秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

共産主義・社会主義

2001/L・コワコフスキら編著(1974)⑥-討論③。

 L・コワコフスキ=S. Hampshire 編・社会主義思想-再評価(New York、1974)。
 Leszek Kolakowski & Stuart Hampshire, ed, The Socialist Idea - A Reappraisal.(New York, 1974).
 L・コワコフスキの「序文」が彼自身の文章として記述する、報告(および副報告またはコメント)の後の「討論」の内容。つづき。p.14-p.17.
 以下の(12)のほとんどは会合・シンポジウムの最後にL・コワコフスキが述べた「結語」の引用だとされているので、その中の段落分けについて(-01)等の小番号を付した。
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 討論③。 
 (12)レディング会合についての私の個人的な見方を示すために、勝手ながら討論のあとで私が行った結語的論評を引用したい。//
 (-01)我々の討議の狙いは、現存する政治体制、運動または政党、社会主義者または共産主義者を批判することではなかった。
 しかしながら、明らかなことだが、実現しようとする現存する試みがまるでこの討議と無関係であるかのごとく、今日に社会主義思想に関して討議することはできない。
 この会合を組織するに際して、我々は4つの範疇の人々、4種類の思考(mentality)を避けたかった。それらは、社会主義思想とそれが実際に具現化されたものとの関係についての議論でしばしば見出すものだ。//
 (-02)第一。社会主義思想にも社会主義社会で形成されている姿のいずれにも間違った(wrong)ものは何もない、と単純に考える人々がいる。
 思想はしっかりして首尾一貫した素晴らしいものであり、完璧にソヴィエト型諸国で具体化された。
 これはオーソドクスな共産主義者の見方の要点だ。//
 (-03)第二。現存する経験に照らして思想は完全に破綻していることが判った、ゆえにそれに関して語るものは何もない、と考える人々がいる。
 共産主義システムは、社会主義思想を永遠に葬ってしまった。
 (-04)第三。多数のトロツキストと批判的共産主義者たちに典型的な接近方法がある。
 それは、つぎのように要約することができる。
 共産主義諸国に、多数の過ちを冒した官僚主義的な歪曲があることを否定することはできない。
 しかし、原理または本質は健全なものだ。
 全く問題がない。-貴方たちが執拗に主張するなら、私〔トロツキストら〕は譲って、このシステムは、数億万人の犠牲のうえに、侵略のうえに、民族抑圧のうえに、際立つ不平等、搾取、文化的荒廃、政治的僭政体制のうえに築かれている、と認めよう。-
 しかし、貴方たちは、国家が工場を所有している!ことを否定することはできない。
 そして、共産主義諸国での国家所有工場は人類にとって無限の価値をもつので、この成果に直面するならば、他の全ての事情は些細で二次的なことだ。//
 (-05)第四。新左翼の間では全く共通の態度がある。それは、つぎのように表現することができる。
 全く問題がない。現存する社会主義諸国はガラクタであることに私〔新左翼〕は同意するが、我々はその諸国の歴史にも現実の条件にも関心がない。我々はもっと巧くやろうとしているからだ。
 どのようにして?
 ごく簡単だ。
 我々はまさに、地球的革命を起こして、疎外、人口過剰および交通渋滞を排除しなければならない。
 青写真の用意はある。我々が行うべき全ては、地球的革命を起こすことだ。//
 (-06)周りを見れば、これら4つの範疇のいずれかに入らない者はほとんどいないことを我々は知る。
 我々は、これらの態度はここにはなかった、ということを少なくとも達成した。
 これが意味するのは、我々は社会主義思想と社会主義諸国の現存する経験のいずれをも真摯に考察したということ、およびこの経験はこの思想の有効性と将来の見込みに関する討議にとってきわめて意味がある、ということだ。
 この事実それ自体が、「社会主義」という言葉がこの世に生まれた後のほとんど150年になっても、我々がなお最初に立ち戻らなければならないことを明らかにしている。
 しかしながら、これは落胆あるいは絶望の理由だ、と私は言おうはしない。
我々が人間の悲惨さをなくしてしまうのができないのは本当であっても、同時に、改善されるだろうと考える者が誰もいないとすれば、世界は現状よりももっと悪くなるだろうということも本当だろう。//
 (13)我々はいま、どこにいるのか?
 社会主義の観点からして社会に関する我々の思考に欠けているのは、我々が実体化されるのを見たいと欲する一般的諸価値ではない。そうではなく、実践に投入されればこれらの諸価値が相互に衝突し合うのを阻止する方法に関する知識であり、理想を達成するのを妨害している諸力に関するより十分な知識だ。
 我々は平等に<賛成>するが、経済の組織化は平等な賃金にもとづくことができないこと、いかなる制度的変化があっても急速には破壊されそうにない永続的メカニズムが文化的後進性にはあること、ある程度の不平等性は生来的要因でもって説明することができ、社会的過程へのその影響力についてはほとんど知られていないこと、等々を認識している。
 我々は経済民主主義に賛成するが、経済民主主義を有能な生産稼働と調和させる方法を知らない。
 我々は、官僚制に反対する多くの論拠をもち、生産手段に対する公的統制、換言すると官僚制の増大、を支持する同じく多くの論拠ももつ。
 我々は現代技術の破壊的影響を嘆くが、それに対する我々の知る唯一の防御策は、より進んだ技術だ。
 我々は小さな共同体の自律の増大を支持し、地球的規模での計画化の増大を支持する。-れら二つのスローガンには何の矛盾もないかのごとくに。
 我々は学校での学習の増大を支持し、生徒たちの自由の増加を支持する。-後者は実際には学習を少なくする。
 我々は技術の進歩と完全な安全とを支持する。-後者は動かないことだ。
 我々は人は自分の幸福追求について自由でなければならないと語りつつ、幸福についての誰にも適用できる絶対確実な規準を知っているふりをしている。
 我々は、誰もが民族的憎悪に反対する世界で民族的憎悪や民族的孤立主義に反対している。しかし、かつて人間の歴史には民族的憎悪に関するもっと多くのことがあった。
 我々は、人々は実体的存在だと考えられなければならないと主張する。しかし、人々は肉体をもつという考えほど衝撃を与えるものはない。これが意味するのは、人々は遺伝的に決定されており、生まれて死ぬ、若いまたは老いた、男または女だ、ということで、また、誰が生産手段を所有するかに関係なくこれら全ての要因が社会過程で一定の役割を果たすことができる、ということであり、さらに、いくつかの重要な社会的諸力は歴史的条件の産物ではなく、階級分化によるものでも決してない、ということだ。//
 (14)我々は数百年前には幸福だった。
 我々は、搾取者と被搾取者、富者と貧者がいることを知った。そして我々には、いかにして不公正を除去するかに関する完璧な思想がある。我々は所有者を搾取し、富を共通の善に変えるだろう。
 我々は所有者を搾取した、そして世界の歴史上で最も怪物的で抑圧的な社会システムの一つを創った。
 そして、我々は、全ては「原理的に」うまくいっていると繰り返して言い続ける。何らかの不運な事件だけが忍び込んできて、善なる思想を僅かに傷つける。
 さあ、再出発しよう。//
 (15)社会主義的用語で思考し続けるのは、愚かだろうか?
 私は、そうは考えない。
 正義、安全確保、教育の機会、あるいは福祉と貧者や無力者に対する国家の責任、これらをより大きくするために西側ヨーロッパでなされてきたことが何であれ、それらは、幼稚で幻想的なものであったとしても、社会主義イデオロギーの圧力と社会主義運動なくしては達成され得なかった。
 このことは、我々がこの幻想を多数の失敗の後でも無限に抱くことがあらかじめ保障されていて、許容されている、ということを意味していない。
 しかしながら、過去の経験は部分的には社会主義思想を支持し、部分的にはそれに反対している、ということを意味している。
 我々はたしかに、対立なき社会の秘訣または完璧さに向かう合鍵を有しているなどと、思い違いすることは許されない。
 予期され得なかった事件が起きなければ原理的には一緒に達成することのできた諸価値の系統的なセットを我々は持っているなどと、考えることもできない。人間の歴史のほとんどは予期し得ない偶発事件によって成り立っているのだから。
 我々は、伝統的な社会主義の諸価値のセット全体を信じつづけることはできないし、多数の些細な真実を憶えていないかぎりは、最小限の精神的な誠実さを保ちつづけることもできない。
 すなわち、これらの諸価値の中には、実行に移すならば相互に対立し合わないものは何もないのだ。
 我々が作動させた社会的変化の結末の全てを、我々が知ることは決してない。
 過去の歴史の堆積と永遠につづく人間という生物の特質の両者は、社会の計画化に制限を課した。
 そしてこの制限を、我々は曖昧にしか知っていない。
 多数の陳腐な真実が示唆して意味することに我々が強く抵抗するのは、何ら驚くべきことではない。
 こうしたことは、たんに人間の生活について自明のことはその不愉快さだという理由だけで、全ての知の領域で生じている。//
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 終わり。

2000/L・コワコフスキら編・社会主義思想(1974)⑤-討論②。

 L・コワコフスキ=S. Hampshire 編・社会主義思想-再評価(New York、1974)。
 Leszek Kolakowski & Stuart Hampshire, ed, The Socialist Idea - A Reappraisal.(New York, 1974).
 L・コワコフスキの「序文」が彼自身の文章として記述する、報告(および副報告またはコメント)の後の「討論」の内容。つづき。p.10-14.
 討論②。
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 (5)社会主義の発展を評価する指標としての余暇(leisure)に関するHarrington の見解は、もう一つの理由で批判された。
 余暇の増大は自由時間を充足する物品への新しい需要の増大という意味を、そしてその結果生じる新しい生産物と新しい消費形態への動きという意味を内包しているので、余暇という観念自体が自己破壊的だ、と指摘された(Taylor)。
 Taylor は、先進産業国家がその経済成長による災厄的結果(相互に刺激し合う需要と生産の無限の螺旋構造)を免れるためにはきわめて緊急的な変化が必要だが、その変化に意味包含されているのは、精神的な方向づけの見直しだ、と主張した。
 技術を再生し人々の量的でない成長を達成するには、制度を改変するだけではなくて、個人的な要求の優先順位を再検討しなければならないだろう。
 (6)討論で明らかになった相違がいかほど重要なものだったとしても、社会主義という意味ある観念はいずれも、労働する社会の自分自身の運命を決定する能力をその意味に包含している、ということには合意があったように見えた。この能力の中にはとくに、生産手段を統制する力が含まれている。
 この論点は、異なる視覚から何度も提起された。
 Brus は、公的所有と社会的所有の区別を強く主張した。後者は、経済的民主主義を含むものだ(そして、これのない経済的民主主義は考え難いので、政治的民主主義も)。
 東ヨーロッパの経験から分かるのは、生産手段の公的所有を達成する体制は、社会的な所有制を採用しなければ、つまり労働する社会が経済の自己管理権を有しなければ、社会主義社会について伝統的には期待されたようには全く進まない、ということだ。
 Marek は、西側社会主義と人民民主主義諸国の両方に新しい展望を拓く新しい現象として、産業社会全体に広がる産業民主主義の必要性を強調した。
 工場の入口で停止する民主主義は、また工場の出口で停止する民主主義も、民主主義という名に値しない。
 Hirszowicz は、産業民主主義の多様な段階を区別した(技術、経営、社会)。但し、社会生活の全ての側面を包括する参加型民主主義の一部としてのみ、産業民主主義を把握することができる、と述べた。//
 (7)政治的民主主義を伴わない経済の自主管理が無意味であることに合意するのは、困難でなかった。
 しかし、討論を刺激したもっと特有の問題は、経済の自主管理の実行可能性およびその実際的内容に関するものだった。
 効率的な経営と産業民主主義の間の矛盾を解消する制度的な手段は開発されてきていない、と論じられた。
 かりに我々がこの両方を望むならば、全ての種類の妥協によってのみこれを考えることができる。
 そして、ユーゴスラヴィアの実験の多くの側面は、勇気を与えるものではないか?
 現実の経営と現実の決定権力は、労働者の形式的な権利がどうであれ、通常は専門家たちの手のうちにある。
 一方で、特定の産業単位の自律性が大きくなるほど、大きな破壊性を伴う資本主義的蓄積という正常な法則が無制限に作動する余地が、それだけ広くなる。
 他方で、高度に集中的な計画化は、ソヴィエト型社会の経験から判断すると非効率的であるとともに反民主主義的で、国の技術が精巧になるほど、中央的計画化の非効率性はそれだけ際立って明瞭になる。
 (Sirc がNuti に反駁して述べたように、)経済全体を作動させるのは不可能だ。
 しかし、西側ヨーロッパと北アメリカの現存する経済体制は漸次的であっても重要な変化が生じるのを受容すると我々は期待することができるか? 富の配分についてますます平等になり、産業管理についてますます民主主義的になり、生産の果実に全ての者がますます参加できる、そのような漸次的変化の受容を。
 資本主義社会での技術の巨大な進歩は余暇の増大を生み出したが、このことはこの目的のために用いることはできない、そして用いることはできなかった、と主張された(G. A. Cohen によって)。生産の増加と余暇の増大の間の選択を迫られて、資本主義はその本来の性格からして不可避的に前者を選ばなければならないからだ、と。
 労働時間についてのその帰結は、この〔資本主義〕システムの範囲内でこれまでは些細なものだった。
 進歩的な税制は理論上は社会的富のより平等な配分を誘導することになるが、現実にはそうではなかった、とも主張された(Nuti によって)。//
 (8)一般的に言って、社会主義諸国の経験は西側ヨーロッパの社会主義運動の展望と社会主義という思想そのものの有効性の両方にとっていかほどに適切(relevant)なものであるのか、に関する合意はなかった。
 この意味(relevance)を誰も否定しなかったが、それに限界があることは様々に明確に述べられていた。
 我々はこの〔社会主義諸国の〕システムの技術的および経済的非効率性は偶発的な歴史的諸事情によると説明すべきなのか、それとも、それはまさにその〔社会主義体制の〕基礎のうちに埋め込まれていたのだ、と説明すべきなのか?
 社会主義諸国の経験は、社会主義思想の実現可能性とそれがもつ全ての諸価値をひっくるめた達成可能性に、いかほどに疑問を抱かせているのか?
 社会主義の伝統のまさに中核にある諸価値のうちのいくつかは、実際に適用してみると相互に矛盾するように思えた。
 すなわち、自由の必要性と平等の必要性はほとんどつねに両立し難いことが分かった。
 完全な産業民主主義という理想は、有能な(competent)経営とは容易にはほとんど結びつき難い。
 我々は、余暇と消費用商品の両方の増大を求める。そして、どうすれば両方のいずれの増大をも獲得できるのかを知るのは困難だ。
 我々は、安全確保と技術進歩の両方を求める。しかし、完全な安全性は停滞(stagnation)を意味包含しているように見え、技術の進歩は不均衡(disequilibrium)を意味する(Sirc)。
 矛盾する諸価値を合理的に調整するシステムを与えることのできる理論は、諸矛盾を根絶させるシステムに関するそれはなおさらのことだが、存在していない。
 我々はますます総合的な計画化を必要とするが、それに関して信頼できる理論がない、社会に関する我々の知識は必ずや限定されており、社会的技術工学(social engineering)を用いても多数の予期していない事態を生み出さざるを得ないからだ(と、Hampshire は主張した)。
 ゆえに、社会の組織化に関する現存する可能性を試してみる方が安全で、より責任ある見解ではないか? 現在の状況よりもはるかに悪い結果をもたらさないという保障が全くない、そういう完璧さへと向かって偉大な跳躍をすると約束するよりは。//
 (9)西側諸国の社会主義者の意識に重要な変化が起こっているが、その原因はソヴィエト型社会主義の失敗にのみあるのではなく、資本主義社会が変容していくつかの社会主義に固有の価値を無意味な、重要でないまたは疑わしいものにしたことにも起因する、ということが、討論では繰り返して指摘された。
 マルクスの予見によれば、社会主義は資本主義生産様式が技術の進歩に負荷していた制限を打破すると考えられており、社会主義的組織化がその優越性を証明するのはまさにその点にある、とされた。
 現存する社会主義社会は、西側モデルを不器用に模倣する一方で「技術競争」を喪失していることが判明した。それだけではなく、技術の進歩というまさにその価値が、悪名高い破壊的な観点からする社会進歩の主要な標識としては、ますます魅力的なものではなくなっていることも分かった。//
 (10)新しい経験に照らすと19世紀の社会主義思想の最も弱点だと思える第二の重要な点は、社会主義運動での労働者階級の役割だ。
 Bottmore は、労働者階級の<ブルジョア化(embourgeoisement)>の理論を批判し、福祉国家体制と社会主義的発展の同一視の傾向に反対しつつ、社会主義運動は今日的変化に適用することのできる信頼し得る理論を何ら持っていない、と指摘した。
 多数の左翼グループの間には、マルクス主義の意味では労働者階級では全くない、最底辺のまたはたんに特権を持っていない集団(移住労働者、ルンペン・プロレタリアート、人種的または民族的少数者)に別の革命的前衛を探し求める政治傾向がよく知られている。しかしこれは、社会学的分析にもとづくものではなく、絶望が反射したものだと、討論では頻繁に論述された。
 他方で、高度発展社会での労働者階級の地位の変化は福祉上の利益に限定されておらず、多くの社会的経済的な重要問題について労働組合が発揮することのできる力の消極的な統制を含む、と指摘された(Kendall)。後者は、私的所有制の制限または部分的な搾取だと叙述することができる、と。//
 (11)その価値が危機に瀕している、社会主義に関する第三の様相は、国際主義の伝統だ。
 Lodzは討論で、ネイション(nation)の「階級」観念と対抗するものとしてのその「国家」という観念の分析を行った。
 民族主義(nationalist、国家主義)イデオロギーと社会主義イデオロギーの間の対立はその力のほとんどを喪失していることを示すために、多くの現象が叙述された。
 すなわち、左翼の運動がマルクス主義理論によると確実に「反動的」というレッテルに値する民族主義的な要求を支持するのは通常の(normal)のことで、例外的なものではない。そして、左翼が民族主義的信条を支持しないのは、多数の紛争の中でほとんど考え難い、と(Taylor)。
 種族的(tribal)な共同体への郷愁が、多数の左翼集団の中にきわめて強く感じられる(Hampshire)。
 他方で、民族主義は国家の経済的機能の増大によって助長されており、同じ理由で、それはしばしば社会主義者の綱領と合致してもいる(Brus)。
 大国である社会主義諸国では、社会主義イデオロギーは排外主義または帝国主義の願望と区別し難くなっている間に、いくつかの(とくに東ヨーロッパでの)民族主義の形態は、自立と参加を求める民主主義的要求と合致している(Kusin)。
 ある参加者たちは、社会主義運動の観点からして特有の価値を持たないものとしてネイションを過渡的な現象と把握する、伝統的なマルクス主義の基調の有効性を強調した(Eric Hobsbawm)。
 他の参加者は、国際主義的態度と民族的忠実さは何ら両立し得ないものではない、とした(Ludz)。
 少なくともつぎの二点は、疑問視されなかった。
 第一に、現存する社会主義諸国は、民族問題を解決するというかつての約束を実現することに、完全に失敗した。第二に、社会主義運動では、国際主義の理想は実際には滅び去った。
 大国の愛国主義と民族独立を求める要求の両者は、社会主義イデオロギーの中に頻繁に出現する。そして、誰ももはや、このことを異様だとは考えていない。//
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 ③へとつづく。

1998/L・コワコフスキら編・社会主義思想(1974)④-討論①。

 
 Leszek Kolakowski & Stuart Hampshire, ed, The Socialist Idea - A Reappraisal.(Basic Books, Inc. Publishers, New York, printed in Great Britain, 1974).
 L・コワコフスキ=S. Hampshire 編・社会主義思想-再評価(New York、1974)。
 イギリス・レディングの会合での諸報告の記録である上の著には、報告(および副報告またはコメント)の後の「討論」の内容を記録してはいない。
 L・コワコフスキの「序文」が彼自身の文章として、「討論」内容の少なくとも一端を紹介しているので、参考になる。
 なお、当初に設定された論点・課題の一覧はこの紹介の項の①のとおりで、そうした設定の具体的内容や趣旨もL・コワコフスキは記している。その部分も訳出しておけば、意味の理解がより容易だってたかもしれない。
 <討論の内容をここで再現しはしない。しかし、討論で繰り返された主題のいくつかを指摘し、参加者で分かれた主要な論点に言及しておくことが有益かもしれない>と述べて、L・コワコフスキは「討論」を以下のように紹介する。試訳。段落番号は、最初からの通しではない。p.8~。
 討論①。
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 (1)予期されるだろうように、討論では継続して、社会主義の最も伝統的な諸価値の意味や有効性に立ち戻った議論が行われた。
 いくつかの場合には、参加者の相違と論議は、数十年間あるいは一世紀を超えてすら社会主義思想にはよく見られた様式に従うものだった。
 (2)社会主義という観念をどのように定義するかについて合意がなかったのみならず、その定義に向かう接近方法についてすら合意がなかつた。
 マルクス主義の伝統が、通常はこの議論の出発地点だった。
 しかしながら、つぎのことが指摘された。すなわち、マルクス主義自体が、いくつかの重要な諸点では、矛盾を除去したり内在的な首尾一貫性を完成させたりすることをしないで、異種の起源をもつものを結合しようとしたものだ、ということ。
 かくして、マルクス主義は、一方で啓蒙主義(Enlightenment)の遺産と一致して、至高の価値をもつ個人の自律と自由な発展を強調しつつ、他方では社会の完璧な統合へのロマン派的郷愁(romantic nostalgia)を継承した。
 この二つの傾向は(Taylor が述べたように)相互に対立し、社会主義社会はどのようなものであるべきかに関して、全く異なる二つの考え方の中に反映された。
 マルクス主義の理性主義および普遍主義の側は、個人の幸福、裕福、余暇、創造から成る社会主義の展望(vision)を生み出した。
 マルクス主義のロマン派の側は、有機的共同体へと回帰する必要性を強調した。そして、全体主義的な社会主義という夢想郷(utopia)を生み出す傾向にあっただろう-(Kolakowski が主張したように)完璧な統合という理想は全体主義的僭政体制以外のいかなる形態にも陥る傾向性はなかった、というのが本当のことならば。
 (Petrovic が強調した)もう一つの緊張関係は、マルクスの革命的人間中心主義と彼の経済的決定論の間にあったことが注目されるかもしれない。
 前者の観点からは、社会主義に向かう運動は、個人の精神的な発展と諸生活の物質的および制度的な条件の変化の間の相互依存的な永続的な過程だ、ということを意味包含(imply)する。
 これが意味するのは、社会主義への変容を制度の観点から定義することができない、ということだ。
 もう一つの後者の接近方法は、純粋に「客観的」な観点から歴史過程を叙述し、(Raddatz が指摘したように)個人の意識と個人的な価値がどのようにして制度の変容の影響を受けるか関して考察する余地を残さない。
 その結果としてこの接近方法によると、我々は、社会主義運動を、確かな制度上の企図を実行するよう定められた技術的な手段だと、かつ社会主義を、新しい社会を作り出す人間たちに何が生じるかとは関係なく、この企図を達成するための条件だと、と把握するすることになる。//
 (3)社会主義をたんに公的所有制と権力の観点からのみ定義するならば、社会主義のイデオロギー上の観念を無視することになる。-この点は、参加者たちの間で争いがなかった。
 また、社会的対立や不満の全てを除去する、普遍的な救済(salvation)のための青写真だと社会主義のことを考える者も、いなかった。
 しかしながら、このような一般的な一致はあっても、もっと特殊な諸論点の全てについて、論争を予め阻止することができたのではなかった。
 我々は社会主義を、社会関係の一定の望ましいセット(set)と定義すべきなのか、それとも(Hampshire が示唆するように)社会経済的な弱者の願望と要求に従って社会的諸問題を解決するための手段だと定義すべきなのか?
 討論では、この二つの傾向-つまり夢想的(utopian)と実際的(pragmatic)-はつねにお互いに衝突し合った。
 ある人々(Marek とPetrovic)は、我々は夢想郷(utopia)なしで、換言すれば人間の潜在的力の範囲内で描いた理想像(imaginary pictures)なしで、済ませることはできない、と何度も強調した。
 我々は達成され得る現実的目標よりも、一種の規整的観念(regulative idea)を必要とする、全ての実際的諸問題について従うべき一般的な方向を見出すのを助けてくれるものが必要だ、と。
 しかしながら、討論を支配したのは、より実際的な接近方法だったと思えた。
 19世紀の資本主義社会では達成の見込みがないように見えた多数の社会的要求が実際には満足されたがゆえに、社会制度についての過激な「二者択一的」見方(資本主義・社会主義)は説得力を失った(Walter Kendall の意見)。
 組織的な労働運動の圧力が証明したのは、労働者階級の分け前を改善するために現存する国家諸制度を利用するのに間違いなく成功した、ということだ。したがって、この圧力が有効であることには<先験的な>限界があるとする理由はない。
 他方で、現存する社会主義制度はそれ自体では、資本主義社会内部で解決できていない社会問題を解決する力はないことが、経験から判断して、分かった。
 社会主義制度は膨大な対価を払って、発展途上諸国での産業化の諸問題を解決した。そして、原始的蓄積の組織者としての役割を果たした。
 しかし、社会主義制度は、社会主義思想の伝統によれば社会組織の特殊に<社会主義的>な形態へと取りかかると想定された単一の任務を履行することができなかった。//
 (4)現存する社会主義社会は、マルクス主義の伝統が定義しているような生活の社会主義形態への乏しい準備的な歩みなのか、それとも資本主義発展の周縁にある諸国での急速な工業化の道具にすぎないのか。-これに対する回答は、社会主義世界をどう定義するかの標識に関する参加者の見方によって異なった。
 Harrington の見解は、こうだった。物質的な豊かさは社会主義発展の前提条件だ。我々が必要な作業の減少や余暇の増大で進歩を測らなければならないことは、社会主義革命はまだ起きていないとの明確な結論を導く。遠く離れてすら社会主義の名に値する社会は生み出されていない。社会主義発展はその原理上、発展途上社会では、とくに第三世界では、想定し難い。
 この見解は、満場一致で支持されたわけではなかった。
 他方には、現存する社会主義制度はいかに非効率で重苦しいものであっても、階級社会を超える決定的な歩みだと考えられなければならない、社会対立の根源の全てを破壊することはできていないけれども、階級分化から帰結するその一つを破壊することには成功したのだから、というむしろ孤立した見解があった(Nuti)。
 この問題は自動的に、別の問題へとつながっていった。
 ソヴィエト型社会は新しい階級分化を生み出したというのは、どの程度に本当のことなのか?
 もう一つの共有されたのではない見方は、社会主義制度の欠陥は支配する官僚機構の無能さによって説明することができ、官僚機構と社会の間の階級対立によるのではない、というものだった(Nuti)。
 参加者の多数(Hirszowicz、Walter Kendall、Kolakowski、Sirk)は、ソヴィエト型社会で装置化された特権のシステムは利益の新しい衝突を生み出した、いくつかの点で異なってはいるが基本的には階級分化と類似のものだ、と主張した(責任の所在なき権力、支配的グループによる生産手段の排他的統御、技術的および経済的進歩への趨勢と政治的官僚制の独占的地位の間の永続的な対立)。
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 ②につづく。

1996/池田信夫のブログ008-マルクス。

 池田信夫ブログ2019年6月26日/7月1日「共産党の時代がやって来た」。
 最後に「意外に共産党の時代が来るかもしれない」とは、冗談がきつい。
 池田はマルクス主義の歴史をよく知っているらしい。今回も、こんな文章がある。
 ・「マルクスは国有化を否定したが、その後の社会主義では『生産手段の国有化』が最大のスローガンだった」。
 ・「マルクスが『プロレタリア独裁』を主張したのは戦術論であり、レーニンが暴力革命を起こしたのは、労働者階級の存在しないロシアでは、それ以外に政権をとる手段がなかったからだ」。
 ・マルクスは「未来の共産主義社会では、生産を管理するのは簿記のような機械的な仕事になると考えた」(→人工知能→共産党でも)。
 いくらでも議論ができそうな気がするが、ともあれ、池田信夫はマルクスに「若い頃に影響を受けた」とこの数年以内にどこかで明記していた。
 そして印象としては、マルクスだけは守りたい、または少なくともマルクスだけは全面的には否定したくない、という気分を持っていることが分かる。
 マルクスと資本論に関する著書もあるくらいだから、私などよりはるかにマルクスを読んでいる(読んだ)に違いない。
 しかし、マルクスと解体した「ソ連」またはマルクス・レーニン・スターリンの「関連」を冷静に、かつ多面的に論じるのは困難だし、<現実政治>または日本共産党の存在のもとでの日本での議論・検討がいかほどに学問的に?きちんと行われたかは、はなはだ疑わしい。
 秋月もまた、単純にマルクス=レーニン=スターリンと等号化できないことは当然のこととして理解できる。
 「マルクス=レーニン主義」というのはスターリンによる、その「真」の継承者として自分を正当化するための造語だった。上の三者のうちの最大の断絶はマルクスとレーニン・スターリンの間にあるだろう。日本共産党・不破哲三らが同意するはずはないが、後者は<レーニン・スターリン主義>または<ボルシェヴィズム>または<ロシア共産主義>と一括することができる。
 つい最近に試訳した1975年論考=<スターリニズムのマルクス主義的根源>でも、L・コワコフスキはスターリン時代に定式化された以上にマルクスの思想は「豊かで、繊細で、詳細だ」ということを認めている。
 また、その大著の中には、<レーニン主義はマルクス主義に関する可能な「解釈」の一つ>だと明記されていて、レーニン(・スターリン)の「責任」は全てマルクスに起因する、などとは書かれていない。
 L・コワコフスキほどに慎重で、注意深い、冷静な見方をする人物は稀少だろう。
 そして一方で、彼は、スターリニズムの「根源」はマルクスにある、レーニンもスターリンも決してマルクス主義を「歪曲」し、それから「逸脱」したのではない、決して「反マルクス主義」ではないと熱心に説く。
 彼によると、<真実=プロレタリアの意識=マルクス主義=党のイデオロギー=党指導者の考え=党のトップの決定>という等式には、「非マルクス主義のものは何もない」。
 あるいは、「マルクス主義の歴史哲学」は、「本質的に歪曲される」ことなくその「解釈」を通じて、スターリニズムに「イデオロギー上の武器」を与えた。
 150年ほど前のマルクス(・エンゲルス)の書いたことと、レーニンの書いたこと・したこと、スターリンの書いたこと・したことの「関連」を、単純に語れるはずがない。単純な原因・結果の関係ではない。
 思想、政治綱領、個別政策方針、さまざまの次元がある。<イデオロギー>が全てを決定したわけではないが、<マルクス主義>が全く無関係だったわけではなく、レーニンもスターリン(のイデオロギーと現実政治)も<その数ある延長線上にあったものの一つ>だと見ることも全く不可能ではない。
 これは、歴史の見方に関連する。ある観念・主張(例えばマルクス主義)があったとして、その後の進展はそれの<必然>か、無関係の<偶然>か。
 これがL・コワコフスキが1975年の小論考で最後に触れていた点だ。
 ***
 そして、<必然>か、無関係の<偶然>かは、社会・歴史のみならず、個々人・ヒトの一生についても語りうる基本要素だ。
 ①遺伝(生物的必然)、②環境(生育中の影響)、③本人の<自由な意思>。
 マルクス主義に魅力があるのは、こうしたことをも考えさせ、適切だったかは別として、人間の、とくに青年期の男女たちに<生き方>に関する観念を与え、若者に特有の(幼くて単純な)<理想>に訴えかけたことにあるだろう。

1995/マルクスとスターリニズム⑥-L・コワコフスキ1975年。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski), The Marxist Roots of Stalinism(1975), in: Is God Happy ? -Selected Essays (2012)の試訳の最終回。最終の第5節。
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 スターリニズムのマルクス主義という根源。
 第5節・マルクス主義としてのスターリニズム③。
(16)マルクスとエンゲルスから、つぎの趣旨の多数の文章を引用することができる。第一に、人間の歴史で一貫して、「上部構造」は所与の社会の対応する財産関係に奉仕してきた。第二に、国家は現存する生産関係のをそのままに維持するための道具にすぎない。第三に、法は階級権力の武器以外のものではあり得ない。
 同じ状況は、少なくとも共産主義が絶対的な形態で地球上を全体的には支配していないかぎり、新しい社会で継続する、と正当に結論づけることができる。
 言い換えると、法はプロレタリアートの政治権力の道具だ。そして、法は権力行使の技術にすぎないために(法の主要な任務は通常は暴力を隠蔽して人民を欺くことだ)、勝利した階級が支配する際に法の助けを用いるか用いないかは、何の違いもない。
 重要なのは階級内容であって、その「形式」ではない。
 さらに加えて、新しい「上部構造」は新しい「土台」に奉仕しなければならない、と結論づけるのも正当だと思える。
 このことがとりわけ意味するのは、文化生活は全体として、最も意識的な要員の口を通じて語られ、支配階級により明確にされる政治的任務に完全に従属しなければならない、ということだ。
 ゆえに、スターリニズム体制での文化生活を指導する原理として普遍的に役立ったのは、「土台-上部構造」理論からの適切な推論だった、と述べることができる。
 同じことは、科学についても当てはまる。
 もう一度言うが、エンゲルスは科学を理論的哲学による指導のないままにしてはならない、さもなくば科学は完全な経験論者的痴呆へと陥ってしまう、と語らなかったか?
 そして、これこそがじつに、関心の範囲はむろんのこと内容についても全ての科学をソヴィエトの哲学者と党指導者たちが哲学によって-つまりは党イデオロギーによって-統制することを、最初から正当化した方策だった。
 1920年代にKarl Korsch はすでに、最上位性を哲学が要求することと科学に対してソヴィエト体制がイデオロギー的僭政を行うことの間には明確な関係がある、と指摘した。//
 (17)多数の批判的マルクス主義者は、これはマルクス主義の戯画(calicature)だと考えた。
 私はそれを否定しようとはしない。
 しかしながら、こう付け加えたい。戯画が原物と似ている場合にのみ-実際にそうだったのだが-、「戯画」という語を意味あるものとして用いることができる。
 つぎの明白なことも、否定しようとはしない。マルクスの思想は、ソヴィエトの権力体制を正当化するためにレーニン=スターリン主義イデオロギーによって際限なく繰り返されたいくつかの引用文から感じられる以上にはるかに、豊かで、繊細で、詳細だ、ということ。
 だがなお、私は、そうした引用文は必ずしも歪曲ではない、と論じたい。
 ソヴィエト・イデオロギーによって採用されたマルクス主義の外殻(skelton)は、きわめて単純化されているが、新しい社会を拘束する虚偽の(falsified)指針だったのではない。//
 (18)共産主義の全理論は「私有財産の廃棄」の一句で要約することができるという考えは、スターリンが考えついたものではなかった。
 スターリンはまた、賃労働は資本なくしては存在できないとか、国家は生産手段に対する中央志向権力を持たなければならないとか、あるいは民族対立は階級対立とともに消滅するだろうとかの考えを提示したのでもなかった。
 我々が知っているように、これらの考えは全て、明らかに、<共産主義者宣言>で述べられている。
 これらの考えは、まとめて言うと、ロシアで起こったように、いったん工場と土地が国家所有になれば社会は根本的に自由になるということを、たんに示唆しているのみならず、論理的に意味している。
 このことはまさしく、レーニン、トロツキーおよびスターリンが主張したことだった。//
 (19)要点は、マルクスは人間社会は統合の達成なくしては「解放」されない、と実際に一貫して信じた、ということだ。
 そして、社会の統合を達成するものとしては、僭政体制とは別の技術は知られていない。
 市民社会を抑圧すること以外には、市民社会と政治社会の間の緊張関係を抑える方法は存在しない。
 個人を破壊すること以外には、個人と「全体」の間の対立を排除する方策は存在しない。
 「より高い」「積極的な」自由-「消極的な」「ブルジョア的」自由とは反対物-へと向かう方途は、後者を抑圧すること以外には存在しない。
 かりに人間の歴史の全体が階級の観点から把握されなければならないとすれば-かりに全ての価値、全ての政治的および法的制度、全ての思想、道徳規範、宗教的および哲学的信条、全ての形態の芸術的創造活動等々が「現実の」階級利益の道具にすぎないとすれば(マルクスの著作にはこの趣旨の文章が多数ある)-、新しい社会は古い社会からの文化的継続性を暴力的に破壊することでもって始まるに違いない、ということになる。
 実際には、この継続性は完全には破壊され得ず、ソヴィエト社会では最初から部分的(selective)な継続性が選択された。
 「プロレタリア文化」の過激な追求は、指導層が支援した一時期のみの贅沢にすぎなかった。
 ソヴィエト国家の進展につれて、ますます部分的な継続性が強調されていった。それはほとんどは、民族主義的(nationalistic)性格の増大の結果だった。
 (20)私は思うのだが、ユートピア(夢想郷)-完璧に統合された社会という展望-は、たんに実現不可能であるばかりではなく、制度的手段でこれを生み出そうとすればただちに、反生産的(counter-productive)になるのではないか。
 なぜそうなるかと言うと、制度化された統合と自由は反対の観念だからだ。
 自由を剥奪された社会は、対立を表現する活動の息が止まるという意味でのみ、統合されることができる。
 対立それ自体は、消失していかない。
 したがって結局は、全くもって、統合されないのだ。//
 (21)スターリン死後の社会主義諸国で起きた変化の重要性を、私は否定しない。これら諸国の政治的基本構成は無傷のままで残っている、と主張するけれども。
 しかし、最も大切なことは、いかに緩慢に行われるとしても、市場が生産に対して何らかの制限的影響を与えるのを許容すること、生活の一定領域での厳格なイデオロギー統制を放棄すること、あるいは少しでも緩和することは、マルクスによる統合の展望を断念することにつながる、ということだ。
 社会主義諸国で起きた変化が明らかにしているのは、この展望を実現することはできない、ということだ。すなわち、この変化を「真の(genuine)」マルクス主義への回帰だと解釈することはできない。-マルクスならば何と言っただろうかはともかく。//
 (22)上述のような解釈のために追加する-断定的では確かにないけれども-論拠は、この問題の歴史のうちにある。
 マルクス主義の人間主義的社会主義のこのような結末を「誰も予見できなかった」と語るのは完全にまやかし(false)だろう。
 社会主義革命のだいぶ前に、アナキストの著作者たちは実際にそれを予言していた。彼らは、マルクスのイデオロギー上の諸原理にもとづく社会は隷属と僭政を生み出す、と考えたのだ。
 ここで言うなら少なくとも、人類は、歴史に騙された、予見できない事態の連結関係に驚いた、と泣き事を言うことができない。//
 (23)ここで論じている問題は、社会発展での「生来(genetic)要因と環境要因」という問題の一つだ。
 発生論的考察ですら、考究される属性が正確に定義されていなければ、あるいはそれが身体的ではなくて精神的な(例えば「知性」のような)属性であるならば、これら二要因のそれぞれの役割を区別するのはきわめて困難だ。
 そして、我々の社会的な継承物(inheritance)における「生来」要因と「環境」要因を区別することはどれほど困難なことだろうか。-継承したイデオロギーと人々がそれを実現しようとする偶発的諸条件とを区別することは。
 これら二要因が全ての個別の事案で作動しており、それらの相関的な重要性を計算してそれを数量的に表現する方法を我々は持たない、ということは常識だ。
 分かっているのは、その子がどうなるかについて「遺伝子」(生来のイデオロギー)に全ての責任があると語ることは、「環境」(歴史の偶発的事件)がその全てを説明することができると語るのと同様に全く愚かなことだ、ということだ。
 (スターリニズムの場合は、これら二つの相容れない極端な立場が表明されている。それぞれ、一方でスターリニズムとは実際にマルクス主義を現実化したものにすぎない、他方でスターリニズムとはツァーリ体制の継承物にすぎない、という見方だ。)
 しかし、我々はスターリニズムについての責任の「適正な割合」についてそれぞれの要因群を計算したり配分したりすることはできないけれども、その成熟した姿が「生来の」諸条件によって予期されたか否かを、なおも理性的に問題にすることはできる。
 (24)私はスターリニズムからマルクス主義へと遡って軌跡を描こうとしたが、その間にある継続性は、レーニン主義からスターリニズムへの移行を一瞥するならば、なおも鮮明な形をとっていると思われる。
 非ボルシェヴィキ党派は(リベラル派は論外としてメンシェヴィキは)、ボルシェヴィキが採っていた一般的方向に気づいており、1917年の直後には、その結末を正確に予見していた。
 さらに加えて、スターリニズムが確立されるよりもずっと前に、新しい体制の僭政的性格は党自体の内部ですみやかに攻撃されていた(「労働者反対派」、ついで「左翼反対派」によって-例えばRakovskyによって)。
 メンシェヴィキは、自分たちの予言の全てが1930年代に確証されたことを知った。また、トロツキーが、メンシェヴィキによる「我々はそう言った」は悲しいほどに説得力がない、という時機遅れの反論を行ったことも。
 トロツキーは、メンシェヴィキは将来に起きることを予言したかもしれないが、それは全く間違っている、彼らはボルシェヴィキによる支配の結果としてそうなると考えたのだから、と主張した。
 トロツキーは言った。実際にそうなった、しかしそれは官僚制によるクーの結果としてだ、と。
 <欺されていたいと思う者は全て、欺されたままにさせよ(Qui vult decipi, decipiatur)。>//
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 終わり。

1993/マルクスとスターリニズム⑤-L・コワコフスキ1975年。

 Leszek Kolakowski, The Marxist Roots of Stalinism(1975), in: Is God Happy ? -Selected Essays (2012)の試訳のつづき。
 最終の第5節。
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 スターリニズムのマルクス主義という根源。
 第5節・マルクス主義としてのスターリニズム②。
 (8)これは、マルクスの階級意識という観念の単純化した範型だ。
 たしかに、真実について独占する資格があるという党の主張がここから自動的に導き出されはしなかった。
 また、等号で結ぶためには、党に関する特殊レーニン主義の考えが必要だ。
 しかし、このレーニン主義考えには反マルクス主義のものは何もなかった。
 マルクスがかりに党に関する理論を持っていなかったとしても、彼には労働者階級の潜在的な意識を明確にすると想定される前衛集団という観念があった。
 マルクスはまた、自分の理論はそのような意識を表現するものだと見なした。
 「正しい」労働者階級の革命的意識は自然発生的労働者運動の中に外部から注入されなければならないということは、レーニンがカウツキーから受け継いだものだった。
 そして、レーニンは、これに重要な補足を行った。
 すなわち、ブルジョアジーとプロレタリアートの階級闘争によって引き裂かれた社会には二つの基本的なイデオロギーしか存在することができないので、プロレタリア的でない-換言すると前衛たる政党のイデオロギーと一致しない-イデオロギーは、必ずやブルジョア的なそれだ。
 かくして、労働者たちは助けがなければ自分たち自身の階級イデオロギーを産み出すことができないので、自分たちの力で産み出そうとするイデオロギーはブルジョア的なものになるに違いない。
 言い換えれば、労働者たちの経験上の「自然発生的な」意識は、本質的にはブルジョアの<世界観>であるものを生み出すことができるにすぎない。
 その結果として、マルクス主義の党は、真実の唯一の運び手であるがゆえに、経験上の(そして定義上ブルジョア的な)労働者の意識から完全に独立している(但し、プロレタリアートよりも前に進みすぎることのないように、その支持を得るために求められている場合には戦術的な譲歩をときどきはしなければならない)。//
 (9)これは、権力掌握後も、真実のままだった。
 党は真実の唯一の所持者として、大衆の(不可避的に未成熟な)経験上の意識を(戦術的意味がある場合を除いて)完全に無視することができる。
 じつに、そうしなければならない。それができないとすれば、必ずや、党はその歴史的使命を裏切ることになる。
 党は「歴史的発展法則」および「土台」と「上部構造」の正しい関係の二つを知っている。党はそのゆえに、過去の歴史的段階からの残滓として存続しているものとして破壊するに値する、そのような人民の現実的で経験的な意識を、完璧に見定めることができる。
 宗教的想念は、明らかにこの範疇に入る。しかし、人民の精神(minds)を内容において指導者たちのそれとは異なるものにしているもの全てが、そうだというのではない。//
 (10)プロレタリアの意識をこのように把握することで、精神に対する独裁は完全に正当化される。党は社会よりも、社会の本当の(経験的ではない)願望、利益および思索が何であるかを実際に知っている。
 我々の最終的な等式は、こうだ。真実=プロレタリアの意識=マルクス主義=党のイデオロギー=党指導者の考え=党のトップの決定。
 プロレタリアートに一種の認識上の特権を与えるこの理論は、同志スターリンは決して間違いをしない、との言明に行き着く。
 この等式には、非マルクス主義のものは何もない。//
 (11)党についての真実の真実の唯一の所持者だという観念はもちろん、「プロレタリアートの独裁」という表現によって補強された。この後者の語をマルクスは、説明しないで、二度か三度何気なく使った。
 カウツキー、モロトフその他の社会民主主義者たちは、マルクスが「独裁」で意味させたのは統治の形態ではなく統治の階級的内容だ、この語は民主主義国家と反対するものとして理解されるべきではない、と論じることができた。
 しかし、マルクスは、この論脈では何らかの類のことをとくには語らなかった。
 そして、この「独裁」という語を額面どおりにレーニンが正確に意味させて明瞭に語ったものを意味するものだと受け取ることには、明らかに間違ったところは何もない。すなわち、法によって制限されない、完全に暴力(violence)にもとづく支配。//
 (12)党がもつ、全ての生活領域に対してその僭政を押しつける「歴史的権利」の問題とは別に、その僭政(despotism)という観念に関する問題もあった。
 この問題は、根本的にはマルクスの予見を維持する態様で解決された。
 解放された人類はつぎのことを行うと想定された。すなわち、国家と市民社会の区別を廃棄し、個々人が「全体」との一体化を達成するのを妨げてきた全ての媒介的装置を排除し、私的利害の矛盾を内包するブルジョア的自由を破壊し、労働者たちが商品のように自分たちを売ることを強いる賃労働制度を廃止する。
 マルクスは、この統合がいかにして達成され得るのかに関して、厳密には論述しなかった。つぎの、疑い得ない一点を除いては。搾取者の搾取-つまり、生産手段の私的所有制の廃棄。
 搾取というこの歴史的行為がひとたび履行されるならば、残っている社会的対立の全ては古い社会から残された遅れた(ブルジョア的)精神を表現するものにすぎない、と論じることができたし、そうすべきだった。
 しかし、党は、新しい生産関係に対応する正しい精神(mentality)の内容はどのようなものであるべきかを知っている。そして当然に、それとは適合しない全ての現象を抑圧することのできる権能をもつ。//
 (13)この望ましい統合を達成する適切な技術とは、実際のところ、どのようなものになるのだろうか?
 経済的基盤は、設定された。
 マルクスは市民社会が国家によって抑圧されるまたは取って代わられると言いたかったのではなく、政治的統治機構は余分なものになり、「物事の管理〔行政〕」だけを残して、国家が消滅することを期待したのだ、と論じることができた。
 しかし、国家が定義上、共産主義への途上にある労働者階級の道具であるならば、国家はその定義上、「被搾取大衆」に対してではなく、資本主義社会の遺物に対してのみ、権力を行使することができる。
 「事物の管理」または経済の運営はどのようにすれば、労働の、つまりは全ての勤労人民の利用や配分を伴わないことができるのか?
 賃労働-労働力の自由市場-は、廃棄されたはずだった。
 これは想定どおりに生じた。
 しかし、共産主義者の熱意だけが人々が労働をする不十分な誘因だと分かると、いったいどうなるのだろうか?
 このことが意味するのは明らかに、それを破壊することが国家の任務である、ブルジョア的意識に囚われてしまう、ということだ。
 従って、賃労働を廃止する方法は、それを強制(coercion)に置き代えることだ。
 そうすると、かりに政治社会のみが人民の「正しい」意思を表現するのだとすると、市民社会と政治社会の統合はどのようにして達成されることができるのか?
 ここで再び言えば、その人民の意思に反対しまたは抵抗する者たちはみな、定義上は資本主義秩序の残存者となる。
 さらにもう一度言えば、統合へと進む唯一の途は、国家によって市民社会を破壊することだ。//
 (14)人々は自由に、強制されることなく協力するように教育されなければならないと主張する者は、誰であっても、つぎの問いに答えなければならない。
 このような教育を、どの段階で、どのような手段によれば、達成することができるのか?
 資本主義社会でそれが可能だと期待するのは、マルクスの理論とは確実に矛盾しているのではないか? 資本主義社会での労働人民は、ブルジョア的イデオロギーの圧倒的な影響のもとに置かれているのだ。
 (支配階級の思想は支配している思想だと、マルクスは言わなかったか?
 社会に関する道徳的変化を資本主義秩序で希望するのは、全くの夢想(pure utopia)ではないのか?)
 そして権力掌握の後では、教育は社会の最も啓蒙的な前衛の任務だ。
 強制は、「資本主義の残存者たち」に対してのみ向けられる。
 そうして、社会主義の「新しい人間」の産出と苛酷な強制との間を区別する必要はない。
 その結果として、自由と隷属の区別は、不可避的に曖昧になる。//
 (15)(「ブルジョア」的意味での)自由の問題は、新しい社会では意味のないものになる。
 エンゲルスは、本当の自由は人々が自然環境を征服することと社会過程を意識的に規制することの両方を行うことのできる範囲と定義されなければならない、と言わなかったか?
 この定義にもとづけば、社会の技術が発展すればするほど、社会は自由になる。
 また、社会生活が統合された指令権力に服従すればするほど、社会は自由になる。
 エンゲルスは、社会の規制は必ず自由選挙または他の何らかのブルジョア的装置を伴うだろう、とは述べなかった、
 そうすると、僭政的権力の一中心によって完全に規制された社会はその意味で完璧に自由ではない、と主張することのできる理由は存在しない。//
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 ⑥へつづく。

1987/マルクスとスターリニズム③-L・コワコフスキ1975年。

 Leszek Kolakowski, The Marxist Roots of Stalinism, in: Is God Happy ? -Selected Essays (2012)の試訳のつづき。
 第三節と第四節。
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 スターリニズムのマルクス主義という根源。
 第三節・スターリン主義全体主義の主要な段階。
 (1)全体主義のソヴィエト変種は、絶頂点に到達する前に多年を要して成熟していった。
 その成長の主要な諸段階はよく知られている。だが、簡単に言及しておく必要があるだろう。
 (2)第一段階では、代表制民主主義の基本的諸形態-議会、選挙、政党、自由なプレス-が廃絶された。
 (3)第二段階(第一段階と一部重なる)は、「戦時共産主義」という誤解を生む名前で知られる。
 この名前は、この時期の政策は、内戦と干渉が強いた甚大な困難さに対処するための一時的で例外的な手段として考案された、ということを示唆する。
 実際には、指導者たち-とくにレーニン、トロツキーおよびブハーリン-の関連する著作からして、彼ら全員がこの経済政策-自由取引の廃止、農民からの「余剰」(すなわち地方指導部が余剰だと見なしたものの全て)の強制的徴発、一般的な配給制度、強制労働-を新しい社会の永続的な成果だと想定していた、ということが明らかだ。
 また、それを存在する必要がないものにした戦争諸条件を理由としてではなく、それが惹起した経済的災厄の結果としてその経済政策がついには放棄された、と考えられていたことも。
 トロツキーとブハーリンはいずれも、強制労働は新しい社会の有機的部分だとの確信を強調していた。//
 (4)この時期に設定された全体主義秩序の重要な要素は持続し、ソヴィエト社会の永続的な構成要素になった。
 このように継続した成果の一つは、政治勢力としての労働者階級の破壊だった。すなわち、民衆の主導性の自立した表現としての、また自立した労働組合や諸政党の目的としての、ソヴェトの廃棄。
 もう一つは、-まだ決定的でなかった-党それ自体の内部での民主主義の抑圧だった。
 ネップの時期を通じてずっと、システムの全体主義的特性はきわめて強く表れていた。自由取引が受容され、社会の大部分-農民-は国家からの自立を享有していたにもかかわらず。
 ネップは、政治的にも文化的にも、まだ国家所有でないかまたは完全には国家所有でない、そのような主導性を発揮する中心拠点に対する、一党所有国家による圧力の増大を意味した。この点での完全な成功を達成したのは、進展の後続の段階だったけれども。
 (5)第三段階は、強制的集団化だ。これは、まだ国有化されていなかった最後の社会的階級の破壊へと到達させ、経済生活に対する完全な支配権を国家に付与した。
もちろんこのことは、国家が経済の計画化に携わることが可能になった、ということを意味しなかった。国家は、そうしなかった。
 (6)第四段階は、粛清を通じての、党それ自体の破壊だ。なぜなら、党は、もはや現実的でなかったとしても潜在的な力をもつ、国有化されていない勢力だったのだから。
 有効な反抗する勢力は党の内部には残存していなかったけれども、多数の党員たち、とくに年配の党員たちは、伝統的な党イデオロギーへの忠誠を保ちつづけた。
 かくして、彼らが完全に服従していたとしても、現実の指導者と在来の価値体系の間で忠誠心を分化させるのではないか、と疑われた。-換言すれば、指導者に対して潜在的には忠誠していないのではないか、と。
イデオロギーとは指導者がいついかなるときでも語ったものだ、ということを彼らに明確にする必要があった。
 大虐殺は、この任務を成功裡に達成した。それは、狂人が行ったことではなく、イデオロギーの<指導者(Führer、総統)>の作業だった。//
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 第四節・スターリニズムの成熟した様相。
 (1)こうした推移の各段階は、慎重に決定されたり、組織化されたりした。全てがあらかじめ計画されていたのではなかったけれども。
 結果として生じたのは完全に国家が所有する社会で、それは、完璧な統合体という理想にきわめて近く、党と警察によって塗り固められていた。
 完璧に統合されるとともに、完璧に断片化されてもいた。同じ理由により、集団生活の全ての形態が完全に従属するという意味で統合され、市民社会が全ての意図と目的のために破壊されるという意味で断片化された。そして各市民は、国家との全ての関係について、唯一の全能の装置に向かい合った。孤独で、無力な個人だ。
 社会は、マルクスが<ブリュメール十八日>でフランスの農民について語った、「トマト袋」のような物に変えられた。//
 (2)こうした状況-原子のごとき個人に向かい合う統合された国家有機体-は、スターリニズム体制の重要な特質の全てを明確にした。
 その特質はよく知られ、多くのことが叙述されてきた。しかし、我々の主題に最も関連性のある若干のことに簡単に言及しておこう。
 (3)第一は、法の廃棄だ。
 法は確かに、公共生活を規制する一セットの手続的規準として、継続した。
 しかし、国家が個人と交渉をするその全能性を制限することのできる一セットの規準としては、法は完全に廃棄された。
 言い換えれば、市民は国家の所有物だという原理を制限する可能性のある規準を、法は含まなかった。
 その決定的な点で、全体主義の法は、曖昧でなければならなかった。その適用が執行当局の恣意的で変化する決定の要になるように、また、執行当局が選択するときはいつでも各市民を犯罪者だと見なすことができるように。
 顕著な例はつねに、刑法典に定められている政治的犯罪だった。
 その諸規定は、市民がほとんど毎日冒さないことがほとんど不可能であるように、条文化されていた。
 そうした犯罪のうちいずれを訴追して、どの程度のテロルを行使するかは、支配者たちの政治的決定にかかっていた。
 この点は、ポスト・スターリニズムの時代でも何も変わらなかった。すなわち、法は際だって全体主義的なままで、大量テロルから選択的テロルへの移行も、手続的規準をより十分に遵守することも、-個人の諸生活に対する国家の実効的権力を制限しないかぎりは-それが持続することとは関係がなかった。
 民衆は、政治的冗談を話したという理由で投獄されることもあれば、そうされないこともあった。
 彼らの子どもたちは、共産主義の精神(これが何を意味していようと)を発揮するという法的義務を履行しなければ、強制的に連れ去られることもあれば、そうされないこともあった。
 全体主義的な無法性が意味したのは、極端な手段をいつどこでも現実に適用するということではなく、国家が所与のときに用いたいと欲する全ての抑圧に対するいかなる防護をも市民に与えない、ということだった。
 国家と民衆の媒介者としての法は消失し、国家の際限なく融通性のある道具に変質した。
 この点で、スターリニズムの原理は変わらないままで存続している。//
 (4)第二は、一人による専制だ。
 これは全体主義国家の発展のための駆動力である完全な統合という原理の、自然で「論理的な」所産だった、と思える。
 完全な姿を出現させるために、国家は、無制限の権力を授けられた一人の、かつ一人だけの指導者を必要とした。
 このことは、レーニン主義の党のまさに創立そのものに暗に示されていた(トロツキーのしばしば引用される1903年の予言と合致した。予言者の彼自身はすぐに忘れてしまったが)。
 1920年代のソヴィエト体制の進展の全体に見られたのは、闘い合う諸利害、諸思想および政治的諸傾向を表現することのできるフォーラムが一歩ずつ狭められていく、ということだった。
 短い時代の間に、それらは社会で公的に表明され続けたが、その表現は次第に限定され、狭くなる方向へと動いた。先ず党、ついで党装置、そして中央委員会、最後には政治局に限定された。
しかし、ここでも社会的紛議に関する表現を妨げることができた。その紛議の情報入手先は抹消されなかったけれども。
 この最も狭い範囲の党幹部会ですら、かりに続けることが許されたとしても、対立する見解の表明は、社会内部にまだ残存している利害対立の影響を受けるだろう、というのが、十分に練ったスターリンの主張だった。
 これは、党の最上級機関ですら異なる諸傾向または分派が自分たちの見解を表明している場合は、市民社会の破壊は十分には達成されなかった、ということの理由だ。
(5)スターリン以後にソヴィエト体制に生じた変化-個人的僭政から寡頭制への移行-が、ここでは大きく目立つように見える。
 それは、システムに内在する治癒不可能な矛盾から生じた。システムが必要とし、個人的な僭政に具現化された指導者層の完全な統合は、別の指導者たちの最小限度の安全確保の要求とは両立し難い。
 スターリンの支配のもとでは、彼らは他の民衆と同様の不安定な状態に格下げされた。
 彼らの膨大な特権の全ても、上層からの突然の崩落、投獄、そして死に対して彼らを防護してくれなかった。
 スターリンの死以降の寡頭制は、スターリニズムの病的形態だと適切に描写され得るかもしれない。
 (6)にもかかわらず、最悪の時代ですらソヴィエト社会は、警察によっては支配されなかった。
 スターリンは警察機構の助けを借りて国と党を統治したけれども、警察の長としてではなく、党指導者として統治した。
四半世紀の間スターリンと同一体だった党は、全てを包み込む支配権を決して失わなかった。//
 (7)第三は、統治の原理としてのスパイの普遍化だ。
民衆は相互にスパイし合うように奨励された-そして強いられた-。しかし、これは、国家が現実的な危険に対して自己防衛する方法ではなかった。そうではなく、全体主義の原理を究極にまで高めるための方策だった。
 民衆は市民として、目標、願望および思考-これらは全て指導者の口を通じて表現される-を完全に統合して生活することが想定されていた。
 しかしながら、個人としては、お互いに憎悪し合い、継続的に相互の敵対感をもって生活するように期待された。
 このようにしてこそ、個人の他者からの孤立は完全なものになり得た。
 実際に、達成不能のシステムの理想は、誰もが同時に強制収容所の収容者でありかつ秘密警察の工作員であることだったように思える。//
 (8)第四は、イデオロギーの明確な全能性だ。
これはスターリニズムに関する全ての議論の要点だ。そして、他の点よりも混乱や不同意が多い。
 Solzhenitsyn とSakharovの、この主題に関する見解のやり取りを見るならば、これが明瞭になる。
 前者はおおまかには、こう言う。ソヴィエト国家全体が、内政にせよ外交にせよ、経済問題であれ政治問題であれ、マルクス主義イデオロギーの圧倒的な支配に従属していた。また、国家と社会の両方に与えた全ての大災難について責任があるのは、この(偽りの)イデオロギーだ。
 後者は、こう返答する。公式の国家イデオロギーは死んでいる、誰もそれを真摯には受け取っていない。したがって、そのイデオロギーは実際の政策を導いて形成する現実の力であり得ると想像するのは、愚かだ。//
 (9)これら二つの観察はいずれも、一定の限定の範囲内で、有効だと思える。
 要点は、つぎのことだ。すなわち、ソヴィエト国家はそのまさに始まりから、その正統性のための唯一の原理として創設の基礎に組み込まれているイデオロギーをもつ。
 たしかに、ボルシェヴィキ党がロシアで権力を奪取したイデオロギー上の旗印(平和と農民のための土地)は、マルクス主義はむろんのこと社会主義に特有の内容をもつものではなかった。
 しかし、ボルシェヴィキ党は、レーニン主義のイデオロギー原理を基礎にしてのみ独占的支配を確立することができた。定義上労働者階級と「被搾取大衆」の、彼らの利益、目標および願望(かりに大衆自身は意識していないとしても)の、唯一の正統な語り口である党。そのことは「正しい」マルクス主義イデオロギーに即して大衆の意思を「表現」する能力があることによっている党。
 専制的権力を支配する党は、その権力を正当化する、自由選挙や伝来の王制のカリスマがない場合に、正統性の唯一の基礎であるそのイデオロギーを放棄することができない。
 このような支配システムでは、信じている者の数の多寡に関係なく、誰が信じ、誰が真摯に受容しているかに関係なく、イデオロギーはなくてはならないものだ(indispensable)。
 そして、イデオロギーは、支配者たちおよび被支配者たちのいずれにももはや信じている者は事実上いなくなったとしても-ヨーロッパの社会主義諸国にいま見られるように-、なくてはならないもののままだ。
 指導者たちが明らかにすることができないのは、権力システムの完全な崩壊という危機に直面させてまで、彼らの政策の本当のかつ悪名高い諸原理を暴露してしまう、ということだ。
 誰にも信じられていない国家イデオロギーは、国家の全構造が粉砕されてはならないとすれば、全ての者に対して拘束的でなければならない。//
 (10)これは、実際の諸政策の各段階を正当化するために訴えたイデオロギー的考察は、本当の、スターリンまたはその他の指導者たちがその前で拝跪した独立の力をもっている、ということを意味してはいない。
 ソヴィエト体制は、スターリンのもとでもその後でも、つねに、大帝国の<現実政策>を追求した。そして、そのイデオロギーは、各政策を是認するに十分なほどに、曖昧なものでなければならなかった。
 ネップと集団化。ナツィスとの友好関係とナツィスとの戦争、中国との友好関係と中国に対する非難。イスラエルの支持とイスラエルの敵たちへの支援。冷戦とデタント〔緊張緩和〕、国内体制の締め付けと緩和。総督(satrap)の東方カルトとそれに対する弾劾。
 そして、このイデオロギーはソヴィエト国家を維持し、全てを抱え込んでいる。//
 (11)ソヴィエトの全体主義システムはロシアの歴史的背景、強い徴表となっている全体主義的特性、を考慮しなければ理解できない、としばしば言われてきた。
 国家の自律性と市民社会に対するその圧倒的な権力は、19世紀のロシア歴史研究者によって強調された。そして、こうした見方は多数のロシア人マルクス主義者によってある程度の留保つきで、是認されてきた(プレハノフの<ロシア社会思想史>、トロツキーの<ロシア革命史>)。
 こうした背景は、革命の後で、ロシア共産主義の本当の根源だとして繰り返して論及された(Berdyaev)。
 多数の著作者たち(Kucharzewski は最初の一人)は、ソヴィエト・ロシアはツァーリ体制を直接に拡張したものだと捉えた。
 彼らは、とりわけ、ロシアの膨張主義政策、新しい領土への飽くなき欲求を見た。また、全市民の「国有化」(nationalization)、人の全ての形態での活動の国家目標への従属も。
 若干の歴史研究者たちはこの主題について、きわめて説得的な研究書を刊行してきた(直近では、R. Pipes 〔リチャード・パイプス〕、T. Szamuely)。
 私は、彼らの結論を疑問視しはしない。
 しかし、歴史的背景はソヴィエト秩序でのマルクス主義イデオロギーがもつ特有の機能を説明しはしない。
 ロシアでのマルクス主義の意味の全ては、結局は不安定なイデオロギー帝国に、最終的な崩壊の前にしばらくの間は生き残ることができる血と肉を注入することにあった、ということを(Amalrik とともに)認めるところにまで進むとしてすら、いかにしてマルクス主義はこの任務に適合的なものになったのか、という問題は、未回答のままだ。
 マルクス主義の歴史哲学は、その明瞭な希望、企図および価値でもって、いかにして、全体主義的、帝国主義的かつ排外主義的国家に、イデオロギー上の武器を与えることができたのか?//
 (12)マルクス主義歴史哲学はそうできたし、そうした。
 本質的部分で歪曲される必要はなかった。たんに適切な態様で解釈されたにすぎない。
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 つぎの(最終)節の表題は<マルクス主義としてのスターリニズム>。次節だけで、全体の過半を占める。
 

1986/マルクスとスターリニズム②-L・コワコフスキ1975年。

 Leszek Kolakowski, The Marxist Roots of Stalinism, in: Is God Happy ? -Selected Essays (2012)の試訳のつづき。
 一部について、ドイツ語訳を参照した。
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 スターリニズムのマルクス主義という根源。
 第2節・スターリニズムはどう定義(identify)されるか?
 (1)「スターリニズム」という語を用いる場合に、ソヴィエト同盟の十分に明確にできるワンマン僭政制の時代(つまりはおよそ1930年から1953年まで)を意味させるのか、同じ特質を明らかに示す体制を意味させるのか、にはほとんど違いはない。
 にもかかわらず、スターリニズム後のソヴィエト社会やソヴィエト型の国家がどの程度において本質的にそのシステムを拡張したものであるのかという問題は、明らかに、言葉の使い方の問題ではない。
 しかしながら、多くの理由で、システムの継続性を強調する、より歴史的ではなくてより抽象的な第二の定義が、より好都合だ。
 (2)「スターリニズム」は、生産手段の国家所有制にもとづく(ほとんど完全な)全体主義社会だと特徴づけられるかもしれない。
 私は「全体主義的」(totaritarian)という語を常識的に、社会的紐帯が国家が押しつけた組織に置き換えられ、その結果として全ての集団と個人がその行動について国家の目標であり国家がそうだと明確にした目標によってのみ導かれる、そのような政治システムの意味で用いる。
 言い換えると、理想の全体主義システムは、市民社会の完全な破壊をその意味に包含することになるだろう。すなわち、国家とその組織的な諸装置が社会生活の唯一の形態であり、人の-経済的、知的、政治的および文化的-活動の全ての形態はそれらが国家目標(もう一度記すがこれは国家によって明確に定められる)に奉仕する場合にかぎってのみ許容されかつ押しつけられる(許容と賦課の区別は消失していく)、そのようなシステムになるだろう。
 このようなシステムのもとでは、全ての個人(支配者たち自身を含む)は国家の所有物だと考えられてしまう。//
 (3)このように理解される観念は-こう定義することで私はこの主題を論じたほとんどの著作者たちと異なっていないと思うのだが-、なお若干の論評を加えて説明することが必要だ。//
 (4)第一に、完全な形を達成するためには、組織に関する全体主義的原理は生産手段の国家による統御を必要とする、ということが明瞭だ。
 言い換えると、生産活動や経済的主導性の重要部分を諸個人に委ねる、その結果として社会の諸部分が経済的に国家から自立していることを許容する、そのような国家は、理想の形態になることができない。
 ゆえに、全体主義は、社会主義経済のうちにその理想を達成する最良の機会をもつ。//
 (5)第二に、絶対的に完璧な全体主義システムはかつて存在しなかった、ということが強調されなければならない。
 しかしながら、いくつかの社会は個人と共同体の生活の全ての形態を「国有化」する、きわめて強い、内在していて継続的に作用している傾向をもつことを、我々は知っている。
 ソヴィエトの社会と中国の社会はいずれも、この理想にきわめて近いか、一定の時期にはきわめて近かった。
ナツィ・ドイツもそうだった。十分に発展させるほどには長く続かなかったとしても、また、全てを国有化することなく強制を通じて経済活動を国家目標に従属させることで満足していたのだったとしても。
 その他のファシスト国家は、この方向ではドイツよりはるかに遅れていた(または、遅れている)。
 ヨーロッパの社会主義国家もまたかつて、全体主義のソヴィエトの段階まで決して到達しなかった。永続的で衰えることのない、そうしたいという意思はあったにもかかわらず。//
 (6)全体主義の<entelechia〔明確な精神〕>が理想的な形態で実現され得るだろうとは、言えそうにない。
 このシステムによる圧力に頑固に抵抗する生活の諸形態-とくに家族、情動および性的関係-がある。
 そのような生活諸形態はあらゆる種類の国家の強い圧力にさらされてきたが、明らかに、決して完全には達成されなかった(少なくともソヴィエト国家ではそうだった。おそらくは中国ではより多く達成された)。
 同じことが個人や共同体の記憶についても言える。全体主義システムはこれを、当今の政治的必要に従って歴史を変形させ、書き直し、捏造することによって否定しようとしてきたのだったが。
 工場と労働を国有化することは、感情をそうすることより明らかに容易だ。そして、希望を国有化することは、記憶をそうすることよりも容易だ。
 過去の=歴史の国有化に対して抵抗することは、反全体主義の運動の重要な部分だ。//
 (7)第三に、上述のような定義は、全ての僭政システムまたはテロルの支配は必ず全体主義的だとはかぎらない、ということを意味包含している。
 あるシステムは、最も血なまぐさいものであれ、限定された目標をもち、その範囲内での人の活動の全ての形態を吸収して奪い取る必要がないかもそれない。
 最悪の形態の植民地支配は、最も苛酷な時期であっても、通常は全体主義的でない。
 目標は従属している諸国を経済的に搾取することであり、この観点からして中立的な多くの生活領域は、多かれ少なかれ侵害されないままにされた。
 逆に、全体主義システムは、抑圧の手段としてテロルをつねに用いる必要はない。
(8)その完全な形態では、全体主義は、奴隷制の、主人なき奴隷制の、異常な形態だ。
 それは、全ての人々を奴隷へと転化させる。そしてそのゆえに、それは平等主義(egalitariansm)の確かな徴表を帯びる。//
 (9)このように用いる全体主義という観念は最近は「古くさい」または「信の措けない」ものとしてますます却下されてきていることを、私は知っている。
 その有効性は、疑問視されてきた。
 だが、私は、観念上であれ、歴史的にであれ、それの正当性を否定する分析というものを知らない。むしろ、それを正当視する、以前の多数の分析を知っている。
 じつに、共産主義は個人の国家所有を意味するだろうとの予言は、プルードン(Proudhon)において現れた。そして、のちに多数の著名な著作者たちは、そのことが実際にソヴィエト社会で発生したと指摘し、そのように描写すらした(その際に彼らが「全体主義」という語を用いたか否かは別として)。ここでそれらを引用することは、無意味な衒学趣味になるだろう。//
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 第三節につづく。

1981/L・コワコフスキら編・社会主義思想(1974)②。

 Leszek Kolakowski & Suart Hampshire, ed, The Socialist Idea - A Reappraisal.(Basic Books, Inc. Publishers, New York, printed in Great Britain, 1974).
 これの紹介のつづき。
  L・コワコフスキの序文は、さらに続けると、「日本」に触れる一文を除外すると、こう書く。p.7。
じかの邦訳にはしないでおく。
 種々の理由で、この企画は完全には実現されず、若干のテーマは報告を欠き、若干の報告は予定された定式に厳密には従っていなかった。
 そこで、この会合・シンポジウムでは報告されなかった三論文を、この書物で追加することとした。別の会合で報告されたものだ。
 また、一つの論文は、この書物のために執筆された。〔以下の○〕
 本書には、レディング会合・シンポジウムでの報告に対する、五つの論評・コメントも収録している。
  この書の構成・内容は、L・コワコフスキの「序文」(Introduction)とS・ハンプシャイアの「後記」(Epilogue)を含めて、仮訳すれば、つぎのとおり。<>内は報告者等の出身国。必ずしも「国籍」ではないかもしれない。
 上にいう(主)報告に対する論評の論考は、目次上では必ずしも明確でないので、コワコフスキの「序文」にもとづいて秋月が**を付記した。〔以下の**〕
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 01 序文/L・コワコフスキ。
 02 人間の自己認識〔識別・一体性〕という神話-社会主義思想での市民社会と政治社会の統一/L・コワコフスキ。
 03 **市民社会と政治社会の統一-L・コワコフスキへの回答/S・ハンプシャイア。<英>
 04 社会主義と世界観/Charles Taylor.<カナダ>
 05 平等に関する省察/J. P. Mayer.<英>
 06 ○社会主義と平等/Steven Lukes.<英>
 07 社会主義、革命と暴力/Gajo Petrovic.<ユーゴ>
 08 精密さへと向かうマルクス主義の発展について/Fritz J. Raddatz.<独>
 09 社会主義と労働者階級/Tom Bottomore.<英>
 10 社会主義と民族/Peter C. Ludz.<独>
 11 **社会主義とナショナリズム/Vladimir V. Kusin.<チェコ>
 12 生産手段としての余暇/Michael Harrington.<米>
 13 **社会主義に対する現代技術の意味-Michael Harrington報告へのコメント/Wlodzimierz Brus.<ポーランド>
 14 社会主義と所有制/Ljubo Sirc.<ユーゴ>
 15 **社会主義と所有制/Domenico Mario Nuti.<伊>
 16 産業民主主義、自己管理と生産の社会的管理/Maria Hirszowicz.<ポーランド>
 17 **Maria Hirszowicz 報告へのコメント/Franz Marek.<墺>
 18 先進民主主義諸国での将来の社会主義/Richard Lowenthal.<独>
 19 **社会主義の理論とイデオロギー/Gilles Martinet.<仏>
 20 後記/S・ハンプシャイア。<英>
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1974/L・コワコフスキら編著(1974年)序文①。

 L・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)が二人の編者のうちの一人となっていた書物に以下がある。当然に?、邦訳書はない(はずだ)。
 Leszek Kolakowski & Stuart Hampshire, ed, The Socialist Idea - A Reappraisal.(Basic Books, Inc. Publishers, New York, printed in Great Britain, 1974).
 L・コワコフスキ=S. Hampshire 編・社会主義思想-再評価(New York、1974)。
 L・コワコフスキが前記または序文を書いていて、それによると、じかの邦訳にはしないが、途中までの原文の内容は、ほぼつぎのとおり。
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 1973年4月にイギリスのレディング(Reading)でレディング大学等々が支援する国際的な会合・シンポジウム(meeting)が開かれ、この書物はほぼその記録だ。
 上の編者二人とあと二人(Robert Cecil とG. Weidenfeld)の四人で構成した組織委員会が最初に企画したテーマは、つぎだった。
 <社会主義思想の何が間違っているのか?
 これでは実際に社会主義が間違っていることを前提にしていると見られるので、つぎの穏やかなものに変えた。
 <社会主義思想には何か間違っているものがあるか?
 しかし、明らかな全員一致ではないとしても、この会合の出席者たちは、圧倒的につぎのように考えていた。
 今日〔当時〕の社会主義思想と社会主義運動に両方に影響を与えている深刻な危機の原因は、元々の歴史的事情のみではない。そうではなく、不明瞭で矛盾している、社会主義思想が含む原理そのものに起因している。
 この会合の目的は現存する〔当時の〕社会主義国や社会主義運動を批判することではなく、第一に、社会主義思想を成り立たせている根本的で伝統的な観念や価値をあらためて分析すること、第二に、歴史上の経験と理論上の批判の双方に照らして、社会主義思想の有効性に疑問を投げかけること、だった。
 議論がいわゆる社会主義諸国の経験を無視することができないのは明らかだが、批判するとしてもそれは、直接に政治的態度を表明するためにでは全くなく、社会主義思想それ自体の分析を助けるためだった。
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 以下は一部の紹介になる。以下の各テーマ(topics)についてかなり詳しい内容または問題意識が書かれているが、テーマ名以外は省略する。
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 最初の企画案は<中略>というもので、大きくはつぎの12点をより具体的なテーマとした。
 ①経済の自主管理の観念と社会的な生産管理。
 ②社会主義に対する現代的技術の示唆(意味)。
 ③社会主義計画と市場経済。
 ④社会主義と所有制度。
 ⑤社会主義と民族(nation)。
 ⑥社会主義と労働者階級。
 ⑦性質(quality)の意味。
 ⑧社会主義、革命および暴力(violence)。
 ⑨市民社会と政治社会の統合という理想。
 ⑩社会主義と世界観(Weltanschauung)。
 ⑪教育と「社会主義的人間」。
 ⑫社会主義と伝統という価値。
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 以下は、原文を眺めながらの秋月の文章になる。
 このような企画の(趣旨・)具体的テーマは、全てが達成されたのではなかったようだ。
 いくつかについては発表(・報告)自体が欠落し、いくつかの報告は企画の趣旨・テーマと必ずしも合致しなかった。
 (「日本」が出てくるあたりのここで止めて、次回へとつづく。)
 ***
 なお、この書物の契機となった1973年のレディング(Reading)での会合というのは、つぎの会合を指しているように思われる。
 L・コワコフスキがこの欄では「左翼の君へ」と題してかつて試訳を紹介した、かなり長い、E・トムソンに対する反論・批判の公開書簡の中で、E・トムソンが招聘状が自分には送られてこなかったと不満を述べている(とL・コワコフスキが書いている)会合。
 My Correct Views on Everything, 1974, in: Leszek Kolakovski, Is God Happy ?(2012) 。
 本欄№1526/「左翼の君へ」-レシェク・コワコフスキの手紙①(2017/05/02付)参照。

1959/L・コワコフスキ著第三巻第四章第13節③。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。第三巻分冊版p.174-。
 第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
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 第13節・スターリニズムの最終段階でのヨーロッパ・マルクス主義③。
 (16)ソヴィエトの宗主権のもとにある他諸国では、文化上のスターリン主義化は、さまざまな理由で、より全面的で、より破壊的だった。
 東ドイツはソヴィエトによる直接占領下にあり、スターリニズムはプロシア的(Prussian)伝統と結合して、硬い反啓蒙主義の雰囲気を生んだ(のちに別に論述するErnst Bloch の活動のおかげで救われた)。
 さらに、1961年までは西ドイツへと逃亡することが困難でなかった。そう行動した400万の人々の中には、多数の知識人がいた。そして、彼らがいなくなったことで、その母国地域の荒廃が増大することになった。
 チェコスロヴァキアもまた、容赦なきイデオロギー的迫害(purge)を被った。その影響の跡を、今日でもまだ感じ取ることができる。
 ここでのしばらくの間の文化的独裁者は、元来は音楽に関する歴史学者のZdeněk Nejedlý だった。この人物は強権でもって芸術を監視し、チェコの古典文学を「校訂」し、「コスモポリタン」のドヴォルザーク(Dvořák)の作品の上演を禁止するなどをした。
 ブルガリアで彼の位置にいたのは、Tedor Pavlov だった。この人物は典型的なマルクス主義好事家(dilettante)で博識ぶっており、生物学、文学、哲学その他について執筆した。
 最もよく知られた著作は、戦争前に刊行されてロシア語に翻訳された、<反射の理論>と題するレーニン主義の認識論の論文だった。
 「反射」という概念はこの著作では、機械的な因果関係論から先に進んだ、個々の事物が相互に行使し合うことのできる全種の影響力を指すという、広い意味で用いられていた。
人間の感知いう行動と抽象的思考はこの「反射」の特殊な場合であって、最高度の次元で事物を構成化したものだ。
 たまたまこの時期に、ソフィア大学〔ブルガリア〕の哲学の老練教授のMikhalchevが、第二級のドイツ経験批判論者であるRehmke (1930年没)の指導を受けていた。
 そのゆえにそれ以降の多年にわたり、ブルガリアのマルクス主義哲学者の主要な課題は、 「Rehmke 主義と闘う」ことになった。//
 (17)ハンガリーでは、マルクス主義は最初から強い地位にあった。それは、前世代に何人かの傑出した哲学者たちが存在したことを理由とした。すなわち、J. Révai、B. Fogarsai、そしてG. Lukács (ルカチ)。
 Révai は、一時期、ハンガリー文化のスターリン主義化の責任をもつ党代表者だった。
 ルカチ(Lukács)は、この時期を通じて二重の位置にあった。スターリニズムの最後の年月の間での彼の書物や論文は、ヘーゲルに関する書物を除いて申し分なく正統派のものだったけれども。
 ヘーゲルに関する書物は戦争前に執筆され、1948年にドイツで出版された。
 この本は完全に非ソヴィエト様式のもので、決してスターリン・ズダノフの公式と適合していなかった。//
 (18)西ヨーロッパでは、マルクス主義の位置はいくぶん異なっていた。
 全ての共産党がいつでもスターリンの方針を忠実に支持し、ソヴィエトの政策を称え、指導者(Leader)の個人崇拝を伝道していた、というのは本当だ。
 しかし、フランス、イギリスでは、そしてイタリアでも、ソヴィエトの範型は、哲学や歴史学に関する理論上のマルクス主義著作物を完全には支配していなかった。
 とは言え、それからの逸脱の程度は、内容の点でよりも様式や議論の方法の方が大きかった。//
 (19)フランスの共産主義者の運動は、1945年後の最初の数年間で大きな勢いで強くなった。
 冷戦の最初から、共産党は主要な政治および議会の諸問題で堅牢な態度を維持し、利点とは関係なく全ての政府の動きを妨害した。但し、地域または都市内の問題については、その政策は戦術的で融通性があった。
 同時に、共産党は、第一次大戦以前のドイツ社会民主党にむしろ似ている基本方針をもって、文化生活の入念で高級なかたちを発展させた。
 党は、理論誌<Pensée>を含む多数の定期刊行物を出版し、その隊列の中に、国民的に名高い多数の優れた男女を数え込んだ。すなわち、Aragon やÉluard のような文筆家、Picasso (ピカソ)やLéger のような画家、Juliot-Curie (ジョリオ=キュリー)たちのような科学者。
 こうした全ての者たちの力で、共産党の活動は相当の威信を獲得した。
 かなりの量の哲学上の文献が、出版された。その中のある程度は純粋にスターリニズムのもので、とくに党の月刊誌<Nouvell Critique>上のものはそうだった。
 例えばこの雑誌は、当時にフランスで関心が増えていた精神分析論に対する反対運動を打ち上げた。
 予期されるように、寄稿論考のほとんどは、精神分析論をブルジョア的学問だ、そのうえに観念論で機械論だ、と非難し、社会現象を個人の心理に、人間の精神を生物的な衝動に帰一させるものだ、とした。  
1960年代の「リベラルな」共産主義の運動者として注目されるべきRoger Garaudy(ロジェ・ガロディ) は、内容的はスターリニズムだがソヴィエトでの著作物よりも確実に十分に知見のある好著をいくか執筆した。
 その一つは<Grammaire de la libertéa〔自由の文法〕>で、自由を獲得する方法は産業を国有化して失業を廃絶させることだ、と論じた。
 Garaudy は<Les Sources françaises du socialisme scientifique 〔科学的社会主義のフランスの起源〕>(1948年)では、共産主義はフランス文化に深てかつ独特の根源をもつことを論証しようとした。
 彼はまた、キリスト教に関する書物を書き、カトリック教会が反啓蒙主義であり科学の進展に反抗している証する文章類を引用した。//
 (20)いくぶん異なる性格の、多作の文筆家だったHenri Lefebvre(アンリ・ルフェーヴル)は、マルクスとヘーゲルの著作撰者の一人で、民族主義およびファシズムに反対する複数の著書の執筆者だった。
 彼は1947年に、<Logique formelle et logique dialectique(形式論理と弁証法的論理)>と興味深い<Critique de la vie quotidienne(日常生活批判)>を出版した。
のちには実存主義批判に至り(1960年代や1970年代のフランス・マルクス主義者が論述するのを避けられないものだった)、さらに、デカルト、ディドロー、ラブレー、パスカル、ミュッセ〔Alfred de Musset〕、マルクスおよびレーニンの著作に批判を向けた。絵画や音楽に関する学位論文もある。
 これらの著作は全て、スケッチ風のもので深遠な研究書ではない。しかし、独特のかつ有意義な観察を含んでいる。
 ルフェーヴルは、幅広い文化、とくにフランスとの関係でのそれを知る人物だ。
 彼の著作は生き生きとしていて、独創的だ。しかし、あまりに多数の主題に接触しすぎて、それらのいずれの主題についても長くは存続しなかった。
 彼は、フランスのマルクス主義に対して相当大きい影響力をもった。それは中でも、ソヴィエト・マルクス主義が実践的に無視したマルクスの初期の著作に、頻繁に立ち戻って思考したことによる。
 彼はとくに、「全体的(total)人間」という主題に関心をもった。
 「若きマルクス」が1940年代および1950年代初めにフランス哲学の支え(staple)になったのは、ルフェーヴルに大きく依っている。
 彼はまた、おそらく「疎外(alienztion)」というマルクス主義用語を一般的にした最大の人物だ。この語は(彼が意図したのではないが)、曖昧に心地よくない状況を指し示すためのフランスの日常用語として、好まれる表現句となった。
 傑出したマルクス主義歴史学者のArguste Cornuk(オーギュスト・コルニュ)の著作は、この時期での党の哲学の主流とはいくぶんか離れている。//
 (21)スターリン・イデオロギーの解体の時代のフランス・マルクス主義の進展は、1940年代のヘーゲル主義と実存主義のうねりに影響を受けていた。
 ヘーゲル、とくに<精神現象学>、のフランスの読者への主要な紹介者は、Alexandre Kojève(A・コジェーヴ)とJean Hyppolite(J・イポリット) だった。前者は、戦争前にヘーゲル哲学に関して深く研究して論評していた。
 この二人はいずれもマルクス主義者または共産主義者ではなかったが、マルクスの思想に同調的な関心をもち、真摯に分析し、ヘーゲル体系(schemata)の諸要因がマルクスの思想に影響を与えたことを強調した。
コジェーヴとイポリットは、フランス哲学をその伝統的な回路と関心から逸らす大きな仕事をした。
 とりわけ、歴史の進行の中に具現化された理性(Reason)という考えに通用力を与えた。-この観念は反デカルト的なものだった。なぜなら、デカルトは、歴史を本質的には偶然が支配する領域で、哲学の及ぶ範囲外にあり、意識的な虚構による人為的な構成物、デカルトが名付けたような<fabula muudi>、という手段による以外には合理的に説明することができないものだ、と考えたからだ。
 コジェーヴは1947年に出版された講義録で、労働と闘争によって人間が自分で作り出す歴史としての<現象学(Phenomenology)>を提示した。
 主人と下僕の弁証法のうちに、彼は、マルクスのプロレタリアート理論と歴史を創造するもの(demiurge)としての労働という考えの起源を感得した。
 コジェーヴとイポリットは、マルクスの歴史にかかる哲学はヘーゲルの否定の弁証法を継続させたものだとということを示した。-悪、隷従および疎外は、人類が自己の理解と解放を達成するために必要な手段だ。
 イポリットはとくに、マルクスにとってと同様にヘーゲルにとって理性は、歴史の行路から自立した独自の法則をもつ超越的な観察者ではなく、それ自体が歴史の要素、側面または表現だということを、強調した。また、「理性的なもの」に向かう人類の進歩は漸次的に同質化していく、思考についての既製の法則の問題ではなく、共同体と他者にある理性的なもの承認という意識の成長の問題だ、とも。
 この目的を達成するためには、人間は商品(commodity)として機能することをやめることが必要であって、このことがマルクスの主要なメッセージだ。//
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 ④へとつづく。次の段落の冒頭は、「サルトルの実存主義哲学…」。

1956/L・コワコフスキ著第三巻第四章第13節②。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。第三巻分冊版p.170-。
 第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
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 第13節・スターリニズムの最終段階でのヨーロッパ・マルクス主義②。
 (7)武装侵攻以外の全ての形態での圧力が激烈に加えられたにもかかわらず、ユーゴスラヴィア共産党はその自立性を維持し、スターリン主義共産主義体制に戦争以降で最初の実質的な亀裂をもたらした。
 分裂後すぐに、ユーゴの党イデオロギーは、共産主義諸党は自立していなければならないと強調し、ソヴィエト帝国主義を非難する点でのみ、ソヴィエトと異なった。
 マルクス=レーニン主義の一般的原理はユーゴスラヴィアに力を持って残ったままであり、その点ではソヴィエト同盟で観察されたものと異なってはいなかった。
 しかしながら、やがて政治的教理の基礎は修正主義へと進み、ユーゴスラヴィアは社会主義社会についての自分自身のモデルを生み出し始めた。それは、重要な態様でロシアのそれとは異なっていた。
 (8)この頃までのコミンフォルムは、反ユーゴスラヴィア情報宣伝活動の道具とほとんど同じだった。その<存在理由>は、1955年春にフルシチョフ(Khrushchev)がベオグラードと和解しようと決定したときに消滅した。
 だが現実には、コミンフォルムは1956年4月までは解体されなかった。
 知られているかぎりで、そのとき以降、ソヴィエトの党は国際共産主義の組織的形態を設立しようとはせず、可能なかぎり、個別の諸党に対して直接的な統制を加えることによって闘い、ときおりは、世界的問題に関する決議を採択するための会議を呼びかけた。
 しかしながら、これらは従前に比べると成功しなかった。努力したにもかかわらず、ソヴィエトの指導者たちは、かつてユーゴスラヴィアについて行ったのと同様に中国共産党からの国際的非難を受けないようにすることが、うまくはできなかった。
 (9)スターリン支配の最後の年は、共産主義世界全体での、教理のソヴィエト化(Sovietization)を特徴とした。
 このことの影響はブロック内の国々によって異なった。しかし、圧力と趨勢は、一般的に言って同一だった。
 (10)以前の章で述べたように、ポーランドのマルクス主義はそれ自体の伝統をもち、ロシアのそれから全く自立していた。
 この伝統には単一の正統な形態はなく、厳密な党イデオロギーもなかった。
 ポーランドの知的情景の中では、マルクス主義はたんに一つの傾向にすぎず、きわめて重要なものでもなかった。
しかしながら、型にはまった教理を主張するのではなかったが、マルクス主義の諸範疇をその研究に利用した歴史学者、社会学者、および経済学者たちがいた。
 とりわけLudwik Krzywicki とStefan Czarnowski (1879-1937)だ。後の人物は傑出した社会学者、宗教歴史学者で、その晩年には、ある範囲で、マルクス主義へと接近した。
 (彼は、プロレタリア文化に関するある小論文で、新しい精神性と新しい類型の芸術の起源を労働者階級の状況と関連させて分析した。)
1945年の後の数年のうちに、この伝統が復活した。新しいマルクス主義の思考は、古いそれと同じく、特定の厳格な方向に何ら限定されておらず、むしろ、合理主義や文化的諸現象を社会紛争と関連させて分析する習慣の背景であるように見えた。
 こうした緩やかで、聖典化されないマルクス主義は、月刊誌<Mysl Wspolczesna(現代思想)>や週刊誌<Kuźnica(前進)>などの雑誌で表現されていた。
 1945-50年に、諸大学が戦前の方針のもとで再設立された。たいていは同じ教育スタッフが担当した。
 教育の分野でのイデオロギー的な粛清(purge)は、まだ存在しなかった。
 この時期に出版された多数の科学書や科学雑誌は、マルクス主義とは何の関係もなかった。
 体制側は「プロレタリアート独裁」とはまだ自称しなかった。そして、党のイデオロギーは共産主義の主題を強調せず、むしろ、愛国主義、民族主義または反ドイツの主題を重視した。
 ソヴィエト類型のマルクス主義は、この時期の背景には多く見られた。
 その主要な語り手は、Adam Schaff だった。この人物は、レーニン=スターリン主義の範型の弁証法的唯物論や歴史的唯物論について解説する書物や手引き書を執筆した。但し、ソヴィエトにいる同種の者たちのものほどに幼稚ではなかった。
 最悪の時代であってすら、ポーランドのマルクス主義はソヴィエトの水準にまで低落することがなかった、と一般的に言ってよい。
 ロシアの範型によって浸食されたにもかかわらず、ポーランド・マルクス主義は、ある程度の独創性と、理性的な思考に対する内気な敬意を保った。//
 (11)1945-49年に、政治と警察による抑圧がより強くなった。
 戦争後のおよそ二年の間、ドイツの侵略者と闘った、そしてロシアによって押しつけられた新しい体制に屈服するのを拒む、地下軍隊との武装衝突があった。
 処刑と頻繁な流血は、武装地下軍団や戦時中の政治組織に対する闘いの特質だった。農民政党やその他の合法的な非共産主義集団に対する闘いについても同様だったが。
 にもかかわらず、この時期の文化的圧力は、純粋に政治的な問題についてに限られていた。
 マルクス主義はまだ、哲学または社会科学での拘束的な標準たる地位を占めていなかった。かつまた、芸術や文学での「社会主義リアリズム」は、知られていなかった。//
 (12)1948-49年、ポーランドの党は「右翼民族主義者」を粛清した。
 党指導部は交替し、政治生活はロシアの指針に適合するようになり、農村の集団化が決定された(但し、いかなる程度にでも実施されなかった)。そして、体制はプロレタリアート独裁であることが、公式に宣言された。
 1949-50年、政治的な浄化のあとに続いたのは、文化のソヴィエト化だった。
 多数の学術および文化に関する雑誌が閉刊され、それらには新しい編集者が着任した。
 1950年代の初めに、ある範囲の「ブルジョア」教授たちが解任された。しかし、その数は大して多くはなかった。そして、教育や出版はすることができなかったけれども、給与を貰って、状況が苛酷でなくなった数年のちには出版することとなった書物を執筆していた。
 哲学学部の一定範囲の教授たちには職が残されたが、論理の教育に限定するように命じられた。
 その他の者たちには、科学アカデミーの中に再び職が与えられた。そこで彼らは、学生たちとの接触をしなかった。
 社会科学部門のカリキュラムは変更され、社会学の講座は歴史的唯物論の講座に替えられた。
 党の特別の研究所が、イデオロギー的に微妙な哲学、経済学および歴史学の部門について、「ブルジョア」教授たちに代わって幹部たちを研修するために、設置された。
 哲学については、マルクス主義的「攻撃」の手段は雑誌<Mysl Filozoficzna(哲学的思考)>だった。
 マルクス主義哲学者たちは一定期間、非マルクス主義の伝統と、とくに分析哲学のLwow-Warsaw 学派と闘うことに傾注した。Kotarbinski、Ajdukiewicz、Stanislaw Ossowski、Maria Ossowska、等々だ。
 多数の書物と論文が、上の学派の考え方の多様な論点を批判した。
 もう一つの攻撃対象は、トーマス主義(Thomism) だった。これは、Lublin カトリック大学を中心として強い伝統を持っていた。
 (この大学は-社会主義国家の歴史上例のないことだが-抑圧されたことがなく、様々な圧力と干渉の手段が講じられたにもかかわらず、今日まで機能している。)
 老若両世代の多数のマルクス主義者たち-Adam Schaff、Bronislaw Baczko、Tadeusz Kroński、Helena Eilstein、Wladyslaw Krajewski-が、この闘いに参加した。この著の執筆者〔L・コワコフスキ〕もそうだったが、この事実が誇りの大元だとは考えていない。
研究のもう一つの主題は、過去数十年間のポーランド文化に対するマルクス主義の寄与だった。//
 (13)この時代の文化的進展について完全に論評するのは、まだ時機が早すぎる。しかし、強要された「マルクス化(Marxification)」には、ある程度の埋め合わせ的な特徴があった。
知的生活は確かに、貧困でかつ不毛なものになった。しかし、マルクス主義の普及は、それが伴った強制にもかかわらず、良いことももたらした。
 破壊的で反啓蒙主義的な部分もあったが、本質的に価値があり、多かれ少なかれ知的な世界的相続財産たる性格をもつ特質を、それは持ち込んだ。
 例えば、文化的諸現象を社会的対立の側面だと把握したり、歴史的進展の経済的および技術的背景を強調したりする習慣だ。概して言うと、諸現象を、幅広い歴史的な趨勢との脈絡で研究する、ということだ。
 人文諸学問の新しい方向のある程度は、イデオロギー的な契機をもつものではあったが、例えばポーランドの哲学や社会思想の歴史に関して、価値ある結果を生み出した。
 哲学上の古典の翻訳書の出版やポーランドの社会思想、哲学思想、宗教思想に関する標準的著作物の再出版というかたちで、有意味な仕事がなされた。//
 (14)スターリン主義の時代には、国家は文化に対して全く寛容に助成金を支給した。その結果として、大量のがらくた作品が生産されたが、しかし、永続的価値をもつものも多く生まれた。
 一般的な教育水準と大学への入学者数は、戦前と比べて顕著に上昇した。
 破壊的だったのはマルクス主義での一般的教育ではなく、強制と政治的欺瞞の道具としてそれが用いられたことだった。
 初歩的で型に嵌まった形態だったとしてすら、マルクス主義は、その伝統の一部である有益で理性的な思考を植え付けることに、ある程度はなおも貢献した。
 しかし、そうした思考方法の種子は、マルクス主義の諸教理の抑圧的な利用が緩和されていてのみ、成長することができた。//
 (15)概していえば、厳密な意味でのスターリニズムは、ポーランドの文化にとって、ブロックの他諸国のそれに対するほどには有害ではなかった。そして、元に戻せない程度は、より低かった。
 このことには、いくつかの理由があった。
 まず、たいていは受動的だったが自発的な文化的抵抗と、ロシアに由来するもの全てに対する深く根ざした不信または敵意があった。
 スターリニズム文化の押し付けについては、一定の気乗り薄さ、あるいは首尾一貫性の欠如もあった。すなわち、マルクス主義が人文諸科学を絶対的に独占することは決してなかった。また、ソヴィエト的様式で生物学に圧力を加えようとする試みは貧弱だったし、効果もなかった。
 「社会主義リアリズム」の運動はある程度の釈明的な無価値のものを生んだが、文学や芸術を破壊することはなかった。
 高等教育の諸施設での迫害(purge)は、比較的に小規模だった。
 図書館で禁書とされた書物の割合は、他のどの諸国よりも小さかった。
 さらに加えて、ポーランドでの文化的スターリニズムは、比較的に短命だった。
 それは本気で1949-50年に始まったが、1954-55年にはすでに衰亡しつつあった。
 実証するのは困難ではあるが、もう一つの緩和要因が働いていた、と言うことができる。すなわち、戦前のポーランド共産党を破壊してその指導者たちを殺戮したスターリンに対する、多数の老練共産主義者たちの反感だ。//
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 ③へとつづく。

1944/L・コワコフスキ著第三巻第四章第12節①。

 なかなかに興味深く、従って試訳者には「愉快」だ。スターリンなら日本共産党も批判しているという理由で、スターリン時代に関するL・コワコフスキの叙述を省略する、ということをしないでよかった。
 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。第三巻分冊、p.157-.
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
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 第12節・スターリニズムの根源と意義・「新しい階級」の問題①。
 (1)共産主義者および共産主義に反対の者のいすれもが、スターリニズムの社会的根源と歴史的必然性に関して参加している論議は、スターリンの死後にすぐに始まり、今もなお続いている。
 我々はここで全てのその詳細に立ち入ることなく、主要な点のみを指摘しておこう。
 (2)スターリニズムという基本教条の問題は、その不可避性の問題と同一ではない。ともかくもその意味するところを解明するのが必要な問題だ。
 歴史の全ての詳細は先行する事象によって決定されると考える人々には、スターリニズムの特有な背景を分析するという面倒なとことをする必要がない。しかし、そういう人々は、その「不可避性」をあの一般的な原理の一例だと見なさなければならない。
 その「不可避性」原理は、しかしながら、受容すべき十分な根拠のない形而上学的前提命題だ。
 ロシア革命の行路のいかなる分析からしても、結果に関する宿命的必然性はなかった、と理解することができる。
 内戦の間には、レーニンが自身が証人であるように、ボルシェヴィキ権力の運命が風前の灯火だった、そして「歴史の法則」なるものはどういう結果となるかを決定しない、多数の場合があった。
 レーニンを1918年に狙った銃弾が一または二インチずれていてレーニンを殺害していれば、ボルシェヴィキ体制は崩壊していただろう、と言えるかもしれない。
 レーニンが党指導者たちをブレスト=リトフスク条約に同意するよう説得するのに失敗していたならば、やはりそうだっただろう。
 このような例は他にも、容易に列挙することができる。
 こうした仮定によって生起しただろうことに関してあれこれと思考することは、今日では重要ではなく、結論は出ないはずだ。
 ソヴェト・ロシアの進展の転換点-戦時共産主義、ネップ(N.E.P, 新経済政策)、集団化、粛清-は、「歴史的法則」によるのではなく、全てが支配者によって意識的に意図された。そして、それらは発生し「なければならなかった」、あるいは支配者はそれら以外のことを決定できなかった、と考えるべき理由はない。//
 (3)歴史的必然性の問題がこうした場合に提起され得る唯一の有意味な形態は、つぎのようなものだ。すなわち、その際立つ特質は生産手段の国有化とボルシェヴィキ党による権力の独占であるソヴェト・システムは、統治のスターリニスト体制により用いられて確立されたのとは本質的に異なる何らかの手段によって、維持することができていなかったのか?
 この疑問に対する回答は肯定的だ、ということを理性的に論じることができる。//
 (4)ボルシェヴィキは、講和と農民のための土地という政綱にもとづいてロシアで権力を獲得した。
 これら二つのスローガンは、決して社会主義に特有ではなく、ましてマルクス主義に特有なものでもない。
 ボルシェヴィキが受けた支持は、主としてはこの政綱のゆえだった。
 しかしながら、ボルシェヴィキの目標は世界革命だった。そして、これが達成不可能だと分かったときは、単一政党の権威を基礎とするロシアでの社会主義の建設。
 内戦の惨状のあとでは、何らかの主導的行為をする能力のある党以外には、活動力のある社会勢力は存在しなかった。このときまでに存在したのは、社会の全生活やとくに生産と配分に責任をもち得る、政治的、軍事的かつ警察的装置という確立していた伝統だつた。
 ネップは、イデオロギーと現実の妥協だった。第一に、国家はロシアでの経済的な再生に取り組むことができなかった、第二に、実力行使によって経済全体を規整する試みは厄災的な大失敗だった、第三に、市場の「自然発生的な」働きからのみ助けが得られることができた、ということを認識したことから生じたものだった。
 経済的妥協は、いかなる政治的譲歩も含むものとは意図されておらず、国家権力を無傷なままで維持させた。
 農民はまだ社会化されておらず、唯一つ主導的行為をする能力をもつのは、国家官僚機構だった。
 この階級は、「社会主義」を防護する堡塁だった。そして、そのシステムのさらなる発展は、膨張への利益と衝動を反映していた。
 ネップの結末と集団化の実施は、たしかに歴史の意図の一部ではない。そうではなく、システムとその唯一の活動的要素の利益によって必要とされた。
 すなわち、ネップの継続は、つぎのことを意味しただろう。第一に、国家と官僚機構が農民層の情けにすがっていること、第二に、輸出入を含む経済政策の大部分が、彼ら農民層の要求に従属しなければならないこと。
 もちろん我々は、かりに国家が集団化ではなく取引の完全な自由と市場経済へ元戻りするという選択をしていればどうなったか、を知らない。
 トロツキーと「左翼」が抱いた、ボルシェヴィキ権力を打倒しようとの意図をもつ政治勢力を発生させるだろう、との恐怖は、決して根拠がなかったわけではなかった。
 少なくとも、官僚機構の地位は強くなるどころか弱くなっていただろう。そして、強い軍事と工業の国家を建設するのは無期限に先延ばしされただろう。
 経済の社会化は、民衆の莫大な犠牲を強いてすら、官僚機構の利益であり、システムの「論理」のうちにあった。
 事実上は社会から自立していた支配階級と国家の具現者であるスターリンは、ロシアの歴史上は以前に二度起こっていたことを行った。
 彼は、社会の有機的な分節から自立した新しい官僚制階層が生じるように呼び寄せ、それを全体としての民衆、労働者階級、に奉仕することから、あるいは党が相続したイデオロギーから、最終的には全て解放した。
 この階層はすぐにボルシェヴィキ運動内の「西欧化」要素を破壊し、マルクス主義の用語法をロシア帝国の強化と拡張のための手段として利用した。
 ソヴィエト・システムは、それ自身の民衆たちに対する戦争を絶えず行った。それは民衆が多くの抵抗を示したからではなく、主としては支配階級が戦争状態とその地位を維持するための攻撃とを必要としたからだ。
 微小な弱さであっても探ろうとしている外国の工作員、陰謀者、罷業者その他の者にもとづく敵からの国家に対する永続的な脅威は、権力を官僚機構が独占していることを正当化するためのイデオロギー的手段だ。
 戦争状態は、支配集団自体に損傷を与える。しかし、これは統治することの必要な対価の一部だ。//
 (5)マルクス主義がこのシステムに適合したイデオロギーだった理由に関してはすでに論述した。
 それは疑いなく、歴史上の新しい現象だった。しばしば歴史研究者や共産主義批判者が論及するロシアとビザンティンの全ての伝統-市民的民衆に<向かい合う>国家がもつ高い程度の自律性や<chinovnik>の道徳的かつ精神的な特質等-があったにもかかわらず。
 スターリニズムは、ロシア的伝統とマルクス主義の適合した形態にもとづいて、レーニズムを継承するものとして発現した。
 ロシアとビザンティンの遺産の重要性については、Berdyayev、Kucharzewski、Aronld Toynbee、Richard Pipes(リチャード・パイプス)、Tibor Szamuely やGustav Wetter のような著述者たちが議論している。//
 (6)このことから、生産手段を社会化する全ての試みは結果として必ず全体主義的社会をもたらす、ということが導かれるわけではない。全体主義的社会とは、全ての組織形態が国家によって押しつけられ、個人は国家の所有物のごとく扱われる、そういう社会だ。
 しかしながら、全ての生産手段の国有化と経済生活の国家計画(その計画が有効か否かを問わず)への完全な従属は、実際には全体主義的社会へと至ってしまう、というのは正しい。
 システムの基礎が、中央の権威が経済の全ての目標と形態を決定する、そして労働分野を含む経済はその権威による全ての分野での計画に従属する、ということにあるのだとすれば、官僚機構は、活動する唯一の社会勢力になり、生活のその他の分野をも不可分に支配する力を獲得するに違いない。
 多数の試みが、国有化することなく、経済的主導性を生産者の手に委ねつつ財産を社会化する手段を考案するために、なされてきた。
 このような考え方は、部分的にはユーゴスラヴィアに当てはまる。しかし、その結果は微小で曖昧すぎるものであるため、成功する明確な像を描くことができていない。
 しかしながら、根本的なのは、相互に制限し合う二つの原理がつねに作動している、ということだ。
 経済的主導性が生産のための個々の社会化された単位の手に委ねられる範囲が大きければそれだけ、またこの単位がもつ自立性の程度が大きければそれだけ、「自然発生的」な市場の法則、競争および利潤という動機、これらがもつ役割は大きくなるだろう。
 生産単位に完全な自律性を認める社会的な所有制という形態は、全員に開かれた、完全に自由な資本主義に元戻りすることになるだろう。唯一の違いは、個人的な工場所有者が集団的なそれに、すなわち生産者協同組合に、置き換えられることだけだ。
 計画の要素が大きくなればそれだけ、生産者協同組合の機能と権能は大きく制限される。
 しかしながら、程度の違いはあるけれども、経済計画という考え方は、発展した産業社会で受け入れられてきた。そして、計画と国家介入の増大は、官僚機構の肥大化を意味している。
 問題は、現代の産業文明の破壊を意味するだろう官僚機構をどのようにして除去するかではなく、代表制的な機関という手段によってその活動をどのようにして制御するかにある。//
 (7)マルクスの意図に関して言うと、彼の諸著作から抽出することのできる全ての留保にかかわらず、マルクスは疑いなく、社会主義社会は完全な統合体(unity)、私的所有制という経済的基盤が排除されるにともなって利益の衝突が消失する社会、の一つだろうと考えていた。
 マルクスは、この社会は議会制的政治機構(これは不可避的に民衆から疎外した官僚制を生じさせる)や市民の自由を防護する法の支配(rule of law)のようなブルジョア的諸装置を必要としないだろう、と考えた。
 ソヴィエト専制体制は、制度的な方法によって社会的統合体を生み出すことができるという考えと連結して、この教理を適用する試みだった。//
 (8-1)マルクス主義は自己賛美的ロシア官僚制のイデオロギーとなるべく運命づけられていた、と語るのは、馬鹿げているだろう。
 にもかかわらず、偶然にとか副次的にとかいうのではなく、マルクス主義は、この目的のために適応させることのできる、本質的な特質をもっていた。
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 段落の途中だがここで区切る。②につづく。

1940/L・コワコフスキ著第三巻第四章第11節②。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。 
 全体的に、以下の独語訳書(1979年、新改版1989)をも照合して、試訳とした。抽象度、理論度・「哲学」度が(試訳者には)高いので、趣旨を把握し難い部分があるからだ。従って、必ずしも英語訳書の「試訳」ではない(英語版と独語版の違いの印象についてはいずれ言及する)
 Leszek Kolakowski, Die Hauptströmungen des Marxismus.(1979年、新改版1989年)、Der dritter Band, Zerfall.
 試訳者のいちいちのコメントは原則として行っていない。但し、前回と今回の<弁証法的唯物論>批判は、マルクス主義「哲学」の根本にかかわるので、マルクス・エンゲルスに関する部分は未読だが、L・コワコフスキ著の理解にとって重要な部分だろう。表現を少し変えると、L・コワコフスキによると、「弁証法的唯物論」は結局は、つぎの三つの部分(範疇)で成っている(前回①の(3))。
 1.自明のこと。当たり前のこと。誰でも経験上知っていること又は簡単な想起で気づくこと。
 2.科学的に証明され得ないドグマ・教条。ドイツ語訳語の直接邦訳では「信仰告白」。
 3.たわ言・ナンセンスなこと。
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 第11節・弁証法的唯物論の認識論上の地位②。
  (7)私が弁証法的唯物論のうちのたわ言の(ナンセンスな)主張だと称した第三の範疇の中に、感覚は事物をそれと同じように「反射(reflect)する」ものだとの言明が入る。
 これは、プレハノフを攻撃したレーニンの主張だ。
 神経細胞の中で生じている何らかの過程、あるいは外部世界に存在する客体や過程を感知する「主観的」行為は、神経細胞の中に対応する変化を因果関係的に呼び起こすものと「同じような」ものだ、というこの命題の主張は、何を意味することができているのか。これを理解することはできない。
 もう一つのナンセンスな(スターリンは特別に称賛しはしなかったが、プレハノフによって提示され、マルクス主義の叙述で規則的に繰り返された)主張は、形式論理は静止状態にある現象に「適用される〔当てはまる〕」が、弁証法の論理は変化に「適用される」、というものだ。
 この馬鹿げた主張は、たいていは形式論理による表現が何を意味するかを理解することができないマルクス=レーニン主義者の無知の結果だ。そして、論じるに値しない
 (8)その他の諸主張は、すでに記したように、どのように解釈するかによって上の三つの範疇のいずれかに含まれる。
 その中にはとくに、「矛盾」に関する「弁証法の法則」なるものがある。
 多数のソヴィエトの教科書が教示するように、かりにこれが意味するのは、運動と変化は「内部矛盾」によって説明することができる、ということだとすれば、これは意味のない言明の一つだ。なぜならば、「矛盾」とは諸命題の関係を読み解く論理的な範疇であり、「矛盾した現象」とは何を意味するかを答えることは不可能だからだ。
 (少なくとも唯物論の主張からは不可能だ。ヘーゲル、スピノザおよび論理的関係と存在論的関係を見分ける(identify)その他の者たちの形而上学では、矛盾を抱えた存在という観念は、無意味ではない。)
 一方で、かりに、この言明が意味するのは、現実は緊張状態とそれに対抗する傾向の一つのシステムだと理解されなければならない、ということであるとすると、これは自明のことにすぎず、科学的探求や実践的行動に役立つ特有の帰結を何らもたらさないと考えられる。
 多くの現象が相互に影響し合うということ、人間社会は対立し調和しない利害によって分断されること、人々の行動はしばしば、意図していなかった結果をもたらすこと。-これらは陳腐で当たり前のことだ。
 そして、これらを「弁証法的方法」とか、「形而上学」思考とは対照的な深遠さをもつものとか言って高く評価するのは、マルクス主義の典型的な傲慢さのもう一つの例に他ならない。その傲慢さは、マルクスまたはレーニンが世界に授けた記念碑的な科学的発見だと、古来から知られた自明のことを述べているのだ。
 (9)真実(truth)は相対的(relative)だという、ずっと前にこの著で論述した主張もまた、この範疇に入るものの一つだ。
 真実の相対性ということがかりに、エンゲルスが記したように、科学の歴史ではいったん受容された見解はのちの研究によってしばしば完全に放棄されるのではなく、その有効性は限定的にだが承認される、ということを語っているにすぎないのであれば、この言明の正確さに関して論じる必要はなく、それは決してマルクス主義に特有のものではない。
 これに対して、この言明がかりに、「我々は全てを知ることはできない」または「判断はある状況では正しい(right)が、別の状況では正しくない」、ということを意味するのだとすれば、これらもまた、古代から自明のことだ。
 例えば、雨は干魃の場合には有益だが、洪水の状況ではそうでない、ということを知るために、我々がマルクスの知性を必要とすることはなかった。
 もちろんこれは、これまでにしばしば指摘してきたように、「雨は有益だ」との言述は状況に応じて真実だったり虚偽だったりする、ということを意味するものではない。上の言明は両義的で曖昧だ、ということを意味している。
 「雨は全ての状況で有益だ」ということをそれが意味しているならば、明らかに虚偽だ。
 「雨は一定範囲の状況では有益だ」と意味させているならば、明らかに真実だ。
 しかしながら、マルクス主義の真実の相対性という原理的考え方を、その意味を変えることをしないで、ある言述は状況に応じて真実だったり虚偽だったりし得る、ということを表現するものと我々が解釈するとすれば、この言明もまた、たわ言〔ナンセンス〕という第三の範疇に入る一つだ。我々がレーニンもそうしていたように、真実を伝統的な意味で理解する、ということを前提にするとすれば。
 他方で、「真実(truthful)の判断」とは「共産党にとって有用だと承認する判断」と同じものを意味しているとすれば、真実の相対性というこの原理的考え方は、ここでもう一度、明白に陳腐な常套句になる。
 (10)しかしながら、「真実」という語を発生論的(genetic)または伝統的のいずれの意味で理解しているのかという疑問は、マルクス主義の歴史の中でかつて明瞭には回答されてきていない。
 すでに述べたように、マルクスの諸著作には、人間の必要(needs, Bedürfnisse)との関係での「有効性」だと真実という語を理解しなければならない、ということを強く示唆するものがある。
 しかしレーニンは、かなり明確に、伝統的な理解に立って真実とは「現実との合致」だと主張していた。
 弁証法的唯物論に関するほとんどの手引き書はこの点でレーニンに従っていたが、もっと実践的で政治的な見方を示す兆候もまた、しばしば見られた。その見方によれば、社会的進歩を「表現」するものが真実だ。このような理解によれば、むろん党当局の諸決定が、真実か否かの規準となる。
 混乱を助長するのは、ロシア語には「真実」という二つの言葉があることだ。
 <istina>と<pravda>。前者は<is〔存在する,である〕>という伝統的な意味を表現する傾向がある。後者は、道徳的な色彩がより強く、「正しくて公平なこと」〔right, just〕または「なされるべきこと」を示唆する。
 このような両義性が、「真実」の発生論的観念と伝統的観念の区別が曖昧になるのを助けている。//
 (11)「理論と実践の統一」という原理的考え方について言うと、これもまた、異なる意味で理解することができる。
 これはときどきは単純に、何らかの実際的有用性のある問題についてのみ思考すべきだ、ということを多少とも示す規範の意味で用いられている。
 この場合には、この命題は、上に挙げた三つの範疇のいずれにも、これらは規範的であるとは言えないので、含まれない。
 記述的な言明だとして考察すると、人々は一般に実際的な必要の影響を受けて理論的な考察を行っている、ということを意味している可能性もある。
 これはゆるやかな意味では正しい。しかし、マルクス主義に特有のものではない。
 再びかりに、理論と実践の統一とは、実際的な成果が我々が実践行動の基礎にした思考の正しさ(rightness, Richtigkeit)を確認する、という意味だとすれば、受容可能な真実の標識だ。但し、絶対的な通用力が要求されないかぎりで。なぜならば、知識や科学の多数の分野では、実際的な確認(verification)なるものは、全く明らかに存在しない。
 最後に、この原理的考え方は、特殊にマルクス主義的な意味で理解され得る。すなわち、思考は行為の一側面であって、このことに気づいているということによって「真実」になる、という意味で。
 しかし、このような意味での理論と実践の統一なるものは、ソヴィエトの弁証法的唯物論には存在しなかった。
 理論と実践の統一の意味は、マルクス、コルシュおよびルカチに関する章で検討されている。//
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 第11節、終わり。次の第12節の表題は<スターリニズムの根源と意義。「新しい階級」の問題。>

1939/L・コワコフスキ著第三巻第四章第11節①。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。 
 ①のとくに後半について、以下の独語訳書(1979年、新改版1989)も参照した。
 Leszek Kolakowski, Die Hauptstroemungen des Marxismus.(1979年、新改版1989年)、Der dritter Band, Zerfall.
 原文の 'diamat'と'histmat'は途中から〔弁証法的唯物論〕や〔歴史的唯物論〕へと変えた。
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 第11節・弁証法的唯物論の認識論上の地位①。p.151-.
 (1)通称で言われた'diamat'〔弁証法的唯物論〕や'histmat'〔歴史的唯物論〕の、そしてソヴィエトのマルクス=レーニン主義一般の社会的機能は、それ自体を賛美し、帝国主義的膨張を含めたその諸政策を正当化するために、統治する官僚機構が用いたイデオロギーだ、ということにある。
 マルクス=レーニン主義を構成している全ての哲学的および歴史的原理は、わずかな単純な前提命題によって、その最高点と最終的な意味へと到達する。
 生産手段の国有制と定義される社会主義は歴史的には社会秩序の最高の形態であり、全ての労働人民の利益を代表する。
 ソヴィエト体制はゆえに進歩を具現化したものであり、そのようなものとして、いかなる異論に対しても当然に正しい(right)ものだ。
 公式の哲学と社会理論はたんに、特権をもつソヴィエト支配階級の自己賛美の修辞文に他ならない。
 (2)しかしながら、いったん社会的側面は考慮外として、宇宙〔世界〕に関する言明の集積である、スターリニズムの形態での弁証法的唯物論に関して考察しよう。
 マルクス、エンゲルスおよびレーニンの考え方との関係ですでに述べてきた多数の批判的論評は脇に置き、「弁証法的唯物論」にかかる主要な論点に集中するならば、以下のような考察をすることができる。//
 (3)弁証法的唯物論は、異なる性質の主張で成り立つ。
 ある部分は、マルクス主義に特有の内容をもたない自明のこと(truism)だ。
 つぎの別の部分は、科学的手段では証明することのできない哲学上のドグマだ。
 さらに第三にあるのは、全くのたわ言(nonsense, Unsinn)だ。
 最後の第四の範疇は異なる態様で解釈することのできる前提命題で成り立っており、その解釈次第で、上記の三分類のいずれかに含まれる。//
 (4)自明のことの中ではとくに、宇宙の全てのものは何らかの形で関係している、あるいは、全てのものは変化している、という言明のごとき「弁証法の法則」だ。
 誰一人として、これらの命題を否定しない。しかし、これらは認識論的または科学的な価値を全くほとんど有しない。
 第一の言明は、そのとおりだが、例えばライプニッツやスピノザの、形而上学という別の論脈では、確かな哲学上の意味をもつ。しかし、マルクス=レーニン主義ではそれは、認識上または実践上の重要性のある、いかなる帰結をも導かない。
 誰もが、現象は相互に関連すると知っている。しかし、世界を科学的に分析するという現存の問題は、我々には究極的には不可能なので、宇宙的相互関係をいかに考慮するか、にあるのではない。
 そうではなく、どのような関係が重要なもので、どの関係を無視することができるかを、いかにして決定するかが問題だ。
 マルクス=レーニン主義がこの点で我々に教えることができるのはただ、鎖でつながった現象にはつねに、把握されるべき「主要な連環」(main link, Hauptglied)がある、ということだ。
 これはたんに、実際には、追求している目的から見て一定の現象が重要であり、その他の現象は重要でないか無視できるものだ、ということを意味するにすぎない。
 しかし、これは認識上の価値のない、陳腐なこと(commonplace, triviale Alltagswahrheit)だ。我々は、いかなる規準でもってしても、全ての特定の場合について、重要性の程度の階層を確定することはできないのだから。
 「全てのものは変化している」という命題に関しても、同じことが言える。
 個々の変化、その本性、速さ等々に関する経験的な叙述にのみ、認識論上の価値がある。
 ヘラクレイトス(Heraklitus)の格言には、彼の時代の哲学的な意味があった。しかし、それはすみやかに誰でも知る一般常識、日常生活の知恵の範疇へと埋もれ込んだ。//
 (5)マルクス=レーニン主義者による、「科学」はマルクス主義を確証している、の信奉は、これらのような自明のことがマルクス主義による重大な発見だと叙述されたことにまさに依拠している。
 経験科学や歴史科学の真実というものは、一般論として言って、何かが変化しているとか、その変化が何か別のものと関係しているとか、を語るものであるので、全ての新しい科学的発見は、そのように理解される「マルクス主義」を確認することになるのだろう、と我々は認めることができる。//
 (6)証明することのできないドグマという第二の範疇に、話題を移す。これには、とりわけ唯物論それ自体の主要なテーゼが含まれる。
 マルクス主義の分析の低い水準によって、このテーゼはほとんど明瞭には定式化されておらず、その一般的に意味するところは十分に単純だ。
 すでに指摘したように、「世界はその性質において物質的だ」との言明は、レーニンの様態に倣ってたんに物理的固有性から抽出された「客観物」だと、あるいはレーニンが述べたように「意識から独立した存在」だと物質が定義されるのだとすれば、あらゆる意味を失う。
 意識という概念がまさにその物質という観念の中に含まれているということは別論として、「世界は物質的だ」との言明はたんに、世界は意識から独立したものだ、ということだけを意味することが分かる。
 しかし、これを全てに当てはめるならば、マルクス=レーニン主義自体が認めるように、一定範囲の現象は意識に依存しているのだから、明白に間違っている、というだけではない。それだけではなくて、唯物論にかかわる問題を解決することもしない。宗教的な人々の考えによれば、神、天使および悪魔もまた同様に、人間の意識から独立したものだ。
 他方で、物質は物理的固有性-外延範囲や貫通不可能性等々-だと定義されるとすれば、「物であると証明されない微小物体にはその規準-固有性の一定範囲-を当てはめることはできない、と論駁され得る。
 唯物論は、その初期の範型では、存在する全物体は日常生活のそれと同じ固有性をもつ、と考えた。
 しかしながら、基本的には、この命題は一定の消極的なものだ。すなわち、我々が直接に感知するものと本質的に異なる現実体は存在しない。また、世界は理性的存在によって生み出されたものではない。
 ちなみにこれは、エンゲルスが自ら定式化したことだった。すなわち、唯物論での問題の要点は、神は世界を創造したのか否か、だった。
 明らかに、神が存在した、または存在しなかったことの経験上の証拠は存在し得ないし、科学上の論議によって神が存在するか否かを決定することもできない。
 合理主義は、思考経済という(レーニンが否定した)考え方にもとづいて、経験上の情報の有力さにもとづいてではなく、神の存在を拒絶する。
 この考え方が前提とするのは、経験が我々に強いているとすれば、我々にはただ何かが存在することを受け容れる権利だけがある、ということだ。
 しかし、このような条件の明確化はそれ自体が論議を呼ぶもので、明瞭さからはほど遠い前提に依拠している。
 ここではこの問題に立ち入らないで、我々は、つぎのように確言することができる。すなわち、我々がこのように再定式化した唯物論のテーゼは、科学的な主張ではなく、ドグマ的な言明(dogmatic statement)〔信仰告白(Glaubensbekenntnis)〕だ。
 同じことは、「精神的な実体」や「人間の意識の非物質性」についても当てはまる。
 人間の意識はつねに肉体的な過程によって影響される、と人々は古い昔から気づいてきた。
 例えば、頭を棍棒で打って人を気絶させることができる、ということに気づくのに、長期の科学的な観察は必要でなかっただろう。
 だが、このことは、意識の過程が異なる肉体的条件に依存することに関してその後に研究しても、本質的なことを何も付け加えることはない。
 意識の非物質的な根底があると考える者たちは、意識と身体の間に連環はない、とはむろん主張しない。(かりにそうするとすれば、彼らは、デカルト、ライプニッツやマールブランシュ(Malebranche)のように、経験上の事実を考慮する複雑で技巧的な方策を考案しなければならない。)
 彼らはただ、身体上の過程は人間精神の働きを停止させることができるとしても、破壊することはできない、と主張する。-身体は、意識がそれを通じて作用するいわば媒体物だ。しかし、その意識の作用のための不可欠の条件ではない。
 こういう主張の正しさは、経験上は証明することができないが、反証することもできない。
 たんに、進化論は非物質的な精神を支持する議論に反駁したと、いかにしてマルクス主義の支持者たちは主張するのかも、一致していない。
 かりに人間という有機体が突然変異によって生命の下層から発生したのであれば、そのことから論理的には、精神の否定につながるわけではない。
 そうであるとすれば、現代的な進化論と意識の非物質的根底、または世界の目的論的見方すら、の間を同時に結びつける矛盾なき理論を生み出すのは、不可能だろう。
 しかし、そのような若干の理論が、ベルクソンを通じてフロシュアマー(Froschammer)からテイヤール・ド・シャルダン(Teilhard de Chardin)まで、存在した。そして、それらには何らかの矛盾がある、ということは、全く明瞭ではなかった。
 キリスト教哲学者もまた、教義に進化論の効果からの免疫をつけるための様々な可能性をすでに見出した。そして、この哲学は異論に対して開かれていたかもしれないが、自己矛盾があった、と言うこともできない、
 科学的作業に応用できる有効性という規準で判断すれば、唯物論のテーゼは、その反対理論と同じ程度には恣意的なものだった。//
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 ②へとつづく。

1930/L・コワコフスキ著第三巻第四章第10節①。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
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 第10節・スターリン晩年時代のソヴィエト文化の一般的特質①。
(1)この時代のソヴィエトの文化生活の独自性は、たんにスターリンに特有の独特な個性によるのではなかった。
 その独自性は一口で言うと、国家・国民の文化は成り上がり者(parvenu、成金者)のそれだった、と要約できるかもしれない。-全ての独自性はほとんど完璧に、初めて権力を享有した者の心性、信条、および好みを表現している。
 スターリン自身が、この独自性を高い程度に例証していた。しかし、統治機構の全体にも特徴的なもので、その成り上がり者性は、スターリンがそれを一方では隷属状態へと変えながらも、スターリンを助け続け、彼の至高の権威を維持し続けた。//
 (2)ボルシェヴィキの古い守り手たちや従前の知識人たちが連続して粛清され、絶滅したあと、ソヴィエトの支配階級は主として、労働者と農民の出自をもつ個人で構成された。彼らは乏しい教育しか受けておらず、文化的背景をもたず、特権を渇望し、純粋な「世襲の」知識人たちに対する憎悪と嫉妬を溢れるほどもっていた。
 成金者の本質的特性は「見せびらかす」ことへの絶え間なき切望感だ。したがって、彼らの文化は見せかけ(make-believe)であり、粉飾(window-dressing)だ。
 彼らは、従前の特権階層の知的な文化の代表的なものを自分の周囲に見ているかぎりは、心の平穏を持たない。それから遮断されていたがゆえに、彼らはそれを憎悪し、ブルジョア的または貴族的だとして貶す。
 成金者は狂信的な民族主義者で、その母国や環境は他の全てより優れているという考え方に飛びつく。
 自分たちの言語は、彼らによれば、(他の言語を通常は知らないが)<とくに優れた>言葉で、自分の微少な文化的資源でも世界で最も洗練されたものだと自分や他者の誰をも納得させようとする。
 彼らは、<アヴァン・ギャルド的(avant-garde)>な文化的実験の雰囲気があるものや、創造的な新奇さをひどく嫌悪する。
 限定された傾向の「一般常識」的格言でもって生活し、その格言類について誰かが説明を求めてきたときには、怒り狂う。//
 (3)成金者の心性のこうした特質は、スターリニスト文化の基本的なところにも感知することができる。すなわち、民族主義、「社会主義リアリズム」という美学、そして権力システムそれ自体にすら。
 彼らは、権威に対する農民に似た卑屈さを、権威を分有しようという大きな欲求と結びつける。ある程度まで階層が上がってしまうと、上位者にはひれ伏しつつ下位の者たちは踏みつけるだろう。
 スターリンは成金者たるロシアの偶像であり、栄光の夢の具現者だった。
 成金国家には権力の階層と、従属者をむち打ってもなお崇拝される指導者が存在しなければならない。//
 (4)既述のように、戦前に徐々に増大していたスターリニズムの文化的民族主義は、戦勝後には巨大な形をとった。
 1949年、プレスは「コスモポリタニズム」、明確には定義されていないが反愛国主義を明らかに含んで西側を称賛する悪徳、に対抗する宣伝運動を開始した。
 この運動が展開するにつれて、コスモポリタン〔世界主義者〕はユダヤ人と全く同一だということがますます理解されてきた。
 個々人が嘲笑されたり、ユダヤ的に響く従前の名前を持っていたときには、こうしたことが一般には言及されていた。
 「ソヴィエト愛国主義」はロシア排外主義と区別がつかないもので、公的な熱狂症(mania)になった。
 宣伝活動によって、全ての重要な技術的考案や発明がロシア人によってなされた、ということが絶え間なく語られ、この文脈で外国人に言及することはコスモポリタニズムおよび西側に屈服する罪悪だとされた。
 <大ソヴェト百科辞典>は、1949年末からそれ以降に出版された。これは、半分は滑稽で、半分は気味の悪い巨大熱狂症患者の、比類なき例だ。
 例えば、歴史部門の「自動車」の項は、こう書き始める。「1751-52年に、Nizhny Novgorod 地方の農民であるLeonty Shamshugenov(q.v.)が二人で動かす自己推進の車を作った」。
 「ブルジョア」文化、つまり西側文化は、腐敗と頽廃の温床だとして継続的に攻撃される。
 例えば以下は、ベルクソン(Bergson)に関する記述内容から抽出したものだ。〔以下のBは原文どおりで「ベルクソン」の意味〕//
 「フランスのブルジョア哲学者。-観念論者、政治と哲学について反動的。
 Bの直観主義(intuitionism)は理性と科学の役割を軽視し、社会に関する神秘主義理論は帝国主義者の哲学の土台として寄与している。
 彼の見方は帝国主義時代でのブルジョア・イデオロギーの退廃、階級矛盾の増大に直面したブルジョアジーの攻撃性の成長、プロレタリアートの階級闘争の深化に対する恐怖、…<中略>を鮮やかに示している。
 資本主義の初期の全般的危機とその全ての矛盾の激化の時期に、唯物論、無神論、科学的知識の狂気じみた敵、民主主義の敵および階級的抑圧からの被搾取大衆の解放の敵として、その哲学をえせ科学的切り屑で偽装して…<中略>、Bは出現した。
 Bは、観念論を『新しく』正当化するものとして、『内的映像』による認識について生活、実践と科学によって以前にとっくに反証されている…<中略>、古代の神秘主義者、中世の神学者の見方を、提示しようとした。
 弁証法的唯物論は、直観という観念論的理論を、世界と現実に関する知識は何らかのきわめて感覚的な方法によってではなく人間性に関する社会歴史的な実践を通じて生まれる、という論駁し難い事実でもって拒否する。
 Bの直観主義は、不可避的に迫り来る資本主義の崩壊を前にした帝国主義的ブルジョアジーの恐怖と、現実に関する科学的な知識、とくにマルクス=レーニン主義の科学が発見した社会発展の法則が抗し難く意味するもの…<中略>から逃亡しようとする切実さを、表現している。
 Bは、民族の至高性の敵として、ブルジョア的コスモポリタニズム、世界資本主義の支配、ブルジョア的宗教と道徳を擁護した。
 Bは、残虐なブルジョアの独裁や、労働者を抑圧するテロリストの手段に賛同した。
 第一と第二の大戦の間に、この戦闘的な反啓蒙主義者は、帝国主義的戦争は『必要』でありかつ『有益』だと主張した…<以下略>。」//
 (5)もう一つ、以下は、「印象主義(Impressionism)」に関する記述内容だ。〔以下のIは原文どおりで「印象主義」のこと〕
 「19世紀の後半のブルジョア芸術における退廃的傾向。
 Iは、ブルジョア芸術の初期段階の退廃の結果で(<デカダンス>を見よ)、進歩的な民族的諸伝統と断絶したものである。
 Iの支持者は、『芸術のための芸術』という空虚で反民衆的な基本綱領を擁護し、客観的現実の真実に合った現実的な描写を拒否し、芸術家は自分の主観的な印象によってのみ記録しなければならないと主張した…<略>。
 Iの主観的観念論的見方は、哲学における現在の反動的趨勢の基本原理と関係がある。-新カント主義、マッハ主義(q.v.)等。これらは現実と感覚を、印象と理性を分離させた…<略>。
 人類、社会現象および芸術の社会的機能には無関心のままで、客観的な真実の諸規準を拒否することによって、Iの支持者は、現実の実像を崩壊させ、芸術の形態を喪失している…<中略>、そのような作品を不可避的に生み出した。」
 (6)ソヴィエト同盟の世界の文化からの孤立は、ほとんど完璧だ。
 西側の共産主義者の若干のプロパガンダ的作業は別として、ソヴィエトの読者たちは、小説、詩作、戯曲、映画、そして言うまでもなく哲学や社会科学の形態で西側が生み出しているものに関して、全く無知の状態に置かれたままだった。
 レニングラードのエルミタージュ(Hermitage)にある20世紀絵画の豊かな貯蔵作品は、正直な市民を腐敗させないように、地下室に置かれたままだった。
 ソヴィエトの映画や戯曲は、戦争と帝国主義に奉仕するブルジョア学者たちの仮面を剥ぎ取り、ソヴィエトの生活の無類の愉楽さを称賛した。
 「社会主義リアリズム」が至高のものとして支配した。もちろん、ソヴィエトの現実をその現実のままに提示する-これは生硬な自然主義かつ一種の形式主義になっただろう-という意味でではなく、自分たちの国とスターリンを愛するようにソヴィエト人民を教育するという意味でだが。
 この時期の「社会主義リアリズム」の建築物は、スターリン主義イデオロギーの最も権威ある記念碑だ。
 ここでもまた、支配的原理は「形式に対する内容の優越性」だった。但し、この二つが建築物についてどう区別されるのか、誰も説明することができなかったけれども。
 その影響は、いかなる場合でも、誇張されたビザンティン様式の尊大な正面〔ファサード〕を造ることだった。
 住宅がほとんど建設されておらず、大中の市や町の数百万の民衆が汚い中で群がって生活しているときに、モスクワや他の都市を装飾したのは、虚偽の円柱と上辺だけの飾りに満ちた、かつその大きさは「スターリン時代」の荘厳さに釣り合う、巨大な新しい宮殿だった。
 こうしたことはまた、建築分野での、典型的な成り上がり者様式だった。要約するならば、つぎのモットーになるだろう。すなわち、「大きいものは美しい」。//
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 ②へとつづく。

1926/L・コワコフスキ著第三巻第四章第9節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
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 第9節・ソヴィエト経済に関するスターリン。
 (1)スターリンの最後の理論的著作は、1952年9月に党機関誌<ボルシェヴィキ>に掲載した論文だった。これは「ソ連邦の社会主義の経済的諸問題」と題して、来る第19回党大会の基礎的文書となることを意図していた。
 その理論上の主張は、社会主義も「客観的な経済法則」に服する、計画立案に際してはその長所を生かさなければならず、それを恣意的に無視することはできない、ということだった。
 とくに価値の法則は、社会主義のもとで当てはまる。-この言明が意味したのはおそらく、金銭はソヴィエト同盟で有用だ、そして経済を作動させていくには利益や歳入と歳出の均衡について説明する責任が果たされなければならない、ということだつた。
 「社会主義の経済法則の客観性」という原理は、Nikolai Voznensky に対する非難を暗に含んでいた。この人物は、戦前は国家計画委員会の長で、のちに副首相となり、政治局員だった。
 彼は1950年に、裏切り者として射殺された。そして、対ドイツ戦争中のソヴィエト経済に関するその書物は、流通から排除された。
 その書物は含みとしては、社会主義が客観的経済法則に服することを否定し、その代わりに全経済過程が国家の計画権能に従属すると主張していた。
 しかしながら、スターリンは、価値法則を擁護し、読者に対して、資本主義は最大限の利潤を求める原理に支配されているが、社会主義経済の指針的規範は人間の必要性〔需要〕を最大限に充足させることだ、と保証した。
 (いかにして社会主義の利潤的効果がスターリンが主張するように国家計画立案当局の意思から独立した「客観的法則」であり得るのか、とくに、いかにしてこの「法則」が「価値の法則」と同時に作動するのかは、明瞭ではない。)
 スターリンの論文はまた、ソヴィエト同盟の共産主義段階への移行に関する基本綱領を概述した。すなわち、この移行のために必要なことは、都市と地方の対立や肉体的作業と精神的作業の対立を除去し、集団農場の財産を国有財産の地位へと高めること(言い換えると事実上は、集団農場を国有農場に変えること)、そして生産を増大させ、文化の一般的水準を高めることだ。
 (2)将来の完全な共産主義社会に関するスターリンの考え方は、伝統的なマルクス主義の主題の繰り返しだった。
 「経済の客観的法則」について言うと、その論文から導かれ得る唯一の実践的メッセージは明らかに、経済を職責とする者たちは民衆の必要性を最大限に充足しようと努力しているが、経済上の説明を明確にする責任(economic accountability)もまた見失ってはならない、ということだった。//
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 第10節の表題は、「スターリン晩年時代のソヴィエト文化の一般的特質」。

1905/ソヴィエト体制下の「洗脳」とドクトル・ジバゴ。

  ノーベル文学賞が与えられたことになっている(本人は辞退)『ドクトル・ジバゴ』(1957年。映画化1965年)の作者であるB・パステルナーク(Boris Pasternak)について、無責任にも?<なぜこの人は亡命しなかったのだろうと思うときがある。よく分からない>とこの欄にかつて書いたことがある。1910年頃に留学していたドイツ・マールブルク(Marburg)について記したときだった。
 今でもよく分からないが、L・コワコフスキの『マルクス主義の主要潮流』第三巻第二章第一節の<文化等の一般的状況>(この欄№1863/1918.11.02)の中で久しぶりにBoris Pasternak の名を見つけた。1920年代~1930年代の<作家・文筆家>の様子がある程度は分かる。
 L・コワコフスキによると、1930年代、作家(文筆家・詩人)たちは、こう分かれる。
 ①殺戮される-Babel、Pylnyak、Vesyoly。
 ②自殺する-Mayakovski、Yesenin。
 ③強制収容所で死ぬ-Mandelshtam。
 ④国外に逃亡(亡命)する-Zamyatin。
 ⑤スターリンを称賛する「物書き」になる-Fadeyev、Sholokhov、Olesha, Gorky。
 B・パステルナークはどこに入るのか。まだ、つぎがある。
 ⑥何とか「迫害と悲嘆の時代」を生き残る-Akhmatova、Pasternak。
 B・パステルナークは殺されもせず、亡命(国外移住)もせず、ロシア国内で「生き延びた」のだ。
 どのようにして? その詳細は分からない。何らかの「食って、生きる」ための仕事をし、詩作や文章書きを<隠れて>行っていた、という程度にしか分からない(もちろん、日本語本にあるこの人の評伝には正確なことが書かれているだろう)。
 それにしても、Pasternak と並んでいるAkhmatova (女性)は、第三者、とくに体制関係者に分からないように、<自分の脳内に詩作を記憶させ、蘇生させ反芻しながら、脳内で詩作を続けていた>と何かで読んだのだから、凄まじい<表現の自由>の否認状況だろう。脳内にしか、発表し、保存する媒体はないのだ。
 Boris Pasternak もまた、似たような状況にいたと思われる。
 "Doktor Zhivago" がふつうの小説ではなく、私が一読しても登場人物にかかるストーリーの現実性や連続性には疑問があり、長いものもある「詩」が何度か挿入されているのも、その作成や構成に要した時間と、取り囲んでいた「(とくに政治)環境」によるものと思われる。
  レーニン時代にせよ、スターリン時代にせよ、種々の政治的事件や制度等の歴史も重要だし(指導者、党、国政あるいは中央と地方、ロシアと他民族、外国との関係等々)、また、いかほどの数の人間が粛清やら大粛清あるいはテロルによって死んだのかも、もちろん重要な関心事だ。
 しかし、どうしても今日的には理解し把握し難い、あるいは実感し難い重要なものがあるということを意識しておかなければならないように思われる。
 それは、<イデオロギー>というものの役割、あるいはいささかどぎつい言葉を選べば「洗脳」というものはいかなるものか、だ。
 これは現在の日本人には、またほとんどの欧米人には、ほぼ理解不能なのではないか。
 そんなことを感じたのは、やはりL・コワコフスキの叙述による。
 うまく訳しきれていないが、L・コワコフスキによると(№1886/2018.12.08)、こんな状態があった。長くなるが、叙述の順序に従って、ほとんど再引用する。要約している部分もかなりある。
 ①人物や事件の評価が「修正」されたとき、人々はその「修正」の簡単な方法・経緯を知っていたが、それを公言すれば制裁を受けるので<何も語らなかった>。
 ②知っていても決して言及しない「公然の秘密」がある。
 ③人々は強制収容所についてしっかりと知っていたが、それはしかし(引用すると)、「そのような事実は存在していないというふりをお互いにしつつ、その事実に気づいていることを政府が望んでいた」からだ
 ④人々には「二重(dual)の意識」が作り出された。それは体制側の意図だった。
 ⑤人々はあちこちで「醜悪な虚偽を繰り返して語るように強いられ」、かつ同時に、「十分によく知っていることについて沈黙を守るように強いられた」。
 ⑥人々は、「党と国家が吹き込んだウソを絶え間なく反復することによって、ウソだと知りつつ発言することで、ウソについて党と国家の共犯者になった」。
 ⑦体制側の意図は、馬鹿馬鹿しい虚偽を「そのまま信じる」ことではなかった。
 ⑧「完全な服従とは、人々が現在のイデオロギーはそれ自体は何も意味していないと認識することを要求するものだった。すなわち、イデオロギーのいかなる側面も、最高指導者が意図するいかなるときでも勝手に変更したり取消したりすることができないものなのだ。そして、何も変更されておらず、イデオロギーは永遠に同一なのだ、というふりをする(pretend)ことが、全ての者の義務になる」。
 ⑨「党のイデオロギーはいつでも指導者が語った以上のものでも以下のものでもない、ということを理解するために、市民は、二重の意識を持たなければならなかった。
 すなわち、公的には、変化しない教理問答書としてのイデオロギーに忠実であると告白する
 一方、私的には、または半ばの意識では、イデオロギーは完全な融通性をもつ、党の手にある、つまりはスターリンの手にある、道具だと知っている
 市民はかくして、『信じることなくして信じる』(believe without believing)ことをしなければならなかった」。
 ⑩上の「心理(mind)状態」こそが、、党が人々の中に「作り出して維持しようとしている」ものだった。
 ⑪人々は「政府のウソを繰り返して言った」。そして考え難いことだが、その人々は「自分たちが言っていることを半分は信じていた」。
 ⑫人々は何と言うのが「正しい」のか、つまり「何と言うことが彼らに要求されているか(=正しいか)」を知っていた。そして奇妙なことだが、彼らは「真実と正しさ」とを混同していた
 この辺りのL・コワコフスキの最後の文章はつぎのとおり。
 ○「このようにして同時に二つの分離した世界で生きるという状態は、スターリニズム体制が達成した最も顕著なものの一つだった」。
 ソヴィエト体制下で生じたのは、たんなるテロル・大粛清や貧困・飢餓等だけではない。
 注目しておくべきなのは、人間の<自由で、誠実な精神>というものの破壊だっただろう。
 上の⑤⑥、⑧⑨あたりは、きわめて理解し難い「心理・精神」の状態だ。
 L・コワコフスキは二重(dual)意識と呼ぶが、G・オーウェル『1984年』には二重(double)意識という語が出てくるらしい。
 ともあれ、ソヴィエト体制下でのイデオロギー操作というのは、<ウソが真理だと信じ込ませる>ことでは全くない、と今日のわれわれも知っておくべきだろう。単純な?「洗脳」ではない。
 私にもまだ判然としないが、こういう心理・精神状態をどう理解すればよいのだろう。
 **ウソをつきつつそれが本当のことだと信じている<ふりをする>、かつまた、ウソであることを本当は知っていることも<匂わせる>。**
 何と複雑な、欺瞞に満ちた心理・精神状態だろうか。
 多くの人々が、こういう心理・精神状態の中で生きていたのではないか。
 「しろうと」ながら、ヒトラー・ナツィズム体制は、もっと大らかで率直で正直だったような気がする。唖然とする、悪辣なことを平然とかつ公然と語っていたような気がする。
 コミュニズム(共産主義)とナツィズムの違いだ。
  B・パステルナーク『ドクトル・ジバゴ』はレーニン時代を歴史的背景とする作品だ。
 1917年秋・冬から三回の冬のことを、この作品はこう叙述している(私の訳-№1548/2017/05/18)。
 「冬がやってきた。この冬はそれに続いた二つの冬ほどにはまだ悲惨ではなかったけれども、だがすでに似たようなもので、陰鬱さ、飢え、寒さ、そして全ての日常的なものの激変を、特徴としていた。存在の全ての基礎の新たな形成や、滑り去る生活に取りすがろうとする完全に非人間的な努力をだ。//
 三回の恐ろしい冬が、つぎつぎに連続した。今17年から18年の冬に起きたと記憶していることの全ても、本当はこの当時ではなく、ことによると、もっと後に起きたのだったかもしれない。この三つの冬は、一つに重なっていて、一つ一つを区別するのはむつかしい。//」
 さらに、すでに新体制=ソヴィエト・ボルシェヴィキ体制の「人間」観を疑問視するこんな発言も、主人公の友人(ラーラの正式・形式上の夫でボルシェヴィキに入党したが、最後は自殺)にこう語らせている(私の訳-№1539/2017/05/13)。
 「だが、第一に、十月〔1917年〕以来に説かれている全般的な完成化(allgemeine Vervollkommnung)の理念は、ぼくを燃え立たせない。/
 第二に、全てが実現からほど遠いのに、その理念を語るだけでも、これほどたくさんの血の海(Stroemen von Blut)が代償として必要だった。目的は手段を正当化するって、ぼくには分からない。/
 第三に、これが肝心なことだが、人間の改造(Umgestaltung des Lebens)という言葉を聞かされると、ぼくは自分をどうも抑制できなくなって、絶望へと陥ってしまう。//
 人間の改造だって! こんなことは、なるほど多くのことを体験しているが、人間とは何かを実際にはまるで知ってはいない者たちだけが、考えることができる。人間の呼吸=精神(Geist)や人間の搏動=魂(Seele)を感じたことのない者たちだけが。/
 そういう者たちにとって、人間の存在というものは、彼らがまだ触って磨き上げていない、もっと加工が必要な、原材料の塊なのだ。/
 しかしね、人間は決して、かつて一度たりとも、材料や素材ではない。/
 きみが知りたいのなら、人間は永遠に自らを作り直している原理体だ。人間は、絶えず自らを更新しており、永遠に自らを形成し、変化させているのだ。それは、きみやぼくの愚かな考えなどを際限なく超越したところにある。//」
 あくまで小説上のものだが、これはスターリン下の言葉ではない。明らかにレーニン時代のものとして語らせている。
 ***
 最後に、この時代に、ロシア(・ソ連)の将来を悲観して、あるいはブルジョアジーとか「知識人」とかの<逆差別>を受けて(レーニン政権が追求したのは決して「平等」なのではない。「階級敵」の平等視があるはずもない)、国外に脱する直前のユリイの正式の妻・トーニャの手紙の一部を再度引用しておきたい。
 あくまで、作品上のものだ。しかし、他国へ行く当時の人々によってこういう文章は実際に書かれたのではないか(私の訳。同上)。
 「さようなら。もう終わらなければいけない。
 ああ、ユーラ、ユーラ、私の愛する人、大切な夫、私の子どもの父親、どうしてこんなことになったの ?
 私たち、もう二度と、もう二度と、決して会うことがないのよ。
 あなた、こう書いたことの意味が分かる ? 理解できる ? 理解できる ?」
 ユリイの妻・トーニャの手紙から。Boris Pasternak, Doktor Shiwago〔独語版〕, p.521.

1899/G・ステッドマン・ジョウンズ・カール・マルクス(2016)。

 ソ連解体後でも、日本の出版社およびこれに影響をもつ日本共産党員や容共「知識人」の外国の<反共産主義>文献に対するガード(つまり、自主検閲・自主規制)は堅いようだ。
 L・コワコフスキの大著、R・パイプスの二著のほかにシェイラ・フィツパトリク・ロシア革命(最新版、2017)も邦訳書はない。
 一方で例えば、江崎道朗が唯一コミンテルン関係書として付録資料のそのまた一部を利用していた邦訳書・コミンテルン史(大月書店、1998年)は、立ち入った内容紹介はこの欄でしていないが、レーニン擁護まではいかなくともレーニンになおも「甘い」ところがある。かつまた、著者の二人は20-30歳代だったと見られ、そのうち一人の現在はネット検索してもさっぱり分からない。
 また、岩波書店のシリーズものの一つ、グレイム・ギルほか=内田健二訳・スターリニズム -ヨーロッパ史入門(2004年)は、レーニンとスターリニズムとの接続関係を何とかして認めないように努めている。まだ、この欄では紹介、言及していない。
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 カール・マルクスの人生や論考全体に関する近年の研究書に、以下がある。
 ①Gareth Stedman Jones, Karl Marx :Greatness and Illusion (Cambridge、2016年)。
 ②Jonathan Sperber, Karl Marx :Nineteenth-Century Life (Liveright、2014年)。
 これらは、目も耳も早そうな池田信夫が紹介したかもしれないと思ったが、まだのようだ。
 ①のG・ステッドマン・ジョウンズ・カール・マルクス-偉大と幻想(2016)は、奇妙な読み方だろうが、そのEpilogue であるp.589-p.595 を辞書なしで何とか読んでしまった(Kindle 版ではない)。
 小川榮太郎の文章を探して確認して読むよりは、私にははるかに知的刺激になる。
 小川榮太郎によると、彼の文章の意味が分からない者は、<小川榮太郎の「文学」>を理解できない人間なのだそうだ。
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 上の①の最後の部分を試訳する余裕はないが、著者は興味深いことを書いている。たぶん、以下のようなことだ。
 ・エンゲルスはマルクスの生前の手紙類をロシアの友人、「社会主義」者のLavrov に渡したが、その内容を<資本>の第二巻・第三巻の編集に利用しなかった。
 ・プレハノフ、ストルーヴェおよびレーニンがロシアのマルクス主義は「史的唯物論対人民主義」、「西欧化対ロシア主義」の闘いだとしたとき、エンゲルスは異論を挟まなかった。このことは、農民共同体の重要性が直接的な政治的争点になった国で、マルクスの見解を忘れさせる意味をもった。
 ・エンゲルスはロシアでの農民の多さ、都市プロレタリアートの少なさを指摘はしていたが、マルクスの1883年直前のロシア・農村共同体(ミール)に関する見解は20世紀にまで(ロシア革命以前に)ロシアに伝わらなかった。〔イギリスやロシアの農村共同体に関する論及がEpilogueの最初にあるが割愛する。〕
 ・マルクス=エンゲルス全集を編纂したRyazanov はマルクスからの手紙のやりとりがあったことを想い出し、かつAkselrod文書の中にあることが判ったが、編集者はマルクスの手紙が忘れ去られた本当の理由を理解できなかった。
 ・マルクスの手紙は、「正統派マルクス主義」派の「都市に基礎をおく労働者の社会民主主義運動の構築という戦略」ではなくて、プレハノフらに、「農村共同体を支援する」ことを強く迫るものだった。
 ・〔秋月の読み方では、マルクスは後進国とされるロシアでのプロレタリアートの少なさ・弱さからして、これの支持を得ての「革命」-「プロレタリアート独裁」を想定していなった。二次的に(必ずしも理論的にではなく)「農民」の支持を求めるいわゆる<労農同盟>論は-元々は日本共産党も継承した-マルクスではなく、レーニン・ボルシェヴィキによる。〕
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 このG・ステッドマン・ジョウンズの2016年著に対する書評をさらにネット上で見つけた。
 Terence Renaud (Yale Uni. )は、マルクスの伝記はとくにIsaiah Berlin、George Lichtheim およびLeszek Kolakowski のものが「スタンダード」だとしつつ(コワコフスキを除き、邦訳書があって所持している筈だ)、この著者も青年マルクスと成年マルクスの哲学上の継続性を承認する。しかし、長くは紹介しないが、こんな紹介があって、「しろうと」には意外感を抱かせる。一部だけ。
 「ステッドマン・ジョウンズは、マルクスの政治論は1860年代に変化した、と主張する。
 イギリスに逃亡中の間に、彼は社会(的)民主主義者、そして暴力的手段を拒絶する労働組合支援者に変化した。
 マルクスは蜂起についてのジャコバン型やブランキ型を放棄し、ゆっくりとした漸進的な変化を支持した。
 多数の共産主義者たちがのちに信じたのとは反対に、マルクスは革命に関して単一の劇的な事件ではなくて長い過程だと考えた。
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 しかし、このTerence Renaud は、著者のGareth Stedman Jones (1942~、Uni. of London)は、「新左翼」-「フランス構造主義派」-<マルクス主義放棄>と立場を変えており、自己正当化のためのマルクス理解・解釈ではないか、とかなり疑問視しているように読める。
 Stedman Jones はかつてNew Left Review の編集長だったらしく(1964-1981)、これはL・コワコフスキを批判するE・トムソンの文章が別の雑誌に掲載された1970年代前半を含んでいる(その反論がこの欄に試訳を掲載したL・コワコフスキ「左翼の君へ」)。
 T. Renaud という研究者についても全く知らないのだが、Stedman Jones の主張を鵜呑みにするわけには、きっといかないのだろう。
 だが、いろいろと興味深い議論または研究ではあるようだ。
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 日本で、マルクス(やエンゲルス)あるいはレーニン等に関する、冷静な学問的研究を妨げているのは、マルクスとマルクス主義あるいは「科学的社会主義」を党是とする政治組織・政党が存在していて、その「政治的」圧力が、意識的または無意識的に、日本の人文社会分野の研究者を<拘束>しているからだと思われる。
 <身の安全を図る>ために、日本共産党が暗黙に設定している<タブー>を破って「自由な学問研究」をすることを、事実上自己抑制しているのではないか、と秋月瑛二は推測する。「自由な学問」・「大学の自治」は共産主義組織・政党によって蝕まれているのではないか。
 かつまた、「(容共)左翼」に反発している人々も、立憲民主党や朝日新聞等を批判することがあっても、なぜか正面からの<日本共産党批判>には及び腰だ。
 なぜだろうと、つねに不思議に感じている。日本の出版業界やマス・メディア業界(これらも資本主義的で自由な営利企業体だ)の独特さ、奇妙さにも一因があるに違いない。

1892/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第三節③。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻第三章/ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。
 1978年英語版 p.113-p.116、2004年合冊版p.874-p.880。
 最後から二つ目の文につき、ドイツ語訳書3巻p.132も参照した。
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 第3節・ コミンテルンと国際共産主義運動のイデオロギー的変容③。
 (19)世界共産主義に対するスターリン独裁の一つの効果は、マルクス主義の研究を徐々に衰退させたことだった。。
 「ボルシェヴィキ化」の過程にあった1920年代は、多様な分派的で個人的な争論で溢れていた。それらは通常は、レーニンが遺した政治的文献の正しい解釈に関する論争というかたちをとった。しかしこれらは、ソヴィエト様式(Soviet-type)の正統派が徐々に成文化されたことを別とすれば、教理に対する永続的な影響を持たなかった。
 にもかかわらず、1920年代初期の革命的雰囲気は、若干の理論的な文献を生んだ。そこでは、第二インターナショナルの正統派指導者たちが伝えたマルクス主義教理が完全に修正されていた。
 それらのうち最も重要なのは、ルカチ(Lukács)とコルシュ(Korsch)の著作だった。この二人はいずれも、コミンテルンによって「極左」だと汚名を着せられて非難された。
 彼らは異なる方法で、「理論と実践の統一」という観念に新しい生命を注入し、正統派と新カント派のいずれにも広まっている科学的見方と闘うことによって、マルクス主義哲学を最初から再構築しようとした。。
 多くの諸国では、逞しい従前の世代がなおも、共産主義運動の外側で非教条的なマルクス主義の伝統を維持していた。すなわち、オートスリアのAdler やBauer 、ポーランドのKrzywicki 、ドイツのKautsky やHilferding。
 しかしながら、この時代の彼らの活動は教理の発展に対して大きな影響力を持たなかった。彼らのうちいく人かはすでに作られていた諸観念や主題を反復することで満足しており、別の者たちは次第にマルクス主義の伝統から離反した。
 そうしているうちに、社会民主主義との闘いに社会主義運動を一元化するコミンテルンの政策によって、理論的作業は行われなくなった。
 社会民主主義はマルクス主義から大きく離れたものになっており、単一の拘束的イデオロギーを求める必要性を失った。
 マルクス主義はソヴィエトのイデオロギストたちを実際に独占し、過ぎゆく年ごとに味気ないものになった。//
 (20)ドイツにだけは、共産主義と一体化しない重要なセンターがあつた。1923年にフランクフルトに創立された社会研究所(the Institute fuer Sozialforschung)だ。
 このメンバーたちは最初はマルクス主義の伝統から強く影響を受けていた。しかし、それとの連環は次第に弱くなりつ、のちにますます明確になった一定の様式が形成された。
 一方で、マルクス主義は制度化された党イデオロギーとして硬直化し、政治的には有効だつたが全ての哲学上の価値を失った。
 他方で、マルクス主義は全く異なる伝統と、明瞭な外郭線を示すことをやめるに至るまで結びついた。そして、知的歴史に寄与する多数のものの一つにすぎなくなった。//
 (21)しかしながら、1930年代半ば頃のフランスで、マルクス主義運動がある程度生き返った。
 その指導者の中には科学者、社会学者および哲学者がいたが、全てが共産主義者ではなかった。Henri Wallon 、Paul Langevin 、Frédéric Joliot-Curie 、Marcel Prenant 、Armant CuvillerおよびGeorges Friedman だ。
 これらは戦後のフランスの知的生活で重要な役割を果たした。政治的に共産主義に関与する学者と(但し、必ずしもマルクス主義理論家ではなかった)、または伝統的マルクス主義理論の、システムを形成しないでばらばらな様式で知的生活を一貫させた一定の側面の継続者とのいずれかとして。
 戦争間でのフランスで最もよく知られた正統派は、Georges Politzer だった。この人物は、占領期に殺された。
 彼はBergson を激しく批判する書物やレーニン主義の弁証法的唯物論に関する一般向け手引き書を書いた。
 イギリスでは、著名な生物学者で地球上の生命の起源に関する書物の執筆者だったJ. B. S. Haldane が、マルクス主義と現代科学との親和性を証明しようと努力した。
 もう一人のマルクス主義者は、アメリカの遺伝学者のH. J. Muller だった。
 しかしながら、この二人の場合、マルクス主義はとくにマルクス主義とは言えない様相で示された。生物学では、主としては生気論や最終主義に対する一般的な反論という形で表れたように見える。
イギリスのMaurice Dobb も、とくに景気循環との関係で、マルクス主義経済理論を擁護した。//
 (22)イギリスの労働党の左翼では、Harold J. Rasky がマルクス主義的用語法で国家の理論、権威の性質および政治思想の歴史を詳しく解説した。
 1930年代の後半、彼は、「究極的には」ある階級が別の階級を強制することに役立つ装置としての国家に関するマルクス主義理論を採用した。
 彼は当時のリベラリズムを主要な目的は被搾取者の意見が聴かれないままにするイデオロギーだと攻撃し、財産所有階級の致命的利益が脅威に直面すれば彼らは統治のリベラルな形態を拒絶し、生の暴力に頼るだろう、と主張した。
 ヨーロッパでのファシズムの成長は、ブルジョア国家の発展の自然な結果だ。ブルジョア民主主義は衰退の状態にあり、ファシズムに対する唯一の代替選択肢は、社会主義だ。
 にもかかわらず、Rasky は、伝統的な民主主義的自由に愛着があり、プロレタリア革命は民主主義的自由を損なわないままにするだろうと信じた。
 彼は、社会発展への鍵は中産階級の態度にある、と明確に論じた。
 この当時に共産党員だった(のちに社会民主主義者になった)John Strachey は、同じ問題について、正統派的なレーニン主義の観点から議論した。//
 (23)才能ある著作者のChristopher Caudwell (Christopher St. John Sprigg, 1907-37の筆名)は短期間、イギリスのマルクス主義の中で傑れていた。
マルクス主義者かつ共産主義者としての彼の経歴はほとんど二年間しかなかった。-スペインの国際旅団で闘って殺された。
 しかし、1936年に、<幻想と現実-詩の源に関する研究>と題する注目すべき書物を生んだ。
共産党員になるまでに彼は、いくつかの探偵小説や飛行機に関する大衆向け書物を書いた。
 <死にゆく文化の研究>(1938)、当時のイギリス文学、「ブルジョア文化」一般に関する小文を集めたもの、および未完の<物理学の危機>(1939)、観念論、経験主義および現代科学理論の非決定論に対するレーニン主義的攻撃、のような彼の詩作は、死後に遺作として出版された。
 マルクス主義の著作として最もよく知られる<幻想と現実>で、彼は社会と技術の進化について異なる段階の韻律の変化を含めて、詩の歴史の相互関係を示そうとした。
 同時に、自由を必然性からの自立と把握するブルジョア的観念を攻撃した。一方でエンゲルスは、自由とは人間の目的のために自然的必然性を利用することだと述べていたのだが。
 この書物は、16世紀以降のイギリスの詩に個別に注目した。Marlowe とShakespeare は本源的蓄積の英雄的時代に位置し、Pope は重商主義時代に位置する、等々。
Caudwell は、詩作は元来は生産を増やす目的の農業儀礼の一要素にすぎなかった、とする見解だった(とくにマルクス主義的というのではないが、初期の人類学的作業だ)。
 のちの階級社会で、詩作、音楽および舞踏は生産と分離したが、それは芸術の疎外(alienation)を意味した。
 社会主義の役割は、この過程を逆方向に動かし、生産活動と芸術的活動の統一を回復することだ。//
 (24)西側ヨーロッパの知的生活は、またある程度の範囲ではアメリカ合衆国のそれは、1930年代遅くには奇妙な情況を呈した。
 一方では、スターリニズムが十分な実績をつみ、その最もおぞましい特質のいくつかは全世界の者が分かるまでに暴露されていた。
 しかし、他方では、多数の知識人たちが、ファシズムに代わる唯一の選択肢およびそれに対抗する防衛手段として、共産主義に魅了された。
 あらゆる種類の政治的集団はナツィの侵攻の脅威を前に、弱々しく、決断力がなく、そして無力であるように見えた。
 多くの者にとってマルクス主義は理性主義、人間中心主義そしてかつてのリベラルな考え方の全てを維持し続けているように思え、そして共産主義はマルクス主義を政治的に具現化したもので、ファシストの猛襲を食い止める最大の希望だった。
 左翼知識人たちは、実際に現存しているが最初からとくにマルクス主義的というのでもない特質をもつマルクス主義に向かって、惹き寄せられた。
 ソヴィエト・ロシアがファシズムに対抗する主要な勢力だと見えるかぎりで、こうした知識人たちは、ソヴィエト共産主義と彼らが理解するマルクス主義とを同一視しようと努めた。
 そのようにして彼らは、共産主義政治の現実にわざと目を閉ざした。
 George Orwell のように教理上の想定からではなく経験上の事実から実際の共産主義に関する考えを形成した人々は、憎悪と憤慨を味わった。
 偽善と自己欺瞞は、左翼知識人がもつ永続的な思潮になった。//
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 ③終わり、第3節終わり。そして、第三章も終わり。

1891/白井聡「『国家と革命』解説」(2011)。

 レーニン=角田安正訳・国家と革命(講談社学術文庫、2011)。
 この文庫本版のレーニン文献に翻訳者とは別の「解説」を書いているのが白井聡で、その表題は「解説-われわれにとっての『国家と革命』」。一年以上も前に、知ってはいた。
 レーニンとロシア革命の擁護という点で、目を剥く文章が見られる。以下に抜粋的に引用する。
 自らの『未完のレーニン』(講談社選書メチエ)の議論の要約らしきものを述べた後でこのように書く。p.274-。
 ・<国家と革命>またはレーニンの言説全般にかかる「理想主義」か「現実主義」かの問いの無意味さは「現存社会主義」の崩壊によって「現実」となつたが、それは「想像力の貧困の帰結」だ。レーニンの文章の「不可解さ」は彼の罪ではなく、「われわれの想像力の貧しさ」にある。「いかにしてこのような貧困状態にわれわれが落ち込んだのか」。
 ・レーニンが描いた共産主義建設の試みは①「国家の死滅」ではない「国家の異常な肥大」や「形式的な民主主義」の無視をもたらし、②「理想社会」という「嘘と欺瞞に対する怨嗟」が広まって「帝国を崩壊」にもたらす、という「二度」の「挫折」をした。
 ・上の帰結の原因につき、①マルクス=レーニン思想に「内在する独断性」による「硬直的なほとんど教権的」体制の構築、②ロシアの特殊性、が語られる。
 ・しかし、上の①と②には「何の違いもない」。なぜなら、「ロシア革命の失敗をわれわれがその責めを負うべき失敗としてとらえるという視点を一切欠いている点」で共通しているからだ。
 ・「われわれがロシア革命の理想にほんのわずかでも共感を寄せる者であるとするならば」、ロシア革命の失敗の原因をレーニン、スターリン、マルクスのずれかに求める談義をする「潔白」な立場は、「欺瞞に満ちたものにすぎない」。
 ・こう考えるべきだ。「ロシア革命の失敗は、われわれが責めを負うべき事柄なのではないか」。あるいは、「ロシア革命の失敗が失敗であるがままでとどまっているのは、ほかでもなくわれわれのせいなのではないか」。
 ・「ボルシェヴィキ政権が」「恐ろしく強権的なもの」になったのは「事実」だが、「仮に、当時ほかの先進諸国のどこかでボルシェヴィキ革命と同程度に決然とした反資本主義の革命が一つでも起こっていたとするなら、世界は果たしてどうなっていただろうか」。それが起きていたなら、「ソヴィエト政権がかくも強硬なものとならざるを得なくなった必然性」の原因の一つが除去される。
 ・革命政権を干渉軍と「社会主義者たち」は非難した。レーニンが「ボルシェヴィキ革命を批判したカウツキーを『背教者』とまで呼んで罵倒したことは、筆者にとって完全に納得できる」。「社会主義者」にある「根本的欺瞞がレーニンをして怒髪天を衡く怒りを発せしめた」のだ。
 ・われわれがロシア革命の失敗の原因を論じるときに「カウツキーと同じ過ちを犯す危険」に近づく。つまり、「われわれはわれわれ自身の義務を果たした上で、レーニンの革命を批判しているのか?
 ・レーニンの革命の理想を「救済」できるのは後代のわれわれだけだとすれば、「国家と革命」の中の「革命を汚辱のなかに捨て置かれたままにしているのは、われわれ自身の仕業にほかならない」。
 ・日本人の大多数は戦後にロシア革命から「多大の恩恵」を受けた。資本主義体制が「階級対立の緩和、労働者階級の富裕化、富の分配の平等化、社会福祉の実現」をかなり追求した必然性の原因の一つは「巨大な社会主義陣営の存在」だった。
 ・「歴史の皮肉」は、「現存社会主義の体制を大方冷ややかに見ていた諸国の大衆こそが、社会主義革命の果実を最も豊富に享受していた」ということだ。「自由主義先進諸国の勤労者階級は、階級闘争において代行的に勝利を収めることとなった」。
 ・レーニン「国家と革命」の中の「革命」に、「われわれは非常に多くを負ってきた」。「今日のわれわれの社会が背負っている痛みは、部分的には、この多くのものが失われたことに起因する」。「われわれはこの革命を救い出さなければならない。それは、ほかならぬわれわれ自身を救済するためである」。
 以下略。上は、p.283まで。
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 上で印象的なのは、第一に、ロシアでの「十月革命」を「社会主義革命」だったと完全に信じていることだ。
 そして第二に、「社会主義(革命)」の理想を未だに抱いているごとくであり、資本主義=「悪」という立場に当然のごとく立っている。
 第三に、レーニンの描いた十月革命後の「理想」が実現されず、かつむしろ悲惨な結果をもたらしたことの大きな原因をドイツ等での「革命」が後続しなかったことに求めている。かりに-だつたら、こんなことにならなかった、と嘆いている。
 第四に、ロシア革命の失敗とその理想の追求を「われわれ」の痛みと夢として抱き続ける必要があると論じている。
 印象的な文章の例を、くどいかもしれないが、再度引用しよう。
 ①「ロシア革命の失敗をわれわれがその責めを負うべき失敗としてとらえるという視点を一切欠いている…」。
 ②「われわれがロシア革命の理想にほんのわずかでも共感を寄せる者であるとするならば」、ロシア革命の失敗の原因をあれこれの他者に求めようとする「潔白」な立場は、「欺瞞に満ちたものにすぎない」。
 ③レーニンの革命の理想を「救済」できるのはわれわれだけであって、「革命を汚辱のなかに捨て置かれたままにしているのは、われわれ自身の仕業にほかならない」。
 ④「われわれはこの革命を救い出さなければならない。それは、ほかならぬわれわれ自身を救済するためである」。
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 なぜ、このように書く人物が生じたのか。
 すでに一度この欄で言及したが、白井聡が大学院学生または20歳台のときにもっぱら又はほとんど、レーニンの文献を読んでいたことの結果だと言えるだろう。
 加藤哲郎(元一橋大学)には、このような人物が生まれたことについての「責任」はないのだろうか(同じことは、長谷川三千子-小川榮太郎についても、感じる)。
 白井聡はもともと親社会主義・共産主義的心性は抱いていたのだろうが、レーニンを読み耽ることが、上のような文章を書くことにつながったと見られる。
 白井聡にとって、レーニンとそのロシア革命は「われわれ」という名の「自分」すなわち白井聡の「一部」であり「分身」なのだ。レーニンの屈辱も夢も、白井聡の同身者のものなのだ。
 このような、レーニン研究者としてはまだ研究業績があると言えるかもしれない者が戦後日本史あるいは現代日本について語り出すといったいどうなるのか。
 真面目に読む気がしないのだが、読まなくとも、この人の心底にある「怨念」めいた信条による歴史・現実の把握が尋常なものでなくなることが、容易に判るような気がする。
 それでも、雑文執筆を依頼し、書物の刊行までしてくれるマスコミや出版社が、日本にはある。かつまた、雇用してくれる大学も、日本にはある。
 白井聡は京都精華大学の教員らしい(教授ではない)。この大学はかつて、上野千鶴子が所属していた。また、この欄でレーニン幻想をもつ「左翼」としてとり上げた、理系・建築系の田中充子も(今を確認しないが)いた。
 これらは、京都精華大学という大学にとって名誉なことだろうか。

1887/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第2節③。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第三章/ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。1978年英語版 p.101-p.105、2004年合冊版p.868-p.871。
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 第2節・スターリンによるマルクス主義の成文化(codification)③。
 (20)スターリンが解説する弁証法的および歴史的唯物論は、プレハノフ、レーニンおよびブハーリンに従ったマルクス主義の、陳腐で図式的な版型だ。すなわち、弁証法は現実の全側面を支配する普遍的「諸法則」を示すもので、人間の歴史はこの諸法則を適用した特殊な場合だと、広大無辺にかつ野心的に主張する哲学。
 この哲学は、天文学と同じ態様で自らを「科学的」だと主張し、社会過程は他のものと同様に「客観的」で、予見可能だと宣言する。
 この点で、ルカチ(Lukács)やコルシュ(Korsch)が再構築したマルクス主義の見地とは根本的に異なる。これによれば、プロレタリアの意識の特定の場合に、社会過程とその過程の知覚は同一のものになり、社会に関する知識は社会を変える革命的実践と合致する。 
スターリンは、一般的な自然主義(naturalism)を採用した。それは第二インターナショナルのマルクス主義者たちに支配的だったもので、そこには「理論と実践の統一」という特有のマルクス主義的見方が入り込む余地はなかった。
 確かにこの定式は承認されていて、スターリンや随行哲学者たちががあらゆる機会に強調したものだった。
 しかし、その持つ意味は実際には、実践が理論に優越する、理論は実践の補助的なものだ、という主張へと変質していた。
 この考え方に沿って、学者たちに対して-とくに1930年代初めの科学アカデミーのイデオロギー的再建の後で-、工業にとって直接の利益になり得る分野に研究を限定すべきだという圧力が加えられた。
 この圧力は、全ての自然科学に、緩和されてだが数学に対してすら、適用された。
 (数学は、マルクス主義に関する博識の高僧たちでも理解するふりをしなかったので、ソヴィエト同盟で、イデオロギー的な監視がほとんどなかった。その結果として標準は維持され、ソヴィエト数学は時代による破壊から救われた。)
 「理論と実践の統一」は、もちろん人文科学にも適用された。だが、少しばかりは異なる意味でだった。
 大まかに言って、自然科学は工業へと、人文科学は党の宣伝活動へと繋がれていた。
 歴史、哲学および文学史や芸術史は、「党と国家に奉仕する」ものだと、換言すれば党の主張を守り、そのときどきの決定に理論的な支援を提供するものだと、想定された。//
 (21)自然科学は直接の技術的有用性がある研究分野に限定すべきとの要求は重要な分野についてはきわめて強く、その結果としてすみやかに、自然科学は技術へと落ち込んだ。
 しかしながら、より致命的ですらあったのは、科学研究の現実的成果をマルクス主義的「適正さ(correctness)」の名前のもとにイデオロギー的に統制しようとする試みだった。
 「観念主義」の相対性理論は、1930年代には、哲学者たちやA. A. Maksimovが率いる未熟な物理学者たちからの砲火を浴びた。
 同じ時期にはTrofim D. Lysenko(ルィセンコ)が登場した。この人物の役割は、マルクス=レーニン主義に従ってソヴィエトの生物学を革命化し、Mendel やT. H. Morgan の「ブルジョア」理論を破壊することだった。
 農学者のLysenko は、様々の植物栽培技術を探求し、経歴の初期に、それらから普遍的なマルクス主義の遺伝学理論を発展させようと決意した。
 彼は、助手のI. I. Prezent とともに1935年の後に、現代遺伝学理論を攻撃し、遺伝による影響は環境を適切に変化させることによってほとんど完全に排除することができる、と主張した。遺伝子なるものは、遺伝子型と表現型(phenotype)の区別と同様に、ブルジョア的考案物だ。
 「遺伝は永続的な実体をもつ」ことを否定し、生きている有機体を環境の変化によって望むとおりにまで変化させることができる、という主張がマルクス=レーニン主義(「全てのものは変化する」)と合致する、と党指導者たちやスターリン自身が納得するのは困難なことではなかった。また、人間は、とりわけ「ソヴィエト人間」は、その心に思い浮かべたように自然を変化させることができる、とするイデオロギーにそれが見事に適合している、ということについても。
 Lysenko は急速に党の支持を獲得し、研究所、研究者そして諸雑誌等々に対する影響を大きくした。そして、我々が知るだろうように、彼の革命的理論は1948年に完全な勝利をかち得た。
 党の宣伝はおよそ1935年以降から絶えず彼の発見を褒め称え、その実験には科学的な価値がないと反対していた者たちは、まもなく沈黙へと追い込まれた。
 新しい理論を支持するのを拒んでいた優れた遺伝学者のNicholay I. Vavilov は、1940年に逮捕され、Kolyma の強制収容所で死んだ。
 予期され得たことだが、たいていのソヴィエト哲学者たちは、Lysenko の見解に喝采を送る一群に加わった。//
 (22)今日では、Lysenko は無学で、山師だったということを誰も疑っていない。また、彼の経歴は、科学や文化の点だけではなくて経済や行政の分野でもソヴィエトのシステムがいかに機能していたかを教示してくれるよい例だ、ということも。
 後年にはより明確になった自己破壊的な特質が、すでに見えていた。
 党が全ての生活領域で無制限の権限を行使し、システム全体が指令の一方方向の連鎖をもって階層的に組織されていたことからして、どの個人の経歴も、権力に対する従順さや追従や弾劾をする技巧の熟達ぶりに依存することになる。
  他方では、主導性、自分自身の心性、あるいは真実に対する最小限度の敬意すらを示すことは、致命的だ。
 当局者たちの主要な目標がその権力を維持し、増大させることにあるとき、科学(とくにイデオロギー的に統制されている場合)についても経済管理についても、間違った人々が頂上へと進むだろうことは不可避だ。
 非効率性と無駄は、ソヴィエト体制の中に組み込まれている特徴だ。
 政治および「保安」を理由とする不適切で全体的な情報流通の制限の増大によって、経済発展は妨害される。
 経済を合理化しようとする後年の試みはある程度は成功したが、それは全体主義原理から、あるいはスターリニズムの体制が完成にまで至らしめていた「統一」という理想から、離れたかぎりでのみのことだった。//
 (23)1930年代のソヴィエト文化のもう一つの特質は、ロシア民族主義の成長だった。
 これはのちに頂点に到達した現象でもあるが、スターリンの演説が社会主義が生むことができかつ生まなけれならない「強いロシア」に関する言葉を述べ始めた、1930年代の初めにはすでに感知することができた。
 愛国的主題は次第に宣伝活動で強調されはじめ、ソヴィエトの愛国主義とロシアのそれとが同時に大きくなった。
 ロシアの歴史の栄光が、民族的誇りや自助努力への訴えの中に再生された。
 ウズベク人(the Uzbeks)のような、以前はアラビア文字で彼らの言語を記していて、ソヴィエト当局によってラテン・アルファベツトを与えられた諸民族は、今や、キリル(Cyrillic)の形式を採用するように強いられた。その結果として、同じ世代の者たちが三種類のアルファベットを使うようになった。
 ソヴィエト同盟の中の非ロシア共和国で権力を行使する「民族の幹部たち(cadres)」という考え方は、すぐに作り話(fiction)であることが分かった。すなわち、理論的にではないが実際には、党や国家行政の最高部の職(posts)は、通常はモスクワが任命したロシア人によって占められた。
 国家権力のイデオロギーは、徐々にロシア帝国主義のそれと区別できないものになった。//
 (24)ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義は、きわめて早く、政策を決定する自立した要素ではなくなった。
 必然的に、その内容は内政または外交問題に関する特定の動向を正当化するために、曖昧で一般的なものにならなければならなかった。NEP(ネップ)または集団化、ヒトラーとの友好または彼との戦争、内部体制のあれこれの厳格化または緩和、等々。
 そして実際に、理論は「一方で」上部構造は土台の産物かつ道具だとし、「他方で」上部構造は土台に影響を与えるとするがゆえに、経済を規制する、あるいは文化を多かれ少なかれ統制する、全ての考えられ得る政府の政策は、マルクス主義と合致した。
 「一方で」個人は歴史を作らず、「他方で」歴史的必然性を理解する例外的な個人は歴史に重要な役割を果たすとのだとすれば(そしていずれの見方もマルクスやエンゲルスの引用によって支持され得るのだとすれば)、社会主義の専制者に聖なる栄誉を与えることも、その実践を「逸脱」だと非難することも、いずれも同等にマルクス主義に合致している。
 「一方で」全ての民族は自己決定の権利をもち、「他方で」世界社会主義革命の根本教条が至高の理念だとすれば、柔和であれ厳格であれ、帝国に住む非ロシア人民衆の民族的願望を挫折させる目的の政策は、疑いなくマルクス主義的だ。
 このようなことは実際、スターリンのマルクス主義の両義的な基礎であり、その曖昧で矛盾する様相は、「弁証法」原理に似たようなものだった。
 かかる観点からすると、公式のソヴィエト・マルクス主義の機能と内容はいずれも、スターリンの死後も同じままだった。
 マルクス主義は、たんにロシア帝国の現実政策(Realpolitik)を理論的に粉飾するにすぎないものになった。//
 (25)こうした変化の理由は、きわめて単純だった。つまり、ソヴィエト同盟はその定義上人間の進歩の基地であるがゆえに、ソヴィエトの利益に奉仕するものは何であれ進歩的であり、そうでないものは反動的なのだ。
 歴史上のその他の大国と同様に帝制ロシアは、その対抗国を弱体化させるために少数民族の民衆の願望を支援した。ソヴィエト同盟もまた、最初からそうした政策を追求した。しかし、異なる口実(guise)によってだった。
 「封建的な」民族長老(sheikh)やアジアの皇子ですら、スターリンによれば、帝国主義の前線を掘り崩すかぎりでは、「客観的に」進歩的な役割を果たした。
 これは完全に、世界革命に関するレーニンの理論と合致していた。レーニンの理論は、非社会主義者、非プロレタリアートおよびマルクス主義の用語では「反動的」勢力のですら、それらの参加を是認し、また要求しすらするものだった。
 弁証法の見地からは、世界の別の大国の利益に敵対的であるならば、反動的な者たちの活動はただちに進歩的なものになる。
 同じく、ソヴィエト同盟はその定義上世界的解放運動の中心者なので、1917年以降は、つぎのことは自明のことになった。すなわち、外国の領域の一部への武装侵入(incursion)やその占領は全て、侵略(invasion)ではなく、解放する行為だ。
 こうしてマルクス主義は、帝国主義者がもつ道具として、帝制ロシアが異民族を支配するのを正当化しようとした不器用でかつ滑稽ですらある基本的考え方よりもはるかに有用な論拠の目録を、ソヴィエト国家に提供した。//
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 ③終わり。かつ、第2節も終わり。第3節の表題は「コミンテルンと国際共産主義のイデオロギー的変容」。 
 

1873/L・コワコフスキ著・第三巻第二章第3節③。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第二章/1920年代のソヴィエト・マルクス主義の論争。
 1978年英語版 p.66-p.70、2004年合冊版p.843-p.847。
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 第3節・哲学上の論争-デボリン対機械主義③。
 (16)「弁証法論者」は、執筆者たちはのちに非難されたとしても、国家イデオロギーの経典へと入り込み、数十年の間は拘束的なままだった基本的用語、言明、および教義をソヴィエト・マルクス主義に授けた。
 彼らの遺産の一部は、形式論理に対する攻撃だった。それは、ロシアでの論理的研究の崩壊をもたらした以上のものだった。
 弁証法論者は、論理が何と結びついているのか、あるいはその言明は何を意味するのかを分かっていなかった。
 しかしながら、彼らは、論理は「概念の内容から抽出」するので弁証法とは対立するに違いないと想像していた。なぜなら、弁証法は我々に、「具体的状態で」かつ(論理は切り離す)「相互関係において」、また(形式論理は理解できない)「動きの中で」現象を研究するように要求するのだから。
 この馬鹿々々しさの理由は、部分的には無知だった。しかし、部分的には、エンゲルスのいくつかの言明にもとづいていた。
 Deborin は1925年のレーニンに関する論考で、形式論理は世界が単相でもあり多層的でもあるということを考慮することができない、と書いた。また、同年の<弁証法的唯物論と自然科学>で、形式論理は「形而上学のシステム」の構築に奉仕するだけで、マルクス主義からは排除されている、弁証法は形式と内容は相互に浸透し合うことを教えているのだから、と宣言した。
 科学は形式論理を基礎にしては前進することができない、各科学は「事実の収集体」であるにすぎず、マルクス主義的弁証法のみがそうした諸事実を系統的な全体へと連環づけすることができる。
 物理学者たちが「這いずり回る経験論」に執着しないでヘーゲルを読めばすぐに、彼らが進歩し様々の「危機」を克服するのを弁証法が助けることを理解するだろう。
 「理論的自然科学」の創始者であるエンゲルスは、最初からずっと、ヘーゲルから弁証法を吸収した。//
 (17)Deborin は哲学が諸科学を支配すると考えために当然に、Lukács の<歴史と階級意識>によって激しく論難された。この書物は弁証法は統合へと進む過程での主体と客体の相互作用だとの理由で自然の弁証法の可能性を疑問視した。
 この主張を受けてDeborin は、Lukács は認識は「現実の実体」だと考える観念論者である正体を暴露した、と論じた。
 1924年に発行されたオーストリアの雑誌<労働者文学>の論考でDeborin は、Lukácsの誤り、およびエンゲルスに対する、ゆえにマルクスに対する、非礼な態度を非難した。
 さらには何と、Lukács はマルクス主義正統派はマルクス主義の方法に関する知識でのみ成り立っていると述べたが、しかるにその方法はマルクス主義者にとっては「内容と不可分に結びついている」、と。
 Lukács の「主体と客体の一体性」は観念論の同類で、エンゲルス、レーニンおよびプレハノフの明確な言述と矛盾している。
 主体が行う全ては客体を「反映する」ことであり、そう考えないのは「客観的な現実」を放棄することだ。//
 (18)機械主義、「這い回る経験論」および科学の自律性を攻撃し、そしてヘーゲル、「質的跳躍」および「現実の矛盾」を擁護することで、Deborin は、同好の学者たちと狂信者たちの多数から支持された。
 そのうち最も積極的だったのはG. S. Tymyansky だった。この人物はSpinoza の著作を翻訳し、論評していた(その論評はきわめて図式的だったが、啓蒙的で、事実の観点からは有用だった)。
 さらに、純粋な哲学者で哲学史研究者のI. K. Luppol。そして、V. F. Asmus, I. I. Agol、およびY. E. Sten。
 Medvedyev がスターリンに関する書物で述べるように、Sten は、1925-1928年にスターリンに哲学について授業(lesson)をし、スターリンにヘーゲル弁証法を理解させようとした。
 このグループのうちたいていは、全員ではないが、1930年代の大粛清の中で死んだ。//
 (19)しかしながら、弁証法論者は1920年代の後半には有利な位置を占め、ソヴィエトの哲学上の諸装置に対する完全な支配権を獲得した。
 1929年4月のマルクス=レーニン主義教育者会議で、Deborin は彼の哲学上の大綱を提示し、異端者に対する非難を繰り返した。
共産主義アカデミーは彼を完全に支持し、機械主義を非難する声明(decree)を発した。
 このDeborinの例に見られるように、以前に会議自体が、プロレタリアートの独裁の理論的武器としてのマルクス=レーニン主義の役割を確認し、自然科学へのマルクス主義の方法を適用することを求め、機械主義者たちを「修正主義」、「実証主義」そして「卑俗的進化主義」と非難する決議を採択していた。
 哲学上の諸問題を党の会議または党の支配に服する集会での票決によって決定するという習慣は、このときまでに十分に確立されており、驚く者は一人もいなかった。
 機械主義者たちは議論で自己防衛し、反対攻撃すらした。「観念論的弁証法」を主張し、自然に対して空想上の図式を課し、機械主義に対してのみ矛先を向け、観念論が提起する諸問題を無視し、注目を党が設定した実践的な責務から逸らすものだ、と彼らの反対者を追及することによって。
 しかしながら、こうした防衛は無益だった。機械主義者たちは分離主義者(schismatics)だというのみならず、ちょうどその頃にスターリンが攻撃していた「右翼偏向主義」を哲学の分野で代表するものだという烙印を捺された。//
 (20)Deborin主義者たちは勝利のあと、哲学教育または哲学関係著作物の出版に関係する全ての諸組織を支配した。
 しかし、彼らの栄光は長くは続かなかった。
 「弁証法論者」は、懸命に努力したにもかかわらず、哲学問題に関する党の期待を推し量らなかったようだ。
 1930年4月のモスクワでの第二回哲学会議で、Deborinとそのグループは、赤色教授研究所からの一団の若き党活動家によって攻撃された。党の精神を不十分にしか示していない、と糾弾されたのだ。
 この批判は6月に、M. B. Mitin、P. F. Yudin およびV. N. Raltsevich の論考で繰り返された。この論考は<プラウダ>に掲載され、編集部によって、つまりは党当局によって、推奨されていた。
 この新しい批判は党生活でと同様の哲学での「二つの前線での闘い」を呼びかけ、当時の哲学指導者たちは「形式主義者」で、レーニンを犠牲にしてプレハノフを高く評価し、哲学を党の目標から切り離そうとしている、と追及した。
 弁証法論者たちはこの責任について反論したが、無駄だった。
 12月に、赤色教授研究所内の党執行部は、スターリンにインタビューをした。スターリンは、Deborin主義者の考え方を表現するために「メンシェヴィキ化する観念論」という語を作り出した。
 それ以降、この言葉によるレッテル貼りは公式に採用された。そして、その執行部は、一方では機械主義者およびTimiryazev、Akselrod、Sarabianov、そしてVaryashという「しばしばメンシェヴィキ化する」修正主義者、他方ではDeborin、Karev、Sten、Luppol、Frankurtその他の観念論的修正主義者を非難する、長い決議を採択した。
 その決議は、「Deborin主義グループの理論的かつ政治的考え方全体は本質的に、非マルクス主義、非レーニン主義の方法論にもとづくメンシェヴィキ化する観念論に達しており、プロレタリアートを取り囲む敵対階級勢力の圧力を反映しているとともに、小ブルジョアのイデオロギーを表現している」、と述べた。
 このグループは、レーニンの論文「戦闘的マルクス主義の意義」の教えを「歪曲し」、「理論を実践から分離し」、そして「党哲学のレーニン主義原理」を変質させて拒絶した。
 彼らは、弁証法的唯物論の新しい段階としてのレーニン主義を理解することができず、多くの点で、機械主義を批判するふりを装いながら機械主義者と共通する根本教条に立っている。
 彼らの出版物は、プロレタリアート独裁に関する「カウツキー主義者」の誤りを含み、文化問題では右翼日和見主義者の誤りを、集団主義と個人主義に関してはBogdanov 主義者の誤りを、生産力と生産関係という概念に関してはメンシェヴィキの誤りを、階級闘争については準トロツキー主義者の誤りを、そして弁証法に関しては観念論者の誤りを含んでいる。
 Deborin主義者たちは、ヘーゲルを不当に賞賛した。世界観から方法論を、歴史的なものから論理的なものを、切り離した。そして、自然科学の問題に関するレーニンの重要性を過小評価した。
 党内部で富農の利益を擁護しようとする右翼偏向の理論的根拠であるので、この時点での主要な危険はたしかに、機械主義的修正主義だ。しかし、闘いは二つの戦線で果敢に行われなければならない。修正主義の二つの形態は、実際には一つのブロックを形成しているのだから。
 (21)共産主義アカデミーでのMitin の講義は、こうした批判の全てをさらに発展させた。彼自身はこのとき、「哲学戦線」での指導者になることを望んでいた。
 その講義は繰り返して「メンシェヴィキ化する観念論」とトロツキー主義の間の連環に言及した。すなわち、たしかに機械主義者たちはブハーリンや親富農偏向の哲学上の前面にいるので、Deborin主義者たちが正統派を装いつつトロツキー主義の左翼偏向を支持していると推論するのは当然だ、と。
 Mitin によると、二つのグループは、哲学および理論の問題ではレーニンはマルクスとエンゲルスが語ったのと同じことをたんに反復しているにすぎないという悪辣な中傷を広げていた。-まるでスターリンは、レーニンが「発展させ、深化させ、より具体的にすることで」マルクス主義理論史上の質的に新しい段階を代表していることを証明していないかのごとくに!
 偏向者たちはまた、哲学および自然科学を含む全ての科学は党の精神の中に注入されなければならないというレーニンの原理を無視している。
 Mitin は、プレハノフは多数の政治的かつ哲学的な間違いを冒している一方で、レーニンが言明したように彼の著作はマルクス主義文献の中での最良のものだという趣旨のKarev の論文を引用した。
 Mitin は述べた。このことは、Deborin主義者は「プレハノフ全体、メンシェヴィキとしてのプレハノフ」のために武器を取り上げていることを示す、と。
 Deborin主義者は、レーニンは哲学についてはプレハノフの生徒だと、あえて主張することすらする。だが実際には、レーニンはマルクスとエンゲルスの後の最も一貫した、正統なマルクス主義者だ。
 その一方でプレハノフは、弁証法を正しく理解しておらず、形式主義に落ち込み、不可知論へと傾き、Feuerbach、Chernyshevsky および形式論理の影響を受けている。
 Deborin主義者の過ちの根源は、しかしながら、「理論の実践からの分離」にある。
 彼らの機械主義者たちに対する闘いは、長年継続したけれども一人の機械主義者すら自分の誤りを認めなかった!、ということが示すように、模擬演習のようなものだ。
 実際のところ、二つのグループの間にはほとんど違いがない。メンシェヴィキ化する観念論者とメンシェヴィキ化する機械主義者はいずれも、レーニンの哲学を見下している。//
 (22)ソヴィエト哲学の粛清は、1931年1月25日の<プラウダ>で発せられた党中央委員会の布告(decree)によって完結した。この布告は<Pod znamenem Marksizma>の誤りを非難し、すでに記した批判を簡単に要約した。
 (23)Deborin、Luppolおよびその他の構成員は急いで自己批判を行い、正しい光を見るのを助けてくれたことについて党に感謝した。
 Sten、Luppol、Karev、Tymyanskyおよび他の多数の者は、1930年代の粛清の中で死んだ。
 Deborin は、<Pod znamenem Marksizma>の編集長を解任されたが(編集部は実際上完全に変わった)、生き残った。
 彼は党から除名もされず、その後の時代に申し分のないスターリン主義正統派の多くの論文を発表した。
 彼は、フルシチョフの時代まで生き延びた。そして晩年には、粛清の犠牲となった多数の生徒や同僚たちの社会復帰(・名誉回復)のために働いた。
 Asmus も戦後にまで生き残ったが(1975年死亡)、1940年代にはさらなる攻撃を受けた。
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 ④へとつづく。

1869/宮地健一HPによる日本共産党の異様性・稀少性。

 <宮地健一のホームページ>の中の、コミンテルン型共産主義運動の現状-ヨーロッパでの終焉とアジアでの生き残り→1/ヨーロッパの発達した資本主義国における転換・終焉の3段階・2/ヨーロッパ各国・各党の終焉の経過と現状→3)/発達した資本主義国での運動…ユーロ・コミュニズムといわれた諸党、の中につぎの表が掲載されている。宮地作成のものと思われる
 <(表1)レーニン型前衛党の崩壊過程と割合
 この表は、「レーニン型前衛党」の要素として、①プロレタリア独裁理論、②民主主義的中央集権制、③前衛党概念、④「マルクス・レーニン主義」、⑤政党名=「共産党」を挙げ、ヨーロッパ各国および日本と<社会主義4国(中国・北朝鮮・ベトナム・キューバ)>の各<共産党>がどのように維持したり、放棄等をしたりしているのかの「現状」を示している。
 これによると、社会主義4国は北朝鮮の党名が「労働党」である以外は全て「堅持」している。
 ヨーロッパ(東欧は除外)各国の共産党は、⑤の政党名(政党形態)の項によると、1.イタリア-「左翼民主党」に1991年に改称、2.イギリス-1991年に解党、3.スペイン-1983年に分裂、4.フランス-「共産党」維持、5.ポルトガル-「共産党」維持。
 以上と日本(日本共産党)をすでに比べてみると、日本と同じなのはフランスとポルトガルだけ。
 ④「マルクス・レーニン主義」の堅持状況は、1.イタリア-放棄、2.スペイン-放棄、3.フランス-1994年に放棄、4.ポルトガル-堅持。
 そして宮地は日本(日本共産党)は「訳語変更堅持」だとする。これは、「科学的社会主義」という語・概念への言い換えのことを意味するとみられる。
 以上までで日本(日本共産党)を比べてみると、日本と同じなのは、すでにポルトガル(ポルトガル共産党)だけ
 ③の前衛党概念の堅持状況も、日本と同じなのは、ポルトガル(ポルトガル共産党)だけ。宮地によると日本は「隠蔽・堅持」。
 ②の民主主義的中央集権制という組織原則については、1.イタリア-1989年に放棄、2.スペイン-1991年に放棄、3.フランス-1994年に放棄、4.ポルトガル-堅持。宮地によると日本は「略語で堅持」。おそらく「民主集中制」だろう。
 この点も、日本と同じなのは、ポルトガル(ポルトガル共産党)だけ。
 ①のプロレタリアート独裁理論については、1.イタリア-1976年放棄、2.スペイン-1970年代前半放棄、3.フランス-1976年放棄、4.ポルトガル-1974年放棄
 ここで、初めて、日本とポルトガルの違いが出てくる。
 日本共産党は「プロレタリアート独裁」という言葉(訳語)を変更しているが、実質的には維持しているからだ。宮地健一も、日本共産党につき「訳語変更堅持」と明記している。
 宮地健一は、この表の上すぐと下で、つぎのように日本共産党の基礎的な現状についてまとめ、コメントしている。一文ごとに改行。
 「資本主義諸国において、残存するレーニン型前衛党は、2党だけになってしまった。
 ただ、ポルトガル共産党は、1974年12月、ヨーロッパ諸党の中で一番早く、プロレタリア独裁理論は誤りだとして、放棄宣言をした。
 よって、5つの基準・原理のすべてを、『訳語変更、略語方式、隠蔽方式』にせよ、堅持しているのは、世界で日本共産党ただ一つとなっている。

 「21世紀の資本主義世界で、いったい、なぜ、日本共産党という一党だけが、レーニン型前衛党の5基準・原理を保持しつつ残存しえているのか。」 
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 「世界で日本共産党ただ一つ」、「日本共産党という一党だけが」ということは<誤り・間違い>であることの論拠にはならない。
 しかし、日本には<左翼>または<容共>者が欧米各国に比べて異様に多いということの根本的な原因を、この日本共産党という独特の政党・政治組織の存在に求めることは誤りではない、と考えられる。
 上に記されているような意味で「世界でただ一つ」の共産党がある程度の組織を維持しつつ存在するがゆえに、安心して?、朝日新聞社等々の「左翼」メディアがあり、また、立憲民主党等の「左翼」政党がある。岩波書店(・日本評論社法学系)等の「左翼」出版社もある。
 立憲民主党はともあれ、朝日新聞社、岩波書店等々の中には、当然のごとく日本共産党員もいる。
 また、日本共産党の路線が<先ず民主主義革命>であるために、「民主主義」という旗印(これに近いのが「平和」・「護憲」)を支持して日本共産党の周囲に、ある程度の範囲の者たちが集まってくる(そして入党勧誘の候補者になる者もいる)ということになる。
 こうしたことの背景にはさらに、日本はほぼ日本語だけで社会が動き、(共産主義・共産党に関するものも含めて)英語等の外国語による世界の情報が十分に正確には入っていない、ということがある。
 上の宮地健一が示すような現状は、日本ではほとんど知られていないだろう。
 そうした外国語情報の流入は意図的に阻止されていることがある、と考えられる。
 明らかに<反共産主義>の文献は、どの分野であれ、日本語に訳されて出版されることが全くないか、ほとんどない。少なくとも大手出版社はそのような文献の邦訳書を出版しない。
 欧米では意見・感想の違いはあっても読書されて当然の、例えばレシェク・コワコフスキの大著、リチャード・パイプスの二著の邦訳書がいまだに日本に存在していないのは、その顕著な例だろう(一方で、欧米の若手<親マルクス主義系>研究者の本が簡単に邦訳されたりしている)。

1860/笹倉秀夫・法思想史講義(下)(2007)②。

 笹倉秀夫・法思想史講義(下)(東京大学出版会、2007)
 この本の、14のマルクスの部分、15のマルクス・レーニン・スターリンの部分をしっかりと読んで、この人物の基本的な情念・前提命題と「論理」らしきものを分析してみたい。
 前提として、上に関する部分の注記に文献名が挙げられているので、以下にそのままその文献名だけを列挙する。
 執筆時に参照したのだろうから、この人物にはすでにこれら以外の諸文献を通じた「知識」や「感情」があるに違いないが、それでも「頭の中」をある程度は覗くことができるだろう。
 注記は元来は連番なので、ここでは14の(222)を(01)とし、15の(239)をあらためて(01)として紹介する。頁数や叙述内容は記載しない。前掲書と同じ趣旨の記載の場合も、あらためて同一文献名を記した。
 ***
 14注
 (01) 藤田勇「社会の発展法則と法」渡辺洋三ほか・現代法の学び方(岩波新書、1969)。林直道・史的唯物論と経済学/下(大月書店、1971)。
 (02)マルクス・経済学批判-マルクス・エンゲルス全集37巻(大月書店)。
 15注
 (01) 渓内謙・現代社会主義を考える(岩波新書、1988)。
 (02) レーニン・国家と革命(大月書店、国民文庫)。
 (03) マルクス・ゴータ綱領批判-マルクス・エンゲルス全集19巻(大月書店)。
 (04) 不破哲三・マルクスの未来社会論(新日本出版社、2004)。
 (05) 渓内謙・現代社会主義を考える(岩波新書、1988)。
 (06) 渓内謙・現代社会主義を考える(岩波新書、1988)。
 (07) 渓内謙・現代社会主義を考える(岩波新書、1988)。
 (08) 渓内謙・現代社会主義の省察(岩波書店、1978)。
 (09) 大江泰一郎・ロシア・社会主義・法文化(日本評論社、1992)。鳥山成人・ロシア・東欧の国家と社会(恒文堂、1985)。浅野明「君主と貴族と社会統合」小倉欣一編・近世ヨーロッパの東と西(山川出版社、2004)。
 (10) 渓内謙・現代社会主義を考える(岩波新書、1988)。
 (11) 丸山真男・現代政治の思想と行動(未来社、1964)。
 (12) 山口定・ファシズム(岩波現代文庫、2006)。
 以上。
 不破哲三はご存知、日本共産党の幹部(元最高指導者)、藤田勇・渡辺洋三は、前回に言及した二つの講座もの全集(日本評論社刊行)の編者、林直道はマルクス主義経済学者で日本共産党員と推察される人物(元大阪市立大学)、渓内謙は今日でも基本的な<レーニン幻想>を崩していない人物(元東京大学)。
 これらの諸文献も秋月も参照しながら、「読解」してみる。結論はすでに出ているし、この人物の主観的な「願望」が空想的社会主義のレベルまで戻るようなものであることも分かる。歴史的(史的)唯物論なるものを「観念的」・「主意的」に理解した、結局は政治・世俗優先の<日本の戦後教育の優等生>の一人が行った「作業」であることが判るだろう。
 ***
 なお、藤田勇(1925-)に、上と同年刊行の、つぎの著がある。第3段階とは1960年代~1990年前後を言うとされる。
 藤田勇・自由・民主主義と社会主義1917-1991-社会主義史の第2段階とその第3段階への移行(桜井書店、2007年10月)。
 ネップ期に関する叙述もあるが、日本の「共産主義政党」の基調の範囲内で行ってきた「自由」な研究の末路を見る想いもする。

1858/笹倉秀夫・法思想史講義(下)(2007)①。

 マルクス主義法学講座(日本評論社、全8巻、1976-1980)の編者5名のうちの一人、講座・革命と法(日本評論社、全3巻、1989-1994)の編者3名のうちの一人で、それぞれに文章を複数回掲載していた者に、渡辺洋三(1921-2006)という人物がいた。元東京大学社会科学研究所教授。
 その渡辺洋三は1996年に、つぎの岩波新書を刊行していた。
 渡辺洋三・日本をどう変えていくのか(岩波書店/岩波新書、1996)。
 自社さ連立政権の頃で、この年に首相は村山富市から橋本龍太郎に替わった。
すでにこの欄で多少は触れたことだが(№0041)、この書物の最後で当時の「政局」との関連で憲法問題を論じ、小沢一郎批判から始めて、自民党・新進党・(新)社会民主党に対して批判的に言及し、その中で公明党や「さきがけ」にも触れている。
 ところが何と、日本共産党には何ら言及せず、「日本共産党」または「共産党」という言葉をいっさい出していない(p.234~p.240)。
 その直後に渡辺は「日本社会の改革目標」を平和大国・生活大国・人権大国・民主主義大国とまとめるのだが(p.241-2)、上のことからして、こうした主張は日本共産党員である自らの主張であり、かつまた同党の主張・路線と一致していることを「問わず語り」に暴露している、と言えよう。
 真偽は定かではないが、渡辺洋三のことを日本共産党の「大学関係」責任者だと述べていた人もいた。
 さて、笹倉秀夫・法思想史講義(下)(東京大学出版会、2007)。
 この書物にも、たぶん一度触れた(№1408)。
 あらためてこの本を捲ってみると、目次(構成内容)からしてじつに興味深い。
 最終の「部」である「近代の変容・現代」のうち、14(章)以降の構成・叙述内容を「目次」から紹介してみよう。以下、省略部分はあるが、それ以外は忠実な再現だ。
 「14」の表題は<「近代の疎外」との対峙>、「15」のそれは<社会主義>、「16」のそれは<近時の主な法思想>(17はここでは略す)。
 14-1/マルクス 14-1-1 マルクスの思想形成、14-1-2 史的唯物論の素描
 14-2/自由主義と民主主義の再結合へ (1) ミル、(2) ラスキ
 14-3/ヴェーバー
 14-4/フロム 14-4-1 学説史的位置、14-4-2 現代社会論
 14-5/フーコと「紀律化」 14-5-1 フーコの議論、14-5-2 私見
 15-1/社会主義思想の形成
 15-2/スターリニズム 15-2-1 スターリニズムの問題点、15-2-2 スターリニズムの要因、15-2-3 スターリニズム批判とその後
 15-3/まとめ
 16-1/価値相対主義、16-2/「実践哲学の復興」、16-3/ポストモダニズム  
 以上
 ここですでに明らかなのは、マルクスに論及があり、かつスターリニズムについての詳細らしき叙述はあるが、「レーニン」という語が全く出てこないことだ。
 これはこの人物の<政治的立場>をすでに「問わず語りに」示唆しているのではないだろうか。
 もっとも、さらに下の項を見ると、「15-2-2 スターリニズムの要因」の中の(3) として「マルクス・レーニンらの問題点」が叙述されている。
 そこではマルクス(・エンゲルス)とレーニンに関しては構成上は「一括して」叙述されており、「レーニン」という小見出し(黒ゴチ)がある部分は、15-2-2-3-2-2のところに位置する(正確な又は的確な言葉を知らないが、「ディレクトリ」の階層的に示すと「レーニン」はここに位置する)。
 内容には別途立ち入るとして、このように「マルクス・レーニン」と「スターリン(スターリニズム)」を明瞭に区分していること、レーニンをマルクス(・エンゲルス)と「一括して」、正確にはおそらく「引きつけて」理解して同様にレーニンとスターリンとを切り離していること、これらは、この人のこの書物の時点での、少なくとも過去の一定の時点での<政治的立場(・心情)>を示唆しているように感じられる。
 全集・世界の大思想(河出書房)の一つの巻を「レーニン」が占めていた(1965年)。「法思想」と「思想」は同じではないのだが、この笹倉秀夫は、レーニンを大々的には、あるいは正面からは論述の対象にはしたくないのではなかろうか。

1854/左翼は「ファシスト」の存在・ファシズムの再来可能性を必要とする。

 この欄で2016年に、青木理が同年7/24夜のテレビ番組で「歪んだ民主主義からファシズムは生まれるとか言いますからね」とか言い放った、と紹介している。
 日本の左翼にとって、その歴史観・政治観の形成にとって、「ファシズム」・「ファシスト」=絶対の悪という公式は不可欠なのだ。
 もっと幅広く、歴史的または欧州史または欧米思想の観点から、この欄ですでに紹介して言及したように、François Furet, The Passing of an Illusion - The Idea of Communism in the Twentieth Century - (原仏語版1995年) は、<第6章/共産主義とファシズム>の中で、つぎのように述べていた。
 前回の投稿の補足として掲載する。すでに掲載した部分をあらためてできるかぎり全文に近くなるように、邦訳書と原英訳書を見て、紹介・掲載し直す。邦訳書は、以下。なお、この邦題は「過去」と「全体主義」の二カ所ですでに適切ではないと指摘した。<幻想の終わり-20世紀の共産主義>が原書(フランス語版)の意味にも添う。
 楠瀬正浩訳・幻想の過去-20世紀の全体主義(バジリコ、2007)。 p.244-。 
 ・「20世紀の歴史を織り成しているのは、…全く新たな政治体制であり、また20世紀が特異な性格を示すようになったのは、まさにそうした政治体制の出現のゆえにだった。そのために、歴史家は20世紀を19世紀の眼鏡を通して理解する誘惑を避けられなかった。彼らはあくまで、民主主義対反民主主義という闘いの図式を繰り返し、ファシズム対反ファシズムという対立の構図に固執した。こうした傾向は、…第二次大戦終結以降、ほとんど神聖にして犯すべからざる思想上の観点とさえ見なされるようになった。」
 ・「こうした精神的束縛にはきわめて強力なものがあり、ゆえに欧州で最も大きな力を獲得した国々-フランスとイタリア-で、コミュニズムと反ファシズムは同一の立場を示すものだと考えられ、そのため長い間、コミュニズムに対する分析はすべて妨げられる結果になってしまった。かつまた、ファシズムの歴史を語ることすら、相当に困難になってしまった。」
 ・「反ファシズム思想が20世紀の歴史に充溢するためには、≪ファシズム≫が敗北や消滅の後にもなお生き続けている必要があったのだ! 栄光から見離された政治体制が、これらの政治体制を打倒した人々の空想の世界でこれほどまでに長く後世の摸倣者を輩出したという例は、決して見られなかった現象だろう。」
 ・「我々は今日なお、ファシズムに対する偏った見方によって積み重ねられてきた廃墟の中から完全には脱し切れていない。ファシズム以上にわかりやすい攻撃目標を見つけることのできなかった欧州の政治世界は、定期的にファシズムの亡霊を蘇らせ、反ファシズムの人々の結集を図ってきた」。
 以上、神谷匠蔵の一文での指摘はF・フュレの叙述や秋月の理解と大きくは違っていないだろう、ということの例証で、さして大きな意味はない。

1846/L・コワコフスキ・第一巻「序説」の試訳①。


 L・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)の大著の第一巻の「緒言」と内容構成(目次)の後にあり、かつ<第一章・弁証法の生成>の前に置かれている「序説」を試訳しておく。
 1978年の英語版(ハードカバー)で下訳をしたうえで、最終的には結局、1977年刊行とされている独語版(ハードカバー)によることになった。
 それは、この部分に限ってかもしれないが、ドイツ語版の方が(ポーランド語原文がそれぞれで異なるとまでは思えないが)、やや言葉数、説明が豊富であるように思われ、読解がまだ少しは容易だと感じたからだ。
 とりあえず訳してみたが、以下のとおり、難解だ。レーニンやスターリン等に関して背景事件等を叙述している、既に試訳した部分とは異なる。必ずしも、試訳者の能力によるのではないと思っている。
 それは、カント、ヘーゲル等々(ルソーもある)から始めて大半をマルクス(とエンゲルス)に関する論述で占めている第一巻の最初に、観念、イデオロギーといったものの歴史研究の姿勢または観点を示しておきたかったのだろうと、試訳者なりに想像する。事件、事実に関する叙述はない。
 なお、「イデー(Idee)」とあるのはドイツ語版であり、英語ではこれは全て「観念(idea)」だ。「イデオロギー」と訳している部分は、両者ともに同じ。一文ごとに改行し(どこまでが一文かは日本語文よりも判然としない)、段落に、原文にはない番号を付した。段落数も一つだけドイツ語版の方が多いが、この点もドイツ語版に従って番号を付けた。
 青太字化は、秋月による。「観念」(・概念・言葉)と「現実」(・経験・政治運動)の関係。
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 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流
 第一巻/創設者たち(英/The Foundaders)・生成(独/Entstehung)。
 (ポーランド語1976年、独語1977年、英語1978年)
 序説(Introduction/英語版1-7頁、Einleitung/ドイツ語版15-21頁)①。
 (1) カール・マルクスは、ドイツの哲学者だった。
 この言述に特別の意味があるようには見えない。しかし、少し厳密に考えると、一見そう思えるほどには陳腐で常識なことでない、ということが判るだろう。
 私の上の言述は、Jules Michelet を真似たものだ。彼は、イギリス史に関する講義を「諸君、イングランドは一つの島だ!」という言葉で始めた、と言われる。
 自明のことだが、イングランドは一つの島だという事実をたんに知っているのか、それとも、その事実に照らしてこの国の歴史を解釈するのか、との間には大きな違いがある。
 後者であれば、上のような単純な言述にも、特定の歴史的選択肢が含まれている。
 マルクスはドイツの哲学者だったという言述は、類似の哲学的または歴史的な選択肢をもち得る。我々がそれによって、彼の思索に関する特定の解釈が提示されている、と理解するとすれば。
 このような解釈の一つが基礎にする理解は、マルクス主義は経済的分析と政治的教義を特徴とする哲学上の構想だ、というものだ。
 このような叙述の仕方は、些細なことではないし、論争の対象にならないわけでもない。
 さらに加えて、マルクスはドイツの哲学者だったことは今日の我々には明白だとしても、半世紀前には、事情は全く異なっていた。
 第二インターナショナルの時代には、マルクス主義者の大半はマルクスを、特定の経済かつ社会理論の著者だと考えていた。そのうちの一人によれば、多様な形而上のまたは認識論上の立場を結合させる理論であり、別の者によれば、エンゲルスによって哲学的基盤は補完されており、本来のマルクス主義とはマルクスとエンゲルスの二人がそれぞれに二つまたは三つの部分から組み立てた、体系的な理論のブロックだという見解だった。
 (2) 我々はみな、マルクス主義に対する今日的関心の政治的背景をよく知っている。
すなわち、今日の共産主義の基礎にあるイデオロギー的伝統だと考えられているマルクス主義に対する関心だ。
 自らをマルクス主義者だと考えている者は、その反対者だと考えている者はもちろんだが、つぎの問題を普通のことだと見なしている。すなわち、現在の共産主義はそのイデオロギーと諸制度のいずれに関するかぎりでも、マルクスを正統に継承しているものなのか否か?
 この問題に関して最もよくなされている三つの回答は、単純化すれば、以下のとおりだ。
 ① そのとおり。現在の共産主義はマルクス主義を完全に具現化したもので、共産主義の教義は奴隷化、専制および罪悪の原因であることも証明している。
 ② そのとおり。現在の共産主義はマルクス主義を完全に具現化したもので、人類は解放と至福の希望についてそれに感謝する必要があることも証明している。
 ③ ちがう。我々が知る共産主義は、マルクスの独創的な福音的教義をひどく醜悪化したもので、マルクスの社会主義の基礎的諸前提を裏切るものだ。
 第一の回答は、伝統的な反共産主義正統派に、第二のそれは伝統的な共産主義正統派にそれぞれ由来する。第三のそれは、全ての多様な形態での批判的、修正主義的、または「開かれた」、マルクス主義者に由来する。
 (3) この私の著作の議論の出発点は、しかしながら、これら三つの考え方が回答している問題は誤って設定されており、それに回答しようとする試みには意味が全くない、というものだ。
 より正確に言えば、「どのようにすれば、現在の世界の多様な諸問題をマルクス主義に合致して解決することができるのか?」、あるいは「のちの信仰告白者たちがしたことをマルクスが見ることができれば、彼は何と言うだろうか?」、といった疑問に答えることはできない。
 これらの疑問はいずれも不毛であり、これらの一つであっても、合理的な回答の方法は存在しない。
マルクス主義は、諸疑問を解消するする詳細な方法を提示していない。それをマルクス自身も用意しなかったし、また、彼の時代には存在していなかった。
 かりにマルクスの人生が実際にそうだったよりも90年長かったとすれば、彼は、我々が思いつくことのできないやり方で、その見解を変更しなければならなっただろう。
 (4) 共産主義はマルクス主義の「裏切り」でありまたは「歪曲」だと考える者は、言ってみれば、マルクスの精神的な相続人だと思っている者の行為に対する責任から彼をある程度は免除しようと意欲している。
 同様に、16世紀や17世紀の異端派や分離主義者は本来の使命を裏切ったとローマ教会を責め立てたが、聖パウロをローマの腐敗との結びつきから切り離そうと追求した。
 ドイツ・ナツィズムのイデオロギーや実践との間の暗い関係にまみれたニーチェの名前を祓い清めようとした人々も、同様の議論をした。
 このような試みのイデオロギー的な動機は、十分に明瞭だ。しかし、これらの認識上の価値は、きわめて少ない。
 我々はつぎのことを知る十分に豊かな経験をしてきた。それは、全ての社会運動は、多様な事情によって解明されなければならないこと、それらの運動が援用し、忠実なままでいたいとするイデオロギー的源泉は、それらの形態や行動かつ思考の様式が影響を受ける要因の一つにすぎない、ということだ。
 したがって、我々は確実に、いかなる政治運動も宗教運動も、それらが聖典として承認している文献が示すそれらの運動の想定し得る「本質」を、完璧に具現化したものではない、ということを前提とすることができる。
 また我々は、これらの文献は決して無条件に可塑的な資料ではなく、一定の独自の影響を運動の様相に対して与える、ということも確実に前提にすることができる。。
 したがって、通常に生起するのは、つぎのようなことだろう。つまり、特定のイデオロギーを担う社会的勢力はそのイデオロギーよりも強力であるが、しかし同時に、ある範囲では、そのイデオロギー自体の伝統の制約に服している
 (5) 観念に関する歴史家が直面する問題は、ゆえに、社会運動の観点から、特定のイデーの「本質」をそれの実際上の「存在」と対比させることにあるのではない。
 そうではなくて、いかにして、またいかなる事情の結果として、当初のイデーは多数のかつ異なる、相互に敵対的な諸勢力の支援者として寄与することができたのか、を我々はむしろ問わなければならない。
 最初の元来のイデーのうちに、それ自体にある曖昧さのうちに、何か矛盾に充ちた性向があるのだとすれば-そしてどの段階で、どの点に?-、それがまさにのちの展開を可能にしたのか?
 全ての重要なイデーが、その影響がのちに広がり続けていくにつれて、分化と特殊化を被るのは、通常のことであり、文明の歴史での例外的現象ではない。
 かくして、現在では誰が「真正の」マルクス主義者なのかと問うのも無益だろう。なぜなら、そのような疑問は、一定のイデオロギーに関する概観的展望を見通したうえで初めての発することができるからだ。そのような概観的展望を行う前提にあるのは、正規の(kanonisch)文献は権威をもって真実を語る源泉であり、ゆえにそれを最善に解釈する者は同時に、誰のもとに真実があるかに関しても決定する、ということだ。
 現実にはしかし、多様な運動と多様なイデオロギーが、相互に対立し合っている場合ですら、それらはともにマルクスの名前を引き合いに出す「権利を付与されている」(この著が関与しないいくつかの極端なケースを除いて)、というとを承認するのを妨げるものは何もない。
 同じように、「誰が真のアリストテレス主義者か、Averroes、Thomas von Aquin か、それともPonponazziか」、あるいは「誰が真のキリスト者なのか、Calvin, Erasmus, Bellarmine、それともIgnatius von Loyolaか」といった疑問を提起するのも、非生産的だ。
 キリスト教信者にはこうした問題はきわめて重要かもしれないが、観念に関する歴史家にとっては、無意味だ。
 これに対して、Calvin, Erasmus, Bellarmine、そしてIgnatius von Loyola のような多様な人々が全く同一の源(Quelle、典拠・原典)を持ち出すことの原因になっているのはキリスト教の元来の姿のうちのいったい何なのか、という疑問の方がむしろ興味深い。
 言い換えると、つぎのとおりだ。イデーに関する歴史家はイデーを真剣に取り扱う。そして、諸イデーは諸状況に完全に従属しており、それぞれの独自の力を欠くものだとは見なさない(そうでないと、それらを研究する根拠がないだろう)。しかし、歴史家は、諸イデーが意味を変えることなく諸世代を超えて生命を保ちつづけることができる、とも考えない
 (6) マルクスのマルクス主義とマルクス主義者のマルクス主義の間の関係を論述するのは正当なことだ。しかし、それは誰が「より真正な」マルクス主義者なのか、という疑問であってはならない。
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 (7)以降の②へとつづく。

1839/レシェク·コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流の全巻「緒言」。

 レシェク·コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(ポーランド語、1976年)はフランス・パリで刊行され、翌1977年に原語からの直接訳として第一巻のドイツ語版が出版された(R.Piper & Co. Verlag, München & Zürich)。同じくハード・カバーで原語からの直接訳である英語版の第一巻はさらにその翌年の1978年に出版された(Clarendon Press・Oxford University Press)。
 これらには、第一巻以降の各巻の序言(Einleitung, introduction)とは別の、全巻を想定した「緒言(はしがき)」(Vorwort, Preface)目次(Inhalt, contents)よりも前に付されている。
 以下は、その試訳。ドイツ語版で最初に粗い翻訳をし、のちに英語版も含めた両者を見ていちおう確定した。
 少しは原文が違うのではないかと感じるほどに、文法構造や単語が異なっている部分もある。但し、基本的な趣旨が変わっているわけではないだろう。
 一文ごとに改行する。改行があるまでの各段落には、原文・独英訳書にはない番号((1)~)を付けた。
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 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(ドイツ語1977年, 英語1978年)。
 緒言(はしがき、Vorwort, Preface)。
 (1) 一冊の教科書を書くのが私の意図だった。
 こう言っても、私独自の見解、志向や解釈原則から自由に、争う余地のない方法でマルクス主義の歴史を叙述するのに私は成功した、という馬鹿げた主張をしているのではない。
 私はそれでただ、緩みのある論考の形でではなく、私の見解と一致するかどうかとは関係なく、この主題への手引きを探している全ての人々が利用できる重要な事項を含み込むことが可能な方法で叙述するよう努めた、ということを意味させている。
 私はまた、叙述の中に私の論評を隠し込むのではなく、私自身の見解を別の、明瞭に画定された文章部分で提示するように意を尽くした。
 (2) 当然のこととして、ある著者による素材の提示、主題の選択について、また多様な思想、事象、人物や著作物に付着させる相対的な重要性について、その著者の見解や志向が反映されるのは避けられない。
 しかし、政治史、思想史であれあるいは芸術史であれ、かりに全ての事実の提示は著者の個人的な見解によって歪められ、実際に多かれ少なかれ恣意的に構成されたものだとすれば、したがってまた歴史的説明なるものは存在せずたんに一連の歴史的評価のみがある、ということを最初から前提にするとすれば、いかなる種類の歴史的手引書を編成することも、全く不可能だろう。
 (3) この書物はマルクス主義の歴史、すなわちマルクス主義という一つの教理(Lehre, doctrine)の歴史、を叙述する試みだ。
 社会主義思想の歴史ではなく、この教理を多様な版型で独自のイデオロギーとして採用した政治的党派や運動の歴史でもない。
 強調する必要がないことだが、こうした区別は単純には貫徹できない。とりわけ理論家や思想家の作業と政治的な闘争の関係が明白でありかつ緊密であるために、マルクス主義の場合には微妙だ。
 それにもかかわらず、いかなる主題に関する著作者も、完全には自己充足的でも自立してもいない分離した断片を「生きている全体」から切り出すことを余儀なくされる。
 これが許されないとすれば、全てのものが何らかの態様で結びついている限り、我々はもっぱら世界史を記述すればよいことになるだろう。
 この書物に教科書たる性格を付与するもう一つの特徴は、教理の発展とその政治的イデオロギーとしての機能の間の関係をさし示す基礎的事実を、可能なかぎり簡潔にだが示した、ということだ。
 全体が、私の注釈の付いた説話だ。
 (4)  論争の対象ではないマルクス主義の解釈にかかわる問題は、ほとんど一つも存在しない。
 私はそうした議論のうち最も重要なものに着目するよう努めた。だが、著作を研究してその見解や解釈に私は与しない全ての歴史家や論評者の見解を詳細に分析しようとすれば、この書物の射程をすっかり超えてしまうだろう。
 この書物は、特別に新しいマルクス解釈の提示を主張するものではない。
 私のマルクスのテキストの読み方が他の解釈以上に多くルカチ(Lukács)の影響をうけたことも、容易に気づかれるだろう(このことは、私がルカチのマルクス理解に縛られていることを意味しない)。
 (5) 看取されるだろうように、この書物は単一の原理でもって小区分されてはいない。
 自己充足的な全体の一部として特定の人物または志向を叙述することが必要だと思われる場合には、純粋に年代的な叙述編成に執着するのは不可能だということが分かった。
 個別諸巻へのこの書物の区分けは基本的には年代史的だが、しかし、この点でも私は、マルクス主義の異なる傾向を分離した主題としてできるかぎりの範囲で論述するために、ある程度は一貫性が欠けるのを自らに許容せざるを得なかった。
 (6) 第一巻の最初の草稿を、私は1968年に書いた。その年、ワルシャワ大学での講座職から離れた後で利用できた自由な時間を活用した。
 数年のちに、この巻について多数の補足、訂正および変更が避けられないことが判った。
 私は第二巻を1970年から1973年までに、第三巻を1975年から1976年までに書いた。Oxford の All Souls College が与えてくれた研究員たる地位を利用した。そして、この研究員たる特権的地位なくしてはこれらの諸巻を書けなかっただろうことは、ほとんど確実だ。
 (7)  この書物は、委細を尽くした文献目録を含んではおらず、出典や主要な注釈書を参照したい読者のために言及だけを行っている。
 私が言及している諸著作の中に、今日では個々の読者が理解するには残念ながらもはやあまりに広範囲すぎる文献への参照を見出すのはどの読者にも容易だろう。
 (8)  私の二人のワルシャワの友人、思想史学者のAndrzeji Walicki 博士と数学者のRyszard Herczynski 博士は、第二巻の草稿を読んでくれた。多数の有益で批判的な言及と刺激について、二人に感謝する。
 全体の原稿は、私の他には、職業は医師であり精神科医である私の妻、Tamara Kolakowska 博士だけが目を通した。
 私が執筆する全てと同じように、この書物もまた、彼女の批判的な読み方と冷静な理解力にきわめて多くを負っている。
 Leszek Kolakowski
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 以上。

1828/不破哲三の2017年11月・朝日新聞での妄言①。

 日本共産党前議長・現常任幹部会委員の不破哲三が、朝日新聞2017年11月17日朝刊の紙面に登場して、<ホラ話>を述べている。
 ロシア革命100年ということでこんなインタビュー記事を掲載する堂々とした全国紙があるのだから、日本の<左翼的>状況の程度をよく知らせてくれている。
 聞き手は「三浦俊章、池田伸壹」とされる。編集部の手が入っているだろうが、本人・不破哲三の不服・不満があるかたちで紙面になっているとは考え難い。したがって、不破哲三自身の言葉・表現だと理解して、以下、この<妄言>についてコメントする。
 最初に語られているテーマは、ロシア革命の意味・意義だ。
 最近に岩波書店のロシア革命・講座の「編集代表一同」の「刊行の言葉」に言及したが、そこで書かれていた三点のうち二点は、この朝日新聞での不破哲三発言と同じだ。
 似たようなデマゴギーが溢れている。
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 さて、不破は、つぎの三点を挙げていると読める。
 第一。「資本主義に代わる新しい社会を目指す革命がロシアで勝利した」。
 第二。「ロシア革命が起点となって、民主主義の原則が新たな形で世界に定着した」。
 これのコロラリーのようなかたちで、つぎもある。
 「社会的権利と呼ばれる労働者の権利が、革命後の人民の権利宣言で初めてうたわれた」。
 第三。「革命政権は、〔第一次大戦〕大戦終結の条件として、民族自決権の世界的確立を求めた。…。世界の民主的国際秩序の先駆けとなる原則を打ち立てました」。
 以上の三点全てが<ホラ話>だ。<妄想>だ。つまり現実・事実に反する。あるいは、論証されていない命題にもとづいて何らかのことを「政治的に」主張している。あるいは、「観念・言葉」と「現実」の混同がある。
 たぶん一回ではすまない。
 第一。「資本主義に代わる新しい社会を目指す革命がロシアで勝利した」。
 資本主義からの離脱に初めて成功した、と不破哲三は理解する。
 かりにそうだとして、それが<良かった>、<進歩的だった>のかはもちろん別の問題だ。
 この人は、そしておそらく日本共産党員の全てが、資本主義→社会主義(・共産主義)という道筋を「人類」はたどる「はず」だと想定しているのだろう。そうだとすれば、ロシア革命は歴史上「初めて」の積極的な意義があることになる。ちなみに、何となくそう理解している、あるいはロシアの現実は別として、資本主義→社会主義(・共産主義)という方向自体は少なくとも理念として正しいのではないかと考えている、<容共>者もいるかもしれない。
 しかし、そもそも上の想定・前提は<正しい>、<適切な>ものなのか。
 一定の観念・想念・幻想があってはじめて、「資本主義に代わる新しい社会を目指す」のは良かったことだ、という評価が成り立つ。
 不破によると、「マルクスの理論の中でしかなかった社会主義が現実化し、世界に大きな衝撃を与えた」。
 そのとおりかもしれず、「マルクスの理論」が現在でもなお影響力をもつのは「ロシア革命」が成功したこと、つまりは<理論が現実化>して、<理論の正しさ>が現実で証明された、と少なくとも「受け止められた」ことにあっただろう。
 その意味で、マルクス→レーニンによってこそ、マルクスは現にあるような形で歴史に残っているのだとも言える。
 それは、ルソー(ら)→フランス革命、吉田松陰→明治維新、という関係とも似ている
 しかし、レーニンによる「ロシア革命」は本当に<社会主義(を目指す)革命>だったのか。
 そのようにレーニンらボルシェヴィキ派が<宣伝>した、<言葉・概念で訴えた>だけかもしれず、本当に<マルクスの理論を現実化した>ものかどうかは別途の検討が必要だ。
 かりにレーニンらが「マルクスの理論」を現実化したもの、または現実化しようとしたものであったとしても、1917年~1922年の現実は、かりに「社会主義が現実化」したものだったとすれば、悲惨な現実だったと私には思われる。
 国家・行政の運営の仕方を知らない<しろうと>たちが、マルクスが簡単かつ抽象的に描く「共産主義」をさっそく実施しようとしたがゆえの悲惨な現実だった、と十分に理解することができる。
 不破哲三による<市場経済をつうじて社会主義へ>というレーニンの考えの確立という発見(?)の特徴は、この人はおそらくレーニン全集等で読むことのできるレーニンの<言葉・文章>だけでロシア革命等を、また十月革命直後の歴史を理解しようとしていることだ、と論評することができる。
 この人はいったい、どこまで、1917年~1922年くらい、要するに<レーニン時代>のロシアの現実を知っているのだろうか。
 かりに現実にしたのだったとしても、そこでの「社会主義」とは人間の本性には反した絵空事を描いたものではなかっただろうか。
 さらにもともと、マルクスらのいう封建主義→資本主義→社会主義(・共産主義) という「歴史的法則」自体の<正しさ・適切さ>も、何ら証明されていないものだ。
 <最初に資本主義から離脱した>。これがなぜ積極的意義・意味を持つのか、さっぱり分からない。
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 若い頃からマルクス、レーニン、(1980年くらいまでは)スターリンを読み、かつ日本共産党の幹部だった(である)人物の<思考・意識形態>というのは、ヒト・人間観察としても、すこぶる興味がある。
 続けざるを得ないだろう。

1822/A・ブラウン・共産主義の興亡(邦訳2012)の日本人向け序文②。

 アーチー・ブラウン/下斗米伸夫監訳・共産主義の興亡(中央公論新社、2012)
 =Archie Brown, The Rise and Fall of Communism(Oxford, 2009 ;Vintage, 2010)。
 この邦訳書の冒頭にある著者自身による「日本語版のための序文」で、A・ブラウンはさらにこんなことも書いている。一文ごとに改行する。
 ③(第四段落冒頭)「日本の読者にとって共産主義が大変重要な主題である、より一層意義深い理由がある。
 今日のヨーロッパには共産主義国家は一つも残っていないが、現存する五つのうち四つがアジアに見いだすことができる
 つまり、キューバはここでは措くとして、中国、ベトナム、ラオス、北朝鮮である。
 いくつかの共通の特徴はあるとしても、共産主義は異なった時代に異なった場所で、まったく異なった現れ方を示した。
 類似点と相違点、いかに…を主要な話題として、以下のページで探っていく。」
 このあと中国と北朝鮮に関するやや立ち入った言及をしたあと、つぎのようにまとめている。
 ④「アジアの共産主義国家がこの先どう進んでいくかは、日本にとって明らかに重大事である
 このことはとりわけ、世界最大の人口を擁し、遠からず世界最大の経済規模となる中国に当てはまる。//
 共産主義の歴史--革命と戦争、悲劇と勝利、失敗と成功、イデオロギーの信奉者と殺戮者--は日本の読者にとって、他の国民に劣らず興味深いものであろう
 アジアの近隣に共産主義国家が存在することもあって、本書は今日のための洞察を含んでおり、また、過去への省察を提供するのみならず、未来への思索を誘発するであろう。
 本書が日本語に翻訳されることは私にとって大きな喜びである。」
 ** さて、上にある次の文章を、多くの日本人はそのとおりだと感じるだろうか。
 ・「日本の読者にとって共産主義が大変重要な主題である」意義深い理由は、共産主義国家で「現存する五つのうち四つがアジアに見いだすことができる」からだ。。
 ・「アジアの共産主義国家がこの先どう進んでいくかは、日本にとって明らかに重大事である」。
 ・「共産主義の歴史は日本の読者にとって、他の国民に劣らず興味深いものであろう」。
 このように言われても、**それほどではありません、共産主義がさほど重要な主題だと感じていないしアジア近隣に四つの共産主義国家が現存しているという意識もないし、共産主義の歴史がさほど興味深いものとは思っていません**、という日本人の方が、知的産業・情報産業従事者も含めて、多いのではないだろうか。
 R・パイプス、S・フィツパトリクらは、日本共産党等も含めて日本のことをほとんど知らないし、日本国内での共産主義・ロシア革命等に関する議論を知らないままで、それぞれの研究をしてきただろう。
 それはA・ブラウンも同じで、日本国内のにある「異例な」<左翼>的雰囲気を-おそらく日本語が読解できないことを決定的な理由として-知らないままで、上のようなことを書いているのだろう。
 しかし、、欧米の「共産主義」研究者からするとおそらく、上のような推測が当然に生じてくるのに違いない。
 ソ連・東欧や欧米の「共産主義」史に詳しい日本以外の研究者にとっては、上のような指摘や推測は自然または当然であって、日本人の方がむしろ違和感を覚えるのだとすると、日本人の方が<奇妙>なのではないか、と思われる。
 <共産主義の恐ろしさ>を肌感覚では理解しておらず、中国も北朝鮮も海を隔てた<遠い国>であるかのごとく捉えられているのではないだろうか。
 そもそも、中国や北朝鮮のことを「非民主主義国」とか「党独裁国家」ということはあっても、日本人は、あるいは日本のメディアや論壇者は「社会主義国家」とか「共産主義国家」などと称すること自体がまずない(なお、日本共産党は北朝鮮は「社会主義国」ではないとする)。
 欧米のメディアや論壇者と比べて、どこか感覚が麻痺しているのではなかろうか。
 それは、日本に「社会主義(・共産主義)」幻想がまだ強く残り、日本共産党の存在もあって、公然と「社会主義」・「共産主義」を批判し難い雰囲気があるからだと思われる。
 「反共」はバカな「愛国・保守」の主張であって、理性的・知的な者は<日本会議的アホ>のような主張をするはずはない、という感覚の者もいるかもしれない。「反共」ではあるらしい<日本会議的アホ>も、江崎道朗らに見られるごとく、「共産主義」に関する知識・素養がまるでないのではあるが。
 A・ブラウンの日本人向け序文を読んで感じるのは、このようなもどかしさ、不思議さだ。
 <反共産主義>あるいはその意味での<自由主義>が、おそらく知的活動者にとっての<常識>になっている国と、そうではない国(日本、おそらく韓国も)の違いだろう。
 立ち入らないが、アメリカ合衆国を含むNATO締結国であることを当然のこととしていると思われる(ソ連解体後は例えばチェコも加入した)ほとんどのヨーロッパ諸国と、日米安保や日本の自衛隊の存在自体を危険視する意識をもつ勢力がなおもある程度存在し、あるいは「抑止力」を理解していませんでしたと平気で言える首相(鳩山由紀夫)がいた国との違いだ。
 D・トランプ現大統領は、R・パイプスのぶ厚い研究書を読んでいないかもしれない。
 しかし、この大統領も、R・パイプスの<共産主義の歴史>という一般人向けの簡潔な本くらいは読んでいて、<反共産主義>の基礎的な知識・常識くらいは持っているだろう。
 基礎的な知識・常識あるいは感覚レベルで、日本には独特の<雰囲気>があるようだ。
 いいも悪いもなく「現実」なのだから受忍する他はないが、このように指摘する者がいてもいけないということはないだろう。

1820/A・ブラウン・共産主義の興亡(邦訳2012)の日本人向け序文①。

 アーチー・ブラウン/下斗米伸夫監訳・共産主義の興亡(中央公論新社、2012)。
 この邦訳書の原書はつぎで、その下に挙げる、ドイツ語訳書もある。
 Archie Brown, The Rise and Fall of Communism(Oxford, 2009 ;Vintage, 2010)
 =Archie Brown, Aufstieg und Fall des Kommunismus (Ullstein, 2009)
 これらの原書、独訳書には(当然だが)ない著者自身による「日本語版のための序文」というのが、上掲の邦訳書の冒頭に付いている。
 英国人研究者であるA・ブラウンが共産主義と日本や日本共産党との関連について言及していて、秋月瑛二にはすこぶる興味深い。
 英国の一研究者による共産主義と日本の関係の理解そのものもそうだ。しかしさらに、日本人と日本の「知識人」または知的産業従事者たちはどの程度に、このA・ブラウンの指摘または言明に共感するのか、またはそれらと同様の感覚を共有しているのか、かなりの程度の疑問を感じるからでもある。
  いくつかの点をそのまま引用しつつ、若干の感想、コメントを記したい。一文ずつ区切る。
 ①(冒頭すぐ)「共産主義は日本にとっても大きな意義を持っていた。
 たとえこの国が共産主義の支配下に入る可能性はほんのわずかもなかったとしても、である。
 第二次世界大戦後の全期間を通じて、ソヴィエト連邦からの脅威があったし、中国への不安が日本外交に影響を与えた。
 潜在的な共産主義からの攻撃に対する不安こそ、アメリカ合衆国との緊密な外交関係と軍事的協力の主要な理由であった
。」
*この四つめの文の意味を理解できないか、共感できない人々が日本の「左翼」には今でもいるに違いない。
 対等な「関係」や「協力」ではなくて「対米従属」ではないかという論点はさておき、 「潜在的な共産主義からの攻撃」、つまりかつてのソ連、中国、北朝鮮等、現在の中国・北朝鮮等による「潜在的な」または顕在的な攻撃に対する不安・恐怖を示す以上に<アメリカ帝国主義>あるいは<覇権主義・アメリカ>を批判し、攻撃する心性の人々が日本にはまだ相当数存在していると思われる。
 簡単にいって、<左翼>であり、スターリンは別としてもレーニンまたは少なくとも<マルクス>には幻想を持っている人々だ。
 ②(第三段落冒頭)「ヨーロッパで共産主義が崩壊したとき、たいていの共産党は崩壊するか、社会民主主義政党として再出発した。
 日本では、…、共産党がその党名を保ち、議会に代表を有しているという点でやや異色である

 しかしながら、…、議席ははるかに少なくなっている。
 とはいえ、日本共産党はかつてヨーロッパや北米の共産主義研究者の注目を集めていた。
 …『ユーロ・コミュニズム』として知られる改革派傾向の一翼を担ったからである。<一文略>
 地理的な隔たりがあったにもかかわらず、日本共産党はイデオロギー的に、モスクワのソビエト正統派の守護者ではなく、改革に取り組みつつあったイタリア共産党やスペイン共産党に接近したのである」。
 *上の第一・第二文のような認識・感覚を日本の多くの人または日本共産党員およびその支持者たちが有しているかは、疑わしいだろう。
 日本にまだ「共産党」が存続していることは「やや異例」だとされる。但し、私にいわせれば「かなり異例」、または少なくともふつうに「異例」なのだ。
 共産主義とか「共産党」の意味それ自体にかかわるが、この問題は、日本共産党は「共産主義」を実質的には捨てたとか、カウツキーの路線にまで戻ったとかの論評でもって無視することはできないはずだ。
 なぜなら、現在の日本共産党は今でも<ロシア革命>と<レーニン>をの積極的意味を否定していないし、自分の存在の根本である1922年に存在した<コミンテルン>の意味を否定しているわけでもない。そして「社会主義・共産主義」の社会を目指すと、綱領に公然と明記しているのだ。
 但し、著者も現時点のこととして書いているのではないだろうが、上の後半のように「ユーロ・コミュニズム」の一環、イタリアやスペインの共産党と似た類型の党として現在の日本共産党を理解することはできないだろう。すでに「ユーロ・コミュニズム」なるものはおそらく存在せず、少なくともイタリアでは1991年のソ連解体後すみやかに(当時にあつた)イタリア共産党は存在しなくなったからだ。
 日本に「共産党」と名乗る政党が存在し続け、国会に議席まで有していることの不思議さ・異様さを、より多くの日本人が意識しなければならない、と思われる。
 **関連して、<左翼のお化け>のような感が(私には)する和田春樹は、つぎのように2017年に発言していた。
 和田春樹「日本ほど左派的なインテリが多い国も珍しいのですが、それは元をたどればコミンテルンの影響が強かったことに起因しています」。
 現代思想2017年10月号/特集・ロシア革命100年(青土社)p.48。
 江崎道朗が2017年8月著でいう「コミンテルンの謀略」とは中身を見ると、要するに「共産主義(者)の(日本への)影響」ということなのだが、そんなことくらいは、知的関心のある日本人なら誰でも知っていたことで、珍しくも何ともない。
 ゾルゲがソ連の赤軍の「スパイ」で尾崎秀実が日本国内で工作員として働いたことくらいは日本史または共産主義に関心をもつ者ならば誰でも知っていることだ。そして、尾崎秀実の法廷での最終陳述書等もまた、戦後にとっくの昔に公表・公刊されている。
 (江崎道朗が2017年8月になってゾルゲや尾崎秀実がしたことを確認したとしても、何の新味もないだろう。それとも、江崎は自力で?新資料でも発掘したのだったのだろうか。)
 戻ると、日本の「左翼」の和田春樹もまた、(江崎道朗とは異なる意味での)「コミンテルン」の日本に対する影響の、現在にまで残る強さを認めているのだ。また、「日本ほど左派的なインテリが多い国も珍しい」ことも、つまりは日本の「異例」さも認めている。
 上に引用部分にはないが、和田春樹は「日本共産党」にも言及する。しかし、江崎道朗は、少なくとも戦後の共産主義や日本共産党への論及はパタリと止めて<逃げて>いる。
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  アーチー・ブラウンによる「日本語版のための序文」には、あと少し紹介・コメントしたい部分がある。

1819/江崎道朗2017年8月著の悲惨⑰。

 レーニンに関する記述のうち、その範囲は不明確だが、つぎの書物は、「…を参考に、レーニンの生い立ちを見てみよう」と明記している(p.45)。少なくともレーニンの「生い立ち」について、「参考」文献を一つだけ挙げているわけだ。その文献を、つぎの書物名の下に記す。
 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)。
 クリストファ・ヒル〔岡稔訳〕・レーニンとロシア革命(岩波新書、1955年)。
 この岩波新書は、先だってその文章をこの欄でとり上げたクリストファ・ヒル(Christopher Hill)の若い頃の書物の邦訳書だ。
 のちに1994年になって、ソ連解体後にこのCh・ヒルがどのような文章を書いていたかは、江崎道朗著による「参考」の仕方と直接の関係はない。ただ、「1945-46年に」執筆して1947年に(英米語で)出版したときの基礎的な考え方をその後50年近くも<珍しくも>維持し続けたようであることは、少しは驚かされる。
 上の点はともあれ、江崎道朗がCh・ヒル著の邦訳書をレーニンの「生い立ち」についてはただ一つ「参考」にしたようであることは、ただちに、つぎの疑問を生じさせる。
 原著は1947年、岩波新書として邦訳されて日本で(日本語となって)出版されたのは1955年。
 なんとまぁ。レーニンの生涯については、「生い立ち」も含めて、おそらくは100冊以上は出版されていて、どんなに少なくとも10冊以上は日本語文献もあるだろう。なぜこの本が利用されているかについて、より具体的には、つぎの疑問が<即時に>出てくるのだ。
 第一。原著1947年、邦訳書1955年、というのはいくら何でも、古すぎるだろう。
 レーニンの党・ボルシェヴィキ(共産党)と「国家」そのものとの関係が問題になおなり得たかもしれない、あるいは「マルクス=レーニン主義」と称してマルクスと同等の地位にまでレーニンを「持ち上げた」スターリン体制のもとでは実質的に「党」=「国家」または「党」>「国家」だったかもしれない、その国家・<ソ連>の創設者だったといえるレーニンについては、とりわけ1991年12月(ソ連解体)以降は、従前とは異なる<レーニン像>が、ロシア・旧ソ連も含めて、種々に語られ、論じられている可能性がある。
 なぜ、江崎道朗は、邦訳書刊行が1955年という、とんでもなく<古い>書物をただ一つ「参考」にしたのか?
 1955年とは、宮本顕治=不破哲三を指導部とする日本共産党はまだ存在していないほどの、60年以上も前の年だ。
 第二。この1955年当時すでに、岩波書店は月刊雑誌・世界等を通じて、例えば「全面」講和か否か等の問題について、明らかに「左翼」(当時は「革新」?、「平和」系?、親ソ派?)の代表的な出版者であり、当時の「左翼」たちにとっての代表的な出版社だったと思われる。
 なぜ、<インテリジェンス>の専門家を少なくとも装っているらしい江崎道朗は、岩波書店の出版物を、こんなに安易に「参考」にするのか
 秋月瑛二もまた岩波新書等の岩波の出版物に言及することがあるが、決して<警戒>を怠ったことはない。どこかに、あるいは、ともすれば、<左翼>臭があるのではないかと、いちおうは用心する。
 この欄にすでに<岩波書店検閲済み>の近年のファシズム関係邦訳書を取り上げたことがある。さすがに岩波書店だと感じたものだ。
 要するに、なぜ江崎道朗は①1955年の②岩波書店出版物を「レーニンの生い立ち」についてのただ一つの「参考」文献にしているのか。
 つぎに、古くてかつ岩波の本であっても、内容に問題がなければ、あるいは公平に見て適正といえる範囲内にあれば、それはそれでよいのかもしれない。
 しかし、江崎道朗の叙述は、戦後・1940年代後半に執筆されたCh・ヒル著の影響を受けているに違いなく、つぎのような記述を江崎道朗の<自分自身の>文章として、つまり直接の「引用」ではなく、行っている。
 以下は、ほぼ上の江崎道朗著p.46-p.47からの「引用」。
 ①「両親ともに開明的な思想の持ち主であり、貧民救済に強い関心を持っていた。レーニンはその影響を受けて育っている」。
 ②レーニンは「極めて頭脳優秀であった」が父親の死と実兄がロシア皇帝暗殺陰謀への「連座」により「処刑」され、「テロリストの弟」とレッテルを貼られて「進路を閉ざされて苦労することになった」。〔この直後にCh・ヒル著からの引用が二文ある。〕
 ③「カザンの田舎大学の法学部にしか入れなかった」〔Ch・ヒル〕が「その大学も、学生騒動に関わって四ヶ月後に放校に」なった。
 ④「ほかの大学からは軒並み入学を断られ」、「校外生」として入ったペテルブルク大学で「成績はここでも極めて優秀だったが、常に警察の監視下にあった」。
 ⑤「出世の道を断たれたレーニンは、社会主義を学び、反帝国主義・反帝制ロシアの活動にのめりこんでいく」。
 ⑥レーニンはのち、第二インター活動家として活動し「帰国しては警察の追及を受け、脱出、亡命を重ねている」。
 ⑦「貧民や労働者の救済のために活動すればするほど、帝政ロシアに弾圧されるという繰り返しだった」。
 このあとの別の書物を「参照」したうえでのレーニンの「主張」内容の紹介も、レーニン側に立っているかのごとく<優しい>。
 上の最後の点はともかくとして(いつか触れるかもしれない)、上のような第二インターでの活動を含む「生い立ち」についての江崎の叙述もまた、まるで(Ch・ヒルと全く同じく?)じつに<穏便>で<優しく>、レーニン、そしてロシア革命、そして「社会主義・共産主義」の擁護者であるがごとき口吻がある。
 事実関係には、おそらく<ほとんど>間違いはないのかもしれない(もちろん、書かれていないことのなかに重要な「事実」が隠されていることはある)。
 しかし、「出世の道を断たれた」という記述は(Ch・ヒルを真似たのだろうが)、おそらく間違っている。
 R・パイプスの同時期のレーニンの記述も読んでいるが(この欄で試訳を昨年中に掲載している)、R・パイプスによると(記憶にさしあたり頼るが)、当時の<司法試験>に合格して<専門法曹>の資格を、レーニンは得ている。
 活動家としてしか「生きて」いけなかった、というごとき叙述は誤りだろうと思われる。
 上の⑦も、正確ではない。帝政ロシアが「弾圧」したのはそこに書いていることではなくて、帝政を敵とする刑罰法令違反行為を行ったり、大戦勃発後はロシアが敗北することを望む運動をしたから、というのがまだ正確だろう。
 つぎに、「レーニンの側」に立ったような、「進路を閉ざされて苦労」した、「成績はここでも極めて優秀だった」とかの一定の価値判断を含むような叙述がある。この二箇所だけではない。
 最後に、A/両親の影響を受けて「貧民救済に強い関心を持っ」た、B/「貧民や労働者の救済のために活動すればするほど…」という叙述の仕方は、江崎による「共産主義」なるものの理解と同様に、レーニンに極めて<優しい>もので、間違いだと考えられる。
 レーニンが目指したのは「貧民救済」あるいは「貧民や労働者の救済」だったのか?
 あるいは別の箇所での江崎によれば、「格差是正」という<平等>だったのか?
 こうした叙述を読んでいると、レーニンの<動機>は、あるいは<掲げた理念・理想>は、間違っていなかった、素晴らしいものだった、という<動機は純粋だった>論のごとくだ。
 たまたま、この欄に最近に試訳を掲載したS・フィツパトリクの本の一部に、ボルシェヴィキは<革命および共産主義(社会主義)への移行期に平等主義だと主張したことは一度もない>という旨の叙述があった。彼らが夢見た究極の(国家も法も階級もない)「共産主義」社会ではともかく、レーニンらが目指したのは決して「貧民や労働者の救済」・「平等」ではない。
 長くは立ち入らないが、これらは<ロシア帝政>打倒のための<一つの方便>だった。 
 革命成功後は<旧搾取階級>・<資本主義の階層>を<逆に>虐げたのであって、その意味では不平等に(差別的に)取り扱ったのだ。
 レーニンのそもそもの<動機>・<気分>は何だったかの解明はなかなかむつかしいだろう。
 50歳すぎるまでのあの<活力>、死後に50巻近くの全集が刊行される(20歳以降だとして1年あたり1巻以上になる)ほどの文章を書きまたは演説をした<活力>の根源をたどるのは専門家でもむつかしいかもしれない。感情、意欲の元の問題だ。
 しかし、「貧民や労働者の救済」・「平等」といった<綺麗事>・<美辞麗句>にあったのではないことは明確だと思われる。
 人間としてのレーニンの「ルサンチマン」を、江崎道朗は理解しようとは何らしていないのだ。
 この機会に私見を少し書いておくと、つぎのようだ。
 否定的または消極的に捉える(欧米の)歴史研究者もいるようだが、やはり実兄が処刑=死刑とされたことは若きレーニンにとって大きかった。
 兄の死に様も、死体そのものも、弟・レーニンは見たのだろう。
 その前のこととして、R・パイプスか誰かの記述の中に、収監されている兄を「見舞う」または「接見」?するためにウラル近辺へと母親が向かおうとしたとき、父親に代わる随行者を母親が近隣で探し、若きレーニンも同行していたが、近隣の人々は「皇帝暗殺グループの一員だった」ことを理由として、無碍に?断った、というのがあった。
 そのときの母親の様子を、レーニンは見ていただろう。自分を含む<みじめさ>を、感受性が高いときに感じただろう。
 兄を「殺し」、自分を<ひどく惨めな>気持ちにさせたロシア帝政に対して、いつか仕返し(復讐)をしてやる-これがレーニンの根本的な「怨念」の少なくとも重要な一つではなかったかと思える。
 以上は全くの、文献上の根拠はない<推測>にすぎない。
 だが、そのための手段として、まずは「人民主義者」または「人民の意思」派に接近し、アナキストからも種々学んだうえで、西方のドイツを含む欧州の<マルクス主義>を知り、これを<イデオロギーとして利用>しようと感覚的に判断したのではなかっただろうか。
 ともあれ、江崎道朗はすでに、「共産主義者」に屈服している。
 この人に、反共産主義のインテリジェンスを語る資格などはない。
 上に言及した邦訳書が岩波書店から刊行された時点で、クリストファ・ヒル(Christopher Hill)は、種々の情報からおそらく確実に、イギリス共産党の党員だった。
 <マルクス主義歴史学者>だったくらいのことは、クリストファ・ヒルに関する人物情報のどこにでも書かれているだろう。だからこそ、すなわちそういう人物が書いた「レーニンとロシア革命」だからこそ、内容的にも問題はないと確認したうえで、岩波は新書としたのだ。
 江崎道朗著は悲惨で、無惨だ。もう少しだけ、Ch・ヒルについては触れる。

1815/レーニン・ロシア革命「幻想」と日本の右派。

 いくつかを、覚書ふうに記す。
 一 欧米人と日本人にとっての<冷戦(終焉)>の意味の違い。
 欧米人にとって<冷戦終結>とは、世界的な冷戦の終焉と感じられても不思議ではなかっただろう。
 なぜなら、彼らにとって欧米がすでに<世界>なのであって、ソ連・東欧に対する勝利あるいはソ連・共産主義圏の解体は、1989-1991年までの<冷戦>がもう終わったに等しかったと思われる。
 欧州に滞在したわずかな経験からもある程度は理解できるが、東方すぐに地続きで隣接していた、ソ連・共産主義圏の消滅は、まさに<世界的な冷戦の終焉>と受け止められても不思議ではなかった。
 しかし、正確に理解している「知識人」はいるもので、R・パイプスはアジアに「共産主義」国が残っていることをきちんと記していたし(<同・共産主義の歴史>、フランソワ・フュレの大著<幻想の終わり>も冒頭で、欧米だけを視野に入れている、という限定を明記している。
 <冷戦が終わった>としきりと報道し、かつそう思考してしまったのは日本のメディアや多くの知識人で、それこそこの点では表向きだけは欧米に依存した<情報環境>と<思考方法>が日本に強いことを明らかにした。
 二 日本にとって<冷戦>は終わり、それ以降の新時代に入っているのか。 
 日本のメディアや多くの知識人は、共産主義・資本主義(自由主義)の対立は終わった、あるいは勝負がついた、これからは各国のそれぞれの<国家の力>が各<国益>のために戦い合う新しい時代に入っている、などという<新しいかもしれないが、しかし間違った>考え方を広く言い募った。
 しかし、L・コワコフスキの大著にある<潮流(流れ)>という語を使えば、現在のチャイナ(中国)も北朝鮮も、そして日本にある日本共産党等も、れっきとした<マルクス主義の潮流(流れ)>の中にある。
 マルクス主義がなければレーニン・ロシア革命もなく、コミンテルンはなく、中国共産党、日本共産党等もなかった。例えば、L・コワコフスキが<潮流(流れ)>最終章で毛沢東に論及しているとすれば、現在の習近平もまたその<潮流(流れ)>の末にあることは明瞭だろう。
 1990年代以降も日本共産党は国政選挙で500-600万の票を獲得しつづけ、しかも近隣に北朝鮮や共産・中国が現にあるというのに、日本近辺でも<冷戦は終わった>などという基本的発想をしてしまうのは、日本共産党や北朝鮮や共産・中国が<望む>ところだろう。共産主義に対する<警戒心>を解いてくれるのだから。
 三 <冷戦後>の新時代に漂流する右派と<冷戦後>意識を利用して喜ぶ左派。
 そういう趨勢の中に明確にいるのは1997年設立の右派・「日本会議」で、この団体やこの組織の影響を受けている者たちは、共産主義あるいはマルクス主義に関する<勉強・研究>などもうしなくてよい、と考えたように見える。
 <マルクシズムの過ちは余すところなく明らかになった>(同・設立趣意書)のだから、彼らにとって、共産主義・マルクス主義に拘泥して?、ソ連解体の意味も含めて、共産主義・マルクス主義を歴史的・理論的に分析・研究しておく必要はもうなくなったのだ。
 こうした<日本>を掲げる精神運動団体などを、日本共産党や日本の<容共・左翼>は、プロパガンダ団体として以上には、怖れていないだろう。むしろ、その単純な、非論理的、非歴史的な観念的主張は、<ほら右翼はやはりアホだ>という形で、日本の「左翼」が利用し、ある程度の範囲の知的に誠実な日本国民を正当で理性的な反共産主義・「自由主義」から遠ざける役割を果たしている、と見られる。
 そのかぎりで、「日本会議」は、日本共産党を助ける<別働隊>だ。
 四 産経新聞主流派とは何か。
 産経新聞主流派もその「日本会議」的立場にあるようで、元月刊正論編集代表・桑原聡に典型的に見られるが、共産主義や日本共産党についてまともに分析する書物の一つも刊行せず、もっぱら「日本」を、あるいは<反・反日>、したがって民族的意味での<反中国や反韓国>を主張するのを基調としている。
 この人たちにとっての「日本」とは、別言すれば皇紀2600年有余に及ぶ、観念上の「天皇」だ。
 これは、かなりの程度は「商売」上の考慮からでもある。
 日本会議やそれを支える神社本庁傘下の神社神道世界の<堅い>読者、購買者を失いたくないわけだ。
 したがって、産経新聞は、コミンテルンや共産主義よりも、<神武東征>とか<楠木正成>とかに熱を上げ、そしてまた、聖徳太子(なぜか不思議だ)、明治天皇、明治維新とそれを担った「明治の元勲」たちを高く評価し(吉田松陰も五箇条の御誓文も同じ)、明治憲法の限界・欠点よりは良かったとする点を強調する。
 小川榮太郞は、その範囲内にある、れっきとした<産経(または右派)文化人>になってしまったようだ。
 なお、江崎道朗との対談で、江崎が「100年冷戦史観」というものを語ると、「なるほど」と初めて気づいたように反応していたのだから、この人の知的または教養または政治感覚のレベルも分かる。
 いつかきちんと、出所を明記し、引用して、小川榮太郞の幼稚さ・過ちを指摘しようとは思っているのだが。
 五 以上、要するに、反共・自由主義/共産主義の対立に、日本/反日という本質的でない対立点を持ち込んで、真の対立から逃げている、真の争点を曖昧にしているのが、日本会議であり、産経新聞主流派だ。
 六 <民主主義・ファシズム>と<容共・反共産主義>
 <民主主義・対・ファシズム>という、左(中?)と右に一線上に対比させる思考(二項対立的思考でもある)が、依然として、強く残っている。
 何度も書くが、この定式・対比のミソは、共産主義(・社会主義)を前者の側に含めることだ。(「民主主義」者は、共産主義者・社会主義者に対しても「寛容」でなければならないのだ)。
 そして、とくに前者の側の中核にいるふりをしている日本共産党は、F・フュレも指摘していたことだが、つねに<ファシズムの兆し>への警戒を国民に訴える。
 日本では「軍国主義」と言い換えられることも多い。
<ファシズム・軍国主義の兆し>への警戒を訴えるために現時点で格好の攻撃対象になっているのは、安倍晋三であり「アベ政治」だ。
 この定式・対比自体が、基本的に、<容共と反共の対立>の言い換えであることを、きちんと理解しておかなければならない。
 また、<民主主義・対・ファシズム>(容共・対・反共)は日本国憲法についていうと、とくに同九条(とくに現二項)の改正(・現二項の削除)に反対するか(護憲)と賛成するか(改憲)となって現れている。二項存置のままの「自衛隊」明記という愚案?は、本当の争点の線上にあるものでは全くない。
 七 再び「日本・天皇」主義-<あっち向いてホイ>遊び
 共産主義・マルクス主義への警戒心をなくし、<日本・対・反日>を対立軸として設定しているようでは、日本の共産主義者と「左翼」は喜ぶ。<日本・対・反日>で対立軸を設定するのは、かつてあった遊びでいうと、<あっち向けホイ>をさせられているようなものだ。
 産経新聞主流派、小川榮太郞、日本会議、同会関係の長谷川三千子、櫻井よしこらはみんな、きちんと「敵」を見分けられないで、<あっち向いてホイ>と、あらぬ方向を向いている。あるいは客観的には、向かされている。
 八 残るレーニン・ロシア革命「幻想」。
 そうした「右」のものたちに惑わされることなく、日本共産党や「左翼」は、後者については人によって異なるだろうが、程度はあれ、レーニンとロシア革命に対する<幻想>をもっており、かりに結果としてソ連は解体しても、レーニンとロシア革命に「責任」があったのではないとし、あるいは彼とロシア革命が掲げた理念・理想は全く誤ったものではないとする。そのような、マルクス主義・共産主義あるいはレーニン・ロシア革命に対する<幻想>は、まだ強く日本に残っている、と理解しておかなければならない。
 不破哲三が某新書のタイトルにしたように、<マルクスは生きている>のだ。
 この日本の雰囲気は、詳細には知らないが、明らかにアメリカ、イギリス、カナダと比べると異質であり、イタリアやドイツとも異なると思われる。おそらくフランスよりも強いのではないか。そしてこの日本の状況は、韓国の「左翼」の存在も助けている。
 先日に日本の知的環境・知的情報界の<独特さ>を述べたが、それは、先進諸国(と言われる国々)にはない、独特の<容共>の雰囲気・環境だ。共産主義・社会主義あるいはそのような主張をする者に対して厳しく対処しない、という日本の「甘さ」だ。
 日本に固有の問題は日本人だけで議論してもよいのだが、マルクス主義・共産主義、ファシズム、全体主義あるいは日本にも関係する世界史の動きを、-出版業やメディアの「独特」さのゆえに-狭隘な入り口を入ってきた欧米に関する特定の、または特定の欧米人の主張だけを参照して、それだけが世界の「風潮」だとして、日本列島でだけで通じるかもしれないような議論をしているように思われる。
 また、容共の、あるいはレーニン・ロシア革命「幻想」を残しているとみられる出版社・編集者の求めに応じて、同じく「幻想」を抱く内田樹、白井聡、佐高信らのまだ多数の者が<反安倍・左翼>の立場で「全くふつう人として、とくに奇矯な者とも思われないで」堂々と<知的情報>界で生きているのは、その範囲と程度の広さと強さにおいて、日本に独特の現象ではないか、と思われる。
 むろん、その基礎的背景として、日刊紙を発行し月刊誌も発行している日本共産党の存在があることも忘れてはいけない。
 九 イギリスのクリストファー・ヒル(Christopher Hill)
 イギリスあたりは日本に比べて、<取り憑かれたような左翼>はきわめて少ないのかとも思っていたが、レーニンとロシア革命への「幻想」をもつ者はまだいるようだ。
 17世紀イギリスの歴史家とされるクリストファー・ヒル(Christopher Hill)だ。次回は、この人物の1994年(ソ連解体後)の文章を紹介する予定。

1811/リチャード・パイプス逝去。

 リチャード・パイプスが今年5月に亡くなっていたようだ。満94歳、享年96。
 Richard Pipes/1923年7月11日~2018年5月17日。
 R・パイプスの<ロシア革命>の一部の試訳を始めたのは2017年2月末か3月初めで、あれからまだ2年も経っていない。
 実質的には日本の公立高校卒業時の英語力でこの欄に自分の英訳文を何回も掲載することになるとは、その直前まで、全く想定していなかった。
 きちんと和訳してみたいと思ったのは、R・パイプス<ロシア革命>原書(1990)のボルシェヴィズムの生起から「レーニンの生い立ち」あたりを読み進んでいると(むろん意味不明部分はそのままにしつつ)、レーニンの党(ここではボルシェヴィキのこと)が活動資金を得るために銀行強盗をしたり相続人だと騙って大金を窃取するなどをしていた、といった記述があったからだ。
 のちにも、レーニンは、あるいはボルシェヴィキ党員は<どうやって食っていたのか>、つまり基礎的な生活のための資金・基礎をどうやって得ていたのか、という関心からする記述もあった。
 R・パイプスによると、少なくとも十月革命までの「かなりの」または「ある程度」の彼らの財源は、当時のドイツ帝国から来ていた。アレクサンダー・パルヴス(Parvus)は<革命の商人>と称される。
 1917年の七月事件後に成立したケレンスキー政権はその(国家反逆罪の)確証らしきものを掴んではいたが、ボルシェヴィキよりもカデットを嫌って、換言するとボルシェヴィキは<左翼>の仲間だが(ボルシェヴィキもエスエル等とともに、7月までは第三順位だが「ソヴェト」の一員の党ではあった)、カデット(立憲民主党)の方が臨時政府にとっての<敵>だと考えて、断固たる措置を執らなかった。
 戻ると、銀行強盗というのは、日本共産党も戦前にかつて行った<大森銀行ギャング事件>を思い起こさせる。
 なかなか興味深いことを多々、詳細に書いてあると感じて、この欄に少し訳出しようと思ったのが、1年余り前のことだった。
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 つぎの本は、実質的に、リチャード・パイプスの<自伝>だ。80歳の年の著。
 Richard Pipes, VIXI - Memoirs of a Non-Belonger (2003)。
 Non-Belonger の意味に立ち入らないが、VIXI とはラテン語で<I have lived>という意味らしい(Preface の冒頭)。
 すでにこの欄に記したが、この著のp.124とp.125の間の複数の写真の中に、R・パイプス、レシェク・コワコフスキ、アイザイア・バーリンら4人が立って十字に向かい合って何かを語っている写真がある。
 昨年当時にきっと名前だけは知っていたL・コワコフスキとR・パイプスが同時に写っているのはなかなか貴重だ。
 機会があれば、上の本の一部でも試訳してこの欄に載せたい。
 何箇所かを捲っていると、<ロシア革命>執筆直前の話として、E・H・カーに対する厳しい批判もある。
 1980年代前半の数年間、アメリカ・レーガン政権の国家安全保障会議のソ連担当補佐官としてワシントンで勤務した(そして対ソ「冷戦」解体の下準備をした)ことは、すでに記した。
 p.115以降にこんな文章があった。試訳。
 「ソヴィエト同盟に対する非妥協的な強硬派(hard-liner)だという私の評判は、ベイジング(北京)にまで達していた。そして、1977-78年の冬に、中国国際問題研究院からの招待状を受け取った。//
 1978年4月3日に、北京に着いた。
 街は全体として憂うつそうな印象で、ソヴィエト式のように醜かった。
 幹線道路を見渡す私のホテルの窓から、自転車をこぐ民衆の大群が見えた-それは青と緑のアリの群れに似ていた-。そして、絶え間ない自動車の警報音を聞いた。」
 北京でのセミナーで語った内容等は省略。
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 リチャード・パイプスの著で邦訳書があるのはほぼ、簡潔な<共産主義の歴史>と<ロシア革命の簡潔な歴史>だけで、しかも前者は日本では「共産主義者が見た夢」というタイトルに変えられている。
 <共産主義の消滅=共産主義・消失した妖怪>も<ロシア革命に関する三つ謎>の邦訳書もない。
 そして、重要な<ロシア革命-1899~1919>、<ボルシェヴィキ体制下のロシア>という「十月革命」前後に関する大著二つの邦訳書もない。
 「対ソ冷戦終焉」あるいはソ連解体後に、断固たる反ソ連(反共産主義)だった論者として日本の新聞、雑誌等に論考・解説が載ったり、あるいは日本のどこかで講演会くらい企画されてよかった人物だったと思うが(東欧では講演等をしたようだ)、そんなことはなかったようだ。
 L・コワコフスキは日本を訪れたことがあるらしい(軽井沢と大阪、ネット情報による)。
 しかし、R・パイプスは日本に来たことがあったのだろうか。
 いつぞや、ピューリツァー賞を受けたアメリカのジャーナリスト、Anne Applebaum による<グラーク(強制収容所)>のロシア革命(十月革命あたり)叙述が参照元としているのはこのR・パイプスとオーランド・ファイジズ(Orlando Figes, <人民の悲劇>)の二著だけだ、と記したことがある(アプルボームの邦訳書がないとしたのは誤りだった)。
 ピューリツァー賞なるものの<政治的性格>はよく知らないが(たぶん極右でも極左でもない)、その受賞作の最初の方の、グラーク(強制収容所)に関する本格的叙述に至る前の<ロシア革命>記述の基礎とされているので、R・パイプス著が決してアメリカで<無視>あるいは<異端視>されているのではなく、むしろ<かなり受容された概説書または教科書>的扱いを受けているのではないか、という趣旨だった。
 しかして、日本で、日本人の間で、日本の「論壇」で、リチャード・パイプスはいかほど知られていたのだろうか(<アメリカ保守>の専門家面していても、江崎道朗が知っている筈はない)。
 中国共産党はどうやらよく知っていたらしい(離れるが、中ソ対立の時期、米ソ中という三極体制が語られた時代もあったことを日本人は想起すべきだ)。
 日本の<知的>環境には独特なものがある。世界または欧米の種々の思想・主義・見解等々がすべて翻訳されて日本語になって<自由に流通している>と考えるのは、そもそも大間違いなのだ。
 欧米最優先とか欧米を基準とすべきなどの主張をする意図はないが、欧米とりわけ英米語圏の方が知的情報産業界は大きく、<市場>も広く、競争は激しいものと思われる。欧米の「識者」から見るとおそらく、日本の知的情報環境が(ガラパゴス的に?)<閉ざされている>のは異様だろう。しかし、日本語の読解ができないためにそのことが知られていないだけだ、日本の「識者」はそのことを意識・自覚していない、と思われる。
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 左は著書・VIXI(2003)の扉裏の写真、右は1974年2月、Oxford で、右からI・バーリン、R・パイプス、L・コワコフスキ。
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1808/江崎道朗2017年8月著の無惨⑭。

 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)のp.38-39が記す「共産主義」に関する説明なるものは、マルクス(・エンゲルス)が言ったものか、レーニンのそれか、それとも「マルクス=レーニン主義」という語の発案者でその正当な継承者だと主張したいらしいスターリンが説いたものか、あるいは日本共産党・不破哲三らが述べているものに依っているのか、分からない。
 何かを参照しながら、<江崎道朗的>理解をしているのだろう。
 しかし、明確なのは、「共産主義」を説明しながら、「歴史の発展法則」への言及も「搾取」という語の使用も(むろん「剰余価値」も)、「階級」や「階級闘争」への言及も、したがってまた<支配者(抑圧・搾取)階級-被支配(被抑圧・被搾取)階級>を区別する語句の使用も、まるでないことだ。「土台(下部構造)」と「上部構造」の別あるいは「生産力」と「生産関係」の矛盾とかの話になると、江崎には関心すら全くないのかもしれない。
 格差の是正、徹底した平等の実現等々というだけでは、江崎道朗のいう「社会民主主義」と、あるいは辻元清美的?「社会主義」といったいどこが違うのか。
 人類の歴史は「階級闘争の歴史」だとマルクスらは書いた(1848年)。
 この全歴史的な展望?の中で江崎道朗は「共産主義」を位置づけているか? おそらくきっと、そうではないだろう。
 それにまた、1919-20年あたりの「コミンテルン」文書を利用して<共産主義>とはどういうものかを説明しようとしているようだ。これは既述のとおり。
 1917年以前にレーニンが語った「共産主義」もあれば、1930年代以降にスターリンが語った「共産主義」もある。
 「コミンテルン」いう一組織の(この当時はレーニン時代の)1919-20年あたりの文書の内容によって、何ゆえに「共産主義」なるものを説明できるというのだろうか?
 江崎道朗が「コミンテルン」と共産主義(者)・ソヴィエト連邦等をほとんど区別していないことは既に何度か記した。無知というものは、恐ろしい。
 その江崎道朗が「コミンテルンの一次資料(の邦訳)」として利用しているのは、つぎだった。これも既述。
 ケヴィン・マクダーマット=ジェレミ・アグニュー/萩原直訳・コミンテルン史-レーニンからスターリンへ(大月書店、1998)
=Kevin McDermott & Jeremy Agnew, The Comintern - A History of International Communism from Lenin to Stalin - (McMillan Press, 1996)。
 しかも既述のとおり、この本全体ではなく、江崎が利用した「付属資料」の部分は計304頁の原書で見るとそのうち計30頁だ(p.220~p.249)。邦訳書では計33頁(p.295~p.327)。
 かつまた、これも既述だが、江崎道朗が参照して上の書物で用いているのは、収載されている計19の資料件数のうちわずかに4件でしかない。つぎのとおり。
 ①1919.01.24-<レーニンによるコミンテルン第1回大会への「招待状」>。
 ②1920.07.28-<レーニンの「民族・植民地問題についてのテーゼ」>。
 ③1920.08.04-<コミンテルン「規約」>。
 ④1920.08.06-<レーニンの「コミンテルンへの加入条件についてのテーゼ」>。
 かつまた、全19件に共通なのだが、これらの一次資料の(邦訳)全文ですらなく、全て「一部抜粋」にすぎない。
 この部分だけではないが(しかし、上の本の中では比重は高い)、こういう邦訳資料を見て、江崎道朗はこう<豪語>した。
 唖然としたので、再記しておく。
 p.95-「本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩なのである」。
 上のたった四つだけで、1930年代以降の、とりわけ<日本の戦争>との関係での「コミンテルン」の役割・方針を理解できるはずはないだろう。とこう書いたが、この部分は江藤に注文を付けても無意味だろうので、削除してもよい。
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 さて、江崎道朗が参照する上掲英語文献末尾の資料部分の邦訳の冒頭には、訳者・萩原直の理解し易くはない注記が小さく書かれている。
 それを読み解くと、つぎのようになる。「抜粋」資料件数は計19。
 A・萩原直自身が原書(念のために言うが、コミンテルン自体の資料文書ではなく上掲英語書籍)から訳出したもの-資料⑨・⑰・⑱。
 B・別の邦訳資料/ディミトロフ・反ファシズム統一戦線(大月、1967)の村田陽一らによる訳文をそのまま借りたもの-資料⑮。
 C・別の邦訳資料/村田陽一訳編・コミンテルン資料集1-6巻(大月、1978-85)の村田陽一の訳文をそのまま借りたもの-上以外、つまり資料①~⑧、⑩~⑭、⑯・⑲。
 これで明らかなのは、江崎道朗が参照している訳文は原書訳者・萩原直ではなく、村田陽一による訳文だということだ(資料①・③~⑤、江崎道朗に言及した部分の上の①~④)。
 しかも、相当に興味深いことも、すぐ上のB・Cについて萩原直は注記している。つぎのとおり。
 「以上の訳文の出典は、本書の著者が示した英語版の出典とは異なる」。p.293。
 これはどういうことか。
 第一に、ケヴィン・マクダーマット=ジェレミ・アグニューの上掲英語書籍が付録として掲載する諸資料の英語版の「出典」。
 第二に、村田陽一(ら)が訳出した際の資料の「出典」。
 これらが同じではない、ということだ。
 マクダーマット=アグニューはいずれかの英語資料から抜粋してその書物に掲載したに違いない。一方、村田陽一訳の少なくともコミンテルン資料集1-6巻は、ロシア語原典に依っているだろう。
 この点だけによるのではないが、掲載・収載の仕方としては、後者の方が信頼性が高いものと思われる。
 (なお、レーニン全集類の邦訳者は特定されていないが、村田陽一(本名かどうかも不明)は翻訳者グループの重要な一人ではなかったかと秋月は推測する。そしておそらく、1960年頃は日本共産党員だっただろう。)
 換言すると、マクダーマット=アグニューの選抜・資料選択の出所は100%は信頼できない、ということだ。
 いや、出典は違っても、内容が同一ならばそれでよいかもしれない(もっとも、レーニン全集掲載の同一又は類似の資料とこの英語書籍の資料の内容とが全く同一ではないことは私も確認している)。
 しかし、上のような注記がとくに訳者によって冒頭に記されている以上、その点もふまえて「付録資料」の邦訳も参照するのが、ふつうの、まともな日本語書籍執筆者の姿勢というべきだろう。
 しかるに、その点は公然と?無視して、再度書くが、江崎道朗は、こう言った。
 p.95-「本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩なのである」。
 では、ケヴィン・マクダーマットとジェレミ・アグニューというのはいったい、どのような人物なのか。
 ようやく、1ヶ月以上も前にここで書いておきたかったことに到達したようだ。

1805/江崎道朗2017年著指弾⑬。

 つぎのものは、ひどい本だ。
 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)。
 既述だが、わずか5頁の範囲内に、つぎの三つの「致命的」な間違いがある。
 ①「民主集中制」と「プロレタリア独裁」を区別せず、同じものだと理解している(p.78)。
 ②「社会愛国主義」は「愛国心」を持つことだと理解している(p.75)。
 ③ソ連未設立時の「各ソヴェト共和国」を「ソヴィエト連邦」と理解している(p.79)。
 他にもあるが、ああ恥ずかしい。
 これらの一つだけでもすでに致命的で、出版停止し全面的書き直しか絶版にすべき程度のものだと考えられる。
 いずれにせよ、江崎道朗に、対共産主義「インテリジェンス入門」を執筆する資格はない。
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 これまた既述だが、江崎道朗は、共産主義(者)・共産党と「コミンテルン」を明確に区別する必要を感じていない。ロシア共産党、ソ連共産党、ソ連国家(赤軍であれチェカであれ)、これら全てを「コミンテルン」と表現しているのではないかとすら疑われる。
 「コミンテルン」を使う理由はおそらく、日本の一般的読者には共産主義等ほどの馴染みがない言葉で、かつ何やら「陰謀組織」めいた印象を与えることができるからだろう(政治文書、プロパガンダ文書には、どのような「言葉」を使うかも重要なのだ)。
 したがって江崎道朗には、コミンテルン初期の「加入条件」等文書は国際的共産主義組織一般と「共産主義者」との関係を規律するものであると理解されることになるようで、換言すると、「共産主義者」であるための要件を示すものと理解されていそうで、<コミンテルン(国際共産党)-「共産党」と名乗って加入して一員・一支部になってもよいと考える各国の社会主義的政党>の関係を規律するものと正確には理解されていないようだ。
 「コミンテルン」を本の表題の一部に使いながら、ひどいものだろう。
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 では江崎道朗には、「共産主義」自体はどう理解されているのか。
 上掲書p.38-39で、こう説明する。「マルクス主義」・「マルクス・レーニン主義」・「社会主義」との異同に全く言及はない。のちに離れたところで「社会主義」という語を登場させているが、そこでも「社会主義」と「共産主義」の異同に関するコメントは何もない。
 全文を引用する。//は改行。
 「共産主義とは、突きつめて単純化するならば、『生産手段を国有化して一党独裁のもとで徹底した経済的平等をめざす考え方』だ。//
 資本主義社会では、土地や資金、工場などの『生産手段』の私有化を認めているから、金持ちと貧乏人といった格差が生まれる。地主と小作人、会社経営者と労働者といった具合である。//
 そこで労働者による政党、つまり共産党が政権をとり、共産党主導で『武力によって強制的に』土地を取り上げ、会社経営者から資金と工場を取り上げ、国有化、つまり労働者全員で共有するようにすれば格差は解消され、労働者天国の社会が実現できる--このような労働者、小作人主体の社会を実現しようというのが共産主義だ。
 よって共産主義者は、基本的に武力革命を支持し、議会制民主主義に対して否定的なスタンスをとる」。
 以上が、この箇所での全文。この部分には「下敷き」にしているかもしれない参照文献の摘示がない。しかし、何らかの文献を読んで参照していることは間違いないだろう。
 第一の問題は、これは、「共産主義者たち」が主張している考え方の紹介なのか、それとも江崎道朗の理解はある程度は含めているのかが不明瞭だということだ。おそらく、前者を踏まえつつ、後者も混じっている、ことになるのだろう。
 かりにそうだとしても、あるいは前者なのだとしても、相当に違和感がある。以下、重要な点をコメントする。
 ①「徹底した経済的平等をめざす考え方」。
 これは誰がどこで主張したのか。なぜ「経済的」という限定がつくのか。かつ根本的には、共産主義では「平等」ではなく「自由」という理念はどうなっているのか。
 ついでに記そう。現在の2004年日本共産党綱領は、「真に自由で平等な共同社会」を目指す、そうなる筈だ、と明記している。「共同社会」とは、元来のドイツ語では、Gemeinwesen だと見られる。 
 ②「資本主義社会では、…『生産手段』の私有化を認めているから、金持ちと貧乏人といった格差が生まれる」。
 つぎの③とも密接不可分だが、「私有化」→「格差」という論理関係があるのかどうか。
 そのような旨を共産主義者は主張しているかもしれない。
 しかし、この点は重要なこととして強調しておきたいが、「格差」などという言葉・概念は、ロシア革命や共産主義等関係の書物を種々読んできたかぎりで、一度も見たことがない
 江崎においては単純に「不平等」という意味かもしれないが、「格差」という語を江崎が使うのは、昨今の日本の状況に大きく影響されている可能性がすこぶる高い。
 ③「国有化、つまり労働者全員で共有するようにすれば格差は解消され…」。
 江崎は読者に迎合して、あるいは現在の日本に合わせて、「格差」(是正?)という言葉を採用しているのだろう。
 一言挿入しておくが、共産主義とは<格差解消>を目ざす主義・考え方などでは全くない
 それよりも、なぜ<国有化→労働者全員の共有>なのか。さっぱり分からない。
 そのように共産主義者は主張している、という趣旨かもしれない。しかし、論理的・概念的にも歴史の現実でもそうではない(なかった)、ということは明確だ。紹介のつもりならば江崎著のどこかで厳しく批判しておいても不思議ではないが、そのような箇所はないようだ。
 ④「労働者による政党、つまり共産党」という説明または紹介も奇妙だ。少なくとも正確ではない。ロシア共産党・ソヴィエト共産党は本当に「労働者による政党」だったのか?
 紹介だとしても、それきりでは、①から④の全てが、共産主義者の「宣伝」を鵜呑みで紹介し<拡散>することになってしまう。
 以上の諸点よりももっと重大なのは、なぜ共産主義が<悪魔の思想>とまで称されるかが、まるで分かっていないように見える、ということだ。
 この点を、ハーバート・フーヴァー(元アメリカ大統領)の回顧録の第一章にある文章と比べてみよう。
 ハーバート・フーバー/渡辺惣樹訳・裏切られた自由-上巻(草思社、2017)。
 第一編・第一章のタイトルは「共産主義思想の教祖、指導者、主義・主張およびその実践」で、そのうちのp.165以下。
 一文ごとに改行する。
 「共産主義思想は第一に、人々の心を燃え立たせる病の思想である。
 信じる者の熱情は、キリスト教徒やイスラム教徒のそれと同じである。
 共産主義思想は、救済思想であるが、それに反抗する者を許さない。
 時とともにその思想体系、(拡散の)手段、組織体系を進化させてきた。
 その本質は強烈な拡張意識と、人間の感情(たとえば信仰心)の徹底的な抑圧である。
 その思想は、残酷でサディスティックでさえある。」
 このあと、(マルクスはないが)レーニン又はスターリンの文章を引用しつつの、「独裁について」、「宗教とモラルについて」、「国際関係について」、「共産主義革命は暴力による」、「労働組合とストライキによる破壊工作」、「議会に対する破壊工作について」、「国家間あるいはグループ間抗争の煽動について」、「講和不可能について」という諸項目がある。
 2017年の江崎道朗と遅くとも1960年代前半のH・フーヴァーと、どちらが「共産主義」の<本質>に迫っているだろうか。

1793/ロシア革命に関する邦訳書等々。

 ロシア「10月革命」100年が経過した。
 ロシア革命に関する手頃な日本語文献はないものか、と考える。
 昨年につぎの二著が新書版で刊行されたが、異なる意味で、問題がある。
 広瀬隆・ロシア革命史入門(集英社インターナショナル、2017)。
 これはおそらく評論家でも「左翼」によるもので、レーニンらが「反戦平和」のために革命をしたと冒頭に書いているのだから、笑ってしまった。イデオロギーは、あるいは反共産主義=保守反動という「刷り込み」は、恐ろしい。
 池田嘉郎・ロシア革命-破局の8か月(岩波新書、2017)。
 これには一度この欄で触れた。上と違ってアカデミズム界のもので、ロシア革命自体に関する強い「歪み」はないと思われる。しかし、いかんせん、この書が扱っているのは-よく見ると副題が示すように-ほとんど二月革命と十月革命のあいだで、二月革命・臨時政府樹立後の政府要職者等の人生が中心だ。
 ロシア革命といえば先ずは想起するだろうボルシェヴィキによる「10月革命」を-その終期には議論があるだろうが-「内戦」または「戦時共産主義」以前についても概述してくれるものではないようだ。
 詳細と思われる共産主義・ロシア史に関する邦訳書は、-江崎道朗はこれらを一瞥すらしないでコミンテルンや「共産主義」について2017年8月の新書を刊行したようだが-ある。
 私でも、つぎの二著を所持する。それぞれの下掲は、原書。
 アーチー・ブラウン/下斗米伸夫監訳・共産主義の興亡(中央公論新社、2012)。
 =Archie Brown, The Rise and Fall of Communism (2010).
 マーティン・メイリア/白須英子訳・ソヴィエトの悲劇-ロシアにおける社会主義の歴史-上・下(草思社、1997)。
 =Martin Malia, Soviet Tragedy: A History of Socialism in Russia (1995)。
 後者はリチャード・パイプスと同窓という著者によるもので、ネップ期の叙述も興味深い。
 しかし、これらはタイトルにも見られるように、ソヴィエト共産主義の歴史をソ連の解体まで叙述するもので、広・狭義のいずれであれ、「10月革命」の経緯を概述することを主題にしていない。
 リチャード・パイプスの意味での「ロシア革命」とネップ期を含む「ボルシェヴィキ体制下のロシア」については、同の二著があり、その簡潔版もあって-何度も記したように-その簡潔版の邦訳書はある。
 リチャード・パイプス/西山克典訳・ロシア革命史(成文社、2000)。
 =Richard Pipes, A Concise History of the Russian Revolution (1995).
 他になくはない。よく読まれているのかも知れない一冊本に、つぎがある。
 ロバート・サーヴィス/中島毅訳・ロシア革命1900-1927(岩波書店、2005)。
 長くはない概説書だ。そして、この書によるロシア革命記述は、日本語版「ウィキペディア」の「ロシア革命」の項の基礎になっている(示される参考文献を見れば分かる)。
 しかし、さすがに岩波書店が邦訳書として発行する本だ。レーニン・ロシア革命・共産主義についてなおも宥和的で甘い、と感じられる。そのようなものでないと、つまりひどくは日本共産党や日本の「左翼」に悪影響をもたらさないようなものでないと、岩波は出版しないのだろうと推察される。
 古くは、つぎがあった。
 菊地昌典・ロシア革命(中公新書、1967)。
 岩波新書でもない中公新書にこんな内容のロシア革命本があったとは、日本に独特の時代性を感じさせる。
 この本は、著者が日本共産党員なのかいわゆるトロツキストなのかという詮索はしないが、いずれにせよ、レーニンの「ロシア革命」を美しく讃えるものだ。その文体の熱情ぶりは、日本にもいずれ(民主主義革命-?)社会主義革命が起きるとの確信に満ちているようだ。そして、自分はその進歩的・積極的な方向に関与しているのだという陶酔感も。
 上のうち優れていると思われるのは、リチャード・パイプスの簡潔版の本だ。
 しかし、これの邦訳書でも二段組で本文408頁まであり、読み通すのは簡単ではない(なお、原書も計ほぼ同頁だ)。私自身も一日では読み終わっていない。
 ロシア・ソ連史学界(アカデミズム)にはむろん多数の論文等があるのだろうが、ふつうの「しろうと」には細かすぎ、専門的すぎて、分かりにくい。
 となると思いつくのが、イギリスの専門学者によるものだが、二月革命から1930年代の「大粛清」(the Great Purge)までの概述書である、つぎだ。第三版の原書で本文だけだと172頁。パイプスのものよりも短い。
 Sheila Fitzpatrick, The Russian Revolution (Oxford, 2ed. 1994, 3rd. 2008, 4th. 2017).
 シェイラ・フィツパトリク・ロシア革命(第3版2008,第4版2017)。索引を含めて、p.224まで。
 しかし、2017年の第4版ではなくとも、この書には邦訳書が(なぜか)存在しない。

1791/旧西独で-「ベルリンを想え!」。

 この欄にたんなる紀行文、旅行記を書き記すつもりはない。
 以下の内容からして、まだドイツは再統一されていなかった頃だ。
 前日にローテンブルク(Rotenburg od. Tauber)に宿泊して、ニュルンベルクの市中見学を経てフュッセン(Füssen)まで鉄道で行き、翌朝にノイシュヴァンシュタイン(Neuschwanstein)城を見てみようと計画した。若さゆえの無理をした算段だが、実際にそのとおりになった。
 ローテンブルクには鉄道駅はなく30分ほどはバスに乗ってシュタイナハ(Steinach)という駅まで行く必要があった。この駅は都市の入口または中央駅というふうで全くなかったが、そこからニュルンベルクまで直接に進めるわけではなく、アンスバッハ(Ansbach)駅で別の電車(汽車?)に乗り換える必要があった。
 シュタイナハはもちろん、都市としてはローテンブルクよりも大きいのではないかと駅前まで出て感じた(よく知られているように「改札」というのはないので、切符を持って自由に構外に出ることができる)。
 アンスバッハの駅の北側で、現在でも明確な記憶として残っているものを見た。
 それは石碑だったのか、たんなる木版だったのか不明になってしまったが、「ベルリンを想え!」と刻まれるか、記されていた。-Denkt an Berlin !
 意味、趣旨は明確だと思われた。東西にドイツが分割され、ベルリンもむしろ枢要部は「東ベルリン」と呼ばれる社会主義ドイツ(東独、ドイツ民主共和国)の首都になっているという現実のもとで、社会主義国で生活しているベルリン市民を、そして東独の市民を想え、ということだっただろう。
 当時にヘルムート・コール(Helmut Kohl)が野党党首だったのかすでに首相だったのか、東ドイツ国民は「ソ連の人質として取られている」という趣旨のことを演説で言ったのを直接に聴いたことがある(但し、遠くに彼の姿を見たのは確かだが、H. Kohl の演説を聴き取れたのかは怪しいので、翌日あたりの新聞で内容を読んだのかもしれない)。
 そういう時代だから、アンスバッハ市民がまたはそこの公的団体が、ドイツは分断されていることを忘れるな、という趣旨で、「ベルリンを想え!」と駅前に記したのだろう(なお、アンスバッハはバイエルン州)。
ところで、余談になるが、ドイツ語に苦しんでいた頃だったから、denkt という語の文法上の位置づけもおそらく当時にすでに気になったに違いない。
 これは、<万国の労働者、団結せよ!>という場合の後段の vereinigt (euch) に相当する、敬称ではない場合の複数者に対する命令形だと思われる。
 この使い方は表向きの会話や新聞ではあまり出てこないので、印象に残ったのかもしれない。
 しかし、そうしたドイツの<言語、言葉>に関する記憶は山ほどある(理解不能だったり、恥ずかしかったり…。それでも当時(現在でもだが)、英米語よりはるかにドイツ語の方がマシだった)。
 この Denkt an Berlin ! を今でも憶えているのは、その内容によるだろう。
 のちに再訪はしなかったが、あの石版か木版は、おそらくとっくに除去されているに違いない。

1784/一国社会主義-L・コワコフスキ著1章4節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
 試訳のつづき。第3巻第1章第4節、 p.21~p.25。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第4節・一国での社会主義。

 1924年の末にかけてトロツキーとその「永続革命」との考えに対抗して定式化された「一国での社会主義」という教理は、長い間、スターリンによるマルクス主義理論への大きな貢献だと考えられてきた。これから推論される帰結は、トロツキズムは一団の反対物たる明確な教条だ-トロツキー自身も明らかに共有するに至る見方-、ということだ。
 しかしながら、現実には、二人の間には、理論上の不一致はもちろん、根本的な政治的対立は存在していなかった。//
 述べてきたように、十月蜂起の指導者たちは、革命の過程はすみやかにヨーロッパの主要諸国に広がるだろう、世界革命の序曲(prelude)でなくしてはロシア革命には永続する希望はない、と信じた。
 初期のボルシェヴィキ指導者の誰も、これとは異なる考え方を抱いたり、表明したりすることはなかった。
 この主題に関してレーニンがいくつか書いたことも紛らわしさが全くないものだったので、スターリンはのちに、それらを著作集から削除した。
 しかしながら、世界革命の望みが少なくなり、共産主義者たちのヨーロッパで蜂起を発生させようとする絶望的な努力は失敗に帰したので、彼らは、その社会がいったい何で構成されるのかを誰も正確には知らなかったけれども、当面の直接の任務は一つの社会主義社会の建設だということにもまた同意した。
 二つの基本的な原理が、受容されつづけた。すなわち、歴史法則によって最終的には世界を包み込む過程を、ロシアは開始した。そして、西側の諸国が自分たちの革命を始めるのを急いでいない間は、自国の社会主義への移行を開始するのはロシア人だ。
 社会主義を実際に一度でもまたは全部について建設することができるのか否かという問題は、真剣には考察されなかった。実際の結論は、答えに訊くしかなかったのだから。
 内戦の後でレーニンが、布令を発することでは、ましてや農民を射殺することでは穀物を成育させることはできないと気づいたとき、そして引き続いてネップを導入したとき、彼は確実に「社会主義の建設」にこだわっており、外国で革命を搔き立てること以上に、国家内部の組織化に関心をもっていた。//
 スターリンが1924年春に「レーニン主義の基礎」という論文を発表したとき-これはレーニンの教理を彼自身に倣って集大成する最初の試みだった-、彼は一般的に受容されていることを繰り返して抽出し、トロツキーを、農民の革命的役割を「誤解」しており、革命はプロレタリア-トによる一階級支配によって開始することができると考えていると、攻撃した。
 彼は、こう論じる。レーニン主義は、帝国主義時代とプロレタリア革命時代のマルクス主義だ。ロシアは、その相対的な後進性とそれが苛んだ多くの形態の抑圧によって革命へと成熟していたがゆえに、レーニン主義が生まれた国になった。レーニンはまた、ブルジョア革命の社会主義革命への移行を予見した。
 しかしながら、スターリンはこう強調した。単一の国のプロレタリア-トだけでは最終的な勝利をもたらすことができない、と。
 トロツキーは同じ年の秋に、1917年以降の自分の著作を集めたものを刊行した。その序言では、自分が唯一のレーニン主義原理に忠実な政治家だとの証明や、指導者たち、とくにジノヴィエフとカーメネフ、は優柔不断でレーニンの蜂起計画に敵対する態度をとったことに対する批判、を意図すると述べた。
 彼はまた、ジノヴィエフがそのときに議長(the chief)だったコミンテルンを、ドイツでの蜂起の敗北や革命的情勢を利用できないことについて攻撃した。
 トロツキーの批判は、スターリン、ジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリン、リュコフおよびクルプシュカヤその他による、集団的な回答を惹き起した。それは、過去の全ての過ちと失敗についてトロツキーを非難し、彼は傲慢であり、レーニンと争論をした、革命に対するレーニンの貢献を貶した、と責めた。//
 スターリンが「トロツキズム」という教理を作りだしたのは、このときだった。
 1917年以前にトロツキーが定式化した「永続革命」という考えは、ロシア革命は継続して社会主義段階へと移るが、その運命はそれが生じさせる世界革命にかかるだろう、と予想するものだった。
 さらに、巨大な層の農民が多数派である国家では、労働者階級は国際的なプロレタリア-トによって支援されなければ政治的に破壊されるだろう、国際プロレタリア-トの勝利だけがロシアの労働者階級の勝利を確固たるものにできる、というものだった。
  「ブルジョア革命の社会主義革命への移行」という問題はその間には対象ではなくなっていたので、スターリンは、トロツキズムは社会主義は明らかに一国では建設され得ないと主張するものだと意味させた。-かくして、スターリンは読者に、トロツキーの本当の意図はロシアに資本主義を復活させることだ、と示唆した。
 1924年の秋、トロツキズムは三つの原理に依拠している、とスターリンは明瞭に述べた。
 第一に、プロレタリア-トの同盟者としての農民という最も貧しい階層のことを分かっていない。
 第二に、革命家と日和見主義者の間の平和的共存を認めている。
 第三に、ボルシェヴィキ指導者たちを誹謗中傷している。
 のちに、トロツキズムの本質的な特徴は、一国での社会主義の建設を開始するのが可能であるにもかかわらずそれを遂行するのは不可能だと主張することにある、と明言された。
 スターリンは<レーニン主義の諸問題について>(1926年)で1924年春の自分自身の見解を批判し、一国での社会主義を最終的に建設する可能性と資本主義者の干渉に対して最終的に自己防衛する可能性とは明確に区別しなければならない、と述べた。
 資本主義が包囲する状況では、干渉に対抗できる絶対的な保障はないが、それにもかかわらず、十分な社会主義社会を建設することができる、と。//
 一国で社会主義を最終的に建設できるのか否かに関する論争の要点は、ドイチャー(Deutscher)がスターリンの生涯について適切に観察したように、党活動家の心理を変えようとするスターリンの意欲にある。
 彼はロシア革命は自己完結的だと強調することで、世界共産主義の失敗が生んだ意気消沈と対抗しているのであつて、理論にかかわっているのではない。
 スターリンは党員たちに、「世界のプロレタリア-ト」の支援の不確実さに困惑する必要はない、我々の成功はそれにかかっているのではないのだから、ということを確かなものにしたかったのだ。
 要するに彼は、もちろんロシア革命は世界全体の革命の序曲だとの神聖な原理を放棄しないで、楽観的な雰囲気を生み出そうとした。//
 トロツキーが1920年代のソヴィエト外交政策とコミンテルンの職責にあったとすれば、スターリンよりも外国の共産主義者の反乱に関心を寄せていただろう、ということはあり得る。しかし、彼の努力が何がしかの成功をもたらしたと考えることのできる根拠はない。
 当然に、トロツキーは、スターリンが革命の根本教条を無視しているためだとして世界の共産主義者の敗北を利用した。
 しかし、欠けているとしてトロツキーが責めた国際主義的な熱情をもってスターリンがかりに活動したとして、彼は何をすることができただろうかは、少しも明確ではない。
 ロシアには、1923年のドイツ共産党や1926年の中国のそれの勝利を確実にする手段がなかった。
 一国社会主義というスターリンの教理のためにコミンテルンは革命の機会を利用できなかった、というトロツキーの後年の責任追及は、完全に実体を欠いている。//
 かくして、社会主義は一国で建設され得ることについての積極的主張と否定という、「本質的的に対立する」二つの理論に関しては疑問はない。
 理論上は誰もが、世界革命を支援する必要性とロシアに社会主義社会を建設する必要性をいずれも、承認していた。
 スターリンとトロツキーは、これの一方または他方の任務に注入すべき活力の割合に関して、ある程度は異なっていた。二人はともに、この違いを想像上の理論的対立へと膨らませたのだ。//
 トロツキーが頻繁に行った党内民主主義は彼らの体制にとって本質的だとの主張は、なおさら信じ難い。
 すでに述べたように、党内部の官僚制的支配に対するトロツキーの攻撃は、彼が事実上党組織への権力を奪われたときに始まった。まだ権力を持っている間は、彼は警察および経済の制度に対する官僚制の、および軍事的または政治的な統制の、最も専制的な先頭指導者の一人だった。
 のちに彼が罵倒した「官僚制化」は、国家の民主主義的仕組みを全て破壊したことの当然のかつ不可避の結果だった。それは熱情をもってトロツキー自身が入り込んだ過程であり、決して後になって否認することはできないものだった。//
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 第4節おわり。第5節「ブハーリンとネップ理論/1920年代の経済論争」へとつづく。

1781/スターリン・権力へ③-L・コワコフスキ著3巻1章3節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
 試訳のつづき。第3巻第1章第3節の p.18~p.21。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第3節・スターリンの初期の生活と権力への上昇③。
  新しい職〔総書記〕は党の階層の個人的な最高位ではなかったし、そのような職は実際に存在しなかった。
 総書記の職務は党官僚たちの当面の仕事を監督する、官僚機構内での調整を図る、上位者たちを任命する、等々だった。
 洞察すれば、つぎのことを明確に理解することができる。すなわち、全ての他の形態の政治生活が破壊され、党が国家にある唯一の組織された力あるものになれば、その党機構の職責にある個人は、全能になるにちがいない。
 これは、現実に生じたことだ。しかし、この当時は、誰も感知しなかった。
 ソヴィエト国家は歴史上に先例のないものだった。政治の舞台上の演者は、その劇の結末を予見していなかった。
 総書記としてのスターリンは、地方の党の職および最上位を除く中央の職についてすら、自分の味方をそれらの多数派になるよう送り込むことができた。そして、会議や会合を組織する仕事を通じて、その力は高まった。
 もちろん、それはゆっくりとした過程ではあった。
 最初の数年間にはまだ、党内部での論争、対抗集団の形成、異なる基本政策の主張が見られた。
 しかし、時が経つにつれて、それらの頻度は少なくなり、きわめて上位の階層内に限られるようになった。//
 述べてきたように、レーニンが生きている間に党内に反対集団があり、それは専制的で官僚的な統治方法の増大に対して、ある程度の共産党員が不満をもっていることを反映していた。
 最もよく知られる代表者はアレクサンダー・シュリャプニコフ(Alexsandr Shlyapnikov)とアレクサンドラ・コロンタイ(Alexsandra Kollontay)である「労働者反対派(Workers' Opposition)」は、字義どおりの「プロレタリア-トの独裁」、言い換えると、権力は党によってのみならず労働者階級全体によって実際に行使されるべきだということ、を信じた。
 彼らは決して国家民主政への回帰を擁護したのではなく、たわいもなくつぎのように空想した。ソヴィエト体制は、大多数、とくに農民と知識人、に関するかぎりで民主主義的生活様式を廃止したあとで、特権をもつ少数派、つまりプロレタリア-トのそれ(民主主義的生活様式)を維持することができる。
 別の反対派集団は、党の外部ではなく、党内部での民主主義を復活させることを望んだ。官僚機構の力の増大、全ての職の任命システム、および党内議論の減少や空虚な儀式のための選挙に異議を申し立てたのだ。//
 このような夢想家(Utopian)的批判は、ある程度はスターリン死後の共産主義体制の中で感じることとなる「危機的な」傾向を予期させた。すなわち、党の外部にではなく内部に民主主義が覆うべきだとの主張。あるいは、権力は全プロレタリア-トまたは労働者評議会によって、もちろん社会のそれ以外の者たちによってではなく、行使されるべきだとの主張。
 しかしながら、こうした考え方とは別に、初めの数年間に新しい範型の共産主義が出現した。それは、ある意味では、アジア的農民の必要と利益を反映する毛沢東主義(Maoism)の先行型だった。
 この傾向を作りだしたのは、民族的にはバシュキール(Bashkir)、職業は教師の、ミール-サイト・スルタン-ガリエフ(Mir Sayit Sultan-Galiyev)だった。
 この人物は十月革命のすぐ後にボルシェヴィキになっており、ソヴィエト同盟のムスリム(Muslim、イスラム教)圏域内からの数少ない知識人の一人だった。そして早々に、中央アジア民衆に関する専門家だと認められた。
 しかしながら彼は、ソヴェト体制はイスラムの民衆のいかなる問題も解決せず、彼らを別の形態の抑圧に従属させるだけだ、と考えた。
ロシアで独裁的権力を握った都市プロレタリア-トはブルジョアジーに劣らずヨーロッパ人で、やはりムスリム民衆には異邦人だ。
 時代の根本的な対立は発展諸国のプロレタリア-トとブルジョアジーの間にではなく、植民地または半植民地の民衆と産業化した世界全体の間にある。
 ロシアでのソヴィエト権力はこれら民衆を解放するために何もできないばかりか、恒常的な抑圧をし始め、赤旗のもとで帝国主義政策を追求するだろう。
 植民地民衆は、全体としてのヨーロッパの覇権に反対して結束し、自分たちの党とボルシェヴィキのそれから自立したインターナショナルを創設し、そして、ロシア共産主義に対するのと同様に西側の植民地主義者と闘わなければならない。
 彼らはイスラム教の伝統に反植民地イデオロギーを結びつけ、一党システム、および軍事力に支えられた国家組織を創出しなければならない。
 スルタン-ガリエフは、このような基本綱領にもとづいて、ロシアの党とは別にムスリムの党を結成し、そして独立のタタール=バスク国家を設立しようすらした。
  彼のこの運動は、レーニンのイデオロギー、ボルシェヴィキ党およびソヴィエト国家の利益と対立するものだとして、すみやかに抑圧された。
スルタン-ガリエフは1923年に党から除名され、外国の諜報機関の工作員だとして投獄された。これはおそらく、このような理由で責任追及がなされた最初の事例だろう。これはのちにはこのような場合の日常仕事になり、卓越した党員に対して一様になされていった。
 彼は、のちの大粛清(the great purge)の時代の間に処刑された。そして、その考え方は忘れ去られた。
 1923年6月の演説でスターリンは、スルタン-ガリエフは汎イスラムや汎トルコ的考えを理由としてではなく、トゥルキスタン(Turkestan)のバスマチ(Basmach)とともに党への反抗を企てたことを理由として逮捕された、と語った。
 このエピソードは、スルタン-ガリエフの考えとのちの毛沢東の教理または「毛主義的社会主義」範型との間の驚くべき類似性を説明するために記憶しておく価値がある。//
 党またはプロレタリア-トのために民主主義を擁護する反対派集団に関して言うと、これらは急速にかつ一斉に、レーニン、トロツキー、スターリン、ジノヴィエフおよびカーメネフを含む党指導者によって粉砕された。
 1921年の党第11回大会は、分派集団形成を禁止すること、それへの加入党員を除名する権限を中央委員会がもつことを宣言した。 
 党の一体性の擁護者が指摘したように、つぎのことはじつに明瞭だった。すなわち、一党制のもとでの党内部の別々の諸集団は、必然的にかつてそれぞれの党派を形成していた全ての社会諸勢力の代弁者になる。ゆえに、かりに「分派(fractions)」が許容されるならば、事実上は多党制になるだろう。
 避けがたい結論は、専制的に支配している党それ自体が専制的に支配されなければならない、ということだ。そして、社会一般の民主主義的諸制度を破壊しておいて、党内部でそれを持ち続けようと考えるのは愚かだ、ということだ。労働者階級全体の利益については尚更だ。//
 にもかかわらず、官僚機構の手中にある受動的な装置へと党が変わっていく過程は、国家の内部で民主主義諸制度が破壊されていくよりも、長くつづいた。そして、1920年代の遅くまではまだ完了していなかった。
 1922-23年には党内での専制(tyranny)の増大に抵抗する強い潮流があった。そして、誰も、それを抑圧するのにスターリンほど長けているとは思っていなかった。
 病気で衰えていたレーニンに伝わる情報を首尾よく統御し、スターリンは、ジノヴィエフとカーメネフの助けを借りて、かつ権力からトロツキーを系統的に排除して、党を支配した。
 トロツキーは、その弁舌の才能と内戦勝利の立役者としての栄光にもかかわらず、早い段階で地位を失った。
 もしすればソヴェト権力の原理と矛盾していたのだろうが、彼は党の外部で見解を発表しようとは敢えてしなかった。このことが、政治生活の唯一の活動源だった党の官僚機構をトロツキーに反対するように動員することを容易にした。
 トロツキーは最後の段階でボルシェヴィキ党に加入し、古い党員たちから信用されていなかった。また、過度の修辞や横柄で傲慢な挙措も嫌われていた。
 スターリン、ジノヴィエフおよびカーメネフは巧みに、あらゆるトロツキーの欠点を衝いた。メンシェヴィキだったという過去、労働者の軍事化(スターリンならば決してこのような専制的言葉遣いをしなかった政策)への渇望、ネップに対する批判、レーニンとの古い論争、およびレーニンはかつて自分を捏造で陥れたとの責任追及。
 トロツキーは、軍事部人民委員および党政治局員として、まだ力があるように思われた。
 しかし、1923年までに彼は、孤立し、無援になっていた。
 彼の昔の心変わりの全てが、自分に向けられてきた。
 自分が置かれている状況に気づくに至ったとき、党の官僚機構化と党内民主主義の抑圧を攻撃した。
 引き降ろされた共産党指導者の全てに似て、トロツキーは権力から排除されるや否や民主主義者(democrat)になった。
 しかしながら、スターリンとジノヴィエフがつぎのように主張するのは、容易なことだった。
 トロツキーの民主主義感情と党官僚制に対する非難は最近のことだ。そればかりか、彼自身が権力をもっていたときは、他の誰よりも極端に専制的だった。さらには、党の「一体性」を守るのを支持してその動きを始めたのだ。-レーニンの政策とは逆に-労働組合を国家の統制のもとに置き、経済全体を警察の強制力に従属させることを望んだ。等々。
 後年になってトロツキーは、かつて支持した「分派」禁止の政策は永久の原理ではなくて例外的な手段と考えてのものだった、と主張した。
 しかし、そうだったとする証拠はない。また、その政策自体に、一時的なものだったと示唆するものは何もない。 
 つぎのことは、記しておいてよいかもしれない。すなわち、ジノヴィエフは、トロツキーを非難することではスターリン以上に激しい熱情を示した-彼を拘禁することに賛成した一つの段階-ということであり、およびそれによって、排除された二人の指導者が遅れて見込みなく、勝利した政敵に対して力をかき集めようとしたときに、スターリンに有用な防御手段を提供した、ということだ。
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 第3節、終わり。第4節「一国社会主義」へとつづく。

1780/スターリン・権力へ②-L・コワコフスキ著3巻1章3節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
 試訳のつづき。第3巻第1章第3節の p.14~p.18。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第3節・スターリンの初期の生活と権力への上昇②。
 この時期にスターリンは民族問題に関する専門家として、自己決定は「弁証法的に」理解されなければならない(換言すると、それ以外ではなく党のスローガンに適応したものとして用いられなければならない)という旨を演説した。
 1918年初頭のソヴェトの第三回大会で彼は、適正に言えば自己決定とは「大衆」のためのもので「ブルジョアジー」のためのものではない、それは社会主義を目ざす闘いに従属しなければならない、と説明した。
 その年に公表した論文では、ポーランドとバルト諸国の分離は、これらの国々は革命ロシアと革命的西欧との間の障壁を形成するだろうから、反革命の動きであって帝国主義者の手中に嵌まる、と強調した。
 他方で、エジプト、モロッコまたはインドの独立を目ざす闘争は、帝国主義を弱体化することを意図しているので進歩的な現象だ、と。
 これら全ては完全に、レーニンの教理および党のイデオロギーと合致していた。
 分離主義運動は、ブルジョア政権に対して向かっていれば進歩的だ。しかし、ひとたび「プロレタリア-ト」が権力を手中にすれば、民族的な(national)分離主義は自動的にかつ弁証法的に、そのもつ意味を変化させる。それはプロレタリア国家、社会主義、そして世界革命に対する脅威なのだから。
 その定義からして社会主義は、民族的抑圧を行うはずがない。そうして、侵攻だと見えるものは、実際には解放のための行為なのだ。-例えば、スターリンの命令によって赤軍がジョージアの中へと進軍したときのように。ジョージアにはその当時(1921年)、代表制民主政体にもとづくメンシェヴィキ政府が存在していたのだが。
 こうしたことにもかかわらず、決して取り消されなかった民族自決権(自己決定権)というスローガンは、内戦でのボルシェヴィキの勝利に大きく貢献した。白軍の司令官たちは包み隠さず、自分たちの目的について、革命前の領土を少しも失うことなく一つで不可分のロシアを復活させることだ、と述べていたのだ。//
 スターリンがしたことはトロツキーのそれで覆い隠されているけれども、彼は内戦で重要な役割を果たした。
 この二人が対立する起源は、疑いなくこの時期にさかのぼる。この時期に、個人的な嫉妬と非難のし合い-誰が最もツァリツィン(Tsaritsyn)での勝利に貢献したのか、ワルシャワの前の敗北は誰の過ちによるのか、等々-があった。//
 スターリンは1919年に、労農監察部(the Workers' & the Peasants' Inspectorate)の人民委員になった。
 すでに述べたように、官僚制の侵入からソヴェト体制を守ろうとするレーニンの絶望的で見込みなき企てを、この組織は代表した。
 「純粋な」労働者と農民から成る監察部は、国家行政の他部門全てに対して監督する無制限の権限をもった。
 状況を改善するどころか、事態をさらに悪くした。この監察部には民主主義的な仕組みが欠けていたので、これはたんに大官僚組織に一列を付け加えたにすぎなかった。
 しかしながらスターリンは、これを利用して諸組織に対する自分の力を強化した。そして疑いなく、人民委員の地位にあったことは、彼が最高権力者へと昇りつめるのを助けることになった。//
 この段階で、独自性はなくとも重要な考察をしておくべきだろう。
 のちに党の歴史全体がスターリンの命令によって彼自身を称揚するために書き直されたとき、彼は若いときからレーニンの「副司令官」だったと叙述された。あるいはむしろ、自分をそう示そうとした。
 全ての活動分野で、スターリンは指導者、第一の組織者、同志の鼓舞者、等々だった。
 (党の質問で、彼は革命活動を行ったことが理由で放校になったと主張した。しかし、疑いなく彼はそこにいた間の禁じられた主題を議論してしまった。実際には、試験に出席することができなかったために追放された。)
 この狂熱的な考え方によると、彼はレーニンの最も親密な腹心で、党が創立されたまさにその瞬間からの助手だった。彼の輝かしい指導のもとで、コーカサスの幼なかった社会主義運動は成長した。そしてのちには、全党が疑問の余地なくスターリンをレーニンの正当で自然な後継者だと考えた、等々。
 彼は、革命のための頭脳、内戦の勝利の設計者、ソヴィエト国家の組織者だった。
 ベリア(Beriya)が創作した偉人伝では、1912年はロシアの党史上の、ゆえにまた人類史上の転換点として選び出された。スターリンが中央委員会委員になったのはまさにその年だったのだから。//
 他方で、トロツキーやスターリンを厭う理由をもつ他の多くの共産党員は、ボルシェヴィキの歴史でのスターリンの役割を何とか貶め、狡猾さと好運とが混じり合って階段の頂上へと昇りつめた二級の<党官僚(apparatchik)>と描写しようとした。その階段から踏み外させるのは不可能だと分かっていたのだった。//
 このような見方もまた、真実だと受け止めることはできない。
 確かなことは、スターリンは1905年以前には目立たない地方活動家で、より高く評価されて、より重要な役割を果たした者は彼の出身地域に多数いた、ということだ。
 にもかかわらず、1912年までには、6人または7人の著名なボルシェヴィキ指導者の一人になっていた。そして-トロツキー、ジノヴィエフあるいはカーメネフに比べると知られてはいなかったし、誰もレーニンの「当然の」後継者だとは考えていなかったけれども-、レーニンの晩年には、党を支配する小集団の中にいた。
 そしてレーニンが死んだとき、彼は理論上ではなく実務上だが、その国の誰がもつよりも大きな権力を保持していた。//
 我々には現在用いることのできる資料から、スターリンの同志たちは革命の前からすら、のちに病的な圧制者となった彼の性格に気づいていた、ということが分かっている。
 いくつかは、レーニンの「遺言」で記述された。
 スターリンは粗暴(brutal)で、不誠実で、我が儘で、野心家で、嫉妬深く、反対者に非寛容で、部下たちにとっては専制君主だった。
 彼がボルシェヴィキの「古い保護者」を全て一掃してしまうまでは、誰も真面目に哲学者だとか理論家だとかは思っていなかった。この点から見ると、トロツキーやブハーリンだけではなくて、党の主なイデオロギストたちの方が、スターリンよりも勝れていた。
 彼の論文、小冊子や演説には何も独自性がなく、それらの意図をきちんと伝えていない、ということを誰もが知っていた。マルクス主義理論家ではなく、数百人も他にいる党宣伝者(propagandist)の一人だったのだ。
 もちろんのちに、「人格カルト〔個人崇拝〕」の興奮状態の中で、彼が執筆した一片の紙切れも、マルクス=レーニン主義の財産に不朽の貢献をしたものになった。
 しかし、理論家としての全ての名声は命じられた儀礼の一部にすぎず、それは彼の死後たちまちに忘れ去られた、ということは完璧に明らかだ。
 スターリンのイデオロギー的著作が政治的に名声を求めることのない人物によって書かれたものであったとすれば、マルクス主義の歴史で言及するにほとんど値しなかっただろう。
 しかし、彼が権力を握っている間は、それ以外にマルクス主義の焼き印(ブランド)の付いたものは稀にしかなかった。また、この当時のマルクス主義は、彼の権威との関連でしかほとんど明らかにすることはできない。したがって、四半世紀にわたってスターリンが偉大なマルクス主義理論家だったと言うのは、本当のことであるばかりか、実際には、同義反復(トートロジー)だ。//
 いずれにせよ、スターリンは党に有用な多くの性質をもった。頂点にまで達して対抗者を排除したのは、偶然にのみよるのではなかった。
 彼は疲れ知らずの、目聡い、そして有能な活動家だった。
 実際上の諸問題に関して、教理的な考察を軽視し、論点の相対的な重要性の程度を明確に見分ける方法を知っていた。
  彼は(ヒトラーが侵攻してきた最初の数日を除いて)パニックに陥らなかったし、達成することしか頭にはなかった。
 また、見せかけの権力と実際の権力を区別することも巧かった。
 演説は下手で文章は退屈だったが、平易に喋ることができたので、ふつうの党員たちの心を掴んだ。そして、繰り返しや要点の番号振りをする衒学的な習癖は、提示した言葉(exposé)は力強くて明瞭だとの印象を与えた。
  彼は部下たちに威張りちらしたが、うまく彼らを使うことができた。
 党員、外国の新聞記者あるいは西側の政治家のいずれであれ、違う対話者に応じて異なるやり方で適応する術を知っており、プロレタリア-トの根本教条のために立ち向かう果敢な闘争者の役割を、あるいは国家にとって無意味ではない「親分」の役割を演じることができた。
  彼は、全ての成功を自分の栄誉として受け取り、全ての失敗を他者の責任として追及することのできる、類い稀な才能をもっていた。
 スターリンが確立するのを助けた体制によって、自分は僭政者になることができた。
 しかし、彼はその所期の成果を収めるべく長く懸命に仕事をした、ということは言っておかなければならない。//
 スターリンの有能さと組織する力を、レーニンは疑いなく評価していた。
 ときにはレーニンに同意しなかったが、危機にあるときにはつねにレーニンを守った。
 幹部級のボルシェヴィキの多くとは違って、「知識人的な」学習をしておらず、それについてレーニンは平気ではおれなかった。
 スターリンは淡々とした性格で、困難で下品な仕事をするのを気に懸けなかった。
 そして、遅れて見方を変えて、レーニンは自分が権力の頂部へと昇らせてい人物が危険だと気づいたけれども、スターリンがその敵対者に対して応答した言葉にはいく分かの真実がある。
 彼の敵対者たちが最後になってレーニンの「遺言」を書類庫から引っ張り出し、スターリンに反対する証文として使ったとき、スターリンはこう言った。
 そのとおり、レーニンはかつて私は粗暴だと責めた。そして、革命に関するかぎりは、私は粗暴<である>。-しかし、レーニンは一度でも、私の政策は過っていると言ったか?
 これには、反対者は答えることができなかった。//
 1922年4月にスターリンが党の総書記(the Secretary-General)になったのはレーニンの個人的な選抜だった、ということを疑う根拠はない。そして、他の指導者たちの誰かがこの指名に反対した、という証拠資料はない。
 トロツキーがのちにつぎのように明確に述べたのは、全く本当のことだ。
 この職を創設してスターリンをその地位に就かせることが彼がレーニンの継承者になることを意味するとは、誰も考えなかった。総書記の地位にある者は実際にはソヴェトの党と国家の最高支配者になるだろう、とも。
 全ての重要な決定は、まだ中央委員会政治局によって行われており、その諸決定は人民委員会議という媒介物を経て、国家を動かしていた。  
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 段落の途中だが、ここで区切る。③へとつづく。

1777/スターリン・初期から権力へ-L・コワコフスキ著3巻1章3節。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /3.The Breakdown.
 この本の邦訳書はない。
 試訳を続行する。第1章第2節までは、すでに掲載を済ませている。
 同第3節p.9~p.14。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第3節・スターリンの初期の生活と権力への上昇①。
 ボルシェヴィキ指導者の大半とは違って、のちの全ロシアの共産党の指導者は、プロレタリアでなかったとしても、いずれにせよ民衆の一人だった。
 ヨゼフ(ヨシフ、Yosif)・ジュガシュヴィリ(Dzhugashvili)は、ジョージアの小さな町であるゴリ(Gori)で1879年12月9日に生まれた。
 父親のヴィッサリオン(Vissarion)は靴作りの大酒飲みで、母親は読み書きができなかった。
 ヴィッサリオンはティフリス(Tiflis)に移り、靴工場で仕事をして、1890年にそこで死んだ。
 彼の息子はゴリの教区学校に5年間通い、1894年にティフリスの神学校への入学を認められた。この学校は実際のところ、コーカサスでは彼のような社会的条件の有能な若者がより上級の教育を受けることのできる唯一の学校だった。
 正教の神学校は同時に、ロシア化するための機関だった。しかし、多くのロシアの学校のように、政治不安の温床でもあった。ジョージア愛国主義はそうした学校で花咲き、ロシア本域からの多くの被追放者によって、社会主義思想が流布された。
 ジュガシュヴィリは社会主義集団に加入し、神学から得ていたかもしれない関心を全て失い、試験に出席しなかったことで1899年の春に追放された。
  神学校を背景とすることの痕跡は、のちの彼の著作に認めることができる。聖書からの引用があり、のちのプロパガンダとうまくつながる教理問答的文体への好みがあった。
 彼は論文や演説で、回答の中で言葉通りに反復する質問を設定する癖をもっていた。
 彼はまた、個々の考え方や叙述にそれぞれ番号を振ることによって、自分の論文が理解されやすいようにした。//
 神学校での生活以降、スターリンはジョージアにある多様で初歩的な社会主義集団とかかわった。
 ロシア社会民主党は、まだ存在していなかった。1898年のミンスク(Minsk)集会で、設立に向けた正式決議がなされていたけれども。
 1899-1900年の数ヶ月の間、彼はティフリスの地理観測所の事務員として働き、その後、合法と非合法の両方の、政治活動かつプロパガンダ活動に完全に専念した。
 彼は1901年から、秘密のジョージア社会主義者新聞である<闘争(Brdzola)>に論考を書き、労働者の間にプロパガンダを広めた。
 その年の終わり近くに、ティフリスでの党の仕事を指揮する委員会の一員になった。
  バトゥーム(Batum)での労働者の集団示威行動を組織したとして1902年4月に逮捕された。
 彼は、シベリアへの追放刑(流刑)を宣告されたが拘置所から(またはそこへ行く途中で)逃亡し、1904年の初めには再びコーカサスにいて、偽った名の新聞をもつ地下組織の構成員として活動した。
 その間に、社会民主党は第二回大会を開き、ボルシェヴィキとメンシェヴィキの両派に分裂していた。
 スターリンはすみやかにボルシェヴィキを支持することを宣言し、党に関するレーニンの考え方を支援する冊子と論考を書いた。
 ジョージア社会民主党はほとんどがメンシェヴィキで、その指導者は、最もすぐれたコーカサスのマルクス主義者、ノエ・ジョルダニア(Noakh Zhordania)だった。
 1905年の革命の間とその後、スターリンはしばらく、全コーカサス地域を範囲とする職責をもつ党活動家としてバクー(Baku)で働いた。//
 しかしながら数年経って、彼はロシア本域のボルシェヴィキ活動家の一人となった。
 1905年12月のタンメルフォシュ(Tammerfors、フィンランド/タンペレ)での党大会に出席し、1906年には、ストックホルムでの「統一」大会に出席した唯一のボルシェヴィキとなった(そうできる彼の資格をメンシェヴィキは争った)。
 しかしながら、1912年までは、彼の活動の実際の舞台はコーカサスにあった。
 スターリンはタンメルフォシュで初めてレーニンと逢った。彼はレーニンの教理と指導性に、決して真剣に抗うことがなかった。
 しかしながらストックホルムでは、他の全ての問題についてはレーニンの側に立った一方で、党綱領はレーニンが主張する国有化ではなく土地の農民への配分を支持すべきだ、という路線を支持した。//
 この時期のスターリンの著作には、独自のものや記しておくに値するものは何もない。
 当時に生じていた話題に関するレーニンのスローガンを再現する、民衆むけのプロパガンダ的論考だけだ。 
 多くのスペースはメンシェヴィキに対する攻撃にあてられ、もちろん、カデット(立憲民主党)、「召喚主義者」(otzovoists)、「清算主義者」(liquidators)、無政府主義者(アナキスト)等に対する批判もあった。
 いかほどかの長さをもつ唯一の論文、<アナキズムかそれとも社会主義か?>は、1906年にジョージア語で発表された(1905年以降は彼はロシア語でも論考を書いた)。
 これは、社会民主党の世界観とその哲学的諸命題に関する不細工な作文にすぎなかった。//
 スターリンは1906-7年に党財政を充填させるための武装襲撃団である「収奪」の組織者の一人だった、ということが知られている。
 レーニンはこれに味方したが、この活動は1907年のロンドンでの第五回党大会で禁止され、非難された。
 しかし、ボルシェヴィキは、数ヶ月のちに大きなスャンダルを起こすまでは、この活動を実践し続けた。//
 近年に若干の歴史学者が、もともとはジョルダニアが、スターリンの死後は元のソヴィエト諜報機関の高官だったオルロフ(Orlov)が行っている、スターリンは1905年後の数年の間オフラーナ(Okhrana、帝制秘密警察)で仕事をしていた、という申し立てを検証した。
 しかし、この責任追及に有利な証拠は微少なもので、アダム・ウラム(Adam Ulam)やロイ・メドヴェージェフ(Roy Medvedyev)を含むほとんどの歴史家によって却下されている。//
 スターリンは、1908年と二月革命の間、ほとんどの時間を牢獄か追放先で過ごした。最後の期間(1913~1917年)を除いて、彼はそこからいつでも脱出した。
 彼は腕の利く堅固で疲れを知らない革命家だとの評価を獲得して、1907年後のひどい年月の間、党のコーカサス組織を守るために尽力した。
 ロシア内部の多くの他の指導者たちと同じく、彼は移住者(エミグレ、émigré)内部での理論上の議論や口論に強い関心を抱かなかった。
 スターリンはレーニンの<唯物論と経験批判論>について懐疑的な見方をしていた(のちには、哲学思想の最高の偉業だと絶賛した)、そして1910年の暗黒の日々の間にメンシェヴィキとの統一を回復しようと純粋に努力をした、という、ある程度の証拠はある。
 レーニンがメンシェヴィキとの分裂を明確にすべくプラハでの全ボルシェヴィキの大会を招集した1912年1月、スターリンは追放されてヴォログダ(Vologda)にいた。
 その大会は党の中央委員会を選出したが、レーニンの提案によってスターリンはのちにその構成員に選ばれた。かくして、全ロシアの政治舞台にデビューすることとなる。//
 ヴォログダから脱出したのち、スターリンはもう一回逮捕され、追放された。しかし、また逃亡した。
 1912年11月、生涯で初めてロシア国外に旅行をし、オーストリア領ポーランドのクラカウ(Cracow、クラクフ)で数日間をすごした。ここで、レーニンと逢う。
 彼はロシアに戻ったが、12月に再び国外に出た。今度はウィーン(Vienna)に6週間だった-これは外国の土を踏んでいた最長の期間になった。
 ウィーンで彼はレーニンのために「マルクス主義と民族問題」という論文を書き、雑誌<Prosveshchenie(啓蒙)>に1913年に発表された。そして、これは理論家としての名声を求める彼の最も初期の主張をなすもので、また彼の主要な見解の一つだ。
 この論文は、民族問題についてレーニンが語ったことに何も付け加えていない。但し、民族(nation)を単一の言語、領域、文化および経済生活をもつ共同体だと定義したこと以外には。-なお、こうして例えば、スイス(人)やユダヤ(人)は「民族」から除外される。
 この論文は、オーストリア・マルクス主義者、とくにシュプリンガー(Springer、レナー, Renner)とバウアー(Bauer)、およびブント(ロシア・ユダヤ人労働者総同盟)を攻撃するものとして執筆された。
 スターリンはロシア語とジョージア語だけを読めたので、ウィーンにいたときはたぶん、ブハーリン(Bukharin)がオーストロ・マルクス主義著作者からの引用文を選ぶのを助けていたのだろう。
 オーストロ・マルクス主義者は、民族の文化的自治という考えを個人による自己決定にもとづかせていた。これに対抗してスターリンは、民族の自己決定権と領域的な基礎にもとづく政治的分離を支持して論じた。 
 しかしながら、レーニンのように、彼が強調したのは、社会民主主義者は自分たち自身の国家を形成する全ての人民の権利を承認するけれども、それはあらゆる場合に分離主義を支持することを意味しはしない、ということだった。
 決定的な要因は労働者階級の利益であり、分離主義はしばしばブルジョアジーによる反動的なイデオロギーとして用いられるということを想起しなければならないのだ。
 こうした議論の全体は、もちろん、「ブルジョア革命」という前提のもとで行われた。
 トロツキーとパルヴゥスを除く当時の全ての社会主義者と同じく、スターリンは、ロシアは民主主義革命を経験し、その後の多年にわたりブルジョア共和国の支配が続く、と想定していた。
 しかし、その革命を起こすに際してプロレタリア-トは指導的な役割を果たさなければならず、ブルジョアジーの第二伴奏器であったり、ブルジョアジーの利益のためのたんなる従僕者であったりしてはならなかった。//
 民族問題に関する論文は、二月革命前にスターリンが執筆した最後のものだった。
 ウィーンから戻ったあとすぐの1913年2月に、彼はまたもや逮捕され、4年間の国外追放が宣告された。
 このときは逃亡しようとはせず、シベリアにとどまった。そして、1917年3月に再び、ペテログラードに姿を現した。
 レーニンが到着するまでの数週間、スターリンは事実上、首都の党の責任者だった。
 カーメネフとともに、<プラウダ>の編集部を所管した。 
 臨時政府およびメンシェヴィキに対するスターリンの姿勢は、いずれについても、レーニンのそれよりもはるかにより宥和的だった。そして、レーニンがスイスから送っている論文の調子を弱めたことで、レーニンの非難を受けるはめに陥った。
 しかしながら、レーニンのロシアへの帰還とその「四月テーゼ」の提示のあとは、少しは躊躇しつつ、「社会主義革命」とソヴェトによる政府のために活動する政策を受け入れた。
 対照的なことだが、ペテログラードにいた最初の数週間は、まだなお、「ブルジョア革命」、中央諸大国〔ドイツ帝国等〕との講和、大資産の没収、臨時政府の打倒を試みるのではなくそれに圧力を加える、といった趣旨のことを執筆していた。
 七月危機のあとで初めて、ペテログラードの党組織の会合で、スターリンはプロレタリア-トと貧農への権力の移行を明確に語った。
 このときに「すべての権力をソヴェトへ」とのスローガンは放擲された。ソヴェトは、メンシェヴィキとエスエルたちによって支配されていたのだ。
 十月革命の頃までに、スターリンは疑いなく、レーニン、(1917年7月に入党した)トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフ、スヴェルドロフおよびルナチャルスキーと並んで、党の主要な指導者の中に入っていた。
 我々が知るかぎりで、彼は蜂起をした軍事組織に参加していない。しかし、スターリンは、レーニンの最初のソヴェト政権で、民族問題担当のコミッサール(Commissar、人民委員)に任じられた。
 ブレスト=リトフスク条約をめぐって生じた党の危機の間は、ドイツとの革命戦争を押し進めるべきだとする「左翼のボルシェヴィキ」と対抗するレーニンを支持した。
 しかしながら、レーニンのように彼も、ヨーロッパ革命がいつの日にか勃発するだろう、ドイツとの講和の取決めは一時的な戦術的退却にすぎない、と考えていた。// 
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 ②へとつづく。
 下は、分冊版のLeszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. の第1巻と第3巻。
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1775/江崎道朗・2017年8月著の悲惨と無惨⑩。

 江崎道朗の下掲の本で、コミンテルンに関する資料・関係文献として最もよく使っているのは、つぎだ。原書も同時に示す。
 ケヴィン・マクダーマット=ジェレミ・アグニュー/萩原直訳・コミンテルン史-レーニンからスターリンへ(大月書店、1998)。
 =Kevin McDermott & Jeremy Agnew, The Comintern - A History of International Communism from Lenin to Stalin - (McMillan Press, 1996)。
 この原書は、全体で計304頁(索引等を含む)。うち、邦訳書で江崎が用いていた「付属資料」の部分は計30頁だ(p.220~p.249)。
 江崎道朗・コミンテルンの陰謀と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)。
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 この邦訳書もある原書の執筆者等に言及するのは後回しにして、前回記したこの邦訳書以外の二つも含めて三邦訳書以外に、コミンテルンに関する資料等になる邦語文献(とくに翻訳書)は存在しないのか、を問題にしてみよう。
 江崎道朗が参照している上の邦訳書の「付属資料」の冒頭に訳者/萩原直が付している注記からすでに、つぎのものがあることが分かる。
 ①村田陽一編訳・コミンテルン資料集(大月書店、1978-1985年)。/6巻までと別巻で計7冊。
 前回での②を一部とするつぎも資料の邦訳書なので、記しておく。
 ②ジェーン・デグラス編著/荒畑寒村ほか訳・コミンテルン・ドキュメントⅠ-1919~1922(現代思潮社、1969)、同Ⅱ-1923~1928(現代思潮社、1996)。/少なくとも計2冊。
 その他、以下のものがあるようだ。コミンテルンの第一次資料の邦訳を中心としていると見られるものに限る。秋月が一部でも所持しているものはあるし、所在が行方不明のものもあり、明確に入手していないものもある。なお、現時点での入手の容易さとはさしあたり無関係に記していく。
 ③村田陽一編訳・資料集/コミンテルンと日本(大月書店、1986-1988)。/1巻~。少なくとも3巻まで、計3冊。
 ④ソ連共産党付属マルクス・レーニン主義研究所編/村田陽一訳・コミンテルンの歴史-上・下(大月書店、1973)/計2冊。…①・③との異同は秋月には不明。
 ⑤和田春樹=G. M. アジベーコフ監修/富田武・和田春樹編訳・資料集/コミンテルンと日本共産党(岩波書店、2014)
 ⑥トリアッティ/石堂清倫・藤沢道郎訳・コミンテルン史論(青木文庫、1961)
 ⑦B・ラジッチ=M.M.ドラコヴィチ/菊池昌典監訳・コミンテルンの歴史(三一書房、1977)
以上、
 さらに、レーニン全集(大月書店)にはコミンテルンに関する、またはコミンテルン大会等で報告・演説等をしたものが含まれているので、1919年3月以降のものの<表題>(一部は内容でも確認)に全て目を通して、以下に掲載する。内容としてコミンテルン(第三インター)に触れているものは他にもあるだろうが、逐一は確認できない。
 ①1919.04.15「第三インタナショナルとその歴史上の地位」第29巻p.303-p.311。
 ②1919.07.14「第三インタナショナルの任務について」第29巻p.502-p.524。
 ③1920.01.03「同志ロリオと第三インタナショナルに加入したすべてのフランスの友人へ」第30巻p.76-p.77。
 ④1920.03.06「第三インタナショナル創立一周年記念のモスクワ・ソヴェトの祝賀会議での演説」第30巻p.432-p441.」
 ⑤1920.06-「民族問題と植民地問題についてのテーゼ原案(共産主義インタナショナル第二回大会のために)」第31巻p.135-p.142.
 ⑥1920.06初「農業問題についてのテーゼ原案(共産主義インタナショナル第二回大会のために)」第31巻p.143-p.155.
 ⑦1920.06.12『共産主義』=「東南欧州諸国のための共産主義インタナショナルの雑誌」第31巻p156-p.158.
 ⑧1920.07.04「共産主義インタナショナル第二回大会の基本的任務についてのテーゼ」第31巻p.178-p.193.
 ⑨1920.07.08「イギリス共産党結成のための暫定合同委員会の手紙にたいする回答」第31巻p.194-p.195.
 ⑩1920.07-「共産主義インタナショナルへの加入条件」第31巻p.199-p.205.
 ⑪………「共産主義インタナショナル加入条件の第20条」第31巻p.206.
 ⑫1920.07.19「共産主義インタナショナル第二回大会/一・国際情勢と共産主義インタナショナルの基本的任務についての報告」第31巻p.207~.
 ・1920.07.23「同/二・共産党の役割についての演説」第31巻p.228~.
 ・1920.07.26「同/三・民族・植民地問題小委員会の報告」第31巻p.233~.
 ・1920.07.30「同/四・共産主義インタナショナルへの加入条件についての演説」第31巻p.239~.
 ・1920.08.02「同/五・議会主義についての演説」第31巻p.246~.
 ・1920.08.06「同/六・イギリス労働党への加入についての演説」第31巻p.251-p.257.
 ⑬1920.08.15「オーストリアの共産主義者への手紙」第31巻p.261-p.264.
 ⑭1920.08-09「共産主義インタナショナル第二回大会」第31巻p.265-p.267.
 ⑮1920.09.24「ドイツとフランスの労働者への手紙-共産主義インタナショナル第二回大会についての討論にかんして」第31巻p.276-p.278.
 ⑯1920.12.11「イタリア社会党の党内闘争について」第31巻p.379-p.397.
 ⑰1921.06.13「共産主義インタナショナル第三回大会/一・共産主義インタナショナル第三回大会でのロシア共産党の戦術についての報告要綱(原案)」第32巻p.481~.
 ・1921.06.28「同/二・イタリア問題についての演説」第32巻p.491~.
 ・1921.07.01「同/三・共産主義インタナショナルの戦術を擁護する演説」第32巻p.498~.
 ・1921.07.05「同/四・ロシア共産党の戦術についての報告」第32巻p.510-p.530.
 ⑱1922.11.04「共産主義インタナショナル第四回大会/一・コミンテルン第四回世界大会とペテログラード労働者・赤軍代表ソヴェトへ」第33巻p.432~.
 ・1922.11.13「同/二・ロシア革命の五カ年と世界革命の展望」第33巻p.434-p.449.
 ⑲1922.12.02「国際労働者救援会書記へ」第35巻p.617-p.618.
 ⑳1922.11.13前「コミンテルン第四回大会での演説のプラン」第36巻p.691-p.696.
 以上。<⑳は、レーニン死後の1926.01.21に初公表だとされる-上記第36巻。>
  さて、前回に引用紹介したように、江崎道朗は上掲書でつぎのように「豪語」した。
 「本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩なのである」。p.95。
 江崎は、レーニン全集関係のその上に記した文献①の所在を知っていたはずだが、無視している(計7冊は面倒と思ったのか?)。
「しろうと」の秋月でも文献③~⑦くらいの所在には気づくことができるが、江崎は無視している。
 <資料>としては、とくに日本との関係に着目すれば、例えば文献③の方が詳細で正確なようだが、江崎は無視している。下のものは、第一巻だ。
 村田陽一編訳・資料集/コミンテルンと日本① 1919-1928(大月書店、1986)
 この書物は<資料>だけで計510頁まであり、コミンテルン自体のものを多く含む資料が計153件、日本人(片山潜や佐野学ら)・外国人共産主義者の論文が計18篇、<付録>として戦前の日本共産党等の組織の文書計12件を収載している。
 江崎道朗は、コミンテルン・共産主義(者)と日本の関係を(タイトル上の)主題とする本を出版しているのだが、上の書をおそらく一瞥すらしていない。
 また、江崎・上掲書を一瞥してすぐに感じたのは、「コミンテルン」を扱いながら、なぜ、レーニン全集収載論考類を参照文献として挙げていないのだろう、ということだった。とっくの昔に日本語になって「公開されている」、コミンテルンの創設者と言ってよい人物が自ら記した文献資料であるにもかかわらず。
 結論は、要するに、この人=江崎は、レーニン全集を捲ってみる、という作業をおそらくは絶対に行っていない、ということだ。
 レーニンによる、「コミンテルン」=「共産主義インタナショナル」に直接に関係のある文献資料は、上掲のとおり、少なくとも20件はある。第31巻にかなり集中している。むろんこれらだけで、今回の冒頭に記載の邦訳書「資料」部分よりも、はるかに、比較しようもなく、長い。
 (なお、レーニンはコミンテルン組織の執行委員等でなかったとしても、ロシア共産党の代表者として他国の共産主義者・共産党員の前で発言・報告・演説したり、ロシア共産党の代表者として別国の共産党等に「手紙」類を送ることができた。「人民委員会議の議長として」というレーニンの挨拶文等が同全集に収載されてもいるが、これは党とは<別の>国家・行政の長としての立場でのものだ。)
 もう一度、江崎道朗の「豪語」を引用しよう。
 「本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩なのである」。p.95。
 江崎道朗は、コミンテルンに関する「公開されている情報」の「すべて」または多くを「読み込んで理解」しているだろうか。確実に、否、だ。
 ということは、既述のとおり、「インテリジェンスの第一歩」を終えていない、ということを意味する。
 そしてまた、このような文章執筆姿勢、書物出版意識は、確実に、戦前の日本に関する叙述の仕方にも現れている、と見られる。この点はまだ先のこととして、コミンテルン関係の江崎の叙述について、さらにつづける。

1770/江崎道朗・2017年8月著の悲惨と無惨⑧。

 江崎道朗・コミンテルンの陰謀と日本の敗戦(2017.08)
 この本のp.95にこうある。コミンテルンの「流れは、現在に至るまで脈々と続いている」。
 そしてつづけて、「国際共産主義運動による様々な工作」を防ぐ必要のあることを、現在の日本の問題として叙述している。
 これはよし、と言ってよい。<現在の日本と共産主義>という問題意識が全くないか、きわめて薄い<保守>なる人物が、日本にはきわめて多数いるのだから。
 しかし、次のように記す江崎道朗はいかほどに共産主義・コミンテルン等々の「理論」を「理解」できているのか。
 「国際共産主義運動による様々な工作を防ぐ必要があると思うのなら、彼らがこのような理論に基づいて戦っていることを理解する必要がある」-p.95。 
 本格的に上掲著に論及し始めた最初に、たしか、この人は国家・党・コミンテルンの区別ができていない、と指摘した。
 今思うに、江崎道朗にとっては、高次すぎる問題だったような気がする。
 はたして江崎は、中国共産党の党大会と中国(国家)の全人代の区別ができているのだろろうかと、はなはだ疑問に思っている。
 さしあたりここでの結論的指摘を書いておくと、この人、つまり江崎道朗は、「コミンテルン」という語を単色の符号のようなものとして用いていて、ソ連や同共産党等といちおうは区別しなければならない、という意識がない、と想定される。
 「ソ連」と「コミンテルン」を混用していることはすでに例・頁数を示して指摘した。
 こんな例もある。
 p.33-「近衛政権の中枢にソ連のスパイがいた…」。
 同-「ゾルゲは…、実際には、ソ連の赤軍情報部(GRU)のスパイであり、尾崎らをメンバーとするスパイ組織を率いていた」。
 いずれも、「コミンテルン」のスパイではないことを自ら書いているに等しいが、おそらく江崎には、何ら気にならないのだろう。 
 要するに、ソ連も共産党も「コミンテルン」も全てが、彼には「コミンテルン」という語で一括できるものなのだ。
 そしてまた、タイトルに「コミンテルンの謀略」と掲げながら、積極的な「工作」がなくとも自ら進んでソ連等のためになるような行動を客観的にはすることもまた江崎は「謀略」活動の一環としてかなり強調して叙述しているので、「コミンテルンの謀略」とは、江崎道朗にとっては、要するにロシア・ソ連以外の日本やアメリカにもいる(ある)「共産主義(者)」の親共産主義的活動のことなのだ。
 とすると、タイトルは正確には、<共産主義と(日本の)戦争>という意味であることになる。
 こうなると、江崎の本自体が(ようやく?)後半になって参照文献として登場させている、三田村武夫・戦争と共産主義(1950年。改題、1987年。呉PASS出版・復刻2015年)と主題は同一で、江崎の本は60年以上前の本の指摘・叙述をいかほどに上回っているのか、という問題も出てくるだろう。
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 ロシア・ソ連、共産党(ボルシェヴィキが1918年に改称)、コミンテルンの関係は微妙で、むろん江崎道朗のように一括して単純化することができなくはない。
 しかし、最近に試訳したアメリカのロシア史学者(但し、R・レーガン政権で対ソ連政策補佐官)のR・パイプスの本が「党」=ボルシェヴィキ又は共産党のことを明確に「私的組織」と記述しつつ、近代以降の欧米政治思想の「標準的範疇・概念」にうまくフィットしない旨をと述べているように、また問題がなくはないが<一党国家>(one-party state)という語もあるように、<共産党>はたんなる一政党ではなく、しかし国家そのものでもないという、独特な位置を占める。
 そもそもは江崎道朗が何ら知らないと見られる、つぎのことに由来するかもしれない。
 10月「革命」直後にソヴィエト執行委員会のもとにソヴナルコム(人民委員会議)が形成されて、レーニンは「人民委員会議の議長」(実質的に「首相」とも言われる。外務大臣=外務人民委員はトロツキー、民族問題長官はスターリン)だった。これは、(ソヴェトとは何だったかが本当は疑問になるが)いちおうは<国家>の機構だ(但し、実質的に「布令」・「布告」という立法権も有したので単純に今日の日本の「内閣」と理解すると間違い)。
 一方、レーニンはボルシェヴィキ党(1918年に共産党に改称。ゆえに「共産党(ボ)」という表記がのちのちにまで続く)の中央委員会の長(「委員長」という語は文献上は出てこないようだ)であり続けた。
 国家・「内閣」の長であり、党の長でもある。しかし、両者は形式的にはずっと「別」のものではあった。中国の習近平は中国の国家主席かつ中国共産党のトップだ。
 余計なことも書いたが、要するに、江崎道朗は、こうしたことにまるで関心がないと思われる。<国家と党>の関係に立ち入ることなくして、今日の「国際共産主義運動」を語れるのだろうか(なお、北朝鮮における国家・党(北朝鮮と労働党)の関係も興味深い)。
 また、ロシア「革命」と「ソ連」設立の時期、ロシア・ソ連国家内部の機構の関係にまるで関心がないか無知な江崎の本だからこそ、つぎのような叙述もできる。
 p.61はつぎのように明記する。コミンテルンが「1919年3月にモスクワで結成される」、と。
 ところで、「ソ連」設立は1922年で、コミンテルン(第三インター)創設よりも後。
 事実はそうなのだが、つぎの文章はどういう意味だろう。
 p.81-チェカは「ボルシェヴィキ(ソ連共産党)が権力を掌握してから6週間足らずのうちに設立」された。
 p.83-チェカは「ソ連共産党(ボルシェヴィキ)が奪取した権力を維持する上で不可欠の装置だった」。
 江崎はボルシェヴィキ=ソ連共産党だと「思い込んで」いる。
 ソ連設立前に「ソ連共産党」がある筈はない。
 時期を確かめないが、ロシア社会民主(労働)党がメンシェヴィキ派とボルシェヴィキ派に決定的に分裂したときが「ボルシェヴィキ」党創立だとすると、1917年よりもとっくの前から、レーニンが指揮するボルシェヴィキ党は存在している。上に触れたが、1918年春に「共産党」と改称したが、むろんそのときは「ロシア共産党」。
 江崎道朗の関心のなさまたは無知は、チェカと赤軍(情報部)に関する叙述にも見られる。
 チェカと赤軍(情報部)はもともと別の目的を持つ機関のはずだが、江崎の本のp. 84は「国外からの反革命に対しても、当初はチェカーが対応していた」と記して何とかつないでいるようだ。
 但し、外国やその組織の「策略」・「使嗾」による<国内での>反革命運動・人物ならば当然にチェカの監視等の権限の範囲になる。
 それはともかくとしても、p.81-p.82のチェカやジェルジンスキーに関する叙述はいったい何なのだろう。
 「コミンテルン」なるものの中に、江崎は当然にロシア・ソ連国内の「政治秘密警察」部門も含めることになる。全てが<ごちゃごちゃ>だ。
 また、ジェルジンスキーが強く関与することになったと江崎が書く「赤軍・情報部」とはどういう組織なのか。
 江崎道朗はトロツキーの主張として叙述する中で、p.84に「赤軍(ソ連共産党軍)参謀本部に情報部門を設置すべきだ」と彼は主張した、旨を記している。
 トロツキーが赤軍=「ソ連共産党軍」と理解しているはずはない。
 江崎に尋ねたいものだ。ソ連共産党には「軍」があり、ロシア革命後の国家であるロシア・社会主義共和国連邦やソ連には「軍隊」はなかったのか?
 いや,江崎道朗には、どうでもよいことなのだろう。
 社会主義ロシアもソ連もボルシェヴィキ・共産党もどうだってよいのだ、この人には。さらに、これらと「コミンテルン」の区別もまた、この人にはどうだってよいのだ。
 今回の冒頭に記したように、共産主義(者)=「コミンテルン」なのだ、江崎道朗にとっては。ああ、恥ずかしい。/つづく。

1761/三全体主義の共通性①-R・パイプス別著5章5節。

 Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995) の試訳のつづき。p.262-3.
 つぎの節の大部分にはさらに下の見出しが付いているので、原著にはないが、初めの部分にかりに「序説」という表題を付けておく。
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 第5節・三つの全体主義体制に共通する特質①-序説①。
 (序説)
 三つの全体主義体制は、いくつかの点で異なる。この相違については、いずれきちんと論述するだろう。
 しかしながら、それらを結合するのは何かは、それらを分離するものは何かよりもずっと重要だ。
 第一に、最も重要なのは、共通する敵があることだ。すなわち、複数政党システム、法と財産の尊重、平和と安定という理想をもつ、リベラルな民主政体(liberal democracy)。
 レーニン、ムッソリーニおよびヒトラーの「ブルジョア民主主義」と社会民主主義者に対する激しい非難は、完全に相互交換が可能だ。//
 共産主義と「ファシズム」の関係を分析するためには、「革命」とはその本性からして平等主義的(egalitarian)かつ国際主義的で、一方のナショナリストによる変革は本来的に反革命的だとの伝来的な考え方を正さなければなければならない。
 こうした考え方は、ヒトラーのような率直なナショナリストが革命的願望を持っているはずはないと信じて、最初に彼を支持したドイツの保守派が冒した過ちだ。(70)
 「反革命」という語は、1790年代のフランスの君主制主義者が本当にそう考えたように、革命を取り消して以前の状態(status quo ante)に戻そうとする運動についてだけ、適正に用いることができる。
 「革命」を現存する政治体制を、つづいて経済、社会構造および文化を、突然に転覆させることを意味すると定義するならば、この用語は同等に、反平等主義的なおよび外国人差別の大変革にも適用することができる。
  「革命的」という形容詞は、変化の内容ではなく、それが達成される態様-すなわち、突然にかつ暴力的に(violently)-を描写するものだ。
 したがって、左翼による革命を語るのと同様に右翼による革命を語るのは適切だ。
 この二つが共存できない敵として相互に対立しているということは、有権者大衆をめぐって競争することに由来し、方法または目標の不一致に由来するのではない。
  ヒトラーもムッソリーニも、自分を革命家だと思っていた。正しく(rightly)、そう考えた。
 ラウシュニンクは、国家社会主義の目標は、実際には、共産主義とアナキズムのいずれよりも革命的だ、と主張した。(71)//
  しかしおそらく、三つの全体主義運動の間の最も根本的な親近性(affinity)は、心理(psychology)の領域に横たわっている。
 共産主義、ファシズムおよび国家社会主義は、大衆の支持を獲得するために、そして民主主義的に選出される政府ではなく自分たちこそが民衆の本当の意思を表現しているという主張を強化するために、民衆の憤懣(resentments)-階級、人種、民族-を掻き立てて、利用した。
 これら三つは全て、憎悪(hate)という感情に訴えたのだ。//
 フランスのジャコバン派は、階級的憤懣の政治的潜在力を認識した最初のものだ。
 彼らはそれを利用して、貴族制主義者その他の革命の敵による恒常的な陰謀を手玉にとった。ジャコバン派は没落する直前に、間違いなく共産主義的な含意をもつ、私有の富を没収する法令案を作った。(72)
 マルクスが歴史の支配的な特質として階級闘争の理論を定式化したのは、フランス革命とその影響に関する研究からだった。
 彼の理論で、社会的な敵意(antagonism)は初めて道徳上の正当性を授けられた。ユダヤ教を自己破壊的なものと非難し、(怒りの外装をまとう)キリスト教を大罪の一つだと見なす憎悪(hatred)は、美徳に作り替えられた。
 しかし、憎悪は両刃の剣で、犠牲者たちは自己防衛のためにそれを是認した。
 19世紀の終わりにかけて、階級戦争のための社会主義的スローガンとして民族的および人種的憤懣を利用する教理が出現した。
 1902年の予言的書物、<憎悪のドクトリン>で、アナトール・ルロイ=ボーリュー(Anatole Leroy-Beaulieu)は、当時の左翼過激主義者と右翼過激主義者の間の親近性に注意を促し、両者の共謀性を予見した。それは、1917年のあとで現実になることになる。(73) //
 レーニンが富裕層、つまりブルジョア(the burzhui)に対する憤懣を都市の庶民や貧しい農民を結集させるために利用した、ということについて詳しく述べる必要はない。
 ムッソリーニは、階級闘争を「持てる」国家と「持たざる」国家の対立として再定式化した。
 ヒトラーは、階級闘争を人種や民族の間の対立、すなわち「アーリア人」のユダヤ人およびその言うユダヤ人によって支配されている民族との対立だと再解釈することによって、ムッソリーニの技巧に適応した。(*)
 ある初期の親ナツィの理論家は、現代世界の本当の対立は資本とそれに対する労働の間にではなく、世界的ユダヤ「帝国主義」とそれに対する人民(Volk)主権を基礎とする国家の間にある、ユダヤ民族が経済的に生き残る可能性を奪われて絶滅してのみこの対立は解消される、と論じた。(74)
 革命運動は、「右」と「左」のいずれの変種であれ、憎悪の対象を持たなければならない。抽象化を求めるよりも、見える敵に対抗するように大衆を駆り立てるのは、比較にならないほど容易だからだ。
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 (70) Hermann Rauschning, The Revolution of Nihilism (New York, 1939),p.55, p.74-75, p.105.
 (71) 同上、p.19。
 (72) Pierre Gaxotte, The French Revolution (London & New York, 1932), Chapter 12.
 (73) Anatole Leroy-Beaulieu, Les Doctrine de Haine (Paris,(1902)) 。リチャード・パイプス・ロシア革命p.136-7 を参照。
  (*) 階級戦争という考えが人種的な意味で再解釈される可能性は、すでに1924年に、ロシアのユダヤ人移住者、I・M・ビカーマン(Bikerman)が、ボルシェヴィキに親近的な同胞に対する警告として、指摘していた。
 Bikerman, Rossia i Evrei, Sbornik I (Berlin, 1924), p.59-p.60.
 「ペトルラの自由コサックあるいはデニーキンの志願兵はなぜ、全ての歴史を諸階級の闘争ではなく諸人種の闘争へと変える理論に従えなかったのか? なぜ、歴史の罪を正して、悪の根源があるとする人種を絶滅させることができなかったのか?
 略奪し、殺戮し、強姦する、こうした過剰は、伝統的に、同じ一つの旗のもとで、別の旗のもとでと同じように冒されることがあり得る」。
 (74) Gottfried Feder, Der dutsche Staat auf nationaler und sozialer Grundlage, 11th ed. (Muenchen, 1933).
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 段落の途中だが、こここで区切る。②へとつづく。

1760/ヒトラーと社会主義②-R・パイプス別著5章4節。

 Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995) の試訳のつづき。p.260-1。
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 第4節・ヒトラーと社会主義②。
 (冒頭の一部が前回と重複)
 この党は1918年に改称してドイツ国家社会主義労働党(DNSAP)と名乗り、政綱に反ユダヤ主義を追加し、退役軍人、個人店主、職業人を組織へと呼びよせた。
 (党名にある「労働」という言葉は「全ての働く者」を意味し、産業労働者のみではない。(61))
 ヒトラーが1919年に奪い取ったのは、この組織だった。
 ブラヒャー(Bracher)によると、こうだ。
 初期の党のイデオロギーは、『非理性的で暴力志向の政治イデオロギーの内部に、完全に革命的な中核部分を含んでいた。
 たんに反動的な体質を表現したものでは全くなかった。すなわち、労働者と労働組合主義者の世界が本源にあった。』(62)
 ナツィスは、労働者は共同体の柱石だと、そしてブルジョアジーは-伝統的貴族階級とともに-滅亡する階級だ、と宣言して、ドイツ労働者の社会主義的な伝統に訴えた。(63)
 同僚に自分は「社会主義者」だと語った(64)ヒトラーは、党に赤旗を採用させ、政権を取れば5月1日を国民の祝日にすると宣告した。
 ナツィ党の党員たちは、お互いに「同志」(Genossen)と呼び合うように命じられた。
 ヒトラーの党に関する考えは、レーニンのごとく、軍事組織、戦闘団(Kampfbund、「Combat League」)のそれだった。
 (「運動を支持する者は、運動の目標に合意することを宣言する者だ。
 党員は、その目標のために闘う者だけだ」。(65))   
 ヒトラーの究極の目的は、伝統的諸階層が廃止され、地位は個人的な英雄的資質(heroism)によって獲得されるような社会だった。(66)
 典型的に過激な流儀でもって、彼は、人間は彼自身を再生するものだと心に描いた。ラウシュニンクに、こう語った。
 「人は、神になりつつある。人は、作られつつある神だ」。(67)//
 ナツィスは当初は労働者を惹きつけるのにほとんど成功せず、党員たちの大多数は「プチ・ブル」〔小ブルジョアジー〕の出身だった。
 しかし、1920年代の終わり頃、その社会主義的な訴えが功を奏し始めた。
 1929-1930年に失業が発生したとき、労働者たちがひと塊になって(en masse、大量に)入党した。
 ナツィ党の記録文書によれば、1930年に、党員の28パーセントは産業労働者で成っていた。
 1934年に、その割合は32パーセントに達した。
 いずれの年にも、彼らはナツィ党の中で最大多数を占めるグループだった。(*)
 ナツィ党の党員たちがロシア共産党におけるそれと同じ責任を負うのではないとしても、誠実な(bona fide)労働者(全日勤務の党員となった元労働者は別)の割合は、ナツィ党(NSDAP)ではソヴィエト同盟の共産党におけるよりも、なんと予想に反して、高かった、と言える。//
 ヒトラーの全体主義政党のモデルは共産主義ロシアから借りたという証拠は、状況的な(circumstantial)ものだ。というのは、全く積極的に「マルクス主義者」への負い目を承認している一方で、彼は、共産主義ロシアから何ものかを借用したことを承認するのを完全に避けたからだ。
 一党国家という考えは、ヒトラーの心の中に、1920年代半ばには明らかに生じていた。1920年のカップ一揆(Kapp putsch)の失敗を省察し、戦術を変更して合法的に権力を掴もうと決心したときに。
 ヒトラー自身は、紀律ある階層的に組織された政党という考えは軍事組織から示唆された、と主張した。
 彼はまた、ムッソリーニから学んだことは積極的に認めることとなる。(68)
 しかし、その活動がドイツのプレスで広く知られていた共産党がヒトラーにも影響を与えなかった、というのはきわめて異様だ。明白な理由から、彼はその事実を認めるのは不可能だと分かっていたけれども。
 ヒトラーは、私的な会話では、つぎのことを認めることを厭わなかった。「レーニンとトロツキーおよび他のマルクス主義者の著作から革命の技巧を勉強(study)した」ということを。(+)
 彼によると、社会主義者から離脱して、「新しい」ものを始めた。社会主義者たちは-大胆な行動をすることのできない-「小者」だからとの理由で。
 これは、レーニンが社会民主党と決別してボルシェヴィキ党を設立した理由とは、大きく異なっている。//
 ローゼンベルクの支持者とゲッベルスやシュトラサーの支持者とが論争したとき、ヒトラーは最終的には前者の側に立った。
 ヒトラーにはドイツの投票者を怯えさせるユダヤ共産主義の脅威という妖怪が必要だったので、ソヴィエト・ロシアとの同盟はあるべくもなかった。
 しかし、このことは、彼自身の目的のために共産主義ロシアの中央志向の制度と実務を採用することを妨げはしなかった。//
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 (61) David Schoenbaum, Hitler's Social Revolution, p.17.
 (62) Bracher, Die deutsche Diktatur, p.59. 〔ドイツの独裁〕
 (63) Schoenbaum, Hitler's Social Revolution, p.48.
 (64) Alan Bullock, Hitler: A Study in Tyranny, rev. ed. (New York, 1974)、p.157.
 (65) The Impact of the Russian Revolution, 1917-1967 (London, 1967), p.340.
 (66) Rauschning, Hitler Speaks, p.48-p.49.
 (67) 同上、p.242.
 (*) Karl Bracher, Die deutsche Diktatur, 2ed. ed. (Cologne-Berlin〔ケルン・ベルリン〕, 1969), p.256.
 David Schoenbaum, Hitler's Social Revolution (New York & London, 1980)、p.28、p.36 は、少しばかり異なる様相を伝える。
 あるマルクス主義者の歴史家たちは、ナツィ党に加入したり投票したりする労働者を労働者階級の隊列から除外することによって、この厄介な事実を捨て去る。労働者たる地位は職業によってではなく「支配階級に対する闘争」によって決定される、との理由で。Timothy W. Mason, Sozialpolitik im Dritten Reich (Opladen, 1977), p.9. 〔第三帝国の社会政策〕
 (68) Schoenbaum, Hitler's Social Revolution, xiv.
 (+) Rauschning, Hitler Speaks (London, 1939), p.236.
 ヒトラーは1930年に、トロツキーが近年に出版した<わが人生>を読み、多くのことを学んだ、この著を「輝かしい(brilliant)」と称した、と驚く同僚に語った、と言われている。Konrad Heiden, Der Fuehrer (New York, 1944)、p.308。  
 しかしながら、ハイデン(Heiden)はこの情報の出所を記していない。
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 つぎの第5節の表題は、「三つの全体主義体制に共通する特質」。

1759/ヒトラーと社会主義①-R・パイプス別著5章4節。

 Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)の試訳のつづき。p.258~p.260.
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 第4節・ヒトラーと社会主義①。
 政治現象として言えば、ナチズムとはつぎの二つのことだった。政治過程に民衆が参加するという装いを与える大衆操作の技巧、ドイツ国家社会主義労働党が権力を独占して国家制度をその道具に変える統治のシステム。
 これら二つのいずれについても、その始源的およびボルシェヴィキ的な両者の意味でのマルクス主義の影響は明白だ。//
 青年ヒトラーが社会民主党はいかにして群衆を操縦しているかを綿密に研究した、ということが知られている。
 『ヒトラーは、社会民主党から大衆政党と大衆プロパガンダ〔虚偽宣伝〕に関する考え方を引き出した。
 彼は<我が闘争>に、ウィーンの労働者の大衆示威活動での行進で四列の絶えることのない隊列を凝視したときの印象を叙述している。
 「私はほとんど二時間、私の前にまっすぐにゆっくり進んでくるその巨大な龍のごとき人々を眺めながら、物を言えないまま立ちつくした」。』(*)
 ヒトラーは、このような観察から大衆の心理に関する彼の理論を発展させた。のちにそれを使用して、彼は目を見張る成功を遂げた。
 彼は、ラウシュニンクとの会話で、社会主義に対する自分の負い目(debt)をつぎのように認めている。
 『私は、認めるのを躊躇しないほど、多数のことをマルクス主義から学んだ。
 その退屈する社会理論や歴史の唯物論的理解を意味させているのではない。あるいはその馬鹿げた「限界効用」論(!)等々でもない。
 しかし、彼らの方法を学んだ。
 彼らと私自身との違いは、陳腐な商品売り(peddlers)や退屈な簿記係(penpushers)がおずおずと開始したことを、私は現実に実践した、ということだ。
 国家社会主義の全体は、それから始まった。
 労働者の体育クラブ、工場内の細胞、大衆デモ、大衆に理解しやすく書いた宣伝パンフレットを見ろ。
 政治闘争のためのこれらの新しい方法は全て、本質的にはマルクス主義に根源がある。
 私がしなければならなかったのは、これらの方法を奪い取って我々の目的に適合させることだ。
 私はただ、民主政体の枠の中で進展を実現しようとしたために社会民主主義が何度も失敗したことを、論理的に発展させなければならなかった。
 国家社会主義とは、民主主義秩序との馬鹿げたかつ人工的な絆を断ち切ることができていればマルクス主義がなっていたかもしれないものだ。』(58)
 この最後には、ボルシェヴィズムがしたもの、そしてボルシェヴィキがそうなったもの、と追記されてよい。(+)
 共産主義のモデルをナツィス運動へと送り込む一つの交信手段は、「民族的(national)ボルシェヴィキ」として知られる(++)、ヒトラーに跪いている左翼との間の右翼知識人のそれだった。
 彼らの主要な理論家、ヨゼフ・ゲッベルス(Joseph Goebbels)とオットー・シュトラサー(Otto Strasser)は、ロシアでのボルシェヴィキの成功に大きな感銘を受けた。そして、ソヴェト・ロシアがその経済を建設するのをドイツが助けて、その見返りにフランスとイギリスに対抗する政治的支援を得ることを望んだ。
 彼らは、モスクワは国際的なユダヤ人の陰謀の司令塔だとの、ヒトラーが採用したローゼンベルクの論調に、共産主義は隠されたロシアの伝統的民族主義の表むきの顔(facade)だ、と反応した。
 『彼らは、世界革命と語り、ロシアのことを意味させている』。(**)
 しかし、「民族的ボルシェヴィキ」は、共産主義ロシアとの協働以上のことを願った。すなわち、政治的権力を集中し、対抗する政党を絶滅させ、自由市場を規制することによって、ロシアの統治システムをドイツが採用することを望んだ。
 ゲッベルスとシュトラサーは、1925年にナツィの日刊紙である Voelkischer Beobachter に、「社会主義独裁(socialist dictatorship)」の導入だけが混沌からドイツを救い出すことができる、と主張した。
 ゲッベルスはこう書いた。-『レーニンは、マルクスを犠牲にした。その代わりに、ロシアに自由を与えた』。(59)
 彼自身のナツィ党についてゲッベルスは、1929年に、「革命的社会主義者」の党だ、と書いた。(60)//
 ヒトラーは、こうしたイデオロギーを拒んだ。しかし、ドイツの労働者を社会民主党から離脱させるために社会主義的スローガンを用いるという範囲では利用した。
 ナツィ党の名にある「社会主義」および「労働」という形容句は、たんに人気のある言葉を詐欺的に使用したものではない。
 この党は、この世紀の初めの年代にチェコ人出稼ぎ労働者と競争するためにボヘミアで形成されたドイツ人労働者の団体から、成長した。
 ドイツ労働党(Deutsche Arbeiter Partei)、この組織はもともとはこう称していたのだが、この党の綱領は、社会主義、反資本主義および反聖職者主義をドイツ民族主義(nationalism)と結びつけたものだった。
 ドイツ労働党は、1918年に改称してドイツ国家社会主義労働党(DNSAP)と名乗った。
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 (*) Alan Bullock, Hitler: A Study in Tyranny, rev. ed. (New York, 1974)、p.44.
 1919-20年の冬に社会民主党の演説を聴く群衆の中のヒトラーを撮した写真が、Joachim Fest, Hitler (New York, 1974) の144~145頁の間に再掲されている。
 (58) Rauschning, Hitler Speaks, p.185.
 (+) ヒトラーは1941年月の演説で、率直にこう述べた-「根本的には(basically)、国家社会主義はマルクス主義と同一のものだ(the same)」。
 The Bulletin of International News (London), XVIII, No.5 (1941年3月8日)、p.269.
 (++) この用語は、1919年にラデックによって、侮蔑的な意味で作られた。
 この傍流的であっても興味深い運動に関する最良の研究書は、Otto-Ernst Schueddekopf, Linke Leute von Rechts (Stuttgart, 1960) 〔右からの左の者たち〕だ。
 (**) Schueddekopf, Linke Leute, p.87.
 共産主義は本当はロシアの民族的利益を表現するものだとの考えは、N. Ustrianov および1920年代初頭のロシア移住者のいわゆる「Smena Vekh」運動の理論家から始まる。同上、p.139 を見よ。
  (59) 以下からの引用。Max H. Kele, Nazis and Workers (Chapel Hill, N.C., 1972)、p.93.
 (60) David Schoenbaum, Hitler's Social Revolution (New York & London, 1980)、p.25.
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 段落の途中だが、ここで区切る。②へとつづく。

1752/スターリニズムの諸段階②-L・コワコフスキ著1章2節。

 試訳の前回のつづき。分冊版第三巻、p.8-p.9。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /第三巻=3.The Breakdown.

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 第2節・スターリニズムの諸段階②。
 一方では、コミンテルンが、数年のうちにソヴィエトの外交政策と諜報の装置へと変質した。
 コミンテルンの政策は、適正であるかを問わず、国際状勢に関するモスクワの評価に合致するように揺れ動き、変化した。
 しかし、この変化は、イデオロギー、教理、あるいは「左翼」と「右翼」の違いとは、何の関係もなかった。
 例えば、ソヴィエト同盟の蒋介石やヒトラーとの協定、スターリンによるポーランドの共産主義者の虐殺、あるいはスペイン内戦へのソヴィエトの関与は、マルクス主義と合致するか、「左翼」または「右翼」政策を示すものだった。
 これら全ての動きは、ソヴィエト国家をどの程度強くするか、どの程度その影響力を増大させるか、に照らして判断することができる。しかし、それらを守るために付けられたいかなるイデオロギー上の根拠も、目的のために案出されたもので、イデオロギーの歴史上の意味はなかった。ソヴィエト国家の<存在理由(raison d'etat)>のための装置という役割を、いかに完全に辱めたかを示したこと以外には。//
 このように叙述したが、我々は、レーニン死後のソヴィエト同盟の歴史を三つの時期に区分してよい。
 第一は1924年から1929年で、ネップの時期だ。
 この時期には、私的商取引のかなりの自由があった。
 党の外にはもはや政治生活は存在しなかったが、指導者層の内部では純粋な論争と対立があった。
 文化は公的に統御されていたが、マルクス主義および政治的服従という制約の範囲内では、意見や討論の異なる諸傾向が許されていた。
 「真の(true)」マルクス主義の性格に関する討議は、まだ可能だった。
 一人の人物の独裁は、まだ制度化されていなかった。そして、社会のかなりの部分-農民、あらゆる種類の「ネップマン」-は、経済の観点からすると、まだ完全には国家に依存していなかった。
 第二の時期は、1930年から1953年のスターリンの死までで、個人的な専制、ほとんど完璧な市民社会の絶滅、恣意的な公的指示への文化の服従、そして哲学とイデオロギーの国家への編入、を特質とする。
 第三の時期は1953年から現在〔秋月注・この著刊行は1976年〕に至るまでで、我々が適正に考察すべき、それ自身の特質をもつ。
 どの特定のボルシェヴィキ指導者が権力をもつかは、一般的に言って、大して重要ではない。
 トロツキストは、むろんトロツキー自身は、彼が権力から排除されたことが歴史的な転換点だったと考える。
 しかし、これに同意できる根拠はないし、我々が見るだろうように、「トロツキズム(トロツキー主義)」なるものは存在しておらず、これはスターリンが考案した、空想の産物だった。
 スターリンとトロツキーの間の意見不一致は、現実に、ある程度まで存在していた。しかしそれは、個人的権力を目ざす闘争によって粗大に誇張されたもので、決して、二つの独立した、明瞭な理論にまで達するものではなかった。
 このことは、ジノヴィエフとトロツキーの間の論争についてもっと本当のことであり、のちのジノヴィエフとトロツキー対スターリンの対立についてもそうだった。
 ブハーリンおよび「右翼偏向者」とのスターリンの対立はより実質的だったが、それもなお、原理に関する論争ではなく、手段と、それを実行に移す行程表に関する論争にすぎなかった。
 1920年代の工業化に関する論議にはたしかに、工業と農業に関する実際的な決定に関して、したがって数百万人のソヴィエト民衆の生活に関して、大きな重要性があった。しかし、根本的な教理上の論争だと、あるいはマルクス主義またはレーニン主義の「正しい(correct)」解釈をめぐるものだと理解するのは、大袈裟すぎるだろう。
 全てのボルシェヴィキ指導者たちは、例外なく、問題に対する態度を急進的に変更したのであって、理論が明瞭に一体になったものだと、あるいは基本的なマルクス主義の教理の諸変形だと、トロツキー主義、スターリニズム、あるいはブハーリン主義を語るのは、無意味だ。
 (この問題に関して、イデオロギーに関する歴史家は、それ自体は二次的な、理解の仕方に関心をもつ。彼には、数百万の民衆の運命よりも教理上の立場の方がもっと重要なのだ。
 これはしかし、客観的な重要性のある問題ではなく、たんに職業上の関心物にすぎない。) 
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 第2節は終わり。

1750/スターリニズムの諸段階①-L・コワコフスキ著1章2節。

 試訳の前回のつづき。分冊版第三巻、p.5-p.8。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /第三巻=3.The Breakdown.

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 第2節・スターリニズムの諸段階①。
 全ての時代を諸段階に分かつのは、ソヴィエト歴史学者の一つの熱狂心(マニア、mania)だ。
 しかし、とくに境界の画定がイデオロギー上の根拠にもとづいている場合には、その手続をとるのは正当なことだ。//
 スターリニズムはたんにソヴィエトのではなく世界的な現象だったので、その多様な姿は、ロシアの国内政治や党派的対立の観点からだけではなく、コミンテルンおよび国際的ボルシェヴィズムの観点からも考察しなければならない。
 しかしながら、各時期を相互に関連づけること、したがってまた、その術語方法には、困難がつきまとう。
 トロツキストや元共産党員は、ソヴィエト史を「左翼」段階と「右翼」段階に区別する習癖がある。
 1917年直後の、内戦と世界革命の希望で占められた時期は「左翼主義」だとされ、世界全体での「資本主義の一時的な安定」を党が承認したネップ(N.E.P)という「右翼主義」の時期が続くとされる。
 そして、1928-29年の「左翼への揺れ(swing)」が到来し、党はこの安定は終わったと宣言する。
 「革命の潮目」がもう一度始まり、社会民主主義は「社会ファシズム」だとして非難され、闘争相手になる。そして、ロシアは、民衆の集団化と強制的産業化を視ることになった。
 この段階は、ファシズムに対する人民戦線のスローガンのもとで「右翼主義」政策が採用された1935年に終わった、と考えられている。
 これらの連続した変化は、ロシアの指導者層の間の党派的かつ個人的な内部闘争と関連していた。
 スターリン、ジノヴェフおよびカーメネフによる支配は、トロツキーの政治的排除へと至った。
 ついで、ジノヴェフとカーメネフは、ブハーリン、リュコフおよびトムスキーのために追放された。
 そして1929年にブハーリンが追い出され、ボルシェヴィキ党の中での有効な意見不一致は終わりを迎えた。//
 しかしながら、このような年代史的叙述は、「左翼」と「右翼」という語の曖昧でかつ恣意的な用い方を別に措くとしてすら、困難さに満ちている。
 概念用法に関しては、「社会ファシズム」のスローガンはなぜ「左翼」で、蒋介石(Chiang Kai-shek)との妥協の試みはなぜ「右翼」なのかは明確でない。
 あるいは、大規模の農民迫害がなぜ「左翼」で、政治目的のための経済的手段はなぜ「右翼」なのか。 
 もちろん、政治がテロルをより多く含んでいればいるだけ「左翼」的だということが前提にある、と言うことはできる。-この原理的考え方は今日でも頻繁に用いられており、しかも共産主義者の公刊物においてのみではない。そして、「左翼主義」という伝統的な観念によって何を意味させているのかを理解するのは困難だ。
 この点はさておき、コミンテルンの政策の変化とソヴィエト国内の政治やイデオロギーの異なる局面との間にいかなる相互連関があったのかは、明瞭でない。
 ヨーロッパの社会民主主義はファシズムの一部門だとのいわゆる「左翼主義者」の主張は、ジノヴィエフによって案出され、遅くともすでに1924年には通用していた。
 社会民主主義に対するコミンテルンの闘いは、ロシア農業の強制的集団化が考案されるよりもかなり前、1927年に強化された。
社会民主主義に対する反対運動を中止してそれとの同盟を繕い直す不細工な努力がなされた1935年には、ソヴィエト同盟ではすでに民衆の政治的抑圧の波が存在しており、新しい、より怖ろしい抑圧がまさに始まろうとしていた。//
 要するに、「左翼」や「右翼」という技巧的標識である用語によってソヴィエト同盟の歴史を提示するのは、意味のないことだ。それは、ある場合には、馬鹿げた諸結論を導く。
 政治局(Politboro)の変化を歴史的転換点だと解釈するのも、適切ではない。
 レーニンの死後の時期に、一定の政治的およびイデオロギー的特質が、着実により顕著になった。他のものは、状勢次第での重要なことに揺れ動いている間に。
 体制の全体主義的性格-すなわち、市民社会の破壊の進行、社会生活の全態様の国家による統合-は、1924年から1953年までの間、ほとんど遮られることなく増大した。そして、確実に、私的所有と取引への譲歩にかかわらず、ネップよって縮小することはなかった。
 我々が見たように、ネップ(N.E.P)は、軍隊と警察という手段によって経済全体を作動させるという政策からの退却であり、経済の破滅が切迫しているとの見込みによって余儀なくされたものだ。
 しかし、政治的対抗者に対するテロルの使用、党内部での厳正さや脅迫の増大、哲学、文筆、芸術そして科学に対する自立性の抑圧と強制の増大-これらは全て、ネップの全期間を通じて深刻化し続けた。
 こうした観点からは、1930年代は、レーニンが生きている間に彼の指令のもとで始まった過程を強化し、高めたものにすぎなかった。
 無数の犠牲者を出した農業の集団化は、まさしく、転換点だった。
 しかしこのことは、体制の性格の変化、あるいは「左翼への揺れ」をもたらしたがゆえにではない。そうではなく、それ〔農業の集団化〕が決定的な重要性のある一つの部門で、根本的な政治的かつ経済的な全体主義の原理を強要したのが理由だ。
 農業集団化は、ロシアのきわめて多数の社会階層から財産を完全に剥奪し、農業への国家統制をひとたび全てのために確立し、何らかの程度で国家から自立していた共同体(community)の最後の部門を絶滅させ、無制限の権力をもつ東方の総督カルト(oriental cult of the satrap)の基礎を築いた。そして、飢饉、民衆の虐殺、数百万の死という手段によって、民衆の精神(spirit)を破壊し、抵抗の最後の痕跡を消去した。
 これは、疑いなく、ソヴィエト同盟の歴史上の画期的なこと(milestone)だった。しかし、それは、その根本的な原理、すなわち国家が課したり規制したりしていない全ての形態の政治的、経済的および文化的生活の廃絶、を継続するもの、あるいは拡張するものだつた。//
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 ②へとつづく。
ギャラリー
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  • 1920/L・コワコフスキ著第三巻第四章第5節。
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  • 1916/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑳完。
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  • 1901/Leszek Kolakowski-初代クルーゲ賞受賞者。
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  • 1900/Leszek Kolakowski の写真。
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  • 1811/リチャード・パイプス逝去。
  • 1811/リチャード・パイプス逝去。
  • 1809/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑧。
  • 1777/スターリン・初期から権力へ-L・コワコフスキ著3巻1章3節。
  • 1767/三全体主義の共通性⑥-R・パイプス別著5章5節。
  • 1734/独裁とトロツキー②-L・コワコフスキ著18章7節。
  • 1723/2017年秋-兵庫県西脇市/大島みち子の故郷。
  • 1723/2017年秋-兵庫県西脇市/大島みち子の故郷。
  • 1723/2017年秋-兵庫県西脇市/大島みち子の故郷。
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