秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

共産主義

1472/R・パイプス著『ボルシェヴィキ体制下のロシア』の内容・構成。

 既述のように、①Richard Pipes, The Russian Revolution (1990) <原著・大判でほぼ1000頁>とは別の、リチャード・パイプスの著に、② Richard Pipes, Russia under Bolshevik Regime (1994)<原著・大判で約600頁>がある。これら二つを併せて、「一般読者むけ」に「内容を調整し」「注を省き簡略に」一冊にまとめたものに、③Richard Pipes, A Concice History of the Russian Revolution (1995) <原著・中判で約450頁>がある。そして、この最後の③には、R・パイプス〔西山克典訳〕・ロシア革命史(成文社、2000)という邦訳書<約450頁>がある。
 上の①の構成・目次とそこに掲げられている年表はすでに紹介し、第9章にかぎって試訳を行った。上の②の、Richard Pipes, Russia under Bolshevik Regime (1995)〔パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア〕の目次・構成は、つぎのように成っている。章番号については「章」という語はなく数字だけだが、「章」を加えた。
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 リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア(1994)
 第1章/内戦-最初の戦闘(1918)
 第2章/内戦-頂点(1919-20)
 第3章/赤色帝国
 第4章/革命の輸出
 第5章/共産主義、ファシズムおよび国家社会主義
 第6章/プロパガンダとしての文化
 第7章/宗教に対する攻撃
 第8章/ネップ・偽りのテルミドール
 第9章/新体制の危機
 〔数字なし〕ロシア革命に関する省察
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 以上のうち、第5章/共産主義、ファシズムおよび国家社会主義は、目次上では数字番号と「節」にあたる文字はないままに、つぎの節に分かたれている。但し、本文には見出し文章はなく、各節の間の区別は、一行の空白を挿入することによってなされている。
 National Socialism は、「国民社会主義」が定訳なのかもしれないが、「国家社会主義」と訳しておいた。
 第5章・共産主義、ファシズムおよび国家社会主義。
  第1節・「全体主義」の観念。
  第2節・「レーニン主義者」を源とするムッソリーニ。
  第3節・ナツィの反ユダヤ主義。
  第4節・ヒトラーと社会主義。
  第5節・全体主義三体制の共通性。
  第6節・支配政党。
  第7節・党と国家。
  第8節・大衆操作とイデオロギーの役割。
  第9節・党と社会。
  第10節・全体主義諸体制の差違。
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 以上。
  

1470/第一次大戦と敵国スパイ④-R・パイプス著9章10節

 前回のつづき。かつ、とりあえずの(第9章の試訳の)最終回。
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 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源。
 第10節・ツィンマーヴァルト・キーンタールおよび敵国スパイ。

 1916年4月に、ツィンマーヴァルト会議の続きが、ベルン高原地方のキーンタールで開かれた。
 この会合は社会主義インター委員会により招集され、三年目に入ろうとしている戦争について議論をした。
 インターナショナルの平和派を代表する参加者は、ツィンマーヴァルト左派に従うことを再び拒否した。しかし、前年よりさらに左派に対して柔軟になった。
 会議は『平和問題へのプロレタリアートの態度』という決議で、資本主義の基盤での戦争を非難し、『ブルジョア的であれ社会主義的であれ、平和主義は』人類が直面している悲劇を解消することができない、と強く主張した。//
 『資本主義社会が永続する平和の条件を提示できないならば、その条件は社会主義によって提示されるだろう…。
 <永続平和を目指す闘いは、ゆえに、社会主義の実現を目指す闘いでのみありうる。> 』(133)
 これの実際的な帰結は、『プロレタリアートは即時休戦と講和交渉の開始を求めて呼びかけるべきだ』ということだった。
 再び言おう。反乱を起こすことや銃砲をブルジョアジーに対して向けることの呼びかけではない。しかし、このような行為は決議の前提から排除されてはおらず、多くのことはその中に暗に含まれていたと言うことができるかもしれない。
 ツィンマーヴァルトでしたように、レーニンは、つぎのようなプロレタリアートへの訴えで締め括る、左派のための少数派報告書を書いた。
 『武器を置け。その武器を、共通の敵(foe)-資本主義政府に向けよ。』(*)
 レーニンの声明文の下の(44人の参加者のうちの)12の署名者の中には、ラトヴィアを代表するジノヴィエフ、オランダのそれのカール・ラデックがあった。
 ジノヴィエフの草案にもとづく『社会主義インターナショナル事務局(Bureau)』に関するキーンタールの鍵となる決議は、左派の要求をほとんど満たすもので、この組織がいわゆる<祖国防衛と公民の平和>政策の共犯者に変わることを非難し、また、つぎのように論じた。//
 『インターナショナルは、<プロレタリアートが全ての帝国主義者と狂信愛国主義者の影響から自らを解放し、階級闘争と大衆行動への途を進むことができる>まで、その明確な政治力を有するに至ってのみ、解体を免れることができる。』(134)//
 インターナショナルの分裂を求めるレーニンの主張は再び敗北したけれども、会議が終わったあとで、右派のメンバーの一人、S・グルムバッハは、なおもつぎのように述べた。
 『レーニンとその仲間たちは、ツィンマーヴァルトで重要な役割を果たした。キーンタールでは<決定的な>役割を果たした。』(135)
 じつに、キーンタールの決議は、レーニンが創設した第三インターナショナル〔共産主義インター=コミンテルン〕の基礎作業だった。//
 1915-16年におけるツィンマーヴァルトとキーンタールでのレーニンの成功は、社会主義者たちを言葉上だけで信頼させたこと、彼らが美辞麗句(rhetoric)に酔うことを求めたことによっていた。
 これによってレーニンは、外国の社会主義団体の間で小さいがしかし熱烈な支持を獲得した。
 より重要なことは、こうした立場によってレーニンが社会主義運動上の道徳的な高位を掴んだために、彼の反対者たちは弱体化し、彼と闘うことが妨げられたことだ。
 インターの指導者たちは、レーニンの陰謀好きや誹謗中傷を軽蔑した。しかし、自分たち自身と縁を切ることなくして、レーニンと絶縁することはできなかった。
 レーニンはその戦術によって、社会主義インターの運動を徐々に左傾させ、ついには自分の党派から分裂させた。ちょうどロシア社会民主党について行なったように。// 
 これを言ったがまた、レーニンとクルプスカヤには戦時中の数年間は、苛酷な時期、貧困とロシアからの孤立の時代だったことも注記しておかなければならない。
 彼らはスラム街に接した区画に住み、犯罪者や売春婦たちと一緒に食事をして、かつての多数の友人から捨てられたと感じていた。
 以前の何人かの支持者ですら今や、レーニンは変人で、『政治的イエズス会士〔策謀家〕』で、廃人だと見なすようになった。(136)
 かつてレーニンの最も親密な仲間の一人だった、そして今は軍需産業に勤める官僚として快適な生活をしているクラージンがレーニンへの寄付を求められて接近されたとき、彼は二枚の5ルーブル紙幣を差し出して、つぎのように言った。
 『レーニンは、支援に値しない人物だ。
 危険なタイプだ。そのタタール頭に芽生えている狂気がいかなるものかを知ってはならぬ。
 レーニンよ、くたばれ!』(137)//
 レーニンが逃亡している間の唯一の光のひと筋は、イネッサ・アルマンドとの情事だった。彼女は、音楽ホールの芸術家二人の娘で、金持ちのロシア人の妻だった。
 チェルニュインスキーの影響を受けたイネッサは、夫と離婚し、ボルシェヴィキ党に加入した。
 彼女は1910年にパリで、レーニンとその妻に会った。
 まもなく忠実な支持者になるとともに、クルプスカヤの暗黙の了解を得て、レーニンの愛人になった。
 ベルトラム・ヴォルフェはイネッサについて『献身的で情熱的なヒロイン』のように語るけれども、しばしば彼女に逢ったアンジェリカ・バラバノッフは、つぎのように描写する。すなわち、『完全な-ほとんど受動的な-レーニンの指示の実行者』、『厳格にかつ無条件に服従する完璧なボルシェヴィキ党員の原型(prototype)』。(138)
 イネッサ・アルマンドは、レーニンがかつて緊密な人間関係を築いた、唯一の人間(human being)だったように思われる。//
 レーニンは、ヨーロッパ革命がいずれ勃発するという信念を失わなかった。しかし、その見込みは遠いように思えた。
 帝国政府は十分に、1916年に大攻撃を行なうべく1915年の軍事的かつ政治的な危機を見通していた。
 ペテログラードにいる工作員、アレクサンダー・シュリャプニコフが送ってくる散発的な通信によって、レーニンは、悪化するロシアの経済状況や都市住民の不満について知った。(139) しかし、彼はこの情報を無視して、帝国政府にはこのような困難を克服する能力があると明らかに信じていた。
 1917年1月9日/22日にツューリヒの青年社会主義者の集会で講演した際、レーニンは、つぎのように予言した。
 ヨーロッパでの革命は、不可避だ。一方でしかし、『われわれ古い世代の者はおそらく、来たりくる革命の決定的な闘いを生きて見ることはないだろう。』(140)
 この言葉は、帝国の崩壊の8週間前に、発せられていた。//
  (*) レーニンはこのとき、こう書いた。〔以下、文献を省略〕
 『客観的に見て、平和というスローガンは、いったい誰の利益になるのだ。確実に、プロレタリアートではない。これは資本主義の崩壊を速めるために用いる考え方ではない。』
 これを引用して、アダム・ウラムは、こうコメントする。
 『レーニンは、数百万の人間の生命にとっても「平和というスローガン」が「利益」になりえた、という事実を看過した。』
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 リチャード・パイプス著『ロシア革命』第9章の試訳を、とりあえず、終える。

 

1468/第一次大戦と敵国スパイ③-R・パイプス著9章10節。

 前回のつづき。
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 第10節・ツィンマーヴァルト・キーンタールおよび敵工作員との関係。③
 パルヴゥスの申し出を拒否はしたが、レーニンは、あるエストニア人、アレクサンダー・ケスキュラを通してドイツ政府との政治的かつ金銭的な関係を維持した。(*1)
 ケスキュラは1905-7年に、エストニアのボルシェヴィキの指導者だった。 
 彼はのちに、エストニアの熱心な愛国者となり、母国の独立を目指そうと決心していた。
 帝制ロシアの打倒はドイツ軍によってのみ達成されるとパルヴゥスのように考えて、ケスキュラは大戦の勃発の際に、ドイツ政府にその身を委ね、その諜報機関に加わった。
 ドイツの援助を受けて、彼はスイスやスゥェーデンの外からロシア移民からロシア内部の状況に関する情報を確保したり、ボルシェヴィキの戦争反対文献をそれらの国へとこっそり輸入したりする活動をした。
 1914年10月にケスキュラはレーニンと逢った。ケスキュラは、帝制体制の敵およびエストニアの潜在的な解放者として彼〔レーニン〕に関心をもっていた。
 かなりの年月を経てケスキュラは、自分はボルシェヴィキを直接には財政支援しなかった、そうではなく間接的にその金庫に寄付をして、出版物の刊行を援助したのだ、と主張した。
 これらはいつでも、困窮化しているボルシェヴィキ党を支援する重要な財源だった。しかし、ケスキュラは、レーニンに直接に援助したかもしれない。
 明らかにケスキュラの要請に応えて、レーニンは1915年9月に、彼に奇妙な七点の綱領的な文書を与えた。それは、革命的ロシアがドイツとの講和を準備する条件を概述するものだった。
 この文書は第二次大戦のあとで、ドイツ外務省の建物の文書庫で発見された。(++)
 この存在は、レーニンがケスキュラをたんなるエストニアの愛国者ではなくてドイツ政府の工作員(agent、代理人)だと見ていたことを示している。
 ロシアの内部事情に関係がある点(共和制の宣言、大財産の没収、八時間労働の導入、少数民族の自治)は別として、レーニンは、ドイツがすべての併合と援助を放棄した場合に分離講和の可能性があると確言した。
 レーニンはさらに、ロシア軍のトルコ領域からの撤退とインドへの攻撃を提案した。
 ドイツは確実にこれらの提案を心に留め、一年半後に、レーニンがその領土を縦断してロシアへと帰るのを許した。//
 ベルリン〔ドイツ政府〕から渡された資金を使って、ケスキュラは、レーニンとブハーリンの著作物をスウェーデンで発行すべく手配した。ボルシェヴィキ党員たちは、これらの本をロシアへとこっそり持ち込もうとした。
 このような援助金の一つを、あるボルシェヴィキ工作員が盗んだ。(129)
 レーニンは返礼として、ロシアにいる彼の工作員から送られたロシアの内部状況に関する報告書をケスキュラに進呈した。ドイツは、明白な理由で、この報告書に鋭敏な関心を寄せた。
 1916年5月8日付の配達便で、ドイツ軍参謀部の官僚は、東方面の破壊活動に責任をもつ外務省部局の職員に、以下のように報告した。
 『最近数ヶ月に、ケスキュラはロシアとの多くの関係を新しく開設した…。
 彼はきわめて有用なレーニンとの関係も維持しており、ロシアにいるレーニンの秘密工作員から送られた状勢報告の内容をわれわれに伝えた。
 ゆえにケスキュラには、引き続いて今後の必要な生活手段が与えられなければならない
 異常に不利な交換条件を考慮すれば、一月あたり2万マルクでちょうど十分だろう。』(*2)
 レーニンは、パルヴゥスの場合と同じく、ケスキュラとの関係について、生涯の沈黙を守った。そしてそれは、理解できる。その関係は、ほとんど大逆罪(high treason)に該当するからだ。//
 1915年9月に、スイスのベルン近くの村、ツィンマーヴァルトで、イタリアの社会主義者が発案した、インターナショナルの秘密会合が開かれた。
 ロシア人は、出席した二つの党派の社会民主党とエスエル党により、強い代表者を持った。
 集団は、すぐに二派に分裂した。より穏健派は、戦争を支持する社会主義者との連携を維持することを求めた。左翼派は、きつぱりと離別することを主張した。
 38代議員のうちの8名から成る後者を率いるのは、レーニンだった。
 多数派は、『帝国主義者(imperialist)』の戦争を内乱(civil war)に転化せよとのレーニンが提起した草案を拒絶した。危険であるとともに実現不能だ、という理由で。
 代議員の一人が指摘したように、そのような宣言に署名することは、母国に帰ったときに彼らを死に直面させることになるだろう。その間、レーニンはスイスでの安全を享受するとしても。
 レーニンの、国を愛する社会主義者が支配するインターナショナル委員会からの分裂要求も、却下された。
 そうであっても、レーニンはツィンマーヴァルトで敗北はしなかった (130) 。というのは、会議の公式な宣言文書はいくらかの言葉上の譲歩をレーニンにしており、各政府の継戦努力を支援する社会主義者を非難し、全諸国の労働者たちに『階級闘争』に加わるよう呼びかけていたからだ。(131)
 ツィンマーヴァルトの左派は、自分たちの声明文を発表した。それはより激しかったが、レーニンが欲したように、ヨーロッパの大衆に反乱へと立ち上がることを呼びかけるまでには至らなかった。(132)
 両派間の不一致の基礎にあるのは、愛国主義(patriotism)に対する異なる態度だった。ヨーロッパの多くの社会主義者は強烈にその感情をもっていたが、ロシアの多くの社会主義者は、そうでなかった。//
  (*1) ケスキュラについて、Michael Futrell in St. Antony's Papers, Nr.12, ソヴェト事情, 3号 (1962) , p.23-52。著者はこのエストニア人にインタビューする貴重な機会を得た。しかし、不運にも、いくぶん無批判に彼の証言を受け止めた。
  (+) Futrell, ソヴェト事情, p.47は、これはボルシェヴィキ指導者との唯一の出会いだと述べる。しかしそれは、ほとんどありえそうにないと思われる。
  (++) 1915年9月30日付、ベルンのドイツ大臣からベルリンの首相あて電信で再現されている[人名省略]。Werner Hahlweg, レーニンのロシア帰還 1917〔独語〕(1957) p. 40-43 (英訳、Zeman, ドイツ, p.6-7。)
  (130) 以下で主張されているように。J. Braunthal, 第二インターの歴史 (1967) , p.47。
  (*2) ドイツ参謀・政治局の Hans Steinwachs から外務部の Diego von Bergen 大臣あて。Zeman 編, ドイツ, p.17。スウェーデンに浸透していたレーニン組織の報告書から得たことを〔ケスキュラが〕仄めかしたとき、ケスキュラは Futrell に誤った情報を伝えた、ということをこの文書の言葉遣いは示している。Futrell, ソヴェト事情, p.24。
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 ④につづく。

1467/第一次大戦と敵国スパイ②-R・パイプス著9章10節。

 前回のつづき。
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 第10節・ツィンマーヴァルト・キーンタールおよび敵工作員との関係。
 戦争が勃発するや、連合国〔仏、英ら〕および中央諸国〔ドイツ、オーストリアら〕のいずれの社会主義議会人も、公約に背いた。
 1914年夏に、彼らは情熱的に平和について語り、戦争継続に抗議して集団示威行進をする大衆を街路へと送り込んだ。
 しかし、交戦が始まったとき、彼らは列に並んで戦争予算に対して賛成票を投じた。
 とくに痛ましかったのは、ヨーロッパで最強の党組織を持ち、第二インターの背骨になっていたドイツ社会民主党の裏切りだった。
 戦争借款に対して彼らの議員団の全員が一致して賛成したのは驚くべきことで、かつ、分かったことだが、社会主義インターナショナルに対するほとんど致命的な一撃だった。//
 ロシアの社会主義者は、西側にいる同志たちよりも、インターの公約を真面目に考えていた。一つは、母国での社会主義の源が浅く、母国を愛する誇りがほとんどなかったこと、もう一つは、シュトゥットガルトの決定が想定した『戦争によって生じる経済的かつ政治的な危機』を利用すること以外に権力へと到達する機会はないことを知っていたこと、による。
 プレハーノフやL・G・ダイヒのごとき社会民主主義運動の長老者および軍事衝突で愛国的感情に目覚めた多くの社会主義革命党員(ザヴィンコ、ブルツェフ)から離れて、ロシア社会主義の著名人の多くは、インターナショナルの戦争反対決定に忠実なままだった。
 第四ドゥーマの社会民主党および Trudovik(エスエル)議員団は、全員一致して戦争借款に反対票を投じて、このことを証明した。-これは、セルビアの社会民主党を除けば、ヨーロッパでただ一つの議会人の行動だった。//
 スイスに到着したレーニンは、『ヨーロッパ戦争における革命的社会民主主義者の任務』と呼ばれる綱領的声明を起草した。(124)
 ドイツ、フランスおよびベルギーの指導者を裏切りだと非難したあとで、レーニンは、非妥協的にラディカルな立場を概述した。
 『任務』の第6条には、つぎの提案が含まれていた。//
 『労働者階級および全ロシア人民の被搾取大衆の視座から見ると、最も害悪ではないことは、ポーランド、ウクライナ、および多数のロシア人民…を抑圧している皇帝君主制とその軍の敗北である。』(*1)
 その他のいかなる主要なヨーロッパの社会主義者も、自分の国が戦争で敗北することに賛成だとは公言しなかった。
 ロシアの敗北を支持するレーニンの驚くべき主張は不可避的に、彼はドイツ政府の工作員だという非難をもたらした。(+) 
 戦争に関するレーニンの言明の実際上の結論は、このテーゼの第7条と最後の条で述べられていた。その内容は、『全ての国家の反動的でブルジョア的な政府と政党』に対する内戦を解き放つために、戦争をしている諸国の民間人や軍人の間で精力的な扇動と組織的な宣伝活動を行う、というものだった。
 この文書の模写物はこっそりとロシアに持ち込まれ、帝国政府が<プラウダ>を廃刊させ、ドゥーマのボルシェヴィキ議員たちを逮捕する根拠になった。 
 この事件でボルシェヴィキを弁護した法律家の一人は、アレクサンダー・ケレンスキーだった。 
 生命を落とす可能性がある大逆(treason)という罪で審問され、ボルシェヴィキたちは判決により追放された。これは、二月革命まで、党をほとんど舞台の外に追い出した。//
 レーニンの綱領の重点は、社会主義者は戦争を終わらせるためにではなく、自分たち自身の目的で戦争を利用するために奮闘すべきだ、ということにあった。レーニンは1914年10月に、つぎのように書いた。
 『「平和」というスローガンは、この瞬間では、誤っている。
 このスローガンは、ペリシテ人と聖職者のスローガンだ。 
 プロレタリアートのスローガンは、こうでなければならない。内戦(civil war、内乱)、だ。』//
 レーニンは、戦争の間ずっと、この定式に忠実であろうとした。
 もちろん中立国スイスでは、戦闘中のロシアにいる彼の支持者たちに比べれば、レーニンの身はかなり安全に守られた。//
 レーニンの戦争に関する綱領を知ると、ドイツは熱心に彼を自らのために利用しようとした。ロシア帝国軍の敗北を主張することは、結局のところ、ドイツの勝利を支持するのと全く同じことだ。
 ドイツの主要な媒介者は、パルヴゥスだった。このパルヴゥスは、1905年のペテルスブルク・ソヴェトの指導者の一人で、『連続革命』理論の創始者だったが、最近はウクライナ解放同盟の協力者だった。
 パルヴゥスは、きわめて腐敗した個性をもつとともに、ロシアの革命運動上、最も大きな知性をもつ知識人の一人だった。
 1905年の革命が失敗したあとで彼は、ロシアでの革命の成功はドイツ軍の助けを必要とする、という結論に達した。ドイツ軍だけが、帝制を打倒することができる。(*2) 
 パルヴゥスは、その政治的関係を使って相当の財産を蓄え、ドイツ政府に身を任せた。
 戦争勃発の際、彼はコンスタンチノープルに住んでいた。 
 パルヴゥスは、その地のドイツ大使と接触し、ドイツの利益を促進するためにロシアの革命家を利用するときだと、概述した。
 その論拠は、ロシアの過激派は、帝制が倒れてロシア帝国が破滅する場合にのみその目的を達成することができる、ということだった。この目的は偶然にだが、ドイツにとっても都合がよい。『ドイツ政府の利益は、ロシアの革命家たちのそれと一致している』。
 パルヴゥスは、金を求め、かつ左派のロシア移民と連絡をとることの承認を求めた。(126)
 ベルリン〔ドイツ政府〕に奨められて、彼は1915年5月に、ツューリヒにいるレーニンと接触した。パルヴゥスは、ロシア移民の政界に通暁していたので、レーニンが左翼の鍵となる人間であることを知り、もしも自分がレーニンを獲得すればロシアの残りの戦争反対左翼は一線に並ぶだろうことが分かった。(127)
 この企図は、さしあたりは、失敗した。
 レーニンがドイツと取引きすることに反対したというのでも、ドイツから金をもらうことが不安だったわけでもない。-この失敗は、レーニンが、社会主義の教条に対する裏切り者、変節者、『社会主義狂信愛国者(socialist chauvinist)』と交渉しようと思わなかったことによるだけだ。
 パルヴゥスの伝記作者は、その個人的な嫌悪感に加えて、レーニンはつぎのように考えたのではないかと示唆している。すなわち、レーニンは、もしもパルヴゥスと交渉すれば彼〔パルヴゥス〕が『そのうちにロシアの社会主義組織の支配権を獲得し、その財産資源と知的能力を使って他の全ての政党指導者を打ち負かしてしまう』ことを恐れた、と。(128) 
 レーニンは、このパルヴゥスとの出会いについて、公にはいっさい言及しなかった。//
  (*1) レーニンはロシアのウクライナに対する『抑圧』と強調して当惑させているが、それは少なくとも部分的には、レーニンのオーストリア政府との金銭上の協定によって説明されるものでなければならない。レーニンは、ウクライナもオーストリアの支配から解放されるべきだと要求しはしなかった。
  (+) この点についての告発は、警察官僚について日常的によく知っているスピリドヴィッチ将軍によってなされた。彼は、証拠を提出しないでつぎのように主張する。
 1914年の6月と7月にレーニンは二度ベルリンへと旅行したが、ドイツ人とともにロシア軍背後での反ロシア的活動計画を作るためで、その対価として7000万マルクがレーニンに支払われることになっていた、と。
 Spiridovich, ボルシェヴィズムの歴史, p.263-5。
  (*2) パルヴゥスは事態を見て自分の正しさが分かったと感じた。彼は1918年に、1917年の革命に言及して、以下のように書いた。
 『プロシア〔ドイツ〕の銃砲は、ボルシェヴィキのビラよりも大きな役割を果たした。とりわけ思うのは、もしもドイツ軍がヴィステュラ(Vistula〔ポーランドの河〕)に達していなかったら、ロシアの移民たちはまだ放浪し、自分で苦しんでいただろう、ということだ。』
  (126) Zeman 編, ドイツとロシアでの革命, 1915-18 (1958), 1915年1月の配達便, p.1-2。
  (127) パルヴゥスのレーニンとの出会いについて、Zeman and Scharlau, 商人, p.157-9。
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 ③につづく。

1466/第一次大戦と敵国スパイ①-R・パイプス著9章10節。

 前回のつづき。/の左右の日付は、左がロシア暦、右が欧州暦。 
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 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源。
 第10節・ツィンマーヴァルト、キーンタールおよび敵工作員との関係。

 第一次世界大戦の勃発前の二年間を、レーニンは、クラカウ(cracow、クラクフ)で過ごした。彼はそこから、ロシアの支持者との接触を維持することができた。
 開戦のすぐ前および直後に、レーニンはオーストリアの政府機関、そしてウクライナ解放同盟と関係を結んだ。後者は、ウクライナ人の民族的願望をレーニンが支援する代わりに資金を出し、その革命活動を助けた。(116) 
 その同盟は、ウィーンとベルリンから資金を受け取り、オーストリア外務省の監督のもとで活動していた。
 この活動に加わっていた者たちの一人がパルヴゥスで、彼は1917年には、レーニンがドイツを通って革命ロシアまで確実に通過するのに重要な役割を果たすことになる。 
 ウィーン発、1914年12月16日付で同盟が提示した声明文には、以下の冒頭部分があった。//
 『同盟は、ロシア社会民主党の多数派党派を金銭のかたちで支援し、ロシアとの通信網の構築を援助する。
 その党派指導者、レーニンは、<ウクライナ情報〔新聞〕>で報告されている彼の講演が示すように、ウクライナ人の要求に敵対的ではない。』(117)
 レーニンとグリゴーリ・ジノヴィエフが敵国人でありスパイの嫌疑があるとしてオーストリア警察に逮捕されたとき(1914年7月26日/8月8日)、この団体と関係していることがきわめて役立った。
 オーストリアとポーランドの社会主義運動に影響力のある人物、とくにヤコブ・ガネツキー(ハニエッキ。フュルステンベルクとしても知られる)が、すなわちパルヴゥスが雇っている、レーニンの親密な仲間が、彼らのために穏便にことを済ませてくれた。 
 五日のちに、ルボフ(Lwow〔レンベルク〕)のガリシア総督は、『ロシア帝国の敵』と見なされているレーニンを確保しておくのは好ましくないと助言する電信文を受け取った。(118)
 クラクフの軍事長官は8月6日/19日に、レーニンが収監されていた地域裁判所に電報を打って、即時釈放を命じた。(119)
 レーニン、クルプスカヤ、彼女の母親は8月18日/9月1日に、オーストリア警察の旅券をもって、オーストリア軍事郵便鉄道でウィーンを離れ、スイスに向かった-ふつうの敵国外国人が利用できそうにない輸送手段だった。(120)
 ジノヴィエフとその妻は、二週間後に続いた。
 オーストリアの拘置所からレーニンとジノヴィエフが解放された事情は、ウィーン〔オーストリア政府〕は二人を価値ある資産だと見なしていることを示唆する。// 
 スイスでレーニンはすぐに、戦争反対の基盤に敬意を表して、社会主義インターナショナルの失敗を処理し始めた。// 
 労働者階級の利益は国境を超越し、『プロレタリアート』はいかなる条件のもとでも、市場獲得を目指す資本主義国間の闘争で血を流さない、というのが、国際社会主義運動の根本的な金言だった。
 国際的危機の真っ只中の1907年8月に開催された社会主義インターのシュトゥットガルト大会は、軍事主義と戦争の脅威に多くの注意を向けた。
 二つの傾向があったが、ベーベルによって指導されたその一つは、戦争反対を支持し、かりに戦争が勃発すれば、『早期の終戦』のために闘う、というものだった。
 もう一つの傾向は、三人のロシア代議員-レーニン、マルトフおよびローザ・ルクセンブルク-によって表明されたもので、ロシアの1905年革命の体験に教訓を得て、社会主義者たちが国際的内戦を引き起こすために戦闘を利用することを望んだ。(121)
 後者が強く主張され、大会は、国家の敵対が発生した場合には、以下のことが労働者階級と議会内の労働者議員たちの義務だと決定した。// 
 『終結を速めるために介入すること、戦争により生じた経済的かつ政治的危機を人民を覚醒させるために利用すべく全力を出すこと、そして資本主義階級の支配の廃棄を促進すること』。(122) //
 この条項は、二つの傾向の違いを覆い隠すための左翼少数派に対する右派多数派の修辞的な譲歩だつた。
 しかし、このような妥協にも、レーニンは満足しなかった。
 ロシアの社会民主主義運動で用いたのと同じ軋轢生成的な戦術をとって、レーニンは、社会主義インターの穏健な多数派からの離脱を始めた。革命目的のために将来の戦争を利用する、非妥協的な左翼にとどまることによって。
 レーニンは、平和政策に反対した。その平和政策は、諸国の対立を止めることを意図しており、ヨーロッパの社会主義者に多くに是認されていた。レーニンは実際、戦争を望んだ。悪辣なことに、その理由は、戦争は革命を起こすためのすばらしい機会を提供する、というものだった。
 このような立場は社会主義者にとって一般的ではなくまた受容できないものだったので、レーニンはこの見解を公に表明するのを控えた。
 しかし、あるとき、新しい国際的な危機が生じていた期間の1913年1月に、マクシム・ゴールキへの手紙の中で一度、レーニンは書いた。
 『オーストリアとロシアの間の戦争は、(東ヨーロッパの全てでの)革命にとって最も役立つものだ。しかし、フランツ・ヨーゼフ〔墺〕とニッキー〔ニコライ、露〕は、われわれにこの愉しみを与えてくれそうにない。』(123)//
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 ②につづく。

1464/レーニンと警察の二重工作員②-R・パイプス著9章9節。

 前回のつづき。
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 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源
 第9節・マリノフスキーの逸話(Episode)②〔つづき〕。  
 ボルシェヴィキ議員団の長が突然に、説明もされずにドゥーマから消え失せた。これによりマリノフスキーの経歴は終わったはずだった。しかし、レーニンは彼の側に立って、『清算人』と中傷して非難しつつ、メンシェヴィキの追及者たちからマリノフスキーを守った。
 この場合には、重要な仲間に対するレーニンの個人的な信頼がその合理的判断を妨げた、と言うのは可能だ。しかし、そうではないように見える。 
 マリノフスキーは、1918年の裁判で、レーニンは自分の前科について知っていたと語った。このような記録があればロシアではドゥーマ選挙に立候補することができないので、内務省がこの情報を使ってマリノフスキーが議会に入るのを阻止しなかったという事実からだけでも、レーニンはマリノフスキーの警察との関係を察知したに違いないだろう。
 ロシアの警察挑発問題に関する重要な専門家だったプルツェフは1918年に、マリノフスキーの裁判で証言した帝制時代の警察官との会話を通じて、つぎのように結論した。
 すなわち、『マリノフスキーによれば、彼の過去には通常の犯罪ではなく自分が警察の手のうちにあった-つまり挑発者だった-ことも隠されているということを、レーニンは理解していたし、理解せざるをえなかった』、と。(110)
 なぜレーニンは自分の組織に警察工作員を維持しようとしたのかについて、帝制時代の上級治安官僚だったアレクサンダー・スピリドヴィッチ将軍が、つぎのように示唆している。
 『ロシアの革命運動の歴史には、革命的組織の指導者がその構成員のうち何人かに政治警察との関係に入ることを認める、いくつかの大きな事例があった。彼ら構成員は、秘密情報員として、警察に瑣末な情報を与える代わりに、その革命的党派にとってもっと重要な情報を警察から引き出そうという狙いをもっていた。』(111)
 レーニンが1917年6月〔いわゆる二月革命のあと、ボルシェヴィキ「七月蜂起」の前-試訳者〕に臨時政府の委員会の前で証言した際、彼は実際にこのような方法でマリノフスキーを使ったのかもしれないことを仄めかした。
 『この事件については、また次の理由にもとづいて、私は挑発者の存在を信じない。かりにマリノフスキーが挑発者であるのならば、わが党が<プラウダ>やその他の合法的な組織全体から得るよりも多くの成果を、オフランカ(Ohkranka〔帝制時代の秘密警察部門〕)は得ていないだろう。 
 ドゥーマに挑発者を送り込み、また彼のためにボルシェヴィキの対抗者〔メンシェヴィキ〕を追い出すなどをしたが、オフランカは、ボルシェヴィキの粗野なイメージに支配されているのだ。-漫画本の滑稽な絵だと言おう。ボルシェヴィキは、武装蜂起を組織するつもりはない。
 オフランカの立場からすれば、あらゆる糸を手繰り寄せるために、マリノフスキーをドゥーマに、そしてボルシェヴィキの中央委員会に入り込ませることは、何らかの価値がある。
 しかし、オフランカがこの二つの目的を達成したときにようやく、マリノフスキーはわれわれの非合法の基地と<プラウダ>とを繋ぐ、長く固い鎖の連結物の一人であることが判明したのだ。』(*)
 レーニンはマリノフスキーの警察との関係を知っていたことを否認したけれども、上のような理由づけは、党の目的を推進させるために警察工作員を使ったことについての、もっともらしい釈明のように感じられる。-つまり、他にとりうる手段がないときに、大衆の支持を獲得するために最大限に合法活動の機会を利用するため、だったのだ。(+)
 マリノフスキーが1918年に裁判での審尋に進んだとき、ボルシェヴィキの訴追者は実際に、マリノフスキーはボルシェヴィキに対してよりも帝制当局に対してよりひどい害悪をなしたと証言するように警察側の証人に圧力をかけた。(112)
 マリノフスキーが自分の自由意思で1918年11月という赤色テロルが高潮しているときにソヴェト・ロシアに帰ってきたこと、そしてレーニンと逢うことを強く求めたことは、マリノフスキーは無罪放免になることを期待していたことを強く示唆している。 
 しかし、レーニンには、もはや彼の使い道がなかった。彼は裁判に出席はしたが、証言しなかった。
 マリノフスキーは、処刑された。//
 マリノフスキーは実際、レーニンのために多くの価値ある仕事をした。
 彼が<プラウダ>および「nashput」の創刊を助けたことは、すでに述べた。
 加えるに、ドゥーマで彼が演説をする際には、レーニン、ジノヴィエフその他のボルシェヴィキ指導者が書いた文章を読んだ。演説の前に彼はそれらの原稿を警察部門の副局長であるセルゲイ・ヴィッサーリオノフに提出し、校訂を受けた。 
 このように方法によって、ボルシェヴィキの宣伝文章は国じゅうに広がった。
 特筆しておきたいのは、マリノフスキーは注意深くかつ忍耐強く、ロシアのレーニンの支持者とメンシェヴィキとが再統合することを妨害したことだ。
 第四ドゥーマが開催されたとき、7人のメンシェヴィキ議員と6人のボルシェヴィキ議員は、レーニンまたは警察が望んだ以上に、協力的精神でもって行動した。実際、レーニンが不一致の種を植え付けるために個人的に出席していない場合には通常のことだったが、彼らは一つの社会民主党の議員団のごとく振る舞った。
 二つの党派を離れさせ、そうしてそれらを弱体化させることは、警察が設定した最優先の使命だった。ベレツキーによれば、『マリノフスキーは、両党派間の溝を深めることのできるいかなる事でもするように命令されていた。』(114)
 それ〔二党派間の溝の深まり〕は、レーニンの利益と警察の利益とが合致している、ということだ。(++)//
 レーニンの独裁的な手法とその完全に欠如した道徳感情は、彼の熱心な支持者をある程度は遠ざけた。陰謀と瑣末な争論に飽き、覆いかかる精神主義(spritualism)の風潮に囚われて、何人かの最も賢いボルシェヴィキは、宗教と観念哲学のうちに慰めを追求し始めた。1909年に、ボルシェヴィキ幹部たちの支配的な傾向は、『神の建設』(Bogostroitel'stvo)として知られるようになった。  
 のちの『プロレタリアの文化』の長のボグダノフやのちの啓蒙人民委員〔大臣〕のA・V・ルナチャルスキーに教え導かれた運動は、非ラジカル知識人の間で有名な『神の探求』(Bogoiskatel'stvo)に対する社会主義者の反応だった。 
 <宗教と社会主義>という書物の中でルナチャルスキーは、社会主義を一種の宗教的体験、『労働者の宗教』だと表現した。
 このイデオロギーの提唱者たちは1909年に、カプリに学校を設置した。 
 こうした展開全体を全く不愉快に感じていたレーニンは、反対の二つの学校を組織した。一つは、ボローニャで、もう一つは、パリ近くのローンジュモで。
 1911年に設立された後者は一種の労働者大学で、ロシアから送られた労働者が、社会科学と政治についての体系的な教条教育(indoctrinnation 〔洗脳〕)を受けていた。教師陣の中には、レーニンや彼の最も忠実な支持者であるジノヴィエフとカーメネフもいた。
 今度は学生に偽装した警察情報者が不可避的に潜入していて、ローンジュモでの教育について報告した。
 『授業の断片を生徒が丸暗記することで成り立っている。なされる授業は疑ってはいけないドグマの性格を帯びており、決して批判的な分析や合理的で意識的な学習を奨励するものではない。』(115) //
  1912年までに、マルトフがレーニンの無節操な財政取引や支配力を得るために多くは不法に獲得した金の使い方を公に明らかにしたあとだったが、二つの党派は一つの党だと装うことを止めた。
 メンシェヴィキは、ボルシェヴィキの行動は社会民主党運動を汚辱するものだと考えた。
 1912年の国際社会主義者事務局の会合で、プレハーノフは公然と、レーニンを窃盗者だと責め立てた。
 メンシェヴィキは、レーニンが犯罪や誹謗中傷に頼ったことや労働者を意識的に誤導したことに唖然としたと表明したにもかかわらず、また、レーニンを『政治的ペテン師』(マルトフ)と呼んで非難したにもかかわらず、レーニンを除名することをしなかった。一方、その咎はエデュアルド・ベルンシュタインの『修正主義』に共感したことだけのストルーヴェは、すみやかに追放された。
 レーニンがこれらを深刻に受け止めなかったしても、何ら不思議ではない。//
 二党派の最終的な分裂は、レーニンのプラハ大会で、1912年1月に起きた。それ以降は、彼らは共同の会合を開かなかった。
 レーニンは『中央委員会』という名前を『私物化』して、もっぱら強硬なボルシェヴィキたちで構成されるように委員を指名した。
 頂部に断絶があるのはもはや完璧なことだったが、ロシア内部でのメンシェヴィキおよびボルシェヴィキの幹部や一般党員は、しばしばお互いを同志と見なし続けて一緒に活動した。//
  (*) レーニンのマリノフスキーに関する証言は、委員会の記録にかかる数巻の出版物にも(Padenie)、レーニンの<選集>にも掲載されていない。
  (+) タチアナ・アレクジンスキーは、中央委員会に警察情報員が加入している可能性についての疑問が生じたとき、ジノヴィエフがゴーゴルの<将軍検査官>から『良い一家は、がらくたすらも利用する』を引用したことを憶えている。〔文献省略〕  
  (++) レーニンがマリノフスキーの警察との関係を知っていた蓋然性(likelihood)は、認められている。ブルツェフに加えて、ステファン・ポッソニー(1964, p.142-43.)によって。
 マリノフスキーの自伝は、ボルシェヴィキは警察がマリノフスキーによってボルシェヴィキに関して知ったよりも少ない情報しか、マリノフスキーから警察に関する情報を得ていないという理由で、この仮説を拒否している(Elwood, マリノフスキー, p.65-66.)。
 しかし、マリノフスキーが彼の二重工作員性に関してレーニンの陳述およびスピリドヴィッチの言明を無視していることは、上に引用した。
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 第10節につづく。

1463/レーニンと警察の二重工作員①-R・パイプス著9章9節。

 前回のつづき。
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 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源。
 第9節・マリノフスキーの逸話(Episode)

 1908年に、社会民主党の運動は衰退に入った。その理由の一つは、知識人の革命への熱望が冷めたこと、二つは警察の潜入によって地下活動がほとんど不可能になったことだ。
 治安維持機関は、上から下まで、社会民主党の組織の中に入り込んだ。党員たちは逃げる前に日に晒され、逮捕された。
 メンシェヴィキはこの状況に、合法活動をすることを強調する新しい戦略でもって対応した。すなわち、出版物発行、労働組合の組織化、ドウーマでの活動。 
 いくらかのメンシェヴィキは、社会民主党を労働者党に置き換えることを望んだ。
 彼らは非合法活動をいっさい放棄するつもりではなかった。しかし、綱領問題の大勢は、党が労働者に奉仕するほど多くは労働者を指導しない、民主主義的な労働組合主義へと進んだ。
 レーニンには、これは呪詛の対象だった。彼はこのような戦略を支持するメンシェヴィキに、『清算人(liquidators)』とのラベルを貼った。彼らの狙いは党を清算し、革命を放棄することだからだ。
 レーニンの用語である『清算人』は、反革命主義者と同じ意味になった。//
 にもかかわらずレーニンも、警察による弾圧によって生じた困難な条件に適応しなければならなかった。
 彼は、対応するために、自分の組織に潜入した警察工作員を自分の目的で利用した。
 以下について確実なことは何もありえないけれども、そうでなくとも幻惑的な、工作員挑発者(agent provocateur)・マリノフスキーの事件は、最も納得できる説明になっているように見える。マリノフスキーは、しばらくの間(1912-14年)、ロシアのレーニン党派の代議員で、ドゥーマ・ボルシェヴィキ議員団の代表者だった。 
 それは、ウラジミール・ブルツェフの見解では、もっと有名なエヴノ・アゼフ事件を超えすらする重要性をもつ、警察による挑発の事件だった。(106)//
 レーニンは、支持者たちに第一回ドゥーマの選挙をボイコットするように命令した。その一方、メンシェヴィキは問題をその地方組織に委ね、ジョージア支部を除く多くの地方組織はボイコットを採択した。
 そのあとでレーニンは気持ちを変え、1907年に仲間たちのほとんどの意向を無視して、動く〔立候補する〕ようにボルシェヴィキに命じた。
 彼はドゥーマを、自分のメッセージを広げる公共広場として利用することを意図した。
 マリノフスキーが計り難い価値をもつことが判るのは、まさにドゥーマにおいてだった。//
 民族的にはポーランド人で、職業上は金属労働者、そして副業は窃盗というマリノフスキーは、窃盗と家宅侵入窃盗の罪で三つの収監判決を受けていた。
 彼自身の証言によれば、刑事記録〔前科〕のために満足させられない政治的野心に駆られて、またつねに金が必要だったために、マリノフスキーは、奉仕しようと警察当局に申し出た。 
 警察の指示により、彼はメンシェヴィキから向きを変えて、1912年1月にボルシェヴィキのプラハ大会に出席した。
 レーニンはきわめて好ましい印象を彼に持ち、『優秀な仲間』、『傑出した労働者指導者』だとマリノフスキーを褒めた。(107)
 レーニンはこの新規加入者を、裁量でもって党員を加える権限のある、ボルシェヴィキ中央委員会のロシア事務局員に任命した。 
 マリノフスキーはロシアに帰って、スターリン支持者を広げるためにこの権限を利用した。(108)
 内務大臣の命令にもとづき、マリノフスキーの刑事記録〔前科〕は抹消され、ドゥーマへと立候補することが許された。
 警察の助けで選出され、彼は、議員の免責特権を用いて、『ブルジョアジー』や社会主義『日和見主義者』を攻撃する燃えるがごとき演説を行った。それらの多くは治安機関によって準備され、全ては了解されていた。
 社会主義サークル内には彼の忠誠さについて疑問の声があつたにもかかわらず、レーニンは無条件でマリノフスキーを支持した。
 マリノフスキーがレーニンのためにした最大の仕事の一つは、-警察の許可を得てかつありそうなことだが警察の財政支援もおそらく受けて-ボルシェヴィキの日刊紙『プラウダ(pravda)』の創刊を助けたことだった。
 マリノフスキーは新聞の財産管理者として働いた。編集権は、警察の別の工作員、M・E・チェルノマゾフに渡った。 
 警察によって保護された党機関は、ボルシェヴィキの考えをメンシェヴィキ以上に広くロシア内部に伝搬させることができた。
 発行するために、警察当局は時たま<プラウダ>を繊細にさせたが、新聞は、発行され続けて、マリノフスキーや他のボルシェヴィキがドゥーマで行った演説の文章やボルシェヴィキの書きものを印刷し続けた。レーニンは一人で1912年と1914年の間に、265の論文をこの新聞に掲載した。
 警察は、マリノフスキーの助けによって、モスクワのボルシェヴィキ日刊紙「Nashput」をも創刊した。(109)
 このような仕事に就いている一方で、マリノフスキーは、定期的に党の秘密を警察に渡すという裏切り行為をしていた。
 われわれがのちに知るはずだが、レーニンは、この取引で得たものの方が、失ったものよりも大きいと信じた。//
 二重工作員としてのマリノフスキーの経歴は、内務省の新しい副大臣〔政務次官〕、V・F・ジュンコフスキーによって突然に終焉を告げられた。
 反諜報活動の経験のない職業軍人であるジュンコフスキーは、固く決心して、警察官たちの一団を『浄化』し、その政治活動を止めさせようとした。彼は、いかなる形態での警察の挑発についても、妥協をしない反対者だった。(*1) 
 任務を履行しているうちに、マリノフスキーは警察の工作員で、警察がドゥーマに浸透していることを知ったジュンコフスキーは、警察の大スキャンダルになることを恐れて、ドゥーマ議長のラジアンコに、その事実を内密に通知した。(*2)  
 マリノフスキーは退任を余儀なくされ、彼の年収分の6000ルーブルが与えられ、そして国外に追放された。//
  (*1) Badenie, Ⅴ, p.69, Ⅰ, p.315。ジュンコフスキーは、軍隊や第二次学校の中の警察細胞を廃止した。その理由は、軍人や学生の中で連絡し合うのは適切でない、ということだった。
 警察庁長官で、マリノフスキーの直接の監督者だったS・P・ベレツキーは、このような手段〔警察細胞の廃止〕は、政治的な反諜報活動の組織を混乱させるものだと考えた。Badenie, Ⅴ, p.70-71, p. 75。
 ベレツキーは、チェカ〔のちにボルシェヴィキ政府=レーニン政権が設立した政治秘密警察〕によって1918年9月に射殺された。これは、赤色テロルの波の最初のものだった。
  (*2) ドゥーマでのマリノフスキーの扇動的な演説は、ロシアが新しい産業ストライキの波に掴まれていた当時に労働者たちに対してもつ影響が大きかった、そのように警戒して、ジュンコフスキーはマリノフスキーを馘首した、という可能性は指摘されてきた。
 Ralph Carter Elwood, ロマン・マリノフスキー (1977), p.41-43。
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 ②へとつづく。

1461/強盗と遺産狙いの党財政②-R・パイプス著9章8節。

 前回のつづき。
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 レーニンが彼の組織のために金を獲得しようと進んだ途の行き着く先は、いわゆるシュミット事件によって例証される。(102)
 モロゾフと縁戚のある金持ちの家具製造業者であるN・P・シュミットは、1906年に逝去した。それは明らかに自殺で、12月のモスクワ蜂起に使われた武器の購入に財政援助したという責任を問われる裁判を待っている間のことだった。
 彼は遺書を残していなかった。しかし、ゴールキと他の友人は、シュミットはおよそ50万ルーブルに達する財産が社会民主党のものになることを欲していた、と語った。
 このような措置は、非合法の政党は遺産相続の利益を受けられないので、法の観点からは有効ではなかった。
 したがって、その金銭はシュミットの最も近い縁戚の、幼い弟に渡った。
 シュミットの財産が相続人によって濫費されたり、社会民主党の金庫に移されることを断固として阻止しようと、ボルシェヴィキは、レーニンを議長とする会合で、とりうる全ての手段を用いてそれを奪い取ることを決定した。
 十代の弟は、その二人の妹のために相続分を放棄するようにすぐに説き伏せられた。
 そして、二人のボルシェヴィキ党員が出廷して妹たち相続人と結婚する、という取り決めがなされた。
 下の方の幼い少女は、ヴィクトール・タラトゥータという名のボルシェヴィキの荒くれ男と結婚することになつた。しかし、警察の目をごまかすために、表向きは、堅実な男と二度目の結婚をすることとされた。
 彼女が結果として受け取った19万ルーブルは、パリにあるボルシェヴィキの金庫へと移された。(103) //
 シュミットの財産の第二部分は彼の姉が所有していたが、ボルシェヴィキに傾斜した社会民主党の党員でもある、その夫の手にあった。
 その夫は、しかし、金を守りたかった。
 論争は調停のために社会主義者の裁きの場に上程され、ボルシェヴィキに相続財産の半分または三分の一だけが与えられた。
 身体への暴力という脅迫によって、ついには夫は、妻の相続財産をレーニンに渡すように説得された。
 最終的にはレーニンは、シュミットの財産から、23万5000と31万5000の間のルーブルを獲得した。//
 このような醜悪な金銭事件やそれに類したものは、マルトフが暴露したときに、ロシアおよび国外でボルシェヴィキを大きく辱めた。そして、社会民主党の資金をドイツの社会民主主義者に預けることに同意するのを、レーニンは強いられた。
 金をめぐる争論は、1917年革命に先行する10年間に二つの党派が行った闘争の主要な柱の一つだった。
 レーニンの秘書として働いていたクルプスカヤは、見えないインキ、暗号、その他の警察を暗闇にいるままにする道具を使って、ロシアにいるボルシェヴィキの工作員との安定した連絡網を維持した。
 クルプスカヤの仕事を助けたタチアナ・アレクジンスキーによれば、レーニンからきた手紙のほとんどには、金の要求が含まれていた。(*)(105)
  (*) このように援助金が重要であることは、1904年12月の潜在的な寄付者に対する手紙においてもレーニンによって強調されている。
 『少なくとも半年の間に莫大な資金の助けで何とか耐えないと、われわれの仕事は破産に直面してしまいます。そして、削減することなく持ちこたえるためには、最小限度、毎月2000ルーブルが必要なのです。』 Lenin, 〔文献省略〕。

1460/強盗と遺産狙いの党財政①-R・パイプス著9章8節。

 前回のつづき。
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 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源。
 第8節・ボルシェヴィキ党の財政事情。 
〔p.369-p.372.〕
 1917年革命以前のボルシェヴィキの歴史上最も秘密で今なお深刻な側面の一つは、党の財政にかかわる。
 全ての政治組織は、金を必要とする。しかし、ボルシェヴィキは党員全てに党のために一日中働くことを要求していたので、彼らにはきわめて重い財政上の負担があった。自立・自援のメンシェヴィキと違って、ボルシェヴィキの党員たちは、党の金庫からの手当てに頼っていたからだ。
 レーニンもまた、いつも多数の支援者がいたメンシェヴィキという好敵を策略的に打ち負かすために、金を必要とした。 
 ボルシェヴィキたちは、さまざまな方法で、ある者は伝来的方法で、別の者は高度に非伝来的な方法で、金を確保した。//
 一つの源は、奇矯な金持ちの産業家であるザッヴァ・モロゾフのような、裕福な共調者(シンパ)たちだった。モロゾフは、一月あたり2000ルーブルをボルシェヴィキの金庫に寄付した。
 モロゾフがフランスのリヴィエラ地方で自殺したあとで、彼の生命保険方策の被信託人として仕えていたマクシム・ゴールキの妻によって、彼の遺産から別の6万ルーブルが、ボルシェヴィキへと移された。(92)
 他にも寄贈者はいた。中でも、ゴールキ、A・I・エラマゾフという名の土地管理専門家、ウーファ地方の土地不動産を管理するアレクサンダー・ツィウルーパ(この人物は1918年にレーニン政権の供給大臣になる)、元貴族院議員の妻でストルーヴェの親友だったアレクサンドラ・カルミュイコワ、女優のV・F・コミッサールゼフスカヤ、その他、今日まで名前が分からないままの者たち。(93)
 紳士淑女気取りからするこれらの後援者(パトロン)たちは、根本的には彼らの利益を害するはずの教条のために援助した。レーニンの近い仲間だったレオニード・クラージンはこの当時に、つぎのように書く。
 『革命的党派に金銭を寄付することは、多かれ少なかれ過激なまたはリベラルなサークルでは、育ちの良さ(bon ton)の徴しだと見なされた。5から25ルーブルを定期的に納める寄付者の中には、有名な弁護士、技術者および医師のみならず、銀行の重役や政府組織の官僚もいた。』(94) 
 社会民主党のそれとは別に独立して作動していたボルシェヴィキの金庫の管理は、三人のボルシェヴィキ『中央』の手にあった。これは1905年に形成され、レーニン、クラージンおよびA・A・ボグダーノフから成っていた。 
 まさにこれの存在自体が、ボルシェヴィキの幹部および一般党員からはずっと秘密にされていた。//
 悔い改めたふうの『ブルジョア』たちからの献金ではしかし、不十分であることが判り、1906年早くにボルシェヴィキは、心地よくない手段、人民の意思やエスエル過激主義者が編み出したと思われる考え、に頼った。 
 多額のボルシェヴィキの財源は、それ以来、犯罪活動、とくに婉曲的表現では『収用』として知られる拳銃強盗から来ていた。
 彼らは大胆に急襲して、郵便局、鉄道駅、列車、銀行から強奪した。
 悪名高きティフリスの国有銀行強盗(1907年6月)では、25万ルーブルを強奪した。そのかなりの部分は、連続番号が登録された500ルーブル紙幣の束だった。
 このような略奪の成果品は、ボルシェヴィキの金庫へと移された。
 上の結果として、盗んだ500ルーブル紙幣をヨーロッパで両替えしようとした何人かの人間が逮捕された-その全員が(その中にはのちのソヴェト外務大臣、マクシム・リトヴィノフがいた)、ボルシェヴィキ党員であることが判明した。(95)
 この活動を監督していたスターリンおよび他の関係者は、社会民主党から除名された。(96)
 このような活動を非難する1907年党大会の正式決定を無視して、ボルシェヴィキは、ときにはエスエル党と協力しながら、強盗犯罪を行ない続けた。
 このような方法で、彼らは多額の金を獲得した。これは、相変わらず金欠症のメンシェヴィキに対して、ボルシェヴィキをかなり有利な立場にするものだった。(97)
 マルトフによると、犯罪の成果物のおかげで、ボルシェヴィキはペテルスブルクやモスクワの自分の組織に、それぞれ毎月1000から500ルーブルを送ることができた。この当時、合法的な社会民主党の金庫には、一月で100ルーブルを超えない党員費からの収入が入っていたのだが。
 1910年に、被信託人として仕事する三人のドイツ社会民主党の党員に金を差し出さなければならなくなって、この財源の流れが干上がってしまうや否や、ボルシェヴィキのロシア『委員会』は、薄い大気の中へと消滅した。(98) //
 このような秘密活動の全般的な指揮権は、レーニンの手のうちにあった。しかし、この分野の最高司令官は、いわゆる技術者集団(Technical Group)を率いるクラージンだった。(99)
 職業上は技術者であるクラージンは、二重生活をおくっていた。外面上は、善良なビジネスマンだが(モロゾフのために働くとともに、AEGやジーメンス・シュッケルトというドイツの商社にも勤めていた)、自由時間にはボルシェヴィキの地下活動へと走った。(*)
 クラージンは、爆弾を集めるために秘密の研究室を利用していて、その爆弾の一つはティフリスの強盗で使われた。(100) 
 ベルリンで彼は、3ルーブル紙幣の偽造紙幣作りも行なった。
 クラージンは、鉄砲火薬の密輸入にも従事した。-ときには純粋に商業的理由だったが、ボルシェヴィキの金庫の金を生み出すために。
 技術者集団は、場合によっては、ふつうの犯罪者たちとも取引した。-例えば、ウラル地方で活動する悪名高きルボフ団(ギャング)で、この団体には数十万ドルの価値がある武器を売った。(101) 
 このような活動は不可避的に、ボルシェヴィキ党員たちの中に、『教条』が犯罪生活の口実に使われるという、翳りのある要素を持ち込んだ。//
  (*) この電気製品商社がクラージンを雇ったのは、偶然ではなかったかもしれない。 
 1917年のロシアの反諜報活動(counterintelligence)の長によれば、ジーメンスはスパイ目的で工作員を使っており、ロシア南部のその支店が閉鎖されるに至った。[文献、省略]
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 ②へとつづく。

1459/レーニンと農民・民族-R・パイプス著9章7節。

 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源。
 
第7節・レーニンの農民・民族問題に関する綱領。
 1905年と1914年の隙間の期間、レーニンは、その他の社会民主主義者によって採択されたのとはつぎの二つの点で異なる、革命の綱領を発展させた。すなわち、農民の問題と、少数民族の問題。
 党派間の差違は、メンシェヴィキは解決について考えたが、レーニンの関心はもっぱら戦術にあった、ということに由来した。つまり、レーニンは、革命を促進する目的で、不安の源泉を自らのものとして活用することを望んだ。
 すでに記したように、彼は1905年以前に、つぎのように結論していた。社会民主主義者は、産業労働者の数がロシアでは大きな意味をもたないことを見れば、『反革命的』と見なす『ブルジョアジー』を除いて、専制体制に反抗する全てのグループを闘いへと惹き付けて指導しなければならない。闘いに勝利したあとでは、一時的な同盟関係を解消するときがあるだろう。//
 マルクスとエンゲルスのそれによれば、農民に関する社会民主党の伝統的な見方は、つぎのようなものだ。土地を持たないプロレタリアートというありうる例外を除いて、農民は反動的な(『プチ・ブルジョアの』)階級だ。(85)  
 しかし、1902年の農業騒乱の間のロシア農民の行動を観察して、またロシア農民の地主財産に対する攻撃がもつ帝制崩壊への寄与の程度に着目して、レーニンは、つぎのように結論づけた。小作農民(muzhik)は、一時的だとしても、産業労働者の自然の同盟者だ、と。
 レーニンに都合のよいことには、党は、いわゆる otrezki 、1861年の解放令が責任を逃れるか必要とする分け前の一部になるかという選択肢を与えた土地、を補填するということのみを農民に約束する公式の綱領をさらに超えて進まねばならなかった。
 彼は、血の日曜日の後でヨーロッパへに逃亡していたガポンときわめて長く会話して、ロシア農民の気質(mentality)について多くのことを学んだ。クルプスカヤによれば、ガポンは農民の要求に習熟していて、レーニンは、彼を社会主義に転向させることを試みたほどに親しくなった。(86)
 レーニンは、このような観察と会話から、『プチ・ブルの』、『反革命的な』素質をもつ者たちを支援することを意味するとしてすら、社会民主党は農民に地主財産の全てを約束しなければならないという、オーソドクスでない見解を抱くようになった。社会民主党は、事実上、エスエル(社会主義革命党)の農業問題綱領を採用しなければならなかった。
 レーニンの綱領では、農民は今や『プロレタリアート』の主要な同盟者として、リベラルな『ブルジョアジー』に取って代わる。(87)
 彼の支持者たちの『第三回大会』で、レーニンは、地主財産を農民が獲得することを支持する条項を提案し、裁可させた。
 詳細を仕上げたあとでは、ボルシェヴィキの綱領は、私有または共同体所有の全ての土地の国有化、およびそれらの農民による耕作、ということになった。
 レーニンは、土地国有化は農民が土地は国家財産だと考えるようになったロシア歴史の『中国的な』伝統を促進するというプレハーノフの反対に直面しても、この綱領に執着した。 
 しかしながら、農民に関する綱領の出発点は、1917年遅くかつ1918年早くに、権力への闘争の深刻な局面の期間に、農民を宥和するためにボルシェヴィキにとって大きな価値をもつものだった、ということが証されることになる。//
 レーニンの農業問題綱領は、自立した保守的な農民階級を生み出すと約束した(あるいは別の視点からすれば脅迫した)ストリュイピンの改革によって危うくなった。 
 まさに現実主義者(リアリスト)のレーニンは、1908年4月につぎのように書く。ストリュイピンの農業改革が成功すれば、ボルシェヴィキはその農業に関する基盤を放棄する必要があったかもしれない、と。//
 『こんな政策は「不可能だ」と言うのは、空虚で馬鹿げた、民主主義的言葉商人的だ。可能だ!…。 
 大衆の闘いにもかかわらず、ストリュイピンの改革が『プロシア』モデルを勝利させるほどに長く続いたら、いったいどうなるのだ。
 ロシアの農業秩序は完全にブルジョア的なものに変わり、より強くなった農民たちは共同体の土地から分け前の全てを奪い、農業は資本主義のものになり、そうして<資本主義>のもとでは-過激かどうかはどちらでも-農業問題のいかなる解決もありえないだろう。』(88)
 この言明には、奇妙な矛盾がある。マルクスによれば資本主義は自らを破壊する種子をうちに胚胎していると想定されたので、大群の土地なきプロレタリアートが増大するロシア農業の資本主義化は、革命家が『農業問題』を『解決』するのを不可能にというより容易にするはずのものだった。
 しかし、われわれが知るように、レーニンの恐れはいずれにせよ根拠がないものだと判る。というのは、ストリュイピンの改革はロシアの土地所有の性格をほとんど変更せず、内心では反資本主義のままの muzhik〔小作農民〕の気質を全く変えなかったのだから。//
 レーニンは、民族問題についても、破滅的な接近方法をとった。 
 社会民主主義の仲間うちでは、ナショナリズムは労働者を階級闘争から引き剥がして大国家の破壊を促進する反動的なイデオロギーだ、ということが真正なものだった。
 しかしレーニンは、帝国ロシアの人口の半分が非ロシア人であり、そのある程度は強い民族意識を持っていて、ほとんど全てがより強い領土的かつ文化的な自主的政府を望んでいることにも、気づいていた。
 1903年の公式の綱領は、農民問題についてと同様にこの論点についても、きわめて微少なことしか述べていなかった。少数民族に対して、公民的平等、母国語での教育、地方の自治を提示していた。そのあとで、『全ての民族の自己決定権』という曖昧な定式が、具体的なことは何もなくして、述べられていた。(89)//
 レーニンは1912-13年に、これでは十分でない、と結論した。たしかにナショナリズムは階級矛盾が増大する時代には反動的な力でありおそらくは時代錯誤的なものだが、それが一時的に現れてくるのをまだ認めなければならない。 
 したがって、社会民主党は、農民が私的土地を要求する場合と全く同様に、それ〔ナショナリズム〕を条件つきのかつ一時的なという前提で利用する用意をしなければならない。//
 『ナショナリズムは、<現にある>敵に反抗する同盟者を支えるものだ。社会民主党は、共通する敵を崩壊させるのを速めるために、この支えについて定めなければならない。しかし、この一時的な同盟に<何も>期待しないし、いっさい譲歩しない。』(90)
 綱領による定式化を吟味して、レーニンは、東ヨーロッパの社会主義者には周知の二つの解決方法を拒絶した。すなわち、連邦主義と文化的自治を。前者は大国家の解体を促進するという理由で、後者は民族の差違を制度化するという理由で。
 レーニンは長い逡巡ののちに1913年に、最終的に、民族問題に関するボルシェヴィキ綱領を定式化した。
 それは、社会民主党の綱領上の『民族の自己決定権』の公式を独特に解釈して、一つの意味、そしてそれだけの意味をもたせる、という考えに依拠していた。主権ある国家から脱退する、かつそのような国家を形成する、全ての民族集団の権利。
 この定式は独立主義を助長すると彼の支持者たちが抗議したとき、レーニンは彼らを安心させた。 
 第一に、ロシア帝国の多様な地域をますます一つの経済全体へと融合させている資本主義の発展の勢いは、分離主義を抑止し、究極的にはそれを不可能にさせる。
 第二に、自己決定という『プロレタリアート』の権利は、民族の権利につねに優越する。このことは、想定とは逆に、非ロシア人が分離するならば、力でもって再統合されることを意味する。
 少数民族に全か無かの選択肢を提示することによって、レーニンは、(ポーランド人とフィンランド人を除く)ほとんど全ての彼らがその選択肢の間を望んでいる、という事実を無視していた。 
 彼は、少数民族が分離することなくロシア人と同化することを、完全に期待した。(91)
 レーニンは、デマゴギー的なこの定式を利用して、1917年によい結果を残した。//
  (87) John L. H. Keep, ロシアにおける社会民主主義の成立 (1963), p.194-5。
  (89) リチャード・パイプス, ソヴェト同盟の形成-共産主義とナショナリズム, 1917-23 (1954), p.31-p.33。
 
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 第8節につづく。

1458/メンシェヴィキと決裂③-R・パイプス著9章6節。

 前回のつづき。
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 二つの分派の民族構成について述べると、ボルシェヴィキは、主として大ロシア人だ。一方、メンシェヴィキは、ほとんど非ロシア人で、とくにジョージア人とユダヤ人を惹き付けた。
 社会民主党の第2回大会の際、レーニンを支持したのは主として中央部-つまり大ロシア人の-地域から選出された代議員たちだった。
 第5回大会の際(1907年)、ボルシェヴィキのほとんど5分の4(78.3%)は大ロシア人で、一方、メンシェヴィキのその比率は、3分の1(34%)だった。
 ボルシェヴィキのほぼ10%が、ユダヤ人だった。メンシェヴィキ党員の中での彼らの割合は、これの二倍多い。(77)(*) //
 初期のボルシェヴィキ党は、かくして、つぎのように特徴づけられる。(1) 構成において相当に農村的 (rural)で、党員たちは、『かなりの程度、田園地帯に生まれるかそれとの関係をまだ残したままの者たち』に引き摺られていた、(2) 『圧倒的に大ロシア人的』で、大ロシア人が生活する地域を基盤としていた。(78)
 言い換えると、ボルシェヴィキの社会的および文化的な根源(ルーツ)は、農奴制時代の最も古い伝統をもつ集団および圏域にあった。// 
 しかし、二つの党派には共通する特質もあった。そのうち最も重要なのは、代表すると謳う社会集団である、産業労働者との関係の希薄さだ。
 1880年代のロシアでの社会民主主義の出現以来、労働者は社会主義知識人を、相反する気持ちで見ていた。
 未熟および半熟練労働者は、知識人とは皇帝に私的な仕返しをすべく彼らを使用する紳士たち(『白い手』)だと考えて、完全に社会民主主義を避けた。
 彼らは、社会民主党の影響に感染しないままだつた。
 より教養があり、より熟達した、政治的意識のある労働者は、社会民主党をしばしば、それに指導される用意はないままで、仲間であり支援者であると見なした。彼らは通常は、政党政治よりも労働組合主義を選んだ。(79)
 以上の結果として、社会民主党組織における労働者の数は、微少でありつづけた。
 マルトフは、革命がすでに十分に進行していた1905年の前半に、ペテログラードのメンシェヴィキには1200から1500人の、ボルシェヴィキには『数百人』の積極的な労働者支持者があると、見積もっている。-これは、20万人以上の産業労働者のいる帝国の最も産業化した都市でのことだ。(80)
 1905年の末のペテログラードで、、二つの党派には合わせて3000人の党員がいた。(81) したがって、事実上は、メンシェヴィキもボルシェヴィキも、知識人の組織だった。 
 1914年に発行された書物でのこの点に関するマルトフの観察によれば、二月革命の後に出現すると予想される状況は、つぎのとおりだった。//
 『1905年の推移から広い範囲で積極的に活動することを現実に可能ならしめたペテログラードのような都市で、…党の組織には、中央集中の組織的活動を実行する『職業人』労働者および自己啓発のために党活動に入った若者労働者だけが残っている。
 政治的により成熟した労働者は、組織の外にいるままであるか、組織やその中央と大衆との間の関係に最も有害な影響を与えるものの一部だとだけ計算されている。 
 同時に、知識人が大量に党に流入することは、組織形態を知識人の生活条件(休暇、「陰謀」に時間をさく可能性、監視を避けるのに適した都市の中心区画の住居)に最もよく適合させたとしても、高い部分の(社会民主党の)組織の全てに知識人が充満することに帰結するだろう。これは、つまるところ、組織が大衆運動から心理的に離別するということだ。
 したがって、「中央と外縁」の間での果てしない衝突や軋轢、および労働者と知識人との間の嫌悪感の増大は、…。』(82) 
 実際に、メンシェヴィキは労働者運動と自らを同一視するのを好んだとしても、二つの党派は、労働者による干渉のない運動を行うことを選んだ。ボルシェヴィキは原理として、メンシェヴィキは生活実態への反応として。(83)
 マルトフは正しく、このような現象に注目していた。しかし、ロシアでは民主主義的な社会主義運動は、労働者のためのみならず労働者によっても行われなければ成功しない、という明白な結論を導き出さなかった。//
 これと似たようなことがあったとしても、メンシェヴィキとボルシェヴィキがともに力を合わせることが期待されえたかもしれない。 
 しかし、それは起こらなかった。友人感情はあったにもかかわらず、二つの党派は、同じ信仰の宗派としての全情熱をかけてお互いに闘い、分離していった。
 レーニンは、社会主義の教条と労働者階級の利益に対する裏切り者だとメンシェヴィキを非難することにより、メンシェヴィキから離別する機会を逃さなかった。
 苦い嫌悪感は、イデオロギーに由来するというよりも、人間的な理由からだった。//
 革命の崩壊から目覚めた1906年までに、メンシェヴィキは中央指向の、厳格な規律ある、陰謀的な政党を呼びかけるレーニンの綱領の採択に同意した。
 二党派の戦術観ですら、一致していなくはなかった。 
 例えば、両党派は、1905年12月の失敗したモスクワ蜂起を支援した。
 1906年に彼らは、アクセルロッドが提唱した労働者大会の考えを、党の規律違反だと一致して非難した。(84)
 些細な、しばしば学者的な違いが二つの党派の間にあったとしても、再統合を妨げたのは、権力を志向した、レーニンの尊大な欲望だった。それは、服従者以外のいかなる役割においても、彼とともに活動することを不可能にしたのだ。//  
  (*) スターリンは、このような実態から逃れられなかった。スターリンが出席した第5回大会に言及して、彼はつぎのように書いた。
 『統計は、メンシェヴィキ派の最大多数はユダヤ人から成っている…ことを示している。他方、ボルシェヴィキ派の圧倒的多数は、ロシア人から成っている…。これに関係して、あるボルシェヴィキは冗談で(これはアレクジンスキー同志のように思える)、メンシェヴィキはユダヤ人党派で、ボルシェヴィキは純粋なロシア人党派だ、ゆえに、われわれボルシェヴィキが党の綱領を組織化するという考えは悪くないだろう、と語った。』
 スターリン, …〔省略〕参照。
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 第7節につづく。

1455/メンシェヴィキと決裂②-R・パイプス著9章6節。

 前回のつづき。
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 ソヴェトの出現を、レーニンは懐疑的に見ていた。というのは、ソヴェトは非パルチザンの労働者組織で、政党による統制の外にいるものだと、考えられていたからだ。労働者階級の融和主義者的な傾向を考えると、レーニンやその支持者たちには、ソヴェトは信頼できるものではなかった。
 ソヴェトが形成されたとき、いくらかのペテログラードのボルシェヴィキは、労働者に社会民主党に対する労働者組織の優位を認めれば、『任意性という意識に従属すること』-いい換えると、労働者を知識人の上に持ち上げること-を意味するだろうという理由で (70)-、ソヴェトをボイコットするように呼びかけた。  
 レーニン自身は、ソヴェトの機能や有用性を全く決定できなかったが、より柔軟だった。
 1906年のあとで結局、彼は、ソヴェトは有用だが、『革命軍』の協力者としてのみだ、と決定した。
 ソヴェトは革命(『暴乱』)に不可欠だが、それ自体だけでは何も役立たない。(71)
 レーニンはまた、自主規律をもつ組織だとソヴェトを見なすことも拒否した-ソヴェトの働きは、厳格な規律の武装分遣隊が実行する暴乱の『道具』として役立つことだ。//
 1905年革命の勃発とともに、彼は党の主要な部分から離れて、公然と自分自身の組織を形成するときがきた、と決心した。
 1905年4月に、レーニンはロンドンに、社会民主党の正当ではない『第三回大会』を招集した。代議員のすべて(38名)が彼の党派の構成員だった。
 クルプスカヤは、つぎのように言う。//
 『第三回大会には労働者はいなかった-とにかく、少しでも目立つ労働者は一人もいなかった。 
 しかし、大会には、多数の「委員会の者たち」がいた。
 第三回大会のこの構造を無視すれば、多くのことはほとんど理解できないだろう。』(72) 
 レーニンには、このような友好的会合で自分の全ての決定が裁可されるのに何の困難もなかった-その諸決定は、正当な社会民主主義労働者党-翌年のストックホルムでの決定でこう明確にされた-を拒絶した。
 第三回大会は社会民主党の正式な分裂の始まりという画期をなすものだった。それは、1912年に完了する。//
 レーニンは、1905年11月早くにロシアに戻って、翌月のモスクワ蜂起の準備を進めた。だが、射撃が始まるや否や、彼は姿を消すということになった。 
 モスクワでバリケードが築き上げられた翌日に(1905年12月10日)、彼とクルプスカヤはフィンランドに避難した。
 彼らは12月17日に帰ってきたが、それは蜂起が敗北したあとだった。//
 1906年4月に、ロシア社会民主党の二つの分派は、ストックホルムの大会で気乗りのしない再統一の試みをした。
 レーニンはここで中央委員会での多数派を獲得しようとし、失敗した。
 彼はまた、多くの実際的な案件についても敗北した。大会は、武装分遣隊の創設と武装暴乱の考えを非難し、レーニンの農業問題綱領を拒否した。
 レーニンは怯むことなく、メンシェヴィキからは秘密に、非合法で内密の『中央委員会』(『事務局(ビュロー)』の後継機関)を、彼の個人的指揮のもとに形成した。
 最初は明らかに3人で構成されていたようだが、1907年には15人へと増加した。(73)//
 1905年の革命の間とそのあとに、数万人の新たな支持者が入党に署名し、社会民主党の党員は多方面で増加した。そのうち最も多いのは、知識人だった。 
 二つの分派は、このときまでに、異なる様相を呈していた。(74)
 1905年のボルシェヴィキには8400人の党員がいた、と見積もられている。それは大まかには、メンシェヴィキや同盟主義者(Bundists)と同じ数だった。 
 1906年4月にあった社会民主党のストックホルム大会は、3万1000人党員を代表し、そのうち、1万8000人はメンシェヴィキで、1万3000人はボルシェヴィキだったと言われる。
 1907年には、党は8万4300人の党員を擁するように成長し-この数字は、立憲民主党(カデット)とほぼ同じだった-そのうち4万6100人はボルシェヴィキ、3万8200人はメンシェヴィキだった。また、2万5700人のポーランド社会民主党、2万5500人の同盟主義者および1万3000人のラトヴィア社会民主党が連携していた。
 この数字は、増大する波の最頂点の記録だった。 
 1908年に脱退が始まり、1910年のトロツキーの見積もりでは、ロシア社会民主党は、1万人かそれ以下の党員数へと衰退した。(75) //
 メンシェヴィキ、ボルシェヴィキの各分派の社会的および民族的な構成は、異なっていた。  
 両派が惹き付けた上級階層者(gentry, dvoriane)の割合は不均衡だった-全国民中の dvoriane の割合は1.7%であるのに対して、20%だ(ボルシェヴィキについてはさらに多く、22%。メンシェヴィキはやや少なくて、19%)。
 ボルシェヴィキの党員の中には、かなり高い割合で、農民がいた。38%は、この農民グループの出身で、これと比べると、メンシェヴィキの場合は26%だった。(76)
 彼らは社会主義革命党(エスエル)を支持する耕作農民ではなく、仕事を求めて都市に移ってきた、基盤なき、階級を失った農民たちだった。 
 この社会的過渡期の構成要素は、ボルシェヴィキ党派に多数の中枢党員を提供することとなり、ボルシェヴィキの精神性(mentality)に多大の影響を与えた。
 メンシェヴィキは、より多く、低層階級の都市居住者(meshchane)、熟練労働者(例えば、印刷工、鉄道従業員)および知識人や専門職業人を惹き付けた。//
  (73) Schapiro, 共産党, p.86, p.105。 
  (74) 以下の情報は、多くは、D. Lane, The Roots of Russian Communism 〔ロシア共産主義の根源〕(1969) から抜粋している。
  (76) D. Lane, 根源, p.21。
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 ③につづく。

1453/メンシェヴィキと決裂①-R・パイプス著9章6節。

 前回のつづき。
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 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源
 第6節・メンシェヴィキとの最終的な決裂 〔p.361-p.363.〕

 ボルシェヴィキとメンシェヴィキのいずれも、1905年の革命の過程にさしたる影響力を与えなかった、ともかくも、最終の局面までは。
 社会民主党は1905年の暴力に喫驚し、その年のたいていの活動を、声明文の発行と彼らの統制を超えて広がる不安の煽動に限定した。
 1905年10月にようやく、ペテログラード労働者代表者ソヴェトが設立されたことに伴い、メンシェヴィキは革命における積極的な役割をはたした。だが、それ〔首都のソヴェト〕がリベラルな者たちとリベラルな綱領によって支配されるまでだった。//
 レーニンは直接にはこの出来事に関係しなかった。というのは、トロツキーやパルヴスと違って、彼はスイスという安全な場所からその出来事を観察していることを選んでいたので。慎重に判断して、11月初めにようやくロシアに戻った。そのあと、政治犯の恩赦の発表があった。 
 レーニンは、1905年1月はロシアでの幅広い革命の開始の画期となるものだと考えた。
 リベラルな『ブルジョワジー』から最初の起動が生じているが、この階級は推移のどこかで確実に屈服し、帝制と取引きするだろう。
 したがって、社会民主党が完全な勝利にまで責任をもち、労働者を指導することがきわめて重要だ。//
 レーニンにはつねにマルトフのいう『アナクロ-ブランキズム』へと傾く嗜好はあったにもかかわらず (66)、彼は自分の行動綱領を理論的に正当化するものを持っておく必要があった。
 彼はこれを、パルヴスの小論に見出した。それは、血の日曜日に直接の影響をうけた1905年1月に書かれたものだった。
 パルヴスの『連続(uninterrupted)』(または『永久(permanent)』)革命理論は、社会主義に先行する『ブルジョア』の支配の別個の段階があるという、オーソドクスなロシア社会民主主義の原理と、レーニンが一時的には選択したがマルクス主義と一致させることができなかった『直接の強襲』というアナーキストの理論との間に、幸福な妥協を提供するものだった。
 パルヴスは『ブルジョア』段階を認めたが、それは同時に進行するはずの社会主義の段階と時間的に区別することができないものだ、と主張した。(*1)
 このような見通しのもとでは、反専制体制の革命がひとたび勃発すれば、『プロレタリアート』(社会民主党のことを意味する)は権力掌握へとすぐに進むことになる。
 この理論が正当であるのは、ロシアには、西欧ではブルジョアジーを支援し鼓舞する過激な低中間階層が、存在していない、ということだ。
 裸の場所にいるロシアのブルジョアジーは、革命が達成されるのを許さず、それを途中で阻止するだろう。 
 社会主義者は、帝制崩壊につづくはずの内戦に向けて、大衆を組織する準備をしなければならない。 
 成功するための必須条件の一つは、党がその同盟者と区別される一体性を維持しつづけることだ。『ともに闘え、だが別々に進もう』。
 パルヴスの考え方はロシアの社会民主主義者に、とりわけレーニンとトロツキーに、大きな影響を与えた。『ロシアの運動の歴史上はじめて、プロレタリアートは、政治権力を掌握するのと同時に…臨時政府を形成する、という理論命題へと前進した。』(67)// 
 レーニンは、新しい考えや戦術を持ち出して運動における彼の優位性に挑戦するものが出てくればいつでもそうだったように、最初はパルヴス理論を拒否した。  
 だが彼は、すみやかに同調した。 
 1905年9月に、レーニンはパルヴスに賛同してつぎのように書いた。//
 『…民主主義革命のすぐあとに、さらに前進し始めるだろう、われわれの力が…社会主義革命に到達するのを認める地点まで。
 われわれは、連続革命を支持する。
 われわれは、中途で止まることはない。』(+) //
レーニンの見方によれば、社会主義革命は、ただ一つの形態でのみ生起しうる。すなわち、武装蜂起。
 彼は、都市圏域でのゲリラ行動の戦略と戦術を知るために、武装蜂起の歴史を懸命に研究した。きわめて役立ったのは、とくに、パリ・コミューンの軍事司令官、ギュスターヴ・クルセレットの回想録だった。 
 学んだことは、ロシアの支持者たちに伝えた。 
 1905年10月にレーニンは、革命軍の分遣隊を作るように彼らに助言した。その構成員は、つぎのような武装をするものだった。//
 『鉄砲、回転式連発拳銃、爆弾、ナイフ、真鍮製肘、棒、点火できるように灯油を染みこませた布きれ、ロープまたは縄はしご、バリケードを作るためのシャベル、綿火薬製の厚板、棘のある鉄線、(騎兵軍に対する)釘、およびその他…。
 武器がなくても、分遣隊はつぎのことにより、重要な仕事をすることができる。(1)群衆を指揮する、(2)一団から離脱したコサックを攻撃する(モスクワで起きたことのように)、(3)警察力がきわめて弱体であれば、拘束されたり負傷した者を救済する、(4)家屋の屋根や最上階に登る、など。そしてまた、兵団へと投石すること、彼らに熱湯を浴びせること、など。
 スパイ、警察官、憲兵の殺戮。警察署の爆破…。』(68)
 武装闘争の側面の一つは、テロリズムだった。
 ボルシェヴィキは名目上はテロルを否定する社会民主主義の基盤を支持していたが、実際には、自分たちで、および過激主義者(Maximalist)を含むエスエル(社会主義革命党)と共同での両方で、テロルをおこなっていた。
 原則として、この活動は秘密裏に組織された。しかし、場合によれば、ボルシェヴィキは支持者に対して公然と、テロルを奨励した。
 かくして、ワルシャワで警察官を射殺したポーランドの社会主義党の例を引用すれば、1906年8月に彼らは、『スパイ、黒い百(the Black Hundreds)の積極的支持者、警察官、陸海軍の武官、その他』に対する攻撃を命じた。(*2) //
  (*1) パルヴスは、トロツキーの冊子の前書きで、『連続』または『永久』革命の理論を最初に定式化した(但し、この両語を用いてはいない)。〔関係文献、省略〕
  (+) Wolfe も Schapiro も、この言明はレーニンの一面の異常性だ、その理由は、レーニンはその後には、多くの場合はロシアは『資本主義』と『民主主義』の段階を迂回することはできない、と語ったからだ、と考えている。しかし、1917年のレーニンの行動が明らかにするだろうように、彼は『民主主義』革命の考えに対して口先だけの支持を示しただけだ。すなわち、レーニンの真の戦略は、『ブルジョア』民主主義から『プロレタリアート独裁』への即時の移行を呼びかけることだった。
  (*2) その工作員たちがボルシェヴィキ問題に関する情報を維持した The Okhrana は、二月革命のすぐ前に、レーニンはテロルに反対していないが、エスエルはテロルに重要性を認めすぎていると考えている、と報告した。この報告の日付は、1916年12月24日、1917年1月6日。Hoover研究所のOkhrana 資料…。のちに記すように、彼の組織は、テロル活動のための爆発物をエスエルに提供した。  
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 ②へとつづく。

1451/ボルシェヴィズム登場②-R・パイプス著9章5節。

 前回のつづき。
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 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源
 第5節・ボルシェヴィキの出現 〔p.358-p.361〕 ②
 レーニンは〔党組織に関する〕その考えを、1902年3月刊行の<何をなすべきか ?>で周知させた。 
 この本はその当時まで練り上げられたもので、社会民主主義的語彙でもって人民の意思の考えを粉飾したものだった。
 彼はこの本で、帝制打倒に身を捧げる全日活動の職業的革命家から成る、規律厳しい、中央に集中した党の創立を呼びかけた。
 レーニンは政党『民主主義』の観念を、労働者運動は自然の推移をたどって大衆の革命を実行するだろうとの信念とともに、却下した。自身たちのための労働者運動には、労働組合主義を実践する能力しかない。
 社会主義と革命的熱情は、外から労働者に注入されなければならない。『意識性』が『任意性』に圧倒的に優先しなければならない。
 労働者階級はロシアで少数派なので、ロシア社会民主主義者は、闘争の中に暫定的同盟者として他の階級を巻き込まなければならなかった。
 <何をなすべきか ?>は、名前こそ正統派マルクス主義のものだが、マルクス主義の原理の基礎的教義を転倒させ、社会民主主義の民主主義的要素を拒否するものだった。
 にもかかわらず、人民の意思の古い伝統がまだ残って生きていて、プレハーノフ、アクセルロッドやマルトフの遅延戦術に我慢ができなくなっているロシアの社会主義知識人に対して、きわめて大きな印象を与えた。
 この当時、のちの1917年のように、レーニンの魅力の多くは、つぎのことに由来していた。すなわち、平易な言葉を使って文章を書いたこと、そして、ライバルの社会主義者たちの考えを行動綱領に転化したことだ。彼らは、信念を維持する勇気を欠いて、多くの条件にむしろ束縛されていた。//
 レーニンの非正統的なテーゼは、1902-3年に激しい論争の対象になった。そのとき、社会民主主義者は、きたる党の第二回大会の準備をしていた-その名にかかわらず、政党の設立総会となる予定の大会だ。
 イデオロギー上の違いが混じり、しばしば指導権をめぐる個人的闘争の外観も呈した争論が勃発した。
 プレハーノフに支持されたレーニンは、幹部や一般の党員が中央に服従する、より中央に集中した組織を作ることを要求した。一方で、のちにメンシェヴィキの指導者になるマルトフは、『党組織の一つの一定の方向のもとで、党に対して定期的に個人的な協力をする』者は誰でも受け入れる、より緩やかな構造を求めた。(60) //
 第二回大会は1903年7月にブリュッセルで開催された。51の投票権をもつ、43人の代議員が出席した。(*)
 労働者だったと言われる4名以外の全員は、知識人だった。 
 レーニンへの対抗派を率いるプレハーノフが、いつも多数を獲得した。だが、彼〔プレハーノフ〕がその対抗者と協力してユダヤ人同盟に党内で自治的な地位を与えるのを拒否し、5名の同盟員たちが〔会場外へ〕歩き去り、2名の経済学者の代議員がそれに続いたとき、プレハーノフは、多数派の支持を喪失した。
 レーニンはすぐさま、中央委員会の支配権を掌握する機会を利用し、その機関である<イスクラ>の大勢を確保した。
 この場合のレーニンの呵責のない方法と策略は、彼と他の党リーダーとの間に、きわめてひどい悪感情を惹起することになった。
 そのとき、そしてその後でも、一体性の表装(ファサード)を維持するための多くの努力がなされたけれども、分裂は、実際上、修復不能になった。解消されえたイデオロギー上の差違はさほど大きな理由ではなく、個人的な嫌悪感から生じていた。 
 レーニンは、自分の党派のためにボルシェヴィキの名を、『多数派』を意味する名を要求する瞬間を掴んだ。
 この名前は、第二回大会のあとですぐに生じたことだが、少数派になったことが分かった後でも、維持された。
 これはレーニンに、党の最も人気のある分派の指導者として立ち現れる利益をもたらした。
 『正統な』マルクス主義者だというポーズを、彼はずっととり続けた。これは、正統派を最高の美徳だと、そして異派を変節だと見なす宗教的感情のある国では、重要な魅力だった。
 党の歴史のつぎの2年間(1903-5年)は、悪質な計略で満ちていた。それらは、関係者の人間性を明らかにする点を除けば、大した関心の対象ではない。
 レーニンは、断固として、党を彼の意思に従属させようとした。かりにできないとなれば彼は、党のカバーのもとに彼の個人的支配が及ぶ平行組織を設立することを準備していた。
 1904年末までに実際、レーニンは、『党多数派の委員会事務局』と呼ばれる『中央委員会』をもつ彼自身の党派を持った。
この行為を理由として、彼は正当な中央委員会から追放された。(61)
 レーニンが少数派である場合には、正当化されていない平行機関を、信奉者が集まる同じ名前の平行機関を設立することによって、正当な諸機構を弱体化させる戦術をとった。このような戦術を彼は、1917-18年には権力の別の中心、とりわけソヴェト、に対して適用することになる。//
 1905年の革命が勃発するときまでに、ボルシェヴィキの組織は定まった。//  
 『指導者、つまりレーニンに対する個人的な忠誠と結合した、かつまたその指導が十分に過激で極端であるかぎりいかなることがあってもレーニンに服従する意思をもつ、そういう陰謀家たち一団が集結した、職業的な委員たちの厳しい規律ある秩序』。(62)
 対抗者たちは、レーニンはジャコバン主義者だとして責め立てた。トロツキーは、つぎのように記した。ジャコバン派のようにレーニン主義者たちは、大衆の『任意性(随意性)』を恐れた、と。(63)
 この攻撃に動揺することなく、レーニンは誇らしげに、ジャコバンという称号は、自分自身のためにある、と言った。(64)
 アクセルロッドは、レーニン主義はジャコバン主義ですらなく、『内務省の官僚専政制度の模写か戯画であるにすぎない』と考えた。//(65)
  (60) Leonard Schapiro, ソヴェト同盟の共産党 (1960), p.49。
  (*) この月の末には、ロシアとベルギーの警察による監視を避けて、大会はロンドンへと移った。
  (65) 1904年6月のカール・カウツキーへの手紙。A. Ascher, Pavel Axelrod and the Development of Menshevism (1972) p.211.から引用。
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 第6節につづく。

1450/ボルシェヴィズム登場①-R・パイプス著9章5節。

前回のつづき。
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 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源
 第5節・ボルシェヴィズムの出現
 〔p.358-p.361〕
 産業労働者はもともと非革命的で実際は『ブルジョア的』だ、そしてブルジョアジーは『反革命的』だ、と結論づけたレーニンには、二つの選択肢があった。
 一つは、革命を起こす考えを放棄することだ。
 しかし、先に述べた精神的な理由から、レーニンはこれを選べない。彼にとって革命は、目的のための手段ではなく、目的そのものなのだ。
 もう一つは、大衆の意思を顧慮することなく、陰謀とクー・デタによって上から、革命を実行することだ。 
 レーニンは、後者を選んだ。1917年7月に、つぎのように書くことになる。
 『…革命の時代には、「多数者の意思」を見出すことでは十分ではない。-ちがう。決定的瞬間に、決定的場所で、「より強く」なければならず、「勝利」しなければならない。
 中世ドイツの「農民戦争」に始まり…1905年まで、われわれは、よりよく組織され、より多く意識的な、より十分に武装した少数者が、その意思を多数者に押しつけて征圧してきた無数の例を知っている。』(55)
 その任務を遂行すべき党組織のモデルを、レーニンは、直接に人民の意思から採用した。
 人民の意思はその構造や活動についてきわめて秘密的だったので、今日までこのテーマの多くのことは不明瞭なままだ。(56)
 しかしレーニンは、カザンとサマラにいた間に元の人民の意思の者との会話を通じて直接に多くの知識を得ていた。  
 人民の意思は階層的な構造をもち、準軍事的な様相でもって活動した。
 その母体である土地と自由(Land and Freedom)とは違って、構成員の平等の原則を否定し、その頂点に全権力をもつ執行委員会(Executive Committee)が立つ、命令的構造に置き換えていた。
 執行委員会の構成員になるためには、綱領を無条件に承認するだけではなく、その根本教条に全身全霊で貢献することが必要だった。委員会規約はいう、『全構成員は、その全ての才能、能力、関係および共感と反感、そしてその生命すら、無条件に組織の意のままにしなければならない。」(57)
 多数の票決を経た執行委員会の決定は、全ての構成員(委員)に対する拘束力をもった。
 委員は、合議によって選出された。
 委員会を下から支えるべく、軍事委員会および地域的または従属的な支部を含む特殊な機関があった。これらは、抗弁なくして委員会の指令を実行しなければならなかった。
 執行委員会委員は全日働く(full-time)革命家であり、その多くは党が好意者から得た金で生活しなければならなかった。//
 レーニンはこの組織原理と実務を、そっくり採用した。  
 厳格な規律、職業家主義、そして階層的組織は、彼が社会民主党に注入しようと探していた全遺産だった。そして、それが叶わなかったとき、彼は自分自身のボルシェヴィキ党派にこれらを課したのだった。
 1904年にレーニンは、『革命的社会民主主義者の組織原理は、上から下へと進もうとするもので、党の中央機関に全ての部分又は支部が服従することを必要とする、と主張した。(58) -これは、人民の意思の規約に由来する表現だ。// 
 しかしながらレーニンは、二つの重要な点で、人民の意思の実務から離れた。
 第一に、人民の意思は階層的に組織されたが、個人的な指導権を許さなかった。すなわち、その執行委員会は、合議によって活動した。
 このことはボルシェヴィキの(議長はいない)中央委員会(Central Committee)の理論的な基盤でもあった。しかし、レーニンは実際には、完全に委員会の議事進行を支配し、彼の同意がなければ、ほとんど多数決すら行われなかった。
 第二に、人民の意思は、帝制から解放されたロシアの政府になるつもりはなかった。その使命は、憲法制定会議(Constituent Assembly)の開設でもって終わることになっていた。(59)
 これに対して、専制体制の打倒は、レーニンにとって、彼の党が実施する『プロレタリアート独裁』の序奏にすぎなかった。//

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 ②へとつづく。

1449/幻滅の社会民主主義②-R・パイプス著9章4節。

前回のつづき。
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 流刑の期間が終わろうとする頃、レーニンは郷里から穏やかならざるニュースを受け取った。収監中に成功を続けていた運動が危機の苦衷にあり、それは1870年代の革命家たちが経験したものに似ている、という。
 労働者が政治化することをレーニンが期待した煽動戦術は、大きな変化を遂げていた。労働者の政治意識を刺激する手段として役立つことが意図された経済的不安は、終わり始めていた。 
 労働者は、政治に関与することなく経済的利益のために闘争した。そして、『煽動」に従事した知識人は、自分たちが労働組合運動の始まりの添え物になっていることに気づいた。
 レーニンは1899年夏に、エカテリーナ・クスコワが書いた『クリード(Credo、信条)』と呼ばれる文書を受け取った。それは、社会主義者に対して、専制体制に対する闘争をやめてブルジョアジーに向かい、ロシア労働者が代わりにその経済的、社会的条件を改良するのを助けることを要求していた。
 クスコワは十分な経験がある社会民主主義者ではなかったが、彼女の小論は社会民主主義者の中に現れた傾向を反映していた。
 この新しい異説に、レーニンは経済主義というラベルを貼った。
 社会主義者の運動を、その性質からして『資本主義』に順応することを追求する労働組合の小間使いにしてしまうことほど、レーニンの気持ちから離れたものはなかった。
 ロシアから届いたその情報は、労働者運動が社会民主主義知識人から独立して成熟し、政治闘争-すなわち革命-から遠ざかっていることを示していた。//
 レーニンの不安は、運動上にまた別の異説、修正主義、が登場したことによって増大した。
 1899年早くに、エドゥアルト・ベルンシュタインに従う何人かのロシア社会民主主義の指導者たちは、近年の論拠に照らしたマルクスの社会理論の修正を要求した。
 ストルーヴェはその年に、一貫性の欠如を指摘する、マルクスの社会理論の分析書を発行した。マルクス自身の前提は、社会主義は革命(revolution)ではなく進化(evolution)の結果としてのみ実現される、ということを示唆するのだ。(49)
 ストルーヴェはそのうえで、マルクスの経済的かつ社会的原理の中心観念である価値理論の体系的批判へと進んだ。そして、『価値』とは科学的な観念ではなく形而上のそれだという結論に至った。(50)
 修正主義は経済主義ほどにはレーニンを困惑させなかった。というのは、修正主義には同じ実践上の影響力はなかったので。しかし、何かがひどく悪くなっているという恐怖が高まった。    
 クルプスカヤによると、レーニンは1899年の夏に、取り乱すようになり、痩せて、不眠症に罹った。
 彼は今や、ロシア社会民主主義の危機の原因を分析し、それを克服する手段を考案することにエネルギーを傾注した。//
 レーニンの直接の実践的な解決方法は、正統派マルクス主義に忠実なままの仲間たちとともに、運動上の逸脱、とくに経済主義と闘うために、ドイツの<社会民主主義者>を模範にした出版物を刊行することだった。  
 これが、<イスクラ>の起源だった。
 レーニンの思考はしかし、さらに深くなって、社会民主主義を人民の意思を範型とする結束した陰謀家エリートとして再組織すべきではないのかどうかを考え始めた。(51)
 このように思考するのは精神の危機の始まりだった。それは、1年あとで、彼自身の党を結成するという決断によって解消されることになる。//
 1900年早くに流刑から解き放たれた後のペテルスブルクでの短い期間、レーニンは、名義上はまだ社会民主主義者だがリベラルな見地へと移っていたストルーヴェをはじめとする同僚と、交渉して過ごした。
 ストルーヴェは、<イスクラ>と協力し、その財政のかなりの部分を支援することとされた。その年の遅く、レーニンはミュンヒェンに移り、そこで、ポトレゾフやユリウス・マルトフと一緒に、『正統な』-つまり、反経済主義かつ反修正主義の-マルクス主義の機関として<イスクラ>を設立した。//
 ロシア内外の労働者の行動を観察すればするほど、マルクス主義の根本的な前提とは全く違って、労働者(『プロレタリアート』)は決して革命的階級ではない、という結論がますます抑えられなくなった。労働者は放っておかれれば、資本主義を放逐することよりも資本主義者の利益の分け前をより多く取ることを選ぶだろう。
 ズバトフが警察組合主義 (*)という考えをまさにこの時に抱いたのは、同じ理由からだった。
 1900年に発表した影響力ある論文で、レーニンは考え難いことを主張した。『社会民主主義から離れた労働者運動は、…不可避的にブルジョア的になる。』 (52)
 この驚くべき論述が意味するのは、社会主義政党によって労働者の外からそして労働者とは独自に指導されないかぎり、労働者はその階級の利益を裏切るだろう、ということだ。
 非・労働者-つまり、知識人-だけが、この利益が何であるかを知っている。
 政治的エリートの理論が当時に流行していたモスカとパレートのように考えて、レーニンは、プロレタリアートは自分たち自身のために、選ばれた少数者に指導されなければならない、と主張した。// 
 『歴史上のいかなる階級も、政治的指導者、運動を組織して指導する能力のある指導的代表者…を持たないかぎりは、決して勝利しなかった。
 自由な夕方だけではなく、生活の全てを革命に捧げる人間を用意することが必要だ。』(+)
 労働者は生活の糧を稼がなければならないので、『彼らの生活の全て』を革命運動に捧げることができない。これは、労働者の教条のための指導権は社会主義知識人の肩で担われる、というレーニンの考え方から生じたものであることを意味する。 
 この考え方は、民主主義原理そのものを弱体化させる。人々の意思は生きている人々が欲するものではなく、上級者によって明確にされる彼らの『真の』利益がそれだとされることになる。//
 労働者の問題に関する社会民主主義から逸脱したので、レーニンがそれとの関係を断ってブルジョアジーの問題へと向かうのに、大した努力は必要なかった。 
 活発で独立したリベラルの運動が出現し、すみやかに自由化同盟(the Union of Liberation)へと統合していくのを見て、レーニンは、『ブルジョアジー』との同盟に対する『主導権』を行使するには影響力が貧相で少ない社会主義者の能力に、信頼を置かなくなった。 
 1900年12月に、<イスクラ>とのリベラルの協力関係の条件について、彼はストルーヴェと怒りに満ちた話し合いを行った。 
 レーニンは、リベラルたちが専制体制に対抗する闘争での社会主義者の指導性を承認するのを期待するのは無駄だと結論づけた。彼らリベラルたちは、自分たちのために、自分たちの非革命的目的のために、革命家を利用して闘うだろう。(53)
 『リベラル・ブルジョアジー』は君主制に対する虚偽の闘争を遂行しており、そして、だからこそ、『反革命』階級だ。(54)
 ブルジョアジーの進歩的役割を否認することによってレーニンは、以前の人民の意思の見地へと先祖返りすることを示し、社会民主主義と完全に絶縁した。//
  (*) 第1章を参照。
  (+) 10年後に、レーニンよりも10歳若い、指導的なイタリア社会主義者であったベニート・ムッソリーニは、これと無関係に、同じ結論に到達した。1912年にムッソリーニはつぎのように書いた。『組織されただけの労働者は利益の誘惑にのみ従うプチ・ブルジョアになった。いかなる理想への訴えも聴かれなかった。』 B. Mussolini, Opera omnia, Ⅳ, (1952), p.156。別の箇所でムッソリーニは、労働者は生まれながらに『平和的』だと語った。A. Rossi, イタリア・ファシズムの成立, 1918-1922 (1938), p.134。
  (53) この交渉の背景については私のつぎの著で叙述した。R. Pipes, Struve: Liberal on the Left, p.260-70。
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第5節につづく。

1447/幻滅の社会民主主義①-R・パイプス著9章4節。

 前回のつづき。
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 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源
  第4節・レーニンの社会民主主義への失望

 1893年秋にレーニンが表向きは専門法曹の仕事に就くべくペテルスブルクに移ったとき、実際は過激派サークルと接触して、革命家としての経歴を歩み始めた。(42)
 到着した彼と連絡をとった社会民主主義者には、レーニンは『赤すぎる』ように思えた-つまり、まだ人民の意思の信奉者でありすぎた。
 レーニンはすぐに自分の知り合い仲間を広げ、有名な社会民主主義知識人のグループに加入した。その指導的精神をもつ者は、23歳のペーター・ストルーヴェだった。-この人物は、レーニンに似て高級官僚の子息だったが、レーニンとは違って、西欧にいた国際人で、きわめて幅広い知識を習得していた。
 この二人は、頻繁に議論をした。
 二人の不一致は主として、レーニンの資本主義に関する単純な観念と、レーニンの『ブルジョアジー』への態度だった。
 ストルーヴェはレーニンに、一度自分の目で西欧を見れば納得するだろうように、ロシアは西欧タイプの資本主義経済を獲得しなかったので、資本主義的発展への途の最初の一歩をほとんど進んでいない、と説明した。
 また、社会民主主義は、産業労働者に励まされた中産階級が出版の自由や政党結成権のような公民的自由を生み出す場合にのみ、ロシアで花咲くことができる、とも説明した。
 レーニンは、納得しないままだった。//
 1895年の夏に国外に出て、レーニンはプレハーノフや他の社会民主主義運動の老練活動家に逢った。
 『ブルジョアジー』を拒絶するのは大きな誤りだと、彼は言われた。プレハーノフが語るには、『われわれはリべラルたちに顔を向けなければならない、しかるに君は、背を向けている』。(43)
 アクセルロッドは、『リベラル・ブルジョアジー』とのいかなる共同行動でも、社会民主主義者は支配を失なうことはない、なぜなら、自身の利益に最も寄与する方向での暫定的な同盟を指導しかつ操作することによって、共同闘争の『主導権(ヘゲモニー)』を維持し続けるだろうから、と強く言った。//
 プレハーノフを尊敬するレーニンは、影響を受けた。
 どの程度深く彼が納得したのかを、決定的に述べることはできない。しかし、つぎのことは明白な事実だ。すなわち、1895年秋にペテルスブルクに戻って正統な社会民主主義者としてデビューし、『リベラル・ブルジョアジー』と同じ先頭に立って専制体制に対抗する闘争へと労働者を組織したのだ。 
 この変化は驚くべきことだった。レーニンは1894年夏には、社会主義と民主主義は両立しえない、と書いた。今や、この二つは不可分だ、と主張する。(44)
 彼の目に映るロシアは、決して資本主義国ではなく、半封建的な国家だった。そして、プロレタリアートの主たる敵は、専制体制と同盟するブルジョアジーではなく、専制体制それ自体なのだった。
 ブルジョアジーは-ともかくもその進歩的要素は-、労働者階級の同盟者だった。//
 『社会民主党は、…専制的政府に対抗する闘争を行う全てのブルジョアジー層を支持することを宣言する。
 民主主義者の闘争は社会主義者のそれと不可分であり、完全な自由とロシアの政治的かつ社会的体制の民主化の獲得なくして、労働者の根本教条のための闘争に勝利することは不可能である。』(45)
 レーニンは今や、陰謀とクー・デタを、実践不可能なものとして拒否した。 
 しかしながら、『リベラル・ブルジョアジー』の役割に関する彼の心境の変化は、アクセルロッドによれば、つぎの前提と固く結びついている、ということに留意することが重要だ。すなわち、革命的社会主義者は、専制体制に対する組織的運動を指導し、ブルジョアジーはそれに従う、という前提だ。//
 帰国したあとレーニンは、首都で危なかしい団体を率いている労働者サークルとの不確定な接触を保った。 
 彼はマルクス主義理論の個人的指導をいくらか担当したが、教育活動に熱心にはなれず、<資本論>の初歩を教えていた労働者が彼の外套を盗んで歩き去ったあとで、それを止めた。(46)
 レーニンは、活動へと労働者を組織することを選んだ。
 その当時、ペテルスブルクでは社会民主主義知識人のサークルが、個々の労働者および労働者たち自身が相互支援と自己研修を目的として作った中央労働者団体と接触して活動していた。
 レーニンはその社会民主主義サークルに加入した。しかし、リトアニアのユダヤ人によって定式化された『煽動』戦術が1895年遅くに採用されたときになって、その団体の仕事に従事しはじめた。
 『煽動』戦術は、労働者の政治への嫌悪感を克服するために、経済的な(つまり非政治的な)不満をもとにして産業ストライキを行おうと呼びかけた。 
  いかに政府と秩序維持の力が、汚染した企業経営者に味方しているかをひとたび知れば、労働者は政治体制の変革なくして自らの経済的不満を満足させることはできないと悟るだろう、と考えられた。
 これを悟れば、労働者は政治化するだろう、と。 
 マルトフから『煽動』戦術を学んだレーニンは、ペテルスブルクの労働者たちに文書を配布する仕事に加わった。その文書資料は、法のもとでの労働者の諸権利を説明し、その諸権利がいかに使用者によって侵害されているかを示すものだった。
 その成果は微々たるもので、労働者への影響力は疑わしかった。しかし、1896年5月に3万人の首都の労働者が自発的にストライキを実施したのは、社会民主主義者たちには大きな歓びだった。//
 そのときまでレーニンとその仲間は、1895-96年の冬にストライキを誘発したとして収監されていた。
 にもかかわらずレーニンは、『煽動』戦術の正しさが立証されたと思った。そして、織物ストライキのあとで彼はこう書いた。『工場所有者に対する日常生活の必要のための労働者の闘争』は、『<それ自体で不可避的に>労働者に<国家と政治の問題>を連想させる。』(47)。
 レーニンは党の任務を、つぎのように定義した。//
 『ロシア社会民主党は、その任務が、労働者階級の意識を高め、その組織を支援し、闘争の真の到達点を示すことによって、ロシア労働者の闘争を助けることにある、と宣言する…。
 党の任務は、労働者のための当世風の方法を脳内に捏造することにではなく、労働者運動に<加入>すること、労働者を啓蒙すること、そして<すでに開始されている>闘争において労働者を<助ける>ことにある。』(48) //
 逮捕されたあとの審問中に、レーニンは、警察が間違ってP・K・ザポロヘツという名の仲間のものだとした原稿が自ら書いたものであることを否認した。 
 その結果としてザポロヘツは、追加して2年間の収監と流刑の罰を負うことになった。
 レーニンはシベリアでの3年間の流刑(1897-1900年)を比較的に快適に過ごし、同志たちと継続的に連絡し合ってもいた。
 彼は読書し、文章を書き、翻訳し、熱心に身体運動も行った。(*) //
  (*) シベリアに同行していたレーニンの内縁の妻、ナデジダ・クルプスカヤのために、彼女と正式に婚姻しなければならなかった。ロシア政府がこの結婚を承認しなかったので、婚礼が教会で催された(1898年7月10日)。Robert H. McNeal, 革命の花嫁: レーニンとクルプスカヤ (1972) p.65。レーニンもその妻も、彼らが書いたものの中でこの当惑した出来事に言及していない。
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 ②につづく。

1446/レーニンの個性③-R・パイプス著9章3節。

 前回のつづき。
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 レーニンは最初の重要な国際主義者であり、国境は別の時代の遺物で、ナショナリズムは階級闘争の中の気晴らしとする世界的革命家だった。
 彼には、母国ロシアでよりもドイツでの方が疑いなかっただろうが、対立が生じているいかなる国でも、革命を指導する心づもりがあった。
 レーニンは成人となっての生活のほとんど半分を国外ですごし(1905-7年の二年間を除く1900年から1917年)、母国に関して多くのことを知る機会がなかった。『ロシアについて少しだけ知っている。ジンビルスク、カザン、ペテルスブルク、流刑-これで全てだ。』(34)
 彼はロシア人を低く評価し、怠惰で、優しく、そしてとても賢くはないと判断していた。 レーニンはゴールキに語った。『知識あるロシア人は、ほとんどつねにユダヤ人か、あるいはその系統にユダヤ人の血をもつ誰かだ。』(35) 
 彼は母国への郷愁という感情を知らない者ではなかったけれども、ロシアは彼にとって、最初の革命的変革の偶然的な中心であり、その渦は西側ヨーロッパになければならない真実の革命への跳躍台だった。
 1918年5月に、ブレスト=リトフスクでドイツに対して行った領土の譲歩を弁護して、レーニンは主張した。『この譲歩は国家の利益ではなく、社会主義の利益、国家の利益に優先する国際社会主義の利益のためだ』。(36) //
 レーニンの文化的素養は、同世代のロシアの知識人と比べればきわめて平凡なものだった。 
 彼が書いたものは表面的にだけはロシアの古典文学に慣れ親しんでいたが(ツルゲーネフを除く)、そのほとんどは明らかに中学生のときに得たものだった。
 レーニンとその妻の近くで働いたタチアナ・アレクシンスキーは、彼らは一度も演奏会や劇場に行かなかった、と記した。(37)
 レーニンの歴史に関する知識は、革命の歴史以外については、やはりおざなりのものだった。
 彼は音楽が好きだったが、同時代の人々を魅惑し驚かせた禁欲主義に沿って、それを抑えようとした。 
 レーニンはゴーリキに語った。//
 『音楽をたくさん聴くことはできない。それは神経を逆撫でする。
 馬鹿げたことを話したり、薄汚い地獄のような所に住んでこんな美しいものを創作できる人々に優しくすることの方が好きだ。
 今日は誰にも優しくする必要はないから、彼らはあなたの手を齧りとるだろう。
 あらゆる暴力に対面したとしてすら、想像上は、人は頭を容赦なく割らなければならない。』(38) //
 ポトレソフは、25歳のレーニンとは一つのテーマ、『運動』、についてだけ討論できる、ということに気づいた。
 レーニンは他の何にも関心がなく、何かについて語ることにも関心がなかった。(*)
 要するに、多面性のある人物と呼ばれる者では全くなかった。//
 この文化的素養のなさは、しかし、革命家の指導者としてのレーニンが持つ強さのもう一つの源泉だった。というのは、もっと素養がある知識人ではなかったので、彼は頭の中に、決意に対してブレーキのように作用する、事実や観念が入った過大な荷物を運び込まなかったから。 
 レーニンの指導者のチェルニュインスキーのように、彼は異なる意見を『たわごと』だと却下し、嘲笑の対象とする以外は、考慮することすら拒否した。
 彼が無視したり、その目的に応じて解釈し直したりするのは、都合の悪い事実だった。 反対者が何かに間違っていれば、その者は全てについて間違っていた。レーニンは、抵抗する党派に、いかなる美点も認めなかった。
 レーニンの討論の仕方は極度に戦闘的だった。マルクスの格言、すなわち批判は『外科用メスではなく兵器だ』を、完全にわが身のものにしていた。
 その武器の相手は敵で、武器は反駁するのではなく破壊することを欲するものだった。(39)
 このような考え方にもとづいて、反対者を徹底的に打倒するために、レーニンは言葉を飛び道具のごとく用いた。しばしば、反対者の誠意や動機に対するきわめて粗雑な人身攻撃という手段によって。
 ある場合、政治的目的に役立つときには、誹謗中傷を言い放ったり労働者を困惑させるのは間違っていない、と考えていることを認めた。  
 労働者階級に対する裏切りだとメンシェヴィキを非難して、1907年にレーニンは、社会主義者の裁きの場に連れてこられ、恥ずかしげもなく名誉毀損の責任を認めた。//
 『このような言葉遣いをしたのは、いわば読者に憎悪、革命心、このように振る舞う人間への侮蔑心を喚起するのを計算してだ。
 この言い方は、説得するためではなく、彼らの隊列をやっつけるために計算したものだ-反対者の誤りを訂正するのではなく、破壊し、その組織を地表から取り去るためのものだ。
 この言い方は、実際に、反対者には最悪の考えを、まさに最悪の懐疑心を喚起し、実際に、説得したり訂正したりする言い方とは違って、<プロレタリアートの隊列に混乱の種を撒く>。   
 …一つの党のメンバーの間では許されなくとも、分解していく党の部分内では許されるし、必要なのだ。』(40) //
 レーニンはこうしていつも、フランス革命の歴史家であるオーギュトト・コシンが『 乾いたテロル』と呼んだものに執心した。そして、『乾いたテロル』から『血塗られたテロル』へはもちろん、ほんの短い一歩だった。
 同僚の社会主義者はレーニンに、反対者(ストルーヴェ)に対する節度を欠く攻撃は、きっと誰か労働者に憤怒の対象を殺させることになると警告した。それに対してレーニンは落ち着いて答えた。『その男は殺されるべきだ』。(41)//
 成熟したレーニンは一つの工芸品でできていて、その人格は強い安堵感と離れた別の場所にあった。
 彼がボルシェヴィズムの原理と実践をその30歳代早くに定式化したあとでは、彼は異なる考えが貫き通ることのない、見えない防護壁で囲われた。
 そのときからは、何も彼の心性を変えることができなかった。
 マルキ・ド・キュスティンが、自分に告げるものを除いて全て知っている、と言った人間の範疇に、レーニンは属していた。
 レーニンに同意するのであれ、彼と闘うのであれ、不一致はつねに彼の側に、破壊的な憎悪とその反対者を『地表から』『除去』しようとする衝動を呼び覚ました。
 これは、革命家としての強さであり、政治家としての弱さだった。戦闘では無敵だったが、レーニンは、人類を理解し、指導するために必要な人間的性質を欠いていた。
 結局のところ、この欠陥が、新しい社会を創ろうとする彼の努力を打ち砕くだろう。人々がどのようにして平和に一緒に生きていけるかについて、レーニンはまったく理解することができなかったのだから。//
  (*) Tatiana Aleksinskii は同意する。『レーニンにとって、政治はあらゆるものに超越していて、他の何かの余地は全くない。』
  (39) カール・マルクス, ヘーゲル法哲学批判。
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 第4節につづく。

1444/レーニンの個性②-R・パイプス著9章3節。

 前回のつづき。
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 党が示す革命の教条とレーニンとの全同一化のもう一つの魅力的な側面は、独特な形態の個人的謙虚さだ。
 彼の後継者は彼個人の周囲に準宗教的なカルトを作ったが、彼らは自分たちの私的な目的のためにそうした。レーニンがいなければ、運動をともに維持するものは何もなかった。
 レーニンはこのようなカルト化を決して助長しなかった。なぜなら、自分の存在は『プロレタリアート』の存在とは別のものだという見方は受容できないと考えていたからだ。ロベスピエールのように、まさに文言上の意味で、自分は『人民』だと考えていた。(*)
 運動から区別して自分という一個人を取り出されるのを強く嫌う気持ちは、ふつうの虚栄心をはるかに超える自尊心に根ざした、謙虚さのためだった。   
 そのゆえに、回想録に対するレーニンの嫌悪感があった。ロシア革命のいかなる指導者も、自叙伝的資料をもう少しは残したのだったが。(+)// 
 道徳上の呵責を知らない人物。レーニンは、ランケが『完全な自己信頼意識をもつため、自分自身の行動の結果に関する疑いや恐れは体験したことがない痛みである』と述べたローマ法皇に、似ていた。
 このような性格のためにレーニンは、ある種のタイプの、ロシアの似而非インテリたちにはきわめて魅力的だった。そのような者たちはのちに、困惑の世界に確実性を与えてくれるという理由で、群れてボルシェヴィキ党に入っていくだろう。
 とくに若い読み書きの不十分な農民たちには、魅力的だった。彼らは、村落を離れて工場での仕事を求め、かつて慣れていた人間関係が非人間的な経済的かつ社会的束縛に代わった、見知らぬ、冷たい世界で漂っていたのだ。 
 レーニンの党は、彼らに帰属意識を提供した。彼らは団結と単純なスローガンを好んだ。//
 レーニンには強い傾向の冷酷さがあった。彼が主義としてテロルを擁護したこと、何も悪事をしていない無実の多数の人々に死を宣告する布令を発したこと、そして自分に責任がある生命の喪失に対していかほどの悔恨も示さなかったこと、これらは明白な事実だ。
 同時にまた、この冷酷さは他人が苦しむのを見て喜びを引き出すサディズムではなかったことも強調しておく必要がある。
 むしろ、そのような苦しみに対する完全な無関心こそに由来していた。 
 マクシム・ゴーリキはレーニンとの会話から、彼にとっては個々の人間は『ほとんど何の関心もなく、党、大衆、国家…のことのみを考えている』という印象をもった。
 別の場合にゴーリキが言うには、レーニンにとっては労働者階級は金属工にとっての原鉱石のようなもの (27) -換言すれば、社会実験のための原材料ようなものだった。
 レーニンが住んだヴォルガ地域が突然に飢饉に陥った1891-92年にすでに、このような特徴は明らかになっていた。 
 飢餓の農民たちに食糧を供給する委員会が設立された。
 ユリアノフ家の友人によれば、レーニンだけが(いつものようにその家族は共鳴したが)、このような援助に反対した。その理由は、農民を土地から離し、『プロレタリア』予備軍となる都市に移ることを強いることになるので、飢饉は『進歩的な』現象だ、ということだった。
 レーニンは人間を新しい社会建設のための『原鉱石』と見なして、将軍が兵士に敵の砲火の中への前進を命令するときと同じように感情を欠如したまま、人々を処刑部隊の前へと、死へと、送り込んだ。  
 ゴーリキはフランス人から引用して、レーニンは『考えるギロチン』だと言った。
 責任を拒みつつ、彼は人間ぎらいだったと認める。『一般には、彼は人民を愛した。自己犠牲心でもって人民を愛した。彼の愛は憎悪という霧を通してずっと先を見ていた。』(29)
 1917年のあとでゴーリキが、死刑を宣せられたあれこれの人の生命を大切にするように強く求めたとき、レーニンはなぜそんな瑣末なことに邪魔されるのかと本当に当惑しているように見えた。//
 よくあることだが(ロベスピエールにもそのとおりだが)、レーニンの冷酷さの反対面は、臆病さだった。 
 レーニンの人間性のこの側面は、大量の証拠資料があるけれども、諸文献ではほとんど言及されていない。
 まだ10歳代のときには大学を自主退学して学生騒擾への関与に対する制裁を避けようと試みたことがあったものの、レーニンの特徴は勇気の欠如だった。
 のちに記すように、ある原稿が自分の著作物であることををレーニンは認めようとしなかった。それで、共犯者は二年間の流刑を追加された。  
 身の危険に対するレーニンの変わらない反応の仕方は、飛び去ることだった。自分の兵団を見捨てることを意味するとしてですら、拘束や射撃の怖れががあるときはいつでも姿を消す、不思議な能力が彼にはあった。
 第二ドゥーマのボルシェヴィキ議員団長の妻、タチアナ・アレクシンスキーは、レーニンが危険から逃げ去るのを見た。//
 『1906年の夏に初めてレーニンと逢った。
 その出会いを、私は思い出したくない。
 左翼の社会民主主義者たちから崇拝されていたレーニンは、伝説的英雄のように私には思えていた…。
 1905年の革命まで彼は国外にいたので近くで彼を見たことがなく、レーニンは恐怖も汚辱もない革命家だろうとわれわれは想像していた。
 だから、ペテルスブルクの郊外での会合で1906年にレーニンを見たときの私の失望は、何と激烈であったことか。
 私に好ましくない印象を与えたのは、彼の外貌だけではない。禿げていて、赤っぽい鬚を生やし、モンゴルの頬骨をもち、不愉快な話し方をした。
 好ましくない印象は、そのあとの集団示威行進(デモ)の間の彼の振るまいだった。
 群衆を命令している騎馬兵団を見ていただれかが『コサックだ!』と叫んだとき、レーニンは逃げ出した最初の人物だった。
 彼は、柵を跳び越えた。黒布の帽子は脱げ落ち、裸の頭が露わになり、日光のもとで汗をかいて光っていた。
 彼はころげ落ち、立ち上がり、そして走りつづけた…。
 自分の身を守る以外のことは何もなかった。そしてまだ…。』(30) //
 このような魅力的でない個人的特性は、同僚たちにはよく知られていた。しかし、彼らは知っていてそれを無視した。レーニンには、独特の長所があったからだ。すなわち、規律正しい仕事をする異常なほどの能力および革命的教条に対する全的な傾倒。
 ベルトラム・ヴォルフェの言葉によれば、レーニンは『ロシアのマルクス主義運動を生み出した高度の理論的能力をもち、また細かい組織上の仕事に携わる能力と意思を同時にもつ、唯一の人間だった』。(31)
 1885年にレーニンと逢って彼を第二級のインテリと見なしたプレハーノフは、にもかかわらず、レーニンを評価し、かつその欠点を見逃した。プレハーノフの言葉によればその理由は、『彼〔プレハーノフ〕はこの新しい人物〔レーニン〕の重要性を、その思想にでは全くなく、その党組織者としての独創力と才能のうちに認めた』からだった。
 レーニンの『冷たさ』、侮蔑心および残虐さによって追放されたストルーヴェは、自分が『一つに自分の道徳的義務だ、二つにわれわれの教条には[レーニンが]政治的に不可欠だという両者』の関係を配慮して、このような否定的感情を『放逐』した、ということを認めている。(33) //
  (*) 1792年、郊外居住者の輸送に際して、ロベスピエールはこう主張した。『私は人民の廷臣でも、仲裁者でも、審判官でも、擁護者でもない。-私は人民そのものだ!』(Alfred Cobban, Aspects of the French Revolution, London, 1968, p.188.)
  (+) 彼はやがては個人的カルトを許すようになった。その理由を、アンジェリカ・バラバノッフにつぎのように説明した。『有用で、必要ですらある』、『われわれの農民は懐疑的で、読まないし、信じるために逢う必要もない。彼らが私の写真を見れば、レーニンは存在すると納得する。』 Balabanoff, Impressions of Lenin (1964, p.5-6).
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 ③につづく。

1442/レーニンの個性①-R・パイプス著9章3節。

 前回のつづき。
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 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源
  第3節・レーニンの個性
 ペテルスブルク-のちにレーニンの名を冠することになる都市-に到着したとき、23歳のレーニンには、十分に形成された個性があった。
 彼が新しい知人に与えた第一印象は、そのときものちも、好ましくないものだった。
 レーニンの背の低い頑丈な身体、早すぎる禿頭(30歳になる前にほとんど全ての毛髪を失っていた)、傾いた両眼と高い頬骨、しばしば嘲りの笑いが伴った無愛想な話し方は、ほとんどの人々を遠ざけた。
 この当時の人々は一致して、彼の魅力のない、『田舎ふうの』外観について語っている。
 A・N・ポトレソフはレーニンに逢って、『どこか北部の、イャロスラヴルのような地方からきた、典型的な中年の販売員』を見た。
 イギリスの外交官、ブルース・ロックハートは、彼は『田舎の食糧品店主』に似ていると思った。
 レーニンの信奉者、アンジェリカ・バラバノッフからすれば、レーニンは『地方の学校教師』に似ていた。(19)//
 この魅力のない男はしかし、内心の力によって輝き、人々に第一印象を忘れさせた。
 意思の強さ、挫けない自己規律、精力、確信、そして揺るぎない根本教条への忠誠は、『カリスマ』というよく使われる言葉でのみ表現できる影響力をもった。 
 ポトレソフによると、この『印象のよくない、粗雑な』、魅力の欠けた人物は、『催眠術のような力』をもっていた。// 
 『プレハノフは尊敬された、マルトフは愛された、しかし、彼らはただ、争う余地のない指導者であるレーニンにのみ、無条件に服従した。なぜなら、どこでも稀れなことだがとくにロシアでは、レーニンだけが、運動、教条への狂信的な忠誠を彼自身への同等の忠誠と結びつけることによって、鉄の意思をもつ人物、無尽蔵のエネルギーという外象を体現化していた。』(20) //
 レーニンの強さと個人的な磁力の基礎となる源泉は、ポトレソフにより示唆される-すなわち、彼の人格と教条との同一化、彼の中にこの二つが分かち難いものになっていること-、そのような性質だった。
 このような外象は、社会主義者のサークルで知られていなくはなかった。
 ロバート・ミッシェルは政党に関する研究書に『党は私だ』との章を設けたが、そこで彼は、ベーベル、マルクスおよびラッサールを含むドイツの社会民主主義者や労働組合指導者たちにある、類似の姿勢を叙述している。
 ミッシェルは、ベーベル崇拝者のつぎの言葉を引用する。すなわち、ベーベルはつねに、自分は党の利益の守護者だと、彼の反対者は党の敵だと、見なしていた。(21)
 ポトレソフも、将来のボルシェヴィキの指導者について、似たような観察を行なった。//
 『社会民主主義の枠内にあれそれともその外にあれ、専政体制に対する民衆運動の隊列には、レーニンにとっては、彼自身のものか、それとも自分のものではないか、という二つの種類の人間や事象しか存在しなかった。
 自分のものたち、つまり何らかの方法で彼の組織の影響力の範囲内に入ってきた者たち、およびそうしなかった、この事実だけで彼が敵だと見なす、他人たち。 
 レーニンにとっては、これらの両極端-同志・友と反対者・敵-の間に、社会的かつ個人的な人間関係の中間的なスペクトルは、存在しなかった…。』(22) //
 このような精神性(mentality)について、トロツキーは興味深い例を残した。
 レーニンとともにロンドンを訪れたときのことを説明してトロツキーが言うには、光景が目にはいったときレーニンは顔色を変えずにあれは『やつらのもの』だとしたが、その意味するところは-トロツキーによると-イギリスのもの、ということではなく、『敵のもの』だ、ということだった。『レーニンがいかなる種類であれ文化的価値があるものあるいは新しい達成物について語ったとき、こうした寸評はつねにあった。…<やつら>は理解した、<やつら>は持っている、<やつら>は完成した、あるいは成功した、-だが、敵としてだ!』(23) //
 通常の『私/われわれ-きみ/彼ら』という二分論は『友-敵』という際立つ二元論に転換され、それはレーニンの場合は、妥協の余地のない両極へと進み、二つの重要な歴史的帰結をもたらした。//
 このような仕方で思考することによって、レーニンは不可避的に、政治を戦争として扱うようになった。
 政治を軍事化し、すべての不同意を、一つの方法による、つまり反対者の肉体的抹殺という方法による解決を容易にするものだと見なすには、マルクスの社会学は必要がなかった。
 レーニンは晩年にクラウゼヴィッツを読んだ。しかし、彼はずっと前から、直感的に、心霊的な個性全体の力によって、クラウゼヴィッツ主義者だった。
 ドイツの戦略家のように、レーニンは、戦争は平和の反対物ではなく、その弁証法的な帰結(コロラリー、corollary)だと考えた。彼はクラウゼヴィッツのように、その目的ではなく、もっぱら勝利を獲得することに執着があった。
 レーニンの生命観は、クラウゼヴィッツと社会的ダーウィン主義を混合したものだった。
 彼が平和を『戦争のための息つぎ期間』と、素直な気分のまれな瞬間に定義したとき、思わずふと、心のきわめて内的な安らぎを見つめたのだ。(24)
 このような思考方法によって、レーニンは不可避的に、戦術上の目的がある場合を除いて、妥協ができなくなった。  
 ひとたびレーニンとその支持者がロシアの権力に到達するや、こうした姿勢は自動的に新しい体制にも浸透した。//
 レーニンの心理的素質のもう一つの帰結は、組織的抵抗のかたちをとってであれ、たんなる批評であれ、いかなる反対にも耐えられなかったことだ。 
 グループや個人に彼の党の構成員ではないもの、そして彼の個人的影響力のもとにはないものをレーニンが感知すれば、彼らは抑圧され、沈黙を強いられなければならない、ということになった。 
 トロツキーは1904年にすでに、このような行動はレーニンの精神性のうちに潜伏している、と記した。
 レーニンをロベスピエールと比較して、トロツキーはつぎのジャコバン派の言明はレーニンにあてはまると考えた。すなわち、『私は二つの党しか知らない-良き市民たちの党と悪い市民たちの党』。
 トロツキーはこう結論する。『この政治的格言は、マクシミリアン・レーニンの心に深く刻まれている。』(25) 〔マクシミリアンは、ジャコバン派・ロベスピエールの個人名ー試訳者〕
 ここに、テロルによる政府の萌芽、民衆の生活や意見を完全に統御しようとする全体主義的野望の萌芽が、横たわっていた。//
 このような性格の魅力的な側面は、信奉者にのみ限定された観念である、『良き市民たち』に向けられたレーニンの忠実さと寛容さだった。これは、あらゆる外部者に対する敵意の反対面だったが。
 後者との不一致を自分個人に対するものと考えたように、一方ではそれだけ多く、レーニンは自分自身の党の内部では、異見に対して驚くべき忍耐力を示した。 
 レーニンは反対者を追放せず、説得しようとした。その際に彼が用いようとした最後の武器は、〔自分の〕辞職という脅迫だった。
  (19) R.H.B.Lockhart, Memooirs of a British Agent (London, 1935), p.237; Angelica Balabanoff, Impressions of Lenin (1964), p.123.
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②につづく

1441/レーニンと社会民主主義②-R・パイプス著9章2節。

 前回のつづき。< >は原著のイタリック体の部分。これまでも同じ。
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 レーニンは、ゆっくりとこの変化を進んだ。その理由の一つは、地方に住んでいたので社会民主主義の文献を入手できなかったこと、もう一つは、社会民主主義の親資本主義、親ブルジョアジー観が、ストルーヴが『重要な<気質>』と書いたものまたは彼の心性の態度と衝突することだ。
 レーニンは1892-93年にプレハーノフを読んで、人民の意思のイデオロギーと社会民主主義のそれとの間の中間地点に到達したとみられる。これは、彼の兄が5年前に到達していた地点と似ていないこともない。
 レーニンは『分離した途』という考えを放棄し、誰もが見ている現実を承認した。ロシアは、彼が1889年に読んだ<資本論>で描かれた途を歩むように運命づけられている。
 しかし彼は、革命を準備する前に不確定の期間、『ブルジョアジー』が国を覆う主人である資本主義の段階をロシアが甘受しなければならないことを認めたくなかった。// 
 この問題に関するレーニンの解決は、ロシアはすでに資本主義国だ、ということだった
 ロシア経済を研究する他のどの学生も支持したとは知られていないこの奇矯な見解は、農業の統計データの独特な解釈に依拠していた。 
 レーニンは、ロシアの農村は『階級分化』の苦悶のうちにある、少数派の農民は『プチ・ブルジョアジー』へと変質し、多数派は土地のない農村プロレタリアートへと変化している、と考えた。
 エンゲルスがドイツの農民に関して行ったものに由来するこのような計算は、ロシアの諸事実とはほとんど関係がなかった。しかし、レーニンにとってそれは、資本主義が十分に成熟するまでロシアは革命を永遠に延期する必要はない、という主張を擁護するために役立った。
 ロシアのいくつかの地方の農村人口の十分に20パーセントは『ブルジョアジー』と性質づけられると論じて、また当時に進行中の産業ブームにも言及して、レーニンは1893-94年に、つぎのように大胆に宣言できると考えた。すなわち、『現時点において、資本主義はすでにロシアの経済生活の根本的な基盤を構成しており』、『われわれの秩序は本質的には西側ヨーロッパと異ならない』。(16) // 
 人口の五分の四が農民で成り立っており、その多くは自己充足的な、小規模の農民である国家を『資本主義国』だと宣言することによって、レーニンは、革命の期は熟していると強く主張することができた。
 さらに、『ブルジョアジー』はすでに権力を握っているので、彼らは同盟者を代表せず、階級敵だった。
 レーニンは1894年夏に、その政治哲学を要約するつぎの文章を書いた。短い中間期(1895-1900)を除いて、彼の残りの人生はこの内容に忠実なままだっただろう。
 『すべての民主主義的構成分子を指導するロシアの<労働者>は、(世界のプロレタリアートとともに)栄光ある共産主義革命に向かう公然たる闘争という直接の途を通じて、絶対制を廃し、<ロシアのプロレタリアート>を指導するだろう。』(17)
 語彙はマルクス主義的だが、この文章に横たわる感性は、人民の意思のものだ。実際、かなりのちにカール・ラデックに打ち明けようとしたように、レーニンはマルクスを人民の意思と調和させようと試みた。(18) 
 人民の意思が革命の前衛の役割を与えるロシア労働者は、専制体制に対して『直接の』攻撃を開始し、それを没落させ、そしてその廃墟の上に共産主義社会を打ち立てるべきだとされた。
 旧体制の経済的かつ政治的基盤を破壊するに際しての、資本主義やブルジョアジーの役割については、何も語られていない。 
 これは時代錯誤的なイデオロギーだ。というのは、このようにレーニンが定式化したとき、ロシアには急速に増大する社会民主主義運動があり、それはマルクスの理論を旧式で適用することを拒んだのだ。//
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第3節につづく。

1439/レーニンの青少年期②-R・パイプス著9章1節。

 前回のつづき。
 ①Richard Pipes, The Russian Revolution (1990) <原著・大判でほぼ1000頁>と② Richard Pipes, Russia under Bolshevik Regime (1995)<原著・大判で約600頁>とを併せて、「一般読者むけ」に「内容を調整し」「注を省き簡略に」(下記の西山による)一冊にまとめたものに、③Richard Pipes, A Concice History of the Russian Revolution (1995) <原著・中判で約450頁>がある。そして、この最後の③には、R・パイプス〔西山克典訳〕・ロシア革命史(成文社、2000)という邦訳書<約450頁>がある。したがって、この欄で邦訳を試みている書物①の内容は、上の邦訳書の前半分程度を占めていることになる。内容に大きな矛盾はないだろうが、しかしまた、1990年の本の方が前半部については優に二倍以上の詳細さをもっているだろう。西山克典の訳書を参考にさせていただいていることは言うまでもない。
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 レーニンの青少年期について印象的なのは、彼の同時代の者たちの多くと違って、レーニンは公的な出来事への関心を示さなかった、という事実だ。(3)
 検閲という鉄の掴みがレーニンを非人間的にする前に彼の姉妹の一人が出版した書物から浮かび上がってくるのは、きわめて勤勉な少年の肖像だ。きれい好きで、几帳面な-このタイプを、現代の心理学は、強迫神経症的と分類するだろう。(4) 
 レーニンは模範的学生で、素行を含むほとんど全ての科目で優秀な成績を獲得し、それで毎年金のメダルを授与されていた。
 彼は、クラスのトップの成績で卒業した。
 われわれが利用できる乏しい証拠資料からも、彼の家族に対してであれ体制に対してであれ、反抗的態度の痕跡を見出すことはできない。
 レーニンののちの好敵になるアレクサンダーの父親、フョドール・ケレンスキーはたまたまレーニンがシンビルスクで通っていた学校の校長だった。その校長はレーニンに、カザン大学に進学するように薦めたのだったが、それは、『学校の中でも外でも年長者や教師に対して、言葉によっても行為によっても、好ましくない意見をもつに至る理由を全く示さない』、『無口』で『非社交的』な学生として、だった。(5)
 1887年に高校を卒業するまで、レーニンは『明確な』政治的意見を抱いていなかった。(6)
 レーニンの初期についての伝記には、将来の革命家を暗示するものは何もない。むしろ、レーニンは父親の足跡に従い、名のある官僚の経歴へと進むだろう、ということが示唆されている。
 カザン大学で法学を学修することが認められたのは、このような特性によってだ。これがなければ、彼の家族に関する警察の記録によって、レーニンは大学進学を妨害されていただろう。// 
 大学に入って、レーニンは名高いテロリストの弟だと仲間の学生たちに認識され、秘密の人民の意思グループへと引き摺り込まれた。
 ラザール・ボゴノフを長とするこの組織は、ペテルスブルクを含む他都市の同意見の学生たちとの接触があり、明らかに、アレクサンダー・ユリアノフ〔レーニンの兄〕とその仲間が処刑された行為を実行する意図をもっていた。
 この計画がどの程度進行していたか、レーニンがどの程度関与していたか、を確認することはできない。
 このグループは1887年12月に逮捕され、大学の規制に対する抗議のデモが行われた。
 走り、叫び、両腕を振っているのを目撃されていたレーニンは、短期間だけ、拘留された。
 郷里に戻ったレーニンは、自主退学することを告げる手紙を大学に書き送った。しかし、退学処分を免れようとする企図は失敗に終わった。
 レーニンは逮捕され、39人の学生たちとともに流刑〔追放〕に遭った。
 この苛酷な制裁はアレクサンダー三世が自立や不服従の兆候を抑え込むために用いた典型的な手法だったが、革命運動への新規加入者をつねに与えつづけることにもなった。//
 レーニンはそのうちに忘れられ、復学することが許されたかもしれなかった。捜査の過程で警察がボゴラス・サークルとの関係を暴き、彼の兄がテロリズムに関与していたことを知る、ということがなければ。
 ひとたびこのような事実が知られるようになるや、レーニンは『不審者』リストに掲載され、警察による監視のもとに置かれることになった。
 レーニンおよびその母親の復学を求める請願書は、決まって却下された。
 レーニンの前には、将来がなかった。
 彼は、つぎの4年間、母親のペンションを離れて、強いられた怠惰の生活をおくった。
 彼の気分は絶望的で、母親の請願書の一つによると、すぐにも自殺をしそうだった。
 われわれがもつこの期間のレーニンに関する資料からすると、彼は傲慢な、嫌味のある、友人がいない青年だった。 
 しかし、レーニンを尊敬していたユリアノフ家族の中では、彼は天才の卵であり、その意見は福音(gospel)だった。(7)//
 レーニンはこの期間に、大量の読書をした。
 彼は、1860年代および1870年代の『進歩的』な雑誌や書物を読み漁り、とくにニコライ・チェルニュイシェフスキーの書物には、彼自身の証言文書によると、決定的な影響をうけた。(8)(*)
 この試行錯誤的な期間、ユリアノフ家はシンビルスクの社会からのけ者にされた。人々は、警察の注意を惹きつけることを恐れて、処刑されたテロリストの近親者との交際を断ったのだった。
 これは苦い体験であり、レーニンが過激化するについて、少なからぬ役割を果たしたように見える。
 レーニンが母親とともにカザンへ移った1888年の秋までに、レーニンは完全に巣立ちのできるラディカルになっていた。そして、彼の約束された経歴を切断し、家族を拒否した者たち-帝制支配者層および『ブルジョワジー』-に対する際限のない憎悪で、充ち満ちていた。
 彼の亡兄のような、理想主義へと駆られるロシアの典型的な革命家とは対照的に、レーニンの主要な政治的衝動は、滞留する憎悪だった。
 この感情的な土壌に根ざして、レーニンの社会主義とは、最初から本質的に、破壊という原理(doctrin)のものだった。
 レーニンは将来の世界についてほとんど何も考えず、感情的にも知性的にも、現在の世界を粉砕することに没頭していた。
 この偏執症的な破壊主義こそが、ロシアの知識人を魅惑したり嫌悪させたり、喚起したり畏怖させたりしたものだ。彼らは、ハムレットの逡巡とドン・キホーテの愚昧の間を揺れ動きがちだった。 
 1890年代にレーニンと頻繁に逢ったストルーヴェは、つぎのように言う。//
 『彼の最も重要な-新しい有名なドイツの心理学用語を使うと-気質(Einstellung)は、<憎悪>だった。
 レーニンはマルクス主義の原理を採用したが、それは本質的には、彼の心性のうちのあの重要な<気質>が、その原理に反応したことが理由だ。  
 容赦なくかつ完璧に、敵の最終的な破壊と絶滅を目指す階級闘争の原理は、周囲の現実に対するレーニンの感情的な態度に適応するものだった。 
 レーニンは、実存する専政体制(帝制)や官僚制のみならず、また警察の無法さや恣意性のみならず、それらと対照的なもの-『リベラル』や『ブルジョワジー』-をも、憎悪した。
 あの憎悪には、嫌悪を感じさせる恐ろしい何かがあった。というのは、具体的な-あえて私は野獣的なと言いたいが-感情や反感に根源があるので、それは同時に、レーニンの全存在に似て抽象的でかつ冷酷なものだった。』(9) //
  (3) Nikolai Valentinov, The Early Years of Lenin (1969), p.111-12 参照。
  (8) Valentinov, Early Years, p.111-38, p.189-215。レーニンとの会話にもとづく。
  (*) チェルニュイシェフスキーは1860年代の指導的な過激派宣伝者で、<何がなされるべきか>という、青年に家族を捨てて新しい実証主義的かつ功利主義的な思考方法による共同体に加わるよう促した小説、の著者だ。彼は、現存の世界を腐っていて絶望的だと見なした。この小説の主人公、ラフメトフは、鉄の意思をもつ、過激な変革に完全に献身した『新しい人間』として描かれている。レーニンは、彼の最初の政治的小冊子にこの小説のタイトルを使った。
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第2節につづく。

1438/レーニンの青少年期①-R・パイプス著9章1節。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990) の邦訳書は、刊行されていない。このことを意識して、(おそらく間違いなく一部の)邦訳を試みる。英語や英文読解の専門家ではなく、ロシア革命・ロシア史・ソ連史の専門家でもないので不正確又は不適切な訳があるのは当然だろうが、とりあえずはスピードも配慮する。
 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源、の第1節の最初から。
 読みやすさを考えて、原則としてすべての一文ごとに改行する。原書での改行(一段落の終わり)は、以下では、「//」を記すことにする。
 注の記号又は番号も付す。但し、注記の内容は、ロシア語文献等の場合は訳出しないこととする。
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第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源
 第1節・レーニンの青少年期 〔p.341-p.345。〕
 レーニンは、ロシア革命とそれに続く体制にとって計り知れない重要な役割を果たした。こう論評するにあたって、歴史は『偉人』によって作られる、と考える必要はない。
 この重要性とは、権力が事態の推移に決定的な影響力をもつことを彼に許したということのみならず、1917年10月に彼が設定した体制は、いわばレーニンの個性を組織化したものだった、ということでもある。
 ボルシェヴィキ党はレーニンの創造物だった。すなわち、彼は創立者として、自分の心象に抱いたものを生み、内外からの反対者をすべて打倒することにより、彼が描いた路線上にこの党を維持し続けた。
 1917年10月に権力奪取した同じ党が、すみやかに対抗政党と組織を排除し、ロシアの政治権力の排他的な源泉になった。 
 ゆえに、共産主義ロシアは、最初から異様な程度にまで、一人の人物の精神と心理を反映したものだった。レーニンの伝記とロシアの歴史は、独特なかたちで融合しあっている。//
 歴史的な人間像についてこれほど多くのことが書かれている者はほとんどいないが、レーニンに関する真実の情報は散在している。
 レーニンは自分を自らの教条(cause)と区別することを好まなかったし、また、その教条から離れた存在だと認めようとすらしなかったので、自叙伝的な記録をほとんど何も残していない。彼の人生は、そう思い抱いたごとく、党の生命と同じなのだった。 
 自分自身の目や仲間の目からしても、レーニンだけが、唯一の公的な人格をもっていた。
 彼にある個人的特性は、共産主義者の文献では、偉人伝に共通する美徳になっている。すなわち、教条への自己犠牲的な献身、謙虚さ、自己規律、寛容さ。// 
 レーニンの成長期については、ほとんど知られていない。
 レーニンの最初の23年間について書かれたものには、ほんの20の事項があるにすぎない。そのうちのほとんどは、請願書、証明書、その他の公的な文書だ。(1)
 若きインテリに期待するかもしれない、手紙も、日記も、あるいは随筆類もない。
 このような資料は実存していないか、または、ありそうなことだが、ソヴェトの資料庫(archives)に秘密にして隠されている。それを開放すれば、公的な文献で描かれたのとはきわめて異なる青年レーニンの本性が明らかになるだろう。(*)
 伝記作者は、どの出来事についても、レーニンの知的かつ心理的な成長を再現しようとはほとんどしていない。いかなる政治的な関与も、狂信的な革命家への興味もすらないままで大きくなった、ふつうの青少年の成長の期間(およそ1887-93年)についてだ。
 われわれが持つ証拠資料は、ほとんどが雰囲気や状況に関するものだ。その多くは、否定的な知識-つまり、ひょっとすればレーニンが失敗したこと-に依拠している。
 若きレーニンを再現するためには、長年の組織的カルト生活によって彼の像に堆積した上塗りの層を、注意深く剥がしていく努力が必要だ。(+)//
 レーニンは、ウラジミール・イリィチ・ユリアノフとして、1870年4月にジンビルスクで、伝統的な、そして不自由のない裕福な官僚の家族の中に生まれてきた。
 学校監理官の父親は、1886年に死ぬまでに、将軍や世襲貴族と同等の地位のある国家評議会員の身分を獲得していた。
 父親は、アレクサンダー二世の改革に共感し、教育こそがロシアの進歩のための鍵だと考える、保守・リベラルの人物だった。
 彼はきわめて懸命に働き、監理官としての16年の間に数百の学校を設置したと言われている。 
 ブランクというレーニンの母親は、ドイツ人に祖をもつ医師の娘だった。彼女の写真を見ると、まるでウィスラーの肖像画から踏み出てきたかのように感じる。
 信心深く正教派教会の儀礼と休日とを遵守する、幸福なかつ緊密な家族だった。//
 1887年に、悲劇が家族を襲った。レーニンの兄、アレクサンダーが、友人たちと組んでツァーリ〔皇帝〕を暗殺すべくペテルスブルクで爆弾を運んでいたという咎で逮捕された。
 熱心な科学者のアレクサンダーは、ペテルスブルク大学で3年を終えるまでは、政治に対して何の関心も示さなかった。
 彼は大学で、プレハーノフやマルクスの書物に慣れ親しみ、そして人民の意思(People's Will = Narodnaia Volia)の綱領に一定の社会民主主義の要素を接ぎ木することを主張する、折衷派的政治イデオロギーを選択した。
 産業労働者に革命における主要な役割を与えることを認め、政治テロルは手段であり、社会主義への直接的移行が目的であると彼は考えていた。
 マルクス主義と人民の意思のこの特徴的な混合物は、レーニンが数年後に自ら発展させる綱領を予期させるものだった。
 アレクサンダー・ユリアノフは1887年3月1日、アレクサンダー二世暗殺の第6回記念日に逮捕され、公開の裁判にかけられ、仲間の陰謀者たちとともに処刑された。
 彼は、その間ずっと、模範的な威厳を保つ振る舞いをした。//
 父親の死後まもなくのちに行われたアレクサンダーの処刑は、彼の革命活動について何も知らなかった家族に強い影響を与えた。
 しかし、ウラジミールの行動を何らかのかたちで変えた、といういかなる証拠資料もない。
 レーニンの妹、マリアはだいぶのちに、レーニンは兄の運命を知って『いや、われわれはそう進まない。われわれはそう進んではならない』と叫んだと主張した。(2) 
 こう強く述べたときマリア・ユリアノフは当時ほんの9歳だったことを差し置いても、真実ではありえない。なぜなら、兄が処刑されたとき、レーニンは政治にはまったく無頓着だった。
 マリアが想像した目的は、17歳の高校生だったレーニンがすでにマルクス主義に傾倒していた、ということを示唆することだ。しかし、これは用いうる証拠資料と矛盾している。 
 さらに、家族が収集していたものから決定的に明らかになるのは、二人の兄弟は親密ではなかったこと、およびアレクサンダーはウラジミールの生意気な振る舞いや冷笑の癖をきわめて不快に感じていた、ということだ。//
  (*) ソヴェトの保管所に隠されたままだった若きレーニンに関する第一次および第二次の資料については、R. Pipes 編・Revolutionary Russia (1968), p.27, n.2 を参照。
  (+) 私はR. Pipes 編・Revolutionary Russia (1968) で、利用できる革命期ロシアの資料文書にもとづいて、レーニンの初期の知的および精神的な成長を描こうと試みた。この辺りの頁の情報のたいていは、この作業によるものだ。さらに補足して、私のつぎの二つの著作を挙げておく。R. Pipes, Struve: Liberal on the Left, 1870-1905 (1970)、および R. Pipes, Social Democracy and the St. Petersburg Labor Movement, 1885-1897 (1963) 。二次的情報源の中では、Nikolai Valentinov, The Early Years of Lenin (1969) が最も有益だ。
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 ②へとつづく。

1437/R・パイプスの大著『ロシア革命』(1990)の内容・構成。

 1.Richard Pipes, The Russian Revolution (1990)は、表紙、新聞書評の抜粋、著者の他の著書の紹介、扉、著作権記述、献辞(「犠牲者たちに」)、内容〔=目次〕、写真・地図の一覧、謝辞、略語表、まえがき、本文p.1-p.840、あとがきp.841、用語集〔ロシア語/英語〕p.842-p.846、年表p.847-p.856、注記p.857-p.914、参考文献〔ロシア革命に関する100の著作〕p.915-p.920、索引p.921-p.944、文献への謝辞〔9文献・資料集〕p.945、著者紹介p.946、裏表紙、から成る。p.は、記載された頁数。
 2.「内容」=目次のうち、細節を除いて、部と章のタイトル、始めの頁数を記すとつぎのとおり。
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 第一部 旧体制の苦悶 p.1
  第01章 1905年-予震 p.3
  第02章 帝国ロシア p.53 
  第03章 田園ロシア p.91
  第04章 知識人 p.121
  第05章 立憲主義の実験 p.153
  第06章 戦時ロシア p.195
  第07章 崩壊へ p.233
  第08章 二月革命 p.272
 第二部 ボルシェヴィキによるロシアの征圧 p.339
  第09章 レーニンとボルシェヴィズムの起源 p.341
  第10章 ボルシェヴィキの権力への欲求 p.385
  第11章 十月のクー p.439
  第12章 一党国家の建設 p.506
  第13章 ブレスト=リトフスク p.567
  第14章 革命の世界輸出 p.606
  第15章 『戦時共産主義』 p.671
  第16章 農村に対する戦争 p.714
  第17章 皇帝家族の殺戮 p.745
  第18章 赤色テロル p.789
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 上のうち、第9章『レーニンとボルシェヴィズムの起源』は、目次の細目部によると、以下の諸節から成っている。但し、「節」の旨の言葉も「数字番号」も、原著にはない。原著の本文では、これら(以下の各節)の区切りは、一行の空白を挿むことによってなされている。
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 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源
  第1節 レーニンの青少年期
  第2節 レーニンと社会民主党 
  第3節 レーニンの個性
  第4節 レーニンの社会民主党への失望
  第5節 ボルシェヴィズムの出現
  第6節 メンシェヴィキとの最終決裂
  第7節 レーニンの農業問題・民族問題綱領
  第8節 ボルシェヴィキ党の財政事情
  第9節 マリノフスキーの逸話
  第10節 ツィンマーヴァルト、キーンタールおよび敵工作員との接触
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 以上。

1436/ロシア革命史年表⑤-R・パイプス著(1990)による。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990)の「年表」より。p.854-p.856。()ではない〔〕内は、秋月が補足・挿入。1919年にはコミンテルン設立などがあるが、この著の内容に合わせて割愛されている。
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 1918年〔2月以降〕
  2月 9日 中央〔欧州中部〕諸勢力、ウクライナとの分離講和に署名。ドイツ皇帝、ブレストの代表団にロシアに対して最後通告を渡すよう命令。
  2月17-18日 ボルシェヴィキ内部で、対ドイツ講和について討議。レーニン、辛うじて受諾賛成過半数を確保。
  2月18日 ドイツ・オーストリア軍、対ロシア攻撃を再開。
  2月21日 トロツキー、フランス軍の援助を要請。
  2月21-22日 レーニンの布令『社会主義祖国が危機!』、反抗者の略式[裁判手続を経ない]処刑を合法化 。
  2月23日 ドイツの最後通告、領土割譲要求つきで届く。
  2月24-25日 ドイツ軍、ドルパト、レヴェルおよびボリゾフを占拠。
  3月 1日 ロシア代表団、ブレストに戻る。二日後、講和条約のドイツ語文に署名。
  3月 初め ボルシェヴィキ政府、モスクワに移転。
  3月 5日 ムルマンスク・ソヴェト、同盟諸国兵団に保護されることの正当化をモスクワに要求し、受け取る。  
  3月 6-8日 第7回ボルシェヴィキ党大会。
  3月    人民裁判所、導入。
  3月 9日 同盟軍の最初の分遣隊、ムルマンスクに上陸。
  3月14日 ソヴェト大会、ブレスト条約を批准。左翼エスエル、ソヴナルコムから離脱。
  3月10-11日の夜 レーニン、モスクワへ移動。  
  3月16日 大侯爵たち、チェカへの登録を命じられる。そのあと、ウラル地方へと追放〔流刑〕。
  4月 4日 日本軍、初めてウラジオストックに上陸。   
  4月13日 コルニロフ、誤砲弾により殺される。デニーキン将軍、義勇軍の指揮を執る。 
  4月   ソヴェト・ロシアとドイツ、外交使節団を交換。
  4月20日 産業・商業企業の購入・貸与を非合法化する布令。すべての有価証券、公債は政府に登録すべきものとされる。
  4月22日 トランスコーカサス連邦、独立を宣言。
  4月26日 ニコライ、その妻と一人の娘、護衛つきでトボルスクからエカテリンブルクへと出立。4月30日に到着し、収監される。
  5月    財産相続の廃止。
  5月 8-9日 ソヴナルコム、農村地帯への攻撃開始を決定。
  5月 9日 ボルシェヴィキ、コルピノでの労働者デモに発砲。
  5月13日 供給人民委員に非常時権力を付与する布令、『農民ブルジョワジー』に対する戦争を宣言。
  5月14日 チェコ人部隊とマジャール人捕虜の間の激論、チェリアビンスクで。
  5月20日 『食糧供給部隊』創設の布令。
  5月22日 チェコ人部隊、降伏を拒否。トロツキー、力による武装解除を命令。チェコ人〔部隊〕の反乱、始まる。
  5月26日 トランスコーカサス連邦、ジョージア、アルメニアおよびアゼルバイジャン各独立共和国へと解体。  
  5月-6月 ロシアの都市ソヴェトへの選挙。ボルシェヴィキ、全都市で過半数を失い、実力でもって〔過半の支持を ?〕押しつける。
  6月 初め イギリス軍、アーカンゲルに上陸。
  6月 8日 チェコ人、サマラを占拠。憲法制定会議委員会(Komuch)の設立が続く。
  6月11日 村落での貧民委員会(kombedy)の設置を命令する布令。
  6月12-13日の夜 大侯爵・ミハイルとその仲間、ペルム近くで殺害される。
  6月16日 資本による制裁の導入。
  6月26日 労働者幹部会会議、7月2日の一日政治ストライキを呼びかけ。
  6月28日 皇帝ヴィルヘルム二世、ボルシェヴィキへの支援継続を決定。ソヴェト政府、大産業企業の国有化を命令。
  夏     ボルシェヴィキによる穀物搾取に農民が抵抗し、農村地帯で内戦。
  7月 1日 西部シベリア政府の宣言、オムスクで。  
  7月 2日 ペトログラードでの反ボルシェヴィキのデモ、失敗。この日頃に、ボルシェヴィキ指導部が前皇帝処刑を決定。
  7月 4日 第5回ソヴェト大会開く、モスクワで。ソヴェト憲法を承認。
  7月5-6日の夜 ラロスラヴルでザヴィンコフの蜂起。ムロムおよびリュイビンスクでの一揆がつづく。
  7月 6日 ミルバッハの殺害。モスクワでの左翼エスエルの蜂起がつづく。
  7月 7日 ラトヴィア人兵団、左翼エスエルの反乱を鎮圧。
  7月16-17日の夜 ニコライ二世、その家族および侍従者の殺害、エカテリンブルクで。
  7月17日 数名の大侯爵とその仲間たちの、アラペヴスクでの虐殺。   
  7月21日 ザヴィンコフ軍の、イアロスラヴィでの降伏。350人の将官と民間人の虐殺。 
  7月29日 強制的軍事訓練、導入。皇帝軍将官の登録が命じられる。
  8月 1-2日 追加の同盟軍、アルカンゲルとムルマンスクに上陸。ボルシェヴィキ、南方での同盟軍と白軍(義勇軍)に対してドイツ軍の助力を乞う。
  8月 6日 ベルリン〔政府〕、モスクワからドイツ大使を召還。のち、大使館を閉鎖。
  8月   レーニン、労働者に対して『富農(kulaks)』の絶滅を呼びかけ。
  8月24日 都市の不動産、国有化。
  8月27日 補足的ロシア・ドイツ条約に署名、秘密条項つき。
  8月30日 ペトログラード・チェカの長官、M・S・ユリツキー、昼間早くに、暗殺される。夕方、ファニー・カプランがレーニンを射撃。
  9月 4日 人質〔農民〕を取ることを命じる指示。
  9月 5日 赤色テロル、公式に始まる。ボルシェヴィキが支配するロシア全域での囚人および人質の虐殺。
 10月21日 健康なロシア国民全員に、政府労働局に登録することを義務づけ。
 10月30日 100億ルーブルの寄付、都市および農村の『ブルジョワジー』に賦課される。
 11月 早く ソヴェト大使館、ベルリン〔ドイツ帝国〕から退去させられる。
 11月13日 ソヴェト政府、ブレスト・リトフスク条約およびその補充条約の破棄を宣言。 
 12月 2日 貧民委員会、解散。
 12月10日 『労働法典』、発布。

 1919年
  1月    農民に対する物納税(prodrazverstka)、導入。
  1月 7日 チェカ局(uezd)、廃止。
  2月17日 ジェルジンスキー、チェカの活動の変更を表明。集中強制収容所の創設を要求。
  3月    新しい党綱領を採択。ロシア共産党と改称。政治局、組織局および書記局の設置。    
  3月16日 消費者共同体、導入。
  4月11日 集中強制収容所に関する諸規則。 
  5月15日 政府、要求される数の銀行券を発行することを人民銀行に承認。
 12月27日 トロツキーのもとに労働者義務委員会を創設。『労働者の軍事化』の開始。
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 以上。

1435/ロシア革命史年表④-R・パイプス著(1990)による。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990)の「年表」より。p.852-p.854。/の左右に日付(月日)がある場合、左は旧暦、右は新暦。()ではない〔〕内は、秋月が補足・挿入。

 1917年〔9月以降〕
  9月10日 ボルシェヴィキ支援による第3回ソヴェト地方大会開く、フィンランドで。
  9月12日・14日 レーニン、〔ボルシェヴィキ党〕中央委員会に、権力掌握のときは熟している、と書き送る。  
  9月25日 ボルシェヴィキ、ペトログラード・ソヴェトの労働者部門で過半数を獲得。トロツキー、〔ペトログラード・〕ソヴェト議長に。
  9月26日 CEC〔ソヴェト中央執行委員会〕、ボルシェヴィキの圧力のもとで、第2回全ロシア・ソヴェト大会を10月20日に開催することに同意。
  9月28日-10月8日 ドイツ軍、リガ湾の島々を占拠、ペトログラードを脅かす。
  9月29日 レーニン、権力奪取について中央委員会あて第三の手紙。
 10月 4日 臨時政府、ペトログラードからの避難を討議。 
 10月 9日 CEC、メンシェヴィキの動議により、首都防衛軍事組織の結成を票決(すみやかに、軍事革命委員会と改称)。
 10月10日 レーニン出席して、ペトログラードでボルシェヴィキ中央委員会が深夜の真剣な会議、武力による権力奪取に賛成票決する。
 10月11日 ペトログラードで、ボルシェヴィキ支援による北部地方ソヴェト大会開く。『北部地方委員会』を設立し、第2回ソヴェト大会への案内状を発行。
 10月16日 ソヴェト、軍事革命委員会(Milrevkom、ミルレヴコム)の設立を承認
 10月17日 CEC、第2回〔全ロシア〕ソヴェト大会を10月25日に延期。
 10月20日 軍事革命委員会、ペトログラード市内および近郊の軍団に『コミッサール』を派遣。
 10月21日 軍事革命委員会、各連隊委員会の会議を開く。兵団へのいかなる命令も軍事革命委員会の副書を必要とする旨を参謀部(Military Staff)に提示する無毒のような決定を裁可させようとする。要求は却下される。
 10月22日 軍事革命委員会、参謀部は『反革命的だ』と宣言。 
 10月23-24日 軍事革命委員会、参謀部と欺瞞的な交渉を継続。 
 10月24日 政府〔ケレンスキー首班の臨時政府〕に忠実な軍団、ペトログラードの要所を占拠、ボルシェヴィキの新聞社を閉鎖。ボルシェヴィキ、反対行動を起こし、ペトログラードの多くを奪い返す。
 10月24-25日の夜 ケレンスキー、前線からの助けを求める。変装したレーニン、ボルシェヴィキが支える第2回ソヴェト大会が始まろうとするスモルニュイへと進む。ボルシェヴィキ、軍事革命委員会を使って、首都を完全に征圧。
 10月25日朝 ケレンスキー、軍事支援を求めて冬宮から前線へ逃亡。レーニン、軍事革命委員会の名で、臨時政府打倒と権力のソヴェトへの移行を宣言。
 10月25日 ボルシェヴィキ、冬宮の確保に失敗。そこでは、政府の大臣が忠実な兵団による救出を待つ。トロツキー、午後に、ペトログラード・ソヴェトの緊急会議を開く。レーニン、7月4日以来初めて、外に姿を現す。ボルシェヴィキの動議により、モスクワで、軍事革命委員会を設立。
 10月26日 モスクワ軍事革命委員会の兵団、クレムリンを掌握。
 10月25-26日の夜 冬宮が落ち、諸大臣が逮捕される。ボルシェヴィキ、第2回ソヴェト大会を開会。
 10月26日夕 ソヴェト大会、レーニンの土地および講和に関する各布令を裁可。レーニンを議長(首相)とする新しい臨時政府、すなわち人民委員会議(ソヴナルコム、Sovnarkom)の形成を承認。ボルシェヴィキが支配する新しいCECを任命。
 10月27日 第2回ソヴェト大会、中断。反対派のプレス、非合法に(プレス布令)。
  10月28日 親政府の兵団、モスクワ・クレムリンを再奪取。
 10月29日 鉄道被用者組合、ボルシェヴィキに対して政府の構成政党の拡大を要求する最後通告を渡す。カーメネフ、同意。政府、ソヴェト・CECの事前の同意なくして法令を発布するつもりだと表明。政府被用者〔公務員〕組合、ストライキを宣言。
 10月30日 プルコヴォ近くで、コサックと親ボルシェヴィキ船員および赤衛軍との間の衝突。コサックが撤退。鉄道被用者組合、権力を手放すようボルシェヴィキに対して要求。
 10月31日-11月2日 モスクワで戦闘が起こり、親政府兵団の降伏で終わる。
 11月 1-2日 ボルシェヴィキ中央委員会、鉄道被用者の要求を拒否。カーメネフとその他4名のコミッサール〔人民委員〕、内閣構成の拡大の妥協に対するレーニンの拒否に抗議することを諦める。
 11月 4日 レーニン、トロツキーとソヴェト・CEC〔中央執行委員会〕の間の深刻な出会い。票決を操作することにより、ソヴナルコム〔人民委員会議=内閣〕が布令(decree)により立法(legislate)する公式権限を獲得。 
 11月 9日 ボルシェヴィキ、講和に関する布令を、政府は即時停戦に反対している同盟諸国の代表者に送る。
 11月12日 憲法制定会議(Constituent Assembly)の選挙、ペトログラードで始まる。月末まで、非占領のロシア全域で続く。社会主義革命党〔エスエル〕が最大多数票を獲得。
 11月14日 銀行従業員、金銭を求めるソヴナルコムの要求を拒否。
 11月15日 ボルシェヴィキのソヴナルコム、第1回定期会合。
 11月17日 ボルシェヴィキ兵団、国有銀行を襲い、500万ルーブルを奪う。 
 11月20日/12月3日 ブレスト・リトフスクで停戦交渉始まる。ソヴェト代表は、ヨッフェ。
 11月22日 裁判所のほとんどおよび法曹職業を廃止する布令。革命裁判所の創設。
 11月22-23日 憲法制定会議防衛同盟の設立。
 11月23日/12月6日 ロシアと中央〔中部欧州〕諸勢力、停戦で合意。
 11月26日 農民大会、開かれる、ペトログラードで。
 11月28日 憲法制定会議の座り込み〔 ?〕会合。
 12月    国家経済最高会議、創設(VSNKh)。 
 12月 4日 ボルシェヴィキと左翼エスエル〔社会主義革命党左派〕、農民大会を破壊。 
 12月 7日 チェカ(Cheka〔秘密政治警察〕)、設立。
 12月9-10日 ボルシェヴィキと左翼エスエルの協議成立。左翼エスエル、ソヴナルコムおよびチェカに加入。
 12月15日/28日 ブレスト会議、一時休止。
 12月27日/1月9日 ブレスト会議、再開。トロツキーがロシア代表団を率いる。
 12月30日/1月12日 中央〔中部欧州〕諸勢力、ラダ〔ウクライナ・ソヴェト〕をウクライナ政府として承認。
 12月後半 アレクセイエフ、コルニロフ各将軍、義勇軍(Volunteer Army)を立ち上げる。

 1918年 1月
  1月 1日 レーニンの暗殺未遂。  
  1月 5日/18日 憲法制定会議の一日会合。憲法制定会議を支持するデモ、発砲され、逃散。労働者『幹部会』、第1回会合。トロツキー、ブレストからペトログラードへ戻る。
  1月 6日 憲法制定会議、閉じられる。
  1月 8日 ボルシェヴィキが支援する第3回ソヴェト大会、開く。『労働者および被搾取大衆の権利の宣言』を採択し、ソヴェト・ロシア共和国を宣言。
  1月15日/28日 ソヴェト・ロシア、国外および国内の債務履行を拒否。
  1月28日 ラダ、ウクライナの独立を宣言。」  
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*1918年2月以降につづく。

1434/ロシア革命史年表③-R・パイプス著(1990)による。

Richard Pipes, The Russian Revolution (1990)の「年表」より。p.850-p.852。 〔〕は、秋月が補足・挿入。

 1917年〔8月末まで〕
「  1月27日 プロトポポフ、労働者集団を逮捕。
   2月14日 ドゥーマ、再開会。
   2月22日 ニコライ、モギレフへと出立。
   2月23日 国際婦人日と連携したペトログラードでの集団示威行進(デモ、Demonstrations)。
   2月24日 ペトログラードでさらに大きなデモ。
   2月25日 デモが暴力に変わる。ニコライ、力による鎮圧を命令。
   2月26日 ペトログラード、軍隊により占拠される。ヴォリンスキー連隊の一団が民衆に発砲し、40人死亡。パヴロフスキー連隊の一団、抗議して反乱。
   2月26日-27日の夜 パヴロフスキー連隊兵団、徹夜で会合し、対民間人発砲命令に対する不服従を票決。
   2月27日 ペトログラードの大部分、反抗する守備部隊の手中に。政府の建築物が燃焼。ニコライ、混乱を収拾する特殊兵団を率いてペトログラードへと進むよう、イワノフ将軍に命令。メンシェヴィキ、ソヴェト代議員選挙を要求し、夕方に、ペトログラード・ソヴェトの会合を組織。
   2月28日 ニコライ、早朝にツァールスコエ・セロに向かう。ドゥーマの年長者議員会議が行われ、臨時委員会を設立。ペトログラードの全域で、工場や軍駐屯地がソヴェトへの代議員を選出。ソヴェトの最初の幹部会合。混乱がモスクワへと広がる。
   2月28日-3月1日の夜 皇帝列車、停止。プスコフへと方向転換。
   3月 1日 イスパルコム(Ispolkom 〔ペトログラード・ソヴェト執行委員会〕)、ドゥーマの臨時委員会との合意の基盤とする9項目綱領を起草し、第一命令を発布。ニコライ、夕方にプスコフに到着、ドゥーマによる内閣形成を求めるアレクセイエフ将軍の懇願に同意し、イワノフ将軍に任務終了を命令。モスクワ・ソヴェトの設立。
   3月1日-2日の夜 ドゥーマとソヴェト代議員、9項目綱領を基礎に合意を達成。ランスキー将軍がモギレフで、ドゥーマ議長・ロジアンコと電信による会話。
   3月 2日 G・E・ルヴォフを議長として臨時政府設立。アレクセイエフは前線の兵団長たちと連絡をとる。ニコライ、子息への譲位に同意。シュルギンとグシュコフがプスコフへと出発。ニコライ、帝室医師と子息について会話し、弟・ミハイルに譲位すると決めたとシュルギンとグシュコフに伝える。退位声明に署名。ウクライナのラダ(ソヴェト)、キエフで設立。
   3月 3日 臨時政府がミハイルと会見し、帝位を放棄するように説得。 
   3月 4日 ニコライの退位宣言とミハイルの帝位放棄が公表される。臨時政府、警察部局を廃止。
   3月 5日 臨時政府、官僚と幹部職員の全員を解任。
   3月 7日 イスパルコム、臨時政府を監視する『連絡委員会』を設置。
   3月 8日 ニコライ、軍兵士たちに別れを告げることを懇願、逮捕されたままでツァールスコエ・セロに向かう。
   3月 9日 合衆国〔アメリカ〕、臨時政府を承認。
   3月18日 イスパルコム、全ての社会主義政党が3名の代議員を出す権利があると決める。
   3月22日 ミリュコフ、ロシアの戦争目的を明確にする。
   3月25日 臨時政府、穀物取引の国家独占を導入。
   3月 末  イギリス、皇帝一族を保護すべく撤退を提案。
   4月 3日 レーニン、ペトログラードに到着。
   4月 4日 レーニン『四月テーゼ』。
   4月21日 最初のボルシェヴィキのデモ、ペトログラードとモスクワで。
   4月26日 臨時政府、秩序維持能力の欠如を認める。
   4月28日 ボルシェヴィキ、赤衛軍(Red Guard)を組織。
   4月 初期 ソヴェト・全ロシア協議会、ペトログラードで開会。ソヴェト・全ロシア中央執行委員会(CEC)を形成。
   5月 1日 CEC、メンバーの臨時政府参加を容認。   
   5月4日-5日の夜 ルヴォフのもとで連立政権の形成、ケレンスキーは戦争大臣、6人の社会主義者が閣内に。 
   5月    トロツキー、ニューヨークからロシアに帰還。
   6月 3日 第1回全ロシア・ソヴェト大会、開会。
   6月10日 CECの圧力により、ボルシェヴィキが政府転覆の考えを放棄。
   6月16日 ロシア軍、オーストリアへの攻撃を開始。
   6月29日 レーニン、フィンランドへ逃亡、7月4日朝までとどまる。
   7月 1日 臨時政府、ボルシェヴィキ指導者の逮捕を命令。
   7月2-3日 ペトログラード第一機銃連隊の反乱。
   7月 4日 ボルシェヴィキの蜂起、レーニンがドイツと交渉するとの情報により鎮圧される。
   7月 5日 レーニンとジノヴィエフ、最初はペトログラードに、のち(7月9日)首都近くの田園地域に隠れる。最後に(9月)、レーニンはフィンランドへ。
   7月11日 ケレンスキー、首相に。
   7月18日 コルニロフ、最高司令官に指名される。
   7月 末  第6回ボルシェヴィキ党大会、ペトログラードで。
   7月31日 ニコライとその家族、トボルスクへ出立。
   8月 9日 臨時政府、憲法制定会議(Constituent Assembly)の選挙を11月12日に行い、11月28日に同会議を招集する予定を発表。
   8月14日 モスクワ国家会議、開かれる。コルニロフ、騒然として迎えられる。
   8月20-21日 ロシア軍、ドイツに対してリガを放棄。 
   8月22日 V・N・ルヴォフ、ケレンスキーと会合。
   8月22-24日 モギレフのザヴィンスキー、コルニロフにケレンスキーの命令を渡す。
   8月24-25日 ルヴォフ、コルニロフと逢う。
   8月26日 ルヴォフ、ケレンスキーにコルニロフの「最後通告」文を伝える。ケレンスキー、コルニロフと電話会談。ルヴォフ、逮捕される。 
   8月26日-27日の夜 ケレンスキー、内閣から独裁的権力を確保。コルニロフを解任。 
   8月27日 コルニロフ、反逆者とされる。コルニロフ暴乱、武装団にコルニロフに従うよう求める。
   8月30日 臨時政府、7月蜂起によりまだ収監中のボルシェヴィキの解放を命令。」
--------------
 *1917年9月以降につづく。

1433/ロシア革命史年表②-R・パイプス著(1990)による。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990)の「年表」より。p.849-p.850。
 /の左右に日付(月日)がある場合、左は旧暦、右は新暦。
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 1906年
  3月 4日 集会と結社の権利を保障する法令発布。
   4月16日 ウィッテが閣僚会議議長を退任、ゴレミュイキンと交代。
  4月26日 新基本法(憲法)公布される。ストルイピン、内務大臣に。
  4月27日 ドゥーマ、開会。
  7月 8日 ドゥーマ、閉会。ストルイピン、閣僚会議議長に指名される。
  8月12日 社会主義革命党原理主義者、ストルイピンの生命を狙う。
  8月12日・27日 ストルイピンの第一次農業改革。
  8月19日 民間人対象の軍法会議の提案。
 11月 9日 ストルイピンの共同体的土地所有に関する改革。
 1907年
  2月20日 第二ドゥーマ、開会。
  3月    ストルイピン、改革綱領を発表。
  6月 2日 第二ドゥーマ、閉会。新選挙法。
 11月 7日 第三ドゥーマ、開会。1912年までの会期。
 1911年
  1月-3月 西部のZemstvo の危機。
  9月 1日 ストルイピン、射撃され、4日後に死亡。ココフツォフが後継者。
 1912年
 11月15日 第四(そして最後の)ドゥーマ、開会。
 ボルシェヴィキとメンシェヴィキの最終的な分裂。
 1914年
  1月20日 ゴレミュイキン、閣僚会議議長に。
  7月15日/28日 ニコライ、部分的な戦争動員を命令。
  7月17日/30日 ロシア総動員令。
  7月18日/31日 ドイツ、ロシアに対する最後通告。
  7月19日/8月1日 ドイツ、ロシアに戦争を宣言(宣戦布告)。
  7月27日 ロシア、ルーブルの交換を停止。
  8月    ロシア軍、東プロシャおよびオーストリア・ガリシアへと侵攻。
  8月末   ロシア軍、東プロシャで敗退。
  9月 3日 ロシア軍、オーストリア・ガリシアの首都、レンベルク(ルヴォウ)を奪取。
 1915年
  4月15日/28日 ドイツ、ポーランドでの攻撃に着手。
  6月11日 スコムリノフ、戦争大臣を解任され、ポリワノフに交替。
  6月    さらに内閣人事の変更。
  6月-7月 進歩的ブロックの形成。
  7月    国家防衛特別会議の創設。軍需産業委員会を含むその他の会議・委員会が、戦争行動の助力のため従う。
  7月9日/22日 ロシア軍、ポーランドからの撤収を開始。
  7月19日 ドウーマが6週間、再開される。ロシア兵団、ワルシャワから逃亡。
  8月21日 ほとんどの大臣、ニコライにドゥーマによる内閣の形成を要望。
  8月22日 ニコライ、個人的にロシア軍団司令権を握り、モギレフの総司令部へと出発。
  8月25日 進歩的ブロック、9項目綱領を公表。
  8月    政府、全国Zemstvo と地方会議組織の設立を承認。
  9月 3日 ドゥーマ、閉会。
  9月    戦争反対社会主義者のツィンマーヴァルト(Zimmerwald)会議。
 10月    中央労働者集団の設立。
 11月    Zemstvoの全国統一委員会(Zemgor)が創設される。
 1916年
  1月20日 ゴレミュイキン、閣僚会議議長を、ステュルマーと交代。
  3月13日 ポリワノフ、戦争大臣を解任され、シュヴァエフと交代。
  4月    戦争反対社会主義者のキーンタール(Kiental)会議。    
  5月22日/6月4日 ブルシロフの攻撃、開始。
  9月18日 プロトポポフ、内務大臣代行に。12月に内務大臣に昇格。
 10月22-24日 カデット党大会、来るドゥーマ会期での論争戦術を決定。
 11月 1日 ドゥーマ、再開会。ミリュコフ、政府中枢での裏切りを示唆。
 11月8-10日 ステュルマー、解任される。
 11月19日 A・F・トレポフ、閣僚会議議長に。ドゥーマに協力要請。
 12月17日 ラスプーチンの殺害。
 12月18日 ニコライ、マギレフを離れ、ツァールスコエ・セロに向かう。
 12月27日 トレポフ、解任され、ゴリツィンと交代。」
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 *1917年以降につづく。

1432/ロシア革命史年表①-R・パイプス著(1990)による。

 ロシア革命の歴史年表については、昨年10/22の<日本共産党の大ウソ30>の中にその一部を記しているが、研究者による本格的で詳しい年表があるので、以下に、そのまま翻訳して記載しておく。
 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990)。これは本文842頁、その後の注・索引等を含めて946頁、最初の目次等を含めると計960頁を超えそうな大著で、邦訳書はない。
 以下は、この著のうち、p.847-p.856の「年表」の一部で、今回①は、p.847からp.849の一部まで。
 なお、上の著はおよそ1919年くらいまでを対象としており、別著の、Richard Pipes, Russia under Bolshevik Regime (1995、<ボルシェヴィキ体制下のロシア>)と併せて、おおよそスターリン期開始まで(あるいはレーニン死去まで)の、Richard Pipes の広義の<ロシア革命史>叙述が完成している。
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 「年表(Chronology)
 この年表は、この本で対象とする主要な諸事象を列挙する。別のことを記載しないかぎり、1918年2月以前の月日は、ユリウス暦(『旧暦』)により記す。この日付は、19世紀の西洋暦よりも12日遅く、21世紀のそれよりも13日遅い。1918年2月からの月日は、西洋暦に一致する『新暦』で記される。
 1889年
  2月-3月 ロシアの大学生たちのストライキ。
  7月29日 不穏学生を軍隊に徴用する権限を付与する「暫定命令」。
 1900年 
 政府、Zemstva の課税権を制限。
 11月 キエフ、その他の大学で騒乱。
 1901年
  1月11日 183名のキエフの学生を軍隊に徴用。
  2月    教育大臣・ボゴレポフの暗殺。警察支援の(Zubatov)商業組合が初めて設立。
 1902年 
 1901-2年の冬 ロシア社会民主党(PSR)の結成。
  6月    リベラル派、ストルーヴェの編集により隔週刊雑誌 Osvobozhdenie(解放)をドイツで発行。
  3月    レーニン『何をなすべきか ?』
  4月 2日 内務大臣・シピアギンの暗殺。プレーヴェが後継者。
 1903年
  4月 4日 キシネフの大量殺害。
  7月-8月 ロシア社会民主党第二回(創設)大会。メンシェヴィキ派とボルシェヴィキ派に分裂。
   7月20-22日 解放同盟、スイスで設立される。
1904年
  1月 3-5日 解放同盟、ペテルスブルクで組織される。
  2月 4日  プレーヴェ、ガポンの集会開催を承認。
  2月 8日 日本軍、旅順を攻撃。露日戦争の開始。
 7月15日 プレーヴェの暗殺。
  8月    ロシア軍、遼陽で敗戦。
 8月25日 スヴィアトポルク-ミルスキー、内務大臣に。
 10月20日 解放同盟第二回大会。
 11月 6-9日 Zemstvo 大会、ペテルスブルクで。  
 11-12月 解放同盟が全国的な夕食会宣伝活動を組織。
 12月 7日 ニコライと高官が改革綱領を討議。国家評議会に被選挙代議員を加える考えを拒否。
 12月12日 改革を約束する勅令公布。
 12月20日 旅順、日本軍に降伏。
 1905年
  1月 7-8日 父ガポンによりペテルスブルクで大産業ストライキが組織される。
  1月 9日 血の日曜日。
  1月18日 スヴィアトポルク-ミルスキー解任、ブリュイギンに交代。
  1月10日以降 ロシア全域で産業ストライキの波。
  1月18日 政府がドゥーマの招集を約束し、苦情陳述請願書を提出するよう国民に求める。
  2月    ペテルスブルクの工場で政府後援の選挙。   
  2月    ロシア軍、瀋陽(ムクデン)を放棄。
 3月18日 全高等教育機関が在籍年限を超えた者に対して閉鎖。 
 4月     第二回Zemstvo 大会、憲法制定会議を要求。
  春     6万の農民請願書が提出される。
  5月 8日 組合同盟がミリュコフを議長として設立される。
  5月14日 ロシア艦隊、対馬海峡の戦闘で破滅。D・F・トレポフ、内務大臣代行に。
 6月    オデッサでの反乱と虐殺。戦艦ポチョムキンでの暴動。
 8月 6日 ブリュイギン、(諮問機関的な)ドゥーマ開設を発表。
  8月27日 政府が寛大な大学規制を発表。
  9月 5日(新暦) 露日講和条約に署名、ニューハンプシャー・ポーツマスで。
  9月    学生が労働者に大学施設を開放。大衆煽動。
  9月19日 ストライキ活動の再開。
 10月 9-10日 ウィッテ、ニコライに大きな政治的譲歩を強く求める。
 10月12-18日 立憲民主党(カデット、Kadet)結成。
 10月13日 ペテルスブルクで中央ストライキ委員会設立、まもなくペテルスブルク・ソヴェトと改称。
 10月14日 ストライキにより首都が麻痺。
 10月15日 ウィッテ、十月マニフェストの草案を受諾。
 10月17日 ニコライ、十月マニフェストに署名。
 10月18日以降 反ヤダヤ人・反学生の虐殺。地方での暴乱が始まる。
 10月-11月 閣僚会議議長・ウィッテ、内閣に加入すべき民間人との討議を開始。
 11月21日 モスクワ・ソヴェト設立。
 11月24日 定期刊行物の事前検閲を廃止。
 12月 6日 ペテルスブルク・ソヴェト、ゼネ・ストを指令。
 12月 8日 モスクワ武装蜂起が鎮圧される。
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*1906年以降につづく。
 

1428/北村稔・第一次国共合作の研究(1998)の一部など。

 一 北村稔(1948~)の書物は、文春新書の<南京事件>に関するものが読んだ最初で、韓国・北朝鮮について詳しい西岡力らとともに、それぞれ中国や韓国(・朝鮮半島)についての専門家だと思っていた。
 しかし、北村稔の中国に関する別の書物を一読して、この人はマルクス主義あるいは共産主義についてもよく理解している人ではないか、と感じた。
 同じことは西岡力についてもいえ、2016年の中西輝政との共著(対談)を読んで、反共産主義のしっかりした人だろうと感じた。*中西輝政=西岡力・なぜニッポンは歴史戦に負け続けるのか(日本実業出版社、2016)。
 中国や韓国に対する<民族的>批判・蔑視を基礎にしたような本もあることから中国・韓国本読みを少しは敬遠していたのだが、北村や西岡の本は、これからもっとじっくりと読む必要があると思っている(この二人のほとんどの公刊書物をおそらく所持はしている)。
 北村稔や西岡力は、おそらくこれまでのかつ現在の日本共産党について、当然に知識をもち、何らかの見解・意見をもっているだろう。にもかかわらずそれがおそらく公言されていない理由の一つは、この人たちが現在なお<(特定の大学の)大学教授>という肩書きをもち、それぞれの専門分野があり、専門分野外に口出すのを避ける、という気持ちがあることにある、とも思われる。西岡の中西輝政との対談本は、大きな例外なのではないか。
 <容共左翼>学者の中には、山口二郎とか中島岳志とか、同志社大学の浜矩子とか、他にも多数、国公立大学在職者も含めて、平気で<政治的・党派的>発言をしているものもいるのに、<保守>派らしき学者・研究者たちは、何と奥ゆかしい ?ことだろう。
 上は、北村稔と西岡力を同列に並べるものではない。同じグループに括ってしまうものではない。
 二 さて、北村稔・第一次国共合作の研究-現代中国を形成した二大勢力の出現-(岩波、1998)。
 その本文の冒頭近くに、ロシア共産党を主語としたつぎの文章がある。p.3。
 「ロシア共産党」は1919年にコミンテルンを作って「世界共産主義運動の中央機関とした」。「ロシア共産党は中国内の親ソ勢力の獲得にも努力し、中国国民党に着目してコミンテルン指揮下の中国共産党との合作を推進し、第一次国共合作を成立に導く」。
 さらに続けていう。p.3-4。
 「第一次国共合作は、…ロシア共産党支配下のコミンテルンおよびソ連政府の極東戦略と、…中国国民党の政治政略の合体であった」。「コミンテルン指揮下の中国共産党員たちは、独自の展開を志向しつつもコミンテルンとソ連政府の極東戦略のもとに行動する」。 
 とくに目新しいことはないが、あらためて、複数の国共合作を経ての中国共産党の勝利、毛沢東の権力奪取、1949年の共産中国成立は、コミンテルン、そしてロシア共産党の存在がなければ生じなかっただろうことを確認したい。
 そして、ロシア共産党(ボルシヴィキ)の勝利とコミンテルン創設は、まさしくレーニンが主導したもので、レーニンが最高指導者の「陰謀家」集団によるロシア「10月革命」の勃発とロシア共産党の権力掌握・維持がなければ発生しなかっただろうことも、歴史的にみて明らかだと思われることも確認したい。
 ロシア「革命」がなければ、中国「革命」・<社会主義>中国もなかったのだ。
 中国共産党も日本共産党も「その祖」は間違いなく、レーニン・ロシア共産党そしてコミンテルンにある。そして、現在もなお、<現実>に、大小の違いはあれ、影響を与えている。理論的には、あくまでもレーニンを経由してマルクスに行き着くのだと思われる(但し、日本共産党・不破哲三は直接のマルクス回帰も試みているようだ)。
 両党は、1998年に、<友党>関係を回復した。
 三 ロシア革命期からレーニンのネップ期までの具体的イメージを作りつつ、日本共産党の<大ウソ>連載を終えてしまいたいのだが、大幅に遅れている。
 ロシア「革命」のあとは中国「革命」のできるだけ詳細な過程を知ろうと思っており、上記の北村稔著も熟読したいのだが、さしあたりは積んでおく、あるいは広大な書庫(冗談だ)の中に紛れないように置いておかねばならない。
 *参照、北村稔・「南京事件」の探求(文春新書、2001)、北村稔・中国は社会主義で幸せになったのか(PHP新書、2005)、北村稔・中国の正体(PHP文庫、2015)。

1426/「保守」とは何か-月刊正論編集部の愚昧③。

 一 月刊正論編集部のマップ(月刊正論3月号p.59)の基礎的問題点の一つは親米・反米に拘泥していることであり、これはアメリカを対象化・客観化して認識し議論することをきわめて困難にすることになる。
 すなわち、アメリカ自体が変容・変化する可能性があるが、<親米か反米か>という見方によれば、アメリカの変化によって親米の内容も反米の内容も変わってしまう、ということが看過される危険性がある。日本(人)の見方が、大きくアメリカの思想や政策に依存してしまうことになる。
 また、日本のほかに欧米も視野に入れた思考をできにくくする。例えば、アメリカの二大政党は私のいうB内部の対立なのか、BとCの対立に相当するのか(反共のブレジンスキーによれば前者のようだが、今の民主党は<容共>のようでもあり、私には判断しかねる)、既述のようにトランプ大統領はBからAに向かうのか、といった関心を封じることとなる。
 秋月瑛二の図表もイスラム・アフリカや共産主義諸国内部では不適切だろうが、それでも月刊正論編集部のそれよりは、広い視野を持つものだと思われる。
 二 西部邁・佐伯啓思らの表現者グループについて、その「保守」性を疑問視したり、<左翼との通底 ?>と書いたこともある。中島岳志を「飼って」いたり、佐伯啓思が橋下徹について<ロベスピエールの再来の危険>とか書いたこと等をきっかけとしてだった。
 しかしいちおう自己申告?に従って、「保守」だと見なすことにしよう。西部邁も含めて、その反米主張や「自由・民主主義」に対する疑問は日本の「左翼」に利用されかねないし、類似性もなくはないと思うが、<反共産主義>者たちだとは思われる。
 そうすると、菅原慎太郎らの月刊正論編集部は、他の保守との区別がつかなくなるではないかと、秋月瑛二の分類の仕方を非難するかもしれない。
 そのとおり、<保守・リベラル>=おおよそ読売新聞社系「保守」以外の保守は、私のいうA保守(反共)・ナショナルに含まれ、そのかぎりで、表現者グループと同じだ。
 想定しているのは、西尾幹二、中西輝政、櫻井よしこら。小林よしのりも。中川八洋については、かなり迷う。中川は<反共>意識旺盛だが、<親英米>の、私のいうBグループではないか、と。
 中西輝政も含めて、なお論評したいことは多いが、今回は避ける。
 櫻井よしこについては、渡部昇一に対するのと同様にこの欄で批判し続けてきているが、それは、こんなことを書いて<本当に保守派なのか>という疑問提示と叱咤激励のつもりだった(だが、昨年以降は、「観念保守」としてさらに距離を置いて批判する必要があると感じている)。
 ともあれ、A保守(反共)・ナショナルの内部にこそ、月刊正論編集部が注目している区別があるようであり、かつ、その区別を強調して過度に肥大化させる必要はない、と思っている。月刊正論編集部はいわば広い<身内>にのみ関心を寄せていて、視野が狭いようだ。
 すなわち、八木秀次に依頼したかにみえる論考タイトルは「保守とは何か-エセ、ニセの見分け方」で(但し、八木はこの「見分け方」を明示していない)、編集部のマップの中にも「保守・自称保守」と並べた言葉があるが、このような発想方法は、「真正保守」は何か、誰々か、を探ろうとするもので、ヒマな人々は勝手にすればよろしいが、ほとんど建設的・生産的な意味がない、と思われる。
(但し、「観念保守」という概念の設定はこれに反しているかもしれない。この概念の発見?は、なぜA保守ナショナルは多数派になっていないのか、その理由を考えたりしているうちに生じた。)
 「真正」か否かではなく、具体的に、あるいは個別テーマに即して、どのような主張・政策が<保守>派として最適なのか、を論じなければならない。2015年戦後70年安倍談話をいかに評価すべきかは基本的論点だが、他にも、憲法改正で急ぐべき条項はいずれか、原発問題は ?、皇位継承問題は ?、いっぱいある。
 もとより、一般的・抽象的な議論として<保守とは何か>を議論できるし、する必要があるのかもしれないが、国によって、また日本でも論者によって内容は様々で、「正しい」解答などは存在しないのではないか。
 「真正」・「自称」・「エセ・ニセ」といった形容句の玩弄はやめた方がよい。それはすぐさま、回避すべき<観念>的議論につながる可能性が高い。
 三 「保守とは何か」、これを論じるつもりはない、と前々回に書いた。しかし、私には、答えは簡単なのだった。
 反共産主義こそ、「保守」だ。そのかぎりで、<保守には、いろいろ(諸種・諸派が)あってよい>。

 なお、4分類、4象限化という思考・作業は当然に類型化・抽象化を伴っていて、「観念」化そのものだ、ともいえる。本来は相対的でありうる区別を絶対化して不要な分類作業をしてはいけないことは、自認・自戒している。

1418/国家・共産党・コミンテルン04-02/デクレ。

 一 R・パイプス〔西山克典訳〕・ロシア革命史(成文社、2000)の原書は、R.Pipes, A Concice History of the Russian Revolution (1995)だ。
 これとは別に、Richard Pipes, The Russian Revolution (1990)があり、これは本文842頁、その後の注・索引等を含めて946頁、最初の目次等を含めると計960頁を超えそうな大著だ。これには、邦訳書がない。
 また、これのコンサイス版が邦訳書のあるA Concice History of the Russian Revolution (1995)のようにも見えるが、訳者の西山克典が「訳者あとがき-解説にかえて」で書いているように、この邦訳書・ロシア革命史(成文社、2000)は、上記のThe Russian Revolution (1990)と、Richard Pipes, Russia under Bolshevik Regime (1995、<ボルシェヴィキ体制下のロシア>)とを併せて、「一般読者むけ」に「内容を調整し」「注を省き簡略に」一冊にまとめたものだ(邦訳書p.409)。後者も、本文512頁、あとの注・索引等を含めて計587頁、目次等を含めると計600頁を超える大著だ。これも、邦訳書がない。
 二 R. Pipes, The Russian Revolution (1990)を見ていると、最近に参照していた邦訳書とその原書にはない叙述があることに気づいた。
 Decree(布告)という語に関係するので、以下、当該部分を含む、<11年間の立憲主義を拭い去った>旨の文章までを、三段落ぶんだけ仮訳しておく。p.525。但し、原書にはない改行をこの仮訳では施す。
 第二部「ボルシェヴィキがロシアを征服する」(なお、第一部は「旧体制の苦悩」)内の第12章「一党国家の建設」の一部。p.525のほとんど。
 「ソヴナルコムは、今や理論上、実際にその最初からそうだったもの、執行権と立法権を統合した機関になった。CEC〔ソヴェト・中央執行委員会〕はしばらくの間は、政府の活動を議論する権利を享受した。その権利とは、かりに政策には何の影響をもたらさなくとも、少なくとも批判をするための機会を与えられる、というものだった。
 しかし、非ボルシェヴィキが排除された1918年の6-7月以降は、CECは、ボルシェヴィキ委員がルーティン的にボルシェヴィキ・ソヴナルコムの決定を「裁可した」、共鳴板(Echo)的機構に変わった。代わって、ソヴナルコムは、ボルシェヴィキ・〔ロシア共産党〕中央委員会の決定を履行した。
 民主主義的諸力がこのように突然にかつ完全に崩壊したことおよびその結果として立憲主義的諸力を取り戻すことが不可能になったことは、ロシア君主制に対して立憲主義的な制約を課そうとした1730年の最高Privy会議の失敗を想起させる。今と同じく当時、独裁者からの断固とした「ノー」で充分だった。
 この日からロシアは、布告(Decree)によって支配された。
 レーニンは、1905年10月以前に皇帝が享有した特権を掌握した。彼の意思は、法(law)だった。
 トロツキーはこう言った:『レーニンは、臨時政府が廃されたと宣言された瞬間から、大小のすべての問題に、政府として行動した』。
 ソヴナルコムが発令した『Decrees』という言葉は、革命時のフランスから借用した、ロシアの憲法(constitutional law)には知られていない名を帯びていたけれども、完全に、皇帝の Ukazy に相当するものだった。この Ukazyは〔ソヴナルコム・Decreeと同じように〕、最も根幹的な事案から最も些細な事案まで無分別に取り扱い、独裁者が署名をした瞬間に効力を発した。
 (Isaac Steinbergによれば、『レーニンは、たいてい、自分の署名はいかなる政府の行為にも必要である、という見解だった』。)
 レーニンの総括書記だったボンシュ=ブリュヴィッチ(Bonch-Bruevich)は、こう書いている。Decreesは、人民委員(Commissar〔人民委員会議=ソヴナルコムの一員〕)の一人からの発案により発せられたものであっても、レーニンが署名するだけで、法の力(force of law)を獲得した、と。
 このような実務は、ニコライ一世またはアレキサンドル三世のような人々には、全く理解できないものだっただろう。
 10月のクー(Coup、クーデタ)から二週間のうちにボルシェヴィキが設定したこのような統治の制度(System、システム)は、1905年以前のロシアを支配した専政(独裁)体制への逆戻りだった。ボルシェヴィキは、介在する12年間の立憲主義(constitutionalism)を、そっけなく拭い去った。」
 以上。
 三 上の部分には見当たらないが、記憶に頼ると、上の書物にはDekret という語も出てくる。
 これも含めて考えると、ロシアでの原語(レーニンらが用いた言葉)はDekretであり、これをR・パイプスはDecree という英米語に変えて(訳して)いるのだと思われる。そして、Dekret は、上でも言及されているように、(フランス革命の史実を知っているはずのレーニンらが)フランス語のDecret から借用して作った、ロシアでは新しい言葉だった、と考えられる。かつまた、R・パイプスは、これを、帝制時代の(皇帝が発する)Ukazyと同じようなものだ、と理解して叙述しているわけだ。
 明治憲法下での日本での「勅令」のうち、「令」の部分に該当するだろう。
 戦前はたしか「閣令」と称したようだが、現在の日本でも「政令」というものがある。
 この政令の制定者・制定機関は内閣で、内閣総理大臣でも各省大臣でもない。
 しかし、上の叙述・説明によると、少なくともレーニン政権初期のDecreeは、どうやら、一人民委員(一大臣)の発案によるレーニンの署名で発効したらしい。こんなものは、現在の日本にはない。現在の日本の「政令」に相当するものだとすれば、ソヴナルコム(=内閣とも訳される)の構成員の「合議」によって決定されなければならないからだ(署名、公布等の論点は除く)。
 R・パイプスの書と西山克典訳はまだましだが、他のロシア革命史又はソ連史に関する日本語訳書の中には、簡単に「法律」とか「法令」とかという言葉を使っているものがある(ソヴェト大会の形式的承認があっても、ソヴェトは今日的にいう「議会」ではない)。訳者ではなく、原著者自体に多少の問題があるのではないか、と考えられる。だが、とくに英米系の書物では、(議会制定法がなかったとしても)law という語を全く用いないで<ソ連>史を叙述するのは困難なのかもしれない(現在のロシア法では事情が異なる)。

1417/国家・共産党・コミンテルン04。

 一 関心は多岐にわたるので、一回少し寄り道する。
 日本人の多くは、「法」と「法律」を混用している。
 渡部昇一が現憲法は「占領基本法」にすぎないというとき、やはり、「法」と「法律」の区別をおそらく知らないままで、「基本法」という言葉を用いている。
 このような混用は、国会制定法という意味での「法律」でありながら、名称としては「法」を用いる、つぎのような、日本国憲法と同時に施行された、又は同年の1947年に公布又は施行された「法律」であるが名称には「法」が用いられるものがある、という日本の(厳密には適切とは思えない)「立法」実務も大きな原因になっている。
 ついでながら、現憲法は「無効」でいったんは大日本帝国憲法を復活させなければならないとすれば、以下のような<占領下>の法律も、少なくともそれがGHQの意向によって<実質的に、又は骨格部分を押しつけられた>とすれば(独占禁止法は全体としてそれに近いだろう)、現憲法と同じく「無効」で旧帝国憲法下のそれら(又は対応する法律等)にいったんは戻る必要があるはずだ。
 しかし、そんな主張を渡部昇一らはしておらず、下記の諸法律は<改正>されてきている(すなわち、<有効>であることを前提として内容が改められてきている)。
 また、内閣法・国会法・裁判法・地方自治法・民法改正・国家賠償法等は、実質的に日本国憲法の新条項を実施するための、新憲法を「補完」するものだった(「憲法付属法律」という概念もあるらしい)。
 そして改正されているが(法律によって頻度はかなり違う)、渡部昇一らは本来又は原理的に「無効」のはずだ、という主張をしてきていない。
 こんなところにも、渡部昇一による議論の<幼稚さ>が明らかに示されている。
 参考/同日施行-内閣法、国会法、裁判法、地方自治法、7月-独占禁止法、9月-労働基準法、10月-国家賠償法、刑法改正、12月-児童福祉法、食品衛生法、民法改正(家族法部分)。
 二 「法」と「法律」の区別の分かりにくさは英米にもあるようで、前者はlaw だが、後者は a law とか laws と称するらしい。Act も「法律」を意味することがあるようだ。Rule of Law というときの「法」は前者だ。
 これと違って、フランス、ドイツ、ロシアでは、「法」と「法律」が別の言葉である、とされる。
 フランス語では、法は droite、法律は loi(ドロアとロア)。ドイツ語では、法は Recht、法律は Gesetz(レヒトとゲゼッツ)。ロシア語では前者はpravo、後者は zakon(但し、ロシア文字を使わないで普通のアルファベットで標記した場合)。
 ロシア語については、渋谷謙次郎・法を通してみたロシア国家(ウェッジ、2015)の最初の方を参照した。所在が現時点で不明になったので、頁を特定できない。 
 三 こんなことを書くのも、R・パイプス(西山克典訳)・ロシア革命史(成文社、2000)を原書も参照しつつ読んでいると、「布告」(又は「布令」 ?)と訳されているのは、原書の英語ではDecreeというものだからだ。
 このDecree に該当する、かつよく似たドイツ語はないと見られる。最も対応するのは、Verordnung だろう。
 これに対して、米語(英米語)のDecree(ディクリー) とどちらが語源的に先なのかは知らないが、フランス語にはまさに Decret (デクレ)という語があり、かつ意味も同じだと見られる。
 正確に確認はしないが、大統領令または首相府令のいずれか又は両者に、その「令」の部分についてDecret という語が現在でも用いられているはずだ(正確には、語頭は小文字)。
 つまり、ロシア「革命」直後のソヴナルコムの「布告」とは、現在的視点でいうと、又はこの当時でも<権力分立>が採用されていた国家についていうと、行政権・行政部又は行政機構・機関による「立法」(行為)を指す。
 ロシアのソヴナルコムの立法的行為をまたはその所産を「法律」と訳すと、誤りだろう。ロシア語で当時に何と呼ばれたかは知らないが、現在は「法律」の意味らしい Zaconではなく、英米語の Decreeに当たるものなのだろう。従って、西山克典の「布告」(又は「布令」)という訳は適切だ。
 四 ロシアにおいて、国民・住民全体(いわゆる有権者に限るが)が代議員・代表者を決めるために選挙を行ったのは、20世紀前半では1917年11月の「憲法制定会議」議員選挙が最後で、以降、ソ連の解体までは、国民・住民全体を代表する代議員から成る「議会」が置かれなかった。
 つまり、実質的にいう立法権も行政権も、当初は実質的に(ソヴェト中央執行委員会=CECではなく)ソヴナルコムに属し、半年ほど後には、さらに実質的には一括してロシア共産党(・レーニン)に移ったのだった。
 ソ連史の分かりにくさは、このあたりにもある。じつはR・パイプスはソヴナルコムの権能について Legislation という言葉を使い、西山訳書は「立法」と訳しているのだが、これらを通常の又は今日的意味での「立法」、つまり議会(・国会)が制定する法規範と理解してはならない。
 なお、<ソヴェト>は農民・企業経営者等を代表しておらず、<議会>ではない。
 そもそも<工場労働者>(プロレタリアート)の存在すら稀少だったとされるので、<労働者・小農>層を代表していた、というのも誤りだとする見解が多いが、別に書くだろう。
 スターリン期以降のソ連については読書不足だが、かりに<全人民代表者大会>(現在の共産中国の<全人代>参照)なるものが開催されていたとかりにしても、全く形骸化しており、<拍手で、又は挙手で>裁可・承認するだけの(いわゆる西側の「議会」を意識した)飾り物的機関だっただろう。
 元に戻ってさらにいうと、この欄でこれまで言及していないが、旧帝制下の「司法・裁判所」制度も「10月革命」後に早々に解体され、<人民法廷>とか<革命裁判所>というものが取って代わる。
 これらの上部機構は司法人民委員部(司法省・法務省)で、当然に司法人民委員(司法大臣)が長。そしてこれは、人民委員会議(ソヴナルコム)の一員。
 要するに、ロシア・ソヴェト国家には<権力分立>などはなかったのだ。R・パイプスが言うように、11年間ほどの辛うじての立憲主義・Constitutionalism は、それすらもレーニン政権誕生とともに消え失せた。
 五 ロシアが先ず資本主義から社会主義への道を切り拓いたとする見解によれば、立憲主義も権力分立も<ブルジョア>的なもので、「革命」とともに廃棄(止揚)された、と言うのだろう。
 いやまさしく、上の時代に、レーニンはそのように言明していた。
最終的には、選挙結果にもとづいていったん招集された憲法制定会議の続行を<実力(=暴力)>でもって中止させ、「解散」させたのは、レーニンの「議会」観によるとされる。
 さらにそれは「立法」と「行政」とを同時に一度は掌握したパリ・コミューンを讃えたマルクスに行きつく、とされる。E・H・カー・ロシア革命第1巻(みすず書房、1967)の該当箇所参照。
 レーニン・ボルシェヴィキにとって<全ての権力をソヴェトへ>こそがその意思であり、決して当時の(むしろ数的には優位の)議会設置擁護の社会主義者たちが主張したような<全ての権力を憲法制定会議へ>ではなかった。後者は、汚れた<資本家たち>のスローガンだとされた。
 「立憲主義」を良きものとする雰囲気が日本の「左翼」には強い。本気で、純粋無垢にそう思っている学者さまたちもいるのだろうが、<共産主義>者にとっては、(本質的に資本主義に対応した)「議会」も「立憲主義」も、それほど「良き」ものではないと扱われたことを、<レーニン主義>およびソ連の歴史は明らかにしている。
 ロシア「革命」は社会・歴史の<進歩>だったのかと、心の奥底では親社会主義の、または「共産主義」幻想をもつ日本の「左翼」の人々は真剣に自問しなければならない。<進歩>か否かという発想自体、本来は秋月の関心事項ではなくなっているのだが。
 上の発問をしても、日本共産党の党員(学者・研究者を含む)は、もう遅いかもしれない。

1416/国家・共産党・コミンテルン03。

 一 前回の最後の方で自らの文章として書いたのは、やや先走りすぎている。
 国家と共産党の分離は、有利なことがあった、と言われる。
 つまり、とくに欧州諸国内でのロシア(・ソ連)共産党の活動を、ロシア・ソ連国家(・政府)の活動ではない、<私的な>活動だと言い張れた、又は言い張ろうとした、ということだ。
 その延長が1919年のコミンテルンの結成で、当時の<社会主義国>はソ連一国だつたはずなので社会主義諸国家の連合体又は協議機関だったはずはなく、諸国家の共産党の連合体、実質的にはロシア(・ソ連)共産党を指導者とする、ロシア防衛と<社会主義革命>の輸出のための機関だった。この最後の部分は世界(欧州)同時革命か一国革命か、という論点にかかわるが、立ち入らない。
 二 さて、「10月革命」以前は「臨時政府」系統外の<私的>機構・組織だったソヴィエトは、ボルシェヴィキ派が形成した(と思われる)「軍事革命委員会」の実力行使の結果として国家系統の、国家「権力」の淵源である機構・組織に変わった。
 (ソヴィエト総会)-(代議員による)ソヴェト大会-CEC(元イスパルコム)、そしてさらに、CEC(元イスパルコム)-ソヴナルコム(人民委員会議=政府)、という一つの=国家・政府系統の「ライン」がある。
 だが、一方には、共産党中央委員会(「首領」はレーニン)-ソヴナルコム(人民委員会議=政府)という党系統の「ライン」もある。ソヴナルコムの議長(首相)はレーニン。
 もう一つの可能性として、憲法制定会議-議会設立-政府成立、というラインもありえたはずだったが、この点は先送りする。
 三 「10月革命」成功・ソヴナルコム成立の翌日1917年10月27日、教育人民委員(文部大臣)・ルナチャルスキーは、<ボルシェヴィキと左派エスエルの機関誌>以外の出版物発行を禁止する布告を発表する(レーニンの署名あり)。
 ボルシェヴィキはソヴナルコムの「立法」権を認める。
 これに対して、「社会主義者たち」は、CEC(元イスパルコム)こそが「社会主義者の一種の国会」だと考えていた。
 11月4日、「最初にして最後に」、レーニンとトロツキーが姿を現したCEC(ソヴィエト・中央執行委員会)で、左派エスエルはソヴナルコム(政府)の布告による統治をやめるように求め、レーニン(ソヴナルコム議長)の説明には納得できない旨の動議を提出し、ボルシェヴィキは「全ロシア・ソヴェト大会の全体的な政綱の枠内」でのソヴナルコムによる布告発令を「ソヴェト」側は「拒絶」できない旨の反対動議を提出した。
 ボルシェヴィキ選出委員のうち9名が「変節」してレーニン側を支持したため、左派エスエルの動議は25対20で敗れた。9名のうち4名はもともとはレーニンによる<連立政府の形成の拒絶>に反対していた(つまり左派エスエルと協力し、その支持をえて「統治」しようとする見解だった)。
 一方、ボルシェヴィキ側の反対動議を明確に支持するか否かの票決の予想は23対23だったので、レーニンとトロツキーが採決に加わることを宣言して、25対23でボルシェヴィキが勝った。ソヴナルコムは同日夜、その布告(Decree)が「臨時労農政府通報」に掲載されれば「法としての効力」(Force of Law)をもつと表明(announce)した。「10月革命」後、わずか1週間ほど後。
 その後1918年6-7月までにCEC(ソヴィエト・中央執行委員会)からボルシェヴィキ以外の党派は放逐され、CECは、ボルシェヴィキの委員がソヴナルコムの決定を、したがってボルシェヴィキ中央(共産党中央委員会)の意向を「機械的に裁可」する機関に完全変質する。
 パイプスによれば、1921年には、CECは「わずかに三回」だけ招集された。
 CEC内部での「党争」にもっと言及する必要はあるが、それに勝利しCECを完全に掌握することによって、共産党の意思はソヴナルコム(政府)の意思と同じになった。<一党独裁>制度の完成だ。「10月革命」後、わずか7カ月程度。
 パイプスによれば、ロシアは1905年以前の帝制時代と同じ「布令(布告)」による統治の時代に戻り、ボルシェヴィキ・共産党は「11年間の立憲主義(constitutionalism)を、全く拭い去った(wiped)」。
 11年間とは、日ロ戦争敗北後の「1905年革命」の所産として、「国会(下院・ドゥーマ)(The State Duma)」が開設されていた1906年以降のことをいう。この国会とは、皇帝(ツァーリ)の権能をある程度制限する力をもっており、ロシアはある程度は<立憲君主制>だったとも言える。但し、日本の明治憲法下の国制・法制と同じはない(これについて長い論文が書けるだけの論点があるだろう)。
 以上、紹介者自身の表現を除いて、R・パイプス〔西山克典訳〕・ロシア革命史(成文社、2000)p.163-5、p.59-61。原書では、p.153-6、p.45。
 このような経緯の背後には、重要な事象も発生し、又は継続していた。
 「10月革命」勃発は第一次大戦の途上で、ドイツ帝国軍等と戦闘しており、臨時政府およびソヴェトの大勢は<継戦>を支持していた。ボルシェヴィキのさらに一部が休戦・和平を主張した。翌1918年3月に、ドイツとの講和条約(英仏ら連合国から見ると「戦線離脱」)。
 全ロシア全域に<新しい秩序>が形成されていた、つまりボルシェヴィキ・共産党が全域を<平穏に支配・統治>していた、というわけでは全くなかった。
 憲法制定評議会がどうなったかも触れておかないと、国家と共産党の問題に言及したことにならないだろう。
 戦時中だったロシア帝国軍(兵士)をどうやってボルシェヴィキ・共産党は制御し、「10月革命」時の<反革命軍>にしなったか、という問題もあり、パイプスも論及しているが、この点は省略する。

1415/国家と共産党-ロシア-02。

 一 つづき。 
 ペトログラード・ソヴェトは当初は同市(首都)でのみ活動したが、他都市のソヴィエト・前線部隊(後者は説明が要るが省略)の代表も加えて「全ロシア労兵ソヴェト」となり、その「イスパルコム」(執行委員会)は「全ロシア(All-Russian)中央執行委員会」(CEC=Central Executive Committe)と自らの名前を変更した。
 その構成員72名のうち、メンシェビキ23、エスエル(社会革命党)22、ボルシェヴィキは12名。ソヴェト総会も開かれたが(3月-4回、4月-6回)、CECの提案を「拍手喝采」で承認するだけの力になる。
 イスパルコム=CECの構成員には農民代表者はいない。それと「ブルジョアジー」が除外されているので、「全ロシア・ソヴェト」およびCECは、「全ロシア」住民の「せいぜい10-15%を代表」したにすぎない。
 以上、R・パイプス〔西山克典訳〕・ロシア革命史(成文社、2000)p.108。
 原書である、R.Pipes, A Concice History of the Russian Revolution (1995)では、p.94-95。
 二 その後(レーニン「4月テーゼ」・ケレンスキー政府首班の約束等々)および「10月革命」事件でのソヴェト等と「政府」の関係・役割については、以下の一部を除き、別途、<権力奪取>の具体的な様相を語る中で言及することにしよう。相当に興味深い<ドラマ>ふうだ。
 三 ボルシェヴィキは、各および全ロシア・ソヴェトのイスパルコム又はCECの多数を獲得するかこれを強引に屈服させることによって、結果としてソヴェト全体を支配するようになり、ソヴェトのもとに首都防衛名目の「防衛に関する革命委員会」=「軍事革命委員会」を設置することを、メンシェビキの反対を押して、ソヴェト総会で是認させた(1917年10月9日、p.150)。
 1917年10月26日、ソヴェト第2回大会開催中に、「軍事革命委員会」部隊による市内要所占拠、臨時政府閣僚逮捕・拘束、「冬宮」占拠という<ほとんど無血の><実力行使>が完了した(10月「革命」又は政変・クー・デタ)。
 その前の24日に、レーニンはつぎの宣言を起草していた。
 「臨時政府は廃された。政府の権力はペトログラード労兵ソヴェトの機関であり、ペトログラードのプロレタリアートと守備隊の先頭に立つ軍事革命委員会に移った。…。」
 <宣言>なので、実際に「プロレタリアート」なるものの「先頭に立つ」のかどうかは疑問視できる。
 また、パイプスによれば-秋月の言葉を挿むと<法的>または<国制>の観点からは-、「ボルシェヴィキの中央委員会を除き、誰もそうすることを正当と認めていなかった一機関が、ロシアの最高権力を掌握した、と宣言した」。
 以上、p.153-6、原書p.143-6。
 第2回ソヴェト大会が再開され、諸「布告」(Decree)発布が承認され、憲法制定会議招集までの暫定政府になる「はず」の、新しい「臨時政府」閣僚候補者名簿が発表され、承認された。
 この<暫定・臨時>の「はず」の「政府」または「内閣」は「ソヴナルコム」(Sovnarkom)と呼ばれた。パイプス(および訳者・西山)も同様だが「人民委員会議」(Council of People's Comissars)とも訳される。
 議長(首相)はレーニン、内務人民委員(内務大臣)はルイコフ、外務人民委員(外務大臣)はトロツキー。スターリンは、いわば民族問題担当長官。
 新しいソヴェト・イスパルコム(CEC)も形成された。ボルシェヴィキのみによらず、101名のうち、ボルシェヴィキ62名、左派エスエル(左翼社会革命党)29名など。イスパルコム議長は、カーメネフ。
 以上、p.156-7。
 四 1918年3月にボルシェヴィキは「共産党」と名乗る。同月に-民族諸問題の一定の解決を経て-ロシア・ソヴェト連邦社会主義共和国成立・同憲法発布。
 この憲法は実質的には左派エスエルの支持も受けていた。だが、同党はもちろん共産党や政党には触れていない。
 また、「ソヴェト」については明確に語り、「全ての権力をソヴェトに」旨を規定したが、各(村・郡・県・中央)ソヴェトの関係、ソヴェトと「(中央)政府」の関係も曖昧なままで、パイプスによれば、「その憲法が真剣に受けとめられることを意図していなかった」、という(p.161-2)。 
 五 関心を惹くのは、1917.10政変以降、少なくとも「内戦」終了頃までの、国家またはソヴェトと「政府=ソヴナルコム・人民委員会議」の関係およびこれらと共産党(ボルシェヴィキ)の関係だ。このあたりは、ロシア革命等に関する諸文献でも分かりにくい。
 R・パイプスは訳書p.163-165(原書p.154-)で、つぎのように説明している。
 ソヴェトの中央執行委員会であるCEC(イスパルコム)は、ソヴェト大会が創設したソヴナルコム」(人民委員会議=政府・内閣)の「行動と構成に関する監督権」を持った。
 しかし、上はレーニンが自ら提案したものだったが、レーニンもトロツキーも、できるかぎり早く、「人民委員会議」をソヴェト(・中央執行委員会)から解放させたかった。あるいは後者に対する責任をなくし、後者による監督をなくしたがっていた。
 レーニンらが「真に意図」したのは、「人民委員会議」が、共産党の中央委員会に「排他的に責任を負う」ことだった。
 これにより、ソヴィエト・ロシアの歴史で「最初にして唯一の国制上の衝突(constitutional clash)」が生じた。
 なお、人民委員会議(内閣)の議長(首相)はレーニンであり、共産党中央委員会のトップにいたのはレーニンだ。
 共産党の「トップ」と書いたが、「最高指導者」という呼称も見られるものの、正式に何と呼ばれていたかは、諸文献で、じつははっきりしない。
 現在またはレーニン以降の諸共産党ならば、「総書記」、「第一書記」、「書記長」あるいは「(幹部会 ?)委員長」なのだろう。
 存在していると誰もが明確に意識しているもの(・人物)については、言葉を用意する必要がなく、従って言葉・概念が作られることがないことがある、ということを示しているようでもある。あるいはそもそも、国家と政党(共産党)を厳密に分けて考えるという発想自体が、この時期のレーニンらボルシェヴィキ党員にはなかったのかもしれない。それこそ、党(共産党)=国家、なのだ。
 さらに、上記の問題についてのR・パイプスの説明・叙述を追跡する。

1414/国家・共産党・コミンテルン01。

 一 ロシア革命またはレーニン(を首領とするボルシェヴィキ)が生み出した国家のことを<一党制国家>とか<党所有国家> ということがある。
 下斗米伸夫・ソ連=党が所有した国家(講談社メチエ、2002)も参照。
 国家・政府と(一国家の)共産党(政党)の関係、さらにはこれらと1919年設立のコミンテルンの関係・違いに焦点を当てて、以下、紹介したりコメントしたりする。
 渡部昇一が何と言おうと、過去の問題ではない。コミンテルン、コミンフォルムはもうないが、国家・政府と(一国家の)共産党の関係は見事に、現在の共産中国や北朝鮮、そしてベトナムやキューバにまで継承されていると考えられる。
 なお、現在開催されているらしい、中国共産党の<中央委員会第~回総会>という表現の仕方は、現在の日本共産党と同じ。共産党の<党大会>の間は、<中央委員会総会>でつないでいくのだ。
 二 R・パイプス〔西山克典訳〕・ロシア革命史(成文社、2000)によると、ソヴィエト(ソビエト)・ソヴェート・ソヴェト(Soviet)という言葉が、日常的意味でなく制度的な又は機関を指すものとしてロシアで用いられたのは、1905年の10月、ペテルブルク工科大学で「ストライキ委員会」が招集されたとき、それがすぐのちに「労働者代表ソヴェト」と名乗ったことが最初のようだ(p.58。以下、同じ)。
 英語ではCouncil、独語ではRat と訳されているはずだ。日本語では、「評議会」または「会議」だろう。
 なぜ大学にという疑問には、政治的集会・デモに対する当時の規制が大学構内については緩かったと、パイプスに従って指摘するにとどめる。
 このソヴェトの指導部には、学生も農民も入っておらず、また労働者でも兵士でもなく、それは「社会主義諸政党」が指名した「急進的」「知識人」で構成されていた(p.58)。
 1905年12月に「モスクワ・ソヴェト」は①帝制打倒、②憲法制定会議招集、③「民主共和国」の宣言を要求し、④「武装蜂起」を呼びかけた、という(p.59)。
 この「ソヴェト」はのちに、ボルシェヴィキ・共産党ではなく、国家・政府の系列の機関へと発展 ?していく。
 三 1917年二月革命により「臨時政府」(国会議員臨時委員会)が組織され、ケレンスキーが委員の一人になった。これは、パイプスによれば「私的な性格」のものとされるが、(帝制終焉時の)の国会の議員全体ではないにせよ、国会議員内の「私的な会合」または「指導者たち」が設立を決定したとされるので(p.94)、二月革命による<非連続>的なものではあるが、のちの「10月革命」に比べればまだ、国家機関又は政府としての連続性・「民主性」を少しは保っているかもしれない。
 上の臨時政府の設立と同日(2月28日)、「ペトログラード・ソヴェト」が設立された。主導権はメンシェヴィキにあった。2週間後の代議員3000名のうち、2000名以上が兵士で、二月革命の「初期の局面」は「兵士の反乱」だった(p.95)。
 代議員数千人では会議・実質的な決定ができない。ソヴェトの決定機関が「イスパルコム」という「執行委員会」に移った。この機関は「社会主義諸政党の調整機関」で、兵士に支持者がおらず、労働者の中でも「わずか」の支持者しかいないボルシェヴィキに属する委員の比重が不均衡に高かった。またこれは、ソヴェト総会から自立して活動し、あらかじめ実質的に決定する「社会主義知識人の幹部会」のようなものになった(p.96)。
 このソヴェトは「臨時政府」系列ではなく、社会主義諸政党による「私的」な組織で、臨時「政府」には参加しないと決定する(同上)。同年10月末まで続く、いわゆる<二重権力>の時代だ。
 パイプスによると、表向きは臨時政府が「全ての統治上の責務」を引き受け、「現実には」、ソヴェト「イスパルコム」が「立法と執行」の両機能を果たした(同上)。
 皇帝逮捕(のち一族がボルシェヴィキ=共産党により全員殺害される)ののちソヴェト・「イスパルコム」は5名から成る「連絡委員会」を設置し、政府に、イスパルコムの事前承認を得ることなく重要な決定をすべきでないと主張し、政府はこれに応じた、という(p.108)。
 中途だが、いわゆる「10月革命」事件以前のペトログラード・ソヴェトの状況から、次回につづける。

1410/ロバート・W・デイヴィス・現代ロシアの歴史論争(岩波、1998)を一部読む。

 一 ロバート・W・デイヴィス(イギリス人学者)は、同〔内田健二=中嶋毅訳〕・現代ロシアの歴史論争(岩波書店、1998/原書1997)で、主として1988年半ば~1996年半ば-すなわちソ連崩壊後の時期を含む-のソ連又は主としてロシアでのソ連史・ロシア史の「見直し」の状況を紹介し、また論じている。
 その「第11章/レーニン、スターリンと新経済政策」は「第10章/レーニンと内戦」に続くものだが、その第11章の最後の段落でまず、こう述べている。邦訳書からの引用。p.266。
 「総じて内戦とネップの初期についての新たな史料は、世界が『人間の顔をした社会主義』に向かう動きを再び始めると考えている私自身のような時代遅れの人間にはほとんど慰めを与えてくれない」。
 彼自身は「人間の顔をした社会主義」への再出発を期待しながらも、そのような希望に、新しい、レーニンやスターリン等に関する、従来は「秘密」だった史料は「ほとんど慰めを与えてくれない」、というわけだ。
 そのあと、「慰め」になるかもしれない「傾向」がいくつか(これら自体興味深いがここでは省略)見出される、としつつ、こう続けて、この章を終える。p.266-7。
 「しかし、ここで見た証拠によれば、こうした傾向は弱いものであり、容易に打倒された。そしてレーニン自身が-〔略〕-他のすべての政治集団を容赦なく抑圧する一党制に傾倒しつづけていたとりわけオ・ゲ・ペ・ウ〔ゲペウの前身、チェカーの後身/国家保安秘密警察〕によって与えられた『証拠』は党指導者たちの政策に影響を与えた。そして秘密警察の政治的役割は絶えず膨張していったのである」。
 日本共産党、または党員学者の文献にはレーニンは多党制を容認・支持していたかのごとく書いているものがあるかもしれないが、事実に反するデマだ。たしかに1917年10月の「革命」時点で共産党(ボルシェヴィキ)だけが実質的な国家最高権力の指導部を構成していたわけでは(辛うじて)ないが、すみやかに共産党=国家になったことは広く(少なくともロシア・ソ連史の日本を含む研究者には一致して)認められている、と思われる。
 この点や、チェカーなどには、別の機会にまた触れるだろう。なお、「革命」時点でロシア<全国>あるいは<農民>を掌握したわけでも全くない。のちに「戦時共産主義」時代ともいわれる「内戦」が長く続き、レーニン指導のボルシェヴィキ対する<農民>の激しい抵抗等もあった。
 二 リチャード・パイプスらの<反共産主義>が明確な学者や論者の叙述を紹介しても、日本共産党員や同党支持者または日本の「左翼」は、<反共>主義者ということでもってその叙述を疑う、または容易には信頼しないかもしれない。
 注意を惹いておきたいのは、上の書物は、ほとんど「左翼」的または「容共」的な、すくなくとも<反共産主義的ではない>本・雑誌ばかりを日本で出版している、岩波書店が出版している、ということだ。
 この欄では-すでにある程度は意識してきたのだが-、<岩波書店(または朝日新聞社等)発行の文献ですら、~と述べている>、という紹介や言及の仕方をすることがある。

1409/ブレジンスキー: Out of Control(1993)の一部を読む③。

 一 ブレジンスキーにおいて「全体主義」または「全体主義のメタ神話」とは共産主義とファシズム(ないしナチズム)を意味する。そして、いかなる意味でも、レーニンを除外または「免責」することはない。
 「20世紀における最も強力で破壊的なメタ神話は、やはりヒトラー主義とレーニン主義だった。この二つが20世紀の政治の大半を支配し、また歴史に前例のない大量殺戮の原因となっている」(p.41)。
 よく<民族(・人種)>と<階級>が問題にされる。特定の前者の抹殺を図ったのがヒトラーで、特定の後者(ブルジョワジー)の抹殺を図ったのがレーニンだった。そうした旨を、ブレジンスキーも書いている(p.41、p.43)。
 かつまた、「全体主義」の代表者として共産主義の側ではスターリン(またはスターリニズム・スターリン体制)が挙げられることが多いが、ブレジンスキーは、「大衆を操作する政治」という点では、「ヒトラーとレーニンの方が共通点が多い」、「スターリンはどちらかというと、ヒムラーに近い」とする(p.42)。ヒムラーはゲシュタポ長官。
 したがって、ロシア/レーニン・スターリンとドイツ/ヒトラー・ヒムラー、という対比がブレジンスキーによれば成立することとなる。
 二 この1993年の本の一部を読んでの大きな印象の二つめは、ブレジンスキーはフランス革命を(そしてアメリカ独立革命も)肯定的に評価している、ということだ。
 この点で、ロシア革命あるいはマルクス主義の淵源の重要な一つをフランス革命(さらにルソー)に見出そうとするR・パイプスやハンナ・アレントらとは異なる。
 例えば、20世紀の「メタ神話は、フランス革命がヨーロッパに…解き放たれた多様な主張や姿勢を混ぜあわせた--そして悪用した--ものにすぎなかった」(p.34)。
 「強制的なユートピア」をつくろうとした「試みは、200年前のフランス革命でヨーロッパに解き放たれた合理的かつ理想主義的な衝動を誤った方向に導いてしまった」(p.8)。
 また、当初に想定した範囲外の第二部の冒頭では、つぎのように書いている。
 ・全体主義(=共産主義とファシズム)の失敗は、それによって歪曲されたとはいえ、「200年以上前にアメリカとフランスの革命が解き放った政治理念」を世界が受容する素地になりうる。「民主主義体制」のアメリカ・欧州・日本の成功が「その正しさを証明している」。「自由民主主義の理念〔liberal democratic concept〕そのものを、もっと魅力的なものにしなければならない」。
 しかし、彼は、世界中の「自由民主主義」の将来について、楽観視しているわけではなさそうだ。Out of Control という書名にすでに見られる。それは未読の第二部以下で語られるのだろう。liberal democratic concept という英語は、原著のZ.Brzenzinski, Out of Control(1993)p.47 による。
 なお、ブレジンスキーによれば、フランス革命等は、①ナショナリズム、②理想主義、③合理主義-脱宗教、を生み出した。これらすべてを「悪用」して成立したのが全体主義だ、とされる。
 近代市民革命または「近代」そのものにかかわる問題には、立ち入らない。
 三 きわめて興味深いのは、<自由と民主主義(liberal & democratic)>しか残らないという意味ではF・フクヤマ(「歴史の終わり」)と同じなのかもしれないが、ブレジンスキーは<反共産主義>を明確に語りつつ、同時に<自由・民主主義>への強い信頼も語っていることだ(世界がそれでまとまるかを懸念しつつ)。
 興味深いという気持ちは、日本での議論状況と対比して考える、ということをしたときに生じる。
 日本では、「左翼」の少なくとも有力な一傾向は、自民党・安倍政権等を「右」、ファシズム・軍国主義勢力とみて、その際に「民主主義」を有力な旗印にすることがある。その場合に、<人類の普遍的原理>なるものを持ち出して、例えば現憲法97条を削除する自民党改憲案を批判し、<人類の普遍的原理(基本的人権・民主主義等)を守る>勢力対<これを否定する>勢力の対立として政治状況(・理論 ?状況)を描こうとすることがある。要するに<自由・民主主義と平和を守れ>というわけだ。
 しかし、そのような日本の「左翼」は、決して<反・共産主義>を明確にはしていない。<非日本共産党>はあるかもしれないが、<反日本共産党>を明確にしている者はたぶんきわめて少ない。明確に<容共>・<親共産主義>だと思われる者は、上野千鶴子を含めて、少なくない。民進党も、いっときの政治判断かもしれないが、日本共産党との「共闘」を否定しない。
 このように、<反共かつ自由・民主主義>という勢力・理念が日本の「左翼」には少ないように見える。
 一方、「保守」の側はどうか。<反共>では、強調の程度の違いはあれ、一致しているかもしれない。
 しかし、<自由と民主主義>対する立場は、秋月によれば、「保守」の中において一様ではない。すなわち、①<自由・民主主義>は欧米産のかつ上記のアメリカ民主党系論者がそうであるように<アメリカ>のイデオロギーであって、日本国家と日本人は従えない、と日本の独自性を主張する勢力・論者がいる。とともに、②近代国家の諸原理あるいは「自由・民主主義」を日本も継承しているとみて、これの擁護について、全くか殆んど疑問視しない勢力・論者がいる。
 安倍晋三首相は<自由・民主主義・法の支配>といった「価値」の擁護を明言しているが、それは、純粋に上の②であるのか、あるいはそれは、アメリカの意向や共産中国等との違いを意識したりしての「政治的・戦略的」なもので、真意または個人的には上の①なのか。
 自民党の大臣や国会議員の発言や書いたものを見聞きしていると、自民党には、そしておそらくは「保守」論壇にも、①と②が混在している。あえて違いを見出せば、自民党議員には②の方が多く、論壇(要するに「保守」系雑誌)では①の方が多い。
 自民党という「保守」政党の個々の政治家が考えていることと、「保守」論壇の論者の思考には、かなりの乖離があると、秋月には思える。
 というわけで、<反共産主義と自由(リベラル)民主主義>を全く困難なく同居させ、素朴に主張できるアメリカの知識人・論者とは(こう簡単にアメリカをまとめられないだろうが、少なくともブレジンスキーとは)日本の「左翼」・「保守」ともに相当に大きく異なる、と感じられる。
 こんなことを考えさせたのが、ブレジンスキーの書の一部だった。
 これはしかし、重要な論点ではある。
 もちろん、日本には日本の議論があってよく、アメリカでの対立軸等に拘束されることはない。だが、日本の「保守」とは何か、どう主張するのが「保守」なのか、という問題に、あえて「保守」という言葉を使えば、根幹的に関係しているはずだ。
 *参考-なお、秋月瑛二は、以下の条文は削除されるべきだと考えている。1.条文にしては、「法規範」としての意味がないか、不明。2.実質的な憲法制定者が幼児・日本人を<説教>しているようだ。3.明らかに、元来は日本とは無縁の<自然権・天賦人権>論に立脚している。
 **日本国憲法97条「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」

1407/ブレジンスキー: Out of Control(1993)の一部を読む②。

 一 スターリン時代の戦争捕虜の処遇についての「恐るべき記録」にも、言及がある。
 スターリン時代のソ連のドイツ人戦争捕虜は35万7000人が死亡した、日本、ルーマニア、フィンランド、イタリアの戦争捕虜「数万人」の生命も奪われた。ボーランド人戦争捕虜のうち14万人が生きて帰れなかった。全部で「100万人近くの捕虜が死亡した」(p.22)。
 ミンスクの近くにある埋葬場所から1980年代後半に「20万体」の骨が掘り起こされた。よく知られるようになつたのは、1939年にソ連がポ-ランドを占領したあとのポーランド人捕虜についてだ。
ポーランド人将校14,736名が三つの収容所におり、同政治犯10,685名が刑務所にいたが、処理案の文書を示されたスターリンは「書記長」のサインをして了解した。文書(1940.03.05)には、「出頭は求めず、起訴状を見せることなく終わらせる。/「特別な措置によって解決することとし、最高刑を適用する。銃殺。」等と記されていた。ポーランド人は元将校・官吏・工場所有者・憲兵等々で、帰国後にはポーランドの再建にとって重要な人物たちも含まれていた(p.23-24)。
 約2万5000人の被殺戮者の遺体は埋められて、のちに発掘された場所が<カティンの森>だったことから、<カティンの森虐殺事件>と呼ばれるようになった、上に出てくるのは、それにかかわる指令文書のことかもしれない。しかし、ブレジンスキーは「カティン」と明記していないので、はっきりしない。
<カティン事件>についていうと、当初はスターリン・ソ連政府はドイツ・ヒトラー軍によるものとして否定し続け、第二次大戦後になって初めてソ連政府・軍が関与したことを認めた。
 将来の国家(ポーランド)の幹部になる可能性があるものを2万人以上殺害してその芽を<あらかじめ>摘み取っておくとは、想像し難い発想だ。
二 岩波講座・世界歴史23-アジアとヨーロッパ(岩波、1999)はロシア・ソ連に関する独立の論考を含んでいないが、概論である山内昌之「アジアとヨーロッパ-日本からの視覚-」(p.3~)は、冒頭で上に見たブレジンスキー: OUT OF CONTROLを注記しつつ、つぎのように言う。
 「…、革命の残忍さとテロルの普及、ファシズムと共産主義が生み出した人間無視などは、…20世紀につきまとった。ソビエト社会主義のもとにおける厳しい飢饉や大量テロル、ナチズムのユダヤ人ホロコーストなどに象徴されるように、人間の生命が鴻毛のように軽く扱われたのは驚くほかない。…『大量死(メガデス)』というコンセプトで計算するなら、今世紀の大量死者数は1億8700万人ということになる」。
 この数字は、ブレジンスキーが挙げていた数度と同じ。山内はこれにもとづき、つぎのように書く。
 「それは1900年の世界人口の10人あたり1人以上に相当する」。
 1914年-1945年までの戦争、共産主義国内・ファシズム国内およびその後の東欧(東独を含む)・中国・北朝鮮等々によって、20世紀は人口の10分の1を失った。これはまた、彼らが将来に生む可能性のあった人間が生まれなかったことも意味する。
 これらに愕然とする「感性」をもたなければならない。
 歴史に関する学者・研究者でも、<怒るべきときは怒る>、<涙すべときは涙する>という人間的「感性」を率直に示して、何ら問題がないはずだ。

1406/ブレジンスキー: Out of Control(1993)の一部を読む①。

  ズビグニュー・ブレジンスキー(鈴木主悦訳)・アウト・オブ・コントロール(草思社、1994)の「はじめに」と「第一部・組織化された狂気の政治」p.5-p.57。
 第一部は「第一章・大量死(メガデス)の世紀」、「第二章・全体主義のメタ神話」、「第三章・強制的なユートピア」から成り立つ。
 原書は、Zbigniew Brzezinski, Out of Control - Global Turmoil on the Eve of the 21st Century(Charles Scribner's Sons, 1993)
 一 ブレジンスキーにはすでに次の著もあり、「20世紀における共産主義の誕生と終焉」を語っていた。
 Zbigniew Brzezinski, The Grand Failure - The Birth and Death of Communism in the Twentieth Century (Macmillan Publishing, 1989)=ブレジンスキー(伊藤憲一訳)・大いなる失敗-20世紀における共産主義の誕生と終焉(飛鳥新社、1989)
 二 とりあえず上記の部分のみについてだが、すでに考えさせる、または刺激的な叙述に溢れている。
 この人は冒頭(表紙裏)に「ジミー・カーターに捧げる」と書いているようにアメリカの民主党系の学者だ。リチャード・パイプス(1923生)よりも5歳だけ若く(1928年生)、パイプスが共和党系であるのと異なる。但し、この二人ともポーランド生まれの、民族的にはポーランド人だ、と見られる(アメリカに帰化)。
 フーバーとF・ルーズヴェルトの違いを知ると、共産主義についての見方に共和党と民主党には大きな差違があるようにも思える。しかし、ポーランド生まれであることが関係しているのかどうか、ブレジンスキーは(も)<反共産主義>を鮮明にしている。これが、やや驚きでもある第一点だ。
 「はじめに」の最後の段落の文章を、やや長いが引用してみよう。邦訳書p.15-16。
 「20世紀は妄想の政治とおぞましい殺人の世紀でもあった。過去に例をない規模で狂気が制度化され、まるで大量生産を思わせる組織的なやり方で人間が殺された。人類を幸福にするはずの科学の可能性と、実際に歯止めがかけられなくなった政治の邪悪さは、おそろしいほどに対照的である。人類の歴史を振り返っても、殺人がこれほどあちこちで起こり、多くの人命が失われたことはなかった。不合理な目的のために、特定の人間を絶滅させるべく、これほど集中的にかつ持続的な努力が傾けられたこともなかった。/
 たしかに、…。中世には、…。…。しかし、このほかの暴力が激化した例を見ても、それらは基本的には突発事件だった--激しい暴力のために多くの血が流されたが、それは持続しなかったのである。大量虐殺、とりわけ非戦闘員のそれは、…、念入りな計画にもとづく一貫した方針にそって行なわれたわけではなかった。20世紀という時代が政治史に悲惨な足跡を残したとすれば、まさに念入りな計画にもとづく一貫した方針によって大量虐殺が行なわれたことなのである。」
 「20世紀の大量殺人」、「組織化された狂気の時代」の「大量殺戮」によってブレジンスキーは何を意味させているか。彼はその原因を①戦争・局地戦争・内戦、②全体主義>共産主義、③宗教・民族問題に分けて論じているようだが、ほとんどは<共産主義>によるものについてだ。
 ブレジンスキーによれば、①による(「実際の戦闘」による、民間人も含む)死者数は8700万人(広島を含む)。③によるものは、「300-400万人」。そして、②+③の「イデオロギーや宗教上の理由」により「意図的に殺された」人間は「8000万人を超える」(p.28)。
 合計の約1億7000万人は、仏・伊・英の三国の人口数の合計にほぼ等しく、アメリカの人口の3分の2以上(p.28)。
 ブレジンスキーは、20世紀を「大量死(Megadeath)」の時代、と称する(p.17)。Mega とは、10の6乗の数。
 ②の「『強制的なユートピア』をつくろうという全体主義的な試み」によるものについての叙述はかなり詳しい。以下は、抜粋引用的な紹介。
 「道徳的観点からすると、戦争の犠牲者の数さえ見劣りするかもしれないその数字こそ、20世紀を大量死の世紀と正当に位置づける根拠となる」。その数こそが「主義に名を借りた憎悪や感情のせいで、計画的に死に追いやられた無防備な人びとの数」だ(p.20)。
 この「政治的な動機による大量殺人」の原因は、つぎの4人の人間だった。
 すなわち、ヒトラー、レーニン、スターリン、毛沢東。
 「推定」数字だが、「重要なのは規模であって、正確な数字ではない」(p.18))
 ヒトラーによって、約1700万人。レーニンによって、「およそ600万人から800万人」。
 スターリンによって、「控えめに見積もっても、2000万人以上が、おそらくは2500万人が殺された」(p.21)。中国の指導部は「秘密」にしているが、推計では、毛沢東の「文化大革命」により、「100万人から200万人が殺された」(p.26)。
 その他、「東欧、北朝鮮、ヴェトナム、キューバ」で、「少なくとも300万人」。カンボジアでその3分の1、つまり約100万人。
 「共産主義は人類が歴史上最も大きな犠牲を払って失敗した試みだった」(p.27)。
 スターリン時代の戦争捕虜の処遇についての「恐るべき記録」にも、言及がある(p.22以下)。
 <以下、続ける。>

1403/日本共産党の大ウソ26追-宮地健一による項目別推計数。

 粛清とかテロルという語の正確な意味も問題だが、ソ連におけるとくに第二次大戦のこれらの犠牲者の正確な数も、細かく特定することは永遠にほとんど不可能なのかもしれない。
 第26回で引用した稲子恒夫が示す数字自体は正確だと思われる。しかし、それらは「国家保安委員会の(秘)保存文書によるが、実際は赤色テロではるかに多数の者が裁判なしで銃殺」とされているように、裁判手続を経ない殺戮もあるし、明らかに政策的な(明かな政策に原因があると見なしうる)飢餓による死者もある。
 いろいろな書物が-とくにソ連崩壊後に明らかになった資料による文献は-「共産主義」による犠牲者の数を推測している。稲子恒夫が示す数字も基礎になりうる。
 白井聡のように犠牲者数が<ナチズムのそれよりも多い>と言いたいだけだと<統計数>を馬鹿にするのは、自らの、多数の犠牲者に対する無感覚、人間的な「感情」のなさを暴露していると思われる。
 多数の知り得た文献による推計数を、一回だけで逐一紹介する余裕はない。
 今回は、宮地健一「『赤色テロル』型社会主義とレーニンが『殺した』自国民の推計」幻想と批評第1号(はる書房、2004)にもとづいて紹介する。
 日本共産党・不破哲三はレーニン期とスターリン以降の時代を明確に区別しなければならないと強調するが(なぜか、ブレジネフ以降とかゴルバチョフ期とかいった区分をしない)、宮地は上の論考で、この区別を意識して ?、レーニン期に<レーニンが殺した>犠牲者数を「推計」することを追究している。
 宮地健一はソ連崩壊後に発掘・公表された「レーニン秘密文書」の大量データを不十分かもしれないが見ているようだ。
 詳細は「宮地健一のHP」を見ていただく方が早い。
 88-89頁の表の引用・紹介も省略して、そのあとの各見出しを少し修正したものだけを、紹介しておく。説明・根拠等は本文内にある。推計数字は「肉体的殺人と政治的殺人」の両者を含んでおり、かついわゆる<白軍>との「内戦」による死者数を含んでいない、とされる。
 時期は、1917年12月の「チェカ」(政治秘密警察-KGB等の前身)創設~1922年12月のレーニンの政治活動の実質的停止、の間。
 ①反乱農民-「数十万人」殺害。
 ②兵役忌避の脱走兵・徴兵逃れ-「十数万人から数十万人」銃殺・殺害・人質。
 ③コサック身分農民-「三〇~五〇万人」殺戮・政策的餓死。
 ④ペトログラードのストライキ労働者-「五〇〇〇人」逮捕・「五〇〇人」即時殺害。
 ⑤クロンシュタットの水兵・住民-「五万五〇〇〇人」殺戮・銃殺・強制収容所送りによる殲滅。
 ⑥聖職者(ロシア正教等)-「数万人」銃殺/信徒-「数万人」殺害。
 ⑦反ソヴェト知識人-「数万人」肉体的排除。
 ⑧カデット・エスエル・左派エスエル・メンシェビキ・アナキスト-カッコ付き「数十万人」。
  *最終的に「スターリンは、粛清により、これら百数十万人の全員を、亡命した者以外、一人残らず殺害した」(p.101)。
 ⑨飢饉死亡者-「五〇〇万人」。
  *「飢饉死亡者500万人とウクライナの死者100万人」は定説で、「ランメルは…、意図的政策による餓死者数を250万人としている」(p.101)。
 以上によって、宮地は、レーニンが、「最低値として、数十万人を肉体的・政治的な国家テロルの手口で殺したことは間違いない」とする。
 これらの<最高値>は、秋月によると、数百万人になるだろう。
 かりに「最低値」によるとしてすら、レーニン期は5年余なので、単純に5で除して、総計20万人だと毎年平均4万人、総計30万人だと毎年平均6万人、総計50万人だとすると毎年平均10万人を<レーニンは殺した>ことになる(レーニンによる直接指示のほか、、レーニンをトップとする共産党政治局決定による指示を含むはずだ。上記のとおり「内戦」-そして「対外(干渉)戦争」-の戦死者を除く)。
 これは愕然とする数字に違いない。そして、スターリン期にはこれの何倍・何十倍かの規模で<粛清・テロル>が行われた(宮地p.75は論考冒頭で「スターリンは4000万人の大量粛清をした犯罪者だ。しかし、レーニンは偉大な革命家、愛情あふれる、人間味豊かなマルクス主義者で、大量殺人などしていない、と信ずる日本人はまだ大勢いる。ほんとうにそうだったのか」、と書き始めている)。

1399/共産主義史研究者・R・パイプス著作一覧。

 一 Richard Pipes(リチャード・パイプス)は米国レーガン政権時にソ連・東欧問題顧問を務めたらしく、そのゆえに「政治的偏向」を感じる向き(とくに「左翼」)もあるようだが、論理は逆で、ソ連・東欧/共産主義についての優れた専門的研究者だったからこそレーガン政権によって見出され、当時の共和党政権の対ソ交渉・政策に有用な役割を果たしたのだと思われる。
 アマゾン/洋書で検索すると、彼の著書に、単著に限って、以下のものがある。出版社は省略して、同欄に記載された発行年だけを記した(かつ発行年順に並べた)。
 諸外国語に翻訳されている著書もあるようだが(ポーランド語等々)、ドイツ語版2書と、日本語訳書3冊だけを当該書のあとに=として挙げた。
 The Russian Revolution(1991)は900頁を超える大著で詳細だが、日本語訳書は発行されていない。日本の専門研究者は知っているのだろう。
 Russian Under the Bolshevik Regime(1995)も500頁を超える大著で詳細だが、日本語訳書は発行されていない。日本の専門研究者は知っているのだろう。
 日本語訳書・ロシア革命史〔西山克典訳〕(成文社、2000)のあるA Concise History of the Russian Revolution( 1996)は「コンサイス」版で、上の The Russian Revolution(1991)に比べて小さい大きさの400頁余りのものにすぎない。
 Communism(共産主義)をタイトルにするものも、最も簡潔なものの日本語訳書があるにすぎない。
 パイプスの全業績とその意義に照らせば、カルル・ヴォルフレンとかフクヤマ、ハンティントンらと比べて、日本の出版界はパイプスを冷遇している、と感じられる。
 フランス革命について多くは「左翼」=従来の正統派のフランス人の著書を岩波新書として発行している岩波書店も、パイプスについては、いっさい無視している。
 アメリカあるいはヨーロッパの論壇・学界の状況は、日本の出版界に特有の事情によって、誤って又は歪んで伝えられている可能性が高い。
 反共産主義または「保守」の立場の優れた日本人研究者・情報把握者が、アメリカについては少なくとも10人、欧州各国については少なくとも3人程度ずつは存在する必要があるだろう。
 いくら産経新聞を読んでも、月刊正論(産経)その他の「保守」系雑誌を読んでも、全体的でより客観的な状況はさっぱり分からないだろう。このあたりですでに日本の「保守」は「左翼」に敗北しているのかもしれない。
 二 R・パイプス著作一覧
 Karamzin's Memoir on Ancient and Modern Russsia(1959)
 Russian Intelligentsia(1961)
 Social Democracy and the St. Petersburg Labor Movement, 1885-1897(1963)
 = レーニン主義の起源〔桂木健次・伊東弘文訳〕(河出書房新社、1972)
 Struve: Liberal on the Left, 1870-1905(1970)
 Struve: Liberal on the Right, 1904-1944(1980)
 U.S.-Soviet Relations in the Era of Detente: Tragedy of Errors(1981)
 Survival Is Not Enough, Soviet Realities and Americas Future(1986)
 Legalized Lawlessness: Soviet Revolutionary Justice(1986)
 Russia Observed: Collected Essays on Rossian and Soviet History(1989)
 The Russian Revolution(1991)
 Communism: The Vanished Specter(1994)
 Russian Under the Bolshevik Regime(1995)
 Three "Whys" of the Russian Revolution (1997)
 =Drei Fragen der Russishen Revolution: IMW-Vorlesungen zur modernen Geschichte Zentraleuropas(1995)
 A Concise History of the Russian Revolution(1996)
 =ロシア革命史〔西山克典訳〕(成文社、2000)
 Russia under the Old Regime: Second Edition(1997)
 Russian Revolution 1899-1919(1997)
 The Formation of the Sovietnion: Communism and Nationalism, 1917-1923, Revised Edition (1997)
 The Unknown Lenin: From the Secret Archive(1999)
 Property and Freedom(2000)
 History of Communism: A Brief History(2002)
 = Kommunismus: Kleine Weltgeschichte(2003)
 Communism: A History(2003)
 = 共産主義が見た夢〔飯嶋貴子訳〕(ランダムハウス講談社、2007)
 Looking Forward to the Past - The Influence of Communism After 1989(2003)
 The Degaev Affair: Terror and Treason in Tsarist Russia(2005)
 Russian Conservatism and Its Crisis: A Study in Political Culture(2006)
 Vixi: Memoirs of a Non-Belonger(2006)
 Alexander Yakovlev: The Man Whose Ideas Delivered Russia from Communism(2015)
 Soviet Strategy in Europe〔刊行年不明〕
以上。

1395/R・パイプス・共産主義の歴史-池田信夫著による。

 池田信夫・使える経済書100冊-『資本論』から『ブラック・スワン』まで(NHK出版、2010)は、一冊として、R・パイプスの Communism - A History(2001)を取り上げている。但し、原著ではなく、飯嶋貴子訳の<共産主義が見た夢>というタイトルに化けさせられている ?邦訳書だ(ランダムハウス講談社、2007)。
 わずか2頁余りでの言及で、しかも、紹介と池田自身の論評の部分との境界がはっきりしない。
 冒頭にある以下の二文は、明らかに紹介の部分。
 「本書の共産主義の評価は全面否定だ」。
 「特にロシア革命について、『レーニンは正しかったが、スターリンは悪い』とか『トロツキーが後継者になっていたら……』という類の議論を一蹴する」。
 この上の文について池田はとくにコメントしていない。だが、日本共産党流の『レーニンは正しかったが、スターリンは悪い』とか、かつての「新左翼」流の『トロツキーが後継者になっていたら……』とかの議論が日本にあることを知ったうえでの紹介ではないか。
 つぎの文は、明確ではないが、(パイプスの主張の)紹介のようだ。
 「一部の陰謀家によって革命を組織し、その支配を守るために暴力の行使をためらわなかったレーニンの残虐さは、スターリンよりもはるかに上であり、ソ連の運命はレーニンの前衛党路線によって決まったのだ」。
 R・パイプスの上掲著の内容の詳細な記憶はないが、ここにも、日本共産党のレーニンをめぐる歴史理解とは全く異なる理解が示されている。しかも(池田の読み方が混じっているかもしれないが)、レーニンによる前衛党論・共産党組織原理(分派の禁止等)に(も)根源がある、という理解が示されている。
 つい最近、いかなる事情を背景にして「分派禁止」の方針が出された(決してレーニンの頭の中からのみ生じたのではない-したがってソヴィエト・ロシアに特有の事情があったのであり一般化できない)のかをある本で(いま書名を忘れた)読んだばかりだ。立ち入らない。
 つぎの文あたりから、パイプスの主張・理解に刺激をうけての、池田信夫自身の見解・コメントが述べられてくる。
 なぜ共産主義は広い支持を受けたか。「筆者も認めるように、財産や所有欲を恥ずべきとする考え方は、仏教にもキリスト教にもプラトンにも広くみられる」。
 以下は、池田信夫の<世界>に入っている。
 「ハイエク流によると、…〔遺伝子に組み込まれた〕部族感情のせいだろう。つまり人間は個体保有のために利己的に行動する本能をもつ一方、それが集団を破壊しないように過度な利己心を抑制する感情が埋め込まれているのだ」。/マルクスは「人間が利己的に行動するのは、近代市民社会において人類の本質が疎外され、人々が原子的個人として分断されているためであって、その矛盾を止揚して『社会的生産』を実現すれば、個人と社会の分裂は克服され、エゴイズムは消滅すると考えていた。人間は社会的諸関係のアンサンブルなので、下部構造が変われば人間も変わるはずだった。/しかし現実には、利他的な理想よりも利己的な欲望のほうがはるかに強く、下部構造が変わっても欲望は変わらないことを、社会主義の歴史は実証した」。
 そのあと、人間の利己心中心で利他心が全くないと想定する「新古典派」も実証科学としては検証に耐えない、「市場の効率を支えているのは、実は利他的な部族感情によるソーシャル・キャピタルなのである」、という池田<節(ぶし)>が続く。
 R・パイプスには、Property and Freedom(財産(所有権)と自由)(1999)という本もある。
 関心を持たざるをえないのは、ホッブズやルソーについてもそうなのだが、マルクスやレーニンにおける「人間像」だろう。彼らは「人間」をどのような本性・本質を持つものと見ていたのか。
 財産欲・所有欲を持つのは資本主義社会特有の「人間」で「社会主義」化によって変わる、と考えていた(との観念を抱いていた)のだとすれば、つぎのような連想も出てくる。
 スターリンに顕著な党員の「粛清」も党員・抵抗者に対する「テロル」(大量殺人=肉体的抹殺)も、利他的な「真の」社会主義的「人間」に改造されていない(社会主義・共産主義にとっては邪魔な)人間は殺戮しても構わない、なぜなら、いずれ消失すべきブルジョア資本主義に汚染された「利己的」人間は「真の」人間ではないのだから、という<人間観>によるものではないか。
 数百万人、数千万人の単位で「強制労働収容所」に送り込み、また「処刑」(肉体的抹殺)をできた人間とそれを中心とする共産党組織のもつ<人間観>とは、おそらくは現在の日本人のほとんどの、想像を絶するものに違いないだろう、と思われる。
 日本共産党の真面目な党員ならば、反日本共産党で知られた人物がその党員の者しか知らない状況で死に瀕していることに気づいたとき、誰にも気づかれないと確信すれば、放置してそのまま死なせてしまうのではないか、とかつてこの欄で書いたことがある(だいぶ前だ)。
 「敵」から生命を奪ってもよいと究極的には考えているはずの日本共産党員だから、明確な反共産主義者に対する<不利益扱い>や<いやがらせ>・<いじめ>など、いかほどの疚(やま)しさも伴わないに違いない。ひょっとすれば、不当な(不平等な)不利益扱い、いやがらせ・いじめとすら意識しない可能性もある。

1394/日本の「左翼」-白井聡/アラン・ブロックの著。

 一 日本共産党綱領(2004)は、つぎの数字を明示的に掲げる。
 日本の「侵略戦争」は「2000万人をこえるアジア諸国民」と「300万人をこえる日本国民」の「生命を奪った」(+「…原爆が投下され、その犠牲者は20数万にのぼり…」)。
 「ファシズムと軍国主義」を糾弾し、同党の「たたかい」を称揚するために、かかる数字を挙げて、いかに多くの人命が犠牲になったか、と言いたいのだろう。
 この数字自体に疑問はないとしても、では共産主義(者・体制)によっていかほどの人命が犠牲になったのかも示さないと、歴史を公正に見ることにはならないだろう、と思われる。
 これに関連して、クルトワ等・共産主義黒書の推測では共産主義の犠牲者数は一億人(10,000万人)を下らない、という数字をこの欄でも書いたことがある(数字を確認しない)。
 二 白井聡は、このような統計的数字を挙げることに、感情的に反発している。
 白井聡・未完のレーニン(講談社、2007)は、そのあとがき(p.229-)で、まさにクルトワ=ヴェルトの共産主義黒書への反発を最初に記したあとで、次のように書く。引用に値する文章だ。
 ・「マルクス主義・共産主義思想を単純に断罪し、…世界で最も憎むべきものとして認知させよう」という「今日声高に主張されている断罪の言説の多くが拠って立つ根拠は、それに関して何人の人が死んだか、その犠牲者はナチズムのそれよりも統計的に多かった、ということ以上のものではない」。
 ・「…反共主義者と全体主義的政治機構の首領は、暴力による人間の死という問題を統計的にしか考えることができない、という点で奇妙にも一致している」。以上、p.230。
 このあと続けて白井は、このような状況は現在の「精神的な頽廃」だろう、とも言っている。
 この白井聡という人物は、いかに<反・共産主義>を嫌悪しているのだとしても、正常な感覚の持ち主だとは、したがって、まともな学者だとは到底思えない。
 反マルクス主義・反共主義の言説の「多くが拠って立つ根拠」は共産主義の「犠牲者はナチズムのそれよりも統計的に多かった、ということ以上のものではない」 ? ?。
 こんな馬鹿なことを秋月瑛二を含む「多く」の者が述べているわけではない。
 そのあとの文章もひどい決めつけ方だ(「全体主義的政治機構の首領」とは何を指すのか不明だ)。人の「死」を「統計的にしか考えない」、というような罵倒でもって、反共産主義者を批判してはならない。
 ついでにいうと、クルトワ=ヴェルト・共産主義黒書について白井はこうも言う(p.229)。
 マルクス主義・社会主義革命を断罪し、「新自由主義化した資本主義や多くの国々でおよそ健全に機能しているようには見えない議会制民主主義を全面肯定する」ことが「正義であると結論すれば」、歴史の教訓が得られるとは思えない。
 白井聡に「諭して」おくが、マルクス主義・共産主義を厳しく批判することと、現在の、あるいは今日の日本の資本主義や「議会制民主主義」を「全面肯定」することとはまるで異なる次元の問題だ。クルトワとヴェルトの本は、上のような「結論」を示してはいないはずだ。
 2006年にこんな幼稚なことを書いていたことを、恥ずかしくは思わないだろうか。
 かくも明確な<反・反共主義>ぶりをおそらくは最初の刊行物で明らかにした白井聡が、「左傾」した日本の出版界・論壇等で受容されているらしい経緯・理由も、よく分かる。
 なお、白井聡の学生時代の指導教授は、加藤哲郎らしい。この、1990年前後に日本共産党から離れた(党員ではなくなった)加藤の文献は、日本共産党に関連して少なからず所持して(かつ一読はして)いるので、いずれ言及することがある。
 三 つぎの「統計」を述べている書物がある。レーニンを上掲書で扱った白井聡がまるで関心をもっていない、レーニンの時期の数字だ。
 アラン・ブロック・対比列伝/ヒトラーとスターリン(鈴木主悦訳)(草思社、2003)第一巻p.180は「ほとんど信じられないけれども充分な確証のある数字」の、この書が挙げる「最初の例」として、こう書いている。原著は、Alan Bullock, Hitler and Stalin - Parallel Lives (Vintage, 1993)。ロシア・ソ連に関する叙述で、以下の「内戦」とは、ロシアでの主として白軍・赤軍間の「戦い」だ。
 「子供を含む推定1000万人の男女が、1917年から21年にかけての内戦で生命を落とした。第一次大戦で死んだ軍人と民間人を加えれば、1200万人の人命が失われたのである。人口統計学者によれば、1923年のソ連の人口は、それ以前の数値にもとづいて予測される数字を3000万単位で下回っているという」。
 1200-1000で、第一次大戦でのソ連の軍民死者は200万人、ということになるのだろう。
 これら数字の原因があげてレーニンにある、と主張してはいない。だが、少なくとも「内戦」については(むろんこれはロシア革命が起こったがゆえに生じている)、個人名に限るとかりにすれば、レーニンに最も原因がある。

1393/共産主義者/ハーバート・ノーマン-江崎道朗著等。

 一 先だって、中野利子が肯定的に評価していたH・ノーマンについて、もっぱら記憶に頼って、「ノーマンはGHQの日本占領初期の『協力者』であり、木戸幸一、都留重人らとも親交があり(近衛文麿を最後には見放したともされ)、日本共産党がいつからか『日本国憲法の父』とか称し始めた鈴木安蔵を見いだして憲法草案作成へと誘導した、ともされる日本にとって<重要な>人物」だ、「ノーマンの「共産主義者」性は、占領初期のGHQとも通底するところがあった」、と書いた。
 江崎道朗・アメリカ側から見た東京裁判史観の虚妄(祥伝社新書、2016)を全読了したが、第6章「日米開戦へと誘導したスパイたち」の中でハーバート・ノーマンについて本格的な言及があった。ノーマンは日本にとってはGHQ占領初期においてのみ重要な人物ではなかったし、江崎はノーマンを「おそらく…共産党の秘密党員」とする。以下、p.154以下。
 ・1925年設立のキリスト教布教目的の太平洋問題調査会(IPR)は、アメリカ共産党に乗っ取られた。1938年8月の企画会議には高柳賢三やハロルド・ティンパリーらが出席した。
 ・その後の会議で日中戦争に関する「調査ブックレット」の発行を決定した。共産党員を含む三人の編集委員が冊子執筆の依頼をした一人がハーバート・ノーマンだった。
 ・「おそらくイギリス留学中に共産党の秘密党員」になっていたノーマンは1940年にIPRから『日本における近代国家の成立』を刊行した。その本は、日本の対中国戦争は「日本自体が明治維新後も専制的な軍国主義国」だったからと説明し、コミンテルンの「日本=ファシズム国家」論を主張した。
 ・ルーズヴェルト大統領らは「このノーマン理論」を使って「対日圧迫外交を正当化」した。その他、IPRの「調査ブックレット」シリーズは「アメリカの対日占領政策の骨格」を決定した。
 ・マーシャル(陸軍参謀総長)の指示による軍からの委託によって、IPRは、種々の「反日宣伝映画」や「米軍将校教育プログラム」を軍・政府に大量に供給した。
 二 このノーマンについては、すでにこの欄の2008年06月08日に、中西輝政・日本の「岐路」(文藝春秋、2008)所収の「『冷戦』の勝敗はまだついていない」(とくにp.312-3)から引用して、つぎのように紹介していた。そのときの文章を再度ほとんどそのまま引用する。
 中西は「コミンテルン工作員」であるハーバート・ノーマンのしたことを、四点にまとめる(p.312-3)。第一。石垣綾子(スメドレーの親友)・冀朝鼎・都留重人らとともに、アメリカ国内で「反日」活動。日本に石油を売るな・日本を孤立させよ等の集会を開催し、1939年の日米通商航海条約廃棄へとつなげた。
 第二。GHQ日本国憲法草案に近似した憲法案を「日本人の手」で作らせ、公表させる「秘密工作」に従事した。この「秘密工作」の対象となったのが鈴木安蔵。鈴木も参加した「憲法研究会」という日本の民間研究者グループの案がのちにできる。
 第三。都留重人の縁戚の木戸幸一を利用して、近衛文麿の(東京裁判)戦犯指名へとGHQを動かした。近衛文麿は出頭期日の1945.12.16に自殺した。
 第四。「知日派」としての一般的な活動として、GHQの初期の日本占領方針の「左傾」化に大きな影響を与えた。
 三 加藤周一編・ハーバート・ノーマン-人と業績(岩波書店、2002)という本がある。
 さすがに岩波書店の本らしく、ノーマンを擁護しかつ賛美するもので、日本人に限ると、加藤周一(九条の会呼びかけ人の一人)の他に、以下の者が執筆している。
 中野利子、長尾龍一、都留重人、丸山真男、遠山茂樹、鹿野政直、奈良本辰也、中野好夫、色川大吉、田中彰、陸井三郎、芝原拓自、高木八尺、西村嘉、羽仁五郎、兵藤釗、松田智雄、松尾尊允、渡辺一夫。
 長尾龍一は「保守」派らしくもあるのだが、オーウェン・ラティモアについての(とくに批判的ではない)本もかつてはある。
 渡辺一夫は大江健三郎の学生時代の教授で(フランス文学)、最近に平川祐弘が義父・竹山道雄の「知識人」仲間として ?(思想に関係なく ? ?)採り上げている。渡辺一夫が「戦後知識人の代表」とされ、学生時代の大江健三郎も写っている<渡辺ゼミ>の写真が堂々と掲載されているのには驚いた(月刊Hanada9月号p.273、p.271)。

1392/共産主義とファシズムに関する「強迫観念」。

 市販本・新しい歴史教科書/中学社会(自由社、2015)の通算項目番号74は「共産主義とファシズムの台頭」というタイトルのもとに、さらに「2つの全体主義」との小項を立て、「欧州で生まれた二つの政治思想」、すなわち「共産主義」と「ファシズム」の二つは「国家や民族全体の目的の実現を最優先し、個人の自由を否定する思想を核心としているので、全体主義とよばれた」と書く。そして、「全体主義は…、…、20世紀の人類の歴史に大きな悲劇をもたらした」と続ける(p.226)。
 また、同書は、「2つの全体主義の犠牲者数」は「2つの世界大戦の戦死者数」を「はるかに上回り、…」とも書いている(p.271)。
 しかし、同教科書の採択率等からして、上のような世界歴史観がどの程度の中学生たちの意識に影響を与えているのかは、疑わしいところがある。立ち入らないが、ファシズム(またはヒトラー・ナチズム)の残虐さを強調しつつ、社会主義・共産主義を(例えばロシア革命を)美化して描き、ソ連の崩壊を最大級の事件としては全く扱っていない、山川出版社の高校・世界史教科書を一瞥したことがある。
 日本にはかつて民社党という政党があり、「左右の全体主義を排する」ことを綱領に掲げていた。共産主義とファシズムを「全体主義」で括るという歴史観だったとみられ、鋭くかつ正しいものを含んでいた、というべきだろう。
 しかし、同党の歴史観、考え方は、日本人全体や、政治にかかわる多くの人々に受容されていたかというと、疑わしいと思われる。
 つまり、圧倒的に、または大勢としては、ファシズムとコミュニズム(共産主義)は、対立するものとして、あるいは真反対の対極にある ものとしてすら、理解されたし、理解されているのだ。
 二 この欄で、エルンスト・ノルテが歴史把握についての「イデオロギーの障壁」について語っている部分を邦訳した。
 分かりやすい文章ではないが、ノルテのいう<二つのイデオロギーの障壁>とは、秋月の理解では、つぎの二つをいう。
 ①関心と警戒を、ファシズム(ナツィス)に集中させなければならない。
 ②共産主義(コミュニズム)を批判してはならず、それとファシズムとを比較して(例えば類似性を語って)はならない。
 ドイツでは、②のようなことをすれば、大切な①を没却してしまう、という考えが少なくとも有力にあるようだ。
上のような状況は日本にもあるのであり、日本共産党や「左翼」はしきりと<反ファシズム>または<反軍国主義>を主張する。
 日本の軍国主義・ファシズムに関心と警戒を集中させる。そして、「共産主義」の脅威・危険性にはできるかぎり触れない。
 戦時中の日本を「ファシズム」(の一種)と規定するのが一般的かどうかは不分明だが(丸山真男や上の山川教科書は日本の「ファシズム」を語る)、中国と中国共産党が日本について「軍国主義(者)」という語を使っているためか、反「軍国主義」、「反軍」の「左翼的」意識・主張はかなり一般化しているだろう。
 最近にフュレの著書(幻想の終わり)の一部を紹介して書いたように、また次回に「敵対的近接」を訳出する際のフュレも語っているが、ファシズム・ナチィスはとっくに消滅しているはずなのに、「左翼」は、日本共産党も、「ファシズム」のあるいは「軍国主義」の再来をしきりと警戒し、ファシズム・軍国主義の体現者を「ファシスト」とか「ヒトラー」とか「好戦者」とレッテルづける。
 昨年の「戦争法案」というレッテル貼りもそうだが、安倍晋三がヒトラー呼ばわりされたり(鼻の下にヒゲのあるヒトラーの似顔絵を模して描かれたり)、橋下徹が「ハシスト」と呼ばれたりする。大阪府の共産党委員会幹部は、対「維新の会」の、自民党を含む共闘を「反ファッショ統一戦線」だと述べたことがあった。
 彼ら「左翼」にとっては、反ファシズム、反軍国主義と主張しておけば自らの立場を正当化でき、有権者多数の維持を獲得できる(かもしれない)、のだ。
 その際の彼ら「左翼」、日本共産党を含む、の<標語>は、「平和」であり、「民主主義」だ。また、ファシズムによる人権抑圧に着目して「自由」も用いられる。ファシズム・独裁に対する、個人的「自由」ということになる。
 かつてこの欄で<民主主義とは、「左翼」の標語だ>と書いたことがあるのは、このような脈絡による。
 しかし、上のような論法、思考方法、思考図式は「誤り」だ、少なくとも日本共産党という日本の共産主義者たちが「戦略」的に採用しているものだ、と言わなければならない。
 日本共産党は当面は「民主主義革命」を目指しているのであり、それを達成するための論法・戦略として、「民主主義・平和・自由」を語っている。これは1935年のコミンテルンも、その後のアメリカ共産党も採用した戦略であって、社会主義・共産主義を明確に支持する者ではなくとも(そんな日本人は少ないに決まっている)、当面、「民主主義(の徹底)」とか「平和(・九条2項の維持)」とか「自由(侵害の防止)」で一致する者たちを、緩やかにでも日本共産党の支持者にして、党勢を拡大して、「民主主義革命」に一歩でも近づけようとしているわけだ(国民連合政府とかはその一里塚)。その目的だけではなく、ともかく政権・政治・政情を混乱させたい、という本能にもよっているが。
 ファシズム(・軍国主義)対民主主義。この思考図式で世界・国家・社会を見ている者は少なくない。それこそが、日本の「左翼」だ。その背後には、日本共産党がいる。
 この図式によるとかつての社会主義諸国は「民主主義」の側になつてしまう。何と、ドイツ「民主」共和国(東ドイツ)という国があったし、朝鮮「民主主義」人民共和国という国が現在でもある。
 ソ連崩壊後は、日本共産党も「左翼」も、表向きは現実にあった「社会主義」と「民主主義」との関係について、口を少しは噤んでいるようだ。しかし、「真の民主主義」、「民主主義の徹底」を主張し、現在の政権与党・安倍政権を<反民主主義>と見なしている点では、教条的な図式に乗っかったままだ。
 上の二つの「障壁」は歴史認識にも大きな影響を与えている。ファシズムあるいは日本軍国主義に「悪」があったのであり、その再来を防止するためには、その「罪業」を繰り返し暴き出し、記憶にとどめ、かつつねに覚醒させなければならないのだ。
 ここに産経新聞のいう「歴史戦」があったはずだ。しかし、昨年の安倍70年談話は「過去の歴代の内閣の立場〔村山談話を含む〕を踏襲する」、<事変、侵略、戦争>は<もはや決して行わない>と明言することによって(主語は明らかだ)、少なくとも数十年間、日本国家としての歴史認識を固定してしまった(むろん個々の国民の歴史観・歴史認識がそれに拘束されるいわれはない)。
 産経新聞も、おそらくは月刊正論編集部も、この談話を基本的に擁護することによって、自らが掲げていた「歴史戦」に敗北したことを自白したに等しく、<骨が抜かれた> 報道・出版媒体であることを明らかにした。
 三 Richard Pipes, Drei Fragen der Russischen Revolution (Passagen Verlag、1995/ドイツ語版1999、ドイツ語訳者・Udo Rennert、たぶん未邦訳ー「ロシア革命の三つの問題」)は冒頭で、<ロシア革命がなければ、きわめて高い蓋然性で、国家社会主義(ナツィス)はなかった、おそらく第二次大戦はなかった、たぶん冷戦もなかった>と言っている(p.11。この本はウィーンでの講演記録)。
 エルンスト・ノルテもロシア革命とドイツ・ファシズムとの関係に注目していて、基本的に同意するF・フュレも、前者の結果が後者だとする単純な理解を疑問しつつ、両者の間に関係があることを率直に認めている。
 アメリカ人のリチャード・パイプスも似たようなことを言っているので、やや驚いた。
 国は変わって日本では、共産主義一般でなくとも少なくともロシア「革命」を成功させたロシア・共産主義(ボルシェヴィズム)とドイツ・ファシズム(なお、ノルテは、「ファシズム」はイタリアについてのみ、「ナツィズム」をドイツについて使うことがある)の関係・「近接性」について考察することがほとんどないように見える。
 ファシズムと共産主義を比較してはいけないという「タブー(禁忌)」がまだ強く生きているようだ。反ファシズム論がもつ「強迫観念」かもしれない。
 なお、上のノルテの①に対して、いや日本の軍部は「よいことを(も)した」、日本の戦争は「正義」の戦争だった(そういう面もあった)とだけ<保守>の側が反発するのは、最近感じることだが、日本共産党・「左翼」の土俵に乗っかっている面がないではないと思われる。かつての歴史を同じ次元で、反対から見ているだけではないか、という気がしないでもない。つまり、②の視点、つまり「共産主義」という観点からもかつての歴史を理解しようとしなければならないのではないか。この観点からの歴史研究が必要だ。
 もっとも、南京事件、中国共産党の動きなど、「共産主義」という観点を含めないと理解できない事象、歴史問題があり、すでに研究されてはいるのだが。
 元に戻っていうと、ロシア革命は1917年(大正6年)でヒトラー・ナツィスの政権掌握は1933年という時期的差違はあるが、いずれも第一次大戦の影響を受けたものであることに変わりはない。ロシア革命は第一次大戦の途中で厭戦気分とともに起きており、その10月革命は第一次大戦の当事者・ドイツ帝国がレーニンの国内通過を許容しなければ起こらなかっただろう。ドイツは対ロシアの戦争を有利にするためにレーニンを利用した、そのレーニンは大戦後にドイツを敵視し、ワイマール・ドイツを怯えさせるようなソ連を作ってしまった、というわけだ(但し、ラパッロ秘密条約、独ソ不可侵条約など、両国の関係は複雑だ)。
 ボルシェヴィズム(ロシア・共産主義)とヒトラー・ナツィスの「暴虐」は、世界大戦による「殺戮」の日常化の記憶と無関係ではないともいわれることがある。その当否は別として、ヨーロッパ文明の行き着いた先、その二つの鬼子だとロシア共産主義とナツィズムが言われることもあるように、第一次大戦やそれを生んだ「ヨーロッパ」という母胎をもつことですでに、両者には共通性・類似性があるのではないか。
 また、ノルテらも言及しているように、ロシア革命の成功とレーニン・スターリンの「ボルシェヴィキ」帝国の存在なくして、ヒトラー・ナツィスは誕生しなかったにも見える。詳しくは知らないが、ヒトラーがある程度は「共産主義」の脅威・恐怖を利用したのはたしかだろうし、一方では「国家社会主義労働者党」というナツィス党の名称にも見られるように、反現状・反西欧資本主義気分によって支えられていたかにも見える。ここで、ヒトラー・ナツィスの政権奪取を社会主義者(社会民主党)と手を組んで断固阻止しようとはしなかったドイツ共産党も、視野に入れる必要がある。
 書くのに疲れてきた。さらに「勉強」はしよう。いずれにせよ、共産主義(コミュニズム)とファシズムの関係は、日本共産党や日本の「左翼」が図式的かつ単純に理解しているようなものではない、と断言することができる。それはまた、日本の戦前あるいは昭和戦前の北一輝等々の「思想」の性格づけ・位置づけがたやすくはないことと同様だと思われる。
 <イデオロギーの障壁を超えて>、<強迫観念から自由に>、歴史は総合的にかつ多面的に把握されなければならない。

1391/日本の「左翼」-中野利子/カナダ人ノーマン。

 江崎道朗・アメリカ側から見た東京裁判史観の虚妄(祥伝社新書、2016.09)を半分程度、第四章の終わり(p.125)まで読了。月刊正論(産経)にどの程度掲載済みだったのかは確認していない。
 第四章はアメリカ共産党のルーズヴェルト政権下での活動に関するもので、現在の日本共産党の基本方針と酷似している。
 アメリカ共産党はキリスト教団体への影響力も強めたのだったが、その際に江崎はp.120-1で中野利子・外交官E・H・ノーマン(新潮文庫、2001/原著1990)の一部を引用して参照資料としている。
 中野著は江崎著の最後の主要参考文献にも掲載されているので、中野利子は江崎道朗に似た政治的立場の人物だと誤解させかねないところがあるように思われる。
 中野利子・外交官E・H・ノーマンという書物は、著者が日本共産党員ではなかったかと疑われる中野好夫の娘だということを差し引いても、徹底的に「外交官」E・H・ノーマンを擁護するものだ。
 中野の本の最終章は「ノーマンの復権」で、1990年に、カナダ政府が歴史学者ベイトン・ライアンに委嘱して行った調査にもとづき、<ノーマンが(ソ連またはコミンテルンの)スパイではなかった>ことが連邦議会でも確認・承認された、という。
 これをもって中野はノーマンは例えば卑劣な人間ではなかったと言いたいようなのだが、しかし、問題は「スパイ」だったか否かではないだろう。また、どこかの国の「共産党」の正規の構成員(党員)だったかどうかも、本質的なことではないだろう。
 中野利子自身が書いている-「どの国の共産党にも加入していなかった」ものの、「あらためて書くまでもないが、ケンブリッジ、ハーヴァード、コロンビア各大学において、それぞれの時期に程度の差こそあれ、彼は明らかに共産党のシンパサイザーだった」(p.299)。
 カナダ外務省に「入省以前のノーマンのコミュニズムへの共感は想像以上であった」(p.300)。
 1952年の(カナダ政府による)「二回目の審問によって、彼が学生時代には共産党の同調者〔ふりがな-フェロウ・トラベラー〕であったとわかっても」外務省公務員としての彼への信頼は(アメリカと違って)揺るがなかった(p.303)。
 中野はノーマンが自ら「入党した」と手紙に書いたことを認めつつ、本心ではなかった、かの書き方もしている(p.301)。
  中野の書き方、その文章から滲み出ているのは、ノーマンは「スパイ」ではなかった、党員でもない「共産主義者」(共産党同調者も含む)であったことがなぜ論難されなければならないのか、という気分だ。
 中野利子の共産党・コミンテルンに対する擁護・支持の気分は、つぎの文章でも見られる-「価値観の目盛りが反ファシズムであった1930年代に、ファシズムの成立を防ぐための連合戦線、統一戦線の政策を提唱し、つらぬいたのが各国の共産党だった」(p.302)。
 この統一戦線(人民戦線)戦術はソ連・スターリンのもとでのコミンテルン1935年大会により採択されたもので、中野がスターリンをどう評価しているかが気にはなるが、中野は立ち入っていない。また、日本共産党もこの1935年のスターリンは批判しない(都合よく ?、1936-7年辺りから「道を踏み外した」と主張している)のだが、この点もまた別に触れる。
 そして、中野利子はノーマンの自殺は①疑惑をかけられたことに対する抗議-つまり無実主張、②有罪告白-死んで詫びる、のいずれだったかと発問し、後者説を支えるかのごとき「偽造遺書」なるものを疑問視している。
 最後に中野は書く-ノーマンを結果として自殺に追い込んだ「マッカーシズムは、形はコミュニズム批判だったが、…実は、多元的価値観に対する攻撃がその実質だった…」(p.312)。
 このように、中野利子が「左翼」・「容共」の人物であることは明らかだ。彼らにとって当然だろうが、<共産主義>を悪いものだとは考えておらず、<共産主義者>であっても何ら疚しいところはない。ただ、「スパイ」には抵抗感があるようだ。
 最後の文からは、「共産主義」もまた「多元的価値観」の一つとして守られなければならない、という考え・主張もうかがえる。
 ところで、あらためて記しておくが、ノーマンはGHQの日本占領初期の「協力者」であり、木戸幸一、都留重人らとも親交があり(近衛文麿を最後には見放したともされ)、日本共産党がいつからか「日本国憲法の父」とか称し始めた鈴木安蔵を見いだして憲法草案作成へと誘導した、ともされる日本にとって<重要な>人物だ。
 ノーマンの「共産主義者」性は、占領初期のGHQとも通底するところがあったことを忘れてはならないだろう。
 ノーマン、さらには尾崎秀実、リヒャルト・ゾルゲ、さらには戦前・戦中に日本にいた「共産主義者」たち…。この欄でまだ書いたことはたぶんないが、これらについての<勉強>もかつてよりは遙かに行ってきている。

1389/日本の保守-田村重信(自民党)。

 筆坂秀世=田村重信(対談)・日本共産党/本当に変わるのか-国民が知らない真実を暴く(世界日報社、2016)は、筆坂秀世と自民党政務調査会審議役という田村重信の対談本で、田村重信が安保法制等に関する著書も出している、国会議員ではない有力な論者なので、日本共産党について語られていることが関心を惹く。
 しかし、自民党という政権与党の論客であるわりには、日本共産党の理解に、きわめて大きい、致命的とも思われる誤りがある。田村は、p.55-56でこう言う。
 ・ソ連批判が生じると「ソ連を美化していた」のを「今度は独立路線」だと言う。
 ・「最近は」、結局、「マルクス、エンゲルス」だという。「ソ連も北朝鮮も参考にするものがなくなつたから、原点に戻ってマルクスだと言っている」。
 田村重信は自民党きっての理論家らしく思えてもいたが、日本共産党についての理解は相当にひどい。自民党自体については別に扱いたいが、自民党議員や閣僚等の日本共産党に関する認識もまた相当に怪しいのだろうことをうかがわせる。
 第一に、「ソ連を批判されると…」というのがいつの時期を指しているのか厳密には不明だが、日本共産党は、ソ連は現存の又は生成途上の「社会主義」国家だとは見なしつつ、1960年代後半には、ソ連や同共産党との関係では(中国ついても同様)<自主独立>路線をとっていた。ソ連をかつては全体として「美化」していたかのごとく理解しているようで、正確さを欠いている。
 重要な第二は、日本共産党はソ連崩壊後決して、レーニン・スターリンを飛び越して単純に「マルクス、エンゲルス」に戻れ、と主張しているのではない。「原点に戻ってマルクスだ」と主張していると理解するのは正確でない。
 たしかに不破哲三には<マルクスは生きている>という題の新書もあり、日本共産党はかつてのようにはレーニンの議論全体を採用していないところがある(例えば、「社会主義」と「共産主義」の区別)。しかし、今なおレーニンを基本的には肯定的に評価しており、何度もこの欄で紹介しているように、<スターリンとそれ以降>の歴代指導者が「誤った」と理解・主張しているのだ。
 なぜ日本共産党はレーニンを否定できないのか。それはすでに簡単には記述したし、もっと詳しく明確にこの欄でも書いておく必要があるが、レーニンを否定すれば、レーニン期に作られた(第三)コミンテルンの支部として誕生した「日本共産党」自体の出生も否定することになるからだ。この党が、戦前の「日本共産党」とは無関係の新しい共産主義政党だと主張していないかぎりは。
 自民党の有力な論者がこの辺りを理解していないとは、まったく嘆かわしい。
 現在の日本の「保守」の、日本共産党や共産主義についての理解・認識のレベルの決定的な低さを、田村重信の発言は示しているようだ。ため息が出る。

1388/日本共産党の大ウソ25-日本共産党とレーニン。

 一 日本共産党2004年綱領(23回党大会採択)は、「1917年にロシアで起こった十月社会主義革命」なるものの存在とその肯定的評価を当然の前提として、こう書く。
 ・「今日、重要なことは、資本主義から離脱したいくつかの国ぐにで、…、『市場経済を通じて社会主義へ』という取り組みなど、社会主義をめざす新しい探究が開始され、…、二一世紀の世界史の重要な流れの一つとなろうとしていることである。」 
 ・「市場経済を通じて社会主義に進むことは、日本の条件にかなった社会主義の法則的な発展方向である。」
 ・「最初に社会主義への道に踏み出したソ連では、レーニンが指導した最初の段階においては、…にもかかわらず、…をともないながら、真剣に社会主義をめざす積極的努力が記録された。しかし、レーニン死後、スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨てて、対外的には、…、国内的には、…、の道を選んだ。……、これらの誤りが世界の平和と社会進歩の運動に与えた否定的影響は、…重大であった」。
 この「市場経済を通じて社会主義へ」論は1994年(20回党大会)綱領では語られていないし、その際の不破哲三報告も、「ネップ(新経済政策)」に言及しつつも、上のようがな定式化をしているわけではない。
 だが、現綱領では「レーニンが指導した最初の段階」での「真剣に社会主義をめざす積極的努力」としか明記されていないが、不破哲三や志位和夫の文献を読めば明かなのは、レーニンによる「ネップ(新経済政策)」導入の肯定的評価と「市場経済を通じて社会主義へ」論が結合していること、端的には、レーニンこそが(「ネップ(新経済政策)」導入を通じて)「市場経済を通じて社会主義へ」という<新>路線を明確にした、この「正しい」路線をスターリンが覆した、と日本共産党は理解していることだ。
 かつまた、現綱領も日本共産党の基本的方針として明記しているように、「市場経済を通じて社会主義へ」という路線は、ロシアにかぎらないすべての国にあてはまる社会主義国建設の方法の少なくとも一つとして、レーニンが「ネップ(新経済政策)」期に明らかにした、と日本共産党は理解していることも重要だ。
 これらについてはあらためて、不破哲三、志位和夫等(他にもいる)の文献に即して引用、紹介しなければならない。
二 前回に述べたように、佐藤経明・現代の社会主義経済(岩波新書、1975)が「1921年春のネップへの転換」について、「主として現実政治上の考慮から」もしくは「農民層の離反という政局を避ける実際政策上の必要から」なされたと分析していることは、納得できるものだ。
 ここでの論点の結論をかなり先取りすることになるが、佐藤経明は明確に述べてはいないものの、私の理解では、「現実政治上の」・「実際政策上の」考慮・必要とは、つまるところ、レーニンを最高指導者とするボルシェヴィキの「権力」を維持し続けること、にある。
 レーニンにはもともとかなり融通無碍(プラグマティック)なところがあり、いわゆる二月革命のあとの「社会主義革命」の必要性・可能性、あるいは「社会主義革命」は世界的にほとんど同時に起こりうる(起こるべき)かそれとも一国でも可能か、について、一貫した「理論」的立場があったのではない。あるいは、彼の元来の「理論」と彼が実際に行ったことが合致しているわけではない。
 「10月革命」による権力奪取とその後の「内戦」およびいわゆる「干渉戦争」の期間におけるその権力の維持の間もそうだが、レーニンに明確な「社会主義」建設の<一般的理論>などはなかったのであり、レーニンには、ただ<社会主義>へと進まなければならない、あるいは<資本主義>からの基本的離反を維持しなければならない、という強い<意欲>または<執念>があったにすぎない、と思われる。
 ネップの導入もまた、自分自身と自らの党の政治的権力を維持するための方策であり、それ(出発点は農民からの徴税方法の変更)が引き起こした農民・農業分野に限られない全産業または<経済>全般への影響をレーニンが予見していたわけでは全くなかった、と思われる。
 レーニンによる「市場経済から社会主義へ」という<理論>の発見・確立というのは、日本共産党の不破哲三らのみが主張している、戯けた(タワけた)奇論に他ならない、と考えられる。
 これらについては、あらためて書くことがあるだろう。
 三 上に<レーニン自身と自らの党の政治的権力の維持>と書いた。
 専門的研究者による、石井規衛・文明としてのソ連(山川出版社、1995)は、もっと詳細かつ緻密に分析して、「古参党員集団の寡頭支配」の維持について語っている(p.123あたり以降)。「10月革命」以降に入党した「新参」党員を含まないようなボルシェヴィキ権力の確保・維持という趣旨だ。
 古参党員の中には、トロツキーもスターリンもいる。また、党員の<粛清>は、レーニン期のボルシェヴィキ(共産党)も行ったことで、スターリンに始まるわけではまったくない。また、いわゆる「白軍」あるいは諸<反乱>の指導者の殺戮がレーニンの指示または指導によって行われたことも当然だ(例えば田中充子の無知ははなはだしいが、そのような共産党員や同シンパはいくらでもいるだろう)。
 以上では簡単すぎて言及とすらいえない。ネップ自体についても詳しい石井上掲著にはここではこれ以上立ち入らない。
 では、自らと共産党の<権力>への執着はそもそも何に由来するのだろう。
 ここでコミュニズム(共産主義)自体、ロシアにおけるボルシェヴィズム自体を持ち出さずにいかないものと思われる。
 「執着」では軽すぎる。<狂熱>と言ってよいだろう(資本主義打倒と社会主義・共産主義を志向する)強い信念・固着、これは完全には理解できそうにないが、とりわけレーニンの頭に「取り憑いて」いたもののようだ。
 ヴォルコゴーノフ(生田真司訳)・七人の首領-レーニンからゴルバチョフまで/上(朝日新聞社、1997)は、ネップに関係してつぎのように書く(p.182-3)。
 レーニンは「戦時共産主義」の「生みの親」で、共産主義へのその「性急」さを「誤り」とも認めたが、「資本主義の復活」だとして「商業」の承認に反対した。「レーニンはボルシェヴィキによって引き起こされた経済的破綻で壁際まで追い込まれ、新経済政策に同意せざるをえなくなった」。「そして、それを私たちは革命的弁証法の素晴らしいお手本であると呼んでいたのだ! かくして、あらゆる失敗、犯罪、不首尾は弁証法で正当化された」。
 ここには、私の印象とはやや異なるレーニンのネップ観が示されてはいる。
 それよりも、ヴォルコゴーノフがレーニンまたはレーニン主義全般について以下のように述べていることは、上記のレーニンの<狂熱>に少しは関係しているように見える。
 ・「マルクス主義のロシア的異説、ロシア的バリエーション」である「レーニン主義」は、「歴史的状況」・「専制主義的帝国の特殊性」・「ロシア人の心理的タイプの独特さ」だけではなく、「レーニンのまったく独特な特性にも」よって形成された。
 ・「その特性の肝心なところは、彼自身が事業の権化」で、「ボルシェヴィズムとレーニンの個人的な運命が、彼個人の意識のなかだけではなく、多くの人たちの社会意識のなかで統合されていた」点にある(以上、p.175)。
 ・レーニンは「マルクス主義を土台に、世俗的宗教」を、「新しい宗教」を作り出した(p.177)。
 ・「レーニン主義はテロルなしには考えられない」。「レーニン主義の擁護者」はテロルは「国内戦の現実」・「特殊な状況」から生まれたと言うが、テロルは「レーニン主義の過酷な哲学から生まれた」。その哲学の「非人道性の恐ろしい刻印は、レーニン主義と呼ばれる現象の恥ずべき標識として永遠に残るであろう」(p.185)。
 これらは、スターリンについての文章(訳文)ではない。具体的な事象・手紙・電信類を著者は記しているが、言及は(キリがないので)省略する。
 四 たまたま最近に手に取った文献から、レーニンが欲した<権力>維持の内容やその「執念」にかかわる部分に言及した。
 石井規衛とヴォルコゴーノフの述べる内容、述べ方が違っていても、この欄の執筆者にとっては、全く問題はない。レーニンとその時代、スターリンとの差違等のそれら自体を研究しようとしているわけではなく、日本共産党のレーニン(とくにスターリンとの対比における)「解釈」が誤っているだろうこと、少なくとも決して常識的なものでは全くない奇論であること、を示せば足りるからだ。
 日本共産党の幹部と同党党員「研究者」以外に、冒頭で紹介したようなレーニン等についての理解・解釈を示している者はいない。
 一人の日本共産党党員「研究者」らしき者が、党員であることを隠したまま、日本共産党の上記の理解・解釈をふくらませた「研究書」らしきもの、幼稚で杜撰な本、客観的には「研究」書の体裁をとった<プロパガンダ>本、あるいは日本共産党にとっての<アリバイ作り>本を、大月書店から刊行していることを、つい最近に知った。もちろん、いずれ論及する。 

1387/日本の「左翼」-田中充子。

 田中充子・プラハを歩く(岩波新書、2001)という本がある。著者の専攻は「建築史」だとされ、この本は私も多くは知っているプラハの建築物(や広場)に触れているので、懐かしい気分にもさせられる。そもそもが、プラハ旅行の前か後に、本のタイトルを見て購入した可能性が高い。
 ところが、いつか原田敬一著について<この機会に党派信仰も示しておいた>のではないか旨を書いたことがあるが、建築史の専門家にしては、<この機会に党派信仰も示しておいたわよ、安心を>とでも言っているような、あるいはそれ以上に明確な、政治的・党派的な歴史理解を、著者・田中充子は記述している。田中はp.210-212で、以下のように言う。
 ・ムッソリーニ、ヒトラーにつぐ「第三の独裁者であるスターリン」は、二人に倣って、また対抗意識をもって、<スターリン・ゴシック>建築を「新生国家のイデオロギー」として示そうとしたのでないか。
 ・アメリカの摩天楼建築を「キャピタリズム・ゴシック」というなら、それはスターリンの「社会主義ゴシック」とどう違うのか。この両者は「同じ土俵、あるいは同じ体質から生まれたともいえそうだ」。敷地の広狭だけが「違っている」。
 ・ソ連には「1917年の革命以降、…1920代末まで、ロシア構成主義をはじめとするいろいろな近代建築が生まれた。というのもそのころまではまだレーニンが生きていたからだ」。
 ・「しかし、西欧的な教養を身につけたレーニンが死に、その後スターリンが独裁体制を敷いて自由主義的な風潮にストップをかけてから」欧州の知識人はソ連を離れた。「その後に登場したのがスターリン・ゴシックである」。
 さて、事実の認識自体に誤りもある。第一に、レーニンの死は1924年で1923年には政治活動ができなくなっているので、「1920代末まで」のレーニンの影響を見るのは厳密には正しくない。
 第二に、「西欧的な教養を身につけた」レーニンとは、いったいどこで仕入れた知識だろう。こんなに簡単に形容するのは誤りで、レーニンがスイス等に滞在していたことをもって、「西欧的な教養を身につけた」とする根拠にしているとすれば、噴飯ものだ。
 <ヨーロッパとロシア>というのはロシア「革命」やその「社会主義」を理解するうえでの重要な論点だが、むろん立ち入らない。
 政治的または党派的理解を感じるのは、第一に、<スターリン社会主義>と<資本主義>の同質性を語っていることだ(上に引用の第二点)。ここでは単純な<反資本主義>・<反アメリカ>感情が示されている。
 第二に、たんにスターリンを蔑視しているだけならまだましだが、明らかにスターリンと区別して、レーニンが好意的に表現されている。
 上の部分ではムッソリーニ、ヒトラー、アメリカ摩天楼、そしてスターリンへの嫌悪感が示され、積極的または好意的に語られるのはレーニンだけだ。
 これはいったいどこで仕入れた、どこで、何から「学んだ」知識なのだろう。
 田中はほとんど無意識である可能性が全くないとは言わないが、レーニンは基本的に正しく、スターリンから間違った、というのは日本共産党の公式的な歴史理解だ。
 建築史の研究者がいったいなぜ、上のように述べてレーニンを肯定的に描き、一方でスターリンへの嫌悪感を隠していないのか。
 もともと、ロシア革命もレーニン、スターリンも、田中充子の本来の研究分野ではないはずだ。
 にもかかわらず、種々の建築スタイルの存在は「レーニンが生きていたからだ」と断言しつつ、別の部分では「のではないか」とか「ともいえそうだ」の語尾にしながら、よくも上のようなことを公刊著書に書けるものだ、と感心する(内心では、少し感覚が狂っているのではないかと感じる)。岩波の読者を想定して「気を許して」、レーニンだけ誉めておいて構わないと思っていたのだろうか。
 上記のたんなる事実認識の誤りには含めなかったが、レーニンの時代は「自由主義的な風潮」があり、スターリンはそれに「ストップをかけた」とも断定している。
 この人は日本共産党の党員か意識的なシンパ(同調者)で、ソ連解体以降の日本共産党によるレーニン・スターリンの理解・主張を知っているのではないか。この程度の歴史知識の、とくに理工系の党員・シンパ学者はいくらでもいる。
 そうでないと、なかなか上のように自信をもって( ?)叙述することはできないように見える。
 もちろん、レーニンあるいはレーニン時代のロシアが「自由主義的」だったなどとは、到底いえない。
 非専門家が、いかに党派信仰を吐露しておきたくなっても、余計なことは書かない方がよい。ましてや、プラハのホテルのロビーでの「奇妙な感覚」(p.212)などを活字にして残しておくな、と言いたい。
 追記。この人は簡単に「1917年の革命」と書いているが、「革命」性自体を否定する=クー・デタまたは政権の奪取にすぎないとする和洋文献を少なからず所持している。興味があれば、<勉強>してみたらいかがだろうか ?
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