹しやすくなり、極度に懐疑的になった。
 こうした気分の中で、彼は重大な過誤を冒して、敬愛される指導者から、左からも右からも軽蔑される生け贄に変わった。//
 六月軍事攻勢の失敗がもたらした士気低下と失望の雰囲気の中で、レーニンとその部下たちは、新しい蜂起へと冒険的企てをした。
  (114) C. R. M. F. Cruttwell, A History of the Great War, 1914-1918 (Oxford, 1936), p.630-2。Tsen-tral'noe Statistiki, Rossiia v Mirovoi Voine 1914-1918 goda (モスクワ, 1925), p.4n。
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 第9節につづく。

1577/レーニン主義①-L・コワコフスキ著<マルクス主義>16章1節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976, 英訳1978, 三巻合冊 2008)<=レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要な潮流>には、邦訳書がない。
 その第2巻(部)にある、第16章~第18章のタイトル(章名)および第16章の各節名は、つぎのとおり。
 第16章・レーニン主義の成立。
  第1節・レーニン主義をめぐる論争。
  第2節・党と労働者運動、意識性と随意性。
  第3節・民族の問題。
  第4節・民主主義革命でのプロレタリアートとブルジョアジー、トロツキーと『永久革命』。
 第17章・ボルシェヴィキ運動における哲学と政治。
 第18章・レーニン主義の運命、国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 以下、試訳。分冊版の Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism, 2 -The Golden Age (Oxford, 1978), p.381~を用いる。一文ごとに改行する。本来の改行箇所には文末に//を記す。
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 第16章・レーニン主義の成立
 第1節・レーニン主義をめぐる論争①。
 マルクス主義の教理の一変種としてのレーニン主義の性格づけは、長らく論争の主題だった。
 問題は、とくに、レーニン主義はマルクス主義の伝統との関係で『修正主義』思想であるのか、それとも逆に、マルクス主義の一般的原理を新しい政治状況へと忠実に適用したものであるのか、だ。
 この論争が政治的性格を帯びていることは、明瞭だ。
 この点ではなおも共産主義運動の範囲内の勢力であるスターリン主義正統派は、当然に後者の見地を採用する。
 スターリンは、レーニンは承継した教理に何も付加せず、その教理から何も離れず、その教理を適確に、ロシアの状態にのみならず、きわめて重要なことだが、世界の全ての状況へと適用した、と主張した。
 この見地では、レーニン主義はマルクス主義を特殊にロシアに適用したものではなく、あるいはロシアの状態に限定して適用したものではなく、社会発展の<新しい時代>のための、つまり帝国主義とプロレタリア革命の時代のための戦略や戦術の、普遍的に有効なシステムだ。
 他方、一定のボルシェヴィキは、レーニン主義はより個別的にロシア革命のための装置であるとし、非レーニン主義のマルクス主義者は、レーニンは多くの重要な点で、マルクスの教理に対する偽り(false)だったと主張した。//
 このように観念大系的に定式化されるが、この問題は、根源への忠実性を強く生来的に必要とする政治運動や宗教的教派の歴史にある全てのそのような問題のように、実際には、解決できない。
 運動の創立者の後の世代が既存の経典には明示的には表現されていない問題や実際的決定に直面して、その教理を自分たちの行為を正当化するように解釈する、というのは自然で、不可避のことだ。
 この点では、マルクス主義の歴史はキリスト教のそれに似ている。
 結果は一般的には、教理と実際の必要との間にある多様な種類の妥協を生み出すことになる。
 分割の新しい方針や対立する政治的形成物は、事態の即時的な圧力のもとで形作られる。そしてそのいずれも、必要な支持を、完璧には統合しておらず首尾一貫もしていない伝統のうちに見出すことができる。
 ベルンシュタインは、マルクス主義社会哲学の一定の特質を公然と拒否し、全ての点についてのマルクスの遺産を確固として守護するとは告白しなかった、という意味において、じつに、一人の修正主義者だった。
 他方でレーニンは、自分の全ての行動と理論が現存の観念大系(ideology)を唯一つそして適正に適用したものだと提示しようと努力した。
 しかしながら、レーニンは、自分が指揮する運動への実践的な効用よりも、マルクスの文言(text)への忠実性の方を選好する、という意味での教理主義者(doctrinaire)ではなかった。
 逆に、レーニンは、理論であれ戦術であれ、全ての問題を、ロシアでのそして世界での革命という唯一の目的のために従属させる、莫大な政治的な感覚と能力とを持っていた。
 彼の見地からすれば、一般理論上の全ての問題はマルクス主義によってすでに解決されており、知性でもってこの一体の教理のうえに、個別の状況のための正しい(right)解決を見出すべく抽出することだけが必要だった。
 ここでは、レーニンは自らをマルクス主義者の教書の忠誠心ある実施者だと見なしていないだけではなく、自分は、個別にはドイツの党により例証される、欧州の社会民主主義者の実践と戦術に従っていると信じていた。
 1914年になるまで、レーニンは、ドイツ社会民主党を一つの典型だと、カウツキーを理論上の問題に関する最も偉大な生きている権威だと、見なしていた。
 レーニンは、理論上の問題のみならず、第二ドゥーマ〔国会〕のボイコットのような自分自身がより多数のことを知っている、ロシアの戦術上の問題についても、カウツキーに依拠した。
 彼は、1905年に、<民主主義革命における社会民主党の二つの戦術>で、つぎのように書いた。//
 『いつどこで、私が、国際社会民主主義のうちに、ベーベル(Bebel)やカウツキー(Kautsky)の傾向と<同一でない>、何か特別な流派を作り出そうと、かつて強く主張したのか?
 いつどこに、一方の私と他方のベーベルやカウツキーの間に、重要な意見の違いが-例えばブレスラウで農業問題に関してベーベルやカウツキーとの間で生じた違いにほんの少しでも匹敵するような意見の違いが-、現われたのか?』
 (全集9巻p.66n)=<日本語版全集9巻57頁注(1)>//
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 秋月注記-全集からの引用部分は、日本語版全集の邦訳を参考にして、あらためて訳出。<>記載(大月書店, 1955. 第30刷, 1984)の上掲頁を参照。< >部分は、Leszek Kolakowski の原著ではイタリック体で、「レーニンによるイタリック体」との語句の挿入がある。日本語版では、この部分には、右傍点がある。余計ながら、この時点ではレーニンは<Bebel や Kautsky の傾向>と同じだったと、L・コワコフスキは意味させたい。
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 ②につづく。


1576/六月騒乱の挫折②-R・パイプス著10章7節。

 前回からのつづき。
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 第7節・ボルシェヴィキの挫折した6月街頭行動②。
 ボルシェヴィキは、予定した日の4日前の6月6日、最高司令部の会議を開いて最後の準備をした。
 この会議の議事内容を、我々は削り取られた議事録からしか知ることができない。その議事録では、最も重要な最初の事項、レーニンの発言が粗々しく切断されている。
 蜂起するという考えは、強い抵抗に遭った。
 レーニンの『冒険主義』を4月に批判したカーメネフは、再び主導権を握った。
 カーメネフは、この作戦は確実に失敗する、と言った。ソヴェトの権力獲得に関する問題は、ソヴェト大会に委ねるのが最善だ。
 中央委員会のモスクワ支部から来たV・P・ノギン(Nogin)は、もっと率直に、つぎのように語った。
 『レーニンの提案は、革命だ。我々にそれができるのか?
 我々は国の少数派だ。二日では、攻撃を準備できるはずがない。』
 ジノヴィエフも、計画している行動は党を大きな危機に瀕せしめると述べて、反対派に加わった。
 スターリン、中央委員会書記のS・D・スタソワ(Stasova)、およびネフスキー(Nevskii)は、力強くレーニンの提案を支持した。
 レーニンの議論内容は、知られていない。しかし、ノギンの言っていることから判断して、レーニンが何を求めていたかは明瞭だ。//
 ペテログラード・ソヴェトとソヴェト大会は、示威活動を起こすことを考慮して、完全に闇の中に置かれたままだった。//
 6月9日、ボルシェヴィキの扇動者たちが兵舎や工場に現れて、兵士や労働者たちに翌日に予定された示威活動について知らせた。
 軍事機構の部署である<兵士プラウダ>は、示威行進者たちに詳しい指示を与えた。
 その新聞の論説は、つぎの言葉で結ばれていた。
 『資本主義者たちに対する戦争を勝利の結末へ!』//
 このときに開会中のソヴェト大会は、大会での弁舌に夢中になっていて、ほとんど遅すぎると言っていいほどに、ボルシェヴィキの準備について何も知りはしなかった。
 6月9日の午後になって、ボルシェヴィキのビラを見て初めて、彼らがしようとしていることを知った。
 出席していた全ての政党が-もちろんボルシェヴィキを除いて-、ただちに、示威活動の断念を命令すること、およびこの判断を労働者区画と兵舎に伝える活動家を派遣すること、を表決した。
 ボルシェヴィキは、新しい事態に対処すべく、その日遅くに会合を開いた。
 公刊された記録文書は存在していないのだが、彼らは議論の末に、ソヴェト大会の意思に屈して、示威活動を断念することを決定した。
 彼らはさらに、ソヴェトが6月18日に予定した平和的(換言すると、武装しない)示威行進に参加することに合意した。
 おそらくボルシェヴィキ最高司令部は、ソヴェト首脳部に挑戦するのはまだ時機が好くないと考えた。//
 ボルシェヴィキのクーは、回避された。しかし、ソヴェトの勝利の価値には、疑わしいところがあった。なぜなら、ソヴェトには、この事件から適切な結論を導く、道徳的勇気が欠けていたからだ。
 ボルシェヴィキを含めてソヴェトの全党派を代表するおよそ100人の社会主義知識人たちが、6月11日に、この二日間の事態について議論すべく会合を開いた。
 メンシェヴィキの代弁者であるテオドア・ダン(Theodore Dan)はボルシェヴィキを批判し、いかなる党派もソヴェトの承認なくして示威活動をするのは許されない、武装の集団はソヴェトが支援する示威活動にのみ投入される、という決議案を提案した。
 これらの規則の違反者は除名されるものとされていた。 
 レーニンは自ら選んで欠席しており、ボルシェヴィキの事案はトロツキーによって防御された。
 最近にロシアに到着したトロツキーは、まだ正式には党員ではなかったが、ボルシェヴィキ党にきわめて近い立場にいた。
 議論の途中でツェレテリは、臆病すぎるとして、ダンの提案に反対するように出席者に求めた。
 青白くなり、興奮して声を震わせて、彼は叫んだ。//
 『起きたことは、<陰謀に他ならない。
 -政府を転覆させて、ボルシェヴィキに権力を奪取させる陰謀だ>。
 彼らが他の手段では決して獲得できないと知っている権力を、だ。
 この陰謀は、我々が発見するや否や無害なものに抑えられた。
 しかし、明日にもまた発生しうる。
 反革命が頭をもたげた、と言う。
 それは違っている。
 反革命が頭をもたげたのでは、ない。頭を下げたのだ。
 反革命は、ただ一つの扉を通ってのみ貫ける。ボルシェヴィキだ。
 ボルシェヴィキが今していることは、考え方の情報宣伝ではなく、陰謀だ。
 批判を攻撃する武器は、武器を攻撃する批判によって置き換わる。
 ボルシェヴィキ諸君、許せ。だが、我々は、別の手段での闘争を選択すべきだ。
 武器をもつ価値のない革命家からは、武器を奪い取らなければならない。
 ボルシェヴィキは、武装解除されなければならない。
 彼らが今まで利用してきた異様な専門的用具を、彼らの手に残してはならない。
 機関銃や武器を、彼らに残してはならない。
 我々は、このような陰謀に寛容であってはならない。』(*)//
 ツェレテリはある程度の支持を得たが、多数は反対だった。
 ボルシェヴィキの陰謀だとする、どんな証拠があるのか?
 純粋な大衆運動を代表するボルシェヴィキを、なぜ武装解除するのか?
 彼は本当に『プロレタリアート』を、自衛できないものにしたいのか?
 マルトフは、とくに猛烈に、ツェレテリを非難した。
 社会主義者たち〔ソヴェト大会〕はその翌日に、ダンの穏健な提案に賛成する表決をした。これは、ボルシェヴィキの武装解除に、彼らから秘密の装置を剥ぎ取ることに、反対することを意味した。
 精神の、重大な過ちだった。
 レーニンは直接に、ソヴェトに挑戦した。そしてソヴェトは、その目を逸らした。
 ソヴェト多数派は、つぎのように信じることを好んだのだ。すなわち、ボルシェヴィキは、ツェレテリが言うような、権力奪取を志向する反革命の党ではなく、疑問のある戦術を用いている、ふつうの社会主義政党の一つなのだ、と。
 社会主義者たちはかくして、ボルシェヴィキを非合法なものにする機会を、敵に対してソヴェトの利益を代表し、その利益のために活動していると主張するという、強い政治的武器を奪い取る機会を、逃した。//
 ボルシェヴィキは、臆病ではなかった。
 <プラウダ>は、ツェレテリの提案が否決された翌日に、ボルシェヴィキは現在も将来も、ソヴェトの命令に服従する意思はないと、ソヴェトに知らしめた。
 『我々は、以下のとおり宣言するのが義務だと考える。
 ソヴェトに参加しても、かつソヴェトが全ての権力を獲得するために闘っても、一瞬でも、また原理的に我々の敵対物であるソヴェトの利益のためにも、つぎの権利を放棄することはしない。
 すなわち、分離しておよび自立して、我々のプロレタリア階級政党の旗のもとに労働者大衆を組織化する全ての自由を活用する権利。
 我々はまた、そのような反民主主義的制限に服従することを、範疇的に拒否する。
 <国家の権力が全体としてソヴェトの手に移ったとしても>、-そしてこれを言いたいが-ソヴェトが我々の煽動活動に足枷をはめようとしても、<我々は、温和しく服従するのではなく>、国際的社会主義の理想の名において、投獄やその他の制裁を受ける危険を冒す。』(112)//
 これは、ソヴェトに対する戦争開始の宣言であり、ソヴェトが政府になっても、なったときにも、それに反抗して行動する権利をもつことを強く主張するものだった。// 
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  (*) <プラウダ> No. 80 (1917年6月13日付) p.2。これは非公開の会議だった。そして、他の根拠資料は存在しない。しかし、ツェレテリは、<プラウダ>からの本文引用部分は、若干の些細な、重要ではない省略はあるけれども、正しく自分の発言を伝えるものであると確認している。ツェレテリ, Vospominaniia, II, p.229-230。
  (112) <プラウダ> No. 80 (1917年6月13日付) p.1。強調の< >は補充。
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 第8節につづく。

1574/ケレンスキー着任・六月騒乱①-R・パイプス著10章7節。

 前回のつづき。第7節は、p.412~p.417。
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 第7節・ボルシェヴィキの挫折した6月街頭行動①。
 ケレンスキーは、戦時大臣としての職責に、称賛すべき積極さで取り組んだ。
 ロシアの民主主義の生き残りは、強くて紀律ある軍隊にかかっていると、そして沈滞気味の軍の雰囲気は軍事攻勢に成功することで最も高揚するだろうと、確信していたからだ。
 将軍たちは、軍がこのまま長く動かないままであれば、軍は解体すると考えていた。
 ケレンスキーは、フランス軍の1792年の奇跡を再現したかった。フランス軍はその年、プロイセンの侵攻を止めて退却させ、全国民を革命政府へと再結集させた。
 二月革命前に取り決められていた連合諸国への義務を履行するために、大攻勢は6月12日に予定されていた。
 それはもともとは純粋に軍事的な作戦として構想されていたが、今や加えて、政治的な重要性を持ってきていた。
 軍事攻勢の成功に期待されたのは、政府の権威を高め、全民衆に愛国主義を再び呼び起こすことだった。これらは、政府に対する右翼や左翼からの挑戦にうまく対処するのを容易にするだろう、と。
 テレシェンコはフランスに対して、攻勢がうまくいけばペテログラード守備兵団にある反抗的な要素を抑圧する措置をとる、と語った。//
 軍事攻勢を行う準備として、ケレンスキーは軍の改革を実施した。
 彼は、おそらくロシアの最良の戦略家だったアレクセイエフについて、敗北主義的行動者だという印象を持った。そしてアレクセイエフに替えて、1916年の運動の英雄、ブルジロフ(Brusilov)を任命した。(*)
 ブルジロフは軍隊の紀律を強化し、服従しない兵団に対する措置について、広い裁量を将校たちに与えた。
 フランス軍が1792年に導入した commissaires aux armees を真似て、前線の兵士たちの士気高揚のために委員(commissars)を派遣し、兵士と将校の間の調整にあたらせた。これは、のちに赤軍でボルシェヴィキが拡大して使うことになる、新しい考案物だった。
 ケレンスキーは、5月と6月初めの間のほとんどを、愛国心を掻き立てる演説をしながら、前線で過ごした。
 彼が現れることは、電流を流すような刺激的効果をもった。//
 『前線へのケレンスキーの旅を表現するには、「勝利への進軍」では弱すぎるように思える。
 扇動的な力強い演説のあとは、嵐が過ぎ去るのに似ていた。
 群衆たちは彼を一目見ようと、何時間も待った。
 彼の通り道はどこにも、花が撒かれた。
 兵士たちは、握手しようとまたは衣服に触ろうと、何マイルも彼の自動車を追いかけた。
 モスクワの大きな会館での集会では、聴衆たちは熱狂と崇敬の激発に襲われた。
 彼が語りかけた演台は、同じ信条の崇拝者たちが捧げた、時計、指輪、首輪、軍章、紙幣で埋め尽くされた。』(103)//
 ある目撃者は、ケレンスキーを『全てを焼き尽くす火を噴き上げている活火山』になぞらえた。、そして、彼には自分と聴衆の間に障害物があるのは堪えられないことだった、とつぎのように書いた。
 『彼は、あなた方の前に、頭から脚まで全身をさらしたい。そうすれば、あなた方と彼の間には、見えなくとも力強い流れのあるお互いの放射線が完璧に埋め尽くす、空気だけがある。
 彼の言葉はかくして、演壇、教壇、講壇からは聞こえてこない。
 彼は演壇を降りて台に飛び移り、あなた方に手を差し出す。
 苛立ち、従順に、激しく、信仰者たちの熱狂が打ち震えて、彼を掴む。
 自分に触るのを、手を握るのを、そして我慢できずに彼の身体へと引き寄せるのを、あなた方は感じる。』(104)//
 しかしながら、このような演説の効果は、ケレンスキーが見えなくなると突如に消失した。現役将校たちは、彼を『最高説得官』と名づけた。
 ケレンスキーはのちに、6月大攻勢直前の前線軍団の雰囲気は、両義的だった、と想い出す。
 ドイツとボルシェヴィキの情報宣伝活動の影響力は、まだほとんどなかった。
 その効果は、守備兵団と、新規兵から成る予備団である、いわゆる第三分隊に限られていた。
 しかし、ケレンスキーは、革命は戦闘を無意味にしたとの意識が広がっていることに直面した。
 彼は、書く。『苦痛の三年間の後で、数百万の戦闘に疲れた兵士たちが、「新しい自由な生活が故郷で始まったばかりだというのに、自分はなぜ死ななければならないのか?」と自問していた。』(105)
 兵士たちは、彼らが最も信頼する組織であるソヴェトからの返答をもらえなかった。ソヴェトの社会主義者多数派は、きわめて特徴的な、両義的な方針を採用していたからだ。
 メンシェヴィキと社会主義革命党(エスエル)の(ソヴェトでの)多数派が裁可した典型的な決議を一読すれば、戦争に対する完全に消極的な性格づけに気づく。すなわち、この戦争は帝国主義的なものだ。また、戦争は可能なかぎり速やかに終わらせるべきだとの主張にも。
 また一方で、ケレンスキーの強い要求に従って挿入された、遠慮がちの数行にも気づくだろう。それは、全面平和を遅らせて、ロシアの兵士たちが戦い続けるのは良いことだ、と、曖昧な論理で、かつ感情に訴える何ものをもなくして、示唆する数行だった。//
 ボルシェヴィキは政府に対する不満や守備兵団の士気低下を察知して、6月初めに、この雰囲気を利用することを決めた。
 ボルシェヴィキの軍事機構は6月1日に、武装示威活動を行うことを表決した。
 この軍事機構は中央委員会から命令を受けていたので、当然のこととして、その決定は後者の承認を受けているか、おそらくは後者の提唱にもとづいていた。
 中央委員会は6月6日に、4万人の武装兵士と赤衛軍を街頭に送り込んでケレンスキーと連立政権を非難する旗のもとで行進し、そして適当な瞬間に『攻撃に移る』ことを議論した。
 これが何を意味するのかは、軍事機構の長のネフスキー(Nevskii)からボルシェヴィキの計画を知ったスハノフの文章によって分かる。//
 『6月10日に予定された「宣言行動」の対象は、臨時政府の所在地のマリンスキー宮(Mariinskii Palace)とされた。
 これは、労働者分遣団とボルシェヴィキに忠実な連隊の最終目的地だった。
 特に指名された者が宮の前で、内閣のメンバーに出て来て質問に答えよと要求することになっていた。
 特別指名の集団は、大臣が語ったとき、『民衆は不満だ!』と声を挙げて、群衆の雰囲気を興奮させる。
 雰囲気が適当な熱度以上に達するや、臨時政府の人員はその場で拘束される。
 もちろん、首都はすぐに反応することが予想される。
 この反応の状態いかんによって、ボルシェヴィキ中央委員会は、何らかの名前を用いて、自分たちが政府だと宣言する。
 「宣言行動」の過程でこれら全てのための雰囲気が十分に好ましいと分かれば、そしてルヴォフ(Lvov)やツェレテリが示す抵抗は弱いと分かれば、その抵抗はボルシェヴィキ連隊と兵器の実力行使によって抑止する。(**)
 示威行進者の一つのスローガンは、『全ての権力をソヴェトへ』だとされていた。
 しかし、ソヴェトが自らを政府と宣言するのを拒んで武装の示威活動を禁止すれば、スハノフが合理的に結論するように、権力がボルシェヴィキ中央委員会の手に渡されるということのみを意味したことになっただろう。
 示威活動は第一回全ロシア・ソヴェト大会(6月3日に開会予定)と同時期に予定されたので、ボルシェヴィキは既成事実を作って大会と対立するか、または大会の意思に反して、大会の名前で権力を奪うか権力を要求することを無理強いするかを計画していたかもしれない。
 レーニンは実際に、その意図を秘密にはしなかった。
 ソヴェト大会でツェレテリがロシアには権力を担う意思がある政党はないと述べたとき、レーニンは座席から、『ある!』と叫んだ。
 この逸話は、共産主義者の聖人伝記類では伝説になった。//
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   (*) ブルジロフ(Brusilov)はその回想録で、最高司令官になったときにすでに、ロシア軍団には戦闘精神が残っておらず、攻勢は失敗すると分かったと主張している。A. B. Brusilov, Moi vospominaniia (モスクワ・レニングラード, 1929), p.216。 
  (103) E. H. Wilcox, Russian Ruin <ロシアの破滅> (ニューヨーク, 1919), p.196。
  (104) 同上, p.197。V. I. Nemirovich-Danchenko を引用。  
  (105) Alexander Kerensky, Russia and History's Turning Point <ロシアと歴史の転換点>(ニューヨーク, 1965), p.277。
  (**) N. Sukhanov, Zapinski o revoliutsii, IV (ベルリン, 1922), p.319。スハノフはこの情報の源を示していない。だが、メンシェヴィキ派の歴史家のボリス・ニコラエフスキー(Boris Nikolaevskii)は、ネフスキーから来ているのだろうと推測している。SV, No. 9-10 (1960), p.135n。ツェレテリは、スハノフが回想録を公刊した1922年に主要な人物はまだ生きていて、スハノフの説明を否定できたはずだったにもかかわらず、誰もそうしなかった、と指摘する。I. G. Tsereteli, Vospominaniia o Fevral'skoi Revoliutsii, II (パリ, 1963), p.185。
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 ②につづく。

1572/レーニンらの利点とドイツの援助③-R・パイプス著10章6節。

 前回のつづき。
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 ボルシェヴィキの権力闘争での利点とドイツの資金援助③。
 これらの出版物は、レーニンの考え方を広めた。しかし、隠した内容で、だった。
 採用した方法は『プロパガンダ(propaganda)』で、読者に何をすべきかを伝える(これは『アジテーション(agitation)』の任務だ)のではなく、望ましい政治的結論を自分たちが導く想念を読者に植え付けることだった。
 例えば、兵団に対する訴えで、ボルシェヴィキは、刑事訴追を受けさせることになるような脱走を唆しはしなかった。
 ジノヴィエフは、<兵士のプラウダ>第1号に、新聞の目的は労働者と兵士の間の不滅の緊密な関係を作り出し、結果として兵団員たちが自分たちの『真の』利益を理解して労働者の『集団虐殺』をしないようにさせることにある、と書いた。
 戦争の問題についても、彼は同様に用心深かった。//
 『我々は、いま<銃砲を置く>ことを支持しない。
 これは、決して戦争を終わらせない。
 いまの主要な任務は、全兵士に、何を目ざしてこの戦争は始まったのか、<誰が>戦争を始めたのか、誰が戦争を必要とするのか、を理解させ、説明することだ。』(91)//
 『誰が』、もちろん、『ブルジョアジー』だった。兵士たちは、これに対して銃砲を向けるようになるべきだ。//
 このような組織的な出版活動を行うには、多額の資金が必要だった。
 その多くは、ほとんどではなかったとしても、ドイツから来ていた。//
 ドイツの1917年春と夏のロシアでの秘密活動については、文書上の痕跡はほとんど残っていない。(*)
 ベルリンの信頼できる人間が、信頼できる媒介者を使って、文書に残る請求書も受領書も手渡すことなく、中立国スウェーデン経由で、ボルシェヴィキに現金を与えた。
 第二次大戦後にドイツ外交部の文書(archives)が公になったことで、ボルシェヴィキに対するドイツの資金援助の事実を確かなものにすることができ、そのある程度の金額を推算することができるが、ボルシェヴィキがドイツの金を投入した正確な用途は、不明瞭なままだ。
 1917-18年の親ボルシェヴィキ政策の主な考案者だったドイツ外務大臣、リヒャルト・フォン・キュールマン(Richard von Kuelmann)は、ドイツの資金援助を主としてはボルシェヴィキ党の組織と情報宣伝活動(propaganda)のために用いた。
 キュールマンは1917年12月3日(新暦)に、ある秘密報告書で、ボルシェヴィキ党派に対するドイツの貢献を、つぎのように概括した。//
 『連合諸国(協商国、Entente)の分裂およびその後の我々と合意できる政治的連結関係の形成は、戦争に関する我々の外交の最も重要な狙いだ。
 ロシアは、敵諸国の連鎖の中の、最も弱い環だと考えられる。
 ゆえに、我々の任務は、その環を徐々に緩め、可能であれば、それを切断することだ。
 これは、戦場の背後のロシアで我々が実施させてきた、秘密活動の目的だ--まずは分離主義傾向の助長、そしてボルシェヴィキの支援。
 多様な経路を通して、異なる標札のもとで安定的に流して、ボルシェヴィキが我々から資金を受け取って初めて、彼らは主要機関の<プラウダ>を設立することができ、活力のある宣伝活動を実施することができ、そしておそらくは彼らの党の元来は小さい基盤を拡大することができる。』(92) //
 ドイツは、ボルシェヴィキに1917-18年に最初は権力奪取を、ついで権力維持を助けた。ドイツ政府と良好な関係をもったエドュアルト・ベルンシュタイン(Edward Bernstein)によれば、そのためにドイツがあてがった金額は、全体で、『金で5000万ドイツ・マルク以上』だと概算されている(これは、当時では9トンないしそれ以上の金が買える、600~1000万ドルになる)。(93)(**)//
 これらのドイツの資金のある程度は、ストックホルムのボルシェヴィキ工作員たちを経由した。その長は、ヤコブ・フュルステンベルク=ガネツキー(J. Fuerustenberg-Ganetskii)だった。
 ボルシェヴィキとの接触を維持する責任は、ストックホルム駐在ドイツ大使、クルツ・リーツラー(Kurz Riezler)にあった。
 B・ニキーチン(Nikitin)大佐が指揮した臨時政府の反諜報活動によると、レーニンのための資金はベルリンの銀行(Diskontogesellschaft)に預けられ、そこからストックホルムの銀行(Nye Bank)へと転送された。
 ガネツキーがNye 銀行から引き出して、表向きは事業目的で、実際にはペテログラードのシベリア銀行(Siberian Bank)の彼の身内の口座へと振り込まれた。それは、ペテログラードのいかがわしい社会の女性、ユージニア・スメンソン(Eugenia Sumenson)だった。
 スメンソンとレーニンの部下のポーランド人のM・Iu・コズロフスキー(Kozlovskii)は、ペテログラードで、表向きは、ガネツキーとの金融関係を隠す覆いとしての薬品販売事業を営んでいた。
 こうして、ドイツの資金をレーニンに移送することができ、合法の取引だと偽装することができた。
 スメンソンは、1917年に逮捕されてのちに、シベリア銀行から引き出した金をコズロフスキー、ボルシェヴィキ党中央委員会メンバー、へと届けたことを告白した。
 彼女は、この目的で銀行口座から75万ルーブルを引き出したことを、認めた。
 スメンソンとコズロフスキーは、ストックホルムとの間に、表向きは取引上の連絡関係を維持した。そのうちいくつかは政府が、フランスの諜報機関の助けで、遮断した。
 つぎの電報は、一例だ。//
 『ストックホルム、ペテログラードから、フュルステンベルク、グランド・ホテル・ストックホルム。ネスレ(Nestles)は粉を送らない。懇請(request)。スメンソン。ナデジンスカヤ 36。』(97)//
 ドイツは、ボルシェヴィキを財政援助するために、他の方法も使った。そのうちの一つは、偽造10ルーブル紙幣をロシアに密輸出することだった。
 大量の贋造された紙幣は、七月蜂起〔1917年〕の余波で逮捕された親ボルシェヴィキの兵士や海兵から見つかった。//
 レーニンは、ドイツとの財政関係を部下に任せて、うまくこうした取引の背後に隠れつづけた。
 彼はそれでもなお、4月12日のガネツキーとラデックあての手紙で、金を受け取っていないと不満を述べた。
 4月21日には、コズロフスキーから2000ルーブルを受け取ったと、ガネツキーに承認した。
 ニキーチンによると、レーニンは直接にパルヴス(Parvus)と連絡をとって、『もっと物(materials)を』と切願した。(***)
 こうした通信のうち三件は、フィンランド国境で傍受された。
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  (91) <兵士のプラウダ>第1号(1917年4月15日付) p.1。
  (*) 1914年~1917年のロシアの事態にドイツが直接に関与したことを示すと称する、『シッション文書(Sission Papers)』と呼ばれるひと塊の文書が、1918年早くに表れた。これはアメリカで、戦争情報シリーズ第20号(1918年10月)の<ドイツ・ボルシェヴィキの陰謀>として、公共情報委員会によって公刊された。ドイツ政府はただちに完全な偽造文書だと宣言した(Z. A. ゼーマン, ドイツとロシア革命 1915-1918, ロンドン, 1958, p.X.。さらに、ジョージ・ケナン(George Kennan) in: The Journal of Modern History, XXVIII, No.2, 1956.06, p.130-154、を見よ)。これは、レーニンの党に対するドイツの財政的かつ政治的支援という考え自体を、長年にわたって疑わせてきた。
  (92) Z. A. ゼーマン, ドイツとロシア革命, p.94。
  (93) <前進(Vorwaerts)>1921年1月14 日号, p.1。
  (**) ベルンシュタインが挙げる数字は、ドイツ外務省文書の研究で、大戦後に確認された。そこで見出された文書によると、ドイツ政府は1918年1月31日までに、ロシアでの『情報宣伝活動』のために4000万ドイツ・マルクを分けて与えた。この金額は1918年6月までに消費され、続いて(1918年7月)、この目的のために追加して4000万ドイツ・マルクが支払われた。おそらくは後者のうち1000万ドイツ・マルクだけが使われ、かつ全てがボルシェヴィキのためだったのではない。当時の1ドイツ・マルクは、帝制ロシアの5分の4ルーブルに対応し、1917年後の2ルーブル(いわゆる『ケレンスキー』)にほぼ対応した。Winfried Baumgart, Deutsche Ostpolitik <ドイツの東方政策> 1918 (ウィーン・ミュンヘン, 1966), p.213-4, 注19。
  (97) Nikitin, Rokovye gody, p.112-4。ここには、他の例も示されている。参照、Lenin, Sochineniia, XXI, p.570。  
  (99) Lenin, PSS, XLIX, p.437, p.438。
  (***) B. Nikitin, Rokovye gody (パリ, 1937), p.109-110。この著者によると(p.107-8)、コロンタイ(Kollontai)も、ドイツからの金を直接にレーニンに渡す働きをした。ドイツの証拠資料からドイツによるレーニンへの資金援助が圧倒的に証明されているにもかかわらず、なおもある学者たちは、この考え(notion)を受け容れ難いとする。その中には、ボリス・ソヴァリン(Boris Souvarine)のようなよく知った専門家もいる。Est & Quest, 第641号(1980年6月)の中の彼の論文 p.1-5、を見よ。
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 第7節につづく。

1570/レーニンらの利点とドイツの援助②-R・パイプス著10章6節。

 前回のつづき。
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 第6節・ボルシェヴィキの権力闘争での利点とドイツの財政援助②。
 しっかりした指導者がいないロシアでは解体が進み、社会主義者が作動させていたものを含む国家諸制度が全て弱体化した。そうして、事態の推移は、全ロシア・ソヴェトや労働組合中のメンシェヴィキやエスエルの指導者たちを出し抜く機会を、ボルシェヴィキに与えた。
 連立政府の形成ののちにマルク・フェロ(Marc Ferro)は、ペテログラードの全ロシア・ソヴェトの権威が各地域のソヴェトのそれが大きくなるにつれて弱くなったことを指摘した。
 同じようなことが労働運動でも起こり、全国的労働組合は権威を失って地方の『工場委員会(Factory Committe)』に譲った。
 各地域ソヴェトと工場委員会は、ボルシェヴィキが操縦しやすい、政治経験のない人々によって管理されていた。//
 ボルシェヴィキは、メンシェヴィキが支配する大きな全国的労働組合にはほとんど影響力を持たなかった。
 しかし、輸送と通信の状態が悪化したとき、ペテログラードかモスクワに本部がある大きな全国的労働組合は、広大な国土に散在している構成員と接触できなくなった。
 労働者たちは今や、職業的労働組合から工場へと、忠誠の方向を移す傾向が生じた。
 このような推移は、1917年に全国的労働組合の構成員数がきわめて多数になったにもかかわらず、発生した。
 実力と影響力を最も急速に身につけた労働者組織は、工場委員会(あるいは Fabzavkomy)だった。
 この工場委員会は、旧政府が任命した管理者が姿を消したあとで、二月革命の始まりの時期に、国有の防衛装備工場で出現した。
 そこから、私有の諸企業へと広がった。
 3月10日、ペテログラード産業家連盟はイスパルコムとの間で、首都の全工場施設(plants)に工場委員会を設置することに合意した。
 臨時政府は翌月に、それらを公的に承認し、工場委員会が労働者たちの代表団として行動する権利を付与した。//
 工場委員会は最初は穏健な立場を採用し、生産の増大と労働争議の仲裁に関心を集中させた。
 そうして、工場委員会は、急進化した。
 不幸なことに物価高騰や燃料、原料の不足が工場閉鎖になるほどにひどくなり、工場委員会は、投機や偽りの会計帳簿のせいだと雇用主を責め立て、一時罷業の手段をとった。
 あちこちで彼らは、所有者や管理者を追い払って、自分たちで工場を稼働させようと企てた。
 そうでなくとも、彼らは経営に自分たちの声が強く反映されることを要求した。
 メンシェヴィキはこのようなアナクロ・サンディコ主義的組織に好意をもたず、工場委員会を全国的労働組合へと統合しようとした。
 しかし、労働者の当面の日々の関心が、別の場所にいる同職業の仲間ではなく同じ傘のもとに雇われている仲間とますますつながっていくにつれて、趨勢はメンシェヴィキの意向とは反対の方向へと進んだ。
 ボルシェヴィキは、労働組合でのメンシェヴィキを弱体化する理想的な手段だと、工場委員会のことを考えた。
 ボルシェヴィキは『労働者の支配』というサンディコ主義の考えに同意はしなかったが、かつ権力奪取ののちにはこの組織を絶滅させることになるのだが、1917年の春には、工場委員会を大きくすることが彼らの利益だった。
 ボルシェヴィキは工場委員会の設立を助け、全国的に組織した。
 5月30日に開催されたペテログラード工場委員会の第一回大会では、ボルシェヴィキは、少なくとも三分の二の代議員を支配した。
 工場の会計書類に関与できるだけではなくて工場の管理についての決定的な表決権が労働者に与えられるべきだとのボルシェヴィキの提案は、圧倒的な多数でもって可決された。
 工場委員会、Fabzavkomyは、ボルシェヴィキの手に落ちた、最初の組織だった。(*)//
 レーニンは暴力行為による権力奪取を目論んでいたので、政府とソヴェトの双方から独立し、党の中央委員会に対してのみ責任をもつ自分自身の軍団を必要とした。
 『労働者の武装』は、将来のクー・デタへの綱領の中心にあった。
 群衆は、二月革命の間に、軍需物資を略奪した。数万の銃砲が消え、そのいくらかは工場の中に隠された。
 ペテログラード・ソヴェトは、帝制時代の警察に代わる『人民軍』を組織した。
 だがレーニンは、ボルシェヴィキがこれに加入するのを拒んだ。自分自身の実力部隊が欲しかったのだ。
 国家転覆のための組織を作っているとして訴追されることのないように、レーニンは、その私的な軍を最初は『労働者民兵』と呼んで、工場を略奪者から守る当たり障りのない護衛団のごとく偽装した。
 この私的民兵は4月28日に、ボルシェヴィキの赤衛軍(Red Guard, Krasnaia Gvardiia)と一つになり、後者には、『革命の防衛』と『反革命軍に対する抵抗』という使命が加わった。
 ボルシェヴィキは、この自分の軍に対するソヴェトの反対を無視した。
 赤衛軍は結局は、通常の民間警察に変わるか人民軍と併合するかしたので、期待外れのものに終わった。どちらの場合でも、レーニンが期待したような階級軍精神をもつものにはならなかったからだ。
 必要になった十月には、存在していないことで異彩を放つことになる。//
 ボルシェヴィキはクーを準備して、守備軍団や前線兵団の間での虚偽情報宣伝や煽動活動も熱心に行なった。
 この仕事の責任は、軍事機構(Military Organization)が負うこととされた。
 ある共産党資料によれば、この軍事機構は、守備兵団の四分の三に、工作員や細胞(cell)を持った。
 軍事機構はその工作員や細胞から軍団の雰囲気に関する情報を得るとともに、それらを通じて、反政府および反戦争の宣伝活動を実行した。
 ボルシェヴィキは制服組の人間からほとんど支持されていなかったが、首尾よく兵団の不満を煽った。それの効果は、兵士たちが、政府またはソヴェトからのボルシェヴィキに対抗する呼びかけに服従したくない気分になる、ということだった。
 スハノフ(Sukhanov)によれば、最も強く不満を持っていた守備軍兵士たちですらボルシェヴィキを支持したのではなかったが、兵士たちの雰囲気は『中立』や『無関心』の一つで、反政府の訴えに反応しやすくなっていた。
 守備軍団の中の最大部隊、第一機関銃連隊の雰囲気は、この範疇に属していた。//
 ボルシェヴィキは主としては、印刷した言葉の手段でもって、心情に影響を与えた。
 <プラウダ>は、6月までには、8万5000部が発行された。
 ボルシェヴィキは地方紙や特定の集団に向けた文書(例えば、女性労働者、少数派民族)を発行し、夥しい数の小冊子を作成した。
 ボルシェヴィキは、制服を着た男たちに特別の注意を払った。
 兵士用の新聞、< Soldatiskaia プラウダ>が4月15日に発刊され、これは5万から7万5000部が印刷された。
 つづいて、海兵用の< Golos Praudy >、前線兵士用の< Okopnaia Pravda >が、それぞれクロンシュタット、リガで印刷されて、発刊された。
 それらは合わせて1917年の春に、兵団にむけて一日に10万部が配られ、ロシアの全軍に1200万人の兵士がいたとすれば、一隊あたり毎日一人のボルシェヴィキ党員の需要を満たすものだった。
 ボルシェヴィキ系新聞の合計部数は、7月初めには、32万になった。
 追記すると、< Soldatiskaia プラウダ>は、35万の小冊子と大判紙を印刷した。
 ボルシェヴィキには1917年二月には新聞がなかったことを考えれば、こうしたことは特筆されるべき事柄だ。//
  (*) 労働組合と工場委員会の対立は、20年後にアメリカ合衆国でも起きた。そのとき、工場を基礎にする組合はCIOと提携して、AFLの職業志向の組合に挑戦した。ここでは共産主義者は、ロシアのように、前者に味方した。
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 ③へとつづく。

1568/レーニンらの利点とドイツの援助①-R・パイプス著10章6節。

 第5節終了の前回からのつづき。第6節は、p.407~p.412。
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 第6節・ボルシェヴィキの権力闘争での利点とドイツによる財政援助。
 1917年の5月と6月、社会主義諸党の中で、ボルシェヴィキ党はまだ寂しい第三党だった。
 6月初めの第一回全ロシア・ソヴェト大会のとき、ボルシェヴィキには105人の代議員がいたが、これに対してエスエルは285人、メンシェヴィキは248人だった。(*)
 しかし、潮目はボルシェヴィキに向かって流れていた。//
 ボルシェヴィキには多くの有利な点があった。
 新しい臨時政府に対する唯一の対抗選択肢であり、決意があり権力を渇望する指導部をもつ、という独自の地位。そしてこれら以外にも、少なくとも二つの利点があった。
 メンシェヴィキとエスエルは社会主義的スローガンをまくし立てはしたが、それらを論理的な結論へと具体化することをしなかった。
 このことは支持する有権者たちを当惑させ、ボルシェヴィキを助けた。
 社会主義者たちは、二月革命以降のロシアは『ブルジョア』体制になり、ソヴェトを通じて自分たちが統制すると言ってきた。
 だが、そうであれば、なぜソヴェトは『ブルジョアジー』を除去して完全な権力を握らないのか?
 社会主義者たちは、戦争は『帝国主義的』だと称した。
 そうであれば、なぜ武器を捨てさせ、故郷に戻さないのか?
 『全ての権力をソヴェトへ』や『戦争をやめよ』のスローガンは、1917年の春や夏にはまだ一般に受容されていなかったが、確実に避けられない論理をもった-つまり、社会主義者たちが一般民衆の間に植え付けた考えの脈絡で、『意味』をもった。
 ボルシェヴィキは勇気をもって、社会主義者に共通の諸基本命題から、彼らがそれに実際に堪えることは決してないという明白な結論を抽出した。
 したがって、社会主義者がそうしてしまうことは、自分たち自身を裏切るのと同じになる。
 社会主義者たちは、レーニンの支持者たちが厚かましく民主主義的手続に挑戦して権力への衝動を見せたときいつも、そして何度も、やめよと語りかけ、だが同時に、政府が対応措置をとることを妨げることになった。
 社会主義者たちのたった一つの罪が危険ではない手法で同じ目標を達成しようとしたことにあるとすれば、彼らがボルシェヴィキに立ち向かうのは困難だっただろう。
 レーニンとその支持者たちは、多くの意味で、本当の『革命の良心』だった。
 多数派社会主義者には精神的臆病さと結びついて知的な責任感が欠如していたので、少数派ボルシェヴィキが根付いて成長する、心理的および理論的な環境が醸成された。//
 しかしおそらく、ボルシェヴィキがその好敵たちを凌駕する唯一かつ最大の有利な点は、ロシアに対する関心が全くないことにあった。
 保守主義者、リベラルたち、そして社会主義者たちはそれぞれに、革命が解き放ち国を分解させている個別の社会的地域的な利害を敢えて無視して、一体性あるロシアを守ろうとした。
 彼らは、兵士たちに紀律の維持を、農民たちに土地改革を待つことを、労働者には生産力の保持を、少数民族には自治の要求の一時停止を、訴えた。
 このような訴えは、人気がなかった。ロシアには国家や民族に関する強い意識がなかったので、中心から離れる傾向は増大し、全体を犠牲にした個別利益の優先が助長されていたからだ。
 ボルシェヴィキにとってはロシアは世界革命のための跳躍台にすぎず、彼らはこれらに関心がなかった。
 かりに自然発生的な力が現存の諸制度を『粉砕』してロシアを破壊すれば、それはきわめて結構なことだっただろう。
 こうした理由から、ボルシェヴィキは、全ての破壊的な傾向を完璧に助長し続けた。
 この傾向は二月にいったん解き放たれるや留まることを知らず、ボルシェヴィキは膨れあがる波の頂点に立った。
 自分たちは不可避的なものだと主張しつつ、統制されているという見かけをかち得た。
 のちに権力を掌握した際、すぐに全ての約束を破棄し、かつてロシアが知らなかった中央集中的な独裁形態の国家を作り上げることになる。
 そのときまではしかし、ロシアの運命に無関心であることは、ボルシェヴィキにとって、きわめて大きな、かつおそらくは決定的な利点となった。//
 (*) W. H. Chamberlin, The Russian Revolution, I (ニューヨーク, 1935) p.159。
 第一回農民大会には1000名以上の代議員が出席したが、そのうちボルシェヴィキ党は20人だった。同上、VI, No.4 (1957) p.26。
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 ②につづく。

1565/共産主義との闘いを阻むもの②-主要な全てが翻訳されているのでは全くない。

 ○ ふだん目にしないところに置いてあった、つぎの書物を見つけた。
 ① Anne Applebaum, Gulag -A History (Penguin, 2003).
 Gulag の正確な発音はよく分からない。いずれにせよ、レーニン以降のソ連にあった、「強制収容所」のことだ。concetration camp と、英語で書くこともある。
 本文の冒頭(第一部第1章)で要領よく、十月政権奪取・レーニンの権力掌握くらいまで、一気にほぼ一頁くらいでまとめている(p.27-p.28)。
 p.28の最初の段落の初めは、「ボルシェヴィキの本性がミステアリアスだったとすれば、その指導者…レーニンはもっとミステアリアスだった」。
 p.28にある最後の段落の直前は、「新しいソヴェト国家は、1921年までは相対的な平和を知らないことになる」。
 ここに注記番号があるので注記の参照文献を見ると、つぎの二冊が挙げてあった。
 ② Richard Pipes, The Russian Revolution 〔ロシア革命〕, New York, 1990。
 ③ Orlando Figes, A People's Tragedy〔人民の悲劇〕: The Russian Revolution, 1891-1924, London, 1996。  
 ②はこの欄で一部を試訳中のもので、邦訳書はない。
 ③のファイジズのものは、この人の本の邦訳書はあるのでその中に含まれていたかとも思ったが、調べてみると、③にはなかった。
 邦訳書があるのは、つぎの二つ。
 ④ Orlando Figes, The Whisperers: Life in Stalin's Russia (2007).
 =染谷徹訳・囁きと密告-スターリン時代の家族の歴史/上・下(白水社, 2011).
 ⑤ Orlando Figes, The Crimean War: A History (2011).
 =染谷徹訳・クリミア戦争/上・下 (白水社, 2011).
 ④のスターリン時代はロシア革命・レーニン時代の後で、⑤のクリミア戦争はロシア革命以前の19世紀半ば。
 ロシア革命・レーニン時代を含む③については、邦訳書がないのだ。邦訳書のあるマーティン・メイリア『ソ連の悲劇/上・下』と同じ< Tradegy(悲劇) >が使われていて、少し紛らわしい。
 しかも、近年までも含めて、この時期を含むファイジズの著作は、他にもある。私は、所持だけはしている。
 ⑥ Orlando Figes, Peasant Russia -Civil War: The Volga Countryside in Revolution 1917-21 (2001).
 ⑦ Orlando Figes, Revolutionary Russia, 1891-1991: A History (2014).
 
 邦訳書を通じて全く知られていないわけではないO・ファイジズの、レーニン時代を含む著作だけは邦訳書がないのは、何故なのだろうか?
 ちなみに、⑧ Tony Brenton 編, Historically Inevitable ? 〔歴史的に不可避だったか?〕: Turning Points of the Russian Revolution (2016) がロシア革命100年を前に出ていて、Orlando Figes も Richard Pipes も執筆者の一人だが、これにも今のところ邦訳書はない(今後に期待できるのだろうか ?)。
 元に戻ると、A・アップルバウムの① Gulag -A History (Penguin, 2003) もまた、邦訳書がない。これにはやや驚いた。
 この本は2004年ピューリツァー賞受賞。著者は<リベラル>系ともされるワシントン・ポスト紙に在職していて、欧米の本には表紙かその裏によくある称賛書評の一部の中には、あの『南京のRape』のアイリス・チャン(Iris Chang)や、レーニン・ロシア革命に対する<穏便派>の(但し称賛までは無論しない)ロバート・サービス(Robert Service)によるものもある。
 大著とまでは言えない、この① Anne Applebaum, Gulag -A History (Penguin, 2003).には、何故、邦訳書が存在しないのだろうか。
 決して、日本の<左翼>が端から鼻をつまむような本ではないようにも思えるのは、上記のとおり。
 これが敬遠されている理由としては、レーニンとその時代に、ソ連のスターリン時代をより想起させるかもしれない<強制収容所>の淵源はあり、かつ建造されていた、という事実が、詳しくかつ明確に語られているからではないか、とも思われる。スターリンは、レーニンが作った財産を相続したのだ。
 この本によってアメリカおよび英語圏の又は英語読者のいるヨーロッパ諸国では当たり前の<知識・教養>になっていることが、日本では必ずしもそうなってはいない、ということになる。
 ○ あらためて書き起こそう。
 日本において、スターリンまたはその時代を批判する外国語(とくに欧米語)文献ならば、比較的容易に翻訳され、出版されている、という印象がある。
 なぜか。①日本共産党が(ロシア革命・レーニンは擁護しつつ)スターリンを批判してソ連を社会主義国でなくした張本人だと主張しており、スターリンを批判するという点では、②反日本共産党のいわゆるトロツキストと呼ばれる人たちや、③スターリンを肯定的には語れなくなったがレーニン・ロシア革命は何とか憧れの対象のままにしておきたい、そしてマルクスは「理論的」には価値ある仕事をした英才だとなおも考えている、またはそのように<思って>もしくは<思いたくて>、かつての「左翼」傾倒を自己弁明したい、広範な「左翼的」気分の人々にも、受容されうるからだと思われる。
 つまり、日本には、<スターリン批判本>だけは、なおも「市場」があるのだ。
 それに比べて、ロシア革命・レーニンやその基礎にあるマルクスを批判したものは人気がない、と思われる。
 マルクスを「理論的に」批判したものはむつかしい「理論」に関係しそうなのでまだよいが、ロシア革命とレーニン時代の「現実」を明らかにする本は、それが歴史であり事実であっても、受け入れたくない雰囲気がなお残っているように感じられる。
 いわゆるトロツキストあるいは反日本共産党の共産主義者や「左翼」にとっても、ロシア革命・レーニンとマルクスはなおも基本的には擁護されるべき対象なのだ。
 彼らには、L・トロツキー自体が、レーニンとともに「ロシア10月革命」を成功させた大偉人(又は見方によれば「張本人」)なのだ。たしかに、10月のクーは、ペテログラード軍事組織の長だったトロツキーの瞬時的判断と辣腕なくして、成就していない。
 ○ 考えすぎだ、「自由な」日本で、そんなことはないだろう、という反応がありそうなので、さらに続ける。
 トニー・ジャット(Tony Judt, 1948~2010)はニューヨーク大学の欧州史専門の教授だった人だが(Tony Judt, Postwar: A History of Europe Since 1945 , など)、つぎの小論集も遺した。 
 ⑨ Tony Judt, When the Facts Change: Essays 1995 - 2010 (2015).
 この中にレシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)逝去後の、書評誌掲載の追悼文章が収められていて、L・コワコフスキについてこう書く部分がある。
 「宗教思想史の研究者としてと同等の高い位置を占める、唯一の国際的に名高い( only internationally renowned )マルクス主義に関する研究者…」。
 「悪魔」に関するコワコフスキの講演を聴いたことから始まるこの追悼文は神学・宗教学やポーランド等の「中央欧州」の文化風土等にも触れて、L・コワコフスキの<複雑な>人生と業績を哀悼感豊かに述べている(このレベルの追悼文は日本ではほとんど見ない)。
 それはともかく、「国際的に」がたんにアメリカとヨーロッパだけだったとしても、L・コワコフスキが欧米ではマルクス主義(に関する)研究者として(も)著名だったことは分かるだろう。
 しかして、⑩ Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism 〔マルクス主義の主要な潮流〕(英語版合冊, 2008)の邦訳書すらなく、L・コワコフスキの名すらきちんと知られていないのが、日本の知的雰囲気の実態だ。いったい、何故だろうか。
 L・コワコフスキは、マルクス-レーニン-スターリンを正面から「哲学的に」分析する。
 ⑫ Andrzei Walicki, Marxism and the Leap to the Kingdom of Freedom -The Rise and Fall of the Communist Utopia (1995).
 これにも、邦訳書はなく、存在すらほとんど知られていないことは既に記した。なお、この人には、A History of Russian Thought from the Enlightenment to Marxism (1988, 英語訳版) もある。
 箸にも棒にも引っ掛からない下らない書物であれば、それで当然かもしれない。
 しかし、本文前の注記によると、Andrzei Walicki は、Zbignew Pelczynski と John Gray (ジョン・グレイ、ロンドン・複数の邦訳書あり)の1984年の共編著に「マルクス主義の自由の観念」と題する寄稿を求められて執筆し、その寄稿を読んで関心をもった「旧友」のレシェク・コワコフスキから、この主題での研究を続けるようにと鼓舞されている。
 上の⑫は、決して無用の著ではない、と思われる(なお、このワレツキもポーランド出自だとのちに分かった)。
 なぜ、この本は日本人には、日本の学界や論壇では(L・コワコフスキ以上に ?)知られていないのか ?
 きっと、日本共産党や日本の共産主義者・マルクス主義者あるいは「左翼」にとって<危険な>本だからに違いない。そして、<利益>を気にする出版社は、邦訳書を出そうとはしないに違いない。 
 ちなみに、L・コワコフスキ『マルクス主義の主要な潮流』の第三部はマルクーゼ、サルトル、フランクフルト学派などに論及するが、L・コワコフスキ自身による新しい「あとがき」によると、第三部だけはフランス語では出版されておらず、サルトルらフランスの著名「左翼」に気兼ねしているのだろうと、彼は推測している
 「自由な」 ?フランスですら、そういう状況だ。
 日本では、あらゆる人文社会系の学問分野で<比較>が盛んで、「横文字からタテ文字へ」で仕事・業績になるとすら言われるほどだと聞いているが、決して世界、とくに欧米の<情報>が自由に入り込んでいるわけではない。全くない、ということを、強く意識しなければならないだろう。
 そうした観点から見ると、エリック・ホブズボーム(Eric Hobsbawm)イマニュエル・ウォーラーステイン(Immanuel Wallerstein)らは、きちんと読んだことがないが、きっと日本にとって(=日本の「左翼」にとって)<安全>なのだろう。
 そうでないと、あれほどに翻訳されないのではないか。なお、前者は、少なくとも「左翼的」。後者の「世界システム論」は巨視的であるように見えるが、<共産主義>を直視していない、逃げている議論だと私は感じている。
 まだ、このテーマは続ける。

1564/日本共産党・共産主義との闘いを阻むもの①-「日本会議」/事務総長・椛島有三など。

 ○ 先月14日、№1500でこう書いた。
 「日本共産党の影響は、じつはかなりの程度、<保守>的世界を含むマス・メディア、出版業界にも浸透している、と感じている。
 冷静で理性的な批判的感覚の矛先を、日本共産党・共産主義には向けないように、別の方向へと(別の方向とは正反対の方向を意味しない)流し込もうとする、巨大なかつ手の込んだ仕掛けが存在する、又は形成されつつある、と秋月瑛二は感じている。」
 ○ 日本国内では、じつに、「日本会議」なる団体も、日本共産党・共産主義に対する正面からの闘いを避けている。
 その設立宣言、1997年5月30日、は言う。
 「冷戦構造の崩壊によってマルクシズムの誤謬は余すところなく暴露されたが、その一方で、世界は各国が露骨に国益を追求し合う新たなる混沌の時代に突入している。にもかかわらず、今日の日本には、この激動の国際社会を生き抜くための確固とした理念や国家目標もない。このまま無為にして過ごせば、亡国の危機が間近に忍び寄ってくるのは避けがたい」。
 同日の設立趣意書には、「マルクス主義」も「共産主義」も、言葉すらない。  
 ・「冷戦構造の崩壊によってマルクシズムの誤謬は余すところなく暴露された」。
 これは事実の叙述なのか。「冷戦構造の崩壊」という表現の適否も疑問で、日本・東アジアでは<冷戦>はまだ続いている、とこの欄で何度も書いた。この点はさておいて、さしあたり「マルクス主義…」だけを取り上げよう。
 「マルクシズムの誤謬は余すところなく暴露された」。
 これはせいぜい、こう<思いたい>、というレベルの言辞ではないのか。
 かりに世界で又は少なくとも日本で、「マルクシズムの誤謬は余すところなく暴露された」のだとすれば、なぜマルクスを肯定的に評価し、かつマルクスの教条にしたがってそれをロシアに現実化したロシア革命とレーニンとを基本的に賛美する政党(日本共産党)が堂々とまだあるのか ?
 また、マルクスを肯定的に評価し、ロシア革命とレーニンとを基本的に擁護するかの見解を示すがごとき書物等々がなお多数公刊されているのか ?
 「日本会議」の椛島有三らは、日本の<現実>を知っているのか ?
 田中充子が、専門外でありながら、岩波新書で、レーニンはまだ「自由主義」的だった旨を平気で書いたのを知っているのか。
 日本共産党をかりに別としても、容共産主義の書物、主張はいくらでも日本にあることを知っているのか。
 非・反日本共産党系でも、マルクス・ロシア革命・レーニン擁護の共産主義団体があるのを知っているのか?
 組織・団体でなくとも、<容共>学者・研究者あるいは「ジャーナリスト」類は多数いるのを知っているのか?
 よくぞ、「マルクシズムの誤謬は余すところなく暴露された」などと宣言できたものだ。
 客観的事実に即さないでこのように主張することは、せっかく日本共産党や「左翼」=容共の方向には向かっていない、健全な日本人に対して、「マルクス主義」・共産主義対する闘いはもうしなくてよい、と主張していることとほとんど変わりはない
 日本の<保守>派の多くが、この「日本会議」の宣言書のように理解している可能性がある。
 自分たちは<保守>だが、反共産主義・反日本共産党の運動はもうしなくてよい、なぜならば、「冷戦構造の崩壊によってマルクシズムの誤謬は余すところなく暴露された」からだ。
 馬鹿なことを言ってはいけない。
 ①<保守>派論者がほとんど共産主義・マルクス主義の正確な内容やその歴史に関心を示さないこと、②日本および世界で共産主義「理論」が「現実政治」に与えている影響についての関心もきわめて乏しいこと、かつまた③懸命に<天皇を戴く国のありよう>だけは護持したいとするのが<保守>だ(産経新聞社、元月刊正論「編集代表」・桑原聡)などと説くだけの<保守>派が少なからずいること、こうしたことの原因の一つは、上記のようなことを平気で謳っている、「日本会議」なるものの存在にもある、と断言できる。
 「日本会議」の主張は、さらに継続的に、今後も研究・分析していく。1997年5月設立、この点も重要。
 当然に、入手可能ならば、椛島有三の書物の原物も、読む(すでに一部読んだ)。
 椛島有三(かばしま-)。
 「日本会議」事務総長、櫻井よしこ共同代表の「日本の美しい憲法をつくる会」事務局長、そして櫻井よしこ理事長の「国家基本問題研究所」事務局長。
 なお、<各国が露骨に国益を追求し合う新たなる混沌の時代に突入>している、という時代認識も、陳腐なものだ。
 全体として誤りだとは言わないが、中国・北朝鮮・キューバ等、そしてまた長く「共産主義」の支配を受けたロシアの存在を視野に入れれば、「各国が露骨に国益を追求し合う新たなる混沌の時代」だという認識自体がすでにある程度は狂っている。
 ロシア革命/レーニン・スターリン/コミンテルン、あるいは根本教条である「マルクス主義」の知識の一欠片くらいはなくして、中国・北朝鮮さらには東欧諸国、そしてロシア・ウクライナの対立など、今の世界政治をリアルに見ることは不可能だろう。
 マルクスあるいはロシア革命を知らずして(さらには欧米 Liberal Democracy も知らずして)、「日本」の独自性だけを主張しておけばよいのか ? その場合の「日本」とは、具体的にいったい何のことなのだ。日本=「天皇」=「神道」なのか??
 冗談は、ほどほどにしていただきたい。
 親「日本会議」の人々は、冷静にならなければならない。
 「日本会議」が日本共産党や「左翼」から批判されているからといって、「日本会議」が日本共産党や「左翼」と真反対にいて、これらと正面から闘っていることになるのでは、論理的にも全くならない。
 日本人の健康な、せっかくの反「共産主義」気分、せっかくの反「左翼」気分を、<特定の>活動団体に利用されてはいけない。
 ○ 冒頭に掲記の文章は、翻訳書も含む日本の出版業界も、念頭に置いている。
 もともと、これについて書く予定だったが、つぎの機会とする。

1563/五月連立・エスエルら入閣-R・パイプス著10章5節。

 前回からのつづき。
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 第5節・社会主義者の臨時政府への加入。p.405-7。
 四月騒乱は、臨時政府の最初の重大な危機だった。
 ツァーリ体制(帝制)が崩壊して僅か二ヶ月後に、知識人たちはその眼前で国の統合が壊れていくのを見た-そしてもはや、責めるべき皇帝も官僚層もいなかった。
 政府は4月26日に、もう統治できない、『今まで直接で即時には内閣の一部を占めていなかった国の創造的な人たちの代表者』を、つまり社会主義知識人の代表者を、招き入れたい、という感情的な訴えを国民に対して発した。
 『大衆』の目から妥協しているとされるのをまだ怖れて、イスパルコムは4月28日に、政府からの打診を拒否した。
 イスパルコムが態度を変えた原因は、戦時大臣、グチコフの4月30日の退任だった。
 グチコフが回想録で説明するように、ロシアは統治不能になったと彼は結論していた。
 唯一の救済策は、コルニロフ将軍や実業界の指導者たちに代表される『健全な』勢力を政府に招き入れることだ。      
 社会主義知識人の態度が変わらなければこれは不可能なので、グチコフは階段を下りた。
 ツェレテリによれば、そのあとでミリュコフの任務から解放されたいとの要請がつづいたグチコフの辞任は、もはや一時凌ぎの方策では対応できない範囲に及んでいる、危機の兆候だった。
 『ブルジョアジー』が、政府を放棄しようとしていた。
 5月1日にイスパルコムは方針を変え、総会に諮ることなく、賛成44票対反対19票、保留2票の表決をして、メンバーが内閣の職を受諾することを許した。
 反対票は、ソヴェトが全ての権力を獲得することを願うボルシェヴィキと(マルトフ支持者の)メンシェヴィキ国際派によって投じられた。
 ツェレテリは、〔国際派以外の〕多数派を合理化する説明をしている。
 彼が言うには、政府は、迫りつつある破滅から国を救うことができないことを認めた。
 このような状況では、一歩を踏み出して革命を救う義務が、『民主主義』勢力にある。
 ソヴェトは、マルトフやレーニンが望むように、自らのために自らの名前で権力を得ることは、できない。そんなことをすれば、民主政を信じてはいないが民主主義勢力と協力するつもりのある多数の国民を、反動者たちの手に押し込んでしまうことになるのだから。
 別のメンシェヴィキのV・ヴォイチンスキー(Voitinskii)にツェレテリが語ったのは、つぎのようなことだ。
 『ブルジョアジー』との連立に賛成し、『全権力をソヴェトに』のスローガンに間接的には反対することになるのは、農民たちがソヴェトの『右翼側に』位置しており、おそらく彼らは自分たちが代表されていない組織を政府だと認めるのを拒むだろうからだ。//
 イスパルコムは、連立政府の設立に同意する際に、一連の条件を付けた。
 すなわち、連合国間の協定の見直し、戦争終結への努力、軍隊の一層の『民主化』、農民に土地を配分する段階を始める農業政策、そして憲法制定会議(Constituent Assembly)の召集。
 政府の側では、新政府を、軍隊の最高指令権の唯一の源泉であることはもとより、状況によれば軍事力を実際に行使する権限をもつ、国家主権の排他的保持者だと認めることを、イスパルコムに要求した。
 政府とイスパルコムの代表者たちは、五月の最初の数日間を、連立の条件を交渉することで費やした。
 5月4日から5日にかけての夜に、合意に達した。それに従って、新しい内閣が職務を開始した。
 安定感があって無害のルヴォフ公が首相に留任し、グチコフとミリュコフは正式に辞任した。
 外務大臣職は、カデット〔立憲民主党〕のM・I・テレシェンコ(Tereschenko)に与えられた。
 若き実業家のテレシェンコは政治経験がほとんどなく、公衆にはあまり知られていなかったので、これは不思議な選抜だった。
 しかし、一般に知られていたのは、ケレンスキーのようにフリーメイソンに所属しているということだった。この人物の任命はフリーメイソンとの関係によるという疑問の声が挙がった。
 ケレンスキーは、戦時省を所管することになった。
 彼もこの職へと後援するものは持たなかったが、ソヴェトでの卓越ぶりと弁舌の才能によって、夏期の攻勢を準備している軍隊を鼓舞することが期待された。
 6人の社会主義者が、連立内閣の大臣になった。そのうち、チェルノフは農務省の大臣職に就き、ツェレテリは郵便電信大臣になった。
 この内閣は、二ヶ月間、生き存えることになる。//
 五月協定は、究極的な権威について国民を当惑させる二重権力体制(dvoevlastie)の奇妙さを、いくぶんか和らげた。
 五月協定は、大きくなっていく失望の意識だけを示すのではなく、社会主義知識人の成熟さが増大したことをも示していた。そして、そのようなものとして、一つの明確な発展だった。
 表面的には、『ブルジョアジー』と『民主主義』を一つにした政府は、二つの集団が相互に敵対者となるよりは効率的だと、約束した。
 しかし、この合意は、新しい問題も生じさせた。
 社会主義政党の指導者が入閣した瞬間に、彼らは反対者〔野党〕の役割を失った。
 内閣に入ることで彼らは自動的に、間違う全てについての責めを分け持つことになった。
 このことが許したのは、政府に入らなかったボルシェヴィキが現状に対抗する唯一の選択肢であり、ロシア革命の守護者であるという位置を占めることだった。
 そして、リベラルおよび社会主義知識人の行政能力は救いようもなく低かったので、事態は、より悪化せざるをえなかった。
 ボルシェヴィキが、唯一の想定できるロシアの救い手として、現われた。//
 臨時政府は今や、崩壊する権威から権力統御権を奪う穏健な革命家たちの、古典的な苦境に立ち至った。
 クレイン・ブリントン(Crane Brinton)は、革命に関する比較研究書の中で、つぎのように書く。//
 『穏健派たちは、少しずつ、旧体制の反対者として得ていた信頼を失っていることに気づく。そして、ますます旧体制の相続人としての地位と見込みでは結びついていたものを失墜させていることに。
 防御側に回って、彼らはつぎつぎと間違いをする。防御者であることにほとんど慣れていないのが理由の一つだ。』
 『革命の進行に遅れる』と考えることが心情的に堪えられなくて、左翼にいる好敵と断交することもできなくて、彼らは誰も満足させず、十分に組織され、十分に人員をもつ、より決意をもつ好敵たちに、喜んで道を譲る。(79) //
  (79) Crane Brinton, Anatomy of Revolution (ニューヨーク, 1938), p.163-171。

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 第6節につづく。 

1560/四月騒乱②-R・パイプス著10章4節。

 前回のつづき。第4節は、p.399-p.405。
 第4節・1917年4月のボルシェヴィキの集団示威活動②。
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 ボルシェヴィキ中央委員会は4月21日の朝に再度会議をもち、その日の活動命令を採択した。
 一つの指令は、工場と兵舎へと扇動者を派遣し、労働者と兵士にその日に計画している示威活動に関する情報を伝え、参加すべく呼びかけるように命じた。
 この扇動者たちは真昼間に、労働者がペテログラードでは最も急進的なヴィボルク地区の多くの工場に現われた。それは、昼食の休憩時間中だった。
 午後に仕事を離れて反政府抗議活動に参加しようとの訴えは、失望する反応を受けた。その主な理由は、イスパルコムからのエスエルとメンシェヴィキの工作員が、労働者たちを中立化する準備をしていたからだ。
 三つの小さな工場の労働者だけが、ボルシェヴィキの決議を採択した。彼らはわずか千人ほどで、ペテログラードの労働者人口の1%の半分以下だった。
 プティロフ、オブホフその他の大企業は、ボルシェヴィキを無視した。
 ボルシェヴィキが武装行動を計画したことは、軍事機構の長であるN・I・ポドヴォイスキー(Podvoisky)がクロンシュタット海兵基地に対してペテログラードに信頼できる海兵の派遣を求めている事実によって、示されている。
 クロンシュタットの海兵たちは、市の中で最も粗々しくて最も暴力好きの者たちだった。無政府主義者(anarchist)の影響を強く受けていて、< burzhui >〔ブルジョア〕を痛めつけて略奪するのに刺激はほとんど必要なかった。
 彼らを市へと送り込むことは、集団的殺戮を生むことになるのはほとんど確実だった。
 彼らを呼んだことは、ボルシェヴィキは4月21日に『平和的な偵察』を意図したのだというレーニンの主張が偽り(lie, ウソ)であることを示している。//
 午後早くに、反政府の旗を掲げる一群が、銃砲で武装したボルシェヴィキの『工場軍団(Factory Militia)』を先頭にして、ネヴスキーに沿って中心部へと前進した。
 兵士も海兵も参加しないという残念なできだったが、これは民主主義的政府に対する、最初の武装による挑戦だった。
 示威行進者がカザン大聖堂に接近したとき、彼らは『臨時政府に永き生を』と叫ぶ反対の行進者と遭遇した。
 乱闘が起こり、何人かが散発的に射撃した。これによって、三人が死亡した。
 これは、二月以来最初の、ペテログラードでの街頭暴力(street violence)だった。//
 支持者たちが街頭にいる間、レーニンは慎重に家にいようと考えていた。//
 秩序をもう一度回復しようと、コルニロフ(Kornilov)は、砲兵隊および兵団を送り出すように指令した。
 このとき彼は、群衆は説得によって静穏化できると主張するイスパルコムに抵抗された。
 イスパルコムは、軍事スタッフに、コルニロフの指令を取消すように電話した。
 そのあと、コルニロフはイスパルコムの代表団と会った。
 その代表団は騒乱を阻止する責任を請け負い、コルニロフは指令を撤回して兵団に兵舎にとどまるように命じた。
 政府もボルシェヴィキも武力に訴えないことを確実にするために、イスパルコムは、ペテログラード守備兵団に対して、つぎの公式宣明書を発した。//
 『同志兵士諸君!
 混乱しているこの数日の間、執行委員会(イスパルコム)が呼びかけないかぎり、武器をもって外出してはならない。
 執行委員会だけが、君たちの行動を差配する権利を持っている。
 軍団の街頭への出団(日常の些細な任務を除く)に関する全ての命令は、印章が捺され、以下の者のうち少なくとも二名の署名のある、執行委員会の文書用紙で発せられなければならない。チヘイゼ、スコベレフ、ビナシク、ソコロフ、ゴルトマン、ボグダノフ。
 全ての命令は、電話104-06によって確認されなければならない。』//
 この命令書は、ペテログラード軍事司令官の権威を弱めた。
 コルニロフは、任務を履行することができなくなり、解任と前線への任命を求めた。
 のち五月の最初の日に、彼は第八軍の司令官の任に就いた。//
 その日遅く、イスパルコムは投票して、続く48時間の間の全ての集団示威行進を禁止した。
 街頭に武装した人間を送り込む者は誰でも、『革命への裏切り者』だと非難した。//
 4月21日、全く同じスローガンを掲げる、ボルシェヴィキと推定される示威行進がモスクワであった。//
 ペテログラード騒乱は、民衆の支持のなさから4月21日の夕方にかけて収まった。
 政府に忠誠心のある示威行進者は、ボルシェヴィキの指導に従った者たちと少なくとも同程度に戦闘的で、数の上ではそれよりも相当に上回っていたことが分かった。
 モスクワではボルシェヴィキの反乱はまだ翌日まで続いたが、怒った群衆が反乱者たちを取り囲み、反政府の旗を彼らの手からちぎり取って終わった。//
 蜂起は失敗したことが明白になった瞬間に、ボルシェヴィキは全ての責任を否定した。
 4月22日にボルシェヴィキ中央委員会は、『小ブルジョア』大衆が最初は躊躇したが『親資本家』軍の支援をうけて出現した、ということを認め、反政府スローガンを時期尚早だとして非難する決議を裁可した。
 党の任務は、政府の本性に関して労働者を啓発することだ、と説明された。
 集団示威活動はもうないとされ、ソヴェトの指令には従うべきだとされた。〔A〕
 カーメネフが提案した可能性が高い決議は、彼が『冒険主義』だと非難するレーニンの敗北を示した。
 レーニンは、ペテログラード委員会の性急さによるとする示威活動の反政府的性格を非難して、弱々しく自らを守った。
 しかし、自己防衛をしている間にも、レーニンは思わず、心に浮かんだことを露わにした。
 『これは、暴力的手段に訴える企てだった。
 あの懸念した時点で、民衆が我々の側へと立場を大きく変えたかどうかは、分からなかった。<中略>
 我々はたんに敵の強さの「平和的な偵察」を実施しようとしていたのであり、決して戦いは望まなかった。』(70)
 四月騒乱は『暴力的手段に訴える企てだった』と言っていることと、『平和的な偵察』を意味したという主張を、どのように調和させることができるのか、レーニンは説明しなかった。(*)
 さしあたりの間は、群衆はイスパルコムに、そして、その代表者を通じて政府に、従った。
 こうした文脈では、社会主義知識人はなぜ実力の使用に反対したのかを理解することができない。
 しかし、群衆の気分は変わりやすいものだ。そして、四月の主要な教訓は、ボルシェヴィキ党が弱かったことではなく、政府とソヴェトの指導者たちが実力に実力でもって対処する用意がなかった、ということだった。
 四月の日々の教訓を数ヶ月後に分析したレーニンは、戦術の面でボルシェヴィキは『十分に革命的でなかった』と結論づけた。これによって彼は、権力をひったくらなかったことに謬りがあった、とだけ意味させることができたのだろう。
 さらに言えば、レーニンは小さな戦闘の始まりから多くの鼓舞を、スハーノフによれば、四月におけるレーニンの『大きく生え始める翼』への希望を、引き出していた。//
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  〔A〕 <レーニン全集第24巻(大月書店)p.207以下「1917年4月22日(5月5日)朝採択されたロシア社会民主労働党(ボ)中央委員会の決議」が該当するー試訳者・注記。
  (70) Lenin, PSS (Polnoe sobranie sochinenii, 5th ed.), XXXI, p.361。
  <レーニン全集同上p.245以下「現在の情勢についての報告の結語ー4月24日(5月7日)」が該当する。レーニンはこう述べる。以下、一部引用。カーメネフは「われわれに同意して、いまでは別な立場をとっている…。われわれの冒険主義はどこにあったか? それは、暴力的方策に訴えようと試みたことにあった。大衆が…のかどうか、われわれにはわからなかった。そしてもし大衆が大きく振れたのであれば、問題は別であっただろう。われわれは、平和的なデモンストレーションというスローガンをだした」。「われわれは、ただ敵の勢力にたいする平和的な偵察だけをおこない、戦闘はやらないことをのぞんだのであるが、ペテルブルグ委員会は、ちょっぴり左寄りのコースをとった。そして、このことは、…とんでもない犯罪である。組織機構がしっかりしていないことがわかった。つまり、…」/同全集この文書末尾の注記によると、「1921年に、レーニン全集、第1版第14巻第2分冊にはじめて発表。議事録のタイプした写しによって印刷」。ー以上、試訳者・注記。
  (*) アメリカの歴史家、アレクサンダー・ラビノヴィッチ(Alexander Rabinowitch)は、四月の示威活動は平和的なものだったというボルシェヴィキの文書内容を採用して、その上のレーニンが『暴力的手段』に言及している文章を、引用から省略している。A. Rabinowitch, Prelude to Revolution (1968), p.45。
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 第5節につづく。

1558/四月騒乱①-R・パイプス著10章第4節。

 前回のつづき。
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 第4節・1917年4月のボルシェヴィキの集団示威活動①。
 ロシアの戦争意図をめぐる政治的危機を利用して、ボルシェヴィキは4月21日に、権力をめざす最初の試みを行った。
 イスパルコム〔Ispolkom, 全ロシア・ソヴェト執行委員会〕は1917年の3月末に臨時政府に対して、オーストリアとトルコの領土に対するミリュコフ(Miliukov)の要求を承認しないように強く主張したことが、想起されるだろう。
 社会主義者たちを宥めるべく、政府は3月27日に宣言書を発表し、イスパルコムが承認した。それは、領土併合の放棄を多言することなく、ロシアの目的は『民族の自己決定権』にもとづく『永続平和』だと宣言していた。//
 こう認めることで問題は収拾されたが、一時的にだけだった。
 ヴィクトル・チェルノフ(Viktor Chernov)がロシアに帰ってきて、この問題は再び4月の論争の根幹部分になった。
 このエスエル党の指導者は戦時中の数年間を、西欧で、主としてスイスで過ごした。スイスではツィンマーヴァルトとキーンタールの会議に参加し、伝えられるところではドイツの資金で、ドイツやオーストリアにいるロシア人戦争捕虜に関する革命的な書物を刊行した。 
 彼はペテログラードに戻って、すぐにミリュコフに反対する宣伝運動を始め、ミリュコフの辞任を要求し、政府に対して3月27日の宣言書をロシアの正式の戦争意図であるとして連合諸国の政府に電送することを求めた。
 ミリュコフは、公式に領土放棄を明らかにすれば戦争からの離脱の意図を意味していると連合諸国が誤解する、という理由で、この要求に反対した。
 しかし、内閣はミリュコフの言い分を認めなかった。
 ケレンスキーは、この事案に特別の熱心さを示した。それは、彼の重要な好敵であるミリュコフの評判を落とし、ケレンスキー自身のソヴェト内での立場を強くするはずだった。
 そのうちに、妥協に到達した。
 政府は3月27日の宣言書を連合諸国に伝えるのに同意するが、戦争を継続するとのロシアの意図についての疑いを除去するように、説明の文書〔Note, 覚え書〕を添付することとする。
 ケレンスキーによると、ミリュコフが案を作成して内閣が承認した説明文書は、『ミリュコフの「帝国主義」への最も厳しい批判で充満していたはずだった』。(53)
 それは、連合諸国と共通する『高い理想』のためのロシアの戦闘決意と、そのために『義務を完全に履行する』ことを再確認した。
 二つの文書[宣言と説明書(覚え書)]は、4月18日(西暦で5月1日)に連合国諸政府へと電送すべく国外のロシア大使館へと打電された。//
 政府の文書が4月20日朝のロシアの新聞に掲載されると、社会主義知識人界は激怒した。
 ごく一部の極端派を除く社会主義諸政党の公式目標である、勝利までの戦争継続の誓約が不愉快だったのではなく、問題は、『併合と配分』に関する両義的な言葉遣いだった。
 イスパルコムはその日に、『革命的民主主義は、攻略的な目的のために…血が流れることを許しはしない』と票決した。
 ロシアは、戦いつづけなければならない。だがそれは、全交戦国が領土併合のない講和を結ぶ用意ができるまでだ。//
 政府とイスパルコムの間の協議によって、論争は容易に解消されえただろう。それはほとんど確実に政府側の屈従になっただろうけれども。
 しかし、両者間に妥協が成る前に、兵舎および労働者区画で怒りが発生した。それは、見えない糸でイスパルコムとつながっていた。//
 街頭不安は4月20日-21日に自然発生的に始まったが、速やかにボルシェヴィキが指導した。
 若き社会民主主義者の将校、リュテナント・テオドア・リンデ(Lieutenant Theodore Linde)は、この人は指令書第一号の草案作りに関与していたのだが、政府の文書は革命的民主主義の理想に対する裏切りだと解釈した。
 リンデは彼の連隊、フィンランド予備衛兵団の代表者たちを呼び集め、彼らにミリュコフに反対する街頭示威活動へと部下を投入するように言った。
 彼は同じ伝言書を携えて、別の守備兵団も回った。
 リンデは、ロシアが戦争し続けることを望む、熱烈な愛国者だった。
 すぐのちに、彼は死ぬ。闘いに加わるよう求めた前線の兵士団によって、殺戮された。彼らは、リンデのドイツふうにひびく名前によって、敵の工作員に違いないと決めたのだった。
 しかし、彼は、多くのロシアの多くの社会主義者のように、戦争は『民主主義』の理想を掲げて開始されたと思いたい人物だった。
 どうも彼は、権威により正当化されていない政治的な示威運動に参加するように兵士たちに熱心に説くことは反乱を呼びかけるに等しい、ということを認識していなかったように見える。
 午後三時からそれ以降、フィンランド予備衛兵団を先頭とする若干の軍団が、完全武装をして、政府が所在するマリインスキー宮へと行進した。そこで彼らは、ミリュコフの退任を要求して叫んだ。//
 グチコフ(Guchkov)が病気だったため、このときの閣議はマリインスキー宮ではなくて、グチコフの戦時省の職場で開かれていた。
 その前に、コルニロフ将軍が現れていた。彼は、ペテログラード軍事地区司令官であり、首都の治安に責任をもっていた。
 彼は、兵団に反乱兵士たちを解散させることの許可を求めた。
 ケレンスキーによると、内閣は一致してこの要請を拒んだ。
 『我々は、推移を把握している自信がある。また、きっと民衆は政府に反対するいかなる暴力行為をも許さないだろう』。
 これは、臨時政府がその権威に対する公然たる挑戦に直面して実力を行使するのをためらった最初のことで、かつ最後のことではなかった。-この事実をコルニロフもレーニンも、忘れなかった。//
 このときまで、ボルシェヴィキは騒乱と何の関係もなかった。実際、彼らは驚いたように思える。
 しかし、ボルシェヴィキはこれを利用する時間を逸しなかった。//
 この時点でのボルシェヴィキの最高司令部の活動については現在、明確ではない。重要な文書証拠類のほとんど非公刊のままであるためだ。
 事態に関する公式の共産党の見方によると、党中央委員会は、4月20日夕方から21日の全日にわたってペテログラードで起きた反政府の集団示威活動を、正当なものとして承認してはいなかった。
 『臨時政府打倒』とか『全権力をソヴェトへ』とか書いた旗を掲げて街頭を歩くボルシェヴィキ党員は、S・Ia・バグダエフ(Bagdaev)を含む第二ランクのボルシェヴィキの指令によって行動した、とされている。(*)
 しかし、ボルシェヴィキ党のような中央集中的政党で、小さな党組織が自分で中央委員会に果敢に逆らって革命的なスローガンを掲げるのを認めただろうとは、全く考え難い--レーニンの臨時政府への対立的な立場に反抗したとバグダエフの文書が証して、責任はより愚かな者へと転嫁された。
 1917年4月20-21日の事態に関して誤導するような説明方法は、ボルシェヴィキの最初の蜂起の企てが恥ずかしい失敗に終わったことを隠蔽するために作り上げられてきた。
 事態を正確に描くのをさらに混乱させるのは、共産党の歴史家が事象発生後に党によって採択された諸決議を長々と引用してきたことで、それはこの事象は、発生前に意図されていたと示唆しており、かつレーニンが書いた指令を『出典不明』だと推論している。//
 リンデによって呼び出された兵団がマリインスキー広場に集まっていた4月20日の午後、ボルシェヴィキ中央委員会は緊急の会議を開いた。
 ミリュコフの文書を読んだあとその日の早くにレーニンが起草した決定を、同委員会は裁可した。このことは、その後の示威活動はボルシェヴィキが支持していたことの、合理的な根拠を提示する。
 レーニンの著作物の初期の諸版は、レーニンが執筆者であることを否定した。
 これを初めて肯定したのは、1962年発行のレーニン全集の第5版だった。(61)
 レーニンは、臨時政府は『完全に帝国主義的』だ、イギリス・フランスはもとよりロシアの資本によって支配されている、と表現した。
 この類の体制はまさにその本性において、領土併合を放棄することができない。
 レーニンは、政府を支持しているとしてソヴェトを批判し、ソヴェトに全権力を握るように求めた。〔A〕
 これはまだしかし、政府打倒の公然たる訴えではなく、レーニンの文章からこのような結論を導くには、深い洞察が必要だ。
 これはたしかに、ボルシェヴィキ党員が『臨時政府打倒』や『全権力をソヴェトへ』と書く旗をもって示威行進をするのを承認している。レーニン自身がしかし、のちにはこれらと離れることになる。//
 このときの会議で中央委員会が採択した戦術的諸決定がどのようなものであったかは、知られていない。
 中央委員会会議にしばしば加わっていたペテログラード委員会の議事録で公刊されている版は、瑣末な組織上の問題のみを記録している。
 5月3日までの全てのそれに続く会議の議事は、省略されている。
 しかしながら、つぎの二つのことは、合理的に見て確かだ。
 第一に、レーニンは攻撃的な示威行動の主な提唱者であり、かつ強い反対に遭ったように見える。
 これのかなりは、後で起きたことから分かる。のちにレーニンは、同僚、とくにカーメネフから批判を受けた。
 第二に、集団示威活動は、激発した労働者や反乱した兵士たちがツァーリ(帝制)政府を打倒した2月26-27日の再現、全面的な蜂起を意図するものとされていた。//
 すでに4月20日の夕方、午後の示威行進に参加した兵士たちが兵舎に帰ったあとで、兵士と労働者の新しい一群が、反政府の旗を持って街頭に現われた。彼らは、ボルシェヴィキが指導する反乱者たちの先行軍団だった。
 そのあと、『レーニンよ、くたばれ!』と書く旗を掲げる、反対の示威活動が起きた。
 示威行進中の者たちは、ネヴスキー通りで衝突した。
 イスパルコム〔ソヴェト執行委員会〕による介入に従って、群衆たちは平穏になった。//
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  (53) Alexander Kerensky, The Catastrophe (ニューヨーク, 1927), p.135。
  (*) バグダエフは実際に、5月1日、これは4月18日にあたる、のデモを組織したとしてペテログラード委員会から追及された。この日に政府の戦争意図に関する宣言書と説明文書は、連合諸国政府に伝えられた。
  (61) Lenin, Sochineniia, XX, p.648。プラウダ第37号(1917年4年21日付)p.1からの文章は、p.608-9。Lenin, PSS, XXXI, P.291-2。
 〔レーニン全集第24巻(大月書店, 1957年)183頁以下の「臨時政府の覚え書」/1917年4月20日執筆・プラウダ第37号(1917年4年21日)に発表、が該当する。「覚え書」とは、本文上の<添付した説明文書>の旨で訳したNoteのことだ。-注記・試訳者〕。
  〔A〕試訳者注記/上のレーニン全集第24巻183頁以下「臨時政府の覚え書」から一部引用する。p.183-5。
 「…と覚え書は、補足している。//簡単明瞭である。決定的に勝利するまで戦う。イギリスやフランスの銀行家との同盟は神聖である…。//
 問題は、グチコフ、ミリュコフ、…が資本家の代表者だという点にある。/
 問題は、いまロシアの資本家の利益が、イギリスとフランスの資本家とおなじものだということにある。このために、しかもただこのために、ツァーリと英仏資本家との条約は、ロシアの資本家の臨時政府の心情にとっては、こんなに貴重なのである。//
 どの自覚した労働者も、どの自覚した兵士も、臨時政府を『信頼』する政策を、これ以上は支持しないであろう。信頼の政策は破産したのだ。//
 いまの労働者・兵士代表ソヴェトは、二者択一をせまられている。すなわち、グチコフとミリュコフが進呈した丸薬をのみこむか、…、それともミリュコフの覚え書に反撃をくわえるか、…である。//
 労働者、兵士諸君、いまこそ、大きな声で言いたまえ、われわれは、単一の権力-労働者・兵士代表ソヴェト-を要求する、と。臨時政府、ひとにぎりの資本家の政府は、このソヴェトに場所を明けわたさなければならない。」
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 ②へつ続く。

1556/レーニンの革命戦術②-R・パイプス著10章3節。

 R・パイプス著の試訳のつづき。
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 第3節・レーニンの革命戦術②。
 世界的社会主義革命についてのレーニンの秘密主義は、一つは彼の意図を対抗者に隠しておこうという望みに由来していた。もう一つは、計画したようには事態が進まなかったときに失敗したという汚辱を避けることができるという利益があるからだった。
 そうしておけば、計画が失敗したときいつでもレーニンは、その計画はなかったと開き直ることができた(そして実際にそうした)。
 個人的にボルシェヴィキ勢力を指導していた1917年の春や初夏に、レーニンはいくつかの指令を発した。その諸指令から、レーニンの戦闘計画に関する一般的な見取り図を描くことができる。//
 二月の経験からレーニンは、臨時政府は街頭の大衆示威活動で打倒できると学んだように見える。
 まずは、1915-16年にそうだったように、雰囲気が醸成されなければならない、次いで、民衆からの目から見て臨時政府の評判を落とす力強い宣伝活動がなされなければならない。
 この目的のためには、過った全てについて非難が加えられるべきだった。政治不安、物資不足、物価高騰、軍事的後退。
 ペテログラードを明け渡すドイツ軍との共謀だ、と追及すべきだった。一方ではそれを防御し、裏切りだと非難しつつもコルニロフ(Kornilov)将軍と協力したけれども。
 非難が度はずれになればなるほど、政治的に鍛えられていない労働者や兵士たちは、その非難を信頼しそうだった。信じられない現実には、信じられない原因があるからではないのか ?
 しかし、二月とは異なって、街頭での過激な示威活動は厳しく監視されていたので、自然発生性という見かけを与える高度に計算した努力が必要だと強く考えていたにしても、レーニンは自発的な行動を待ちはしなかった。
 レーニンはナポレオンから学んで、< tiraillerie >、小戦闘の原理を国内戦争に適用した。何人かの軍事史研究者はこの考え方を、戦争へのナポレオンの主要な貢献だと見なしている。
 ナポレオンは、戦闘のためにその戦力を、職業的正規軍と志願兵団の二つに分けた。
 志願兵団を送ってその中に敵の砲火を誘い込むのは、戦闘の初期のナポレオンのやり方だった。これは、敵陣の配置を知ることを意味した。
 重大な時点になると、ナポレオンは、敵の最も弱い地点で敵陣を粉砕すべく正規軍を活動につかせ、戦闘させた。
 レーニンはこの戦術を、都市での戦闘に適用した。
 民衆が、臨時政府を刺激する扇動的なスローガンを掲げて街頭に送り込まれた。これへの反応で、政府側の強さと弱さが判明することになる。
 群衆が政府側の実力を圧倒するのに成功したとすれば、ナポレオンの正規軍に当たるボルシェヴィキが-つまり、ボルシェヴィキ軍事機構が組織する武装労働者と兵士たちが-奪い取ることになる。
 群衆が失敗したとすれば、その地点はそのままにされて、民衆が変えようとするが抵抗してみて政府は『反民主的』だと分かる、ということになる。
 そして、ボルシェヴィキは次の機会を待つ、といこととなる。
 基本的な考え方は、ナポレオンの『< on s'engage et puis on voit >』-『自分でやってみて、そして分かる』ということだった。
 レーニンの三回の蜂起の企てで(1917年の4月、6月および7月)、彼は群衆を街頭に送り込んだが、自身は後方でじっとしており、『人民』を指揮するのではなくてそれに従うふりをした。
 いずれの企ても失敗したあと、レーニンは革命的意図を持っていたことを否認することになるし、ボルシェヴィキ党は軽はずみな大衆を抑え込もうと全力を尽くしたとすら装うことになる。(*)//
 レーニンの革命の技術には、群衆を操作することが必要だった。
 本能的だったのか知識によってだったかを言うのは難しいが、レーニンは、フランスの社会学者のギュスタフ・ル・ボン(Gustav Le Bon)が1895年に< La Psychologie des Foules (群衆の心理学)>で初めて定式化した群衆行動の理論に従った。
 ル・ボンは、人は群衆の一員になると個性を失い、その本能的心理をもつ集団的人格の中へと解体させてしまう、と述べた。
 その心理の重要な特徴は、論理的に推論をする能力が低下し、対応して、『無敵の力』をもつという意識が発生することだ。
 無敵だと感じて群衆は行動に走り、熱望は彼らを操作にさらす。『群衆は何かを期待する精神状態になり、簡単に暗示に従う』。
 群衆は、言葉と観念との連関による暴力への訴えに、とくに反応する。その観念は壮大でかつ曖昧な像(イメージ)を呼び覚まし、『不可思議』の雰囲気を漂わせる。『自由』、『民主主義』そして『社会主義』のごとく。
 群衆は、恒常的に繰り返された暴力のイメージと結びつく狂信者に反応する。
 ル・ボンによると、群衆を動かす力は宗教的な忠誠心だと最終的には分析できるので、『他の全ての前の神を、必要とする』、超自然的性格を授けられた指導者を。
 群衆の宗教的情緒は、つぎのように素朴だ。//
 『優れた者と想定されている者への崇敬、価値づけられる権力への恐怖、その命令への盲目的服従、その教条に関して議論できないこと、その教条を拡散したい欲求、自分たちを受容しない者全てを敵と考える傾向』。(48)//
 群衆の行動に関する最近の観察者は、群衆の活力(dynamism)に注意を向けた。//
 『いったん形成された群衆は、急速に大きくなろうとする。
 群衆が広がる力と意思力を、強調してもすぎることはない。
 大きくなっていると感じるやいなや-例えば、少数だがきわめて激烈な群衆によって始まる革命的な諸国では-、群衆は自分たちが大きくなるのに反対する者を束縛的だと見なす。<中略>
 こうなると群衆は包囲された都市のようなもので、多くの包囲攻撃に見られるように、その壁の前にも内部にも敵がいる。
 戦闘している間に、群衆は、国じゅうから、ますます多数の別働隊(パルチザン)を魅きつける』。(49)//
 レーニンは、きわめて稀な正直なときに、仲間のP・N・レペシンスキーに、大衆の心理に関する原理的なことをよく理解している、と打ち明けた。彼は、つぎのように書く。//
 『(レーニンは)1906年の夏の終わりに、ある私的な会話の中で、相当の確信をもって革命の敗北を予言し、退却(retreat)をする準備が必要だと示唆した。
 このような悲観的な状況にもかかわらずレーニンがプロレタリアートの革命的な力を強化するために活動するとすれば、それは、おそらくは大衆の革命的精神は決して損なわれないという考えからだった。
 勝利への、あるいは半分の勝利へですら、新しい可能性が生じるのだとすれば、そのきわめて多くは、この革命的精神に拠っているだろう』。//
 言い換えると、失敗だったとしてすら、大衆の行動は、群衆を緊張と戦闘準備の高い次元にとどまらせ続ける、価値ある仕掛けなのだ。(**)//
 ロシアに帰国した後三ヶ月の間、レーニンは、臨時政府を群衆行動で打倒しようという無謀で性急なことをした。
 レーニンは、言葉で絶えず攻撃して、臨時政府とそれを支持する社会主義者は革命に対する裏切り者だという批判にさらし、それと同時に、民衆に対して国民的な不服従を呼びかけた-軍には政府命令の無視を、労働者には工場の管理の掌握を、地方共同体の農民には私的土地の確保を、少数民族には民族の権利の要求を。
 彼には予定表はなかったが、小戦闘は対抗者〔臨時政府〕の無能力さとともに優柔不断さを暴露していたので、すぐにでも成功すると確信していた。
 七月蜂起の間の決定的な瞬間にレーニンが狼狽しなかったとすれば、十月にではなくそのときに権力を奪取していたかもしれなかった。//
 逆説的にだが、レーニン(とのちにはトロツキー)の戦術は、武装はしたものの、肉体への暴力をたいして含んではいなかった。
 肉体への暴力は、のちに、権力が確保されたのちに出現することになった。
 虚偽情報宣伝活動と大衆の示威活動、集中砲火的な言葉と街頭騒乱の目的は、公衆一般はもとより対抗者〔臨時政府〕の心のうちに、不可避性の意識を植え込むことだった。変化はやって来る、何も止められはしない。
 レーニンの生徒で模倣者のムッソリーニやヒトラーのように、彼は、まずは進路上に邪魔して立つ者たちの精神を打ち砕き、そして滅亡する運命にあるのだと説き伏せることによって、権力を勝ち取った。
 十月のボルシェヴィキの勝利は、十分の九は、心理的なもので達成された。
 つまり、関与した軍事力はきわめて小さいもので、1億5000万人の国民のうちせいぜい数千人にすぎない。また、ほとんど一発も銃砲が火を噴くことなく勝利が到来した。
 戦争は始まる前にでも、人々の心の中で勝ったり負けたりする、というナポレオンの格言の正しさを、十月の全行程は確認している。//
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 (*) この戦術は、何人かの歴史家をすら困惑させるのに成功してきている。ボルシェヴィキは権力への欲求を公然とは宣言しなかったので、そう望まなかったのだ、という主張がある。しかし、1917年10月には、ボルシェヴィキは、そんな圧力は実際には存在しなかったにもかかわらず、下からの圧力によって行動した、と装うことになるのだ。
 ボルシェヴィキやその模倣者が使ったこの手法の二元性は、クルツィオ・マラパルテ(Curzio Malaparte)が、その著<クー・デタ>で最初に指摘した。
 ムッソリーニによる権力奪取の参加者であるマラパルテは、ほとんどの同時代人や多くの歴史家が見逃したことを知っていた-すなわち、ボルシェヴィキ革命とその継承者たちは、見えるものと隠されたものという二つの異なる次元で作動した、ということをだ。後者の隠されたものこそが、現存した体制の致命的な機関に対して、死への一撃を加えた。
  (48) G. Le Bon, The Crowd (ロンドン, 1952), p.73。
  (49) E. Canetti, Crowd and Power (1973), p.24-25。 
  (**) E. Hoffer, The True Believer (ニューヨーク, 1951) p.117, p.118-9 を参照。
 『行動とは、団結させるものだ。<中略> 全ての大衆運動は、団結する手段として自らの大衆行動の助けになる。大衆運動が探求し喚起する闘いは、敵を倒すためばかりではなく、その支持者たちに本能的な個人性を剥き出しにさせ、集団的な媒体へとより溶解させていくためにも役立つ』。
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 第4節につづく。

1552/R・パイプスとL・コワコフスキが隣に立つ写真から。

 ○ 世界中で、日本に限ってとしてすら、多数の人が生まれ、そして死んでいっている。
 それぞれの死は悲しいものに違いないが、世界中の、日本に限っても、全ての各人の死を嘆き悲しむことなどできるわけがない。
 一粒の涙ずつ流したとしても、一日で足りるのだろうか。
 所縁のない人々の死をいちいち考えていては、人は生きていけない。
 遺族にとっては突然の死(事故であれ自然災害であれ)もあれば、「大往生」と呼ばれる死もあるだろう。不条理な死も、きっとあるだろう。しかし、ほとんど圧倒的な場合について、<遺族>または関係者以外の人々は、いちいち考える余裕もなく、それぞれに生きている。
 こんなことを書きたくなったのも、一枚の写真を書籍の中でたまたま見た(たぶん初めて気づいた)のがきっかけだ。
 外国の、かつまた自分には私的な関係はこれっぽっちもない人々のことながら、その死を思って、涙が出た。
 Richard Pipes, VIXI - Memoirs of a Non - Belonger (2003)。
 このp.133に、つぎの4名が立って、十字のように向かい合って何か語っている写真がある。1974年、イギリス・オクスフォードでのようだ。右から。中の二人の表情が最もよく撮れている。
 アイザイアー・バーリン(Isaiah Berlin)、リチャード・パイプス(Richard Pipes)、レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)、イタリアの歴史学者のフランコ・ヴェンチュリ(Franco Venturi)。
 最後の人だけ名前も知らなかったが、R・パイプスの初期の研究対象と同じく19世紀のロシア、および1789年以前のヨーロッパについて主として研究したようだ。以下、() は写真のときの年齢。
 Isaiah Berlin、1909.06~1997.11、満88歳で死去 (65歳)。
 Leszek Kolakowski、1927.10~2009.07、満81歳で死去 (47歳)。あの、L・コワコフスキだ。
 Franco Venturi、1914.05~1994.12、満80歳で死去 (60歳)。
 そして、Richard Pipes、1923.07~ (51歳)。
 前回に2015年2月付のR・パイプス著の「序言」に言及したが、そのときすでに、満91歳なのだった。
 そして、自分には私的な関係は一切ない人物だが、この人もいずれは亡くなるのだと思うと(自分も勿論そうだが)、涙が出た。
 誰もがみんな、いずれ死んでいく。
 ○ リチャード・パイプスについて書かれている日本語文献は、多くない。
 二冊の詳しく長い方の、ロシア革命とその後のスターリン直前までの書物には邦訳書がない。
 『共産主義の歴史』と素直に邦訳されてよいこの人のコンパクトな書物は、<共産主義者が見た夢>という、誰か特定の共産党員の個人的思い出話とも誤解されそうな邦題が付けられた邦訳書になっている。
 下村満子・アメリカ人のソ連観(朝日文庫、1988)は1983年初頭のR・パイプスインタビュー記事を載せていて、珍しく、かつ興味深い。
 もう一つ、上の Richard Pipes, VIXI - Memoirs of a Non - Belonger (2003)の、詳しいわけではないが、貴重な書評記事が、以下にある。
 草野徹「気になるアメリカン・ブックス/28回」諸君!2007年11月号(文藝春秋)p.243-5。
 
草野徹はR・パイプスの書名を『私は生き延びた-自主的な思想家の回想録』と訳している。
 < a Non-Belonger >の意味がむつかしいところで、最初はどの党派にも属さない、つまりは社会主義や共産主義政党から独立した(自由な)者との意味かと思ったが、のちにはだいぶ離れて、ポーランド出自のこの人は20歳のときにアメリカに帰化してもなおも<帰属意識>をもてない、祖国ではない国に生きた、という意識からする言葉かとも思った(40歳頃に社会主義ポーランドを離れたL・コワコフスキについてもある程度はそういう問題の所在を指摘しうるのではなかろうか-多くの日本人には分かりにくい)。
草野は、同僚学者たちからも際立つほどの、つまり仲間がいないか極めて乏しい=帰属先のない学者、独立した<反共産主義・反ソ連>意識の持ち主だったことを、< a Non-Belonger >性だと理解しているようだ。たぶんこれで正しいのだろう。私はほとんど読んでいないので、判断しかねる。
 ともあれ草野徹の紹介によると、R・パイプスというのは、つぎのような考えの持ち主だ。
 「共産主義一般や特にソ連に対して否定的見解」に立つ。
 「スターリニズムはレーニニズムにその兆しがある」。
 「ソ連の残虐な独裁は、スターリンの個性の結果というより、ボルシェヴィキ革命の必然的結果である」。
 60年代の大学騒擾を「嫌悪しながら見詰め、マルクス主義の方法論を用いてソ連に共感する『修正主義者』と対立」した。
 あとは、R・レーガン大統領のもとでの安全保障会議補佐官の時代のことだ。
 R・パイプスは<対ソ連強硬派>だった。この点はこの欄でも触れている。
 草野によると、R・パイプスが嫌ったのは<対ソ連融和派>(秋月)とも言うべき「西側ジャーナリズム」で、これは「①ソ連は安定していて、外部から破壊はもちろん、体制変更はできない。②そんなことを試みれば、ソ連は硬化し、核戦争につながる危険がある」との前提で共通していた、という。
 草野は最後にまとめる-R・パイプスという「圧力行使で『悪の帝国』を倒せると考えた数少ない一人、時代におもねらない自主的な思想家」が、「歴史の歯車に油を差したと言えるかもしれない」と(さらに、「日本の学者」は ? と続けるが)。
 リチャード・パイプスの書物の試訳を行ったり、また部分的にだが(まるでポーランドのふつうの哲学者か東欧の怪談お伽話の作家のごとく日本では扱われているかもしれない)L・コワコフスキの著作を邦訳したりすることの意味は十分にある、と秋月は考えている。
 またさらに、<軟弱・融和・表向き平和>論でないR・パイプスの<強硬論>は、決して過去に関することではなく、現今の北朝鮮や中国に対する外交等の政策についてもある程度は参照されてよいと思われる(日本政府に何ができるかという問題はあるが)。
 民主党政権、オバマ大統領は、ぃったいどうだったのか ? また触れてしまうが、櫻井よしこは、大局を無視して、<トランプへのケチつけ>ばかりするのはやめた方がよい。
 ○ 日本とは違う<反共産主義>の思想・雰囲気がアメリカには大勢ではないにせよ強くある、ということは、「左翼」・対ソ連<融和>派の朝日新聞・下村満子も書いていた。
 1992年のソ連解体以前の文章だが、同・上掲書、p.614は言う。
 「アメリカ人の反共精神、対ソ不信感には、非常に根強いものがあり、これはほとんどアメリカの体臭といっていいほどのものだと私は考えている」。
 こう書きつつ、レーガンの反共・対ソ強硬姿勢はきっとうまく行きそうにないとの雰囲気で朝日新聞記者らしくまとめているのだが。
 ○ しかしともかくも、日本人は、日本とアメリカ等の違いを、共産党・共産主義に対する見方についても、本当はもっと実感しなければならないのだろうと思う。
 1992年以降、イタリア共産党はなく、フランス共産党も1980年にミッテラン大統領を社会党とともに生んだ力はまるでない。
 なぜ日本には日本共産党があって600万票を獲得し、隣国には「中国共産党」があるのか。
 北朝鮮のグロテスクな現況は、マルクス-レーニン-スターリン-コミンテルンと関係がないのか ?
 レーニン・スターリン・コミンテルン-金日成・金正日・…、ではないのか ?
 この点を、なぜ日本のメディアは明確に指摘しないのか。
 スターリン以降とは区別された、<レーニン幻想・ロシア革命幻想>が日本には「左翼」にまだ強く残ることについては、また何度も述べる。 

1551/レーニンの革命戦術①-R・パイプス著10章3節。


 リチャード・パイプスの近著に、以下がある。
 Richard Pipes, Alexander Yakovlev -The Man whose Ideas delivered Russia from Communism (2015) . <R・パイプス, アレクサンダー・ヤコブレフ-ロシアを共産主義から救い出した人物>。
 これの2015年2月付の序言の一部は、つぎのとおり。
 「2005年に、イタリア・トリノで開かれた会議に、ミハイル・ゴルバチョフから招かれた。その会議は、『世界を変えた20年』と題して、世界政治フォーラムが組織しており、1985年から始まったゴルバチョフの5年間の指導者在職中にソヴィエト同盟で生じた、諸変革を記念するのを目的としていた」。
 さて、Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990), の第二部第10章の試訳。
 前回からのつづき。
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 第3節・レーニンの革命戦術①。
 レーニンは、きわめて秘密主義の人間だった。
 合わせて55巻の全集になるほどに多くを語り、書いたけれども、彼の演説や著作は圧倒的に虚偽宣伝や煽動で、潜在的な支持者を説得することか、または知られた対抗者の考えを暴露するというよりもそれを破壊することかを意図していた。
 心に浮かんだことは、身近な仲間にすらほとんど明らかにしなかった。
 階級間の世界戦争の最高司令官として、計画は個人的なままにした。
 したがって、レーニンの思想を再述するためには、知られている行為から隠された意図へと遡って分析することが必要だ。//
 一般的な諸論点-誰が敵でその敵に対して何がなされるべきか-については、レーニンは包み隠さなかった。
 大まかに把握された目標-『綱領』(プログラム, programm)-を、彼は公にしていた。
 そこからレーニンの意図を見抜くには、かなりの困難がある。
 ムッソリーニについて言うと、彼自身はクー・デタ技術の専門家では全くなかったが、ジョバンニ・ジョリッティ(Giovanni Giolitti)に対して、『国家は革命の綱領に対してではなく、革命の戦術に対して防衛されなければならない』と打ち明けていた。//
 レーニンはメンシェヴィキ・エスエルの二段階革命の原理およびその推論形である dvoevlastie 、つまり二重権力を拒否した。
 彼は臨時政府を可能なかぎり実際にぐらつかせて、権力を奪取することを意図した。
 レーニンの注目すべく鋭い政治的本能-どの成功した将軍も所持する才能-によって、これができると考えた。
 彼は、リベラルなまたは社会主義的知識人がどういう存在なのかを知っていた。クレマンソー(Clemenceau)の言葉を借りれば、『菜食主義の虎』たちは、彼らの革命的な言辞にかかわらず、政治責任を死ぬほど怖れ、かりに手渡されても権力を行使できない。
 この点で彼は、ニコライ二世のようなものだと判断した。
 さらに、国民的な一体性の外観や臨時政府への一般的な支持の奥底には、煽り立てて適切に指揮すれば非効率な民主政体を打倒してレーニンに権力をもたらすような、力強い破壊力が煮え立っていると、気づいていた。都市での物資の不足、農民の社会的動揺、民族的な欲求。
 ボルシェヴィキはその目標を達成するため、現況(status quo)に対する唯一の選択肢として、臨時政府や他の社会主義政党のいずれもからきっぱりと離れなければならなかった。
 ロシアへの帰還後レーニンは、この主張を基本線として、支持者たちに臨時政府への融和的態度を放棄すること、メンシェヴィキとの統合を考えてはならないことを力強く説いた。//
 民主主義的なスローガンがますます民衆性を獲得しているのを見たレーニンは、ボルシェヴィキ党への権力の要求を公然とは主張できなかった。
 ボルシェヴィキ党の党員以外は誰も、そして党員ですらほとんど、権力要求が達成できる見通しを持たなかった。
 この理由で短い幕間(中間休憩期間)として、レーニンは1917年の間は、権力のソヴェトへの移行を主張した。
 1917年の秋までボルシェヴィキはソヴェトの中の少数派だったことを見ると、この戦術は当惑させるもののように思える。そして、表向きは、この綱領を達成するということは、権力のメンシェヴィキとエスエルへの移行を意味するはずだった。
 しかし、ボルシェヴィキは、このような移行は決して生じないと確信していた。
 メンシェヴィキの全指導者の中で対抗派に対する幻想を最ももっていなかったツェレテリ(Tsereteli)は、ボルシェヴィキはソヴェトの多数派から国民的権力を闘い取ることに何ら困らないと思っている、と書いた。
 臨時政府にはいろいろな欠点があったけれども、レーニンの見地からすると、それは大きな軍事力をもちかつ農民層および中産階級からの確実な量の支持を受けているがゆえに、民主主義的社会主義者たちよりもはるかに危険な敵だった。
 民族主義に訴えることで、臨時政府は力強い力を結集することができた。
 名目上であろうと、臨時政府に権力がとどまっているかぎり、国家が右へと舵を切る危険はつねに存在した。
 ソヴェトに権威の中心があったので、政治的雰囲気を急進化させ、『反革命』という妖怪でもって脅迫して優柔不断な社会主義者たちを引っ張り続けるのは、相対的には簡単なことだった。//
 レーニンはその目標-権力の奪取-をめざし、軍事史や軍事学で学んだことにもとづく方法で追求した。
 純粋な政治というのは、権威主義的な方法であっても、権力への競争者と自主的な主導性については抑えた展望をもつ民衆全体の両者との間の、何らかの種類の調整を含んでいる。
 しかし、レーニンには政治とはつねに階級戦争であり、クラウセヴィッツの語法で思考をした。
 軍事戦略としての目的は、対抗者との調整ではなくして、彼らを破壊することだった。
 これは、先ず第一に、二つの意味での対抗者の武装解除を意味した。すなわち、(1) 軍事力の剥奪、(2) その諸機構の破壊。
 しかしこれはまた、戦場と同じく、敵の肉体的な殲滅を意味しえた。
 ヨーロッパの社会主義者はよく『階級戦争』と語ったが、それは主としては、バリケードを築くという頂点があるかもしれないとしても、工場ストライキや投票行動のような、非暴力的な手段によるものを意味した。
 レーニンは、そして彼だけは、『階級戦争』を文字どおりに国内戦争(civil war)の意味で用いた-戦略的破壊を目的とする、必要ならば政治の戦場での再挑戦を不能にするほどの首尾での勝利につながる敵の殲滅を目的とする、使用可能な全ての武器を使っての、戦争だ。
 このような見地での革命とは、別の手段によって遂行される戦争だった。違いは、国家間や民族間ではなくて、社会的階級の間で行われる戦闘だということにあった。
 戦闘のラインは、水平ではなく垂直に〔横ではなく縦に〕走っていた。
 このような政治の軍事化に、レーニンが成功する重要な根源があった。
 成功するためにレーニンはこのように考えていたが、それは、彼の敵が、設定もされず予期もできない地域での戦闘だと政治を取り扱う者がいるなどとは想像できないほどのものだった。//
 レーニンがその人格の内奥から導く政治に関する考え方は、彼の支配への渇望とレーニンが成長したアレクサンダー三世時代のロシアで形づくられた伝来的政治風土とが結びついたものだった。
 だが、この心理的な衝動と文化的伝統とを、理論的に正当化するものがなければならない。レーニンは、これを、マルクスのパリ・コミューン(Paris Commune)に関する論評のうちに見出した。
 この主題に関するマルクスの著作はレーニンに圧倒的な印象を与え、彼の行動の指針になった。
 マルクスはコミューンの生成と崩壊を観察して、全ての革命家はそのときまで、既存の諸制度を破壊するのではなく奪い取ろうとするという重要な過ちを冒していたと結論づけた。
 階級国家の政治的、文化的そして軍事的な諸構造を無傷なままに残して、たんに人員だけを置き換えることでは、反革命の生育地が残されてしまった。
 これからの革命家は、違うやり方で前進しなければならないことになろう。
 『これまでなされたように官僚・軍事機構を一塊としてある者から別の者に移行させるのではなく、それを破壊すべきだ』。(44)
 これらの言葉は、レーニンの心に深く染みこんだ。
 レーニンはあらゆる機会にこれを繰り返し、その重要な政治命題の中心に据えた-<国家と革命>。
 それはレーニンの破壊本能を正当化するのに役立ち、新しい秩序を樹立するというその欲望に合理性を与えた。『全体主義』要求の中に全てを包括する、新しい秩序をだ。//
 レーニンはつねに、革命を世界的な意味で捉えた。
 彼にはロシア革命はたんなる偶然的事件であり、『帝国主義』の最も弱い環を偶発的に切断することだった。
 レーニンはロシアを改革することにでは決してなく、ロシアを征圧して、産業諸国家とその植民地における革命への跳躍台にすることにだけ関心があった。
 ロシアの独裁者となっても、1917年やその後の事態を世界的観点から見ることをやめなかった。
 彼にとっては、『ロシア革命』であってはならず、ロシアで開始された、発生するはずの世界的革命なのだった。
 ロシアへと出立する日の前に渡したスイスの社会主義者たちあての別れの文章の中で、レーニンはこの点を、つぎのように強調している。//
 『一連の諸革命を<開始>したという大きな栄誉は、ロシア人に与えられた。<中略>
 ロシアのプロレタリアートが<独特の、おそらく短期間のみの>全世界の革命的プロレタリアートの前衛になったのは、その特殊な属性にではなく、特殊な歴史的条件に原因がある。
 ロシアは農民国家であって、ヨーロッパの最も遅れた国の一つだ。
 そこで<直接に、現時点で>、社会主義が勝利するのは<不可能>だ。
 しかし、国家の農民的性格は…、ロシアのブルジョア民主主義革命への巨大な一撃を導くことを、そして我々の革命を世界的社会主義革命の<序曲>にすること、それへの<一歩>とすること、を<可能に>する。』(45)
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 (44) レーニン全集に引用される、1871年のクーゲルマン博士への手紙。
 (45) 〔レーニン全集第24巻(大月書店, 1957年)25頁「戦術に関する手紙」(1917年4日8-13日に執筆、のち単行小冊子)かと思われる。-注記・試訳者による〕
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 ②へとつづく。

1549/アンジェイ・ワリツキ・マルクス主義と自由(1995)の構成。

 日本の「左翼的」すなわち「容共的」学界・論壇や出版社を含むメディアにとって危険な外国の人物やその著作は、紹介されたり翻訳されたりする傾向がきわめて少ない。
 R・パイプス(アメリカ)についても、F・フュレ(フランス)についても、エルンスト・ノルテ(ドイツ)についても、この人たちは日本で決して全くの無名ではないとしても、そのことを感じている。
 アンジェイ・ワリツキ(Andrzej Walicki)の著書についても、そうだろう。
 その書名は、マルクス主義と自由の王国への跳躍-共産主義ユートピアの成立と崩壊=Marxism and the Leap to the Kingdom of Freedom -The Rise and Fall of the Communist Utopia (1995)。
 この書物につき、この分野の専門的研究者とは見なされていないだろう竹内啓のつぎの論考があり、かなり詳細な紹介とコメントを含む。ネット上で、PDF形式で掲載されている。
 竹内啓・書評/明治学院大学国際学研究2000年3月31日号p.67-p.85。
 
しかし、見事に、この竹内啓PDFファイル以外に、日本では上の著に触れたものはないように見える(氏名の読み方すら分かりにくい。日本語のWikipedia での紹介もないのでないか)。
 以下は、この著の構成(内容)だ。<危険さ>を感じる人がいるだろう。
 しかし、竹内啓も言っているように、マルクス主義と「自由」は、あるいは現代の「自由」とは何かについて、(日本人も)きちんと議論・研究する必要がある。
 マルクス主義・「科学的社会主義」を名乗る政党に「学問の自由」も「出版の自由」も実質的に形骸化されているという、畏るべき実態が日本にはあると思われる。
 そうしてまた、「反共」をいちおうは謳いながら、マルクス主義・共産主義(あるいはレーニン主義・スターリニズム)、あるいは<亜流>マルクス主義者の思想・理論の詳細な分析・研究などにはまるで関心がない、分けが分からなくなっている、日本の<保守>の悲惨な実態もある。有り難さではなくて、その惨状に、涙こぼるる思いがする。
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 アンジェイ・ワリッキ・マルクス主義と自由の王国への跳躍(1995).
 第1章・自由に関する哲学者としてのマルクス。
  第1節・緒言。
  第2節・公民的および政治的自由-自由主義との対立。
  第3節・自己啓発の疎外という物語-概述。
  第4節・パリ<草稿>-喪失し又は獲得した人間の本質。
  第5節・<ドイツ・イデオロギー>-労働の分離と人間の自己同一性の神話。
  第6節・<綱要>-疎外された普遍主義としての世界市場。
  第7節・<資本論>での自己啓発の疎外と幼き楽観主義の放棄。
  第8節・将来の見通し-過渡期と最後の理想。
  第9節・ポスト・マルクス主義社会学伝統における資本主義と自由-マルクス対ジンメルの場合。
 第2章・エンゲルスと『科学的社会主義』。
  第1節・『エンゲルス的マルクス主義』の問題。
  第2節・汎神論から共産主義へ。
  第3節・政治経済学と共産主義ユートピア。
  第4節・諸国民の世界での『歴史的必然性』。
  第5節・『理解される必然性』としての自由。
  第6節・喪失した自由から獲得した ?自由へ。
  第7節・二つの遺産。
 第3章・『必然性』マルクス主義の諸変形。
  第1節・カール・カウツキー-共産主義の『歴史的必然性』から民主政の『歴史的必然性』へ。
  第2節・ゲオルギー・プレハーノフ-夢想家の理想としての『歴史的必然性』。
  第3節・ローザ・ルクセンブルクまたは革命的な運命愛(Amor Fati)。
 第4章・レーニン主義-『科学的社会主義』から全体主義的共産主義へ。
  第1節・レーニンの意思と運命の悲劇。
  第2節・『ブルジョア自由主義』へのレーニンの批判とロシア民衆主義の遺産。
  第3節・労働者の運動と党。
  第4節・『単一政』の破壊と暴力の正当化。
  第5節・文学と哲学におけるパルチザン原理。
  第6節・プロレタリアート独裁と国家。
  第7節・プロレタリアート独裁と法。
  第8節・プロレタリアート独裁と経済的ユートピア。
 第5章・全体主義的共産主義から共産主義的全体主義へ。
  第1節・レーニン主義とスターリン主義-継承性に関する論争。
  第2節・世界の全体観念としてのスターリン主義的マルクス主義。
  第3節・『二元意識』と全体主義の『イデオロギー支配制』。
 第6章・スターリン主義の解体-脱スターリン主義化と脱共産主義化。
  第1節・緒言。
  第2節・マルクス主義的『自由』と共産主義的全体主義。
  第3節・脱スターリン主義化と脱共産主義化の諸段階と諸要素。
  第4節・ゴルバチョフのペレストロイカと共産主義的自由の最終的な拒絶。
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 以上。

1548/B・パステルナークとジバゴ・ラーラの「レーニン時代」②。

 映画・ドクトル・ジバゴ(1965)は、日本では翌1966年に公開されている。その年か翌1967年に私も観た。じつに、50年前。
 その頃に、舟木一夫・内藤洋子主演のその人は昔(松竹)という映画も観た。
 自室以外に本棚らしきものはなく、まして一冊の単行本の新刊書も自宅になく(自分の教科書類以外は)、安い文庫の本をときには中古ですら買い求めていた頃に、よくぞ映画はいくつか観ていたものだ、と思う。
 「その人は昔、海の底の真珠だった。
  その人は昔、山の谷の白百合だった。
  その人は昔、夜空の星の輝きだった。
  その人は昔、僕の心のともしびだった。
  でもその人は、もう今は、いない。」
 舟木一夫・その人は昔(1967年)/歌詞・松山善三(映画監督)。
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 ボリス・パステルナークの小説『ドクトル・ジバゴ』は「レーニン時代」の物語でもあると書いたのだったが、二月革命や「十月」ボルシェヴィキ政変がどのあたりに出てくるのか確かめてみた。
 Boris Pasternak, Doktor Shiwago (独語, 2011)だと、最終の「詩篇」を除く本文は、p.9~p.645。「二月革命」についての叙述は第4章の最後のp.163に初めて少しだけある。
 ちなみに、工藤正廣訳・ドクトル・ジヴァゴ(未知谷、2013)は、最終の「詩篇」を除いて本文は13頁から681頁で、「二月革命」は172頁に出てくる。
 それぞれ8頁と12頁を引いて、独書では、155/638、工藤邦訳書では160/669のところに位置する。これは、おおよそ最初の24%あたりの箇所で、つまりは小説の四分の三は1917年「二月革命」以降のことだ。
 つぎに「十月」ボルシェヴィキ政変については、独書ではp.238に、工藤邦訳書では254頁に初めて出てくる。230/638と242/669で、これはおおよそ最初から36%進んだ箇所で、三分の二近くは「十月」以降の物語だ。
 但し、最後に飛んで1943年頃の、ユリイとラーラの娘・ターニャが出てくる場面はある。しかし、レーニンの死とか指導者の交替といった話題は何も出てこないので、要するに、この小説=ドクトル・ジバゴは少なくとも6割ほどは間違いなく<レーニンの時代>を背景にしている。
 そして、語るのはジバゴだったり、ラーラの夫で共産党幹部になるが嫌疑をかけられて自殺するストレーリニコフ(パーシャ)だったり、あるいは作者自身だったりの違いはあるが、かりにレーニンの名はほとんど出てこなくとも(1箇所だけある)、明らかにロシア「革命」やボルシェヴィキに対する、懐疑・皮肉・揶揄や批判的叙述がある。
 戦後のソヴィエト国家が、その権威の正当性が帰着する原点を衝かれているので、この本の発刊を国内では許さなかったこともあらためてよく分かる(なお、むろんロシア語で書かれたが、出版はイタリア語版が最初だったようだ)。
 以下は、部分的な、試訳だ。
 主要登場人物は首都にもモスクワにもいないときの、「二月革命」-「『大変重大な事件が発生。ペテルブルクで街頭騒擾だ。ペテルブルクの守備隊兵団が蜂起者の側に移った。革命だ』。」
 独書p.163、工藤邦訳書172頁、江川・新潮文庫/上224頁。
 つぎに「十月」、主要登場人物は首都にではなくモスクワにいて、モスクワに関する叙述がまずある。
 独書p.237、工藤邦訳書p.250、江川新潮文庫/上334頁が、それぞれ最初。
 モスクワでの騒乱-「まさにそのとき、通風口から入ってくる風と同じように急いで、ニコライ叔父が部屋に飛び込んできて、ニュースを伝えた。
 『市街戦が始まった。臨時政府を支持している士官学校生とボルシェヴィキの側にいる守備隊兵士たちの間に軍事的衝突が起こっている。/戦闘は一進一退で、蜂起の群衆は数えられないほどだ。』」
 「事態はその間にもさらに進展していた。新しい細かいこともあった。ゴルドンは、激しくなっている銃撃戦や、逸れた弾に当たって死んだ通行人について話した。市の交通は途絶えた」。
 「事態の帰趨は、もう明らかだった。労働者たちが優勢だという風聞が至るところから伝わってきた。士官学校生の小隊がばらばらになってまだ戦っていたが、お互いに孤立し、指導部との連絡がつかなかった。」 
 数日後、首都について-「ある十字路で、『最新ニュース』と叫びながら、新しく印刷された束を腕に抱えて、新聞売りの少年が彼〔ジバゴ〕の傍らを通りすぎた」。
 「片面だけが印刷された号外版の内容は、人民委員のソヴェトが形成されたこと、ロシアにソヴェト権力が設立されたこと、プロレタリアート独裁が導入されたこと、に関する政府のペテルブルクからの発表を伝えることだった。そのあとに新政府の最初の諸布令(Dekrete)と電報や電話で送られてきた種々の情報がつづいていた。」
 この「十月」政変についてのジバゴらの特段の感慨は、すぐには叙述されていない。
 機会があれば、明確な懐疑・批判類を訳出してみたいが、パステルナークは、少しだけあとの新しい節の冒頭部分(第6章・篇「モスクワの露営」第9節)で、その後の雰囲気をこう叙述する。独書p.245~。
 「予言したとおりに、冬がやってきた。この冬はそれに続いた二つの冬ほどにはまだ悲惨ではなかったけれども、だがすでに似たようなもので、陰鬱さ、飢え、寒さ、そして全ての日常的なものの激変を、特徴としていた。存在の全ての基礎の新たな形成や、滑り去る生活に取りすがろうとする完全に非人間的な努力をだ。//
 三回の恐ろしい冬が、つぎつぎに連続した。今17年から18年の冬に起きたと記憶していることの全ても、本当はこの当時ではなく、ことによると、もっと後に起きたのだったかもしれない。この三つの冬は、一つに重なっていて、一つ一つを区別するのはむつかしい。//
 旧い生活と新しい秩序は、まだ一致していなかった。両者の間には、一年後の国内戦争(内戦)の間のようなあからさまな敵対関係はなかったけれども、決して結びついてはいなかった。両者は、対峙し合っている、決して合意しない、相互に離れた党派だった。//
 至るところで、指導部の新しい選挙が行なわれた。住宅組合、諸団体、職場、公共供給事業体のどこででも。/
 構成は変わった。全ての部署に、無制限の権能をもつ政治委員(Kommissare)が任命された。黒皮のジャケットを着て、威嚇措置とナガン銃で武装した、鉄のごとき意思をもつ者たち、めったに鬚を剃らず、もっとたまにしか眠らない者たちだった。//
 この者たちは、綱領(基本方針)が命令する全てのことを手中に握って、企業や団体は、別のボルシェヴィキ的なものへと変えられた。」
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 「やっとまた、同じところにいる、ユーロチュカ。神さまは、私たちが再び会うというご褒美を下さった。でも、何と恐ろしい再会なの!
 さようなら、私の偉大な人、私の愛した人。さようなら、私の誇り。さようなら、私の深くて激しい河。
 まだ憶えてる ? どんなふうに私はあの雪の中で、あなたと別れたのか ?」  
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 これは、ジバゴの遺体にとりすがって語りかけるラーラ。ドイツ語版、p.625。途中省略がある。

1547/レーニン帰国②・四月テーゼ-R・パイプス著第10章。


 前回のつづき。
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 第2節・ドイツの助けでレーニン帰還②。
 そこ〔ストックホルム〕で待っていた人たちの中に、パルヴスがいた。
 彼はレーニンと逢いたいと頼んだが、慎重なボルシェヴィキ指導者は拒んで、ラデックに譲った。ラデックは、オーストリア人だったおかげで裏切りだと追及される危険がなかった。
 ラデックは3月31日/4月13日のかなりの部分を、パルヴスとともに過ごした。
 二人の間に何があったかは、知られていない。
 彼らは別れ、パルヴスは急いでペルリンに向かった。
 4月20日(新暦)に、パルヴスは私的に、ドイツの国務長官(state secretary)のアルトゥール・ツィンマーマン(Arthur Zimmermann)と会った。
 この会見についても、記録は残されていない。
 パルヴスは、ストックホルムに戻った。(32)
 文書上の証拠は不足しているが-高いレベルの秘密活動を含む資料についてよくあることだ-、後で起こったことを見てみると、パルヴスがドイツ政府に代わってラデックと逢い、ロシアでのボルシェヴィキを財政的に支援する条件や手続について取り決めた、ということが、ほとんど確実だと思われる。(*)//
 ストックホルムのロシア領事館は、到着を待って入国査証を用意していた。
 臨時政府は、戦争反対活動家たちの入国を認めるかどうかを躊躇したように見える。
 しかし、方針を変更して、敵国領土を縦貫したことでレーニンが政治的に妥協することを期待した。
 一行はストックホルムを立って3月31日/4月13日にフィンランドに着き、三日後(4月3日/16日)の午後11時30分にペテログラードに到着した。(+)//
 レーニンがペテログラードに着いたのは、全ロシア・ボルシェヴィキ大会の最終日だった。
 地方から出てきている多くのボルシェヴィキ党員は知っていて、指導者レーニンを歓迎する用意をしていた。その歓迎ぶりは、その劇場性において、社会主義諸団体でかつて見た全てをはるかに上回っていた。
 ペテログラード委員会は、フィンランド駅へと労働者たちを呼び集めた。
 委員会は、線路に沿って護衛兵と軍楽隊を配置した。
 レーニンが列車から姿を現わしたとき、軍楽隊は『マルセイエーズ(Marseillaise)』を演奏し始め、護衛兵たちは見ようと跳び上がった。
 チヘイゼ(Chkheidze)がイスポルコム(Ispolkom)を代表して歓迎し、社会主義者は国内の反革命と外国の侵略から『革命的自由』を防衛すべく一致団結するという希望を声を出して語った。
 フィンランド駅の外で、レーニンは装甲車の上に昇り、投光器によって照らされながら、簡単に若干の言葉を発した。そのあとでクシェシンスカヤ(Kshesinskaia)邸に向かい、群衆が後を続いた。//
 スハーノフ(Sukhanov)は、その夜のボルシェヴィキ中央司令部での出来事について、目撃証言書を残した。//
 『かなり大きなホールの下に、多数の人々が集まった。労働者たち、『職業的革命家たち』、そして女性たち。
 椅子は足らず、出席者の半分は心地よくなく立っているか、テーブルの上に体を伸ばしていた。
 誰かが進行役に選ばれ、各地域からの報告という形での挨拶の言葉が述べられた。
 この挨拶は、全体としては単調で、長々と続いた。
 しかし、いまそのときに、ボルシェヴィキの「様式(スタイル)」の奇妙で独特な特徴、ボルシェヴィキ党の仕事の独特の流儀(モード、mode)だとの思いが生じた。
 そして、ボルシェヴィキの全作業が、それなくして党員たちは完全に無力だと思い、同時にそれを誇りに思い、中でも自分が聖杯の騎士のごとくそれの献身的な召使いだと感じている、異質な精神的根源の鉄の枠に捉えられている、ということが絶対的な明白性をもって、明確になった。
 カーメネフも、漠然と何かを喋った。
 最後に、彼らはジノヴィエフを思い出した。ジノヴィエフはあまり熱意のない拍手を受け、何も語らなかった。
 そうして、報告の形での挨拶が最後を迎えた…。//
 そのとき、体制の大主人公〔レーニン ?〕が、『反応的に』起ち上がった。
 私は、あの演説を忘れることができない。異端者的に図らずも熱狂的興奮に投げ込まれた私にだけではなく、本当の信仰者たちにも衝撃を与えて驚愕させた、雷光のごときあの演説を。
 誰もあのようなことを予期していなかった、と断言する。
 まるで全ての原始的な諸力が棲息地から起き上がったように思えた。
 そして、全ての自然界破壊の精神的なものが、邪魔する物なく、懐疑なく、人間的な苦しみも人間的な打算もなく、クシェシンスカヤ邸のホールにいる取り憑かれた信徒たちの頭の上で、響き回った。』(35)//
 90分続いたレーニンの演説の基本趣旨は、『ブルジョア民主主義』革命から『社会主義』革命への移行は数ヶ月の問題として達成されなければならない、というものだった。(**)
 これは、帝制が打倒されたあと僅か4週間後に、死刑を執行するつぎの承継者は自分だとレーニンが公に宣言している、ということを意味した。
 こういう前提命題は、彼の支持者たちの大多数の気分とは違っていて、無責任で『冒険主義的』だと思われた。
 その結果として、その夜に残った者たちは、嵐のごとき議論を交わした。その会合は、午前4時に終わった。//
 その日の後で、レーニンは、ボルシェヴィキ党の一団に対して、そして別にボルシェヴィキとメンシェヴィキの合同の会議に対して、一枚の文書を読み上げた。それは、反対を予想して、レーニンの個人的見解による回答を提示するものだった。
 のちに『四月テーゼ(April Theses)』として知られるこの文書は、狂気でなければ完全に現実感を失っていると聞き手には思える行動綱領を概述したものだった。(36)
 レーニンの提示は、こうだった。進行する戦争への不支援、革命の『第二』段階への即時移行、臨時政府への支持の拒絶、全権力のソヴェトへの移行、人民軍を結成するための現軍隊の廃止、全ての地主所有土地の没収と全国土の国有化、ソヴェトの監督のもとでの全銀行の単一の国有銀行への統合。
 そして、ソヴェトによる生産と配分の統制、新しい社会主義インターナショナルの結成。//
 <プラウダ>編集局は、印刷装置が機械的に故障したという偽りの理由をつけて、レーニンの『テーゼ』を印刷するのを拒否した。
 4月6日のボルシェヴィキ中央委員会総会は、レーニンのテーゼに対する否認決議を採択した。
 カーメネフは、レーニンが現在のロシアとパリ・コミューンとの間の共通性を指摘するのは過っている、と主張した。
 一方、スターリンは、『テーゼ』は『図式的(schematic)』で事実に即していないと考えた。
 しかし、レーニンおよび一時期に<プラウダ>編集局に一緒にいたことのあったジノヴィエフは同編集局に発刊を強いて、『テーゼ』は4月7日に掲載された。
 レーニンの論文には、カーメネフの論評が付けられていて、これは党機関の決定から逸脱している、と書いていた。
 レーニンは、『ブルジョア民主主義革命は達成されたという前提から出発し、その革命の社会主義革命への即時移行を唱える』。
 さらにカーメネフは続ける。しかし、中央委員会の考えは異なっており、ボルシェヴィキ党はその決議に従う。(***)
 ペテログラード委員会は4月8日に会議を開き、レーニンの文書について議論した。
 表決は、やはり圧倒的に否定的だった。賛成2票、反対13票、そして保留が1票。
 地方の諸都市の反応も似ている。例えば、キエフとサラトフのボルシェヴィキ組織は、レーニンの基本方針(program)を却下した。後者は、執筆者〔レーニン〕はロシアの状況に疎い、という理由でだった。//
 指導者の宣言文書に関するボルシェヴィキの見解がどうであろうと、ドイツは愉快だった。
 ストックホルムにいるドイツの工作員は、4月17日に、ベルリンへと電信を打った。
 『レーニンの入国は、成功だった。彼は、我々がまさに望んだように仕事をしている』。(41)//
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  (32) ゼーマン=シャルラウ, 革命の商人・パルヴスの生涯 (1965), p.217-9。
  (*) ラデックはオーストリア人で、臨時政府からは敵国人だと考えられた。ロシアへの入国査証の発行を拒否されたので、彼は1917年10月までストックホルムにとどまり、レーニンのために働いた。
  (+) そのあと、ロシア難民のいくつかの一行がさらにドイツを縦貫してロシアに着いた。
  (35) N. Sukhanov, Zapinski o revoliutsii, III (1922), p.26-27。
  (**) この演説の音源上の記録はない。しかし、レーニンが用いたノートは、同全集・選集類で刊行されている。〔レーニン全集第24巻(大月書店, 1957年)10頁「われわれはどうやって帰ってきたか」1917年4月4日執筆、同13頁「四月テーゼ擁護のための論文または演説の腹案」1917年4月4-12日の間に執筆/1933年1月22日<プラウダ>上で初公表-「手稿による印刷」。とくに後者が該当しそうだ-試訳者の注記。〕
  (36) 〔レーニン全集第24巻(大月書店, 1957年)3頁「現在の革命におけるプロレタリアートの任務について/テーゼ」<プラウダ> 26号(1917年4日7日)。-注記・試訳者による〕
  (***) Iu. Kamenev in :<プラウダ> 27号(1917年4日8日)2頁。カーメネフは、3月28日のボルシェヴィキ大会の諸決議を参照要求する。
  (41) ゼーマンら編, ドイツとロシア革命 (1958), p.51。
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 第3節につづく。

1545/『自由と反共産主義』者の三つの闘い②。

 「恋でもいい、何でもいい。他の全てを捨てられる、激しいものが欲しかった」。
 1971年/小椋佳・しおさいの詩(歌詞・小椋佳)。
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 1) 「民主主義対ファシズム」という幻想。
 2) 反「共産主義(communism)」-強いていえば、「自由主義」。
 3) 反「自由・民主主義(liberal democracy)」-強いていえば「日本主義」または「日本的自由主義」。
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 <神道・天皇主義>とは何なのか。
 平川祐弘・日本人に生まれて、まあよかった(新潮新書)、櫻井よしこ・日本人に生まれて良かった(悟空出版)、というタイトルの本があるらしい。たぶん、読んでいない。
 日本の「左翼」の<自虐>さに堪えかねて、このようなタイトルの本を書いたのかもしれない。
 しかし、私にはなぜか、しっくりこない。
 なぜかと言うと、「日本」をこのように対象化または客観化できそうにないからだ。
 あるいは、<日本に生まれてよかったか(どの程度よかったか)>などいう問いかけをしたことはおそらくないからだ。
 この二人は何と、おそろしいことをしている、本のタイトルにまでしている、と感じる。
 もう少し書けば、日本とは対象化・客観化できるものではなく、私自身の一部ですらあるからだ。日本に生まれたことがどうだったかを問うことは、他ならない自分自身の一部に問いを投げかけることに他ならない。
 自分の血肉の一部になっているものを、どうやって評価するのか ?
 あるいは、日本人として生まれたことは、自分で選択したことではなく、生まれたときからの宿命・運命だ。
 そういう運命・宿命を、どうやって、<よかった>かどうか、などと問えるのか ?
 樋口陽一(左翼・憲法学者)はかつて、人間として生まれたのは必然だが、日本人として生まれたのは偶然にすぎない、と語った(この欄で触れたことがある)。
 必然とか偶然とかを問題にすること自体が、おかしい。
 あえて言えば、日本人は、通常は、日本「国家」によって、「人」として認知されてはじめて「人」になる。出生届-戸籍-住民票作成・記載のことを意味している。
 人間が生まれて特定の「人」として認めるのは、国際連合(国連)等の国際機関ではない。地球的・世界的には自分の存在を「人」としてまたは「国民」として認めてくれて、その存在を確証してくれるのは、国連等の国際機関ではないし、むろん日本国以外の第三国でもない(外国滞在・旅行中に生まれた場合とか両親の国籍が違う場合には立ち入らない。あくまで多数ないし「通常」の場合を語っている)。 
 このような意味では、人間に生まれたかどうかではなく、「日本人」として生まれたこと自体が必然でかつ宿命的・運命的なことなのだ。
 日本という「(国民)国家」あるいはナショナリズムに対する嫌悪感をもつのだろう樋口陽一には、ではいったいどの国家が、貴方の人間としての存在を記録して、確証するのかと、問わなければならない。
 元に戻るが、日本に日本人として生まれたことを対象化できるのは、もはや「日本」とは別のところにいて自分を第三者的に眺めている天空の仙人のような人物だろう。
 櫻井よしこにも、平川祐弘にも、上のようなその「立場」自体に共感することはできない。
 秋月瑛二は日本人としてのナショナルな感覚を持っていることを、否定しない。
 延々と日本列島で生きてきた先祖たちの後裔だと自覚している。
 その場合の「日本」とは何か。
 これを簡単に表現することはできない。これまで多数の著名・無名の日本人がこれを考えてきた。感じてきた。その中にはもちろん、美しい四季、瑞々しい山河も入ってくる。
 これを「天皇・皇室」に凝縮させる人もいるのだろう。
 「2000年以上」と簡単に語るのは完璧に虚偽だが、3-4世紀頃に(まだ「日本」とは称していなかったが)「天皇・皇室」の祖を中心にした日本国家の端緒に近いまとまりができたのはおそらく間違いない。
 しかし、だからと言って、「天皇主義」と前回に称したが、日本人にとって「天皇・皇室」敬愛の気持ちが、あるいは天皇(家)の継続が最高・至高の価値と見なすことが絶対の、最善・最優先の「主義」だとは考えない。
 二つの意味がある。一つは、はるか悠久の昔から長々と続く家系の後裔者、ということにかかわる。たぶん「王朝交替説」に立ち入る必要もなく、「はるか悠久の昔から長々と」続く、歴史上も種々の重要な位置・意味をもった人々であるだろう。
 しかし、そんなことを言えば、秋月瑛二だって、家名も人名も辿れないにしても、3-4世紀、いやもっと前からおそらくは日本列島に生きて死んだ先祖たちの立派な後裔なのだ。
 涙をこぼすほどに感じる。自分と血のつながる誰かが、1000年も2000年も、そして3000年も前にちゃんといたのだ。だからこそ、自分も、いま、ある。
 「天皇・皇室」への敬愛の情は、決して本能的なまたは自然的なものではない、と思われる。「天皇」家以外にも、長々と系譜をたどれる一族があることによっても、多少はすでに相対化される。
 もう一つは、最近の櫻井よしこが示していることかもしれないが、また「天皇陛下を戴くわが国の在りようを何よりも尊いと感じ、これを守り続けていきたい」と考えるのが<保守>だ、という主張もあるのかもしれないが、そのいわば「天皇(・皇室)主義」を説くことの意味は、実際的な意義は、いったい何にあるのだろうか。
 つまり、何のために、ことさらにそういう主張をする必要があるのだろうか。
 ここまでくると、そういう「主義」の主張が現在の日本の歴史的状況、つまり「戦後日本」と関係があることが分かる。
 そうしてまた、「戦後」または現在の<天皇・皇室>の問題は、「戦後」または現在ではない、「戦前」の、あるいは明治憲法下の<天皇・皇室>との同質性や差違等をも論じないといけないことにもなる。
 しかし、「戦前」あるいは明治憲法下との比較だけをしても十分ではないことは、一目瞭然としている。
 <天皇>の存在とそれにかかわる制度は、明治維新後に新たに発生したのでは、自明のごとく、ない。それ以前に、それこそ長々とした、「悠久の歴史」がある。
 ここですでに、櫻井よしこや平川祐弘や、あるいは「皇室」敬慕こそが<保守>だとする考え方の破綻の一端が現われているだろう。
 典型的には櫻井よしこに見られるように、このような人々がいったいどの程度に、<日本の悠久の歴史>・<日本人とその精神の歴史>を、仏教や儒教のそれも含めて、知っているのか自体、相当に疑わしいからだ。
 明治維新はまだ150年ほど前の事象にすぎない。明治維新についてすら、櫻井よしこのごとくすでに観念的・抽象的にしか捉えることのできていない人がいるのだから、その他の「天皇主義」の<保守>派がどの程度にそれこそ深刻に日本の歴史・日本人の歴史を懐古して、自分のものにしているかは、相当に疑わしい。
 あらためて問う必要がある。「天皇」主義とは、およびこれに関係する「神道・天皇主義」とは、いったい何を目的として、主張されているのか。
 <民主主義対ファシズム>という幻想の打破、反「共産主義」や反「リベラル・デモクラシー」の闘いなどに言及する以前に、初歩的または基礎的な問題に、日本の、とりわけ<保守>派の<論壇>らしきものの幼稚さについて、論及せざるをえないのだ。

1544/ドイツの援助で帰国①-R・パイプス著第10章。

 前回のつづき。
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 第2節・ドイツの助けによるレーニンの帰国①。
 ドイツには、ロシアの急進派について自らの計画があった。
 戦争は膠着している。そして、勝利する可能性が残るのは、敵国の協調を分裂させることだ、最もよいのはロシアを戦争から追い出すことだ、と認識するに至った。
 ドイツ皇帝は1916年の秋に、つぎのように書いた。//
 『厳密に軍事的観点から言えば、残りの諸国と全力を挙げて戦闘するために、分離講和をして協商側の交戦国の中の一国又は別の一国を分離することが重要だ。<中略>
 そうすると、ロシアの内部抗争が我々との講和の結論に影響を与えるかぎりでのみ、我々は戦争努力を組織することができる。』//
 ロシアを軍事力で排除することに1915年に失敗したドイツは、こうして、革命ロシア内部にある分裂を利用するという政治的方法に訴えた。
 臨時政府は完全に、協商国側の基本方針を支持していた。二月革命はイギリスが工作した、と思っていたドイツ人もいたほどだ。(18)
 ロシア外務大臣・ミリュコフ(Miliukov)の声明には、中央諸国軍が楽観できる理由はなかった。
 したがって、ロシアを協商国軍から切り離せる唯一の希望は、『帝国主義』戦争に反対してそれを内戦(civil war)に転化しようと主張している急進的過激派を、換言すると、レーニンが疑いなき指導者だったツィンマーヴァルト・キーンタールの左翼を、利用することにあった。
 レーニンがロシアに帰還すれば、階級対立意識を引き起こし、民衆の厭戦気分を利用して、臨時政府に対して尽きない混乱を生じさせることができるだろう、そしてたぶん権力を握ることすら。//
 『レーニン・カード』を使うのを最も強く主張したのは、パルヴス(Parvus)だった。
 パルヴスは1915年にレーニンに接近していた。そのときレーニンは協力するのを拒否したが、状況は今は変わった。
 1917年にパルヴスはコペンハーゲンに住んでいて、諜報活動をする隠れ蓑として、そこで輸入商社を経営していた。
 スパイ行為(espionage)を指揮するために、表向きだけの科学研究所も持っていた。
 ストックホルムにいる彼の商売上の代理人はヤコブ・ガネツキー(Jacob Ganetskii)で、レーニンが信頼する仲間だった。
 パルヴスはロシアの亡命者政策をよく知っていたので、レーニンのような過激主義者には大きな望みをもった。
 彼はデンマークのドイツ大使、V・ブロックドルフ=ランツァウ(Brockdorff-Rantzau)に対して、解放された戦争反対左翼は政治不安を広げ、二、三カ月にはロシアは戦争にとどまることは不可能だと気づくだろう、と請け負った。(20)
 パルヴスはレーニン一人を選び出して、ケレンスキーとチヘイゼ(Chkheidze)のいずれよりも『はるかにすごい狂乱者』だとして特別の注意を向けた。
 不可思議な洞察力をもってパルヴスは、いったんロシアに帰国すればレーニンは臨時政府をぐらつかせ、権力を奪い取り、そして速やかに分離講和を結ぶだろうと、予言していた。(21)
 パルヴスはレーニンの権力への渇望をよく理解しており、自分はドイツ領をスウェーデンへと通過させる仕事ができると考えた。
 パルヴスの影響によって、ブロックドルフ=ランツァウはベルリンに電報を打った。//
 『我々は今無条件に、ロシアに可能な最大の混乱を生み出す方法を探さなければならない。<中略>
 我々は、穏健派と過激派の間の対立を悪化させるため…可能な全てをすべきだ。後者が上回ることが最大の利益になるのだから。
 そうすれば、革命は不可避になり、その革命はロシア国家の安定を破壊する形態をとるだろう。』(22)//
 スイスにいるドイツ公使、G・フォン・ロンベルク(von Romberg)は、ロシア事情に関する当地の専門家から得た情報にもとづいて、同様の進言を行った。
 彼は、『Lehnin〔レーニン, ドイツ語ふう綴り〕』の支持者たちは講和交渉を即時に開始することや臨時政府と他社会主義諸政党のいずれにも協力しないことを主張しており、ペテログラード・ソヴェトを混乱させるという事実に、ベルリンの注意を向けさせた。(23)//
 これらに従って、ドイツ首相のテオバルト・ベートマン=ホルヴェク(Theobald von Bethmann-Hollweg)は、ロシア亡命者たちとスウェーデンへの移動について話を始めるように命令した。
 会談は、3月遅くと4月初頭に(新暦で)、初めはロバート・グリム(Robert Grimm)、あとはフリッツ・プラテン(Fritz Platten)というスイスの社会主義者の助けで、行われた。
 レーニンは、ロシア人たちの代表者として行動した。
 このような危険な政治的冒険をするに際してレーニンについても彼の綱領についても情報を得る面倒なことをしなかったのは、ドイツ人の洞察力の欠如(myopia)の兆候を示すものだ。
 彼らにとって重要なのは、ボルシェヴィキとその他のツィンマーヴァルトの追随者たちの、ロシアに戦争を止めさせたいという立場だけだった。
 ドイツの資料庫を調べたある歴史家は、ボルシェヴィキへの関心を示す文書資料を見つけなかった。レーニンの雑誌、< Sbornik Sotsial-Demokrata >の二号分があり、ベルンの大使館からベルリンへと進呈されていたが、40年の間書庫に眠ったままで、頁は切られていなかった。//
 ドイツ縦断移動に関する交渉の際にレーニンは、亡命者たちが敵国と協調する責任を感じることはないと安心させるのに多大の骨折りをした。
 列車は治外法権の地位をもつと、レーニンは主張した。プラテンの許可なくして誰も立ち入ってはならないし、旅券(passport)の検査もない、と。
 貧乏な難民〔レーニン〕がドイツ政府に条件を提示する地位にあると感じていたという事実は、彼が委ねた職務部門から高い評価を得ていたことを示唆する。//
 ドイツ側では、交渉は、外務省、とくにその長のリヒャルト・フォン・キュールマン(Richard von Kuehlmann)の積極的な支援を受けて、民間人団体が実行した。
 その〔外務省が大きく関与した〕結果としてレーニンのロシア帰還の背後で促進したのはルーデンドルフ(Ludendorff)だと考えられるようになったけれども、実際には将軍は大した役割を果たしてはおらず、彼は護送車両を手配するのに寄与したにとどまる。//
 プラテンは4月1日(新暦)に、レーニンの条件をドイツ大使館に電送した。
 二日後に、諸条件は受諾できると知らされた。
 この時期にドイツ財務省は、『ロシア工作』のために500万マルクを与えよとの外務省からの要求に同意した。(27)
 ロシアに関してドイツが行なっていたことは、つぎに示されるように、いつものやり方と同じだった。//
 『どの敵国、フランス、イギリス、イタリアおよびロシアについても、ドイツは内部での反逆を計画する工作をしていた。
 その計画は全て、大まかには同じだ。
 第一、極左の政党を使っての混乱。第二、金を払ってかドイツが直接に教唆してかの、敗北主義者の平和主義論文。最後、弱体化した敵国政府から最後には権力を奪取して平和を願う、重要な政治的人物との相互理解を確立すること。』(28)
 ドイツは、イギリスについては、アイルランド人のロジャー・ケイスメント卿(Roger Casement)、フランスについてはジョセフ・カイヨー(Joseph Caillaux)、そしてロシアについてはレーニンを使った。
 ケイスメントは射殺され、カイヨーは投獄された。
 レーニンだけが、金銭を支払ったことを正当化した。//
 3月27日/4月9日に、32人のロシア人亡命者たちがツューリヒを離れてドイツの前線へと向かった。
 乗客の完全な名簿を利用することはできないが-ドイツ人は列車の旅行客を審問しないという取り決めだった-、彼らの中には、6人のブント構成員、3人のトロツキー支持者のほかに、レーニン、クルプスカヤ、ジノヴィエフとその妻子、イネッサ・アーマンドおよびラデックを含む19人のボルシェヴィキ党員がいたことが知られる。(29)
 ゴットマディンゲンで国境を越えたあとで、彼らは二車両で成るドイツの列車に移った。
 一つはロシア人用で、もう一つは、ドイツの護衛兵用だった。
 伝説になっているのとは違って、列車は封印されていなかった。
 シュトゥットガルト、フランクフルトを通過して、3月29日/4月11日の午後早くに、ベルリンに到着した。
 そこで列車は、ドイツの監視兵に囲まれて20時間、留め置かれた。
 3月30日/4月12日、彼らはバルト海の港があるサスニッツ(Sassnitz)へ行き、そこでスウェーデンのトレレボリ(Traelleborg)行きの蒸気船に乗り込んだ。
 上陸すると、ストックホルム市長の歓迎に合った。そして、スウェーデンの首都へと進む。//
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  (18) General M. Hoffmann, Der Krieg der versaeumten Gelegenheiten 〔機会を逃した戦争〕(ミュンヒェン, 1923), p.174。
  (20) Z. A. B. Zeman = W. B. Scharlau, The Merchant of Revolution : The Life of Alexander Helphand (Parvus)〔革命の商人/アレクサンダー・ヘルプハンド(パルヴス)の人生〕(ロンドン, 1965), p.207-8。
  (21) P. Scheidemann, Memoiren eines Sozialdemokraten 〔ある社会民主主義者の回想〕(ドレスデン, 1930), p.427-8。
  (22) Hahlweg, レーニンの帰還, p.47。 
  (23) 同上, 49-50。4月3日/3月21日付電信。これはおそらく、その日の<プラウダ>に掲載されたレーニンの第一の『国外からの手紙』を指している。
  (27) Z. A. B. Zemann 編, Germany and the Revolution in Russia〔ドイツとロシア革命〕, 1915-1918 (ロンドン, 1958), p.24。
  (28) Richard M. Watt, Dare Call It Treason 〔敢えて裏切りと呼ぶ〕(ニューヨーク, 1963), p.138。
  (29) Fritz Platten, Die Reise Lenins durch Deutschland 〔レーニンのドイツ縦貫旅〕(ベルリン, 1924), p.56。
  (31) Hahlweg, レーニンの帰還, p.99-100。 
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 ②へとつづく。

1543/スイスにいたレーニン②-R・パイプス著第10章。

 前回のつづき。
 第1節・1917年初期のボルシェヴィキ党②。
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 1917年3月のボルシェヴィキ党は、このような〔レーニンの〕野心的計画を遂行できる状況ではほとんどなかった。
 大戦中に警察に逮捕されて、それは2月26日が最もひどかったのだが、党の最も重要な組織体であるペテログラード委員会の委員が勾留され、党の機構は無力になった。
 指導部の者たちはみな、投獄されるか、追放されていた。
 1916年12月初期のレーニンあて報告で、シュリャプニコフ(Shliapnikov)は、いくつかの工場や要塞守備兵団での前の数ヶ月間の党の活動について、『戦争をやめろ』、『政府を倒せ』とのスローガンだったと叙述した。だが同時に彼は、ボルシェヴィキが警察の情報員にスパイされていて非合法の活動をするのがほとんど不可能になった、と認めた。
 二月革命を呼びかけたとか組織したとすらしたとかのボルシェヴィキによるそのすぐあとの主張は、したがって、全く事実ではない。
 ボルシェヴィキは、自発的な示威行動者たち、そしてまた、メンシェヴィキやそれが支配するソヴェトの後にくっついて、その人たちの上着の裾を握って歩いたようなものだった。
 反乱兵団の中には支持者はほとんどいなかったし、この時期の工場労働者の中でボルシェヴィキを支持する者は、メンシェヴィキやエスエルに対してよりもはるかに少なかった。
 二月の日々の間、ボルシェヴィキがしたことと言えば、訴えや宣言文書類を発行することに限られていた。
 せいぜいのところ、2月25-28日のデモ行進で労働者や兵士たちが運んだ革命の旗を準備するのに手を染めたかもしれない。//
 しかしボルシェヴィキは、数の少なさを組織化の技術で埋め合わせた。
 3月2日、監獄から釈放されたばかりの党ペテログラード委員会は、三人総局(Bureau)を立ち上げた。それは、シュリャプニコフ、V・A・モロトフおよびP・A・ザルツキー(Zalutskii)の三人で構成された。
 この総局は3日後に、モロトフが編集長になって、再生した党の機関誌、<プラウダ>の第一号を発行した。
 3月10日には、N・I・ポドヴォイスキーとV・I・ネフスキー(Nevskii)のもとに軍事委員会(のち軍事機構と改称)を設立して、ペテログラード守備兵団への情報宣伝と煽動を実施することになった。
 ボルシェヴィキは活動の本拠として、若いニコライ二世の愛人だとの風聞のあったバレリーナのM・F・クシェシンスカヤ(Kshesinskaia)の贅沢なアール・ヌーヴォー様式の邸宅を選んだ。
 この邸宅をボルシェヴィキは、所有者の抗議を無視して、友好的兵団の助けで『収用した』。
 1917年7月までここに、ペテログラード委員会と軍事機構はもちろんだが、ボルシェヴィキ党の中央委員会も所在した。//
 1917年3月はずっと、ロシアのボルシェヴィキはその指導者から切り離され、メンシェヴィキやエスエルとほとんど異ならない政治路線を追求した。
 中央委員会のある決定は、口では臨時政府は『大ブルジョア』や『地主』の代理人だと述べていたが、それに対抗するとは主張しなかった。
 最も力があるボルシェヴィキの組織であるペテログラード委員会は、3月3日に、メンシェヴィキ・エスエルの立場を採用して、< postol'ku-poskol'ku >、つまり『民衆』の利益を向上させる『範囲で』政府を支持することを訴えた。
 理論的にも実務的にも、ペテログラードのボルシェヴィキ指導部は、レーニンのそれとは完全に対立する基本方針を採った。
 ペテログラード指導部はしたがって、レーニンから一週間後に届いた3月6日の電報の内容が気に入ったはずはなかった。
 ペテログラード委員会の会議に関する公刊されている議事録は、電報を受け取った後の議論を記載していない。//
 この親メンシェヴィキの方向は、追放されていた三人の中央委員会メンバーがペテログラードに着いて、強化された。三人とはL・B・カーメネフ、スターリンおよびM・K・ムラノフで、年長者優先原理により、この三人が、党の指揮権と<プラウダ>の編集権を握った。 
 これら三人はいずれも、彼らの論考や演説で、レーニンがツィンマーヴァルト(Zimmerwald)やキーンタール(Kiental 〔いずれもスイスの小村、社会主義インターの会合地〕)でとった見地を拒否した。
 彼らは、国家間の戦争を内乱に転化するのではなく、社会主義者が講和交渉の即時開始を強く主張することを望んだ。(11)
 ペテログラード委員会は、3月15-16日に会議を開いた。
 そのときの議事録も決定集も公刊されていないことは、新政府や戦争への態度という重大な論争点について、多くの出席者が反レーニンの立場を選択したことを強く示唆する。
 しかし、知られていることだが、3月18日のペテログラード委員会の閉鎖会議で、カーメネフは、臨時政府は間違いなく『反革命的』で打倒されるべき運命にあるが、その打倒のときはまだ将来だ、『重要なことは権力を掌握することではなく、それを維持し続けることだ』と主張した。
 カーメネフは、同旨のことを3月末の全ロシア・ソヴェト協議会でも語った。
 この当時のボルシェヴィキは、メンシェヴィキとの再統合を真剣に考えていた。
 3月21日にペテログラード委員会は、ツィンマーヴァルトやキーンタールの基本線を受け入れるメンシェヴィキと合同するのは『可能でかつ望ましい』と宣言した。(*)//
 こうした態度を考えると、アレクサンダー・コロンタイ(A. Kollontai)がレーニンの第一と第二の『国外からの手紙』を携えて彼らの前に現れたときに、ペテログラードのボルシェヴィキが衝撃や疑惑の反応を示したことは、理解できない。
 レーニンはこの手紙で、3月6日/19日の電報について詳述していた。つまり、臨時政府の不支持と労働者の武装。
 この基本方針は、ロシアの状況の雰囲気を全く知らない誰かが考え上げた、完全に現実離れしているものだと、彼らは感じた。
 数日間の躊躇の後で、彼らは第一の『国外からの手紙』を<プラウダ>に載せたが、レーニンが臨時政府を攻撃している部分の文章は除外した。
 彼らは、第二の手紙、およびその後のものを掲載するのを拒んだ。//
 3月28日と4月4日の間にペテログラードで開かれた全ロシア・ソヴェト大会で、スターリンが動議を提案して、代議員たちが採択した。それは、臨時政府への『統制』、および『反革命』と闘い革命運動を『拡大する』目的をもつその他の『進歩勢力』との協力を呼びかけるものだった。(+)
 ボルシェヴィキのこのようなもともとの『反ボルシェヴィキ』的態度とレーニンが到着した後の速やかな変化は、彼らの振る舞いが、信奉して適用する原理にもとづいているのではなく、指導者の意思にもとづいている、ということを示す。
 すなわち、ボルシェヴィキは、信じることにではなく信じる人物に、完全に拘束されていた。//
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  (11) カーメネフ, プラウダ, No.9 (1917年3月15日), p.1、スターリン, プラウダ, No.10 (1917年3月16日), p.2。
  (*) シュリャプニコフは、つぎのように書く。ペテログラードのボルシェヴィキは、カーメネフ、スターリンおよびムラトフが強く主張して迫った政策方針を知って狼狽した、しかし、ペテログラードに現れた年長の三人のボルシェヴィキの前で自分たちが従った政策の見地に立ったので、狼狽した別のありそうな原因は、端役を演じなければならなかったことへの憤慨にあったように見える、と。 
  (+) この大会の記録はロシアでは公刊されてこなかったが、レオン・トロツキー, Stalinskaia shkola falsifikatsii (ベルリン, 1932) で見い出せる。上の決定は、p.289-p.290 に出てくる。
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 第2節につづく。

1541/緒言・スイスのレーニン①-R・パイプス著第10章。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990、Vintage)〔リチャード・パイプス・ロシア革命〕の第二部の最初の第9章『レーニンとボルシェヴィズムの起源』の試訳は、すでに済ませた(2月下旬以降)。
 この本には1997年に新版が出ていて、①Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919、というタイトルになっている(Harvill Press 刊、計950頁余)
 中身は頁数を含めて変わっていない。但しいわば大判から中判への変更で、活字・文字はやや小さくなり、少し読み辛い(もっと小さな活字・文字の小型判の本はある)。
 タイトルに「1899-1919」が付いて分かりやすくなっている。
 そして、この欄で1994年刊の「別著」とも称したものは、次のタイトルになった。
 ②Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Refime 1919-1924.(計約600頁)
 こう並べてみると、簡潔版(単純な抜粋又は要約でないが)の、③Richard Pipes, A Concice History of the Russian Revolution (1995、Vintage, 1996、計430頁余)=西山克典訳・ロシア革命史(成文社、2000)が、①のではなく、時期・内容ともに①と②を併せたものの簡潔版(Concice 版)であることがよく分かる。
 ちなみに、リチャード・パイプスの、注記・参考文献等も詳しい上の①、②ともに(③はあるが)、邦訳書がまだ存在しないことに留意されてよい。試訳している部分でも明らかだが、リチャード・パイプスの記述内容は、日本の<ある勢力>にとって<きわめて危険>だ。アメリカの安全保障会議の「ソ連・東欧問題」補佐官だったが、この人が1989-91年のソ連・東欧の激動期に日本のメディアからインタビューされたり、原稿執筆を依頼された痕跡が全くないのはどうしてだろうか ?
 Leszek Kolakowski(L・コワコフスキ)のMain Currents of Marxism (マルクス主義の主要な潮流)は邦訳書がないかぎりは、レーニン関係部分だけでもこの欄で邦訳してみたい。
 ただ-すでにネップに関連してこの著を参照してレーニン全集(大月書店)の一部を引用しているのだが-、L・コワコフスキはたんなる抽象的・理論的「哲学者」ではなく、モスクワでの留学経験、スターリン体制下でのポーランドでの実経験を踏まえて(マルクス等々だけでなく)レーニンやスターリンの諸文献を熟読しており、(かつこれが重要だが)ロシア・ソ連の歴史の基本的なところはきちんとした知識をもったうえで、叙述している。したがって、L・コワコフスキ著の一部の邦訳を試みるにしても、やはりロシア革命等々の歴史の基本的な理解が必要だ。
 二月革命、十月「革命」あるいは<一党支配の確立>について、すでにリチャード・パイプス著の概読はしている。
 しかし、邦訳を試みたかどうかはやはり<記憶>への定着度がかなり異なるので、あらためて、上の①の第二部・第10章からの試訳を、これから掲載してみよう。
 この著の第二部・第10章の節の区分・タイトルはつぎのとおり(但し、原著の詳細目次の中にタイトル名は出てきて、本文にはない。また、「節」の文字や「数字」もない。「緒言」は詳細目次にすらない)。
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 第二部/第10章・ボルシェヴィキの権力奪取への努力(Bid)。
 (緒言)
 第1節・1917年初期のボルシェヴィキ党。
 第2節・ドイツの助力によるレーニンの帰還。
 第3節・レーニンの革命戦術。
 第4節・1917年4月のボルシェヴィキ集団示威行動。
 第5節・臨時政府への社会主義党派の加入。
 第6節・権力闘争へのボルシェヴィキ資産とドイツの援助。
 第7節・6月のボルシェヴィキ街頭行動の中止。
 第8節・ケレンスキーの夏期攻撃。
 第9節・ボルシェヴィキの新たな攻撃の準備。
 第10節・蜂起の準備。
 第11節・7月3-5日の出来事。
 第12節・鎮圧された蜂起-レーニンの逃亡・ケレンスキーの独裁。
 注記は、本文の下部にある(*)や(+) はできるだけ訳し、後注(note)は原則として訳さない。
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 緒言
 1917年のロシアの革命について二つを語る-第一に二月で第二は十月-のが一般的だが、革命の名に値するのは、第一のものだけだ。
 1917年二月に、ロシアはつぎの意味で、本当の革命を経験した。まず、ツァーリスト(帝制)体制を打倒した社会不安は、刺激もされず予期もされずに自然発生的に起こり、つぎに、続いた臨時政府は、すみやかに国民全体に受容された。
 1917年十月は、いずれの点でも本当ではない。
 まず、臨時政府の打倒につながった事象は自然発生的に起こったのではなく、緊密に組織された陰謀集団によって計画され、実施された。
 つぎに、この陰謀家たちが民衆の過半を服従させるためには、三年間の国内戦争(内戦)と無差別のテロルが必要だった。
 十月は、古典的なクー・デタ(coup d'etat)だった。政府の統治権力は、民衆参加の外見でも帯びるという当時の民主主義的な慣行を無視して、民衆の関与なくして、少数集団によって奪取され、行使された。
 政治にではなくて戦争にむしろ適切な手段が、その革命的な行動には用いられた。//
 ボルシェヴィキのクー(権力転覆)は、二つの段階を経た。
 第一は4月から7月までの時期で、レーニンは、武装した実力が支える街頭示威行動によって、ペテログラードの権力を奪おうとした。
 二月の騒擾の態様にしたがって、この示威行動を段階的に拡大するのが、レーニンの意図だった。そうして、最初はソヴェトに、その後即時に彼の党へと権力を移行させる、大規模な暴乱へと持ち込もうとした。
 この戦略は、失敗に終わった。三回めの7月の行動は、ボルシェヴィキ党の破滅をほとんど生じさせた。
 ボルシェヴィキは8月までには、権力への衝動力を十分に回復した。しかしこのとき、彼らは別の戦略を用いた。
 レーニンは、フィンランドにいて警察の目から逃れていた。その間の責任者だったトロツキーは、街頭の集団示威行動を避けた。
 トロツキーはその代わりに、偽りのかつ非合法のソヴェト大会という前景の背後で、政権中枢を奪取する特殊な突撃兵団に依拠した、ボルシェヴィキのクーを準備していた。
 権力掌握は、名目上は、一時的にのみかつソヴェトのために実行された。しかし、実際は、永続的に、かつボルシェヴィキ党の利益のために、だった。//
 <〔原文一行あけ〕>
 第1節・1917年初期のボルシェヴィキ党。
 レーニンは、ツューリヒにいて二月革命の勃発を知った。
 戦争の開始以来ずっと故国から切り離されて、レーニンは、スイスの社会主義的政界人たちに身を投じていた。そして、彼らに非寛容と論争好きというよそ者の精神を注入していた。
 レーニンの1916年から1917年の間の冬の日誌によると、熱狂的だが焦点が定まらない活動様式が分かる。小冊子を配ったり、対抗的なスイスの社会民主党に対して策略を試みたり、マルクスとエンゲルスを勉強したりしていた。//
 ロシアからのニュースは、数日遅れてスイスに届いた。
 レーニンはまず、ペテログラードの社会不安について、ほとんど一週間遅れて、3月2日/15日〔ロシア暦/新暦、以下同じ〕の<新ツューリヒ新聞(Neue Zuercher Zeitung)>の報道で知った。
 ベルリン発のその報道は、戦争の舞台からの二つの速報の間に挿入されていて、ロシアの首都で革命が勃発した、ドゥーマ〔もと帝制議会・下院〕は帝制下の大臣を逮捕して権力を握った、と伝えていた。//
 レーニンはすぐに、ロシアに帰らなければならないと決めた。
 1915年にスカンジナヴィアに移動することはまだ可能だったのにその『危険を冒す』ことをしなかったのを、今や激しく悔いた。(*)
 だが、どうやって帰るか ? 明確なただ一つは、スウェーデンを経てロシアに入ることだった。
 スウェーデンに行くには、フランス、イギリスまたはオランダという連合国の領域を通過するか、ドイツを縦断するかのどちらかだつた。
 レーニンはイネッサ・アーマンド(Inessa Armand)にほとんど任せて、英国の査証(visa)を得る機会を探してくれるよう頼んだ。だが彼は、英国は自分の敗北主義の綱領を知っているのでほとんど確実に発行を拒否するだろうと、これを得る見込みはまずないと考えた。
 レーニンはつぎに、偽の旅券(passport)でストックホルムへ旅行するという現実離れした計画を抱いた。
 スイスの彼の工作員、フュルステンベルク・ガネツキー(Fuerstenberg Ganetskii)に、使える旅券をもつ、かつレーニンと肉体的に似ているだけではなくて彼はスウェデン語を知らなかったので聾唖者でもある、スウェーデン人を見つけるよう頼んだ。
 こんな計画のどれも、首尾よくいく現実的な見込みは全くなかった。
 レーニンは結果として、パリにいるマルトフ(Martov)がある社会主義者の難民団体に3月6日/19日に提案した計画を利用した。それによると、ドイツ人とオーストリア人の捕虜と交換に、その領土を通ってスウェーデンへと縦断することをロシア人がドイツ政府にスイスの媒介者を通じて依頼する、ということだった。(5)//
 レーニンは、トロツキーの言葉によれば檻の中の野獣のごとく怒り狂っていたが、ロシアの政治状況の見通しを失ってはいなかった。
 ロシアの支持者たちが自分が舞台に登場するまで適切な政治路線を採用することに、彼の関心はあった。
 とくに懸念したのは、支持者たちがメンシェヴィキの『日和見主義』戦術やエスエル〔社会主義革命党〕の『ブルジョア』議会政府への支持を真似ようとしないかどうかだった。
 レーニンは、3月6日/19日にストックホルム経由でペテログラードにあてて送信した電報で、彼の基本方針をつぎのように概述した。//
 『我々の戦術-新政府の完全な不信任と不支持。
 とくに、ケレンスキーを疑う。
 プロレタリアートの武装だけが唯一の保障だ。
 ペテログラード(市の)ドゥーマ選挙の即時実施。
 <他諸政党との友好関係を持たない。>』//
 レーニンが支持者たちにこの指令を電報で伝えたとき、一週間しか仕事をしていない臨時政府には、政治的な基本的考え方を明らかにする機会はほとんどなかった。
 舞台から遠く離れたところにいて西側報道機関による二次的または三次的な情報に依存していたので、レーニンが新政府の意図や行動について知っているはずは決してなかった。
 『完全な不信任』とか支持しないという彼の主張は、したがって、新政府の政策によるものではありえなかった。
 そうではなく、新政府の権力を奪おうとするア・プリオリな(a priori、先験的な)決定を反映していた。
 ボルシェヴィキは他諸政党と協力しないとのレーニンの主張は、権力の空白をボルシェヴィキ党だけが排他的に奪い占めるという、充ち満ちた決心をしていることを意味した。
 上掲の簡潔な文書は、二月革命を知ってほんの僅か4日後に、レーニンがボルシェヴィキによるクー・デタを考えていたことを意味するだろう。
 また、『プロレタリアートの武装』の指示は、軍事暴動としてのクー(政権転覆)を想定していたことを示唆する。
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  (*) これはおそらく、1915年のレーニンとの会合の際になされたパルヴス(Parvus)の提案に関係している。
  (5) W. Hahlweg, Lenins Rueckkehr nach Russland 1917 (1957)〔レーニンのロシアへの帰還〕, p.15-16。
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 第1節②へとつづく。

1540/「左翼」の君へ⑧完-レシェク・コワコフスキの手紙。

 Leszek Kolakowski, My Correct View on Everything (1974), in : Is God Happy ? -Selected Essays (2012).
 前回のつづき。⑧。
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 しばらくの間に、伝統的な社会主義の諸装置のいくぶんかが、予期しなかったやり方で資本主義社会にそっと這入り込んでいるように思える。
 最も近視眼的な政治家たちですら、全てを金で買うことができるわけではないと、大金を積んでも清浄な空気、水、広い土地その他の自然資源を買えないときがくるかもしれないと、分かっている。
 そしてそうだ、『使用価値』が徐々に経済の中に戻ってくる。
 人類が生ゴミの処理の仕方を知らないことから生じる、『社会主義』の逆説的な結論だ。
 この帰結は官僚制の増大であり、権力の中心にいる者たちの役割の増大だ。
 共産主義が考案した唯一の治療薬-国民資産に対する中央集中型の、抑制されない国家所有と一党支配-では、治癒されるべき病気はさらに悪くなる。経済的には効き目がないし、社会関係の官僚的性格を絶対的な原理にしてしまう。
 高い程度の自治権を小さな諸共同体のためにもつ、非中央集中的な社会という君の理想を、高く評価する。そして、こうした伝統への君の執着について、共感する。
 しかし、私的所有からではなくて技術の発展から生じる、中央集中的官僚制につながる力強い権力の存在を拒否するのは愚かだ。 
 この状況を見通す一つの方法でも知っているつもりなら、『平和的な革命を起こす、そうすればこの趨勢は逆転する』と言って解決策を見つけたと想うなら、君は自らを欺いているし、言葉の魔術の犠牲者になっている。
 複雑な技術的組織網に社会が依存すればするほど、それだけ多く諸問題は中央権力によって規制されければならない。国家官僚制が力強くなればなるほど、政治的な民主主義や『形式的』、『ブルジョア的』自由が支配機構を抑制する必要、個人の弱まりうる権利をそのままにして個人に保障する必要が、ますます大きくなる。
 全てを包含する、政治的な(『ブルジョア的』な)民主主義がなくして、いかなる経済民主主義も産業民主主義も、かつてなかったし、また存在することはできない。
 現代社会が課す相反する責務をどのようにして調和させるべきかを、我々は知らない。
 我々には矛盾のない安定した社会の青写真はないのだから、ただ、これら責務の間の不確定な平衡状態に到達するように努めることができるだけだ。
 どこか別の箇所で書いたことを、繰り返そう。
  『心配しないで、平穏にかつ安全に、その人生の余後を過ごせるだけの資金を一瞬で得る方法について考えている人々の心構えが、私的な生活にはある。
 そして、明日までどうやって生きようかと懸念しなければならない人々の心持ちもある。
 人間社会というのは、全体としては、かつて得た金銭のおかげで生涯にわたる保険金があったり株式配当金があったりする、年金受給者のような幸せな地位には決しておれないだろう、と私は思う。
 人間社会の地位は、翌日までの生活の仕方に困惑している日雇い職人のそれに似ているだろう。
 夢想家(ユートピアン)というのは、人類を年金生活者の地位に置こうと夢見る人々、そうした地位は素晴らしいもので、代償(とくに道徳的な代償)がそれを獲得するには大き過ぎはしないと確信している人々だ。』//
 こう書くのは、社会主義とは死滅した選択肢だと意味させてはいない。
 そうは考えていない。
 だが、この選択は、社会主義国家の経験によってのみならず、信奉者たちの自信を理由として、彼ら信奉者が行なう社会を変えようとする努力にも限界があること、および要求と信条となった価値とを両立させられないこと、の両方に直面して彼らが何もできないことを理由として、破滅した。
 簡単に言うと、社会主義を選択する意味は、完全に、そのまさしく根源から修正されなければならない。//
 『社会主義』と言うとき、私は完璧な国家を意味させず、平等、自由および効率性への要求を達成しようとする運動を想定している。どの価値のいずれにも別々に隠れている諸問題の複雑性だけではなくて、諸価値は相互に制限し合い、それらは妥協を通じてのみ充たされうるということに気づいているかぎりで、諸困惑に対処する資格があるような運動をだ。
 そう考えないなら(またはそう考えているふりをしなければ)、自分や他人を笑い物にしている。
 全ての諸制度の変更は、全体としてこれら三つの価値に奉仕する手段だと見なさなければならず、それら自体に目的があると考えてはいけない。
 そうした変更は、一つの価値を増大させるときに別の価値を犠牲にする対価を考慮に入れて、相応に判断されなければならない。
 諸価値のいずれかを絶対的なものと見なしたり、全てを犠牲にして諸価値を実現しようとする企ては、残る二つの価値を破滅させることに必然的になるだけではなく、その一つの価値をも結局は破滅させるに違いない。
 注意しなければならない(nota bene)。これは、貴重な過去から発見したことだ。
 絶対的な平等性は、特権を与えるがしかし換言すると平等性を破壊するのを意味する、独裁的な支配制度においてのみ達成されうる。
 完全な自由は、無政府状態を意味する。無政府状態は、肉体的な最強者が支配することに結果としてはなる。つまり、完全な自由は、その反対物に変わる。
 至高の価値としての効率性は、再び独裁制を呼び起す。そうして、技術が一定のレベル以上になると、独裁制は経済的には非効率だ。
 こうした古くて自明のことを繰り返すのは、彼らがまだ夢想家の思考方法に気づかないままで歩んでいるように見えるからだ。
 それはまた、ユートピアを描く以上に簡単なことは何もない、ということの理由だ。
 この点で、我々が合意できると望む。
 そうできるなら、寛容になってお互いを許し合いたい、若干の辛辣な意見を交換し合った後であっても、他の多くの点で合意できる。
 共産主義は原理的に優れた発明品だと、優れた応用について決していくぶんかも損なわれていないと、君がまだ思い続けているなら、この合意には達しそうにないだろう。
 長年にわたって君に説明してきた、と思う。
 何をって、私が何故、共産主義思想を修繕したり、刷新したり、浄化したり、是正したり〔mend, renovate, clean up, correct〕する試みに、いっさい何も期待しなくなったのか、だ。
 哀れむべき、気の毒な思想だ。私は知った、エドワード君よ。
 これは二度と微笑むことがないだろう。
  君に友情を込めて。/レシェク・コワコフスキ。
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 終わり。上掲書、p.115-140。

1539/B・パステルナークとドクトル・ジバゴの「レーニン時代」。

 「だが、第一に、十月〔1917年〕以来に説かれている全般的な完成化(allgemeine Vervollkommnung)の理念は、ぼくを燃え立たせない。/
 第二に、全てが実現からほど遠いのに、その理念を語るだけでも、これほどたくさんの血の海(Stroemen von Blut)が代償として必要だった。目的は手段を正当化するって、ぼくには分からない。/
 第三に、これが肝心なことだが、人間の改造(Umgestaltung des Lebens)という言葉を聞かされると、ぼくは自分をどうも抑制できなくなって、絶望へと陥ってしまう。//
 人間の改造だって! こんなことは、なるほど多くのことを体験しているが、人間とは何かを実際にはまるで知ってはいない者たちだけが、考えることができる。人間の呼吸=精神(Geist)や人間の搏動=魂(Seele)を感じたことのない者たちだけが。/
 そういう者たちにとって、人間の存在というものは、彼らがまだ触って磨き上げていない、もっと加工が必要な、原材料の塊なのだ。/
 しかしね、人間は決して、かつて一度たりとも、材料や素材ではない。/
 きみが知りたいのなら、人間は永遠に自らを作り直している原理体だ。人間は、絶えず自らを更新しており、永遠に自らを形成し、変化させているのだ。それは、きみやぼくの愚かな考えなどを際限なく超越したところにある。//」
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 ボリス・パステルナークの小説・ドクトル・ジバゴで、パステルナークは、パルチザン(親ボルシェヴィキ=親レーニン政権)の捕虜となって医師として働いている主人公(ユリイ・ジバゴ)に、上のように語らせている。あるパルチザンのリーダーに対して、「人民軍兵士のあの態度」は、「…とほとんど全く同じ」で「ぼくの少年期全体の、あの尊き時代の憧れだった」、と語らせたあとでだ。
 Boris Pasternak, Doktor Shiwago (独語, Thomas Resche 訳, 2011/初版ロシア語1957) p.422.
 江川卓訳・ドクトル・ジバゴ/下巻(新潮文庫, 1989/原版・時事通信社1980)p.113-4も大いに参考にした。第11章(編)の第5節。/は原文には改行はない。//にはある。
 ボリス・パステルナーク(Boris Pasternak)、1890年~1960年。
 ずっと、シベリア・ウラルを含む意味でのロシアで生きて、死んだ。
 小説・ドクトル・ジバゴは第二次大戦後すみやかに書かれ始めたようで(1946年に第1章の「読書会」)、1956年(昭和31年)に完成した。
 1958年(昭和33年)にノーベル文学賞授賞が決定され発表されたが、ソヴィエト政府(フルシチョフ)によって受賞辞退を迫られた。
 この小説は1905年「革命」以前のユリイやラーラの生い立ちから始まっているが、とくに新潮文庫の下巻の時代背景は、大戦勃発、1917年10月政変と、それ以降の「内戦」、飢饉・飢餓だ。つまり、<レーニン時代>の物語だ。
 ただの<小説>にすぎないとはいえ、ソヴィエト政府がこの小説を国内では発表させず、ノーベル文学賞も辞退させて、その後はパステルナークを批判し続けたのは、よほど<ソヴィエト体制>には危険な内容が含まれていたからに他ならないだろう。
 答えは、まさに推測だが、レーニンとロシア10月「革命」を美化してこそ、スターリンを含むその後のソ連指導部の正当性をも肯定する(国民には肯定させる)ことのできる後継政権にとって、パステルナーク(Boris Pasternak)のとくにレーニン時代の「内戦」・飢餓の状況を描き方が(あまりにも真実に近すぎて)きわめて<危険>だったことにあるだろう。
 パステルナーク、1890~1960。レーニン、1870~1924。スターリン、1978-1953。
 ついでに、カール・コルシュ(Karl Korsch)、1886~1961。
 ロシアのとくに知識人、詩人・作家、あるいは経済力があったり国外に近縁者がいる人々だと、①意思による亡命もありえた。②意思によらざる国外追放もありえた。しかし、いずれでもなく、パステルナークは、レーニン・スターリン時代を生き延びた。
 対ドイツ「大祖国戦争」が勝利した際には、喜んだともされる。
 奇妙に ?「政治」の世界に入ってしまうと、粛清(暗殺すら)される危険がある。
 「共産主義」思想とその体制に完全に馴染んでいたわけではないが、パステルナークは、ロシアの大地とロシアの言葉を愛するナショナリストでもあったのだろう。
 この人が、戦後も含めてどのような思いでソヴェト体制下の日々を過ごしていたのだろうと、複雑な感慨が生じる。一人の人間としての宿命や悲しさや美しさを感じる。
 もうたぶん50年も経っているのだ! 映画・ドクトル・ジバゴを観てから。
 この小説は、小説だが、<レーニン時代>がどんなだったかを、詩人・作家が思い出して書いている、<レーニン時代>に関する貴重な史料でもあると思われる。
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 「さようなら。もう終わらなければいけない。
 ああ、ユーラ、ユーラ、私の愛する人、大切な夫、私の子どもの父親、どうしてこんなことになったの ?
 私たち、もう二度と、もう二度と、決して会うことがないのよ。
 あなた、こう書いたことの意味が分かる ? 理解できる ? 理解できる ?」
 ユリイの妻・トーニャの手紙から。 
 Boris Pasternak, Doktor Shiwago, p.521. 江川卓訳・上掲書p.252。
 パステルナークについて、以下を参照した。
 前木祥子・パステルナーク/人と思想(清水書院、1998)。

1536/「左翼」の君へ⑥ -L・コワコフスキの手紙(1974年)。

 L・コワコフスキ=野村美紀子訳・悪魔との対話(筑摩書房、1986)の「訳者あとがき」に、以下はよる。
 ポーランド語原著は1965年刊行で、上の邦訳書は、1968年のドイツ語版の邦訳書。
 Leszek Kolakowski, Gespraech mit dem Teufel (1968).
 また、この欄で言及したL・コワコフスキ『責任と歴史』(勁草書房、1967)の原著は分からなかったが、同じく野村によると、内容は以下と一致するらしい。
 Leszek Kolakowski, Der Mensch ohne Alternative (1960).
 さらに野村美紀子によると(p.199)、1986年頃時点で、つぎの二つのL・コワコフスキの文章が日本語になっている。
 ①「『現代の共同社会』を築きあげるために」朝日ジャーナル1984年1月13日号。
 ②「全体主義の嘘の効用」『世紀末の診断』(みすず書房、1985)に所収。
 この②は、現在試訳しているものを含む、Leszek Kolakowski, Is God Happy ? -Selected Essays (2012)にも、(英語版で)収載されている。Totalitarianism and the Virtue of the Lie (1983).
 試訳・前回のつづき。My Correct View on Everything (1974).
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 君の、君(と私)を『マルクス主義の伝統』(制度に対立する、方法や遺産)の忠誠者の一人に範囲づけようという提案は、捉えどころがなくて曖昧のように思える。
 ただ『マルクス主義者』と呼ばれることが重要だと思っていないとすると-君は思っていないと言うだろう-、君がこれにこだわる意味が私にはよく分からない。
 私は『マルクス主義者』であることに少しも関心はないし、そのように呼ばれることにも少しも関心がない。
 確かに、人文科学で仕事をしている者の中には彼らのマルクスに対する負い目(debt)を認めようとしない者はほんの僅かしかいない。
 私は、その一人ではない。
 私は、マルクスがいなければ歴史に関する我々の思考は違っていただろうし、多くの点で今よりも悪くなっていただろうと、簡単に認める。
 こう言うのは、どうだってよいことだ。
 私はさらに、マルクス理論の多くの重要な教義は偽りである(false)か無意味(meaningless)だと考える。そうでなければ、極めて限定された意味でのみ本当(true)だ。
 労働価値説は、何らかの説明する力を全くもたない規範的な道具だ、と考える。
 マルクスの著作にある史的唯物論の有名な一般的定式のいずれも受け入れられず、この理論は、強く限定された意味でのみ有効だ、と考える。
 マルクスの階級意識の理論は偽りで、その予言の多くは誤り(erroneous)(これは私が感じる一般的叙述であることはその通りだが、この結論についてここできちんと議論しているのではない)だったことが証された。
 にもかかわらず私が(哲学的でなく)歴史的問題について、マルクス主義の伝説を部分的に承継している概念を使って思考していることを承認すれば、マルクス主義者の伝統への忠誠者であることを受け入れることになるのか ?
 『マルクス主義者』の代わりに『キリスト教信者』、『懐疑主義者』、『経験主義者』を使っても同じことが言えるだろうという、ただきわめて緩やかな意味でだ。
 いかなる政党やセクトにも、いかなる教会派やいかなる哲学学派にも属さないで、マルクス主義、キリスト教、懐疑主義哲学、経験主義思想に対する負い目があることを私は、否定しはしない。
 また、その他のいくつかの伝統にも負い目がある(もっと明瞭に言えば東ヨーロッパだ。君には関係がない)。
 折衷主義の反対物が(折衷主義とのレッテルを貼って我々を脅かす人の心のうちには通常あるような)哲学的または政治的偏狭さだとすると、『折衷主義』の恐怖も共有できない。
 こうした乏しい意味で、その他たくさんの中でマルクス主義者の伝統に属することを認める。
 しかし君は、もっと多くのことを意味させていそうだ。
 君は、マルクスの精神的後継者だと定義する『マルクス主義者一族(family)』の存在を示唆しているように見える。
 君は、あちこちでマルクス主義者だと自称している全ての者たちが、世界の残りとは区別されるような一族(この半世紀の間お互いに殺し合ってきているし今もそうであることは気にするな)を形成していると思っているのか ?
 また、この一族は君には(そして私にもそうあるべきらしいが)自己同一性の確認の場所だと思っているのか ?
 君が言いたいのがこういうことならば、その一族に加入するのを拒否すると言うことすらできない。そんなものは、この世界に存在しない。
 世界とは、偉大なヨハネ黙示録の天啓が二つの帝国の間の戦争を引き起こされる可能性がきっとあるような、もう一つの帝国とはともに完璧な具現物だと主張しているマルクス主義であるような、そんな世界だ。//
 <(原文、一行空白)>
 君の手紙には、私が持ち出すべきいくつかの問題がまだある。持ち出したいのは、その重要性ではなくて、君の議論の仕方が不愉快にもデマゴギー的だからだ。
 そのうち二つを取り上げよう。
 君は私の論文を引用して、私の考えは陳腐だと書いている。
 被搾取階級は精神的文化の発展に参加するのを許されなかった、とする部分だ。
 君は排除された労働者階級の報道官のごとく現れて、義憤に満ちたふうに私に、労働者階級は連帯感、忠誠心などを形成したと説く。
 言い換えると、私は、被搾取者が教育を受ける機会が与えられなかったことを称揚するのではなく嘆き悲しむべきだ、と言った、とする。そして君は、労働者階級には道徳心がないとの私の主張らしきものに嫌悪感を示す。
 これは誤読ではなく、私が議論するのを不可能にする、一種の、愚かな、こじつけた読み方(Hineinlesen)だ。
 そうして、新しい社会主義の論理または(もう一度言うが、私は自明のこと(trueism)だと思う)科学の観念は蒙昧主義者(obscurantist)だと烙印を捺したとき、君は、重要なのは論理を変えることではなく、マルクスは所有関係を変革したかったのだと説明する。
 マルクスは本当にそうしたかったのか ?
 よし、君は私の目を開いてくれた、という以外に、私は何を言えるか ?
 <新しい論理>や<新しい科学>の問題は<ブルジョアの論理>や<ブルジョアの科学>に対抗する論争点だったのではないと思っているとすれば、君は完全に間違っている(wrong)。
 そういう考え方は行き過ぎなのではなく、マルクス主義者-レーニン主義者-スターリン主義者〔マルキスト-レーニニスト-スターリニスト〕の間での標準的な思考と議論のやり方だ。
 そういう仕方は、多数のレーニンたち、トロツキーたちそしてロベスピエールたちによって、無傷に相続された。君はそれをアメリカやドイツの大学構内で見たはずだ。//
 第二点は、君が引用している、インタビューを受けた際に私が発した一文に対する君の論評だ。
 『宗教的表象(symbols)を通じる以上の十分な自己同一性の確認(self-identification)の方法はない』、『宗教意識は…人間の文化の不可欠の一部だ』と、私は言った。
 これに君は、激怒した。『何の権利があって(と君は言う)、どんな研究をその伝統と感性に関して行って、宗教的表象の魔術に頑迷に抵抗してきた…古いプロテスタントの島の中心部で、こんなことが普遍的だと決めかかってよいのか』。
 たくさん理由をつけて、釈明する。
 第一。私は古いプロテスタントの島の中心部で、ドイツの土地の上でではなく、ドイツの記者からのインタビューを受けた。
 第二。周知のことと過って思っていたためだが、君が明らかに考えたのとは逆に、『宗教的表象』は必ずしも絵画、塑像、ロザリオ等々であるとは限らない、と説明しなかった。
 人々が信じるものは何でも、超自然的なものと理解し合う方法を与えるし、またはそのエネルギーを運んでくるのだ。
 (イェズス・キリスト自身が表象で、十字架だけがそうなのではない。)
 私はこのような言葉遣いを発明したのではないが、インタビューの際に説明しなかったので、君の偶像破壊主義的なイギリスの伝統を不快にさせたわけだ。
 こうした言葉上の説明は、迷信的な超精霊主義者(Uitramontanist、超モンタノス主義者)によって傷ついた君のプロテスタント的良心をいくぶんかは宥めるか ?
 君はまた、このインタビューで宗教的現象の永続性への私の信条を証明しきれていないと非難する-それは全てに響く。
 私がこの主題でかつて書いた、私の考え方を支える本や論文の全てをこのインタビューの際に引用しなかったのは、まさに私の考えの至らなさだった。
 君には、これらのどの本でも読む義務はない(そのうち一つは800頁以上の厚さで、しかも17世紀の諸教派運動に関するものだから、退屈すぎて、君に読み通すのを求めるのは非人間的だろう)。
 少なくとも君には、この主題での私の考え方を批判しようと試みないかぎりでは、十分な根拠がない。
 したがって、君が憤激して『何の権利があって…』というのは、君に返礼するにはより適切な言葉であるようだ。//
 不運にも、君が書いたものには、私の責任に帰したい何らかの考えにもとづいて、主題を転移させ、私が言うべきだったと君が思う何かを私が言ったと君が信じようとする例が、満ち溢れている。
 きっと君は、教条的な共産主義者の思考方法につねに特徴的な独特の思考の論理に従って、無意識にそうしている。その思考方法には、真実として作動する推論とそうではない推論との違いが完全に消失している。
 だがね、AはBを包含するというのが真実(true)でも、誰かがAを信じているからといって、その人はBを信じているという結論にはならないだろう。
 むしろ正真正銘の本能からするようにこのことを意識的に否認するのは、共産主義者の出版物にはいつも許されている。そして、その読者につぎのように大雑把に作られる情報を与えるのだ。
 『米国の大統領は、平和を愛する全人類の抗議に逆らって、ベトナムで大量殺戮の戦争を継続する、と言った』。
 あるいは、『中国の指導者は、彼ら盲目的強行外交論者、反レーニン主義者の政策は、帝国主義を助けするるために社会主義者の陣地を破壊することを企図している、と明言する』。
 こうした不思議の国の論理には、首尾一貫性がある。そして、君の推論の中にそうした論理がこだまとなって鳴り響いているのが、少しは嫌だね。
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 段落の途中だが、ここで区切る。⑦につづく。

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