秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

共産主義・社会主義

2628/L・コワコフスキ誕生80年記念雑誌⑥。

 全ての別れのために—今日に読む〈マルクス主義の主要潮流〉/トニー·ジャット。(Andreas Simon dos Santos により英語から独語に翻訳。)
 つづき。
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 第一章④。
 (14) 精神の歪曲と身体の責苦を目的とするこのような皮肉な弁証法の利用を、西側のマルクス主義講釈者たちは、通常のこととして、見逃した。彼らは過去の理想または未来の展望の黙考に沈潜して、とくに彼らがかつての犠牲者や目撃者だった場合には、ソヴィエトの現在に関する不愉快な情報に動かされないままでいることを好んだ。(注12)
 Kolakowski がこのような者たちと遭遇したことが、疑いなく、「西側の」マルクス主義と彼の進歩的な同調者の大部分に対する彼の痛烈な軽蔑を説明する。
 「教養のある人々にマルクス主義が人気のある理由の一つは、マルクス主義は単純な態様ではきわめて理解し易い、ということだ。Sartre ですら、マルクス主義者は誤っており、(マルクス主義は)あれこれと研究し終えることなく、歴史と経済の総体に対処するのを可能にする道具だった、ということに気づいていた。」(注13)
 このような遭遇は、ずっと以前に出版された論考集〈My Correct Views on Everything〉という嫌味溢れる表題となった小論の動機となったものでもあった。(注14)
 イギリスの歴史家のEdward Palmer Thompson は1973年の〈The Socialist Register〉に、Leszek Kolakowski に宛てた公開書簡を掲載した。
 そこで彼は、かつてのマルクス主義者に向かって、若いときのマルクス主義修正主義からの転向によって擁護者を見捨てたと、叱りつけた。
 この公開の書簡が際立って示したのは、Thompson の自己満足と地域性だった。すなわち、彼は饒舌で(書簡は100頁に及んだ)、慇懃無礼で、偽善的だった。
 Thompson は、威張った扇動的な調子で、亡命したKolakowski の鼻の前に修辞の指先を突きつけて彼を払い落とし、彼を—その思慮深くて進歩的な公刊物を斜めに一瞥しながら—非難する。
 「我々二人は、1956年に共産主義修正主義の見解で一致した。…我々はともに、スターリン主義批判の先頭の立場から…を経てマルクス主義修正主義の態度へと至った。
 時代を経て、あなたとあなたが支持した物事は、我々の最も内的な思考について現在のようになった。」
 Thompson は、イギリスの地方の居心地よい安全な所から、こう示唆した。
 あなたは、どのようにしてあえて我々を裏切ることができるのか? 共産主義ポーランドでのあなたには不都合な体験でもって、我々に共通するマルクス主義の理想を覆い隠すことによって。//
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 (15) Kolakowski の反論文である〈My Correct Views on Everything〉はおそらく、政治的議論の歴史上、最も良く書かれた知識人の解体作業だ。すなわち、これを読んだあとでは誰も二度と、Edward Palmer Thompson を真面目に受け止めないだろう。
 この小論は、マルクス主義の歴史と体験によって「東側」と「西側」の知識人の間にあることが明らかになった、かつ今日まで存在している、大きい道徳的な溝を解説するものだった(そして症候として例証するものだった)。
 Kolakowski は情け容赦なく、Thompson の懸命の利己的な努力を解剖し、分析した。その努力とは、マルクス主義の欠陥から社会主義を、共産主義の拒絶からマルクス主義を、そして彼自身の犯罪から共産主義を救おうとするものだった。—全ては、一つの理想の名のもとに行なわれた。表面的には「唯物論的」現実に根ざし、信頼性もそれに依存していて、決して現実世界の経験や人間の不可能性に言及されることがない理想。
 Kolakowski はThompson に向かってこう書く。
 「あなたは、『システム』という概念で思考するのは傑出した成果をもたらす、と言う。
 私も、確かにそう思う。—たんに傑出しているばかりか不可思議な成果をだ、という点で留保はするが。
 人類の全ての諸問題を、それは一撃のもとですぐに解決するのだ。」
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 (16) 人類の諸問題を一撃のもとで解決する。現在を説明すると同時に将来を保障することのできる、全てを包括する理論を追い求める。
 現実の体験の苛立つような複雑さと諸矛盾を回避するために、知性的または歴史的な「システム」という松葉杖に逃げ場を求める。
 腐敗した果実から、想念または理想の「純粋な」種子を救い取る。
 このような近道は、永遠の魅力をもつが、マルクス主義者(または左翼)の独占物ではない。
 少なくともこのような人間の愚昧さのマルクス主義という変種から別離することだけは、至極当然のことだ。
 Kolakowski のようなかつてのマルクス主義者の洗練された洞察とThompson のような「西側」マルクス主義者の独善的な偏狭さのあいだで、歴史の審判自体について完全に沈黙するならば、問題は自明のこととして処理されたかのように思われるだろう。
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 注記。 
 (12) このような目撃証言には信頼性がないという主題に、西側の進歩主義者によるスターリン主義の釈明は注目した。
 全く同様に、アメリカのソヴィエト学者は、東方圏からの逃亡者または移住者による証拠物提出や証言を、無視した。—あまりにも個人的体験で、一致していないため、概観することを歪曲し、客観的に分析することを妨害する。
 (13) 「社会主義に残るものは何か ?」((注08)を見よ)。ポーランドの人々その他の「東方圏人」は、迎合的な西側の進歩主義者に対するKolakowski の嘲弄に共感していた。詩人のAntoni Slonimski は1976年に、Jean-Paul Sartre が20年前に、アメリカに対抗して「社会主義陣営」を弱めないために、社会主義リアリズムを放棄しないよう、ソヴィエト圏の文筆家たちを激励したことを、思い起こさせた。「彼にとっての自由、我々にとっての全ての制約!」。「L'Ordre regne a Varsovie」〈Kultura, 3〉(1976), S.26f. 所収、Marci Shore,〈Caviar and Ashes: ワルシャワ世代の生とマルクス主義の死, 1918-1968〉(2006), S.362 による引用、を参照。
 (14) 例えば、Leszek Kolakowski,〈Chretiens sans eglise. La conscience religieuse et le lien confessional au XVIIe siecle〉(1969)。同〈God Owes Us Nothing. A Brief Remark on Pascal's Religion and on the Sprit of Jansenism〉(1995)。並びに、論文集〈My Correct Views on Everything〉,South Bend, Indiana (2005)、とくに、George Urban との対話、「歴史における悪魔」と小論「Concern with God in an Apparently Godless Era」。ドイツ語では、Hans Rössner(編),〈Der nahe und der ferne Gott. Nichttheologische Texte zur Gottesfrage im 20. Jahrhundert〉,序言 (1981)で出版された。
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 第一章〔表題なし〕、終わり。第二章へつづく。

2627/L・コワコフスキ誕生80年記念雑誌⑤。

 全ての別れのために—今日に読む〈マルクス主義の主要潮流〉/トニー·ジャット。(Andreas Simon dos Santos により英語から独語に翻訳。)
 つづき。
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 第一章③。
 (08) マルクスをスターリン(およびレーニン)による「歪曲」から「救い出す」ために、三世代の西側のマルクス主義者たちは果敢に、マルクス主義と共産主義を控えめに結合しようとした。—そう、Kolakowski は明確に述べる。
 20世紀のロシアまたは中国の歴史について、ヴィクトリア朝のロンドンで生活したドイツ人著作者のKarl Marx (注8)に責任があるとは、ほとんど誰も、何らかの思想的に理解可能なやり方では主張しないだろう。
 ゆえに、創設者たちの真の意図を探り、Marx とEngels が彼らの名前で始まるはずの将来の負い目に関して考えていたことを解明しようとするマルクス主義純粋主義者の数十年間の努力は、いく分か時代遅れで、無意味だった。
 それでも、神聖な文献の真実に立ち戻ろうとする絶えず繰り返された訴えは、Kolakowski が特別の注目を向けた、マルクス主義の党派的な次元の大きさを示していた。
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 (09) やはりなおも、教義としてのマルクス主義は、それから生まれた政治運動やシステムの歴史と分離することはできない。
 実際には、Marx とEngels の思想には決定論的中核がある。人間が何ら力を奮うことのできない諸論拠によって、事物は「最終的分析では」そうであるべきであるようになっている、という主張だ。
 この強固な主張は、古きヘーゲルを「転倒させて」、争いの余地なき物質的根源(階級闘争、資本主義的発展の法則)に歴史の解釈をもとづかせようとするMarx の望みに由来していた。
 プレハノフ、レーニンや彼らの後継者たちが歴史的「必然性」の構築物全体とそれを導く実施機構を依りかからせることができたのは、この安逸な認識論的擁壁だった。
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 (10) さらには、プロレタリアートは被搾取階級という特別の役割—彼らの解放は全人類の解放の号砲となる—にもとづいて、歴史の最終目的を特権的に洞察することができる。そしてこの見識は、プロレタリアートの利益を具現化すると主張する独裁党のもとへプロレタリアートの利益が従属することで生まれる、共産主義の成果と密接な関係がある。
 マルクス的分析を共産主義独裁に結びつけたこの論理的足枷がいかに強固だったかは、—Michail Bakunin からRosa Luxemburg までの—多くの観察者や批評家たちに委ねよう。彼らは、レーニンがその勝利の途を歩み始めるべくペテルブルクのフィンランド駅近くへ到着するずっと前に、共産主義的全体主義を予見し、警告していた。
 もちろん、マルクス主義は異なる方向へと展開することもあり得ただろうし、あるいはどこかで終焉することもあり得た。
 しかし、「レーニンによるマルクス主義の見方は、唯一の可能なものではなかったとしても、きわめて尤もらしいものだった」。(注9)
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 (11) 当然ながら、マルクスもその承継者たちも、産業プロレタリアートによる資本主義の打倒を説く教理は後進的で広く農民的な社会でも有効だろうとは、意図しなかったし、感じてもいなかった。
 だが、この逆説はKolakowski には、マルクス主義の信仰体系としての力を強く意識させるものだった。すなわち、レーニンやその支持者たちが自分たちが勝利する不可避の必然性に固執しなかったならば(そして、それを理論的に正当化しなかったならば)、彼らの努力は決して成功しなかっただろう。
 同様にまた、彼らは数百万の外部の崇拝者たちにとって、確信を与える模範者にもなれなかっただろう。
 レーニンを封印列車でロシアに行かせることでドイツ政府が容易にした機会主義的な蜂起を、「不可避の」革命に変えること、これには単純な戦術的天才性ではなく、イデオロギー的信念上の包括的な実践が必要だった。
 Kolakowski は、確実に正しかった。政治的マルクス主義は、何よりも先ず、世俗的宗教なのだった。//
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 (12) 〈主要潮流〉は、唯一の傑出したマルクス主義に関する叙述ではない。だがそれはしかし、群を抜いて、意欲的だった。(注10)
 この著をとりわけ特徴づけるものは、Kolakowski のポーランド的視座だ。
 一つの終末論だとする彼のマルクス主義解釈を強調すれば、このことは十分に明らかになる。—「ヨーロッパの歴史全体を覆う黙示録的予想の、現代的な変種の一つ」。
 そしてそれは彼に、妥協なき道徳的な、そうして宗教的な、20世紀の歴史の見方を生み出した。
 「悪魔は、我々の経験の一部だ。
 我々の世代は、それを十分に見て、きわめて深刻な教訓を引き出した。
 私は、悪は生まれるものではなく、美徳の不在や歪曲あるいは劣化(あるいはその意味において美徳と対極にある全ての何か)ではなく、執拗な、解消することのできない事実だ、と主張した。」(注11)
 西側のどのマルクス主義観察者も、いかに批判的であろうとも、このようには語らなかった。//
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 (13) Kolakowski は、マルクス主義だけではなく共産主義のもとで生きた者としても書く。
 彼は、一つの政治的生活様式における知性的な理論からのマルクス主義の変容の生き証人だ。
 こうして内部で観察され、体験されたマルクス主義は、共産主義と区別することがほとんど困難だ。—結局は、最も重要な実践的帰結であったばかりか、その唯一の結果だった。
 自由を抑圧するという世俗的な目的のためにマルクス主義の諸範疇が日常的に利用されて—そのために権力を握る共産主義者によってマルクス主義がとくに用いられて—、時代の経過とともに理論の魅力自体が損なわれた。//
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 注記
 (08) 〈主要潮流〉はマルクスを、彼の精神的風景を支配したドイツ哲学にしっかりと位置づけた。社会理論家としてのマルクスは、簡単に扱われている。経済学に対するマルクスの寄与については、—労働価値説であれ、先進資本主義の利潤率の低下傾向の予見であれ—Kolakowski はほとんど注意を払っていない。
 マルクスですら自らの経済的研究の結果に関して不満だったことを考えれば(その理由の一つは〈資本論〉が未完のままだったことだ)、これは慈悲深かったと言うべきだろう。つまり、マルクスの経済理論の予見能力は、とっくに左翼によってすら否認されていた。少なくとも、Joseph A. Schumpeter の〈資本主義、社会主義および民主主義〉(Bern, 1946年)以降は。その20年後に、Paul Samuelson は、Karl Marx はせいぜいのところ「二流のリカード後継者」だと慇懃無礼に語った。
 (09) Kolakowski「歴史の中の悪魔」,〈Encounter〉(1981年1月)所収。〈My Correct Views on Everything〉前掲書, S.125に再録。
 (10) 最良の一巻本のマルクス主義研究書、素晴らしく凝縮されているが人間性や思想とともに政治と社会史を包括する研究書は、依然としてGeorge Lichtheim の〈マルクス主義〉のままだ。1961年にLondonで出版された〈歴史的、批判的研究書〉だ。
 マルクス自身に関しては、私には、70年代の二つのきわめて異なる伝記が、最良の現代的な描写になっている。すなわち、David McLellan,〈Karl Marx, 人生と著作〉1974年と、Jerrold Seigel,〈Marx の運命. 人生の造形〉1978年。
 これらの叙述は、だが、Isaiah Berlin の注目すべき小論〈Karl Marx〉によって補完される必要がある。これは1939年に英語で出版され、1968年にドイツ語に翻訳された。
 (11) 「歴史における悪魔」,〈My Correct Views on Everything〉上掲書所収, S.133.
 Kolakowski は同じ講演で、政治的メシア主義の終末論的構造を簡単にもう一度強調する。すなわち、地獄への転落、過去の罪悪との絶対的な決別、新しい時代の到来。だが、神が不在であるため、このような所業は本来的に矛盾していると非難され得る。知識だと誤称する宗教は、実を結ばない。
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 つづく。
 

2625/L・コワコフスキ誕生80年記念雑誌③。

 Tony Judt の論稿から、試訳を始める。
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 全ての別れのために—今日に読む〈マルクス主義の主要潮流〉/トニー·ジャット。
 (Andreas Simon dos Santos により英語から独語に翻訳。)
 第一章①
 (01) Leszek Kolakowski は、ポーランド出身の哲学者だ。
 だが、このような性格づけは、全く適切ではない—または、十分ではない—と思える。
 Czeslaw Milosz やその前のその他の人々においてそうだったように、Kolakowski の知的および政治的な軌跡は、彼の反対派的立場によって明確になり得る。伝統的なポーランドの文化の深く根づいた経緯、すなわち聖職者主義、差別主義、反ユダヤ主義によって特徴づけられるものに対する立場によって。
 1968年に出国を強いられたのち、Kolakowski は、彼の故郷に戻ることも、そこで自分の著作を出版することもできなかった。
 1968年と1981年のあいだ、彼の名前はポーランドの検索対象になることが禁じられた著者だった。そして、彼はそのあいだに、今日に彼が最も知られている著作の大部分を執筆し、外国で公にした。
 亡命中のKolakowski は、ほとんどをイギリスで過ごした。彼は1970年以降、オクスフォードのAll Souls College の研究員だ。
 しかし、会話の際に言っていたように、イギリスは島であり、オクスフォードはイギリスの中の島であり、All Souls(学生のいないCollege)はオクスフォードの中の島だった、そして、Leszek Kolakowski 博士は、All Souls の中の島、四重に囲まれた島だった。(注1)
 イギリスの文化生活は、ロシアや中央ヨーロッパからの移民知識人たちに対して、かつては一つの場所を提供した。—Ludwig Wittgenstein、Arthur Koestler、あるいはIsaiah Berlin を想起することができる。
 だが、かつてのマルクス主義的カトリックのポーランド出身哲学者は、さらに異国者的で、彼の国際的な名声にもかかわらず、イギリスではほとんど知られていなかった。そして、驚くべきほどに低い評価を受けていた。//
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 (02) しかし、他の国では、Kolakowski は有名だった。
 彼の世代の多くの中央ヨーロッパの学者たちと同様に、彼は複数の言語を用い—自宅でのポーランド語や英語と同じようにロシア語、フランス語、ドイツ語を使った—、とくにイタリア、ドイツ、フランスで栄誉と賞を受けた。 
 Kolakowski がシカゴ大学の社会思想委員会で4年間教育したアメリカ合衆国では、彼の業績は惜しみない評価に恵まれた。その絶頂は2003年で、連邦議会図書館の第一回のJohn Kluge 賞が与えられた。—この賞は、ノーベル賞の対象になっていない学問分野(とくに思想科学)での生涯にわたる研究に対して付与されたものだった。
 しかし、一度ならずパリにいるときが最も落ち着くと述べていたKolakowski は、イギリス人以上にアメリカ人ではなかった。
 おそらく、20世紀の学者共和国の最後の輝かしい市民だと彼を叙述するのが、最も適切だろう。//
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 (03) 彼の本当の故郷のほとんどで、Leszek Kolakowski は、とくにその著名な三巻のマルクス主義の歴史書、〈マルクス主義の主要潮流〉で(そして多くのところではそれだけで)知られている。
 1976年にポーランド語で(パリで)出版されたこの著作は、1年後にドイツで、2年後にイギリスで出版され、現在のアメリカ合衆国では一巻本の書物として再発行されている。(注2)
 この著作は、疑いなく、最大の高い評価を得ており、現代の人文学の記念碑的傑作だ。
 もちろん、Kolakowski の著作の中でのこの作品の卓越さには一定の皮肉がなくはないが、この著者は「マルクス学者」(Marxologe)では決してない。
 彼は、哲学者であり、哲学歴史家であり、カトリック思想家だ。
 彼は初期キリスト教の教派と異端派の研究を行ない、ヨーロッパの宗教と哲学の歴史に最後の四半世紀の大部分を捧げた。これは、最良の哲学的神学的研究と称し得るものだろう。//
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 (04) 戦後ポーランドの同世代の中での洗練されたマルクス主義哲学者という高名から始まる、1968年の離国までのKolakowski の「マルクス主義」段階は、実際は全く短いもので、この時期の大部分で、彼はすでに異端者だった。
 すでに1954年、彼が27歳のときに、「マルクス=レーニン主義からの逸脱」を非難されていた。
 彼は1966年に、Posenでの労働者抗議運動(「ポーランドの十月」)10周年記念日のために、有名な批判的講演をワルシャワ大学で行ない、党指導者のWladyslaw Gomulka から公式に「いわゆる修正主義運動の主要イデオローグ」と咎められた。
 Kolakowski が講座を剥奪されたとき、その理由とされたのは、「国の公式の方向に逆らって」歩むという「若者の考え方」を作り出している、ということだった。
 西側に到着したとき、彼は、(我々には今でもそう思えるように、贔屓の者たちを困惑させることには)もはやマルクス主義者ではなかった。そして、そのあとで彼は、最近の半世紀のマルクス主義に関する最も重要な書物を執筆し、二年後に、ポーランドのある研究者が奥ゆかしく表現したところでは、「この主題に関するなおもささやかな関心だけ」を掻き集めた。(注3)//
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 注記
 (注01) Leszek Kolakowski とDanny Postel の対話、〈追放、哲学、未知の深淵での不安定なよろめきについて〉。〈Daedaulus〉2005年夏号所収、S.82.
 (注02) Leszek Kolakowski, 〈Glowne Nurty Markzmu〉1976, Paris. ドイツ語版、〈マルクス主義の主要潮流、成立・発展・瓦解〉1977-79, München. 再版、1981.
 英語訳の初版は、Oxford で1978年に出版された。ここで言及した新版は、著者の新しい緒言とあと書き付きで2005年にNew York で刊行された。タイトルは、〈マルクス主義の主要潮流、生成者・黄金時代・崩壊〉。
 (注03) Andrzey Walicki, Marxism and the Leap to the Kingdom of Freedom :The Rise and Fall of the Communist Utopia, 1995, S. VII.
 楽観的正統派から懐疑的反対派への転遷について、Kolakowski は、つぎのようにだけ言った。
 「たしかに、20歳のとき、(完全にでなくとも)ほとんど知ったつもりだった。けれど、お分かりのとおり、年をとるにつれて、人々は愚かになる。28歳で、ほとんど分からなくなり、今でも一層そうだ。」
 以上、最初は〈Socialist Register〉(1974)に発表された〈My Correct Views on Everything. E. P. Thompson への返答〉。〈My Correct Views on Everything>、上掲書、S.19.
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 つづく。

2624/L・コワコフスキ誕生80年記念雑誌②。

 雑誌<Transit—Europäische Revue>第34号・2007年/2008年冬季号。原語は、もちろんドイツ語。
 編集者まえがき(「編集の辞」、Editorial)
 (01) 2007年10月に、Leszek Kolakowski は80歳になった。
 彼は、1940年代の学問上の経歴を、正統派マルクス主義者として始めた。 
 この哲学者は、1956年以降の雪解けの時期にワルシャワ大学に1959年に招聘され、1966年に党から除名されるまで共産主義の改革の支持者になっていたが、1968年にその講座を失い、西側へと亡命(emigrieren)した。
 彼は1970年以降、オクスフォードのAll Souls College の研究員だ。 
 Krzysztof Michalski は、Kolakowski 思想の中心主題の軌跡を追っている。
 Tony Judt とJohn Gray は、1970年代に執筆された彼の最高傑作である〈マルクス主義の主要潮流〉から新しい意味を見出している。
 Kolakowski によるマルクス主義の思想史的再構成は、グローバル化への抵抗者のかたちを採るのであれ、Gray が驚くべき診断を下しているような、軍事力を媒介として民主主義政体を拡大するという新保守主義的な構想のかたちを採るのであれ、今日の夢想主義(Utopismus)の亡霊たちを見れば、完全に現在的であることが分かる。
 Marci Shore は東欧共産主義におけるユダヤ人の役割に関する論稿で、「夢想主義の慢性的な病理」(Gray)というとくに今日的な章を想起させている。//
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 (02) Kolakowski は、早くから社会主義思想に取り組んできた。
 彼は、1957年に書いて検閲により発禁となった皮肉たっぷりの小冊子「社会主義とは何か?」で、共産主義体制を映しだした。
 この—この雑誌に再録した—政治風刺の傑作の後のほとんど50年後に、Kolakowski は、「社会主義から残るものは何か」(注1)という小論で、もう一度確認した。
 世界中に広がる不平等に鑑みれば、社会主義は今日再び、道徳的信頼を獲得しているように見える。 
 Kolakowski は、こう続ける。マルクス主義が全てについて間違っていたということは、まだ永らくは、社会主義の伝統を時代遅れのものにはしない。
 また、社会主義思想が悪用されたということは、まだその思想を失墜させはしない。
 結局は、社会主義的諸価値はリベラルな諸価値と結びついて、民主主義的な市場経済の範囲内で実現されたのだ。
 社会主義運動は、我々の社会の政治的風景を変え、今日には自明のことになっている福祉国家を生む、そのような改革を誘発した。
 Kolakowski は、さらにこう書き続ける。
 「たしかに、『代替可能な社会』の構想としての社会主義思想は、死んだ。
 しかし、被抑圧者や社会的に不利な者との連帯を表現するものとして、社会的ダーウィン主義に対抗する動機づけとして、競争とは少しは離れたところにあるものを我々に思い出させる光として、こうした理由でもって、社会主義は—システムではなく、その理想は—、今だになおも利用され得るのだ。」//
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 (03) ロシアのジャーナリスト、Anna Politkowskaja は2001年に、…。
 <以下、省略>
 2007年12月、ウィーンにて。
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 (注1) 「社会主義に残るものは何か」, in: L. Kolakowski, My Correct Views on Everything (2005).
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2623/L・コワコフスキ誕生80年記念雑誌①。

 ドイツ・フランクフルト(am Main)のNeue Kritik という出版社が、<Transit>と題するおそらく季刊雑誌を発行している(または発行していた)。
 その第34号=2007年/2008年冬季号は、二つの特集を主内容にしており、その第一は、「レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)の80歳の誕生日に寄せて」だった(試訳者注1)。L.Kolakowski、1927.10生〜2009.07没。
 巻頭の編集の辞はほとんどをL.Kolakowskiへの言及で費やしており、特集は、そのKolakowski の1957年のエッセイ「社会主義とは何か?」(試訳者注2)を再録しているほかは、つぎの四つの論稿で成っている。番号数字は原雑誌にはない。日本語は、試訳。
 1/Krzysztof Michalski, 全体の裂け目。
 2/Tony Judt, 全てのお別れに?—今日に読むKolakowski の〈マルクス主義の主要潮流〉。
 3/John Gray, 共産主義から新保守主義へ。
 4/Marci Shore, 家族のドラマ—ユダヤ人とヨーロッパの共産主義。
 興味深いのは、この4名のうちの2名がTony Judt(トニー・ジャット)とJohn Gray(ジョン・グレイ)だ、ということだ。
 この二人が書いたものの一部は、この欄で何回にも分けて試訳を掲載したことがある。(試訳者注3)
 この二人の政治的立場は同一ではないだろうが、いずれも明確な反共産主義者で、L・コワコフスキを高く評価している(かつ敬愛の念を抱いている)ことでは共通していた。(試訳者注4)
 二人の著書の邦訳書はあり、とくにJohn Gray 著には多い。だが、ジョン・グレイ(London大学教授)の邦訳書が多いのは「新保守主義」、「自由原理主義」ないし「新自由主義」に対するこの人の批判的立場が日本の出版業界隈で「左翼(的)」だと受けとめられた可能性があるからだろう、と私は思っている。明確な「反共」の立場の欧米の書物は、日本では翻訳書が出版され難い。
 現に、この欄にかなり(と言っても半分にはるかに満たないが)試訳を掲載した〈マルクス主義の主要潮流〉は、邦訳書が出ないままで終わりそうだ。日本の近年のいわゆる「保守」派も、「反共」を唱えつつ、欧米の共産主義・反共産主義に関する文献に興味を示さない。
 以下、「編集の辞」のほとんどのLeszek Kolakowski に関する部分と、上の四つの論稿をできるだけ邦訳してみる。
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 (試訳者注1) もう一つの特集は、「Anna Politkowskaja 追悼」だ。
 この女性はロシア人ジャーナリストで、第二次チェチェン紛争、RSB(ロシア連邦保安庁)、プーチンに対して批判的だった。2006年に暗殺された。Anna Politkowskaja、1958.8生〜2006.10没、満48歳。
 (試訳者注2) この小論は、加藤哲郎・東欧革命と社会主義(花伝社、1990)の表紙裏に掲載された。「ポーランドの哲学者・コラコフスキー」と執筆者名を記しているが、加藤は「コラコフスキー」へのそれ以上の関心を継続させなかったようだ。参照→No.1976/2019.09.13「加藤哲郎著とL・コワコフスキ」
 (試訳者注3) それぞれに言及した最初は、→トニー・ジャット(No.1525/2017.05.02)、→ジョン・グレイ(No.1565/2017.05.29)。
 (試訳者注4) いずれにもその点が分かる論稿があるが、とくにT・ジャットは、〈マルクス主義の主要潮流〉(原著、1976(パリ)。第一巻独訳書、1977。全巻英訳書、1978)のアメリカでの再発行決定を歓迎する文章を2006年に書き、Kolakowskiの死の直後の2009年に哀惜感溢れる(と私は感じる)文章を書いた。彼自身が、翌2010年に難病のために死亡したのだったが。Tony Judt、1948.01生〜2010.08没、満62歳。
 上の雑誌への寄稿は亡くなる2-3年前で、すでに病魔と闘っていたのではないかと思われる。
 コワコフスキ追悼文、参照→No.1834・2018年7月30日付。この追悼文はのちに、つぎの邦訳書の中に収載された。当然ながら、訳は上と同じではない。
 T・ジャット=河野真太郎ほか訳・真実が揺らぐ時—ベルリンの壁崩壊から9.11まで(慶応大学出版会、2019.04)。原書は、Tony Judt, When the Facts Change, Essays 1995-2010 (2015)
 妻のJenniffer Homans が編者で、「まえがき」を彼女が書いている。そして、「人と思想」は区別しなければならないと冒頭に書きつつ、結局はT・ジャットの著作と人物像が入り混じった追悼の文章になっている(と私には思えた)。その点が興味深く、かつ感動的でもあって、いつか試訳してみたいと思っていたが、上の邦訳書に含まれている。
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2443/F・フュレ、全体主義論④。

 François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012)
 試訳のつづき。
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 第8章第2節②。
 (7)ファシズムと共産主義を現実に生み出した熱情は、第三者に対するそれらの憎悪だ。
 これとの関係で言うと、E・ノルテ(Ernst Nolte)には、私が基本的に同意する直観があった。これら二つは一緒に扱われなければならないという直観だ。
 近代民主主義のこれら二つの奇怪な申し子について、これ以外に歴史的に考察する方法はない。
 私は、一続きの年代的連鎖でもってこれらは相互に生み合った、とたんに言いたいのではない。
 言いたいのは、もっと深い意味で、共同社会(community)についての二つの民主主義的展望は一方は人類の普遍性であり、他方はネイションだということだ。
 そしてこのことは、フランス革命以来今までがどうだったかを示している。//
 (8)E・ノルテの見方では基本的には技術がもたらした二種の厄災があった、ということを理解しないままでノルテを理解できるとは、私は思わない。二種とは、ナツィと、共産主義だ。
 共産主義は、ノルテが「超越」と呼んだものだ。つまり、人々の熱情は自分たちを超え、自分たちの有限性から自由になる。彼が狂気と考えた熱情だ。
 一方、ナツィズムは有限性に全体的に浸ることであり、超越が不可能であることに対する制裁だ。 
 ノルテにとっては、これら二つの体制は同じ問題の二つの形態だ。//
 (9)ノルテの歴史的考察はハイデガー(Heidegger)の強い影響を受けている、と私は思う。ハイデガーは彼の教師だった。私は、表面的にだけハイデガーを知っている。
 〈幻想の終わり〉の第一章で明らかなように、私の哲学的着想はトクヴィル(Tocqueville)から得ている。
 私はトクヴィル的だ。共産主義とファシズムの現象を、トクヴィルが用いた意味での「民主主義」の発展と関係づけている。
 20世紀は、民主主義の最初の世紀だった—19世紀はまだ貴族政に浸されていた。そして、二つの過激な民主主義批判者を生んだ。一つは、普遍主義過剰の形態の、もう一つはナショナルなまたは人種的な共同社会の名前をもつ批判者だ。//
 (10)このことは、平等という世界観の骨格上の曖昧さを、私に思い起こさせる。それは、自由をもたらしたばかりではなく、前例のない専制体制(despotism)の二つの形態をも生んだ。
 暴露されたように、ああ、後者の形態は、人間の自由の悲劇的な実例を提供したのだ。
 道徳の側面では、あるいは神学の観点からしてすら、自由の実践は20世紀には、悪(evil)の問題によって劇的に行われた。
 これは、我々の歴史の神秘的な部分だ。アウシュヴィッツで絶頂に達することになる部分だ。
 私は、E・ノルテが示す前提条件に従ってはいない。
 しかし、彼は依然として偉大な歴史家であり、実際、哲学者以上にはるかに歴史家だ。 
 彼は初めて、1963年の〈ファシズムとその時代(Der Fachismus in seiner Epoche)〉で、ファシズムの基盤を形成し極左と共通する要素を含む、今日では忘れられるか検閲に引っかかる思想の大風景を論述し始めた。
 私の見解では、当時では、共産主義とファシズムを連結させるのはせっかちすぎた。これらとムッソリーニの関係を通じてであれ、ボルシェヴィズムにたいするファシズムの反動関係を通じてであれ。
 しかし、彼は、第一次大戦のあとのヨーロッパの全光景に関する知識という収集物を用いる。そして、それについて、何が新しいものかを示す。
 ドイツでの彼に対する侮蔑的運動を、当惑なしで理解することはできない。
 E・ノルテはたしかに保守派で、20世紀のドイツの運命に苦しんでいる。しかし彼は反ナツィの保守派で、急進的な反ナツィですらある。彼は、ヒトラーがドイツの伝統と文化を破壊したと考えているのだから。
 ユダヤ人に関して言うと、彼は決して、ときに婉曲に指摘されたようには、ホロコースト否定論に傾斜してはいない。
 彼は反対に、この問題については完璧に明確だ。//
 (11)ドイツ人を免罪したことについて、我々はたぶん、彼を非難できるだろう。
 ドイツ人の側には〈特別の〉責任(responsibility)はない、ユダヤ人大虐殺は他者によって行われ得ただろう、さらに、ソヴィエトの犯罪の方が先行していた、といった考え方が明らかにしているのは、理解し難く感じられる思い込み(preoccupation)だ。
 先に言及したファシズムに関する彼の書物の第一巻は、モーラス(Maurras)についてだ。
 E・ノルテがファシズムの先駆者としてフランスの政治思想家を選んだのは偶然ではない、と考えざるをえない。実際には、モーラスの実証主義はファシスト思想の特徴である非合理性とはほとんど比較し得ないのだけれども。//
 (12)ノルテとの最近の会話で、私は、自分の見方では誤っている、ナツィズムとファシズムはボルシェヴィズムの帰結にすぎないとする考え方、に立ち戻った。
 ノルテにとって、ナツィズムの基本的要素は反マルクス主義であり、反共産主義だ。そして彼は、年代的連続関係を因果関係にまでした。すなわち、ヒトラーはレーニンの産物であり、スターリンのそれでもある。
 このことで彼は、内在的な起源を、ナツィズムのドイツ的起源を、消去しようとする。
 ナツィズムをドイツ的根源から切り離そうとするのだ。
 しかし、彼は少なくも、ナツィズムの歴史という問題を取り上げる。この問題は今日では、過去を理解するために抽象的な教訓主義で埋め合わせることによって、軽視されている。//
 ——
 第8章第2節、終わり

2440/F・フュレ、全体主義論③。

 François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012)
 試訳のつづき。
 ——
 第8章第2節①。
 (1)三方ゲームというだけではない。ファシズム、自由(liberal)民主主義、ボルシェヴィズムの三つ全ては、歴史上の比較し得る意義を分け持った。
 ファシストにとって、ボルシェヴィズムは自由民主主義の未来だった。ファシストは自由民主主義を、ボルシェヴィズムを培養する基盤と見なしていたのだから。
 反対にボルシェヴィキにとって、自由民主主義は、ファシズムを培養する基盤だった。彼らは、自由民主主義は必然的にファシズムになると考えていたのだから。
 結局のところ、これらは三つの陣営だった。そして、中間にいる一つは、他の二つへと導く経路にすぎなかった。
 要するに、ファシストにとっては、自由民主主義の真実はボルシェヴィズムであり、ボルシェヴィキにとっては、それはファシズムだった。
 ファシストとボルシェヴィキのいずれも、相手が聴こうとすることを多く語った。
 そして、両者ともに、ブルジョア民主主義を一緒になって攻撃するができるようになった。かつ、両者ともに、ブルジョア民主主義の最終的な継承者だと主張したのだ。//
 (2)神秘的であるのは、人々がブルジョアジーを嫌悪していることではない。
 民主主義者にとって、ブルジョアジーを嫌悪するのは「ふつう」(normal)のことだ。
 ブルジョアジーは、その正統性が全て富に由来する階級だ。したがって、象徴的価値を待たず、正統性がない。
 ブルジョアジーを好ましい階級にするのはむろんのこと、尊敬できる階級にすることは決してできないだろう。
 ブルジョアジーを侮蔑することは、現代社会の夢の一つだ。
 しかし、そのことは必ずしも、20世紀に充満した恐怖につながるわけではない。
 神秘的であるのは、物事がひどく悪く進行し、体制がひどく犯罪的で、そして反ブルジョア感情があのような集団的狂気(collective madness)にまで至った、ということだ。
 近代世界はこの300年間、ブルジョアジーへの憎悪を引き摺ってきている。
 そしてついには、その憎悪とともに生きている。
 その憎悪から、芸術や思想を作り出してすらいる。
 だが、正統性のない地点から我々はどうやって、あの収容所に、数百万の死に、肉体と精神に対して向けられた暴力に至ったのか?
 私の問題は、これを「神秘」と呼んでいるのだが、20世紀の悲劇的性格だ。//
 (3)我々は、全てを理解したとか、説明したとか、そういう自惚れには抵抗しなければならない。
 とっくに時代の政治的熱情の底に到達し、それを育てた複雑な条件をもう一度作った。
 しかし、20世紀のヨーロッパの文明化の程度とその歴史の特徴である残虐な狂気の間にある対照さについては、理性的な説明が行われていないままだ。
 制服を着たドイツ人の集団的加虐性は、Daniel Goldhagen が叙述したけれども解明しなかった神秘のままだ。//
 (4)H・アレントはたしかに、20世紀の偉大な目撃者の一人だった。その著作への私の敬意には留保がつくけれども。
 彼女の思考はしばしば混乱していて、ときには矛盾しており、少しばかり煽動的だ。同時に反モダン、反ブルジョアジー、反共産主義者、反ファシスト、反シオニストでいることはできない。そして、これらを全て拒否したとしてもまだ、20世紀の政治の歴史に関して明瞭に思考することはできない。//
 (5)分かるだろう。H・アレントの歴史の仕事は弱い。—例えば、彼女は〈全体主義について〉の最初の二巻で、深い専門的知識をとくには示していない。
 彼女のドレフュス事件(Dreyfus Affair)の知識は大雑把なもので、同じことはファシズムの由来に関する彼女の知識についても言える。
 彼女のあの大著の歴史の部分は、むしろ総じて弱い。
 素晴らしいのは、悲劇、収容所に関する彼女の知覚力だ。
 H・アレントは、このようなことが起きたのは人間の歴史上初めてだと主張する。
 そして、彼女は、Vassily Grossmann とともに、だが別個に—もう一度言う、彼らだけであり、二人ともにユダヤ人で、彼はソヴィエト軍におり、彼女はアメリカへの亡命者だった—、アリストテレス、モンテスキュ—、あるいはマックス・ウェーバーが説明することのできない恐ろしい仕組みにある何かを見た、その何かを理解するには我々には新しい道具が必要であるものを見た、最初の人物だった。
 私が彼女に対して最も敬意を払うのは、近代民主主義の観点から、個人で成る社会や民主主義的細分化と技術の射程から、彼女はファシズムと共産主義を論述しようとしたことだ。
 彼女は哲学者として、「全体主義」という観念を再び作出した。
 私が示そうとしたのは、H・アレントよりも前に何人かの20世紀の思考者はすでにこの観念を探究しており、部分的には発展させていた、ということだ。
 彼女はほとんど極端なほどに、その観念を利用した。//
 (6)全体主義という観念は、ナツィズムとスターリニズムにある比較対照することのできない側面を持ち出して、つねに反駁され得る。また、両者にある比較対照することのできるものを用いて、つねに擁護することができる。
 別言すると、私はこの観念に執着しないけれども、スターリンのソヴィエト同盟とヒトラーのドイツにある比較対照可能な要素を的確に指し示すために、なおも私はこの観念を用いることができる。
 しかし、全体主義という思想が最も厳格な形態を持たされ、ナツィ・ドイツとスターリン体制にはともに新しい政治的観念があり、同じ経験的実体が組成されていると理解するのは、行き過ぎているだろう。//
 ——
 ②へとつづく。

2435/F・フュレ、全体主義論②。

 表題を書名から、章名の〈全体主義論〉に改めた。
 「F・フュレ、うそ・熱情・幻想⑬」=「全体主義論①」だったことになる。
 ——
 第8章/全体主義論・第1節②。
 (6)そのような本の一つは、Waldemar Gurian の〈ボルシェヴィズムの将来〉だ。この書物は、実際にナショナル(国家)社会主義に関するものだ。そして、ロシア人起源のドイツのユダヤ人がこのタイトルの本を1934年に執筆したというのは、驚くべきことだ。彼はこの書物で、ボルシェヴィズムの最も完璧な形態は技術的支配力を理由にドイツ人が見出すだろう、と言っている。
 彼はすでにカトリックになっていた。
 カトリシズムに転宗したペテルブルクの法律家の子息だった。
 Waldemar がまだ幼かったときに父親が死んだあと、母親がドイツに移住し、彼はドイツで育った。
 全く入り組んだことだった。彼はロシア系ユダヤ人で、カトリック転宗者で、執筆した最初の本はMaurras と〈Action française〉に関するものだった。
 私は偶然に、シカゴ大学図書館の書架を周っていて、〈ボルシェヴィズムの将来〉を発見した。シカゴ大学図書館は、主題で分類された書物のある、アメリカの諸図書館により探索者が利用する自由を認められた有り難い施設の一つだった。
 私は熱心にこの本を読んだことを憶えている。このWaldemar Gurian とはいったい誰なのかと不思議に思いながら。
 何人かの同僚に尋ねてみたが、誰も知らない。そして結局、戦後のアメリカでの経歴にもかかわらず急速に忘れられていたこの著者への鍵を電話で教えてくれたのは、友人のReinhart Koselleck だった。
 さて、Gurian は1934年に、ボルシェヴィキの企図はその最大の具現化をヒトラー・ドイツに見出すだろうと、想定していた。//
 (7)同じ考えは、その時期のトーマス・マンの〈ジャーナル〉に見られる。ロシアとドイツの比較が多数掲載されていて、共産主義ロシアはドイツ・ナツィズムの原始的範型として現れる、とする。
 同じ年代にフランスでは、両者の比較はつぎのように進められた。Simone Weil の1936年の諸著作、Élie Halévy の〈L’ère de tyrannies〉(1937年)、そして、共産主義との決裂後のA・ジッド(André Gide)の〈1937-1938年のジャーナル〉。
 1938年にJacques Bainville は〈独裁者〉というタイトルの書物を刊行した。その本で彼は、ムッソリーニ、ヒトラー、スターリンを並列させた。
 要するに、「全体主義」という言葉と関連させているか否かは別として、この主題は両大戦の間の時期に、決して稀なものではなかった。
 むろんのことだが、1939年と1941年のあいだに、盛んになった。ドイツ・ソヴェト協定の時期だ。
 私は〈幻想の終わり〉の執筆中に、全体主義を主題として1940年に催されたアメリカの学会の会議録を掘り出した。その会議での議論は、ヒトラーとスターリンの両人を中心に据えていた。
 こうした議論があったことは、つぎのことを示している。すなわち、H・アレント(Hannah Arendt)は出典を参照要求していないのだが、彼女はファシズム・共産主義の比較対照をした最初の人物ではなく、1950年の著名な書物でこれを再び行ったにとどまる。この当時は、第二次大戦の最終的な過程のおかげで、この比較対照をするのが憚られるようになっていたのではあった。
 タブーは、ヨーロッパできわめて長くつづいた。フランスで、ドイツで、イタリアで。それは、例えばアメリカ合衆国でそうだったよりも長く、強かった。
 今なおドイツでは、このタブーが持ち出されなければならない。
 きわめて不思議なことに、1960年代の左翼運動の波の中で、アメリカの諸大学でこれが復活した。//
 (8)私はたぶん、それを説明するよりもましな叙述するという作業をしたのだが、それとは、20世紀の民主主義的な男女の政治的熱情、その情動の大きさが原因となって、自分たちが生きているブルジョア社会を忌み嫌い、ファシズムや共産主義のような極端なイデオロギーの有利に働いている、ということの神秘さ(mystery)、だ。
 ブルジョア社会に対するこの憎悪、これと結びついているその矛盾への批判により生じる恥ずかしさの感覚は、ブルジョアジーそれ自体と同じくらい古い。
 これらは、2世紀にまたがってドイツとフランスの思想と文学の糧(fodder)となった。
 いったいどのようにして、この熱情は、幼稚だろうと教養があろうと、多数の人々のこころと意識を、多様な分野からファシスト革命または共産主義ユートピアを抱擁するまでにいたらせたのか。これが、私が理解しようとしている謎(enigma)だ。
 これは、我々の時代が避けようとしている疑問だ。なぜなら、一方では、ファシズムはその犯罪性にだけ光が当てられて理解され、なぜ魅力的だったのかを我々が問うのを封じている(実際に魅力的だったのだ)。そして他方では、反ファシズムを言い訳にして、我々はソヴィエト体制の犯罪を覆い隠しつづけている。//
 ——
 第8章第1節、終わり。原英訳書、p.53〜p.57。

2434/F・フュレ、うそ・熱情・幻想⑬。

 François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012
 試訳のつづき、第8章へ。この章は、本文総計81頁のうち計26頁を占め、最も長い。中途に1行の空白のある場合は、意味ある区切りだろうと判断して、試訳者において「節」に分けている。
 ——
 第8章・全体主義論(Critique of Totalitarianism)①。
 第1節。
 (1)私の意図は全体主義の歴史を研究することだった。この全体主義の言葉と思想は、1920年代早くに、社会生活の全領域の国家による絶対的掌握を表現するために—イタリアでムッソリーニのファシズムとともに、そしてフランスとドイツで—出現した。
 しかし、私はレーニンとスターリンの間の移行の時期に関する章を、「一国社会主義」の考えがどのようにしてボルシェヴィズムの普遍主義的な野望についての移行を惹起したかを検証すべく、執筆した。この移行は、ボルシェヴィズムをいくぶんかファシズムへと接近させた。
 私の分析では、この時期に、全体主義思想のソヴィエトの経験への拡張が時代の語彙の中に現れる。
 (2)「全体主義的」(totaritarian)という形容詞は、イタリアで生まれた。
 私の知る範囲では、これを生んだのは、ムッソリーニだった。
 歴史学上の意味論では、我々はいつも、概念が生まれたときに立ち戻っている。
 特定の言葉について、その最初の使用を発見した、というのが確実なことはない。
 だがなおも、「全体主義的」はイタリアのファシストが考案したのだと思える。諸個人の生活の全ての側面が集合体と国家に連結している、ということを表現するためにだ。むろん、諸個人の生活の全ての側面をについて個人を包み込む(encompass)「全体的」(total)国家の存在を表現するためにも。
 この言葉のもう一つの起源は、〈全面戦争〉、「totaler Krieg」のようなドイツの右派による「total」という形容詞の使用だ、と私は考える。
 E・ユンガー(Ernst Jünger)は「全的軍事動員」(total mobilization)という語を用いた。
 ドイツ右派の構成員のあいだに、第一次大戦は、紛争が「全面戦争」になったという意味深い考え方を生んだ。これは、重要なのは生や死ではなく全体としての交戦国家の力(forces)だ—戦闘員の軍事意識だけではなく全ての政治的熱情、労働の全能力だ—ということを意味した。 
 ユンガーは、戦争への労働力の投入、生産力としての労働、を強調した。//
 (3)第一次大戦の間は、「total」や「totalitarian」という言葉は共産主義の世界とは何の関係もなかった。
 私の見解では、これらの言葉がファシズムと共産主義の両方を指し示す二重の意味を持つのは、ナツィズムとスターリンのソヴィエト同盟のあいだに比較し得る特性が現れた、1930年代だった。
 しかし、1925年と1930年の間のドイツの「ナショナル・ボルシェヴィズム」は特殊な場合だと見ることができた。つまり、スターリンの勝利を利用した移行であり、ドイツの極右に対して例示するための構築の真ん中にスターリンがいる状態だった。
 「total」や「totalitarian」が二重の意味を持つのはこの時期に始まった、と私は思う。
 そして、いつものことだが、新しい言葉の考案は、何か重要なことを知らせることになる。//
 (4)共産主義を本質的に反ファシズムだと定義するのは、たんなる消極的定義であり、その本来の敵とは正反対の特質を定義するものだ。すなわち、ファシズムが自由に敵対的ならば、共産主義は定義上、自由を好ましいものと見なすものだ、等々。 
 この言葉の対比は、マルクスならば「観念論的」と称しただろう。イデオロギーと意図の次元にのみ存在するものだからだ。しかし、ヨーロッパの左翼の想像力をふくらませた。
  この対比に何がしかの「唯物論的」重みを加えるために、共産主義者は経済へもこれを利用しようとした。いわく、ファシズムは金融資本主義の産物だ。ゆえに、唯一の真の反ファシストは必然的に反資本主義者であり、つまりは共産主義者だ。
 このテーゼは、馬鹿げている。しかし、20世紀に広範に流布されて、しばしば正しいものとして受容された(今日では利用できる歴史的反証があるにもかかわらず、一定の範囲ではまだ残っている)。正しいと受けとめられたということは、知的な首尾一貫性ではなく、政治的熱情からその力を得た、ということを示している。
 もう一度、オーウェルの判断に戻ろう。20世紀の左翼は、反ファシストだが、反全体主義者ではなかった。—これは、共産主義思想が果たした顕著な役割に関する、卓越した要約だ。//
 (5)戦争があり、数千万の死があった—反ファシズムの名のもとで死んだ共産主義者がいた。そのために、ファシズムと共産主義を比較対照することがタブーになった。
 第二次大戦が終焉して以降は、流された血の威嚇的効果は決定的だった。
 そして、誰もあえてナツィズムと共産主義と比較しようとしなかった。なぜなら、両者は戦場で顔を向け合って対決したのであり、赤軍はヨーロッパをナツィの抑圧から解放するに際して力強い、指導的ですらある役割を果たしたのだから。
 つぎの者を除いて、誰も比較対照をしなかった。当時はまだ無名だったV・グロスマン(Vassily Grossman)とH・アレント(Hannah Arendt)。後者は、収容所の視点から、戦争後すみやかに類似性を感知した。
 しかし、戦後すぐにタブーだったことは、1930年代にはそうではなかった。
 当時では、ファシズムと共産主義を全体主義という概念のもとで比較することは、全くふつうのことだった。
 私が歴史学に寄与したと思う一つは、全体主義は決して第二次大戦後の思想ではなく、1930年代の多数の著作者の文献に見出され得ることを、明らかにしたことだ。//
 ——
 第8章第1節①、終わり。

2433/F・フュレ、うそ・熱情・幻想⑫。

 François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012
 試訳のつづき、第7章へ。途中に「+」のついた空白の1行があるので、短いながら、節を分ける。下線は、試訳者。
 ——
 第7章・ボルシェヴィズムの魅惑(The Seduction of Bolshevism)。
 第1節。
 (1)私は明らかにしたいのだが、ボルシェヴィズムに関する尋常ではないものは、その魅惑(seduction)の可塑性だ。
 これの三つの類型を挙げる。第一に、B・スヴァーリン(Boris Souvarine)は、フランスの伝統でのジャコバンであるがゆえに、最も単純だ。
 第二に、P・パスカル(Pierre Pascal)は、ロシアと教会連合を熱愛した、反マルクス主義キリスト教者だ。
 彼の場合はすでに、理解するのがむつかしい。
 第三は、G・ルカーチ(Georg Lukács)で、より突飛ですらある。この人物の出身は、ニーチェ、キルケゴール、およびその種の著作者だ
 彼は、芸術愛好家、ユダヤ人銀行家の息子、オーストリア=ハンガリーの伊達男で、ブダペストのカフェやウィーンでよく知られていた。
 換言すると、知識人には、可能なかぎり異なっている、三タイプがある。
 そして、少しのちに、イギリスのファビアン派(Fabians)が現れた。
 ボルシェヴィズムは、ヨーロッパの全ての知識人界を揺さぶった。
 ボルシェヴィキ思想はどのようにして、かくも多くの文化的伝統—シュール・リアリスト、ニーチェ主義者、フランス・ジャコバン、イギリス・ファビアン派—をその周りに集めることができたのか?
 社会民主主義者たちは、少し大きい抵抗を示した。彼らはボルシェヴィキ・ボルシェヴィズムと同じ宗派育ちであり、通暁していたからだ。
 しかし、反共主義者と呼ばれるのを恐れて、おとなしくしていた。//
 (2)イギリスの場合は独特だ。プロテスタントの国民と文化を巻き込んでいるのだから。
 ブルームズベリー・グループ(the Bloomsbury Group)の特徴は、反既得権益層、フランスのシュール・リアリストのそれに似た反ブルジョア的耽美主義だった。
 耽美的反応による親共産主義者というこの流れは、この世紀中ずっとイギリスの知識人界を貫いた。
 1930年代のCambridge は、その一例だ。
 しかし、イギリスの共産党は、フランス共産党と違って、議員が選出されたりする現実的にナショナルな存在となることができなかった。
 おそらくその理由は、フランスでは多数の例が提示されたような、演劇的かつ悲劇的な解体の場面をイギリスの国民は露骨に見ることがなかった、ということだ。
 忠実な活動家は、全ゆる罵倒を浴びせられる「背教者」に変わった。
 --------
 第2節。
 (1)共産主義者の最大の犯罪は、先ずロシア人に対して、次いでポーランド人—西ヨーロッパにとって忘れられた人々—に対して、冒された。
 パリ、ローマ、あるいはロンドンではしばしば、共産主義に関する歴史的判断はロシアやウクライナの農民層の廃絶、殺戮または追放された数百万の人々、強制収容所(the Gulag)、カティン(Katyn)に基づいている。
 トゥール(Tours)大会での分裂や共産党とのつながりがなければ、左翼はもっと早くもっと頻繁にフランスを支配していただろう。このことを忘れて、フランス人は、人民戦線や有給休暇の名前でもって共産主義を理解してきた、としばしば言われる。//
 (2)共産主義者が最も非難されるべき行為は、ソヴィエト体制に関してうそをついていたことだ。
 我々は、彼らが行ったことよりも—結局はフランスのような国では彼らはたいていは天使の側にいたのだ—、むしろ彼らが言ったこと、あるいは逆に言わなかったことを、非難することができる。
 彼らは決して、うそをつくことを止めなかった。
 今日ではあまりに巨大で、あまりにも明瞭だと見えるこのうそは、意図された欺瞞であったことだけで、あれほどにまで共有され、信じられたのではなかった。
 このうそは、20世紀に、ソヴィエト同盟がその歴史的伝説の一つだと想定される、民主主義的普遍主義を求める熱情に、遭遇したのだ。
 このことが理由となって、共産主義は、暴力や独裁に反対する勢力から狂信的に守られなければならなかった。//
 (3)普遍的なものを求めるこの熱情が我々の同時代人たちに対して及ぼした力に、私は衝撃を受けている。
 今日の豊かで平和な国々で、若い世代のための政治の大路は、人道主義(humanitarianism)だ。
 人間の諸権利は、階級闘争に置き代わった。そして今のところ、同一の目標、人間性の解放に役立っている。
 しかし私は、 それは政治を明晰に判断するのを回避するもう一つの路にすぎないのではないかと、不思議に思って(wonder)いる。//
 ——
 第7章、終わり。


2432/F・フュレ、うそ・熱情・幻想⑪。

 試訳、つづき。下線は試訳者。
 ——
 第6章・歴史家が追求した仕事②。
 (4)私が執筆したのは、—カントの言葉を使えば—「批判的」歴史だ。この書物の最初の部分で、私は、概念上の図式を提示する。そして、肉づきや実態(flesh & substance)を示すものなのか否かを判断して、私が再構成して集めた事実を検証する。
 私は思想と事実のあいだを操縦して進む。こちらからあちらへと、そしてその逆方向へもあり得る。
 私は哲学者ではない。
 歴史家はあまりに哲学的になるのを避けるべきだ、と考えている。
 歴史家がもつ知識の正当性や限界の問題に絡み取られてしまうと、執筆することができない。
 実証主義的な素朴な事実と虚無主義的な相対性の間には、見出されるべき中間の地点がある。今日では、必要不可欠の中間地点だ。我々は、ニーチェ的な漂流の中にいるのだから。
 ニーチェによると、事実は存在せず、ただ解釈だけがある
 どこでも、そういう声を聞く。
 出現してくる最初の学生は、この近視眼的相対主義を身につけている。
 相対主義の一要素は解釈を構成するために重要なのだとかりにしても、煩わしいことだ。
 しかし、事実の説明を試みようとする目的があって事実を発掘しないなら、どのようにすれば歴史家であり得るだろうか?//
 (5)アメリカ合衆国では、1930年代の共産主義または共産主義的反ファシズムは、〈Partisan Review〉で代表された。これは、パリの知識人とよく似た、ニューヨークの共産主義者かトロツキストである小集団の知識人が編集していた。
 ソヴィエト連邦では反ファシズムへと結集していた知識人たちは、そこではソヴィエトの裁判やドイツ・ソヴィエト協定に反発していた。
 アメリカ人2000人の旅団が、国際旅団の中でスペイン内戦を闘った。
 これは全く印象的だ。
 アメリカ人や、とくにイギリス人が今日言うのとは反対に、共産主義思想は、イギリスやアメリカ合衆国の大衆の心をほとんど掴まなかったけれども、知識人界の中には影響をもった。その規模は、大きなものだった。
 多数のイギリスの知識人が、体験に影響を受けることなく、生涯ずっと共産主義者のままだった。//
 (6)私の書物の目的からすると、知識人たちは主に目撃者として有用だった。
 私は知識人の歴史を書きたくはなかった。
 その作業は、すでになされている。
 私は、明らかな例だと思うサルトル(Sartre)について、語りはしない。
 サルトルについて、10ページ以上も書く必要はない。
 彼について語りたくないからではなく、すでに多くのことが言われているからだ。そして、何度も行われたことを再点検する価値はない。
 私は、分析するのがたぶんもっと面白いBataille、Simone Weil、そしてDrieuから—〈幻想の終わり〉第8章の「反ファシズム文化」で行うように—新しく開始したい。
 しかし、 知識人たちは、固有の分野として研究するよりも、特定の時代に流通した世論や思想の再構成者として研究する方が有益だ。
 今日では奇妙なことに、共産主義の神秘的教義は大部分は知識人に影響を与えた、と思われている。
 これは、全く正しくない。
 フランスでは、1945-46年頃、有権者の25パーセントが共産党に投票した。
 かりに共産主義は知識人のみを揺り動かすのだとすれば、共産主義は一つの国でこの集団的なメシア(救済主,messianic)的希望を獲得することができなかっただろう。//
 ——
 第6章、終わり。
 

2431/F・フュレ、うそ・熱情・幻想⑩。

 François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012) 
 ——
 第6章・歴史家が追求した仕事(The Historian's Persuit)①。
 (1)〈幻想の終わり〉は一人の歴史家の著作で、状況、事態の推移、様相を扱う。
 しかし、私のこれを書いた究極的な理由は、かりにあるとしても、私を超えており、諸問題を未解明のまま残している。
 20世紀の民主主義的な人々によってもたらされた悲劇の性質や規模には、つねに、何か神秘的なものがあるだろう。
 歴史家は、ヴェルサイユ条約の諸条項や1929年の経済危機によって、ヒトラーの到来を説明することができる。しかし、この諸条項はナツィズムがドイツとヨーロッパの歴史に、例えばユダヤ人大虐殺に施した黙示書(apocalypse)であることを説明しない。
 私は、事実または事件が歴史家の知性に逆らうときには、反対のことで取り繕うよりはそのまま言った方がよい、と考える者の一人だ。//
 (2)私はつねに〈アナール学派(Annales)〉と複雑な関係をもってきた。
 Braudel が歴史—彼はこれが、とくに政治史が嫌いだ—の特徴を示すために用いる〈événementiel〉(事実的なもの、事件性)という考えはきわめて硬い(solid)とは、私は思わない。
 歴史家にとっての20世紀の魅力は、〈événementiel〉対〈structural〉(構造的)によってではなく、共産主義やナツィズムのごとき政治体制の新奇さや前例のなさによって説明することができる。
 我々はハイデッガー(Heidegger)とともに、歴史の舞台へのこれらの体制の登場は、「技術(technology)」の勝利と何らかの関係がある、と言えるだろう。それは、以前の専制体制は抑圧するためのそのような手段を有していなかった、ということを表現するためだ。
 しかし、これだけでは、問題を全て解消することにはならない。//
 (3)何か他のものが、全体主義体制の特質だ。すなわち、被抑圧者が専制者を日常的に愛好していると宣告するのを義務づけること。
 G・オーウェル(George Orwell)は、このことをまさに明瞭に書いた。
 ナポレオンのもとでとは、同じでない。邪心がないならば、体制の美点を毎朝に祝い、輝かしい将来の始まりだと考える必要はない。
 連帯意識、思想の共有を通じて常時再確認される社会的紐帯意識、これを伴う強迫観念(obsession)が、近代リベラリズムには内在している、と私は考える。
 リベラルな社会には、共通善というものはない。
 集団的道徳性というものも、ない。
 あるのは、共通善に関してどう考えようかと考えている、そしてある程度の自分たちの活動によってだけつながっている、個人たちだ。
 市民活動は、彼らの生存にとって最も重要ではない部分だ。
 20世紀の二つの全体主義は民主政治の必然的な産物ではなく、選択された産物だと、私は理解せざるを得ない。ホッブズ(Hobbes)以来ずっと諸文献が論じてきた恐るべき疑問に回答する、選択された産物なのだ。
 その疑問—かりに我々が自律的個人であるなら、社会をどうやって組成するのか?
 この疑問は、〈幻想の終わり〉のいたるところに、ふいに現れる。//
 ——
 第6章①、終わり。

2429/F・フュレ、うそ・熱情、幻想⑨。

 François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012) 
 ——
 第5章・革命の過去と未来②。
 (6)ソルボンヌの学生たちは、70年間、フランス革命はロシア革命のための控えの間(antechamber)だった、と教えられた。
 博識溢れる大学—Georges Lefebvre はフランス革命に関する素晴らしい学者なのだから—にいた世代は、ほとんど比較不能であるこれらの事件を、比較できたのだろう。
 フランス革命は社会を創設し、農民とブルジョアジーを豊かにし、ネイションの中にすぐに著しく堅固な社会的基盤を見出した。
 ロシア革命は、社会全体を粉砕し、農民層を破壊し、単一党を打ち立てた。
 ジャコバンを除いて、二つの革命に関して比較し得るものは何もない。//
 (7)これとの関係で、イギリス史とフランス史を比較してみよう。
 イギリス人は17世紀に革命をもち、彼らの王を処刑し、短期間の共和制のあと、正統な王朝の復古があった。この王朝はすみやかに1688年に、新しい王室の招聘によって遮られた。
 少なくとも部分的にフランス革命と比較することのできる一連の出来事。—これは、テルミドール9日から今日まで、行われてきた。
 それにもかかわらず、イギリスの歴史学の伝統は、マルクス主義者を除いて、イギリス革命を祝福しないで、それを抹消する傾向にあった。
 Tory であれLiberal であれ、歴史家が祝福するのは1688年、革命の終焉だ。これは、先行した大反乱(Great Rebellion)と名づけられたものと区別するために名誉革命(Glorious Revolution)と称されることになる。
 一方、フランスの歴史家は2世紀の間一貫して、フランス革命を創設的事件たる地位にまで昇らせてきた。
 フランス革命を呪詛するときですら、歴史家たちは、その例外的性格だけを強調する。
 そうして、右であれ左であれフランスの人々は、その時期のきわめてナショナルな冒険譚でもって、動じることなく過ごすことができ、フランスの文学で継続的に英雄視した。
 なぜ、こんなにも対照的なのか?//
 (8)いくつかの要因が、考慮されなければならない。
 17世紀のイギリス革命は、宗教に傾斜していた。
 それは、聖書文化が染み込んだ闘士によって起こされたもので、きわめて平等主義的な特徴をもつにまで至った。
 1789年のフランス革命とは異なり、イギリスの革命家たちは、伝統に直面した際に白紙(tabula rasa) を提示しようとはしなかった。そうではなく反対に、聖典の黄金時代への回帰を追求した。
 イギリスの歴史の中で、革命はノルマン人の侵略に先立つ時代からその方向を見出した。かくして、フランスの1789年とは違って、起源についての卓越した威厳がなかった。
 イギリス人は一つに、O・クロムウェル(Oliver Cromwell)以前の彼らの歴史を奪われなかった。
 二つに、彼らは国家プロテスタント教(state Protestantism)のかたちで自分たちの宗教的基盤を再確認し、更新してきた。
 さらに、1688年に彼らの革命は幸運な結末を迎え、その時代にあった暴力と内戦を消滅させた。
 1649年の国王殺しの記憶ですら、新しい王朝によるネイションの再統合によって抹消されたことだろう。
 イギリスは、革命を手段として、咎めるというよりもむしろ、その伝統を強固なものにすることができた。//
 (9)フランスの歴史では、革命思想は民主主義思想と不可分だ。
 これらを分離することはできない。
 民主主義思想、構築主義思想、人間の自己創造という思想。
 これらは全て、革命思想の中に刻み込まれている。
 我々が今日に不幸であるのは、もはや革命思想を有していないことが理由だ。
 まるで我々の政治的文明は切り取られたかのごとくだ。
 社会主義者たちは、革命を実現することができなかったために、20世紀のあいだずっと、共産主義者たちよりも劣っていると見なされた。
 第二次大戦が終わり、私が青年だったとき、改良主義者であり得るという考え方は、私には理解不能だった。我々が経験している諸事態と対比して、不適切だと思われたからだ。—あまりにも狭隘で、平凡で、魅力に欠ける考え方のように思えた。
 赤軍がベルリンを奪取してナツィズムを粉砕したとき、ボルシェヴィキの革命思想には比類のない、真に普遍的な輝きが、復活されなければならない想像力が、あった。それは、歴史家へも求められるべきものだろう。そのような想像力は、我々のソルジェニーツィン(Solzhenitsyn)後の時代には、もはや考え難いのだから。//
 ——
 第5章、終わり。

2428/F・フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)⑧。

 François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20 th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012)  第5章・革命の過去と未来①。
 本文はつぎの9の主題・表題からなる。順に、①思想と情動、②世界の終わり?、③ネイション—普遍的なものと個別的なもの、④社会主義運動・ネイション・戦争、⑤革命の過去と未来、⑥歴史家による追求、⑦ボルシェヴィズムの魅惑、⑧全体主義論、⑨過去から学ぶ。
 連続しているのではないが、便宜的に各「章」として、さしあたりまず、第5章を試訳する。2回で完了の予定。
 ——
 第5章・革命の過去と未来①。
 (序)ロシアの社会は、1917年と1921年の間に粉々に破壊された。
 テロルと強制収容所を考案したのは、スターリンではなかった。
 党内の分派が禁止されたのは、1921年の第10回党大会でだった。
 我々は、レーニンがほとんど絶望の中で死んだことを、知っている。
 このことは、彼の著作物、最後の論考、病気が緩和していた間の考えから知られる。
 つまり、レーニンは状況を多大なる悲しさをもって見ていた。そして、たしかに、レーニンとスターリンとの間には、違いがあった。
 しかし、レーニンが先にいなかったとするなら、いったい誰がスターリンのことを考え得るだろうか。
 (1)「うそ」という言葉の意味について、一致はない。
 ソヴィエトのうそについて語るとき、私は、レーニンまたはトロツキーにあるどんな積極的なうそについても語ってはいない。
 私は、客観的なうそについて語っている。
 ソヴィエトと労働者の権力に関するうそは、ソヴィエトはいやしくも労働者の権力だとか、あるいは民主主義的な権力ですらあるという、間違った考え(false idea)だ。
 このうそは、言葉と事実のあいだの、公式に裁可された矛盾を指し示す。//
 (2)ジャコバン主義(Jacobinism)は、ソヴィエトに先行した超革命的経験だった。しかし、ソヴィエトは、まるで自分たち自身の革命の初期の形態のごとく、それを取り込んだ。
 ボルシェヴィズムの魔術の一つは、ブルジョアジーを廃絶したがゆえに急進的で新しい革命は、革命的主意主義(voluntarism)の歴史に先行者を持つ、というものだった。
 そうして、ボルシェヴィキは両面の役割を果たした。まず、過激で新しいけれども、伝統に則っていると主張する。そして、ジャコバン主義は独裁、テロル、主意主義、新しい人間の称揚、等々をボルシェヴィキが見出したところだったので、その伝統はジャコバン主義にのみあり得た、と主張する。
 魅惑的なことは、フランス革命以降の革命は政治的な伝統になってもいた、ということだ。それは、1917年十月のために役立った。//
 (3)十月とレーニンは復活するだろうと、私は思う。
 スターリンは消滅し、捨てられるだろう。
 しかし、レーニンはなおも、輝かしい将来を当てにすることができる。とくに、トロツキストの途を通じて。トロツキーは、スターリンの犠牲者としての立場によって—最終的には—利益を得た。
 テロルの犠牲となったテロリストたちの処刑は、処刑者としての彼らの役割を拭い去ることだろう。
 フランス革命期のダントン(Danton)に、少し似ている。
 我々はいま、彼らが再生されるのを見ている。彼らは、最終的にスターリニストたることを免れ、神話を再び新しく作っているがゆえに、姿を大きくしている瞬間にある。
 十月はつねに、その最初にあった魔術の何がしかを維持し続けるだろう、と私は思う。そして、創建の契機、夢、歴史から引き裂かれた一瞬にとどまり続けるだろう。//
 (4)これら全ての背後には構築主義思想(constructivist idea)があることを、忘れてはいけない。
 永続的に作出される対象としての社会、という考え方。
 驚くべきことは、この思想はその起源をロシアにもったに違いない、ということだ。驚くべきというのは、ロシアは、その思想が具現化されるのに最も適していない国だからだ。
 これはロシアの異質性(foreignness)に関係がある、と私は思う。
 西側は数世紀にわたって、ロシアは何かが出現しそうな、神秘的な国だという考えを抱いて生きてきた。
 このような感覚は、近代の始まりの時期にあった。
 ソヴィエトの神話が誕生するに際して、この神秘さは少なからぬ役割を果たした。
 全ての出来事ははるか遠くで起きた、奇妙なものだった。
 西側には、ロシアについての、一種の終末論的見方があった。共産主義よりも古い見方だ。//
 (5)もっと注目すべきなのは、多数の人々が共産主義思想を理由として、ロシアはヨーロッパの一国であるばかりかヨーロッパ文明の前衛(avant-garde)だと想像している、ということだ。
 ロシアが共産主義の覆面を剥ぎ取られた今日ですら、ヨーロッパの人々にはロシアをどう理解すればよいかが分からない。 
 ヨーロッパ人は、習慣と対比の両方から、もう共産主義でないのだから「リベラル」だ、と見なす。
 これは明らかに、馬鹿げている。
 我々が痛々しく再発見しているのは、ロシアはヨーロッパにとっていかに異質(foreign)か、ということだ。//
 ——
 第5章①、終わり。英訳書本文、p.31〜p.34。
 

2427/F・フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)⑦。

 François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20 th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012)
 序文—フランソワ・フュレとポール・リクール(Paul Ricoeur)/Christophe Prochasson ⑤。
 〈 〉は原文中で、斜字体(イタリック)の部分であることを示す。この欄の他の「試訳」でも同じ。
 ——
 序文・第3節②。
 (8)<省略>
 (9)本書が以下で示すとくに興味深いのは、〈幻想の終わり〉についてのフュレの最終的な考察を全て集めていることだ。この書物は彼の最後の本であり、彼に国際的な高名をもたらした。
 かくして、この考察は、知的な遺書だと見なされ得る。
 政治的な遺書でもある。民主主義の将来に関する著者の最後の怖れを再び述べているからだ。
 この主題に関する多数の他の著作を考えれば、本当に新しいものはない。しかし、若干の補正部分を発見することはできる。その部分はこの考察に感動的な次元を与えている。
 さらに加えて、この考察には、〈幻想の終わり〉がつねに論評の対象だった数ヶ月のあいだにフュレが決まって用いていた表現が見られない。
 わずかな違いは看取し得る。自己批判の途を開いており、あの書物の中心にあった一定の章の調子を弱めている。
 我々は、ノルテ(Ernst Nolte)に関連していると見た。
 それを、この書の全体主義に関する節に認め得るだろう。すなわち、フュレはつねにこの観念には批判的な距離をおいていた。一定の著述者がこの観念で持ち込んでいる濫用ぶりと怠惰さに、気づいていたのだ。
 彼は、最後に意を決して、その観念へと戻る。//
 (10)これで、読者には助言が与えられた。
 編集された文章の全てがそうであるように、以下のページは直接に過去から来ているのではない。 
 <1文、略>
 一つの見方からすると、喪失を伴うがゆえに、<口語から文語への>変更は痛ましい。
 彼の言い回し、長く抑制されている肺結核の負担のある息使いは、彼の会話に特殊な調子を与えている。
 他方で、口語から文語への変化が必要とする批判的な荷重は、くだけた口語体の文章にはしばしば欠ける主題を明確にしている。
 編集者として、とりとめもなく不完全に書いてきた。
 このことを明確にしておくことで、私は困惑作成者ではなく〈文章の演出者〉だと見なされることを望んでいる。//
 ——
 序文、終わり。
 なお、この本の成り立ちのほかF・フュレはすでに故人であることが背景的理由の一つだと思われるが、フュレによる本文計81頁(後注を除く)に対して、以上の「序文」だけで計27頁もある。通常の書物に比べて、やや多すぎるだろう(以上、試訳者)。

2426/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)⑥。

 François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20 th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012)
 序文—フランソワ・フュレとポール・リクール(Paul Ricoeur)/Christophe Prochasson ⑤。
 ——
 序文・第3節①。
 (1)(2)<省略>
 (3)1970年代以降リクールの近くで仕事をし(シカゴ大学でやはり教えていた)、またFrançois Azoubi が討論を仕切るよう頼んだJeffrey Barash (Barash は議論のあいだときには長々と喋った)のように、リクールは見えざる会話者になった。
 本書が示すように、リクールは全体に不在だったのではない。
 歴史家(フュレ)は哲学者(リクール)の論及、分析、回答、そしてときには異論に、反応している。
 近くで聴いている読者は、リクールの声をときどきは聞き分け、少なくとも考えを理解し、そうしてインタビューの様子、あるいはもっと正確にその調子を想像することができる。//
 (4)<省略>
 (5)指針は、可能なかぎり簡単だった。すなわち、1997年のフュレの草稿で使われている元々の言葉を尊重すること。
 フュレは著述の文体にとても注意を払っていたので、対話の過程を示す文章の順序は、二つだけの例外を除いて尊重された。
 二つのわずかな移動はフュレの論旨の一貫性を補強するためのもので、 私がカセットの番号と面を示した注記となって、この書物のフランス語版(この翻訳書ではない)の特徴になった。
 私はまた、フュレがリクールに宛てた1997年3月6日の長い手紙の主題に則した見出しを挿入するのが有益だと考えた。
 最後に、公刊される文章の会話での起源を想起させる、ときにある口語的表現の大部分は、そのまま残した。自分の著作で話し言葉を嫌うフュレを尊重して、一部は除去したけれども。//
 (6)<1文、略>
 フュレはときどき、うまく表現されていないと感じた文章を削除した。
 一つの例は、彼がどのように話し言葉を書き言葉に変えるかを示すに十分だ。
 最初のインタビューの第一ページで、フュレは、共産主義思想のソヴィエト同盟による具現化を、こう述べていた。
 「ソヴィエト同盟の歴史は共産主義思想とは何の関係もない、と容易に言うことができるがゆえだ—実際に人々は私にそう言った—。
 そして、その結果として、共産主義思想は、なおも無傷のままだ。
 私は全面的に同意する。
 政治では、これは完全に防御的な観点だ。
 しかし、歴史家はこれを防衛することはできない。なぜなら、私は、50年前に共産主義思想とはソヴィエト同盟だったことを示すことができるからだ。
 30年前、共産主義思想とはソヴィエト同盟だった。
 そして今日では、我々はソヴィエト同盟の経験を忘却することによって、またはソヴィエト同盟は共産主義と何の関係もないと言うことによって、歴史を粉飾することができる。しかし、これは歴史的には、防衛できるものではない。
 政治的には、正当化し得る。」//
 (7)フュレはこの文章を放擲し、つぎの段落の文章でもって補填した。
 「共産主義思想は、一つの抽象的思想として、ソヴィエト同盟の消失とは関係がない。
 共産主義思想は、資本主義社会と分ち難い欲求不満から、金銭が支配する世界への憎悪から、生まれたというかぎりで、その思想の「現実化」に依存していない。
 それが必要とするのはただ、ポスト資本主義世界の抽象的な希望だ。
 それにもかかわらず、そのときから、それの喪失を帳消しするのは不可能な歴史を持った。帳消し行為は左翼のあちこちで試みられているけれども。
 しかし、ソヴィエト同盟は社会主義や共産主義と何の関係もなかったと言うことで、たしかにこの歴史を取り消すことができた。あるいは、1924年までは全ては素晴らしかったが、その年に全てが悪くなったと言って、トロツキストの見方へと元戻りすることで。
 しかし、いったい誰が、こうした否認を信じることができただろうか?
 歴史の真実は、全員が記憶喪失者でない筈の多くの人々が目撃した真実は、ソヴィエト同盟はその歴史の全てを通じて、共産主義の希望を何とか具現化することができた、ということだ。その体制が存在しているあいだずっと、我々と時代をともに生きた多数の人々の心にあった希望を。
 私が理解しようとしているのは、この具現化の神秘であり、あんなにも特別で悲劇的な歴史の普遍的な不思議さだ。」//
 ——
 序文・第3節①、終わり。

2425/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)⑤。

 François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20 th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012
 序文—フランソワ・フュレとポール・リクール(Paul Ricoeur)/Christophe Prochasson ④。
 ——
 「序文」第2節②。
 (7〉どんな文章を、フュレは指し示したのか?
 <3文、省略>
 彼の第一の関心は、美しさがその内容の適切さから浮かび上がってくるような正しい言葉を見出すことにあった。
 かくして、彼はインタビューの最初の部分で、「幻想」と「ウソ」という言葉に関して整理することになる。
 「この二つの観念は重なり合っていない。ウソは策略のための意図的行為であり、幻想とは、想像に基づく熱情が発生させる過ちだからだ。
 共産主義は、体系的なウソで成るものだ。例えば無知な観光者のために組織された旅行や、より一般的には運動において〈agi-prop〉(煽動的プロパガンダ)が果たした役割が証明しているように。だが、その主な力は何か別のものに由来する。つまり、20世紀の人々の政治的想像力に対する影響。
 それは、ウソだけでは覆い隠すことのできない、共産主義がもつ神秘的な普遍性の根源にあるものだ。
 私が研究したいのは、まさにこの側面だ。すなわち、信念(belief)の歴史。
 この歴史を不思議なものにしているのは、(1) その信念が裁きの場としての「本当の(real)」歴史を認知していること、(2) それにもかかわらず、その信念はいわゆる「本当の」歴史によるきわめて激しい論難を生き延びた、ということだ。
 要するに、歴史家は、悲劇へと接合された希望をどのようにすれば説明することができるのか?」
 (8)第二の部分は、この最初の考察から容易に派生してくる。 
 フュレはかくして、政治的信念と宗教的信念の比較をすることをリクールに提案した。
 このような試みをすることは、対話の順序の全体的な変更を意味した。最初のインタビューでは、かなり表面的な形式でのやりとりがあって初めて現れるだろうこの問題は、無視されていたのだから。
 我々はここに、口頭での対話を生の素材だとフュレが理解していたことを知ることができる。その素材は、聴取者ではなく読者に提示する価値のある最終的な作品に変えられなければならないものだった。//
 (9)そして、第三の段階へといたった。
 二人の対話者はどちらも、分析を好んだ。フュレが十月の「魔法」と呼んだものについて彼は〈幻想の終わり〉の長くて密度の濃い章を使うことになるのだが、これが、会話の中心となった。
 「これに関して言うと、一定の文脈から掴み出して、討論の筋を取り戻す問題にすぎない(例えば、我々があまりに早く通り過ぎている問題だが、民主主義文化における普遍的なものとナショナルなものの間の関係)。
 この主題は、我々の議論の中核部分を構成する。」//
 (10)「幻想」の検証から厳密に言えば「全体主義という観念、その射程と限界、の分析」へと進むのは容易だっただろう。
 全体主義の観念はフュレには馴染みがないものだ。彼はこれをほとんど用いず、濫用を遺憾に思いつつ、この観念の利用を非難したくなるような政治的主題のあることを、しばしば指摘してきた。
 この部分で彼は、予期されなくもなかったが、ナツィとソヴィエト体制の関係や民主主義的Modernity はむろんのこと、ナツィとソヴィエト体制の比較の可能性のような、多くの関連する問題を持ち出すことになる。
 フュレはまた、Claud Lafort の全体主義権力に関するテーゼについての議論も予告した。そのテーゼでは、「多数の者を一つにすることによる集団的存在の中での、政治的団体思想への一種のギリシア芸術的回帰をしての、民主主義的諸個人の再統合」と把握される。//
 (11)フュレはこう書いた。「不可欠の叡智を用いる」ポスト共産主義の民主主義の将来でもって、公刊されるインタビューは終えることができた、と。
 こうした関心は、生涯の末でのフュレの「物悲しい」心の裡にあった。そして、リクールとの対話の間にしばしば浮かび上がったように見える。
 フュレの死の数週間前、1997年に撮られたインタビューの映像で、哲学者(リクール)は二つの全体主義の比較へと、そして彼が「留保」していた観念へと、戻っている。
 リクールにとって、二つのユートピアは、それらが採用した手段に多くの類似性はあるけれども、「比較不能な」ものだ。
 そして、西側文明を組成した偉大なるユートピアを殺してしまうことで、啓蒙主義的な楽観的見方は人類に未来を残さないäままで終焉した、とフュレは正しく考えてきた、と語って、リクールはフュレとの対話を再開していた。
 それ以降、民主主義によって惹起された革命的熱情は、いったいどうなったのか? 民主主義はいつも手続き的で、その熱情を満足させられなかった。
 二人がやり取りした文通には、この疑問が漂っていた、とリクールは肯定した。—悲しくも不完全になった—その文通はインタビューの書物化を準備していた数ヶ月のあいだ行われたが、その書物は日の目を見ることがなかった。//
 ——
 序文・第2節②、終わり。

2422/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)④。

 François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20 th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012)
 序文—フランソワ・フュレとポール・リクール(Paul Ricoeur)/Christophe Prochasson ③。
 ——
 「序文」第2節。
 (1)ノルテとフュレが歩んだ途の交錯が全くの驚きではないとすれば、フュレと哲学者のポール・リクール(Paul Ricoeur)の遭遇は、さらに予期され得ないものだった。
 たしかにこの二人のフランスの学者は、ともにシカゴ大学と関係があり、リクールは1970年以降、フュレは1980年以降、この大学で定期的に教えていた。
 しかしながら、この近接さだけでは結果を生まなかった。
 二人は大学で会っていたけれども、交際関係はなかった。
 彼らの知的および政治的行路が遠く離れているということはなかった。
 彼らの仕事の内容が全く似ていないということもなかった。
 そして二人は際限のない好奇心をもつ知識人だったけれども、誰も二人は異なる感受性または関心の対象をもっているとは考えなかっただろう。//
 (2)フュレとリクールが1989年3月4日に出会った証拠はある。その日、フュレはフランス革命に関する歴史叙述の変化についてSociété française de philosophie で講演をしていた。
 討議の中で—注目すべきことに、Maurics de Gandillac、Andre Sernin、Jacques Merleau Ponty も参加していた—、リクールはつぎのように質問した。
 「<省略—試訳者>」 
 フュレの回答は簡潔だったが、哲学者の仕事からするといくぶん陳腐だったとしても、褒め言葉を含んでいた。
 「あなたの書物に、とくにそこに示されている規律についてのあなたの考えに、歴史家たちは何と多大な関心を寄せてきたことでしょうか。」
 フュレは残りの時間を、若干の文章で反応した。フランス革命史でDenis Richet とともに展開した分析にある修正を付けて。会話は終わった。//
 (3)フュレとリクールが一緒に語り合い、共産主義の世紀の検証に取りかかるには、いくばくかの奇跡が必要だった。
 それは哲学者のFrançois Azoubi から生まれることになる。当時、Calmann-Levi の編集者だった。Robert Laffont のほか、この出版社によって、フュレは〈幻想の終わり〉の成功を獲得した。
 同じ年にポール・リクールによるインタビュー・シリーズである〈La critique et la convention〉を刊行していたので、Azoubi は、哲学者と歴史家の同様の遭遇を企画しようとした。
 フュレの本の重要さ、その稀に見る成功、その性質—歴史と哲学の中間—からすれば、ポール・リクールのような哲学者の注目を惹かないはずはなかっただろう。リクールは、思考と著述の方法に関して、歴史家たちに絶えず問いかける人物だった。
 Azoubi は、リクールが〈幻想の終わり〉を賞賛しているのを聞いた。リクールはその書物を、ペンを手に取りながら読んでいた。//
 (4)さらに、フュレの大著は、歴史家や自分自身の著作について叙述する際に、リクールが依拠することできるような類のものではなかった。
 それとは反対に、歴史認識というのは、フュレが科学的な考察をしようとはほとんどしなかった、むしろ懐疑的なものだった。
 だがなお、〈幻想の終わり〉はリクールの書棚の目立つ場所に置かれており、その書物の数十頁には彼自身の手によるメモが書かれていた。
 そうした頁には、率直な興奮の中に、疑問をもっての当惑も見られた。
 「どうしてこんなに断定的なのか?」
 「歴史的論拠は本当に十分なのか?」
 「どんな種類の歴史なのか?」
 「Pensr la Revolution française に関係」
 「イデオロギー的熱情の盟約」
 「だが、この終結で全部なのか?」
 「ブルジョアの素晴らしい素描」、等々。//
 (5)フュレとリクールの会話は、1996年5月27日に行われた。
 それは録音された。—テープは保存されなかったけれども。そしてすぐに、文字に起こされた。
 この最初の対談の痕跡は、Ecole des hautes etudes en sciences sociales(EHESS)のCentre d'etudes sociologiques et politiques Raymond Aron(CESPRA)のフュレ資料庫に残っている。
 最初の状態では公刊できないもので、体系的でなく、話し言葉ばかりで、多くを草稿化することが望ましかった。しかし、たぶん編集者だったAzoubi によると、将来の見込みが十分にあった。
 こうして、フュレとリクールは対談をできるだけすみやかに再開するよう、要請された。
 「François Azoubi は我々が会話をつづけて深化せることに賛成でした。このことで少なくとも、あなたとも一度、この冬に会うことが愉しみになりました。」(フュレ)
 すぐれた二人の知識人は忙しい生活を送っていたので、関係文書は数ヶ月の間、閉じられたままだった。
 再び開けられたのはつぎの春で、1997年3月19日に二人は再会した。//
 (6)その数日前の3月6日、フュレは対話者(リクール)に手紙を送った。
 この手紙は、言葉のやり取りの仕方を設定しようとし、素材を改めて調整することを提案していた。
 実際的に見ると、これは、録音から文字起こしした文書から、くだけた部分を全部削除することを意味していた。
 フュレが怖れた、間違って選んだ表現はむろんのこと、曖昧で自然に任せた部分は全て、思考が進行する動きを反映した構成をもつ、滑らかでよくこなれた文章に置き換えられなければならなかった。
 これは、とても興味深い手紙だ。口頭での言葉を書き言葉に変える作業を率直に明らかにしている。また、フュレがほとんど下品はお喋りだと考えたものを公にすることを歴史家や哲学者が受容しなければならないことの一種の暴露または欺瞞すらも、明らかにしている。
 フュレは、9月22日に、リクールにあててこう書いた。
 「こうした頁を読むとき、ぞっとするでしょう(私が語った言葉の全ての間違いのゆえにです)。」
 以下が示しているように、フュレの厳格さは過剰なものだった。//
 ——
 第2節②へとつづく。


 furet

2420/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)③。

 フランソワ.フュレ、うそ・情熱・幻想。
 =François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20 th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012)
 序文—フランソワ・フュレとポール・リクール(Paul Ricoeur)/Christophe Prochasson ②。
 ——
 (6)この成功の理由を、どう説明することができるか?
 共産主義について明らかにすべきことは、大して多くは残っていなかった。
 反共産主義文学の偉大な伝統を支えた気持ちの悪い記録は、もう消え去ったように思われた。
 フュレの貢献は、弾劾にあるのではなかった。
 彼もまた、前の世代の共産主義経験はつぎの世代のためには何のためにもなっておらず、同じ幻想を抱かせることはないことを知っていたし、しばしば悔恨をもって肯定した。
 じつにこのことこそがその書物の目的だったのだから。目的は、歴史の叙述をすることではなく、20世紀の共産主義思想が作り出した革命的熱情の力強さを説明することにあった。
 非難することではなく、理解することだった。
 諸現象、というよりもむしろ共産主義の消失の「謎(enigma)」の対象化が、この書物を有用にしたものであり、結論を異にする人々にとってはひどく苛立たせるものだった。//
 (7)こうした視覚からの著作が好ましく受けとめられたことには、たしかに、20年前にSolzhenitsyn の〈The Gulag Archipelago(収容所群島)〉が華々しい成功を収めたのに似た状況が有利に働いていた。
 二つの書物には一世代の違いはあるが、同じイデオロギー上の潮流に属している。
 共産主義を捨て去っていく長い過程は1970年代半ばまでには始まっており、通常は知識人界に含まれるいくつかの個人の集団ばかりではなく広く「左翼(Left-Wingers)」階層全体に影響を与えていた。その過程は、世紀の終焉とともに終わった。
 フランソワ・フュレが関心を持ったのは、この最終的な段階だった。
 彼の書物は死亡確認書であるとともに、解剖診断書でもある。
 激情が彼の大胆さを正当化している。犯罪科学の外科医には、死体を無慈悲に扱うことが許されているように。
 ナツィズムと共産主義の比較、さらに悪いことにこれら二つに共通するように見える頑迷な思考方法こそが、フュレが最も挑発的に論争対象にしようとしたものだった。
 (8)この点で多くの者は、ファシズムに関する三巻の大著の著者であるドイツの歴史家のエルンスト・ノルテ(Ernst Nolte)との対話を行なったとして、フュレを非難した。
 ノルテがドイツの右翼(Right)と親近的だったことは、彼(ノルテ)をほとんど異端者にした。とくに、国家社会主義とファシズムについてのドイツの歴史家たちが対立した1980年代の〈歴史家論争〉以降のことだが。
 ナツィズム、ファシズム、および共産主義の比較可能性は、ノルテが最も論争主題としたもの一つだった。
 フュレは、この種の禁忌に煩わされるような人物ではなかった。彼にはつねに、その見解ではとくに左翼は安易すぎるとして、知識人の知的順応性を批判する用意があったのだ。
 〈歴史家論争〉はおそらく、彼自身のフランス革命解釈をめぐっての騒然とした歴史的かつ政治的な論争を、生々しく思い起こさせるものだったに違いない。//
 (9)彼は、〈幻想の終わり〉の長い脚注の中で初めて、ノルテに対する異論を明らかにした。それは、その書物にはほとんど脚注がないことからしても、驚くべきことだった。
 彼は、20世紀の二つの形態の全体主義を並置させるのを禁じる、歴史の「反ファシスト」解釈を打ち破ったことについてノルテを称賛しつつも、ノルテによる反ユダヤ主義(anti-Semitism)の解釈には同意できないと表明した。
 フュレによると、ナツィの反ユダヤ主義を「理性的」に正当視するのは、きわめて「衝撃的でかつ間違った」ものだった。//
 (10)イタリアの雑誌の〈Liberal〉が、遠く隔たっている二人の主唱者が手紙を交換したらどうかと提案した。
 二人の歴史家は、1995年の末から書簡交換を始め、1996年じゅうずっと続いた。
 各手紙は、フランスの〈Commentaire〉とイタリアの〈Liberal〉で、1997年のあいだに公表された。
 文通の全体はイタリアで同年に公刊されたのだが、二人はその数ヶ月前の1996年に、ナポリのFondazione Ugo Spirito で開かれた会合で初めて出会った。
 彼ら二人は、1997年6月にナポリで開催されたリベラリズムに関する会合で、もう一度だけ逢うことになる。それは、7月12日のフュレの突然の死の、わずか数週間前のことだった。//
 (11)フュレはおそらく、この議論の後半でしばしば文通の相手に対して、フランス革命の歴史家は動揺している、または最終的には保守的立場へと転じた、という印象を与えたことを後悔していただろう。
 いずれにせよ、(本書で)つづくインタビューを読むと、フュレがノルテと遭遇したことが影響を与えている部分をいくつか看取することができる。ちなみに、ポール・リクール(Paul Ricoeur)は、ノルテと書簡交換したことを、少しも咎めてはいない。
 このインタビューは、ノルテとの遭遇を正当化する最後の機会だったように見える。
 フュレは威嚇されたのではない。それにもかかわらず、自分の選択に責任を取っている。——死の数日前に彼がノルテに書き送った最後の手紙で、リベラリズムに関するノルテの歴史的分析の「幅広さと聡明な寛容さ」を称賛した。——彼はときおり、苦い味が残ったと感じていた。//
 ——
 「序文」第1節、終わり。

2419/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)②。

 François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20 th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012)
 <試訳者注>つぎの「序文」は「+」を付けて一行空けている部分が二箇所あるので、便宜的に三つの節に区切る。
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 序文—フランソワ・フュレとポール・リクール(Paul Ricoeur)/Christophe Prochasson ①。
 第1節
 (1)フランソワ・フュレはかつてフランス共産党の活動家で、1949年に入党し、1956年のハンガリー蜂起に対する弾圧のあとで徐々に遠ざかった。彼はつねに、自分自身の過去に染み込んだ政治に関する考察を活発に行なってきた。
 彼は、共産主義の魔術に関して思考することを決して止めなかった。そして、彼によれば、共産主義は我々の物事に対する理解を曖昧にするものだった。—フランス革命についてそうであるように歴史についても、ソヴィエト同盟についてそうであるように厳密に政治についても。あるいはこれらは、歴史的具現物としての共産主義と、より一般的に関係していた。
 彼は休みなく、フランス革命に関する共産主義的歴史理解と闘った。そして、この最初の闘いを継続しつつ、革命の200年記念日が過ぎてベルリンの壁が崩壊したあとでは『共産主義という幻想』の歴史を含めて、分析の範囲を拡大した。//
 (2)彼は1990年代のまさに最初に仕事を開始し、共産主義に関する資料を集め、よく使われた書類をもう一度開き、新しい研究を古い考察や先入観念と結びつけた。
 彼の歴史研究上の転換点は、評論雑誌の〈Le Debat〉に公刊した長い論文で明確になった。
 そして、1990年10月、この歴史家は〈L'enigme de la desagregation communiste〉と題する論文を〈Note de la Fondation Saint-Simon〉に発表した。
 これは、数年後に〈幻想の終わり〉となったものの萌芽だった。//
 (3)1990年11月21日と22日に二つの記事のかたちで〈Le Figaro〉に掲載され、また11-12月号での〈Le Debat〉により、この『Note』は、フランソワ・フュレを共産主義の終焉に関する偉大な分析者の一人としての地位を確立することになる。
 Robert Laffont 出版社のCharles Ronsac はたまたま南西フランスのSaint Pierre-Toirac でのフランソワとデボラ・フュレの隣人だったのだが、論文をより実質的な書物にするよう彼を激励した。
 こうして、〈フランス革命の省察〉の著者は、彼が長年にわたって研究した革命的メッセージに含まれている約束実行の悲劇と共鳴するように思える別の世紀へと関心を移した。
 フランス革命に関する歴史家として賞賛したにもかかわらず「おぞましい書物」だと映画監督のJean-Luc Godardが見なした書物が、まさに生まれようとしていた。//
 (4)このこと(おぞましさ)は、書物の冒頭に置かれて「革命的熱情」と題された最も辛辣な章の一つの新しい〈Note de la Fondation Saint-Simon〉での事前出版によって確認された。
 1995年1月、〈Le Passe d'une illusion(幻想の終わり)〉が出版された。
 初回の注文は出版上の成功だった。すなわち、1ヶ月半の間に7万部が売れた。
 6ヶ月後、〈Le Nouvel Observateur〉でのベストセラーリストの上位にあった。
 1996年6月、10万部が売れた。そしてすみやかに、18言語へと翻訳されることになった。//
 (5)批判的な反応は、想定され得た。
 この書物は一般メデイア、テレビやラジオの文芸番組、文書媒体の主要な公刊物の注目するところとなった。むろん、政治家たちや著名なヨーロッパの知識人の注意も惹いた。この人々に対して、評論雑誌の〈Le Debat〉は、雑誌の特別号で議論の場を提供することになる。 
 反応の多くは、この書物の基本的主張(theses)を支持した。さらに重要なことに、力作(tour de force)だとして、この著作を賞賛した。
 実際に、Jean-François Kahnが何度もテレビで表明したように、確かな成功だと感じざるをえなかったことで、ある程度の人々は苛立った。
 最も信頼できるこの書物の対抗者たちですら、堂々たるこの著作に対する知的敬意を否定することができなかった。
 Denis Berger とHenri Malerは、いずれもトロツキー主義派なのだが、こう書いた。
 「〈Le Passe d'une Illusion :Essai sur l’idee communiste au XX siecle〉の良質さは、まさに衝撃的だ。
 激しく流れる語り口が印象的で、事象の再現は力強く、教示的だ。分析は、刺激的かつ鋭い。
 筆致は濃密であるとともに痛烈だ。」
 唯一の激しい否定的反応があったのは、極左(Far Left)の知識人たちだった。
 他の者たちも、とくに20世紀の最初の10年にならば、1980年代や1990年代に対する深刻な反発の間に、彼らの意見を付け加えたことだろう。
 Furetは、終わりを迎えようとしている世紀に左翼(the Left)を僭称する偉大な伝統に始末を付けたとして、責任追求され、有罪の判断を下される者に含まれることとなるだろう。//
 ——
 序文②へとつづく。

2418/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)①。

  François Furet(フランソワ・フュレ,1927-1997)には、20世紀の共産主義に関するつぎの大著があり、邦訳書が(いちおう)あるので「試訳」を掲載したことはないが、言及はときどきしてきた。ドイツのE・ノルテ、アメリカのT・ジャット等に関連していたからでもある。
 François Furet, Le Passe d'une Illusion :Essai sur l’idee communiste au XX siecle (1995).
 =(英語飯) The Passing of an Illusion -The Idea of Communism in the 20th Century (1999). 総計約600頁。
 =(独語版) Das Ende der Illusion -Der Kommunismus im 20. Jahrhundert (1996).  総計約720頁。
 =(邦語版) 幻想の過去 -20世紀の全体主義(楠瀬正浩訳,バジリコ,2007). 総計,約720頁。
 なお、最後の邦訳書の表題は「過去」→「終わり(終焉)」、「全体主義」→「共産主義」と訂正されるべき旨は、何度か記した。
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  François Furetには没後のつぎの書物もあり、主題について、上の大著と関係が深い。
 邦訳書はない、と見られる。
 以下、何回かに分けて、「試訳」する。全部は不可能だろうが、上の大著に関連する、著者以外による〈序文〉等も含める。
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 フランソワ.フュレ、うそ・熱情・幻想—20世紀の民主主義的想像力。
 François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012
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 訳者はしがき/Deborah Furet。
 あなたが読もうとしている書物は、たんにFrançois Furetが出版する最後の作品であるかもしれないというだけではない。
 この書物は、出版事業での小さな冒険でもある。
 この書物は、対話で生まれた。"Audiographie" シリーズは、Artieres とJean-François Bert がEdition de l'EHESSのために考案した。それは、文字となった話し言葉は著作者の考えだけではなく、思考の方法や過程にも光を当てることがありうる、という発想に基づいていた。この書物はそのシリーズの最初の一冊だ。
 この書物は、Furetが長時間一人で机に向かって仕事をして用箋に執筆した彼の他の著作とは違って、二人の人物の誠心誠意からの会話からできあがった。二人ともに、生涯にわたる思考を具体的に表明していた。//
 このシリーズの監修者のChristophe Prochasson は、この文章を綿密に吟味して編集しつつ、Furetの伝記を執筆した。そして優しくも、この冒険を少しばかり前進させるのを私に許してくれた。
 彼の序文は、この書物の区分けや区分けする過程での追加・変更を記して、読者を誘導するだろう。
 University of Chicago Press の編集者たちとともに私は、説明的な翻訳ではなくより適切で流暢な論考になるよう努めた。
 こうして我々は、付着した虚飾、テープに録られた部分と訂正された部分の印刷上の違い、テープ録音への全ての注記を含む一定の脚注を除外した。
 最初の出版は、もちろん、フランス語版で見ることができる。//
 1987年以降にFuretとともに仕事をしたMargarett Mahan に、真摯かつ心のこもった感謝を捧げる。民主主義の情熱へのこの宝石のごとき考察をするに際しての彼女の役割に対して。//
 ——
 ②「序文」へと続く。

2323/H.J.バーマン/宮島直機訳・法と革命I(2011)①。

  Harold J. Berman, Law and Revolution -The Foundation of the Western Legal Tradition(1983).
 =ハロルド·J·バーマン/宮島直機訳・法と革命I-欧米の法制度とキリスト教の教義(中央大学出版部、2011)。
 No.2291/2021.02.13はむしろ西尾幹二・ニーチェとの関係でこの書で触れた。→No.2291
 そこでは著者について「宗教史ないし法制史の学者・研究者」と書いた。しかし、より正確には主専門は「ソヴィエト法」だったようだ。
  この書物の熟読までには至っていないが、すでに重要な感想はある。
 この著で「革命」=Revolutionと称されるのは、つぎの6つだと見られる(邦訳書p.6, p.22-)。「」を付けない。ここでは年代・時期にも触れない。
 ①教皇革命、②イギリス革命、③アメリカ革命、④フランス革命、⑤ドイツ革命、⑥ロシア革命。
 秋月の文章になるが、これらは全て、第一に<ヨーロッパ>世界のものと捉えられていること(アメリカもロシアもヨーロッパの延長ないし辺境だとは言える—秋月)、かつ第二に(ロシア革命を含めて)<キリスト教>とその展開の中で位置づけられていること、が注目される。
 後者につき—「ヨーロッパの革命に共通しているのは、千年王国の実現を目指していたことである」(p.29)等々。
 この<ヨーロッパ>(ないし「欧米」)や<キリスト教>の文明・文化の中に日本はもともとはいなかったこと、明治以降にその「一部」を、あるいはその「表面」を吸収・継受してきたのだということに、深い感慨を感じないでもない。
  従って、以上の部分もすでにきわめて関心を惹く。しかし、それ以上に、さしあたりは強く印象に残ったことがある。
 それは著者=ハロルド·J·バーマンが「ロシア革命」を冷静にかつきわめて批判的に見ていることだ。
 ロシア革命がキリスト教の影響下での「ヨーロッパの革命」の一つであることについて、例えば以下。p.30-31。
 「アメリカ革命、フランス革命、ロシア革命では、千年王国は『地上の国』に実現するはずであった」。
 「6つの革命はキリスト教の終末論が前提になっていたが、キリスト教の終末論は、もともとは…ユダヤ教に特有の歴史観に基づいている」。
 また、「ロシア革命」に対する冷静かつ批判的な見方は、とりあえずはつぎに顕著なようだ。p.38-9。やや長く引用しておく。一文ずつ改行。
 「最初に登場してきた宗教的なイデオロギー、つまりキリスト教とは無縁な装いを凝らしながら、同時に宗教的な聖性・価値を主張した最初のイデオロギーは自由民主主義であった。
 そして、これに対抗して登場してきたのが、もう一つの宗教的イデオロギーである共産主義であった。
 1917年にロシアで共産主義体制が登場してくると、共産主義は宗教的な教義と変わらないものになった。
 また共産党は、まるで修道院のようになった組織になった。
 第二次大戦後のソ連で粛清の嵐が吹き荒れたとき、ある共産党員が口にした言葉は象徴的である。
 『救いは共産党のなかにしかない』。」
 「共産主義が主張する『法的な原則』と自由民主主義が主張する『法的な原則』は違っていたが、いずれも出自はキリスト教の教義である。
 たとえば『共産主義者の道徳指針』には、つぎのようなことが謳われていた。<略>」
 「さらにソ連の法制度では、法律に教育的な役割を期待しており、職場や近隣組織による『同志裁判』や『人民パトロール隊』などを使って、民衆を裁判に参加させたりもしていた。
 それも共産主義の理想が実現した暁には、すべての法制度と強制は消滅し、だれもがお互いに『同志となり、友人となり、兄弟となる』(これも『道徳指針』からの引用である)というような『黙示録』的な予言によって正当化されていた。
 ユートピア的な未来と強圧的な体制は、決して矛盾するとは考えられていなかったのである。」
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 引用、終わり。さらにへとつづける。

2315/J・グレイの解剖学(2015)⑧—Tismaneanu03。

 Johh Gray, Grays's Anatomy: Selected Writings (2015, New Edition)。
 試訳のつづき。
 この書には、第一版も新版も、邦訳書はない見られる。
 一文ごとに改行。一段落ごとに、原書にはない数字番号を付ける。
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 第7部/第41章・歴史の中の悪魔③。
 (10) 共産主義とファシズムが似ている別の点もある。
 ともに科学に基礎があると主張するが、いずれも千年紀(millenarian)の宗教の影響を受けていた。
 Bertrand Russel がその無視された古典の<ボルシェヴィキの実践と理論>(彼がソヴィエト同盟を訪問してレーニンと会話した後で1920年に出版された)で認めているように、いかほど過激で極端であっても、ボルシェヴィキは政治的な教理以上のものだ。
 攻撃的な世俗主義に立ちつつ、ボルシェヴィキの社会改造の衝動は、黙示録的神話(apocalyptic myths)によって強められた。
 千年紀運動に関するNorman Cohn の影響力ある仕事を参照して、Tismaneanu はこう書く。
 「レーニン主義も、ファシズムも、一連の千年紀的な社会学や心理学を生んだ。
 いずれも、徹底した千年至福説(chiliasms)に立ち、無条件に従う支持者たちの間に途方もない情熱を植え込んだ。」
 共産主義の千年至福説的性格は、新奇な主題ではなく、Tismaneanu の書の至るところで、現存する諸批判と力強く統合させるものになっている。
 彼が十分には探っていないのは、宗教的神話を現代の世俗的形態へと流し込む、共産主義というものの機能だ。—継続する魅力を説明する方法を見出すという役割。//
 (11) Tismaneanu は、Boris Souvarine を引用して、「極左と極右のイデオロギー的暴虐の中で野蛮主義と挫折した近代性を不思議さをもって混ぜ合わせている」という理由で、非正統のマルクス主義者を称賛する。
 しかしながら、<歴史の中の悪魔>の論述の論脈では、不思議なのは挫折した近代性という考えかもしれない。
 この書の別の箇所でTismaneanu は、共産主義とファシズムは、疑いなく野蛮だがなおも十分に近代的な、そういう発展のための選択肢的形態だ、と認めている。
 この点についての彼の曖昧さは、今日のリベラリズムについての彼の説明にある間隙を反映している。
 その論述の多くで、彼は、先進リベラル民主主義諸国では、共産主義においてなされた世俗的政治教理として宗教的神話を再生利用することは行われない、ということを前提にしている。
 しかし、西側が採った政策は、ソヴィエト後のロシアと東ヨーロッパ諸国は、経済的ショック療法の短い期間の後では、正常な発展の道へと方向を変え、リベラルな諸価値を採用するだろう、という考えにもとづいていた。—歴史上に根拠のない考え。
 ロシアとヨーロッパの多くでは、リベラルな諸価値は決して「ふつう」になってきていない。
 Tismaneanu は、「結局のところ」、1989年が先駆けとなった「ヨーロッパへの回帰」は「正常さと現代的生活様式」を支持している、と書く。
 しかしながら、かりに共産主義後(post-Communist)の諸国が正常さへと回帰したとすれば、—比較的におだやかだが現実にはある—有毒な範型の正常さへの回帰だ。そうした正常さは、20世紀の長い間ずっと大陸の多くにあったものだ。//
 (12) <歴史の中の悪魔>の盲点は、リベラルな社会で神話がもつ力だ。
 Tismaneanu は、「ヨーロッパにおける共産主義の崩壊は、選択可能な神話体系の余地を許し、救済幻想の蔓延を残した」と書く。
 彼は、ソヴィエトが崩壊した共産主義後の諸国に言及している。残った真空を埋めたのは、自民族中心のナショナリズムと、ユダヤ人はほとんどいない諸国でユダヤ人を悪魔視する、ホロコースト後の多様な反ユダヤ主義だった、と。
 しかし、ソヴィエトの崩壊の影響は、リベラルな社会は完全に近代的であり得る唯一の社会だという考えを褒めそやす、西側の民主主義諸国でも感じられた。
 推奨すべきことだが、Tismaneanu は、「究極的なリベラルの勝利」という、時代遅れの似非ヘーゲル的旋律を奏でるのを拒否する。
 しかしながら、問題は、リベラリズムが必然的に支配するか否かではない。—歴史の不可避性に関する、陳腐な議論。そうではなく、問題は、リベラルな社会は、彼が適切に表現する「近代性(modernity)という伝染性の傲慢」というものから逃れることができるか否かだ。
 共産主義の崩壊は唯一の真に近代的な生活様式—の勝利だという考え—経験的観察というよりも一種の終末論的神話だ—に取り憑かれている人々には、このような問題は生じない。
 そのような人々にとって、リベラリズムは解かれるべき歴史の謎であるとともに、それこそが解決だと示すものなのだ。//
 (13) 同じ神話—神の御意への宗教的信仰の一範型—が、共産主義による相変わらずの訴えかけを支えている。
 ボルシェヴィズムをツァーリズム(帝制主義)と区分けする特質の一つは、レーニンとその支持者たちの、社会を完璧に改修(overhaul)する必要があるという強い主張だった。
 旧態依然たる専制君主たちも、権力を維持するために必要だと思えば、漸次的に近代化するかもしれない。しかし、彼らは新しい模範型にもとづいて社会を再構成しようとは意図しない。ましてや、人間性の新しい類型で装おうとは。
 共産主義体制は、その再構成という変革を達成するために大量殺戮を行い、そして逆説的にも、リベラルたちが魅力をもったのは、この本質的に全体主義的な野望だった。
 あれこれの点で、ユートピア(夢想)主義とメリオリズム(改革可能主義)の陳腐な区別は、原理的なものではなくなっている。
 その主要な形態では、リベラリズムは、近年では人間性の宗教の一範型になってきた。そして、稀な例外を除いて—Russel は気づいている数少ない一人だ—、リベラルたちは、共産主義の実験を自分たちの改良構想の誇張な表現だと見てきた。
 実験が失敗しても、その大惨事は、進歩的な目標のために起きたのだ。
 これと異なって考えると—完全には人間ではないと判断された数百万の者たちは全く無為に死に、殺されたのだという可能性を承認すると—、歴史は継続する人間の前進の物語だという考え方に対して疑問を抱くことになるだろう。この歴史の見方は、今日のリベラルたちには一つの忠誠事項だ。
 以上が、逆の根拠が多数あるにもかかわらず、彼らの多くが今なお、共産主義のファシズムとの明確な親近性の承認を拒否している理由だ。
 共産主義の真の性質に盲目であるのは、過激な悪魔は進歩を追求するためにやって来ることがある、ということを受け入れることができないことを意味する。
  2013年//
 ——
 第42章、終わり。

2313/J・グレイの解剖学(2015)⑦—Tismaneanu02。

 Johh Gray, Grays's Anatomy: Selected Writings (2015, New Edition)。
 試訳のつづき。
 この書には、第一版も新版も、邦訳書はない見られる。
 一文ごとに改行。一段落ごとに、原書にはない数字番号を付ける。
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 第7部/第41章・歴史の中の悪魔②。
 (05) 20世紀の歴史に関する野心的で挑戦的な書物である<歴史の中の悪魔>は、二つの全体主義の実験の間に最初から存在した類似性を明らかにしている点で、もっとも啓発的だ。 
 Tismaneanu は、「重要な知識人たちにいまだにある共産主義ユートピアへの驚くべき心酔」を述べることで当惑している、と告白する。
 彼は、こう書く。
 「相対的には穏和なレーニンを維持して防衛するのは、もはや不可能だ。
 レーニン思想は、精神病質者のスターリンによって不埒にも歪曲された。
 スターリンとは違ってレーニンは、精神病の兆候を示さなかった。」
 ボルシェヴィキの教理の総体的な特質は、パラノイア〔偏執症〕の発現ではなく、方法上の暴力と学者ぶったテロルだった。
 彼ら自身の説明では、レーニンとその支持者たちは、一定の人間集団を人間界の潜在的可能性を実現するために破滅しなければならない、という信念にもとづいて行動した。
 自分たちをリベラルと見なす多数の者は、このことを無視しつづけている。そして、それは何故か、と問うに値する。
 (06) Tismaneanu は、こう示唆する。全体主義という概念が理論的範疇として適切か否かの学界での議論の基礎になっているのは、政治における悪魔についての問題だ。
 彼は正しく、二つの全体主義の実験のうちどちらがより悪魔的かを問うていない。—この問いは、結論が出ない、かつ同時に道徳的に不快な数字に関する論争へと容易に退化する接近方法だ。
 彼は<歴史の中の悪魔>で、いくつかの点で重大な違いがあることを承認する。
 すなわち、社会からの排除の結果としての死亡、テロル運動の一部としての殺人、—ユダヤ人がナツィスおよび多くのヨーロッパ諸国やドイツが占領したソヴィエト・ロシアにいた協力者たちによって受けたように−無条件の廃絶運動において死につながる印をつけられること。
 数字の比較は、この重大な道徳的違いを見落とす。
 過去の人間だという汚名が家族じゅうへと拡張される一方で、社会に再び受け入れられることは可能だった。「再教育」を甘受することで、情報提供者になることで、そして一般に体制側に協力することで。
 スターリンは人為的な飢饉を作り出して数百万人を餓死へと追いやり、タタールやKalmyks のような人々を追放し死に向かわせた。そのときスターリンは、彼らの完全な消滅を意図してはいなかった。
 成人男性のおよそ5人に1人が、収容所に入れられたと概算されている。刑事責任能力のある年齢が20歳の者も含むように下げられた(死刑の可能性を含んだ)あとには数を計算できない多数の子どもたちもいた。また、1945年以降には、大量の「女泥棒」(戦争未亡人)が加わった。
 しかし、収容所にいた人々のたいていは、生き延びてふつうの生活に戻ることができた。
 ほとんど生きて戻れなかった収容所の部門があつたけれども—Varlam Shalamov が<コルィマ物語>(Kolyma Tales)〔*試訳者注1—下掲*〕で叙述するような収容所—、ソヴィエトにはTreblinka〔*試訳者注2—下掲*〕はなかった。//
 (07) 諸事情によって—民族的後進性、外国による包囲といったもの—失敗はしたが本質的には人間中心主義(humanistic)の構想だったと信じたい人々は、Tismaneanu の論述に抵抗するだろう。
 しかし、彼が明確に指摘しているように、ソヴィエト国家は、ある範囲の人間は完全には人間ではないとする意味をもつ政策にもとづいて構築された。
 レーニンは一つの型の人間中心主義(humanism)を保持していたかもしれないが、それは現実に生存している人類の多くを排除するものだった。
 聖職者、商人、過去の特権階層、旧秩序に奉仕した役人たちが公民権を剥奪された理由は、たんに新しい体制に対して敵対する可能性がある、というのではなかった。
 彼らは、かつて存在した人間性(humanity)の一類型を代表していた。
 ボルシェヴィキは過去の人々の運命は革命の悲劇的な代償だと考えた、ということを示唆するものは何も存在しない。
 こんな余計な人間たちは、歴史のごみ屑にすぎなかったのだ。
 かりに過激な悪魔とは人類の一部には道徳性の保護を与えるのを拒否することにあるのだとすれば、レーニンが創出した体制は、疑いなくその性質をもっている。
 (08) 多数のリベラルたちがこのような事実を無視するのは何故か、という問題が残されている。
 これを説明する一つは、明らかに、共産主義構想のユートピア的性格だ。
 政治学では、過激な悪魔の別の顔は、過激な善良さの非人間的な範型だ。
 レーニンは、権力諸関係が存在するのを止める、国家や市場のない世界を想像した。
 ヒトラーは、不変の人種的階層制を権力が反映する世界を想像した。
 おぞましいナツィの見方を受け容れているまともな人間がいるとは、想定し難い。—その見方は、継ぎ目なく続く<有機体的>文化の<民族の>(völkisch)というキメラ、詐欺的な<人種科学>、革命的反資本主義を混合したもの(mix)だ。
 しかし、ドイツ人の大部分に対して、対立のない均質の社会という幻想が魅力をもったことを、否定することはできない。
 レーニンのきわめて異なる見方は、ある意味では、同様に忌まわしいものだった。
 その最も本質的な特質をもつ真正のマルクス主義者は、人間の生活の意味を創出するために考案した活動に、多様な形態がある余地を残さなかった。
 宗教、科学の実践、芸術は、人間自身のために、置き去りにされることになるだろう。
 人間の相続物で残存する僅かのものには、集団的福利と共同的労働によって、軛がかけられるだろう。
 これはおそろしく不毛な見方だったが、幸いにも、現実化される見込みはない。//
 (09) リベラルたちは、共産主義とファシズムは元々対立し合うものだった—一方は啓蒙主義的普遍主義から、他方は人種の純粋性という反啓蒙主義から現れた—と、反論するだろう。
 違いはある。しかし、共通性も同様にある。
 ナツィズムが人間の平等と普遍的な解放を否認したとしても、人種の階層制というナツィの構想は、啓蒙主義的思考の影響力ある要素を継承している。
 ナツィの「科学的人種主義」に先行したのは、<実証主義哲学者>の生理学にもとづく社会という科学の構想だった。そして、レーニンの平等主義的構想もまた、Francis Galton や(より明確な言葉を用いた)Ernst Haeckel のような19世紀の啓蒙主義思想家によって促進された、人間の不平等と優生学の理論に、科学の—歴史的唯物論という代用科学の—基盤を求めたのだ。
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 (試訳者注1) Varlam Shalamov(1907-1982), Kolyma Tales(Penguin Books, 2015, John Glad 訳)を参照。シベリア北東部、むしろアラスカに近い極北・極東の地域に、Kolyma 強制労働収容所があった。
 なお、ここでは立ち入らないが、Olando Figes, Just Send Me Word (<レフとスヴェトラーナ>)に登場する、レフと親しいペチョラ収容所の実験室長のストレールコフ(Strelkov)は、このコリィマ収容所の受刑者たちを援助・救済しようとしたことが「犯罪」とされて、受刑者=収監者としてペチョラ収容所に入ったようだ。のちにOlando Figes 著の試訳の際に、再度言及される。
 (試訳者注2) ワルシャワ東北近傍のTreblinka 収容所では、アウシュヴィッツ強制収容所に次ぐ数のユダヤ人が大量殺害に遭った、とされる。
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 ③へとつづく。

2312/J・グレイの解剖学(2015)⑥—Tismaneanu01。

 Johh Gray, Grays's Anatomy: Selected Writings (2015, New Edition)。
 試訳を1年ぶりに再開する。この書は計7部で46の章に分かれているが、それぞれが独立しているので、任意に選択している。
 この書には、第一版も新版も、邦訳書はない見られる。
 一文ごとに改行。一段落ごとに、原書にはない数字番号を付ける。
 ①ではL・コワコフスキ、②〜⑤ではEagleton とHobsbawm に関する章を取り上げて試訳した。
 →①コワコフスキ
 →②ホブズボーム
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 第7部/第41章・歴史の中の悪魔①。
 (01) ソヴィエト同盟で1918年1月に発布された<労働被搾取人民の権利の宣言>では、「過去の者たち」と見なされた人々は権利を剥奪された。
 Vladimir Tismaneanu はこの宣言について<歴史の中の悪魔>(注)で論じて、こう書く。
 ボルシェヴィキ用語で陳腐となった「byvshie liudi (過去の者たち)という語は、この語で表現される者は全くもって人間ではない、と示唆するという一致があるとは、ほとんで考えられていなかった。」
 権利を奪われた集団というのは、不労所得で暮らしを立てたよそ者の階級である帝制警察の職員、軍人たちや、すでに挙げた人々に経済的に依存する全宗教の聖職者たちを含むものだった。
 (多くの者にとって生活維持の主要な源だった)配給システムから除外され、資産没収を免れそうになく、公的官署への就職を禁止されて、この範疇に入る人々は—過去の者たちは世襲の条件のもとにあると理解されたがゆえに、その家族とともに—、社会から排除された。 
 Tismaneanu は、書く。「範疇分けのシステムは、後年につづいたテロルの先がけとなる分類法だった」。
 ある人間の集団には通常は人間であることに随伴する道徳的評価を否定して、この行為〔範疇分け〕は、過去の人間の残滓からなる社会を一掃する、ソヴィエトの企図の基盤を形成した。
 (02) 共産主義とファシズムは重要な点で同一だ、というのは、Tismaneanu の考えの基盤の一つでもある。
 彼には、つぎのことが明瞭だ。
 「共産主義はファシズムでは<ない>、そしてファシズムは共産主義では<ない>。
 全体主義の実験のいずれも、それら自身の独自の性格をもつ。」
 そうではあるが、これら二つは、大量殺戮を社会を操作するための正当な手段と見ることで、似ている。
 「共産主義は、ファシズムのように、一定の人間集団を正当に殺害することができるという確信にもとづいて、疑いなく、代わりとなる非リベラルな、その新しいものを構築した。
 共産主義者の構想は、ソヴィエト社会主義共和国連邦、チャイナ(中国)、キューバ、ルーマニアあるいはアルバニアのような諸国で、一定の社会集団は非礼で異質であり、正当に殺害することができるという確信に、まさに基づいていた。」
 (03) これは、20世紀の全体主義に関する議論での中心的論点となる考察だ。
 イタリアのファシズム理論家のGiovanni Gentile —全体主義を意味する制限されない統治システムを承認した—によって最初に展開されて以降すでに、この概念をめぐって多数の論争が生じた。
 共産主義とファシズムを多くの者が見れば、その構造、目標、支配する思想はあまりに似ていないために単一の範疇に含めることができず、ある者たちは、冷戦時の戦いを正当化するものにすぎないと見た。この概念は広く異論が唱えられて、顕著に流行遅れのものに変わった。—アカデミックな文脈では、破壊的に最終的な却下だった。
 全体主義の諸体制で生きてきた人々にとって、このことは、当惑させる成り行きだった。
 Tismaneanu は、生き生きと自分自身の経験を書く。
 彼は、ファシズムに抵抗する闘いの役割をもった共産党活動家となったユダヤ人の両親の子どもだった(父親はスペイン内戦で腕を失くし、母親は看護師として働いた)。
 彼は、十代のルーマニア共産党員のときに全体主義について最初に考え始め、密かに流布されていたArthur Koestler の<真昼の暗黒>を読んだ。
 のちに、ブカレスト大学の社会学の学生として、彼は、Raymond Aron、Hannah Arendt、Isaiah Berlin、Leszek Kolakowski のような著者や、その他の反全体主義の思想家の書物を何とか入手することができた。
 また、自分で「西ヨーロッパの文化的伝統」と呼ぶものに引き込まれ、彼は、<フランクフルト学派>について博士号論文を書いた。
 1981年にルーマニアを離れ、合衆国に定住して、ニコライ・チャウシェスクが頂点に登りつめた以降の原則的基盤にもとづいてルーマニアを再検討した。
 2006年、彼は共産主義独裁制の活動を検証するために設置された〔ルーマニア〕大統領の委員会の長になった。この指名は異論も呼び起こした。とりわけ、彼の両親と彼自身の共産党員だった過去を理由としてだ。
 (04) Tismaneanu はスターリニズム、ナショナリズム、そして全体主義に関して多数の研究書を刊行したが、それらは、チャウシェスク体制と彼の心を奪った戦時中のファシズムの間の類似性(parallels)に関するものだったように見える。
 「ルーマニアはマルクス主義の教義に託した社会主義国家であり、とくに1960年以降は明白に左翼だったけれども、支配党は、戦時中の<極右>の主題、発想、そして強迫観念(obsession)を抱き始めた」。
 チャウシェスクが権力を握った1965年以降、「イデオロギーは、レーニン主義の残余と公然とは語られないが間違いなくファシズムの、混合物(blend)となるに至った」。 
 Tismaneanu が悟ったように、「これは明らかな逆説だった」。
 ヨーロッパのファシズムは、狂気と悪辣な思想の寄せ集めだった。—とくに、聖職者権威主義、反リベラルのニーチェ的無神論、「血で思考する」新原始主義カルト、技術に対する近代主義的崇拝
 しかし、自民族中心のナショナリズム、人種差別主義、反ユダヤ主義は、それらのあらゆる変種とともにファシズムの特質だった。そしてそれは、<歴史の中の悪魔>の基盤を形成するこれらの極右の主題を、共産主義が抱きかかえたものだった。
 彼の両親がファシズムに抵抗するために共産主義勢力に加わったのだとすれば、Tismaneanu は、共産主義はファシズムの明確な特徴のいくつかを共有しているという事実に取り組んだ。//
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 (注) Vladimir Tismaneanu, 歴史の中の悪魔—共産主義・ファシズムと20世紀のいくつかの教訓(California University Press, 2012).
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 ①、終わり。

2250/L・コワコフスキ著第一巻第6章第3節②。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流/第一巻
 =Leszek Kolakowski, Die Hauptströmungen des Marxismus-Einleitung・Entwickliung・Zerfall. -Erster Band〔第一巻〕(P. Piper, München, Zürich, 1977).
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. -Vol. 1: The Founders(Oxford, 1978).
 第一巻第6章の試訳のつづき。
 第6章・1844年の草稿(=パリ草稿)・疎外労働理論・青年エンゲルス。
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 第3節・労働の疎外・非人間化される人間〔Die Entfremdung der Arbeit. Der entmenschte Mensch〕②。
 (4)しかし、労働者の解放はたんに私有財産〔私的所有〕の廃棄にもとづくのではない。
 共産主義は、ゆえに私有財産の否定も、多様な形態をとり得る。
 マルクスはとくに、古代の共産主義ユートピアの原始的な全的(totalitär)平等主義を考察した。
 マルクスからすると、これは、いかなる者の私有財産にもなり得ない物を全て、ゆえに諸個人を特徴づける点を全て、廃棄しようとする、一つの共産主義だ。
 この共産主義はまた、才能を消失させ、人間的個性の全てを消去しようとするもので、文明を摘み取ってしまう。
 このように理解される形態の共産主義は、疎外された世界を決して我が物にすることはなく、反対に、疎外を極端に増大させる。そこでは、労働者の現在の条件はかき乱されるだろう。
 かりに共産主義が私有財産〔私的所有〕の<完全な>(positive)廃棄を、そして自己疎外の廃棄を意味するのだとすれば、共産主義は<人間のために人間によって>人という種の固有の本性を獲得し、社会的存在として人間が回帰することになるはずだろう。
 このような共産主義は、人間と人間の、本質と存在の、個体と種の、自由と必然の間の矛盾を解消する。
 しかし、その言う私有財産の「完全な」廃棄とは、いったいどこに存在するのか?
 マルクスは、宗教の廃棄に喩えることを示唆している。
 人間を肯定するために神の否定にもはや依拠しないならば、無神論はその意義を一瞬にして失う。これと全く同様に、完全な意味での社会主義は人間性の直接的な肯定であり、私有財産の否定に依拠する必要はない。
 ゆえにまた、完全な意味での社会主義とは-確実に-、財産〔所有制度〕の問題が解消され、人々の意識に上ることがなくなる、そういう状態なのだ。
 社会主義は、長期間の残虐な歴史過程の結果としてのみ成立し得る。しかし、その完全な形態での社会主義は、全ての人間的本質の、全ての人間的特性と能力の全的(total)な解放なのだ。
 社会主義の新しい生産様式のもとでは、国民経済上の<富裕と困窮>に代わって、<豊かな>人間とそれと同時に豊かな<人間的>需要が生じるだろう。
 そして、「<豊かな>人間とは同時に、人間的な人生表現の全体性(Totalität)を<必要とする>人間のことだ」。(11)
 疎外された労働の条件のもとでの人間の需要の増大は疎外という現象の深化をもたらす。つまり、生産者は人為的な手段でもって需要を増加させようとし、人々を量的にますます多くの生産物に依存させようとする。この環境ではこうしたことは隷属状態を増加させる。これに対して、社会主義の条件のもとでは、需要の豊かさは、人間の本当の豊かさのうちに認められる。//
 (5)『経済学哲学草稿』(パリ草稿)はこのようにして、社会主義を人間性の本質を実現するものとして設定することを試みる。この論脈では社会主義は同時に、たんなる純粋で単純な理想だと叙述されるのではなく、歴史の必然的過程が進む自明の前提として想定されている。
 マルクスはこの理由で、私有財産も、労働の分割も、あるいは人間の疎外も、人間が自分自身の条件を適正に理解するに至るならばいつでも訂正することのできる『誤り』だとは考えない。そうではなく、マルクスはそれらを、将来の解放のための不可欠の条件だと考えている。
 『草稿』がかなり概括的にだけ述べている社会主義観(Sozialismus-Vision)では、それは人間相互、そして人間と自然の間の<全的で>かつ<完全な>調和だと考えられている。それは、人間の本質と人間の存在の完全な一体化は、すなわち人間の究極的宿命とその経験的存在の完全な調和は、将来に達成可能であることを前提にしている。
 このような意味での社会主義社会は、需要が完璧に充足される場所であるに違いない、ゆえにさらに発展する必要はなく、発展のための動機づけも必要がない究極的な社会に違いない、と想ってしまうだろう。
 マルクスは、このような言葉を用いてその社会主義観を表現してはいない。しかし、彼はこのような解釈を排除するように限定してもいない。そして、社会主義に関する彼の展望から明らかになるのは、社会主義は人間の対立の全ての根源が除去されている状態であり、経験的生活で『人間』(人間性の本質)が実現される状態だと把握されている、ということだ。
 マルクスが叙述するように、共産主義とは、「歴史の謎(Rätsel, riddle)を解くものであり、自らがその解決だと知っているものだ」。(12)。
 しかして、ここで生じる疑問は、歴史の謎の解決とは歴史の終焉と同じ意味ではないのか否か、だ。//
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 (11) MEW, Ergänzungsband(補巻), 1. Teil, S. 544を参照。
 (12) 同上, S. 536. <=マルクス・エンゲルス全集第40巻(大月書店、1975)、457頁。
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 第3節、終わり。次節の表題は、<フォイエルバハ批判>。

2215/Laura Engelstein のロシア革命通史 (2018年)。

 Laura Engelstein, Russia in Flames: War, Revolution, Civil War, 1914-1921 (2018年).という書物がある。
 著者(ローラ・エンゲルシュタイン)はアメリカの大学のロシア史専門の教授(名誉教授?)。
 書名を訳すのはむつかしいが、燃えるロシア、燃えさかるロシア、炎の中のロシア、炎上するロシア、といつた意味だろう。
 書名よりも、2018年出版のこの書は<ロシア革命>の通史を叙述している、ということが重要だろう。
 巻末に参考文献または参照文献に言及する<Biographic Essay>というのがあって、たんなる文献列挙に終わってはいない。
 ロシア語に習熟しているようで、先にロシア語文献に言及がある。
 そのあと英米語文献に移っている。ドイツ語・フランス語文献は出てこない。
 英米語文献として、個別事件・特定時期・特定主題のものが多数挙げられている。
 <ロシア革命>通史と言えそうなもので、かつ1990年以降の刊行の、ある程度長い単著としては、つぎの4つだけが挙げられている。
 ①Richard Pipes, Russian Revolution(New York, 1990)。
 ②Orlando Figes, A People's Tragedy: Russian Revolution: 1891-1924 (London, 1996)。
 ③Sheila Fitzpatrick, The Russian Revolution, 3rd ed.(Oxford, 2008)。
 ④S. A. Smith, The Russian Revolution: An Empire in Crisis, 1890-1928(Oxford, 2017).
 このうち①のパイプス著の一部はこの欄に試訳中で、③のフィツパトリク著は第4版のものを、この欄でいちおう全て、試訳した。
 ②は長く所持だけはして、ときに眺めている。この②の著者はこの欄で言う<レフとスヴェトラーナ>の執筆者でもある。
 ④には、一度か二度この欄で言及したが、まとまった試訳を始めてはいない。
 2017年(ロシア革命100年)という近著のためもあってか、上の書の④への評価は高いようで、「…諸問題と…その解釈に関するおそらく最良の入門書」と記している。
 これら以外の通史ものとして列挙されている単著は、つきの3つで、いずれも戦前のものだ(1997年の編著=複数の者の共著が1つ挙げられているが、単著でないので省略)。
 ①John Reed, Ten Days that Shook the World(1919)。
 ②Leon Trotzky, History of the Russian Revolution(1932)。
 ③William H. Chamberlin, The Russian Revolution, 1917-1921(1935, 再1965)。
 これらの中に、E. H. Carr のものがないのが興味深い。
 今日では、かつてのようには、E. H. Carr の<ロシア革命>本は基本書では全くなくなっている、ということなのだろう。
 **
 ロシア革命といっても-日本の「明治維新」も同様だろうが-、その始期と終期の捉え方は論者、執筆者によって一様ではない。
 ③S・Fitzpatrickはその著で「二月革命」が始期であることには一致があるとたしか書いていたが、<ロシア革命>概念に含まれるか否かを問わず、それ以前から書き起こすことは少なくないだろう。
 L・Engelstein の著は書名に「1914-1921」と付けているので、第一次大戦辺りから始めている。
 ①Richard Pipes の著はのちの別の大著(1994年)の刊行後に「1899-1919」と書名に追記したようで、この記載のとおり、もっと早くから始めている(元々は十月「革命」以前のStruve あたりが彼の最初の研究主題だった)。
 ②Orlando Figesの著も書名の副題に「1891-1924」とあるように、やはり旧帝制時代から始める。
 上に挙げられていないが、岩波書店刊行の邦訳書(2005年)がある、Robert Service, The Russian Revolution 1900-1927(3rd ed., 1999) は(初版は1986)は、書名のとおりで大戦前の1900年辺りからのようだ。
 なお、このRobert Service 著はレーニン・ボルシェヴィキらにまだ寛容だ。岩波が邦訳書を発行するような内容のためか、他のものよりも分量が少ないためか、L. Engelstein がこの著に言及していない理由ははっきりしない。
 終期も上のとおりで、S・Fitzpatrickは1936-37年辺りの「大テロル」までを叙述するが、Richard Pipes の著は別著にかなり譲って、1919年までとしている。したがって、ネップ(新経済政策)は前者・Fitzpatrickの対象に含まれ、後者・ Pipes には含まれない。
 ②・④のOrlando Figes、S. A. Smith の著もN.E.Pも含めて、前者と同じだ。
 1921年の「新経済政策」導入決定からスターリンへの権力移行までを<レーニン時代>とすると、1921-24年あたりまで、従って内戦・戦時共産主義の時代(+対独講和・コミンテルン結成・飢饉)を含めるのが、当欄の執筆者のような者には分かりやすい気もする。
 但し、一般の歴史書ではないが、L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流/第二巻・第三巻(1976、英訳1978)では、ネップ(新経済政策)は<スターリン時代>の最初の方に出てくる。
 以上、この機会に追記しておいた。 
 

2166/L・コワコフスキ著第三巻第13章第6節⑤。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終第13章の最終第6節の試訳のつづき。
 第13章・スターリン死後のマルクス主義の展開。
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 第6節・毛沢東の農民マルクス主義⑤。
 (40)調和のとれた共産主義的社会秩序に対する毛沢東の不信は、明らかに、伝統的なマルクス主義ユートピア像と一致していない。
 しかし、毛沢東はさらに、異なる未来像を考察するまでしていた。すなわち、全てが変化して長期的には全てが死滅するので、共産主義は永遠のものではなく、人類自体もそうではない。
 「資本主義は社会主義となり、社会主義は共産主義となる。そして、共産主義社会は、さらに変革されるだろう。共産主義社会にもまた、始まりと終わりがある。
 猿はヒトに変わった。そして人類が発生した。
 最終的には、全人類が消滅するだろう。別の何かに変わるかもしれない。地球それ自体もまた、存在することをやめるだろう」(Schram, p.110)。
 「将来に、動物は発展し続けるだろう。
 人間だけが二つの手をもつ資格がある、とは思わない。
 馬、雌牛、羊は進化することができないのか? <中略>
 水にもまた、歴史がある。
 もっと前には、水素も酸素も存在しなかった」(Schram, p.220-1)。//
 (41)毛は同じように、中国の共産主義の未来が保証されているとは考えなかった。
 ある世代がいつか、資本主義を復活させるときが来る。
 しかし、そうであっても、その後世の者たちがもう一度、資本主義を打倒するだろう。//
 (42)正統マルクス主義から本質的に離反しているもう一つは、農民崇拝(cult)が共産主義の主柱としてあることだ。ヨーロッパ共産主義ではこれに対して、農民は革命闘争の補助勢力にすぎないし、そうでなければ、蔑視された。
 毛沢東は、1969年の第9回党大会で、人民軍が都市を制圧するのは、さもなくば蒋介石が都市部を維持し続けただろうから、「よい事」だった、しかし、そのことで党内の腐敗が生じたので、「悪いこと」だった、と述べた。//
 (43)肉体労働の崇敬を含む農民と田園生活の崇拝によって、毛主義の特質の多くを説明することができる。
 マルクス主義の伝統は身体労働を必要悪と見なし、技術の進歩によってその必要悪から徐々に解放されるだろうと考えた。
 しかし、毛沢東の考えで、身体労働にはそれ自体の崇高さがあり、他のもので代替できない教育的価値がある。
 学生や生徒が時間の半分を肉体労働に捧げるという考えは、経済的必要によるというよりも、それと同じ程度以上に、人格を形成するための影響力によるものだった。
 「労働を通じての教育」は普遍的な価値をもち、毛主義の平等主義の考えと密接に関係している。
 マルクスは、肉体労働と精神労働の差異はいずれは消滅する、もっぱら頭を使って働く一群の人々と筋肉だけを使って働く人々がいるべきではない、と考えた。
 「完全な人間」というマルクスの理想の中国版は、知識人には樹木を伐採させたり溝を掘らせ、大学教授たちはほとんど読み書きのできない労働者の隊列の中から集められなければならない、というものだった。
 なぜなら、毛沢東が明瞭に述べたことだが、無学の農民ですら知識人たちよりも経済問題をよく理解している。//
 (44)しかし、毛沢東理論はさらに進んでいる。
 学者、文筆家、芸術家が農村の労働や特別の施設(つまり強制収容所)での教育的労働へと放逐されなければならないのみならず、知的な作業は容易に道徳的頽廃に変わり得ることや、人民が多数の書物を読みすぎるのを是非とも阻止しなければならないことを、認識しなければならない。
 この考え方は、毛の演説や会話の中で多様なかたちをとって頻繁に出てくる。
 毛沢東は一般に、人民は知れば知るほど悪くなる、と考えていたように見える。
 彼は成都(Chengtu)での1958年3月の党大会で、歴史をとおして見て、ほとんど知識のない若者の方が教養ある者たちよりも良かった、と述べた。
 孔子、イエス、ブッダ、マルクス、孫文(孫逸仙, Sun Yat-sen)は、彼らの思想を形成し始めたときにはまだきわめて若くて、多くのことを知っていなかった。
 ゴールキ(Gorky)は2年間だけ学校に行き、フランクリンは街頭で新聞を売った。
 ペニシリンの発明者は、洗濯屋で働いていた。
 1959年の毛の演説によると、漢の武帝の時代に、首相のChe Fa-chih は、無学だったが詩を作った。しかしながら、彼自身は無学(illiteracy)と闘うのに反対しなかった、と毛は付け加えている。
 1964年2月の別の演説で述べたのはこうだった。明王朝には二人しか良い皇帝はいなかったが、二人ともに無学だった。そして、知識人たちが国を乗っ取ったときに、国は荒廃し、破滅した。
 「書物を多すぎるほど読むのは、有害だ。
 我々は、マルクスの本を読むべきだが、多すぎるほど読んではいけない。
 十冊かそれくらい(a dozen or so)読むので十分だろう。
 あまりに多く読みすぎると、我々の反対物へと向かい、本の虫、教条主義者、そして修正主義者になる可能性がある」(Schram, p.210)。
 「梁王朝の武帝は、初期の時代には相当に良かったが、のちに多数の書物を読んだ。そして、もはや十分には仕事ができなかつた。
 彼は、T'ai Ch'eng で、飢えて死んだ」(同上、p.211)。//
 (45)こうした歴史的考察から得られる道徳は明瞭だ。すなわち。知識人は農村へと労働ををすべく送られなければならず、大学や学校で教育する時間は削減されなければならない(毛沢東はしばしば、知識人は全段階の教育を受けるのが長すぎると述べた)。そして、入学は政治的な規準に従わなければならない。
 最後の点は、党内部で激しい論争があった問題だったし、現在でもそうだ。
 「保守派」は、少なくとも一定の最小限度の学問的規準が入学や学位の授与には適用れさるべきだと主張した。一方、「急進派」は、社会的出自と政治的意識以外のものは何も考慮されるべきではない、と考えた。
 後者は明らかに、毛沢東の考えと一致する方向にある。毛は1958年に、満足感をもって二度、中国人はどんな好む絵でも描くことができる白紙のようなものだ、と述べた。
 //
 (46)知識、専門家主義および特権階級によって創造された文化全体に対する深い不信感は、明らかに、中国共産主義の農民起源性を示している。
 この不信感はどの程度にマルクスの教理、レーニン主義を含むヨーロッパ・マルクス主義の伝統と矛盾しているかを論証する必要はない。ロシア革命の最初には、教育に対する類似の憎悪の兆しがあったのだけれども。
 教育を受けたエリート(élite)と大衆の間の深い溝が以前はロシア以上に深かったように見える中国では、無学の者は当然に学者たちに優先するという考えは、下からの革命がもつ完璧に自然な結果であるように見える。
 しかしながら、ロシアでは、教育や専門家主義に対する敵意は、決して党の基本的政策方針の特徴ではなかった。
 党はもちろん、古い知識人層を一掃し、人文学研究、芸術および文学を、政治的なプロパガンダの道具に変え始めた。
 しかし、同時に党は、専門家尊重を宣言し、高い程度の専門化にもとづく教育制度を発展させた。
 ロシアの技術、軍事および経済の近代化は、かりに国家イデオロギーがそれ自体のために無知を称揚して多数の本を読みすぎないよう警告していたとすれば、全く不可能だっただろう。
 しかしながら、毛沢東は、中国はソヴィエトのやり方では近代化しないし、そうできないだろうことを自明の前提としていたように見える。
 毛はしばしば、他国の「盲目的」模倣に反対して警告した。
 「我々が外国から模倣する全ては、厳格に採用された。だが、それは大敗北に終わった。白軍の領域での党組織はその強さの100パーセントと革命的基盤を失い、赤軍はその強さの90パーセントを失った。そして、革命の勝利は長年の間、遅れた」(Schram, p.87)。
 別の場合について、ソヴィエト範型の模倣は致命的影響を及ぼす、と毛は観察していた。彼自身が3年間、卵と鶏のスープを飲食できなかったが、それは、あるソヴィエトの雑誌がそれらは人の健康に悪いと書いていたからだった。//
 (47)こうして、毛主義はエリート(élite)文化に対する農民の伝統的な憎悪(これは例えば16世紀の改革の歴史によくあった特質だった)を表現するのみならず、中国人の伝統的な外国恐怖症、そして外国や白人出自のもの全てに対する不信をも、示していた。白人たちは一般に、帝国主義的浸食を支持していた。
 中国のソヴィエト同盟との関係は、こうした一般的態度を強化したものにすぎなかった。//
 (48)同一の理由で、中国人は工業化の新しい方法を探し求めた。
 これは「大躍進」の大失敗で終わったのだったが、その背後にあったイデオロギーは放棄されなかった。
 毛沢東とその支持者たちは、社会主義の建設は「上部構造」で、つまり「新しい人間」の創出でもって始まらなければならない、と考えた。
 この考えは、イデオロギーと政治は蓄積率に関するかぎりは最優先されるべきだ、社会主義は技術的進歩や福利の問題ではなく、諸制度と人間諸関係の集団化の問題であり、その集団化から、理想的な共産主義諸制度を技術的に未熟な条件のもとでも生み出すことができる、というものだった。
 しかしながら、これらのためには、旧来の社会的連関や不平等の原因となる条件の廃棄が必要だ。そのゆえに、とくに国有化に抵抗する家族的紐帯を破壊しようとする中国共産党の熱情は、私的な動機づけや物質的誘導(「経済主義」)に反対する運動とともに、強いものだった。
 もちろん、熟練技術や行う仕事の種類を理由として、報酬はある程度は区別されていた。しかし、ソヴィエト同盟と比べれば、その差は少なかったように見える。
 毛沢東が考えていたのは、人民が適切に教育されれば彼らは特別の誘導がなくとも懸命に労働するだろう、「個人主義」と自分自身の満足を目指す願望はブルジョア的心性の有害な残存物であって排除されなければならない、ということだった。
 毛主義は、全体主義ユートピアの典型的な例だ。そこでは、全てが個人の善とは反対の意味での「一般的な善」に隷従しなければならない。「一般的な善」が個人の善を除外してどのように明確になるのかは明瞭ではないけれども。
 毛沢東の哲学は、「個人の善」という観念を用いなかった。「個人の善」はソヴィエト・イデオロギーでは重要な役割を果たし、かつあらゆる形態でのヒューマニズム的用語法を避けもした。
 毛沢東は、「人間の自然的権利」という観念を明示的に非難した(Schram, p.35)。すなわち、社会は敵対的階級によって構成されているのであり、共同体もそれら階級の間の相互理解も存在し得ない。また、階級から独立したいかなる文化形態も存在しない。
 「赤い小語録」は、こう語る(p.15)。「我々は、敵が反対するものは何でも全て支持し、敵が支持するものは何でも全て反対しなければならない」。-これはおそらく、ヨーロッパのマルクス主義者ならば書かなかった文章だろう。
 過去、伝統的文化、そして階級間の溝を埋める可能性のある全てのものと、完璧に決裂しなければならない。//
 (49)毛自身が繰り返した声明によれば、毛主義は、特殊中国的な条件にマルクス主義を「適用したもの」だ。
 すでに行った分析から分かるだろうように、毛主義は、レーニンによる権力奪取の技術の用い方として、より正確に叙述されている。マルクス主義のスローガンは、マルクス主義とは疎遠であるか矛盾するかする思想や目的を偽装するものとして役立った。
 もちろん、「実践の優先」は、マルクス主義に根ざす原理だ。しかし、読書は有害だ、無学の者は教養ある者よりも当然に賢いという推論を、マルクス主義の語彙でもって防御することは、じつに困難だろう。
 最も革命的な階級であるプロレタリアートにとっての農民の補充性という考えは、マルクス主義の伝統全体と、明らかに合致していない。
 同じことは、階級の対立は絶えず発生せざるを得ない、そのゆえに定期的な革命でもって解消されなければならない、という意味での「永続的革命」という考えについても言える。
 精神労働と肉体労働の「対立」を廃棄するという考え方は、マルクス主義的だ。しかし、身体労働を最も高貴な人間の仕事として崇敬することは、マルクスのユートピアの醜怪な解釈だ。
 農民が労働の分割によって腐敗していない「完全な人間」の至高の代表者だという考えは、ときには前世紀のロシアの人民主義者(populists)の間に見ることができる。しかし、これまた、マルクス主義の伝統と全く矛盾するものだ。
 平等という一般的原理は、マルクス主義的だ。しかし、知識人たちを米の田畑に追い払うという政策にこの平等原理が具体化されるとマルクスは考えた、と想定するのは困難だ。
 いくぶんか時代錯誤的に比較するならば、我々はマルクス主義の教理の観点から、毛沢東主義は原始共産制の類型の一つだ、と見なしてよい。その原始共産制は、マルクスが述べたように、私的所有制を克服するものではないのみならず、私的所有制にすら到達していない。//
 (50)一定の限られた意味では、中国共産主義はソヴィエトのそれよりも平等主義的だ。
 しかしながら、それはより全体主義的でないのが理由ではなく、より全体主義的だからだ。
 賃金や給料に差が少ないのは、より平等主義的だ。
 階位を示す軍の徽章のような階層性の表徴は廃止され、体制は一般にはソヴィエト同盟よりも「人民主義」的だ。
 民衆を統制下におき続けるためにより重要な役割を果たしているのは、地域または労働場所ごとに組織された諸制度だ。そして、職業的な警察の役割は、それに応じて小さい。
 普遍的なスパイ活動と相互告発のシステムは、多様な種類の地方委員会をつうじて作動しているように思われるし、市民の義務だと公然と見なされている。
 他方で、ボルシェヴィキがかつて得た以上の民衆の支持を毛沢東が獲得しているのは、本当だ。よって、ボルシェヴィキがそうだつた以上に、毛沢東の力は信頼されている。
 このことは、外部に向かって発言せよと人々に何度も指令した(スターリンも場合によってはこれを採用した)ことよりも、文化革命の間に既存の党機構を打倒すべく若者たちを煽動するというリスクを冒したことに見られる。
 しかし他方で、混沌の全期間をつうじて、彼が権力と実力行使の装置を握りつづけたことは明瞭だ。これら装置によって、助言に従う者たちが過剰になるのを抑制することができた。
 毛は何度も、「民主集中制」という福音を繰り返した。そして、彼のこれに関する解釈がレーニンのそれとどのように違っていたのかは、明瞭でない。
 プロレタリアートは党をつうじて国家を統治し、党の諸活動は紀律にもとづき、少数者は多数者に服従し、そして全党は中央指導層に従う。
 民主集中制は「まず何よりも、<中略>正しい考えの中央集権化だ」(Schram, p.163)と毛沢東が説くとき、そこに疑いなくあるのは、ある考えが正しい(correct)か否かを決定するのは党だ、ということだ。
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 ⑥へとつづく。

2161/L・コワコフスキ著第三巻第13章第6節②-毛沢東。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終第13章の試訳のつづき。
 第13章・スターリン死後のマルクス主義の展開。
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 第6節・毛沢東の農民マルクス主義②。
 (10)数年後の1942年、毛沢東は支持者たちに宛てて「芸術と文学」に関する文章を書き送った。
 その主要な点は、芸術と文学は社会諸階級に奉仕するもので、全ての芸術が階級によって決定されるのであり、革命家たちは革命の惹起と大衆に奉仕する芸術の様式を実践しなければならない、ということ、また、芸術家と文筆家は大衆の闘争を助けるべく自分たちを精神的に改造しなければならない、ということだった。
 芸術は芸術的に善であるだけではなく、政治的に正しくなければならない。
 「人民大衆を危険にさらす全ての暗黒勢力は暴露されなければならず、大衆の革命的闘争は称賛されなければならない。-これは、全ての革命的芸術家と文筆家の根本的任務だ」(Anne Freemantle 編<毛沢東・著作選集>、1962年, p.260-1)。
 文筆家はいわゆる人間愛の道へと迷い込まないよう警告された。敵対する諸階級に分裂する社会に、そのようなものは存在し得ないからだ。-「人間愛」は、所有階級が発案したスローガンだ。//
 (11)以上が、毛沢東の哲学の要点だ。
 看取できるだろうように、レーニン=スターリン主義のマルクス主義がいう若干の常識を幼稚に繰り返したものだ。
 しかしながら、毛の独創性は、レーニンの戦術的訓示を修正したことにある。
 これは、そして中国共産党の農民指向は、毛と中国共産党の勝利の最も重要な理由だった。
 「プロレタリアートの指導的役割」は、イデオロギー的スローガンとして力を持ったままだったが、革命の過程のあいだずっと、そのスローガンは、農民ゲリラを組織する共産党の指導的役割を意味するにすぎなかった。
 毛沢東は、ロシアとは異なって中国では、革命は地方から都市へと到来する、と強調した。彼は貧農は自然の革命的勢力だと考え、そして-マルクスやレーニンとは反対に-、貧困の程度に比例して社会各層は革命的になる、と明確に言明した。
 彼が堅く信じたのは、農民の革命的潜在能力だった。中国のプロレタリアートはきわめて少数であることだけが理由ではなく、その原理こそが理由だった。
 「農村による都市の包囲」というスローガンは、さかのぼる1930年頃の党指導者、李立三(Li Li-san)のそれと反対だった。
 コミンテルンの指令に従順な当時の「正統な」革命家たちは、ロシアに従った戦略を推進した。その戦略は、工業中心大都市の労働者によるストライキと反乱に重点を置くもので、農民の戦いは補助的だと見なしていた。
 しかしながら、有効だと判明したのは毛の戦術で、のちに彼は、中国革命はスターリンの助言に逆らって勝利した、と強調した。
 1930年代と1940年代のソヴィエトの中国共産党に対する物質的援助は、名目的なものにすぎなかったように見える。
 おそらく-何の直接的証拠もない憶測にすぎないが-、スターリンは、かりに共産党が中国で勝利したとしてもソヴィエト同盟に従属させて5億万の民衆を維持することを長期的には望めない、と認識し、そのゆえに全く合理的に、中国が弱く分裂していて、軍閥による騒乱が支配していることの方を選んだのだろう。
 しかしながら、中国共産党は全ての公式声明でソヴィエト同盟への忠誠さを発表し続けた。1949年にスターリンは、新しい共産党の勝利を歓迎して、手強い隣国を衛星国にすべく最大限に努力せざるを得なかった。//
 (12)中国・ソヴィエト間の対立はイデオロギー上の異なる考えによるのでは全くなく、中国共産党の自主性と、想定されるだろうように、中国革命はロシア帝国主義の利益とは矛盾するものだった、ということによる。
 毛沢東は1940年の「新民主主義について」の論考で、中国革命は「本質的に」農民の要求にもとづく農民革命であり、農民に権力を与えるだろう、と書いた。
 同時に彼は、農民、労働者、中低階層や愛国的ブルジョアジーから成る、日本に対する統一戦線の必要性を強調した。
 彼は、新しい民主主義の文化は、プロレタリアートの、つまりは共産党の指導のもとで発展する、と宣言した。
 要するに、毛の当時の基本政策は、「第一段階の」レーニン主義と類似していた。すなわち、共産党が指導する、プロレタリアートと農民の革命的独裁。
 彼は1949年6月の「人民民主主義独裁について」の演説で、同じことを繰り返した。土地が社会化され、階級が消滅し、「普遍的な兄弟愛」が確保される、そのような「次の段階」について、もっと強く述べたけれども。
 (13)共産党が勝利した後の数年間は、波風の立たない中国・ソヴィエトの友好関係の時期だったように見えた。中国の指導者たちは、兄に対して特段の敬意を払った。しかし、のちに明らかになるように、そのまさに最初の国家間交渉に際して、深刻な軋轢がすでに発生していた。
 当時は、明確に区別される毛主義の教理について語るのは困難だった。
 毛沢東自身がいくつかの場合に指摘せざるを得なかったように、中国には経済の組織化の経験がなく、ゆえにソヴィエト・モデルを模倣した。
 ようやくのちに、このモデルは若干の重要な点で、すでに中国革命に潜んではいたが明確なかたちでは表現されていなかったイデオロギーとは矛盾するものであることが、明らかになるに至った。//
 (14)中国は1949年以降に、いくつかの発展段階を高速で通過した。その各段階には伴ったのは、毛主義の結晶化(crystallization)に向かってのさらなる進展だった。
 1950年代、中国はソヴィエトの進化の過程を、より早い速度でもう一度辿っているように見えた。
 大規模保有の土地は、必要な農民のために分割された。
 私企業は数年間の限定の範囲内で許容されたが、1952年に強い統制のもとに置かれ、1956年に完全に国有化された。
 農業は1955年から集団化された。最初は協同組合の手段によってだったが、すみやかに公的所有の「高度に発展した」形態によることになった。但し、農民たちはまだ、私的区画(plot)を保持することが許された。
 このときに中国共産党は、ロシアに従って、重工業の絶対的優先の考えを維持した。
 第一次経済計画(1953-57年)は、厳格に中央志向の計画を導入し、農業地帯の犠牲のうえに工業化に向かう強い刺激を与えることを意図していた。
 これは、ソヴィエト共産主義のいくつかの特質を採用するものだった。すなわち、官僚制の拡張、都市と地方の間の亀裂の深化、およびきわめて抑圧的な労働法制。
 不可避的に、農民による小規模の土地保有の国では厳格な中央計画は不可能なことだ、ということが明瞭になった。
 しかしながら、そのあとの行政手法の変化は計画の多様な形態の脱中央集権化に限定されておらず、新しい共産党のイデオロギーを表現していた。そのイデオロギーでは、生産目標の達成と近代化は二次的なもので、現実のまたは想定される農業地域の生活の美徳を具現化する、そういう「新しいタイプの人間」を養成することが主に強調された。//
 (15)しばらくの間は、この段階ではある程度は文化的専制が緩和されるようにすら見えた。
 こうした幻想と結びついていたのは、1956年5月に-すなわちソヴィエト同盟第20回大会の後で-党が開始して毛自身が称賛した短期間の「百花」(hundred flowers)運動だった。
 芸術家と学者たちは、自分の考えを自由に交換するよう励まされた。
 全ての流派の思想と芸術様式が、お互いに競い合うものとされた。
 自然科学はとくに、「階級性」がないものと宣言され、他の分野での進歩は、拘束をうけない議論の結果だとされた。
 「百花」運動の教理は、東ヨーロッパの知識人たちに、熱狂をもたらした。彼らは自分たちの国で、脱スターリニズム化の興奮の中にいたのだ。
 多くの人々が短い時期の間、社会主義ブロックの最も遅れた国が経済および技術の観点からしてリベラルな文化政策をもつ英雄国になった、と考えた。
 しかしながら、この幻想は、ほとんど数週間しか続かなかった。中国の知識人があからさまな言葉で大胆に体制を批判したとき、党はただちに、抑圧と威嚇という通常の政策へと転換した。
 こうした事態全体の内部史は、明瞭でない。
 中国のプレスの若干の記事や党総書記の鄧小平(Teng Hsiao-ping)による1957年9月の党中央委員会むけ演説からすると、「百花」のスローガンは、「反党分子」を簡単に解体するために彼らを表面におびき出す策略だった。    
 (鄧小平は、大衆をおじけづかせる例として、雑草が成長するのを待った、と宣告した。
 「百花」知識人たちは根こそぎ引き抜かれて、中国の土壌を肥沃にするために使われたのだろう。)
 しかしながら、共産主義イデオロギーは中国知識人の間に自由な議論を保障することができると、毛沢東は少しの間は本当に考えたのかもしれない。
 かりにそうだったとしても、彼の幻想は、ほとんどただちに、明瞭に払い散らされた。//
 (16)ソヴィエトの範型に倣って工業化するのに中国が失敗したことによっておそらくは、次の段階の政治的およびイデオロギー的変化が惹起される、または予見されることとなった。その変化を、世界の人々は、当惑しつつ観察することになる。
 1958年初頭、毛沢東指導下の党は、5年以内に生産の奇跡を起こすものとする「大躍進」政策を発表した。
 工業生産および農業生産の目標はそれぞれ6倍、2.5倍とされた。これは、スターリンの第一次五カ年計画をすら顔色なからしめるものだった。
 しかしながら、この狂信的目標は、ソヴィエトの方式によってではなく、人民大衆に創造的な熱狂を掻き立てることによって、達成された。それがもとづく原理は、大衆は精神を傾注する何事をも行うことができるのであり、ブルジョアジーが考案した「客観的」障害に妨げられてはならない、というものだった。
 経済の全部門が例外なく劇的な拡張を遂げ、完全な共産主義社会がまさに近づいて来ていた。
 ソヴィエトのコルホーズに倣って組織された農場は、100パーセント集団的基盤をもつ共同体に置き換えられた。
 私的区画は廃止され、可能なところでは共同体的な食事と住居が導入された。
 プレスは、結婚した夫婦が一定の間隔で出席する特別の儀式や、そのあとの当然として次の世代を生むという愛国的義務を履行する特権について、報道した。
 「大躍進」の有名な特質の一つは、小さい村落の多数の溶鉱炉での鉄の精錬だった。//
 (17)少しの間、党指導者たちは統計上の楽園に住んでいた(のちに承認されたように、偽りだった)。しかしやがて、西側の経済学者と中国にいたソヴィエトの助言者が予見したとおりに、プロジェクト全体が大失敗だったことが判明した。
 「大躍進」は、高い蓄積率を原因として、生活水準を厄災的に下落させる結果となった。
 その政策は甚大な浪費をもたらした。そして、余分だと判って自分たちの分野に帰らなければならない、農村部からの労働者で、都市は満ち溢れた。
 1959年から1962年までは、後退と悲惨の時代だった。それは「大躍進」政策の失敗だけではなく、収穫減が災難的だったことやソヴィエト同盟との経済関係の事実上の断絶によってもいた。
 ソヴィエトの技術者たちは突然に帰国し、多数の大プロジェクトは不意に停止状態になった。//
 (18)「大躍進」はつぎのような新しい毛沢東の方針の展開を反映していた。すなわち、農民大衆はイデオロギーの力で何でもすることができる。「個人主義」や「経済主義」(換言すると、生産への物質的な動機づけ)は存在してはならない。熱意は「ブルジョア」の知識や技術に取って換わることができる。
 毛主義イデオロギーはこのときに、より明確なかたちを取り始めた。
 それは、毛沢東の公的声明によって、またより明瞭には、のちに「文化革命」騒ぎの際に暴露された諸発言で、定式化されていた。
 それらのうちある程度の内容は、優れた中国学者のStuart Schram によって英語で公刊された(<生身の毛沢東>、1974年。以下、'Schram' と引用する)。
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 ③へとつづく。

2157/岡田英弘著作集第一巻・歴史とは何か(2013)②。

 過去になった歴史に、正しい/間違い、よかった/悪かった、正統/逸脱、という違いなどない。少なくとも単純・幼稚には、この区別を想定したり、論じたりしてはならない。本質的には、これらを問題にしても<無意味>だ。
 <歴史の教訓>は大切かもしれないが、それからどのように「学ぶ」かは、各人の現在の主観的・「政治的」な願望を反映している。
 岡田英弘著作集第一巻・歴史とは何か(藤原書店、2018)。前回のつづき。
 ・「歴史には一定の方向がある、と思いたがるのは、われわれ人間の弱さから来るものだ。
 世界が一定の方向に進んでいるという保証は、どこにもない。
 むしろ、世界は、無数の偶発事件の積み重ねであって、偶然が偶然を読んで、あちらこちらと、微粒子のブラウン運動のようによろめいている、というふうに見るほうが、よほど論理的だ。」
 ・「しかし、それでは歴史にならない」。人間の「理解」とは「ストーリー」・「物語」を与えることだ。「名前」を付けることも「名前という短い物語」を作ることだ。「物語」がなければ「人間の頭では理解できない」。
 「だからもともと筋道のない世界に、筋道のある物語を与えるのが、歴史の役割なのだ。
 世界自体には筋道がなくとも、歴史には筋道がなければならない。
 世界の実際の変化に方向がないこと、歴史の叙述に方向があることは、これはどちらも当然のことであって、矛盾しているわけではない。」
 ・「世界はたしかに変化しているけれども、それは偶然の事件の積み重なりによって変化するのだ。
 しかし、その変化を叙述する歴史の方は、事件のあいだに一定の方向を立てて、それに沿って叙述する。
 そのために一見、歴史に方向があるように見えるのだ。」 以上、p.145。
 ・マルクス主義の史的唯物論の根底には「歴史が、古代のローマ帝国から、…19世紀の西ヨーロッパの段階に進化しようとして、<中略>足踏みを続けてきて、今ようやく資本主義の時代にまで進化したのだ、という感じ方がある」。
 さらに遡ると、マルクス主義の起源は「古代ペルシアのゾロアスター教」につきあたる。ゾロアスター教では世界は「光明(善)」と「暗黒(悪)」の二原理から成り、両者は闘っているがいずれ前者が勝利し、両者は分離して時間も停止し世界も消滅する。「その前に光明の子が下界に降臨して人類の王者となり、理想の世が実現する期間がある」。
 「この思想が、ユダヤ教によってメシア思想になり、ユダヤ教のメシア思想が独立してキリスト教の『終末論』と『千年王国』の思想がマルクス主義に入った」。
 だから、「共産制のような理想の社会を想定する」のは「マルクスが合理的に考えつめた結果」の「独自に到達した未来像ではない」。「ゾロアスターというペルシア人の思いつきが、今もなお生き続けているにすぎない」。以上、p.144。
 ・マルクス主義者は、「世界の究極のあるべき姿が、社会主義、共産主義だ、という」。
 「これは、思想というよりも気分だ。情緒的な枠組みと言ってもいい」。
 「この世界が最終的にどうなるかは、目の前の現実には関係なく、あらかじめ決まっている、という信仰は、現実にとまどい、対応しかねている凡人にとっては、わかりやすく、受け入れやすい、安心できるものだった」。
 ・「明快は明快だけれども、非現実的な空想だったマルクス主義は、<中略>…が、それでもマルクス主義の影響は、まだきわめて深刻だ」。「発展段階説の影響は、歴史の捉え方にありありと残っている」。以上、p.145。
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2154/L・コワコフスキ著第三巻第13章第5節①。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終第13章の試訳のつづき。第6節まであるうちの、第5節へ。
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 第5節・マルクス主義と「新左翼」①。
 (1)いわゆる新左翼に看取することができるのは、一つはマルクス主義の語法の一般化だ。また一つは、マルクス主義の教理の解体と現代の社会的諸問題に対応する能力をマルクス主義が持たないことだ。
 新左翼に属すると主張したり、他者がその一部だと見なしたりしている全てのグループとセクトに共通するイデオロギー的特徴は何か。これを明確に語るのは困難だ。
 この革命的な希望を持つ名前の一つのグループは、1950年代遅くにフランスで生まれた(Parti Socialiste Unifié〔統一社会党〕は、ある程度はこれから発生した)。そして、類似のグループが、イギリスと他諸国で結成された。
 この運動の触媒となったのは、ソヴィエトの第20回党大会のほか、おそらくはもっと大きな程度で、1956年のハンガリー侵攻とスエズ危機だった。
 イギリスでの刊行物は<新理論家(New Reasoner)>と<大学・左翼の雑誌>で、これらはのちに<新左翼雑誌(New Left Review)>に統合された。
 新左翼は一般にスターリニズムを、個別にはハンガリー侵攻を非難した。しかし、ソヴィエト・システムの「頽廃化」は不可避であるか否かや現存する共産主義諸党の政治的、道徳的かつ知的な再生の展望はあるかに関して、彼ら内部での見解は異なっていた。
 彼らは同時に、労働者階級のイデオロギーとしてのマルクス主義を信頼していることを強調した。そして、その中には、レーニン主義の信奉を表明する者もいた。
 彼らはまた、注意深く、自分たちのスターリニズム批判を社会民主主義者や右翼とは区別し、「反共産主義者」へと分類されるのを避けようとした。
革命的でマルクス主義的な気分(ethos)を維持して、スターリニズム批判を西側帝国主義、植民地主義および軍備競争に対する新たな攻撃に適合させようとした。
 (2)新左翼は、諸共産党内に論争を巻き起こし、イデオロギー的論議を一般的に復活させることに貢献した。しかし、きわめて一般的な言葉遣いによるのを除けば、社会主義に関する、何らかの代替的モデルを作り出したとは思えない。
 「新左翼」という呼称は、大小はあれ毛主義者やトロツキストその他のグループを含む、既存の諸党派の外で「真の共産主義」を復活させようとする、多様な異端的論者によって使われた。
 フランスで<左翼>(gauchiste)という語を用いたのは通常は、レーニン主義的「前衛」党を含む、全ての形態の権威に対抗することを強調するグループだった。
 スターリン後の時代にはトロツキー主義の一定の復活があり、多数の分派集団、分離「インターナショナル」等の結成に至っていた。
 「新左翼」という語は1960年代には、ヨーロッパや北アメリカで、学生イデオロギーに対する集団的呼称として通常は用いられた。そのイデオロギーは、ソヴィエト共産主義と同一のものではなく、しばしば明確にそれを否認するものだったが、世界的な反資本主義革命の用語法を使い、モデルまたは英雄像として主として第三世界に注目していた。
 こうであっても、この新左翼イデオロギーは、その名前にふさわしい何らかの知的な成果を生み出さなかった。
 その特徴的な傾向は、つぎのように叙述することができるだろう。
 (3)第一に、彼らは、革命のための社会的「成熟性」という観念はブルジョア的欺瞞だ、と主張する。
 適確に組織された集団は、どの国でも革命を起こして、社会的諸条件の急進的な変革をもたらすことができる(「今ここにある革命」)。
 待たなければならない理由はない。
 現存する国家と統治するエリートたち(élite)を、将来の政治的経済的組織に関する議論をすることなくして、力(force)によって破壊しなければならない。
革命は、適切な時期に、それを決定するだろう。
 (4)第二に、現存秩序は例外なく、全ての側面で、破壊するに値する。すなわち、革命は世界的で、全面的で、絶対的で、無限定のものでなければならない。
 全面的(total)革命という考えが大学で開始されたとき、その最初の攻撃対象は当然に、「封建的」大学制度、その知識と論理的技術だった。
 雑誌、冊子、パンフレットで、革命家は自分たちの要求や言葉の意味を説明するよう求めてくる教師たちと議論する必要はない、と宣言された。
 学生たちに試験に合格し何よりも学科目を学習するよう要求するのは非人間的抑圧だとして、それからの「解放」を謳う、多くの言葉があった。
 大学や社会での全ての改革に反対することも、革命的義務だった。すなわち、革命は普遍的でなければならない。従って、部分的な改革は何でも、既得権益層の陰謀だ。
 全てが変革されるか、何も変革されないかのいずれかだ。なぜならば、ルカチやマルクーゼが言い、フランクフルト学派が教えるように、資本主義社会は分別不可能な一体なのであり、その全体だけを変革することができる。//
 (5)第三に、ブルジョアジーによって回復不能なほどに堕落させられた労働者階級を信頼することはできない。
 現時点では、学生は社会の最も抑圧された層だ。そのゆえに、最も革命的だ。
 しかしながら、全ての者が抑圧されている。ブルジョアジーは労働愛好教(cult)を導入した。よって、まず必要なことは、労働を停止することだ。生活必需品は、そのうちに用意されるだろう。
 最も下品な抑圧形態は、ドラッグの禁止だ。これともまた、闘わなければならない。
 性の解放、労働からの自由、大学の紀律その他全ての制限からの自由、普遍的で全面的な解放。-これら全てが、共産主義のエッセンスだ。//
 (6)第四に、全面的革命の態様は第三世界に見出すことができる。
 新左翼にとっての英雄は、アフリカ、ラテン・アメリカよびアジアの政治指導者たちだ。
 アメリカ合衆国は、中国、ヴェトナムあるいはキューバに似たものに変革されなければならない。
 新左翼の学生たちは、第三世界の指導者やFranz Fanon、Régis Debray のようにこの問題に関与する西側イデオロギストたちを別にすれば、暴力と黒人人種主義を提唱したアメリカの黒人指導者たちをとくに尊敬した。//
 (7)1968-69年に最高潮に達したこの運動のイデオロギー的幻想は、中産階層の甘やかされた子供たちの気紛れを、無意味に表現したものにすぎなかった。そして、彼らのうちの最も過激なグループは、ファシスト凶漢と事実上は見分けがつかなかった。
 それにもかかわらず、この運動は、数十年にわたって民主主義社会で鼓吹された価値への信頼には深刻な危機があることを、間違いなく表現していた。
 この意味では、醜悪な言葉遣いだったにもかかわらず、「純粋な」運動だった。
 むろん、ナツィズムやファシズムについても、同じことが言えたのだが。
 かりに可能であるとして、人間が汎世界的基盤でのみ解決できる切実した諸問題を、彼らは世論に持ち込んだ。第三世界の人口過剰、環境汚染、貧困、後進性および経済的失策。
 同時に、略奪的で感染しやすいナショナリズムによって、グローバルな行動はさほど有効ではなさそうであることが、明らかになった。
 これら全てが、教育分野の危機の多様な兆候は勿論のこと、政治的軍事的緊張や世界戦争への恐怖と一緒になって、一般的な不安の雰囲気と、現在ある救済策は効かないという感情を発生させた。
 状況は、歴史上にしばしば見られたことの一つだった。袋小路に迷い込んだと、人々は思った。
 彼らは絶望的に奇跡を待ち望み、千年紀的、黙示録的希望に耽溺した。
 普遍的な危機の意識を増大させたのは情報伝達(communication)の速さだつた。それでもって、全ての地方的問題や災難はただちに世界じゅうに知られることとなり、敗北という一般的感覚が発生した。
 大学生たちの新左翼的爆発は、欲求不満から生まれた攻撃的運動だった。その運動は、マルクス主義の諸スローガンから自分たちの語彙を容易に造り出した。あるいはむしろ、マルクス主義者が使ったのと同じ表現だった。すなわち、解放、革命、疎外、等々。
 この点を別にすれば、そのイデオロギーは実際には、マルクス主義とほとんど共通性がない。 
労働者階級なくしての「革命」から成る。また、現代技術に対する憎悪から成る。
 (マルクスは技術的進歩を称揚し、差し迫る資本主義の崩壊の理由の一つは、その技術進歩を維持できないことだ、と考えた。-これは、今日では馬鹿げたこととして繰り返されることのない予言だ)。
 進歩の淵源である原始社会(マルクスにはほとんど関心がなかった)への愛好。教育や専門化した知識に対する憎悪。そして、アメリカのルンペン・プロレタリアートは偉大な革命的勢力だという信念。
 しかしながら、マルクス主義には黙示録的側面があり、後世の範型の多くでその側面がが力を持つに至った。そして、マルクス主義的語彙からの一握りの言葉や語句は、世界を奇跡的なパラダイスに変化させる一撃を加えることができるという確信を、新左翼の者たちに抱かせた。
 情報伝達の障害となるのは唯一つ、大独占企業と大学教授たちだ。
 公式の諸共産党に対する新左翼の主要な不満は、共産党は革命にとって十分に革命的でない、ということだった。//
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 ②へとつづく。

2143/J・グレイの解剖学(2015)⑤-Hobsbawmら04。

 Johh Gray, Grays's Anatomy: Selected Writings (2015, New Edition)。
 試訳をつづける。この書には、第一版も新版も、邦訳書はない見られる。一文ごとに改行。一段落ごとに、原書にはない数字番号を付ける。
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 第6部/第32章・二人のマルクス主義予言者-Eagleton とHobsbawm 04。
 (13)資本主義のアナーキーな性質に関するマルクスの洞察は、市場ユートピア主義とは対抗して、きわめて適切なものだ。彼の見方は、グローバル化は市場リベラルたちの幻想を鏡に映している、というものだった。
 Hobsbawm の<資本の時代>(1975)と<帝国の時代>(1987)は、思想と権力の間の相互作用に関する深い考察を示した。しかし、不幸にも、その考察は共産主義を対象としては行われなかった。
 彼の新しい本はそれまでの書と同様に、ソヴィエトの経験はほとんど蛇足的にだけしか言及されていない。そしてその際には、最も言い訳がましい言葉が語られる。
 この大著の計16章のうち、一つの章だけが、マルクスの20世紀の意味に焦点をあてる。
 その他の章は、敬虔な聖書に関する解説や長く忘れられている左翼内部の党派的論争にあてられている。-「マルクス博士とヴィクトリア時代的批評者」、「綱要の発見」等々。
 今日の世界に関するマルクス思想の姿勢を扱う数十頁は、誤っているか正しさ半分の、長たらしく退屈なものだ。
 一つだけ、例を挙げよう。
 Hobsbawm はEagleton のように、生態上の危機を資本主義の副産物だと見なす。そして、至るところで中央計画を伴っていた環境破壊には論及しない。
 Hobsbawm はこう述べる。「生物圏に対する我々の経済の影響を逆転させるか少なくとも統制する必要性と、資本主義市場に必須なものとの間の特許争いがある。後者は、利潤追求をして最大限の経済成長を継続させることだ。これは、資本主義のアキレス腱だ」。
 しかし、毛沢東の中国でそうだったが、以前のソヴィエト同盟で厄災的な黄塵地帯と飢饉を生んだのは、産業成長の最大限の追求だった。
 ソヴィエトにあった現実の別の点とともに、Hobsbawm は、この事実を記憶の中に閉じ込めている。//
 (14)Hobsbawm がソヴィエト同盟について語る若干の文章は、最もありふれた種類の言辞だ。
 彼は書く。-「ロシアは後進国だったので、社会主義社会の滑稽画以上のものを生み出せなかった」。
  「リベラルな資本主義ロシアは、ツァーリ体制のもとでは生じなかっただろう」。
  ソヴィエト・システムを「アジア的僭政」の一類型と見なす西側マルクス主義者の長い列に並んで、Hobsbawm は、ロシア社会主義は「赤い中国帝国」にのみなり得るだろうとのプレハノフ(Plekhanov)の言明を肯定的に引用する。
 ソヴィエト全体主義を東方僭政体制の遺物だと書いてしまうことは、植民地の家屋にふさわしい非西洋文化に対する侮蔑を示している。
 かつまた、このような主張を繰り返す者たちは、つぎのことをほとんど問わない。共産主義に関するマルクスの考えの実際上の帰結はなぜ、どこでも同じだったのか。
 結局のところ、包括的な抑圧、環境上の大被害、遍在する腐敗で苦しんだのは、ロシアだけではなかったのだ。
 共産主義の実験が試みられた全ての別の国々で、そうだった。
 ロシアの後進性の結果だというのは、まるで誤っている。ソヴィエト・システムの欠陥は、構造的で固有のものだ。//
 (15)Hobsbawm は、共産党員だった経験には沈黙せざるを得ない。
 彼がそれに向き合うならば、自分は約60年間共産党員だったのは生涯にわたる自己欺瞞の訓練だった、ということを承認しなければならないだろう。-この人物は党が解散してすらも、信条を放棄しなかったようだ。
 この著名なマルクス主義の学者は、1920年代の帝制時代のエミグレたち(émigré)とはほとんど何も似ていない。彼らエミグレたちは、ロシアの古い秩序はいつか回復するという夢を決して捨てなかった。
 むろんHobsbawm は、そのような希望を抱くのを、憤然として拒否するだろう。
 彼はこう記す。-「ソヴィエト類型の社会主義モデルは-これまで社会主義経済を構築しようとする唯一の試みだったが-、もはや存在しない」。
 しかし、何らかの性格の社会主義システムが将来に復活する可能性を彼が否定しないことで、うっかり本音を漏らしている。
 鋭敏な19世紀の歴史家であるHobsbawm は、20世紀について何も学ばなかった。
 それが望まれていたことだ。
 Eagleton にとってと同じく、彼には、マルクス主義は一房の理論以上のものだ。
 マルクス主義者であることは、歴史の正しい側に立っていることの保障なのだ。
 共産主義のプロジェクトを現実のそれでもって判断することは、彼らの人生は意味がなかった、ということを認めてしまうのと同じことなのだ。//
 (16)マルクスの思想は、我々の情況の諸側面について意味をもち続ける。しかしそれは、マルクスの革命的な共産主義プロジェクトと関係する何かのゆえでは全くない。
 啓発的であるのは、資本主義の革命的性格についてのマルクスの洞察だ。
 その他の思想家は、我々がどのようにして資本主義のもとでの生活である永続革命に対処することができるかを、マルクス以上に語ってくれる。
 ポスト・ケインズ主義の経済学者、H・ミンスキー(Hymann Minsky)が金融資本主義の不安定さについて書いたものは、マルクスまたはその支持者たちから拾い集めたものよりも有益だ。
 しかし、偉大な19世紀の思想家は、資本主義の危険性と矛盾に対するその洞察のゆえに、つねに読むに値するだろう。
 後世のマルクス主義者たちは、同様の栄誉を何も要求することができない。
 彼らは、自分たちが(つねに間違っているのではないが)批判する資本主義文化について誤って理解していることを例証している。
 現在を覆うハイパー(hyper-)資本主義は、過去についてはほとんど役立たない。そして、世界の諸問題の困難さを感じて苦しんでいる多くの人々が存在するために、前世紀の幻惑はつねに、その魅力を再び獲得する傾向にある。
 このことこそが、Eagleton やHobsbawm のような著作者が登場するゆえんだ。
 彼らについて我々がどう考えようとも、彼らは、需要を充たす。
 死んでしまったユートピアを売り出すこと(marketing)に-記憶を喪失してしまった文化では儲かる商品(profitable commodity)だ-、最後のマルクス主義者たちは最終的な役割を見出した。
 2011年。
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 第32章、終わり。

2142/J・グレイの解剖学(2015)④-ホブスボームら03。

 Johh Gray, Grays's Anatomy: Selected Writings (2015, New Edition)。
 試訳をつづける。この書には、第一版も新版も、邦訳書はない見られる。一文ごとに改行。一段落ごとに、原書にはない数字番号を付ける。
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 第6部/第32章・二人のマルクス主義予言者-Eagleton とHobsbawm 03。
 (13)Eagleton は疑いなく、全ての人類は(彼に同意しない皮肉屋は別として)彼と同じ夢を共有する、と空想している。
 ソヴィエトの実験に彼が覗き見趣味的に魅惑されていることは、彼の信念を証明する。
 しかし、共産主義に関しておぞましく身震いがするのは、大多数の人間には本質的に不快な理想を達成するために、人命の莫大な破壊を招いた、ということだ。
 ほとんどのロシア人にとって、現に存在した社会主義は、高貴な夢想の悲しい裏切りではなかった。 
 その夢想自体が、忌まわしいものだった。そして、現実にあったことは、卑劣さと悲惨さに満ちていたが、まだましな(preferable)ものだった。
 ソヴィエト同盟が舞台から消えたとき、その終焉は嘆かれることがなかった。その体制から最大の利益を獲得していたノメンクラトゥーラ(nomenklatura)によってすら。
 ショック療法による厄災にもかかわらず、ソヴィエト・システムへの回帰はなかったし、広範な基盤をもってそのシステムを追求する運動もなかった。
 かりにEagleton がこうした事実への言及を省略したのだとすると、その理由は、彼自身の尊大さに関する自分の感覚が損なわれていたからだろう。
 ロシアについて描き出す悲劇によって、彼は自分が普遍的な演劇の一部だと想像することができる。その際の彼の本当の役割は、最も馬鹿げた喜劇の演者だ。すなわち、西側の正統派(bien-pensant)劇の自己欺瞞。//
 (14)Eagleton は皮肉にも、純粋な悲劇的洞察を含むマルクス思想にある部分を見逃している。
 なるほど確かに、マルクスにあるのが分かる悲劇という観念は、人間の不完全さに関するAugustine 的考えとほとんど共通性がない。
 キリスト教は、悲劇を究極的な道徳的事実だとする宗教ではない。
 ダンテ(Dante)は悲劇についてではなく、神聖な喜劇について語ったのであり、キリスト教徒にとって、歴史の厄災は最終的には救済されるはずの物語(narrative)の一部だ。
 これと対照的に、マルクスは、キリスト教にある何かによりも、ヨブ(Job)の預言の激怒に、かつまたギリシア劇で表現される運命性(fatality)に、もっと適応している。
 (マルクスが古典的古代の文化にいかに習熟していたかは、ときどき忘れられている。)
 資本主義の危機を野蛮主義の新生によって解消し得るかもしれないという考えから明確であるように、マルクスは、償われることのない悲劇の可能性を、十分に受容していた。
 彼の思考の力は、今日にそれが何と関連していようとも、正確にはこの認識から生じている。//
 (15)マルクスは何か深遠なものを把握した、ということを理解するのに、彼の経済学-価値と搾取に関する労働理論の複雑な体系-を受容する必要はない。
 すなわち、資本主義は解放(liberation)の動力であった一方で、システムとしての資本主義の論理では、それ自体を掘り崩し、潜在的にはそれ自体を破壊する。
 古典派経済学は、ふつうに思われているほどには楽観的なものでない。
 D・リカルド(David Ricard)とA・スミス(Adam Smith)はいずれも、資本主義が生んだ商業文明は内部矛盾でもって衰弱するだろう、と懸念していた。
 しかし、一学問分野としての経済学は、市場は自己制御システムだということを基礎にして多くの部分を説いてきた。そのシステムは、政府による介入がない限りは良好な均衡へと向かう、というのだ。
 マルクスは、資本主義は本来的に不安定だと論じることで、主流派経済学者の諸世代よりも現実に接近していた。
 彼の洞察は、職業的経済学者が紛らわしい調和に関する数学的モデル化に没頭しているときに、とくに意味がある。
 マルクスを読んだ、またはさもなくも歴史の教育を受けた経済学者は誰も、全体的安定期(Great Moderation)という考えを真摯には受け取ることができなかっただろう。これは安定的な経済成長のための永続的な条件であり、その経済成長で、資本主義の矛盾が永遠に克服される。大多数の経済学者は明白にそう説いた。//
 (16)もちろん、全ての経済学者がさほどに無知で、愚かだったのではない。
 有名なことだが-そして私の見方では適切にも-、ケインズ(Keynes)はつぎのように論じて、自由市場は自己制御的だという前提に挑戦した。すなわち、管理されない資本主義は、市場の力が救い出すことのできない罠の中へと入っていく可能性がある、と。
 その場合には、政府の行動だけが厄災を阻止することができ、経済を再出発させることができる。
 Keynes は、資本主義のアナーキーな力を飼い慣らすことができる、と考えた。そして、数世代の間は、彼の分析の正しさが証明された。
 今日の金融危機は、この分析に疑問を投げかけた。
 グローバル化によって、政府による介入の範囲は小さくなった。一方で、金融システムの脆弱さは、数世代の間の周期的景気下降のいずれよりも、安定性に対する大きな脅威になっている。
 同時に、資本主義の社会的影響力は、ますます破壊的になっている。
 市場についての原理主義信仰者たちは、規制されない経済が一種の普遍的なブルジョア化(bourgeoisification)をもたらすだろう、と思い抱く。ほとんど全員が堅実な中産階層の生活を望むことができる、そういう社会だ。
 しかし、現実には、アメリカ合衆国、イギリスやヨーロッパの範囲の大多数の人々にとって、中産階層の生活は実行可能な選択肢では急速になくなってきている。
 家屋や年金の価値は下がり、労働市場はますます小さく不確実になって、自分は中産階層だと思っている多数の者が、自分はマルクスの言う財産なきプロレタリアートの地位のごとき何かだ、と気づいてきている。
 資本主義は、イデオローグたちが主張するようには、ブルジョア的生活を堅牢に防御しはしない。
 生産と破壊の絶えざる過程である資本主義は、ブルジョア的世界を食い尽くす。
 その結果は、のちに明らかになるだろう。
 しかしここに、本当に悲劇的な対立の可能性がある。空前の規模での富の生産者としての資本主義と、我々がリベラルな文明となおも呼んでいるものの破壊者としての資本主義、これら二つの対立だ。//
 (17)ケインズ的リベラル派と社会民主主義者の世代が信じたまたは望んだのとは反対に、資本主義は飼い慣らされてこなかった。
 資本主義は、危険なほど手に負えない野獣のままだ。-マルクスが描写したのと全く同じく。
 このことは、マルクス弁証学(注2)でE・ホブスボーム(Eric Hobsbawm)が行っていることの出発点だ。
 彼は、<世界を変革する方法>で、こう書く。-「1990年代に出現したグローバル化した資本主義世界は、マルクスが<共産主義者宣言>で予見した世界のごとく、決定的なほどに無気味だ」。
 そのとおり。ある程度までは。
 今日の世界は、マルクスとエンゲルスが一世紀半以上前に正確に予見したアナーキーに似ている。その到達を1990年代の自由市場熱狂的賛美者たちが自信をもって発表した、安定成長というユートピアが似ている以上にはるかに。
 一国政府による統制を逃れて、資本は流動的であり、かつ本質的に無秩序だ。
 そして、結果として、多くの先進産業諸国は、国内的不安に直面している。
 しかし、資本主義の将来に関するマルクスの説明は資本主義の後世の宣教師たちの予言よりも現実的だったにもかかわらず、世界は依然として、マルクスが想定したものとは全く異なっている。//
 (18)マルクスは、ほとんどの19世紀の思想家と同様に、宗教は豊かさの増大と科学知識の前進とともに消え去るだろうと期待した。
 そうはならず、これまでつねにそうだったように、宗教は、政治と戦争の中心的位置を占める。
 マルクスは、資本のグローバル化はナショナリズムの衰退と歩調を合わせて発生するだろうということを、決して疑わなかった。
 実際には、世界の多くの部分で、グローバル化はナショナリズム的反動の引き金となった。
 マルクスは、資本の政治的統制からの解放はどこでも発生するだろうと想定した。
 実際には、それは主として西側資本主義諸国で起こり、新しい資本主義者の中国やロシアは経済の管制高地の統制権を保持したままだ。
 マルクスは、野蛮さを回避しようとするかぎり、自由市場は社会主義に置き換えられるだろうと期待した。
 しかし、自由市場の継承者たちは、どんな性格の社会主義よりもはるかに、資本主義の別の範型になりそうだ。-中国の国家資本主義、ドイツを最も成功した経済国にした社会的市場資本主義、まだ発展するだろう資本主義のその他の変種。
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 (注2)Eric Hobsbawm, How to Change the World: Tales of Marx and Marxism (Yale Univerty Press, 2011).
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 ホブスボーム04へとつづく。

2141/J・グレイの解剖学(2015)③-ホブスボームら02。

 Johh Gray, Grays's Anatomy: Selected Writings (2015, New Edition)
 試訳をつづける。この書には、第一版も新版も、邦訳書はない見られる。一文ごとに改行。一段落ごとに、原書にはない数字番号を付ける。
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 第6部/第32章・二人のマルクス主義予言者-Eagleton とHobsbawm②。
 (7)Eagleton は、マルクスの展望が決して実現され得ないことを嘆く。-これは、彼が見るように、人間の弱さを悲劇的に示唆するものだ。
 しかし、非人間的であるとは、理想そのものだ。
 種の少数者のみならず、多数者もまた、マルクスやレーニンが想定した世界から排除されている。
 共産主義の理想が実現される社会は、人間がかつて生きてきたどの時代よりも悪いだろう。
 ボルシェヴィキは、ふつうの生活に対する憎悪に駆られて、神話や宗教のない世界を欲した。そこでは、人間が自分たち自身を理解して実現する個々の共同体は忘れ去られる。
 幸福なことに、そのような世界は最も強力で永続する人間の需要に反して作動するのであり、そのゆえに、不可能なのだ。
 (8)ソヴィエト国家が克服しなければならない障害-ツァーリ体制の遺産、外国の干渉、内戦-を繰り返し訴える在来の学問上の知識によるのとは反対に、最初から最後までソヴィエトの生活に明確な抑圧は、原理的に共産主義思想そのものから流れ出てきた。その思想によるなら、社会の残余と異なるいずれのグループも、いずれは破壊されなければならないのだ。
 興味深いことに、Eagleton はこのことを否定しない。
 多くの者と同様に、彼は、抑圧はまるでスターリンのもとでのみ苛酷になったかのごとく書いている。これはナンセンスだ。
 しかし、彼の主要な主張は、こうだ。西側諸国では達成されていない社会的団結の一類型を生むのを可能にするがゆえに、ソヴィエトの抑圧は、それを行うだけの価値があった。 彼は、ソヴィエト同盟は「西側諸国ならば別の土地の原住民を殺戮しているときにのみ掻き集めることができると思える、そのような市民間の連帯を促進した」、と我々に語る。
 もしも-Eagleton が認めるように-それが恐怖に依存しているならば、その団結にはいかほどの価値があるのか、という疑問は、別に措くことにしよう。
 もっと根本的な疑問は、彼が書く連帯はかつて存在したのかどうか、だ。
 Eagleton は一度でも、以前のソヴィエト・ブロックを訪れたのか?
 かりにそうであれば、彼はふつうの民衆たちとの接触を何とかして避けたのだろう。
 (9)そこに旅行して公式会合やホテルのバー以外の所に行く冒険心のある者に対して誰もが言っただろうように、ソヴィエト・ブロックの社会はその作動に関して完全にホッブズ的だった。
 そこにある通常の人間の状態は、連帯ではない。原子化された孤立だ。
 自由な住居、医療および教育といった装置が広がっていたのは本当だ。しかし、特権と遍在する腐敗のネットワークを通じてのみこれらのものを利用することができた。
 失業(これは違法だった)に苦しむことはなかったけれども、労働民衆は、絶えず遂行される全員に対する全員の闘争に敗れた。
 独立した労働組合または政治組織に類似したものはなかったので、彼らは、自分たちの労働条件を制御したり、社会での自分たちの地位を改善することができなかった。
 (10)共産主義の崩壊の結果として、ふつうの市民の中では、西側により援助されたショック療法によるインフレで台無しとなった年金生活者だけがおそらく、生活条件が疑いなく悪化した。
 市場での交換に支配されて、共産主義は実際には、通常は<レッセ・フェール>資本主義を想起させる略奪文化に似たものをもつにすぎなかった。
 Eagleton は、こうした事実に注意を向けない。世界についての彼の見方は、事実にもとづいて形成されていないからだ。
 彼は、「資本主義は世界のある範囲の部門に莫大な富をもたらしたという意味で、資本主義はある時代の間には機能する」ことを承認する。但し、それは、「スターリンや毛沢東がそうしたのと同じく多大な人的コストを払ってなされた」のであって、「今や地球全体をすっかり破壊してしまおうとしている」という主張へと進むためにすぎない。
 現今の資本主義の過剰はスターリニズムや毛主義が冒した犯罪と同等のものだ、という見解は、気が狂っている(crazy)。
 現在の西側資本主義は多くの欠陥をもち、それらのいくつかはおそらく致命的だ。
 しかし、自分たち自身の市民を大量に殺戮したシステムと同一の範疇でもって位置づけることはできない。そのシステムは、現代での、たぶん歴史全体での、最悪の生態学上の大災難について責任があった。
 (11)Eagleton の粗野な誇張語法は、彼が悲劇の精神を称賛するときに何を意味させたいのかを我々に語ってくれる。
 正しいものが小さくともなお邪悪なものと一時的な妥協を行うことを必要とするときに、悲劇は出現する。
 これは、チャーチル(Churchill)がスターリニズム・ロシアとの同盟をどのように理解したかを示すものだ。
 ナツィズムを破壊しなければ、ヨーロッパまたは世界で文明は生き延びることができない。だが、その文明という目的の確保は、野蛮に染まった体制に戦力を加えることを意味した。
 本当に悲劇的な対立は、論理のオッカムの剃刀(Occam's razor)によく似た禁止に適合しているがゆえに、認知することができる。すなわち、悲劇は、必要以上に複雑にされてはならないのだ。
 悲劇は、生活を楽しくかつ面白いものにする方策ではない。
 悲劇は、諸悪の間で選択を余儀なくされるという場に直面したときに生じる。そしてそれは、不可能な目的を追求して残忍非道な手段が用いられるときに生じる道徳的恐怖と、明瞭に区別されなければならない。後者は、恐ろしい犯罪が主として、犯罪を冒した者たちの生活の意味を確保するために行われているという悲劇の語を悪用するものだ。
 自殺爆弾攻撃はその例だ。また、ソヴィエト共産主義もそうだ。
 (12)Eagleton が我々に望んでいるのは、共産主義の人的対価を、共産主義が達成しようとした理想とのバランスで考察することだ。
 彼は正当に、大きな善は大きな犠牲を必要とする、と主張する。この必要性はときには、合理的な解消方法のない諸価値の対立を含む。
 しかし、彼のこのような思考が支離滅裂であることは、つぎのように彼が問うときに明白になる。-「現代科学と人間の自由(liberty)の価値を、種族社会の霊的な善とどうやって比較検討(weigh)するのか?」。
 民主主義を、ホロコーストと同じ尺度に置けば、いったいどうなるのか?
 種族的生活-どんな霊的善も可能だ-は現代の生活条件とはうまくは両立しないかもしれない。しかし、民主主義はホロコーストという犠牲を払ってのみ達成することができるという思考のために、どのような根拠が成り立ち得るのか?
 Eagleton は単直に言って、邪悪と不必要な悲劇を区別することができない。後者は、馬鹿げて不快な夢想を追求する際に招来される。そして彼は、最悪の種類の道徳的ナンセンスの中へと滑り込んでいる。
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 ホブスボームら03へとつづく。

2140/J・グレイの解剖学(2015)②-ホブスボームら01。

 Johh Gray, Grays's Anatomy: Selected Writings (2015, New Edition)
 試訳する。46の章に分かれていて、それぞれ独立している。一文ごとに改行。一段落ごとに、原書にはない数字番号を付ける。
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 第6部/第32章・二人のマルクス主義予言者-Eagleton とHobsbawm/02。
 (1)マルクス主義の知的な復活は、2007-8年の金融危機が生じさせた、予見し得る結果だ。
 この嵐が炸裂する20年前に、マルクス主義知識人たちは、政治や文化の世界でかつてそうだったよりも辺境に追い込まれていた。
 それは、マルクス主義の偽りが判明したのが理由ではなかった。
 マルクス主義が偽りであることの証明は、どの先進産業社会もマルクスが予言したようには発展しなかったことが明瞭になったとき、一世紀以上も前に起きていたことだ。
 マルクス主義知識人は流行ではなくなっていた。-このことは、ともかくも自分たちが気づいたり説明したりすることができなかった、彼らの理論に対する拒否感が生じたことよりも、彼らにはじつに腹立たしい経験だった。
 しかし、共産主義の崩壊は、そう易々と無視されたのではなかった。
 彼ら理論家たちは、「現存する社会主義」に対する厳格な批判者のふりをするのを好む一方で、ソヴィエト体制で生じた全ての変化はもっと人間的性格をもつ社会主義の方向につながるだろうと、つねに想定していた。。
 彼らは、いかにして共産主義後のロシアについて説明することができたのだろうか。そこでは、ナショナリズム、つまりは正統派であり改称されて私物化されたKGBの庇護のもとで、超(hyper-)現代版の権威主義的趨勢が大きくなっていた。
 あるいは、中国についてどう説明するのだろうか。そこでは、統治する共産党が、全ての西側諸国よりも容赦がない、先進的類型の資本主義を監督している。
 それ以来間違いなく冗長に語る世界の評論家たちは、何も言うことがなかった。そして、歴史が傍らを過ぎ去った者たちに対して割り当てた、屈辱的な無関心の状態を甘受せざるを得なかった。
 (2)しかし、周期的に襲う危機と資本主義が闘っているときに、マルクス主義者が蔭の背後から再び出現し、自分たちは結局は正しい(right)のだ、と世界に向かって語ることができるようになった。
 彼らは同時に、西側資本主義が混乱しているときに、かつて存在した社会主義を蘇生させる試みをすることができている。
 かつてのソヴィエト同盟での生活は、結局のところは、全てが悪くはなかったのだ。ともかくも、自由市場の過剰さでもって復讐されているリベラル民主主義諸国に比べて、より悪くはないのだ。
 ソヴィエト陣営諸国に抑圧があったとすれば、それは確実に、冷戦を闘う目的のために誇張されていたのだ。そして、抑圧が実際に存在した範囲についても、今や大部分は正当視することができる。
 新たな資本主義の危機でもって疑いを晴らしているように見えるが、今やマルクス主義知識人たちは、一世代前の現存社会主義に対する優しい郷愁(nostalgia)をもって、時代を回顧することができる。
 (3)上に述べたことは、滑稽画(caricature)なのか?
 そのように考える人々は、T・イーグルトン(Terry Eagleton)の新しいマルクス主義擁護本(注1)を読むとよいだろう。
 彼の<なぜマルクスは正しかったか>は、つぎの修辞的な疑問文で最後を結んでいる。-「一人の思想家が、かつてこれほどに戯画化〔travesty〕されたか?」。
 Eagleton がいたるところで使っている前提は、マルクスの思想に対する大きな異論は全て誤解かまたは悪意(malice)にもとづく、ということだ。
 彼は繰り返してマルクス思想に批判の対象にならないものはないと明言するけれども、実際に彼が真面目に認めている例外はほとんどない。
 この本は、弁明書だ。我々とって重要な何かをもつとあちこちでなおも言われる、ドイツの思想家に関する研究書ではない。
 読者は、うんざりするほどの反論書をゆっくりと捲らなければならない。Eagleton は、-彼以前の多数のマルクス主義仲間がそうしたように-マルクスは経済学者でも技術的決定論者でもなく、深遠な道徳思想家であり、残虐で異様な世界での異議申立て者だった、と釈明している。
 このような見方を支持する側面が、マルクス思想にあったかもしれない。しかし、マルクスが疑いなく行った、本来的に科学的な類型の社会主義を定式化したという主張とこれを調和させるのは困難だ。この主張はまた、Eagleton 自身の見方と一致させるのは困難な主張だ。
 (4)マルクス主義的思考を文学や芸術に適用する文化理論家であるEagleton はまた、ある程度は不明瞭な背教者的異端のある、ローマ・カトリック信者だ。
 彼の宗教に対する態度は、進歩的思索者に共通するものとは異なる。
 彼は、「新しい無神論」という合理的カルトに関する論評で、瞠目するほどに批判的だった。
 しかし、キリスト教の見方に対する共感によって、キリスト教やその他の宗教全てに対するマルクスの強烈な頑固さを言い繕い、マルクス主義とキリスト教は悲劇的な人間中心主義の類似の範型だと論じるに至っている。
 彼は、「いわゆる解放の神学を主導するキリスト教的マルクス主義者」は「マルクスの用語の意味での唯物論者」だと論述し、つぎのようにしてマルクス主義をキリスト教と融合させようとする。すなわち、マルクスは「悲劇の伝統的精神」でもって、激しい論争をして革命的闘争を称賛する「悲劇的見方」の代表者だ、と論じることによって。
 しかし、キリスト教は事物の悲劇的見方を説くというのは、明確なことでは全くない。
 また、かりにマルクスが歴史に関する悲劇的見方をしているとしても、それはアウグスティヌス(Augustine)に依っているからではない。
 (5)Eagleton は、マルクスは高次の性格の個人主義を擁護した、というよく見られる主張をして、その弁明を始めている。
 「マルクスの著作のいつもの滑稽画」によると、「マルクス主義は、人間の個人的生活を暴虐に踏みにじる、顔のない集合体にすぎない」。
 「実際には、これほどにマルクスの思想から離れたものはあり得ないだろう。
 個人の自由な発展は彼の政治方針の目的全体だ、と言えるかもしれない。諸個人は共同して発展する形態を見出さなければならない、ということを我々が想起するかぎりで」。
 結局は、誰もが、「全ての者の自由な自己発展」にもとづく社会を望んでいるのだ」。
 しかし、調和というこの夢想は、決して十分には実現され得ない。なぜなら、Eagleton が賢明につぎのように指摘しているとおりだ。
 「個人と社会の完璧な調和は決してあり得ない、ということを疑う十分な理由はない」。
 「私の成功とあなたの成功の間には、あるいは一市民としての私に要求されるものと私が悪がしくしたいことの間には、つねに矛盾対立が存在するだろう。
 このような公然たる矛盾は悲劇の素材であり、マルクス主義に反対する墓石たけが、こうした矛盾を超越した場所に我々を置くことができる」。
 確かに、個人と社会が一つとなる理想的な世界は、完全には達成し得るものではないかもしれない。しかし、この夢を放棄してはならない。
 「個人と社会の有機的統合体という夢は、寛大な精神が抱く幻想だ。<中略>
 最も繊細な理想の全てがそうであるように、それは、目指すべき目標であり、字義どおりに達成されるべき状態ではない」。
 (6)以上はありふれた陳腐なことの繰り返しであり、道徳的な衝動感情として価値があると想定されているものに訴えかけるがゆえに、ずっと人気がある。
 個人と社会が一つになる世界を憧れることのない者が存在するだろうか?
 だがしかし、少しばかり歴史的な考察をすれば、いくつかの疑いが出てくる。
 個人的自己開発へのマルクスの傾倒を叙述するEagleton のやり方からすると、彼はミル(J. S. Mill)について語っていると読者は考えるだろう。
 しかし、ミルもまたマルクスと違って、社会での調和はそれ自体の危険性をもつ、と認識していた。
 マルクスのみならず急進的右翼の運動をも魅了したドイツ・ロマン派の幻想、つまり有機的な社会的統合という夢想は、実際にはつねに抑圧的に機能した。
 そして、このことは、その理想が間違って解釈されたことが理由ではない。
 少数者に対する敵意は、有機主義イデオロギーのまさに論理的帰結だ。
 マルクスは、彼の理想社会を未来のことと位置づけた。
 しかし、空想的な民衆文化へと後を振り返るドイツのナショナリストのそれに似て、マルクスの共産主義という夢想へは、個々の人間の自己一体性(identity)を捨てることによってのみ入り込むことができる。
 (個人の自己一体性にはユダヤ人のそれを含む。彼らは、ユダヤ人であることをやめることで解放され、普遍的な人類の細片となるだろう。)
 マルクスが-Herder や彼の弟子たちとともに-夢想した社会では、社会的機構の中に吸収されることに抵抗する者は全て、幻惑されているか病気に罹患しているという烙印を捺されるだろう。
 **(注1)Terry Eagleton, Why Marx was right (Yale University Press, 2011)。
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 ホブズホームらの②へとつづく。

2138/L・コワコフスキ著第三巻第13章第4節①-フランス。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終第13章の試訳のつづき。この書には、邦訳書がない。
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 第4節・フランスにおける修正主義と正統派①。
 (1)1950年代後半から、フランスのマルクス主義者たちの間で活発な議論が続いた。修正主義の傾向は部分的には実存主義からの支持を受け、部分的には実存主義との対立でもって支持を獲得した。
 ハイデガーとサルトルの二人がいずれも説いた実存主義には、マルクス主義修正主義と共通する一つの重要な特質があった。すなわち、還元不能な人間の主体性と実存の物的(thing-like)様相との間の対立を強調する、ということだ。
 同時に、実存主義は、人間存在は主体的な、つまり自由で自立した実存から「物象化された」状態へと逃げる恒常的な性向をも持つ、と指摘した。
 ハイデガーは、「不真正さ」と匿名性への漂流および非人格的現実と一体化する切望を表現することのできる、そのような諸範疇から成る精妙な大系を作り出した。
 同じように、サルトルによる「即自(in-itself)存在」と「対自(for-iself)存在」の対立に関する分析や、我々から自由を隠して我々自身や世界への責任から回避せしめる<悪意>に対する熱心な弾劾は、主体性や自由の哲学としてマルクス主義を復活させようとする修正主義者たちの試みと十分に合致していた。
 マルクス、およびそれ相当にだがキルケゴール〔Kierkegaard〕はいずれも、非人格的な歴史的存在へと人間の主体性を溶解させるヘーゲルの試みだと見なしたものに対して、反対した。
 このような観点からすれば、実存主義の伝統は修正主義者たちがマルクスの基礎的な教理だと考えたものと一致していた。//
 (2)のちの段階では、サルトルは、マルクス主義とソヴィエト同盟やフランス・マルクス主義を同一視しなくなった。しかし、同時に、決然として周到に、自分自身とマルクス主義を同一視するに至った。
 彼は<弁証法的理性批判>(1960年)で、実存主義の修正版と自らのマルクス主義解釈をを提示した。
 この長くてとりとめのない著書が明確に示したのは、サルトルの従前の実存主義哲学の名残りをほとんどとどめていない、ということだった。
 彼はこの書の中で、マルクス主義は<優れた>(par excellence)現代哲学だ、マルクス主義以前に、つまり17世紀にロックやデカルトがスコラ派哲学の見地からのみ批判され得たのと全く同じように、反動的な見地からのみ純然たる歴史的な理由で批判することができる、と述べた。
 この理由からして、マルクス主義は無敵(invincible)のもので、その個々の主張は「内部から」のみ有効に批判することができる。//
 (3)マルクス主義の歴史的「無敵さ」に関する馬鹿げた主張はともかくとして(サルトルの議論によれば、Locke に対するLeibnitz の批判やデカルトに対するホッブズの批判は、スコラ派の立ち位置に基づいているに違いなかった!)、<批判>は、「自然弁証法」や歴史的決定論を放棄するが、人間の行動の社会的重要性を維持しながら、「創造性」や自発性を目的として、マルクス主義の内部に領域を見出そうとする試みとして興味深い。
 意識的な人間の行為は、たんに人間の「一時性」を生む自由の投射物として表現されるのではなく、「全体化」に向かう運動として表現される。人間の感覚は現存する社会条件によって決定されている。
 換言すれば、個人は絶対的に自由に自分の行為の意味を決定することはできないが、環境の隷従物になるのでもない。
 共産主義社会を構成する、多数の人間の企図が自由に協同し合う可能性がある。しかし、そのことはいかなる「客観的法則」によっても保障されていない。
 社会生活は自由に根ざした諸個人の行為でのみ成り立っているのではなく、我々を制限している歴史の堆積物でもある。
 加えるに、自然との闘いなのだ。自然は我々を妨害し、社会関係を稀少性(<rareté>)が支配する原因となり、そうして、欲求の充足の全てが、相互に対立し合う淵源になり、人間がそれとして相互に受容し合うことを困難にしている。
 人間は自由(free)だ。しかし、稀少性によって個別の選択の機会が剥奪され、そのかぎりで人間性が消滅する。 
 共産主義は稀少性を廃棄することで、個人の自由と他者の自由を認識する能力を回復させる。
 (サルトルは、共産主義がいかにして稀少性を廃棄するのかを説明しない。この点で彼は、マルクスによる保障をそのまま信頼している。)
 共産主義の可能性は、多数の個人の企図が単一の革命的目的へと自発的に結びついていく可能性のうちにある。
 <批判>は、関係する他者のいかなる自由も侵害することなく、共同で活動に従事するグループを描写する。-革命的組織のかかる展望は、共産党の紀律と階層性に代わり、個人の自由を有効な政治的行動と調和させることを意図するものだ。
 しかしながら、この説明は一般的すぎるもので、かかる調和にある現実的諸問題を無視している。
 理解することができるのは結局、サルトルは目的をこう想定している、ということだ。すなわち、官僚制と装置化を免れた共産主義の形態を工夫して作り上げること。あらゆる様式での装置化は自発性とは真逆のもので、「疎外」の原因となっている。
 (4)多数ある余計な新語作成についてはさて措き、知覚や認識の歴史的性格、および自然弁証法の否定に関して、<批判>は何らかの新しい解釈を含んでいるようには思えない。サルトルは、ルカチの歩みを追っている。
 自発性と歴史的条件による圧力の調和について言うと、この著作が我々に語っているのは、せいぜいつぎのことだけだ。つまり、自由は革命的組織によって保護されなければならず、共産主義が諸欠陥を無くしてしまえば完璧な自由が存在するだろう、ということ。
 このような考え方は、マルクス主義の論脈で特段新しいものではない。新しいかもしれないのは、このような効果がいかにして達成されるかに関する説明の仕方だろう。
 (5)共産主義の伝統にもとづく哲学者たちに期待されるような、厳格な意味での修正主義は、「サルトル主義」とは合致しなかった。
 だが、ある範囲では、それは実存主義的主張を示していた。
 (6)修正主義という目印は、いくつかの形態をとった。
 C. Lefort やC. Castoriadis らの若干の異端派トロツキストたちは、1940年代遅くに<社会主義または野蛮〔Socialisme ou barbarie〕> というグループを結成し、同名の雑誌を出版した。
 このグループは、ソヴィエト同盟は退廃してしまった労働者国家だというトロツキーの見方を拒否し、生産手段を集団的に所有する新しい階級の搾取者たちが支配している、と論じた。
 彼らはレーニンの党理論に搾取の新しい形態を跡づけて、社会主義的統治の真の形態としての労働者自己統治の考えを再生させようとした。党は、余計であるのみならず、社会主義を破滅にもたらすものだ。
 このグループは1950年代遅く以降に、フランスの思想家たちに、きわめて重要な思想をもち込んだ。労働者の自己統治、党なき社会主義、そして産業民主主義。
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 ②へとつづく。

2114/L・コワコフスキ著第三巻第13章第3節-ユーゴ。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終章の試訳のつづき。分冊版・第三巻、本文p.530までのうち、p.474-8。
 第13章・スターリン死後のマルクス主義の進展。
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 第3節・ユーゴスラヴ修正主義(Yugoslav revisionism)。
 (1)マルクス主義の進展でのユーゴスラヴィアの特別の役割は、修正主義思想を表明する個々の哲学者や経済学者についてだけではなく、最初の修正主義政党、あるいは最初の修正主義国家とすら呼ばれたものをここで扱う必要がある、ということにある。//
 (2)スターリンによって破門されたあと、ユーゴスラヴィアは経済的にもイデオロギー的にも困難な状況にあった。
 その公式のイデオロギーは最初は、一つの重要な点を除いて、マルクス=レーニン主義の範型から離反するものではなかった。つまり、ユーゴスラヴィアは、ソヴィエト帝国主義の面前で自分たちの主権を主張することで、ソヴィエトのイデオロギー的最高性を拒絶し、最長兄の大国的民族排外主義を攻撃した。
 しかしながら、のちにはユーゴスラヴ党は社会主義の範型と自分のイデオロギーを形成し始めた。それは内容的にはマルクス主義に忠実だったが、労働者の自己統治と官僚制のない社会主義に集中させるものだった。
 このイデオロギーの形成とそれに対応する経済的政治的変化は、多年にわたって続いた。
 1950年代の初頭、党指導者たちはすでに、官僚制化の危険について語っており、極端な権力の中央集権化が社会主義の理想のうちの最も価値あるものを殺した頽廃的国家だとしてソヴィエト体制を批判していた。最も価値あるものとは、労働大衆の自己決定、国有化とは区別される公的所有の原理だ。
 党指導者と理論家たちは、ソヴィエト方式の国家社会主義と、労働者の自己統治にもとづく経済とを、ますます明確に区別した。後者では、協同団体はたんに国家当局が課した生産ノルマを達成するのではなく、生産と分配に関する全ての問題を自ら決定する。
 継続的な改革の方策を通じて、産業管理は労働者自身を代表する諸団体へとますます委託された。 
 国家の経済的機能は縮小された。そして、党の基本教理からすると、これはマルクス主義理論と合致する国家の消滅の予兆となるべきものだった。
 同時に、文化生活に対する国家統制も緩和され、「社会主義リアリズム」は芸術的価値のある聖典ではなくなった。//
 (3)1958年4月の第6回党大会で党が採択した綱領は、自己統治にもとづく社会主義を公式の見解として設定した。
 これはその当時では、党の文書としては異様なものだった。プロパガンダであるとともに、理論に関係していたのだから。
 この綱領は、生産手段の国有化をその社会化とは明確に区別した。また、経済管理を官僚機構の手に委ねるのは社会的退廃をもたらし、社会主義の発展を停める、と強調した。
 さらに、それは国家と党装置との融合をもたらし、国家は消滅するのではなくいっそう権力を増大させて官僚制化する、とも。
 社会主義を建設し、社会的疎外を終わらせるためには、生産を生産者に、換言すると労働者の協同体へと、移譲することが必要だ。//
 (4)労働者会議に個別の各生産単位に関する無制限の権威が与えられれば、その結果は、特定の関係者だけに所有権を帰属させるだけの19世紀モデルとは異なる、自由競争のシステムになるだろう。このことは、最初から明確だった。
 いかなる経済計画も、可能ではなくなるのだ。
 その結果として、国家は投資率や蓄積した基金の配分に関する多様な基本的機能を果たすだけに変質した。
 1964-65年の改革はさらに、計画化の観念を放棄することなく、国家の権力を削減した。
 国家は、主として国有化した銀行制度を通じて、経済を規整するものとされた。//
 (5)ユーゴスラヴ型の労働者自己統治がもつ経済的社会的効果は、いまだに多くの議論と生々しい不同意の対象だ。ユーゴスラヴィアと世界じゅうの経済学者や社会学者のいずれでも。
 そのシステムが官僚制的虚構になってしまわないためには、市場関係の相当の拡張と市場の生産に対する影響の増大が必要だ。そして、それはすみやかに、蓄積という正常な法則が再び力をもつにつれて、一定の望ましくない結果をもたらした、と断定的に言える。
 国家の経済的な発展部分にある大きさの溝は、狭くなるのではなく、拡大していく趨勢にあった。
 賃金に対する圧力は、投資率を社会的に望ましい水準以下に落としかけた。
 競争的条件は、その特権が民衆的不満を掻き立てるほどの、豊かな産業管理者の階層を出現させた。
 市場と競争は、インフレと失業の増大を引き起こした。
 ユーゴスラヴィアの指導者と経済学者たちは、自己統治と計画化は相互に制限し合いがちで、妥協によってのみ調整することができるが、妥協の条件は恒常的な紛議を発生させる問題だ、ということに気づいていた。//
 (6)他方で本当なのは、ユーゴの経済改革は文化的自由および政治的自由ですらの拡大を随伴していた、ということだ。それは、ソヴィエト連邦以外の東ヨーロッパのその他の国で起きたことに十分に優っていた。
 しかしながら、これを「国家の消滅」と称するのは、全くのイデオロギー的虚構に他ならなかった。
 国家は自発的にその経済的権力を制限した-これは異様なことだった。しかし、政治的な主導性や反対派に対処するための警察制度の利用を独占することまでは、放棄しなかった。
 状況は奇妙(curious)なものだ。
 ユーゴスラヴィアは、他の社会主義諸国よりも大きな表現の自由をいまだに享有している。しかし、厳格な警察的抑圧に服してもいる。
 公式のイデオロギーを攻撃する文章を公刊するのは他のどこよりも容易だが、そのことを理由として収監されるのも簡単だ。
 ユーゴスラヴィアには、ポーランドやハンガリー以上に多数の政治犯がいる。だが、それらの国々では文化問題についての警察による統制がもっと厳格だ。
 単一政党支配は些かなりとも侵犯されておらず、それを疑問視することは制裁可能な犯罪となる。
 要するに、社会生活上の多元主義の要素は、支配党が適切だと考える範囲内でのみ広がっている。
 ユーゴスラヴィアは、改革とソヴィエト陣営からの排除によって多くのことを得てきた。しかし、民主主義国になったわけではない。
 労働者の自己統治に関する賛否は、なおも論争の対象のままだ。
 いずれにせよ、共産主義の歴史における新しい現象ではある。//
 (7)自己統治と脱官僚制化の問題には、哲学的側面もある。
 1950年代の初めからユーゴスラヴィアには、大きくて活動的なマルクス主義理論家たちのグループがあった。そして、認識論、倫理学および美学を論じてきており、政治的諸問題もまたユーゴスラヴ社会主義の変化と連結していた。
 1964年以降、このグループは哲学の雑誌<実践(Praxis)>を刊行した(1975年に当局により廃刊させられた)。そして、Korčula 〔コルチュラ〕島で定期的な哲学的議論の場を組織し、それには外国からも含めて多数の学者たちが出席した。
 このグループは、疎外、物象化(reification)および官僚制のような典型的に修正主義的な主題に集中した。
 その哲学的な志向は、反レーニン主義的だ。
 文章上の発表がきわめて多かった哲学者たちのほとんどは、第二次大戦でのパルチザン兵士たちだった。
 主な名を挙げておくと、つぎのとおり。G. Petrović、M. Marković、R. Supek、L. Tadić、P. Vanicki、D. Grlić、M. Kangra、V. Kolać およびZ. Pesić-Golubović。//
 (8)今日の世界でおそらく最も活動的なマルクス主義哲学者たちの集団であるこのグループの主要な目的は、レーニン=マルクス主義的 “弁証法的唯物論” に急進的に対抗するマルクスの人間主義的人類学(humanistic anthropology)を再建することだった。
 彼らの全てまたはほとんどは、“反射の理論” を拒絶し、ルカチとグラムシにある程度は従って、他の人類学的諸観念のみならず存在論的(ontological)諸問題も二次的にすぎない、そのような基礎的な範疇としての「実践」を確立しようとした。
 彼らの出発点は、かくして、人間の自然との実践的接触が形而上学的意味を決定する、認識は主体と客体の間の永続的相互作用の効果だ、という初期のマルクス思想だ。
 この観点からして、意味のない「歴史の法則」なるものが究極的には全ての人間の行動を決定するということを想定しているとすれば、歴史的決定論はそれがよって立つ根拠を維持することができない。
 我々は、人間は自分たちの歴史を創るのだ、というマルクスの言葉を真摯に受け止めなければならない。これを、歴史が人間を創るという言明へと進化論的に転換させてはならない。
 <実践>の哲学者たちは、積極的で自発的な人間主体の余地を残さないと強く指摘して、自由(freedom)とは「理解された必然性」〔=必然性を理解すること〕だとするエンゲルスの定義を批判した。
 彼らはこうして、<主体性の擁護>という修正主義の考えを採用した。それは、ソヴィエトの国家社会主義への批判やマルクスの教理と合致する社会主義の発展の正しい(true)経路としての労働者の自己統治への支持を、彼らの分析に連結させるものだった。
 しかしながら、同時に、社会主義は「労働者階級の先進部隊」だと自称する党官僚によるのではない生産者による能動的な経済管理を必要とする、と強調しながらも、彼らは、経済の自己統治は、行きすぎるならば、社会主義の理想に反する不平等を生む、ということを知っていた。
 ユーゴスラヴィアの正統派共産主義者たちは、<実践>グループを、完全な自己統治を制度化するのと不平等を回避すべく市場を廃棄するのと、両方を欲している、と非難した。
 ユーゴスラヴ修正主義者たちは、この点で分かれるように思える。しかし、彼らが書いていることには、しばしばユートピア的調子がある。「疎外」を克服すること、活動の成果を全面的に制御するのを全員に保障すること、計画化の必要と小集団の自治との対立、個人の利益と長期的な社会的責務の間の矛盾、安全確保と技術の進歩の対立、をそれぞれ除去すること、これらは可能だ、とするのだ。//
 (9)<実践>グループは、ユーゴスラヴィアのみならず国際的な哲学の世界で、マルクス主義の人間主義的範型を広めるという重要な役割を果たした。
 彼らはまた、ユーゴスラヴィアでの哲学的思考の再生に貢献した。そして、その国での専制的で官僚的な統治形態に対して知的に抵抗する、重要な中心だった。
 時代が経つにつれて、彼らは、ますます国家当局と対立するようになった。
 ほとんど全ての積極的なメンバーは最終的には追放されるか、または共産党の職から離任させられた。1975年には、彼らのうち8人が、ベオグラード(Belgrade)大学での職位を剥奪された。
 彼らの著作は、マルクス主義的ユートピアに関する懐疑をますます示しているように見える。//
(10)1940年代、1950年代のユーゴスラヴ共産主義者の一人だったMilovan Djilas は、修正主義者だとは見做すことができない。
 社会主義の民主主義化に関する彼の考えは、1954年に遡って党から非難された。そののちの彼の著作は、最も緩やかな意味においてすら、マルクス主義だと考えることはできない(すでに論及した有名な<新しい階級>を含む)。
 Djilas は、ユートピア的な思考方法を完全に放棄し、マルクス主義の本来的教理と官僚制的専制体制の形態でのその政治的現実化の間の連環(links)を、何度も指摘した。//
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 第3節、終わり。第4節の表題は、<フランスにおける修正主義と正統派>。

2105/L・コワコフスキ著第三巻第13章第2節⑤。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終章の試訳のつづき。分冊版・第三巻、本文p.530までのうち、p.469-p.474。
 第13章・スターリン死後のマルクス主義の展開。
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 第2節・東ヨーロッパでの修正主義⑤。
 (33)1968年8月のソヴィエトによる占領とそれに続いた大量抑圧は、チェコスロヴァキアの知識人たちや文化生活にほとんど完璧に息苦しい影響を与えた。他の同ブロック諸国と比べてすら、さらに気の滅入るがごとき様相だった。
 他方で、厳密にいえばチェコスロヴァキアでの改革運動が解体しておらず軍隊の実力行使によって抑圧されたことが理由なのだが、この国には修正主義の基本的考え方のための、なおも肥沃な土壌があった。
 つぎのように想像され得るかもしれない。すなわち、ソヴィエトの侵攻が起こらなければ、改革運動がドゥプチェク(Alexander Dubček)のもとで始まり、大多数の民衆に支持されて、システムの基盤を揺るがすことなく「人間の顔をした社会主義」に最終的には到達しただろう、と。
 この考えはもちろん考察に値するし、その考察は何を基礎的なものと見なすかにかかっているだろう。
 しかしながら、明確だと思われるのは、かりに改革運動が継続してポーランドのように侵攻によって弾圧されることもなく、侵攻を怖れて解体することもなかったとすれば、必ずやすみやかに多元的政党制度をもたらし、そうして、共産党独裁を破壊し、その教理自体が自己欺瞞的である共産主義を解体させただろう、ということだ。//
 (34)抑圧制度が一般的には他諸国よりも完全だった東ドイツでは、修正主義の広がりは全くなかった。それでもしかし、1956年の事件は東ドイツを揺るがせた。
 哲学者であり文学批評家であるWolfgang Harich は、ドイツ社会主義の民主主義的な綱領を提示した。それによって彼は、数年間、収監された。
 何人かの著名なマルクス主義知識人たちは、国を去った(Ernst Bloch、Hans Mayer、Alfred Kantrowicz)。
 現在もそうであるように、思想の厳格な統制によって、修正主義を主張するのはきわめて困難だった。しかし、ときたま、改革主義者の見解が聞こえてきた。
 哲学の分野では、この文脈で最も重要な人物は、Robert Havemann だった。哲学の問題に関心をもつ物理化学の教授で、他の多くの修正主義者とは異なり、ずっと確信的マルクス主義者のままだった。
 むろん西ドイツで出版された小論集で、彼は、科学と哲学での党の独裁を、そして理論上の諸問題を官僚的な布令でもって決定するという習慣を、鋭く批判した。
 加えて、弁証法的唯物論という教理、および共産主義者の道徳性に関する公式的規範を攻撃した。
 しかしながら、彼は、実証主義の観点からマルクス主義を批判したのではなく、逆に、弁証法がもっと「ヘーゲル主義化した」範型に回帰することを望んだ。
 彼は、レーニン主義的な決定論の範型は道徳的に危険で現代物理学と合致していない、と考えた。
ヘーゲルとエンゲルスに従って、たんなる描写にすぎないのではない、論理関係を含む現実性の見方である弁証法を想定(postulate)した。
 彼はこうしてBloch のように、弁証法的唯物論の術語の範囲内で、目的主義(finalistic)の態度を正当化しようとした。
 スターリン主義者による文化の隷従化を非難し、機械主義論の教理での自由の哲学上の否定を宣言した。機械主義的教理は、マルクス主義からは、共産主義のもとでの文化的自由の破壊と軌を一にすると見られていた。
 彼は、哲学上の範疇であり政治的な価値であるものとして「自発性」の再生を呼び求めた。しかし同時に、弁証法的唯物論と共産主義への忠誠心も強調した。
 Havemann の哲学上の著作は、化学者から期待するほどには厳密ではない。//
 (35)ソヴィエト連邦の哲学には、語り得るほどの修正主義は存在しなかった。しかし、若干の経済学者たちは、経営と分配の合理化を意図する改革を提案した。
 公式のソヴィエト哲学は、脱スターリン主義化の影響をほとんど受けなかった。一方で、非公式の変種的考えはすみやかにマルクス主義との関係を失った。
 公式の哲学で起きた原理的な変化は、弁証法的唯物論の諸公式はもはやスターリンの小冊子に正確に倣って教育することはできない、ということだった。
 1958年に刊行された教科書は、四つではなく三つの弁証法的法則を区別して、エンゲルスに従っていた(否定の否定を含む)。
 唯物論がまず解説され、その次が弁証法だった。これは、スターリンによる順序の逆だ。
 レーニンの<哲学ノート>で挙げられた弁証法の数十ほどの「範疇」は、新たに編成された定式の基礎となった。
 ソヴィエトの哲学者たちは、「形式論理に対する弁証法の関係」という昔ながらの主題について若干の討議を行なった。その多数見解は、主体・物質関係が異なるようには両者は対立しない、というものだった。
 ある者はまた、「矛盾」は現実性そのものの中で発生し得るという理論に挑戦した。
 ヘーゲルは、「フランス革命に対する貴族的反動」の化身だとされなくなった。
 それ以来、ヘーゲルの「限界」と「長所」について語るのが、正しい(correct)ことになった。//
 (36)こうした非本質的で表面的な変化の全ては、レーニン=スターリン主義的「弁証法的唯物論(diamat)」の構造をいささかも侵害しなかった。
 それにもかかわらず、ソヴィエト哲学は、他分野よりも少ない程度にだが、脱スターリニズム化から若干の利益を享けた。
 若い世代が舞台に登場してきて、自然なかたちで、西側の哲学と論理の考察、外国語の学修、そして非マルクス主義的なロシアの伝統の探究すら、を始め出した。-スターリンによる粛清を免れた数少ない残存者を除いて、能力のある教育者がほとんどいなかったのが理由だ。
 スターリンの死後5年間、若い哲学者たちはアングロ=サクソンの実証主義と分析学派にもっとも惹かれた。
 論理への対処法は、より合理的になり、政治的な統制により従属しなくなった。
 1960年代に出版された計5巻の<哲学百科>は、全体としては、スターリン時代の産物よりもましだった。つまり、主要なイデオロギー的論考、とくにマルクス主義に論及する論考は従前と同じ水準にあったが、論理や哲学史に関係する多数の論考が見られた。それらは理知的に執筆されており、国家プロパガンダに添って叙述されたにすぎないのではなかった。
 ヨーロッパやアメリカの思想と新たに接触しようとする若い哲学者たちの努力のおかげで、若干の現代的著作が、西側の言語から翻訳された。
 マルクス主義をおずおずと警戒しながら「現代化」する試みは、しばらくの間、1958年に出版され始めた<哲学(Philosophical Science(Filosofskie Nauki))>に感知することができた。
 しかしながら、公表されたものは、全体としては、発生していた精神的(mental)な変化を反映していなかった。
 スターリン時代に訓練を受けた辺境者たちは、若者たちのいずれが出版や大学での教育を許容されるのかに関する決定を行い続けた。そして、当然ながら、自分たちに合うものを好んだ。
 しかしながら、若い学歴の高い哲学者たちの何人かは、統制がさほど厳格ではない他の分野で自分の見解を表現する方法を見出した。//
 (37)しかし、全体としては、共産主義によって最初に破壊された学問分野である哲学は、再生するのが最も遅い分野でもあり、その成果は極端に乏しかった。
 他の研究分野は、元々は「スターリンによる」ものだった順序とは反対の順序で多かれ少なかれ回復した。
 独裁者の死から数年内に、自然科学は、事実上はイデオロギーによって規整されなくなった。但し、研究主題の選択は、従来どおりに厳格に統制され続けた。
 物理学、化学、および医学や生物学の分野では、国家は物質的な資源を提供し、用いられる目的を決定している。しかし、それらの成果はマルクス主義の観点から正統派(orthodox)のものでなければならないとは、もはや主張していない。
 歴史学は依然として厳格に統制されているが、政治的な微妙さがより少ない領域であるほど、規制に服することが少ない。
 しばらくの年月の間は、理論言語学は比較的に自由で、ロシアの形式主義学派の伝統を復活させた。しかし、この分野にも国家は研究機関を閉鎖することによってときおり介入し、多彩な非正統派の思想のはけ口として利用され続けていることを知らしめてきている。 しかしながら、1955年から1965年までの期間は、全体としては、荒廃した年月の後でのロシア文化を再生させようとする、かなりの程度の、かつしばしば成果のあった努力の時代の一つだった。
このことは、歴史編纂や哲学のほか、文学、絵画、劇作および映像について言える。
 1960年代の後半には、個人や研究機関を疑っての圧力が再び増大した。
 東ヨーロッパの状況とは違って、ソヴィエト同盟でのマルクス主義は、蘇生の兆候をほとんど示さなかった。
 とくにおよそ1965年以降に勢いづいている秘密のまたは内々のイデオロギー的展開の中には、マルクス主義的な動向をほとんど感知することができない。その代わりに見出すこができるのは(多くは「マルクス主義のないボルシェヴィズム」と称し得る形態での)大ロシア民族排外主義(chauvism)、抑圧された非ロシア民衆の民族的要求、宗教(とくに正教、広義のキリスト教、仏教)、および伝統的な民主主義的思想だ。
 マルクス主義またはレーニン主義は一般的反対派の小さな分派を占めるにすぎない。しかし、それは、現存する。その著名なソヴィエトの代弁者は、Roy とZhores のMedvedyev 兄弟だ。
 歴史家であるRoy Medvedyev は、スターリニズムの一般的分析を大々的に行ったことを含めて、いくつかの価値ある著書の執筆者だ。
 この分析書は他の出所からは知ることのできない多くの情報を含んでおり、確かに、スターリニズム体制の恐怖を言い繕う試みだと見なすことはできない。
 にもかかわらず、この著者の他書のように、レーニニズムとスターリニズムの間には大きな亀裂があり、社会主義社会のためのレーニンの企図はスターリン僭政によって完全に歪曲され、変形された、という見方にもとづいている。
 (この書のこれまでの章の叙述から明確だろうように、この書の執筆者は正反対の見方をしている。)//
 (38)最近の20年間、ソヴィエト同盟のイデオロギー状況は、多くの点で他の社会主義諸国で生じたのと同じ変化を経験してきている。
 マルクス主義は、一つの教理としては、実際には死に絶えている。しかし、マルクス主義は、ソヴィエト帝国主義、および抑圧、搾取と特権の国内政策全体を正当化するという、有益な機能を提供している。
 東ヨーロッパでと同様に、支配者たちは、かりに人民と共通する基盤を見出すのを欲するとすれば、共産主義以外のイデオロギー上の価値に頼らなければならない。
 ソヴィエトの民衆たち自身に関するかぎりでは、問題となる価値は、民族排外主義や帝国主義の栄誉だ。一方で、ソヴィエト同盟の全ての民衆は、外国人恐怖症に、とくに反中国民族主義や反ユダヤ主義に、陥りやすい。
 これこそが、言われるところのマルクス主義諸原理にもとづいて構成された世界で最初の国家に残された、マルクス主義の遺産の全てだ。
 この、民族主義的で、ある程度は人種主義的な見地は、ソヴィエト国家の本当の、公言されないイデオロギーだ。それは、暗示や印刷されない文章によって保護されているのではなく、それらによって吹き込まれている。
 そして、これはマルクス主義とは異なり、民衆の感情の中に、現実的な反響を呼び覚ましている。//
 (39)マルクス主義が完全に衰退し、社会主義思想が信頼を失い、そして勝利した社会主義諸国でと同じく嘲弄物(ridicule)に変わった、そのような文化的な世界のかけらは、たぶん存在しない。
 矛盾する怖れをもつことなく、次のように言うことができる。思想の自由がソヴィエト・ブロックで許容されていたとすれば、マルクス主義は、全地域での知的生活のうちの最も魅力がないものだということが判明しただろう、と。
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 第2節、終わり。第3節の表題は、<ユーゴスラヴィア修正主義>。

2094/L・コワコフスキ著第三巻第13章第2節④。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終章の試訳のつづき。分冊版・第三巻、p.466-9。゜
 第13章・スターリン死後のマルクス主義の進展。
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 第2節・東ヨーロッパでの修正主義④。
 (27)1968年はチェコスロヴァキアへのソヴィエトの侵攻の年だったが、ポーランドの分離した知的動向としての修正主義の終焉を事実上は告げた年でもあった。
 多様な形態に分化した反対派は現在では、マルクス主義または共産主義の語句用法をほとんど用いていない。そして、民族的(national)保守主義、宗教や伝統的な民主主義ないし社会民主主義の用語法で、十分に適切に表現することができる。
 共産主義は一般に、知的な問題であることを終えて、たんに統治権力と抑圧の一問題になって残っている。
 状況は、逆説的だ。
 支配党は依然として、マルクス主義と「プロレタリア国際主義」の共産主義教理を公式には宣明している。
 マルクス主義は高等教育のどの場所でも義務的履修の科目であり、その手引書が出版され、その諸問題に関する書物が執筆されている。
 しかし、国家イデオロギーが今ほどに生気のない(lifeless)状態になったことはかつてなかった。
 誰も実際には、マルクス主義を信じていない。支配者と被支配者のいずれも、その事実を知っている。
 だが、マルクス主義はなくてはならない(indispensable)。それは、体制の正統性を基礎づける主要なものだからだ。党は労働者階級と人民の歴史的利益を「明確に表現」する、という主張が党の独裁の根拠であるのと同様に。
 誰もが、知っている。「プロレタリア国際主義」は、東ヨーロッパ諸国は自分たちの事柄を決定する主人ではないという事実、かつ「労働者階級を指導する役割」はたんに党官僚機構の独裁を意味するにすぎないという事実、を覆い隠す語句だ、と。
 その結果として、支配者たち自身が、少なくともある程度の反応を一般民衆から得ようと望むときには、紙の上だけに存在するイデオロギーに訴えることがますますなくなり、その代わりに、<国家の存在理由>(raison d'état)や民族利益(natinal interest)の用語を使っている。
 国家イデオロギーが生気のないものであるのみならず、それはスターリン時代のようには明確には定式化されていない。定式化することのできる権威が、もはや存在しないからだ。
 検閲や多様な警察的制限で苦しめられているが、知的生活は継続している。その際に、国家による支援が人為的に存在させつづけ、批判から免れてさせていたけれども、マルクス主義はほとんど役割を果たしていない。
 イデオロギーと人文科学の分野では、党は、抑圧とあらゆる種類の禁止でもって消極的にのみ活動することができる。
 その場合ですら、公式イデオロギーは、かつての普遍主義的な要求資格を失なければならなかった。
 もちろんマルクス主義は直接的には批判されないかもしれないが、哲学の分野ですら、マルクス主義を完全に無視し、まるでそれは存在してこなかったのごとく執筆されている著作が現れている。
 社会学の分野では、一定の正統派論考が定期的に刊行されている。それは主として、その著者たちの政治的信頼性の証明を確保するだめにだ。一方で同時に、多数の別の諸著作が、西側と同じ方法を用いる、通常の経験的社会学の範疇に入ってきている。
 そのような著作に許容される射程範囲は、むろん限定されている。家族生活の変化や産業での労働条件を扱うことはできるが、権力や党生活の社会学を論じることはできない。
 厳しい制限が課されているのは、とくに近年の歴史に関係する歴史科学についてのマルクス主義的な理由というよりもむしろ、純粋に政治的な理由だ。
 ソヴィエトの支配者は、自分たちは帝制主義(Tsarist)的政策の継続性を代表していると、固く信じているように見える。そしてそのゆえに、ロシアとの諸関係、分割、民族的抑圧に支配された2世紀にわたるポーランド史の学術研究は、多数の禁忌のもとに置かれている。
 (28)ポーランドの経済学研究について、一定程度は、修正主義をなおも語ることができるかもしれない。効率性の増大を推奨する、実践的なかたちをとっているからだ。
 この分野で最も著名なのは、W. Brus とE. Lipinski だ。この人物たちはともにマルクス主義の伝統に頼っているが、その形態は社会民主主義に接近している。
 彼らが論じているのは、抑圧的な政治システムと結びいているために、社会主義経済の欠陥と非効率性は純然たる経済的手法で治癒することはできない、ということだ。
 ゆえに、経済の合理化は、政治的多元化なくしては、つまり実際には共産主義特有の体制の廃絶なくしては、達成することができない。
 Brus は強く主張する。生産手段の国有化は公的所有制と同義ではない、政治的官僚機構が経済的決定権を独占しているのだから、と。
真に社会主義化した経済は、政治的独裁制とは両立し得ない。
 (29)いくぶんか少ない程度にだが、Władysław Bienkowski は、修正主義者と分類することができるかもしれない。
 ポーランドの外で出版された著作で彼は、官僚的諸政府のもとでの社会と経済の悪化を分析する。
 彼は、マルクス主義の伝統に訴えるが、それを超えて、階級(マルクスの意味での「階級」)のシステムから独立した政治権力の自主的メカニズムを検証している。
 (30)類似の動向が共産主義者の忠誠心の衰退、マルクス主義の活力やその政治的儀礼の減少と結びついていることを、観察することができる。共産主義諸国によって、その程度は多様だけれども。
 (31)チェコスロヴァキアの1956年は、ポーランドやハンガリーと比べて重要性ははるかに低かった。修正主義運動が発展するのが遅かった。しかし、一般的な趨勢はどこでも共通していた。
 チェコの経済学者の中で最も知られた修正主義者は、Ota Sic だ。この人物は1960年代初めに、典型的な改革綱領を提出した。すなわち、生産に対する市場の影響力の増大、企業の自主性の拡大、非中央的計画化、社会主義経済の非効率性の原因である政治的官僚制の分析。
 政治的条件はポーランドよりも困難だったが、哲学者たちの修正主義グループも発生していた。
 その最も著名な構成員は、Karel Kosic だった。この人物は<具象性の弁証法(Dialectics of the Concrete)>(1963年)で、多数の典型的に修正主義的な論点を提示した。すなわち、歴史解釈での最も一般的な範疇としての実践(praxis)の観念への回帰、人類学上の問題<に向かい合う>存在論の問題の相対性、唯物論的形而上学の放棄や「上部構造」に対する「土台」の優越性の廃棄、たんなる産物ではなく社会生活の共同決定要素としての哲学や芸術。
 (32)1968年初頭のチェコスロヴァキアでの経済危機は、政治的変化と党の指導性の変更を突如として早めた。この経済危機がただちに、修正主義の考え方にもとづく、政治的、イデオロギー的批判論の進展を解き放った。
 宣告された目標は、ポーランドやハンガリーでかつてそうだったのと同じだった。抑圧的警察制度の廃止、市民的自由の法的保障、文化の自立、民主主義的経済管理。
 複数政党制、または少なくとも異なる社会主義諸政党を形成する権利を求める要求は、党員である修正主義者たちによって直接に提起されたのではなかったが、恒常的に諸議論の中で姿を見せていた。
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 ⑤につづく。

2075/L・コワコフスキ著第三巻第13章第2節③。


 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終章の試訳のつづき。
 第13章・・スターリン死後のマルクス主義の進展。
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 第2節・東ヨーロッパでの修正主義③。
 (22)ハンガリーで修正主義の第一の中心になったのは、ブダペストの "Petőfi Circle"で、ルカチ学派の者たちを含んでいた。
 ルカチ自身はこの議論で顕著な役割を果たした。そして、ポーランドの修正主義者たちと比べて、彼もその支持者たちも、マルクス主義への忠誠をはるかに強調した。
 ルカチは「マルクス主義の枠内での」自由を求め、単一党支配の原理に疑問を抱いていなかった。
 あくまで想定にすぎないが、ハンガリーの修正主義者たちのスローガンがはるかに正統派的だったことは、民衆一般の不満の運動から離れるようになって、党に対する攻撃を彼らが適度に維持することができなかった理由だった。
 その結果は、明示的に反共産主義の性格をもつ大衆的抗議だった。そしてこれが、党の崩壊をもたらし、ソヴィエトの侵攻を招いた。
 ソヴィエトによる侵攻は、「民主化された」共産主義体制という考えはお伽噺であることがただちに明白になったポーランドにのみならず、西側の共産主義者たちに対しても、衝撃を引き起こした。
 小規模の共産党のいくつかは分裂し、その他の共産党は多数の知識人たちの支持を失った。
 ハンガリー侵攻は、世界じゅうの共産主義者たちの間に多様な異端的運動や、ソヴィエト路線の運動や教理を再構築しようとする試みが生まれるのを刺激した。
 イギリス、フランスおよびイタリアでは、民主主義的共産主義の可能性如何に関する多数の著作が出版された。
 1960年代の「新左翼」の大多数は、これらから刺激を受けて鼓舞されたものだ。
 (23)ハンガリーの修正主義運動は、ソヴィエトの侵攻によって破壊された。
 ポーランドのそれは、数年間にわたって、多様な、比較的に穏健な形態の抑圧と闘わざるをえなかった。抑圧とは、定期刊行物の閉刊、党方針に屈するのを拒む寄稿者の強制的な不採用、個々の著作者による出版の禁止、文化の全分野に及ぶ検閲の強化、といったものだ。
 しかしながら、ポーランドの修正主義が次第に減退していった主な理由は、そのような抑圧手段ではなく、修正主義者による批判論によって掘り崩されていった、党イデオロギーの解体にあった。
 (24)修正主義は、「根源」-主としては青年マルクスとその人間性の自己創造という観念-に立ち戻ることによってマルクス主義を再生し、その抑圧的で官僚制的な性格を治癒して共産主義を改良しようとする試みとしては、つぎのかぎりで、有効なものであり得ただろう。すなわち、党が伝統的イデオロギーを真摯に受け止め、党装置がイデオロギーの問題にある程度は敏感であるかぎりで。
 しかし、修正主義自体が、公式的教理に対する敬意を党が失ったこと、そしてイデオロギーがますます殺伐としているが不可欠の儀礼になったこと、の大きな原因だった。
 このようにして修正主義者の批判論は、とくにポーランドでは、共産主義の脚下からそれを崩した。
 文筆家や知識人たちは、宣言行動と抗議、当局に政治的圧力を加える試みを継続した。しかし、徐々に、真の修正主義思想、つまりマルクス主義に依拠することが少なくなった。
 党と官僚機構では、共産主義イデオロギーの重要性が明らかに衰退していた。
 かりにスターリニズムの暴虐に関与したのであってもそれぞれに忠実な共産主義者であって共産主義の理想を堅く保持していた者たちに替わって権力を掌握したのは、自分たちが利用してきた共産主義スローガンの空虚さを完全に知った、冷笑的で幻惑から醒めた出世第一主義者たち(careerists)だった。
 こうした種類の者たちで成る官僚制的機構は、イデオロギー上の衝撃にも動じなかった。/
 (25)他方で修正主義自体に、やがてマルクス主義の先端部を超えて進行するという、確かな内在的論理があった。
 合理主義の考え方を真摯に採用した者は誰でも、マルクス主義の伝統に対する自分の「忠誠心」の程度について、もはや関心をもつことができず、別の淵源や理論的刺激を利用することが禁止されているとも感じなかった。
 レーニン=スターリン主義の形態でのマルクス主義は貧困で未熟な構造をもつものだったので、厳密な検証を行うにつれて実際には消滅していった。
 マルクス自身の教理は、確かに知性に対するより多い栄養を供給するものだった。しかし、物事の性質からして、マルクスの時代より後に哲学や社会科学が提起した諸問題に対する回答を与えるものではなかったし、また、20世紀の人間主義的(humanistic)文化が発展させた多様で重要な観念的範疇を消化することができるものでもなかった。
 マルクス主義をどこかで始まっている新しい動向と結びつける試みがなされたが、それはすみやかにその明晰な教理形態をマルクス主義から奪うこととなった。
 マルクス主義は、知的歴史に寄与するいくつかのうちの一つにすぎなくなった。マルクス主義は、たとえ困難に思えても全ての問題に対する回答を見出すことができる、権威ある真理による全包括的な大系ではなくなった。
 マルクス主義は数十年間は、ほとんど全体として、有力だが自己充足的なセクトの政治イデオロギーとして機能した。その結果は、マルクス主義は諸思想がある外部世界からほとんど完全に遮断された、ということだった。
 この孤立状態を解消しようとする試みがなされたときには、すでに遅かった。-教理は解体した。ミイラ化した遺骸が突如として空中に晒されるがごとく。
 こうした観点からすると、正統派党員たちは全く正当に、マルクス主義の中に新しい空気を注入することを怖れた。
 修正主義者たちの訴えはたんに常識的なことと感じられた。-マルクス主義は科学に普遍的に適用される知的な方法にもとづく自由な討議で防衛されなければならない。現代的諸問題を解決するマルクス主義の能力を恐れることなく分析しなければならない。マルクス主義の観念的大系は豊富にされなければならない。歴史文書は捏造されてはならない。等々。
 こうした修正主義者たちの訴えは全て、悲惨な結末となることが判った。マルクス主義を豊かにしたり補完したりすることなく、疎遠だった諸思想の逆巻の中へと消失したのだ。//
 (26)ポーランドの修正主義はしばらくの間は残存したけれども、反対派の他形態の思想に比べて次第に重要ではなくなっていった。
 ポーランド修正主義の1960年代初期を代表したのは、KurońとModzelewski だった。彼らは、マルクス主義的かつ共産主義的な綱領を提案した。
 彼らによるポーランドの社会と政府に関する分析の結論は、共産主義諸国には新しい搾取階級が存在するに至っており、それはプロレタリア革命によってのみ克服される、というものだった。そしてこれは、伝統的なマルクス主義の基本的考えに沿っていた。
 彼らはこれにより、数年間の投獄を被った。しかし、彼らの抵抗が助けたのは、1968年の3月に相当に広がった暴動を指導することとなる、学生たちの反対運動の形成だった。
 しかしながら、このことは、共産主義イデオロギーとはほとんど関係がなかった。
 学生たちのほとんどは、市民的自由と学問の自由の名のもとで抗議運動を行った。そして、これらを特別に共産主義の意味で、また社会主義の意味ですら、解釈しはしなかった。
 政府は、暴乱を鎮圧した後、文化の分野での攻撃を開始した(これは当時の党内批判者たちとの闘いと関連していた)。そして、そうすることで、政府の主要なイデオロギー上の原理が反ユダヤ主義であることを露呈した。 
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 ④へとつづく。

2001/L・コワコフスキら編著(1974)⑥-討論③。

 L・コワコフスキ=S. Hampshire 編・社会主義思想-再評価(New York、1974)。
 Leszek Kolakowski & Stuart Hampshire, ed, The Socialist Idea - A Reappraisal.(New York, 1974).
 L・コワコフスキの「序文」が彼自身の文章として記述する、報告(および副報告またはコメント)の後の「討論」の内容。つづき。p.14-p.17.
 以下の(12)のほとんどは会合・シンポジウムの最後にL・コワコフスキが述べた「結語」の引用だとされているので、その中の段落分けについて(-01)等の小番号を付した。
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 討論③。 
 (12)レディング会合についての私の個人的な見方を示すために、勝手ながら討論のあとで私が行った結語的論評を引用したい。//
 (-01)我々の討議の狙いは、現存する政治体制、運動または政党、社会主義者または共産主義者を批判することではなかった。
 しかしながら、明らかなことだが、実現しようとする現存する試みがまるでこの討議と無関係であるかのごとく、今日に社会主義思想に関して討議することはできない。
 この会合を組織するに際して、我々は4つの範疇の人々、4種類の思考(mentality)を避けたかった。それらは、社会主義思想とそれが実際に具現化されたものとの関係についての議論でしばしば見出すものだ。//
 (-02)第一。社会主義思想にも社会主義社会で形成されている姿のいずれにも間違った(wrong)ものは何もない、と単純に考える人々がいる。
 思想はしっかりして首尾一貫した素晴らしいものであり、完璧にソヴィエト型諸国で具体化された。
 これはオーソドクスな共産主義者の見方の要点だ。//
 (-03)第二。現存する経験に照らして思想は完全に破綻していることが判った、ゆえにそれに関して語るものは何もない、と考える人々がいる。
 共産主義システムは、社会主義思想を永遠に葬ってしまった。
 (-04)第三。多数のトロツキストと批判的共産主義者たちに典型的な接近方法がある。
 それは、つぎのように要約することができる。
 共産主義諸国に、多数の過ちを冒した官僚主義的な歪曲があることを否定することはできない。
 しかし、原理または本質は健全なものだ。
 全く問題がない。-貴方たちが執拗に主張するなら、私〔トロツキストら〕は譲って、このシステムは、数億万人の犠牲のうえに、侵略のうえに、民族抑圧のうえに、際立つ不平等、搾取、文化的荒廃、政治的僭政体制のうえに築かれている、と認めよう。-
 しかし、貴方たちは、国家が工場を所有している!ことを否定することはできない。
 そして、共産主義諸国での国家所有工場は人類にとって無限の価値をもつので、この成果に直面するならば、他の全ての事情は些細で二次的なことだ。//
 (-05)第四。新左翼の間では全く共通の態度がある。それは、つぎのように表現することができる。
 全く問題がない。現存する社会主義諸国はガラクタであることに私〔新左翼〕は同意するが、我々はその諸国の歴史にも現実の条件にも関心がない。我々はもっと巧くやろうとしているからだ。
 どのようにして?
 ごく簡単だ。
 我々はまさに、地球的革命を起こして、疎外、人口過剰および交通渋滞を排除しなければならない。
 青写真の用意はある。我々が行うべき全ては、地球的革命を起こすことだ。//
 (-06)周りを見れば、これら4つの範疇のいずれかに入らない者はほとんどいないことを我々は知る。
 我々は、これらの態度はここにはなかった、ということを少なくとも達成した。
 これが意味するのは、我々は社会主義思想と社会主義諸国の現存する経験のいずれをも真摯に考察したということ、およびこの経験はこの思想の有効性と将来の見込みに関する討議にとってきわめて意味がある、ということだ。
 この事実それ自体が、「社会主義」という言葉がこの世に生まれた後のほとんど150年になっても、我々がなお最初に立ち戻らなければならないことを明らかにしている。
 しかしながら、これは落胆あるいは絶望の理由だ、と私は言おうはしない。
我々が人間の悲惨さをなくしてしまうのができないのは本当であっても、同時に、改善されるだろうと考える者が誰もいないとすれば、世界は現状よりももっと悪くなるだろうということも本当だろう。//
 (13)我々はいま、どこにいるのか?
 社会主義の観点からして社会に関する我々の思考に欠けているのは、我々が実体化されるのを見たいと欲する一般的諸価値ではない。そうではなく、実践に投入されればこれらの諸価値が相互に衝突し合うのを阻止する方法に関する知識であり、理想を達成するのを妨害している諸力に関するより十分な知識だ。
 我々は平等に<賛成>するが、経済の組織化は平等な賃金にもとづくことができないこと、いかなる制度的変化があっても急速には破壊されそうにない永続的メカニズムが文化的後進性にはあること、ある程度の不平等性は生来的要因でもって説明することができ、社会的過程へのその影響力についてはほとんど知られていないこと、等々を認識している。
 我々は経済民主主義に賛成するが、経済民主主義を有能な生産稼働と調和させる方法を知らない。
 我々は、官僚制に反対する多くの論拠をもち、生産手段に対する公的統制、換言すると官僚制の増大、を支持する同じく多くの論拠ももつ。
 我々は現代技術の破壊的影響を嘆くが、それに対する我々の知る唯一の防御策は、より進んだ技術だ。
 我々は小さな共同体の自律の増大を支持し、地球的規模での計画化の増大を支持する。-れら二つのスローガンには何の矛盾もないかのごとくに。
 我々は学校での学習の増大を支持し、生徒たちの自由の増加を支持する。-後者は実際には学習を少なくする。
 我々は技術の進歩と完全な安全とを支持する。-後者は動かないことだ。
 我々は人は自分の幸福追求について自由でなければならないと語りつつ、幸福についての誰にも適用できる絶対確実な規準を知っているふりをしている。
 我々は、誰もが民族的憎悪に反対する世界で民族的憎悪や民族的孤立主義に反対している。しかし、かつて人間の歴史には民族的憎悪に関するもっと多くのことがあった。
 我々は、人々は実体的存在だと考えられなければならないと主張する。しかし、人々は肉体をもつという考えほど衝撃を与えるものはない。これが意味するのは、人々は遺伝的に決定されており、生まれて死ぬ、若いまたは老いた、男または女だ、ということで、また、誰が生産手段を所有するかに関係なくこれら全ての要因が社会過程で一定の役割を果たすことができる、ということであり、さらに、いくつかの重要な社会的諸力は歴史的条件の産物ではなく、階級分化によるものでも決してない、ということだ。//
 (14)我々は数百年前には幸福だった。
 我々は、搾取者と被搾取者、富者と貧者がいることを知った。そして我々には、いかにして不公正を除去するかに関する完璧な思想がある。我々は所有者を搾取し、富を共通の善に変えるだろう。
 我々は所有者を搾取した、そして世界の歴史上で最も怪物的で抑圧的な社会システムの一つを創った。
 そして、我々は、全ては「原理的に」うまくいっていると繰り返して言い続ける。何らかの不運な事件だけが忍び込んできて、善なる思想を僅かに傷つける。
 さあ、再出発しよう。//
 (15)社会主義的用語で思考し続けるのは、愚かだろうか?
 私は、そうは考えない。
 正義、安全確保、教育の機会、あるいは福祉と貧者や無力者に対する国家の責任、これらをより大きくするために西側ヨーロッパでなされてきたことが何であれ、それらは、幼稚で幻想的なものであったとしても、社会主義イデオロギーの圧力と社会主義運動なくしては達成され得なかった。
 このことは、我々がこの幻想を多数の失敗の後でも無限に抱くことがあらかじめ保障されていて、許容されている、ということを意味していない。
 しかしながら、過去の経験は部分的には社会主義思想を支持し、部分的にはそれに反対している、ということを意味している。
 我々はたしかに、対立なき社会の秘訣または完璧さに向かう合鍵を有しているなどと、思い違いすることは許されない。
 予期され得なかった事件が起きなければ原理的には一緒に達成することのできた諸価値の系統的なセットを我々は持っているなどと、考えることもできない。人間の歴史のほとんどは予期し得ない偶発事件によって成り立っているのだから。
 我々は、伝統的な社会主義の諸価値のセット全体を信じつづけることはできないし、多数の些細な真実を憶えていないかぎりは、最小限の精神的な誠実さを保ちつづけることもできない。
 すなわち、これらの諸価値の中には、実行に移すならば相互に対立し合わないものは何もないのだ。
 我々が作動させた社会的変化の結末の全てを、我々が知ることは決してない。
 過去の歴史の堆積と永遠につづく人間という生物の特質の両者は、社会の計画化に制限を課した。
 そしてこの制限を、我々は曖昧にしか知っていない。
 多数の陳腐な真実が示唆して意味することに我々が強く抵抗するのは、何ら驚くべきことではない。
 こうしたことは、たんに人間の生活について自明のことはその不愉快さだという理由だけで、全ての知の領域で生じている。//
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 終わり。

2000/L・コワコフスキら編・社会主義思想(1974)⑤-討論②。

 L・コワコフスキ=S. Hampshire 編・社会主義思想-再評価(New York、1974)。
 Leszek Kolakowski & Stuart Hampshire, ed, The Socialist Idea - A Reappraisal.(New York, 1974).
 L・コワコフスキの「序文」が彼自身の文章として記述する、報告(および副報告またはコメント)の後の「討論」の内容。つづき。p.10-14.
 討論②。
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 (5)社会主義の発展を評価する指標としての余暇(leisure)に関するHarrington の見解は、もう一つの理由で批判された。
 余暇の増大は自由時間を充足する物品への新しい需要の増大という意味を、そしてその結果生じる新しい生産物と新しい消費形態への動きという意味を内包しているので、余暇という観念自体が自己破壊的だ、と指摘された(Taylor)。
 Taylor は、先進産業国家がその経済成長による災厄的結果(相互に刺激し合う需要と生産の無限の螺旋構造)を免れるためにはきわめて緊急的な変化が必要だが、その変化に意味包含されているのは、精神的な方向づけの見直しだ、と主張した。
 技術を再生し人々の量的でない成長を達成するには、制度を改変するだけではなくて、個人的な要求の優先順位を再検討しなければならないだろう。
 (6)討論で明らかになった相違がいかほど重要なものだったとしても、社会主義という意味ある観念はいずれも、労働する社会の自分自身の運命を決定する能力をその意味に包含している、ということには合意があったように見えた。この能力の中にはとくに、生産手段を統制する力が含まれている。
 この論点は、異なる視覚から何度も提起された。
 Brus は、公的所有と社会的所有の区別を強く主張した。後者は、経済的民主主義を含むものだ(そして、これのない経済的民主主義は考え難いので、政治的民主主義も)。
 東ヨーロッパの経験から分かるのは、生産手段の公的所有を達成する体制は、社会的な所有制を採用しなければ、つまり労働する社会が経済の自己管理権を有しなければ、社会主義社会について伝統的には期待されたようには全く進まない、ということだ。
 Marek は、西側社会主義と人民民主主義諸国の両方に新しい展望を拓く新しい現象として、産業社会全体に広がる産業民主主義の必要性を強調した。
 工場の入口で停止する民主主義は、また工場の出口で停止する民主主義も、民主主義という名に値しない。
 Hirszowicz は、産業民主主義の多様な段階を区別した(技術、経営、社会)。但し、社会生活の全ての側面を包括する参加型民主主義の一部としてのみ、産業民主主義を把握することができる、と述べた。//
 (7)政治的民主主義を伴わない経済の自主管理が無意味であることに合意するのは、困難でなかった。
 しかし、討論を刺激したもっと特有の問題は、経済の自主管理の実行可能性およびその実際的内容に関するものだった。
 効率的な経営と産業民主主義の間の矛盾を解消する制度的な手段は開発されてきていない、と論じられた。
 かりに我々がこの両方を望むならば、全ての種類の妥協によってのみこれを考えることができる。
 そして、ユーゴスラヴィアの実験の多くの側面は、勇気を与えるものではないか?
 現実の経営と現実の決定権力は、労働者の形式的な権利がどうであれ、通常は専門家たちの手のうちにある。
 一方で、特定の産業単位の自律性が大きくなるほど、大きな破壊性を伴う資本主義的蓄積という正常な法則が無制限に作動する余地が、それだけ広くなる。
 他方で、高度に集中的な計画化は、ソヴィエト型社会の経験から判断すると非効率的であるとともに反民主主義的で、国の技術が精巧になるほど、中央的計画化の非効率性はそれだけ際立って明瞭になる。
 (Sirc がNuti に反駁して述べたように、)経済全体を作動させるのは不可能だ。
 しかし、西側ヨーロッパと北アメリカの現存する経済体制は漸次的であっても重要な変化が生じるのを受容すると我々は期待することができるか? 富の配分についてますます平等になり、産業管理についてますます民主主義的になり、生産の果実に全ての者がますます参加できる、そのような漸次的変化の受容を。
 資本主義社会での技術の巨大な進歩は余暇の増大を生み出したが、このことはこの目的のために用いることはできない、そして用いることはできなかった、と主張された(G. A. Cohen によって)。生産の増加と余暇の増大の間の選択を迫られて、資本主義はその本来の性格からして不可避的に前者を選ばなければならないからだ、と。
 労働時間についてのその帰結は、この〔資本主義〕システムの範囲内でこれまでは些細なものだった。
 進歩的な税制は理論上は社会的富のより平等な配分を誘導することになるが、現実にはそうではなかった、とも主張された(Nuti によって)。//
 (8)一般的に言って、社会主義諸国の経験は西側ヨーロッパの社会主義運動の展望と社会主義という思想そのものの有効性の両方にとっていかほどに適切(relevant)なものであるのか、に関する合意はなかった。
 この意味(relevance)を誰も否定しなかったが、それに限界があることは様々に明確に述べられていた。
 我々はこの〔社会主義諸国の〕システムの技術的および経済的非効率性は偶発的な歴史的諸事情によると説明すべきなのか、それとも、それはまさにその〔社会主義体制の〕基礎のうちに埋め込まれていたのだ、と説明すべきなのか?
 社会主義諸国の経験は、社会主義思想の実現可能性とそれがもつ全ての諸価値をひっくるめた達成可能性に、いかほどに疑問を抱かせているのか?
 社会主義の伝統のまさに中核にある諸価値のうちのいくつかは、実際に適用してみると相互に矛盾するように思えた。
 すなわち、自由の必要性と平等の必要性はほとんどつねに両立し難いことが分かった。
 完全な産業民主主義という理想は、有能な(competent)経営とは容易にはほとんど結びつき難い。
 我々は、余暇と消費用商品の両方の増大を求める。そして、どうすれば両方のいずれの増大をも獲得できるのかを知るのは困難だ。
 我々は、安全確保と技術進歩の両方を求める。しかし、完全な安全性は停滞(stagnation)を意味包含しているように見え、技術の進歩は不均衡(disequilibrium)を意味する(Sirc)。
 矛盾する諸価値を合理的に調整するシステムを与えることのできる理論は、諸矛盾を根絶させるシステムに関するそれはなおさらのことだが、存在していない。
 我々はますます総合的な計画化を必要とするが、それに関して信頼できる理論がない、社会に関する我々の知識は必ずや限定されており、社会的技術工学(social engineering)を用いても多数の予期していない事態を生み出さざるを得ないからだ(と、Hampshire は主張した)。
 ゆえに、社会の組織化に関する現存する可能性を試してみる方が安全で、より責任ある見解ではないか? 現在の状況よりもはるかに悪い結果をもたらさないという保障が全くない、そういう完璧さへと向かって偉大な跳躍をすると約束するよりは。//
 (9)西側諸国の社会主義者の意識に重要な変化が起こっているが、その原因はソヴィエト型社会主義の失敗にのみあるのではなく、資本主義社会が変容していくつかの社会主義に固有の価値を無意味な、重要でないまたは疑わしいものにしたことにも起因する、ということが、討論では繰り返して指摘された。
 マルクスの予見によれば、社会主義は資本主義生産様式が技術の進歩に負荷していた制限を打破すると考えられており、社会主義的組織化がその優越性を証明するのはまさにその点にある、とされた。
 現存する社会主義社会は、西側モデルを不器用に模倣する一方で「技術競争」を喪失していることが判明した。それだけではなく、技術の進歩というまさにその価値が、悪名高い破壊的な観点からする社会進歩の主要な標識としては、ますます魅力的なものではなくなっていることも分かった。//
 (10)新しい経験に照らすと19世紀の社会主義思想の最も弱点だと思える第二の重要な点は、社会主義運動での労働者階級の役割だ。
 Bottmore は、労働者階級の<ブルジョア化(embourgeoisement)>の理論を批判し、福祉国家体制と社会主義的発展の同一視の傾向に反対しつつ、社会主義運動は今日的変化に適用することのできる信頼し得る理論を何ら持っていない、と指摘した。
 多数の左翼グループの間には、マルクス主義の意味では労働者階級では全くない、最底辺のまたはたんに特権を持っていない集団(移住労働者、ルンペン・プロレタリアート、人種的または民族的少数者)に別の革命的前衛を探し求める政治傾向がよく知られている。しかしこれは、社会学的分析にもとづくものではなく、絶望が反射したものだと、討論では頻繁に論述された。
 他方で、高度発展社会での労働者階級の地位の変化は福祉上の利益に限定されておらず、多くの社会的経済的な重要問題について労働組合が発揮することのできる力の消極的な統制を含む、と指摘された(Kendall)。後者は、私的所有制の制限または部分的な搾取だと叙述することができる、と。//
 (11)その価値が危機に瀕している、社会主義に関する第三の様相は、国際主義の伝統だ。
 Lodzは討論で、ネイション(nation)の「階級」観念と対抗するものとしてのその「国家」という観念の分析を行った。
 民族主義(nationalist、国家主義)イデオロギーと社会主義イデオロギーの間の対立はその力のほとんどを喪失していることを示すために、多くの現象が叙述された。
 すなわち、左翼の運動がマルクス主義理論によると確実に「反動的」というレッテルに値する民族主義的な要求を支持するのは通常の(normal)のことで、例外的なものではない。そして、左翼が民族主義的信条を支持しないのは、多数の紛争の中でほとんど考え難い、と(Taylor)。
 種族的(tribal)な共同体への郷愁が、多数の左翼集団の中にきわめて強く感じられる(Hampshire)。
 他方で、民族主義は国家の経済的機能の増大によって助長されており、同じ理由で、それはしばしば社会主義者の綱領と合致してもいる(Brus)。
 大国である社会主義諸国では、社会主義イデオロギーは排外主義または帝国主義の願望と区別し難くなっている間に、いくつかの(とくに東ヨーロッパでの)民族主義の形態は、自立と参加を求める民主主義的要求と合致している(Kusin)。
 ある参加者たちは、社会主義運動の観点からして特有の価値を持たないものとしてネイションを過渡的な現象と把握する、伝統的なマルクス主義の基調の有効性を強調した(Eric Hobsbawm)。
 他の参加者は、国際主義的態度と民族的忠実さは何ら両立し得ないものではない、とした(Ludz)。
 少なくともつぎの二点は、疑問視されなかった。
 第一に、現存する社会主義諸国は、民族問題を解決するというかつての約束を実現することに、完全に失敗した。第二に、社会主義運動では、国際主義の理想は実際には滅び去った。
 大国の愛国主義と民族独立を求める要求の両者は、社会主義イデオロギーの中に頻繁に出現する。そして、誰ももはや、このことを異様だとは考えていない。//
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 ③へとつづく。

1998/L・コワコフスキら編・社会主義思想(1974)④-討論①。

 
 Leszek Kolakowski & Stuart Hampshire, ed, The Socialist Idea - A Reappraisal.(Basic Books, Inc. Publishers, New York, printed in Great Britain, 1974).
 L・コワコフスキ=S. Hampshire 編・社会主義思想-再評価(New York、1974)。
 イギリス・レディングの会合での諸報告の記録である上の著には、報告(および副報告またはコメント)の後の「討論」の内容を記録してはいない。
 L・コワコフスキの「序文」が彼自身の文章として、「討論」内容の少なくとも一端を紹介しているので、参考になる。
 なお、当初に設定された論点・課題の一覧はこの紹介の項の①のとおりで、そうした設定の具体的内容や趣旨もL・コワコフスキは記している。その部分も訳出しておけば、意味の理解がより容易だってたかもしれない。
 <討論の内容をここで再現しはしない。しかし、討論で繰り返された主題のいくつかを指摘し、参加者で分かれた主要な論点に言及しておくことが有益かもしれない>と述べて、L・コワコフスキは「討論」を以下のように紹介する。試訳。段落番号は、最初からの通しではない。p.8~。
 討論①。
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 (1)予期されるだろうように、討論では継続して、社会主義の最も伝統的な諸価値の意味や有効性に立ち戻った議論が行われた。
 いくつかの場合には、参加者の相違と論議は、数十年間あるいは一世紀を超えてすら社会主義思想にはよく見られた様式に従うものだった。
 (2)社会主義という観念をどのように定義するかについて合意がなかったのみならず、その定義に向かう接近方法についてすら合意がなかつた。
 マルクス主義の伝統が、通常はこの議論の出発地点だった。
 しかしながら、つぎのことが指摘された。すなわち、マルクス主義自体が、いくつかの重要な諸点では、矛盾を除去したり内在的な首尾一貫性を完成させたりすることをしないで、異種の起源をもつものを結合しようとしたものだ、ということ。
 かくして、マルクス主義は、一方で啓蒙主義(Enlightenment)の遺産と一致して、至高の価値をもつ個人の自律と自由な発展を強調しつつ、他方では社会の完璧な統合へのロマン派的郷愁(romantic nostalgia)を継承した。
 この二つの傾向は(Taylor が述べたように)相互に対立し、社会主義社会はどのようなものであるべきかに関して、全く異なる二つの考え方の中に反映された。
 マルクス主義の理性主義および普遍主義の側は、個人の幸福、裕福、余暇、創造から成る社会主義の展望(vision)を生み出した。
 マルクス主義のロマン派の側は、有機的共同体へと回帰する必要性を強調した。そして、全体主義的な社会主義という夢想郷(utopia)を生み出す傾向にあっただろう-(Kolakowski が主張したように)完璧な統合という理想は全体主義的僭政体制以外のいかなる形態にも陥る傾向性はなかった、というのが本当のことならば。
 (Petrovic が強調した)もう一つの緊張関係は、マルクスの革命的人間中心主義と彼の経済的決定論の間にあったことが注目されるかもしれない。
 前者の観点からは、社会主義に向かう運動は、個人の精神的な発展と諸生活の物質的および制度的な条件の変化の間の相互依存的な永続的な過程だ、ということを意味包含(imply)する。
 これが意味するのは、社会主義への変容を制度の観点から定義することができない、ということだ。
 もう一つの後者の接近方法は、純粋に「客観的」な観点から歴史過程を叙述し、(Raddatz が指摘したように)個人の意識と個人的な価値がどのようにして制度の変容の影響を受けるか関して考察する余地を残さない。
 その結果としてこの接近方法によると、我々は、社会主義運動を、確かな制度上の企図を実行するよう定められた技術的な手段だと、かつ社会主義を、新しい社会を作り出す人間たちに何が生じるかとは関係なく、この企図を達成するための条件だと、と把握するすることになる。//
 (3)社会主義をたんに公的所有制と権力の観点からのみ定義するならば、社会主義のイデオロギー上の観念を無視することになる。-この点は、参加者たちの間で争いがなかった。
 また、社会的対立や不満の全てを除去する、普遍的な救済(salvation)のための青写真だと社会主義のことを考える者も、いなかった。
 しかしながら、このような一般的な一致はあっても、もっと特殊な諸論点の全てについて、論争を予め阻止することができたのではなかった。
 我々は社会主義を、社会関係の一定の望ましいセット(set)と定義すべきなのか、それとも(Hampshire が示唆するように)社会経済的な弱者の願望と要求に従って社会的諸問題を解決するための手段だと定義すべきなのか?
 討論では、この二つの傾向-つまり夢想的(utopian)と実際的(pragmatic)-はつねにお互いに衝突し合った。
 ある人々(Marek とPetrovic)は、我々は夢想郷(utopia)なしで、換言すれば人間の潜在的力の範囲内で描いた理想像(imaginary pictures)なしで、済ませることはできない、と何度も強調した。
 我々は達成され得る現実的目標よりも、一種の規整的観念(regulative idea)を必要とする、全ての実際的諸問題について従うべき一般的な方向を見出すのを助けてくれるものが必要だ、と。
 しかしながら、討論を支配したのは、より実際的な接近方法だったと思えた。
 19世紀の資本主義社会では達成の見込みがないように見えた多数の社会的要求が実際には満足されたがゆえに、社会制度についての過激な「二者択一的」見方(資本主義・社会主義)は説得力を失った(Walter Kendall の意見)。
 組織的な労働運動の圧力が証明したのは、労働者階級の分け前を改善するために現存する国家諸制度を利用するのに間違いなく成功した、ということだ。したがって、この圧力が有効であることには<先験的な>限界があるとする理由はない。
 他方で、現存する社会主義制度はそれ自体では、資本主義社会内部で解決できていない社会問題を解決する力はないことが、経験から判断して、分かった。
 社会主義制度は膨大な対価を払って、発展途上諸国での産業化の諸問題を解決した。そして、原始的蓄積の組織者としての役割を果たした。
 しかし、社会主義制度は、社会主義思想の伝統によれば社会組織の特殊に<社会主義的>な形態へと取りかかると想定された単一の任務を履行することができなかった。//
 (4)現存する社会主義社会は、マルクス主義の伝統が定義しているような生活の社会主義形態への乏しい準備的な歩みなのか、それとも資本主義発展の周縁にある諸国での急速な工業化の道具にすぎないのか。-これに対する回答は、社会主義世界をどう定義するかの標識に関する参加者の見方によって異なった。
 Harrington の見解は、こうだった。物質的な豊かさは社会主義発展の前提条件だ。我々が必要な作業の減少や余暇の増大で進歩を測らなければならないことは、社会主義革命はまだ起きていないとの明確な結論を導く。遠く離れてすら社会主義の名に値する社会は生み出されていない。社会主義発展はその原理上、発展途上社会では、とくに第三世界では、想定し難い。
 この見解は、満場一致で支持されたわけではなかった。
 他方には、現存する社会主義制度はいかに非効率で重苦しいものであっても、階級社会を超える決定的な歩みだと考えられなければならない、社会対立の根源の全てを破壊することはできていないけれども、階級分化から帰結するその一つを破壊することには成功したのだから、というむしろ孤立した見解があった(Nuti)。
 この問題は自動的に、別の問題へとつながっていった。
 ソヴィエト型社会は新しい階級分化を生み出したというのは、どの程度に本当のことなのか?
 もう一つの共有されたのではない見方は、社会主義制度の欠陥は支配する官僚機構の無能さによって説明することができ、官僚機構と社会の間の階級対立によるのではない、というものだった(Nuti)。
 参加者の多数(Hirszowicz、Walter Kendall、Kolakowski、Sirk)は、ソヴィエト型社会で装置化された特権のシステムは利益の新しい衝突を生み出した、いくつかの点で異なってはいるが基本的には階級分化と類似のものだ、と主張した(責任の所在なき権力、支配的グループによる生産手段の排他的統御、技術的および経済的進歩への趨勢と政治的官僚制の独占的地位の間の永続的な対立)。
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 ②につづく。

1996/池田信夫のブログ008-マルクス。

 池田信夫ブログ2019年6月26日/7月1日「共産党の時代がやって来た」。
 最後に「意外に共産党の時代が来るかもしれない」とは、冗談がきつい。
 池田はマルクス主義の歴史をよく知っているらしい。今回も、こんな文章がある。
 ・「マルクスは国有化を否定したが、その後の社会主義では『生産手段の国有化』が最大のスローガンだった」。
 ・「マルクスが『プロレタリア独裁』を主張したのは戦術論であり、レーニンが暴力革命を起こしたのは、労働者階級の存在しないロシアでは、それ以外に政権をとる手段がなかったからだ」。
 ・マルクスは「未来の共産主義社会では、生産を管理するのは簿記のような機械的な仕事になると考えた」(→人工知能→共産党でも)。
 いくらでも議論ができそうな気がするが、ともあれ、池田信夫はマルクスに「若い頃に影響を受けた」とこの数年以内にどこかで明記していた。
 そして印象としては、マルクスだけは守りたい、または少なくともマルクスだけは全面的には否定したくない、という気分を持っていることが分かる。
 マルクスと資本論に関する著書もあるくらいだから、私などよりはるかにマルクスを読んでいる(読んだ)に違いない。
 しかし、マルクスと解体した「ソ連」またはマルクス・レーニン・スターリンの「関連」を冷静に、かつ多面的に論じるのは困難だし、<現実政治>または日本共産党の存在のもとでの日本での議論・検討がいかほどに学問的に?きちんと行われたかは、はなはだ疑わしい。
 秋月もまた、単純にマルクス=レーニン=スターリンと等号化できないことは当然のこととして理解できる。
 「マルクス=レーニン主義」というのはスターリンによる、その「真」の継承者として自分を正当化するための造語だった。上の三者のうちの最大の断絶はマルクスとレーニン・スターリンの間にあるだろう。日本共産党・不破哲三らが同意するはずはないが、後者は<レーニン・スターリン主義>または<ボルシェヴィズム>または<ロシア共産主義>と一括することができる。
 つい最近に試訳した1975年論考=<スターリニズムのマルクス主義的根源>でも、L・コワコフスキはスターリン時代に定式化された以上にマルクスの思想は「豊かで、繊細で、詳細だ」ということを認めている。
 また、その大著の中には、<レーニン主義はマルクス主義に関する可能な「解釈」の一つ>だと明記されていて、レーニン(・スターリン)の「責任」は全てマルクスに起因する、などとは書かれていない。
 L・コワコフスキほどに慎重で、注意深い、冷静な見方をする人物は稀少だろう。
 そして一方で、彼は、スターリニズムの「根源」はマルクスにある、レーニンもスターリンも決してマルクス主義を「歪曲」し、それから「逸脱」したのではない、決して「反マルクス主義」ではないと熱心に説く。
 彼によると、<真実=プロレタリアの意識=マルクス主義=党のイデオロギー=党指導者の考え=党のトップの決定>という等式には、「非マルクス主義のものは何もない」。
 あるいは、「マルクス主義の歴史哲学」は、「本質的に歪曲される」ことなくその「解釈」を通じて、スターリニズムに「イデオロギー上の武器」を与えた。
 150年ほど前のマルクス(・エンゲルス)の書いたことと、レーニンの書いたこと・したこと、スターリンの書いたこと・したことの「関連」を、単純に語れるはずがない。単純な原因・結果の関係ではない。
 思想、政治綱領、個別政策方針、さまざまの次元がある。<イデオロギー>が全てを決定したわけではないが、<マルクス主義>が全く無関係だったわけではなく、レーニンもスターリン(のイデオロギーと現実政治)も<その数ある延長線上にあったものの一つ>だと見ることも全く不可能ではない。
 これは、歴史の見方に関連する。ある観念・主張(例えばマルクス主義)があったとして、その後の進展はそれの<必然>か、無関係の<偶然>か。
 これがL・コワコフスキが1975年の小論考で最後に触れていた点だ。
 ***
 そして、<必然>か、無関係の<偶然>かは、社会・歴史のみならず、個々人・ヒトの一生についても語りうる基本要素だ。
 ①遺伝(生物的必然)、②環境(生育中の影響)、③本人の<自由な意思>。
 マルクス主義に魅力があるのは、こうしたことをも考えさせ、適切だったかは別として、人間の、とくに青年期の男女たちに<生き方>に関する観念を与え、若者に特有の(幼くて単純な)<理想>に訴えかけたことにあるだろう。

1995/マルクスとスターリニズム⑥-L・コワコフスキ1975年。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski), The Marxist Roots of Stalinism(1975), in: Is God Happy ? -Selected Essays (2012)の試訳の最終回。最終の第5節。
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 スターリニズムのマルクス主義という根源。
 第5節・マルクス主義としてのスターリニズム③。
(16)マルクスとエンゲルスから、つぎの趣旨の多数の文章を引用することができる。第一に、人間の歴史で一貫して、「上部構造」は所与の社会の対応する財産関係に奉仕してきた。第二に、国家は現存する生産関係のをそのままに維持するための道具にすぎない。第三に、法は階級権力の武器以外のものではあり得ない。
 同じ状況は、少なくとも共産主義が絶対的な形態で地球上を全体的には支配していないかぎり、新しい社会で継続する、と正当に結論づけることができる。
 言い換えると、法はプロレタリアートの政治権力の道具だ。そして、法は権力行使の技術にすぎないために(法の主要な任務は通常は暴力を隠蔽して人民を欺くことだ)、勝利した階級が支配する際に法の助けを用いるか用いないかは、何の違いもない。
 重要なのは階級内容であって、その「形式」ではない。
 さらに加えて、新しい「上部構造」は新しい「土台」に奉仕しなければならない、と結論づけるのも正当だと思える。
 このことがとりわけ意味するのは、文化生活は全体として、最も意識的な要員の口を通じて語られ、支配階級により明確にされる政治的任務に完全に従属しなければならない、ということだ。
 ゆえに、スターリニズム体制での文化生活を指導する原理として普遍的に役立ったのは、「土台-上部構造」理論からの適切な推論だった、と述べることができる。
 同じことは、科学についても当てはまる。
 もう一度言うが、エンゲルスは科学を理論的哲学による指導のないままにしてはならない、さもなくば科学は完全な経験論者的痴呆へと陥ってしまう、と語らなかったか?
 そして、これこそがじつに、関心の範囲はむろんのこと内容についても全ての科学をソヴィエトの哲学者と党指導者たちが哲学によって-つまりは党イデオロギーによって-統制することを、最初から正当化した方策だった。
 1920年代にKarl Korsch はすでに、最上位性を哲学が要求することと科学に対してソヴィエト体制がイデオロギー的僭政を行うことの間には明確な関係がある、と指摘した。//
 (17)多数の批判的マルクス主義者は、これはマルクス主義の戯画(calicature)だと考えた。
 私はそれを否定しようとはしない。
 しかしながら、こう付け加えたい。戯画が原物と似ている場合にのみ-実際にそうだったのだが-、「戯画」という語を意味あるものとして用いることができる。
 つぎの明白なことも、否定しようとはしない。マルクスの思想は、ソヴィエトの権力体制を正当化するためにレーニン=スターリン主義イデオロギーによって際限なく繰り返されたいくつかの引用文から感じられる以上にはるかに、豊かで、繊細で、詳細だ、ということ。
 だがなお、私は、そうした引用文は必ずしも歪曲ではない、と論じたい。
 ソヴィエト・イデオロギーによって採用されたマルクス主義の外殻(skelton)は、きわめて単純化されているが、新しい社会を拘束する虚偽の(falsified)指針だったのではない。//
 (18)共産主義の全理論は「私有財産の廃棄」の一句で要約することができるという考えは、スターリンが考えついたものではなかった。
 スターリンはまた、賃労働は資本なくしては存在できないとか、国家は生産手段に対する中央志向権力を持たなければならないとか、あるいは民族対立は階級対立とともに消滅するだろうとかの考えを提示したのでもなかった。
 我々が知っているように、これらの考えは全て、明らかに、<共産主義者宣言>で述べられている。
 これらの考えは、まとめて言うと、ロシアで起こったように、いったん工場と土地が国家所有になれば社会は根本的に自由になるということを、たんに示唆しているのみならず、論理的に意味している。
 このことはまさしく、レーニン、トロツキーおよびスターリンが主張したことだった。//
 (19)要点は、マルクスは人間社会は統合の達成なくしては「解放」されない、と実際に一貫して信じた、ということだ。
 そして、社会の統合を達成するものとしては、僭政体制とは別の技術は知られていない。
 市民社会を抑圧すること以外には、市民社会と政治社会の間の緊張関係を抑える方法は存在しない。
 個人を破壊すること以外には、個人と「全体」の間の対立を排除する方策は存在しない。
 「より高い」「積極的な」自由-「消極的な」「ブルジョア的」自由とは反対物-へと向かう方途は、後者を抑圧すること以外には存在しない。
 かりに人間の歴史の全体が階級の観点から把握されなければならないとすれば-かりに全ての価値、全ての政治的および法的制度、全ての思想、道徳規範、宗教的および哲学的信条、全ての形態の芸術的創造活動等々が「現実の」階級利益の道具にすぎないとすれば(マルクスの著作にはこの趣旨の文章が多数ある)-、新しい社会は古い社会からの文化的継続性を暴力的に破壊することでもって始まるに違いない、ということになる。
 実際には、この継続性は完全には破壊され得ず、ソヴィエト社会では最初から部分的(selective)な継続性が選択された。
 「プロレタリア文化」の過激な追求は、指導層が支援した一時期のみの贅沢にすぎなかった。
 ソヴィエト国家の進展につれて、ますます部分的な継続性が強調されていった。それはほとんどは、民族主義的(nationalistic)性格の増大の結果だった。
 (20)私は思うのだが、ユートピア(夢想郷)-完璧に統合された社会という展望-は、たんに実現不可能であるばかりではなく、制度的手段でこれを生み出そうとすればただちに、反生産的(counter-productive)になるのではないか。
 なぜそうなるかと言うと、制度化された統合と自由は反対の観念だからだ。
 自由を剥奪された社会は、対立を表現する活動の息が止まるという意味でのみ、統合されることができる。
 対立それ自体は、消失していかない。
 したがって結局は、全くもって、統合されないのだ。//
 (21)スターリン死後の社会主義諸国で起きた変化の重要性を、私は否定しない。これら諸国の政治的基本構成は無傷のままで残っている、と主張するけれども。
 しかし、最も大切なことは、いかに緩慢に行われるとしても、市場が生産に対して何らかの制限的影響を与えるのを許容すること、生活の一定領域での厳格なイデオロギー統制を放棄すること、あるいは少しでも緩和することは、マルクスによる統合の展望を断念することにつながる、ということだ。
 社会主義諸国で起きた変化が明らかにしているのは、この展望を実現することはできない、ということだ。すなわち、この変化を「真の(genuine)」マルクス主義への回帰だと解釈することはできない。-マルクスならば何と言っただろうかはともかく。//
 (22)上述のような解釈のために追加する-断定的では確かにないけれども-論拠は、この問題の歴史のうちにある。
 マルクス主義の人間主義的社会主義のこのような結末を「誰も予見できなかった」と語るのは完全にまやかし(false)だろう。
 社会主義革命のだいぶ前に、アナキストの著作者たちは実際にそれを予言していた。彼らは、マルクスのイデオロギー上の諸原理にもとづく社会は隷属と僭政を生み出す、と考えたのだ。
 ここで言うなら少なくとも、人類は、歴史に騙された、予見できない事態の連結関係に驚いた、と泣き事を言うことができない。//
 (23)ここで論じている問題は、社会発展での「生来(genetic)要因と環境要因」という問題の一つだ。
 発生論的考察ですら、考究される属性が正確に定義されていなければ、あるいはそれが身体的ではなくて精神的な(例えば「知性」のような)属性であるならば、これら二要因のそれぞれの役割を区別するのはきわめて困難だ。
 そして、我々の社会的な継承物(inheritance)における「生来」要因と「環境」要因を区別することはどれほど困難なことだろうか。-継承したイデオロギーと人々がそれを実現しようとする偶発的諸条件とを区別することは。
 これら二要因が全ての個別の事案で作動しており、それらの相関的な重要性を計算してそれを数量的に表現する方法を我々は持たない、ということは常識だ。
 分かっているのは、その子がどうなるかについて「遺伝子」(生来のイデオロギー)に全ての責任があると語ることは、「環境」(歴史の偶発的事件)がその全てを説明することができると語るのと同様に全く愚かなことだ、ということだ。
 (スターリニズムの場合は、これら二つの相容れない極端な立場が表明されている。それぞれ、一方でスターリニズムとは実際にマルクス主義を現実化したものにすぎない、他方でスターリニズムとはツァーリ体制の継承物にすぎない、という見方だ。)
 しかし、我々はスターリニズムについての責任の「適正な割合」についてそれぞれの要因群を計算したり配分したりすることはできないけれども、その成熟した姿が「生来の」諸条件によって予期されたか否かを、なおも理性的に問題にすることはできる。
 (24)私はスターリニズムからマルクス主義へと遡って軌跡を描こうとしたが、その間にある継続性は、レーニン主義からスターリニズムへの移行を一瞥するならば、なおも鮮明な形をとっていると思われる。
 非ボルシェヴィキ党派は(リベラル派は論外としてメンシェヴィキは)、ボルシェヴィキが採っていた一般的方向に気づいており、1917年の直後には、その結末を正確に予見していた。
 さらに加えて、スターリニズムが確立されるよりもずっと前に、新しい体制の僭政的性格は党自体の内部ですみやかに攻撃されていた(「労働者反対派」、ついで「左翼反対派」によって-例えばRakovskyによって)。
 メンシェヴィキは、自分たちの予言の全てが1930年代に確証されたことを知った。また、トロツキーが、メンシェヴィキによる「我々はそう言った」は悲しいほどに説得力がない、という時機遅れの反論を行ったことも。
 トロツキーは、メンシェヴィキは将来に起きることを予言したかもしれないが、それは全く間違っている、彼らはボルシェヴィキによる支配の結果としてそうなると考えたのだから、と主張した。
 トロツキーは言った。実際にそうなった、しかしそれは官僚制によるクーの結果としてだ、と。
 <欺されていたいと思う者は全て、欺されたままにさせよ(Qui vult decipi, decipiatur)。>//
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 終わり。

1993/マルクスとスターリニズム⑤-L・コワコフスキ1975年。

 Leszek Kolakowski, The Marxist Roots of Stalinism(1975), in: Is God Happy ? -Selected Essays (2012)の試訳のつづき。
 最終の第5節。
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 スターリニズムのマルクス主義という根源。
 第5節・マルクス主義としてのスターリニズム②。
 (8)これは、マルクスの階級意識という観念の単純化した範型だ。
 たしかに、真実について独占する資格があるという党の主張がここから自動的に導き出されはしなかった。
 また、等号で結ぶためには、党に関する特殊レーニン主義の考えが必要だ。
 しかし、このレーニン主義考えには反マルクス主義のものは何もなかった。
 マルクスがかりに党に関する理論を持っていなかったとしても、彼には労働者階級の潜在的な意識を明確にすると想定される前衛集団という観念があった。
 マルクスはまた、自分の理論はそのような意識を表現するものだと見なした。
 「正しい」労働者階級の革命的意識は自然発生的労働者運動の中に外部から注入されなければならないということは、レーニンがカウツキーから受け継いだものだった。
 そして、レーニンは、これに重要な補足を行った。
 すなわち、ブルジョアジーとプロレタリアートの階級闘争によって引き裂かれた社会には二つの基本的なイデオロギーしか存在することができないので、プロレタリア的でない-換言すると前衛たる政党のイデオロギーと一致しない-イデオロギーは、必ずやブルジョア的なそれだ。
 かくして、労働者たちは助けがなければ自分たち自身の階級イデオロギーを産み出すことができないので、自分たちの力で産み出そうとするイデオロギーはブルジョア的なものになるに違いない。
 言い換えれば、労働者たちの経験上の「自然発生的な」意識は、本質的にはブルジョアの<世界観>であるものを生み出すことができるにすぎない。
 その結果として、マルクス主義の党は、真実の唯一の運び手であるがゆえに、経験上の(そして定義上ブルジョア的な)労働者の意識から完全に独立している(但し、プロレタリアートよりも前に進みすぎることのないように、その支持を得るために求められている場合には戦術的な譲歩をときどきはしなければならない)。//
 (9)これは、権力掌握後も、真実のままだった。
 党は真実の唯一の所持者として、大衆の(不可避的に未成熟な)経験上の意識を(戦術的意味がある場合を除いて)完全に無視することができる。
 じつに、そうしなければならない。それができないとすれば、必ずや、党はその歴史的使命を裏切ることになる。
 党は「歴史的発展法則」および「土台」と「上部構造」の正しい関係の二つを知っている。党はそのゆえに、過去の歴史的段階からの残滓として存続しているものとして破壊するに値する、そのような人民の現実的で経験的な意識を、完璧に見定めることができる。
 宗教的想念は、明らかにこの範疇に入る。しかし、人民の精神(minds)を内容において指導者たちのそれとは異なるものにしているもの全てが、そうだというのではない。//
 (10)プロレタリアの意識をこのように把握することで、精神に対する独裁は完全に正当化される。党は社会よりも、社会の本当の(経験的ではない)願望、利益および思索が何であるかを実際に知っている。
 我々の最終的な等式は、こうだ。真実=プロレタリアの意識=マルクス主義=党のイデオロギー=党指導者の考え=党のトップの決定。
 プロレタリアートに一種の認識上の特権を与えるこの理論は、同志スターリンは決して間違いをしない、との言明に行き着く。
 この等式には、非マルクス主義のものは何もない。//
 (11)党についての真実の真実の唯一の所持者だという観念はもちろん、「プロレタリアートの独裁」という表現によって補強された。この後者の語をマルクスは、説明しないで、二度か三度何気なく使った。
 カウツキー、モロトフその他の社会民主主義者たちは、マルクスが「独裁」で意味させたのは統治の形態ではなく統治の階級的内容だ、この語は民主主義国家と反対するものとして理解されるべきではない、と論じることができた。
 しかし、マルクスは、この論脈では何らかの類のことをとくには語らなかった。
 そして、この「独裁」という語を額面どおりにレーニンが正確に意味させて明瞭に語ったものを意味するものだと受け取ることには、明らかに間違ったところは何もない。すなわち、法によって制限されない、完全に暴力(violence)にもとづく支配。//
 (12)党がもつ、全ての生活領域に対してその僭政を押しつける「歴史的権利」の問題とは別に、その僭政(despotism)という観念に関する問題もあった。
 この問題は、根本的にはマルクスの予見を維持する態様で解決された。
 解放された人類はつぎのことを行うと想定された。すなわち、国家と市民社会の区別を廃棄し、個々人が「全体」との一体化を達成するのを妨げてきた全ての媒介的装置を排除し、私的利害の矛盾を内包するブルジョア的自由を破壊し、労働者たちが商品のように自分たちを売ることを強いる賃労働制度を廃止する。
 マルクスは、この統合がいかにして達成され得るのかに関して、厳密には論述しなかった。つぎの、疑い得ない一点を除いては。搾取者の搾取-つまり、生産手段の私的所有制の廃棄。
 搾取というこの歴史的行為がひとたび履行されるならば、残っている社会的対立の全ては古い社会から残された遅れた(ブルジョア的)精神を表現するものにすぎない、と論じることができたし、そうすべきだった。
 しかし、党は、新しい生産関係に対応する正しい精神(mentality)の内容はどのようなものであるべきかを知っている。そして当然に、それとは適合しない全ての現象を抑圧することのできる権能をもつ。//
 (13)この望ましい統合を達成する適切な技術とは、実際のところ、どのようなものになるのだろうか?
 経済的基盤は、設定された。
 マルクスは市民社会が国家によって抑圧されるまたは取って代わられると言いたかったのではなく、政治的統治機構は余分なものになり、「物事の管理〔行政〕」だけを残して、国家が消滅することを期待したのだ、と論じることができた。
 しかし、国家が定義上、共産主義への途上にある労働者階級の道具であるならば、国家はその定義上、「被搾取大衆」に対してではなく、資本主義社会の遺物に対してのみ、権力を行使することができる。
 「事物の管理」または経済の運営はどのようにすれば、労働の、つまりは全ての勤労人民の利用や配分を伴わないことができるのか?
 賃労働-労働力の自由市場-は、廃棄されたはずだった。
 これは想定どおりに生じた。
 しかし、共産主義者の熱意だけが人々が労働をする不十分な誘因だと分かると、いったいどうなるのだろうか?
 このことが意味するのは明らかに、それを破壊することが国家の任務である、ブルジョア的意識に囚われてしまう、ということだ。
 従って、賃労働を廃止する方法は、それを強制(coercion)に置き代えることだ。
 そうすると、かりに政治社会のみが人民の「正しい」意思を表現するのだとすると、市民社会と政治社会の統合はどのようにして達成されることができるのか?
 ここで再び言えば、その人民の意思に反対しまたは抵抗する者たちはみな、定義上は資本主義秩序の残存者となる。
 さらにもう一度言えば、統合へと進む唯一の途は、国家によって市民社会を破壊することだ。//
 (14)人々は自由に、強制されることなく協力するように教育されなければならないと主張する者は、誰であっても、つぎの問いに答えなければならない。
 このような教育を、どの段階で、どのような手段によれば、達成することができるのか?
 資本主義社会でそれが可能だと期待するのは、マルクスの理論とは確実に矛盾しているのではないか? 資本主義社会での労働人民は、ブルジョア的イデオロギーの圧倒的な影響のもとに置かれているのだ。
 (支配階級の思想は支配している思想だと、マルクスは言わなかったか?
 社会に関する道徳的変化を資本主義秩序で希望するのは、全くの夢想(pure utopia)ではないのか?)
 そして権力掌握の後では、教育は社会の最も啓蒙的な前衛の任務だ。
 強制は、「資本主義の残存者たち」に対してのみ向けられる。
 そうして、社会主義の「新しい人間」の産出と苛酷な強制との間を区別する必要はない。
 その結果として、自由と隷属の区別は、不可避的に曖昧になる。//
 (15)(「ブルジョア」的意味での)自由の問題は、新しい社会では意味のないものになる。
 エンゲルスは、本当の自由は人々が自然環境を征服することと社会過程を意識的に規制することの両方を行うことのできる範囲と定義されなければならない、と言わなかったか?
 この定義にもとづけば、社会の技術が発展すればするほど、社会は自由になる。
 また、社会生活が統合された指令権力に服従すればするほど、社会は自由になる。
 エンゲルスは、社会の規制は必ず自由選挙または他の何らかのブルジョア的装置を伴うだろう、とは述べなかった、
 そうすると、僭政的権力の一中心によって完全に規制された社会はその意味で完璧に自由ではない、と主張することのできる理由は存在しない。//
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 ⑥へつづく。

1987/マルクスとスターリニズム③-L・コワコフスキ1975年。

 Leszek Kolakowski, The Marxist Roots of Stalinism, in: Is God Happy ? -Selected Essays (2012)の試訳のつづき。
 第三節と第四節。
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 スターリニズムのマルクス主義という根源。
 第三節・スターリン主義全体主義の主要な段階。
 (1)全体主義のソヴィエト変種は、絶頂点に到達する前に多年を要して成熟していった。
 その成長の主要な諸段階はよく知られている。だが、簡単に言及しておく必要があるだろう。
 (2)第一段階では、代表制民主主義の基本的諸形態-議会、選挙、政党、自由なプレス-が廃絶された。
 (3)第二段階(第一段階と一部重なる)は、「戦時共産主義」という誤解を生む名前で知られる。
 この名前は、この時期の政策は、内戦と干渉が強いた甚大な困難さに対処するための一時的で例外的な手段として考案された、ということを示唆する。
 実際には、指導者たち-とくにレーニン、トロツキーおよびブハーリン-の関連する著作からして、彼ら全員がこの経済政策-自由取引の廃止、農民からの「余剰」(すなわち地方指導部が余剰だと見なしたものの全て)の強制的徴発、一般的な配給制度、強制労働-を新しい社会の永続的な成果だと想定していた、ということが明らかだ。
 また、それを存在する必要がないものにした戦争諸条件を理由としてではなく、それが惹起した経済的災厄の結果としてその経済政策がついには放棄された、と考えられていたことも。
 トロツキーとブハーリンはいずれも、強制労働は新しい社会の有機的部分だとの確信を強調していた。//
 (4)この時期に設定された全体主義秩序の重要な要素は持続し、ソヴィエト社会の永続的な構成要素になった。
 このように継続した成果の一つは、政治勢力としての労働者階級の破壊だった。すなわち、民衆の主導性の自立した表現としての、また自立した労働組合や諸政党の目的としての、ソヴェトの廃棄。
 もう一つは、-まだ決定的でなかった-党それ自体の内部での民主主義の抑圧だった。
 ネップの時期を通じてずっと、システムの全体主義的特性はきわめて強く表れていた。自由取引が受容され、社会の大部分-農民-は国家からの自立を享有していたにもかかわらず。
 ネップは、政治的にも文化的にも、まだ国家所有でないかまたは完全には国家所有でない、そのような主導性を発揮する中心拠点に対する、一党所有国家による圧力の増大を意味した。この点での完全な成功を達成したのは、進展の後続の段階だったけれども。
 (5)第三段階は、強制的集団化だ。これは、まだ国有化されていなかった最後の社会的階級の破壊へと到達させ、経済生活に対する完全な支配権を国家に付与した。
もちろんこのことは、国家が経済の計画化に携わることが可能になった、ということを意味しなかった。国家は、そうしなかった。
 (6)第四段階は、粛清を通じての、党それ自体の破壊だ。なぜなら、党は、もはや現実的でなかったとしても潜在的な力をもつ、国有化されていない勢力だったのだから。
 有効な反抗する勢力は党の内部には残存していなかったけれども、多数の党員たち、とくに年配の党員たちは、伝統的な党イデオロギーへの忠誠を保ちつづけた。
 かくして、彼らが完全に服従していたとしても、現実の指導者と在来の価値体系の間で忠誠心を分化させるのではないか、と疑われた。-換言すれば、指導者に対して潜在的には忠誠していないのではないか、と。
イデオロギーとは指導者がいついかなるときでも語ったものだ、ということを彼らに明確にする必要があった。
 大虐殺は、この任務を成功裡に達成した。それは、狂人が行ったことではなく、イデオロギーの<指導者(Führer、総統)>の作業だった。//
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 第四節・スターリニズムの成熟した様相。
 (1)こうした推移の各段階は、慎重に決定されたり、組織化されたりした。全てがあらかじめ計画されていたのではなかったけれども。
 結果として生じたのは完全に国家が所有する社会で、それは、完璧な統合体という理想にきわめて近く、党と警察によって塗り固められていた。
 完璧に統合されるとともに、完璧に断片化されてもいた。同じ理由により、集団生活の全ての形態が完全に従属するという意味で統合され、市民社会が全ての意図と目的のために破壊されるという意味で断片化された。そして各市民は、国家との全ての関係について、唯一の全能の装置に向かい合った。孤独で、無力な個人だ。
 社会は、マルクスが<ブリュメール十八日>でフランスの農民について語った、「トマト袋」のような物に変えられた。//
 (2)こうした状況-原子のごとき個人に向かい合う統合された国家有機体-は、スターリニズム体制の重要な特質の全てを明確にした。
 その特質はよく知られ、多くのことが叙述されてきた。しかし、我々の主題に最も関連性のある若干のことに簡単に言及しておこう。
 (3)第一は、法の廃棄だ。
 法は確かに、公共生活を規制する一セットの手続的規準として、継続した。
 しかし、国家が個人と交渉をするその全能性を制限することのできる一セットの規準としては、法は完全に廃棄された。
 言い換えれば、市民は国家の所有物だという原理を制限する可能性のある規準を、法は含まなかった。
 その決定的な点で、全体主義の法は、曖昧でなければならなかった。その適用が執行当局の恣意的で変化する決定の要になるように、また、執行当局が選択するときはいつでも各市民を犯罪者だと見なすことができるように。
 顕著な例はつねに、刑法典に定められている政治的犯罪だった。
 その諸規定は、市民がほとんど毎日冒さないことがほとんど不可能であるように、条文化されていた。
 そうした犯罪のうちいずれを訴追して、どの程度のテロルを行使するかは、支配者たちの政治的決定にかかっていた。
 この点は、ポスト・スターリニズムの時代でも何も変わらなかった。すなわち、法は際だって全体主義的なままで、大量テロルから選択的テロルへの移行も、手続的規準をより十分に遵守することも、-個人の諸生活に対する国家の実効的権力を制限しないかぎりは-それが持続することとは関係がなかった。
 民衆は、政治的冗談を話したという理由で投獄されることもあれば、そうされないこともあった。
 彼らの子どもたちは、共産主義の精神(これが何を意味していようと)を発揮するという法的義務を履行しなければ、強制的に連れ去られることもあれば、そうされないこともあった。
 全体主義的な無法性が意味したのは、極端な手段をいつどこでも現実に適用するということではなく、国家が所与のときに用いたいと欲する全ての抑圧に対するいかなる防護をも市民に与えない、ということだった。
 国家と民衆の媒介者としての法は消失し、国家の際限なく融通性のある道具に変質した。
 この点で、スターリニズムの原理は変わらないままで存続している。//
 (4)第二は、一人による専制だ。
 これは全体主義国家の発展のための駆動力である完全な統合という原理の、自然で「論理的な」所産だった、と思える。
 完全な姿を出現させるために、国家は、無制限の権力を授けられた一人の、かつ一人だけの指導者を必要とした。
 このことは、レーニン主義の党のまさに創立そのものに暗に示されていた(トロツキーのしばしば引用される1903年の予言と合致した。予言者の彼自身はすぐに忘れてしまったが)。
 1920年代のソヴィエト体制の進展の全体に見られたのは、闘い合う諸利害、諸思想および政治的諸傾向を表現することのできるフォーラムが一歩ずつ狭められていく、ということだった。
 短い時代の間に、それらは社会で公的に表明され続けたが、その表現は次第に限定され、狭くなる方向へと動いた。先ず党、ついで党装置、そして中央委員会、最後には政治局に限定された。
しかし、ここでも社会的紛議に関する表現を妨げることができた。その紛議の情報入手先は抹消されなかったけれども。
 この最も狭い範囲の党幹部会ですら、かりに続けることが許されたとしても、対立する見解の表明は、社会内部にまだ残存している利害対立の影響を受けるだろう、というのが、十分に練ったスターリンの主張だった。
 これは、党の最上級機関ですら異なる諸傾向または分派が自分たちの見解を表明している場合は、市民社会の破壊は十分には達成されなかった、ということの理由だ。
(5)スターリン以後にソヴィエト体制に生じた変化-個人的僭政から寡頭制への移行-が、ここでは大きく目立つように見える。
 それは、システムに内在する治癒不可能な矛盾から生じた。システムが必要とし、個人的な僭政に具現化された指導者層の完全な統合は、別の指導者たちの最小限度の安全確保の要求とは両立し難い。
 スターリンの支配のもとでは、彼らは他の民衆と同様の不安定な状態に格下げされた。
 彼らの膨大な特権の全ても、上層からの突然の崩落、投獄、そして死に対して彼らを防護してくれなかった。
 スターリンの死以降の寡頭制は、スターリニズムの病的形態だと適切に描写され得るかもしれない。
 (6)にもかかわらず、最悪の時代ですらソヴィエト社会は、警察によっては支配されなかった。
 スターリンは警察機構の助けを借りて国と党を統治したけれども、警察の長としてではなく、党指導者として統治した。
四半世紀の間スターリンと同一体だった党は、全てを包み込む支配権を決して失わなかった。//
 (7)第三は、統治の原理としてのスパイの普遍化だ。
民衆は相互にスパイし合うように奨励された-そして強いられた-。しかし、これは、国家が現実的な危険に対して自己防衛する方法ではなかった。そうではなく、全体主義の原理を究極にまで高めるための方策だった。
 民衆は市民として、目標、願望および思考-これらは全て指導者の口を通じて表現される-を完全に統合して生活することが想定されていた。
 しかしながら、個人としては、お互いに憎悪し合い、継続的に相互の敵対感をもって生活するように期待された。
 このようにしてこそ、個人の他者からの孤立は完全なものになり得た。
 実際に、達成不能のシステムの理想は、誰もが同時に強制収容所の収容者でありかつ秘密警察の工作員であることだったように思える。//
 (8)第四は、イデオロギーの明確な全能性だ。
これはスターリニズムに関する全ての議論の要点だ。そして、他の点よりも混乱や不同意が多い。
 Solzhenitsyn とSakharovの、この主題に関する見解のやり取りを見るならば、これが明瞭になる。
 前者はおおまかには、こう言う。ソヴィエト国家全体が、内政にせよ外交にせよ、経済問題であれ政治問題であれ、マルクス主義イデオロギーの圧倒的な支配に従属していた。また、国家と社会の両方に与えた全ての大災難について責任があるのは、この(偽りの)イデオロギーだ。
 後者は、こう返答する。公式の国家イデオロギーは死んでいる、誰もそれを真摯には受け取っていない。したがって、そのイデオロギーは実際の政策を導いて形成する現実の力であり得ると想像するのは、愚かだ。//
 (9)これら二つの観察はいずれも、一定の限定の範囲内で、有効だと思える。
 要点は、つぎのことだ。すなわち、ソヴィエト国家はそのまさに始まりから、その正統性のための唯一の原理として創設の基礎に組み込まれているイデオロギーをもつ。
 たしかに、ボルシェヴィキ党がロシアで権力を奪取したイデオロギー上の旗印(平和と農民のための土地)は、マルクス主義はむろんのこと社会主義に特有の内容をもつものではなかった。
 しかし、ボルシェヴィキ党は、レーニン主義のイデオロギー原理を基礎にしてのみ独占的支配を確立することができた。定義上労働者階級と「被搾取大衆」の、彼らの利益、目標および願望(かりに大衆自身は意識していないとしても)の、唯一の正統な語り口である党。そのことは「正しい」マルクス主義イデオロギーに即して大衆の意思を「表現」する能力があることによっている党。
 専制的権力を支配する党は、その権力を正当化する、自由選挙や伝来の王制のカリスマがない場合に、正統性の唯一の基礎であるそのイデオロギーを放棄することができない。
 このような支配システムでは、信じている者の数の多寡に関係なく、誰が信じ、誰が真摯に受容しているかに関係なく、イデオロギーはなくてはならないものだ(indispensable)。
 そして、イデオロギーは、支配者たちおよび被支配者たちのいずれにももはや信じている者は事実上いなくなったとしても-ヨーロッパの社会主義諸国にいま見られるように-、なくてはならないもののままだ。
 指導者たちが明らかにすることができないのは、権力システムの完全な崩壊という危機に直面させてまで、彼らの政策の本当のかつ悪名高い諸原理を暴露してしまう、ということだ。
 誰にも信じられていない国家イデオロギーは、国家の全構造が粉砕されてはならないとすれば、全ての者に対して拘束的でなければならない。//
 (10)これは、実際の諸政策の各段階を正当化するために訴えたイデオロギー的考察は、本当の、スターリンまたはその他の指導者たちがその前で拝跪した独立の力をもっている、ということを意味してはいない。
 ソヴィエト体制は、スターリンのもとでもその後でも、つねに、大帝国の<現実政策>を追求した。そして、そのイデオロギーは、各政策を是認するに十分なほどに、曖昧なものでなければならなかった。
 ネップと集団化。ナツィスとの友好関係とナツィスとの戦争、中国との友好関係と中国に対する非難。イスラエルの支持とイスラエルの敵たちへの支援。冷戦とデタント〔緊張緩和〕、国内体制の締め付けと緩和。総督(satrap)の東方カルトとそれに対する弾劾。
 そして、このイデオロギーはソヴィエト国家を維持し、全てを抱え込んでいる。//
 (11)ソヴィエトの全体主義システムはロシアの歴史的背景、強い徴表となっている全体主義的特性、を考慮しなければ理解できない、としばしば言われてきた。
 国家の自律性と市民社会に対するその圧倒的な権力は、19世紀のロシア歴史研究者によって強調された。そして、こうした見方は多数のロシア人マルクス主義者によってある程度の留保つきで、是認されてきた(プレハノフの<ロシア社会思想史>、トロツキーの<ロシア革命史>)。
 こうした背景は、革命の後で、ロシア共産主義の本当の根源だとして繰り返して論及された(Berdyaev)。
 多数の著作者たち(Kucharzewski は最初の一人)は、ソヴィエト・ロシアはツァーリ体制を直接に拡張したものだと捉えた。
 彼らは、とりわけ、ロシアの膨張主義政策、新しい領土への飽くなき欲求を見た。また、全市民の「国有化」(nationalization)、人の全ての形態での活動の国家目標への従属も。
 若干の歴史研究者たちはこの主題について、きわめて説得的な研究書を刊行してきた(直近では、R. Pipes 〔リチャード・パイプス〕、T. Szamuely)。
 私は、彼らの結論を疑問視しはしない。
 しかし、歴史的背景はソヴィエト秩序でのマルクス主義イデオロギーがもつ特有の機能を説明しはしない。
 ロシアでのマルクス主義の意味の全ては、結局は不安定なイデオロギー帝国に、最終的な崩壊の前にしばらくの間は生き残ることができる血と肉を注入することにあった、ということを(Amalrik とともに)認めるところにまで進むとしてすら、いかにしてマルクス主義はこの任務に適合的なものになったのか、という問題は、未回答のままだ。
 マルクス主義の歴史哲学は、その明瞭な希望、企図および価値でもって、いかにして、全体主義的、帝国主義的かつ排外主義的国家に、イデオロギー上の武器を与えることができたのか?//
 (12)マルクス主義歴史哲学はそうできたし、そうした。
 本質的部分で歪曲される必要はなかった。たんに適切な態様で解釈されたにすぎない。
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 つぎの(最終)節の表題は<マルクス主義としてのスターリニズム>。次節だけで、全体の過半を占める。
 

1986/マルクスとスターリニズム②-L・コワコフスキ1975年。

 Leszek Kolakowski, The Marxist Roots of Stalinism, in: Is God Happy ? -Selected Essays (2012)の試訳のつづき。
 一部について、ドイツ語訳を参照した。
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 スターリニズムのマルクス主義という根源。
 第2節・スターリニズムはどう定義(identify)されるか?
 (1)「スターリニズム」という語を用いる場合に、ソヴィエト同盟の十分に明確にできるワンマン僭政制の時代(つまりはおよそ1930年から1953年まで)を意味させるのか、同じ特質を明らかに示す体制を意味させるのか、にはほとんど違いはない。
 にもかかわらず、スターリニズム後のソヴィエト社会やソヴィエト型の国家がどの程度において本質的にそのシステムを拡張したものであるのかという問題は、明らかに、言葉の使い方の問題ではない。
 しかしながら、多くの理由で、システムの継続性を強調する、より歴史的ではなくてより抽象的な第二の定義が、より好都合だ。
 (2)「スターリニズム」は、生産手段の国家所有制にもとづく(ほとんど完全な)全体主義社会だと特徴づけられるかもしれない。
 私は「全体主義的」(totaritarian)という語を常識的に、社会的紐帯が国家が押しつけた組織に置き換えられ、その結果として全ての集団と個人がその行動について国家の目標であり国家がそうだと明確にした目標によってのみ導かれる、そのような政治システムの意味で用いる。
 言い換えると、理想の全体主義システムは、市民社会の完全な破壊をその意味に包含することになるだろう。すなわち、国家とその組織的な諸装置が社会生活の唯一の形態であり、人の-経済的、知的、政治的および文化的-活動の全ての形態はそれらが国家目標(もう一度記すがこれは国家によって明確に定められる)に奉仕する場合にかぎってのみ許容されかつ押しつけられる(許容と賦課の区別は消失していく)、そのようなシステムになるだろう。
 このようなシステムのもとでは、全ての個人(支配者たち自身を含む)は国家の所有物だと考えられてしまう。//
 (3)このように理解される観念は-こう定義することで私はこの主題を論じたほとんどの著作者たちと異なっていないと思うのだが-、なお若干の論評を加えて説明することが必要だ。//
 (4)第一に、完全な形を達成するためには、組織に関する全体主義的原理は生産手段の国家による統御を必要とする、ということが明瞭だ。
 言い換えると、生産活動や経済的主導性の重要部分を諸個人に委ねる、その結果として社会の諸部分が経済的に国家から自立していることを許容する、そのような国家は、理想の形態になることができない。
 ゆえに、全体主義は、社会主義経済のうちにその理想を達成する最良の機会をもつ。//
 (5)第二に、絶対的に完璧な全体主義システムはかつて存在しなかった、ということが強調されなければならない。
 しかしながら、いくつかの社会は個人と共同体の生活の全ての形態を「国有化」する、きわめて強い、内在していて継続的に作用している傾向をもつことを、我々は知っている。
 ソヴィエトの社会と中国の社会はいずれも、この理想にきわめて近いか、一定の時期にはきわめて近かった。
ナツィ・ドイツもそうだった。十分に発展させるほどには長く続かなかったとしても、また、全てを国有化することなく強制を通じて経済活動を国家目標に従属させることで満足していたのだったとしても。
 その他のファシスト国家は、この方向ではドイツよりはるかに遅れていた(または、遅れている)。
 ヨーロッパの社会主義国家もまたかつて、全体主義のソヴィエトの段階まで決して到達しなかった。永続的で衰えることのない、そうしたいという意思はあったにもかかわらず。//
 (6)全体主義の<entelechia〔明確な精神〕>が理想的な形態で実現され得るだろうとは、言えそうにない。
 このシステムによる圧力に頑固に抵抗する生活の諸形態-とくに家族、情動および性的関係-がある。
 そのような生活諸形態はあらゆる種類の国家の強い圧力にさらされてきたが、明らかに、決して完全には達成されなかった(少なくともソヴィエト国家ではそうだった。おそらくは中国ではより多く達成された)。
 同じことが個人や共同体の記憶についても言える。全体主義システムはこれを、当今の政治的必要に従って歴史を変形させ、書き直し、捏造することによって否定しようとしてきたのだったが。
 工場と労働を国有化することは、感情をそうすることより明らかに容易だ。そして、希望を国有化することは、記憶をそうすることよりも容易だ。
 過去の=歴史の国有化に対して抵抗することは、反全体主義の運動の重要な部分だ。//
 (7)第三に、上述のような定義は、全ての僭政システムまたはテロルの支配は必ず全体主義的だとはかぎらない、ということを意味包含している。
 あるシステムは、最も血なまぐさいものであれ、限定された目標をもち、その範囲内での人の活動の全ての形態を吸収して奪い取る必要がないかもそれない。
 最悪の形態の植民地支配は、最も苛酷な時期であっても、通常は全体主義的でない。
 目標は従属している諸国を経済的に搾取することであり、この観点からして中立的な多くの生活領域は、多かれ少なかれ侵害されないままにされた。
 逆に、全体主義システムは、抑圧の手段としてテロルをつねに用いる必要はない。
(8)その完全な形態では、全体主義は、奴隷制の、主人なき奴隷制の、異常な形態だ。
 それは、全ての人々を奴隷へと転化させる。そしてそのゆえに、それは平等主義(egalitariansm)の確かな徴表を帯びる。//
 (9)このように用いる全体主義という観念は最近は「古くさい」または「信の措けない」ものとしてますます却下されてきていることを、私は知っている。
 その有効性は、疑問視されてきた。
 だが、私は、観念上であれ、歴史的にであれ、それの正当性を否定する分析というものを知らない。むしろ、それを正当視する、以前の多数の分析を知っている。
 じつに、共産主義は個人の国家所有を意味するだろうとの予言は、プルードン(Proudhon)において現れた。そして、のちに多数の著名な著作者たちは、そのことが実際にソヴィエト社会で発生したと指摘し、そのように描写すらした(その際に彼らが「全体主義」という語を用いたか否かは別として)。ここでそれらを引用することは、無意味な衒学趣味になるだろう。//
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 第三節につづく。

1981/L・コワコフスキら編・社会主義思想(1974)②。

 Leszek Kolakowski & Suart Hampshire, ed, The Socialist Idea - A Reappraisal.(Basic Books, Inc. Publishers, New York, printed in Great Britain, 1974).
 これの紹介のつづき。
  L・コワコフスキの序文は、さらに続けると、「日本」に触れる一文を除外すると、こう書く。p.7。
じかの邦訳にはしないでおく。
 種々の理由で、この企画は完全には実現されず、若干のテーマは報告を欠き、若干の報告は予定された定式に厳密には従っていなかった。
 そこで、この会合・シンポジウムでは報告されなかった三論文を、この書物で追加することとした。別の会合で報告されたものだ。
 また、一つの論文は、この書物のために執筆された。〔以下の○〕
 本書には、レディング会合・シンポジウムでの報告に対する、五つの論評・コメントも収録している。
  この書の構成・内容は、L・コワコフスキの「序文」(Introduction)とS・ハンプシャイアの「後記」(Epilogue)を含めて、仮訳すれば、つぎのとおり。<>内は報告者等の出身国。必ずしも「国籍」ではないかもしれない。
 上にいう(主)報告に対する論評の論考は、目次上では必ずしも明確でないので、コワコフスキの「序文」にもとづいて秋月が**を付記した。〔以下の**〕
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 01 序文/L・コワコフスキ。
 02 人間の自己認識〔識別・一体性〕という神話-社会主義思想での市民社会と政治社会の統一/L・コワコフスキ。
 03 **市民社会と政治社会の統一-L・コワコフスキへの回答/S・ハンプシャイア。<英>
 04 社会主義と世界観/Charles Taylor.<カナダ>
 05 平等に関する省察/J. P. Mayer.<英>
 06 ○社会主義と平等/Steven Lukes.<英>
 07 社会主義、革命と暴力/Gajo Petrovic.<ユーゴ>
 08 精密さへと向かうマルクス主義の発展について/Fritz J. Raddatz.<独>
 09 社会主義と労働者階級/Tom Bottomore.<英>
 10 社会主義と民族/Peter C. Ludz.<独>
 11 **社会主義とナショナリズム/Vladimir V. Kusin.<チェコ>
 12 生産手段としての余暇/Michael Harrington.<米>
 13 **社会主義に対する現代技術の意味-Michael Harrington報告へのコメント/Wlodzimierz Brus.<ポーランド>
 14 社会主義と所有制/Ljubo Sirc.<ユーゴ>
 15 **社会主義と所有制/Domenico Mario Nuti.<伊>
 16 産業民主主義、自己管理と生産の社会的管理/Maria Hirszowicz.<ポーランド>
 17 **Maria Hirszowicz 報告へのコメント/Franz Marek.<墺>
 18 先進民主主義諸国での将来の社会主義/Richard Lowenthal.<独>
 19 **社会主義の理論とイデオロギー/Gilles Martinet.<仏>
 20 後記/S・ハンプシャイア。<英>
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1974/L・コワコフスキら編著(1974年)序文①。

 L・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)が二人の編者のうちの一人となっていた書物に以下がある。当然に?、邦訳書はない(はずだ)。
 Leszek Kolakowski & Stuart Hampshire, ed, The Socialist Idea - A Reappraisal.(Basic Books, Inc. Publishers, New York, printed in Great Britain, 1974).
 L・コワコフスキ=S. Hampshire 編・社会主義思想-再評価(New York、1974)。
 L・コワコフスキが前記または序文を書いていて、それによると、じかの邦訳にはしないが、途中までの原文の内容は、ほぼつぎのとおり。
 ---
 1973年4月にイギリスのレディング(Reading)でレディング大学等々が支援する国際的な会合・シンポジウム(meeting)が開かれ、この書物はほぼその記録だ。
 上の編者二人とあと二人(Robert Cecil とG. Weidenfeld)の四人で構成した組織委員会が最初に企画したテーマは、つぎだった。
 <社会主義思想の何が間違っているのか?
 これでは実際に社会主義が間違っていることを前提にしていると見られるので、つぎの穏やかなものに変えた。
 <社会主義思想には何か間違っているものがあるか?
 しかし、明らかな全員一致ではないとしても、この会合の出席者たちは、圧倒的につぎのように考えていた。
 今日〔当時〕の社会主義思想と社会主義運動に両方に影響を与えている深刻な危機の原因は、元々の歴史的事情のみではない。そうではなく、不明瞭で矛盾している、社会主義思想が含む原理そのものに起因している。
 この会合の目的は現存する〔当時の〕社会主義国や社会主義運動を批判することではなく、第一に、社会主義思想を成り立たせている根本的で伝統的な観念や価値をあらためて分析すること、第二に、歴史上の経験と理論上の批判の双方に照らして、社会主義思想の有効性に疑問を投げかけること、だった。
 議論がいわゆる社会主義諸国の経験を無視することができないのは明らかだが、批判するとしてもそれは、直接に政治的態度を表明するためにでは全くなく、社会主義思想それ自体の分析を助けるためだった。
---
 以下は一部の紹介になる。以下の各テーマ(topics)についてかなり詳しい内容または問題意識が書かれているが、テーマ名以外は省略する。
 ***
 最初の企画案は<中略>というもので、大きくはつぎの12点をより具体的なテーマとした。
 ①経済の自主管理の観念と社会的な生産管理。
 ②社会主義に対する現代的技術の示唆(意味)。
 ③社会主義計画と市場経済。
 ④社会主義と所有制度。
 ⑤社会主義と民族(nation)。
 ⑥社会主義と労働者階級。
 ⑦性質(quality)の意味。
 ⑧社会主義、革命および暴力(violence)。
 ⑨市民社会と政治社会の統合という理想。
 ⑩社会主義と世界観(Weltanschauung)。
 ⑪教育と「社会主義的人間」。
 ⑫社会主義と伝統という価値。
 ---
 以下は、原文を眺めながらの秋月の文章になる。
 このような企画の(趣旨・)具体的テーマは、全てが達成されたのではなかったようだ。
 いくつかについては発表(・報告)自体が欠落し、いくつかの報告は企画の趣旨・テーマと必ずしも合致しなかった。
 (「日本」が出てくるあたりのここで止めて、次回へとつづく。)
 ***
 なお、この書物の契機となった1973年のレディング(Reading)での会合というのは、つぎの会合を指しているように思われる。
 L・コワコフスキがこの欄では「左翼の君へ」と題してかつて試訳を紹介した、かなり長い、E・トムソンに対する反論・批判の公開書簡の中で、E・トムソンが招聘状が自分には送られてこなかったと不満を述べている(とL・コワコフスキが書いている)会合。
 My Correct Views on Everything, 1974, in: Leszek Kolakovski, Is God Happy ?(2012) 。
 本欄№1526/「左翼の君へ」-レシェク・コワコフスキの手紙①(2017/05/02付)参照。
ギャラリー
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
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  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2564/O.ファイジズ・NEP/新経済政策④。
  • 2546/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor③。
  • 2488/R・パイプスの自伝(2003年)④。
  • 2422/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)④。
  • 2400/L·コワコフスキ・Modernity—第一章④。
  • 2385/L・コワコフスキ「退屈について」(1999)②。
  • 2354/音・音楽・音響⑤—ロシアの歌「つる(Zhuravli)」。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2320/レフとスヴェトラーナ27—第7章③。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2302/加地伸行・妄言録−月刊WiLL2016年6月号(再掲)。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2277/「わたし」とは何か(10)。
  • 2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
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  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
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  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
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  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
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  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
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  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
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  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
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  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
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